姥捨て山・姨捨山

 

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諸説 / 蜘蛛塚伝説「遠野物語」と現代思想柳田国男の発想根源日本民族文化起源論姨捨山姨捨姨捨記姥捨
 
 
 
老婆心(ろうばしん) 
自分のことは一切考えにいれず、ただ相手をおもいやる心、これを老婆心といいます。 
姥捨て山の話をご存知でしょうか、ある地方では年老いた老婆を山に捨てるという話です。 
ある日村の一人の男が年老いた母を背負って山に捨てに行く途中のこと、背中に背負われた老婆が木の枝を時々捨てているではありませんか、「さては母は捨てられたあと一人で山を降りられるよう目印をつくっているんだな」男はそう思いました。さて母をおいて帰る段になってお母さんはこういったのです「今、山を登ってくるとき、お前が帰り道を間違えないように枝をおって目印をつけておいたよ。それをたよりに気をつけて里へ帰りなさい」自分が捨てられようとしながら、なお我が子の為に道しるべを残してやろうとする親心に男はいたく感動し、親不孝を詫びるとともに、再び母を背負って山を降りたのでした。
【姨捨山】(おばすてやま)長野県中部、戸倉町と上山田町の境にある冠着(かむりき)山の別名。古来観月の名所で、田毎の月で知られる。 
「大和物語」によれば、更級に住む男が、妻のすすめで山の頂に捨てた伯母を「わが心なぐさめかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて(古今‐八七八)」と歌い、迎えに行ったというところから名づけられた。更級山。親捨山。 
【姥捨て】(うばすて)うばすてやま。
  
姨捨山
 
(おばすてやま・うばすてやま) 長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山。正名は冠着山(かむりきやま)。標高 1,252メートルで、長野盆地南西端に位置する。幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。  
地学的知見  
北部フォッサマグナのいわゆる中央隆起帯と西部堆積区の境界部にあり、かつて海底に有った時代に堆積した第三紀層の砂岩、礫岩、凝灰岩が堆積した部分に、第四紀の貫入により形成された安山岩質の溶岩ドームである。山頂付近は複輝石安山岩であるため、風雨に浸食されず溶岩円頂丘(溶岩ドーム)が残ったと考えられる。直接的な火山活動の痕跡は認められないが、頂上の東側斜面の岩には柱状節理が観察出来る。1847年(弘化4年)の善光寺地震により大きな崩落があったと伝えられ、真田宝物館には地震被害を示す詳細な絵図が残されている。またこの山を特徴付けているボコ抱き岩は崩落が進み特に松代群発地震後随分小さくなったと言われている。  
おばすて信仰と古文書  
山頂には冠着神社を祀る鳥居とトタン屋根の祠がある。祭神は月夜見尊で、権現社であったこともあると言う。山頂で蛍が舞う7月に氏子(現在では千曲市側自治会役員の輪番)が登って御篭もりをする祭りがある。 また高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑(昭和32年9月建碑)もある。  
この地の月に関する初見は『古今和歌集』(905年序、巻17-878)であり、以来「オハステ」は平安貴族や文人達の憧れの地名となった。京都御所清涼殿には全国各地の名所の襖絵がそれぞれの和歌と共に描かれ、萩の戸と呼ばれる部屋には「おばすての やまぞしぐれる風見えて そよさらしなの 里のたかむら」との歌が添えられた千曲川の対岸から望んだと見られる冠着山の襖絵の存在が伝えられている。  
江戸時代の作製と見られる川中島合戦陣取り図や善光寺道名所図会(いずれも長野市立博物館所蔵)には冠着山(冠着嶽)と姨捨山は明らかに別の山として描かれているものがある。古峠を通る古代の街道(東山道支道)を使用した官人や衛士・防人など旅人(作者不詳)によって古今集に歌われたオバステヤマは冠着山だ、と主張した麓の更級村初代村長の塚田雅丈による内務省(現在の国土地理院)への請願活動で「冠着山(姨捨山)」の名で一般的になったのは明治期以後と言われる。  
山名の由来  
由来は諸説あり、主なものを列記する。  
姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎しその料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。この部民小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛(国郡郷名等を好字二字に表記するようにとの布令に従ったとする説もある)が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り南西部に「オバステ」で定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇や聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されている。  
冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による。  
別名の更級山の呼称は更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり狼煙城でもあったとの伝説があることから。  
江戸時代の街道に近く猿ヶ馬場峠、一本松峠や古代からの東山道支道の古峠にも近い。これらの難路脇には行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説。また棚田の周辺には古墳の散在が認められ、棚田開墾以前はもっとたくさんの古墳があったものと推定され、この地が奈良時代以前から(万葉集に詠まれたような)死者を弔う地「はつせ」であったと考えられる。  
正倉院宝物の麻袴に信濃国から上納された旨の墨書があることからも知られるように信濃国は古くから麻の産地であった。峠を挟んだ麻績(おみ)の地名は麻を績いだ部民が暮らした地と伝えられるように、麻のことを「オ」ともいい、麻の茎から繊維となる皮部分を採取する作業を「麻剥ぎ(オハギ)」と言うし、そこから余分な表皮部分を取り除く作業を「麻掻き(オカキ)」と言う。繊維を採取して残る麻殻(オガラ〜茎)は屋根材や燃料、農業資材等として用途があった。しかし葉については投棄された(あるいは堆肥として積まれたか)ようで「麻(オ)の葉の捨て場」を「オハステバ」と言っていたことからだとする俗説(学説ではない)もある。  
以上の他にも「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる。
棄老伝説  
「姨捨」の名は、姨をこの山に捨てた男性が名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという説話(『古今和歌集』の中の「わが心なぐさめかねつ更科やおばすて山に照る月を見て」を紹介、解説している『大和物語』など)によるともされる。日本各地(世界各地にも)にはさまざまな棄老の風習が民話や伝説の形で残っており、『今昔物語集』にも棄老にまつわる話がある。しかし棄老伝説は古代インド(紀元前200年頃)の仏教経典『雑宝蔵経』の説話に原点があると柳田國男の著書『村と学童』の「親棄山」に指摘されている。7世紀に始まる日本の古代法制度下では20歳以下の若年者、60歳以上の老齢者や障害者には税の軽減など保護がされていて、法制にも棄老はない。このため、個人的な犯罪行為ということになる。また、説話の中における棄老も『大和物語』や『今昔物語』においては、一度は棄老した本人も後悔の思いから直ちに山へ戻り連れ帰るという筋書きであり、説話製作当時の社会心理としても棄老が受け入れがたい行為であることが読み取れる。実際にあったとすれば釈迦の生きていた頃の話だが朝鮮半島での実話として高麗葬の事件が1924年に報道されている。貧困や災害、戦争などの長期化した国や地域での、村落という狭い共同体における掟であれば世界中どこであっても身近だったのかも知れず歴史・民俗の研究家によって見解が分かれるところと言えよう。なおいくつかある棄老伝説における姨捨山は長楽寺境内の姨岩のこととして語られている話(学説ではない)もあって、姨捨駅ホームの案内板でも姨捨山への所要時間が5分と表示されていることから冠着山ではなく姨岩のことになっている。  
姨捨伝説については深沢七郎の『楢山節考』(1956年)にも取り上げられている。また柳田國男の『遠野物語』(111話)にはデンデラ野へ棄老するという風習が紹介されている。  
『大和物語』(950年頃成立、156段)が姨捨説話の初見であり、謡曲(14世紀には存在)にも取り上げられているほか『更級日記』(1059年頃)、『今昔物語集』(1120年頃以降)、『更科紀行』(1688年)でも言及されている。 このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある。  
棚田地形  
冠着山の北西に位置する三峯山(1131.3m)の東側にある千曲高原の東側から北東側斜面に形成されている地形で、姨捨土石流堆積物地形と呼ばれる。この地形の成因には、  
1.「約6万年から7万年前以降に三峯火山の東山腹で生じた爆発により生じた」とする説と  
2.「善光寺平が陥没する過程で生じた旧千曲川による浸食面で、堆積物の放射性炭素年代測定法により13000年前頃と約3000年前頃の2回の変動で形成された」などの説がある。  
この千曲市大字八幡地区の斜面には棚田が形成されており水稲稲作に利用されている。古くから、「田毎(たごと)の月」として知られるほど棚田に映る月が美しく見られる場所として知られている。田毎の月とは長楽寺の持田である四十八枚田に映る月を言い、今も多くの地図上に名所を示す「∴」印はこの田の位置に示されている。また、この棚田は1999年に「姨捨(田毎の月)」が国の名勝に指定され、2010年には「姨捨の棚田」として重要文化的景観として選定され、農林水産省により「日本の棚田100選」にも、その第1号として数えられ、2008年に全国に数ある月の名所の中から姨捨が第1位の「お月見ポイント」にも選ばれた。さらに時代を遡ると、高知県桂浜や京都府東山( 滋賀県石山寺とする説もある。また豊臣秀吉は「信濃更科と陸奥雄島、それに勝る京都伏見江」と位置づけていた )とともに従来から日本三大名月に数えられ、いずれもその筆頭に上げられていた。  
千枚田とも言われる多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からとされている。しかし上杉謙信が麓の武水別神社に上げた武田信玄討滅の願文(上杉家文書)に「祖母捨山田毎潤満月の影」との行があり永禄7年(1564年)には田毎に月を映す棚田の存在がすでに広く知られていたと考えるのが相当である(なお、眼下の景観すべてが甲越両軍の12年にわたり5度戦った川中島の戦いの戦場であった)。また棚田の下部地域で近年の道路工事に際して弥生時代の棚田が発掘されてもいて、棚田周辺には小規模ながら古墳も散在し棚田によって一定の勢力を扶植した人々の存在が推定される。  
かつての棚田への水源は更科川の水系だが、その後千曲高原にある人工のため池(1800年頃に整備された大池用水)の水を使用していたが、夏期の渇水対策として麓を流れる千曲川の水を汲み上げると共に大池用水と併用利用している。 
姥捨て山 1 
昔ある村があり親が60になるので山に捨てに行かなければなりませんでした。いざ、その日になり親を背負い山を上り始めました。ふと気がつくと親はあちこちで白い花を摘んでは道にばらまいています。男は「これをたどって道に帰るつもりだ」と思い親に「頼む、これもきまりなんだ勘弁してくれ」と言います。しかし親は山で木の根などを食べて生き長らえないように自分で歯をすべて先日壊してしまったために話すことができません。親は悲しそうな目をするだけで男もつらかったのでそれ以上何もいいませんでした。そしてかなり奥地につき親をおろし最後のお別れをします。男にとっても親を捨てるのはとてもつらいことです「勘弁してくれ、勘弁してくれ」男はそう何度もいいながら親に謝りつづけます。 
その親は悲しそうな目をしながらも何かを言っています、手を振ってるところを見ると早く帰れと言ってるようでした。そして男は親を置いて山道を戻り始めました。しかし奥地に来てさらに時間をかけすぎたせいか辺りは真っ暗です。来たことが無い地でさらに真っ暗になってしまったのですでに男は山の中で迷子になってしまったのです。男は途方にくれました、今の時期は冬なのでこのままでは凍死してしまいます。 
焦る男の目に白いものが見えました。そうです、親が道にばらまいていた白い花です、それは点々と、しかし確実に帰り道に向かっていました。男はその時始めてわかったのです。親は自分が帰るためではなく遅くなって男が迷わないように花をばらまいていたと。男はさめざめと泣きました。 
親はあくまで捨てられるのは覚悟の上でさらに子供のために最後の愛を残したわけです。
姥捨て山 2 
昔のある山村の話です。その村では六十歳になると、里から五里以上も離れた山奥に捨てられるならわしでした。年老いて働けなくなるからです。一日二度の食事にもこと欠くほど人々は貧しい生活をしていました。ですから、働かないものが食べることはできなかったのです。老人が捨てられるのは口べらしのためでした。吾助の母親せつも、とうとう六十になる日が来ました。 
孝行息子の吾助は、母親を山の奥に連れていくのが忍びなく、なんとか助ける方法はないものがとずいぶん思い悩みました。いっそうのこと、母親を連れて村を出ようかと考えましたが、妻や子どものことを考えるとそれもできません。それに、村ではもう何件もの家がおきてに従っているのです。吾助のところだけ、それをまぬがれることができようはずはないのです。 
その日、吾助は夜明け前に母親を連れて出発するつもりでしたが、決心がつかぬまま、昼過ぎまでぐずぐずしていました。いつまでもそうしているわけにもいかず、 
「おっかあ、すまねぇ。村のおきてを破るわけにはいかねぇ。日がむれるまでに戻ってこなくちゃあなんねえから−」 
やっとの思いで言いました。せつは黙ったまま手を合わせていました。たとえ、せつに言いたいことがあっても、口はきけないのでした。三日前に歯を自分で石に打ちつけて、砕いてしまっていたからです。その前から、せつはほとんど食べ物を口にしませんでしたが、山に入ったとき、ひもじさに木の根っこでもかじって生きながらえたら困ると思ったのです。吾助が背負ったせつは、まるで枯れ木が背中にへばりついているみたいでした。それが、いっそう吾助を悲しくさせました。吾助は山道を奥へ奥へと歩いていきました。道はだんだん細くなり、うっそうと茂った木々に陽ざしはさえぎられ、ときおり山鳩らしき鳥が鳴くだけです。しばらくして、背中のせつがときおり木に咲く花をもぎ取っては落としていることに気がつきました。吾助はせつが山に捨てられる不安や恐怖をまぎらわすために、そうしているのだと思いました。が、ふと(もしや、山を出るための目印にでもしようとしているのでは−)という疑いをもちました。(気丈夫と言われてきたおっかあでも、死ぬのは怖いに決まっている。ましてこんな山奥に捨てられて、たった一人で死んでいくなんて耐えられることではない)そう思うと、吾助は自分がひどく罪深いことをしているように思い、足の運びもにぶります。しかし、同時にせつがこの期におよんで、自分のことしか考えていないように感じられ、腹立たしい気持ちがしないでもありません。 
「おっかあよ、花を落としとるのは目印にすんでねえのか?気持ちはわかるがよ、おっかに戻られると、おらたち一家は村にいられねえだ。頼むからあきらめてくれろ」 
せつは、言葉にならない声を出し、吾助の背中を強く押しました。それが、吾助には自分に対するうらみのように感じられ、 
「二平のとこでも、喜作のとこでも、ばあさん、山へ入ったべが。おっかあのように未練を残したりしなかったと聞くぞ」と、ついいらだった声で言ってしまいました。 
せつは相変わらず花をもいでいましたが、吾助はもう何も言いませんでした。たとえ、目印があっても、せつの体力ではこの山から帰ってこられるはずはない、と吾助は思いました。 
どのくらい歩いたでしょうか。川原のように石がごろごろしている広い場所に出ました。あちこちに白骨がころがっているのを見ると、その場所に相違ありません。 
吾助は大きな岩陰を選ぶと、せつをそっと降ろしました。 
ふと気がつくと、つるべ落としの秋の日は、吾助の予想より早く、辺りを闇に包み始めています。ぐずぐずしていると帰り道がわからなくなってしまいます。 
「おっかあ、すまねえ、すまねえ」 
吾助は泣きながら立ち上がりました。 
せつは目を閉じ、手を合わせお経を唱えているようでした。吾助は心を決めてその場をあとにしました。 
しばらくは何も考えず、足早に歩いていました。ところが、半分も戻らないうちに、とうとう日が暮れてしまいました。なにしろ、うっそうとした山の中ですから、夜の訪れも里より早いのです。 
細い道も闇の底に沈んでしまい、見分けがつかなくなりました。吾助は途方にくれて立ちすくみました。 
そのときです。足下にかすかに浮かび上がるものがありました。白い花です。それは来る途中にせつが落としたものに相違ありません。吾助の胸に熱いものがこみ上げてきました。 
「おっかあ−」 
吾助は山の奥に向かって叫びました。 
木の上の鳥が驚いて飛び立った羽音のあとに、山びこがかすかに聞こえてくるだけで、山は再び静寂に包まれました。
 
姨捨山 / 信濃伝説

 

姥捨山 1 
信濃の国更級の里(戸倉上山田温泉)に一人の若者が住んでいました。若者は養ってくれた伯母を母のように慕い、大切にしていました。ところがこの国の殿様は年寄りが大嫌いで、六十歳以上になった者は山奥に捨てよ、とのおふれを出しました。伯母も七十歳になってしまい、若者は泣く泣く背負って、姨捨山に捨てたのでした。けれども、後ろ髪がひかれ一人で帰る気になれません。 
若者はそっと引き返し、老婆を背負って帰途につきましたが、道がわからなくなってしまいました。すると老婆は「おまえが道に迷わないように、小枝を折ってあるからそれを目当てに歩きなさい。」と教えてくれましたので、無事帰ることができました。そして地下室に隠しておきましたが、殿様に知れてしまいました。殿様は「もし灰の縄をもってくれば許す。」とのことです。困った若者が老婆に相談するとすぐ教えてくれました。それを持っていくと殿様はたいそう感心し、経験のありがたいこと、大切なことがわかり、それから老人を大事にする国振りにかわったということです。
姥捨山2 
昔むかし、姥捨山という山がありました。60才になったおばあちゃんは、皆、その山に捨てられてしまいました。 
太郎のうちのおっかあも、とうとう60才になり、姥捨山へ連れていく日がきました。太郎は、おっかあを背負って山を登りはじめました。とぼとぼ、歩いているうちに、とうとう山頂まで着いてしまいました。背中からおろすと、おっかあは言いました。「おい、太郎や。木の枝をぽつん、ぽつんとくじいて登ってきたから、暗くなったらそれをたどって、迷わず帰れよ。」と、その言葉を聞いた太郎は、とてもさみしくなり、こんな知恵があり、やさしいおっかあを捨てていったら、とてもさみしくて、生きていかれない。と思い、また背負って一緒に山を下りることにしました。そして、家に帰った太郎は、おっかあを縁の下にかくして、こっそり住むことにしました。 
そんなある日、たいそうえらい殿様が村をおとずれ、村人に言いました。「わらのなわをつくれ。灰のなわだ。」 
難しい命令に村人たちは、皆こまりはてました。太郎もずいぶんなやみましたが、しかし、よい考えはいっこうにうかびません。困りはてた太郎は、家にもどりおっかあに相談しました。「殿様が、灰のなわをつくれと言うんだが、どうしたらできるのか、わかったら教えてくれ。」すると、おっかあは、わらを燃やしてみろ。そっくり燃やしたものをこれが灰のなわですと届けてみろ。」と言いました。太郎は、おっかあが言ったとおりにしました。すると、殿様もたいそうかんしんして、どのように作ったのかたずねました。太郎はありのままに答え、殿様はその話しを聞き、考えました。そして、今までしていた姥山のならわしをやめるよう村人に言いました。そのことを聞き、太郎はとても喜び、おっかあも喜びました。そして、その日以来、姥捨山はなくなり、みんな、年寄りを大切にするようになりました。
おばすてやま 3 
むかし信濃の国には年寄りが大嫌いな殿様がおった。殿様は年寄りを国から追放するおふれを出し、国中の年寄りを追い出してしまったそうな。 
あるところに、母親と二人で暮らしている男がおった。母親はもうすぐ殿様の決めた、国を追放される歳になるのだった。「おっかさん、あらぁ、おっかさんを捨てることはできねえ」しかし殿様の決めたことだ、守らなければ罪人にされてしまう。男は母親をおぶり、泣く泣く山へ捨てに行った。山道を歩いていると、「パチッ」と何かの音がした。「パチッパチッ」男は母親に何の音だろうと尋ねた。「お前が帰りに迷わないよう、木の枝を折り、目印をつけている」と母親は言った。男は母親を捨てることはできず、家へ連れて帰り、こっそりと隠して生活をした。 
あるとき、殿様ところへ隣の国から手紙がきた。難しい問題を出し、解くことができなければ戦をするといってきた。 
その問題とは、叩かなくても鳴る太鼓を作れ、灰で縄を作れ、ほら貝に糸を通せ、というものだった。お城では誰ひとり、この問題を解くことができなかった。そで、この問題を解いた者には褒美を出すというおふれをだした。 
男は家に隠している母親に、このおふれの話をした。すると母親は「そんなこたぁ、かんたんよ」と言って男に作り方を教えた。男は母親の言ったとおりに太鼓と縄をつくり、貝に糸を通し、殿様のところへ持って行った。殿様は驚いた。お城の誰もが解けない問題を全て解決してきたのだ。一体どうやって作ったのかと尋ねた。男は答えた。太鼓は、太鼓の中に虻を捕まえていれました。縄は藁を塩水につけてから縄を作り、焼きました。貝は、蟻の足に糸を結び、出口に蜜をぬり中を歩かせました。 
殿様は喜び、男に何でも褒美をやると言った。すると男は言った。「実はこの問題を解いたのは私の母親です。年寄りになりましたが、山へ捨てずにかくまっています。どうかこれを許してください」と。殿様は驚き、「年寄りとはそのように賢いものか。これからは年寄りを捨てることはやめよう」ということになった。 
隣国では、難問を解くことのできる賢者がいる国を攻めても勝ち目がないと考え直し、信濃の国と戦をするのをやめた。めでたし、めでたし。
おばすてやま 4 
むかし、六十になったら、使いもんにならんさかい、山へ持っていって捨てることになっておったと。年寄りたちもそういうもんだとあきらめておったがや。 
あるとき、ことし六十になる父つさまをしょつて息子が山へ捨てに出かけたげ。お上の規則やし、捨てりゃいとしいし、と思いながら担いでいった。すると背中でピシリ、ピシりという音がするもんで、息子は父つさまをふり返り、 
「父っさま、何しとるぎい」と聞いた。 
「なっともね、木の枝を折って捨てとるげえ」と答えた。おかしなことするなあ、と思ったが、そのまま山をどこまでも登っていった。 
このあたりと思うところで父っさまをおろしたと。 
さあ、帰ろうとしたら日も暮れて道もわからない。父っさまはにこにこしていた。 
「どうしとるがい、おらをおいて帰っこっちゃがい」 
「道がわからいで、帰れんげ」 
「そんなこともあっかと思って、おら道々木の枝を折っては、落として来たがや、それを目当てに帰れ」 
「じゃあ、父っさま、あの木の枝を折ったのは、おらのためやったがか」息子はびっくりして、そんなこっちゃったかと、熱いものがこみあげてきて、急に泣けて、どうしても父っさまを、このまま山に置いていく気になれなくなったげ。 
「父っさま、おらと帰ろう。おらどんなにしても父っさまを養うさかい」 
「何を言う、おらを山に捨ていかねば、殿さまからどんな罰くわされっかわからんぞお、おらのことはかまわんと、とっとと家へ帰れ」それでも息子は、どうしても父っさまを置いていく気にはなれず、またしょつて、落としてきた木の枝をたよりに家にもどったと。 
もどるにやもどったが、見つかれば規則違反じやさかいえらいことになる。人目に出せん。そこで床下に穴を掘って、父っさまをそこに隠した。そして三度の食事をあげて養うたと。 
ある日のこと、殿さまからおふれが出た。なんでも隣りの国から難題かけられたということで、どんなげちゅうたら、あのう「灰の縄をのえ」と。それから「ほら貝の口から、しりに糸を通してまいれ」、「とぽの元末をあかせ」と三つの難題がかけられたがで、これができた者には、望みのものをくれるという。ところが誰れひとり解ける者がおらんし、殿さまもこれが解けねばえらいことになる。すると息子は父っさまに聞いた。すると父っさまは 
「なぁにそんなもんなんでもねぇ藁をよおく塩水でしたしてから、縄をなうのだ。それをそっくり焼いてさし上げれはよいのや」それから「とぼは小さいもんやさかいに、水の中へ入れて、浮かしてみりや、元がさがる。ちよっとでもさかったところが元や」 
三つめは、といってしばらく考えて、「蟻を一匹つかまえてこい。それから糸と蜂蜜を持ってこい」といいつけた。息子がいわれたものを持って行くと、父っさまは蟻を糸でしぱって、ほら貝のしりに密をぬって口から入れた。蟻は密をほしがって行くもんで、みごとに糸が通ることを教えてもらったげちゃ。 
そのとおり息子は殿さまに言うて出たら、殿さまはすっかり感心して息子をほめ上げたが、それは自分が考えたことではなかろう。だれから教えられたかと、殿さまが問いつめたと。息子はためらっていたが、ほんとのことを言うてしもたがやと。 
「申しわけありませんが、父っさまを床下に隠しておきました。あれもこれも、父っさまに教えてもらいました」と。これから父っさまを大事にしてくれと、でかいことほうびをもらったと。 
それから年寄りはたいせつなもんやということで、国じゅうにおふれがでて、六十になっても捨てんでもいいがになったと。  
おばすてやま 5 
その国では、年をとってはたらけなくなると、山へ捨てなければならないきまりがありました。 
あるところに、たいへん親孝行な息子がいました。おっかさんも六十をこして、足腰がよわってくると、国のきまりだというので、しかたなくおぶって山にすてに行きました。 
山の奥までくると、息子は背中でバキンと音がするのに気がつきました。 
「おっかあ、みょうな音がするが、どうかしたかい」 
息子がそういうと、おっかさんは、なんでもないよとこたえました。 
だいぶのぼってきたところで、息子はおっかさんをおろしていいました。 
「かなしいことだが、国のきまりだで、ここでお別れだ」 
すると、おっかさんは、いいました。 
「気にすることはないよ。どうにかやっていくからさ。お前こそ、まよわず家にかえるんだよ。道中こうやって枝をおって落としてきたから、たどってかえりなさい」 
それをきくと、息子はもうたまらなくなって、おっかさんを背負って、いちもくさんに家にかえってきました。こんなやさしいおっかさんを山にすてることなんかできません。息子は床下に穴をほって、おっかさんをかくまうことにしました。 
それからしばらくして、となりの国の殿さまが、この国の殿さまにむずかしい謎をしかけてきました。灰で縄をなえというのです。 
この国の殿さまもかしこい人でしたが、これにはすっかりまいってしまいました。そこで、国中に、 
「灰で縄をなえたものには褒美をあたえる」 
と、おふれを出しました。 
息子はそのおふれを床下のおっかさんに話しました。すると、おっかさんは、そんなことかんたんだよと、笑いながら 
「藁(わら)でかたく縄をなって、板の上で焼いてごらん。縄のかたちに灰がのこるから、くずさないようにそっともっていけばいい」 
と、おしえました。 
息子は、母親からきいたことはないしょにして、そのことを殿さまに申し上げました。実際にやってみると、そのとおり灰で縄ができたので、殿さまはたいへんよろこんで、 
「そなたの知恵をみこんで、もうひとつたのみがある。たたかなくても鳴る太鼓のつくりかたを考えてはくれまいか」 
と、いいました。 
息子は家にかえり、おっかさんにそのことを話しました。おっかさんは、しばらく考えこんでから、こんなことをいいました。 
「山で蜂(はち)の巣をとってくるんだよ。太鼓の皮をはがして、中に蜂をいれて、また皮をはればいい。蜂は中であばれて皮にあたるから、ひとりでにぽんぽん鳴るだろうさね。 
それともうひとつ、太鼓の胴に小さな穴をあけておきな。それから、お殿さまにこう申しあげておくれ。となりの国の殿さまにこの太鼓をわたすとき、しめきった部屋で、たったひとりで、明かりのちかくで見るように伝えてほしいと」 
息子は、おっかさんがいったとおりのことを、殿さまに話しました。殿さまは、そのとおりのものをつくって、となりの国の殿さまにわたしました。となりの国の殿さまは、人ばらいをして部屋をしめきると、明かりのそばでつつみをあけました。 
すると、太鼓のなかで蜂があばれはじめ、ひとりでにぽんぽん音がなりはじめました。そのうち、胴にあけた小さな穴から、蜂がでてきて殿さまの顔を刺しました。あわてて人をよびましたが、殿さまは何度も蜂にさされて熱をだしてねこんでしまいました。 
こうして、この国の殿さまは、となりの国の殿さまからの無理難題をすっかりといたうえに、しっぺがえしを食らわせました。殿さまは上機嫌で息子にいいました。 
「そのほうは大変な知恵者である。褒美には何がほしいかね」 
そこで、息子は、 
「おそれながら、お殿さま。これまでの知恵は、わたしのものではなく、母に教えられたことでございます」 
と、老いた母親を床下にかくまっていることを話しました。 
それをきいた殿さまは、年よりの知恵がどんなにすばらしいか気づいて、これからは、年をとってはたらけなくなった者を、山にすてず、だいじにやしなうようにと、おふれを出しました。
姥捨て山 6 
ある国に「親は六十歳になったら山に捨てるべし」という掟があった。しかし、ひとりの孝行息子が、老いた母親をどうしても山に捨てることができず、ひそかに家の裏の納屋にかくまっていた。そんな国にあるとき隣国から使者が来て、以下のような三つの難題を課した。 
1 七曲がりの竹に糸を通せ。 
2 一本の棒の根元と先端はどうやって知るか。 
3 灰で縄をなえ。 
これらが解けねば攻め込む、というのだ。文字通り、無理難題である。領主以下、家来も領民も、誰もわからなかったのだが、ただひとり、ひそかにかくまわれていた先の老母にだけ答えることができた。一つ目は、アリを捕まえてきて糸をくくりつけ、七曲がりの竹の一方の端に蜂蜜を塗って、もう片方の穴からアリを入れてやればいい。いくら曲がりくねっていようと、アリはちゃんとこっちの穴へ出てくる。これで糸は七曲りの穴を通る。二つ目の、根元と先端の分からない棒は、タライに水を汲んで、浮かしてみろ。ちょっとでも沈んだ方が根元、浮いた方が先端だ。三つ目は、まずワラでしっかり縄をなって、それを塩水につけ、よく乾かしてから燃やせば、形がくずれない。灰で縄をなったように見える。隣国の使者は「この国には、すごい知恵者がいるに相違ない」と引き下がり、国は危難を逃れた。これをきっかけに、老親を山に捨てるべしという掟は廃され、くだんの老母は息子や孫たちと末長く安楽に暮らしたという。
  
姥捨て山 / 筑後地方

 

徳川時代に入る前の戦国時代。世の中飢饉続きで人々は生きていくのがやっとだった。そんな折の筑後川畔に、細々と田んぼを耕す弥助という男が住んでいた。弥助は、間もなく60歳を迎える母親と二人暮し。 
「そろそろじゃな」村の顔役の曇兵衛が回ってきて、弥助に囁いた。 
「わかっとりますけん、それ以上言わんといてください」弥助は、家の中の母親に気づかれないように顔役を追い返した。 
「弥助や、今来とったのは、曇兵衛じゃなかか。何しに来たんじゃ」 
「いや、何でもなかよ」弥助が首を振ると、母親が座りなおした。 
「もうよかばい。早ようわしを山に連れて行かんか」 
「いやじゃ、おっかさんを山に連れて行くぐらいなら、俺もいっしょに死ぬけん」 
大きな体を揺すって、弥助が泣きだした。村全体が貧しい上に、このところの日照りで米はとれず、年貢の取立てはお構いなしとあって、村では働けなくなった年寄りの食い扶持減らしが暗黙のうちに決められていた。それも、60歳になったら息子が東に見える山に捨てに行く慣わしだった。この何十年間で、殆どの家が、生きたまま仏さまになる親を見送ってきた。もし掟に逆らったら、明日から村八分というもっと重い罰が待っている。 
弥助は、母親を背負って東の山に向かった。 
「泣くな、弥助。これでいいんじゃよ。わしのように働けなくなった人間は、早くあの世に行くのが、皆の幸せになるんだから」母親は、諦めているのかさばさばしている。逆に弥助の足はなかなか前に進まなかった。 
「おっかさん、何をしてるんだ」弥助は、母親が手に持った小枝を「ポキポキ」折っては、捨てているさまが気になって尋ねた。 
「お前は小さい時から、道ば覚えるとがたいそう下手じゃったけん。わしを山に送ったあと、帰り道がわからんようになったら困るじゃろうから、その目印たい」 
黙って母親の話を聞いていた弥助が、何を思ったか今来た道を引き返し始めた。 
「おい弥助、そっちは家の方角じゃが。わしを連れて行くのは、山を登っていったところ」 
「わかっとる、おっかさん。黙っておんぶされとかんね」 
弥助は、家に帰るなり、床下に大きな穴を掘って母親を隠した。 
「おっかさん、窮屈じゃろが、しばらくの辛抱たい」 
もし見つかったら、弥助もその場で首を掻き切って死ぬつもりだった。 
「何事か、えらい外が騒がしかごたるが」飯を運んできた弥助に母親が訊いた。 
「隣の国の殿さんが、うちの殿さんに無理難題ば吹っかけたげな。言うこと聞かんなら村ば焼き討ちにする」 
「ほほう、うちの殿さんも相当困っとらすばいの。そいで、隣の殿さんはどげな無理難題ば言うて来なさったとか」 
「それがっさい、灰でなった縄ば3丈持って来いじゃと」 
「灰で縄ばなえちな、恐ろしかこつば言う殿さんもあったもんじゃ」さすがの母親も、弱いものいじめをする隣の国の殿さんが憎くなった。 
その頃、お城では、殿さんと重役たちがはげ頭を寄せ合って知恵を搾っていた。だがなかなか良い考えは出てこない。そこで殿さんは、国中にお触れを出すことになった。 
「お触れとは」母親が身を乗り出した。 
「灰で縄をなうことができたもんには思い通りの褒美ばくるるげな」 
弥助は、母親の命を救うために、殿さんのお触れを実行したくなった。藁を焼いて灰を作り、それを濡らして縄のように編んでみる。灰の水分が乾くと、ボロボロになって、指の隙間からこぼれ落ちた。その様子を眺めていた母親が、つい笑い出した。 
「馬鹿じゃのう、灰になったもんばなえるもんか。よかか、弥助。灰で縄ばなおうち思うけん難しかつたい。まず、縄ばきつくない、ひと晩塩水につけときない。明日の朝になって、そいば焼いて灰にすればよか」弥助は、半信半疑ながら、母親の言うとおりに実行してみた。すると、見事に「灰の縄」が出来上がった。 
「おっかさんちは頭がよかね」弥助が感心すると母親が怒った。「感心しとる場合か。わしとてだてに歳はとっとらん。よかか、お前もこれからいろんなことを覚えておけ。それが、いつか身を助けるとたい」弥助は、出来上がった3丈の灰の縄を三方に載せてお城に持参した。品定めをした殿さんが喜ぶこと。 
「見事なものじゃ。お触れのとおり、望みの褒美をとらすぞ。遠慮せず、何なりと申すがよかろう」「ありがたき幸せでございます」 
「そこで、一つだけ質すが、どうしてこんなに難しい謎が解けたのか」 
「はい、何を隠しましょう。うちの年寄りが考えたものでございます。褒美には、どうか哀れな母の命をお助けください」 
「命を助けろとは、ただ事ではないが」 
「はい、私の村の掟で、還暦を迎えた年よりは、山に捨てることになっとります。その年寄りが、灰の縄を考えたのです。若い者にはできないことです」弥助は、涙ながらに訴えた。 
「年寄りは、生きてきたその分だけ知恵も豊富じゃ。国中にはびこる間違った掟を洗い出し、すぐにやめさせるのじゃ」感服した殿さんが家老に言いつけた。
 
姥捨山 / 伊万里市南波多町井手野

 

むかしゃ、姥捨山ちゅうてあったて。米の足らんもんじゃ。年寄の人のおらすぎ食わせられんけぇ姥捨山に捨てんばなんごと、村で決まっとったてったん。そいけんが、誰でん、年寄のおるぎ、どうでんこうでん、姥捨山さい連れて行かんない、どぎゃんしゅうでんなかった。  
その村に、年寄のお母しゃんば持った孝行息子のおって、「俺だけは、どうしてでん、捨つっ気になれんばって、村の決まいじゃっけん、しかたなか。お母さん、かんにんしてくいやい」。て言うたて。そいぎ、母親は「もう、おりゃあ、どうでんかんまん。行くとはよかばってん、あぎゃん遠か山さい、あさんが送って来てくりゅうでが、危なかたん」。て言うて、息子に負んぶされて家ば出らしたて。そうして、ずーっと行きよったぎとにゃ、年とったお母さんな、道々、柴の枝ばポキッ、ポギッて折って行きゃったて。山に着いてから、息子が「こいで、どうでん別れんなんばい。かんにんしてくいやい。おりゃあ、こいで帰っけん」。て言うたぎない。 
「道々、ずうっと柴の枝ば折ってええた。おいが戻ったいしゅうでじゃなか。あさんが帰っとき迷わんごとおし折っとっけん。ずうっとそこば通って行きやい。そいぎ道ゃ迷わん」。て、お母さんが言わしたてったん。そいぎ息子は、わが身のこたあ忘れて、子のことば心配さすお母さんば、そのまま捨てて帰る気にゃ、どぎゃんしてもなれんもんじゃ。「村の掟てにそむいて済まんばってえ、家さい帰ろい」。ちゅうて、またかるうて(負ふって)、家さい戻いやったて。そうして、床の下に穴ば掘って、そこばりっばい(立派に)して、かくれさせて、飯てん何てん食わせよらしたてったん。 
そぎゃんしょつたいば、ある日、殿さんから、「灰で繩をなって献上すれば褒美をとらせる」。ちゅて、お触れの出たて。 
百姓たちゃあ、誰でん、灰ばこねて、繩ば作ろうでしたばってん。どぎゃんしても繩にならんと。そいで、その、80幾っのお母しゃんが「そぎゃんことじゃ、繩はできん。そいけん、はじめ繩ばしっかいのうて、そして、そいば、じいっと焼くぎと、灰の繩のでくっ」。て、息子に教えらしたて。そいで息子がそぎゃんしやっぎ、灰の繩のきれえにできたて。そいば庄屋さんに持ってたて、殿さんに献上しゃったぎと、殿さんはそいば見て「これは珍らしい。誰が献上したか。早速召し出せ」。て言わしたて。そいもんじゃ、息子は呼び出されて「こりゃあ、お前、よくぞ灰の繩ができたのう。褒美をとらせるぞ。何でも欲しいものを言え」。て言うて、殿さんから誉められたって。 
そいぎと、その息子が「いいえ。こりゃあ、私じゃございまっせん。実は、姥捨山に捨てんならん八十婆ちゃんが、おるばって、山には捨て得じ、法ば破って、匿もうとったりゃ、その婆ちゃんが教えらしたけん、あの繩ば作っことんでけた。私はどうしても母親ば捨つっこたあできん。わが身はどうなってもよか、年寄りば捨てぇじよかごとしていただきたか」。て答えらしたぎと、「ああ、そうであったか。以後、姥捨山は止めることにするぞ」。て、殿さんから許しの出たて。そいからその姥捨山は禁止になったてったん。いまでも井手野にその山と経塚のあったん。  
(慶長絵図には大野岳の麓に井手野村の名がある/伊万里市南波多町井手野)
 
姥捨て山 / 奄美民話

 

ある所に、婆さんと7歳になる孫とが住んでいた。その嫁は大変心が悪く、どうにかして、この婆さんを追い出してしまおうと思っていた。 
ある日、妻は夫に、「この婆さんを山に捨ててこよう」と相談した。そしたら、夫も承諾したので、婆さんを山に捨てる事にした。それを婆さんは聞き、その晩、浜に下りて黒い石を拾ってきた。翌日、嫁さんが婆さんに、「今日はろ山に遊びに行きましょう」と言った。すると婆さんは、「私のような年寄りが山にいって何をするのか」と言っていこうともしなかった。そこで、その夫婦は、婆さんを無理に箱の中に入れて、山に連れていった。すると、7歳になる孫が「僕も連れていってくれ」と言いだした。親達が連れていかないと言っているのに、その子は、どうしてもついていくといって行くと言ってきかず、とうとう後ろからついて行った。山に行く道々、四つ角、四つ角に婆さんは黒い石と、枝を折って落としていった。山につくと、夫婦は箱から婆さんをだし、そばの大木にしばりつけ、自分達だけ帰ろうとした。すると孫が「どうして、婆さんを連れていかないの」と言ったので、お母さんが、「あんな仕事も出来ない人はいらないから、おいていくのだ」と言った。そしたら孫が「箱でも持っていこう」としきりに言うので、お父さんが、「そんな物を持っていって、どうするのだ」と言うと、「お父さんや、お母さんが、年をとって仕事が出来なくなったら、また捨てに来なければならない。そのとき、また箱がいる。もって帰って、また使うのだ」と言った。それを聞いた父母は、改心して婆さんのいる大木の所にいった。 
「婆さん、帰りましょう」と夫婦は言ったが、婆さんは「お前たち二人に、それほどまでに嫌われているのなら、生きていようとは思わないが、お前たちが帰るのに困らないように、四つ角に木の枝と黒い石とが落としてあるから、それをつたって帰りなさい」と言っが、夫婦はきかずに婆さんを無理に連れて帰った。それから二年たち、嫁が病気で死んでしまった。嫁は、あの世で、臼の中に入れられてはひかれ、もとの人間にされてはひかれ、大変に苦しんだ。その後、婆さんも死んだが、婆さんはあの世で、七膳の御膳に沢山の御馳走を盛って、安楽に暮らしていた。ある日、婆さんは、このように苦しんでいる嫁を見て、可愛そうに思い、「あれは、私の嫁ですから、どうか許して下さい」と神様にいった。「これは悪魔であるから、許すことはできない。しかし、今回はあなたに免じて許してやりましょう。」と言って、嫁は許された。 
その後、二人は一緒に暮らしていたが、ある日、山に遊びに行こうということになった。山道で嫁は、水が飲みたくなり、ようやく泉を捜し出した。そして水を飲んだが、嫁は自分が水を飲み終わると、その中に足を突っ込み、洗い始めた。婆さんが、「どうしてここで足を洗うのか」と言うと、「もう、私は水を飲んだから、後の人はどうでもよい」と言った。 
婆さんは、大変腹をたて、嫁を泉に突き倒した。それで、嫁はもとの地獄に戻って、再び臼にひかれ苦しんだ。
 
姥捨て山 / 沖縄民話(伊平屋村)

 

昔々、大昔、「61歳になった年寄りは捨てなさい。」という国の命令で自分の親が61歳になると捨てなければなりませんでした。ある61歳になった母親が、1人息子に「私を遠い所に連れて行って捨ててちょうだい。」と言いました。息子は、つらい気持ちを押さえて何里も離れた山奥に向かって母親を背負って行きました。母親は背負われながら、二、三間ほど行くと木の枝を一枝づつ折って道に落としていきました。とうとう山奥に着くと、母親は、「お前が帰りの道に迷わないように、木の枝を落としてきたからそれを頼りに帰りなさい。」と言いました。 
そう言われると息子は、ますます母親を置いていくのがつらくなり、泣きながら息子は家に帰っていきました。息子は帰ってきてからも、母親のことを思い、「今ごろはどうしているのだろうか。生きているのだろうか。」と考え、食事も喉を通らず、寝ようにも寝れずにいました。とうとう三日目に、母親が落とした木の枝を頼って山奥に入って行って見ると母親はまだ生きていました。「ああ、母さん。」と、息子は母親を抱きしめて泣きました。「私と一緒に家に帰りましょう。私はお母さんのことを思うとご飯も食べられないし、夜も寝られずに心配ばかりしているんだよ。一緒に家に帰りましょう。」と言いましたが、母親は「国の命令だから、私はここにいるよ。私はここが極楽なんだから早く家に帰りなさい。」と言いましたが、息子はそれでも母親を家に連れて帰り、誰にも見つからないように自分の家の床下に穴を掘って、そこに母親を隠して養いました。 
ある時、唐の国から大和の国に、「次の三つの問題が解けない場合には、戦争をしかける。」と言ってきました。最初の問題は「木灰で50尋(1尋は両手を左右に広げた長さ)の縄をないなさい。」という問題でしたが、この国の人は誰もわかりませんでした。そこで息子は、家に帰り母親に尋ねてみました。すると、母親は「それは簡単なことだよ。50尋の縄をなってね、それを焼くといい。ちょうど木灰で縄をなったような形になるよ。」と言いました。息子は母親に教えられた通りやると、その問題はなんなく解決しました。 
二番目は「体の大きさも色もすべて同じ二頭の馬の親と子を見分けなさい。」という問題でした。これもまた誰もわからなかったので、息子が母親に聞くと、「まず草を刈って、二頭の馬の前に置きなさい。最初に草を食うのが子供、後で食うのが親だよ。」と母親は答えました。教えられた通りにすると、その問題も解くことができました。 
そして、三番目の問題は「根元も先も同じ太さの木の根と先を見分けなさい。」というものでした。また、息子が母親に聞くと、「その木を池の中に入れると分かるよ。沈む方が根っこで、浮く方が先だよ。」と教えてくれたので、最後の問題も解決することができました。 
それで、国の偉い人達は、息子にたくさんの褒美を与え、それからは、「年の劫は亀の甲。年寄りは60歳になろうと、70歳になろうと、長生きすれば国のためになるものだ。」ということで、61歳になっても山奥に捨てないで大切にするようになったということです。
 
姥捨て山 / みちのく民話

 

むかし年とって六十二になると山さ捨てたんだって 
役に立たないからって捨てたんだって 
あるところにおばんつぁんと息子夫婦と三人で暮らしてる家、あったんだと 
おばんつぁんが六十二になると息子の嫁さん、いうんだと  
あんだ、おばんつぁんを姥捨て山さ捨てらいんはやく連れてって置いてございん置いてございん 
息子は、捨てるのやんだくて山さ行かねんだと 
そうすると、嫁さんは怒って息子が山稼ぎさ行くときに 
弁当の飯へらしたりお菜入れなかったり当だり(扱い)わるくすんだと 
んでぇ、捨ててくんべやぁ 
とうとう、息子はおばんつぁんをおぶって捨てにいったんだと 
姥捨て山まで来ると萓刈って、萓小屋つくってそのなかさ、おばんつぁんを置いて 
火つけて、わらわら逃げ帰ったと萓小屋のおばんつぁんはじっとしてたっけぇ 
だんだんに熱くなってきたんだと こりゃあっつい こりゃあっつい 
大汗出たから、着物の裾ば ぐえらと上げて、股、ひろげて風入れていたんだと 
したら、そこさ、鬼の子どもだち ちょこちょこ出はってきて 
口をそろえていうんだと ばあさまばあさま その股の下の大きい口はなに食う口だ 
おばんつぁんは、にかにか笑って なあに鬼ども来たらべろり食う口だって 
おどかしたから、鬼っ子だちはとろぐさっぽう(一目散に)逃げ帰ったと 
すこしすると、こんどは大鬼三匹来たんだと ばあさまばあさまその股の下の大きい はなに食う口だって 
またきくんだと なぁに鬼ども来たらべろり食う口だ  
めらめら燃える炎のなかで大股ひらいて気張っているんだもの 
さすがの鬼ども、どでん(動転)した  
ばあさまばあさま 食わねえでけろ食わねえでけろ  
そのかわり、こいつあずけるから こういって、打ち出の小槌ば置いていったんだと 
おばんつぁんは小槌をふってみたと  
家ほしい家ほしい すると、ちゃんと立派な家が出たと  
こんどは、用たしてくれる人が要る 下男出ろ下女出ろ  
はいはいと返事して、下男に下女がちゃんちゃんと飛び出した 
けれど、こんな山のなかでは さびしくてたまらない 町出ろ町出ろ 
さぁ、賑やかな町がたちまちあらわれて大勢の人が行ったり来たり 
おばんつぁんは、下男と下女ば使って毎日、日なたぼっこしてのどかに暮らしてたんだと 
そうしているうちに年越しの日がやってきたと   
たきぎーたきぎー 雪のなかを大声あげて売り歩いてるので見たらば、息子と嫁であったと  
買ってやれ買ってやれ 二人が背負ってた薪をみんな買ってやったんだと 
ところが、嫁さんはどうもおかしいと首をかしげた 
あれは たしかに おら家のおばんつぁんだった 
おばんつぁん、あんなに福しくて いいこといいこと 
姥捨て山さ行って福しくなるもんだら、おらも行くおらも山さ捨ててけろ 
こういってきかないんだと息子がとめても おれどこ山さ捨てろ捨てろ 
毎日、せがむんだと あんまりいうから息子も根負けして姥捨て山さおぶっていって 
萓のなかさ入れて、火つけたんだと  
したっけぇ、嫁さんはそのまんま焼け死んでしまったんだと 
息子はひとりぼっちになるし嫁さんは死ぬし 
おばんつぁんばり、いつまでもしあわせに暮らしたんだとさ
 
姥捨て山 1

 

むかしあったと。 
おっ母と伜(せがれ)と二人暮らしの家があったと。貧乏ながらも親子で仲良く暮らしていたでも、そのうちに伜が嫁もらったと。貧乏などごに嫁が来て口が増えて、そこにまた孫どもがぞろもこと生まれたと。 
そうなると、おっ母も姑婆さになってきたし、仕事もあんまりできなくなってきたと。ほうしると嫁が本性現してきて、姑婆さをいじめ出したと。とうとう家から追い出すことになって、山へぶちゃって(捨てて)来ることになっちまったと。嫁は父っつぁに、「そっけな婆さは山へ置いて来ただって這ってでも戻ってくるすけ、茅で小屋を拵(こしゃ)って、中へ閉じこめて火をつけて焼き殺して来らっしゃれ」つぉって、まるで鬼女むき出しのこと言ったと。伜は仕方なく親婆さを背負(ぶ)って山奥へ行ったと。ほうして茅を刈って小屋がけして、その中に婆さを入れて出らんなくしておいて火をつけたと。 
婆さは燃える茅小屋からどうにかこうにか這い出して、燃える小屋の火で暖まって、その火が消えそげになると、枯れ枝のボエ(粗朶(そだ))を足しては暖まっていたと。 
ほうしると、山の奥の方から鬼どもがぞろぞろと何匹も出てきて、婆さを取り囲んだと。ほうして婆さを食うことの相談を始めたと。「おれが婆さの太腿(ふともも)の肉のいっちゃん(一番)げぇについたどこ食うぞ」と親分鬼が言ったと。「おうしゃあ、おれは尻(しり)の肉を食うことにしる」と次の親分が言い、その次その次と食う場所を相談したと。相談ししまに婆さの股ぐらを覗いて見たら、おっかなげな口が開いているのに気付いたと。それは真っ赤な口が縦に裂けてて、その周(めぐ)らに白い毛の混じった黒い毛がぐるりと取り巻いていて、見るからにおっかなげな口だっけと。鬼どもは怖気(おぞけ)をふるって、「婆さ、お前(さま)の股ぐらにある口は何の口だえ」と恐る恐る親分鬼が訊(き)いたと。婆さまはおがしがったども脅(おど)かしてやろうと思って、「ばかども、さっきなから君(ね)らはおれを食う相談してるでも、それづらねえ(とんでもない)。おれの方が君らのうちから誰を先に取って食おうかと思案してるどこのがだ。この下の口はな、君らみてな鬼を取って食う専門の口のがどぉ。さあてと、親分から先に食うとしるか」そう言って脅かしたと。鬼どもは、これはおれらの手並(てごう)にはゆかん大変な山ん婆のがで、まごまごしてれば皆が食われてしまうとおっかながって、「婆さ、勘弁してくんねかい。命ばかりは助けてくんねかい。その代わりおらいのいっつぉけて(取って置き)の宝物をやるすけに」と言って、打出の小槌を置いて山の奥へ逃げていっちまったと。 
婆さまは股ぐらの口のお陰で命拾いして、打出の小槌で何でも好きな物を出して、金持ちになって楽に暮らしたと。
 
姥捨て山 / 宮崎県児湯郡木城町高城・仁君谷

 

仁君谷に塚原神社があり、その西の高台の山塚原の一隅に県指定の古墳21基がある。今は日当たりのよい畑になっているが、土地の古老たちはここを「おんじょこば」と呼び、姥捨山であったという。「おんじょ」とは高齢者のことであり、「こば」とは山間の居住地を言う。焼き畑を指す場合もある。 
「昔なら、おんじょこばにあがらにゃならん年になったとよ」といった会話が今も生きている。大抵は、総領息子が親をおんじょこばにあげたという。ここでは十五夜(旧暦8月15日)までは、付近のカンネカズラを切り払ってはならず、やぶ払いは禁じられていた。これは親子の恩愛、きずなは断ちがたく、おんじょこばのカンネでつくったくず湯で命をつないでいたからだと伝えられる。 
塚原神社の近くに、辻脇地蔵堂がある。中央に地蔵菩薩、左右に弘法大師像が配されている。大晦日(みそか)にはヒョウタンにかゆを入れ、おんじょこばに届ける風習があった。地蔵堂まで持ってくると、かゆが冷えてしまうので、ここで再度温め、温かいかゆとして持って上がった。 
現在でも姥捨山の関連で、通称あわがいざか(粟粥坂)、だござか(団子坂)の地名が残され、哀れを誘う。さらに「晦日の余りがゆ」「朔日(ついたち)の温めがゆ」などの言い方も姥捨てとのかかわりで語られる。仁君谷では、大晦日に辻脇地蔵堂に赤飯や団子などを供え、子供の成長、家族の安全を祈るとともに、往時の習俗を語り伝えている。 
姥捨山の伝承を古くからの隠居制の表れとみる説もある。総じて老人の偉さを言い、子供の孝行心を刺激するという配慮もされているようである。あるいは往生し切れず、山間に迷っている「山姥」のおん念を鎮めるための所業が語り継がれてきたとも考えられている。
 
姥捨て山 2

 

歩けない老人を奥山に捨てる慣習にか種々の事件が伴う伝説。その代表的なものが信州(長野県)更級の姨捨山にまつわる伝説である。伝説の型は二つある。 
その一は、昔、国王から老人は不要だから捨てよとの命で、ある孝行者は、この法令が守れずに家中にそっと隠しておいて、後に他国からの難題を隠しておいた老人の知恵で解き褒美を貰った、という型。その難題には、蟻通し、木の本来の別、馬の親子や蛇の雌雄の識別、灰の縄、打たぬに鳴る太鼓など種々あり、昔話の「灰縄千束」「打たぬに鳴る太鼓」などに変化したものもある。「俊秘抄」や「袋草子」に伝わる蟻通明神の話や、謡曲「蟻通」にもなっている。難題型の棄老説話は「雑宝蔵教」巻一「棄老因縁」に基づくもので、「今昔物語集」「打聞集」「雑談集」などに載せられている。 
その二は、「大和物語」で知られる説話。信濃のある男が親を失って姥を大切にしていたが、妻が憎むので捨てなければならなくなる。月夜に姥捨山に捨てるが、耐え切れず、「我が心なぐさめかねつ更級や 姥捨山に照る月を見て」の歌を詠み、迎えに行ったということになっている。 
また昔話では、山の神から打出の小槌を入手する縁となる「老婆致富型」、親が背負われながら子の帰途が迷わぬように枝を折ってゆく「枝折り型」、親を運んだモッコで逆に諭される「親捨てモッコ型」の三者を後者から分け、これに上述の「難題型」を加え、四型に分類している。
 

 

 
 
「楢山節考」深沢七郎

 

 
評1 
山梨に石和温泉がある。ときどき訪れる。途方もなく大きな岩石や鉱物を、庭や風呂だけでなくどの座敷にも入れてある変な旅館があって、そこが気にいったためである。  
深沢七郎はその石和に生まれた。少年時代はギターばかりひいていたようだ。青年になっても壮年になってもギターを捨てがたく、日劇ミュージックホールに出演などしていた。それがどうしたことか、思い立って小説を書いて応募した。「楢山節考」である。これが第1回中央公論新人賞になった。  
選者はいまでは考えられないくらいの羨ましいメンバーで、伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫があたっていた。三人が三人ともこの作品の出現にショックをうけたようだ。「私」とか「自由」とか「社会」をばかり主題にしていた戦後文学の渦中に、まるで民話が蘇ったかのような肯定的ニヒリズムがぬくっと姿をあらわしたからだったろう。  
その後、深沢七郎の文学は、批評家たちからはアンチ・ヒューマニズムであるというふうに言われるようになった。  
この用語はロラン・バルトなどもつかっているが、わざわざ深沢七郎にあてはめても仕方がない。こういう用語で処理しようというのは日本の文芸評論の悪い癖で、だいたいヒューマニズムなどという概念が多くの良質な日本文学にさえあてはまらないし、ましてその西洋的なヒューマニズムに対抗する思想としてのアンチ・ヒューマニズムを「楢山節考」のために用意したところで、どんな解説にもならない。  
それならそれこそアンドレ・マルローではないが、深沢七郎の作品性はそれ自体が何にも属さない「連綿たる一個の超越性」であるなどと言ったほうが、よほど気分がいい。  
さきほどぼくがつかった「肯定的ニヒリズム」という言葉にしても、伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫のショックをいいわらわすために、武田泰淳自身が「そうだねえ、まあ明るいニヒリズムというのかな、肯定そのものが無であって、無そのものから肯定が出てくるような、そんな印象だったね」と、のちにぼくに語ってくれた言葉から選んだものにすぎず、武田泰淳とてそれで何かを説明するつもりなどないはずなのである。  
それで思い出すのは「深沢味噌」で、ぼくはこの深沢さん特製の味噌をいつも武田家から分けて貰っていた。  
なぜこんな話を持ち出すかというと、武田泰淳にとっても「楢山節考」は深沢七郎がつくる味噌のようなものとしか、いや味噌の練り味そのものだとしか言いようがなかったはずであるからだ。  
ぼくは「楢山節考」を発表すぐに読んでいる。中学生だから、何をどう読めたかはおぼつかないが、それから10年ほどして学生時代に読み、あとは映画を見た。  
さらにゲッチンゲン大学の日本研究センターのリヒターさんが、ぼくに関心をもって来日したとき、何かのはずみで深沢七郎の話になって、次に会ったときにその話を聞きたいと言われ、それでまた久々に読んだ。  
ところが、これらの数度にわたる読後感がほとんど変わらないのである。これはむろん読む者の力のせいなんぞではなく、「楢山節考」がもたらす味噌の味が変わらないということなのだ。ちなみに市川崑の映画は気にいらなかった。  
ついでにいえば、中村光夫の「夢と現実のまざった無気味が出ている」、大岡昇平の「選ぶ言葉に喚起力がある」、平野謙の「棄老伝説のおそろしさ」といった批評もつまらなかった。  
ぼくが読む「楢山節考」は歌物語だということである。  
その歌はもちろん多少は日本の山村に伝えられてきたものであるが、むしろ深沢七郎が好きにつくった歌だといってよい。その歌が伊勢物語のように(マザーグースのように、と言ったほうがわかる人が多いだろうが)、おりんが楢山に負われて捨てられていくまでを追いたてる。  
そういう作品なのである。実際にも作中でつかわれている歌、すなわち楢山節は、深沢七郎が作詞作曲をした。楽譜を見るとフラメンコ風である。  
かやの木 ギンやん ひきずり女  
アネさんかぶりで ネズミっ子抱いた  
塩屋のおとりさん 運がよい  
山へ行く日にゃ 雪が降る  
楢山まつりが 三度来りゃる  
栗の種から 花が咲く  
山が焼けるぞ 枯木ゃ茂る  
行かざなるまい しょこしょって  
いくつの歌が作中に入っているか数えていないが、おそらく20近い歌が、物語の進行にしたがって出てくる。そのいちいちが作中人物がらみのもので、しかも作者はその歌の意味をことこまかに説明をする。まるでそれらの歌に引きずられて登場人物がなりふりを合わせているようにも、読める。  
実際にも、そうなのだ。この姥捨の習慣が続く山村には、深沢がつくりたかった歌以外の出来事はおこらない。まず貧しい。食いぶちがない。祭りは一年に一度だけ、嫁入りには式も披露宴もない。合意だけがある。何かがそのようにあれば、ただそのようなことがおこるだけの寒村なのである。正月もとくになく、仕事を休むだけなのだ。  
深沢はそのような寒村におこる出来事のすべてを、歌を挟んで説明をする。いや、歌が響きわたるように物語を綴ったのだ。  
不思議なことに、歌というものは30年前に唄った歌をいま唄っても、その印象はそんなに変わらない。その歌を10年前に唄ったときも、きのう唄っても、それほど変わらない。  
これは和歌などにもあてはまることで、いつ口にしてみても、一定の響きと意味を唱え出す。  
深沢七郎にはそのような唄をつくる才能がある。それも作詞だけではなく曲が一緒になっている。深沢自身もプレスリーやロカビリーが好きで、ウェスタンに走っていたころは埼玉県の菖蒲町にラブミー農場を営んだ。  
その作詞作曲のように小説があり、ララミー農場のように小説があるだけなのである。そう見たほうがいい。  
だから、こういう作家がいるからといって、それをむりやり文芸評論の範疇で定義したり解説しようというのは、同慶のいたりではあるけれど、やはりとんちんかんになる。  
それでもそうしたくなるのは、小説というものを何がなんでも「文学」という牙城に入れたいからで、許されるのなら放っておけばいいのである。  
深沢七郎とはそういう生きた作品なのである。べつだんここで洋の東西を比較したいのではないが、いってみればボリス・ヴィアンなどもそういう生き方で小説を書いていた。  
ところで、ぼくは「楢山節考」を読むたびに、泣いた。楢山に雪が降ってきたところなど、困るほどだった。  
そのように僕が泣くのをわかっていて、辰平に「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」と言わせるあたりは、これは深沢七郎の憎いほどの、しかしながら歌を作ったり唄ったりすることが好きな者だけが知る演出なのである。しかしそれは、ぼくが野口雨情の唄に何度でも泣くように、深沢七郎が自分のつくった歌の泣きどころをよく知っているということにすぎないのであろう。  
物語は最後にこんな歌が出て、終わる。これが最後の最後の一行になっている。  
なんぼ寒いとって 綿入れを  
山へ行くにゃ 着せられぬ 
 
評2  飢えのユートピア 
深沢七郎が「風流夢譚」(昭35)を書いて右翼に追われたとき、日頃、表現の自由を標榜していた知識人たちは誰も援護の手をさしのべなかった。そういうとき、日本の知識人の懐の浅さ、その酷薄さがあらわになる。もちろん「風流夢譚」の中で左翼を<左欲>と書いた深沢は彼らに何の幻想も持っていなかった。深沢はその長い逃亡のはてに、まるで死地を求めるように脅迫者への親近感を抱いて一状の脅迫状の発信地北海道へ渡った。そこでたまたま訪れた北大のクラーク像を前にして次のように言う。  
ツマラナイことを言ったものですねえ、クラーク博士は、ココロザシ大ナレなんて、そんなことを言う人は悪魔のような人じゃないですか。普通の社会人になれというならいいけど、それじゃァ、全世界の青年がみんな偉くなれと押売りみたいじゃァないですか。そんなこたァ出来ゃしませんよ。そんな、ホカの人を押しのけて満員電車に乗り込むようなことを。 (「流浪の手記」昭38)  
この日本の近代的自我の象徴的拠点であるクラーク博士の中に、深沢は<悪魔のような>上昇志向を嗅ぎ取っている。彼は知識人のエリート性は<ホカの人を押しのけて満員電車に乗り込む>エゴイズムに他ならないとみている。そこに深沢の上昇志向を核とする近代的自我に対する徹底した拒否が読みとれよう。明治以来ひたすら近代的自我の確立を追求してきた日本の近代文学の伝統とは無縁の場所から深沢の文学は出発するのである。それが、どんな異相を呈していたかは「楢山節考」(昭31)が発表されたときの文壇の驚倒ぶりにあらわれている。文壇の長老、正宗白鳥は次のように書いた。  
私はこの作品を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。  
深沢はどのような場所でこのように文壇の虚を衝く異相の文学を育てたのであろうか。  
深沢は大正三年、<西も東も伝説に囲まれている>山梨県石和(いさわ)に生まれた。彼は幼時から人間好きだった。彼は村においてはエリートである中学生の中ではほとんど例外的に農村の青年たち<おわけえ衆>と交わり、彼らに混って娘のいる家々へ毎晩のように押しかけて、お茶をよばれ、世間話をして過ごしたのである。お茶をよばれに行く家は<庶民の家>で決して<お大尽(でえじん)の家>ではなかったことを後に回想している。すでに彼の中に反エリートの性向、庶民志向があらわれている。この石和の「伝説」と「世間話」が彼の文学の土壌となるのである。同時にこのお茶呼ばれの歴訪が彼の後年の放浪癖を育てたのである。また深沢は病弱であった。中学を卒業して一度と三十二歳でもう一度、<肋膜炎>(結核)を病んだ。二十歳から三十六歳までの十六年間病人だった。そのため彼は一生定職というものに就くことがなかった。この病人時代を通して<世間から離れた人生>を生きて深沢は虚無に到りつくのである。  
生まれたことなどタイしたことではないと思うのである。だから、死んでゆくこともタイしたことではないと思う。生まれて、死んで、その間をすごすことも私はタイしたことではなかったのである。(「自伝ところどころ」昭41)  
長い病人時代に、自分の死との対話を通して彼は死の向こう側へ通り抜けたのである。死の向う側からこの世を見返すとき、彼の目からいっさいの物語的呪縛のうろこが落ちるのである。それがどんな視力であるかを示す一例証をあげておく。「白鳥の死」(昭38)の中の一節である。  
「正宗白鳥が死んだよ」  
と私はそのひとに言った。昨日まで「正宗先生」と言っていたのだが、「センセイ」とか、「サマ」などという敬称は、いらないのだ。どんな賢い者でも、どんな阿呆の者でも、どんな美しい者も醜い者でも、どんな地位があっても、権力があっても死ねば誰でも同じ物になるのだから私はほっとするのである。そうして、死者には敬称など関係のないことなのだ。敬称は生きているうちにその人の必要なものなのだが、死骸は、もう、なにもいらないのである。さっき、正宗白鳥が死んで、私はそこへ行く途中なのである。  
ここには人間は死後<死骸>という物体と化すという即物的人間観が語られている。そういう視力を持った人間には、生前の<正宗先生>はすでに<正宗白鳥>になるべき存在として見えていたはずだ。敬称はつまり人間を飾る虚妄の影にすぎなかったはずだ。そういう存在透視力を物語の装置として少年時代から蓄えてきた「伝説」と「世間話」の大袋から作品をつむぎはじめたのである。  
書くことは少年時代から好きであった。それは自分ひとりのひそかな手慰みではあったが、それなりの習練は積んでいたのであった。こうして深沢は、一つの「棄老伝説」によりながら従来の小説や民話とは全く異質な方法で、「楢山節考」を書きあげるのである。この作品が依拠した「棄老伝説」について少しばかり考察しておくと、柳田国男の「遠野物語」に次のような話が採録されている。  
遠野の近隣には幾つか、おなじダンノハナという地名がある。その近傍にはこれと相対してかならず蓮台野という地がある。昔は六十をこえた老人はすべてこの蓮台野に追いやる風習があった。捨てられた老人は徒らに死んでしまうこともならず、日中は里へおりて農作して口を糊した。そのためにいまもその近隣では朝に野らにでるのをハカダチと云い、夕方野らからかえるのをハカアガリと云っている。  
深沢が依拠したのはこのような「棄老伝説」ではあるまい。この伝説が物語化されてできた昔話(民話)「姥捨山」であろうと思われる。深沢の生国、山梨県の昔話を集めた「全国昔話資料集成・甲州昔話集」(岩崎美術社)にも「姥捨山」が三話収録されている。それら全国に遍在する昔話「姥捨山」を要約するとほぼ次のような骨子になる。  
昔、ある村で、六十歳になると棄老しなければならない掟に従って、息子が親を背負って山に棄てに行くのだが、親は道々木の枝を折って道しるべを残す。それが子が家へ帰るための配慮であることを知って感激した子は親を棄てるにしのびず、連れて帰って隠して養っている。そのころたまたま隣国から難題(灰縄をなう、細い穴に糸を通す、馬の兄弟を見分けるなど)が持ち込まれるが誰も解くことができない。息子が隠して養っている親の知恵を借りて見事に解いて殿様にほめられる。しかし殿様に問いつめられて隠している親のことが露見するが、殿様は老人の知恵を再評価して以後棄老の掟が禁止され、老人が大切にされるようになった。めでたし、めでたしという話である。  
この昔話は棄老を悪とする前提の上に組み立てられている。それゆえ最後に棄老の禁止という救いが用意されるのである。つまりこの昔話は親孝行というテーマで語られていて、「棄老伝説」の根底にあった食料問題が忘れられている。棄老風習を食糧問題(老人の労働力)の視点から容認する伝説に対して、昔話はそれを残酷なものとして否認し、知恵という視点から老人を救済しようとする。昔話の歴史は、残酷なものの排除の歴史であり、救済という名のヒューマニズムの拡大の歴史である。いわゆる「民話の再話」はその線上の出来事であった。木下順二の民話劇はその傾向を極点までつきつめたヒューマニズム劇であった。深沢の作品はそういう民話の方向に逆行し、木下順二の対極点をめざす。深沢にとってヒューマニズムほどうさんくさいものはなかった。一人の人間の生命を地球より重いとみるヒューマニズムほど理不尽なものはなかった。彼は人間を自然の中の生物的次元でみていた。死を恐れるのは人間だけであり、深沢が死の恐怖をこえたとき、彼はどこか脱人間的感性を身につけた生物的存在と化したのである。それゆえ彼は文明の虚偽には本能的に敏感であった。彼は棄老習俗を悪とは見ていない。むしろ、人口問題に対する一つの合理的な処方箋として捉えている。深沢は日本の人口問題について  
日本は徳川時代の中期頃、人口に対する土地の限界はきまっていて、二千五百万人ぐらいしか住めない。  
という原則を立てて、今の一億の人口は  
二個の植木鉢に十本植えることと同じである。水も足りないし空気が悪くなるのは当り前で、人間は豆や金魚とちがうと思っている人があるなら滑稽である。  
(「子供を二人も持つ奴は悪い奴だと思う」昭41)  
と考えている。「楢山節考」は明らかに彼の人口観の上に設定されている。一定の食糧しかない村では人口制限をするのは当然のことではないか。「楢山節考」では棄老を、「東北の神武たち」(昭32)では出産制限(結婚制限)を描いている。棄老を悪と決めつけて疑わないヒューマニズムに対して深沢は人間を自然に規制された<豆や金魚>と同じ生物的存在として捉えている。それゆえ、自然的条件に起因する棄老は運命として受容されるのである。深沢が「楢山節考」で描いてみせたのは、棄老習俗をその内部に抱いている共同体の復元である。共同体からの逃亡にはじまる近代的自我は、その根なし草的抽象化のはてに、結局エリートとして庶民の敵対者、抑圧者と化したのではないか。共同体から切り離された知識人は上昇志向への歯止めを持たなかった。深沢の知識人への不信はそこに根ざしていた。彼は人間の根づく土壌を共同体に求めた。鮮明な輪郭を持った人間を再建するためには、まずその拠って立つ基盤を復元しなければならない。これが深沢の文学の出発点であった。  
「楢山節考」を書くにあたって、深沢は共同体の創世記から書きはじめる。作者はまず村に名を与え、家に名を与える。家号はそれぞれの起源伝説を持っている。たとえば主人公<おりん>の家は、  
家の前に大きい欅(けやき)の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰をかけては重宝がっていた。  
だから村人はおりんの家のことを<根っこ>と呼ぶのである。深沢は登場人物に決して正式な氏名(フルネーム)を与えたりはしない。深沢的世界はアダ名でなければ通行許可のでない庶民の世界である。深沢的共同体は国家と相容れないもう一つの世界である。そこには決してあの昔話の殿様は登場しないのである。その代わりに棄老の地<楢山>には神が存在するのである。  
楢山には神が住んでいるのであった。楢山へ行った人は皆、神を見てきたのであるから誰も疑う者などなかった。現実に神が存在するというのであるから、他の行事より特別に力を入れる祭りをしたのである。  
お盆の前夜の楢山祭りは、初秋の山の産物の外、最も貴重な食糧である白米を炊いて、それを<白萩さま>と呼んで食べ、どぶろくを作って飲む祭りである。この飢えの村では美食(飽食)が祭りなのである。  
年に一度のお山のまつり  
ねじりはちまきでまんま食べろ  
と歌われるのである。祭りのハレが美食でしかないところに、日常のケの食事がどんなものであったかが示されている。またそれはこの神の性格をも示しているだろう。食糧問題がほとんど唯一の問題である共同体において、その飢えへの怯えを背景にして神は出現するのである。それゆえ、楢山まつりの祝(はふ)りが楢山まいり(棄老)の葬(はふ)りの予告となるのである。  
楢山祭りが三度来りゃよ  
栗の種から花が咲く  
この楢山祭りの歌は老人に七十になれば楢山まいりに行くことを知らせる予告の歌となるのである。「楢山節考」はこのように一種の歌物語である。しかし、それは和歌を核とする王朝の歌物語には似ないで、その民謡を核とする物語は古代日本人の原姿を伝える風土記的相貌を帯びて、自作の民謡を奏でつつ放浪するギターの名手深沢は古風な吟遊詩人のおもかげをうけついでいる。ギターについての少年時代の思い出に  
私が二階でギターを弾いていると、表の通りの軒下にたたずんで聞いている人がよくあった。いつだったか、外から父が帰ってきて、家の前に大勢集っているので(ナニゴトが起こったか?)と驚いて家の中に飛び込んだこともあった程だった。みんな通りがかりの人達で、立ち止まったり、ただずんだりしてしまうのだが、私がびっくりしたことは、その人達の中に老人も多いことだった。(「自伝ところどころ」)  
ここに後年の庶民の中の吟遊詩人といったこの作家のありようが示されていた。そのギターが民謡を奏で、民話や世間話を語る深沢文学へ変奏してゆくとき、そこには口承文芸の伝統を引き継ぐ異相の近代小説が誕生するのである。その故郷に根ざす口承性において、例えば後の中上健次の物語に遠くこだましていた。こうして深沢は歌が人間の生きる指標をさし示すような共同体を描き出すのである。  
「楢山節考」で深沢は食糧の乏しい飢えの村でひたすら棄老を生きる<おりん>という老婆を創り出した。おりんは今年六十九歳で来年早々には姥捨山である<楢山>へ行かなくてはならない。おりんはずっと以前からその心積りをして、準備万端整っているのだが、唯一の心残りは去年寡夫になった息子<辰平>の後妻がまだ決まっていないことだけであった。それも運よく隣村から三日前に亭主の葬式がすんだばかりの後家が一人できたので、辰平の後添えにという話がきた。それでは四十九日が済んだらすぐと話はその場でまとまった。寡夫と後家は年さえ合えばそれでよいのである。結婚など人生の些事にすぎない。例えばその隣り村の後家<玉やん>は夫の四十九目もまだ終わらない祭りの日にやってくる。  
うちの方でごっそうを食うより、こっちへ来て食った方がいいとみんなが云うもんだから、今朝めし前に来たでよ。  
結婚の比重はついに一食の重さに及ばないかのごとくである。そのうえ、おりんの家には誰も夢にも考えていなかった孫<けさ吉>の嫁<松やん>まで大きい腹をしてやって来たのである。おりんはその松やんの食う量の多いのを見て  
けさ吉の嫁に来たのじゃねえ、あのめしの食い方の様子じゃあ、自分の家を追い出されて来たようなものだ。  
と思うのである。こうして食いぶちが増えて、もし食糧の絶対量が足りなくなったらどうなるのか。その飢えへの怯えを背景にして神がある。もしほんとうに食糧が足りなくなって盗みが起こったら、どうするか。そのときは<楢山さまに謝る>という神の名による制裁が行われる。盗みが発覚するや即座に村人は跣(はだし)で喧嘩支度で現場に駆けつけねばならない。そして駆けつけた者全員でその家の全食糧を奪い取って分配してしまうのである。おりんの家で二人の家族が増えたころ、<雨屋>が楢山さまに謝ったのである。おりんが駆けつけたとき、雨屋の亨主はすでに足腰が立たないほどなぐられており、それから<家探し>されて家中の全食糧は分配に給されたのである。全食糧を奪われた雨屋の十二人の家族は夜陰にまぎれて村を立ち去って行く他ないのである。盗みをしなくてはならないところまで追いつめられた雨屋の運命は例外ではない。どの家でもぎりぎり崖っぷちに立たされていたのである。だからこそ制裁はかくも厳しいのである。食糧問題に対する無法な対処である盗みが厳しく咎められる一方で、その合法的な対処である棄老が推奨されるのである。おりんの家でも二人口が増えたので、口減らしのためおりんの山行きがにわかに急がれはじめるのである。あれほどおりんの山行きから目をそらし続けていた孝行息子の辰平もついに<おばあやん、来年は山へ行くかなあ>と言い出さざるを得ないのである。もうひとつ、孫の嫁松やんの出産の近いのもおりんに山行きを急がせる理由である。  
かやの木ぎんやんひきづり女  
せがれ孫からねずみっこ抱いた  
と歌われたくないからである。ねずみっこというのは曽孫(ひこ)のことである。極度に食糧の不足しているこの村では、曽孫を見るということは多産や早熟の者が三代続いたことになって嘲笑されるのである。ひきづり女とはだらしのない女とか淫乱な女という意味である。こうしておりんは年が明けてと思っていた山行きを年の内に早めるのである。  
食糧の欠乏する村で飢えという身体的条件に拘束されて生きる人間が、その状況をこえていく道があるとすれば、それは自ら欣然として死地へ赴くことではあるまいか。楢山という棄老の地へ自らの意志で行くことが彼らに残された唯一の自由への道ではあるまいか。「楢山節考」はそのような倫理を措定した作品である、おりんは自分の身体的拘束を生き抜き、その彼方へ最も見事に通り抜ける人間として生きるのである。しかし、おりんが楢山行きの儀式を最も模範的に演じるには一つだけ欠けるものがあった。おりんの歯はまだ一本も欠けていなかったのである。  
おりんのぎっしり揃っている歯はいかにも食うことに退けをとらないようであり、何んでも食べられるというように思われるので、食糧の乏しいこの村では恥ずかしいことであった。  
それに歌にまで歌われるのである。  
ねっこのおりんやん納戸の隅で  
鬼の歯を三十三本揃えた  
だからおりんは自分の歯を火打石で打ち、石うすにぶつけて欠かねばならない。こうしておりんは完璧に楢山行きを生きるのである。  
深沢は共同体の掟をあくまで人間の条件として生き抜く人間の姿をあざやかに創出したのである。棄老に野蛮で残酷な遺習しか見ない近代ヒューマニズムの人間観に抗して、深沢はその遺習の中からすっくと立ち上がる人間を造形してみせたのである。そして共同体の掟を否定する生き方がいかに悲惨な結果をもたらすかを、楢山行きを拒んで荒縄で罪人のように縛られて谷へ伜に突き落される<銭屋の又やん>を通して描くのである。この醜悪な又やんこそ近代人の始祖である。共同体のほぼ全面的な崩壊にみまわれた現代の老人たちは自らの生存の基盤を失って根なし草となって漂う他ないのである。現代における老人の悲惨は枚挙にいとまがない。現代は新たな棄老の時代である。とくに現代の都市は到るところ姥捨山でない所はない。死ぬ形式を失った現代の老人の無残さに深沢は近代人の運命の末路を見ていた。それ故、彼は昭和三十一年、共同体の全面的崩壊の前夜に「楢山節考」を書いて、姥捨てという古い死の作法の中で死の復権をはかったのである。それは例えば現在話題になっている安楽死というような人工的個人的な救済ではなく、共同体のふところに抱かれたまことに人間的な死である。共同体の中でおのれの役割りを生き続け、最後の棄老という死の役割りを果たすとき、その死は世界のひそかな再生への力と化するのである。こうして棄老は共同体の再生者としての位置を獲得する。考えてみれば、それはすべての生物の生命維持のためのメカニズムに他ならない。このような個が全体に到りつく通路を通っておりんはユートピアヘ導かれるのである。そのとき、飢えという生物的身体的条件こそがユートピアへのパスポートとなるのである。深沢の共同体は人間と生物の接点に設定された生命の根源的な機構である。かくて、おりんは飢えがユートピアと化し、死骸が神と化す楢山へ到着するのである。それ故、おりんの楢山まいりは雪で飾られねばならない。  
塩屋のおとりさん運がよい  
山へ行く日にゃ雪が降る  
何代か前に実在したおとりさんは楢山へ到着したとき雪が降り出したのである。雪の中を遠い楢山へ行くのは災難であるが、到着後雪が降り出したおとりさんの場合は理想的だったのである。おりんもおとりさんと同じように到着してから雪が降りはじめたからめでたいのである。  
山へ行く前夜、山へ老人を連れて行ったことのある人を招待して振舞酒を出して山行きの作法の教授を受ける。山行きに守らねばならない作法は  
一、お山へ行ったら物を云わぬこと  
一、家を出るとき誰にも見られないこと  
一、山から帰るときはふり向かないこと  
の三つである。楢山へおりんを運んだ帰路、辰平は舞いはじめた雪を見て立ち止ってしまう。おりんの楢山行きを祝福するがごとき雪を見て、その感動をおりんに伝えたくて、山行きの掟も吹っ飛んでしまっておりんのもとに駆け戻るのである。そして元の場所で雪に埋って端然と念仏しているおりんに向かって  
おっかあ、雪が降って運がいいなあ  
おっかあ、ふんとに雪が降ったなあ  
と呼びかけずにおられないのである。民話におけるタブー破りはその世界の破滅をもたらすという約束があるが、深沢の描き出したのはタブー破りが世界を飾る花と化すような物語である。  
おりんが楢山へ消えた翌朝、松やんの大きな腹には昨日までおりんが締めていた縞の細帯があり、けさ吉の背中にはおりんが昨夜丁寧に畳んでおいた綿入れがあった。  
なんぼ寒いとって綿入れを  
山へ行くにゃ着せられぬ  
「楢山節考」の最後を飾るこの歌に示されるように、おりんは黙って自分の持ち物のすべてを順送りとして後の者に送り渡していくのである。この共同体の中の棄老という様式に則った自己否定は、もっぱら生物的身体的な自己否定であり、そこにはいささかの自意識の苦悶もなく、従っていかなる精神的美化も施されていない。かかる寡黙な自己否定は近代人には不可能である。そこにこの作品の衝撃力は秘められていたのである。深沢はこの作品において小説の方法と民話の方法の相否定しあう文学の新しい地平に、飢えという地獄をやすやすとユートピアに変ずる共同体、近代の概念を反転させる共同体という約束の地を復元し、その共同体にいだかれた<おりん>という庶民を創造したのである。この共同体の約束に殉じるおりんという庶民の中に深沢は人間の祖型を見ていたのである。これ以後も深沢は「笛吹川」(昭33)「庶民列伝」(昭45)と「楢山節考」で掘り当てた庶民という人間の祖型を追い続けるのである。反近代を核とする深沢の文学は戦後文学を含めての近代日本文学への一つの異和に他ならず、その自壊を促す一つの震源地と化すのである。 
 
蓮台野(でんでらの)

 

岩手の高冷地、遠野には蓮台野と呼ばれる、口減らしのために老人たちを捨てたという伝説的な丘や野原が集落ごとに点在していた。老人たちはそこに小屋を造り、死ぬまで生きるために共同生活を営んでいた。時には蓮台野をおりて来て、老人の豊かな知識と経験を子供たちに与えていたと伝えられる。
デンデラ野の語源
デンデラ野は、漢字で蓮台野とも表記するが、蓮台野は「れんだいの」と読む。これを遠野では「デンデラノ」と転訛したのだと伝えられているが、蓮台野とは墓地であり、地名にもなり、特に京都市北区船岡山の西麓にあった火葬場が有名だ。元々蓮台野とは、野辺送りの地だった。野辺送りとは葬列をなして、埋葬地まで死者を送る習俗の事。昔は、故人と親しい人達が棺をかつぎ悲しみの行列をつくって火葬場や埋葬地まで送ったものだが、それが野辺のような場所であったところから野辺送りといわれたようである。野辺送りは、遺体と同時に霊魂も送る儀式なので、魂が家に戻ってくるのを防ぐ為に、さまざまな送り方をしたようである。昔は60歳を超えた老人は、すべてこの地へ追い遣るのが習わしだった。老人達は、ここで自給自足の共同生活を送り、自然な死を待ったという。やがて死が訪れると、遺体もこの地に埋葬した。村を去った老人達が、静かに最期の時を待ったというデンデラ野。目の前が真っ暗になるような話だが、同時に遠野に生きる厳しさも物語っている。ここはまさに、この世とあの世の狭間の世界だったのだ。老人たちは、徒らに死んでしまう事もならぬ故に日中は里へ下り農作して口を糊したり。老人たちは、村の農作業が忙しい時には丘から下りてきて自分の家を手伝ったという。今でも土淵村の辺りでは、朝、野に出ることをハカダチと呼び、夕方、野から帰ることをハカアガリという。
また、青笹のデンデラ野の場合、村に死人が出るときはデンデラ野に前兆があるという。死ぬのが男なら夜中にデンデラ野で馬を引く音がする。女なら歌声や話し声、臼を搗く音がするという。この声が聞こえるというのも、魂の通る道と考えてよい。元々霊魂を葬る蓮台野=デンデラ野という意識は、生きながらにして”あの世”に住む人々の魂を置いた地のようであった。ハカアガリとハカダチという語には諸説あるようだが、やはり「墓(ハカ)」=「あの世」という意識が働いて付けられた呼び名だという。実際、山口のデンデラ野に立つと、デンデラ野と里の間に川が流れ”あの世”と”この世”を分け隔てる三途の川としての川が流れている。
「爪の皮 むいたところや 蓮台野 」 芭蕉
ところで、松尾芭蕉の俳句に蓮台野が記されたものがある。「爪の皮をむいた」とあるが、元々死と再生は一体の考えは、日本だけではなく世界中に蔓延していた。古代の日本でも蛇の脱皮する姿に再生を見出したように、太陽は東から生まれ西に死に、再び東から再生すると信じられていた。実は、古代エジプトにも「デンデラ」という再生の信仰が存在した…。エジプトのナイル川の流域にあるルクソールから北にデンデラ(Dendera)があり、そこにあるハトホル神殿は女神の母といわれるハルホトを祭った神殿であった。世界創生の時にナイル川が大洪水を起こし、大洪水が収まり最初に水面上に現れた丘がデンデラの地であり、古代エジプトの人々はハトホル神殿がその位置に当たると信じていた。そして、暗黒の世界を照らし出す最初の太陽が、その地から昇ったと考えていたという。その地下室には、太陽が西の空に沈むと、夜の間に地下の世界(冥界)を通って西から東に太陽と朝の空を運び、再び朝日が昇る過程が絵物語と象形文字で語られている。蛇は脱皮する事から暗黒の夜から脱皮して、新しい朝を迎える日の出を象徴している。蛇はエジプト神話では女神の母ハトホルの息子であるハルソムタスを現していて、朝日の象徴としての役割を持っている。ハルソムタスは、生まれたばかりの太陽であり常にデンデラから空に昇ると云う。松尾芭蕉の俳句に記されている「爪のかわむいた…。」もまた、蛇を象徴する再生への意識であり、それと蓮台野を結び付けている俳句である。またデンデラという音は、後から「伝寺(デンデラ)」という意識を盛り込み伝えられたと聞くが、あくまで根底には埋葬と魂の昇華に加えて、再生があるものと考える。遠野市の小友町では、死者はデンデラ野に安置された後に回向されたという。回向とは浄土真宗で、阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し、またこの世に戻って人々を救済する事なのだという。つまり回向とは、デンデラ野における”ハカダチ”と”ハカアガリ”と同じものでは無いのだろうか?生きながらにして、デンデラ野というあの世に行った老人達が、再び現世に舞い戻り畑仕事を手伝うというものは、回向の教義そのものである。この事からデンデラという語源を遡ると、同意義として古代エジプトでの信仰に近いものが存在する。果たして蓮台野からの転訛なのか、もしかしてデンデラという魂の再生を現す言葉が日本に伝わり行き続けた結果なのか、まだまだ結論は先送りとなる…。
ところで、デンデラ野とセットにあるのがダンノハナである。このダンノハナの「ダン」をサンスクリッド語に訳すと「dana」と読み「布施」という意味になる。この「dana」に漢字をあてると「陀那」と書くのだと。いつしか「ダンノハナ」の「ダン」に、漢字の「檀」があてられ、「檀」は「布施」という意味であり、布施をする者の名義である「旦那・檀那」の名が起こったのだという。 修験道で山伏が布施を受ける区域を「檀那場」というのも、ここから出た言葉だ。北インドの太子が布施の行を修行した有名な壇特山(ダントクセン)というのがあり、壇特山はサンスクリッド語で「Dandaloka(ダンダラ・カ)」と読むのだといい、日本語に訳すと「陰山・陰野」になる。そしてこれに漢字をあてると「伝泥落迦」になった。これがデンデラ野の語源になったのではという説もある。また布施の行法を「壇波羅密(ダンハラミツ)」といい、「壇波羅」だけを取り出せば布施の行の護摩焚であり、これかダンノハナの語源になったという。こうして考えると、デンデラ野もダンノハナまた、修験道が盛んな遠野において、密かに広がった言葉だったのかもしれない。ただ、昔であるから、文字を読めない人々が殆どだった為に、漢字という文書で広まったわけではなく、あくまで"音"で伝わった為「遠野物語」では「デンデラ野」と「ダンノハナ」という表記になったのだろう。 
遠野物語(柳田国男著) 
*山口、飯豊(いひで)、附馬牛(つくもうし)の字荒川東禅寺及火渡(ひわたり)、青笹(あをざさ)の字中沢並(ならび)に土淵(つちぶち)村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず蓮台野(デンデラノ)と云ふ地名あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此(この)蓮台野へ追ひ遣(や)るの習(ならひ)ありき。老人は徒(いたづら)に死んで了(しま)ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。その為に今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。 
*ダンノハナは昔館(たて)の有りし時代に囚人を斬りし場所なるべしと云ふ。地形は山口のも土淵飯豊のも略々(ほぼ)同様にて、村境の岡の上なり。仙台にも此地名あり。山口のダンノハナは大洞(おほほら)へ越ゆる岡の上にて館址(たてあと)よりの続きなり。蓮台野は之と山口の民居を隔てゝ相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東は即ちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷と云ふ。 
*山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽(う)ゑめぐらし其(その)口は東方に向ひて門口めきたる所あり。 
蓮台野1 
デンデラ野は、漢字で蓮台野とも表記するが、蓮台野は「れんだいの」と読む。これを遠野では「デンデラノ」と転訛したのだと伝えられているが、蓮台野とは墓地であり、地名にもなり、特に京都市北区船岡山の西麓にあった火葬場が有名だ。元々蓮台野とは、野辺送りの地だった。野辺送りとは葬列をなして、埋葬地まで死者を送る習俗の事。昔は、故人と親しい人達が棺をかつぎ悲しみの行列をつくって火葬場や埋葬地まで送ったものだが、それが野辺のような場所であったところから野辺送りといわれたようである。野辺送りは、遺体と同時に霊魂も送る儀式なので、魂が家に戻ってくるのを防ぐ為に、さまざまな送り方をしたようである。昔は60歳を超えた老人は、すべてこの地へ追い遣るのが習わしだった。老人達は、ここで自給自足の共同生活を送り、自然な死を待ったという。やがて死が訪れると、遺体もこの地に埋葬した。村を追われた老人達が、静かに最期の時を待ったというデンデラ野。目の前が真っ暗になるような話だが、同時に遠野に生きる厳しさも物語っている。ここはまさに、この世とあの世の世界だったのだ。老人たちは、徒らに死んでしまふこともならぬ故に日中は里へ下り農作して口を糊したり。老人たちは、村の農作業が忙しい時には丘から下りてきて自分の家を手伝ったという。今でも土淵村の辺りでは、朝、野に出ることをハカダチと呼び、夕方、野から帰ることをハカアガリという。また、村に死人が出るときはデンデラ野に前兆があるという。死ぬのが男なら夜中にデンデラ野で馬を引く音がする。女なら歌声や話し声、臼を搗く音がするという。この声が聞こえるというのも、魂の通る道と考えてよい。元々霊魂を葬る蓮台野=デンデラ野という意識は、生きながらにして「あの世」に住む人々の魂を置いた地のようであった。ハカアガリとハカダチという語には諸説あるようだが、やはり「墓」=「あの世」という意識が働いて付けられた呼び名だという。 
蓮台野2 
デンデラという音は、後から「伝寺(デンデラ)」という意識を盛り込み伝えられたと聞くが、根底には埋葬と魂の昇華に加えて、再生があるものと考える。遠野市の小友町では、死者はデンデラ野に安置された後に回向されたという。回向とは浄土真宗で、阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し、またこの世に戻って人々を救済する事という。回向とは、デンデラ野における「ハカダチ」と「ハカアガリ」と同じものでは無いのだろうか?生きながらにして、デンデラ野というあの世に行った老人達が、再び現世に舞い戻り畑仕事を手伝うというものは、回向の教義そのものである。 
蓮台野3 
デンデラ野とセットにあるのがダンノハナである。このダンノハナの「ダン」をサンスクリッド語に訳すと「dana」と読み「布施」という意味になる。この「dana」に漢字をあてると「陀那」と書くのだと。いつしか「ダンノハナ」の「ダン」に、漢字の「檀」があてられ、「檀」は「布施」という意味であり、布施をする者の名義である「旦那・檀那」の名が起こったのだという。修験道で山伏が布施を受ける区域を「檀那場」というのも、ここから出た言葉であるという。北インドの太子が布施の行を修行した有名な壇特山(ダントクセン)というのがあり、壇特山はサンスクリッド語で「Dandaloka(ダンダラ・カ)」と読むのだといい、日本語に訳すと「陰山・陰野」になる。そしてこれに漢字をあてると「伝泥落迦」になったのだと。これがデンデラ野の語源になったのではという説もある。また布施の行法を「壇波羅密(ダンハラミツ)」といい、「壇波羅」だけを取り出せば布施の行の護摩焚であり、これかダンノハナの語源になったという。こうして考えると、デンデラ野もダンノハナまた、修験道が盛んな遠野において、密かに広がった言葉だったのかもしれない。ただ、昔であるから、文字を読めない人々が殆どだった為に、漢字という文書で広まったわけではなく、あくまで「音」で伝わった為に「遠野物語」では「デンデラ野」と「ダンノハナ」という表記になったのだろう。
遠野物語・「姨捨」 
物語の村人は異類を殺すことに何のためらいも見せていませんが、老人を殺すことはしていません。60歳を過ぎた老人を蓮台野という所に「追ひやる習ひ」があった。この表現から〔姥捨〕としてまとめました。 
深沢七郎の「楢山節考」と違って、蓮台野は里のなかにあり、深山に捨てたわけではありません。老人は「日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)した」そうです。 
常識的に穏やかに解釈すれば、江戸時代から明治、大正、昭和にかけて、農家の老いた夫婦が家督を息子夫婦に譲って隠居をする場合、ある程度の田畑を、自分の持ち分として取り分け、隠居所に移りました。隠居所はその家の経済力に応じて、きちんとした離れであったり、貧しい小屋だったり、それぞれの違いはありましたが、主食は息子夫婦から応援を仰ぎ、そして自分持ちの田畑を耕して、好きな食べ物を作り、気侭に過ごしました。そのような時、末の息子を連れて隠居する場合もあり、地方によっては、末息子をネコノシッポと、やや軽んじて呼んだようです。隠居持ち分の田畑は、末息子が相続しました。 
遠野の老人たちは、蓮台野に自分たちの隠居所を共同で持っていたのだ、と考えてみましょう。この地域は、隠居に田畑を割きうるほどの農地に恵まれず、生産力も高くなかったからに違いありません。老人たちは蓮台野の麓を開墾し、わずかながらも、共同の農地を持っていました。年貢が村請負制だったため、捨て地の形で、そういう共有地を設けることは、むしろ容易だったはずです。時々は、家族が農地の脇に、馳走や酒を置いていってくれたかもしれません。老人は互いに助け合って暮らし、病人を看病し、明日をも知れない状態になった時には、夜分、病人を家族の家に運んでゆきました。近所の人たちは、その気配で、その家から死者が出るだろうことを察知しました。死者が帰ってきたり、家族の死を予知するお告げがあったり、死にゆく者の霊が挨拶に訪れたりする話が、そこから生まれました。 
他に蓮台野を「六十をこえた老人が生きながらに棄てられる現世的な他界」と呼び、この物語全体を「姥棄て譚の背後にひそむ闇の底には、血まみれた共同体と死をめぐる集合的な記憶が埋もれ、ときに身悶え、蠢き騒いでいるのかもしれない。だからこそ、それは死者たちや棄てられたモノたちの霊語り(モノ語り)でありえたのだとおもう」との意味づけをする人もいますが、賛成できません。この物語の「今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり」の説明から、これを根拠に先のような想像を膨らませていったものと思われます。しかし、この場合の「ハカ」は「墓」ではなく、「捗る(はかどる)」や「捗(はか)が行く」という言葉の「ハカ」と考えることもできます。この「捗」は、稲を植えたり、刈ったりする分担区分や、仕事の進み具合などを意味しました。事実、青森県のある地方では、「田畑の仕事の予定量を終わって帰宅する」ことを、「ハカアガリ」と言い、岩手県でも、「田畑の仕事を終わって夕方に帰宅する」ことを、「ハカアガリ」または「ハカガリ」と言っています。山口や土淵の人たちは、一種の語源説話として、自分たちの日常語を、蓮台野の言伝えに付会(ふかい)したのだと考えるほうが、むしろ筋が通ります。
瓜の皮剥いたところや蓮台野 (芭蕉・元禄7年夏) 
   上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ・京都市北区紫野十二坊町)
わが心慰めかねつ更級や おばすて山に照る月を見て (古今和歌集)
 
姨捨の老女

 

お能に「三老女」といって、ことのほか、大切に扱われている曲がある。「関寺小町(せきでらこまち)」「檜垣(ひがき)」「姨捨」の三曲で、「関寺小町」は百歳を越えた小野小町の霊、「檜垣」はかつて白拍子として艶名をうたわれたことのある老女の霊、そして「姨捨」は老醜を嫌われて山に棄てられた老女の霊が、主人公の曲である。 
これら老体の女性を演ずるのは、たいへんむつかしく、相応の年齢に達し、しかも、藝位のある役者でないと演じられないといわれている。このうち「姨捨」だけが、文藝にも藝能にも縁のない、庶民がシテの能である。作者は彼女には固有名詞さえ与えていない。 
都の風流人が二、三(ワキとワキツレ)連れ立って、月の名所、信濃国更科の姨捨山に月を見に行き、そこにあらわれた里の女(前ジテ)に、むかし、姨捨のあったのはどのあたりかと問うところから「姨捨」は始まる。 
里の女は、姨捨の跡というお尋ねはわかり兼ねるとはぐらかしつつも、わが心なぐさめかねつ更科やをばすて山に照る月を見てと詠んだ人の亡き跡ならば、この「小高き桂の木の蔭」と都人を案内する。「さてはこの木の蔭にして、捨て置かれにし人の跡の、そのまま土中に埋れ草」と、都人が感慨にふけっているうちに、冷たい秋風が吹きわたり、今とても、慰めかねつ更科や、慰めかねつ更科や、姨捨山の夕暮にと、シテが古歌を詠みかえて心をのぞかせ、ただならぬ気配がただよい始める。 
松も桂もまじる木の、緑も残りて秋の葉の、はや色づくか一重山、薄霧も立ち渡り、風凄しく雲尽きて、寂しき山の気色かな、寂しき山の気色かな。彼女はやがて、山に捨てられた古人というのはわがことと明かして、ふっと消えてしまう。 
この能で、シテの思いのほどを語るのに、二度三度謡われる、わが心なぐさめかねつ更科やをばすて山に照る月を見ては、「古今集」の雑部に見える「よみ人しらず」のうたである。このうたには幾通りかの解釈がある。旅のうたで、姨捨山に照る月を見て旅愁をそそられたというもの、名所の月をながめに来て、あまりのうつくしさにかえってかなしみをさそわれたというもの、「姨捨」という名ゆえ、月を見ても心が慰まないなど。「姨」は母方の伯母・叔母を指すが、その血の濃いひとを捨てたといういかにも無惨な名をもつ山に照りわたる月光に、凄みのある美を感じたうたと、わたしは、読みたいのだけれど。 このうたは、早くから棄老伝説とむすびつけて読まれている。 
「大和物語」や「今昔物語」には、親代りになつてくれた伯母を、妻にそそのかされて山に棄てた男が、家に帰ってきてから詠んだうたとなっている。 
月のたいそううつくしい夜、男が、お寺で尊い法会があるのでお連れ申しましょうと言うと、騙されているとも知らず、喜んだ伯母は山へ背負われてゆく。けれど、老女にはとても帰れない高い峰に着くと、男はそこに伯母を置き去りにして逃げ帰ってしまう。 
「やや」といへど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに「大和物語」 
姨母、「ヲイ々々」ト叫テ、男答ヘモ不為デ逃テ家ニ返ヌ「今昔物語」 
両書ともほぼ同じ記述だけれど〈「やや」といへど〉と〈「ヲイ々々」ト叫テ〉の相違に目が向く。「大和」のほうは少しおとなしく、「今昔」は老女の取り乱しようをなまなましく伝えている。これは、前者が和歌について詠まれた事情や作者のことなどを語った歌語りであり、後者は、民間に伝わる話を収録した説話集という、書物の性格の相違のせいであろう。また「大和」(951-1000年ころの成立)にあつた話が、「今昔」(1120年ごろ成立)に再録されるまでに、変化したとも、「今昔」の筆録者による潤色があったともかんがえられる。 
二書とも、伯母を置き去りにしたけれど、その夜の月をながめているうちに、男は耐えられなくなり、〈わが心なぐさめかねつ〉と詠み、連れもどしたという結末になっていてほっとするが、伯母を連れ帰ったあと、妻ともんちゃくが起り、家の中が無事おさまりはしなかったろうし、いったんは棄てられた伯母の心中もおもわずにはいられない。深沢七郎の「楢山節考」も思い出される。 
ほかに、〈わが心なぐさめかねつ〉の一首とともに姨捨伝説を語っているものに「今昔」とほぼ同じ時期に源俊頼のあらわした「俊頼髄脳」がある。こちらでは老女を山に置き去りにしたのは姪で、〈わが心なぐさめかねつ〉は、置き去りされた伯母が月をながめながら泣き泣き詠じたものということになつている。 
能の「姨捨」は、これら先行文藝を典拠にしたものであるが、そのいずれとも大きくちがうところがある。山に置き去りにされた老女はそのまま棄ておかれたのである。 能でも、伯母を山に捨てた男は、さすがに心にかかって月下の山を見ている。 
山を見れば月は晴れて隈なく候間、迎へに行かんと存じ候へども、女の心さがしく候間 
照りわたる月かげを見ながら、男はやはり伯母を迎えにゆこうとおもう。けれど、妻の性格が険しくて意地悪なので伯母を連れ戻すことができない。 
思ひながら行き過ぐる程に、伯母は空しくなり、執心、石となり申して候。 
ためらつているうちに伯母は死んでしまい、その執心が石となつた。 
この残酷でおそろしい場面を、世阿弥と推定されている作者は、シテに語らせることをしない。里の女の姿をしてあらわれた老女の霊がひっそり消えたあと、狂言方が扮する「この山の麓に住居(すまゐ)する者」が、都の風流人の質問に応じるかたちで、一部始終を物語るのである。 
再びあらわれたシテは老女の拵えである。皓々たる月光に濡れたように光る白髪、装束も白か銀。彼女は惨めに捨てられ、惨めに死んだはずなのに、そして、「執心、石となり申し」たはずなのに、冴え冴えとうつくしい。「老の姿、恥かしながら来りたり」とはいうものの、月を讃え、佛の世界を賛美してゆるらかに舞う。 
長絹に大口袴という出立は、霊体の宮廷女性、あるいは神や天女のものである。山裾の村におそらく貧しく暮らしていたであろう老女の面影はどこにも、ない。ふわりと羽織つた薄地の長絹(ちょうけん)の薄くて大きな袖をゆらめかせながら、月光を浴びて舞う姿は、この世の悲苦から放たれたもの、いや、月や佛を礼賛して舞い謡う天女か、月光にたわむれる妖精かとさえおもわれる。 
興にのつて舞っていたかに見えた老女は思いを籠めてもう一度、あのうたを謡う。 
わが心なぐさめかねつ更科やをばすて山に照る月を見て 
謡っているうちに、むかしの悲しみがこみあげ、押し寄せてくる。 
返せや返せ、昔の秋を、思ひ出でたる妄執の心、やる方もなき今宵の秋風、身にしみじみと、恋しきは昔、偲ばしきは閻浮(えんぶ)の秋よ友よと、 彼女が「返せや返せ」と言っているのは、もちろん、老い衰えて甥夫婦にうとまれ、棄てられた、あの「昔の秋」ではない。それよりさらに昔、身の盛りだったころである。それとても、妄執、迷いの心である。それでもしみじみ生きていたときがなつかしい。月や紅葉を愛でた昔の秋よ、昔の友よ。 
やがて夜は明けて行く。 
夜もすでにしらしらと、はやあさまにもなりぬれば、われも見えず、旅人も帰るあとに、 夜もしらしらと明るむと、「あさま」朝になつて明らさまになり、亡者であるわたしの姿も人には見えなくなる。旅人も帰つてしまう。 
「旅人も帰る跡に」で、舞台のワキとワキツレは衣擦れもひそやかに退場する。立つたまま、じっとそれを見送るシテ。さっきまでは、月の精か、天下(あまくだ)ってしばしこの世にあそぶ天つ人かと見えたのに、全身から香気もかがよいも失せてしまっている。彼女はついに、解脱もできず、昇華もしきれなかった。 
旅人の姿が揚幕の向こうに消えると、舞台はシテ独りである。ひとり捨てられて老女が、昔こそあらめ、今もまた姨捨山とぞなりにける、姨捨山となりにけり。坐ってシオリ(泣く型。指を揃えた手を顔に近づける)ながら「姨捨」は終る。
謡蹟/「姨捨」意訳 
都の者が信濃の国更科の名月を眺めたいと思い、ある秋の日に姨捨山に登って、月の出るのを待っていた。ここに一人の女性があらわれ、今は秋の半ば、今宵の月は定めし美しく面白いことであろうというので、この里の人ならば姨捨の場所を教えてほしいとたずねると、女性は「我が心慰めかねつ更科や」の歌を詠んだ人のことならば、彼方に見える桂の蔭こそその亡き跡であると語り、今なおその執念が残っているものか、何となく物寂しい風情があるなどといい、都の人であるならば、やがて月とともに再び現れて、夜遊をお慰めしましょう、まことは私はその昔捨てられた女であると言いおいて木陰に姿を消してしまった。 
やがて月が出て、万里の空はくまなく晴れ、美しい秋の夜となった。都の人も心も澄んで面白く眺めているところに「あら面白の折からや」と月を愛でながら老女があらわれ、夜もすがらいろいろと身の上を語り、あるいは月を称え、舞を舞いなどしているうちに、秋の夜は早くの明けそめたので、旅人は山を下りて行き、老女はただ一人、またもこの山に捨てられたように寂しく残るのである。 
姨捨て伝説/「大和物語」意訳 
信濃の国更科というところに男が住んでいた。若いころに親に死に別れ伯母に養育された。成人して妻を迎えたところ、その妻は伯母が年老いたのを憎み、伯母を捨てよと男にせまる。男はある月の明るい夜、伯母に向って、「この山の奥に尊い仏がいるので、拝みましょう」と言うと、伯母はたいへん喜んで男の背中に負われて出かけた。男は山の奥に入って高い山の嶺の簡単に降りられそうもない所に伯母を置いて、伯母が呼びかけるのに返事もしないで家に戻った。しかし、ずうっと親のようにして養ってきた伯母のことを思うと悲しくなった。山の上から月が限りなく明るく出ているのを眺めて、一晩中眠れず悲しく思いながら歌を詠んだ。 
わが心慰めかねつさらしなや 姨捨山に照る月を見て 
こう詠んで、また山に行き伯母を連れ戻してきた。それより後姨捨山というようになった。
 
能「姨捨」

 

信濃の更科は古来月見の名所だったらしい。これに何故か姨捨の悲しい話が結びついて、姨捨山伝説が出来上がった。大和物語に取り上げられているから、平安時代の前半には、人口に膾炙していたのだろう。今昔物語集も改めて取り上げている。能「姨捨」は、この説話を基にして、老女と月とを情緒豊かに描いたものである。 
姨捨の風習が果たして存在したのかどうかについては、議論がある。作家の深沢八郎は「楢山節考」の中で、風習としての姨捨があったかのように描いているが、どうもそのようなことはなかったようだ。少なくとも、信濃の姨捨山に直接結びつくような、老人遺棄の話は存在しないらしい。 
姨捨山がどの山をさしていうのかについても、実は議論がある。更級地方一帯の山々を総称していうとする見方もあれば、冠着山という特定の山だとする説もある。 
これに関して、吉田東伍が面白い考察をしている。この地方にある長谷寺山の古名を小長谷(ヲハツセ)山といい、それが転じて「ヲバステ」となったのではないかというのである。「ハツセ」は奈良坂の初瀬を連想させる。そこは古来野辺送りの場所であったから、姨捨のイメージにもつながる。 
ここでひとまず、大和物語にある姨捨の説話を読んでいただきたい。
信濃の國に更級といふところに、男すみけり。わかき時に親死にければ、をばなむ親のごとくに、若くよりあひそひてあるに、この妻の心いと心憂きことおほくて、この姑の、老いかゞまりてゐたるをつねににくみつゝ、男にもこのをばのみ心さがなく悪しきことをいひきかせければ、昔のごとくにもあらず、疎なること多く、このをばのためになりゆきけり。このをばいとたう老いて、二重にてゐたり。これをなをこの嫁ところせがりて、今まで死なぬこととおもひて、よからぬことをいひつゝ、「もていまして、深き山にすてたうびてよ」とのみせめければ、せめられわびて、さしてむとおもひなりぬ。月のいと明き夜、「嫗ども、いざたまへ。寺に尊き業する、見せたてまつらむ」といひければ、かぎりなくよろこびて負はれにけり。高き山の麓に住みければ、その山にはるばるといりて、たかきやまの峯の、下り來べくもあらぬに置きて逃げてきぬ。「やや」といへど、いらへもせでにげて、家にきておもひをるに、いひ腹立てけるおりは、腹立ちてかくしつれど、としごろおやの如養ひつゝあひ添ひにければ、いとかなしくおぼえけり。この山の上より、月もいとかぎりなく明くていでたるをながめて、夜一夜ねられず、かなしくおぼえければかくよみたりける、 
わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月をみて 
とよみて、又いきて迎へもて來にける、それより後なむ、姨捨山といひける。慰めがたしとはこれがよしになむありける。(大和物語)
[ 現代語訳 ] 
信濃の国の更級という所に、男が住んでいた。幼い時に親が死んだので、 おばが親のように、幼いころからそばについて(世話をして)いたが、 この(男の)妻の心は、たいへん不愉快なことが多くて、この姑が年老いて 腰が曲がっているのを常に憎んでは、男にもこのおばのお心が性質がよくなく悪いことを 言い聞かせたので、(男も)昔と同じようでもなく、おろそかにすることが多く、 このおばに対してなっていった。このおばはたいそうひどく年老いて、 腰が折れ曲がっていた。これをやはり、この嫁は、窮屈に思って、(おばに対して) 今まで(よくもまあ)死なないことだよと思って、(夫におばの)よくないことを言っては、 「連れていらっしゃって、深い山に捨てておしまいになってください。」とばかり責めたので、 (男は妻に)責められて困って、そのようにしてしまおうと思うようになった。 
月がたいそう明るい夜に「おばあさんよ、さあいらっしゃい。寺で尊い法要をするという、 (その法要を)お見せ申し上げましょう。」と言ったので、(おばは) この上なく喜んで(男に)背負われてしまった。高い山のふもとに住んでいたので、 その山にはるばる入って、高い山の峰で、下りてくることができそうもない所に (おばを)置いて逃げてきた。(おばが)「これこれ」と言っても、(男は) 返事もしないで逃げて、家に(帰って)きて(おばのことを)思っていると、 (妻がおばの悪口を)言って腹が立ったときは、腹を立ててこのようにしたが、 長い年月親のように養いつづけていっしょに過ごしていたので、たいへん悲しく思われた。 
この山の上から、月もたいそうこの上なく明るく出ているのを もの思いに沈んで見やって、一晩中寝られず、悲しく思われたので、このように詠んだ、 
私の心を慰めることはできない。更級の私がおばを捨ててきた山に照る月を見ていると 
と詠んで、また行って(おばを)迎えて連れて(もどって)きた。それからのち、 (この山を)姨捨山と言った。(姨捨山をひきあいにだして)「慰めることができない」という 心情を言うのは、このいわれによるのだった。
ご覧のように、これは老母虐待の物語である。大和物語に前後して、落窪物語が継子いじめを題材にしているが、これはその裏返しとしての継母いじめである。それが月見の名所姨捨山のイメージと結びついている。 
能「姨捨」は、大和物語などを題材としつつも、老女遺棄の悲惨な話としてではなく、昔を恋ふる老女の思い出語りという体裁に仕上げられている。月を背景に老女が舞う姿は、幽玄の極致とされ、卒塔婆小町、関寺小町とともに、三老女の一つに数えられている。 
この作品は、能の中でも最も難度の高い「最奥の曲」とされる。上演の頻度もそう多くはない。 
構成は複式夢幻能である。前段は、わざわざ信濃まで月見に来た都の風流人と里の女との間で交わされる姨捨山の伝説の物語、後段はこの山に捨てられたという老女が現れ、昔を懐かしみ月を愛でつつ静かに舞う。 
まず舞台には、都に住まうという旅人が登場し、これから更科の月を見に姨捨山に向かうのだと述べる。 
ワキ次第「月の名近き秋なれや。月の名近き秋なれや。姨捨山を尋ねん。 
詞「かやうに候ふ者は。都方に住居仕る者にて候。我未だ更科の月を見ず候ふほどに。此秋思ひ立ち姨捨山へと急ぎ候。 
道行「此程の。しばし旅居の仮枕。しばし旅居の仮枕。また立ちいづる中宿の。明かし暮らして行く程に。こゝぞ名におふ更科や。姨捨山に着きにけり。姨捨山に着きにけり。 
詞「さても我姨捨山に来て見れば。嶺平らかにして万里の空も隔なく。千里に隈なく月の夜。さこそと思ひやられて候。いかさま此処に休らひ。今宵の月を眺めばやと思ひ候。 
旅人が月を眺めていると、里の女が現れ旅人に声をかける。旅人が老女の捨てられた場所はどこだと尋ねると、女は桂の木陰をさし、そこがその場所だと答える。 
シテ詞呼掛「なうなうあれなる旅人は何事を仰せ候ふぞ。 
ワキ詞「さん候これは都の者にて候ふが。はじめてこの処に来りて候。さてさて御身はいづくに住む人ぞ。 
シテ「これはこの更科の里に住む者にて候。今日は名におふ秋の半。暮るゝを急ぐ月の名の。殊に照り添ふ天の原。くまなき四方の景色かな。いかに今宵の月の面白からんずらん。 
ワキ「さては更科の人にてましますかや。さてさて古姨捨の。在所はいづくの程にて候ふぞ。 
シテ「姨捨山のなき跡と。問はせ給ふは心得ぬ。我が心慰めかねつ更科や。 
詞「姨捨山に照る月を見てと。詠ぜし人の跡ならば。これに木高き桂の木の。蔭こそ昔の姨捨の。其なき跡にて候へとよ。 
ワキ「さては此木の蔭にして。捨て置かれにし人の跡の。 
シテ詞「其まま土中に埋草。かりなる世とて今は早。 
ワキ「昔語になりし人の。なほ執心や残りけん。 
シテ「なき跡までも何とやらん。 
ワキ「もの凄じき此原の。 
シテ「風も身にしむ。 
ワキ「秋の心。 
地歌「今とても。慰めかねつ更科や。慰めかねつ更科や。姨捨山の夕暮に。松も桂もまじる木の。緑も残りて秋の葉のはや色づくか一重山。薄霧も立ちわたり。風冷まじく雲尽きてさびしき山の。けしきかな。さびしき山のけしきかな。 
この辺は、大和物語の内容を踏まえた筋書きになっている。だが舞台が進むにつれ、次第に原作を離れ、独自の展開をするようになる。 
里の女は、夜遊をして慰め申さんといいつつ、消え入るようにして退場する。 
シテ詞「旅人はいづくより来り給ふぞ。 
ワキ「されば以前も申すごとく。都の者にて候ふが。更科の月を承り及び。始めてこの処に来りて候ふよ。 
シテ「さては都の人にてましますかや。さあらば妾も月と共に。現れ出でて旅人の。夜遊を慰め申すべし。 
ワキ「そもや夜遊を慰めんとは。御身はいかなる人やらん。 
シテ「誠は我は更科の者。 
ワキ「さていまは又いづ方に。 
シテ「住家といはんは此山の。 
ワキ「名にしおひたる。 
シテ「姨捨の。 
地歌「それといはんも恥かしや。それといはんも恥かしや。その古も捨てられて。只一人此山に。澄む月の名の秋毎に執心の闇を晴らさんと。今宵現れ出でたりと。夕陰の木の本にかき消すやうに。失せにけりかき消すやうに失せにけり。 
(中入間)間狂言では、里人が現れて、姨捨伝説を語った後、旅人に一夜をここで過ごすように勧めて去る。 
旅人が月見をしながら一夜を明かしていると、白衣の老女が夢幻のように現れる。この老女は、かつてこの山に捨てられた老母であるには違いないが、別にそのことを恨むでもなく、姨捨山の秋の月を愛で、世のはかなさを嘆きながらも、勢至菩薩の功徳を説く。不思議な雰囲気に満ちた老女である。 
ワキ待謡「夕陰過ぐる月影の。夕陰過ぐる月影の。はや出で初めて面白や。万里の空も隈なくて。いづくの秋も隔なき。心もすみて夜もすがら。三五夜中の新月の色。二千里の外の古人の心。 
後シテ一声「あら面白のをりからやな。あら面白のをりからや。明けば又秋の半も過ぎぬべし。今宵の月の惜しきのみかは。さなきだに秋待ちかねてたぐひなき。名を望月の見しだにも。おぼえぬ程に隈もなき姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。昔とだにも思はぬぞや。 
ワキ「不思議やなはや更けすぐる月の夜に。白衣の女人現れ給ふは。夢か現か覚束な。 
シテ詞「夢とはなどや夕暮に。現れ出でし老の姿。恥しながら来りたり。 
ワキ「何をか包み給ふらん。もとより処も姨捨の。 
シテ「山は老女が住処の。 
ワキ「昔に帰る秋の夜の。 
シテ「月の友人円居して。 
ワキ「草を敷き。 
シテ「花に起き臥す袖の露の。 
二人「さも色々の夜遊の人に。いつ馴れそめてうつゝなや。 
地歌「盛ふけたる女郎花の。盛ふけたる女郎花の。草衣しをたれて。昔だに捨てられしほどの身を知らで。又姨捨の山に出でて。面を更科の。月に見ゆるも恥かしや。よしや何事も夢の世の。なか なかいはじ思はじや。思草花にめで月に染みて遊ばん。 
地クリ「実にや興にひかれて来り。興尽きて帰りしも。今のをりかと知られたる。今宵の空の気色かな。 
シテサシ「然るに月の名所。いづくはあれど更科や。 
地「姨捨山の曇なき。一輪満てる清光の影。団々として海:けうを離る。 
シテ「しかれば諸仏の御誓。 
地「いづれ勝劣なけれども。超世の悲願あまねき影。弥陀光明に如くはなし。 
クセ「さるほどに。三光西に行くことは。衆生をして西方に。すゝめ入れんが為とかや。月はかの如来の右の脇士として。有縁を殊に導き。重き罪を軽んずる天上の力を得る故に。大勢至とは号すとか。天冠の間に。花の光かゝやき。玉の台の数数に。他方の浄土をあらはす。玉珠楼の風の音糸竹の調とりどりに。心ひかるゝ方もあり。蓮色々に咲きまじる。宝の池の辺に。立つや並木の花散りて。芬芳しきりに乱れたり。 
シテ「迦陵頻伽のたぐひなき。 
地「声をたぐへてもろともに。孔雀鸚鵡の。同じく囀る鳥のおのづから。光も影もおしなべて。至らぬ隈もなければ無辺光とは名づけたり。然れども雲月の。ある時は影満ち。又ある時は影闕くる。有為転変の。世の中の定のなきを示すなり。 
シテ「昔恋しき夜遊の袖。 
(序ノ舞)老女の舞は、夢幻のうちにあるように、ゆったりと、静かに舞われる。そのうち夜がしらじらと更け行くと、旅人は去り、老女一人がその場に残される。 
シテワカ「我が心なぐさめかねつ。更科や。 
地「姨捨山に照る月を見て。照る月を見て。 
シテ「月に馴れ。花に戯るゝ秋草の。露の間に。 
地「露の間に。なかなか何しにあらはれて。胡蝶の遊。 
シテ「戯るゝ舞の袖。 
地「返せや返せ。 
シテ「昔の秋を。 
地「思ひ出でたる妄執の心。やる方もなき。今宵の秋風。身にしみじみと。恋しきは昔。しのばしきは閻浮の。秋よ友よと。思ひ居れば。夜も既にしらしらとはやあさまにもなりぬれば。我も見えず旅人も帰るあとに。 
シテ「ひとり捨てられて老女が。 
地「昔こそあらめ今も又姨捨山とぞなりにける。姨捨山とぞなりにける。 
ワキが去ってシテ方のみが舞台に残るのは、珍しい演出である。姨捨の趣旨をここに盛り込んだのでもあろうか。 
姨捨といえば、かの芭蕉翁もわざわざ訪ね来て月見をしている。その折の様子は「更科紀行」に記されている。しかして芭蕉は、次の一句を詠んだ。 
おもかげや姨ひとり泣く月の友  
 
更科紀行

 

姨捨山へ 
さらしなの里、おばすて山の月見(つきみ)ん事(こと)、しきりにすゝむる秋風の心に吹(ふき)さはぎて、ともに風雲の情(じゃう)をくるはすもの又ひとり、越人(ゑつじん)と云(いふ)。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の事も心もとなしと、荷兮子(かけいし)が奴僕(ぬぼく)をしておくらす。をのをの心ざし盡(つく)すといへども、羇旅(きりょ)の事(こと)心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々におかしき事のみ多し。 
■ 
貞享(じょうきょう)5年4月20日(1688)、明石夜泊をもって「笈(おい)の小文(こぶみ)」の旅を終えた芭蕉は、4月23日には京都に戻り、5月中旬には岐阜に戻る。そして、8月11日、ふたたび芭蕉は信州更級の姨捨山の月を見るべく、岐阜を発つことになる。 
姨捨山は、「古今集」(延喜5年(905)成立)巻十七の、題しらず 
わが心慰(こころなぐ)めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て 詠人しらず 
の歌で古くから知られ、この歌の由来については、「大和物語」(天暦5年(951)頃の成立か)の百五十六段や、「今昔物語」(1120年代以降の成立))巻第三十、第九の説話に描かれている。そして、この説話は中世には謡曲「姥捨」という能になって、各地で上演され、よく知られるものとなっていった。 
「大和物語」に描かれた姨捨山伝説は、以下のとおりである。 
「信濃の国に更級といふ所に、男すみけり。若き時に、親は死にければ、をばなむ親のごとくに、若くよりそひてあるに、この妻(め)の心憂きことおほくて、この姑(しうとめ)の、老いかがまりてゐたるを、つねに憎みつつ、男にもこのをばの御心(みこころ)さがなくあしきことをいひ聞かせければ、むかしのごとくにもあらず、おろかなることおほく、このをばのためになりゆきけり。このをば、いとたう老いて、ふたへにてゐたり。これをなほ、この嫁、ところせがりて、今まで死なぬことと思ひて、よからぬことをいひつつ、「もていまして、深き山に捨てたうびてよ」とのみ責めければ、責められわびて、さしてむと思ひなりぬ。月のいとあかき夜(よ)、「嫗(おうな)ども、いざたまへ。寺にたうときわざすなる、見せたてまつらむ」といひければ、かぎりなくよろこびて負(お)はれにけり。高き山のふもとにすみければ、その山にはるばると入りて、高き山の峯の、おり来(く)べくもあらぬに、置きて逃げて来(き)ぬ。「やや」といへど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、いひ腹立てけるをりは、腹立ちてかくしつれど、年ごろおやのごと養(やしな)ひつつあひ添(そ)ひにければ、いと悲しくおぼえけり。この山の上(かみ)より、月もいとかぎりなくあかくいでたるをながめて、夜(よ)ひと夜(よ)、いも寝(ね)られず、悲しうおぼえければ、かくよみたりける。 
わが心なぐさめかねつ更級や 姨捨山に照る月をみて 
とよみてなむ、またいきて迎へもてきにける、それよりのちなむ、姨捨山といひける。なぐさめがたしとは、これがよしになむありける。」 
これを昔は口減らしとして、しばしばこういうことが行われていたという人もいる。しかし、口減らしは通常赤ん坊を間引くことが多く、少なくとも人口の抑制という点では、姨捨は決して効果的な方法ではない。仮りにある社会が極限の貧しさにあり、飢餓に瀕していたとしても、老人を犠牲にするということは稀だっただろう。 
おそらく、老人が尊敬されるというのは、多分何らかの生得的な感情なのだろう。今でこそ老人は珍しくなくなったが、昔は老人になるまで生きられるということ自体が稀なことだった。だからこそ「古希」という言葉があるくらいだ。老人になれるということは、それ自体が優秀な遺伝子を持つことの証しで、老人を抱える家族は、その遺伝子を引き継いでいるわけだから、それを誇りとするのは当然だ。だから、敬老精神は文化などではなく、遺伝子に刻まれた人間の本能だと考えてもいいかもしれない。 
これに対して、そうではない、老人には長い人生経験の中で培われてきた知識と技術を持っているからだと言う人もいるかもしれない。これは背理である。なぜならば、それならば脳の障害によってそれらが損なわれてしまった老人は、もはや敬意に値しないのか、ということになる。敬老精神は「実利」の問題ではないし、あくまで実利と切り離して考えなければならない。 
単純に考えても、口減らしを行なうなら、あと何年生きるかわからない老人の口を減らすよりは、赤ん坊の口を減らした方が、長い将来にわたって人口が一人減るわけだから、人口の調整としては確実であり有効だったはずだ。(マーヴィン・ハリスによれば、特に女児の口減らしが効果的だったという。なぜならば、子供を生む可能性のあるものを一人減らす方が、将来の人口に与える影響が大きいからだ。だから実際に意図的に間引かれなくても、女児は育児の際に常に男児より軽視され、そこにハリスは男尊女卑の起源があったという。) 
だから、「姨捨伝説」は極めて特殊で極限的な、ショッキングな例として語り継がれてきたのであろう。単なる子殺しや捨て子や子供の人身売買は、かつての貧しい農村ではそんなに珍しいことでもなく、語り継ぐほどの価値もなかったに違いない。 
特に、この物語のポイントは、捨てるのが実の母ではなく、しかも育てられた男の側からではなく、妻の側から、つまり血縁でもなく、育てられた恩もない者の側から提案されたものだったことだ。しかも「むかしのごとくにもあらず、おろかなることおほく」とあり、痴呆老人であったことがほのめかされている。 
実際、どんな極貧の状況にあっても、実の親を捨てることことはまずなかったであろう。姨捨伝説は、血縁のない痴呆老人の扶養という特殊な状況で起きた事件と見た方がいい。しかも、最後は思いなおして迎えに行っている。絶えず飢餓と隣り合わせにあり、人が生きてゆくのもやっとで、子供をやむなく口減らしをしているような状態の貧しい農村であれば、痴呆老人の存在は今日と比べものにならないほどに悲劇的だったであろう。ある意味では、ボケたとはいえ老人を粗末に扱えないという生得的な感情と、飢餓と隣り合わせのぎりぎりの現実との関係で、葛藤の末、姨捨てという行為に及んだと解釈すべきで、この葛藤が理解できなければ、姥捨伝説は決して多くの人の心を捉えることがなかったであろう。 
芭蕉もまた、この伝説に心動かされ、更科の姨捨山の月を一度見てみたいと、また胸中の道祖神が騒ぎ出したのだろう。 
さらしなの里、おばすて山の月見(つきみ)ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹(ふき)さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人(ゑつじん)と云(いふ)。 
月見をしきりに勧めるのは「秋風」であり、いわば、心の中に吹く無常の秋風を感じて、いてもたってもいられなくなったのであろう。昭和42年に発見された真蹟草稿(しんせきそうこう)には、「秋風の身にしミ心にさはぎて」をあったのを直した跡が見つかっている。「身にしむ」というと、「野ざらし紀行」の旅立ちの発句、 
野(のざらし)を心(こころ)に風(かぜ)のしむ身哉(みかな) 芭蕉 
の句が思い起こされる。 
人はいつかは死ぬ身であり、この世にいる時間は限られている。何で人生はこんなに悲しいことが多く、争いに満ちあふれ、不条理(ふじょうり)ばかりが多いのか。それを何とかする方法はないのだろうか。そんな難問に、生きている間に答を見つけ出そうと思うなら、一刻の猶予はない。姨捨山には何かがあるに違いない。 
同じように、姨捨伝説に心動かされ、道祖神に招かれた客が一人いた。越智越人(おちえつじん)。明暦2年(1656)、北越の生まれで、紺屋を営む32歳。 
花にうづもれて夢より直(すぐ)に死(しな)んかな 
おもしろや理屈はなしに花の雲 
何事(なにごと)もなしと過行(すぎゆく)柳哉(やなぎかな) 
などの句がある風流人だ。 
木曾路は山深く道さがしく、旅寐の事も心もとなしと、荷兮子(かけいし)が奴僕(ぬぼく)をしておくらす。をのをの心ざし盡(つく)すといへども、羇旅(きりょ)の事(こと)心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々におかしき事のみ多(おほ)し。 
荷兮(かけい)もまた、越人とともに名古屋の蕉門を代表する人間で、ともに貞享元年(1684)の「野ざらし紀行」の旅の時に、それまでの貞門から蕉門に移ることになった。尾張藩士であるため、敬意をもって「子(し)」をつけているものと思われる。 荷兮(かけい)というと、 
こがらしに二日(ふつか)の月のふきちるか 
の句を詠んで、「木枯しの荷兮(かけい)」と呼ばれるようになるが、それはこの年の冬のことか。 
何か旅の手伝いにと多分自分の部下をつけてくれたのだろう。「羇旅(きりょ)の事(こと)心得ぬさま」というのは、必ずしも旅そのものに慣れていないということではなく、むしろ風流の旅の心を知らないという意味だろう。荷兮がわざわざ旅に不慣れなものをお供につけるような愚を犯すはずもあるまい。街道での宿や馬の手配をしたり、旅費の管理をしたりという重役に堪える人選はしたはずだ。いわば添乗員のようなものだったのだろう。ただ、中仙道の道には詳しいが、公用での旅しかしたことのなかったかなにかで、名所や歌枕に疎く、芭蕉とかなり頓珍漢な会話を交わしたのではなかったか。
道心の僧 
何々といふ所にて、六十斗(むそぢばかり)の道心(だうしん)の僧(さう)、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たはむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来(きた)れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共(ども)、かの僧のおひねものとひとつにからみて、馬に付て、我をその上にのす。高山奇峰(かうざんきほう)頭(かしら)の上におほひ重(かさな)りて、左りは大河(たいが)ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地(せきち)もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず。只あやふき煩(わづらひ)のみやむ時なし。 
■ 
ここでまた、60にもなるという老僧が登場する。「むつむつ」というのは、今日でも「むっつり」とか「むっとする」とかいうが、本来は「難(むづか)し」から来た言葉だろう。とにかく無愛想な老人で、風流の道にも興味がなかったようだ。「難しい」というと、今では簡単ではない、困難なという意味だが、本来はけだるそうな、覇気のない、というニュアンスだった。 
あかつきをむつかしさうに鳴蛙(なくかはづ)  越人(えつじん)の句もある。 
この老僧は、善光寺詣でのガイドか何かだったのだろうか。何やら大きな荷物を背負ってやってきたが、どうにもよろよろしている。荷兮(かけい)がよこしたお供の方が役に立つようで、すぐに馬の手配をして、その老僧の荷物だけでなく、みんなの荷物を一つに束ねて馬に背負わせて、その上に芭蕉が乗るようにした。「羇旅(きりょ)の事(こと)心得ぬさま」などというが、ところがどうして立派に使える男だったようだ。 
上には木曽山脈がそびえ立ち、下を見下ろせば木曽川が流れ、道は上り下りの坂の連続で、落馬するのではないかと気が気でなかったのだろう。杖突坂(つえつきざか)で芭蕉は一度落馬しているから。
木曽路 
棧(かけ)はし・寐覚(ねざめ)など過て、猿が馬場・たち峠(たうげ)などは、四十八(しじふはち)曲リとかや、九折(つづらをり)重(かさな)りて、雲路(くもぢ)にたどる心地せらる。歩行(かち)より行(ゆく)ものさへ、眼(め)くるめき、たましゐしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるを、あとより見あげて、あやうき事かぎりなし。仏の御心に衆生(しゅじゃう)のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、あはの鳴戸(なると)は波風もなかりけり。 
 
このあたりの行程は、例によって記憶が前後している。まず、桟(かけはし)と寝覚ノ床だが、岐阜から行くと寝覚ノ床の方が手前になる。行程はおそらく、まず岐阜から犬山へ向い、今でいう21号線を通って、中仙道に出たと思われる。そこから先は木曽谷を通る。恵那(えな)、中津川、そして寝覚ノ床は上松(あげまつ)にある。木曽の御嶽山と中央アルプスの木曾駒ケ岳とにはさまれた、急峻な谷で、木曽川の水によって削られた花崗岩が、ちょうど寝床のように平になったところだ。かつてはダムなどがなかったため、木曽川の水量も今より多く、かなり豪快な景色だったのだろう。 
桟は険しい崖に丸太と板を組んで藤蔓(ふじづる)で結わった橋で、正保4年(1647)に旅人の松明(たいまつ)が燃え移り焼失したため、尾張藩は慶安元年(1648)に木橋(きばし)をかけた石積みを作り上げた。芭蕉が通ったのはそういうわけで、丸太を藤づるで組んだ道ではなく、立派な木橋だった。 
西行法師(さいぎょうほうし)に、 
ひときれは都(みやこ)を捨(す)てていづれども めぐりてはなほきそのかけはし 
の歌もあるが、木曽にはいたるところに桟があったため、果たしてこの桟だったかどうかはわからない。鎌倉の鴫立(しぎた)つ沢と同様、西行の歌が有名になったために、後の人がここがその有名な鴫立(しぎた)つ沢だと言って歌枕ができる例もあり、この桟もその類(たぐい)かもしれない。 
猿が馬場峠と立峠(たちとうげ)も順序が逆だ。善光寺への道は、名古屋側から行くと塩尻の手前の洗馬から松本へ向い、そこから立峠(たちとうげ)を越え、猿が馬場峠を越えると更科の里に着く。 
しかし、この木曽路に関する記述は、実にあっさりとしている。多分、我々からすると雄大な自然は珍しいもので、そこに過ぎ去った時代のノスタルジーを感じるために、美しさを感じ、癒される思いがするのかもしれない。特に戦後の急速な開発の波に、山という山には道路が走り、高圧線の鉄塔が立ち並び、谷という谷にはダムが建設され、もはや手つかずの自然はほんの片隅にわずかに残されたもので、人間が守ってやらなければすぐにも消えてしまうようなか弱いものになってしまった。だが、芭蕉の時代には何ら珍しいものではなかったのではなかったか。むしろあまりに人間を圧倒するかのような大自然は人間に脅威を与えるもので、ただただ目がくらみ足が震えるようなものだったのだろう。馬籠の宿も今でこそ昔の面影を残す名所だが、当時は何の変哲もないひなびた宿場町にすぎなかったのだろう。 
これは、芭蕉の時代に満天の星空を詠んだ句がほとんどなかったりすることにも関係があるかもしれない。また、宗祇法師(そうぎほうし)が「筑紫道記(つくしみちのき)」のなかで、海辺の景色に目を止めながらも、 
「松原遠(まつばらとほ)く連(つら)なりて、箱崎(はこざき)にもいかで劣(をと)り侍(はべ)らむなど見(み)ゆるは比(たぐひ)なけれど、名所(めいしょ)ならねば強(し)ゐて心(こころ)とまらず」 
と言ったことにも関係があるかもしれない。名所というのはあくまで故事来歴を呼び起こすことで名所となるのであり、御嶽山も木曽駒も、また松本を通ったときにはひょっとしたら穂高連峰も見たかもしれないが、それらは当時は名所ではなかった。それよりはるかに低いが、姨捨伝説があるがゆえに姨捨山(冠着山)は名所であり、はるばる芭蕉の足を運ばすのに値するものだった。自然は今日では「美」とされているが、当時はむしろカント的な意味で「崇高なるもの」の次元にあったと思われる。 
ここでの芭蕉の関心は、目もくらみ魂の縮み上るような険しい道で、荷兮(かけい)の連れてきた同行人が何事もないかのように居眠りして、馬から何度も落ちそうになったということだった。やはり思ったとおり、木曽の道を知り尽くした男なのだろう。何度も中仙道を通いなれた人間には、山また山の景色も変化に乏しい退屈なものでしかなかったか。それを芭蕉は一つの人生の教訓に持ってゆく。悟りきった人間にとっては、人生のめまぐるしい浮き沈みも喧騒(けんそう)も修羅場も、何てこともないみな同じものに見える。「あはの鳴戸(なると)は波風(なみかぜ)もなかりけり。」は、兼好法師の作と伝えられる、 
世の中を渡りくらべて今ぞ知る 阿波(あは)の鳴門は波風もなし  
の歌の引用だ。
旅の夜 
夜は草の枕を求て、昼のうち思ひまうけたるけしき、むすび捨たる発句(ほっく)など、矢立取出(やたてとりいで)て、灯(ともしび)の下(もと)にめをとぢ、頭(かしら)をたゝきてうめき伏(ふ)せば、かの道心(だうしん)の坊(ばう)、旅懐(りょくゎい)の心うくて物おもひするにやと推量し、我をなぐさめんとす。わかき時おがみめぐりたる地、あみだのたふとき数(かず)をつくし、をのがあやしとおもひし事共(ことども)はなしつゞくるぞ、風情のさはりとなりて、何を云出(いひいづ)る事もせず。とてもまぎれたる月影の、かべの破(やぶ)れより木(こ)の間がくれにさし入て、引板(ひた)の音、しかおふ声、所々にきこえける。まことにかなしき秋の心、爰(ここ)に尽(つく)せり。いでや月のあるじに酒振まはんといへば、さかづき持出たり。よのつねに一(ひと)めぐりもおほきに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人はかゝるものは風情(ふぜい)なしとて、手にもふれざりけるに、おもひもかけぬ興に入て、王青(せい)琬玉巵(わんぎょくし)の心(ここ)ちせらるゝも所がらなり。 
あの中に蒔絵書たし宿の月 
桟(かけはし)やいのちをからむつたかづら 
桟やまづおもひいづ駒むかへ 
霧晴(きりはれ)て桟はめもふさがれず 越人(ゑつじん) 
■ 
8月11日(旧暦)に旅立ち、15夜まで4泊。馬に乗ったとはいえ、かなり急ぎの旅だった。昼間はずっと馬にゆられて、旅の疲れをためないためには居眠りも必要だった。俳諧の方も夜に宿についてからようやく昼の景色を思い出し、発句を案じたりしていると、風流の道とは無縁の例のむっつりした坊さんがホームシックと勘違いして、慰めようとしていろいろ思い出話を始める始末だった。もっとも、それをうまいことネタにしてしまうあたりはさすが芭蕉だ。 
折から宿には月の光が差し込み、月の明るい夜なので鹿狩りもあたりで行われていた。山では鹿がしばしばのうちに現れるため、駆除の対象にもなっていたし、また鹿の肉も当時は広く食用にされていた。「引板」というのは鳴子のことで、板をカタカタカとスタネットのように鳴らし、鹿を追い出すのに用いた。鹿狩りは大勢で鹿を山から追い出し、出てきたところを待ち伏せして弓で射るもので、風流とは程遠いものだった。鹿狩りではないが、 
猪(ゐのしし)のねに行(ゆく)かたや明(あけ)の月   去来(きょらい) 
の句もある。妻恋(つまこ)う鹿の遠音(とおね)とは別の意味で哀れではある。芭蕉は「千載集」の、 
ことごとに恋しかりけれむべしこそ 秋の心を愁(うれへ)といひけれ 藤原季通朝臣(ふぢはらのすゑみちあそん) 
の歌を思い起こし、「まことにかなしき秋の心、爰(ここ)に尽(つく)せり」と記す。 
宿の主人は酒を飲もうと盃を持って現れたが、この盃が、今でいう木曽漆器(きそしっき)の原型ともいうべきものだったのだろう。そこには蒔絵で絵が描かれていた。蒔絵は漆で絵を描き、その上に金銀の粉や螺鈿などを施すもので、漆を接着剤として使う。江戸時代前期は特に加賀蒔絵のような高度な技術が確立された時代でもあり、木曽蒔絵も同じ頃に作られるようになったのだろう。ただ、「ふつつかなる」と芭蕉の評価はかなりきびしい。ただ、都の人なら見向きもしないが、このような田舎で思いもかけず高度な工芸品に出会えたことで、「王青(せい)琬玉巵(わんぎょくし)の心(ここ)ち」と持ち上げている。当時はまだまだ蒔絵は京都が中心で、木曽漆器の評価の低さも当時としては普通だったのだろう。 
あの中に蒔絵書(まきゑかき)たし宿の月 
「宿の月の中に蒔絵描きたし」の倒置(とうち)。「あの中に」と何の中にだろうと期待を持たせ、最後に「宿の月」と持ってくる。月は漆黒の夜空に螺鈿のように見えるため、その周囲に萩、ススキや野に臥(ふ)す鹿などを描き込めば、なかなか風流にちがいない。月そのものの中に描き込むのではなく、宿の窓から見える区切られた月の出ている夜空の中にと読んだ方がいいだろう。 
桟(かけはし)やいのちをからむつたかづら 
「桟に命をからむ蔦(つた)かづらや」の「や」を倒置にして、「桟」を強調した句。人もまた桟によって生活を成り立たせ、命をつないでいるという点では、あのツタやカズラのような心細い存在だ。 
桟(かけはし)やまづおもひいづ駒むかへ 
「駒迎(こまむか)え」は、かつて宮中に献上される馬を、8月16日に逢坂(おうさか)の関まで迎えにいったという行事のことだが、木曽から献上された馬もこの桟を通ったのだろうか、と思い起こす。「桟に駒むかへをまず思ひいづや」の倒置で、「桟や」と「や」を前に持ってくることで「桟」を強調し、桟に何を思い出すのだろうかと期待させておいて、最後に「駒迎(こまむか)え」を持ってくる。「拾遺集」の、 
あふさかの関(せき)のし水(みづ)に影見(かげみ)えて 今(いま)やひくらむもち月(づき)のこま 紀貫之 
の歌を思い起こしたか。「望月の駒」は折からの名月に、信州佐久地方の地名である「望月」を掛けたもの。ここで放牧された馬が名馬とされていた。なお、「去来抄」には、 
駒(こま)ひきの木曾(きそ)やいづらん三日(みか)の月(つき)   去来 
の句に対して、駒迎えが8月16日だから木曽を出たのは3日ごろだという数字合わせの句にすぎないと芭蕉が酷評したことが記されている。芭蕉の句は、木曽から献上される馬が、狭くて目もくらむような粗末な橋を渡るところに一つの姿があるが、去来の句にはそれがない。 
霧晴て桟はめもふさがれず 越人 
霧の中だと距離感がわからなくなり、見えない山は果てしなく高く、見えない谷底はどこまでも深く感じられ、不安になる。霧が晴れれば、山や谷の距離感ははっきりし、不安もなくなる。心の曇りも同じことで、何がなんだかわからず、五里霧中になって生きている時は、どんな願いもかなわないもののように思えて、絶望感に駆られる。しかし澄み切った心で物事を見れば、物事はただあるがままにあるだけだ。霧が晴れれば桟(かけはし)も目を塞がれることはない。そんな越人の教訓の句で、この連作は締めくくられる。

 

姨捨山 
俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友 
いざよひもまださらしなの郡哉(こほりかな) 
さらしなや三(み)よさの月見雲(つきみくも)もなし 越人(ゑつじん) 
ひょろひょろと尚露(なほつゆ)けしやをみなへし 
身にしみて大根からし秋の風 
木曾のとち浮世の人のみやげ哉(かな) 
送られつ別(わかれ)ツ果(はて)は木曾の秋 
 
蝶夢編(ちょうむへん)の「芭蕉翁文集」には、 
「姨捨山は八幡と云里より一里ばかり南に、西南に横をれてすさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。なぐさめかねしといひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ 」 という一文が挿入されているが、これは「更科姨捨月之弁(つきのべん)」という「更級紀行」の前身に当る俳文の後半部分をくっつけたものだ。 
更科の里から見ると姨捨山は南側にあり、今日では冠着山と呼ばれている。標高1252mで、たしかに信州の山としてはそんなに高くない。山が特別高いだとか、奇岩奇峰のような形に特長があるという外見上の理由で名所となっているのではない。当時の名所は何らかの故実(こじつ)を持っていることが重要だった。それは姨捨の伝説を持っているから特別な山であり、「あはれ深い」山だった。 
なお、ここには田毎(たごと)の月の記述はない。田毎の月は、西行法師が1反歩を48枚に分けた棚田を、阿弥陀四十八願にちなみ「四十八枚田」と名づけたという伝説によるものだ。田毎の月は、月がまだ低い時に月の影が小さないくつかの田んぼにまたがって見える現象で、月そのものだけでなく、月明かりで明るくなった周囲の空もまた水面に反射し、いくつもの田んぼが闇の中に窓のように浮かび上がる。これを見(み)るためには棚田が東向きに見下ろせる場所でなくてはならないし、また、田んぼに水が張られていて、稲が十分育ってない状態、つまり田植えの前後でなければならない。中秋の名月に田毎の月が見えたはずはない。 
帰る雁田毎の月のくもる夜に 蕪村 
この句は芭蕉の時代より百年のち、晩春の雁が北へ帰ってゆく頃、既に田植えの準備のできた棚田に、朧の月が写り、それが行く春を惜しんで涙で曇っているようだという句だ。 
芭蕉も「更科紀行」の旅の前に、大津に滞在した6月の初め頃、瀬田のゲンジボタルを見て、 
木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、 
まづ瀬田の螢を見に出でて この螢田毎の月にくらべみん 
と詠んでいる。瀬田の田の上を飛ぶゲンジボタルの光は田んぼの水面に反射して、田毎の月もこんなだろうかと想像したのだろう。しかし、田んぼに光が映るのは、田に水が入っている夏だからであり、中秋の名月ではなかった。 
西行もまた、 
雨雲のはるるみ空の月かげに 恨みなぐさむ姨捨の山  
あらわさぬわが心をぞ恨むべき 月やはうとき姨捨の山 
くまもなき月のひかりをながむれば まず姨捨の山ぞ恋しき 
のような中秋の名月を詠んだと思われる歌はあるが、田毎の月の歌はない。 
千枚田は日本だけでなく、東南アジアやヒマラヤ山麓などでも見られる。水田耕作可能な山地では、むしろありふれた光景なのかもしれない。急な斜面に小さな田んぼをいくつも作っても、平地に比べれば面積あたりの効率も悪いし、農民にとってもまた急な斜面を上り下りしなくてはならず、かなりの重労働となる。それでもこのような土地にまで田んぼを作らなくてはならないのは、ひとえに人口増加の圧力のせいといえよう。 
姨捨伝説はこうした、限界まで農地を増やさねばならないほどぎりぎりの状況に置かれていた過酷な現実が生んだ物語にちがいない。それは、千枚田の景色の牧歌的な美しさと裏腹に、そうまでして田んぼを増やさざるを得なかった過酷な生活があった。  
俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友 
さて、芭蕉のこの句だが、これは「俤(おもかげ)は姨(おば)一人泣く月の友や」の「や」の部分が倒置になったもので、これによって「俤(おもかげ)」が強調されることになる。一人で泣いていることを強調したいなら、「俤(おもかげ)は姨(おば)一人泣くや月の友」となる。 
「俤」は人の姿があたかもそこに見えるかのような幻をいい、姨捨山にかかる月を見ていると、今にもそこに姨の姿があるようだという意味になる。その姨というのは、やはり月を見ながら一人で泣いている。それを月のみを友としている「月の友」と表現したことが、技有りといえよう。 
いざよひもまださらしなの郡哉(こほりかな) 
十五夜の名月だけでなく、その翌日の十六夜(いざよい)の月も、十五夜に負けず劣らず趣がある。一日滞在を伸ばしてでも見(み)る価値はある。後に「奥の細道」の旅の途中、新潟で詠んだ、 
文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜には似ず 
にも通じる心か。 
さらしなや三(み)よさの月見雲(つきみくも)もなし 越人 
これは芭蕉の名月の句、十六夜の句に応じたもので、十五夜、十六夜だけでなく、十七夜まで含めた三日間の月も曇ることがなかった、と続ける。一句としてはそれほど見るべきところもなく、こうやって三句並べることで意味を持つ句といってもいいだろう。 
ひょろひょろと尚露(なほつゆ)けしやをみなへし 
オミナエシは人里に咲く花で、今やその生態学的地位(ニッチ)はすっかりセイタカアワダチソウに奪われてしまって見る影もない。背は高いがどこか細く頼りなげな花は女性的で、それゆえ本来高貴な女性を意味する「女郎」の文字が当てはめられてきた。風に吹かれて揺れるさまが、互いに寄り添うかのように見える。 
この句は単独だと昼夜の区別はないが、名月の句の後に来ることで、月夜のオミナエシの句になる。「ひょろひょろと」は俳言で、万葉・古今以来の古歌で名高いこの花を、あえて卑俗な擬態語で落とす手法は、貞享2年(1985)の上島鬼貫(うえしまおにつら)の、 
にょっぽりと秋の空なる富士の峯 
や、芭蕉が後に詠む、 
梅が香にのっと日の出る山路かな 
の句を彷彿させる。細くて頼りなげな花の姿を一度そう笑っておきながら、「尚露(なほつゆ)けし」と続けることで、露が月の光に黄金色に輝き出す。その輝くものは何か、オミナエシだ、となる。この句は「女郎花(おみなえし)はひょろひょろと尚露(なほつゆ)けしや」の倒置だ。 
この句は本来、「更科紀行」の旅立ちの時に詠(よ)んだ句で、 
ひょろひょろと転(こ)けて露けし女郎花(をみなへし) 芭蕉 
だった。「古今集」秋上の、 
名にめでて折れるばかりぞ女郎花 我おちにきと人にかたるな 僧正遍照(へんじゃう) 
をふまえたもの。女郎花という名前に惹かれて折っただけで、女郎の魅力に負けたわけではないという歌で、女郎花を本当の女性と掛けた二重の意味を持っている。今でも口説いたり口説かれたりすることを、「落とす」「落とされる」というが、平安時代からの歴史のある言葉だ。芭蕉はそれをさらに「こける」という俗語で落としてみせる。  
身にしみて大根からし秋の風 
「大根」は冬の季題だが、秋にも詠む。季題は杓子定規に守るべきものではなく、本来はもっと柔軟に、実際の季節感に即して用いるべきものだった。 
五行説では木・火・土・金・水の五つのエレメントはそれぞれ、春・夏・土用・秋・冬に対応する。これと同様、五味にも対応していて、金気の秋は「辛」に相当する。さらに色では秋は「白秋」というくらいで「白」に対応しているから、大根の白い姿とも重なる。それゆえ、白くて辛い大根は秋風を思い起こさせる。 
春に万物を生じ、秋には止むという、万物が死へと向い、自らの死への存在を自覚させるような秋の風に、白くて辛(から)い大根もまた人生の辛(つら)さを感じさせる。この句自体は直接更科の月とは関係ないが、更科の棚田の過酷な生活を思うと、大根の辛さもまた身にしみるものとなる。 
姨捨の伝説を生んだ貧しさと生きることの過酷さと、それを静かに見つめているかのような月。あの月はみんな知っているのだろうか。生きるために子を間引き、生きるために娘を売り、果てることのない苦しみと悲しみを噛みしめながら、人は今日も急な山間の棚田を上り下りし、わずかな田んぼを守っていることを。そうしてかろうじて命をつなぎ、生きながらえ、いつかそこから解き放たれる希望を抱き続けていることを。その思いが秋風となり、雲を振り払い、月を輝かせていることを。我々が死への存在であること、そして、そこに「生きるため」というすべての生存競争の重圧から自由になるかすかな希望があるということを。  
木曾のとち浮世の人のみやげ哉(かな) 
土産といっても、今日のように、大量に買っては宅急便で送るというわけにもいかない。長い道のりを背負って歩ける程度のものといえば、そんな大きなものにはできない。江戸時代後期ともなると、各地に名物の郷土菓子なども発達したが、芭蕉の時代にいわゆる土産物屋があったかどうかはわからない。 
「浮世の義理」なんて言葉もあるように、遠くの神社・仏閣などを参拝に行くとき、餞別をくれた人には何かそのお返しをしなければならない。その場合、高価なものよりも、その神社・仏閣のお守りのようなものの方がふさわしい。その意味では、この橡の実はおそらく善光寺の境内で拾ったのだろう。句の意味は、木曽の橡はいわゆる浮世の人のいう土産だ、という意味で、芭蕉は浮世の外にいて、浮世の人に土産を持ち帰るという意味ではない。それではいかにも自分を高い位置においているようで、お土産を渡す人に失礼だ。 
この土産は実際には荷兮に送った物とされている。旅の便宜のために自分の部下を付けてくれたし、多分スポンサー的な役割も果たしたのだろう。その労に比べれば、このお土産はいかにも質素だ。だが、それは芭蕉の謙遜であり、いわば乞食坊主の身にすぎない私には、この程度のお土産がふさわしいという意味だ。この翌年の春に公刊された芭蕉七部集の一つ、「阿羅野(あらの)」には、 
木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の 
実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、 
かざりにやせむとて 
としのくれ杼(とち)の実一つころころと 荷兮(かけい) 
の句が収録されている。 
贈り物というのは贈った方が、たとえ本人にその気がなくても恩を着せることになり、もらった人は負い目を感じる。そのため、もらいっぱなしだとそこに上下関係が生じてしまう。そこで贈り物にはお返しをするという習慣ができる。高価なものをお返しすると、かえって逆に恩を着せようとして張り合っているように映ってしまうし、お返しがもらったのと同額であれば、相手から受けた恩を帳消しにして、持ちつ持たれつの縁を切ろうとしているように受け取られかねない。(やくざから贈り物を受けた場合はそうすればいいともいう。)逆にお返しが質素であったり、全くなかったりすると、自ら乞食であり、恩を受けっぱなしであるということを表明することになる。今日のいわゆる「半返し」と言われるのは、大体ちょうどバランスの取れたお返しの目安として広まった習慣だ。 
橡の実は「にび色」つまり灰色を染める時に染料として用いられる。また、橡の実は一方で食用にもされる。韓国では「ム」という団栗の粉を水で溶いて固める料理があるが、日本でも橡の実は橡餅や橡粥にしたという。いずれにせよ僧侶の衣や精進料理にふさわしい、質素なものだ。  
送られつ別(わかれ)ツ果(はて)は木曾の秋 
この句も、オミナエシの句と同様、本来、「更科紀行」の旅立ちの時に詠んだ句で、初案は、 
送られつ送りつ果(はて)は木曾の秋 芭蕉 
だった。 
本来、木曽へ旅立つ時に、送り送られその果てに木曽の秋にたどり着くだろうという句だったが、「更科紀行」では、この位置に来ることで、更科で出会った人との間に出会いや別れがあって、木曽街道へと戻ってゆくという意味になる。

 

善光寺 
月影や四門四宗(しもんししゅう)も只一(ただひと)ツ 
吹とばす石はあさまの野分哉(のわきかな) 
■ 
月影や四門四宗(しもんししゅう)も只一(ただひと)ツ 
善光寺は大化の改新より前の642年、皇極天皇の勅願によって建立された寺で、まだ日本の仏教が諸派に分かれる前からあるため、宗派に関係なくすべての人に開かれたお寺となった。実際には天台宗と浄土宗が中心となって管理運営されているという。芭蕉のいう四門四宗(しもんししゅう)は、特定の四つの宗派という意味ではなく、あくまであらゆる宗派、四方(よも)の宗派という意味。もちろん、ただそれだけの意味では面白くない。この句は仏教に限らず、すべての宗教 ・思想に拡大して考えた時、その本当に深さが味わえる。 
伝統絵画の一つのモチーフに、三聖嘗酸図というのがある。孔子、老子、釈迦の三人の聖人が大きな壺に入った酢をなめて、酸っぱそうに顔をしかめるという図だ。孔子、老子、釈迦、言っていることはそれぞれ違っていても、酢を舐めれば酸っぱいという事実には変わりない。それと同じで、本来人間にとって真理というのは、結局一つなのだという、そういう教えだ。三聖がそろって囲碁を楽しむという絵もある。これも思想信条の違いを越えて、遊ぶ事の楽しさは同じという意味だ。 
思想によって酢を甘くすることができないように、どんな理屈をつけても人間として間違ったことはやってはいけない。思想的な名目があれば、何十万、何百万という人を虐殺したり飢えさせたりしてもいいのか。いいわけはない。それは明らかに思想の方が間違っているのである。 
たとえ育ての母で血はつながってないとはいえ、老いた母を山に捨ててきてもいいのか。理屈はいろいろつけられるかもしれない。かの姨捨伝説の主人公の男は、月を見て、月に諭された。誰の教えに従ったのでもない。四門四宗の教えもそれぞれ尊いが、月にまさる説法はない。人間の意思決定の上で、最終的に重要なのは教義ではない。あくまでその人間の自然な心だ。 
芭蕉はあらためてこの更級の地で、悠久の昔から月の心が変わっていないことを見て取ったのだろう。たとえ数百年を経ても、月を見て人が心を動かされる、その情は不易だ。 
芭蕉は「笈の小文」で、 
「風雅におけるもの、造化(ぞうくゎ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。」 と書いた。このときはまだふいうがの心は夷狄(いてき)とは異なる文明の花(中華)という考えがあったのだろう。しかし、やがてそれは「奥の細道」の旅で、みちのくの蝦夷の歴史の悲劇に触れ、風雅の心は民族を超えた人間の千歳不易の情だという考えに至ったのではなかったか。そこから「不易流行」を確信したのではなかったか。 
日本のこうした神仏習合の中で培われた宗教的相対主義は、近代西洋のプラグマティズムを先取りするような、すばらしい文化伝統だといってもいいだろう。明治の近代化の際にも、日本はキリスト教を排除する必要もなかったし、日本がキリスト教化することもなかった。ただ、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の「五聖人舞囃子之図」のように、従来の三聖にキリストと預言者ムハンマドを加えて、五聖にするだけでよかった。その根底にある真理が一つであることを確信していたからだ。宗教戦争やイデオロギーの対立に疲弊することなく、日本が順調な発展を遂げることができたのも、この宗教的相対主義のおかげといえよう。 
文学は何か人の知らないことを教え込むのではない。誰もが知っていながら忘れていることを思い出させるにすぎない。それは人として、あるいは獣すら持っているかもしれない遺伝子の声だ。 
近代化以前の社会では、たとえ生産力を高める発明があっても、あっという間に人口の増加によって食い尽くされるという、マルサス的な現実があった。だから、どこの国でも、近代以前の人間の生活はどこも似たりよったりだった。常に飢餓と隣りあわせで、いつ死ぬかわからない人生を、ただその日その日力いっぱい生きるだけだった。豊かな地域は自ずと周囲から人間がなだれ込み、貧しい地域は人が寄り付かないから、結局一人当たりの食い分は一定に保たれる。庶民は貧しいが定員が多いため、さほど激しく争う必要はない。支配者階級は豊かだが、ポストが限られているため、親兄弟でも血で血を洗うような争いを繰り返す。 
世の中はとてもかくても同じこと 宮も藁屋もはてしなければ 蝉丸 
しかし、それでも人は過酷な労働や、肉親や愛する人の死や別離の苦しみに耐えながら、月に見果てぬ夢を思い描いてきた。平和、豊かさ、笑って暮らせる世の中、言葉にすればいかにもありきたりかもしれない。しかし、そうやって苦渋に満ちた生活に虚しさを感じ、心の底に風が吹くのを感じ、そしてないものを求め続けた。だからこそ今がある。 
今のわれわれの世界があまりに平和すぎて、あまりに豊かすぎて、逆にそれが不満で、昔の貧しい生活を懐かしむ人もいるかもしれない。しかし、今のこの豊かさが作られるまでに、どれだけ多くの人の血と涙があったのか、その人たちはわかっているのだろうか。 
もちろん、今の世の中にも解決しなければならない困難な問題がたくさんある。まず、どうやってこの豊かさを持続可能なものにするかだ。たとえば、地下資源は使ってゆけばいつかは枯渇する。資源循環型社会の理想は、まだ入り口に立ったばかりだ。 
 
吹とばす石はあさまの野分哉(のわきかな) 
善光寺が釈教(しゃっきょう)なのに対し、浅間は富士山の浅間神社にも通じるということで、神祇(じんぎ)と言ってもいいだろう。ここに神祇・釈教とそろって「更級紀行」は終るのだが、目出度いというよりもあくまで自然の偉大さ、厳しさでもって終る。 
浅間山は今日もなお活発な火山活動を続ける山で、特に芭蕉の時代より約100年後の天命3(1783)年に大噴火し、火砕流は麓の村に1200人もの死者を伴う大きな被害をもたらた。さらに、この時の噴煙は地球を一周するほどで、ヨーロッパの空をも曇らせ、地球規模での寒冷化をもたらし、フランス革命の原因にもなったと言われている。寛文から元禄にかけての時代はやや小康状態にあったとはいえ、やはり盛んに噴煙を上げ、軽石を飛ばし続けていたのであろう。富士山には火山の噴火を鎮めるべく浅間神社が建立されたが、浅間山のほうは神様の方でも止めるすべがなかったのか。 
芭蕉は浅間山の噴火を台風(野分)にたとえている。人の世の苦しさ、自然の過酷さ。それは別のものだろうか。そうではない。人の世がきびしいのは、人口増加の圧力という自然の要因で起るものであり、憎しみや嫉妬や復讐心の情もまた人間の中の自然の成せる技だ。人間もまた自然の一部と思えば、自然の過酷さ、人生の厳しさは一つのもの。そうして、傷つき疲れ果てては、いつの世も人は月を見るのだろう。  

  
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蜘蛛塚伝説 1 (上品蓮台寺・源頼光朝臣塚)

 

平安時代中期の源氏の武将、源頼光。彼は原因不明の高熱に悩まされていた。名医が治療のかいもなく、頼光は病状に伏したままであった。ある日のこと、頼光の枕元に妖しげな法師が現れた。あろうことか、頼光を縄で縛ろうとする。頼光は驚いて目を覚まし、隣においていた名刀「膝丸」で法師斬りつけた。法師は一瞬で姿を消し、床には真っ赤な血が・・・。朝になって頼光は家来の四天王、渡辺綱、臼井貞光、平季武、坂田金時の四人に血の痕をたどらせた。血は北野の森の大きな塚に続いていて、四天王は塚を掘り起こした。すると塚の中には大きな黒い蜘蛛が苦しそうにうごめいていたという。四天王はこの黒い蜘蛛を串刺しにして、加茂川河原にさらしものにした。するとみるみるうちに頼光の熱病はおさまった。
 
頼光と四天王の鬼退治 2 (土蜘蛛草紙絵巻物語)
ある年の神無月、二十日すぎのある日、源頼光は郎党の一人渡辺綱と共に、北山のあたりに遊行して、蓮台野に行った。頼光は三尺の太刀を佩き、綱は腹巻の鎧を着用していた。野原を歩いていると、一つの髑髏が空を飛んでいるのを見た。やがて雲の中に隠れたが、あとを尋ねて行くと、神楽丘に着いた。其処には一軒の古いあばら家があった。広い庭に足を踏み入れると、草茫々と生い茂り、もとは由ある公卿の住居と知れた。頼光の主従は崩れた中門をくぐり、綱をそのままとどめおくと、頼光は左右を顧みながら、家のほうに近づいていった。秋草が露に濡れて、袖を絞るばかりであった。頼光は簀子(すのこ)の上にあがり、あたりをきょろきょろ見回した。物音はなに一つしないで、静まりかえっていた。「これはしたり、この家は空き家な。たれもおらぬわ」、と頼光はひとりつぶやいた。頼光が、奥に踏み入ると、台所の内から、大きな息遣いが聞こえてくる。中には白髪の老婆がいた。「わらわは、この家の者。年は弐百九拾歳。すでに九代の主君に仕えましたのさ」、と答える。老婆は、抉(きじり)という道具で左右の眼をこじ開け、上の瞼を頭の方にかずいている。またで口をこじ開け、唇を大きくめくりあげ、えり首で引き結ぶ。左右の乳房は長く伸びて、膝に掛けている。まことに異様な姿であった。老婆は綿々と恨みの言葉を吐き出した。「わらわを殺してたべ。願わくば、念仏の功力(くりき)によって、弥陀三尊の来迎に会い奉らむ」。頼光は、身の毛のよだつ思いで、一歩、二歩とあとずさりした。ただならぬ様子に、綱は台所に近づいて、その場の一部始終をみたのである。やがて夕闇が迫ると、一陣の風が吹き起こる。風が激しくなると、雷鳴がとどろき、稲妻が光る。綱は、生きた心地もなかったが、いまこそ君恩に報いるときぞと、暴風雨の中を身じろぎもしないで、立っていた。頼光も度胸を据えて、その場で耳を澄ましていた。すると、にわかに大勢の異形の化け物どもが、頼光主従の前に歩み寄って来る。柱を隔てて、双方対峙する。頼光は灯火越しに化け物どもを、睨み据えた。その眼光は、まるで白毫(びゃくごう)(仏の眉間の光を放つという毛)のようであった。化け物どもは、あわてて退散した。 
こんどは、眼前に尼姿で現われたものがいる。背丈は三尺にも足らぬのに、顔は二尺もあろうかという、薄気味悪い身体つき。太く大きな眉作りをして、頬紅を赤くつけ、前歯二本を歯黒して、気味悪い笑みを浮かべ、灯台ににじり寄って、火を吹き消そうとする。その気配をうかがった頼光が、きっとにらみ据える。が、たちまちのうちに消え失せた。明け方が近づくと、足音が聞こえてくる。じっとうかがっていると、正面の障子が細めに開いたかと思うと、すぐさま閉まる。そんなことが、二度、三度くり返されるうちに、窈窕たる美女のただずまいがうかがわれた。頼光は立ち上がって障子を開いた。みると、一人の女性が歩み寄って、美しい衣装の裾を広げながら、畳の上に座った。史書に聞く楊貴妃や李夫人と競うばかりの美女であった。これは、この家のあるじが、二人を歓迎するための出迎えかと思う間に、一陣の風がさっと吹き迫る。女は、つと立ち上がり、丈なす翠の黒髪の束を片手で掻い取りながら振り向いた。灯火が顔面を照らす。その両眼は、らんらんと輝き、透き漆をそそいだようなありさまであった。 
まばゆいばかりの美しさよと驚くうちに、女性は袴の裾をさっと蹴上げた。と思うと、毬のような白雲の塊、十ばかりを次々に、頼光に投げかけた。立ちくらんだ頼光、刀を引き抜き、白雲の中の女に斬りかかる。が、忽然と女は姿を消す。刀の切っ先は、板敷を切り通して、柱の礎石を真っ二つに切り割っていた。化け物が退散すると、綱が駆けつけてきた。板敷に突きささった太刀を引き抜くと、その先は折れていた。床下一面には白い血が淀んでいる。太刀にも白血が付着している。すぐさま、頼光は綱をうながして、点々とこぼれる白血の痕を追って、化け物の行方を尋ねた。やがてたどり着いたのは、昨日の老女の部屋であった。化け物に食われたのか、老女の姿はみえない。なおも尋ねていくと、西山のあたり、大きな洞穴に行き着いた。穴の入り口一帯には、奥から白血が流れ出している。やがて綱が口を開いた。「この太刀の折れ具合をみますと、中国古代の楚国の眉間尺が、親に対する至孝のあまり、剣の先を隠し持った故事が思い出されまする。このうえは、藤の蔓を切って人形をつくり、烏帽子・直垂を脱ぎ着せて、前に立たせて進むがよいと思いまする」、と進言した。これを聞きいれた頼光は、人形を作らせ、それを押し立てて進み、四、五町にて、穴の奥に到達した。前に古い庫のような建物がある。みると、一匹の巨大な化け物が寝込んでいるではないか。大きさは二十丈あまり、まるで錦の裂(きれ)を引きかぶったような威容である。大きな頭に気を奪われて、足のほうの長さはわからない。両眼は日月のごとくに、光り輝いている。すると、にわかに大声をあげた。「ああ、苦しい。これは、どうした事ぞ。われはいま病の臥するものぞ。こうして寝転ぶも、苦しきかぎりぞ」、と言葉も終わらぬうちに、予想のごとく、白雲のなかから異様な光が発せられた。その光が、人形に当たった瞬間、人形は、ばったり倒れた。頼光が近寄ってみると、折れ失った太刀の先であった。やがて化け物は静かになった。頼光と綱は近づいて、力を合わせて化け物を引きずり出した。 
この化け物は、力強く、その巨大なさまは、巨石を動かすかのごとく骨の折れることだった。頼光は、天照大神と弓矢正八幡に祈請した。二人は巨大な化け物に取っ組んだ。はじめはまったく互角と思われたにもかかわらず、化け物はひと声残して、あおむけざまに転倒してしまった。頼光は、さっと太刀を引き抜き放つと、首を掻き斬った。綱が腹を切り開こうと駆け寄ると、腹の真ん中に深い疵の痕があるのに気付いた。それはまさしく、頼光が板敷まで切り通した時の疵痕にちがいない。 
この化け物の正体は、実に一匹の巨大な土蜘蛛であった。太刀の切り疵のあたりから、人間の首が壱千九百九拾あまり転がり出た。さらに、化け物の脇腹からは、七、八匹の小蜘蛛が、這いだしてきたのである。綱は大きな穴を掘って、その首を埋め、古家に火を放って焼き払ってしまった。 
やがて、この勲功は叡聞に達する処となり、頼光は摂津守に任ぜられ、正四位下に昇叙された。綱は丹波守に任ぜられ、正五位下に叙せられた。なお、頼光の佩刀所謂宝剣膝丸は、これ以来、その名を「蜘蛛切」と改めたという。この土蜘蛛ゆかりの地は、定かではないが、北野天満宮の境内、二の鳥居の西に位置する観音寺もその一つに数えられる。 
真言宗泉涌寺派の寺院で、一に東向観音寺とも称す。天歴年間、僧最珍の開創するところで、それは天満宮とその造立の時期を共にしている。はじめ東西両向の二堂があったが、西向の堂は早く廃絶し、東向の堂のみが残されたのである。数奇な運命を導ったものである。 
「蜘蛛塚」は、本堂の南にある巨大な五輪石塔(忌明塔)の傍らに残る、石灯籠の残欠火袋をいうのである。まったくささやかなもので、心侘しい存在ではあるが、一面、滅び行くものの趣を感じさせる。この蜘蛛塚は、一に山伏塚ともいい、もと七本松通一条上ルの「清和院」の西門前にあって、なかなか隆然とした墳丘であったといわれている。源頼光を悩ました蜘蛛の棲息した処と伝えられていたので、江戸時代には塚のそばに舞台を設け、猿楽などを演じたのであるが、その期間中には、雨が降ること多く、これは塚のたたりならん、という、いかにも京都らしい噂がかまびすしかったのである。 
「京都坊日誌」によれば、明治三十一年に塚を破却したところ、石仏、墓標・石塔・石灯籠の破損物が出土した。ここにある火袋はその時の遺物を移したものである。 
もう一つ別説がある。上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は船岡山の西麓、紫野十二坊町(北区)にある、真言宗智山派に属する別格本山で、九品三昧院ともいうが、一般には「十二坊」の名で知られる。 
本堂の北、塔頭真言院の墓地に、鎌倉時代作の重厚味のある高さ約2.5mの五輪石塔が目に付く。これは弘法大師の母阿刀氏の塔と伝えられ、古来肺疾患平癒祈願の信仰があるという。この塔に近い椋の老木の下に、「源頼光朝臣塚」としるした石碑がある。此処は頼光が蜘蛛を退治したところであるという伝承があり、一に、「蜘蛛塚」とも申すのである。明治初年までは塔頭宝泉院の背後にあったものを、昭和七年頃に此処に移したのである。何故、頼光、あるいは蜘蛛塚の伝説が発生したのか、その原因は明らかではないが、室町初期に作られた、「土蜘蛛草紙絵巻」によれば、渡辺綱を従えてこの蓮台野へ来た頼光が、ついに土蜘蛛を退治するという伝説によったものではないかと考えるのが妥当であろう。
 
『遠野物語』と現代思想

 

 
1.テクストの限定
1-1.初版の成立事情 
ところで、現在私たちが手にする『遠野物語』には、2種類のテクスト、つまり明治43年(1910年)に出た『遠野物語』(聚精堂)と、昭和10年(1935年)に出た、増補版『遠野物語・遠野物語拾遺』(郷土研究社)があります。『遠野物語』の研究者はこの二つを特に区別することはないようですが、私はそれを別個なテクストと見て、ここでは前者だけを取り扱いたいと考えています。 
柳田国男は初版の序文で、その成立事情を、「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訊ね来たり、この話をせられしを筆記せり。鏡石君は話上手にあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」と説明していました。 
佐々木鏡石という人は、本名を喜善と言い、明治19年に岩手県上閉伊郡の土淵村に生まれ、この頃は東京に出て、早稲田大学に籍を置いていたようです。泉鏡花に傾倒していた、ということですから、「鏡石」という筆名は「鏡花」にあやかったものと思われます。もしこの推定が正しいならば、彼が、自分の村に伝わる物語に関心を持ち、語るに値すると意識したきっかけは、鏡花の作品にあった。ですから、彼自身は必ずしもはっきりと自覚していなかったかもしれませんが、物語の選び方や、内容の整理の仕方を、鏡花の怪異譚によって枠づけられていた、と見てさしつかえないでしょう。これは意外に重要な点だと思います。 
ただ、柳田国男の関心はもう少し違っていたらしく、この物語は、近代の御伽(おとぎ)百物語のような妄誕(もうたん)とは異なり、「現在の事実」なのだ、と主張しています。つまり、夜の徒然(つれづれ)を紛らすための怪談のような、根も葉もない作り話などではなくて、実際の出来事として現在も語り継がれている「事実」なのだ、というわけです。『遠野物語』のような怪異譚が「事実」だというのは、どういうことか。これは重要な問題であり、ある意味では今日の報告のテーマなのですが、それは後に述べることにして、まずここでは、彼が「事実」と認識していたこと、つまり民話や昔話とは捉えていなかったことを確認しておきたい、と思います。 
1-2.増補版の性格 
『遠野物語』の初版はわずか350部しか刷らず、それが幅広い読者の反響を招くということはなかったようです。ただ、この前後、柳田国男の「民俗」に対する関心は急速に深まり、この年の秋、新渡戸稲造を中心に郷土会を作り、大正2年(1913年)3月、機関誌『郷土研究』を創刊し、大正15年(1926年)、『山の人生』(郷土研究社)を出しています。その関心の主要なテーマは、山人という、「異種族」の先住民がかつて存在し、今もなお存在している「事実」を証明することにあったわけですが、その間、彼が主催する学問領域で、民俗学資料としての「民話」という概念が作られてゆきました。昭和10年に出た増補版は、そのような「概念」が生まれる過程を反映して、語り方にもその特徴が現われています。 
〔引用〕 
昔三人の美しい姉妹があった。橋野の古里(ふるさと)という処に住んでいた。後にその一番目の姉は笛吹峠へ、二番目は和山峠へ、末の妹は大田林(おおたべえし)へ、それぞれ飛んで行って、そこの観音様になったそうな。(1) 
昔青笹村に一人の少年があって継子であった。馬放しにその子をやって、四方から火をつけて焼き殺してしまった。その子は常々笛を愛していたが、この火の中で笛を吹きつつ死んだ処が、今の笛吹峠であるという。(2) 
これは増補版の第1話と第2話ですが、「昔…そうな」というような昔話の形式は、初版にはなく、増補版に現われてきた特徴です。もちろん増補版の物語全てがこの形式を踏んでいるわけでなく、また昭和の出来事も語られているのですが、昔話の枠組みで語ろうとする傾向は顕著に見られます。 
また、増補版では、一つの物語のなかで、幅広い地域で採録された類話への言及や、比較が行なわれ、これも民俗学資料としての「民話」という意識の現われだったと言えるでしょう。 
その意味で初版と増補版とは明らかに性格が異なり、私は両者を区別した上で、前者だけに焦点を合わせることにしました。前者には、いまだ民話にも民俗学にも収斂されないカオスがあり、そこに立ち戻ることで、原遠野物語の構造を明らかにしたいと考えたからです。 
 
2.「遠野」という空間 

 

2-1.「遠野」とは何処を指すのか 
それでは、遠野とはどういう地域を指すのでしょうか。『遠野物語』の第1話は、次のように遠野郷を紹介し、もしこれがいわゆる「遠野」を指すとすれば、かなり広い地域に渉っていたことになります。 
〔引用〕 
「遠野郷(とほのがう)は今の陸中上閉伊(かみへい)郡の西半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、附馬牛(つくもうし)、松崎、青笹、上郷(かみがう)、小友(をとも)、綾織(あやおり)、鱒沢(ますざわ)、宮守(みやもり)、達曾部(たつそべ)の一町十か村に分かつ。近代あるいは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保(とほのほ)とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなはち一郷の町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいふ。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、その川の支流猿が石川の渓を伝ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝へ云ふ、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿が石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿が石川に落ち合ふものはなはだ多く、俗に七内八崎(ななないやさき)ありと称す。内は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。」(1) 
「郡」という行政単位は、現在ではあまり有効に機能していないように思われますが、当時は郡役所を設け、郡立の中等学校を作るなど、行政・経済単位として、それなりの自立性を持っていました。『遠野物語』には、10人ほどの馬方が組を作り、1人が6、7頭の駄賃馬を引いて、上閉伊郡の東半分(海岸地方)と物資の交易を行なっていたことが語られています(37)。これが江戸時代のことだとすれば、かなり早くから人と物資の活発な流通が行なわれ、当然職業も多様であり、とうてい均質的な共同体と見ることはできません。 
2-2.共同体という捉え方 
ところが、これまでの『遠野物語』論には、「遠野」を単純に「共同体」化してしまう傾向が見られます。 
今日は、私なりに『遠野物語』を要約、再編集した「『遠野物語』と現代思想・資料」を用意しておきました。それを参照しながら、話を進めてゆきたいと思いますが、「共同体」論の代表的なものに、吉本隆明の『共同幻想論』(昭和43年12月、河出書房新社。1968)があります。 
戦後、柳田国男が再評価されるようになったのは、神島二郎や花田清輝の先駆的な仕事を別にすれば、1970年代に入ってからだ、と言えます。『共同幻想論』はそれを促しただけでなく、その後の研究に大きな影響を与えたものです。その吉本隆明はどのように「遠野」を捉えていたか。彼は(3)(4)(6)(7)の物語、――私の資料で言えば、「・.場所にまつわる奇異譚」の〔山人〕としてまとめた(6)や(4)や(7)、「・.家または人にまつわる奇異譚」の〔佐々木姓〕としてまとめた(3)など――を挙げて、こんなふうに分析していました。 
〔引用〕 
「村の猟師が獲物をもとめて山に入った。山をかけずりまわって大へん疲労をおぼえた。この疲労は判断力を弛緩させ、そのとき白日夢のように山人に出遭い、あたかも現にあるかのような光景を視させる。人のあまり通わない深山で獲物をもとめる猟師たちの日常では、しばしばある種のおなじ想いがとおりすぎるであろう。猟師たちは山のなかを歩きまわって獲物をもとめているのだが、そのとき心の世界は奥の奥を独りでたどってゆく体験ににた時間をもつはずである。このとき、山人がいるとか、人さらいがいるとか、山奥の雰囲気をおそれた体験や言い伝えを、幼児のときにでもきいていたとすれば、猟師はたやすく山人に出遭い、山人を銃で撃ち、山人と話を交わすという入眠幻覚をうることができるはずである。」 
「そしてこの種の山人譚で重要なことは、村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になるという〈恐怖の共同性〉が象徴されていることである。村落共同体から〈出離〉するとことへの禁制(タブー)がこの種の山人譚にひそむ〈恐怖の共同性〉である。」 
つまり、彼がいう「村落共同体」とは、「村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になるという〈恐怖の共同性〉」を求心力とする、閉鎖性の強い共同体であり、共同体の成員は「〈出離〉するとことへの禁制(タブー)」によって意識を拘束されていた。彼らはその「禁制」を、幼児期に聞いた体験談や言い伝えを通して受け継いでいた。彼等が山に入って、疲労し、判断力が低下したような場合、潜在意識化していた山人のイメージが作用し、夢かうつつか分からない状態で、山人を見てしまったのだ、というわけです。 
彼にとって「遠野」は「村落共同体」であったことを、まず確認しておきたいと思います。もし遠野郷全体を「遠野」と見るならば、もちろんそれは「村落共同体」ではありません。 
吉本隆明は「《遠野物語》別考」(1983年6月、春秋社『内藤正敏写真集遠野物語』解説)においても、(6)(7)(8)(31)の物語を挙げて、こう言っていました。 
〔引用〕 
「これらの「神隠し」や「物隠し」や「ひとさらい」は、幻想的な基礎ではなく、現実的な基礎を問うと、共同体の枠組がつよい鉄鎖であった時代の、異種の共同体「間」の男女の交通のありかたを象徴しているようにみえる。そのばあいの共同体の個々の成員、とりわけ女性の哀切な存在の仕方がわたしたちの耳朶をうってくる。こころのあり方からいえば「神隠し」や「物隠し」や「ひとさらい」は、性のちがいを問わず、入眠状態になりやすい男女の資質をおとずれる失踪の憑かれ方を象徴しているとおもう。「神隠し」や「物隠し」や「ひとさらい」の背後にあるこころの共通性は恐怖や畏怖の共同性であり、その現実上の根拠は共同体の成員にたいするつよい威圧力であった。そこでは異なった共同体のあいだの交通は、戦争や掠奪のようなものとしかありえない。またそこでの一対の男女のあいだの結びつきは、共同体の強力な規制力のもとにあるため「神隠し」や「物隠し」や「ひとさらい」のほかにかんがえられない。」 
潜在意識化された「恐怖の共同性」が、自分たちと異質なものと出会って、内的に作動する時、出会った対象は、異形な容貌の「異人」として知覚されてしまう。彼はそのように考えていたように思われます。 
もう少し深読みすれば、共同体と共同体との「交通」がほとんど全く行なわれなかった時代、「異なった共同体のあいだの交通は、戦争や掠奪のような」暴力的な交渉しかありえなかった。また、共同体間の「交通」が、共同体の境界点における沈黙交易という形態しかなかった時代、異なる共同体の男女が結びつくためには、「神隠し」や「ひとさらい」のような掠奪婚とならざるをえなかった。このような時代に、「〈出離〉するとことへの禁制(タブー)」が形成され、言わば意識の遺伝子として、それが「遠野物語」にまで伝わっている。彼はそのように、物語の歴史性を考えていたようです。彼はさらに別な箇所で、その遺伝子を継承した「村落共同体」を、「半ば血縁的な農耕共同体」と呼んでいました。 
2-3.「村」とは何か 
そうであるとすれば、彼がいう「村落共同体」あるいは「半ば血縁的な農耕共同体」とは、いったい遠野郷の全域を指すのか、それとももう少し限定して捉えているのか。その点が曖昧で、私にはすらりと飲み込みにくい。言葉を換えれば、いわゆる遠野郷は、遠野町をはじめ、土淵村や附馬牛村など、1町10ヶ村を含むわけですが、これ全体が一つの「半ば血縁的な農耕共同体」だったとは考えられないからです。それでは、土淵村や附馬牛村のような「村」のレベルで、彼は「村落共同体」をイメージしたのでしょうか。しかし、多分これらの村は明治の半ばに出来た行政村であって、江戸時代にはありませんでした。それは、この物語のなかに、たとえば土淵村大字柏崎、大字飯豊というように、「大字(おおあざ)」という地域区分が見られることや、さらに「白望の山続きに離森といふ所あり。その小字に長者屋敷といふは……」という具合に、「小字(こあざ)」の地名まで出て来ることで分かります。 
私は群馬県の勢多郡粕川村大字女淵(おなぶち)という所に生まれましたが、この粕川村は、江戸時代には、女淵村とか深津村とか田面(たなぼ)村とか月田村とかに別れていました。それが明治22年に合併して、現在の粕川村となったわけで、行政的に作られた村であることは言うまでもありません。――深津(旧名、深栖)は、南北朝時代に編纂された『神道集』の「赤城大明神の事」の舞台。女淵は古くは上深津と言い、その摩住多ガ淵(ますだがふち)に高野辺大将家成の姫が沈められたことから、女淵と呼ばれるようになったという。――逆に言えば、江戸時代の女淵村や深津村や田面村や月田村は、明治の粕川村に繰り込まれた時、「大字」になったわけです。この女淵村には、宿とか中宿とか新宿とかいう「字」がありましたが、明治に入って、女淵村が「大字」に格下げ(?)された時、それらの「字」は「小字」になってしまいました。 
『遠野物語』が、遠野町や土淵村を「新町村」と呼んでいるのは、これと同じ経緯を指してのことだろうと思われます。つまり、その成り立ちから見て、土淵村や粕川村を「村落共同体」とか「半ば血縁的な農耕共同体」とかと呼ぶのは、無理があります。 
2-4.江戸期の場合 
では、江戸時代の村を、行政村以前の「自然村」、あるいは「村落共同体」と呼ぶべきなのでしょうか。神島二郎は『近代日本の精神構造』(昭和36年2月、岩波書店。1961)で、それを「自然村」あるいは「ムラ」と呼んでいました。 
しかし、私の見るところ、江戸時代の「村」が、一見「共同体」に見えるのは、それが年貢の単位だった、つまり年貢が村請負制だったからにほかなりません。 
いま私の手元に、『田畑名寄帳』という記録文書があります。これは私の育った家に何冊か残っていた、その一冊ですが、表紙に「天保五未歳女淵村/田畑名寄帳/新宿組組頭弥吉」と書いてあります。――天保5年は「午年」のはずで、なぜ「未歳」なのか、よく分かりません――そのページをめくってみますと、 
貞次郎 
近江堂下田壱反五畝六歩 
同所下田壱畝九歩 
右二口〆壱反七畝五歩天保八酉歳四組弥兵衛行 
というようなことが、ずっと書き連ねてあります。 
「近江堂」というのは、当時の「字」(のちの「小字」)なかの地名です。当時は田畑を、土地が肥沃かどうかによって、上・中・下と格づけしました。「下田」はそのランクを現わします。ですから、この記録が意味するのは、貞次郎という農民が近江堂に1反7畝5歩の下田を持っていたが、天保8年、その耕作権が弥兵衛という農民に移った、ということになるでしょう。 
当時の村は、このような台帳を基に、それぞれの農家に年貢の負担を割り当てたのではないか、と思われます。 
このことから分かるように、名主や組頭など、村の主だった農民は、ある農家が村から逃亡(かけおち)したり、一家離散してしまったりすることを極端に警戒しました。つまり耕作者のいない田畑(これを欠所と言いました)が出ることを、極端に警戒しました。なぜなら、耕作者のいない田畑(欠所)に年貢を割り当てることができないからです。彼らは欠所の田畑を共同で耕すことにしましたが、しかしそのような労力負担をいつまでも続けるわけにはゆきません。そのため、彼らは、逃亡した家の親戚から、自分の耕作地を持てない2、3男で、しっかり者を選び、嫁を探して、一戸を構えさせ、その田畑を耕作させることにしました。また、主要な働き手が病気をし、女手しかない場合は、皆でその家の農作業を助けました。が、運悪くその働き手が亡くなった場合は、やはり自分の耕作地を持てない2、3男で、しっかり者を選び、寡婦の婿としました。年貢が村請負制である以上、そうするしかなかったからです。もし「〈出離〉するとことへの禁制(タブー)」が強く働いていたとすれば、それはこのような共同責任がかっていたからだと考えるべきでしょう。 
村の共同性とは、そういう経済的な事情に基づいていたのですが、さらにもう一つ、水田耕作にかかわる共同性が求められていました。 
田植えをするには、川の水門を開き、あるいは沼(大きな溜池)の水門を開いて、水を田に引かなければなりません。これは当然のことですが、それぞれの農家が自分の都合で田植えの日取りを決めることはできませんでした。水は稲作に重要な資源ですから、一軒の農家が抜け駆けで田植えを始めれば、他の農家が困る。これを防ぐため、その川や沼の水で田を作っている農家が相談して、水門を開ける日を決めて田に水を張り、この「組」に入っている農家の働き手が総出で、田植えを進めてゆきました。このような結びつきをユイと呼ぶ地方もあり、このユイでは、労働力の等価交換が重んじられて、他の家と同等な人手を出せない家は、その不足分を補うため、食事の時に酒や肴を出したり、籾や成り物を贈ったりする方法が取られたようです。このような相互扶助の仕来りがあり、しかも田植えには祭りが伴ない、また収穫の後にも祭りがあり、その意味では「農耕共同体」と言えなくもありません。 
『遠野物語』には共同の作業や行事にかかわる物語が意外に少ないのですが、私が〔小正月の遊びと占い〕として纏めた(104)や(105)の物語は、ある程度それを反映したものと言えるでしょう。 
2-5.きびしい利害関係 
ただし、このユイが人々の内面を拘束する心的な規制力を持っていたかどうか。ここで注意しなければならないのは、一戸の農家の田畑が1箇所に固まっていたわけでなく、色んな所に分散していたことです。また、『田畑名寄帳』の記録で分かるように、1箇所の田や畠の耕作者は、かなり頻繁に代わっていました。 
柳田国男は、一戸の耕作地が分散していた原因として、新田開発を挙げています。自分の家屋敷から遠く離れた土地に、新に田や畑を開発すれば、当然耕作地を分散して持つことになるはずだからです。もう一つ考えられるのは、耕作地の質入れや、受け作化ということがありました。 
何らかの事情で年貢を負担できなかったり、まとまったお金が必要になった農家は、余裕のある農家に耕作地を質入れして、年貢を肩代わりしてもらい、お金を借りるほかはありません。私はこれまで「耕作権」という言い方をして、「所有権」という言い方をしませんでした。江戸時代は、大名が土地を所有し、百姓はその土地を耕す耕作権しか認められず、そのため百姓が土地を売買することは禁じられていたからですが、ともあれ、このような条件のため、農家は耕作地を質に入れるしかありませんでした。しかし、質入れせざるをえないような、貧しい農家は、次の年から、質の利息と、元金の一部を返済しなければならず、その上年貢の負担もかかってくるわけですから、ますます経済的に追い詰められてしまう。結局、耕作権そのものまで譲渡し、自分は耕作の下請け(受け作)をさせてもらう、いわゆる水呑百姓となり、実質的には近代の「小作」と変わらない境涯に転落してゆく。その意味で、一つの村、一つのユイのなかにも、非常にシビアな利害関係が生まれていたわけです。徳川幕府や大名は、このような貧農の発生を防ぐため、何年かに一度、いわゆる徳政令を出して、それまでの貸借関係を白紙にもどさせることにしました。しかしそれでも、農村における富農と貧農との階層分化を食い止めることはできませんでした。 
一つの農地の耕作者が頻繁に変わっているのは、このような農村事情の反映だったと言えるでしょう。 
江戸時代の小規模な村であっても、複数にユイがあり、耕作権の移動によって一つのユイの構成員が変わってゆく。一戸の農家が複数のユイにかかわっている。このような状況のなかで、共同幻想を共有する「村落共同体」などというものがあり得たかどうか。 
私の育った女淵村は、江戸時代を通じて、まず牧野駿河守の支配を受け、次いで酒井雅楽頭、松平大和守の支配を受け、その後天領となり、明治の直前には酒井石見守の領地となっていました。この女淵村の飛び地である、女淵村分郷は、天領の時代までは同じでしたが、明治直前には堀田摂津守の領地でした。女淵村の南隣の深津村もまた、天領の時代までは同じでしたが、明和5年から松平右近将監、天保7年からは井上河内守、弘化3年からは秋元但馬守と、めまぐるしく領主が変わりました。また、東隣の田面村の場合、上田面は深津村と同様でしたが、下田面は、寛政元年から本多弾正大弼の領地となっています。月田村も天領となるところまでは上記の村々と同じでしたが、天明5年から再び松平大和守の領地となり、天保14年からまた天領にもどっています。 
このように、一方では、領有関係が複雑に入り組んでおり、他方では、富裕な農家が他村の田畑を質草に取って、出作(でさく)に行く、あるいは他村の富裕な農家がこちらの田畑に入作(いりさく)に来る。そういう状況を想定してみて下さい。天領と大名領地では、支配の形態が異なっていました。大名の支配の仕方もまたけっして一様ではありません。ということは、つまり、一戸の農家が複数の領主の支配にかかわり、それを比較しながら生産し、生活をしていたことになり、リアルな政治意識を育てていただろうことは、容易に想像できます。 
2-6.「遠野」への視点 
もちろん群馬県の赤城山の南山麓の村状況を、そのまま遠野にあてはめることはできません。遠野藩の石高は1万1千石ほどだったようですが、その領地は遠野郷全体に及んでいたかどうか。私はそんなに広くなかったのではないか、と思います。先の女淵村は俗に「女淵千石」と言われて、元禄15年の「元禄郷帳」では933石と評価され、深津村は731石、月田村は940石でした。明治に近づく頃は、女淵村1122石、深津村964石、月田村1057石と増えています。この3つの村を核とし、規模の小さい11の村を合わせて、明治22年4月に粕川村となったわけですが、粕川村の総石高を、「元禄郷帳」に従って計算すれば、5106石となります。明治にかかる頃は6412石でした。ですから、同じく明治22年に発足した、西隣の宮城村と合わせてみれば、少なく見積もっても1万2、3千石くらいになる。遠野地方の生産力は赤城山南面よりも低く、石高計算の基礎となる田畑の比率は小さかったかもしれませんが、それにしても、遠野藩が『遠野物語』に言う(明治以後、新町村の)1町10ヶ村を全て領有していたとは考えられません。遠野郷にも他藩の領地だった村、あるいは字(江戸時代の村)があり、やはり複雑な領有関係があったのではないでしょうか。 
また、仮に一郷一領主の状態だったとしても、当然、家老や重臣の知行所に割り当てられた村があったはずです。藩主の直轄領だった村と、家老や重臣の知行所だった村では、支配の質が異なり、利害関係も生まれ、両者の間には差別意識があったに違いありません。そう考えてみれば、「村落共同体」などという言い方はますますリアリティを失ってしまう。 
一方には、年貢の村請負制と、ユイ組織による相互扶助があり、他方には、年貢の割当て制から発する利害対立がある。『遠野物語』はこの矛盾の両面から読み解いてゆくことが必要だ、と私は思います。 
 
3.『遠野物語』の世界

 

その点を確認して、さて、それでは、『遠野物語』はどのような世界だったのか。それを把握するために、物語の配列を変え、「場所にまつわる奇異譚」「家または人にまつわる奇異譚」「土俗信仰」「習俗」「伝説」という項目を立ててみました(「資料編」参照)。 
その結果気がついたことをまとめると、おおよそ次のような特徴が浮かんできます。 
1)現存しているか、つい数年前に亡くなった人の体験談が、3分の1ほど占めている。語り方や内容から判断して、明治以降の体験談と思われるものまで拾うならば、3分の2近くが現代の出来事となる。 
2)しかし、明治以後の歴史的に大きな事件、たとえば明治維新、日清・日露の戦争等については全く言及していない。ばかりでなく、歴史年表ふうな年代や年号の明示がない。わずかに「大同」「嘉永」が、一回ずつ言及されているのみ。(いわゆる「歴史」意識の無化) 
3)家や人にかかわる物語は、土淵村の小烏瀬川の両岸、特にその東側の、家や人物に集中している。田尻姓、菊地姓、佐々木姓の人の比重が大きい。 
4)田尻家では、家そのものに霊が棲みついているらしい。 
5)菊地姓の人は、山中で家族の死を告知する声を聞いたり、仮死状態で魂が宙宇を遊泳し、死んだ肉親と会ってくるなど、異次元の空間を媒介にする、奇異な現象に触れやすい。 
6)佐々木家は、霊視者や、霊を使う女性が出る家系らしい。 
7)遠野郷の西側(内陸寄り)の達曾部村、宮守村、鱒沢村に関する物語は皆無。附馬牛村と小友村はわずかに1例ずつしかない。逆に、東側(海岸寄り)に関しては、土淵村に接する小国村、金沢村の物語があり、遠く離れた豊間根村、船越村のものもある。東の地域に向う、土淵村の村境に、笛吹峠(権現山と六角牛山との間)、境木峠(権現山と貞任山の間。大谷地)、白望山(長者屋敷)があり、狼(境木峠)、山男・山女(笛吹峠、境木峠、白望山)、マヨヒガ(白望山)などの伝承が多い。 
8)土淵村の西側、松崎村に猿が石川があり、川童の物語を持つ。土淵村の南に接した、青笹村に六角牛山があり、狼、熊、猿、白鹿と出合った物語を持っている。 
9)この物語の人たちは狐や蛇、馬、山女、「河童の子」と噂される赤子、山男めいた坊主などを、いとも簡単に殺してしまう。だが、祟りを受けた話は2、3例しかない。殺しに対する罪の意識がない。 
10)異形なものと出会って、逃げ帰ったり、病になったりする話は多いが、襲われた話は1、2例しかない。 
11)子供が異形なものと出会った話は、極めてシンプルで、物語的な展開がない。 
12)この世にあるらしいのだが、自分たちの生活圏とは非連続的な空間(マヨヒガや、水の中)に、富を与えてくれるものがある。偶然にしか辿りつけない。誰もが辿りつけるわけではない。 
13)身近な所に、遺棄された老人が住んでいた、と伝えられる場所(ダンノハナ)がある。かつては囚人を斬った場所だった、という。 
14)まさに死に瀕した人の魂が、別れを告げに姿を現わすことがある。 
15)遠野郷、あるいは個々の村の全体が蒙った災難(飢饉、戦争、水害など)や、その災難から村を救った人物の伝承がない。 
このように整理してみると、『遠野物語』の実質は「土淵村物語」だったことが分かります。そしてこの村の人たちの意識は、同じ遠野郷の西側・達曾部村や宮守村に対するよりは、むしろ東側の峠を越えた、海岸地方に向いていました。10人ほどの馬方が組を作り、一人が6、7頭ずつ駄賃馬を引いて峠を越えた話(37)もあり、大量の物資の交易があったことを窺うことができます。 
この交易では、往路・復路、いずれも山中で一泊か二泊しなければならず、多分その緊張感が、狼に襲われたり、山人に出会ったりする物語を呼びこんでしまいました。まだ狼の姿がしばしば目撃された時代であり、また山中、深夜、得体の知れない叫声を聞く事は、ごく当たり前に経験することだからです。「一人の男が、いま何か怪しいものの声を聞いた、と言う。すると、仲間の者も、そう言われれば自分も聞いたような気がする、と頷き合い、そして外部の者に対しては、確かに聞いたと、事実化して主張する」。柳田国男はそんなふうに、伝承が生まれる経緯を想定していましたが、リアルな推定だと言えるでしょう。 
 
4.村の変貌に関する柳田国男の認識

 

4-1.明治期の制度的変化 
その意味で、村人の意識は、明治維新以後も連続していた、と言えるのですが、しかし他方、江戸時代的な「村」は、明治6年(1873)の地租改正によって急速に変貌してゆきました。とするならば、次の問題は、この連続する意識が、新しい状況に対して、どのように対応し、何を残存させながら変容していったか、ということになるはずです。 
その問題を、ここでは、当時の柳田国男が「村」の変貌をどのように捉えていたかに関連させて考えてみたい、と思いますが、まず制度的な変化を確認しておきますと、明治新政府は明治4年(1871)10月、「田畑勝手作り」を許可しました。すでに見てきたように、江戸時代の年貢制度においては、田・畑・山林の区分は固定されており、田を畑に変え、畑を田に変えるためには、煩雑な手続きが必要でした。農民が自分の判断で、田畑の作物の種類を決める、そういう自由は制限されていたわけです。それに対して、「田畑勝手作り」を認めることは、農民自身が自分の判断で、新しい生産と経済の環境を作るように促したことを意味します。これは、年貢を米で納めるやり方を変えることにほかなりません。 
そして事実、明治政府は明治5年(1872)3月、「土地永代売買の禁」を解き、8月には地券の交付を通達しました。土地の売買を許可するということは、耕作権をもつ土地を、その農民の所有地として認めることを意味し、「地券」はその所有権を認める証書です。ここから土地の私有制が始まり、これは画期的な制度転換だったのですが、視点を変えれば、地券の交付を受けた農民は、その私有地の評価額に応じた税金を納めなければなりません。年貢の村請負制ではなく、土地を所有する農民が、個々に、自分の責任で税金を納めなければならなくなったわけです。明治6年(1873)7月に公布された地租改正条例は、その税率を定めた法律でした。 
農地の所有権を認めるとして、さて、それならば、あの質入れ地は誰の所有に帰するか。耕作している人間のものか、それとも質草として預かり、金を貸した人間のものなのか。そういう問題が起って、農民の間に深刻な利害対立が生まれてしまいました。それだけではありません。明治政府の課した税金は、江戸時代の年貢に較べれば遥かに低かったのですが、ただ、その年の作柄に関係なく、決められた一定の税金を払わねばなりませんでした。江戸時代、水害や旱魃があった時は、検見(けみ)という制度があり、役人が被害状況を見て、年貢の免除や、半免(例年の半分)などの処置を取ってくれました。水害の場合などは、その年は全免、翌年からは半免、数年後からは3分の1免除、という具合に、農地の回復状態を見ながら年貢高を決めていったわけです。農民としては年貢の安いほうがありがたい。そこで、検見の役人に金品を贈って、収穫を低く見積もってくれるように働きかけ、それが「不正」の温床となってしまいました。また、幕府や大名の立場からすれば、このやり方では毎年の徴税高が一定せず、それでは予算を立てにくい。明治政府はこのような「不合理」を改め、安定した予算を立てるために、税金の金納制度に切り替えたわけです。 
しかし農民の側から見れば、豊作の年は、農作物の値段が下がり、凶作の年は、農作物を売りに出すだけの収穫がなく、それにもかかわらず毎年、一定の税金を納めなければならない。そのため、余力のない農家は農地を売って、小作に転落し、余力のある農家は農地を買い集めて地主となり、農村における階級的な分化が進行してゆきました。 
4-2.柳田国男の志 
柳田国男は明治33年(1900年)7月、25歳で、東京帝国大学の法科大学政治科を卒業し、農商務省に入りました。その動機は日本の農村が新に直面している問題、特に小農民を窮乏から救済することにあったようです。彼の卒業論文は「三倉の研究」でした。 
三倉とは常平倉と義倉と社倉のことで、彼は『時代ト農政』のなかで、次のように説明しています。 
〔引用〕 
常平倉「其文字が示す如く穀物の値を平準するのを目的として居る貯穀方法であります。(中略)即ち豊年には穀物が極めて廉い故に産額は多くても総収入が少なく、結局は凶年に於て米が高くても売る程の収穫が無いのと同じやうに不幸でありますのを、さう云ふ時には常平倉の基金を以て世間の相場より少し値をよく買つて貯へて置く、それから飢饉年に食物が高くなつて一般人民が苦しみます時には、市場の相場より少しく廉く常平倉に貯へて居つた穀物を売つてやるのです。」 
義倉「義倉と申しますものは純然たる飢饉年の手当であります。平年に人民の穀物を共同に貯へさせて置きまして之を飢饉年に施すこともあり貸す場合もあります。」 
社倉「社倉の社といふのは要するに町村といふ字であります。(中略)社倉とは要するに公共団体が経営している義倉といふ意味に外ならず、若しくは町村を一つの組合区域とする救済組合といふ意味に外ならぬのであります。」 
私自身、子供の頃、たぶん義倉の跡を見たことがあります。神社の社域と、お寺の境内との間に細い道があり、その奥に稲荷様が祭ってあるのですが、神社寄りの道端、土手の上に大きな木造の建物が、半ば朽ちかかって立っていました。父親が「これは飢饉の時でも困らないように、皆で米や麦の籾を持ち寄り、貯めて置いた倉だ」と教えてくれました。そんな記憶もあって、柳田国男の説明にリアリティを感ずるのですが、ともあれ彼の志は、江戸時代の制度を研究し、よく機能していたシステムの主旨を現代に生かすことにあった、と言えるでしょう。農商務省の役人として、産業組合を普及させようと、各地で講演し、調査旅行もしています。その成果が明治43年(1910年)12月の『時代ト農政』(聚精堂)であり、その副産物が、明治42年2月の『後狩詞記』(自家出版)だったわけです。 
4-3.『時代ト農政』の視点 
この『時代ト農政』は、農政学の歴史のなかで、現在も名著として評価されているようです。私のような素人が読んでも具体的なイメージを喚起される、内容豊かな書物なのですが、これが『遠野物語』と同じ年に出版されました。これは柳田国男研究にとっても、『遠野物語』研究にとっても、大変に重要な意味を持っている。『時代ト農政』で見ていた日本の農村の現実と、『遠野物語』の序文でいう「現在の事実」と、どのように対応するのか。『遠野物語』を「現在の事実」と主張したのは、なぜか。そのように問うてみるだけでも、問題の重要さが分かると思いますが、それを考えるためにも、彼が『時代ト農政』のなかで日本の「村」をどう見ていたのか、まず確認しておきたいと思います。 
彼は、日本の封建制度を次のように捉えています。 
〔引用〕 
「然るに封建の時代は差別の時代でありました。平等の時代ではなかったのであります。二人の人があれば其間には必ず一人は上、一人は下と云ふ上下の階級のあつた時代であります。一家の内を初めとして各藩各領の中にも、武士は武士百姓は百姓町人は町人で階級を具へて居つた時代であります。此階級と云ふのは単に汝と我との何方がえらいと云ふ優劣ではなくして、実際の上と下であります。上は下に向つて服従を要求することが出来ると同時に、服従させる自分の眼下に対しては自ら進んで保護をした時代であります。如何なる保護をもした時代であります。(中略) 
是は決して土地の領主と領内の人民とばかりの関係ではないのでありまして、一の村落の間にも同じ様な事がありました。分家と云ひ新家と云ひ抱百姓と云ひ庭子と云ひ、地方によつては被官などとゝ申して居りますが、此等の眼下に属する人々は極めて低い、今日から見れば憐れなる生活を致して居たが、兎に角安穏でありました。不作の年には翌年の種籾を貸して貰ふのみならず、夫食(ふじき)即ち食料もことによれば供給して貰ふ、年貢の取れぬ時には延期を許して貰ふ、自分の家に臨時の災害があれば臨時に救助して貰ふ。其他祝儀不祝儀に付けて自分の本家と云ふか若しくは主筋と云ふかおも家と云ふか、其家に対しては従属して頭を下げねばならぬが、其代りには保護も十分に受けて居たのであります。話は岐路になりますが、私共の承知して居ります地方で、大地主の家には自分の家の平年の収穫を入れるよりも尚余りある大きな倉庫を持つて居る、これは凶年の手当の制度が残つて居るのであつて、現在は凶年の手当を要せぬ為に其倉を明けて置くものが沢山あります。」 
現在の歴史家に言わせれば、「彼の見方はまだまだ甘い、保護/服従の関係のおかげで小農民が救われていたなどというのは、上からの温情主義・恩恵主義の視点でしかなく、人権の視点が欠けている」ということになるかもしれません。事後論断的には確かにそう言えそうですが、私は、柳田国男がこのような形で、日本の封建制度の理念型(イデアル・タイプ)を抽出していたことに注目したいと思います。なぜなら、彼はこのような理念型から照らして、日本の封建制度が内部崩壊していった理由を、次のように描いていたからです。 
〔引用〕 
「第一には一領一給、即ち一つの藩とか一つの領分とか云ふやうなものが非常に大きくなったことです。中古の領主と云ふものは多くは一人が郡の半分か四分の一を持つて居つた位でありますが、夫が徳川時代になると大名と言へば一万石以上でなければならない、又その数は非常に少なくして、中には一人にして二十万石も三十万石もの大名が有る。斯うなつて来ると領主と人民の間の関係は、非常に遠ざかつて来なければならぬ。恰も小さき君主国と同じやうな姿になつて了つた。(中略)次第に保護服従の関係と云ふものが直接には行はれなくなつて来ました。 
第二には人口が増加して来たことであります。昔は村方の住民が概して少ない為に、秩序を維持するにも楽であつたが、人口が多くなりますれば、村中の関係が複雑になつて来るのみならず、人間が彼方に行つたり此方へ来たり、段々他町村に移住します。(中略)禄に離れた浪人がやつて来た、或ひはお医者が来る、遍参の坊主が他所からやつて来てお寺に住むと云ふやうな事があつた為に、村中の者を上下の階級にきちんと嵌めて了ふと云ふやうな単純な形式でなくなつて了つた。 
第三には大地主の勢力の衰えたことであります。是は現在でも吾々が目前に感じて居る如く、大地主の勢力と云ふものは種々の原因から減退致します。あの家は今こそ金を持つて居るが祖父の時代迄水呑百姓であつた、近頃成上がりの金持であると云ふやうなことを云つて、其無形の勢力が失墜して来た。是は古い時代には著しくなかつたことであります。併し先祖伝来の金持と云ふ者も、百五十年か二百年経つと零落するのは殆ど自然のことでありまして、百年か百五十年経てば又別の水呑百姓が金持になる。こんな場合には新しい金持に対する尊敬の念が薄くなつて、精神上の服従と云ふものが無くなつて来ます。一方には年代が経つて来る内に、本家分家母屋新屋の関係が薄くなつて来る。苗字が同じだからあの家から分れたに違ひないが、今では別だと云ふ様な事から、本家と分家との関係、地主殿と抱百姓との関係が亦対等になつて了ひ、彼処の家に対して頭を下げる必要は無いと云ふので、次第に昔風の秩序は破られて来たのであります。 
斯うなれば下方に対する世話も義務とは感ぜられぬのみならず、介抱をするのもまことに張合のないことで、従つて恩威竝び行はれるといふ様な風はなくなつた。凡ての百姓は縦令(たとえ)小前でも又一人前の百姓で誰の下にも立たぬ。俗語で申せば団栗(どんぐり)の背競べになつて了つて、金持の方でも飢饉に出逢はうが十分世話もして呉れず、此方は又世話を受ける気も無い。従つて百姓は小さいながら追々と自分の身じんまくをして置かなければならぬ。是に於てか郷党団結の力に依つて各人自ら万一の困厄を免れなければならぬと云ふ考、即ち組合の必要を感ずるやうになつたのであります。」 
あの理念型に照らしてみれば、生活秩序を安定させていた保護/服従の関係は、すでに江戸時代から内部崩壊を始めていた。それを彼は、保護していた側の冷淡と、服従していた側の権威に対する不遜や自己主張という、言わば徳義の荒廃という面から捉えていたわけです。この崩壊と荒廃は、明治の地租改正以来、さらに深刻に進行している。 
古くからの保護/服従の関係が、たとえ半ば形骸化した形であったとしても、まだ温存されて、村の風儀、または村人の気質として残っている場合、保護する側の「倫理」と、服従する側の「期待」が、一定の規制力を発揮しなかったわけではありません。ある意味で柳田国男は、そういう「気風」の振興に望みを託していたのですが、しかしもう一つ、現実的な政策が伴わなければ、実効を挙げることはできない。あの崩壊と荒廃を抑制し、解決に向う具体策はないのか。彼がそういう焦燥に駆られていたことは、「是に於てか郷党団結の力に依つて各人自ら万一の困厄を免れなければならぬと云ふ考、即ち組合の必要を感ずるやうになつたのであります」という結びの言葉からも明らかでしょう。この一文は、農民を主語として書かれているようですが、じつは彼自身の想いの表白だったと読むことができるからです。 
 
5.『遠野物語』がいう「現在の事実」と、『時代ト農政』の現実との間

 

5-1.「痕跡」という捉え方:吉本隆明の場合 
柳田国男の「事実」に関するこだわりは、主に、山人という「異種族」の実在にかかわるものだったようです。ただ、その「事実」は、山人と出合ったと信じ、その体験を語る村人がいるという、もう一つの「事実」によって保証されるほかはありません。その意味で彼の関心は、村人の「信」のあり方を含まざるをえませんでした。 
吉本隆明は、主に後者のほうに関心を絞り、これを「共同幻想」と呼んで、一種の超時間的な心的実体と見なしました。なぜ「超時間的」なのか、と言えば、その現実的な基盤である「共同体」の歴的からは相対的に自立した形で、「共同体」の成員に受け継がれてゆく、観念的な呪縛(心的な拘束力)だからです。また、その呪縛の観念的な水準は、時には頽化し、時には回帰して、進化という一方向的な時間とは異なる経過を辿ってゆくからです。 
視点そのものとしては、これは大変に画期的だったのですが、ただ一つ、やっかいなことに、なぜ、どうようにして呪縛が生まれたのかという、起源、発生の問題にぶつからざるをえません。多分そのために、彼は、共同体間の「交通」が戦争や掠奪の形でしか行なわれなかった時代を仮定するほかはなかったわけです。その意味で、彼は『遠野物語』を、共同体の拘束力が非常に強かった、遠い過去の行為の「痕跡」として解釈していたことになります。 
その結果、すでに指摘したように、彼が言う「村落共同体」そのものが「共同幻想」化され、そしてこの「村落共同体」=「共同幻想」は、遠い時代の「痕跡」をトラウマとして抱え込むことになってしまいました。 
5-2.「痕跡」という捉え方:赤坂憲雄の場合 
それに対して、赤坂憲雄は、「物語」の背後に、隠蔽された現実の出来事の「痕跡」を読み取る方法を取っていました。彼は『山の精神史―柳田国男の発生―』(1991年10月、小学館)のなかで、松崎村の川端の家が、河童の子が生まれたため、斬り刻んで一升樽に入れて埋めてしまったという物語(55)を取り上げ、次のように解釈しています。ただ、それを紹介する前に、一つ断わっておきますと、この物語に関しては、すでに「イエの経済力をこえる余分な子供を間引くことの正当化の口実として、河童が利用された」とか、「奇形児の出生に驚き怖れ、河童の子として殺した」とかいう、現実反映論的な解釈が行なわれていました。彼はそういう短絡的な解釈に疑問を提出した上で、次のように読み込んでみたわけです。 
〔引用〕 
「いずれであれ、この民譚の豪家で、生まれてきた子供を殺し、一升樽に入れて土中に埋めたという陰惨な事実らしきものは動かない。しかも、その事実は村の人々に知れ渡り、さまざまな噂や風聞を産んでいる。おそらく、ここに語られた嬰児殺しには、大げさにいえばイエの盛衰が賭けられている。“其女の所へ何某と云ふ者夜々通ふと云ふ噂立ちたり”という一文が、さり気なく挿入されていることに注意したい。間男の正体がそれだろう。そうした村人らの好奇心に濡れた眼差しと、敵意をしたたらせつつ膨張する噂とに対抗し、それを遮断し打ち消すために、イエの秘密はほんの一部だけ外部に洩らされる。しかも、河童の子という幻想に包みこまれながら。 
ひとりの子供がイケニエとして供犠の庭に捧げられた。イエの盛衰を賭けて、あるいは“家の貴さ・血の清さ”を証し守るために、ということだ。娘が間男の子を産んだという不名誉な事実は隠蔽され、異界の存在である河童(零落した水神の貌をもつ)との避けがたい超自然的交渉の結果、といった位相へずらされ、幻想的な事実譚が誕生した。事実はこうして捻じれつつ事実譚へと成りあがるものだ。」 
皆さんはどう思われますか。私は、こういう想像力のほうが遥かに「陰惨」で、どこか病んでいる、不謹慎じゃないか、と思います。 
このような解釈が成立つには、「間男の子を産んだ」という噂のほうが、「河童の子を産んだ」という噂よりもずっと不名誉だ、という倫理、あるいは通念が前提になければならないはずです。しかし、明治の時代、そんな倫理や通念が「遠野」に流布していたとは思えません。 
だいいち、この物語を少し丁寧に読めば分かるように、噂の出所は、問題の女性のお婿さんの実家でした。「女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり」という形で、世間に洩れていったわけです。その意味では少しも「隠蔽」していない。もし「事実」を推定するならば、この実家と、息子が婿入りした家との間に、何か確執があったのではないか、と考えてみるべきでしょう。 
それに、この噂は、まず「女の所へ村の何某といふ者夜々通ふ」という陰口に始まり、「河童なるべしといふ評判」に成長(?)してゆきました。その女性の親たちが、陰口を塞ぐために、事実を河童にすり替えて「外部に洩ら」したわけではありません。とするならば、村の人たちは間男の事実を知り、噂を立てながら、河童という評判にすり替えて、その事実を、自分たちに対して「隠蔽」したことになる。物語の流れを、赤塚憲雄の視点で解釈すれば、そうならざるをえないのですが、そんなに手の込んだ、ひねくれた物語ではありません。要するに彼がいう「動かない」「陰惨な事実らしきもの」は、根拠のない勘ぐりにすぎない。こういう解釈は、権威主義的、権力主義的な作為、つまり「隠蔽」を妄想して、学問的リアリズムを誇る、「研究」者の悪弊なのですが、赤坂憲雄もそういう悪弊に染まってしまったようです。 
もし外聞をはばかる事情で子供が生まれたならば、遠く離れた土地へ養子に出す。これが一番ありうる解決法で、この家は「嬰児殺し」などしていない。この物語には、「嬰児殺し」の罪に対する、報いや祟りという「罰」の部分が欠けています。それはこの物語が、事実を反映していないからにほかなりません。 
5-3.必要な視点 
だが、それはそれとして、この物語を没落した異類婚と見るならば、別な「事実」と対応させることができるように思います。 
異類婚というのは、人間の娘が、人間以外の生物、例えば蛇とか馬とかと通じて子供を生むことで、中世や、それ以前の説話集では、その種の物語がよく見られます。多くの場合、娘のもとに通ってくる異類は、実は深い山奥に住む神だった、淵に潜む神だったということになり――その逆の場合もあります――娘の親たちは生まれた子供の血筋を畏れ、尊んで、大切に育てる。そのような家系伝説を持つ家があり、子孫はそれを誇りにしていました。異類の威力や霊力を享けた血筋、という伝承を持つことは、衆に抜きん出た家系を裏づける所以だと信じられていたからです。 
ところが、この物語の家は、河童の子が生まれたことを忌み嫌って、殺してしまった。物語そのものは、異類婚説話のヴァリエーションと言えるのですが、もはや異類の威力や霊力に対する畏れや信仰は見られません。異類の権威の、この無残な没落こそが、柳田国男が言う「尊敬の念が薄くなつて、精神上の服従と云ふものが無くなつて来」た現実と対応するする。そのように、大枠のところで対応させてみることこそが必要であり、それを飛ばして、個々の物語から「事実」を掘り出そうとすれば、意味づけ過剰な憶測に走る結果になりかねません。 
また、そう思ってみれば、この物語集の人たちは、驚くほど無造作に異類や、異形のものたちを殺してしまう。家の外から死人を窺っている狐を棒で打ち殺し(101)、深夜、山中で妻に出会い、「妻がこんな夜中に一人で来るはずがない」と、魚切包丁で刺したところ、それが狐だった(100)、岩穴で狼の子を3匹見つけて、たちまち2匹殺してしまい(42)、秣の下に見つけた蛇を皆殺しにしてしまい(20)、岩の上の美女を鉄砲で撃ち殺して、黒髪を切り(3)、河童の子と思われる赤子を殺して、樽に入れて埋め(55)、白い石を餅と一緒に焼いて、「大きな坊主」に食わせ、殺してしまいます(28)。しかし、祟りを受けたという話は、わずか1、2例しかありません。 
こういう話の全体が意味しているところは、やはり異類の権威や、それに対する敬意の低下、喪失という「事実」だった、と思います。 
5-4.「姨捨」の読み解き方 
もう一つ例を挙げてみます。物語の村人は異類を殺すことに何のためらいも見せていませんが、老人を殺すことはしていません。60歳を過ぎた老人を蓮台野という所に「追ひやる習ひ」があった(111)。この表現を重んじて、便宜上私は、〔姥捨〕としてまとめておきました。しかし、深沢七郎の『楢山節考』と違って、蓮台野は里のなかにあり、ですから、深山に捨てたわけではありません。老人は「日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)した」そうです。 
これを私なりに一番常識的に、穏やかに解釈すれば、こうなるでしょう。江戸時代から明治、大正、昭和にかけて、農家の老いた夫婦が家督を息子夫婦に譲って隠居をする場合、ある程度の田畑を、自分の持ち分として取り分け、隠居所に移りました。隠居所はその家の経済力に応じて、きちんとした離れであったり、貧しい小屋だったり、それぞれの違いはありましたが、主食は息子夫婦から応援を仰ぎ、そして自分持ちの田畑を耕して、好きな食べ物を作り、気侭に過ごしました。そのような時、末の息子を連れて隠居する場合もあり、地方によっては、末息子をネコノシッポと、やや軽んじて呼んだようです。隠居持ち分の田畑は、末息子が相続しました。 
遠野の老人たちは、蓮台野に自分たちの隠居所を共同で持っていたのだ、と考えてみましょう。なぜ、そうしたのか。この地域は、隠居に田畑を割きうるほどの農地に恵まれず、生産力も高くなかったからに違いありません。老人たちは蓮台野の麓を開墾し、わずかながらも、共同の農地を持っていました。年貢が村請負制だったため、捨て地の形で、そういう共有地を設けることは、むしろ容易だったはずです。時々は、家族が、農地の脇に、馳走や酒を置いていってくれたかもしれません。老人は互いに助け合って暮らし、病人を看病し、明日をも知れない状態になった時には、夜分、病人を家族の家に運んでゆきました。近所の人たちは、その気配で、その家から死者が出るだろうことを察知しました。死者が帰ってきたり、家族の死を予知するお告げがあったり、死にゆく者の霊が挨拶に訪れたりする話が、そこから生まれました。 
このような想像はけっして突飛なものではない、と私は確信しています。赤坂憲雄も似たようなイメージを喚起されたようですが、しかし蓮台野を「六十をこえた老人が生きながらに棄てられる現世的な他界」と呼び、この物語全体を、次のように意味づけています。「姥棄て譚の背後にひそむ闇の底には、血まみれた共同体と死をめぐる集合的な記憶が埋もれ、ときに身悶え、蠢き騒いでいるのかもしれない。だからこそ、それは死者たちや棄てられたモノたちの霊語り(モノ語り)でありえたのだとおもう。」 
私はこういう「口説き節」には全く賛成ではありません。 
この物語には、「今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり」という説明がついており、これを根拠に、赤坂憲雄は先のような想像を膨らませていったものと思われます。しかし、この場合の「ハカ」は「墓」ではなく、「捗る(はかどる)」や「捗(はか)が行く」という言葉の「ハカ」と考えることもできます。この「捗(ハカ)」は、稲を植えたり、刈ったりする分担区分や、仕事の進み具合などを意味しました。事実、青森県のある地方では、「田畑の仕事の予定量を終わって帰宅する」ことを、「ハカアガリ」と言い、岩手県でも、「田畑の仕事を終わって夕方に帰宅する」ことを、「ハカアガリ」または「ハカガリ」と言っています。山口や土淵の人たちは、一種の語源説話として、自分たちの日常語を、蓮台野の言伝えに付会(ふかい)したのだ。そう考えるほうが、むしろ筋が通っています。 
河童の子が生まれたという、あの家の話も、実際は事実無根であって、ただ、この村の人たちは、特定の家や人物に、出来合いの奇異譚を付会してしまうメンタリティを持っていた。私はそう考えます。この付会の仕方に「悪意」や「畏れ」を読み取ることは可能ですけれど、まず遠野の人たちの作話能力を見るべきではないか、と思います。栃内村の佐々木嘉兵衛の話(3)(60)(61)(62)などは、佐々木鏡石の口を通してやや重苦しくなっていますが、むしろ自己戯画の軽いユーモアを交えた、オコな失敗譚の系統の語りだったのではないでしょうか。 
 
6.民俗学とは何か

 

6-1.柳田国男にとっての「民俗」 
ところで、現在私たちは、当然それが実在しているものとして、民俗とか民俗学とか言っているわけですが、そもそも民俗とは誰に対して存在するものなのでしょうか。 
その点に関して、柳田国男が「日本の民俗学」(大正15年4月、日本社会学会講演。昭和3年4月、日本青年館刊『青年と学問』所収)のなかで、大変面白いことを指摘しています。彼はエスノグラフィー(Ethnography,民族誌・人類学)の発生を説明した上で、こんなことを言っていました。 
〔引用〕 
「フオクロア(Folklore,民俗学)の歴史は前者(エスノグラフィー)に比べると遥かに日は浅いが、始めて起つた時の事情は亦略々之と似たものであつた。日本でいふならば足利時代迄の田舎のやうに、殿も下郎も一様に常は粟の飯を食ひ、一様に麻の衣を晴れに着て、同じ氏神の広前に額突いて居る間は、フオクロアの如き学問は成立つ余地が無いのであつた。それが一方は本を読む、京に上つて遠国の武士や法師と交際することになつて、所謂有識階級の意識が生ずる。さうすると自分たちとちがつた心持ち、又は今まで見馴れて居た習慣でも、それを守らうとする彼等のみの熱心さが、目にもつけば興味を惹くことになる。即ち諺にいふ京に田舎ありとは反対に、田舎にも京の破片が飛び散ることになつて、後漸く田夫野人が視察せられるに至つたのである。殊に城下の町などに出て住む者は、間接に之に由つて寧ろ各自の新生活の幸福を味はうとさへした。彼等には在郷は異郷であつた。其生活の自分たちと違つて居ることが、代を重ねるにつれて愈々目について来た。 
奥州白石噺の宮城野信夫が面白い芝居であり、江戸の落語芸人が新田の杢十だの飯炊きの権助だのを興じた如くに、一方はやゝ高く、他を見て怪み笑ふ迄に生活が変つてしまつたのである。」 
つまり、ある土地の人間が、自分たちの習慣を自明なものと受け入れて、これを疑うことをせず、言わば習俗と即自的に一体化している時、彼等にとって「民俗」などというものは意識されていなかった。ところが、そのなかの数人が他の世界を知り、他の世界からの眼差しを自分たちの習俗に向けるようになった時、「それを守らうとする彼等のみの熱心さが、目にもつけば興味を惹くことになる」。このように対象化され、対自化された習慣が「民俗」なのだ。柳田国男はそう言っているわけです。 
6-2.「民俗学」の現在 
民俗学を立ち上げた柳田国男がこんなふうに言っている点が、私には面白く、自己批評のイロニーを感ずるのですが、それはともかく、私が大切だと思うのは、この対象化の視線を、彼が「有識階級の意識」と呼んでいることです。 
この有識者が、自分たちの習慣を「泥臭い」とか、「遅れている」とか、「恥かしい」とか、「不条理だ」とかと感じ、これを因習として蔑視し、自分はその圏外に立ったつもりで、因習の改革や廃止を主張する。近代における知識人は、そういうタイプによって占められていました。そうではなくて、なぜこの習慣を彼らは大切に守ろうとしているのか、どんな意味をその習慣は持っているのか、を問いはじめる時、そこに柳田国男が言う民俗学が成立します。 
もちろん彼は後者の側に立っていたのですが、同時に、この二つの立場をどのように兼ね合わせるか、その難しさもよく知っていたと言えるでしょう。前者を批判することは簡単ですが、しかし前者による「民俗」の対象化がなされなかったならば、後者の問題構成は始まらなかったからです。彼は後者の立場を主張しつつ、しかし自分の出自が前者であるイロニーをわきまえていました。彼自身の言葉を借りて言えば、外の世界を知った有識者にとって、「在郷は異郷」となり、その視線の裏側に、「田舎を見て怪み笑ふ」優越感が附着している。それに対して、「異郷」は「故郷」でもある、と捉え返し、そのことによって民俗学は存在理由を獲得したわけです。しかし、ひょっとしたら、その二つはコインの両面なのではないのか。その点に、彼は気がついていたように思われます。日本の近代において、「外の世界」がヨーロッパやアメリカだったことは言うまでもありません。 
日本における「近代」の問題が、このような形で捉え直されたのは1960年代後半のことです。この頃「民俗」という言葉は、「土俗」とか「土着」とかいう言葉に置き換えられていましたが、多くの思想(史)家や文学者によって、日本の近代化を主導してきた知識人の責任を問う批判が開始されました。そのポイントは、「土着」の思想を顧みなかった日本知識人の近代主義を批判することにあり、それと並行して、柳田国男の民俗学を「思想」として読み替える作業が始まり、「民俗」を材料とする思想的著作がたくさん書かれるようになりました。戦後の柳田国男ブームとも言うべき現象が起ったわけです。私が彼のものを面白く読んだ時期から10年後くらいのことです。 
ただ、皮肉なことに、ちょうどその頃から、いわゆる経済の高度成長期に入り、村の構造が決定的に変質してしまいました。柳田国男にとっては現在の、「生きた民俗」だったものが、急速に眼の前から消えてゆく。「記憶」の領域に押しやられてしまった。その意味では、この時期から始まった民俗学ブームは、すでに失われた、「記憶としての民俗」を観念的、イメージ的に再喚起する言説によって作られてきた。そう言っても過言ではありません。「遠野」が民話の故郷、民俗学のメッカとして表象されるようになったのも、この頃からのことです。 
その後、ポストモダンやポストコロニアルの視点が導入され、遠野的な「民俗」は、さらにいろいろな学問的修辞によって上塗りされるようになりました。ポストモダンやポストコロニアルは、ユーロ・セントリズム(西洋中心主義)の批判を核としていたからです。1970年代、西洋の思想家が、非西洋世界を反省の鏡として、西洋中心主義を自己批判し、その解体を試み始める。その思想が先のような視点となり、10年ほどの時差をもって日本に導入され、それが日本における近代化(=西洋化)批判の上に、うまく重なったわけです。 
ただ、この西洋中心主義批判は、まさに欧米で始まった新思想であるが故に、日本の思想(史)家や歴史家、文学者が、ロクに理論的検討もせずに、飛びついてゆきました。その意味では依然として西洋中心主義的だったのですが、この滑稽さに気がついた人は、ほとんどいません。気がつかないどころか、彼等のような視点を持たない、いや、彼等のような発言を控えている人たちを、現状維持の「近代」擁護者と決めつけ、これを「怪み笑ふ」風潮が流布してゆきました。「民俗」に言及する場合も、かつて観念的、イメージ的に再喚起された「民俗」を、再び、しかも非常にねじれた形で「異郷」化してしまい、今や呪言と化したポストモダン的言辞や、ポストコロニアル的な修辞によって塗り上げることになりました。 
私は『遠野物語』を読み直して、改めてこの状況の異常さを痛感した次第です。 
私が遠野へ行くのは今度が初めてで、まだ見たことはないのですが、赤坂憲雄が「血まみれた共同体と死をめぐる集合的な記憶が埋もれ、ときに身悶え、蠢き騒いでいる」と描いた、おどろな「闇」を潜ませた世界などではなく、もっと乾燥した、快濶な、楽しい世界なのではないか、と想像しています。 
  
柳田国男・その発想の根源を探る

 

要約 
(一)柳田は「幽冥談」(1905)前後から、農政問題の専門家としての活躍に始まる農村研究(公)、日本民族に固有の不思議と柳田が考えた天狗の探究に始まる不思議探究(私)、この公・私二つの系統の著作活動を平行してすすめてきた。 
(二)柳田は1911年3月から1916年末まで南方熊楠と書簡によるつき合いがあった。この間に柳田が創刊した『郷土研究』(1913年3月〜1917年3月)の編集方針をめぐるやりとりは飯倉照平編『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』(1994)で知ることができる。 
私はこれを検討して、柳田は南方の助言・批判を契機にして、不思議探究の方法を援用する、『時代ト農政』(1910)までとは別の農村とのかかわり方を「新しい学問」として起こそうとしていることを明らかにした。
1 
柳田国男(明治8/1875〜昭和37/1962)の教育に関わる言説を自分の<学ぶ史>研究(小野1986)に摂取したいのだが、それには柳田の発想の根源を探ってみなければなるまいと考え、柳田の著作を早い時期のものから順を追って読むことにした。(小野1990;1995) 
これまでに読み取ったところを5点に要約して、本稿の前置きとする。 
(1)「幽冥談」(1905)は柳田(31歳。法制局参事官)が日本民族に固有の不思議と考える天狗を探究したことについて語ったものだが、これを解読する手がかりが得られるかもしれないと考えて、これとほぼ同時期に柳田が田山花袋といっしょに校訂した『近世奇談全集』(1903。「序言」は柳田が執筆したとされる)とその前後、及びそれ以前(20代)の小篇、さらに『妖怪談義』の「自序」(1956)などを検討した。そして、柳田には<不思議に惹かれ奇談を好む性向>があるのではないかと考えた。(小野1995)また、不思議探究が柳田の「持続する動機」(鶴見2002:169)かもしれない、とも考えた。 
(2)柳田は「幽冥談」で、ドイツの詩人H.ハイネがキリスト教の支配下に逼塞するギリシャの神々の惨めな暮らしぶりを描いた『諸神流竄記』に触発されて、日本には仏教、基督教とはちがう、「日本人の血が雑婚に依って消えてしまうまでは遺っているだろうと思う」「幽冥教」があると考え、平田篤胤の幽冥論を援用してその世界観<幽冥(かくり世)現世(うつし世)>を説明し、幽冥に入って神になった人間が現世に出て来ると天狗とよばれるのだ、とした。(小野1995) 
こう解する間に考えたことだが、柳田は、公に認められている/支配的とされている、その意味でわれわれが日常的にごく当たりまえとしていること・ものの下層に実はより根源的なこと・ものが在る/潜んでいると、関心の対象を重層的にとらえ、その基層にこそ眼を向けてまともに考察すべきだと考えるようになったのではないか。(小野2000) 
(3)「天狗の話」(1909)も、<天狗という不思議>を探究したものだが、この(日本)列島の住民を<先住民/渡来民たる我々の祖先>と重層的にとらえ、先住民の<山人>化したものを平地人は天狗としたのだ、とする。(小野1999) 
(4)柳田は「塚と森の話」(1912)で、農村の青年の向都離村傾向に歯止めをかける役割を郷土誌・地方誌に期待して、村に住む人びと自身がそれを書くことをすすめるが、国の歴史を書く場合のように既存の文書史料のみによって書こうとするのは誤りだとして、「郷土には文字以外に歴然たる記録がある。書物に伝へざる史料がある。」と独特の史料論を述べ、そういう史料として伝説、塚と森、土窟、地名などをあげる。このうち塚と森について、これを「神聖なる地域」として尊祟する信仰が<渡来民たる我々の祖先>がこの列島の<先住民>に土地の譲与を求めたことにはじまるつき合いのなかで形成された経緯を読み解いてみせる。さらに、──「文字ある少数(文字によって知識を得ている少数の人びと)」はこの信仰を“原始的”な自然崇拝とみてバカにするが、「文字なき所謂平民の大多数」はこの信仰によって「僅かに五十年間の安心を得て生死して居る。」世の中の知的進歩に後れをとっているこの人びとを「引き連れて、共に今少し広い明かな世界に歩み出さねばならぬ任務が自分たちにはあるのかもしれない。」と、「文字なき所謂平民の大多数」を啓蒙の対象とみている。(小野2000) 
(5)「塚と森の話」のあと、文字との関わりの有無をメルクマールにして日本人を二分することを立論の軸としていることで私が注目するのは「和泉式部の話」(1926−7)である。もっとも、この論考の本体部分は中世の女流歌人和泉式部の生誕の地、終焉の地が各地にあるという不思議を各地に分布する言い伝えをもとに解き明かそうとしたものだが、そのはじめ(導入部)とおわり(終結部)において、自分がやっている/やろうとしている探究について説明する際のことで、以下のように述べる。 
──「民族の歴史」は、「実際の政治論などに応用」されるだけでなく、「世に出て働かうとする者の準備」としても役立つべきものだが、文書史料に拠るこれまでの史学は「普通人の過去生活」については殆んど何も明らかにしていない。 
「普通人の過去生活」のことは「本や日記や証文」といった文書類の中には書き残されていないが、「今居る人」の生活がそれを探る手がかりになる。というのは、「今居る日本人」は肉体的には「此国に出現」して百年に満たないが、身体の装い、表情や身振、言語、心の持ちようなど、すべてはこれまで幾世代にもわたって“遺伝”してきたものであって、「今居る日本人」が創始したものは無きにひとしいからだ。 
このように考えることにたいして、われわれの「民族の歴史」が今も昔もそう変わらないで連続しているなどとどうしていえるのか、大きく変わったではないかと、反論するむきもあるかもしれない。 
たしかにわれわれの生活には著しい変動があった。しかし、それは「文字の学問」が始まってからのことだ。文字を介して「自由に外部の異分子に接して其感化を受けることの出来る人」がどこでも「群の突端に出て」いて、「書くにも物言ふにも」常に「民族」全体を代表するかたちで振舞っていたから、いかにも世の中全体が急に変わったように見えるが、それは実は突出した部分だけのことで、「普通人の生活」はそれに包まれて隠れたかたちで、昔とそう変わらずに続いている。永い間には次第に変わらざるを得ないだろうが、現在ではまだ「文字の学問」をする人たちと「普通人」たちとは「二筋の流れになって併行して」いるから、「正しく人生と国の本質とを理解しようとする者は、(略)進んで其隠れた奥を窺うことが必要」だ。 
以上のように述べて、「二筋の流れ」というが、考えかたとしては前掲「塚と森の話」で「文字ある少数」/「文字なき所謂平民の大多数」に二分したこととかわらないとみていいだろう。私が注目するのは、後者つまり「文字なき所謂平民の大多数」を「世の中の知的進歩に後れをとっている」とみることから、これら「普通人の生活」にこそ「人生と国の本質」があるとみることへと変わったことだ。(小野2000)こう変わった過程を追究してみたい。

 

2 
柳田は「塚と森の話」(1912)を公にする前の年(明治44/1911年)の3月から大正5/1916年末まで、書簡を介して南方熊楠(慶応3/1867〜昭和16/1941)と付き合った。その中身は柳田の南方宛の書簡74通とほゞそれに対応する南方の柳田宛書簡97通を収録・編集した飯倉照平編『柳田国男・南方熊楠往復書簡集上・下』(1994、平凡社)で知ることができる。 
上に述べた問題意識のもとにこの書簡集を読むことにした。 
二人が書簡をかわす発端となったのは明治44/1911年3月19日付の柳田の書簡である。 
柳田は南方の「山神オコゼ魚を好むということ」(『東京人類学雑誌』26巻299号(明治44/1911年2月))を読んで筆を執る気になったようで、──オコゼのことは自分もかねてから「心がけおり候ところ、今回の御文を見て欣喜禁ずる能わず」と始め、まだ読んでおられないだろう自分の旧稿「山神とオコゼ」(『学生文芸』1巻2号(明治43/1910年10月))を差し上げたいと述べ、さらに、 
「小生は目下山男に関する記事をあつめおり候。熊野はこの話に充ちたるらしく存ぜられ候。恐れ入り候えども御手伝い下されたく候。今一つ御願いは、今年は日本の地名につきての小研究を公に致したく存じおり候が、御地方の地形写真エハガキにてその地名のっかりおり候もの有之候わば御拾集下されたく候。」(飯倉1994、上15) 
と、自分の山男探究、地名研究に関する資料の収集の手伝いをたのむ。 
南方は折返し3月21日付で、まず次のようにこたえる。 
「山男に関することいろいろ聞き書き留め置き候も、諸処に散在しおり、ちょっとまとまらず、そのうち取りまとめ差し上げ申すべく候。支那の山、また安南、交趾(こうし)、また欧州にも十六世紀ごろまでアイルランドにかかるものの話有之候。それらのことを前年大英博物館にありし日写し懸け置き候。これらもそのうちまとめて差し上げ申すべく候。地名のことは、小生一向手をつけおらず、また手がかりもなく、写真、絵葉書等はこの辺に御座なく候。」(飯倉1994、上16) 
つぎに、「当県の俗吏俗祝等」による神社合祀の強行にたいして一昨年秋ついに抗議の言論活動を始めたことについて、──明治33/1900年11月の帰国から10年ばかりの間は「山間に閑居して」動植物の研究に専念していたが、神社合祀令(明治39年/1906年8月)以降、「私欲一片」の俗吏俗祝らによる合祀を口実にした「神社濫滅」、「神林濫伐」が県下に頻発し、学術的にも貴重なものが失われるので、「もはや黙しおる時にあらず」と考えたからだと述べ、「貴下、なにか然るべき新聞、雑誌等へ、右小生の議論の一部を御紹介下さるまじきや。」(飯倉1994、上17)と柳田に支援を求める。 
このように始まった書簡による付き合いは、複数の主題が錯綜して展開する楽曲のようだが、私は三つの主題に仕分けた。 
第一は、柳田が自分の探究の進展にともなって生じる、「山男」はじめ実にさまざまな問いを南方に書き送り、南方はそれに丁寧に──ときには脱線気味に、また冗舌に──こたえたことだ。付き合い全体を通してのいわばライトモチーフ。もっとも、探究上の便宜をはかるということでは、柳田もそう多くはないが南方の資料探索の依頼や問い合わせにこたえ、また論考を『考古学雑誌』、『太陽』などに出すことをすすめ、そのための交渉や校正の労もとっている。 
第二は、南方が神社合祀反対の言論活動──この問題に関連のありそうな中央の有力者に「意見書」を提出して、合祀がとりやめになるよう影響力を行使してくれることを期待した──にたいして柳田に支援を求め、柳田もそれにこたえたことだ。 
この件は、南方が明治44/1911年8月29日・31日付で松村任三(1856〜1928。東京帝大教授。植物分類学の権威で学界の長老)に宛てた書簡2通を柳田が『南方二書』として印刷に付し、識者に配布したことで一段落したが、なおしばらく尾を引いた。その詳細は省略するが、南方の“ひとり相撲”に終始した感があり、柳田は同年11月23日付書簡で、「思うに熊野の天然は、貴下のごとく志美にして策の拙なる豪傑の御蔭にて、これからもなお大いに荒廃することならん。(中略)今後といえども貴下の御本心だけには同情を表し申すべく、方法は皆だめだと評したく候。」ときびしく批判している。(飯倉1994、上343) 
第三は雑誌『郷土研究』をめぐるやりとりだ。私の問題関心からはこれを検討することが主となる。創刊に至るまで、創刊後の編集方針について、と分けよう。 
この書簡集で雑誌刊行のことを最初に話題にしたのは南方だ。明治44/1911年6月12日付書簡で、まず次のように述べる。 
「欧米各国みなFolk-loreSocietyあり。英国にはG.T(ママ).Gommeもっともこのことに尽瘁し、以為(おもえら)く、里俗、古譚はみな事実に基づけり、筆にせし史書は区域限りあり、僻説強牽の言多し、里俗、古譚はことごとく今を去ること遠き世に造り出されしものなれば、史書に見る能わざる史蹟を見るべし、と。その著書多般なれど、みな里俗、古譚によって英国人民発達の蹟を考えたるなり。今年始の慶賀に、今皇、特にその功を賞し、男爵を授けたり。(略)わが国にも何とかFolk-lore会の設立ありたきなり。」(飯倉1994、上75−6) 
──欧米各国にFolk-loreSocietyがあることと、英国における推進者G.L.Gomme(1853〜1916)の所説を簡潔に紹介する。(柳田は6月14日付書簡で、「Gomme氏の著書は御持ちなされ候わばちょっと拝見致したく候。」と関心を示す。) 
つづいて、雑誌の発行について、「雑誌御発行ならば云々」と始める。これ以前に何か聞いていたようにもとれるが、南方は自分も「特別寄書家」として遇されている英国の‘NotesandQueries’のようなものにしたらいいだろうと助言する。 
柳田は6月14日付でこれにこたえるが、まず、南方が地元の『牟婁新報』紙への寄稿で述べたことについて、つぎのように諫める。 
「『牟婁新報』は悪謔ちと度に過ぎたり。あれにては溜インは下るべきも、相手方を死地に陥るものにて到底目的を達するの方法にあらず候。当世は英雄の一喝に摺伏するような気の利いた人間はなくなり候。ことに人もまた保存すべき生物なれば、あまりこれを傷害せられては反抗する者必ず多かるべく候。また日本を済度のできぬ俗悪国のように痛罵せられ候も、面白からぬ人は所謂えらき人の階級のみにて、その後にはまだ朱にも紫にも染まぬ可愛い若い者がたくさんおり候。彼らは試験制度の奴隷にて盛春を徒過し気力を消耗し、滔々として俗物第二世第三世となりおり候も、皆いわば学問で飯が食えるような気がするためにて、先生の漫罵癖と同じく一種の悪習に感染せんとするものに外ならず。今のうちに匡正する必要はなはだ急に候。」(飯倉1994、上79−80) 
──「所謂えらき人」たちを罵倒すれば溜飲はさがるかもしれないが、敵にまわしてしまうという逆効果を招きかねない。若者がこれら「所謂えらき人の階級」入りをめざして「試験制度の奴隷」になっていることを罵るよりも、彼らが俗物どもの悪習に感染しないように今のうちに匡正することをいそぐべきだ。 
これを前置きのようにして、柳田としてははじめて雑誌刊行の意図を次のように述べる。 
「小生が雑誌と申すも微力ながら一適薬のつもりに候も、書肆の算盤といかなる点まで調和するやら、また誰か損をしてくれる人があるやら、まだとんとわかり申さず候。願わくはこれからの生涯を捧げて先生の好感化力の一伝送機たらんと存じおり候。御身躰は十分御丈夫のよう考えられ候。何分御自重御長生下されたく候。」(飯倉1994、上80) 
──いま計画している雑誌は若者を匡正するのに適した薬のつもりだ、というのだが、そのあとの「願わくは云々」以下にどうつながるのか。柳田自身が、したがって柳田が計画している雑誌が南方の「好感化力の一伝送機たらん」と考えている、ということだろうか。 
雑誌発刊の意図を、7月5日付の書簡では次のように述べる。 
「日本の学問も追い追いよき状をとり来たり候折柄ゆえ、われわれ後進のために可成(なるべく)日本文にてもたくさん御かき下されたく候。小生のごときも役人としては何も書かぬ方がかえって世間体に候えば、全く虚名などのために労作するにあらず、過去忘却が一切の社会害悪の根原と存じ候につき、青年の趣味をこの方面によびよせんとするばかりに候。しかし貴下のごとき声高の力強の学者にあらざれば感化の効少なかるべしと存じ候につき、しきりに俗界へ引き出し申さんとするなり。よけいな世話焼きと思し召し下されまじく候。小生が雑誌計画も目下一頓挫の姿に候が、遠からずぜひ物にしたく存じおり候。何か村落の好学青年をして注目せしむるような、よき「名称」は有之まじくや。碌々たる雑誌のためにほとんどあらゆるよき名を占領せられし姿有之候。」(飯倉1994、上98−9) 
──柳田は青年たちが過去に関心をもつようにしたいと考えている。雑誌発刊の企てもその為で、読者として「村落の好学青年」を想定し、南方の感化力をかりよう、ということなのだろう。 
年を越して明治45/1912年。柳田は1月14日付書簡に、自分の論文のことで『人類学雑誌』についての不満を述べた。これに呼応するように、南方は1月17日夜出の書簡で、つぎのように述べる。 
「『人類学雑誌』は土器と石器の品定めならよいが、品定めずにただごてごてと究極際涯なく、採集人の自慢話のみで、局外のわれわれには古道具市の目録を見るごとく一向面白からず。わが国にも独立して俚俗学FolkloreSocietyの建立ありたきことに候。」(飯倉1994、下17) 
この南方の要望にこたえて、柳田は2月9日付書簡で、「フォルクロアの学会は今年は打ち立て申すよう、乏しき有力者連を説きおり候。」と述べ、 
「しかし、雑誌の方はまずもって誘導的任務に力を注がねばならぬ故、小生は会報として体面その他の拘束をうけぬよう独立して発刊させたく存じおり候。よって貴下御入会はいやにても雑誌の方にはたくさんの助力を与え給わりたく候。信仰生活以外にも弘く日本田舎の生活状態を研究し新しき題目を提供する雑誌としては、何か適切なる名称は有之まじくや、御考え下されたく候。」(飯倉1994、下18) 
──とつづける。「誘導的任務」とは「青年の趣味をこの方面によびよせんとする」ことだろう。そのために「信仰生活以外にも弘く日本田舎の生活状態を研究し新しき題目を提供する雑誌」にしたい、と考えたのだろう。このくだりは、計画中の雑誌の編集方針がだいぶ固まってきたことをうかがわせる。これに促されたかのように、南方は2月11日午後2時出の書簡で、柳田からの問いにこたえたあとで、雑誌についてつぎのように述べる。 
「次にフォークロール会のこと、これはちょっと難事ならん。しかし、うまく行かば考古学会や人類学会は乾燥無味の土器や古器の図録のようなものにひあがり、フォークロール会はなかなか俗人が見ても珍談ばかりで面白きものとならん。名称は実にむつかしく候。民族学会、伝説学会、里伝学会、いずれも不適当なり。そのうち一考致すべく候。小生は日本にさえおらば書くことは不断書くべきも、合祀一件でおいおい貧乏になり、いつ外国へ出るか知れず候。『大英類典』一昨年刊行の分により、英国にてフォークロールの範囲内とする事項、左のごとく申し上げ候。」(飯倉1994、下25) 
──雑誌という言葉は出てこないが、「フォークロール会」の会報としての雑誌のことをいっているのだろう。雑誌を「フォークロール会」から独立・分離させるとする柳田の意向とは対立する、いわば一体論だ。 
南方は欧米各国にFolk-loreSocietyのあることを紹介したくだりで雑誌に言及したことはあるが、「フォークロール会」と一体のものとしての雑誌というように具体的に述べるのはこれがはじめてだ。南方としては自分に兄事するようなこれまでの柳田の態度からして、自分が考えているように柳田も雑誌をフォークロール専門のフォークロール会報のようなものにすると思っていたのかもしれない。しかし、柳田の編集方針が固まってきたのをみると、そうでもない。無謀な企てのように思われて、改めて教えさとすようなつもりで、先進的な事例として「英国にて学者がフォークロールの範囲内とする事項」を引いて示したのかもしれない。いずれにしても、独立・分離論と一体論と、両者の考えは大きく隔たっていることがあきらかになった。 
雑誌のことがまた話題になるきっかけは、南方が大正元/1912年12月8日午後2時出の書簡で、「『人類学雑誌』は、貴方へ何月分まで届きおり候や。(略)小生方へは七月分までしか届かず。」(飯倉1994、下115)と問い合わせ、『考古学雑誌』に論文「十三塚のこと」を出してあるが、その雑誌がなかなか出ないとこぼしたことだ。 
柳田は12月10日夜出の書簡で、「『人類学雑誌』は八月号以下未刊に候。」とこたえ、さらに、「あれではこまり申し候。来年はもし東京にをらばフォークロアの雑誌を出し、資料の散佚を防ぎたく存じをり候。金が五・六百円工面できねば取りかかりにくく候。」(飯倉1994、下118)と述べる。──「来年はもし東京にをらば云々」は、7月30日に明治天皇が亡くなったこととの関連で、宮内書記官を兼任していた柳田としては京都行が予想されたことをさすのだろうが、「フォークロアの雑誌」と述べていることはどう解したらいいだろうか。 
柳田は計画中の雑誌について、青年にたいする「誘導的任務」に力を注ぐものにしたいという意向をすでに表明はしたものの、「フォークロアの雑誌」にという南方の意向も──柳田自身にもこの意向があるから──無視できず、二つの意向の間を揺れ動いていたことのあらわれだろうか。 
南方は柳田のこの書簡をみて、その気になったのだろう、12月13日夜出の書簡のなかで、前便の問いに重ねて、論文発表にかかわる悩みを訴えるようにこう述べる。 
「『人類学雑誌』七月分今日受け取り候。何故かく後るるか、資金乏しきによることにや。『民俗学』誌も、小生投書はしてあるが、今に一向出ず。ようやく同じく石橋氏の幹する『人性』という雑誌へ、小生の「常世国考」が出たばかりなり。右様にては、小生は何を出すこともならず、徒労となる。」(飯倉1994、下121) 
──こう訴えるのは、柳田が言及した雑誌に論文発表の機会を得たいとの願いをこめてのことかもしれない。 
柳田は折返し12月15日付書簡でつぎのようにこたえる。 
「『人類学雑誌』は金なきためにあらず、主任者が外に生活のための仕事多くして、校正編輯がおくれる故に候。『民俗雑誌』は石橋君病に臥したれば刊行の見込みなく候。先ごろより高木君と二人にて売れぬ雑誌を出す計画を立て候も、此方は金がなきために着手し能わず。来年はどうしても実行すべく候につき、その上はそれへどしどし御掲げ下さるべく候。」(飯倉1994、下125) 
──「その上はそれへどしどし云々」は南方の願いを読みとってのことであろう。 
年を越して大正2/1913年。柳田は1月21日付書簡につぎのように述べる。 
「小生計画の雑誌は三月末または四月始めより出すことと致し候。一号御覧の上御気にかない候わば、随時御寄稿をねがいたく、初号は高木と二人にてかくつもりに候。小生が慨然として資を投ずるものなきかと申せしは、宮武ごとき者を意味せしにあらず候。彼はわれわれが門に立つべき者ではなく候。小生はとにかく独力にて文章報国の事業に着手致すことにきめ申し候。多く出ると否とは世の人の果報次第に有之べしと存じおり候。」(飯倉1994、下142) 
──「宮武ごとき者云々」は、柳田が雑誌発刊は「金がなきために着手し能わず」と述べたのを南方が心配してか、当時泉州浜寺に滞在中の宮武外骨(1867〜1955)に「フォークロール雑誌のこと話し見んと思えど、とても話にならず、気の変わりやすき人なり。」と、1月17日午後3時出の書簡(飯倉1994、下141)に述べたことへの柳田の反応だ。 
宮武(外骨。1867−1955)は特異な新聞・雑誌活動でしばしば筆禍事件を起こしていたジャーナリストだが、南方によってそれと同列に扱われかけたことが癇にさわったのだろう、柳田は──「来年はどうしても実行すべく」(前掲12月15日付書簡)と考えていたこともあって──「一年分の刊行経費全額(七百円ぐらい)」を自分で負担することを決め、1)「小生計画の雑誌は三月末または四月始めより出す」と決断したのではないか。 
南方はさっそく1月24日夜8時半出の書簡のなかで、『民俗学会雑誌』へ載せるべく石橋のもとへ出しておいた自分の原稿「話俗随筆」をその雑誌へ載せてくれとたのみこむ。 
柳田は2月5日付書簡で、「小生の雑誌(『郷土研究』と題す)は、初号のみは編者二人にて全部を作る考え」であることをあげて南方のたのみを断る。そして、「二号分は三月半ばまでに届き候えばよろしく候。それより後は御気の向き次第なるべく御寄稿願い上げ候。」と述べる。さらに、「すでに出来た原稿はもちろんそのままにてよろしく候も、この後の分は振仮名をつけ、かつ口語体に御書き下されたし。田舎の教員ごとき程度の人に共通の研究心をもたせ、この学問の進歩を促したきための一手段に候。」(飯倉1994、下157)と注文をつける。南方を一介の寄稿者扱いしているような印象をうける。 
大正2/1913年3月10日、『郷土研究』は創刊された。 
それから間もない6月21日付書簡で柳田は「編輯上の苦心」を述べる。きっかけは、南方が『郷土研究』の1〜3号を読んで書いた「一号分の過半を占む」ほど大量の原稿を送ってきて、編集担当の高木が「一度に掲載の希望らしければ外々の寄稿はあとまわしにせん」と相談してきたことだ。 
南方の大量の原稿とは、1〜3号の「資料及報告」欄への地方在住者の寄稿に触発されて古今東西の文献を引いて蘊蓄を傾けたものだが、柳田は『郷土研究』を「共同研究の自由壇場」にしていきたいという方針──具体的には『郷土研究』の「題目の変化を多く」して門口の広いことを示していくこと──を経費に制約された限られた紙面で実現しようとして苦心している自分のことを引き合いに出して、分割掲載についての了解を求める。そのあと、つぎのように寄稿についての要望を述べる。 
「われわれの事業の御助勢として前号掲載の文章の補充訂正の外に、御研究範囲におけるもろもろの田舎問題にて新しき本欄的原稿(「資料及報告」欄にのせる短文ではなく巻頭の論文、の意か。引用者)をも御与え下されたく、折り入ってねがい候。(略)小生等が陰(ひそ)かに貴下等に報ずるところありと信ずるは、目下すでに多く集まり今後も続々集まるべき諸国古伝、状態等の書籍に出でざる記事に候。これらは今のうちに大急ぎにてあつむる必要あり。この雑誌はその共通の手帖に候。自分等の学問としてはすでに十巻の「南方書」を十襲するごとく、このたびの随筆(「南方随筆」のこと。引用者)を深く有難がり候も、雑誌の原稿としては今一段と「紀州俗伝」の方がありがたく、」(飯倉1994、下170) 
──柳田としては、南方が蘊蓄を傾けた──しかし、柳田にしてみれば「前号掲載の文章の補充訂正」にすぎない──「南方随筆」よりも、「紀州俗伝」の方がありがたいという。 
「紀州俗伝」は『郷土研究』第2号(大正2/1913年4月10日発行)から「資料及報告」欄に連載されている。南方は書き留めておいた口碑類をこの標題のもとに寄稿しておいたのだろうが、これに類するものをすでに大正元/1912年9月から地元の『紀伊新報』に連載しており、同紙を柳田にも送っていた。それを読んだ柳田の反応(1月21日付書簡)にこたえた大正2/1913年1月24日夜8時半出の書簡に、なぜこういうものを書くのか、つぎのように述べる。 
「「悪眼の話」等(『紀伊新報』に大正元/1912年9月から10月にかけて16回連載された。引用者)は、主として田舎人が、民俗学など何のことか分からず、瑣末の土風などを筆記して多きに誇ると心得たる輩に、一国一事物の沿革を徴するに民俗学の必要なること、はるかに虚偽多き古人の伝記や官府ばかりで得手勝手に作った官人大衆の履歴書より優れたるを示す一法として出したるものに有之(これあり)。ただ切れ切れの話を載せたるばかりでは、地方の者これを読まず、またいささかたりとも地方固来の俚談土俗を扣(ひか)え留めて通知してくれる気など毛頭なく、よってかかる地方に素してかかる地方人に行なうの方便として出したるものに有之。決して貴下ばかりの意に叶えんとして書きたるものに無之。(略)従来政友会の横肆なりしを制する一方としては、小生は桂公の新政党を大分有効と存じ候(略)と等しく、地方の下劣なる輩をいささかも寒心自省謙遜せしむるには、かかるものも入用に御座候。その上少々なりとも従来三文の価値なきもの、世の開進に害のみありて益なしと一概に思われおりたる屑譚俚俗中に、それぞれ地方民固有の系図を暗示しおる明珠あるを知り、十把一(ひと)からげに伐り去るべき古樹の一本も残り、捨て去らるべき古碑、古什の二、三も保存さるるに至りしは、右等の話を出す方が出さぬに優れる証拠に御座候。」(飯倉1994、下143−4) 
──南方は文献を主たる資料とし、「地方固来の俚談土俗」も適宜とり入れて論文を作成していた。そうした1篇「山神オコゼ魚を好むということ」(1911)に柳田が目をとめて、「山男」に関する熊野地方の口碑の類の蒐集を依頼したことから柳田・南方の書簡による付き合いが始まったことは前に述べた。南方は柳田の依頼に応じて蒐集に協力するばかりでなく、柳田のやっていることに関連の深いものと考えてのことだろう、英国のFolk-lore研究の動向も紹介した。(前掲1911年6月12日付書簡)また、『大英類典』(1910年版)から、「英国の学者がフォークロールの範囲内とする事項」を抜き書きして送ってもいる。(前掲1912年2月11日付書簡)しかし、柳田には<天狗という不思議>探究に始まる、口碑を資料とする探究の流れがあって、南方の示唆するところにすぐには応じようとしなかった。南方はそれに批判的で、柳田に勧めたことを自分でやることにして、「地方固来の俚談土俗」、「屑譚俚俗」を書き留めておいて文章化したものを地元の『紀伊新報』紙上で公にすることを始め、これが民俗学が資料にする口碑だと示そうとしたのだろう。「決して貴下ばかりの意に叶えんとして書きたるものに無之。」と、柳田とは一線を画したつもりだが、歓迎されて「「紀州俗伝」の方がありがたく云々」となったのではないか。 
民俗学の資料についてのこのような考えが一層はっきりと表明されるのは大正3/1914年5月10日朝6時出の書簡においてだが、そのきっかけとなったのは、その少し前4月14日付書簡で、高木敏雄の「人身御供論(日本童話考早太郎解説余論)」(『郷土研究』1巻6号−10号に掲載された。引用者)を念頭に置いて「古話、伝説、民俗」についての考えをつぎのように述べたことだ。 
「小生は、民俗とか神誌とかいうものは仮想や詩想や寓意に出でしものにあらず、その当時の人の理想や実験説をのべたもので、ラジウムの発見なかりし世の化学者は諸元素は不変のものと固く信じ、米国南北軍のとき北軍は黒人も白人も同祖と信ずれば南軍は異源のものと信じたるごとく、これも分からぬ、あれも分からぬではすまぬゆえ、実際分からぬなりに分かったつもりで述べたもの行なったものが、古話、伝説、民俗という見様を主張す。」(飯倉1994、下209) 
柳田はこのくだりを読んで高木の研究法にたいする批判ととり、4月16日付書簡でつぎのように述べて、自分の研究法についてもと、南方に批判を乞う。 
「高木君の研究法につきての御批判、大体において了解仕り候。小生がやり方につきてもたくさんの御意見あるべし。今後の心得にも相成り候こと故、何とぞ十二分に御聞かせ下されたく候。小生が貴下に帰仰するの誠意はすでに御諒察のことと存じ候。批難をききて反撥するかとでも思し召し、御ひかえは御無用にねがい上げ候。」(飯倉1994、下216) 
──柳田がこう述べたことが、前に述べておいた5月10日朝6時出の書簡、とりわけつぎのくだりを書かせたのだろう。 
「小生の「紀州俗伝」は、民俗学材料とはどんなものどもということを手近く知らせんため書き出でしなり。伝説とか古話とかには、うそ多く新出来も多く、また、わけ知らぬものがたちまち出逢うと俚談らしくて実は古い戯曲などに語りしを伝えて出処を忘れたるもの多し。それよりも土地に行なわるる諺語や、洒落詞、舌擾し(したなら)(『嬉遊笑覧』に謂うところの早口)、また土地のものが左までに思わぬ些々たる風習、片言等に反って有益なる材料多し。とにかく、近ごろ諸国諸方より『紀州俗伝』風の蒐集が出で来たれるは、郷土研究のためにも研究者のためにも賀すべし。一国の植物群を精査せんには、いかなるありふれた植物でも諸地方よりことごとく集めた上のことなるごとく、関西地方にありふれたことも、仙道に至っては微かに存し、東京辺には全くなき等、民俗の分布を知るには、かかる些事些言の蒐集がもっとも必要なり。縁起経や神誌や伝説ばかり集むるは面白いが、そは比較文学に似たことで、民俗学唯一の事業にあらざるなり。小生は、民俗学が社会学の一部なるごとく、話説学(ストリオロジー)は単に民俗学の一部に過ぎず、と主張す。」(飯倉1994、下221−2) 
──民俗学の研究を「一国の植物群の精査」になぞらえているところに南方の民俗学にたいする考えが端的に表れているように思う。「ありふれた植物でも諸地方よりことごとく集め」るように、人びとの生活から生まれてきたものなら「些々たる風習、片言」であろうと「些事些言」であろうと、ことごとく蒐集して人びとの生活を「精査」する。それが民俗学であり、そういうものとしての民俗学は「社会学の一部」だ、という。 
そして、民俗学の資料をこう考えるからだろう、雑誌『民俗』第二年第二報に出た『郷土研究』の広告の「資料を求むる要件綱領は大いに不完全なり」として、「民俗学(フォルクスキュンデ)に関する諸項」を『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』の11版より抜き書きして示し、それによって「概略の綱領を序(つい)でられたく候。」(飯倉1994、下226)と述べる。 
柳田はこの書簡を、南方は『郷土研究』を民俗学専門の雑誌にするよう強要している、と読んだのだろう、5月12日付書簡でつぎのように激しい言葉でこれに反駁する。 
「かの雑誌は民俗学の雑誌のようたびたび仰せられ候には迷惑仕り候。前回幾度も刊行の趣旨を申し上げしことあり。小生専門はルーラル・エコノミーにして、民俗学は余分の道楽に候。かつ雑誌は田舎の好学の徒をして地方研究の一般の趣味を感ぜしむるにあり。(略)故に記事の少なくも三分一ぐらいは貴下の注文外のもの有之次第にして、小生が民俗学の定義を誤解しおるわけでは無之候。このことは一巻一号の綱領にも明言し、小生箇人としても当時の手紙にて申し上げたり。ただ学問をすればするほど純粋欲は強くなるもの故、将来資力許さば『郷土研究』を二つに分け、二種の専門雑誌とする計画を立て申すべく、その時は『郷土研究』などと鼠色のことを言わず、貴下御注文の方面には『民俗学雑誌』というような名を附し申すべく候なり。今のところは残念ながらやはり後進相手の通俗雑誌ゆえ、いろいろの読者に向くように内容を按排せねばならず候。」(飯倉1994、下236−7) 
──『郷土研究』はルーラル・エコノミーの雑誌で、「田舎の好学の徒をして地方研究の一般の趣味を感ぜしむる」ことを目的としている。いわば「後進相手の通俗雑誌」だという。(南方の大量の原稿の一挙掲載をことわった前掲大正2/1913年6月22日付書簡では「学問の雑誌」としていたが。) 
南方はこれを読んですぐ筆を執ったのだろう、末尾に「大正三年五月十四日午前三時出す」と記した「『郷土研究』の記者に与うる書」を書いた。長文のものだが、──ルーラル・エコノミーの雑誌だというが、これまで「地方経済らしき論文の出でしを見ず。」(飯倉1994、下241)それらしき論文を載せよ、柳田自身が書いてみせよ、ということで、あとはこの論旨をさまざまに言いかえているにすぎない。 
柳田はこの長文を『郷土研究』に3回に分けて掲載し(大正3/1914年7月〜9月。第2巻5〜7号)、それに付けるようにして「南方氏の書簡について」を載せた。(なお南方の「与うる書」と柳田の「南方氏の書簡について」との間に南方3通、柳田2通の書簡が交わされた。「南方氏の書簡について」は柳田側の結論ともいうべきものだ。煩を避けて2)とした。<3>でもふれる。参照されたい。) 
柳田はまず、自分が5月12日付書簡で「小生専門はルーラル・エコノミーにして」と述べた「ルーラル・エコノミー」を南方が「地方経済または地方制度」などと訳したことを問題にして、次のように述べる。 
「今日右の二語には一種特別の意味があります故、私はそう訳されることを望みませぬ。もし強いて和訳するならば農村生活誌とでもして貰いたかった。何となれば記者が志は政策方針や事業適否の論から立ち離れて、単に状況の記述闡明のみをもってこの雑誌の任務としたいからです。」(飯倉1994、下252−3) 
──「農村生活の記述闡明」をこの雑誌の任務とするつもりで「ルーラル・エコノミー」としたのだ、と説明する。 
次に、「与うる書」に「承服し兼ねた点が少なくも三つありました。それを御参考までに附記して置きます。」と冒頭に述べておいた3点を述べる。 
「一つは、雑誌の目的を単純にせよ、輪廓を明瞭にせよとの注文であります。これは雑誌であるからできませぬ。ことにこの雑誌が荒野の開拓者であるからできませぬ。適当なる引受人に一部を割譲し得るまでの間は、いわゆる郷土の研究はその全体をこの雑誌が遣らねばなりませぬ。」(飯倉1994、下253) 
──南方が、ルーラル・エコノミーの雑誌だというならそれに徹せよ、と批判したことへの反駁だが、「荒野の開拓者」と自任していることに注目する。 
「二には、郷土会の諸君がもっと経済生活の問題に筆を執れということ、これも記者の力には及びませぬ。郷土会は名は似ていても『郷土研究』の身内ではありませぬ。(飯倉1994、下253) 
──柳田にしてみれば「いらぬお世話」といいたいところだろう。もっとも、創刊当初から「雑報」欄に郷土会の例会の記事が載っており、「身内」ではないにしても、柳田がその気になれば「地方経済または地方制度」関連の論文を書ける人もいたのだから、南方のいうことにも一理ある。後には、この郷土会例会での講演の大要が載るようにもなった。 
「三には、「巫女考」を中止せよとの注文も大きな無理です。(略)あの「巫女考」などはずいぶん農村生活誌の真只中であると思いますが如何ですか。これまで一向人の顧みなかったこと、また今日の田舎の生活に大きな影響を及ぼしていること、また最狭義の経済問題にも触れていることを考えますと、なお大いに奨励して見たいと思いますが如何ですか。(「巫女考」は「川村杳樹」名で掲載したから、こういう言い方をしたのだろう。引用者)」(飯倉1994、下254) 
──こう述べながら、先の「農村生活誌とでもして貰いたかった。」の意味するところを説明しようとするような記述へとかわっていく。 
「記者はここにおいてか地方制度経済という飛入りの文字が煩いをなしたかと感じます。政治の善悪を批判するのは別に著述が多くあります。地方の事功を録するものは『斯民』その他府県の報告書があり過ぎます。ただ「平民はいかに生活するか」または「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするものがこれまではなかった。それを『郷土研究』が遣るのです。たとい何々学の定義には合わずとも、たぶん後代これを定義する新しい学問がこの日本に起こることになりましょう。」(飯倉1994、下254−5) 
──「新しい学問が云々」と、将来の、他人事のようにいうが、実は南方とのやりとりで、ときには鋭く迫られて、自分の内なる“胎動”を自覚させられた、それをこのように表出したのではないか。 
このあとも書簡のやりとりは間遠になりながらも大正5/1916年末までつづくが、『郷土研究』をめぐるやりとりは実質的にはここで終わる。 
 
1)柳田は『郷土研究』創刊後1年余り経った大正3/1914年4月16日付書簡に、 
「『郷土研究』は今なお月々十五乃至二十円の損失に候。当初高木君と約し、小生は一年分の刊行経費全額(七百円ぐらい)を限度として損失を負担し、高木君は校正編輯の勤労を引きうくる約なりしに、始めより完全にその約束を守らず、是非なく別に小生をして少分の校正料を支払わしめ候。」(飯倉1994、下214) 
──こう述べる。刊行経費は柳田、校正編輯は高木とする“約束”は、宮武に話してみようとしたが−という南方の1月17日付書簡をきっかけにきまり、柳田は「小生計画の雑誌は云々」の同月21日付書簡を書いたのではないか。 
前後するが、南方の1月17日付書簡より7カ月ほど前、柳田は明治45/1912年6月12日付書簡に「高木君の雑誌いよいよ出刊ときまり候わば、小生は巫女に関する研究を逐次に掲げ申すべし。」(飯倉1994、下97)と述べている。また、計画中の雑誌を3月末または4月始めより出すことにきめたことを告げて間もない大正2/1913年2月5日付の書簡には、「われわれの仲間にて篤志家に説き、年々六百円ほどの金を出させ、新しき題目に関する研究を叢書にして出すことを計画いたし、今明年中には趣味あるもの十数部を出さんと存じ候。」(飯倉1994、下157−8)と述べる。(この計画は翌年、「甲寅叢書」として実現した。) 
柳田にはまた、「できるだけ自分の痕跡をこの世に印したく候。」(明治44/1911年7月2日付)、「小生は後継者もなくかつ病気なれば所得の意見見解は、いやしくも一文にまとまる限り材料不十分にてもこれを公けにする考えに候。」(同上8月14日付)と、本務とは別に自分の探究したことを書いて公にしておきたいとの思いが強い。他方、「小生のごときも役人としては何も書かぬ方がかえって世間体に候えば云々」(同上7月5日付)と、表だってそうすることをはゞかる気持ちもある。 
さらに、──自分の執筆活動や大学での講義、郷土研究会のことなどをあげて、「小生は官吏としてはむしろかかることをせぬ方評判よろしく都合もよろし。老人は謠や碁や盆栽の道楽は恕しながら、かかることに手を出さばさも本職をなまけるかと疑うものなり。それにも構わず、少しでもよき日本にて死なんとし、かつ後世人の手を助け、むだにならぬよう仕事を残して学問の進運に貢献せんとするを、貴下はさもさも名聞のしわざのようにいい、少なくも無害無益ぐらいに評せらるるは心得ぬことなり。」(同上10月14日付)と述べているように、世評は承知のうえで、自分のやっていることは全くの私事ではない、「文章報国の事業」(大正2/1913年1月21日付)だとの気負いもある。 
これらの文言から臆測するのだが、柳田は刊行費を工面することで“実権”をにぎり、表向きには高木を立て、自分はかねてから探究していることをペンネームで思う存分書いて世に問うことも考えていたのではないか。 
2)南方は「大正三年五月十四日午前三時出す」と末尾に記した「『郷土研究』の記者に与うる書」につづけて、「五月十四日夜一時」出と「五月十六日午後四時」出と2本の“続編”を相ついで柳田に送っている。 
5月14日夜1時出の書簡は「与うる書」で述べたことの補足のほかに、「大英博物館入館の届け書は社会学研究」で、「二・三年欧州の中古の封建時代のinstitution(制度)を調べた」ことを述べ、その関連の「書も控えも今も多少あれば、貴下おいおい郷土制度に関する論文を出されなば、小生もまた付和し、なにか書き続くるを得べし。」(飯倉1994、下257−8)と、自分にもそれなりの心づもりのあることを示す。 
この書簡で南方が多くのスペースを割いたのは、柳田が「卑穢なる記事」は『郷土研究』に載せないとしたことへの反駁だ。次の5月16日午後4時出の書簡はほとんどこれにあてられる。──「鄙猥な文ありて出しにくきものは、全部御返還下されたく候。」と始め、「猥事多き郷土のことを研究せんとするものが、口先で鄙猥鄙猥とそしるようでは、何の研究が成るべき。自心で同情なき物を、いかにしても研究どころか観察も成らぬものなり。」と結ぶ。(飯倉1994、下271;276) 
柳田は5月16日付書簡で、南方の指摘にいちいち反論ないし弁明をする。そして、最後に、 
「たゞし、今回の御手紙は非常に面白く拝見仕り候。この手紙を雑誌の中ほどの所へ二・三度に分載せば、間接には雑誌の本領もわかり、読者も興味をもってこのことを考え申すべく、その後に小生がこれに対する答弁を出さば、遅蒔きながら主義表明の好機会ともなるべく一挙両得につき、掲載ご承引下されたく候。」(飯倉1994、下278) 
──こう述べて、「与うる書」を『郷土研究』へ掲載することについて承認を求めた。 
これに対して南方は5月19日付書簡で、 
「『郷土研究』は、民俗学の材料報告集覧を主意とせず、制度経済を主として、この学問の趣味を人々におしえこむにある由を、小生のみならず読者一汎に弁明するにははなはだ好都合と思わば、しかるべく御出し下されたく候。」(飯倉1994、下291) 
──こう述べて承知する。 
柳田は5月22日付書簡で、−前に批評を乞うたのは自分の論文にたいしてであった。それを(南方は)「雑誌全体の編輯ぶりの評」かととって批評されたので、前便であのようにこたえたが、「始めより雑誌は雑駁なる内容のものとして二道かくるつもり」であった。「今後学徒出で研究起こるまでの間は日本の社会事項は全体にわたりてもっとも雑駁に記載するつもり」だ。「要するに、小生は一方に偏するをいとうと申せしに、また他の一方に偏せよと言わるることの候いしは当たらず。この御誤解以外別に指示して申すべきことなし。」(飯倉1994、下292−3)──これで、「与うる書」をめぐるやりとりに終止符が打たれた。このあと、柳田は「南方氏の書簡について」を書いた。

 

3 
柳田は南方から『郷土研究』を民俗学専門の雑誌にすることを強要するような調子でいわれたとき、「小生専門はルーラル・エコノミーにして、民俗学は余分の道楽に候。」と返した。実は柳田は「幽冥談」(1905)前後から農政問題の専門家としての活躍に始まる農村研究と、日本民族に固有の不思議と考えた<天狗という不思議>探究に始まる不思議探究と、二つの──公と私、表と裏ともいうべき──系統の著作活動を平行して進めてきており、それをこんな言い方で自らみとめたわけだ。 
南方との書簡を介した付き合いを追ってみて、柳田は南方の助言・批判がきっかけになって、不思議探究の方法を農村研究に援用する──農政学を土台とする『時代ト農政』(1910)までとは別の──農村とのかかわり方を「新しい学問」として模索していると考えた。以下、こう考える次第を述べよう。 
『定本柳田国男集』別巻第五の「書誌」を見ると、明治43/1910年、その記載内容が一変する。12月に『時代ト農政』を刊行して農政問題に関して発言することにけりをつけようとしたことによるのか、その関係のものは『産業組合』誌所載の「産業組合の道徳的分子」(談)だけで、あとは『石神問答』(5月)、『遠野物語』(6月)、「地名雑考」(『歴史地理』誌(2月)ほか。後に『地名の研究』(1936)に収録される)をはじめ、ユニークな探究をすゝめていたことを示す論考が並ぶ。 
こうした変化が友人たちの間で問題にされていることを柳田も気にしていたようで、それをうかがわせるくだりが、南方の大量の原稿の一挙掲載をことわる大正2/1913年6月22日付書簡にある。 
「小生は十五年来の学問主として日本の田園経済を講明するにあり。今日すでに同志の友人より幾分横道にそれたりと批難せられ候折ゆえ、忙しき中で雑誌でも出せばこれは道楽で専門はこの外にとも申し得ず。たとい自分で書かぬまでも今少しエコノミイの方面の材料を紹介せねばならず、」(飯倉1994、下169) 
このくだりは、──『郷土研究』でやろうとしていることは「道楽」(私のタームでいえば不思議探究の系統のこと)で、「エコノミイの方面の材料」はエコノミイ専門の「同志の友人」向けに載せているにすぎない、といっているようにとれる。 
この書簡までに発行ずみの『郷土研究』1巻1〜4号(大正2/1913年3月〜6月)で「エコノミイの方面の材料」と目される論考は、 
1号:「宅地の経済上の意義」(柳田国男)、「ヰナカ」(柳田国男) 
2号:「蒲葵島」(柳田) 
3号:「屋敷地割の二様式」(柳田国男)、「境にを築く風習」(柳田国男) 
4号:「常陸の下館」(柳田) 
以上の6篇、いずれも「小篇」欄に載っている。このほかは、柳田以外の寄稿者のものもふくめて「エコノミイの方面の材料」らしきものは見当たらない。 
この6篇のうち、「宅地の経済上の意義」──これは、「此から諸君の助力の下に屋敷と云ふ問題を少しづつ研究して行きたいと思ふ。経済の学者が米作を農業の如く考へると同じく、地方道(じかたどう)を説く人々は田の事ばかりに重を置いて居た。彼等は畠の問題にさへ甚疎であった。況や宅地の如きは単に農民の容器ぐらゐに考えて居る。」(柳田[1913]1975:32)と始める。──、ならびにその続篇「屋敷地割の二様式」は、「経済の学者」や「地方道(じかたどう)を説く人々」とは目のつけ所が違うが、「エコノミイの方面の材料」とみていいだろう。しかし、「ヰナカ」と「常陸の下館」は後に『地名の研究』に収録されたもので、「経済の学者」の仕事の枠からはみ出している。この傾向は「蒲葵島」、さらに「境にを築く風習」では一層顕著だ。とりわけ後者はこの時期の柳田の主要テーマのひとつであるの研究の一環をなすもので、“エコノミイ”と“不思議探究”とが交錯している。 
ついでに、各号の巻頭の論文をあげよう。 
1号:「郷土研究の本領」(高木敏雄) 
「巫女考」(川村杳樹) 
2号:「巫女考神の口寄を業とする者」(川村杳樹) 
「日本童話考」(高木敏雄) 
3号:「託宣と祭(巫女考の三)」(川村杳樹) 
「英雄伝説桃太郎新論」(高木敏雄) 
4号:「英雄伝説桃太郎新論」(高木敏雄) 
「夷下し、稲荷下し(巫女考の四)」(川村杳樹) 
柳田は「川村杳樹」のペンネームで連載した「巫女考」について、後に「南方氏の書簡について」で、「農村生活誌の真只中であるとおもいます。」とか、「最狭義の経済問題にも触れている。」とかいうが、それは柳田の論理においてであって、「同志の友人」に通用する「エコノミイの方面の材料」ではないだろう。 
だから、「小生は十五年来の学問主として日本の田園経済を講明するにあり。」は事実だろうが、それをさして「専門はルーラル・エコノミー」といったにすぎないのではないか。 
そこで私が注目するのは、この6月22日付書簡の後段、南方への寄稿の要望を述べるなかで、「御研究範囲内におけるもろもろの田舎問題にて新しき本欄的原稿(巻頭の論文のこと。引用者)をも御与え下されたく、(略)雑誌の原稿としては今一段と「紀州俗伝」の方がありがたく、」と述べていることだ。 
柳田はもともと雑誌刊行の計画を語る段階で、農村の青年にたいする「誘導的任務」を念頭に置いた、「信仰生活以外にも弘く日本田舎の生活状態を研究し、新しき題目を提供する雑誌」にしたいとの意向を固めていた。だから、南方が「一国一事物の沿革を徴するに民俗学の必要なること云々」と説き、それを実行にうつしたような「紀州俗伝」の連載に接して、自分が15年来やってきた「田園経済の講明」とは別の「田舎問題」にとりかかる手がかりを見つけたように思ったのではないか。 
だから、南方が高木敏雄の編集担当辞任を話題にしたあとで、高木の方法への批判を兼ねて「古話、伝説、民俗」についての自分の考えを述べた書簡を見てすぐに、「小生のやり方につきても云々」と南方の批判を乞うたのだろう。 
これにこたえた南方の前掲書簡の「民俗学材料」論は柳田にとって示唆に富むものであっただろう。しかし、『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』から「民俗学(フォルクスキュンデ)に関する諸項」を抜き出して、これで「資料を求むる要件綱領」をちゃんと作ってみろと言われると、柳田としては、『郷土研究』を民俗学専門の雑誌にせよといわれたようで憤懣やるかたなく、「かの雑誌は民俗学のための雑誌のようたびたび仰せられ候には迷惑仕り候。」と、批判を乞うたときとはうってかわって激しい言葉づかいで返したのだろう。 
これにたいして、南方がいささか“売り言葉に買い言葉”気味に書いたのが「『郷土研究』の記者に与うる書」だ。 
この「与うる書」(末尾に「大正三年五月十四日午前三時出す」と記された。)を受けとってすぐ柳田は筆を執ったのだろう、5月16日付書簡は「十四日の芳札拝誦。御忠言には従う能わざる点多々に候。」と始める。 
「地方の政治を論ずる雑誌、統計を羅列するもの、事功を録するもの、全国に数十あり。貴下その一をも見ず、全部の事務をやれと言わる。時政を論ずるには千円の保障金を要し、官吏として政治雑誌の主筆たる能わざる慣例あることも御承知なし。」(飯倉1994、下276−7) 
──これは、南方が「地方成立の研究と言わば、これに伴いて必ず地方政治学研究の必要あり。(略)経済と言い政治と言い、地図と統計とを伴わずしては、地方地方のこと精確に知れず。」(飯倉1994、下239)と批判したことへの反論だ。 
さらに、『郷土研究』をルーラル・エコノミーの雑誌だというなら「巫女考」のような論文の掲載は止めるべきだと南方が批判したのにたいして、反論する。 
まず、「論文の方は実は一つずつ両方面に行かんつもりなりしも、「巫女考」、「毛坊主考」(当時、連載中)かたづかず、あてにせし人が書かぬあり。」と述べる。「両方面」とは「ルーラル・エコノミー」と「民俗学」のことで、前に見たように、「ルーラル・エコノミー」関連のものが少ないことへの苦しい言い訳だろう。しかし、それについて次のようにも述べる。 
「「巫女考」のごときもわれわれが意味する地方誌の重要なる一部門なるのみならず、「毛坊主考」のごときは本願寺問題、特種部落問題の解明のつもりにて、尋常迷信の叙述にあらざることはこれを立証し得候。郷土会の報告のごときも、貴下の言わるるごとき価値なきものにあらず。小生が「地名の研究」と共にいずれも以前何人も留意せざりし新事実にして、地方行政の論をなすもの、後々大いにこれらの材料によりて説の膠柱(こうちゅう)を免れ得べきものなり。」(飯倉1994、下277) 
──強弁を弄しているような感じもする。しかし、このあとの5月22日付書簡を読むと、柳田の言わんとすることがわかってくる。 
実は「始めより雑誌は雑駁なる内容のものとして二道かくるつもり」であったと述べ、つづけて、 
「神社合祀でも村結合でも特種部落でも、制度の論を解説するには俗信風習の徹を闡(ひら)くを要せざるもの無之(これなく)、しかもこれを嫌い彼をすていたずらに雑誌の表題にばかり義理立てをしていては外に誰も引き受ける人なく、結局国のためにあらず候につき、今後学徒出で研究起こるまでの間は日本の社会事項は全体に亙りてもっとも雑駁に記載するつもりに候。」(飯倉1994、下292−3) 
──制度について論ずるには、それにかかわる俗信風習について、これまでがどうであったかを闡明することがどうしても必要だ、と述べる。 
「始めより(略)二道かくるつもりなり」というが、始めから両者の関連まで考えてのことであったかどうか。単にあれもこれもと雑駁にならべていただけのことではないか。ところが南方からあれかこれかと迫られた。そこで早くから関心の対象を重層的にとらえて基層に眼を向けようとしてきた柳田としては、あたりまえのこととしてこのような関連づけをしてこたえたのではないか。 
『郷土研究』の読者に向けて書かれた「南方氏の書簡について」で、「ルーラル・エコノミー」を「もし強いて和訳するならば農村生活誌とでもして貰いたかった。何となれば記者が志は政策方針や事業適否の論から立ち離れて、単に状況闡明のみをもってこの雑誌の任務としたいからです。」(飯倉1994、下252−3)こう述べる背後には実は以上のようなやりとりがあったと解すると、「単に状況の記述闡明のみをもって云々」という抽象的な表現も具体性を帯びてくる。また、 
「政治の善悪を批判するのは別に著述が多くあります。地方の事功を録するものは『斯民』その他府県の報告があり過ぎます。ただ「平民はいかに生活するか」または「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするものがこれまではなかった。それを『郷土研究』が遣るのです。」(飯倉1994、下254) 
──こう述べて、この雑誌は「荒野の開拓者」だと気負うのも理解できる。要するに、制度・政策そのものを直接に論ずることはしない。「平民はいかに生活するか」を念頭に置いて、制度・政策にかかわる「俗信風習」を探ることに力を注ごう。論ずるのはそのうえでのことだ、といいたいのだろう。 
柳田は「南方氏の書簡について」を補足するような文章を『郷土研究』2巻5号(大正3/1914年7月)の「雑報及批評」欄に載せている。「編輯室から」と題するが、その一部を引いておく。 
「我々素人が短い余暇を捧げて諸国の話を聞書しているのは、洒落や好事からでは勿論ない。此を基礎とした将来の田舎の問題の決定、即ちいづれは日本民族の生活が変遷せねばならぬとすれば、出来る限幸福なる変遷をさせたいがどうすれば善いかを知ること、仮令それ迄は六つかしいとしても、せめては今の日本人の生活を満足に且つ明白に理解したいと云う為である。」(柳田[1914]1975:63) 
問題は、「俗信風習」をいかにして探るか、つまり資料をどうするか、だ。文書資料には限界がある。口碑の類が主となるだろう。これについて南方には確乎とした「民俗学材料」論がある。柳田はどうするか。信頼できる「材料」を得る方法を見出したとき、柳田の自負する「新しい学問」は現実のものとなるだろう。 
この問題は私にとっても次の課題だ。
 
戦後の日本民族文化起源論 ―その回顧と展望― 

 

本稿は岡正雄・柳田国男の所説に始まり、民博の「日本民族文化の源流の比較研究」をへて、日文研を中心とした「日本人及び日本文化の起源の研究」に至る、戦後の日本民族文化起源論の展開の大要とその間にみられた諸学説の変遷を大観し、あわせてこの種の起源論の直面するいくつかの問題点を指摘したものである。結論として次の4 点を摘記することができる。  
1.日本文化を単一・同質の稲作文化だとするのではなく、それは起源を異にするいくつかの文化化が複合した多元的で多重な構造をもつものだという認識が一連の研究を通じて共有されるようになった。  
2.考古学・人類学・遺伝学その他の隣諸科学の発達とそれらとの協業の成果が起源論の研究に格段の発展をもたらした。その傾向は今後も一層顕著になると思われるが、この種の学際的総合的研究を推進するには、すぐれた研究プロデューサーとそれを支える大型の研究組織が必要である。  
3.日本民族文化起源論の展開は、わが国では日本人のアイデンティティを問うという問題意識に支えられて展開してきたが、最近の国際化の進展などの状況のもとで、この種の問題意識とその理解を求める社会的要請は一層拡大してきている。それに応じることが学界としても必要である。  
4.だが、現下の最大の問題は、組織の問題ではなく人の問題である。大林太良が指摘した如く「最近の若い世代の民族学者に日本民族文化形成論の研究が低調なこと」が今日の難問である。日本民族文化起源論を含め、歴史民族学的課題の克服に、日本の民族学界は、今後どのように対応するのだろうか。
はじめに  
日本の民族学の特色とその動向をとりまとめた『日本民族学の現在―1980 年代から90 年代へ』(1996)の巻頭論文「日本民族学・文化人類学の歴史」のなかで、ヨーゼフ・クライナーは、次のような指摘を行っている。  
「日本における民族学ないし文化人類学的関心の方向が、明治期以来の趨勢として、日本民族の起源の問題に絶えず収斂する傾向が強くみられること」、また「日本人ないし日本民族のアイデンティティを問うという問題意識が(日本の民族学的研究の中に)通奏低音のように存在すること」などが、日本の民族学ないし文化人類学研究に顕著にみられる動向だというのである。さらに「欧米の民族学が民族の起源問題について、自国よりも他国のそれに大きな関心を示す傾向がみられるのに対して、自国の民族起源の問題に強い関心を有するのは、ひとり日本の民族学にみられる特徴であるといえるのではなかろうか」とも述べている(J. クライナー1996: 3)。日本の民族学界の実情を熟知するこのクライナーの発言は、日本民族学の有してきた研究傾向の大きな特色の一つをみごとに指摘したものということができる。  
確かに1945 年、第二次大戦の敗北により、戦前の天皇を中心とした国家観が崩壊し、目標を見失った日本の民族学界や歴史学界などに強烈な刺激を与え、その蘇生に大きな役割を果たしたのも、やはり新しい日本民族文化起源論の提唱であった。それは従来のものとは異る新らたな起源論として、戦後の日本民族学の再出発を象徴するものでもあった。 
1 岡正雄と柳田国男の日本文化起源論  
その新しい日本民族文化起源論の提唱者は、ウィーンで学び、すでに「古日本の文化層」1)という大論文を書いていた岡正雄教授であった。その内容が具体的に示されたのは、1948 年5 月に、岡を中心に石田英一郎が司会し、江上波夫・八幡一郎らが参加した「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という画期的な座談会であった。その記録が翌1949 年9 月に日本民族学会の機関誌『民族学研究』第13 巻3 号に掲載された(石田・岡・江上・八幡1949)。この座談会は大きく2 部で構成されている。  
第1 部は「日本国家の形成と皇室の種族的=文化的系統」、第2 部は「日本民族の源流とその基盤」が、それぞれテーマとされ、民族学者の岡正雄の学説を中心に、歴史学・考古学に詳しい江上・八幡の2 人の意見がそれを補い、活発な議論が展開された2)。 天皇制を中心とするいわゆる「皇国史観」から解放されたばかりで、研究の方向性がまだよく定まっていなかった戦後の日本の学界―民族学ばかりでなく、民俗学・歴史学・考古学その他を含む―に与えた、この座談会の影響は計り知れないほど大きなものであった。そこでの討論、とくに第1 部のそれを基礎にして江上波夫のいわゆる《騎馬民族による征服王朝論》が生み出され(江上1967)、日本古代の国家形成論に大きな影響を与えたことはよく知られている。  
岡自身は、この座談会のあと、その構想を整理して1956 年には「日本民族文化の形成」をまとめ(岡1956)、さらにそれを修正して1958 年には「日本文化の基礎構造」(岡1958b)を発表し、これが岡学説の最終の決定版という形になっている。そこでは民俗学=民族学的方法と先史学的方法によって検証が行われた結果、日本の民族文化は、下記の五つの《種族文化複合》によって構成されていることが明らかになったという。  
 (1) 母系的・秘密結社的・芋栽培―狩猟民文化  
 (2) 母系的・陸稲栽培―狩猟民文化  
 (3) 父系的・「ハラ」氏族的・畑作―狩猟・飼畜民文化  
 (3) 男性的・年齢階梯制的・水稲栽培―漁撈民文化  
 (4) 父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化  
この岡学説についての解説や批判については、大林太良やその他の人たちによるいくつかの論考があり(大林1979: 415–431; 大林1994: 267–277; 蒲生ほか1970: 375–434)、詳しくはそれらに譲るが、岡自身が1930 年代にウィーンで学んだこともあって、この学説にはウィーン学派的なやや図式的なとらえ方といえるような点が少なくない。また、その仮説の立証に用いられた資料などが、今日の視点からみて問題になる個所も少なくない。こうした点からみて、現在の時点で、この岡学説をそのまま認めることは、いう迄もなく不可能である。しかし、相互に関係するいくつかの社会的・文化的特色を「種族文化」という文化の担い手を明確にした一種の文化クラスターとしてとりまとめ、その存在を立証するため、民族学をはじめ民俗学・考古学・言語学などの諸成果を総合的に用いたことなど、その後の日本民族文化起源論の展開に与えた影響は少なくない。そういう点で、岡学説の登場は、戦後の日本民族学の出発点を形づくったものと言っても過言ではない。  
このほか戦前から戦後の時期に民族学の分野において、日本民族文化起源論に大きく寄与した研究者としては、朝鮮半島を主な研究領域として神話や文化史の研究を行った三品彰英(三品1970 〜 1974)や東南アジア民族誌や神話研究に業績のあった松本信広(松本1971; 1978 〜 1979)などをあげることができる。だが、日本民族文化起源論の大きな流れを追う本稿では、それぞれの詳しい紹介は割愛する。  
他方、「日本民俗学の父」といわれた柳田国男は、1961 年にその最後の著作となった『海上の道』(柳田1961)を著わし、日本文化の基礎となる稲作が南島(南西諸島)を経由して伝来したとするユニークな仮説を発表した。この海上の道についての紹介と批判は、私の近著(佐々木2003(上): 10–18)で述べているので詳細はそれに譲るが、柳田が、この時期(そこに掲載された論文の初出の多くは1950 〜 1953 年頃で、柳田の「海上の道」の構想は、この時期にまとめられた)に日本文化=稲作文化の起源論の発表を急いだのには、大きく二つの理由があったと思われる。  
その一つは、1951 年に文化勲章を受章し、学界の最高の指導者となった柳田は、戦後の国民の心のあり方、換言すればナショナル・アイデンティティの回復に強い関心を示すようになった。そのアイデンティティの回復のためには「日本民族の起源の解明」が緊急の課題であり、それと関連して日本民族と不可分な関係にある(と柳田が信じていた)「稲作の伝来」の問題が解決されねばならないと柳田は考えたのである。しかも、先述の「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」の座談会で示された学説、なかでも江上波夫のいわゆる騎馬民族征服王朝説に対し、柳田は強い反発を感じたようである。北からではなく、南からの路をへて、遠い先祖が稲をたずさえてこの国にやってきたことを、柳田はその詩人的な直感と信仰に近い強い信念をもって主張したのである。  
だが、この「海上の道」の学説に対しては、考古学・言語学・歴史学その他の諸分野から、その仮説を実証するに足る事実は認め難いという厳しい批判が続出し、この碩学が提唱された学説は、残念ながら学界から十分な支持をうることはできなかった。しかし、柳田が示した日本文化をイコールで稲作文化とみる考え方は、柳田のもつ学界の権威としての位置づけとも結びつき、その後も日本の学界や言論界に広く根を下ろし、支配的な思潮となったことは確かである。  
この岡・柳田2 人の学説を批判的に継承しつつ、日本文化起源論をさらに展開させようと試みたのが、この2 人とも関係の深かった石田英一郎であった。石田は、民族学・考古学・歴史学などの研究者による共同研究を組織し、『シンポジウム 日本国家の起源』(1966)、『シンポジウム 日本農耕文化の起源』(1968)を手固くまとめたほか、自らも『日本文化論』(1969)を世に問い、そこでは日本語と稲作文化の成立が確実な弥生時代を日本文化の起源の時期として確認できることを強調している。  
このような動きを背景に、日本民族学会でも機関誌『民族学研究』第30 巻4 号(1966年)を「日本民族文化の起源」の特集にあて、民族学(大林太良・竹村卓二)、人類学(金関丈夫)、考古学(国分直一)、言語学(村山七郎)からの論考を掲載したのち、それを総括して大林は、いくつかの新しい視点の導入を指摘した上で、日本民族=文化起源論は一つの専門分野からではなく、学際的な広い視野から研究をすすめる必要性を強調している。この大林の指摘は、1970 年代末以降の国立民族学博物館や国際日本文化研究センターを中心とする共同研究の中で実現されていくことになる。 
2 日本文化形成論へのいくつかのアプローチ  
岡・柳田2 人の碩学の問題提起によってはじまった戦後の日本民族文化起源論に大きな前進がみられたのは、1950 年代末から1970 年代にかけての時期である。それは東南アジアやインド・ヒマラヤ地域へのフィールド・ワークの開始と軌を一にしている。なかでも、日本民族学協会が主催し、1957 年から1963 年にかけて3 次にわたって東南アジアおよびインド・ネパールへ若手の研究者を派遣した「東南アジア稲作民族文化総合調査団」は、ほぼ同時期に活動した「大阪市立大学東南アジア学術調査隊」などとともに、この種の海外学術調査の嚆矢をなすものであった3)。  
第1 次稲作民族文化調査団(団長 松本信広)のメンバーであった岩田慶治は、タイ・ラオス・カンボジアなどでの調査資料をもとにして『日本文化のふるさと』(1966)を著わした。そこでは、東南アジアの諸民族の衣・食・住を中心とする物質文化や稲作農耕の技術や儀礼、あるいは年中行事やカミ信仰などの諸特色に日本文化と類似する多くの特徴のみられることを指摘し、「日本文化の基礎的部分は、いちじるしく南方的なものである」と結論づけている。  
岩田が主としてフィールド・ワークの成果にもとづいて日本民族文化の起源を論じたのに対し、主として浩瀚な文献研究によって、日本民族文化起源論を終始リードしてきたのが大林太良であった。その業績は膨大なもので、『日本神話の起源』(1961)にはじまり『稲作の神話』(1973)、『東アジアの王権神話』(1984)、『日本神話の系譜』(1986a)などとつづく日本神話の起源や系譜をめぐる比較民族学的研究をはじめ、儀礼や習俗、さらには物質文化などの比較研究も行い、『邪馬台国』(1977)や『東と西、山と海』(1990)、『北方の民族と文化』(1991)、『正月の来た道』(1992)そのほか、数多くの著作を刊行し、東北アジアや東南アジアを含めた東アジアの文化史を緻密に再構築し、その中に日本民族文化起源論を位置づけようと試みた。  
その学説の大要は、中国南部の照葉樹林帯から縄文時代の後期頃に「焼畑耕作民文化」が伝来し、その基礎の上に弥生時代の初期頃に「水稲耕作民文化」が渡来して、いわゆる倭人の文化が形成された。その後、主として朝鮮半島から「支配者文化」が渡来して古代国家が成立した。その頃が日本民族の形成に決定的な時期だったというものである。その考えは、比較的初期の論考である「民族学より見た日本人」(『稲作の神話』の第1 章)の中にすでに示されているが、その後の多彩な研究の成果をとりまとめ、彼自身の日本民族文化起源論が体系的に示されることはついになかった。J・クライナー編『日本民族学の現在』(1996)の中に収められた「日本民族の起源」は、きわめて短い論説だが、岡学説と対比しつつ、その後の日本民族文化起源論の展開のあとを、大林自身の学説の変更も含めて述べたものであるが、むしろ同一の主題を、より詳細に東方学会の機関誌上で論じたThe Ethnological Study of Japan’s Ethnic Cultures: A Historical Survey (1991 Acta Asiatica 61) が、もっともまとまった形で示された大林の日本民族文化起源論となっている。  
また、先述の岡正雄の学説を基礎にして、日本の婚姻や社会組織について比較民族学的研究を展開してきたのが江守五夫である。彼は年令階梯制や寝宿、「よばい」や歌垣を伴う《一時的妻訪婚》あるいは双系的社会の特色などは、江南や華南の民族文化に連る南方系の文化的要素だと指摘する。それに対し、《嫁入婚》に伴う多くの婚姻習俗や各種の呪術的婚姻儀礼、さらには「カマド分け」を伴う分家習俗や各種の家族慣行などが、中国東北部の諸民族のそれとよく類似する点などをあげ、北方系の文化要素として父系的親族組織が、日本の基層文化の中に存在したことを主張している(江守1986; 1990 など)。  
さらに民俗学の分野では、坪井洋文が『イモと日本人』(1979)を著わし、日本全土に分布する正月に餅を食べない「餅なし正月」(「イモ正月」)の習俗やその背景、あるいは各地の畑作儀礼などの詳細な分析を行った。その結果、日本文化には「稲作を基軸とする文化類型」のほかに、稲と等価値のイモで象徴される「畑作を基軸とする文化類型」の存在することを見出し、そのことを強く主張した。これは日本文化を単一・同質の稲作文化と規定した柳田国男の考えを否定するものであり、日本の民族文化の特質を、どう捉えるかという点をめぐり、この坪井の主張は学界に大きな影響を与えた。  
また、考古学者の国分直一は民族学・民俗学的研究にも高い関心を示し、『日本民族文化の研究』(1970)や『環シナ海民族文化考』(1976)、『日本文化の古層』(1992)はじめ多くの著書を世に送り、日本の基層文化の形成を環シナ海文化の動態の中で把握しようと試みた。  
以上述べたいくつかのアプローチのほかに、大林太良によると日本文化形成論に「大きな刺激を与え、新しい展開を促進させたのが農学者の中尾佐助が提唱した、照葉樹林文化論であった」という(大林1986b: 2)。それは「学界ばかりでなく、一般読者の関心も惹いた」といわれている。この照葉樹林文化論というのは4)、ヒマラヤの中腹から雲南高地・江南の山地をへて西南日本に連る照葉樹林帯には、さまざまな共通の文化要素が存在する。それによって特徴づけられる「照葉樹林文化」とよぶ特有の文化クラスターの存在に注目し、それを手掛りにして東アジアの文化史を分析しようとする学説で、日本の基層文化の形成にも江南や華南の照葉樹林文化の影響が少なくないと考えるものである。  
1966 年に中尾により提唱されて以後(中尾1966)、佐々木もその共同研究に加わり、『続・照葉樹林文化』(上山・佐々木・中尾1976)、さらにそれを受けた『照葉樹林文化の道』(佐々木1982)などの著作で、照葉樹林文化論の大綱を示している。また佐々木は『稲作以前』(1971)を著わし、自らの東南アジア・インドでのフィールド・ワークの成果と照葉樹林文化論の枠組などを用いて、水田稲作の伝来以前に日本列島に焼畑を基軸とする農耕とその文化が存在したことを推論した。この照葉樹林文化を基調とする日本文化形成論の論点は、先述の大林や江守、あるいは坪井らの日本文化起源論と照応するところが少なくない。1970 年代後半になって日本民族文化起源論に一つの方向が見られるようになってきたといえる。 
3 日本文化の源流の比較研究―民博を中心とした学際的研究  
1950 年代から開始された九学会連合による国内各地の総合調査や前述の民族学協会による東南アジアの稲作民族文化の総合調査など、1960 年代から1970 年代にかけて国内外における調査研究が次第に盛んになった。それに伴い、民族学や人類学・考古学を中心に、関係諸科学の分野における資料の蓄積と学説の整備がすすめられた。これらの資料の蓄積と学説のとりまとめに、一定の役割を演じたのが国立民族学博物館(民博)における日本文化源流の研究プロジェクトであったということができる。  
民博は、1974 年に日本万国博覧会の跡地に創設された国立大学共同利用機関で、わが国における唯一の大規模な民族学の研究・情報センターである。創設後、建築を行い、展示の準備をすすめ、1977 年11 月に開館することができた。その翌1978 年から、民博では学界における重要な研究テーマを選び、長期にわたり総合的計画的に研究を行う「特別研究」のプロジェクトを発足させたが、その一つが10 年計画の「日本民族文化の源流の比較研究」のプロジェクト(代表 佐々木高明)であった。  
まさに日本民族文化の起源の研究を指向するプロジェクトで、まず初年目に全体の構想と計画が検討された。それは第2 年度(1979 年)から毎年、研究のテーマとその責任者を決め、国内外の専門家によるタイトな共同研究を組織し、年度末に4 日間にわたるシンポジウムを開催して、その成果を各責任者が編集して単行本として出版するというものであった。各年度の研究テーマと研究責任者・研究成果の刊行物は表1 に示した通りである。  
いま、その報告の一つひとつについて詳論することはできないが、例えば初年度(1979 年度)の「農耕文化」の研究では、イモ類、雑穀類、北方系作物、稲作、家畜などにつき作物学や遺伝学の立場からの詳しい報告があり、ついで稲作文化、人口、食事文化、神話などについての民族学からの報告があって、それらを受けて、考古学者や民俗学者なども加わり、日本農耕文化の源流をめぐって総合的な討論が行われている5)。このような自然科学の諸分野も含めた学際的な研究の展開が、このプロジェクトの全体を通ずる大きな特色となったということができる。  
  表1 国立民族学博物館における日本民族文化の源流の比較研究プロジェクト  
  年度  研究テーマ       責任者と刊行物*  
  1978  研究の方法と計画   館内の覚書き  
    79  農耕文化        佐々木高明(編)、1983  
    80  シャマニズム      加藤九祚(編)、1984  
    81  音楽と芸能       藤井知昭(編)、1985  
    82  すまい          杉本尚次(編)、1984  
    83  社会組織―イエ・ムラ・ウジ 竹村卓二(編)、1986  
    84  民間伝承        君島久子(編)、1989  
    85  狩りと漁労        小山修三(編)、1992  
    86  日本語の形成      崎山理(編)、1990  
    87  まとめ(補遺)        佐々木高明・大林太良(共編)、1991  
      *具体的な書名、出版社などは引用文献の項に詳細を示した。  
「シャマニズム」の研究では北と南の文化的系統が問題になり、「音楽と芸能」では律音階や民族音階、多声性など音楽文化の基層にみられる特色と民族学が復元する文化クラスター(例えば照葉樹林文化)との関係が問題になった。「すまい」の研究では、民家研究にはすでに大きなデータの集積があったので、それをもとに地理学や考古学、とくに建築学との共同研究の成果が注目された。また「社会組織」の研究では、日本民俗社会の特色を東アジア社会との社会人類学的な比較研究から明らかにする第1 部と日本史学の立場から「ウジからイエへ」を論ずる第2 部および考古学を中心に先史社会の復元を行う第3 部から成り、イエを基調とする日本民俗社会の特質が終始問題とされた。  
さらに「民間伝承」では神話・昔話・伝説等を対象に、北アジアから東南アジアに至る広い地域の比較研究とその系譜の追求が試みられた。また「狩りと漁撈」では生態学のほか民族学や民俗学、さらには考古学からの情報提供も生かして、縄文社会の復元とその源流を見定めようとし、「日本語の形成」では民族学者のほか、日本列島周辺の諸言語の専門家に国語学者も混じえての討論が展開された。その結果「日本列島においては縄文時代を通じ、長期間にわたる複数の言語の併存と言語接触の結果、遅くとも弥生時代に日本語は混合語として成立した」という点が、全体として了解されたようである。この点は、この民博プロジェクトにおける貴重な結論の一つということができる。  
1988 年1 月に実施された最終のシンポジウムでは「まとめ」のほか、補遺として「日本人の成立」や「日本の中の異族」の問題などがとりあげられ、総括討論では日本民族文化の形成過程において、三つの大きな画期―1縄文時代前〜中期、2弥生時代初期、3古墳時代(支配者文化形成期)―のあることが指摘され、その意義が論ぜられた。  
全体として、この民博を中心とした日本民族文化の源流を追求する研究プロジェクトにおいては、民族学を中心に民俗学・考古学・歴史学・言語学・音楽学などをはじめ、生態学・人類学・作物学・遺伝学など自然科学の分野まで広くカバーする学際的な研究の展開が、その研究上の大きな特色となった。また、時間軸としては縄文時代が源流論の一つの原点として捉えられるとともに、先述の三つの画期とともに、テーマによっては中世・近世にまで、その視野が拡大された。また空間的には北東アジアから東南アジアに至る東アジアの地域が主な比較研究の対象地域となり、「北からの道・南からの道」をへて、日本列島に到達したいくつもの文化の流れが重層して日本民族文化が形成されたとみる見方が、全体として定着したとみて差し支えない。  
このプロジェクトは1980 年代から1990 年代にかけて日本民族文化の起源論の形成に大きな影響を与えた。プロジェクトを主宰した佐々木は『日本史誕生』(1991)で旧石器時代から稲作の伝来までの日本の基層文化の形成過程を大観し、さらに『日本文化の多重構造』(1997)では《照葉樹林文化》《ナラ林文化》《稲作文化》という文化の大類型の概念を駆使して、主として民族学の立場から、日本文化が多元的で多重な構造をもつことを強く主張した。 
4  日本人及び日本文化の起源の研究―人類学を中心としたプロジェクト  
1987 年、国立民族学博物館と同じ大学共同利用機関の一つとして、京都に国際日本文化研究センター(日文研)が創設された。同センターは「日本文化の学際的・総合的な研究と世界の日本研究者への研究協力」を目的として設置されたもので、発足の時から人文・社会科学系の研究者のみではなく自然科学系の研究者もメンバーに加え、文字通り学際的・総合的な日本文化研究をめざしていた。  
その中心の1人が人類学者の埴原和郎で、日文研創設の直後から「日本文化の基本構造とその自然的背景」という共同研究を立ち上げ、その成果は『日本人と日本文化の形成』(1993)という報告書にまとめられた。自然人類学を中心に歴史学・日本文学・言語学・考古学・民族学・民俗学・遺伝学・生態学など、学際的できわめて多彩な研究の成果がまとめられた。こうした研究動向を背景に、1997 年度から当時、日文研の教授であった人類学者の尾本恵市を代表者とする文部省科学研究費重点領域研究「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」のプロジェクトが発足し、2000 年度まで4 年にわたって研究がつづけられた。その研究の概要を、このプロジェクトの総括班の1 人であった私は、成果報告書の中で、ほぼ次のように述べている(佐々木2002: 55–56)。  
この研究では、当初から「自然環境」「人類学」「考古学」「日本文化」の四つの研究班が編成され(表2 参照)、各班単位で研究活動をすすめるとともに、随時、横断的な研究集会やシンポジウムが実施され、学際的な研究交流を行う形で進められた。自然環境班では日本海の海底堆積物や有孔虫殻の酸素同位体分析、その他などにより古環境の復元を行うとともに、古人骨の炭素・窒素同位体分析や栽培植物のDNA 分析などを通じて、古代人の食性、あるいは栽培化や家畜化の時期およびそのプロセスや渡来のルートなどについて、各種の新しい資料を提供した。人類学班では、埴原和郎の提唱した「二重構造モデル」の検証を中心に、形態研究と分子レベルの研究の双方から縄文人と渡来弥生人の分析を行い、日本列島における基層集団と渡来集団の二重構造は認められるが、基層集団の起源については、なお不明な点が少なくないという結論に達している。  
考古学班では、旧石器〜縄文時代、縄文〜弥生時代、弥生〜古墳時代の各変革期の生活と文化を明らかにするため、全国から代表的な遺跡13 箇所を選び、その発掘調査を行うとともに、資料集29 冊、論文集(「先史時代の生活と文化」)1 冊を刊行した。組織的な調査にもとづく実証的資料の蓄積がすすむとともに、日本文化の形成をめぐるいくつかの新しい視点も見出された。日本文化班では、表2 に示した共通テーマのもとに中国西南部地域や長江流域の民俗文化、あるいは東北アジアやアイヌの文化、さらには南西諸島の伝統文化などとの比較研究を行うとともに、渡来文化や日本文化の自律性についての分析を行い、きわめて多様な視点から日本文化の多重性に迫ったということができる。  
全体として、自然科学系の研究では、例えばDNA 分析など、最新の研究方法による新しい研究の成果の多くが、人文科学系の研究者にも利用できる形で提供された。この点が、さきの民博の源流プロジェクトと比べ大きく進歩した点のひとつである。他方、考古学の分野では最近の発掘調査の諸成果の報告と検証が丹念に行われ、日本文化の研究では中国や韓国など東アジア地域との比較民俗学的研究の報告が目をひいた。アジア的視野に立つ、日本人及び日本文化の研究が、ようやく本格的に展開しはじめたという感が深い。  
だが、この研究プロジェクトの成果に問題がないわけではない。学際的・国際的な総合研究をめざしながら、当初から四つの研究班構成で始めたこの研究は、さまざまな配慮にもかかわらず、日本人・日本文化の起源について、必ずしも学際的・総合的な視点からまとまった結論を出すことはできなかった。さらに残念なことは、総合的な研究をまとめた書冊の出版も実現せず、今日に至っていることである。  
  表2 日本人および日本文化の起源に関する学際的研究の組織  
  研究班の名称(代表者)  研究テーマ  
  自然環境(小泉格)     日本先史時代の自然と文化的環境の研究  
  人類学(馬場悠男)     形態と分子からみる日本人の起源と形成に関する研究  
  考古学(春成秀爾)     先史時代の生活と文化  
  日本文化(千田稔)     日本文化の源流と形成に関するアジア諸地域との比較研究  
  総括(尾本恵市)      研究の計画・活動の企画調整、成果の評価  
だが、そこには特殊な事情も存在する。この「日本人・日本文化の起源」の研究プロジェクトが終了した直後から、NHK スペシャル「日本人はるかな旅」という大型企画が動き出し、5 回の長時間連続番組としてテレビ放映され人気を博した。さらに、その各回に対応する全5 冊のシリーズ、『日本人はるかな旅』(2001〜2002 年)(第1巻「マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」、第2 巻「巨大噴火に消えた黒潮の民」、第3 巻「海が育てた森の王国」、第4 巻「イネ、知られざる1 万年の旅」、第5巻「そして“日本人”が生まれた」)がつづけて刊行された。「日本人・日本文化の起源」の研究プロジェクトに参加した主要メンバーの多くが、この番組の編成と出演に加わり、さらに書籍の刊行にも関係して、『日本人はるかな旅』の5 冊のシリーズは、実際には研究プロジェクトの成果を、わかりやすい形で社会に提供する場となったのである。  
この事実は「日本人と日本文化の起源」をめぐる問題が、アカデミックな世界だけではなく、もっと広く世間一般の興味をひく問題であり、したがって、ジャーナリズムが積極的にとりあげる課題にもなったことをよく示している。「日本人・日本文化の起源」の研究プロジェクトの成果をとりまとめた独自の書冊の出版が実現しなかった背景には、こうした事情が存在している。  
このような問題点を含め、日本民族文化起源論をめぐる今日的な課題および今後についての若干の展望を、次に示す4 点ほどにまとめ、本稿のささやかな結びとすることにしたい。 
5 日本民族文化起源論の課題と展望  
第2次大戦直後の岡正雄らによる問題提起にはじまり、最近の日文研を中心とした「日本人・日本文化の起源」の研究プロジェクトに至るまで、戦後における日本民族文化起源論の経て来た道の大筋を概観してきたが、そこにはいくつかの特色と問題が存在するようである。  
1 このような一連の研究を通じ、日本文化が多元的で多重な構造をもつという認識が広く共有されるようになったことがまずあげられる。前述のように、柳田国男は、一国民俗学の立場に立ち、日本文化を単一・同質の稲作文化だと想定してきた。石田英一郎はじめ、この見解をサポートしてきた研究者は少なくない。それに対し、岡学説にはじまる民族学を中心とする日本民族文化の起源論は、アジア諸地域の民族文化との比較研究の成果を背景として、日本列島へは北や南からのいくつものルートを経てさまざまな文化が流入し、それらが重なり合って日本文化が形成されたと考えるようになった。それに伴い、日本の基層文化の形成についても、少なくとも縄文時代までは視野に入れて考察することが一般的になったということができる。日本語が混合語の一種として捉えられ、その形成が論じられるようになったのも、日本文化の多元的起源論に照応する研究の進展だということができる。  
2 上述の民族学を中心とした日本文化の多元的起源論の展開を支えたのは、考古学、人類学などの隣接諸科学の研究成果の蓄積が重要であるが、さらにその研究の展開を助長したのは、遺伝学や生態学、地球化学や分子生物学その他の自然科学の分野における研究の著しい進歩があり、そうした先端科学の諸成果の文化起源論への応用がある。なかでもDNA 分析による研究の展開は、人類の進化や拡散、作物や家畜などの起源や伝播の問題などの解明に寄与するところが少なくない。しかし、こうした自然科学系の研究が進展すればするほど、研究分野が細分化され、精緻化されて人文・社会科学系の研究者との会話が難しくなる傾向がある。日本文化の起源を学際的・総合的に論じようとする場合、この点が今後ますます難しくなることが想定されるのである。  
佐々木高明・森島啓子編『日本文化の起源―民族学と遺伝学の対話』(1993)は、総合研究大学院大学の共同研究の成果報告の一部として刊行されたものだが、そこでは、民族学と遺伝学の対話の中から日本文化の起源の問題への具体的なアプローチがいくつか試みられた。しかし、それ以後、こうした試みが継続的に展開された事例は、ほとんどみられないようである。  
3 本稿の冒頭で、日本の民族学的研究の中には「日本人ないし日本民族のアイデンティティを問うという問題意識が通奏低音のように存在すること」を、J・クライナーが指摘していることを述べた。だが、最近では、それが通奏低音ではなく主題の一つとして演奏されるようになってきたようである。前述のように、尾本を代表者とした「日本人と日本文化の起源」の研究プロジェクトの成果が、NHK の長時間番組の基礎になり、その番組をもとに編集された『日本人はるかな旅』(全5 冊)が、日文研プロジェクトの実質的な報告書になったという事実は、そのことをよく示している。おそらくその背景には、最近における知的大衆の成長と国際化や多文化社会の進展によって、日本人や日本文化のアイデンティティを問うという意識が巷間に著しく拡がったことがある。それをうけてジャーナリズムが、この種の問題に強い関心を示し始めたということであろう。その構造は「邪馬台国問題」を中心とした古代史ブームの展開と類似したところが少なくない。学界として、こうした社会的要請に対し、何らかの形でそれに応ずる必要性があるのではなかろうか。  
4 最後にもう一つ考慮すべき点は、自然科学分野の研究の進展に伴い、各種の新しい研究の成果が数多く出現し始めると、それらを総合的に理解し、わかりやすくまとめていくには、かなりの知識とテクニックを必要とし、それにはある種のプロデューサーを必要とすることである。日本人と日本文化の起源の問題を、学際的・国際的・総合的に進めていくためには、それなりのすぐれたプロデューサーが必要だということであろう。  
さらに、このような総合的な研究を実質的に進展させるためには、すぐれたプロデューサーだけでなく、大型の共同研究を十全の形で進めていくための研究体制の整備が何よりも必要なことは言うまでもない。現代は戦前の鳥居龍蔵、岡正雄のように、個人の力で日本文化起源論を展開させるという時代ではなくなっている。今までにくり返し述べてきたように、最近では自然科学や人文・社会科学のさまざまな分野の精細な研究成果を持ち寄り、それらを総合して日本文化の起源論が構成されるようになってきている。したがって、この種の起源論のより一層の発展のためには、しっかりした研究の協業のシステムの構築が必要である。そのためにはすぐれたリーダーあるいはプロデューサーがまず必要であり、それをバックアップするしっかりした研究組織が必要である。  
わが国における現在の状況では、2004 年に国立歴史民俗博物館・国文学研究資料館・国際日本文化研究センター・総合地球環境学研究所および国立民族学博物館の五つの研究機関によって、新しく構成されることになった巨大な研究組織である大学共同利用機関法人・人間文化研究機構が、この種の専門分野を超える大型の研究プロジェクトを組織し、学際的・総合的に「日本民族文化の起源」の問題に取り組むことが、もっとも適当なのではないかと私は考えている。  
ところが、この種の大型の研究プロジェクトが、例え立ち上げられたとしても、なお、大きな問題点として残るものがある。それは大林太良がすでに指摘したように「この第三期の研究(大林・江守・坪井・佐々木らに代表される戦後第一世代の研究  
のこと)を受けつぐ、より若い世代の民族学者による日本民族文化形成論の研究が低調なことが、今日の難問になっている」(大林1996: 165)ことである。  
最近の若い民族学の研究者たちの間で、この種の問題の研究への関心がきわめて低く、日本民族文化起源論というような歴史民族学的な課題はほとんど無視されているといっても過言ではない。隣接の人類学や考古学の分野などでは、日本人や日本文化の起源に関心を抱く若い研究者の数は少なくない。それに対し、民族学の分野におけるこのような状態はきわめて深刻である。  
歴史民族学的な研究が、古い手垢のついた研究として、それへの関心が著しく低下したこと、さらにこの点もすでにJ・クライナーが指摘した「民族学の対象がエトノス=民族から遠く離れ、かなり一般的・普遍的な概念である文化に向かって大きく推移してきた」(J. クライナー1996: 8)という日本民族学界(文化人類学界)の現状が、こうした問題を生み出す大きいな要因だと考えられるのである。  
この点を、今後、どのように克服していくのか。日本民族文化の起源、その形成過程の解明の問題にかかわって、あるいはもう少し一般化してエトノス=民族にかかわる文化史の問題をどのようにとり扱い、その研究の展開をどのように図ろうとするのか。日本の民族学界(文化人類学界)は、今後に大きな課題を残しているようである。  
このような課題の解決に向け、積極的で具体的な方向性が一日も早く見い出されることを、本稿を終るに当って私は強く望むところである。 
注  
1) 岡は「25 年の後に」(岡1958a)という回想録の中で、この論文が1933 年にウィーンですでに出来上がっていたという。その目次は、岡の主要論文を集成した『異人その他』(1979)に収録されており、この論文の内容その他については住谷が詳しく述べている(住谷1979)。  
2) この座談会の記録は、詳しい注を付して、その後『日本民族の起源』として刊行され、一般市民にも広く知られるようになった(石田・江上・岡・八幡1958)。  
3) 戦後の日本経済の発展と外貨事情の好転とともに、文部省は1963 年に「科学研究費補助金」に「海外学術調査」の枠を設けることに踏み切ったが、初期の補助金の規模は小さいものであった(1963 年に最初に海外学術調査の補助金を交付された7 隊のうちの一つに「東南アジア稲作民族文化総合調査団」の第3 次隊がある。そのときの記憶では補助率は全経費の50% にはるかに満たない程度であった)。しかし、その後、日本経済の発展とともに、この種の補助金の額は急激に増加し、1970 年代以降のわが国の海外学術調査の盛行を担保することとなった(海外学術調査に関する総合調査研究班『海外学術調査・最近10 年間の成果と動向』1988 による)。  
4) 照葉樹林文化論については、私の最近の著作『照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明』(2007)において、その文化の特色を概説するとともに、中尾を中心にして照葉樹林文化論が成立・展開してきたプロセスを詳しく論じている。  
5) その過程で中尾佐助によりナラ林文化(東北アジアのモンゴルナラを中心とするナラ林帯に特有な文化クラスターの存在を考える学説)の提唱が行われた。 
文献  
石田英一郎 1969 『日本文化論』東京:筑摩書房(『石田英一郎全集3』1970 所収)。  
石田英一郎・岡 正雄・江上波夫・八幡一郎 1949 「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」『民族学研究』13(3): 207–277。  
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石田英一郎編 1966『シンポジウム 日本国家の起源』東京:角川書店。  
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国分直一 1970 『日本民族文化の研究』(考古民俗叢書7)東京:慶友社。1976 『環シナ海民族文化考』(考古民俗叢書15)東京:慶友社。1992 『日本文化の古層―列島の地理的位相と民族文化』東京:第一書房。  
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佐々木高明編 1983 『日本農耕文化の源流―日本文化の原像を求めて』東京:日本放送出版協会。2002 「日本文化の起源をめぐる研究―戦後の共同研究の流れの中での位置づけと評価」『日本人および日本文化の起源に関する学際的研究 研究成果報告書I』国際日本文化研究センター特定領域研究「日本人・日本文化」事務局。  
佐々木高明・大林太良編 1991 『日本文化の源流―北からの道・南からの道』東京:小学館。  
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竹村卓二編 1986 『日本民俗社会の形成と発展―イエ・ムラ・ウジの源流をさぐる』東京:山川出版社。  
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中尾佐助・佐々木高明 1992 『照葉樹林文化と日本』東京:くもん出版。  
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藤井知昭編 1985 『日本音楽と芸能の源流―日本文化の原像を求めて3』東京:日本放送出版協会。  
松本信広 1971 『日本神話の研究』東京:平凡社(東洋文庫180)。1978〜79 『日本民族文化の起源』(全3 冊)東京:講談社。  
三品彰英 1970〜74 『三品彰英論文集』1 〜 6 巻 東京:平凡社。  
柳田国男 1961 『海上の道』東京:筑摩書房(『定本 柳田国男集』第1 巻、1963 所収)。  
 
姨捨山 / 楠山正雄
 

 


むかし、信濃国(しなののくに)に一人(ひとり)の殿様(とのさま)がありました。殿様(とのさま)は大(たい)そうおじいさんやおばあさんがきらいで、
「年寄(としより)はきたならしいばかりで、国(くに)のために何(なん)の役(やく)にも立(た)たない。」
といって、七十を越(こ)した年寄(としより)は残(のこ)らず島流(しまなが)しにしてしまいました。流(なが)されて行った島(しま)にはろくろく食(た)べるものもありませんし、よしあっても、体(からだ)の不自由(ふじゆう)な年寄(としより)にはそれを自由(じゆう)に取(と)って食(た)べることができませんでしたから、みんな行くとすぐ死(し)んでしまいました。国中(くにじゅう)の人は悲(かな)しがって、殿様(とのさま)をうらみましたけれど、どうすることもできませんでした。
すると、この信濃国(しなののくに)の更科(さらしな)という所(ところ)に、おかあさんと二人(ふたり)で暮(く)らしている一人(ひとり)のお百姓(ひゃくしょう)がありました。ところがおかあさんが今年(ことし)七十になりますので、今(いま)にも殿様(とのさま)の家来(けらい)が来(き)てつかまえて行きはしないかと、お百姓(ひゃくしょう)は毎日(まいにち)そればっかり気(き)になって、畑(はたけ)の仕事(しごと)もろくろく手がつきませんでした。そのうちとうとうがまんができなくなって、「無慈悲(むじひ)な役人(やくにん)なんぞに引(ひ)きずられて、どこだか知(し)れない島(しま)に捨(す)てられるよりも、これはいっそ、自分(じぶん)でおかあさんを捨(す)てて来(き)た方(ほう)が安心(あんしん)だ。」と思(おも)うようになりました。
ちょうど八月十五|夜(や)の晩(ばん)でした。真(ま)ん丸(まる)なお月(つき)さまが、野(の)にも山にも一|面(めん)に照(て)っていました。お百姓(ひゃくしょう)はおかあさんのそばへ行って、何気(なにげ)なく、
「おかあさん、今夜(こんや)はほんとうにいい月(つき)ですね。お山に登(のぼ)ってお月見(つきみ)をしましょう。」
といって、おかあさんを背中(せなか)におぶって出かけました。
さびしい野道(のみち)を通(とお)り越(こ)して、やがて山道(やまみち)にかかりますと、背中(せなか)におぶさりながらおかあさんは、道(みち)ばたの木の枝(えだ)をぽきんぽきん折(お)っては、道(みち)に捨(す)てました。お百姓(ひゃくしょう)はふしぎに思(おも)って、
「おかあさん、なぜそんなことをするのです。」
とたずねましたが、おかあさんはだまって笑(わら)っていました。
だんだん山道(やまみち)を登(のぼ)って、森(もり)を抜(ぬ)け、谷(たに)を越(こ)えて、とうとう奥(おく)の奥(おく)の山奥(やまおく)まで行きました。山の上はしんとして、鳥(とり)のさわぐ音(おと)もしません。月(つき)の光(ひかり)ばかりがこうこうと、昼間(ひるま)のように照(て)り輝(かがや)いていました。
お百姓(ひゃくしょう)は草(くさ)の上におかあさんを下(お)ろして、その顔(かお)をながめながら、ほろほろ涙(なみだ)をこぼしました。
「おや、どうおしだ。」
とおかあさんがたずねました。お百姓(ひゃくしょう)は両手(りょうて)を地(ち)につけて、
「おかあさん、堪忍(かんにん)して下(くだ)さい。お月見(つきみ)にといってあなたを誘(さそ)い出(だ)して、こんな山奥(やまおく)へ連(つ)れて来(き)たのは、今年(ことし)はあなたがもう七十になって、いつ島流(しまなが)しにされるか分(わ)からないので、せめて無慈悲(むじひ)な役人(やくにん)の手(て)にかけるよりはと思(おも)ったからです。どうぞがまんして下(くだ)さい。」
といいました。
するとおかあさんは驚(おどろ)いた様子(ようす)もなく、
「いいえ、わたしには何(なに)もかも分(わ)かっていました。わたしはあきらめていますから、お前(まえ)は早(はや)くうちへ帰(かえ)って、体(からだ)を大事(だいじ)にして働(はたら)いて下(くだ)さい。さあ、道(みち)に迷(まよ)わないようにして早(はや)くお帰(かえ)り。」
といいました。
お百姓(ひゃくしょう)はおかあさんにこういわれると、よけい気(き)の毒(どく)になって、いつまでもぐずぐず帰(かえ)りかねていましたが、おかあさんに催促(さいそく)されて、すごすごと帰(かえ)って行きました。
道々(みちみち)捨(す)ててある木の枝(えだ)を頼(たよ)りにして歩(ある)いて行きますと、長(なが)い山道(やまみち)にも少(すこ)しも迷(まよ)わずにうちまで帰(かえ)りました。「なるほど、さっきおかあさんが枝(えだ)を折(お)って捨(す)てて歩(ある)いたのは、わたしが一人(ひとり)で帰(かえ)るとき、道(みち)に迷(まよ)わないための用心(ようじん)であったか。」と今更(いまさら)おかあさんの情(なさ)けがしみじみうれしく思(おも)われました。そんな風(ふう)でいったん帰(かえ)りは帰(かえ)ったものの、縁先(えんさき)に座(すわ)って、一人(ひとり)ぽつねんと山の上の月(つき)をながめていますと、もうじっとしていられないほど悲(かな)しくなって、涙(なみだ)がぼろぼろ止(と)めどなくこぼれてきました。
「あの山の上で、今(いま)ごろおかあさんはどうしていらっしゃるだろう。」
こう思(おも)うともうお百姓(ひゃくしょう)はどうしてもこらえていられなくなりました。そこで夜更(よふ)けにはかまわず、またさっきのしおり道(みち)をたどって、あえぎあえぎ、おかあさんを捨(す)てて来(き)た山奥(やまおく)まで上(あ)がって行きました。そこに着(つ)いてみると、おかあさんはちゃんと座(すわ)ったまま、目をつぶっていました。お百姓(ひゃくしょう)はその前(まえ)に座(すわ)って、
「おかあさんを捨(す)てたのはやはりわたくしが悪(わる)うございました。こんどはどんなにしてもおそばについてお世話(せわ)をいたしますから。」
といって、おかあさんをまたおぶって山を下(くだ)りました。
それにしてもこのままおけば、いつか役人(やくにん)の目にふれるに違(ちが)いありません。お百姓(ひゃくしょう)はいろいろ考(かんが)えたあげく、床(ゆか)の下に穴倉(あなぐら)を掘(ほ)って、その中におかあさんをかくしました。そして毎日(まいにち)三|度(ど)三|度(ど)ごぜんを運(はこ)んで、
「おかあさん、御窮屈(ごきゅうくつ)でも、がまんをして下(くだ)さい。」
と、いろいろにいたわりました。これでさすがの役人(やくにん)も気(き)がつかずにいました。

それからしばらくすると、ある時(とき)お隣(となり)の国(くに)の殿様(とのさま)から、信濃国(しなののくに)の殿様(とのさま)に手紙(てがみ)が来(き)ました。あけてみると、
「灰(はい)の縄(なわ)をこしらえて見(み)せてもらいたい。それが出来(でき)なければ、信濃国(しなののくに)を攻(せ)めほろぼしてしまう。」
と書(か)いてありました。その国(くに)は大(たい)そう強(つよ)くって、戦争(せんそう)をしてもとても勝(か)つ見込(みこ)みがありませんでした。殿様(とのさま)は困(こま)っておしまいになって、家来(けらい)たちを集(あつ)めて御相談(ごそうだん)なさいました。けれどだれ一人(ひとり)灰(はい)の縄(なわ)なんぞをこしらえることを知(し)っている者(もの)はありませんでした。そこでこんどは国中(くにじゅう)におふれを出(だ)して、
「灰(はい)の縄(なわ)をこしらえてさし出(だ)したものには、たくさんの褒美(ほうび)をやる。」
と、告(つ)げ知(し)らせました。
すると、何(なに)しろ灰(はい)の縄(なわ)が出来(でき)なければ、今(いま)にもこの国(くに)は攻(せ)められて、ほろぼされてしまうというので、国中(くにじゅう)のお百姓(ひゃくしょう)は寄(よ)るとさわるとこの話(はなし)ばかりしました。
「だれか灰(はい)の縄(なわ)をこしらえる者(もの)はないか。」
こういってさわぐばかりで、一向(いっこう)にいい考(かんが)えは出ませんでした。
お百姓(ひゃくしょう)はふと、「これはことによったらうちのおかあさんが知(し)っているかも知(し)れない。」と思(おも)いつきました。そこで、そっと穴倉(あなぐら)へ行って、おふれの出たことを詳(くわ)しく話(はな)しますと、おかあさんは笑(わら)って、
「まあ、それは何(なん)でもないことだよ。縄(なわ)によく塩(しお)をぬりつけて焼(や)けば、くずれないものだよ。」
といいました。
お百姓(ひゃくしょう)は、「なるほど、これだから年寄(としより)はばかにできない。」と心(こころ)の中で感心(かんしん)しました。そしてさっそくいわれたとおりにして、灰(はい)の縄(なわ)をこしらえて、殿様(とのさま)の御殿(ごてん)へ持(も)って行きました。殿様(とのさま)はびっくりして、御褒美(ごほうび)のお金(かね)をたんと下(くだ)さいました。
とても出来(でき)まいと思(おも)った灰(はい)の縄(なわ)を出(だ)して渡(わた)されたので、お隣(となり)の国(くに)の使(つか)いはへいこうして逃(に)げて行きました。

しばらくすると、またお隣(となり)の国(くに)の殿様(とのさま)から、信濃国(しなののくに)へお使(つか)いが一つの玉(たま)を持(も)って来(き)ました。いっしょにそえた手紙(てがみ)を読(よ)むと、この玉(たま)に絹糸(きぬいと)を通(とお)してもらいたい。それが出来(でき)なければ、信濃国(しなののくに)を攻(せ)めほろぼしてしまうと書(か)いてありました。
殿様(とのさま)はそこで、その玉(たま)を手に取(と)ってよくごらんになりますと、玉(たま)の中にごく小(ちい)さな穴(あな)が曲(ま)がりくねってついていて、どうしたって糸(いと)の通(とお)るはずがありませんでした。殿様(とのさま)は困(こま)って、また家来(けらい)たちに御相談(ごそうだん)なさいましたが、家来(けらい)たちの中にもだれ一人(ひとり)、この難題(なんだい)をとく者(もの)はありませんでした。そこでまた国中(くにじゅう)へおふれを出(だ)して、曲(ま)がりくねった玉(たま)の穴(あな)に絹糸(きぬいと)を通(とお)す者(もの)があったら、たくさんの褒美(ほうび)をやると告(つ)げ知(し)らせました。これでまた国中(くにじゅう)のさわぎになりました。けれどやはりだれにも変(か)わった智恵(ちえ)の持(も)ち合(あ)わせはありませんでした。
すると、こんどもお百姓(ひゃくしょう)は穴倉(あなぐら)へ行って、おかあさんに相談(そうだん)をかけました。おかあさんは笑(わら)って、
「何(なん)でもないことだよ。それは、玉(たま)の片(かた)かたの穴(あな)のまわりにたくさん蜂蜜(はちみつ)をぬっておいて、絹糸(きぬいと)に蟻(あり)を一|匹(ぴき)ゆわいつけて、別(べつ)の穴(あな)から入(い)れてやるのです。すると蟻(あり)は蜜(みつ)の香(かお)りを慕(した)って、曲(ま)がりくねった穴(あな)の道(みち)を通(とお)って、先(さき)へ先(さき)へと進(すす)んでいくから、それについて糸(いと)もこちらの穴(あな)から向(む)こうの穴(あな)までつき抜(ぬ)けてしまうようになるのだよ。」
といい聞(き)かせました。
お百姓(ひゃくしょう)はそう聞(き)くと小踊(こおど)りをして、さっそく殿様(とのさま)の御殿(ごてん)へ行って、首尾(しゅび)よく玉(たま)の中へ絹糸(きぬいと)を通(とお)してお目にかけました。
殿様(とのさま)はびっくりして、こんどもお百姓(ひゃくしょう)にたくさん、御褒美(ごほうび)のお金(かね)を下(くだ)さいました。
お隣(となり)のお使(つか)いは絹糸(きぬいと)のりっぱに通(とお)った玉(たま)を返(かえ)してもらって、へいこうして逃(に)げていきました。その使(つか)いが帰(かえ)って来(く)ると、お隣(となり)の国(くに)の殿様(とのさま)も首(くび)をかしげて、
「信濃国(しなののくに)にはなかなか知恵者(ちえしゃ)があるな。これはうっかり攻(せ)められないぞ。」
と考(かんが)えていました。
こちらでも、さすがにこれで敵(てき)もあきらめて、もう来(こ)ないだろうと思(おも)っていました。

ところがしばらくすると、またお隣(となり)の国(くに)の殿様(とのさま)から、信濃国(しなののくに)へお使(つか)いが手紙(てがみ)を持(も)って来(き)ました。手紙(てがみ)といっしょに二|匹(ひき)の牝馬(めうま)を連(つ)れて来(き)ました。
「いったい馬(うま)なんぞを連(つ)れて来(き)てどうするつもりだろう。」とびくびくしながら、殿様(とのさま)が手紙(てがみ)をあけてごらんになりますと、二|匹(ひき)の馬(うま)の親子(おやこ)を見分(みわ)けてもらいたい。それができなければ、信濃国(しなののくに)を攻(せ)めほろぼしてしまうと書(か)いてありました。殿様(とのさま)はまた、連(つ)れて来(き)た二|匹(ひき)の馬(うま)をごらんになりますと、大(おお)きさから毛色(けいろ)まで、瓜(うり)二つといってもいいほどよく似(に)た馬(うま)で、同(おな)じような元気(げんき)ではねていました。殿様(とのさま)はお困(こま)りになって、また家来(けらい)たちに御相談(ごそうだん)をなさいました。それでもだめなので、また国中(くにじゅう)におふれを回(まわ)しまして、
「だれか馬(うま)の親子(おやこ)を見分(みわ)けることを知(し)っているか。うまく見分(みわ)けたものには望(のぞ)みの褒美(ほうび)をやる。」
と告(つ)げしらせました。
また国中(くにじゅう)の大さわぎになって、こんどこそうまく当(あ)てて、御褒美(ごほうび)にありつこうと思(おも)う者(もの)が、ぞろぞろ殿様(とのさま)の御殿(ごてん)へ、お隣(となり)の国(くに)から来(き)た二|匹(ひき)の牝馬(めうま)を見(み)に出かけました。ところがよほど見分(みわ)けにくい馬(うま)と見(み)えて、名高(なだか)いばくろうの名人(めいじん)でも、やはり首(くび)をかしげて考(かんが)え込(こ)むばかりでした。そこでお百姓(ひゃくしょう)はまた穴倉(あなぐら)へ行って、おかあさんに相談(そうだん)しますと、おかあさんはやはり笑(わら)って、
「それもむずかしいことではないよ。亡(な)くなったおじいさんに聞(き)いたことがある。親子(おやこ)の分(わ)からない馬(うま)は、二|匹(ひき)を放(はな)しておいて、間(あいだ)に草(くさ)を置(お)けばいい。するとすぐ草(くさ)にとりついて食(た)べるのは子供(こども)で、ゆるゆると子供(こども)に食(た)べさせておいたあとで、食(た)べ余(あま)しを食(た)べるのは母親(ははおや)だということだよ。」
と教(おし)えました。
お百姓(ひゃくしょう)は感心(かんしん)して、さっそく殿様(とのさま)の御殿(ごてん)へ行って、
「ではわたくしに見分(みわ)けさせて下(くだ)さいまし。」
といって、おかあさんに教(おそ)わったとおり、二|匹(ひき)の馬(うま)の間(あいだ)に青草(あおくさ)を投(な)げてやりますと、案(あん)の定(じょう)、一|匹(ぴき)ががつがつして草(くさ)を食(た)べる間(あいだ)、もう一|匹(ぴき)は静(しず)かに座(すわ)ったままながめていました。それで親子(おやこ)が分(わ)かったので、殿様(とのさま)はそれぞれに札(ふだ)をつけさせて、
「さあ、これで間違(まちが)いはないでしょう。」
といって、使(つか)いにつきつけますと、使(つか)いは、
「どうも驚(おどろ)きました。そのとおりです。」
といって、へいこうして逃(に)げていきました。
殿様(とのさま)はこれでまったく、お百姓(ひゃくしょう)の智恵(ちえ)に心(こころ)から驚(おどろ)いてしまいました。
「お前(まえ)は国中(くにじゅう)一ばんの智恵者(ちえしゃ)だ。さあ、何(なん)でも望(のぞ)みのものをやるぞ。」
とおっしゃいました。お百姓(ひゃくしょう)はこんどこそ、おかあさんの命(いのち)ごいをしなければならないと思(おも)って、
「わたくしはお金(かね)も品物(しなもの)もいりません。」
といいますと、殿様(とのさま)は妙(みょう)な顔(かお)をなさいました。お百姓(ひゃくしょう)はすかさず、
「その代(か)わりどうか母(はは)の命(いのち)をお助(たす)け下(くだ)さい。」
といって、これまでのことを残(のこ)らず申(もう)し上(あ)げました。殿様(とのさま)はいちいちびっくりして、目を丸(まる)くして聞(き)いておいでになりました。そして灰(はい)の縄(なわ)も、玉(たま)に糸(いと)を通(とお)すことも、それから二|匹(ひき)の牝馬(めうま)の親子(おやこ)を見分(みわ)けたことも、みんな年寄(としより)の智恵(ちえ)で出来(でき)たことが分(わ)かると、殿様(とのさま)は今更(いまさら)のように感心(かんしん)なさいました。
「なるほど年寄(としより)というものもばかにならないものだ。こんど度々(たびたび)の難題(なんだい)をのがれたのも、年寄(としより)のお陰(かげ)であった。母親(ははおや)をかくした百姓(ひゃくしょう)の罪(つみ)はむろん許(ゆる)してやるし、これからは年寄(としより)を島流(しまなが)しにすることをやめにしよう。」
こう殿様(とのさま)はおっしゃって、お百姓(ひゃくしょう)にたくさんの御褒美(ごほうび)を下(くだ)さいました。そして年寄(としより)を許(ゆる)すおふれをお出(だ)しになりました。国中(くにじゅう)の民(たみ)は生(い)き返(かえ)ったようによろこびました。
お隣(となり)の国(くに)の殿様(とのさま)もこんどこそ大丈夫(だいじょうぶ)と思(おも)って出(だ)した難題(なんだい)を、またしてもわけなく解(と)かれてしまったのでがっかりして、それなり信濃国(しなののくに)を攻(せ)めることをおやめになりました。 
 
姨捨 / 堀辰雄

 

わが心なぐさめかねつさらしなや をばすて山にてる月をみて よみ人しらず

上総(かずさ)の守(かみ)だった父に伴なわれて、姉や継母などと一しょに東(あずま)に下っていた少女が、京に帰って来たのは、まだ十三の秋だった。京には、昔気質(むかしかたぎ)の母が、三条の宮の西にある、父の古い屋形に、五年の間、ひとりで留守をしていた。
そこは京の中とは思えない位、深い木立に囲まれた、昼でもなんとなく薄暗いような処だった。夜になると、毎晩、木菟(ずく)などが無気味に啼(な)いた。が、田舎に育った少女はそれを格別寂しいとも思わなかった。そうして其屋形にまだ住みつきもしないうちから、少女は母にねだっては、さまざまな草子を知辺から借りて貰ったりしていた。京へ上ったら、此世にあるだけの物語を見たいというのは、田舎にいる間からの少女の願だった。が、まだしるべも少い京では、少女の心ゆくまで、めずらしい草子を求めることもなかなかむずかしかった。
国守までした父も、母と同様、とかく昔気質の人だったから、京での暮らしは、思ったほど花やいだものではなかった。が、少女はそういう父母の下で、いささかの不平も云わずに、姉などと一しょにつつましい朝夕を過ごしていた。「もっと物語が見られるようになれば好い」――只、少女はそう思っていた。
その年の末、一しょに東にも下っていた継母が、なぜか、突然父の許(もと)を去って行った。翌年の春には又、疫病のために気立のやさしかった乳母も故人になってしまった。此頃或|右馬頭(うまのかみ)の息子がおりおり姉の許に通ってくる外には、屋形はいよいよ人けのなくなるばかりだった。が、当時何よりも少女の心をいためたのは、「これを手本になさい」と云われて少女が日毎にその御手を習いながら、人知れず物語の主人公に対するようなあくがれの心を抱いていた、侍従大納言の姫君までが、その春乳母と同じ疫病に亡くなられてしまった事だった。「とりべ山谷に煙のもえ立たばはかなく見えし我と知らなむ」――少女が日頃手習をしていた姫君の美しい手跡にそんな読人(よみびと)しらずの歌なんぞのあったのが、いまさら思い出されて、少女には云いようもなく悲しかった。
が、そういう云いしれぬ悲しみは、却(かえ)って少女の心に物語の哀れを一層|沁(し)み入(い)らせるような事になった。少女はもっと物語が見られるようにと母を責め立てていた。それだけに、其頃田舎から上って来た一人のおばが、源氏の五十余巻を、箱入のまま、他の物語なども添えて、贈ってよこして呉れたときの少女の喜びようというものは、言葉には尽せなかった。少女は昼はひねもす、夜は目の醒(さ)めているかぎり、ともし火を近くともして几帳(きちょう)のうちに打ち臥しながら、そればかりを読みつづけていた。夕顔(ゆうがお)、浮舟(うきふね)、――そう云った自分の境界にちかい、美しい女達の不しあわせな運命の中に、少女は好んで自分を見出していた。いままだ自分は穉(おさな)くて、容貌もよくはないが、もっとおとなになったら、髪などもずっと長くなり、容貌も上がって、そういう女達のようにもなれるかも知れないなどと、そんな他愛のない考も繰り返し繰り返していたのだった。
古い池のほとりにある、大きな藤は、春ごとに花を咲かせたり散らしたりした。そのたびに、少女は乳母の亡くなったのは此頃だと悲しく思い出し、又、同じ頃亡くなった侍従大納言の姫君の手跡を取り出しては、一人であわれがったりしていた。そんな五月の或夜、夜ふけまで姉と二人して物語など見ながら起きていると、少女の身ぢかに、猫の泣きごえらしいものが出し抜けにした。驚いて見ると、かわいい小猫が、どこから来たのか、少女の傍に来ていた。前にいた姉が「誰にも教えないで、私達だけで飼いましょうよ」と云って、傍に寝かせてやると、おとなしく寝ていた。もとの飼主がそれを捜していて、見つかりでもするといけないと思って、二人だけでこっそりとそれを飼ってやっていると、猫はもう婢(はしため)たちの方へは寄りつきもせず、いつも二人にばかり絡みついていて、物もきたなげなのは顔をそむけて食べようともしなかった。
一度、姉がわずらって、何かと手が無かったものだから、その猫を婢たちのいる北面(きたおもて)にやり放しにして置いたことがあった。猫は、その間じゅう、北面の方で苦しそうに泣きつづけていた。――すると、わずらっていた姉がふいと目を醒(さ)まして、「猫はどこにいるの。こっちへよこしておくれ」と云うので、「どうかなすって」と少女が云うと、姉はいましがた見た夢を話した。なんでもその猫が寝ている姉の傍らに来て、こんな事を言ったのだそうだった。
「実はわたくしは侍従大納言殿の姫君の生れ変りなのでございます。前世からの因縁がありますのか、この中(なか)の君(きみ)がわたくしの事を大そう哀れがって思い出しなさいますので、只暫くの間、此処に参っておりましたのに、今のように婢たちの中にばかり押し据えられておりましては、なんともつらくてなりませぬ」――一人の品のよい、美しいお方が自分の傍で泣き泣きそんな事を云われているように思って、驚いて目を醒ますと、それはさっきから泣きつづけている猫の声だったと云う事だった。
そんな夢の事があってから、猫はもう北面へも出されずに、今までよりか一層姉妹に大事にかしずかれていた。一人ぎりでいるときなど、よく少女はその猫を撫でながら、「おまえは大納言様のお姫君ですのね。そのうちお父う様からでも大納言様にお知らせ申すようにいたしましょうね」と云いかけたりした。すると猫も、気のせいか、それを聞き分けでもするかのように、長泣きなどしながら、いつまでも少女の顔を見かえしていた。
夜なかに急に火事が起って、その三条の屋形が跡かたもなく焼けてしまったのは、その春の末の事だった。その火事と共に、大納言の姫君と思われて可哀がられていた猫もゆくえ知れずになってしまった。――ひとまず、立退いた先の屋形は、非常に狭苦しくて、木なんぞはなんにも無かった。そのかわり、隣家の生い茂った木立が目のあたりに見え、何かの花の匂などが風につれてこちらまで漂って来るにつけても、少女は昔の木立の多かった屋形を、――又、それと一しょに焼け死んだのかも知れない猫の事などを、切ない程あざやかに蘇(よみがえ)らせたりしていた。
或月あかりの夜、おおかたの人が寝しずまった夜なかまで、少女は姉と一しょに起きて、その家の端近くに出て物語などしあっていた。そのうち話もと絶えがちになって、二人は黙って空をじっと仰いでいた。
「このまま私がすうと飛び失せて、ゆくえ知れずになってしまったら、どうだろうか知ら」姉が出し抜けにそんな事を口にした。
少女はおそろしそうに顔を伏せた。穉い頃、死んだ乳母から聞かされた、女が一人ぎりで長いこと月に照らされていると物に憑(つ)かれるなんぞと云う話を急に思い出したからだった。姉はそういう少女に気がつくと、わざとらしく笑いながら、何か外の事に云いまぎらわせようとした。が、少女はすっかり怯(おび)え切(き)って、いつまでも顔を袖にしていた。
程経て、隣りの家の前に男車らしいものの駐(と)まる音がした。そうして「荻の葉、おぎの葉」と呼ばせているのが手にとるように聞えて来た。が、隣家からは誰もそれに返事をしないらしかった。とうとう男は呼びわずらったらしく、こん度は笛をおもしろく吹き出した。
姉妹は思わず目を見合せて、ようやく明るい微笑(ほほえみ)を交しながら、なおも息をつまらせて耳を欹(そばだ)てていた。しかし、隣家からは、相不変(あいかわらず)、なんの返事も無いらしかった。男はとうとう、笛を吹き吹き、その家の前を通り過ぎて往った。――
互に慰めもし、慰められもしたそんな一人の姉が、佗(わ)びしい仮住の家で、二番目の子を生んで亡くなったのは、それから間のない事だった。母なんぞがその死んだ姉の傍に往ってしまっている間、少女はひとりで、形見に残った穉い児たちを左右に寝かしつけていた。知らぬ間に荒れた板葺(いたぶき)のひまから月が洩れて、乳児(ちご)の顔にあたり、それを無気味に青ざめさせていた。少女はふいと前の月夜の事を思い出し、その顔へ自分の袖をかけてやりながら、いま一人の穉児(おさなご)をひしと抱き締めて、其処にいつまでも顔を伏せていた。

新しい普請の出来上った三条の屋形では、古い池と共に焼け残った藤が、今年はどういうものか、例年になく見事な花をつけた。それが一層屋形の人けの絶えたのを目立たせているような単調な日々の中で、少女は又昔のとおりに、物語を見ては、夢みがちに暮らしていた。昔風の父母は、勿論、まだこの少女を誰かにめあわせようなぞとは考えもしなかった。が、さすがに少女ももう大ぶおとなびては来ていた。
父が或秋の除目(じもく)に常陸(ひたち)の守(かみ)に任ぜられた時には、女(むすめ)はいつか二十になっていた。女はこん度は母と共に京に居残って、父だけが任国に下ることになった。「ことによると、もうお前達にも逢えないかも知れない」――そんな心細そうな事ばかりを云っている年老いた父を一人で旅に出すのは、勿論、女には何よりもつらかった。が、すっかりおとなになった女の身としては、父と一しょにそんな田舎へ下ることも出来悪(できにく)かった。
或風立った日、父が京に心を残し残し常陸へ下って往った後、女はもう物語の事も忘れてしまったように、明け暮れ、東の山ぎわを眺めながら暮らしていた。「今頃お父う様はどこいらを旅なすっていらっしゃるだろう」と、穉い頃|東(あずま)から上ってきた遠い記憶を辿(たど)りながら、その佗びしい道すじの事を浮かべていると、父恋しさは一層まさるばかりだった。朝がた、東の方の黒ずんだ森から、秋の渡り鳥らしいのが一群、急に思い出したように一しょに飛び立って、空を暗くしては山の彼方へ飛び去って往くのなんぞを、女は何がなしいつまでも見送っていた。
晩秋の一日、女は珍らしく思い立って、太秦(うずまさ)へ父の無事を祈りに、ひとりで女車に乗って出掛けた。一条へさしかかると、その途中に、物見にでも出掛けるらしい一台の立派な男車が何かを待ちでもしているように駐まっていた。女が簾(みす)を深く下ろさせたまま、その前を遠慮がちに通り過ぎて往ってから、暫くして気がつくと、さっきの男車らしいものが跡から見え隠れしながら附いて来ていた。女はそれを気にするように、すこし車を早めながら、太秦まで往き著(つ)いて寺にはいってしまうと、いつかもうその男車は見えなくなっていた。しかし、寺に数日|籠(こも)って、父の無事を一心になって祈っている間も、どうかすると女にはあの立派な男車がおもかげに立って来てならなかった。「若(も)しかしたら――」が、女はそんな考えを逐い退けるように、顔を振って、ひたすら父の無事を祈っていた。
丁度その頃、父は遠い常陸の国に、供者(ぐしゃ)もわずか数人具したぎりで、神拝をして巡っていた。一行はその日の暮、一つの川を真ん中に、薄赤い穂を一面になびかせている或広々とした芒野(すすきの)を前にしていた。その芒野の向うには又、こんもりと茂った何かの森が最後の夕日に赫(かがや)いていた。
国守は、なぜか知ら、突然京に残した女(むすめ)の事を思い出していた。そうして馬に跨(またが)ったまま、その森の方へいつまでも目を遣っていた。そのうち何処から渡って来たのか、一群の渡り鳥らしいものが、その暮れがたの森の上に急に立ち騒ぎ出した。国守は、その鳥の群がようやくその森に落(お)ち著(つ)いてしまうまで、空(うつ)けたようにそれを見つづけていた。

それから五年立った秋、父は漸(や)っと任を果して、常陸から上って来た。兎に角無事に任を果して来たと云うものの、父はいたいたしい程、窶(やつ)れていた。そうしてもう、こん度の上京かぎり、官職からも身を退いて、妻や女を相手に、静かに月日を送りたいと云うより外は何も考えないでいるらしかった。それ程|老(お)い耄(ほう)けたように見える父は、女にはいかにも心細かった。女はもう自分の運命が自分の力だけではどうしようもなくなって来ている事に気がつかずにはいられなかった。しかし、そういう境界の変化も、此女の胸深くに根を下ろしている、昔ながらの夢だけはいささかも変えることは出来なかった。女は自分の運命が思いの外にはかなく見えて来れば来る程、一層それを頼りにし出していた。「こういう少女らしい夢を抱いたまま、埋もれてしまうのも好い」――そうさえ思って、女は相不変(あいかわらず)、几帳(きちょう)のかげに、物語ばかり見ては、はた目にはいかにも無為な日々を送っていた。
「そうやってなんにも為ずにいらっしゃるよりは――」と云って、此頃しきりに宮仕えを勧めて来る人があった。幾らか縁故もあるその宮からも、是非女を上がらせるようにと再三云ってよこしたりした。その宮というのは、今をときめいている一の宮だった。が、昔気質(むかしかたぎ)の父母は、何かと気苦労の多い宮仕えには反対だった。女は勿論、父母の意に背いてまで、そんな宮仕えなどに出たいとも思わなかった。しかし、人々が「此頃の若いお方はみんな宮仕えに出たがっておりますよ。そうすれば自然に運がひらけて来る事もありますからね。ともかくも、ためしにお出しになっては――」などと、なおも熱心に勧めて来るので、とうとう父母もその女の行末を案じ、宮にさし出す事に渋々納得した。これまで安らかな無為の中にばかり自分を見出していた女は、急に自分の前に何やら不安を感じながら、それでも外に為様(しよう)がないように人々の云うとおりになっていた。
人出入の多い宮仕えは、世間見ずの女には思いの外につらい事ばかりだった。もとより、それが物語に描いてあるようなものではない事は、女も承知していた。が、冬の夜など、御前の近くに、知らない女房たちの中に伏しながら、殆どまんじりともしないでいる事が多かった。そうして女は夜もすがら、池に水鳥が寝わずらって羽掻(はが)いているのを耳にしたりしていた。又、昼間、自分の局(つぼね)に下がっている時には、ひねもす、此頃自分の事をいかにも頼りにし切っているような老いた父の姿などを恋しく思い浮べていた。亡き姉の遺児たちも、夜は大がい自分の左右に寝かすようにしていたのに、今はどうしているだろうと気がかりになってならない事もあった。が、そんな人知れない思いさえ、傍から人に、見られているかと思うと、どうも気づまりで思うようには出来悪(できにく)かった。
ときおり女が三条の屋形に下がって往くと、父母は炭櫃(すびつ)に火など起して、女を待ち受けていた。「おまえがいてお呉れだった時は、人目も見え、婢(はしため)たちも多かったが、此頃というものは、殆ど人けが絶えて、一日じゅう人ごえもしない位だ。ほんとうに心細くって為様がない。こんな具合では、一体、おれ達はどうなるのだろうなあ」そんな事を父は長々と女に云って聴かすのだった。御前などでは、他の女房たちの蔭に小さくなって、殆どあるかないかにしているのに、そんな自分も里に下りるとこれ程頼もしがられるのかと思うと、そんな事を云う父のみならず、云われる自分までが、なんだかいたわしくってならなかった。
が、五六日立つと、女は又気を引き立てるようにして、宮へ上がって往くのだった。

女の仕えていた宮が突然お亡くなりになったのを機会(しお)に、女は暫く宮仕えから退いて、又昔のように父母の下でつつましい朝夕を送り出していた。さすがに宮仕えをした後には、女はもう世の中が自分の思ったようなものではない事をいよいよ切実に知り出していた。薫(かおる)大将だの、浮舟だのが此の世にあり得よう筈がない事もわかり過ぎる位わかって来た。が、一方、女はそういうどうにも為様のないような詮(あき)らめに落ち着こうとしている自分が、却(かえ)って昔の自分よりもふがいなく思えてならなかった。
その後も宮からは、絶えず女をお召しになっていた。亡くなられたお方の小さい御子達の相手に女の姪たちを連れて来て貰いたいと云うのだった。女はもう自分だけなら、このまま静かに老いるのも好いと考えていた。それ程女は身も心も疲れ切っていた。しかし、漸(ようや)くおとなびて来た姪たちの事を考えると、此子達だけは自分のようにさせたくないと、折角の宮からのお召を拒みかねて、二人に附添ってはおりおり又出仕をするようになった。が、こん度は女は宮でもまるっきり新参というのでもなく、そうかと云って又古参という程でもないので、只なんという事なしに女房たちの中に雑(ま)じって、もとの朋輩(ほうばい)たちと気やすく語らってさえいれば好かった。もう別に宮仕えだけで身を立てようなどともしていないので、外の女房たちが自分よりも上の思召(おぼしめ)しが好かろうと羨(うらや)ましいとも思わなかった。そうして、古参の女房からいろんな昔の知りびとの噂などを聞いては、それを淡々と聞き過していた。一方、こうして此頃のように自分がそれに即(つ)かず離(はな)れずの気もちでいられるようになってから、漸く宮仕えと云うものの趣を自分でも分かりかけて来たような気もしないではなかった。
或冬の暗い夜の事だった。上では不断経が行われていたが、丁度声のよい人々が読経する時分だというので、一人の女房に誘われるまま、女はそちらに近い戸口に往って、そこに伏しながら、それを聴いていた。暫くそうして聴いていると、其処へ殿上人らしい男が一人、そういう二人には気がつかないように近づいて来た。
「どなただか知らないけれど、急に隠れたりなんぞするのも見ぐるしいから、このままこうして居りましょう」と、相手の女房が云うので、その傍に女もじっと伏せていた。
その男は、戸口の近くにそういう二人を認めると、前からの知合らしい一方の女房に向かって、非常に穏かな様子で詞(ことば)をかけた。「いまお一人はどなたですか――」などとも問うたが、女が困って何んとも返事をせずにいても、それ以上|執拗(しつよう)には尋ねなかった。そうしてそのまま二人の傍にすわりながら、そのどちらに向かってともつかず、世の中のあわれな事どもをそれからそれへと言い出して、女達にも真面目に問いかけたりするので、女もついそれに誘われて、いつか二こと三こと詞(ことば)を交わしていた。「まだ私の知らないこういうお方がいられたのですね――」などと珍らしそうに男は女の方を向いて云って、いつまでも気もち好さそうに話し込み、なかなか其処を立ち上がりそうにもなかった。
星の光さえ見えない位に真っ暗な晩で、外にはときどき時雨(しぐれ)らしいものが、さっと木の葉にふりかかる音さえ微かにし出していた。「こういう晩もなかなか好いものですね。」男はそう云いさして、微かに木の葉にかかる時雨の音に耳を傾けながら、急に何か考え出したように沈黙していたが、それから徐(しず)かにこんな事を語り出した。
「どうした訳ですか、私は今ふいと十七年ほど前の或晩の事を思い出しておりました。それは私が斎宮(さいぐう)の御|裳著(もぎ)の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に下っておる[#「下っておる」は底本では「上っておる」]間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞(いとまごい)に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又|円融院(えんゆういん)の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁(し)み入(い)って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。――それからというもの、私はそんな冬の夜の、雪なんぞの降っている晩には極まってその夜の事を思い出し、火桶(ひおけ)などかかえながらでも、かならず端近くに出ては雪をながめて居ったものでした。――そんな若い時分の事もこの頃ではつい忘れがちになっておりましたのに、今、こうしてあなた達と話し込んでいますうち、その夜の事が急になつかしく思い出されて来たのです。どういう訳のものでしょうか。――そう云えば、今宵もこれ程私の心に沁み入っていますので、これからはきっとこんな真暗な、ときどき打ちしぐれているような冬の夜の事も、その斎宮の雪の夜と一しょに、折々なつかしく思い出される事でしょう。……」
男はそんな問わず語りを為はじめた時と少しも変らない静かな様子で、それを言(い)い畢(お)えた。
男が程経て立ち去った跡、女達はそのままめいめいの物思いにふけりながら、いつまでも其処にじっと伏せていた。雨は、木の葉の上に、思い出したように寂しい音を立て続けていた。

こんな事があってからも、女が何かと里居がちに、いかにも気がなさそうな折々の出仕を続けていた事には変りはなかった。が、出仕している間は、いままでよりも一層、他の女房たちのうちに詞少(ことばすくな)になって、一人でぼんやりと物など眺めているような事が多かった。しかし、何かの折にいつかの女房と一しょになりでもすると、互に話もないのにいつまでもその女房の傍にいて何か話をしていたそうにしていたり、又、相手があの時雨の夜の事をそれとなく話題に上そうとでもすると、慌ててそれを他に外らせようとしたりした。しかし、女はいつかその男が才名の高い右大弁(うだいべん)の殿である事などをそれとはなしに聞き出していた。――そうやって宮に上っていても何か落ち着きを欠いている女は、里に下りて、気やすく老いた父母だけを前にしている時は、一層心も空のようにして、何か問いかけられても返事もはかばかしくなかったりした。そうして一向(ひとむき)になって何かを堪え忍んでいるような様子が、其頃から女の上には急に目立ち出していた。
右大弁はときどき友達と酒を酌んでいる時など、ひょいとその時雨の夜の事、――それからそのとき語り合った二人の女のうちの、はじめて逢った方の女の事なぞを思い浮べがちだった。男は勿論、外にも幾たりかの女を知っていた。又、大方の女というものがどういうものであるかも知悉(ちしつ)した積りでいた。――しかし、その時雨の夜のように、何ぶん暗かったのでその女の様子なんぞよく見られなかったせいもあるかも知れないが、その女といかにもさりげなく話を交していただけで、何かこう物語めいた気分の中に引(ひ)き摩(ず)られて行くような、胸のしめつけられる程の好い心もちのした事などはこれまでついぞ出逢ったことがなかった。何かと云えばいま一人の女房を立てて、自分はいかにも控え目にしていた、そんな内端(うちわ)な女のそういう云い知れぬ魅力というものは何処から来るのだろうかと、男は自問自答した。もう一度で好いから、あの女と二人ぎりでしめやかな物語がして見たい。私の琵琶を聞かせたらどう聞くだろうか、――此頃になくそんな若々しい事まで男は思ったりもしていた。しかし、男は何かと公儀の重い身で多忙なうちに、その女の事も次第に忘れがちになって往った。――が、ときどき友達と酒でも酌んでいるような時に、思いがけずふいとその髣(ほの)かに見たきりの女の髪の具合などがおもかげに立って来たりした、……。
その翌年の春だった。或夜、右大弁は又その一の宮に音楽のあそびに招かれて往っていた。暁がた、男は一人で庭に降り立って、ほんのりとかかった繊(ほそ)い月を仰ぎ仰ぎ、読経などをしながら、履音(くつおと)をしのばせてそぞろ歩きしていた。細殿(ほそどの)の前には丁子(ちょうじ)の匂が夜気に強く漂っていた。男はそれへちょっと目をやりながら、遣戸(やりど)の前を通り過ぎようとした時、ふいとその半開きになっていた遣戸の内側に一人の女のいるらしいけはいを捉えた。女房の一人でも月を眺めているのだろう位に思って、男は何の気なしにそれへ詞をかけた。内の女は暫く身じろぎもしないでいたが、漸(や)っとためらいがちに低く返事をした時、男ははじめてそれが誰であったかに気がついた。
「あなたでしたか。あの時雨の夜はかた時も忘れずになつかしく思っておりました」
男はわれ知らず少し上ずったような声を出した。
そうしてそのまま男は黙って返事を待っていた。遣戸の内からは、暫くすると女がこんな歌をかすかに口ずさむのが聞えて来た。
「なにさまで思ひ出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを」
その時その細殿の方へ履音を響かせながら、五六人の殿上人たちが男を追うようにやって来た。男はそれと殆ど同時に、遣戸の奥へ女がすべり込んで往くけはいに気がついた。
男は殿上人たちに拉(らっ)せられながら、細殿の前に漂っていた丁子の匂を気にでもするように、その方を見返りがちに、再び履音をさせながら其処を立ち去って往った。

女が、前の下野(しもつけ)の守(かみ)だった、二十も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。
夫は年もとっていた代り、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。女も勿論、その夫に、悪い気はしなかった。が、女の一向(ひとむき)になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の目にも明らかになるばかりだった。しかし、もう一つ、そう云う女の様子に不思議を加えて来たのは、女が一人でおりおり思い出し笑いのような寂しい笑いを浮べている事だった。――が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。
夫がその秋の除目(じもく)に信濃の守に任ぜられると、女は自ら夫と一しょにその任国に下ることになった。勿論、女の年とった父母は京に残るようにと懇願した。しかし、女は何か既に意を決した事のあるように、それにはなんとしても応じなかった。
或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を残して目に涙を溜(た)めながら、京を離れて往った。穉(おさな)い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東(あずま)から上って来たことのある逢坂の山を、女は二十年後に再び越えて往った。「私の生涯はそれでも決して空しくはなかった――」女はそんな具合に目を赫(かが)やかせながら、ときどき京の方を振り向いていた。
近江、美濃を過ぎて、幾日かの後には、信濃の守の一行はだんだん木深(こぶか)い信濃路へはいって往った。 
 
姨捨記 / 堀辰雄

 

「更級日記」は私の少年の日からの愛讀書であつた。いまだ夢多くして、異國の文學にのみ心を奪はれて居つたその頃の私に、或日この古い押し花のにほひのするやうな奧ゆかしい日記の話をしてくだすつたのは松村みね子さんであつた。おそらく、その頃の私に忘れられがちな古い日本の女の姿をも見失はしめまいとなすつての事であつたかも知れない。私は聞きわけのよい少年のやうにすぐその日から、當時の私には解し難かつた古代の文字で書綴られたその日記のなかを殆ど手さぐりでのやうに少し往つては立ち止まり立ち止まりしながら、それでもやうやう讀みすすんでゐるうちに、遂に或日そのかすかな枯れたやうな匂の中から突然ひとりの古い日本の女の姿が一つの鮮やかな心像として浮かんで來だした。それは私にとつては大切な一瞬であつた。その鮮やかな心像は私に、他のいかなるものにも増して、日本の女の誰でもが殆ど宿命的にもつてゐる夢の純粹さ、その夢を夢と知つてしかもなほ夢みつつ、最初から詮(あきら)めの姿態をとつて人生を受け容れようとする、その生き方の素直さといふものを教へてくれたのである。
さうやつて少年の日に「更級日記」を讀み、さういふ古い日本の女のひとりに人知れぬ思慕を寄せてゐたのは、しかし私の心の一番奧深くでだつた。私は誰にもその思慕については自分から言ひ出さうとはしなかつた。只一度、私は何かの話のついでに佐藤春夫さんの前でちよつとその事に觸れたが、そのとき佐藤さんもこの日記を大へん好んでゐられることを知ると、反つて私は何んだか氣まりの惡いやうな氣がして自分の思つてゐることを餘計しどろもどろにしか言へなかつた事をいまだに覺えてゐる。それから數年立ち、他の仕事などに取り紛れて、いつかこの日記からも私の氣もちの離れ出してゐた頃、保田與重郎君がこの日記への愛に就いて語つた熱意のある一文に接し、私は何かその日頃の自分を悔いるやうな心もちにさへなつてそれを感動しながら讀んだものだつた。それ以來、再びこの日記は私の心から離れないやうになつてゐた。

ここ數年といふもの、私はおほく信濃の山村に滯在して、冬もそこで雪に埋れながら越すやうな事さへあつた。それらの日々は、私のもつて生れたどうにもならぬ遙かなるものへの夢を、或は其處の山々に、或は牧場に、或はまた樺や樅などの木々から小さな雜草にまで寄せながら、自分で自分にきびしく課した人生を生きんと試みてゐた日々にほかならなかつた。私は或晩秋の日々、そこで「かげろふの日記」を書いてゐた。私がさういふ孤獨のなかでそんな煩惱おほき女の日記を書いてゐたのは、私が自分に課した人生の一つの過程として、一人の不幸な女をよりよく知ること、――そしてさういふ仕事を爲し遂げるためにはよほど辛抱強くなければならぬと思つたからであつた。そして私の對象として選ぶべき女は、何か日々の孤獨のために心の弱まるやうなこちらを引き立ててずんずん向うの氣持ちに引き摺り込んでくれるやうな、強い心の持主でなければならなかつた。しかもそれは見事に失戀した女であり、自分を去つた男を詮め切れずに何處までも心で追つて、いつかその心の領域では相手の男をはるかに追ひ越してしまふほど氣概のある女でなければならなかつた。「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし」とみづから記するときのひそやかな溜息すら、一種の浪漫的反語めいてわれわれに感ぜられずにはゐられないほど、不幸になればなるほどますます心のたけ高くなる、「かげろふの日記」を書いたやうな女でなければそれはどうしてもならなかつた。
しかしさういふ不幸な女を描きかけながら、一方、私はそれとほぼ同じ頃に生きてゐた、もう一人のほとんど可憐といつてもいいやうな女の書き殘した日記の節々を思ひ浮べるともなしに思ひ浮べ、前者の息づまるやうな苦しい心の世界からこちらの靜かな世界へ逃れてきては、しばらくそれに少年の頃から寄せてゐた何んといふこともない思慕を蘇らせてゐたりした事もあつた。さういふ日の私にとつては、「更級日記」を書いたいかにも女のなかの女らしい、しかし決して世間竝みに爲合(しあは)せではなかつたその淋しさうな作者すらも何んとなく爲合せに見え、本當にかはいさうなのは矢つ張り「かげろふ」の作者であるやうな氣がした。さうしてそのとき私が一つの試煉でもあるかのやうに自分をその前に立ち續けさせてゐたのは、その何處までも詮め切れずにゐるやうな、一番かはいさうな女であつたのだ。

「かげろふの日記」を書き、さらにその女のやや心の落着いた晩年の一插話を描いた「ほととぎす」を書いた後、私もまた孤獨の境涯を去り、ひとりで信濃の山中に何かを思ひつめたやうにして暮らすやうなこともなくなつてしまつてゐたが、去年の夏にならうとする頃、或雜誌に依頼された短篇小説を書くために本當にしばらくぶりに一人きりでぶらつと信濃に出かけて往つた。そのときその山麓の古びた村と「更級日記」と――私が少年の日から別々にそれを懷しんできた二つのものが、不意にその折の私の餘裕のある心の裡で結び合はさり、私は再び王朝の日記から取材して小さな短篇を書いて見る氣になつた。なぜこの日記が信濃に因んで「更級日記」と題せられるやうになつたか、それまでそんな事には殆ど意を介しもしなかつたのに、そのとき突然私にそれがはつきりと分かつた。月の凄いほどいい、荒涼とした古い信濃の里が、當時の京の女たちには彼女たちの花やかに見えるその日暮らしのすぐ裏側にある生の眞相の象徴として考へられてゐたに違ひなく、そしてさういふ女たちの一人がその心慰まぬ晩年に筆をとつた一生の囘想録はまさにそれに因んだ表題こそふさはしいのだ。そして彼女の囘想録を讀み了らうとする瞬間に誰しもの胸裡におのづから浮かんで來るであらう信濃の更級の里あたりの佗しい風物、――さういふ讀後の印象を一層深くするやうな結末を私は自分の短篇小説にも與へたいと思つた。
そこに私がこの「更級日記」を自分のものとして書き變へるための唯一のよりどころがあつたと云つてもいい。

「あづまぢの道のはてよりも、なほ奧つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを……」と更級日記は書き出されてゐる。この日記の作者は、少女の頃から、自分がそのやうな片田舍に生ひ育つた、なんの見よいところもない、平凡な女であることを反省しつつ、素直に人生にはひらうとする。ただ彼女は既に物語を讀むことの愉しさだけは身にしみて覺えてゐて、京へ上るやうになつてからも、册子の類を殆ど手放さうとはしない。就中、源氏物語を一揃へ手に入れることの出來たときなどは、几帳のうちに打臥したきり、晝は日もすがら、夜は目の覺めたるかぎり火を近くともして、それをばかり讀んで暮らしてゐるやうな熱心さであつた。さういふ夢みがちな彼女にとつて、自分の前に漸く展かれだした人生はいかに味氣ないものに見えたことであらう。が、その人生が一樣に灰色に見えて來れば來るほど、彼女はいよいよ物語に沒頭し、そしてだんだん自分の身邊の小さな變化をもいくぶん物語めかしてでなければ見ないやうになる。私はいつもこの日記のそのあたりを讀むとき、その點に一つの重心を置きながら讀むことにしてゐる。こちらがそんな氣持ちでそれに向つて見ると、日記のそのあたりで、彼女がつぎつぎに出逢ふところの三つの死――侍從大納言の女(むすめ)の死、乳母の死、それから姉の死の前後を描いてゐるところなど、非常に省略した筆ながら、それが反つて效果的に見える位、驚くほど生彩を帶びてゐるのが感ぜられて來る。そこには特に人の心をそそるやうなところはないのに、しかもそこに作者の見出してゐる人生の小さな眞實がいかにわれわれに物語めいた濕やかな情趣をさへもつて感ぜられるか。私はそこにこの作者獨自の心ばへを見とめる。さらに日記のもう少し先きに行くと、作者自身でかういふ自白をしてゐるところがある、――ゆくゆくは光る源氏や薫大將のやうな人竝すぐれた男に見出され、浮舟の女君かなんぞのやうに山里にかくしすゑられて、「いと心細げにて」暮らしながら、年に一度ぐらゐその御方がお通ひになつてくだされば、あとはときをり御文などを頂戴するだけでもいい、そんな身分になら自分のやうなものだつてなれなくはなささうな氣もするがと若い女らしく夢みる、――さういふ心もちを半ば自嘲しながら打ち明けてゐる一節であるが、そんなしどけない心の中まで日記に書きつけずにはゐられなかつたその女の迷ひの美しさといふものは、寧ろその箇處でよりも、前に擧げたやうな身邊雜記的なものをさりげなく記した箇處に反つてその表面の何氣なさを通して一層あはれ深く感ぜられはすまいかと思ふのである。
そんな物はかない日々のうちに、當時の女らしくときどき夢などに佛のすがたを見ては、信仰のない人間の不爲合せをはつとするほど衝動的に知らされ、その度毎にいままでのやうに物語のみに夢中になつてゐるやうな心境を棄ててひたすら信仰に生きようとも決意するが、いつのまにかそれも中途半端に終つてしまふ。そのやうに女らしい迷ひと覺醒との間にどつちつかずに漂つてゐるやうな不安げな氣分が、その日記の後半ともなると、屡※[#二の字点、1-2-22]見出されがちになつてくる。
が、遂に彼女にも「物まめやかなるさまに心もなりはてて」物語のことなども何かに取り紛れて次第に忘れるやうな中年の日々が近づいてくる。宮仕へもしたが、それもただ内氣な彼女にはつらく思へただけで、「光る源氏ばかりの人はこの世におはしけりやは」と漸つとの事で知つた後、彼女はそのときはじめて「人がらもいとすくよかに世のつねならぬ人」に見えた奧ゆかしい同じ年頃の男に出會ふ。それは冬のくらい、しぐれ模樣の夜であつた。彼女は殿の戸口ちかくで、その男を相手に朋輩の女房と三人して、ときどき木の葉にしぐれの降りかかる音をききながら、世の中のあはれなる事どもをしみじみと物語りあふ。――そのしぐれの夜の對話はこの二人の中年の男女の心に沁み、互に相手を淡い氣もちでなつかしみあふが、それぎりで二人には再びゆつくりと語り合へる機會は來ずにしまふ。ただ二度ほど同じ殿中で互をそれとなく認め合ふ折もないではなかつたが、共に折惡しくて僅かに口頭で歌をとりかはすだけで別れる。が、その逢へさうで逢へずにしまつた刹那ほど、彼女は自分がそつくりそのまま物語のなかの女でもあるかのやうな氣もちを切實に味つたことはないのだ。さういふ氣もちにさせられただけで、そのやうな一瞬間の心と心との觸れ合ひを感じ得られただけで、既に物語そのもののこの世には有り得ないことを知つてゐる彼女は、いかにも切ないが、一方、その心の奧で一種の云ひ知れぬ滿足を感ずる。
その後、彼女は宮仕へを辭し、或平凡な男と結婚し、何事もなかつたやうに靜かに一生を終へる。……
いま私がここにその經過を語つて來たところのものは、半ば私の書いた短篇小説のそれであつて、「更級日記」の原文からはやや離れて來たものになつて來てゐるらしい事は私も認めないではゐられない。いま私の讀みとつたやうにこの「更級日記」を讀むのは、私の詩人としての勝手な讀み方で、或は原文を非常に歪めてゐるやうな懼れもないとはかぎらぬ。もしさうとすれば、それは私の不心得であらう。しかし、このやうな心の經過は私が早い日からさういふ風に讀み慣はして、いまでは私の裡にしつかりと根を下ろしてゐるこの女の心像と切り離せないものになつてしまつてゐるので、もはや、私としては如何んともなし難いことなのである。

さらに私は不心得にも、自分の作品の結末として、原文ではその女は結婚後その夫が信濃守となつて任國に下つたときには京にひとり留つてゐるのであるが、そのときその夫に伴つて彼女自身も信濃に下るやうに書き變へてしまつた。これは自分でもそこを書くときまでは全然考へもしなかつたことで、書いてゐるうちにどうしてもさう書かずにはゐられなくなつてしまつたのだ。信濃への少年の日からの私の愛着が、自分の作品の女主人公をしてそんな遠い山國で暮らしてゐる彼女の夫の身の上を氣づかはしめる事によつてのみ信濃といふものと彼女とを結びつけるだけでは何んとなく物足りなくなつて、知らず識らずの裡に私の筆をそのやうに運ばせて行つたものと見える。が、もう一つ、それをさう改竄させた、ぬきさしならないやうな氣持ちも私にはいつか生じてゐたのだ。それは私が自分の作品の題詞とした、古今集中の
   わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて
といふ讀人しらずの歌への關心である。この古歌は、私には、どうしても自分の作品の女主人公とほぼ似たやうな境遇にあつた女が、それよりもずつと遠い昔に人知れず詠んだもののやうな氣がしてならない。「大和物語」や「無名抄」などで歌物語化せられてから人々の心にいろいろな影を投げてきた古歌ではあるが、さういふ境遇の女が自分の宿命的な悲しみをいだいた儘いつかそれすら忘れ去つたやうに見えてゐたが、或月の好い夜にそれをゆくりなくも思ひ出し、どうしやうもないやうな氣もちにさせられてゐる時におのづから詠み出したものとして、それを考へて、一番私の心にそのなつかしさの覺えられる歌である。――原文では、信濃に下つてゐた夫はそれから一年立つか立たないうちに病を得て歸京するが、その後間もなく身まかつてしまふ。あとに取り殘された女は「さすがに命はうきにもたえず、ながらふめれど」遂にまつたくの孤獨となつた自分の身の上を「をばすて」と觀じ、そのやうな感慨をその古今集よみ人知らずの歌を本歌とした一首の和歌に托してゐるのだが、私は彼女自身の詠んだその歌よりも、この古歌そのものをこそ彼女に口ずさませたいやうな氣がしてならなかつたのである。――それ故、私は自分の作品に特に「姨捨」といふ題を選び、その作品の中では女主人公をして夫に伴つて信濃に赴かしめるところで筆を絶ち、その代りにただ、その後の女の境涯それとなく暗示するかのやうに、そのよみ人しらずの古歌を題詞として置いておいたのである。

今年の晩春の一日、私ははじめてその更級の里、姨捨山のほとりを歩いてみた。この山國のまなかでは、遠い山々にはまだかなり雪が殘り、里近い田畑はすべて枯れ枯れとしてゐて、いかにも春なほ淺い感じであつた。私は一册の小さな書物を携へてゐたが、その書物によると、多くの古歌に詠ぜられた平安朝の頃の姨捨山といふのは、實は私のさまよひ歩いてゐる低い山ではなく、その山のもう一つ向う側に半ば隱れながら山頂だけ見せてゐる現在の冠着山(かむりきやま)だつたのださうである。さうでなくてはならない。現在姨捨の驛のあるこのあたりがさうなのでは餘りにも感じが小さ過ぎる。この山の向うの、いかにも奧深い感じのする冠着山こそわれわれの姨捨山のやうに見える。
なほ、その書物によると、それよりもつと古代の姨捨山は、その冠着山でもなく、やはり同じ更級郡にあつて昔|小長谷山(をはつせ)といはれてゐた山(現在の參謀本部の地圖には篠山と記載せらる)であつたらしいと云ふ。それは泊瀬(はつせ)即ち上古の葬所のあつたところであり、それが轉訛して「をばすて」となり、それへ古代の信濃でも行はれたらしい棄老の傳説が結びつきながら、丁度、その讀人しらずの古歌の詠ぜられた平安朝のはじめ頃を界として、現在の冠着山に移動したのであらうと考證せられてゐる。「大和物語」や「無名抄」などに傳へられてゐる有名な傳説の出來たのはその後の事であつたらしい。その後さらに、元禄の頃芭蕉が此地にやつて來て「更科紀行」などを書いた少し前に、その冠着山からもう一度現在の姨捨山に移動して來てゐるのださうである。――しかし、いまのところ私はそれらの諸説にはこだはらずに、自分の前にある古歌をただそれだけのものとして單純に味ひたい。――或はこの讀み人しらずの歌は、その更級の里にあつて近親を失つたものがそれを山に葬つた後、或夜その山に照る月をながめながら詠んだ哀傷の歌として味ふのが本筋かも知れないが、いまはその考へをさへ棄てて、私はそれをただわれわれの女主人公のやうな境遇の女がその里に佗び住みしながらふと詠みいでた述懷の歌としてのみ味ひたいのである。
さうやつて半日近く姨捨山のほとりを歩いてから、私はまた木曾路へも行つて見た。その谷間の村々もまだ春淺い感じであつた。まなかひに見える山々はまだ枯れ枯れとしてをり、村家の近くには林檎や梨の木が丁度花ざかりであつた。其處でもまた私は古代から中古にかけての木曾路がいまの道筋とは全く異り、それらの周圍の山々のもつと奧深くを尾根から尾根へと傳つてゐたものであることを知らされた。私はそれらの山奧に、われわれの女主人公たちがさまざまな感慨をいだいて通つて往つたであらう古い木曾路が、いまはもう既に廢道となつて草木に深く埋もれてしまつてゐる有樣をときをり空に描いたりしては、何んといふこともなしに一人で切ない氣もちになつて、花ざかりの林檎の木の下などをぶらぶらしながら晩春の一日をなまけ暮らしてゐた。 
 
姥捨 / 太宰治

 

そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと仕末(しまつ)いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟(つぶや)いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」
ふたり、厳粛に身支度をはじめた。
あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依(よ)ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷(あわせ)いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣(くるめがすり)の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻(えりまき)を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙(めいせん)で、うすあかい外国製の布切(ぬのきれ)のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。
真昼の荻窪の駅には、ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえにだまって立って煙草をふかしていた。きょときょと嘉七を捜し求めて、ふいと嘉七の姿を認めるや、ほとんどころげるように駈け寄って来て、
「成功よ。大成功。」とはしゃいでいた。「十五円も貸しやがった。ばかねえ。」
この女は死なぬ。死なせては、いけないひとだ。おれみたいに生活に圧(お)し潰(つぶ)されていない。まだまだ生活する力を残している。死ぬひとではない。死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈(はず)だ。それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、ひとり死のう。
「それは、お手柄(てがら)だ。」と微笑してほめてやって、そっと肩を叩(たた)いてやりたく思った。「あわせて三十円じゃないか。ちょっとした旅行ができるね。」
新宿までの切符を買った。新宿で降りて、それから薬屋に走った。そこで催眠剤(さいみんざい)の大箱を一個買い、それからほかの薬屋に行って別種の催眠剤を一箱買った。かず枝を店の外に待たせて置いて、嘉七は笑いながらその薬品を買い求めたので、別段、薬屋にあやしまれることはなかった。さいごに三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓(ざっとう)ゆえに少し大胆になり、大箱を二つ求めた。黒眼がち、まじめそうな細面の女店員が、ちらと狐疑(こぎ)の皺(しわ)を眉間(みけん)に浮べた。いやな顔をしたのだ。嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、つくれなかった。薬品は、冷く手渡された。おれたちのうしろ姿を、背伸びして見ている。それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり、人から見ると、どこか異様な影があるのだ。嘉七は、かなしいと思った。三越では、それからかず枝は、特売場で白足袋(しろたび)を一足買い、嘉七は上等の外国煙草を買って、外へ出た。自動車に乗り、浅草へ行った。活動館へはいって、そこでは荒城の月という映画をやっていた。さいしょ田舎の小学校の屋根や柵(さく)が映されて、小供の唱歌が聞えて来た。嘉七は、それに泣かされた。
「恋人どうしはね、」嘉七は暗闇のなかで笑いながら妻に話しかけた。「こうして活動を見ていながら、こうやって手を握り合っているものだそうだ。」ふびんさに、右手でもってかず枝の左手をたぐり寄せ、そのうえに嘉七のハンチングをかぶせてかくし、かず枝の小さい手をぐっと握ってみたが、流石(さすが)にかかる苦しい立場に置かれて在る夫婦の間では、それは、不潔に感じられ、おそろしくなって、嘉七は、そっと手を離した。かず枝は、ひくく笑った。嘉七の不器用な冗談に笑ったのではなく、映画のつまらぬギャグに笑い興じていたのだ。
このひとは、映画を見ていて幸福になれるつつましい、いい女だ。このひとを、ころしてはいけない。こんなひとが死ぬなんて、間違いだ。
「死ぬの、よさないか?」
「ええ、どうぞ。」うっとり映画を見つづけながら、ちゃんと答えた。「あたし、ひとりで死ぬつもりなんですから。」
嘉七は、女体の不思議を感じた。活動館を出たときには、日が暮れていた。かず枝は、すしを食いたい、と言いだした。嘉七は、すしは生臭(なまぐさ)くて好きでなかった。それに今夜は、も少し高価なものを食いたかった。
「すしは、困るな。」
「でも、あたしは、たべたい。」かず枝に、わがままの美徳を教えたのは、とうの嘉七であった、忍従のすまし顔の不純を例証して威張って教えた。
みんなおれにはねかえって来る。
すし屋で少しお酒を呑んだ。嘉七は牡蠣(かき)のフライをたのんだ。これが東京での最後のたべものになるのだ、と自分に言い聞かせてみて、流石(さすが)に苦笑であった。妻は、てっかをたべていた。
「おいしいか。」
「まずい。」しんから憎々しそうにそう言って、また一つ頬張り、「ああまずい。」
ふたりとも、あまり口をきかなかった。
すし屋を出て、それから漫才館にはいった。満員で坐れなかった。入口からあふれるほど一ぱいのお客が押し合いへし合いしながら立って見ていて、それでも、時々あはははと声をそろえて笑っていた。客たちにもまれもまれて、かず枝は、嘉七のところから、五間以上も遠くへ引き離された。かず枝は、背がひくいから、お客の垣の間から舞台を覗(のぞ)き見するのに大苦心の態(てい)であった。田舎くさい小女に見えた。嘉七も、客にもまれながら、ちょいちょい背伸びしては、かず枝のその姿を心細げに追い求めているのだ。舞台よりも、かず枝の姿のほうを多く見ていた。黒い風呂敷包を胸にしっかり抱きかかえて、そのお荷物の中には薬品も包まれて在るのだが、頭をあちこち動かして舞台の芸人の有様を見ようとあせっているかず枝も、ときたまふっと振りかえって嘉七の姿を捜し求めた。ちらと互いの視線が合っても、べつだん、ふたり微笑もしなかった。なんでもない顔をしていて、けれども、やはり、安心だった。
あの女に、おれはずいぶん、お世話になった。それは、忘れてはならぬ。責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾(しだん)するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。あの女は、いいひとだ。それは、おれが知っている。信じている。
こんどのことは? ああ、いけない、いけない。おれは、笑ってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは平気で居られぬ。たまらないのだ。
ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんができぬのだ。
笑いの波がわっと館内にひろがった。嘉七は、かず枝に目くばせして外に出た。
「水上(みなかみ)に行こう、ね。」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。
「あ、そんなら、あたし、甘栗を買って行かなくちゃ。おばさんがね、たべたいたべたい言ってたの。」その宿の老妻に、かず枝は甘えて、また、愛されてもいたようであった。ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈(ちょうちん)かはだか蝋燭(ろうそく)もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。老夫婦ふたりきりで子供もなかったようだし、それでも三つの部屋がたまにふさがることもあって、そんなときには老夫婦てんてこまいで、かず枝も台所で手伝いやら邪魔やらしていたようであった。お膳にも、筋子(すじこ)だの納豆(なっとう)だのついていて、宿屋の料理ではなかった。嘉七には居心地よかった。老妻が歯痛をわずらい、見かねて嘉七が、アスピリンを与えたところ、ききすぎて、てもなくとろとろ眠りこんでしまって、ふだんから老妻を可愛がっている主人は、心配そうにうろうろして、かず枝は大笑いであった。いちど、嘉七がひとり、頭をたれて宿ちかくの草むらをふらふら歩きまわって、ふと宿の玄関のほうを見たら、うす暗い玄関の階段の下の板(いた)の間(ま)に、老妻が小さくぺたんと坐ったまま、ぼんやり嘉七の姿を眺めていて、それは嘉七の貴い秘密のひとつになった。老妻といっても、四十四、五の福々しい顔の上品におっとりしたひとであった。主人は、養子らしかった。その老妻である。かず枝は、甘栗を買い求めた。嘉七はすすめて、もすこし多く買わせた。
上野駅には、ふるさとのにおいがする。誰か、郷里のひとがいないかと、嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店(たな)の手代(てだい)と女中が藪入(やぶい)りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目(ひとめ)がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。
向い合って席に落ちついてから、ふたりはかすかに笑った。
「ね、あたし、こんな恰好をして、おばさん変に思わないかしら。」
「かまわないさ。ふたりで浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって、水上のおばさんとこに行こうってきかないから、そのまま来ましたって言えば、それでいい。」
「それも、そうね。」けろっとしていた。
すぐ、また言い出す。
「おばさん、おどろくでしょうね。」汽車が発車するまでは、やはり落ちつかぬ様子であった。
「よろこぶだろう。きっと。」発車した。かず枝は、ふっとこわばった顔になりきょろとプラットフォームを横目で見て、これでおしまいだ。度胸が出たのか、膝の風呂敷包をほどいて雑誌を取り出し、ペエジを繰った。
嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持でウイスキイを口のみした。
金があれば、なにも、この女を死なせなくてもいいのだ。相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も執(と)れるのだ。見ちゃ居られぬ。この女の自殺は、意味がない。
「おい、私は、いい子かね。」だしぬけに嘉七は、言い出した。「自分ばかり、いい子になろうと、しているのかね。」
声が大きかったので、かず枝はあわて、それから、眉をけわしくしかめて怒った。嘉七は、気弱く、にやにや笑った。
「だけどもね、」おどけて、わざと必要以上に声を落して、「おまえは、まだ、そんなに不仕合せじゃないのだよ。だって、おまえは、ふつうの女だもの。わるくもなければよくもない、本質から、ふつうの女だ。けれども、私はちがう。たいへんな奴だ。どうやら、これは、ふつう以下だ。」
汽車は赤羽をすぎ、大宮をすぎ、暗闇の中をどんどん走っていた。ウイスキイの酔もあり、また、汽車の速度にうながされて、嘉七は能弁になっていた。
「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。けれども、私は、いい子じゃない。いい子は、いやだ。なにも、私が人がよくて女にだまされ、そうしてその女をあきらめ切れず、女にひきずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱いよい人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知っている。私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁(わら)が切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれども、それを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いや、おまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男は、くるしいくるしい言ったって、ポオズだ、身振りだ、と、軽く見ている。」
かず枝は、なにか言いだしかけた。
「いや、いいんだ。おまえを非難しているんじゃないのです。おまえは、いいひとだ。いつでも、おまえは、素直だった。言葉のままに信じたひとだ。おまえを非難しようとは思わない。おまえよりもっともっと学問があり、ずいぶん古い友だちでも、私の苦しさを知らなかった。私の愛情を信じなかった。むりもないのだ。私は、つまり、下手だったのさ。」そう言ってやって微笑したら、かず枝は一瞬、得意になり、
「わかりました。もう、いいのよ。ほかのひとに聞えたら、たいへんじゃないの。」
「なんにも、わかっていないんだなあ。おまえには、私がよっぽどばかに見えているんだね。私は、ね、いま、自分でいい子になろうとしているところが、心のどこかの片隅に、やっぱりひそんでいるのではないかしら、とそれで苦しんでいるのだよ。おまえと一緒になって六、七年にもなるけれど、おまえは、いちども、いや、そんなことでおまえを非難しようとは思わない。むりもないことなのだ。おまえの責任ではない。」
かず枝は聞いていなかった。だまって雑誌を読みはじめていた。嘉七は、いかめしい顔つきになり、真暗い窓にむかって独りごとのように語りつづけた。
「冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は、私を、なんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚(うぬぼ)れやの、ぜいたくやの、女たらしの、そのほか、まだまだ、おそろしくたくさんの悪い名前をもらっている。けれども、私は、だまっていた。一ことの弁解もしなかった。私には、私としての信念があったのだ。けれども、それは、口に出して言っちゃいけないことだ。それでは、なんにもならなくなるのだ。私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きて行けない。私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。私は、それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生れる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思っていた。誰も、笑って、ほんとうにしないかも知れないが、実際それは、そう思っていたものだ。私は、そんなばかなのだ。私は、間違っていたかも知れないね。やはり、どこかで私は、思いあがっていたのかも知れないね。それこそ、甘い夢かも知れない。人生は芝居じゃないのだからね。おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。一命すてて創った屍臭(ししゅう)ふんぷんのごちそうは、犬も食うまい。与えられた人こそ、いいめいわくかもわからない。われひと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。」窓は答える筈はなかった。
嘉七は立って、よろよろトイレットのほうへ歩いていった。トイレットへはいって、扉をきちんとしめてから、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)して、ひたと両手合せた。祈る姿であった。みじんも、ポオズでなかった。
水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。
自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。
「寒いのね。こんなに寒いと思わなかったわ。東京では、もうセル着て歩いているひとだってあるのよ。」運転手にまで、身なりの申しわけを言っていた。「あ、そこを右。」
宿が近づいて、かず枝は活気を呈して来た。「きっと、まだ寝ていることよ。」こんどは運転手に、「ええ、もすこしさき。」
「よし、ストップ。」嘉七が言った。「あとは歩く。」そのさきは、路が細かった。
自動車を棄てて、嘉七もかず枝も足袋(たび)を脱ぎ、宿まで半丁ほどを歩いた。路面の雪は溶けかけたままあやうく薄く積っていて、ふたりの下駄をびしょ濡れにした。宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、
「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。
宿の老夫婦は、おどろいた。謂(い)わば、静かにあわてていた。
嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞えて来る。
「それがねえ、おばさんのとこに行こうって、きかないのよ。芸術家って、子供ね。」自身の嘘に気がついていないみたいに、はしゃいでいた。東京はセル、をまた言った。
そっと老妻が二階へあがって来て、ゆっくり部屋の雨戸を繰りあけながら、
「よく来たねえ。」
と一こと言った。
そとは、いくらか明るくなっていて、まっ白な山腹が、すぐ眼のまえに現われた。谷間を覗(のぞ)いてみると、もやもや朝霧の底に一条の谷川が黒く流れているのも見えた。
「おそろしく寒いね。」嘘である。そんなに寒いとは思わなかったのだが、「お酒、のみたいな。」
「だいじょうぶかい?」
「ああ、もうからだは、すっかりいいんだ。ふとったろう。」
そこへかず枝が、大きい火燵(こたつ)を自分で運んで持って来た。
「ああ、重い。おばさん、これ、おじさんのを借りたわよ。おじさんが持っていってもいいと言ったの。寒くって、かなやしない。」嘉七のほうに眼もくれず、ひとりで異様にはしゃいでいた。
ふたりきりになると急に真面目になり、
「あたし、疲れてしまいました。お風呂へはいって、それから、ひとねむり仕様と思うの。」
「したの野天風呂に行けるかしら。」
「ええ、行けるそうです。おじさんたちも、毎日はいりに行ってるんですって。」
主人が大きい藁(わら)ぐつをはいて、きのう降りつもったばかりの雪を踏みかため踏みかため路をつくってくれて、そのあとから嘉七、かず枝がついて行き、薄明の谷川へ降りていった。主人が持参した蓙(ござ)のうえに着物を脱ぎ捨て、ふたり湯の中にからだを滑り込ませる。かず枝のからだは、丸くふとっていた。今夜死ぬる物とは、どうしても、思えなかった。
主人がいなくなってから、嘉七は、
「あの辺かな?」と、濃い朝霧がゆっくり流れている白い山腹を顎でしゃくってみせた。
「でも、雪が深くて、のぼれないでしょう?」
「もっと下流がいいかな。水上の駅のほうには、雪がそんなになかったからね。」
死ぬる場所を語り合っていた。
宿にかえると蒲団(ふとん)が敷かれていた。かず枝は、すぐそれにもぐりこんで雑誌を読みはじめた。かず枝の蒲団の足のほうに、大きい火燵がいれられていて、温かそうであった。嘉七は、自分のほうの蒲団は、まくりあげて、テエブルのまえにあぐらをかき、火鉢にしがみつきながら、お酒を呑んだ。さかなは、鑵詰(かんづめ)の蟹(かに)と、干椎茸(ほししいたけ)であった。林檎(りんご)もあった。
「おい、もう一晩のばさないか?」
「ええ、」妻は雑誌を見ながら答えた。「どうでも、いいけど。でも、お金たりなくなるかも知れないわよ。」
「いくらのこってんだい?」そんなことを聞きながら、嘉七は、つくづく、恥かしかった。
みれん。これは、いやらしいことだ。世の中で、いちばんだらしないことだ。こいつはいけない。おれが、こんなにぐずぐずしているのは、なんのことはない、この女のからだを欲しがっているせいではなかろうか。
嘉七は、閉口であった。
生きて、ふたたび、この女と暮して行く気はないのか。借銭、それも、義理のわるい借銭、これをどうする。汚名、半気ちがいとしての汚名、これをどうする。病苦、人がそれを信じて呉れない皮肉な病苦、これをどうする。そうして、肉親。
「ねえ、おまえは、やっぱり私の肉親に敗れたのだね。どうも、そうらしい。」
かず枝は、雑誌から眼を離さず、口早に答えた。
「そうよ、あたしは、どうせ気にいられないお嫁よ。」
「いや、そうばかりは言えないぞ。たしかにおまえにも、努力の足りないところがあった。」
「もういいわよ。たくさんよ。」雑誌をほうりだして、「理くつばかり言ってるのね。だから、きらわれるのよ。」
「ああ、そうか。おまえは、おれを、きらいだったのだね。しつれいしたよ。」嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。
なぜ、おれは嫉妬(しっと)しないのだろう。やはり、おれは、自惚(うぬぼ)れやなのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。れいのそのひとが、あまり弱すぎるせいであろうか。おれのこんな、ものの感じかたをこそ、倨傲(きょごう)というのではなかろうか。そんなら、おれの考えかたは、みなだめだ。おれの、これまでの生きかたは、みなだめだ。むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。そんな嫉妬こそ、つつましく、美しいじゃないか。重ねて四つ、という憤怒(ふんぬ)こそ、高く素直なものではないか。細君にそむかれて、その打撃のためにのみ死んでゆく姿こそ、清純の悲しみではないか。けれども、おれは、なんだ。みれんだの、いい子だの、ほとけづらだの、道徳だの、借銭だの、責任だの、お世話になっただの、アンチテエゼだの、歴史的義務だの、肉親だの、ああいけない。
嘉七は、棍棒(こんぼう)ふりまわして、自分の頭をぐしゃと叩きつぶしたく思うのだ。
「ひと寝いりしてから、出発だ。決行、決行。」
嘉七は、自分の蒲団をどたばたひいて、それにもぐった。
よほど酔っていたので、どうにか眠れた。ぼんやり眼がさめたのは、ひる少し過ぎで、嘉七は、わびしさに堪(た)えられなかった。はね起きて、すぐまた、寒い寒いを言いながら、下のひとに、お酒をたのんだ。
「さあ、もう起きるのだよ。出発だ。」
かず枝は、口を小さくあけて眠っていた。きょとんと眼をひらいて、
「あ、もう、そんな時間になったの?」
「いや、おひるすこしすぎただけだが、私はもう、かなわん。」
なにも考えたくなかった。はやく死にたかった。
それから、はやかった。このへんの温泉をついでにまわってみたいからと、かず枝に言わせて、宿を立った。空もからりと晴れていたし、私たちはぶらぶら歩いて途中のけしきを見ながら山を下りるから、と自動車をことわり、一丁ほど歩いて、ふと振りむくと、宿の老妻が、ずっとうしろを走って追いかけて来ていた。
「おい、おばさんが来たよ。」嘉七は不安であった。
「これ、なあ、」老妻は、顔をあからめて、嘉七に紙包を差し出し、「真綿(まわた)だよ。うちで紡(つむ)いで、こしらえた。何もないのでな。」
「ありがとう。」と嘉七。
「おばさん、ま、そんな心配して。」とかず枝。何か、ふたり、ほっとしていた。
嘉七は、さっさと歩きだした。
「おだいじに、行きなよ。」
「おばさんもお達者で。」うしろでは、まだ挨拶していた。嘉七はくるり廻れ右して、
「おばさん、握手。」
手をつよく握られて老妻の顔には、気まり悪さと、それから恐怖の色まであらわれていた。
「酔ってるのよ。」かず枝は傍から註釈した。
酔っていた。笑い笑い老妻とわかれ、だらだら山を下るにしたがって、雪も薄くなり、嘉七は小声で、あそこか、ここか、とかず枝に相談をはじめた。かず枝は、もっと水上(みなかみ)の駅にちかいほうが、淋(さび)しくなくてよい、と言った。やがて、水上のまちが、眼下にくろく展開した。
「もはや、ゆうよはならん、ね。」嘉七は、陽気を装うて言った。
「ええ。」かず枝は、まじめにうなずいた。
路の左側の杉林に、嘉七は、わざとゆっくりはいっていった。かず枝もつづいた。雪は、ほとんどなかった。落葉が厚く積っていて、じめじめぬかった。かまわず、ずんずん進んだ。急な勾配(こうばい)は這ってのぼった。死ぬことにも努力が要る。ふたり坐れるほどの草原を、やっと捜し当てた。そこには、すこし日が当って、泉もあった。
「ここにしよう。」疲れていた。
かず枝はハンケチを敷いて坐って嘉七に笑われた。かず枝は、ほとんど無言であった。風呂敷包から薬品をつぎつぎ取り出し、封を切った。嘉七は、それを取りあげて、
「薬のことは、私でなくちゃわからない。どれどれ、おまえは、これだけのめばいい。」
「すくないのねえ。これだけで死ねるの?」
「はじめのひとは、それだけで死ねます。私は、しじゅうのんでいるから、おまえの十倍はのまなければいけないのです。生きのこったら、めもあてられんからなあ。」生きのこったら、牢屋だ。
けれどもおれは、かず枝に生き残らせて、そうして卑屈な復讐をとげようとしているのではないか。まさか、そんな、あまったるい通俗小説じみた、――腹立たしくさえなって、嘉七は、てのひらから溢(あふ)れるほどの錠剤を泉の水で、ぐっ、ぐっとのんだ。かず枝も、下手な手つきで一緒にのんだ。
接吻(せっぷん)して、ふたりならんで寝ころんで、
「じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。」
嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを崖(がけ)のふちまで移動させて、兵古帯(へこおび)をほどき、首に巻きつけ、その端を桑(くわ)に似た幹にしばり、眠ると同時に崖から滑り落ちて、そうしてくびれて死ぬる、そんな仕掛けにして置いた。まえから、そのために崖のうえのこの草原を、とくに選定したのである。眠った。ずるずる滑っているのをかすかに意識した。
寒い。眼をあいた。まっくらだった。月かげがこぼれ落ちて、ここは?――はっと気附いた。
おれは生き残った。
のどへ手をやる。兵古帯は、ちゃんとからみついている。腰が、つめたかった。水たまりに落ちていた。それでわかった。崖に沿って垂直に下に落ちず、からだが横転して、崖のうえの窪地(くぼち)に落ち込んだ。窪地には、泉からちょろちょろ流れ出す水がたまって、嘉七の背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった。
おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているように。
四肢|萎(な)えて、起きあがることさえ容易でなかった。渾身(こんしん)のちからで、起き直り、木の幹に結びつけた兵古帯をほどいて首からはずし、水たまりの中にあぐらをかいて、あたりをそっと見廻した。かず枝の姿は、無かった。
這いまわって、かず枝を捜した。崖の下に、黒い物体を認めた。小さい犬ころのようにも見えた。そろそろ崖を這い降りて、近づいて見ると、かず枝であった。その脚をつかんでみると、冷たかった。死んだか? 自分の手のひらを、かず枝の口に軽くあてて、呼吸をしらべた。無かった。ばか! 死にやがった。わがままなやつだ。異様な憤怒で、かっとなった。あらあらしく手首をつかんで脈をしらべた。かすかに脈搏が感じられた。生きている。生きている。胸に手をいれてみた。温かった。なあんだ。ばかなやつ。生きていやがる。偉いぞ、偉いぞ。ずいぶん、いとしく思われた。あれくらいの分量で、まさか死ぬわけはない。ああ、あ。多少の幸福感を以(もっ)て、かず枝の傍に、仰向に寝ころがった。それ切り嘉七は、また、わからなくなった。
二度目にめがさめたときには、傍のかず枝は、ぐうぐう大きな鼾(いびき)をかいていた。嘉七は、それを聞いていながら、恥ずかしいほどであった。丈夫なやつだ。
「おい、かず枝。しっかりしろ。生きちゃった。ふたりとも、生きちゃった。」苦笑しながら、かず枝の肩をゆすぶった。
かず枝は、安楽そうに眠りこけていた。深夜の山の杉の木は、にょきにょき黙ってつっ立って、尖(とが)った針の梢(こずえ)には、冷い半月がかかっていた。なぜか、涙が出た。しくしく嗚咽(おえつ)をはじめた。おれは、まだまだ子供だ。子供が、なんでこんな苦労をしなければならぬのか。
突然、傍のかず枝が、叫び出した。
「おばさん。いたいよう。胸が、いたいよう。」笛の音に似ていた。
嘉七は驚駭(きょうがく)した。こんな大きな声を出して、もし、誰か麓(ふもと)の路を通るひとにでも聞かれたら、たまったものでないと思った。
「かず枝、ここは、宿ではないんだよ。おばさんなんていないのだよ。」
わかる筈(はず)がなかった。いたいよう、いたいようと叫びながら、からだを苦しげにくねくねさせて、そのうちにころころ下にころがっていった。ゆるい勾配(こうばい)が、麓の街道までもかず枝のからだをころがして行くように思われ、嘉七も無理に自分のからだをころがしてそのあとを追った。一本の杉の木にさえぎ止められ、かず枝は、その幹にまつわりついて、
「おばさん、寒いよう。火燵(こたつ)もって来てよう。」と高く叫んでいた。
近寄って、月光に照されたかず枝を見ると、もはや、人の姿ではなかった。髪は、ほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、山姥(やまうば)の髪のように、荒く大きく乱れていた。
しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。嘉七は、よろよろ立ちあがって、かず枝を抱きかかえ、また杉林の奥のほうへ引きかえそうと努めた。つんのめり、這(は)いあがり、ずり落ち、木の根にすがり、土を掻(か)き掻き、少しずつ少しずつかず枝のからだを林の奥へ引きずりあげた。何時間、そのような、虫の努力をつづけていたろう。
ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、尽せるところまで尽した。
そのとき、はっきり決心がついた。
この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。
夜明けが近くなって来た。空が白くなりはじめたのである。かず枝も、だんだんおとなしくなって来た。朝霧が、もやもや木立に充満している。
単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。
かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取ってやりながら、
おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。
ひるすこし過ぎまで、かず枝は、たっぷり眠った。そのあいだに、嘉七は、よろめきながらも自分の濡れた着物を脱いで、かわかし、また、かず枝の下駄を捜しまわったり、薬品の空箱を土に埋めたり、かず枝の着物の泥をハンケチで拭きとったり、その他たくさんの仕事をした。
かず枝は、めをさまして、嘉七から昨夜のことをいろいろ聞かされ、
「とうさん、すみません。」と言って、ぴょこんと頭をさげた。嘉七は、笑った。
嘉七のほうは、もう歩けるようになっていたが、かず枝は、だめであった。しばらく、ふたりは坐ったまま、きょうこれからのことを相談し合った。お金は、まだ拾円ちかくのこっていた。嘉七は、ふたり一緒に東京へかえることを主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に乗れない、と言い、結局、かず枝は、また自動車で谷川温泉へかえり、おばさんに、よその温泉場で散歩して転んで、着物を汚したとか、なんとか下手(へた)な嘘を言って、嘉七が東京にさきにかえって着換えの着物とお金を持ってまた迎えに来るまで、宿で静養している、ということに手筈(てはず)がきまった。嘉七の着物がかわいたので、嘉七はひとり杉林から脱けて、水上のまちに出て、せんべいとキャラメルと、サイダーを買い、また山に引きかえして来て、かず枝と一緒にたべた。かず枝は、サイダーを一口のんで吐いた。
暗くなるまで、ふたりでいた。かず枝が、やっとどうにか歩けるようになって、ふたりこっそり杉林を出た。かず枝を自動車に乗せて谷川にやってから、嘉七は、ひとりで汽車で東京に帰った。
あとは、かず枝の叔父に事情を打ち明けて一切をたのんだ。無口な叔父は、
「残念だなあ。」
といかにも、残念そうにしていた。
叔父がかず枝を連れてかえって、叔父の家に引きとり、
「かず枝のやつ、宿の娘みたいに、夜寝るときは、亭主とおかみの間に蒲団ひかせて、のんびり寝ていた。おかしなやつだね。」と言って、首をちぢめて笑った。他には、何も言わなかった。
この叔父は、いいひとだった。嘉七がはっきりかず枝とわかれてからも、嘉七と、なんのこだわりもなく酒をのんで遊びまわった。それでも、時おり、
「かず枝も、かあいそうだね。」
と思い出したようにふっと言い、嘉七は、その都度(つど)、心弱く、困った。
あとがき
所收――「葉」「列車」「I can speak」「姥捨」「東京八景」「みみづく通信」「佐渡」「たづねびと」「千代女」
この短篇集を通讀なさつたら、私の過去の生活が、どんなものであつたか、だいたい御推察できるやうな、そのやうな意圖を以て編んでみた。ひどい生活であつたが、しかし、いまの生活だつてひどいのである。さうして、これから、さらにひどい事になりさうな豫感さへあるのである。
卷末の「千代女」は、私の生活を書いたものではないが、いまの「文化流行」の奇現象に觸れてゐるやうにも思はれるので、附け加へて置いた。昭和二十二年早春