着物

 

 

「きもの」小史足袋植物染料佐羽喜六木綿織物(新潟)福井羽二重染色技術者 
豊田佐吉(蕨町)労働運動一入(ひとしお)綸子(りんず)帽子の歴史 
砧(きぬた)伸子 (しんし)臼で布を打つ色彩と文様の雅・・・  
 
 
【衣】ころも 人のからだ、特に胴体をおおう物の総称。衣服。着物。きぬ。僧や尼が袈裟(けさ)の下につける衣服。僧尼の法衣。僧衣。菓子や揚物などの外皮。てんぷら、フライなどの外側を包んでいるものや、きんとん、こんぺいとう、豆などの外側にまぶしてあるものの類。 
衣の裏の玉 過去にせっかく大乗の教えを授けられながら悟ることができなかったが、いま、釈迦から法華の一仏乗を聞くにおよんで悟ることができたというたとえ。 
衣の領(くび) 着物のえり。特に、着物をかき合わせる部分。 
衣の裾 着物のすそ。着物の下端の部分。束帯の下襲(したがさね)のうしろに長くたれさげるもの。 
衣の関 すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえ。 
衣の虫 「しらみ(虱)」の異名。 
衣の闇 墨染めの喪衣。黒い喪服。 
衣は骭(かん)に至り袖(そで)腕に至る 剛健な気風やぶこつなさま。 
衣を打つ 衣を石の台などにのせて砧(きぬた)で打つ。 
衣を返す 衣服を裏返しに着て寝ると恋しい人を夢に見るという俗信があった。 
衣を掛ける 事実以上におおげさに見せる。 
衣を重ぬ 男女の関係を結ぶ。夫婦のちぎりを結ぶ。 
衣を振る 世俗の塵をはらい志を高尚にする。官を辞して野に下る。 
衣を隔つ すぐ身近にいながらも、男女が関係を結ばない。夫婦の関係が絶えている。 
肩を入れる 肌脱ぎになっていたのが着物を着る。加勢する。味方する。肩を持つ。
【衣】きぬ 衣服。着物。上半身からおおって着るものの総称。動物の羽毛、皮、また植物の外皮、特に芋の子の皮など。なにもついていない肉体のはだ。地はだ。 
衣出(いだ)す 出衣(いだしぎぬ)をする。 
衣の領(くび) 着物のえり。 
衣の後(しり) 束帯の下襲のすそ。また、ころものすそ。裾(きょ)。 
【一つ着物】 一つしかない着物。一張羅(いっちょうら)。下着などをつけないで着物一枚だけを着ること。 
【衣装・衣裳】 上半身に着る衣(きぬ)と下半身につける裳(も)。「馬子にも衣装」 
衣装の御法度 江戸時代華美をいましめるために、金紗、総鹿子などの高価な衣装を用いることを禁じた法令。 
衣装を曝す 七夕に牽牛、織女に貸し与えるために小袖などをさらす。 
【衣装合】 演劇などの上演にさきだって使用する衣装を実際に着てみて、他の衣装との調和などを調べてみること。 
【衣装絵】 厚紙を女の姿などに切り、美しい布をはり、綿をふくませ高低をつけて作る絵。押し絵。 
【衣装重】 近世、京都、島原の遊里で九月九日の菊の節句の前後三日間、遊女等が揚屋の座敷に、各自の衣装や道具類を飾りたて全盛を競いあった行事。 
【衣装方】 演劇、舞踊などで、衣装の調達、保管、修理などを担当する者。 
【衣装着】 能、歌舞伎などで、役者に衣装を着せる係りの者。 
【衣装蔵】 衣装を入れておく蔵。特に劇場で下級役者の着用する舞台衣装を入れておく部屋。 
【衣装比】 女性が互いに衣装の美しさを競いあうこと。 
【衣装好】 衣服のえりごのみをしたり、美しい着物や多くの衣類を所持しようと願ったりすること。 
【衣装箪笥】 衣服の保管整理に使うたんす。
【衣装付】 衣装の着こなし。着物を着た姿。えもんつき。 
【衣装尽】 衣装にぜいたくをこらすこと。 
【衣装付】 衣装方が俳優の扮装に必要な衣装の明細を書きとめておく帳面。 
【衣装哲学】  (原題ラテンSartor Resartus「仕立屋の仕立なおし」の意)カーライル著の訳名、1836年刊行。宇宙を衣服のようなものとみなし、魂と意志の力を強調した自叙伝的評論。人間が衣装をまとう現象についての理論。 
【衣装道楽】 衣類を多く所持したり、着飾ったりするのを特に好むこと。着道楽。 
【衣装所】 近世初期、大名の邸内で衣装をおさめ、また裁縫する室。 
【衣装戸棚】 衣類を入れる戸棚。 
【衣装人形】 衣装をつけた人形。押し絵のものと、木彫り人形に絹布を着せたものと二様あり、多く俳優、遊女、若衆などの姿をかたどった。着付け人形。 
【衣装縫】 死人に着せるための白衣を縫うこと。色縫い。 
【衣装法度】 =いしょう(衣装)の御法度 
【衣装櫃】 衣装を入れておく大型の箱。 
【衣装雛】 衣装を飾った雛祭(ひなまつり)の人形。 
【衣装幕】 =こそでまく(小袖幕) 
【衣装持】 衣装をたくさん持っている人。 
【衣装屋】 俳優の必要とする衣装を調達する店。衣服を売る店。
【着際】 着物や、かぶりものなどの端の方の部分。着物を着たようす。また、冠や帽子などをかぶったぐあい。着っぷり。着物やかぶりものなどを身につけたばかりの時、また、身につけようとする際。 
【着物道楽】 種々の着物を着て楽しむ道楽。 
【開ける】はだける 着物の前がだらしなくひらく。着物の前があいて肌が露出する。「襟がはだける」 
【一つ襟】 着物を幾枚も重ねて着るとき、上の着物の襟で下の着物の襟をかくして、一枚のようにみせること。 
【薄綿】うすわた 着物に綿を薄く入れること。また、その着物。薄綿入れ。着物に薄く入れた綿。もめん綿の上に薄く引き延ばしておおう真綿。引き綿。 
【小褄】こづま 着物の褄(つま)。着物の襟から裾にいたるへりの下の方。 
小褄を取る 着物のたて褄を手で持ち上げる。褄をとる。転じて、芸者になる。左褄をとる。 
【振袖】 丈を長くして、脇の下を縫い合わせない袖。また、その袖を付けた着物。昔は男女とも一五、六歳までで、元服以前の者が着た。年頃の娘。若い娘。おぼこ娘。少女。 
【振袖お山】 江戸時代、上方の遊里で、振袖の着物を着た一四、五歳の女郎。江戸でいう振袖新造。 
【振袖火事】 明暦3年1月18-19両日にわたって江戸の大半を焼きつくした大火。明暦の大火。 
【振袖新造】 江戸時代、江戸吉原で、振袖を着て出る禿(かぶろ)あがりの若い新造級の遊女。まだ見習い期間で、姉女郎に属して出た。 
【振袖柳】 ヤナギ科の落葉低木。主に生花用に栽培。高さ2-3m。枝は緑色で赤みを帯び、葉は長楕円形で先が尖る。雌雄異株。葉がたくさんついて垂れさがったさまを振袖にたとえていう。
【衣手】ころもで 衣服の袖。たもと。着物全体をいう。僧尼の法衣。また、法衣を着ている人。僧侶。 
【衣手の】 たもとを分かって離れる意からか。一説に、袖が左右に分かれているところからとも。袖が風にひるがえる意から、「返(かえ)る」と同音の「帰る」にかかる。「手(た)」の縁で、「手(た)」と同音を語頭に持つ地名「田上(たなかみ)山」および「高屋(たかや)」にかかる。「田上山」にかかる例は、「手上(たがみ)」の縁によるとする説もある。地名「名木(なき)の川」「真若(まわか)の浦」にかかる。地名「飛騨(ひだ)」にかかる。上代の「常陸(ひたち)」にかかる枕詞「ころもで」を転用したもの。 
【衣手里】 山城国葛野郡にあったという地名。現在の京都市右京区松尾町付近か。 
【衣手森】 山城国葛野郡にあったという地名。今の京都市右京区松尾町の近くか。 
【衣手を】 地名「うちみの里」にかかる。きぬたで衣を打つ意からか。「高屋(たかや)」「葦毛(あしげ)」にかかる。かかり方未詳。 
【逆さ着物】 入棺までの死者に、上下を逆にして掛けておく生前の着物。また、その慣習。 
【諸肌・両肌】もろはだ 着物から両方の肩を脱いで現れた肌。上半身の肌。全力を尽くし事にあたる。 
【諸肌脱】 着物から両方の肩を脱いで上半身をあらわにす。 
【肩上】 子どもなどの着物の裄(ゆき)を、その成長に応じて調節できるように肩の所に縫い上げること。また、そのもの。肩縫上げ。 
肩上げを下ろす[取る] 肩上げをはずして、裄(ゆき)を長くする。子どもが成人して、肩上げのない着物を着るようになる。 
【帷子】かたびら 几帳(きちょう)、御張(みちょう)、壁代(かべしろ)などに用いて、へだてとするたれ布。夏は生絹(すずし)、冬は練絹(ねりぎぬ)を用いる。裏をつけない布製の衣類の総称。夏は直衣(のうし)の下に着る。夏に着る、麻、木綿、絹などで作ったひとえもの。また、一般に、ひとえの着物。かたびらきぬ。仏式で、葬る時、名号、経文、題目などを書いて死者に着せる着物。白麻などでつくる。きょうかたびら。
【帷子ケ辻】 京都市右京区太秦にある地名。嵯峨天皇の后、檀林皇后の帷子が落ちていたところからの名という。 
【帷子衣】かたびらきぬ 
【帷子時】かたびらどき 生絹(すずし)、または麻のひとえものを着る時節。盛夏の候。端午の節供から八月末まで。帷子時分。 
【帷子布】 布のひとえ。裏をつけない衣類。 
【帷子雪】 薄く積もった雪。一説に薄く大きな雪片の雪。 
【片前】かたまえ 着物の左右重ね合わせた外側の部分。男子の洋服で、上衣の前方が一列ボタンで、合わせ目の浅いもの。シングル。 
【片前下】かたまえさがり 着物の裾が左右よくそろわないで、一方の裾だけが下がっていること。 
【着殺す】きころす 一つの着物を破れてだめになるまで着る。着つぶす。 
【着捨てる】 着物を脱ぎ捨てる。着物をいたむまで着てそのまま捨ててしまう。 
【着こなし】 着物の着方。 
【筒袖】つつそで 袂(たもと)が筒のような形をした袖。また、そういう袖の着物。子供の着物、大人のねまき・仕事着などに用いる。削袖(そぎそで)。つつっぽう。つつっぽ。 
【筒袖襦袢】 筒袖の襦袢。つつっぽ。つつそで。 
【筒袖羽織】 筒袖の羽織。当初講武所通いの武士が用いたが、明治以降からは子供が着用した。 
【筒っ袍】つつっぽう 筒袖(つつそで)の着物。江戸時代、子供の着物や大人の肌着、また、下男・下女の略服や、職人・物売りなどの仕事着として用いた。
【着抜】きぬき 着た着物を脱ぎ捨てたままにすること。また、その着物。脱ぎ捨て。 
【青梅綿】 江戸時代、文化・文政の頃、武蔵国青梅付近から産した、着物などに入れる上等な綿。三枚で本裁の着物一枚分にのばした綿。 
【着物・著物】 身に着る物の総称。ころも。衣服。洋服に対して和服をいう。 
【着物】きりもの きもの。着るもの。衣服。「きりもん」ともいい関西地方の方言として分布する。 
【留袖】 振袖に対して、女子の和服の普通の長さの袖。また、その着物。本来は袖の振りをとめて袖丈をつめたものをいうが、文化年間から八つ口があいて今日に至る。ふつう女子は娘時代は振袖を、結婚後は留袖を着用した。既婚婦人が礼装に用いる江戸褄模様の紋付の着物。香をたきしめた袖。 
【留袖新造】 振袖でなく袖を留めた年長の新造。 
【孔雀絞】 雄の孔雀の羽毛の先端部にある円形模様に似た絞り染め模様。また、その着物。 
【孔雀染】 孔雀やその羽根の模様を染め出すこと。また、その着物。 
錦を飾る 立身出世して故郷へ帰る。 
【花色衣】 咲いている花を衣に見立てた語。はなだ色の着物。薄藍色に染めた衣服。露草の花などで染めた。移り変わること。移ろいやすいこと。上方の遊里で用いられた語。 
【花色繻子】 はなだ色の繻子。 
【花色木綿】 はなだ色に染めた木綿。多く着物の裏地に用いた。
【浅葱裏・浅黄裏】 衣服の、あさぎ色の裏地。また、その裏地をつけた着物。遊里で、野暮な田舎侍をあざけって呼んだ語。 
【服】 ころも。着物。衣服。(和服を着物というのに対していう)「ようふく(洋服)」の略。 
【掻取】かいどり 着物の褄(つま)や裾(すそ)をからげて、裾が地につかないように引き上げること。掻取の小袖。打掛(うちかけ)の小袖。近世の慣例としては武家方で打掛と称したのに対して、公家方でもっぱらいったもの。 
【掻取姿】 衣服の裾などをちょっとつまみ上げた姿。 
【掻取褄】 衣服の褄をつまみ上げて、歩きやすいようにしていること。掻取小褄。 
【掻取前】 丈(たけ)いっぱいにつくった着物の裾が地面に触れないように、前の褄をつまみ上げること。 
【紋服】 紋付の着物。家紋をつけた着物。 
【弥蔵】やぞう 着物の中で握りこぶしをつくり、その手を胸のあたりに置いて、着物を突き上げるようにしたさまを人名のように表した語。にぎりこぶし。げんこつ。 
夜の錦(にしき) 夜、美しい錦の着物を着ても誰も見る人もなく、一向に映(は)えないこと。甲斐がないこと。その効果を表すことができず惜しいもののたとえ。闇夜の錦。 
蓬の丸寝(まろね) よもぎの宿で着物を着たままで寝ること。あばら屋でごろ寝すること。
【夜着】よぎ 夜寝るときに掛ける衾(ふすま)。また、夜具の一つ。大形の着物のような形で、厚く綿を入れたもの。よるのもの。 
【湯掛】ゆがけ=ゆあみ(湯浴) 入浴後に着るひとえの着物。湯あがり。ゆかた。 
【八橋織】やつはしおり 絹織物の一種。向きの異なる綾織の組織を組み合わせて市松模様を表したもの。練織と生織との二種があり、白または染めて、着物あるいは羽織の裏地などに用いる。仙台地方で多く作られた。 
【地赤】じあか 赤色の地に松竹梅などの模様を付けた女の晴着用の絹織物。また、その生地でつくった着物。他に、地黒・地白などがある。黒は元日、赤は三月三日、白は九月九日に着用した。 
【三寸模様】 江戸中期末に流行した年配の婦人の着物の裾模様で、模様の高さが裾から三寸あるもの。 
紅葉の衣(ころも) 秋になって一面に紅葉(こうよう)するさまを着物に見立てていう語。 
【錆無地】 麻織物の一つ。苧糸(からむしいと)を平織にしたもの。晒(さら)さないので淡い褐色を帯びる。そのままで夏の着物地などにする。 
【無宿縞】 追剥(おいはぎ)や無宿人が着ていた大柄の縦縞模様。また、その着物。 
【剥節供】むけぜっく 東日本で六月一日をいう。新しく夏の着物を着て社寺に詣でるとか、蛇が皮を脱ぐ日であるから桑畑へ行ってはならないとかいう。きぬぬぎついたち。 
【三つ紋】 背と両袖の後ろとに一つずつつけてある紋。また、その紋のついた着物。 
【三つ襟】 着物三枚を、下の襟が少し見えるようにずらして重ねて着ること。衣服の背の上部で襟に縫い合わされる部分。 
【道行摺】みちゆきずり 道の途中で行きあうこと。通りすがり。草原を分けて行くとき、草にすられて着物の染まること。 
【回合羽】まわしガッパ 着物の上に引き回して着る、袖のない合羽。坊主合羽。丸合羽。 
【間祝着】 大漁のとき網元が漁師に贈る沖着物。鯛(たい)や鶴亀などを染め出した祝着。 
【麻衣】まい 麻(あさ)のころも。麻の白い着物。あさごろも。礼服や僧侶の衣服に用いた。まえ。喪服。 
【保多織・保田織】ほたおり 江戸中期より織り始めた絹織物。特産地は讚岐(香川県)。白地、色物、縞物があり、夏季着物地、敷布などに用いる。
【平衣】へいえ ふだん着る着物。 
【古代模様】 古い感じの模様。着物の花、鳥などの古風な模様。 
【吹抜・吹貫】ふきぬき  襦袢を着けないで、直接着物を着ること。風が吹き通るところからいう。旗の一種。吹流しに似て、切り裂いた長い布の口をまるく輪にして竿につけたもの。戦国時代末期から軍陣で用いた。小さなものは指物にもした。家屋の柱間に壁がなく、外部に向かって開放されていること。吹きはなし。 
【吹抜屋台】 大和絵の手法の一つ。屋内描写に際して、屋根・天井を取り除き、柱と梁を残し斜め上方から俯瞰(ふかん)するように描くもの。平安時代、わが国独自の手法として完成。 
【被風・披風・被布】ひふ 近世の公家が、略儀の外出に着用した簡易な盤領(まるえり)の道服の一種。 着物の上にはおる防寒具。衽(おくみ)が深く、丸襟で、左右を合わせて紐でとめるようにしたもの。現在の被布の祖型。僧侶・医者・茶人などが用いた。(被布)明治時代に2が変型したもの。婦人用。四角い胸明になまこ衿をつけたもので、多く袖がない。 
【左前】 着物の右の衽(おくみ)を左の衽の上に重ねて着ること。死者に着せる経帷子(きょうかたびら)はそうする習慣がある。また、女子の洋服類は左前となっている。左衽(さじん)。物事が順調にいかないこと。運や金まわり、商売などがうまくいかなくなること。左まわり。左向き。「会社が左前になる」 
【左褄】 着物の左の方のつま。(近世後期、左手でつまを取って歩くところから)芸者のこと。 
左褄を取(と)る 芸者のつとめをする。
【花絹】(「正花絹」の略か)はなだ色、紺色の先染めの正絹地で男物の着物の裏地とする。 
【八掛】はっかけ 女のあわせや綿入れの着物のすその裏につける布。身ごろのすそに四布、袵(おくみ)に二布、えり先に二布、合わせて八つに裁って用いるところからいう。もと上方語で、江戸では吉原だけのいい方であった。はきかけ。すそまわし。 
【蹴出】けだし 蹴って出すこと。蹴り出すこと。(着物の裾の蹴返(けかえ)しに出す意か)婦人が腰から足にかけて、腰巻の上に重ねて、巻きつけて着用する衣服。上着の裾が汚れたり破れたりするのを防ぎ、また、足が現われるのをきらうための下着。明治時代以降は、腰巻そのものをいう。裾よけ。 
【端折る】 着物の裾を持ち上げて帯にはさむ。はぶいて短く縮める。簡単にする。省略する。「話をはしょる」 
【羽織る】着物などの上から、おおいかけて着る。袖を通さないで肩にかけて着る。「コートをはおる」 
【熨斗目】のしめ 練緯(ねりぬき)で生地を平らにのして縮みのない綾。腰のあたりに筋や格子を織り出したものが多く、江戸時代には武士の小袖として麻上下(あさがみしも)の下に着用した。能装束・狂言装束の一つ。身分の高くない男役で、水衣(みずごろも)や素襖(すおう)の下着に用いる小袖。紋はつけない。段熨斗目、無地熨斗目、縞熨斗目の三種類がある。 
【追掛端折】 着物のうしろのすそをからげて帯にはさむこと。人を追いかけるときによくするところからいう。 
【管襦袢】 篠竹(しのだけ)、葦などを短く切って中に糸を通し、菱形などに編んで作った肌襦袢。汗が着物ににじまないようにするために着る。竹襦袢。
【七つ紋】 羽織や着物などの背中に一つ、両袖の前後におのおの一つ、左右の肩の前に各一つの計七つ付けられた紋所。 
【夏衣】なつごろも 夏の衣装。夏に着る着物。 
【長羽織】ながばおり ふつうのものより長く、着物丈に近い羽織。江戸時代、医者、儒者などが着用した。 
i袍・褞袍】どてら 普通の着物よりもやや長く大きめに仕立て、綿を入れた広袖のもの。防寒具または寝具として用いる。丹前。 
【木目込・極込】きめこみ 押し絵の一種。奉書や糊入(のりいれ)などの板目紙に、綿を入れないで平らに切れ地をはりつけたもの。切れ地の合わせ目は細筆でかいた線のように見せる。俳優の化粧法の一つ。鼻筋をくっきりと高く見せるために、白粉を鼻筋に濃く塗り、左右をぬぐい取って薄くする。「きめこみにんぎょう(木目込人形)」の略。 
  
【木目込人形】 京都賀茂神社の雑掌(ざっしょう)大八が、元文年間に創始した人形。木彫後、金襴などの美しい布を張りつけて着物とし、布地の端を彫り込んだ溝に埋める。賀茂川人形。大八人形。 
【辻褄】つじつま (「辻」は裁縫で縫目が十文字に合うところ。「褄」は着物の裾の左右が合うところ)合うべき所がきちんと合うはずの物事の道理。一つのものの初めと終わり。すじみち。つまめ。 
辻褄が合(あ)う 合うべきところがきちんと合う。すじみちがよく通る。前後が矛盾しない。多く、打消を伴って用いられる。「ようやく辻褄を合わせた」「辻褄の合わない話」
【丹前】 江戸時代、丹前風呂へ通った町奴。また、その風俗や伊達姿(だてすがた)をいう。「たんぜんぶし(丹前節)」の略。雪駄(せった)の鼻緒の一つで、丹前姿の人が多く用いたもの。歌舞伎で、吉原通いの丹前姿の出(で)や丹前六法の際などに用いる、三味線入の合方(あいかた)。防寒着の一種。厚く綿を入れた広袖風のもので、衣服の上に着るもの。「丹前姿」から起こるという。上方の風俗。また、一九世紀以降上方風俗が江戸に移り、「どてら」をも称するようになった。 
【丹前帯】 丹前姿の人の用いた幅の広い帯。京都の題目踊りの踊り手たちが、肩にかけた襷(たすき)の帯。 
【丹前笠】 丹前姿の人のかぶった編笠。また、風流な編笠。 
【丹前縞】 丹前姿の人の着た着物の縞柄。また、風流な縞柄。 
【丹前姿】 遊冶郎(ゆうやろう)、侠客などの、広袖のゆったりとした伊達姿(だてすがた)。丹前風呂の湯女(ゆな)勝山の姿にはじまるという。 
【丹前立髪】 月代(さかやき)をそらないで長く伸ばした髪形。 
【丹前風】 丹前姿の人特有の衣装や髪形などの様式。→丹前姿。旗本奴、町奴などの丹前姿で六法を踏んで歩いた歩き方。また、そのふるまい。 
【伊達着】だてぎ はでな着物。だてな服装。
【襷・手繦】だてぎ 上代、神事奉仕の物忌みの標(しるし)として肩にかける清浄な植物繊維の紐。幼児の着物の袖を背にかけて結びあげる紐。仕事をする時、和服の袖をたくしあげるために、両肩から両わきへ斜め十文字形になるようにかけて結ぶ紐。紐・線などを斜めにうち違えること。また、その模様。杉戸、板塀(いたべい)などの上部に、細い木を斜め十文字形に打ち違え、飾りとしたもの。一方の肩から他方の腰へ斜めにかけた細い布。 
【揃】そろい 揃うこと。集まるべきものが全部集まること。集まって一つの形や組をなすこと。また、そのもの。着物などの布地・仕立て・模様がみな同じであること。また、そのもの。そろえ。いくつかで一組になるものを数えるのに用いる。そろえ。「三つ揃いの背広」 
【衣服】 着る衣類。着物。きぬ。衣装。 
【装束】そろい 衣服や装身具、調度(ちょうど)の類を完備して配置すること。衣冠、束帯、直衣(のうし)などで装うこと。身じたくすること。衣服。着物。衣装。 
装束の家 衣服を中心とする装束のことを世業とする家。三条・大炊御門・山科の三家をいう。 
装束の仮(か) 上代・中古、地方官を拝命した者に賜った休暇。任地の遠近により、二〇日・三〇日・四〇日・六〇日の別がある。前任者もこれに準じて休暇が与えられる。 
装束の傘 貴族が外出の際に持参させる、袋に納めた妻折傘(つまおりがさ)。 
【装束納】 能楽で、夏前に演能の打ち納めとして行われる催し。夏季は暑さを避け、面、装束をつけない袴能(はかまのう)となる。
【装束司】しょうぞくし 中古以来、行幸、大嘗会(だいじょうえ)、御禊(ごけい)、大葬などに際して、その設営のことをつかさどる臨時の職。 
【装束襦袢】 江戸末期、上方で流行した襦袢。袖口に当たる部分に、幅三〜四寸の縮緬で覆い縫いしたもの。 
【装束賜】しょうぞくたばり 奈良の春日神社若宮祭の田楽頭に興福寺から任命された僧が、田楽に使用する装束を調え、それを祭礼前日に頭屋(とうや)で田楽の演者に与える儀式。 
【装束能】 能楽で正式の装束で演ずる能。>袴能(はかまのう) 
【装束始】 装束を初めて着けること。また、その儀式。能楽で秋に入って正式な装束で演能を始めること。 
【装束雛】 雛人形の一種。男雛に太刀がなく、女雛に天冠のないもの。 
【装束料】 化粧料。家屋、庭上などの設備を整えたり飾ったりするための費用。 
【暑衣】しょい 暑中に着る衣服。特に古くは、裏をつけない布製の衣類や、夏に着るひとえものの着物をいう。帷子(かたびら)。 
【自分看板】 武家の中間、小者などが着た、主家の紋所を染め出した法被(はっぴ)や紺無地の着物。主家から支給された貸看板に対して自分の費用で仕立てたものをいう。
【三尺振袖】 鯨尺で三尺(約一一四センチメートル)ほどの袖に仕立てた振袖の着物。大振袖。 
【笹褄】ささづま 着物の褄の形が、細長く、笹の葉のようになったもの。多くは男子用。 
【狭衣】さごろも ころも。衣服。着物。 
【一寒】 着物が薄くて寒そうなこと。また、ひどく貧しいこと。赤貧。 
【鯉口】 刀剣の鞘(さや)の口。下女などが着物の汚れを防ぐために、上に着る筒袖のやや広いもの。 
鯉口を切る いつでも抜刀できるように鯉口をゆるめる。抜刀のかまえに入る。 
【着痩】きやせ 着物を着ると、実際よりすらりとやせて見えること。 
【烏衣】うい 「つばめ(燕)」の異名。黒い着物。 
【汗衣】かんい あせじゅばん。はだぎ。あせとり。あせばんだ着物。 
【衣類】 身に着るものの総称。着物。衣服。 
【衣紋・衣文】えもん 装束を形よく、着くずれしないようにひだを整えて着用すること。衣服の折り目。ひだ。着物の胸の上で合わさる部分。襟(えり)。襟もと(日葡辞書)。衣服。身なり。彫刻、絵画などの人物の、肉体の屈伸によって生じる線。渋柿の一品種。果実は中ぐらいの大きさで扁円形。千葉県など関東に多く、樽柿とする。衣紋柿。 
衣紋を繕(つくろ)う えりをかき合わせなどして着くずれを直す。きちんとした着付で着る。 
【青衿】あおくび 青色の布で作った着物の襟。粗末な服装。 
柿の衣(ころも) 柿色の無紋の衣。柿渋で染めたもので、山伏が着た。柿渋で染めた茶褐色の着物。江戸時代、酒屋の手代などの仕着せに用いることが多かった。柿衣(かきそ)。 
【衣帯】いたい 着物と帯。転じて、装束、衣服。 
衣帯を正しくす 身なりをきちんとして、威儀を正しくする。 
【大装衣】おおよそごろも 宮人の着る衣。ゆったりと仕立てた着物。 
【大肩脱】おおかたぬぎ 着物をぬいで肩をあらわすこと。もろはだぬぐこと。 
【色衣】いろごろも 色彩の美しい衣。美しい着物。いろぎぬ。 
【衣料】 着るもの。衣服。衣類。また、布や糸など着物の材料となるもの。 
【葬頭河・三途河】しょうずか 三途の川 
三途河の姥(うば) 三途(さんず)の川で亡者の着物を剥ぎとるという鬼婆。奪衣婆(だつえば)。
【糸目】いとめ 糸のように細い筋。あがり具合を調節するために、凧の表面につける糸。柳の枝。また、その芽だち。器物に模様としてつけた筋。事物の脈絡。事を運ぶための資金。 
糸目を付(つ)ける 物事をするのに対して制限を加える。多く打消の形で金品を思いのままに使うことにいう。一説に「いとめ」は「厭(いと)い目」の意とも。「金に糸目をつけない」 
【裸Z】らてい あかはだか。また、着物をぬいではだをあらわすこと。はなはだしく無礼なさま。 
【白無垢】 染めてない白い反物。主に絹物にいう。白い色の着物。死ぬ時の装束(しょうぞく)として着る白の衣服。葬式の時、縁者の女性が着る白い衣服。江戸吉原遊郭で紋日の八朔(はっさく)に遊女がそろいで着る白い小袖。里の雪、八朔の雪ともいう。しろがさね。花嫁が婚礼のときに着る白の衣服。 
【白無垢鉄火】 表面は上品でおとなしく見えるが、実は悪辣で不良の男や女。江戸の語。 
【紙布】しふ 紙を細く切ってつくった縒糸で織った織物。典具帖紙(てんぐじょうし)、雁皮紙(がんぴし)などの紙を用いる。また、縦糸に綿糸または絹糸を使用したものをもいい、夏の着物地、帯地として用いる。宮城県白石、静岡県熱海などの産。
【砧・碪】きぬた (「きぬいた(衣板)」の変化) 木槌で布を打って柔らかくし、つやを出すために用いる木、または石の台。また、それを打つことやその音をもいう。形をした枕。謡曲/世阿弥作/四番目能/訴訟のため都にある夫を留守の妻が慕うあまり、砧を打って心を慰めるが、恋慕の情は増すばかりで、遂に恋い死ぬ。*源氏‐夕顔「白妙の衣うつきぬたの音も」  
【砧踊】 江戸初期に行なわれた踊り。  
【砧青磁】 青藍色、不透明性の釉(うわぐすり)のかかった薄手の青磁。この釉色(ゆうしょく)の名品が砧の形に似ていたところから起こった呼称という。主に中国、南宋時代の竜泉窯で産出したものをいい、日本では青磁の最上品として茶人に珍重された。砧手。  
【砧大根】 (その形が砧に布を巻いたのに似ているところから、初代立川焉馬の命名)5-6cmの厚さに切った大根を、かつらむきにし、生姜の千切を巻いて味噌づけにしたもの。生姜のかわりに輪唐芥子を用いたものを紅葉巻という。  
【しで打つ】(「しで」は砧の音とも繁(しげ)しの意ともいう。また「四手打」でむきあって砧をたえず打つ意とも) 砧を絶えず打つ。*謡曲・山姥「千声万声の、砧に声のしで打つは、ただ山姥が業なれや」  
【作石・砧】つくりいし (布をつくる石の意)=砧  
【砧拍子】 歌舞伎囃子で、二本の棒を打ち合わせて、砧の音の感じを出すもの。きぬた。  
【五段砧】 箏曲。生田流。天保年間京都の光崎検校作曲。雲井調子と平調子の高低二部合奏曲で、雲井は秋の気分を、平は砧を表わす。五段から成るが、前唄として、元禄ごろ佐山検校が作った地唄「三段獅子」の後半をつける。  
【綾巻】あやまき 砧で打つ時、衣または織物を巻き付ける円い棒。転じて、砧。  
【小夜砧】さよきぬた 夜打つきぬた。  
【錏槌】しころづち 砧(きぬた)を打つ槌。また、砧を打つこと。  
【岡康砧】おかやすぎぬた 箏曲。山田流。手事物。作曲者不明。胡弓の曲に編曲されて伝えられ、明治20年頃、山室保嘉が箏曲として復活。長い手事が秋を抒情的に表現する。  
【錏・錣】しころ 兜(かぶと)の鉢につけて頸から襟を防御するもの。砧を打つ槌(つち)。  
【打物】うちもの 砧で布や絹織物を打ってつやを出すこと。また、そうしてつやを出した布や絹織物。  
【紅打】くれないうち 糊ばりをした上を砧で打った紅色の絹。  
【打目・擣目】うちめ つやを出すために絹布を砧で打った部分の光沢の出具合。  
【横槌】よこづち 砧や藁(わら)などを打つための、丸木に柄をつけた槌。頭部の側面で打つところからいう。  
【打殿・擣殿】うちどの 装束の切地(きれじ)などを、砧で打って柔らかくし艶を出す仕事のために設けられた建物。  
【打】うち 砧で絹を打って光沢を出すこと。後世は板引となったが、呼び名は残る。  
【掻練・皆練】かいねり 砧でよく打って練ったり、のりを落として柔らかくした絹織物。紅色のものについていうことが多い。  
【打綾】うちあや 砧で打ちたたいて艶を出した綾織物。  
【磨・研】みがき 絹地に糊をしみこませて乾かしてから砧で打った打物の表面を貝殻でみがいて艶を出すこと。  
【打衵】うちあこめ 砧で打ちたたいて艶を出した衵。  
【痩女】やせおんな 能面の一つ。愛欲の執心に苦しむ女性の亡霊を表す女面。「定家」「砧」などのシテに用いる。  
【槌打】つちうち 布を砧にのせて、槌で打ち、布に光沢や柔らかさを出すこと。また、それをする人。きぬた打ち。  
【打衣】うちぎぬ 糊をひいて砧で打った衣服。後世は、板引にして光沢を出した。中古以降、婦人の着衣の時、適宜用いた。室町以後、表着(うわぎ)の下、重ね袿(うちき)、また五衣(いつつぎぬ)の上に着用した。地質は綾、平絹、色は紅、地文は菱(ひし)が通常。小袿着用の際にも正式には用いることがある。うちもの。くれない。かいねり。  
秋の声(こえ) 砧や風の音など、ものさびしい秋の情趣を感じさせる物音。俳諧季語としては、何の物音というのではないが、秋のあわれを深くおぼえさせる幽玄な音の意にもいう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

    
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。  

 
「きもの」小史

 

古代の衣服 
最も優雅で美しい「きもの」は、民族衣装の中でも最右翼に位置するが、歴史をみると「きもの」の原型は小袖に求められる。11世紀末に公家・貴族の荘園政治が終わり、代わって武士の台頭を見るに及び、それまでの2部形式の服装から簡略化された1部式へと移行していった。もともと紀元2-3世紀頃の服装を、埴輪などの古代資料から推定すると、上衣は男女とも前合わせの短い上衣で、それに男子は褌(はかま)と呼ぶズボン形式の膝下を紐で括ったものをはき、女子は丈の長い腰巻風の裳(も)を用いていた。これらを衣褌(きぬ・はかま)、衣裳(きぬ・も)と呼んでいた。これらの服装が一般化されていたとは考えられない、貧富の差が当事の服装にも現れていたに違いない。日本の古代は当時の先進国中国や3韓(後の新羅、百済、高句麗)の影響を大きく受け、「魏志倭人伝」には貫頭衣という1部式の原始的衣服を古代日本人が着用していたと記されている。南米のポンチョに似たものであろう。中国との交流が盛んになるにつれ、国家体制はもちろん、文化的水準も中国式となった。大きな変化が7世紀初めの律令制度の導入による衣服に対する格付けであった。衣服令によれば、礼服、朝服、制服の3種に分けられ、天皇家を中心とした儀式には公家(礼服)、朝臣(朝服)、一般役人(制服)の身分的区別でこれらの服装を着用した。代表的な男子の朝服は冠に長い袍(ほう)と袴ををはき、腰に革帯を締める。袍の色によって官位を現していた。一方、女子は裙(も)と呼ぶ上衣に紕帯し、その上に袖なしの背子(はいし)という短衣とスカーフのような長い比礼(ひれ)を肩から掛けていた。中国の唐の時代文化が同時に染織技術をもたらし、衣服生活まで変化させた。これらの時代は、儀式は立礼が主であったため、服装もそれに便利な2部式が着用されたようである。遣唐使の廃止や唐の滅亡によって、日本的な文化が開花した、大きな役割を果たしたのが公家・貴族に代わって権力を握った武家の台頭にある。
和服の原型  
公家・貴族の中国一辺倒の感覚に比べ、各地の豪族である武家が日本的で伝統的生活様式を求めた。立礼習慣から座式の生活様式に戻り、衣服も変化させた。平安時代の後期にみられる朝服が変化した束帯、さらに簡略化した直衣、また制服が狩衣として一般化し、それにつれて着やすさの点から袖を広くするなど改良された。女子の服装もこの時代を象徴するものに十二単衣がある。十二単衣の名称は重ね着の名称で、後になって呼ばれたもので、枚数には関係はない。むしろ色重ねの調和美からくる豪華さと貴族的誇示があったと思われる。これらの衣服のうち肌着として用いられた小袖が中衣化し、さらに庶民の上衣に発展した。また十二単衣の唐衣や裳を省略して、表着の上に小袿(こうちき)だけとする小袿姿、表着も打衣も省略して袿と小袖、袴の袿姿、さらに小袖と袴だけの服装などと、日本的な四季の中で進められた。 
十二単 1 
平安時代の10世紀から始まる女性貴族用の正装。平安装束。正式名は五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)、または女房装束(にょうぼうしょうぞく)という。実際は12枚衣を重ねるわけではないため俗語であるが、一般的にこの名称で呼ばれることが多い。「十二単」という言葉が書物に初めて現れたのは「源平盛衰記」で、建礼門院入水の段で「弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され」と書かれている。男性用装束の種類の一つである「直衣」は、もともと「ただの衣」(平常着)という意味で、女性の「直衣」に当たるのが「十二単」であった。女性の「束帯」に当たる装束として「物具装束」が平安後期まで存在したが、女性が公儀の場に出るのを嫌う風潮もあって、着用される機会が減り廃れた。「かさね」(襲と重ね)袿の上下に重ねることを「襲(かさね)」といい、その色の取り合わせを襲の色目という。一方、袷の表地と裏地で色を違えることは「重ね(かさね)」といい、下につけた衣の色がすかして上に映るところに見所がある。襲は袖口・裾などに衣がすこしずつ覗き、十二単の着こなしの工夫が多くなされた。「栄華物語」に当時の女房が工夫を凝らしたさまが詳述されている。ある女房は襲に凝り、通常よりも多くの衣を重ねたが衣の重さのために歩けなくなったとある。このように平安時代は袿の枚数に定めがなかったが、室町時代には5枚となり、五衣と呼ばれるようになった。重ねの色目には裏と表の取り合わせで固有の呼び名があり、春夏秋冬に分類されていた。古典でしばしば言及される代表的な重ねとして、服喪の際の青鈍(あをにび。表裏とも濃い縹色)、春の紅梅(表は紅、裏は紫または蘇芳)などがある。襲も同様で、色の重ね方に決まりがあり、それぞれに固有の呼び名があった。十二単では季節ごとに対応する色目の襲を着用したが、通年使われるものもあった。また弔事にも決まった色目が使われた。また天皇妃が出産する際には、妃はもちろん、その世話をする女房も白づくめの十二単をまとう慣例になっていた(「紫式部日記」)。
十二単 2 
十二単と文献に出てくるのは鎌倉時代後期から。源平盛衰記巻四十三(鎌倉後期以降に成立)。「弥生の末の事なれば、藤重ねの十二単の衣をめされたり」この状況は建礼門院徳子が壇ノ浦で海への飛び込み場面。増鏡巻三(応安年間(1368-1375)頃の成立?)。伏見天皇(在位 1287-1298)(1265-1317)「伏見天皇の中宮の御装ひに、紅梅の十二単御衣に、同じ色の御ひとへ、紅の打ちたる、萌黄の上衣葡萄染の御小袿、花山吹の御唐衣、からの(唐・輸入物)薄物の御裳」この後、小袖着物(肌着)を含めた12(五衣)単品で十二単と云うようになる。袿三枚でも十二単と。藤重ねの色は「曇華院殿装束抄」では上から紫・薄紫・薄紫・白・白・紅の組合せ。(襲色目)紅梅の色は同じく紅梅・紅梅・薄紅・紅・紅・紅・緑で7枚になるのは寒い冬の服だから。藤重は夏服。花山吹は重(かさね)色目で表が黄色で裏が萌葱色。
十二単 3 
女房装束/奈良時代の女子朝服(朝廷の公事にさいして着用する衣服)は時の移り変りとともに変化し、平安時代に公服でありながら私生活的衣服の要素が加わった。名称も中宮以下女房(朝廷出仕の高位の女官)が着るものであることから、女房装束、あるいは裳と唐衣を着用することから裳・唐衣と呼ばれるようになり、公家女子の正装として確立した。十二単は後世になってつけられた俗称で、宮廷では使用されてなかった。したがって十二領の衣をかさね着するわけでなく、好みや寒暖により襲ねの枚数が選ばれ、色彩美を表現した。女房装束の構成は、上から唐衣、表着、打衣、五衣(5領の衣)、単、裳、袴、桧扇。貴族社会では衣服の表地、裏地の色の組み合わせ、数領の衣の組み合わせ、または織物の経糸、緯糸の組み合わせを「かさねの色」とした。  
十二単の着装 
十二単の衣装は、今からおよそ一千年の昔、平安時代の中ごろ、皇后、中宮、内親王をはじめ宮中の女官、又は貴族階級の女性とそこに仕えた侍女たちだけが、つけたものでございます。 
白の小袖と長袴をつけています。未婚者は小袖長袴ともに、こき色となります。既婚者は白小袖に緋の袴でございます。女官は例外で一様に緋の袴でございます。 
緋の長袴の上に「単衣」をつけます。単衣は袿(うちぎ)の下にきるもので、形は袿とおなじですが、寸法がゆき、丈ともに長くなっています。単衣は、室町時代以後単衣と呼ばれるようになりましたが、幸菱の文様がつけられ色は赤、黄、萌色などございました。下着なので汚れやすいためくけてありませんでした。のりでえり、袖口、裾をとめてあります。 
単衣の次は、五衣(いつつぎぬ五枚単衣を重ねる)なります。 
着せ方は単衣と同じです。着せ終わりますと小紐は抜き取ります。小紐は二本を交互に使い最後は一本もなくなります。 
中央にお方様、すなわち十二単をおめしになる方、着せるひとは、二人、前の衣紋者、後ろの衣紋者と呼びます。前の衣紋者は息がかからぬように膝をついたままで、着装します。 
五衣はこれを重ね袿といい、平安後期には20枚ちかく重ねた例があります。 
12世紀には、正式に5枚とされました。形は同じですが、色袖の絹を重ねていくので、袿ともうします。 
十二単は女房装束、晴装束の別の呼び名で、男性の束帯に相当し女性の第一礼装というべきものです。 
上から下へ、又は下から上に薄い色をだんだんとこく袿を重ねていくことを「におい」といい、最後の一枚を白にすることを「うすよう」といいます。またことなる色の場合には、その配色によって「なになに重ね」と申します。 
重ねは主に花の名前を用いることが多く、たとえばやまぶき、つつじなどがつかわれます。 
美人の基準は時代によっていろいろでございますが、平安美人とされる女性像は、きめこまかい色白の肌を持ったややふとりぎみのこがらな女性で、顔形はふっくらとしてしもぶくれの丸い顔がよいとされていましたようです。目はパッチリとした大きい目ではなく横に細く引かれたようなひき目がよいとされていました。また髪は長く黒々としていて癖が無いことが美人の条件のひとつとされていました。 
五衣の次は、うちぎぬでございます。うちぎぬはあやおりもので、砧で打って硬くし漆板に張って乾かした後はがし光沢をだしたものです。 
うち衣の次は、表着でございます。表着は袿の一番上に着るものでふたへの織物でございます。今風にいえばジャガード織とでも申しましょうか。当時は身分により色、柄ともに着て良いものと、いけないものがござい今日お目にかけている表着は、身分も位も高いお方様の者でございます。重ねの色目が表着をおめしになることにより一層強調されたのではないでしょうか。 
表着(うわぎ)の次は唐衣(からぎぬ)でございます。十二単の一番上に裳(も)とともに用います丈の短いものでございます。たれくび仕立てでその巾が狭くなっております。色目は自由ですが、織のものや赤、青の色目のものは禁色で許されたものだけが使うことができたといわれています。晴の日には唐衣と裳を必ずつけますので、唐衣装束とも呼ばれ晴の日に着ますので晴装束とも、申します。 
最後に裳をつ着けむます。八巾の長いきれ地を交互に縫い合わせた裳は、上部をおおごし、前で結ぶ紐をこごしといいます。下に長くひく部分をひきごしといいます。衣服をたくさん重ねるようになりましたので、腰にまくことが不可能となり背中にあてて後ろに長く垂れ引くものと変わってまいりました。女官や貴族に仕える女房たちは唐衣は必ず着けるもので、控えに下がっても唐衣は脱いでも裳は必ず着けていたそうです。 
髪は長い程、美人の条件になっており、ある皇后はお車に乗っても髪の端が玄関まで届いた程ということが、大鏡の中に描かれております。 
ご覧の皆様、この十二単の目方はどの位とお思いですか。全部で16キログラム程ございます。お方様に似合うよう美しく着つけることは大変難しいといわれます。平安時代は日本の服飾市場最も美しく豪華な衣装が着られた時代でございます。世界各国に民族衣装はたくさんありますが、これほど豪華で美しいものは他に類を見ないでしょう。 
十二単の衣装のひとつのポイントに香りがあります。香りはおしゃれの役目と体臭を消すという役目のほかに、香りによって誰かと分からせる事が必要だったわけです。 
それでは袿をもう一度ふくしょうしてみましょう。 
1.白小袖2.長袴3.単衣(ひとえ)4.五衣(いつつぎぬ)5.表着(うちぎぬ)6.唐衣(からぎぬ)7.裳を着けてまいりました。 
たとう紙は必ず懐中いたします。手にもつ檜扇は、檜の薄板を何枚も綴ったもので、胡粉の塗りの地に金泥銀泥で極彩色を施した美しいものでございます。 
お方様がお歩きになるときには、右手で檜扇、左手でたとう紙をお持ちになり両方でお顔を隠すようにして、お歩きになられました。色重ねの美しさ、重厚さ、横から後ろに流れる線の美しさ、長い裳と髪の美しさ、暗い廊下を静々と歩く姿は、恐ろしい程の美しさであったろうと想像されます。  
絹織物 
古代の日本人が着用していた貫頭衣から、中国の影響による立礼服に移り、そして和服の原型となる束帯、直衣、十二単衣へと発展する中で、この固有の民族衣装を育ててきた背景には微妙に変化する四季と、豊かな風土などの条件を見逃すわけにはいかない。日本人の心といわれる「きもの美」への追求が芽生えはじめた。素材の使い分け、輸入ではあったが染織技術の日本的消化が後世に貴重な遺産的影響をもたらした。古代衣装に使われた素材は麻、木綿、絹の3種であったが、木綿は木の皮を糸状にして使用したものと推定される。絹は中国大陸では4千年も前に記録され、卑弥呼が239年に中国の魏の皇帝に貢物として「倭錦」「帛布」を献上したと魏志倭人伝に記録され、桑蚕の歴史はなお古いと思われる。大和朝廷(古墳時代)の470年代に大量の機織技術者が渡来し、産業としての規模を整えはじめたことがこ古文書に記録されている。「仁徳天皇が諸国に分置した秦民は92部、人員18670人なり。大いに機業を興し、その献ずる絹帛は朝廷に充満す。天皇その功を賞し禹豆麻佐(うずまさ)の照合を賜う」とある。うずまさの名は地名として京都の太秦(うずまさ)に残っている。また秦民は百済(現韓国)からの帰化人。このように帛布は(楕布、麻布、葛布など)、絹布は(あしぎぬ、山繭・野蚕)などを使っていた古代社会に産業携帯の技術が導入された。帛布、あしぎぬが推古天皇の歌にある「白妙の衣ほすてふ天の香具山」の「しろたえ」の言葉から、無地織物であったのに対して、綺(かんはた)、倭文布(しずり)と呼ぶ先染めの縞物や野生の草花を押す擦りもあった。加えて5世紀以降に高級絹織物の絹布がもたらされ、中国、百済、新羅から綾、羅、錦などが伝えられ、織組織の面でも大いに発達した。 
染色技法 
「しろたえ」から素朴な赤、青の縞物、この2系統色に紅、緋、蘇芳、碧、紺、縹、緑の応用色が区別され、この他黄、紫、茶などの新色も奈良時代に出てきた。注目されるのが染色技法の進歩で、正倉院の御物に残る古代裂にもある昴(ろうけち)、キョウ纈、纐纈(こうけち)の俗にいう天平・染色3纈だ。キョウ纈は模様染めの一種で、模様を彫った2枚の板の間に二つ折りの布を堅く挟み込んで染め上げる板締め方法。昴窒ヘ蝋を使って色染めするもの。また纐纈は絞染めの1種で糸で括って模様を出すもので、それぞれ独特の味わいが生かされている。それらに使われた模様も渡来先の影響を強く受けて、唐の草花模様が多く、後にこれらを唐花模様と呼んだ。 
絹業の生産形態 
奈良時代の積極的な織物振興策は、朝廷の織部司と呼ばれた役所が全国を統括指導して進めた。和銅4年(711)挑文師(技術者)が全国に派遣されて錦、綾織を伝え、また緋・藍染の技術を普及させた。この織部司は承久の乱(1221)までの500年間、絹業の中核となった。この頃の絹織物生産は荘園領主(貴族・公家)の運営する「座」によって保護されていた。座は生産品種によって小袖座、大舎人織手座(綾織)、白布座、練貫座(絹羽二重)、帯座、糸座、紺座、藍座などに分かれていた。現在のきものの原型である小袖や帯の文字が、当事独立した生産機能の座で使われていたことで、後世に大きな影響を与える下地は十分にあったことがわかる。これらの座は、安土・桃山時代に京都、堺、博多、加賀、越後、駿河などに産地の基礎を残し、また金襴や緞子、朱子織などが平織、綾織に加えられて技法の幅を広げ、織機も居座機(いざりばた)の他平機、高機、花機(空引機・紋織機)などが導入された。 
鎌倉・室町時代の服装 
武士階級の台頭で、12世紀鎌倉幕府が生まれ、鎌倉時代を迎えた。この頃の服装は平安時代の流れを簡略化する一方で、公家や武士の衣服が庶民に、庶民の衣服が武士階級へと交流を深め、女子の服装は襲(かさね)が分解され、袴がはずされ、小袖衣装のが定着した。藍など草木染の普及による文様の発達が、下着として用いられていた白の小袖を、表着の小袖に独立させ、筒袖から幅広の袖へと移行した。服装史の大きな風俗変化は室町時代に進められた、1467年応仁の乱をスタートとする戦国時代、世の中は貧困に陥いり、身分階級の差別が服装面でなくなるなど、その背景をつくりあげた。弱肉強食の戦乱の時代で、衣生活にまで手が回らなかったからだ。新しい服飾が生まれなかったが、受け継いできた服装に生活の知恵が生み出した応用を加え、着用する感覚を盛んにした。小袖がそうであるように、道中の塵除け、防寒魏としての道服や出陣用にきた陣羽織があり、さらに女子の外出着として壺装束が見られた。上流子女が顔を隠す風習から、うすぎぬを頭から被り、また麻糸を傘の周りに垂らした幅広の笠(市女笠)を用いていた。前者が小袖かつぎ、後者が虫垂れという風俗であり、壺装束は腰で衣服を中結びにして裾をつぼめて歩く姿からこの名がある。服装が簡略、省略などで庶民の中にどんどん溶け込み、戦乱時代の心をいやすために茶の湯、能の行事が興ってきたのもこの時代だ。精神文化の原点とされ、最も日本的な支えとなっている。これらの行事が太平の世でなく、乱世の流れの中で息づいてきたことに、その民族的な意義が感じられる。能装束は唐織や摺箔、縫箔など、すべて女役の衣装が小袖であった。小袖の上にはおった打掛を肩からはずして腰にまとう姿もあったが、これは当時の女性の正装ともいわれている。 
江戸時代の小袖 
足利幕府崩壊で天下を握った織田信長から豊臣秀吉を経て、徳川家康にいたる安土桃山時代は、わずか30年の期間であったが、群雄割拠の武将を統一した直後であり再び平和が取り戻された。戦乱の反動と経済の復興とが相乗的に作用し、世相は活気にあふれた。商業が発達し、都を中心とする町人文化は勢いを増して、また生活力をつけて人々の服装が華美に走った。それが染織技術の向上を促進し、後世に特筆される最も豪華な安土桃山文化を生み出した。それは江戸時代へと継承され現代のきものに結びついている。この時代の服装は小袖が中心的な役割を果たした。小袖は大袖の表着の下に着る筒袖を対照的に呼ぶようになったが、外着として独立した「きもの」となった小袖は、優れた染織加工技術の導入で、初期の素朴さから見事に脱皮した豪華なものに変身した。当事の小袖は身幅が広く袖幅が狭い、衿下は短く衿が長く、襟幅が広い。裄丈は短く袖口が小さく、丈は対丈(ついたけ)であった。模様は多彩で、その表現技術は摺箔と繍い、絞りを多く用いられた。刺繍に金銀箔を併用した豪華な繍箔は華美を謳歌した桃山時代の代表的なものだ。友禅染の前身といわれる絞染と墨描による絵模様の辻ヶ花は、この時代の染色技法の高さを示すものだ。庶民の小袖は働くのに都合のよい筒袖で、対丈の長着に細帯、腰に三幅前垂れのような布を巻いて日常着としていたが、色彩的にも鮮やかになり、ますます小袖姿の自由な軽快さと明るさが、当事の人々に深く根付いた。 
文様 
江戸時代は300年間の太平が続いたが、一方で鎖国政策が外国文化の流入を締め出し、封建制度の上で士農工商の身分を確立した。経済を握った商家が力をつけ、その富裕化が目立ち、服装にもその影響を及ぼした。小袖は江戸初期にかけての細かい縫箔の、いわゆる慶長文様に代わって大模様の意匠付けが流行した。中期にかけての寛文模様と呼ばれるのが代表的なもので、肩裾(上半身と裾だけの構成)、片身替文様(背を中心に左右の違いは異色・模様)、段替文様(肩から背中半分にかけての大柄模様)、上方展開模様(裾から肩へかけて配した文様)など、文様を大胆に展開する技法が用いられた。これらの文様は現代に伝わる友禅、つまり手描友禅、型友禅、絞り、摺絵、型箔、小紋、中型などの技法の基本を使っている。特に元禄文様の展開は女帯の結び方の発達により、小袖模様が腰を境に上下に構成されたり(割文様)、褄下から裾にかけての文様配置(褄文様)を次々と生まれた。裾模様を表地だけでなく衽や裾野裏に文様を配するといった、裏文様に凝るむきもでてきた。 
帯 
帯が注目されはじめたのは江戸時代で、それ以前は帯というより衣服の前合わせのために用いた紐だった。足利中期までは細い組紐や小幅生地を八つ割、六つ割にして用い、安土桃山時代以降になって帯としての形式を整えてきた。これが名護屋帯(なごや帯の原型)と呼ばれた細帯だ。以後、小袖の身丈が長くなるにつれ帯幅も広くなり、結び方の工夫もされ、文様の展開と相まってきもの姿に調和する帯の存在が一段と増した。元禄時代には九寸幅など一幅物をそのまま用いるようになった。この頃になると、使用生地も染織技術も高度化し、特に中国から伝来した唐降、金襴が西陣などの産地で作られ、織組織も繻子、綸子、緞子、襦珍、絞り、刺繍、ビロードなどと豊富となり、小袖などのきものから独立した重要な装飾品となった。結び目も大きく変化し、蝶結び、文庫結び、太古結びと多種多様になり、後ろで結ぶだけでなく、前結び、横結びといったように階層、職業によって色々と工夫された。江戸の風俗の流行は遊里と芝居小屋から始まったといわれ、歌舞伎役者の影響は強く、結び方を真似て水木結び、吉弥結びといったような帯姿が流行した。太古結びも江戸の亀戸天神の太鼓橋再建の際、芸者集が橋にちなんで結んだところからこの名が出たと伝えられる。 
庶民の綿織物  
帯の発達によって小袖をきものとして完成させた江戸時代ではあったが、大名の参勤交代や城下町への人口集中などで経済は拡大し、商家を中心とした町人の服装への関心は贅沢を尽くすことに向けられた。幕府は奢侈禁止令や倹約命令を発布し「町人百姓は麻、木綿の衣服か、絹紬まで・・」と制約をしたが逆効果生み、身分制度への反発となり町人は裏に派手な文様を配したり、地味に見えるが高度な技術を要した紬絣で禁止令に背を向ける風潮もあった。度々の禁令により絹織物は特殊階級、木綿や麻は庶民と格付けされたが、木綿は8世紀の初めに種子が日本(三河国)に運ばれたものの栽培に失敗、輸入綿布に頼っていた。当事は一部の支配社層にその需要は限られていたが、15世紀頃には本格的な栽培が見られ、庶民のきものとして飛躍的に普及した。織技術の進歩で絣、縞、縮絞りなどが盛んとなり、染模様の華やかさに対抗して地風の素朴さが庶民性を強く訴える結果となった。絞りは、絹では京染めを主体に鹿の子、比翼、蜘蛛、嵐などがあり、綿では有松絞が16世紀に、17世紀には豊後(別府)や高瀬(熊本)などの九州で生産されていた。絣は1540年代に琉球より技法が全国に広がり、久留米や備後、伊予絣は今も健在だ。 
紬絣と小紋  
織の技法は木綿に限られたわけでなく、むしろ絹織物からの影響のほうが強い。4世紀の初頭、南方貿易によってインド系の製織法が琉球の久米島を中心に発達し、16-17世紀にかけて結城紬、大島紬、長井紬などの生産に大きく貢献している、さらに小千谷紬、塩沢紬と続く。この時代に特筆しなければならないのは小紋の模様の精細さと技法だ。友禅と並び17世紀の初頭に武士の式服や裃の柄として用いられた型模様が一般化したもので、江戸小紋とも呼ばれた。江戸好み本来の性格である粋と渋さを反映し、鮫小紋、市松、縞小紋、剣菱、小桜などその種類は多い。この影響を受け生まれたのが京小紋だ。 
明治 
江戸時代は日本独特の和装を染、織、着装などあらゆる面から磨きをかけ完成させた時代だった、明治以降の文明開化とともに押し寄せた洋装化の変革の中でも庶民のきものとして生き続けた、風俗の変化により和洋の調和が進行した。官吏、軍人などが洋服を制服として着用しはじめたが、一方で正装に使われていた袴が復活し、これが一般化して書生や女学生の制服姿に発展した。洋装に対抗してケープ風のショールと洋傘の組み合わせも当時の風俗のひとつとなった。高級呉服と実用呉服との区別があるが、これは第二次世界大戦以後のことで戦前は区別がなかった。素材的に絹、綿、麻が主体であった江戸時代から、明治に入ると政府の勧業によって軍服や官吏服の制服用としての毛織物の生産が盛んとなり、着尺地や袴地にセル(サージ)が転用された。これが昭和30年代以降、実用呉服の雄となったウール着尺のハシリである。さらに大正初年には人絹の製造技術が導入され、絹と綿との交織物に代わって人絹交織が登場してくる。昭和初頭に米沢から売り出されブームになったプレザン綿紗などがそれだ。昭和12年戦時色が強くなりきものの受難時代が始まる。贅沢は敵とする国策による節約ムードが絹布の使用を制限し、木綿に代わる人絹(スフ)の使用を奨励、きもの姿はモンペと呼ばれる2部式の活動着に変わっていった。そして昭和20年終戦となり、きものを受け入れる環境を徐々に取り戻した。抑圧された生活の反動がきものの需要を伸ばしたが、生活の殆どが洋風化され日常生活の場からは機能性の面からも排除を余儀なくされていった。このことが「きもの離れ」の要因となり、昭和47年頃をピークに衰退傾向が続いてきた。  
 
足袋 

 

足袋の名前の由来  
なんで足袋はタビと言うのでしょう、いくつかの由来と言われているものが有ります。  
単皮から出た説  
現在の足袋は親指と4つ指に分かれていますが昔は分かれていませんでした。  
その名残が現在でも、宮中や神主さんが祭事に黒い木靴を履きます。(私はなんと言う名前か知りません)その時に、この木靴の下に履く指が分かれていない足袋(襪子「べっす」足袋と言い、通称先丸足袋とも言います。)に今も残されています。  
ちなみに、当店でも注文があれば、現在でも作ります。  
昔、この襪子足袋を作るために一枚の皮から足を包むように袋を作り(鹿皮だと言われております。)、紐で縛って完成させました。  
だから、単皮(たんぴ)がなまって、何時の間にか"たび"になり足の袋、すなわち、足袋の字を当てて"たび"と読んだと言われています。  
多鼻から出た説  
足袋の形を見れば、鼻の形に見えない事は有りません。  
この鼻が両足揃うと4つの鼻に見えた、つまり"多鼻"という訳です。  
あまり言葉に意味は有りませんので、こじつけの様な気がしますが、 真実は闇の中!  
もしかするとこれが本当の所だったりして…  
旅から出た説  
足袋屋は現在、東京に20数軒、京都に2軒、大阪に1軒在るのは私も知っています。  
その他の地方では足袋を売る店が在る方が不思議なのではないでしょうか。  
先日も、鹿児島から東京の大学に受かり、四谷に下宿した大学生が旅館と間違えて入って来ました。  
"足袋"と"旅"、同じ発音なので良く冗談やとんちで使われます。  
当店の看板に"たびの店 むさしや"と書いてありますので、旅館と勘違いして入って来たそうです。  
実は、"足袋"の由来は、この"旅"が語源だと言う話が在ります。  
昔、旅に出る時には、素足でわらじを履くと足を痛める為に、特別に、皮(鹿皮といわれています)で出来た袋で足を包んで出掛けました。  
わらじを履くのですから当然、指は分かれています。  
つまり、足袋は日本独特の、特別の旅行道具だったという訳です。  
その名もずばり"たび"と言う事です。  
足袋の字は足の袋の文字を当て、こう読んだ訳です。  
実物が在れば、鑑定して年代も解かると思いますが、博物館の展示品の殆どは江戸時代までです。  
平安、室町時代の足袋の情報が在りましたなら教えてください 。
こはぜの話  
甲馳、甲鉤、骨板、牙籤,何と読む字なのか解かりますか?  
これは全て"こはぜ"と読みます。  
では、"こはぜ"とはどう言う意味でしょうか?  
本当の所は私にも解かりませんが、"こはぜ"は足袋だけに使用するものではなく、 手甲、きゃはんでも使用します。  
又、本の帙(ちつ)を綴じる為の、象牙や動物の骨で作られた三角の爪も"こはぜ"と呼ばれています。  
この様な事から、小さいと言う意味の"小(こ)"と、弾けると言う意味の"爆ぜ(はぜ)"から出た言葉。  
甲に掛ける物という意味の"こうかけ"から出た言葉。等が考えられます。  
言葉の意味は言語学者にお任せ致しますが、足袋に"こはぜ"が使われたのは実は明治時代になってからのことです。  
それまでの足袋は,紐足袋が中心で、大金持ちの商人の中で、象牙で作られた"こはぜ"を使用した例はあった様ですが、今の様に、こはぜの足袋を大量に作られる様になったのは、現在の埼玉県行田市がルーツと言われています。  
幕末の頃に、行田で作られた足袋は大量生産で江戸に販売されたそうです。  
この時に、こはぜを取り入れ、明治時代に入りこはぜも大量生産で作られるようになり,現在のような形で、行田の足袋として全国に販売される様になってこはぜの足袋が中心に為った様です。  
ついでながら、今は四枚こはぜや五枚こはぜが中心ですが、戦前は三枚こはぜや二枚こはぜが中心でした。  
今のような色や形がずっと続いている訳ではないのです。  
面白いですね。
足袋の色と柄の話  
現在、婦人用、紳士用共正式の足袋の色は"白"とされています。  
これは、江戸時代に大名が江戸城に参内する時に紋付、袴に白足袋の装束で在ったことに由来すると言われます。  
ですから、現在、紳士用の"羽織、袴"の衣装や婦人用の"紋付"には白足袋を第一礼装としてお奨めしています。  
では、色足袋はどうであったかと言うと、昔は職業により色が決められていました。  
"青縞"の生地は藍の匂いを蛇が嫌うことから狩り装束に使い、転じて紺キャラコとして現在に残り、青縞足袋は職人の衣装が藍染めの為職人用足袋となりました。  
江戸城内において、例えば奴さんは"紫色"、茶坊主衆は"ウコン(黄色)色"とされていました。  
今度、歌舞伎や日本舞踊で『供奴』と言う踊りをご覧になると、奴さんですから紫の足袋を履いています。  
又、『助六』と言う歌舞伎で主人公は紫の鉢巻に黄色の足袋を履いていますからご覧になってください。  
この主人公は、茶坊主上がりの御家人ですので黄色の足袋を履く訳です。  
ちなみに、紫の鉢巻の意味は主人公が頭痛持ちでそのおまじないと言う訳です。  
今は、このような規制は無くなっていますので、紳士用"アンサンブル"、婦人用"付け下げ""小紋"等、遊び着どしてお使いの場合、自由な色使いでお楽しみ頂けます。  
武士が戦で履く足袋は柄を染め上げた"革足袋"で、これが柄足袋の由来に為っています。  
昔は、歌舞伎で若衆の武士は"小桜"や"松葉"の柄を使い、荒武者は"トンボ"や"巴"の柄を使ったものでした。  
江戸時代も後半になると、一般庶民にも"ビロード"や"更紗"等の輸入生地で足袋を創って楽しむ人達も現れ、この名残が"別珍足袋"や"コールテン足袋"となります。  
このように、正式のエチケットを守らねばならぬ一部を除き、足袋は本来自由に楽しむ事が出来るものなのです。  
少なくとも、私達のご先祖様はかなり楽しんでいた様ですね 。
外反母趾の話  
最近、御誂え足袋を注文為さる方の約4割程度の方に、外反母趾が見られます。  
良く、外反母趾はきつい靴や合わない靴を履いた為に起きる。  
と、言われますが、当店にお見えのお客様で、和服ばかりで一度も靴を履いた事が無い。  
と、言う、お客様に外反母趾が見られた事がございます。  
私は、外反母趾に限らず、O脚、X脚や内反小趾も、全て"骨盤のズレ"が原因ではないかと考えています。  
この見解が正しい事かどうかは専門家にお任せして、背骨の矯正こそが外反母趾を始めとする、骨の異常に対処する方法では無いかと考えています。  
当店までお出で頂ければ、私なりの対処法はお奨めしています。  
基本は、筋力を付けて骨盤がしっかりと身体の中心に在れば良いのですが、筋力が衰えて、骨盤がズレた時に各種のトラブルが起きると考えます。  
これを防ぐ為に、骨盤矯正と首からの背骨の矯正と筋力強化をする訳です。  
これで、外反母趾が治せれば特許物でしょうが、恐らく進行を止める程度の事だと考えています。  
指の運動は外反母趾にも効果が有ると思います。  
下駄や草履で歩く事は外反母趾の方にとって、かなりきつい事では有りますが、 有効な方法と考えます。  
当店でも,外反母趾様の既製足袋を作ってはいますが、外反母趾は親指の第一関節が腫れて、徐々にねじれて行きます。  
それも、左右同じでは無く、どちらか片方の進行が早いのが普通で、結局、御誂えの足袋で痛く無いように作るようになります。  
第一関節が腫れて赤くなっている時は、進行しているときですから、足袋を作るのは控えた方が良いでしょう。  
大体、半年で一旦進行は止まります。  
その時に、これ以上進行しないために足袋を作っては如何でしょうか。
掛け糸の話  
掛け糸とはこはぜを掛ける為に縫い付けてある糸です。  
糸とは言っても普通はタ凧糸の太さが在ります。  
大量生産の足袋の場合、"掛け通し機"と言う特殊な機械でこの凧糸の太さの糸をミシンで縫いつけてあったり、もう少し手が込んでいると、糸をグシ縫いに縫いこんで、その上をミシンで押さえる止め方で押さえています。  
当店の足袋は8番のミシン糸を4本撚りに撚って凧糸の太さを作ります。  
これを、手付けで縫って行きます。 当店の足袋をお買い上げに為った時に糸の縫い方をよくご覧になって下さい。  
糸があっちに行ったり、こっちに来たりして、掛け糸が動かない様に付いています。  
この縫い方の欠点は、生地を寄せてしまう為、掛け糸部分がシワに為った様に見える事です。  
特にお洗濯後に生地が縮む為、余計シワに為った様に見える事です。  
では、何でこんな方法を使うのでしょう?  
この掛け糸は足袋を履く場合、相当の力がかかります。  
一本の糸が表地と裏地を一緒に縫い付けた時に、ミシンで縫い付けた時より遥かに強くなります。  
高級足袋は表地もかなり丈夫です。  
この生地がボロボロに為るまで、糸が切れてはいけないのです。  
ちなみに、当店の掛け糸の幅は五ミリに為っています。  
あえて、五ミリにこだわっているのは、外側の糸にこはぜを掛けても内側の掛け糸が見えないように作っているからです。  
この幅が広いほど、足首の融通が利いて万人向きになるのです。  
大量生産の足袋は、掛け糸でも、なるべく多くの人に履けるように、又、安くする為の努力で合理的に作られています。  
見えない個所にこだわりを込めて、特定の人の為に作られているのがこだわりの品であり、むさしやの足袋もその一つと自負しています。
足袋の履き方の話  
よく、テレビ等で足袋の履き方を説明するとき、足袋を半分に裏返します。  
足袋は基本的に、裏側で縫い合わされた状態のままなので、お洗濯後の足袋は特に縫い代が織り返されたままに為ります。  
中で足が踊るような、ゆるい足袋の場合、縫い代が織り返されていても、さほど気に為りませんが、ピッタリの足袋の場合、縫い代を踏むと痛くて気に為ります。  
又、カカトの部分も織り返されていると、足に違和感を感じます。  
その為に、半分に返して、縫い代を元に戻してから履くようにすると、足にピッタリと吸いつくような感覚で履く事が出来る訳です。  
ご来店頂いた時に、履き見本の足袋で試して実感して頂くのが最良ですが、どうしてもご来店出来ない場合、"ホームページを見た"とおっしゃって下さい。  
足袋の履き方、お洗濯の方法などを書いた、『足袋のしおり』を差し上げます。  
木綿足袋が高級と言われる訳  
足袋には大雑把に分けて化学繊維の足袋と木綿足袋に分かれます。  
木綿足袋は大雑把に分けてキャラコ足袋とブロード足袋に分かれます。  
キャラコとブロードの違いはキャラコが平織りなのに対してブロードは綾織と言う織り方の違いで、木綿であることに変わりはありません。  
その中で、現在のところ、絹の足袋を除き、キャラコの足袋が第一礼装の足袋として使われています。  
なぜなら、ブロードに生地は織り目が立つ為に着物の裾回しを傷める為に、平織りのキャラコの方が着物に良い事。  
ブロードの綾織は光沢が出る事から、キャラコの平織りの方が落ち着いた風合いに見える事。  
などの違いがその根拠と言われています。  
基本的にナイロン足袋などは丈夫ですので普段履きとして使用する事が多く、縮まず、洗濯も簡単ですので需要は伸びています。  
唯、絹の着物の裾回しを傷めることはご承知ください。  
最近は足袋屋も少なくなり、場所によっては足袋の種類を選ぶ事も出来なくなってしまい、高級足袋の概念もその内に変わっていく事になるのでしょうが、  
今の所、茶道、日本舞踊などで普段は逢う事の無い先生方にお目にかかる席や結婚式などでの新郎新婦や両親などは相手方の来賓などに“足元を見られないように”恥を掻かない程度の知識は持っておいた方が無難でしょう。
専門店の使い方とは?  
先日、花火大会の帰りでしょうか?  
浴衣姿のお嬢さんを見かけました。  
浴衣を気慣れていないのか?その襟元は崩れて、かなり着物姿が乱れてしまっていました。  
私の見立てでは、洋服の歩き方で歩いたので裾がはだけて着崩れたものと思われます。  
現在、昔ながらの浴衣だけでなく、二分式になっている洋服感覚で着られる便利な浴衣風の浴衣も販売されています。  
浴衣に限らず、昔ながらの伝統的な品物と現代人に使い易く研究された品物とは同じ品物でも別物とお考え下さい。  
浴衣を例にお話すると、アナタがとりあえず浴衣を着たいのと、安く買いたい場合はデパートやスーパーで売っている品物の方が、お得ですし恥を欠く可能性は低いです。  
アナタが本物に挑戦したいのなら、最初に専門店をお訪ねする事をお勧めいたします。  
そして、専門店でその品物のノウハウを教えてもらって下さい。  
先ほどの浴衣ですと、歩き方を膝を付けて内股になるようにして、いつもよりユックリめに歩くと、日本古来の浴衣姿の色気を出すことが出来ます。  
この様に専門店は個々のこだわりでノウハウを教えてくれるモノです。普通は・・。  
足袋でも、楽な足袋、美しい足袋、健康に良い足袋などアナタが何をしたいのか?  
目的をはっきりさせればご希望に合う品物のご案内が出来ます。  
つまり、品物だけでなく“情報も値段の内“が専門店の品物です。  
始めに勉強して、慣れてきたら安く出来る方法を研究すれば良いのです。  
  
足袋 2
足袋と申しましても大きく分けて、「地下足袋」と「座敷足袋(岡足袋)」の2つに分かれます。  
ここではイロイロな「座敷足袋(岡足袋)」をご紹介致します。  
 
右から、綿キャラコの白足袋、黒繻子足袋、夏用の麻白足袋です。  
改まった席上、礼装では男女共に白足袋を履きます。  
これは江戸時代に大名が江戸城へ参内する時に白足袋を履いたことに由来すると言われています。  
黒繻子足袋・紺キャラコ足袋は男が普段に履く足袋とされていますが、「関西は黒繻子足袋、関東は紺キャラコ」と昔から言われていると聞いたことがあります。黒繻子はサテン生地のように光沢のある生地です。  
 
上の画像は総称して「色足袋」と呼ばれ、男物の「おしゃれ足袋」に属します。  
いろいろな色がありますが、着物の色などに合わせて礼装の時以外などに、おしゃれを楽しむものです。  
昔は足袋の色により職業が判ったと言われております。青縞の足袋は藍で染められており、藍の匂いを蛇が嫌うということから狩装束の時に履かれました。(ジーンズの藍染めも西部の開拓者がガラガラ蛇から身を守る為にですよね・・・。)  
それが転じて紺キャラコ足袋となって残り、また職人の着物が藍染めだった為、紺キャラコ足袋は職人の足袋になったともいわれております。  
江戸城内において、奴さんは「紫色」、茶坊主衆は「ウコン色(黄色)」とされていました。  
歌舞伎の中で「助六」という主人公は紫の鉢巻に「黄色の足袋」を履いています。「助六」は、茶坊主上がりの御家人ですので「黄色の足袋」を履いている訳です。ちなみに「紫色の鉢巻」は助六が頭痛持ちだっため、病封じのオマジナイの意味があります。  
先に、ご紹介した「黒繻子足袋」、「紺キャラコ足袋」も「色足袋」なのですが昔からの男の普段履きとされている為、色足袋と言ったら、「黒繻子足袋」、「紺キャラコ足袋」以外をさします。  
 
上の画像は総称して「柄足袋」と呼ばれ、男物の「おしゃれ足袋」に属します。柄織、染めの生地で作られております。  
武士が戦で履く足袋は柄を染め上げた"革足袋"で、これが柄足袋の由来に為っています。  
歌舞伎で若衆の武士は「小桜」や「松葉」の柄足袋を履いていたり、荒武者は「トンボ」や「巴」の柄足袋を履いたりしております。江戸時代も後半になると、一般庶民にも「ビロード」や「更紗」等の輸入生地で足袋を創って楽しむおしゃれな人達も現れ、この名残が「柄足袋」となります。  
ちなみに、左側の2つはビルマの民族衣装「ロンジー」の生地を足袋屋さんに持ち込んで誂えてもらった足袋です。  
 
上の画像は、「半足袋」といいます。履くと、だいたい踝の下位で、スニカーソックスの足袋ヴァージョンって感じです。(マウスポインターを画像に乗せると半足袋を履いた画像が現れます。)  
僕は半足袋を夏の暑い時期に浴衣に合わせて履いたり、着流しに合わせて履いたりします。  
半足袋は江戸時代からあり、旦那衆が「舟遊び」をする時に足を守る為に履いたことに由来します。  
僕の経験上から言うと、関西ではあまり見掛けませんし、浴衣に下駄を履く時に、半足袋を履くと歩き疲れしにくく、鼻緒擦れにもなり難いので、お勧めです。  
僕は下駄を履く時も足袋を履きます。なぜなら白木の下駄等に汗で足型が付くのは決してカッコ良いとは言えないからです。  
 
上の画像で踵に付いている金属は、「こはぜ(甲馳、甲鉤、骨板、牙籤)」と言われるもので、明治時代以降に付けられるようになったといわれております。それ以前は紐で結ぶ足袋だったそうです。  
「こはぜ」の枚数も戦前は2枚・3枚というのもあったそうですが、今は、だいたい4枚・5枚が主流です。好みよりますが、座りやすい4枚がお勧めかな?  
ここで足袋を購入する時のポイントですが、サイズは自分の靴のサイズから0.5〜1cm程小さいサイズを選びましょう。  
サイズに合った良い足袋とは、足袋を履いて足を浮かせると小ジワが出来、踏むとシワは綺麗に消える足袋だと言われております。大き過ぎると、歩く時に疲れるし、擦れて足を傷付けます。小さ過ぎると、爪を傷めたり、足を圧迫して、これもまた疲れます。  
足は体中に血液を送るためのポンプの働きをしておりますので、健康の為にも自分のサイズに合った足袋を履くようにしましょう! 
 
植物染料
 

 

日常利用している衣料やその他の繊維製品の着色には、全て合成染料或いは合成顔料が用いられている。明治の初め頃までは、天然染料が用いられていたが、合成染料の発達に伴って急速に衰退し、現在は実用品の染色に天然染料はほとんど用いられなくなった。 
染料としての性質、例えば、染めやすさ、堅牢性、再現性、色の豊富さ、鮮明度などにおいて、合成染料の方が遥かに優れている。しかし、合成染料には鮮やかな色が多く、渋く落ち着いた色を出すためには数種類の染料を微妙に混ぜなければならないのに対し、天然染料は色素成分が複雑で、発色の彩度が低いものが多く、色を混ぜなくても落ち着いて調和の執りやすい色に染められると云う長所がある。 
天然染料による染色は、古代から数千年に亘って、工夫・改良されて受け継がれてきたが、今は工芸的な特殊な分野において僅かに利用されているだけとなった。工業的な染色においても「人や地球に優しい」染色として、天然染料100%を売り物にした商品が、堅牢性やコストを犠牲にしても作られるようになっている。天然染料として用いられて来たものは、殆どが植物である。そのため、植物染料とか「草木染め」と呼ばれる場合が多い。
植物染料になるのは、特別の植物だけではない。身近にある殆どの植物を染料として用いることが出来る。植物に普通に含まれる成分に、フラボノイド系色素やタンニンがある。これらは植物の種類や部位によって成分や含有量が異なるが、染料として用いると、黄から茶系の色を染めることが出来る。有名な植物染料は、色素成分の含有量が多い、色が鮮明、赤-紫-青-緑系の色が染められるなどの特徴を持ち、長い間の経験から選ばれて来たものだ。赤-紫-青-緑系に染色出来る植物は限定され、多くが現在も商品として販売されている。合成染料は、その用途や性質によって多くのグループに分類され、同一グループの染料であれば、同じ方法によって染めることが出来る。一方、植物染料は、色素の性質がそれぞれ異なるため、同じ方法によって染めることは出来ない。染色法において大別しますと、次の3タイプがある。
第一は、金属の媒染剤によって発色・固着する染料で、植物染料の多くがこのタイプ。植物から色素を抽出した液で染色し、媒染液(金属塩の溶液)に浸ける。ここで用いられる金属の種類によって、様々な色に発色し固着する。染色後に媒染するのではなく、先に媒染してから染色する方法もある。どちらの方法によっても染色出来るものが多いが、先に媒染しないと染色出来ない植物染料もある。 
第二は、媒染なしに用いる染料。媒染剤を使っても発色や固着の効果がないか、弱い染料がこれに当たり、代表的なものにキク科のベニバナがある。 
第三は、水に溶けない顔料色素からなる染料で、そのままでは染まらないが、アルカリによって還元すると水溶性になって、染色することが出来る。このタイプは青色を染める藍染めただ一つである。 
黄 
黄色を染める植物染料には、植物に含まれる色素自体が濃黄色であるものと、色素はクリーム色から淡茶色であるが、アルミニウムや錫などの金属によって媒染しますと黄色く発色するものがある。媒染として発色する場合、主な色素成分はフラボノイド系の色素で、非常に広範囲の植物の葉や花に含まれている。成分含有量に差があるが、ほとんどの草や葉が黄色染料として用いられ、古くから数多く利用されてきた。一方、色素自体が濃黄色である場合、色素が水に溶けなかったりして、染料に適さないものが多く、利用されているのはクチナシ、キハダ、ウコンなど極僅かである。コブナグサ(イネ科)は、伊豆諸島の八丈島において現在も作られ有名な絹織物「黄八丈」の染色に用いられている植物で、全草を煮出して黄色を染める。趣味の染料によく用いられるタマネギ(ユリ科)は、外側の褐色部分の鱗片葉を染料にする。色素の含有量が多く、入手も簡単で、優れた黄色染料の一つ。エンジュ(マメ科)は街路樹にも用いられる高木で、夏に淡黄色の花を多数付ける。開花した花も使えるが、蕾を乾燥させたものを「槐花」と称し用いることが多い。色素成分はフラボノイド類のルチンで、含有率は高く、槐花全体の10-30%にも及ぶ。エンジュのように白色からクリーム色の花は、フラボノイド系色素を含むことが多く、黄色染料として適しているものが多い。
サフラン(アヤメ科)は、花の雌蘂を染料とする数少ないカロチノイド系の染料である。媒染剤なしで鮮明な赤味のある黄色を染めることが出来る。スパイスや着色料としても用いられ、1花から得られる量が少なく、1s20-30万円もするため、染色に利用すると非常に高価なものとなる。果実によって黄色を染めるものに、クチナシ(アカネ科)や、ペルシャンベリー(クロウメモドキ科)がある。クチナシの果実はサフランと同じ黄色色素を含み、染まった色もほぼ同じである。他にも、イリドイドと呼ばれる無色の成分も含まれ、酵素を作用させますと赤-紫-青系の色素に変化する。主に食品用着色料として製造されているが、染色にも用いられる。赤-紫-青系の色が媒染剤なしで染められるが、日光や洗濯によって褪色しやすいと云う欠点がある。ペルシャンベリーは、ヨーロッパに産するクロウメモドキ属の果実を乾燥させたもの。樹皮によって黄色を染めるものに、キハダ(ミカン科)、ヤマモモ、フクギ(オトギリソウ科)などがある。キハダは、樹皮の外側のコルク層を取り除き、黄色の内皮を用いる。鮮明な黄色を染めるが、日光によって簡単に褪色し、現在は実用品の染色には用いられていない。アルカロイド系の色素で、強い殺菌作用があり、健胃・整腸剤としても用いられる。ヤマモモは本州中部地方以西の暖地に分布する常緑高木で、樹皮だけでなく葉も黄色を染める染料になる。樹皮から抽出した色素を煮詰めたものを「シブキエキス」と呼び、和歌山県などにおいて生産されている。フクギは琉球、奄美の両諸島において防風樹として植えられている常緑高木で、沖縄の伝統染色である「紅型」の黄色い地色を染めるのに用いられる。木材、特に心材によって黄色を染めるものに、ウルシ科のハゼノキ、ヤマハゼと、クワ科のクロロフォラ・ティンクトリアがある。ハゼノキは元々わが国には自生せず、可成り古い時代に東南アジアから入ったとされる。実から目蝋を採るため栽培され、現在は本州関東地方以西と、四国・九州において広く見られ、野生化もしている。わが国に自生するヤマハゼは、天皇の御衣を染めるのにも用いられ「黄櫨染」と呼ばれていた。クロロフォラ・ティンクトリアは中央・南アメリカ産の高木で、黄色の心材がオールドフスチック或いはゲレップと呼ばれる。抽出液を固めたエキスが、近年までフランスにおいて製造されていた。根で黄色を染めるものに、ウコン(ショウガ科)やコガネバナ(シソ科)がある。根は花や葉に比べて採取に手間がかかり、多量に集めるのが難しいため、染料としてあまり利用されない。ウコンは根茎を粉末にしたものを用いる。色素成分のクルクミンは染着力に優れ、媒染剤なしで木綿、絹、羊毛は勿論、殆どの合成繊維を染めることが出来る。しかし、日光やアルカリによって褪色してしまうため、現在は殆ど利用されていない。因みにカレー粉が黄色いのはウコンが入っているためで、カレー粉にアルコールを加えて溶かした液を湯で薄めると、いろいろな繊維を鮮明な黄色に染めることが出来る。これらの植物染料によって染めた黄色は何れも日光に弱く、実用品としては不十分なものばかりである。 
赤 
赤系の色を染められる植物は、色素自体は黄色から橙色又は茶色をしていて、錫やアルミニウムなどの金属によって媒染すると赤系に発色するものが多い。色素自体が赤いものは、染料として染められないか、染まっても金属によって媒染すると青色から紫色に発色する場合が多く、そのまま赤色に染められるものは、ベニバナなど極僅かである。 
根を赤色染め染料とするものに、アカネ科のアカネや、「マダー」と云う名で輸入されるアカネ属の数種の植物がある。発色は橙色だが、同じアカネ科のカワラマツバやアリドオシなどの根も染料になる。これらの植物は何れもアントラキノン系の色素を含んでおり、媒染することによって堅牢な赤が染められる。アカネは本州以南に普通に自生し、古代から赤色染料として用いられて来た。根は、掘り出した直後は橙黄色だが、放置すると次第に赤くなる。マダーは、多くの文献においてはムツバアカネ(セイヨウアカネ)とされていて、イラン産のものがその種だと思われる。一方、インド産のものは、根の形態も発色も異なり、明らかに別種と考えられる。更にパキスタン産のものは、根の形態はインド産に似ているが、発色はイラン産と同じである。実際には、全て「マダー」の名で取引されているため、正確な種名を調べるのは難しい。赤色染料とするものに、スオウ(ジャケツイバラ科)がある。熱帯産の高木で、わが国には古くから染料として入っていた。媒染する金属の種類によって赤色から紫色に発色するが、日光によって褪色しやすいため実用品の染色には適さない。花を赤色染料とするものに、ベニバナがある、花冠を水洗いして水溶性の黄色色素を除いた後、アルカリ性にすると赤色色素が抽出される。日光やアルカリには弱いが、青味のある鮮明な赤色が染められる。色素を精製して、口紅としても用いられてきた。 
わが国に自生するムラサキは、その名の通り、紫色を染めるのに根が古くから用いられて来た。色素は暗赤色で、水には溶けず、アルミニウムで媒染することで紫色に発色する。ただ現在、ムラサキの根は入手が難しく、主に中国産の「軟紫根」(ムラサキ科のアルネビア・エウクロマ)が用いられている。
青 
青色を染める植物は少なく、藍を採るもの以外では、クサギの果実やアントシアニン類を含むツユクサの花弁、ナスの果皮位である。クサギは秋に熟して青くなった果実を染料にし、媒染剤なしで青緑色が染められる。一方、アントシアニン類は、アルミニウムや銅の媒染によって青色から青緑色が染められる。藍の色素成分であるインジゴを含む植物は種類が多く、所属する科も10以上に上る。マメ科のコマツナギ属のものは一括して「インド藍」と呼ばれ、ヨーロッパにおいては「ウォード」と呼ばれるアブラナ科のタイセイ属植物が用いられている。わが国では、タデ科のアイの葉を発酵させた「染(スクモ)」が用いられ、九州南部から琉球諸島に分布するリュウキュウアオイ(キツネノマゴ科)の色素成分を抽出、沈殿させたものは、「泥藍」と呼ばれる。何れの植物藍も合成のインジゴが出現したことによって急速に衰退し、現在は工芸分野においてのみ用いられている。因みにラン科のエビネ属には藍を含むものが多い。染料としての価値はないが、淡い青色なら十分に染めることが出来る。 
緑 
最も植物らしい色である緑色。クロロフィル(葉緑素)は、全ての緑葉に含まれている最も有り触れた色素だが、分解しやすく水にも溶けないため、そのままでは染料としては使えない。ソーダ灰などの弱アルカリによって抽出し、黄色から茶色系の色素を除いた後、強アルカリによって抽出すると、水溶性になって染めることが出来る。 
クロロフィル以外で確実に緑色が染められる染料に、「ロカオ(緑膏)」がある。文献に拠ると、中国において製造され、ヨーロッパにも輸出されていたようだが、現在はその正体が不明で、ロカオ自体もロカオで染めた布も見付かっていない。原料植物として、クロウメモドキ科のシーボルトノギクやクロツバラなどが考えられるが、文献通りの方法でロカオを作ることは出来ない。
茶 
茶色を染めるには、タンニンを含む植物が適している。木本の樹皮や材にはタンニンが含まれ、殆どが染料として使える。草や葉にも使えるものが多い。アルカリを加えて煮沸すると抽出されやすく、色も濃く変化する。鹿児島県の「大島紬」は、シャリンバイ(バラ科)の材に含まれるタンニンを利用した染色で、消石灰と共に泥に含まれている鉄分によって媒染し、茶色味のある黒色に発色させたものである。ところで、赤-紫-青系まで、花や果実の幅広い色を発現しているものがアントシアニン類で、染色にも用いられるす。アントシアニン類は、アルカリ性から中性では分解しやすいため、酸性によって抽出する。酸性液では紫や青の色素も全て赤色に変わり、布も赤く染まる。ただし、そのままでは不安定なので媒染する。アントシアニン類のみを含む場合は、媒染すると紫-青-青緑系に発色するものが大部分で、更にフラボノイド系の色素やタンニンが含まれる場合は、それらが混合した色になる。アントシアニン類には、金属によって発色が変わらないものもあり、それらはピンクから赤色を染めることが出来る。
 
佐羽喜六と日本織物梶@佐羽秀夫 H14/7/18

 

私は父佐羽喜六の三男坊で、戦前は神戸の佐羽本家で貿易をやっており、桐生に帰ってきました。祖父が関係した日本織物鰍話します。元々佐羽家は伊勢の国(津の西)が出身地です。木綿のの産地で、近江、伊勢はカヤの産地でした。戦国時代から伊勢商人、近江商人が活躍し、桐生の矢野商店、近江屋書店など近江の国の方です。 
家康が桐生を作ったときこちらに来たのだそうです。絹織物を商い買継をはじめたわけです。五代目佐羽清右衛門の頃(元禄時代)坂井大学守の領地となります。徳川家四家で、松山と桐生が姉妹都市になりましたが、これも坂井藩の関係です。佐羽清右衛門が陣屋(代官所)代理となり、新町を任せられ新町名主になりました。商人が町を収めるのは問題があり、吉右衛門商人を任せ、清右衛門が代官をやりました。 
二代目の吉右衛門(淡済)が文化人でした。当時、江戸の大火事でお日本橋に4つの芝居小屋があったが、大奥の女中と問題があり潰されました。三座をまとめて佐羽吉右衛門が幕府から任され、中村座、猿若座、市村座を浅草に集めました。勧進元となったので莫大なお金がはいるのですが、桐生織物はこれを宣伝として使いました。 
当時の買継は自分の金で生糸を買い機屋さんに預け、呉服屋さんを通して、大富豪、大奥から注文を受け、年一回の支払いで生活していた。特殊な制度で三越も買継ができず、京都の西陣を扱えないので、機屋に金貸しをしてそのカタとして織物を取りました。 
三井財閥が越後屋さんで、本町二丁目の矢野園前の三越は越後屋の出店です。最初に高碕に越後屋があって、高碕から桐生の買継さんにお金を貸し、そのカタとして桐生織りを商っていました。やがて許可を得て、今の三越(越後屋)さんなわけです。
佐羽吉右衛門(淡済)は文化人で有名で、漢詩をやっていた大窪詞仏が有名だったが、絵描きの谷文鳥・市川寒済・サカイコウエツ(姫路の坂井の弟)など、大名とのつき合いで文化人とのつき合いが合ったようです。小倉峠に十山亭(ジュサンテイ)を建てて桐生に文化人を招待した。 
全国に喜六の碑が残っているのですが、今の東京の百科園に佐羽家があったのが、大窪シブツが絵を書き、淡済が書を書いた碑が百花園のまん中にあります。白髭神社の境内にもあります。今度の戦争で焼けてちょといたんでいますが、、 
江ノ島にも淡済の碑があり、箱根にもありました。金沢八景の碑も火事にあい神奈川県が直しております。日光の覚満淵にあった碑も戦後の大雨で流されてなくなった。桐生に多少あります、書上文左衛門の冥福を祈る意味で円万寺に碑を書いて釣鐘を作りました。戦時中でも文化財ということで残っております。後は、浄運寺の灯籠に書があります。後はそんなに残っていません。 
淡済の研究が進んで見直しをしていると手紙を頂いています。コダンドウシャ??菊池ゴダンが書いたが、淡済の記述がある。淡済が谷文鳥や文化人を集め、隅田川に船を浮かべ宴会をした。桐生の十山亭に呼ばれたとか、大窪詞仏の文章にも桐生の事が出ています。 
シセイドウシシン、大窪詞仏の書物にも、紫雲に囲まれ、桐生は人力に頼らず水車で織物をしている記述がある。大泥棒が隅田川の上を渡ると、上州の織物屋が宴会をしていた。あれも人生だ、私も人生だがと、イカケヤが大泥棒になる物語もある。落語にも、同様な話が出てきている。そのころかなり有名だったと思います。 
4代目はお金を使った人です。3代目は商売熱心で桐生で赤ドウガンと言われています。歩いて機屋を廻り、アカドウガンが来たと言われたそうです。そのころ、渡辺崋山が桐生に来ている様です。十山亭を取り壊すのも三代目です。この頃ペルーが来航して開港の問題が出てくるわけです。外国は生糸を欲しがる訳です。
江戸時代末期、佐羽家が生糸を輸出しましたが、生糸輸出で日本の物価が上昇し幕府に怒られた。公儀の恩義を受けて大金持ちの佐羽が生糸を輸出して物価あがり庶民が困っている、なんとかしろと訴状がだされ、佐羽は明治になるまで輸出をしませんでした。 
幕府が生糸の輸出を抑えたので闇取引が横行し、ナカヤジュベイが大もうけをしますが、横浜で生糸を売り、幕府から追っ手がかかり外国に逃げるわけです。 
千葉県・佐原市の民族博物館には、佐羽の生糸買付けの資料があり、二万五千両とありますが、ナカヤジュベイは高々二千両程度でした。当時、桐生の機屋も止まって、生糸の輸出を停める誓願をしたようです。 
鈴木シロウ・津久井の二人が幕府にお願いにゆく、イイカモンノカミにカゴ直訴をするが、江戸城に入るときにフウキさんがお堀に隠れて、竹の先につけて直訴した。厳罰でハリツケモザエモン、サクラソウゴロウなどハリツケ死罪になってます。桐生の直訴はおとがめ無し、上野の寛永寺におあずけになり許される。というのも、梅田から向こうはイイタイロウの領地なんですね。 
桐生の織物の産出量ですが、佐羽の番頭さんの日記には年間70万両程度だそうです。桐生の商いは大きかったと言えますね。上杉ヨウザンが三万両の借金を返したころの、70万両の年商ですから、桐生はたいしたもんでしょう。 
桐生は関ヶ原の戦いの2470の旗を家康に献上し、特別な土地となった。神君家康公の・・・というのが桐生の誇りでもあり、既得権でもあったわけです。 
明治の前に桐生織物が低調になりますが、硝石を生産・販売してしのいだらしい。当時の火薬は硝石と炭を混ぜますので、古い家屋敷の縁の下には自然と硝石ができていて、これを売ったわけです。群大の先生に聞いたのですが、空気中のアンモニアが化合して硝石になるんで、長い間家が続くと硝石は床下に自然とできるのだそうです。これも、桐生の商家の古さと大きさを物語っています。番頭の日記には「最近、硝石の出荷が多い、2貫目で1両の値が付いている」よほど硝石がおおくあったのだろう。明治の頃は花火が盛んなところで、機屋の旦那が花火好きで硝石も使われたのかも知れない。
そんなことで明治維新になりますが、水戸の藩士が通過しますが、桐生に金を貰いに来ています。これも、献上金の記録として残っています。渡辺崋山もそうですが、町が裕福でカゴで乗り入れたそうです。 
崋山日記の中にも佐羽の事がある、商人のくせに清右衛門という・・・が、崋山の妹が桐生に嫁ぐのは、桐生の医者の世話であった。佐羽の家が本石町(日本橋)にあり、近くに有名な蘭学医がいた、そこへ桐生からも医者が勉強にいっていたので、崋山とはそこで関係があったんだと、そんな関係だと思う。 
本石町は面白いところで、当時の先端技術がいろいろとあったと思います。 
明治元年に三代吉右衛門が死に4代目の吉右衛門になるが、浄運寺に小学校を作るが初代校長は四代目の佐羽吉右衛門です。学校はすぐに今の北小学校の場所に移ります。この人が明治4年に新政府の命でアメリカ・ヨーロッパにでかけます。岩倉具視を団長として、20数名の精鋭を送ります。サンフランシスコに上陸1-2ヶ月アメリカを見て、ヨーロッパに渡り、アメリカを経由して日本に戻っています。 
四代目吉右衛門は、洋行中に達者な筆で機屋や最新状況をスケッチとして日本に送っています。崋山など有名な画家に手習っていたから、機屋の旦那の絵筆は相当な物だったと思います。電気も展示されており、見ているはずです。 
昔の毎日新聞には、佐羽吉右衛門は明治の産業スパイだったと書かれたこともあります。最近は平岡氏(野球殿堂のはじめての人)が日本にはじめて野球をしプロ野球を作ったひとですが、彼も明治4年にニューヨークにいっております。50数名だったとかいてあり、そうそうたるメンバーで、鐘紡の創始者の佐羽吉右衛門、帝国ホテルを作ったハラロクロウ、学習院の初代学長のなんとか沢山、津田塾の創始者、津田梅子(8歳)も一緒だったようです。お金持ちばかりで、政府は金を出させる目的もあったようですね。そんな話がニューヨークで見つかった平岡氏の日記に出ているらしいです。
吉右衛門は洋行した伊藤博文や大久保利通と親交を結んで、帰ってから貿易条約改正に熱心な彼らにヨーロッパと対等にということで、明治15-16年ころに鹿鳴館を作るわけです。子供の頃の話では、麹町の本宅から二頭立ての馬車で鹿鳴館に通ったと言うことです。 
最近、日本の婦人を出したが見劣りする、伊藤博文は女性擁護運動を起こします。東京女子学館を作りますが、一口250円で90名程度で学館ができますが、11番目に佐羽吉右衛門の名前があります。10口以上出資しています。侯爵などは250円を分割で払った言います。当時200円で一軒の家が建つ時代ですから、大体一千万以上だと思います。公益に熱心な吉右衛門でした、そんなわけで外人が来ると吉原に行きました。 
向島の別宅から吉原に行きましたが、白髭橋を渡り日本堤を通り吉原の大門に行きます。日本堤の脇の古着屋があったのだそうですが、古着屋がじゃまなので日本堤を買い取って煉瓦塀を作ってしまったという話もあります。関東大震災でつぶれたそうですが、当時の名物だったそうです。 
昔、吉原の大戸を閉める(吉原を借り切る)といいますが、紀伊国屋文左衛門は大戸を3度締めて、店を潰しますが、吉右衛門は7度閉めて豪語したそうです。親戚に言わせますと彼が佐羽の金を使ったと悪口をいいますが、今考えると伊藤博文などと交流し、貿易条約改正には外国人接待などに活躍したのだと思います。 
吉右衛門の名前を自分の妹(足利の須永)の筋から男の子(喜六)を取りますが、自分の最初の娘(うた)の所へ喜六を養子に迎え店を任せるわけです。恥になる話ですが、ウタは私の祖母ですが、家付きの娘で芝居遊びをし尽くしておりました。江戸三座を持っていたので、入り浸りでした。桐生でお花見をやるのに、丘公園では幕をはって女中に矢絣を着せてお姫様になってお花見をしたそうです。最後は、お芝居で身を崩すのですが。
当時、喜六は10歳の頃足利から佐羽に来るわけですが、頭が良いので日本橋本石町の店に行きますが、店では優秀な連中を高林塾(高林ジコウ塾長)にやり、書・漢詩・などを学ばせます。その中でも優秀な喜六を明治9年に婿にする訳です。 
喜六の実家は足利の菱の青木という庄屋だったようですが、娘として家の格がが違うと不満を持っていたようです。婿に入った喜六は、羽二重を改良します。当時ハンケチとして輸出していましたが、製品にムラがあったようです。佐羽家が明治4年あたりに輸出をはじめ、横浜の店では羽二重が売れたそうです。ニタヤマの高草木、中里さん、2丁目の徳永さんが羽二重を作ったのですが、機屋に出すと製品ムラがあるので、デメといって製品を落として作り納品したので、規格統一をはじめます。10匁羽二重、8匁羽二重という規格化をつくって品質を上げて、輸出がどんどん伸びるわけですね。 
ただ、桐生でできない、ウスノエ羽二重(ハルネ?)がどうしてもできない、当時、喜六は玉村(群馬)の庄屋に良く出かけたが、そこで勝海舟と出会っています。勝さんは皇居で侍従をしていたので、天皇にも蚕を飼育して桑畑まで作らせました。ショウゲンコウタイゴウはみずから蚕糸を奨励したそうです。そのときに玉村から女工さんを皇居に連れてゆきます。桐生からも菱から二人いっているはずです。 
菱出身の森山修平さんは、ヤマモトジホウ(福井の松平家の家来)の家来の山岡次郎(奥さんが山岡鉄舟の妹)を招聘し染織や羽二重の改良をはじめます。技術は完成しますが、羽二重には湿気がいり、乾燥して桐生では向いていないので、山岡の紹介で森山修平さんが、福井に教えに行きます。横山カヘイ(新宿)さんが金沢に羽二重の指導します。今、横山家は金沢にお住まいです。8匁の羽二重が多かったようで、品質が良かったようです。 
羽二重は年間3千万円ほど輸出していたようです。福井で織って桐生で染めていたそうです。福井セイレンの鈴木社長も桐生で勉強してます。子供の頃当時教えに言っていたおばあさんに話しを聞いています。奥州の川俣羽二重もそうですね。福井の羽二重は桐生の羽二重を福井で織っていたわけです。
日清戦争の戦費が2千万円ということですから、羽二重の3千万円は膨大な金額だと分かります。そんな訳で喜六は認められるわけですが、明治29年にアメリカの織物を視察する訳です。産地を廻って機械化しないと外国資本に潰されると脅され、日本織物株式会社を作る事になります。 
会社の規模が大きすぎたのは、当時、三井(三越)白木屋、松坂屋と手を組んで織物工場を作る予定でしたが、資本金50万円の日本一の会社となりますが、三井・佐羽で半々の出資予定でしたが、三井が手を引きます。原因は三井が作った三越呉服が営業不振になるのと、富岡製糸を払い下げるが5万円でしたので、その方がよい、それに三井は石炭に移行したので、三井と手を切り、佐羽家だけで立ち上げ、桐生に工場を持ってきます。輸送機関として両毛鉄道(株)を作るわけです。資本金15万円だそうです。 
日本織物の社長は佐羽吉右衛門、専務取締役が佐羽喜六となります。両毛鉄道の社長は田口ユウキチですが、福沢諭吉と並ぶ著名な経済学者です。田口さんも貿易条約改正論者でした。支配人は白石仙三、キムラハンベイ、菊池チョウシロウ、設立時ですが、22年には白石、木村などは三井の撤退を見て会社を辞めます。 
その後、下村セイザエモン、タグチユウキチ、下村セイザエモン(大丸の創始者)、工場長に山岡次郎が入ります。喜六は織機をニューヨークで買い付けますが、これがニューヨークのブロードウェイで撮った写真です。喜六、山岡、日本領事です。
前原リュウイチロウ氏の話です、敷地が97500坪、工場が21800坪で建坪が2780坪程度だそうです。文化会館、市役所から足利銀行までが社宅、だから9万坪になるわけです。 
発電水車を二機買い付け、1つは動力用として、1つは電灯用として100Kwの発電し桐生電灯会社を作ります。現在厚生病院の発電所後は当時のではなく、初代は東芝の博物館に有るようです。織機はスイスのルーチーの力織機を148台、織り巾は40インチ、明治15年に鐘紡を向島に作りますが、桐生で使う縦糸を作る為に鐘紡を設立したようです。当時木綿糸ですが、ガスで焼いてケバのない良い縦糸を作らせたようです。これで織姫繻子を作ります。観光繻子が大変売れたそうですが、リボンも作ったと聞いています。タンタンピース?とありますが、私はよく分かりません。 
経営は29年位までは、50円の株で年間2円の配当があるので、利益は上がっていたと思います。ただ、民主的な経営をやりすぎて、資本が手を引いたようです。それに、務めた人の話ですが、授業員の環境を良くして、たばこ吸いながら話したり、女工さんに対して待遇良くした様です。楽すぎて従業員が甘えて、川に反物を流して社宅で拾わせるるなどの話もあります。 
男には、悪い遊びをしないように謡い(うたい)を習わせます。元徳川お抱えの宝生流の人で従業員に教えたようです。外国人には猟をさせました、休みには猟犬を連れて梅田の山に入ります。夕方に猟犬が帰ると、お湯を沸かして用意したそうです。ある日、猟犬が一匹多くて不思議がていると、足尾の古河工業の猟犬が紛れ込んでいたそうです。 
そんな訳で、桐生では謡曲が盛んとなるわけです。当時、幕府の要人が職を失い桐生に来ていましたが、鈴木ツネヤ、鈴木ブンヤ、稲川カツタロウ、などを海外に送りますが、長沢タキモト、・・・も桐生に来ています。その他、幕府の有名人が沢山桐生に来ていたようです。 
母は鈴木ツネヤ支配人の娘ですが、子供の頃ここで生まれました。母の話では、いろいろな楽士が来ていた様です。宝生流の先生が幕府から首になって、明治25年まで車引きをやっていた話を聞きました。
明治27-28年の日清戦争の後大不況が来ますが、勝った後勢いで貿易条約改正に乗り出しますが、イギリスのローゼンタール商会へ輸出した25万円の織物は、品物先送りで毎回値引きを要求され、イチャモンを付けられて、交渉拒否し全品引き取りをしました。これが、取り付け騒ぎの元になります。一週間程、桐生では大変な騒ぎになり、家に入り物を持ち出したそうですが、そのころ佐羽は東京におりまして、桐生にはおりませんでした。喜六は責任を取って一端社長を辞めるわけです。その間に祖母のウタが廃嫡され離婚となりますが、その問題も大きいですね。 
2年後に織物会社に戻り、三井と組んで上海へ行き、ウースンで座礁した舟の上で、ボートに載るが、綱が切れる事故で喜六が亡くなります。浄運寺の葬式では、行列の先頭ががついてときには、まだ現在の商工会議所あたりに人が沢山残っていたそうです。当時は、北白川の宮様が焼香に見えられたと聞いています。 
上海の土産は届いており、女工にはかんざし、男にはたばこ入れがあり、女工は全員かんざしを刺して焼香したそうです。 
子供は三人いましたが、死んだとき9歳程度で小さかったです。ウタは離縁されており会社を継ぐ人がいないので、財産を分けて長男は三菱(岩崎弥太郎)へ、2番目は歌舞伎の家へ、3番目の父は井上マサル(国鉄総裁)に引き取られます。父は鉄道省を辞めて、本家を継ぐため横浜店に入ります(大正天皇のご大典には陛下について桐生にきました)。 
横浜で震災にあい店を神戸に移します。そこで私が生まれるわけです。母親がいれば家は継がれたのでしょうが、最後まで映画界、芸能界に関係しておりました。そんなわけで、ウタは喜六の墓には入っておりません。 
 
新潟県の木綿織物

 

越後各地の木綿織物が特産物化する時期は天保年間(1818-1843)で、きっかけは高機などの導入である。産地として知られるところは、亀田・葛塚(豊栄市)・吉田・白根・小須戸・長岡・今町・見附・村松などであり、その多くは平野部の町場であった。縞木綿が多くその用途は農作業用の野良着である。越後の織物産業は農業部門を背景にしたことが窺えるのであって、京都などの支配上流階級の需要に対応するものではなかった。  
見附結城縞  
綿を使用した織物は栃尾・五泉・見附・加茂等である。海岸に近い平野部で降雪量が少なく農耕や漁業が山間地よりも恵まれていた。綿や桑の栽培に適した反面、天然の苧(からむし)が比較的少なく麻布の生産よりも綿布の生産が先行することになった。村松藩領であった見付で正徳1年(1711)地機を使った木綿織物の生産が行われている。宝暦・明和期以降(1751以降)「見附おくら」といわれる撚りの強い太い綿糸で織られた厚手のものが生産されるようになる。主に帯地に使われていた。「小倉織」が安永年間(1772-1780)関東に伝わり、それが見附に入ったと考えらている(あるいは外観が似ていたのでそのように呼称されたのかもしれない)。見附の木綿織物は幕末には全国に名前が知られるようになっていた。  
小倉木綿 / 福岡県小倉でつくり出されたためこの名があるが、現在は岡山、愛知、埼玉などでも生産される。経糸(たていと)の密度が多く緯糸(よこいと)の太い緯畝(よこうね織物調で、じょうぶなため日常の袴地、男帯に使われたが近年は学生服、作業服などに多用する。
見附結城縞の生成  
縞木綿織物のきっかけは、村松藩の家中婦女子の手内職のために始めた、木綿織物に供給する木綿糸の生産がきっかけになる。桐油行商人山田屋勧右衛門は行商の途中下総(茨城県)の結城で、各地から大量の木綿糸を買い付け織物生産をしている実状を見聞し、同地で糸取り法を学ぶと同時に「時計車」と称する糸繰車を入手、これを見附に持ち帰っている。家中の家計補助を模索していた藩はこれを採用し製品の結城への販売を考えたのである。しかし越後のどこかの産地で不良品が生じ結城での越後産木綿糸の評価が落ち、村松藩のこの企ては頓挫する。この危機打開のため文政8年(1825)勧右衛門を、翌年清八をそれぞれ「高機世話役」に任命する。彼らは、足利から高機を買い入れ、技術導入のため足利の熟練した織子2人を2年契約で採用する。当時としては破格の賃金であったという。さらに文政13年(1830)には清八は結城から男女5人の染め職人を高給でやとった。このような努力が実り見附の製品も天保期(1830-1844)には「見附結城」の名称が使われるようになった。  
結城 / 産地は履城県結城市、栃木県小山市にわたる。常陸での養蚕、機織の歴史は古く、奈良時代に綾絹が、平安時代にも紬が献上されている。室町時代にも城主結城氏が幕府に献上、また慶長7年(1602)から12年まで天領であった結城の代官伊奈備前守忠次が信州や京都から織工、染工を招いて改良に努めたといわれ、集散地として知られるようになり結城紬と名づけられた。無地、縞、絣とある。真綿の手紬から製織まで伝統技法を守って一貫生産がなされ、紬と括り絣を経緯に使い居座機(いざりばた)で織る。すべて精緻な手仕事による織物で、渋さと使うほどに味わいの出る紬の最高級品として名高い。明治に入って生産が増大し、1912年には3万反台であった。1956年国の無形文化財、1977年通産大臣の伝統的工芸品に指定される。第2次大戦後も生産量は安定し、現在月産2500反程度を保っている。
生産と流通  
1842年ごろ生産高は1万反から1万5000反といわれている。以後禁止令もあり一時生産は落ち込むが、出機制が進んだことや明治の開港以後の唐糸(外国製綿糸)の導入により生産高は急激に伸びる。明治6年(1873)には18万反に達している。天保12年(1841)に比較し元治1年(1864)幕末期には飛躍的な増加をした。このような織物業の発展は見附の生活を急速に変えていった。町では内機に通う織子、染め物や下ごしらえに従事する男女の往来が増加し、織物業を軸に様々な産業が発展した。  
生産体制  
見附の機屋は当初織小屋を持ち、織子を雇って働かせる内機という形で営業した。しかし、天保末、弘化元年頃(1844)から織子に機具・原料糸を貸し付け在宅のまま織らせ織り賃のみを支払う出機が主流になる。内機の場合は糸引き、機拵え、機織りなどを分業しマニュファクチャー的生産様式になっていることが窺える。内機には抱え織子と通いの織子があった。抱え織子は住み込みである。禁止令の時代は養女と偽って織子を置いた例もある。通い織子は禁止令により、一時途絶えるが後に特例として一部みとめられ、藩の統制の緩みに従って次第に在宅の織子、いわゆる出機の織子として活躍していくことになる。この出機は、61挺を数えた。   
 
福井羽二重

 

明治十年代後半には、桐生・足利から羽二重が米国へ輸出されはじめたが、その品質と廉価が評価され、羽二重の需要が高まっていた。そうしたなかで、生糸や傘地・ハンカチーフの販売を通じて横浜の外国商会と取引のあった福井や粟田部の仲買商から羽二重輸出好況の情報がもたらされるとともに、羽二重の注文が来るようになった。明治19年冬には、福井で羽二重製織の新技術導入の機運が起こり、桐生の森山芳平工場の客員で、20歳代半ばの織物技術研究家であった高力直寛(慶応元年生、のち東京高等工業学校教授)を招聘することが計画された。県も機業家を県庁に集め、羽二重製織技術導入の必要性を説くなどこれに側面的に協力し、翌20年3月に「織工会社」で高力による講習会が行われた。機業家一戸ごとに二人の女工が参加した講習会は、3週間という短期間で終了し羽二重製織技術が伝習されたといわれる。この技術修得が3週間という比較的短期間で可能であった理由としては、羽二重製織技術が比較的簡単であったこととともに、当時福井にはバッタン機が約200台導入されハンカチーフや傘地が製織されており、その技術的蓄積があったことに求められる。こうしてもたらされた羽二重製織技術は、「織工会社」が核となりまず福井市街に普及し、ほぼ時をおかずして広く越前地方の郡部にも広がって行くことになる。翌21年夏には足羽吉田郡役所が、「織工会社」内に伝習所(教師には岩村繁介を月俸15円で任命)を設け、伝習生を広く郡内に募集した。そして、岩村は郡役所の招聘により、郡部の村むらへも出向いて、講演会や技術指導を行った。また、この技術の普及は、郡役所だけでなく民間でも広く行われた。
同年秋には、士族の本多健が江戸上町に機業会社を設立し、和歌山県より製織・染色の二人の熟練者を招き羽二重生産を開始するとともに、製織技術の伝習をも行った。この技術の普及は、22年にはいっそう活発となり、福井市での熱狂的ともいえる状況を同年10月26日の「官報」は、つぎのように伝えている。五月に市内錦中町の桐山新助が私立伝習所をつくり、自ら教師を兼ねて生徒を指導している。以来伝習所は続々設置され、目下市内には伝習所が六か所あり、すでに卒業した者170人、修業中の者が173人であるとしている。このように羽二重製織技術の普及にはめざましいものがあり、翌23年5月には今立郡粟田部村の福田幸太郎が前述の福井市の機業会社の伝習生となり、同年秋には、地元へ帰り羽二重生産を開始していた。このような福井市における羽二重業の普及は、「織工会社」を中心とする士族とともに商人の投資によってもたらされた。代表的事例としては、小川喜三郎(19年創業)や松井文太郎・松島清八(ともに22年創業)のような主要な生糸・羽二重商が、職工30人以上を雇って規模の大きな機業場を経営していた。一方、羽二重製織とともにその製品化に不可欠な精練の技術も精力的に導入された。絹織物組合の組長であった葛巻包喬らは、染色業者であった渡辺清七を当時の精練法の先進地であった桐生に派遣した。21年秋、帰福した渡辺は精練業を開始し、また翌22年春には京都から木村(黒川)栄次郎がきて上田伊八と「京越組」を組織して精練業を始めた。23年には、精練業者六人が「練進会」を組織して県下の同業者を統一し、練賃を一定にして職工の争奪競争をさけ、精練方法の改良、技術の向上につとめ、また、郡部においても精練業が起こった。   
 
織物産地を繋いだ染色技術者・山岡次郎

 

福井県の輸出向け羽二重織物業の展開は、明治20年に先進地桐生から技術者を招いておこなわれた講習会に端を発するといわれている。福井県織物同業組合「三十五年史」では「本県に於ける輸出絹織物工業の発達は明治十年代に胚胎すと雖も、其の羽二重工業の勃興は明治二十年以後に属し明治二十年三月機業に精通せる高力直寛(東京高等工業学校教授に進み現京都市立工業学校及京都市工業試験場長の職に在り)来福して之が製造技術を伝習せしに濫觴す」としている。桐生から導入したこの製織技術をもとに福井県の羽二重生産は躍進し、明治20年代の半ばには羽二重生産額において群馬県をぬき全国第1位となった。高力の来県は、染色技術者であり機業家でもあった村野文次郎(1906-18に県織物同業組合副組長)から要請を受けた桐生の有力機業家森山芳平(1854-1915)が、当時京都にいた高力を派遣したものであった。そして村野を桐生の森山にひき会わせた人物が山岡次郎である。山岡次郎は、嘉永3年(1850)生まれの旧福井藩士で、アメリカへの留学経験を持ち1877年6月に創設されたばかりの東京大学理学部で和田維四郎(旧小浜藩士、鉱物学)とともに助教を勤めた化学者であった。興味深いことに、山岡は1897年に日本に「ドイツから銅安法人絹糸を持ち帰」ったとされている。第一次世界大戦後に輸出向け羽二重織物の産地から人絹織物産地へと展開していった福井にとって、山岡はさきに述べた羽二重と人絹の2つの重要な契機にかかわった県出身のキーパーソンといっていいだろう。さらに精練技術においても、「三十五年史」では「福井市勝見なる染業家渡辺清七を選抜して桐生に派遣し精練術を伝習せしめ漸く完全なる斯業者を得たり」と桐生からの技術伝習に触れている。「明治工業史」では次のように記述している。評議の末村野文二郎、小川喜三郎、葛巻包喬は自ら進んで市内勝見の染色業者渡辺清七に精練法改良の急務を説き、其の研究の為、桐生に赴く可きを勧誘したり。渡辺清七は傘地及びハンカチーフ地研究の為多年東京に在り、且つ明治17年頃山岡次郎に随ひ、数回桐生にも赴きたる斯業熱心家なれば、立うに快諾し同地に至り二十一年福井に帰り、専門精練工場を創設せり。之即ち同地斯業の嚆矢なり。ここからは、羽二重製織のみならず山岡が精練技術の改良にも介在していたことがわかるが、こうしたこと自体も今ではほとんど知られていない。山岡自身あるいは関連する家の資料群が未発見で、東京大学助教ののち農商務省の技師として染色技術などの開発指導にあたり、東京教育博物館館長代理、大蔵省税関鑑定官などを歴任したことが知られているのみで、福井産地との具体的なかかわりはほとんど明らかになっていない。
福井藩士として英学修行  
山岡は藩命によって江戸や長崎で英学を学んでおり、慶応1年(1865)の長崎遊学は日下部太郎(1845-70年)に同行したものであった。さらに、藩最初の雇外国人であったルセーのもとに寄宿し、明治2年7月には藩校明新館の洋学教授方試補、11月には同校に附属した武学所の小訓導(翌年9月に大訓導)となり、1971年初めの数ケ月ではあるが大学南校の中得業生になっていたことがわかる。山岡のアメリカ留学にあたっては、1871年4月23日付で福井藩から木滑貫人とともに外務省に提出した留学願が残されている。渡辺實「近代日本海外留学生史」によれば、この年の9月までの留学生281名のうち、福井県から留学生はいずれも官費によるものが英国2名(狛林之助・八田祐次郎)、孛国(プロイセン)2名(山脇玄・今井巌)、米国2名(日下部太郎・柳本直太郎)で、県費によるものは山岡と木滑の2名であったとされる。この時期に福井に滞在していたグリフィスは、山岡・木滑ともに官費留学であったと回想しているが、「福井藩では一人は役人が、一人は私が選ぶことになり、役人が選んだのが山岡次郎で、私は十数名のいずれも立派な学生の中から木滑貫人を選んだ」としている。この留学にあたって山岡は5月2日付で前藩主松平慶永から「汝帰朝其業益進ンテ、国家ノ開化ヲ賛翼スルニ俊秀トナランコトヲ」との激励をうけている。
アメリカ留学  
山岡は、4年後の明治8年(1875)6月18日には文部省督学局に雇用されていることから、71-75年までの間米国へ留学していたと考えられる。山下英一氏によれば山岡は「プリンストン大学、ニューヨークのトロイにあるThe Pensselaer Polytechnic Institute、コロンビア大学鉱山科などで理化学を学」んだとされている。山岡がアメリカに渡った1871年前半期は、前年に引き続いて留学生が集中的に増える「明治初半期における海外留学のピーク」とされる時期であった。文部省はその後、財政上の理由と欧米各地の官費留学生の現況を査察した岩倉使節団の報告をうけて、雄藩偏重の是正、能力主義の徹底による留学生整理の施策を取り始める。73年に「海外留学生規則」を定めた文部省は、帰国した留学生の学力試験の成績が不良であったことから同年12月には留学生の悉皆帰国命令を出した。このため72-74年にかけて留学生数は激減した。このように山岡が留学した時期は、政府の留学政策が大きく揺れ動いており、留学前の準備教育の不足や選抜の不公正から大学や専門教育機関に在学した留学生はきわめて限られていた。幕末にすでに一定の英語力と理化学的な教養を獲得していた山岡の場合は、その後の経歴から見ても大学レベルの専門科目を履修していたと考えられるが、4年ほどの間に3つの高等教育機関を移籍しながら学ぶことになった事情を知りうる資料はない。しかしながらいずれも鉱山工学や化学に関連した専門分野を学んでおり、実学的な志向がはっきりしていたことは確かだろう。その後、山岡の文部省督学局着任直後の1875年7月の全国公募による第1回派遣貸費留学生11名のうち、5名が山岡の学んだコロンビア大学鉱山学科(松井直吉、長谷川芳之助、南部球吾(敦賀県士族))・「新約克州ツロイ府レンセレール工学校」(平井晴次郎、原口要)に進んでおり、山岡がつけたルートが活かされたとみることもできる。彼らがいずれも5年後に卒業し学士・博士をえて帰国し、帝国大学や鉱山業(三菱)、鉄道庁(院)で活躍した。
東京大学から文部省・大蔵省・農商務省用掛へ  
帰国後の山岡の明治8年(1875)からの履歴は、文部省督学局から東京開成学校教授補、東京大学理学部助教となるが、そのまま大学に残ることはなく、1881年6月に東京大学から文部省御用掛にかわった後、明治10年代後半は大蔵省や農商務省御用掛を歴任していった。1876年「東京開成学校第四年報」の「生徒進捗ノ概況並諸教授申報抄訳」では教師ごとの教授内容や学生の全般的な評価が示されているが、山岡の名はみられず担当科目はわからない。同年の英文の学校暦では、山岡は化学助手Assistant in Chemistryであり、器械取締Curator of Apparatusも兼任した。化学の本科では実験助手として名前があがっている。文部省の雇外国人数がもっとも多かったこの時期に、なかでも外国人教師の比重が高かった東京開成学校では、1876年でも外国人教授17名に対して日本人教授および教授補は10名であり、その多くが中級の工業技術者を日本語で短期に養成することを目的とした「製作学教場」(77年2月に廃止)にかかわっていたとされるが、この製作学教場と山岡とのかかわりは不明である。東京大学理学部での山岡の担当は化学科であった。山岡の化学への関心は、福井藩の雇外国人教師ののち1872年1月から74年7月にかけて南校から東京開成学校で「化学を本格的に教えた最初の教師」であったW.E.グリフィスの影響によることは十分考えられる。また慶応1年(1865)から67年にかけての長崎遊学時代には、分析究理所でオランダ人K.W.ハラタマが理化学講義を行っており、この通訳を福井の医家出身の三崎嘯輔(尚之)が勤めていた。三崎はさらに大阪舎密局から大学東校の大助教(理学化学教授)となったが73年5月に早世している。また山岡と同時期に理学部冶金学教授であった今井(岩佐)巌は、旧福井藩士であり、長崎でのハラタマの講義を聴講したひとりであり、大学東校が上申した最初の官費留学生であった。また東京大学時代には東京府師範学校で1877年後半の半年間、週3日2時間ずつ理化学の講義を行っていたことが東京都公文書館所蔵の東京府公文書からわかる。東京府師範学校では「師範学科中物理化学及ヒ博物科之義肝要ノモノニシテ、生徒精密研究ヲ要シ候処、現今良師ニ乏シク充分修行相成兼、差閊不少候」として山岡と広島県士族佐沢太郎を招傭した。1881年5月に東京職工学校が設立された際には、9月に正木退蔵が校長に就任するまでの間山岡が校長事務取扱となっているが、これは同校の化学工業科に染色専修の一科が置かれたこととも関連すると考えられる。
織物産地との関わり  
明治21年(1888)3月の農商務省辞職は、山岡の履歴のなかでは大きな転機となっている。「公文雑纂・明治二十一年・第三十五巻」ではその辞職理由を「日本織物会社取締長佐羽吉右衛門カ依頼ニ応シ該社事業ノ計画且諸器械買入ノ為メ欧米諸国ヘ罷越度」としている。佐羽商店は、桐生屈指の織物買次商で、すでに1830年代に江戸に出店し、横浜開港と同時に横浜貿易に進出した。佐羽吉右衛門(4代)が取締役を務めた日本織物株式会社は、佐羽商店が中心となり、東京の織物問屋や桐生・足利の買次商の援助をうけて、前年の87年に開業した内地向け綿繻子(絹綿交織)の量産をめざした近代的大工場であった。「桐生織物史」中巻、1888年1月に同社の工務長となった山岡は、3月9日に佐羽喜六(取締常務委員)とともに出航、バンクーバーを経て「オハイオ州デイトン府スタウトミルテンブル水車製造会社」にて工場用170馬力の水車1個、その附属器、撚糸器械101台等を購入した。佐羽喜六は同年12月19日帰国したが、山岡の帰国は翌89年9月8日であった。90年6月の「仏国に綾取糸及筬歯用鋼鉄線を注文す、是れ此等の物料は、先に器械買入主任海外出張中当時要すべき分は一と通り購買し来れりと雖も」の記述からフランスをはじめとするヨーロッパをまわったものと考えられる。この過程で当時ドイツとフランスにいた日本人技師伊沢信三郎・石坂剛次郎の雇入契約にもかかわったと思われる。この洋行のあと山岡は91年12月までこの日本織物会社に籍をおき、技術面の改良、とくに「仏国の染料を以て独逸染料に代へ染色法をも改良」にかかわったものと考えられる。山岡と桐生産地とのかかわりについては、1883年ごろ佐羽家による染色の講習会に招かれたとされ、その後86年11月に桐生物産会社の敷地内に設けられた桐生織物講習所の講師を務めた。ここでは福井産地への羽二重製織技術の普及の経緯がわかる森山芳平に関連する資料のみ触れておきたい。森山芳平は、早くから染色改良を志し1872年に大学東校助教の桐原真節を訪ねるが、「わが国には染色学に精通した者がいない」とのことで独学で「舎密開宗」「化学訓蒙」などの化学書を学習し、77年には前橋の群馬県医学校で助教小山健三の「化学染色術」の講義を聴講した。同年に京都で作られた半木製ジャカードを導入、88年にはアメリカからジャカードを輸入し精巧な装飾用の窓掛けや卓被(テーブルクロス)などの紋織物の製織を可能にし、ジャカードの製造も指導した。森山芳平関係の資料群は、「織物通」「棚御徴」「金銭出入帳」などの経営関係ほか、「懲忘録」「懐中日記」の日記類、書簡・通知、織物・染色見本など約330点であり、群馬県立歴史博物館に寄託されている。
日記類は1885年から大正4年(1915)まで22冊が残されており、亀田光三氏が85年「懲忘録」、88年「懲忘録」、89年「懲忘録」(抄)・1904年「懐中日記」を翻刻され頭注や解題を付されている。1885年の日記では、森山は農商務省の許可をとり桐生に織物講習所を開設しようとしており、その講師を山岡に依頼するために、たびたび山岡に書簡を送り東京の山岡宅を訪ねた。また山岡の推薦で繭糸織物陶漆器共進会(いわゆる五品共進会、上野公園で開催)の審査官となっており、4月中旬から6月下旬までほとんどを東京で過ごし山岡宅に宿泊することも少なくなかった。そこでは「山岡先生ヲ訪フテ織物綾ノ如何ヲ説明シ、迂生ハ英学ノ如何ヲ問フ」「山岡君ヲ訪フテ染色所云々斗議ス」「日曜ナレドモ矢張休日ナシ、午后五時迄勉強ス、夜ニナリ山岡先生方へ宿泊トナル」というように、たんに化学染色についての教えを乞うのみではなく相互に議論しながら織物改良を模索していたことが推測される。森山は桐生に帰った7月から8月にかけて輸出用のハンカチーフのためのアリザリンによる染色実験をたびたび行っていた。さらにこの11月には福井から村野文次郎が森山を訪ねている。「午后五時野村文次郎君来ル、氏ハ山岡先生ノ門弟ナリ、迂生其技倆ヲ試ム、然ルニ氏ハ実験家ニシテ余程力アリ迂生思ヒタリ、氏ノ如キ実力家ハ未嘗テ見ザル也」「夜ニ至リ野村君秘密ノ談話ス」と、村野の力量を高く評価し意気投合したことが記されている。この出会いが1887年3月の福井での講習会に結びついていった。山岡と各地の織物産地とのかかわりは桐生のみにとどまらず、1885年11月に開設された足利染織講習所、同年の伊勢崎の「集談会」、さらには八王子や京都との関わりも深かった。京都の染殿では「明治二十年に到り高木済造氏、池上孫右衛門氏、西村総右衛門氏等の有志が相謀つて渋沢栄一氏と相談し、勧業課から払下げて五十万円の資本金を集め、近藤徳太郎氏及び稲畑勝太郎氏の考案に依て工場建築等を起こした。別に木村勘兵衛氏は個人として洋式染色工場を起した。此二つの組織に引次で各地に染色工場が続出した。其間山岡次郎氏の忠言は斯界に甚だ重きを成した」とされている。このように桐生をはじめとする群馬、京都、福井などの各織物産地の間では、単なる先進地からの技術の「移転」「伝達」にとどまらない輻輳した人的・技術的な相互交流があったことが推測される。   
 
豊田佐吉・蕨町訪問の謎

 

発明王豊田佐吉 発明王と讃えられた豊田佐吉は、昭和5年に64歳で亡くなる。それまでに発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件もの発明活動を行った。豊田佐吉が青年時代に、織機の研究と糸繰返機(いとかせくりき)のセールスのために埼玉県蕨を訪れたことがある。最初の来町時期は明治25年と推定される。またセールスのために来たのは明治27年と「豊田佐吉伝」にある。 
高橋新五郎家を訪ねる 戦後の混乱期の昭和24年夏、機屋の旧家高橋新五郎家を訪ねた人がいた。蕨市に住む民俗研究家、潮地ルミさんである。ルミさんは当時の当主久作氏のご母堂に会った。そのとき「豊田佐吉は若いとき、うちに織機の研究に見えたことがありましたよ」と、さりげなく言ったという。後年、久作氏はその間の事情を「その話なら、私も父から聞かされました。父の青年時代で、豊田佐吉が何日かうちに泊まって一緒に織機の研究をした、ということでした。父も織機の改良とか発明には子供のころから興味を持っていて苦心していたようです。30歳以前に、高機(たかはた)の改良に成功したような話を聞いています」と語っている。久作氏の父新五郎は慶応2年(1866)の生まれで佐吉より一つ年上になる。織機の研究に打ち込む二人の青年は、おそらく意気投合したにちがいない。織機を前にして顔を寄せ合い、ああでもないこうでもないと熱っぽく話す姿が彷彿としてくる。 
宿方古老の話 蕨市法華田の池上平治氏によれば「さあ、いつだってことははっきりしませんがねえ、豊田佐吉が織機を研究するために蕨町に来たってことは事実ですよ。高橋家やこの塚越あたりではなんと言っているか知りませんが、宿並や上蕨(法華田・郷・水深部落)のほうの年寄りたちは、豊田佐吉が蕨にハタシ(織機)の秘密を盗みにきたって言っとりましたね。卑屈に思えるかもしれませんが、職人の親方なぞ弟子に秘伝だのコツだの教えない時代ですからね。そう考えたのも当然でしょう。今だって産業スパイだのなんのって騒いでいますねえ」と苦笑しながら話してくれました、とルミさんは言う。
佐吉の心を動かした「西国立志伝」 佐吉は慶応3年(1867)2月14日、静岡県浜名郡湖西町山口(旧敷地郡吉津村山口)に生れた。父の伊吉は、農業のかたわら大工業を営んでいた。長男の佐吉も13歳のときから父に従って大工の仕事をしていた。15、6歳のこと。隣村の新所小学校を増築する仕事に、父と毎日のように通っていた。ある日、佐田という先生の授業の声を何気なく校庭で聞いていた。「イギリスのリチャード・アークライトは貧家の13番目の子として生れ、五十歳をすぎてから読み書きを習ったほどです。なのに水車を動力にした画期的な紡績機械をつくりました。同じように紡績機械の改良に苦心したジェームス・ハーグリーブスも貧しい大工でした」。佐吉少年はハッとし窓越しに教室をのぞき込んだ。「西国立志伝」と黒板にある。佐吉は知らなかった。英国のスマイルズの「自助論」を、漢学者、中村正直が翻訳して明治四年に出版した。独立独歩で、道を切り開いていった欧米三百余人の実話を集めている。「天は自ら助くる者を助く」の格言に始まるこの本は「明治の聖書」とさえ呼ばれ、若者に勇気を与えた。「その年で女工をからかうのはまだ早いぞ」尾崎という機屋。やはり隣村。佐吉は毎日のぞきに行った。女工さんをみるためではなかった。二十台ばかりの織機が動いていた。当時では新しい部類のものだった。「まだまだ改良できるはずだ」と佐吉。とうとう主人にとがめられた。わけを話した。「そうか、やってみろ」と尾崎は言うのだ。「あほ豊」とささやかれる。あほうの豊田というのだ。静岡や愛知県の機屋の前で、ポカンと一日中、立っていたことがある。そのうち「気ちがい」と言われだした。山ぎわの小さな納屋にこもった。一徹な父。母のえいが、そっとにぎりめしを運んでくれた。
最初の発明「豊田式人力織機」 もともと浜名郡地方は遠州木綿の産地として知られていた。それはもっぱら農家の副業として、ハタゴと呼ばれる原始的な手織機で織られていたのである。佐吉の少年時代にはまだ工場組織の機屋は少なかった。母親の織る姿を小さいときから見ていたから、織機の改良、発明を志したのも不思議ではない。それを決定的にしたのは、明治18年4月、専売特許条例の公布を、やはり佐田先生から教えられたからである。発明によって社会・国家への奉仕を発願したのだ。村の青年たちと夜学会を開いて勉強もしていた。しかし、女子のあつかう織機に熱中する若者は、村人から奇人・狂人としか映らなかった。寝食を忘れる苦心惨憺の結果、明治23年11月ついに最初の発明、木製の「豊田式人力織」を完成した。  
バッタン機の改良 佐吉の最初の発明、豊田式人力織機は「バッタン機」を改良したものだった。バッタンはイギリス人ジョン・ケイの発明によるものである。バッタン機は、当時遠州でも蕨地方でも使われていなかった。たとえば発祥地の塚越村(明治22年 蕨宿と合併して蕨町大字塚越)でも、古老の記憶によると、明治10年代には東屋、吉野屋などの大きな機屋も含め60数軒におよぶ農家が機を織っていて、明治21年ころはとくに盛んだったが、バッタン機が導入されたのは明治24年ころだという。バッタン機は手織機だが、それまでわが国の織機にはなかった飛杼が装備されていた。豊田式木製人力織機は、このバッタン機をさらに一歩進めたものだった。シャットルが簡単に走るように設計されていた。試験的に織った布地にもムラがなく能率も5割程度上がるものだった。
三度の出奔と東京への移住 佐吉は人力織機を完成するまでに三度も無断で家を飛び出し上京していた。明治19、22、23年で最初のときはろくに旅費もないため東海道を歩いて来た。東京の工場や横須賀の造船所などで機械類を見学し、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月1日-7月31日東京上野公園)では、出品されていた外国製の機械の前に連日座り込んでは監視人にとがめられるというエピソードが残されている。小学校卒業だけの無学な彼の研究には大いに役立ったのである。現物を見て学ぼうとする熱意・態度のしからしめるところであった。佐吉が次に東京へ来るのは明治25年10月。浅草の千束村で小さな機屋を営むことになった。「翁は最初の発明を完成すると上京して特許権の獲得に奔走した。そして獲得した特許権を活用すべく知人の勧めに依って東京市外千束村(戦後台東区)に機屋を開業した。翁の目的は発明そのものに理解を持たぬ父から独立して生活することであったが、如何にせん当時は織布熱が一般に普及されていなかった上に、不景気で各事業とも萎縮していた時代だから、折角の翁の発明も一部の機屋さんに歓迎された程度で、大なる刺激を与えるに至らなかったのである。そこで翁は国元で自己の発明織機を四、五台製作して東京へ搬び、千束村に一戸を借りて織布業を始めたのである。その機屋で関東縮、東京双子などが織出され、問屋の賞賛を博したが、不景気はいよいよ深刻になって来て、翁は年を逐うて生活苦の渦中に巻込まれて行った。が、後年の織機王にとって、このささやかな最初の独立自営は決して意味のないものではなかったのである」。
蕨町来訪の意図 先に書いたが、蕨町に「豊田佐吉が織機の秘密を盗みにきた」「佐吉がうちに泊って織機の研究をした」と伝えられているのは、この千束村時代ではなかったろうか。それ以前の三度の東京出奔の時期も考えられなくもないし、後述の糸繰返機セールスのときを「織機の秘密を・・・」と考えることも可能である。しかし、最も妥当なのは千束村時代だ。研究熱心な彼のことだから、「その織機で関東縮、東京双子などが織出され、問屋筋の賞賛を博」す前のこと、より良い織法と織機の探求のためにその生産地を知っておきたかったのではないだろうか。蕨には「東京双子」創始者でもあり、地元で「機神様(はたがみさま)」と呼ばれていた東屋高橋新五郎家がある。そこを訪れないわけはないだろう。双子織は、風合いの良さが受けて明治時代に全国に広まった。江戸時代から中山道の街道筋に近かった高橋家では、時流にあった着物のニーズを知っていた。もともと双子織は秩父や入間でつくっていた「二子織」のことで、さらに着心地と肌ざわりの良いものにするため4代目高橋五郎が開発したものである。高橋家は織物の品質が需要を左右することを長年の経験で分かっていた、それで新五郎は織機の研究・改良にも力を入れていたのである。佐吉は肝心の綿織物の風合いや着心地には疎かった。むしろ、織機の動き方、作動のさせ方が知りたいと、織機のことばかりが先行していた。ところが東京は着物の大消費地である。良い織物が売れるのだ、はたして自分が織ったもので売れるのだろうか、そう考えるようになる。結局、佐吉の人力織機による綿の出来ばえでは満足を与えられなかった。綿をただ正確に織るだけの織機ではなく、着る人の気持にあった綿布を作り出せる織機が求められる。それなら東京双子の本拠地である蕨にいってみたい。千束村と蕨町は目と鼻の先だ。しかも昔からの機業の地だから織機の改良、発明を志す者の一人や二人は必ずいるだろう。何らかの新工夫をほどこした織機も動いているはずだ。発明のヒントも得られるにちがいない・・・。彼がこの時期に蕨を訪れていなかったらおかしい。
蕨地方の織機の変遷 明治の初め、蕨には機織の奉公人を抱え、伝習生を雇う機屋が数多くあった。維新後の政府の殖産興業政策によって、農業資本や宿場的商業資本を機屋経営に投入する者が激増した、と蕨の綿織物研究をしている潮地ルミさんは、マニュファクチュア黎明期の話をしておられた。マニュファクチュアであるが、その大半はダシバタ(出機、デバタともいう農家副業の賃機へ出す)やシタバタ下機、他の機屋へ下請けさせる。そこからさらに農家賃機へ出機することもある)を伴う賃機制生産の基盤に立つものだった。また、人身売買的女工や農婦という廉価な労働力による低コスト生産に頼るものだった。ほかにキバタ(生機、織り上げたままのもの、問屋からハリヤ〈張屋〉へ織物整理に出す)という、買継商(仲買人が間に入ることもある)を通じて東京の問屋に流通させるものもあった。最末端の農家賃機からみれば、中間搾取の多いものだった。このような労働関係や経営形態にある蕨町の機業界には、豊田佐吉の木製人力織機の高能率を知っていても、その優秀さゆえにかえって採用することができなかったのだろう。幕末のころから、高橋新五郎が工夫してできた高機の改良機が使用された蕨町塚越に、ようやく明治24年ころバッタン機が導入された。恐慌時に導入をみたことは、一見不思議に思えるが不況を乗り切ろうとする意欲的な機屋の存在がうかがえる。古老の、この記憶は塚越機業界へ波及した恐慌と結びついて印象づけられたのだろう。その後、塚越では、明治40年ころ足踏織機(足踏みの回転によってすべて機械部品が自動的に動くもの)が用いられ、これによって手は織ることから開放された。
東京生活を終える佐吉 佐吉は、千束村での機屋経営を明治26年暮に閉鎖する。妻を迎えての東京生活も1年2ヶ月で終えたことになる。「おそらく、わが去れる後の噂もおもいやる(啄木)ことすら忘れての状況であったろうが、明治26年暮れ、千束村における機屋は閉鎖に負いこまれ、帰郷のやむなきにいたった。「佐吉翁は憂鬱だった。翁が帰村したことが判ると村人たちはまたしても「狂人佐吉」の噂を立て始めるし、父母は父母で大工か農業かいずれかを選べと迫るし、今までの翁の苦心、発明の偉大さなど理解してくれる人は一人もいなかった」まさに四面楚歌、またもや、石もて追はるるごとくふるさとを(啄木)飛び出さざるをえなかった。明治27年正月の初めの事で、世上では日清国交の雲行ははげしく、何となく物情騒然たる時だった」。 
糸繰返機改良の動機 故郷へ戻った佐吉は、すぐにまた家を飛び出してしまう。この間、子供の喜一郎が生れたばかり。そして妻「たみ」は喜一郎を残したまま姿を消してしまった。だが、たみさんが離れていった経緯は伝記には出てこない。「断然決意して、無断で家を飛び出した・・・翁は初め豊橋市外に伯父に当る森重次郎氏を訪ねたが、そこで従弟の森米次郎氏、親戚に当る伊藤久八氏と親交を結ぶようになって、其後一年ばかり放浪時代がつづいた。・・・米次郎氏と久八氏は陶製枕木の売込運動に熱中していた。・・・三河岡崎の松井徳太郎という人が、明治25年5月に特許を得た発明品であった。それを鉄道局(現国有鉄道)へ売込んで、その製造を一手に引受けようとする大仕事であった」。森米次郎、親戚の伊藤久八が考案した陶製枕木の売込運動に佐吉も協力する。彼らは多額を要する金策に弱りはてていたのだ。この事業に共鳴した佐吉は、資金援助のために糸繰返機(かせくりき、糸の束を織機のタテ糸、ヨコ糸用に巻きかえる装置)の製作・販売を思いついた。「当時の糸繰返機は、織布を副業とした一般農家に、非常な需要を持っていたに拘らず、不便で且つ能率が悪かった。これを改良して、便利で能率の上がるものにしたらきっと売れるに違いないと翁は考えたのだ。それに織機の製作のように費用もかからないし、直ちに実用され得る機械であった。翁は米次郎、久八氏が東京や横浜などへ、売込運動に飛び歩いている留守中に・・・夜を日についで苦心した。簡単な機械とはいいながら、実際やりだしてみるといろいろの苦心に逢着した。それを考え考えして漸く希望通りの考案、絵図面を作り上げたのは約二ヶ月後のことだった」。
蕨町での糸繰返機営業 糸繰返機はこうして改良案ができ、その機械を売る準備に入る。「翁はその精密な糸繰返機の絵図面を持って、豊橋の指物屋や道具屋を訪ねて歩いたが、何処でも作り得る自信身がないと云って断られた。というのは翁の考案があまりに精密だったことと、この地方の指物師や道具師は「これこれのものを・・・」と一切を委せて貰う習慣だったからだ。が翁は根気よく毎日数十軒を訪問して、やっとのことで、豊橋市外下地という所に宅間喜右衛門という指物兼建具師を発見した。喜右衛門氏はどこかに名人肌のある人で、弟子や職人を十幾人置いてやっていたが、翁の考案を見て「これは面白い、やってみましょう」と引受けてくれた。此処で予期した通りのものが出来たので、翁は直ちに特許の出願をしていつでも売出せる準備をととのえた」。ここでまた、佐吉が蕨にやってくることになる。佐吉の糸繰返機が初めて製作され、利用されたのは蕨町であった。しかも、宅間喜右衛門のような指物師は蕨で簡単に見つかったようである。機業の町、織物の集散地としての伝統によって、呑み込みも速く技量のある指物師がいたのだろう。「陶製枕木の売込運動で或る時翁は米次郎、久八両氏と共に上京したが、運動費に窮したので翁は米次郎氏と二人で蕨町へ出かけた。蕨町は当時桐生・足利に次ぐ関東の機業地で、東京双子が盛んに産出されていたから、二人は此処で糸繰返機を製作し、それを売って運動費を捻出しようという算段であった。土地の指物師に命じて作らせ、さて売る段となったが、当時この地方で用いられていた糸繰返機は旧式な座繰であったから、翁の足で踏む糸繰返機がよく呑み込めない為か、さっぱり売れない。そこで翁は米次郎氏と共に旅館で夜更けまで足の踏み方を練習して、使用法を説きながら売って歩いたものだ。使用法がわかると便利で能率上がったから、非常によく売れた」。
営業マン佐吉 このとき蕨に来た佐吉について、下蕨の山岡光治氏は「父から聞いた話ですが、豊田佐吉が蕨町に滞在して、仲町の何とかという指物師に、そのかせくりを作らせて足で踏んで回転させる実演をして見せながら売った、ということです。その指物師は、その後どこかに転住してしまったそうですが、仲町の年寄りにでも聞いてみれば、まだ今のうちなら何かわかるかもしれませんね」と教えてくれた。そこで、仲町の郷土史家、池田喜重氏に、その指物師について伺うと、「豊田佐吉のその話は、私も年寄りから聞いていました。だが、指物師が誰だってことまでは知りませんね。仲町の指物師といえば、小宮さんの向かい側、蕨宿の問屋場跡の二、三軒上町寄りに、たしか「ミーちゃん」とか呼ばれていた指物師がいたということです。幕末からの指物師は、小箪笥のようなものから火鉢、煙草盆にいたるまでいろんなものを頼まれて作ったようです。なかなか立派ないいものですよ、そのかせくりを作ったというのは、多分この人でしょうね」と言う話が返ってきた。 
蕨再訪の時期 糸繰返機を売るための蕨来訪はいつ頃だったのか。糸繰返機の見本機の製作や上京して陶製枕木の売込運動をしていた日数を考えると、蕨町には早ければ明治27年4月、遅くとも5、6月ころにはやってきただろう。この糸繰返機の発明特許の取得は明治28年2月であるが、その前に、蕨で入念な試験販売をしていた。そんなことも考えられる。使用先の評判を訊いては、すぐに改良にとりかかる佐吉。高橋新五郎の工場にもやってきて、アドバイスを受けたかも知れない。佐吉が蕨の街の路地を巡りながら機屋の主人と話し込んでいる、そんな光景がみえてくる。この年、明治27年の夏、朝鮮では東学党の鎮圧のために朝鮮政府が清国へ援兵を要請する。その報を知った日本政府はただちに朝鮮出兵を決定し、8月1日に宣戦布告する。豊田佐吉の蕨町における糸繰返機のセールスは、このような世情慌しい時期に行われていたのである。
豊田佐吉の来訪伝説 豊田佐吉の東京移住と蕨への来訪、さらに糸繰返機のセールス成功の初体験は、その後の織機の改良に大いに役立ったとみてよい。高橋新五郎を訪問して同家に泊り込んでいた時期は、古老の語ったことから想定すれば、佐吉が浅草千束で機屋をしていた明治25年10月から同26年12月まで、1年2ヶ月の間のことになる。これは推測になるが、佐吉の性格からすれば彼の行動範囲は想像以上に広かった。明治19年から23年頃にかけて上京した際に、蕨のみならず所沢や行田、さらには桐生方面にも足をのばしていたのではないだろうか。まだ発明家として知られておらず、機械好きの熱心な若者に過ぎなかったから、どこへでも出かけ、だれとでも会った。会った相手の懐へ入り込み得心のいくまで離れなかっただろう。そして織りの技法や織機のカラクリをこっそり掴み取ってしまった。蕨で、織機の改良家 高橋新五郎を佐吉が訪れ、「図面を盗んでいったと」いう言い伝えは、明治27年に糸繰返機を売りにきたときのことを、高橋新五郎自らが言い出したのかもしれない。いずれにしても、この話が地元で流布されたのは豊田佐吉が後年に、名を成したあとのことである。明治の文明開化、近代工業勃興とともに「発明特許」の関心は全国に及んだ。雨後の竹の子のごとく町の発明家が各地に現れた。豊田佐吉もその一人だった。しかし彼の場合、好奇心と執念においてひとよりも勝っていた。アイデアではなく実用への執拗なこだわり、イメージを立体化する創造力において。
佐吉 10年の遍歴 佐吉は尾張、三河には頻繁に足を運んでいたらしい。彼の育った遠州湖西からさほど遠くない尾張一宮に逸話が伝わっている。その場所は木曽川町(現一宮市)玉ノ井というところ。明治22年の1年間ばかりその町の機屋に寄寓し、織機の研究していたことが判っている。また、明治20年代半ばのこと。人力織機発明後の佐吉が一宮方面での機屋勤めを止め、歩いて名古屋に帰宅途中、下津村(現稲沢市)で疲れて休んでいるところを役場勤めの山中又七に声を掛けられる。それが縁で、近在の綿織物工場(経営者は、役場勤めの野村鉄次郎で、後に村長になった人物)を紹介された。そこの鉄次郎の好意で数ヶ月滞在。工場の片隅で研究・試作を行っていた。明治28年半田の石川藤八がスポンサーとなって汽力式織機が完成する。同30年に藤八によって乙川織布工場ができる。ここでも佐吉は研究に没頭する。佐吉にとって最初のエポックとなった場所は半田の乙川である。その記念すべき乙川時代が「佐吉伝」では空白になっていた。彼の織機開発の源流が乙川であることを半田市の郷土史グループが検証し、一昨年来「豊田佐吉の乙川時代」を明るみにだした。また知多半島の木綿産地として知られる岡田にも佐吉の来訪伝説があるという。やってきた時期は明治22年。すでにここで佐吉と石川藤八との出会いがあった。これを半田市の気鋭の郷土史家 小栗照夫さんが追跡している。そう考えてくると、すでに書いたように蕨町の機屋 高橋新五郎に滞在した時期は、佐吉が東京で機屋経営をしていた明治25年10月から翌26年暮までの間と想定される。つまり一宮、稲沢、岡田での修業滞在のあと、佐吉は発明した人力木製織機を東京へ持ち込み双子織を作って売った、しかし売れなかった。その後、森米次郎と糸繰返機を売り込みに蕨にくるのが明治27年。このときに高橋家に立ち寄った可能性がある。そして蕨から帰ってすぐの明治27年、半田の石川藤八の支援で力織機の開発に向かう。この藤八が最初の個人的な資金支援者となった。明治30年ごろから乙川織布工場の綿布の出来栄えが一躍評判を呼ぶ。このとき豊田佐吉の名前が広く世に知られることになる。このようにみれば、佐吉が放浪していた年代の辻褄があうはずだ。つまり明治19年からの約10年というもの、佐吉にとって彷徨の時代だった。生涯、研究に没頭し続けた佐吉だったが、20代の彷徨える姿が浮かび上がってくる。各地をめぐり、人々と交わりながら自分の構想を練りあげていく。その巡歴の逸話が、のちに発明王豊田佐吉のエピソードとして広まっていった。でなければ蕨の古老が彼のことを話題にすることもなかったはずだ。豊田佐吉は天才型の発明家ではなかった。織機だけに一極集中して改良、検証を繰り返し、あくまでも実用化にエネルギーを集中させていった。手本に触発され、それを自分に引き寄せながらもがき苦しむ閉鎖系の改良家だった。この一途に内向する執着心と心的エネルギーがよほど強くなければ30数年にわたる発明の仕事は継続できなかっただろう。  
 
労働運動

 

1886年「雨宮(あめみや)製糸争議」 わが国における労働運動のはじまりに位置づけられているのが、雨宮製糸争議である。甲府の雨宮製糸場の工女100余名が、生糸業組合規約によって工場が示した「労働時間延長」「賃下げ」に反発、自然発生的に5日間職場を放棄して、近くの寺院に逃げ込んで工場側に抵抗した。日本初のストライキで、行なったのが女性たちだったのである。この争議は、工場側が労働条件を緩和することでしずまったが、寺院に駆け込むという手法は、江戸時代の「縁切り寺」にも似て興味深い例である。彼女らは、避難場所(フランス語で「アジール」)に入ることによって資本家と労働者という「俗縁」を切り、抵抗の意思を示したのである。中世の「逃散(ちょうさん)」の論理(農民は山林に逃げ込んだ)にも似ている。 
1889年「天満紡績争議」 雨宮製糸争議の3年後に、大阪の天満紡績会社で工女300余名が「賃上げ」を要求するストライキを約1週間にわたって行なった。この争議は鎮圧に出動した憲兵が工女らを説得して終息した。 
労働者の現状 しかし、労働者の権利を法的に保障した規定がないため(大日本帝国憲法や相次いで制定された諸法において、労働者の権利を定めたものはなかった)、労働環境の改善はいっこうに進まなかった。 
高島炭坑の惨状 「坑夫の就業時間は十二時間にして三千の坑夫を大別して昼の方夜の方となし、昼の方は午前四時に坑内に下り、午後四時に納屋に帰り、夜の方は午後四時に坑内に下り翌日午前四時に納屋に帰る。・・・過度の労力に堪えずして休憩を請い、あるいは納屋頭、人繰の意に逆う者ある時は、見懲と称し、その坑夫を後手に縛し梁上に釣りあげ、足と地と咫尺するにおいて打撃を加え、他の衆坑夫をしてこれを観視せしむ。」
製糸女工の実態 「余かつて桐生・足利の機業地に遊び、聞いて極楽、観て地獄、職工自身が然かく口にせると同じ・・・足利・桐生を辞して前橋にいたり、製糸職工に接し、更に織物職工より甚しきに驚けるなり。労働時間の如き、忙しき時は朝床を出でて直に業に服し、夜業十二時に及ぶこと稀ならず。食物はワリ麦六分に米四分、寝室は豚小屋に類して醜陋見るべからず。特に驚くべきは、某地方の如き、業務の閑なる時はまた期を定めて奉公に出だし、収得は雇主これを取る。しかして一か年支払う賃銀は多きも二十円を出でざるなり。・・・その地方の者は身を工女の群に入るゝをもって茶屋女と一般、堕落の境に陥る者となす。もし各種労働に就き、その職工の境遇にして憐むべき者を挙ぐれば製糸職工第一たるべし。」  
労働組合期成会 1897年労働組合の設立を要求する団体として「労働組合期成会」が結成された。中心人物はアメリカで諸労働に従事しながら学問を重ねた高野房太郎(1868−1904)、エール大学卒の社会主義者・片山潜(1859−1933)らである。最盛時は会員5000名にものぼり、機関紙「労働世界」を発刊するが、1900年制定「治安警察法」や資本家・警察の圧迫によって1901年に衰退した。その後高野は中国に渡って青島で死去。東大教授で日本社会党顧問、NHK会長などを歴任した高野岩三郎(1871−1949)は房太郎の実弟。片山は1901年「社会民主党」設立にも関わり、アメリカやソ連に亡命、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導者として「国際反帝同盟」「日本共産党」の活動を指導し、モスクワで死去 。  
労働組合期成会「設立趣旨」 
「・・労働組合期成会は何がために起れるや、時勢の必要これを然らしめたるなり。・・けだし産業の発達は資本と労働の並進に求むべく、その調和によりて振興するを得べし。・・然らばすなわち労働者をして産業に忠実ならしむる方法如何。いわく彼らをして自主の気風を喚起せしめその地位の貴重なるを知らしむるにあるなり。自主の気象にして乏しければ労働の効験挙らず、その地位の貴重なるを知らざれば去りてその業務を離るるかまた自放に陥るべし。・・歴史に徴するに、組合の効験は労働者をして資本家の力を借らず彼ら自身にその技術を高めその災厄疾病を救助せしめその品位をたかめその道義を高め、もって自主の心と自重の念を奮起せしめたる例あり。ゆえに労働組合期成会は今日円満なる労働組合を各労働者間に設立せしめんと欲して生れたるなり・・」  
 
一入

 

【一入】ひとしお 染物を染汁に一回入れて浸すこと。(副詞的に用いる)他の場合より程度が増すさま。ひときわ。いっそう。「ひとしお恋しさが増す」  
【一入再入】いちじゅうさいじゅう 染汁の中へ一度入れ、更にもう一度入れること。
語源・由来 1 
ひとしおの「しお」は、染め物を染料につける回数のことで、ひとしおは染料に一回浸すことを意味する。また、二回つけることは「再入(ふたしお)」、何回も色濃く染め上げることは「八入(やしお)」「百入(ももしお)」「千入(ちしお)」「八千入(やちしお)」といった。一回つける毎に色が濃くなり鮮やかさが増すことから、ひとしおは「ひと際」などを意味する副詞として、平安時代頃から用いられるようになった。漢字で「一入」と書くのは、染め物を入れる意味からの当て字である。回数の意味で用いる「しお」は上代から見られる語で、語源は「湿らす」「濡れる」などを意味する「霑る(しおる)」か「潮時」「潮合」などの「しお」とされるが未詳。   
語源・由来2  
染め物用語/ひとしお 漢字では「一入」と書く。「入」は布を染めるため染料に入れて浸す回数を表す。二回浸すのは「再入」(ふたしお)。何回も色濃く染め上げることは「八入(やしお)」「百入(ももしお)」「千入(ちしお)」「八千入(やちしお)」といった。「紅のやしお(八入)の衣」はベニバナの染料に何度も浸して仕上げた濃紅の衣装のこと。「紅に何度も繰り返し染めた衣のように逢うたびに」という表現にはたしかに染料としての「紅」がいきいきと感じられる。現代語では「感慨もひとしお」など「ひときわ」「いっそう」の意味で使われる。染め物が一入ごとに次第に濃さを増していく様子から生まれた用法だろう。  
語源・由来3  
「ひとしお」は「一(ひと)」と「しお」から成る数え方  これは飛鳥時代以前から日本に伝わる、布を藍で染める工程に由来している。「しお」は漢字で「入」と書き、染料に木綿布や麻布を浸し入れる回数を表わす。藍の染料に布を1回くぐらせることを「一入」と言った。染料に入れられた布を空気に触れさせると、色がだんだん緑色から青色になってい く。この作業を「二入」「三入」と何回も繰り返していくうちに、やがて布は深く美しい藍色へと染め上げられていく。昔の人は、人が喜びや感慨に浸ることを、藍色の美しさがより深くなっていく様子になぞらえたの かもしれない。  
語源・由来4 
「ひとしほ」の原義は布などを染め汁に一度入れて浸すこと。新撰和歌・古今六帖・和漢朗詠集・三十六人撰・深窓秘抄などにも採られている。  
夏の日の木のまもりくる庭の面(おも)にかげまでみゆる松のひとしほ 
貞永元年(1232)百首歌・順徳院[建久8年-仁治3年/1197-1242] >夏の陽射しが木の間を漏れてくる庭の地面、そこに影までもうっすらと緑に染めて見える、松の一入染めよ。  
ときはなる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりけり 
古今集・源宗于 >常に不変の松の緑も春が来たのでさらに一際色が濃くなったことだ。 
それながら春は雲井に高さごの霞の上の松のひとしほ 
建保百首・藤原定家  
甕覗(かめのぞき・染物用語)  
極めて淡い青色。藍染めのいちばん薄い色にを表す。覗色(のぞきいろ)ともいう。藍染めは藍甕に糸や布を浸し、これを絞って大気中で酸化させ、これを何度も繰り返しながら徐々に濃い藍色をつくってゆく。しかし染色業がまだ専業化する以前は、藍甕の中を一度くぐらせただけの淡い藍色の染め物がほとんどだったと言われ る。このように一度だけ藍甕をくぐらせただけの染め物を一入染(ひとしおぞめ)といい、何度も何度も甕をくぐって次第に濃くしてゆく普通の藍染めからすると、一入染で現れる淡い藍色は、ちょっと甕を覗いただけの色ということでこの名が付いたのだと言う。覗色も同じ理由から出た名前。別に、大きな甕に張られた水を覗き込むと、うっすらと青みがかった色に見えるとから甕覗だとする説もあ る。海が急に深くなって、それが水の色がそこだけ藍色に見えるような場所を「甕」と呼ぶことが有る。深い水は藍色に見えるから、水の色は藍色で、甕に入る程の少量の水だと薄い薄い藍色に見えると考えたのかもしれ ない。
八入(やしお)の雨  
10月上旬に降る雨を「八入の雨」という。染色のとき、染液に一度だけ浸すのを一入(ひとしお)何度も、何度も浸して、濃く染め上げることを八入という。秋になり、一雨ごとに木の葉が紅葉をふかめる様子を素敵に表現してい る。「喜びもひとしお」などと使われる「ひとしお」という言葉は、もともと、一度染料に浸けること。八入の「八」は8回ではなくて「何度も」染め汁に浸して美しい色に染め上げるということで、転じて「美しい色」という意味になった。「八入の雨」という言葉で「一雨一雨ごとに紅色濃くなる木々の様子」を表現した歌が万葉集にある。言葉があるということは、そういう現象に気が付いて愛でた人がいた、ということで ある。以前読んだ小説の登場人物が書く手紙の中で「桜の枝が艶めく季節となりました」というような季節の挨拶に出会ったことがある。さらりと書いてあるが、その作者は「桜は花咲く直前、表皮も艶を増し、全身で華やぐ」ということを知っていた のだろう。  
高館の戦い 
4月30日の朝、泰衡は、家来の長崎太郎を大将にして五百騎の軍勢で義経の居館高館に攻め込んできた。兼房と喜三太は屋敷の上に駆けあがり、引き戸の格子を小楯にして弓矢を次々と射ち放った。屋敷の大手門には、弁慶、片岡八郎、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢の三郎、備前の平四郎の八人が立ちふさがった。常陸坊など11人は、朝から山寺参りに出向いてまだ帰っていなかった。弁慶は、鎧をまとい大長刀(おおなぎなた)の真ん中を握って立ち構えると「囃し立ててくれ、殿原達。東の方の奴原にいいものをみせてやる。わしはこう見えても若い頃、比叡山で詩歌管絃を許されていた。一手舞って奴原に見せてやるわい」と言い、鈴木三郎、亀井六郎に囃させて踊り出した。 
うれしや瀧の水 鳴るは瀧の水 日は照るとも絶えずとふたり 東の奴原が 鎧兜を首もろともに 衣川に切流しつるかな 
寄せ手の一人は「判官殿の御内には剛の者がおいでになる。寄せ手が五百騎で攻めているのに、城にはたった十騎ばかり。それでもああやって踊っているんだからなぁ」と呆れ顔で言った。弁慶は舞を終えると「東の方の奴原に、手並みの程を見せてくれようぞ」と言って長刀をふるい、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟は太刀を冑の真っ向に構え、三人、轡をならべて敵方に攻め込んだ。 すると、さっと散って寄せ手が退いた。 
鈴木三郎は、弓手(ゆんで)に二騎、馬手(めて)に三騎切り伏せ、七、八騎に手負わせたものの、自らも致命的な痛手を受け、弟に「亀井の六郎、犬死にするなよ」と言い残して自刃し果てた。 亀井六郎は「奴原はわしの弓の力を未だ知るまい。初めて見せてくれようぞ」と言い残して弓矢を射ちまくり、三騎討ち取り、六騎に手を負わせたが切り込まれ自刃した。 備前の平四郎と増尾十郎も討ち死にし絶えていた。 片岡八郎と鷲尾三郎は、一つになって戦っていたが、鷲尾は深く攻められて死に、そこへ入ってきた弁慶と伊勢の三郎と三人で敵陣深く攻め入った。 伊勢の三郎は深手を負って「暇乞いをして死出の山で待っている」と言い遺し首を垂れた。 
弁慶は、喉笛を打裂かれて全身を赤く染めながら、威風堂々の戦いを見せていた。 弁慶が持仏堂に入ると、義経は静かにお経を読んでいた。 弁慶が「軍はかぎりになりて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢の三郎、各々軍思ひのまゝに仕り、打死仕りて候。今は弁慶と片岡ばかりに成りて候。限りにて候ふ程に、君の御目に今一度かゝり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はゞ、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせ候はゞ、三途の河にて待ち参らせん」と言うと、 義経は「今一入名残の惜しきぞよ、死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人の入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、假令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば誠に三途の河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも、我を守護せよ」と続けて言った。 
弁慶は、御座する所の御簾をそっと引き上げ、義経に別れを告げた。義経の目に、咽(むせ)び泣く弁慶の姿が映った。 敵の接近する音を近くに聞くと弁慶はあわてて立ち去ろうとしたが、すぐに戻って、 
六道のみちの巷に待てよ君おくれ先だつならひありとも 
の歌を詠み、死後にふたたび会う約束を交わすと、義経は、 
後の世もまた後の世もめぐりあへそむ紫の雲の上まで 
と返歌して、慟哭した。 
弁慶が戦に戻ると、片岡は、傷を負い精魂使い果たしたかのようにぐったりした。もう、腕も肩も限界だった。片岡は、もうこれまでと自らの手で刀を深く刺した。
神話に出てくるお酒の話  
須佐之男命(スサノウノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したとき、大蛇に飲ませたお酒が、八入折(やしほをり)の酒である。古事記には「船ごとに、その八入折の酒を盛りて」とあ る。八塩折之酒と書かれたものも見るが、まさか、お酒に塩を入れるなんて事はなく、この塩は一入(ひとしお)のシオだと思う。一入とは「いちだん」とか「いっそう」を意味する言葉で藍染めの工程で、藍の甕に漬けることを言 う。浸して引き上げたとき、それ程、色は付いていないが、空気にさらすと薄い青色に染まってくる。これを何回も繰り返すと、あの濃い藍色に染まる。これを八回繰り返す事を八入(やしお)と言 うが、千入(ちしほ)と言う言葉と同じで、何回もという意味がある。 
気を配って育てる事を手塩に掛けると言うが、あの深い藍色は、まさに手塩に掛けた染物なのである。この手塩とは手塩皿(塩を盛った小さな器)から来ている。昔は清めるため、お膳に手塩皿が付いていたそうで ある。香の物を盛る小さなお皿を「おてしょ」と言うが、手塩の丁寧語、お手塩から「おてしょ」になったもので、今それを見るのは葬式の「お清め」だけかもしれない。
四つの民  作曲/松浦検校 作詞/赤尾 某 
解説 / 封建時代には、国民に士農工商の四つの階級があった。歌詞はこのような時代にあって、泰平の世を謳歌する四種の民を、春夏秋冬の四季に配して風物を添え、それぞれの美しさをたたえたものである。  
歌詞 / 限りなく、静かなる世や吹く風も、勿来(なこそ)の関の山桜、鎧の袖に散りかかり、花摺衣(はなすりごろも)陸奥(みちのく)に、駒を進むも君のため。弓を袋に鋤鍬(すきくわ)や、案山子(かかし)を友と野辺の業。菜摘み水ひき(8)貢とり、薪を肩に彼処(かしこ)なる、木の間の月を楽しみて、山路の憂さを忘れめや。雨露霜を凌ぐ身の、工匠(たくみ)は墨と曲尺(かね)てより、大宮造り殿づくり、烏帽子(えぼし)素袍(すほう)も華やかに、賤が軒端(のきば)も建てつづき。錦織るてう機(はた)ものの、夜寒むいとわじ綾とりの絹。染めて貴賤の色分かぬ、同じ眺めは白妙に、雪は一入(ひとしお)きぬぎぬの、情け商なふすぎはひに。姿言葉は賤しくて、心ばかりは、皆やさしかれ。  
口語釈 
士(春)/打ち続く泰平の御代は有難い限りである。それにつけても、昔「風よ吹くな」と詠った、奥州勿来の関の源義家の歌が思い出される。義家は桜の花びらのふりかかる勿来の関を後に、未開の陸奥に大軍を率いて、賊軍追討の苦難の道に赴くのも大君のためであった。  
農(夏)/現在は弓は袋に納まる平和な時代である。農民は鋤鍬を手に、案山子を友に、安んじて農業にいそしんでいる。野菜を作りながら、一方、田に水を引いて稲を収穫する。また、雨露や霜などに耐えながら、庶民の燃料になる薪を山にとりに行き、日暮れになるまで立ち働く。かように農民は辛苦の毎日ながら、帰路は木の間から美しい月を眺めて、苦労をすっかり忘れるのである。  
工(秋)/大工は墨縄と曲尺とで家を建てる。豪華な神社仏閣も壮麗な宮殿も、みな大工によって建てられる。その時は大工は烏帽子素袍の、華やかな儀式姿であるが、一般民家のあばらやも建ててくれるのである。  
商(冬)/錦を織るという機を扱う人は、寒い夜もいとわずに仕事にいそしむ機織り女である。機を織るにはまず絹を染めるのであるが、一色に染めてしまい、色に貴賤はない。白妙の雪と白絹とは同じ眺めではあるまいか。きぬぎぬの情けということがあるが、機織り女はその情けを商うているのである。姿や言葉は粗野であっても、心は皆やさしくありたいものである。  
綸子(りんず) 
小袖の説明 / 江戸時代、寛文期(1661-72)以降元禄期(1688-1704)までの間に仕立てられたと考えられる小袖。文様は檜垣(ひがき)と色とりどりの山吹。まず、絞によって、文様を施す部分を防染(ぼうせん)し、地の部分を黄色に染め る。白く残った部分には、ふたたび絞により山吹の紫や葉っぱの浅葱(あさぎ)や萌葱(もえぎ)を染め、鹿子絞(かのこしぼり)ふうの型染で檜垣と山吹の一部に紺と薄紅(現在はほとんど褪色)を加え、さらに金糸や色糸で、山吹全体や、葉や花びら、檜垣の竹骨の輪郭を繍取(ぬいとり)します。左右に大きく振られた檜垣にこぼれ落ちるような山吹をあしらった意匠は、動きに富み、今見ても斬新である。この小袖の華やかな印象をもたらしているのは、意匠の巧みさばかりではない。地紋が織り出され、ツヤツヤとした光沢を放つ絹地の風合いもまた、注目すべきところだ。この小袖の生地は綸子(りんず)といい、現在でも振袖などのフォーマルなきものによく見られる。 
綸子という絹織物は、中国で考え出され、明時代盛んに織られるようになった。日本では、江戸時代中頃まで長崎を窓口にして、生糸とともに綸子の反物が、膨大な量輸入されていた。その始まりがいつ頃かは判然としないが、上杉謙信(1530-78)所用と伝わる胴服(どうぶく・羽織のような上着)の中に綸子を用いたものがあり、これが一番古い使用例だとされている。綸子は輸入開始からそう時を経ずして、小袖とくに女性の小袖生地として、急速に需要を伸ばし た。光沢や肌触りのなめらかさ、地厚(じあつ)さ、しなやかさが、ほかの絹織物に比べて格段に優れていたからである。時期はやや下り、慶安3年(1650)の「女鏡秘伝書 」という書物でも、小袖生地として「綸子はしなやかに、しかも光有りて、一入(ひとしお)良きものなり。第一、皺(しわ)よらざるものなり」と、綸子を勧めている。綸子の広まりと軌を一にするように、小袖の意匠にも大きな変化が起 った。複雑な絵羽(えば)文様(縫い目をまたがる文様)が見られるようになった。綸子に先だって、華やかな色柄の小袖を仕立てるのに多く用いられていたのは、練緯(ねりぬき)という絹織物で ある。耳慣れない名前だが、経に生糸、緯に精練した糸を用いることに由来する。この練緯も美しい光沢のある白生地である。ただ、経糸の浮きが長い繻子織(しゅすおり)の綸子に比べて、平織(ひらおり)で経緯の交叉点の密度が高い練緯の輝きというのは、乾いて粉をふいたような感じが する。 
練緯全盛期の小袖意匠は、反物幅ベースで考えていたふしがある。今残っている桃山時代の練緯による小袖の意匠は、ごくわずかな例外を除き、飛び文様のもの、背縫いをはさんで左右対称をなすよう文様が配されるもの、片身替(かたみがわり)といって左右の身頃(みごろ)の地色や文様が全く異なるものに大別され る。縫い目を不規則にまたがる文様は、非常に部分的にしか見られない。ところが、綸子が生地として盛んに用いられるようになると、最初に見た小袖と同じような、左右の対称性を大きく崩し、かつ、文様があらゆる縫い目をまたがって一つながりになったものが登場 する。つまり、小袖全体を一枚の画面に見立て、そこに自由に絵を描くように文様をあらわすようになる。このような文様意匠は、仮絵羽(かりえば)という工程を踏むことが必要で ある。最初に見た小袖でいうと、まず、白綸子の反物を裁(た)ち、小袖の形に仮仕立(かりじたて)をしてから、檜垣や山吹の絵柄を描き込んだのち、仮仕立をほどいて、地染(じぞめ)、絞染(しぼりぞめ)、型染、刺繍の加工を施してい る。 
絵羽文様は、原理から言えば、練緯でも綸子でも可能である。仮絵羽の工程は、練緯の小袖においても取り入れられていたはずである。しかし、作業のしやすさ、仕上がりの良さの点で、綸子は画期的で あった。シャリっとした感触の練緯は皺になりやすく、生地を複雑に染め分けるために絞を繰り返すのには具合がよくなかった。また、染も繊維表面の膠質(にかわしつ)がよく取り除かれた綸子のほうが、深みのある冴えた色合いに上が る。実に綸子という、皺にならない、発色の良い新素材を得ることで、小袖の意匠は飛躍的に自由度を増し、絵画的な文様の発展が方向付けられたと言える。綸子の特質を生かすことで促された小袖の意匠展開が、行き着くところまで行った感を呈するのが、徳川秀忠の娘で、後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう)となった東福門院(とうふくもんいん)和子が誂(あつら)えたお召し物で ある。ご愛顧の呉服商に伝わった注文台帳をめくれば、極上の綸子をコントラスト鮮やかに染め分け、鹿子絞や金糸繍(きんしぬい)を駆使して、菊花、水流、棕櫚(しゅろ)の葉といった多彩なモチーフを 大きく配置する大胆なデザイン画が目に入ってくる。東福門院が72歳で歿するのが延宝6年(1678)、その頃より流行の最先端を行く女性たちの間では、綸子に金糸繍の光彩を放つ小袖は、野暮ったく感じられてきた ようだ。繊細な暈(ぼ)かしが目新しい友禅染(ゆうぜんぞめ)が知られるようになると、生地の好みも滑らかな綸子から、表面に細かいシボのよった縮緬(ちりめん)へ、またたく間に移りかわり、軽妙で華やかな元禄の世を迎えることになった。  
 
帽子の歴史

 

帽子の始まり 
帽子のそもそもの始まりをいろいろな資料でみると、ずいぶん昔から、帽子というよりその類似品や、帽子の前身らしいものがあることが実証されている。 
古くは、はにわの中にも帽子をかぶっているものが発見されているし、人間の生活の始まりと起源を一つにしているといえよう。 
中国の漠代(紀元前202年-9年)に被り物ができ、わが国では、神代紀の作笠(かさぬい)が、その始めといわれている。 
また「古事記」「日本書紀」に早く冠(カンムリ)や笠の語がみえている。聖徳太子も冠をかぶっているが、これは仏教の伝来とともに、お隣りの中国から入ってきたものとされている。 
奈良時代に官制が定められ、683年(天武11年)に漆紗冠と圭冠ができたが、後者が発展して烏帽子となった。 
烏帽子は、奈良時代から江戸にいたる男子のかぶりもので、黒の紗、絹などで袋状に作ったやわらかなもので、本来は日常用のものであった。朝廷に出仕するときは冠をかぶり、日常は一般庶民と同様に帽子をかぶったわけである。 
奈良朝のころの絵には、大工さんが烏帽子をかぶっているのが見られ、これが平安朝に入ると、はっきりとそれをかぶる人の身分階級をあらわすようになってきた。 
公卿は直衣、狩衣などの略装のときには烏帽子をかぶることとなり、黒漆塗りの絹紗あるいは麻製と形式が定まり、水汲や下男など身分の低い人はど、木綿のような布地を使い、これを萎烏帽子という。 
烏帽子の基本は立烏帽子で、それもかぶる人によってさまざまに変化していたのが特徴になっている。殿上人、位の高い人はど文を刺繍したものが用いられ、垂凄冠(すいえいかん)といった。源氏物語にみられるように、火急の場合は桧扇を折って、垂棲をくるくる丸めてはさんでいた。 
鳥羽上皇のとき、強装束の流行にともなって、漆で塗りかためた紙製の烏帽子があらわれ、またこの時代に綾南笠(あやいかけ)や市女笠(いちめがさ)などの笠も流行した。 
鎌倉、室町、戦国時代になると、帽子は戦争の必需品となってくる。 
鎌倉時代は、前代につづいて男子はもっぱら帽子を用い、その発達には若しいものがあった。女子は広巾女笠を用いたが、身分の高い女性の被り物として、常盤御前がかぶっていた常盤笠が知られ、これはうるしで塗妻折といわれる。安寿と厨子王の物語にも出ててくる。 
室町時代には、侍烏附十というものがでさてきた。今でも相撲の行司がかぶっているものの原型である。曽我兄弟もこれをかぶっている。かぶとは偉い人の専用で、平侍は陣笠しかかぶれなかった。また、打ちつづく戦乱のために、武士の間に露頂(冠をつけない)の風がおこり、女子の問に桂包(かつらつつみ)がおこなわれた。 
鎌倉時代の初期から江戸時代にかけて、冠が使用され、山伏や天狗の頭巾もこの冠の一種とされている。また、三位以上の人の被り物として、儀式用の金色の冠をかぶったところから三位の冠といわれ、江戸時代には、武士の正式の儀式にはこれを使用している。 
また、騎射笠といって、身分の高い人や武士が狩をするときにかぶった笠もあり、大田道灌のかぶっていたスタイルがこれである。 
安土桃山時代になると、笠はいよいよ広く男女にわたって着用されたが、またこの時代にヨーロッパから帽子が伝来し、南蛮笠、南蛮頭巾などとよばれた。 
この時代の初めには、女子は外出のときに被綿(かつぎ)を用いたが、承応年間(1652-4)に禁じられて気健頭巾にかわり、それが廃されて寛文.延宝年間(1661-81)には老若の別なし累欝浅黄紅の帽子になった。 
綿帽子は安土桃山時代には男子もこれを用いたが、この時代にはいってもっぱら女子の被り物となった。また角隠しともよばれ、揚帽子、綿帽子とともに現在でも新婦が結婚式の際かぶっている。 
江戸時代にはいると、笠、帽子、頭巾など被り物の種類はますます豊富となり、これが天下泰平とともにはなばなしく流行した。 
この時代に笠は広く男女にわたって用いられたが、頭巾は主として男子の被り物とされ、帽子はもっぱら女子の被り物として発達した。 
その後、歌舞使俳優の野良帽子にならって布寓で作られたものが多くなった。沢之丞帽子、やでん帽子、菖蒲帽子、瀬川帽子と称されるものがそれであり、俳優の名にちなむものである。 
萩野沢之丞創作の沢之丞帽子は紫で、左右に鉛のおもりをつけたもので、一名おもり帽子という。菖蒲帽子は芳沢あやめ、瀬川帽子は瀬川菊之丞の創作であり、やでん帽子はかつらや伝兵衛の作で、四角の絹の四隅におもりをつけたものである。 
これらはいずれも元禄時代の流行品であるが、その後百年の文化、文政時代には帽子をかぶることがすたれ、お高祖頭巾になった。やはり、帽子の歴史は明治以後にゆずらねばならないだろう。
帽子の渡来 
わが国にフェルトの洋風帽子がはじめて伝えられたのは、今から約380年前、つまり織田信長の時代で、キリシタンの宣教師がかぶってきて、信長もたわむれにかぶってみたことがあるといわれています。 
当時の帽子は、現在に伝わっている「南蛮屏風」で見られるように、クラウンの高い山高帽であったようです。といっても、もちろんちょんまげ時代のわが国で、洋風の帽子が普及したわけではなく、本格的には、幕末、維新のころまで待たねばなりませんでした。 
安政4年(1856年ペルリの来航の前年)、佐賀鍋島藩で、蘭学の学生に洋服を着せたといわれます。おそらく、このとき帽子もいっしょにかぶらせたにちがいありません。 
大阪市では、慶応2年春(1866)当時大阪城に出入りしていた装束商竹内清兵衛氏が、オランダ人の帽子の模倣品を試作したという記禄が残っていますが、まだ一般には普及しなかったようです。 
明治天皇が明治3年に洋服を召され、その翌年に軍人以外にも洋服の着用が許され、その年、断髪令が出て、ようやく一般にも帽子が普及しはじめます。 
明治5年には軍帽が制定され、トンビに山高帽の姿もちらはらしはじめました。 
当時の帽子は、もちろんすべて輸入品でしたが、そのころの帽子はみな山高帽で、その後にソフトの釜型帽子、メリケン帽子が輸入され、山を折込んだ中折帽子がはじめて入ってきたのは明治25年ごろでした。 
一方、女性の方では、依然として島田、丸まげが全盛で、しかも断髪令の出た翌年に、女性の断髪禁止令が出るなど、女性の洋装化への道はまだまだ遠いという状態でした。 
その中で、明治20年に日本赤十字の看護婦の制服、制帽が白で制定されたのが、庶民の洋装の唯一の例です。 
ただし、貴婦人たちの間では、明治16年(1883年)にはじめて夜会服が用いられ、翌17年に皇后や皇妃が儀礼用に洋服を召されるようになりました。 
鹿鳴舘ができあがったのは明治16年。 
これから俗にいう「鹿鳴館時代」が数年つづきます。ここで上流婦人たちは、19世紀ヨーロッパ風の洋装をし、毎日のように舞踏会を催しました。今日、鹿鳴館時代の洋服として保存されているのは、蜂須賀家と三井家の両家ぐらいですが、当時の写真によってしのぶことができます。 
一方、明治18年ごろから、女性の間に日本髪を廃し西洋風の束髪をさかんにしようという風潮があって、それに便乗したかたちで束髪ひろめの会が起こりました。 
この束髪の流行は長くつづきますが、この髪型は従来の日本髪にくらべると簡便ではありますが、やはり断髪ほどではなく、当然の結果として、帽子の形はクラウンが浅く、広く、ブリムの広いものでした。 
そして、基本的なこの形は、多少の変化をみせながらも、断髪が流行し、モポ、モガの出現する大正末期までつづきます。 
なお、当然のことながら、明治初期の帽子は、すべて西洋からの輸入品でした。帽子が本格的に国産されるようになるのは、明治23年まで待たねばなりませんでした。 
南蛮服の中で、いちばん服装界に影響を与えたものは、防雨、防寒としての合羽である。 
また南蛮笠といわれた帽子も、当時は無帽時代であったから明治の文明開化までついに流行をみずに終わった。
近代日本における帽子の盛衰 
明治初年、断髪令が施行された当時、ほとんどの帽子は輸入品であり、いわゆる国産ものが登場したのは、明治も11年以降で、それも生産としてはほんのわずかであった。商売として盛んになったのは明治27、8年ごろで、このころから著しい発達をみた。 
というのは、戦争の勝報ごとに提灯行列があり、またすべてのお祝いを盛んにするというわけで学校生徒は皆学帽をかぶり、また帽子をかぶらなければ提灯行列に参加できないということになり、一般に使用することになったわけである。 
近代帽子を最初模倣して試作したのはだれであるか、これはなかなかむずかしい問題であるが、大阪では慶応2年春、当時大阪城に出入りしていた装束商竹内清兵衛氏(ヘルメット製造商竹内清兵衛氏の先代)が、オランダ人が着用していた帽子の模造品を試作したことがあるが、一般に普及されなかったといわれ、これが大阪市における帽子製造の嚆矢であろうといわれる。もちろん東京でも模倣した人はあるはずであるが、つまびらかではない。 
当時竹内清兵衛氏が製造した帽子には、蓮華帽子(生地は覆輪、サージ、ラシャなどで、ラシャは陣羽織に使ったものを利用したという)、大黒帽子(明治8年ごろ流行したもので、ラシャ、お召などで製作する)、神戸帽子(舶来の中山高帽子を模倣したもので、布を芯にしてラシャで覆ったもの)また紙の張子に黒ラシャの粉をふりかけた振かけ帽子と称するものも神戸帽子と前後してあらわれたが、それらは今日一般に用いられているフェルト、鳥打帽子、麦藁帽子などの純然たる洋式帽子に移る過渡期における状況であった。 
明治5年、旧礼服を廃し、洋式がとり入れられ、明治6年1月13日、絵図姿入りにて大礼服制の改正を公布されてから、疾風の如く山高帽子が大流行した。 
当時の絵姿に注意書として、「冠を脱せざるを以て礼となし、帽子は脱するを以て礼と定むべし」とていねいに脱帽姿まで書かれている。これより20年の間、尨大なる山高帽子の輸入を見る。 
頭髪がほとんどザンギリになった明治16年、白堊の鹿鳴館が完成し、舞踏会で知られた鹿鳴館時代をつくつたのである。この風潮が下に伝わって町人も洋服を者るようになり、舶来物、ことにパリ風の洋品が多く輸入されるにいたった。 
福地桜痴の「もしや草紙」の中で、ある貴紳の宴会風景を皮肉って、「扨また来賓の方々を拝見するに、男子はどうでもよろしいが、貴婦人がたは思い思いに、今日を晴れて出立ち、松茸の形したる麦藁帽子を頭に乗せては、茸狩りの意を表するものあり、黒い網を頭にぶらさげて、蚊帳を張っては面の皮が薄いという謎を示すものあり、仏蘭西の帽子、独乙の靴、伊太利のコルセット、襖地利のケレノリン、英吉利のリボン、西班牙のレース……、といっているが、これは現在の日本にもそっくりあてはめてよいようだ。 
婦人の帽子はレース縁とりの略帽かボンネット、さもないと羽根飾りつき小形の麦藁帽といったものが多かったが、明治20年4月に行なわれた首相官邸の仮装舞踏会のような極端な傾向が一般にもあったことは、「婦女唱歌之図」という、おそらくは小学校の唱歌授業であろうと思われる図をみてもうなずける。 
明治23年、渋沢栄一、益田孝、益田克徳、馬越恭平など、財界知名の諸氏が、当時山高帽の輸入があまりにも盛んなのを憂えて、その駆逐を目的として資本金十万円で創立したのが、現在の東京帽子株式会社(東京ハット)である。 
英人技師2人を招聘して、山高帽子の製造に着手したが、当時イギリスにおいて帽子輸出業者がその2名の派遣技師を激しく非難して、英国会でも輸出奨励に反するとし、問題になったのは有名である。 
いかに日本がイギリスの上客であったかがうかがえると同時に、山高帽子流行の盛んなことも知ることができる。 
故友田幸三郎氏の談中にある中折帽子に関する事項を紹介すると、東京帽子は当時仕事を始めたようだったが、今とは全然ちがって、この会社は大蔵省の官報局の人が小石川で始めたもので、まるで素人の集まりだったため営業も苦しかったらしい。 
帝帽のできたのはそれより15、6年後のことである。東京帽子には東京市から金が出たとか。鐘紡だとか、浅野セメント、瓦斯会社、電燈会社等々を工部局がつくつたときに一緒にできたものだ。 
昭和10年の組合員名簿によると、台東区、わけても以前の浅草は帽子屋の巣といわれるはどであるが、いかにしてそうなったのであろうか。故菱尾氏によれば、帽子製造のはじめは馬具屋であり、その馬具の職人が鳥越周辺におり、明治の初めより馬具が出なくなったので帽子を作るようになり、だんだんそのまわりに集まって今日のようになったということである。   
 
1 砧 (きぬた) / 日本の砧・朝鮮の砧

 

「砧」とは何か? 
砧についてお話をさせていただきます。 
まずは「砧とは何か?」というところから始めます。砧は非常に誤解されているというか、間違って使われていることが多いものです。「砧」の正しいといいましょうか本来の意味は、汚れた布・衣類を洗濯した後の仕上げ工程の一つで、皺を伸ばし艶を出すことを目的に布を打つ道具もしくはその行為のことです。今でいえばアイロンかけに相当します。洗濯の済んだ衣類にアイロンをかけますと、布地の皺がとれて艶が出ます。昔からの洗濯の仕上げ方法には火熨斗や洗い張りなど色々ありますが、砧はその一つなのです。 
従いまして、稲藁を柔らかくするための藁打ちのことを「藁砧」ということがありますが、これは正確な意味での砧ではありません。 
また世界の民族のなかに、木槌で叩く方式で洗濯するところがあって、これを「砧」ということがありますが、これも砧ではありません。藁打ちも叩き洗いの洗濯も、木槌で叩くという点で砧打ちと仕草が似ているのですが、本来の意味の砧ではありません。 
日本の考古学では、1970年代頃から木製の横槌を「砧」と称して報告する例が目立ちました。これについては渡辺誠名古屋大学名誉教授が「考古学雑誌」という学術雑誌でこれを批判されまして、それ以来この木槌は「横槌」であって「砧」ではありません。しかし考古学研究者のなかには、今でもこれを「砧」と言う人がかなりいます。また世間一般でも、これを「砧」と呼ぶ人が多いようですが、間違いです。 
さきほど砧は洗濯後の仕上げであると申しました。洗濯は家事ですので、女性の仕事とされてきました。従って砧打ちも女性の仕事でした。これは日本も朝鮮も変わりありません。従って砧は女性の民俗・風習と言うことができます。 
前置きはこれぐらいにして、それでは砧とは具体的にどのようなものなのか、図や写真資料などを見ながらお話していきたいと思います。
日本の砧 
日本では砧打ちの風習が明治時代に廃れました。そのため砧の実物資料はほとんど残されていません。今のところ西宮市の郷土資料館に砧と思われるものがありましたが、それぐらいです。 
しかしそれ以前では、絵巻物や浮世絵などの絵画資料に砧を描くものが多く、その実像がかなりの程度判明します。そこでこの絵画資料から、日本ではどのような砧であったのかをお話します。 
二種類の砧 
砧は「綾巻」と「台」そして「横槌」の三つの道具で構成されます。「綾巻」というのは聞き慣れない言葉と思いますが、江戸時代前期の文献にも「綾巻」が出てきますので古くから使われている言葉です。また現代でも「広辞苑」で「砧で布を打つ時、その布を巻きつける棒」と説明されていますので、本来はポピュラーな言葉で、決して唐突な言葉ではありません。なお江戸時代の文献では「綾巻」だけでなく「絹巻」という言い方もあります。 
砧には二種類ありまして、一つはその綾巻という丸太棒に布を巻きつけて打つタイプです。綾巻・台・横槌の三点を使うもので、このタイプをT型と名付けました。もう一つは布を折りたたんで台に置いて打つタイプでして、綾巻を使わないで台・横槌の二点だけを使うものです。このタイプをU型と名付けました。 
T型の砧 
T型は綾巻を使う砧なのですが、その一番古い資料が(1)です。 
13世紀末の「伊勢新名所歌合絵巻」に描かれた砧打ちの絵です。直方体の台の上に布を巻いた円筒形の綾巻が置かれています。これは綾巻を台に直接置くタイプで、これをT-a型と呼びます。この絵では顔を見せているのが女主人です。右手に横槌を持って打とうとしており、左手で綾巻を押さえています。相対して座って身体半分が隠れているのは下女でしょう。なおこの絵には疑問なところがあります。綾巻が台よりはみ出しておらず、台の範囲内の大きさに描かれているところです。本来は綾巻は台よりはみ出すものと考えています。これについては次に触れたいと思います。 
(2)は「訓蒙図彙」という、今で言えば百科事典ですが、寛文6年(1666)の本に出てくる砧の絵です。 
綾巻は台よりかなりはみ出す大きさで、台の上に置かれています。(1)と同じくT-a型です。これが最も古いタイプの砧を正確に描いたものと考えています。台の側面には持つための引っ掛かりの凹み=引き手が表現されています。横槌が二本ありますが、二人で打つものだったのでしょうか、あるいは両手にそれぞれ持って打っていたかも知れません。 
(3)は「女用訓蒙図彙」という、これも当時の百科事典ですが、その名の通りに女性用の百科事典です。 
刊行は元禄元年(1688)で、先程の(2)より20年ほど後になります。この本にある砧の絵ですが、(2)と比べると受け枠が設けられており、そこに綾巻を受けています。これは転がりやすい綾巻を固定するためのものですが、この時期に登場しました。受け枠が登場したこの(3)をT-b型と呼びます。 
(4)は「増訓画引和玉図彙」という本で、これも百科事典です。 
元禄6年(1693)の刊行ですから、(3)の5年後です。受け枠が発達して、綾巻が少し宙に浮くようになりました。(4)は(3)の次の形態ですので、T-c型としました。 
(5)は「角川古語大辞典」という辞書にある挿図で、出典は「百人女郎品定」という絵本です。 
私の探した限りではこの絵本にその絵は見当たらなかったのですが、おそらく別系統の本にあるのかも知れません。刊行は享保8年(1723)です。女性二人が打っていますが、1人は右手に横槌を持ち、左手で綾巻を回しています。もう1人は両手にそれぞれ持って打っています。 
綾巻の受け枠は更に発達して板柱となり、その上端には受け部を設けて綾巻を渡しかける形態になります。綾巻が台から離れて高い位置になりますので、打ちやすくなりました。新しいタイプの登場です。このように台の上に立てた板柱に綾巻を渡しかけて高い位置に据えるタイプをT-d型と呼びます。 
(6)は同じく江戸時代の「世津濃登起」という絵本の挿図です。 
刊行は安永3年(1774)です。この絵では布を巻いている綾巻の部分を太く、端のところでは細く描かれています。これは綾巻の両端に軸を装着したものです。両方の板柱の上から大きく切れ込む受け部を作って、ここに綾巻の軸を受けさせる構造となって、綾巻を回転させやすくなりました。軸を取り付けますので、綾巻の長さは短くなります。軸の登場は(5)のT-d型より発達した形態であり、従ってより新しい形であることが分かります。これをT-e型と呼びます。 
(7)は窪俊満の浮世絵に描かれた砧です。 
時期は天明年間(1781〜89)です。一方の柱に受け部ではなくほぞ穴をあけて、そこに綾巻の片方の軸を挿入し、もう一つの柱の切れ込み受け部には反対側の軸を受けさせるという構造になります。綾巻が左右にずれにくくするように工夫したものと思われます。(6)のT-e型より発達したものですのでT-f型と呼びます。 
(8)は葛飾北斎の娘、応為の浮世絵です。 
時期は19世紀の前期で、幕末に近くなります。ここでは2枚の柱の間に補強の横木を入れています。これによって砧は構造的にかなりしっかりしたものとなりました。さらに発達した形態です。T-g型と呼びます。北斎も、またその弟子たちも砧打ちの浮世絵を多く描いていますが、その多くはこのT-g型です。 
以上をまとめますとT型の砧は、次のように変化しました。 
@台に綾巻を直接載せるもの(T-a型)。元禄(1680年代)まで。 
A受け枠を取り付ける(T-b型)。元禄元年、1688年頃。 
B綾巻が台から少し宙に浮く(T-c型)。元禄6年、1693年頃。 
C受け枠が発達して板状の柱になり、綾巻を高い位置に据える(T-d型)。享保年間、1720年代。 
D巻の両端に軸を取り付ける(T-e型)。安永年間、1770年代。 
E綾巻の一方を柱に挿入する(T-f型)。天明年間、1780年代 
F二枚の柱の間に補強の横木を入れる。(T-g型)。19世紀前期〜幕末。 
大雑把に言うとこのような変化です。これは砧を使いやすくするために改良してきた歴史と言うべきもので変化というより発達でしょう。 
ここまで発達した後は明治時代となるのですが、砧を打つ風習は廃れました。T型の砧の実物は今のところ遺存例がありません。しかしどこかの古い民家の倉に残っている可能性があります。もしそれが発見されるとしたら、おそらく最後の段階のT-g型だろうと思っています。 
砧の編年と世阿弥の能楽「砧」 
T型の砧の形態変化つまり編年を説明しましたが、これによって次のような意外なことが分かってきました。 
室町時代に能を大成した世阿弥の作品に「砧」があります。帰国しない夫を思って妻が砧を打って心を慰めるが、待ち焦がれて亡くなり、夫への思慕が迷妄の執念となって死後も苦しむ、という粗筋で、世阿弥の作品のなかでも名作とされています。 
能では舞台に使う小道具で演能のたびに手作りするものを「作リ物」といいます。能楽「砧」の舞台で現在使われている砧は(9)で、「作リ物」です。 
その形は布を巻いた綾巻を二本の柱に渡しかけるもので、先程の編年ではT-d型に相当すると考えられます。ほぞ穴や軸の表現がないので、T-e型より以前の段階です。従って時期は元禄1690年代から安永(1770年代)頃までの7〜80年の間となるでしょう。とすると、現在の能楽「砧」の小道具の砧はこの時期に出現したものと判断されることになります。 
ところがご存知のように世阿弥は14〜15世紀の人ですから、この時の砧はT-a型のように、綾巻が台の上に直接載っていなければなりません。17〜18世紀のT-d型では300年もの違いがあり、矛盾することになります。 
そこで調べていきますとが、増田正造さんという方が中公新書「能の表現」という本のなかで、世阿弥の「砧」について 
「これほどの名作が、江戸のある時期には能として上演が絶えていた」 
と論じているのを見つけました。これで先ほどの矛盾が解決しました。世阿弥の「砧」は、上演が一旦途絶えた後に復活して再上演された際に、舞台で使う小道具の砧については、その当時の世間で使用されていたT-d型の砧の形を模して考案された作リ物だったわけです。その時期は17世紀末〜18世紀中頃です。 
このように世阿弥の名作「砧」の上演が江戸時代に一時絶えていたという説は裏付けられました。さらにその復活の時期が17世紀末〜18世紀中頃ほどの間ということまで推定できたのです。 
また歴史をさかのぼって、世阿弥の生きた時代に上演された「砧」の小道具は、当初の形であるT-a型であったと推定されます。もし将来にこの時代の砧の小道具が発見されることがあれば、このT-a型であろうことが予想されます。 
U型の砧 
次に綾巻を使わないU型の砧です。従ってこのタイプの砧は、台と横槌の二つだけの構成となります。この最古の資料は、東北の平泉中尊寺にある「大般若波羅蜜多経」という国宝に指定されているお経の見返し絵です。(10)の絵の右側がそれです。 
時期は平安時代終わりの12世紀末頃とされています。台の上に折り畳んだ布を置き、二人の尼さんが横槌で打っている場面です。 
なおこの絵の左側は、中高年の方は記憶にあって若い人はご存じないと思いますが、伸子張りです。これは洗濯の仕上げである洗い張りの一つで、反物にした洗濯物を張って竹串を刺し並べていくものです。今回のテーマである砧とは関係ありませんが、日本独特の風習である伸子張りの最古の資料として紹介しておきます。 
その次の時期の資料は平安時代から大きく飛んで江戸時代、寛政3年(1791)刊行の「大和名所図会」の挿図(11)になります。 
ここでは台の上面が膨らむいわゆる蒲鉾形であることに注目されます。(12)は東海道五十三次で有名な安藤広重の絵です。 
和歌の歌枕に出てくる景勝地を描いた「諸国六玉河摂津擣衣之玉川」という浮世絵です。台は見えませんが、折り畳んだ布を打っているので、U型の砧であることが分かります。この絵は横槌が人の頭よりも大きいことや布が台より大きくはみ出していることなど、部分を強調していますので、実際の砧を写生したものではないと考えられます。 
U型の砧はこのようにT型より絵画資料が少ないのですが、西宮の郷土資料館に(11)とそっくりの木製の台が収蔵されていました。(13)がその写真です。 
ただしこの資料館ではかなり以前の収集でその使用法は分からず、衣料関係の資料と記録されていました。砧の道具とは認識されていませんでした。 
以上のように、日本ではT・U型の両方のタイプの砧があったことは確かです。 
砧の槌 
砧を打つ際に用いる槌ですが、考古・民具学的に「横槌」と言われる木槌です。先ほど言いましたように、これを「砧」と呼ぶことは誤りです。横槌はA〜Gタイプの7種類に分類されのですが、日本の砧の槌はこのうちのAあるいはBタイプに相当します。下記がその図です。 
これは打って布にあたる部分(敲打部)と手に持つ柄の部分(柄部)との境目に段差があるものです。敲打部の短いものをAタイプ,長いものをBタイプと分けられています。なおGタイプは朝鮮の砧の槌ですので、後でお話します。 
この横槌を右手に持って打ちます。左手はT型では綾巻の端に置いて回し、U型の砧では左手は使われていません。 
砧は秋の風物詩 
日本の砧は、秋の夜のしじまに哀調と幽玄な音が響きわたるがゆえに、古典文学にしばしば登場します。「ころも打つ」「擣衣(とうい)」という言い方をすることもあります。古くは源氏物語の夕顔の帖に 
「白妙のころもうつきぬたの音もかすかにこなたかなたに聞き渡され‥‥」 
とあり、和歌では鎌倉時代初めの有名な歌人である式子内親王が 
「千たび擣(う)つきぬたの音に夢さめて物思ふ袖の露ぞ砕くる」 
と詠まれ、また江戸時代では俳句で松尾芭蕉の 
「声澄みて北斗にひびく砧哉」 
という作品があります。これらでは「砧」は“秋”の季節に打つものとなっています。俳句では秋の季語です。 
それでは、なぜ砧は秋の風物詩なのでしょうか。かつての日本人の一年の生活サイクルを考えて見ましょう。 
洗濯はふつう毎日のようにするものですが、そうでなくて一年単位で洗濯するものがあります。例えば綿入れや布団などがそうです。これを洗濯するには、夏に糸を解いて中の綿を出して布地を洗濯して汚れを落とします。それを秋に砧を打って皺を延ばし艶を出します。そして冬には再び綿を入れて裁縫し、元の綿入れや布団にします。このような綿入れや布団は一例で言っただけで、これらに限るものではなく他の着物も同じですが、こうして新鮮さを取り戻した着物などを用意して正月を迎えるのです。つまり一日か二日で完結する日常の洗濯ではなく、正月を清清しく迎えるために夏から洗濯して準備するという長い期間のサイクルのなかで、砧打ちは秋に行なうものであったわけです。砧が秋の風物詩であったのは、こういう風習があったからと考えられるのです。 
和菓子の「きぬた」 
京都の四条河原町を北に上がったところに「長久堂」という伝統和菓子屋さんがあります。そこの有名なお菓子に「きぬた」があります。 
これは円柱状の練羊羹を芯にして、求肥(きゅうひ)を羽二重のように薄く延ばして巻いたもので、いわゆる棹物です。これを一口サイズに切って食べるのですが、このお菓子は砧の綾巻を模したものです。練羊羹が綾巻、求肥は布です。布を巻いた綾巻をそのままお菓子にしたというアイデアに感心します。 
このお菓子のしおりには、 
「当舗は天保二年、初代長兵衛が“新屋長兵衛”なる屋号をもって創業し、名菓“きぬた”は、嘉永六年初代長兵衛が郷里の丹波路にて、秋夜の擣衣(とうい)の音を聞き、その幽玄なる風趣に感を深め、考案創作したものであります。」 
と記されています。「擣衣(とうい)」というのは衣を擣(う)つことで、砧と同じ意味です。 
嘉永六年はペリー来航の年で1853年です。京都で菓子業を営んだ長兵衛はそれまで砧の音を聞くことがなかったのですが、郷里に帰ったときに砧の音を聞いて感動したということです。つまり砧はこの時期には都会で打つことがなくなり、田舎で打つ風習が残っていたと推測することができます。 
砧は明治時代に廃れるのですが、その直前の幕末はこういう状況であったと思われます。 
砧巻 
何かを丸く巻いて作った食べ物を「砧巻」を称することがあります。例えば、古くからあったお菓子に「砧巻」というのがあります。これは小麦粉に砂糖を入れて水で捏ね、薄く焼いて巻いたものです。 
また今の料理では、海苔を巻けば「海苔巻」ですが、海苔でないものを巻いて作ったものを「砧巻」と言うそうです。あるいは「砧大根」といって、大根をかつらむきにして生姜などに巻いたものがあります。 
このように巻いて作る食べ物に「砧」という言葉を付けるのは、綾巻に布を巻くところからできた言葉です。T型の砧を知らなければ、なぜ「砧」なのだろうと不思議に思うでしょうが、知っていれば綾巻のことだと分かります。
朝鮮の砧 
日本では砧が明治時代になって廃れたとお話しましたが、お隣の韓国・朝鮮では古来砧打ちが盛んで、近年までその風習が残っていました。韓国では1970年代初め、在日朝鮮人の社会では1960年代まで砧が打たれていました。その後に廃れてゴミとして捨てられていくのですが、砧の実物自体は博物館などに残っておりますし、写真資料も多くあります。私自身も在日韓国人のおばあさんから長年使い続けてきた砧――砧は朝鮮語で「다듬이(タドゥミ)」といいますので、タドゥミの道具一式を頂きました。 
それでは朝鮮ではどのような砧なのかということになりますが、日本と同じく綾巻を使うT型と使わないU型の二種類のタイプがあります。 
T型の砧 
T型は綾巻に布を巻いて打つ砧です。綾巻を朝鮮語で「홍두깨(ホンドゥケ)」といい、この型の砧のことを「홍두깨다듬이(ホンドゥケタドゥミ)」といい、また横槌は「다듬이방망이(タドゥミパンマンイ)」といいます。 
T型の最古の資料(15)で、イギリス人女性旅行家イサベラ・バードの「朝鮮とその近隣諸国」という旅行記にある挿図です。これは彼女が1895年の日清戦争前後の時に旅行して、3年ほど経った1898年に出された本です。その旅行時に彼女自身が撮影した写真をトレースして本の挿図にしたものです。ここで描かれているのは、綾巻に布を巻いて二人の女性が相対して2本の横槌を両手にそれぞれ持って打つ姿です。本文には 
「(洗濯して)乾かされた後、衣類は円筒形の台の上で、木の棒きれで冴えない襦子(しゅす)に似た色艶になるまで叩かれる。」 
と説明されており、この「円筒形の台」というのは綾巻の意味であるのが明らかです。しかしこの図には大きな疑問があります。綾巻に布がきちんと巻かれておらず乱れていること、台がなく綾巻が女性の座る敷物の上に直接置かれていることです。これでは打っても皺が残るし、台がないので綾巻を回転させにくいし、せっかくの布が汚れてしまうでしょう。また綾巻の太さが横槌と変わらないぐらい細いことも疑問です。 
(16)は植民地時代の写真資料です。上部が凹む台の上に布を巻いた綾巻を置いて、母娘と思われる女性二人が相対して座って打っているところです。綾巻に布が巻かれている様子がよく分かります。綾巻の太さはこぶし大ほど、長さは両手をやや大きく広げたほどで、台よりかなりはみ出すものです。日本の(2)の砧に非常によく似ており、T-a型です。両手に持っている横槌は野球のバット状のものですが、これで砧を打つわけです。 
(17)は千里万博公園の国立民族学博物館の韓国コーナーに展示されていた実物です。韓国の慶尚北道で収集されたとあります。この博物館は展示物に直接触れますので、実測することができました。綾巻は長さ95.5cm、太さは中央で径7.7cm、端に行くほど細くなって径5.5cmとなり、台に置くと大きくはみ出します。表面はつるつるしており、長年使われてきたようです。非常に硬そうな木で、叩けばいい音が出るだろうと思います。直方体の台は長さ60cm、幅20cmほど、高さ14cm程度の大きさで、断面が台形を呈しています。長軸方向に1.5cmほど凹んでおり、ここに綾巻を置いて転がらないようにしています。綾巻に比べると柔らかそうな材質の木でした。台は74cm×24cmほどの四角い枠にのなかに入れて、台と枠の間には隙間が出てきますが、ここには板を詰めて固定するようになっています。この砧は先程のものと同じタイプで、日本のT-a型と同じです。また横槌は先程と同じような野球のバット状のものが二本あります。 
(18)の写真は職人さんが砧道具を製作している様子です。時期は李朝末期か植民地時代でしょう。「砧は女の日常必需品棒つくりの姿はあちこちに見られた」というキャプションが付されていました。職人さんの手前には綾巻か槌を作るための材料となる棒がまとまって置かれ、向こう側には製作する際に出てくる削りカスが山のようになっています。看板の壁には綾巻が数本立てかけており、そのすぐ横の壁際には横槌が十数本束ねられていますが、これは完成品でしょう。 
朝鮮のT型の砧は資料が少ないのですが、日本のT-a型に相当する段階のものと考えられるわけです。そこから考えられることは、日本も朝鮮も元々はT-a型で共通したタイプであったものが、日本では近世に発達して形を大きく変え、朝鮮ではそのままの形が残ったということです。そうしますと、綾巻は台よりはみ出すくらい長いものが原形だと考えられるわけです。 
最初の日本の砧の説明のところで、日本の(1)の「伊勢新名所歌合絵巻」の絵において綾巻が台からはみ出しておらず台の範囲内に描かれているところが疑問だと申しました。それは綾巻が台からはみ出すT-a型の砧が日本と朝鮮に共通する原形であったはずだという推測から言えることなのです。 
U型の砧 
U型は綾巻を使わず、台の上に畳んだ布を置いて打つ砧です。このタイプの砧を朝鮮語で「넓다듬이(ノッタドゥミ)」といい、台のことを「다듬이돌(タドゥミトル)」といいます。台の「タドゥミトル」は直訳すると「砧石」という意味です。日本に昔から住んでおられる在日一世のおばあさんでは「叩き石」という場合があります。また横槌はT型もU型も変わらない形で、同じように「다듬이방망이(タドゥミパンマンイ)」といいます。 
U型の砧の資料は多くあります。植民地時代における砧打ちの写真の多くはこのタイプです。また現代の韓国紹介本で掲載される砧の写真もほとんどがこのタイプです。この現物は在日朝鮮人家庭に今なお少なからず残っており、私も一組入手しております。また大阪人権博物館(リバティおおさか)にも、かつて展示されていたことがあります。ここでは植民地時代の写真と私の入手した実物を紹介します。 
(19)は縁側で台の上に折り畳んだ布を置いて、女の子二人が砧を打っている写真です。二人は相対して座り、両手に二本の槌をそれぞれの手に持って打っています。台は石製で、その上面は蒲鉾状にふくらみ、下面は座りをよくするために凹んでいます。台には座布団が敷かれていますので、砧打ちをしても動くことはないと思われます。 
(20)も縁側での砧打ちの写真です。台は石製ですが、脚を有し、側面には格狭間模様が彫刻されており、先程のシンプルな(19)よりも高級品のようです。ただしこの写真には疑問がありまして、台に座布団がなくて縁側の板に直接置いているので台が動きやすいし、打つ女性が槌を軽く持っております。こういった点で、本当に砧を打っているのか疑問です。ですから実際の砧打ち作業を写したのではなく、撮影のために砧道具を用意して演技したものと思われます。 
(21)は韓国人のおばあさんが日本の神戸に嫁に来て以来、何十年も使い続けた砧道具で、私がお願いして頂いた実物です。台は型枠にコンクリートを流し込んで製作されたものです。日本に来てから義父に作ってもらったということでした。長さ47.3cm、幅20.8cm、高さ13.0cmの大きさです。上面は蒲鉾状にふくらみ、長年使われてきたとあって磨耗し、つるつるした面となっています。両側面には持ち運びしやすいように四角い引手の凹みがあります。横槌は長さ42cmほどのもので、長年打ってきただけあって、いかにも使い古したという感じです。 
(22)は「韓国伝統文化事典」という最近出された本に紹介されている砧です。白黒ではちょっと分かり難いですが、台がこれまでと違って木製です。砧の台は朝鮮語で「다듬이돌(タドゥミトル)」、直訳しますと「砧石」なのですが、このように木でできたものもあります。なおこの写真のキャプションは「砧と綾巻」となっていますが、これは間違いです。この砧は綾巻のないU型です。この「事典」は韓国の権威ある機関が出したものですが、砧に関しては誤りの記述が目立ちます。 
(23)は韓国のソウルにある中央博物館にある砧です。 
石製の台の側面には脚部にまで彫刻を施し、さらに色までつけています。非常に豪華なもので、庶民一般が使うものではないでしょう。おそらく宮中か政府高官の家などで使われたものではないかと思います。なお台の上面が平坦で蒲鉾状に膨らんでいないので、まるでまな板のような印象を持ちます。また横槌は一般的に使われるものと同じですので、豪華な装飾のある台と一緒にあると少々アンバランスな感じを受けます。 
李恢成「砧をうつ女」 
1971年下半期の芥川賞受賞作品に、李恢成さんの「砧をうつ女」があります。在日朝鮮人では初めての芥川賞受賞ですので、有名な小説です。この作品では、砧は次のように描写されています。 
「母は乾いた着物を重ねてトントンと砧でたたいたものである。」 
「重ねた衣服類に布地をかぶせて、砧で気長にうつのである。毎日のように見る光景であった。見飽きているはずなのに母がトントン、トントンとやっているのを眺めるのはたのしみであった。」 
ここでは「乾いた着物を重ねて」「重ねた衣服」とありますから、U型の砧です。T型なら「巻く」となるはずですが、「重ねて」という表現になっているところからU型と判明します。 
二種類の砧の使い分け 
以上のように砧にはT型・U型の二種類があるわけですが、これをどのように使い分けていたのでしょうか。私が在日朝鮮人のおばあさん―砧道具を貰った方とは別の方です―この方から聞き取り調査をさせてもらったところ、次のようなお話をいただきました。 
「絹でできたチョゴリなどの上等のものは糸をほどいて洗って糊付けした後、生乾きのうちに二人で引っ張って、反物にして、リボンなどを中に入れて、棒に巻いて打つ。 
木綿の敷布なんかも糊付けした後、二人で引っ張って、石の大きさに合わせて折りたたんで、足で踏みつけて、石の台の上でたたく。 
巻いて打つのは折り目がつかず、石の上でたたくのは折り目がつく。二つは生地によって使い分ける。」 
こういうお話でしたが、もうお分かりのように棒で巻くのはT型、石の上でたたくのはU型です。二種類の砧は折り目がつく・つかないという仕上がりの違いがあり、絹はT型、木綿はU型と生地で使い分けるということでした。 
この話が本当かどうか検証してみますと、文化人類学の伊藤亜人さんの「もっと知りたい韓国」という本のなかに、 
「縫い目を合わせて皺を伸ばして畳む。‥‥これを風呂敷に包んで砧石の上に載せて砧で打つ。‥‥砧を打つと皺が伸び艶も出る。明紬(めいちゅう−絹織物)の場合には砧石の上で少し叩いてから、滑らかな檀(まゆみ)の棒に布を巻きつけて横たえ砧で叩くと艶がさらに出る。」 
と書かれてありました。ここでは絹織物はT型、それ以外はU型と使い分けるとしており、先ほどのおばあさんの話を裏付けるものです。 
なお朝鮮語で砧は「タドゥミ」ですが、T型を「홍두깨다듬이(ホンドゥケタドゥミ)」、U型を「넓다듬이(ノプタドゥミ)」といいます。二種類の砧は呼び方にも違いがあります。 
砧の槌 
朝鮮の砧は、T・U型ともに打つ横槌の形状は先ほどの(14)図でGタイプと呼ばれるもので、野球のバットあるいはすりこぎ状を呈しています。朝鮮語では「다듬이방망이(タドゥミパンマンイ)」といいます。直訳すると「砧槌」となります。日本の場合は段差があるのですが、朝鮮では段差がありません。長さは大体41cmぐらい、径は敲打部で3.5cm前後、柄部で1.8cm前後です。 
この横槌には敲打部と柄部との境目に小溝を彫るものとそれ無いものとがあります。また柄部端に紐で引っ掛けるための突起があるものと無いものとがあります。そういった違いがありますが、実際の使用にはその違いを意識せず、私が貰ったもののように両方を混ぜて同時に使うこともあります。 
朝鮮ではこの横槌2本を両手にそれぞれ持って交互に打ちます。日本のように片手で打ちません。 
このGタイプの横槌は、朝鮮では7世紀の新羅時代の雁鴨池(アムノッチ)遺跡から出土し、日本でも古墳時代後期から平安時代にかけての遺跡からの出土例にありますが、これが砧という布を打つことに使われたかどうかは不明です。 
洗濯と砧 
朝鮮では洗濯を「빨래(パルレ)」といいます。(24)は植民地時代の写真で、女性が川辺で平らな石の上に汚れ物を置いて、横槌で叩いて洗濯する光景です。(25)はキム・ゴンボンの「遊撃根拠地の小川で」と題する北朝鮮の絵画です。パルチザンの女性が川辺で洗濯する様子を描いています。 
ここで注目してほしいのは、女性が持つ横槌の形状です。槌は平べったい箆状の形をしており、丸い棒の形である砧の槌とは違います。この横槌を朝鮮語で「빨배방망이(パルレパンマンイ)」、直訳すると「洗濯槌」といいます。そしてこの洗濯槌を片手で持って洗濯物を叩いています。朝鮮の洗濯方法は古くからこのような叩き洗いでした。これは韓国では洗濯機が普及して無くなりましたが、北朝鮮では今でもやっているようです。 
洗濯と砧は違うものです。朝鮮語で洗濯は「빨래(パルレ)」、砧は「다듬이(タドゥミ)」です。着物を洗って汚れを落とすのが洗濯(パルレ)であり、砧(タドゥミ)は洗った着物の皺を伸ばし艶を出すという洗濯後の仕上げです。今で言えばアイロンかけに相当するものです。そして洗濯は昼間に川辺で行ない、砧はそれを家に持ち帰って夕方になってから打つものです。洗濯で打つ横槌は先ほど言いましたように長い箆状で、これを片手で持って打ちますが、砧はすりこぎ状の横槌で、これを二本両手にそれぞれ持って交互に打ちます。 
つまり洗濯と砧は、用語も目的も工程も道具も叩き方も、そして作業する場所や時間も違うものなのです。 
ところが朝鮮関係の文献では、洗濯と砧を混同することが少なくありません。例えば、先ほどの李恢成さんの「砧をうつ女」には、次のような母と自分の思い出があります。 
「日差しを溶かしている川はぴちぴちと躍って流れていて、どこからか砧をうつ音が聞えてくる日のことだ。」 
「川はゆっくり流れていたが、たえず光の粒を湧きかえらせていた。砧をうつ女達の白い着物を見たように思う。」 
川で打つ音あるいは打つ姿を見聞きしたというのですから、これは砧打ちではなく叩き洗いの洗濯です。作者は叩き洗いの洗濯も「砧」だと勘違いしています。 
また最近では鄭大均さんの自叙伝風の「在日の耐えられない軽さ」という中公新書が刊行されていますが、そのなかで次のような記述があります。 
「わが家のがらくたの山を探っていたら、白と青のチマ・チョゴリを着た女性が、川辺で砧を打つ姿が描かれた板切れを見つけたことがある。」 
ここでも川辺での叩き洗いを「砧を打つ」と表現されています。洗濯と砧が混同されているのです。 
あるいは金両基(キム・ヤンギ)さんの「読んで旅する世界の歴史と文化韓国」という韓国紹介本では、次のような記述があります。 
「韓国の民族衣装を語るとき、必ず砧打ちが登場する。‥‥洗濯のつど、糸をほどいて洗濯し、砧で打ち、汚れを落とすと同時に繊維を柔らかくする。そして糊付けをして、さらに砧で打ち、火熨斗をかけて布地を美しくのばす。」 
砧打ちを2回もするように書かれていますが、最初の方は叩き洗いの洗濯であって砧ではありません。ここでも洗濯と砧が混同されています。 
繰り返しますが、叩き洗いの洗濯と砧打ちとは混同されやすいですが、違うものです。先程言いましたように、砧はアイロンかけに相当します。「アイロンで洗濯する」と言わないのと同じように「砧で洗濯する」と言いません。砧と洗濯は違うものです。従って叩き洗いの洗濯を「砧」と呼ぶことは間違いなのです。 
在日一世の「砧」「洗濯」の呼び方 
在日一世のおばあさんから砧や洗濯について話を聞かせてもらったことがあります。彼女らは、砧が朝鮮語で「다듬이(タドゥミ)」、洗濯は「빨래(パルレ)」と言葉が違うことも、そして内容も違うことも当然知っておられました。このような実際の体験者である一世のお年寄りから話を聞いていたら、先ほどのような洗濯と砧の混同・間違いは避けられたのではないか、と思います。 
また綾巻を「홍두깨(ホンドゥケ)」、砧槌を「다듬이방망이(タドゥミパンマンイ)」、洗濯槌を「빨래방망이(パルレパンマンイ)」といいますが、一世らはこれらでも区別があることを知っておられました。しかし日本語では区別せずにすべて「棒」と言っておられました。 
日本ではすでに砧打ちが廃れたために、日本人の多くが砧の正確な知識を忘れて、「砧」という言葉を間違って使うなど混乱していました。周囲がこういう状況でしたので、彼女らは対応する日本語が分からず、叩き洗いで洗濯する姿を日本語で「砧」と呼ばれても間違いとは思わなかったでしょうし、綾巻も砧・洗濯の横槌も日本語で「棒」という単語でしか表現できなかったものと思われます。 
在日一世の女性は砧打ちの実際を知っているので意識つまり朝鮮語では区別していたのですが、日本社会では「砧」という言葉の使い方に混乱があったので、日本語では区別することがなかった、ということになります。 
北朝鮮の砧 
先ほど言いましたように韓国では砧は1970年代まで残っていましたが、その後に廃れました。そうすると今なお電化生活から程遠い北朝鮮では、おそらく砧は残っているだろうと予想されます。なかなか資料が見つからないのですが、最近の「現代コリア」という雑誌に五味洋治という方が「中朝国境で見た北朝鮮の現実」という報告をされているなかに、次のような記述がありました。 
「2005年の秋。‥‥長白県の夜、電気がなく真っ暗になった川縁からは「コーン、コーン」という乾いた音が響いていた。北朝鮮の女性が洗濯物を棒で叩く音だった。もの悲しいその音は、夜遅くまで絶えなかった。」 
これはどういうものかを検討しますと、夜に打ちさらに乾いた音がしていますので、洗濯ではなく砧です。洗濯は昼間にするもので、夜になってある程度乾いた段階で打つのが砧だからです。従って彼が中朝の国境で聞いたのは、北朝鮮の女性が打つ砧の音です。 
乾いた音が「コーン、コーン」と響いたとありますので、これは綾巻を使うT型の砧と思われます。U型の砧では、トントンという音で、なかなか響き渡るものではありません。 
ちなみに叩き洗いの洗濯では、水漬けした衣類ですので、べチャあるいはバシャという音になります。 
川縁から聞えてくるとありますが、これはちょっと疑問です。洗濯は川で叩き洗いしますが、砧はこれを持ち帰って家の中で打つものです。川縁に建つ家であれば間違いはないのですが。 
北朝鮮に砧が残っていることは確実なようです。しかも日本はもちろん韓国でも廃れてしまって見ることが困難なT型の砧ですので、非常に興味深いものです。 
なおこの雑誌の編集後記には「それにしても暗闇の北朝鮮から女性たちの砧を打つ音が聞えてくる描写には胸がつまった。」とあります。もし北朝鮮が崩壊することがあれば、砧の実物を見に行きたいとものと思っております。 
宮城道雄の「唐砧」 
邦楽の宮城道雄は「春の海」や「水の変態」などの作曲で有名なお琴の筝曲家です。彼は神戸で生まれたのですが、大正時代に朝鮮で暮らし、朝鮮一の大検校となります。この時に作曲したのが筝と三味線による四重奏曲「唐砧(からきぬた)」で、洋楽家から好評を得ました。この曲には砧打ちの音が表現されています。 
それ以前の江戸時代には「四段砧」「五段砧」といった筝曲が作曲され、弾かれました。「砧物」といわれる曲です。江戸時代は砧がよく打たれていたのでしょう。けれども先ほど言いましたように明治になると砧打ちの風習は廃れ、打つことがなくなっていたのですが、筝曲として演奏されていました。宮城もこの「砧物」で練習したはずです。 
ところが当時の朝鮮では砧打ちは盛んでした。ということは、目の見えない宮城は朝鮮で生活するなかで、朝鮮の女性が打つ砧の音を聞いてこの「唐砧」を作曲したことは容易に推測できます。つまり彼は、もはや日本では聞くことがなかった砧の音を朝鮮で聞いて作曲したのです。 
宮城道雄の曲は余りにも日本的過ぎて、そこに朝鮮風のものは全く無いように感じられますが、この「唐砧」は朝鮮女性の打つ砧の音色であることを知ると、曲を聴くときの感じ方が違ってきて、さらに興味深いものです。 
砧にまつわる諺 
朝鮮では「砧」にまつわる諺が少なくありません。それをいくつか紹介したいと思います。 
「暗闇に綾巻」 
「藪から棒」と同じ意味です。綾巻は長さ1m、径8cmほどの棒ですから、これを真夜中の暗闇で突きつけられたら、まさに「藪から棒」でしょう。長さ40cmほどの槌を突きつけられても、迫力がありません。 
「砧の槌を食らって綾巻で返す」 
綾巻は槌より、長さも太さも倍以上あります。仕返しをするときは倍にして返すという意味です。 
「綾巻に花が咲く」 
綾巻は丸太の棒ですから、これに花が咲くわけがありません。つまりいくら願っても実現しないという意味になります。 
「綾巻で牛を追う」 
綾巻は太くて重いですから、あまり振り回すことはできません。これで牛を追うのは難しいものです。無理を強いることの意味です。 
「砧の台を枕にして寝ると口が曲がる」 
これまではT型でしたが、これはU型の砧です。台を枕にするのは非常に行儀の悪いことです。品のないことをするな、という意味になります。「口が曲がる」というところは「夫に嫌われて実家に帰される」という場合もあるようです。
日本と朝鮮の砧の比較 
日本と朝鮮の砧について詳しく話してきましたが、両国の砧を比較して共通点と相違点を指摘して、私の話をまとめたいと思います。 
共通点 
共通点としましては、砧打ちは洗濯後の仕上げ工程の一つとして、布の皺を伸ばして艶を出すこと目的にするもので、家庭における女性の仕事とされました。 
着物、朝鮮ではチマチョゴリといいますが、糸をほどいて反物のようにしてから洗濯し、砧を打ちます。 
打つときは座って打ち、立って打つことはありません。また一人だけでなく二人が相対して打つことも多いです。 
砧にはT型とU型の二種類があります。T型は綾巻に洗濯した布を巻いて打つので折り目がつきませんが、U型は布を折り畳んで打ちますので折り目がつきます。 
相違点 
違いとしましては、日本では12世紀からの絵画資料が豊富ですが、朝鮮では19世紀末より以前の資料が見つかっていません。砧の歴史は日本では追えるのですが、朝鮮ではちょっと分かり難いものです。 
T型については、日本の江戸時代初めまでのものと朝鮮のものが同じT-a型です。日本ではそれ以降にT-g型まで八つの段階に変化したのですが、朝鮮ではT-a型の形が変化せずにそのまま残ったのではないかと考えられます。 
日本では砧に使う横槌はAあるいはBタイプで、一本を片手に持って打つ資料が多いのですが、朝鮮ではGタイプで、二本を両手にそれぞれ持って交互に打ちます。 
日本では明治以降に砧の風習は廃れて、今やその道具を見つけることは困難になっていますが、朝鮮では1970年代まで砧打ちの習慣が残り、道具の遺存例も多いです。 
(補遺)砧の実物展示 
日本の砧はこれまで何回も申しましたように実物はほとんど残っていません。西宮の資料館に収蔵されていますが、展示されていません。従って絵画資料から推測するしかありません。 
一方、朝鮮の砧は在日朝鮮人社会でも1960年代まで使われていましたが、こういう道具は注目されることがほとんどなく、多くがゴミとして捨てられてきました。今はかなり少なくなってきたようです。私が10年ほど前に一組入手しておりますが、在日家庭を探せばまだ見つけることができると思います。 
博物館では、近在では先ほど申しましたように千里の民族学博物館に韓国で使われていたT型の砧が収蔵され、韓国コーナーに展示されていました。 
しかし今は展示替えの際に外されてしまい、見られなくなりました。 
大阪人権博物館(リバティおおさか)では、在日朝鮮人家庭で使われていたU型の砧が展示されていました。「洗濯の道具」という説明でしたが、これは間違いで砧です。しかしこれも最近の展示替えで外されており、見ることができなくなりました。 
ちゃんと調べたわけではありませんが、他の博物館・資料館で収蔵・展示されている例はないようです。 
残念なことに、日本では砧の実物を見ることが非常に難しい状況となっております。私の入手したこの砧が、実物を見て触ることのできる滅多にないチャンスだということです。 
なお私自身はまだ見ていないのですが、韓国の中央博物館や地方の博物館にはU型の砧が展示されています。ただしT型の砧の方はないとのことです。 
砧について長々とお話させていただきました。これは民具学あるいは民俗学の話で、歴史学・考古学とは直接関係のないことですので、果たして皆様のご興味を頂けたか分かりません。つたない話を長時間お聞きくださったことに感謝して、私の話を終わります。
2 砧 (きぬた)

 

イデオロギーの歴史への疑問 
「いま日本では朝鮮問題に関心を寄せる人が多いが、それは民族受難とそれに対する闘いの歴史というイデオロギーに重点があるようで、普段の日常生活に目を向ける人は少ないという印象を持つ。砧はかつての在日朝鮮人の生活ではごく普通に見られた光景であった。今それが捨て去られ、記憶からも消えつつある。イデオロギー的な観点からすれば、砧なんて些末で枝葉末節、何と下らなく、つまらないことを研究するのかとお叱りの声が聞こえそうである。しかし生活という具体性からかけ離れた在日朝鮮人像を描くイデオロギーには、私は大きな違和感を抱く。」 
これは拙稿「砧(きぬた)―在日韓国人女性の民俗資料の紹介と日韓の比較―」(「歴史と神戸」199、200、203号)の最後の一節です。 
この論文は、在日朝鮮人のおばあさんが嫁に来て以来ずっと使い続けた「砧」の道具をご本人から頂いたのを契機に、調査研究を重ねて書いたものです。その際にこのような苦言をあえて呈しました。学術論文には相応しくないのは当然ですが、論考自体がそう堅苦しいものではなくエッセー風でしたので認められたようです。 
砧とは? 
砧は汚れを落とす洗濯の後の仕上げ工程で、皺を伸ばして艶を出すために布を打つ道具、もしくはその行為のことです。現代風に言えば、アイロンかけに相当します。砧は洗濯に続く一連のものですが、工程も目的も道具も用語も違うものです。この違いは日本も朝鮮も同じです。 
考古学では藁打ちで使うような形態の木槌を「砧」と呼ぶことがありました。しかし渡辺誠の「ヨコヅチの考古・民具学的研究」によってその誤りが指摘され、以降「横槌」とされています。ただしこのような誤解はここだけでなく一般的に広くあるようです。 
朝鮮の洗濯と砧 
戦前の朝鮮総督府の文献に次のような解説がありました。 
「朝鮮の天地に響く砧の音は春夏秋冬絶間なく何処からともなく聞える。昼の間洗濯に身を委ねた婦人は日が暮れると其の布帛を木や石の台に載せて夜の更けるまで打ち続けている。秋、夜更けて遠く近く打ちしきる砧の音は何となく旅人に物哀れさを感ぜしめる。」 
朝鮮の洗濯は、棒(木槌)による叩き洗いが一般的でした。女性たちは川辺に行ってこの方法で汚れを落とした後に、家に持ち帰り砧で打って仕上げたものです。洗濯は屋外、砧は屋内作業です。また洗濯と砧は同じく布を打つのですが、洗濯の叩き棒(槌)は羽子板状で、もう一方の砧打ちの棒(槌)は野球のバット状です。そして洗濯の棒(槌)は片手で持って打ちますが、砧の棒(槌)は二本を両手にそれぞれ持って交互に打ちます。また朝鮮語で洗濯は「パルレ」、砧は「タドゥミ」です。 
叩き洗いを「砧」とする誤解 
朝鮮の叩き洗いを「砧」とする間違いを見かけます。例えば50年以上前のオールロマンス闘争の契機となった小説「特殊部落」(1951)は在日朝鮮人をテーマにしたものですが、そのなかに「砧打つ洗濯女」という表現が出てきます。砧は日本社会では明治時代頃に廃れて見ることがなくなりました。作者は日本人なので、砧がどういうものかを正確に知らなかったために生じた間違いと思われます。 
しかし在日朝鮮人社会では1960年代まで砧が使われていました。1971年の芥川賞受賞作品に李恢成の「砧をうつ女」がありますが、そのなかで次のような砧打ちの描写があります。 
「家で洗濯すると、母は乾いた着物を重ねてトントンと砧でたたいたものである。‥‥重ねた衣服類に布地をかぶせて、砧で気長にうつのである。毎日のように見る光景であった。」 
これは砧を正確にとらえています。在日朝鮮人である作者が生活のなかで実際に見てきたからだと思われます。 
ところがそれから20年ほど経つと、次のような記述が出現します。 
「韓国の民族衣装を語るとき、必ず砧打ちが登場する。‥‥洗濯のつど、糸をほどいて洗濯し、砧で打ち、汚れを落とすと同時に繊維を柔らかくする。そして糊付けをして、さらに砧で打ち、火熨斗をかけて布地を美しくのばす。」 
ここでは砧打ちを2回もするように書かれていますが、最初のものは洗濯(パルレ)の叩き洗いであって、砧(タドゥミ)ではありません。砧は在日朝鮮人社会では前述のように1960年代まで、韓国では1970年代までは見られたものですが、それ以降は見ることがなくなりました。従って著者はおそらく砧を実際に見たことがないので、このような間違いが生じたのではないか、と推測します。 
最近の例では、大阪人権博物館(リバティおおさか)で在日朝鮮人が使用した砧の台の実物が展示されています。しかしキャプションは「洗濯の道具」となっています。しかも打つ棒(槌)は一本しかありません(「しおり」の写真)。ここは「砧の道具」として、棒を二本添えねばならないところです。 
洗濯と砧を混同する誤解はかなり多いものです。それは実際を体験・見聞した人がいなくなるとともに、誤りが生じてくるということです。これはよくありがちな一般的現象と言えますが、早いうちに正しておかねばならないことでしょう。 
宮城道雄の唐砧 
宮城道雄は明治40年から大正6年まで朝鮮で過ごし、邦楽で名声を博していました。「唐砧(からきぬた)」はその時に作曲されたものです。これは筝と三味線による四重奏曲で、洋楽家から好評と共感を得ました。盲目の彼は朝鮮一の大検校の地位にまで上ります。 
ところで砧は上述のようにこの時期の日本では廃れていましたが、朝鮮では盛んでした。彼はその滞在中に朝鮮女性が打つ砧の音を聞いたはずでしょうから、日本では聞かれなくなった砧の音色を思いつつ名曲「唐砧」を製作したのではないか、と想像しています。ただしその伝記では、そういったことは書かれていませんので、私の勝手な想像です。 
宮城が朝鮮で活躍したというのは意外と知られていないようです。 
(追記) 
この「唐砧」について、宮城の曲を演奏する会では 
「大正2年、宮城道雄が朝鮮に居住していたころ作曲したものです。曲の始めは秋の静かな夜にゆるやかに流れる漢江を表現し、次いで打つ手が非常に早い韓国の砧を、当地の女性が打つ様を巧みに描いています。」 
と解説しています。  
3 朝鮮の砧

 

はじめに 
日本では明治時代に砧を打つ風習が廃れ、それからもう100年ほどになる。しかし朝鮮においては近年まで砧打ちの風習が盛んであった。韓国では1970年代まで見られたものという(註1)。また在日朝鮮人社会でも1960年代までは女性が砧を打つ姿が見られた(註2)。 
筆者は神戸に住む在日韓国人のおばあさんから、日本に嫁にきて以来使ってこられた砧を一式頂いた。これをきっかけに砧に関する資料を集めて研究を重ねた。第66題砧(きぬた)は、その成果の一部である。引き続いての本稿は朝鮮の砧にテーマを絞り、写真資料等を付して論じるものである。 
(註) 
1)伊藤亜人編「もっと知りたい韓国1」(弘文堂1997年12月)50頁に、「七〇年代まではソウルのような大都会でもお婆さんが砧を打つ光景を稀に見かけることがあった」とある。 
2)李恢成「砧をうつ女」は1971年の芥川賞受賞作品である。この時の在日朝鮮人社会では、砧打ちの光景はもはや記憶の中にしかなかった。砧は1960年代までのことである。 
二種類の砧 
朝鮮の砧は近年まで使われていたので遺存例が多く、また植民地時代およびそれ以降の写真資料も多い。これらの資料から朝鮮の砧はどのようなものであったかというと、布を巻き付けた綾巻(註3)を台の上に置いて横槌(註4)で打つT型と、台の上に折りたたんだ布を置いて横槌で打つU型の二種類のタイプが確認できる。 
朝鮮語では砧を「タドゥミ」というが、各タイプについてはT型を「ホンドゥケタドゥミ」、U型を「ノッタドゥミ」と呼び分けている。なおT・U型という名称は筆者が名付けたものである。 
(註) 
3)「綾巻」は聞き慣れない名前であるが、「広辞苑」で「砧で布を打つ時、その布を巻きつける棒」と説明されている。 
4)考古学や民具学では、砧や藁打ちで使うような槌についてはハンマー形の木槌と区別して「横槌」と称される。 
T型の砧(ホンドゥケタドゥミ) 
T型の砧の資料例は、日本の博物館に所蔵されるものと植民地時代の写真資料がある。 
図1は国立民族学博物館所蔵のT型の実物写真である(註5)。直方体の台(タドゥミトル)の上に綾巻(ホンドゥケ)が載り、脇に横槌(タドゥミパンマンイ)が置かれている。綾巻は長さ95.5cm、中央の径が7.7cm、端に行くほど細くなって径5.5cmとなる。直方体の台は断面がやや台形で、大きさは長さ60cm、幅20cm、高さ13cm。台の上面は綾巻が転がらないように長軸方向に凹む。そしてこの台を固定するために、4本の四角い棒で組み合わされた木枠が付属される。この枠の大きさは縦横78×27cmで、このなかに台をはめ込んで固定するのである。また二本の横槌はどちらも野球バットに似た形状で、Gタイプといわれるものである(後述)。長さ40.0cm、敲打部の径3.6cm、柄部の径2.4cmを測る。 
図2は植民地時代の写真(註6)。上部が凹む台の上に布を巻いた綾巻を置いて、母娘と思われる女性二人が相対して打っている状況である。綾巻はこぶし大ほどの直径で、長さは両手をやや大きく広げたほどで、台よりかなりはみ出すものである。綾巻を打つ横槌はすりこぎ状の木製品で、これを両手にそれぞれ持って打つ。 
図3は、英国人女性旅行家イサベラ・バードの「朝鮮とその近隣諸国」(1898)という旅行記にある挿図で、本文中に「木製ローラー」「木の棒に巻いて」とあるからT型であることが明白である(註7)。時期は日清戦争前後。綾巻に布を巻いて置き、二人の女性が相対して二本の横槌を両手にそれぞれ持って打つ姿が描かれている。ただしこの図は、綾巻が台を伴わずに女性の座る同じ敷物の上に直接置かれていることや、綾巻の太さが横槌ほどしかないこと、綾巻に巻かれる布が乱れていることなどの点で非常に不自然である。おそらく実際の砧打ちを観察して描いた図ではないだろうと思われる。朝鮮の砧資料では最古のものであるが、このように難点がある。 
図4は植民地時代の写真で、職人が砧道具を製作している様子である(註8)。「砧(洗濯棒)は女の日常必需品棒つくりの姿はあちこちに見られた」というキャプションが付されている。左向こうの看板の壁に綾巻が数本立てかけており、そのすぐ横の壁際には横槌が十数本束ねられている。どちらも製作の終わった完成品であろう。 
他にT型の資料としては、渡辺学・梅田正「写真集望郷朝鮮」(国書刊行会昭和55年9月)87頁にこのタイプの砧が掲載されている。 
韓国で1970年代に民俗調査を実施して発刊された資料集(註9)ではこのT型に触れないで、後述のU型のみを報告している。その理由は不明だが、T型は近年では注目されてこなかったタイプと言えるだろう。 
(註) 
5)写真は筆者。なお当該資料は公式ガイドブック「国立民族学博物館展示案内」(1986年7月)の141頁にも掲載されている。キャプションは「Bきぬた用具(慶尚北道・韓国)」とある。 
6)「目で見る李朝時代」。 
7)この著作は翻訳されていて容易に入手できる。挿図は平凡社東洋文庫「朝鮮奥地紀行2」、講談社学術文庫「朝鮮紀行」。 
8)毎日新聞社「別冊1億人の昭和史日本植民地史@朝鮮」(1978年7月)107頁。 
9)韓国文化広報部文化財管理局「韓国の民俗大系C慶尚北道」(国書刊行会竹田旦・任東権訳1990)501〜502頁。当シリーズでは、砧についてはこの本が詳しく報告している。 
U型の砧(ノッタドゥミ) 
U型の砧の資料例は多い。植民地時代における砧打ちの写真や現代の韓国紹介本で掲載される砧の写真もこの型である(註10)。これの実物は、韓国でも在日朝鮮人家庭でも今なお少なからず遺存している。ここでは筆者が入手したものと植民地時代の写真資料を呈示する。 
図5は、前述したように神戸に50年以上も住んでこられた在日朝鮮人のおばあさんから筆者が頂いた砧である。台は型枠にコンクリートを流し込んで製作されたもので、断面逆台形を呈し、大きさは長さ47cm、幅21cm、高さ13cmである。上面はかまぼこ状に膨らむが、長年使われてきたとあって磨耗し滑らかな面となっている。両側面には持ち運びしやすいように、四角い引手の凹みを有する。二本の横槌はGタイプで、一本は敲打部と柄部の境目に二条の小溝を刻みまわし、柄部端に突起を有する。もう一本は小溝や突起を有さないシンプルな形態である。大きさは前者が長さ41.0cm、敲打部径4.2cm、柄部径2.6cm、重さ375g、後者が長さ42.0cm、敲打部径3.7cm、柄部径2.4cm、重さ220gを測る。重さの違いが目立つが、利き手と関係するのであろうか。 
図6の写真(註11)は、女の子二人が縁側で砧を打つ光景を写したものである。二人は相対して座り、両手に二本の横槌をそれぞれの手に持って砧の台の上に置いた布を打ち、弟とおぼしき男の子がその作業を見ている状況である。座布団に台を据えている様子がよく分かる。台は石製のようである。またその形状はその上面がかまぼこ状に膨らみ、底面は座りをよくするために凹んでいる。 
図7の写真(註12)では、砧の台は石製で四本の脚を有し、側面に格狭間模様が彫られるものである。ここでは台に座布団が敷かれておらず、また打つ女性は軽く横槌を持っているので、実際の砧打ち作業とは思えない。写真撮影の際にあわてて演技されたのであろうか。 
(註) 
10)註1や「アジア読本韓国」(河出書房新社1996)183頁、「韓国伝統文化事典」(教育出版2006)162頁。 
11)辛基秀編著「映像が語る「日韓併合」史」(労働経済社1987)144頁。 
12)註6の166頁。 
二種類の砧の使い分け 
朝鮮の砧にはT型・U型の二種類があるが、これをどのように使っていたのか。筆者が在日朝鮮人のおばあさんから聞き取り調査したところ、次のようなお話を聞かせていただいた。 
「絹でできたチョゴリなどの上等なものは糸をほどいて洗って糊付けした後、生乾きのうちに二人で引っ張って、反物にして、リボンなどもなかに入れて、棒に巻いて打つ。 
木綿の敷布なんかも糊付けした後、二人で引っ張って、石の大きさに合わせて折りたたんで、足で踏みつけて、石の台の上でたたく。 
巻いて打つのは折り目がつかず、石の上で打つのは折り目がつく。二つは生地によって使い分ける。」(註13) 
また伊藤亜人は「砧を打つと皺が伸び艶も出る。明紬の場合には砧石の上で少し叩いてから、滑らかな檀の棒に布を巻きつけて横たえ砧で叩くと艶がさらに出る。」(註14)と論じ、やはり生地によって使い分けるものとしている。 
二種類の砧は、形態や使い方、名称だけの違いだけでなく、布の生地によって使い分けるものなのである。 
(註) 
13)辻本「砧(きぬた)(三)」(神戸史学会「歴史と神戸203号」1997年8月所収)12頁。 
14)註1の50頁。 
砧の槌 
朝鮮の砧では、T型・U型ともに打つ槌の形状・大きさは変わらない。それは野球バットあるいはすりこぎ状の横槌で、渡辺誠の論じるGタイプである(註15)。管見における朝鮮の砧の槌はすべてこのタイプであった。ちなみに日本の砧の槌は敲打部と柄部の境目に段差を有するAもしくはBタイプで、朝鮮とは違いを見せている。 
朝鮮のGタイプの槌には敲打部と柄部の境目に小溝を彫るものとないものとがある。また柄部端に紐で引っ掛けるための突起があるものとないものとがある。そういった違いがあるが、実際の砧打ちの際にはその違いを気にせず同時に使うこともあるし、機能に差があるわけではない。 
朝鮮の砧うちではこの槌二本を両手にそれぞれ持って打つ。日本では一本を片手で持って打つので、ここにも大きな違いがある。 
(註) 
15)渡辺誠「ヨコヅチの考古・民具学的研究」(「考古学雑誌第70巻3号」昭和60年3月所収)53(349)頁。 
洗濯と砧 
家で行なう洗濯のことを朝鮮語では「パルレ」といい、女性たちは川辺で平らな石の上に洗濯物を置き、長い箆状の槌を片手で持って叩いて洗濯する。この槌を朝鮮語で「パルレパンマンイ」という。砧で打つ槌は「タドゥミパンマンイ」なので、形態や使い方だけでなく呼称も違う。 
朝鮮関係の文献では、朝鮮のこの叩き洗いの洗濯方法を「砧」と呼ぶ例が少なくない(註16)。しかし洗濯は汚れを落とすことであって、砧は洗濯を終えた布・衣類の皺を伸ばし艶を出すことである。つまり砧は洗濯の後の仕上げ工程であって、現代風に言えばアイロンかけに相当する。また一般的に洗濯は昼間に川辺などで行なう屋外作業であり、砧はその洗濯物を持ち帰って夕方頃から行なう屋内作業である。従って部外者である日本人は朝鮮女性の「洗濯」の光景を見ることが多かったが、「砧」を見ることは稀であった。 
洗濯と砧は布を叩くことが共通するので混同されやすいが、同じなのはそれぐらいで、道具も叩き方も用語も工程も目的も、そして作業場所や時間も違うものなのである。従って叩き洗いという朝鮮の洗濯方法を「砧」と呼ぶことは誤りと言わざるを得ない。 
(註) 
16)例えば金両基監修「読んで旅する世界の歴史と文化韓国」(新潮社1993)の190頁に次のような記述がある。 
「韓国の民族衣装を語るとき、必ず砧打ちが登場する。‥‥洗濯のつど、糸をほどいて洗濯し、砧で打ち、汚れを落とすと同時に繊維を柔らかくする。そして糊付けをして、さらに砧で打ち、火熨斗をかけて布地を美しくのばす。」 
砧打ちを二回するように記されているが、最初の「砧で打ち」は洗濯(パルレ)の叩き洗いであって砧(タドゥミ)ではない。 
在日一世は日本語で区別しない 
在日一世のおばあさんから砧や洗濯について話を聞かせてもらった。彼女らは、綾巻・砧の槌・洗濯の槌について朝鮮語で「ホンドゥケ」「タドゥミパンマンイ」「パルレパンマンイ」という区別があることを知っていたが、日本語では区別せずに「棒」と言っていた。 
日本ではすでに砧打ちが廃れて、日本人の多くが砧の正確な知識を知らない。周囲がこういう状況であったので、彼女らは対応する日本語が分からず、「棒」としか表現できなかったのだろう。 
在日一世の女性は砧打ちの実際を知っているので意識では区別していたが、日本語では区別することはなかったのである。 
砧にまつわる朝鮮の諺 
砧は朝鮮人の日常生活道具の一つであり、それにまつわる諺が多い。砧を理解するにはこういった諺を知ることもその一助になるので、いくつかを紹介したい。 
「暗闇に綾巻(註17)」/「藪から棒」と同じ。綾巻は長さ1m、径8cmほどの棒であるから、これを真夜中の暗闇で突きつけられたら、まさに「藪から棒」であろう。 
「砧の槌を食らって綾巻で返す」/T型の砧を知れば、槌と綾巻では大きさが違うので、この諺の意味がよく分かる。仕返しをするときは倍にして返すこと。 
「綾巻に花が咲く」/綾巻に花が咲くわけがない。つまりいくら願っても実現しないこと。 
「綾巻で牛を追う」/無理を強いること。 
「砧の石を枕にして寝ると口が曲がる」/行儀が悪いと夫に嫌われて実家に帰されるの意。ここでの砧はU型である。 
(註) 
17)朝鮮の諺の翻訳・解説では、綾巻を「砧の棒」と訳することが多い。しかしこれでは砧の槌と間違える可能性が高い。従って訳としては不適切であろう。 
まとめ 
朝鮮の砧について、拙論をまとめてみたい。 
砧打ちは洗濯後の仕上げ工程の一つである。布の皺を伸ばし、艶を出すことを目的に打つもので、家庭における女性の仕事とされた。 
昼間に川辺で叩き洗いした後、晩方に家で砧打ちをして仕上げる。 
叩き洗いの洗濯を「砧」と言うことが多いが、誤りである。洗濯と砧は、道具、叩き方、用語、工程、目的、作業場所・時間が違うものである。 
砧を打つときは座って打ち、立って打つことはない。また二人が相対して打つことが多い。 
砧にはT型とU型の二種類がある。T型は綾巻に布を巻いて打つので折り目がつかず、U型は台の上に布を折りたたんで打つので折り目がつく。T型は絹、U型は麻や木綿と生地によって使い分けるものとされる。 
砧で打つ槌はGタイプと呼ばれる横槌である。これを二本両手にそれぞれに持って打つ。 
砧打ちは韓国でも在日朝鮮人社会でも廃れて、今では見ることがほとんど全くなくなっている。在日の若者たちは母や祖母が打ってきた砧を忘れ去っており、その道具はゴミとして廃棄されている。それは仕方のないことかも知れないが、悲しいことではないだろうか。 
砧に関する資料収集と研究、そして正確な知識の普及が求められていると考える。
4 誤りの多い「砧」の解説

 

朝鮮の砧 
朝鮮の砧については、先の第90題朝鮮の砧の結論部分で「正確な知識の普及が求められている」と論じた。こう書いたのは間違いの解説が余りにも多いからである。間違いをそのまま放置するとそれが定説化することになりかねないので、ここに批判を呈する次第である。 
「韓国伝統文化事典」の間違い 
韓国文化を紹介する国立国語院編「韓国伝統文化事典」(三橋広夫・趙完済訳教育出版2006年1月)が出版されている。立派な装丁で綺麗に仕上がった本であるが、162〜163頁にある砧の解説は間違いが多く、残念な思いである。 
「この文化(砧打ち)は韓国と日本にしかない。」 
中国では4〜5世紀の六朝時代に砧を題材にした漢詩が現れる。8世紀の唐代になると、出征兵士の妻や恋人が夫のために砧を打つ場面で女性の悲哀を表現した漢詩が多い。どのような砧であったかは不明であるが、砧がかつて中国にもあったことは確実である。 
最近の例では、国立民族学博物館にアフリカのセネガルで使われていた砧の槌が展示されていた。「しわのばし棒」と名付けられているもので、敲打部と柄部の境目に段を有する横槌である。解説のビデオによると、乾かした布に蝋を塗って、平らなかまぼこ状の台の上にひろげて、二人の男がこの槌を右手にそれぞれ持って二〇分ほど打つ、とある。 
以上により砧打ちの文化は、世界的に広がっていた可能性が高いと考えられる。「韓国と日本にしかない」とする記述は間違いである。 
「その上にからからに乾いた布地やふとんなどを幾重にものせてたたいたり」 
砧打ちは洗濯物が生乾きの時に行なう作業である。もし乾ききっていれば霧吹きして湿らさねばならない。「からからに乾いた」ものを砧打ちすることはない。 
またふとんは中の綿を外に出して、敷布を洗って砧打ちするのである。ふとんを砧打ちすることはあり得ない。 
「綾巻はかたい木でつくるが、普通足の長さ半分ほどで、一対になっていて両手にもってかわるがわる服地をたたく。一人が両手に棒を一本ずつ持ってたたいたり、または両手に棒をもった二人が向い合って座ってたたいたりした。」 
ここでは綾巻(ホンドゥケ)と槌(タドゥミパンマンイ)を全く混同している。綾巻というのは長さ1m、径6〜10cm程の丸太であり、槌は長さ0.4m、径3cm程であるから、「足の長さ半分」であるのは後者の槌である。砧打ちは綾巻に布を巻いて台に置き、一対の槌で叩くのである。 
「服を洗濯して糊づけした後に砧打ちをすると、繊維が広がってむらなく糊がついて風を防ぐのに役に立つ。」 
砧は皺を伸ばして艶を出すものであって、糊を「むらなくつける」ものではない。糊づけは、砧を打つ前にすでに「むらなく糊がついて」おかねばならないものである。 
糊づけが風を防ぐということはあり得ない。もし布目に風が通らないようにするには、糊をたっぷりとつけてカチンカチンに硬くする必要がある。しかしそれでは厚紙で作った服と同じで隙間が多くなるので、かえって風通しがよくなるだろう。 
「ほとんどの家では砧に彫刻を施して模様を描き、色まで塗って華麗に飾った。」 
砧の彫刻は、その機能からして綾巻や槌、台の上下面に施すことはあり得ない。すると彫刻は台の側面ということになる。しかしその例はかなり珍しい。管見では「目で見る李朝時代」(国書刊行会)の166頁の写真に格狭間模様が彫刻されているものがあるのと、後述の大阪人権博物館(リバティ大阪)所蔵のものに太極模様が稚拙に刻まれているぐらいである。他はすべてシンプルなものであった。ましてや色を塗った砧は、確認できるものがなかった。 
果たして「叩く」という使い方をする日常道具に華麗な装飾を施すことがあったのか、極めて疑問である。 
「昔は秋になれば、秋・冬の服とふとんカバーを用意しようとして打つ砧の音が家の中から流れてきた。」 
秋に砧打ちするのは、かつての日本であった。秋の風物詩として平安時代から和歌に詠まれ、源氏物語や世阿弥の能楽にも登場する。そして「砧」は俳句で秋の季語となっており、芭蕉の作品の題材ともなっている。 
一方の朝鮮では、砧は季節に関係なく打つものであった。朝鮮の砧に季節感はない。 
「昔の韓国人は、この砧の音に勤勉な生活の姿がこめられるとして、赤ん坊の泣く声と本を読む声に加えて、耳に心地よい三つの音に選んだ。」 
残念ながらこの根拠となった資料の呈示がない。今のところ管見で言えることは、朝鮮で砧の音がどのように感じられたかの資料は近代以降の文学作品か民謡ぐらいしかない。 
これについては李哲権が詳しく論じている(註1)。それによれば、朝鮮において砧の音は女性に強いられた運命や母の願い、悲哀をイメージするものであった。従って砧の音を「勤勉な生活の姿」「耳に心地よい」とする感性が朝鮮民族にあったとする記述は疑問である。 
(註) 
1)李哲権「衣うつ音―「砧」の比較文化研究」(東大比較文学会「比較文学研究64」所収) 
「朝鮮語大辞典」の間違い 
角川書店「朝鮮語大辞典」(1985)の546頁に、朝鮮の砧が挿図付きで説明されている。この図は布を巻いた綾巻があるので、T型の砧である。 
ところがこの綾巻には細長い突起物が取り付けられている。これでは綾巻を回転させられない。さらに綾巻は「ホンドゥケ」であるのに、台のほうである「タドゥミトル(━原文はハングル)」と間違った語句で説明している。 
そして台は板状の小さなものが布に隠れているように描かれている。だがこのような台では綾巻を固定できないだろう。 
また打つ槌は真っ直ぐであるべきのに図では反りを持っているし、太さがかなり細く描かれている。まるで長鼓を叩く撥のようである。 
どのような資料に基づいたのか分からないが、問題の多い図である。 
在日韓人歴史資料館の間違い 
最近、東京で在日韓人歴史資料館が開設された。これまで在日朝鮮人の生活資料を収集展示する施設がなかったので、このような資料館はまことにありがたいものである。この館では次のような資料が展示され、「砧棒(きぬたぼう)」というキャプションが付されている。 
果たしてこれは砧の道具なのかどうかである。ここで朝鮮の叩き洗い式洗濯を写した写真とそれを描いた絵画資料を呈示する。女性が川辺で叩き洗いの洗濯をしているところであるが、手に持つ槌に注目してもらいたい。 
資料館で展示される槌はこれと同じ箆状の形態である。つまりこれは砧の道具ではなく、洗濯の叩き洗いの時に打つ槌なのである。砧と洗濯では、槌の形態が違うことを確認することができる。さらに洗濯の槌は朝鮮語で「パルレパンマンイ」といい、砧の槌は「タドゥミパンマンイ」と呼称も異なるのである。 
従って在日韓人歴史資料館の槌を「砧棒」とする日本語の説明は間違いであることが明白である。 
大阪人権博物館の間違い 
リバティおおさか(大阪人権博物館)には、かつて砧の実物が展示されていて「洗濯の道具」というキャプションを付していた。当時の「観覧のしおり」にその写真とキャプションが掲載されている。 
だがこれはU型の砧の道具であって、洗濯の道具ではない。槌が一本しかないが、これは二本でなければならない。またその形状は洗濯で打つ槌ではなく、砧で打つ横槌である。つまりここでも砧と洗濯が混同されているのである。 
間違いはあるが、朝鮮のU型の砧を日本で見ることができたのはここだけであった。砧は朝鮮女性の日常を知る資料の一つとして重要であり、在日朝鮮人では初の芥川賞受賞作品である李恢成「砧をうつ女」を理解するのにも必要なものであろう。しかし今はリニューアルされて展示から外されており、残念である。 
「世界の歴史と文化韓国」の間違い 
金両基監修「読んで旅する世界の歴史と文化韓国」(新潮社1993年5月)の190頁では、砧が次のように説明されている。 
「韓国の民族衣装を語るとき、必ず砧打ちが登場する。ドライクリーニングがなかった時代は、洗濯のつど、糸をほどいて洗濯し、砧で打ち、汚れを落とすと同時に繊維を柔らかくする。そして糊付けをして、さらに砧で打ち、火熨斗をかけて布地を美しくのばす。チマ・チョゴリを美しく着るためには、そのような複雑な作業をしなければならなかった。」 
ここでは砧打ちを2回もするように書かれているが、最初のものは洗濯(パルレ)の叩き洗いであって、砧(タドゥミ)ではない。砧と洗濯が混同されているのである。 
「韓国学のすべて」の間違い 
古田博司・小倉紀蔵編「韓国学のすべて」(新書館2002年5月)のなかの永島広紀「植民地時代の史実で韓国では“語られていない”ものは何か」に、 
「清渓川には砧を打つ音」 
という一文がある。果たして清渓川で砧を打つ音が聞こえたのかどうか。 
この川の様子については、国書刊行会編「目で見る昔日の朝鮮上」(1986年)の49頁に往時の写真が「清渓川の水標橋と洗濯場」というキャプション付きで掲載されている。内容はキャプションのとおりで、洗濯の様子を写したものである。 
拙論で論じたように、朝鮮女性たちは川で洗濯して、その後に家に持ち帰って砧を打つのである。洗濯は昼間の屋外作業であるが、砧は夕方からの屋内作業である。川で砧を打つことはない。従って清渓川で砧を打つ音は聞こえないのである。 
ここでも砧と洗濯が混同されている。
5 韓国における砧の解説

 

韓国では砧がどのように論じられているか、ちょっと調べてみました。 
@韓国の百科事典の解説を翻訳したものです。砧打ちの目的や工程、二種類の砧とその使い分けなどが記されており、内容的には正確です。日本の砧の解説では砧の目的を「柔らかくする」と間違って書かれる場合が多いのですが、韓国の百科事典ではさすがにそれはありません。翻訳文は薄赤で表示します。 
砧打ち 
布地の皺を伸ばし、艶を出すようにするために、横槌で何回も叩くこと 
砧 
砧打ちともいう。布地を砧石の上に置いて砧槌で叩くやり方と、綾巻に巻いてから台に固定して横槌で叩き、綾巻が回りながら均等に仕上がっていくやり方とがある。砧打ちでよく仕上がった布地は、アイロン掛けしたものよりも滑らかで、皺もなくなる。 
砧打ちをしようとすれば、まず糊付けした洗濯物を一旦完全に乾かす。このようにすると糊がきいて、布目がよく伸びるのである。次に水で濡らすのだが、水を少しずつ手につけて均等に撒いたり、水を口に含んで霧吹きする。水で濡らした洗濯物は、ざっと折りたたんで風呂敷に包み、水気が均等に広がるようにしばらく待った後、縫い目に合わせて再び折りたたむ。布団カバーのような大きな洗濯物は、二人が向かい合わせで引っ張り合い、布目を伸ばしながら適当な大きさに折りたたむ。これを再び風呂敷に包み、床に置いて、しばらくの間その上から足で踏んでやると、温かみが洗濯物に広がって、皺もある程度伸びる。このようにしてからアイロン掛けとか砧打ちをするのだが、砧打ちの場合は風呂敷に包んだ洗濯物を砧石に置いて、一人が両手に横槌を持って叩いたり、二人が間に砧石を挟んで向かい合って座り、相互に砧打ちをする。ある程度叩いた後に、伸ばして折りたたむ間に洗濯物は艶が出て皺が伸び、糊気も均等に染み込む。 
明紬の洗濯物は綾巻で砧打ちするのだが、予め砧石で少し叩いて適当に乾かすと厚みがなくなって平らになり、これを綾巻に巻いてから台に固定して横槌で叩く。この時に叩く音は、砧石の上に置いて叩くよりも透明な響きで聞こえてくる。横槌や綾巻はすべて樺の木から作られるが、綾巻は普通7〜8pの丸太棒の表面をきれいに削り、使い慣らして滑らかにしたもので、中央が若干太く、両端にいくほど細くなる。 
A@のなかに「風呂敷に包んだ洗濯物」とあるところが、ちょっとイメージが湧かないと思われますので、参考のために下記のウェブサイト内の写真でよく分かります。 
B京畿大学校博物館の解説です。砧の種類とその使い分け、砧の目的などが比較的正確に説明されています。翻訳文は薄赤で表示します。 
【遺物詳細情報】 
遺物名称木砧石(訳注―木製の砧石という意味と思われる) 
国籍/時代韓国光復(1945)以後 
材質石(訳注―下記の詳細説明では木製なので、間違いと思われる) 
大きさ横:69.5cm/縦:17.5cm/高さ:13.5cm 
用途機能住生活用品裁縫具砧石 
所蔵機関学校/京畿大 
遺物番号京畿大268 
詳細説明 
木砧石は木でできた砧石であるが、砧打ちをする時に服地を載せておく台の役割をする。砧打ちに使用される横槌を、料理に使う包丁に見立てると、砧石はまな板に相当する。即ち砧打ちをする時、砧石に服地を載せて横槌で打ち下ろすと、砧石と横槌がぶつかり合って、間に置いた服地の皺を伸ばすのである。 
別に言うと、砧打ちは洗濯した服地を横槌で叩いて仕上げる作業であって、漢字語では“棘砧”という(訳注―これは“搗砧”の間違いと思われる)。わが国の衣服は平面構成でできているところから、洗濯の際には針で縫ったところの縫い目をすべて解いて洗い、新たな服に仕上げて着るのである。そうであるところから、糊付けして新しい服地のように折り目を真っ直ぐにして、艶が出るように手入れする砧打ちが発達するようになったのである。 
このように家族の衣服の手入れと針仕事の腕前は、その家の主婦の能力を表現することとなり、主婦は一生懸命に家族の衣服をきれいに洗って、新しく染めて、体型に合わせて縫ったり、季節の変化に調和するように再構成したのである。 
〈閨閤叢書〉にも搗砧法といって、服地の種類や色によって砧打ちの方法を仔細に説明している。これによれば(訳注―以下の閨閤叢書の1節は漢文を韓国語訳したもののようだが、意味がよく分からない部分がある。)「絹織物にはテワム糊をつけるが、特に藍色にはこの糊をつけるだけで艶が出る。真紅色はテワム糊と膠糊を混ぜてつけた後、足踏みして、水気がほとんど乾いて膨らむようになってから、綾巻に巻いて叩く。木綿と麻は、紅花を浸けた濃黄色の水を少し入れて、五味子の水に糊を混ぜ溶いて使わないと、青い色が出ない。この時の糊は、あまり強くきかさないようにしなければならない。紫朱色は糊を薄く溶いてつけた後、団扇を扇いで少し乾かして、力いっぱい踏んで綾巻に巻き、押していって足踏みして叩く。紫色はセント蘭を摩り下ろしてその汁をつけて叩き、亜青色は膠糊をつける。白色の明紬は鶏卵の白身をでんぷん糊に混ぜて使う。木綿にはそば粉を混ぜてつければ、糊が洗面でも柔らかくて艶が出て、麻は滑石やでんぷんをつけて叩けば艶が出る。」とあった。 
砧の方法は、糊気が乾く前に、歪んだ布目を真っ直ぐに広げてから畳んで踏み、綾巻に巻いて打つか、砧石の上に置いて打ってから綾巻に巻いて砧打ちした。この時に使う道具としては、硬い木で作られた砧槌、長方形で表面が滑らかな砧石、綾巻とこれを固定する枠、服地を包む風呂敷と紐である。 
砧打ちするものは、主に袷や綿入れ、寝具類であり、晩秋や冬の夜遅く、二人が四本の横槌で音律に合わせて服地を仕上げる砧打ちの音は、わが国の風俗の一面をなしていた。 
しかし合成繊維が発達し、服地の後処理と加工法が発達したことにより、砧の音が消えて、砧打ちした服地の美しさも消えるようになっていった。 
〈参考文献〉 
閨閤叢書、韓国民俗文化大百科事典(韓国精神文化研究院、1991)、斗山世界大百科事典(斗山東亜、1996)、朝鮮時代の人たちはどのように暮らしたのか(韓国歴史研究会、青年社、1996)、老年層女性の衣生活に関する研究―大邱市を中心に(金イルブン、啓明大学校大学院修士論文、1884)、わが国の衣生活の衛生学的考察―着衣量と皮下脂肪の厚さとの関係を中心に(鄭ウンソン、ソウル大学校大学院修士論文、1982)、金ヨルギュ韓国女性論―韓国女性彼女らは誰なのか―(金ヨルギュ、韓国学術情報、2001) 
〈類似・関連用語〉 
砧石、砧台、搗砧、砧打ち等。 
C砧について韓国人たちがどのような感じや思いを持っているのか、参考になるものがありました。翻訳文は薄赤で表示します。 
消えていく名物(사라져간명물) 
砧の音―人口繊維の流行、クリーニング屋の洗濯・アイロン掛けの代行…伝説の中へ 
「トントン叩く砧の音/その砧を聞き終わっても/この私の耳にしっかり残る/トントン叩く砧の音/コーコッと鳥が鳴き渡り/わが家の醤油をみな溶かす」 
これは巨済地域に伝わる砧打ちの歌で、このような歌が歌われるぐらいにわが国では砧打ちが生活の一部分を占めていた。砧の音は、我々の生活から生じた音の中で最も風流と風雅に秀でた音であった。特に夜遅く聞こえてくる風情ある砧の音は、多くの詩人と墨客たちの筆墨を引き寄せ、孤独な作曲家の楽想を浮かび上がらせ、また流行歌の歌詞を誕生させることもあった。 
特に秋の夜、遠くから聞こえてきた砧の音は、故郷を離れたさすらい人が、幼い時の祖母と母の姿を思い浮かべて後悔の涙を流すこともあった。漢字としては「搗砧」とも書く砧打ちは、服や布団カバーを砧石の上に載せておいて叩く作業であった。砧打ちは中国でも盛行したことが知られていて、閨閣叢書は「真紅のものの砧打ちは、紫蘭(蘭草科の多年草)に膠を混ぜて染み込ませ、木綿と麻は糊を強く浸けねばならず、空色のものは紫蘭で砧打ちし、どんな糊も染み込まないようにして、野青(黒色を帯びた青い光)のものは膠糊を染み込ませる」と記録されており、布地の種類や色によって違う砧打ちの方法を仔細に説明している。 
人の衣服を自然繊維質に依存した時代、服や布団カバーは、洗濯後に糊を浸けて少し干し、糊気が乾く前に二人が向かい合って座って両手で引っ張ってねじった部分を広げ、足で軽く踏んだ後、横槌で何回も叩き、皺をとる砧打ちが必須であった。主に秋遅くから冬の初めの時期に夜更けまで行なったもので、わが国の風俗の一面を成すものと言えた。砧石は緩やかな曲線を描く長方形で、上面は丁寧に手入れされ、両側面の下には手を入れて持つことができるように溝が掘られており、横槌は樺などの硬い木を削って作られた。砧打ちは女たちの役目として一人ですることもあったが、しかし大部分は二人が向かい合って座り、両手に横槌を持って、交互に叩いた。 
時には助け合いで隣家の人と協力し、時には祖母や母、あるいは姉と母が二人で行なう砧打ちは、隣同士の愛を育み、嫁姑間の葛藤も解決していった。義母に仕え、子供の面倒をみて、農作業や機織、夕飯の支度、後片付けも夜中のうちにすまして、家族が眠る真夜中に、わが家の母は砧打ちを続けた。横で叩く砧の音には我関せずと鼾をかき、犬の遠吠えには目を覚ます祖父がいて、一眠りして目を覚ました子供が乳をくわえてようやく寝入った時、母はこっそり抜け出してまた再び砧打ちを続けるのだが、その音は何の妨げもない生活の音であった。 
コツコツ、時にはトントンと野暮ったいながらも軽快な砧の音は、どんな楽器でも真似することのできない一つの自然音として、我々にはいつ聞いても暖かく情のあるものだった。特に晩遅く周囲から聞こえてくる砧の音は、幼い時に祖母や母がすぐ横で寝転がりながら胸をトントンと叩いて「ねんねんころりよ、うちの子供よ、子供よ、よく寝るよ。子供が寝る時はワンワン犬さん吠えないで、コッコ鶏さん鳴かないで。ねんねんころりよ、うちの子供よ、子供よ、よく寝るよ。」と歌ってくれた、その子守唄の代わりとなる心安らかとなる音であった。また成年になって聞いた砧の音は、時には興をそそることもあり、時には思索の時間と幼い頃の郷愁を抱かしめることもあって、特に冬を準備した秋の夜の砧打ちは、毎年の端境期、あまりの貧乏の暮らしで苦労して来た母への懐かしさで、いつまでも胸を痛めるのであった。 
しかし合成繊維の発達とともに衣服の後処理と加工法の発達によってナイロンなど人工繊維の流行、アイロン、クリーニング屋が衣服の洗濯やアイロン掛けまで代行…70年代を境に砧打ちは消え、砧打ちした衣服の美しさ、そして暖かく情のあった砧の音さえ、伝説のなかに埋もれていっている。 
D砧打ちの音は、下記のウェブサイトで聞くことができます。ただし砧石の上に布地を折り畳んで置くタイプ(U型)の砧の音で、綾巻に巻いて打つタイプ(T型)の砧の音でないのが残念です。後者の音を聞くことは、困難なようです。
 
伸子 (しんし)

 

はじめに 
洗い張りは洗濯後の仕上げの一つで、着物をほどいて洗った後に糊をつけて乾かすものである。それには伸子張りと板張りの二種類がある1)本稿はこのうちの伸子張りについて資料を集め、考察を加えて報告するものである。 
(註) 
1)板張りは江戸時代末期以降に急速に広まった方法で、着物や布団などを解いて洗った後に張板に張るものである。伸子張りに比べて端縫いをしなくてもいいし、場所も取らず手間もかからないので、はるかに簡便なやり方である。おそらく庶民に木綿の衣服が豊富になってきたという事情により、仕上がりよりも使い易さや簡便さが求められたのであろう。 
一方の伸子張りは本論のように平安時代にはすでにある方法である。板張りに比べてきれいに仕上がるので、高級品の絹物はこの方法で行なった。(小泉和子「道具が語る生活史」参照) 
伸子張り 
伸子張りは40年ほど前までは各家庭の屋外で行なわれたため、日常的によく見られた光景であった。しかし1960年代以降、和服を着る人が少なくなるのに伴い、家で伸子張りをする人はいなくなった。現在では洗い張りを看板にするクリーニング屋が倉庫内で行なっているぐらいで、一般に見ることはなくなった。従って「洗い張り」や「伸子」といっても若い世代は聞いたこともないだろうし、ましてやその作業や道具を見たこともないであろう。しかし昭和20年代生まれおよびそれ以前の世代の人には、母親が竹串を差し並べて張った反物の下で遊んでいたというような子供時代の思い出を語る人は結構多いもので、懐かしいものとなっている。 
伸子張りは平安時代の資料ですでに確認できるもので、非常に古くからある方法である。それは着物を解いて洗い、縫合して反物の形にした後、柱や木の幹に引っ掛けた二本の棒を使ってこの反物を引っ張り、その両耳に竹串を等間隔で弓状に差し渡していくものである。この竹串を「伸子(しんし)」といい、反物を引っ張る時に使用する二本の棒を「絹張(きぬはり)」あるいは「桁(けた)」2)という。また絹張を柱等に引っ掛ける紐のことを「引手(ひきて)」という3)。 
(註) 
2)近世の「女用訓蒙図彙」では丸棒状のもので「絹張」、明治の「家庭実用新式染洗法」では断面長方形の棒に釘を打ち並べたもので「桁」と称している。他に「張り木」「張り手」という言い方もある。 
3)桁を引っ張る引手では、紐ではなく木や竹の棒で二等辺三角形を作る場合がある。この方が均等に引っ張りやすいものなので、大正時代の「家庭衣類整理法」ではこれが推奨されている。 
伸子張りの張り方 
伸子張りの張り方には二種類がある。一つは図1や図2−1のように反物の両端を縫ってつなぎ、中に絹張を二本入れて引っ張るものである。この場合は上下二段に伸子張りを施すことになる(Aタイプ)。 
もう一つは反物の両端を絹張で固定して引っ張るもので、一段の伸子張りとなる(Bタイプ)。これには図2−4のように反物の端を縫って袋をこしらえ丸棒状の絹張を挿入して引っ張るもの(B―1タイプ)と図2−6のように平角棒の桁にL字状の釘を打ち並べてこれに引っ掛けて引っ張るもの(B−2タイプ)とがある。 
伸子張りの歴史的絵画資料 
伸子張りの最古の資料は「年中行事絵巻」(図1)にある。時期は12世紀後半とされる。反物にして洗った着物を輪状に縫って絹張を入れ、庭にある二本の木の幹に紐で引っ掛けて張り、下女と思われる二人の女性が伸子を差し渡している様子が描かれている。反物を上下二段にして伸子張りを施しており、Aタイプである。もう一人の女性は鮮明ではないが、糊を刷毛塗りしているものと思われる。 
これとほぼ同時期のもので中尊寺蔵「大般若波羅蜜多経」見返し絵(図2−1)がある。12世紀後半あるいは末とされる。ここでは一人の尼僧が絹張を一つは木の幹に、もう一つは柱あるいは杭に引っ掛けて反物を一段に張り、伸子を差し渡している。Bタイプの張り方である。 
「三十二番職人歌合絵」(図2−2)は中世のものであるが、より詳しい時期は明らかでない。反物を上下二段にするAタイプで、その裏表に伸子を差し渡している。女性が刷毛で糊を塗る作業風景で、足元に糊を入れる底の浅い桶と散乱する伸子が描かれている。 
「泣不動縁起絵巻」(図2−3)は15世紀とされる。二人の女性が行なう伸子張り作業風景である。袖なしの女性が腕に伸子の束を抱えている。張り方はAタイプである。 
(図2−4)は井原西鶴の「好色一代男」(17世紀後半)の挿図にあるもので、下女たちが庭で伸子張りする作業を描いている。張っている反物の端が長方形に黒くなっており、絹張を挿入するために端切れを縫って袋を作っている様子が分かる。張り方はB−1タイプとなる。 
19世紀前半の「難波職人歌合」(図2−5)では、腹掛けに褌姿の男性が伸子張りの反物に刷毛で糊を塗っている場面である。元来洗い張りは女性が行なう家事であったが、近世にはこのように職業としての洗濯屋が発達してきた。張り方はBタイプである。 
明治時代になると西洋より家政学が入り、様々な教科書が作られた。(図2−6)はその一つの「家庭実用新式染洗法」にある挿図である。伸子を差し渡しているところで、両耳が山形になっている様子まで描かれている。また釘を打ち並べた桁に反物を引っ掛けており、本稿でいうところのB−2タイプである。引手は棒で二等辺三角形を作り、その頂点を紐でくくるものである。(註3参照) 
4種類の伸子 
伸子は竹で作られたものであるが、その端の形態は大正時代の家政学教科書「家事衣類整理法」では次の四つの種類が報告されている。図3はそれに基づいて筆者が作図したものである。 
(ア)竹串の両端に針を植え込んでいるもの。 
(イ)平らな竹串の端を二股状に切ってそれぞれの先を尖らせるもの。 
(ウ)端を少し裂いて針を差し込んで紙巻をし、柿渋を塗って固定するもの。 
(エ)端を斜めに切って尖らせるもの。 
このうち@は我々の記憶にあるもので、近現代ではポピュラーなものと思われる。 
Aについては、江戸時代前期の「人倫訓蒙図彙」にある職人が製作する伸子(図4−1)や、同時期の「女用訓蒙図彙」にある伸子(図4−2)では、二股の端のものが描かれている。またモースが明治10年代に来日して収集した資料のなかに、二股の伸子の実物がある。このように、近世〜近代初めではAのような二股の伸子が使用されていた。 
なおBおよびCは歴史資料的に確認することができなかった。従ってその存在については、肯定も否定もできないところである。 
伸子の古語 
「人倫訓蒙図彙」では伸子の説明に、 
「【簇削(しいしけずり)】都の詞に簇(しいし)をしんしといへり。田舎はづかしき片言(かたこと)なり。」 
と書かれてある。同じく「女用訓蒙図彙」でも「簇(しいし)」と振り仮名されている。また小学館「日本国語大辞典」には島根地方の方言として「シーシ」という発音例が報告されている。 
以上から考えるに、元々は「簇」と書いて「しいし」と呼んでいたものが江戸時代前期頃に京都で「しんし」と言うようになって広まり、「伸子」という漢字が当てられたようである。従って「伸子(しんし)」の古語は「しいし」であろうと推測される。 
おわりに 
伸子張りは洗濯後の仕上げ方法の一つである。これは昭和30年代頃までは各家庭で為されていたものであるが、今ではこれをする人はほとんどいなくなった。 
この方法は、歴史資料では平安時代から確認できる。しかし近代以前においてその道具の実物が保存されることはなかった。絵画資料にその様子が判明するのみである。また遺跡発掘調査においても管見では全く出土していない。竹串という性質のため遺存することが難しく、出土しても伸子とは認識が困難であろう。また絹張もそれのみの出土ではそうとは認識し難いものである。しかし、今後出土して認識される可能性は十分にあると考えられる。
 
臼に布を入れて打つ

 

臼と杵で構成される搗き臼は弥生時代の稲作とともに伝来したと推定され、穀類の脱穀・製粉・精白あるいは餅つきに使用されると辞典等では説明されている。また一般にもそう理解されている。しかしこの臼には、その中に布を入れて打つという使い方があることについて、管見において記述のあるものはなく、ほとんど知られていない。 
晒しと洗濯に使う臼と杵 
晒しとは「広辞苑」では「さらして白くした綿布または麻布」のことで、またその工程を「晒し」という場合もある。もう一方の洗濯とはその名の通り汚れを落とし、濯いで綺麗にすることである。晒しと洗濯は言葉が違うが、往古では内容にそれほど大きな違いはないものと考えられる。 
晒しや洗濯の具体的な様子が分かる歴史資料は、戦国時代〜江戸時代初めの各本「洛中洛外図」や近世に刊行された本の挿図、浮世絵に出てくる。そこには晒しや洗濯の一工程として、臼の中に布を入れて打つ様子が描かれている。 
図1−1(山岡家本「洛中洛外図」)では、二人の女性が川原に臼を据え、竪杵を片手で持って搗いている。そして臼から布がはみ出し、その横で綺麗になった反物の布を広げて晒す作業風景が描かれている。晒し工程の部分場面であり、臼の中に布を入れていることが分かる。 
図1−2(守護家本)は、川辺で臼に布を入れて女性二人が両手で竪杵を持って搗き、一方で河のなかで反物を洗う姿を描く。これも晒し工程の一部なのであろうか。 
図1−3(八坂神社本)では二人の女性が川の横で臼に入れた布を搗いており、そして周囲には布が乱れた状況で置かれている。 
以上の絵画資料によって、戦国時代頃の時期に晒しや洗濯の際には臼に布を入れて打つ工程があったことは明らかである。またそれに使用する臼の形状がくびれ臼で、杵が竪杵であることに注目される。 
図1−4(薮本家本)では同じく臼に布を入れているが、打つのが3人の男性で、持っているのは横杵である。 
また図1−5の「京童」という風俗本(1658年刊)の中の挿図では川の横で女性4人が横杵で打ち、近くでは女性二人が川辺で洗濯している。以上は、臼はくびれ臼であるが、横杵の出現が確認できる資料である。 
図1−6は1690年刊「人倫訓蒙図彙」にある「布曝(ぬのさらし)」の図。説明では「さらしのはじめは宇治槙嶋なり。京にては五条川原にあり。今は奈良をもつて第一とす」とある。干した布に灰汁を掛ける作業場面とともに、臼と杵を描く。臼はそれまでと違って胴臼で、また杵は横杵である。胴臼の出現が確認できよう。 
図1−7は魚屋北渓の浮世絵で、時期はこれまでより百年以上飛んで19世紀前半。「玉川布晒しの図」と題されている。一人の女性が臼に入れた布を竪杵で搗き、もう一人の女性が布を干す場面である。臼は胴臼だが、杵は竪杵である。この時期になっても竪杵が使用されていたという資料になろう。 
奈良晒しと近江晒し 
「奈良晒し」は奈良を中心として生産された高級麻織物で、中世に始まり、江戸時代中頃に最盛期を迎えた。「近江晒し」(または「野洲晒し」)は奈良晒しの技術が滋賀県の野洲に伝わったものである。どちらも当時としては大規模な施設を有し、十人あるいは数十人の奉公人や賃稼ぎ人を雇い入れて製造し、またマニュファクチュア経営の一つとされている。 
その製造の内容は織り上がった生布を集めて晒し加工するものであるが、それをもう少し詳述すると、「灰汁をかけながら十日余り日光に晒し、大釜に入れて灰汁で焚き日光に晒すこと数回、最後に木臼でつき、水で洗ったうえ張り干して晒し上げたが、晴天数十日を要したという」(註)かなり手間をかけて製造されるものである。そしてこの製造工程の一つに、臼の中に布を入れて打つそれがある。 
図2−1、2,3は奈良晒し製造を描いた当時の絵である。布を大きく広げて灰汁をかけながら晒し、釜で煮て、臼に入れて横杵で打ち、川で洗い、横に引っ張って掛けて干し、折りたたんで積み上げるという一連の工程が一つの絵のなかに描かれる。晒しの製造工程が非常に分かりやすい絵画資料である。かなりの重労働のようで、働く人がすべて男性である。それはまさに晒し製造工場と言ってよいほどの様相を呈している。 
図2−4は近江晒しの絵である。しかし川の流れのなかで男性が臼に布を入れて打つ姿であり、このようなことが実際にあったものか疑問である。聞いた話を絵にしたものかと思われる。 
晒し生産は明治以降衰退し、近江晒しは今や姿を消している。しかし奈良晒しは奈良の東部山間でかろうじて残っている。県の無形文化財に指定されて技術の保存が図られていることは幸いで、地元の教育委員会より解説書が発行されている。 
奈良晒しや近江晒し製造で使われる臼と杵の形状に注目してみると、上記の江戸時代の絵画資料では胴臼と横杵であり、現在まで奈良で保存されているそれも変わらない。 
何のために臼と杵を使うか 
臼と杵の目的について、註7の文献では「さらし液を均等にする」と説明されている。古来汚れを落とす或いは漂白のための洗剤は灰汁(木灰汁や藁灰汁など)であり、これがさらし液である。灰汁を布に均等に染み込ませるために、臼に布を入れて打つのである。 
現代に置き換えて言えば、洗濯機に洗剤を入れて掻き回す作業に相当することになる。 
臼と杵の変化 
ここで晒しと洗濯に使用する道具である臼と杵の形状の変化について、以上の資料から明らかにできることを述べたい。 
戦国時代ではくびれ臼と竪杵であった。江戸時代初期までに横杵が出現し、次の前期に胴臼が出現する。中期になって本格的に大量生産される奈良晒しや近江晒しでは胴臼と横杵が使用されている。しかし一方では竪杵は後期でも使われており、竪杵と横杵は同時並存した時期が長かったと思われる。なお現在残っている晒し製造道具では胴臼と横杵である。 
この変化が遺存品や出土品などの現物からも証明されるものかどうか、あるいは穀類の脱穀・製粉・精白、餅つきという従来の説明通りに使う臼と杵では違うのかどうか。このような疑問が出てこようが、浅学につき明らかにできなかった。 
海外の事例 
日本以外で臼に布を入れて打つ例を探してみると。朝鮮総督府勧業模範場「朝鮮の在来農具」(1925年発行)に、精穀と製粉用具として「ちょるく」(臼)、(ちょるくこんい)(杵)が報告されている。図3−1が当時の実測図で、臼はくびれ臼、杵は竪杵である。日本のこれまでの資料より素朴でシンプルな印象を受ける。その説明のなかに、もう一つの使用法として「或ハ又洗濯物ヲ入レ杵ニテ打チ洗濯用ニモ使用セラル」とある。しかし洗濯用にどのような使い方をしたのかの記述がないのが残念である。おそらく日本の晒し・洗濯と同様に、往古の洗剤である灰汁と布を入れて打ったものと思われる。 
図3−2は国立民族学博物館にあった中国湖南省の少数民族トン族の竪杵。展示では「染めた布地のつや出しに用いる」と説明されている。これには疑問があったので同館に質問したところ、展示責任者であった大丸名誉教授より「購入した際のリストに「布槌」とあったのを「木槌」と名付けてこのような説明を添えたもので、実際はどのように使っていたのか実見していない」というお答えをいただいた。竪杵であるから臼があるはずで、しかも「布槌」であるから布を打っていたことは間違いないだろう。これも日本同様に、臼に灰汁と布を入れて竪杵で搗くものと推測する。 
まとめ 
搗き臼と杵は「穀物の脱穀・製粉・精白または餅つきなどに使う」とされているが、他に布を打つという使い方があることは明らかにできたと考える。しかし管見において、考古学、民俗学、民具学等の各事典でこのような使用法に触れているものはなかった。臼と杵にはこのようなもう一つの使い方があることに注意が必要であろう。 
 
色彩と文様の雅な思想

 

我が国は八三八年の渡唐を最後に九世紀末には遣唐使を廃止し、政情不安となった唐との外交を絶つこととなる。その結果、平安時代は一時的に中国文化の移入が途絶えてしまった時期だったといわれ、外来文化に頼ることなく本来に立ち戻って、独自な国風文化を創り上げた時代だとされる。しかし、九世紀後半以降も朝鮮半島の新羅(しらぎ)やその後の高麗国、また渤海(ぼっかい)や遼(りょう)そして中国の民間商船を介して、唐や宋との交易が九州沿岸で活発に行われていたのが知られており、そうした民間の便を利用して中国への学僧の渡航も続けられていた。公式外交ではないが、民間力によって以前と同様に大陸文化の舶載が積極的に行われていたのである。  
また仏教が伝来する飛鳥時代以前、中国の道教や儒教思想に基づく蓬莱信仰や北斗信仰、そして五行思想などが伝えられていて、そんな多様な思想を混在させて仏教を建前とした律令政権が古代に創建されていたのである。世界文化を結集した華麗な唐様式や仏教様式に支えられて花開いた奈良文化の底流に、古代中国の思想が深く根付いていたといえる。平安初期の空海や最澄によって伝えられた真言や天台密教も、印度で発した仏教が中国の思想を取り入れて再編体系化されたものであり、平安の貴族達の政務や日常の生活、庶民の拠り所であった信仰そのものも基盤が大陸の思想にあった。それらが、唐風の装いを解いて前面に現れてきたのが平安時代であった。  
五行の色彩  
古代の中国では、大陸の広大な地理的環境を包括して、全国土を治世できる理論を編み出す必要があった。そうした東南西北の地域における環境の違いを春夏秋冬の季節に置き換え、あらゆる気象条件を備えた地を揚げて、都として中央に据えた。五行思想の根本がそこにあり、大国設立を旨として南北民族の統一を図り、人の徳たる道を導く北の儒教と、神に至る術を説く南の道教との思想の習合が試みられた。  
そんな空想と理想の論理が我が国にも伝えられ、実践地として満足させたのが美しい四季を持っていた京都だった。以来、権勢が京の地から離れることはあっても、四季文化を厳密に踏襲して執り行れてきた年中行事や儀式典礼をして、王城の地が京都から離れることはなかった。  
このように、美しい四季の表情が政治と生活を彩り、ことごとくの物事と所作に五行思想の根本である色彩と文様が象られていった。さらに自然の道理を基とした規範が恒常化し、時代と共に様式化されて和風が完成していく。優美華麗に描かれる王朝文化と、貴族達が没頭する浄土教の華厳世界を飾る「和の雅」の色彩と文様世界に、中国古代の思想表現が明確に読みとれるといえよう。  
平安の人達にとって色とはどのようなものだったろうか。五行思想では全ての物事の進化と後退の輪廻を五つの形に集約して説き、各々に黒・青・赤・黄・白の色を該当させて表している。その内容の充実を示して色彩は濃いほど貴ばれた。また紫・緑・紅・瑠黄・縹の清色と淡色を各々に従色として加え、全ての諸事の運行と表象に五色を配列してあてがった。そこに北と南の異なる環境事情を習合させて人事と政務の運用をしたのである。貴族達の位階に応じた服色や、朝廷での公私の色の別、日常における晴と褻けの色を使い分けて五行色彩の道理で綴られた。  
また平安人は、こうした規律に従った色彩観念を通用させると共に、現実の微妙な自然界の色調をも物の本質として捉えて重要視した。四季・十二月・二十四節気・七十二候の微細な気候環境に呼応した多彩な色彩を観察して生活の中に採用していた。例えば、早春の草の芽生えから初夏の低木、夏の高木、そして秋の森林、冬の山端へと木々の成長と時間の経過、また人の視点を移して、黄色の苗色から萌葱、深森(みどり)、遠覆(あを)色と濃青に変化していく自然界の緑色の世界があり、これが平安時代から江戸時代までの日本の緑色の色調だった。自然の植物から得られる天然色素の色が単一色相の範囲に納まっていないのも東洋の色彩の特質である。西洋色体系の教育を受けてきた現在の私達が知らない色調の世界が存在していた。  
十二世紀に記された『雅佐須計(まさすけ)装束抄』の「かりぎぬのいろいろやうやう」や「女ばうのさうぞくのいろ」に見るように、平安時代の服飾は五色の法則を基本としつつ、四季に移ろう自然の理に適った色彩の調和を模索して、雅な配色が創意されている。後世に称賛される「襲の色目」や「合せ色目」の配色が完成していた。  
神仙と和様の文様  
平安時代の文様もまた、五行思想や蓬莱、北斗信仰、そして仏教文化に大きく影響されていた。漢の武帝が蓬莱の地を東海の日本に求めて徐福を遣しめて以来、蓬莱山の具現地として我が国で種々の伝説が創作されてきた。竜宮城や浦島信仰、羽衣、高砂、翁信仰とその形を変えながら図に表して神仙の文様が語られ、東海中に支える蓬莱山の嶋が洲浜(すはま)文様に、そしてそれが松皮菱文様ともなった。天界の霊山に生える沙棠(さとう)や琅 、碧樹、絳樹、搖樹、玉樹、珠樹といった霊樹が李や竹、松、梅、藤、橘、桐の木で表され、荒海を渡る龍と天に昇る鳳凰が、亀と鶴に置き換えられて和様の形が整えられていく。それが単に島や海、波だけを描いて語られることもあり、また天地の境界線のみを記して神仙と現世を暗示して片身替り文様とされた。仏教における須弥山(しゅみせん)の表現もこの蓬莱山の基となる崑崙山(こんろんざん)から発しており、宝尽しや松竹梅、鶴亀などの吉祥文様の源がここにあった。  
また、有職文様として括られる一類の文様が平安時代に形成されていった。宮中で行われる儀礼や所作の次第とその進捗状況、そして皇族や貴族の挙動を故実として記録し、後のために伝え記して儀式典礼の規範とした。有職文様はそれらに用いられた用具や衣類に付けた文様のことであり、こうした故実を詳細に纏めた有識者が後に専業となって有職故実を伝えた。  
有職文様には地位や資格を表した公の文様、そして各用具に常套に用いられた様式文様などがある。また皇族や公家が用いた牛車(ぎっしゃ)の居紋や、聴しを得て各家が衣料に用いた異紋などがある。なかでも、宮中の正装だった男性の袍や女性の唐衣裳に用いられた織文は、階級のある色目に次いで皇族や公家達の出自、身分、権勢を表して重要な標識であった。有職文様の多くが牛車につけた各家の居紋から発展したといわれ、代々子孫に伝えて多様な有職文様が作られていった。桐竹鳳凰文や孔雀唐草の天皇の専用文様をはじめ、皇太子のimg鴛鴦(かにおしどり)と丁字唐草、親王の雲鶴、上皇の桐木瓜や菊木瓜、皇后の二陪(ふたえ)織物の亀甲臥蝶(ふせちょう)と小袿(こうちぎ)の花蜀江、異紋では近衛家の躑躅(つつじ)立涌、一条家や鷹司家の龍胆img(りんどうかに)唐草、中院の笹立涌、そして轡(くつわ)唐草に輪無(わなし)唐草と枚挙に限りない。  
さらに有職文様の内、亀甲や七宝、輪繋ぎ、青海波、菱文、蜀江、咋鳥(さくちょう)、葵などの文様は、その発生を古代中近東近辺に辿れるのものが多く、図象の伝承経路や民族の諸問題と共に日本文化の発生を探る重要な課題としても注目されている。  
しかし、武家を中心とした世に移ると、次第に為政的な内容を濃く持った儒教論理が唱えられて重きに採用されていく。それまでの五行信仰や道教的な解釈の強かった文様が、新しい儒教精神を通して君主の清廉潔白な精神や挙動に譬えて説明されていく。  
代表的な文様  
桐竹鳳凰(きりたけほうおう)  
天皇の袍(ほう)に織り表される文様。泰平の世を治めた君主を褒め、天上から鳳凰(ほうおう)が舞い降りてくるとされる。その鳳凰は地上の梧桐(あおぎり)に栖(す)み、六十年に一度稔る竹の実を食して現世に栖まうとする。しかし、乱世と共にたちまち天上へ還るとされ、善君の世の証しとして天皇の袍に織り表されてきた。大儀には黄櫨染(こうろぜん)の袍を、小儀や行幸(ぎょうこう)には麹塵染(きくじんぞめ)の桐竹鳳凰文の袍が用いられた。後代、麒麟(きりん)を加えて桐竹鳳凰麒麟文とし、筥形の構図に纏められる。  
雲鶴(うんかく)  
雲中に高く飛ぶ鶴(つる)は、凡人より抜きんでた人格を表している。平安前期には公卿(くぎょう)や殿上人(てんじょうびと)の間で広く使われた文様だったが、平安後期から親王(しんのう)の袍(ほう)の専用文として用いられるようになる。また摂家(せっけが)太閤(たいこう)に任じられた時も使用が許された。  
臥蝶丸(ふせちょうのまる)  
男子束帯(そくたい)の直衣(のうし)や下襲(したがさね)、指貫(さしぬき)、また女房装束の唐衣(からぎぬ)、表着(うわぎ)、小袿(こうちき)に広くみられる織文で、冬の直衣の文様としてもよく知られる。四羽の蝶が羽根を広げ、臥せて向かうようなので臥蝶文と呼ばれるが、本来は宝想華文(ほうそうかもん)を並べた埋文様の一部分を切り取って拡大した図様である。下襲や指貫に浮文綾で織りだされたことから、一名に浮線綾(ふせんりょう)と呼ばれ、それが今日では一般的な呼称となっている。  
小葵(こあおい)  
平安時代に広く使用された文様で、天皇の衵(あこめ)や東宮(とうぐう)の下襲(したがさね)、女御(にょうご)の五衣(いつつぎぬ)など皇族の装束に使われ、また宮中の衾(ふすま)や几帳(きちょう)など調度にも利用された。植物の冬葵(ふゆあおい)の花葉を象ったものとされ、後世に銭葵(ぜにあおい)の花が舶載されてそれと区別するため、古葵と称したことからおこったとする。袿(うちき)や単、衵など綾織物に、また二陪(ふたえ)織物の地文様として広くみられる。  
雲立涌(くもたてわく)  
格式ある有職文様で、天皇をはじめ高位者が用いた。平安時代では摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)位の五十歳以上の人が袍(ほう)に用いた。立涌は陽性の大気が立ち上ぼる様子で、それが形になったのが雲である。近衛(このえ)家では中納言で雲立涌を用い、関白で大雲立涌を用いるとする。近世では、一条家も雲立涌文様を用いた。  
かに霰(かにあられ)  
小型の格子文様である古代の霞文様を地紋様とし、その上に水鳥の巣を真上から見た 文様を配した図柄である。平安時代では若い人の用いる文様として、表袴(うえのはかま)に浮織で表して晴の儀式に使われた。女房装束の唐衣などにも多くみられる。  
幸菱(さいわいびし)  
大と小、また陰と日向で表した唐花菱文様を巧みに配列した華やかな文様。一群に纏めた唐花菱の、その先と先の間が離れているので先間菱(さきあいびし)、またその間隙に小菱を埋めて先合菱(さきあいびし)、それが見事に満開の様子で幸菱と呼んだ。さらに先間菱を音読して千剣菱(せんけんびし)などと称する諸説がある。衵(あこめ)や単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)などの綾織物の地文様に広く用いられた。  
鳥多須岐(とりだすき)  
鳥襷文様は紫や二藍(ふたあい)の地色に、白色で浮織物に表して織られることが多く、若い高位の公達が用いる指貫(さしぬき)にみられる。奈良時代に完成した唐花飛鳥文様の、鳥部分を強調して襷(たすき)様に繋つないだ文様である。  
染め色の様々  
濃(こ)き・薄(うす)き  
紫色は高貴な色とされ、それゆえに諸色の代表として扱われて「濃き」や「薄き」とのみ称して紫色を表した。古代の五行思想では全ての色彩を含んだ重要な黒色を代行するのが紫色であり、北の中心に座して天空の回転軸である北極星の色彩だとされた。天皇が政務をとる紫宸殿(ししんでん)もそうした意味をもつ。濃きは黒みがかるほどに濃く、薄きは明るいの意の鮮やかな紫色を表す。  
黄櫨染(こうろぜん)  
天皇が大儀の際に着た袍(ほう)の服色。平安前期に纏められた『延喜式』によると、黄櫨染は蘇芳(すほう)と櫨(はぜ)、または紫根(しこん)で染めるとあって濃い黄褐色(かっしょく)の色彩である。夏の土用(どよう)に南中する太陽の燃え盛る色彩だといわれ、古代中国の五行思想の中軸をなす色彩でもある。隋朝で登用された制度だが、平安前期の『西宮記』に我が国ですでに用いられていたのが記される。天皇以外は禁色(きんじき)であった。  
紅梅(こうばい)  
紅は大陸から来た色彩で、紅染と藍染(あいぞめ)の染色法が通じることから呉藍(くれない)と呼ばれた。紅花の花弁から抽出した赤色から黄色を除いて染めた美しい濃い桃色は、奈良時代には朱華(はねず)、平安時代では朝鮮や中国渡来の色彩の意で韓紅(からくれない)と呼ばれた。また群れ咲く梅の花色に例えて紅梅とも称された。  
蘇芳(すほう)  
南方から蘇芳の木を輸入して、奈良時代から染められた色彩である。共に輸入した明礬(みょうばん)で発色させ、美しい赤紫色が平安時代の貴重な色相として位置され、貴族男性の狩衣(かりぎぬ)を始め、襲色目など殊に女性装束の配色に欠かせない重要な色彩であった。  
二藍(ふたあい)  
宮中での夏の直衣(のうし)は、三重襷(みえだすき)文様の穀織(こめおり)を二藍に染めて用いた。二藍は藍と呉藍(くれない)(紅)で交染した明るい紫色で、若向は赤味に、また宿老は青味に使い分け、紅染の持つ蛍光(けいこう)色が表面に輝いて実に華やかな紫色である。  
萌葱(あを)  
近世以前の緑色を表した色名で、春の野に萌えるような葱(ねぎ)の茎の緑色を指し、黄味の強い緑色である。別に青味の緑色を藍色や虫襖(むしあお)などと呼び、豊かな自然環境があった日本の緑色を識別し、驚くほど多彩に表現していた。  
縹(はなだ)  
青色の総称で、奈良朝以前に青色料として用いた露草(つゆくさ)の花を栽培した田の色を表している。古代の藍染は少し黄味がある冴えた青色だったが、近世以降は藍種が変って、赤味のある青色となる。  
朽葉(くちば)  
木の葉が落葉する色彩をいう。老いた枯葉の朽葉をはじめ、銀杏(いちょう)の黄朽葉、楓(かえで)や漆(うるし)の赤朽葉、青葉のまま落葉する楠(くすのき)の青朽葉と種々の朽葉色があった。奈良時代は秋の山の黄色が喜ばれ、また平安時代は里の紅葉の色が愛でられ、多様な日本の落葉の色彩が賞された。  
あを・あか  
平安時代の服色にみる「あを」「あか」とは、青白橡(あおしろつるばみ)、赤白橡(あかしろつるばみ)の略称である。青白橡は後に麹塵(きくじん)や山鳩(やまばと)色とも呼ばれ、天皇が小儀や行幸(ぎょうこう)の際に用いた袍(ほう)の色で、昼間は青黴(あおかび)の糀(こうじ)色に、また夜の燭下で赤茶色に変って見える二色性を持つ色彩である。上皇の袍の色とされる赤白橡も赤黴(あかかび)の紅糀(べにこうじ)で輝いた色彩である。  
織物の種類  
織物  
地紋織物の経(たて)糸と緯(ぬき)糸に、異なる色糸を使用して織りあげた織物のこと。綾織物の一種だが、地色と文様とが違った色で明快に表現される。二陪織物(ふたえおりもの)の地紋様などに用いられる。  
綾織物(あやおりもの)  
地経(たて)糸または地緯(ぬき)糸で地文様を織った紋織物の総称。朝服などの袍(ほう)に、また女官の儀礼服の生地として織られる。公家各家の袍や狩衣(かりぎぬ)に、また用途に従った専用の織文が作られ、それらが有職文様として成立していった。白生地で織上げ、後染をした。  
顕紋紗(けんもんしゃ)  
羅を簡略にした織物で、経(たて)糸三本を一組にして捩り織りをしたもの。私服の狩衣(かりぎぬ)に多用され、透けた地合いに不透明な文様を織りだして、裏地と対照的な配色で文様を浮き立たせて表現した。平安時代、羅で複雑な文様が織れなくなり、以降この顕紋紗が盛行する。  
浮線綾(ふせんりょう)/ 浮織物(うきおりもの)  
文様部の糸を表面に浮かして織り上げたのが浮織で、綾織物の地文様として浮織にしたものを古代では浮線綾と呼んだ。また地組織と別の色糸で文様を浮織に表したのが浮織物である。柔らかな表現で、狩衣(かりぎぬ)や指貫(さしぬき)、表着(うわぎ)など儀式や晴の時に用いられる。浮線綾はまた、特定の文様の名称としても使用されている。  
穀(こめ)  
捩り織物の一種で我が国では奈良時代からみられる。表面に米粒のような点描で表された織物で、全面にあるのを無文穀(むもんのこめ)、文様部に表したのを文穀(もんこめ)と呼ぶ。経緯ともに生絹(すずし)で織って張を持たせ、夏の料とした。殿中での夏の直衣(のうし)は三重襷(みえだすき)紋に織った文穀を用い、二藍(ふたあい)に染めた。  
二陪織物(ふたえおりもの)  
地文様を織りだした織物の上に、さらに地文様とは別の鮮やかな色糸で浮織をして、二重に文様を織りだした豪華な錦織物。そのことから二陪織物と呼ばれた。女性の正装の唐衣裳や物(もの)の具(ぐ)装束に用いられ、唐衣や表着に用いられた織物である。地文様を浮織にした浮文と、浮糸を綴じた固文がみられる。近世で唐綾(唐綺)と呼ばれる。