振袖火事

 

明暦の大火江戸三大大火振袖火事の真相
八百屋お七諸話 / お七1お七2お七3お七4
心中事件の劇化歴史に取り憑かれた鴎外淡島様八百屋お七口説き覗きからくり節
 
明暦の大火
 
明暦3年(1657)正月18日昼頃・未の刻(午後二時)、本郷丸山町本妙寺から出火、おりからのはげしい北西風にあおられて、湯島、浅草、八丁堀、佃島、まで広がった。前年の11月から80日あまり雨が降らず乾ききっていたうえに、強風に吹きたてられ、方々に飛び火したのである。 
翌19日、未明に一旦鎮火したのもつかの間、昼前に再び小石川伝通院表門下、新鷹匠町の武家屋敷から火の手があがり、北の丸の大名・旗本屋敷をはじめ、江戸城本丸・二の丸・三の丸をも焼いた。4時頃より風はますます激しくなり、中橋・京橋の町屋や四方の橋が焼け落ち、逃げ遅れた人々の累々たる屍は、南北3町、東西2町半のあいだにも及んだという。 
さらに同日夕刻、麹町5丁目の町屋から出火、山王権現、西の丸下、愛宕下の大名屋敷に延焼し、増上寺よりさらに南の芝口の海手につきあたり、燃えるものがなくなって、20日の朝鎮火した。 
この火事で、本郷から芝口までの60余町が焼け野原になった。橋は江戸中60余個所のうち、浅草橋と一石橋がかろうじて残った。土蔵は9千余あったが、災難を免れたのは1/10もなかった。死者は10万人を越すといわれ、無縁仏を弔うために建てられたのが、両国の回向院(えこういん)である。なお、本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。
 
 
伝振袖火事 
ある商人の娘に「おきく」という子がいた。その娘が花見の時に見かけた若者に一目惚れしてしまう。彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖をつくるが、間もなく恋の病に臥せったまま明暦元年1月18日、17歳で亡くなってしまう。当時、亡くなった人が生前一番愛用した衣類を、葬儀のとき棺に掛ける慣わしがあった。振袖は棺桶にかけられ、文京区本郷の本妙寺で葬儀が行われた。 
その後振袖は古着屋に売られ、別の若い娘の元に渡りる。ところが翌年の同じ日この娘も17歳で早死にし、振袖と共に同じ寺で葬儀が行われた。また古着屋を経て、次に振袖を購入した別の娘も、翌年同じ様にして早死してしまう。結果的に、同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまった。 
恐れた親たちが集まり、この着物を本妙寺で焼いて供養をしようということになった。ところが読経供養して燃やしていると、突如つむじ風が吹いて火のついた振袖は空高く舞い上がり、江戸中を焼き尽くしてしまったという。
   
明暦の大火と本妙寺 
明暦の大火は通称振袖火事とも呼ばれ、史上最大の火事で歴史上では本妙寺が火元とされている。 この火事により108000人の命が失われた。しかし、本当は本妙寺は火元ではない、幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。当時、火事が多く幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、寺に対しては一切お咎めなしであった。大火から三年後、客殿、庫裡、六年後に本堂を復興し、十年後には日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている(触頭とは幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願・諸届を上申達する役)。さらに隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から、毎年明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。 
真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。
   
振袖火事を喧伝した人 
本妙寺は明暦の大火すなわち振袖火事の火元とされているが、本当は火元ではない。史実としては本妙寺が火元であると350年経った今も信じられている。その理由は「火事は何処だ、丸山の本妙寺だ。振袖を焼いた火が本堂の屋根へ燃え移った」とされる振袖火事説が信じられているからである。誰が何のために振袖火事説を喧伝し、火元ではない本妙寺を火元であると拡めたのだろう。物の本では「火事は何処だ、丸山の本妙寺だ」との噂は忽ち江戸中や全國へ拡まったとされている。単に口さがない人々の噂が何処からともなく拡まったとは考えられない、誰かが意図的に喧伝したものと考えざるを得ない。
  
 
当時はまだ火事に関するかわら版はなかったようである。当時、江戸は火事が多く、火事の火元は厳重にその責任を問われ厳罰に処せられた。多くの大名屋敷や寺社が大火後、防災上の都市計画のためとの理由で、場所を移転させられている。にもかかわらず、本妙寺に何の咎もなく、数年後もとの場所へ復興している。 
本妙寺に阿部家に代わって火元の汚名をかぶるように要請したのが幕府である。火元ではない本妙寺を火元であると喧伝しても、本妙寺から異議が出ないことを知っていたのは幕府だけであると言える。ここがチエ伊豆といわれた筆頭老中松平伊豆守がその本領を発揮したところではないだうか。幕府は混乱が静まって世間が火元の詮索を始めて、本当の火元である阿部家の名前が出ることを阿部家以上に恐れたわけである。阿部忠秋の老中という幕府の中枢の立場から、火元とあっては幕府の威信の失墜につながり、江戸復興等の政策遂行に支障をきたすからである。幕府は本妙寺の応諾があるや否や、火元は丸山の本妙寺だと喧伝に全力を注いだわけである。振袖火事説は後世の作り話とはされるが、信じられていることから、当初から幕府によって「振袖云云」の理由は言われていたと考えるのが妥当である。
   
明暦の大火は放火? 
放火説の根拠は、大火以前の江戸は都市として限界の状況にあり、大火後に復興都市計画が見事に実行されたことにある。当時の江戸には放火がしばしばみられたことも放火説が出されるゆえんである。 
江戸は堅固な江戸城、城周辺の譜代・外様を意識した武家屋敷と寺院の配置、河川への架橋の禁止、92門といわれる城門など、軍事都市であった。大火以前急速に膨張しており、創設期の軍事優先の都市計画では対処できないところまできていた。大火の前年、遊郭吉原の日本橋人形町から浅草への移転が考えら、幕閣が江戸の改造に乗り出そうとしていた。 
封建時代とはいえ都市の改造には、説得と補償問題など時間を必要とするものごとがからみ、容易でないことは明白であった。外様大名の屋敷は動かせても、譜代・御三家や幕府首脳の屋敷、格式ある寺院の移転は至難のことと思われ。幕府は公共の理由で土地を収用した場合は代替地を支給し、時に移転費用を支出していた。大火災は大きい犠牲を伴うが、見方によれば都市改造を一挙におこなう格好の機会でもある。ここに幕府発案による「放火説」が浮上する因がある。 
大火を機に江戸の都市は整備され、区画整理や神社仏閣の移転、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われた。江戸城を防備するため隅田川には千住大橋しか架けられていなかったが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人が多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられた。焼失した江戸城の天守閣は、町民の復興を優先させたため復元されることはなかった。
   
明暦の大火後の下町(墨田区・江東区) 
市街地拡張のために移転されたものに吉原がある、それまでは今の人形町あった。浅草には多くの寺院も移転し、結果的に繁華街として賑やかになったのも火事のおかげといえる。馬喰町にあった西本願寺は築地に移転し、現在の築地本願寺となる。馬喰町の広大な跡地には街ができ発展し、浅草橋、馬喰町の問屋街もこの移転がなければ存在しなかった。 
防災用に広小路がつくられ、東日本橋あたりには両国広小路ができた。現在の両国橋の西側の袂のあたり、広いスペースには見せ物や芝居、屋台が賑わい、江戸有数の盛り場となった。両国広小路がなかったら、両国、東日本橋、浜町などの隅田川周辺は、現在もっと寂れてたと思える。 
墨田区・江東区にとってこの火事はとても重要な役割を果たした。本所方面に逃げられずに焼け死んだ人たちが多かったことから、隅田川に両国橋が架けられた。隅田川の東側への行き来が楽になり、流通が盛んになり土地も栄えた。それまでの墨田区・江東区は野っ原の村ぐらいしかなかった。火事で亡くなった10万人以上の屍を弔うため大きなお寺が必要となり、幕府は両国に回向院を建立した。たくさんのお参りに両国地域は栄えた。回向院では勧進相撲を行うようになり、時代を経てこの地には日本相撲協会ができ、国技館ができた。
  
火災後に市街地拡張のため、今の中央区新川にあった霊岸寺が江東区白河に移転してきた。大きなお寺はそれだけでひとつの街をつくり、門前町と言われる。霊岸寺もそんなお寺で江東区白河に街ができた。現在の白河という地名そのものが、霊岸寺から由来してる。霊岸寺が白河藩主・松平定信の菩提寺であったため、白河が地名となった。 
大火後、急速に江東区あたりは埋め立てが進む。それまで現在の葛西橋通りあたりから南はほとんど海で、人を分散させるためには土地が必要だった。富岡八幡宮のお祭は明暦の大火以前からあったが、火事を境に埋立地に人がたくさん移り住んできたためか活気が増した。 
一番大きい影響は木場の移転、日本橋にあった木場は江東区の佐賀に移った。火災があっても燃えない郊外に移された。有名な材木問屋・紀伊国屋文左衛門は江東区に住んでいた。冬木って地名があるが、江戸時代そこに冬木屋という材木商があったからである。
   
江戸三大大火

 

江戸時代264年の間に、なんと100回以上もの大火があったという記録が残っている。特に日本橋、京橋などは2-3年に一度は大火にあい、街道の出発点として有名な日本橋は10回も焼け落ちたという。
  明暦の大火 
1657年(明暦3年)1月18日本郷5丁目(現在の文京区本郷)の本妙寺から出火。火は2日間燃えつづけ、江戸のほとんどを焼きつくした。10万人以上の死者がでたという。同じ振袖を着た娘が3人も続けて病死したので、その振袖を焼こうとし、火のついた振袖が舞い上がって寺に燃え移ったので「振袖火事」ともいわれている。この火事の後、幕府は「定火消」という消防組織をつくり、さまざまな防火対策をとった。火が燃え広がるのを防ぐために町の処々に火除地(空き地)や火除土手をつくり、道の幅も広くした。商店などは燃えにくい土蔵造りにすることを進め、町には火の見やぐらをつくり、防火用水を置くようにした。
  目黒行人坂(ぎょうにんざか)大火 
1772年(明和9年)2月29日、目黒行人坂(現在の目黒区下目黒1丁目付近)の大円寺から出火。麻布から江戸城周辺の武家屋敷を焼きつくし、さらに神田、千住方面にまで広がっ。死者約1万5000人。火事の原因は坊さんの放火によるもので、犯人は「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改役・長谷川平蔵に捕らえられ、火あぶりの刑になった。
  丙寅(ひのえとら)の大火 
1806年(文化3年・丙寅の年)3月4日、芝・車町(現在の港区高輪2丁目付近)の材木屋付近から出火。おりからの激しい南風にあおられ、たちまち燃え広がり、京橋、日本橋のほとんどを焼きつくし、神田、浅草まで広がり、江戸の下町530町を焼く大火となった。死者約1200人。焼け出された人を救うため、幕府は御救小屋(おすくいごや)を建て、多数の人が仮の宿と食事をすることができた。
 
振袖火事の真相
 

 

大火後の本妙寺の復興振りは正に目覚しい。すべてに厳罰主義に徹した幕府のこの厚遇は、粉飾的なる振袖の話による原因が大火の真相とは、とても思えない。何故に例外ともいえる穏当な処分がとられたのであろうか深い疑問を残す。この明暦三年正月一八日の天気の記録は、朝から強い風が吹いていたことが明白である。関東の空風は黄塵天を覆って昼なお暗くなる程で、このような日に火を燃すが如き不謹慎な行為はあり得ない。本妙寺の門前には加賀前田家があり、周辺には寺院及び大名屋敷が立ち並んでいた。 
本妙寺の寺報によると、大火の翌年から老中阿部忠秋より数表(十五俵)の米が、大火の回向供養料にと本妙寺に届けられている。阿部家は本妙寺の近隣に住んでいたが檀家ではない。また供養料にと言うのであれば、この大火の為に幕府が建立した回向院がある。にもかかわらず、この供養料の行為は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ、大正十二年九月の関東大震災に至って終了している。本妙寺に対して阿部家は、実に約二百六十余年にわたって供養料を送り続けた 。
 
阿部家は出火となるや家臣を走らせて、火元は本郷の丸山本妙寺であり、供養の為に振袖を燃したところ本堂の屋根に燃え移ったのである、と江戸中に触れ、誰疑うことなく噂は拡まった。重大な 事をただすため久世大和守広之が本妙寺の僧侶に面接したところ、以外にも近辺の老中阿部忠秋の屋敷より出火した事がわかり、思いもよらぬ此の真相に広之は愕然とし、直ちに松平伊豆守に相談した とある。拡まった噂「振袖火事」説は、出火の責任を本妙寺へ押し付けるために阿部家が捏造して触れまわったものであるとされている。近年では振袖火事説は後世の作り話というのが識者の間では通説である。 
杉山氏の言われる、出火と同時に阿部家が火元は本妙寺だと触れまわり、それが拡まったものであると仮定して考えてみるに、客観的にみて、出火と同時に江戸中へ「火元は本妙寺だ」などと触れまわることがあの大混乱のなかで、はたして可能であったであろうか。しかも、あの咄嗟の時に、供養の為に振袖を燃したところ、その火が本堂の屋根に燃え移ったのである等と、もっともらしい理由までつけて触れまわることなど不可能であろう。たとえ触れまわり、それが拡まったものと仮定しても、杉山氏自身述べられておるように、寺僧に糺せば真相は直ぐ判明することであり、阿部家が一存で一方的に本妙寺へ火元の責任を押し付けたとあっては、本妙寺には久世大和守、大久保一族等譜代の直参旗本の檀家が数多くおり、それ等を含め壇信徒が黙っているはずがない。また、阿部家がそのような卑劣な愚挙を犯すとも考えにくい。物の本によれば阿部忠秋なる人は信望のある人格者であった由である。以上の理由により阿部家が、一存で出火の責任を本妙寺へ押し付けたものであるとの杉山氏の説には賛成しがたい 。
 
しかし、この大混乱の緊急状態下においては、忠秋の責任追求よりも、まず三老中が一体となって幕府の威信をしめし、動揺を見せずに江戸を復興することが先決問題であり、本妙寺も久世大和守広之よりこの事情を聞かされて火元の汚名をかぶり、阿部一門を救ったのだった。この故に本妙寺の復興には老中松平や阿部、そして久世らの幕閣の大きな支援があったわけである。 
この意見に関しては杉山氏と同感である。大火の処理にあたっては、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守等が中心となって協議の結果、この大災害が阿部家の失火が原因とあっては、阿部忠秋が老中という幕府の中枢にあることを考えると、大衆の怨恨の的になることは必至であり、ひいては幕府の威信の失墜は免れず、以後の江戸復興等の政策遂行に重大な支障を招く結果につながりかねない。阿部家の責任を追求するより、大混乱を静め、江戸を復興させ、幕府の威信を保つことが大切であるとの結論にたっし、阿部家と隣接して風下にあった本妙寺に理由を説明して、阿部家に代わって失火の火元という汚名を引受けることを要請し、本妙寺も幕府の要請に応じて火元の汚名を引き受け、幕府の威信の失墜を防ぎ、その後の政策遂行に支障をきたさないよう協力し、ひいては、阿部一族を失火の責任から救うという結果につながったわけである。
 
260余年に及ぶ阿部家からの大火の回向供養料は、名目は回向供養料ではあったが、本来は火元の汚名をかぶり、阿部一族をその責任から救ったお礼と解するのが妥当である。それ故本妙寺に対しては一切お咎めなしで、大火後に、多くの大名や寺社が都市整備改造のため移転させられているにもかかわらず、本妙寺は移転せず、数年にして元の地に復興し、その復興に際しては、松平、久世等幕閣の支援があったわけで、異例の「触頭」への昇格もまた頷けるわけである。 
近年における明暦大火に関する推理、論争にもこの大火の裏には何かのかたちで幕府が絡んでいるということは窺えるわけで、さらに突き進んでそれ以上ということになると謎につつまれてしまう。この裏には本妙寺が火元の汚名をかぶるという犠牲において、幕府の威信の失墜を防ぎ江戸復興のための政策遂行に支障をきたさないために大きく貢献し、結果として老中阿部忠秋を失火の責任から救ったという隠された事実があったわけである。 
ちなみに、出火原因は、当日は朝から強風が吹き荒れていたので、阿部家では雨戸を閉めていたため屋内が暗く、女中が手燭を持って歩行中に躓いて転倒し、手燭の火が障子に燃え移ったのが原因と伝えられている。 
本妙寺HP資料抜粋 / 当山第四十世/村上日宣上人(昭和43年3月晋山、昭和2年4月19日遷化)が「もはや三百年も経ち、誰にも迷惑はかかることもなく、時効であろう」として寺報で発表 した「明暦の大火火元の真相」にもとづく、本妙寺檀徒/杉山繁雄/「振袖火事の真相」(「大法輪閣発行の大法輪、昭和58年1月号」) の解釈

 


    
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 
  
八百屋お七1 (天和の大火)

 

天和二年(1682)暮、火事で焼け出された八百屋の娘お七は身を寄せた駒込の寺小姓に恋をする。店が再建され家に戻ったお七は寺小姓に対する思いが募り、ため息の毎日。そこで思いついたのが、もう一度火事になり焼け出されたら、あの寺小姓にまた会えると思い火をつける。髪を乱し着物を乱しながら火のみ櫓に登り、愛しい男のいる駒込方向を見て半鐘をたたく哀れなお七の姿が描かれた浮世絵がある、八百屋お七の悲恋物語は後に芝居と成って今に語られる。
戒名    妙栄禅定尼  
辞世の句 世の哀れ春吹く風に名を残し おくれ桜の今日散りし身は 
死んで花実が咲くものか  
ねんねねんねと 寝る子はかわいい  
起きてなく子は つら憎い  
うちのこの子は 今寝るとこじゃ  
だれもやかまし 言うてくれな  
だれもやかまし 言わせんけれど  
守(も)りがやかまし 言うて起こす  
七つ八つから 奉公(ほうこう)に出して  
親の権利(けんり)が どこにあろ  
死んでしまいたや この世の中は  
死んで花実が 咲くものか  
死んで花実が 咲くものならば  
八百屋お七は なぜ咲かぬ 
 
八百屋お七2

 

寛文8年(1668)?-天和3年3月29日(1683/4/25)江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太兵衛の養女となった。お七は1682年(天和2年)12月の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(左兵衛とする説も)と恋仲となった。翌1683年(天和3年)、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で、捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。 
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため奉行が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いた(15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない)が、彼女は正直に16歳であると主張し、お宮参りの記録を証拠として提出した程だったという。 
お七処刑から3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の「八百屋お七」、菅専助らの「伊達娘恋緋鹿子」、為永太郎兵衛らの「潤色江戸紫」、鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用された。芝居では寺小姓と再会するため、火の見櫓の太鼓を叩こうとする姿が劇的に演じられる場面が著名。
 
八百屋お七3

 

「火事と喧嘩は江戸の花」などと申しますが、天和3年(1683)春の火事で、放火の罪により死刑(火刑)に処せられたのが八百屋お七で、実話です。 
江戸は本郷の八百屋の娘であったことから八百屋お七というのですが、放火の罪というのは、当時の木造住宅中心の江戸にあっては殺人罪よりももっと重い罪だったようです。 
歌舞伎や人形浄瑠璃でも、この八百屋お七を題材とした作品が沢山作られました。代表的なのが「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」というお芝居ですが、美しくなければならない芝居の世界での八百屋お七のイメージは、放火ではなく火の見櫓に登って太鼓(半鐘)を打ちならす(これも大罪です)無分別だが可憐な町娘として描かれているのが一般的のようです。  
江戸時代では、主として防犯上の理由からでしょうが、夜になってある時刻を過ぎると、町々に設けられた木戸を閉じて人の往来をストップさせていたそうです。そして例外的に、閉じられた木戸を開けるのは「火事」のときだけだったのです。 
八百屋お七は、恋人である寺小姓・吉三郎に逢いたいが故に、禁を犯して火の見櫓に登り半鐘を打つのです。火事だと木戸番が誤解すれば、木戸は開いて恋人に逢いに行けるのです。動機は燃える恋だったのです。お七にとっては、それがどんな結果を齎(もたら)すのか考える余裕がないほど思いつめていたのでしょう。 
歌舞伎では、恋に関しては男よりもむしろ女の方が積極的のようです。古来、大和撫子という名に象徴される日本の女性は、恋に関しては控えめというか、男性の方から誘われるまで待つというのが美徳であると、私なども古い人間ですから思っていたのですが、歌舞伎を見ている限りどうもそれは違うんじゃあないかと思うことしばしばです。 
お七に限らず、あの「三姫」の八重垣姫も恋人・勝頼に対し積極的に恋を仕掛けます。時姫は、恋人をとるか自分の父親をとるかを迫られたとき迷うことなく恋人を選択しています。揚巻だって助六は自分の間夫(まぶ)であると白昼堂々と広言して憚りません。歌舞伎に登場する女性たちは、おしなべて皆力強いのです。こんなこと言うとお叱りを頂戴しそうですが、世の独身女性たちは歌舞伎に登場する女の生きざまを見習うべきかも知れません。 
なお、八百屋お七を「櫓のお七」とも呼びますが、既にお分かりのように火の見櫓に登るお七だからです。 
余談ですが、当時の江戸は人口100万人を超える世界最大の木造建築都市であり、世界一火事に弱い都市だったようです。江戸時代に記録に残る火事は、御府内だけで1500件を超えるといわれ、江戸三座や吉原遊郭が全焼した回数は、20回を超えているかもしれません。 
明暦3年(1657)の振袖火事、安永元年(1772)の目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)火事、文化3年(1806)の芝車町(しばくるまちょう)火事は、「江戸三大大火」として知られていますが、とりわけ被害が大きかったのが明暦の大火です。 
正月18日、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼(せがき)に焼いた振袖が、折りからの強い風に煽られて舞いあがったのが原因で、俗に振袖火事とも言われていますが、この火事による被害は、江戸城本丸、二の丸、天守閣をはじめ、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺社350、橋60、蔵9000に及び、焼失した町数は400余、死者は10万人を超えるという、まさに日本史上最大の火事だということです。
   
八百屋お七4

 

(寛文8年-天和3年 1668?-1683 生年・命日に関して諸説ある) 江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な文芸・演芸において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。  
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。  
お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。  
『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年〈1683年〉)のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。  
多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品もある。
実在の人物としての「八百屋お七」  
古来よりお七の実説(実話)として『天和笑委集』と馬場文耕の『近世江戸著聞集』があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない。歴史史料として戸田茂睡の『御当代記』の天和3年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない。  
東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している。  
しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女性が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった女性はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている。  
御当代記  
天和3年の記録に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている『御当代記』の著者戸田茂睡(1629-1706)は歌学者として知られ「梨本集」などの著作がある。実家は徳川忠長に仕える高禄の武家だったが、忠長の騒動に巻き込まれて取り潰されて大名家預かりの身になり、その後許されて伯父の家300石の養子になって仕官し、1680年ごろに出家して気ままな暮らしに入っている。御当代記は五代将軍徳川綱吉が新将軍になった延宝8年(1680年)から茂睡が亡くなる4年前の元禄15年(1702年)までの約22年間の綱吉の時代の政治・社会を、自由な身で戸田茂睡自身が見聞したことを記録していったもので、子孫の家に残され発見されたのは天保年間(1830年代)になってからだが、信憑性の高い史料とされている。御当代記は日記のように毎日記録していったものではないが、事実を時間の経過を追って記録しているものである。  
天和笑委集  
天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説(実話)とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの巷説を含むものとされている。全13章からなり、第1章から第9章はこの時代の火災の記録、第10章から第13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は第11章から第13章で語られ、全体の1/5を占めている。第1章から第9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった事件や少年喜三郎が主人の家に放火した事件を書いた第10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている。  
近世江都著聞集  
近世江都著聞集は講釈師馬場文耕がお七の死の74年後の宝暦7年(1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた。近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる。近世江都著聞集は、その写本が収められている燕石十種第五巻では序文・目次・惑解析で4ページ、本文は11巻46ページほどの伝記集で、その46ページのなかで八百屋お七の伝記は最初の1巻目と2巻目の計8ページほどの極めて短い作品である。近世江都著聞集の惑解断と2巻目末尾で文耕は「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」としている。お七の恋人の名を吉三郎とする作品が多いが、自分(文耕)以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に配慮して、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのであり、また実在する吉祥寺の吉三道心という僧をお七の恋人と取り違えている人もいるがまったくの別人だと言う。文耕は本文2巻目末尾で自信満々に「この本こそが実説(実話)だ」と述べているが、しかし、その割にはお七の事件の約40年前に亡くなっている土井大炊頭利勝を堂々と物語に登場させたりしており、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がないとされている。
創作作品における「八百屋お七」  
現代、多数ある八百屋お七物語の作品に大きな影響を与えた初期の作品として井原西鶴の『好色五人女』や実説とされてきた『天和笑委集』、『近世江都著聞集』があり、また西鶴から紀海音を経て現代の歌舞伎に至る浄瑠璃・歌舞伎の流れも現代の文芸に大きな影響を与えている。大まかには初期の作品はお七の悲恋物語で吉三郎の占める割合は低く、後年の文芸作品でもその流れを汲むものは多いが、後年の特に演劇作品を中心したなかには、吉三郎を身分の高い侍としてそれにお家騒動や重宝探しあるいは敵討ちといった吉三郎に関する要素を絡めていき、逆にお七の放火や火あぶりといった悲恋の要素が消えていく系列作品群が見られるようになっていく。  
この節では『好色五人女』、『天和笑委集』、『近世江都著聞集』のあらすじと、浄瑠璃・歌舞伎の流れ及び現代演じられている歌舞伎の八百屋お七作品のあらすじなどを記載する。  
井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」  
井原西鶴『好色五人女』はお七の事件のわずか3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い。西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される。  
(あらすじ)師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するが、時節を得ずに時間がたっていく。正月15日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と2人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という。「おれも長老様は怖し」という。』という西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられる。八百屋の新宅が完成しお七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののちになかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが、近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎はこのとき病の床にありお七の出来事を知らない。お七の死後100日に吉三郎は起きれるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得されて吉三郎は出家し、お七の霊を供養する。  
近世江都著聞集  
近世江都著聞集は古来より実説として重んじられ、文芸作品にはその影響を受けたと考えられる作品は多数ある。江戸時代にも狩野文庫『恋蛍夜話』や曳尾庵 著『我衣』を代表にして石川宣続、小山田与清、山崎美成、乾坤坊良斎、加納徳孝、純真らの作家が近世江都著聞集を下地にしたと思われる作品を書き、近代でも水谷不倒、三田村鳶魚、昭和に入っても藤口透吾や多岐川恭などが近世江都著聞集を下地にして作品を作っている。成立がお七の死後74年たった後であり、既に西鶴や海音など多くの作品が世に出ており、文耕の近世江都著聞集はそれらの作品からさまざまに取捨選択し創作を加えて面白い作品に作り上げたと考えられている。ただし、面白いものの前述のように現代ではストーリーに信憑性はまったくないものとされている。  
(あらすじ)元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され、小石川円乗寺に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)。お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」と言い、中山に「15歳以下ならば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調べよ」と命ずる。土井大炊頭の意を汲んで、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。  
天和笑委集  
天和笑委集は他の作家への影響力と言うことでは西鶴や文耕には及ばないが、種彦や豊芥子などの評論などによって各種の作品の中では事実に近いであろう物として評価されている。現在でもお七の真実を探ろうとする黒木喬などのように天和笑委集をその解析の中心におく専門家もいる。  
(あらすじ)江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心引かれ、お七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き下がった。翌朝、ゆきはまだ早い時間に寝むる両親の部屋にお七をこっそり帰したので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿に帰る。帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが、近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい男達が来て、得物を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。
演劇作品  
小説などの文字による作品では「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」と徹頭徹尾「火」にまつわる恋物語である。しかし、江戸時代中期、安政2年 (1773年)の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』でお七が火の見櫓に登って半鐘を打つ設定になり、やがて半鐘は歌舞伎では太鼓に代わる事もあったものの、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)などの見せる作品では、八百屋お七といえば火の見櫓にのぼる場面が大事な見せ場になり、放火などはしなくなる。当時、木造家屋が密集している江戸は火事が多く幕府も放火には神経を尖らせていた。また、芝居小屋自身も火災に会うことが多かったので放火の演出は避けたかったのだろうと推測されている。また、技術的にも陰でこそこそ行う放火の舞台演出は難しい。しかし、お七と火を完全に切り離す事もできない。そのぎりぎりの接点が火の見櫓であったのだろうと考えられている。  
歌舞伎『八百屋お七歌祭文』  
歌舞伎では宝永3年(1706年)にお七の芝居として初めてになる『八百屋お七歌祭文』が上方で上演されている。初代嵐喜世三郎がお七を演じて大評判になり、さらに江戸でも嵐喜世三郎がお七を演じていることは伝えられているが、この作品の内容については現代ではほとんど分からない。この作品が上演された1706年の時点では櫓に登るお七は着想されていない。  
浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』  
浄瑠璃でもお七物の作品は多数あるが、もっとも影響が強かったのがお七の死の30数年後の正徳5年(1715年)から享保初年(1716年)ごろに成立した紀海音の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である。紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている。海音のお七では吉三郎は千石の名の知れた武士の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人万屋武兵衛が恋心を抱いている。火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが、海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は、武兵衛との結婚を願う母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は、吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに半狂乱になり、家が焼けたら吉三郎のもとにいけると火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれる。西鶴が出家させた吉三郎を、海音はお七の処刑の直前に刑場で切腹・自殺させてしまう。  
浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』  
浄瑠璃では紀海音以降、『八百屋お七恋緋桜』に手を加えた作品が続出するが、安永2年(1773年)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに吉三郎の危機を救うため火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸「火の見櫓の場」を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番になっている。  
歌舞伎『八百屋お七恋江戸紫』  
明和3年(1766年)三世津打治兵衛の同名題の作品を安永7年(1778年)桜田治助が改作した狂言歌舞伎で、浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』の発案を下地にはしているものの、設定を大胆に変更し喜劇仕立ての八百屋お七になっている。お七を吉祥院の天女像そっくりの美人とし、天女像とお七を入れ替える事から通称「天人お七」とも言われる。この八百屋お七恋江戸紫は興行的に大変に当たったので、これ以降は歌舞伎で八百屋お七といえばこの「八百屋お七恋江戸紫」か、もしくはそれを改作した系列作品ばかりが上演されるようになる。『八百屋お七恋江戸紫』を改作した福森久助作『其往昔恋江戸染』は現代のお七として定着している。時代もこのあたりまで来ると、歌舞伎の八百屋お七と西鶴の八百屋お七とはストーリー上の共通点はまったくなくなり、恋人の名と寺の名だけが共通となる。  
歌舞伎『松竹梅雪曙』  
前述したように、浄瑠璃の菅専吉らの新機軸「火の見櫓に登るお七」を歌舞伎でも取り入れて『八百屋お七恋江戸染』及びその改作の福森久助作『其往昔恋江戸染』(文化6年〈1809年〉)が上演されるが、さらに作家黙阿弥が安政3年(1856年)火の見櫓の場面を舞踊劇にした歌舞伎『松竹梅雪曙』を書き、これが現代でも上演されている『櫓のお七』の外題である。この松竹梅雪曙に四代目市川小団次が人形振りを取り入れた。そもそもの『其往昔恋江戸染』は多数の場に分かれていたが、現代(1986年)国立劇場でも演じられている松竹梅雪曙では「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕物で、構成・ストーリーは後述の松竹梅湯島掛額とほぼ同じである。  
櫓のお七  
現代では文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎では喜劇仕立ての歌舞伎『松竹梅雪曙』/『松竹梅湯島掛額』以外には八百屋お七が全幕で上演される事は少なく、『伊達娘恋緋鹿子』を黙阿弥が改作した『松竹梅雪曙』の「火の見櫓の段」だけを一幕物『櫓のお七』として上演する事が多い。また、日本舞踊でも『伊達娘恋緋鹿子』の櫓の場を舞踊劇にして踊られている。  
人形振り  
歌舞伎の「火の見櫓の段」(一幕物では『櫓のお七』)において、前半のお七と下女お杉の場面では、お七を演じている役者は普通に人間として演じている。しかし、お杉が主人に呼ばれお七が一人になるところから、黒衣が二人もしくは三人出てきて役者の後ろに付き、お七を演ずる役者は人形のような動きで演じ踊るようになる。これを人形振りという。黒衣は人形を動かしているかのように振舞う。お七役の役者は人間でありながらあたかも操られている人形のように手や首を動かす。これは様式美を追求し追い詰められたお七の姿を表しているのである。文楽を取り入れたものだが、追い詰められたお七の心を描くには、人形の誇張の動きが適しているからだと言われている。  
歌舞伎『松竹梅湯島掛額』  
松竹梅湯島掛額は福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院お土砂の場」と、河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた2幕物で松竹梅湯島掛額の1幕目の「吉祥院お土砂の場」は歌舞伎では珍しいドタバタ喜劇であり、アドリブも多い。八百屋お七物の全幕物のなかでは松竹梅雪曙とこれが現代(21世紀初頭)上演される数少ない全幕物の八百屋お七である。  
松竹梅湯島掛額/松竹梅雪曙は通称「お土砂」と言われるが「お土砂」は大事な小道具で、お土砂は真言密教の秘密の加持を施した砂でこれを死体にかけると死体が柔らかくなると言われている。この物語では生きた人間にお土砂をかけるとかけられた人間は体が柔らかくなり力が抜けて「ぐんにゃり」となってしまうことになっている。また、主役がお七と吉三郎ではなく、紅長こと紅屋長兵衛とお七である。  
(吉祥院お土砂の場のあらすじ)幕が通常とは逆に上手から開く。舞台は鎌倉時代の江戸の町。江戸に木曽義仲が攻めてくるともっぱらのうわさで人々は駒込・吉祥院に避難してくる。吉祥院は本堂の欄間の左甚五郎作とされる天女像で有名で天女は美しく、また八百屋の娘お七は天女そっくりの美人である。町の娘達の人気者の紅屋長兵衛(紅長・べんちょう)はお七ととても仲のよい紅売り(化粧品売り)である。吉祥院の寺小姓吉三郎に恋するお七は吉三郎と夫婦になりたいと母に願う。しかし、釜屋武兵衛から借金しているお七の家は、返済の代わりにお七と武兵衛の縁談を進めていると言われたお七は悲しみ、紅長が慰める。そこに吉三郎の家来の十内がやってきて、吉三郎の帰参がかなって国許に帰り家老の娘と結婚するのだと言い、お七はまた悲しみ、紅長が慰める。母は十内にお七と吉三郎の結婚を願うが、身分違いでとんでもないと断られる。そこに吉三郎がやってくるが、実は吉三郎は宝刀「天国の剣」を探さなければならない身でその期限もせまっている。吉三郎は十内に女にうつつを抜かしている場合ではないと怒られる。釜屋武兵衛に案内されて源範頼公の家来長沼六郎がお七を探しにやってくる。源範頼公がお七の美しさを聞いて愛妾にしたがっているのだという。長沼六郎にお七の居場所を問い詰められた寺の住職は困るが、紅長の発案で欄間の天女像を外してそこにお七を入れる。長沼六郎は欄間の天女像の美しさに感心するが実はそれがお七本人だとは気が付かない。その騒ぎを聞いて吉三郎がやってくるが、紅長のお七への入れ知恵によって、吉三郎はお七と夫婦になる約束をさせられる。さて、長沼六郎と釜屋武兵衛はお七を探して寺中を調べるが、お七は死んだと聞かされる。長沼六郎と釜屋武兵衛は疑い、やってきた棺桶の中を調べるが、棺桶から出てきたのは死者に扮した紅長。大の字で立ちはだかる紅長が釜屋武兵衛を張り倒し、釜屋武兵衛が紅長にかけようとした「お土砂」を奪って逆に釜屋武兵衛にかけると釜屋武兵衛は「ぐんにゃり」となる。紅長は長沼六郎たちにもお土砂をかけてぐんにゃりとさせて、お七と下女お杉を逃がす。調子に乗った紅長は舞台上の人々に楽しそうにお土砂をかけてお七とお杉以外の登場人物や舞台の裏方たちをぐんにゃりとさせる。そこにハプニングがおこり洋服の観客が舞台に乱入してくる。観客を引き止めに劇場の女性従業員も舞台に上がる。紅長は観客や女性従業員にもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。さらに紅長は下手から幕を引きに来た幕引きにもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。幕引きまでぐんにゃりさせた紅長は楽しそうに自ら幕を引く。  
(火の見櫓の段のあらすじ)(場面の前提。吉三郎は主君の宝刀を見つけられなかったことで明日にも切腹となることになり、それを聞いたお七は嘆き悲しむ。その宝刀を自分の家に来ている武兵衛がもっていることを知ったお七は吉三郎のもとに行きたいが、夜間の事ゆえ町の木戸は固く閉まっている。今夜の内に宝刀を取り戻さないと吉三郎の命は救えない。)  
お杉とお七は町の木戸を開けてくれるよう番人に頼むが、夜は火事のとき以外は開けられないと固く断られる。目の前に火の見櫓はあるが、火事でもないのに火事の知らせの太鼓(あるいは半鐘)を打つのは重罪であるとお杉は恐れる。やがてお杉は主人に呼ばれる。一人になったお七は決心し櫓に登って太鼓を打つ。太鼓を聞いて木戸が開く。そのときお杉が宝刀を取り返してくる。追ってくる武兵衛をお杉が阻止している間に宝刀を持ったお七は木戸を通って吉三郎のもとに走っていく。2幕目は通常のように下手から幕が開く。  
三人吉三廓初買  
歌舞伎『三人吉三廓初買』、通称『三人吉三』は同じ名を持つ三人の盗賊がおりなす物語。「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で……(中略)こいつぁ春から縁起がいいわえ」と有名な台詞を朗々と唄い上げる女装の盗賊「お嬢吉三」は八百屋お七の見立て(パロディ)である。序幕で「八百屋の娘でお七と申します」と名乗り、大詰では、お嬢吉三が櫓に登って太鼓を打ち、木戸が開いて櫓の前に三人の吉三が集合する。三人吉三は役人に取り囲まれて自らの悪行に観念する。パロディであっても歌舞伎のお七物では振袖姿で櫓に登り太鼓を打つのが「お約束」。
落語  
落語で八百屋お七物にはいくつか有り、名人十代目桂文治などによって知られている噺では、お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じだが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がる。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせる。しかし、お七が正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなる。死後にお七は幽霊となり人々を悩ます。それを聞きつけて来た武士に因縁つけて逆に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士に一本足でどこに行くかと聞かれて答え「片足ゃ、本郷へ行くわいな」の台詞で締めくくる。  
別の八百屋お七物は「お七の十」の通称で知られていて、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というネタがつく噺もある。
漫画『ガラスの仮面』  
漫画『ガラスの仮面』では劇中劇で櫓のお七の場が取り上げられる。北島マヤ演じるお七は町に火をつけ櫓に登り、燃え盛る町を見下ろしながら半鐘を打ち鳴らす。燃え盛っているのは家屋ばかりではない。お七の心にも自分自身にはどうにも出来ない恋の炎が燃え盛り、燃え尽きる町を見ながらお七の心も燃え尽きる。
 
心中事件の劇化

 

貞享2年(1685)に井原西鶴によって書かれた「好色二代男」の巻八「流れは何の因果経」の項に、その頃大阪新町遊郭(公娼)にて心中沙汰を引き起こした遊女の名前を次のように列拳している。  
「我がふる里のみしりし女郎計、詠めける久代屋の紅井、紙屋の雲井、京屋の初之丞、天王寺屋の高松、和泉屋の喜内、伏見屋の久米之介、住吉屋の初世、小倉屋の右京、拍屋の左保野、大和屋の市之丞、新屋の靫負、丹波屋の瀬川、野間屋の春弥、新町ばかりも是なれば、外は貌も見知らず、名も覚えず。扠もおそろしき事かな。半時は程は血煙立て、千種を染めしか、夜明けて見るに、影も形もなかりき。されば此おもひ死を、よくよく分別するに、義理にあらず、情にあらず。皆不自由より無常にもとづき、是非のさしずめにて、かくはなれり。其のためしには、残らずはし女郎の仕業なり。男も名代の者はたとへ恋はすがるとても、雲井は大夫職にしてかかるあさましき最後、今に不思議なり、兎角やすものは銭うしないと申せし」  
新町だけても僅かの間にこれだけの心中が起きていることから見て、大阪の各所に散在する遊所(私娼窟)でも同様な事が多発していたと推測出来る。又、西鶴も心中の大半は安女郎と名も無い庶民とのもので、義理や人情からではなく、借金にて身を縛られた不自由からの脱却と現世への無常が原因によると書いている。だから、最高の大夫という地位に居て、身を縛られているとは云え栄華な生活を約され、身請けのチャンスのある雲井が心中したことが解せぬと云っているのである。  
この内に名前の出て居る大和屋市之丞の心中事件は、こぜの長右衝門と生玉にて天和3年(1683)5月17日に発生したもので事件後直ちに芝居に取り上げられ、大阪の3芝居にて「生玉心中」と云う外題にて競演された。伊原青々園著「歌舞伎年表・第一巻」には、この「生玉心中」が心中物芝居の本邦初と記している。この生玉というのは生玉神社の事で、この境内では後に多くの心中事件が起きている。  
天和年間の頃から上方では何故か心中事件が多発するようになり、中でも興味をそそる心中は速報性を旨とする人形浄瑠璃や歌舞伎狂言に格好な材料を提供する結果となった。  
「生玉心中」に続いて歌舞伎狂言に取り上げられた心中事件は、元禄8年12月7日(1695)に起きた世に言う「三勝半七の心中」である。この事件は「元禄宝永珍話」に「三勝半七相対死一件」として事件を処理した「摂州西成郡下難波村御代官之扣帳」が収められたおり、事件は摂津国西成郡下難波村の法善寺の墓地南側の畑の石垣の側にて、大和国宇治郡五條新町豆腐屋赤根半七と大阪島の内の笠屋抱え芸子三勝が喉を切って心中したもので、半七が事業の資金繰りが付かなくなり、心中を持ちかけ三勝が同意した故の心中であった。  
この事件は直ちに歌舞伎狂言化され、翌9年正月2日に大阪岩井半四郎座にて「あかねの色揚」と云う外題にて上演され150日間のロングランをしたと云う。この芝居を見て大阪下博労町にて心中が起きたと「新色五巻書」に書かれているそうだ。この事件を題材にした歌舞伎狂言が江戸にて上演されたのは遅く、事件後21年を経た享保元年(1716)江戸中村座にて「半七三かつ心中」として上演されたのが始めである。この事件は以後様々な形で浄瑠璃や歌舞伎狂言に取り上げられて広く流布されてれいる。  
元禄12年(1699)正月には大阪嵐三右衛門座にて歌舞伎狂言「石掛町心中・おつや佐吉」が上演された。同年12月8日に大阪千日寺にて起きた大阪淡路町伊賀屋三郎兵衛と北新地茶屋菱屋抱え酌婦おせきとの心中事件は、直ちに京都山下半左衛門座にて翌年正月に切狂言「心中茶屋咄」として上演され大当たりを取り、次いで大阪岩井四郎座「千日寺心中」、大阪荒木座「千日寺心中」と各座が取り上げ上演した。  
元禄15年(1702)には世に「お俊伝兵衛」と喧伝される心中事件が起きた。これは京都堀川通さはらぎ町八百屋与助娘おしゅんと小川通米屋庄兵衛が京都三本木河原にて心中した事件で、同年京万太夫座にて「米屋心中」翌年夏に早雲座にて「三本木河原の心中」の外題にて上演された。この事件は元禄末期に京阪にて起きた相対死を実録風に書いた書方軒著「心中大艦・五巻」(宝永元年(1704)刊行)の巻2京の部に「東河原夜明の紅」と題して心中までの過程を書いている。簡単に述べると、おしゅんは17歳から3年間の妾奉公を終え家に戻っていた。近くに住む庄兵衛は最近妻を亡ない寡夫であった。おしゅんを見染めた庄兵衛はおしゅんを妻にと申し入れたが、おしゅんの親は娘に寄生して生きているので、年契約の妾奉公、年30両、季節毎の仕着を提供を条件として出した。借財を持つ庄兵衛はおしゅんを忘れられず、諸所より借財しておしゅんを囲った。契約切れ近くになり、おしゅんは親が次ぎの妾奉公先を探していると告げるが、おしゅんに深く愛情を抱きながらも多額の借財を抱える庄兵衛は継続して契約をすることが出来ないと真情を話す。おしゅんも庄兵衛に愛情を抱いており、親の食い物になっている現状から逃れたいと、二人は駆け落ちをすることに決めた。  
しかし、おしゅんの真情に触れた庄兵衛は一人で自殺すると心に決めて家を出るが、態度に不審を抱いたおしゅんは後を追い、東河原にて庄兵衛を見つけ、二人の愛を完遂するには友に死するしかないと、ここに心中を成した。  
元禄16年(1703)4月7日に大阪内本町醤油問屋手代徳兵衛と大阪蜆川(北新地)天満屋抱え芸子お初が曽根崎天神の森にて心中した。直後の4月25日には大阪竹鳩幸右衛門座にて「曽根崎心中」の外題にて上演され、次いで京阪の各座にて競演された。やや遅れて近松門左衛門が浄瑠璃を書き、「人形浄瑠璃・曽根崎心中」外題にて上演。近松作のこの浄瑠璃は、心中を美化し、扇動するかの様な聞く人を同化させる美しい文章にて彩られている。その一例として、「逢ふに逢われぬ其の時は、此の世ばかりの約束か、さうした例のないでなし」や、「誰が告ぐるとは曽根崎の、森の下風音に聞こへ取伝へ、貴賎群衆の回向の程、未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」や、大詰も死への道行に語らえる「この世も名残夜も名残、死に行く身に譬ふれば、仇しか原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂減為楽と響くなり」は見物客に紅涙を絞らせ、大当りとなった。中にはこの芝居を見て心中をするものまで現れたと言う。この浄瑠璃は数多くの心中物を書いた門左衛門の第一作である。  
近松門左衝門作浄瑠璃「曾根崎心中」は「お初徳兵衛」の名にて今でも親しまれ、心中現場の曽根崎の森跡には[お初天神](大阪の繁華街北の新地の中にある)か祭られている。歌舞伎化されたのは享保4年(1719)4月江戸中村座である。また、この心中は様々な外題にて上演されており、宝歴5年7月江戸森田座狂言「女夫星浮名天神・お初徳兵衛」の道行の場では、富本節「道行時雨の柳」[初代富本豊前作曲]が用いられている。  
元禄16年(1703)7月には、堺の帯屋手代久兵衛が、組絲屋菱屋娘お初と井戸へ投身心中した事件が起きた。当地に興行中の豊竹若太夫か直ちに「心中泪の玉の井」と題する人形浄瑠璃を作り上演、帰阪後豊竹座にて再演し好評を得た。  
伺年秋、大津柴屋町の芸子小稲と屏風屋稲野屋半兵衛が、近江八景の一つである唐崎の松の根方にて情死[心中大鑑三に辛崎心中として記載あり]したのを、近松門左衛円が歌舞伎狂言「唐崎八景の屏風」として書き下ろし、京都早雲座にて上演した。  
これ以後も続発する心中事件は芝居・浄瑠璃に多く取り上げられ、特に近松門左衛門と竹本義太夫のコンビによる人形浄瑠璃はそれぞれが好評を得た。  
宝水3年(1706)正月には、元禄16年(1703)に大阪新町にて薩摩藩士が湯女を多く殺傷した事件[西鶴著・好色五人女にある「おまん源五兵衛」の話〕と、寛永3年(1627)9月27日に京都東山麓の鳥辺山にての心中事件をない交ぜにした歌舞伎狂言が、京都万太夫座にて「鳥辺山心中・おまん瀕五兵衛」として上演され、京阪の各座が競演した。この内、大阪岩井半四郎座では、「鳥辺山心中・お染半九郎」と実名にて上演し、道行の場では地歌「鳥辺山」を用いた。  
鳥辺山心中と云うのは、二条城勤番旗本菊池半九郎が勤番明けにて江戸へ戻る直前に、酒の上の口論にて同僚の弟坂田源四郎を斬殺し、逃れられず馴染みの祇園の茶屋若松抱えお染と鳥辺山葬祭地にて情死した事件である。この心中は明和3年(1766)の人形浄瑠璃「太平記忠臣講釈」五番目にも扱われており、宮薗節「鳥辺山・道行人目の重縫」[近松半二作詞・二世宮薗薗舌八作曲]が使用さ丸ている。  
また、「おまん源五兵衛」を題材とした狂言が以後様々に作られており、「おまん源五兵衛物」と呼はれている.  
宝水3年(1708)2月には、大阪千日寺にて萬屋助六と京島原遊郭の遊女揚巻が情死した。この心中を題材にして11月に京都早雲座では芝居「助六心中紙子姿」、大阪片岡仁左衛門座切狂言では「京助六心中」が上演され、京助六心中の道行の場で蛙一中節「助六心中」が使用された。  
後に多く作られ「助六物」と呼ばれるものの始であるが、心中を主眼に置いた上方風助六である。江戸風の助六は、この事件を題材にながらも、助六を男伊達に仕立てた任侠物で、正徳3年(1713)4月に江戸山村座にて二代目団十郎が演じた、津打治兵衛作「花館愛護桜」が初めてである。  
享保18年(1733)正月中村座狂言「英分身曽我」二番目狂言「助六」では浄瑞璃に河東節「助六・所縁江戸桜」が用いられ、以後の江戸風助六物上演には河東節が勤めることが約され、この決まりは現在でも続いている。  
現在「助六」と云うと江戸風助六を指す。  
翌4年(1707)には、宝永元年(1704〉に大阪万年町紺屋徳兵衛と六軒町重井筒屋抱え遊女おふさが、高津の大勧進所にて情死した事件を基に、近松門左門が人形浄瑠璃「心中重井筒・おふさ徳兵」を書き竹本座にて上演した。この歌舞伎化は享保5年(1722)正月で、江戸中村座二番目狂言として演じられた。  
同6年(1709)には、同年6月1日に大阪で起きた鍛冶屋弟子平兵衛と蜆川(北新地)の遊女小かんが、北野の藍畑にて心中したのを近松が浄瑠璃に仕組み「心中刃は氷の朔日」が竹本座にて上演された。  
同7年(1710)春には、正月に大阪の質屋油屋お染と店の丁稚久松が不義理を成し、添えぬことを嘆いて店の油組工所にて情死した事件を紀海音が浄瑠璃にし「おそめ久松袂の自絞り」を書き豊竹座にて上演した。この浄瑠璃は以後様々に作られる「お染久松物」の始である。  
このお染久松の事件にはいろいろの説があり、原田光風座著の随筆「及瓜漫筆」には、「油屋の娘お染は4歳、丁稚久枚13歳、同年正月元旦の事、年始客が多いので久松が子守を任された。お染が井戸に興味を持ち覗いているうちに誤って落ち溺死した。主人の娘を死なせた責任の重大さに気付いた久松は、やむなく土蔵に入り首を括って自殺した。これを面白く心中物として芝居にした」と、過失失を悔いての久松自殺説を書いている。  
明和5年(1768)2月大阪角の芝居(中山座)の並木正三・並木宗輔作の狂言「お染久松増補袂自絞」の道行の場では、宮薗節「道行夢路の春雨」が用いられ、安承9年(1780)大阪竹本座め近松半二作人形浄瑠璃「新版歌祭文・お染久松」は数あるお染久松の集大成とも云われ、義太夫「野崎村の段」はよく知られており、また、暮切れの花道への引っ込みに用いられる連れ弾きの伴奏も良く知られている。文化10年(1813)3月の江戸森田座切狂言「心中里の噂の」(鶴屋南北作)では、「お染の七役」があり、お光の役では、常磐津「お光狂乱」(三世瀬川如皐作詞・四世岸澤古式部作曲)が用いられた。文政8年(1825)11月江戸中村座顔見世狂言「鬼若根元台」の二幕目大切所作事として清元「お染・道行浮塒鴎」(四世鶴屋南北作詞・初世清元斎兵衛作曲)が初演された。  
宝永7年(1710)から享保7年く1722)に掛けては、近松門左衛門の手により今に残る心中物浄瑠璃が作られた時期に当たっている。  
宝永7年(1710)2月7日、高野山女人堂にて寺小姓成田久米之介と高野山山麗の紙谷宿の娘お梅が情死した事件に、八百屋お七を絡ませた近松門左衛門作人形浄瑠璃「心中万年草」が竹本座にて4月に上演。  
正徳2年(1712)秋には、同年京都にて起きたお花と半七の情死事件に、同じく大坂長町にて起きた女の腹切事件とを岩び付けて、「お花半七・長町女腹切」が竹本座にて上演。  
正徳5年(1715)5月には、前年5月5日に大阪松屋町茶碗屋一津屋五兵衛伜嘉平次と伏見坂町柏屋抱え遊女おさがが生玉神社の境内にて心中した事件を題材にした「生玉心中・おさが嘉平次」が竹本座にて上演。  
享保5年(1720)12月には、現在でもしばしは取り上げられる近松門左衛門の代表作である「心中天の綱島・小春冶兵衛」が竹本座にて上演。この作品は同年10月14日に、大坂綱島の大長寺の墓地にて天満お前町紙屋治兵衛と曾根崎新地紀の国屋抱え遊女小春が情死した事件を題材にして作られており、上の巷「河庄」か有名である。  
この浄瑠璃は後に様々な改作物か上演されたが、其のうち近松半二が改作したものを土台にして安永7年(1778)に大坂北の芝居にて上演されたのが歌舞伎上演の最初である。  
外題の「天の綱島」は心中壌所の綱島と諺の「天綱恢恢疎にして漏らさず」より取って作られており、この諺は「天の法綱は目か粗いようだが、神は全てを見通しておるので、悪人は漏れ無く捕らえられる」を意味しています。  
享保7年(1722)4月5日に起きた事件は、近松門左衛門のライバルである紀海音との競作となった。この事件は大阪生玉の馬場先にある大仏勧進所にて、山城国上田村百姓平右衛門妹で大坂油掛町八百屋川崎屋源兵衛養女千代が夫半兵衛と心中した夫婦心中事件である。原因は養父が夫のある千代を日夜口説き、養母に話しても直らず、夫も養子故に義理に縛られ離縁される事になったが、二人は離れられず、心中する事にて添え遂げようとした事件であったと云われている。  
紀海音は直ちに事件を脚色して人形浄瑠璃「心中二腹帯・お千代半兵衛」を翌日豊竹座にて上演され、同22日には竹本座にて近松松門左衛門作「心中宵庚申・お千代半兵衛」が上演された。  
この作品を最後として心中物浄瑠璃は暫時作られなくなった。その理由は心中多発か社会現象となったことに対処するために、翌年2月29日に出された幕府の「心中法度」により、以後心中物芝居・浄瑠璃の新作・上演が禁じられたことによる。 
 
歴史に取り憑かれた鴎外

 

「渋江抽斎」 (抜粋) 
・・・・・・ わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自ら居るわけではないが、これを蜀山等の作に比するに、遜色あるを見ない。筠庭(ゐんてい)は五郎作に文学の才が無いと思つたらしく、「歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むやうなる仮名書して終れり」と云つてゐるが、此の如きは決して公論では無い。筠庭(ゐんてい)は素漫罵(まんばけなす)の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬を評して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」と云つてゐる。風流をどんな事と心得てゐたか。わたくしは強ひて静廬を回護(かいご弁護)するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的と云ふ語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵してゐるのを想ひ起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。  
五郎作は少(わか)い時、山本北山(ほくざん)の奚疑塾(けいぎじゆく)にゐた。大窪天民は同窓であつたので後に迨(いた)るまで親しく交つた。上戸の天民は小さい徳利を蔵して持つてゐて酒を飲んだ。北山が塾を見廻つてそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、其人物が小さくおもはれると云つた。天民がこれを聞いて大樽を塾に持つて来たことがあるさうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑つてゐたことであらう。  
五郎作は、又博渉(はくせふ)家の山崎美成(よしゝげ)や、画家の喜多可庵(きたかあん)と往来してゐた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしてゐた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持つて往つて見せた。  
文政六年(1823)四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売つてゐた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさといふものを見せに往つた。ふくさば数代前に真志屋へ嫁入した島と云ふ女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛と云つて、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられてゐた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借(ぢがり借地人)であつた。島が屋敷奉公に出る時、稚なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ちりめん)のふくさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫つてくれた。間もなく本郷森川宿(もりかはじゆく)のお七の家は天和二年(1682)十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識(さうしき)になつて、翌年の春家に帰つた後、再び情人と相見ようとして放火したのださうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持つて来た。そして祐天上人(いうてんしやうにん)から受けた名号(みやうがう)をそれに裹(つゝ)んでゐた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫ひ附けさせたので、山崎に持つて来て見せたのである。  
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であつた好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年(1799)の生で、抽斎の生れた文化二年には七歳になつてゐた。歿したのは文久元年(1861)十二月十五日で、年を享くること六十三であつた。 ・・・・・・
森鴎外の『渋江抽斎』は「その三十」で抽斎の四人目の妻の五百(いほ)が登場するところから俄然面白くなる。この女性が実に魅力的なのだ。どうしてNHKはこの人を朝ドラの主人公にしないのかと思ふほどである。  
この作品の題名となつてゐる渋江抽斎本人は、儒学の教へである「無為不言(ぶいふげん)」を忠実に守つた人なので、その人生には何ら波乱に富んだことはない。まじめで正直で情が厚く、困つている人がゐればよろこんで助けてやる立派な人で、勉強熱心で出世も遂げた人だが、残念ながらこの人の人生は面白くおかしくもない。  
ところが五百は勇気と行動力に満ちた積極的な女性で、その人生は冒険あり、立廻りありの波瀾万丈、涙と感動に満ちた英雄伝である。  
だから読者は五百にどうしても感情移入してしまふ。彼女の死は自分の母の死のやうに悲しくなる。最後に五百を一人で買い物にやらせたことを、息子の保(たもつ)とともに後悔する。五百がしきりに話をしてゐたのが急に黙つて座つてしまた場面を思ひ出すたびに目に涙が浮かぶのである。  
読者は五百が地動説を知つてゐたことを鴎外と共に誇りに思ふのである。子供時代に江戸城に務めてゐた五百が本丸に棲む物の怪の正体を一人で突き止めたことを誇りに思ふのである。三人の強盗に囲まれて何も出来ない抽斎を救ふために、風呂場から半裸のまゝ短剣を口にくはえて手に湯桶をもつて強盗に立ち向かつた五百を誇りに思ふのである。  
鴎外の『渋江抽斎』はこの五百といふ人を描き出したことで、永遠の価値を得たと言へる。  
五百以外に面白い人物といへば息子の優善(やすよし)だらうか。真面目一家の中で一人だけぐれる。抽斎の蔵書を勝手に持出して売り払ふ。この家にとつてまるで疫病神のやうな存在である。なぜこんな人間ができたのか不思議であり鴎外もその原因を深く追求しないが、優成が先妻の子で一番可愛がられることが少なかつたことは間違ひない。しかし、その優善が明治維新以後、兄弟の中では一番よく出世する。人生の皮肉である。  
次に鴎外が発表した『寿阿弥の手紙』は何と言つても八百屋お七が作つた袱紗(ふくさ)を鴎外が手にするくだりが圧巻である。  
水戸藩御用達の菓子商真志屋(ましや)の隠居が出家して寿阿弥(じゆあみ)と称した。この人は奇行で有名なだけでなく文名も高かつた。たまたま鴎外はこの人の書いた長文の手紙を手に入れて、その一部を『渋江抽斎』の中で紹介した。  
その手紙をもつと詳しく紹介するために書いたのが『寿阿弥の手紙』である。しかし、話は手紙だけでは終らない。鴎外は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』の取材中に、この寿阿弥といふ人は水戸侯の御落胤だといふ情報を得てゐた。そして鴎外は寿阿弥の菩提寺に参つたときに、寿阿弥の墓に今でも墓参りに来る老女がゐることを聞きつけて、その家を訪問する。  
しかし、その老女の話からは、寿阿弥自身は御落胤ではなく寿阿弥の祖先が御落胤らしいといふことがわかつただけで、寿阿弥自身が何者かは分からないまま引き上げてくる。  
ところがその鴎外のもとに、老女の婿つまりその家の当主が寿阿弥の祖先のことを伝へる文書と遺品をもつてやつてくるのである。そしてその中に八百屋お七の袱紗が含まれてゐた。  
この袱紗については『渋江抽斎』の中で、寿阿弥が家に伝はつてゐるのを見つけて人に見せたことが書かれてゐる。いまそれを書いた鴎外の目の前にその袱紗が時間を超えてやつてきたのである。  
その袱紗はお七の幼なじみのお島といふ娘が武家奉公のために家を出るとき、餞別としてお七が手づから縫つて拵えたものである。そこまでは『渋江抽斎』を書いたときに分かつていた。  
しかし今その袱紗と共に届けられた文書によつてそのお島の奉公先が水戸家であるといふこと、そしてそのお島こそは水戸侯の落胤をはらんで宿下がりになり、そのまま寿阿弥の祖先である菓子商真志屋に嫁いできたといはれてゐる女だといふことが明かになつた。そしてその水戸侯とはほかならぬ水戸光圀であるらしいことが分かつたのである。  
こうして今あのお七の袱紗と真志屋の御落胤問題が島といふ一人の女のもとで一つに繋がつたのだ。  
「八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録(かいろく)に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ちこの島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とがともに島、その岳父、その夫の三人の上に輳(あつま)り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或いは一人と云つても不可なることが無からう。その中心人物は島である。」(『寿阿弥の手紙』十八より)  
鴎外の興奮は、ここで二度繰り替へされてゐる「わたくしは知らなかつた」に如実に表れてゐる。まさに仰天ものの発見であつた。こんなにすごいことを経験した鴎外が歴史に取り憑かれてしまつたのは無理もないことであらう。  
かうして鴎外は一片の砂金を求めて川底の砂を浚ひ続ける人のやうに、歴史といふ大河の砂を黙々とさらひ続ける人となる。そして巨大な砂の山を作つた。それが『伊沢蘭軒』であり『北条霞亭』である。しかも、その山から砂金を見つけ出すのは、今度は読者の仕事になつたのである。  
それは『寿阿弥の手紙』の後半にも当てはまる。寿阿弥自身については、江間家からの養子であることはわかつたが、母のことも妹のことも分からずじまいで、あとはただ真志屋の衰退を示す歴史の砂山が延々と築かれていくのである。  
逆に言へば、星のやうに輝く興味深い話を、鴎外はあくまで単調な歴史の中から浮かび上がる出来事として描こうとした。  
だから、例へば『北条霞亭』の最後の淡々とした編年体の記述の中に、何の衒ひもなく、「(明治)三年庚午七月二十八日に笠峰(りつぽう)は根津高田屋の娼妓を誘ひ出だして失踪した。」などといふ文があつさりと挿入される。鴎外はこの事件あるが故に、この伝記を北条霞亭の死後はるか明治の世まで書き継いだのだらう。  
このやうに鴎外の興味はあくまで俗である。鴎外は、人間が求めるものは俗なことであり、俗なことにこそ人間の本当の姿が現れてゐると思つてゐたやうである。彼の興味が、人の立身出世や幸不幸の変転にあつたのは間違ひがない。  
例へば、鴎外が常に人の美醜に言及した。『渋江抽斎』の中では、抽斎の父允成(ただしげ)が美男で、その茶碗の底の飲み残しを女中たちが競つてなめたといふ話を、鴎外は決して書き落としはしない。  
また『伊沢蘭軒』には醜い女をいとはず結婚した男の話が二つも出てくる。どちらの場合も、その男はまるで立派なことをしたかのやうに書いてある。それに対して美しい女たちのゐる遊郭へ入り浸りになる男の話もしよつちゆう出てくるが、それは決して非難の眼差しで見られてはゐない。  
鴎外の歴史小説は普通の小説とは違つて、明確なストーリーはなく、始まりも終わりも主に鴎外その人の興味である。この人のことを調べてみたいといふ興味から話が始まり、その興味の尽きるところでその話が終わる。  
そのほかに鴎外が伝記を書く動機の一つに、取材に協力してくれた人たちへの礼儀がある。『渋江抽斎』の最後に延々と付け加へられた長唄の師匠勝久とその一派の伝記はまさにこれである。話自体は面白いものではあるが、学者の伝記のあとに続けられては違和感を禁じ得ない。  
『伊沢蘭軒』のあとに発表された『小島宝素』は、この考証家を後世に伝へねばといふ鴎外の義務感から書かれたが、これも小島家のために書かれたといふ要素がある。  
『小島宝素』には、宝素の先祖代々の系譜と、宝素と関係のある人々の生死、宝素の住んだ場所、宝素が将軍付きの医師にまで出世した様子、そして息子たちの伝記、墓の場所などが書かれてゐるにすぎない。しかし、この作品は手に入つた情報を全て処理してから書かれてゐるために、読みやすいことは読みやすい。  
歴史に取り憑かれた鴎外はかうして次々に伝記を書いた。伝記を書くには材料を集めなければならない。その材料とは、まづ第一にお墓である。その人について別の人が書いた文章があればそれも使ふ。それは墓碑であつたり書物であつたりする。そして手紙、日記である。さらに詩などの創作物もそこに加はつて来る。  
鴎外は手に入つた材料をなるべく手を加へないままで読者に伝へようとした。だから読者は鴎外と同じ出発点に立つて事実を推測することができる。  
それが『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』の場合、蘭軒、霞亭自身の書いた漢詩と手紙である。特に霞亭については既に『伊沢蘭軒』の中で一通りその生涯が描かれたにもかかはらず、その後あらたに借用できた大量の霞亭の手紙を生かすために『北条霞亭』は書かれた。だから『北条霞亭』では手紙の引用が多い。  
それらの手紙からは江戸時代の学者の肉声を聞くことができる。漢詩はそれを文学として味はふといふよりは、むしろそこから詩の材料となつた出来事を引き出すために引用される。まさに考証である。  
詩はもちろんのこと手紙にも年度は書いてないものが多く、それがいつ書かれものかは内容から推測するしかない。そして詩や手紙を時間の順番に並べて、事実を推測し解説を付していく。『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』はそのやうにして書かれた。  
しかし鴎外は、蘭軒の詩も霞亭の手紙も、自分が伝へなければ忘却の中に置かれてしまふといふ思ひで多くを書き写した。それが当時の多くの読者から批判を受けた。これでは過去の事実を並べてゐるだけぢやないかと言はれた。  
現代の読者もきつと同じ感想を持つ人が多いに違ひない。だからここであらかじめどこが面白いか知つておくのもよいだらう。  
『伊沢蘭軒』の最初の見所は頼山陽である。頼山陽は二十一歳で家出をして藩の許しを得ずに上京したために寛政十二年から文化二年の五年間父春水の屋敷に幽閉されるが、その直前の寛政九年から十年まで江戸へ旅行をしてゐる。その間にこのやんちや者の若き山陽は何をしでかしたかである。  
少なくとも、十八歳の山陽は江戸のどこにゐたのか。おとなしく昌平黌にゐずにそこを飛び出して伊沢蘭軒の家にゐたのではないかと鴎外は考へるのである。ちなみに、若い頃の放蕩を改めて勉学に励んでその後名を為した例は鴎外の好むところであり、頼山陽もその一人である。  
次の見所は蘭軒が長崎旅行の途次に作つた漢詩を交へた紀行文である。これは芭蕉の『奥の細道』を旅先を長崎にして俳句を漢詩にしたやうなものである。  
俳句なら今では子供でも作る。だから俳句で紀行文を残した芭蕉はいまも有名だが、同じやうにして漢詩で紀行文を残した蘭軒は、森鴎外のおかげで辛うじてこの小説の中に命を永らへてゐるのみである。  
しかし、当時のエリートはみな漢詩を作つた。その筆頭に来るのが江戸時代では管茶山であり頼山陽であつた。明治になつても漱石や鴎外も漢詩を作つた。これは今で言ふと、英語で詩を作るやうなもので、江戸時代以前の日本人は、それほどに中国文化の吸収に熱心だつた。  
蘭軒は、江戸から中山道、山陽道を通つて長崎に至るまでの途中の土地々々の名所をたどりながら、それを漢詩にしていく。『奥の細道』が一種の名所案内であつたのと同じやうに、蘭軒の紀行文も名所案内として読むことが出来る。(この中で蘭軒は宿場といふ言葉を使はずに「駅」といふ)  
鴎外が訳した『即興詩人』もイタリア観光のガイドブックとしての側面があるが、『伊沢蘭軒』もまた名所旧跡と土地の名物を紹介する旅行のガイドとしての価値がある。(例へば、江戸時代に兵庫県の加古川はシタビラメの名所だつたことが分かる)  
渋江抽斎の師の一人であつた医師池田京水といふ人の廃嫡の謎を解くくだりも、『伊沢蘭軒』の中での読ませ所である。  
一旦池田家の嫡男として養子に入つた京水がどうして廃嫡になつたかは鴎外にとつて大いなる謎であつた。この問題は『渋江抽斎』の中で提起されたものであり、『伊沢蘭軒』の中でやつと解決にたどり着く。  
京水の子孫が保存してゐた京水自筆の巻物が鴎外の手にもたらされたのである。それによつて、養父の後妻に嫌はれた京水自らが世継ぎたることを辞退して家を出たことが明らかになる。これまた鴎外にとつて大いなる発見であり、読者を引きつける内容をもつてゐる。  
さて廃嫡されたとき京水はわづかに十六歳であつたが、江戸に出て町医者として開業する。当時の秀才は今の中高生の年齢で教師になり町医者になつた。また、当時の社会は早熟の秀才を受け入れた。京水の医院は大いに繁盛し、京水は最後は幕府に取り立てられるまでになる。  
蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の素性も一読に値する箇所であらう。志保は自分の父が誰であるか調べることを、京都に旅立つ小島春庵に依頼する。榛軒の友人であるこの小島春庵こそは後に別の伝記である『小島宝素』の主人公になる人である(人物再登場!)。  
『渋江抽斎』の五百に相当する女性として『伊沢蘭軒』には柏軒の妻たかがゐる。五百がみずから抽斎の妻たらんと欲したやうに、たかは柏軒の妻になることを自ら望んでなつた。両者ともにすぐれた教養の持ち主で、能書家であつた。男勝りの気性の持ち主であつたことも似てゐた。  
蘭軒の次男柏軒の生涯も特筆ものだ。若い頃やんちやものだつた柏軒はある日改心する。その後彼は幕府の医師として最高位まで上り詰める。そしてたつた一人で老中阿部正弘の看病を担当してその死を看取る。蘭方が盛んになる中で、最後の漢方医としての面目を保持したまま死ぬのである。  
戊辰戦争、中でも五稜郭の戦いに従軍した棠軒(たうけん)の日記も興味深い。この日記からは、明治維新とともに漢方医が洋方医に取つて代られ、時刻の表し方が「とき」「こく」から「じ」に変るやうすがよく分かる。初めのうちは、「時」(とき)と「時」(じ)を区別するために、「何じ」は「何字」で表された。三月には「うまのこく」と言つていた同じ人が四月には「十二字」と書くのである。  
棠軒の日録には明治五年十二月二日に太陰暦が太陽暦に変つたことも出てゐる。明日から太陽暦で一月一日とすると言はれたと書いてゐるのである。  
ほかにも、頼山陽の壮絶な最期とそれを見取つた関五郎といふ男は誰かといふ問題等々。『伊沢蘭軒』は読み所満載である。(なほ関五郎は関の五郎ではなく三文字の名前であると思はれる。頼家ではそれが省略されて五郎と呼ばれたのではないか。その253で松坂屋の主人の名前は寿平治であつたが、平治と呼ばれたとある。それと同じであらう)  
その他に面白いのは、番外編として老中阿部正弘侯毒殺説の紹介と、この小説の退屈さを批判する読者に鴎外が反論するところであらう。  
『伊沢蘭軒』は逐次書き足して行つたもので、『小島宝素』のようにまとめて書いたものではないから、しばしば情報が前後で齟齬をきたす場合がある。(例へば、渡辺昌盈の死に場所は「その276」では本所上屋敷だが「その291」では柳島下屋敷となつてゐる。「その276」には上屋敷の当直番を須川隆白に代つてやつたその日に当直の邸が潰れて死んだとあるからである)  
『北条霞亭』は鴎外が主人公である霞亭に自分を仮託して書いた小説である。おそらく鴎外は、手紙の中で家族に様々な指図をする霞亭の姿に「闘う家長」としての自分自身の姿を見てゐたに違ひない。  
名目上の家長の地位は弟に譲りながらも霞亭は精神的には、家族に対して死ぬまで弱音をはかない家長でありつづけた。鴎外は霞亭と自分を同一化するあまりに、最後には、霞亭の死因となる病気を、自分と同じ萎縮腎ではないかと思ひこむほどである。  
『北条霞亭』の中の最大の出来事は、霞亭が菅茶山に惚れ込まれて茶山塾頭になること、霞亭の福山藩への仕官、『小学』といふ本の注釈書の出版、そして何といつても霞亭自身の早すぎる死である。  
霞亭はやつとのことで福山藩といふ大きな藩に就職が叶ひ、しかも大目付格といふ破格の大出世を遂げて江戸まで出てくるのだが、江戸に来てわづか二年で病に冒されて死んでしまふのである。  
霞亭は何とかしてこの病気を治さうと苦闘する。医者を何人も替へたりもしてゐる。脚気だといふことで米を食ふのをやめ、医師の指示通りに塩気断ちもし、壮絶な努力を積み重ねるのである。しかし、最後の手紙を書いてからわづかに二週間で帰らぬ人となつてしまふ。家も新築してさあこれからといふ時の死であるから、その無念は想像に余りある。  
ところで『伊沢蘭軒』も『北条霞亭』も小説とはいへ考証であるから、普通の小説を読むやうにして読んでもなかなか楽しめない。考証、つまり過去の正しい事実をひたすら求めるといふ過程を鴎外と共にするとき、初めて楽しめるものとなる。  
あるいは読者は独自の考証をしながら読むのもよい。例へば、わたしはネット上にあるテキストを修正しながら読んだ。これもまた考証である。だから私はこの小説を楽しめた。  
読者は例へばこれらの小説に書かれている地名が現在どこであるのかを探求しながら読むのもよいだらう。また鴎外が使つた漢字の特徴を検証しながら読むのもよいだらう。あるいはまた、私が修正したテキストに尚も残つてゐるはずの誤字を探しながら読むのもよいだらう。そのやうにすればきつと誰でも倦きることなくこの小説を読み続けられるはずである。  
ただ一つしてはならない読み方があるとすれば、それはストーリーの面白さを求めて読むことである。鴎外の伝へる話の中には小説より奇なるものが多々含まれてゐるが、それはストーリー仕立てではなく、事実の探求の過程で現はれてくるものである。  
鴎外は『大塩平八郎』の「付録」で初めてこの考証をやつてみせた。それを彼は『渋江抽斎』以降、本編の中でやることにしたのである。  
とはいへ、『渋江抽斎』で五百の話を書いた鴎外は、若き日に『舞姫』のエリスを描き『雁』のお玉を描いた鴎外に近いものがある。五百の英雄譚はその真実を厳密に確認したものではないだらう。  
『渋江抽斎』その六十七の義眼の女の話も面白い話ではあるが、嘘ではないかと思はせる。そもそも、日常気づかれない程に精巧な義眼があつたのだらうか。逆に健常者で寝てゐるときに目を開いて寝る人は少なくない。そこから発展した話とも考へられる。  
したがつて、歴史といつてもやはり一種の小説であることを免れない。『寿阿弥の手紙』における水戸光圀の御落胤話も、それが光圀本人の子であるかは推測の域を出ることはない。  
ところで、鴎外の歴史小説を読む楽しみの中に、バルザックの小説の場合と同じく、人物再登場の楽しみがある。『渋江抽斎』の中で脇役で登場した伊沢蘭軒が次は主役になり、『伊沢蘭軒』の中で脇役で登場した北条霞亭が、次の小説に主役として登場するのである。  
『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』で重要な役割を演じるのは手紙であるが、これがかなりの難物である。当時の手紙は候文で、漢文のやうで漢文でない書き方をする。それが殆ど当て字なのである。だからそれを知つてゐないと読めないのだ。  
ここにしばらく例を挙げてみよう。まず「而」は「て」、「度」は「たく」と読む。「致」は「いたす」、「間敷」は「まじく」、「遣」は「つかはす」、「罷」は「まかる」、「頼」は「たのむ」、「希」は「ねがふ」、「請」は「こふ」と読む。  
「被」は尊敬の「られ」、「為」は尊敬の「され」、「仕」は「つかまつる」、「奉」は「たてまつる」、「遊」は「あそばす」、「下」は「くださる」、「承」は「うけたまはる」である。  
これらを組合せて、「被遊」は「あそばされる」。「被下」は「くだされる」。「被致」は「いたされる」。「被居」は「をられる」。  
三文字がくつつくと、「仕度候」は「つかまつりたくそろ」。「奉存侯」は「ぞんじたてまつりそろ」、「被成下候」は「なしくだされそろ」、「奉希候」は「ねがひたてまつりそろ」。  
四文字以上になると、「可被下候」は「くださるべくそろ」、「可被成下候」は「なしくださるべくそろ」。「被為入候」は「いらせられそろ」となる。  
また鴎外も漱石も漢文で使はれる漢字を使つて日本語を書いた。それは福沢諭吉も同じである。「云ふ」を全部「言ふ」と書くようになつたのは、ごく最近のことである。鴎外の文章も漢文の読み下し文に近いものである。だから、その書き方の決まり事を知つておく必要がある。  
そのなかから少しを挙げると、「世」は一字で「世々」つまり「代々」と読む。「愈」なども一字で「いよいよ」と読む。「之」は「これ」か「の」に読み分ける。「先々」は「さきざき」ではなく「まづまづ」と読む。  
また「が」は現代語のやうな主語ではなく所有を意味することが多いから注意がいる。逆に「の」が主語を表すことが多い。意味が分からなくなつたら、この「の」と「が」の読み方を間違へてゐることが多い。  
例へば『鈴木藤吉郎』の五に「遠山は中根香亭の伝を立てた帰雲子で、少時森田座囃子方を勤め吉村金四朗と称したと云ふ非凡の才子である」では最初の「の」は主語を表してゐる。中根香亭が遠山金四郎の伝を立てたのである。  
鴎外の史伝は漢詩の読み下し文がついてゐる「ちくま文庫」と岩波の「鴎外歴史文学集」が読みやすいだらう。「ちくま文庫」ではそれがひらがなのルビになつているのに対して「鴎外歴史文学集」では別立ての漢字仮名まじり文として漢詩の後に挿入されている。  
漢詩の現代語訳は岩波では部分的に注記されてゐるのに対して、「ちくま文庫」では漢詩ごとに全訳が付いている。また岩波の読み下し文は音読みが多く、「ちくま文庫」は訓読みが多い。例へば「話勝十年読」を「はなすはじふねんよむにまさる」(ちくま文庫)なのに対して「話は勝る十年の読」(岩波)といつた具合である。  
ただ「ちくま文庫」版の欠点は鴎外の文章を現代仮名遣ひに変へてしまつてゐることである。大正時代に政府が現代仮名遣ひを採用しようとしたときに、鴎外はそれを軍を背景にして強行に阻止した人である。鴎外の遺志を顧みない行為と言はねばならない。  
「鴎外歴史文学集」の『伊沢蘭軒』の注釈は、想定する読者のレベルが中学生程度になつてゐる(その割りに漢字のルビが少ないが)。「廃藩」が「廃藩置県」のことであり「左脛」が「左のすね」であることまで註が付いている。かうした無駄な註が多すぎるために、註が次の頁までせり出すことがよくある。  
「鴎外歴史文学集」では、テキストの漢字の選択に一貫性がない。例へば、「校定」の「校」は前の方では「挍」としてゐるが終盤では校となつてゐたり、「間」が「閨vとなつてまた「間」に戻つたり、ずつと「撿す」で来てゐたのが終盤になると「検す」になつたり、女壻が一カ所だけ女婿になつてゐたりする。  
「相模」もだいたい「相摸」だが終盤では「相模」になる。家族関係の子供のことを表すのに、娘のことをずつと「女」で来たものが急に「娘」(『伊沢蘭軒』その三百五十)になつてゐたり、「悴」が「伜」になつたりする。「輒(すなはち)」も「輙」になつたりする。ふりがなも「達」に「たつし」が終盤では「とどけ」に変つてゐる。  
「解説」によると、『伊沢蘭軒』では鴎外自身の新聞連載の校定を使つたとあるから、このやうな混乱は鴎外自身の校定漏れの結果かもしれない。本文には鴎外自身の書き間違ひまでそのまま残してゐるが、鴎外自身の意図としては直しても良かつたのではないか。現状では読者は注釈を絶えず参考にする必要がある。「解説」には役割分担を明確にして一貫性を持たせてゐるかのやうに書いてはあるが、実際はそれほどでもなささうである。  
漢字は新字に替へてあるのだが、異字体はそのままになつてゐたりとややこしい。  
巻尾の人名注と書名注は玉石混合で、本文にある記載内容を整理したり、言ひ換へただけのものもある。例へば、本文の「嵯峨八百喜」の注が「嵯峨の人」ではあんまりだらう。  
鴎外は革新保守のいづれかと言へば完璧な保守である。社会主義など彼は一揆や打壊しなどと同列にとらへてゐた。彼の尊んだのは精神的なものである。  
「何国にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また銭百文も持不申ものも有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。皆人に命禄といふもの有之候。」今の社会主義乃至共産主義を駁するものとなして読まむも亦可なりである。霞亭をして言はしむれば、社会主義の国家若くは中央機関は愚者の政を為す処である。(『北条霞亭』その十より)  
さて、鴎外の歴史小説の一つである『都向太兵衛』には宮本武蔵が登場する。「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ有名な言葉があるが、それは武蔵の信念でもあつた。そして太兵衛もまた死を恐れないことを身につけた男であつた。  
武蔵は太兵衛がこの武士道の心得をもつてゐる男であることを初対面にして見抜いてしまふ。そして藩主に太兵衛を推薦するのである。太兵衛はその後「死を決してことに当る」の精神をもつて藩主に仕へ、名を残す偉業を成し遂げる。  
一方、鴎外の史伝を読んでいくと、いかに人々が次々に死んでいくかを思はざるを得ない。恐らく鴎外の歴史小説で一番多く使はれてゐる漢字は「歿」であらう。鴎外は死が突然、人の意を無視して訪れるありさまを淡々と描いて行く。武道を重んじてゐた鴎外は、史伝を通じて「人生とは死ぬことである」と言ひたかつたのではあるまいか。  
 
淡島様

 

黙阿弥の脚本の「松竹梅湯島掛額(シヨウチクバイユシマノカケガク)」は八百屋お七をしくんだものであるが、其お七の言葉に、内裏びなを羨んで、男を住吉様(スミヨシサマ)女を淡島様(アハシマサマ)といふ条(クダ)りが出てくる。お雛様を祭る婦人方にも、存外、淡島様とお雛様との関係を、知らぬ人が多いことゝ思ふ。  
古くは願人(グワンニン)といふ乞食房主があつて、諸国を廻りめぐつて、婦人たちに淡島様の信仰を授けまはつたのである。そして、婦人たちからは、衣類を淡島様に奉納させたのであつた。  
其由緒(ユカリ)はかうである。昔住吉明神の后にあはしまといふお方があつて、其が白血(シラチ)・長血(ナガチ)の病気におなりになつた。それで住吉明神が其をお嫌ひになり、住吉の社の門扉にのせて、海に流したのである。かうして、其板船は紀州の加太の淡島に漂ひついた。其を里人が祀つたのが、加太の淡島明神だといふのである。此方は、自分が婦人病から不為合せな目を見られたので、不運な人々の為に悲願を立てられ、婦人の病気は此神に願をかければよい、といふ事になつてゐるのである。処々に、淡島の本山らしいものが残つてゐるが、加太の方がもとであらうと思ふ。  
東京の近くで物色すると、三浦半島の淡島があり、中国では出雲の粟島、九州に入ると平戸の粟島などが有名である。凡そ、祭神は、すくなひこなの命といふ事になつてゐる。特に、出雲のは、此すくなひこなが粟幹に弾かれて渡られたのだ、といふのである。すくなひこなは其程小さい神様なのである。国学者の中でも、粟島即、すくなひこな説を離さぬ人がある。  
処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命以外にちやんと淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつもない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこと・いざなみのみことの最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。  
遠い遠い記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこなは、常世の国から、おほくにぬしの命の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬしと共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かたがた淡島神とごつちやにされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。  
此淡島様の祭日は3月3日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、3日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除(ミソギハラヘ)をした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、3月3日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。  
唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く3月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水(ゴクスヰ)の宴ともなつたので、通常伝へる処では、魏(ギ)の後、上巳をやめて3日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、5日に決められても、やはり、端(ハジ)めの午なのである。  
かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなかつたらうが、ともかく、女の重要行事であつた事だけは認められるであらう。 
 
 
八百屋お七口説き 1

 

花のお江戸にその名も高き 本郷二丁目に八百屋というて  
万青物渡世をなさる  店も賑やか繁昌な暮らし  
折も折かや正月なれば 本郷二丁目は残らず焼ける 
そこで八百屋の久兵衛ことも 普請成就をするその中に  
檀那寺へとかり越しなさる  八百屋のお寺はその名も高き  
所駒込吉祥寺様よ 寺領御朱印大きな寺よ 
座敷間数も沢山あれば これに暫くかり越しなさる  
八百屋娘はお七と云うて  年は二八で花なら蕾  
器量よいこと十人すぐれ 花に例えば申そうならば 
立てば芍薬座れば牡丹 歩く姿は姫百合花よ  
寺の小姓の吉山というて  年は十八薄前髪よ  
器量よいこと卵に目鼻 そこでお七はふと馴れ初めて 
日頃恋しと思うて居れど 人目多けりゃ話もできず  
女心の思いの丈を  人目忍んで話さんものと  
思う折から幸いなるか 寺の和尚は檀家へ行きゃる 
八百屋夫婦は本郷へ行きゃる 後に残るはお七に吉山  
そこでお七は吉山に向かい  これ吉さんよく聞かしゃんせ  
あとの月からお前を見初め 日々に恋しと思うて居れど 
親のある身や人目を兼ねて 言うに言われず話も出来ず  
今日は日までも言わずにきたが  わしが心をこれ見やしゃんせ  
兼ねて書いたるその玉章を 吉三見るよりさしうつむいて 
さても嬉しいお前の心 さらば私もどうなりましょと  
主の心に従いましょと  この夜打ち解け契りを結ぶ  
八百屋夫婦は夢にも知らず 最早普請も成就すれば 
明日は本郷に皆行く程に それにつけても私とお前  
別れ別れに居るのは嫌と  実は私も悲しうござる  
言えば吉三も涙を流し わしもお前に別れが辛い 
共に涙の果てしがつかぬ そこで吉三は気を取り直し  
これさお七よよう聞きゃしゃんせ  秋に逢われぬ身じゃあるまいし  
又も逢われる時節もあろう 心直して本郷へ行きな 
わしもこれから尋ねて行くよ 言えばお七も名残を惜しみ  
涙ながらに両親共に  元の本郷に引越しなさる  
八百屋久兵衛日柄を選び 店を開いて売り初めなさる 
その近所の若衆どもを 客に招いて酒盛りなさる  
酒のお酌は娘のお七  愛嬌よければ皆さん達が  
我も我もとお七を名指す わけて名指すは釜屋の武平 
男よけれど悪心者で 辺り近所の札つき物よ  
その夜お七と逢い初めてより  どうかお七を女房にせんと  
思う心を細かに書いて 文に認めお七に送る 
お七方より返事も来ない そこで武平はじれだしなさる  
さらばこれより八百屋に忍び  あのやお七に対面いたし  
嫌であろうがあるまいとても 口説き落として女房にせんと 
思う心も恋路の欲よ 人の口には戸が立てられぬ  
人の話や世間の噂  それを聞くより八百屋の夫婦  
最早お七も成人すれば いつがいつまで独りでおけば 
身分妨げ邪魔あるものよ 早くお七に養子を貰い  
そして二人が隠居をいたす  それがよかろと相談いたし  
話決まれば娘のお七 何を言うても年若なれば 
知恵も思案もただ泣くばかり そこでお七は一室へ入り  
覚悟極めて書置きいたす  とても吉三と添われぬなれば  
自害いたして未来で添うと 思い詰めたる剃刀持ちて 
既に自害をいたさんものと 思う所から釜屋の武平  
さてもお七を口説かんものと  忍ぶ所から様子を見たる  
武平驚き言葉をかける これさお七ゃ何故死にゃしゃんす 
これにゃ訳ある子細があろう 云えばお七は顔振り上げて  
これさ武平さん恥ずかしながら  云わねば解らぬ私の心  
親も得心親類達も 話し相談いたした上で 
わしに養子を貰うと言うが 嫌と言うたら私の不孝  
親に背かず養子にすれば  二世と契りし男にすまぬ  
親の好く人私は嫌よ わしの好く人親達嫌よ 
あちら立てればこちらとやらで 何卒見逃し殺しておくれ  
聞けば武平は悪心起こし  とても私の手際じゃ行かぬ  
さればこれから騙してみんと これさお七やよう聞かしゃんせ 
そなた全体親への不孝 可愛い男に逢われもしまい  
なおもそなたは死ぬ気であれば  これさ火をつけ我が家を焼きな  
我が家焼ければ混雑いたす 婿の話も止めものなれば 
可愛い男に逢われる程に それがよかろと云われてお七  
女心の浅はか故に  すぐに火をつけ我が家を焼けば  
家は驚く世間じゃ騒ぐ 騒ぐ紛れに釜屋の武平 
八百屋財産残らず盗む 又も武平は悪心起こし  
わしが恋路は叶わぬ故に  悪い奴らは二人の者よ  
今に憂き目にあわしてやろと すぐに役所へ訴人をいたす 
そこで所の役人様は 哀れなるかなお七を捕らえ  
町の役所へ引き連れなさる  吟味するうち獄舎に入れる  
後に残りし小姓の吉三 それと聞くより涙を流す 
さても哀れや八百屋のお七 元の起こりは皆俺故に  
今は獄舎の憂き目を見るか  そなたばかりは殺しはせぬぞ  
今に私も未来へ行くよ あわし悪いは釜屋の武平 
わしも生まれは侍故に せめて一太刀恨みを晴らし  
それを土産に冥途へ行こうと  用意仕度で探しに行きゃる  
本郷辺りで武平に出会い 恨む刀で一太刀斬れば 
うんとばかりに武平は倒れ 吉三手早く止めを刺して  
首を掻き切り我が家に帰り  委細残らず書置きいたし  
直にそのまま自害をいたす そこでお七は残らず吟味 
罪も極れば獄舎を出でて 行くは何処ぞ品川表  
哀れなるかや娘のお七  云うに云われぬ最期でござる
 
八百屋お七口説き 2 
月にむら雲 花に風 散りてはかなき 世のならい 
これから始まる 物語 八百屋お七の 物語 
八百屋お七の 云うことにゃ すみからすみまで 毛の話 
ここは駒込 吉祥院 ご朱院なされて うしろより 
ひじで突きつき 目で知らす お話変わりて 八百屋では 
お七の好きな 生なすび 元から先まで 毛が生えた 
とうもろこしを売る 八百屋 いとし恋しい 吉さんと 
四角四面の 屋根裏で おへそくらべも 出来ようが 
女心の はかなさよ 一把のわらに 火をつけて 
ポイと捨てたが 火事のもと 誰知るまいと 思ったに 
天知る地知る 人が知る 丁度これより 四軒目 
釜屋の武平さに 見っけられ 釜屋の武平さが 証人で 
お七はその場で 召捕られ 意見・捕縛に 突出され 
明日は何処へ 廻される しぶしぶ参るは 御奉行殿 
その日の詮議の 役人は お七のためには 伯父になる 
一段高いは 御奉行様 七尺下がって お七坊 
お七いくつで 何の年 紅葉のような 手をついて 
申し上げます 御奉行様 私は十五で 丙午 
お七十四で あろうがの 私の生まれは ひの年の 
ひのえひの時 丙午 七月七日が 誕生日で 
それにちなんで 名もお七 十四と云えば 助かるに 
十五と云った ばっかりに 助かる命も 助からず 
百日百夜は 牢の中 百日百夜が 明けたなら 
がんじがらめに 縛られて 裸の馬にと 乗せられて 
上はせん札 上昇の 罪の明かしを 書きしるし 
大伝馬町は 小伝馬町 米の花咲く 麹町 
江戸楽町へと 引き廻し 恋の花咲く 品川で 
吉野家女郎衆の 云う事にゃ あれが八百屋の 色娘 
髪はカラスの 濡れ羽色 目元ぱっちり 色白で 
口元純情で 鼻高で 女の私が ほれるのに 
吉さんほれるも 無理はない 悟り開けた 坊さんも 
木魚の割れ目で 思い出す 浮世離れた 尼さえも 
バナナのむけ目で 思い出す まして色良い お七坊 
ぞっこんほれるも 無理はない 鈴ケ森へと 着いたなら 
鬼の役人 待ち受けて 死刑台へと 乗せられる 
下から上がる 火の炎 あれさ熱いよ 父さんよ 
あれさ熱いよ 母さんよ いとし恋しいの 吉さんよ 
 
八百屋お七口説き3 
恋の火がつく 八百屋のお七 お寺は駒込 吉祥院  
寺の和尚さんに 吉さんというて 吉さんは奥の書院座敷の 床の間で   
机にもたれて 学問なさる後より お七そばに さしよりまして   
膝でつくやら 目でしるす これいなもうし 吉さいな  
私しゃ これから 本郷に帰る たとえ本郷と この寺と   
道はいかほど へだつとままよ かならず忘れて 下さるな  
言うてお七は 本郷に帰る 本郷二丁目 角びきまわした 八百屋店  
八百屋の店の 売り物は ごぼうや人参や 尾張の大根じゃ ほしかぶら  
みつばや芹や とうがらし かき豆十八ささぎじゃ こりゃどうじゃ   
望みあるなら 何なとござれ お七ひと間で うたた寝をする  
うたた寝枕で 見る夢は ま一度我が家を 焼いたなら   
またもやお寺に いかれょかと かわいい吉さんに 会われよものと  
夢を見たのが その身の因果 一輪の藁に 火をつけて  
我が家の屋根にと ぽいとほり投げて 火の見やぐらに かきつけて   
ひと段登って ほろと泣き ふた段登って ほろと泣き  
三段四段は 血の涙 火の見のやぐらに かけのぼり   
撞木片手に 四方を見回し 火事じゃ火事じゃと 半鐘をたたく   
江戸の町中は おおさわぎ このことばかりは たれ知るまいと思うたに  
かまゆの ぶ兵次というやつが なんきんどたまを 振りたてて  
なすびみたよな 目をむいて 大根みたよな 鼻たれて  
人参みたよな 舌を出し お奉行様にと 訴人をいたす  
一寸二寸は のがれもしょが 三途のなわに 縛られて  
はだか馬にと 乗せられて 泣き泣き通るは つづや町  
もはや品川 あの通りぬけ 品川女郎衆が 立ち出でて  
あれが八百屋の お七かと うりざね顔で 色白で   
吉さん惚れたは 無理もない 仕置きの場所には 鈴が森   
二丁や四面にゃ 矢来を結うて たつる柱が 首金さぐり    
しばやわり木を 積み立てて  吉さんは 仕置きの場所にかけつけて   
はるかむこうの 彼方より これいなお七 その方は   
あわれななりに なられたな そういうお声は 吉さんかいな   
よう顔見せて おくれたな 我が家を焼いた その罪で   
わたしゃ焼かれて 今死ぬわいな あれが一度に 燃ゆるなら   
さだめしお七 熱かろう 苦しゅかろ ぼうと燃えあがる その声に   
皆いちどきに… 後はホイホイ 涙のたまり水  
 
 
覗きからくり節

 

「覗(のぞ)きからくり」とは江戸時代中期に江戸と大阪に始まった見世物の一つ。おおきな箱の前面に複数の覗き穴があり、料金を払って中の絵を見る。箱の横には説明者が立ち、紐を引くことにより次々と絵を変えていく。その時に細い棒で箱を叩きながら歌うのが「覗きからくり節」で、出し物で大評判をとったものが「八百屋お七」だった。「八百屋お七」の説明もいりますねぇ。お七は一六八二年、江戸の大火の際、駒込園乗寺に避難したが、そこで寺小姓生田庄之助と恋仲になった。家に戻ってからも忘れられず、再会を願って放火未遂事件を起こし、捕らえられて鈴ヶ森で火あぶりの刑に処せられた。十五歳で火あぶりになったのは江戸時代でも例がない。お七が死んでから三年後、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」に取り上げてから有名となり、浄瑠璃や歌舞伎の題材として取り上げられた。以下に全文を紹介する。  
「八百屋お七」          
その頃本郷二丁目に 名高き八百屋の久兵衛は 普請成就する間 親子三人もろともに 檀那(だんな)寺なる駒込の吉祥院に仮住まい 寺の小姓の吉三(きちざ)さん 学問なされし後ろから 膝でちょっくらついて目で知らせ 「これこれもうし吉三さま 学問やめて聞かしゃんせ もはや普請も成就して わたしゃ本郷へ行くわいな たとえ本郷と駒込と 道はいか程隔てても 言い交わしたる睦事(むつごと)を 死んでも忘れてくだんすな」   
それより本郷へ立ち帰り 八百屋商売するうちに 可愛い吉三さんに会いたいと 娘心の頑是(がんぜ)なく 炬燵(こたつ)の燠(おき・赤くおこった炭火)を二つ三つ 小袖の小褄(こづま)にちょっと包み 隣知らずも箱梯子(はしご) 一桁(ひとけた)、二桁(ふたけた)登り行き 三桁(みけた)、四桁(よけた)を登りつめ これが地獄の数え下駄(げた)   
ちょいと曲げてる窓庇(まどひさし) 誰知るまいと思えども 天知る地知る道理にて 釜屋の武兵衛に訴人(そにん)され 是非なく地頭に呼び出され その日のお裁(さば)き極まれば 葦毛(あしげ)のドン畜生(白に茶や黒色の毛が混じった馬)に乗せられて 伝馬町から引き出され 髪を島田に油町(ゆいのちょう) 辛き憂目の塩町を 油屋お染じゃないけれど 久松町をとろとろと お七を見に出し見物は ここやかしこに橘町 富沢町をひき回し 姿やさしき人形町 娑婆(しゃば)と冥土の堺町 さても哀れや不憫やと てんでに涙を葺屋(ふきや)橋 とりわけ嘆くは父爺(おやじ)橋 江戸橋越えて四日市 日本橋へとひきいだし 是非もなか橋京橋を 過ぎれば最早程もなく 田町九町車町 七つ八つ山右に見て 品川表(おもて)を越えるなら ここがおさめの涙橋 鈴ケ森(死刑場)にと着きにける あまた見物おしわけて 久兵衛夫婦は駆け来たり これこれお七これお七、これのうお七という声も 空に知られぬ曇り声 ワッと泣いたる一声が 無情の煙と立ちのぼれば ここが親子の名残なり 哀れやこの世の見納め 見おさめ  
「八百屋お七(猥歌版)」  
(前唄) さては一座の皆様方よ ちょいと出ました私は お見かけどおりの悪声で いたって色気もないけれど 八百屋お七の物語 ざーっと語って聞かせましょう それでは一座の皆様方よ ちょいと手拍子願います  
(本唄) ここは駒込吉祥寺 寺の離れの奥書院 ご書見(しょけん)なされし その後で 膝をポンと打ち目で知らす うらみのこもった まなざしで 吉さんあれして ちょうだいな (ソレソレ)  
八百屋お七のみせさきにゃ お七のすきな夏なすび 元から先まで毛の生えた とうもろこしを売る八百屋 もしも八百屋が焼けたなら いとし恋しの吉さんに また会うこともできようと 女の知恵の浅はかさ 一把(いちわ)のワラに火をつけて ポンと投げたが火事の元 (ソレソレ)  
誰知るまいと思うたに 天知る地知るおのれ知る 二軒どなりのその奥の 裏の甚兵衛さんに見つけられ 訴人せられて召し捕られ 白洲(しらす)のお庭に引き出され 一段高いはお奉行さま 三間下がってお七殿 もみじのような手をついて 申し上げますお奉行様 (ソレソレ)  
私の生まれた年月は 七月七日のひのえうま それにちなんで名はお七 十四と言えば助かるに 十五と言ったばっかりに 助かる命も助からず 百日百夜は牢ずまい 百日百夜があけたなら はだかのお馬に乗せられて なくなく通るは日本橋 (ソレソレ)  
品川女郎衆のいうことにゃ あれが八百屋の色娘 女の私がほれるのに 吉さんほれたは無理は無い (ソレソレ)  
浮世はなれた坊主でも 木魚(もくぎょ)の割れ目で思い出す 浮世はなれた尼さんも バナナむきむき思い出す まして凡夫のわれわれは思い出すのも無理は無い 八百屋お七の物語 これにてこれにて終わります