色里

 

 

【悪所】(あくしょ)主に江戸の俗で使われ、官許、非官許(岡場所)を問わず色里全般を云う。 
享和雑記/色売る町を悪所といふ事。富家に生れ家督ある者の家を失ひ、老て貧苦にせまり、飢寒に窮する事、誰かこれを願ひ望んや。然共此里に通ふ人の遊女に実なく一向勤のみにて相手せんは又楽しみとするに足らず。故に真実ならざれば楽しみとし難く、真実ある時は継て悲しみ至るべし。是を思ふ時は此郭に至りて楽しむ者は終に真の楽しみを得る人なし。故に是を名付けて悪所といふ。 
廣辭林/遊蕩をなす場所。いろざと。いろざとに行くを、悪所落。いろざとに入りびたりて、放蕩するを、悪所狂と云う。 
むかしむかし物語/吉原を指しているようだ。吉原へ行くには、まず色男でなければならず、大金を持ち、それなりの準備をして出かける場所だったと書かれている。 
【揚屋】(あげや)遊女等を抱えず、宴席や閨の場所を提供する店。現在で言えば宿泊もできる貸し宴会場のようなもの。 
吉原御免状/元吉原から新吉原の前期、正確には宝暦十年(1760)まで、太夫、格子(後に散茶の一部も)といった格の高い遊女と遊ぶには、遊客は揚屋にあがりそこに遊女を呼ばなければならなかった。遊ぶのも寝るのも揚屋である。新吉原になると、揚屋は一ケ所にまとめられて揚屋町となったが、元吉原の頃には、あちこちに散在していた。 
守貞謾稿/揚屋あげやと訓ず。京師島原・大坂の新町は今もこれあり。江戸も昔はこれあり。いずれの年に廃すか。今は揚屋これなし。ただ揚屋町の坊名を存すのみ。揚屋には娼妓を養はず、客至れば太夫を置屋より迎へ餐すを業とするなり。天神および芸子・幇間も客の需に応じてこれを迎ふなり。ただ鹿子位以下の遊女を迎へず。

 

【吾妻】(あづま)大坂新町富士屋(佐渡屋)与三兵衛抱えの太夫の名。 
かくれさと苦界行/吾妻は、器量すぐれ天性位高く、其上糸竹一通はいふに及ばず、萬芸に通じ、諸国の郡客我一とまみゆる事を争ふと「澪標」に書かれた女である。 
【ありんす詞】(ありんすことば)吉原の遊女達が使っていた言葉。大坂新町にも廓詞があり、新町詞と言った。 
守貞謾稿/吉原詞 ある人曰く、当廓の娼妓、多くは北越の産なり。また江戸生れもあれども、所詮諸国より身を売り来たること故に、常の江戸詞にては、その移りがたきもあるなり。この故に一種の言語を製して、諸国の訛言より移りやすからしむと云へり。それ、「左様でござります」を「そうざます」、「いやでございます」を「いやざます」、「左やう御座りますか」を「そうざますか」、「云ひなされます」を「いゝなます」、「参りました」を「まいりんした」、「やりました」を「やりいんした」、「ありましやう」を「ありいんしやう」あるひは「ありいんす」。

 

【色里】(いろさと)遊女町、傾城町など娼家が集まった町のこと。遊里、花街、柳巷、悪所などさまざまな呼名が有る。 
遊女・芸者などの集まり住居する遊興の場所。花柳の巷。いうり。くるわ。 
【色町】(いろまち)遊里、傾城町など遊興の地を指す。類語に花街という語が有り、主に京阪で使われていた。 
【色比丘尼】(いろびくに)諸国を遍歴し仏法を説いた尼を比丘尼といったが、形態を真似て専ら色を売ることを業とする者(色比丘尼)が現れ、江戸期には売女と同義に使われる。 
【江口】(えぐち)遠く平安の昔に遡る色里の地。「吉原御免状」にも「江口・神崎以来の色里」と記されている。因に神崎というのは、大阪湾にそそぐ三国川(現淀川)を神崎川と言ったことによるもので、江口の周辺を表している。江口とは、難波入江口の略称であり、西国への船路は、ここから三国川を経て武庫(むこ)の入海へと乗り次ぐほかになかったようだ。 
【江口の君】(えぐちのきみ)江口の里の遊女。その代表とも言える「妙の前」は西行上人との関係で知られている。

 

【越中】(えっちゅう)大坂新町木村屋又四郎抱えの太夫の名。越中褌の産みの親という。 
久夢日記/容色いふばかりなし、この太夫道中の時刻は、廓中見物おしもわけられず、往来急にしがたし、これによつて又四郎裏より、九軒町の水道へ橋をかけ、裏道より揚屋へ入しゆへ、この橋を世人越中橋と号しける、またある時あげ屋にて、わがあいかたの客人風呂に入らんとせし時、下帯まではづして入らんとせし時、姿見ぐるしとて俄におもひつき、湯具のひぢりめんの二布をときはなし、それにひも付けあたへしより、越中褌といふ事はじまりし。 
【江戸の遊里-吉原以前】庄司甚右衛門が吉原を開く以前は、江戸の遊女屋は各地に散在していた。 
守貞謾稿/江戸往昔は定れる遊女の地これなく、諸所に散在せり。城西麹町に十五戸、鎌倉川岸に十四、五戸、大橋内柳町に二十余戸等なり。けだし大橋と云ふは、今云ふ常磐橋なり。柳町は今云ふ道三川岸なり。この柳町の遊女屋を慶長中、元誓願寺に移す。この遊女屋は京師万里小路柳原の者多く、鎌倉川岸の者は駿府弥勒町および城州伏見夷町の者多く…。
 

 

【花魁】(おいらん)吉原の太夫を称して花魁と呼び慣わしていたものが、いつしか太夫という呼び名が無くなり、花魁という呼び名が残った。江戸後期になると、太夫・格子クラスの上妓はいなくなり、散茶クラスの遊女の一部を花魁と称したようだ。 
【花魁道中】江戸吉原の風物で、花魁が遊女屋から揚屋までの往復を供の者を引き連れて行列する様をいう。花魁道中というのは後世の言葉で、当時は「ぬめり道中」と云ったらしい。遊女は江戸町の遊女屋から京町の揚屋へ、あるいは京町の遊女屋から江戸町の揚屋へと往来した。この往来を、江戸、京都間の旅になぞらえて、道中と呼んだのである。道中は当然、遊女が自らの全盛を誇示するものであり、宣伝でもあった。従って花魁たちは、衣裳髪飾りなどの華かさは勿論、褄のとり方、足のふみ出し方など微細な点まで、独自の型を作ろうと努めたものである。 
ありんす国深秘考/髪飾りや打掛の満艦飾もさることながら、特色はスローモーな歩きぶりである。道中には内八文字と外八文字があり、内八文字は半円をえがいて足を廻しこみ、外八文字は裾を外側へ蹴ると同時に、足を外輪から内側へ廻して一歩を踏む。内八文字が公卿の練足の転化なのに対して、外八文字は武家の闊達を模したもの。副産物として裾を蹴った拍子に、緋縮緬の内衣(やぐ)からまっ白な足首や、時にはふくらはぎまでチラリと見せ、卑猥な男どもを悩殺した。 
「ぬめり道中」内八文字で揚屋への往復をすること。道中の際、外八文字に踏み出すのを江戸風といい、内八文字に踏み出すのを島原風という。

 

【大蔵】(おおくら)新吉原江戸町茗荷屋抱えの遊女の名。 
【大坂新町】大坂の御免色里。京の遊女に長崎の衣裳を着せ、江戸吉原の張りをもたせて大坂の揚屋で遊ぶのが一番と云われたように、大坂新町の揚屋は豪華絢爛、華美を極めたと云う。新町の廓が現在の場所に出来たのは寛永年間だが、御免色里という点では、江戸吉原より古いといわれる。出願者は木村又次郎という浪人で、それまで民家の間に散在していた遊女屋を一ケ所に集めるため、一面野ッ原だった現在の土地を賜うた。新しく開いた土地なので、新町と呼ばれたのである。 
かくれさと苦界行/寛永四年、佐渡島勘右衛門が上博労町の傾城屋を引き連れて来り、ここに佐渡島町を作ったのを皮切りに、惣名主木村屋又次郎は伏見から移って瓢箪町(又次郎町ともいう)を、佐渡島勘右衛門の実弟越後屋太兵衛が佐渡島町の隣りに越後町を(佐渡の隣りは越後ときまっている)開いた。その他にも、阿波座から移った四郎兵衛町(後の新京橋町)、新堀からの金右衛門町(後の新堀町)、天満葭原からの吉原町(後の裏新町)がある。これらを総称して五曲輪といった。

 

【岡場所】非合法の売春宿で、「かくれ里」といわれた。大抵は黙認されるが、その取締を吉原が負っていたため、目にあまってくると吉原の年寄衆の手入れを受けた。その手入れを「けいどう」と云った。吉原以外の、つまりは公娼ではなく私娼を置いた場所を岡場所と云った。 
かくれさと苦界行/岡場所の「岡」は「仮り」という意味だ。吉原の本場所に対して、私娼窟のことを仮りの場所、つまり岡場所といった。ついでにいえば、本気で惚れた本惚れに対して、ちょっと見たぐらいで惚れたのが岡惚れ、本気の嫉妬に対して、ちょっと焼餅を焼いてみせるくらいのを岡焼きと云った。岡っ引という言葉も、本引に対する仮引の意味で、奉行所同心が捕らえるのが本引なのだと云う。これは三田村鳶魚氏の説である。 
【置屋】主に京坂の習で、遊女、芸子、舞子等を抱え、揚屋、茶屋等からの要望があると娼妓を派遣する。現代で云えば芸能プロダクションのようなもの。 
【和尚】(おしょう)遊女の事を云う。 
花と火の帝/舞台では、二十数人の遊女が踊っていた。その中央に曲ろくが幾つか据えられ、そこにひときわ美しい遊女たちが座って三味線を弾いている。彼女達は「和尚」と呼ばれた。「和尚」とは遊芸の道を極めた女に贈られる尊称だが、また三味線をかかえて曲ろくに座った姿が、禅宗の高僧を描く頂相に似ていたからだとも云う。曲ろくには孔雀の羽根や豹や虎の毛皮がかけられ、華々しいものだった。 
【女歌舞妓】遊女の意味で使った時代もある。元和年間記事/女歌舞妓を禁ぜられ、男歌舞妓となる(女かぶきといふは遊女なり。勝れたるを称して和尚とよべり。男かぶきになりては、美少年を選びて舞はしむ)。

 

【かほる】勝山と同じ頃(元吉原から新吉原へちょうど替る頃)の吉原で人気の太夫の名。 
【鹿子位】(かこい)京坂の下妓の呼び名で、吉原の局女郎あるいは散茶と同格か。 
【勝山】(かつやま)新吉原新町山本芳潤方抱えの遊女。太夫格。 
吉原御免状/勝山は、もと神田雉子町の堀丹後守の屋敷前にあった。紀伊国屋風呂市兵衛方にいた湯女である。風呂屋女、髪洗女といい、垢かき女ともいう。紀伊国屋風呂は丹後守邸の前なので丹前風呂と呼ばれ、彼女も「丹前勝山」の嬌名を馳せた。卑しからぬ家の生れで、父に勘当されたため、湯女に出たという。そのためかどうか、女歌舞伎好みの男装で、玉縁の編笠に裏つきの袴、木太刀の大小をさし、丹前節の小唄を唄いながら、大道を闊歩した。今から四年前の承応二年(1653)六月、紀伊国屋風呂がつぶれると、勝山は改めて吉原から遊女に出た。新町の山本芳潤方の抱えで、格式は太夫である。 
【勝山結】(かつやまゆい)当時流行した髪型。花魁道中で外八文字を広めたのも勝山で、遊女勝山は今で云うファッションリーダー的存在だったようだ。

 

【桂女】(かつらめ)古の遊女の名。遠く平安・鎌倉の時代に洛西桂川のほとり桂の里に住み桂女と呼ばれた遊女たち。 
【禿】(かむろ)普段は太夫、格子などの上妓の身の回りの世話や雑用をしていた童女。花魁の道中では先導を勤め、自分が仕える遊女を「おいらが姉さん」「おいらが太夫子」などの意味合いで、「おいらん」と呼ぶ。それが巷間に広まり上妓を指す言葉となった。いわば、禿たちが「おいらん」という言葉を産み出した。 
【祇園】京都にある色町の名称。古くは八坂神社の門前町として栄え、江戸期に私娼の遊廓が現れ賑わった。現在でも舞子、芸子さんたちの置屋があり、だらりの帯の舞子さんに出会える観光スポットとなっている。祇園町は祇園の西門より四条橋東の大路を云ふ。この所を京師非官許遊女の魁とす。当所の起源いまだこれを詳らかにせず。 
【ギウ】(ぎゅう)牛あるいは妓有太郎(ぎゅうたろう)の事。女郎の世話をする下男。時に用心棒的な存在ともなった。

 

【後朝】(きぬぎぬ)「きぬぎぬ」という言葉は、奈良時代からあったといわれる。この場合の「きぬ」は「衣」である。 
しののめのほがらほがらとあげゆけば おのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集巻十三)とあるように、「己がきぬぐぬ」を略してただ「きぬぎぬ」と呼んだ。奈良・平安時代の男女は、同衾する時、お互いの着物をぬいでそれを下に敷き、或は上に掛けた。二人分の衣(着物9を敷いて寝た男女は、朝起きるとそれぞれ自分の着物を着なければならない。それが「己がきぬぐぬ」であり、同時に男女の別れを意味するわけである。当時、男は女の体温と体臭の残った着物を着て、朝早く帰るわけだが、歩くうちにそのぬくもりも冷え、体臭もかすかになってゆくのを、はかなしと感じ嘆いたのであろう。それが本来の「きぬぎぬ」なる言葉の語感である。これに「後朝」という漢字をあてたのは、平安時代だといわれている。 
江戸時代になると、この言葉は、もっぱら遊女と朝帰りの客との別れに用いられることになった。 
【切見世】(きりみせ)娟鈍(けんどん)女郎、端女郎など局より劣る下品、最低ランクの女郎の店。長屋女郎とも云う。 
【傀儡】(くぐつ)遊女を云う俗言。

 

【轡】(くつわ)遊廓、傾城屋の事。転じて「くるわ」となったのかは不明。「くつわ」の仮字が亡八で、遊女屋の主を音読みにして「ぼうはち」と云ったという説もある。遊女屋の主人はまた「くつわ」とも呼ばれた。 
【首代】(くびだい)吉原の若い衆。用心棒的な存在。 
【雲井】(くもい)元吉原新町河合権左衛門抱えの遊女。宮本武蔵の馴染みの遊女だったという。 
【廓】(くるわ)遊廓の事。郭、曲輪。もとは城や砦などの防備のため、周囲に巡らす土や石の囲いを云う。狭義で遊廓を「くるわ」と云う。 
【廓詞】吉原詞、新町詞など。昔時、遊里にて遊女の使用せし特殊語、田舎出の遊女に田舎詞をつかはしめざるために定めしものといふ。 
【芸子】主に京坂で使われる。酒席や宴を盛り上げるため、三味線に合せて唄を唱った。それに合せて舞を舞ったのを舞子という。当初は幼長を問わず舞いを専門とする芸妓を舞子といったが、やがて小妓の振袖を着る者の惣名となり、舞いを舞わない者をも舞子というようになった。

 

【芸者】芸子同様酒席や宴を盛り上げるために三味線や太鼓を専門とし、色を売らない妓。吉原以外の江戸芸者を町芸者といった。 
【傾城】元は美人を表す言葉だったようだが、現在は専ら遊女を云う。傾城屋は遊女屋と同義。 
守貞謾稿/傾城と云ふは、李延年の歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一たびこれを顧みれば、城を傾け国を傾くと謡ひ、己が妹の李夫人を進むより傾城を美人の惣名とす。いつとなく遊女のみの名となる。 
【けいどう】吉原衆による岡場所の手入れ。けいどうは怪動、警動とも書く。いわゆる岡場所の刈込みのことである。 
【格子】吉原の遊女。太夫に次ぐ格式を持つ遊女で、遊女屋の張見世に出て客にその姿を見せて宣伝した。張見世は大格子の内にあり、見世に出ない局と区別するために格子と呼んだ。

 

【五十間道】(ごじゅっけんどう)日本堤から吉原の入口大門までの道。五十間道の三曲坂をあがると日本堤に出る。この五十間道には、左右に編笠茶屋(遊客に顔を隠すための編笠を貸すところ)が十軒ずつ軒を並べている。この編笠茶屋も、日本堤にある腰掛茶屋(所謂どろ町の中宿)も、実は新吉原の一部であり、吉原五丁町の支配を受けていた。 
【御陣女郎】(ごじんじょろう)武士と共に戦場に赴いた女性達。明治以後の兵隊らの欲望を満たすだけの従軍慰安婦とはかなり性格を異にしている。 
桂女と呼ばれた遊女たちが、武士団の戦いに参加したのをいう。彼女たちは必ず櫛を二枚さしていた。一枚は凶事に、一枚は己れの化粧に使う。凶事とは斬りとられた敵将の首を洗い、その髪をなでつけることである。吉原の遊女もまた必ず二枚の櫛をさしていたが、それは「御陣女郎」に由来するものであった。 
【五丁町】(ごちょうまち)吉原町の別名。この五丁町という名は、元吉原の江戸町、同二丁目、京町、角町、新町の五丁(町)からきているという。

 

【小紫】(こむらさき)新吉原遊女の名。太夫格。濃紫とも書く。 
江戸時代の猥談/この花街(吉原)にも昔は随分すぐれた女がいた。例へて見れば、寛文頃の遊女小紫である。彼女は和歌の道に達し、よくその道に精進して、心ばへも優しく風雅であったため、世上では、石山寺の観世音で源氏六十帖を編集した才女紫式部にも似たといふ評判で、小紫といふ名はそれから出たといふ。江戸の小紫の花起請文、葉守の神かけてなどいふ文章は有名である。 
【御免色里】(ごめんいろさと)時の政権・権力者の許可を受け各地に散在する娼家を一ケ所に集めた色里で、秀吉の許可を受けた京の「柳馬場」、大坂「新町」に始り、江戸幕府の許可を受けた「吉原」などの色里をいう。御免色里とは時の政府機関が公に許可した遊廓のことだが、これがいつ頃から始まったかについては諸説があって定かでない。 
【座敷持・部屋持遊女】(ざしきもち・へやもちゆうじょ)太夫、格子などの遊女がいなくなった中期以降の吉原の遊女の呼び名。

 

【散茶】(さんちゃ)元は太夫、格子、局という遊女の格があったが、湯女等の売女を吉原一所に集めたことにより、散茶という新しい遊女の名ができた。吉原から太夫、格子という格式高く技芸に秀でた遊女が廃れると、肉体を売るだけの散茶が吉原の遊女の中心となった。 
かくれさと苦界行/揚屋へ呼ばれるのは、『太夫』と『格子』の一部だけであり、同じ遊女屋にいても『散茶』は絶対にゆかない。いや、ゆけない。この『散茶』と呼ばれる女郎は、もともとは湯女で、吉原以外で営業していた女たちである。明暦三年(1657)吉原移転の際、この種の風呂屋はことごとく取り潰され、湯女たちはすべて新吉原に吸収された。この女たちは、太夫、格子と違って客を振るということがなかったために、『散茶』と呼ばれた。散茶とは今日でいうひき茶のことである。当時の煎茶は袋に入れて振り出したが、ひき茶は容易に湯に溶けて振る必要がなかった。そこからつけられた名前だった。 
【地獄】主に江戸で使われた呼び名で、素人の売色する者を称して地獄と呼んだ。 
【島田結】(しまだゆい)島田髷。遊女の髪型の一つ。 
島田結のはじめ、島田と云ふ髪の風は、寛永年京都四条にて、歌舞妓の者島田甚吉と云ふ者あり、舞子の結び初たる事とぞ。

 

【島原】京の色里の名。「俗事百工起源」に島原の名の由来が、天草島原からきているとある。島原の乱が寛永十四年(1637)だから、この遊里ができた寛永十八年には、まだ島原の乱が人々の記憶に新しかったのであろう。 
守貞謾稿/京師の遊女町は古は西洞院(にしのとういん)にあり。その後、六条柳の馬場(やなぎのばんば)にあり。寛永十八年、柳の馬場より今の九条朱雀通り(すざくどおり)に移して、俗に島原の廓と云ふ。本名は三筋街と云ふ。 
【宿場女郎】宿駅の旅籠で商売をした、いわゆる飯盛女。これらは岡場所に変わりはないが、品川、新宿などの宿駅は江戸ではなかったので江戸市中よりも取締りはゆるく、しかも江戸に近いため繁昌した。 
【女郎】主に江戸で遊女一般を指した言葉。語源は上臈(宮廷に仕える身分の高い女房)からきている。そもそも「女郎」という言葉自体が「上臈」のなまったものある。 
【諸分】(しょわけ)廓(さと)の諸分。色の諸分。「諸分」遊里や遊興に関しての種々の振舞い、しきたり、作法などをいう。 
【白湯文字】(しろゆもじ)主に京坂で使われた呼び名で、素人の売色する者を称して白湯文字と呼んだ。 
【新造】(しんぞう)新造は太夫、格子になる前の遊女の呼び名で、振袖を着ていたため振袖新造とも呼ばれていた。それら遊女の中で太夫、格子になれず、かといって局にもならず歳をかさねる者も現れ、袖を留めて番頭新造となることもあったようだ。しかし、太夫、格子が廃れるようになると、初めて客をとるようになる遊女を新造と呼ぶようになったらしい。

 

【新吉原】当初の地から幕府によって所替えした先の吉原町を、元々の吉原町と区別するために呼ばれた名称。四十余年を経た明暦二年、町奉行所から、所替えの命令が出た。代替地は、本所か浅草日本堤か、好きな方をとれと云う。本所は隅田川の向うである。当時、隅田川には橋が一つもなかった。吉原町の年寄たちは、鳩首協議の結果、田圃の中とはいえ、浅草日本堤を選んだ。 
【新吉原-後期】同じ新吉原とは思えぬほど、江戸時代の後期になると様相が一変している。これには様々な要素が絡み合っているのだろうが、前期の精神的な遊興をも兼ねた遊女から、江戸の町の繁栄とともに中期は専ら贅を尽した色遊びに変り、そして売色を中心とした遊女へとその比重が移る。その結果として、遊女は経済活動に組み入れられ、堕落していった事に一つの原因があると思われる。いわば銭かねが幅をきかせ、引手茶屋などの中間搾取の仕組が出来上がり、それらが繁昌するかわりに本来の遊女を育てる遊女屋が衰微していったようにも思われる。 
【菅垣】(すががき)遊女屋の営業を告げる三味線の連弾。間断無く続く「すががき」の音色は吉原の街の音といっても良い。清掻という文字から本来は唄を唄わないものを云うのだが、吉原の「みせすががき」には唄を付けたものもあったようだ。三味線は、所謂「みせすががき」であり、吉原の夜の世界の開幕を告げるものだった。

 

【青楼】(せいろう)遊廓の雅名。「遊女屋」の意の漢語的表現。 
【瀬川】(せがわ)新吉原江戸町の松葉屋半右衛門方抱えの遊女。太夫格。 
江戸時代の猥談/瀬川といふのも亦、この花街随一の美妓で、王昭君西施と雖も面を伏せ、小町といへど顔を蔽ふといふ程の素晴らしい美人であった。生まれは、下総の國小見川の在の水飲百姓の娘であった。幼少の頃から、松葉屋にやしなわれて居た関係上、女の道も學ばずして一通りは心得、妓女の藝も一と通り、三絃、浄瑠璃は勿論のこと、茶の湯、俳諧、碁、雙六、鞠、皷笛諷舞、ありと凡ゆる藝に熟達し、その上能書は俗気を離れ廣澤為石の流儀で、文徴明の墨跡を好み、唐詩選を取廻はしては、歴々の儒者の門人にも爪を咥へさせ、又繪も上手で彼の文雅堂の弟子となり、俳諧は當時の乾什米仲の門人平澤左内の弟子となっては、卜筮を學び、平常自分の部屋には、箸を紫の服紗に包み、算木を蒔絵の小箱に入れ置き、傍輩女郎衆の願ひごと、或は待人客の往来首尾の善悪毎日々々是を占て樂をしたといふ、實に多藝多才の不思議な遊女であった。 
【女衒】(ぜげん)女衒中継。遊女候補者を探し、遊女屋に売る商売の者をいう。 
【孀嫁】(そうか)京坂の私娼の呼び名。

 

【高尾】吉原の太夫の筆頭ともいえる遊女の名。高尾太夫は、吉原で最も有名な花魁だが、実は一人ではない。大三浦屋抱えの花魁によって、代々襲名された名前なのである。何代続いたかは、諸説があって判然としない。六代説、七代説、九代説、十一代説の四説がある。 
【立君】(たちぎみ)古の街娼の事。つじぎみ(辻君)。孀嫁(そうか)とは未亡人をいい、戦などで夫を亡くした女性が生活のために身を売るなどしたのに因んだ命名か。 
【玉菊】(たまぎく)新吉原角町中万字屋抱えの遊女の名。 
【太夫】(たゆう)公娼遊女の最高の位。その美貌は勿論、技芸に優れ教養もある。もちろん太夫相手の遊びはお金も一番かかった。京坂の太夫は相応のお金を払えば誰でも遊べたようだが、吉原の太夫は気に入らなければ大名でも相手にしなかったという。京坂では太夫を松と云い、天神を梅、囲(鹿子位)を鹿と云った。

 

【丹前】(たんぜ)丹前風呂、丹前勝山。紀伊国屋風呂という風呂屋が堀丹後守の屋敷前にあったことから、その風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女だった勝山太夫を丹前勝山と云った。 
「丹前風」江戸神田松平丹後守の邸前にあった風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女勝山の風をまねておこった風俗。また丹前風呂へ通う「かぶき」者の風俗をもいう。 
日本なんでもはじめ/「たんぜん」は江戸時代の道楽者や侠客の間に流行した冬着の一種で、「褞袍(どてら)」ともいう。承応・明暦(1652〜8)のころ、江戸・神田佐柄木町の堀丹後守邸の前に有名な町風呂屋があって多くの美人の湯女を抱え、昼は浴客の身体を流し、日が暮れると上の場び座敷をかまえて客を接待した。この風呂屋を、丹後守の邸の前にあることから「丹後殿前風呂」、略して「丹前風呂」と呼んだ。この丹前風呂の勝山という湯女が、髪を白元結で片まげの伊達風に結び、編笠に裏つきの袴をつけ木太刀の大小を差したいでたちが、丹前の勝山ともてはやされ、その姿を「丹前」といった。丹前風呂の浴客は、綿入れの広袖の衣を着物の上に引っかけ、その上に帯をしめて出入りしたことから、その広袖の着物まで「丹前」と呼ぶようになった。

 

【茶屋】茶屋という呼び名だが、主に酒肴を提供し、遊興を行う場所。当時のサロンというような所か。現代でも京などにあり、茶屋遊びができる。茶屋遊びに付き物なのが、芸子、舞子、そいて太鼓持(江戸で云えば芸者に幇間)。当時はそこに馴染みの遊女を侍らせて遊んだのだろう。 
【猪牙】(ちょき)猪牙舟。吉原への交通手段にこれを使う。多くは吉原に通うのに当初は馬にて通う客(馬道という名の起り)が多かったが、後になると四つ手駕篭という駕篭に替った。やがて船宿という今でいうとラブホテルが現れ、それへの通いに使った小舟が猪牙だったようだ。その小舟で大川を遡り吉原へも行くようになったと思われる。猪牙の名は、ほっそりした形が猪の牙に似ているからだともいい、櫓をこぐ音がチョキチョキといったからだともいう。長吉という男が、房総から江戸に鮮魚を送るのに使う押送舟(おしょくりぶね)を真似て作り、長吉舟と呼んだ、それがなまったもの、という説もある。別名を山谷舟。本来銚子附近で漁師の使う快速船で、沖でとれた魚を料亭に運んだものだという。 
【辻子君】(づしぎみ)私娼の古名。主に京で裏店を小さく区切っただけの部屋で客を迎えていた。

 

【局女郎】(つぼねじょろう)本来、吉原の局女郎は格子の次にくる遊女だったようだが、時代が下るにつれ下級の娼妓の名となり、切見世と同義になった。 
【津守】(つもり)堺の町にあった色里の名。忠輝が案内された場所は大坂城ではなかった。堺の町である。この住吉神社の鳥居の南、高巣の森が高州となり、北高州町、南高州町と分れ双方に遊里があった。南高州町は後に津守と呼び、乳守とも書いた。この津守の廓にある揚屋に秀頼はいた。 
【鉄砲見世】(てっぽうみせ)切見世の事。安い料金で専ら売春だけを目的とした女郎、およびその店をいう。この切見世をまた百文河岸、鉄砲見世ともいう。約十分間の情事の値が五十文または百文だったためであり、ふぐ(鉄砲という)と同じく毒にあたり易いからだ。 
【天神】(てんじん)京坂における遊女の格を表す言葉。吉原の格子と同格。天神という名は遊女の料金が二十五匁だったことから、天神さんの縁日の日である二十五に引っかけた呼び名。

 

【長崎丸山】肥前長崎の御免色里の町の名。主に南蛮人(オランダ人・イギリス人)向けの遊廓、唐人(中国人・朝鮮人)向けのもの、そして和人(日本人)向けとそれぞれ別れていたという。「丸山」長崎にある遊廓で当時ユニークな存在であった。日本人相手の遊女(日本行)、唐人相手の遊女(唐人行)、紅毛(オランダ)人相手の遊女(紅毛行)があり、日本行は他に比べてすぐれていた。 
【中田圃】(なかたんぼ)田圃の中に作られた里なので、吉原の周りはすべて田圃だった。それを称して云った。 
浅草志/東は観音、うしろ馬道へ出、西は下谷坂本入谷へ出、南は浅草寺町へ出、北はみの輪大音寺前へ出、此地は花川戸村坂本村など云よし、其外村名もあるべし。六郷佐渡守御屋敷あり、立花左近将監殿下屋敷有、其辺りを俗に左近殿原と云。下谷の方へ行所、又浅草寺裏田の中に蛇塚と云あり、北寺町の方慶印寺前石橋を枕橋と云へり。此所に片葉蘆あり。 
【日本堤】荒川の護岸工事は、日本国中の大名を動員して普請された。こうして完成した堤だったことから、称して日本堤と云った。荒川の水際堤也、大川より三の輪へつゞく凡八丁ばかり。

 

【端女郎】(はしじょろう)局女郎を俗に端女郎と呼んだという。 
【迫瀬川】(はせがわ)越前三国湊の遊女の名。後に歌川と名乗り、加賀千代女と並び称される歌人でもある。 
【八朔の雪】(はっさくのゆき)遊女は「八朔の雪」と称して、八月一日に裏のついた白無垢を着るならわしだが、これも宮中の上臈を真似たものだ。 
【花扇】(はなおおぎ)新吉原江戸町扇屋抱えの遊女の名。 
【花咲】(はなさき)京島原の太夫の名。

 

【張り】(はり)主に吉原の太夫が矜持とし、誇りとしたが、時代が下がるにつれ太夫が居なくなると共に、そうした気風も無くなったという。「太夫は情けに生きる」というのは、この意味であり、吉原の太夫の「張り」とは、この情けの世界、人を人として認め合う精神の世界に入って来ない者は、断固として拒絶するという姿勢を云う。己れの美貌や技芸を誇り、いたずらに傲り高ぶるのを『張り』と思い込んでいるお小夜の間違いはそこにあった。 
遊女・瀬川にみる「張り」/江戸時代の猥談 
当時、常磐津文字太夫という浄瑠璃語りがあった。瀬川に前から思いを懸けていたが、中々に逢うことが出来ず。よって、揚屋町の男に頼んで、一夜の逢瀬をはからって貰った。揚屋町の男から、懇々と頼まれた瀬川は、それ程に思っていて下さるなら、芸人浄瑠璃語りなどには勤める身にても枕をかわさぬのが、里の習いではあるけれども、お逢い致しましょうと答えた。 
早速、夜になると、彼の文字太夫、一世の綺羅をかざり、茶屋船、宿たいこを引きつれて、松葉屋の客となった。やがて、瀬川は座について、盃の応酬みだれた頃、瀬川は文字太夫に浄瑠璃を望んだ。文字太夫は、嬉しくなって声はり上げて、瀬川に気に入られたいばかりに、精を出して語った。瀬川は、禿に云って、目録金子千疋台にのせ、文字太夫の前に置き「今宵は御大儀でした。これは些かの御礼心です、御酒などおあがり下さいます様」と云い捨て二階から下へ静かに下りたという。一片の遊女の意気は、浄瑠璃語りの浮気心を冷殺してしまったのだ。

 

【番頭新造】(ばんとうしんぞう)番頭新造とは、いってみれば太夫のマネージャーである。名を売った遊女の末であり、既に年季の明けた者に限る。新造にはもう一種類振袖新造というのがあり、こちらの方は文字通りの新艘、つまり新人で、年も十五、六、いわば太夫の予備軍である。美しく可愛く、太夫の引き立て役になる。この振袖新造と番頭新造の二人を太夫に付けるところに、吉原者の巧みさがあった。番頭新造は廓のベテラン中のベテランである。客の気質を素早く見抜き、そのあしらいようから文の書き方まで太夫に教えたという。 
【引舟】主に京坂の遊里で使われた言葉。「引舟新造」太夫につきそうかこいの女郎。太夫に附属して其身辺の用務を弁ずる遊女。 
【引け四ツ】(ひけよつ)当時、江戸では寺等の鐘の音と、それに合せて各町々で拍子木を打って廻り、人々に時を告げていた。しかし吉原では四ツ時(午後十時)までの営業しか許されていなかったため、正規の時刻に拍子木を打たず、九ツ時(午前零時)に四ツ時の拍子木を打った。これを引け四ツと云い、吉原だけの時刻となっていた。また、この浅草寺の九ツの鐘を「元禄太平記」によれば「追出しの鐘」と云ったようだ。 
【振袖新造】遊女見習い。先輩である太夫、格子に付いて色の諸訳等を学んだ。

 

【奉納踊り】長崎丸山で、禿が一人前の遊女になるときに行われた行事。 
諏訪神社の祭礼に能を舞うとは、禿が一人前の傾城になることだった。祭礼は九月七日、九日の両日だが、丸山・寄合町の両傾城町では六月中に早くも踊りの準備に入る。町をあげての踊り奉納があるからだ。但しこれは謡曲能の曲舞ではない。この能は撰ばれた者だけがつとめる。寛永十一年、高尾と音羽という傾城が諏訪社の広前で舞ったのを嚆矢とするという。 
傾城町では各町ごとに小屋掛けの稽古場を急設し、ここに踊りの師匠を招き、あんにょう、禿などを稽古に通わせた。これを『小屋入り』と云う。小屋入りは六月から八月一杯続くのである。丁度暑いさかりに御苦労なことだが、奉納踊りは各町ごとに組になって行われるので、当然、芸と衣裳を競うことになる。負けられぬ勝負だった。女たちも気を入れたし、傾城町は俄かに活気づき、おのずと客も集るという仕組だった。

 

【亡八】(ぼうはち)女郎屋のおやじの事。この呼び名については幾つかの説があるが、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目を無くさなければできないという例えは、後からこじつけられたのは事実のようだ。 
【見返り柳】色里の出入口に植えられた柳。つい最近まで、吉原の五十間道が日本堤通りに交わる辺に植えられていたが、現在ではその柳の木も無くなり、往時を偲ぶものは何処の色里跡にも無い。 
【三筋町】(みすじまち)京の御免色里があった処の名。万里小路二条から慶長七年(1602)に室町六条通りに移され、寛永十八年(1641)九条朱雀通りに再度移転した。どの町も三筋町だったが、最初を「柳の馬場」と呼び、三番目を「島原」と俗に呼ぶため、ただ三筋町と云う時には二番目の室町六条通りを指すようになった。 
【飯盛女】宿場女郎の事。

 

【元吉原】庄司甚右衛門が御免色里を最初に開いた色里(吉原)の後世の呼び名。江戸の人口が増え町割拡張のため、明暦二年に幕府によって移転を命ぜられ、翌三年、浅草寺裏の竜泉寺村に移転した。 
【唐土】(もろこし)大坂の遊廓新町の新町筋扇屋牛之助抱えの太夫。 
【紋日】(もんび)五節句の祝日を云う。主に遊廓などで使われた。 
【柳の馬場】(やなぎのばんば)西洞院辺りやその他の地に散在していた遊廓を、太閤秀吉の許可を受けて、原三郎左衛門という人物らが一ケ所に遊廓をまとめた。これが御免色里の魁となる。この色里建設は、戦後(応仁の乱)の復興事業でもあったようだ。 
我が国に初めて出来た遊廓は京の柳ノ馬場である。万里小路(までのこうじ)二条の南、方三町の御免色里(許可をうけた遊里)。天正十七年のことだ。この万里小路二条の廓を柳の並木で囲むように作ったのは、明かに唐・宋の「柳巷」の真似である。そのために此所をまた「柳町」ともいった。万里小路二条のあたりは、天正の頃には、応仁の乱に焼かれたままの野ツ原だった。だから周囲を柳の並木でめぐらすことが出来た。

 

【鎗手】(やりて)遊女のOBがなった。現代でいえば遊女のマネージャーといった役どころか。花(遊女)の周りを廻ることから花車といい、転じて香車、それから鎗手に転訛したようだ。やがて遣り手という語が生まれ、現代では「遣り手婆」などと罵言に用いている。 
守貞謾稿/鎗手またの名を香車と云ひ伝ふ。俗等に、象戯(しょうぎ)の駒の香車をやりてと云へば、香車が別名をまたやりてと云ふ。香車と云ふは本字は花車と書くなり。花に廻ると云ふ心なり。しかれども、くわしやと云ふはひゞきあしきとて、かしやと云ひかへたり。かしやと云ひしより、またやりての名あり。守貞曰く、やりてを昔は香車と云ひしなり。今はやりてとのみ云ひて、香車の名廃せり。京阪には揚や・茶屋の妻を花車と云ふこと、今もしかり。

 

【遊女】遊女というのは只の売春婦ではなく、本来は貴族の遊興の席に同席した上臈を云い、「あそび女」といった。やがて、色里の女郎を指す言葉となる。 
俗事百工起源/人間の心はどういう風に出来ているのだろうか。ゆきずりの相手だからこそ打明けてみたい秘事を、人は誰でも抱えているのではないか。そしてその種の秘事のきき役と云うのが、古来から遊女の本質的な役割だったのではないか。巫女が遊女の源だったという説も、そこから導き出されて来たのではないか。 
我国にては遊女を浮女戯女と云ふ。遊女を流の女と云ふは、昔平家八島に亡びて後、宮づかへせし官女ども身の置処なく、長門の赤間、播州室の津にて旅人に身を任せ売りしより始ると云ふ説あり。摂津の江口神崎三島など津々浦々にて、小船に乗りて謡たる故、流女と云ふ。 
遊女の格 
京阪/上品「太夫」中品「天神」下品「鹿子位」以下「端傾城」、鹿子位以下を「おやま」「ひめ」と通称。 
江戸/上品「太夫」後に「花魁」中品「格子」下品「局」以下「散茶」「切見世」、花魁以下を「女郎」と総称。

 

【吉野】京島原の最も格式のある太夫の名。高尾同様、その名は襲名された。 
出雲の阿国に発したかぶき踊りは、阿国の衰退と共に、六条三筋町の遊女たちによって引き継がれたのである。あたかもこの頃の六条三筋町は、高名な吉野太夫以下、七人衆・四天王などと云われる諸芸に秀で、容貌も群を抜いた遊女たちで全盛を極めていた。 
【吉原】(1)庄司甚右衛門が徳川幕府から賜った地は、当時、葭(よし)の繁った汐入地(湿地帯)だった。その葭の原に作った町だったので「吉原」と云った。「武江年表」から甚右衛門が開く以前に葭原町というものが有ったようだ。そこは舞楽を楽しむ場所、云うなれば京の四条河原のような遊興の場だったのではと考えられる。それが一度幕府によって撤去させられ、再び荒れ地となった所を甚右衛門が借り受け、吉原町を作ったようだ。 
(2)東京にあった遊郭。元和三年江戸市中に散在した遊女屋を葺屋町(ふきやちょう=中央区日本橋堀留付近)に集めて公許。もと葭(よし)が一面にはえていたところから、葭原と俗称されたが、後、吉原と改められた。幕府の命により、明暦三年の大火以後浅草山谷付近(台東区千束)に移転した。これ以前を元吉原、以後を新吉原という。昭和二一年の公娼制度廃止後は、特殊飲食店街のかたちをとり、同三三年の売春防止法施行により消滅した。なか。北国。北里。北州。  
【吉原四天王】万治・寛文の頃、名高かった遊女を称して吉原四天王と称した。京町高島屋内勝山、新町建出内井筒、角町高砂や内かるも、同万字や内朝づま。

 

【夜鷹】(よたか)江戸の町に出没した私娼。京坂では立君あるいは夜発(やほつ)というのと同類か。 
【羅生門河岸】(らしょうもんがし)吉原の東の河岸見世の通称。ここの女郎は、客を捕まえるとそれを離さなかったことから、人の腕を捕えて放さなかったという、羅生門の鬼茨木の故事にひっかけた名である。 
【柳巷】(りゅうこう)色里、傾城町などの遊里の事。唐・宋の遊里は、いずれも柳の樹に囲まれていたという。柳の並木が色里の象徴だったのである。そのため遊里をまた「柳巷」といった。

 


    
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