お大尽 紀伊国屋文左衛門

 
「大門を八丁堀の人が打ち」 
大門を打つとは吉原の大門を締め切ることで、一夜廓中の遊女を買い切った。 
紀伊国屋文左衛門    1669?〜1734 (享保19年) 没年齢 66歳(不詳)
 
 
一代で築いた巨万の富を一代で使い果たした「紀文大尽」 
1669年(寛文9)に誕生し1734年(享保19)に66歳で死亡したといわれる。江戸中期の豪商。紀伊国(和歌山県)生まれ、紀州みかんを江戸に運ぶ商売で利を得、のち材木商として江戸に進出。老中柳沢吉保に取り入り、幕府の御用達商人となる。中でも上野寛永寺の用材調達で投機的に巨万の富を得た。吉原で奈良屋茂左衛門と大尽遊びを競った話など、豪遊伝説が残る。柳沢吉保失脚後に廃業、落魄した生活を送ったという。 
元禄〜享保の時期に豪奢をきわめて、奈良屋茂左衛門とともに成功したと考えられる。成功伝説では「みかん船」が取り上げられるが信頼することはできない。京橋本八丁堀に材木店を設け河村瑞賢の指導を得たといわれる。新井白石「折たく柴の記」に材木を商ふ商人どもの忽ちに家を起し″とあるが紀文の成功とのかかわりか、成金型豪商の代表といえる。
 
戒名 帰性融相信士 
文左衛門は紀州の貧農の倅で、妻の実家から資金を借り、嵐の中、ぼろ船にみかんを満積し、江戸で売りさばいて千金をつかむ。後に木材商となり、江戸の大火、振袖火事の時には木曾材を買い占めて巨万の富を得た。これが文左衛門の人物像であるが、現在のところ、裏付ける確たる証拠はほとんどない。 
数々の豪遊のエピソードが伝えられているが、彼は吉原で大尽遊びばかりしていたわけではない。吉原の水利の悪さを知ると、ただちに井戸を掘らせた。赤穂浪士が本所から泉岳寺へひきあげる途中に渡った永代橋も元禄十一年に架けている。こうした公共施設にもかなり出費している。しかし、大銭の鋳造を請負ったもののすぐに通用停止となり、大きな損失をうけ、晩年は非常にみじめであったという。
 
紀文 
紀伊国の生まれといわれ、故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたとつたえられる。 
貞享年間(1684〜88)に江戸の京橋本八丁堀3丁目(東京都中央区)に材木問屋を開業。1697年(元禄10)ごろには老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀とむすびついて、駿府の豪商松木新左衛門とともに、御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達をうけおった。下総(しもうさ)国香取社の普請用材なども調達している。こうした事業は巨利を生み、奈良屋茂左衛門とならび全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽とよばれ、それも資力の宣伝効果となって商売上の信用を高めた。しかし、1700年幕府御用達の特権をうばわれたうえ、柳沢・荻原らが引退したことで商売もふるわなくなった。さらに深川木場の火災で所有する材木を焼失したため、正徳年間(1711〜16)材木商を廃業。その後、浅草寺内のち深川八幡(東京都江東区)に閑居した。山東京伝の「近世奇跡考」(1804)によれば、1734年(享保19)66歳で没したという。死後、元禄町人を代表する豪快な生きざまが人情本や歌舞伎の題材に多くとりあげられた。
 
下津港・みかん船 
温暖な気候・風土に恵まれ、山の頂上近くまで耕された段々畑は柑橘栽培に向き、昔から盛んに温州みかんが栽培されていた。典型的なリアス式海岸をもつ天然の良港、下津港からみかんを各地に運んだ。江戸期、下津は風波に見舞われ航路は途絶え、みかんを運送できなくなった。地元ではみかんが大量 に余り値段が下がり、江戸では値上りしていることを知り、決死の覚悟で運んだのが紀伊国屋文左衛門である。この下津港から人生の船出をした。 
「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは紀州のみかん船」と俗謡にうたわれるくらい世の人に深い印象を与えた。
 
紀文の乗った船 
当時の廻船は精々200から300石であり、江戸ではミカン不足で高値に売れ、当時の相場ミカン2籠(30s)約1両にプレミアがついたとして、1500から2000両の売り上げが妥当か。 
幕府は鎖国政策をとっていたが、各藩の密貿易を取り締まるため、寛永12年(1635年)から寛文期(1661〜1673年)まで、500万石以上の船の没収と建造禁止を行ったが、之によって造船技術は長らく衰微退縮した。その後禁止令緩和とともに大型船建造が始まるが、紀文当時に1000石以上の船の手配は困難であったと思われる。北前船(江戸時代後期に大阪と北海道を結ぶ商船)として、高田屋嘉兵衛(現兵庫県津名郡五色町出身)が寛政8年(1796年)に1500石船(225t)を建造しているが、その建造費は当時で2000両(現在で2億〜2億5千万円?)とされている。現在、弁財船と呼ばれた形式の「菱垣廻船」は一隻も残っていない。
 
紀文の蜜柑舟伝説 
元禄時代は、台風の当たり年だったため江戸では、ふいご祭り用の蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないはずだと考えた文左衛門は、勝負に出る決意を固めた(ふいご祭りは立冬(11月8日)に行われる、鍛冶屋などのふいごを使う職人たちの行事)。文左衛門は、3倍の手当てを約束して乗組員を確保。彼らは死を覚悟し、白装束に頭は三角の布をかぶって船に乗った。浸水を防ぐため、大量の松脂を船底に塗った船に1200両分、7000篭の蜜柑を積み込んで船磁石を頼りに太平洋へと漕ぎ出し、命懸けの航海は成功をおさめた。 
蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは、大歓声をあげて文左衛門を迎えた。蜜柑はなんと元手の30倍の金額で売却できたと言われている。その上、文左衛門の活躍は有名になり、カッポレに歌われるようになった。 
文左衛門は後に幕府御用達商人になることができ、中でも東叡山寛永寺における根元中堂の建立によって財を確かなものにした。文左衛門の吉原での豪遊も有名だったようだ。当時の吉原は1つの社交場であり、大尽遊びに外交手段がめぐらされたという。 
散財で没落した、二代目で没落した、など色々な説があるが、とにかく晩年、世間のデフレの波に押され、材木商をたたみ、隠居生活を送るようになった。好きな俳道や書道に親しむためだったようです、俳号「千山」としての句が残っている。 
「さいかちに 宇治のもぬけや 指袋」「みよしのの 火打ちにたつや 桐の花」
 
文左衛門と俳諧 
紀伊国屋文左衛門/俳号「千山」は、其角・仙鶴・祇空・才麿らと親交があり、沾竹編「五十四郡」(宝永元年)立詠編「庭の巻」(宝永2年)仙鶴編「十二月箱」(宝永6年)祇空編「鎌倉紀行(鎌倉三五記)」(宝永6年)など約40点の俳書に入集し、また祇空の後見のもとに、10歳になる息千泉の疱瘡快癒を祝って「百子鈴」(宝永6年)を自ら編んだことなどが知られている。 
浮世草子では「吉原一言艶談」(宝永4年)に紀文らしき人物の逸話に言及する最初の作品かと思わる。「紀伊国屋文左衛門」の名前がはっきり示されるのは月尋堂作「子孫大黒柱」(宝永6年)で「ふゆき弥平次、きいの国屋文左衛門、三もんじ屋与右衛門、是当代の町人のかゞみ、銘々の利発ゆへ大身体と成」とある。団水作「日本新永代蔵」(正徳3年)には「紀惣」なる人物が登場するが、息子を京に上らせて修業させる話は、紀文とその息がモデルではないかとする説がある。秀松軒編「松の葉」真田増誉著「明良洪範」「吉原徒然草」「吉原雑話」等が紀文と同時代に成立した紀文関係資料といえる。 
「実伝紀伊国屋文左衛門」によると享保20年(1735)の露月の歳旦帖「乙卯歳旦」に千山句がある。この時期に活躍した千山号の俳人がもう一人おり、この露月歳旦帖の千山は露月編「名物鹿子」(享保18年)に「飛団子 梅は飛ぶさくらは杵のだんご哉 菊丸改千山」とある、菊丸のことであろう。菊丸は享保15年の露月他編「二子山」に「菊麿」の号で入集、同じく露月他編「卯月庭訓」(元文3年)には「千山」の号で入集している。一方、紀文も、享保18年(1733)に「石霜庵追善集」に句を寄せていて紛らわしい。 
日光市内にある紀文三句碑・「夏の夜や蚊につゝかれて月を見る」「青葉からひと雫づつ大谷川」
 
司馬遼太郎「本所深川散歩」 
紀ノ国屋文左衛門「ともかくも、江戸第一期の繁栄期である元禄時代(1688〜1704)には、深川木場は大いににぎわった。とくに江戸中期までは経済社会の密度も粗かったから、巨利を得る者が多く、ときににわか成金も出た。そういう者が、色町で財を散じた。色町では、大づかみで散財してくれる者をお大尽″とよび、下にもおかぬもてなしをした。十七世紀の紀州人で、紀伊国屋文左衛門などは、その代表だったろう。略して紀文≠ニよばれたこの人物は、材木商として巨利を博した。かれのあそびの豪儀さを讃美して、二朱判吉兵衛という野間が、「大尽舞」という囃子舞をつくって大いにひろめた。歌詞は、まことにばかばかしい。そもそもお客の始まりは、高麗もろこしは存ぜねど、今日本にかくれなき、紀ノ国文左でとどめたり」 
墓は深川の成等院に残り、若海三浦実誠著「墓所一覧遺稿」に「紀伊国屋文左衛門、別所氏、俳名千山、享保三年正月二日没、年五十四、法号本覚院還誉到億西岸信士、葬深川霊巌寺中成等院」と書かれている。江戸に出てきて材木商となり、老中柳沢吉保と結び、上野寛永寺の建築材納入で、多大の財をなしたと伝えらる。一方で文人墨客と交遊があり、宝井其角の門人となって、俳名を千山と号した。正徳(1711〜1715)の頃には、家運も衰え深川八幡一の鳥居付近(現門前仲町一丁目)に住み、そこで死去。
奈良屋茂左衛門「紀文とならんでにわか分限になったのが、通称奈良茂≠ニよばれた奈良屋茂左衛門だった。奈良茂は、深川の裏店にすんでいた木場人足の子としてうまれた。少年のころから利発で、界隈ではめずらしく読み書きに長じていたという。はじめ宇野という材木問屋に奉公して商いのことを見習い、二十七、八で暇をとって独立した。といって、問屋は免許制だからそうそう店をひらけるわけでもなく、わずかな丸太や竹などを扱っていた。さきの紀文が上野寛永寺の中堂の普請でもって財をなしたといわれるが、奈良茂が頭をもたげたきっかけは、日光山東照官の普請だった。」 
奈良屋茂左衛門は、姓を神田氏といい、紀伊国屋文左衛門と豪遊を競った富豪の材木商であったといわれる。
 
紀文の生誕地・湯浅 
今から5000年ほど前から湯浅に人が住み始めた。当時は、海が今よりずっと中まで入り込み、水(ゆ)が浅く広がっていたことから「ゆあさ」、また古名「湯笠(ゆかさ)」から転じたともいわる。 
平安時代に土地の有力豪族、湯浅氏の活躍とともに「湯浅」の地名が歴史上の文献に登場。湯浅氏は、藤原鎌足の子孫藤原秀郷の後裔と考えられ、居住の地名から湯浅氏と名乗るようになったようだ。 
仏教の隆盛とともに、熊野三山が人々の信仰を集めたため、湯浅は熊野街道の重要な宿駅となった。熊野参りへの人々の信仰熱は、上流階級から庶民まで広く高まり、京の都から盛んに人が往来し、湯浅の地で旅装を解いた。熊野参りの途中でお参りしたところを「王子社」といい、吉川に逆川王子社跡、別所に久米崎王子社跡が残っている。また、この街道は、江戸期には官吏の往来や、官用の荷物書状の輸送のための交通路になり、湯浅は伝馬所としての役割も果たした。
紀文 
紀伊国屋文左衛門の生誕地は「加太浦」「和歌浦」「塩津」「熊野浦」など諸説あるが、過去の研究家の研究資料や諸条件を総合すると「有田郡湯浅町別所」が有力。11月江戸で行なわれる恒例の「吹子(ふいご)まつり」に向け、荒天の中を綿密な計画のもとに決行した冒険的な紀州みかんの江戸輸送や、上野の東叡山寛永寺の根本中堂の建立の請負い等、幕府ご用達の材木商になるまでの才略、かつ天性気宇闊達な生きざまは、今日の商人に商機をつかむ叡知と放担的な勇気の必要性を教えている。紀文は市井における一介の商人ではなかった。絵画を英一蝶に習い、書道を佐々木文山に学び、俳諧は宝井其角を師として自ら修養に努めた。 
湯浅組 
熊野街道の宿駅として、紀伊水道の港町として位置と地形に恵まれた湯浅は、紀州藩の有田御代官所が置かれ、湯浅組」として23ヶ村が治められ、組には大庄屋一人と各村に庄屋が置かれた。
湯浅宗重(ゆあさむねしげ) 
平安時代から鎌倉時代初期にかけて湯浅を本拠地に活躍した武士。宗重を中心とした湯浅堂は戦記に名高く、その勢力から平時の時代には平清盛に、鎌倉幕府になってからも頼朝の信頼が厚かったといわれる。武勇の一方で、神仏を崇信して、神社、寺院の修理や建立を行い、手厚く保護するという横顔も持っていた。明恵上人は孫にあたります。 
明恵上人 
鎌倉前期の僧。16歳で出家して、京都、奈良に学び、名利だけを求める風潮を嫌って23歳で湯浅に戻り、山中で一人修養と研鑽につとめた。栖原白上の峯に入り、さらに東白上峯に草庵をたてて修養に励んだ。修行はたいへん厳しいもので、一切の俗念を払拭しようとして右耳を削ぎ落としている。後に後鳥羽院から土地を賜り、京都・高山寺を復興した。建礼門院はじめ位の高い人々から庶民に至るまで、多くの人が人柄と教えに帰依したいといい、その中には仏師として名 高い運慶、快慶らもいる。
栖原角兵衛(すはらかくべえ) 
栖原家の当主は代々角兵衛と称した。初代は房総の漁場を開拓し、さらに5代目は蝦夷の漁場を開き、6代目は樺太と北海道・宗谷間の定期航路を開くなど、歴代が樺太・千島まで漁場をひらいた。北方の発展に貢献したほか、函館付近の上山村の開墾や、ロシア侵入に備えた防備にもつとめたということで、当時の栖原家の有力者ぶりがうかがわれる。 
須原屋茂兵衛(すはらやもへえ) 
4代目須原屋茂兵衛は、杉田玄白「解体新書」を出版した江戸の本屋「須原屋」の本店当主。栖原村の須原家は、代々江戸で薬問屋と出版業を営み、山の手の武士や教養人に人気があった。当時、「解体新書」は罪に問われる危険性のあるものだったが、日本の将来のために出版を決断した功績は高く評価されている。
菊地海荘(きくちかいそう) 
栖原の生まれの菊地海荘は、家業を継いで江戸で砂糖・薬問屋を営むかたわら、詩に親しみ、故郷に古碧吟社を創設した。渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎らとも親交を結び、国内、世界の情勢に通じて、天保の飢餓では私財を投じて土木工事を起こし、難民、失業者を救った。 
鎌田柳泓(かまたりゅうおう) 
江戸期の最も優れた哲学者の一人として、高い評判を受けた柳泓は、心学と医学を、伯父であり養父である一窓から学ぶ。中国、日本の古典文学に通じていたほか、医学、天体力学、生物学といった分野にも精力的に取り組み、心理学的、科学的説明を備えた独特の理学を大成した。 
鎌田一窓(かまたいっそう) 
湯浅道町出身の一窓は、幼いころに京都に移り住み、医術を学んで本業とした。当時の人間観として清新な学問であった心学に傾倒して石田梅厳に学ぶ。梅厳亡き後は旧宅を預かり、また各地に講舎を創立し、心学の普及に努め、湯浅にも有信舎を建てた。

  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。