消え行く「東京」心のルーツ

 

東京ご利益巡り
諸話 / 京おんなのルーツ 
 
 
遊郭
 
庶民も武士も単身赴任が多かった江戸では、町の発展に伴って遊女屋が増えていった。遊女屋が集まって幕府に公認の遊郭設置を申し入れ、許可されたのが元和3年(1617)。場所は現在の人形町あたりで、当時は埋立地で葭が茂っていたため「葭原」と名付けられたが、やがて「吉原」に改められた。市街地が拡大して吉原に迫ると、幕府は遊郭の移転を計画。まもなく起きた明暦の大火が契機となって、浅草寺裏に「新吉原」が開かれました。江戸話によく出てくる「吉原」はこちらの方。 
江戸後期の天保年間、新吉原の遊女屋約260軒、遊女3600人、予備隊である「かむろ」と呼ばれる少女は700人いた。遊女のランクはピンキリで、大名や大商人の相手となる太夫(たゆう)を頂点に、格子(こうし)、局(つぼね)、端女郎(はしじょろう)などの階級があり、値段も遊び方も異なっていた。吉原が社交クラブのようになっていったのも、この頃から。 
 新吉原以外にも江戸には80カ所ともそれ以上ともいわれる幕府非公認の遊郭があり、岡場所と呼ばれていた。なかでも品川の遊郭は規模が大きく、板橋や千住なども盛んだったといわれている。深川はいきな芸者が評判を呼んだ。非公認遊郭にいる女性は遊女とは言われず、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれていた。
   
遊女

 

江戸のアイドルは太夫をはじめとする上級遊女。遊郭は遊興の地であると同時に、芸能を鑑賞したり俳句を楽しんだりできる文化センターの一面もあり、そのお相手を務める女性のトップが「太夫」。美貌と教養を兼ね備え、さらに人柄のよさも必須条件でした。 
太夫と遊べる人は、ひと握りの武家や豪商だけでしたが、庶民も太夫の道中をかいま見、さらには浮世絵を眺め、物語を読んで、憬れを募らせた。遊女は女性のファッションリーダーでもあり、髪型などが流行の先端となった。江戸・吉原の高尾太夫、京都・島原の吉野太夫、大阪・新町の夕霧太夫は、代々その名を受け継いだ当代きっての人気アイドルだった。 
江戸も後期になると茶屋の看板娘がアイドルになった。谷中の笠森稲荷神社門前に店を構える「かぎや」の「おせん」はその代表。おせん人気はすさまじく、彼女を題材した芝居は大当たりし、浮世絵も飛ぶような売れた。人気絶頂だった浮世絵師・鈴木春信も熱心に彼女を描いている。
  
美人の条件

 

元禄時代の美人の条件は、豊かな体とふくよかな顔、元禄7年(1694)に描かれた菱川師宣「見返り美人図」がその代表。 
田沼時代を境に状況は一変、柳腰のほっそりした体と、細面の顔。鈴木春信「弾琴美人」では、琴を弾いている女性は少女のように細身で、清楚な顔つきが印象的。この細身の姿こそ「いき」の文化に影響されたもので、この美人条件は幕末まであまり変わらなかった。 
幕末、紀州藩附家老の侍医が書いた見聞記「江戸自慢」に以下の記述がある。「女は色白く、首筋と足とは格別奇麗にて、これを自慢か寒中も足袋を用いず。いずれも男の如く外八文字ゆえ(男のように外股で歩くので)、尻小さく、真の柳腰にて、後ろ姿を見ば、武蔵坊も二度の念を起すに有らん。多く下駄をはき、雪踏裏附をはくは少し。足の達者なること飛脚も降参すべし。衣服もいたって地味にて紺縞、藍小紋など眠り目なる用ゆ。夏とても地白小紋、白縞など一切着しものなし。髪は油を附けず、洗いなりにて引つけの丸髷・・・」
  
豪商

 

開府して80年もたつと、江戸の繁栄とともに富豪・豪商と呼ばれる人たちが登場した。 
派手な生涯を送った代表といえば、紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。いずれも将軍綱吉の時代に幕閣と手を握り、官営の土木建築事業を請け負って巨万の富を築き上げた、いわゆる政商である。しかし、紀伊国屋文左衛門が吉原を貸し切った話などでも知られるように、二人とも小気味良いほど贅沢三昧をして財産を使い切り、富豪時代は一代限り。奈良屋などは遺言で「貸家の店賃でつつましく暮らせ」と息子達にさとした話が伝えられている。 
富豪の家系が続いた人たちもいる。呉服店「越後屋」(三越百貨店の前身)や後の三井財閥の元となる「三井両替商」を開いた三井高利は、その代表である。江戸に出回る高級品のほとんどは「下り物」で、それを扱う商人の多くが伊勢、近江、京都の出身者で、三井も伊勢松阪の人。江戸には伊勢商人が特に多く、木綿問屋が集まっている大伝馬町では、ほとんどが伊勢店(いせだな)だったといわれている。 
時代が進むにつれて、江戸生まれ・江戸育ちの豪商も誕生した。その代表格が札差(ふださし)と呼ばれる人々で、もともと幕府から旗本への給米を現金化する商人で、やがて旗本が将来支給される米を担保に借金をするようになって、金融業化した。この札差たちが隅田川の東岸に別荘を建てたり、遊里で通人として豪快にお金を使ったりして、江戸文化を創造する最初の担い手となっていったのである。
  

 

「いき」とは18世紀後半の江戸に成立した美意識。美意識といっても身なりや容姿だけではなく、生き方にまで通じる一種のしゃれた色気や雰囲気をいった。反語が「野暮」。「いき」は、もともとは「意気」だったという。当世や程、趣向などと書いて「いき」と読ませることもあり、「いき」という言葉が、どれほど深い内容と広がりを持っていたかがわかる。 
九鬼周造の「いきの構造」によれば、いきとは「垢抜けして張りのある、色っぽさ」と定義されている。いきな身体的表現として「湯上り姿、姿がほっそりして柳腰、薄化粧、素足」などの例があげられている。いきな模様は「幾何学模様、とくに縞模様」をあげ、いきな色彩は「銀鼠(ぎんねず)等の灰色系統、黄柄茶などの褐色系統、藍色や江戸紫などの青色系統」であるとしている。つまり「いき」というのは、華美を抑えつつも地味にならず、粗野にならない、微妙なバランスセンスが求められた。 
「いき」という江戸独自の美意識が現れた18世紀後半は江戸幕府が開かれて約200年後にあたり、巨大化した新興都市に独自の文化が芽ばえ、洗練され、昇華されるのに、それだけの時間が必要だったということかもしれない。
  
通(つう)

 

「あの人は通だから」という言い方は現代でもよく使われる。この言葉が登場したのは18世紀後半で「いき」という美意識にもとづく行動のあり方をいった。反語は「不通」「野暮」、知ったかぶりをする人には「半可通」という手厳しい言葉も生まれた。 
「通」になるのは大変で、その分野の表裏の事情をよく知っていることはもちろん、人格者で、機転が利き、いやみがなく・・というのですから、人から「通人」と呼ばれるのはたいへんだった。のちには通の上を行く大通(だいつう)も出現。安永6年(1777)の「大通伝」など、通人のなかの通人とはいかなるものかを説く洒落本も出版された。大通たちは湯水のようにお金を使いながら派手な衣装で遊里を闊歩「いき」の精神からどんどんはずれていったため、のちには揶揄の対象となっていってしまった。
 
歌舞伎

 

歌舞伎の語源は「かぶき者」。かぶき者とは傾く(かぶく)という動詞から来た言葉で、常軌をいっした姿や行動をする戦国時代に始まった風俗。歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国(いずものおくに)は、この「かぶき者」の風俗を興行にうつして喝采をあびた。 
 歌舞伎の最初は女性によるもので、幕府の統制により若衆歌舞伎へ転じ、さらに男性のみが演じる野郎歌舞伎となって、定着した。江戸における歌舞伎興行のはじまりは寛永1年(1624)といわれる。興行場所は寛永12年頃に今の人形町に決まったが、後に堺町、葺屋町に移動し、一方で木挽町にも芝居町ができた。移転は続き天保12年(1841)やっと浅草に落ち着いた。 
現在も続く江戸歌舞伎の様式、荒事(あらごと)は元禄時代、初代市川團十郎によって始められた。力強い立ち回りや、隈取(くまどり)などの化粧法も、ここに始まり、代々の市川團十郎によって洗練を加えられてきた。「助六」はその代表演目である。 
「昔の歌舞伎」というと江戸時代だけを考えがちだが、九代目團十郎、五代目菊五郎、初代左團次の「團菊左」ブームが巻き起こったのは明治時代。
  
火事と喧嘩は江戸の華

 

江戸は名うての火災都市だった。記録に残るものだけでも約1800件の火事があり、尋常ではなかった。 
火事のほとんどは庶民が住む人口密集地帯から出火したもの。細い木材を使い、板や茅、わらなどで屋根を葺いた安普請の家は燃えやすいことこの上なく、火の粉が上がれば、またたくまに延焼した。なかでも明暦3年(1657)に起きた明暦の大火は、江戸の町の60%を焼き、約10万人の死者を出す大惨事となった。幕府はこの大火を契機に、市街地の防災化と都市改造に乗り出した。 
それで火事が減ったわけではなく、享保5年(1720)大岡越前守が町火消し「いろは組」を組織したが、消防方法は周辺の家屋を壊して防火帯を造り、延焼をくい止めるだけだった。30年ほど後、竜吐水というポンプも発明されたが15mほどの放水能力でたいした威力はなかったようだ。 
一方で火事をこっそり歓迎した人々もいた。大工や左官、鳶職といった職人は大火があれば仕事が増え、手間賃も上がり、火事場の片付けや古クギ拾いをする人も必要になった。火事は多くの人々が食べていける仕事を供給したことにもなる。
  
ぬすっと

 

江戸に活躍した怪盗の人気ベストスリー。 
日本左衛門/歌舞伎「白波五人男」の筆頭、日本駄右衛門のモデルとなった盗賊。美男で知られ、数十人の手下を率いて大名・豪商相手に派手な窃盗を重ねた。最後は、追い詰められて麻の袴姿で京都町奉行に自首。江戸で獄門に。1747年没、享年30歳。 
鬼あざみ清吉/全国各地で窃盗を重ね、その神出鬼没ぶりで人気を博した。伊勢で御用となり、江戸に送られてきたときは、清吉見たさに人々が押し寄せたという。「武蔵野に いろはびこりし鬼あざみ けふの暑さにやがてしほるる」という辞世を詠み、以後「鬼あざみ清吉」と呼ばれた。1805年没、年齢不詳。 
鼠小僧次郎吉/御三家、御三卿をはじめとして、名だたる武家の屋敷のみをねらったことから「奪った金を貧しい家に投げ入れた」などの伝説が生まれ、義賊にまつり上げられた。盗みに入った武家屋敷は120邸、150回以上にのぼり、盗んだ金額は4000両とも、それ以上ともいわれている。松平宮内少輔宅で御用となり、獄門。1832年没、38歳。両国の回向院に墓がある。
  
八百八町

 

「白髪三千丈」に代表されるように数を大袈裟にいう言い方があり「大江戸八百八町」と言われた江戸には、ほんとはいくつの町があったのでしょう。 
慶長から寛永年間(1596-1644)徳川家康は江戸幕府を開くと大規模な宅地造成を行い、300余の町を新設した、これを古町と呼んでいる。寛永18年(1641)の大火で古町の3分の1にあたる97町が焼失したのを契機に、江戸の市街化は周辺へと広がった。さらに明暦の大火(1657)で江戸の6割が焼けると、いよいよ大規模な都市計画が行われ、町奉行支配に組み込まれた町は674町。 
元禄年間のあと正徳3年(1713)に本所、深川一帯や山手地域が編入されて933町。ここで江戸は八百八町を大きく超えることになる。というわけで元禄あたりなら「八百八町」というのは大袈裟な数ではなく、むしろ謙遜しているくらいの数。延享2年(1745)には1678町に達した。
  
町名

 

青山/徳川家譜代の重臣、青山忠成の屋敷があったから。 
麻布/麻の茂る、あるいは荒れ野(浅茅生/あさじう)の広がる地の意味から。麻布十番の十番は、江戸時代に行った古川の改修工事をした折、10番目の工区だったから、町名となったのは昭和37年。 
大手町/江戸城の大手門があったから。 
神田/伊勢神宮の神領で神に供える稲を作る田があったから。 
紀尾井町/紀州徳川家、尾張徳川家の各上屋敷と、井伊家中屋敷があり、それぞれの頭文字「紀」「尾」「井」を取った。江戸時代はここにある坂道の俗称で、町名となったのは明治時代。 
銀座/慶長17年(1612)に銀貨の鋳造所ができた。周囲に両替商が集まったことから当時の町名は新両替町。町名となったのは明治2年。 
新橋/宝永年間この地を流れる汐溜川に新しい橋がかかったことから。橋の正式名は芝口橋。 
築地/明暦の大火の瓦礫などで築(つ)き固められた埋立地だったから。 
佃島/摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から漁民が集団移住しふるさとの地名をつけた。移住に際し大阪の住吉大社に分社してもらって住吉神社を建てている。 
浜松町/元禄時代に名主だった人の出身地が静岡県の浜松だったから。 
八重洲/漂着したオランダ船員、ヤン・ヨーステンが家康から屋敷を与えられて住んだ場所だから。ただし当時の場所は東京駅の丸の内口側にあったが、1929年の町名変更で一時期、消滅。1954年に東京駅の東側に復活した。町名が引っ越しした珍しい例。 
有楽町/信長の弟・織田秀信(茶道に通じており、有楽斎と号した)の江戸屋敷があったから。
  
門限は夜10時

 

江戸時代の町割りのお話。幕府では治安重視を考え、市街を武家地、寺社地、町人地と分けて、江戸城を中心とする町づくりを行った。 
日本橋を中心とする町人地においては、京都の町割にならって碁盤の目状に造った。道幅も通町筋の道路は幅6丈(約18m)横町筋は幅2丈(約6m)・3丈(約9m)・4丈(約12m)に整備。そして60間(約108m)四方を1区画とし、通りに面して奥行き20間の町屋を造り、中央に20間四方の会所地(共有の空き地)を設けた。もっとも江戸の人口が増えてくると、家と家の間から会所地を通って反対側へ抜ける道ができ、せっかくの公開空地はなし崩し的に宅地、すなわち裏長屋が立ち並ぶことになってしまった。 
こうしてできていった町には一町ごとに木戸があり、番小屋が造られた。さらに主要道路の木戸側には火の見櫓を屋上に取り付けた番屋も設けられた。木戸は明六つ(午前4時頃-6時半頃)に開門し、夜四つ(午後9時半-10時半)になると閉門。町人地は、きっちりと管理されていた。
  
庶民の居住区は16%

 

開府以前の江戸は台地や海岸に沿ってわずかな村が点在する寂しい土地だった。江戸城の東はどこまでも続く潮入りの茅原で、日比谷や霞ヶ関、有楽町から日本橋にかけての一帯は前島とか外島(としま)と呼ばれていた洲。西側には武蔵野の原野が広がっていた。 
家康の初仕事は引き連れてきた家臣の住居地域を定めることで、側近は麹町台地、中級クラスの家臣は麹町・番町・飯田町・神保町一帯、と現在の千代田区全域へ配置。下級武士には四谷・牛込台地をあてがった。続いて行ったのが大規模な町づくり。江戸城に物資を運ぶ水路を掘り、町には掘割を造成。この工事で出た土砂と神田山を掘り崩した土砂で入り江や洲を埋め立て、日本橋から銀座にいたる一帯を造成した。さらに日本橋を起点に街道を整備し、江戸の中心街とした。天下普請と呼ばれたこの都市計画後も、江戸はさらに膨張した。 
文政1年(1818)幕府は江戸市内いわゆる御府内の範囲についての公式見解を示している。「東は中川まで、西は神田上水まで、南は南品川宿を含む目黒川辺、北は荒川、石神井川下流まで」。 
江戸居住区の70%弱は武家であり、14%は寺社の土地だった。人口の半分を占める50-60万人の庶民は、全江戸の16%ほどの土地に押し込まれて暮らしていた。
  
長屋暮らし

 

最盛期の江戸の町民約50万人のうち、借家暮らしは40万人、その大部分が長屋の住人だった。庶民の大半は長屋に暮らしていた。 
長屋は表通りの裏手、路地の中にあり、1軒の大きさは最低にして平均的な基準が間口1間半、奥行き2間。入ってすぐは土間で、片隅にかまどがあり、一段上がって板の間、窓も押し入れもない1Kが基本。1軒あたり平均3・2人が住んでいたといわれる。寝るのが精一杯の極小スペースで、水道の井戸やトイレ、ごみため、物干し場などは共同で、風呂は銭湯に、ご飯は外食で、まさしく寝起きできるだけの空間だった。 
それに店子と呼ばれる裏店の住人には住民税も所得税も課せられない上に、長屋は真面目に働けば2-3日で稼げる程度の低家賃。おまけに「大家は親、店子は子ども」同然で、冠婚葬祭の世話から職の斡旋、トラブルの後始末まで、大家がなにかと世話をしてくれた。ノンキに暮らすには、これほど気楽なところもなかったようだ。勢い落語の「八っつぁん、熊さん」のような人が多かったのも事実、大志を抱いて地方から来た人たちは、あきれて数ヵ月で出ていくことも多かったようだ。 
「鰹一本に長屋のさわぎ也」長屋暮らしをしていた当時の小林一茶の句。
  
三代続けば江戸っ子

 

「江戸っ子」という言葉の初出は18世紀後半の田沼時代。「三代続けば江戸っ子」と言われていたが、江戸に生まれ育った者が少なかった何よりの証拠といえる。江戸後期の戯作者・西沢一鳳は「両親とも江戸生まれの真の江戸っ子は一割しかいない。片親が田舎生まれの斑(まだら)が三割、両親ともに田舎出の田舎っ子が六割もいて、その連中が、おらぁ江戸っ子だと騒いでいる」と書いている。 
江戸は人々が流入・流動する町、先住者と新参者がせめぎ合う町だった。仕事を取り合う状況のもとで、以前から江戸に住む者は「三代続いた江戸っ子」という言葉を、優先順位を主張する呪文として使い、情けない思いをした時のツッパリにもしたのなもしれない。 
田沼時代は江戸商人が大きく成長していった時代でもあった。それまで上方商人に押しまくられていた江戸商人のなかから、江戸生まれ・江戸育ちの豪商が出て、町人文化を育てるだけの財力を持つようになった。そのことで「江戸っ子」という言葉にもブランドパワーも生まれた。しかし三代続いていようが、財力があろうが「いき」で「いなせ」でなければ「江戸っ子」とは言えない・・・、このあたりに言葉の真髄がある。
  
初物

 

太平の世が続き、生活にゆとりが出てくると、江戸っ子たちは旬に先立って出る初物に興味をいだくようになった。俗に言う「初物を食べると七十五日長生きをする」という縁起かつぎも手伝って、庶民の初物に対する情熱は高まるばかり。なかでも最もよく知られるのが、初鰹。「目には青葉山ほととぎす初鰹」元禄の俳人・素堂が詠んだように、初鰹は江戸の初夏の風物詩。初鰹が出始めるのは旧暦の4月初旬で、それ以前にハシリの鰹が出て、金持ちの粋人が縁起物として買い求めた。 
例えば文化9年(1812)魚河岸に初入荷した鰹は17本。うち6本は将軍家の買上げ、3本は料亭の八百善が購入。残りの8本が魚屋にわたったが、そのうちの1本を中村歌右衛門が3両で買い、大部屋の役者に振舞ったと蜀山人が書いている(3両といえば今のお金で10万円ほど)。庶民も町内では一番早く鰹を買おうとミエをはり、なけなしの金をはたいて購入した。買った鰹は「井戸端で見せびらかして刺身をし(江戸の川柳)」とお披露目。 
初鰹に対する異常なまでのフィーバーは文化年間の中頃にはおさまったようだが、江戸っ子は初鮭、初ナス、初茸などにも目をつけ、野菜などは促成栽培が盛んになったほど。幕府が物価の高騰を懸念していろいろな規制をかけても、江戸っ子には、さっぱり効き目がなかったようだ。
  
江戸前

 

江戸前とは、まさしく江戸の前海のことをいう。文政2年(1819)に魚河岸問屋が肴役所へ出した答申書に「江戸前と呼べるのは品川洲崎の一番杭と深川洲崎の松棒杭を結んだ線より内側である」といった内容が記され、決して江戸「沖」なんかではなく「目の前の海」であることを強調している。「江戸前寿司」「江戸前うなぎ」などの言い方が生まれたのは享保年間の末頃(1735年頃)のこと。現代の「関サバ・関アジ」と同じ産地ブランド名だった。 
江戸前の魚介として知られていたのはアジ、タイ、ヒラメのほか、キス・サヨリ・コハダ・アジ・ギンポウ・カニ・シャコ・エビ、アナゴなど。ほかに隅田川の河口や深川の小名木川でとれる白魚やウナギ。また、ハマグリ、シジミ、アサリなどの貝類も江戸前を冠していた。なかでも江戸前のアジは貴重視され、鰻は名物視されていた。 
漁村は関西から移住してきた漁師が定住した佃島をはじめ、深川、芝浦などにあり、江戸の町からの大量需要にこたえて発展していった。芝の海辺で財布を拾った魚屋が出てくる古典落語の名作「芝浜」は、漁師町・芝浦を舞台にした人情味豊かな噺。
  
屋台

 

江戸は独身者が多い上に、妻がいても共稼ぎがほとんどだったので、外食グルメが発達していた。天秤棒をかついで売り歩く振り売りは早くから登場し、その後に露店が登場した。なかでも、うなぎ、てんぷら、握りずしは、屋台から生まれて江戸を代表する食べ物になった。うなぎを蒲焼きで食べるようになったのは元禄時代(1688-1703)以降。てんぷらは天明年間(1781-89)頃に串揚げスタイルでお目見え、握りずしは文化年間(1804-18)頃に江戸の町に登場した。 
そのほかの屋台で、主食系として稲荷ずし、茶飯、麦飯などのご飯類の屋台。けんちん汁などの汁ものを一緒に売ったり、とろろなどのトッピングメニューも揃えていた。おかず屋台では、豆腐やこんにゃく、芋などの味噌田楽や煮込みおでん、焼きイカ、卵焼きなどなど。デザート屋台もバラエティ豊かで、飴、団子、大福餅、焼き芋、甘酒、汁粉などのほか、たとえば夏には白玉やところてん、水羊羹、スイカなどの季節メニューの屋台も出していた。ご飯だけ家で炊いて、おかずは「煮売屋」「菜屋」などと呼ばれる惣菜店で買う人も多くいた。 
「江戸の諸所にこれがあり、刻みするめ、こんにゃく、くわい、れんこん、ごぼう、刻みごぼうの類を醤油で煮染め、丼鉢に盛り、見世棚に並べている」 
本格的に店を構える飲食店・居酒屋ができたのは18世紀後半から。
  
宵越しの金は持たぬ(富くじの話)

 

江戸っ子には「宵越しの金はもたない」という気風があったようだ。男性社会ならではの豪快な思想とも考えられるし、お金を貯めて大きな家に移ったところで、火事で焼ければ再びボロ長屋に舞い戻ってしまう火災多発都市ならではの諦観もあったのかも。それ以上に、もともと蓄財するお金も、その気もない庶民にとっては、貧乏をしゃれにしてしまう言葉だったのかもしれない。 
あって困らないのがお金、一攫千金をねらう「富くじ」に人気が集まった。富くじは社寺の修復費用をまかなうために考え出されたもので、谷中の感応寺(天保4年以後、天王寺の名に変更)、湯島天神、目黒不動の富くじが有名。富くじの販売所は町の各所にあり、抽選は社寺の広間に据えられた箱に番号を書いた木札を入れ、小さな穴から錐で突き刺して行われたといわれ、公正だったようだ。 
1等が当たると1000両か500両、2等なら100両か五十両がもらえた。これがどのくらいの金額かというと・・・一両を庶民が一番よく使う1文銭にかえると、4000枚から1万枚に相当した(4000-1万枚と幅があるのは、貨幣の改鋳による金の含有量などによって相場が変わった上、幕末になると金貨が海外との貿易で流出し変動が激しくなったため)。屋台で食べる二八蕎麦が16文程度だったことから、一等賞金は目もくらむような金額。
  
ハイキング

 

江戸っ子はハイキングが大好き。酒や弁当をたずさえ、家族や仲間と一緒に実によく出かけていた。「四時遊観録」「江都近郊名勝一覧」といったガイドブックも盛んに発行された。 
年の初めのハイキングは梅見。江戸一番の名梅とうたわれたのは亀戸梅屋敷。隅田川沿いの寺島村や蒲田村も梅の名所だった。梅見はウグイスの初音聴きも楽しみだった。春はなんといっても花見。名所は上野のお山、王子の飛鳥山、隅田川堤、品川の御殿山、そして吉原などなど。雛祭りには、桃見や桜草摘みにもでかけた。端午の節句の頃となると、薬草摘み。摘んだ薬草は干して煎じ薬にしたので、一挙両得の行楽。そして潮干狩り、今では信じられないが、品川の海岸でハマグリがざくざくとれたという。 
夏は隅田川での川遊びや舟遊び、夜は花火。新宿区落合を流れる妙正寺川ではホタル狩りも楽しまれた。秋は月見としゃれこんで富岡八幡や飛鳥山へ。紅葉の名所といえば下谷の正燈寺と品川の海晏寺(かいあんじ)。菊見なら巣鴨、染井、駒込あたりまで足を伸ばし、ほかに芋掘り、栗拾い、茸狩りといった収獲付きの行楽へもでかけたようだ。冬は本所や向島へ枯野を見にでかけ、雪が降れば隅田川堤や上野の東叡山、湯島あたりに雪見に行った。 
景色を愛で、現地で一句ひねり、道中では駄洒落を楽しみながらの行楽は、お金のある無しに関係なく、才覚とユーモアでいかようにも楽しめる大人の娯楽。
  
男性限定・相撲見物

 

相撲は神事の芸能で、入場料収入を社寺の新改築費用にあてる「勧進相撲」だった。 
江戸最初の勧進相撲は、貞享元年(1684)の正月。場所はその2年前に本堂が火事で焼けた深川の富岡八幡宮で、8日間催された。富岡八幡宮境内に「横綱力士碑」「超五十連勝力士碑」「巨人力士身長碑」など相撲関連のさまざまな石碑が残っている。 
本格的に江戸で相撲が盛んになったのは田沼時代の終わり頃。相撲は庶民の娯楽として人気を集め、花形力士は「1年を20日で暮らすいい男」と言われる大スターになった。谷風梶之助、小野川喜三郎、そして容貌怪異にして怪力の雷電為右衛門らは、いずれも勝率9割以上を誇ったスター力士。ちなみに当時の最高位は大関で、横綱は名誉称号だった。江戸相撲は年2場所、両国の回向院を会場に桟敷席が設けられ、1-4月の春場所と、10-11月の晴天の10日間催された。つまり雨天順延。雨以外に寺の行事などでも延びたため、たった10日の取り組みが2カ月近くかかることもあった。 
この青空の下で行われる大相撲の観客は、原則的に男性に限られていた。毎度のことのように判定をめぐって観客が乱闘騒ぎをおこすので、女性子どもが見るには危険すぎた。当時の土俵の四方には刀をくくりつけた4本柱が立っていたが、騒ぎが大きくなると、その刀で仲裁したともいわれている。
  
本屋

 

江戸時代の本屋は、本を売るだけでなく出版社でもあった。本屋は最初京都で発展し、元禄年間には大阪の本屋も井原西鶴や近松門左衛門などの出版物で当て、勢いを伸ばしてきた。江戸の本屋はまだ生長途上で、取次店に甘んじていた。 
江戸はえぬきの本屋が台頭してくるのは田沼時代で、主に教養書などのかたい本を出版する「書物問屋」と、黄表紙(浮世絵入りの読本)や錦絵、浄瑠璃本などの娯楽本を出す「地本問屋」の2つに大別され、それぞれベストセラーを出していきた。江戸最大のベストセラーといえば十返舎一九の「東海道中膝栗毛」。21年間にわたって43冊も書かれた長編だが、それぞれ1万部を売ったといわれ、合計すれば43万部。黄表紙では柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」が38編を各1万部売って38万部。山東京伝の「心学早染草」が1万4000部。 
発行部数は大した数ではないが、読者数はその何倍何十倍もいたのだ。天保年間(1830-1843)に貸本屋が800軒以上あり、庶民はもっぱら本を貸りていたのである。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は箱入りの豪華本で、500部程しか印刷されなかったが、八っつあんや熊さんのような長屋の人々も延々28年間にわたって全108冊も続いた本の続きを、今か今かと待ち焦がれたのである。
  
旧暦

 

現在の太陽暦は明治5年(1872)12月3日を明治6年1月1日と定めたことに始まる。つまり明治5年12月は2日しかなかった。それ以前は太陽太陰暦を使っていた、現在「旧暦」と呼んでいるもの。江戸時代の人々の暮らしを考えるとき、この旧暦を知らないと話が通じないことが多い。 
旧暦と現在使われている暦では1-2ヵ月のズレがあり毎年変わる(例:旧暦の3月3日の雛祭りは、2003年は4月4日、2004年は4月21日) 
旧暦の1ヵ月は、29日か30日(例:1月31日はない) 
旧暦の毎月1日は、新月となる瞬間を含んだ日で、毎月15日はほぼ満月(補足:16日が満月になる月が多い) 
旧暦の一般的な1年は354日。太陽の運行(1年=365日)と合わせるために19年に7回、うるう月を設け1年を13カ月とした(例:1月、2月、うるう2月、3月、4月…) 
旧暦では1-3月が春、4-6月が夏、7-9月が秋、10-12月が冬(例:1月は初春、2月は中春、3月は晩春。「中秋」の名月は8月の満月)
  
伸び縮みした江戸時間

 

節気ごとの日照時間によって、1日を昼と夜に2分割していた。(冬は昼が約11時間だが、夏は昼が約16時間もある) 
昼と夜の時間を各6分割し、そのひと区切りを一時(いっとき)と呼んだ。したがって、季節によって一時の長さが変わった。(冬は昼の時間が短いので、一時も短い) 
一時(いっとき)を十二支に当てはめて呼んだ。(真夜中0時から一時ごとに、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥) 
時刻は、真夜中0時を九つと言い、以下八つ、七つ、六つ、五つ、四つ。正午がまた九つで、八つ、七つ、六つ、五つ、四つと数えた。(昼は明六つから暮六つまで、夜は暮六つから明六つまで) 
時刻は鐘の音で知らせた。最初の3つは捨て鐘で、4つ目から数えた。というわけで、同じ「暮六つの鐘」でも、冬は夕方に(冬至の日なら現在の17時28分頃)に、夏は夜になってから(夏至の日なら現在の19時56分頃)、「9つ」鐘が鳴ったのです。
  
討入りの日付

 

「時は元禄15年12月14日・・・」名調子で語られるのは赤穂浪士の討入り。大石内蔵助ら47人が主君である赤穂藩主・浅野長矩のかたき吉良上野介を江戸本所・吉良邸で討ちとった日。 
12月になり「本日は赤穂浪士の討入りの日で、赤穂浪士たちは雪を踏みしめて討入りに向かいました・・・」などと言われると違和感がないだろうか。江戸時代の人々は旧暦で暮らし、元禄15年の12月14日を現代の暦になおすと1月30日になる。1月末なら雪が降っても不思議ではない。さらに討入りの西暦を1702年としているが、元禄15年が1702年なのは11月13日まで、11月14日以後は1703年なのである。こうした間違いは歴史事例に数多く見受けられる。 
討入りの日付を正確に西暦にすれば1703年1月30日。
  
男女混浴

 

文化10年(1813)江戸市中にある風呂屋の数は600軒ほどだった。風呂がある家はめったになく、大店の主人も丁稚小僧も、職人も露店商も武士も、みんな湯屋(ゆうや)と呼ぶ風呂屋に通った。湯屋はコミュニケーションの場で、特に男性は別料金を支払えば2階の座敷に上がれ、菓子をつまんだり、囲碁や将棋を楽しんだりできた。湯屋では身分を超えた付合いができた。 
江戸中期まで風呂屋は基本的に混浴だったが、寛政の改革で禁止されたとある。しかし混浴禁止のお達しが、その後も繰り返し出されていることから、守られていなかったともいえる。明治でも混浴禁止の通達は出し続けられ、混浴が内務省の法令により完全に消滅したのは明治33年のことである。 
その間「男女の浴槽を分けろ」のお達しが出ると、一つの湯船の真ん中に板を渡しただけの「男女別浴槽」を考えたり、「男女の浴室を分けろ」のお達しが出ると「ガラス張りの仕切り」を考案したり・・・。江戸時代から明治33年まで、お上と風呂屋の化かしあいは延々と続いたようだ。 
「男も女も裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴している」と風呂屋の風景をペリー提督も書いている。
  
女が少なかった江戸の町

 

江戸は江戸中期になっても、極端に男が多い町だった。 
享保18年(1733年)江戸の町民53万6000人のうち男性は34万人、女性は19万6000人、町民の63%が男性だった。労働者や露店の主人などはもとより、大きな商家も奉公人のほとんどすべてが単身の男子で、いわゆる男所帯だったからである。この数字は町方だけの人数で、約50万人といわれる武家の人口は入っていない。武家は参勤交代の武士の大多数が単身赴任。単純計算すると、この時期の江戸には男性が84万人、女性が19万6000人いたことになる。男性が女性の4倍以上、江戸は圧倒的に「男の町」だった。 
この極端な男女人口比率は、江戸後期の天保年間(1830-44)頃からその差がせばまったが、それでも男だらけの町だった。「宵越しの金は持たない」「火事と喧嘩は江戸の華」も、異常な男女比率の社会のなかで男性のストレスが生んだ産物だったといえるかもしれない。
 
おかげ参り

 

太平の世が続き町人の経済力がつくと、旅は江戸っ子の楽しみとなった。なかでも「一生に一度は行きたい」と夢見たのが「お伊勢参り」。江戸から伊勢までは2ヵ月近くかかる大旅行で、遠いほど思いもつのるのか、伊勢参りは「御蔭参り(おかげまいり)」と称されてブームとなった。 
ところが伊勢参りがブームを通り越して、熱狂にまでいたる年があった。宝永2年(1705)362万人、明和8年(1771年)270万人、文政13年(1830)486万人、宝永2年の362万人という数字は当時の全人口の約14%にあたる。洗濯物を干していた女性や壁を塗っていた職人が、そのまま行列に加わるというようなことも珍しくなく、何かに取り付かれたかのような異様な集団の大行進だった。 
一方「ええじゃないか」は幕末に起こった現象で、慶応3年(1867)に三河吉田や名古屋で「伊勢神宮の御札が空から降る」というウワサが起こり、たちまち全国に広まった集団乱舞。卑俗猥雑な歌詞に「ええじゃないか、ええじゃないか」のはやしをつけて踊り歩いたそうで、一説には倒幕派がこの混乱を利用したともいわれている。
 
東京ご利益巡り ( 東京朝日新聞 明治40〜41年 ) 

 

粂の平内(縁結び、諸願)  
浅草公園弁天山下の粂の平内様といへば古来から有名なものだ、至つて六ケしい顔をしてござるが諸願の内の縁結びなどにも御利益があるといふので芸妓などの参詣が中々多い、以前は願書を納めたものでそれが附文やうの封書になつて「粂の平内さままゐる誰より」などゝ記したイケふざけたものであつたが今は絶てなくなつた、堂守は直ぐ向ふの因果地蔵が兼帯してゐる、小さい願ひは絵馬を上げ大きな願ひは鳥居を上ることになつてゐるが、今は場所のないために幟を奉納することになつてゐる、はやりがみの言附を拵へたら差づめ願人の格にあたるのが此古顔の平内さまであらう  
鬼坊主清吉(首より上の病ひ)  
浅草吉野町円常寺境内東南の一隅に鬼坊主清吉の墓といふのがある、清吉は関東きつての強盗であつたが、天保時代に捕はれて斬罪に処せられてしまつた、其の遺骸を埋たのが即ち此寺なので、諸願の内にも首から上の病に効験が著るしいとある、口上茶番めいて頗る滑稽だ、数年前までは盛んに参詣があつたものだが、強盗の墓を拝ませるのは風紀上よろしくないとあつて、警察署から周囲へ柵を結うてしまつた、所が今以て内々線香を上たりたわしで墓を洗ふ奴がある 
汐時地蔵(咳一切)  
一寸毛色の変つたのが深川区西六間堀町要津寺境内の汐時地蔵尊、御丈は纔か二尺許りの小ぽけなものだが、咳の病には非常な御利益があるといふので、近在からわざ/\草鞋穿にて参詣に来るものさへもある、願を懸る時に寺から小さな拍子木をいたゞき、満願の時に借た拍子木へ新調のものを添て奉納する定めになつて居る、拍子木は何のためかといふと、病中の子供には玩弄(おもちや)にさせおき、大人には首へ懸けさせて、例へば咳がコンコンと二つ出る時は拍子木をチヨン/\と二つ叩かせるなどは大いに洒落てゐる 
むぎぶち地蔵(諸病一切)  
つい半歳ほど前までは田圃の中に転つてゐた見る影もない一基の無縁仏、それが流行は/\非常な速力で堂もできるし茶屋も建つといふ勢ひ、今は熱田地蔵尊などと厳格(しかつめ)らしい名が付いてゐるが、以前は百姓が麦を苅つて穂を取る時に此地蔵さまの背中で引つぱたいたものだ、以て如何に虐遇されて居たかゞ分る、場所は南品川の字馬場から大井村へ行く右手の田圃中で、其脇にまた無縁仏の家に附た草茫々たる二反許りの明地が残つてゐる、これを土地の者は病田と称へ稲へ手を附けると祟があると評判を立たのが、抑もの始りだとは馬鹿々々しい 
縛られ地蔵(諸願)  
講談や浪花節の大岡政談で其名を轟かした本所業平橋の縛られ地蔵は今も昔しも変らぬ繁昌を極めてゐる、願を懸る時には地蔵の身体を荒縄で縛り付けて好き勝手な願を懸け、いよ/\御利益の現はれた満願の時に其縄を解いて絵馬なり幟なりを御礼に上る願文は一寸斯んな塩梅。 私も本年六月二十三日の夜ぞくなんにあひました、二十一日(ママ)に地蔵様へしんがんいたし候ところ、御りやくにて本月十二日に右の品物をとりました、御礼参りにこのはたを奉納します、みなさんも御しんじんなされたく候  
たんぼとけ(痰一切)  
本所法恩院境内の痰仏は近来ます/\繁昌を極め今は千栄院本堂の中に威張つてござる痰に苦むものは一七日の精進をして祈願を籠め、全快する時は御礼として塔婆を上げるのださうだ、寺からは別に御符をくれるが、これがまた人を莫迦にしたもので、罌粟粒くらゐな丹色をしたものを一週間分包んである、痰の病だから多分丹色のものを飲ませるのだらうとは、満更理屈のないこともないやうだ。 
痔の神(痔一切)  
浅草山谷の痔の神といへば古来有名なものだ、神とはいふものゝ実は秋山自雲といふ者の墳墓なので、墓石の正面には秋山自雲位功雄霊神と彫付けてある、数年前から見ると参詣も少くなつたが、それでも線香の煙が絶ぬのは豪い/\、迷信の起りは自雲といふ法名から来たものだらうとはいかにも滑稽だ。 
六地蔵(何でも)  
以前は浅草花川戸の角に在つたが、市区改正の為めに先年公園淡島の池の前に移された、六地蔵を彫た一箇の石燈籠に過ぎないが、製作は余程古い物で、鎌田兵衛正清の数文字が微かに読まれるさうである、花川戸の時代には邪魔ものとして扱はれたものが、昨今に至り願懸をするものが夥だしいので、上覆の鉄網を張つめてしまつた、番人の婆さん曰く「願は何でもおきゝになります、近頃になつて役者衆や芸者衆が参詣するやうになりました。」  
大久保彦左衛門(諸願)  
芝白金立行寺境内の大久保彦左衛門の墓が、咳一切に効験が著るしいといふことは、余程以前より行はれてゐる迷信だが、近頃になつて肺病脳病さては勝負ごとに迄利益があるとの噂が高いので、猫も杓子も参詣に出かけるが、をかしいのは彦左衛門の墓の直裏手に一心多助の墓といふのがあつて、これがまた中々に繁昌して居る、多助が架空の人物たることは、こゝに説明の要もないであらう 
おさんの方(歯痛(はいたみ))  
麻布飯倉五丁目善長寺境内のおさんの方といへば、昔は歯一切のはやり神として、飛ぶ鳥も落す勢ひであつたが、其後歯神が諸方へ現れた為、折角の株もめちや/\になつて了ひ、今では稀に参詣があるばかりだ、おさんの方とは備後福山の太守勝成朝臣の室良樹院殿珊誉昌栄大禅定尼のことで、善長寺の実誉が諸国修行の折、福山に滞在中歯痛に悩み、同地の歯神おさんの方へ祈願を籠めたのが抑もの始り、後年に至つて其のうつしを引いたものだとは、いかにも有がたい縁起である
披官稲荷(金が儲かる)  
浅草公園三社の後に披官稲荷といふものがある、公園内とはいふものゝ、いかにも場所の悪い為に、昔は油揚一枚上るものもなかつたが、穴守其他の稲荷が流行りだした以来、芸人などが名聞の納め手拭が導火となつて、追々に火の手が上りはじめ、昨今は参詣の絶る間もなく、周囲は赤塗の納め鳥居で埋る程の盛況を呈してゐる、扨御利益はといふと不思議に金が儲かり、又勝負ごとにも功験があるとは、何にしても調法至極な稲荷さまだ 
日限地蔵(諸病一切)  
市内ばかりにも日限地蔵は数あるが、扨古いのになると何箇もない、其内売込んだものといへば、先白金松秀寺の日限であらう境内には剥落や鼻欠の地蔵が何体となく並べてあるので、始めての人は大に戸迷ひをするが、本尊は御堂の内にちやんと特別待遇をされてござるのだ、願懸は病気一切、何日までに癒して下さいと日を限つて願ふ時は、恐ろしい程の御利益があるさうだから、其ありがたい御影をこゝに示すことゝした、御信心の輩は御拝あられませう。 
鼠小僧(勝負事)  
本所両国回向院境内の鼠小僧と来ては少々陳腐だが、はやり神としては之れでも幕の内株である、人も知るごとく利益はといふと、第一が勝負ごと、其他は病気でござれ縁談でござれ、泥棒だけに何でもかでも掻込み主義だから面白い、墓石の一番欠きが一円五十銭、これは欠く当人が新に建るので、二番欠は十銭の相場、三番欠から以下五銭づゝ、頼みやうによつては三銭でも欠かしてくれる、欲張連が此の石を懐にして無尽の籤などを引きに行くのだ、聞てみると偶には当ることもあるさうだとは心細い。  
西野文太郎(勝負事)  
鼠小僧の墓に願を懸けて利益のない欲張連は必ず谷中墓地内の西野文太郎の墓へ押かける、願を懸けるものは矢張墓石を打欠いて持帰り、首尾よくかなつた時は御礼として線香か花を供へる事になつてゐる、鼠小僧の墓が欠賃を取られるに引換へ、これはまた只といふので一時は非常に繁昌したものだが、何をいふにも場所の悪いために昨今は漸く参詣も稀になつて、時に線香の烟の絶ることもあるさうだ。 
七浦大明神(金が出来る)  
福を司る巳の神の内にも、谷中妙法寺の七裏明神は中々勢力がある。七裏とは不思議な名だから調て見ると、身延の七面を反対にやつ付た判じものなのだ、元来法華坊主ほど人を莫迦にしたものはない、斯んなはやり神を拵らへるのをタクと称し、迷つて来る信者をアンデンなどゝ呼んでゐる、タクとは巧なこと、アンデンとは最も秘密の暗号だが、多分あんぽんたんとでもいふ冷語であらう。  
人頭さま(頭から上)  
谷中坂町本光寺の境内に人頭さまといふ妙な名のはやり神がある、人頭さまとは頭の病に効験が著しいといふ所から起つたものださうで、其実は頸から上の病なら何でも利くとでいひ囃され、数年前までは大繁昌を極めたものだが、近来は付近の七裏や日荷に押されて見る影もない有様となり、近所を尋ねても分らぬほど寂れてしまつた。 
午の日(油揚が売れる)  
午にあたる日は何処の豆腐屋も油揚の仕込みを殖すことにして居る、夫は何ういふ訳だといふと、稲荷さまの供物にするからで、振売の豆腐屋も当日は特に『今日は午の日』と吐鳴(どなつ)て歩く、昔は伊勢屋稲荷に犬の糞といつて、何処の路次内にも稲荷が祀つてあつたものだが、犬の糞と共に近来稲荷も大分減少したやうだ、尚ほ午の日にはいかな降雨も必らず晴るといふ迷信がある、それは跳上(はねあが)るといふ所から来たものだとはお笑ひ/\。 
日荷さま(足一切)  
谷中三崎延寿寺の日荷さまといふは日蓮宗の僧日荷のことで、曾て武州金沢に居た時称名寺の住僧と戯れに碁を囲み、彼寺の仁王を賭物とした、所が日荷が打負けて之を背負ひ、甲州の身延まで登つたのだ、いかにも健脚だといふ所より、扨こそ足の病に願をかけることになつたものださうで、額堂には美術的に作つた草鞋や下駄が沢山納つて居る。 
大安売(風と虫)  
風邪の呪(まじなひ)に『大風大安売』と書て羽目ともいはず電信柱ともいはず貼付けて歩く迷信がある、また虫除けの呪に『虫大安売』と書たのを折々見受けるが、をかしいのは芝の新堀町の通りに『虫の安売一合五銭』とあるのだ、所が一町許り行くと『虫大安売一合一銭』といふのがある、之が何れも半紙二枚接ぎへ筆太に記してあるので知らぬものは螽でも売るのかと思つて、近所を聞合はすとは滑稽だ。 
甘酒のをば様(咳一切)  
小石川第六天町日輪寺の境内に、甘酒のをばさまといふ妙な名の石像がある、近来繁昌を極めて居るが、効験は咳一切とあつて、御花客(おとくゐ)は子供に限られてゐる、祈願中は毎日甘酒を上るので石像の周(まはり)は竹筒や正宗の空壜が夥だしく、また傍らの溜箱には患者の使用した茶碗や盃の破片(かけ)が堆積して、其の穢(むさく)ろしいことはお話にもならぬ。
石ころと瓦片(無尽の呪)  
他所の銅壺の蓋を密(そつ)と盗んで来るなどは、無尽の呪(まじなひ)でも怪しからんが、これは一寸愛嬌のある方だ、往来を歩いて居るとよく下駄の歯へ石ころや瓦片(かはらかけ)が挟まることがある、之を持帰つて神棚へ上て切火をかけ、人知れず懐中深く収めて無尽の席へ出かけ一心不乱に祈念を凝しつゝ籤を引く、若(もし)当らぬ時は何うかといへば、それはまだ信心が足りぬものと諦めるのだとは、随分ふざけた呪だ。 
蛭石(歯痛の呪)  
甲州から出る蛭石といふものがある、硫黄を含んでゐるので、火を点るとニヨロ/\と延上(のびあが)る、之は日蓮上人が蛭を封じたといふ迷信があつて、歯痛に悩むものなどが、有がたがつて用ひて居る、元来蛭石といふは一種の鉱石で、甲州を始め秋田其他からも沢山産出する、数年前までは子供の玩具として、各所の縁日に売つて居たものだ。 
瘡守(かさもり)いなり(黴毒(ばいどく)、腫物(できもの))  
瘡守の二字を戴いてゐる稲荷さまは、芝の公園を始めとして、市内の各所に数あるが、流石に谷中が本家本元の古株だけに、名も響いてゐれば御利益も炳然(いやちこ)ださうで、フガ/\連の参詣絶る間もなく、少々天気の好い日などには、白粉(おしろい)臭いのが盛んに押かけるさうだ。  
榎坂の榎(歯痛の願懸)  
旧(もと)の樹は溜池葵坂の上に在つたものだが、数年前に立枯となつて、たつた五十銭で湯屋の手に渡つて了つた、其後榎坂の下にある榎を身代りに立てゝ、歯痛に悩むものが相変らず願を懸けてゐるが、願ふ時には白山権現と念じ、痛の止つた時は房楊子を納るばかりだ、諸願多しといへども、此の位ゐ安上りのものは他になからう。  
上(じやう)の字さま(火傷(やけど)の呪(まじない))  
幅六分長さ二寸五分ばかりの板目紙へ、上の字一字と朱印を捺(おし)たばかり、これが昔から麻布の清水家より出る、上の字さまといふ名高い御符(ごふう)だ、伝来に就てもいろいろの説があつて、河童直伝ともいひ、或は蟇(がま)から伝はつたともあるが、火に対するに水の線を引張つて来たのは、いかにも考へたものである。  
縁切榎(縁切一切)  
板橋の通に縁切榎と称する大樹がある、願懸榎の内に於ても大立物だけに、今になか/\繁昌するが縁結びと違つて何となく殺風景だ、古い小話にも斯ういふ穿(うがち)がある、或る世話好が縁切榎へ代参を頼まれ、扨家へ還つて見たところが何時の間にか女房を盗まれて了つたと。 
三連(みつつながり)の鼠糞(歯痛の呪)  
呪(まじなひ)の内に何が最も種類が多いかといふと歯痛(はいたみ)に関するものが一番多いのだ、其内には三連の鼠糞などといふ、随分思ひ切つた呪がある、これも一粒ものなら直にも手に入るが、いざ三連のものを捜さうとなると、近所合壁を駈廻つても一寸手に入らぬ、扨この珍品が首尾よく手に入つたなら、何ういふ方法を用ふるかといふと、飯粒と一緒に練合して紙に延し、早速痛む歯の方へ貼附けて置くのだが、ペスト流行の際などには、危険これより甚だしいものはなからう。 
張御符(はりごふう)(諸病)  
有名なる張御符は堀の内妙法寺の祖師堂から出る、此の御符を借受けて病人の枕元に貼置き、七日目毎に剥して上へ/\と貼上る、廿一日目には速(すみやか)に病気平癒なすこと妙法の功力疑ひあるべからずとある、尤も難病長病のものに限り、三七日を過て再び新御符を受くべしといふ、寄らず触らぬ逃口上があるさうだ。  
底豆の呪(まじなひ)(二種)  
数あるがまづ主なるもの二つだけにして置かう、一つはソツカウ/\と呪文を三遍唱へ、小刀の先にて突く真似を三度行ひ、続いて念仏を三遍唱へる、又一法は豆の上へ鳩といふ字を三字書く、たゞそれのみだが鳩が豆を食つてしまふ洒落に引換へ、ソツカウの念仏などはいかにも平凡である。  
釣船清次(寒冒(かぜ))  
新富町に釣船神社といふ小さい社がある、今は氏子もあり、祭礼も行はれるが、神体は釣船屋の清次といふ男だから面白い、此神が流行風に効験があるといふ次第は、一年清次が品川沖へ釣に出かけた所が、俄の暴(あれ)に遭遇して命から/゛\逃還つた、其時風の神から授かつた御符(ごふう)といふが図に示したものだ、吹く風と病気の寒冒(かぜ)を混同した迷信も頗る多いが、此等は大に変つて居る方である 
蕎麦喰地蔵(咳一切)  
浅草誓願寺中九品院の蕎麦喰地蔵は、咳一切に効験があるとて、切(しきり)に繁昌してござるが、願を懸る時には必ず蕎麦を上げ、また全快した時も蕎麦を上ることになつてゐる、其の理屈は一向分からぬが、何にしても本尊の前に蕎麦が堆く盛つてあるのが、一寸他の地蔵には看られぬ奇観だ。 
文銭三ツ(百日咳)  
百日咳の呪(まじなひ)として最も簡単なものは文銭の三つ並(ならび)といふのだ、それは寛永通宝の一厘銭の裏に文の字のあるものを三個酒屋から取換て来る、之は酒屋のが一番好(い)いとしてある、右を入口の敷居へ三個並べて打付けておくばかり、たつた三厘で百日咳が治るとは何より安い、これがきいた日には小児科の医者は上つたりだ。 
黒田の天神(火防)  
赤坂福吉町黒田邸の天神は火防の呪(まじなひ)に有名なもので以前は毎月廿五日に盛んな縁日が立つたものだが、数年前に社が自火を出した以来、追々参詣も減て了つたがまだ折々は参詣するものがある、火防の本元が火事を出すやうでは、何とも以て心細い次第だ。 
笹団子(寒冒)  
毎年六月浅草蔵前の天王さまから出る、笹葉(ささつぱ)へ紅白の餅花を付けたもので、風邪を引いた時は之を笹ごと煎じて飲む、何年経ても黴の生ぬのが神事だと有がたがるものが多い、餅も笹団子のやうに搗ぬいてしまへば、黴の生えぬは当然(あたりまへ)だ。  
夜刄神(腫物)  
渋谷長谷寺境内の夜刄神は、腫物一切の願懸に就て有名なものだ、彼岸の中日が賽日(さいじつ)とあつて、当日の賑ひはまた一方ならぬ。願懸をするものは門前に夜刄の面を買つて納める、其の面は張子製の頗る古雅なもので、わざ/\面のみを買に行くものさへある。  
豊川稲荷(盗難除け)  
昨今売出しの赤坂の豊川稲荷は、派出者(はでしゃ)などの参詣が夥だしい所から、縁結びにでもきくのだらうと思ふものもあるが、実は色気のない盗難除けなのである、豊川さまの御利益がいよいよたしかと極つたら、警察署などはドシ/\廃しても好い訳だ 
弾丸除(たまよけ)の呪文(一名怪我除け)  
伝説に曰く「将軍家治公御小性新見愛之助と申仁天明六年六月田安門外にて落馬せしも別条なく将軍の御聞に達し懐中の呪文を御覧に入れたり右は紀州光定公の家中より伝はりしものなり」といふ恐ろしい真面目なものだ日清日露の両戦争にも大分持て行つたものがある。 
三光(くわう)稲荷(犬猫の病)  
日本橋区長谷川町の横町に三光稲荷といふものがある、稲荷様が犬猫の病を治すといふのが変つてゐる、芸妓子供折々参詣するさうだ、所が近来犬ころや猫子を境内へ捨る者が多いので、神官大に面喰つて「境内へ犬猫を捨ること無用」といふ掲示を出した、堂の周囲(まはり)には犬と猫の額面が隙間もなく打付けられてある 
駿馬塚(足の病)  
よし原堤下字ゴミの駿馬塚は、足の病に効験が著るしいとて、昔から参詣が絶ないのだ、所が墓石は大阪に在る淀君のものと同形式で、いかに八幡太郎の馬だとて少々立派過る、或人は之を練馬主馬之助の墓石であらうといつた、主馬之助が此辺で討死をした事は太平記にも載つてゐる、して見ると駿馬塚は主馬塚の転訛したものであらう。 
口入稲荷(商売繁昌)  
商売繁昌の願懸稲荷も少くないがル其内にも浅草玉姫町の口入稲荷は古株の方であらう、願を懸るものは先境内に販売する土製の狐を社へ納め其代りに納つてゐる古い狐を借て来るのだ、其狐は図に示すが如き随分他(ひと)を莫迦にしたものである。  
あぶら石(歯痛)  
京橋区南八丁堀二丁目の路傍(みちばた)に、周(まはり)三尺余高さ二尺余のあぶら石と称する自然石(じねんせき)が古くより存在してゐる、以前は表面も頗る滑(なめら)かがあつたが、数年前火災に罹(かゝ)つて油石の油も燃切り、今はガサ/\石と変じて了(しま)つた、何の理窟か分らぬが古来歯痛(はいたみ)の願を懸けるものが夥(おびた)だしい、又油石の下には石で作つた男女の首が埋めてあるといふ説もある。  
因果地蔵(子そだて)  
浅草仁王門外の因果地蔵には、真面目な縁起もあるがいかにも平凡だ、願懸は子育一方と思ふ人もあるが何の願でも必ずきゝますとは、番人の老爺(おやぢ)が力味返つて請合ふところだ、而してこゝの番人が直ぐ向(むかふ)の粂の平内をも兼勤してゐる。  
有がたい御符(ごふう)(勝負事)  
勝負事一切に功験の著るしい有がたい御符を一つ紹介しやう、之は図に示した呪文を自分で書けば好いので、勝負事の場所へ人しれず携へ行く時は、必らず不思議な功験があるさうだ、昨今流行の競馬などへ押出す欲張連には極めて必要なものであらうと思ふ、但し外れた時はそれまで、まだ信心が足らぬと諦める外はない。  
上行さま(諸願)  
法華寺には多く上行(じやうぎやう)菩薩の石仏が安置してあるものだ、其内に下谷土富店(したやどぶだな)の抜寺に在るものは市内の開祖で願懸は何でもきかないものはないといふ、願ふ時には頭からざぶ/\と水を浴せかけ、願解(ぐわんほど)きのときもまた水を打かけ、持て行つたタワシでごし/\洗ふのが定法などは、何にしても暢気(のんき)極まつた次第である。  
血の神(血止め)  
血止めの呪(まじなひ)は凡(およ)そ三十種ぐらゐも有るだらうが、その内にはまた斯(こ)んな簡短なのもある、一寸(ちよつと)指でも切つた時には、白紙を三つに折つて疵口(きずぐち)へ当て「血の道は父と母とのめぐみにて血とめてたまへ血の道の神」と唱(とな)へる、血の止ること不思議ださうだ、尤(もつと)も大傷口は此(こ)の限にあらず、早速(さつそく)外科医者へ持込むべしとの但(たゞ)し書が付いてゐる。 
浅茅ケ原の化地蔵(百日咳(ぜき))  
一名を橋場の化地蔵といふ、浅草玉姫町出山寺(しゆつざんじ)の門脇に安置されてある、子供の風邪(かぜ)や百日咳に功験があるとて日々参詣の跡を断たぬ、一週間にて必ず全治するといふ保険が附いて居るさうだが、掛金即ち御賽銭(さいせん)を滞(とゞこほ)らせる時は、立どころに御罰(ごばつ)を蒙(かうぶ)るとは剣呑(けんのん)々々。  
何のくうかい(感冒(かぜ)の呪(まじなひ))  
風邪の呪にも斯(か)ういふ簡単なのがある、ゾツと悪寒(おかん)を感じて嚔(くさめ)でも出た折に「風ひかばあとへもどれよ風の神、人なやませて何のくうかい」と寝言のやうなことを遽(すみや)かに三度唱(とな)へ、後また三回、肩を叩(たゝ)くのだ、決して感冒にかゝらぬとしてある、嚔の出たとき肩をたゝく習慣は古(ふるく)から行はれて居る、全く右の呪から来たものに相違なからうといふ、また「畜生」めと叫ぶものもあるが、まさか之は呪でもなからう。 
呼返しの呪(まじなひ)(一名足止め)  
行方不明となつた人を捜し出すといふ奇妙な呪がある、図の如く記したものを、走人(はしりびと)の寝所(しんじよ)の畳の下へ敷込んでおくと、程経て不思議に其人が立還(たちかへ)つてくるさうだ、芸娼妓(げいしやうぎ)の逃亡したのや雇人(やとひにん)が行方を晦(くらま)した家(うち)によく此(この)法を用ふるものがある、山田忠兵衛氏の家などには差詰(さしづめ)持て来いと云ふ名法だ。 
茶柱と薬鑵(やくわん)の尻  
茶を入れた時に最初茶柱が立つ時は必ず其日に来客がある、尤(もつと)もこれは朝茶にかぎるのだ、また土瓶(どびん)なり薬鑵なり湯茶を注(つ)ぐ折に、間違つてよく尻を向けることがある、此時は遠からず坊主の来客があるといふ、此の迷信は余程古くから行はれてゐるやうだ。  
疝気(せんき)の稲荷(寸白(すばく)にも)  
砂村の疝気の稲荷といへば甚だ色気のないやうに聞えるが、中々穴守に負けぬ艶(あで)やかなのが参詣する、それは疝気一点張でなく寸白にも功験があるといふ如才(じよさい)のない行き方なのだ、社(やしろ)へ行て疝気の稲荷などゝいふと叱(しか)られる、今は大智稲荷といふ頗(すこぶ)る厳(おごそ)かなものである。
脱衣婆(百日咳)  
新宿正受院安置の脱衣婆は百日咳の願懸に有名なものだ、此像は小野篁の作ともいふが余り当にはならぬ願を懸る時にはシヤモジに久ヌ目木大明神と記して納め、再び之を受けて自宅へ持帰り、軒先へ打付けて置くのだ。 
夢見の呪(まじなひ)(二種)  
善い夢を見た時には「南無福徳幸頂御功徳王菩薩」と三遍唱へ、また悪い夢を見たときには「おく山の根なしかつらに見えるゆめことなし草に見ゆるなりけり」と三遍唱へる時には、善を受け悪を去るといふ迷信がある之は東京のみではない古くから各地にも行はれてゐる 
塩甞(しほなめ)地蔵(勝負事)  
浅草公園に塩甞地蔵といふ剥落した石像がある、之は諸病の願懸が利(き)くとしてあるが、実は賭博に霊験があるのださうで、深夜人知れず参詣するものがある、勝負事の願をかける時には、先づ塩を供へた後に銭を以て数回石像を叩くのだ、其の唱へが面白い「塩甞地蔵まだ利かぬか」コツ/\/\とやらかす、為に石像は剥落して一日増(まし)に痩(やせ)て行く。  
妙国寺の仁王(産一切))  
品川妙国寺の門番に立派な仁王が居る、本尊はお祖師さまだが一向振はない、何時頃からか分らぬが株を門番に奪はれてしまつた、願懸(ぐわんがけ)は産の一方で常に参詣の跡を断たぬ、不思議なのは仁王から受る産の帯の内、白いのを授かると男子が生れ、赤いのを授かると女子が生れるといふが、余り当になったものではない  
初茶(二種)  
茶の入れたるに注(つ)ぐ初茶のやうなものにも迷信がある、派出商売の者は福茶と称して歓迎するに反し、普通一般は人に憎まるゝとて飲まぬものが多いのだ、茶には塵芥(ほこり)がたかつてゐると共に、夥(おびた)だしいバクテリヤが附いて居る、之(これ)を思ふと忘れても福茶などは飲まぬ方が好い。 
お石様(一八(チーハ)の呪(まじなひ))  
北豊島郡王子稲荷の境内にお石様と云ものがある丁度沢庵石の大(おほき)さのもので、小(ちひさ)な祠(ほこら)の内に祭つてあるのだ、之(こ)れが一八(チーハ)の見得(けんとく)になるといふので、内々参詣するものがあるのは怪(け)しからぬ、見得を看るには先づ其の石を抱へて揚(あが)るだけ揚て見る、例へば二十回揚れば二十番を買ふので、当ることも不思議なら、また当らぬことも不思議であるさうだ。 
餓鬼祭(長病の呪)  
長病の人は此(こ)の符の中へ鬼といふ字を餓鬼の数程書くのだ、夫(それ)から不動の陀羅尼(だらに)百遍を唱へて河へ流す、いかなる長病も不思議に全治するとある、餓鬼の数は子の年は一人、丑八人、寅七人、卯五人、辰二人、巳五人、午五人、未九人、申五人、酉五人、戌二人、亥二人、未歳のものは罪が重(おもい)と見えて、一番餓鬼が余計に附いてゐる。 
柴又の帝釈(諸願)  
何(ど)んな無理な願(ぐわん)を懸けても納受ましますといふのがここの自慢だ、其(そ)の代り間違つたことをすると直(すぐ)に罰(ばち)があたるさうだが、まだ願を破つて盲目や跛になつたといふ噂(うはさ)も聞かぬ、帝釈の御影(みえい)は元道具屋か屑屋(くづや)が持込んだものだが、中山法華経の伝来には違ひないさうである。 
元日、三ケ日、松の内  
元日には拭掃除(ふきさうぢ)をするものでない、福を掃出(はきだ)して了(しま)ふといふ、これが商家一般に行はれる、又三ケ日の内に勝手道具の名を口にするものでない、出世を妨(さまた)げるとある、夫(それ)から松の内に必ず入浴すべきものとしてある之(こ)れは感冒(かぜ)を引かぬ呪(まじなひ)であるさうだ、此(こ)の内に元日の迷信は衛生上甚(はなは)だよろしくない、速(すみや)かに打破すべきものである、其(そ)の代り松の内の入浴は大(おほい)に励行して毎日でも浴(あび)て貰(もら)ひたい。 
感冒除(かぜよけ)の呪(まじなひ)(二件)  
感冒を引かぬ呪の内簡短なものを紹介しやう、月始め三日の内にとろゝ汁を拵(こしら)へて食うのと、モウ一つは紺の木綿糸を手首或は足首へ結ぶのだ、糸を結ぶことは近来余り流行(はや)らぬが、とろゝ汁は或る一部には今でも行はれてゐる、とろゝ汁は元来滋養に富んでゐるものだから、斯(か)ういふ迷信は打壊(うちこは)す必要はない、どちらかといふと継続して貰(もら)ひたい方だ。
田畑の仁王(諸願)  
田畑村東覚寺の本尊は不動明王にて八十八ケ所の遥拝所として有名なものだが、こゝの門番にまた名代の願懸仁王が居る、繁昌する点に於ては到底親分の不動は足許(あしもと)へも追付かぬのだ、願を懸るものは門前の茶屋に赤色の紙を買つて仁王へ納める、何の理窟かさつぱり分らぬが、今は仁王全体が赤紙で貼潰されてノツペラボウになつてゐる。 
寒の入の迷信(二件)  
今日は寒の入である、之(こ)れに就(つい)てまた迷信があるのだ、早く起て初水を一ぱい飲むと風邪を引かぬとある、また此(こ)の日過つて油を滴(こぼ)すと火に祟(たゝ)るといふ、之れを除けるには油を滴した当人が水を浴て不動の陀羅尼を唱へる、但し裸体(はだか)になつて浴るのが難儀なら、茶碗の水か何か一寸(ちよつと)頭へかけても好(い)いとは、無性者(ぶしやうもの)の考えた簡便法であらう。 
疥癬(たむし)の呪(まじなひ)(三件)  
疥癬(たむし)の呪にもいろ/\あるが、簡単なものを二つ三つ紹介しやう、佳(い)い墨をよく磨(すつ)て患部へ鬼といふ字を三つ書く、夫(それ)から飴(あめ)を以て患部を撫(な)で其(そ)の飴を直(すぐ)に犬に食はせる、モウ一つは藁(わら)を丸くして疥癬に冒(をか)された場所だけの大さとし、之(これ)を結んで往来に面した樹(き)の枝に懸けて置く、まだ/\いくらも有るが好(い)い加減にしておかう。 
掌(てのひら)へ文字(金と人)  
掌の痒(かゆ)いことがよくあるものだ、其(その)時に指で人といふ字を三字書いて置く、必らず近い内に金が手に入るといふ、また貴人(きにん)の前とか或(あるひ)は自分が恐ろしいと思ふ人の前に出る時は、掌へ人といふ字を三字指で書て出る、決して其(そ)の人に呑(の)まれるやうなことは無いとある、前者は受合はれないが、後者は多少効験があるに相違ない。 
青山の庚申塚(諸願)  
青山権田原(ごんだはら)の練兵場寄りに古い庚申塔がある、此(こ)れまでは邪魔もの扱ひにされて居たものが、ツイ二三年このかた滅切(めつぽふ)はやり出して、ヤレ無尽が当つたとか、医者に持余された病気が全快したとか、夫からそれへと御利益の噂が伝はつて、わざ/\近在から参詣に来る者さへあるが、流行る塩梅は今が頂天であるらしい。 
富者になる呪(まじなひ)  
貧いものが富貴にならんと思はゞ、七月七日富る人の庭の土を人知れず持帰り、我竈(かまど)を塗れば翌年から富貴になるとある、また真乳山(まつちやま)の聖天の像を受けて毎夜人知れず油画にすると、必ず近い内に大富限になるさうだ但し之は一代身上で子孫は乞食になるか何だか分からぬとは情ない、今の紳商某々等は今に内々是の油画をやつてゐるとは苦々しい。  
虫除(むしよけ)の呪(まじなひ)  
五月五日の朝朱砂(しゆしや)を以て白紙へ茶といふ字を書き、之(これ)を門の柱へ逆(さかさ)に貼付(はりつ)けて置けば蛇や虻(あぶ)の家内(かない)に入るを除(よ)け、また同じ朝儀方といふ二字を書て門戸へ逆に貼る、之は蠅の家内に入らぬ呪であるさうだ、市内には近来余り見受けぬが、近在へ行くとまだ/\この風が大分残つてゐる。(「東京朝日新聞」明治41年1月12日)  
鯖(さば)いなり(歯痛)  
鯖稲荷とは芝日蔭(ひかげ)町通りに鎮座在(ましま)す日比谷神社の通称である。歯痛専門のはやり神とあつて願を懸るものは鯖を断つことになつてゐる。全快の上は鯖を描いた絵馬を納るのだが昔と違つて近来は手療治ぐらゐで痛みは直(す)ぐ止まるから、わざ/\鯖を断ちに行くもの好も極めて少なくなつた。 
咽喉(のど)に骨の立たとき(三件)  
食事に際し咽喉に魚の骨が立つたときの呪(まじなひ)もいろ/\あるが、多く行はれてゐるのは、余処(よそ)から象牙の撥(ばち)を借りて来て、下から三遍咽喉をこき上げる。また一法は気を静て鵜(う)の咽喉(のど)/\と三遍唱へながら、飯のかたまりを鵜呑(うのみ)にする。念仏は兎も角も飯のかたまりは確に効能があるやうだ。  
泥棒除(よ)け(二件)  
泥棒除の呪(まじなひ)に斯(かう)いふのがある。左の符を表の方と裏の方へ向つて書く真似をして寝る。泥棒が這入(はひり)ても決して物を取らずに出て行く。また留守へ這入れば其の泥棒は必ず其処(そこ)へ立すくみになつてしまふ。まことに不思議の至り奇妙の次第とある。尚(な)ほ仁王の守護札(まもり)を入口に貼るのも効能があるさうだ。秘すべし/\ 
首無し地蔵(諸病)  
品川南馬場の京浜電車線路寄に首無し地蔵といふものがある。いかなる重病も願(ぐわん)を懸る時は立(たちどこ)ろに平癒(へいゆ)するとあつて、東京からわざ/\参詣に行く者さへもある。本尊は首の取れてゐるつまらぬ地蔵だが、御利益は灼然(いやちこ)なものだといふ大評判だ。願解きには石で拵(こしら)へた首だけを新調して納(をさめ)るのだとは、地蔵も多いが一寸(ちよつと)変つてゐるよ。  
起たい時に起る呪(まじなひ)  
寝るときに指にて、左の手に大の字を三字書て舌にて嘗(な)め、また「につけんふどうゆんたいにち」と枕へ書く。起たい時に不思議に眼が覚(さめ)るとある。また一法は「うちとけてもしもまどろむ事あらばひきおどろかせ我まくら神」と寝言染(じみ)た名歌を三遍唱へる。これは大事の起つたときにも眼が覚るとは調法/\。 
荒神(くわうじん)欺(だま)し(指の怪我(けが))  
指の怪我は兎(と)かく化膿(くわのう)したがるものだ、之(これ)を化膿せぬやうに早く癒(なほ)す呪(まじなひ)がある。台所の荒神を拝して「お焚上(たきあげ)をすると盟(ちか)ふ。また一法は竈前(かまゝへ)の附木(つけぎ)一枚を十一の数に折り、三枚併(あは)せて三十三の数に折つて竈に燃(もや)す。前のお焚上はたゞ盟ふ丈(だけ)で、謂(い)はゞ荒神を欺(だま)して置くのみだとは洒落(しやれ)てゐる。 
亀戸(かめゐど)の牛様(金ができる)  
亀戸天神の境内に名代(なだい)の牛様といふものがある。金を欲(ほし)がる者がよく願(ぐわん)を懸けるが、賽銭(さいせん)を投げる時に、牛の頭の真中に銭の載(の)る時は、近いうちに運が開くとあつて、欲の浅くないものが巾着銭(きんちやくぜに)を叩(はた)くことがある。賽銭取りの手段も此(こ)の位(くら)ゐ巧(たくみ)なものは他(ほか)にあるまい。 
凍傷(しもやけ)の呪(まじなひ)(烏瓜へ姓名)  
凍傷の呪に斯(か)ういふ手軽なものがある。烏瓜(からすうり)へ姓名及び生年月日を記(しる)して、台所の荒神(くわうじん)へ捧(さゝ)げて置く、七日の内に必ず全癒(ぜんゆ)するさうだ。手の荒れた時などは之(こ)れで洗ふと効能があるともいふ。元来烏瓜の根より採(と)つた澱粉(でんぷん)は洗滌(せんでき)の料(れう)になる、此(こ)の呪も或は其(そ)の辺から来たものかも知れぬ。 
嬬(あづま)の森の樟(くすのき)(道楽除(よ)け)  
南葛飾の嬬の森の嬬神社には名代の大樟(おほくすのき)がある、樟(くす)は虫除(むしよけ)の功があるので、子供の虫に付会して祈願を籠(こめ)る者が多い。夫(それ)よりもまだ滑稽なのは、道楽除(だうらくよけ)の呪にもなるとて、樟の皮を剥(は)ぐ者が年一年に多くなつた。そこで社務所も堪(たま)らず之(これ)を御符(ごふう)にして売出した。所が盛んにお客があるさうだ。思召(おぼしめし)のお初穂(はつほ)位(ぐらゐ)で放蕩(だうらく)が止(や)めば、これほど安いものはない。 
蜂(はち)に刺されぬ呪(まじなひ)  
蜂に刺されぬ呪に「蜂の虫させば刺せ、刺さねば刺すな、あびらうんけんそわか」と三度唱(とな)へる。又刺された時に、足許(あしもと)の石でも瓦でも直(す)ぐに裏返へすと、不思議に痛(いたみ)が止まるとある。昔砂村に喜三郎といふ男があつて、この呪を授けてゐたさうだ。お客が来ると蜂の巣を叩(たゝ)いて、蜂群(はうぐん)の中で呪文(じゆもん)を唱へて見せたといふ、之(こ)れには必ず何か山があつたに相違ない。 
火事の(まじなひ)  
火事の呪に「焼亡(せうばう)の柿の本(もと)まできたれどもあか人なればそこで人丸」と書て、扉(と)の裏へ貼る時は火の粉(こ)も来ぬとある。また一法は屋根へ上つて、婦人の褌(ゆもじ)で煽(あふ)ぐ時は、不思議に風が変るさうだ。此(こ)の呪はどつちも中々振つてゐる。夫(それ)よりも褌(ゆもじ)で旗をこしらへ、右の名歌を書たなら、一層効能が多からう。  
疱瘡(はうさう)除(よ)けの呪(まじなひ)  
昨今天然痘流行の兆があるので、例の「越前国猪尾峠(しゝをたうげ)之茶屋之孫赤子(まごしやくし)」と書た御符(ごふう)を入口へ貼たり、または子供に懐中させるものがある。また枇杷(びは)の葉を二つに折て、其(そ)の一半(いつぱん)と共に小豆(あづき)十粒大豆十粒を煎じて飲ませるものもある。其(そ)の呪文が面白い「ごんによごん/\/\」と 
人見知りをせぬ呪(まじなひ)  
子供の人見知りをせぬ呪に斯(か)ういふ滑稽なのがある、おかめが左褄(ひだりづま)をとつて居(を)る図を描(かい)て台所の荒神(くわうじん)へ納め、毎朝(まいてう)礼拝(らいはい)すると共に浄(きよ)い水を供へるのだ。之(こ)れはおかめは愛嬌があるといふ所から来たもので、荒神へ納めたり水を供へたりするのは、全く勿体(もつたい)を附けたものに他ならぬらしい。  
田宮坊太郎(諸願)  
谷中の青龍院といふ寺に仇討で名代の田宮坊太郎の墓がある。棹石(さをいし)の右方(うはう)には正保二酉歳三月二十一日、正面には空仁大徳俗名田宮坊太郎と彫(ほり)附け、形は五輪の異種に属し、式も次第に正保時代のものと思はれる。数年前には参詣も夥(おびた)だしく、幟(のぼり)を樹(た)てたり線香を納めたりする物好で賑(にぎは)つたが、今の所へ移転以来、バツタリ火の消たやうな有様になつてしまつた。  
狐つきを落す稲荷  
本所横川能勢妙見の末社に名も知れぬ一つの稲荷がある。これが狐つきに不思議な霊験があるといつて、以前は中々流行(はやつ)たものだが、近来は狐につかれるやうな間抜けな人間も少なくなつたので、昔の面影はまるで失つてしまつた。併(しか)し稲荷も多いが、狐つきを落す稲荷は珍である。穴守(あなもり)や王子がいくら威張つても、此(こ)の向ふはとても張れまいといふ噂(うはさ)だ。 
味噌団子の黒焼(風邪の呪)  
風邪の呪(まじなひ)に斯(か)ういふのがある、一寸位の大さに味噌団子をつくり、之(これ)を黒焦になるまで焼て、番茶の熱い中へ放り込む。それを家内中順々に嗅(かぎ)廻(ま)はすのだが、中々佳(い)い香(か)のするものだ、嗅(かい)だあとは四辻へ持て行つて捨てしまふ、但し還(かへ)る時に振返つては利(き)かなくなるといふ、これ丈(だけ)の勿体を付けた所がいかにも呪らしい。 
蒟蒻(こくにやく)閻魔(眼病)  
小さな閻魔(ゑんま)ではあるが小石川初音町の蒟蒻閻魔といへば、昔から中々巾(はゞ)の利(き)いたものだ。眼病の祈願に霊験が著るしく、願懸をするものは必ず蒟蒻を供へることになつて居る。伝説によれば蒟蒻は砂を払ふとある。眼の中の砂を払ふといふ付会(こじつけ)かも知れぬ。  
八字の秘密  
八字の秘密といふと、咒(まじない)の方では中々八ケ間(やかま)しいものだが、因由(いはれ)を聞いて見ると有がたくも何ともない。貴族の前に出る時には人知れず天の字を手の内に書く。深山或は広原を行く時には虎といふ字。戦地に臨む時は王の字。毒酒毒薬を飲ませられたと知つた時は命の字。裁判或は勝負事には勝の字。流行病の家を訪はんとする時は嚔の字。案内を知らぬ家へ行くとき或は大酒を強られた時には水といふ字を書く。  
子育観音(上野清水堂)  
上野清水堂の子育観音といふと中々名代のものだが、其の願懸が一寸面白い。子の無いものは御符(ごふう)と人形を受て来て、之を仏壇或は神棚へ供へて毎朝「南無大悲利生観世音菩薩使生福得?患之男使生?生有相之女」と唱へて拝む。神仏混淆だから乱暴である。子供が生れたら人形を其の子の?に附け、また御礼参りには二体の人形を納めることになつて居る。 
九つ団子  
道楽除(だうらくよけ)の呪(まじなひ)にも極めて手数のかゝらぬのがある。併(しか)し之れは十歳未満の子供に限られてゐるので、とても亭主の道楽などを癒(なほ)す功力(くりき)は無いさうだ。白団子九つを拵(こしら)へて不浄場神へ供(そな)へ、之れを悉(ことごと)く子供に食べさしてしまふ。其の子供は長ずるに従つて、石部金吉かなかぶとの堅人(かたじん)になるとあるから有りがたい。  
福大黒(一名貧乏大黒)  
大黒の御影(おすがた)を二千枚摺(すつ)て、一軒に二枚づゝ配り、千軒に配りしまふ時には金持になるとある。近来これが大流行にて、折々この大黒に舞込まれる家がある。包の中には「此二枚の御影をたんすの抽斗(ひきだし)の内に入置き吉事あらば一枚は表具し甲子に祭り一枚は板(はん)にすりて二枚宛(づゝ)千人に施すべし益(ますます)吉事を招く」こんな断り書が入れてある。併(しか)し之(こ)れは方便で実は配りつけた家の福を此方(こつち)へ奪ふのであるさうだ。この事を知つて居る家にては舞込まれるが否(いな)や直(すぐ)に掃出して了(しま)ふ。これもまた担ぐといふ一種の迷信だから面白い。  
眼病の呪(まじなひ)(二件)  
年越の豆を撒(ま)くとき初豆を別に取り置き、之(こ)れを自分の年齢(とし)だけ数へて井戸へ投込(はふりこ)む。また味噌漉(こし)を井戸へ半分見せ『何(ど)うぞ眼病を早く治して下さい』と祈念し、全癒した時には味噌漉を全部井戸へ見せる。人間の眼を?の目へ付会(こじつけ)た所が滑稽だ。 
泥棒除(よけ)と臭気(しうき)除(茶碗伏せ)  
泥棒を除(よ)ける呪(まじなひ)にもいろいろあるが、茶呑茶碗でも飯茶碗でも密(ひそか)に火鉢の灰の中へ埋めて置く、但しこれは逆(さかさ)にしなければ効能がないさうだ。また掃除屋の来た時に臭気を除けるには茶碗一ぱい水を盛り、之を盆の上に逆(さかさ)に伏せて置く、このまじなひは古くもあり従つて分布も中々広いのである。  
狂犬除(よけ)の呪(まじなひ)  
狂犬或は狂犬に出会た時に斯(か)ういふ有りがたい歌がある「われは虎いかになくとも犬はいぬしゝの歯がみを恐れざらめや」これを三遍唱へる。それでもまだ吠(ほえ)つくなら、右手の親指から数へて「いぬ、ゐ、ね、うし、とら」と読みながら五指を握る。之(こ)れで利(き)かぬ時は四つ這(ばひ)になつて、遠吠の真似をするのだとは莫迦々々しい。  
疣(いぼ)の呪(まじなひ)  
疣を取る呪には先づ白茄子(しろなす)を仏前へ供へ、其(そ)の茄子を竹の箆で二つ切となし、此(こ)の切口を以て疣の上を数回磨(こす)つて、扨(さて)その後(あと)を元の通りに合せて縛(しば)り付け、地中に埋(うづ)めて置く。但しこれは水気(すゐき)のある所へいけぬと功験(こうげん)がないさうだ。斯(こ)んなことをせぬとも、薬力で疣を取る位のことは、今日では何でもないことである  
貧乏神  
小石川大六天の境内に貧乏神といふ名代(なだい)の流行神(はやりがみ)がある。本名は太田姫稲荷といふので、社(やしろ)も立派なら社司もちやんと控へてござる。これを貧乏神とはいかにも勿体(もつたい)ないやうな気がする。願を懸る時には『永々御厄介になりましたが今日(こんにち)はお礼に出ました』と唱(とな)へてお札を頂いて来る。つまり今までは貧乏神に可愛がられたが、今日限り之(こ)れを返上するといふ意味であるさうだ。  
子育の呪(まじなひ)(五件)  
子育の呪で最も広く行はれてゐるのは、生た子にあぐりといふ名を附ける。それに女子ならば男の名、男子ならば女の名を附けるといふ呪もある。また手数のかゝるのでは、三十三人の子供の着ものゝ布(きれ)で衣服を拵(こしら)へる法もある。其他神仏の草履取になる祈願を籠たり、枕元に犬張子を置くといふ迷信もある。  
落馬と船暈(ふなよひ)の呪(まじなひ)  
馬に乗るとき手綱を取る前に、人知れず掌(てのひら)へ南といふ字を三回書て乗る。又孔雀の羽を懐中するも好い。不思議に落馬せぬとある。始めて船に乗る時には、塩を一つまみ臍(へそ)へあて、其上を紙にて貼つて置く。是も不思議の効能があるさうだ。落馬の方はチト危ないが、一摘(ひとつまみ)の塩の呪(まじなひ)は、気の持ちやう一つにより、多少効験(きゝめ)があるかも知れまい。 
こぐら返の呪(まじなひ)  
こぐら返りをした時には、木瓜(ぼけ)を以て痛(いたむ)ところを静に撫(なで)る。奇妙に治るさうだ。また水泳中などにこぐらの返つた時は、迚(とて)も木瓜などの間に合ふ訳が無いから、口の内にて木瓜/\/\と三遍唱へ、痛んで引吊る所を静かに撫る。また念仏四十八遍を唱ふるも功があるといふが、そんな真似をして居る内には、御当人が先(ま)づお陀仏になるだらう。 
鼻血止の呪(まじなひ)(四件)  
鼻血止の有りがたい呪文に「あつたの宮の樹(こ)がくれに色あるむすめとまらざりけり」また「是好良薬今留在止」ともある。それで止らぬ時は額に「今日血凶(こんにちちきよう)」と書く。又?法として男の鼻血には女が右の手にて右の乳房を握る女の鼻血には男が左の手にて左の睾丸を握る。此(これ)が不思議に功(こう)があるとは滑稽々々。  
茶の樹(き)いなり(眼病)  
市ケ谷八幡境内の坂の中段左方に茶の樹稲荷の祠(ほこら)がある。眼のわづらひあるものがよく願を懸るが、七日の間は茶断(ちやだち)をする。平癒の上は幟(のぼり)を一本奉納するばかり。大明神の輩(ともがら)は『正一位茶樹稲荷大明神』と念じ、右の如く茶断をして、平癒の後に参詣して置けば、決して再び眼病に罹(かか)らぬとは旨(うま)く拵(こしら)へた。  
瘧(おこり)を落す呪(まじなひ)(二件)  
門口(かどぐち)へ灰を撒(まい)てよく均(なら)し、其上へ病人を立たせて足形を取り、其の跡の灰は掻(かき)集めて清浄(しやうじやう)なる白紙に包み、近傍の川へ持つて行つて流してしまふ。又一法は病人を屋根へ載せ、突落す真似をして『落ちた』と高く叫ぶ、『また霜おちて松の葉かろきあしたかな』此の句を符に認(したた)め、おこり日の払暁(あけがた)に水にて飲ます、これも不思議の功があるとは悪く洒落てゐる。  
放蕩(だうらく)除(よ)け(浦里時次郎の墓)  
深川猿江の慈眼寺に、明烏で有名な浦里時次郎の墓がある。今は悪停霊神などゝいふ不思議な神号が附けられ、放蕩除けの願が利(き)くとて参詣する物好がチラ/\ある。最初先づ一本の塔婆を納め、願が叶つたら之れを二つ折にしてまた納める。これが御霊参りのしるしになるのだとは一寸変つてゐる

 


  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 
 
京おんなのルーツ

 

 
平安時代の女性  
道徳的にも法律的にも貞操という観念はなく、男女とも恋愛に対して、正直素直に行動していた。結婚も生涯の間で何度もなされる事が多く、時間をかけて愛を育み、また愛が終われば、男女とも心に正直に次の愛を探し育んだ。その中で数々の恋愛や悲恋が生まれ、女性達によ る後世に残る、日本を代表する名作や名歌が数多く残された時代でもあった。一夫多妻制はあったが、男尊女卑というよりも、より確実に子孫を残すための多妻であり、また誰の子孫であるかを明確にするための一夫であったようだ。恋愛・結婚も十分に相手を尊重し、地位や権力を利用するのでなく、その心根だけで愛を成就させようとした、ある意味、非常に美しい時代 だった。その中で世界最古の長編小説となる「源氏物語」などの名作が生まれた。「GENJI HIKARU」は近代、各国語に翻訳され、隠れた世界のベストセラーとなった。また、人間が本来もっている嫉妬、 競争心にも正直で、この時代の人間模様や文学に深さを与えている。平安時代を通して多くの美女が登場するが、文学や歌に優れた芸術的感性 と高い知性があり、容姿よりも感性と教養で、男性はもとより女性にも人気を博し、美女としての誉れを高くした感がある。この時代に庶民の女性の記録はなく、感性や知性は貴族女性だけに求められた素養だったのかもしれないが、中世に入り、庶民の記録も残されるようになってきても、やはり芸術や教養に優れた女性 に人気を集まる事が多いように思われ、古代から中世では女性の容姿で長く豊かな黒髪と綺麗な衣装で良しとし、後は豊かな感性と教養で、その評価を上げたのではないかと思われる。 
 

 

 
小野小町1 
世界三大美女の一人として有名で、ある地域や集団の中での一番の美人を指す「○○小町」の語源ともなっている。その語感から、なにか町娘のような感じがするが、れっきとした平安王朝の貴族の娘だった。しかしながら、あまりにも氏素性などの記録が残っていないところから(生没不明)、さほど身分が高かったわけではなく、おそらく「菜目(うぬめ)、天皇の側で食事などの給仕役」として宮仕えをしていたのではないかといわれている。初の勅撰(国選)和歌集「古今和歌集」で六名の名歌人「六歌仙」として、ただ一人選ばれ女性で、他に百人一首などに多くの名歌を残している。京都以外にも、小野小町の生地や没地としての小町塚が多数あり、その事も小野小町の謎となっている。 
筆舌しがたい美人で、歌の才でも卓抜した才能の持ち主だったが、恋多き女で、数々の男性を翻弄し浮き名を流したとされている。しかし、実は小町が残した数々の名歌以外の事ははっきりと分かっておらず、後世までその美しさが全国に伝わるというのも不思議な話しである。勝手な推測で小町像を探ると、「女性でただ一人六歌仙に選ばれた小町は、すごい美人だろう」という想像で「日本一の美女」としての評判が全国にたち、それにあやかって多くの小町塚が全国に作られたか。若い頃の小町は、短袖の着物に短かめのロングヘアーという軽快な服装で(十二単に超ロングヘアーという装束は平安中期になってから現れたとの説がある)テキパキと宮中の仕事をこなし、女一人でつらい宮中勤務にじっと耐え、晩年は生地の陸奥(秋田、ここが小町の生地だったとの説もある)に帰り、静かに暮らしたという姿も浮かび上がってくる。小町の有名な歌、「花の色は移りにけりないたずらに我身世にふるながめせしまに」 (無為に人生を過ごしている間に、すっかり自分は女のさかりを過ぎてしまった)は、女性としての美しさが失われていく悲しさを歌ったものとは限らず、人生の峠をこせば誰でも感じる寂しさを歌ったもの。「いろみへでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(花の移ろう姿以上に人の心は変わっていくものよ)は、自分が絶世の美女として伝説化されていくのを困惑している様子という解釈では小野小町を少し美化しすぎか、奔放な小町像をあまりにも地味なものにしてしまったものか。  
 
  
逸話として小町が老後になってからのものが多く、その多くは、「若い時には美しい事を良いことに、数多くの男性を手玉に取り袖にもしたが、老いてその美しさが失われてからは、乞食にまで落ちぶれて、果ては路傍で野垂れ死に、ドクロとなってまでも歌を詠んでいた」などのヒドイものが多い。これらの逸話は、「いくら美しくとも生あるものは、やげて朽ちて醜くなる」「奢り高ぶる人は、やがて人々に見向きされなくり、寂しい人生を送る」などの、仏教思想の教えとして、後の世に作られたものである。絶世の美女と評判になってしまった小町にとっては迷惑な話しかもしれない。 たしかに、それほど小町は美しく、多くの男性を翻弄したのか、あるいは、何か悟りを開いているように見える小町が、男性を相手にせず恨みを買っていたのかもしれない。 
有名な逸話。宮中勤務を退いた後も美しさの衰えなかった小町に、連日連夜、色々な男達が言い寄っていた。その中で深草少将だけは小町の目にかない、「百夜通えば、そなたと付合おう」と少将に伝えた。それを聞いた深草少将は、毎夜恋文を届けに深草の地(現伏見区)から洛北の小野荘まで通いはじめる。無事に九十九夜を通いつめましたが、最後の百夜目に雪の中を小野荘に向かう途中で深草少将は凍死してしまう。嘆き悲しんだ小町は、今までの恋文を燃やし、その灰で地蔵を作り深草少将を弔ったという。 
 
小野小町2  
紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。  
紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。  
たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。  
「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」  
(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。)  
「衣通姫(そとおりひめ)」とは、記紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたと言われている。この紀貫之の文章を普通に読むと、誰でも小野小町が美人であったと連想してしまうだろう。  
また「百人一首」には、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が選ばれている。  
この歌で、小町は自分の容姿を花にたとえて、歳とともに衰えてしまったことを言っているのだが、裏を返すと、若いころは自分でも美しいと思っていたということになる。  
昔から「小野小町」といえば「美人」の代名詞のようになっていたようだが、紀貫之の文章や小町の歌などの影響が大きいのだろう。  
しかしながら、小野小町の肖像画や彫像はすべて後世に造られたものであり、本当に美人であったかどうかは確認のしようがない。  
実在したことは間違いないのだろうが、小町の生年も没年も明らかでなく、どこで生まれどこで死んだかすらわかってはいない。  
たとえ有名な人物であっても、生没年が良くわからないことはこの時代では珍しくない。  
紀貫之も没年は天慶8年(945)説が有力だが、生年については貞観8年(866)、貞観10年(868)、貞観13年(871)、貞観16年(874)と諸説ある。紫式部も生年について6つの説があり没年についても6つの説があり定説はない。清少納言も同様である。  
南北朝期から室町時代の初期に、洞院公定(とういん きんさだ)によって編纂された「尊卑分脈」(別名「諸家大系図」)という書物に、小野小町は小野篁(おののたかむら)の息子である出羽郡司・小野良真の娘と記されているそうだ。  
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫であり、歌人としても有名な人物で、「百人一首」に選ばれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が有名である。  
小野小町は有名な歌人の血筋に繋がっているのかと何の抵抗もなく納得してしまいそうな話だが、よくよく考えると年齢に矛盾がある。  
小野篁は延暦21年(802)に生まれ仁寿2年(853)に没したことが分かっているので、先程のWikipediaによる小野小町の推定生没年と比較すると、年齢差はわずかに23歳しかなく、小野小町が小野篁の孫娘であるという「尊卑分脈」の記録を信用していいのだろうか。  
また紀貫之の「古今和歌集仮名序」の小町に関する記述は、小町が美人であることを確信していないと書けないような気がするのだが、古今集を完成させたのは延喜5年(905)には小町は没しておりまた小野小町は紀貫之よりも41〜49歳も年上になるのだが、この年齢差にも少々違和感がある。  
となると小野小町が小野篁の孫娘だとする「尊卑分脈」の記述が正しいのか、小野小町の生没年の推定値が正しいのか、紀貫之の生没年の推定値が正しいのか、わけがわからなくなってくる。  
 
出生地を調べるとこれも諸説ある。  
秋田県湯沢市小野、福井県越前市、福島県小野町など生誕伝説のある地域は全国に点在しているらしい。  
小町の墓所も全国に点在している。  
宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。  
若い頃の小町は、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないが、彼女のその後はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようだ。  
小町を脚色した文芸や脚本では落ちぶれた小町を描いたものが多く、室町時代には観阿弥・世阿弥が書いた「卒塔婆小町」など、さまざまな作品があるようだ。  
夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮して乞食となって道端を彷徨った話や、ススキ原の中で声がしたので立ち寄ってみると目からススキが生えた小町の髑髏があったなど、およそ若い時の姿とはかけ離れたような話がいろいろある。  
滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。  
京都市左京区の安楽寺という浄土宗の寺院には「小野小町九相図」(三幅)という掛け軸があり、老いた小町が死んで野良犬に食い荒らされて白骨となるまでの九つの姿を描いた絵巻がある。  
晩年の小町に関する悲惨な話は何れも信憑性に乏しいものだとは思うが、こんな話や像や掛軸がなぜ作られたのかと考えこんでしまう。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうだ。  
若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。このことは男性も同様で、いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。  
今のような年金制度はなかったが、昔の時代は、近所付き合いを大切にし家族を大切し老人を敬うことで、惨めな老後を迎える人は今よりもはるかに少なかったように思う。逆に近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。  
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。
 

 

 
紫式部  
「源氏物語」は世界最古の長篇小説で、「HIKARU GENJI」として各国語に翻訳され隠れたベストセラーとなり、日本人が思う以上に世界的評価が高い。当時はまだ、皇后などの高貴な女性以外の記録は残される事がなかったため、詳しい生い立ちなどは分かっていない。通説では、越前守だった藤原為時の娘として970年か973年に生まれ、1014年もしくは1031年に死去したとされる。幼い頃からその文才は際立 ち、父・為時にして「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸なかりけり(男子に生まれていればのう)」(紫式部日記)と言わしめた。結婚は晩婚で998年(式部25才か28才の時)山城守の藤原宣孝(父・為時の上司で式部の20才年上)と結婚し一人娘の賢子(けんし)を生んでいるが、夫の宣孝は結婚3年後の1001年に亡くなった。その後1005年頃、一条天皇の中宮(妃の一人)彰子(しょうし)の女房役(教育係)として出仕しはじめ、彰子の頼みにより源氏物語を書き始めたと言う。「源氏物語」は1010年頃に完成したとされる。その後、この1010年までの事を「紫式部日記」としてまとめた後、式部の消息は判然としなくなる。なお、一人娘の賢子も勅撰歌人で百人一首に選集されるなど、母を凌ぐ歌人となった。 
 

 

  
清少納言1 
966年ごろ、祖父は古今集の代表歌人 清原深養父(ふかやぶ)、父は同じく三十六歌仙の歌人 清原元輔の娘として生まれた。その後、一条天皇の中宮、定子(ていし)に仕えるようになる。同じく一条天皇の中宮彰子に仕えるようになる紫式部は、年令も宮廷生活でも後輩という事になるが、先輩である清少納言に強い反感をもっていた事は有名。小納言は、どちらかと言うと直感で判断し、宮廷でも目立つように知識を披露するのに対し、式部は、じっくりと準備をし文章を作るように、宮廷でも目立つ事をさけ、見識深 さを隠していたとも言う。小納言の父も、式部の父と同じく受領(地方官吏、天皇の命により地方の監督をする)で、式部の父 為時は人付き合いがヘタで長い間仕事に就けず、式部は貧しい幼年 ・少女時代を過ごしたともいわれる。小納言は定子の没後、庵をむすび定子への念仏を唱えながら晩年を過ごしたと言い伝えられる。謙虚な式部が陰険とされ、無邪気に自分の知識を披露する小納言のほうが朗らかな人というのが当時の評判であったらしい。庵に引きこもってからの小納言はボロ着をまとい、落ちぶれた小納言を冷やかしに来た人々に罵声を浴びせたという逸話もあり、どうも後世の儒学の影響か、小野小町といい清少納言といい、機智にとんだ利発な女性には風あたりが強 かったようだ。 
清少納言2 
平安中期に活躍。姓は清原、名は不明。父・清原元輔(もとすけ)は百人一首に「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」が採られた三十六歌仙の一人。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)も百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ」が入った「古今集」の歌人。こうした周囲の環境に感化され、彼女は幼い頃から和歌や漢文に親しみ、機転の利く明るい活発な女性に成長した。15歳で橘則光と結婚し、翌年に則長を産む。しかし武骨な則光とは性格が合わずに約10年で離婚した。24歳、父が他界。 
993年(27歳)、関白・藤原道隆から「宮中で教養係をして欲しい」と依頼が届く。相手は関白の長女で一条天皇の中宮(后)、藤原定子(ていし、17歳)。それまで想像もしなかった夢のような宮廷生活が突然始まった。後宮には30名ほどの高い教養の女房(侍女)がいたが、清少納言の機知に富む歌の贈答に誰もが感心し、和歌や漢詩の豊富な知識もあって、彼女は詩歌を愛する定子に人一倍寵遇された。当時、漢文は男が学ぶものであり、漢詩に詳しい女性は男達から「生意気だ」と言われたが、清少納言は子どもの頃から父にみっちり教え込まれており、定子はそんな彼女を貴重な存在に思った。清少納言は漢文の知識で天狗になっている男達をやり込め、名声はどんどん高まった。 
ところが、それから僅か2年後の995年(29歳)に道隆が逝去。関白に弟の藤原道長(「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」で有名)が就任すると、後宮の花形だった彼女の運命は暗転し始める。 
996年(30歳)、定子の兄が道長の策謀で流刑になり、こともあろうに「清少納言は道長方のスパイ」という酷い噂が流れ、彼女は自ら宮廷を出て家に閉じこもってしまう。定子は母も他界し屋敷が焼失するなど不幸な出来事が続いていたが、これまでは陽気で勝気な清少納言が側にいるだけで気持が弾んだし、彼女が努めて明るく振舞い皆の心を元気にする姿に励まされた。それゆえ、早く宮廷に戻って欲しくて、清少納言が以前に“気が滅入った時は上等な紙や敷物を見ると気が晴れる”と言っていたので、20枚の紙(当時はとても貴重だった)と敷物を贈った。清少納言はこの時の喜びを「神(紙)のおかげで千年生きる鶴になってしまいそう」と記した。 
彼女は以前にも定子が兄から貰った紙を贈られており、授かった紙に宮廷生活の様子を生き生きと描き込み、詩情豊かに自然や四季を綴ったものが随筆「枕草子」となった。 
※「枕草子」 約320段の章で構成。「源氏物語」を貫く精神が“もののあはれ”(情感)の「静」とすれば、「枕草子」には“をかし”(興味深い)という「動」の好奇心が満ちている。作中には実に400回以上も“をかし”が登場する。この気持こそが、鋭い感受性で鮮烈に平安朝を描き出した清少納言の原動力だ。“枕”の由来は複数あり、「備忘録」「枕詞の集まり」のほか、唐の詩人・白居易(はくきょい)の漢詩集「白氏文書」(はくしもんじゅう)に登場する「白頭(はくとう)の老監(ろうかん)書を枕にして眠る」とする説もある。“草子”とは閉じた本のこと。 
定子の気持に応える形で彼女は宮廷に戻ったが、再び波乱が起きた。1000年に関白道長が娘の彰子(しょうし)を強引に中宮とし、天皇が2人の妻を持つ事態になった(一帝ニ后は初のケース)。そして同年12月、定子は出産で衰弱して、24歳の若さで他界する。清少納言は自分より10歳も年下なのに聡明で歌の知識も豊富な定子のことを心底から敬慕していたので、この悲劇に打ちのめされた。そして、哀しみを胸に宮廷を去り、山里で隠遁生活を送るようになる(34歳)。 
その後、摂津守・藤原棟世と再婚。1001年、清少納言が書いた「枕草子」の初稿は、非公開のつもりだった彼女の意に反して、家を訪れた左中将・源経房が「これは面白い!」と持ち出し世間に広めてしまう。驚くほど好評だったので、彼女はその博識を総動員して「枕草子」に10年近く加筆を続ける。やがて宮仕えの7年間に興味を持った全てのものを刻み終え、1010年(44歳)ごろ最終的に脱稿した。晩年は尼となり京都東山の月の輪に住む。 
墓は滋賀坂本のほか、徳島・鳴門市の里浦町にも供養塔(尼塚)がある。 
※「なにもなにも ちひさきものは みなうつくし」 
枕草子第1段 春はあけぼの…春は曙が最高!ジョジョに白んで、山際の空がほんのり明るくなって、紫に染まった雲が細くたなびいているのはたまらない。夏は夜がいい。月夜はもちろんのこと、闇夜でもたくさんの蛍が舞う様子が美しい。また、ほんの一、二匹が、ほのかに光って飛んで行くのも、何とも趣がある。夏の雨の夜も風情がある。秋は夕暮れに限る。夕日が赤くさして今にも山に沈もうとする時に、カラスがねぐらへ向かって、三羽、四羽、二羽と飛び急ぐ様子さえ、しみじみと心に染む。まして雁などが連なって、遠い空に小さく見えるのはとても感じ入ってしまう。とっぷり日が落ちて、風の音、虫の音などが聞こえるのは、言葉にならないほど素晴らしい。冬は早朝ですね。雪が降り積もる景色は言うまでもなく、霜で真っ白なのも、空気のはりつめた寒い朝に、火を急いでおこして、炭火を持ち運ぶのも、冬の朝ならではのもの。ただし、昼になって寒さが次第に緩み、火鉢の炭が白い灰ばかりなのは、見た目がイマイチかなぁ。 
第2段 小五月-高貴な方も無礼講…1月15日は身分の上下を問わず、女性同士が薪(たきぎ)でお尻を叩く風習がある(安産の祈り)。宮中では侍女たちが薪を隠し持ち、相手の隙を狙う者、常に背後を警戒している者、なぜか男を叩いている者、叩かれて“してやられた”と言う者もいれば、呪いの言葉で悪態をつく者もいて楽しい。 
第21段 宮仕え礼賛…この時代、高貴な女性は顔を見せてはいけなかった。成人すると親子でも扇で隠していたほど。結婚3日目の朝にやっと夫は妻の顔を見ることが許される(だから平安貴族は歌の良し悪しで恋の運命が決まった)。ところが宮仕えをする者は色んな人に顔を見られているので「すれっからし」と言う男がいる。そんな男は本当に憎たらしい。 
第25段 憎きもの…局(つぼね、私室)にこっそり忍んで来る恋人を見つけて吠える犬。皆が寝静まるまで隠した男がイビキをかいていること。また、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)で忍び込み、慌てているので何かに突き当たりゴトッと音を立てること。簾(すだれ)をくぐるときに不注意で頭が当たって音を立てるのも、無神経さが憎らしい。戸を開ける時も少し持ち上げれば音などしないのに。ヘタをすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて、話にならない。※局で音を立てるのは憎しみの対象になるほど最低の無作法らしい。 
第26段 胸がときめくもの…髪を洗い、お化粧をして、お香をよくたき込んで染み込ませた着物を着たときは、別に見てくれる人がいなくても、心の中は晴れやかな気持がして素敵だ。男を待っている夜は、雨音や風で戸が音を立てる度に、ハッと心がときめく。 
第27段 過ぎ去りし昔が恋しいもの…もらった時に心に沁みた手紙を、雨の日などで何もすることがない日に探し出した時。 
第60段 暁に帰らむ人は…明け方に女の所から帰ろうとする男は、別れ方こそ風流であるべきだ。甘い恋の話をしながら、名残惜しさを振り切るようにそっと出て行くのを女が見送る。これが美学。ところが、何かを思い出したように飛び起きてバタバタと袴をはき、腰紐をごそごそ締め、昨晩枕元に置いたはずの扇を「どこだどこだ」と手探りで叩き回り、「じゃあ帰るよ」とだけ言うような男もいる。最低。 
第93段 呆然とするもの…お気に入りのかんざしをこすって磨くうちに、物にぶつかって折ってしまった時の気持ち。横転した牛車を見た時。あんなに大きなものがひっくり返るなんて夢を見てるのかと思った。 
第95段 ホトトギスの声を求めて…お供の者たちと卯の花を牛車のあちこちに挿(さ)して大笑い。「ここが足りない」「まだ挿せる」と挿す場所がないほどなので、牛にひかせた姿は、まるで垣根がそのまま動いているようだ。誰かに見せたくなり、ホトトギスの声を聞くフリをして町をひかせると、こういう面白い時に限って誰ともすれ違わない。御所の側まで来てついに知人に見てもらった。すると相手が大笑いしながら「正気の人が乗っているとは思えませんよ!ちょっと降りて見て御覧なさい」。知人のお供も「歌でも詠みましょう」と楽しそう。満足した。 
第95段 父の名は重い…父の元輔が有名な歌人なので、歌会になる度に「あなたも何か詠め」と言われるのが嫌だ。これ以上詠めと言われたら、もうお仕えはできない。常に人より良いものを詠まねばならない重圧。 
※彼女は歌人の家系であり、自身も百人一首に「夜をこめて鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」(まだ夜明け前なのに鶏の鳴きマネで門を開けさそうという魂胆ですが、この逢坂の関はそう簡単には行きませんことよ)が採用されている。家集「清少納言集」(42首)もある。しかし、彼女は歌才がないことを痛感していたようで、宮仕えの際に“詠め”と言われて「父の名を辱める訳にはいかないので詠めません」と断っている。 
第123段 はしたなきもの…きまりの悪いもの。他人が呼ばれているのに、自分と思って出てしまった時。贈り物を持ってる時はなおさら。何となく噂話のなかで誰かの悪口を言った時に、幼い子どもがそれを聞いて、当人の前で言い始めた時。悲しい話をされて本当に気の毒に思ってこちらも泣こうとしているのに、いくら泣き顔を作っても一滴も流れないのは決まりが悪い。 
第135段 退屈を紛らわすもの…碁、すごろく、物語。3、4歳の子どもが可愛らしく喋ったり、大人に必死で物語を話そうとして、途中で「間違えちゃった」と言うもの。 
第146段 かわいらしいもの…瓜にかいた幼子の顔。雀の子に「チュッ、チュッ」と言うとこちらに跳ねてくる様子。おかっぱ頭の小さな子が、目に髪がかぶさるので、ちょっと首をかしげて物を見るしぐさは本当に可愛い。公卿の子が奇麗な衣装を着せられて歩く姿。赤ちゃんを抱っこしてあやしているうちに、抱きついて寝てしまった時。人形遊びの道具。とてもちっちゃな蓮の浮葉。小さいものは何でも皆かわいらしい。少年が子どもらしい高い声で懸命に漢書を読んでいる様子。鶏のヒナがピヨピヨとやかましく鳴いて、人の後先に立ってちょこちょこ歩き回るのも、親が一緒になって走るのも、皆かわいらしい。カルガモの卵、瑠璃の壺。 
第147段 人前で図に乗るもの…親が甘え癖をつけてしまった子。隣の局の子は4、5歳の悪戯盛りで、物を散らかしては壊す。親子で遊びに来て、「あれ見ていい?ね、ね、お母さん」。大人が話しに夢中だと、部屋の物を勝手に出してくる。親も親でそれを取り上げようともせず、「そんなことしちゃだめよ、こわさないでね」とニッコリ笑っているので実に憎たらしい。 
第209段 牛車…五月ごろ、牛車で山里に出かけるのはとても楽しい。草葉も田の水も一面が青々としている。表面は草原でも、草の下には透明な水が溜まっていて、従者が歩く度に奇麗なしぶきがあがる。道の左右の木の枝が、車の隙間から入った瞬間に折ろうとすると、スッと通り過ぎて手元から抜けてしまうのが悔しい。牛車の車輪で押し潰されたヨモギの香りが、車輪が回るにつれて近くに漂うのは、とても素敵だった。 
第218段 水晶のかけら散る…「月のいとあかきに、川をわたれば、牛のあゆむままに、水晶などのわれたるやうに水のちりたるこそをかしけれ」“月がこうこうと明るい夜、牛車で川を渡ると、牛の歩みと共に水晶が砕けたように水しぶきが散るのは、本当に心が奪われてしまう”。  
「枕草子」を読む度に“これが千年前に書かれたとは思えない”と感嘆する。心の動きが現代の僕らと何も変わらないからだ。描かれたのは、冗談を言い合い、四季の景色を愛で、恋話に花を咲かせる女たち。そこには敬愛していた定子を襲った悲劇(父母の死、兄の流刑、家の焼失、そして24歳の死)は一言も書かれていない。作品中の定子は、常に明るい光の中で笑っており、「枕草子」そのものが彼女への鎮魂歌となっている。清少納言が宮仕えをした人生の7年間は、筆を通して永遠になった--彼女が出会った愛する人々の命と共に。 
 

 

  
和泉式部  
976年、越前守 大江雅むねの娘として生まれたされ、没年は不明。勅撰和歌集に二百四十七首も収録された当代きっての歌人で、その奔放な恋愛と歌に後世のファンが多い。20才ころ、後に和泉守となる橘道貞と最初の結婚。娘の小式部内侍(ないし)を出産するが、夫 ・道貞が和泉の国(現在の堺)に単身で赴任すると、十名近くの男性と恋愛遍歴をくり返すようになる。やがて冷泉天皇の皇子、為尊(ためたか)親王と本当の恋に落ち、夫を捨てる事となるが、為尊親王は1002年26才で死去、その1年後に為尊親王の弟・敦道親王に求愛され、当時の敦道親王の妻は怒って家を出る事になり、敦道親王も1007年27才で死去してしまう。「和泉式部日記」は、この敦道親王との恋愛の記録で、「和泉式部集」には敦道へ贈った百二十二首の和歌が載っている。当時は、貞操などの観念はなく、結婚していても男女ともに複数の愛人を持つのも普通だが、さすがにこの頃になると京の人々に間にも和泉式部は「浮かれ女(め)」と言われるようになる。しかし式部は、日記の中に「 千年のちの人には、私の気持ちは分かってもらえます」と記し、事実「黒髪の乱れも知らずうち附せば まず掻きやりし人ぞ恋しき」という式部の歌に触発され、与謝野晶子は自らの処女歌集に「みだれ髪」という題をつけた言われている。1009年に和泉式部は紫式部と同じく一条天皇の中宮 彰子に仕える事になり、そこで知り合った20才年上の丹後守、藤原保昌と結婚し丹後に向かう事となる。 
1025年、娘・小式部内侍死去、その後1033年以降の和泉式部の消息はつかめなくなるが、出家して現在の新京極にある誠心院の初代住職になって静かに晩年を送った言われる。 
 

 

 
白河法皇  
1034年、宇多天皇から170年ぶりに藤原氏を母に持たない後三条天皇が誕生し、後三条天皇から皇位を譲り受けた白河天皇の時代になると、宮廷に藤原氏の影響が少なくなった。白河天皇(1053-1129)は、8才の堀川天皇に皇位を譲ると、自らは法皇となり完全に政権を握り、有名な院政・政治が始まる。それまでの藤原氏が天皇と自分の娘の結婚を押し進め、生まれてきた新しい天皇の外祖父として政権を把握しようとした摂関政治にくらべて白河法皇の院政は、天皇の実父が政権を把握する事になり、白河法皇は絶大な権力を誇る事になった。退位した天皇を上皇(じょうこう)、退位後出家した場合は法皇と呼ばれた。 
 

 

  
養女・璋子(しょうこ)  
白河法皇には祇園女御(ぎおんにょうご)という一番のお気に入りの愛人がいたが、祇園女御は、ある女子を養子にしていた。この子が後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれる、権大納言 ・藤原公美(きんざね)の子、璋子だった。その子は非常に美しく、白河法皇は文字どおり目に入れても痛くないほど可愛がっていたが、やがて璋子が少女に育つうち、ついに白河法皇と璋子は男女の関係に発展してしまう。いくら性におおらかな平安時代でも親子間(たとえ養子でも)の恋愛は御法度だった。後ろめたさを覚えた法皇は、璋子を自分の実孫の15才の鳥羽天皇と結婚させるが、この結婚は、あまり上手くいかなかった。しばらくすると璋子と法皇は、また逢瀬を重ねるようになり、やがて二人の間に、後の崇徳天皇(すとくてんのう)が生まれる。この時より璋子は待賢門院と名乗るようになる。崇徳天皇が生まれた頃から鳥羽天皇と璋子の仲も良くなりはじめ、鳥羽天皇の実子として後白河天皇も生まれる。  
白河法皇の死後、崇徳天皇と鳥羽上皇の間で権力争いが起こり、藤原氏を再びバックにつけた鳥羽上皇に若い崇徳天皇は敗れ、後白河天皇に皇位を譲る事になる。この間、待賢門院璋子は骨肉の争いを避けるように花園に法金剛院(ほうこんごういん)を建立し、法皇の菩提を弔うように隠棲する。やがて璋子の死から10年後、異父兄弟である崇徳上皇と後白河天皇は「保元の乱」で悲劇の兄弟対決を迎え、貴族の時代から武家の時代へと歴史は大きく変わっていく事となる。 
 

 

 
世界三大美人  
小野小町は世界に名前も知られていなかった東方の果ての小国、日本の下級貴族の娘。小野小町を加える世界三大美女は日本だけのもので、国際社会を目指した近代になってから言われはじめられた。一般的には、世界の三大美女には小野小町の変わりに、「ヘレネ」ギリシャ神話の中の美女が加えられるのが多いが、それぞれの国で独自の世界三大美人が作られている事が多いようだ。 アレキサンドリア(クレオパトラ)、長安(楊貴妃)、平安京(小野小町)と3人とも都の人だった。  
 
  
クレオパトラ7世/紀元前1世紀のエジプト、プトレマイオス朝最後の女王、 その美貌と知性で、凋落していた王朝の復興を計るが、オクタビアヌスとの戦争に破れ、300年続いた王朝は滅びた。クレオパトラは我身を毒コブラに噛ませ自殺。没年39才。  
 
  
楊貴妃(719-756)/8世紀の中国の唐の皇帝・玄宗の妃。美人であり、また相当に色っぽい人だったらしい。楊貴妃との愛欲生活に溺れた玄宗は、すっかり政務を怠り、ついに安史の乱が起った。玄宗は都を追われ、楊貴妃は責任を取らされ処刑される事となる。 
「傾城の美女」の語源。没年38才。  
 

 

 
鸚鵡小町(おうむこまち) 
謡曲小町物の一で、卒都婆小町などゝ共に、小町の末路を伝へたものである。小野ノ小町御所を出て、年たけて、関寺辺の柴の庵に、住んでゐた。陽成院小町の容子を聞こしめされて、新大納言行家に、 
雲の上は、ありし昔にかはらねど、見し玉簾(タマダレ)の うちやゆかしき 
といふ御製を預けて、其有様を見がてら、返歌を聞いて来るやうに命ぜられた。関寺に行くと、物狂ひの老女が来るのを小町かと聞くと、小町は小町だが、お公家様として、妾の事を問はれるのは、何事の用だと言ふ。歌を詠むかと問ふと、かう言ふ身の上になつて、唯生きてゐると言ふばかりだと答へる。天子もお前をおいとほしがられて、御製を下されたと言ふと、其を読み聞かせてくれといふ。読み聞かせると、喜んで、あり難い御歌だが、とても返歌を申すことが出来さうにもない。けれども、御和(コタ)へ申さぬのも、恐れ多い。此上は、唯一字で、お和(コタ)へしようと言ふ。行家は、なるほど世間で気違ひだと言ふのも、こゝだと思うて、三十一字を並べても、意の尽されぬ歌もあるのに、変な事を言ふと咎めると、ともかくも「ぞ」と言ふ文字が、わたしの返歌だから、御製を今一度読みあげてくれ、と言ふ。「雲の上は、ありし昔にかはらねど、見し玉簾のうちやゆかしき」。その「や」を読みかへて「うちぞゆかしき」と申すのが、返歌であると言うたとあるのが、此話の本筋になつてゐる。 
此から、勅使が、昔にも、かう言ふ歌の例があつたか、と問ふ処から、鸚鵡返しの体の事より、歌の六義の話に入り、其縁で、玉津島・業平の話になつて、例の舞ひの所望に移り、小町の狂ひになる。後段は、狂ひを見せる為の趣向で、本意は、勿論前段にある。処が、其贈答の話は、実は他人の上にあつた、事実めいた話其儘である。 
桜町中納言(信西入道の子。成範民部卿)が、平治の乱の末に、経宗・維方の讒訴で流されてゐた下野の室(ムロ)の八島(ヤシマ)から戻つたが、以前の様に後宮出入りが自由に出来なかつた。此人の通り過ぎるのを見て、女房の中から、其かみの事を思ひ出したのが、此陽成院の御製と伝へた歌の通りの物を、さし出した。成範が返歌を考へて居る処へ、重盛が上つて来たので、急いで立ち退きしなに、燈楼のかきあげの木の端で、や文字を消して、ぞの字を書きつけて、御簾の中に、さし込んで退出した(十訓抄)と言ふのが、其である。 
国歌大観によると、二条院崩御の後、俊成の作つた歌と言ふの(新千載に「雲の上はかはりにけりと聞くものを、見しよに似たる夜半の月かな」)がある。此は全く、かの歌を本歌にとつたのである。故らに本歌と意識せなんだ迄も、其印象の復活したものと見れば、俊成以前に此歌のあつた証拠にはなる。 
桜町中納言は、俊成と略時代を接した人であるから、勅撰集に載らない此逸話を持つた歌を覚えて居たのが「夜半の月」の種になつたことは、疑ひがない。武家の初めに、鸚鵡小町の伝説が名高かつたものなら、恐らく十訓抄の作者も、桜町中納言の逸話として、書き留めては置かなかつたであらう。歌柄も、後期王朝末のものと見るが、適当らしくはあるが、仮りに女房の頓作から、古歌の字をかへて示したのを、直ちに原歌に戻して自分の心を述べたとしても、確かに小町の歌として信ずべきものには「雲の上は」の歌を伝へてゐない。 
此歌、意味から言うても、宮中にあつて、而も後宮に立ち入ることが出来ぬ場合でなくては、不適当な発想を持つてゐる。小町が関寺に居ての返歌ならば「ありし昔にかはらねど」は、間違ひである。平安朝初期の条件法の厳重であつた時代には、たとひ興言利口にも、「かはらざらめど」と言はねば通じなかつたであらう。成範はさて措き、後期王朝末頃の人が宮中にゐて、這入り難い後宮をゆかしがつたものと見るのが、一番宛てはまつてゐる様である。「たまだれの内裡(ウチ)」と枕詞風に見ても、此点の不都合は免れることが出来ぬ。 
思ふに、後宮を出て、里におりた女房たちの、昔の賑やかな生活を忍ぶ趣きが、此歌にも感じられる処から、単に言語情調の方面ばかりから、かう言ふ伝へが出来たのであらう。伊勢ノ御(大和物語)備前(今鏡)などの、愛着深い歌と同列に、此歌を名高い女房の秀句の様に、思ひ違へするのは、尤の事で、兼ねて、 
わかるれど、あひも惜しまぬもゝしきを、見ざらむことの なにか悲しき(伊勢) 
が、其大きな導きになつてゐることゝ、推察してもいゝやうだ。 
併し又、一方「死馬の骨を買ひし者あるを聞かずや」といきり立つた清少納言と同様「我も昔は」とも言ふべき形を、含んでゐるとも見える。尚其外にも、棄老民譚の王朝の一形式とも言ふべき、蟻通し明神(枕冊子)風の「老いの智慧」の要素をも持つてゐる。「月には上る、長安百尺の楼」と訓じ聞かせた大江朝綱の家の姥(今昔物語・江談抄)などの流も、引いて居る様子である。 
武家が都に入りまじる様になつた王朝末に、殊に目について来たのは「賤(シヅ)のみやび」に関する様々の物語であるが、此が此小町の物語には、融合して居る。併し、其で此物語の出来た時代をきめる事は出来ぬ。唯其何々院と、大局に関係のない年代づけをしたがるのは、口の上の物語よりも、筆拍子に乗つて出来た物語だからでもあるが、要するに、此物語の出来た時代の影響を、脱することの出来ぬのを示してゐる。 
桜町中納言は、泰山府君の桜の命乞ひをした物語も残した人で、謡曲にも、其形が見える。此物語は、鎮花祭及び念仏踊りの系統に属する詞章出なのである。さすれば、桜町に住んだ陰陽師の徒の語り物であつたのが、主人公を桜町中納言とし、其が流派の違うた演芸者の語り物に移つて行つた時に、其派の主要人物たる小町の事になつて行つたのではあるまいか。  
小野小町と和泉式部 
小町は、謡曲、「卒都婆小町」の中で、零落、漂泊の姿をさら晒し、高野山からの旅僧と問答をする。掛け合いの後、老婆が小町であることを知った僧は、「さもいにしへは遊女にて 花の容輝き 桂の黛青うして 白粉を絶えさず…」と小町の昔を偲びつつ、現在の落魄した姿に目をやるのである。 
小野小町は、その生の全容は明らかでなく、中古・中世を通してさまざまな伝説の、主人公として語られていく。中でも、落魄した小町像は、「たまつくりこまちしそうすいしょ玉造小町子壮衰書」に描かれるような零落の〃小町〃像に取り込まれて大きく膨らんでいくのである。「壮衰書」に言う、「我れはこれ倡家の子、良室の女なり、壮時驕慢もつともはなはだし、衰日の愁嘆なほ深し」。「倡家の子」とは遊女のことをいう。室町物語「小町草紙」においても、「そもそも、清和の頃、内裏に、小町といふ、色好みの遊女あり。」と登場するのである。遊女については宮中との関係も指摘され(後藤紀彦/週刊朝日百科日本の歴史「遊女・くぐつ傀儡・しらびょうし白拍子」に詳しい)、室町物語に書かれる内裏との関わりはあながち奇異なこととして片付けられまい。それは、遊女が高度な教養を持った者として描かれ、たたえる情趣がしばしば「やさし」と表現されることとも繋がってこよう。「卒都婆小町」における小町は、風流とは程遠いのではあるが、落魄の老婆とはいえ、十分な教養と機知に富む人物として造型されている。冒頭にあげた詞章の「遊女」には、観世流謡本では「優女」の字があてられ、若き日の小町を彷彿とさせる。我々が今日想起する遊女像は近世以降のそれである。しかし以前には、漂泊の身の哀感と共に独特の幽玄性をもった者として映っていたことが、文献から窺い知られる。例えば「更級日記」では、山中で出会った遊女が、「あはれ」「めでたし」という言葉を使って幻想的な筆致で描かれるのである。 
平安後期の「新撰朗詠集」巻下には、遊女が小町詠を歌ったことが見える。 
遊女商船に乗らんと欲するに、船人梶を以て水を打懸れば、袖を以て面を掩い泣きて此歌を詠ず、作者小町 
心からうきたる舟に乗そめてひと日も浪に濡ぬ日ぞなき 
この歌は「小町集」にみえ、「後撰集」にも収載される。詞書によると、心変わりした男に送った嘆きの歌である。「新撰朗詠集」のこの歌の直前には、遊女のよるべのない悲しみが歌われており、小町の一首のかも醸す深い悲しみによく通じている。小町が歌の中で表現した「浮き(=憂き)」「舟」「浪」といった言葉がそのまま遊女の生活や心性にあてはまるのである。同様の情趣をうたった、 
さだまらずあはれなる身をなげきて 
あまのすむ浦こぐ舟のかぢをなみ世をうみわたる我ぞかなしき (小町集)  
 
こうした詠が小町には多くみられる。遊女たちは、小町の歌に自身の彷徨の悲しみをなぞらえたのであった。  
小町から時を隔て、平安中期に生きた和泉式部もまた、後世「遊女」として造型された人物である。室町物語「和泉式部」には、「中頃、花の都にて、一條の院の御時、和泉式部と申して、やさしき遊女あり。」と描かれている。小町から和泉式部ヘと女歌の系譜がたどれることはすでにしばしば指摘がある。これまで小町歌に見てきた、水辺にことよせたもの、漂泊の思いなど、和泉式部にも認められるものである。男を揶揄し、拒む歌があることでも共通している。両者とも〃待つ女〃の見事な深まりを詠むと同時に、〃ことわる女〃をも歌いあげているのである。和泉式部は、存命中より、華やかな恋愛生活がしばしば人々の注目の的となった。時の人、藤原道長も、和泉式部の扇に「うかれ女の扇」と書いてからかったことが和泉式部集に見える。「遊女」と呼ばれる基盤は、小町・式部ともに、それ自身の中にそなわっていたと言えよう。  
小町は、和泉式部に比して、伝承における落魄の度合いが基だしい。小町は「玉造小町子壮衰書」や「九相詩絵巻」などに取り込まれて、その落魄した姿を文字のみならず絵画などによってまざまざと晒すことになる。和泉式部の方は、それほどまでに落ちぶれはしないのである。この違いはどこから生まれてきたのであろうか。 
「無名草子」は、和泉式部について、その秀歌ぶりについて述べ、 
書写の聖のもとヘ、 
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月 
と詠みてやりたりければ、返しをばせで、袈裟をなん遣はしける。さてそれを着てこそ失せ侍りにけれ。そのけにや、和泉式部罪深かりぬべきひと、後の世肋かりたるなど聞き侍るこそ何事よりも羨ましく侍れ。 
と和泉式部評を結んでいる。播磨国書写山の性空上人のもとにおくった「暗きより」の歌は、和泉式部の説話化において根幹をなすものであり、もっとも人口に膾炙(かいしゃ)したものである。はやく「拾遺集」に収められた、和泉式部の勅撰集初出歌である。「法華経」化城喩品(けじょうゆぼん)の文句に拠るこの歌は、釈教歌としても初期のものであり、和泉式部の後世の語られ方に決定的な一方向を与えた。史実としては性空上人の応答はみられないのだが、説話伝承の世界では、上人がこれに応え、和泉式部は往生したという話仕立てになっているのである。鴨長明による「発心集」には、室(むろ)の泊(とまり)の遊女が「暗きより」の歌をうたって聖に結縁した話がのせられる。遊女は和泉式部の歌をうたうことで結縁を願い、不遇の身から救いを求める手を伸ばすのである。遊女にとって和泉式部とは歌舞の苦薩として仰がれたのみならず、往生伝の主人公として絶えず意識されたのであった。  
 
同じ「無名草子」の小町評は、「色を好み歌を詠む者、昔より多からめど、小野小町こそ、みめ・容貌も、もてなし・心遣ひよりはじめ、何事もいみじかりけむ、とおぼゆれ。」と絶賛し、老いの果てこそ、いとうたてけれ。さしもなき人も、いとさまであることやは侍る…それにつけても、憂き世の定めなさ思ひ知られて、あはれにこそ侍れ。屍になりてのちまで、 
秋風の吹くたびごとにあな目あな目小野とは言はじ薄生ひけり 
などと詠みて侍るぞかし。 
と、小町賛美の文脈ながら、落魄にも目は向けられている。 
仏教史においては、浄土思想、さらに九相観や地獄の様相が広く浸透し、問題とされるのは、小町の生きた時代にやや遅れ「往生要集」を著した源信を待たなければならない。直接的な仏教歌詠を小町が残さないのは時代的背景によるものでもある。小町の歌の数々には、仏教思想と重なるものが看取されるのであるが、和泉式部の「暗きより」の如き歌を残さなかったために、なおさら、説法の方便に都合よく取り込まれていったのだと思われる。また、男を拒否する歌における言葉の強さも、後世「驕慢」と言われる一要因であろう。更に、小町という人物は、その実像が明らかではなく、和泉式部に比べて輪郭はなお明碓でない。そうした意味においても、小町は変化・変容させやすい、唱導や語りに取り込みやすい存在だったのではなかろうか。 
時代は下って、室町後期の「榻鴫暁筆(とうでんぎょうひつ)」には、次のような話が見える。  
和泉式部法輪寺に参りけるに、嵯峨野にて、日暮たりければ彼野に宿したりしに、夜野中にくだん件の歌(筆者注「あな目あな目」歌)を詠ずる声あり、夜明けてみれば髑髏の目より薄の生出たるあり。彼首を高木の上に置たり。其夜の夢に、「我はこれ小町也、この悦びには君を天下無双の歌詠みになし奉らん」と云て去りぬ。それより和泉式部はこの道の名を得たりともいヘり。  
和泉式部が小町の髑髏に出会う、そして小町が式部に歌詠みの才覚を授けたというこの構図は、もちろん荒唐無稽な話ではあるが、両者の説話化の方向の差を端的に物語っていよう。
「卒塔婆小町」と「少女仮面」 / 現代劇としての「卒都婆小町」をめぐって 
新宿梁山泊の「人魚伝説」の冒頭に、「詩人」と名乗る青年がモク拾いの老婆に語りかける場面がある。これが三島由紀夫作「卒塔婆小町」からの引用であることは改めて言うまでもないだろう。かつて海のむこうからやってきた一家が、住みついた町で、川に浮かんでいた女を助けたことから、やがて離散するに至る物語を描いた舞台。全体のストーリーは、ルキノ・ヴィスコンティの映画「若者のすべて」に依っているところ大だから、余計、この冒頭場面が異様に映るのだが、作者(鄭義信)は、この場面を、青年の過去を喚び起こす装置として使っているのだ。兄たちが争う原因を作り、心にトラウマ(傷痕)を負った末っ子の少年が、冒頭の青年の過去の姿というわけである。 
別に、少年の兄に助けられ、その後、隣町でテレクラをやっていたことが判明して行方不明となる、人魚に擬せらた女(金魚)が今日の小町であり、老婆はその落魄した姿だ、などというつもりはないが(少しはそんな意図も、作者の脳裏を掠めたのだろう、大詰で、青年は老婆に「あなたが金魚なのではないか」と問うている)、このことは私に奇妙な符合を思いつかせた。 
新宿梁山泊は、状況劇場(現・唐組)の旧メンバーと、68/71黒色テント(現・黒テント)の旧メンバーらで一九八七年に結成された劇団で、六○年代末に起こった「アングラ演劇」の継承を、劇団の理念としている。ことに劇団代表の金守珍(演出名・金盾進〉の唐への傾倒ぶりはよく知られ、昨年は唐の初期戯曲「少女都市からの呼び声」(原題「少女都市」)を上演し、芸術祭賞を受賞、今年のアヴィニョン・フェスティバルの「日本特集」に現代劇団としては唯一、同劇で招待参加したことは、周知のことといっていい。 その唐十郎が「少女都市」と前後して書いた戯曲が、演劇界のみならず文学界にも支持者を多く出した「少女仮面」で、これが私には、三島の「卒塔婆小町」の、唐十郎風焼直し(ということは能「卒都婆小町」の、でもあるが)であるように思えたのである(因みに、「少女仮面」は、一九六九年十月に早稲田小劇場で初演、「少女都市」はこれより二ヵ月遅く、状況劇場で初演されている)。もしそうであるとするなら、鄭義信が、「人魚伝説」の冒頭に「卒塔婆小町」から借りてきた場面を置いたことは、相当に根が深いということになる。 
三島由紀夫の「卒塔婆小町」については、多言を要すまい。「邯鄲」「綾の鼓」に続く「近代能楽集」の第三作として、一九五二年二月に文学座アトリエで初演された作品で、「葵上」や「班女」と並んで、「近代能楽集」中でも、とりわけ上演頻度が高い(今年のアヴィニョン・フェスティバルでも、「オフ」公演ではあるが、フランスの劇団が上演していた)。  
 
「能を現代劇にアダプトすることは、現在いかにも新鮮な発想のように思われるが、海外の演劇思潮がドッと輸入された当時とすれば、極めて自然な適応だった」と、堂本正樹氏はギリシャ悲劇に材をとったアヌイやジロドゥの劇作が相次いで紹介されるといったことを例にあげて述べていられる(「劇人三島由紀夫」劇書房)。無論、それはそうであったろうが、今日の眼からみると、リアリズム一辺倒だった当時の新劇界の状況の中で、登場人物の想念や幻想が可視化されるという能の劇構造を、現代劇に持ち込んだ三島の作劇の先駆性は十分に評価されるべきものと思う。いうまでもなく現代演劇、ことにアングラ・小劇場演劇で今日まで隆盛を極めている、現実と幻想とが複雑にからみあうスタイルの演劇の最も先駆的な例が「近代能楽集」であり、なかんずく「卒塔婆小町」に他ならない。 
「少女仮面」は、こうして直接の範型を「卒塔婆小町」に置き、淵源に能の「卒都婆小町」をもって登場した。例えば、「少女仮面」の冒頭には、少女と老婆の二人連れがでてくるが、これはもちろん「卒塔婆小町」の詩人と老婆の変奏であろう。ここで歌われる「時はゆくゆく乙女は婆ァに、それでも時がゆくならば、/婆ァが乙女になるような、Uターン秘術を誰が知ろう」の「老婆の唄」の歌詞は、当然、三島作のパロディであるが、同時にこの歌の直後にくる老婆と少女・貝が口をそろえて言う台詞「何よりも、肉体を!」は、能「卒都婆小町」のワキ僧とシテの老婆による教義論争を踏まえてのことと思われる。朽ちた卒塔婆の木に腰かけてやすむ老婆を、卒塔婆は仏体の形象であるとしてその非礼を責める僧に対し、老婆は、極楽の内ならば無礼も悪かろうが、「そとはなにかは苦しかるべき」と、外と卒塔婆を掛け言葉にして応じる。つまり、老婆は、旅僧の、生身の肉体を度外視した「観念論」を嗤うのである。後述するように、独特な「肉体論」を展開する「少女仮面」は、この点では、三島の「卒塔婆小町」より原典に忠実だといえるかも知れない。  
しかし、「少女仮面」のシテは「老婆」ではない。満都の少女たちの紅涙を絞ったといわれる、往年の宝塚歌劇の男役スター「春日野八千代」である。彼女はいまや中年の身を、「永遠の処女」のままに、自らが経営する地下の喫茶店に晒している。そこへ女優志願の貝と老婆がやってくるのである。「前場」(前半)は、持ち役だった「嵐ヶ丘」のヒースクリッフに扮した春日野が、貝をキャサリンに見立てて行う稽古。だが、突然この店に飛び込んできたサラリーマン風の男に、春日野の着ていたワイシャツが引き裂かれ、彼女の止っていた生理が始まった途端に、彼女は錯乱に陥る。すなわち、「後場」である。  
彼女の「昔語り」はこうである。昭和十六年二月、巡業地の満州で肺炎にかかって独り病院に残された彼女の許に、満鉄の甘粕大尉が頻々に差し入れにきて、彼女を慰めた。そこで彼女は彼を憎からず思うようになったというわけだ。ここでは甘粕大尉は、明らかに三島作における鹿鳴館時代の深草少将(ということは、能における百夜通いの「深草の四位の少将」も)が踏まえられている。  
 
だが、唐作においては、ここからが全く逆の展開になる。春日野は「愛の亡霊」としてヒースクリッフを演じているうちに、自らの肉体を失ってしまったことに気づくのだ。妄想のうちに再び満州へと戻った彼女は、甘粕の訪問をうけ、彼から、日本のファンがはるばる海を越えて、彼女に「肉体」を返しにやってきたことを告げられる。ところが、彼女の前に現れた防空頭巾の少女たちが差し出すのは、「右足の靴」や「片そで」や「風呂にこびりついた毛」といった実体とかけ離れたものばかりだ。そして貝が、彼女たちの防空頭市を引き剥がすと、そこからは春日野八千代の貌と寸分違わぬ貌(仮面)が出てくるのである。 
三島由紀夫の「卒塔婆小町」では、およそ肉体(実体)は問題にされなかった。深草少将に変じた「詩人」を頓死させるのは、皺くちゃの老婆に対しての「君は美しい」の言葉であって、青年は、俗悪な現実を認めない審美的な精神(=詩)に殉じて死ぬのだ。だが、唐は、虚構(愛の亡霊)の言葉に裏切られ、ひたすら己れの肉体(実体)を求めながら果たせないままに終わる女優を形象した。「卒塔婆小町」の見事な顛倒いえるだろう。三島作の幻想が「言葉」の所産だとすれば、「少女仮面」の幻想は、女の生血によって溢れ出してくる。ここにも「生身の肉体」を重視した六○年代という時代相を感じることができる。 
「少女仮面」以後、能の影響をうけた現代演劇は、見事な達成をみせた鈴木忠志の演劇を筆頭に確実に増えているし、「卒都婆小町」の現代化としても太田省吾作・演出「小町風伝」の舞台があるが、それを語るにももはや紙数が尽きた。