【錦】美しくうるわしいもの、秋の紅葉。 
錦の御旗 他に対して自己の主張などを権威づけるものとしてかかげる名分。 
錦を飾る/錦を着て故郷へ帰る 立身出世して故郷へ帰る。 
故郷へ錦を飾る 故郷を離れていた者が、立身出世してはなやかに故郷に帰る。 
錦を着て夜行く 成功しても知人にその姿を見せなければ甲斐がない。 
闇の錦 他事には少しも心をかけない。 
闇夜の錦 無駄なこと、やっても意味のないこと。 
夜の錦 夜、美しい錦の着物を着ても誰も見る人もなく一向に映えないこと。甲斐がないこと。 
綴れの錦 乞食などのまとうぼろのことをからかっていう。 
錦の袋に糞を包む 外観が立派なのに内容が伴わない。
錦を衣(き)て夜行くが如し ( 錦を衣て夜歩くが如し[ =着て〜] ) 
立身しても故郷に帰らないということは、錦を着たのに誰にも見られないのと同じで、甲斐がないことである。故事/「漢書−項籍(項羽)伝」「富貴不帰故郷、如衣錦夜行」楚の項羽が関中を手に入れたとき、韓生(かんせい)が、そこ を都とすることを勧めたが、項羽は帰郷の心が強く、それを否定して言ったことから出た言葉。 
 
有名な鴻門の会があってから数日後のことである。劉邦と、秦都咸陽の一番乗りを争って、ついに目的を達した項羽が、ニコニコ顔で咸陽に入城していた。そして、このとき、かれは、劉邦と対照的な性格をよく示した。 
まず、劉邦が助けた秦王の子嬰を殺してしまった。それから、秦の宮殿を焼きはらった。三日間、燃えつづけたというその火を酒の肴に、かれは女を抱いて戦勝を祝った。また始皇帝の墓をあばいた。劉邦が封印しておいた財宝をうばい、秦の美女を手に入れた。そして、よく東の空を眺めるのだった。 
せっかく、帝王への第一歩をふみ出しながら、自らその足元を崩していくような、そのやり方をみて、謀将の范増がいさめても、かれは聞かなかった。長い戦いの後で、かれは望郷の念にかられていた。そこで、秦から奪った財宝と美女をことごとく収めて、故郷へ帰ろうとしたのである。韓生というものが、これをいさめた。 
「関中は、山河を阻隔し四面塞絶し、地勢堅固なうえ、地味もゆたかですから、ここに都をおいて天下に覇をとなえ、諸侯に号令すべきです。」 
しかし、項羽の目に映った咸陽は、焼け落ちた宮殿、さんざんに破壊されて、荒涼たる焦土と化した瓦礫の山であった。それよりも、早く故郷に帰って、自分の成功を誇示したかった。東の空を眺めて、かれは言った。 
「富貴にして故郷に帰らざるは、錦を衣て夜行くが如し、誰かこれを知るものぞ。」 
いくら立身出世しても、故郷に帰らなければ、このさまを故旧に知らせることができない。そう思って、項羽は諫止を聞入れなかった。 
韓生は、項羽の面前を下がると、人に言った。 
「楚の人は、沐猴(さる)にして冠するのみ、といわれているが、なるほど、その通りだった。」 
(猿は冠や帯をつけても、長くは我慢していられないことから、楚人の性格が狂躁で粗暴なことにたとえたもの。) 
これが、項羽の耳に入り、韓生は即座に煮殺されてしまった。こうして、項羽は一時の成功に酔い、富貴を故郷の者に誇示しようとして、やがて天下を劉邦に奪われたのだった。だが―、「錦を衣て夜行くが如し」―錦を着ても、知る者がない、自分の出世を知らせたい。項羽のこの言葉は、どこか人間通有の弱点を示していた。 
そして、この言葉から、「錦を衣て故郷に帰る」「錦を衣て昼行く」(「三国志」魏志)―立身出世して故郷に帰る―という言葉まで生まれた。項羽は所詮、帝王の器ではなかった、そう書いた史家も、やはり項羽のことがどこか気になったことであろう。 
「錦を衣て夜行く」は、「漢書」の「項籍伝」の記載で、「史記」の「項羽本気」では「錦」を「繍」(刺繍した美衣)に作っている。 

 

花の錦 花の美しいのを錦に見立てる。 
紅葉の帳 一面に紅葉して錦のようであるさまを帳に見立てる。 
紅葉の錦 紅葉の美しさを錦に見立てる。 
秋の錦 秋の紅葉の美しさを錦に見立てる。 
春の錦 春、百花が美しく咲いているさまを錦に見立る。 
昨日のつづれ今日の錦 この世の栄枯盛衰の激しさ。 
情けの錦 美しい情愛を錦にたとえる。 
錦上に花を添える 美しい物の上に更に美しい物を加える。 
草の錦 紅葉した草を錦に見立る。

 

【高麗錦・狛錦】高麗風の錦、多くが紐や剣を入れる袋、畳の縁などに用いた。 
【大和錦・倭錦】奈良時代の唐風な錦に対して平安時代以後日本で織った錦。 
【繧繝錦】錦の一種で文様の周囲を各種の色でくまどった様式の総称。近世は赤地に黄、緑、青、紫など二種類以上の色糸を横糸として用い、ひし形、棒縞などの文様を織り出した織物をいう。天武天皇の頃に始まり装飾および畳縁地に用いられる。 
【東京錦】中国から渡来し、のちにわが国で模倣して作った錦。 
【唐錦】唐織りの錦。紅色のまじった美しい模様をしているので紅葉などにたとえて用いることが多い。 
【紅錦繍】赤色の錦の縫いとり。赤地の錦で縫いとりをした敷物。もみじなど、あざやかな紅色をしたものの形容。「紅錦繍の秋の色」 
【蝦夷錦】紺、赤、縹色などの緞子地に、色糸と金・銀糸とを交ぜ用い、雲竜などの模様を織りだした錦。もと中国産で満州樺太を経て北海道に渡り、日本にもたらされた。

 

【佐賀錦】紙に金箔を張って細く切ったものを縦糸にし、絹の色糸を横糸に織り込んで、幾何学文様や絵模様を織り出した手織りの錦織物。江戸中期、佐賀鹿島藩の鍋島家の殿中での創始。 
【木綿錦】縦糸に絹、横糸に木綿を用い、絵緯を押さえる搦み糸に本絹糸を用いて、糸錦風に織った織物。 
【小車錦】牛車の形を織り出した錦。黒地に黄糸で織り出すものと黄地に黒糸で織り出すものとの二種。伊勢神宮の御衣に用いる。 
【上代錦】わが国で七、八世紀に行われた錦。法隆寺、正倉院に伝えられたものが現存。中国から伝わった技術で、経錦・緯錦の二つの型がある。
【綴錦】強く張った縦糸に太い独楽撚の絹糸を一本、横糸にはもっと太い彩糸を三本という割合で構成し、花・鳥・風物・人などを織り出した錦。ふつうは平織で、遺品は上古にも見えるが、近世京都西陣で初めて製作され特産となる。 
【錦上織】綴錦の一つ。文様を平、綾、繻子などの種々の組織に織り出したり、縫取り模様にしたりすること。京都西陣の特産。 
【蜀江模様】 京都の西陣で織り出す、蜀江の錦に似た模様。 
蜀江の錦 上代錦の一つ、横糸に色糸を用いて文様を表した錦で、赤地に連珠文をめぐらした円文の中に花文、獣文、鳥文などを織り出したもの。奈良時代、中国から渡来。法隆寺に現存。

 

【紅錦】紅色の錦。 
【錦帯】錦で織った帯。 
【東京の茵】寝殿の座臥用の調度の敷物。東京錦の縁をつけた方形の茵。 
【赤地】地色に赤を用いた織物、工芸品。転じて、赤い色の下地。 
赤地の錦 赤い色の厚手の絹織地に、金糸銀糸で模様を織り出したもの。 
【錦機】錦を織るはたおり機。錦の織物。 
【小紋】錦、綾などで細かい模様を織り出したもの。 
【十三階】古代の位階制度。大織・小織・大繍・小繍・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武の一三の位階の総称。冠位十三階。
【礼服】即位、朝賀などの大礼に参列の諸官が着用する服装。その具には玉冠、大袖、小袖、単、表袴、大口袴、裳、綬、玉佩、笏、錦下沓、烏皮履などがある。天皇をはじめ五位以上の男女官人の着用したもの。 
【錦心】錦のように美しい心。 
【錦色】錦のような美しい色。 
【錦上】錦の上。美しい物の上。 
【綾錦】美しい衣装やぜいたくな衣服。 
【錦絵】浮世絵の多色刷り木版画の総称。精巧な技術により多くの色を正確に刷り分けて、錦のような美しいいろどりを示す。 
【平袈裟】錦、金襴または金紗で作り、他色を交えないで一色で仕立てた七条の袈裟。 
【文目】物事の論理的な筋道。物事を順序立てて考えること。

 

【西陣】(応仁の乱の際に西軍の山名宗全が陣を置いたところから)京都市上京区新町通以西千本通に至一条通以北の地域の総称。 
【錦帯橋】 山口県岩国市、錦川の下流にかかる橋。五連のアーチ型で木造。延宝元年岩国藩主吉川広嘉の創設。 
【西陣織】京都西陣の地で産する織物の総称。錦、金襴、繻子、緞子など精巧な高級織物。 
【花錦】花の美しいさまを錦に見立てる。 
【錦光山】京都粟田の陶家、製品。 
【錦字】女から男に贈る恋文。 
【錦袋円】江戸時代、江戸下谷池の端の勧学屋で売り出した丸薬の名。痛み止め気つけ毒けし。
【錦袋子】江戸時代、中国・明から渡来したという秘薬。万病にきくとされ、元禄年間に盛んに用いられた。 
【錦卵・錦玉子】和風料理の一つ。ゆでた卵を卵白と卵黄に分けて別々に裏ごしして味をつけ、好みの形に二段につめて蒸した料理。 
【銀襴】錦地に銀糸で模様を織り出した織物。 
【銀襴手】錦手に銀彩を加えた磁器。 
【錦縁】錦を用いた畳の縁。 
【延命袋】福の神が持っているという宝物の一つ。腹部をふくらませ口をくくった形の錦の袋。 
【大和表具】わが国の正式の掛物の表具。元来、神像・神号・宸翰などに用いられた。上・中・下とも大高檀紙で一文字は大和錦を用い、風帯は麻を組んだもの。大和表装。 
【薩摩錦】マダラガ科のガ。

 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。
 
 
 

 

■錦の御旗 1 
赤地の錦に、日月を金銀で刺繍(ししゅう)したり、描いたりした旗。鎌倉時代以後、朝敵を征討する際に官軍の旗印に用いた。錦旗(きんき)。自分の行為・主張などを権威づけるために掲げる名分。「環境保護を錦の御旗に掲げる」。
官軍のしるしである旗。赤い錦地に日月を金銀で刺繡ししゆうしたもの。その行為や主張を正当化し、権威づけるもの。 「公害防止を−とする」。
赤地の錦に、金銀を以て日月を刺繍し、または描いた旗。承久の乱の時、後鳥羽上皇より官軍の大将に賜わったのが最初といわれ、以後、叛徒征討の時には必ず官軍の大将に与えられた。戊辰戦争の時に、明治天皇から賜わったものが、東京国立博物館に現存。錦旗(きんき)。※梅松論(1349頃)上「元弘二年冬楠兵衛尉正成〈略〉無双の要害を城に構て、錦の御旗をあげしかば」。他に対して自己の主張などを権威づけるものとしてかかげる名分。※鉛筆ぐらし(1951)〈扇谷正造〉宵の強盗その他「新カナと漢字制限のニシキのミハタは、児童の学習負担を軽減するという考え方であった」。
錦を生地に使用した官軍の旗、御上の意志を示す印として掲げられる旗。転じて、自らを正当化するための権威や大義などを形容する際に用いられることがある。
錦の御旗。読み方は「にしきのみはた」で、略して「錦旗」(きんき)とも呼ばれます。別名「菊章旗」(きくしょうき)、「日月旗」(じつげつき)です。錦の御旗は天皇軍(朝廷・官軍)の旗です。錦の御旗は誰もが好き勝手に掲げていいものではありませんでした。天皇が「朝廷にたてつく敵=朝敵を討伐せよ!」と命じられた藩だけが掲げることができました。命を受けた藩は朝敵討伐の証として自前で錦の御旗をデザインし、掲げました。なので、錦の御旗はデザインが決まっておらず、大抵は赤地の錦に金銀で日月を描いていたと言われています。「勝てば官軍」という言葉もあるとおり、官軍は歴史の勝利者・正義とみなされます。このことから、錦の御旗は意味が転じて「自身の主張を権威づけするもの」という使い方もするようになりました。錦の御旗の由来ですが、さかのぼると鎌倉時代、承久の乱に登場します。「後鳥羽天皇が官軍の大将にたまわった」とする説明が多いですが、実際には錦の御旗は軍旗というより「天皇の存在を示す旗」であり、武将に与えられることはなかった、とする見解もあります。いずれにしろ、天皇側を示す旗として伝えられた錦の御旗が活躍するのは戊辰戦争の時です。鳥羽伏見の戦いにおいて、新政府側が錦の御旗を模した旗を掲げた瞬間、旧幕府軍は一気に戦意喪失。天皇の敵になってしまった!と慌てふためき、退却してしまったのです。錦の御旗がどのようなイメージを持たれていたのかが良くわかるエピソードですね。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府側を賊軍にした「錦の御旗」
旧幕府軍と新政府軍による戦いの戊辰戦争。その初戦となったのが1868(慶長4)年の鳥羽伏見の戦いですが、この戦いで新政府側が「錦の御旗」を掲げたことで旧幕府軍はその瞬間に賊軍となってしまいました。錦の御旗、略して錦旗(きんき)とも呼ばれますが、これは何を示しているかというと、天皇に「朝敵を討て」と命を受けた軍である、という証なのです。つまり、錦の御旗を掲げた新政府軍は官軍。戦っていた兵たちはそれを見てたじろいてしまいました。それはそうです。錦の御旗には天皇家の印である菊の御紋が金色で描かれているのです。それを掲げた組織を攻撃するということは天皇を攻撃するということ。これには徳川慶喜もショックを受け、戦意喪失。戦う旧幕府軍を置いて江戸へ逃げ帰ります。慶喜自身、水戸徳川の出身であり、天皇への忠誠心はとても強かったと言われています。過去には、御所に向かって砲撃したとして長州を討伐しています。今度は自分が討伐される側になったのです。もちろん勝敗を決めたのは錦の御旗だけの力ではありませんが、これがあったことにより旧幕府軍がひるみ弱体化したのは事実でしょう。 
 
 

 

■錦の御旗 2 
天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗、日月旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習がある。承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。
中世における錦の御旗
官軍の大将を示す旗に関しては初めから定まった形があったわけではない。源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と鳩の意匠が入ったもの(『吾妻鏡』)が用いられ、後醍醐天皇が笠置山に立て籠もった際には日輪と月輪の意匠が入ったもの(『太平記』)が、室町幕府初期には「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入ったもの(『梅松論』)が用いられたと伝えられている。後に室町幕府では日輪と「天照皇太神」と入った錦の御旗と足利氏の家紋である二両引と「八幡大菩薩」と入った武家御旗(幕府の旗)の2種類が用いられた。錦の御旗を用いるには天皇の治罰綸旨が下されることが必要とされていたが、実際の御旗は綸旨を受けた側(この場合には室町幕府)が自分で用意する必要があった。このため、錦の御旗の大きさや旗竿の長さなどは武家御旗のそれとともに武家の故実に属していた。また、錦の御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏を名乗れる将軍の一族、武家御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏の一門に限定されていた。
戊辰戦争と錦の御旗
1868年(慶応4年)正月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗が掲げられた。この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視に委嘱された物であった。岩倉の腹心玉松操のデザインを元に、大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で製造した。もう半分は品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てあげた。
その後、鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷は征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えた。
新政府(官軍)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった旧幕府側に非常に大きな打撃を与えた。当時土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、錦の御旗を知らしめただけで前線の旧幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を目撃している。
戊辰戦争に使用された錦旗及び軍旗類は、明治維新後は陸軍省の遊就館や宮内省図書寮に保存された。1888年(明治21年)日本政府の依頼で、長州藩出身の絵師、浮田可成(うきたかせい)により、17種34枚の絵図にされ、『戊辰所用錦旗及軍旗真図』(ぼしんしょようきんきおよびぐんきしんず)4巻にまとめられた。
錦旗紛失事件
神戸事件の影響を受けて、1868年(慶応4年)1月14日に土佐藩士の本山茂任が土佐藩へ運ぶ途中の「錦の御旗」をフランス兵に奪われるという「錦旗紛失事件」が起きたが、のち返還されている。
錦旗革命事件
大川周明は、共産主義革命に対抗して天皇を頂点とする「錦旗革命(きんきかくめい)」を起こして、日本を正しい方向に導くべきだと唱えた。このため、大川自身も計画に参加した陸軍将校によるクーデター計画・十月事件を「錦旗革命事件」とも称する。
転用
「錦の御旗」という言葉は、その意味合いから転用され、現在では「自身の主張に権威づけをするもの」を指す意味でも用いられる。同様の用法で「水戸黄門の印籠」という表現も存在する。
宮さん宮さん
日本で初めての軍歌・行進曲ともいわれる歌謡『宮さん宮さん』(1868年)に「錦の御旗」が歌われている。1番の歌詞は次の通り。品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲とされているが確証はないとのこと。
   宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな
   トコトンヤレ、トンヤレナ
   あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか
   トコトンヤレ、トンヤレナ
      一天萬乗の帝王に 手向ひすろ奴を
      トコトンヤレ、トンヤレナ
      覗ひ外さず、どんどん撃ち出す薩長土
      トコトンヤレ、トンヤレナ
   伏見、鳥羽、淀 橋本、葛葉の戰は
   トコトンヤレ、トンヤレナ
   薩土長肥の 薩土長肥の 合ふたる手際ぢやないかいな
   トコトンヤレ、トンヤレナ
      音に聞えし關東武士 どつちへ逃げたと問ふたれば
      トコトンヤレ、トンヤレナ
      城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな
      トコトンヤレ、トンヤレナ
   國を迫ふのも人を殺すも 誰も本意ぢやないけれど
   トコトンヤレ、トンヤレナ
   薩長土の先手に 手向ひする故に
   トコトンヤレ、トンヤレナ
      雨の降るよな 鐵砲の玉の來る中に
      トコトンヤレ、トンヤレナ
      命惜まず魁するのも 皆お主の爲め故ぢや
      トコトンヤレ、トンヤレナ
都風流トコトンヤレぶし
   一(いつ)てん万乗(ばんじゃう)のみかどに 手向(てむか)ひするやつを
   トコトンヤレ トンヤレナ
   ねらひはづさず どんどんうちだす薩長土(さっちゃうど)
   トコトンヤレ トンヤレナ
      宮さま宮さま御馬(おんま)の前に びらびらするのはなんじゃいな
      トコトンヤレ トンヤレナ
      ありゃ朝敵征伐(てうてきせいばつ)せよとの 錦の御旗じゃしらなんか
      トコトンヤレ トンヤレナ
   ふしみ鳥羽(とば)淀(よど)はし本くずはのたたかかひは
   トコトンヤレ トンヤレナ
   薩土長(さつどちゃう)とのなしたる手(て)ぎわじゃないかいな
   トコトンヤレ トンヤレナ
      おとに聞へし関東(くわんとう)ざむらひ どっちゃへにげたと問ふたれば
      トコトンヤレ トンヤレナ
      城(しろ)もきがいも捨(すて)てあづまへにげたげな
      トコトンヤレ トンヤレナ
   国をおふのも人をころすも 誰(だれ)も本意(ほんい)じゃないけれど
   トコトンヤレ トンヤレナ
   薩長土の先手(さきて)に手向(てむか)ひするゆゑぞ
   トコトンヤレ トンヤレナ
      雨(あめ)のふるよなてつぽの玉(たま)のくるなかに
      トコトンヤレ トンヤレナ
      命(いのち)もおしまずさきがけするのも みんなお主のためゆゑじゃ
      トコトンヤレ トンヤレナ  
 
 
 
 
 
 

 

■錦を飾る 
美しい着物を着る。転じて、成功して美しく着飾って故郷へ帰る。「故郷に―・る」
功を成し遂げて故郷に帰る。 「故郷に−を飾る」
美しい着物を着る。美しい着物を並べる。錦を着る。※宴曲・宴曲集(1296頃)二「玉楼金殿に 錦をかざるもてなし 雲のたたりかた甍を並べたりやな」。立身出世して故郷へ帰る。錦を着て故郷へ帰る。※婦女の鑑(1889)〈木村曙〉九「軈(やが)て望みを為し遂げて忠孝全き者となり錦を飾りて還り来んに必らず思ひ過されなと」。
美しい着物を着る。転じて、美しい着物で着飾り、立身出世して故郷へ帰ること。日本がまだ現在のように経済発展をしていない時代に、故郷から出世を夢見て出ていく若者は多かったはずですね。いつか立派になって故郷に帰る気持ちがよくわかることわざです。立派になった姿を育ててくれた両親や、近所の人に見せて今までの恩に感謝する、そんな風習も昔にはありました。 
 
 

 

■故郷に錦を飾る 
出世して故郷に帰ること。「故郷へ錦を飾る」とも表記。甲陽鎮撫隊で大名格にしてもらひ、故郷へ錦を飾つた積りの穉気振りなど、往年の近藤勇とは別人の観がある(菊池寛 『大衆維新史読本 池田屋襲撃』)。司馬遷『史記』に記される項羽の言葉「富貴不歸故鄉、如衣繡夜行、誰知之者」(成功して故郷に戻ってその姿を見せないのは、錦の服を着て、真っ暗な夜道を歩くようなものである。誰も、気づかないではないか)を通俗的に言ったものであろう。なお、この語でも、一般的な用法としても錦は着るものであって、かざるのは異例。「かざる」に至るまでは、以下に示すとおり「着る」としているもの、又は着ることを前提とした用法のものがある。
○故郷へ錦を着るというほどでもないが、まあ教師になって這入った。そうして初めて教えたのが、今いう安倍能成君らであります。(夏目漱石 『模倣と独立』)
○帰省者も故郷へ錦ではない。よって件の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。(泉鏡花『古狢』)
立派な仕事を成し遂げ名声を得て故郷へと帰ることを言います。「錦」は金糸や銀糸などで華やかに織り込まれた絹織物のことを指しています。成功した者が豪華な衣服を着て故郷へ帰るという意味からこの言葉が生まれました。由来は、『南史』の劉之遴伝にある、「卿をして錦を衣(き)て郷に還り、栄養の理を尽くさしめん」とあることに基づいています。中国南朝梁の劉之遴は優れた才能を持っていました。武帝は彼に、あなたの母親の年齢と徳はともに高いと言います。さらに武帝は、劉之遴に錦を着て故郷へと還らせて、母親に美しい服や食事をすすめて大事にしなさいと言い錦を与えたのでした。
故郷を長く離れて、努力していた者が、社会的に認められ、有名になり、 故郷へ帰ることのたとえ。故郷を遠く離れ、がんばった結果、世の中に認められ、成功して、 晴々しい思いで、故郷へ帰ることを言っているようです。本来の意味は、 「美しく高価な着物を着て故郷へ帰る」という意味があるようです。 昔は、高価で美しい着物を着る為には、大変な努力が必要だったので、 このようなことわざが、生まれたのではないかと思われます。
「故郷を離れていた人が、立身出世して晴れ晴れと故郷へ帰る事」です。昔は地方では職が無いことがほとんどで、出稼ぎに出たり都会で出世や成功を夢見て故郷を離れる人が多くいました。見送る家族もさぞ不安だったでしょう。そうやって故郷を離れて一人見知らぬ土地で頑張り出世した人が、立派になって堂々と故郷へ華々しく帰る様子をたとえたことわざです。「錦」とは錦鯉などで目にする言葉ですが、ここでいう「錦」とは織物を指しています。二色以上の色糸や金銀糸を使ってきれいな模様を織り出したもので、地が厚いとても高価な絹の織物です。故郷を離れるときには貧乏でみすぼらしい見た目をしていた人でも、成功を収めて地位や富を手に入れ錦が着れるほどに立派になってふるさとへ帰ってくるということを表現しています。つまり、「錦」を成功や出世そのものとたとえているのです。昔は、絹の着物というだけでも十分高価な立派なものでなかなか手に入りませんでした。しかも色鮮やかできれいな模様の入った「錦」を着て帰るというのはまわりから見ても華やかで映えるものです。本人だけでなく家族などの親類も誇らしく晴れやかな気持ちになったことでしょう。そういった豪華な着物、つまり華々しい「成功」を身にまとって意気揚々と帰ってくることで、故郷も晴れやかに沸き上がる様子を、色鮮やかで高価な着物である「錦」でたとえて表現しています。