Edvard Munch

 
エドヴァルト・ムンク 1863/12/12-1944/1/23 
物心がついてから生の不安が僕から離れたことはない 
僕の芸術は自己告白だった 
生の不安も病もなければ 
僕はまるで舵のない船だったろう
 
ノルウェー出身の画家。「叫び」で有名なノルウェーの国民的な画家である。現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣に彼の肖像が描かれている。生と死の問題、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。ノルウェーのヘードマルク県ロイテンで生まれた。一家はエドヴァルドの生まれた翌年にはクリスチャニア(オスロの旧称)へ移住した。1868年エドヴァルドが5歳の時に母が結核のため30歳の若さで死に、1877年15歳の姉がやはり結核で死ぬ。エドヴァルド自身も虚弱な子供で、生き延びられないのではと心配されていたという。こうして身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に 「病室での死」「病める子」(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている。個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことがムンクが高く評価されるゆえんである。1881年画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学。クリスチャン・クローグとJulius Middelthunに師事。1884年頃から「クリスチャニア・ボヘミアン」という、当時の前衛作家・芸術家グループと交際するようになる。
 
1886年10月クリスチャニア秋季展に「病める子」を発表、この絵は物議を醸し、罵倒と思えるほど批判された。絵を印象づけるため、あえて素描風に仕上げるスタイルをムンクは無意識的にとっていたが、このスタイルが理解されなかった。 
 1885年数週間パリに滞在、1889年ノルウェー政府の奨学金を得てフランス留学し、レオン・ボナのアトリエに学んだ。パリではゴーギャン、ファン・ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けた。パリに着いた翌月に父が死去。この頃から「フリーズ・オブ・ライフ」(生のフリーズ)の構想を抱き始める。1892年ベルリンに移り、 「叫び」などの一連の絵を描いた。彼は、ファン・ゴッホとともに、ドイツを中心に起こるドイツ表現主義の運動に直接的な影響を与えた1人と考えられている。1892年ベルリン芸術家協会で開いた展覧会はオープンから数日間で保守的な協会側から中止を要求され、スキャンダルとなった。 ムンクは1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなどヨーロッパ各地を転々とし、毎年夏は故国ノルウェーのオースゴールストランの海岸で過ごすのを常としていた。このオースゴールストランの海岸風景は、多くの絵の背景に現れる。ムンクは何人かの女性と交際したが、生涯独身を通した。1902年夏、オースゴールストランで過ごしていたムンクは、数年ぶりで再会した、以前の恋人のトゥラ・ラーセンとトラブルになり、有名な発砲事件を起こす。ピストルを撃ったのが2人のうちのどちらであったかを含め、事の真相は不明だが、この事件でムンクは左手中指の関節の一部を失う怪我をした。この頃からムンクは精神が不安定にな りアルコールに溺れるようになり、1908-1909年にかけ、デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を送った。
 
1909年ノルウェーに戻り、以後の後半生を過ごした。心身の健康が回復し、建築内部装飾のための大作や、雪の中で働く労働者をテーマとした作品などを手がけた。1914年オスロ大学から同大学講堂の装飾画制作(1916年完成)。これは11面のキャンバスからなる壁画で、講堂正面には巨大な太陽が描かれ、「世紀末の不安を描いた画家」のイメージとは異なったもの だ。 
ムンクは有名な作品は1890年代に集中し「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、第二次世界大戦中の1944年に没した。ムンクは気に入った作品は売らず手元に残しており、死後遺言によって オスロ市に寄贈された。
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
上司に恵まれ鬼嫁にも恵まれ 
娘に同情をかうムンクのためにと思った 
ところが最も暇な部署に移動  
あっという間にムンクを脱したとのこと 
環境の動物であることを証明してくれたらしい

  
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