Johannes Vermeer

昔からこの絵が誰の物か気になっていました 
美術番組が思い出させてくれました
 
 
1632-1675
ヨハネス・フェルメール / 17世紀にオランダで活躍した風俗画家。レンブラントと並び17世紀のオランダ美術を代表する画家、生涯のほとんどを故郷デルフトですごした。初期の作品の一つ「マリアとマルタの家のキリスト」(1654-55頃)にみられるように、はじめ物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある「取り持ち女」頃から風俗画家へと転向していく。静謐で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感の表現に支えられている。現存する作品点数は33〜36点と少ない(ほかに記録に残る作品が少なくとも10点はある)。 
絹織物職人として活動しかたわら居酒屋・宿屋を営んでいた父は、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に加入している。1642年にメーヘレンに転居した。1653年にカタリーナ・ボルネスと結婚し、同年に聖ルカ組合に加入した。1662年と1670年2度にわたり聖ルカ組合の理事に選出されており、画家として高い評価を受けていたことが判る。1675年にデルフトで死去、43歳。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨハネス・フェルメール 
(Johannes Vermeer, 1632-1675) ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。
フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵画を代表する画家の1人である。また、レンブラントと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。
生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年-55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、33 - 36点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。
 
生涯
出生
1632年にデルフトに生まれる。同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。父親の姓フォス(Vos)は英語の狐(Fox)を意味するものだった。父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。
結婚と画家としての出発
フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。
この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マリアに頼らざるを得なかったと思われる。
全盛期
父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。
1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。
1662年から2年間、最年少で聖ルカ組合の理事を務め、また1670年からも2年間同じ役職に就いている。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。
不遇の時代
レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。
死去
フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した(死因不明)。12月15日に埋葬されたとの記録があるが、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。
フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産した。同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られ、史上初めて顕微鏡を用いて微生物を発見し微生物学の父と称せられるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。破産したためカタリーナは過酷な生活を送る羽目となったが、義母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫達を守るために直接その遺産を孫達に手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、彼の死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。
 
後世
「忘れられた画家」と再発見
聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。
しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。
19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。
1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガーが美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかという研究者もいる。
その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。
フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。
贋作事件
トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。
この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれているというのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。
フェルメールとダリ
シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。
ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。
盗難事件
1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。
1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。
1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。
さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。
イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。
ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。
1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。
 
作品
フェルメールの作品(フェルメールのさくひん)では、17世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールの作品について記述する。
フェルメールの作品は、疑問作も含め30数点しか現存しない。現存作品はすべて油彩画で、版画、下絵、素描などは残っていない。以下には若干の疑問作も含め、37点の基本情報を記載し、各作品について略説する。
1650年代の作品
聖プラクセディス
制作年代:1655年 / 技法:カンヴァス、油彩
フェルメールの真作であるかどうかについては意見が分かれる。真作とすればもっとも初期の作。聖プラクセディスは2世紀頃の人物で、処刑されたキリスト教信者の遺体を清めることに努めたという。彼女は殉教者(絵の背景に見える)の血を含ませたスポンジを絞っている。本作品は、フェリーチェ・フィケレッリ(1605年 - 1669年?)というイタリアの画家が10年ほど前に描いた『聖プラクセディス』の写しと思われ、構図はフィケレッリの作品とほとんど同じであるが、聖プラクセディスがその手にスポンジとともにフィケレッリの原作にはない十字架を握っている点が異なっている。 本作品は、1969年にメトロポリタン美術館で開催された「アメリカのコレクションにあるフィレンツェ・バロック美術」という展覧会に上記フィケレッリの作品として出品されたものであったが、画面左下に「Meer 1655」と読める署名が発見され、画面右下にもこれとは別の署名が発見されるに至り、フェルメール作品とみなす研究者が現れた。フェルメール研究の権威の1人であるアーサー・ウィーロックが1988年、自分の著書に収録して以降、本作品がフェルメールの作品として紹介されることが多くなったが、疑問をもつ研究者もいる。
マリアとマルタの家のキリスト
制作年代:1654年 - 1655年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
現存するフェルメール作品のうち、サイズの点では最大のもの。画題は『ルカによる福音書』10章のエピソードに基づく。キリストはマルタとマリアという姉妹の家に招待された。マルタはキリストをもてなすため忙しく働いている。一方で、マリアは座り込んだままキリストの言葉に耳を傾け、働こうとしない。マリアをなじるマルタに対してキリストはこう言った「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに心を配り、思いわずらっている。しかし、大切なことは1つしかない。そしてマリアは良い方の選択をしたのだ」。マリアの頬に手を当てるポーズは図像学的にはメランコリーを意味し、マリアが裸足であるのはキリストへの謙譲を意味する。
ディアナとニンフたち
制作年代:1655年 - 1656年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
現存するフェルメール作品のうち、神話の登場人物を題材にした唯一のもの。多くの研究者がフェルメールの真作とするが、小林頼子のように疑問を呈する研究者もある。一番手前の人物がディアナ(頭上の三日月の飾りとウエストに巻いた動物の皮からそれと分かる)。ニンフの一人がディアナの足を洗っているのは、キリストが弟子の足を洗ったエピソードを思わせる。他にも前景の水盤(純潔の象徴)、アザミ(受難の象徴)などのキリスト教的シンボルが目につく。ディアナの隣のニンフが自分の足をつかんでいるのも、十字架に足を釘付けされたキリストの受難を暗示する。画面左端の犬(スプリンガー・スパニエル)は、現存するフェルメール作品に登場する唯一の犬である。修復前には画面の右上方に青空が描かれていたが、これは後世に描き足されたものと判明し、修復時に除去されている。また、画面の右端が切り縮められており、制作当初の画面は現状より12センチほど幅が広かったと推定されている。
取り持ち女
制作年代:1656年 / 技法:カンヴァス、油彩
「取り持ち女」とは「やり手婆」などとも言い、売春婦と客との仲立ちをする女性のこと。この作品では左から2番目の人物がこれに当たる。その右にはワイングラスを手にした売春婦と金貨を手にした客がいる。画面左端にいるもう一人の人物(ワイングラスと弦楽器を持ち、鑑賞者に視線を向けて薄笑いしている)をフェルメールの自画像とする説があるが確証はない。フェルメールの義母(妻の母)マーリア・ティンスは、ディルク・ファン・バビューレン(1590年 - 1624年)という画家の描いた『取り持ち女』の絵を持っていた。バビューレンの『取り持ち女』は、フェルメールの他の作品、『合奏』と『ヴァージナルの前に座る女』に画中画として登場する。若き頃の作品であるため、本来奥行きのある作品だがまるで空間の整理が出来ていない。天才も人間味溢れる一人の人間であったことを感じさせる作品である。
眠る女
制作年代:1657年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
室内の女性を描いた作品のうちもっとも初期のもの。画中にあるライオンの頭部の飾りのついた椅子、東洋風の絨毯、白いワイン入れなどは、以後のフェルメールの作品にしばしば登場する。テーブルの上の2つのワイングラス(1つは倒れている)は、女が酒に酔って眠り、家庭の主婦としての勤めをおろそかにしていることを暗示している。テーブルの上の果物の鉢も性的な堕落を示唆するものである。女の背後の壁に掛けられた絵は、暗くてよく見えないが、キューピッドが仮面(虚偽の愛)を踏み付けている様子がわずかに見える。女の背後の開けっぱなしのドアの向こうには隣の部屋が見える。X線写真によると、絵のこの部分には犬(やはり性的なものを示唆する)と、一人の男が描かれていたが、後に画家によって塗りつぶされたことが明らかになっている。
窓辺で手紙を読む女
制作年代:1657年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
左方から光の入る室内にたたずむ女性というフェルメールの典型的作品のうち、もっとも早い時期のものとされる。女性の手前にはリンゴ、桃などが盛られた果物鉢が見える。傾いた鉢からこぼれるこれらの果物は堕罪や許されざる愛を暗示し、開かれた窓は外界への憧れを暗示する。X線写真によって、背景の壁には当初キューピッドの絵が掛けられ、画面右手前にはワイングラスが描かれていたが、後に塗りつぶされたことがわかっている。キューピッドやワイングラスは、画中の女性が読む手紙が不倫相手からのものであることをさらに強く暗示する。
小路
制作年代:1657 - 1658年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1つ(もう1点は『デルフトの眺望』)。デルフト市内のどこで描かれたかについては諸説あり、特定の場所を描いたものではないとする説も有力である。
士官と笑う娘
制作年代:1658年 - 1660年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
邦題は『兵士と笑う娘』とも。ワインを飲む女性と男性というテーマの作品は他に2点ある(『紳士とワインを飲む女』、『ワイングラスを持つ娘』)。女性の服は『窓辺で手紙を読む女』の女性の服と似ている。女性に比べ、手前の男性が不釣合いに大きく描かれているのは、作画にカメラ・オブスクラを利用したためと言われている。背景の地図はウィレム・ヤンスゾーン・ブラウが1620年に出版したホラント州と西フリースラントの地図で、『青衣の女』にも描かれている。
牛乳を注ぐ女
制作年代:1658年 - 1660年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
『デルフトの眺望』『真珠の耳飾の少女』とともに、フェルメールのもっとも著名な作品の一つで、壁、パン、籠、陶器などの質感描写が高く評価されている。画面右下の箱状のものは足温器。フェルメールの作品には女性像が多いが、働く女中を単独で表したものはこれ1点のみである。
紳士とワインを飲む女
制作年代:1658年 - 1660年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
邦題は『ぶどう酒のグラス』とも。室内の男女、ワインを飲む女性というテーマは明らかに男性から女性への誘惑を意味している。椅子に置かれた楽器(シターン)も恋愛と関わり深いモチーフである。男性の手はテーブルの上のデカンタの取っ手をつかみ、女性にもっとワインを飲ませようとするかに見える。窓の色ガラスには片手に直角定規、片手に馬の手綱とくつわ(欲望の統制を寓意する)を持つ「節制」の寓意像が表され、女性の行為に警告を発している。
ワイングラスを持つ娘
制作年代:1659年 - 1660年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
邦題は『2人の紳士と女』とも。室内の男女とワインという道具立ては『紳士とワインを飲む女』と似ているが、もう一人の男性が加わることと、女性の仕草にワインを飲むべきかためらっている様子の見えることが異なっている。男性2人の関係はあいまいで、女性に飲酒を勧めている男性は、後方に腰掛ける男性と女性との間を取り持っているとも見られている。窓ガラスの「節制」の寓意像は『ぶどう酒のグラス』と同じ。背景の画中画に描かれた男性の視線はワイングラスを持つ女性の方に向けられ、この場のなりゆきを見守るかのようである。
 
1660年代の作品
中断された音楽の稽古
制作年代:1660年 - 1661年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
音楽は恋愛と関連の深いモチーフである。左上の壁に掛けられた鳥篭は、家庭の主婦に期待される貞節を暗示する。背景の画中画は黒ずんでよく見えないが、片手にカードを持つキューピッドの像で、「真実の愛はただ一人の人のためにある」という寓意を表すとされる。全体に画面の損傷が大きい。
デルフトの眺望
制作年代:1660〜1661年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
運河と市壁に囲まれた都市デルフトを市の南端にあるスヒー川の対岸から眺めた図。中央にスヒーダム門、右にロッテルダム門が描かれ、スヒーダム門の時計から、時間が朝の7時過ぎであることがわかる。2つの門の間からは新教会の塔がひときわ明るく照らされているのが見える。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に言及されていることで著名な作品である。『失われた時を求めて』で重要なモチーフになっている「黄色い壁」はロッテルダム門の左に見えるが、実際は「壁」ではなく屋根であると思われる。
音楽の稽古
制作年代:1662年 - 1664年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
女性が弾く楽器はヴァージナルで、その蓋には「音楽は喜びの伴侶、悲しみの薬」というラテン語の銘がある。ヴァージナルの上に掛かる鏡は女性の姿を正しく写しておらず、鏡の中の女性の顔は音楽教師の男性の方へ向けられている。鏡の中には画家のイーゼルの一部も写りこんでいる。エックス線写真によると、当初は男女の距離はもっと近く、女性の頭部は男性の方に向いていた。
青衣の女
制作年代:1663年 - 1664年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
フェルメールの画業の最盛期である1660年代半ばに何点か描かれた、室内の女性単独像の1つである。画面向かって左から光が差す点は他の作品と共通しているが、他の作品と異なり、窓そのものは画面に描かれていない。女性は妊娠しているように見えるが、この当時の女性のファッションはふくよかなシルエットが好まれ、厚手の綿の入ったスカートをはいているために妊娠しているように見えるのだという説もある。この点は、『天秤を持つ女』『真珠の首飾りの女』にも共通する。
天秤を持つ女
制作年代:1664年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
左から光が差す室内に立つ女性というテーマはおなじみのものだが、本作品では閉じられたカーテンを通してわずかに光が差すのみである点が他の作品と異なる。テーブルの上には宝石箱と真珠のネックレスが見え、光を反映している。女性が右手に持つ天秤は真珠か金貨を量っているように見えるが、実際には天秤の皿の上には何も乗っていない。女性の背後の絵は「最後の審判」、つまり、人間の魂が秤にかけられ、天国と地獄に振り分けられる様を表している。
水差しを持つ女
制作年代:1664年 - 1665年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
左から光が差す室内に立つ女性という、おなじみのテーマである。女性は右手を窓枠にかけ、左手でテーブルの上の水差し(純潔や節制の象徴とされる)の取っ手をつかむ。窓の外に水差しの水を捨てようとしているかに見える。テーブルの上の宝石箱は虚栄を表すモチーフである。女性は「節制」を捨て、「虚栄」に走るべきかどうかの岐路に立っているのであろうか。
リュートを調弦する女
制作年代:1664年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
題名は『窓辺でリュートを弾く女』とされることもあるが、画中の女性はリュートを弾いているのではなく、調弦していている手をふと休めたところである。このことは右手の構え方や、右手が触れている弦と左手が触れているペグ(糸巻)が異なっていることから判断できる。女性は窓の外を見つめ、誰か(おそらくは恋人)のやって来るのを心待ちにしている風情である。本作品は保存状態が悪いために傷みが激しく、また画面の暗さのため分かりづらいが、画中にはもう1つの楽器(ビオラ・ダ・ガンバ)があり、向かって右には空席の椅子があることも、やがてやって来る来訪者のあることを暗示している。
真珠の首飾りの女
制作年代:1664年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
左から光が差す室内に立つ女性という、おなじみのテーマである。髪にリボン、耳に真珠のイヤリングを付けた女性は、真珠のネックレスに付けたリボンを持ち上げ、左の壁に掛かった鏡を見つめている。鏡、宝石などのモチーフは伝統的に虚栄を表すものである。背景は白い壁のみだが、エックス線写真により、当初は壁にネーデルラントの地図が掛けられていたのを後に塗りつぶしたことがわかっている。女性の着ている毛皮の縁のついた黄色の上着は『手紙を書く女』『婦人と召使』など、他のいくつかの作品にも登場するもので、フェルメールの死後に作成された財産目録にはこの上着に該当すると思われる「白の縁取りのついた黄色のサテンのコート」が記されている。
手紙を書く女
制作年代:1665年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
画中の若い女性は、羽ペンを持って手紙を書く手を止めて鑑賞者の方へ視線を向けている。白い毛皮の縁のついた黄色い上着、テーブルの上の宝石箱とリボンのついた真珠のネックレスなどのモチーフは他の作品にも使われているものである。
赤い帽子の女
制作年代:1665年〜1666年頃 / 技法:板、油彩
他のフェルメール作品に比べて例外的にサイズが小さいこと、カンヴァスでなく板に描かれていることなど異色の作品であり、フェルメールの真作であるかどうか疑問視する意見もある。絵の前面には、フェルメールの絵にしばしば登場する、背もたれに獅子頭の飾りの付いた椅子の飾りの部分のみが見えている。絵の各所に見られる、フォーカスがぼけたような表現や点描風の描き方は、カメラ・オブスクーラを利用して作画したためではないかと言われている。エックス線写真によって、この作品は男性の肖像を描いた別の絵を塗りつぶして描かれたことがわかっている。
真珠の耳飾の少女(青いターバンの少女)
制作年代:1665年 - 1666年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
少女の謎めいた雰囲気から「北方のモナリザ」とも呼ばれ、フェルメールの最も有名な作品の一つである。他の多くのフェルメール作品と異なり、この作品には物語性や教訓性はなく、無地の暗い背景に少女の上半身だけが描写されている。修復時の調査により、下塗りには場所によって黄土、赤、クリーム色などさまざまな色を使い分け、微妙な階調を出していることがわかった。少女の衣服の襟の白色がイヤリングに反映しているところも的確に描写されている。修復の結果、唇の両端に白の点を置き、唇の濡れている感じを表していることもわかった。この作品は、トレイシー・シュヴァリエが2000年に発表した小説『真珠の耳飾りの少女』およびそれを原作とした映画によって一段と有名になった。小説ではフェルメール家の女中がモデルとされ、画家と女中の間に淡い恋物語が展開するが、無論これはフィクションで、実際のモデルは誰だったか(そもそも特定のモデルがいたのかどうか)は不明である。
合奏
制作年代:1665年 - 1666年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
画面奥に楽器を演奏する人物を配する点は『音楽の稽古』と似るが、この絵では女性が2人になっている点が異なっている。左の女性が弾く楽器はチェンバロ(クラヴサン)で、蓋の裏面には田園風景の絵が描かれている。こちらに背を向けた中央の男性は斜めに置かれた椅子に腰掛けてリュートを弾き、右の女性は右手で調子を取りながら歌っている。背後の壁に掛けられた絵のうちの1枚は、フェルメール家の所蔵品であったディルク・ファン・バビューレン作『取り持ち女』である。これは売春婦と客、その両者を取り持つ「取り持ち女」を描いた絵であり、リュートを弾く男性の関心が音楽以外のところにもあることを暗示している。本作は1990年3月18日に所蔵先の美術館から盗まれた。フェルメールの作品は1970年以降相次いで盗難に遭ったが、本作品のみが現在も未発見であり、FBIが捜査中である。
フルートを持つ女
制作年代:1665年 - 1670年頃 / 技法:板、油彩
この作品は保存状態が悪い上に出来映えも他のフェルメール作品に比べて劣ると評価され、フェルメールの真作とは見なさない研究者が多い。所蔵先の美術館でも「伝・フェルメール作」と表示している。フェルメールの描いた未完成作を彼の死後に他の画家が補筆したものだという説もある。フェルメール作とされる絵画のうち、板に描かれているのは本作品と『赤い帽子の女』のみである。
絵画芸術
制作年代:1666年 - 1667年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
こちらに背を向け、イーゼルに向かう画家とモデルの少女とが表されている。この作品は単なるアトリエ風景の描写ではなく、「絵画芸術」そのものをテーマとした寓意画と見なされている。青のローブと黄色のスカートをまとったモデルの少女は月桂冠をかぶり、名声を象徴するトランペットと歴史を象徴する分厚い本を手にしている。通説ではこの少女は歴史のミューズであるクリオであり、画家(一説にはフェルメール自身と解釈されている。)は「歴史画」を描いていることになる。「歴史画」とは、聖書や古代の神話、古典文学、歴史上の事件などを題材とした絵画のことである。描く画家にも一定の教養と構想力が要求される「歴史画」は、西洋においては「風俗画」「肖像画」「静物画」「風景画」などの他のジャンルの絵画よりも一段高いランクの絵画と見なされていた。背景の壁にかかる地図は、カルヴァン派(新教)の北部諸州(オランダ)とカトリックの信仰を守った南部諸州(後のベルギー)に分かれる以前のネーデルラントの地図である(ただし、地図の中央にある大きな折りじわが南北両地域の境に当たることが指摘されている)。天井から下がるシャンデリアには過去の支配者であるハプスブルク家の紋章(双頭の鷲)が表されている。これらのモチーフは、フェルメールのカトリック信仰の表明とも見なされている(フェルメールは新教徒の家に生まれたが、結婚の際にカトリックに改宗したと推定されている)。しかし、画面中央にフェルメールの名前が刻まれていることから、後世の見る目のない批評家、美術史家の解釈を含めた作品、それらを超える作品であると言える。なお、第二次世界大戦中、ヒトラーのためにナチス・ドイツに接収された。
少女
制作年代:1666年 - 1667年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
『真珠の耳飾の少女』と同様、無地の暗い背景に少女の上半身のみが描かれている。しかし、『真珠の耳飾の少女』ほど評価は高くなく、絵全体の印象もかなり異なっている。『真珠の耳飾の少女』同様、実在のモデルを描いたものかどうかは定かではない。
婦人と召使
制作年代:1667年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
女主人と女中、そして手紙というモチーフは他の作品(『恋文』『手紙を書く婦人と召使』)にも共通するものだが、本作品では背景を黒で塗りつぶしている点が他と異なっている。女性が着ている、毛皮の縁のついた黄色の上着は他のいくつかの作品にも登場するものである。
天文学者
制作年代:1668年 / 技法:カンヴァス、油彩
フェルメールの現存作のうち、作者のサインとともに制作年が記された数少ない絵の1つである(他に制作年が記載されているのは『地理学者』、『聖プラクセディス』、『取り持ち女』のみ)。本作品は『地理学者』とサイズがほぼ等しく、両者は一対の作品として構想されたとするのが通説である。モデルについては確証はないが、フェルメールと同年の生まれで、同じデルフトの住人であった科学者アントニ・ファン・レーウェンフックではないかと言われている。フェルメールの死後、レーウェンフックが遺産の管理にあたっていることなどから、2人の間には何らかの交流があったと考えられている。天文学者は天球儀に向かっている。その手前にあるのはアストロラーベという、天体の角度を測る器械である。机の上の本は研究者のJ・A・ウェリュ(J. A. Welu)によってアドリアーン・メティウス著『星の研究と観察』という書物であることが指摘され、その本の何ページが開かれているかまで解明されている。壁の絵は『モーセの発見』であり、ユダヤの民を導いたモーセは地理学・天文学にも縁のある人物だと解釈されている。
地理学者
制作年代:1669年 / 技法:カンヴァス、油彩
『天文学者』と対をなす作品とされる。フェルメールの作品のうち、男性単独像は本作と『天文学者』の2点のみである。モデルは長髪や鼻の形が『天文学者』の男性と似ており、同一人物のように見える。地理学者は日本の綿入はんてんのようなローブを着、手にはコンパス(またはディバイダ)を持っている。背後のたんすの上の地球儀は、『天文学者』に描かれている天球儀とともにヨドクス・ホンディウス(英語版)(1563年 - 1612年)の作になるものである。
レースを編む女
制作年代:1669年 - 1670年頃 / 技法:カンヴァス(板の裏打ち)、油彩
フェルメールの作品には小品が多いが、中でも本作は『赤い帽子の女』『フルートを持つ女』とともにサイズの小さい作品の1つであり、(板でなく)カンヴァスに描かれた作品の中ではもっとも小さい。手紙のやりとり、楽器の演奏、飲酒といったテーマから離れ、生産的活動に努める女性を単独で表している点で、他のフェルメール作品とは異なっている。絵の各所に見える焦点のぼけたような描写(特に女性の手前の赤い糸に顕著に見られる)はカメラ・オブスクーラを用いて作画したことの影響と見なされている。
恋文
制作年代:1669年 - 1670年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
手紙を読み、書き、受け取る女性の像は、フェルメールの得意としたものである。本作品では、手紙を受け取って当惑顔の女主人と、訳知り顔の女中が描かれ、物語の細部は鑑賞者の想像にゆだねられている。女主人が手にしている楽器(ここではシターン)は恋愛と関係の深いモチーフである。また、背後の壁に掛かる海景を表した絵は、女性の揺れ動く心を象徴している。洗濯物の入った籠や画面手前に見える箒は、恋に落ちた女性が(17世紀当時の価値観では女性の義務であった)家事をおろそかにしていることを暗示している。女主人と女中の描かれている長方形の空間を「鏡」であると見なす研究者もいる。なお、この作品は、ブリュッセルにおける展覧会に貸し出し中の1971年9月24日に盗難に遭い、2週間後に発見されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出して丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。窃盗犯は、東パキスタン難民義援金を要求しマスコミとも接触、その後ブリュッセル郊外で通報により逮捕され、懲役2年の判決を受けたが半年で出獄、29歳で病死した。難民救済と文化財のことの軽重を問う物議が起きた。
 
1670年代の作品
ギターを弾く女
制作年代:1670年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
フェルメールの晩年(と言っても30代後半から40代前半であるが)の1670年代の作品には、明らかな画力の低下が見られ、この時期の作品は一般にあまり高く評価されていない。本作品も1660年代の最盛期の作品に比較すると表現が平板で単調になっている点は否めない。この作品は1974年2月23日に盗難に遭った。犯人からは絵の返却と引き換えに政治的な要求が突き付けられ、その内容からIRA系の人物の犯行と推定された。要求が通らない場合は絵を燃やすとの声明もあったが、盗難から2か月半後の5月6日、匿名の人物からの電話通報により、絵はロンドン市内で無事発見された。
手紙を書く婦人と召使
制作年代:1670年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
フェルメールの作品には手紙をモチーフにしたものが多く、本作品もその中の1つである。女主人と女中を描いた作品は他に『恋文』と『婦人と召使』があるが、これら2作品が女中が女主人に手紙(おそらくは男性の愛人からのもの)を渡す場面を描いているのに対し、本作品では女性が手紙を書き、女中はその手紙が書き終わるのを待っているという構図である。女中は窓の外を見やっている。テーブルの前の床には印章と封蝋(手紙に封をするためのもの)が転がっている。背後の壁の絵は『モーセの発見』をテーマにしたもので、『天文学者』の背景にも描かれている。この絵は、アイルランドの首都ダブリンの近郊のブレシントンの実業家が所蔵していた時に2度盗難に遭っている。1度目は1974年4月26日に武装した犯人らにより強奪され、約1週間後の同年5月4日に発見された。犯人の1人はIRA支持者で指名手配中であったイギリスの上流階級出身の女性であった。判決は懲役9年。この事件の直後の修復で絵画上に「封蝋」が描かれていたことが発見された。12年後の1986年5月21日には同じ家からまたも盗まれ、この際はすぐには発見されなかったが、1993年、捜査当局は絵がベルギーにあってIRAに敵対する組織に密売されようとしていることを突き止め、ベルギー、イギリス、アイルランドの警察が合同で囮捜査を開始。同年9月1日、ベルギーのアントウェルペンで無事に絵を回収、犯人はアイルランドでも指折りの犯罪者マーチン・カーヒルであった。彼は逮捕されることはなかったが、後にIRAにより殺害された(映画『ザ・ジェネラル』に描かれている)。 絵はこの間の1987年にアイルランド国立絵画館に寄贈されている。
信仰の寓意
制作年代:1671年 - 1674年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
この作品より数年前に描かれた『絵画芸術』と同様、寓意をテーマにした作品であり、部屋の様子も『絵画芸術』のそれと似ている。片足を地球儀の上に乗せ、片手を胸に当てる女性は信仰の寓意像であり、手前の床に転がるリンゴと血を吐く蛇は原罪の象徴である。女性の視線は天井から下がるガラスの球体に向けられているが、この球体は信仰を受け入れる人間の理性の象徴とされている。女性の服装を含め、画中の道具立てはペルージャ出身のチェーザレ・リーパが著した寓意画像集『イコノロギア』に基づくものであることが指摘されている。背景の画中画はキリストの磔刑図で、ヤーコプ・ヨルダーンスの作とされている。オランダでは建国以来プロテスタントが支配的で、フェルメールの住んだデルフトも例外ではなかったが、本作品に見られるキリスト教のモチーフはカトリック的であり、カトリック信者からの注文と思われる(フェルメール自身は、結婚時に新教からカトリックへ改宗したと推定されている)。本作品については、細部はよく描かれているものの、女性の身振りが芝居がかっていて品位に欠ける点、女性の身体把握(特に右脚の位置)に不自然さが見られる点などから、現代の美術界ではあまり高い芸術的評価は与えられていない。
ヴァージナルの前に立つ女
制作年代:1672年 - 1673年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
似た主題の『ヴァージナルの前に座る女』とともに晩年の作品と見なされている。左方の窓から光の入る室内という設定はおなじみのものだが、この作品では、室内全体が明るく照らされていることと、女性が光に背を向けて立っている点が他の作品と異なっている。背景の画中画はトランプの「1」のカードを持つキューピッド像で、女性の愛がただ一人の人にのみ向けられるべきものであることを意味している。同じ画中画は『中断された音楽の稽古』にも見られる。室内の壁の一番下、床との境目の部分には白地に青の模様の入ったデルフト焼きのタイルが貼られている。これは壁のこの部分が掃除の時などに傷むのを防ぐためのものである。
ヴァージナルの前に座る女
制作年代:1675年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
『ヴァージナルの前に立つ女』やヤン・ミーンス・モーレナール作の『ヴァージナルを奏でる女』(アムステルダム国立美術館所蔵)とテーマが似ている。前者とは画面のサイズもほぼ等しいことから対の作品として描かれた可能性がある。ただし、本作品は『ヴァージナルの前に立つ女』に比べても一段と画力の衰えが見られ、フェルメールが43歳で没する直前の最晩年の作と考えられている。画力の衰えは、背景の画中画の額縁の簡略な描き方や、ヴァージナルの側面の大理石模様の描写などに端的に見られる。画中画は『合奏』の背景にも描かれていた、ディルク・ファン・バビューレン作『やり手婆あ』(娼館の情景を描いた絵)であるが、この画中画が絵のテーマと密接に関係しているかどうかは定かでない。
ヴァージナルの前に座る若い女
制作年代:1670年頃 / 技法:カンヴァス、油彩
本作品はベイト・コレクション旧蔵で、文献で初めて紹介されたのは1904年であるが、長年模作または贋作と見なされていた。専門家による鑑定の結果、キャンバスと絵具が17世紀のものであることが明らかとなり、フェルメールの真作と見なされるようになったのは2004年のことであった。そして同年のサザビーズのオークションに出品されて一般に知られるようになった。2008年の東京におけるフェルメール展の監修者であるピーター・C・サットンは、この作品のカンヴァスの組織が『レースを編む女』のカンヴァスとほぼ同一であり、両者は同じ布から裁断されたと推定されること、本作品と『レースを編む女』のモデルの髪型がほぼ同じであること、本作品にはフェルメール特有の画材である、高価なラピスラズリが使用されていることなど、作風、技法の両面から、本作をフェルメールの真作と断定している。一方、小林頼子のように本作を真作と認めるにはなお検討を要するとする立場の研究者もいる。
 
技法
人物など作品の中心をなす部分は精密に書き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『レースを編む女』の糸屑の固まり、『ヴァージナルの前に立つ女』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。また、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多い。
フェルメールは、描画の参考とするためカメラ・オブスクラを用いていたという説がある。
彼の用いた遠近法については、NHK制作のドキュメンタリー(ハイビジョンスペシャル)「フェルメール盗難事件」にて別の研究成果が紹介されていた。まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲のようなものを打つ。次に、その鋲にひもを結びつけてひっぱる。このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の墨壺のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。
少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法はポワンティエ(pointillé)と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされる。
フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれる(天然ではラピスラズリに含まれるウルトラマリンという顔料に由来)。  


  
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