Leonardo Da Vinci

 
1452-1519 
イタリア・ルネッサンスを代表する偉人レオナルド・ダ・ヴィンチ。本業は画家であるが、その業績は一言では表現できない万能の天才であった。出身地はイタリアのヴィンチ村。レオナルド・ダ・ヴィンチとはヴィンチ村のレオナルドという意味である。
  
  
  
  
  
彼の残したノートには、おびただしい量の工学、医学、天文学、流体力学、幾何学、音楽などのアイディアが、芸術的な図とともに記されている。ノートに書かれた文字は鏡に写したように左右が反転しているのもおもしろい。菜食主義者であったとか同性愛者であったなどの説もあるが定かではない。注意欠陥・多動性障害(ADHD)であったともいわれている。彼の好奇心は一つの所に留まっていてはくれなかった。そのため完成した絵画は数少ないが、その作品には孤独な叡知が冷たく光る。
  
  
  
 
最後の晩餐 レオナルド・ダ・ビンチの傑作で、イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の壁画。イエスがはりつけになる前夜、十二使徒とともにとった晩餐は多くの宗教画の題材となった。ダ・ビンチの作品ではイエスをはさんで使徒が横1列に並んでいるが、実際は床に車座になって食事をするのが当時の習慣だったと言われる。
 
 
 
 
 
 
 
 
最後の晩餐 
(伊: L'Ultima Cena あるいは Il Cenacolo 食堂、聖餐) はレオナルド・ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。これはキリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の日に描かれている最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。 
絵はミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたもので、420 x 910 cm の巨大なものである。レオナルドは1495年から制作に取りかかり、1498年に完成している。ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷が激しい絵画としても知られている。また遅筆で有名なレオナルドが3年でこの絵を完成しているのは彼にしては速いペースで作業を行ったと言える。「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」は世界遺産に登録されている。 
絵画は当時食堂だった部屋の壁面に描かれており、床から2m程の高さから上に描かれている。一点透視図法を用いて部屋の様子が立体的に描かれており、ある位置から見ると、絵画の天井の線と実際の壁と天井との境目がつながり、部屋が壁の奥方向へと広がって見えるよう描かれている。絵の下端に床の縁のようなものが描かれており、絵の部屋の形状が異様な形をしていることから、最後の晩餐の様子を演じた舞台の様子として描いているとも言われる。なお、晩餐の画面の上方にある、紋章や花綱が描かれたリュネット(半月形の装飾)もレオナルドの筆である。 
一点透視図法の消失点は、中央にいるキリストの向かって左のこめかみの位置にあり、洗浄作業によってこの位置に釘を打った跡が見つかった。こめかみの位置に釘を打ち、そこから糸を張ってテーブル、天井、床などの直線を描いたと考えられている。12人の弟子はキリストを中心に 3人一組で描かれており、4つのグループがほぼ等しい幅を持つよう左右に等しく配置されている。これらの配置はまた、背景の分割によってより明確になるよう描かれている。キリストの顔や手などには未完成と思われる部分もある。弟子たちは顔よりも手の形によって表情が表現されており、様々な手の表現がこの絵画の大きな特徴の一つである。 
人物 
キリストの向かって左の人物は定説では使徒ヨハネとされている。他の使徒がキリストの言に驚いて慌てた仕草をしているのに対してこの人物は(モナリザのように)手を組んで落ち着き、哀しそうな顔をしているようにみえる。また青い服に薄赤のマントの人物はペトロの言葉に耳を傾けるように描かれており、ヨハネによる福音書13章23-24節の、ペトロがヨハネに問いかけている場面を絵画化したと見るのが穏当であろう。ただし同書で同人物は「イエスの愛しておられた弟子」と記載されており「ヨハネ」の名は無い。 
描かれている人物は、以下のように同定するのが通説である(向かって左から、顔の位置の順番に記す)。 
バルトロマイ - テーブルの左端、つまりイエスからもっとも離れた位置におり、イエスの言葉を聞き取ろうと立ち上がった様子に描かれている。 
小ヤコブ - イエスと容貌が似ていたとされる使徒。左手をペトロの方へ伸ばしている。 
アンデレ - 両手を胸のあたりに上げ、驚きのポーズを示す。 
イスカリオテのユダ - イエスを裏切った代償としての銀貨30枚が入った金入れの袋を握るとされる。ただし、マタイによる福音書では、イエスを引き渡した後で銀貨を受け取ることになっていたが、ダヴィンチは、聖書にある「手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」の表現が難しかったためではないかと言われている。 
ペトロ - 身を乗り出し、イエスの隣に座るヨハネに何か耳打ちしている。 
ヨハネ - 十二使徒のうちもっとも年少で、聖書では「イエスの愛しておられた者がみ胸近く席についていた」と記されている。中性的顔立ちと『ダ・ヴィンチ・コード』の影響からか女性と思われがちだが、それはこの作品を問わずレオナルドに良く見られる画風である。(ヨハネによる福音書13章23節) 
トマス - 大ヤコブの背後から顔を出しており、体部は画面ではほとんど見えない。右手の指を1本突き立てているのは、「裏切り者は1人だけですか」とイエスに問い掛けている姿と解釈されている。左手はよく見るとテーブルの上に置かれている。 
大ヤコブ - 両手を広げ大袈裟な身振りをしている。 
フィリポ - 両手を胸にあて、イエスに訴えかけるような動作をしている。 
マタイ - テーブル右端のマタイ、タダイ、シモンの3名は互いに顔を見合わせ、「今、主は何とおっしゃったのか」と問い掛けている風情である。イエスから離れた位置に座る彼らにはイエスの言葉がはっきりと聞こえなかったのかもしれない。 
ユダ (タダイ) 
シモン 
表現 
この時代までの最後の晩餐の絵画は聖人には必ず後光がさしていた。また12弟子の中で裏切り者とされたユダは、後光が無い、あるいは横長のテーブルに一人だけ手前側に座るなどの構図で明らかに区別されて描かれていたが、レオナルドは12人の弟子を等しくテーブルの奥側に配置し、後光も描かなかった。かわりにキリストの背後に明るい外部の景色と(建築上は不要な)リュネットを描き、ユダの手には銀貨を入れた袋を持たせ、顔に陰をいれることで区別が図られている。なお、ユダの背後にはナイフを握った手が描かれている。この手はペトロの右手であるとするのが一般的であるが、オリジナル画面の剥落が激しいため、判然としない。そのため、「この手をこの向きにできる者はおらず、この手の持ち主は謎である」とする説もある。 
伝統的に赤い服に青いマントとされていたキリストは、伝統に倣った容姿で中央に三角の構図で描かれ、3人一組となった弟子はそれぞれ台形の構図でキリストを囲むように描かれている。遠近法、背景、弟子の表情、手の動き、目線、配色、構図など、あらゆる点で中央のキリストに注目が集まるよう工夫がされている。 
テーブルの上には、折り目のついたテーブルクロスが広げられ、大皿が3つ、それに取り分け用の小皿と、手洗い用の水を入れた皿(フィンガーボウル)、塩壺と思われる小型の容器、ナイフ(フォークはない)、ワインを入れた小さなグラスなどが置かれている。剥落のため、細部ははっきりしない部分もあるが、ワイングラスは(ユダの分も含め)13個置かれていることがわかる。20世紀末に行われた修復の結果、皿の上にあるのは魚料理であることが判明した。他に、丸型のパンと、レモンまたはオレンジと思われる果物(魚の風味をよくするためのものと思われる)が見られる。 
技法 
西洋絵画では、通常、壁画や天井画にはフレスコ画の技法を用いる。しかしこのレオナルドの『最後の晩餐』はフレスコ画ではない。フレスコ画は古代ローマ時代から用いられており、漆喰を塗り、それが乾ききる前に顔料を載せて壁自体をその色にする技法である。この技法で描いた絵画は壁や天井と一体化し、ほぼ永続的に保存される。しかし、漆喰と一体化するため、使用できる色彩に限りがあり、漆喰を塗ってから乾ききるまでの8時間程度で絵を仕上げる必要がある。重ね塗りや描き直しは基本的にできない。 
レオナルドは作業時間の制約を嫌い、写実的な絵画とするために重ね塗りは必要不可欠であることから(本作では白黒で陰影を描いた後、上から色味を重ねる手法が多用されている)、完全に乾いた壁の上にテンペラ画の技法で描いた。テンペラは卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶き、キャンバスや木の板などに描く技法であり(卵を使用せず、油を主たる溶剤にすれば油彩となる)、時間的制約は無く、重ね塗り、書き直しも可能である。テンペラや油絵は温度や湿度の変化に弱いため、壁画には向いていない。 
レオナルドは壁面からの湿度などによる浸食を防ぐために、乾いた漆喰の上に薄い膜を作りその上に絵を描いた。しかしこの方法は結果失敗し、湿度の高い気候も手伝い、激しい浸食と損傷を受ける結果となった。壁画完成から20年足らずで、レオナルドが存命中であった1510年頃には目に見えるほど顔料の剥離が進んでしまっていたことが、当時の記録からわかっている。 
歴史 
500年以上もの期間、この損傷を受けやすい絵画は失われずに残っている。しかし決して保存のための注意が払われてきたわけではない。描かれた当時からこの部屋は食堂として使用されており、食べ物の湿気、湯気などが始めにこの絵を浸食する原因となった。 
16世紀から19世紀にかけて、損傷や剥離部分について複数回の修復および剥離部分の書き足しなどが行なわれた。大規模なものは5回記録されている。19世紀までの修復は修復者のレベルにばらつきがあり、あまり良い結果を生んでいない。 
過去の修復者は画面の剥落を防ごうとして、ニカワ、樹脂、ワニスなどを塗布したが、結果的にはこれらを塗ったことによってますます埃やススが画面に吸い寄せられ、画面は黒ずみ、レオナルドのオリジナルの表現はわからなくなっていった。また、通気性の悪くなった画面には湿気がたまり、カビの発生を招いた。さらに、こうして塗られたニカワや樹脂がオリジナルの絵具もろとも剥離する現象もおき、修復がさらなる破壊を生むことにもなった。18世紀の修復では大規模な補筆が行われ、レオナルドの表現意図がいかなるものであったかが次第にわからなくなっていった。19世紀の修復家は壁画自体を壁からはがそうとして失敗し、壁面に大きな亀裂が走った。 
また、17世紀には絵の下部中央部分に食堂と台所の間を出入りするための扉がもうけられ、その部分は完全に失われてしまった。17世紀末、ナポレオンの時代には食堂ではなく馬小屋として使用されており、動物の呼気、排泄物によるガスなどで浸食がさらに進んだ。この間、ミラノは2度大洪水に見舞われており、壁画全体が水浸しとなった。 
1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂も向かって右側の屋根が半壊するなど破壊されたが、壁画のある壁は爆撃を案じた修道士たちの要請で土嚢と組まれた足場で保護されていたこともあって奇跡的に残った。その後3年間屋根の無い状態であり、風雨にさらされないよう、また、壁だけで倒れないようそのまま土嚢を積まれてはいたが、この期間にも激しく損傷を受けている。建物は設計図が残っていたため、そのまま復元された。 
 
冒涜の絵画「最後の晩餐」 
「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よくよくあなた方に言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、『誰のことをおっしゃったのか、知らせてくれ』。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ、だれのことですか』と尋ねると、イエスは答えられた、『私が一きれの食物をひたして与える者が、それである』。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、『しようとしていることを、今すぐするがよい』。席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。」 
 
この絵はヨハネの福音書にある情景を表したものです。 
イエス様の言葉を聞いたペテロがヨハネを呼び寄せて「誰のことをおっしゃったのか、知らせてくれ」と聞いた場面です。イエスの隣にいた人物がマリヤなら、ヨハネはどこに行ったのですか。ヨハネがいなければこの絵の意味はありません。そんなことも考えないでマリヤだというこの著者信じられないほど頭が悪いです。このヨハネを見るとまるで誰が見ても女性としか思えません。私は原画を見たわけではないのですが、かなり忠実な模写を多くの人に見せたところ、異口同音に「女性でしょう」と答えました。 
実はこの絵はイエスとヨハネが同性愛の関係にあったということを主張しているのです。これは欧米の同性愛者たちが良く口にすることです。そしてダビンチは同性愛者でした。有名なモナリザとダビンチの自画像を重ね合わせるとぴたりと一致します。それは彼の女性嗜好を表しているといいます。 
これには二つの理由があります。まずヨハネは自分のことを「イエスが愛しておられた弟子」と呼んでいます。またこの食事の席でヨハネは「イエスの胸に寄りかかっていた」とあります。そこからそのようないまわしい憶測が生まれました。しかし、これらは当時の言葉と習慣を知らなかった翻訳者が行った誤りです。 
ギリシャ語の「愛」という言葉には3つの言葉があります。男女や性的な愛を現すにはエロース、友情、母性愛、兄弟愛、愛国心などを表すフィレオー、そして罪びとのために身代わりとなって十字架に死んだ神の愛アガペーです。そしてこの「イエスが愛しておられた弟子」の場合はアガペーという言葉が使われていますから、同性愛なんてとんでもない話です。 
また、当時はローマの習慣に従って寝そべって食事をしたのです。そのため、となりの人の頭は前の人の胸に寄りかかる形になります。ですから最近の翻訳ではただ「イエスの隣にいた」と訳す場合が多いです。おそらくヨハネはまだ中学生か高校生ぐらいの年齢だったのでしょう。ですからイエス様に素直に甘えていたのかもしれません。いずれにしてもイエス様に対して同性愛などという冒涜は許されるものではありません。そういう発想自体がクリスチャンには驚きと嫌悪です。 
この絵をよく見てください。弟子たちは二つの峰のようにかたまりとなっています。そしてイエス様とヨハネの間だけに谷間のような亀裂があります。これはダビンチが意図的に描いたのです。ヨハネはペテロに呼ばれてペテロの方に体を傾けています。ダビンチはペテロに呼ばれる前のヨハネがどういう姿勢だったかを暗示しているのです。それはイエスの胸に寄りかかっていたのです。それをもろに書くととがめられるので、わざとそこだけ谷間を作って、ヨハネの動きを表したのだと私は思います。 
そのことを見つけてから、私はこの絵を教会に飾ることをやめました。資料としてとってありますが、本当は破り捨てたいくらいです。私の本を読んだある牧師は本当に破り捨てました。世界中の教会やクリスチャンの家にこの絵は飾られています。ダビンチは今頃地獄で満足しているでしょうか。 
また、マグダラのマリヤとイエスが結婚していたか愛人関係にあったということも不信仰な人々の中で語り継がれてきました。その子孫がアーサー王だという伝説もあります。モルモン教のジョセフ・スミスが自分の宗教に「末日聖徒イエス・キリスト教会」という奇妙な名前をつけたのも、実は彼は自分がイエスの末裔だと信じていたからです。 
 これも本当に冒涜に満ちた話ですが、キリストは三位一体の神ご自身なのですから、人間の女などと結婚するはずがありません。もし、していたら生まれた子供は神なのですか人なのですか。そして、その後のキリスト教会はその子を中心に形成されたでしょう。また、マグダラのマリヤはイエスの母マリヤのように尊敬を受けたでしょう。しかし、そんなことは全くありませんでしたし、あるはずもありません。 
 
最後の晩餐 
キリスト教の新約聖書に記述されているキリストの事跡の一つ。イエス・キリストが処刑される前夜、十二使徒と共に摂った夕食、またその夕食の席で起こったことをいう。 
正教会では最後の晩餐とは呼ばず、機密制定の晩餐(きみつせいていのばんさん)と呼ぶ。「晩餐」はイエスの復活後にも弟子達とともに行われていたほか、現在に至るまで聖体礼儀として教会に継承されており、本項で述べる晩餐は「最後の」ものではなかったからだとする。また、正教会では「機密制定の晩餐」のイコンをイコノスタシスの王門の上におく規定がある。 
日本聖書協会による新共同訳聖書では、該当する聖書の記述箇所に「主の晩餐」との見出しがつけられている。 
この場面に関して数々のイコンが描かれて来たが、芸術作品としての絵画ではレオナルド・ダ・ヴィンチによるものが有名である。 
新約聖書の記述に基づいた伝承 
正教会の聖体礼儀で使われる聖パン(プロスフォラ)。写真に写っているのは聖変化に用いられる大きなパンではなく、聖体礼儀中の記憶と呼ばれる祈りに使われる小さなパンであるが、形状は同じものである。  
カトリック教会、聖公会、および一部プロテスタントで用いられる、「ホスチア」とも呼ばれる無発酵パン。写真のように薄い形状をしたものがよく用いられるが、稀に煎餅のように厚い無発酵パンを用いる教会もある。この夕食の場で、使徒の一人がイエスを裏切ることが告げられ(イスカリオテのユダの裏切りの予告)、また、使徒達が自分の苦難に際して逃げ散る事を予告する(マルコによる福音書14章27節)。弟子達はこれを聞いて動揺する。ペトロは鶏が鳴く前に三度キリストを否むと告げられ、これを強く否定する。 
共観福音書ではイエスが賛美の祈りののちパンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」「自分の血」として弟子たちに与え、『ルカによる福音書』は「これをわたしの記念として行え」と命じたと記す。 
共観福音書では、この夕食はユダヤ教の行事「過越の食事」であるが、『ヨハネによる福音書』ではその前日の出来事とされる。そのため東西教会で、このときのパンが(過越の)種入れぬパン(無発酵パン)であったか、(過越前の)種入りパン(発酵パン)であったかについて、議論がある。この議論は現代における聖餐式に、どのようなパンを用いるかに影響する。 
西方教会(カトリック教会、聖公会、ほか一部プロテスタント)はこの晩餐を過越の食事と捉え、ミサ・聖餐式においてパンは種入れぬもの(無発酵パン)を用いる。他方、東方教会(正教会など)ではこの晩餐を過越前の食事であると解釈し、かつギリシャ語聖書原文にある"άρτος"(アルトス)は発酵パンを表す事を根拠とし、聖体礼儀で種入りパン(発酵パン)を用いている。 
ヨハネ福音書にはパンと葡萄酒についての言及はない。その代わりにヨハネ福音書では夕食の時、弟子たちの足をイエスが洗う。聖週間の木曜日夕方に一部の教会で行われる洗足式はこれにちなんでいる。 
死海文書 
死海文書の研究から、この場面は、クムラン教団(またはエッセネ派)の、聖宴に関する規定に由来するという指摘がある。その規定によれば、パンと葡萄酒が祭司のもとに集められ祝福の祈祷を終えた後、祭司が最初に手をつけてから他の信者に配られたとされている。  
Other 「The Lust Supper」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
複雑なセクシャリティと『モナ・リザ』『三人づれの聖アンナ』の分析  
同性愛を幼少期の自分自身に向けられたリビドー(性的欲動)として解釈し、同性愛は自己愛(ナルシシズム)の変形であると考えたフロイトは、二人の母親の存在を意識したダ・ヴィンチの不安定な家族関係と口愛期(乳児期)の欲求不満が彼の同性愛傾向を導いたとしました。実際、フィレンツェ時代のレオナルド・ダ・ヴィンチは、17歳のヤコポ・サルタレリ (Jacopo Saltarelli)という男娼と同性愛関係を持ったとして匿名者からの告発を受けていますが、古代ギリシア文化を復興させようとするルネサンス期には、反キリスト教的な同性愛が一部の知識人・芸術家の間で流行したようです。  
レオナルド・ダ・ヴィンチが性的嗜好としての同性愛を長期にわたって持ち続けたのかどうか、女性よりも男性を性的対象として好んでいたのかどうかということについて確証の得られる根拠はありませんが、サライ(ジャコモ)という美青年の弟子を厚遇したり幾度か同性愛者として教会への告発を受けたりしたことから、若くて美しい美青年(美少年)の身体性に、芸術的な美や性的な興奮を感じる感受性のようなものをダ・ヴィンチがもっていた可能性は高いといえるでしょう。但し、レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記を書いたロバート・ペインは、男性だけでなく女性に対する性的欲求も持っていたこと(女性の娼婦との関係)を記しており、ダ・ヴィンチは先天的な同性愛者ではなく後天的に同性愛のセクシャリティを得たバイセクシャルであったと見ています。  
フロイトは、ダ・ヴィンチの『禿鷹空想』に、口愛期へのリビドー固着(発達停止)と無意識的な母親の願望を見て取り、『三人づれの聖アンナ(聖アンナと聖母子と小羊)』の聖アンナの衣服に禿鷹の輪郭を見て、二人の母親(実親と養親の母親)に対する口愛的な欲求充足の不足から将来の同性愛傾向を予見しました。ダ・ヴィンチの最も有名な代表作である『モナ・リザ』のモデルが誰であるのかについて諸説ありますが、ミラノ公の公妃イサベラ・ダラゴーナであるとする説を採用すると、『モナ・リザ』の肖像には父親のいないシングルマザーであった実母カタリーナが投影されている可能性が高いと解釈できます。  
モナ・リザのモデルが誰であったのかはわかっていない。初めこの絵は「ヴェールをかぶったフィレンツェの娼婦」と呼ばれていたが、50年ほど後にレオナルドの生涯を『美術家列伝』に記したジョルジョ・ヴァザーリがこの絵について『モナ・リザ』と記し、それが広まって今の名が定着した。モナは婦人、リザはエリザベッタの愛称である。ヴァザーリはこの女性がフィレンツェの富豪、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるとも記しており、イタリア語、フランス語での名称 La Gioconda はジョコンド婦人という意味である。(中略)  
レオナルド自身の言葉から、当時ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったナポリ公妃コスタンツァ・ダヴァロス。ただし1503年当時45歳と年齢が高く、年齢的には合わない。これにはレオナルドが嘘をついたとする説がある。  
年齢が絵と近く、同じ構図の油絵『アラゴンのイザベラの肖像』があるミラノ公妃イサベラ・ダラゴーナ。『アラゴンのイザベラの肖像』はスイスで個人が所有しており、詳細はよくわかっていない。  
レオナルドのデッサン「イザベラ・デステの肖像」に残っているものと容姿が一致するマントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ。このデッサンは横顔であるが衣装、顔、体型がモナ・リザに書かれている女性と非常によく似ている。しかしレオナルドの手によるデッサンであるかどうかについては議論がある。  
この4名が主に挙げられるものの、いずれも確証はない。  
『モナ・リザ』のモデルと目されている女性の一人、ミラノ公妃イサベラ・ダラゴーナは、夫のミラノ公を殺害され子供を敵国の人質に取られる不幸に見舞われた寡婦でした。実母のカタリーナから十分な愛情を注がれる前に別れさせられたレオナルド・ダ・ヴィンチは、夫を裕福な家柄の女性アルビエラに奪われた実母の悲哀と苦境を、ミラノ公妃イサベラに投影したのです。この解釈を採用するならば『モナ・リザ』は、ミラノ公妃をモデルにしたと同時に、実母カタリーナの心情をモデルにして描かれた絵画だということになります。この文脈で考えるとモナ・リザの微笑は、実母カタリーナの憂愁と悲哀、官能(エディプス葛藤)をたたえた微笑みであり、『包み込む慈愛の母性・呑み込む脅威の母性・拒絶する冷淡な母性』のアンビバレンス(両価性)を孕んだ微笑みであると解釈することができます。  
『三人づれの聖アンナ』の絵でも実母カタリーナと養母アルビエラの二人が、それぞれ聖マリアと聖アンナに投影されていると解釈しているように、フロイトはダ・ヴィンチの発達早期の母子関係が後年の彼に与えた影響を重視しています。ダ・ヴィンチの芸術・技術・学問に対する圧倒的な才能と意欲は、幼少期に抑圧された激しい口愛的な欲求が昇華(sublimation)されたものであり、二人の母親をもつダ・ヴィンチの葛藤と抑圧は、同性愛傾向を生み出し『両性具有(アンドロギュヌス)への憧憬』を強めました。  
レオナルド・ダ・ヴィンチは1519年にフランスのクルー城で最期の時を迎えますが、『フィレンツェの婦人像(モナ・リザ)』『三人づれの聖アンナ』『聖ヨハネ(洗礼者ヨハネ)』という3枚の絵は死ぬ時まで部屋の中に置いていたといわれます。『モナ・リザ』と『三人づれの聖アンナ』の精神分析的解釈については上部で述べてきたので、『聖ヨハネ』についての解釈を簡単にします。『聖ヨハネ』は、『バッカス』と並んでダ・ヴィンチの同性愛傾向を、アンドロギュヌス(両性具有)をイメージさせる中性的な人物を用いて表現した絵だと言われます。男性であるにも関わらず、女性らしいしなやかな肢体と優美で妖艶な笑顔をもつ『聖ヨハネ』は、当時のキリスト教倫理(同性愛禁忌)を打ち破る異様な官能性と恍惚感を感じさせる絵でした。  
男性的な身体特性と女性的な身体特性の両方を併せ持ったアンドロギュヌスは、『全知全能の母(ペニスをもった母)』という母権宗教的な幻想の源泉であり、フロイトの精神分析では、ダ・ヴィンチは未婚の母親から生まれた自分を、処女懐胎によって生まれたイエス・キリストになぞらえたとしています。聖母マリアの処女懐胎とダ・ヴィンチの無意識を結びつけるものは上記した『禿鷹空想』であり、禿鷹の生態や生殖の摂理が明らかにされていない中世の時代には、禿鷹はメスのみで子供を産むと信じられていたのです。  
レオナルド・ダ・ヴィンチは、発達早期をシングルマザーである実母カタリーナの元で過ごし、父親不在(エディプスコンプレックス不在)の家庭において『全能の母』と自分を同一化させる投影同一視を体験しました。フロイトの『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出(1910)』で示されているダ・ヴィンチの同性愛に関する仮説は「投影同一視に基づく心因論」ですが、現在の精神医学では同性愛の原因として、心理的原因(環境要因)よりも生物学的原因(遺伝的要因・男性ホルモンの被曝量の不足・内分泌系の障害など)のほうに注目が向けられています。  
フロイトは、ヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンの『母権論』に示された社会の発達段階と同じように、父権制社会を母権制社会よりも進歩した理性的な社会であると認識していました。そのため、エディプスコンプレックスを中核とするフロイトの精神分析理論の体系は、古代ギリシア・ローマ・キリスト文明以降の『男性原理に基づく世界観(宗教観)』に依拠しています。  
古代エジプト文明やアニミズムの宗教に一部見られるような『女性原理に基づく世界観(宗教観)』は、『アンドロギュヌス(両性具有)的な全能の母』との幻想的な一体感に耽溺しようとするものです。フロイトは、自他未分離な幻想に人間を包み込む『全能の母(呑み込む母)』を破壊する『去勢不安をもたらす父』によって、『善悪を分別する社会性(超自我)を持つ個』が確立すると考えていました。そのため、母性原理を象徴するユングのグレートマザーのような元型概念を精神分析理論に導入することを拒み、発達早期の母子関係よりもその母子関係を切断するエディプス葛藤(エディプス・コンプレックス)を重視しました。 

  
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