映画・島田清次郎

 

 

島田清次郎常識家の非常識島清世に敗れたりのこと出版おもいで話島清外遊舟木芳江事件保養院入院島清死去後映画のセリフ京マチ子京マチ子諸話
 

1950 
 

 
 
 
「羅生門」脚本・監督黒澤明

1951

「三等重役」森繁久弥

1952

「次郎長三国志」マキノ雅弘監督、森繁の森の石松

1953

「東京物語」小津安二郎監督、笠智衆、家族制度の崩壊を描く 
「地獄門」長谷川一夫、1954カンヌ映画祭でグランプリ受賞

1954

 
 
「七人の侍」「山椒大夫」共にベニス映画祭銀賞受賞 
「ゴジラ」怪獣映画流行の始まり 
「笛吹童子」中村錦之助、東千代之助

1955

「二等兵物語」伴淳三郎、花菱アチャコ共演

1956

「赤線地帯」 
「太陽の季節」石原慎太郎・小説を映画化 
「狂った果実」裕次郎、津川雅彦、北原三枝

1957

「嵐を呼ぶ男」裕次郎
 
「幕末太陽伝」裕次郎、フランキー堺 
「明治天皇と日露戦争」嵐寛寿朗、宇津井健 
「異母兄弟」三国連太郎 
「黒い河」仲代達矢

 
「地上」田中絹代、川口浩、香川京子、野添ひとみ・吉村公三郎監督

1958

「陽のあたる坂道」裕次郎 
「駅前」シリーズ始まる、森繁、伴、フランキー 
「裸の大将」小林桂樹 
「楢山節考」 
「炎上」市川雷蔵、仲代達矢 
「無法松の一生」伊丹万作脚本、三船敏郎、笠置衆、ベニス映画祭でグランプリ受賞

1959

「私は貝になりたい」 
「人間の条件」仲代達矢 
「野火」船越英二、ミッキー・カーチス

 

1960 
 

「青春残酷物語」大島渚監督 
「日本の夜と霧」大島渚監督 
「渡り鳥」「流れ者」シリーズ始まる、小林旭、宍戸錠、二谷英明、和田浩治、赤木圭一郎

1961

「悪名」シリーズ始まる、勝新太郎、田宮二郎 
「若大将」シリーズ始まる、加山雄三、田中邦衛

1962

 
「座頭市物語」シリーズ始まる、勝新太郎 
「忍びの者」シリーズ始まる、市川雷蔵

1963

「にっぽん昆虫記」今村昌平監督 
「人生劇場・飛車角」シリーズ始まる、鶴田浩二

 
「眠狂四郎」シリーズ始まる、市川雷蔵

1964

「日本侠客伝」シリーズ始まる、高倉健

1965

「憂国」三島由紀夫監督・主演

 
「昭和残侠伝」「網走番外地」シリーズ始まる、高倉健 
「兵隊やくざ」シリーズ始まる、勝新太郎

1967

「日本春歌考」大島渚監督、伊丹十三 
「博ち打」シリーズ始まる、鶴田浩二

1968

「絞死刑」大島渚監督

1969

「男はつらいよ」シリーズ始まる 
山田洋次監督、寅次郎(渥美清)、さくら(倍償千恵子)、帝釈天の御前様(笠智衆)

 

1970

「待ち伏せ」三船敏郎、勝新太郎、石原裕次郎、中村錦之助

1971

「大色魔」山本晋也監督、ピンク映画

1972

「子連れ狼」シリーズ始まる、若山富三郎

1973

「仁義なき戦い」シリーズ化、菅原文太、金子信雄、北大路欣也、松方弘樹、梅宮辰雄、千葉真一、小林旭

1974

「日本沈没」  
「青春の蹉跌」萩原健一 
「ああ決戦航空隊」鶴田浩二、小林旭 
「竜馬暗殺」原田芳雄、石橋蓮司、松田優作

1975

「仁義の墓場」渡哲也 
「金環蝕」宇野重吉、仲代達矢、三国連太郎

1976

「不毛地帯」仲代達矢、丹波哲郎 
「愛のコリーダ」藤竜也 
シナリオと出版物が「わいせつ物」として大島は起訴され、79年に無罪判決

1977

「アラスカ物語」北大路欣也、宍戸錠、丹波哲郎 
「幸福の黄色いハンカチ」高倉健、武田鉄矢、桃井かおり

1979

「復讐するは我にあり」緒形拳、三国連太郎  
「戦国自衛隊」千葉真一、草刈正雄、夏木勲、真田広之

 

1980

「影武者」仲代達矢、山崎努、萩原健一、大滝秀冶 
カンヌ映画祭グランプリ受賞

1982

「大日本帝国」丹波哲郎、あおい輝彦、愛川欣也

1983

「戦場のメリークリスマス」大島渚監督、坂本龍一、デビットボウイ、ビートたけし 
「家族ゲーム」松田優作、宮川一朗太、伊丹十三


  
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島田清次郎

 

 
映画「地上」(1957/吉村公三郎監督) 
大正初期の金沢。遊郭裏の置き屋の二階で、母お光(田中絹代)と貧しい生活を送る中学5年生の大河平一郎(川口浩)。社会改革への熱い夢を持つ彼を、芸者の冬子(香川京子)や資本家の子女である和歌子(野添ひとみ)らは慕う。強烈な自我を持つ平一郎は、自らの恋愛にまで、階級社会の持つ矛盾が暗い影を落としていることを敏感に察知し煩もんする。そして、上京し身を立てることを決意する。 
大正初期の作家島田清次郎の同名小説を原作に「美徳のよろめき」の新藤兼人が脚色、「夜の蝶」の吉村公三郎が監督した文芸篇。撮影は「地獄花」の中川芳久。主演は「くちづけ」(1957)のコンビ川口浩と野添ひとみ、「太夫さんより 女体は哀しく」の田中絹代、「夜の鴎」の佐分利信、「ひかげの娘」の香川京子。ほかに川崎敬三、月田昌也、三宅邦子、新人安城啓子、小沢栄太郎、信欣三など。色彩は大映カラー。 
あらすじ 
金沢中学五年の大河平一郎は、針仕事で生計をたてている母のお光と、遊廓裏のある置屋の二階で貧しい暮しを送っていた。ある晩、部屋に冬子という若い女が飛びこんできた。彼女は明日置屋春風楼に売られることになっていたが、階下の主人に無体をいわれて逃げてきたのだ。平一郎は泣いて訴える冬子をただ見守る他なかった。学校の授業料にも事欠いて、お光は春風楼の下働きに行こうとするが、平一郎は反対した。学校で倫理の時間に校長が将来何になるかと質問した。軍人、芸術家志望の多い中で、平一郎は私利私欲に走らぬ、貧乏人を救う政治家になりたいと言った。その現代政治への痛烈な批判に、校長は学生の本分を逸脱するなと彼を叱った。友人の深井と重い気持で下校した平一郎は、その晩母と春風楼へ引越さねばならなかった。犀川のほとりへ散歩に出た平一郎は、登校の途中よく行き会う和歌子に逢った。お互いを意識して二人は過ぎた。彼は彼女に恋文を書き深井に託した。深井のとりなしで、二人は逢引し、心が通った。和歌子も平一郎に愛の手紙を手渡した。彼は友人の吉田の工場がストに入ったのを知り、篭城中の工場を訪れ、吉田を激励した。和歌子の父吉倉社長ら町の有力者は春風楼に集り、スト弾圧のために、金沢にきた政商天野から指図をうけた。春風楼では、天野に抱妓の中から冬子をとりもった。彼女はその前に一目だけでもと平一郎を訪ねてきた。卯辰山で和歌子と将来を誓ったのも束の間、平一郎は学校の思想調査で、彼女の恋文を発見され停学処分になった。ストは官憲の弾圧で流血と混乱の中に終った。平一郎母子は春風楼を追われた。冬子が来て、天野と共に東京へ行くことになったと告げた。「私はもう駄目。せめて貴方だけ駄目にならないで」と。平一郎は再出発を計り上京を決心した。二人の最後の別れの日、和歌子は一緒に逃げてと涙と共に哀願した。「君を愛しているから。ぼくには何も出来ないんだよ」平一郎は泣きながら、彼女への愛を振り切って狂ったように駈け去った。
島田清次郎 1 
明治32年-昭和5年31歳没 (1899-1930) 
石川県石川郡美川町で回漕業を営む家に生まれたが、父親の死後、金沢にし茶屋街で貸座敷業を営む母の父の家に母子で寄食した。野町小学校を首席で卒業、石川県立金沢第二中学校(本館は現在「金沢市民俗文化財展示館」として残る)へ入学したが、祖父が米相場に失敗し、明治学院普通部、二中復学、金沢商業本科と、転校を繰り返した。金商を退学後は、生活のため転々と職業を変えた。大正8年に発表した長編小説「地上」第一部は、若い読者に迎えられ大ベストセラーとなった。大正11年までに第四部まで出版するかたわら随筆集、短編集、戯曲、評論集などを執筆したが、その後、人気に幻惑されてか自分を天才と思いこみ、変わった行動をとることも多くなり、早発性痴呆症を発して精神病院に収容され、昭和5年に亡くなった。島田清次郎の生涯については「天才と狂人の間」(杉森久英著・昭和35-36年)に詳しく描かれています 。
島田清次郎 2 
島田清次郎は、明治32年2月26日、石川県の美川に生まれた。実家は回船業を営んでいたが、清次郎が生まれて間もなく父親が亡くなって没落、母子は貧しい生活を送る。小中学校は、母方の祖父が金沢で営んでいた遊郭から通っており、少年時代の遊郭暮らしの経験はその後の清次郎に大きな影響を与えた。しかし、祖父が米相場で損をして遊郭の経営も傾き始め、清次郎をこれ以上中学に通わせることができなくなった。一時、東京の実業家の庇護を受け、東京の明治学院に通うが、次第に富豪への反感がつのり、激しい衝突の末金沢へ帰り、叔父の元に身を寄せた。  
小中学校では神童といわれていたこともあり、島田はこの頃から自分のことを天才だと信じるようになる。ノートには「清次郎よ、汝は帝王者である。全世界は汝の前に慴伏するであろう!」「人類の征服者、島田清次郎を見よ!」などと書きつけていた。  
金沢では叔父の庇護を受けて商業高校に通うが、弁論大会で校長を弾劾する演説をして停学。さらに読書や創作にかまけて学業を怠るようになり落第、退学となり叔父からも学資を出してもらえなくなった。  
自活しなければならなくなった清次郎は、さまざまな職業を転々とするが、傲慢で人を見下したような態度のためどれも長続きしない。大正6年には目をかけてくれていた仏教思想家・暁烏敏の紹介で京都の宗教新聞「中外日報」に小説『死を超ゆる』を連載。これが商業紙デビュー作となる。翌大正7年にはわずか19歳で中外日報記者として迎えられるが、例によって仕事を頼んでも「僕はそんなつまらないことをするために入社したのではない」という調子なので、わずか二ヶ月でクビになってしまう(このあたりのことは涙骨回想録にも詳しい)。  
新聞社をクビになった清次郎は、中外日報主筆の伊藤証信が友人の評論家生田長江に宛てて書いてくれた紹介状を持って上京。生田長江に長篇『地上』第一部の原稿を手渡す。清次郎は原稿を読んでくれるまで生田宅に何度も日参。生田は辛辣な批評家として知られていたが、この島田の小説をドストエフスキーやトルストイとも比較して大絶賛。さらに社会主義思想家で、後に日本共産党初代書記長となる堺利彦も、社会主義の見地から『地上』を絶賛。こうして『地上』第一部は華々しい宣伝とともに新潮社から刊行されることになり、大正8年には文芸愛好家ばかりか一般読者もまきこんだ大ベストセラーとなる(ただし第一部は無印税の契約だったので清次郎はまったく儲からなかった)。  
清次郎は続けて『地上』を第4部まで刊行。いずれも版を重ね、合計50万部を売り上げて、『地上』は大正期を代表するベストセラーとなった。しかし自ら「精神界の帝王」「人類の征服者」とまで豪語する傲岸不遜な振る舞いは文壇では嫌われ、揶揄する声も多くなる。それでも若者を中心とした一般読者には絶大な人気で、清次郎は『大望』『帝王者』『勝利を前にして』など力強いタイトルの本を次々に出版していった。  
この頃に書かれた断章「閃光雑記」では、「日本全体が己れに反対しても世界全部は己れの味方だ。世界全部が反対しても全宇宙は己れの味方だ。宇宙は人間ではない、だから反対することはない。だから、己れは常に勝利者だ」「滑稽なる案山子共よ、実力なき現代諸方面の人々よ。――今に、目がさめよう」などと書き記している。  
あるときなどは出版元の新潮社を訪ね、社長の佐藤義亮に向かって、「自分の小説が売れているのは政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者といえば、政友会出身の内相、原敬であるが、今や新しく小説家島田清次郎も人気を得ている。これが気に入らず、政友会は、島田清次郎を民衆に読ませないためにために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない」と真顔で言ったという。  
堺利彦の絶賛を受けてデビューしたこともあり、デビュー後の清次郎は社会主義運動に接近。社会主義同盟にも加入しているが、清次郎の思想は、基本的には一人の英雄が世の中を導くという英雄主義であり、社会主義とは相容れることがなかった。また、プロレタリア文学運動が本格化するにつれ、文壇での清次郎の居場所はなくなっていった。またこの頃、堺利彦の娘真柄に恋心を抱き求婚するが、父利彦によって拒絶されている(真柄と利彦をモデルにした人物は『地上』第4部に登場する)。  
大正11年1月、それまでファンの女性と手紙のやりとりをしていた清次郎は、山形県に住む女性の家にいきなり押しかけて強引に関係を結んで結婚。同じ年の4月からは妻・豊子を日本に残し、アメリカ、ヨーロッパ各国をめぐる半年間の外遊に出発した。清次郎は赤坂で盛大な送別会を開き、作家仲間に招待状を送ったが、訪れたのは発起人のほかは吉井勇ら2人だけだったという。出発後、清次郎が船上で林田総領事夫人に強引にキスを迫り事務長にたしなめられたという事件が新聞で報じられると、それまでも清次郎の暴力に耐えてきた妻は実家に戻り、二度と清次郎の元には戻らなかった。このとき、豊子はすでに清次郎の息子を宿していた。息子は自分が島田清次郎の息子とは知らないままに育ち、早稲田大学理工学部に入学したが、昭和20年8月15日に若くして亡くなっている。  
さて、外遊中の清次郎は、ちょうどその前に外遊していた皇太子に自分をなぞらえて「精神界のプリンス」と自称。アメリカではクーリッジ大統領と面会し、イギリスでの歓迎パーティには文豪ゴールズワージー(国際ペンクラブ初代会長)やH.G.ウェルズらが出席。このとき、清次郎は日本初の国際ペンクラブ会員になっている。アメリカの老詩人エドウィン・マーカムと面会して「貴方が島田さんですか、大層お若い」と言われ、「肉体は若いが、精神は宇宙創生以来の伝統を持つてゐる……」と答えたのもこの外遊中のことである。  
帰国後、実質上『地上』第5部となる『我れ世に勝てり』(「改元」第1巻)を出版。この小説の中では妻・豊子をモデルにした人物が登場するが、実兄との近親相姦で子供を身ごもり自殺するというひどい扱いを受けている。大正12年4月にはファンレターをきっかけに手紙のやりとりをしていた海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。これが監禁陵辱であるとして舟木家から訴えられる事件が起きる。結局、清次郎が提出した芳江からの手紙が決め手となって、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり告訴は取り下げとなるが、この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎のイメージは大幅にダウン。最大の味方だった世間からも見放され、注文もなくなり、原稿も受け取ってもらえなくなってしまう(余談だが、この事件は大正15年にすでに「女性の戯れ」というタイトルで映画化されている。天才作家を演じたのは新人俳優であった三田英児、本名浅利鶴雄。劇団四季を創立した浅利慶太の父である)。  
宿代も払えなくなり、知り合いの作家の家を転々としていた清次郎は、大正13年7月30日午前2時半頃、巣鴨の路上を人力車で通行中、警察官の職務質問を受ける。浴衣に血痕が発見されたため逮捕され(本人の説明によれば「帝国ホテルに夕食に行ったが、島田だと言ってもボーイが待遇をしてくれなかったため殴って逃げた」とのこと)、警視庁の金子準二技師(のちの日本精神病院協会理事長)による精神鑑定の結果、早発性痴呆(現在の統合失調症)の診断を受け巣鴨の保養院に収容された。  
入院中には、大泉黒石らが訪れ、新潮社に受け取ってもらえなかった改元第2巻を春秋社から『我れ世に敗れたり』として出版。さらにわずかな詩を、辻潤らが創刊したダダイズム雑誌「悪い仲間」などに発表。外遊中に知り合い意気投合した木村秀雄(新興宗教・観自在宗の教祖。『吾れ世に勝てり』の主人公の兄のモデル)らは清次郎を退院させるべく奔走、清次郎自身も徳富蘇峰らに退院を願い出る書状を何通も送っているが、結局退院は叶うことはなかった。病状は快方に向かっているように見えたが、昭和5年4月29日、肺結核のため31歳で死去。 
 
常識家の非常識 萩原朔太郎著

 

僕等の如き所謂詩人が、一般に欠乏してゐるものは「常識」である。この常識の欠乏から、僕等は常に小説家等に軽蔑される。それで僕等自身もまた、その欠点を自覚してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識学の修養につとめて居る。 
この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛読してゐる。文藝春秋といふ雑誌は、文壇稀れに見る「頭脳の好い雑誌」であつて、編輯がキビキビとして居り、詰将棋の名手を見るやうな痛快さがある。しかしそんなことよりも、この雑誌の特色はその常識学の徹底にある。常識とは何ぞや、常識的精神の価値とは何ぞやといふことを、もし真に知らうとする人があるならば、先づ文藝春秋を読むが好い。それで僕は、ずつと前からこの雑誌を「常識のメンタルテスト」として、一種の特別な敬意を表してゐた。丁度僕のこの敬意は、我々詩人が時に小説家に対して抱く所の、或る種の畏敬と同じ性質の者であつた。 
所が偶然にも、最近この文藝春秋の記事からして、僕の常識に対する見解に大なる動揺が生じて来た。すくなくとも僕が、従来「常識の価値」を高く買ひかぶりすぎたことに気がついて来た。と言ふわけは、最近この雑誌の文藝春秋子が、二回に亘つて書いた僕の毒舌を読んだからである。もちろん僕は、雑誌の六号記事がゴシツプ的に書く漫罵なので、神経質に抗議する男ではない。此所に言はうとするのはそれでなく、小説家的常識の価値それを小説家は常に誇つてゐるが、案外くだらぬ安物にすぎないことを、それによつて初めて知つたからである。 
文藝春秋の六号子は、前に僕の書いた芥川龍之介君の追悼文で、僕を無理解に悪口し、第二の島田清次郎にたとへてゐる。春秋子の理解によれば、僕のあの文改造所載芥川龍之介の死は、芥川君に対する冒涜であり、自己尊大であり、故人を恥かしめたものであるさうだ。それを読んだ時、僕は世にも意外な読者があるものだと思つて、自ら事の意外に呆然とした。僕は芥川君を詩人でない――詩を熱情する小説家だ――と言つたけれ共、それが何等芥川君に対する侮蔑でなく、反対に高い程度の尊敬と愛情とで、あの人の悲壮な精神に感激を込めた言であるのは、常識を有する限り、だれでもあの文章の読者に解る筈だ。僕は文藝春秋子の毒舌をよんで先づ「常識家の非常識」といふことを考へた。
所が二月号の同じ雑誌に、同じ文藝春秋子がまた僕の毒舌を、僕の新潮所載の文室生犀星に与ふについて書いてる。それによると、僕のあの文章は室生君の旧悪をあばいたもので、故意に友人を陥入れ、他人の過去を恥かしめ、以て独り自ら正義を売らうとするものであるさうだ。何たる意外の言だらう。之れにもまた僕は呆然としてしまつた。僕にとつてみれば、室生君の過去は一の英雄的生活であつた故に、その回想を書くことは、友の伝記における讃美であつた。僕はあの文章の前半を、伝記記者の熱情と讃美で書いた。そしてその精神は、常識を有する限り、どんな読者にも解る筈だ。僕は室生君に対して、自己と容れない人生観を争ひ、あくまでその抗議を提出したけれども、かりにもあの文章をよんだものは、その精神が親友に対する熱愛に充ちてることを知る筈だ。他のことはとにかく、あれが友人を陥入れるための、女らしい邪智の悪意で書いたものと解されては、僕として到底がまんできない。世に之れほどひどい曲解があるだらうか。況んやそれによつて僕が正義を売るとは何事だ。いかに六号記事とは言ひながら、之れほどひどく曲解されては、遂に黙つて居られない。 
僕は今迄、自分の書いた詩論や感想が、他から誤解されたことがしばしばあつた。しかし最近文藝春秋子に書かれたほど、自分の文が意外な誤解を受けたのは始めてだ。何故に、どうしてこれほど思ひがけない、不思議な曲解的な意味に、いつも僕の文章が取られるのだらう。僕はその不思議を考へた。そして結局、一つの或る発見に到達した。即ちそれは、文藝春秋子及び之れによつて代表される常識的聡明人の一般が、僕等の文学の本質たる「詩」を理解できないからである。
前の芥川君の追悼文でも、今度の室生君への公開状でも、僕の文章の本質となつてるものは、常に「詩人の感情」であつて「小説家の感情」でない。換言すれば、あれらの文章の根柢となつてるものは、一の主観的なる切実の訴へである。僕は小説家のするやうに、それによつて他を描くのでなく、自分自身の詩を訴へてゐるのである。例へばあの芥川君の追悼文で、僕が何を熱情し、何を人生について憂鬱し、且つ欲情し、且つ訴へ嘆いてゐるかを、あれについて読み得る読者は、僕の「詩」を知り得たのである。そして僕の文章から常に、僕の詩を読み得るものは、僕の真の理解者であり読者である。反対に、僕の詩について心を触れ得ず、詩の精神を理解できない所の人にとつて、僕の文章は不可解であり、時には全く意外なる、反対の意味にさへ曲解される。 
文藝春秋子の意外な誤解が、結局してこの点にあることがはつきり解つた。文藝春秋子僕はそれを以て常識的聡明人の代表と見る。は、常識的なる限りに於てのみ、聡明な正しき批判を有してゐる。だが「詩」の精神は、常に常識の上に立脚してゐる。僕等が詩を思ふ時は、常に常識を一歩踏みはづし、日常生活の「健全なる判断力」を、どこかで取り落して居るのである。小説家的聡明さ即ち常識では、決してどんな詩も作れはしない。否さうした頭脳の中には、詩情そのものが宿らないのである。だからその種の人々には、小説家の書いた文章は解るけれ共、詩人の書いた文章は解らないのだ。そして此所に詩人といふのは、もちろん僕ばかりでなく、一般の詩人についても言ふのである。 
かうしたことによつて、僕は常識の価値が甚だ疑はしくなつてきた。常識的聡明は、結果して常識の程度しか理解できない。だから詩人の仲間にとつて「常識ですら」解るものが、しばしば彼等にとつては常識ですら解らない。してみれば常識的聡明といふこと今の小説家等が唯一の得意とするのはそれである。は、必しも僕等にとつて恐ろしいものでない。否むしろ低級視さるべき、愚劣な馬鹿馬鹿しいものである。僕は「常識のメンタルテスト」文藝春秋子から悪口されて、始めて常識の実価を知つた。すくなくとも今後の僕等は、常識及び常識的聡明者に対して、詩人らしき内気な恥らひと屈辱とを捨て、もつと大胆に、彼等を侮蔑してかかるであらう。 
(底本「日本の名随筆別巻76・常識」作品社1997平成9625日第1刷発行/底本の親本「萩原朔太郎全集第八巻」筑摩書房1976昭和517月)
 
地域演劇と鏡花劇場「島清世に敗れたりのこと」

 

荒川哲生のこと 
地域の小さな劇団の盛衰を書き留めることなど、たいした意味のある事でもない。とは思うのだが、鏡花劇場にはこの十年、さまざまな人々からの温かい支援を頂いた経緯もあり、また時々次の公演はいつかと聞かれることもあるので、劇団成立から今日までの情況を書き連ねることもあなかち無駄ではないだろう。いま鏡花劇場は高輪真知子が懸命に支えているが、瀕死の状態である。なぜ瀕死の状能かというと、演出の荒川哲生が、昨年春、タクシーに轢かれ脳挫傷により再起不能となったからである。鏡花劇場は荒川の執念であったリージョナル・シアターを実現すべく存在していたのだが、その荒川が、病床にあって再起不能であり、荒川を継ぐものはまだ現れないからである。しかし荒川にどんな奇跡が起こるかもしれない。 
高輪が必死に鏡花劇場を守っているのは、その時のためである。私も含めて、その他は皆ボオーとしているだけで、どうしていいのか分からない、この一年であった。 
荒川は金沢の飲み屋でよくしやべった。しやべり散らしたというべきだろう。そして、いかにも東京の下町っ子らしい喧嘩をした。からっとした喧嘩だったので、次の晩は普通に飲み始めるのだが、またまた同じような喧嘩になった。四季を通じての風物詩みたいな喧嘩であった。荒川の演劇歴は、昭和26年「文学座」に入団し、昭和37年の分裂まで11年間在簿した。しかも、文学座分裂渦中の人物である。その間、17作品の演出をしている。昭和38年、福田恆存や芥川比呂志らとともに現代演劇協会「雲」を作った。雲が「昂」と「円」に分裂した後も昂にあって、昭和62年まで82作品の演出をしている。平成2年からは金沢に居を移し、鏡花劇場で私の作品を6本演出 した。 
荒川には、まだ誰にも語っていない日本新劇史が詰まっていると言っていい。それをどうしても記録に残してほしかったので「北國文華」が復刊されたとき、連載をしてもらえるように荒川にも編集者にも頼んだ。それも書き始めて4回で未完のままにな っている。「あの世まで持って行くのかなあ」と飲みながらときどき嘆息していたことを思い出すが、全部書ききらないうちに、それが本当になってしまうのだろうか。元気であれば、荒川は鏡花劇場までを書き続けるに違いないと思うのだが、今となってはその部分は私が書くしかないのだろうか。
鏡花劇場前史 
昭和2年、トルコ座以来、石川県の新劇の歴史の中で、もっとも長期間にわたって活動してきたのは北陸新協である。しかし、昭和五十年代に北陸新協は数度の分裂に見舞われ、その都度、中堅メンバーが離脱して「演劇アンサンブルかなざわ」を結成し、昭和52年にも分裂退団があり、「ドラマ工房ぴころ」が結成された。北陸新協もまた小劇団となった。そして、各劇団が少人数化したことにより、大作の上演が不可能となった。昭和52年「金沢自立劇団連絡協議会」を発足させ、諸劇団による合同公演が企画された。当時の加入劇団は、北陸新協、金沢放送劇団、実験劇場、演劇アンサンブルかなざわ、座・鳴呼人51である。第6回の平成元年まで続いた。こうした各劇団の協力態勢による合同公演時代がほぼ10年つづき、それなりの効果はあったと思われるが、台本や演出、配役などの調整に問題があったことは否めない。さらに、それぞれが離脱した意義もまた、なおざりにされたことになる。 
昭和59年、北陸新協は創立50周年を迎え、離脱した俳優の参加を得て、2年間にわたり4回の記念公演をし、不死鳥のように甦がえった。北陸新協50年の歩みは決して平坦ではなかった。その思想主張において、その脚本選定において、演技において、観客動員において、経営において、それらすべてにおいて混迷と模索と反論と妥協と対立の50年であった。だからこそ、北陸新協50年は石川の演劇史において貴重なのである。
この創立50周年を確認するかのように、昭和59年12月、北陸新協代表であ った加須屋信政が死去した。加須屋はその生涯を 北陸新協とともに歩み、昭和10年以来66本の作品を演出した。加須屋の死が北陸新協に与えた打撃は分裂以上に大きかった。また、創立50周年公演を最後に、劇団の重鎮として活躍した梅村澪子が離れた。その後の北陸新協は野村啓一らが中心になって立て直したが、昔日の勢いはなくなった。 
この時期から「鏡花劇場」が活動をはじめる。 梅村澪子と田中加夫が私の「雛納い」を上演、こ れが縁で、ドラマ工房ぴころの喜多文夫、高輪真知子や滋野光郎らが加わり、昭和63年に「絵がたり滝の白糸」を上演し、鏡花劇場を結成した。その後、現代演劇協会の荒川哲生を演出に迎えた。荒川哲生は、アメリカ演劇に学んだリージョナル・シアターを日本のどこかの都市で定着させたいという夢を持っていたので、金沢に居を据え、地域におけるプロデューサーシステムの公演を支援することになる。
福田恆存との出会い 
事の起こりは現代演劇協会の理事長、福田恆存からの手紙に始まる。昭和58年夏の事である。 
御無沙汰致しております。梅雨が明けたと思ったら、この蒸すような暑さ、御機嫌如何でいらっしゃいますか。私はようやく半月前にオイデプ ス翻訳完成、去年の暮れから半年がかりでした。その間に小林(秀雄)さんの逝去があったり、その他大兄の御存じない方が亡くなられたり、翻訳原稿も何度も手を入れ、ようやく「新潮」九月号に間に合ひました。お送りするやう手配しましたのでお買いにならぬよう、永田(恭一)さんにもその旨宜しくお伝え下さい。さてそんなわけで「コスモスの村」つい昨日手に取り、半分読ませて頂きました。あと半分読まずに、何もさう急いで御礼申し上げる要もないのですが、明三日からはオイデプスの演出にかかりますので、取り急ぎ要用のみ申上げます。お作、「変幸塾狂詩曲」まで読ませて頂きましたが、これ程巧い作品を書く素人の方に不幸にして今までぶつかりませんでした。この辺で一つ学校の先生といふ職業意識をお捨てになって一晩ものの芝居の台本、百五十枚位のものを書いて見るお気持ちになりませんか。劇団昂のために、丁度夏休みでもありますし。私は書き始めるといつも三週間で書き終わったので気安くお願いするのですが、もちろんお書きになったものは必ず上演するとはお約束できませんけれど、「コスモスの村」読んだかぎりでは作劇術は手に入ったものです。あとは内容です。本当に書いてみたいものがきっとあるに違ひない、さう思ってこの手紙を書いております。右とにかくお考へ下さい。まだ劇団のものには、誰にも話しておりません。もしお書き下さったならそれを読んで上演の可否決定のうえ、話を持ち出さうと思っております。右唐突ながら私信の形でお願ひまで一筆。 敬具
八月三日 松田章一様梧下 福田恆存                                 
「コスモスの村」は、私が金大附属高校の演劇部のために書いた台本を、演劇部OBがまとめて出版してくれた脚本集である。その年私は四十七歳になっていたが、かつての文学少年には衝撃的な手紙であった。今読んでもまるで恋文のような感がする。福田とは何度か面識はあったが、気難しい英文学者、劇作家、評論家という印象は拭えなかったし、会うたびにいつも緊張していた。その福田恆存からの申し出である。「三週間で書きおわる」から「気安いお願いをする」ということを納得したわけではなかったが、その時はそれでも書ける気がして、書き出したのが「斬奸」という大久保利通暗殺のテロ事件前夜の島田一郎の話であった。「石川県史」だけが資料で、「昭和五十八年十月十二日脱稿」と記し、「九週間かかった」とメモにあるから、よほど三週間を意識したものであろう。三幕もので百七十枚書いた。 
しかしこれはボツになった。「君は劇団という ものを知らないから仕方がないけど、女性が出ない芝居は駄目だよ。うちは男優より女優の方が多いんだ」というのが却下理由だったが、「本当に書いてみたいもの」ではなかったからである。
北陸新協の「島清世に敗れたり」 
同じ頃、旧河原町の角の酒房「浮標」で、カウ ンター越しに梅村澪子が「章ちやん、北陸新協の50周年記念になんか本を一つ書いてくれんかいね。高枚生の脚本ばっかし書いとらんと大人のもんも書いてみまっし」と誘惑したものである。梅村は北陸新協の看板女優で、昭和49年、三好十郎の「浮標」の小母さん役を演じたことを記念して、10人ばかり坐れるカウンターのある飲み屋の屋号にしていた。芝居好きの金沢の老壮年のやんちゃ者達が集まる陽気な酒房である。 
梅村に言われて頭を去来したのが島清である。島清こと島田清次郎は、大正時代の美川町出身の小説家。ベストセラーとなった「地上」を引っ提げて文壇に登場したが、成り上がり者と蔑視され、ついには精神病院で死ぬという壮絶な生涯には、かねてから興味をそそられていた。傲岸不遜の裏の小心さと劣等感を持つ男に自分を重ねて眺めていたのかもしれない。東京で一旗揚げるという田舎青年の志に反発するものがあったからかもしれない。また杉森久英が直木賞の「天才と狂人の間」を書いたとき、島清の少年時代を松任の暁鳥家に取材してきた話しを総夫人に聞かされていたからかもしれない。第一稿を書き上げたのは「昭和58年10月23日から11月8日まで」とメモしてあるから、こちらは3週間とかかっていない。第一稿ができてから、あの人も出たい、この人も出したいということで、あわてて登場人物を増やしたりしたので、終稿を書き上げたのは12月になっていた。北陸新協の田中一明が待っている「浮標」へ、バスで急いだ夜はひどい雪で、広小路の神明宮の前まで来たのにバスがなかなか進まずイライラしたことを覚えている。ともあれこれが「斬奸」と並行して資料を調べながら書いた作品で、「島清世に敗れたり」と題名をつけた。
ちょうどその頃、現代演劇協会事務局長の杉本了三から電話があった。「先生、手元に作品があったら、文化庁で戯曲作品を募集しているので応募してみませんか」と薮から棒の話である。「斬奸」はボツになっていたので、北陸新協には黙って、12月20日「島清世に敗れたり」を応募作品として出すことにした。 
年が明けて昭和59年2月、夜10時すぎだった。「文化庁の者ですが、あなたの応募戯曲が入賞しましたが、お受けになりますか」。寝耳に水という言葉どおりの連絡で「ただし、作品が雑誌に掲載されたり上演されたりする時、演出が制作上、作品に手を加えることがあるかも知れませんが、それをご承知頂くことが条件です」。ここからが我が人生の混乱の始まりであった。新聞発表は2月26日だったが、その晩、文学座の北村和夫が電話をくれた。「うちで演るぞ」。「ごめん。福田さんに義理があるので・・・」。「馬鹿もん。うちへもって来い」。重量ある声が響いたが、お断わりした。のちに「馬鹿もん」の意味が理解できたが、あの時、文学座に渡していたら、島清よろしく故郷を捨てて東京に出ることになっ たかもしれない。授賞式は3月23日だった。現代演劇協会の多くの俳優たちが式に来てくれてうれしかったが、 北村和夫も出席して「俺が芸術選奨を貰ったときは30万円だったのに、章ちゃんは百万円か」といいながら「松章、世に出でたり」と書いたお祝いを包んでくれたことがとりわけうれしかった。文学座と昂はまだ分裂の軋轢を引きずり、犬猿の仲であった。
金沢の北陸新協では、創立50周年記念第三弾の「五月」の公演を終え、6月19日に「島清」の配役を発表した。梅村澪子、和沢昌治、喜多文夫、厚沢トモ子、滋野光郎らのベテランを配し、最初から熱気をはらんだ稽古に入った。島清は三林二三夫であった。上演は11月8日から10日までの四ステージ。和沢昌治は「地元の書き手により、地元の人物をテーマにした作品を、地元劇団が上演することは、非常に好ましいことだ。私はこれを長年のぞんでいた」といい、鶴羽信子は「幕が下りた時、鳴り響く拍手の中に、私は一人の幻を見た。何年も思い出すことのなかった私の恩師、ドイツ文学者の伊藤武雄氏が突然私の脳裏に現われたのである。・・・伊藤氏の願ったものは、中央文化に対するアンチテーゼとしての地方文化ではなくて、中央と質的に対等でありながら、その上にこの地方の特質を加えた、香りある文化であったと、私は理解している。・・・演劇を何より愛した伊藤氏が、このような高い水準のこの地方の人々の手になる演劇を見たらどんなに喜ばれたことか」と言ってくれた。 
作者としても北陸新協の公演は、満足いく出来栄えであった。北陸新協創立50周年記念祝賀会が公演の翌11日に開かれ、梅村澪子は「今回の記念公演では3日間で千八百人の人に見て頂いた。ここ十数年なかったこと」と挨拶したが、石川の演劇が抱えるもう一つの問題、新劇の観客養成の必要性をあらためて認識させられた。
昂・円の「島清世に敗れたり」 
この文化庁舞台芸術創作奨励特別賞という長い名前の受賞作品には、上演にあたって文化庁より一千万円の助成金が出ることになっているが、島清の上演劇団は現代演劇協会昂に決定した。昭和59年7月、事務局長の杉本が、旅先のソウルから「島清、荒川哲生演出。仲谷昇が徳田秋声の線で大方まとまりました」と書いてきた。実はそれ以前に配役について相談があったので、北村和夫や仲谷昇や内田稔を候補に挙げていた。だが三人とも分裂により劇団が違っていた。分裂した者が同じ舞台で共演することはまずないのだが、作者との長い友情からということで「昂」の制作部は「文学座」の北村と「円」の仲谷に連絡を取った。文学座はたちどころに拒否し、円は承知した。 
読売新聞夕刊は「この舞台で演劇集団円の仲谷昇が徳田秋声役で客演するのが注目される。十年前、劇団雲が昴と円に別れて以来初めて一緒の舞台に立つわけで、仲谷自身の希望だが、これを機に、ニ劇団の交流を図りたいという声も出ている」と書いた。「仲谷十年ぶりに古巣に戻って客演」というニュースは、新劇では珍しい事態だったので、その後、各紙が書き立て、観客動員の助けにもなった。実のところは、この文化庁募集作品の公演はすべて新劇団協議会の主催と決まっていたので、両劇団とも協会に入っていて仲谷の出演もあまり抵抗もなく可能になったものであろう。東京の公演は、円からは仲谷と小川玲子役の黒木優美が、あとは昂で固め、島清本人かとまごうような片岡弘貴が主役を演じた。荒川のこだわりで、装置は高田一郎により、セット一杯に組んで、幕を下ろさない二幕構成となった。
荒川のテキスト・レジーは徹底していた。選考委員の一人茨木憲も「受賞作と決定はしたが、無条件というわけではなく、委員の聞からは、いろいろな角度からの、いろいろな意見が出されていた。しかしそれらは、上演に際して修正可能なもの」と言い、「近頃は、世界的に《演出家の時代》などと言われて、劇作家の作品を勝手気ままに料理することが流行しているようで、そのためにあちらこちらで物議をかもしたりしているが、荒川演出の作業はそんなものではない。戯曲の内部に踏みこんで、作者の表現したかったものを端的に引き出す一方で、冗漫に流れがちな部分をいさぎよく切り捨てて、作品の緊密度を高めた」といっている。後に分かることだが、荒川の演出は、開演のその日までセリフに手を入れる性癖があった。初日を前にしての舞台稽古のとき、終幕の看護婦のセリフをどうしようかと言うのだ。事程左様に、上演のためとはいうものの驚くべき加筆であった。もっとも茨木憲の言とは違い、私のセリフをほとんど変えることなく、その間隙に見事に加筆するのだ。  
例を一つ挙げれば、終幕で精神病院の院長が島清を慰めるセリフ「誰も来やしないよ。ここへは誰も来やしない。ここは、どこよりも安全だ。今は静かに休み給え。君は天才でもなければ狂人で もない。ごく普通の青年だよ。今は世間が狂っている。そう、狂っているのはいつも世間だ。さあ静かに休み給え」。これが作者のセリフである。荒川は「ごく普通の青年だよ」の次に、「その正義感も野心も、愛情も冷淡も、不羈も傲慢も、その小心も誇大妄想も、すべて、二つながら普通の青年の心に眠っているものだ。君はただ、それを馬鹿正直にさらけ出して演じてしまっただけのことだ。もし狂っているというなら、それはむしろ世間の方じゃないか」と挿入した。
文化庁との約束だから変更はご随意にと言っていたものの、いささか過剰で思い入れたっぷりのセリフだと思ったが、上演してみるとなかなかの聞かせどころで、観客も納得している。作者の意図としては「時代」を強調したかった部分だが、荒川演出では「青年そのもの」を浮かび上がらせ、今日的普遍的青年像に肉迫することになる。演出者は作者の思惑を遥かに越えた新しい世界を作っているのだ。劇評家の大笹吉雄が「舞台にいつも見えていた病院のベッドを忘れることが出来ません。いうまでもなく、そこに演出の観点があります。時代は病んでいたのです。というよりも、病んでいるというべきでしょうか」という指摘は、演出の荒川と装置の高田へのこの上ない理解であった。昴・円の初演は三百人劇場で、昭和60年3月1日から10日まで、12ステージの上演となった。 
ちょっと別の事件を書き入れると、この年の4月から、私が中華人民共和国上海市の復旦大学に学術教育交流と日本文学日本文化史の講学のため一年間海外出張することになっていた。この事は北陸新協の公演前に中国大使館の王效賢女史の力強い後押しによって中国側で決定したものである。この年は私には暴風が吹き荒れたようで、足も宙に浮いていて、学校にも家族にもとんだ迷惑をかけることになった。東京公演が終わり、慌ただしく準備をして上海に出発したのは3月28日である。昂・円の石川公演は中国出張中の9月9日より始まり、高文連文化教室の公演も重なっていた。そこで上海から夏休み休暇で帰国し、観光会館での公演を一ステージだけ見て再び上海に向うという忙しない夏を過ごした。

上海の一年間を終えて昭和61年3月に帰国してみると、「島清」は文化庁の移動芸術祭の演目に選ばれ、六月から一ヵ月間、西日本の各都市での地方公演となっていた。湖西、碧南、笠原、野洲、有田、丸亀、松山、土佐清水、菊地、川棚、筑紫野、瀬戸田、高梁、大阪と巡って、7月に再び三百人劇場で上演のうえ、終演した。島田清次郎没後五十五年、まさに「島清世に現われたり」であった。 
さて私はかつて、昂・円公演のパンフレットで、「昔も今も依然として地方の人が東京へ出て行って、故郷に錦を飾るというような構図になっている。しかし、中央だけに文化があって、そこからしか文化が伝達されないという一方通行ではなく、地域々々に根を下ろしたものがあるべきです。その土地に住んで、そこで生きていくために必要な文化的な糧を生みだす構図にしなくてはいけないのです」と言った。 
これを受けて荒川は「地域のコミュニティに支えられたプロフェッショナルな演劇活動が、今こそ必要だと思うのです。それが、昔どこにもあった芝居小屋とその町との関係を現代的に再生させたものとして築かれて行くべきだと思いますね。それが、東京における演劇の貧困を反省させるといったようなことにもなるべきなんです。今日かろうじて行われている地方の演劇活動は、これから二十一世紀にかけて、東京の貧困な演劇の再生産に甘んじて行くべきではないと思いますね」と言っている。荒川の永年の持論であるリージョナルシアターの提言である。これが、鏡花劇場創立の底流となるのである。

 
出版おもいで話 佐藤 義亮

 

新潮社創業者(1878/2/18-1951/8/18)秋田県に生まれる。明治28年1(1895)東京に出て秀英舎の職工となり、翌年には新声社を起こして「新声」を創刊、明治37年5(1904)新潮社を創業、雑誌「新潮」を創刊して一途に文藝図書出版の大を成し遂げた功績はめざましい。
「新聲」の創刊 
「新声」の第一号の出たのは、明治29年7月10日(1896)。私の19歳の夏だ。数えて見ると実に40年の昔になる。 
当時、私は秀英舎(今の大日本印刷)の校正係りだった。その前年の春、同舎に入り、最下級の職工としてひどい仕事をやっていたが、「青年文」という文学雑誌に投じた一文から同舎の重役に認められ、校正課に抜擢(ばってき)されて日給20銭を給与されていた。日清戦後、急激な文化進展の波に乗って、新文学勃興(ぼっこう)の機運大いに起こった時なので、何かしら文学的に動いて見たくてたまらずにいた私は、校正係りをやったおかげで、出版、印刷のことがわかって来ると、この機会に一つ雑誌を出して見ようと、決心したのである。 
そんな大それたことを考えだしてどうするのか、と友だちから再三忠告を受けたが、そこは少年の一本気なり、田舎ものの向う見ずの勇気なりで、思いかえす気持はみじんもなく、薄給の中からなにがしずつを貯金したりして、いろいろ準備を進めていると、宿の主婦の萩原お雪さんというが、若いに似あわず侠気のある人で、私の苦心が見ておれないと言って、幾分の援助をしてくれることになった。それでとうとう「新声」第一号は産まれ出たのである。 
発行所は、牛込区左内坂町28番地。「新声社」と名乗りあげたが、実は間借りの六畳一と間、宿のおかみさんの箪笥(たんす)や何かがごたごたしているその室の片隅で、編集、発行のすべてを一人で、しかも活版所づとめの暇にやるのである。三日や五日徹夜を続けるようなことも珍らしくなかったが、何の屈托もなく元気にやってのけることが出来た。 
第一号はたしか八百部刷ったが、広告一行も出さずに全部売り切った。知人からひどく感心されたが、これは、発行の半歳あまり前からいろいろ準備していたおかげだった。 
第三号から「文界小観」という題で文壇の時評をやった。それが大家たちの間に問題になっていることを聞き、反響の大きいのに驚きもしたが、少年の自負心をそそられるものが大きかった。その無遠慮な批評が祟って尾崎紅葉などは、後々まで新声社員にはどうしても会ってくれなかった。
やっと独立する 
雑誌は少しずつではあるが、月々発展してゆく。活版所勤めの片手間ではやり切れなくなり、20歳の2月、秀英舎をやめて、何処か少しでも余裕のあるところを探しているうち、その前年から知りあいになった金子薫園氏の紹介で、新興の書肆(しょし)である明治書院の編集員となった。 
この間に今の東洋大学の前身の哲学館(夜学部)に通った。それは、大町桂月氏や白河鯉洋氏などから熱心に勧められ、帝大漢文科(選科)に入ろうとしての準備勉強だったが、そんなことをしては、せっかくやりかけた雑誌が台無しになってしまうと気がついて、相当未練もあったが、とうとう思い切ってしまった。 
それで6月に明治書院をやめ、神田の一橋通町に一戸を構えることとなった。家賃四円という、路地の奥の陋屋(ろうおく)だったが、それでも3年ごしの間借り生活から飛躍し、堂々()と社の看板をかけ、背水の陣も大げさだが、出版専門でやって行くことに腹をきめた。 
その第一着手として大阪から高須梅渓君(芳次郎氏)に来てもらうことにした。氏は長い間「新声」の投稿家として健筆を揮(ふる)っていた。私よりは二つ下の当時19歳の年少だったが、文をよくしたばかりでなく、信頼のできる誠実の人で、社に起臥することとなってからは、実によく働いてくれた。小遣いをいくらか渡そうとしたが、こんなに困っていられるのに、金をもらう気になれないと言って、どうしてもとってくれなかった。これは今に忘れられない私の記憶である。 
今の中根支配人は、その翌年18歳の4月から来て働くことになった。数えて見れば三十七春秋を私のもとで送り迎えたのである。
「文章講義録」の創刊 
雑誌はだんだんよくなるのだが、それで生活のできる見込みはもちろんつかない。21年も暮れ近くなると、寒さと共に貧乏が骨に徹してくる。何とか打開の途を講じなくてはと首をひねって考えついたのは、「文章講義録」の発行だった。誰もまだ手を染めてはいないし、これならば大丈夫と見込みはついたが、内容見本をこしらえる金もない。仕方がないから、一枚の紙に規定や何かを刷り込んだ簡単至極のものをつくり、新聞に小さな広告をだしたところ、これが当った(当時として……)。成績は上々で、ほっと息をつくことができた。 
執筆者は、大町桂月、杉烏山(敏介。当時の新体詩人、後の一高校長)、内海月杖(弘蔵。後の明大野球部長)、田岡嶺雲等々、大学を出たばかりの花形揃い、それに私と梅渓君とは、変名でさまざまの題目のもとに書いた。二人が机をならベ、夜遅くまで競争的に書きまくったさまは、今も髣髴として眼に浮かんでくる。 
講義録は、表面、新声社と切り離して発行所を大日本文章学会とし、通信教授と銘をうって読者を生徒と呼び、文章の添削や質問応答をやった。この講義録の生徒の中には、今の帝大教授の某文学博士や、某婦人雑誌の社長や、新派劇の某頭目や、自然派花やかなりし頃の某作家や、その他知名の士が少なくない。 
大日本文章学会というを明治35年(1902)になって「日本文章学院」と改め、すっかり講義録の内容をとりかえて継続発行して来たが、大正8年(1919)になって廃刊した。
出版界に乗りだす 
「文章講義録」で金の余裕が、というと大きいが、実は145円ばかりできたので、出版の宿望が頭をもたげて来た。「新声」創刊後、五、六種出版をしたが、それは主として青年の投書を集めた片々たる冊子だった。そんなものではなく、確かに読書界の視聴を聳やかすに足るものを書ける腕を持ちながら、世間的流行文士でないため片隅の存在をかこっているような人の著作を提(ひっさ)げて、出版界に乗り出そうという希望だった。 
田岡嶺雲氏の「嶺雲揺曳」はこの希望によって生まれた第一のものだった。明治32年3(1899)の発行、私の22歳の時。正確にいえば、私はこの時をもって出版界に一歩足を踏み入れたのである。 
嶺雲氏は雑誌「青年文」の主幹で、犀利直截の批評は文壇の恐怖だった。「嶺雲揺曳」は、その批評を集めたものだが、当時の出版界からは見向かれそうもなかったのを、同氏に傾倒すること深い私は、特に乞うて自分で編集して出版したのである。そして、これは実によく売れた。前後二冊で一万部を超え、著者も発行者も望外の喜びを味わわせられた。私の出版の初陣は、こんな風に幸先(さいさ)きがよかった。 
次いで、小島烏水氏の「扇頭小景」である。久しく「文庫」によって、一部青年の渇仰(かつごう)を受けていた同氏の処女文集というので非常な好評を受け、矢つぎばやに五、六回増刷した。表紙は中村不折画伯の筆で十遍ぐらいの石版印刷の綺麗な本だった。今では古書の市などでは、定価20銭のこの本が、2円以上するそうである。 
それから河東碧梧桐氏の「俳句評釈」が出た。これもまたよく売れた。俳壇の新機運がこれによってさらにうん醸(=温のヘンが、酉ヘン)された事実を否むことはできない。 
この「俳句評釈」の原稿料について、興味ふかい挿話がある。 
当時、市内の交通機関といえば、鉄道馬車が新橋から浅草までの一本道を走っているだけで、料金は一区たしか1銭5厘だった。1厘銭、2厘銭、5厘銭などが、まだ盛んに使われていた時なので、馬車会社に毎日集まる小銭(こぜに)は大したものだった。書籍大取次のUという書店の主人は、長髯(ちょうぜん)を胸まで垂らし、風采の堂々とした人だったが、草鞋(わらじ)ばきで荷車を引いては、小銭をもてあましている会社ヘ出かけ、持参の1円札や、5円札を右の小銭にとり替え、若干の両替賃を受けてくるのが日課だった。したがって店の支払いは、全部みなこの小銭だったのである。 
私ははじめてこの店から売上金を受け取った時、その小銭を出されて面喰らってしまった。で、そのうち30円(と覚えている)だけを人力車に積み込み、そこからあまり遠くない下宿屋にいる碧梧桐氏のところヘ行ったのである。 
「原稿料をもって来ましたが、一人では持ち切れないから、手を貸して下さい」 
というと、同氏は二階から下りて来て、私と2人で、小銭を、ぎっしり入れた箱をもって階段を上って行った。室に落ちつくと、「君、金というものは重いもんじゃね」と言った。 
はじめて原稿を頼まれ、はじめて原稿料を現実に手にした喜びは、この一言のなかに躍動している。今おもいだしても、快い微笑が浮かんでくる。
長篇書き下しの流行 
大正5年からしばらく書き下し長篇の流行時代がつづいた。その先駆をなしたものは、江馬修氏の「受難者」であった。 
江馬氏は、たしか中村武羅夫氏の紹介で社に来られたと思う。毎月何ほどかずつの生活費を渡して長篇を書くことに私との間で話が決まった時、中村氏にも慇懃な態度で感謝していたことを憶えている。 
それから1年ばかり過ぎたある早朝のことだが、私はいつもの通り朝の散歩のため、社の門をあけて一歩出ると、江馬氏が立っている。今頃どうしたのですと聞くと、「長篇がやっと出来上がりました。今朝の4時に完了したのですが、早くあなたに見てもらいたいと思って飛んで来ました。門のあくのを待って2時間あまり立ち通しました」見れば、千枚近いというその原稿を入れた風呂敷包みを持っている。 
私も非常に喜び、応接間に請じて、長い間の努力を慰めた。本になったのは大正5年の9月だった。無名作家の長篇は、かなりの冒険だが、それが実によく売れた。文壇ではほとんど沈黙を守って批評らしい批評を聞くことは出来なかったが、読者からは感激の言葉を書きつらねた手紙が、盛んに江馬氏のところヘ舞い込んだそうだ。 
それが天下の青年に異常の刺激を与え、長篇一つ当たれば、「文学的成功」、もっと下品な言葉で言えば「文学的成金」になれる、といった気持を一部青年に起こさしたことは否めない。それからしばらくたつと、無名の青年から、三百枚、五百枚といった作品が続々――、文字どおり続々送って来られるには驚いた。ある時などは、ひどい粗服の青年が、社の玄関ヘ来て、「僕は越後から今来たのですが、苦心の長篇は出来ました。すぐ出版して下さい。大丈夫売れますから」と大きな声で怒鳴り、バスケットをつき出した。あけて見ると半ぺらで二千枚くらいはありそうだ。今すぐ約束をしてくれというのを、そんな簡単に決めるわけにゆかないからと、長い間説き聞かせてやっと帰ってもらったことさえあった。 
島田清次郎氏が、長篇を提げて上京したのも、やはり「受難者」の刺激だった。その証拠には、「地上」刊行前、江馬氏を訪ねて、いともねんごろに長篇についての教えを請うたということでもわかる。なにしろ江馬氏の人気は大したものだった。そこは人間の弱点というのか、評判があまり高くなると、俺はそんなにえらかったのかと、自分の再認識をはじめるものだ。この人でも、島田清次郎氏でも、急にえらくなって、世界は自分のために動いているもののように思い込み、いつ会っても、また、酒の席でも、自分の作品のほかには一口もものを言わない。昔、世話になった人さえ冷然見おろすような態度をとる。これではやり切れなくなって、みな次第に離れて行ってしまったのに不思議はない。

島田清次郎氏の「地上」 
「多少ながらいいものをもっているようです。会ってやって下さい」という意味の生田長江氏の紹介状を持って、きわめて謙譲で、無口な青年が、私を訪ねて来た。それが島田清次郎氏であった。大正八年の春のことである。 
持って来た原稿を、社の二、三の人たちに読んでもらった。相当見られるというのと、いや、大したもんじゃないという、二様の意見だった。結局冒険して出すこともなかろうとの説に帰したが、私が読んでみると、なるほど稚拙な点は否めないが、しかもどこか不思議な迫力があり、いい意味の大衆性をもっているので、未練があって棄てかねる。で、初めの方を二、三度読みかえして見てから、とうとう出すことに決め、郵便で出版承諾の旨を言ってやると、彼は飛んで来た。非常な喜び方だったことはいうまでもない。 
この時の素朴な感謝に溢れた彼と、後の傲岸(ごうがん)無比な彼とが同一人であったということは、今考えても不思議なくらいである。かくして「地上」第一巻が生まれた(大正8年6月)。 
初版は三千部刷ったが、初めの売行きは普通だった。それが二十日ばかり経ってから俄然売れ出し、徳富蘇峰翁や堺枯川氏などの激賞をきっかけに、各新聞雑誌における評判は、文字どおり嘖々(さくさく)たるものであった。十版、二十版と増刷して、発売高は三万部に達した。つづいて「地上」第二巻を出したが、これも初版一万部が、たった2日間で売れ尽す盛況であった。この奇蹟以上の売行きに、あの謙虚寡黙だった青年が私に向かって、「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者は、政友会出身の内相原敬であるが、今や新しく一世の人気を贏ち得ようとする者に小説家島田清次郎がある。これは政友会の堪え得るところでない。で、政友会はこの上、島田清次郎を民衆に知らしめないために、ひそかに「地上」の買い占めをやっているに相違ない」と語った。これには私も、すこしヘンだぞと思わざるを得なかった。 
第三巻は、本が出来てから初めて読んで、その支離滅裂さに驚き、すこしへんだぞと思った予感が、まさに的中して来たことを情けなく思った。それでも初版の三万部は事なく消化されてしまった。 
第四巻の出版にはかなり躊躇されたが、騎虎の勢どうにもならないで出した。やはり相当に売れた。 
「日本の若き文豪が、民意を代表して欧米各国を訪れるのである」と豪語して、海外漫遊に出かけたのはその頃であるが、あちらで奇矯な振舞いをして、在留の同胞に殴られたという噂をしばしば耳にした。 
帰ってからは、あの「島清事件」だ。一遍にぴしゃんと凹まされてしまって、彼は再び起つことが出来なかった。盛名を馳せた人で悲惨な末路を見せるものは珍しくないが、彗星のように突如現われて四辺を眩惑し、わずか両三年にして、また、たちまち彗星のように消え去った、島田清次郎の如きは、恐らく空前にして、絶後というべきであろう。

 
島清雑説 / 外遊 

 

1  
小説「地上」の作者島田清次郎君は、自分の外遊の為めに一人前廿円の会費を徴し、赤坂の「錦水」で送別会を開いた、然るにそれに就て文壇の人々に案内状を出すのに、最初三百枚から出さうとしたのを徳田秋声氏に忠告されて予て面識のある数十名に減らしたのださうだが、当夜集まつたのは発起人以外には吉井勇氏と誰とかの両人きりだつたさうだ、然かも極端に自負心の強い同君は、到底そんなことぐらゐに屁古垂れてはゐず、大洋丸に乗込むや否や「読売新聞」の文芸部に無線電信を打ち、「貴紙を通じて、全国の諸兄姉に暫しの別れを告ぐ!太平洋上にて、島田清郎」とかけた、当人何処まで大きく出る気か知ら、此の分では英太子もロイド、ヂヨージもクレマンソーを三舎を避けるだらうとの評判である。  
島田清次郎君に就ても一つ耳寄りな話は、同君が何時の間にか婚約の女を獲た事である、その娘は小林豊子さんと云つて山形の人、元は単なる「地上」の愛読者に過ぎなかつたさうだが、どうかする間にそれが縁となつて、島田君と婚約を結ぶ間柄とはなつたのである、然るに今まで知らなかつたが、島田君は一種の変態性欲者で、平素は豊子さんを舐め摺るやうに可愛がるが、どうかした拍子に今度は極端に虐ぢめるので、可哀さうに豊子さんの体には生疵が絶えぬさうだ。  
2  
ロンドンに到着した日本の青年小説家島田清次郎君は、曩には日本人クラブに英首相ロイド・ジヨージを招待して、一夕の交歓を尽し、今度は詩人駒井権之助君の紹介で有名な文学者エツチ・ジー・ウヱルズに会つた、その会見に就いて当の島田君の拡げ立てた大風呂敷と、向ふの記者の日本の事情に関する無知とが妙にこんがらかつて、外字新聞がどれもこれも一読したゞけで噴き出したくなりさうな記事を作つて居る、左に見本を一つ御覧に入れて置かう。  
昨日ロンドンで最も幸福だつた人は、悧巧さうな若い日本の小説家島田清次郎であつた、何故なら彼は全く単独で、エツチ・ジー・ウエルズと会ふことが出来たからである、島田はウエルズとゴルズウオシーとを日本語に翻訳したがつてゐる、彼はこれまで小説を十二書いてゐる、さうして最後に出した単行本は既に十万部を売り尽したと云ふ。  
一見、子供としか見えない島田が、日本の詩人駒井権之助が主催で、カヴエンデイツシユ・スクエヤの日本人クラブに開いた午餐会で、ウエルズに会つた。  
フランスには、聡明な人間だけが単純な気持を知るといふ言ひ草がある、たぶんこれはエツチ・ジー・ウエルズが、各々の客の前に奇体な美術的な皿の配られたとき、それに対して殆んど子供らしい歓びを見出した、その場合の気持を説明するものであらう、ウエルズも隣席のハンガリヤ人も、どちらも箸の使ひ方を知らなかつた、けれども駒井が根気よく教へたので、流石に有名な英国の小説家もつい釣り込まれて、変梃な木の道具で蓮根をつまむのに夢中だつた。  
御馳走の中で一つ、綺麗な椀に盛られ、上側にはどろどろした煮汁がかゝり中に色々な味の付いた肉と少量の野菜のはいつたものがあつた。  
「これは私のモスカウだらう」(これなら私にも喰へさうだの意)と云つて、ウエルズは笑つた、次ぎに酒の入つた小さな盃を取上げて、彼は言つた「けれど、これは私のウオータールーだらう」(これはとてもいけない、私には閉口だの意)と。  
客は一同笑つた、若い島田には其の洒落が分らなかつた、けれど彼も亦笑つた。彼の大きな瞳――あまり勉強し過ぎたので眼鏡をかけてゐた――は、日本がウオシントン会議以来、屡々耳にした人物の上に、熱心に向けられた。  
会食の済む頃、駒井は日本の小説家を呼んで演説をさせた、青年は玄人と同じくキモノを着てゐたが、いら/\しながら立ち上つた、彼は自分の英語を使ふことを恥かしがつた。而してとゞのつまり、国語で話すことになつた。  
彼の話は駒井以外の誰にも分らなかつた。が、太い単調な声は感情に震えてゐた、その中から時々「インターナシヨナル」といふ言葉が耳に入るので、話し手の顔を覗いてみると、この若い東洋人は彼の夢、即ち東西を接触せしめようとするそれの実現を、楽しんでゐるかの如く受取れた。  
若い島田の顔が恍惚とした笑ひに拡がつた時、ウエルズは起つて話をした。  
ウエルズの静かな早口は、彼の男らしい文章と較べて、不思議な対照をなす、彼は日本の思想の変つたことを話した、彼は新聞記者としてウオシントンに行くまで、日本を今なほ軍閥主義の好戦国と思つてゐたが、それの全く誤りであつたことを告げ、科学と文芸との進歩は日本のために欣ぶべきであるけれども、それと同時に日本の国民性の失はれないやうに希望すると述べた。  
「国民の服装と食物と箸とが」と、ウエルズは言つた、「日本から離することの出来ないのは、丁度ロースト・ビーフがヨークシヤから、プデイングが英国から離せないのと同じことである」と。  
次いでオールド・ベーレイの助役チヤンプネス君が、一同に代つて謝辞を舒べ生れて三週間目の駒井の娘「鞠子」のために、一同乾盃するから此の席に連れて来るやうにと云つたものだから、駒井はひどく満足したらしかつた、一同は小さな酒の盃を挙げて、赤ン坊のために乾した、駒井は「子」は「球」を意味し、彼がテニスを好むところから娘に「鞠子」と名づけたのだと説明した。  
終りに、召使ひが紙の封筒に箸を入れて、記念品として各々の客に配つた。  
「おもての文字はどんな意味ですか」と、誰やらが質問を放つた、「防腐完全衛生お箸」と、駒井が翻訳したので、一同笑はされた。  
花と、キモノと、蓮根と箸とから、風の強い八月の夕ぐれに、寒いロンドンの大通りへ出ると、それはまた奇妙な対照であつた。  
何はともあれ、日本を出発する際に、二十円の会費で文壇知名士一百名を赤坂の錦水に召集し、豪奢の限りを尽した送別の宴を張らうと企てた島田清次郎君がその晩すつかり的が外れてたつた二人の友人を獲たに過ぎなかつたに引換へ、かういゝ気持に納り返へるとは、ロンドンこそ世界中で住み心地のいゝ国だと、帰つて来て言ふかどうか。  
3  
日本及日本人記者足下。貴誌の文芸記事に島田清次郎の倫敦に於ける英国諸文豪との会宴の記事があつたが、あれは自分から倫敦滞留中にも、同胞間の驚異であつたのだ。  
あの島田の馬鹿が――どうして。あの新聞記事を読んだ時、同胞の誰れもの口より迸つた言葉であつた。  
勿論、駒井氏の斡旋の労に依つたのだが、それには隠れたる島田を助けた否かつぎ上げたものがあつた。  
太平洋航海中、米国旅行中に於ける非常識阿呆振りは島田が倫敦着以前に倫敦同胞間の一つ話となつて居たので、彼れが倫敦へ来ても誰一人相手にするものがなかつたのだ。  
それを拾ひ上げ、一切の世話面倒を見て、駒井君を引合せてあの会合までやらせたのは、一片の紹介状を受取つた東京の実業家に選ばれ米国より英国に来り、ヨークシヤの工場で職工となつて研究をして居る一青年であつたのだ。  
自分はその青年を一度倫敦の日本人倶楽部で見かけたが、惜しいかなその姓名を逸した。日本人としては立派な体躯で、眼光の鋭い意志の鞏固な、而して相手に快感を与へる純英国式の応待振りが今迄もその印象として残つて居る。  
自分はいつも、新聞紙や雑誌に現はれ来る、政治経済学術等の総ての出来事や、洪瀾の影には隠れたる大きな力が動いて居るのを想ふ。  
島田と云ふ馬鹿者の一些事に過ぎぬが、隠れた力として思ふ時にヨークシヤの工場であの青年が、油服を着てコツ/\と働いて居る姿を眼前に髣髴せざるを得ない。  
 
島清雑説 / 舟木芳江事件
 

 

読売新聞 大正12年4月14日号  
島田清次郎氏が監禁の罪で葉山から拘引さる某名家の令嬢を誘拐して  
【横浜電話】昨秋洋行を終つて帰朝した創作家島田清次郎(二五)氏は去八日相州逗子町桜山旅館養神亭に来て静養旁々(かたがた)創作に耽つたが十日午後二時四十九分発列車で帰京のため逗子駅発列車を待ち合せた。折柄同駅は摂政殿下葉山から御帰京のため駅の内外は警官、憲兵の大警戒を加へてゐた際突如、横浜寿署刑事は同氏の姿を見るや否やウムをいはせず自動車で葉山署に護送し渡辺署長より厳重な取調べを受けたが遂に十三日午前十一時廿六分逗子駅発上り列車で横浜地方裁判所検事局に送られ強盗監禁脅迫の罪名の下に検事廷で西村検事から厳重な取調べを受けて居るが罪状明瞭の為め収監さるゝ模様である。事件は某名家の令嬢を逗子の養神亭に連れ込んで脅迫監禁し其の所持金を奪つたのである。  
色情狂の様な振舞文壇の誇大妄想狂  
島田氏が欧米巡遊の度に出たのは昨年五月三日で先づ米国に向つたが乗船の大洋丸では乗客の大使館附森島氏夫人高子さんにキツスを強要して事務長から譴責され、ロンドンでは島田氏の所謂花形女優ミス・マーガレツト嬢に現を抜かした。帰朝して府下代々木富ヶ谷に一戸を構へてゐた氏は金沢市生れの今年廿五で、金沢中学を卒業し後東京明治学院に学び、英、仏、米その他欧州各国を巡遊し、昨秋帰朝した。その処女作長篇小説『地上』は生田長江、堺枯川両氏の激賞するところとなり文名上つたが人間としての氏には生田、堺両氏も好意を持つてゐない。氏には外に創作集『大望』戯曲『帝王者』感想集『早春』などがあり帰朝後『我れ世に勝てり』を発表した。文壇では誇大妄想狂の名がある。  
女から現金を強奪一尺八寸余の短刀を所持す  
十三日午後から横浜地方裁判所の西村検事は二階応接間に於て、午前十時葉山署から強盗犯人として護送された天才島田清次郎は午後六時まで峻厳な取調べを受けた。当日島田は白ツぽい夏インバに鼠色の中折帽を冠り駒下駄に大きい鞄をかゝへて縁なし眼鏡から底力のある目を覗かしてゐた。両人は前日来逗子の養神亭ホテルに東京市京橋区大鋸町十一弁護士矢代兼広(三二)同人妻貞子(二一)と詐称して宿泊してゐたが、その挙動に不審の点多く、葉山署の刑事が聞き訊すと女は男のために現金十五円を強奪されたことを申立てたので葉山署から横浜地方裁判所検事局に護送されたので検事局での島田は「両人は結婚するまでになつてゐるので逗子の別荘に在る徳富蘇峰氏にお願ひして両人のために媒介の労をお願ひに来た」と申立てたとのことであるが、彼は一尺八寸の白鞘短刀を所持してゐた。  
女中に五十円をまく豪遊振り  
【逗子電話】養神亭では語る「島田さんは外国から帰朝されてから一度泊つたことがあり次で去八日午後二時頃に来られた、そして海を見晴らす奥座敷に旅装をとき翌九日徳富蘇峰先生を訪問されたと聞きました。滞在中はよく散歩され、晩餐には女中を対手にビール二三本を上つて御機嫌は頗るよかつた、それに勘定の時には女中に五十円といふ大金を下すつた程でした。そんな大それた刑事問題なんては夢にも想ひませんネ」  
島田氏釈放  
島田氏は横浜検事局で一応取調べの上、被害者側からの告訴が無いので一時釈放され昨夜帰京した。  
読売新聞 大正12年4月15日号  
合意か、暴力か島清事件を医者語る(令嬢を診断した鮫島医師)頬や手の傷痕を見て抵抗を裏書してゐる  
嶋田清次郎対某海軍少将令嬢の事件は果して監禁であるか、或は又合意の上であるかといふことに関して、その間に可成り疑問の点があつて問題になつてゐる。このことに関して同人を診察した麻布笄町の鮫島医師は語る。  
『私がみたのは十三日の晩だが、左右の手の甲に強くツネられた痕らしい紫色のあざが数箇所、この大きさは葉山警察で計つてあつたさうだが、何れも可成り大きいもので、その他には左の頬に二本指で打たれたらしい赤くはれ上つた痕が一箇所、おまけに右の肩や背中なども滅多打ちに合つたらしい形跡があり、当人も痛い痛いといつてゐたし、顔面も一体にはれ上つてゐたやうだ。勿論これ等はこと/゛\く島田の為に蒙つたものらしく思はれる――今度の事件の真相に関しては種々な説が立つてゐるやうだが、当人同志の気持は誰も知らないのだから如何様にも推測することが出来やう。然し私は当人を診察した医師としての立場からいふならば、これ等のあざなり傷なりは抵抗した為に蒙つたものと推測するのが当然で、若し合意の上の出来事ならこんなヒドイ目に遭ふ道理がないやうに思はれる。新聞に伝へられるところによると、逗子で二人が睦じく連立つて海岸を散歩したなどゝいふことがある、それなどもおそらくは島田が無理に連れ出したことゝ思はれる。現に当人の話では家を出て以来ツイぞ島田がすゝめても少しも物を食べず十三日の晩家へ帰つて始めてのり巻を一本だけ食べたといふくらゐだ。然し幸に負傷は単にそれだけで内臓の方には少しも故障がないから数日間安静にしておいたら恢復するだらう。』  
洋行前にも女を苦しめ逃げられた島田清次郎  
【金沢特電】島田清次郎の問題が各新聞に発表さるゝや同氏の実母(五二)は一切面会を避けて一室に閉ぢ籠り打ちしをれてゐるが同人は洋行する前にも金沢の家で山形市出身の女(一九)と同棲してゐたが、同女は同人の小説『地上』に憧れ自分から同棲を求めたものであつたが男の残虐に堪へかねて同氏が洋行する少し以前無断逃走したものだといふ。  
発狂天才島清クン舟木芳江嬢に面会を強要す  
二日続けて来たが同家で突ぱね警察へ届けたので天才を厳探中  
舟木芳江さんとの一件から醜名を満天下に流し、都に居たたまらず郷里金沢市に隠れてゐた自称天才の島田清次郎クンは最近になつて発狂して自家に再三放火したなどと伝へられてゐたが、去月廿八日午後四時頃、洋服姿に中折帽を面深く人目をはばかるやうに東京に姿を現した。そして麻布材木町六九の舟木家の玄関に大きな目を見据ゑて突立つた儘案内を乞うた。同家の女中が出て来ると『俺は島田だ。芳江さんに是非お会ひしたいから取次いでくれ』とのことに同家では大いに驚き芳江さんを隠して留守だからとことわつた。目を見張つたまゝ暫くは立去らうともしなかつたが残り惜しげに辞したが、廿九日にもまた訪れ家人に追はれて立去つた。その挙動に不審のところが多く発狂してゐるらしいので舟木家では六本木署に届け出でた。同署では秘密裡に島清クンの行衛を捜してゐる。  
令嬢を監禁する迄小説家島田清次郎の罪  
悲劇の芽は五六年前に彼女が彼に送つたあこがれの手紙  
英文豪ガルズワージーの自称親友の小説家、島田清次郎が某名家の令嬢貞子(彼女の名誉の為め仮りに二人が逗子の養神亭に泊つた時の名にして置く)を脅迫監禁した事件につき貞子の長兄貞一氏(仮名)の詳細の談話を事件の一面を知る為めに左に掲げる。文学中毒の娘を持つ親達の参考にもなるべく事件としても丸で西洋の探偵物にでもありさうな奇怪な物語で貴族院議員T氏の名が出て来るなど事件を彩るに十分であらう。以下貞一氏の話である。  
島田の小説『地上』の第一巻が出で文壇に嘖々された頃、私の妹貞子は府立第○高女の二年か三年で十六七であつたが、其の小説を読んで感心して島田に手紙を出した(斯ういふ事は今度の事件が起つて初めて解つた事だから其のつもりで聞いて下さい)が、恐らく当時は様々の人から推称の手紙を受取つたらしい島田は、妹の手紙に返事をよこさなかつた。  
所が今年の正月に島田が郷里金沢から出した活版刷の年賀状が来て、妹はそれに矢張り年賀状を出した。すると二月中旬にまた島田が代々木に転居した通知の葉書が来て、余白に『お遊びにお出で下さい』とペンで書いてあつたが、妹は返事も出さず行かなかつた。それは恐らく、私や弟が島田の近頃書くものは実につまらないと話したりするのを傍で聞いてゐたせいでもあらうと思ふ。  
すると三月廿日頃、島田が突然妹を電話に呼びだして『明日遊びに来ないか』と言つたので、妹は好奇心もあり又私達兄弟の友人に沢山若い文学者があつて人格上何れも尊敬すべき人々であるので、何等の杞憂も無く翌日出かけて行つた。そして島田を『地上』の主人公大川平一郎のやうな男と思つて行つて見ると、丸で違つた人格であつたので、見事に予想を裏切られて失望して帰つた。島田は其日蓄音器をかけて聞かせたり洋行談をしたりした揚げ句に、指環を見せろと言つて妹の指から脱きとり、返して呉れと言つても、今度来た時返すと言つて到頭返さないので、午後二時頃から一時間ばかりで帰つた。  
次に三月廿五日島田から妹へ最初の手紙が来た。それは『この間は来て呉れて嬉しかつたまた来ないか』といふ数行の文句であつた。妹は彼に好意を持てなくなつてゐたが、指環をとり返したく廿八日の午後二度目の訪問をすると、指環は返して呉れず、こんな指環何だと罵り大法螺を吹くので、すつかり恐ろしくなつて帰つて来た。  
その後も電話がかゝつたが、私の家庭は厳格で妹に男から電話が来たのは例の無いことであるから、恰(ちよう)ど三月廿九日に弟がドイツに留学するので、見送りがてら神戸へ行き序に関西を旅行して暫らく留守にすると言つて電話に予防線を張つたが、その後も度々もう帰つたかと電話がかゝつた。生憎女中が暇をとつてゐて電話には大概妹が出るので、島田の電話には自分が女中のやうな風で未だ帰らないと言つてゐた。すると四月四日に二度目の手紙が来た。それには暗示的に結婚の申込みを書いてあつた。  
暗の暴風雨を衝いて男女は葉山へ無人の家を叩く彼女の父  
その島田の手紙には、ある男がある女を恋してゐる、男は何にでも女の意に適ふやうな人間になる、また年が若いから政治家になれと言へば大政治家になるし実業家になつて金を儲けろと言へば大実業家にもなるし、軍人になつて大将になれと言へば大将にもなる、あなたはさういふ男に結婚を申込まれたらどうするかといふ意味で二枚ばかりの長さの手紙であつたが妹は返事を出さなかつた。  
その後も電話が何度もかかつたが、或る時電話に母が出ると、それが島田からで妹が在宅だと答へ妹が已むなく電話に出ると、島田は妹に是非来い、来ないと承知しないなぞと脅迫したので、妹は指輪が島田の手にあるからこんな事を言はれるのだ、何うでも取り返したいが一人で行くのは恐しいので学校時代(妹はこの三月府立第○高女を出た)の親友である政友会の領袖某代議士の娘かね子(仮名)に一緒に行つて呉れと頼むと、かね子は親か兄に相談するやうに勧めたが、妹はさうすると前に家に隠れて島田を訪ねたのが暴露するのが恐いからと強ひてかね子に頼み到頭二人で島田を訪ねた。それが事件の起つた四月八日の事で、午後三時頃であつた。  
かね子は島田の家の前に立つてゐた。妹が友人が待つてゐるから指輪をすぐ返してくれと言ふと、島田はかね子をも家に呼び入れた。妹は友人もゐるので気強く指輪の返却を迫つたが、愚弄して返さない上に今日は家に帰さない、二階に来いと言つて、逃げようとするのを捉へて無理に二階に引上げ意に従へと言つて殴つたり短刀を抜いて脅迫したりするので、妹は叫び声を上げて救ひを求めた。かね子も吃驚して二階に上つたが怒られて下された。  
恰ど八日はあの大嵐の日で其の時はもう晩の五時であつたし、叫び声は家の外へは洩れなかつたかも知れないが、家の下の部屋にゐる島田の母親と書生にはよく聞えた筈で、かね子も書生に島田の凶暴をとめてくれと頼んだが、書生も母親も二階に上らうとさへしなかつた。妹は時間も晩くなるし、かね子を帰さないと気の毒と思ひ、若しもの事があれば死ぬ、帰りに麻布の家に行つて知らせて呉れと頼んでかね子を帰した。  
その後で妹はどうしても帰らうとすると、島田は何処かへ出たければ一緒に出ようといふので兎も角外へ出た上で逃げようと考へた。それに当時私は京都に旅行中だつたので、迎ひに来るとすれば父より外にないが、島田が老年の父にどんな乱暴もし兼ねないと思つたので、一緒に出ることを承知すると、島田は車を二台呼び、鞄を持ち出して旅の仕度をしてゐるので、其の間に妹は紙片に『交番に知らせてくれ』と書き、五円紙幣と共に、車に乗る時車夫に渡すと、島田がそれを見つけて車夫から取り上げ、紙片を引裂いて了つた。それから渋谷駅から電車で品川へ行き、汽車に乗り替へて葉山に行つたが、其の間妹は恐怖に脅えて頭がぐら/\して居り、島田の監視が厳重で逃げる事が出来なかつた。  
一方かね子から事情を聞いた父は驚いてかね子を案内に二人自働車に乗り、暴風雨を冒して島田の家に駆けつけると、恰ど家の前で二台の車が梶棒を上げる処であつたから、屹度島田と妹だらうと思つて声をかけると、違ひますと言つた。一人は年寄りの女の声で一人は若い男の声であつた。車夫にきくと島田さんには誰もゐませんと言つた。門は内から閉まり横手のくゞりは外から錠が下りてゐた。頻りに呼んだが声が無いので近所の交番から巡査をつれて来て調べたが、矢張り無人のやうであつた。仕方なく淀橋署に行つて届け出たが、父には島田と妹がどんな事情にあるのか丸で関係が分らないので、すぐに告訴をもし兼ねたのであらうと思ふ。  
徳富蘇峰氏を呼び自己の偉大を誇示す京都へ行く途上に拘引  
空しく帰宅した父はすぐ親戚の人々に来て貰つて相談したが、父や親戚には島田清次郎が何者か分らず、鵠沼に島田といふ別荘があるがそれでは無いかと翌九日親戚の者が鵠沼へ出向いたが要領を得なかつた。  
私は九日に京都から鎌倉の家に帰ると、父から直ぐ来いといふ電報が来てゐたので急いで上京すると、鵠沼へ行つた者はまだ帰つてゐなかつた。その帰りを待つて相談したが、私にも全然行先きの見当がつかない。とにかく代々木の島田の家に行つて見ると、書生が一人ゐたが何を聞いても要領を得ないので、其の晩の車屋を確かめて訊ねて見ると、その夕方と夜にかけて車が五台出てゐる。最初の一台はかね子の乗つたもので、次の二台は島田と妹らしい。最後の二台は父の見たもので、之は島田の母親が急に金沢へでも帰ることになつて、書生がそれを停車場に送つて行つたものと分つた。  
一方葉山の養神亭へついてからも島田は厳重に監視し、一寸立つても後へついて歩き部屋では絶えず意に従へと言つて脅迫し、殴つたり髪を掴んで引き摺り廻したりした。妹は食事の勇気もなく、十日の午後まで一食も一睡もしなかつた。島田が飯を食へと起るので、飲んだ風をして牛乳を捨てたりした。島田は短刀を抜いて床の花瓶に挿してある桜の枝を切つて切れ味を見せて脅しもした。その短刀は鞘がこはれてゐたが島田は、之は鞘のまゝで人を殴つた時に破れたのだと言つた。  
二人は坐つて睨み合つてゐたが、九日の晩宿の女中が湯に入つてゐるのを知り、女中に話して救つて貰はうと思ひ、島田の止めるを強ひて湯に入つたが、島田は湯殿の入口に立つて監視し、妹が女中に一と言云ひかけると島田が怒つて湯から妹を引出して了つた。妹は金を十五円持つてゐたが、島田はそれを取り上げて逃げ出す旅費を無くして了つた。  
九日に徳富蘇峰氏が島田を訪問した。何と島田が電話をかけたか分らないが、アノ老大家が確に桜山の別荘からやつて来た。ある新聞にはそれが妹との結婚を頼む為めに島田が氏に来て貰つたやうになつてゐるが、事実は島田が徳富氏程の人も自分が呼べば来るといふ自分の偉大さを妹に見せる為めにした事で扨て、徳富氏は来たが何の話題もないので此の娘と結婚したから媒酌をして欲しいなどと口から出任せに喋つたらしいので、蘇峰氏はこの時国木田独歩の話などをし、島田に君は気の変り易い人間ではないのか、結婚はよく考へなきアいかんなどと言つたさうだ。  
十日の朝になつて妹はやつと隙を見つけて女中に助けて呉れと言つたので、女中は直ぐに葉山署に届けたらしいが、恰度摂政殿下が葉山の御用邸に行啓されて警察に余裕が無かつたらしく直ぐには来て呉れなかつた。その内に島田は急にこれから京都に行くと言ひ出し、自動車を呼んで停車場に行つたのが午後三時半で、殿下の御帰京を警衛してゐた警官が、養神亭からの届出での不審人物として拘引したのである。そして葉山署からの電話で父が葉山へ行つて妹を連れて帰つた。葉山で捕まつた時、島田は恐ろしい顔をして、妹に『おれに悪い事を言ふと承知しないぞ、おれは手を出さないが子分がいくらもゐるから』と言つて脅かしたとかで、妹は今でもそれを恐れてゐる。(完)  
(以下てい子の長兄の日記)前述の事柄は私が実際に調査したり、島田氏の誘拐から逃れて帰宅した妹から聞いた事実を綜合したもので、この事件の誤らぬ真相と思ふ。かゝる事柄は私達の立場として世間に発表されたくなかつたのだが、諸新聞に書き立てられた以上は、実際の事実を人々に知つて貰いたいと思つてお話したのだ。うか/\と未知の島田氏を訪ねたりした妹の軽率な好意は責むべきだが、島田氏の暴行は前述の如く驚くべきものだ。人々の公平な判断を仰ぎたい。私が同じ文芸に携はつてゐる者だけに、島田氏のかゝる行為は文壇の為にも悲しまないではゐられない。今後の処置については、私達の感情のみによつて動くべきものでなく、作家として又一種の人傑として大望を抱いてゐるらしい島田氏の将来も考へ、その上事件が世間に発表されたからには、社会問題としても十分に考慮を払つた上、最も正当だと信ずる方法を採りたいと思つてゐる。それから附加へて置きたいのは、私達兄弟は文芸に携つてはゐるが、二人とも島田氏とは一面識さへないことを知つて置いて貰いたい。さもないと妹や私達兄弟が人々からどんな誤解を受けるかも知れないと思ふからだ。とにかく悲しむべき厭はしい事件だ。私達に弱点がまつたくないとしても、かゝる事件が私達の家庭で惹き起されたことは、社会に対して慚愧しないではゐられない。  
郷里金沢に隠遁『手形』の再発に焦り抜く島田清次郎クン  
外出もせずひとり苦悶す  
舟木芳江さんとの恋愛事件に慰し難い傷手を受けた自称天才島田清次郎氏は〓〓〓都(注1)――東京から脱れ出で金沢市に帰省し今春金沢で廿七歳の春を迎へ廃残の身を郷里に淋しく託してゐる。「吾れ世に勝てり」と豪語してゐたにもかゝはらず哀れ槿花一朝の夢となつて今は金沢市小将町の一角に小さき一軒家を借り内部から堅く錠を下して只一人侘しい悶々の征服出来ない「地上」の憾みと失恋の遣る瀬なさに吐息をついてゐる。而してその上東京の出版社には全部原稿をボイコツトされ僅に旧情から新潮社のみが単行本を継続して呉れるだけの悲境に落ち入つた。極度に呪詛と煩悶に焦燥狂熱した清次郎氏は帰省後高岡町なる実母のもとに同居してゐたが、先ごろ右の小将町の一角に借家を求め母さへも寄せつけず一歩も外出などはせず以前彼が豪勢時代に振り出した「手形」の再発を頻りに焦つてゐる。(注1)三文字読み取れず。  
発狂天才島清クン舟木芳江嬢に面会を強要す  
二日続けて来たが同家で突ぱね警察へ届けたので天才を厳探中  
舟木芳江さんとの一件から醜名を満天下に流し、都に居たたまらず郷里金沢市に隠れてゐた自称天才の島田清次郎クンは最近になつて発狂して自家に再三放火したなどと伝へられてゐたが、去月廿八日午後四時頃、洋服姿に中折帽を面深く人目をはばかるやうに東京に姿を現した。そして麻布材木町六九の舟木家の玄関に大きな目を見据ゑて突立つた儘案内を乞うた。同家の女中が出て来ると『俺は島田だ。芳江さんに是非お会ひしたいから取次いでくれ』とのことに同家では大いに驚き芳江さんを隠して留守だからとことわつた。目を見張つたまゝ暫くは立去らうともしなかつたが残り惜しげに辞したが、廿九日にもまた訪れ家人に追はれて立去つた。その挙動に不審のところが多く発狂してゐるらしいので舟木家では六本木署に届け出でた。同署では秘密裡に島清クンの行衛を捜してゐる。  
車掌をなぐり島清検束さる  
三等切符で二等に乗車  
【金沢発】自称天才島田清次郎は廿九日北陸線下り六七八列車の二等室にすましてゐた所を列車が森田駅通過の際専務車掌が検札を行つたところ島田は敦賀松任間の三等切符を所持してゐたので小西車掌がお話があるから一寸車掌室へ来てくれといつたところ『俺を罪人扱ひするか』といひざま車掌の顔面を数回殴打したので同乗の旅客は車掌に同情加勢して細呂木町駅で引おろし同町巡査派出所に一夜を検束し三十日未明訓戒の上放免した。  
 
島清雑説 / 保養院入院
 

 

あはれ天才島清クンの末路  
精神病者と鑑定され昨夜保養院送り  
青山墓地の爆弾事件犯人捜査のため巣鴨署では三十日午前一時から全署員を督して管内の総密行を行つた所、午前二時半ごろ巣鴨町二の三五先道路で怪しい男を発見し、刑事が取押さへるとよごれたゆかたになまなましい血痕を発見したので、こいつ大きな獲物とばかり、有無をいはせず引捕へて取調べると、はじめは辻褄の合はぬ事を申し立てゝゐたが、これなん先日吉野博士の宅におしかけ、居候をきめこんでお得意の一問題起こした天才島田清次郎クンと判明したので、同署でももてあまし、引取り方を徳田秋声氏に交渉したが、同氏も受けつけてくれず、今更放還する訳にもいかず閉口してゐる。同署警察医の鑑定では精神病者なることが確実なので、更に警視庁金子技師の鑑定を仰いだ結果、いよいよ精神病者として三十一日午前九時巣鴨町庚申塚四一四保養院(私立の精神病院)に送られた。  
手前達に創作がわかるかい  
と警察でタンカを切る  
金子技師は語る。  
島清かい、あれは立派な精神病者だよ。医学的にいへば早発性痴呆症といふやつでその症状は時々興奮して怒り易く都合の悪いことは応答せずいはゆる拒絶症状だ。大分悪い方で二年位前から罹つたものらしく、本人は気狂いぢやない脳が少し悪く記憶力が鈍つたなどといつてゐた。僕が、君は長野県の生れだつたねといふと、何を馬鹿な俺は信州の山猿ぢやない、加賀百萬石だと大威張りだ。巣鴨署でも俺を気違ひ扱ひにするは不都合だとたんかを切つてゐたが大事に抱へた布呂敷を一寸見せろといふと、手前等に創作がわかるかい、と大気焔であつた。  
文芸雑事  
目下上京中の島田清二郎君は折角溜め込んだ印税を奇麗に使ひ果し、洗ひ晒しの浴衣にこれも洗濯したパナマを一箇頭に載せ、どんな内容のものか知らねど原稿を包んだ風呂敷包みを小脇にかゝへ、飄々浪々として知る辺/\を尋ね廻つてゐるが、吉野作造博士の許に寄寓を求めて断わられ、新潮社にも菊地寛氏にも相手にされず、僅かに徳田秋声氏方を足溜りに公園のベンチや停車場などで夜を明かしてゐるが、何処へ紹介しても誰ひとり引取人がない為めに警察署では已むを得ず浮浪人として保護を加へてゐるさうだ。  
右の話を聞いてから間もなくの事である、巣鴨署にやはり浮浪人として一夜留め置かれた島田清二郎君が、警視庁衛生課の金子技師の精神鑑定で早発性痴呆症の刻印を押され、遂ひに私設養生院に送られたといふ記事の某紙に現はれたのは、何はともあれ此の傷付いた魂の所有主に対して、世間にもう少し優しい温かい手を差し伸べてやる者は無いものだらうか。  
死んだと誤報された島田君  
巣鴨病院で駄々をコネる  
自称天才文士島田清次郎クンが諏訪湖畔で惨死したと長野電話は報じてゐるが、処が夫は真赤な大ウソ、御本尊の島田君は吉野作造博士や徳田秋声氏の奥さん達を散々悩ました挙句、七月三十一日夜警察から西巣鴨庚申塚の狂病人保養院へ放り込まれ、十八号室八畳の日本間を天下と頗る機嫌よく昨今ではデツプリ太つて男振りがズツト上つたさうだ。医学上の病名は、早発性痴呆の一種破瓜病とか言ふ艶つぽい方で、目が覚めれば『僕は狂人ではない。早く出して下さい、芳江さんの許へ行つて何んとか自活の道が立てたい』と医員看護婦を拝み倒して駄々をコネるかと思へば『何か書くから』と貰つた原稿用紙を枕許へ積んで喜んでゐるが、経過はあまり好くないらしく、全快の見込みはつかぬさうだ。  
自称天才の末路精神病院に泣く島清君  
島清君の売り出した頃  
「地上」第一篇が世に現はれて、洛陽の紙価を高からしめた頃の島清君の勢ひは全く素晴らしいものであつた。始めて日本の文壇に大天才が現はれたかの如くに思はれ、島清君自身は勿論自分を天才なりと堅く信じ、且つ自称してゐた。彼は既成文壇の大家を軽蔑し、殊に彼の「地上」を新潮社に紹介した生田長江氏や徳田秋声氏等までも軽蔑し、かなり傲慢な態度を執つたものらしい。殊に生田長江氏等の宅へ遊びに行つた際に、恰も座に文士や、文学青年などが居ると、非常に尊大ぶつて、生田氏にも、座の客にも狂人らしい程の態度を示したらしい、「宇宙」以下の話はしなかつたと笑はれたのもその頃である。  
「地上」第一篇は島清君が、未だ文壇に少しも名のない全くの文学青年であつたので、いゝ加減の原稿料であつたらしいが、発行所が何しろ名高い新潮社のことであり、地上の内容も既成文壇の作家のやうに狭い範囲の自己の経験や告白などとは異つて女郎屋の内幕などをそろ/\文壇に流行しかけたセンチメンタリズムで行つたのだから発行後間もなく数万部を売り尽すといふ勢ひであつた。  
世間からはやんやと喝采されるし、既成文壇の作家からも女郎屋の内幕を露骨に描いたあたりは青年の割には仲々よく書けてゐるので、或る一部では評判が良かつた。何よりも先づ碌々飯も食はないで、髪のみ蓬々とのばし、骨と皮ばかりになつた文壇の大家の門のあたりを原稿を抱いて迂路ついてゐる文学青年達の羨望の的になつたことは、彼の最も得意なところであつた。文学青年の中には、島清君に書を寄せて、彼の創作を讃美したり、態々彼の下宿を訪ねて彼と親しむことを喜ぶものすらもあつた。かゝる際には、島清君は腹が空いてよろ/\になつた文学青年に「宇宙」以上の話をして盛に煙に捲いたものだ。その頃、島清君は俺はマンではなくキングであると言つてゐた。  
次いで地上第二篇、第三篇を書いたが、これは第一篇ほどは売れなかつたらしいが、いづれにしても彼が数万円の印税を得たことは事実だから売れ行きは素晴らしいものであつた。市内を自動車で横行し、温泉や、ホテルで大威張りになつて、女中などにいたづらをしたりなどして何処へ行つても嫌はれてゐたもので岩野泡鳴氏が始めて道を拓いてから文士仲間で有名になつて、何時行つて見ても知名な文士が必ず一人か二人はゐた大森の大金に泊つてゐた時なども、女中に暴行を試みて追ひ出されたなども、島清君全盛時代の隠れた話である。郷里の金沢付近の温泉でも女中に暴行しかけたとかで土地の警察に拘引された話もある。欧米漫遊に出かけた際に、太平洋の真中でアメリカの大使館に赴任する三等書記官某氏の新夫人に露骨なキスを要求したとかで、桑港(サンフランシスコ)電報で「渡米文士の失敗」と報ぜられたこともある。  
島清君は余り文壇に友人を持つてゐなかつた。勿論、誰も島清君の対手(あいて)になつて遊ぶものがなかつたであらうが、数万円の印税を取りながらも彼と一緒になつて金を使つたものは不思議にも一人もないらしい。高い原稿料を取つて大勢の仲間や文学青年とカフエや待合で、金を湯水のやうに大ぴらに使つてゐるのが、今日の文士達の生活であるのに、島清君ほど金を隠れて費つたものは珍らしい方である。彼は元来プロ出身で、金には非常にケチであつたらしい。雑誌記者や本屋などと一緒に晩飯を食つて必ず彼は割前を要求したらしいのを見ても分る。島清君が文士仲間で評判が悪るかつたのは、勿論彼の狂(きちが)ひじみた自称天才と、人格の劣悪なことも原因であらうが、一面に彼が金には非常にケチで、仲間遊びも出来なかつたり、雑誌社や、本屋などにも無理な要求をしたので大概のものは呆れたものだ。  
キングから屋外漂泊者に  
島清君の失脚は、何と言つても例の舟木芳江嬢との事件からだ、あの事件の起らぬ前は、天下の島清と言はれなくとも、少しく頭を下げて雑誌社の御用聞になつてどうやらかうやら文士生活は出来たものだ。外遊から日本に帰つて「我世に勝てり」を出して文壇以外に、社会問題、政治問題等に大風呂敷を拡げようとしたが、誰も相手にしなかつたから何の効果もなかつた。本も余り売れなかつたらしい。しかし彼は少しも悲観しないで、代々木富ヶ谷に大きな邸宅を構へて田舎から来た母と共に豪奢な生活をしてゐた。彼が文士として、又社会改造家として幾分の重きをなして、世に働くだけの素地を作ることが出来たとすれば、その頃が一番好機会であつたらしいが、不幸にも芳江嬢事件の為めに、再び起つ能はざるまで失脚して終つたのは、如何に狂ひじみた彼にも幾分の同情は出来る。  
芳江嬢事件の為めには、彼はすつかり社会的に葬られて今まで出した本は少しも売れなくなり、折角出しかけて紙型にまでなつた「釈迦」もたうとう世に現はれずに終つた。震災前頃はもう家賃も払へずにゐたらしい。  
彼は震災で代々木の家が倒壊したのを好機会に郷里金沢へ帰つたが、年末に再び上京して原稿を持ち廻つても、何処の社でも相手にしないので、ひどく生活に困つたらしく出逢ふ人毎に金を貸せと言つて困らせたらしい。  
彼が困り抜いて、下宿にゐたゝまらずに、屋外を放浪するやうになつたのは、今年の春頃からである。  
大磯の正宗白鳥氏の宅を訪ねたのは七月頃である。白鳥氏の宅には昨年も訪問したので同氏夫妻は島清君の顔を覚えてゐたが、白鳥氏も文壇の事情の明るい××氏から既に島清君の近情を聞いて知つてゐたので、容易に上れとは言はなかつたらしいが、無遠慮な彼はずん/\上り込んで白鳥氏を困らした。新潮九月号の白鳥氏の「来訪者」の主人公は言ふまでもなく島清君である。白鳥氏の冷たいリアリズムは当時の島清君の姿をかう描いてゐる――時々やつて来る無心者ではないかと疑はれた。抱へてゐる汚い風呂敷包みの中には筆か墨が入つてゐるのぢやないかと思はれた。来訪者は私と顔を見合せると、懐つこさうに微笑した。そして足早く歩いて、閾を跨いだが、それと同時に私は思ひ出して「アヽ安達か」と独言のやうに言つた。安達はろくに挨拶もしないで、足袋を穿いてゐない埃つぽい足で玄関に上つた。「オイ無断で人の家に上つちやいけないぜ」と私が咎めると安達は何とも答へないで、玄関の壁際に無作法な姿勢をして座つた。――  
安達とは島清君のことである。零落しても相当に図々しい島清君の態度が如何にも良く描かれてゐる。彼は前夜どこで寝たことか、何時飯を喰つたことか少しも分らなかつたらしい。白鳥氏夫人から昼食を御馳走になつて、夕方まで昼寝して、已むなく帰つたらしいが、「大磯雑筆」を書き度いから玄関脇の三畳を借して呉れとか、原稿を世話して呉れとか、言つて白鳥氏に頼んだが「人に物を頼むならもつと謙遜になれ」とたしなめられたりした。  
徳田秋声氏も島清君には余程困らせられた一人である。秋声氏は島清君と同郷であり、且つ島清君を東京に紹介した先輩であるから、島清君から見れば、最も頼り行き易い人である。秋声氏は島清君とは良く親んでゐただけに彼の醜さは最も良く知つてゐる人であり、例の芳江嬢事件の際には仲裁の労を取らうとした位であるから島清君が困つた時には何より先に同氏を訪ねるのが当り前である。が、毎度のことであるから同氏も殆ど寄せつけない。此夏頃も島清君は秋声氏を訪ねたが、相手にしないので、彼は勝手口から入り込んで女中部屋に座つたまゝ動かずに、コーヒーを持つて来いとか、昼頃になると、鰻丼を取つて来いとか言つて大威張りで女中を使つたといふことである。巣鴨で巡行巡査に捕へられる前夜の三時頃などは彼の最後の単行本「釈迦」を出す筈であつたG社の出版部長の門をどん/\敲き起すので、起きて見ると、島清君が人力車に乗つて来て是非泊めて呉れと強要したので僅かな金を恵んで体よく帰したが、門前で車夫から車賃を催促されて喧嘩してゐたらしく大きな声で怒鳴つてゐたといふことなどから察すると、島清君は知り合を訪問しても泊めて呉れる人もなく郊外の墓地や、木の下などで毎夜を明かしたらしい。  
春から夏にかけて依然たる屋外漂泊者になつた島清君は、飢餓と疲労との為めに体も心も全く破壊され、その頃からもう立派に狂人としての生活に入つてゐた。  
正宗白鳥氏の宅を訪ねても、G社の出版部長や徳田秋声氏の宅を訪ねても、必ず泊めて呉れとか、若しくは本能的に明いてゐる室などに眼をつけるところから見ると、如何に彼は屋外漂泊者として夜露に濡れて不安な夜を明かすことの苦痛を深刻に味つたかゞ分る。壁や障子に包まれた落ちついた部屋の中で静かに眠り、開け放たれた窓から露ばんだ朝の光を眺めることがどんなに彼は夢みたことか。そのやうな小さな願ひさへも充たされないで、間もなく巣鴨の精神病院の一室に悩みの身を横へたのである。地上一篇で日本の文壇を支配しやうとした天才(?)の末路がかくまでも悲惨なものであつたのか。  
精神病院に於ける島清君  
巣鴨署の密行巡査に捕へられたのは七月三十一日午前二時頃であつた。その夜は瀕々として行はれる爆弾事件の警戒密行をやつてゐると巣鴨橋附近の往来をあちらこちらと何の目的もなく走り歩いてゐる怪しげな男があるので有無を言はず捕へた。見ると、色の黒い、疲れた人相の険悪な男である。黒つぽい垢じみた単衣を着て汚れた風呂敷包を大事さうに抱いてゐるが、どうしたことか全身血まみれになつてゐる。折柄の爆弾騒ぎに緊張し切つてゐた巡査達を非常に驚かした。早速本署に拘引して調べて見ると舟木芳江事件で有名になつた島田清次郎であつたので本署でも再び驚いたといふことである。  
島清君は巣鴨署で「お前達に文芸なんか分るかい」などゝ不相変(あひかはらず)巡査相手に暴言を吐いたので、署でもてつきり狂人と見做してその夜は留め置いて翌日警視庁の金子医師に診断させた結果、真正の狂人として巣鴨の保養院に送られたのである。  
島清君は巣鴨の保養院の公費患者である。つまり入院料の支払能力のないものが東京府の支弁に依て養療する患者である。彼は真正の狂人であつて病名は感情顛倒、忘覚で、喜怒哀楽の変化が限りなく、記憶が脱出したのである。私は島清君がほんとうの狂人であるかどうか、態々(わざわざ)見舞がてら見に行つたが、果して彼は今は疑ひもなく狂者である。「島田にお逢ひになりますか」と係の医員から尋ねられたので「いや、狂人に逢つたからとて記憶もあるまいから仕方がないが、硝子越しに見て行きませう」と言ふと、その医者は直ぐ島清君の病室に案内して呉れた。  
玄関側の応接間を出て島清君の病室に行かうとして広い廊下を中途まで歩いて来ると、案内の医者は急に立ち止つて、大きな泣声のする方を指して「アレが島清ですよ」と言つた。  
島清君の病室は薄ぎたない六畳敷程の室で、他に一人の患者が同室してゐた。不思議なことに彼は病院も破れるやうな大声を出して切に泣いてゐた。「頭が痛い!!」「訳が分らない!!」と悲しい声を出して泣いてゐた。怖々ながら硝子越しに覗いて見ると。彼は両手を頭の両脇に当てゝ室内を駆け廻りながら泣いてゐた。医者が「今に直して上げるから泣くんぢやない」と赤ん坊をだますやうにして彼の頭をなでながら慰めてやると少しは泣き止んだ。間もなく医者が室を出ると又しても大声で泣き出した。この悲惨なる光景を医者と共に廊下で見てゐると、それまで部屋の隅つこの方に黙座してゐた同室患者が、静かな影のやうな声で「何んだ、天下の島清ぢやないか、意気地がない、泣くな、泣くな」とたしなめてゐたのは、如何にもこれこそほんたうに同病相憐れむともいふのかと、微笑を止め得なかつた。  
島清君は大抵の日は、蒲団をかぶつて終日無言のまゝ寝てゐるさうである。余程機嫌のいゝ日には医者を相手にして雑談をしたり、或る時には原稿を書くから原稿紙を呉れと言ふが、少しも書かないらしい。以前知り合ひだつた文壇の知名の士などにも電話をかけることもあるが、いづれも旅行中だとか、何とかかとかと断はられるさうである。舟木芳江嬢の話が出ると、「いづれ結婚するつもりだ」と言ふので、病院の人達からは「あんな女はきれいにあきらめてしまへ」とか、「あんな女のことを考へてゐると病気が直らないぞ」とか言はれてゐるらしい。  
彼は不思議にも風呂に入ることを嫌つてゐる。垢じみた体で部屋の中に寝転んでゐるので、時折風呂に入れるがその際には数名の看護人が泣き叫ぶ島清君を裸にして入れるさうである。  
郷里の母親からは時折手紙が来るさうである。母親の直筆かどうかは知らないがその手紙はかなり情理をつくしたもので、頭のいゝものでなくては到底書けないやうな名文ださうである。  
島清君のみれん  
島清君の悲惨なる末路(?)を見るにつけても思ひ出されるのは舟木芳江嬢である。  
島清君は芳江嬢には深い未練を持つてゐることは多くの事実が証明してゐる。今でも出来ることならば芳江嬢と結婚し度いと考へてゐる。発狂したのも或は芳江嬢のことが主な原因になつたであらうと思はれる。震災前或る事情から島清君と懇意になつた男の話によると、彼は雑談の途切れる時には、必ず芳江嬢の話をしたといふことから見ても、彼の未練が如何に根強いものであるかゞ分る。  
島清君が直接舟木家を訪問して芳江嬢に面会を強要したのも、或る男のいたづら半分からの煽動に乗じられたものらしい。それは彼が余りに熱心に芳江嬢の話をするので、すべてラヴアフエヤは本人との直接交渉が最も効果的なものであるから、蔭で徒らに悩むよりは、本人に逢つて自分の真心を打ち明けたならば、必ず成功するに違ひない、君を拒絶するのは芳江嬢の心ではなくて、家族の世間体からだらう」と言はれて島清君も熱心になつて、芳江嬢に逢ふ方法などを聞いたといふことであるが、間もなく島清君が舟木家に訪ねたといふ新聞記事として現はれたのである。  
白鳥氏の「来訪者」の中にも、白鳥夫人と島清君との対話に「不断は忘れてますが、わたしの頭をもつと大きな箪笥のやうな物と仮定すると、この底の方へ着物のやうに畳んでしまつてあるやうなものです、それで時々引き出されるのです」と彼は白鳥夫人に芳江嬢に対する未練を告白してゐる。  
何と言つても島清君は青年である。或は愛すべき青年であるかも知れない。一女性との事件が動機となつて、パンとペンとを共に奪はれ、雨露をしのぐ一夜の宿も与へられずに、わずかに郊外の墓石、公園のベンチにもたれて夜を明かすほどの漂泊者となり、遂には精神病院の一室に狂ひ泣くとは自業自得とはいへ一掬の同情に値ひしない事もあるまい。  
狂人となつた島田清次郎君を精神病院の一室に訪ふ記  
暗いところに種を蒔いて、ごく僅かな光線しか与へないと、その芽は苦もなく生長して、青白い細長いものになる。所謂『萌(もやし)』は、かうしてできる。萌は結局もやし(、、、)で、種にはならぬ。  
どんなに早く成長したにせよ、それが軅(やが)て花を咲き実を結ぶ植物になるとは期待し兼ねる。  
立派な樹木、丈夫な草木になる筈の種を、単に『萌(もやし)』に終らせるのは、却つて場所を暗くしたものにその責めはあるわけだ。  
青春二十一二で一躍文壇の寵児となり、名を天下になした『天才』島田清次郎君は、今『狂人』として、東京市外巣鴨の保養院の一室に淋しく療養してゐる。  
彼は実に『天才』といふ世評に反かず、その出世は早かつたが、またあまり綺麗に『天才と狂人』の距離の近いことを説明してしまつた。  
『天才』が『狂人』になるのは、医学上からは少しも不思議はないさうだが、社会が天才に対して非常な賞讃を送り、優遇をしながら、狂人に対しては牢獄のやうな生活を味はせる点から考へると、両者の懸隔は甚だしいやうに思はれる。  
天才待遇を受けた時代、島田君はその若さ故に少々図に乗り過ぎた嫌ひはあつたらう。そして例の舟木氏令嬢に関する事件などを惹起し、だん/\世の信用を失ひ、果ては自殺説まで伝へられたりした。そして今、狂人としての扱ひを受けるに至つて、寧ろ可哀相なほど侮蔑と嘲笑とをあびせられてゐる。  
社会はかういふことが大好きである。常に人をからかひたがる様子が見える。島田君は、実は完全にそのからかひものになつたわけだ。  
しかしたうとう本物の狂人になつてしまつたと聞いたとき、私は何となく気の毒だといふ感じがした。かうなればもう、本人の軽率をのみ責めるよりも、罪つくりをした社会の態度を、何とか言つてやりたくなる。  
兎も角、私は一度本人に会つて、その近況を知りたいと思つて、保養院に彼を訪ねてみた。  
 
保養院は板橋街道の庚申塚と言はれるあたりにある。昔はこの辺は所謂、武蔵野の一隅として、淋しい辺鄙なところだつたかも知れないが、今は狸もお化も出ない、市内そつくりの賑かさである。しかし朝夕、牛車、馬車(その殆ど全部が糞尿車)の往来が夥しく、やはり街道気分は充分残つてゐる。争はれないものだ。  
『保養院』といふ大きな門札が赤煉瓦の門に掲げられ、石畳が八つ手の植込を巡つて玄関に導いてくれる。若い可愛い看護婦さんが受附にゐて、丁寧に応接室に案内してくれる。この看護婦さんが気に入つた。誰か自分の身寄のものが狂人になつて、この保養院に入院すればいゝになア、そしたら‥‥ヘヽ‥‥毎日来られるになアと思つた。  
先づ係の医師に来意を告げ、島田君の日常について聞くと、この頃は病状も良好の方だが、時によると煩悶して終日泣いたりすることはあるさうだ。そしてよく『紙をくれ。』と言つては原稿用紙を請求して、鉛筆を走らせたりするが、無論、まとまつたものはできないといふことだつた。  
私がスケッチブックを用意して来てるのを悟られたとき、医師側の態度は急変して『折角だが面会はお断りしたい。』といふことになつた。そして更にかう言つた。『兎も角あの人は天才ですから、病院でも公費の患者であるけれど、特別に丁寧に待遇してゐるんです。今、病を得てゐるからつて、見世物扱ひにされては困りますので‥‥。』との挨拶。病院は決して精神病者とも狂人とも言はない。どこまでも天才々々といふ。そこに医者らしい態度が見受けられる。且また公費の患者だが、特別丁寧に待遇してゐるといふことは、彼のために大いに満足に感じたが、同時に公費患者の他のものは特別丁寧の部に入らないんだナと思ふと、ちよつと変な気になつた。  
さういふことは問題外として、こゝまで話が運んでゐながら、急に会はせないとは一寸閉口した。そこで自分の頭の中にスケッチする決心をして、『それではこのスケッチブックはお預けいたしますが。』といふ条件を出しても許さないといふ。つまり特別丁寧の患者であるだけに、初対面のものには成るべく会はせないやうにしてゐるのは事実らしい。  
しかし私がこの病院を訪ねる動機からして、彼を見世物扱ひにする積りでもなければ、無論またからかひなぞに来てゐるわけではないのだから、先方はどうでも、私の方では会う必要も四角もあると信じてゐる。兎も角願ひを許して貰ふ。  
 
長い廊下を案内してくれる白服の医師の手には、冷たい鍵が光る。何となく陰惨な気持になる。『狂人のをる病院だナ。』と強く胸を衝くものがある。カチャ/\と鍵の音がして、重い鉄格子の扉(ドア)が静かに開く。体一ぱいピリ/\とする。  
『をるかな?機嫌はいゝかナ?大風呂敷を拡げられるかナ?それとも相手が相手だからつかみかゝられやしないかな?』こんな想像が瞬間に閃く。  
扉の中はすぐ彼の室になつてゐるわけではない。更に廊下があつて同じやうな病人達の部屋が並んでゐる。そして可哀相な人達が、明け暮れわけもなくカラ/\と笑つてみたり、泣いたり、または怒つたりして、社会から全くかけはなれた日を送つてゐる。島田君の室はその一番はづれだつた。  
あらかじめ訪問者のあることを知らされてゐてか、やゝ入口に近いところにキチンと正坐してゐた。  
部屋は古びた六畳で、両方は冷たい壁で、入口に対した方は岩乗(がんじょう)な鉄の格子の窓を通して、貧弱ながら木立の庭を眺められる。彼は木綿の粗末な縞の着物を着てゐて、顔色はいくらか蒼白だつた。  
挨拶しても黙つてゐる。話しかけても返事をしない。たゞ如何にも不安さうに、怯えた眼付で私を凝視してゐる。私が初対面であることに、多大の不安を感じたらしい。夜具は窓に近いところに敷かれて、掛蒲団は蹴脱いだまゝの恰好をしてゐた。無論粗末な煎餅蒲団に過ぎない。枕頭には二三の古新聞紙をおいてあるほか、何一つの品物も装飾も見当らない。私までが淋しい、いたましい気持になる‥‥。  
私は快く世間話でもして見たいつもりで来たのだが、島田君に取つては、もう私が前に坐つてゐることが厭で/\ならないやうな態度である。それでも私の言葉を注意深く聞いてゐて、少しでも私の弁にもつれが来たりして不明瞭になると、『えー?』と、大変大きな声で反問する。少し何か話でもして貰ひたいと思つて問ひかけると、くるりと横向きになつて、『しつこい。』とか『うるさい。』とか嘆息する。時には『誰かゐませんか?』と大声を出して人を呼ぶ。私ももう、いゝ加減にへこたれてしまつた。  
『こりやまだ本物だナ。』てなことを思ふ。  
スケッチさせてくれるやうに頼んでみると、絶対にいやだと言つて、『あなたが、少しでも常識をもつてゐられる方なら、私が今、どこにゐるかといふことをお考へになつて、戴きたい。』と悲痛な面持をして、部屋を一あたり見廻した。その態度といひ、言語といひ、堂々たるものである。かういふところは決して常人の道を外れてはゐない。  
あらかじめ医師の注意で、贈物として原稿用紙と鉛筆とを持つて来たのを出すと、受取らない。『原稿紙が何です?』その語気は鋭かつた。私はもう私の方が気でも狂ひさうになる。しどろもどろにその寸志を語る。『兎も角私はあなたは知らない人なんですから‥‥戴くわけにはゆきません。』更に言葉をつゞけて、『御覧の通りの有様で、今は文筆は執りません‥‥。』さうですか、へい/\といふやうな風に逃げ出すよりほかに道はなくなる。  
最後に島田君の知人や先輩の名を少し出すと『あなたは知らない人だけれど、私をお見舞くださつたことはありがたうございます。あなたが社会(・・)へお帰りになりましたら、どうぞ、そんな方々にもよろしくお伝へください。』といふ。その『社会』といふ言葉が気のせゐかズキンと来る。仕方がない。引きあげる。  
医師に向つて『まだ余程悪いんですね?』と言つた私の、このときの感じは、これだけだつた。  
『原稿紙はいらないつて言ひますか‥‥私があげると喜んで貰ふんですが‥‥。』さう言つて持てあました私の贈物を預つてくれた。  
『やれ/\。』そんな気持になつて病院を辞した。道々、『気の毒だ、可哀相だ。』といふ気持で一ぱいだつた。  
 
現在の状態から見ると、島田清次郎君は結局人間の萌(もやし)みたいなものだ。しかもそれは本人の軽はずみな点にもよるが、より大きな責は社会でも負はなければなるまい。  
私は島田君の著『早春』の中の一句を、もう一度御自身に味つてもらひたい気持がする。  
清次郎よ道は遠い  
あせるなかれ  
へまなことをするなかれ  
笑はれるやうなことをするなかれ  
偉大なものの生れ  
世が尊敬せずにはゐられなくなる迄まて!  
もうどこへもやるな  
卑屈を去れ  
哀れをこふな  
自分一人、堂々とゆけ。  
未だ島田君には本気はある。思慮もある。きつと先刻の私の訪問‥‥そして矢継早の話振りを不快に思つてゐるだらう。侮辱されたやうな気になつて憤慨してはゐないかしら‥‥そんな気がしたので、私はもう一度病院を訪ねて、私の訪問後の彼の様子を聞いてみた。  
『いゝえ、キョトンとしてゐられますよ。』  
さうか、安心した。矢張り未だ病人だ。  
読売新聞 大正14年8月25日号  
巣鴨庚申塚の保養院の一室で長編『獅子』(ライオンの一生を自分に擬した)を書き上げた島田清次郎クンもスツカリ正気にかへつたので、同郷人の建築師東方明君と例の観自在木村秀雄君とで速く退院させようとシキリに奔走してゐるさうだ。金沢を引き払つて数日前上京した実母の近況をでも聞かせようものなら人一倍親思ひの島清クンが昂奮の結果トビ出さないものでもないと、本人には一切秘密にしてゐる。東方氏は『先日病院の格子窓で面会したがひどくやつれてゐて、けふで一年と廿一日になると力なく言つたのには思はずホロリとさせられた』と。尚近日退院の上生活問題に就ても何かと心配してゐる由をつけ加へた。  
島田清次郎君の発狂  
一彼の家系  
飛んだ回顧録の御注文を受けて、聊かたぢらはれずには居られぬ。――事が人々の名誉や何かに係はり、当り触りも多からうから、普通の雑誌であるのなら御断りしたいのであるが、雑誌が専門の雑誌であると云ふので、許せる範囲内で島田君の発狂した原因を、簡単に書いて見る事にする。――島田君の発狂した原因に就ては、殆んど世人が知つて居らぬのだから、これ等の原因の裏面消息を語るのも、研究の一材料となるであらう。  
島田君の出世作『地上』に出て来る、彼の故郷は確か大川村としてあつたが、あれは石川県の美川と云ふ処で、手取川の川口にある小港である。  
彼の小説では、自分の家を大変の名家のやうに書いてあるが、別に村長でも何でもなく、彼の誇大妄想的な想像から、ああした名家にせねば気がすまなかつたのである。  
彼の祖父は誰とか云つて、名を忘れてしまつたが、僕の祖父――千五百石取の小侍であつた――の家の門番をしてゐた者で、非常識な男であつたが、遂に気が変になつてしまつたとか云ふ話であつた。  
『地上』を出した当時、彼の母がしきりに僕に向つて、おぢ様のやうになりはせぬかと心配でたまらぬと云ひ云ひして居たが、遂にその通りになつたので、実に気の毒に思つてゐる。――その母は今でも僕の家へやつて来て『清次がどうなつたか見て来てくれ』と云つては、僕が僕の母と連れだつて巣鴨の脳病院へ行つて、控へ室へ彼を連れ出すと、そつと窓の外から覗いて帰るので、つくづく不幸な星月の下に生れた女だなと、気の毒でならぬのである。  
そつと窓の外から覗いて帰るのは、彼が母の姿を見ると、必ず連れて帰つて来れとアバれて、四五日は病勢がつのるからである。  
二  
中学は同じ金沢の第二中学で、僕が四年の時に彼は一年生で、よく柔道をもんでやつたものであつた。その時分は全く小さな子供であつたが、きかぬ気の男で、やたらに負けるのが嫌で、投げると武者ぶりついて来る男であつた。  
僕は卒業をすると直ぐに、東京へ出て早稲田に入り、そこを卒業すると、銀座の某商店の番頭になつて働いてゐた。  
その時分、雑誌の中で『中外』と云ふのがあつて、始めて新聞半頁の広告をやり出し、中央公論を向うに張つて、ラリカルな思想を宣伝し出した物で、それが財政的に破綻をすると共に、その色彩と特長が分れて『改造』と『解放』が出来たのである。  
その雑誌がつぶれる最後の号に、丘浅次郎博士の妙な論文が出たので、僕は番頭ながら癪にさはつて、直ぐに学術的な駁論を書いて、それをその雑誌にのせてもらはうと思つて、友人の紹介で、その『中外』の客員をしてゐる有名な批評家の○○氏の処へ行つたのである。  
原稿の事を依頼すると、雑誌がもう来月から出ぬとか云ふ話だと云ふ事を聞いて、がつかりした様な気持で辞して帰らうとすると、玄関のところで色の黒い青年が入つて来るのに出会つた。  
夕暮の光を背にして入つて来るので、誰であるか分らぬので、黙つて出やうとすると、その男は僕に声をかけて『あなたは中山さんぢやありませぬか』と尋ねるのである。――何だか見おぼえのあるやうな、ないやうな気がするので、誰であるかを反問して、やつと島田君である事が分つたのである。  
主人の○○氏は『やあ御存じですか、島田君はね、今度非常に良い小説を書きましてね、それを出版してくれと云つて、持つて来ましたがね、実に感心してしまひましたよ、今日新潮社へ行つて出す相談をして来たのですよ』との話。それからどうして食つてゐるかとか何とか云ふ話で、非常に困つてゐるので、当分飯が食へる様になるまで、僕の家に来たまへと云ふので、根津権現前にあつた僕の家に連れて来たので、『地上』が出たのは何でもそれから四ケ月ばかりたつてからで、僕の家に居た時である。  
僕の家に来た時は乞食のやうな、なりをして居り、体から乞食のやうな臭気を発するので、それをすつかり洗濯をし、僕の衣物なんかを著せて、どうにか不自由のないまでにしたのである。  
いよいよ『地上』が出て、名声があがると、島田式と云ふ高慢が芽を現はして来たので、家に居ると僕や妹や僕の両親を、全く奴隷視する様になり、『お前の家に居てやるのを光栄とおぼえろ』とか、何とか云ふ変な事を云ひ出したのである。  
両親からも抗議が出、妹からは手を握るの、何のと云ふ抗議が出、何だつたかつかの機会に、余り乱暴な事を云ふので、僕も堪忍袋の緒をきつて、家の外へ投げ出してしまつたのである。彼は衣物の泥を払ひもせず、おぼえて居ろと立ち去つて、車屋に荷物を取りに寄させて、ドコかへ移つてしまつた。それからの島田君の生活は、有名な『島清』式のものとなつたのである。  
三  
島清式の生活を自分で英雄がつてゐる冬、例のヒドイ流行感冒が世界中を脅かし始めた。その時彼もその患者の一人であつたが、島清式の英雄ぶりに誰も寄りつかぬので、非常に孤独であつたのであらう。彼は突然に僕にハガキを寄せて『流感で臥てゐる。人は冷たし、木枯は寒し、これまでの態度は悪かつたから、看護に来てくれ』と云つて来た。  
それで彼も前非を悔いたか、生意気にならぬさえしたならば、また良い友達になつてやらうと思ひながら、彼の下宿に行つたのである。  
彼は本郷の蓬莱館とか何とか云ふ安下宿に居り、『地上』が出たとは云ふものの、同書の第一部は無印税の約束だつたので、本が売れてもみぢめな姿で、毎月五十円かづつもらふ金で生活してゐたのであつた。  
見ると障子は破れて外気が吹雪き込み、障子や戸は建てつきが悪くて、風が吹き入るのである。実に悲惨とも何とも、云ひ様ない病状であつた。額に手をさはつて見ると、四十度もある大熱である。  
この悲惨な光景にすつかり同情をして、早速に糊を買つて障子を張りかへ、障子の隙間には新聞紙をつめ、炭を買つて湯気をわかし部屋を温め、流感に特効のある漢方の『地龍』を煎じ出して、飲ませると翌朝から平熱になり、食大に進み三日目には床の上に坐せるだけに回復した。  
かくて少し元気が出ると、また島清式の高慢が出て、僕を下男扱ひにするのである。然し最後になつて、とうとう僕の堪忍も爆発してしまつた。――それは彼が『地上』を出してもらつた○○氏に対して、聞き棄てならぬ暴言を吐き『天才に奉仕するのが凡人の勤めだ』と云つた。  
僕は『ほう、では僕が君を看護するのも、君の様な天才に対するつとめかね』と聞くと、『そうだ、生意気な口答をするな、貴様は同郷だから出入りを許してやるのだ、我輩の看病をさせてやるのを有難く思へ』との話。  
あんまり癪にさはつたので、僕も声を大きくして『何を云ふか、お前は木枯は寒し、人は冷たし、来てくれ頼むと泣言で哀願したから、窮鳥も懐に入れば猟師も云々と云ふから、お前は生意気な野郎だが、来てやつたのだ、お前に何の責任があつて奉仕せねばならぬのか』と怒鳴つた。  
すると『天才に反抗するか』と云つて、まるで殿様が家来を手打ちにする様な形で、僕になぐり掛つたのである。  
僕はしつかりと其手を押へて『まあ静かにしろ、僕をなぐりたければ何時でも相手になつてやる。然し僕は今健康だ、お前は病人だ、お前の対手にはなれぬ、病人をなぐつて死なれては困るからな。貴様が健康になつたら、何時でも相手になつてやる。イヤ必ず貴様をなぐつて見せる。中学時代の手並をおぼえて居ろうが』  
と云つて、その部屋を逃げ出した。島清君は二階の上から『糞ッ馬鹿!帰れ』と怒鳴つてゐた。これには如何な僕も呆れ果ててしまつた。それから病気が治るなり必ず、なぐりつける決心をし、人にもそれを語つてゐた。  
四  
島田君の病を治して間もなく、僕は店員生活をやめて新聞記者になつたが、島田君を見つけ次第になぐるつもりで、秘かに懐ろに武器を入れて歩いたりしてゐた。  
島田君が治つたと云ふ話を聞いたが、ちつとも姿を見せぬ。下宿へ尋ねて行つても、移つてしまつたと云ふ。  
実は文士の常として、頗る腕力が弱いので、兇器でヒドイ目にでも合はせてやらねば、或は負けるかも知れぬと武器を用意してゐたのだ。だが内心では今ではアイツに負けるかも知れぬがと、少々こわかつたものだ。  
処が弱い男の下にも、下には下があるもので、或る知人の医者の処へ行くと『島田君がね、君になぐられるのが恐ろしいと云つて、クゲ沼に行きましたよ』との話。――僕も僕に恐ろしがる男が世にあるものかなと、実は自分でほつとしたのである。――義理にでも喧嘩をせねばならぬと思つたので。  
だが人間は相手が弱いと見ると、つけあがる癖があるもので、島田君が僕に恐れをなして逃げ出したとなると、急に気が強くなつて、クゲ沼へなぐりに行くと云ふ手紙を出したものである。――すると先生、また其処を恐れて国へ帰つてしまつた。  
国へ帰つては彼は母と二人で二階借りを始めたが、運悪くも其家は、僕の母の里家であつて、彼の行動は一々僕の処へ達した。――何でも従弟からの通信によると、其処での彼の生活も狂的なものであつて、母と二人で飯を食つてゐて、気に入らぬ事があると、イキナリお汁を母親の面から、ひつかけた事が度々で、母親は良くこぼしこぼし、顔を洗ひに下におりて来たと云ふ。また時折は母を足で蹴つて、非常な虐待をした事もあると云ふのである。  
こんな親不孝な通信に接すると、僕の血は義憤に燃えた。そして従弟に対して、島田の暴行から其母を救つて保護してやれと書き送つたのである。――これに刺戟されて、僕の従弟は、島田が母を二階から蹴落してしまふと怒鳴つてあばれた時、それを仲裁して、島田をヒドクなぐりつけたと云ふ事である。――ところが母となると、また変に子供が可愛ゆいと見えて、自分を保護するために、他人が息子をなぐるのが気にくはぬのであつた。  
それや、これやで島田君はまた、母の里を飛び出して、また上京して、今度は洋行となつたのである。  
五  
洋行から帰つて来て、舟木事件を起し、全く世の中から捨てられてしまつた。そしてそのあとに直ぐに大正十二年の大地震がやつて来た。  
僕の根津の家は焼けなかつたが半壊になつて、住めなくなつたので、下落合の親戚の家を転宅する事になつたが、そこは下宿屋の跡の大きな家であつたので、部屋があいて居た。すると或日叔母に家を借りる約束をして、荷物を持ち込んだ男がある。――見ると島田君だ。  
その家には金沢で島田君に二階を借した、僕の祖母も来て居れば、また島田君をなぐりつけた従弟も来てゐる。島田君は僕達を見ると、顔の色をかへて考へこんでしまつたのである。  
然し地震の後だ。お互ひに親切にしあいたい心で一ぱいになつてゐる時でもあり、僕も島田君の一切を許して、友達になる事になつた。――島田君は舟木事件でひどい目にあつて、すつかりおとなしくなつて、僕や母の云ふ事を、ハイ/\とかしこまつて聞いて居る様子が、実におかしい程だつた。  
だが島田の母を虐待する癖は、当分の中は無かつたが、二三ケ月すると、そろ/\始つて来出して、或日島田君が母をなぐりつけ、母が逃げるのを追ふて、僕等の住んでゐる棟にやつて来た。丁度その時は、僕が留守であつたが、それを見た僕の従弟が島田君の母をかばいながら、島田君をなぐりつけた。島田君の金ブチの眼鏡はこはれて飛び、更に喰つてかかるのを、廊下から庭へ投げ飛ばしてしまつた。  
すると島田君は「糞ツ」と云ひながら、自分の部屋へ帰つて、カバンを持つてぷんぷん云つて、家を飛び出してしまつたとの事である。  
それからドコをドウ飛び渉いたのか、一週間ほどたつと、新聞に島田君の発狂が報ぜられ、母親は気毒な様に泣きくづれた。――何でも菊池寛君あたりの家へも、泊めてくれと云つて出掛けたとの事も新聞に見えた。  
六  
島田君の発狂はこの様に、根本の原因は其の家系に精神病者があるからであるが、その精神異常をいよ/\本物にした直接の誘引は何であつたか。  
僕は彼の母の願ひで病院へ見舞ひに行つたり、或は彼から餡パンが食ひたいから持つて来てほしいなど云ふ手紙が来る度に、それを持つて出掛けて居るが、昨年彼の気分も大分に落ちついて来たので、或日『君はなぜ気が狂つたか、その第一の原因は何か』と問ふた事がある。  
すると彼は『地上』を出すために世話になつた文士の事を云ひ出して『君は○○の病気の事を知つてゐるだらう。僕はあの病気を知らず出入をし、あそこで飯を食つたり何かしたが、あの恐ろしい○○病がうつりはせなかつたらうかと、しよちう心配になり、一寸蚤が食つたのを見ても、その徴候でないかと心臓がドキリとし、熱が出ても心配になり、果ては夢にまで体がくづれて、浅草あたりを乞食してゐるのを見、それがしよつちう頭を離れなかつた。それだ』  
と云つて淋しく笑つた。○○氏は島田君を世に出し、恩を仇で報ぜられて、全く煮え湯を飲まされた形だつたが、その病気によつて島田君の遺伝的な恐迫感念を刺戟して、無形の報復をした事になつたのだ。  
○○氏の病気に就ては、誰でもイヤであるが、そう何時までも恐迫感念におそはれると云ふ事が精神病患者たるの故であつた。かくて僕が彼を流感の時に救つて、治つたらなぐると云つたのに恐れて、東京を逃げてクゲ沼に行き、更に金沢へ帰つた心理が理解されたのである。  
地震で家がつぶれて、僕の家へ偶然にやつて来た時、彼の対世間的の信用は全くゼロであつて、誰も鼻つまみをして対手にしてくれず、たつた僕だけが許したのであつた。然るに従弟にひどく撲られて庭へ投げつけられ、家へ帰るとまた撲られると恐れをなして、外を彷狼し、かくて行く処がなくて家出をして一週間目にいよ/\本物に発狂したのではあるまいか。  
何でも彼は洋行で金をなくし、また舟事件で一万円近くも弁護士に脅かされて巻きあげられ、僕の家に来た時は、貯金の通帳に三百円の残金があつたきりであつた。――これからドウして食つて行くのかの心配も、頭にこんがらがつて居たに相違ない。  
それや、これやの心配が集りあつて、彼を本物にしてしまつたのである。思へば不運な性格に生れたものである。時々僕の家へ、彼の様子を聞きに来る彼の母を見るにつけ、しみじみと同情の涙がこぼれる。いとしきものは彼の母である。  
七  
強がりの癖に、気の弱い者であつた。彼の『地上』を出した当時の、まだ金が入らなかつた時代に、良く彼は僕から淫売買ひにつれて行つてくれとか、何を食はしてくれとか我儘を云つたが、それを出来るだけの程度で満足させてやつたが、それを忘れなかつたと見えて、下落合の家に来てから、僕を御馳走するからと云つてさそい出した。  
『ほウ君の御馳走になるのか、世は変つたな』と笑ひながら家を出たが、彼は洋行先きで買つて来たプラチナの時計の鎖を質に入れて、五十円ほどの金を借り、本郷の白山の洋食屋へ行つたものだ。  
御馳走をすると云つても、僅かに二人で四円に足らぬ勘定だつたが、いよ/\勘定になると、勘定は自分が払ふから、チツプを僕に出してくれと云ふ。あんまり根性がきたないので、よし/\出してやると承諾をすると、彼は十円札で支払をした。女給が釣銭をもつて来ると、僕は女給に釣銭はこちらにと云つて取り寄せ、その五円なにがしの釣銭を、そこに居る女給の全部に分けてやり  
『チツプは此様に払ふものだよ、これで安心したらうが』と頭からあびせかけた。――『おい帰らう』と云つても、彼はくやしそうに黙つてゐて椅子から離れやうとはせぬ。  
とう/\僕は一人で家に帰つたが、彼はその晩は家へ帰つて来なかつた。白山あたりで泊つたのであらう。  
色んな意味で、彼は確かに始めから狂人であつたに相違ない。『地上』は大変に上手だが、偶然に出来たもので、あとの作はダメであり、小さんの落語なんかを小説にして『改造』などへ売りつけてゐた事もある。  
人との対話は、全く何を云つてゐるのか、分らぬ方で、突然変な事を云ひ出したり、問ひかけぬのに返事をしてゐたりした。『地上』を出す前から、幻聴などがあつたのではあるまいか。――今でも幻聴は去らぬと云ひ、しきりに病院を出して僕の家に置いてくれと云ふてゐるが、僕は『君が病院で何か病院の事を小説にして書いたら出す』と云ひ、本人も何か書いて見てゐるが、三枚と長くまとまつた物が書けず、木に竹をついだ様な、変な連絡のない文章を綴つてゐる。  
此の狂人を見るにつけても、しみ/゛\と人生の淋しさを感ずる。――彼が如何に唾棄すべき男であるにしろ、僕にはやつぱり可愛そうでならぬ。そして世間の人達が『地上』の第一巻をも忘れてしまつたのを、なげかはしく思ふ。『地上』の第一巻は、今でもやつぱり良い。もう少し売れても良いであらうにと思ふ。彼は天才であつたが故に、狂人であつたか、或は其反対であるか僕は知らぬ。――時は過ぎて行く、汽船の赤き船腹の過ぎ行くが如く。――人よ淋しからずや。  
責任編輯言  
前号に島田清次郎の詩を載せたところがニセモノか本モノかと聞く不届者がある。悪い仲間はニセモノで売らうなんてケチな了見は微塵もないから安心して呉れ。あれは一党の小林輝が酔払つて親父の家にあばれ込み、気狂とあやまられて巣鴨保養院に投り込まれた際偶然島清の隣室になつた為一ケ月間毎日話し込んでゐた。其時チリ紙に書いた原稿を貰つて来たのがあの詩だ。(尤もこれは悪い仲間本部の指令による小林の行動なのだがそれは内密だ)今号の小林の創作に其時の気狂病院がよく描かれてゐる。僕も小林と共に三月始め島田を訪問して娯楽室で十分程話した。春先で頭がボンヤリしてるとの事だつたが随分確かなものであつた。ほとんど恢復して本人も出たがつてゐるのだが、警察の手で入れられたので一寸出るに困難だと云ふことである。  
 
島清雑説 / 死去後

 

島清の死 / 被害妄想及心気妄想の一例 
昭和五年四月二十九日、天才的の青年文士島○清○郎君は保養院の一室で死んだ。其末路は淋しかつた。  
君が保養院に入院したのは大正十三年七月三十一日で、巣鴨警察署から住所不詳として公費患者で送られて来た、其の入院するに至つた事情が、翌日の東京日々新聞の記事によつて大体知る事が出来る。  
あはれ天才島清クンの末路  
精神病者と鑑定され昨夜保養院送り  
青山墓地の爆弾事件犯人捜査のため巣鴨署では三十日午前一時から全署員を督して管内の総密行を行つた所、午前二時半ごろ巣鴨町二ノ三五先道路で怪しい男を発見し、刑事が取押へると汚れたゆかたになまなましい血痕を発見したので、こいつ大きな獲物とばかり、有無をいはせず引捕へて取調べると、はじめは辻褄の合はぬ事を申し立てゝゐたが、これなん先日吉野博士の宅におしかけ、居候をきめこんでお得意の一問題起こした天才島○清○郎クンと判明したので、同署でももてあまし、引取り方を徳田秋声氏に交渉したが、同氏も受けつけてくれず、今更放還する訳にもゆかず閉口してゐる。同署警察医の鑑定では精神病者なることが確実なので、更に警視庁金子技師の鑑定を仰いだ結果、いよいよ精神病者として三十一日午前九時巣鴨町庚申塚四一四保養院(私立の精神病院)に送られた。  
翌日型の如く診察して大体次のような答弁を得た。  
『年は二十六歳、住所は震災前には代々木富ヶ谷一五六、震災後は郷里金沢に行つたり来たりした。東京では方々友人の所に行つた、此所に来たのは先輩を訪ねる途中警察へ連れられ其れから車で来ました』。  
『体を診て下さい、神経衰弱なんです、私は昨年以来或事件で脳を悩ました、他人が私の云ふ事を正解せず、常に反対する、財政上の事かなんかで、僕の病気は脳の病気で味方の医師でなければ判らぬ』。  
『友人を訪ねても独身の処ならば宜しいが、妻子のある所には一週間二週間と永居は出来ぬ、気の毒です』。  
『入院の前日帝国ホテルに飯食ひに行つたが入れて呉れない、金は二三円持つて居つた、島○だと言つても待遇して呉れない、それでボーイを殴つて逃げて来た、五六人で追駆けて来て日比谷公園の所で私を殴つた、其私を殴つた者は国粋会の佐○間だと言ひました、其時鼻血が出て衣物に血が着いて居たんです』。  
『海防義会の評議員桜○昌○少将が媒酌人で○木よ○えと結婚する事になつて居る』。  
『知人では浅草左衛門町に長○川○太郎と云ふ遠い親戚がある、世話して呉れる先輩は本郷森川町一番地の徳○秋○』。  
『郷里には伯父西○八○が金沢市尻垂坂通町三丁目六に居て、地主で代書をして居ます、母は其伯父の厄介になつて居ます、東京の人達は駄目だから郷里に帰ります』。  
君は白皙黒髪にして眉目清秀、一見して天才児の風がある、病的の症状としては顔貌表情乏しく談話低声で渋滞し、記憶稍不良で感情稍鈍麻し、意志減退して居る、早発性痴呆の破瓜病と云ふ事が判つた。其内に時々親戚知己等の面会があつて、遺伝や既往歴等が判つて来た、父は常○と云ひ三十一歳で病死した、母はみ○と云ひ、五十歳で健存して居る、父方祖父は脚気で五十余歳で死し祖母は長命した、母方祖父が精神病だつた、其れから母の弟が精神病である、君は一人子で同胞がない。  
君は小児の時から癇癪強く自恣だつた、十八歳の時に蓄膿症に罹つた、其外に著患はない、気質は勝気で憤怒し易く、智力は敏捷であつた、中学三年まで修め、次で商業学校一年修業した。  
其後の診察の時に妄覚がある事を愬へる。  
『時々誰か催眠術を掛ける、前からそんな事がありました、其時は頭が苦しくなります、隣に寝て居る人の蒲団が恐ろしく見えた、気味が悪い』。  
入院後三四箇月して、春秋社の神田豊穂氏が大泉黒石氏と同伴で私を訪問して来られた。島○君が原稿を持つて居るそうだが、大泉氏に校閲を願つて物になるようだつたら出版し度いと云ふ事である、其れで君を呼んで来意を告げたら快く原稿を渡した、一二週間後に再び大泉氏が来られて、文章は纏つて居るから出版して貰はうと云ふ事である、其れで君を呼んで其旨を告げ、書物の名を求めたら「我れ世に敗れたり」と命名した。大正十三年十二月、其書は出版された、原稿料は在京の親戚の手を経て郷里の母親の手に入つたようである。  
其頃は終日無為に暮らして原稿等は書かない、無趣味で茫然として眉を顰め、時々悲しそうにして居る、室内に痰を吐き散らし、窓から放尿する、其頃から時々診察の時に、  
『言ひ悪い事ですが黴毒と○○に罹つて身体が痒くて節々が痛みますから癒して下さい』。  
と言ふ。○○の方は事実だが黴毒は事実ではない、血液の反応も陰性である。軽い心気妄想と考へられる。  
又時々人物誤認症があつた、診察中突然私に向つて『あなたは大化会の○○さんですね』と云つた事があつた、又雑誌記者等の面会の時に人を間違へたり、旧知の人を知らないと言つたりした、其等の人の話によれば以前は非常に傲慢で、其れが為めに親友がなく、先輩の人にも感情を害して居る、又利己的で原稿料が手に入つても友人等に奢るやうな事はなく、皆自分で使つて仕舞ふ、先年原稿料二万円這入つた時にも、其れを持つて一人で洋行して来たと云ふ事である、又かつて一高に行つて演説した時に、自分は漱石以後の文豪であると非常な気焔だつたそうである。併し今では私等無名の医師に対しても非常に丁寧である。其後しばしば看護人に向つて、『馬鹿野郎』とか『無礼者』とか怒鳴る事がある、其理由を問ふに、  
『看護人が催眠術を掛けて私を殺さうと思つて居る、危険です』と言ふ、被害妄想である。  
其頃頻りに方々に書面を書いて出さうとする、若槻総理大臣、横田大審院長、床次本党総裁、後藤新平子爵等に宛てたものである(次頁に掲げたのもその一つ)。内容は多くは退院に就いて尽力を頼んだものである。  
こんな容態で大正十四年は過ぎた、其後松岡看護人は小林と云ふ死刑囚と同じ顔をして居ると云つた事がある、其頃は能く手拭で頭を包んで居た、診察の時にも其手拭を取らない、頭から背、腹全部痛いと愬へる、前述の妄覚や妄想は矢張り時々現はれて居る、斯くして大正十五年と昭和二年は過ぎた。  
その後は多くは臥褥して稍沈鬱して居る、人に接するのを嫌ふ。  
昭和三年七月二十三日板橋税務署から税務官吏が病院に調査に来た、其れは君の所得額は印税収入で一箇年二万円となつて居るが、其所得税がずつと滞納になつて居ると云ふのである、其れで全盛時代にはそんな事もあつただろうが、今は精神病で而も公費で入院して居るから、そんな税金は納められる筈がないと言つて帰へした。  
昭和四年になつて新聞を切抜いたり、時々原稿を書いたりして居ることがあつた。又衣類や蒲団を破る事がある食器を窓から捨てることがある。  
昭和五年一月になつて左の肺尖加答児(カタル)を起して来た、三十七度余の発熱があり、時々咳嗽がある、其為めダンダン衰弱して来た。  
其れに下痢も加はつて来た、肺の患部はズンズン進んで来た、遂に四月二十九日、君は天才を抱いて空しく斃れた、行年三十二歳、其末路は淋しく哀れで、而も短命であつたが、君の創作の収穫は長命の凡人の遠く及ばない処である、殊に君のローマンスに至つては、世人に一大センセーシヨンを与え、世の父兄に一大教訓を示した。
「勝つた女性・負けた女性」  
狂天才島田清二郎は、巣鴨保養院の冷い灰色の室に六年間、黄色い薄笑ひをつゞけながら生きてゐた。  
舟木芳江にとつてはそれが何かの奇怪な幻実のように思はれてゐたに相違ない。たとへ彼の女の思想が労働運動に従つてゐる末兄の指導によつてこの六年の間にじりじりと左翼に転向したといふような事実があつたとしても、何としても往年の逗子養神亭事件の思ひ出は時に彼の女の魂を脅かしてゐたに違ひないのである。俄然、今春、島清の死が伝つた前後から舟木芳江甦生の消息が何処からともなく世間に聞こえてきた。  
事実、舟木芳江は彼の女の闘ひ取つた左翼思想を演劇行動によつて示現すべく、今日では左翼劇場女優団の一構成メムバーとして既に「密偵(スパイ)」「吠えろ支那」等の舞台にも立つた。  
隠忍六年間、彼の女は郊外駒沢の兄重信氏の家にひつこもつて書斎の窓から麦畑を眺めながら「一生独身」の誓ひを繰り返して自涜ばかりしてゐたのではなかつた。そこんところが「素晴しき哉、舟木芳江」と讃められないだらうか。  
筆者も甦生の舟木芳江には数回会つたことがある。あたかも水泳選手のようによく整つた健康的な姿体の持ち主で、どつちかといへばクララ・バウ式丸顔の美人に属する。だから彼の女に水泳着を着せてダイビングをやらしてみたいと筆者は思つたのである。然し歯切れのいゝ口調で、真直に対者の眼を見ながら、ぱきぱきと物をいふ点には左翼的な鋭角的な魅力を感じさせるのである。舟木芳江も遂に勝つた。
「島清」と青春  
島清こと島田清次郎の思い出を依頼された瞬間、例によって気軽にOKと即答はしたのものの、よく考えてみると三十年ないし四十年ほど昔のことを思い出そうとするのだから、宿酔の朝、前夜の行状を断片的に思い返してみるとき以上にまとまらない。  
ただかれと筆者は少年時代から、後の隣組といったような近距離に住んでいたし、小学校も中学校も同門だったこと、“地上”第一巻に登場してくる和歌子なる女主人公が、偶然にも後で筆者の義姉というような関係におかれるにいたったので、なんとなくそのおぼろげな記憶をたどって御注文に応じないことには義理が立たぬようにおもわれてきたのである。  
ところでかれは小学時代から筆者とは一年か二年上級だったが、そのころのかれは上小柳町の二階家に母親と間借りをしてたようだった。母親には一度も会う機会はなかったが、彼女は西郭かどこかあの辺のとにかく水商売の家の女中もしくは仲居をやっていたのではないかとおもわれる節がある。  
いつかれの家へ遊びに行っても、かれは独りぼっちで、しかもかれはそうした火の消えたような家庭にありながら、少しもさびしそうな様子もなく、母親からは相当小遣いをねだっていたとみえ、少なくも当時の堅気な家庭に育っていた他のわれわれ少年とくらべるとかなり放縦な環境にめぐまれていたような印象を残している。  
独り住まいをさびしがるどころか、驚いたことには、小学五年ころから、同年もしくは一級上の女子同校生にさかんに附け文を送るという始末で、しかもかれのねらう少女はいわゆる才えん型ばかりで、勉強もでき、みめかたちも整っていないことには相手にしないという調子だった。  
とにかく、相手の少女から返事のくるまで根気よく今日からみれば全くあどけない附け文を、それも差出人名義は“黒坊から”の一点張りで、盛んにラヴ・レターを郵送していた。  
相手の少女が自分に興味をもっていようが、いまいが、そんなことは一向お構いなしで、自分がモーションをかければ、いかなる女性でもなびくにきまっているといったような一つの信念に似た気位と心臓の強さを自負していた。  
島清という男は少年時代から、そうした型に属する心臓男だった。  
小遣いには余り不自由しなかったらしいかれは、夏がくると、われわれ友達を誘って、金石や小舞子の海水浴場へよく出かけたものであるが、かれはいつも女子の海水浴場へ突入、裸体の女性群が逃げまどうのなかへ動ずる色もなく、あたりをへいげい――実際へいげいといった方が一番よく当っているが――それでも目元や口元に野性的ではあるが、どことなく魅力的な愛情をひらめかすことを忘れぬ表情で、憶面もなく泳ぎまわるという始末だった。  
この場合遊泳中の女性群が逃げようが逃げまいが、また同行の男性友達が迷惑を感じようが、感じまいが、一向気にかけるというようなことなく、逆にそうした大胆不敵さを同行の友人に得々と誇っているというようなジェスチュアをとっていた。  
われわれは驚いたり、迷惑をしたり、それでいてかれを引きとめることもできず、いつもかれの心臓には押され通しだった。  
かれの風格、心臓、不敵さというものはかように少年時代から大人も及ばぬ迫力に燃えつつあったのである。  
中学はいまの紫錦台中学の前身、二中だった。学校の成績は小学も中学も、一二を争うほどの秀才だった。  
ところが校内の弁論大会があると、かれは必ず登壇、演題は“人格の輝き”とか“青年の使命”などというすこぶる教訓的なもので、その言々句々、その直情的しかも迫真的舌端の数々はこれまた上級生なども遠く及ばぬ構想とジェスチュアで満場を圧するというふうだった。  
かれが二中を中途退学したのは家庭の事情によるものか、あるいはなにか受持教師と論争の果て憤慨して出たのか、はっきりしたことを知らない。  
一説にはかれは当時中学生はゲートルをつける校則となっていたが、ゲートルは青年の足の発育上、不衛生であり障害であるというのでゲートル廃止論を提言して容れられなかったため憤慨して立ち去ったという話だった。  
二中退学後しばらく姿を消していたが、やがて金沢に舞いもどり、当時彦三にあった金沢商業学校に入学したが、これも一年か二年で教師とけんかして退学してしまった。  
和歌子とのロマンスはこのころから始まったもののようであるが、和歌子以外にもかれに追いかけられた女学生は一二に止まらなかったようである。  
しかし“地上”でみてもわかるように、かれは数ある女性のうちで和歌子には最も興味と執着を感じていたらしい。  
そこで和歌子なる女性の分析を試みることとする。  
地上でクローズ・アップされている彼女のポーズは大体真相に近い。  
かの女の父というのは伊藤博文のブレーン・トラストの一人であったが、伊藤博文が朝鮮で凶弾に倒れた後、寺内元帥ににらまれ、宮仕えはすまじきものと慨嘆して、故郷金沢に帰ってきた。  
和歌子とその弟三人は父とともに朝鮮から引揚げてきたが、父は当時全国的に一時は銅山王と呼ばれた横山一家に随身、尾小屋鉱山の顧問のような資格で官吏から実業界に転身した。  
したがってかれら兄弟の住宅は偶然にも筆者と同じ街に構えられたが姉弟四人はいつも留守居を守っていた。和歌子らの母親はとっくに朝鮮で客死していたから、留守宅は和歌子が主婦格、年齢は島清とおそらく同年だったとおもう。  
和歌子という女性は当時の金沢女性の標準からいうと良くいえば進歩的なタイプだったが悪くいえばいわゆるお転婆娘といった感じの、見方によれば姉御型であり、伝法はだでもあった。  
顔立ちは大和なでしこ型でなく、どちらかといえば変装でもしたら、いわゆる男装の麗人とうたわれたかも知れない。  
なにぶん当時広坂通に新設された第二高等女学校の生徒の洋装が、女にあるまじき服装として問題になるほど封建的だった金沢の一角にそうした毛色の変った女性が出現し、それがたまたま狂的天才の素質をもつ島清の近所に住むこととなったので、それがロマンスの芽生えとなったことは宿命的なめぐり合わせだったかも知れない。  
しかし後で聞いた話だが、島清は例のごとく大いに積極的かつ攻撃的だったようだが、和歌子の方ではそれほどでもなく、警戒的だったという。  
家庭を離れ生活の本拠を尾小屋においていた和歌子の父親が島清のわがいとし子に対する熱意と求愛に動かされて、むしろ一緒にさせてやったら、というので島清を探したころ、かれは金沢を去って京都に苦学していた。  
当時のかれの心境は筆者にとって推測の限りでないが、かれの勤務先きが中外日報であり真渓涙骨の門下生として苦難力行にてい身しているというようなうわさが風の便りに伝えられていた。  
狂的天才島田清次郎の処女作、地上は実にこの京都在留中における苦心の作であったと記憶する。  
“地上”を脱稿してからのかれは、これが売込みのため東奔西走、郷土出身の先輩作家の門をたたいたようだが、いずれも取り合わず、最後に生田長江の知遇を得てようやくこれを新潮社から出版する機会にめぐまれたのである。  
二十歳そこそこの青年作家のかくも大胆な花柳紅灯街素破抜きは、当時の創作界に一大センセーションを巻きおこしたこと周知の通りであるが、この画期的作品がついにかれをしてたちまちのうちに松沢病院(注1)に狂死を余儀なくせしめるヒューネラル・マーチの前奏曲となったことはまことに一きくの同情なきを得ない。  
筆者が島清に最後に会ったのはこの地上第一巻が全国津々浦々からあらしの歓呼をうけた直後であった。筆者が旧四高在学中のことである。  
かれは金沢地裁前、胡桃町の、この時も二階家の二間を借りていた。  
筆者がかれに敬意を表するため訪れた時である。かれは薄暗い四畳半の二階に、たんすの引出し二つを裏返しに重ねて机代わりとし、端然とすわって、第二巻“地に潜むもの”を執筆中であった。  
隣の部屋には病魔に襲われた母親が横たわっているような気配だった。  
「お母さんも喜んでおられるでしょう。」  
と祝辞を述べた途端  
「そうです、しかし母はぼくがどれだけ偉くなったかを知らないだけかわいそうです、実際総理大臣より偉くなったんですからね。」  
ときた。筆者はつぎの言葉に窮した。  
「私達もこのごろ“アカシヤ”という同人雑誌をまわしたりしておりますが、何かとよろしく。」  
と半ば退却準備にうつるや、かれはすかさず、  
「ぼくのように成功すると、それが刺激となって、君達も真似するようになるんでしょう。」  
筆者は瞬間少し、きているな、と直感し、再会を約してそうこうと暇を告げたが、これが筆者がかれに会った最後となった。  
“地に潜むもの”完成後、かれは矢継早に“われ世に勝てり”を発刊。  
渡米の船中で郷土出身の外交官夫人にたいし恋愛攻勢を試みるほか、最後に海軍少将だったかの令嬢にちょう戦、少年時代さながらの恋愛合戦で終始、その最後がいかにみじめであったかはここに再録するにたえぬものを感ぜしめられる。  
筆者のかれにたいする記憶は大体以上のように決して華々しくもなければ芳しくもないものだった。  
しかしかれの死を慰めるとすれば、もし当時郷土の先輩その他がいま少しくかれを慰ぶし、保護し、鼓舞激励していたらんにはかれもあるいはもっと真人間として、他の郷土先輩作家並みに終りを完了し得たかも知れなかったろうと悔やまれる。  
文壇とか、作家の社会にはわれらの夢想だにおよばぬ封建的残しが今日といえども清算払しょくされずに放置され、依然として新進作家のひのき舞台デビュを困難ならしめているような面も多々温存されているように聞く。  
島清はそうした新進作家中の最初の犠牲者だったようにもうかがわれる。  
これは狂人天才島清を思い出すごとに筆者の脳裏に浮び上ってくるかれにたいする好意的解釈の一端であるのだ。  
(注1)正しくは「保養院」。  

 

 
映画のセリフ

 

『レント』(監督 クリス・コロンバス) 
52万5600分という時間 人生の一年をどうやって計る? 愛ではどうだろう 愛で計れるだろうか  
愛を数えてみよう 愛で時を刻み 愛の季節を作ろう 愛の四季が巡る 
『プロデューサーズ』(監督 スーザン・ストローマン) 
「動くな!弾が当たらないだろ?」 
『トリスタンとイゾルデ』(監督 ケヴィン・レイノルズ) 
「愛が国を滅ぼしたと語り継がれる……永遠に」 
『リバティーン』(監督 ローレンス・ダンモア) 
「泥酔なら捕らえるのは簡単だが、ほろ酔いなら厄介だぞ」 
「素面なら?」 
「その場合は人違いだ」 
『アマデウス』(監督 ミア・フォアマン) 
「あんたも同じだよ、この世の凡庸なる者の一人。私はその頂上に立つ凡庸なる者の守り神だ。凡庸なる人々よ、罪を赦そう。罪を赦そう。罪を赦そう。罪を赦そう。汝らの罪を赦そう」 
『リチャード三世』(原作 ウィリアム・シェークスピア/監督 リチャード・ロンクレイン) 
「来たか。天国がだめなら手に手をとって地獄へ行こう」 
『コンスタンティン』(監督 フランシス・ローレンス) 
「聖書の中の言葉だ。神の御業は謎に満ちている。それが気に入る奴も、気に入らない奴もいる」 
『小さな恋のメロディ』(監督 ワリス・フセイン) 
「行くあてはないけど、ここには居たくない」 
『親切なクムジャさん』(監督 パク・チャヌク) 
「奴を見つけたの?」「ええ」「殺した?」「まだ」「なぜ?」「忙しくて」 
「ご馳走は残しておいて最後に食べるってこと?」 
 
「白い心で白く生きて。こんなふうに」 
『オールド・ボーイ』(監督 パク・チャヌク) 
“笑う時は世界と一緒 泣く時はお前一人” 
 
「誰でもいい、待ってろ。あと少しだ。頭の先から足の先まで、お前の死体は地球のどこを探しても見つからない。俺が食いつくしてやるから」 
『24-TWENTY FOUR-シーズンU』(原案・脚本 ジョエル・サーナウ、ロバート・コクラン) 
「意外だろうが、私は教師になりたかった。昔の話だ。なぜやめたと思う?国防総省に口説かれてね。金になる方を選んだ。で、惨めな人生を送ることになった。周りの人間もみんな不幸にした。年5千ドル余分に稼ぐために。大きな代償だ」 
「残念です」 
「なあ、ミッシェル。その、大したことは言えんが、こういう状況だからな。人生待ってるだけじゃ始まらんぞ。自分で幸せになる方法を見つけ、つかむんだ。いいか。それ以外のことは、どうでもいいことだ」 
『キル・ビルVol.2』(監督 クエンティン・タランティーノ) 
「スーパーヒーローのキャラの根幹をなすのは、彼らに対する別人格の存在だ。バットマンはB・ウェイン、スパイダーマンはP・パーカー。彼が朝目覚めた時はP・パーカーだ。スパイダーマンになるには衣装が要る。この点がスーパーマンは逆で、彼の孤高たるゆえんだ。彼はスーパーマンになったのではなく、そう生まれついた。朝目覚めた時もスーパーマンだ。別人格はクラーク・ケント。“S”と記された赤い衣装は、赤ん坊の彼をくるんでた毛布だ。それこそが彼の服で、ケントの時のメガネやスーツは仮装にすぎない。我々市民の中に紛れ込むための変装だ。スーパーマンから見た人間の姿。それがクラーク・ケントだ。弱くて自分に自信の持てない臆病者。ケントはスーパーマンが評する人類そのものだ。ベアトリクス・キドーとトミー・プリンプトン夫人もね」 
「ああ、そう。それが話の核心なのね?」 
「妻のアーリーンの衣装を着ても、お前はベアトリクスだ。何度朝に目を覚ましてもベアトリクスのままだ。矢を抜いていいぞ」 
「私はスーパーヒーロー?」 
「いいや、殺し屋さ。生まれついての殺し屋。今までもこれからもそれは変わらん」 
『キル・ビルVol.1』(監督 クエンティン・タランティーノ) 
「マツモト……あたしを見て……あたしの顔をよおく見て……あたしの目を見て……あたしの鼻を見て……あたしの顎を見て……あたしの口を見て……見覚えないかい?……あんたが殺した誰かに……似てないかい!」 
 
「ヤッチマイナー!!」 
『シベールの日曜日』(監督 セルジュ・ブールギニョン) 
「名前は何?」 
「…名前はないわ。名前はない。私は誰でもない。誰でもない…」 
『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』(原作 トールキン/監督 ピーター・ジャクソン) 
「進め!暗闇を恐れるな!立て!セオデンの騎士たち!槍を振るえ!盾を砕け!剣の日ぞ!赤き血の日ぞ!日の上がる前ぞ!いざ進め!進め!破滅を目指せ!この世の終わりを目指せ!死だ!」 
 
「これで終わりなんて」 
「終わり?旅は、まだ終わらん。死は誰もが、いつか通らねばならぬ道なのだ。灰色の雨の帳が巻き上がり、すべてが銀色のガラスに変わる。そして見るだろう」 
「何をです?カンダルフ。何を?」 
「真っ白な岸と、その先を。はるかな緑の地に、暁の太陽が昇ってゆく」 
「それは悪くない世界ですね」 
「そう、悪くない世界だ」 
 
「お前の顔がわかる。エオウィン、もう目が見えぬ」 
「お願い、しっかり……私がお助けします」 
「もう助けてくれた。エオウィン、わしの体は砕かれた。静かに逝かせてくれ。父祖のもとへ行く。今なら恥じることなく、栄光ある彼らの仲間に入れる」 
 
「退くな!踏みとどまれ!ゴンドールとローハンの息子たち!わが同胞よ!諸君の目の中に、私をも襲うだろう恐れが見える。人間の勇気がくじけて、友を見捨てる日が来るかもしれぬ。だが今日ではない。魔狼の時代が訪れ、盾が砕かれ人間の時代が終わるかもしれぬ。しかし今日ではない。今日は戦う日だ!かけがえのないすべてのものに懸けて、踏みとどまって戦うのだ。西方の強者たち!」 
 
「エルフの隣で討ち死にするとは」 
「友達の隣でなら?」 
「いいね。それならいい」 
 
「指輪を葬るのです。永遠のかなたに!行きましょう。指輪の重荷は負えなくてもあなたは背負えます!」 
 
「さらば、勇敢なホビットたち。わしの仕事は終わった。名残は尽きぬが、この大海の岸辺で仲間の縁は終わる。”泣くな”とは言わぬ。全ての涙が悪しきものではない」 
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(監督 ジョン・キャメロン・ミッチェル) 
最後に君を見たのは 二つに切り離された時 君は私を見てた 私は君を見てた 
見慣れた君の仕草 だけど私は気づかなかった 顔には血がついていたし 私の目にも血がにじんでいたから 
でも誓って言える 君が感じた痛みは 私の痛みと同じだと 心の底まで 貫くその痛み それが“愛” 
だからふたりは堅く抱き合い 元に戻ろうとした それがセックス メイク・ラブ 
昔々の冷たく暗い夜のこと 天の支配者によって 人は寂しい2本足の生き物に 
それは悲しい物語 愛の起源の物語 愛の起源 こうして 愛は生まれたよ 
 
息をしろ 愛を感じろ 自由を与えろ 魂で知れ 
心臓から脳までの流れを 君の血が知ってるように 君は完璧だと 
君は輝いてる あのまぶしい星のように 真夜中のラジオが 伝えてる 
まるでシングル・レコードのように 君はくるくるまわる バレリーナさ 
ロックン・ロールに合わせて踊ってる 
『ロッキー・ホラー・ショー』(監督 ジム・シャーマン/原作 リチャード・オブライアン) 
タイム・ワープを踊ったのを思い出す 呑んで、少しスリムになって  
自分の中に暗闇がある 声が呼んでいる 
もう一度タイム・ワープを踊ろう もう一度タイム・ワープを踊ろう 
左にジャンプして 右に一歩踏み込む  
腰に手をのせてごらん 男なら興奮させられるよ 
剥き出しの色情だ 狂いそうになるよ 
もう一度タイム・ワープを踊ろう もう一度タイム・ワープを踊ろう 
『スパイダーマン2』(監督 サム・ライミ) 
「おじさんだけが、あの夜正しいことをして、そのために殺されてしまったんだ」 
 
「その話はもうしなくていい。過去のことは川にでもトイレにでも流して、きれいに忘れましょ。でもお前は勇気あったよ。本当のこと言ってくれて。私は誇りに思ってる。感謝もしてるし、それに……お前を愛してるよ、ピーター。とってもとっても愛してる」 
 
「あの子には誰がヒーローかわかるの、あんな人はめったにいない。ああして空を飛びまわり、こんなおばあちゃん助けて。そう、ヘンリーのような子にはヒーローが必要なの。勇敢で自分を犠牲にしてまで、みんなの手本になる人が。誰だってヒーローを愛してる。その姿を見たがり、応援し、名前を呼び、何年もたった後で、みんな語りつぐでしょう。苦しくても諦めちゃいけないと教えてくれたヒーローがいたことを。誰の心の中にもヒーローがいるから、正直に生きられる。強くなれるし、気高くもなれる。そして最後には誇りを抱いて死ねる。でもそのためには、常に他人のことを考え、いちばん欲しいものを諦めなくちゃいけないこともある。自分の夢さえもね」 
 
「知性についてこう言いましたね。人類のために使うべき授かりものだって」 
「そのとおりだ」 
「このアームがあなたを別人に変えてる。言いなりになっちゃダメです」 
「これは私の夢だ」 
「正しい行いをするには、常に他人のことを考えて、時には自分の夢でさえも、諦めなきゃならない」 
『スパイダーマン』(監督 サム・ライミ) 
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」 
『アイズ・ワイド・シャット』(監督 スタンリー・キューブリック) 
「あなたを愛してる。だから、わたしたちは大事なことをすぐにしなきゃダメ」 
「何を?」 
「ファック」 
『フルメタルジャケット』(監督 スタンリー・キューブリック) 
「訓練教官のハートマン先任軍曹である。話し掛けられた時以外口を開くな。口でクソたれる前と後に”サー”と言え。分かったか。ウジ虫」 
「「イエッサー!」」 
「ふざけるな!大声出せ!タマ落としたか!」 
「「イエッサー!」」 
「貴様ら雄豚がおれの訓練に生き残れたら、各人が兵器となる。戦争に祈りをささげる死の司祭だ。その日まではウジ虫だ!地球で最下等の生命体だ。貴様らは人間ではない。両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない!貴様らはキビしいおれを嫌う。だが憎めば、それだけ学ぶ。おれはキビしいが公平だ。人種差別は許さん。黒豚、ユダ豚、イタ豚をおれは見下さん。すべて平等に価値がない!おれの使命は役立たずを刈り取ることだ。愛する海兵隊の害虫を!わかったか、ウジ虫!」 
「「イエッサー!」」 
 
「逃げるやつは皆ベトコンだ。逃げないやつはよく訓練されたベトコンだ!」 
『ビッグ・フィッシュ』(監督 ティム・バートン) 
「川岸に皆が集まっていた。皆が…1人残らず。信じられない光景だった」 
「私の一生が…そこに…」 
「悲しげな顔は一つもなく、皆笑顔で父さんを迎え、別れの手を振った。 
”さよなら、皆。お別れだ、元気でな” 
”私の愛する川の精” 
…それが本当の父さんだった。”とても大きな魚”……それが父さんの最期」 
「そう……そのとおりだ」 
 
「聞きすぎた笑い話はおかしくないが、時間がたつと新鮮に聞こえて、また前のように笑える。父さんの最後の笑い話だ。”話を語りすぎて本人が話そのものになってしまった”話は語り継がれ、彼は永遠に生きるのだ」 
『バットマン』(監督 ティム・バートン) 
「ほかの連中は話が分かる。2、3日やつらに考える時間をやろう。……ダメか?……全員消す?……分かった。お前は血も涙もない男だ……死んでてよかった!死んでてくれ!」 
 
「ひとつ聞こう。月夜に悪魔と踊ったことが?……殺す時にいつも尋ねるのさ。いい文句だろ?」 
『バットマン・リターンズ』(監督 ティム・バートン) 
「お前は嫉妬してるんだ!俺は仮面がなくても、生まれつきの鳥人間だからな!」 
「そうかもしれんな」 
 
「あなたとペンギンとバットマンに殺され、命は残り6つよ。弾が足りる?」 
「試してみよう」 
「4つめ…5つめ…生きてるわ!…6つめ…7つめ…”よい子はみんな天国へ”…まだ2つ残ってる。一つは来年のクリスマスのためにとっておくわね。…ねえ、サンタさん。キスしない?」 
『シンドラーのリスト』(監督 スティーブン・スピルバーグ) 
「ユダヤの聖書の言葉です。”1つの命を救う者が世界を救える”」 
「もっと救い出せた。その努力をしていれば、もう少し…努力を」 
「オスカー。あなたは、ここの1,100人を救ったんです」 
「金があれば…あんなバカなむだ遣いを。バカだった」 
「彼らから新しい世代が育ちます」 
「もっと大勢を」 
「こんなに救って?」 
「車を売れた、アーモンへ。この車で10人を救えたはずだ。10人だぞ。あと10人を。このバッジで2人救えた。金だから2人は救えた。アーモンなら2人と交換した。たとえ1人でもいい。1人救えた。人間1人だぞ、このバッジで。努力すればもう1人救えたのに…しなかった。救えたのに…」 
『ドッグウィル』(監督 ラース・フォン・トリアー) 
「待って。子だくさんの家があるの。母親の前で子供を撃って。”涙をこらえることが出来たら撃つのをやめる”と。借りを返すのよ」 
『シービスケット』(監督 ゲイリー・ロス) 
「それでもかまわない」 
「かまわない?」 
「そうだよ、トム。”ちょっとばかり怪我をしたからといって、命を丸ごと捨てることはない”」 
 
「みんなこう思ってる、この壊れた馬を見つけて治してやったんだと。だが、それは間違いだ……シービスケットが俺たちを治してくれたんだ。俺たちひとりひとりの傷を。俺たちは互いに治し合ったのさ」 
『ボウリング・フォー・コロンバイン』(監督 マイケル・ムーア) 
「銃規制なんか要らない。要るのは弾規制だ。弾を規制して、値段を1個5000ドルとかにすればいい。5000ドルだ。なぜか?撃つ時に慎重になって流れ弾の被害がなくなる。人が殺されても納得だよ“よほどの理由だ”。“すげえ、5万ドル分も食らった!”。殺す側だって5000ドルなら易々とは殺せない。“ブッ殺してやる!弾が買えた時にな”。“俺が職に就いて貯金を始めたら、命はないと思え”。“俺が貯金しないことを祈ってろ“」 
 
「コロンバインの生徒やあの町の人々に、話すとしたら何と言う?」 
「何もだ。黙って彼らの話を聞く。それが大事だ」 
 
9・11の前も後も変わらないことがある。恐怖に理性をなくした人は、決して銃を持ってはいけない。 
 
「ありがとう」「いいさ」「本当にありがとう…撃たないでくれて」 
 
僕はヘストン邸を出て、現実の世界へ戻った。恐怖の中で生きる米国へ。目下、銃は空前の売上げ。結局すべては、“コロンバインへのボウリング”だ。今こそ米国人として栄光の時代だ。 
『ザ・ビッグ・ワン』(監督 マイケル・ムーア) 
「政治家は誰からでもカネを受け取るのか?それが知りたかった。今年2大政党がRJレイノルズから、巨額の献金を受けた件を非難してるんじゃない。どんなに汚い相手からでも受け取るのか確かめたかった。それで4つの団体名をデッチ上げ、大統領候補者たちに小切手で100ドルずつ送った。“サタン崇拝主義団体”からR・ドールに100ドル。クリントンも“麻薬を育てる会”から100ドル。中絶反対主義のブキャナンは“中絶支持クラブ”から。さらに、R・ペローは“ロリコンの会”から受け取った。誰が一番に現金化したと?そう、ブキャナンだ。これが、彼のサイン入りの本物の小切手だ。中絶反対者ご当人のサイン。クリントンも“麻薬を育てる会”からの寄付を現金化した。相手が誰か少々迷ったようだが、ハイになっていたからと納得したらしい。R・ペローからは礼状が来た。パソコンで印刷したものらしいが、“ロリコンの会の皆様方に感謝します”。ほんとだよ」 
 
「“ザ・ビッグ・ワン”デカい国さ。“出身国は?”“デカい国”。誰も刃向かわない」 
『ビューティフル・ガールズ』(監督 テッド・デミ) 
「僕たち、どうなる?」 
「未成年を誘惑すれば、あなたは投獄。私は後ろ指さされる。でも、もし本気なら待ってて」 
「待つ?」 
「5年待ってくれたら、私は18歳だわ。一緒になれる年よ」 
「……僕を忘れてしまうよ」 
「まさか」 
「5年たてば君は、すっかり変わってしまう。僕は“クリストファー・ロビンのクマのプー”さ」 
「意外な展開ね。なぜクマのプーなの?」 
「クリストファー・ロビンは大きくなって、プーを必要としなくなってしまった。それが結末さ」 
「悲しすぎるわ」 
「それが人生さ。気づかないうちに………君は変わる。僕は、悲しいプーさ」 
『アメリカン・ビューティー』(監督 サム・メンデス) 
死の一瞬、全人生が目の前をよぎると言われてる。 
しかし、その一瞬は一瞬ではないのだ。 
それは大洋のように果てしなく広がる時間。 
ボーイ・スカウトのキャンプで草原にひっくり返り、流れ星を見ていた僕。 
うちの前の通りのかえで並木の黄色い落ち葉。 
しわくちゃの紙にそっくりのおばあちゃんの手。 
そして初めて見たいとこのトニーの、ピカピカのファイアバード。 
ジェーン、僕のジェーン。 
そしてキャロリン。 
こんなことになって腹が立つかって? 
美のあふれる世界で怒りは長続きしない。 
美しいものがありすぎるとそれに圧倒され、僕のハートは風船のように破裂しかける。 
そういう時は、体の緊張を解く。 
するとその気持ちは、雨のように胸の中を流れ、感謝の念だけが後に残る。 
僕の愚かな、取るに足らぬ人生への感謝の念が。 
たわ言に聞こえるだろう? 
大丈夫。 
いつか理解できる。 
『シックス・センス』(監督 M.ナイト・シャマラン) 
「お祖母ちゃんが…ペンダントを持ち出して悪かったと言ってた。よく僕の所へ来る」 
「そんなことないわ。亡くなったのよ」 
「知ってる。でも…ママにダンスを見たと言ってと。こう言ったよ。ママが小さい時、言い合いをした。ダンスの会の前だった。だから来てくれないと思ってた。でも実は見てたんだ。後ろの方でママには見えなかった。ママは天使のようだったよって。こうも言った。ママはお墓へ行って、質問をしたと。質問の答えは、“毎日だよ”って。どんな質問をしたの?」 
「…“私を誇りに思ってた?”って」 
『シカゴ』(監督 ロブ・マーシャル) 
「今夜キティが帰宅するとハリーは寝てた。彼女は着替えて寝室へ戻ったが何かヘンだった。フツーじゃない。慌てず騒がず彼女は別室へ。戻ってくると優しくハリーを起こした。 
”何だ?おれは独りだぜ!” 
”女が2人いるじゃないの!” 
ハリーは言い返した。 
”おれの言葉より自分の目を信じるのか?”」 
『マトリックス』(監督 ラリー&アンディー・ウォシャウスキー) 
「モーフィアス、預言者は僕に…」 
「彼女は必要なことだけ教えた。それだけだ。遅かれ早かれ君にもわかるときが来る。違うのだ。道を知ることと、道を歩むこととは…」 
『恋愛小説家』(監督 ジェームズ・L・ブルックス) 
「またひどいこと言うの?」 
「悲観的だな、君らしくないぞ。つまりこういうことだ。言いたくないんだが、僕には何と言うか………持病が。通ってた精神分析医は、僕のような症状の患者は5〜6割方、“薬を飲めば治る”と。だが僕は薬が大嫌いだ。あんな危険な物はない。強い言葉を使うようだが、薬は大嫌いだ。そこで誉め言葉だが、あの夜、君が来て僕とは“絶対に”……君もあの場にいた。繰り返すことはない。そこで誉め言葉だが、あの翌朝から僕は薬を飲み始めたんだ」 
「?なぜそれが誉め言葉なの?」 
「いい人間になりたくなった」 
 
「この世で僕だけが、君がこの世で最高の女だと知っている。君はどんなことでも、この世の誰よりも上手にやりとげる。例えばスペンサー…スペンスへの接し方。君の頭の中にあるすべての思い。そして君が口にする言葉はいつでも真摯で、善意にあふれてる。なのに大抵の人間はそれを見逃している。テーブルに料理を運んでる君が、世界最高の女だってことを。それに気づいてるのは、僕だけ。それが…誇らしい」 
『永遠に美しく』(監督 ロバート・ゼメキス) 
「飲んで。さあ、あなたの人生はこれで実るのよ。今までは他人に若さを与え、自分をかえりみなかった。飲んで。仕事を取り戻せるのよ。飲んで。さあ、メンヴィル先生。人生をやり直したいとは思わないの?迷わないで、それでいいのよ!飲んで!シエンプレ・ヴィーヴァ!“永遠の生命を”!」 
「…それで?」 
「え?」 
「それで?永遠に生きる?永遠に生きて、もし、退屈したら?寂しくなったら?相手はあの2人の女か?ケガでもしたら?階段を突き落とされて…いや、階段から落ちたら?」 
「でも年はとらない」 
「周囲の者は皆、老いて僕を残して死んでく。お断りだ。夢は夢でも悪夢だ。許せない!」 
 
「彼は発見したのです、誰も知らぬ永遠の生命の秘密を。その秘密はちゃんと、この場に……彼の親しい友の心に。永遠の若さの秘密は、彼の子供たち、その孫たちの中に生き続けるのです。私に言わせて頂けるならアーネストこそ、尊い永遠の生命を授かったまれなる人なのです」 
『3人のゴースト』(監督 リチャード・ドナー) 
「楽しいだろ?最高のクリスマス・イヴだ!僕はイカれてなどいないぞ。1年に1度の楽しいクリスマスだ。笑顔を見せて。他人に優しく思いやりを見せよう。それが人間のあるべき姿だ。だが実現するのは奇跡に近い。1年に1度起こる奇跡だ。その奇跡をムダにするなんて許されない。僕らがそれを起こすのだ。世の中には奇跡に手の届かない人が大勢いる。寒空に家もなくパンもない。押入れで眠ってる古い毛布を与え、サンドイッチを与えよう。大切なのは、その心だ。その心があれば、誰でも奇跡を起こす事ができる。貧乏人だけじゃない、皆に奇跡が起こる!皆が信じれば、奇跡が起こる。今夜起これば、明日も起こる。クリスマスは1年に1度だなんてウソっぱちだ。信じれば、毎日がクリスマスさ!そうでなきゃいけないんだ。365日、毎日がクリスマスになる。僕はそれを信じる。奇跡が起こるのを、僕は待つ!すばらしいフィーリングだ。こんないい気分は久しぶりだ。…皆さん、メリークリスマス」 
『サンセット大通り』(監督 ビリー・ワイルダー) 
遂にカメラが回り始めた。人生は奇妙に慈悲深く、ノーマに情けをかけた。取り憑いた夢で、彼女を包んでやったのだ。 
「もうダメ、幸せすぎて。デミル監督、ひと言いいかしら。再び映画が撮れて本当に幸福です。私がどれだけ寂しかったか。二度と映画を捨てません。“サロメ”の後も出演します。映画こそ私の人生。それ以外ないんですもの、私たちとカメラと――暗闇で画面を見つめる素晴らしい人々以外は……監督、クローズアップを」 
『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(監督 ラッセ・ハルストレム) 
「よく考えてみれば僕は運がよかった 宇宙を飛んだあのライカ犬 スプートニクに積まれ宇宙へ 心臓と脳には反応を調べるためのワイヤー さぞ嫌だったろう 食べ物がなくなるまで地球を五ヶ月回って 餓死した 僕はそれよりマシだ」 
『007 ワールド・イズ・ノット・イナフ』(監督 マイケル・アプテッド) 
「痛みとスリルを感じなければ、生きている価値がない」 
 
「ああなった責任はあんたにある。さらわれたときは無垢で純粋だった。それを俺を捕まえたい、それだけのために、エサに使い、助けなかった。あの女は俺の50倍は価値がある」 
 
「世界をプレゼントしてあげたのに」 
「世界では不足だ」 
『ゴッド・ファーザー・パートV』(監督 フランシス・フォード・コッポラ) 
「あなたからは政治や金融を学びたい」 
「要は“銃”だよ。金とは銃。撃つタイミングを知ることが政治だ」 
『トゥルーマン・ショー』(監督 ピーター・ウィアー) 
「もしも会えなかったときのために、“こんにちは”と“こんばんは”を」 
『アルファヴィル』(監督 ジャン・リュック・ゴダール) 
「わたしが、何か、自分の言葉で言うのを待ってるのでしょうか」 
「勿論だよ」 
「何て言ったらいいのかしら?知らない言葉……でも、昔、習ったことがある」 
「だめだ。自分で思い出さなくちゃ」 
「わたしは……あなたが……好き……あなたが、好き!」 
『気狂いピエロ』(監督 ジャン・リュック・ゴダール) 
「見つけた 永遠を それは海 それは太陽」 
『禁断の惑星』(監督 フレッド・ウィルコックス) 
「何万年か後には人類もクレル人と同じレベルに達して、同じような苦しみを味わうかもしれない。希望も、絶望も。そのときは君のお父さんの名前も灯台のように光るだろう。いずれは、みんなも。人間は神様じゃないことも、わかってくれるさ」 
『L.A.コンフィデンシャル』(監督 カーティス・ハンソン) 
「父のようになるのが夢だった…」 
「なれるさ。…殉職したんだろ?」 
『スタンド・バイ・ミー』(原作 スティーブン・キング/監督 ロブ・ライナー) 
私は自分が12歳のとき以上の友人に出会ったことはない。誰でもそうではないだろうか? 
『ガンジー』(監督 リチャード・アッテンボロー) 
「わたしは失望すると いつも思う 歴史を見れば 真実と愛は常に勝利を収めた 暴君や殺人を犯す為政者もいた 一時は彼らは無敵に見える だが結局は滅びている それを思う いつも」 
『フェリーニの81/2』(監督 フェデリ・コフェリーニ) 
「人生は祭りだ、ともに生きよう」 
『セブン』(監督 デヴィッド・フィンチャー) 
「ヘミングウェイはこんな言葉を言った。“世の中は素晴らしい。闘っていくだけの価値がある”と。その後半の部分にだけは賛成だ」 
『ファイト・クラブ』(監督 デヴィッド・フィンチャー) 
「落ち着け、これは妄想だ。お前は幻だ、銃なんか持ってない。おれが持ってる」 
「銃を持って、どうする?」 
「……」 
「自分の頭に銃を?」 
「おれの頭?おれたちの頭だ」 
「面白い。それで?ブランド・ボーイ。…おれと、お前だぜ。友達だろ?」 
「タイラー、しっかり聞けよ」 
「聞こう」 
「僕は目を開いてる」 
 
「自分で撃った?」 
「いいから、おれを見ろ。心配するな。これからは、すべてよくなる。出会いのタイミングが悪かった」 
『レッド・ドラゴン』(原作 トマス・ハリス/監督 ブレッド・ラトナー) 
「親愛なるウィル、ケガは治ったかね?少なくとも見かけが醜くないことを。文字通り満身創痍だな。一番の思い出の傷を忘れず感謝したまえ。傷痕は”過去は現実だった”というしるしだ。この世は太古、我々は野蛮じゃないが利口でもない。すべてが半端。合理的社会なら私を殺すか役に立てるだろう。君は夢を見るか?君を思ってるよ。君の古き友人ハンニバル・レクター」 
『ハンニバル』(原作 トマス・ハリス/監督 リドリー・スコット) 
「どうだ、クラリス。私に言えるか?“もう、やめて。私を愛しているなら”」 
「…死んでも言わないわ」 
「死んでも言わない?…それでこそ、君だ」 
『スニーカーズ』(監督 フィル・アルデン・ロビンソン) 
「すまんが政府の仕事はお断りだ」 
「知ってる…国家安全保障局(NSA)だ」 
「うちの電話を盗聴してる連中か」 
「それは国内治安を担当してるFBIだ」 
「それじゃ外国政府の転覆が専門か」 
「それはCIAだ。我々は不法暗号の解読を専門にしてる善玉だ」 
 
「この世を動かしているのは現実の事実ではなく、想像の事実だ」 
『フランケンシュタイン』(監督 ケネス・ブラナー) 
「俺はたった一人の人間の共感を得られれば、全ての人間を許せる」 
『世にも憂鬱なハムレットたち』(監督 ケネス・ブラナー) 
「感じたか」 
「下品ね」 
「神を感じたかと聞いたんだ」 
 
「不安を自覚できたら、半分は克服したも同じだ」 
 
「“ああ 煩わしい 味気ない 甲斐がない この世のすべてがいやになった”」 
「すごい迫力、名演ね」 
「同じ気持ちなんだ」 
『グラン・ブルー』(監督 リュック・ベッソン) 
「50万だと。冗談じゃない、急場に乗じてふっかける気か」 
「じゃあ聞く。その男の命はいくらだ」  
「!」 
「俺の村にこんな格言がある。…何だった?」 
「…忘れた」 
『ニキータ』(監督 リュック・ベッソン) 
「限界のないものが二つあるわ。女の美しさと、それを濫用することよ」 
『レオン・完全版』(監督 リュック・ベッソン) 
「その鉢植え、好きなの?」 
「最高の友人だ。こいつは無口だし、俺と同じで根がない」 
「大地に植えれば、根を生やすわ」 
 
「私が欲しいのは、愛か死よ」 
 
「わたしはもう大人よ。後は歳を取るだけ」 
「僕はその逆だ。歳は取ったが…これから大人になるんだ」
 

『吉原炎上』(監督 五社英雄) 
「さて、この花の吉原への道は、二つあると言えましょう。男が通う極楽道、娘が売られる地獄道」 
『真夜中の弥次さん喜多さん』(監督 宮藤官九郎/しりあがり寿) 
「いてえ…やっぱり弥次さんだけがおいらのリアルでえ…」 
『性賊/セックスジャック』(監督 若松孝二) 
「他人に裏切られるよりも速いスピードで自分を裏切らなければ、人殺しひとつ、犯罪ひとつできやしない。薔薇色の連帯、それはまず裏切る自分を殺し、同士を殺していくスピード以上の冷徹な力が、相集まること。その自分だけの力を、相集まった力と同等に信じること。裏切る以上に強いことを知ること。そうすれば死ねる」 
『腹貸し女』(監督 若松孝二) 
「腹貸しって?」 
「知らないのか。故郷に昔からある話だよ。昔、島の貧しい家は、女を子供の欲しい家に貸し出して、そこの子供を生んで、代わりに食い物をもらって帰ってきた。みんなそうやって生きてきたんだってさ、腹貸し女」 
『犯された白衣』(監督 若松孝二) 
「あたしを飾るにどうして他人の血を流すの?どうしてあんた自身の血を流さないの?」 
「いたい」 
「あんたの血よ。あたしを飾るのなら、あんたのたったそれだけの血であたしはいいのよ。だからはじめに言ったでしょ。なぜそんなに殺すのかって」 
『行け行け二度目の処女』(監督 若松孝二) 
ゆけゆけ二度目の処女 男が選んだ最高傑作 
ゆけゆけ二度目の処女 遠回りでも明るい歩道を 
ゆけゆけ二度目の処女 愛の喜び恋のニトログリセリンよ 
ゆけゆけ二度目の処女 あなたのマラソン長引かせる 
長引かせることのない空の部屋 
鶏ガラのように立ち上がる 近親相姦の台所 
あなたの大きな下腹部 あなたの自転車 
ゆけゆけ二度目の処女 あなたの大きな手のひらに 
黄色の夢となって乗りたい 
処女の泉のほうへ 窓から窓から落ちてきた鳥を 
『新宿泥棒日記』(監督 大島渚) 
「まあしょせん島国、日本という国はな、こう外からいたずらされるかと、いつもまたぐらを縮こませてる女に例えられる」 
『トーキング・ヘッド』(監督 押井守) 
「確かに私としても彼に賭けていましたし、彼もこの作品には期するところがあったようなので、待てるところまで待ち、待てなくなっても待ち、もう駄目だ、これ以上待ってももう待つ意味すらなくなるぞ、という時点を過ぎてもなお、待ったのですが……」 
「全ては虚しかった、と。それにしてもよく待ったもんだ。制作の鑑だな」 
 
「あらかじめ言っときますが、あまり期待せんでください。もう一通りのことは終わって、これから何かが始まるとか、新たな展開があるとか、誰も思っとりません。どいつもこいつも、始まったものは必ず終わると思ってやがる。ごく自然に、川が流れ、季節がめぐるがごとく。冗談じゃねえ!終わらせるためにはもう一度始めなくきゃならねえってのに!」 
 
「様々な試行錯誤の果てにようやく手に入れた秘密兵器、究極の必殺技。物語ですよ。手品やトリックに取って代わって共通のルールとなり、映画に現実を蔓延させた物語を解体し、逆にスクリーンから現実を放逐すること。あの人はルールのないゲームをやろうとしていた。正確には、ルールを作りながら遊ぶゲーム。映画にあらかじめ存在するルールなんてない。だって作られた作品がそのままルールになるのが、映画なんだから」 
 
「映画のラストはハッピーエンドでなければならないと?」 
「終わることが出来れば、何でもハッピーだと思いますけど。それにフィルムはいずれ変色し、摩滅し、燃えて溶けてなくなる……」 
 
「予告と本編は別物であるとはいえ、ストーリーも定かでない映画の予告が可能だと?」 
「あらゆる映画の予告は実は映画そのものの予告であるに過ぎないし、それが優れた予告の条件でもある。予告はあくまで予告であることのみによって成立する。違うか?」 
 
「その無統制な舞台上でただ監督だけが、その監督という役割ゆえに、出演者たちを秩序づけるという困難な演技を要求されるのだ。舞台の袖ででほくそえむ、悪意に満ちた真の演出家に、操られながら」 
『イノセンス』(監督 押井守) 
「鳥は高く天に身を隠し、魚は深く海に身を隠す」 
 
「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。森の中の象のように」 
 
「鳥の血に泣きて、魚の血に泣かず。声あるものは幸いなり。もし人形に声があったら、『人間になんてなりたくなかった』って泣いたでしょうね」 
『アヴァロン』(監督 押井守) 
「ここがお前の現実(フィールド)だ」 
『攻殻機動隊』(監督 押井守) 
「ネットは広大だわ…」 
『GO』(監督 行定勲/原作 金城一紀) 
「親のスネかじってる間はね、韓国も朝鮮も日本もないの!ガキなんだよ、ガキ!」 
 
「国境線なんて俺が消してやるよ」 
 
「てめえらの世代で蹴りつけろよ!あんたら一世二世がぐずぐずしてるから俺らがぱっとしないんだろ!」 
『贅沢な骨』(監督 行定勲) 
「サキコ、ごめんね。あたし、ずっとサキコが好きだった。新谷さんに抱かれながら、本当はずっとサキコを感じてたの。ごめんね、ごめんね……」 
 
「いつだって必要なものがあるものでもない。あるはずのものがあることの方が少ない」 
『ジョゼと虎と魚たち』(監督 犬童一心/原作 田辺聖子) 
「ところで、名前なんていうの?」 
「ジョゼ」 
「いや、君の名前」 
「だから、ジョゼや」 
「でも、ばーちゃん、くみ子って呼んでるじゃん」 
「知ってんねやったら、ききなや」 
『バトル・ロワイアルU 鎮魂歌(レクエイム)』(監督 深作欣二・深作健太) 
「賽は投げられた。俺たちは、かつて俺たちを殺し合わせてきたすべての大人を許さない。共に立て。そして共に戦おう。俺たちは今、すべての大人に宣戦布告する」 
 
「一体どれだけの血が流されたろう、どれだけの涙が流されたろう。一緒に戦った大勢の仲間たちはみんな、この三年間で殺されてしまった。だけど世界から正義が滅びないように、俺たち悪とされるテロリストもまた決して滅びることはない。俺たちは知っている。一握りの大人たちが、一握りの国が、世界中の平和や自由を勝手に決めていることを。だけど俺たちが生きるこの世界は決して一つなんかじゃない。そこにはあたりまえに生きる63億の人間がいて、63億の暮らしがあり、63億の平和、63億の正義、63億の戦争と悪がある。誰も戦わずに勝ち得た平和なんてない。平和の裏には沢山の血と汗と涙が染みついている。もし人が、その歴史から目をそらし、忘れてしまうなら、そんな平和なんか犬の糞だ!日本、中国、北朝鮮、グアテマラ、インドネシア、キューバ、コンゴ、ペルー、ラオス、ベトナム、カンボジア、グレナダ、リビア、エルサルバドル、ニカラグア、パナマ、イラク、ソマリア、ボスニア、スーダン、ユーゴスラビア、アフガニスタン。そして全世界で孤独に戦う子供たち。君たちは一人かもしれない。でも一人を恐れるのはもうやめよう。世界中で見捨てられた子供たち、共に立て。そして共に戦おう。俺たちは今、旧い靴を脱ぎ捨てて、ここではないもっと遠くへと走り出す。俺たちから自由を奪い、抑えつけてきたすべての大人に向けて、あえて今夜このメッセージを送ります。メリークリスマス。『ワイルド・セブン』、七原秋也」 
 
「俺たちが目指す道は、まだあまりにも険しく、あまりにも遠い。だけど俺たちは知っている。世界のどこにいても、俺たちには今仲間がいて、そして俺たちはどんな遠くへだって行ける。俺たちに明日はある。俺たちがそれを望み続ける限り」 
『バトル・ロワイアル 特別篇』(監督 深作欣二) 
「人生はゲームです。みんなは必死になって戦って、生き残る価値のある大人になりましょう」 
 
「先生刺されたナイフね、実はあたしの家の机の引き出しにしまってあるの。拾ったときはどうしようって困ったんだけど。でも今じゃ、なぜか大切な宝物なんです」 
「……」 
「秘密ですよ、二人だけの」 
「…なあ、中川」 
「はい?」 
「こんなとき、大人は子供になんて言ったらいい?」 
『魔界転生』(監督 深作欣二/原作 山田風太郎) 
「十兵衛!勝負はまだだ!」 
「何!」 
「人間がこの世にある限り、私は必ず戻ってくる。必ず戻ってくるぞ…はははははは…はははははは…」 
『仁義なき戦い』(監督 深作欣二) 
「おい、指がないぞ!」 
「え?」 
「庭に飛んだんと違うん?」 
「え?」 
「のうなったら、えらいこっちゃけんのう」 
「はよう探せい!」 
 
「おやっさん。言うとったらのう。あんたははじめから、わしらが担いでる神輿やないの。組がここまでなんのに、誰が血ぃ流しとるの。神輿が勝手に歩けるいうなら歩いてみいや。おう。わしらの言うとおりにしとってくれらあ、わしらも黙って担ぐが。なあ、おやっさん。ケンカはなあんぼ銭があっても勝てんので!」 
 
「昌三…。こんなの考えとることは理想よ。夢みとうなもんじゃ。山守の下におって仁義もクソもあるかい。現実いうもんはの、おのれが支配せんことにゃどうもならんのよ。目ぇ開いて、わしに力貸せや。」 
 
「昌三…わしらどこで道間違えたんかのう。夜中に酒飲んどると、つくづく極道がいやんなってのう。足を洗ろうちょるか思うんじゃが。朝起きて若いもんに囲まれちょると、夜中のことはころっと忘れてしまうんじゃ」 
「最後じゃけん、言うとったるがのう。狙われるもんより、狙うもんのが強いんじゃ。そがな考えしとると、隙ができるぞ」 
 
「哲っちゃん。こんな…こがなことしてもろて、満足か?満足じゃなかろうが?わしも同じじゃ」 
 
「山守さん、弾はまだ残っとるがよ…」 
『黒薔薇の館』(監督 深作欣二) 
「嵐は、静かな美しい夕焼けを先駆けとして襲うという。その日もそうだった。あまりにも美しい色合いが、かえって人々の不安を掻き立てるような夕焼けだった。今思えば、あの女こそ嵐の前の夕焼けそのものだったのだ」 
 
「これは私の愛のしるしですわ。永遠の愛、真実の愛のしるし。そしてそれが得られたとき、この薔薇は蘇えり、紅く色づく」 
『好色一代男』(監督 増村保造/原作 井原西鶴) 
「あほな、おなごは尊いものや、男より偉いのや。第一、男はおなごから生まれんのや。なあ、お釈迦さんでも、孔子さんでも、みんなこのお腹の中から出てきたのと違うか。この世の中のものは、みーんなおなごから始まんのや。男の喜びも楽しみも、おなごのためや。おなごあっての世の中、おなごがのうては闇や」 
『セックスチェック 第二の性』(監督 増村保造/原作 寺内大吉) 
「女ってやつは不幸なときは爆発する、やけっぱちで突っ走るが、幸福になっちゃおしまいだ。ごきげんでべったり座り込みやがる」 
 
「何しろ俺はもう、大勢の女を荒らしまわる狼じゃなくて、たった一人の女を守る犬だからな。走ろうたって、走れねえ」 
『「女の小箱」より 夫が見た』(監督 増村保造/原作 黒岩重吾) 
「それにしても馬鹿な男だ、浮気されたぐらいで女を殺すなんて」 
「もし私が浮気したら、あなたなら殺す?」 
「殺さないさ、愛しているからな」 
「愛していないからよ」 
『千羽鶴』(監督 増村保造/原作 川端康成) 
「死んだ人間にとらわれてしまっている限り、ぼくもまた、死んだ人間だ」 
『盲獣』(監督 増村保造/原作 江戸川乱歩) 
「世の中には、目で見る芸術、耳で聞く芸術、知性で判断する芸術はあるが、手で触って鑑賞する芸術がない」 
「関係ないわ、そんなこと!」 
「毎日手に触れるもの、例えば茶碗や花瓶、机や椅子、服や毛皮、みんな形や色だけでなく、手触りの美しさもあるはずだ」 
「だからどうだって言うの」 
「僕はその手触りの美しさを狙った彫刻、目くらでなければできないし、目くらでなければわからない新しい彫刻、触覚の芸術を作りたいんだ!」 
 
「目くらは可哀想だなんて、とんでもない間違いね。目あきの方がずっと哀れだわ。だって、触覚の楽しさを知らないんですもの」 
「やっと俺の気持ちがわかってきたか」 
「そうよ。触覚って素晴らしいわ。甘くて、深くて、確かで。それに比べたら、色や形なんてまるで薄っぺらよ。全然頼りにならないわ」 
『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(監督 本広克行) 
「お前らの組織は、橋一つ止められないのか!」 
「君たちの組織には、リーダーがいないんだってな!」 
「ああ、究極の組織だ!」 
「リーダーなんかがいると、個人が死んじまうんだ!」 
「俺の組織には、リーダーがいる!」 
「じゃあ、俺たちの勝ちだな!」 
「どうかな。リーダーが優秀なら、組織も悪くない」 
 
「これからが大変だぞ、室井」 
「責任を取る。それが、私の仕事だ」 
 
「室井さん。痺れるような命令、ありがとうございました」 
『踊る大捜査線 THE MOVIE』(監督 本広克行) 
「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」 
 
「捜査員が負傷。青島刑事が重傷のようです」 
「局長、聞きましたか?局長!……兵隊は犠牲になってもいいのか?」 
『踊る大捜査線 TV版』(脚本 君塚良一) 
「…君だったのか…人を殺して…なのに、普通の顔してぼくと話してたのか。どうしてぼくに言わなかった!」 
「…あんたに言いたいことあって、自首したんだ。殺すつもりなかった…忍び込むのが楽しかったのに、見つかっちまって。あんたの言った通りだ…本当は、ぼくも毎日刺激なかったんだ…」 
「…きみも刑事になればよかったのに」 
「でも、そっちも刺激ないんでしょ?」 
「…あるよ。毎日どきどきしてる」 
「…そう…いいな…頑張ってね」 
「…ああ…」 
『水の中の八月』(監督 石井聰互) 
…真魚…私、たぶん、あの高飛び込みの事故の時に、死んでしまっていたの。 
あれから今まで生きてこられたことが奇跡なのよ。 
見るものすべて、聞くものすべて、感じるものすべてが、懐かしくて、愛おしくて、すごく素敵だった… 
私はもう、行かなくちゃ。 
ありがとう、本当に… 
『ユメノ銀河』(監督 石井聰互/原作 夢野久作) 
「そう。私、無茶だと思う。でも、無茶でもいいの。私のホントにつまらなかった人生に、初めて大きな冒険が現れたのよ。私、もちろん覚悟してます。智恵子さん、これこそホントに、命がけの恋よ」 
 
「智恵子さん。私、新高さんを好きになりすぎてしまいました。もう、混乱して、おかしくなっています。でも私、決して逃げたりしない。この冒険を選んだのは、私自身ですから。私もう、自分から決着をつけます」 
『RAMPO』(監督 奥山和由) 
「私の中に閉じ込めてしまっていいんですね?先生」 
「さよならだよ、横溝君」 
『鉄塔武蔵野線』(監督 長尾直樹/原作 銀林みのる) 
そのとき、僕にはそれが、一生で数えるほどしかない、幸せな時間であることがわかりました。 
『安寿子の靴』(脚本 唐十郎) 
こうして いつも水の時計はまわる 水に流すつもりでまわり 水にさからう時間をさがす 涙は折れた水の針 
でもでもと 水に落ちた時計を探し 流れのおきてにさからう子だって 波はきっと好きだというよ 
『里見八犬伝』(原作 滝沢馬琴「南総里見八犬伝」/脚本 大森美香) 
「一度口から出た言葉を違えるとは、この愚将め!人の命を弄びおって、それならば初めから助けるなどと言わねばいい。殺さば殺せ!私を切ったら呪ってやるぞ!私の呪いでこの里見、子の代、孫の代まで畜生道に貶め、この世の煩悩の犬と変えてやるわ!」 
『王様のレストラン』(脚本 三谷幸喜) 
「人生とオムレツは、タイミングが大事」 
「人生で大事なことは、何を食べるか、ではなく、どこで食べるか、である」 
「人生で起こることは、すべて、皿の上でも起こる」 
「人はみな、神が作ったギャルソンである」 
「奇跡を見たければ、その店へ行け」 
「歴史は、鍋で作られる」 
「最高のシェフは、恋をしたシェフ」 
「まずい食材はない。まずい料理があるだけだ」 
「若者よ、書を捨て、デザートを頼め」 
『クロス・ファイア』(監督 金子修介/原作 宮部みゆき) 
「怒ったら駄目、憎んだら駄目、泣くのも我慢するの。ね?純子は他の子と違うんだから、お友達のそばに寄っちゃいけないの。大変なことになっちゃうの」 
「私、人間じゃないの?」 
「純子は人間よ…可愛い女の子よ…」 
 
沖に光る漁り火は、魚を呼び寄せるためだけのものではない。遠い昔、私の先祖たちも、ひそかに夜の海に漕ぎ出し、身体に溜まった憎しみの心を追い放ち、不知火の伝説が生まれたという。死んだ母は、何度も私を戒めた。人の心に住む怒りを火とたとえるなら、その火はひとたび激しく燃え出すと、止めることはできず、やがてはみずからも燃やし尽くしてしまうのだと… 
『ガメラ2 レギオン襲来』(監督 金子修介) 
「主がおまえの名は何かとお尋ねになると、それは答えた。我が名はレギオン。我々は大勢であるがゆえに……」 
「聖書か…」 
「マルコ第五章です」 
 
「ガメラは生きてます。必ず復活します。だって」 
「だって?」 
「ガメラはレギオンを許さないから」 
 
「ガメラが救ったのは、人間じゃないと思う。この星の生態系なんじゃないかな。ガメラはレギオンを許さない。ガメラはきっと地球の守護者なのよ」 
「それじゃあ、もし人間が生態系の破壊を続けたら……」 
「ガメラの敵には、なりたくないよね」 
『ガメラ3 イリス覚醒』(監督 金子修介) 
わだつみの底に眠りし甲羅は悪しき霊の依代なり。 
葦原の中つ国のために、悪しき霊をほふり地の果てに追いやらん。 
 
「人は、緩慢な自滅の道を歩んでいる。ギャオスがいなくてもいずれ滅ぶ。しかし、滅亡よりも悪い未来が待っているかもしれない。そうなるまえに、怪獣に人類の幕を引いてもらおうというのが、私の考えだし、ギャオスを生み出した者の考えだろう。だからガメラがとめようとするなら、たとえそれが地球の意志でも、奴を倒す」 
「ギャオスに人類の幕引きなんかできない」 
「ギャオスじゃない。もはや新たな存在だ。予め用意されていたものか、自己進化の結果か、理由はわからないが、かつてガメラがしたように人と交感することでより強くなろうと、しかもこの子と融合して、ガメラを超えようとしている。こんな可愛い子でも、悪魔を飼ってるからね。ガメラは勝てない」 
「どんなにみっともなくても、生物は最後の瞬間まで生きようとしますよ。人類も同じです」 
『STACY』(原作 大槻ケンヂ/監督 友松直之) 
「今、わかりました。この子達は、一番大切な人に殺されるべきなんだ。それがこの子達の一番の望みなんですねえ。好きな人に血まみれにされることは、幸せなことなんですよ。私、娘を殺しました。反抗期でね、解体してる間、ずうっと白目剥いて私のこと睨んでた。娘は世界一嫌いな父親に切り刻まれて、さぞかし不本意だったんでしょうね。でもね、私は娘を世界一愛してた。愛してたんですよ……」 
 
「ねえ、渋さん。詠子の言葉なんて書いて人形劇になるの?」 
「だって詠子が言ったんじゃないか。ごんべんに永遠の詠子なんだろう?こうして書いておけば、詠子の言葉は永遠だよ」 

 
京マチ子
 

(1924 - 2019/5/12) 日本の女優である。本名、矢野元子。大阪府大阪市出身。
1936年(昭和11年)、大阪松竹少女歌劇団(OSK)に入団。娘役スターとして活躍。1949年(昭和24年)に大映に入社、女優デビューした。後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として大活躍した。160cmと当時としては大柄であり、官能的な肉体美を武器に数々の名作に出演した。
溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年)、黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれる。1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台に活動の場を移し、『犬神家の一族』などで活躍の幅を広げた。80歳を過ぎても2006年頃まで舞台などで活動を続けていた。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の3位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第7位になった。
役柄
『雨月物語』など官能美を前面に出した演技が当時話題となった。月丘夢路とは映画『華麗なる一族』、ドラマ『犬神家の一族』などで共演し、共に家庭内の壮絶な抗争に執念を燃やす中年女性の狂気を熱演した。
1976年12月公開の『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』でマドンナ柳生綾を演じ、マドンナの中では唯一渥美清より年上である。
私生活
一人っ子として出生したものの、5歳のときに父が蒸発により生別、母と祖母の手で成長した経緯を持つ。
大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もあったが、生涯独身を通す。1965年(昭和40年)には、日本で初めての「億ション」、コープオリンピア(東京・表参道)を購入して話題となった。
晩年は女優業は半引退状態であった。2014年1月には池畑慎之介のブログに登場した他、2017年6月にも仲代達矢が近況について「元気です」と伝えていた。
2019年(令和元年)5月12日、入院していた都内の病院で心不全のため95歳で逝去。生前からハワイの墓に納骨するように遺言していた。
受賞・受章歴
1950年(昭和25年):第5回毎日映画コンクール・主演女優賞 『羅生門』、『偽れる盛装』
1957年(昭和32年):第14回Jussi賞(フィンランド)・主演女優賞 『地獄門』
1964年(昭和39年):第38回キネマ旬報賞・主演女優賞 『甘い汗』
1964年(昭和39年):第19回毎日映画コンクール・主演女優賞 『甘い汗』
1987年(昭和62年):菊田一夫演劇賞大賞
1987年(昭和62年):紫綬褒章
1994年(平成6年):勲四等宝冠章
1995年(平成7年):第5回日本映画批評家大賞・ゴールデン・グローリー賞
1995年(平成7年):第18回日本アカデミー賞・会長特別賞
2017年(平成29年):第40回日本アカデミー賞・会長功労賞
映画出演作品
 
 
 
 
 
団十郎三代(1944年、松竹)
天狗倒し(1944年、松竹、井上金太郎監督)
最後に笑う男(1949年、大映)
花くらべ狸御殿(1949年、大映)
地下街の弾痕(1949年、大映)
三つの真珠(1949年、大映)
痴人の愛(1949年、大映)
蛇姫道中(1949年、大映)
羅生門(ヴェネツィア国際映画祭グランプリ(サン・マルコ金獅子賞)、イタリア批評家賞受賞作品。アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品 監督:黒澤明 1950年、大映)
続・蛇姫道中(1950年、大映)
遙かなり母の国(1950年、大映)
浅草の肌(1950年、大映)
美貌の海(1950年、大映)
復活(1950年、大映)
火の鳥(1950年、大映)
偽れる盛装(監督:吉村公三郎 1951年、大映)
恋の阿蘭蛇坂(1951年、大映)
情炎の波止場(1951年、大映)
馬喰一代(1951年、大映)
源氏物語(第5回カンヌ国際映画祭撮影賞受賞作品 原作:紫式部 監督:吉村公三郎 1951年、大映)
自由学校(監督:吉村公三郎 1951年、大映)
牝犬(1951年、大映)
浅草紅団(1952年、大映)
長崎の歌は忘れじ(監督:田坂具隆 1952年、大映)
滝の白糸(1952年、大映)
美女と盗賊(1952年、大映)
大佛開眼(1952年、大映)
総理大臣と女カメラマン 彼女の特ダネ(1952年、大映)
雨月物語(ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞作品、第28回アカデミー賞衣裳デザイン賞白黒映画部門ノミネート作品 監督:溝口健二 1953年、大映)
黒豹(1953年、大映)
あにいもうと(監督:成瀬巳喜男 1953年、大映)
地獄門(カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品。第27回アカデミー賞衣裳デザイン賞、名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品 初のカラー映画出演 1953年、大映)
或る女(監督:豊田四郎 1954年、大映)
愛染かつら(1954年、大映)
春琴物語(1954年、大映)
浅草の夜(1954年、大映)
千姫(1954年、大映)
馬賊芸者(1954年、大映)
春の渦巻(1954年、大映)
薔薇いくたびか(1955年、大映)
楊貴妃(監督:溝口健二 1955年、大映)
藤十郎の恋(1955年、大映)
新女性問答(1955年、大映)
新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映)
虹いくたび(1956年、大映)
赤線地帯(監督:溝口健二 1956年、大映)
月形半平太 花の巻/嵐の巻(1956年、大映)
八月十五夜の茶屋 (第14回ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)ノミネート 共演:マーロン・ブランド(Marlon Brando)、グレン・フォード(Glenn Ford)、エディ・アルバート(Eddie Albert) 1956年) - メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、アメリカ映画
いとはん物語(1957年、大映)
スタジオはてんやわんや(1957年、大映)
踊子(1957年、大映)
女の肌(1957年、大映)
地獄花(1957年、大映)
夜の蝶(監督:吉村公三郎 1957年、大映)
穴(監督:市川崑 1957年、大映)
有楽町で逢いましょう(1958年、大映)
悲しみは女だけに(監督:新藤兼人 1958年、大映)
母(1958年、大映)
忠臣蔵(1958年、大映)
大阪の女(1958年、大映)
赤線の灯は消えず(1958年、大映)
夜の素顔(監督:吉村公三郎 1958年、大映)
娘の冒険(1958年、大映)
あなたと私の合言葉 さよなら、今日は(監督:市川崑 1959年、大映)
細雪(2度目の映画化 1959年、大映)
女と海賊(1959年、大映)
夜の闘魚(1959年、大映)
次郎長富士(1959年、大映)
鍵(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品 監督:市川崑 1959年、大映)
浮草(監督:小津安二郎 1959年、大映)
女経・第三話「恋を忘れていた女」(監督:吉村公三郎 1960年、大映)
足にさわった女(監督:増村保造 1960年、大映)
流転の王妃(監督:田中絹代 1960年、大映)主演の呼倫覚羅竜子(愛新覚羅浩) 役
ぼんち(監督:市川崑 1960年、大映)
三人の顔役(1960年、大映)
顔(原作:丹羽文雄 1960年、大映)
お伝地獄(1961年、大映)
婚期(監督:吉村公三郎 1961年、大映)
女の勲章(1961年、大映)
濡れ髪牡丹(1961年、大映)
小太刀を使う女(1961年、大映)
釈迦(1961年、大映)
黒蜥蜴(戯曲:三島由紀夫 1962年、大映)
仲よし音頭 日本一だよ(1962年、大映)
女の一生(監督:増村保造 1962年、大映)
女系家族(原作:山崎豊子 1963年、大映)
現代インチキ物語 ど狸(1964年、大映)
甘い汗(監督:豊田四郎 1964年、東宝)
他人の顔(監督:勅使河原宏 1966年、東宝)
沈丁花(1966年、東宝)
小さい逃亡者(1966年、大映)
千羽鶴(原作:川端康成 監督:増村保造 1969年、大映)
玄海遊侠伝 破れかぶれ(1970年、大映)
華麗なる一族(原作:山崎豊子 監督:山本薩夫 1974年、東宝) - 万俵大介の愛人・高須相子 役
ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(※ドキュメンタリー映画 監督:新藤兼人 1975年、近代映画協会)
金環蝕(監督:山本薩夫 1975年、大映)
妖婆(監督:今井正 1976年、大映)
男はつらいよ 寅次郎純情詩集(監督:山田洋次 1976年、松竹) - シリーズ第18作、マドンナ 役
化粧(1984年、松竹)  
 
 
 
 
 
 
 
京マチ子・諸話
 

 
 
 
 
 
俳優 京マチ子さん死去 
黒澤明監督の映画「羅生門」など、出演した映画が国際映画祭で次々と賞を取り、「グランプリ女優」とも呼ばれた俳優の京マチ子さんが、12日、心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。95歳でした。
京マチ子さんは大正13年に大阪で生まれ、昭和11年、13歳で大阪松竹少女歌劇団、現在のOSK日本歌劇団に入り、華麗なダンスで人気を集めました。
その後、映画の世界に転じ、ベネチア国際映画祭で日本で初めてグランプリを受賞した黒澤明監督の「羅生門」で、三船敏郎さん演じる盗賊に襲われる侍の妻を演じ、一躍トップ女優となりました。
その後も、溝口健二監督の「雨月物語」がベネチア国際映画祭の銀獅子賞に、また、衣笠貞之助監督の「地獄門」がカンヌ映画祭でグランプリを受賞するなど、出演した作品が海外の映画祭で数々の賞を受賞して「グランプリ女優」とも呼ばれ、美しい容姿とあでやかさを兼ね備えた演技で国際的にも人気を集めました。
テレビドラマや舞台でも活躍し、平成11年に放送されたNHKの大河ドラマ「元禄繚乱」では、将軍、徳川綱吉を溺愛する母、桂昌院の役を演じました。
昭和62年に紫綬褒章、平成6年には勲四等宝冠章を受章し、80歳を過ぎても舞台「女たちの忠臣蔵」に出演するなど活躍を続けました。
東宝によりますと、京さんは12日、心不全のため東京都内の病院で亡くなったということです。
石井ふく子さん「心の美しい清らかな方」
京マチ子さんが亡くなったことについて、京さんが出演したテレビドラマのプロデュースや舞台の演出を手がけるなど、親交があった石井ふく子さんは「あんなにすてきな大スターは、もう出ていらっしゃらないと思います。心の美しい本当に清らかな方でした。寂しいです」というコメントを出しました。
山田洋次さん「至高のマドンナ」
映画監督の山田洋次さんは「至高のマドンナ」というコメントを出し、「『男はつらいよ・第18作』に寅さん憧れの貴婦人として登場していただいた時の息を呑むような美しさをまざまざと思い出す。その奇跡のような美しさと気品は晩年まで少しも変わらなかった。最近完成したばかりの第50作に再び登場していただいているので、必ず京さんに見ていただくつもりだったが、それが叶わなくなってしまった。悲しくてたまらない」と記しています。  
 
 
 
 
 
 
京マチ子さん死去 晩年にあった仲間との“やすらぎの郷ライフ”
女優の京マチ子さんが5月12日、心不全のため死去していたと発表された。享年、95歳。各メディアによると、告別式は近親者で行ったという。
大阪生まれの京さんは49年に大映で女優デビュー。黒沢明監督(享年88)の50年の映画「羅生門」や53年の溝口健二監督(享年58)「雨月物語」、衣笠貞之助監督(享年86)「地獄門」などに出演。作品がヴェネツィア国際映画祭やカンヌ国際映画祭といった映画祭で次々と受賞したことから「グランプリ女優」と形容されるほど、日本の映画界に欠かせない名女優となった。
ドラマでは77年の「犬神家の一族」(TBS系)や必殺シリーズに出演し、94年の「花の乱」(NHK総合)や99年「元禄繚乱」(同局)といった大河ドラマでも存在感を発揮。06年までは舞台に出演するなど公の場にも登場していたが、以降は事実上の引退状態となっていた。そのため13年と14年に池畑慎之介(66)のブログに近影がアップされると、大きな反響を呼んだ。
Twitterでは京さんを追悼する声が続々と上がっている。
《また名優が御一人旅立たれた…… 京マチ子さん演じる坂東京山ほど美しく冷たく鋭い眼を見たことがない》《洋装も和装も似合って、なんて妖艶な人なんだろうと思っていました。特に唇が色っぽいのに可愛くて好きでした》《私は小津監督の「浮き草」の旅芸人の役が大好きです。特にあの大雨の時の鴈治郎さんとの罵声の言合いのシーンと、ラストシーンが。ご冥福をお祈りします》
今年に入ってもデビュー70周年を記念した「京マチ子映画祭」が開催されるなど、いまだ根強い人気を誇っていた京さん。実は、晩年はドラマ「渡る世間は鬼ばかり」(TBS系)でお馴染みのテレビプロデューサー・石井ふく子氏(92)や、紫綬褒章も受賞した女優・奈良岡朋子(89)、戦後を代表する映画女優・若尾文子(85)らと同じマンションで暮らしていたという。
「京さんがそのマンションで暮らすことになったのは、石井さんがキッカケ。正月にはみんなで石井さんのお家に集まってお雑煮を食べるなど、気の置けない仲間たちといっしょに老後を過ごされていたそうです。京さんは生涯独身を貫きましたが、女友達に囲まれている安心感のおかげで大往生となったのかもしれません」(芸能関係者)
“リアルやすらぎの郷ライフ”を送り、女友達に見守られて息を引き取った京さん。これからは空から、日本の映画界を見守ることだろう。