真白き富士の嶺

真白き富士の根1富士2富士3富士4富士5富士6富士7鎌倉城ヶ島の雨1城ヶ島の雨2城ヶ島夜曲天国に結ぶ恋江の島悲歌片瀬夜曲・・・
飯山悲歌石狩川悲歌小樽悲歌北上川悲歌くちなし悲歌コサックの悲歌上海悲歌小豆島悲歌それぞれの悲歌東京悲歌長崎悲歌悲歌(えれじい)富士川悲歌離別の悲歌若者たちの悲歌湯の町エレジー石狩エレジー悲歌琵琶湖哀歌・・・
 
 
   

 

■「真白き富士の根 (ましろきふじのね)」  1
作詞:三角錫子 作曲:ジェレマイア・インガルス 
真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心
   ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
   風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
   力も尽き果て、呼ぶ名は父母
   恨みは深し、七里ヶ浜辺
み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に
   みそらにかがやく、朝日のみ光
   暗(やみ)に沈む、親の心
   黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
   神よ早く、我も召せよ。
雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し
   帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
   我も恋し、失(う)せし人よ
   尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
   今日も明日も、かくてとわに
逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を歌った歌謡曲である。「真白き富士の嶺」、「七里ヶ浜の哀歌」 とも呼ばれる。1935年、1954年にはこの事件を題材にした同名の映画にもなった(なお、1963年公開の日活による同名映画は事件とは関係ない)。
成立年: 1910年(明治43年)
作詞者: 三角錫子(みすみ・すずこ、1872年-1921年) 作詞当時、系列校である鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教師だった。東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等学校の設立者でもある。
作曲者: ジェレマイア・インガルス
「七里ヶ浜の哀歌」 の方が原題に近いが、一般には、歌い出しの歌詞から 「真白き富士の根(嶺)」 と呼ばれた。
歴史
1910年(明治43年)1月23日: ボート転覆事故発生。
1910年2月6日: 逗子開成中学校にて追悼大法会開催。 鎌倉女学校生徒らにより、鎮魂歌としてこの歌が初演された。
1915年(大正4年)8月: レコードが発売された。
1916年(大正5年): 歌詞・楽譜が刊行された。題名は 「哀歌(真白き富士の根)」。 このころから演歌師によって一般に広められ、歌謡曲となった。
1935年(昭和10年): 松竹により映画化。題名は 「真白き富士の根」。主題歌は松原操が歌唱。
1954年(昭和29年): 大映により映画化。題名は 「真白き富士の嶺」。主題歌は菊池章子が歌唱。
曲について
従来、「ガードン作曲」 とされてきたが、ガードンなる人物については何も知られていなかった。賛美歌研究者である手代木俊一(当時 フェリス女学院図書館事務室長)の研究で、実際にはアメリカ人ジェレマイア・インガルス(Jeremiah Ingalls, 1764年3月1日-1828年4月6日)の作と判明した。1995年頃から読売新聞や逗子開成学園が手代木に取材し、この事実が一般にも知られるようになった。ただし、インガルス作曲であることを指摘した日本人は手代木が最初ではなく、既に1948年に遠藤宏が著書の中で指摘している旨、手代木自身が記している。
1805年、ジェレマイア・インガルスは白人霊歌集『クリスチャン・ハーモニー (Christian Harmony)』を刊行した。同歌集に掲載された曲『Love Divine』と『真白き富士の根』はかなり似ており、同曲が起源と考えられる(同曲はイギリスの民謡を元にインガルスが編曲したもの、との指摘もなされている)。 手代木によれば、同曲には 2種類の歌詞が付けられていた。(1) 「To him who did salvation bring」で始まる歌詞と、(2) 「The Lord into his garden's come」で始まり第5節が「When we arrive at home.」で終わる歌詞とである。
1835年、アメリカ南部で刊行された賛美歌集『サザン・ハーモニー (Southern Harmony)』には、同曲は「Garden」の名で収録された。歌詞は「The Lord into His garden comes」で始まる歌詞が付けられた。 統一協会の成約聖歌には、サザン・ハーモニー版に近い曲が『園の歌』として収録されている。出典は「SOUTHERN FOLK」(南部民謡)とのみ記されており、歌詞は多少アレンジされている。参照:英語版、日本語版。
『園の歌』と『真白き富士の根』の関係は、一橋大学教授(当時)の櫻井雅人が指摘している。参照:『一橋論叢』 132巻3号 (2004.9): 「ナンシー・ドーソン」とその関連曲 205頁。
1881年-1891年に刊行された賛美歌集『Franklin Square Song Collection』では、さらに『真白き富士の根』に近い旋律となった。歌詞は、「The Lord into His garden comes」で始まり「When we arrive at home.」で終わる。天国での来世に希望を託す歌である(なお、「ガードン作曲」説は、当時の賛美歌譜に付されていたチューンネーム「Garden」を堀内敬三が作曲者名と見誤ったのが起源、と推測されている。→ 岩波文庫『日本唱歌集』)。
日本国内においては、同曲は 1890年(明治23年)刊行の『明治唱歌』において、『夢の外(ゆめのほか)』(大和田建樹作詞)として採用された。三角錫子はこの唱歌の替え歌として『七里ヶ浜の哀歌』を作詞したのである。『夢の外』の2番、『七里ヶ浜の哀歌』の4番の歌詞については、共にキリスト教の影響が指摘されている。『七里ヶ浜の哀歌』 5番の「悲しさ余りて 寝られぬ枕に」は、『夢の外』 3番の「うれしさあまりて ねられぬ枕に」がヒントとなっている。
この曲は、歌謡曲経由で、再びキリスト教賛美歌に使用されるに至った。日本福音連盟 『聖歌』(1958年)623番、『新聖歌』(2001年)465番、聖歌の友社 『聖歌(総合版)』(2002年)669番の『いつかは知らねど』である(喜田川広作詞、1957年)。歌詞の第1節、第2節、第4節は、原曲の「When we arrive at home」を意識したものとなっている。
補足
明治43年(1910)1月23日午後、神奈川県・逗子開成中学校の生徒11名と小学生1人の計12名が、逗子町の田越川河口から江ノ島に向けてボートをこぎ出しました。地元の漁師たちは止めましたが、晴天で風もさして強くなかったことから、少年たちは出発しました。
ところが、途中で突風にあおられてボートは転覆、全員が海に投げ出されました。そのうちの1名が漁船にすくい上げられたことから少年たちの遭難が判明、ただちに捜索が開始されました。しかし、漁船にすくわれた1名も含めて、全員が亡くなりました。
同年2月6日、逗子開成中学校で追悼大法会が開催されました。そのとき鎮魂歌として披露されたのがこの歌です。
原曲は、アメリカの牧師で作曲家のジェレマイア・インガルス(Jeremiah Ingalls、1764-1828)が讃美歌用に作曲 した"LOVE DIVINE" (または "The GARDEN HYMN")。これが明治期の日本に移入され、大和田建樹が『夢の外(ほか)』という歌詞をつけて、大和田建樹・奥好義編『明治唱歌 第五集』(中央堂刊)に収録されました。編曲者は不明ですが、別の曲ではないかと思うほど原曲とは違っています。
この『夢の外』のメロディに合わせて、逗子開成中学校の系列校・鎌倉女学校で教師をしていた三角錫子(みすみ・すずこ)が詞を作り、同女学校の生徒たちが合唱しました。三角錫子は石川県金沢市の出身。女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業後、各地の女学校で教師を務め、のちにトキワ松学園の前身校・常磐松女学校を設立するなど、女子教育に多大の貢献をしました。
大正4年(1915)8月、この歌のレコードが発売されたことから、全国で歌われるようになりました。原題は『七里ヶ浜の哀歌』でしたが、歌い出しのフレーズをとって『真白き富士の根』と呼ぶのが定着しています。昭和10年(1935)に松竹が、同29年(1954)に大映が事件を映画化。この大映版のタイトルが『真白き富士の嶺(ね)』となっていたことから、この歌も、そう表記されることがあります。
なお、JASRACのデータベースには、『真白き富士の根』『真白き富士の嶺』の両方が正題として登録されています。
上記の歌詞は、現在まで一般に歌われてきたものですが、オリジナルとはかなり違っているようです。下記b-jackさんのコメントをご参照ください。
古い曲集では、この歌の作曲者がガードンとなっています。これは、岩波文庫版『日本唱歌集』の編者の1人・堀内敬三が、原曲の旋律名"GARDEN HYMN"のGARDENを作曲者と見誤ったことに起因するのではないかといわれています。 
 
 

 

■「七里ヶ浜の哀歌」 2
童謡・唱歌の中で哀しい歌の代表といえば、まず『赤い靴』や『十五夜お月さん』などが思い出されますが、『七里ヶ浜の哀歌』はそれらをはるかに上回る悲劇的な歌です。明治43年1月23日の昼下がり、神奈川県の七里ヶ浜の沖合で逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが転覆し、全員が死亡するという事故が起きました。『七里ヶ浜の哀歌』は、彼等のために作られた歌です。作詞者は、当時中学校の近くに住んでいた鎌倉女学校の教師三角錫子*。事故の翌月に開催された慰霊祭では、女学校の生徒達がアメリカの作曲家インガルスが作った『Whenwe arrive at home』の曲にのせて、心をこめて歌ったそうです。
『七里ヶ浜の哀歌』(明治43年2月6日に発表)
作詞 三角錫子(みすみすずこ、1872−1921)
作曲 ジェレミー・インガルス(米)
   真白き富士の根 緑の江の島
   仰ぎ見るも 今は涙
   帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
   捧げまつる 胸と心
   ・・・
前途有望な少年達の死は世間を大いに騒がせましたが、彼等の遺体が発見されるに及んで、更に深い感銘を人々に与えました。友達同士がかばい合った姿で、兄が弟を抱きかかえた姿で、収容されたからです。
死に臨んでもなお友を愛し同胞を慈しんだ彼等の姿は後に銅像となり、稲村ヶ崎にある公園の一角から事故の現場となった七里ヶ浜の沖合を望んでいます。その台座にはこの『七里ヶ浜の哀歌』の詞が刻まれています。今回はこの「ボート遭難の碑」をご紹介します。
作曲家團伊玖磨の著書、『好きな歌・嫌いな歌』(昭和54年)によると、この歌は歌われているうちにだんだん日本人好みの短調に姿を変え、大正時代に演歌師が巷にこの歌をひろめ出した頃に、完全に短調の歌になってしまったそうです。もしかすると、犠牲者への人々の哀悼の気持ちが、曲調を哀しげなものに変えていったのかもしれません。
三角錫子 
みすみすずこ。明治5年、旧金沢藩士で測量家の三角風蔵の長女として生まれる。明治25年、女子高等師範学校を卒業。札幌女子小学校、東京女学館、横浜女学校、東京高等女学校などで教鞭を執る。大正5年、常盤松女学校を創立し校長となる。『七里ヶ浜の哀歌』の作詞家としても知られる。大正10年、死去。享年48。 
 
 

 

■「真白き富士の嶺」 3
1910(明治43)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難。七里ヶ浜で全員溺死。遺体操作には5日もかかったという。この事件は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。2月6日同行校庭で大追弔会が開かれ12人の霊を弔った。式後、この悲報に接した姉妹校・鎌倉高女の三角教諭が作詞した「真白き富士の根 緑の江ノ島」を三角自身がオルガンを弾き、鎌倉高女生が合唱した。
「真白き富士の根」
真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
   ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
   風も浪も 小(ち)さき腕に
   力もつきはて 呼ぶ名は父母
   恨は深し 七里が浜辺
この歌は、6番まで続くが、このボート転覆事故の死者を弔うために作られた歌であるため、別名「七里ヶ浜の哀歌」といわれるが、当時は単に「哀歌」という題名だったそうだ。
作詩は、オルガン伴奏をする同校の教諭、三角壽々(みすみすず)。後に、常盤松女学校(現・トキワ松学園)を創立した女性運動家の三角錫子(すずこ)のことである。
当時逗子に住んでいてこの悲報に接した三角は一夜で作詩。メロディは1890(明治23)年の「明治唱歌 五」 に大和田建樹によって「夢の外(ほか)」として訳出されていたもので、当時女学校では非常に人気のあったアメリカ人作曲の讃美歌の曲に合わせ、鎌倉女学校の生徒が合唱したものである。と言うよりも、「夢の外(ほか)」として訳出ていたものの詩をアレンジして作ったものらしい。この、「夢の外(ほか)」の原曲は、イギリスの舞踏曲のひとつであり、アメリカの作曲家であるジェレミー・インガルス(Jeremiah Ingalls)が1805年に賛美歌集「クリスチャン・ハーモニー」の中に 「GARDEN(讃美歌)」の曲名として採集して紹介していたものだった。
「真白き富士の根」は、大正期に入って、当時の「演歌(バイオリン演歌)」の世界でも好んで歌われ、メロディも短調に移されるなどの変化が加えられた。題名も元はただの「哀歌」であったものが、その後「哀悼の歌」「七里ヶ浜の仇浪」「真白き富士の嶺」などさまざまな題名がつけられた。
又、歌詞詩の「真白き富士の根」はよく「富士の嶺」と書かれるが「富士の根」が原作だそうで、元の賛美歌の作曲者がガーデンとするものは歌のタイトルと混同した誤りである。
遭難した中学生といっても、当時、義務教育は4年制の尋常小学校までであり、一般の子供達は通常、ここで学業を終え働きに出た。その後、裕福な家庭の子だけが、さらに4年の高等小学校に上がり、6年生の中学に進むわけだから、中学生はエリートである。そしてこのとき亡くなったのは中学5年生くらいと言うから19歳くらいになる。そして、死亡した12人のうち4人は徳田家の兄弟で、この中の1人は兄に連れられて乗った小学生(高等小学2年生10歳)だった。エリートとよばれた最愛の息子たち4人を失った父の徳田省三は、実業家として著名人だったそうだ。彼等の遺体が発見されたとき、兄は前から弟を抱きしめ、弟は兄の首にしがみついた姿で収容され、2人を引き離すのに苦労したという。前途有望な少年達の死は世間を大いに騒がせた事件であったが、彼等の遺体が発見されるに及んで深い感銘を人々に与え、稲村ヶ崎の遭難碑の上には、徳田兄弟が抱き合うブロンズ像が立ち、肉親愛の感動を今に伝えている。そして、その台座にはこの「七里ヶ浜の哀歌」の詩が刻まれている。逗子開成のOBには、徳間康快氏(徳間書店、大映社長、逗子開成学園理事長)や、谷啓さん(元クレージーキャッツ、「ガチョーン」で有名)、吉村明宏さんがいるそうだ。
逗子開成中学のボート遭難事件とそれにまつわる映画は、1935(昭和10)年、松竹が「真白き富士の根」 の名で映画化。戦後の1954(昭和29)年には大映が「真白き富士の嶺」として映画化をしており、ここでも、”根”と”嶺”の違いがある。どちらが正しいのかは知らないが、今のところは、”根”に統一されているようだ。 
 
 

 

■「真白き富士の嶺」 4
明治43年1月23日(日曜日)午後1時30分頃、神奈川縣鎌倉と江の島の中間七里ヶ濱の荒磯に於いて逗子開成中學校所有のボ一トが沈没し、乗ってゐた12名の少年は皆溺死した。 その人々の名と年齢は、
逗子開成中學校  
5年生 牧野文雌(23)笠尾虎治(22)徳田勝治(21)木下三郎(20)小堀宗作(20)宮手登 (18) / 4年生 松尾寛之(19)谷多操 (18) / 2年生 徳田逸三(17)奥田義三郎(15)内川金之助(年不明) / 逗子小學校児童 徳田武 (11)
以上で、徳田姓を名乘る勝治、逸二、武の3人は兄弟であった。此の12名は1月23日の朝9時30分中學校のボ一トを三浦郡田越村字堀の内の海岸から乘り出した。朝から天候不穏だったので其の時海洋で演習をしてゐた田越村の消防夫たちは中止をすヽめたが、聞かずに江の島さして漕ぎ出したのである。午後に到って風が強くなり波が高くなってついにボ一トは七里が濱の沖で沈没してしまった。 七里が濱は難所して知られ、その海洋へ泳ぎつかうとすると強い底流のために東方に流される。 だから少年達は海岸へ泳ぎつく事が出來なかったのだらう。
少年たちのうち木下三郎は二本の櫂を持って小坪の海洋(鎌倉と逗子の間)まで泳いで來たが陸地に達せずして人事不省となり小坪の漁夫2名に救はれたが蘇生しない。漁夫たちは急いで學校へ報告する。
校長田邊氏は直に救助に向ひ、横須賀警察からは署長吉警視自ら20名の巡査を率ゐて現場に急行し、22隻の漁船に200名あまりの漁夫を乗せて屍体捜索に向かった。 24日午後横須賀鎮守府からは駆逐艦、吹雪、霞の2隻が派遣された。
21日午後には畏くも葉山に御避寒中の皇太子殿下(大正元天皇)騎馬にて海洋へ御微行あり捜索隊の行動を望見あらせられたのみならず居合せた生徒に種種御下問あった。
25日正午頃七里が濱の沖で始めて 2人の少年のしたい屍体が発見された。 制服着用爪の徳田勝治が。飛白(かすり)の綿入に外套を着した弟武治を確かりと抱きしめたまま死んでゐるのだつた。當日午後なほ2名の死体を発見した。
26日は激しい風雲。27日には逗子葉山村民は皆休業して捜索に赴き、横須賀からは水雷艇7隻が出動した。さうして残る7名の死体を全部七里ヶ濱沖合で発見した。27日の午後5時、逗子延命寺で哀悼の式が行はれ、其の時此の歌が鎌倉女學校の最上級生(4年生)に依って合唱された。
作詞者三角錫子刀自は鎌倉女學校の教諭で、逗子に住んで居り、此の事件を目撃した。
此の曲は when we arrive home と云ふ題のアメリカの曲で garden と云う人の作である。これが「昔のわが宿変わらぬふるさと」と云ふ訳詞によってひろく女學校などで欧はれ、常時最も愛好された旋律であった。この歌詞は「哀悼の歌」と題せられて雑誌「月刊楽譜」に出てゐたものである。単行本はその後に出版され、大正7年頃からは演歌となって巻間に流布したが、歌詞も変へられ、曲は短調になってしまった。  
 
 

 

■演歌師による「七里ヶ浜の仇浪」 5
七里ヶ浜の哀歌 / 真白き富士の根
神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年、発行者 神長源ニ郎、定価金五十銭)にも七里ヶ浜の仇浪として記載されている。後でも述べるが一部の歌詞は今では変化している。
明治43年(1910)1月23日、神奈川県逗子開成中学の生徒(同校生徒11人と逗子小児童1人)が七里ヶ浜の沖で突風にあおられて乗っていたボートが転覆した。海中に放り出された12名は、冷たい冬の海の中で助けを求めたが、次々と海中に没した。
遭難者全員の遺体が発見されたのは、事故発生から4日後の1月27日だった。2月6日、校庭で追悼大法要が行われた。式の最後に、そろいの黒紋付き・はかま姿の鎌倉女学校生徒が歌ったのが、「七里ヶ浜の哀歌」である。
作詞者は鎌倉女学校で数学を教えていた三角錫子教諭で、曲は賛美歌の”When we arrive at home”(帰郷のよろこび)を使った。三角教諭のオルガン伴奏で歌われた「七里ヶ浜の哀歌」は、その後、全国の女学生らに愛唱された。また、大正時代に入り演歌師のよって広く普及した。遭難事故のことは知らなくても、賛美歌の美しいメロディーと悲しみに満ちた歌詞を知っている人は多いであろう。写真は鎌倉市にある”ボート遭難の碑”(兄弟の像)である。
実は今、この曲を練習している。金色夜叉の唄やほととぎすのように物語性があり、大変気に入っている。野ばら社の楽譜はFで”ドファファファソラ”で歌いやすいが、バイオリンの弾きやすさを優先するとGかDである。Gはレの開放弦から始まるので演奏しやすいが最高音が高いソになってしまうので無理がある。そうすると消去法でD調”ラレレレミファ#”しかなくなってしまう。なんと、1と2の指ばかりで、3の薬指は1回しか使わない!もちろん、低くて歌いにくいとの意見もある、訓練で声を強引にバイオリンに合わせるしかない。
歌詞に”み魂”とか”ささげまつる”、”神よ早く我も召せよ”とあるが、曲が賛美歌であると知り納得した。
大正12年の歌詞からみると歌っているうちに変化してきているようだ。”富士の峰”が”富士の根”、”仰ぎ見る眼も”が”仰ぎ見るも”、”か弱き腕”が”小さき腕”、”み夢にむせびし”が”み雪にむせびし”、”親の胸に”が”母の胸に”等である。親の胸にが父だけ無視されて母の胸に変化したのは男としては悲しい!母は偉大なりか。また、最近は腕を「うで」とみな歌っているが年配者は「かいな」と歌っているようだ。
石田一松の弟子で最後の演歌師であった桜井敏雄(1909〜1996)の録音でも、神長瞭月発行のバイオリン楽譜通りに「仰ぎ見る眼も」、「捧げまつらん」とはっきり歌っていた。大正12年の歌詞も演歌師が全国にはやらせたと推測できる。
七里ヶ浜哀歌 (七里ヶ浜の仇浪)
真白き富士の根 緑の江の島    (真白き富士の峰 緑の江ノ島)
仰ぎ見るも 今は涙           (仰ぎ見る眼も 今は涙)
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心            (捧げまつらん 胸と心)
   ボートは沈みぬ 千尋の海原
   風も浪も 小さき腕に       (風も浪も か弱き腕に)
   力もつきはて 呼ぶ名は父母  (力はつきはて 呼ぶ名は父母)
   恨は深し 七里が浜辺      (恨も深し 七里が浜辺)
み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて (御夢(みゆめ)にむせびし、風さえ騒ぎて)
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処に 迷いておわすか  (みたまよ何処に 迷いておわすや)
帰れ早く 母の胸に           (早く帰って 親の胸に) 
 
 

 

■逗子開成中学校ボート遭難と「七里ヶ浜の哀歌」 6
1 逗子開成中学校ボート遭難の碑
鎌倉、江の電「稲村ヶ崎駅」で降りて海へ向かう。徒歩3分、広々とした海の展望が開く。ここが七里ケ浜で、左のこんもりと盛り上がった稲村ヶ崎を目指す。この岬は刈り取った稲の束を重ねたように見えたのであろう、「稲むら」の地名の語源になっている。
稲村ヶ崎は古戦場として有名である。大潮の日、稲村ヶ崎の先端の潮が干入り、新田義貞の大軍が旧鎌倉の内側に乱入することによって、鎌倉幕府は一日で滅び去った。元弘3年(1333)5月21日(旧暦)のことであると伝えられる。
この稲村ヶ崎の西端に逗子開成中学のボート遭難の碑が建っている。遭難した徳田兄弟をモデルにしたブロンズの裸像である。兄は右手を挙げ助けを求め、弟は兄にしっかりと抱きついている。
台座には、事件の概要と亡くなった人たちの名前、『七里ケ浜の哀歌』を刻み込んだ金属板がはめ込まれている。
2 逗子開成中学校ボート遭難
明治43年(1910)1月23日。逗子開成中学校(現・逗子開成高校)の生徒11名と小学生1名が乗ったボートが、生徒監や舎監の許可なく、逗子開成に近い鐙摺(あぶずり)海岸から9時半ころ、江の島へ向かった。当日は日曜日で、監督のふたりの先生は同僚の転勤の見送りのため不在であった。
徳田兄弟の長男の勝治は、父親の猟銃を持ち出し弟3人を同行した。江の島の海鳥を打ち落とし、持ち帰るつもりだった。当時の硬派の学生たちの間で「蛮食会」があり、生き物の怪しい材料を集めて煮て食べるためであった。
事故は七里ヶ浜の行合川の沖合い、1.5キロ辺りで起きた。冬の季節、七里ヶ浜沖に吹く、地元の漁師たちが「ならい」と呼んで怖れる強い突風を生徒たちは知らなかったのであろう。鎌倉の地形は海食性で、奥深く谷が入り込んでいる。谷を通る北風が海でぶつかり合うために生じる現象である。
当日はあいにく、消防出初式のため、漁民の舟が1隻も出ていなかった。午後2時ころ、いか釣り舟が通りかかり、オールにつかまっていた逗子開成水泳部きっての達人と言われた木下三郎を助けたが、まもなく事切れた。
漁船三十隻、横須賀からの駆逐艦「吹雪」「霰(あられ)」による懸命の捜索が続いたが、すぐには発見できなかった。1月25日、七里ヶ浜30キロの沖合、海底から最初の遺体が引き上げられた。初め一人と見えた遺体は二人だった。兄の徳田勝治が、末弟の小学生、武三をひしと抱き締めて離さない。力尽きるまで弟をかばった姿が涙を誘った。後に、稲村ヶ崎のボート遭難の碑のモデルとなった。徳田兄弟は、男性ばかり四人、全員亡くなった。母親の半狂乱の姿が涙を誘った。1月27日にかけて全員の遺体を発見することができた。
3 合同慰霊祭で「七里ヶ浜の哀歌」
2月6日の午後、逗子開成中学校の校庭で、姉妹校の鎌倉女学校(現、鎌倉女学院)との合同慰霊祭が行なわれた。僧侶150人、会葬者は四千人を越えた。
私立逗子開成中学校は、もともと海軍の要請により海軍関係者の子弟のために創設された。遭難したボート「箱根号」も軍艦、松島から無償で払い下げされたものだった。
慰霊祭は海軍礼式で行なわれた。最後に祭壇の前に進み出たのが、鎌倉女学校の生徒70余名であった。引率した三角錫子(みすみすずこ)教諭のオルガン伴奏によって、黒の紋付、袴(はかま)姿の女生徒たちは静かに歌い始めた。
七里ヶ浜の哀歌 (三角錫子作詞、インガルス作曲)
一 真白き富士の根 緑の江の島
   仰ぎ見るも 今は涙
   帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
   捧げまつる 胸と心
二 ボートは沈みぬ 千尋の海原
   風も波も 小さき腕に
   力つきはて 呼ぶ名は父母
   恨みは深し 七里が浜辺 (六番まで)
三角教諭は、遭難した木下三郎をよく知っていた。働突(どうこく)の思いをアメリカのインガルスの作曲した聖歌(賛美歌)のメロディに乗せて作詞した。当時、39歳、美貌の独り身の数学教師であった。(注・従来のガーデン作曲は否定されている。富士の嶺は「根」で良い)。合同慰霊祭で歌った「七里ヶ浜の哀歌」が、後に歌い継がれてゆく。日本中に水難事故は多くあるが、もっとも広く長く人々の記憶に鮮やかに蘇るのは、この歌があるからである。歌が有名にした水難事故であった。
4 「七里ヶ浜の哀歌」裏話
「真白き富士の根〜」と歌われた合同慰霊祭の翌日、朝早く逗子開成中学から一人の教師が退職願いを出して去っていった。舎監であった石塚巳三郎教諭であった。死者12名の内、七名が寄宿舎生であった。生徒が無断でボートを引き出して遭難したのであるが、彼は自ら責任をとった。
遭難事故が起こった当日、午前11時、逗子開成を去る同僚を見送りに行き、鎌倉まで同行した。そのとき、一緒だった生徒監に「二人だけで話したい」と誘われ、鶴岡八幡宮の近くで昼食をとった。
生徒監の話とは、三角錫子先生との縁談の勧めであった。石塚教諭は三角先生とは顔見知りであり、好意を感じていたので、縁談を進めてもらうことに同意した。皮肉にも、午後2時ころ、生徒監が舎監に話を進めているころ、遭難事件は起きた。
わが子を亡くした母親に「責任は石塚舎監にあり、今、直ちに、この遺体を元の生きたる姿に戻して返せ」とまで言われている。遭難生徒の死を悲しみ、その霊を慰めようとしている三角先生のことを思うと、結婚相手の資格を失ったと思い込んだ。
石塚教諭は、逃げるようにして逗子開成を去って、あてのない旅に出た。まず、四国巡礼に出掛け、やがて岡山県立農学校の教師となった。婿養子となり、石塚の性を捨てた。水難事故は、男女の運命まで変えた。
この話は、宮内寒弥著の『七里ヶ浜』(昭和52年刊)に書かれている。宮内氏は、もと石塚教諭の長男として生まれている。作者は父の日記を交えて事件の真相を書き記し、世に問うたのである。 
 
 

 

■「真白き富士の嶺」 7
1910年(明治43年)1月23日、七里ヶ浜沖で逗子開成中学のボートが転覆し、生徒12名が亡くなった。
逗子開成中学は、当時の校長が海軍将官だったため、海軍軍人の子弟が多く通っていた学校だった。
この日、少年たちは、軍艦「松島」から払い下げられたカッターで江の島までの旅に出るが、その帰路、行合橋を過ぎたあたりで転覆事故に遭ってしまう。
ボートには12名の少年たちが乗っていた。
その中には小学生もいた。
遭難事故は、江の島や七里ヶ浜の漁村で目撃され、いっせいに半鐘が打ち鳴らされ、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出したが、海に投げ出された少年たちを発見することはできなかった。
転覆と同時に少年たちの姿は見えなくなっていたという。
冬の七里ヶ浜の海は、急に悪天候となり寒冷な西風に襲われることがある。
逗子開成中学の生徒たちは、江の島を出るときに漁師に止められたというが、当時の校風がボートを海へと漕ぎ出させた。
遭難事故の翌日、横須賀軍港から掃海艇が派遣され、12名の遺体が発見された。
その遺体の中には、中学生の兄が小学生の弟をしっかりと抱きかかえた姿もあったという。
ボート遭難碑の像の下には、円覚寺の朝比奈宗源管長による書がはめ込まれている。
書かれている「真白き富士の嶺(七里ヶ浜の哀歌)」は、逗子開成中学の系列校「鎌倉女学校」の三角錫子教諭による作詞。
この歌は、12名の少年達の合同葬儀で鎌倉女学校の生徒によって合唱されたという。 
 
 

 

■文部省唱歌「鎌倉」 (1910年尋常小学読本唱歌)
七里ガ浜のいそ伝い、
稲村ケ崎、名将の  
剣投ぜし古戦場。  
   極楽寺坂越え行けば、
   長谷観音の堂近く
   露坐の大仏おわします。
由井の浜べを右に見て
雪の下村過行けば、 
八幡宮の御社。   
   上るや石のきざはしの
   左に高き大銀杏、
   問わばや、遠き世々の跡。
若宮堂の舞の袖   
しずのおだまきくりかえし
返せし人をしのびつつ。 
   鎌倉宮にもうでては、
   尽きせぬ親王のみうらみに
   悲憤の涙わきぬべし。
歴史は長き七百年、   
興亡すべてゆめに似て、 
英雄墓はこけ蒸しぬ。  
   建長円覚古寺の
   山門高き松風に、
   昔の音やこもるらん。 
1
明治43年(1910)の 『尋常小学読本唱歌』に掲載されました。鎌倉の歴史観光ガイドのような歌です。
1番=元弘3年(北朝は正慶2年、1333)5月21日、新田義貞は稲村ヶ崎を回って鎌倉に攻め込もうとしたが、水が深く、渡ることができなかった。『太平記』によれば、このとき義貞が黄金造りの太刀を海に投じて竜神に祈ったところ、水が引き、干潟となったので、6万余の新田軍は鎌倉に突入することができた、とある。
4番=承久(じょうきゅう)元年(1219)1月27日夜、鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児・公暁(くぎょう)によって暗殺された。公暁は、乳母の夫で、有力御家人の三浦義村に「親の仇を討て」とそそのかされていたといわれるが、暗殺後、その義村の配下によって殺された。その大銀杏は平成22年(2010)3月10日の未明、強風のため根本から倒れた。
5番=源義経の愛妾・静御前を歌ったもの。文治元年(1185)、義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行。しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られた。都第一と歌われた白拍子(しらびょうし)=踊り子の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前で踊ったが、そのとき歌ったのが、義経を恋い慕う次の2首。
   吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき
   しづやしづ賤(しず)のをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じるが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許された。同年7月静は義経の子を出産するが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまった。そののち静は許され、京に帰された。以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられる。
6番=ここで歌われている親王は大塔宮護良親王。後醍醐天皇の皇子で、一時征夷大将軍に任ぜられたが、足利尊氏の讒言(ざんげん)によって(『太平記』による)失脚。建武元年(1334)、尊氏によって土牢に幽閉され、9か月後の建武2年、尊氏の弟 ・直義(ただよし)の部下・淵辺義博(ふちのべ・よしひろ)によって殺された。この土牢の場所に、明治2年(1869)、明治天皇によって創建されたのが鎌倉宮。なお、大塔宮護良親王は、昔は「だいとうのみや・もりながしんのう」と読むのが一般的だったが、現在は「おおとうのみや・もりよししんのう」と読むのが一般的になっている。
8番=建長寺は鎌倉五山の第一位で、けんちん汁発祥の地として知られる。円覚寺は同二位。 
2
稲村ヶ崎と新田義貞
稲村ヶ崎の剣(つるぎ)投ぜし古戦場とは、鎌倉幕府を事実上滅亡に追い込んだ武将・新田 義貞(にった よしさだ)にまつわる伝説の場所。鎌倉時代末期の1333年5月に挙兵した新田義貞は、稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたところ、当時は崖で道が狭く、軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、見るまに潮が引いて干潟となったという伝説が『太平記』に記されている。
露坐の大佛
露坐の大佛(ろざのだいぶつ)とは、雨ざらしの大仏、つまり鎌倉大仏のこと。
鶴岡八幡宮と雪ノ下
雪の下村とは、かつて存在した地名「雪ノ下村」。現在の「雪ノ下」。吾妻鏡によると、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が、佐々木盛綱らに山辺の雪を貯蔵させたことが由来とされる。「八幡宮」とは、鎌倉市雪ノ下にある鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)のこと。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。
鶴岡八幡宮の大銀杏
承久元年(1219年)1月27日夜、鶴岡八幡宮の石段(石のきざはし)を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏のそばで暗殺された。残念ながら、2010年(平成22年)3月10日の未明、雪と強風のため、樹齢1000年を超えていた鶴岡八幡宮の大銀杏は、根本から倒伏してしまった。
「しずのおだまき」と静御前
「しずのおだまき」とは、源義経の妾・静御前(しずかごぜん)が捕らわれて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮の社前で頼朝に命じられ白拍子の舞を舞ったときの歌の一部。
しづやしづ しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな
しず(倭文)は織物の名前。苧環(おだまき)は、糸を巻いて玉状または環状にしたもの。布を織るのに使う中間材料。歌の意味:おだまきから糸を繰り出すように(時間を巻き戻し)、義経様が「静よ静よ」と繰り返し私の名を呼んでくださったあの昔に戻れたらなぁ。
鎌倉宮と護良親王
鎌倉宮(かまくらぐう)は、 鎌倉市二階堂にある神社。 護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、後に足利尊氏と対立し、東光寺に幽閉されて命を落とした。
建長寺
建長寺(けんちょうじ)は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。鎌倉幕府第5代執権・北条時頼によって創建された。1886年(明治19年)、修行僧学校・宗学林を設立。現在の鎌倉学園中学校・高等学校の前身となる。サザンオールスターズ・桑田佳祐の出身校。
円覚寺
円覚寺(えんがくじ)は、鎌倉市山ノ内にある寺院。開基は北条時宗、開山は無学祖元。元寇の戦没者追悼のため弘安5年(1282年)に創建された。 
 
 

 

■「城ヶ島の雨」 1
作詞:北原白秋、作曲:梁田貞、唄:奥田良三 他 
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
   雨は真珠か 夜明けの霧か
   それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
   ええ 舟は櫓(ろ)でやる 櫓は唄でやる
   唄は船頭さんの 心意気
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ
1
島村抱月主宰の劇団・芸術座の依頼を受けて、大正2年(1913)に作詞したもの。当時、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)の音楽教諭だった梁田貞(やなだ・ただし〈「てい」とも〉)が曲をつけ、同年10月30日に東京数寄屋橋の有楽座で開かれた「芸術座音楽会」で、自ら独唱しました。白秋の詩では、作曲された最初の作品でした。現在に至るまで、奥田良三ほか、多くのクラシック系歌手が歌っています。
梁田貞は札幌出身。早稲田大学に入学するも中退して音楽の勉強に励み、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)に入学。卒業後、府立一中のほか、母校の東京音楽学校や玉川学園、成城学園、早稲田大学高等師範部などでも教えました。『城ヶ島の雨』が代表作ですが、ほかに『どんぐりころころ』『羽衣』など、数多くの童謡・唱歌を作曲しています。
この時期の北原白秋について、少し書いておきましょう。早稲田大学の学生時代からすでに詩名の高かった白秋は、26、7歳(明治43〜44年〈1910〜11〉)ごろには、日本を代表する詩人の1人になっていました。ちなみに、『文章世界』の明治44年10月号で発表された「明治10大文豪投票」では、多くの先輩詩人たちをさしおいて、詩人の部の第1位にランクされています。
しかし、文芸以外の分野では、彼の生活は苦難に満ちていました。福岡県で有数の海産物問屋で醸造元だった実家が、明治42年(1909)、もらい火による火事が原因で破産、翌年、一家は白秋を頼って上京してきました。
明治45年・大正元年(1912)、白秋28歳のとき、もう1つの災難が降りかかりました。夫に虐待されていた隣家の人妻・松下俊子に同情しているうちに恋愛関係に陥り、彼女の夫から姦通罪のかどにより告訴されたのです。姦通罪は親告罪で、姦通された夫の告訴により、刑事事件となります。同年7月、白秋は市ヶ谷の未決監に2週間拘留されましたが、弟鉄雄の奔走で示談が成立し、免訴となりました。
それまでの評価が高かった反動で、世間の指弾は激しく、白秋の名声は地に落ちました。白秋は死を決意して、千葉県木更津に赴きましたが、死にきれず、対岸の三浦半島先端の三崎町に渡ります。そこでの滞在中に、夫と離婚して旧姓に戻っていた福島俊子と再会し、結婚します。三崎町の向ヶ崎で異人館と呼ばれていた家を借りて、一家を呼び寄せます。大正2年(1913)5月のことです。
向ヶ崎の南には狭い瀬戸を挟んで城ヶ島があります。朝夕見て暮らしたその光景が、『城ヶ島の雨』のモチーフになったわけです。
詩に出てくる「利休鼠」は抹茶色、すなわち緑色を帯びた灰色のこと。江戸時代には、抹茶色が、茶道の大成者・千利休にちなんで利休色と呼ばれていたという説があります。「通り矢」は向ヶ崎のすぐ先にある離れ岩との間の潮の流れの速い部分ですが、今は埋め立てられて、地名として残っているだけです。
白秋の父と弟鉄雄は三崎で魚類仲買業を始めましたが、すぐに失敗、白秋夫婦を残して東京に引き上げました。白秋夫婦は異人館を引き払って、同じ三崎の臨済宗見桃寺に寄寓します。翌大正3年(1914)、夫婦は東京に戻って一家と同居します。しかし、生活の窮乏に加えて、俊子と両親との折り合いが悪かったことから、ついに俊子と離別しました。そうした苦難の時期にあっても創作を止めなかったからこそ、大詩人としての名が残っているわけです。
余談ですが、この時代に詩人については、わからないことがいくつもあります。啄木を筆頭に、北原白秋、萩原朔太郎など、みんな生活に苦しんでいたのに、けっこう日本の各地に足跡を残しています。いったい、その費用をどう工面していたのでしょうか。芭蕉や蕪村には、裕福な弟子や各地の資産家がスポンサーについていたという話ですが。
2
日本人なら、どこかで耳にしたことがあるであろう名曲です。(今の若者には期待しませんが)日本歌曲集にあるので勉強しましたが、大正2年(1913年)に作られた、古い歌です..とは言っても、1700〜1800年代の西洋音楽を歌い続けている我々ですから、新しいと考えなければいけないのかもしれません。 
それにしても、当時のことを教えてくれる人はいません。コンサ−トで歌うことになり、城ヶ島に行ってみたいと思いました。 神奈川県、三浦三崎、その沖にある小さな島でした。
そこの景色が浮かばないと歌えないと思ったので行きました。快晴で、物悲しさは感じられませんでしたが、しっかりと風景は目に焼き付けました。あとは、歌う時、頭の中で雨を降らせるのです。
北原白秋が、なぜこの詩を書いたのか? この時、知りました。
当時、三浦三崎に住み、家族と城ヶ島を望みながら暮らしていたのです。
雨の日、晴れ渡った日、様々な顔の城ヶ島を見ていたことは想像できます。舟や船頭さんの様子は、今の時代とは確実にちがうものを見ていたでしょう...。
たった一つの歌から、想像力が広がっていき、歌作りの面白さを今さらのように感じました。 
利休鼠..これは色を表す表現ですが、ただ、「灰色」ではいけない、雨の色と言葉の響きへのこだわり。これだけでも感動です!
歌い流してはいけないと思うところばかりです。(この時代でさえも、「どんな鼠が降ってきますか?」と聞かれ苦笑したと、白秋が語っている資料がありましたから、現代の日本人は理解できないかも知れません。
「ネズミ色」も使わなくなり、灰色、グレ−等になりましたね)  余談になりますが、日本古来の色の表現は、温かですね。
あずき色、桃色、江戸紫、紅色、群青色、蜜柑色...色具合が違うはずですが、カタカナで色を表現することが多くなりました。
さて、詩人だけを語っては不公平ですね。当時、すでに大詩人であった北原白秋に、作詩を依頼したのは、島村抱月率いる「芸術座」でした。新劇のみならず、音楽界にも新風を..と「芸術座音楽会」を開くことにし、オリジナルの曲を発表することになったのだそうです。
作曲を担当したのが、当代一流の名テナ−であった梁田貞氏。(ヤナダと読む)今では、この歌の作曲家としか認識されていないようですが、歌手でもあったのです!音楽会では、自作自演をしたことになります。この作曲に関しても、ドラマティックなエピソ−ドがあります。
音楽会は10月30日に決まっており、北原白秋には春から、詩の依頼をしていたのに、度々の催促にもかかわらず出来上がらなく、やっと梁田氏の手に渡ったのは、10月27日。そして2日間はひたすら詩を読むだけ..作曲にかかったのは、29日の21時からで、徹夜で作り、明け方に完成。それで、演奏者に渡してバンザ−イ!
ではないのですよ。自分が、夜、歌わなければいけないのです。その前に、ピアニストに急いで練習してもらい、合わせてもみないと本番に臨めません...たいへんな才能を持ち合わせた人物だったと思います。 私の胸にだけ納めておくにはもったいないエピソ−ドでした。 もし、これから聴く機会や歌う機会のある方は、この大正時代に生きた熱い人たちを想ってみて下さい! 
3
大正2年、島村抱月の芸術座から音楽会の為の依頼を受け作詞をする。白秋の詩で作曲された第一号である。
『この道』『からたちの花』その他、白秋の詩はどれもやさしい言葉で書かれているが、『城ヶ島の雨』には、”利休鼠の雨がふる””舟はゆくゆく通り矢のはなを”という一般には理解し難い言葉がある。
“利休鼠”とは利休色(緑色をおびた灰色)のねずみ色を帯びたもので敢えて言えば陰鬱な色ともいえる。
“通り矢”とは陸地とすぐ前の離れ岩との幅が狭く海の流れの早い所。(今は埋め立てられているがバス停の名前として残っている)一説によると頼朝がここで通し矢をしたことが由来ともいう。
“はな”は鼻先のはなで目の前のこと。
このとき、白秋の人生において最も苦難に満ちた時代であった。
明治44年、詩集『思い出』で上田 敏より激賞され一躍明治詩壇の寵児となったが翌年隣家の夫より虐待を受けている人妻(俊子)への同情から不幸な恋愛事件となり姦通罪で告訴され市ヶ谷に未決監として6日、拘置される。26歳にして詩壇の寵児となった白秋への妬みもあって世の指弾を浴びる。死を決意して木更津に渡るが死にきれず、三浦三崎へと渡る。
一方、海産物問屋として栄え、また福岡県下十指に入る醸造元であった実家も川向うの船大工の工事場からの失火をうけ、これが原因で倒産し一家が白秋を頼って来たときであった。
“利休鼠”は死を思うほどの白秋の心の痛みの暗さ、“通り矢”は早くこの辛い時が過ぎ去ってほしいという願望、“唄は船頭さんの心意気”はいつの日か必ず詩歌の道で立ち上がってみせるぞとの決意、しかし、現実に目を向けると”日はうす曇る、帆がかすむ”となって、このときの白秋のおかれた状況、心情がそのままこの詩となったのではないかと思われる。 
 
 

 

■北原白秋伝「城ヶ島の雨」 2
桐の花事件
・・・春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕(1913年、大正2年歌集『桐の花』収載)・・・ これは中学校の教科書にも載った北原白秋の最も有名な歌であり、牧水の<幾山川超えさり行かば・・・>や啄木の<東海の小島の磯の白砂に・・・>などと並び称されるものであろう。この歌を詠んだのが1907年(明治41年)というから白秋22歳、早稲田在学中の最も気鋭の時である。不倫相手の隣家の女性とも出会う前のことだが、すでに多感な詩人であったことが窺われる。歌の意味は<うぐいすよ、もう戸外の新緑に真っ赤な日も沈もうという時刻なのに、そんなに楽しげに鳴いてくれるな。かえって侘しさが増すではないか>というほどの意味であろうが、<な鳴きそ鳴きそ>の部分が現代では難しい。<な〜〜〜そ>は<な>の部分の動詞を<そ>により否定する形態で、菅原道真の<東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ(*1)>と同様の用法である。白秋は象徴詩にも<春の鳥>と題して  ・・・鳴きそな鳴きそ春の鳥昇菊の紺と銀との肩ぎぬに・・・(詩集『東京景物詩及其他』収載)・・・ などがあり、竹久夢二にも<鳴きそな鳴きそ春の鳥・・・>という詩がある。ただ有名と言っても  ・・・ゆく水に赤き日のさし水ぐるま春の川瀬にやまずめぐるも(『桐の花』)・・・ とどちらが素晴らしいかは曰く言い難いが。
『桐の花』は白秋畢生の歌集で、現代でも最高の評価に値するものだが、発刊当時、文壇はいざ知らず、一般には全く評価されなかった。それまでに白秋は、早稲田大学英文科予備校入学後直ぐに文壇に頭角を現し、多方面に才能を認められ、1909年(明治42年)発刊の処女詩集『邪宗門』、1911年(明治44年)の『思い出』などにより文壇に不動の地位を確立し、すでに時代の寵児となっていたのである。それが、畢生の作ともなるべき歌集が何故?それには、ちょっと前述したスキャンダルが原因となっている。『思い出』が大変な評価を得て絶頂にあったその翌年の1910年(明治45年、大正元年)、隣家の人妻であった女性と関係を持ってしまい、その夫に告訴され、女性ともども監獄に入れられるという事件がおきたのである。当時は姦通罪があったのだ。(韓国には現在もまだある。)白秋の身柄は弟鉄雄氏の奔走により2週間で放免されたが、名声は地に堕ちてしまった。実態は、夫はその前に妻に離婚宣言をしており、別居夫婦であったが、白秋の名声を利用して金をせしめようとした、ということらしい。しかし、名声ゆえに新聞は連日大々的に取り上げ、白秋を糾弾した。文壇や世間からは白い目で見られ、友人は離れて行く。青年白秋は悔悟と自責の念に駆られ、何度も自殺を考えたと云う。筆者が思うに、他の自殺した作家同様、白秋もうつ病かパニック症候群に罹っていたものと推察する。色々な事情が渦巻くなかで、白秋はくだんの女性と結婚(多分罪滅ぼし結婚)し、一時三崎の城ケ島に移り住む。その時の体験が「城ケ島の雨」に結実するのだが、同歌は船唄という名でありながら、♪利休鼠の雨・・・それとも私の忍び泣き?♪となる。この事件は後に<桐の花事件>と呼ばれるようになる。それは、白秋が歌集『桐の花』の巻末に、同事件の謝罪をしていることによる。【鳴きほれて逃ぐるすべさえ知らぬ鳥その鳥のごと捕らへられにけり。(と事件から投獄されるまでの経緯を示したのち)、わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき。わがかなしみを知る人にわれただ温情のかぎりを投げかけむかな。囚人は既に傷つきたる心の旅びとなり。この集世に出づる日ありとも何にかせむ。慰めがたき巡礼のそのゆく道のはるけきよ】と心情を切切と述べているからである。
(*1) この<春な忘れそ>は後の改作で、元歌は<春を忘るな>という説が有力。 
利休鼠の雨! 利休鼠の色
   「城ヶ島の雨」
   雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る
   雨は真珠か夜明の霧か それとも私の忍び泣き
   舟は行く行く通り矢のはなを 濡れて帆あげた主の舟
   ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
   雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ
「城ケ島の雨」はこの<桐の花事件>の傷がまだ癒えぬうち、1913年(大正2年)10月28日に作られた。同年10月30日、島村抱月が主宰する芸術座が日本の歌曲の質を高めようと、第―回音楽会を数寄屋橋の有楽座で開催する計画を立て、作詞を北原白秋に依頼し、作曲を音楽学校出で当時市立一中(現日比谷高校)の教師であった梁田貞に依頼することとしたのである。白秋は事件や実家の破産の影響で極貧生活を強いられており、自ら魚の仲買人をやっていたくらいだから、渡りに舟の依頼であった。(筆者推察:白秋を励まし続けた志賀直哉などの斡旋もあったかも知れない)。しかし、貧乏はともかく、精神状態が前述のようでは詩作など覚束ない。一日一日と日は足早に経過していくが、一向に想が纏まらない。ある日思いあぐねた白秋が自宅のある見桃寺から向ヶ崎に出て対岸の城ケ島の遊ヶ島の辺りをそこはかとなく見ていると、木々の燻んだ緑に晩秋の雨が煙って、絶妙な色合いにみえる。まさにワビ、サビの極致とも見えた。<利休鼠みたいな色だなあ>その途端、<そうだ!いろいろ考えても仕方がない。利休鼠だ!今、一番身近な城ケ島を歌にすればいいのだ!>かくして三崎の船唄「城ケ島の雨」は出来上がり、27日の夜、東京から催促に見桃寺を訪れた岩崎雅道に渡された。音楽会開催まであと二日しかない。この辺のところは白秋自身が  ・・・「城ヶ島の雨」は大正二年恰度私が相州三崎の城ヶ島の前に住んでゐた頃、芸術座音楽会のために舟唄として作ったものである。この舟唄は梁田貞氏の作曲で、その会で唄はれた。近頃聞けばかの地では今は船頭たちまで唄ってゐるさうである。さうなってくれるとうれしい。 (大正8年白秋小唄集覚え書より)・・・ 岩崎氏から詩を渡された梁田貞も弱り果てた。いつ来るかいつ来るかと思っていたら、なんと2日前となってしまった。高邁な理想を掲げて音楽会を開く、その主たる曲を2日間、いやピアノのアレンジや練習を考えるととても2日間なんてない時間で仕上げなければならないのだ。しかし、真の芸術家は逆境をも自作の糧としてしまう。白秋もそうだが、同じようなことは「里の秋」や「みかんの花咲く丘」でも起こった。(『海沼実の「里の秋」ができるまで』参照)。いずれも切羽詰ったギリギリの状態で能力を発揮し、間に合わせるどころか後世に残る名曲を作っている。「どんぐりころころ」や「とんび」の梁田貞も、後に二、三の「城ケ島の雨」が競作される中で、<白秋の城ケ島の雨と言えば梁田貞>と言われるほどの名曲を1日かそこらで作り上げたのであった。これが、どうして可能であったのか、才能の成せる業だったのかは、資料が見つからないので推察の域を出ないが、歌詞とメロディーを見ていると、自ずと浮き上がってくることがあるように思う。梁田貞も当然のことながら、白秋の桐の花事件を知っていたし、同年輩の者として白秋の作詩当時の心情も理解しようとしていた。詩の背景にある詩人の心情が読み取れなければ作曲などできないからだ。
「城ヶ島の雨」完成
梁田貞は、「城ケ島の雨」という船唄の名を借りて、当時の北原白秋の心情を曲に載せたのだと思う。♪雨は降る降る城ケ島の磯に 利休鼠の雨が降る 雨は真珠か夜明けの霧か それとも私の忍び泣き♪、の部分は正に自責と悔恨に苛まれた白秋の陰鬱な心情を表わしている。♪それとも私の忍び泣き♪の詞がなくてもそうである。しかし、哀調のメロディーの中に明るい透明さもあって、<救済>がほの見える。次に♪舟は行く行く通り矢の端を 濡れて帆揚げた主の船♪、部分は転調していて、事件に濡れて、心の旅人となって巡礼の船出をする白秋の姿を表わすもの。♪ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気♪、の力強いメロディーは、心の船旅にある白秋の心情の舵取りを鼓舞し、応援し、勇気を与えるものの様に聞こえる。♪雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ♪、の部分は、前途になお困難が予想される旅人北原白秋の安否をきずかって見送る、梁田貞自身のメロディーである。このような形で、白秋の心情の変遷と行く末に焦点を当て、この名曲を1日で作り上げたとすると、梁田貞は矢張り天才であった。「城ケ島の雨」はかく出来上がり、大正2年10月30日数寄屋橋の有楽座で、梁田貞自身のテノールにより披露された。
その後、白秋は2度の離婚を経験し、転々と居を移したり家族の破産にあったりして、貧困状態は小田原に<木菟(みみずく)の宿>を構える大正7年ころまで続いた。ここで白秋を救ったものは、鈴木三重吉の提唱した<赤い鳥運動>である。三重吉は唱歌を低級とし、真に子供の為になる、子供の感性に応える童謡を提唱した。そして三重吉の創刊した<赤い鳥>の中心人物は北原白秋となって、白秋の新たなる出発となった。白秋は歌人、詩人から童謡作家の方に錘がブレたが、このブレは、白秋の過去の忌まわしい重荷を軽くし、名声も取り返し、経済的にも安定させる糧となったのである。
 
 

 

■「城ヶ島夜曲」 
作詞:浜野耕一 作曲:竹岡信幸 唄:東海林太郎 
冲の潮风 便りをたのむ
三浦三崎の いとしい人へ
捣布(かじめ)焼く火の
ほのゆれ立つ あの浜へ
   岛の灯台 ほのめくたびに
   见えてかくれる 通り矢の夜钓舟(よぶね)
   なぜに届かぬ ・・・
利久鼠の 雨降る夕べ
空に银河の さやかな宵も
恋し三崎の ・・・
 
 

 

■「天国に結ぶ恋」 
作詞:柳水巴、作曲:林純平、唄:徳山l・四家文子 
今宵名残りの三日月も 消えて淋しき相模灘
涙にうるむ漁火に この世の恋のはかなさよ
   貴女を他所に嫁がせて なんで生きよう生きらりょう
   僕も行きます母さまの ・・・
ふたりの恋は清かった 神様だけがご存知よ
死んで楽しい天国で ・・・
   いまぞ楽しく眠りゆく 五月青葉の坂田山
   愛の二人にささやくは やさしき波の子守唄
昭和7年(1932)5月9日朝、神奈川県大磯町、東海道本線大磯駅北の裏山で松露(しょうろ)というキノコ を探していた地元の若者が、若い男女の心中遺体を発見しました。男性は学生服に角帽、女性は藤色の和服姿で、裾が乱れぬよう両膝を紐で結んでいました。
男性は東京の調所(ずしょ)男爵家の一族(甥)で、慶応大学経済学部3年の調所五郎(24歳)、女性は静岡県の素封家の三女・湯山八重子(22歳)でした。残っていた空き瓶から、猛毒の昇汞水(しょうこうすい)による自殺とわかりました。昇汞水は塩化第二水銀のことで、写真が趣味だった五郎が現像液を作るときに使っていたものでした。
調所家に残されていた五郎の遺書やその前のいきさつから、八重子の両親から交際を反対されたのを悲観しての自殺とわかりました。下記がその遺書ですが、句読点に乱れがあるので、それを整理して掲載します。
「 もし私が明六日になっても帰らなかったら、この世のものでないと思ってください。かずかずの御恩の万分の一もお返し出来なかった自分を残念に思ってゐます。御相談申し上げなかったのは八重子さんにわたくしを卑怯者と思はれたくなかったからです。そしてお父様にこの上御心配をかけたくなかったから。姉さんに約束した赤ちゃんの写真も撮らずに終ひました。梶原さんに頼まれた複写の原画は暗室の棚の下の段の右側に封筒に入れてあります。写真器は押し入れの中に乾板が六枚入ってゐるから自分でやって下さるように。ハレーション止めしてある乾板ですから。幸子を可愛がってやって下さい。本当の兄妹がもう宅に居らなくなってしまふから。湯山さんのお宅の方が見えたら八重子さんから戴いた手紙は全部纏めてありますから、見せるなり差しあげるなりしていただきたいものです。八重子さんにいただいたものも全て纏めて集めてあります。スエーターはお母さんが在り場所を知っていらっしゃるでせう。小さな押入れの三つの箱がさうです。写真はアルバムに貼ってあるのと、アグフアのクロモイゾールの箱に入れてあるので全部です。一緒のバンドで結へてあるのは皆さうです。先月の十七日以来心掛けて全部片付けて置きました。もう思残すことはありません。生みの母、懐かしいお母さんのお墓にお詣りして来ました。直ぐ傍にゐることが出来ませう。では皆さんさようなら。明日は早く起きなくっちゃなりません。
   七年五月五日夜更け 五郎 」
2人の遺体は、その日のうちに海岸近くにある法善院の無縁墓地に仮埋葬されました。ところが翌朝、八重子の遺体だけが墓地から消えていることが判明、探索の結果、墓地から100メートルほど離れた船小屋の砂の中から全裸の遺体が発見されました。犯人は、近くの火葬場に勤める65歳の火葬人夫でした。検死後、警察は「遺体は純粋無垢の処女であった」と発表しました。この異例の発表には、双方の親の意向が働いていたといわれますが、真相はわかりません。
2人が死んだ場所は、三菱財閥のオーナー家・岩崎家の所有地の一部で、小高い丘の上でした。地元では八郎山と呼ばれていましたが、取材した新聞記者が、そんな名前は悲恋にふさわしくないと考え、近くの地名をとって勝手に坂田山と名付けて記事にしました。その記事により、事件は「坂田山心中」として全国に知られ、人々の涙を誘いました。
事件のわずか1か月後、松竹映画『天国に結ぶ恋』が封切られ、大ヒットしました。その主題歌がこの歌です。上の写真は映画の1シーン。事件のあと、1年ほどの間に同じような心中が続発し、その数は20件に及びました。そのなかには、映画館で『天国に結ぶ恋』を見ながら服毒心中したり、主題歌のレコードを聴きながら心中したカップルもいたといいます。
柳水巴は西條八十の変名です。レコード会社から作詞の依頼があったとき、事件に便乗した際物ということで断ったそうですが、再三の要請を断り切れず、変名で作詞したと伝えられています。気の進まない作詞だったにもかかわらず、その詞はみごとで、結ばれない恋を美しく歌い上げています。この事件が、おぞましい後日談に汚されることなく、世紀の悲恋として全国に喧伝されたのは、この歌に依るところが大だったといってよいでしょう。 
 
 

 

■「江の島悲歌(エレジー)」
作詞:大高ひさを、作曲:倉若晴生、唄:菅原都々子
恋の片瀬の 浜千鳥
泣けば未練の ますものを
今宵嘆きの 桟橋の
月にくずれる わが影よ
   哀れ夢なき 青春を
   海の暗さに 散らす夜
   君は遙るけき 相模灘 ・・・
さらば情けの 江の島の
みどり哀しき わが恋よ
南風(はえ)の汐路の 流れ藻に ・・・
昭和26年(1951)5月、テイチクから発売。同年6月1日公開の大映映画『江の島悲歌(エレジー)』(小石栄一監督)の主題歌で、菅原都々子のヒット曲の1つ。
この映画には、もう1つ主題歌があります。この歌と同じ大高ひさを作詞、倉若晴生作編曲による『片瀬夜曲』で、眞木不二夫が歌いました。『江の島悲歌』が女性の恋情を歌っているのに対して、『片瀬夜曲』は男性の立場から歌った曲で、いわばアンサー・ソングです。歌詞も曲も映画のテーマに合ったいい作品でしたが、『江の島悲歌』ほどにはヒットしませんでした。
映画は引き揚げ船で知り合った男女が紆余曲折の末結ばれるという筋書きで、久我美子が演じたヒロインは神奈川県片瀬の病院で働く看護婦という設定。ついでながら、久我美子は旧華族、久我(こが)侯爵家の長女で、女子学習院本科後期1年在学中に東宝の第一期ニューフェイスに合格して女優になりました。戦前だったら、ちょっと考えられないことです。
戦前から戦後の昭和20年代にかけて作られたメロドラマには、ヒロインが看護婦という作品が多いですね。戦前の大ヒットメロドラマ『愛染かつら』(主題歌は『旅の夜風』)をはじめ、戦後の『高原の駅よさようなら』『月よりの使者』など。白衣がロマンチックなイメージを増幅させるのでしょうか。もっとも、近年は白衣を着ない看護師が増えているようですが。
片瀬は神奈川県藤沢市の南東部に位置する地区で、江の島はその一部。風光明媚で宿泊施設も整っていたこの地区には、明治初期以降、多くの外国人が訪れるようになりました。彼らによってヨーロッパ式の海水浴が日本に広まったとされています。
 
 

 

■「片瀬夜曲」
別れともない 別れのなぎさ
君は片瀬の さくら貝
かもめよかもめ 泣くじゃない
男心も 涙こらえて
ああ 行くものを
   なまじ逢わねば 夢見る瞳
   心静かに いた君を
   ゆるせよ我は 旅の鳥
   命かぎりと 泣いて泣かれず ・・・
想いあふれて また振り返る
恋の片瀬よ 江の島よ
月影あわき しずむ夜も
越えていつまた めぐり逢う日の ・・・
 
 

 

■「飯山悲歌」
作詞:西海利雄 作曲:西海智津子 歌:舞小雪  
あなたの愛の ともしびが  
消えて冷たい 明け方に    
飯山おろしが 泣けという   
もうだめなのね だめなのね  
あゝわたし湯の里 飯山の女  
   芸者の愛が うそならば    
   飲み干す酒は にがいはず   
   明日は旅立ち きめた夜は   
   吹け吹け風よ 花も散れ ・・・
菊の花びら むしるよに
愛は終わりを 告げました
星の結びを 信じつつ
雪より白く 眠ります ・・・ 
厚木市の飯山温泉には、いくつかの歌が観光PRを兼ねてレコード化されているが、その中に「飯山悲歌(いいやまエレジー)」という歌がある。
一菊(かずぎく)という若い芸者の心中・悲恋物語を歌にしたもので、実録の演歌。温泉街で旅館「ふるさとの宿」を営む西海利雄さんが作詞した。
西海さんによると、一菊は山形県の雪国生まれで色が白く、とても素直ないい娘だったという。その一菊が客と好いた惚れたのいい仲になってしまった。男には妻子があったから、今でいう不倫の恋だ。
男はいつも予告なしにひょっこりと現れ、知らぬ間に帰るので「お化け」というあだ名で呼ばれていた。二人の間には別れるとか、離れられないとか、他人には分からない複雑な思いがあったようだ。

事件が起きたのは昭和47年10月18日。秋も深まり木枯らしの吹く季節だった。男はいつものようのようにアパートを訪ねたが、一菊は友達と旅行に出て不在だった。それを「振られた」と早合点した男は、すっかり悲観してガス自殺を図ってしまった。仕事を休んだため、たまたま様子を見に来た男の同僚がガスが充満した部屋にくわえタバコで入ったから大変である。アパートは大爆発を起こして燃えてしまった。
次の日、焼け跡の始末をしている現場に帰ってきた一菊は、ことの次第を聞かされ茫然自失、タクシーに乗ってどこかへ姿を消してしまった。中津渓谷の旅館で一菊のガス自殺が伝えられたのは翌朝である。
枕元には時計と指輪、貯金通帳、そして男の好物だったまんじゅうが置かれ、奥さんに宛てたお詫びの手紙が残されていた。その最後には「お化け済みません。なぜ待っていてくれなかったの。わたしもすぐに行きます」と書かれていたという。
遺体は飯山の光福寺に安置され、芸者衆が総出でお別れに参列した。
「まったく可哀想な話でねえ。芸者の恋、好いた、惚れたは昔から邪道と思われがちだったが、本当に純情できれいな恋だった。はかない物語ですよ」
当時を思い出して、しみじみと語る西海さん。
今時まれに見る純情悲恋物語である。この事件はロマンチストである西海さんの心を強く打った。西海さんはなさぬ恋、芸者の恋の哀しさを、菊の花びらと湯の里「飯山」にたとえ切々と歌いあげた。
「あなたの愛のともしびが、消えて冷たい明け方に」「芸者の愛がうそならば、飲み干す酒はにがいはず」
歌詞の一語一語に一菊の切ない「想い」が込められており、今でも事件を知る人たちの涙をさそう。
作曲は元キングレコードに所属して、毒蝮三太夫と「偲ぶ草」をデュエットするなど、歌手として売り出したこともある娘の智津子さんである。A面の「湯の街の女」と合わせて、元宝塚で月組のスターだった舞小雪のデビュー作として、昭和58年、アルティーレコードより全国発売された。
10月10日には、全国キャンペーンに先駆けて、厚木市文化会館でチャリティバラエティショーが開かれ、舞小雪が粋な芸者姿でこの歌を披露、拍手喝采を浴びた。西海さんは地元の黄金井酒造とタイアップして「清酒・舞小雪」を作って歌とともに宣伝に乗り出したが、残念ながらヒットには結びつかなかった。
「飯山の地にいつか一菊地蔵を作って供養してやりたい」と語る西海さん。
「飯山悲歌」は西海さんにとって、心のエレジーでもあるのだ。  

 

■「石狩川悲歌」
作詞:橋掬太郎 作曲:江口浩司 歌:三橋美智也  
君と歩いた 石狩の
流れの岸の 幾曲り
思いでばかり 心につづく
ああ初恋の 遠い日よ
   ひとり仰げば ただわびし
   木立の丘の 日ぐれ雲
   くろかみ清く まぶたに消えぬ ・・・
君を思えば 身にしみる
石狩川の 夕風よ
二度とは逢えぬ この道なれば ・・・  

 

■「小樽悲歌」
作詞:鶴舞ちぐさ 作曲:古川はじめ 歌:安藤ゆうじ  
ため息も凍らせて 雪あかり
歩けばひとり身が 儚すぎます
運河の水面にガス燈が
並んでふたつ 揺れてる今も
小樽 おんなの恋ごころ
   ごめんよと冷たい あの人を
   憎めば涙など かわくのでしょうか
   船見の坂に佇めば
   心の海も 霞んでいます ・・・
あの人が愛した あの唄の
小さなオルゴール 買いました
過ぎ行く時を抱きしめて
海辺の雪に 心を洗う ・・・  

 

■「北上川悲歌」
作詞:大高ひさを 作曲:陸奥明 歌:菅原都々子  
柳青める 北上の
河原にひとつ 名なし草
君が作りし 恋唄に
命哀しく 忍び咲く
   君を都に 送る夜は
   岩手の山も なみだ雲
   生きてふたたび 逢える日を ・・・
風は光れど 囁けど
北上川に 君はなし
せめて名残りの 唄声を ・・・  

 

■「くちなし悲歌」
作詞:小谷夏 作曲:三木たかし 歌:香西かおり  
忘れていた夢を見たのよ あなたに
まだそんな 気持ちになれる
自分が 嬉しくて 可愛くて
夢の上に 夢を重ねたの
あれは梔子の咲くころ
私は子供のころの お伽話が
帰ってきたと 思ったわ
   だって人は 淋しすぎるわ 独りじゃ
   目がさめて あなたがいると
   私は それだけで 過ぎた日の
   いやなことを 忘れられたわ
   甘い梔子の匂いに
   私は子供のころの 小さな歌を ・・・
でもやっぱり 無理が
あったの どこかに
神様は 優しくなかった
岬に 秋風が立つころに
私たちは微笑って別れた
いつか 梔子が咲いても
私は 子供のころの お伽話を ・・・
   誰かが言っていた 梔子は物言わぬ花
   誰かが言っていた 梔子は物言わぬ花 ・・・  

 

■「コサックの悲歌」
ロシア民謡 日本語詞:津川主一  
ゆうぐれのうらさびしい
草原(くさはら)の果てに
疲れ切った馬に乗って
コサック兵が嘆く
   この強い私の馬
   さあ しっかりせよ
   行く先も遠くはないよ ・・・
今夜のうちに行き着かぬと
命にかかわる
おまえだけが頼みだぞよ ・・・  

 

■「上海悲歌」
作詞:松本隆 作曲:南こうせつ  
名も知らぬ花 咲く街角を
口もきかずに 見送ってくれたね
弓のかたちの橋のたもとで
君は涙を袖でこすってたよ
裾(すそ)の切れたズボンが
男の子のようだね
ああ ああ 夢が微笑(わら)いかける
上海DOLL 異国の
上海DOLL 想い出さ
   君の言葉は鈴の音のよう
   メモに漢字を並べて会話した
   髪をおさげに編んではほどき
   照れてる時の無意識の仕草
   昔栄えた街に
   大陸の風が吹く
   ああ ああ 不意のノスタルジア ・・・  

 

■「小豆島悲歌」
作詞:鈴木紀代 作曲:水森英夫 歌:美山京子  
やっと手にした 倖せが
指のすきまを こぼれて落ちた
戻りたい 戻れない
心の居場所を 失(な)くした私
涙と道連れ 瀬戸の旅
ここは土庄(とのしょう) 小豆島
   声を限りに 叫んでも
   遠いあなたに 届きはしない
   つなぎたい つなげない
   ほどけた絆(きずな)の はかなさもろさ
   エンジェルロードで 誓(ちか)い合う ・・・
未練一つが なぜ重い
足を引きずり 泣き泣き歩く
忘れたい 忘れない
あなたと暮らした 三百十日
一途(いちず)に咲いてる オリーブの ・・・  

 

■「それぞれの悲歌」
作詞:冬杜花代子 作曲:小坂明子  
あなたを愛しきるために
生まれたこと今分かるの
あなたの中で私たち生き続けるから
あなたと愛し合えたから私がいた
あなたなしでは私は私でいられない
この命とうにあなたに捧げていた
置いて行かないで
嫌よ
一人では生きられない
来る時が来た
運命が迎えに来ている
生きるのよあなただけは
私たちは
あなたの中に
時の傍らに佇み
果てしなく孤独な我が宿命
大きな愛で見守って
あなたに会えて愛が分かった
甘えさせてくれたあなた
この宇宙が消えても愛は永遠だと
みんなこれからだったのに ・・・  

 

■「東京悲歌」
作詞:高橋掬太郎 作曲:飯田三郎 歌:三条町子  
まぶたとじれば まぶたに浮かぶ
思い出恋し 影いとし
命かぎりに 呼べばとて
君は答えず ああ雨が降る
   祈る 三百六十五日 
   別れた人よ なぜ逢えぬ
   鐘が鳴る鳴る ニコライ堂 ・・・
たもと重たい 花嫁衣裳 
泣き泣き着れば なお悲し
ぬれた瞳に まぼろしの  ・・・  

 

■「長崎悲歌」
作詞:橋掬太郎 作曲:飯田三郎 歌:小畑実  
青い波散る 長崎の
夜の巷(ちまた)に 咲く仇(あだ)花よ
なぜに降るのか 心の傷に
更けて冷たい 霧の雨
   山も燃えるか 君ゆえに
   秘めてせつない 男のこころ
   ひとり牧場(まきば)の 夕空ながめ ・・・
紅(べに)の月さす 窓陰に
肩を寄せれば 流れる涙
みなと長崎 マリアの鐘は ・・・  

 

■「悲歌(えれじい)」
作詞:阿久悠 作曲:韓国民謡 歌:北原ミレイ  
過去がある 傷がある
すぐに捨てたい 夢がある
砂に埋めて 墓標を立てて
違う女に変わりたい
   今度 アア 誰かを恋したら
   安いお酒を のみながら
   笑い転げて アア ・・・
風よ歌うな ささやくな
悲歌ばかりを 聴かせるな
風よ歌うな ささやくな ・・・
   愛がある 恋がある
   数えきれない 人がいる
   水に流して 思いを断って ・・・
いつも アア 素直に惚れたのが
悪いことだと 云うのなら
少し我慢も アア ・・・
   風よ歌うな ささやくな
   悲歌ばかりを 聴かせるな
   風よ歌うな ささやくな
   悲歌ばかりを 聴かせるな  

 

■「富士川悲歌」
作詩・作曲:牛若創太郎 歌:山川まもる  
富士川流れる 岸辺に立てば
春まだ遠き 霜ばしら
枯れた古木に 降り積もる
淡雪の儚さよ わが恋に似て
短い命 惜しみつつ
   富士川辿れば 遠くに見える
   連なる山の 気高さよ
   夢に溺れず 耐えている
   汚れなきその姿 この身に重ね ・・・
富士川下れば 広がる景色
彩とりどりの 草や花
人の運命も それぞれに
悲しさと喜びが 入り乱れ咲く ・・・  

 

■「離別の悲歌」
作詞:依光良馨 作曲:青木利夫   
人の命の旅の空
憧憬(あこがれ)遠く集ひより
燃ゆる緑に駒とめて
伝統(つたえ)の小琴(おごと)まさぐりし
三年(みとせ)の浪(なみ)よ幻(まぼろし)の
光茫(こうぼう)今しうすれては
おだまきかへす術(すべ)もなく
春永遠(とこしえ)に恨あり
   隅田の誉(ほまれ)多摩の栄(はえ)
   さては暗きに泣きし恋
   今小川辺(べ)に佇みて
   回顧(かいこ)の夢に耽る時
   ほぐれて高き土(つち)の香や
   白光(びゃっこう)あわく東風(こち)の吹け
   三年(みとせ)を偲ぶ草々に ・・・
明日は別れて西東
乾坤いかに荒ぶとも
回る潮の末かけて
正しく強く幸あれと
かたみに契る胸と胸
甘美き情の錢に
求道の友と汲み交し
涙に白む今宵かな
   あわれ果敢(はか)なき人の子よ
   まどかに眠る揺籃(ゆりかご)の
   塒(ねぐら)の森は朝暁けて
   また旅烏逝(たびがらすゆ)く雲に
   嘆きの色の深くとも
   若きに滾(たぎ)る血のあらば
   いざ声そろへ歌はずや ・・・
エレジー讃歌
人生はエレジーの一生である。だからそれを讃えたい。ゲーテの「ローマ悲歌」(『ドイツ名詩選』1993)は周知のとおり実は愛の讃歌といっていい。彼のいう“Amor”(逆にいえば“ROMA”)はしかし愛だけではない。
次に一節を引いてみよう。
“生も死もすべてささげてくれるので、ありがたく思っている。このとおり、おまえに蹤いてローマまでやって来たではないか。ゲーテも本質的にはエレジーともいえるが、別の表現でアモール(愛)を唱ったのであろう。”
それにしても旧ソ連時代のノーベル賞詩人シフ・グロッキー(1940年生れ。その後逮捕『徒食者』として追放され、アメリカに渡る)、ノーベル賞受賞の挨拶の中で、「詩人が言葉をあやつるのでなくて、言葉が詩人を動かすのだ」と云っている。ところで彼の『ローマ悲歌』(1999)はまさにエレジーそのものだ。一部を紹介しておこう。
“蜜だらけのまま海辺へ飛び去っていた蜜蜂たちの月 大気の流れよ じんじんかき鳴らせ 雪のように白い 弛緩した筋肉の上空で ……… 残されてある生涯の 不格好な分数を 過去の生活を完了態へ 整数もどきへ と 収斂させる欲求を。”
さてひるがえって母校のエレジー(「霏々散乱」)をみてみよう。「離別の悲歌」の(昭15年、依光良馨作詩)依光のうたは、本質的にエレジーと思う。彼の代表作「紫紺の闇」(山岡博次作曲)も見事なハーモニーを感ずる。次に一節だけ、
“思想の空の乱れては、行く術知らぬ仇し世に 濁流ルビコン渡らんと 纜解きし三寮よ 自由は死もて守るべし” (戦前逮捕された裏返しの強烈なエレジーというべきか)
最後になったが、先述の「離別の悲歌」に至っては、まさにエレジーの権化というべきか。全節を掲げたいが、加藤登紀子が、これが一番好きとテープに吹きこんでくれたのもよくわかる。依光良馨作詩、青木利夫作曲(昭16)、人生はエレジーである。それが詩にもなりうたにもなる。晩年の子守歌になるであろうか。  
■「霏々(ひひ)散乱」 
霏々散乱の花吹雪 緑も浅き桜堤(おうてい)や
去りゆく春を恨みつつ 立てる男の子が顔(かんばせ)を
折りしも残る夕日影 唐紅に染めにけり
   浅茅が原に秋深み 紅葉の色は弥(いや)冴えぬ
   咬月(こうげつ)懸る中天に 翼連ねて雁が音の
   櫓声(ろせい)にまがう響聞き 心一汐砕く哉
秩父嵐に夢破れ 暁(あかつき)寒き武蔵野の
野末にしばし佇めば 思いは遠し六百年
血潮に染めて元寇の 歴史の跡を辿るなり
   偲べ源氏が強者が 思へ平家の武士(もののふ)が
   関八州の野に山に 金甲(きんこう)白刃燦然と
   鎬削りて戦いし その絢爛の古き史
盛衰興亡さながらに 廻る轍のごとくなり
始皇の夢見し大壮図 奈翁(なおう)の謀りし経略も
手折らば落ちん玉条の 露の命に等しくて
   星霜ここにうつろひぬ 梢をならす村時雨
   紫匂う武蔵野に 煙のうちにとめ行けば
   咽せぶ緑の下草は 恨むが如く覚ゆなり
鳴呼感激よ若き日よ 此処小平の原頭に
集いし健児六百の 自治の燈(あかり)に輝ける
其の名も高し一橋の 久遠の姿君見ずや  
紫紺の闇 依光良馨氏
昭和11(1936)年、東京・小平の東京商科大学予科(現一橋大学)の構内に予科生の寄宿舎・一橋(いっきょう)寮ができた。石神井から移転した予科は、武蔵野の森に囲まれてあった。寮歌が募集された。30数編の歌詞の募集があり、寮生の投票の結果、一等には予科三年生、依光良馨(よしか)の「紫紺の闇」が入った。<紫紺の闇の原頭に オリオンゆれて鶏(とり)鳴きぬ−>から始まり、六番の<−自由は死もて守るべし>で終わる。予科三年の音楽部の山岡博次が作曲をした。寮歌には反戦の意思が込められていた。<紫紺の闇>は今は闇のような時代を意味し、ファシズムの体制をオリオン星座になぞらえ、それが揺れて希望の朝がくる、というのである。昭和11年といえば、二・二六事件があり、翌年には日中戦争が始まる。「間もなく戦争になると思った。寮の俊秀を戦争で殺されてなるものかと思った」 依光は治安維持法違反で検挙され、獄中生活を経て、復学が成ったばかりだった。寮歌が問題となれば再び獄につながれる恐れがある。「高いがけから飛び降りるつもりで書いた」 94歳になる依光は、70余年前をこう振り返る。戦後、東京経済大学経済学部長や高崎商科短大(現高崎商科大)の初代学長などを務めた。今は東京・羽村市の高齢者マンションで元気に暮らす。
依光良馨は大正元(1912)年、香美郡美良布村(旧香北町、現香美市)の染色業の家に生まれた。小さいころは病弱で、美良布で小学校を終えると、宮城県・白石で公立病院長をしていた20歳年上の兄・馨のもとに預けられ、旧制白石中学校(現県立白石高校)へ5年間通った。昭和5年、兄の強い指示で東京商科予科に入学。翌年、政府の出した予科廃止案に反対、籠城体験などを経て「私の頭は急速に社会主義化していった」。予科最終学年の3年生になると、学内左翼の中心となり、そして共産青年同盟(共青)に入った。予科は放校処分となった。街頭連絡中の同8年5月上旬、神田神保町で特高の刑事に呼び止められた。西神田署に連行され、足が折れると思うほどの拷問を受けた。子供時分、足はポリオを患っていた。「はうようにして留置場に戻ると、泥棒が一晩中、頭を水手ぬぐいで冷やしてくれた」 数日後、美良布の両親と兄が面会に訪れた。父は終始無言、母は泣くばかりだった。「迷惑をかけることになったな」と思った。4ヵ月後、市ヶ谷刑務所へ未決囚として移された。「廊下の両側に独房があり、中は布団と枕だけだった」
依光は予科に入ったとき、簿記、習字、そろばんに軍事教練が重視されているのに失望。入学時の保証人で、クリスチャンである山本忠興・早大教授(南国市出身、初期のテレビジョン開発者)の紹介で、飯田橋の教会に2年間通う。そのころ東北地方は不作で、少女たちの娼妓などへの身売りが続発、全国で不況による失業者が多かった。「教会では、そんな世を救う祈りなんかない、自分の幸福を祈るだけ。なあんだと思ってやめた」−左傾化を強めたのだった。市ヶ谷刑務所で約1年たった昭和9年秋、転向声明に署名する。「自分のようなひ弱な体では革命運動は無理。拷問されたら秘密を漏らすかもしれない」と思った。この後、裁判が始まり、東京地裁で懲役2年、執行猶予3年が言い渡され、即日出所した。美良布に戻り、農業をするつもりでいると、恩師らの計らいで復学への道が開ける。1年間、文部省の国民精神文化研究所で研修。昭和11年5月、予科3年生として復学、一橋寮に入った。23歳だった。
メモ 1 / 国民精神文化研究所は文部省の直轄。依光良馨はここで1年間受講。論文の合格を受け、東京商科大予科の教授会が放校処分を取り消し、復学が決定した。研究所には、思想問題での各大学からの追放者が入所。哲学者の紀平正美らの国家主義的な講義を聴き、日曜ごとに目黒駅近くの寮から徒歩で明治神宮に参拝した。
昭和8(1933)年の5月上旬、東京・神田で特高刑事の尋問を受け、治安維持法違反で逮捕された依光良馨(94)=東京都羽村市在住、旧香美郡香北町出身=は、このとき20歳。通常であれば、この年3月には東京商科大学予科(現一橋大学)を卒業し、本科へ進むことになるのだが、予科最終学年の3年生の初めに共産青年同盟(共青)へ入り、放校処分となっていた。共青では、伊藤律の下に属した。元日本共産党政治局員(1953年に除名)の伊藤は依光より1つ年下で、共青の幹部だった。依光は「思いもよらぬ重要ポスト」につけられる。「当時は次々と共産青年同盟の幹部が検挙されて人手不足となっていたためだろう」と、自叙伝「依光良馨歌暦」(全四巻)に記す。任務は、東京内の八大学の共青へ機関紙を配分することなどだった。「神田神保町の裏通りで、特高にちょっと来いと連行され、持ち物を調べられた」
それ以前、依光は予科長(校長)に呼ばれ、こう言われる。「君を前に褒めたことがあったが、全部取り消す」。その日午後に会うことになっていた伊藤律に予科長の件を話すと、「警察から、”依光を検挙する”と連絡があったんだよ。今晩か明朝か、ガサ(捜査)が入るな。すぐに潜れ」。依光は大急ぎで、そのころ入っていた市ヶ谷駅に近い高知県出身の学生寮「土佐協会」の自室の荷物を整理し、代々木駅付近の下宿に偽名で移った。逮捕されるのは、その4ヵ月後である。そして伊藤も半月後に逮捕される。依光にとって、伊藤は「忘れ得ぬ友」である。今、東京の北西部・羽村市の高齢者マンションで暮らす依光はこんな話をした。終戦後、代々木の共産党本部に伊藤を訪ねると、伊藤は「早く帰ってこいよ。でないとポストなくなるよ」。依光が「おれ、もうやめたんだ」と答えると、「ああ、そうかあ」−。伊藤は昭和25年マッカーサー指令による共産党幹部の追放で地下活動、翌26年秋に中国へ密出国する。29年後の55年9月、劇的な帰国を果たすわけだが、目も耳も不自由になっていた。依光は戦後、東京経済大学で教授となり、経済学部長などを務める。折をみて、八王子に伊藤を見舞いに通った。「彼、喜んでね。昔と同じにしてくれてありがたい、みんな近寄らないんだよ、と。ろれつの回らない、かすれ声でね」 伊藤律は平成元年8月、76歳で亡くなる。依光は語る。「伊藤は人柄は穏やか。頭がいいから、話すことが明確。彼と話せば必ず得るところがあった」
昭和9年秋、懲役2年、執行猶予3年の判決で、市ヶ谷刑務所を出所した依光良馨は、11年5月には東京商科予科3年に復学がなり、一橋寮寮歌「紫紺の闇」の歌詞を作ったのだった。反戦の意思を込めた詞だったので「下手すると、またやられるな」と心配したが、何事もなく推移した。ただ、本科も卒業し、上海の銀行に就職もしての一時帰国中、予科長らが来て、<−自由は死もて守るべし>の書き直しを求めた。太平洋戦争下、「勤労動員された学生が動員先で盛んに歌うので、学校としてはハラハラする」。依光は「歌はもう社会的産物になっていますから」と突っぱねた。内心、「刑罰」を覚悟したが、やがて終戦となった。この「紫紺の闇」、日本寮歌祭では毎回歌われ、昨年秋の京都市での洛陽寮歌祭では、卒業生らが尺八の伴奏とともに合唱した。「哀調を帯びた旋律の中にも・・・当時の予科生の烈々たる気概を示す歌詞にみんな酔いしれる」と書きとめている。
メモ 2 / 依光良馨は昭和12年には、同じ一橋寮寮歌「離別の悲歌」を作詞する(青木利夫作曲)。<人の命の旅の空 憧憬(あこがれ)遠く集ひより−>、「やがてみんなが別れる時は精いっぱいの声張り上げて、別れの歌を歌おう、との思いで作った」(依光)。加藤登紀子が歌う「日本寮歌集」に入っている。  
■「紫紺の闇」  
紫紺の闇の原頭に オリオンゆれて鶏(とり)鳴きぬ
見よ明の空地平線 希望(きぼう)の鐘の響く里
橋人うまず築ゆく 自由の砦(とりで)自治の城
   弥生武蔵は多摩の原 霞に煙る長堤や
   しず心なく桜の散る 鳴呼逝(ゆ)く春を惜めども
   伸びゆく生命(いのち)緑草(みどり)こそ 吾等が若き徽章(しるし)たれ
千草にすだく虫の秋 櫟(くぬぎ)の林貫(ぬ)き行けば
野路枯れ果てゝ色もなく 黙示の姿芙蓉峰
茜の雲に映え出でて 瞑想の宿黄昏(たそが)れぬ
   鳴呼燎爛(りょうらん)の春は早や 落葉に注ぐ村時雨
   友紅の顔(かんばせ)も 亦移ろうは世の定め
   果敢(はか)なき憂愁(うれい)身に沁みて 仰げば凄し利鎌(かま)の月
されど吹雪は野にくるい 寮窓夜半夜は更けて
ものみな凍り滅ぶ時 榾うちくべて 団欒(まどい)せば
紅蓮(ぐれん)の友情(なさけ)とことはに われ等が胸に燃えんかな
   思想(おもひ)の空の乱れては 行くすべ知らぬ仇し世に
   あゝ伝統の舵をとり 濁流ルビコン渡らんと
   纜(ともづな)ときし三寮よ 自由は死もて守るべし  

 

■「若者たちの悲歌」
作詞:谷川俊太郎 作曲:嶋みどり  
わたしはわたしの夢から生まれてきたの
夜の間に流された血にくるぶしを染めて
わたしは踊ることができるだけ
優しいけものたちといっしょに
   ぼくはぼくの未来から生まれてきたんだ
   はだしで何ひとつ持たずに
   ぼくはただ走ってゆく ・・・
わたしはわたしの愛から生まれてきたの
愛について何も知らずに
誰も私をとめられないわ ・・・
   ぼくはぼくの自由から生まれてきたんだ
   こんな重い鎖をひきずって
   ぼくはでも歌うんだ ・・・
わたしはわたしの問いから生まれてきたの
答はないと気づいたから
わたしは今日も問いつづける ・・・
   ぼくはぼくの怒りから生まれてきたんだ
   ほがらかに笑いながら
   ぼくは君らの怒りをよみがえらせる
   人間よ  

 

■「湯の町エレジー」
作詞:野村俊夫 作曲:古賀政男 歌:近江俊郎  
伊豆の山々 月あわく 灯りにむせぶ 湯のけむり
ああ初恋の 君を尋ねて今宵(こよい)また ギターつまびく 旅の鳥
   風のたよりに 聞く君は 出泉(いでゆ)の町の 人の妻
   ああ相見ても 晴れて語れぬこの思い せめて届けよ 流し歌
あわい湯の香(か)も 露路裏(ろじうら)も 君住む故に なつかしや
ああ忘られぬ 夢を慕いて散る涙 今宵ギターも むせび泣く  
「湯の町エレジー」 1
野村の感覚
戦後の野村の最大のヒット曲は古賀政男作曲・佐伯亮編曲・近江俊郎唄による「湯の町エレジー」(昭和二十三年九月)であろう。妹の油井令子は、「湯の町エレジー」にまつわるエピソードを次のように披露する。《兄は「湯の町エレジー」を三度書き直しております。古賀政男先生から「ここを削ってくれ」と言われまして、「これを削ってしまっては全体が崩れてしまう」と言って頭を抱えていました。兄は何度も伊豆に行っては旅館に泊まって、伊豆の山々を実際歩いて詩を書いていました。実地を見てからでないと詩を書かない人でしたから、一字でも削るのは大変だったのです。しかし、曲は既にできあがっているのですから直すしかなかったのです》
令子は続けた。《兄はよくこんな事を言っていました。野口雨情先生の「波は浮ぶの港」と言う詩がありますが、あそこには港の前が海で、港の後ろはすぐ山になっている所ですから、夕焼けは地理的に見えない所です。そういうことがあってはいけないと言うのです。いつも足を運んで実地を見てそのままを詩にしていた人でした。
私たちと兄とでは、見る感覚が違うのです。兄が「令子、大島に行ってごらん。あそこは島が燃えるように真っ赤に見える」と言うのです。兄の亡くなった後、友達と島に行きましたが全然赤く見えないのです。そしたら前年の台風で椿の木が倒れてしまって、花が咲かなかったのです。「花が咲くと島が真っ赤になりますよ」と言われましたが、友達は「あなたのお兄さんは受け止め方が違うのですね」と言われたくらい、感受性の強い人でした。私たちが五つくらい感じることを十くらい感じるのです》
詩誌『蒼空あおぞら』に投稿
郡山市の詩人内海久二は、生前の野村や古関裕而との交流も深く、野村との出会いや、「湯の町エレジー」の誕生を語ってくれた。
《野村先生との最初の出会いは、丘灯至夫さん主宰の詩誌『蒼空』です。私はその創刊号から入選し、野村先生もそこに寄稿されていました。昭和二十二年の暮れ、『蒼空』の詩話会が開催された時親しくなりました。二人とも酒が好きでしたので、したたか飲んで、私が「忠治子守唄」を歌ったところ、「それは私の最初のヒット曲だ」と先生に言われました。そんなこともあって胸襟を開いたのではないのでしょうか》
内海家で生まれた歌詞
《昭和二十三年の事ですが、野村俊夫先生が私の家に来まして、トイレに入りました。そして「紙!紙!」というので、「先生、紙なら中にあるでしょう」と私が言うと、「湯の町エレジーの歌詞を思いついた」というのです。「一番と三番は東京で作ってきたが、二番だけはどうしても出来なかったが、今思いついた」というのです。そこで私は色紙にその歌詞を書いて頂きました。しかし先生は字を間違ってしまい破ろうとするので、それを置いていってくださいと頼み、残してくれた色紙があります。
「風のたよりに聞く君は/温泉の町の他人の妻/あゝ相見みて」を「相逢みて」と間違えたのです。
私は、「他人の妻」ということばは、不倫を表すので、そういう言葉は通るのですか、とお聞きしたところ、「大丈夫だ」とおっしゃいました。また先生は福島出身なので、「伊豆の山々」というところに、福島の山の名前を入れたらいいのではないでしょうかと言いましたら、しばらく考えて、「いづ」の前に「あ」を入れて歌えばよいと申しました。(写真 エピソードを熱く語った内海)
驚異的な売れ行き
敗戦直後の日本は、次々と復員兵が帰還し、全国的に愛唱された歌は「異国の丘」(作詞増田幸治・作曲吉田正)や「シベリア・エレジー」(作詞野村俊夫・作曲古賀政男)などの帰還兵を主人公にした歌であった。      一方「湯の町エレジー」は、近江俊郎が出演し、映画化もされ、このレコードは『歌暦五十年』(丘灯至夫著)によれば、戦後レコード界最高の四十万枚を記録したという。
網代温泉に馴染みの芸者
親友伊藤久男は、野村やレイモンド服部、そして伊藤たちが熱海等で豪遊した時のエピソードを次のように回顧する。
《ところが三人のうち誰かが(金を)持っているだろう、と他人のふところを当てにして、帰れなくなったこともありましたね。三日も居続けしてね。その時野村さんに好意をもっていた芸者がいましてね。彼女が指輪や宝石を売り払って工面してくれたので、三人ようやく帰ってきたこともありました。それが戦後の「湯の町エレジー」になったんですよ。ともかく、よく飲みました。二日ぐらい一緒に飲まないと「おい、病気か?」なんて、電話がかかってきたんですから》
内海久二は、野村の遺骨の前で「湯の町エレジー」を歌ったエピソードを披露する。
《昭和四十一年私は原稿料が入ったので、西日本に旅に出ました。熱海温泉に泊まろうとしたところ、当時は観光とか新婚旅行のメッカとなっていまして、どこも満員だったのです。そこで困ってしまいましたが、タクシーの運転手さんが、「網代あじろ温泉ならあるかもしれません。」というので、網代に行きましたが、どこも満員で、仕方なく運転手さんはある小料理屋を探してくれました。 そこには五十五歳くらいの女将さんがいまして、「お客さん、福島の方ですか?」というのです。方言で分かるのですね。私は「郡山です」といいましたら、「つかぬ事をお聞きしますが、野村俊夫さんを知っていますか」というのです。私は「知っていますよ」というと、その方はスーと裏の方に行ってしまったのです。
そこで私は思いだしたのです。昔、三浦通つう庸ようさんは写真が好きで、「野村のやつが民友新聞を辞めて、東京に行く時、馴染みの芸者と一緒に撮った写真がある」といっていまして、その写真はもうセピア色になって、駅前の佐藤時計屋さんの家にありました。その写真の芸者の顔とその女将さんの顔がだぶって見えました。不思議な縁ですね》
遺骨の前で歌った「湯の町」
《その時は野村さんが存命中だったので、帰りに先生の住まいの池上に寄り、この話をして冷やかそうと思いました。その後私は旅を続け、城崎温泉まで行き、宿泊後の翌日の新聞を見たところ、先生の訃報ふほう記事が載っていました。
私は旅行を切り上げて、先生のところに参りました。家の周辺には花輪が一つもなく、門(当時民友の企画部長をしていた大内武夫さんは「湯の町御門」と冷やかして、コラムに書いていましたが)をあけて中に入ったところ、奥さんが「内海さん!」と泣きながら抱きついてきたのです。前日自宅で葬儀を終え、後日コロムビア葬をするということだったのですが、中に太った人がいまして、それはレイモンド・服部(作詞家名は服部逸郎いつろう)さんでした。私は先生のお宅に参ります時は、必ず福島県の酒を二本持参するので、それを白い布で覆われたお骨の脇に置いたところ、服部さんは、「野村!供養のためだ、いいか、飲むぞ!」と言いまして、二人で酔っぱらって、涙ながらに湯の町エレジーを歌いました》(写真 レイモンド・服部と右野村)

近江俊郎は、武蔵野音楽学校を中退後、昭和11年に歌手デビュー。「湯の町エレジー」を24回歌い直してスターの座を射止めた。その後「山小舎の灯」「南の薔薇」などを歌い、歌手として成功したが、やがて映画監督やテレビの歌番組の審査員などに出演し、その温厚な人柄で人々に親しまれた。  
「湯の町エレジー」 2
昭和23年(1948)9月リリース。トータルで100万枚近く売れた、昭和20年代最大のヒット曲の1つ。
名手・近江俊郎にも、出だしの低音が歌いにくかったようで、20回近く録り直したと伝えられています。NHK「のど自慢素人演芸会」の大人気曲でしたが、「月淡く」の「つ〜」のところで音を外してしまい、そこで鐘1つとなる者が大半でした。
近江俊郎は、武蔵野音楽学校(現在音大)中退後、昭和11年(1936)にプロ歌手になりました。戦前はヒット曲に恵まれませんでしたが、戦後、この『湯の町エレジー』の大ヒットにより一躍スターダムに。その後『悲しき竹笛』『山小舎の灯』『南の薔薇』『別れの磯千鳥』などのヒットを飛ばしました。
昭和29年(1954)に映画監督となり、兄・大蔵貢が社長を務める新東宝で『坊ちゃん』シリーズなど多くの作品を手がけました。昭和50年代からテレビで歌番組の審査員などを務め、人気者となりました。歌手・映画監督・テレビタレント時代を通じて、明るい人柄で多くの人に親しまれました。
平成4年(1992)7月5日没、享年73歳。 

 

■「石狩エレジー」  
作詞:桂土佐海、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇  
旅の夜汽車で ふと知り合った
君は流れの レビューのスター
窓に頬よせ 涙にぬれながら
都恋しと 都恋しと
ああ 泣いていた
   きのう乗合 今日また馬車で
   流れ流れる 石狩平野
   ひとつマフラーに 肩すり寄せおうて
   恋はせつない 恋はせつない ・・・
ニレの花散る 港の町の
楽屋泊まりが 侘びしゅてならぬ
赤いドレスが どんなに燃えたとて
どうせちりぢり どうせちりぢり ・・・  
昭和28年(1953)4月にレコード発売。三橋美智也の『石狩川悲歌(エレジー)』とよく混同されますが、津村謙の『流れの旅路』と同じく、旅芸人をテーマとした歌です。
戦争で交通インフラを破壊され、情報化のレベルも低かった昭和20年代は、今と比べると格段に社会的流動性の低い時代でした。人やモノ、情報の流動性の低い社会は、良くも悪くも安定した社会で、毎日が同じように繰り返される「日常性」が人びとの生活を支配していました。都会はともかく、私が育ったような昭和20年代の村落社会では、そうした傾向が明らかに見られました。
そんな村落社会に1年にいっぺんか2へん、「非日常」を運んできたのが、旅芸人・旅役者たちでした。彼らは、野を渡る風のように、束の間人びとの心にさざ波を立て、すぐに吹き過ぎていきました。子どもたちは、村から村へ、町から町へと移動していく生活ってどんなふうだろうと想像し、その非日常性にちょっぴり憧れました。子どもたちだけではありません。彼らを外(と)つ国の人のように魅力的に感じる男女がたまにいて、ときどき事件が起こりました。それはいっとき、村人たちに話題を提供しましたが、さざ波以上にはならず、すぐに消えました。
昭和40年代以降の高度経済成長に伴って日本全体に社会的流動性が高まると、旅芸人・旅役者の存在意義は低下し、村落社会でもめったに見られなくなりました。
旅芸人や旅役者は、昔からさまざまな芝居や小説、映画に登場してきました。それだけ民衆の生活には欠かせない要素だったわけです。
たとえば、山田洋次監督の映画にはときどき旅役者が出てきます。『馬鹿まるだし』では、旅役者が瀬戸内の小さな町に波風を起こすし、「男はつらいよ」シリーズの第37作『幸福の青い鳥』では筑豊の旅役者が出てきます。同じく「男はつらいよ」シリーズで、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』、第48作『寅次郎紅の花』と4回も出てきて、振られてばかりの寅次郎にとって例外的に恋人と目されているリリー(浅丘ルリ子)は、流れの歌手です。
山田監督は昭和6年(1931)大阪府豊中市で生まれましたが、2歳のとき、父親の仕事の関係で満州に渡り、そこで少年期を過ごしました。敗戦後の昭和22年(1947)日本に引き揚げ、山口県宇部市の伯母の持ち家で18歳まで過ごしました。この少年期から青春前期に至る過程で、何度か旅芸人や旅役者に強い印象を受ける機会があり、それが映画作りにも影響しているのではないか、などと私は想像しています。  
 
 

 

■悲歌 (ひか)
悲しみのこもった感傷的な調子の歌。エレジー。悲しんで悲壮な歌を歌うこと。  
愛鷹山悲歌 叶弦大 さくらと一郎
阿多古川悲歌 北村秀男
阿武隈川悲歌 黒川たけし
天の川悲歌 サトウ進一 久保亜紀
嵐山悲歌 浅田憲司 愛川こうじ
有明悲歌 富田梓仁 中村美律子
アリラン悲歌 宮本旅人 津村謙
あんこ悲歌 豊田一雄 野村雪子
飯山悲歌
壱岐の島悲歌 橋川明憲  
石狩川悲歌
伊豆湯の町悲歌 小林猛 対馬一誠
海の悲歌 坂田晃一 古谷野とも子
奥入瀬悲歌 西ア園高 近江綾
近江大津京悲歌 菰田尚子
大竹海岸悲歌 木下たけし 大沢一樹
大鳥城悲歌 和田香苗 白百合姉妹
沖縄悲歌 出戸位待
小樽悲歌
男の悲歌 岡晴夫 岡晴夫  
女の悲歌 千葉毅
炎の孤悲歌 西村朗
風の悲歌 見弘 伊藤アイコ
神風連悲歌 岩代浩一 浜畑賢吉
加茂川悲歌 倉若晴生 菊池章子
北信濃悲歌 中野信一
北上悲歌 三島大輔 南部五郎
北上川悲歌
北の悲歌 遠藤実 笹みどり
君を呼ぶ悲歌 飯田三郎 林伊佐緒  
くちなし悲歌
原爆悲歌 吉田昌代 吉田昌代
高原の悲歌 八洲秀章 伊藤久男
コサックの悲歌
国境悲歌 島田逸平 樋口静雄
五十歳の悲歌 學草太郎
済州島悲歌 南有二 南有二とフルセイルズ
さすらいの悲歌 加賀正 近江俊郎
佐知の悲歌 山本直純
佐渡ヶ島悲歌 陸奥明 菅原都々子  
サラ金悲歌 安達あきら 中原耕二
賛歌・悲歌 荻久保和明
四季悲歌 山路進一 佐賀マリ
信濃川悲歌 江口浩司 三橋美智也
シベリア抑留悲歌 山科美里
上海悲歌
小豆島悲歌
白き花の悲歌 高橋廉
新屋久島悲歌 高杉良 高杉良
新大久保悲歌 酒田稔 白玉仙  
神風連悲歌 岩代浩一 浜畑賢吉
樹氷悲歌 池田孝
城ケ島悲歌 荒井英一 柏木美絵
瀬戸内悲歌 花岡優平
それぞれの悲歌
田沢湖悲歌 木村イツコ 中嶋宏子
黄昏の悲歌 由利淑 東海林太郎
済州島悲歌 南有二 南有二とフルセイルズ
千曲川悲歌 小町昭 三船浩
筑波悲歌 勝承夫 一色皓一郎  
ツンドラ悲歌 櫻井順 野坂昭如
東京悲歌
トロイの悲歌 広瀬量平
ナイルの悲歌 塚本一成
長崎悲歌
亡き子により悲歌 箕作秋吉 増山美知子
南海悲歌 倉若晴生 真木不二夫
日本平悲歌 北村秀男
人魚姫の悲歌 川井憲次
羽島悲歌 安藤嘉彦  
初恋悲歌 豊田一雄 野村雪子
波浮の悲歌 島田逸平 久寿川映子
悲歌(えれじい)
姫ヶ淵悲歌 宍戸睦郎
富士川悲歌
藤崎唐糸悲歌 小倉尚継
ふたつの悲歌 橋曜子
望児山悲歌 宇田博
万葉孤悲歌 大嶽和久
3つの悲歌 菅野浩和  
みどり丸悲歌 崎山任
みなと華悲歌 川又和男
屋久島悲歌 計屋謙吉 日高正人
山田川悲歌 北野燕里
落日悲歌 都留教博
離別の悲歌
流星悲歌 深町純
渡り鳥悲歌 山口俊郎 大津美子
若者たちの悲歌  
■エレジー 
悲しみを歌った詩などの文学作品、楽曲。日本語では悲歌(ひか)、哀歌(あいか)、挽歌(ばんか)などと訳される。元々は古代ギリシアのエレゲイア(elegeia)で、ある種の韻律、さらに死を哀悼する詩を指した。語源はギリシャ語のエレゴス(elegos)。
古典詩のエレジー​
古典詩のエレゲイアの詩形、つまりエレゲイオン(elegeion, Elegiac couplet)は2つの行から成る連句である。最初の行はダクテュロス・ヘクサメトロス(長短短六歩格)で、それにダクテュロス・ペンタメトロスの行が続く。ダクテュロス・ペンタメトロスとは、2つのダクテュロス(長短短格)-長音節-2つのダクテュロス-長音節という韻律である。ダクテュロスはヘクサメトロス、ダクテュロスの中で、場所によってスポンデイオス(長長格)に置き換えることもでき(逆に置き換えなければならないこともある)、「-」を長音節、「u」を短音節、「U」を長音節か2つの短音節とすれば、次のようになる。 - U | - U | - U | - U | - u u | - - - U | - U | - || - u u | - u u | -
ヘクサメトロスは叙事詩に使われる韻律で、また、エレゲイアは叙事詩より下の詩形と見なされていたので、エレゲイア詩人は叙事詩を書くつもりでエレゲイアを書き、それを叙事詩と関係づけた。
エレゲイア詩の初期の例は、アルキロコスやシモーニデースで、叙事詩と同じくらい古い(アルキロコスは紀元前7世紀の人)。しかし、特筆すべきエレゲイア詩人はヘレニズム期のカリマコスで、ローマの詩人たち(エレギア(elegia)詩人かどうかは問わず)に多大なる影響を与えた。カリマコスは、叙事詩より短く簡潔なエレゲイアならより美しく、より評価に値するものが書けるという考えを広めた。
ローマ時代の代表的なエレギア詩人は、カトゥルス、セクストゥス・プロペルティウス、ティブッルス(ティブルス、en:Tibullus)、そしてオウィディウスで、世代が上のカトゥルスが他の3人を先導した。4人とも(とくにプロペルティウス)カリマコスの影響を強く受け、お互いの詩を詠み合った。カトゥルスとオウィディウスはエレゲイア以外の詩形で詩を書くこともあったが、プロペルティウスとティブッルスはそれはしなかった。
英語詩のエレジー​
イギリスには元々エレジーの詩形はなかったが、1751年にトマス・グレイが書いた『墓畔の哀歌』が多くの模倣者を生み、まもなくピンダロス風頌歌とエレジーの両方が当たり前のものになった。もっとも、グレイはエレジーという言葉を孤独と哀悼の詩に用い、ユーロジーには使わなかった。またグレイはギリシア、ローマの古典詩のエレゲイア詩形からエレジーを自由にした。
その後、サミュエル・テイラー・コールリッジが、エレジーは「思索にふける精神にもっとも自然な」形であり、詩人自らが思索できるならどんなテーマでも構わないと主張した。コールリッジは自分の定義がエレジーと抒情詩を融合させることだとわかってはいたが、自分が好きな抒情詩の「瞑想」的性質を重要視することと、グレイが大衆化させた種類のエレジーに言及することを続けた。ウィリアム・ワーズワースが『抒情詩集』の序文で、詩は「平安の中で瞑想された感情」から作られるべきだと言ったことは、これと似ている。ロマン主義以降、エレジーの定義は、元の「死者を追悼する詩」という狭義の意味に戻った。  
 
 

 

■「花」  
作詞:武島羽衣、作曲:瀧廉太郎  
春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かい)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとうべき
   見ずやあけぼの  露浴びて
   われにもの言う 桜木を
   見ずや夕ぐれ 手をのべて
   われさしまねく 青柳を
錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき  
明治33年(1900)11月1日付で、東京の共益商社楽器店から刊行された歌曲集『四季』のうちの最初の曲。瀧廉太郎の作品では、『荒城の月』『箱根八里』と並んで最も長く親しまれてきた曲です。共益商社楽器店は全音楽譜出版社の前身。
武島羽衣の原稿では、『花盛り』というタイトルになっていましたが、同曲集に収録された『月』および『雪』と合わせて「雪月花」のコンポジットにしようということで、『花』に変更されたそうです。
隅田川は荒川の支流で、北区の新岩淵水門で荒川から分かれ、新河岸川(しんかしがわ)、石神井川(しゃくじいがわ)、神田川、日本橋川などを合わせて、東京湾に注ぎます。昔は墨田川、角田川とも書きました。江戸時代には、吾妻橋あたりから下流は大川(おおかわ)とも呼ばれていました。古典落語や時代劇には、大川とか大川端といった言葉がよく出てきます。
隅田川の桜は、徳川四代将軍家綱が隅田川御殿跡に植えさせたことに始まります。さらに、八代将軍吉宗が治水の観点から土手を踏み固めさせようと、川沿いに桜並木を作らせたことから、桜の名所となりました。
むずかしそうな言葉について、少しばかり見ておきましょう。1番と3番末尾の「何にたとうべき」は「何にたとえたらよいのだろう」ということ。2番の「見ずや」の「や」は疑問・反語の係助詞ですが、ここでは反語で、「見ないでいられようか。いや見ずにはいられない」の意。3番の「げに」は「実に」とか「まことに」の意。
「一刻も千金の」は、北宋の文人・蘇軾(そしょく)(号は蘇東坡〈そとうば〉)の七言絶句『春夜』からとったもので、その最初の行「春宵一刻値千金」を踏まえたフレーズ。
元禄時代に勘定奉行を務めた荻原重秀の句に「夏の夜や(or夜は)蚊を疵(きず)にして五百両」があり、同世代の俳人・宝井其角も「夏の夜蚊を疵にして五百両」と詠んでいます。どちらがまねをしたのか、はたまた偶然の一致かわかりません。意味は、「夏の夜も春の宵に劣らず趣があるが、蚊がいるという欠点があるので、春の宵の半値の500両だ」ということで、「春宵一刻値千金」を下敷きにした雑俳です。昔、国語の試験に出たことがあるような……。  

 

■「琵琶湖哀歌」  
作词:奥野椰子夫 作曲:菊地博
远くかすむは 彦根城
波に暮れゆく 竹生岛(ちくぶしま)
三井の晩钟 音絶えて
何すすり泣く 浜千鸟
   瀬田の唐桥(からはし) 漕(こ)ぎぬけて
   夕日の湖(うみ)に 出(い)で行きし
   雄々(おお)しい姿よ いまいずこ ・・・
   あゝ青春の 歌の声
比良の白雪 解けるとも
风まだ寒き 志贺の浦
オール揃(そろ)えて さらばぞと ・・・
   君は湖の子 かねてより
   覚悟は胸の 浪枕(なみまくら)
   小松ヶ原の 红椿(べにつばき)
   御霊(みたま)を护(まも)れ 湖(うみ)の上  
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 

 
2020/7