ソーラン節

 
北海道渡島半島の民謡、鰊漁の歌として有名。「船こぎ音頭」「つなお越し音頭」「子たたき音頭」等の中にある「沖揚げ音頭」の別称。板子一枚隔てた下は冬の荒海、眠気や疲労を吹き飛ばすために「ソーラン、ソーラン」と掛け声をかけ、励まし合い作業をした。もとは青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」とされる。原曲は、江戸中期のはやり歌説をとる。当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集にゃ「沖のかごめに」と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行り歌がやん衆とともに、北海道にわたったという。  
 
ソーラン節は、鰊の魚影を追い続けたヤン衆たちのドラマの中で生まれた。ソーラン節はどこで生まれた唄か、さまざまな説があるが、有力な場所として知られているのが積丹町。北海道の中でも古い歴史を持つ町である。 
積丹町の開基は江戸時代中期、1706年で、松前の福山城が築城された1600年から100年余り後と歴史がある。当時、積丹半島の日本海沿岸は毎年3月下旬から5月にかけて海が盛り上がる程に 鰊が押しよせていたと云われている。松前藩時代は鰊は身欠き鰊、塩数の子として将軍家に献上していた。鰊、サケ、昆布は蝦夷(エゾ)の三品として全国に知られるようになり、貴重なものとして数多く取り引きされていた。松前藩は江戸中期の享保年間(1716-1735年)ごろまで蝦夷交易は知行主(藩士の交易権持ち主)が行っていたが、それ以降蝦夷交易は商人によって請け負うようになった。この商人を場所請負人と言った。商人から徴収するお金を「運上金」、交易する場所を「運上家」と言った。 
積丹の交易権(場所)は宝永3年(1706年)に初めて置かれた。場所請負人が置かれたのは天明6年(1786年)で知行主「藤倉八十八」、請負人「福島屋金兵衛」だった。その後文政年間(1818年)から明治8年(1875年)ごろまでは松前商人「岩田金蔵」が請負人となっていた。岩田金蔵は現在地に脇本陣としてみごとな 鰊漁場の建物を建てた。運上家制度は岩田金蔵の時代で廃止となったようだ。 
慶長年間(1596-1625)に美国場所と積丹場所(後の入舸・余別村)が設けられ、知行主は美国が近藤家、積丹は藤倉家が世襲していた。天明年間(1781-1789)には運上屋、 鰊小屋、番屋などが美国で29軒、積丹で17軒も数えたという。大正の末期まで鰊の千石場所として大いに繁栄し、当時の番屋、トンネル、旧街道などが保存されている。 
その歴史を語るにあたって忘れてはいけないのが、北海道の厳しい海にひるむことなく、鰊の大群を追い続けた「ヤン衆」たちの生き様だ。厳しい環境だからこそ生まれた数々のドラマ。そんなドラマの主人公であるヤン衆たちが、鰊で溢れた網を引き揚げる時に、自然に口ずさんだ「力入れ」の唄、それが「ソーラン節」だったのだ。今では北海道を代表する民謡となったソーラン節だが、実はこの唄、 四編から構成されている「正調鰊場音頭」の内の一編分、沖揚げ音頭だった。
  
ソーラン節は北海道渡島半島の民謡。ニシン漁の歌として有名。 
かつて北海道の日本海沿岸には、春になるとニシンが産卵のために、大群となって押し寄せてきた。メスが卵を産み、オスが一斉に放精する。そのありさまは、海が白く染まるほどだったという。江戸時代後期から昭和の初期にかけて、群がる鰊を目当てにした漁で日本海沿岸は大いに賑わった。毎年、春の漁期が近づけば、東北地方や北海道各地から「ヤン衆」と呼ばれる出稼ぎ漁師が一攫千金を求めて、西海岸の漁場に続々と集まってくる。彼らは宿舎を兼ねた網元の大邸宅「鰊御殿」に集結し、船頭による統制の元でニシンの「群来」(くき、と読む)を待ち続けるが、やがて群来の一報が入るや、一斉に船を漕ぎ出し、網でニシンを獲る。獲られたニシンは浜に揚げられ、一部を食用としての干物「身欠き鰊」に加工する以外はすべて大釜で炊いて魚油を搾り出し、搾りかすを「鰊粕」に加工する。鰊粕は北前舟貿易で西日本に移出され、現地でのミカンやアイ(植物)、ワタ栽培の高級肥料として評判を博した。一連の漁期がひと段落した5月の北海道西海岸はニシン製品の売買や、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」といわれるほどの賑わいに包まれたという。 
ソーラン節は、その一連のニシン漁の際に唄われた「鰊場作業唄」の一節、「沖揚げ音頭」が独自に変化したものである。 鰊場作業唄は「船漕ぎ音頭」・「網起こし音頭」・「沖揚げ音頭」・「子叩き音頭」の四部から構成されている。 
港から漁場まで、「オーシコー、エンヤーァエー、オーシコー」の掛け声で「船漕ぎ音頭」を唄いながら艪を漕いで船を進める。仕掛けた網には大量の鰊が追い込まれているので、「ヤーセィ、ヤサホイ」の掛け声の「網起こし音頭」で調子を合わせて網を持ち上げ、「枠網」の中にニシンを移し換える。移し変えた網の中のニシンを巨大なタモ網で「ソーラン、ソーラン」と掛け声をかけて汲み出すのが「沖揚げ音頭」。そして最後に、「アリャリャンコリャリャンヨーイトナー」の掛け声で、網に産み付けられたニシンの卵(カズノコ)を竹の棒で打って落とすのが「子叩き音頭」である。 
春とはいえ、冷え切った北海道の海の上。単調で辛い肉体労働をこなすには、大勢で掛け声を唱和する必要があった。時には即興で卑猥な歌詞を歌い上げ、場に笑いを誘う。 
この「沖揚げ音頭」が鰊場作業唄から分化し、「ソーランソーラン」囃し言葉にちなんで「ソーラン節」と呼ばれるようになった。 
なお、「子叩き音頭」もやはり分化し、締めの囃し言葉「アライヤサカサッサ」にちなんで「イヤサカ音頭」と呼ばれ、北海道民謡の一つとして独立している。 
もとは青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」とされる。原曲については、國學院大學民族歌謡文学の須藤豊彦名誉教授によると、江戸中期のはやり歌説をとる。当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行歌がやん衆とともに、北海道にわたったという。
 
ソーラン節
  ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン(ハイハイ) 
  にしん来たかと 鴎に問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ 
  ヤサ エーエンヤーサーノドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
  ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ) 
  沖の鴎に 潮どき問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ 
  ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
  ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ) 
  男度胸なら 五尺のからだ どんと乗り出せ 波の上 チョイ 
  ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
  ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ) 
  躍る銀鱗 鴎の唄に お浜大漁の 陽がのぼる チョイ 
  ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
 
鰊場音頭1 
江差追分と双壁をなす北海道の代表的な民謡ソーラン節は、鰊漁の全盛期に漁業者たちによって歌われた勇壮な労働歌「沖揚げ音頭」または「鰊場音頭」の一節です。北辺の地に春を告げ、北海道開拓の経済基盤を支えた 鰊はすでに幻の魚となりましたが、かつて千石場所として栄え、この民謡のふるさとのひとつである積丹町美国を訪ねると、歌い継がれる節々に漁業者魂が切々とよみがえり、今なお北の海に生きる人の心意気が、この浜に脈打っているのを感じさせられます。 
かつて、この浜が鰊の千石場所として栄え、町じゅう総出の漁労に沸きだった時代には遠く及ばないにしても、もしかして塩辛声(しおからごえ)の「鰊場音頭」の一節なりとも聞こえはしないかと、耳をそばだてたくなる光景です。それというのも、東北、新潟各地から 鰊漁に従事するために渡ってきて北海道の経済を支え、道民の精神文化にも多くの影響をもたらしたヤン衆の心意気が伝わるソーラン節のふるさとのひとつが、この浜だとされているからです。 
「昔は鰊のことを、魚にあらずとだいじにしていました。米を収穫できない松前藩では、鰊を米に代えて禄高にしていたんですね。だから「鯡」という字をニシンと読ませていました」と河崎さん。松前藩が場所請負制度を設けて、積丹・美国地方に知行場所を置いたのは慶長4年(1599)とされますが、まだまだ辺境の地。特に元禄4年(1691)に松前藩が積丹半島の突端、神威(かむい)岬から北へ婦女子の通行を禁じたために定住者は少なく、同時に現在の熊石町以北への追い 鰊を禁じたことから、鰊を中心とした交易が活発になるのは場所請負制度が確立し、運上屋(藩主・知行主の交易所)が設置された宝永3年(1706)以降に待たなければなりません。 
江差の5月は江戸にもないと 誇る鰊の春の海 
と歌われた近場所の漁況が薄れ始めると、この地域への出稼ぎ漁業者の数は増し、主漁場は積丹半島に移ってきます。 
安政2年(1855)に神威岬以北の女人禁制が解かれ、その翌年に美国の隣村、群来(くき)村(古平場所)の秋元金四郎が木枠に袋網を取り付けた枠網を発明します。さらに、美国の白岩八右衛門や工藤半助らによって改良が加えられたものを積丹場所の網元・斉藤彦三郎がとり入れ、大規模な操業をするようになってからは漁獲量も増大し、ヤン衆などの漁業従事者はもとより、家族連れの定住者も大幅に増えてきます。 
 
ソーラン節は、鰊漁のなかで発祥し、普及してきました。ことに枠網による漁法がとり入れられてからは、1ヵ統の働き手も30人前後と大世帯になります。船の上で屈強な男衆たちの士気を高め、統率するために歌われたのが鰊場音頭です。ストーリー性のある4つの歌で構成され、のどに自慢の船頭の歌にあわせて下声が囃子(はやし)を入れる勇壮な合唱組曲です。 
船漕ぎ音頭  
鰊漁は、波止場から網の建て場まで三半船で出漁します。 
 オースコー オーラオー 
 オコイヨー ホーラーオー 
などの掛け声とともに 
 そろったも、そろった 
 若い衆がそろった 
と歌いながら摺(かい)を漕いでゆくのです。これには普通の速度で漕ぐとき、急ぐとき、ゆっくり漕ぐとき、後ろ向きに船を進めるときなど、それぞれに別歌があります。 
網起こし音頭  
鰊が網にのりだしてから枠綱に落とし込むまでの、もっとも気合いの入った作業歌です。船頭以下、乗組員全員が心をひとつにしての力仕事であり、 
 あらドッコイショ 
 あらドッコイまでとは ドッコイショ 
 田舎の角力(すもう)だよ ドッコイショ 
と力んだあとは、木遣歌(きやりうた)にかわり 
  ホーラーエー 
  これでも起きねばヤーエー 
  ホーラー神々頼む 
と、やはり最後は神だのみです。 
沖揚げ音頭  
これがソーラン節として全国的に知られるもの。網起こしによって枠網に積み込まれた鰊を陸揚げするため汲み船を横づけにして、タモ網で汲み揚げるときの歌。歌いやすい旋律と景気のよさで、宴会の席でも広く親しまれています。 
子たたき音頭  
陸揚げを終えた枠網には、たくさんの数の子が付着しています。それを根曲がり竹などでたたき落とすときに歌われるもので「イヤサカ音頭」ともいいます。この作業は陸(おか)まわりの男衆と女子労働者が一緒になって豊漁を喜び、次の出漁への期待を込めて歌われるだけに、沖揚げ音頭とともに歌詞も多く、さまざまな思いを面白おかしく歌い合います。 
 
鰊が群来(くき)ると海は盛り上がり、産卵のために一面乳白色に変わります。漁場はさながら戦場。真夜中に三半船を漕ぎだして、建て場に着くももどかしく網起こしが始まります。保津船(枠船)の到着を待って沖揚げ作業。大漁のときには、2日3日も不眠不休で沖どまりの作業が続きます。くたくたに疲れ果てたからだにムチ打つように、即興で歌う船頭の美声が波間に響きます。船の上は男の世界。陸では聞かせられないような卑猥(ひわい)な文句に眠気を覚まされ、ドッと笑いがおこる。すると、タモを持つ手に再び生気がみなぎるのです。 
 男度胸なら5尺のからだ ドンと乗り出せ波の上 
 大漁手拭いきりりと締めて 一夜千両の網起こし 
豪気な海の男たちの心意気がほとばしるこんな歌詞は枚挙にいとまがありません。 
数々のドラマを残して消えた500年の夢大正9年(1920)の美国町の人口は830戸、5千9百人。そこへ2千人以上のヤン衆が渡って来て、にわかに町はふくれあがります。その漁夫を収容する宿舎が番屋で、3月上旬から4月末まで過酷な労働に明け暮れるのです。彼らの賃金は、米1俵(60キロ)14円50銭の時代に75円だったといいます。 
その年、この浜は歴史的な大豊漁に見舞われました。積丹地方だけで12万8千石、後志全体で52万2千石を揚げ、全道の53%を占めるほどでした。 
1ヵ統の諸経費は約3千円。網元の利益は2万円から5万円にのぼり、こんなときには漁夫たちにも“九一金”といって、漁獲高の10%をボーナスとして支給されるのが常でした。戦後まもなくの豊漁の年には、この小さな漁村に2週間で揚げた3億円の金があったという話が残っています。 
贅(ぜい)を尽くして鰊御殿を建て、豪勢を極めた網元の暮らしに比べて、過酷なヤン衆の仕事ぶりは・・・。 「彼らが3月上旬に渡って来て番屋に落ち着くと、まず除雪をして船おろしや漁場の整備をするんです。粕たきに使う薪(まき)やマッケ(いかり)にする玉石を集める山仕事もあります。いよいよ網建て。そして、 鰊が群来た時の網起こしは、魚の大群と人間の壮烈な格闘ですよ。陸でも保津船で運ばれて来た鰊を出面取り(日雇い労働者)の女や教師も坊さんも一緒に木のモッコで廊下(納屋)へ何度も列をつくってかつぎ込む。ミガキ 鰊を作るための鰊つぶしも冷たい土間に座ったまま、みんな不眠不休の作業が続くんです。彼らの慰めは、漁期が終わったときにもらうまとまった金と、毎日たらふく食べれる白米の食事だったんでしょうね」 
美国一帯の鰊漁の黄金時代は明治30-昭和4年代(1900-29)まで。昭和5年(1930)は前年まで5万石は取れていた鰊が、たった2石しか取れない大凶漁でした。以後、年々ジリ貧を続け、昭和29年(1954)を最後に、この浜はもちろん、500年にわたって殷賑(いんしん)を極め、数々の文化とドラマを残した北海道の 鰊漁は完全に終息を遂げるのです。
鰊場音頭2 
原曲は青森県野辺地町の荷揚げ音頭とするのが有力な説。秋田地方のハタハタ漁で歌われた沖揚げ音頭にも似ているといわれます。それらが各地に渡って来たヤン衆たちによって、少しずつ変化しながら全道的に歌われたものとされています。 
 夢の積丹美国の浜は 
  ぬしに見せたいものばかり 
 ヤン衆かわいやソーラン節で 
  ちょっと飲ませりゃまた稼ぐ 
 今宵一夜は緞子(どんす)の枕 
  明日は出船の波枕 
 思い思われ奥場所暮らし 
  ニシン殺しの共稼ぎ 
 めんこい娘だ出船の時は 
  いつも浜辺でじっと見る 
 波は磯辺に寄せては返す 
  なぜに返らぬひと昔  
 
北海盆唄  
  ハアー北海名物 ハアドウシタ ドウシタ 
  数々コリャあれどヨー ハーソレカラドウシタ 
  俺らがナー 俺らが国さの(自慢の)コリャ 
  ヤレサナー盆踊りヨー エンヤコラヤ 
  ハアードッコイジャンジャン コラヤ  
  ハアー波の華散る 津軽の海をヨ 越えてナー 
  越えて えぞ地へコリャ いつ来たかヨ 
  ハアーそろたそろたヨ 踊り子がそろたヨ 
  はやしナーはやし太鼓のコリャ 音(ネ)もそろたヨ 
  ハアー主がうたえば 踊りもしまるヨ 
  やぐらナーやぐら太鼓のコリャ 音(ネ)も弾むヨ 
  ハアー高い山から 谷底見ればヨ 
  ウリヤナー ウリやなすびのコリャ 花盛りヨ 
  ハアーはやし太鼓に 手拍子コリャそろえてヨ 
  やぐらナーやぐら囲んでコリャ 盆踊りヨ 
  ハアー姉っコよい娘(コ)だ 踊りも上手 
  婿(むこ)にナー 婿に行こうかコリャ 嫁にしようかヨ 
 
 
北海盆唄の誕生 
昭和15年頃、札幌の民謡家・今井篁山(明治35-昭和58)は幾春別炭坑の盆踊りを訪ねた。そこで見た「ベッチョ踊り」の賑やかなこと。これを広く普及させようと、卑猥な歌詞を改め、メロディーも多少編曲して「炭坑盆踊り唄」として活用した。これが「北海盆唄」の原型となる唄で、昭和21年の豊平川河畔の盆踊りで唄われたのが最初だという。 さて、「ベッチョ踊り」というのは三笠に限らず、当時道内各地に広まっていた盆踊りで、そこで唄われたのは「ベッチョ節」「チャンコ節」「北海道越後盆踊唄」「チャンコ茶屋のババ」などと呼ばれる卑猥な歌詞を持つ唄だった。これらの唄がどこから来たのかということになると、新潟県から高島町に移住した集団移民によって伝えられた「越後盆踊唄」が全道に広まったという説、常磐炭坑で唄われた常磐炭坑節が出稼ぎの坑夫によって持ち込まれたという説など、諸説紛々として定まらない。また、唄の型でいえば「北海盆唄」は七七七五調の終わりの五音の前に「アレサナー」などの囃子詞が入る「アレサ式盆踊り唄」の一種である。福島や栃木には「相馬盆唄」や「日光和楽踊り」など、アレサ式盆踊り唄で「北海盆唄」と曲態の似た唄が多いが、これらも元は越後方面の甚句の影響を受けたものだという。結局は全国的な民謡の伝播ルートの延長線上で、移住者が内地の盆踊り唄を北海道に持ち込み、盆踊りの先進地だった炭坑で北海道の郷土色を付け加えられて開花結実したものが「北海盆唄」のルーツだと考えて良さそうだ。  
 
終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。そこでNHKでは、食料とエネルギー源確保のため、「農家へ送る夕」(昭和20年)「炭坑へ送る夕」(昭和21年)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。その「炭坑へ送る夕」の中で、「北九州炭坑節」(単に「炭坑節」ともいう)や「常磐炭坑節」が世に出た。「炭坑節」は、ポリドールから日本橋きみ栄、テイチクから美ち奴、キングから音丸、コロムビアから赤坂小梅と、各レコード会社の競作で発売されるほどの流行になった。特に昭和23年発売の豪快な小梅盤が全国的に大受けし、「炭坑節」は「東京音頭」(昭和8年)と並んで日本で最も人気のある盆踊り唄となった。 昭和26年の第1回NHK紅白歌合戦では、赤坂小梅の「三池炭坑節(北九州炭坑節)」と鈴木正夫の「常磐炭坑節」の対決が行われた。この東西炭坑節対決は昭和31年の第7回紅白歌合戦でも再現された。白組から鈴木正夫が「野郎ヤッタナイ」の常磐炭坑節を熱唱、季節外れの盆踊り唄で大賑わいであった。興奮さめやらぬうちに「月が出た出た」の三池炭坑節が始まり、小梅さんが粋な踊りを披露、会場も両軍総立ちになって踊り出し、あの小梅さんのよく通る声がかき消されんばかりのお祭り騒ぎになった。 炭坑は三池や常磐にだけあったのではなく、むしろ石炭産業の本場は北海道だった。そして北海道の炭坑節はといえば、これこそ今井篁山が幾春別で見出し、後に「北海盆唄」となる唄なのだ。今井篁山はこの唄を東京に持ち込み、昭和29年「北海炭坑節」(唄/中田篁声)の曲名でレコードが出された。昭和32年「北海盆唄(ちゃんこ節)」のタイトルで伊藤かづ子が吹き込んみ、昭和33年三橋美智也の歌唱でレコード化され、全国的に知られる流行民謡になった。 一方、昭和35年、民謡の権威書である町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」に、「北海道追分」「ソーラン節」「いやさか音頭」とともに北海道の民謡として「北海盆踊唄」が採録され、民謡としての地位を確固たるものにした。  
 
「日本民謡集」では、北海盆唄のルーツとして「新潟県から高島町(小樽市)に移住した集団移民によって伝えられた「越後盆踊唄」の改作」であるとし、以後この説が通説化された。しかし、昭和50年代に入り、本格的なルーツの探求も進み「ベッチョ踊り」>「今井篁山」>「北海盆唄」が明らかになってきた。平成4年、北海道教育大学名誉教授で北海道民謡連盟最高師範である吉田源鵬が、日本民俗音楽学会で三笠の幾春別で唄われていたベッチョ節が北海盆唄のルーツであると発表。翌年三笠市では「第1回北海盆唄全国大会」を開催した。長く北海盆唄のルーツとして通説化されていた小樽高島の越後盆踊りであるが、こちらも平成13年に小樽市の無形民俗文化財に指定されてその歴史的価値が再確認され、昔ながらの越後盆踊りが近年ではますます盛んに開催されている。  
 
北海盆唄こそ、北海盆踊りで唄われる民謡である。北海盆踊りの発祥の地は三笠市。かつて、炭鉱が華やかなころ、三笠市幾春別中島町の広場には毎年高さ約8mもの三層やぐらが、丸太を荒縄で縛って組み立てられ、ちょうちんや電灯の光で闇夜に浮かび上がっていた。数千人もの老若男女が、浴衣姿で周りを幾重にも囲み、思い思いに北海盆唄を歌い、夜明けまで踊り続けたという。炭鉱の街・三笠には、1950年代後半、約63000人が住んでいた。各炭鉱とも盆踊りはにぎやかだったが、中でも、北海盆唄発祥の地とされる北炭幾春別炭礦の盆踊りは規模が大きく格別だった。北海盆唄は作詞者も作曲者も不明、決まった歌詞もない。「いろんな人が好きに作り、歌い継いできたもの」を、民謡の大家として知られる今井篁山(こうざん)が「北海炭鉱節」としてまとめたものが原型だ。その後、歌手の三橋美智也が、これをもとに「北海盆唄」を歌い、全国にその名を知られるようになった。しかし、幾春別の盆踊り大会は、炭鉱閉山などで住民が減り、参加者が300人近くまで減った約40年前に伝統の歴史を閉じた。  
 
北海盆唄は、日本の民謡、北海道の盆踊りで使用される曲である。 
北海道の盆踊りは、夕方の早い時間の「子供の部」と、その後に続く「大人の部」の二部構成であることが多く、「子供の部」では「子供盆おどり唄」が、「大人の部」ではこの「北海盆唄」が演奏されるのが一般的である。 
三笠市が発祥の地であるが、北海道各地でお盆になると盆踊り用の曲として用いられる。三笠市では発祥の地をアピールするべく、毎年8月、三笠北海盆おどりが開催されている。 
元は「べっちょ節」と呼ばれる卑猥な歌詞を持つ歌であり、炭鉱労働者が踊っていたものであるが、太平洋戦争後、歌詞を見直し三橋美智也の歌によりレコード化、大ヒットしたことがきっかけに全国的に普及した。現在は、松下耕が編曲した同声合唱版が有名である。 
北海道の盆踊りが子供と大人の二部制になり、子供用として別の楽曲(子供盆おどり唄)が北海道教育委員会の要請でわざわざ制作されたのも、旧来の北海盆唄(べっちょ節)の歌詞が卑猥で、子供の教育上良くないとされたためである。ちなみに、踊りの振り付けは(子供盆おどり唄)の方がむしろ複雑である。 
北海道室蘭市で踊られる場合のみ振付が独自に改変されており、網を引くようなしぐさが含まれる。 
 
木古内盆踊り 
  うさもつらさも 踊りにとけて 月は薬師の ノー 山に照る 
  津軽海から 朝日がさせば 花の薬師は ノー うすげしょう 
  踊り浮かれて 佐女川ほとり  ナヤギすり合う ノー おぼろ月 
  帰らぬつもりで 木古内出たが 盆の太鼓に ノー もどされる 
  踊りつかれて うちわを入れりゃ ホタルちょと来て ノー 顔のぞく 
  うたって 踊って 疲れて寝たら 大漁大漁の ノー 夢を見た 
  踊り踊るなら 前より後ろ 後ろ姿で ノー 嫁にとる 
  遠く離れて あいたいときは 月が鏡と ノー なればよい 
  盆の太鼓に つい浮か浮かと 月も浮かれて ノー 踊り出す 
  どんと響いた 太鼓の音で 町に平和の ノー 盆踊り 
  踊り踊るなら みなきてはやせ 年を忘れた ノー 夜じゃもの 
  わしの盆うた 空までとどけ 明日の沖出は ノー 大漁節 
  波のしぶきに 浜なす咲いた 可愛いあの娘の ノー ほほのよに 
  踊るふるさと 潮のほとり 波に浮かんだ ノー 帆も軽く 
  踊る娘の たすきの姿 母もほほえむ ノー 月も見る 
  親父みてくれ あの娘の手ぶり いかをさかせりゃ ノー 二人前 
  木古内名物 踊りの姿 笑顔笑顔を ノー 月照らす 
  うたえうたえと わしばり責めて わしがいなけりゃ ノー だれ責める 
  咲いた花より 咲く花よりも 咲いてしおれる ノー 花がよい 
  親の意見と なすびの花は 千に一つの ノー むだもない 
  盆の十三日 ほがいする晩(バゲ)だ 小豆強飯 ノー 豆もやし 
  来いとゆたとて 行かりょか佐渡へ 佐渡は四十九里 ノー 波の上 
  波の上でも 来る気があれば 船に櫓(ロ)もある ノー 櫂(カイ)もある 
  お前百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の ノー 生えるまで 
  思い出しては 写真をながめ なぜに写真は ノー 物言わぬ 
  想うて通えば 千里も一里 みんなあんたの ノー ためだもの 
  来いちゃ来いちゃで 二度だまされた 又も来いちゃで ノー だまされた 
  お前思えば 天気もくもる 天気もくもれば ノー 雨となる 
  雨の降るのに わし通はせて ぬれた体を ノー だれがほす 
  うたの先生は いだがも知らぬ 一つうたいます ノー 恥をかく 
  こいの滝のぼり 何と言ってのぼった 身上あがれと ノー 言ってのぼった 
  私しゃ木古内 荒浜育ち 波も荒いが ノー 気も荒い 
  沖の暗いのに ランプが見える あれは紀乃国 ノー ミカン船 
  高い山から 谷底みれば うりやなすびの ノー 花咲かり 
  盆と正月と 一度に来たら わたしだいてねて ノー カヤかぶる 
  あの山木かげの あの石ドウローは だれが寄進で ノー 建てたやら 
  来たり来ないだり なぜきく野菊 どうせ来ないなら ノー 来ねばよい 
  他人(ヒト)の女房と 枯木の枝は 登りつめだよ ノー 命がけ 
  踊り踊るなら しなよく踊れ しなのよい娘を ノー 嫁にとる 
  江差山の上を 鳴いて通るカラス 金も持たぬで ノー カウカウと 
  ヤマセふがげで 松前渡り あとは野となれ ノー 山となれ 
  わしとお前は 羽織のひもよ 堅く結んで ノー 胸におく 
  声はすれども 姿は見えぬ やぶにうぐいすの ノー 声ばかり 
  せめてかもめの 片羽あれば 飛んで行きたい ノー 主のそば 
  沖のかもめが 物言うならば 便りきいたり ノー きかせたり 
  泣いてくどいて 義理立つならば わしも泣きます ノー くどきます 
  枯木見せかけ 花咲け咲けと 花が咲きます ノー 実が成らぬ 
  盆が来たとて 我が親来ない 谷地のみそはぎ ノー 我が親だ 
  咲いた桜に なぜこまつなぐ こまが勇めば ノー 花が散る 
  若い船頭衆の ソーラン節よ 浮気かもめも ノー 飛んで来る 
  差した杯 中見て受けよ 中にツルカメ ノー 五葉の松 
  山で切る木は いくらもあれど 思い切る気は ノー さらにない 
  鳴いて飛びつく あの大木に 鳴いて別れる ノー 夏のせみ 
  月夜恥かし やみ恐しい おぼろ月夜の ノー 夜がほしい 
  ほれていけない 他国の人に 末はからすの ノー 鳴き別れ 
  末はからすの 鳴き別れでも 想うて苦労を ノー してみたい 
  昔しなじみと つまずく石は 憎いながらも ノー 後を見る 
  空の星さえ 夜遊びなさる わしの夜遊び ノー 無理もない 
  わしの病いは 踊りの病 太鼓ドンとなりゃ ノー 寝てられぬ 
  上げたり下げたり 冷やかされたり ほんにつらいじゃ ノー はねつるべ 
  鳴くなにはとり まだ夜が明けぬ 明けりゃお寺の ノー 鐘が鳴る 
  米のなる木で わらじを作る ふめば小判の ノー 後がつく  
  踊りじょうずな あの娘の姿 月も見とれて ノー 足とめる 
  あれ見やしゃんせよ 山吹きの花 浮気で咲いたか ノー 実がならぬ 
  白さぎ見るよな 男にほれて からす見るよな ノー 苦労する 
  花のさかりに しんとめられて いつか咲くやら ノー 咲かぬやら 
  酒このむ娘は しんからかわい のんでクダまきゃ ノー なおかわい 
  わたしゃ木古内 荒浜育ち 声のわるいのは ノー 御免くれ 
  唄てはやしねが 何恥しば ここは通りつ ノー 人がきく 
  晒(サラ)し手拭 鯉の滝上がり どこの紺屋で ノー 染めたやら 
  妾(ワ)しゃ木古内の 十六ササゲ 誰に初もぎ ノー されるやら 
  泣いてうらむか 蛇になって呑むか 生きてお前の ノー 末をみる 
  咲いて口惜しい カタクリの花 小首かしげて ノー 山奥に 
  色でなやませた 生ナレ茄子(ナスビ) 中に口説きの ノー 種がある 
  思て通えば 千里も一里 会わずに帰れば ノー また千里 
  よせばいいのに 舌切雀 ちょいとなめたが ノー 身のつまり 
  一夜一夜に 浦島太郎よ あけてくやしい ノー 玉手箱 
  茶屋の二階から 釣竿さげて どんなお客でも ノー 釣りあげる 
  実こそならぬが 山吹の花 色にまよわぬ ノー 人はなし 
  恋の九ツ 情の七ツ 情しらずの ノー 山鴉(カラス) 
  かわいがられて 今死ぬよりも にくいがられて ノー マアーマアーと 
  わしの道楽 カマスに入れて 叱る親父に ノー 背負わせたい 
  沖に色みえる いわしかさばか 若衆出てみれ ノー 色の鯖(サバ) 
盆踊りは年に一度、この世に帰ってくる精霊を迎え、また、送るための風習に発したものであり、盂蘭(ウラ)盆を中心に、寺の境内や広場で老若男女大勢が参加して踊ったものである。踊りに対する伴奏方式も地方によって異なるが、大太鼓だけを配して踊る盆踊りは津軽地方に多く、木古内の盆踊りも津軽から移入されたものと考えられる。なお、盆踊り唄の歌詞の字音数は、七・七・七・五句形式が非常に多く、木古内盆踊り唄もこの形式であり、歌詞についても類似したものが多くある。  
(例)   
木古内盆踊り唄 「盆がきたとて我が親こない、谷地のミソハギ我が親だ」  
津軽盆踊り唄「盆がきたとて我が親こない、盆のミソハギ我が親だ」  
ハオイ音頭は昔、古老達がアイヌと一緒に漁労に従事していた頃、いつとはなしに歌われてきた民謡だと言われている。その歌詞の中に木古内の盆踊りがある。  
略・・・浜のまさごは よねしろ釜谷 つきぬ話の 泉沢よ  
チョイと腰かけ 札苅村よ 木古内で盆し(す)りゃ 死んでいいよ  
そのくせ盆せば死にたくないよ・・・(略)  
「木古内で盆すりゃ死んでいいよ」の歌詞は、木古内の盆踊りのにぎやかさと楽しさを表現したものである。  
古老の話によれば、「昔、盆踊りは8月13日から20日まで踊り、夕方になると太鼓の音に誘われて老若男女がヤグラのまわりに集まり、毎日夜半まで踊り続けたものだ。若い者は、踊りながらうす暗いあたりまできてさりげなく輪をぬけると、若い娘も後をついて行く、といったこともあり、木古内の盆踊りは若者達の交歓の場でもあったわけだ。」  
月夜恥ずかし やみ恐ろしい おぼろ月夜の 夜がほしい 
 
大昔、社会人のなりたて、場所柄をわきまえず、唯一唄えた民謡、ソーラン節を先斗町のお座敷で唄いました。 
お姉さんたちに褒められましたが、数年後「よいしょ」の意味を知りました。うぶでした。

 
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