天城

 
 
   
天城越え/天城隧道 
川端康成「伊豆の踊子」 
前夜、湯ケ島の旅館で出会った踊り子の一団を追って下田街道を登って来た主人公が、この天城隧道のところでようやく追い付く。 
「道がつづら折りになって いよいよ天城峠が近づいたと思うころ 雨足が杉の密林を白く染めながら すさまじい早さで麓から わたしを追って来た・・・」 
松本清張「天城越え」 
遊女と少年の不思議な出会いは、このトンネルのあたりでクライマックスを迎える。山中で遊女の客となった男が殺される、犯人は誰か。氷室に残った足跡から遊女が逮捕される。 
石川さゆり「天城越え」 
道ならぬ恋の男女か、天城の隠れ宿で一夜を過ごした二人は、伊豆の踊り子たちと同じ道をたどったのだろうか。浄蓮の滝を越え、寒天橋を渡って天城隧道にやってくる。

 

浄蓮の滝 
天城原生林に包まれた滝は高さ25m幅7mの天城山中第1の滝。滝の玄武岩には、天然記念物のハイコモチシダが群生しいる。夏でも涼しい滝の主は女郎蜘蛛だという伝説がのこっている。
天城峠 
国道414号、静岡県田方郡天城湯ヶ島町〜静岡県賀茂郡河津町/伊豆の踊子/天城越え/伊豆の踊り子/とであまりにも有名な峠。かつてその路は急峻な地形のため、切り立った崖の上、岩を刻んだ階段等にもつくられ、天城越えで尊い命を落とした人も少なくないという。天城越えの路は時代とともに変遷し、新山峠、古峠、中間業、二本杉峠、天城峠と変わってきた。 
二本杉峠は幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため、下田から江戸に上ったときに通った峠である。一行の日記に「路は狭く鋭角で馬の蹄を置く場所もなく 、ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く、今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ」と記されていることから、相当な難所であったことがわかる。
天城山険道(旧天城トンネル) 
鳥の声と本谷川のせせらぎ、道の両側を天城の原生林で包まれた踊り子ラインを進むと旧天城トンネル。海抜800m、ブナやカエデの木々が自然のままに生い茂る風情は、伊豆の踊子の世界。平成13年6月国の重要文化財に指定される。
山葵沢 
冬あたたかく、夏涼しい天城の清流が天城の特産品であるわさびを育ている。
 
太郎杉 
滑沢渓谷から歩いて約20分の山頂にそびえる高さ53m根廻り13.6m、樹齢約430年と推定される天城山一の杉の木。
 
「天城越え」松本清張

 

私が、はじめて天城を越えたのは30数年昔になる。「私は20歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出かけて四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登ってきたのだった」というのは川端康成の名作「伊豆の踊り子」の一節だが、これは大正15年に書かれたそうで、ちょうど、このころ私も天城をこえた。違うのは、私が高等学校の学生ではなく、16歳の鍛冶屋の倅であり、この小説とは逆に下田街道から天城峠を歩いて、湯ヶ島、修善寺に出たのであった。そして朴歯の高下駄ではなくて、裸足であった。なぜ、裸足で歩いたか、というのはあとで説明する。むろん、袴はつけていないは、私も紺飛白を着ていた。私の家は下田の鍛冶屋であった。両親と兄弟6人で、私は三男だった。長男は鍛冶屋を嫌って静岡の印刷屋の見習工をしていた。一家7人、食うのには困らなかったが、父母とも酒飲みなので、生活はそれほど楽ではなかった。 
あらすじ / 静岡で印刷屋を営む小野寺のもとに、田島と名乗る老人が、県警の嘱託で「天城山殺人事件」という刑事調書の印刷を依頼しに来た。原稿を見て激しく衝撃を受けた小野寺は14歳の頃を思い浮かべる。小野寺は14歳のとき、母の情事を目撃し、それまで彼にとって、神であり恋人であり、亡き父を裏切った母が許せず、静岡にいる兄を訪ねて一人で天城越えの旅に出た。少年は素足で旅する若い娘ハナと出会い、並んで歩いた。少年は美しいハナに母の面影を感じる。ところが、道中、ハナは一人の土工に出会うと、無理矢理に少年と別れ、男と歩きだした。気になった少年が後を追うと、草むらの中で情交を重ねる二人を目撃する。その土工が殺された。ハナが容疑者として逮捕される。土工と歩いているところを目撃した者もおり、彼女は土工から貰ったと思われる金も持っていた。さらに、現場には九文半ほどの足跡があり、ハナの足も九文半だった。警察の取調べに対し、ハナは土工と関係して金を貰ったことは認めたが、殺しは否認した。売春宿の女だったハナは一文なしで逃げだし、金が必要だった。結局、ハナは証拠不十分で釈放された。彼女は真犯人を知っている様子だ が、頑として口を割らず、事件は迷宮入りとなった。田島老人はそのときの刑事だった。「九文半の足跡を女のものだと断定したのが失敗でした。犯人は子供でした」と老人は語る。そして、犯人である子供の動機が分らないと続ける。犯人は、少年 ・小野寺であった。少年はハナと土工の情交を見て、母が犯されている・・・そんな思いが浮かんだ。ハナにも、少年と天城を肩を並べて歩いているうちに、彼の純粋な気持ちが伝わったのだろう。だから、目撃した事実を口にしなかったのだ。刑事だった老人は、30年ぶりで小野寺が真犯人であるという推理に達し、印刷を依頼に来たのだ。しかし、もう時効であった。  
 
川端康成と三島由紀夫

 

昭和43年69歳のとき、日本人初の「ノーベル文学賞」を受賞して世界の頂点に立った川端康成の生い立ちは悲惨なものだった。大阪市に生まれたが、1歳のとき父を、2歳で相次いで母を亡くし、祖父母に預けられる。数年後に祖母も他界し、目の不自由な祖父を看病しながら暮らすことになる15歳で全くの孤児となった康成は一高時代に伊豆に旅し、美しい踊り子と出会って心を癒される。その顛末を描いた「伊豆の踊り子」はみずみずしい叙情にみちた青春小説として世評が高い。  
が、その後、次々と発表された「雪国」「禽獣」「山の音」などに、この作家の心の奥底に澱のように溜ったどす黒い闇の部分が浮き彫りになる。肉親の死を次々と体験したことが康成の作品に暗い影を落とし、無常観を植えつけるに 至った。生の中に死があり、死の中に生がある特異な成長過程は川端の人間観と人生観に大きな影響を与えたことは歪めない。  
が、その後、次々と発表された「雪国」「禽獣」「山の音」などに、この作家の心の奥底に澱のように溜ったどす黒い闇の部分が浮き彫りになる。肉親の死を次々と体験したことが康成の作品に暗い影を落とし、無常観を植えつけるに 至った。生の中に死があり、死の中に生がある特異な成長過程は川端の人間観と人生観に大きな影響を与えたことは歪めない。  
この世はもろくはかなく、実在はあり得ない、美や幸福はやがて消え去るもの。川端文学に漂う虚無思想は一貫しており、作家は遂にそこから抜け出すことはできなかった。戦後文学の傑作として評価の高い「山の音」にも、川端が終始持ち続けたテーマ、「人間の逃れられない孤独」と、「人を愛することの空しさ」が描かれている。主人公信吾の虚無感は即、作者の虚無であり、「雪国」の主人公、島村の人間を見る眼の冷たさは川端のそれに他ならない。  
しかし、選びぬかれた言葉と言葉が相呼応して光を放ち、微妙な音色をかなでる、その典雅な文章は格別の魅惑にみちている。文字通り、珠玉の文章はまさに芸術だ。日本通の学者、サイデンステッカーの翻訳を得なければ、「雪国」はノーベル賞を受賞できなかっただろうと言われるほどの名訳だが、その受賞から一年半後、愛弟子の三島由紀夫の割腹事件が起きる。若年の三島の処女作「煙草」を文壇に推挙したことから二人の親交は始まった。その夥しい往復書簡が残されているのは幸運と言える。三島がいかに川端を信頼していたか、又康成が三島を「若き師友」と呼んでどんなに愛していたかが納得できる内容だ。  
三島由紀夫が自決して一年半後の4月16日、逗子の仕事部屋で康成はガス自殺を遂げる。愛弟子の突然の死は老いの身にこたえた。友人、横光利一の葬儀で川端は、「君亡きあとは日本の自然を魂のかてとして生きたい」と弔辞をよんでいるように、彼は日本の山河をこよなく愛していた。道がアスファルトに変わり、樹が伐られて自然が破壊されていくのに彼は怒りを感じていた。その怒りは絶望に変じた。子もなく、孫もなく、妻に対する嫌悪感を消すすべはなかった。最高の栄誉と富を得ながら、そんなものでは彼の孤独は癒されなかったのである。「源氏物語」の現代語訳をある書店と契約しながら果し得なかったのは惜しまれる。川端の骨の髄まで沁みこんだ「無常観」は、他に追随を許さぬ、すぐれた「源氏物語」を後世に残しただろう。  
三島由紀夫の生い立ちは川端と全く異なり、東京の上流家庭で愛されて育った彼は24歳で発表した「仮面の告白」で華々しく文壇に登場した。精神分析的な方法で、一般には「異常」と映る性的倒錯の過程を一人称で描く、サディズムとマゾヒズムの交錯した特異な内容は評価が真っ二つに割れた。が、何と言っても、三島が余すところなく本領を発揮しえたのは昭和31年31歳で「新潮」に連載した「金閣寺」と言える。  
終戦後、金閣寺の青年層が放火して寺が全焼したとき、その犯人は放火の理由を「自分は金閣の美しさに嫉妬したのだ」と言った。そのキザな一言が、三島の想像力に火をつけ、創作意欲をかき立てる。長編小説「金閣寺」に三島は自分の持てる美意識、哲学、感性のすべてを投入して取り組んだ。金閣寺の美しさにとり憑かれた青年層の内部崩壊の心理を三島は明晰な筆致で追う。愛する金閣が、他人からきらわれる見にくい容姿の自分を拒否するのに苛立ちを覚えた主人公はやがてこの非情の金属の結晶に憎悪を抱き始める。そして、焼失させることでその呪いから放たれ、逆に金閣を永久に我がものにしようと考える。破壊してはじめて相手を所有できる。と言うロジックは、天才作家の筆によって華麗に展開していく。読者はそのマジックのような論理に魅せられて読み進む。存在価値のうすい、魅力の乏しい人間を主人公に据えてストーリーを構成するのは至難の技だが、この「観念小説」は三島その人の作家的手腕の凄さを改めて感じさせる芸術作品だ。  
漁師の若者と海女との愛を描いた「潮騒」はこの作家にしては珍らしく普遍性があり、人気を博した。他に「禁色」「愛の渇き」能を題材にとった一連の作品が残された。が、彼の最後の作品となった「豊饒の海」に取りかかる頃から、彼の文学はあらぬ方向へと向かっていく。「この四部作が完成したら自分は死ぬであろう」としばしば自分の「死」を予言し始める。若者を集めて「盾の会」を結成し、「文化防衛論」を説いた。天皇を中心とする伝統的な「サムライ精神」の復活を訴えるが大衆は聴く耳を持たなかった。  
昭和45年11月25日自衛隊市谷駐屯地の総監室で自決して果てた。享年45歳。  
独自の修辞学から生み出された美的文体。それは白い大理石の肌を連想させるが、どこか非情で冷たい。その感触は川端の文章と相通じるものがあり、共通する闇の美学がある。「豊饒の海」の終りに描かれた「寂莫の庭」には三島の自決の謎をとく鍵がありそうだ。「これといって奇巧のない、閑雅な、数珠を繰るような蝉の声」がする庭に、主人公の本多は佇む。「そのほかには何一つ音とてなく、寂莫を極めている。この庭には何もない。記憶がなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。」  
三島はその死の前夜、夜半までかかってこの最終章を書き終えている。死を決意した人間がこうも冷静に文章を綴ることができるのかと、改めて驚かされる。三島には、もう何も無かった。現在も過去も未来もすべてナッシングだった。彼が辿りついたこの虚無の庭に、川端もまた佇んでいたのである。  
志賀直哉の短編、たとえば、戦後の作「灰色の月」などには、他人を労る愛情が滲み出て読後感があたたかい。しかし、この二人の作品にあったものは何なのだろう。強烈な自己愛、自己の絶対化が感じられるだけで、他者に対する人間愛は感じとれない。二人のこのすぐれた作家が辿り着いた虚無の庭―類まれな天才の最後はいかにも寂しい。愛のない花畑は所詮、 造花の畑に過ぎなかった―私ごときがそう言い切るのはおこがましいのかもしれない。結局、天才の狂気は凡俗には解せないのである。彼らの自死は彼ららにとって敗北だったのか、それとも勝利だったのか、誰にも断定できないだろう。   
 
 
伊豆の踊子 

 

第一章  
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。  
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。あまりに期待がみごとに的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。  
突っ立っている私を見た踊子がすぐに自分の座布団をはずして、裏返しにそばに置いた。  
「ええ・・・・。」とだけ言って、私はその上に腰をおろした。坂道を走った息切れと驚きとで、「ありがとう。」という言葉が喉にひっかかって出なかったのだ。  
踊子とま近に向かい合ったので、私はあわてて袂から煙草を取り出した。踊子がまだ連れの女の前の煙草盆を引き寄せて私に近くしてくれた。やっぱり私は黙っていた。  
踊子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵型のりりしい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった。踊子の連れは四十代の女が一人、若い女が二人、ほかに長岡温泉の印半纏を着た二十五六の男がいた。  
私はそれまでにこの踊子を二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女が三人だったが、踊子は太鼓をさげていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思った。それから、湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流しが来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰をおろして一心に見ていた。―あの日が修善寺で今夜が湯ヶ島なら、明日は天城を南に越えて湯ヶ野温泉へ行くのだろう。天城七里の山道できっと追いつけるだろう。そう空想して道を急いだのだったが、雨宿りの茶屋でぴったり落ち合ったものだから私はどぎまぎしてしまったのだ。  
まもなく、茶屋の婆さんが私の別の部屋へ案内してくれた。平常用はないらしく戸障子がなかった。下をのぞくと美しい谷が目の届かないほど深かった。私は膚に粟粒をこしらえ、かちかちと歯を鳴らして身震いした。茶を入れに来た婆さんに、寒いというと、  
「おや、だんな様おぬれになってるじゃございませんか。こちらでしばらくおあたりなさいまし、さあ、おめしものをおかわかしなさいまし。」と、手を取るようにして、自分たちの居間へ誘ってくれた。  
その部屋は炉が切ってあって、障子をあけると強い火気が流れて来た。私は敷居ぎわに立って躊躇した。水死人のように全身青ぶくれの爺さんが炉端にあぐらをかいているのだ。瞳まで黄色く腐ったような目を物うげに私の方へ向けた。身の回りに古手紙や紙袋の山を築いて、その紙くずのなかに埋もれていると言ってもよかった。とうてい生物と思えない山の怪奇を眺めたまま、私は棒立ちになった。  
「こんなお恥ずかしい姿をお見せいたしまして・・・・。でも、うちのじじいでございますからご心配なさいますな。お見苦しくても、動けないのでございますから、このままで堪忍してやって下さいまし。」  
そう断ってから、婆さんが話したところによると爺さんは長年中風を煩って、全身が不随になってしまっているのだそうだ。紙の山は、諸国から中風の療法を教えて来た手紙や、諸国から取り寄せた中風の薬の袋なのである。爺さんは峠を越える旅人から聞いたり、新聞の広告を見たりすると、その一つをも漏らさずに、全国から中風の療法を聞き、売薬を求めたのだそうだ。そして、それらの手紙や紙袋を一つも捨てずに身の回りに置いて眺めながら暮らして来たのだそうだ。長年の間にそれが古ぼけた反古の山を築いたのだそうだ。  
私は婆さんに答える言葉もなく、囲炉裏の上にうつむいていた。山を越える自動車が家を揺すぶった。秋でもこんなに寒い、そしてまもなく雪に染まる峠を、なぜこの爺さんはおりないのだろうと考えていた。私の着物から湯気が立って、頭が痛むほど火が強かった。婆さんは店に出て旅芸人の女と話していた。  
「そうかねえ。この前連れていた子がもうこんなになつたのかい。いい娘(あんこ)になって、お前さんも結構者だよ。こんなにきれいになったかねえ。女の子は早いもんだよ。」  
小一時間経つと、旅芸人たちが出立つらしい物音が聞こえて来た。私も落ち着いている場合ではないのだが、胸騒ぎするばかりで立ち上がる勇気が出なかった。旅慣れたと言っても女の足だから、十町や二十町遅れたって一走りに追いつけると思いながら、炉のそばでいらいらしていた。しかし踊子たちがそばにいなくなると、かえって私の空想は解き放たれたように生き生きと踊り始めた。彼らを送り出して来た婆さんに聞いた。  
「あの芸人は今夜どこで泊まるんでしょう。」  
「あんな者、どこで泊まるやらわかるものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」  
はなはだしい軽べつを含んだ婆さんの言葉が、それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思ったほど私をあおり立てた。  
雨足が細くなって、峰が明るんで来た。もう十分も待てばきれいに晴れ上がると、しきりに引き止められたけれども、じっとすわっていられなかった。  
「爺さん、お大事になさいよ。寒くなりますからね。」と私は心から言って立ち上がった。爺さんは黄色い眼を重そうに動かしてかすかにうなずいた。  
「旦那さま、旦那さま。」と叫びながら婆さんが追っかけて来た。  
「こんなにいただいてはもったいのうございます。申しわけございません。」  
そして私のカバンを抱きかかえて渡そうとせずに、いくら断わってもその辺まで送ると言って承知しなかった。一町ばかりもちょこちょこついて来て、同じことを繰り返していた。  
「もったいのうごさいます。お粗末いたしました。お顔をよく覚えております。今度お通りの時にお礼をいたします。この次もきっとお立ち寄り下さいまし。お忘れはいたしません。」  
私は五十銭銀貨を一枚置いただけだったので、痛く驚いて涙がこぼれそうに感じているのだったが、踊子に早く追いつきたいものだから、婆さんのよろよろした足取りが迷惑でもあった。とうとう峠のトンネルまで来てしまった。  
「どうもありがとう。お爺さんが一人だから帰ってあげて下さい。」と私が言うと、婆さんはやっとのことでカバンを離した。  
暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。 
 
第二章  
トンネルの出口から白塗りのさくに片側を縫われた峠道が稲妻のように流れていた。この模型のような展望の裾のほうに芸人たちの姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた。しかし急に歩調をゆるめることもできないので、私は冷淡なふうに女たちを追い越してしまった。十間程先きに一人歩いていた男が私を見ると立ち止まった。  
「お足が早いですね。−いい塩梅に晴れました。」  
私はほっとして男を並んで歩き始めた。男は次ぎ次ぎにいろんなことを私に聞いた。二人が話し出したのを見て、うしろから女たちがばたばた走り寄って来た。  
男は大きい柳行李を背負っていた。四十女は小犬を抱いていた。上の娘が風呂敷包み、中の娘が柳行李、それぞれ大きい荷物を持っていた。踊子は太鼓とそのわくを負うていた。  
四十女もぽつぽつ私に話しかけた。  
「高等学校の学生さんよ。」と、上の娘が踊子にささやいた。私が振り返ると笑いながら言った。  
「そうでしょう。それくらいのことは知っています。島へ学生さんが来ますもの。」  
一行は大島の波浮の港の人たちだった。春に島を出てから旅を続けているのだが、寒くなるし、冬の用意はして来ないので、下田に十日ほどいて伊東温泉から島へ帰るのだと言った。大島と聞くと私は一層詩を感じて、また踊子の美しい髪を眺めた。大島のこともいろいろ尋ねた。  
「学生さんがたくさん泳ぎに来るね。」踊子が連れの女に言った。  
「夏でしょう。」と、私がふり向くと、踊子はどぎまぎして、  
「冬でも・・・・。」と、小声で答えたように思われた。  
「冬でも?」  
踊子はやはり連れの女を見て笑った。  
「冬でも泳げるんですか。」と、私はもう一度言うと、踊子は赤くなって、非常にまじめな顔をしながら軽くうなずいた。  
「ばかだ。この子は。」と、四十女が笑った。  
湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。私と男とは絶えず話し続けて、すっかり親しくなった。荻乗や梨本なぞの小さい村里を過ぎて、湯ヶ野のわら屋根が麓に見えるようになったころ、私は下田までいっしょに旅をしたいと思い切って言った。彼は大変喜んだ。  
湯ヶ野の木賃宿の前で四十女が、ではお別れ、という顔をした時に、彼は言ってくれた。  
「この方はお連れになりたいとおっしゃるんだよ。」  
「それは、それは。旅は道連れ、世は情。私たちのようなつまらない者でも、ご退屈しのぎにはなりますよ。まあ上がってお休みないまし。」とむぞうさに答えた。娘たちは一時に私を見たが、至極なんでもないという顔をして、少し恥ずかしそうに私を眺めていた。  
皆といっしょに宿屋の二階へ上がって荷物を降ろした。畳や襖も古びてきたなかった。踊子が下から茶を運んで来た。私の前にすわると、真紅になりながら手をぶるぶる震わせるので茶碗が茶托から落ちかかり、落とすまいと畳に置く拍子に茶をこぼしてしまった。あまりにひどいはにかみようなので、私はあっけにとられた。  
「まあ!いやらしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれあれ・・・・。」と、四十女があきれはてたというふうに眉をひそめて手拭を投げた。踊子はそれを拾って、窮屈そうに畳をふいた。  
この意外な言葉で、私はふと自分を省みた。峠の婆さんにあおり立てられた空想がぽきんと折れるのを感じた。  
そのうちに突然四十女が、  
「書生さんの紺飛白はほんとにいいねえ。」と言って、しげしげ私を眺めた。  
「この方の飛白は民次と同じ柄だね。そうだね。同じ柄じゃないかね。」  
そばの女に幾度もだめを押してから私に言った。  
「国に学校行きの子供を残してあるんですが、その子を今思い出しましてね。その子の飛白と柄が同じなんでですもの。この節は紺飛白もお高くてほんとに困ってしまう。」  
「どこの学校です。」  
「尋常五年なんです。」  
「へえ、尋常五年とはどうも・・・・。  
「甲府の学校へ行ってるんでございますよ。長く大島におりますけれど、国は甲斐の甲府でごさいましてね。」  
一時間ほど休んでから、男が私を別の温泉宿へ案内してくれた。それまでは私も芸人たちと同じ木賃宿に泊まることとばかり思っていたのだった。私たちは街道から石ころ路や石段を一町ばかりおりて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった。  
そこの内湯につかっていると、あとから男がはいって来た。自分が二十四になることや、女房が二度とも流産と早産とで子供を死なせたことなぞを話し出した。彼は長岡温泉の印半纏を着ているので、長岡の人間だと私は思っていたのだった。また顔つきも話ぶりも相当知識的なところから、物好きか芸人の娘にほれたかで、荷物を持ってやりながらついて来ているのだと想像していた。  
湯から上がると私はすぐに昼飯を食べた。湯ヶ島を朝の八時に出たのだったが、その時はまだ三時前だった。  
男が帰りかけに、庭から私を見上げてあいさつをした。  
「これで柿でもおあがりなさい。二階から失礼。」と言って、私は金包みを投げた。男は断って行き過ぎようとしたが、庭に紙包みが落ちたままなので、引き返してそれを拾うと、  
「こんなことをなさっちゃいけません。」とほうり上げた。それが藁屋根の上に落ちた。私がもう一度投げると、男は持って帰った。  
タ暮れからひどい雨になった。山々の姿が遠近を失って白く染まり、前の小川が見る見る黄色く濁って音を高めた。こんな雨では踊子たちが流して来ることもあるまいと思いながら、私はじっとすわっていられないので二度も三度も湯にはいってみたりしていた。部屋は薄暗かった。隣室との間の襖を四角く切り抜いたところに鴨居から電燈が下がっていて、一つの明かりが二室兼用になっているのだった。  
ととんとんとん、激しい雨の音の遠くに太鼓の響きがかすかに生まれた。私はかき破るように雨戸をあけて体を乗り出した。太鼓の音が近づいてくるようだ。雨風が私の頭をたたいた。私は眼を閉じて耳を澄ましながら、太鼓がどこをどう歩いてここへ来るかを知ろうとした。まもなく三味線の音が聞こえた。女の長い叫び声が聞こえた。にぎやかな笑い声が聞こえた。そして芸人たちは木賃宿と向かい合った料理屋のお座敷に呼ばれているのだとわかった。三四人の女の声と二三人の男の声とが聞き分けられた。そこがすめばこちらへ流して来るのだろうと待っていた。しかしその酒宴は陽気を越えてばか騒ぎになって行くらしい。女の金切り声が時々稲妻のようにやみ夜に鋭く通った。私は神経をとがらせて、いつまでも戸をあけたままじっとすわっていた。太鼓の音が聞こえる度に胸がほうと明るんだ。  
「ああ、踊子はまだ宴席にすわっていたのだ。すわって太鼓を打っているのだ。」  
太鼓がやむとたまらなかった。雨の音の底に沈み込んでしまった。  
やがて、皆が追っかけっこをしているのか、踊り回っているのか、乱れた足音がしばらく続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は目を光らせた。この静けさが何であるかをやみを通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。  
雨戸を閉じて床にはいっても胸が苦しかった。また湯にはいった。湯を荒々しくかき回した。雨が上がって、月が出た。雨に洗われた秋の夜がさえざえと明るんだ。はだしで湯殿を抜け出して行ったって、どうともできないのだと思った。二時を過ぎていた。 
   
第三章  
あくる朝の九時過ぎに、もう男が私の宿に訪ねて来た。起きたばかりの私は彼を誘って湯に行った。美しく晴れ渡った南伊豆の小春日和で、水かさの増した小川が湯殿の下に暖く日を受けていた。自分にも昨夜の悩ましさが夢のように感じられるのだったが、私は男に言ってみた。  
「昨夜はだいぶ遅くまでにぎやかでしたね。」  
「なあに。ー聞こえましたか。」  
「聞こえましたとも。」  
「この土地の人なんですよ。土地の人はばか騒ぎをするばかりで、どうもおもしろくありません。」  
彼が余りに何げないふうなので、私は黙ってしまった。  
「向こうのお湯にあいつらが来ています。ーほれ、こちらを見つけたと見えて笑っていやがる。」  
彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯のほうを見た。湯気の中に七八人の裸體がぽんやり浮かんでいた。  
ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけ喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭がぬぐわれたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。  
踊子の髪が豊か過ぎるので、十七八に見えていたのだ。その上娘盛りのように装わせてあるので、私はとんでもない思い違いをしていたのだ。  
男といっしょに私の部屋に帰っていると、まもなく上の娘が宿の庭へ来て菊畑を見ていた。踊子が橋を半分ほど渡っていた。四十女が共同湯を出て二人のほうを見た。踊子はきゅっと肩をつぼめながら、しかられるから帰ります、というふうに笑って見せて急ぎ足に引き返した。四十女が橋まで来て声を掛けた。  
「お遊びにいらっしゃいまし。」  
「お遊びにいらっしゃいまし。」  
上の娘も同じことを言って、女たちと帰って行った。男はとうとう夕方まですわり込んでいた。  
夜、紙類を卸して回る行商人と碁を打っていると、宿の庭に突然太鼓の書が聞こえた。私は立ち上がろうとした。  
「流しが釆ました。」  
「ううん、つまらない。あんなもの。さ、さ、あなたの手ですよ。私ここへ打ちました。」と、碁盤をつつきながら紙屋は勝負に夢中だった。私はそわそわしているうちに芸人たちはもう帰り道らしく、男が庭から、  
「今晩は。」と声を掛けた。  
私は廊下に出て手招きした。芸人たちは庭でちょっとささやき合ってから玄関へ回った。男の後ろから娘が三人順々に、  
「今晩は。」と、廊下に手をついて芸者のようなお辞儀をした。碁盤の上では急に私の負け色が見え出した。  
「これじゃしかたがありません。投げですよ。」  
「そんなことがあるもんですか。私のほうが悪いでしょう。どっちにしても細かいです。」  
紙屋は芸人のほうを見向きもせずに、碁盤の目を一つ一つ数えてから、ますます注意深く打って行った。女たちは太鼓や三味線を部屋のすみにかたづけると、将棋盤の上で五目並べを始めた。そのうちに私は勝っていた碁を負けてしまったのだが、紙屋は、  
「いかがですもう一石、もう一石願いましょう。」と、しつっこくせがんだ。しかし私が意味もなく笑っているばかりなので紙屋はあきらめて立ち上がった。  
娘たちが碁盤の近くへ出て来た。  
「今夜はまだこれからどこかへ回るんですか。」  
「回るんですが。」と、男は娘たちのほうを見た。  
「どうしよう。今夜はもうよしにして遊ばせていただくか。」  
「うれしいね。うれしいね。」  
「しかられやしませんか。」  
「なあに、それに歩いたってどうせお客がないんです。」  
そして五目並べなぞをしながら、十二時過ぎまで遊んで行った。  
踊子が帰ったあとは、とても眠れそうもなく頭がさえざえしているので、私は廊下に出て呼んでみた。  
「紙屋さん、紙屋さん。」  
「よう…。」と、六十近い爺さんが部屋から飛び出し、勇み立って言った。  
「今晩は徹夜ですぞ。打ち明かすんですぞ。」  
私もまた非常に好戦的な気持ちだった。 
 
第四章  
その次の朝八時が湯ケ野出立の約束だった。私は共同湯の横で買った鳥打ち帽をかぶり、高等学校の制帽をカバンの奥に押し込んでしまって、街道沿いの木賃宿へ行った。二階の戸障子がすっかりあけ放たれているので、なんの気なしに上がって行くと、芸人たちはまだ床の中にいるのだった。私は面くらって廊下に突っ立っていた。  
私の足もとの寝床で、踊子がまっかになりながら両の掌ではたと顔を押えてしまった。彼女は中の娘と一つの床に寝ていた。昨夜の濃い化粧が残っていた。唇と眦の紅が少しにじんでいた。この情緒的な寝姿が私の胸を染めた。彼女はまぷしそうにくるりと寝返りして、掌で顔を隠したまま蒲団をすべり出ると、廊下にすわり、「昨晩はありがとうどざいました。」と、きれいなお辞儀をして、立ったままの私をまごつかせた。  
男は上の娘と同じ床に寝ていた。それを見るまで私は、二人が夫婦であることをちっとも知らなかったのだった。  
「大変すみませんのですよ。今日立つつもりでしたけれど、今晩お座敷がありそうでございますから、私たちは一日延ばしてみることにいたしました。どうしても今日お立ちになるなら、また下田でお目にかかりますわ。私たちは甲州屋という宿屋にきめておりますから、すぐおわかりになります。」と四十女が寝床から半ば起き上がって言った。私は突っ放されたように感じた。  
「明日にしていただけませんか。おふくろが一日延ばすって承知しないもんですからね。道連れのあるほうがよろしいですよ。明日いっしょに参りましょう。」と男が言うと、四十女も付け加えた。  
「そうなさいましよ。せっかくお連れになっていただいて、こんなわがままを申しちゃすみませんけれどー。明日は槍が降っても立ちます。明後日が旅で死んだ赤ん坊の四十九日でございましてね、四十九日には心ばかりのことを、下田でしてやりたいと前々から思って、その日までに下田へ行けるように旅を急いだのでございますよ。そんなことを申しちゃ失礼ですけれど、不思議なご縁ですもの、明後日はちょっと拝んでやって下さいましな。」  
そこで私は出立を延ばすことにして階下へ降りた。皆が起きて来るのを待ちながら、きたない帳場で宿の者と話していると、男が散歩に誘った。街道を少し南へ行くときれいな橋があった。橋の欄干によりかかって、彼はまた身の上話を始めた。東京である新派役者の群れにしばらく加わっていたとのことだった。今でも時々大島の港で芝居をするのだそうだ。彼らの風呂敷から刀の鞘が足のようにはみだしていたのだったが、お座敷でも芝居のまねをして見せるのだと言った。柳行李の中はその衣裳や鍋茶碗なぞの世帯道具なのである。  
「私は身を誤った果てに落ちぶれてしまいましたが、兄が甲府で立派に家の跡目を立てていてくれます。だから私はまあ入らない体なんです。」  
「私はあなたが長岡温泉の人だとばかり思っていましたよ。」  
「そうでしたか。あの上の娘が女房ですよ。あなたより一つ下、十九でしてね、旅の空で二度目の子供を早産しちまって、子供は一週間ほどして息が絶えるし、女房はまだ体がしっかりしないんです。あの婆さんは女房の実のおふくろなんです。踊子は私の実の妹ですが。」  
「へえ。十四になる妹があるっていうのはー。」  
「あいつですよ。妹にだけはこんなことをさせたくないと思いつめていますが、そこにはまたいろんな事情がありましてね。」  
それから、自分が栄吉、女房が千代子、妹が薫ということなぞを教えてくれた。もう一人の百合子という十七の娘だけが大島生まれで雇いだとのことだった。栄吉はひどく感傷的になって泣き出しそうな顔をしながら河瀬を見つめていた。  
引き返して来ると、白粉を洗い落とした踊子が道ばたにうずくまって犬の頭をなでていた。私は自分の宿に帰ろうとして言った。  
「遊びにいらっしゃい」  
「ええ。でも一人ではー。」  
「だから兄さんと。」  
「すぐに行きます。」  
まもなく栄吉が私の宿へ来た。  
「皆は?」  
「女どもはおふくろがやかましいので。」  
しかし、二人がしばらく五目並べをやっていると、女たちが橋を渡ってどんどん二階へ上がって来た。いつものようにていねいなお辞儀をして廊下にすわったままためらっていたが、一番に千代子が立ち上がった。  
「これは私の部屋よ。さあどうぞご遠慮なしにお通り下さい。」  
一時間ほど遊んで芸人たちはこの宿の内湯へ行った。いっしょにはいろうとしきりに誘われたが、若い女が三人もいるので、私はあとから行くとごまかしてしまった。すると踊子が一人すぐに上がって来た。  
「肩を流してあげますからいらっしゃいませ、って姉さんが。」と、千代子の言葉を伝えた。  
湯には行かずに、私は踊子と五目を並べた。彼女は不思議に強かった。勝継をやると、栄吉や他の女はぞうさなく負けるのだった。五目ではたいていの人に勝つ私が力いっぱいだった。わざと甘い石を打ってやらなくともいいのが私に気持ちよかった。二人きりだから、初めのうち彼女は遠くのほうから手を伸ばして石をおろしていたが、だんだんわれを忘れて一心に碁盤の上へおおいかぶさって来た。不自然なほど美しい黒髪が私の胸に触れそうになった。突然、ぱっと紅くなって、「ごめんなさい、しかられる。」と石を投げ出したまま飛び出して行った。共同湯の前におふくろが立っていたのである。千代子と百合子もあわてて湯から上がると、二階へは上がって来ずに逃げて帰った。  
この日も、栄吉は朝から夕方まで私の宿に遊んでいた。純朴で親切らしい宿のおかみさんが、あんな者にご飯を出すのはもったいないと言って、私に忠告した。  
夜、私が木賃宿に出向いて行くと、踊子はおふくろに三味線を習っているところだった。私を見るとやめてしまったが、おふくろの言葉でまた三味線を抱き上げた。歌う声が少し高くなる度に、おふくろが言った。  
「声を出しちゃいけないって言うのに。」  
栄吉は向かい側の料理屋の二階座敷に呼ばれて何かうなっているのが、こちらから見えた。  
「あれはなんです。」  
「あれー謡(うたい)ですよ。」  
「謡は変だな。」  
「八百屋だから何をやり出すかわかりゃしません。」  
そこへこの木賃宿の間を借りて鳥屋をしているという四十前後の男が襖をあけて、ご馳走をすると娘たちを呼んだ。踊子は百合子といっしょに箸を持って隣りの間へ行き、鳥屋が食べ荒したあとの鳥鍋をつついていた。こちらの部屋へいっしょに立って来る途中で、鳥屋が踊子の肩を軽くたたいた。おふくろが恐ろしい顔をした。  
「こら。この子にさわっておくれでないよ。生娘なんだからね。」  
踊子はおじさんおじさんと言いながら、鳥屋に「水戸黄門漫遊記」を読んでくれとたのんだ。しかし鳥屋はすぐに立って行った。続きを読んでくれと私に直接言えないので、おふくろからたのんでほしいようなことを、踊子がしきりに言った。私は一つの期待を持って講談本を取り上げた。はたして踊子がするすると近寄って来た。私が読み出すと、彼女は私の肩にさわるほどに顔を寄せて真剣な表情をしながら、眼をきらきら輝かせて一心に私の顔をみつめ、またたき一つしなかった。これは彼女が本を読んでもらう時の癖らしかった。さっきも鳥屋とほとんど顔を重ねていた。私はそれを見ていたのだった。この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子のいちばん美しい持ちものだった二重瞼の線が言いようなくきれいだった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うという言葉が彼女にだけほんとうだった。  
まもなく、料理屋の女中が踊子を迎えに来た。踊子は衣裳をつけて私に言った。  
「すぐもどって来ますから、待っていて続きを読んで下さいね。」  
それから廊下に出て手をついた。  
「行って参ります。」  
「決して歌うんじゃないよ。」とおふくろが言うと、彼女は太鼓をさげて軽くうなずいた。おふくろは私を振り向いた。  
「今ちょうど声変わりなんですからー。」  
踊子は料理屋の二階にきちんとすわって太鼓を打っていた。その後姿が隣り座敷のことのように見えた。太鼓の音は私の心を晴れやかに踊らせた。  
「太鼓がはいるとお座敷が浮き立ちますね。」とおふくろも向こうを見た。  
千代子も百合子も同じ座敷へ行った。  
一時間ほどすると四人いっしょに帰って来た。  
「これだけー。」と、踊子は握りこぶしからおふくろの掌へ五十銭銀貨をざらざら落とした。私はまたしばらく「水戸黄門漫遊記」を口読した。彼らはまた旅で死んだ子供の話をした。水のように透き通った赤ん坊が生まれたのだそうである。泣く力もなかったが、それでも一週間息があったそうである。  
好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は、彼らの胸にもしみ込んで行くらしかった。私はいつの間にか大島の彼らの家へ行くことにきまってしまっていた。  
「爺さんのいる家ならいいね。あすこなら広いし、爺さんを追い出しとけば静かだから、いつまでいなさってもいいし、勉強もおできなさるし。」なぞと彼ら同士で話し合っては私に言った。  
「小さい家を二つ持つておりましてね、山のほうの家はあいているようなものですもの。」  
また正月には私が手伝ってやって波浮の港で皆が芝居をすることになっていた。  
彼らの旅心は、最初私が考えていたほどせちがらいものでなく、野のにおいを失わないのんきなものであることも、私にわかって来た。親子兄弟であるだけに、それぞれ肉親らしい愛情でつながり合っていることも感じられた。雇い女の百合子だけは、はにかみ盛りだからでもあるが、いつも私の前でむっつりしていた。  
夜半を過ぎてから私は木賃宿を出た。娘たちが送って出て、踊子が下駄を直してくれた。踊子は門口から首を出して、明るい南の空を眺めた。  
「ああ、お月さま。ー明日は下田、うれしいな。赤ん坊の四十九日をして、おっかさんに櫛を買ってもらって、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行って下さいましね。」  
下田の港は、伊豆相模の温泉場なぞを流して歩く旅芸人が、旅の空での故郷としてなつかしがるような空気の漂った町なのである。 
 
第五章  
芸人たちはそれぞれに天城を越えた時と同じ荷物を持った。おふくろの腕の輪に小犬が前足を載せて旅慣れた顔をしていた。湯ヶ野を出はずれると、また山にはいった。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私たちは朝日のほうを眺めた。河津川の行く手に河津の浜が明るく開けていた。  
「あれが大島なんですね。」  
「あんなに大きく見えるんですもの、いらっしゃいましね。」と踊子が言った。  
秋空が晴れ過ぎたためか、日に近い海は春のようにかすんでいた。ここから下田まで五里歩くのだった。しばらくの間海が見え隠れしていた。千代子はのんびりと歌を歌い出した。  
途中で少し険しいが二十町ばかり近い山越えの間道を行くか、楽な本街道を行くかと言われた時に、私はもちろん近路を選んだ。  
落葉ですべりそうな胸先き上りの木下路だった。息が苦しいものだから、かえってやけ半分に私は膝頭を掌で突き伸ばすようにして足を早めた。見る見るうちに一行は遅れてしまって、話し声だけが木の中から聞こえるようになった。踊子が一人裾を高く掲げて、とっとっと私について来るのだった。一間ほどうしろを歩いて、その間隔を縮めようとも伸ばそうともしなかった。私が振り返って話しかけると、驚いたようにほほえみながら立ち止まって返事をする。踊子が話しかけた時に、追いつかせるつもりで待っていると、彼女はやはり足を止めてしまって、私が歩き出すまで歩かない。道が折れ曲がって一層険しくなるあたりからますます足を急がせると、踊子は相変わらず一間うしろを一心に登って来る。山は静かだった。ほかの者たちはずっと遅れて話し声も聞こえなくなっていた。  
「東京のどこに家があります。」  
「いいや、学校の寄宿舎にいるんです。」  
「私も東京は知ってる。お花見時分に踊りに行ってー。小さい時でなんにも覚えていません。」  
それからまた踊子は、  
「お父さんありますか。」とか、  
「甲府へ行ったことありますか。」とか、ぽつりぽつりいろんなことを聞いた。下田へ着けば活動を見ることや、死んだ赤ん坊のことなぞを話した。  
山の頂上へ出た。踊子は枯れ草の中の腰掛けに太鼓を降ろすと手巾(ハンカチ)で汗をふいた。そして自分の足のほこりを払おうとしたが、ふと私の足もとにしゃがんで袴の裾を払ってくれた。私が急に身を引いたものだから、踊子はこつんと膝を落とした。かがんだまま私の身の回りをはたいて回ってから、掲げていた裾をおろして、大きい息をして立っている私に、「お掛けなさいまし。」と言った。  
腰掛けのすぐ横へ小鳥の群が渡って来た。鳥がとまる枝の枯れ葉がかさかさ鳴るほど静かだった。  
「どうしてあんなに早くお歩きになりますの。」  
踊子は暑そうだった。私が指でべんべんと太鼓をたたくと小鳥が飛び立った。  
「ああ水が飲みたい。」  
「見て来ましょうね。」  
しかし、踊子はまもなく黄ばんだ雑木の間からむなしく帰って来た。  
「大島にいる時は何をしているんです。」  
すると踊子は唐突に女の名前を二つ三つあげて、私に見当のつかない話を始めた。大島ではなくて甲府の話らしかった。尋常二年まで通った小学校の友だちのことらしかった。それを思い出すままに話すのだった。  
十分ほど待つと若い三人が項上にたどりついた。おふくろはそれからまた十分遅れて着いた。  
下りは私と栄吉とがわざと遅れてゆっくり話しながら出発した。二町ばかり歩くと、下から踊子が走って来た。  
「この下に泉があるんです。大急ぎでいらして下さいって。飲まずに待っているから。」  
水と聞いて、私は走った。木陰の岩の間から清水がわいていた。泉のぐるりに女たちが立っていた。  
「さあ、お先きにお飲みなさいまし。手を入れると濁るし、女のあとはきたないだろうと思ってー。」とおふくろが言った。  
私は冷たい水を手にすくって飲んだ。女たちは容易にそこを離れなかった。手拭をしぼって汗を落としたりした。  
その山をおりて下田街道に出ると、炭焼きの煙が幾つも見えた。路傍の材木に腰をおろして休んだ。踊子は道にしゃがみながら、桃色の櫛で犬のむく毛をすいてやっていた。  
「歯が折れるじゃないか。」とおふくろがたしなめた。  
「いいの。下田で新しいのを買うもの。」  
湯ヶ野にいる時から私は、この前髪にさした櫛をもらって行くつもりだったので、犬の毛をすくのはいけないと思った。  
道の向こう側にたくさんある篠竹の束を見て、杖にちょうどいいなぞと話しながら、私と栄吉とは一足先きに立った。踊子が走って追っかけて来た。自分の背より長い太い竹を持っていた。  
「どうするんだ。」と栄吉が聞くと、ちょっとまごつきながら私に竹をつきつけた。  
「杖にあげます。一番太いのを抜いて来た。」  
「だめだよ。太いのは盗んだとすぐわかって、見られると悪いじゃないか。返して来い。」  
踊子は竹束のところまで引き返すと、また走って来た。今度は中指くらいの太さの竹を私にくれた。そして、田の畦に背中を打ちつけるように倒れかかって、苦しそうな息をしながら女たちを待っていた。  
私と栄吉とは絶えず五六間先を歩いていた。  
「それは、抜いて金歯を入れさえすればなんでもないわ。」と、踊子の声がふと私の耳にはいったので振り返ってみると、踊子は千代子と並んで歩き、おふくろと百合子とがそれに少し遅れていた。私の振り返ったのに気づかないらしく千代子が言った。  
「それはそう。そう知らしてあげたらどう。」  
私のうわさらしい。千代子が私の歯並びの悪いことを言ったので、踊子が金歯を持ち出したのだろう。顔の話らしいが、それが苦にもならないし、聞き耳を立てる気にもならないほどに、私は親しい気持ちになっているのだった。しばらく低い声が続いてから踊子の言うのか聞こえた。  
「いい人ね。」  
「それはそう、いい人らしい。」  
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」  
この物言いは単純であけっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だとすなおに感じることができた。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏がかすかに痛んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性でゆがんでいるときびしい反省を重ね、その息苦しいゆううつに堪えきれないで伊豆の旅に出て来ているのだった。  
だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなくありがたいのだった。山々の明るいのは下田の海が近づいたからだった。私はさっきの竹の杖を振り回しながら秋草の頭を切った。  
途中、ところどころの村の入口に立て札があった。  
ー物ごい旅芸人村に入るべからず。 
 
第六章  
甲州屋という木賃宿は下田の北口をはいるとすぐだった。私は芸人たちのあとから屋根裏のような二階へ通った。天井がなく、街道に向かった窓ぎわにすわると、屋根裏が頭につかえるのだった。  
「肩は痛くないかい。」と、おふくろは踊子に幾度もだめを押していた。  
「手は痛くないかい。」  
踊子は太鼓を打つ時の手まねをしてみた。  
「痛くない。打てるね、打てるね。」  
「まあよかったね。」  
私は太鼓をさげてみた。  
「おや、重いんだな。」  
「それはあなたの思っているより重いわ。あなたのカバンより重いわ。」と踊子が笑った。  
芸人たちは同じ宿の人々とにぎやかにあいさつをかわしていた。やはり芸人や香具師(やし)のような連中ばかりだった。下田の港はこんな渡り鳥の巣であるらしかった。踊子はちょこちょこ部屋へはいって来た宿の子供に銅貨をやっていた。私が甲州屋を出ようとすると、踊子が玄関に先回りしていて下駄をそろえてくれながら、  
「活動につれて行って下さいね。」と、またひとり言のようにつぶやいた。  
無頼漢のような男に途中まで道を案内してもらって、私と栄吉とは前町長が主人だという宿屋へ行った。湯にはいって、栄吉といっしょに新しい魚の昼食を食った。  
「これで明日の法事に花でも買って供えて下さい。」  
そう言ってわずかばかりの包金を栄吉に持たせて帰した。私は明日の朝の船で東京に帰らなければならないのだった。旅費がもうなくなっているのだ。学校の都合があると言ったので芸人たちも強いて止めることはできなかった。  
昼飯から三時間とたたないうちに夕飯をすませて、私は一人下田の北へ橋を渡った。下田富士によじ登って港を眺めた。帰りに甲州屋へ寄ってみると、芸人たちは鳥鍋で飯を食っているところだった。  
「一口でも召し上がって下さいませんか。女が箸を入れてきたないけれども、笑い話の種になりますよ。」と、おふくろは行李から茶碗と箸を出して、百合子に洗って来させた。  
明日が赤ん坊の四十九日だから、せめてもう二日だけ出立を延ばしてくれと、またしても皆が言ったが、私は学校を楯に取って承知しなかった。おふくろは繰り返し繰り返し言った。  
「それじゃ冬休みには皆で船まで迎えに行きますよ。日を知らせて下さいましね。お待ちしておりますよ。宿屋へなんぞいらしちゃいやですよ、船まで迎えに行きますよ。」  
部屋に千代子と百合子しかいなくなった時活動に誘うと、千代子は腹を押さえてみせて、  
「体が悪いんですもの、あんなに歩くと弱ってしまって。」と、あおい顔でぐったりしていた。百合子はかたくなってうつむいてしまった。踊子は階下で宿の子供と遊んでいた。私を見るとおふくろにすがりついて活動に行かせてくれとせがんでいたが、顔を失ったようにぼんやり私のところにもどって下駄を直してくれた。  
「なんだって。一人で連れて行ってもらったらいいじゃないか。」と、栄吉が話し込んだけれども、おふくろが承知しないらしかった。なぜ一人ではいけないのか、私は実に不思議だった。玄関を出ようとすると踊子は犬の頭をなでていた。私が言葉を掛けかねたほどによそよそしいふうだった。顔を上げて私を見る気力もなさそうだった。  
私は一人で活動に行った。女弁士が豆洋燈で説明を読んでいた。すぐに出て宿へ帰った。窓敷居に肘をついて、いつまでも夜の町を眺めていた。暗い町だった。遠くから絶えずかすかに太鼓の音が聞こえて来るような気がした。わけもなく涙がぽたぽた落ちた。 
 
第七章  
出立の朝、七時に飯を食っていると、栄吉が道から私を呼んだ。黒紋附の羽織を着込んでいる。私を送るための礼装らしい。女たちの姿が見えない。私はすばやく寂しさを感じた。栄吉が部屋へ上がって来て言った。  
「皆もお送りしたいのですが、昨夜おそく寝て起きられないので失礼させていただきました。冬はお待ちしているから是非と申しておりました。」  
町は秋の朝風が冷たかった。栄吉は途中で敷島四箱と柿とカオールという口中清涼剤とを買ってくれた。  
「妹の名が薫ですから。」と、かすかに笑いながら言った。  
「船の中で蜜柑はよくありませんが、柿は船酔いにいいくらいですから食べられます。」  
「これをあげましょうか。」  
私は鳥打ち帽を脱いで栄吉の頭にかぶせてやった。そしてカバンの中から学校の制帽を出してしわを伸ばしながら、二人で笑った。  
乗船場に近づくと、海ぎわにうずくまっている踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。そばに行くまで彼女はじっとしていた。黙って頭を下げた。昨夜のままの化粧が私を一層感情的にした。眦(まなじり)の紅がおこっているかのような顔に幼いりりしさを与えていた。栄吉が言った。  
「ほかの者も来るのか。」  
踊子は頭を振った。  
「皆まだ寝ているのか。」  
踊子はうなずいた。  
栄吉が船の切符とはしけ券とを買いに行った間に、私はいろいろ話しかけて見たが、踊子は掘割が海に入るところをじっと見おろしたまま一言も言わなかった。私の言葉が終わらない先き終わらない先きに、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。  
そこへ、「お婆さん、この人がいいや。」と、土方風の男が私に近づいて来た。  
「学生さん、東京へ行きなさるのだね。あんたを見込んで頼むのだがね、この婆さんを東京へ連れてってくんねえか。かわいそうな婆さんなんだ。伜が蓮台寺の銀山に働いていたんだがね、今度の流行性感冒てやつで伜も嫁も死んじまったんだ。こんな孫が三人も残っちまったんだ。どうにもしょうがねえから、わしらが相談して国へ帰してやるところなんだ。国は水戸だがね、婆さん何もわからねえんだから、霊岸島へ着いたら、上野の駅へ行く電車に乗せてやってくんな。めんどうだろうがな、わしらが手を合わして頼みてえ。まあこのありさまを見てやってくれりゃ、かわいそうだと思いなさるだろう。」  
ぽかんと立っている婆さんの背には、乳飲み子がくくりつけてあった。下が三つ上が五つくらいの二人の女の子が左右の手につかまっていた。きたない風呂敷包みから大きい握り飯と梅干とが見えていた。五六人の鉱夫が婆さんをいたわっていた。私は婆さんの世話を快く引き受けた。  
「頼みましたぞ。」  
「ありがてえ。わしらが水戸まで送らにゃならねえんだが、そうもできねえでな。」なぞと鉱夫たちはそれぞれ私にあいさつした。  
はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子につかまろうとして振り返った時、さようならを言おうとしたが、それもよして、もう一ぺんうなずいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。  
汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干にもたれて沖の大島を一心に眺めていた。踊子に別れたのは遠い昔であるような気持ちだった。婆さんはどうしたかと船室をのぞいてみると、もう人々が車座に取り囲んで、いろいろと慰めているらしかった。私は安心して、その隣りの船室にはいった。相模灘は波が高かった。すわっていると、時々左右に倒れた。船員が小さい金だらいを配って回った。私はカバンを枕にして横たわった。頭がからっぽで時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷たいのでカバンを裏返しにしたほどだった。私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった。少し話してから彼は言った。  
「何かご不幸でもおありになったのですか。」  
「いいえ、今人に別れて来たんです。」  
私は非常にすなおに言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただすがすがしい満足の中に静かに眠っているようだった。  
海はいつのまに暮れたのかも知らずにいたが、網代や熱海には灯があった。膚が寒く腹がすいた。少年が竹の皮包を開いてくれた。私はそれが人の物であることを忘れたかのように海苔巻のすしなぞを食った。そして少年の学生マントの中にもぐり込んだ。私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。明日の朝早く婆さんを上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極あたりまえのことだと思っていた。何もかもが一つに溶け合って感じられた。  
船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮のにおいが強くなった。まっくらななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出任せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、そのあとには何も残らないような甘い快さだった。 
 
 
伊豆の踊子の装幀

 

「感情装飾」と同じく、「伊豆の踊子」も装幀を吉田謙吉君に頼んだ。すると吉田君はわざわざ伊豆の湯ヶ島温泉まで来てくれると言うのである。装幀の材料を集めに長途七時間の山奥へ画家が来てくれるなんて実に珍らしいことだ。それまでにして伊豆の感じで化粧してくれたのが「伊豆の踊子」の本。  
吉田君は全く忙しかった。二月二十五日は新劇協会の第二回公演の初日、池谷信三郎君作「三月三十二日」の装置を同君が受け持っていたので、その初日の幕が上がるのを見届けなければならない。それでその夜はホテルの演芸場からの帰りが遅かったのだが、翌る日の朝八時の汽車で来てくれた。雨の日だった。  
吉田君は会うと早速、昨夜演芸場で落ち合った私の友人横光利一君や片岡鉄兵君の厳しい言葉を伝えた。速かに東京へ帰るべし、と言うのである。私も東京へは帰りたい。しかしながら東京の友人諸君がややもすれば伊豆には魂のなにものもないかのように私を叱るのは些か残念である。  
雨に着いた吉田君だが、直ぐと晴れ間を待って散歩に出た。夕闇前である。世古の滝の方へ行った。湯川屋に病を養っている「青空」の梶井基次郎君のところへ寄った。吉田君も前に奥さんを連れて湯川屋へ二三日泊ったことがあると言う。夜になると梶井君が吉田君の望遠鏡を見に来た。吉田君が「青空」の表紙に描いた望遠鏡である。  
翌る二十七日の朝ー私の朝は正午に近いー目覚めてみると、吉田君は早くからスケッチに出て行った後だった。午後は自動車の出る間際まで装幀の絵を描いていた。自動車は四時半である。東京へ着くのが夜の十二時近くになる。しかも吉田君は明日の八時から早稲田の建築科の授業に出なければならぬと言う。試験間近かの学生に気の毒だから休めないと言う。その上、今晩中に絵を仕上げて、明日学校へ行く途中金星堂へ持って行かなければならないと言う。  
さて出来上った本を見ると、やっぱり吉田君に来て貰っただけのことはあった。「伊豆の踊子」は湯ヶ島温泉の着物を着ている。これはあれで、あれはこれだ、私達は装幀の絵の中のいろんな物と実物とを一々思い合せて騒ぎ立てた。こんないい私の湯本館生活の記念品がまたとあろうか。  
私の湯本館は長い。小説「伊豆の踊子」の中の私は二十で一高の学生である。九年前である。例えば「伊豆の踊子」の箱の右の方に描かれているニッケルの歯磨入れは、登志ちゃんと言う宿の女の子の持物だそうだ。その子は今度尋常四年になったのだが、私が初めて来た時は二つか三つ、梯子段をよっちらよっちら這い上って二階へなかなか上れなかったのを見覚えている。  
十年ばかりの間、私が湯ヶ島へ来なかった年はない。殊にこの二三年は伊豆の人間と言ってもいい程である。一昨年の初夏から昨年の四月まではずうっと滞在し、今また春が回って来たと言うのに去年の秋から相変らず湯本館住いである。「伊豆の踊子」の出版届書にも著作者の住所は静岡県田方郡上狩野村字湯ヶ島と書いた。私の第一第二創作集中の作品に就て言っても、「感情装飾」の掌の小説三十五のうち三十篇、「伊豆の踊子」の十篇のうち四篇を湯本館で書いた。修善寺駅へ下りるともう見知りの顔がある。湯ヶ島や吉奈の顔なじみは数え切れない。去年の春、私が引上げる時宿のおばあさんは一人息子を遠い旅にやるようだと涙を流した。しかし私は秋にまた帰って来た。  
そして私はこの宿でどれだけ多くの人々に心親しく触れたことであろう。  
京都の若い女の人が、東京の知人と一緒に落合楼へ来た。私の女房がその人達と天城倶楽部へ安来節を聞きに行った。彼女と彼女とは初対面である。京都の女の人は火鉢に被せた彼のマントの下で、私の女房の手をじいっと四五時間も握り続けていた。  
もう一つ、私は十何度或は何十度いつも多少の生活の痛みを抱いて、この天城の山麓に来たのであった。
 
川端康成と「伊豆の踊り子」

 

略年譜  
一八九九年(明治三十二年) 大阪市北区此花町に、父川端栄吉、母ゲンの長男として生まれる。  
一九二○年 東京帝国大学文学部英文科に入学し、学生時代に今東光らと第六次「新思潮」発刊する。  
一九二四年 卒業後、横光利一と「文芸時代」を創刊。「新感覚派」とよばれる。  
一九二六年 (27歳)『伊豆の踊子』を発表  
一九三七年 『雪国』を刊行  
一九四八年 (49歳)日本ペンクラブ第四代会長に就任  
一九六八年 ノーベル文学賞を受賞。  
一九七二年 (72歳)仕事部屋にてガス自殺。鎌倉霊園に埋葬される。
幼年時代  
氏の年譜で特筆すべきは、幼年時代に降りかかる身内の死。  
二歳のときに父を、三歳の時には、母を失ってしまい、姉芳子とふたりきりになってしまいます。氏は、大阪府三島郡豊里村の母の実家に引き取られ、姉は伯母の家に預けられます。氏が七歳のとき祖母が死に、十歳のときに生き別れになった姉が亡くなってしまいます。以後祖父と二人暮しを続けましたが、十六歳のとき祖父が亡くなって、とうとう天涯孤独な孤児となってしまいます。 
孤児根性  
氏のいう「孤児根性」とは、世間一般ですぐに想像される「性格上のひねくれや陰気さ」ではなくいようです。  
氏は悲しみ方を知らない幼年時代から数多くの「身内の死(血縁の強い人たちから)」に接し、彼独特の「生死観」を抱くようになります。  
氏の初期の小説に『葬式の名人』があり、その中で  
「・・・・・・生前私に縁遠い人の葬式であればあるだけ、私は自分の記憶と連れ立って墓場に行き、記憶にむかって合掌しながら焼香するような気持ちになる。だから少年の私が見も知らぬ人の葬式にその場にふさわしい表情をしていたにしてもいつわりでなく、身に負うている寂しさの機を得ての表われである。」  
この「身に負うている寂しさ」が、言わば「孤児の感情」なのです。それは後々までも、氏の文学の一つの根となっています。 
「旅情が身についた」  
修善寺の「湯川橋」で踊子たちを遭い、「私」は「旅情が身についた」と感じます。  
彼は自分自身の不幸な生い立ちによってゆがんだ人間になったという「自己嫌悪」と、そのような境遇に甘える「自己憐憫」という二つの「精神的疾患」の治癒を願って伊豆の旅に出かけます。その旅のはじめに踊子たちと出会います。「孤児根性」から脱け出すことができるかもしれないという明るい喜びの予感が、踊子たちを振り返るたびに沸々とこみ上げてきたのでしょう。  
『湯ヶ島での思ひ出』でも、旅芸人との出会いのくだりの書出しに、同じ言葉が使われています。  
「温泉場から温泉場へ流して歩く旅芸人は年と共に減ってゆくようで、私の湯ヶ島の思い出は、この旅芸人で始まる。初めての伊豆の旅は、美しい踊子が彗星で修善寺から下田までの風物がその尾のように、私の記憶に光り流れている。一高の二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してから初めての旅らしい旅であった。修善寺に一夜泊まって、下田街道を湯ヶ島に歩く途中、湯川橋を過ぎたあたりで、三人の娘旅芸人に行き遇った。修善寺に行くのである。太鼓をさげた踊子が遠くから目立っていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が身についたと思った。」 
「いい人はいいね」  
「私」は「自分がいい人に見えることは、言いようなくありがたい」と思います。  
もうすこし詳しく「私」の心情を「湯ヶ島の思ひ出」で述べています。  
「旅情と、また大阪平野の田舎しか知らない私に、伊豆の風光とが、私の心をゆるめた。そして伊豆の踊子に会った。いわゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野の匂いがある正直な好意を私は見せられた。いい人だと、踊子が言って、兄嫁が肯(うべな)った一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかった。いい人かと思った。そうだ、いい人だと自分に答えた。平俗な意味での、いい人という言葉が、私には明りであった。湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道連れになれたと思う、そうなれたことがうれしかった。」 
物ごい旅芸人村に入るべからず  
小説中には、旅芸人が卑しまれた職業であることを示す表現がちりばめられています。  
「お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」という天城峠の茶店の婆さん。  
「あんな者にご飯を出すのはもったいない」という宿のおかみさん。  
そして「物ごい旅芸人村に入るべからず」という立て札。  
旅芸人に対する世間の偏見が強ければつよいほど、「私」がいかに「いい人」であるかが際立ってきます。  
しかし「私」は声高かに差別に対して反論したりしません。  
山本健吉氏の評論によると、  
「そのような立て札は、本当は村々の貧しさをも物語っているが、その反面の真実はここでは切り棄てられる。村々から拒まれた「物乞い旅芸人」の世界のあわれさが、ここでは抒情の種になる。」 
「いいえ、今人に別れて来たんです。」  
「私」は船の中で、同室の少年のマントの中にもぐり込んで泣きます。  
氏は「私が二十歳の時、旅芸人と五、六日の旅をして、純情になり、別れて涙を流したのも、あながち踊子に対する感傷ばかりではなかった。」と言っています。  
「私」は、自分をゆがんだ人間、小さな殻に閉じ籠ったいじけた人間と自己嫌悪すると同時し、少年らしく甘えている感傷を抱えていました。  
そんな「私」は、伊豆の旅で人の好意にふれ、「こんな人間の私に対しても」と、「ありがたい」と感じます。  
「感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。長い病人でいたほどでもないと思うようになったのである。これは私によろこびであった。私がそれを気づいたのは、人々が私に示してくれた好意と信頼とのお蔭である。これはどうしてと私は自分をかえりみた。それと同時に私は暗いところを脱出したことになったのである。私は前よりも自由にすなおに歩ける広場へ出た。」と氏は述懐しています。  
「下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば夢のようである。幼いことである。」(「湯ヶ島の思ひ出」より) 
「伊豆の踊子」の創作動機  
氏が「伊豆の踊子」を書いたのは大正十五年ですが、その原型となっているのは大正十一年に書かれた「湯ヶ島の思ひ出」です。  
その内容の大部分は、茨城中学の寄宿舎で同室していた清野少年に対する同性愛の思い出で占められ、その残りが踊子との思い出です。  
大正十一年は氏にとってどのような年だったのでしょうか。  
その前年、氏が二十三歳のとき、あるカフェの女給をしていた十六歳の少女と恋愛をし、菊池寛の好意で家も生活費も手に入れ、まさに同棲生活の準備の整った直前に、相手の不可解な心変りで、あっけなく、わけも分らず別れてしまいます。『湯ヶ島での思い出』を書いた頃は、その恋愛が破局に到った直後の、心にもっとも打撃を負っていた時で少年時代の同性愛の相手や、ほのぼのとした愛情を掻き立てた伊豆の踊子を思い出すことで、心の傷をいやそうとしているようです。  
氏は『全集』第二巻のあとがきに以下のとおり書いています。  
「『伊豆の踊子』でも『雪国』でも、私は愛惰に対する感謝を持って書いている。『伊豆の踊子』はそれがすなおに現われている。『雪国』では少し深く入って、つらく現れている。」  
と、作者のモチーフの根底に、他者への無私の感謝をひそめていたことを、作者自身告白しています。 
「伊豆の踊子」の作者であること  
作者は次のように述べています。  
「伊豆の踊子」の作者であることを、幸運と思うのが素直であるとは、よくわかっている。それになにか言うのはひがごころであろう。  
「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。私が伊豆に旅をし、旅芸人が伊豆に旅をしていて、そしてめぐりあった。このめぐりあいが必然であったか、偶然であったか、この問いかけは人間の刻々の生存に問いかけるのにひとしく、人間の一生に問いかけるのにひとしく、私の答えは定まらない。偶然であって、必然であったとしてもいい。しかし、私が「伊豆の踊子」を書いたことによって、そのめぐりあいが必然のことであったかのような思いは、私に強まって来てはいないだろうか。「伊豆の踊子」の作者とされ続けての四十年が、私にそういう風に働きかけてはいないだろうか。  
「伊豆の踊子」は私には稀なモデル小説である。「雪国」もモデル小説とされているようで、作者がそれを頭から否定するのはまちがいであろうが、私はモデル小説とは思っていないところがある。少くとも「伊豆の踊子」のようなモデル小説ではない。  
「伊豆の踊子」では「雪国」ほど、モデルにたいしておのれをむなしゅうはしていない。  
「伊豆の踊子」よりもなおモデルに忠実な私の小説に「名人」がある。これこそ私が見たまま感じたままの忠実な写生にもとづいている。「名人」では作者は首尾観察者、記録者であって、おのれをまったくむなしゅうしているかのようである。したがって「名人」の「私」を私として論じた評家はほとんどない。それを最も論じてくれたのは胡蘭成氏であろうか。「一中国人が川端文学をかう読む」と題する、原稿紙二十四枚におよぶ随想をおくられたのは、三月ほど前であった。「伊豆の踊子」、「名人」、「雪国」にも言及されているが、作者の「私」がおのれをむなしゅうすることに、東洋の風を見るという。  
しかし、私は胡蘭成氏の見解にあまえるわけではなく、小説家としての私の資質に疑いは絶えないのであって、「伊豆の踊子」、「雪国」などの作品の運のよさの、羞恥、苦渋にさいなまれがちである。齢七十になって、四十年前の「伊豆の踊子」を断ち切ろうとしてもゆるされないのみか、この小篇からいまだにすくなからぬ恩恵を受けつづけていることは否めない。見知らぬ読者から、「伊豆の踊子」の踊子の墓はどこにあるかと問われたりすると、天城越えの道はすでに長年「伊豆の踊子」の歌枕になっていることも思われて、よろこびやなぐさめとは逆の感情に沈みこむのは、私がなにかの恩を知らないでさからうことなのだろうか。 
「山の音」  
川端康成の代表作といえば「雪国」の名を挙げる人が殆どだと思うが、中には「山の音」をあげる人もいる。また、この二つの甲乙つけがたいことを評して、「雪国」が川端の代表作とすれば、「山の音」の方は戦後日本文学の最高傑作だなどという人もいる。この二つの言説は矛盾しないので、決して苦しまぎれの出まかせとは聞こえない。  
筆者は「山の音」も傑作には違いないと思うが、「雪国」の方がもっとすぐれた作品だと思う。「山の音」は戦後の作品で、当然「雪国」より後に書かれたものだが、その「雪国」より退化したと思わせるところがある。というより、雪国以前の川端の小説スタイルに逆戻りしているところがある。  
川端の小説の特徴は基本的には、主人公の目に映る世界をそのままに淡々と語るというものであり、したがって単眼的な叙述スタイルを取っている。また、主人公以外の人物は主体性に欠けていて、自己というものを持っていないように描かれている。主人公にとっては、人間も陶器の茶碗も大して変りはない。どちらも、主人公にとっては物としての存在で、精神性などひとかけらも持っていない。物とはすなわち感覚の対象であって、一方的に見たり、触ったり、匂いを嗅いだり、要するに知性とはかかわりのない存在だ。川端の小説とは、精神を持たない「物」のような存在が、主人公の感覚を刺激する、その刺激のありさまをもったいぶって陳述している、といったようなものだといえる。  
ところが、「雪国」の場合には、主人公以外に精神性をもった人物が登場する。駒子である。小説の中の駒子は、主人公の島村によって一方的に見られる存在ではない。自分からも主人公を見返している。つまり主人公と対等の存在として、小説の中でピチピチと動き回っている。その結果小説の語り方は複眼的なものになる。複眼的になるということは、小説の世界に奥行きが出て来るということだ。我々一人一人の人間の目だって、片目だけでは、世の中に奥行きがあるようには見えない、二つ揃って初めて、奥行きがあるように見える。それと同じように、小説の語り方も複眼的になることによって、物語に奥行き感が生じるとともに、幅も広がるのだといえる。  
ところが、「山の音」は、「雪国」で成功した複眼的な語り方を放棄して、「雪国」以前の単眼的な語り方に戻ってしまっている。そこが筆者の「退化」と断じた所以である。単眼的な語り口に戻ることで、物語の広がりや奥行きが損なわれた。物語の良し悪しは必ずしも広がりや奥行きだけで決まるものではないが、折角「雪国」で成功した複眼的な語り方を捨ててしまうというのは、少し勿体ないところがある。  
語られている内容は何とも情けない事柄である。筆者はこの小説を次に述べるような理由から背徳小説と呼びたいが、もしもこんな背徳小説が戦後日本文学の最高傑作だなどということになると、戦後の日本文学は随分とケチなものに見えてくるはずだ。  
この小説は、ある家族の日常を、家長である主人公の男の目を通して描いたものである。男は、妻と息子夫婦と暮らしている。男は妻に対しては殆ど人間的な感情を持っていないが、息子の妻、つまり嫁に対しては異常な執着を感じている。その執着とは性的なものだということがやがて少しずつ明らかにされてくる。つまりこの小説の基本プロットは、息子の妻に横恋慕する父親のいぎたない性的願望の物語なのである。といっても劇的な展開があるわけではなく、性的願望は男の心中に抑圧された感情として描かれるばかりだから、物語と言うよりは叙述といったほうが相応しいかもしれない。語られる事柄は背徳的なことばかりだから、これは背徳的な叙述だということになろう。  
背徳的というわけは、単にこの男が息子の妻に横恋慕することだけではない。息子には妻の他に女がいて、その女が妊娠したとき、男は女のもとに押しかけて堕胎するようにとほのめかす。その時の男の気持ちには、この女に対するいたわりは微塵もない。ただ自分が厄介な事態に巻き込まれることを恐れるだけである。ということは、人間的な感情に欠けていると言わざるを得ない。その点でもこの男は背徳的なのである。  
男が背徳的なら、その息子の方はもっと背徳的である。この息子は父親の{おそらく経営している}会社に勤めていることになっている。それだけでも、子の息子が十分に自立していないことを感じさせるが、妻の他に女を持ちながら、その女ともずるずるべったりで、責任ある男としての行動ができない。その結果、その女からも馬鹿にされるし、妻には愛想をつかされる。妻は、夫に女がいる間は子を産むわけにはいかないといって、妊娠した子を自分の判断だけで堕胎してしまうのである。  
こういえば息子の妻は意思の強い女のように思われるが、そうではない。彼女も自立した人間ではないのだ。その証拠に、夫婦関係を立ちなおすためにも夫婦だけで暮らしたらと進められると、夫と二人だけで暮らすのが恐ろしいという。この女性は、一人の男と結婚したというよりは、その男の家に嫁入りしたという感覚であり、嫁として舅に可愛がってもらうことに問題を感ぜず、むしろそれが心地よいと感じる。そうした彼女の姿勢がまた、舅の性的な感情をそそのかすことにもつながるわけである。  
男には実の娘がいるが、これもまた自立していない人間である。どういうわけか知らぬが、二人の子供を連れて嫁ぎ先を飛び出してきて、親の家に住みつくようになる。いわゆる出戻りだ。男はそのことを迷惑に感じるが、かといって娘夫婦の関係をどうしようというわけでもなく、ずるずると日を過ごすだけである。そのうちに、娘の夫が情婦と自殺未遂を図ったという記事が新聞に出る。そこで災いの及ぶのを恐れ、そそくさと離婚の手続きをする。彼女らが何故別居し、また何故彼女の夫が情夫と共に自殺しようと思ったか、それを知ったうえで事態を改善しようという気遣いは見せない。ただただ災いが我が身に及ぶことを恐れているだけだ。つまりこうした場面でも、この男は利己心の塊として、人間的な感情に欠けたものとして描かれている。  
こんなわけで、この小説に出てくる人間は、主人公の男も含めて皆人間的な感情に欠けた木偶の坊のようなものたちばかりである。その木偶の坊たちを、これまた木偶の坊の男の目に映るように描いていくわけだから、この小説には救いがない。唯一救いがあるとすれば、それは息子が妊娠させた女だろう。この女は、息子の父親が押しかけてきて自分に堕胎を迫った時に、敢然としてそれに抵抗した。そして、自分は自分の意思で子どもを産むのだから、誰にもそれを邪魔することはできないと言って、男の意思を打ち砕く。そのやり取りの場面が、この小説の中で最も輝いている部分である。つまり、男とは違う価値観を持った女に、自由にものをいわせることによって、そこに複眼的な視線が生じる。その複眼的な視線が、主人公である男の視点を相対化させて、この部分に物語としての広がりとふくらみと深さを与えているように見させるのだ。  
このようにこの小説は、内容には救いがないが、筆の冴えは際物といえる。文章に無駄なところがひとつもない。しかもそれらの文章は、一つ一つが尖った切っ先のように冴えわたっている。この小説は川端の作品としては非常に長く、物語性にも乏しいのだが、それでいて読者を飽きさせることがない。文章の力が人を引きずっていくためだろう。 
「雪国」  
川端康成は「雪国」を執筆し始めてから最終的な完成にいたるまでに実に10年以上をかけている。世界の文学史上、ひとつの作品に長い年月を要した例はほかにもあるが、それらは多くの場合、一部の書き直しであったり、余計な部分の削除であったりする場合が多い。ところがこの小説の場合には、幾度か書き足しをしながら、雪だるまのほうに膨れ上がって、長編小説になったという経緯があるようだ。こんな形で小説を構成していく作家はそう多くはいないのではないか。  
川端は戦後の代表作「山の音」にも長い年月をかけているが、そちらは、バラバラの形で発表したいくつかの短い小説を、あとでつなぎ合わせて一片の長編小説に仕立て上げたということなので、「雪国」とは多少違った成り立ちをもっているが、それにしても、完成までに数年を要している。  
以上のことから我々がまず感じることと言えば、川端はひとつの整然とした構想に基づいてまとまりのある物語を書こうという意図は持たなかったのだろうということだ。事前に用意した確固たる構想にしたがって物語を展開していくのではなく、いくつかの短い物語の間に関連性を見つけて、それをもとに事後的に物語に仕立てあげる、そういうタイプの創作態度を、川端はとっているかのようである。  
こんなわけであるから、この小説には一本通った筋がないといってよい。筋がないということは、物語ではないということだ。小説は必ずしも物語である必要はないが、物語性と言うのは、小説の醍醐味の大部分をなすといってもよいから、物語の不在を補うには、余程強力な要素がなければ小説としておさまらぬ。川端のこの小説の場合にその要素とは、ひとつには人間の官能性の礼賛であり、もう一つには研ぎ澄ました文章の迫力であるといえるのではないか。  
まず官能性ということについて。この小説は、雪国の温泉街を舞台に、一旅行客と地元の芸者との痴情の絡み合いを描いたものだ。この二人は何となくひっつきあい、なかなか別れがたくなってずるずると付き合い続けるのだが、何故二人が結びついたかについては、川端は何も語っていないし、また二人がずるずるとひっつきあっていることについてどのような心理的背景があるのかについても、川端はほとんど語らない。語っているのは、彼らが肉体的に結びつきあっているということであり、その結びつきに当面は満足しているということだけだ。満足といっても、心から満足しているわけでもないらしい。というのは、男の方では次第に面倒くさくなっていく様子がみえるし、女の方でも男と添え遂げたいという気持はない。彼らはただ、今の一瞬を楽しく過ごせればよいのだ。  
ということはつまり、この小説で描かれている人間関係というのは、普通の人間同士に見られるような心のこもった、あるいはややこしい、関係ではない、ということだ。ではどういう関係か、などと野暮な問いかけをすることは無益だ。この小説の中で描かれているのは、徹頭徹尾官能的な、つまり単純な関係なのだ。男が女に求めるのは、官能的な肉体の満足なのだし、女が男の官能を満足させてやるのは職業上のサービスに過ぎない。第一この小説は、温泉街にぶらりとやってきた旅の男が、セックスがしたくなって芸者を求めるシーンから始まる。この小説の中の男は、最初から最後まで、女の肉体だけを目当てにして、だらだらと生き続けているのである。この男にとって、この世に生きていることの意義は、女とセックスをすることだけなのである。それ以外のことを男は考えない。この男にはセックスの他になすべきことは何もないのだ。  
この小説は、基本的には男の視線に立って書かれているが、その視線の先にあるのは性欲のはけ口としての女である。男の視点に立って作者が述べるのは、セックスパートナーとしての女の艶めかしさである。艶めかしさには一定の精神性がないではないが、殆どは肉体が発散するものである。したがって作者が男に代って語る言葉には、殆ど精神性らしいものがない。精神性のないところには緻密な心理描写も必要ない。というわけで、この小説は近代小説の最も大きな要素である心理描写が、徹底的に欠けている。そのかわり、人間の肉体を含めた物質の描写であふれている。この小説を読んだものは、そのイメージの豊かさに圧倒されると思うが、そのイメージの殆どは視覚的なものである。川端の描写は視覚的な緻密さに富んでいて、読みながらそこで展開されている情景がありありと浮かんでくるようである。  
ここに一例を紹介しよう。小説の出だしの所で、男が汽車の中で或る女の姿に目を留め、その女の顔が汽車の窓に映っているところを描写している部分だ。汽車の窓を鏡にたとえながら、次のように書く。  
「鏡の底には夕景色が流れてゐて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのやうに動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかはりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが溶け合ひながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた」  
こういう文章を読まされると、読者はその場の光景を恰も眼前に見ているようなリアルな感覚を持たされる。こんな表現が次から次へと続いていく。ということは、我々は小説を読みながら、映画をみているような気にもさせられるわけである。  
男女の痴情の絡み合いを男の視線から描いたものとしては、谷崎潤一郎の「痴人の愛」があるが、「雪国」と「痴人の愛」とではかなりな相違がある。雪国は先述の通り徹底的に物質的なイメージを与える作品だが、「知人の愛」は精神性の影を引きずっている。痴人の愛の主人公は痴人なりに精神性を感じさせるのである。ということは、谷崎は近代小説の王道である心理描写にこだわっていて、いたるところで主人公の内面を暴露させる工夫をしている。ところが川端にとって、人間の内面などは余計なものに過ぎない。人間は物質であるだけでも、十分に中身がある。精神など表に出さなくとも、小説は十分に成り立ちうる。  
また、谷崎の場合には、主人公である痴人の視点からのみ対象世界が描かれる。ナオミという女は存在感のある女だが、自分から小説世界にしゃしゃり出ることはない。あくまでも痴人の視線の先にとらえられるに過ぎない。ところが「雪国」の駒子は、時によって自分から小説世界にしゃしゃり出てくる。そして主人公に対して自分の存在を強烈に主張する。そうしたケースでは、主人公の視線は相対化されて、駒子の視線との間に、戯れあいのようなものが生じる。つまり小説の語り方が単眼的ではなく、複眼的になる。同じ事象をそれぞれ異なった視線が異なった具合にとらえるのである。そこにこの小説の持つ魅力の秘密があるだろう。緻密な心理描写がない代わりに、登場人物がそれぞれの視点から見た対象世界のありようを表現する。そうすることで、対象世界が広がりを増すとともに、深みを帯びるようにもなる。この小説の独特の雰囲気は、この視線の複眼性ということに根差しているといえる。  
次いで、文章の迫力について。川端の文章が視覚的イメージに富んでいることは上述のとおりだが、そのほかにも様々な感覚的イメージが動員されている。例えば触覚。男は駒子の顔が思い出せなくなっても、自分の左手の中指が覚えているという。その指で駒子の肉体の内部をまさぐったのでもあろう。その際の感覚が強烈に残っていて、それだけでも体内をまさぐった女の印象がよみがえってくるというわけだろう。また、匂いや肉体のぬくもりと言った感覚も動員される。酔った駒子の発散する匂いや、駒子のしなやかな体躯のぬくもりが、男の欲望を刺激する。人間というものは、必ずしも物質だけでできているわけでもないが、物質性だけでも十分に存在感がある。そしてその物質的な存在感は感覚によってのみとらえられうる。川端がもっともこだわるのは、その感覚なのだ。 
「伊豆の踊子」  
「伊豆の踊子」は川端康成の出世作で、事実上の処女作といってもよい。多くの作家にとって、処女作にはその後の作家活動の要素となるもののほとんどが盛られているのと同じく、この作品にも、川端らしさといわれるものの多くが盛り込まれている。というより、その後「雪国」や「山の音」で展開された川端らしさよりも、もっと多くの要素が盛られている。ということは、川端はこの作品で一応自分の持っていたものをすべて盛り込んだうえで、次第にそれらのうちの余剰を切り捨てることで、自分独自の世界を確立していったということになる。この作品はしたがって、川端が自分の作風を確立するうえでの模索のような位置づけをもっているということだ。  
川端の作風のうち最も顕著な特徴は、視覚的なイメージが豊富だということである。川端の作風は新感覚派といわれるように、感覚を重んじる点にあるといえるが、その感覚の中でも視覚のウェートが圧倒的に高い。視覚的なイメージが豊富と言うことは、絵になりやすいということだ。だから川端の小説は映画やテレビドラマに何回も取り上げられた。この「伊豆の踊子」も6回も映画化されている。  
だが、「伊豆の踊子」には視覚的イメージ以外にも様々な要素が盛られている。この小説は、骨組としては若い男の淡い恋の物語である。その恋と言うのが、伊豆を旅している最中に出会った旅芸人一座の娘への若者らしい官能的なうずきなのだが、実はその娘はまだ年端のいかない子供だったということがわかる。若者は、できたらこの娘とセックスをしたいと思っていたのだが、相手が子供ではそうもいかない。というわけで、若者はどうしたらよいかわからなくなってしまい、ついには涙を流して泣いてしまうのである。こんなやわな若者は、小説の主人公としては、あまり格好がよくない。その格好の良くない若者とは、実は川端本人のことであった。その自分自身の格好悪さを包み隠さず描き出したというのが、この小説なのである。  
この小説が川端の実体験をそのまま描いたということについては、川端自身がそのことを保証している。だから小説の語り手である私とは川端自身のことなのである。その川端の視線の先に見えていたものを語った、それがこの小説というわけなのである。  
その視線は最初のうちは、娘に集中的に向けられているわけなのだが、娘が子供だと判った時から、娘だけでなく、さまざまなものの合間を漂うようになる。それ故この小説は視線のゆらめきを描いたものだと言ってもよい。  
ともあれ、この視線が娘の裸体を捉えたところを見てみよう。非常に有名になった入浴のシーンである。若者が宿の部屋から川向こうの共同湯を眺めていると、湯気の中から女の裸体が現れる。  
「仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思ふと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りさうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでゐる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のやうに足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで脊一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑ひ続けた。頭が拭はれたやうに澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった」  
この娘は外見からは十七・八に見えた。そう見えるように仕組んでいたこともある。それで若者はすっかり勘違いしてこの娘に欲望を抱いたわけだが、娘を裸にしたところ、まだ子供のままの姿で現れた。そこで、思惑と現実とのすれ違いが鮮やかなコントラストを描く。そのコントラストが思わず若者の笑いを誘う。この笑いは、一つには自分に対する照れ隠しであるとともに、清らかなものを見て心を洗われたことに対する単純な喜びだとも思える。  
こうした文章を読むと、その場の出来事が鮮やかな視覚的イメージとして浮かび上がってくる。視線の作家としての川端の面目躍如といったところだ。  
視覚と並んで重要な役割を果たしているのは、皮膚感覚だ。若者と旅芸人が天城の山中を歩いているときに驟雨に出会う。そこで彼らはずぶ濡れになりながら走る。その雨に打たれる感覚が強烈な皮膚感覚として読む者にも伝わってくる。若者は雨に打たれ寒さで震え上がる、その寒さの感覚を山中の茶屋の囲炉裏の火が暖めてくれる。身体が次第に暖まって心までが寛いでくる、その感覚もまたレアリティを伴って読者に伝わってくる。川端のこの作品には、共感を呼び込むような不思議な魅力がある。  
以上は、感覚にまつわる印象だが、旅芸人への差別をさらりと描いているところも、この小説の大きな特徴だ。雨宿りをした茶屋のばあさんは、彼らに対して露骨な軽蔑を隠そうとしないし、下田の近くの村の入り口には「物乞ひ旅芸人村に入るべからず」と記した立札が立っている。当時の旅芸人は乞食同然に扱われていた。その差別をこの小説ではさらりと描いている。別に差別に対して憤慨するわけでもないし、当の芸人たちが気にしている様子もない。  
この小説の中の旅芸人たちは、宿無しと言うわけではなく、故郷もあれば、家もある。いわば出稼ぎ感覚で旅に出、客があればそこに足を止めて芸を披露する。こういう人たちが、かつての日本の社会には大勢いて、差別されながらもけなげに生きていた。川端はそういう人たちと偶然出会う機会があって、その出会いをたまたま小説の材料に取り入れただけで、別に差別をテーマにして小説を書こうと思ったわけではあるまい。だが、旅芸人について描けば、人々による差別にも触れざるを得ない。しかし大上段に構えて描くのも大人げない。というわけで、さらりと描くという程度にとどめたのであろう。  
差別の反対として、この小説の主人公はエリート階層に属する者として描かれている。彼の出会う人々が、彼をエリートとして遇するのである。当時一高生といえば、まぎれもないエリートだったわけだ。この小説はそのエリートと、被差別者との触れ合いを描いているわけだ。社会の階層のそれぞれ反対側に位置する者が簡単に結ばれるわけにはいかない。それ故彼らは別れなければならなくなるわけだ。この小説では、別れる理由を別にあげているが、基本的には、それぞれが住む世界が違う故に、一緒になることができなかっただけの話なのである。 
 
天城山心中

 

1957年12月10日、天城山中の森林で、4日から行方がわからなくなっていた学習院大学2年の愛新覚羅慧生さん(19歳)と、同級生の大久保武道さん(19歳)が死んでいるのが発見された。この心中は「天城山心中」と名づけられた。  
天国に結ぶ恋  
1957年12月4日、学習院大学文学部2年生・愛新覚羅慧生さん(あいしんかくらえいせい 19歳)と同級生・大久保武道さん(19歳)の行方がわからなくなった。行方がわからなくなっていた2人は、目撃者の証言から伊豆の天城山方面に向かったことが明らかとなり、警察、地元の消防団、学校関係者による大捜索が始った。  
10日、天城山中八丁池南の雑木林で 2人の死体が見つかる。慧生さんは大久保さんに腕枕をしてもらうようにしており、顔には白いハンカチがかけられていた。大久保さんは手に旧陸軍14式短銃を握っており、慧生さんの右コメカミを撃った後、自分も自殺したと見られる。2人のそばのサルスベリの木の根本には、2人の爪と頭髪が白い紙に包んで埋められていた。  
ラストエンペラーの姪  
慧生さんは旧満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の弟・溥傑(ふけつ)を父に持ち、母親は元公爵・嵯峨実勝の長女。父と母の婚姻は、日満の架け橋として「親善結婚」だった。東京での結婚式のあと、2人は満州国の首都・新京で暮らし、1938年(昭和13年)2月26日に長女・慧生さんが誕生した。「智慧(ちえ)深き人間に育つように」とこの名前がつけられたという。慧生さんは5歳の時に両親のもとを離れ、横浜市港北区の祖父・実勝氏に引き取られている。幼稚園から大学まで学習院に通学した。  
45年8月17日、ソ連軍が新京に侵入。溥傑、浩、慧生さんの妹・嬬生(じゅせい 当時7歳)の3人は新京を発ったが、母娘はその途中で夫と離散した。母娘はその後、上海から佐世保に引き揚げてきて、慧生さんと10年ぶりの再会をした。その後は母妹と嵯峨家で一緒に暮らすが、溥傑は北京の戦犯管理所に収容されていた。  
慧生さんは学習院女子部から学習院大学の国文科に進学。その美貌は学内でも知られていた。  
「学校をおえたら、私は日本に残り、日中文化の交流につくしたいと思うわ」  
親しい友人にはいつもこんな夢を語っていた。  
一方、大久保さんは眼鏡をかけて生真面目そうな青年である。青森県八戸市の南部鉄道常務取締役の長男で、父親は参議院に立候補したこともある名士だった。八戸高校から学習院大学進学、文京区森川町の新星学寮に下宿をした。戦前の学習院は皇族、華族の子弟、縁故者しか入学できない”貴族学校”として有名だったが、戦後になると一般の子弟も入学できるようになった。と言っても、実際は資産家の子どもが多く、大久保さんも月に1万3千円の仕送りを受けており、アルバイトなどしなくても充分だった。  
入学した年(56年)の6月、大久保さんは慧生さんのことを意識し始め、交際を始めた。だが6月26日に嵯峨家を訪ねた大久保さんは良い印象を持たれなかったようで(「あの人一体なに?ガス会社の集金人かと思った」と言われる)、11月には1度慧生さんの方から別れを切り出している。だが翌月には縁りを戻し、57年2月には2人だけで結婚を約束した。だが2人は育った環境の違い、将来のことなどから度々小さな衝突を起こしており、6月に慧生さんの方から婚約解消。だがこれもうやむやになり、関係を続いていたと見られる。  
10月、帰郷した大久保さんは、父親が浮気をしているのを知った。父の女性関係を知った大久保さんは「自殺したい」と言っていたという。  
11月、慧生さんさんは、2人の交際の仕方を改めるように提案した。それまで話すのも2人きりで、クラスでは孤立しがちになっていたが、将来のためにも友は多くつくっておいた方が良いと、2人で会うのは週に1度ほどにしようというのである。  
12月1日、大学の「東洋文化研究会」というサークルに入っていた慧生さんは、この日来日した印・ネルー首相が各大学の学生を招待したティー・パーティーに出席すると言って家を出た。だが「風邪をひいたらしいわ」と早めに帰宅し、38度近くの熱があって横になった。夕方、男の学生から電話があったが、慧生さんは「私、風邪をひいて休んでおりますのよ。そんなこと無理ですわ。……いらして頂いても困ります」と怒気を含んだ声で話していたが、押し問答のようなことが続いたあと、電話を切った慧生さんは「ちょっと、お友達に会いに自由が丘まで行って来ます。1時間くらいで戻りますから」と家族に言って家を出た。電話の主は大久保さんであった。自由が丘で2人は会ったものとされるが、何を話したのかは定かではない。慧生さんは大久保さんの寮の寮監に電話をかけている。「大久保さんの友達」と名乗り、「大久保さんが近頃…」と言いかけて切ってしまった。  
4日、2人は「登校する」と言って家を出た後、目白駅から大学で落ち合ったとされる。その前日には身の回りの品々の整理をしていた。慧生さんは大久保さんからの手紙を「婚約前」「婚約後」の二束にわけて小包にし、大久保さんの母親宛てにして目白局から投函した。大久保さんの方も、慧生さんからの手紙をまとめたものを落合長崎局から母親に送っている。2人は銀座あたりでエンゲージリング、靴、懐中電灯などを購入してから伊豆に向かった。熱海で降りた2人は、タクシーで天城トンネルに向かった。  
まもなく大久保の下宿先の寮長のもとに慧生さんからの手紙が届く。  
「大久保さんはお父さんのことで大変悩んでいます。私はそんなことで悩むのはオカシイといいました。しかし大久保さんの話を聞いているうちに私の考えが間違っているのに気づきました。私は死ぬことは思い止まるようにと何度もいったのですが大久保さんの決意はとてもかたいのです。彼を一人だけ死なせるわけにはまいりません。」  
我、御身を愛す  
この心中事件は日満時代の事情を知る人の同情を買った。「天上の純粋を求めた」「旧華族の娘と庶民の子弟の情熱の死」などとマスコミにも頻繁に取り上げられ、「我、御身を愛す」はベストセラーとなった。  
慧生さんの棺が霊柩車に運びこまれようとした時、大久保さんの父は「武道も一緒に乗せてやって下さい」と訴え、嵯峨家側もこれに応じた。  
事件当時、中国・撫順の収容所にいた父・博傑は、浩への手紙のなかでこう記している。  
「こんなことがあってもいいのか?苦しみに耐え、今日まで生きてこられたのも、2人の娘と浩さんといつかは一緒に暮らせるという夢あればこそだった」  
遺言により、慧生さんの遺骨の半分は浩さん(87年逝去)と一緒に清朝の祖先が眠る北京近郊の墓地上空からまかれ、もう半分は妻娘が眠る山口県下関市中山神社の愛新覚羅社に祀られた。  
この心中事件は映画化される動きがあったが、20日、学習院大学国文科学生らは抗議声明を発表した。  
「武道様がいらっしゃらなかったら、とうてい私はイージーゴーイング的な生き方からぬけきれなかったかもしれません。私の身体がよわいにもかかわらず、身をもって私を生涯導いてくださろうとしてくださる武道様があったからこそ、私はいままでの生き方を抜けることができたのだと思います。」 (大久保さん宛て書簡)  
真相はどこに  
2人の死は結婚を反対されたことによる心中(無理心中でなく)だったのだろうか。  
学友たちの証言によると、大久保さんは独占欲が強く、慧生さんが他の男子生徒と口を聞いただけで責めたてたり、その生徒に決闘を申し込もうとしたことがあったらしい。  
ある時、大久保からの求愛に辟易した慧生さんに、上級生は助言した。  
「今逃げるとますます執拗に追ってくると思う。母のような立場に立って、彼の悩みを徐々に癒してやってもらえないか」  
だが慧生さんは何度も「交際したくない」とはっきり申し入れ、6月には下宿先の寮長に、「大久保さんと交際したくないので、よろしくはからっていただけませんか」という手紙を出している。  
また伊豆で2人を乗せたタクシー運転手は、慧生さんはしきりに帰りのバスの時間を尋ね、「ここまで来れば気が済んだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と何度も言っていたのを聞いた。  
こうした事柄から浮かんでくるのは、慧生さんは大久保を説得しようとついて行き、心中に巻きこまれたものという可能性である。こうした災難説は、嵯峨家に関係する人たちによって主張された。慧生さんが自由が丘で大久保さんと会ったとされる12月1日のことについて、母・浩さんは次のように著書で書いている。  
「自由が丘についた慧生は、いきなり大久保さんから胸にピストルをつきつけられ、一緒に死んでくれと言われましたが、どうにかうまくなだめすかし、喫茶店に入りました。そして隙を見て、大久保さんの宿先である新星学寮の寮長に急を知らせるべく電話したものの、挙動を怪しんだ大久保さんが背後から近づき、その電話を切ってしまったということです」  
慧生さんの友人の証言にも「2、3日前、武道君にピストルで脅かされ、やっとなだめてホッとしたと話していた」というものがある。  
他にも心中を報じたマスコミなどが主としてとった同情説、女性誌などがとった純愛説がある。だが死んでしまった2人の心中(しんちゅう)は誰にもわからない。 

 


 
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