やまとうた

 
藤原定家
春 
かすみあへず猶ふる雪にそらとぢて 春ものふかきうづみ火のもと 
春の夜のゆめのうき橋とだえして 峰にわかるる横雲のそら 
おほぞらは梅のにほひにかすみつつ くもりもはてぬ春のよの月 
梅の花にほひをうつす袖のうへに 軒もる月のかげぞあらそふ 
花の香のかすめる月にあくがれて 夢もさだかに見えぬ頃かな 
 
 
花の香はかをるばかりを行方とて 風よりつらき夕やみの空 
霜まよふ空にしをれし雁がねの かへるつばさに春雨ぞふる 
くりかへし春のいとゆふいく世へて おなじみどりの空にみゆらん 
鳥のこゑ霞の色をしるべにて おもかげ匂ふ春の山ぶみ 
霞たつ峰の桜の朝ぼらけ くれなゐくくる天の川浪 
 
 
屋戸ごとに心ぞみゆるまとゐする 花のみやこの弥生きさらぎ 
山のはの月まつ空のにほふより 花にそむくる春のともし火 
花の色のをられぬ水にさす棹の しづくもにほふ宇治の河をさ 
おのづからそこともしらぬ月は見つ 暮れなばなげの花をたのみて 
なとり川春の日数はあらはれて 花にぞしづむせぜの埋れ木 
 
 
きのふまでかをりし花に雨すぎて けさは嵐のたまゆらの色 
木のもとは日数ばかりを匂ひにて 花も残らぬ春のふる郷 
にほふより春は暮れゆく山吹の 花こそ花のなかにつらけれ 
ふりにけりたれか砌のかきつばた なれのみ春の色ふかくして 
あはれいかに霞も花もなれなれて 雲しく谷にかへる鶯 
春はいぬあを葉の桜おそき日に とまるかたみの夕ぐれの花
 
夏 
わがこころ弥生ののちの月の名に 白き垣根のはなざかりかな 
まきの戸をたたくくひなの明ぼのに 人やあやめの軒のうつりが 
たまぼこの道行きびとのことづても たえてほどふる五月雨のそら 
夕暮はいづれの雲のなごりとて はなたちばなに風の吹くらん 
うつり香の身にしむばかり契るとて 扇の風の行へたづねば 
 
 
夕立のくもまの日影はれそめて 山のこなたをわたる白鷺 
立ちのぼり南のはてに雲はあれど 照る日くまなき頃の大空 
泉川かは波きよくさす棹の うたかた夏をおのれ消(け)ちつつ
 
秋 
秋とだに吹きあへぬ風に色かはる 生田の杜の露の下草 
天の原おもへばかはる色もなし 秋こそ月の光なりけれ 
明けば又秋の半ばも過ぎぬべし かたぶく月のをしきのみかは 
こしかたはみな面影にうかびきぬ 行末てらせ秋の夜の月 
しのべとやしらぬ昔の秋をへて おなじ形見にのこる月影 
 
 
いこま山あらしも秋の色にふく 手ぞめの糸のよるぞかなしき 
夕づく日むかひの岡の薄紅葉 まだきさびしき秋の色かな 
見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮 
さむしろや待つ夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫 
ひとりぬる山鳥のをのしだりをに 霜おきまよふ床の月影 
 
 
夕づく日うつる木の葉や時雨にし さざ浪そむる秋の浦風 
小倉山しぐるるころの朝な朝な 昨日はうすき四方のもみぢ葉 
時わかぬ浪さへ色に泉河 ははその杜にあらし吹くらし 
吹きはらふ紅葉のうへの霧はれて 峯たしかなるあらし山かな 
秋はいぬ夕日がくれの峰の松 四方の木の葉の後もあひ見ん 
 
 
おのづから秋のあはれを身につけて かへる小坂の夕暮の歌 
松虫の声だにつらき夜な夜なを はては梢に風よわるなり
 
冬 
花すすき草のたもとも朽ちはてぬ なれて別れし秋を恋ふとて 
人とはぬ冬の山路のさびしさよ 垣根のそばにしとと下りゐて 
風のうへに星のひかりは冴えながら わざともふらぬ霰をぞ聞く 
冴えくらす都は雪もまじらねど 山の端しろきゆふぐれの雨 
かきくらす軒端の空に数みえて ながめもあへずおつるしら雪 
 
 
をはつせや峰のときは木ふきしをり 嵐にくもる雪の山もと 
駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮 
待つ人の麓の道やたえぬらん 軒端の杉に雪おもるなり 
白妙のいろはひとつに身に沁めど 雪月花のをりふしは見つ 
おもひいづる雪ふる年よ己のみ 玉きはるよの憂きに堪へたる
 
恋 
昨日けふ雲のはたてにながむとて 見もせぬ人の思ひやはしる 
初雁のとわたる風のたよりにも あらぬ思ひを誰につたへん 
うへしげる垣根がくれの小笹原 しられぬ恋はうきふしもなし 
さゆりばのしられぬ恋もあるものを 身よりあまりてゆく蛍かな 
なびかじな海士の藻塩火たきそめて 煙は空にくゆりわぶとも 
 
 
久方のあまてる神のゆふかづら かけて幾世を恋ひわたるらん 
年もへぬ祈る契りは初瀬山 をのへの鐘のよその夕暮 
こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ 
あぢきなく辛きあらしの声もうし など夕暮に待ちならひけん 
帰るさのものとや人のながむらん 待つ夜ながらの有明の月 
 
 
久方の月ぞかはらで待たれける 人には言ひし山の端の空 
夜もすがら月にうれへてねをぞなく 命にむかふ物思ふとて 
さぞなげく恋をするがの宇津の山 うつつの夢のまたし見えねば 
浜木綿やかさなる山の幾重とも いさしら雲のそこの面影 
わすれずは馴れし袖もや氷るらん 寝ぬ夜の床の霜のさむしろ 
 
 
契りおきし末のはら野のもと柏 それともしらじよその霜枯 
消えわびぬうつろふ人の秋の色に 身をこがらしの杜の下露 
むせぶとも知らじな心かはら屋に 我のみ消たぬ下の煙は 
思ひいでよ誰がきぬぎぬの暁も わがまたしのぶ月ぞ見ゆらん 
なく涙やしほの衣それながら 馴れずは何の色かしのばむ 
 
 
白妙の袖の別れに露おちて 身にしむ色の秋風ぞ吹く 
かきやりしその黒髮のすぢごとに うち臥すほどは面影ぞたつ 
たづね見るつらき心の奥の海よ 潮干のかたのいふかひもなし 
心をばつらきものとて別れにし 世々のおもかげ何したふらん 
わすれぬやさは忘れけり逢ふことを 夢になせとぞいひて別れし 
心からあくがれそめし花の香に なほ物思ふ春の曙
 
雑 
たまゆらの露も涙もとどまらず 亡き人こふる宿の秋風 
面影のひたふるかたにかへりみる 都は山の月繊くして 
下もゆるなげきの煙空に見よ 今も野山の秋の夕暮 
忘るなよ宿るたもとはかはるとも かたみにしぼる夜はの月影 
こととへよ思ひおきつの浜千鳥 なくなく出でし跡の月かげ 
 
 
秋の日のうすき衣に風たちて 行く人またぬをちの白雲 
旅人の袖ふきかへす秋風に 夕日さびしき山のかけはし 
都にもいまや衣をうつの山 夕霜はらふ蔦の下道 
藻塩くむ袖の月影おのづから よそに明かさぬ須磨の浦人 
 
 
そよくれぬ楢の木の葉に風おちて 星いづる空の薄雲のかげ 
思ひかね我が夕暮の秋の日に 三笠の山はさし離れにき 
なきかげの親のいさめは背きにき 子を思ふ道の心よわさに 
思ふことむなしき夢の中空に 絶ゆとも絶ゆなつらき玉の緒 
たらちめや又もろこしに松浦舟 今年も暮れぬ心づくしに 
 
 
ももしきのとのへを出づる宵々は 待たぬに向かふ山のはの月 
契りありてけふみや河のゆふかづら 永き世までにかけてたのまむ 
つくづくと明けゆく窓のともし火の 有りやとばかりとふ人もなし 
しるや月やどしめそむる老いらくの わが山のはの影やいく夜と
 
藤原定家 (京極中納言)応保2〜仁治2(1162〜1241) 
父は藤原俊成、母は藤原親忠女(美福門院加賀)。同母兄に成家、姉に八条院三条(俊成卿女の生母)・高松院新大納言(祗王御前)・八条院按察(朱雀尼上)・八条院中納言(建御前)・前斎院大納言(竜寿御前)がいる。子に因子(民部卿典侍)・為家ほかがいる。寂蓮は従兄。
応保2年(1162) 俊成(当時は顕広)49歳の時の子として生れる。
仁安元年(1166) 叙爵(五位)。
安元元年(1175) 高倉天皇の御世。14歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めた。
治承3年(1179) 3月、内昇殿。
治承4年(1180) 正月、従五位上に昇る。
養和元年(1181) (20歳)「初学百首」を詠む。この年以後、式子内親王の御所にたびたび出入りするようになる。
養和2年(1182) 父に命じられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信。
文治元年(1185) 平家滅亡の年。殿上で少将源雅行に嘲弄されたことに怒り狼藉をはたらき、除籍されるという事件を起こしたが、俊成の請願などが功を奏し、翌年3月には解除された。この年、家司として九条家に仕え、以後、同家の恩顧を得ることとなる。
文治2年(1186) 西行勧進の「二見浦百首」を詠む。
文治3年(1187) 「殷富門院大輔百首」を詠むなど、争乱の世に背を向けるごとく創作に打ち込んだ。
文治4年(1188) 父が撰者となり奏覧された「千載集」には八首入集の栄を得た。
文治5年(1189) 官途も順調で左近衛権少将に任ぜられ、翌年には従四位下、建久六年(1195)には従四位上に進んだ。この間、因幡権介を兼任している。西行の「宮河歌合」に加判。この頃から九条良経・慈円ら九条家の歌人グループと盛んに交流。建久元年(1190)「花月百首」、同2年の「十題百首」などに出詠した。
建久4年(1193) 2月、母を亡くす。秋、良経主催「六百番歌合」に出詠。
建久5年(1194) 藤原季能女と離婚し、大納言西園寺実宗女(公経の姉)と再婚。
建久7年(1196) 春から秋にかけ良経邸での歌会に参加「韻歌百二十八首」を詠むなどしたが、同年11月源通親のクーデタにより九条兼実は失脚、以後九条家歌壇も沈滞した。
建久9年(1198) 守覚法親王主催の「仁和寺宮五十首」に出詠。同年、実宗女との間に嫡男為家が誕生した。
正治2年(1200) 後鳥羽院の院初度百首に詠進、以後、院の愛顧を受ける。同年十月、正四位下に昇る。
建仁元年(1201) 正月、たびたび見舞っていた式子内親王が薨去。3月水無瀬殿に初めて伺候。「老若五十首歌合」に出詠。「千五百番歌合」の百首歌を詠進する。7月和歌所寄人に任命される。10月院の熊野御幸に供奉。11月「新古今和歌集」の撰者に任命される。
建仁2年(1202) 6月「水無瀬釣殿六首」。9月「水無瀬恋十五首歌合」。閏10月念願の左近衛権中将の官職を得る。
元久元年(1204) 「宇治離宮御会」「春日社歌合」の講師を務める。11月30日父を亡くす。
元久2年(1205) 新古今集が一応の完成をみ3月には竟宴が催されたが定家は欠席した。以後もたびたび切継作業に従事する。
承元元年(1207) 最勝四天王院障子和歌を詠進。
承元3年(1209) 将軍源実朝の歌に合点を加え、「詠歌口伝」(近代秀歌)を贈る。
承元4年(1210) 長年の猟官運動が奏効し内蔵頭の地位を得る。
建暦元年(1211) 50歳で従三位に叙せられ侍従となる。
建保2年(1214) 参議に就任。
建保3年(1215) 伊予権守を兼任した。この頃、順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍、10月には同天皇主催の名所百首歌に出詠した。同年頃、古今集から新古今集までの八代集から秀歌を抄出した「八代抄」(通称「二四代集」)を編む。
建保4年(1216) 「百番自歌合」(初稿本)、「拾遺愚草」を編む。閏6月内裏歌合に参加し判詞を書く。
建保6年(1218) 民部卿となる。
承久元年(1219) 7月、内裏百番歌合に出詠。
承久2年(1220) 内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁じられる。
承久3年(1221) 5月、承久の乱が勃発、院は隠岐に流され、定家は西園寺家・九条家の後援のもと、社会的・経済的な安定を得、歌壇の第一人者としての地位を不動のものとした。しかし、以後、作歌意欲は急速に減退する。
貞応元年(1222) 参議を辞し、従二位に叙せられる。
安貞元年(1227) (64歳)正二位。民部卿を辞す。
貞永元年(1232) 正月、71歳で権中納言に就任。6月後堀河天皇より歌集撰進の命を受け、職を辞して選歌に専念する(三年後の嘉禎元年「新勅撰和歌集」として完成)。またこの頃「百番自歌合」を完成。
天福元年(1233) 10月、出家。法名明静。
天福2年(1234) 6月、新勅撰集(未定稿)を仮奏覧したが、8月になって後堀河院は崩御。落胆した定家は手もとの草稿を焼却した。9月道助法親王に依頼され「八代集秀逸」を撰進する(実際には後鳥羽院の発企だろうという)。
嘉禎元年(1235) 3月、浄書した新勅撰集を九条道家に献ずる。5月宇都宮頼綱のもとめにより嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く(いわゆる「小倉色紙」)。これが『小倉百人一首』の原形となったと見られる。
嘉禎3年(1237) 10月、「順徳院御百首」に加判して佐渡の院に送る。
延応元年(1239) 2月、後鳥羽院が隠岐で崩御。
仁治二年(1241) 8月20日80歳で死去。
家集「拾遺愚草」、歌論書に「近代秀歌」「詠歌大概」「毎月抄」などがある。

 
 
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定家の生涯 
青春時代とその社会的背景 
定家は応保二年(1162)俊成四十八才の子として生まれた。五才にして従五位下に叙せられ六才の時紀伊守に任ぜられた。十四才、赤斑 にかかり重体に陥ったが一命をとりとめた。この年父俊成が右京大夫を辞しその代りに定家が侍従に任ぜられた。 
安元三年(1176)定家十五才の折父俊成は重病を患い、これを機に出家し釈阿と称した。俊成六十三才であった。このため定家の宮廷における出世は初めからあまり希望の持てないものになつてしまっている。この時期は平家の全盛期で、その翌年には鹿ケ谷事件が起こり、後鳥羽法皇の勢力は大きな打撃をこうむった。定家は十六才であったが、  にかかり再び死線をただよっている。彼は八十才の長寿を保ったが、これ以後は常に病気がちで病弱な体質だった。彼の厖大な日記「明月記」には咳病、発熱、食欲不振、痢病、心神不例などの記事が非常に多い。 
治承四年(1180)頼朝が伊豆に挙兵、義仲は木曽に挙兵し、清盛は福原(今の神戸)に遷都を強行した。平維盛の大軍は富士川の合戦に戦わずして総崩れとなり、大敗を喫して京に逃げ帰った。平家の衰退はこのあたりから急速に進行し始める。この年平重衡(はげこら)が南都を焼き討ちし大仏殿が炎上するという事件が起こった。定家の「明月記」はこの年から書き始められているが、こういう物情騒然たる政治的・軍事的状況の中で維盛の東国下向の噂を聞きながら次のように書いている。 
〈世上乱逆(らんぎゃく)追討(ついとう)耳に満つといえどもこれを注せず。紅旗(こうき)征戎(せいじゅう)わがことにあらず〉 
つまり源平の争いなど公卿には何の関係もない。公卿は公卿で自分たちの世界はまったく別の世界だと言うわけだ。こういうところに公卿の端くれである定家の恐るべき特権階級意識と社会的無関心と政治的無知が何の疑いもなく披瀝されている。公卿社会というものはこういうものであり、政権を巡る騒乱の中で人民が塗炭の苦しみに喘いでいるにもかかわらず、多くの歌合せや歌会が行なわれ、公卿は昔ながらの慣習にしたがってまったく別個の世界で別個の生活を続けようとしていたのであった。「明月記」には同じ月に次のような記事もある。 
〈十五日、甲子、夜に入り明月蒼然。故郷寂として車馬の声を聞かず。歩み従容として六条院のあたりに遊ぶ。夜漸く半ばならんと欲す。天中に光る物あり。その勢い、鞠の程か、その色燃ゆるが如し。忽然として躍るが如く、坤(こん)より艮(こん)に赴くに似たり。須臾(しゅゆ)にして炸裂し、炉を打ち破るが如し。火、空中に散じおわんぬ。若しくは是大流星か。警奇す。 大夫忠信、青侍等と相共にこれを見る〉 
定家は福原遷都後も京都に残り、戦乱の谷間にあって夜の散歩を楽しんでいる。 
〈歩み従容として〉などというところは〈紅旗征戎わがことにあらず〉と同じ気持の表現だろう。ところがそうは言っているものの心の中は甚だ穏やかではなかった。その後の〈天中光る物あり〉以下はこの時点における公卿社会の不安と恐怖を端的に表しており、やはり言葉とは裏腹に内心は恐怖におののいていたのである。 
この治承五年のこととして鴨長明は「方丈記」の中に次のように書いている。この時期の京都の状況を適確に描写した名文なので長いが引用してみよう。 
〈築地のつら、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐい数しらず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬ事多かり。 いわんや河原などには、馬、車の行き交う道だになし。あやしき賎山がつも力つきて、薪さえ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家をこぼちて市に出て売る。一人が持ち出でたる値、一日が命にも及ばずとぞ。あやしきことは、薪の中に赤き丹つき、箔など所々見ゆる木、あいまじりけるをたずぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み堂の物の具を破りとりて、割り砕けるなり。濁悪の世にしも生れあいて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。 
またいとあわれなることも侍りき。さりがたき妻、おとこもちたるものは、その思いまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故わが身を次にして、人をいたわしく思うあいだに、まれまれ得たる食物をも、かれにゆずるによりてなり。されば親子あるものは、定まれることにて、親ぞ先立ちける。また、母の命つきたるを知らずして、いとけなき子のなお乳をすいつつ臥せるなどもありけり。 
仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)法印(ほういん)と言う人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首のみゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ぶわざをなんせられける。人数を知らんとて、四・五両月を数えたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極より西、朱雀より東の、路のほとりなる首、すべて四万二千三百余りなんありける。いわんや、その前後に死ぬるもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加えて言わば、際限もあるべからず。いかに言わんや、七道諸国をや〉 
長い引用を試みたが、定家が歌人として歌作を始めたのはこういう時代背景の真っ只中だったのである。普通の感覚ではとても歌など詠んでいられるような世相ではないのだがそこが宮廷社会という密封された閉鎖社会の特質であり、しかもその歌は花鳥風月を文字の上でだけもてあそんでいるいわゆる〈無心の歌〉なのである。このことは定家という人物を理解する上に欠くことのできない重要な契機だと考えられる。 
定家は次の年の治承五年(1181)、二十才にして初めて「初学百首」を詠んでいる。これが定家の歌人としての最初の作品となったものだが、上にあげた「方丈記」の記述を読むと、こういう世相の中での定家の行動が何か不思議な気さえして来るのである。 同じ年平家の統領の清盛が没し、平家の衰亡は決定的になりつつあった。 
だが定家は更に翌寿永元年(1182)〈堀河院題百首〉を詠み、着々と自己の歌人としての修練を重ねて行った。この時俊成夫婦が定家を将来歌の名手になるだろうと落涙したのは別にしても、従兄の隆信や寂蓮は賞賛し、右大臣兼定までが手紙を送って祝意を表しているのは、そういうものなのかと思っても、やはりわれわれの腑には落ちにくい。 こうして定家の歌人としてのスタートは異常な社会状況に患わされることなく順調に進んだのであった。 
寿永四年(1183)平家は源義仲に倶利加羅谷で大敗を喫し、一族郎党みな西海に走ったが、この年定家とは切っても切れない関係となった後鳥羽天皇が即位し、定家自身も正五位下に叙せられた。二十二才であった。 
平家は寿永四年(文治元年、1185)屋島に敗北、遂に壇ノ浦において一族滅亡してしまった。定家はと言うと宮中において少将源雅之の嘲弄に怒り、脂燭(しそく)で雅之の顔面を打つという狼藉を働き除籍処分に処せられている。若気の至りとは言え定家の神経質で癇癖の強い性格と、エリート・コースから外れたもののコムプレックスを表す象徴的な事件であった。ところで平家を滅亡させた頼朝は全国に守護・地頭を配置して現地における土地・人民の支配体制を固めだが、次いで院側近の反幕勢力の一掃に乗り出し、高階泰経ら反幕公卿十二人の罷免、関白藤原基通に代る九条兼実の登用、更に兼実・経房ら法皇批判派の十人の議奏公卿の合議制による政務の運用などを法皇に強要してこれを承認させた。この結果兼実は内覧を命ぜられ院側の最高権力者となり、政界を牛耳る立場に立つことになった。 
翌文治二年(1186)定家は九条兼実家の家司(けいし)として出仕しすることになる。まことに良いタイミングであった。俊成は兼実の歌の指南役でもあったから、俊成の奔走、兼実の口添えなどもあったのであろうか、定家は好運にも除籍処分を解かれている。父俊成にしてみればやれやれの思いであったに違いない。 
この年西行はすでに七十一才の高齢であったが、東大寺座主であった俊乗房重源(ちょうげん)の懇請によって伊勢から上京し、東大寺大仏殿再建勧進のため平泉に向ったのであるが、この時西行は定家に面会し、定家は西行の勧めによって〈二見ケ浦百首〉を詠んでいる。西行は俊成の息子である定家の並々ならぬ歌才を認めて定家を激励したのであろう。翌文治三年(1187)西行は奥州への使いの役を果たして帰京し、自作の〈御裳濯河(みもすそかわ)歌合(うたあわせ)〉に俊成の判(はん)を請うている。 
文治四年(1188)俊成の撰による勅撰の「千載和歌集」が完成し、奏覧に供された。この集には西行の歌十八首、定家の歌八首が入集した。 
翌文治五年(1189)には頼朝の全国統一が完了し、約五百年に亙った律令体制は完全に崩壊した。この年西行は「宮河歌合せ」を作り定家の判を請うている。西行はすでに定家の実力を認め父俊成にではなく定家に判を依頼したのであった。定家も快くこれを引受け判を作って西行に送った。西行はこれを再読・三読して喜んだと言う。この年の十一月定家は左近衛少将に任ぜられた。翌建久元年(1190)西行が河内国弘川寺で生涯を閉じた。七十三才であった。一方定家は従四位下に叙せられた。二十九才であった。 建久二年(1191)には兼実が関白に任ぜられた。御子左家は強力な後盾を持つことになり、定家の歌道における活動はますます活発になって行った。 
建久三年(1192)頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府が実質的に成立した。定家はなぜかこの頃から写経を始めており、写経への熱は徐々に深まって行く。これはもちろん定家の心に仏教思想が浸透して行ったことを物語っているが、それがなぜであるかははっきりわからない。唯定家が仕えていた兼実の浄土宗への傾倒の影響でないことは確かである。(この点については後に述べる) 
建久四年(1193)良経第の〈六百番歌合せ〉に定家も出詠した。この歌合せは歴史に残る盛儀で、この時点ではすでに定家の宮廷歌人としての地位は確立していたと言っていいだろう。藤原良経は兼実の子で後に摂政・太政大臣となった人だが、歌人としても書家としても優れ、定家とは親交が深かった。この年定家の母が没し、定家は烈しくむせび泣いた。三十三才の時のことである。 
たまゆらの 露も涙もとどまらず 亡き人こうる宿の秋風 
この歌は定家には珍しい何のケレン味もない心情を吐露した歌であり、無条件に読むものの心を揺すぶる。定家の悲しみがいかに深かったかが実によくわかる。 
建久六年(1195)定家は三十四才で従四位上に叙せられた。このあたりまでの定家の昇進は順調であったが、ここで朝廷内における大異変が生じ定家もその影響をこうむることになる。それは源通親の登場である。  
京都朝廷内の権力を廻る闘争 
建久七年(1196)関白兼実 
忠実は源通親の讒訴により失脚して職を追われ、実権は通親に移り、定家の昇進にも暗い影が落ちることになった。兼実が実権を握っていた期間は約十年で終ってしまった。ここで突如登場してきた源通親という人物に・忠実ついて見てみよう。この源の通親という人間は何とも凄まじい男であって、宮廷的寝業の名手と言うか、その道を極めた男とでも評すべきであろう。通親は村上天皇八代の後裔で、平家一門の勃興をみるといち早く初めの妻を捨て清盛の姪を娶り、その庇護のもとに政界に進出したと言う人間である。平家全盛中はその忠実な追従者であったが、一度平家一族の西走に出会うやたちまちこれを捨てて後白河法皇派に走った。そして二度目の妻を捨て、後白河の近臣の出で後鳥羽天皇の乳母を勤め、平家に従って都落ちした夫と離別して都に止まっていた高倉範子を妻に迎え、以後は法皇の近臣として活躍する。 
治承四年(1180)以(もち)仁王(ひとおう)の挙兵が失敗に終り、関白頼長が宇治に敗死した後、寿永二年(1183)木曽義仲が京都に乱入し、後白河法皇を押し込めるという事件が起った。この時義仲は関白基通を罷免し、松殿基房の子、師家を関白に据えた。これは義仲が基房の娘伊子が美人の聞こえ高いのを知り無理矢理に自分の妻にしてしまったのであるが、これは関白忠通の子でありながら冷飯を食わされていた松殿基房が義仲に取入るため美人の娘伊子を積極的に差し出したものであったかもしれない。 
しかしながら義仲はわずか二ヵ月で範頼・義経に追われて京都から逃亡し近江の粟津で敗死してしまう。そこで師家はたちまち関白の職を解かれ基通が復職する。だがそれも束の間、文治二年(1186)には先に述べた頼朝の宮廷反幕勢力一掃の要求で基通は職を解かれ基房とは兄弟にあたる兼実が内覧を命ぜられる。通親は兼実が頼朝に近付き親幕派になってゆく過程で自分は後白河法皇の近臣となり、法皇の寵姫丹後局に近付き、これを自分の妾として宮廷権力に近付いて行く。更に自分の妻範子の連れ子である在子を後鳥羽院の後宮に入れ、在子に皇子を誕生させる。通親は義仲に死なれた基房の娘伊子をも妾にする。これは基房が新しい権力者通親に近付こうとして政略的に美人の娘を差し出したものか、通親の方が積極的に伊子を求めたものかわからないが、おそらくその両方であったろう。こうして不幸な女伊子は通親の妾となり一子を生む。これが後の道元である。したがって道元の出生は初めから暗い彩りに隈どられていたと言う他はない。通親はこうして着々と権力の中心部へ楔を打ち込み、時間をかけて準備を整え、虎視(こし)眈眈(たんたん)と時期の到来を待ち続けていた。 
ここで通親はもう一つの手を打った。頼朝と兼実の離間である。通親はじっとチャンスが来るのを狙っていた。チャンスは向うからやってきた。大姫事件である。大姫は頼朝の娘であった。頼朝は初め大姫を義仲の長男義高に嫁がせたが、義仲との間が不和になると義高を殺してしまった。そこで頼朝はこの不幸な娘をなんとかしてやりたい強い願望を持つに至った。冷徹無比のように見られていた頼朝ではあったが彼もまた人の子であった。 娘への愛のために彼は自分を見失い政治的見通しまでも失った。彼は大姫を後鳥羽院の後宮に入れようと考え、通親や丹後の局に近付いて猛烈な運動を開始した。 
建久六年(1195)には東大寺落慶供養を兼ねてわざわざ京都まで出向き、天皇や法皇に拝謁し通親や丹後の局に莫大な贈り物をするという、あれほど京都朝廷を警戒し、勝手に朝廷に近付いた弟の義経を徹底的に追求して破滅させた頼朝にはとても考えられないような行為にのめり込んで行ったのである。頼朝はここで親幕派の兼実らを捨て、反幕派の通親らと結ぼうとしたのだ。この選択は頼朝が娘を後宮に入れることによって天皇・法皇の外戚になろうという政策を取ろうとしたのだという見方もできないことはない。しかし、それは鎌倉幕府設立の基本方針に真っ向から対立する考え方であり、どう考えても頼朝の一貫した政治姿勢からして納得できるものではない。これはやはり人の親である頼朝の一生に一度の迷いだったと見た方が良さそうである。だがその間違った選択は親幕派を潰し反幕派に道を開いて、後の承久乱のための条件を自ら作り出す結果となったのである。一人の専制者の謝った政治的選択が社会にどんな大きな影響をもたらすかを示す好例であろう。そしてこの問題は突然の大姫の病死によって言うも愚かなあっけない幕切れとなったのである。頼朝にとっては笑うに笑えない大失態であった。 
翌建久九年(1198)後鳥羽天皇が退位し上皇となると、在子(ざいし)の生んだ皇子が即位して土御門天皇となった。こうして通親は遂に天皇の外戚となり彼の策謀は百%完結したのである。しかもその翌年の正治元年(1199)頼朝は没してしまった。通親が長い間真の敵として知力の限りを尽くして対抗して来た源家の棟梁は、彼が宮廷側の最高権力者となった時点で倒れたのである。しかし通親の権力も長続きはしなかった。それから三年後の建仁二年(1200)さすがの策謀家通親も病に没した。通親が権力の座にあったのはわずか六年間に過ぎなかった。こういう事実を見ると権力への執着というものは一体何であるのかという疑問を突き当たらざるを得ない。通親が権力の頂点に立ったと思ったのも李下一睡の夢に過ぎないという感想は筆者一人の感傷であろうか。長々と通親について述べて来たが、それは定家が宮廷歌人としてもっとも力を発揮したのがこの通親の関白時代とそれに続く時期であったからである。そしてこの恐るべきマキュアベリストの下にあった定家の行動は、本来彼が持っていたものから来るのかこの通親の影響によるものか、それにしてもこの二人の行動には同じ匂いを感ずる場合が屡々あるのである。そういうことも含めてその後の定家の人生を追ってみよう。  
定家と後鳥羽院政 
建久九年(1198)後鳥羽院政が始まった。この後鳥羽院が歌の道に強烈な関心を持ち、自らも歌人だったため歌壇はさらに活気ずき、「新古今」撰進の道が開けて来る。この年法然の「撰択本願念仏集」があらわれ浄土思想が強く社会に浸透し始める。もちろんこれに対して叡山側からの圧迫も激しくなって行く。この頃の定家は「涅槃経(ねはんきょう)」の書写を行なっているが、これは主人筋の兼実の影響ではなく、定家が心を惹かれていたのは天台(てんだい)止観(しかん)であったようだ。天台止観とは暝想による観法であって、暝想によって心の活動を止め、浄土の世界を心の中に画きだしその中に身を置く修練を意味し、中国における善導以前の浄土思想である。この観法は方法は「観(かん)無量(むりょう)寿経(じゅきょう)」に詳しく説かれているが、自力救済の傾向が強いものであり、同じ浄土思想でも法然の他力救済の思想とは対立的な考え方となっている。定家においては浄土思想に対する接近の仕方はどちらかと言うと主知主義的であって宗教的ではないように見受けられ、そこにも定家の定家らしさが出ていると言っていと思われる。定家は卑賎な僧侶で既成教壇に対する反逆者である他力救済思想の法然を、兼実が重用して宮中にまで引き入れたことにむしろ終始批判的であり、〈骨鯁(こつこう)の御本性、なお以てかくの如し〉などと「明月記」で批判している。この点でも定家はあくまで保守主義者であった。 
正治二年(1200)定家の歌壇における活躍は華々しく、「守覚法親皇撰歌」に六首入集、さらに良経第の歌会には必ず出席し、「院百首」の作者にも加えられ、正四位下に叙せられて内昇殿をも許されている。しかしながら定家はこれほど親密な間柄にある良経に対しても無礼な行為があったらしく、良経の不興を買い自家に蟄居し謹慎したという記事があり、また「院百首」の作者の件につき季経とも対立している。何れにせよ定家の偏狭・狷介(けんかい)な性質があらわれたためであろう。良経に対しては詫びが叶ったらしくその後は前のような交誼を得ているが、どうにも難しい性格であったことは確かなようだ。  
翌建仁元年(1201)後鳥羽上皇の命により「新古今和歌集」の撰進が始まり、定家は家隆・良経・寂蓮とともに撰者に任ぜられた。この年上皇の熊野御幸があり定家も扈従しているが病弱だった定家にとってこの長旅は死の苦しみだったらしく、「明月記」に詳しい記事があり、定家はその中で悲鳴を上げている。 
建仁二年(1202)関白通親が遂に没すると良経が摂政となり定家の環境もやや好転する。定家は和歌所年始御会に召されており、宮廷歌人としての地位は安定して来る。またこの年左近衛権中将に任ぜられ宮廷内の地位もやや向上した。しかしながら定家の病弱は咳病・痢病・心神不例など頻りに発し、ために〈病をおかして登院す〉とか〈病により出仕せず〉とかいう記事が「明月記」に頻発して来る。殊に後鳥羽上皇の水無瀬(みなせ)御遊(ぎょゆう)には始終召しだされ、雨の中を馬や車で往復し歌を詠むという勤めは相当苦痛だったらしい。「咳病殊に以て悩む。心神ありてなきが如し」とか、「病悩殊に辛苦、冴寒を快くせんがため沐浴。出で行かず」「腹病気あるにより終日たおれ伏す」などという記事が連発する。 
「公卿の生活は優雅なもの」という認識が一般的だが、「明月記」によると定家は連日風雨・寒暑にかかわらず、しかも時をわかたず夜の夜中まで院の御所や上級公卿第に呼び出されて歌を詠まされており、たいへんな重労働をさせられている。下級貴族の生活というものは今の時代に引き直してみると、級サラリーマンのそれと少しも変わらないという感じが強い。殊に秉燭(へいしょく)に退下(たいげ)というのは夕暮時の退出だからまあ定時退社のようなものだが、昏黒(こんこく)だとか深更だとか亥終り(ほとんど零時)、時鐘の程(夜明け頃)とか、その残業の物凄いことは今時の猛烈社員も肝をつぶすほどである。しかも暖房も冷房もない馬や車で通勤するのだから、その辛さはむしろ現代よりもよほど苦痛であったに違いない。それに加えて宮廷内は有職(ゆうそく)故実(こじつ)というやつでがんじがらめになっており、箸の上げ下ろしまで規則や仕来りで縛られているのだ。そういう中で我侭極まりない専制君主の後鳥羽上皇に仕えているのだから、その精神的緊張は想像を絶するものがあったろう。したがって強健なものでもさぞたいへんだったろうと思われるくらいだから、病弱な定家にとって公卿の勤めというものがどんなに苛酷なものであったかは言うも愚かなものがあったであろう。「終日たおれ伏す」というような記事もこういうことを考えるとあながち定家一流のナルシスティックな誇大表現だとは言えないのである。定家という人はある面では非常に糞真面目で、九条家の家司(けいし)としてもその格勤が讃えられているくらいだから、この宮廷勤めは正に心身を磨り減らすようなものであったに違いない。糞真面目で融通の利かない定家が、気紛れで奔放な後鳥羽上皇に振り回されて泣きべそをかいている図を思い浮かべると何とも気の毒な気がするのである。 
ところでこんな定家が八十才という高齢まで生きたのだから不思議と言う他はない。人間の寿命というものは分からないものである。 
さて鎌倉幕府では正治元年(1199)頼朝が没し、建仁三年(1203)実朝が将軍に任ぜられたが、この時期は幕府内でも内紛が頻発し京都では通親の策動が続いていた時だから、新しく成立したばかりの武家政権にとっては正に正念場の時代であった。実朝の将軍職就任はこの危機にわずかな安定期をもたらしたのだが、この後も幕府内の内紛は続き、翌元久元年(1204)には頼家が伊豆で殺され、その翌年の元久二年(1205)には北条時政が失脚し、義時が執権となって幕府はようやく本格的安定期に入るのである。 
定家の身の回りでは元久元年父俊成が九十一才の高齢で亡っている。この時定家は四十三才、漸く宮廷歌人としての地位が確定して来るのだが、そこでまた定家一流の癖も頭を擡げ、讒訴(ざんそ)によって上皇の定家に対する感情にやや白けたものが現れ始める。そして元久二年「新古今」撰進の事業が完成し後鳥羽上皇の奏覧に供され、宮中において竟宴(きょうえん)開かれたが、何故か定家はこの竟宴に欠席している。これはまったく想像できない事実であり後鳥羽上皇と定家の間に只ならぬ事態が発生していたことを想像させる。自分が取り立てて「新古今」の撰者にまでしてやっ男が、何に臍(へそ)を曲げたのかは知らないが、その完成祝の席上にさえ顔を出さないなんて、後鳥羽にとっては大いなる侮辱としか思えなかったであろう。この時後鳥羽がどんな顔をしたか手を取るように見えるではないか。 
当時定家は「法華経八巻」を書写しているのであるが、これからすると彼は宮廷歌人としての自分の生き方に疑問を持ち始めていたのかも知れない。この時定家は四十四才であったが官位の昇進はずっと停頓しており、正治二年(1200)正四位下に叙せられるまで十一年間も昇進は途絶えているのである。だからこのあたりの定家の行動は何か自棄的な匂いさえ感じさせるものがある。定家の無念は頭に来ていたのかもしれない。 
承元二年(1207)浄土宗に対する叡山の圧迫は益々強まり、遂に朝廷はその圧力に敗けて、法然を土佐に親鸞を越後に流した。法然の評判が高くなり、浄土宗の社会に対する影響が次第に大きくなって叡山はその力に恐怖したためであった。法然の熱烈な支持者であった元関白兼実もこの年に没した。そういう中で一つの事件が起きた。 
そもそも定家という人は自信過剰の人物であり、歌については殊にそうだったから、後鳥羽院のような専制君主でしかも自ら歌人としての誇りを持っていた人間が、このような定家とウマが合うはずがなかった。後鳥羽院も定家も強烈な個性の持ち主であったから、その二人が同じ歌の世界でしのぎを削るとなれば、何時か二人が正面衝突することは避けられないことであり、それはこの二人の宿命であったかも知れないのである。後鳥羽院は定家を評して「非常識なまでに傍若無人である」と言っている。(後鳥羽院御口伝) 
この年院はじめ十人の歌人が「最勝四天王院名所障子和歌」を詠んだ。 
秋とだに 吹きあえぬ風に色かわる 生田の森の露の下草 
これは生田の森の絵につけて定家が詠んだ歌であるが、後鳥羽院はこの歌を取らず、慈円の 
白露の しばし袖にと思えども 生田の森に秋風ぞ吹く 
の方を撰ばれた。自分の歌に絶対の自信を持っていた定家はこの選択にはきわめて不満で、院の鑑賞眼を嘲る言辞をあちこちで洩らしたらしい。「明月記」にも院の態度を誹って「掌を返すが如し。万事かくの如し」と忿懣(ふんまん)をぶちまけている。ところが讒(ざん)奏(そう)するものがあってこのことが院の耳に入り、院はたいへん不快に思われて〈おのれが放逸を知らず〉ときめつけ、〈偏執〉であると評したという。どちらの歌が良いかは問題ではあるが、定家の歌は言葉だけは優雅だが慈円のような率直な感情が出ていない点を、院は判断の基準とされたのであろう。確かに定家の歌というものは後に詳しく述べるように、言葉の彫啄と構成には優れているが、そのことのために最も大切な歌の感情がはぐらかされている場合が多いのである。そういう行き方が後鳥羽院にとっては定家の才能を認めるのにやぶさかではないにしても、何か傲慢に感じられるたかも知れない。ここで定家と後鳥羽院は完全に感情のしこりを残してしまい、後に決定的な衝突にまで突き進んでしまうのである。 
承元三年(1209)定家は実朝のために歌論書「近代秀歌」を書いて贈っている。これは実朝の請に応じたもので先ず貫之以来の歌風を昔・近代・現代の三つの時期に分けて説き、次いで作歌の心得として〈言葉は古きを慕い、心は新しきを求め〉、古今和歌集以前にならえと説いている。また本歌取りの手法についても注意を述べている。この中で定家は「貫之はあらゆる点ですぐれていたが、近代に至り歌は拙劣となり、優れているのは経信、俊頼、顕輔、清輔、俊成と、その師の基俊の六人だけだと言っている。したがって定家は西行の歌はあまり高く評価してはいなかったようだ。 
承元四年(1201)土御門天皇が譲位し順徳天皇が即位した。この頃から定家は息子為家の昇進にも非常に気を遣うようになり、この年中将を辞し、為家を左権少将に任じ代えてもらっている。われわれの常識からすると一種不可解な感がするが、当時の公卿社会の慣習としてはこういうことが普通に行なわれていたらしい。年末には定家も内蔵頭に任じられている。 
建暦元年(1211)定家は従三位に叙せられ侍従に任ぜられた。卿二位と言われた藤原兼子に猛運動した結果であり、定家にとっては先に述べた通り十一年ぶりの昇進であった。可笑しいのはこの十一月定家は輿から落ちて気絶しているのだが、同じ月に息子の為家も内裏からの帰り輿から落ちやはり気絶しているのである。親子が同じ月に符節を合わせたように同じ事故に遭っているのはもちろん偶然のことだろうが何とも滑稽である。いかに定家親子が柔弱な質であったかがわかる。もっとも為家の方は蹴鞠の名手であったと言うから運動神経は発達していたはずで、輿という乗り物が安定性の悪い危険な乗り物だったせいかもしれない。為家はこの後も馬から落ちて悶絶して家へ担ぎ込まれるという事件を起こしているから、この男は余程粗忽者(そこつもの)であったのだろう。 
建暦二年(1212)法然が没した。しかし永平寺の確立により浄土宗の基礎は固まっていた。この年鴨長明の「方丈記」があらわれ、また明恵上人の法然に対する反論の書「摧邪輪(さいじゃりん)」も世に出た、。定家は宮廷歌人として比較的平穏無事な日々を過ごしているがその様子を見てみよう。  
建暦二年(1212) 定家五十一才 
一月  有馬湯治 
二月二日・邸の柳三本を院に献上 
一七日・奉幣使として川合社・貴船社に参向 
二二日・日吉社に参詣 
二六日・鬼気祭を修す 
四月 一日・物忌み 
二九日・仏師に愛染明王を造らせる 日吉社参篭(五月二日まで九日間) 
五月一一日・内裏にて詩・歌合せ出席 
一四日・道家第にての歌合せに出席 
七月一三日・院の命で七条殿に三首詠進 
二三日・道家第にて詩・歌合せ出席 
二六日・鳥羽堤の修理の課役免除を上奏聴許 
八月三日・内裏和歌御会出席 
一七日・ 愛染明王像出来 作料に夏直衣を与う 
二二日・歯痛、老 に歯を抜かせる 忠弘吉富荘に下向 
二四日・愛染明王開眼供養 
九月一三日・内裏詩・歌会二首 
二四日・日吉社参詣 
二五日・内裏より十一首召さる 
十月六日・吉富荘で傀儡師忠下人と闘争して上洛訴訟す 
二四日・女子民部卿を五節に出仕するよう命ぜらる 
一一月五日・為家大嘗悠紀国権介に命ぜらる 
一二月二日・後鳥羽院より二十首召さる 
一八日・院有心無心連歌会出席 
二五日・院馬場殿連歌会出席 
二八日・院連歌会 
「明月記」の建暦二年(1212)の分から目ぼしい記事を拾ったのが上の表であるが、ここから定家の生活のいろいろな面が窺えて面白い。 
第一は定家の宮廷歌人としての活動である。内裏・院の歌会出席が五回、道家第歌合せ出席二回、内裏・院から歌を召されること五回とこの関係の記事が一番多く、定家の歌壇における地位が高いことがよくわかる。その他奉幣使として川合社(ただすしゃ)・貴船社へ参向するとか、院に邸の柳を献上するとか、後鳥羽院との間に感情的確執はあったにせよ、それはまだ定家の宮廷歌人としての地位を危うくするところまでは行っていない。 
第二は定家が仏師に愛染明王の像を造らせ自宅に安置していることだ。愛染明王とは大日如来を本地とする明王で、外相は憤怒の暴悪形であるが、内証は敬愛を以て衆生を解脱させるの意で、三目六臂・種々の兵器を捧げている。しかし一般には息災・得福の明王として信仰されたもので、定家の場合ももちろんそれをを願って自宅に安置したものであろう。定家の神仏信仰にはこういう実利を目的としたところがあったことは確かである。 
第三は日吉社参詣に三回出掛け、その内一回は九日間も参篭していることである。この参篭は前年の従三位に昇進したことのお礼参り的なものであったと思われる。と言うのは建仁二年(1202)に左近衛中将に任ぜられた時にも、前年の十二月六日から十二日まで七日間、寒中を押して祈願の参篭をしているからである。したがって定家の仏教観は観念的には天台止観であったかもしれないが、実際的にはまことにはっきりした現世利益希求型であり、彼の浄土宗批判はあまり論理的なものではなく、法然が叡山を捨てた私度僧であったことに対する、彼のエリート意識からの嫌悪という感情的な反発に過ぎなかったものと見られる。 
定家が観念と生活感情や実利との間で分裂し、矛盾撞着を侵しながら当人はまったく気づいていないところが面白い。これはエリート階級の意識の特性であるが、同時に定家のナルシスト的性格も強く働いていたものと思われる。 
第四は鬼気祭をするとか物忌み、方(かた)違い(たが)など迷信に基づいた行動が多いことである。これはもちろん定家一人のことではなく、当時の宮廷社会一般がそうであったことによるものであるが、宮廷社会などというものは一切の行事・行動がこういう陰陽道によってがんじからめに規制されていたのである。 
第五は八月に老婢に命じて歯を抜かせていることである。これはその後も二度ほど記事としてあらわれる。当時は歯科医学などなかったであろうから、痛みに耐えかねれば抜歯する他はなかったのであろう。これは一般庶民も天皇を頂点とする公卿たちでもまったく同じであったのだ。 
以上を振り返ってみて気が付くことは、公卿の生活が意外に忙しく、楽しみらしいものがまことに少ないことである。一月に有馬湯治というのがあるが、これとて一月という寒中でもあり、とても遊山というようなものではなさそうである。病弱の定家が止むを得ず湯治のため出掛けたものであろう。先にも書いたように宮廷歌人の生活というものは普通に考えられているように優雅なだけのものではななく、実はたいへん厳しいものであったと思われるのである。 
建保四年(1216)定家は自分の家集「拾遺愚草」をあらわした。五十五才であった。拾遺というのは侍従の唐名で、定家は十四才の時官途を侍従から始め、この当時も再び侍従であったのでこの名を撰んだらしい。この本は上・中・下の三巻に分かれ、その後七十二才まで歌が増補されており、上巻は年代順に百首歌十五、中巻は百二十八首歌一、五十首歌五その他、下巻は四季・賀・恋・雑に部類し、十五首歌以下の作品ならびに贈答歌まで含んでいる。その他に第四巻があるが雑歌と呼ばれ、遊戯的動機から作られたものが多い。四巻全部で三千百二十九首あり、定家の歌の大半を収めている。さすがに専門歌人だけあって歌数が多い。 
ところで定家はこの年の正月治部卿に任ぜられ、年末には正三位に叙せられた。これもまた藤原兼子への猛運動が効を奏したもので、これから先は比較的順調に昇進の道を歩んでいる。それにしても彼の昇進への執念の凄まじさは驚嘆するばかりだ。 
建保六年(1218)定家は民部卿に任ぜられた。宮廷和歌会においても講師(こうじ)をつとめており、後鳥羽院との関係もまずまずに推移している。(講師というのは歌合せで両軍の歌の勝ち負けを判定するレフェリーのことであり、歌合せでは最も重要な役割である) 
この頃鎌倉においては実朝は次第に名目的な将軍職に飽き絶望的になりつつあった。彼は将軍ではあったが政治的な実権はすべて母の政子乃至は北条氏の手にあり、彼の任務は祭祀権にのみ限定されていた。しかも祭祀権を持つ鎌倉幕府の象徴としての将軍の役割はすでに風化しつつあり、武家政権にとって必要不可欠なものではなくなりつつあった。しかも実朝の周りにはおびただしい死が堆積しつつあった。鎌倉の武家政権という怪物は、その権力が安定するまでの途上で、その時々の邪魔者を遮二無二抹殺して前進して来た。大姫の夫だった義仲の子の義高、功臣梶原景時、畠山重忠父子、頼朝の弟で戦功第一だった義経、これも同じ弟の阿野全成とその子、頼朝・頼家の乳母の実家で源家を後から支え続けて来た比企一族、挙兵以来の頼朝の後盾だった北条時政、幕府創立当時の侍所長官だった和田義盛一族、そして兄頼家。これらの実朝を取り巻くあまりにも多くの人々が歴史の大きな歯車に押し潰され殺害されて行った。こういう状況の中で実朝が自分の死を予感しなかったはずがない。事実彼は自分の存在が鎌倉幕府にとって不必要になりつつあることを知っていたと理解するのはそれほど不自然なことではない。 
その理由の第一は実朝の途方もない「大船渡宋計画」である。彼は東大寺の大仏を鋳造した陳那(ちんな)卿(けい)の勧めに従って渡宋を夢み、遂にそれを実行しようとする。これはまことに不可解な行動で、なにしろ現職の将軍が政権を放り出して生命の危険を賭け渡宋しようというのである。これはどう考えても自暴自棄の行為であり、例え船が出来上がっても実朝の渡宋を北条一門が黙って見ているはずがない。だからこの計画は初めから狂気の沙汰としか言いようがないのだが、実朝は実際に由比ケ浜で陳那卿に大船を建造させたのである。この船は翌年完成を見るが遠浅の由比浜では陳那卿がどんなに奮闘しても進水させることができず、浜に残骸をさらすことになり失敗してしまう。陳那卿は何時の間にか逃亡していた。こんな間抜けな話はない。しかし実朝はこの計画に必死に取りついていたのだ。実朝がどれくらい追い込まれていたかを示す好例であろう。振り返ってみると、実朝が歌作に熱中したのも現実社会からの逃避の手段であった可能性は濃厚である。 
箱根路を わがこえくれは伊豆の海の 沖の小島に波の寄る見ゆ 
これは人口に膾炙(かいしゃ)した歌で正岡子規によって万葉ぶり、丈夫ぶりと絶賛されたものである。しかし実朝が生きていた苛烈な環境の中で素直にこの歌を読んでみると、どうやっても子規のような解釈にはなりようがない。箱根権現と伊豆の走り湯権現は二所(にそ)権現(ごんげん)と言って、鎌倉幕府の将軍の公式参拝の対象った。実朝が伊豆の走り湯権現に参詣しての帰り、熱海側から登って来て十国峠の上に立つと、広々とした伊豆の海がまぶしく陽光にきらめいている。その沖の一点に小さな岩礁があり白波が打ち寄せて今にも海の中に没しそうな危なさである。それはまるで今の自分の存在そのもののように実朝には見えたのだ。一旦天候が変わって海が騒ぎだしたら、あん小さな岩礁は一瞬に黒い波の下に消沈んでしまうだろう、実朝はそう思ったに違いない。画かれている風景があまりにも明るいので騙されがちだが、周りが明るくきらきらしいことが却って、実朝の孤独の深さを際立たせているではないか。このように読むことはこの上もなく素直な読み方で、実朝が置かれていた政治的環境と彼の家集の「金槐和歌集」の中のたくさんの歌との関連で考えると、これ以外の読み方はどうしても出て来ないのである。実朝の孤独はその極限に近付いていたのだ。(この点については、「実朝研究」と小説「おれと実朝」に詳しく述べてある) 
渡宋に失敗した実朝は今度は官位の昇進に熱を燃やし、京都に要請して内大臣、右大臣へと急激な昇進を獲得する。大江広元が強く諌めたが実朝は耳を貸さなかったようだ。 
和歌―渡宋―官位と実朝の執念の移動して行くさまを見ると、彼の絶望が深まって行く様子が手に取るように見えるではないか。そしてその翌年承久元年(1219)実朝は頼家の次男で彼の甥に当たる公暁に暗殺されてその生涯を閉じたのであった。 
ところで歌を通じてあれほど交流のあった実朝の死に対して、定家は何の反応も示しておらず「明月記」の記事にも何も現われない。この辺りに「紅旗征戎わがことにあらず」という宮廷歌人としての定家の独特の姿勢が窺えるようである。 
承久元年(1219)定家は「毎月抄」という歌論書を書いた。この「毎月抄」は定家の歌論の中心をなすもので、実朝に贈った「近代秀歌」の記述が極めて簡単なのに比べると、その構成から言っても分量から言っても内容から言っても堂々たる著作である。この書は衣笠内大臣(家良)に贈ったものという説もあるが確定的ではない。只形式は確かに誰か特定の人への手紙の形式でできているので、誰か親しい人へ贈る目的で書かれたものであることは間違いなかろう。 
承久二年(1220)この年宮廷歌人としての定家にとって大事件が持ち上がった。内裏での歌合せの席上定家が詠進した二首のうちの一首が後鳥羽院の逆鱗にふれ、定家は勅勘を蒙って閉門謹慎の身となってしまったのである。 
道のべの 野原の柳したもえぬ あわれなげきのけぶりくらべに 
〈したもえ〉という言葉には草などが芽吹くという意味と、心の中で烈しくこがれるという二重の意味がある。そこで定家は自らの官位昇進についての不満をこの歌に託し、自分の心の中の狂おしい思いもしたもえでいぶるばかりで耐え切れないと訴えたのである。この歌は与えられた題〈野外柳〉にかこつけてあまりにも不躾(ぶしつけ)に院に対する恨み言を述べているのだが、これが院の定家にたいして長年にわたって蓄積されて来た対立感情を爆発させることになったのであろう。これについては「順徳院御記」(承久三、二、二十一条)に次の記述がある。 
〈今夜定家卿、之を召さず 去年詠ずる所の御歌禁有り、今に歌においては召すべからざるの由仰せあり、よって是を召さず、あわれなげきの煙くらべにとよみたりしこと也 数輩に超越せらる、此の如きか、歌道に於ては彼の卿召さず、尤も勝手なり〉 
〈尤も勝手なり〉というのはたいへん困ったことだという意味だろうから、この「順徳院御記」の筆者も定家に好意を持っていないわけで、定家独特の人格を好まなかった人もかなりいたであろうことが察っせられる。こうして定家は宮廷から追放され公的な和歌活動を封じられることになった。このことは二つの強烈な個性が並び立ちにくいこと、殊にその一方が専制的権力者である場合はそれが決定的であることを示すものであろう。後鳥羽院の定家に対する憎しみは院が隠岐へ流罪になりそこで崩御されるまで消えることはなく、勅勘は遂に解かれなかったのである。 
繰り返し言うが政治的権力者とその庇護下にある文化的権威者の対立には、ある必然的なもの、宿命的なものがあり、それは秀吉と利休の関係にもっともよく現われているが、この後鳥羽院と定家との場合はそれに酷似していると言えよう。 
ところで定家のこの失脚に対して同情者もいることはいた。なぜなら歌においてこのような官位についての不満を洩らすことは別に定家だけの特異な話ではなく、一般によく行なわれていたものであり、却って歌によってその立場を哀れに思われ、同情される場合も多々あったからである。そこでこの事件の半年後には土御門院は内々で定家の歌を詠進させているし、後鳥羽院が流罪になった後はまたもとのごとく内裏の歌会にも出席できるようになっているのである。土御門院は承久の乱にも関係を持たず、後鳥羽院や順徳上皇とは行動を別にしていたから、定家に対する後鳥羽院の勅勘事件に対しても別個の見解をもっていたのかもしれない。 
承久三年(1221)この年後鳥羽上皇の倒幕計画が事前に洩れ承久の乱が起った。上皇方は義時追討の院宣に対して諸国の武士が無条件に上皇方に投じ、鎌倉幕府に向って進撃するものと楽観していた。このあたりの上皇を中心とする公卿たちの情勢判断の楽天性は時代の変化にまったく無感覚なところから来ており、あくまで朝廷の権威の絶対性を信じているだけのことだったから、まったく現実離れしていたのも仕方がない。これに対して幕府側もまだ自分の力に関して十分な自負を持つに至っていなかったから、義時追討の院宣は極めて強い精神的圧力になっていたことは確かで、尼将軍政子の叱咤によって悲壮な決意で京都進撃を開始したのであった。しかし既に時代は移り、空洞化した朝廷の権威は鎌倉幕府の実力の前にはひとたまりもなかった。 
かくて上皇方の軍勢はあっと言う間に幕府方に蹴ちらかされ、勝負はあっけなくついてしまった。自らの力を自覚した幕府の戦後処理はまことに迅速且つ峻厳を極め、院側についた武士や公卿は多く斬られ、後鳥羽院は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ流罪、土御門天皇はこの乱には加担していなかったが、自ら進んで土佐へ流された。定家はもちろん承久の乱には無関係であったが、乱後関白になったのは親幕派だった西園寺公経であり、定家は建久五年(1194)妻を離別して新たに西園寺実宗の娘を娶っていたから、権力者の一族との縁戚関係は定家にとって環境好転として働いたものと見え、乱後は以前より社会的にも経済的にもまた精神的にもはるかに安定して行ったことは確かである。  
定家の老後 
貞応元年(1222)定家六十一才である。歌人としての活動は順調で関白家の歌合せでは判者に召されて活躍しており、同じ年の八月には参議を辞し従二位に叙せられている。ところで西園寺公経と藤原兼実の子良経はともに藤原能保の娘を娶り、良経の子道家と公経の娘との間に生れた頼経は、実朝亡き後をうけ鎌倉幕府の要請により鎌倉に降って将軍となった。定家は兼実が関白時代九条家の家司として勤め評判も高く、良経とはじっこんの間柄であったから、この関係も定家にとって大いに優利に働いたに違いない。 
ところで公経は豪奢に傾き北山に別業を営んだ。嘉禄五年(1225)定家父子はこの別業(べつごう)に招かれて見物し「明月記」に〈毎物珍重、四十五尺の瀑布、滝碧、瑠璃、池水、また泉石の清澄、実に比類なし〉と賛嘆している。この四月には公経は桟敷で加茂祭なども見物しており、六月には公経から氷を贈られたり、公経と定家の間には好関係が結ばれ定家もこれを良しとしていたようである。しかし定家の権力者に対する反抗精神はなお健在で、〈生を濁世にうけ、過差(かさ)の時儀に交わるといえども、その前鋒の所作、貧老の好まざるところなり。殊なる なきを以て足るべき哉〉と批判している。これはこんなひどい時代に自分一人だけこんな贅沢なことをやっている公経のやっていることはおれは好きじゃないということだろう。 
この俊兼実の弟で定家とも歌を通じて親しかった慈円が没した。慈円は天台座主をつとめ、歌人としても名高く、その著書「愚管抄(ぐかんしょう)」は当時の評論として有名である。 
さて定家は年末に公経の供をして雪の北山に見物に行っており、子の為家も蔵人頭に任ぜられて、定家の身辺は好環境がつづいている。だがこの年は冬から春にかけて疫病が流行し死者は道路に満ちた。その翌年も干天続きで冬にもかかわらず蝿が群をなしてまるで夏のような異変が起きた。 
安貞元年(1227)定家六十六才。この年は京都では加茂川が氾濫し四条・五条の橋が流失、加茂社では神主の館が流失して妻子所従みな行方不明となり、六波羅の西門は水のため倒壊し、貴船社では拝殿流失という始末であった。そういう状況の中で定家は北条時政の後家の牧の方や為家の妻らと天王寺、七大寺、長谷などに参詣し、さらに三月には牧の方が定家を訪ねている。政治にはまったく関係を持たなかった定家が牧の方のような政治マダムとどういう交渉を持ったのかはわからない。ことによると牧の方の方から権力者に近い定家に何か依頼事項があったのかもしれない。定家は確かにその位は権力者に近い位置にあり、官位も従二位という高官になっていたのである。 
定家はこの年の二月に二度、三月に一度自邸で連歌会を催し、実氏邸での連歌会にも出席するなど、天災地変の中にあっても生活はほとんど変化していない。(後鳥羽院時代の終り頃からは院は歌に代って連歌に熱中するようになり、歌への情熱は次第に冷めて行くのであるが、これは歌より連歌の方が娯楽性が高く気楽であったからで、この当時連歌の会というものは公卿たちにとっては格好のリクリエーションだったのである) 
さてこの十月定家は正二位に叙せられ、父俊成を超えて御子左家としては空前の出世を遂げたのである。ところが定家の官位昇進の執念はこれでもなお終息せずさらに上の官位を求めつづけたのだから恐ろしい。 
安貞三年(1229)大風・洪水・飢饉が打ちつづきその災厄を攘うため寛喜元年と改元されたが、自然の脅威は停止するところを知らず、鎌倉ではしきりに地震が起こり、また洪水のため民家が流された。京都でもこの前年以来群盗が横行し、一条西ノ洞院では防備の武士と盗賊がわたり合い、七十人ばかりが大炊(おおい)御門の辺りで激しい戦闘を演じ、まるで市街戦さながらであったと言う。歌人で「新古今」の撰者であった藤原家隆も盗賊に押し入られ侍一人が負傷している。定家はひどく同情しているが、京都の治安は窮めて悪く、高位の公卿が白昼追剥ぎに身ぐるみ剥がれて裸で逃げ帰ったとか、ある邸で追い払われた盗賊の一団がそのまま退散せず、それではと隣家へ押し入るとか言う事件が頻発しており、定家も「明月記」の中で戦々兢々の言葉を書き残している。しかしそれにもかかわらず定家の生活は一面では優雅なもので、三月為家と毘沙門堂へ観桜に出掛けるとか、同月実氏邸連歌会出席、知家第で和歌連歌会、自邸で和歌連歌会、妻及び女子らが明恵上人から受戒するため栂尾(とがのお)へ行く、日吉社参詣、そして六月自邸にて連歌会、七月自邸文庫掃除及び連歌会、十月明恵上人来訪、十一月道家第において屏風歌撰定など、通常の時代とあまり変化のない生活をしている。 
この五月には加茂川が氾濫して大被害が出ているのだが、「明月記」には一行も書かれていない。実に何とも不思議と言う他はなく、公卿の意識というものは現代のわれわれにはとても理解できない。天災地変はなおもつづく。寛喜二年(1230)定家は六十九才。夏、美濃、武蔵、信濃で降雪あり、にわかに気温低下、美濃国の一部では積雪二寸と言われ、七月にはこの現象が全国的に広かった。 まるで冬のようになり、八月には全国大暴風雨、九月には北陸では寒気のため収穫がないという凶報が定家のものに届けられた。稲が枯れるという急使があちこちから公卿にもたらされ、定家の家司の忠弘も四国の被害が甚大だという報告を伝えている。朝廷ではさ災厄除去の祈祷を諸大寺に命じたが、東寺でさえもその費用を欠いて時期を延引する始末であった。定家は家僕を使って北の前栽をすき起こし麦畑とした。〈少分といえども凶年の飢えを支えんがためなり。嘲るなかれ、貧老他に計あらんや〉と述懐している。正二位という高官の定家ですら領国からの運上(うんじょう)が止まってはこの有様であった。 
十一月に入って季節の異変はますます烈しく、麦が早熟して食用に供され、白河付近の桜が咲き出し、十二月には蟋蟀(こおろぎ)が鳴き、郭公も啼声を上げ、蜩(ひぐらし)の声が響くというまるでメチャメチャな様相となった。 
関東では執権義時が伊豆・駿河の両国で出挙米(すいこまい)を出して窮民の救済にあたり、朝廷でも倹約と庶民救済に努めている。漸く定家の身辺も騒がしくなって来て、所領の越後庄の農民が凶害を訴えて愁訴(しゅうそ)に押し掛けたりしている。京都の飢民は家を壊して薪にして売り歩き、また集団となって富家を襲い掠奪を行なった。路上では次第に餓死者が増し、東北院内には無数の屍が放置されていた。 
寛喜三年(1231)定家はすでに七十才である。定家の家出も近所の路上に放置された屍の腐臭が家内に流れ込む始末で、家人も食料にこと欠き、みな浮腫症にかかった。いわゆる栄養失調によるむくみだ。所領の小阿(こあ)射賀(ざか)御厨(みくりや)では餓死者約六十二人を数えた。この中で定家はさすがに歌会を催してはいないが、「伊勢物語」や「大和物語」などいう閑文字の書写に熱を上げており、自邸の梨を貴顕に配ったりしている。だが九月には娘のために土地を買ったりもしており、やはりわれわれとはまったく感覚が違っているような気がする。 
貞永元年(1232)定家は七十一才だが、この正月権中納言に任ぜられ、同じ九月勅授帯剣を許された。この時は定家はたいへんな喜びようで、藤原兼子への猛運動や、老体のため妻に身代わりに日吉社へ参篭させたりした結果だから当然のことではあった。これで定家の長い長い官途への執念の戦いはやっと終った。年末にはこんな苦労をしてもらった権中納言を辞し、翌天福元年(1233)には出家して明浄(めいじょう)と称した。 
これはいったいどうゆうことだろうか。これらの事実を見ると定家一生通じて悶え苦しみながら求めつづけて来たものが何であったのかが、わからなくなってしまうような気かして来る。それはわれわれ現代人には遂にして理解しがたい謎なのかもしれない。 
この後定家は宮廷の活動からも解放され親しい人たちとの気軽な交際とか、「千載集」や「拾遺集」などの歌集や、「土佐日記」「伊勢物語」などの文学書の書写をしたり、嵯峨の山荘に閑寂を楽しんだり、悠悠自適の日々を楽しみ、仁治二年(1241)八十才の高齢で逝去した。定家がほんとうに自分自身を取り戻し、人生を楽しんだのは官を辞してから逝去するまでの最後の八年間だけであったかもしれない。しかし残念なことにこの期間の大部分はもはや「明月記」が書かれなくなった嘉禎元年(1235)以降に属するので、定家がどのような心境で人生の終りを迎えたかは知ることができない。   
 
八代集
平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて撰集された8つの勅撰和歌集の総称で、具体的には「古今和歌集」(こきんわかしゅう)「後撰和歌集」(ごせんわかしゅう)「拾遺和歌集」(しゅういわかしゅう)「後拾遺和歌集」(ごしゅういわかしゅう)「金葉和歌集」(きんようわかしゅう)「詞花和歌集」(しいかわかしゅう)「千載和歌集」(せんざいわかしゅう)「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)を指します。八代集という区分は、早くは南北朝時代の武将・歌人今川了俊(いまがわりょうしゅん、貞世、1326-?)の諸著に見ることができます。 
これらの和歌集は、前代の漢文学の象徴ともいえる六国史(りっこくし)や勅撰漢詩文集の美意識や表現方法を、我が国固有のものへと昇華させたものです。 
特に、第四勅撰和歌集「後拾遺和歌集」のあたりから、これまでの王朝和歌だけでなく口語や俗語による世俗社会の情景を詠んだ連歌が多く見られるようになっており、勅撰和歌集はここで一つの転換期を迎えています。 
古今和歌集  
醍醐天皇(885-930)の命を受け、紀友則(きのとものり)・紀貫之(きのつらゆき)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)が撰した我が国最初の勅撰和歌集です。なかでも紀貫之が編集の中心となって活躍したと言われています。 
従来の和歌は恋愛・遊宴などの私的な世界を詠んでいましたが、この頃になると、我が国の風物を描いた大和絵屏風の画賛を詠んだ屏風歌や、左右に分かれて勝負を競い合う歌合などにより、宮廷歌へ変質していったと考えられています。 
本集は、和歌に関する撰者の見解や本集の成立経過などを記した序文と、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、別離、羇旅(きりょ)、物名、恋(一-五)、哀傷、雑(上・下)、雑体、大歌所御歌・神遊びの歌・東歌の20巻、約1100首の歌からなります。そしてこのような構成は、その後の勅撰和歌集にも多く踏襲されていきました。つまり本集は、以後の和歌集、ひいては日本文化の規範となった書ともいえるのです。 
後撰和歌集  
2番目の勅撰和歌集で、村上天皇(926-67)の命を受け、藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・紀時文(きのときふみ)・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・源順(みなもとのしたごう)・坂上望城(さかのうえのもちき)が、天暦9(955)年から天徳2(958)年正月までの間に撰した和歌集です。 
拾遺和歌集  
3番目の勅撰和歌集で、「後拾遺和歌集」の序文には花山法皇(968-1008)の撰と記されていますが、その成立事情や撰者については不明な点が多い和歌集です。 
ただ、当時の公卿で歌人としても有名な藤原公任(ふじわらのきんとう)が撰した「拾遺抄」(10巻本)が増補されてできたこと、さらには作者の官位の表記や収録されている歌の詠作年時などから見て、寛弘2(1005)年6月から同4年正月までの間に作成されたと考えられています。 
後拾遺和歌集  
4番目の勅撰和歌集で、白河法皇(1053-1129)の命により、藤原通俊(ふじわらのみちとし)が応徳元(1084)年から同3年9月までの間に撰した和歌集です。 
金葉和歌集  
5番目の勅撰和歌集で、白河法皇の命により源俊頼(みなもとのとしより)が天治元(1124)年以降に撰した和歌集です。 
詞花和歌集  
6番目の勅撰和歌集で、崇徳上皇(すとくじょうこう、1119-64)の命により、藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)が天養元(1144)年から仁平元(1515)年までの間に撰した和歌集です。 
千載和歌集  
7番目の勅撰和歌集で、後白河法皇(1127-92)の命により、藤原俊成(ふじわらのとしなり)が寿永2(1183)年2月から文治5(1189)年8月頃までの間に撰した和歌集です。 
一条天皇の正暦年間(990-95)から後鳥羽天皇の文治年間(1185-90)にいたる17代、約200年間の歌を収録するとともに、文治3年3月に後白河法皇が高野山で保元の乱以来の戦死者の追善法要を行ったことに基調を置く、詠嘆述懐調の歌が多く収められているのが特徴です。 
新古今和歌集  
8番目の勅撰和歌集で、後鳥羽上皇(1180-1239)の命により、源通具(みなもみちとしとも)・藤原有家(ふじわらのありいえ)・藤原定家(ふじわらのさだいえ)・藤原家隆(ふじわらのいえたか)・飛鳥井雅経(あすかいまさつね)・寂蓮(じゃくれん)らが、建仁元(1201)年7月から元久2(1205)年3月までの間に撰した和歌集です。ただし改訂作業はその後も続けられました。 
序文に加え、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、哀傷、離別、羇旅、恋(一-五)、雑(上・中・下)、神祇、釈教の20巻、約1980首の歌からなっています。 
本集には感覚と想像力を高揚させた歌が多く、歌集全体が優雅・優艶・華麗であることを特徴としていますが、また時代を反映した幽寂な歌も収録されています。「古今和歌集」とともに八代集のなかで最も尊重され、中世の歌学思想に多大な影響を与えました。加えて中世後期には連歌の文学的源泉となるとともに、謡曲などにも用いられました。 
また本集が尊ばれる最大の理由としては、その撰者の一人に、中世歌壇の指導的位置を占め、その大宗として大いに崇敬を受けた藤原定家がいたことがあげられます。   
 
近代秀歌 
鎌倉三代将軍源実朝の求めに応じ、承元三年(1209)、四十代後半だった藤原定家が書いて贈った歌論書です。『吾妻鏡』に定家が実朝に贈った旨記されている「詠歌口伝一巻」と同一書とされています。  
伝本は少なくとも十数種が現存しますが、ここには、平成八年に影印版が刊行された『冷泉家時雨亭叢書 第三十七巻(五代簡要 定家歌学)』(朝日新聞社刊)の「近代秀歌(甲本)」を底本とし、私(水垣)が翻字・整形した原文、およびそれに基づき現代語訳したテキストを掲載します。この本は、実朝に送られた原形本にもっとも近いテキストの一つと推測されています。  
底本には「和哥秘々」という内題があり、序文はなく、和歌の歴史・本質・技法などを簡明に論じた上で、定家が「近代」の優れた歌人とみとめる六人―源経信・源俊頼・藤原顕輔・藤原清輔・藤原基俊・藤原俊成―の秀歌を例にあげています。ここでは便宜上五章に分け、現代語訳には簡単な注釈も添えました。  
(定家自身が改編し、秀歌例を全面的に改めた所謂「自筆本」の引用歌は、百人一首関連資料として載せた「近代秀歌(自筆本)例歌」で読めます。) 
一、歌はどう詠まれてきたか  
やまと哥の道、あさきに似てふかく、やすきにゝてかたし。わきまへしる人、又いくばくならず。  
むかし貫之、哥心たくみに、たけをよびがたく、詞つよく、姿おもしろきさまを好て、餘情妖艷の躰をよまず。それよりこのかた、其流をうくる輩、ひとへに此姿におもむく。  
但世くだり、人の心をとりて、たけもいはず、詞もいやしく成行。いはんやちかき世の人は、たゞ思えたる風情を三十一字にいひつゞけんことをさきとして、更に姿詞のをもむきをしらず。これによりて、末の世の哥は、たとへば田夫の花の陰をさり、商人の鮮衣をぬげるがごとし。  
しかれども、大納言經信卿、俊頼朝臣、左京大夫顕輔卿、清輔朝臣、ちかくは亡父卿すなはち此道をならひ侍ける基俊と申ける人、此ともがら、末の世のいやしき姿をはなれて、常にふるき哥をこひねがへり。此人々の思入てすぐれたる哥は、たかき世にも及びてや侍らん。  
今の世と成て、此賤きすがたをいさゝかかへて、ふるき詞をしたへる哥、あまたいできたりて、花山僧正、在原中将、素性、小町が後、たえたる哥のさま、わづかにみえきこゆる時侍を、ものの心さとりしらぬ人は、あたらしき事いできて、哥のみちかはりにたり、と申も侍べし。  
但、此比の後学末生、まことに哥とのみ思て、其樣しらぬにや侍らん。たゞ聞にくきをことゝして、やすかるべき事をちがへ、はなれたる事をつゞけて、似ぬ哥をまねぶとおもへるともがら、あまねくなりて侍にや。  
 
和歌の道は、浅いようで深く、容易いようで難しい。よく弁え、理解している人は、やはり何人もいません。  
昔、貫之は、歌の心[1]は巧みに、丈(たけ)[2]は及びがたく、詞(ことば)[3]は強く、姿[4]の面白い様を好みましたが、余情妖艶の体[5]を詠みませんでした。以来このかた、その流れを受けた輩は、もっぱらこの様式(訳者註:貫之らによって確立された古今的歌風)に心を向けてきました。  
ところが世が下り、人の心が劣って、丈は言うに及ばず、詞も卑しくなってゆきました。まして、近い時代の人々は、ただ思いつきの趣向を三十一文字に言い続けることばかりを逸って、姿や詞の情趣を一向に理解しません。こうして、末世の歌は、譬えて言えば、田夫が花の蔭を立ち去り、商売人が色鮮やかな衣服を脱いだようなものです。  
とは言え、大納言経信(つねのぶ)卿・俊頼(としより)朝臣・左京大夫顕輔(あきすけ)・清輔朝臣、最近では、亡父卿(訳者註:藤原俊成)がこの道を習い伝えた基俊(もととし)という人、こうした人々は、末の世の卑しい姿を離れて、常に古体を希み求めました。彼らの情の籠った、姿のすぐれた歌は、仰ぐべき昔の代にも匹敵するものではないでしょうか。  
今の世となって、この卑しい姿をいささか替えて、古い詞を慕った歌が、たくさん出て来ました。花山僧正・在原中将・素性・小町の後、絶えていた歌の様式[6]が、わずかに見聞きできるようになったのです。道理を悟らない人は、これを「新奇な傾向が出て来て、歌の道も変ったものだ」などと申すこともあるでしょう。  
但し、この頃の後学の若輩は、「こういうのが歌だ」とばかり思い込んで、あるべき歌のさまを知らないのでしょうか。ただ聞きづらいことを旨として、易しく詠むべきところを勘違いし、無理な続け方をして、相応しくない歌を学んでいるように思える輩が、多くなったのではないでしょうか。 
二、歌はどう詠むべきか  
此道を弁へしらん人、かれこれをくはしくさとるべしとばかりは思給ながら、わづかに重代の名ばかりを傳へて、或は用られ、或はそしられ侍れど、もとより道をこのむ心かけて、わづかに人のゆるさぬことを申つゞくるより外は、ならひしる事も侍らず。をろかなるをやの庭のをしへとては、哥はひろくみ、とをくきく道にあらず。心よりいでて、身づからさとる物なり、とばかりこそ申侍しか。それを、まことなりけりとまで、たどりしる事も侍らず。いはんや、老にのぞみて後、やまいもをもく、うれへもふかく、しづみ侍にしかば、詞の花、色を忘れ、心のいづみ、源かれて、物をとかく思つゞくる事も侍らざりしかば、いよゝゝあとかたなく思すて侍にき。たゞをろかなる心に、いま思ひねがひ侍る哥のさまばかりを、いさゝか申侍也。  
詞はふるきをしたひ、心は新しきをもとめ、をよばぬたかき姿をねがひて、寛平以往の哥にならはゞ、をのづからよろしき事も、などか侍ざらん。ふるきを戀ねがふにとりて、昔の哥の詞をあらためずよみすへたるを、すなはち本哥とすと申也。  
 
この道を弁え知ろうという者は、詳しく悟らねばならないことがあれこれと多い。そうは心得ながらも、辛うじて代々の歌道の家の名を伝えるばかりの私は、ある時は用いられ、ある時は誹られましたけれども、もとより修道を好む心に欠けています。他人からは容認されないようなことですが、それを言い続けるよりほか、習い知ったこともございません。  
つたない親の庭訓[7]としては、「歌は、広く求め、遠く聞く道にあらず。心より出でて、自ら悟る物なり(歌を修業する道のりは、読書や見聞を広めればよいというものではない。おのれの心から湧き起こり、自ら悟るものである)」ということばかりです。(不肖の私は)まったくその通りだとまで、遂に知ることはございませんでした。まして、老いに臨んで後は、病も重く、愁いも深く、沈淪していたために、美しい詞の使い方を忘れ、情趣を生みだすような心の泉も涸れ果て、物をあれこれと考え続けることも出来なくなってしまったゆえ、歌道のことは、いよいよ跡形もなく思い捨ててしまいました。ただ、愚かな心に、今希み願う歌のさまばかりを、いささか申し上げます。  
詞は古きを慕い、心は新しきを求め、[8]及びがたい理想の姿を願って、寛平以前の歌[9]を手本とすれば、おのずから良い歌が出来ないわけがありましょうか。古い歌体を希求するがために、昔の歌の詞を改めず、[10]一首のうちに詠み据えたのを、すなわち「本歌(ほんか)とする」と申すのです。 
三、本歌はどう用いるべきか  
彼本哥を思ふに、たとへば五七五の七五の字をさながらをき、七ゝの字をおなじくつゞけつれば、新しき哥に聞なれぬ所ぞ侍る。五七の句は、やうによりてさるべきにや侍らん。たとへば、礒のかみふるき都、時鳥鳴やさ月、久かたのあまのかぐ山、玉ほこの道ゆき人、など申ことは、いくたびもこれをよまでは、哥いでくべからず。年の内に春はきにけり、袖ひぢてむすびし水、月やあらぬ春や昔の、さくらちる木の下かぜ、などは、よむべからずとぞをしへ侍し。  
次に、今の世に哥をならふ輩、たとへば、世になくとも、昨日けふといふばかりいできたる哥は、一句も其人のよみたりしとみえん事をかならずさらまほしくおもひたまひ侍なり。  
 
その本歌について考えますに、たとえば、五七五(訳者註:上句)の七五の字句を古歌そのままに置いて、七七(訳者註:下句)の字句を古歌と同じように続けたなら、新しい歌とは聞いてもらえないことがございます。  
また、五七の句(訳者註:初句・二句)は、場合によっては(本歌取りを)避けたほうがよいでしょう。  
たとえば、「いそのかみ古き都」[11]「ほととぎす鳴くや五月」[12]「ひさかたの天の香具山」[13]「玉ほこの道ゆき人」[14]などといった句は、たびたびこれを用いて詠まなくては、歌が出来ません。[15]  
「年の内に春は来にけり」[16]「袖ひぢて結びし水」[17]「月やあらぬ春や昔」[18]「桜散る木の下風」[19]などは、詠んではならないと(亡父は)教えました。[20]  
それから、現在歌を習っている人々が、たとえ物故した人の作でも、つい最近出来たばかりの歌から、一句でも「あの人の詠んだものだ」とわかるような句を詠み込むことは、避けたいものだと思います。[21] 
四、付言  
たゞ、此おもむきをわづかに弁へ思ふことばかりにて、大方のあしよし、哥のたゞすまひ、さらにならひしる事も侍らず。いはんや、難義など申事は、家々にならひ、所々にたつるすぢ、をのゝゝ侍れど、更につたへ聞事侍らざりき。わづかにわきまへ申事も、人々のかきあつめたる物にかはりたる事なきのみ侍れば、をよばず。他家の人の説いさゝかかはる事侍らじ。  
 
私はただ、こうした方面をわずかに弁えているばかりで、歌の一般的な良し悪しや歌風などについては、全く知識もございません。ましてや、難解語の釈義などといったことは、歌道の家々で教え、方々で立てている説があるようですが、全く伝え聞くこともございませんでした。わずかに理解しておりますことも、人々が書き集めた本と変り映えのしないことばかりですから、書き記すには及びません。他家の人たちの説も、似たようなものでしょう。 
五、近代のすぐれた歌の例 
大納言經信  
夕されば門田の稲葉音づれてあしの丸屋に秋かぜぞふく  
夕方になり、吹きつのる秋風は、門田の稲葉を音立ててそよがせたあと、葦で作った仮小屋の中まで吹き入ってくる。 
君が代はつきじとぞ思ふ神風やみもすそ河のすまんかぎりは  
わが君の御代は尽きることはないでしょう。御裳濯川が澄んでいる間は、いつまでも。 
おきつかぜ吹にけらしな住吉の松のしづえをあらふしらなみ  
沖の方で風が吹いたらしい。白波がここ住吉の岸まで寄せてきて、松の下枝を洗っている。 
俊頼朝臣  
山ざくら咲そめしより久堅の雲井にみゆるたきのしら糸  
山桜の花が咲き始めてからというもの、空遠く、滝の白糸がかかっているのが見える。 
落たぎつやそうぢ川のはやき瀬に岩こす波は千世の数かも  
 これは秀哥の本躰と申べきにや。  
激しく流れ下る宇治川の早瀬で、岩を越してゆく波は数知れない。あなたの齢も、そのように千を数えるほど限りないにちがいない。これらは、秀歌の典型と申すべきでしょう。 
うづら鳴ま野の入江の濱風にお花なみよる秋の夕ぐれ  
鶉が鳴く真野の入江に吹く浜風で、薄が波のように寄せている、秋の夕暮。 
古里はちる紅葉ばにうづもれて軒の忍ぶに秋風ぞ吹  
 これは幽玄に面影かすかにさびしきさま也。  
荒れた里は散り落ちた紅葉の葉に埋もれて、軒に生えた忍ぶ草に秋風が吹く(まるで、昔を偲べとでもいうように)。これらは幽玄にして、面影かすかに、ものさびしげな趣です。 
あすもこん野ぢの玉川萩こえて色なる波に月やどりけり  
明日も来よう、野路の玉川に。川岸の萩の枝を越えて寄せる波は、花の色に映えて美しい。しかも、その波には月の光さえ宿っていたのだ。 
思草葉末にむすぶ白露のたまゝゝきては手にもたまらず  
 これは面白み所あり。上手のし事とみゆ。  
人を思うという名の思い草。その葉末には涙のような白露が結ぶと言うが、私も涙を溜めてあなたを待っていたのだ。それなのに、あなたは白露の「玉」よろしく、「たまたま」来ては、私の手に抱かれることもなく帰ってしまう。まるで、白露が手にたまらずにこぼれ落ちてしまうように。これらは面白く、見どころがあります。名手の作と見えます。 
うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を  
つれない人を私の方になびかしてくれと初瀬(長谷)の観音様に祈ったのだが、初瀬の山颪よ、ただ激しく吹けと祈ったわけではないぞ。あの人はおまえのように、いっそう私につらくあたるばかりではないか。 
とへかしな玉ぐしの葉にみがくれてもずの草ぐきめぢならずとも  
 これは心ふかく、詞心に任せて、学ぶともいひつゞけがたく、まことに及ぶまじき姿也。  
春になると百舌は草にもぐり込んでしまうというが、そのように榊の葉に隠れて、見はるかす限り姿が見えなくなってしまったとしても、私のことを忘れず、安否を尋ねてください。(伊勢から遠い友人のもとにあてた歌) これらは心深く、詞は心のままに表現されて、真似ようとしても、こうは続けられるものではございません。まことに及び難い姿です。 
顕輔卿  
かづらきや高まの山のさくら花雲井のよそにみてや過なん  
葛城の連山に抜きん出て聳える高間の山、いまや桜の花が盛りである。あれを、雲の彼方に眺めるばかりで通り過ぎてよいものだろうか(山に登って花にまじりたいものだ)。 
秋風にたなびく雲のたえまよりもれいづる月の影のさやけさ  
秋風が吹き、夜空に雲がたなびいている。その裂け目から、洩れてきた月の光の、なんという清けさよ。 
高砂のおのへの松を吹風のをとにのみやはきゝわたるべき  
高砂の尾上の松を吹く風の音ではないが、そのようにずっと噂にばかり聞いて過ごさなければならないのだろうか。
清輔朝臣  
冬枯の杜の朽葉の霜のうへに落たる月の影のさやけさ  
冬枯れした森の朽葉に置いた霜、その上に落ちた、月の光のさやけさよ。 
君こずばひとりやねなんさゝの葉のみ山もそよにさやぐ霜夜を  
あなたが来ないならば、私は独りで寝ることになるだろう。笹の葉が深山にさやさやとそよぐ、こんな寒い霜夜を。 
難波人すくもたく火の下こがれ上はつれなき我身なりけり  
難波の海人がもみ殻を焼く火は、下の方でくすぶっている。そのように、表にはあらわさずに恋心を燃やしている我が身なのですよ。 
ながらへば又此比や忍ばれんうしとみし世ぞ今は戀しき  
今はどんなに苦しいと思っても、生き永らえれば、いつか又この頃が懐かしく偲ばれるのだろうか。つらいと思っていたことが、今では恋しく思われるのだから。
基俊  
あたら夜をいせの濱荻折しきていも戀しらにみつる月かな  
もったいないような良夜なのに、伊勢の浜荻を折り敷いて、都の人を恋しがりながら眺める月であるよ。 
契おきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり  
「なほ頼めしめぢが原のさしも草」という歌がありましたが、お約束して頼りにしていたさしも草(ヨモギ)のはかない露をわが命と頼んで、ああ今年の秋もむなしく過ぎてゆくのですね。  
先人 俊成卿  
又やみんかた野のみのゝさくらがり花の雪ちる春の明ぼの  
再び見ることがあるだろうか、交野の御狩場の野に桜狩りにやってきて、花が雪のように散る春の曙に出逢った、このような光景を。 
世中よ道こそなけれ思ひいる山のおくにも鹿ぞなくなる  
ああ世の中よ。そこから遁れる道はないのだ。思いつめた末入った山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いている。 
すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜はの月哉  
浮世が住みづらくなって、隠遁しようと山里にやって来たが、あまりにも隈なく月が照っていて、身を隠すすべもないのだった。 
難波人あし火たくやに宿かりてすゞろに袖のしほたるゝ哉  
難波の海人が葦を焼いて住む侘びしい小屋に宿を借りて、理由もなく袖が涙に濡れることだ。 
立かへり又もきてみん松嶋やをじまのとまや波にあらすな  
再び戻って来て見よう。だから松島の雄島の苫屋を波に荒らさないでくれ。 
思きやしぢのはしがきかきつめて百夜もおなじ丸ねせんとは  
思ってもみただろうか――昔、男が恋の成就を祈って榻の上に百夜丸寝し、その端に印を書き集めたというが、私もそんなふうに、百夜も同じ姿で独り寝しようとは。 
いかにせん室の八嶋に宿もがな戀の煙を空にまがへん  
この思いをどうすればよいだろう、そうだ、室の八島はいつも蒸気で煙っているというが、そこに宿があればよい。私の身から恋の煙を空に立ちのぼらせ、その湯気に紛らせてしまおう。 
 此内に、み山もそよにさやぐ霜夜、すくも焚く火の下こがれ、しぢのはしがき、伊勢の濱おぎ、かやうの哥を本哥に取て、新しき哥によめる、まことによろしく聞こゆる姿に侍也。是よりおほくとれば、わがよみたる哥とみえず、本のまゝにみゆる也。  
 やすき事をちがへ、つゞかぬをつゞくとは、風ふり、雲ふき、うき風、はつ雲、などやうなる物をみぐるしとは申也。たゞいまきとおぼゆる事をかきつけ侍れば、無下にかたのやうに侍れど、心はをのづから見え侍らん。  
この中に、「み山もそよにさやぐ霜夜」「すくも焚く火の下焦がれ」「榻のはしがき」「伊勢の浜荻」、このような歌の句を本歌に用いて、新しい歌に詠むのは、まことに素晴らしく聞こえる姿です。しかし、これ以上多く句を借りると、自分が詠んだ歌とも見えず、もと歌のままに見えてしまいます。  
また、易しく詠むべきことを取り違え、無理な続け方をすると申しますのは、「風ふり」[23]「雲吹き」「浮風」「初雲」等といったような言い方を見苦しいと申すのです。さしあたり思いついたことを書き付けましたので、ひどく不完全な様ですが、私の心はおのずから分かって頂けることと存じます。 
奧書  
本云 承元之比自征夷將軍依被尋先人所注送之秘本也  
弘長二年九月老後更書写之 三代撰者桑門融覚醒判  
以祖父入道大納言自筆本令書写了可為證本 左兵衞督為秀判  
―中略―  
明應八年季龝七日書之 左衛門督為廣 
注  
[1]「心」 歌の内容面をいう。趣向・情趣など。  
[2]「丈」 格調の高さ。「丈の高さ」は、崇高美などの意に解釈されることもある。  
[3]「詞」 「心」に対して、言語表現として見た歌。歌の形式面。表現上の技巧、あるいは語調・声調などの意にかたよる場合もある。  
[4]「姿」 歌の全体としての形、ありさま。  
[5]「余情妖艶の体」 妖艶な美的情趣を漂わせる歌の様式。定家は本書で遍昭・業平・小町らを代表的な歌人として挙げている。定家・俊成女らの「幽玄体」はこれをさらに複雑化し、深化した様式である。  
[6]「絶えていた歌の様式」余情妖艶の体を言う。  
[7]「親の庭訓(ていきん)」父俊成の教えを指す。「庭の訓へ」は、庭を通りかかった我が子に孔子が詩と礼を教えたという『論語』の一節から出た言葉。家庭教育の意。  
[8]「詞は古きを慕い、心は新しきを求め」仮名遣いを除き、原文通り。定家歌論の核心として著名な句。言葉遣いは古風を良しとし、内容・情趣は清新を良しとする。  
[9]「寛平以前の歌」原文は「寛平已往の哥」。寛平は宇多天皇の治世(西暦887年〜897年)。「已往」は本来「以前」の意だが、「以往」と混用され、「以後」の意にも用いられる。この場合、六歌仙時代以前を指すと見られるので、「以前」の意に取るべきである。  
[10]「昔の歌の詞を改めず」底本の原文は「昔の哥の詞をあらためず」。この部分「昔の哥の詞をあらため」とする本もある。  
[11]「いそのかみ古き都」いそのかみ古き都のほととぎす声ばかりこそ昔なりけれ(素性法師 古今集)  
[12]「ほととぎす鳴くや五月」ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな(読人しらず 古今)  
[13]「ひさかたの天の香具山」ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春たつらしも(読人しらず 万葉集・新勅撰集ほか)  
[14]「玉ほこの道ゆき人」夏山のかげをしげみや玉ほこの道ゆき人もたちどまるらむ(貫之 拾遺集)  
[15] 上記四例は、和歌においては慣用句のようになっているので、たびたび使ってもかまわない、ということ。  
[16]「年の内に春は来にけり」年の内に春は来にけり一とせをこぞとやいはん今年とやいはん(在原元方 古今集)  
[17]「袖ひぢて結びし水」袖ひぢて結びし水のこほれるを春たつ今日の風やとくらん(貫之 古今集)  
[18]「月やあらぬ春や昔」月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ばかりはもとの身にして(業平 古今集)  
[19]「桜散る木の下風」桜散る木の下風はさむからで空に知られぬ雪ぞふりける(貫之 拾遺集)  
[20] 上記四例は、著名な秀句であり、作者の個性的な詞遣いであるから、本歌に用いるのに相応しくない、ということ。  
[21]「現存歌人や最近亡くなった人が詠んだ著名な秀句を本歌取りに用いるのは、避けたい」の意。なお本歌取りについては、本書の末尾に改めて触れられている。  
[22]「先人」定家の父、俊成を指す。  
[23]「風ふり」《稲荷山みねのすぎむら風ふりてかみさびわたるしでの音かな》(良経「秋篠月清集」)に用例がある。  
 
歌の口調 / 寺田寅彦
歌の口調がいいとか悪いとかいう事の標準が普遍的に定め得られるものかどうか、これは難しい問題である。この標準は時により人により随分まちまちであってその中から何等かの方則といったようなものを抽《ぬ》き出すのは容易な事とは思われない。  
しかし個人的には、たとえそれは自覚されないにしても、何かしら自ずから一定の標準をもっていて、それに当嵌《あては》めて口調の善し悪しを区別している事だけは否定し難い事実である。  
それでもし各個人の標準を分析的に研究して、何等かの形でその要素といったようなものを抽出する事が出来れば、次には色々の個人の要素を綜合して、帰納的にやや普遍な方則を求める事が出来そうにも思われる。  
口調というものの最も主要な要素の一つは時間的のリズムであるが、和歌や俳句のようなものでは、これは形式上の約束から既にある範囲内に規定されている。勿論その範囲内でも、例えば七、五の「七」を三と四に分けるか二と五に分けるかというような自由があるのでそれらのコンビネーション、パーミュテーションでかなり複雑な変化が可能になる。  
しかし、この要素は最も純粋な音楽的の要素であってこれを研究するには勢い広く音楽やまたあらゆる詩形全体にわたって考える事が必要になる。これはなかなか容易な仕事ではない。  
次に重要な要素は何と云っても母音の排列である。勿論子音の排列分布もかなり大切ではあるが、日本語の特質の上からどうしても子音の役割は母音ほど重大とは考えられない。これがロシア語とかドイツ語とかであってみれば事柄はよほどちがって来るが、それでも一度び歌謡となって現われる際にはどうしても母音の方の重みが勝つ。いわんや日本語となると子音の役目はよほど軽くなると云っても差しつかえはない。  
母音の重要なという事には根本的な理由がある。一体口調の惹き起す快感情緒といったようなものは何処から来るかというと、ちょっと考えた処では音となって耳から這入《はい》る韻感の刺戟が直接に原因となるように思われるが、実は音を出す方の口の器官の運動に伴う筋肉の感覚を通じて生ずるものである。立入った理論はぬきにして、試みにある一つの歌を一遍声を立てて、読み下した後に、今後は口をむっと力を入れてつぶって黙読してみるといい。あるいはもっと面白いのは口を思い切ってあんと開いて黙唱してみるといい。するとせっかくの歌の口調が消えてしまって「ムヽヽヽヽ」とか「アヽヽヽヽ」とかいう妙なものになってしまう。そこで今度は声を立てないで口を自由に且つ充分に動かして読む真似をしてみると、その歌の口調のあらゆる特徴が驚くほど鮮明に頭に響いて来るのである。その際における口のまわりの運動の仕事の大部分が何に使われるかと思ってみると、それは各種の母音に適応するように口腔の形と大きさを変化させるために使われているのである。そしてこういう声を出さずに口だけ動かす読み方では子音を発するに必要な細かい調節はよほど省略されている。云い換えてみると、ただ母音だけを出す真似をすれば歌の口調の特徴がかなりよく分るのである。  
それでもし各種母音に相当する口腔の形状大小を規定する若干の数量が定められれば、歌の口調というものはこれらの量を時間の函数として与える数個の方程式で与えられることになるので、従って口調というものの科学的研究がとにかくも可能になる訳である。  
こういう事を完全に仕遂げる事はなかなか容易な事ではないが、そういう方向への第一歩として、私は試みに次のような事を考えてみた。  
先ず従来の例にならって母音をイエアオウの順に並べる。そしてイからウに至る間に唇は順に前方に突き出て行くものとする。また唇の開きはイからアまで増し、アからウへ向ってまた減ずると仮定する。  
今唇の前後の方向の位置をXで表わし、唇の開きをYで表わすとるると、イエアオウと順に発音する場合にXYで表わされる直角坐標図の上の曲線はざっと半円形のようなものになる。次にXYの面に垂直なZ軸の方向に時間を取る。そうすると色々の母音を順々に発音する状況は一つの空間曲線として表わされる。その曲線は前に云った半円形を基とした半円筒の面の上をあちこち動きながらZの方向に延びて行くのである。  
実際にこういう空間曲線を作る事は厄介であるから、その代りにこの曲線をXZ面とYZ面に投射したものと二つを画いて調べる外はないのである。  
こんなような考えから、私はいつぞや先ずこのXZ面の射影、すなわち唇の出方のいろいろと変る方だけを二、三十首の歌について画いてみた事がある。手近な歌集の中から口調のいいと思うのと、悪いと思うのとを選り分けて、おのおのに相当する曲線を画いてみて両者の間に何か著しい特徴が線の上から見えるかと思って調べてみた。何しろ僅少な材料であるから何事も確かな事は云われないが、ただ一つ二つ気の付いた事がある。  
この曲線は上がったり下がったり、不規則な波状を画いているが、この波の一つの峰から次の峰までの文字数がかなり広い範囲内で色々に変っている。このような波の長さの長いのが多ければ峰の数が少なく、波が短ければ峰の数が多くなるのは勿論である。  
先ずこの波の峰の数を数えてみると、この数のあまり多いのやあまり少ないのはどうも口調があまりよくないらしく思われる。  
それから波の長さがあまり一様なのもいけないらしい。  
私の調べた中で口調のいいと思ったのには、初めに長い波がつづいて終りに短いのがあるか、あるいはその反対のが多いようであった。  
もっと沢山の材料について調べてみたいと思ったきりでそのままになっている。  
そしてもう一方YZ曲線の方はまるで手をつけないでしまったのである。  
もし出来るならば、多数の歌人が銘々に口調のいいと思う歌を百首くらいずつも選んで、それらの材料を一纏めにして統計的に前述の波数や波長の分配を調べてみたら何かしら多少ものになるような結果が得られはしないかと考えるのである。  
このような研究はあるいは実験心理学上の一つの題目にならない事もなさそうに思われる。あるいはもう誰か試みた人があるかも知れないと思われる。  
尤もこういう研究が仮に出来上がったとしたところで多くの歌人には何の興味もない事ではあるかも知れないが、しかし歌人にして同時に科学者であるような人にとっては少なくも消閑の仕事としてこんな事をつついてみるのも存外面白いかも知れない。  
口調がよくてもいい歌とは限らず、口調が悪くてもそのために却って妙味のある歌もあるかも知れないが、歌の音楽的要素を無視しない限り口調の研究は一般の歌人にも無駄な事ではないであろうと思う。  
以上は口調というちょっとつかまえ処のないようなものを何とかして系統的に研究しようとする方法の第一歩を暗示するものだとして見てもらわれれば仕合せである。 
(大正十一年三月) 
 
定家明月記私抄 / 堀田善衛
こんなに先を読みすすむのが惜しく、できるかぎり淡々とゆっくりと味わいをたのしみたいと思えた本にめぐり会ったのは久々のことだった。「惜読」などという言葉はないだろうが、そういう気分の本である。どうしたらゆっくり読めるだろうかと懸念したくらいに、丹念で高潔なのだ。だから紹介にはあまり言葉をつかいたくない。中身といっても、堀田善衛がただひたすら『明月記』を順に読んでいるだけなのだ。が、それが深くて、すごい。なるほど本を読むとはこういうことか、その本を読んだことを綴るとはこういうことかという感慨ばかりがひたひたと迫ってくるのである。読めば読むほど、歴史のその日に入っていける。こういう方法があったのかとただただ呆れるばかりだが、あったのだ。それはまた定家の『明月記』の方法でもあった。大原三寂に会いたいなら、西行に会いたいなら、藤原俊成を知りたいなら、後鳥羽院と付き合いたいなら、そして藤原定家を身受けするなら、この本を読むしかない。のみならず、この本は歴史論にもなっているし、歌論にもなっているし、なにより「文学の水源」というものになっている。著者は、この本の執筆に約40年をかけている。それをバルセロナで紡いで再生させた。まったくこういう本を読むと、なにもかもがむなしくなってくる。ぼくの見方などがとうてい通じないなと感嘆せざるをえないところが、むなしいのだ。どう、むなしいのか、ちょっと感想を綴っておく。
堀田善衛は、定家の「雪さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる」を引いて、よくもかくまでに「雲さえて」「峯の初雪」「有明の」と続けて、そのように月と白色と蒼白色とを重ねあわせるだけで一首の歌を構成するものだと感嘆した。そのうえで、ここに始めも終わりもない音楽が構え出しているのは驚くべき才能であって、かつそのこと自体がひとつの文化を提出しえていると断言していたのだ。そして、加えて次のように綴った。
それは高度きわまりない一つの文化である。そうして別に考えてみるまでもなく、中国だけを除いてはこの十二世紀から十三世紀にかけてかくまでの高踏に達しえた文化というものが人間世界にあった他のどこにも見ることがないというにいたっては、さてこれを何と呼ぶべきかと誰にしても迷わないでいられないであろうと思う。定家のこの歌は、それだけでひとつの文化だというのだ。さらにいえば、ただただそれ自体で完成しているかのような表現の至達の結構を、いったいこれ以上どのように鑑賞したり評価したりすることがわれわれに残されていようかというのだ。しかも、そう思えば思うほど、ではそんなふうに表現を至達しえた定家がいたということが、いったい今日の文化にとっては何なのか、日本人にとって何なのか、という気にさえなってしまうとも綴っていた。どうだろうか。こういう文章を読んでいるとむなしくなるのがわかるであろう。
いったい一首の歌をさえ文化としてしまう才能とは何なのかといえば、これはべつだん問うまでもなく、つねにありうることである。仮に一枚のパルミジャニーノの絵を例にし、堀口大學を驚かせたジュール・ラフォルグの一篇の詩を例にし、またレーモン・ルーセルの一作を例にしてもいいのだが、一つの作品で文化を形成することなど、まことによくあることなのだ。だから堀田善衛が言いたかったことは、たんに一作品一文化を例外的に定家がなしえているなどということではなく、定家は詠んだ歌をもって文化を残すにもかかわらず、その定家はその歌から平気に遠のいていること、そのことに定家の前に残されたわれわれは驚嘆しているということなのだ。なるほど定家の歌はそれ自体で結構を終えている。そういう歌が多い。定家は歌を詠み、その歌をこそ去ってみせているのだ。そこにいてそこにいない定家、そこにいなくてそこにいる定家。そんなふうなことをして、定家は何をわれわれに残してくれたのだろうか。堀田善衛はそれを「文化」と言った。なるほど、まさにそうなのだ。定家は風儀だけを後世に伝えられたのだ。それが三一文字の和歌のように、またそれが小倉百人一首のような、ごくごく小さなセットになっていくような、そういうもので大丈夫と思ったのである。それは、日本が誇る能や茶や花の風儀と近いものだった。そこに創発すべきは「好み」でいいじゃないかというものだった。というような感想を言う以上には、堀田善衛の造詣に加えることなど、何もないのだが、ただし、この本は定家が綴った文章を追読しているのだから、定家自身を外から見るにはいささか別の視点もあったほうがいいだろうから、以下、ぼくなりの定家に関する感想を書いておく。
意外なことに、お能の『定家』には定家が登場していない。それなのに、この曲では定家のイメージが能舞台に響きわたっている。『定家』は、定家の恋情に懊悩する式子内親王の亡霊の物語なのである。中世の芸能者たちは式子内親王を定家の恋人と見て、この曲をつくった。たしかに定家と式子内親王は出会っている。定家20歳のとき、父の俊成に連れられて式子内親王の御所を訪れた。俊成は親王に敷島の道を教えていたとおもわれる。このとき親王は定家よりも10歳ほど年上だった。これをきっかけに、はたして定家が親王を見染めたかどうかはわからない。親王と定家の歌にはいくばくもの共感がひそんでいることから推して、むしろ二人は「歌の恋」をこそ微かにたのしんだのだろう。歌こそ恋であるという、そういう時代でもあった。それにしても、一曲に定家がいなくて定家の一曲であるとは、これはいかにも定家らしい話であるとぼくには思われる。そこにいてそこにいない定家、そこにいなくてそこにいる定家――。定家にはそういうところがある。
藤原定家の歌壇デビューは17歳だった。治承2年(1178)の賀茂別雷社の歌合に歌人60人とともに選ばれた。このとき「神山の春の霞やひとしらにあはれをかくるしるしなるらむ」と詠んだ。神山は賀茂別雷社(上賀茂神社)の奥にある神坐のことをいう。神と「ひとしら」の人との神人饗応の対比をふまえ、そこにひょっとして滓かに連なるかもしれない自分の歌の透明な宿命のようなものを重ねて歌った。すでにうまい。すでにうまいけれども、特徴がない。そして、この特徴がないことが気になるのである。ついで定家は19歳のときに「初学百首」として知られるエチュードを詠んだ。たとえばこんな連なりを詠っている。
おしなべてかはる色をば置きながら秋をしらする萩のうは風
かぜふけば枝もとををに置く露の散るさへ惜しき秋萩の花
月かげをむぐらのかどにさしそへて秋こそきたれとふ人はなし
天の原おまへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ
一首おきに並べてみたが、それでも、この「天の原・色もなし秋」の歌にたどりつくまでの前後の展開はなかなか絶妙である。イメージの多彩な散乱を避け、萩の感覚から秋の気配へ、それから少しずつ月の光へと、まるで何かを消すように向かっている。とくに「秋こそきたれとふ人はなし」という前歌を、次歌で「秋こそ月のひかりなりけれ」と詠んで、あたかも衣を翻すように月の光だけで覆ってしまうのは、すでに定家に何かが兆しつつあることを予知させる。この兆しは「そこにいていない定家、そこにいなくている定家」という印象につながっている。
ふつう、文学史では定家についての議論は父親の俊成との並びで話をすることになっている。俊成の『千載和歌集』に「余情」という感覚の方法ともいうべきが展示されたのを端緒として、これが後鳥羽院の勅撰による『新古今和歌集』に及んで、定家の技量が全面開花したと見る。それがふつうの見方だが、これでは足りない。堀田善衛もそこを超えている。これらの動向はそもそもは九条良経の文芸サロンに発端したもので、この良経のサロンがいまふうにいえば言語表現の実験室になっていった。その起爆となったのが、建久4年(1193)に良経邸でひらかれた歌合史上空前の600番歌合であった。このとき俊成があやつる御子左家の良経・家隆・慈円・寂連そして定家らが、その難解なような奔放なような、勝手なような周到なような、ようするにすこぶる実験意図に富んだ作品を次々に披露して、それまでは主流であった六条家の歌風を圧倒してしまったのだった。まだ御子左家の凱歌とまではいえないが、前衛の登場といえばまさに前衛の登場だった。もっともそのニューウェイブの歌風は、そのころ興隆流行しつつあった大日能忍の達磨宗にあてこすられて、しばらくは「達磨歌」と揶揄された。昔も今もよくあることだ。ただかれらにとって幸運だったのは、このとき、いやいや達磨歌、いいじゃないか、結構じゃないかと太鼓判を捺したのが後鳥羽院だったことである。ここでは後鳥羽院のことを保田與重郎のようには慈しむことはしないけれど、この院の英断はものすごい。ともかくニューウェイブ派はこれで勢いがつく。そして、その勢いの結実がいわゆる新古今調というものになる。しかし、定家の歌の方法をそのまま新古今調の基本骨格にすっぽり入れてしまうのはちょっと不可能なのである。
だいたい新古今には、功罪相半ばするような危うい技巧が満ちている。悪例として掲げるのは忍びないが、たとえば、俊成卿女の「風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」は、寝覚め・袖・花・香・春の夜・夢という王朝歌壇用語が綺羅織りのごとく連打され羅列され、そのうえ「の」が六つにわたって結接するというふうになっている。これではどこに歌の心があるかはわからない。よくいえば全部が全部、同調共鳴しているが、へたをすればそれぞれの歌語がバッティングをおこすか、さもなくばハウリングをおこす。そこを「の」のリズムだけで乗り切ろうというのだから、これはかなり危ういものだった。
一方、新古今ニューウェイブ派には、従来の歌い方を逆転してまでもなんとか新しい方法を確立していきたいという魂胆があった。従来の歌い方というのは藤原公任が『新撰髄脳』の歌体論で指摘したようなこと、すなわち「古の人多く本に歌枕を置きて末に思ふ心を表す」というように、歌枕を先に置いて叙景を前に出し、そのうえで下の句で叙心に入っていくというものである。これをニューウェイブ派はひっくりかえすようにした。上の句の最初にまず叙心がのべられて、そのあとは心の出来事などにふれずに叙事だけをのべる。後鳥羽院を例にすると、「み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春の曙」では、「み吉野の高嶺の桜散りにけり」で最初に詠嘆しておきながら、下の「嵐も白き春の曙」ではたんに叙事に徹するということをやる。従来なら「み吉野の高嶺の桜散りにけり」の詠嘆でおわるところなのである。
それが王朝風というものだった。それで心が残った、心が残響しつづけたのだった。それを後鳥羽院は「嵐も白き春の曙」というふうに景物の描写でおえた。ここには言葉と景物と歌心にまつわる上の句と下の句における変移というもの、ひっくりかえしというもの、転位というものがある。新古今にはそうした方法を徹して試みた。これがかなり成功した。しかし、このようなことが何を意味していたかということは、定家ほどによくわかっていた歌人はいなかった。定家はこのような工夫をしつつ、実はもう少し深い魂胆のほうへシフトしつつあったからだ。ここでは三つのことを指摘しておく。第一に、リアルな出来事やリアルな感情の数々をあまり出さないで、できればたったひとつの景色だけを歌にのこして、その歌の場から去っていこうと考えた。たとえば「大方の秋のけしきはくれはててただ山の端のありあけの月」という定家の歌は、秋のさまざまな実景が暮れて見えなくなって、そこに残るのは有明の月だけだというふうになっている。「待つ人のふもとの道はたえぬらむ簷端の杉に雪おもるなり」も、道には人の気配が絶えて軒端の杉の雪の重みだけがのこっている。叙心の言葉はつかわない。残された景物の表出だけにする。歌の心のアリバイは景物の中に相対化してしまってよかったのである。次のような歌もだいたいそのようになっている。
花の香はかをるばかりをゆくへとて風よりつらき夕やみの空
大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月
かきくらす簷端の空に数みえてながめもあへずおつるしら雪
消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の白露
駒とめて袖うちはらふ影もなしさののわたりの雪のゆふぐれ
そこにあったはずのものが少なくなっていく。消えてゆく。そして何かの景色がぽつんと残っている。その景色を残して、自分はそこを退出してきた。そこには自分もいない。そういう歌だ。景物に心を相対化するだけではすまず、自身のアリバイまでをも相対化しようとしたわけである。相対化というよりも、そのように表現することで、歌そのものから自分が退出してしまうようなところがあったのだ。能の『定家』に定家がいないのは、そういう意味ではまことに象徴的なことなのだ。
歌詠みが歌から退出してしまうというようなことがありうるのだろうか。名歌をつくれればつくれるほど、そんなことはできなくなるのではないか。ふつうなら、そう見たほうがいいに決まっている。けれども定家はそういうことを好んだようだ。そこで次のことが注目されることになる。第二の指摘になるが、定家はいわばリアルなものを負の領域にもちこんで、その場をヴァーチャルな雰囲気に変え、それでいて一点のリアルを残しつつ、その場のリアル=ヴァーチャルな「関係」だけを残響させるという方法をつくろうとしたのではないかということだ。定家はそういうことを好んだのである。そして、私はそのような「好み」をもった定家にこそ惹かれてきた。堀田善衛もそこなのだ。では、定家はなぜこんな感覚をもちたいと思ったのだろうか。それを推理するには、やや話が遠回りになるが、ちょっとだけ日本語の派生関係を調べておく必要がある。
そもそも日本語ではリアルのことはウツツと言った。「現」という字をあてる。ではヴァーチャルは何かというとウツである。ウツホやウツロもウツに派生する。「空」という字をあてる。空蝉の空である。ところがよく比較してみればわかるように、ウツとウツツはひとつながりの言葉なのである。似た言葉になっている。実際にも言語学的な派生関係からみてもウツという言葉からウツホ・ウツロが派生して、そこからウツツという言葉ができあがっていった。つまり、古代日本語の最初のころにウツがあって、そのウツ(空)に何が介入していつのまにかウツツ(現)になった。そういう順番だった。これは考えてみるとかなり奇妙なことである。何もない状態をあらわすウツから何かが実在していることを示すウツツという言葉が親類のように派生していくなんて、おかしなことのように見えよう。しかし、ここには格別な事情があった。古代の日本人はよく鈴のようなものを大切にした。鈴といっても舌がない。内側が刳り貫かれた土鈴のような容器のことである。サナギ(鐸)ともよばれたもので、これを神樹や依代に吊るしたりして、そこに魂の風のようなものを吹きこむのを待った。しばらく心を集中して待っていると、そこに何かがやってくるように感じる。この来臨を「おとづれ」(音連れ)という。このとき古代の観念は言葉を発した。それを言霊といってもよい。ともかくウツなる器に何かを感じて言葉が出たのだ。いったん出た言葉は、なにがしかの意味をもっている。あるいは何かを指し示す力をもっている。その指し示すものはいろいろではあるが、なかには実際に実在するものも含まれる。つまり"現在"するものだ。このようなことを古代ではたぶんに日常にしていたので、ウツ(空)なるものからウツツ(現)が派生することがおかしくはなかったのだった。
以上のことをいいかえると、最初の状態に「空」とか「ない」ということがあって、そこに心の集中や風のいたずらのようなものが介入して、そして実在する「現」なるものが認められるようになったということになる。王朝の歌は、このようなウツからウツツが出てくることを、「をかし」と思い、また「あはれ」と見た。まさに「夢うつつ」をたのしんだ。そして、ウツツから見たウツなるものを「幻」と見た。この見方や感じ方は、自分のそのときの境遇をウツツと見て、そこからウツを幻想するという表現をのみふやしていった。定家はこのウツとウツツの関係をもっと自由にしたかったのである。ウツからウツツに心が移るだけはすまなくなったのだし、ウツからウツツに進み、またウツツからウツが生めなければおもしろくなかったのだ。それには、最初からリアルな「現」を立てて、それを空しく思っていくのでもなく、また最初からヴァーチャルな「空」を想定するのでもなく、いったんそのようなウツとウツツの関係そのものを「負」の状態にして、そのうえでその「負」の状態を強調するための景色を掲げる必要があった。そのうえで、ウツとウツツの両方の「関係」の相互性だけをいつまでも共鳴させるようにすることを試みたかったのである。
夕暮れはいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ
この歌を例に説明をしておく。
この歌は仁和寺宮五十首のひとつで、新古今集にも入っているが、とくに目立つ歌ではない。しかしながら、夕暮に空を見上げるといろいろの雲がいろいろの色で進んでいて、そのうちのどの雲がどこへ運ばれようとしていても、目の前の橘の花には風だけがふくのだという見方には、よく定家の狙いが生きている。しかもこの風は雲を吹き寄せている風ではなく、花橘の香りだけになりつつある風なのである。だから「雲のなごり」と言っている。ここでは定家は、最初こそリアルな雲を見ているようだが、結局は香りだけを残す花橘に目を移している。リアルはヴァーチャルな香りの移ろいに変わっている。が、それだけなら、たんにマクロな目がミクロに移っただけになりかねない。そこには、雲と橘との関係が、リアル=ヴァーチャルな関係として残響していなければならない。そこで「雲のなごりとて」という句が入る。その前に「いづれの雲の」を用意する。そして「とて」に「らむ」が響いていく。そういうことをしたのだった。ウツとウツツを往復する定家が見えはじめている。けれども、ウツとウツツを往復するには、ウツの言葉とウツツの言葉をつかいわけるのではなく、あえてこれらを交えて、さらにこれらを相対することも必要だった。
そこで第三に、定家は言葉をつかうにあたって、実在を指し示す言葉や不在を指し示す言葉では満足できずに、言葉そのものを実在とも不在ともするような詠み方に進んでいった。これをさしずめ「言葉から出て言葉へ出る」と言うといいのかもしれない。念のため、言葉に出るのではなく、言葉へ出た。成功例はいろいろあるが、なかでもこうした試みが最も端的に詠まれたのが、かの有名な三夕の歌である。
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ
ここは何もないように見える。見渡しても浜辺には何もない。浦の苫屋がひとつだけぽつんとあるような、寂しい秋の夕暮の光景である。しかし定家は、その何もない寂しい光景を「花も紅葉もなかりけり」と詠んだ。実際にはそこに花があるわけでもないし、紅葉があるわけではないのだから「花も紅葉もなかりけり」というのは当然のだが、日本の歌にとっては、またその歌を見る者にとっては、言葉としての「花」や文字としての「紅葉」がそこに出るだけで、それは花や紅葉の色さえ見えることなのである。定家はその花や紅葉の鮮やかな色と形を、言葉として文字としてヴァーチャルにつかって、一瞬にして浜辺に日本の歌の歴史の総体を咲かせ、そしてその直後に、たちまちそれらの色や形を、いやそれだけではなく花や紅葉にまつわる記憶の光景をさえたちまち消し去ってみせ、リアルな浦の苫屋の光景に戻してみせたのだ。残ったのは秋の夕暮だけ、そこには定家自身も消えている。それだけではなかった。そうすることで、何がリアルか何がヴァーチャルかは、少なくとも心の中では相対化してしまったのである。このような試みをまっとうするのに、定家は「なかりけり」という一語をつかって「負」を現出できた。そしてまた、秋の夕暮だけに万事を万端まで残してみせた。これが、ぼくが定家は特徴さえ消したいと思っているのではないかと見たことである。
定家の歌に新古今の特徴がないなどと言っているのではない。技巧上も主題上も充分な特徴はある。それは他の歌人と比べてみても遜色はない。しかし、定家の歌の特徴は、そのように比較されて見える特徴ではない特徴にこそ、ひそかな決意を思わせるものがあるように思われるのだ。それをわかりやすくいえば「特徴を消しているという特徴」である。それがさきほども書いておいたように、すでに20歳で兆していた。社会のなかの迷いにまみれた壮年期はともかくも、その特徴のない特徴の流出は、晩年はなおさらとなっている。定家が小倉百人一首を選んだというようなことは、少なくとも自分の歌にこだわった特徴の評価より、百首の歌の総体の相対こそで存分にたのしめたからであろう。
このような定家の「好み」を、はたしてどうよんでいいか。もともと定家という歌人や定家が詠んだ歌を、いったいどのような言葉でぴたりと言い当てるかは、これまでの文学史でも難儀してきた。仮に「無心」というも「有心」というも、また「幽玄」というも、それらの概念をかぶせるのではやや修辞的すぎる。むしろ定家をとりあえず一言で射るとすれば、これは定家の「風儀」そのものなのである。そういう風儀を好んだというしかない。定家の人生は、そして定家の歌は、そこに定家自身すら感じさせないために周到に詠まれた風儀そのこと自体であったろう。風儀は「なりふり」であり、ちょっとふくらませて言っても「なり・ふり・ながめ」に尽きてしまうようなものである。それをしかも言葉だけで、文字だけで表現することにした。それが定家の風儀であった。
すでによく知られているように、定家の歌、とくに「見渡せば」の歌は、武野紹鴎によって、千利休によって、さらに小堀遠州によって、茶の湯の心をあらわす最もぴったりしたものと最高の評価をうけた。このことを、よく考えてみる必要がある。いま日本人の多くは日本の伝統文化をどうして未来につないでいこうかと検討をしている向きがあるようだが、何もそんなことに腐心することはない。紹鴎が、利休が、遠州が、定家の歌に戻ったことを凝視すればよい。まず、歩むことである。そして見渡してみる。そこにはいろいろなものがあり、いろいろな出来事がある。けれども、そこには「ない」ものもある。われわれはいったい、この現実の世に何が「ない」と思っているのか。侘び茶というものは、そこで本来なら唐物の道具や咲き乱れる萩がほしかったのに、いまはそれらがないことを侘び、手元にある一碗の茶碗と、一輪挿しの桔梗でなんとかお茶を入れるにすぎないのだということを表明した。われわれもまた、同じことである。いろいろ欲しいと思う事態も、さまざま望む出来事も、あれこれ交わしたい人物もいる。しかし、たったいまのこのときには、手元にのこったもので工夫をすればよいのであろう。そして、そのときに「ない」から「ある」への創発がおこるのであろう。侘び茶というものもそうしたものだった。
ぼくには、定家の「好み」がそのように残されたと思われる。 
 
挽歌 
日本人は古来より歌を愛し、歌とともに生きてきました。万葉集のなかには、亡くなった人を追悼する〈挽歌〉が263首あります。これは万葉集の全体の5.8%にあたるといいます。この挽歌は本来、野辺送りのときに柩の車を引きつつうたう歌であり、中国では西暦前202年の葬送歌が残されています。こうした古い伝統が日本に伝えられ、万葉集の分類に影響を与えたといわれています。挽歌の起源は葬儀において呪的、儀礼的な意味を持つものと考えられます。つまり死者の魂を呼び戻したり、死者の魂をなだめるために詠んだと考えられます。平安朝以後には挽歌は〈哀傷歌〉と呼ばれるようになりました。
万葉集の晩歌
奈良時代の日本最古の歌集。20巻。巻第三
龍麻呂の死にさいし、班田ノ判官大伴ノ三中の反歌二首
昨日こそ君はありしか思わぬに浜松が上の雲にたなびく
(ほんに、昨日は龍麻呂は生きていたのだ。それに思いがけなくも、今日は火葬せられて、海岸の松原の上の雲として掛っていることだ)
何時しかと待つらむ妹にたまづさの言だに告げず去にし君
(いつ帰って来ることか、国で待っているだろうと思われる細君に、たよりの言葉も告げないで、逝ってしまった君よ)
奈良の家に帰ったとき作った歌三首
人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
(人もいないがらんどうになった家は、旅より耐え難いものだ)
妹として二人たつし吾が山斎は小高く繁くなつにけるかも
(妻と二人で造った自分の前栽は、木が高くみっしりと枝が伸びたことであるよ)
吾妹が植えし梅の木見る毎に心むせつつ涙し流る
(死んだ妻が植えた梅の木を見るたびに、抑えようとしても辛抱できないで、心底から涙が出ることだ)
大伴ノ家持が死んだ妾を悼んで作った歌
今よりは秋風へさむく吹きなむを如何にか独り長き夜を寝む
(これからは秋風が冷たく吹いてくるだろうに、ただ独りどうして、長い夜を寝ようか)
その後、悲しみの心が止まらなく作った歌二首
世の中し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍びかねつも
(世の中は、いつもこのようになると、薄々は知っていたけれど、それでも辛い心は辛抱しかねることだ)
佐保山にたなびく霞見る毎に妹を思いて泣かぬ日はなし
(佐保山にかかっている霞を見る度ごとに、そこに埋めてあるいとしい人を思い出して、泣かぬ日はない)
巻第七くさぐさの挽歌
鏡なす吾が見し君を阿婆の野の花橘の玉に拾いつ
(鏡のようにいつも見ていた君であるのに、この阿婆の野の
秋橘を、薬玉に貫くために拾うように、手に拾うた。つまり火葬した骨を拾った)
秋津野のかくれば朝まきし君が思ほえて嘆きは止まず
(秋津野の話を人がしだすと、あの朝、灰を撒いて風葬したあの人のことが思われて、嘆息が止まない)
秋津打に朝いる雲の失せぬれぱ昨日も今日も亡き人思ゆ
(秋津野にかかっている雲は、火葬の煙である。その煙が消えてしまうと、この世の形は失われてしまうのだ。昨日も今日も死んだ人が思い出される)
古今和歌集
わが国最初の勅選和歌集。20巻。905年頃撰進巻第十六哀傷歌
妹の没したとき詠む小野篁朝臣
なく涙雨とふら南わたりがは水まさりなばかへつくるがに
(わが涙が雨と降ってほしい。三途の河がそのために水がまさったなら、渡れずに帰ってくるがために)
紀友則の没したとき詠む貫之
あすしらぬ我身ど思えど暮れぬまのけふは人こそ悲しかりけれ
(明日の命も知れない我身だけれど、暮れない間の今日は亡くなった人がただただ悲しい)
父の喪中に詠む忠岑
ふぢ衣はつるる糸はわび人の涙の玉のをどぞなりける
(藤衣のほつれてくる糸は、嘆きに沈んでいる自分の涙の玉を、貫らぬき通す緒となった)
喪ほこもっている人を弔問におとづれて詠む忠岑
すみぞめの君がたもとは雲なれやたえず涙の雨とのみふる
(墨染めの君が喪服のたもとは、雨を含む黒雲なのだろうか。そこから絶えず、涙が雨のように降る)
病んでおとろえた時詠む業平朝臣
ついにゆく道とはかねてききしかど、きのうけふとは思はざりしを
(死ということは前から知っていたが、昨日今日のこととは、思ってみなかった)
新古今和歌集
鎌倉初期の第八勅選集。20巻。所収1,978首巻第八哀傷歌
醍醐の帝が亡くなられて後、藤原定方に送る中納言兼輔
桜散る春の末には成りにけりあままも知らぬ眺めせしまに
(桜の散る春の終になってしまった。晴れ間もなく長雨の続いている間に。また涙の乾く間もない、嘆きに沈んでいた間に)
前大納言が春亡くなり、野辺の送りをして帰ったときに前左兵衛督惟方
立ちのばる煙をだにも見るベきに霞にまがう春のあけばの
(立ち上る火葬の煙だけでもせめて見たいのに、霞にまぎれて見えない、この春の曙)
共に住んでいた女が亡くなってしまった頃、藤原為頼朝臣の妻が、身まかった折り贈る小野宮右大臣
よそなれどおなじ心ぞかようベき誰も思いの一つならねば
(離れているが、きっと同じ心が通っていることです。貴方も私も悲しみは一つだけでなく、人の身の上も思っているので)
法輪寺の参詣の途中、大納言忠家の墓に参って詠む権中納言俊忠
さらでだに露けき嵯峨の野辺にきて昔の跡にしおれぬるかな
(ただでさえ露っぱいならわしの嵯峨野に来て、亡き人の昔を偲ばせる跡で、涙に袖もしおれたことよ)
母が死んだ年の秋、以前住んでいたところに行って藤原定家朝臣
たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人こうる宿の秋風
(わずかの間のもろい露も、わが涙も、共に留まらずさかんにこぼれる。亡き人を偲んで恋慕う宿に吹く、秋風のために)
雨中の無常ということを太上天皇
亡き人のかたみの雲やしいれるらん夕べの雨に色は見えねど
(火葬の煙が亡き人の形見となった。その雲が今は時雨となってこぼれてくるのだろうか。夕方の雨に紛れ、その様子は見えないが)
右大将道房の死後、手習いをしていた扇を見付け詠む土御門右大臣
てすさびのはかなきあととみしかどもながき形見と成りにけるかな
(手慰みの筆の跡と思って見ていたけれど、永久の形見と成ってしまった)
藤原兼家のために、万燈会が行なわれたおりに東三条院
みな底にちぢの光はうつれども昔の影は見えずぞありける
(水底には、数かぎりない光は映ってるが、亡き人の姿は見えないことだ)
公忠朝臣の身まかった頃詠む源信明朝臣
物をのみ思い寝覚めの枕には涙かからぬあかつきぞなき
(亡き父のことばかりを思って寝る、その寝覚めの枕には、涙のかからない明け方はない)
前参議教長が重体となったと聞き、その兄が見舞いに行った間に、身まかったと間き贈る寂蓮法師
尋ねきていかに哀れとながむらんあとなき山の嶺の白雪
(尋ね来て、どのように身に泌みて眺めるのでしょう。その人は死んで、残すものもなくなった高野の山の、その嶺の白雪を火葬の煙かと思って)
題知らず小野小町
あるはなくなきは数そう世の中にあわれいづれの日まで歎かん
(生きている人は亡くなり、亡くなった人は数を加える、この世のなかに、私はいつの日まで生きて歎くのであろう)
山家集
鎌倉初期。西行の歌集。二巻。歌数1,569首
うら盆の夜、火葬場のある船岡に行って詠む
いかでわれ今宵の月を身にそえて死出の山路の人を照らさん
(何とかして自分は、今宵の月を身にそえて、死出の山路を越えていく人を照らしたいものだ)
上人が重体になった時、月の明りをみて詠む
もろともに眺め眺めて秋の月ひとつにならんことぞ悲しき
(一緒に秋ごとに月を眺め、悟りに達しょうと願ってきたが、上人が死に、一人で仰がねばならぬようになるのは、悲しいことである)
縁ある人が亡くなり火葬場に行った帰りに
限りなく悲しかりけり鳥辺山亡きを送りて帰る心は
(鳥辺山に亡き人を送り、火葬にして帰ってくる心は、この上もなく悲しいことである)
信西入道の後妻が亡くなった後に詠む二首
送りおきて帰りし野辺の朝露を袖に移すは涙なりけり
(袖が濡れたのは、墓所の帰りの野辺の朝露のためと思ったが、実は涙のせいであった)
船岡の裾野の塚の数添えて昔の人に君をなしつる
(船岡の墓所に、新しい墓を添えて、あなたを故人のなかに入れてしまったことである)
七七日の法事のあとに詠む
桜花散り散りになる木の下に名残りを惜しむうぐいすの声
(散るのを惜しんで桜の木の下で鳴くうぐいすの声は、桜が散るように別れていく人々に、名残りを惜しんでいるように聞こえる)
返し小将脩憲
散る花はまた来ん春も咲きぬべし別れはいつか巡りあふべき
(散っている桜の花はまた来年咲くでしょう、しかし死別した母には再びあうことはできないでしょう)
同じ日、雨のなか
あわれしる空も心のありければ涙に雨をそふるなりけり
(空もあわれを知る心があるので、別れの涙に添えて、雨まで降らせている)
西行が極楽往生を遂げたあと、都にいた歌人たちは涙を流さない人はなかった。中でも、左近中将定家は菩提院の三位中将のもとに、西行の死を告げた手紙の奥に記す
望月の頃はたがわぬ空なれど消えけむ雲の行方悲しも
(釈迦と同じ2月15日ごろ死にたいという願いどおりあの人は空のかなたに旅立たれたが、残された私は消え去った魂の行方を悲しく思っています)『西行物語』
昭和万葉集
昭和元年〜5年
島木赤彦を悼む窪田空穂『さざれ水』
負うところ少なからざる君なりとさみしみつつも香を焚き継ぐ
古泉千堅を悼む釈超空『春のことぶれ』
なき人の今日は七日になりぬらむ遇ふ人もあふ人もみな旅びと
人を偲ぶ生田蝶介『洋玉蘭』
やつぎ早に煙草をすひし人なりしいのちもかくぞ燃えつくしけむ
若山牧水の死重田行歌『創作』
白布をとりて目守ればありし日のあつしままにて言をのらさぬ
昭和12〜14年
子の死神原克重『玉樟』
かけ衣にあかつき近き風吹けば吾が子は生きてうごくかと思う
知久正男『童女』
よくなりて食べんといいし果の実は山と盛りたり位牌の前に
妻の死川上嘉市『妻をいたむ』
床の向きかへてわづかに庭前のさくら見せたり病むわが妻に
昭和23〜24年
妻を偲ぶ梶谷善久『朝日歌人』
臨終のその日もかそかにほほえみし妻をうずむる墓石の下に
夫よ長谷川幸子『くさふぢ』
子らのこととぎれとぎれに言いのこす夫のいまはの面うつくしき
昭和32〜34年
母の死的場一晃『水車の音』
母が遺体車に移しまいらせて「面会謝絶」の紙はぎにけり
夫の死生駒あざ美『喜寿』
意誌なき夫みとりつ子らにしらす手紙書きつぎ朝あけそめぬ
子を偲ぶ石川義広『雪崩』
雪ふかきこの道をゆきて帰らざる子の声のごどけふも吹雪ける
昭和39〜42年
夫の死初井しづ枝『冬至梅』
さようならと言ふを追ひ打ち閉す柩花の中にみ顔消え去る
妻の死吉野善次郎『アララギ』
死ぬるなと言ひて手をとればつぶりたる妻の眼より涙垂れたり
母を偲ぶ甲斐雍人『あかしや』
またかくるテープ回りて亡き母が笑いくづるる箇所に近づく
母を偲ぶ近藤千鶴子『ひのくに』
亡き母の足袋が箪笥に小さし