蕎麦

 

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二八蕎麦
二八蕎麦1  
天保の頃、江戸時代も末期の江戸には「二八蕎麦屋」という蕎麦屋が沢山あった。歌舞伎にもよくこの「二八蕎麦屋」が登場、屋台であったり、一応店構えをした蕎麦屋であったりした。 
2x8=16から「二八蕎麦」というのは、カケ蕎麦でもモリ蕎麦でも一杯の値段が、16文の安蕎麦のことを言った。また蕎麦粉8に対して、うどん粉2の割合で打った蕎麦のことも「二八蕎麦」と言う。 
河竹黙阿弥の作品の中で「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」という作品があり、前半部分を特に「河内山(こうちやま)」後半部分を「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」と呼ぶ。「雪暮夜入谷畦道」は主人公の片岡直次郎を「直侍」と呼ぶことから、縮めて「直侍(なおざむらい)」とも呼ぶ。 
この「直侍」が入谷田んぼの畦道(台東区入谷)にある「二八蕎麦屋」でカケ蕎麦を食べる場面がある。直侍役者が、舞台の上で本当の蕎麦を食べる。「直侍」というキャラクターは、何といっても幕府御家人の端くれで、お尋ね者(指名手配)の身だが、ちゃきちゃきの江戸っ子である。顔は白塗り、頬被りをして尻端折り(しりはしょり)の格好で、うっすらと雪の載った傘をさして登場する「直侍」は美男子である。肝っ玉の小さい小悪党だが、なかなか良い男振りで玄人筋にもよくもてた。 
そんな「直侍」だから蕎麦の食べ方も江戸っ子らしく粋で上手った。隣りで丈賀(じょうが)という名の按摩がやはり蕎麦を食べるが、こちらは食べ方が野暮ったかった。口でクチャクチャ噛んで、汁をイッパイつけて食べ、ダサかった。丈賀役者は「直侍」の蕎麦の食べ方の格好よさを引き立たせる為にも、わざと野暮ったく食べた。「直侍」は江戸っ子らしく汁はあまり付けず、箸でさっと蕎麦をすくって、さっと汁を付ける。ツツツッと音を立てて、まるで飲み込むように蕎麦を口の中にかき込むところは、役者の腕の見せ所だった。
 
二八蕎麦2 
「二八そば」という言葉は江戸時代に出現したが、その江戸時代すでに言葉の語源が分からなくなってしまった不思議な言葉である。現在に至るまで議論されてきた語源説をみると、「掛け算の九九・十六文価格説」「粉の配合割合説」「九九の価格から配合割合への移行説」などが主なものだ。 
十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説は、説得力があって理解しやすいが、江戸時代の蕎麦の値段が十六文だったのは江戸後期の70-80年間だけだった。それ以前の六文とか八文、十二文など物価と共に移り変わってきた中で出現してきた言葉の説明になじまない。もともと二と八の掛け算で十六を表している例は他にもあった。太平記(1368-75)に「二八の春の比(ころ)より内侍に召されて君主の傍に侍り」とあり、他にも「二八の時」などとくに女性の年齢・十六才の異称として使われていた。 
配合割合説は、日常の食べ物などを調合する過程で、経験や勘による配合が優先されていた時代のことで粉の分量などは大まかだった。また二八そばだけでなく二六そばも出現している。そして小麦粉と食塩水だけが原料のうどんでも二八うどん・二六うどん、更には二六にゅうめんなどがあって配合比率ではとても説明することのできない矛盾に突き当たる。このような例はいくつもあるが、例えば宝暦前の「絵本江戸土産」や文化年間の「東海道中膝栗毛」などに登場する「二六蕎麦」という看板などがそれである。
 
「二八」という言葉の使われ方の推移をみると、そばが十六文で定着してからは「九九・価格」(ニハチ十六モン)で納得されて使われた期間が長い。ところが幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになっていよいよニの根拠が無くなった。一時期は単に「二八そば」という呼称だけが習慣として残った。 
やがて「二八」はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとなり、さらに高品質イメージに加えて、「打つ側も味わう側も」ちょうど頃合いの配合比率であったところから、「粉の配合割合」を表す言葉として現在に至った 。 
「二八・十六文の価格」から「粉の配合割合」に移行したとする説は、初めは「九九の二八価格」の時代であったが物価が高騰し矛盾が生じ、次第に「粉の配合割合」を表すように移り変わったとする説明である。文政・天保の十六文が定着してから今日に至るまでの経過では説明が付くが、それ以前にあった八文や十二文の頃の説明にはなっていない。どうしても十六文が出現する以前が謎として残る 。
   
二八蕎麦3 
蕎麦の始まりは十割で、蒸した蕎麦を以て蕎麦とした。蕎麦切りの名が文書に登場するのは天正二年(1574)の長野県大桑村「定勝寺文書」で、其処に「ソハキリ」なるものが振舞われたとある。 
江戸時代初期は、江戸も上方食文化の影響が強く、饂飩が麺食の主流だった。江戸に蕎麦屋が増えたのは文化文政の頃からだ。冷たい蕎麦に醤油味の蕎麦汁を浸して食べるようになったのは、蕎麦切が洗練され「つなぎ」がいろいろな素材で工夫され、小麦粉を二割ほど混ぜて捏ねた「二八蕎麦」が生まれたからである。当時は小麦粉(饂飩)の方がはるかに高価で、蕎麦などは救荒食でしかなかった。「切りべら」とは伸した蕎麦を畳んで切る切り幅を指すが、一寸幅を何本に切るかという細打ちの腕を競い合った結果、「切りべら二十三本」で蕎麦一本あたり幅1.3mmの細い蕎麦が基本となった。 
江戸で何故このように細い蕎麦が持て囃されたかと云えば、喉越しが良く、小麦粉を多少混ぜた方が蕎麦汁との相性も良かったからだ。短気な江戸っ子は、酒はちびちび呑んでも食べる時は早い。細切りで滑りの良い二八蕎麦は、辛い蕎麦汁にチョイと浸けてさっと食べる手繰り方に合っていたし、客の顔を見てから蕎麦を打つ店にも合っていた。 
江戸蕎麦の三大系統は「更科」「砂場」「藪」だが、「更科」は将軍家や諸大名に献上した白く極細の蕎麦で、蕎麦汁はやや甘め。「藪」の蕎麦は下町の職人に好まれた甘皮を含んだ田舎蕎麦で、汁はその分辛目に仕上げる。「砂場」は主に商人に好まれた蕎麦屋だが、蕎麦も汁も「更科」や「藪」の中間に位置する。 
それぞれの蕎麦屋は代々蕎麦汁の仕込を一子相伝として門外不出としたが、蕎麦粉の良し悪しはその年の出来によって大きく左右されるのに対して、蕎麦汁は素材の質により常に一定の水準を保てたからでもある。 
江戸蕎麦は房総で生まれた濃口醤油に亀節や鯖節などの雑節を使って仕込んだ蕎麦汁が味の基本となった(鯖節の原料も真鯖より落ちる胡麻鯖で江戸時代は房総沖で獲れた)。本節からあっさりした出汁を取る上方饂飩に対し、江戸蕎麦では雑節をじっくり煮込んで濃厚且つ辛い蕎麦汁を作ったから、雑味の強い田舎蕎麦でも負けることがなかったと言える。 
   
二八蕎麦4 
一つには江戸時代の初期に蕎麦が一杯八文だったもので、二杯で十六文ということで、二八という名前が付いたいわれている。またそば粉の割合をあらわしたもので、そば粉が八割でつなぎのうどん粉が二割という意味で二八と言われる場合もある。二八蕎麦というのは、蕎麦屋で普通に使われている割合である、それが3:7、4:6になったりと店によっていろいろ配合比率がある。蕎麦自体は水で練ってもくっつかず、そば粉百パーセントでつくろうという場合はお湯で練る(グルテンが出てきまして繋がる)。そこに二割のつなぎを入れることにより長いものになる、今のつなぎになる前は、米のとぎ汁、豆の潰したもの、布海苔、草の葉等をつなぎにして作られたようだ。
 
二八蕎麦5 噺「時蕎麦」 
夜鷹蕎麦が夜、街を流している。呼び止めると、出来るものは花巻としっぽく。熱いしっぽくを頼み、見ると行灯の柄が「当たり矢」縁起がいいと誉める。 
話しているとすぐに蕎麦が出てくるので「江戸子は気が短いので早くてイイ」と。見ると割り箸。「きれい事で良いナ、その上、器が良い、臭いも良い、俺はソバッ食いだから分かる、わざわざ永坂まで食いに行くんだゼ」「蕎麦はこう細くなくっちゃいけねー、うどんじゃねぇーんだから、その上、腰がきいてるゼ」「それから竹輪をこんなに厚く切っても良いのかい。それに本物じゃねぇーか、竹輪麩なんかまがいもんで病人が食うもんだ。」「夜鷹蕎麦にしては出来過ぎだ、なぁ」おつゆまで全部飲みきり、一人で褒めちぎっておいて「いくらだイ、16文か、銭は細かいけど良いかい」「それでは、ひい、ふう、みい、・・・なな、や」と数えたところで「今、何刻(なんどき)だ」「九つで」「十、十一、十二・・・十六」と一文かする。
 
二八蕎麦6 
蕎麦自体は昔から食されていた。しかし、現在のような麺類としての蕎麦の歴史は比較的新しい。そもそも当時、蕎麦は菓子の材料として使用されていた。それが17世紀半ばから末頃、創意工夫の中から麺類としての蕎麦が生まれたようである。この新商品はたちまち大ヒットし、それを専門に扱う店も生まれた。蕎麦屋の誕生というわけである。 
うどんの成立は良くわからないが、現在のかけうどん・蕎麦のような形態が一般化したのはおそらく同じ頃だろう。元が菓子だから、当時は一杯の量は結構少なかった。あくまで小腹が空いたときちょっとかきこむ、といった類のメニューだったらしい。ちなみに、関東は蕎麦、関西はうどんといわれる。 
しかし、江戸時代には関東でも関西でも両方食べられていた。同じ店、そばとかうどんとかを扱う店を関東では蕎麦屋、関西ではうどん屋と呼称したらしい。そして両者を統合したけんどん屋、という表現もあった。
 
二八蕎麦7 
原材料 / 蕎麦粉8に小麦粉2で作るという説。まずこれは江戸時代の表現にそぐわない。江戸時代なら蕎麦粉10に小麦粉2という風に表現するのが普通だ。同様に水の割合という説もあるがやはり疑わしい。そもそも、当時も今も蕎麦の配合割合は天候や気温で変えるのが普通。ましてや当時の蕎麦屋など適当さが売りといってもいい商売。 
値段1 / 二八で十六文だったからという説。しかし二八蕎麦が登場したときは十六文ではなかったので、少なくとも語源ではないことは確かだろう。 
値段2 / 二杯で十八文だったからという説。確かに最初に言葉が生まれたときはそのくらいの値段だった。最初の十を省略するのは江戸の文化的伝統にあっている。ちなみに「お代わり」は日本の食文化では重要な伝統と言っていい。
 
二八蕎麦8 
二八蕎麦という言葉が生まれたのは1720年代のようだ。しかしその言葉はそれほど広まらなかった。あくまで特定の蕎麦屋をさす言葉だったに過ぎない。その後、18世紀初頭、化政文化の時代。二八で十六文、とう分かりやすいゴロあわせの蕎麦屋が大流行。あちこちでマネされ、江戸に一大蕎麦ブームが訪れた。その流れの中で二八蕎麦という言葉も一般名詞として定着。十六文という値段も定着した。 
そして化政期の後半には既に語源は分からなくなっていた。この時代の文献は多く残っているのだが、そこに推測からウソが載っていたりするのがこの問題をややこしくする。つまり語源がなんであろうと、言葉が広まるときには意味を失っていた。二八蕎麦が江戸っ子の心を広く捉えたとき、それは「十六文」という意味になっていたのだ。時代の変化に伴い言葉の意味が変化することは現在でもよくある。これもそういった流れの一つだろう。例え正しい表現でなくても、多くの人がそう認識すればそれが正しい言葉になるのだから。ちなみに「二八」は広く定着したと見え、蕎麦が十六文でなくなっても消えなかった。以後も二八は蕎麦をさす隠語として長く命脈を保つことになる。
 
二八蕎麦9 
江戸時代の蕎麦屋の看板に二八蕎麦の文字をよく見る。二八十六文の掛け算で、蕎麦代金十六文を意味する説。一番旨い混合割合はソバ粉八分に小麦粉二分とする説。逆にソバ粉二分の小麦粉八分だという悪口もある。 
そば切りはもともとそば粉だけで作るのが正統派で、これを生蕎麦と言い、殆んどの蕎麦屋ののれんに「生蕎麦」と書かれていた。 
そば粉のつなぎにはヤマノイモ・卵・ヨモギ・ヤマゴボウなどが使われる。 
日本のソバの生産は北海道がトップで鹿児島・茨城と続き、「信州信濃の新ソバよりも」といわれる長野は6位。日本の総消費量の60%までがブラジル・カナダ・中国・インドなどからの輸入によって賄われています。原産地については諸説が有るが、中国雲南省が有力。 
ソバは畑地に栽培される一年草で、白い花が多いが赤い花もある。5-6月に播いて、7-8月に収穫する夏ソバ。7-8月の立秋前後に播いて10月頃に収穫するのを秋そば。秋早く収穫した「そば」は香気が強く新そばという。 
食用以外にもそば粉に食塩小量を加え、水でこね、腫れ物に直接貼り付ける民間薬や、茎葉を焼き、灰を水につけて灰汁を作り、洗濯・洗髪に使用している利用もあります。 
抗血管浸透薬であるルチンが全草に含有されている。ルチンは水溶性で、そばを茹でた湯に溶け出すので、そばを食べた後には必ず蕎麦湯を飲んだほうが良い。  
  
蕎麦

 

蕎麦を食べる習慣は古代以来の伝統をもつが、江戸時代以前は、蕎麦粉に水を加えて団子状にした蕎麦がきに汁をつけて食べるのが主流であった。江戸幕府が成立して間もない17世紀中頃、繋(つな)ぎに小麦粉を使う製法が伝来し、細く切った麺(めん)をつゆに浸して食べる蕎麦切り、現在のざる蕎麦が生まれた。18世紀の中頃には、蕎麦を入れた丼につゆをかけるぶっかけ蕎麦が手軽さもあって人気を博し、寛政年間(1789-1801)頃には、かけ蕎麦の名称が定着していた。蕎麦の値段といえば、寛文4年(1664)以来、「二八」の語源ともいわれる16文が相場。しかし、幕末期の物価高騰により24文になると、看板から「二八」を削りとる者もいたが、「三八そば」の呼称はついに現れなかったという。   
蕎麦湯 
蕎麦を食べた後に蕎麦湯を飲む風習は、先ず信州で始まり、それが江戸に広まったとされている。年代は明らかではないが、元禄以降と推定されており、もともと蕎麦湯ではなく「ぬき湯」と呼ばれていたといわれる。元禄十年(1697)刊の「本朝食鑑」は早くも蕎麦湯を取り上げ、蕎麦を食べた後にこの湯を飲まないと必ず病にかかる、とも解釈される内容のことを書いている。
 
起源と伝播 
栽培ソバの起源地は、東アジア北部、バイカル湖から中国北東部に至る地域とされてきたが、近年、多くの研究から、カシミール、ネパールを中心とするヒマラヤ地方、中国南部の雲南地域からタイの山地にかけて東西に細長く分布する野生ソバが発見された。この野生種には二倍種と四倍種の二型が分布しているが、栽培ソバはすべて二倍種であること、また野生二倍種の分布は野生ソバの分布地域のうち、雲南地域に限られていることから、栽培ソバの起源地は雲南地域であることが確実となった。 
栽培ソバには二種あって、日本、ソ連、中国、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、南アメリカ、アフリカなど世界に広く栽培されている普通ソバと、ソ連、中国、ヒマラヤ地域で一部栽培されているダッタンソバがある。ダッタンソバは普通ソバと比し苦味が強いのでニガソバともいい、食用以外にも飼料に利用される。中世の頃ダッタン人によってヨーロッパに導入されたため此名がついた。中国南部の雲南地域で野生種から栽培種が成立したことから、中国における栽培はかなり古いと考えられるが、史料としては7-9世紀に初めてその記録がみられる。又日本へは中国から朝鮮半島を経て畿内に伝えられた(一説によると伝教大師が唐から持って帰った蕎麦の種子がもとだとの説もある)。もっとも古い記録として「続日本記」巻九に、養老六年(722)に干ばつが起き、元正天皇(蕎麦業者の祖神)が将来に備えてソバ栽培を奨励したとある。詔ではソバには「蕎麦」の字が当てられているが、古訓ではソバムギと読んだ。したがって、「蕎」の一字だけでソバの意味を表していることになる。またソバの実をムギの実に擬して麦(牟岐)の字を付けたとも考えられる。粉にすると、見たところムギと変わらないからで、貝原益軒は元禄十三年「日本釈名」下で、「そばむぎという意まことの麦にあらず、麦につぎて良き味なりという意、民の食として麦につげり」と解説している。
 
蕎麦1  
タデ科の一年草。救荒作物のひとつ又蜜源食物としても利用される。果実は三角錘形、黒褐色あるいは、銀灰色で、重さは1000粒でも16g-35gしかない。冷涼な気候で良く育ち、生育期間は2-3カ月と短く、早生の夏そばと晩生の秋そばの生態型が区別できる。 
国内は北海道が全国の半分を生産し、鹿児島、長野、福島、茨城、栃木。蕎麦の主な輸入国、中国、アメリカ、カナダで全輸入量の98%、国内総需要の80%近くは、この三国産の蕎麦粉でまかなわれている。
 
蕎麦2 
栽培種として普通蕎麦(普通種)とダッタン蕎麦(ダッタン種)。野生種として宿根蕎麦(宿根種)。このうち世界各国で栽培されているのは普通種で、たんにソバという場合はこれを指す。ダッタン蕎麦(韃靼蕎麦)は別名「苦蕎麦」ともいう。普通種のそばは匂いと味が甘いので、甜蕎、甜蕎麦、甜苡麦(テンキョウバク)などともいい、ダッタン種のニガソバと区別されているが、普通種と同じ一年生草本である。普通種の原産地は、上気に記したとおりであると思うが、ダッタン種については、ダッタン(モンゴル)を原産地とする説も唱えられたが、現在では普通種とおおむね一致するのではないかと考えられている。 
蕎麦の学名(fagopyrum esculentum)は、食用のブナの実に似た穀物という意味である。普通種の実はたしかにブナの実に似た三角稜形だが、ダッタン種の実は稜があまり発達せず、むしろ小麦の種実によく似ている。花の色も普通種の白に対して淡緑色で、さらに自家受精であることなど、いろいろな点で普通種との違いがある。ヒマラヤ周辺の人々は、ダッタン蕎麦を堅めに練ってパン状に焼いて食べるのが一般的であるようだ。宿根蕎麦は多年生で、別名シャクチリ蕎麦といわれ日本でも明治時代に中国から薬草として導入されたが、若葉が食用になるため「野菜蕎麦」とも呼ばれる。冬は地上部の茎葉が枯れてしまうが、春になると地下の根茎から次々と新しい芽が出て一面に広がる。  
 
蕎麦3
 
そばの原産地はどこかという答えとして諸説がありるが、その中で有力なのは中国雲南周辺説である。この辺りでできたそばが、旧満州や朝鮮半島を経由して対馬から北九州へ伝えられたのではないかという。 
縄文遺跡の発掘調査でそばの花粉が確認されており、そばは縄文時代から食用にされていたのではないかと思われる。 
記録の上で最初に現れるのは「続日本記」で、養老六年(722)に元正天皇が救荒作物として、そばの植え付けを人民に詔したというもの。しかし、当時のそばは麺として食べるのではなく、焼き餅や雑炊、すいとんの形で食べられていたのではないかと言われている。 
それが、麺(いわゆる「そばきり」)として親しまれるようになったのが江戸時代の初め頃。近江多賀神社の僧侶であった慈性が記した「慈性日記」の慶長19年(1614)2月3日の条に、「常明寺へ…ソバキリ振舞被申也」と出てくる。 
うどんやそうめんの起源となる麦縄は、奈良・平安時代にかけて唐菓子として唐から伝り、そうした技術が下地となって、そばきりが生まれるに至ったと考えられる。江戸時代初期に、甲州や信州等の地方で生まれたそばは、元禄年間頃から、江戸の市中には独立したそば屋ができはじめた。  
  
蕎麦の雑学

 

蕎麦の起源 
我が国では縄文時代にはすでに「蕎麦」という植物が存在し、焼きもちや雑炊、すいとんなどに食材として使われていたらしいといわれるが、2006年の新華社の記事によれば、蕎麦の起源は中国西南地域とチベット高原にあることが、中国とドイツの科学者による研究で明らかになったという。中国では世界最古とされる4000年前の麺が発掘されて世界の麺の発祥地とする見方が有力であることから、麺類としての蕎麦もやはり中国伝来ということになるのかもしれない。蕎麦の起源の研究は10数年をかけて進められ、中国内陸部で170種以上を栽培、野生種を採集して分析した。その結果、日本蕎麦などの原料となる「あまそば」は中国西南部、実が小粒でやや苦味がある「にがそば」はチベット高原東部地域がそれぞれ起源の地であることが分かったという。温暖な中国西南部と寒冷なチベット高原という異なる気候に適応した結果、2種類の蕎麦が形成されたとして、現在の蕎麦の祖先にあたるものなど3つの新種も発見。蕎麦の遺伝学的な研究が大きく進展したという。研究の成果は国際的な植物学研究誌にも掲載された。この蕎麦が我が国では一体いつごろから麺となったのか。1574年、長野県木曽郡大桑村にある定勝寺の古文書に「ソバ切りを振る舞った」という記事があるのが1992年に発見され、これがソバ切りの記録上の初見となったとされている。蕎麦はタンパク質の含量が多く、栄養学的にも優れた食品であるばかりでなく、野趣に富んだ独特の風味もあって日本人の食の好みに適していたことも普及に大いに力があったと推察される。 
蕎麦はやはり信州蕎麦か 
作付面積で言えば北海道が国内第一位で、続いて福島、青森、新潟、長野となるが、10a当たりの収穫量で比較すると、鹿児島、熊本、宮崎と南国・九州各県が占め、寒冷地各県の2倍近い収穫を得ている。蕎麦は寒冷で痩せた土地でもよく育つと言われているが、植物であることを考えればやはり温暖な土地での栽培が優位なのかもしれない。それではなぜ「信州蕎麦」なのか。気候や土壌に恵まれた土地とはいえない信濃の地でも、育成期間が短い蕎麦は比較的栽培も容易であったことが一因として挙げられる。善光寺参りで全国各地からの人々の往来によって優秀なそば職人が育ち、善光寺信仰の広がりとともに国中に「信濃のそば」が伝わったからではないか、と推測される。その結果、更級・埴科・戸隠・開田などがそばの産地としてよく知られるようになり、なかでも更級や戸隠は蕎麦の冠詞や代名詞のように使われるようになった。
戸隠  
戸隠の誕生  
戸隠連峯は長野県西部に位置し西岳(2035m)から高妻山(2353m)に至る峻険な山なみです。岩肌を露に切り立った崖は奇怪な風貌で、容易に人を寄せつけません。神秘的な山容はやがて日本の三大山岳信仰の一つとして全国にその名を馳せました。  
戸隠に修検者が入ったのは平安時代の嘉承二年(849年)のことで真言宗の山岳密教の伝道者と言われています。修験者は学問行者と呼ばれ、やがれ戸隠顕光寺を中心に、その数は年ごとに増加の一途をたどり平安時代末期(1200年)には、戸隠三千坊と称されるにいたり諸国の山伏達が集まってきました。早い話修験者のメッカとなったのです。戸隠連峯の東側の裾野に広がる台地(戸隠高原)(1000〜1200m)は豊かな水に恵まれています。  
古い時代から農耕民はこの水は九頭龍大神によって管理され、又戸隠一帯はこの神に支配・守護されているものとして奥社に九頭龍社を創建、信仰を集めてきました。  
修験者達によって栄えた戸隠は、やがて天台宗と真言宗の対立、上杉対武田の戦乱等により次第に衰えてきました。西暦1600年以降、徳川の代になり朱印状(幕府の保証書)により千石が一山に与えられ天領となりました。この結果、地位は安定しましたが修行道は形式化され、更に明治維新の変革で(1868年)神道と仏教分離の政策が施行されました。  
この結果(戸隠の)寺院はすべて廃され僧は世襲制の神官となり、かたわら「宿坊」を営んで今日に至りました。  
大久保西の茶屋の誕生  
大久保西の茶屋を経営する小林家は、現当主で12代になります。 小林家の先祖(初代)は松代藩に仕え”茶坊主”の職にありました。  
関ヶ原の合戦(1600年)後の慶長8年(1603年)徳川幕府は戸隠一山を統治している久山候に朱印状1000石を交付して天領にしました。そして松代藩の重役が幕府と戸隠一山との連絡役にあたりました。松代藩の茶坊主であった小林伊左衛門喜代七は、この重役の供の一人として(戸隠へ)入山したのです。  
初代喜代七は、松代へ帰ることなく、戸隠神社の「お庭番」として、この地に残されました。  
二代目も、同じ庭番として仕えます。  
寛永元年(1624年)三代目喜代七は一山の命により、戸隠入山の起点に秘密会議所兼休憩所となる屋敷を建設しました。これが大久保西の茶屋の總本家です。茅葺き(かやぶき)屋根で書院造り、要人が寝泊まりした部屋の床の間は、緊急時に戸外へ脱出出来るような仕組みになっていました。又、この屋敷は”休憩所”という名の下に、諸大名や武士が利用することから当然のように葛藤の絶える間がなく、再三にわたって焼き討ちが、かけられたそうです。  
現在、残されている建物は、明治初年に基き全く同じ造りの建築をなしたものですが、主要部分は改良したり取り壊しをして僅かに二階部分に往時の面影をみることができます。  
第四代喜代七の頃(1700年代)戸隠一帯の總取締役の任に就いていたのは久山候(一千石)でした。久山候は公用で松代藩への出張の往き帰りには必ず大久保西の茶屋に立ち寄られました。当時の茶屋の商品は「力餅」「煮〆=にしめ」「山菜」等が主力でした。ある時、久山候が休息された時、ゴーゴーと台所の奥から耳をつん裂かんばかりの大きな音が響いて来ました。  
久山候「亭主、この音は何か!?」  
四代目「この所、餅米(もちごめ)を沸かす時、釜が異様な音を立て困り抜いて居ります。」  
久山候「そうか釜が音を出すのか。これは商売繁盛の兆(きざし)に違いない。どうじゃ今後”釜鳴屋(かまなるや)”と名乗るが良い」  
こうして四代目伊左衛門喜代七は釜鳴屋を名乗り、以後大久保の茶屋は、二つの屋号で呼ばれるようになったのです。  
釜鳴屋の名称は戸隠神社の古文書にも明記されているとのことです。  
大久保西の茶屋は、武家衆の会議所的な性格から年ごとに休息所、食堂として形態が強くなり武士ばかりではなく一般の人達にも利用されるようになってきました。江戸中期から明治まで(1750年〜1900年)は今流でいう總合商社的存在で、茶店営業のかたわら、酒類や米穀類を新潟県上越地方から仕入れて販売していたとのことです。  
古い家には、伝説があるもので御多分に洩れず”西の茶屋”にも幾つかの話が伝えられています。農家造りの店の横にある「山梨」の老木にまつわる話、店の裏の小さな祠の中の九頭竜神の話等楽しい物が数多くあります。  
小林家十二代は、女系家族で第十代と現在の十二代が嫁を迎えましたが残りは、すべて婿取りでした。  
戸隠の歴史  
1. 戸隠神社の創祀  
戸隠神社には、アフリカ象の牙を使用した一枚の笏(しゃく)が伝来されている。これは、次の諸点からみて、極めて貴重な作品とされている。  
(1)戸隠神社蔵も含めて、全国に5枚しかないこと。  
(2)他の4枚は、法隆寺、東大寺(2枚)、道明寺天満宮であり、関係する人物が聖徳太子、聖武天皇、菅原道真という、日本歴史上特に顕著な業績を残された方々であること。  
(3)象牙の目先が通っているため、「通天笏」と呼ばれ、形状・寸法からみて、東大寺の1枚と類似していること。  
(4)時代は奈良時代前後までさかのぼり、国の重要文化財に指定されていること。  
戸隠の歴史を訪ねる1つの方法として、なぜこの牙笏が戸隠神社に保蔵されているのかという問いから始めてみよう。ここで、次の提示を3点掲げる。  
(1)この牙笏は実用品でなく、戸隠神社に奉納されたとみること。  
(2)奉納者は、日本史上に名を残している特に著名な人物であること。  
(3)人物の時代は、奈良時代前後とみること。  
さて、この仮説に迫る極めて有効な書物がある。『日本書紀』の持統天皇に関する記述である。  
持統天皇5(691)年は、4月から雨が降り始め、5月、6月と季節はずれの長雨が続いた。  
この状況をみて、持統天皇は農耕に大きな被害が出るかもしれないと、心を痛められた。そして、解決の手だてを図られるのである。通常の祭祀としては、天武天皇より継続して、4月と7月に広瀬大忌神(おおいみのかみ)(水神)と竜田風神(風神)とを祀らせている。  
特別の対応として、まず公卿、役人に飲食を制限させ、修養と悔過(罪を懺悔し、罪報から免れるための儀式)につとめさせている。さらに、京及び畿内の諸寺に読経させている。6月には大祓(おおはらえ)も実施した。その上に、8月には、改めて竜田風神と、全国の中から殊に信濃の須波・水内(みのち)等の神を祭らせたのである。  
この須波、水内等の神というのは、この年の自然状況からみて、風雨・水の運行を掌り、畏敬すべき験力旺逸(げんりょくおういつ)の神を想定しなければならないだろう。それに相応するのは龍神に対する尊崇と考えられる。 今年の長雨を止めるべき神、今後の風雨水の順行を祈願するべき神として、須波と水内の龍神に託されたのではないだろうか。  
諏訪湖に住む龍神、戸隠山に住む龍神。諏訪湖から見て、ほぼ戸隠山が位置する北は、陰陽五行の説では、"水気"の方角に当たる。水内(みのち)という地名、裾花(すそばな)川、楠(くす)川、鳥居(とりい)川の源流地、山の直下の洞穴(竜穴)、水気を重ねていく風水の"たたみ込み"が感じられそうである。戸隠神社の源流は持統天皇5(691)年、8月23日、諏訪とセットされた龍神祭祀に始まるとみてよいのではないだろうか。  
ここではその神名を、天頭龍大神(あまのかしらたつのおおかみ)としておく。  
さて極めて私見であるが、その後間もなく、風雨の水神である龍神に対して、日の神(ひのかみ)である天照大神(あまてらすおおみかみ)を天岩窟(あまのいわや)からお迎えした手力雄神(たぢからおのかみ)を合わせてお祀りしたのではないかと推測している。その発想となったのは、戸隠山そのものが磐戸(いわと)を想起させる山型であり、殊に特定の場にある、岩の存在が大きく意識されていたのではないかという推測である。  
2. 神社から寺へ  
『日本書紀』の持統天皇紀より以後しばらく、戸隠神社に関する記述が、その他の文献には見られない。このことにより、偉大な支援者を失ったため、神社としての形態は衰退していったのではないかと考えられる。その後戸隠は、学問行者(学問修行者、学門行者)の入山により、急速に仏教化していくことになる。そのことを語る資料は、鎌倉時代の仏教書『阿娑縛抄(あさばしょう)』の『諸寺略記(しょじりゃっき)上』に掲載された戸隠寺に関する縁起である。この資料を「戸隠寺略記(とがくしじりゃっき)」と呼ぶことにする。  
戸隠の仏教化を語るもう1つの重要な資料は、室町時代に成立した「戸隠山顕光寺流記(とがくしさんけんこうじるき)」である。この資料を「顕光寺流記」と呼ぶことにする。両書を、学問行者の入山と戸隠の語源に綴って対比すると、次のようになる。  
「戸隠寺略記」  
(1)嘉祥(かしょう)2(849)年、学問修行者が戸隠に入山したこと。  
(2)その地に、前の別当の化身である九頭一尾(くずいちび)の鬼が出現したこと。  
(3)戸隠の語源が鬼を戸で隠したからによるものと、飯縄山(いいづなやま)の前にあって戸を立てた(隠し立てた)からによるものという2説を紹介していること。  
「顕光寺流記」  
(1)嘉祥(かしょう)3(850)年、学問行者が戸隠に入山したこと。  
(2)その地に、最後の別当の化身である九頭一尾の大龍が出現したこと。  
(3)戸隠の語源が、大龍を戸口でふさぎ隠したからということ、「実には」という言葉の後に「手力雄命が天の岩戸を隠し置いたから」という記述をしていること。さらに、その戸は「今でも現在している」と続けていること。  
(4)本院(ほんいん)、宝光院(ほうこういん)、中院(ちゅういん)、火(ひ)の御子(みこ)に安置する仏像について [本院]九頭龍権現(くずりゅうごんげん)  
[宝光院]地蔵権現 康平(こうへい)元(1058)年開創  
[中院]釈迦権現 寛治(かんじ)元(1087)年開創  
[火の御子]「西方補処(さいほうぶしょ))の薩埵(さった)」「八大金剛童子(はちだいこんごうどうじ)」  
3. 仏と神の共存  
ほぼ仏教一色の感となった戸隠であるが、現在の戸隠神社の祭神名が明らかになる資料は、永禄年間(1558〜1569年)の成立と考えられている『戸隠山本院昔事縁起(とがくしさんほんいんせきじえんぎ)』である。  
この資料によると、おそらく天暦(てんりゃく)年間(947〜956年)に伊那から阿智(あち)社の祝(はふり)が、登山して、天手力雄神の本殿に、表春命(うわはるのみこと)、思兼命(おもいかねのみこと)の2柱を相殿となして、祭らしめたとある。  
その後、康平元(1058年)に表春命を宝光院に分社し、思兼命を寛治元(1087年)に中間に分社したとある。  
江戸時代中期の成立である『戸隠山大権現縁起(とがくしさんだいごんげんえんぎ)』には、火の御子の祭神として、栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)が記されている。  
こうして、神と仏の共存、習合する時代が江戸時代末まで続くことになる。  
4. 神仏分離令を受けて  
江戸時代までは「戸隠山顕光寺」と称していたが、実質的には神社としての信仰も定着してきていたと思われる。  
明治時代に入り、このような神仏習合は許されず、神と仏は明確に区別すべしとの令を受け、戸隠ではほとんどの仏像、仏典、仏具を山内から排除し、神社としての再スタートを切ることになる。  
現在は、次のような社名を掲げ、御祭神に奉仕申し上げている。  
・奥社 手力雄神  
・九頭龍社 九頭龍大神  
・中社 思兼神  
・日(火)之御子社 栲幡千々姫命 天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)  
 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 天鈿女命(あまのうずめのみこと)  
・宝光社 表春命(うわはるのみこと)  
(1)神名の漢字、読み仮名は『日本書紀』による。  
(2)九頭龍大神は、慶応4(1868年)神祇官(じんぎかん)からの指示による。  
(3)表春命は『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』による。
年越し蕎麦 
大晦日に1年の締めくくりに食べる年越し蕎麦の風習が広まったのは、江戸時代中ごろではないかというが、根拠については諸説がある。定番の「細く長く生きる」説を初め、「そばが切れやすいことから、1年の苦労を切り捨てようとして食べる 」説、「風雨に打たれても日光に当たればすぐに立ち直る植物であることにあやかる」という説がある。さらに「九州・博多の承天寺で年末を越せない町人に「世直しそば」と称してそば餅を振る舞ったところ、その翌年から町人たちに運が向いてきた 」という“運蕎麦説”や「金銀細工師が細工の際に飛び散った金銀の粉を掻き集める時にそば粉を使うことから、金を集める」という縁起説などさまざまである。 
蕎麦の栄養学 
米や小麦など穀類のほとんどが、精製することで栄養豊富な胚芽の部分を取り除いて胚乳部だけを食べるのに比べ、蕎麦は精製しないで全粒(むぎ実)として利用し、胚芽や種皮の一部も食用にしてしまうので栄養価が高い。なかでも、人の生命の維持や成長に欠かせないタンパク質は極めて豊富で、精白米の約9%に対して12%強と3割以上も多く含まれている。また、質的にも良質で、タンパク質を構成しているアミノ酸価でみれば、完全食品といわれる鶏卵を100とした場合、蕎麦は92とほぼ牛乳に匹敵する。しかも体内では作ることの出来ないアミノ酸、特に身体の発育に欠かすことのできないリジンやスタミナ源のアルギニンなどの必須アミノ酸が多く含まれていて成長期の子供に適した食べ物である。さらに、ビタミンB群も多く含まれていて、ビタミンB1、B2は精白米の4倍に達する。B1は体力の低下、イライラ、食欲不振の解消に効果を発揮し、B2は皮膚や粘膜を健康に保つために欠くことのできない栄養素である。 
蕎麦の薬効 
蕎麦にはいろいろな病気を予防する働きがあるという。ルチン、リノール酸、ビタミンEは血管の老化を防ぎ、高血圧の予防に効果ずあり、また、飲酒前に蕎麦を食べておくと、蕎麦の中のコリン(水溶性ビタミンの一つ)や良質の蛋白質、ビタミンEが肝臓を守る。さらに、ヘミセルロース(食物繊維)が多く含まれているのために便秘の改善にも役立つとか、腰痛や歯痛にも効果があるといわれている。 
蕎麦の美容・ダイエット効果 
ルチンを含む唯一の穀類といわれる。ルチンはビタミンPの一種で、老化によって細くなった毛細血管を強化し血圧を下げる効果がある。また、コリンは肝臓の働きを促進する効果があり、肝臓に脂肪が溜まるのを防いでくれる。さらに、茹でた蕎麦はご飯と比べて1割以上もカロリーが少ないためにダイエット食としての役割も期待できるし、豊富な食物繊維は体内で消化・吸収整腸作用という重要な役割を果たし、便通を整え腸内にあるコレステロールや有害物を水分と共に体外に排出する。
蕎麦と言葉 
蕎麦という言葉は、外を歩けばよく目にすることができるのだが、年配者ならより身近に会話に出てくる言葉の1つではないだろうか。昨今よりも蕎麦がより身近なものであり、日本の食文化に根付いていたことが推察される。諺に多く取り入れられ、俳句にも数多く読まれているのだが、それら全てをここで紹介するのは「蕎麦で首くくる」ような話であるが、面白い諺をいくつか紹介してみることにする。 
「朝とろ夕そば」朝はとろろ汁、夕食は蕎麦を食べるのが信州ではご馳走だったことから。 
「饂飩三本蕎麦六本]うどんは太いので一度に3本、蕎麦は細いから6本ぐらいずつ食べるのがちょうど良いことから。 
「紺屋の明後日蕎麦屋の只今」紺屋(こうや・こんや)は天候に左右される仕事であり、染めが遅れがちであり、催促すれば明後日出来ると答えて場をしのぎ、実際は納期を先へ延ばすのが常套手段である。蕎麦屋の出前の「只今」も同じで、あてにならないことから。 
「蕎麦と坊主は田舎がよい」蕎麦と僧侶は都から良いものが出ないことから。 
「蕎麦の自慢はお里が知れる」良い蕎麦の収穫地は冷涼で米作には適さないので、蕎麦自慢は余り自慢にはならないことから。 
「蕎麦屋の酒」老舗蕎麦屋は上酒を置いていた伝統があり、今も継承されていることから。 
また蕎麦は俳諧にもよく登場するので、名句かどうかは二の次として、著名な俳人の句を紹介することにする。 
「名月や先づ蓋とってそばを嗅ぐ芭蕉」 
「そばはまた花でもてなす山家かな芭蕉」 
「我里は月と仏とおらがそば一茶」 
「故郷や酒はあしくも蕎麦の花蕉村」 
蕎麦を食する場面を描いた俳句が少なく、蕎麦の風情を大切にしたものが多いことに気付かされる。蕎麦の花は、蕎麦の独特の風味からは想像もできないほど繊細で儚げで可憐である。皆さんご存知だろうか? 
[蕎麦三題] 
1.店名に「○○庵」とつけるのが多いのは、「江戸時代、蕎麦好きのある寺の住職が打った蕎麦が評判になり、それを売り出すことになった際に店名として「○○庵」という寺の名をそのまま使ったことから。 」 
2.「二八蕎麦」は、「江戸時代に蕎麦が一杯十六文とされていたことから、2×8=16で「二八蕎麦」と呼んだという。ちなみに、寛政の改革の時に一杯十四文に値下げされたときには「二七蕎麦」といったという。また、蕎麦を打つ際に、つなぎとして蕎麦粉8に対して饂飩粉を2の割合で混ぜたことから、という説もある。」 
3.「三つ箸半」は「江戸っ子の蕎麦の食べ方を言ったもので、ざるに盛られた蕎麦を箸で取ってそばつゆに3分の1だけ浸し、それを一口で食べる。こうして三回半で食べ終わるのを粋とした。 」ということからつけられた。    
  
蕎麦の種類

 

「二八蕎麦」「生粉打ち蕎麦」「更科蕎麦」「田舎蕎麦」などが有名。 
二八蕎麦/蕎麦粉と繋ぎを八対二の割合で混ぜたもので、並粉で作り「もり」あるいは「せいろ」が蕎麦の基本。 
生粉打ち蕎麦/繋ぎを入れない蕎麦。普通に生粉打ちといった時は並粉で作ったものを指す。繋ぎを入れないため繋がりにくいが、蕎麦の味をより深く味わう事ができる。喉ごしは二八蕎麦などに比べて劣る。 
更級蕎麦/更級粉を使った蕎麦。繋ぎは入れることも入れないこともある。蕎麦の香りや味があまり強くなく、ほのかな香りと喉ごしを楽しむ蕎麦である。色はかなり白に近く良い更級粉を使った蕎麦は、見蕎麦に見えないこともある。茶蕎麦・柚きりなどの変わり蕎麦を打つときに、蕎麦の香りを押さえ色を鮮やかに見せるために更級蕎麦をベースに使用する。更級粉は大変つながりにくく、通常は友繋ぎ、湯捏ねといった特殊な方法で打つ。 
田舎蕎麦/挽ぐるみの蕎麦粉で打った蕎麦。蕎麦の香りが強く、麺の味を良く噛みしめて楽しめる。噛みごたえがあるように太打ちにする、色も黒っぽくて蕎麦らしい蕎麦である。 
蕎麦粉/蕎麦はタデ科の植物で、小麦粉などと同様に、蕎麦の実を製粉機または石臼で挽いて蕎麦粉にする。
生蕎麦 
「きそば」と読み本来の意味は、つなきをまったく使わないでそば粉だけで打ったそば(生粉打ちそば)である。江戸時代中期以降に小麦粉をつなぎとして使うようになった。当初は麺のつながりをよくするために用いられた小麦粉の量が徐々に増え、そばの品質低下をまねき、二八そばが粗悪なそばの代名詞になった。そのため、高級店が格の違いを強調するために「生蕎麦」や「手打ち」を看板に掲げるようになった。幕末頃になると、二八そばまでもが「手打ち」や「御膳生蕎麦」を看板にするようになり、その区別がなくなったしまった。現在の「生蕎麦」や「御膳」と看板・暖簾に書かれているのは、そのなごりで多くが生粉打ちそばの意味ではない。
 
歌川豊国が描いた「二八蕎麦売り」の南与兵衛 
「二八そば」語源は、そばの値段が一六文だったため「二八じゅうろく」からそう呼ばれるようになり、やがてソバ粉とつなぎの配合を意味するように転じていったというのが一般的。  
そば湯 
そばを茹で上げたお湯のことで、そばを打つときに用いられるうち粉が溶け込んでいたり、そばを茄でている時にそばから抜け落ちてしまう栄養分が十分に含まれている。そのために、そば湯を飲むのには、ただつゆをうすめて飲むという事のほかに、そばから溶け出た栄養分を補うという目的も含まれている。  
「もり」と「かけ」 
そば切りは最初そば汁につけて食べる一種類しかなかったが、元禄のころになると男などは面倒くさがって汁を掛けて食べる風が生じた。これを後に「ぶっかけそば」として売り出したのが新材木町の信濃屋だという。それから寒い季節にはそばを温め熱い汁を掛けて出すようになり、器も一つですむところから喜ばれ、方々で売り始めた。ぶっかけそばが「ぶっかけ」になり、さらに「かけ」と省略されたのは寛政のころである。ぶっかけがはやるにつれて、従来の汁をつけて食べるそばを、安永の初めごろには「もり」と称して区別した。  
熱盛りと南蛮 
大阪や上方には、上方のそばの伝統を受け継いでいる店や、今風のこだわりのそば屋も多いし、かつて出前で市中を駆けめぐった町場のそば屋も健在なのである。そして、上方のそばを語る場合に外すことの出来ない事柄もあって、そのひとつが「熱盛りそば」であり、もうひとつは鴨南蛮やカレー南蛮などの「南蛮」の呼称である。 
大阪のそば屋に入ると、今も「熱盛りそば」を品書きに入れているところが多い。全国的にみてもごく限られた地域にしか残っていない、かつての熱盛りの風味を大切にしている浪花のそば屋の心意気のようなものを感じる。たいていは「せいろ」と称していて普通盛りを「一斤(いっきん)」、大盛りだと「一斤半とかイチハン」さらに「二斤(にきん)」となっていて常連客には根強い人気がある。白木や漆塗りの、蓋つきの蒸籠に盛られ、蓋を取ると湯気がたちのぼる。 
現在の大阪で熱盛りを扱う店の最右翼となると、やはり、元禄8年(1695)創業という堺市宿院の「ちく満」で、なにわの蕎麦の歴史の一端を今に伝える店だ。蓋付きの白木のせいろに湯通しされた温かいそばが盛ってあって、生卵を溶いて熱々の蕎麦つゆを注ぎ入れた椀につけて食べる。 
大阪市内では北区のお初天神東横丁の「夕霧そば・瓢亭」の湯通し「せいろ」で、ここのは柚子切りのほのかな香りを楽しませている。 
中央区には北浜の「手打ちそば・三十石」は「ざる」で出す湯通し「せいろ」、平野町に行くと大正13年の老舗「美々卯・本店」で熱盛りの温かい「うずらそば」。鶏卵ではなく、うずらの卵が付いている。この他「手打ちそば処・やまが」は福島区海老江、冷たいざるに対して温かいのはずばり「あつもり」である。この店は「おそばと落語の会」でも有名である。都島区では「手打ちそば京橋・三十石」で、湯通し「ざる」となっている。 
ざっと挙げただけでもこんな具合であり、大阪のそばを語るときには外すことの出来ない特徴である。 
「熱盛りそば」が登場した背景には諸説があるが、江戸時代の初期の頃に流行ったとされる蒸籠で蒸す「蒸しそば切り」と、茹でて洗ったそばをもう一度熱い湯に通したり、盛りつけた上に熱湯を掛けるなどの方法がとられる。 
江戸時代や明治の書物にもたびたび登場するのは、寛永4年(1751)の「蕎麦全書」にも記された播州舞子浜・敦盛そばが有名である。この店は明治の初め頃まで繁盛したそうで、その昔源平合戦で討たれた平敦盛の塚が西国街道の須磨浦にあったことから、敦盛塚と熱盛りそばとをかけて店の名前にしていた。 
上方のそば屋のもうひとつの特徴は、鴨南蛮やカレー南蛮などに代表される「南蛮」の呼称である。どういう訳かそば屋ではこの「南蛮」の読み方に東西の違いがあって、東では「なんばん」、西の上方では「なんば」と言われている。 
南蛮の代表格である鴨南蛮が売り出されたのは文化年間(1804〜18)の江戸であり、カレー南蛮のほうは時代が下って明治42年の大阪である。これがなぜ、そばの分野だけで「南蛮」の呼称が「なんば」「なんばん」と異なったかはよくわかっていないが、大阪のそば屋の多くは、江戸時代の難波一帯がネギの産地だったので、大坂ではネギを「なんば」と言い、そのためにネギを使った料理のことも「なんば」と称したという説をとるところが多いようだ。 
ただ、江戸時代から明治にかけての書物を調べてみたが、難波村は野菜類の大生産地であったことは事実だが、ネギが特産であったという記録には出くわさなかった。残念ながら、いまだにその根拠がわからないが、「なんばん・なんば」の呼称だけは東と西で一線を画してしっかりと守られていることだけは確かである。  
  
語源

 

語源1 
「蕎麦」と言う漢字は、中国の梁(502-557)の時代に刊行された書籍に文字の記載がある。蕎麦の実は熟すると果皮が黒褐色に変わるため烏麦、雪かと見まちがうほど白い花を強調して花蕎・花麦。普通種の蕎麦には、においと味が甘いのでダッタン種の苦蕎麦と区別した。蕎麦は茎が弱く強風が吹くと倒伏しやすい。蕎は麦とみなされ蕎麦となったが実はタデ科ソバ属に属する一年草本である。蕎麦をソバムギと訓読したのは、実の形がかどばっているためで、角麦(かくばく)、稜麦(りょうばく)の仮字をあてたりした。ソバはムギについで美味であることから、蕎麦と名付けられたとも言われる。ソバムギが下略されてソバと呼ばれるようになったのは、日本では室町時代からとの事。
 
語源2 
そばの実は、かど張っている。そばの語源にあたるのが、この「とがったかど」。耳を「そば立てる」は、耳を「とがらせて立てる」の意味になる。また、そのむかし宮中の女房たちが使っていた言葉を意味する「女房詞(にょうぼうことば)」で、そばのことを「葵」と呼んでいた。なぜ「葵」かというと、そばの実の三稜は「みかど」、つまり三角が「帝」に通じるということで、御所では忌み言葉とされていた。これにかわる呼び名「葵」は、そばの葉とちょうど似ていた葵の葉からつけられた。
 
語源3
 
蕎麦(きょうばく)という漢字の初見は明らかでないが、中国の梁(502-557)の時代に刊行された「崔禹錫食経(さいうせきしょくけい)」に「蕎麦」という文字の記載がある。ソバの実は熟すると果皮が黒褐色に変わるため、烏麦(うばく)、雪かと見まがう白い花を強調して花蕎(かきょう)・花麦(かばく)。また普通種のソバはにおいと味が甘いので甜蕎(てんきょう)・甜きょう麦(てんきょうばく)(「きょう」の字はくさかんむりに「収」)などといって、ダッタン種も苦蕎麦(にがそば)と区別した(ダッタン種/通常種に比べ寒さに強く、中国やチベット、ネパールなどで主に栽培されている品種。味に苦味があるのが特徴で、日本では「苦ソバ」「野ソバ」と呼ばれている)。ソバは茎が弱く強風が吹くと倒伏しやすいところから伏喬(ふくきょう)、蒙古産のソバは油蕎と呼ぶほか、陪麦(ばいばく)・華蕎(かきょう)などと異称が多い。朝鮮では木麦(ぼくばく)といった。 
中国では唐代(618-907)に広く栽培され、わが国でも元正天皇の養老六年(722)救荒作物としてそばの植えつけを勧められたことが「続日本記(しょくにほんぎ)」に記されている。しかし、すでに五世紀の中ごろには信州で栽培していた記録があり、それ以前に朝鮮半島などを経て渡来したものであろう。  
その後、延喜十八年(918)の「本草和名」に曽波牟岐(ソバムギ)、そして「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)」の二十巻に久呂無木(クロムギ)の訓読が見られる。  
蕎は麦とみなされ蕎麦となったが、実体はタデ科ソバ属に属する一年生草本である。蕎麦をソバムギと訓読したのは実の形がかどばっているためで、角麦(かくばく)・稜麦(りょうばく)の仮字をあてたりした。また、ソバはムギについで美味であるところから、蕎麦と名づけられたともいう。ソバムギが下略されてソバと呼ぶようになったのは、室町時代からである。  
 
語源4 
「そば麦」と呼ばれ「蕎麦」という名称で呼ばれるようになったのは、平安時代以降である。 
語源1/大工が木の角をとる時に「そばをとる」という言い方をすることから、蕎麦の実が菱形で、丸いものの角を削ったような形していることから。 
語源2/「・・・の傍・側」から来た説。蕎麦は元来、山の険しい所、平地ではなくてあまり米ができないような所で栽培され、山の脇とかそばという意味がなまって「蕎麦」という呼び名になった。 
語源3/蕎麦の形が三角形で御紋の形に似ていることから、御所で「あつもの」とか「すぐり」という名で呼ばれていたというが、実際それがどういう経緯で今に至ったかは不明。
 
語源5 
ソバの果実に三つの稜があり、ムギと対比するとその点が大きく異なるので、古くはソバムギ(曽波牟岐)とよばれた(「和名類聚鈔」「本草和名」)。命名からしてその渡来は麦より遅い。稜は「木の稜」など、角の意味に使われた言葉だったし、また、山の険しいところや崖を岨というが、これも昔の読みはソバであった。そこで角麦、稜麦の文字もあてられている。 
曽波牟岐の「牟」の正字は大麦を意味し、牟岐は大麦・小麦の総称である。「和名類聚鈔」が後に増補された二十巻本に「曽波牟岐、一云久呂無木」と、クロムギの異名を追加しており、平安末期の「類聚名義抄」ではソハムキ、クロムキの訓が並記されている。クロムギは漢名の烏麦に通じる。平安時代にはまたソマムギの呼称があったことが、慶長六年(1254)「古今著聞集」に記述されている。このソマムギはやがて略されてソマと呼ばれるようになるが、どういうわけか九州に多い呼称で、現在でも大分県宇佐郡や熊本県八代郡などで方言として残っている。ソバムギが略してソバと呼ばれるようになるのは室町時代(「下学集」下巻、文安元年・1444)以降のことと考えられる。 
「本朝食鑑」(1697)では「気味甘く、微寒にして毒なし、気を降ろし、腸胃の滓穢積滞を寛にす。水腫・白濁・泄利・腹痛・上気を治し、或は気盛んにして湿熱あるものによろし」とある。しかしソバキリを多く食うと身体に潜んでいる風気を引き起こすことになったり、また癰や疔をおこすこともある。もしソバキリを食べて入浴すると卒中になったり人事不省になることもあると記されている。また「和漢三才図 」には、そばを食って同時に西瓜を食うと煩悶して死んでしまうものがある。(但し西瓜を先にソバを後だと害はない)それは西瓜は水だから速やかに胃から腸へはけてしまうので「合食の難をそがれるのだ」と書いてある。
 
「本草備用」の中にそばの効能が詳しく述べられている。一部分は「本朝食鑑」と同じであるが、すなわち「そばには人の身体を冷やす性質があって、気分を落ち着かせる。また胃や腸の壁の緊張を緩める作用もある。だから、胃腸の内壁に永年の間ひっかかり、へばりついていた食物の消化かすなどの汚いものを、自然と取り除く事もできる。したがって、体内の全ての内臓内に沈着し、こびりついていた汚い毒、たとえば、多年の間に積もりに積もった酒の毒、食べ物の毒などを取り除く作用があるとするのである。また、下利の傾向や、婦人の帯下などのような区々たる病的障害をも取り除くことが出来る。そのほか、皮膚の出来物や、瘡の類、あるいは湯湯婆などのやけどのあとなどでも、そのそば粉を塗り立てると忽ち治る」と書いてある。また「身体が生まれつき虚弱な人では、胃腸が弱いものだから、そばは余り過食してはならない」という注意書きもある。通利丸は漢方の朱明丸と云う処方を売薬化したものであるが、大黄と同量のそばを加えることによって大黄の力を適正に加減して、快い便通をもたらすという薬であろう。 
そばには比較的多量のタンパク質がふくまれる。それはあたかも玄米と同じで、これを主食としておれば、ほかの食品をとらなくても、生命だけは十分に維持できるのである。 
そばの持つ霊妙な底力の話として、たとえば、比叡山の阿闍梨が千日行をされるのにそば餅(直径10cm厚さ1.5cm)のなかに人参やそのほかの野菜類をみじん切りにして入れこんだものを常食とし、ただこれだけの三・四個づつを一日三回食うだけで、一千日間の苦行を続け、肉体的にも耐え抜いている。また木曽の御嶽さんで行者たちが、寒中滝に打たれるとき、他の物を食っていると寒くて寒くて仕方がないのに、そば粉を水でかいて食っていると、滝に打たれても、決して身体が凍ったり凍傷が出来たりしないそうである。また、かの木喰上人という聖僧が、五十年もの長い間、ただそばのみを主食としていながら、すぐれた体力を持ち、飛び抜けた霊感の力を得ていられたという実話も、またそばの活力の程を示している一例である。
  
江戸の蕎麦屋

 

「砂場」といえば江戸の老舗だが、実は大阪が本家だ。「更科」とともに二大老舗のひとつ。更科は器が朱塗り、砂場は黒系でそれとわかる。 
落語にも出て来る「時そば」は、もとは上方落語の「時ウドン」を江戸風に直したものという。   
「夜鷹そば」は屋台で、夜出没するから夜鷹といったが、江戸の夜火事と関係が深い。「火事と喧嘩は江戸の華」といい、半鐘がジャンとなれば、野次馬がそれとばかりに駆け出す。大抵は着く前に鎮火、トボトボと歩いて帰ることになるが、夜半の遠い道、冷え込んで腹も減ってくる。そこで、夜鷹そばの出番となる。体は温まるし腹も満足。当時は一杯だけと言うのは珍しく、まして歩きつかれた後、小食でも三杯はたいらげたという。一杯が十六文としても売れ行き好調、夜鷹そば屋は、こんなとき有難く人気があった。 
蕎麦自体は奈良時代から食べられていたが、粥にするかソバガキのようにして食べた。切り蕎麦になったのは江戸に入ってからで、いくら二八そばといっても、最初は茹でると溶けたから、蒸していた。よって菓子屋が商った。蕎麦を乗せ、蒸し器に入れるからセイロ(蒸籠)が使われ、これが蕎麦の器(うつわ)と定着した。
 
天保年間に蕎麦値上げ許可を願い出たが、値上げは駄目だが「かさ上げは苦しからず」と。つまり、量を減らして売りなさい、と実質的値上げのお墨付き、セイロの底はぐっと上に上げ底になった。  
技術の進歩で現代の蕎麦屋に近くなり、幕末近くの万延年間の数は、店を構えたそば屋が3763軒、これに屋台も加わるから相当な数。蕎麦はスナックで決して食事ではない。「蕎麦前」といえば酒のことをいう。江戸後期に種物(たねもの)が増え、花巻(のりかけ)二十四文、卵とじ、天麩羅そばが三十二文、しっぽく(焼きたまご、かまぼこ入り)、鴨南蛮、あられ(貝柱入り)、おだまき(しっぽくの鶏卵入り)などが登場する。 
天麩羅そばは、江戸に来ていた地方武士が、カケソバに天麩羅を入れて食べたところまことに美味、これが噂となってたちまち天麩羅そばが流行したという。ザルゾバは、深川の州崎弁財天前にあった伊勢屋が、蕎麦をザルに盛って出したところ評判がいい。大いに売れて、他の蕎麦屋もこれをまねた。これがザル蕎麦。 
蕎麦屋には七味唐辛子がおいてあるが、あれは風邪を引いたとき、ウドンにかけろと、薬包みにして手渡してくれたもの。熱いうどんにたっぷりの唐辛子、ふうふう温まり、風邪も治ったろう。
 
屋号「庵」1 
「蕎麦屋」に「○○庵」という名前が付けられた店が多い?これはあるお寺の名前に由来しているのである。江戸の道光庵という寺の住職が大の蕎麦好きで、自分で蕎麦を打っていた。ところがお寺でその蕎麦を食べた人々の間で評判となり、ついにはその蕎麦を売り出すことになった。その時の店名が自分の寺に因んで「道光庵」というものだった。蕎麦が美味しいことから大評判となり、連日繁盛した。この噂を聞いた他の蕎麦屋たちが「商売繁盛という縁起にあやかって」と、次々に「○○庵」という店名を付けたという。これが今にまで続き、蕎麦屋の屋号には「○○庵」というのが多いのである。余談だが江戸時代に日本橋にあった有名な蕎麦屋に「東光庵」というのがある、これは安藤(歌川)広重が描いた「江戸名所百景」の日本橋の図に店先と出前の店員が描かれていることで知られている。  
 
屋号「庵」2 
蕎麦屋には、庵(あん)と言う屋号のつく店がたくさんある。一茶庵、長寿庵、松月庵、大村庵、朝日庵、小松庵など、また文献にも東向庵、東翁庵、紫紅庵、雪窓庵等が多数名前が挙がっている。庵とは、本来、小さな住居を意味する言葉で、隠遁者や僧侶、尼僧などの住む家や、僧房の名などに用いられていた。蕎麦屋の屋号に「庵」という言葉が多く使われるようになったのも、やはり寺社に由来している。 
江戸時代中期頃、江戸浅草芝崎町(現在・西浅草3丁目)に、一心山極楽寺称往院という浄土宗の寺があった。この寺は慶長元年(1596)白誉称往上人によって当初湯島に創建されたものだが、明暦の大火(1657)で浅草に移ったもの。その院内に道光庵という支院があった、享保年間(1716-1735)ころ、この道光庵の庵主は信州松本出身で、蕎麦打ちが大変上手で檀家の人々に自ら蕎麦を打って振る舞ったという。 
蕎麦は浅い椀に盛った御膳蕎麦で、寺方なので魚類のだしを使わず辛味ダイコンの絞り汁を添えて出したという。町の人たちは、そのうまさに驚き、信心にかこつけ蕎麦目当てに押しかけてくるようになり、名声はどんどん高まり、江戸の評判記に本職のそば屋を押しのけて筆頭に挙げられるほどとなった。道光庵の門前には、そば目当ての人々が連日列をなした、寛延年間(1748-1750)ごろが最盛期であった。 
この「そば切り寺」道光庵の名声にあやかろうと、競って屋号に「庵」の字をつけるようになったという。 
その後、寺なのかそば屋なのかわからないような様子を見かねた称往院極楽寺の和尚が、天明6年(1786)「蕎麦禁断」の石碑を門前に建て、道光庵の蕎麦を禁じてしまった。 
この時の蕎麦禁断の石碑は、関東大震災後、親寺の弥往院が烏山寺町に移転の際、土中から3つに折れた状態で発見され、現在の弥往院門前に修復されて立っている。  
 
屋号「庵」3 
そば店の屋号に庵号が用いられたのは江戸時代中期から。初見は、寛延三年(1750)ごろの洒落本「烟花漫筆」(えんかまんびつ)に出てくる大阪道頓堀のそば店「寂称庵」。天明七年(1787)版の名店案内書「七十五日」に、めん類店65店が紹介され、東向庵(鎌倉河岸)東翁庵(本所)紫紅庵(目黒)雪窓庵(茅場町)の四店がそろって庵号を名乗っている。そもそも、そば店が庵号を名乗るようになったのは、江戸浅草の称住院という寺に由来するといわれる。 
江戸・浅草の称往院は浄土宗の檀家を持たない念仏道場で、その院内に道光庵という支院があった。そこの庵主は信州出身でそば打ちの名手であり、参詣者に手打ちそばを振る舞ったところ(そば粉は白い御膳粉を用い汁は精進汁で辛味のダイコンの絞り汁だった)、これがことのほか美味であったので評判となり、江戸中の蕎麦好きが押し寄せた。このため寺だかそば店だかけじめがつかないほどに成った。親寺の称住院ではあまりのそば人気が寺の規律を乱すとのことで、見るに見かねて再三の注意を行ったが、内証でそば振る舞いが続けられたため、天明六年(1786)に「蕎麦禁断の碑」をたて、そば客に門前払いをくらわすとともに、道光庵のそば切りも三代で打ち切られた。 
その際に門前に建てられた石碑が蕎麦禁断の石碑で、側面に「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内」(寺内でそばを打って称往院の規律を乱すため、そば境内に入るのを許さず)と刻まれている。 
この石碑は安政二年(1855)の大地震で壊れたが、称往院が昭和三年(1928)世田谷区北烏山の地に移転する際、地中から発見され、再び門前に建てられた。 
そば店に庵号のつく屋号が多いのは、この道光庵の名声にあやかろうと、当時のそば店は競って屋号に庵をを付けるのが流行し、文化(1804-18)の頃にはその極に達した。 
今に残る庵号に「長寿庵」「蓮玉庵」「宝盛庵」「一茶庵」「松月庵」「萬盛庵」「大村庵」などがある。 
 
屋号「庵」4 
蕎麦屋の屋号によくある「庵」。その由来の石碑が、東京の小京都・烏山寺町の称往院にある。称往院は慶長元年(1596)湯島に創建され、浅草、烏山と経て現在に至る。浅草時代の18世紀、院内に「道光庵」という支院があり、そこの庵主が蕎麦どころ信州出身で蕎麦打ちの名人だった事から、檀家向けに自ら蕎麦を打ち、振る舞っていた。それがあまりに美味しく評判になり、いつしか江戸で一番の「そば切り寺」として行列が出来るまでに繁盛。この人気にあやかって、本職の蕎麦屋も屋号に「庵」と名付ける事が流行り、それが今日まで続いている。 
道光庵自体はその後、お寺なのか蕎麦屋なのか分からない状況は本末転倒と、本院の住職が天明6年(1786)蕎麦を禁止する石碑を門前に設置し、蕎麦処は消滅。それが「不許蕎麦」の石碑である。長らく行方不明であったが、浅草から烏山に移転する際に地中から発見、再び日の目を見る事になった。 

 

藪蕎麦 
雑司ヶ谷鬼子母神の東の方の藪の中にあった百姓家の「爺が蕎麦」が藪そばの元祖。当時「藪の内」とも呼ばれた。寛政10年(1798)版「若葉の梢」によると「藪の内そば切りはぞふしがやの名物にて、勘兵衛と云いける。参詣の人行がけに誂えて、戻りには出来して置けり。百姓家にて、商人にてはなかりしが、いまは茶屋躰と成。諸所に其名を出すといえども、元来其家の徳なるべし」とある。寛政当時その盛名にあずかろうと、藪蕎麦を名乗る店が方々にあらわれた。その一つに深川藪の内(現・江東区三好町四丁目)に開店した藪蕎麦(藪中庵とも)は、文化12年(1815)版の番付「名物商人ひょうばん」にあげられたばかりでなく、幕末の江戸切絵図にものるほどの有名店になった。その後、駒込千駄木町の団子坂藪下にあった蔦屋も藪蕎麦とも呼ばれて大いに繁盛した。その蔦屋が神田連雀町(現・神田淡路町二丁目)に支店を出していたが、明治13年(1880)に砂場系の浅草中砂四代目堀田七兵衛が譲り受けた。七兵衛は経営の才に恵まれ、団子坂の本店(明治39年に廃業)なきあと藪の暖簾をあずかり、名実ともに藪の本家として現在に至っている(現在の神田藪蕎麦)。この本店のほか浅草並木藪、上野池之端藪があり、いわゆる藪御三家となっている。藪そばは藪之内・藪下から名づけられた俗称。 

 

砂場蕎麦1 
大坂は新町遊廓の旧西大門のあった新町2丁目と3丁目の境にあたる南北筋の南側小浜町は俗に砂場と呼ばれた。この砂場門際に和泉屋(いずみや)、砂場角に津国屋(つのくにや)とそば屋が二軒あって、両方とも和泉国の出身だった。和泉屋(太兵衛)の創業については、大坂の絵師長谷川光信が市中および近郊の名物や風俗を描き狂歌を賛した「絵本御伽品鏡」(享保15年・1730)に、「いづみや」ののれんを掛けた店の絵が載っており、享保頃には営業していた。さらに元禄7年(1694)の咄本「遊小僧」(うかれこぞう)第三「蕎麦切はや打」の条に、大座敷を構え庭には築山、蘇鉄を数多く植えた道頓堀のそば切り屋が描かれている。砂場の和泉屋と蘇鉄とは切り離せないほど名物になっていた事実から推して、和泉屋は道頓堀から新町へ移転したとも考えられる。 
一方津国屋(作兵衛)は嘉永2年刊「二千年袖鑒」(にせんねんそでかがみ)三編十五に「天正12(1584)根元そば名物砂場」とうたっているが、裏づける資料は見当たらない。土地のものは砂場にあるそば屋というわけで、和泉屋を砂場そばと呼んだのが俗称の始まりである。安売りで評判の高い浪花随一の和泉屋も幕末には衰退し、嘉永頃には廃業したのではなかろうか。江戸では寛延(1748-51)ごろに薬研堀の大和屋が「大坂砂場そば」の看板を掲げていた。 
砂場が江戸へ進出した経緯は明らかでないが、大坂屋を名乗り半天に「○に大」のしるしをつけるのは、まぎれもなく大坂系だったからである。和泉屋の中氏一族よりも、そこで修業した縁のものであろう。文化(1804-1818)ごろ、評判のよかった麹町七丁目砂場藤吉の後裔は、明治年間に現在の荒川区南千住一丁目に移り、南千住砂場(長岡孝嗣)と称している。この店から慶応年間に本石町砂場(室町砂場・五代目村松毅)、明治5年に琴平町砂場(虎ノ門砂場・五代目稲垣隆一)が独立した。また、巴町砂場(四代目萩原長昭)は文化12年(1815)の番付「名物商人ひやうばん」に載った久保町砂場が、長吉のとき立ち退き命令によって天保10年(1839)巴町に移転した老舗である。  
砂場蕎麦2 
江戸には数え切れないほどのそば屋があって、いまも老舗といわれるそば屋は多い。しかし、江戸そばの老舗で代々続いている「のれん御三家」といえば、数ある中でもやはり代表は「藪」と「更科」それと「砂場」である。そして、この御三家のなかで最古参となると、ほんとうは「砂場」だということはあまり知られていない。 
江戸時代の初期、あるいはそれ以前にいくつかのルートでそば切りが江戸にもたらされたが、その技術や手法がある程度確立されてからの大きな流れは、ひとつは大坂の砂場からの流れであり、もうひとつは信州に端を発した更科で、その2つが今で言う「江戸そば」の形成に大きな影響を与えた。すなわち、「大阪の砂場」からは「砂場」と、さらに「薮」という大きな暖簾が育った。 
「砂場」の発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」「いずみや」というそば屋で、そこは大坂城築城の砂や砂利置き場であったことから通称「砂場」と呼ばれ、そこで商うそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになったのである。かつて大阪の「砂場」があったといわれるあたりは、いまは新町南公園になっていて、さほど古くはないが南隅には砂場跡の石碑がある。 
さて、大坂「砂場」発祥の年代だが、出典は嘉永2年(1849)刊行と時代は下がるが「二千年袖鑒(そでかがみ)」のなかに天正12年(1584)そば屋が開店したとある。時代背景としては、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年であるから、その翌年の工事現場(資材集積場)付近でのことである。「二千年袖鹽」には「津の国屋」の店先の絵があり、その余白に「天正十二根本そば名物砂場」という文字が読みとれる。 
ただ、初代砂場の年代については、書かれた書物の年代と創業時代の年代の差が大きすぎるために信憑性を指摘する異論のあることは書きとめて置くべきであるが、それをもってこれを無視する根拠にはなり得ないと考えている。少なくとも「砂場(津の国屋)」にそのような伝承が伝わっていたと考えるのが素直であろう。 
寛政10年(1799)刊行された「摂津名所図会」という絵入りの名所図会には、その大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の図がある。 
そのそば屋の暖簾には「す奈場」と染め抜かれ、たいそう繁盛している往来の様子と立派な店構えが描かれている。2枚目には店内の様子も描かれていて、そばを食べる客をはじめ、そばを打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人びとと、店の切り盛りの様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などから、とてつもない規模であったことが窺える。今ひとつ、「そばを打つ」という観点から興味深いのは、何人ものそば打ち職人が並んで同時にそばを打っている図で、これは狭い場所でも効率よくたくさんのそばを打てる手法であって、現在、江戸そばの打ち方(江戸流)といわれる流儀がこの時代の大阪にも確立していたと考えられる。 
さらにいまひとつ、そばを打っている人達の後背に、明らかにうどんを踏んでいると思われる2人の職人がいて、うどんも一緒に商っていたことがわかる。まさしく往時の上方ならではの名物そば屋といったところだ。浪速の新町で江戸期を通じて繁盛した名店であったが、残念ながら明治に入って10年ほどの後に姿を消した。 
寛延4年(1751)の「蕎麦全書」によると、江戸の薬研堀に「大坂砂場そば」の看板があったそうだし、安永8年(1779)刊・「大抵御覧」のなかで「砂場そば」の名が出ているそうだ。この他にも「砂場」の名前は登場している。江戸に進出した年代やいきさつはわからないが、浪速と江戸の双方で平行して「砂場」が繁盛していた時期があったのである。  

 

更科蕎麦 
更科の総本家は東京・麻布十番にある永坂更科。更科は、信州で布屋を商っていた初代布屋太兵衛が寛政2年(1790)麻布永坂に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」看板を掲げたのが始まり。その伝統は現代の総本家更科堀井に受け継がれる。太兵衛は蕎麦打ちの名人で、出入りしていた保科家の殿様から勧められて蕎麦屋へ転向した。信州の更級郡産の蕎麦粉を使っていたことから、更級郡の「更」に保科家から許された「科」の字を合わせて更科としたといわれる。永坂更科の看板商品は一番粉(さらしな粉)を使った白い御膳そばで、更科が成功した理由の一つでもある。白く上品な歯ざわりと喉超しのよさは、それまでの黒っぽい蕎麦をおおっぴらに食べにくかった武士や大店の主人に珍重されたという。寛延(1748-51)ごろ、すでに横山町甲州屋が「さらしなそば」、浅草並木町斧屋の「更級そば」の名を掲げていたが、ほかにも、店名の上に「信濃」「戸隠」「木曽」「寝覚」などを冠する店が多く、それほど信州そばの名声は高かった。 
その後、総本家代々の当主によって受け継がれたが、昭和16年に戦争の影響を受け、廃業に追い込まれる。しかし、8代目当主、堀井良造氏により昭和59年に総本家更科堀井として再興、現在は9代目の良教氏が暖簾を守る。伝統の技術を受け継ぐ店は「総本家更科堀井」「神田錦町更科」「布恒更科」「築地さらしなの里」の4軒。  
 
越後そば 
一般的にそば粉七-八割、小麦粉二-三割りを使い、水で打つ。つなぎは小麦粉のほか、自然薯、山ゴボウの葉、卵の卵白などが使われますが小嶋屋では布海苔を使用している。つなぎが変わっていることから「変わりそば」とも呼ばれ、独特の風味とコシがある。この布海苔つなぎそばは全国的にも稀で、十日町を中心とした、魚沼地方の蕎麦屋でしか使用していない。現在、各地に海藻つなぎの蕎麦を提供しているお店があるが、その多くは魚沼地方のと縁の深い方が多く経営している。海藻つなぎのおそばこそまさに越後そばといってもいいと私は思っている。布海苔の使った越後そばは「へぎ」という器に盛られる。独特の喉越しと歯ざわりで、小麦粉つなぎのそばと違った味わいが楽しめる。うどんのようにつるつるしていて、しかもそば本来の風味がする。 
へぎそば/「へぎ」を広辞苑などで調べると、木の器のことと書かれており、木を剥ぐということから来ているようだ、つまり、器なのだ。折を古語読みすると「へぎ」と言う。しかし、たまたま「へぎそば」と言われているだけで魚沼のそばは布海苔つなぎのそばが売り物である。  
 
行者そば 
駒ヶ岳登山道に通じる途中に駒嶽神社の鳥居がある。境内に「行者そば発祥の地」「信州そば発祥の由来」説明板など並んでいる。  
「奈良時代に駒ヶ岳の修行に向かう行者(役小角)が、ここ内ノ萱の里人から手厚いもてなしを受けたお礼に一握りのそばの種を贈り、里人はその種を大事に育て「行者そば」と呼んだ。やがてこれが信州一円に広まり信州そばと呼ばれるようになった」という。  
さらに行者そばは「食べ方」につけられた名前でもある。行者そばは、そばつゆに焼き味噌を溶いて入れた辛つゆに、辛子大根(高遠大根)のおろしとネギを薬味に添えて食べるのが特徴。神社から数百メートル北東に「梅庵」がある、知る人ぞ知る有名な店という。
 
蕎麦は江戸のファーストフード 
蕎麦は江戸っ子が簡単に、しかも粋に食べられるものとして好んでいた。江戸っ子の蕎麦の食べ方はざるに盛られた蕎麦を箸で取ってそばつゆに3分の1だけ浸してすっと一口で食べる。これを三回半で食べ終わる。そのため蕎麦の食べ方を俗に「三つ箸半」と言った。江戸っ子は蕎麦屋で食べている客の食べ方を見れば、それが江戸者であるか、地方者であるかが分かったという。蕎麦は江戸っ子の好む粋な食べ物だったのだ。また江戸時代のメニューにも鴨南蛮・玉子とじ・はなまき・おかめなど今日とほぼ同じようなものが食べられていた。 
 
蕎麦の花 
そばの花は茶人に欠かすことの出来ない茶花の一つでもある。それはあの白い細かい花が丁度美人の白い歯並びを思わしめるような風情があるからである。 
そばはまた花でもてなす山家かな     芭蕉庵桃青 
開高健は「そばの花」という随筆の中で次のように書いている「おそらく畑ではなくて山の道端に咲いているだけなら、そばはアカザや何かの、名もない雑草の一種として見過ごしてしまうしかないだろうと思われる姿態である。けれど、よく手入れされたことが一瞥してわかるつつましやかな山畑にいちめんに白い花が咲いているところを見ると、豪奢な華やぎはないけれど、野生と透明さの漂う、はかないような、可憐なような、声のない歓声を感じさせられるのである。花としては勿忘草と同じくらい小さくて、つつましやかで、けなげではあるけれどひっそりとしている。しかし、それがいちめんに群生して咲いているところを見ると、まだ声を出すことも知らない幼女たちが一斉に拍手しあっているような気配をおぼえさせられることがあって、ほほえましいのである。人の姿も鳥の影も犬の声もないような寂滅の山の道で、突然透明なにぎわいとすれちがうのである。」
  
蕎麦切り

 

蕎麦切り1 
蕎麦切りの歴史は比較的浅い。江戸をはじめとする都市において大衆食として普及したのは、ようやく江戸時代中期になってからのことであり、また農村においても一般化したのは同じく江戸時代中期以降のことである。ただし、農村においては当時はまだ蕎麦切りはハレの日や振舞いのための御馳走だった。普及はともかく、そば米やそばがきに代わる新食品としての蕎麦切りの起源はいつ頃にたどれるかというと、未だ不明な点が多く確定はされていない。 
享保19年(1734)「本朝世事談綺」巻一、飲食門の蕎麦切りの条に「中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳かに記せるにも、蕎麦切りの事見えず。ここを以て見れば、近世起こる事也」と、室町時代の文献には蕎麦切りの記事が見当たらないことを書いている。実際、室町中期の通俗辞書ともいえる節用集の、慶長2年(1597)改訂版「易林節用集」にも、饂飩、索麺、斬麥など10種類余の麺類が記されているにもかかわらず、蕎麦切りの用語は出てこない。現在のところ、蕎麦切りの初見とされるのは、長野県木曽郡大桑村須原にある臨済宗妙心寺派の定勝寺の文書の中から、天正2年(1574)の仏殿の修理工事に蕎麦切りを振舞ったという記録がある。起源はそれ以前まで遡らなければならない。 
蕎麦切りの発祥地/森川許六編の俳文集「風俗文選」(宝永3年.1706)に収録する雲鈴作「蕎麦切ノ頌」の書き出しに「蕎麦切というものは、もと信濃国本山宿(塩尻市)より出て、あまねく国々にもてはやされける」とある。また国学者の天野信景が書いた雑録「塩尻」の宝永年間の所に、甲州の天目山(山梨県東山梨郡大和村にある臨済宗棲雲寺の山号)から始まったという記述がある。ところが正保2年(1645)版「毛吹草」は、信濃国の名物として蕎麦切りを挙げて「当国ヨリ始ルト云」と記している。結局確証はない。 
蕎麦切りの最初の食べ方は、後の盛り蕎麦の一式であった。けれども当時はまだ醤油などは出来ていない。味噌の垂れ汁に、薬味をこてこてといれて、それに蕎麦を侵して食べた。その薬味には、花鰹、わさび、唐辛子、海苔、陳皮などよりして、今では異様にに思われる焼き味噌やら梅干しまでも使った。その上に大根の絞り汁が、どうしても無くてはならぬものとされていた。それらの薬味は、食べるに当たって、各自が思い思いに好きなだけ入れて、味を調えたのであった。 
元禄時代には、蕎麦はもう饂飩に対抗することの出来る人々の嗜好物となった。蕎麦は、最初は盛り蕎麦の一式だったといったが、掛け蕎麦も相当に早くから作り始められた。寛延年間に日新舎友蕎子という蕎麦好きの人が著して、写本のまま伝えられている蕎麦全書というものがあって、その中に掛け蕎麦は江戸新材木町の信濃屋が元祖だとしてある。その掛け蕎麦と云うのは、なお後にそうなったので、はじめはぶっかけ蕎麦であり、蕎麦全書にもまたそのように書いてある。 
夜蕎麦売駈落者に二つ売り 
蕎麦切でさへも店やは汁少な 
手打蕎麦下女前垂を借りられる 
晦日蕎麦残った掛けはのびるなり
 
蕎麦切り2 
そば切りが誕生した確かな年代はわからないが、「そば切り」という言葉が初めて文献に登場するのは、信州・木曽大桑村の定勝寺の記録で天正2年(1574)、砂場の天正12年はそれとわずか10年の差ということになる。この時代すでに商いとしてそばが扱われていたということは特筆すべき事柄であろう。 
浄戒山・定勝寺は木曽氏にまつわる古刹で、木曽・須原宿の旧中仙道沿いにある。 
「番匠作事日記」の、天正2年(1574)仏殿修復の竣工祝いのおりに「作事之振舞同音信衆徳利一ッソハフクロ一ッ千淡内振舞ソハキリ金永」とあって、そば切りが振る舞われたという記録である。ソハキリについて特別の注釈もないところから推しても、この地域ではさほどめずらしい食べ物ではなかったことがうかがえる。 
信州では、これより早い時期にそば切りが誕生していたとも考えられるのである。 
「初期のころのそば切りの商い」に関する資料も少ない中で、大阪に関係するものがいくつかあって古くからのそばとの関わりを見ることが出来る。 
大坂城と大坂の町の賑わいを描いた「大坂市街図屏風」があって、よく見ると「八けんやはたこ町」(八軒屋旅籠町)の町名貼札があり、その近くに楕円形のうどん(または蕎麦)と思われる麺帯を麺棒で延している図が見て取れる。この屏風は近世初期の作と言われ、慶長(1596〜)・寛永(1624〜)どの時期にも通じるイメージだと言われている傑作である。大坂を描いた中で、麺棒でうどんまたはそばを打っている風景は非常にめずらしい。延しているのは女性で、長い麺棒で「丸出し(麺を打つ工程)」をしているのであろう。この時代はすでに商いとしてのそば切りがあったと考えられるのでうどんともそば切りとも解することができる。全体としては相当大きな屏風絵の中のごく小さな一部分ではあるが、細かく観察すると座って前屈みで体重をかけて延している図はとてもリアルである。 
大坂では天正12年(1584)に新町でそば屋「砂場」が開業し、江戸では慶長19年(1614)に多賀大社の社僧が常明寺でそば切りを食している。これは、近江・多賀大社の慈性が書いた「慈性日記」で、「(江戸の)常明寺で・・・・ソバキリ振舞被申候」とある。 
京都では、権大納言・日野資勝の日記「資勝卿記」のなかで、元和10年(1624)12月の条で京都の大福庵においてそば切りを馳走になったことを記している。(この人は、江戸の常明寺でそば切りを振る舞われたと「慈性日記」に書き残した多賀大社の社僧・慈性の父である。)  
  
引越しそば

 

江戸時代中期から江戸を中心として行われるようになった。(天保年間にはすでにその風習はあった)大阪にはその習慣はないとされる。引越しそばは、隣近所へは二つずつ、大家、差配(管理人)には五つというのが決まりだった。「おそばに末永く」「細く長くお付き合いを宜しく」と言ったのは江戸つ子の洒落で、そばが一番手軽で安上がりだったことが本当の理由ではないだろうか。ちなみにそれ以前は小豆粥を重箱に入れて配ったり、小豆をそのまま配ったり煎り豆を用いたりもしたようだ。 
吉行淳之介は次のように随筆「蕎麦」に書いている。「引越し蕎麦」の明確な意味を辞書で調べてみると「今度おそばにまいりました」ということで要するに語呂合わせのシャレを含んでいる。年越し蕎麦はどういう意味合いか。「細く長かれと祝って、大晦日の夜または節分の夜に食う蕎麦」と辞書に出ている。ただこの日本語には、いろいろ考えさせられるところがある。「細く長かれと祝って」という文章は、なにか落ち着かないが、それはともかく「細く長い」のは目出度いことだと最初から決めているところがある。この反対語は、「太く短く」であるが「太く長く」という考え方は無いのだろうか。外国では、どういう言い方があるか知りたいが、わが国では「太い」場合は、「短く」なくてはいけないらしい。「太く長く」などという考え方は、あまりにずうずうしく天も人もともに許さない、というわが国独特の貧しさが感じられる。
 
年越しそば(歳取りそば、大年そば、大晦日そば)

 

運そば説/鎌倉時代、博多の承天寺で年末を越せない町人に「世直しそば」と称して蕎麦餅を振舞った。すると翌年から町人たちに運が向いてきたので、以来、大晦日に「運そば」を食べる習慣になったという。「運気そば」あるいは「福そば」とも云う。 
三稜(三角)縁起説/室町時代、関東三長者の一人であった増淵民部が、毎年大晦日に無事息災を祝って「世の中にめでたいものは蕎麦の種 花咲きみのりみかどおさまる」と歌い、家人共々そばがきを食べたのがはじまりとする。蕎麦の実は三稜なので「帝」に通じる。また、三角は夫婦と子供の関係にたとえられ縁起がよいとされてきた。 
「細く長く」の形状説/蕎麦切りは細く長くのびることから、家運を伸ばし、寿命を延ばし、身代をながつづきさせたいと縁起をかついだ。「寿命そば」(新潟県佐渡郡)「のびそば」(越前)ともいう。 
「切れやすい」ことからの形状説/そばは切れやすい。一年の苦労や厄災をきれいさっぱり切り捨てようと食べるという説。「縁切りそば」「年切りそば」ともいう。一年中の借金を絶ちきる意味で「借銭切り」(岡山県賀陽町)「勘定そば」(福島県磐城)とも。どちらも残さずに食べきらないといけない。 
そば効能説/「本朝食鑑」にあり、そばによって体内を清浄にして新年を迎えるという説。薬味の葱は、清めはらう神官の禰宜に通じるとの俗言もある。 
捲土重来説/そばは一晩風雨に晒されても、翌朝陽が射せばすぐに立ち直る。それにあやかって「来年こそは」と食べる。また過ぎ去った一年を回顧反省する「思案そば」(栃木県芳賀郡)もある。 
金運説/金箔を打つとき打ち粉にそば粉を使うと金箔の裂け目が防げ、裂け目が出来ても一カ所に寄ってくっつく。金銀細工師は飛び散った金銀の粉をかき集めるときにもそば粉を使う。そこから、そばは金を集めるという縁起で食べるようになったとする。
 
節句そば(雛そば)

 

三月三日の桃の節句(雛祭り)、またはその翌日、雛段に供えるそば。三日に、草餅を供えることは平安朝時代からあり、白酒を供えることは室町時代からあった。これら節日(せちにち)の供え物を節供(せちく)といったが、この節供が後に節句となって節日と同じ意味の言葉に変わった。人形で身体を撫でて身のけがれや禍を人形に移してしまう祓(はらい)は古くから節日の行事のひとつであって、端午、七夕、八朔(八月一日)、重陽(九月九日)にも同じような祓(はらい)が行われていた。やがて、此人形に対する祓除の観念が段々薄れていって、更に人形が装飾的になり保存のきく永久的なものになるにつれて、そのつど捨ててしまうのをやめて、家に飾るようになった。これが雛祭りの風習の起源であり、江戸時代には五節供のひとつとして定められた。もともと、雛祭りには今日のような女の子の出産を祝うという意味はなかったのであるが、新興の町人が子孫の繁栄を願うため、今日のような意味を付け足したのである。
 
この雛そばの風習がいつからはじまったものなのかは不明だが、江戸時代中期には、民間でかなり広まっていたと考えられる。江戸では、三日ではなく四日の雛納めの日にそばを供えてから雛檀を崩し、雛飾りの道具を元の箱に仕舞った。四日にそばを供える意味は、清めのそばを供えて、来年までのお別れを告げるため、あるいは、雛様の引越しだからの説がある。また文政13年(1830)の「嬉遊笑覧 」巻六雛流しの条では、「今江戸の俗に、ひなを取りをさむる時、蕎麦を供ふ。何れの頃よりするに歟、いと近きことなるべし。こは長き物の延ぶるなど云うことを祝う心に取り足るなるべし。」と長く伸びる縁起からだと説明している。 
樟脳を蕎麦の次手に買いにけり 
蕎麦切りの一すじのこる雛の腕 
樟脳に包んでおいて蕎麦を喰い 
毛せんの上で二八を盛り分ける
  
本所七不思議

 

「置行堀」(おいてけぼり)本所のある堀では、夜釣りをして帰ろうとすると、どこからともなくオイテケオイテケと声がする事がある。そんなときは家に帰るまでに魚籠の中の魚が無くなっていたそうですが、狐の仕業とも狸の仕業とも河童の仕業とも言われていた。現在の錦糸町駅近くにあった「錦糸掘」が一番有力のようですが、他にも候補地があるそうです。なお「誰かを置いてけぼりにする」という語源はこれだと言われていますが、もちろん類似の話は全国各地にあります。 
「送り提灯」は、月夜の道で灯りは不用と歩いていたら不意に月が隠れて真っ暗になった。困っていると前の方に誰かの提灯の灯りが見える。これは幸いと、近寄ろうとするのだが、いくら急いで行っても先に行く灯りに追いつくことが出来ないという。また別の話では、追いついてみれば腰元風の女だったので、声を掛けて連れだってしばらく歩いていったが、別れて女を見送っていると、いくらも行かないうちに不意に消えてしまったという。
 
「馬鹿囃子」は 夜中に気が付くと、祭りの囃子が聞こえることがあり、それが近くに来たり遠くに行ったりしていて、どこでやっているのかわからない。探しに外に出て、これは怪しいと眉に唾をつけたところ、狸が腹鼓を打っている姿が見えたことから、狸囃子とも。あるいは、どこから聞こえてくるのか確かめようとお囃子の音を追いかけていくと、音はどんどん遠くなり、ふと気がつくと、とんでもない時間になっていて、とんでもない所にまで来てしまっていたという。 
「片刃の葦」は本所藤代町の南側から両国広小路までの隅田川の葦で、駒止(こまどめ)掘という小さな堀の岸に生えている葦がそもそもの由来だったという。この因縁話は、留蔵という悪党が、お駒という娘に惚れたものの、お駒は彼になびかず、逆切れした留蔵が、お駒を殺し、その片手片足を切り落として、駒止堀に投げ込んだそうで、それ以来、ここには片葉の芦が生えるようになったと言われる。
 
 
「消えずの行灯」は 燈無蕎麦(あかりなしそば)とも言われていたそうで、二八蕎麦屋の台行灯が店の前の軒下に置いてあるが、夜中にその灯が消えたことがない。油を継ぎ足しているのを誰も見たことがない。それどころか、近づいてみると屋台は無人で、しばらく待ってみても誰も現れない。それではと、悪戯で行灯の火を消すと消した人に凶事が起こったとも言われている。
 
「落ち葉無しの椎」は 大川(現在の隅田川)沿いにあった松浦邸の大椎木(おおしいのき)は枝葉が拡がっているが、いつ見ても一片の落ち葉もないというもので、足洗邸と入れ替わることもある。なお、椎の木は常緑樹で落ち葉は少ないといえば少ない。 
「足洗邸」(あしあらいやしき)本所にある旗本屋敷では、毎晩丑三つ時になると、泥だらけの大きな足が座敷の天井から現われて足を洗えとせがんで大暴れする。足を洗ってやると消えるが、一度で消えるという話も、何日か続いたという話もある。ちなみに、千束とか洗足という地名が残っているところにはこの種の由来があるとのこと。 
「送り拍子木」は、ある意味で馬鹿囃子に似ているのですが、夜、夜回りの拍子木の音があちらこちらから聞こえてくるが鳴らしている人の姿を見ることがないというもので、津軽の太鼓と入れ替わるときもある。その「津軽の太鼓」は、津軽越中守の宅では、普通は板木(はんぎ)のところを火の見櫓に太鼓を吊して打つことが許されていたというもの。
 
燈無蕎麦(あかりなしそば)」「消えずの行灯」1 
本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談怪談の1つ。江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒は何時行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れないというもので、その間、誰も給油していないのに店先に出している行灯の看板の油が一向に尽きず、いつまでも燃え続けていたというもの。この灯をうかつに消したりすると祟られるという。逆に屋台の行灯が消えており、火をつけてもすぐに消えてしまい、それどころか火をつけた人が家に帰ると、その家に必ず不幸が起るともいう伝承もある。また、寒い冬の深夜を急いでいたところ、そば屋の行灯が見えたので一杯食べて温めようと思い、近づこうとするが、いつまで歩いても屋台との距離が縮まらないという、同じ本所七不思議の一つ「送り提灯」と同様の話もある。  
「燈無蕎麦」「消えずの行灯」2 
本所南割下水付近を流して歩く屋台の蕎麦屋はいつも明かりが消えず、近づくと屋台ごと遠のく。 
冬の寒い深夜、震えながら歩いていると向こうに蕎麦屋の屋台の灯が見える。近づいてみると無人で待ってみても誰も現われない<行灯の火を消すと凶事が起こると言われる。 
夜二八そばの屋台が出ているのだが、いつ行っても誰もいない。行灯の明かりだけはついていて、いつまでたっても消える気配はなく、いつ油をさしているのかもわからない。  
夜道を家に帰る途中、腹が減り気がつくと灯りもつけずにいる屋台の二八そば屋がある。不思議に思って近づくと、お湯が沸き器が並べてあるのにそば屋の主人がいない。気をきかせてあんどんに灯をともし主人を呼ぼうとすると、風もないのにスーッと火が消えてしまう。再び火をつけようとすると、またスーッと消えてしまう。気味が悪くなり急いで家に帰ると、その後は必ず凶事が起こったという。  
  
「置いてけ堀」 
本所のある堀で釣りをしていると釣れるは釣れるは。釣りに夢中になってふと気が付くともう夕暮れ、腰しに付けた魚籠もいっぱいになったので帰ろうとすると、堀の中から「置いてけ置いてけ」と声がしたのでびっくり。夢中で逃げてきたが、気が付くと魚籠はからっぽになっていた。(錦糸町駅北口付近、錦糸堀)  
本所一帯は堀割りが多く格好の釣り場であった。ある日ふたりで釣りに出かけると、どういうわけかその日はよく釣れた。夢中になりすぎて気がつくと、日も暮れかかりあたりは闇に包まれはじめていた。暗くならないうちに帰ろうとすると、水の中から「おいてけ〜...おいてけ〜...」という声が聞こえる。ひとりは驚き釣った魚を全部投げ捨てて逃げ帰った。もう一人は釣った魚をもって逃げようとしたところ、あっという間に掘の中に引きずり込まれてしまった。  
・・・逃げ帰ってきて自宅の瓶に魚を入れて置いたが翌朝見ると1匹もいなかった。回りには鱗だけが残っていた。 
本所のある堀の近くの旗本屋敷で、往来の者を屋敷に引きずり込み、いかさま博打で身ぐるみはがして置いていかせた。細川若狭守下屋敷の中間部屋で開かれた賭場で、町奉行の手が及ず盛んに開かれた。負けて裸になった者には尻切れ半纏が支給され、見れば直ぐに負の帰りと分かった。  
  
「狸囃子」「馬鹿ばやし」 
昔、田んぼに稲が重く穂をたれる頃、本所では夜風にのって、あちらこちらから狸ばやしが聞えた。聞こえる方に行けども行けども狸は見つからず、すすきの原で皆、狸に化かされた。 
本所の人が夜半にめざめて耳をすますと、遠くまたは近くから、おはやしの音が聞こえてくるが、どこから聞こえてくるのかわからなかったという。 
・・・どこから聞こえてくるのか確かめようと外に出て、お囃子の音を追いかけていくと、音はどんどん遠くなり、気がつくと、とんでもない時間になっていて、とんでもない所にまで来てしまっていた。  
 
「送り提灯」 
夜、本所出村町辺りを提灯も持たずに歩っていると、月が隠れて真っ暗になってしまった。いつのまにか前方に提灯の灯が現われる。夜ふけのこと、よき道づれと近寄るとパッと消え、また前方に現れる。いつまで行っても追いつけない。朝になって気がつくと、そこにはただ葦の原が広がっているばかりであった。 
夜道を歩いて帰る途中、道に迷ってしまった。途方にくれていると、何やら遠くの方でちらちらと灯りがついたり消えたりするのが見える。家があるのかとおもって近づいていくと、ふッと消えてしまう。不思議に思っているとまた灯りが見える。近づこうとするとまたふっと消えてしまう。  
  
「片葉の葦」1 
本所藤代町の南側から両国橋の広小路に渡る駒止橋の下を流れる隅田川の入堀に葦が生い繁っていたが、そのの葉は不思議なことにすべて一方だけ生え片葉となっていたという。両国橋付近、駒止(留)橋は東両国広小路の北側にあった小さな橋で、その下の堀は片葉掘りと言った。明治37年、前両国橋が架けられる埋め立てられた。 
亀沢町に住んでいたお駒という美しい娘が、ならず者の留蔵に目をつけられた。ある日、母親の用事で出かけたお駒が、葦の生いしげる堀にそった道を帰る途中、留蔵がせまり逃げるお駒を匕首で刺し殺し堀に沈めた。そんなことがあってから、この堀に生える葦はどうしたことか、片っ方より葉のない片葉の葦ばかりとなった。留蔵はやがて狂い死していまった。 
その昔、留蔵というならず者が、お駒という娘に惚れていた。お駒は彼になびかず、怒った留蔵は、お駒を殺し、片手片足を切り落として堀に投げ込んだ。それ以来、ここには片葉の葦が生えるようになった。  
片葉の葦」2 
葉が枝の一方にしか生えない葦、またはそれにまつわる伝説。かかる伝承は全国的に分布する。常態ではない植物の由来を説く伝承はほかに、片葉の薄・片葉の笹・片葉の松などがある。片葉のカタは諸葉のモロ、すなわち二つということに対する一つを意味する語である。もとはヨリマシが手にとった採物で、神霊の憑代ともみなされているが明らかでない。片葉の葦の由来は、弘法大師の威光にひれ伏して河原の葦までが一方になびき、そのまま片葉となった。同じく大師が杖をもって片葉を払った、源義経が下向のさい、泉水を鏡に代えて身繕いをすると、葦の葉が邪魔になったので刀で片葉をそいだ、熊谷直実が馬をつなぎ、その馬が一方を食いつくしたので、以来片葉となった、八幡太郎が片羽の白箭を立てたのが根を生じて片葉の葦となったなどという。このように片葉の由来として共通する点はほとんどなく、前代の祭りの習慣が伝説化したものだと思われる。
  
「足洗い屋敷」  
両国あたりに「足洗い屋敷」という大きな屋敷があった。その屋敷では、深夜になると突然「足をあらえ〜」といって大きな血まみれの足が天井から降りてきた。屋敷中の下女が集まってきれいに足を洗ってやると、そのまま天井裏へ帰っていく。ところが、そのまま足を洗わずにいると、夜が明けるまで屋敷中を暴れ回ったという。 
本所三笠町の味野岌之助(あじのきゅうのすけ)という幕府旗本の屋敷では毎晩不思議なことが起きた。なまぐさい風が吹きぬけたかと思うと、激しく家鳴りがする。しばらくして、天井から「メリメリ」「バリバリ」と大きな音が聞こえる。その音と同時に、血にまみれた大きな毛むくじゃらな足が現れ、吠えるような声で「足を洗え」とどなる。血のついた足をきれいに洗ってやると足はおとなしく天井へ消えていく。毎夜現れる足を洗っていたので、この屋敷をいつの間にか「足洗い屋敷」と呼ぶようになった。
 
蕎麦喰地蔵

 

江戸期所在地 / 田島山誓願寺 塔頭西慶院(現九品院)(浅草北寺町)  
現所在地    / 誓願寺(府中市紅葉丘) 九品院(練馬区練馬4丁目)  
誓願寺がまだ江戸浅草田島町にあった時代のことである。浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があった。ある晩、夜更けた頃になって、姿の端麗な一人の僧が来たので、仏心の深い主人は、自ら一椀の蕎麦を供養した。僧は、その蕎麦をうまそうに食べ、厚く礼をいって帰っていった。その次の晩も、また同じ時刻になると、昨日と同じ僧が来て、蕎麦を乞うた。主人はまた快く蕎麦を与えた。その翌日も、またその翌日も、同じ僧はやってきた。  
はじめのうちは、誰も気にしなかったがそれが続いて一ヵ月にもなると、店のものは、一体あの坊さんは、何処の寺の人だろうと不思議に思うようになった。そこで、ある晩、主人は、その僧に、お寺はどこですか、と尋ねてみた。すると、その僧はもじもじして答えようとしなかったが、重ねて聞くと、困ったような顔をしていたが、やっと、田島町の寺、といっただけで、逃げるように帰っていった。「あの坊さんはどうもあやしい。狐か狸の化けたのではあるまいか」店のものはこんなことを言って、こんど来たら、つかまえて、化けの皮をひんむいてやろうなどといきまいた。  
主人は「まあ待て、間違えて本当の坊さんに失礼なことをしては大変だから」と、若い者を押えておいた。その次の晩も、また例の僧は来た。何くわぬ顔をして、いつもと同じように一椀の蕎麦を供養した。僧は帰っていく。その後を、主人はそっと見えがくれについていった。それを知るや知らずや、僧は誓願寺の山門をくぐり、塔頭西慶院の境内に行く。  
主人が、ああ、やはり本当の坊さんだったのかと思いながら、なお見送っていると、不思議や、その坊さんは、地蔵堂の前に立ったかと見ると、扉も開けずに、そのままお堂の中へ消えてしまった。あっと、主人は驚いたが、そのまま一散に家へかけ戻った。その夜主人が寝ていると、夢ともうつつとも知れぬ境に、一人の気高い僧が現われて、「われは、西慶院地蔵である。日頃、汝(なんじ)から受けた蕎麦の供養に報いて、一家の諸難を退散し、特に悪疫(あくえき)を免(まぬが)れしめよう」といったかと思うとその姿は消えてしまった。それ以来、蕎麦屋の主人は、毎日西慶院の地蔵様の前に、蕎麦を供えて、祈願を怠らなかった。ある年、江戸に悪病が流行して、倒れるものその数を知らぬ有様であったが、この蕎麦屋の一家は、皆無地息災であった。そこで、その由来を伝え聞いて、願望の成就した人は、お礼として蕎麦を奉納したので、いつか蕎麦喰地蔵と呼ばれるようになった。西慶院は、明治維新後同じ誓願寺の塔頭、九品院に合併し、その九品院は十一ヶ寺の一として今、練馬四丁目に移転したので、蕎麦喰地蔵も同寺の境内に安置されている。  
縁起  
九品院に安置してある、将軍延命厄難減除蕎麦喰地蔵尊は、後陽成天皇の代、文禄元年(1592)徳川家康、江戸城に拠り江戸市街の経営を着々と進めるに当たり、庶民教化を第一として、行徳兼備の高僧を遍く求めた。そして相模国小田原誓願寺の開山東誉齢祖上人、徳望高く庶人帰依する者多しと聞いて上人を招請するために、大久保石見守を使者に差し向けた。大久保石見守はその途中小田原の某所を通過の節、地中から現われた地蔵尊を拝したので、東誉上人に面談した後このことを告げた。上人も「之れまことに、奇瑞なり」と、その開眼供養を施し、誓願寺境内に安置せられた。  
慶長元年(1596)関ヶ原の合戦の4年程前、誓願寺は小田原より江戸神田豊島町、今の須田町あたりに移され、石見守と縁故浅からぬ、塔中西慶院開基善誉俊也和尚が地蔵尊の別当になった。それから帰依するものが増え、武家の信仰も深く、よって将軍地蔵とも称せられた。  
その後明暦3年(1657)正月18日振袖火事で知られる江戸の大火で市中の大半は焦土と化し、誓願寺は本寺末寺挙げて浅草田島町に移転した。浅草広小路尾張屋の話はこの時代のことで、天保年間(1830-1843)悪疫流行の時には門前市をなす程の盛況だったという。  
 
前掲の「おはなし」も一般に伝わり誰言うとなく、願をかける時或は願成就の折には、お礼として蕎麦を供養せよ、とこれに依って蕎麦喰地蔵尊の名が起こり、江戸六地蔵の随一として著名になった。時代が推移し、明治の末年西慶院は隣寺九品院に合併され、大正12年9月1日の関東大震災にまた炎上した。そして昭和4年、現在の練馬区練馬4丁目に移った。地蔵尊の堂宇は、大方有縁の信徒の浄財寄付をもって再建し、講中地蔵講を結んで維持し、永遠に茲に安置することとなった。  
神田小柳町1丁目  
明暦3年(1657)の大火以前は誓願寺があった。同寺は慶長元年(1596)に銀町(しろがねちょう)1丁目辺りから移転した。同寺が浅草に引地となって後は土井大炊頭利重(下総古河藩)の拝領屋敷であった。  
浅草田島町  
明治2年(1869)浅草誓願寺門前が改称して成立。町名は誓願寺の山号田島山にちなむ。  
浄土宗誓願寺は浄土宗江戸四ヵ寺の一。はじめに小田原にあり、開山は見連社東誉魯水。天正18年(1590)の北条氏滅亡後徳川家康から江戸移転を命じられ、文禄元年(1592)銀町1丁目(現中央区)に寺地を与えられて移り、堂舎等を造営した。同年家康から制札を与えられ、同8年4月6日には家康・秀忠らを檀那として鐘が造営された。明暦の大火で焼失し、浅草北寺町に移転して再興された。元禄9年(1696)には徳川綱吉生母桂昌院の先祖位牌所となり、同16年には朱印寺領は400石となった。元禄11年住持用誉は常紫衣を許されている。寺域内には別院安養寺(安行寺)の他鎮守八幡弁天稲荷合社(現八幡神社)、坊中の快楽院仁寿院・迎接(こうじょう)院・林宗院・称名院・徳寿院・本性院・宗周院・得生(とくしょう)院・西慶院・仮宿(けしゅく)院・九品(くほん)院・長安院・受用院・宝照院があった。関東大震災で被災後、大正14年に誓願寺は現府中市紅葉丘1丁目に移転。昭和12年(1937)以降快楽院・宗周院・仮宿院・受用院・称名院・林宗院・仁寿院・迎接院・本性院・得生院・九品院の11ヵ寺は現練馬区練馬4丁目へ移転、安養寺は現足立区伊興町狭間へ移り法受寺に合併した。  
練馬村  
豊島園駅東側には浄土宗の十一ヶ寺がある。十一ヶ寺は浅草田島町(現台東区)の誓願寺の塔頭であった。関東大震災で被災し、昭和12年以降に移転してきた。十一ヶ寺に挟まれて将軍延命そば喰い地蔵尊が祀られている。  
 
大江戸線豊島園駅を出ると斜め向かいに寺が整然と並ぶ一帯が見える。その一番奥左側に「そば喰い地蔵」があった。寺だけが並んでいるので静かなところに祀られているという感じである。  
民話の中では江戸時代「田島町」誓願寺のお地蔵さんの話となっているが、「東京都の地名」によれば田島町は明治2年につけられた町名とある。以前は浅草北寺町である。したがってこの民話は明治以降に形作られたものなのであろう。ほっとする「昔話」である。  
 
  
蕎麦の食べ方

 

蕎麦の食べ方1 
そば屋の暖簾をくぐり店内に入ったらサッとメニューに目を通し「せいろ」と注文しましょう。「もり」とメニューに書いてある場合があるのでその場合は「もり」と注文してください。「ざる」というのは海苔がかかっているのですが、海苔の風味が蕎麦の風味に勝ってしまう事が多いようです。 
注文すると、通常の状態なら5分程度で「せいろ」が出てくるはずですから、出てきたら最初に盛ってある蕎麦の上の方を一口分つまんでつゆを付けないでそのまま口に含むのです。こうすることにより蕎麦の風味、甘みをダイレクトに感じることができます。 
ついでに薬味を入れる前に蕎麦つゆを口に含んで蕎麦つゆを楽しむ。出汁の具合、甘さ、醤油の香りを確かめる。これでその店の蕎麦のグレードがある程度わかるはずである。 
後は蕎麦とつゆのハーモニーを楽しむのであるが、あわてて薬味を入れてはいけません。薬味を入れずに蕎麦の下の方1/4程度をつゆに付け「ずずっ、ずずっ」と勢いよく吸い込むのです。ここでホンとの通になると噛まないで一気に喉の奥まで蕎麦を流し込んでしまうようですが、2、3回噛んで蕎麦の歯ごたえ、味を楽しむ方がお得なような気がします。 
半分程度食べた後、薬味を加えお好みの味につゆを調整した後に残りの蕎麦を頂いてしまいましょう。 
ちゃんと食べ終わったら、「せいろ」もう一枚を注文してください。お店のご主人はドキッとするはずです。なにしろ「せいろ」は種物と違ってごまかしがきかないので蕎麦の善し悪し、つゆの善し悪しがわかりやすいからです。ご主人も蕎麦を茹でるときに「味にうるさそうなお客さんだな」なんて思いながら蕎麦を茹でている顔が目に浮かぶようです。お店のご主人も腕の見せ所であることは間違いのないところですね。1枚目より2枚目の方がきっちり茹でられたおいしい蕎麦が出てくる可能性は高いと思います。また、せいろを2枚注文すると言うことは1枚目がおいしかったということなのでご主人も嬉しいでしょうね。 
2枚目はお好みで薬味を入れて頂いてしまいましょうね。もしかしたら、陰からお客さんの顔を覗いているかもしれません。2枚目の代わりに「蕎麦がき」を注文しても良いでしょう。どちらにしてもごまかしの利きづらいシンプルな物を注文するのがポイントです。  
蕎麦の食べ方2 
最初に何もつけず食べてみます。そば本来の香り、のど越しを楽しみます。 
3分の一程度 そばをつゆにつけて一気にズルズルっと食べる。そばをつゆに全部に浸してしまうと、つゆの香りにそばが負けてしまい、そばの味がしないため。そのため、ざるそばのつゆは濃い目の味になっているお店が多いです。 
薬味を入れて総合的なうまさを味わう。つゆの旨み、そばの香り、薬味のアクセント、三位一体となった味を楽しむ。 
最後にそば湯を飲む。そば湯を出さない蕎麦屋がありますが、そのお店は疑ったほうがいいです。そば湯は茹でたそばの味がもろにでてくるのです。お好みでそば湯にそばつゆを入れてみたり、残った薬味を入れたり、楽しんでみたください。そのまま飲んでも十分おいしいです。  
蕎麦の食べ方3 
おそばというと、世の中には「そば通」の人がたくさんいたりして、なんだか食べ方にもいろいろ作法がうるさそうな気がしますね。本来は、おいしく食べらればどんな食べ方をしたっていいような気もしますが、「こうすれば粋で通っぽく見せられる!」という方法も知っておくと、いざというとき(いつ?)に便利かもしれません。そこで、ここではそばの粋な食べ方を覚えましょう。 
実は、ある有名な小説のなかに、おそばの食べ方について解説されているシーンがあるのです。その小説こそ、前回のサンマ特集でも登場した夏目漱石の「吾輩は猫である」です。 
問題のシーンは、第6章を読み始めてすぐに出てきます。苦沙弥先生の家へよく訪ねてくる学生時代からの仲間で美学者の迷亭先生。彼が、相変わらず自分の家のように気兼ねすることなく苦沙弥宅に上がり込んできます。苦沙弥先生の奥さんに「腹が減った」と言っておきながら、勧められた御茶漬けを断る迷亭先生。「奥さんこれが僕の自慢の御馳走ですよ」。「まあ」と驚いている奥さんをよそめに、実は下女のおさんに持参したざるそば2枚をゆでさせていました。騒がしいと文句を言いに書斎から出てきた苦沙弥先生と奥さんが見つめるなか、そばの食べ方についてうんちくを語り出す迷亭先生。「打ち立ては難有(ありがた)いな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼もしくないもんだよ」と言いながら、薬味をツユの中に入れて「無茶苦茶」に掻き回します。 
「奥さん蕎麦を食うにも色々流儀がありますがね。初心の者に限って、無暗にツユを着けて、そうして口の中でくちゃくちゃ遣っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一としゃくいに引っ掛けてね」と、長い蕎麦を箸で持ち上げつつ迷亭先生。 
「この長い奴へツユを三分一つけて、ひとくちに飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉(のど)を滑り込むところがねうちだよ」と言いながらも、猪口にツユを注ぎすぎたためそばを浸けあふれそうになって動けなくなって少し躊躇する迷亭先生。2人の手前気まずくなったところを……「脱兎」のごとく一気に吸い込んだ。そのとき、迷亭先生の目からは涙のようなものが(笑)。おそらくワサビが利いたか、飲み込むのに胸が詰まったかしたのでしょう。 
苦沙弥先生も奥さんもなかばあきれながら「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」「御見事です事ねえ」と、迷亭先生の食いっぷりのよさを誉めます。迷亭先生はさらに負けじと、そばのつかえた胸をたたきながら「奥さん笊(ざる)は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数を掛けちゃ旨く食えませんよ」と駄目押しで通ぶります。 
この後、苦沙弥先生の元教え子で物理学者で迷亭先生同様いつも苦沙弥家を訪ねてくる寒月君が登場。そうこうしているうちに、迷亭先生、ざるそば2枚を先ほどのような無茶な食べ方ではなくぺろりと平らげた、という形でそばの描写が終わります。 
ここでもう一度まとめてみましょう。迷亭先生流のそばの食べ方は、 
1. 箸にひとしゃくいに引っ掛け、 
2. そばの下3分の1にツユをつけたら、 
3. 一口に吸い込み、 
4. 噛まずに飲んでのどごしを味わい、 
5. 3口半か4口で食べきる、 
というものでした。今でもそば通の人が多く語るのはたしかこの食べ方のようですね。 
もちろんこれをスマートに実行できれば粋なのでしょうが、迷亭先生のように吸い込みすぎて涙を流してしまっては、そば通が聞いてあきれそうですね。 
それとも、涙が出てもやせがまんするのが迷亭先生流の流儀だったのかもしれません。  
蕎麦の食べ方4 
もりそば(せいろそば)を注文する。 
はじめにつゆ無しでたべる。特長が味なのか香りなのかを確認する。 
つゆだけを軽くすする。辛口なのか甘口なのか確認する。 
つゆの付け方を調整する。 
  辛口のつゆ、味が特長な細麺は3分の1程度付けて食べる。 
  甘口のつゆ、香りが特長の太麺はたっぷり付けて食べる。 
薬味は程々にする。何も入れない方が通っぽい。 
残ったつゆにそば湯を注ぎ飲む。  
蕎麦の食べ方5 
そば屋の店主の嘆き、「店で出すそばについて、ウンチクを並べるお客が増えている。困るよ」。この嘆き、わかるような気がする。ゴルフもそうだね。少しマスターすると「教え魔」に変身。相手にとっては、迷惑、千万ということをいつも目にしてきた。 
夏目漱石の「吾輩は猫である」。主人公の猫くんの主人・苦沙弥氏の友人・迷亭先生も「そば通」ぶる人として描かれている。 
苦沙弥氏宅に上がり込んだ迷亭先生の目の前に、みずから注文した出前のざるそばが運ばれてきた。「打ちたてはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間の抜けたのは由来頼母(たのも)しくないものだよ」と薬味をツユの中に入れて無茶苦茶掻き回す。「君そんなに山葵(わさび)を入れると辛らいぜ」と主人は心配そうに注意した。 
「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」という迷亭先生は、蕎麦の食べ方を講義する。「奥さん蕎麦を食うにも色々流儀がありますがね。初心の者に限って、むやみにツユを着けて、そうして口の内でぐちゃぐちゃ遣っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ」。 
昔から「そば通」がいたんですね。現代の「そば通」は、昔のように「そばの粋な食べ方」を知ってるだけでなく、蕎麦の蒔きつけ・製粉・効用・道具・・ ありとあらゆるものをマスターしてますね。講釈だけで簡単に「旨い旨い蕎麦」ができれば、 うれしいことだが?。しかし、「旨いそばを探求しているプロ」は、そばの無限の奥深さを少しでも多く会得しようという挑戦をおこたらない、というのが現実です。  
蕎麦の食べ方6 
まず、つけ汁はそばの先端につけること。 
つける量はそばとのバランスを考えて加減すること。 
そばの汁のついていない部分を舌の中央に運び、そばの香りを楽しむこと。 
その後は一気にそばをすすり込むこと。 
このとき猪口の縁にそばをあてると、そばについてくる汁の量を加減できます。 
あまりにも上品に静かに食べすぎないこと。 そばは気持ちよく音と立ててすすりましょう。 
 
そばは地域によっても非常に個性に富み、食べ方も異なります。 そこで、どの土地に行っても美味しく味わえるそば通の食べ方をご紹介しましょう。 
まず最初の一箸はそばだけを食べます。そばのでき具合、個性を知るためです。 
二箸目は薬味は使わず、つけ汁をつけて食べ、汁の個性を味わいます。その後そばとのバランスを考えて、そばつゆの量や薬味の分量を決めます。 
三箸目から、薬味を使って本格的にそばを味わいます。昔、武家の作法書には何とそばを食すときの正しい姿勢も明記されていたといいます。 
 
「まず背を伸ばし姿勢を正しくして座り、そばの麺を背筋に沿って真っ直ぐにすするのを良しとする」というものなのですが、これは見た目にも美味しそうな食べ方として今でも立派に通用する秘訣です。背中を曲げたり、そば猪口置いたままの犬食いでは、そばに限らずうどんやそうめんなども、その美味しさを堪能することはできそうにありませんね。 
そばにつきものの薬味として代表的なものがわさび。これはつけ汁に溶く人と、汁の味が変わらないよう、そばの方につける人に大別されるようです。食欲を増進させ、味わいを深めるという薬味の性質を考えると、これは各人の好みで自由にするのが良いのではないでしょうか。 
また、そば湯の飲み方についても各人各様。残った汁に足して飲むのが一般的ではありますが、特に決まった手順はなく、そばの合間に楽しむ人、そば湯だけの味わいを楽しむ人など様々です。ただいずれにしても、そばを食べた後あと口の中をさっぱりとさせるためには、あまり濃すぎないそば湯を味わうのが良いようです。  
蕎麦の食べ方7 
わさびは蕎麦には欠かせない薬味。江戸っ子の粋を追求した蕎麦の食べ方をするには、わさびにも気を配りたい。 
1 麦、つゆ、わさびそれぞれの風味を生かす / わさびをつゆに入れてしまうと、わさびの風味が損なわれてしまいます。わさびは蕎麦の上につけ、蕎麦はどっぷりつゆにつけずに食べるのが、それぞれの風味を生かした食べ方です。 
2 麦の合間にわさびを食べる / 蕎麦にわさびをつけないで食べる場合は、蕎麦の合間にわさびを直接口に運んで、口直しとして食べます。  
蕎麦の食べ方8 
世の中見渡してみると、素麺には生姜、蕎麦には山葵という人が圧倒的多数を占めているようですが、さてうどんとなると意見の分かれるところではないでしょうか。ちなみに僕は山葵が好きなので、うどんも蕎麦も素麺もぜーんぶ山葵で頂きます。などと言うと、「それはオカシイ。」「邪道である。」「素麺に対する冒涜だ。」「うどんの身にもなってみろ。」「麺のなんたるかを分かっていない。」「お前のかあちゃんデベソ。」と非難を受けること必至でありまして、どうも日本人には、麺にうるさい人間が鍋にうるさい人間とほぼ同数いるのではないかと思われます。 
中でも激しいのが蕎麦。「山葵は汁に溶いてはいかん、麺に直接つけるのだ。」「汁とはなんだ、あれはツユだ。」「麺を全部ツユにつけてはいかん。」「何を言う、本当にうまい蕎麦はツユなどいらんのだ。」「喉越しが命、お前まさか噛んだりしてないだろうな。」とまあこんな具合で、麺に山葵をのっけ、ツユもつけずに口に放り込み、挙げ句に噛まずに飲み込めとおっしゃる。蕎麦を食べるのって何かの修行だったりしたのでしょうか。 
僕の場合、あまりそういう事にはこだわらないタチなので、自分が満足ならそれでよし、という食べ方をしますので、通の方たちが見たら、口から火を吐き、ケツから煙を出しながら怒り出すことでしょう。山葵なんてツユの中にたっぷり入れて入念に溶き、麺はツユの中にチャポンと入れてグリグリかき回さないと気が済みません。しかも麺をすすった時、ついでにツユをグビッと飲みます。 
通というのも結構いい加減なもので、人によって言う事がまちまちだったりします。「山葵はツユに溶いた方が香りがたつからいい。」「いや、溶いたらツユが死んでしまう。麺にのせなきゃだめだ。」「山葵だけ直接口に入れるのがいいんだよ。」「おめーら分かってねえな、本来蕎麦に山葵は合わないんだよ。」とか。あるいは、「茹でたらすぐ食え。」「バカか、茹でてしばらくしないと蕎麦本来の味は出ないだろ。」「しばらくおいたら伸びるだろうが。」「蕎麦は伸びないんだよ。」「いーや、蕎麦とて伸びる。」とか。「箸でつまんだ部分はツユにつけちゃいけねえ。」「そりゃつけ過ぎだ。下の端っこをちょこっとつけるだけでいい。」「ツユなんてつけなくていいんだよ。」「それじゃ飲み込めねーだろ。水につけてつるっと飲み込むんだよ。」とか。 
結局こいつら、自分の好みを言ってるだけじゃないのでしょうか。今日から僕も蕎麦通を自称してみようかな?  
蕎麦の食べ方9 
なにごとによらず通人ぶる人は必ずいるものだ。昨今のグルメ・ブームを反映してか、食べ物に関してのウンチクをまくしたてる輩が増えている。 
いつの世にも能書きを垂れる者はいるようで、明治時代に書かれた日本を代表するこの作品にも登場している。主人公である猫くんの主人・苦沙弥氏の友人、迷亭先生がその人だ。 
苦沙弥氏宅に上がり込んだ迷亭先生の目の前に、みずから注文した出前のざるそばが運ばれてきた。「「打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼母(たのも)しくないもんだよ」と薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に掻き廻わす。「君そんなに山葵(わさび)を入れると辛(か)らいぜ」と主人は心配そうに注意した。 
「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」」という迷亭先生は、そばの食べ方を講義する。「奥さん蕎麦を食うにも色々流儀がありますがね。初心の者に限って、むやみにツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃ遣っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一としゃくいに引っ掛けてね」という実地を兼ねた講釈によると、そばはツユの三分の一つけて、ひと口に飲み込んでしまうもので、噛むとそばの味を損なう。「つるつると咽喉(のど)を滑り込むところがねうち」で、しかも、一枚のざるは三口半か四口で食うものなのだそうだ。 
迷亭説の真偽はさておき、そばの食べ方にこれといった決まりはないが、こうしたほうがおいしいのでは、ということはある。そばを噛み砕くよりは、そののど越しの感触を楽しむほうが味わいがより増すだろうし、つけ汁をちょっとつけて食べるのは、どっぷりつけては辛くて食べられないほど、昔のつゆは辛かったからともいえる。全般に甘くなっている現在のつけ汁では、どっぷりつけた一見ヤボな食べ方のほうがおいしい場合もあるだろう。 
端で見ていてヤボな食べ方をしているなと思える御仁も確かにいるが、聞こえよがしに通人ぶるのは、それこそヤボというものだ。この作品には、そうしたヤボへの風刺精神が流れている。  
蕎麦の食べ方10 
そばに向き合う姿勢と食べ方って、大きく分けて二通りあると思うんです。 
一つは江戸っ子に代表される「粋な」食べ方。 
「そばそのものの香りを楽しむため、つゆはそばの先端にちょっとしか漬けない」 
「そばを食べることを“そばを手繰る”という」 
「喉越しを楽しむため、そばはあまり噛んではいけない」 
「そば屋で酒を飲む」 
など、生きるために食べるというよりは趣味に近いですね。 
もう一つが、郷土料理に代表される「素朴」「実用的」な食べ方。 
この場合のそばは、「土地が痩せていて蕎麦しかとれない」とか「働くためのエネルギー源」だとかいった側面があり、つゆも汗によって失われる塩分を補うため、「ちょっとしか漬けない」なんてことはありません。 
この場合のそばは、あくまでも食べ物であり、命の源。 
わたしは長野県の生まれですから、後者のそばの食べ方のほうが馴染みが深いです。 
そばはつゆにたっぷり漬けて食べたいですし、体の栄養になるよう、よく噛んで食べます。 
まあ、そばは、自分の好きなように食べればいいんですよ!  
蕎麦の食べ方11 
薮蕎麦は木々の緑がまぶしい美しい庭に囲まれています。ビルの谷間にある場所だなんて信じられない気分です。門のところでのぞいているとお店の方がすぐに気づいて「いらっしゃーい」とよくひびく声をかけてくださいました。語尾を長く伸ばす特徴のある言い方です。 
芝えびのかき揚げ(天たね)も一緒にせいろを注文しました。蕎麦はうっすらときれいなうす緑色です。蕎麦のこし、つや、のどごしのよさといったらありません。「いったい蕎麦の中に何が練り込まれているのだろう?」と不思議に思いました。つゆはとても濃くて少し味がきついなと思いました。 
実は「薮」のつゆは一番濃いのです。お店の屋号、出される蕎麦の種類によってつゆの濃さはみな違います。ですから薮に限らず、はじめてのお店にはいったら、まずつゆの味を試してみてから、自分ではどれくらいつゆを蕎麦につけるかを決めるのがいいそうです。 
蕎麦は大別して「白い色の更科(さらしな)蕎麦と御膳蕎麦」、「黒い色の田舎蕎麦と薮蕎麦」があります。つゆの濃さは蕎麦粉の含有量が多いものほど濃く、蕎麦が細いほど濃く、蕎麦の色が濃いほど味がきつくなるそうです。 
更科(さらしな)蕎麦などは細いのですが色が白いので比較的つゆは薄めです。薮は一番きつくなります。ちなみに薮蕎麦のうつくしい緑は蕎麦の実をひくときに甘皮の部分までひくからだそうです。季節によってはさらに美しい色味が増すそうで、どんな感じなのだろうと私などは想像力をかき立てられてしまいます。 
大変おいしいお蕎麦です。でも量が少ないですね(汗)。男性では「せいろ」を二枚召し上がるのが普通だそうですから、せいろ一枚が600円で1200円となります。お蕎麦が運ばれてきたときは量がちょうどいいように見えるのですが、すのこの真ん中が盛り上がっているのですぐ無くなってしまうのが私は、不満でした(涙)。でもこれもお蕎麦の水切れがいいようにというお店側の配慮だそうです。わざとたくさんに見せかけているわけではないということを知ってちょっと納得はしたものの私はやっぱりそんな心遣いはいいからこんな上げ底ではなくお蕎麦がいっぱい盛り上げてあるほうがいいなと思う小市民です。 
でもつゆが濃いということはお醤油の量が多いだけでなく出汁も濃く旨味も濃いということです。その分出し汁の元になる材料も多くかかります。つゆにかける時間も労力も経費も多くかかるということですから、そう考えると妥当なお値段な気がします。 
そういえば蕎麦の通の食べ方などということをよく聞きますね。蕎麦の1/4ほどをちょっぴりつゆにつけてずずっと一気に(噛まずに)飲み下し、口を閉め最後に鼻腔から一気に蕎麦の香りを出し味わいつくすというものです(笑)。でもそんなの勿体ないですね。せっかくのおいしい蕎麦。私はゆっくりと味わいたいです。 
蕎麦の通の方が亡くなるときに「ああ、本当はもっとつゆをつけたかった。もっと噛みたかった」などといって死んだという落語があるそうですが、本当にその通りです。自分に合わせた一番おいしいと感じる食べ方をすればいいと思うのです。でもお蕎麦屋には古い歴史や不思議だなあ、と感じる疑問の裏には道理にかなったきちんとした理由や歴史的背景があります。それを知ってお蕎麦を食べれば楽しみが増えることは間違いありませんね。  
蕎麦の食べ方12 
よく言われる「つゆをつけすぎるな」「薬味は邪道だ」などですが。まったくの根拠が無いわけでもありません。蕎麦は製粉した状態では香りが損ないやすく、我が家でも蕎麦をうつ直前に石臼で粉にします。又、殻の状態でもよっぽど保存状態が良くなければやはり香りが抜けます。 
ですから、本場信州とはいえ蕎麦本来の味と香りを楽しめる時期は新蕎麦の季節(10-11月)だけです。この新蕎麦の香りは普段食べている物と(現地の私が言うと手前味噌ですが)劇的に違います。正直言って感動します。 
ですから、下手に別の濃い味が混ざるとどうしてもこの香りが楽しめません。個人的にもその季節の物はやはり殆どツユをつけずに食べてます。(それ以外の時期はもっぱら、ジャブジャブつけて食べてますが) 
蕎麦食における江戸分化の特に「粋(いき)」や「やせがまん」などはこの様な事からきているのでは無いのでしょうか? 
「本来こうして食う事が蕎麦を楽しむってことなんでい!」みたいに 
新鮮な白身の刺身を食べる時あまり醤油をつけすぎると、あの甘味が味わえませんよね・・あんなような事の延長だと思ってください。 
「正統派」と多分「粋」とは別次元のものだと思います。「粋」は江戸庶民のカッコ良さの追求の表れだと思いますし、現代人に不足している物だと思います。「正統派」なる食べ方があるかどうかは不明ですが、是非一度新蕎麦の時期に信州へおいで下さい。 
蛇足ですが、蕎麦の食べ方の「正統派」が「ざる蕎麦、もり蕎麦」だと思ったら大間違いです。(こういう通ぶってる人、結構多いんですよね)  
蕎麦の食べ方13 
江戸時代のおそばの食べ方は今でも受け継がれています。そばを食べるときは最初にそばを一本、口に含みそば自体の味を楽しみます。次にお箸につゆをちょっとつけてつゆの濃さや薄さを確かめます。そうすることで、これから食べようとするそばをどのくらいつゆをつけて食べるかわかるというのです。 
わさび(又は唐辛子)などをつけるときは、おちょこにわさび(薬味)を入れるのではなく、せいろに盛ってあるそば自体に直接つけます。そうしないと、つゆ全体がわさびの味になってしまってそば本来の味がわからなくなるからです。 
そばをつゆにつけるときはお好みでもいいですが、本当にそば好きな人はそばをつゆに半分つけて(又は、つゆをつけないで食べる)食べるそうです。(ここ山形県には水そば(どんぶりにそばと水だけを入れて食べるそばというのもあります。) 
最後にそば湯を飲みます。そばを食べるときは必ずそば湯を飲まないことにはそばを食べた意味がありません。そば好きな人はそば湯さえあればいいそうです。  
 
蕎麦75日

 

東北・岩手の大自然の中、農業と法華経に生きた宮沢賢治が残した童話には、時空を超えた不思議な存在感がある。それは、どこか懐かしい響きの片仮名の名前をもつ登場人物や地名のせいかもしれないし、土や空や木々のにおいのせいかもしれない。 
グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森の中に生まれた。が、ブドリ10歳の年、平和な森に異変が起こる、恐ろしいききんがやってきたのだ。父、母、妹と離別し、ひとりぼっちになったブドリは、やがて森を出て行く。 
百姓仲間から山師と呼ばれている主人のもとで、オリザ(「ふだんたべるいちばんたいせつな穀物」。おそらく稲のこと)の田を耕すブドリ。周囲の危惧をよそに順調に育っていたオリザだが、ある日突然、いもち病にかかって全滅してしまう。落胆して寝込んでしまった主人は気を取り直し、「よし。イーハトーヴの野原で、指折り数えられる大百姓のおれが、こんなことで参るか。よし。来年こそやるぞ/その代わりことしの冬は、家じゅうそばばかり食うんだぞ。おまえそばはすきだろうが。」「さあおれの所ではもうオリザ刈りをやるぞ。」 
主人は笑いながら言って、それからブドリといっしょに、片っぱしからオリザの株を刈り、跡へすぐ蕎麦を播(ま)いて土をかけて歩きました。そしてその年はほんとうに主人の言ったとおり、ブドリの家では蕎麦ばかり食べました。 
ソバは救荒作物としてもよく知られている。稲などが凶作のときにも生育し、しかも生育が早い。育ちがよければ2ヶ月ほどで結実する。「蕎麦七十五日」といわれるゆえんだ。賢治の里、岩手県にも「蕎麦は七十五日で鎌を持って行け」ということわざがあるほど。とくに夏ソバは、秋ソバに比べて味・香りは劣るが、収穫量と生育の早さでは勝る。 
ブドリの伝説はまだ続くのだが、ブドリとは、ほんとうは自然とともに田畑とともに生きてきた、名もない大勢の人々のことだ。ソバは、そんなブドリたちを支えてきたのである。  

 


 
  
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うどん

 

麺類好きの日本人にとって、うどん(饂飩)は麺類の代名詞とも呼べる存在である。食文化として広く庶民の間に定着したのは江戸時代中頃のことといわれていて、今更「うどんとは」と改まることもないほど親しまれている食べ物である。 
うどんの主成分は炭水化物で、ごはんやパン、麺類などに含まれる栄養素として知られており、体内でブドウ糖、グリコーゲンに変成される。うどんは他の食物に比べて非常に消化吸収のスピードが速いため、体のみならず脳にも活力を与える即効のエネルギー源と言われている。体調を崩した時や食欲不振の時などには温かいうどんを食べると体調がよくなると昔から言われるのは栄養学的にも立証されていることなのである。 
麺に関する最初の記録は、「正倉院文書」にある「索餅(そうへい)」という食べ物についての記録である。中国伝来の食べ物で、小麦粉と米粉とを練って縄の形にねじったことから「麦縄(むぎなわ)」と呼ばれていたが、奈良時代になるとこれが「索麺(そうめん)」と呼ばれるようになったという。索麺が普及する過程で、こねた麺生地を平たく延ばして切ることから「切麦(きりむぎ)」と呼ばれるようになり、暖かくして食べるものを「熱麦(あつむぎ)」、冷やして食べるものを「冷麦(ひやむぎ)」と呼ぶようになったという。また別説では、遣唐使が中国から持ち帰った唐菓子の「混飩(こんとん)」が起源とするものもあり、「延喜式」に記された菓餅のうち団子状の温飩が転じて「饂飩(うんとん)」になったのではないかという説もある。「饂飩」は北京語ではフォントンと発音するというが、山梨県の「ほうとう」や大分県の「ほうちょう」の語源は、このあたりにあるのかもしれない。以下少し変わった視点から「うどん・あれこれ」についてまとめてみた。 
土三寒六 
うどんの善し悪しは塩加減で決まるとさえいわれるが、土は土用すなわち盛夏のことで、暑い盛りの夏は小麦粉に混ぜる1杯の塩に対して水3杯、冬の寒中は6杯にして用いるという麺作りのコツだそうだ。夏場は小麦粉に含まれる水分の量も多いために濃い目の塩水を使い、逆に、寒いときはたんぱく質のグルテンの伸びが悪いために塩の量を少なくするという意味である。また、こねた生地を寝かせる時間は、夏で30分、冬で1時間半程度が目安とされている。 
讃岐うどん 
生めん類公正取引協議会の「生めん類の表示及び解説」による定義では、@香川県内で製造されたもの。A手打、手打式(風)のもの。B加水量40%以上。C小麦粉に対する食塩の量は3%以上。D熟成時間2時間以上。E茹でる場合は15分程度以上で、十分アルファ化されていること、とされている。コシの強さと味わい深さが有名で、讃岐うどんが旨いといわれるのには、良質の塩・しょう油やダシの「煮干」に恵まれていて、昔からうどんを食べる習慣がほかの土地よりも定着していたことにあるのではないかという。気候が温暖で雨が少ない瀬戸内地方独特の自然環境の下で育まれた小麦粉は、日本でも最良質の部類であり、地下水脈が地表近くに流れていることからミネラル分の多い良質の水が利用でき、昔から塩作りが盛んであったことなど、小麦粉・水・塩の三要素が讃岐うどんをおいしくした理由であるという。本場の讃岐うどんを求め、全国から香川県へ出向く人々もいるそうだ。ちなみに、うどんを唐から持ち帰り、故郷の民衆を貧困から救ったといわれる弘法大師は讃岐出身である。 
稲庭うどん 
四国の讃岐うどん、名古屋のきしめんと並ぶブランドうどんである。秋田県特産の手延べ製法の干しうどんで、冷や麦より若干太い程度の細さが特徴である。でん粉を使って延ばし、乾燥前につぶす工法で、食感は滑らかである。古くから献上品として食され、一般人の口にはなかなか入らなかったそうだ。「稲庭古今事蹟誌」によれば、現在の秋田県湯沢市稲庭町で佐藤市兵衛という人物によって始められたと伝えられていて、その製法技術は、寛文年間以前に日本海交易によって博多(福岡)からもたらされたとか、山伏から教えられたなどとする説がある。 
そうめんと冷や麦 
小麦粉を延ばして作られた同じものである。その違いはJAS(日本農林規格)によれば、直径0.7ミリから1.3ミリ未満がそうめんで、1.3ミリ以上1.7ミリ未満が冷や麦とされている。また、手延べそうめんの場合は、より細くするために、こねた小麦粉の表面が乾かないように植物油をつけてよりをかけながら引き延ばして天日で乾かすのだが、油臭さが抜けて風味が増すようにするために、これらの作業は寒い時期に行い、倉庫で寝かせて梅雨が終わった頃に出荷するのが普通だという。 
[きしめんとひも川]名古屋名物きしめんと呼ばれるようになったのは18世紀頃とされているが、その由来には、@紀州の人が名古屋に持ち込んだことから「紀州めん」といった。A琉球から伝わった「鶏糸めん」から。B雉子肉が具として入っていたから、など諸説がある。一方、江戸の「ひも川」は、万治元年(1658年)の「東海道名所記」の池鯉鮒から鳴海までの区間で、「伊も川うどん、そば切りあり。道中第一の塩梅よき処なり」とあるところから、伊も川が転じてひも川となったと考えられるという。また井原西鶴の「好色一代男」では、伊も川は芋川として出てくるが、芋川は尾張の一地名であり、その周辺で食されていたうどんを芋川うどんといっていたらしい。ということは、江戸のひも川の出どころは、きしめんで知られる尾張(現在の名古屋)であったということになるという説である。 
うどんとつゆ 
うどんを現在のようにダシ汁で食べるようになったのは、しょう油が出回り始めた元禄時代以降のことで、それまでは味噌で煮込んで食べたりしたものらしい。また、「鍋焼きうどん」は幕末、「きつねうどん」は昭和初期、「うどんすき」は昭和に入り、しばらく経ってからのものだという。 
その他雑話 
ある高校には、うどん部という部活がある 
冷凍うどんには、しなやかさとコシを出すためにタピオカが練り込まれている 
カレーうどんは早稲田大学の学生街にある「三朝庵」が初めて世に送り出した 
静岡県の「吉田うどん」は食べ終わる頃には顎が痛くなるほど固い 
三重県の伊勢うどんは1時間もかけて茹でるために切り口が四角でふわふわしている