洋菓子・コーヒー・紅茶

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洋菓子
西洋に起源をもつ菓子の総称。日本の伝統的な菓子である和菓子と対置される言葉である。明治時代以降、日本に多数の西洋風の菓子が紹介されたため、従来親しまれてきた菓子との区別のために用いられるようになったものであり、明治時代以降に日本に入ってきた菓子に対して用いられる。西洋に起源がある菓子であっても、16世紀にオランダやポルトガルなどの宣教師から伝えられた、カステラ、ボーロ、金平糖などの南蛮菓子は通常和菓子として扱われている。
種類
洋菓子の種類は、伝統的にパティスリー(仏:pâtisserie)、コンフィズリー(仏:confiserie)、グラスリー(仏:glacerie)といったかたちで分類される。パティスリーは練り粉菓子の意で、小麦粉、卵、牛乳、砂糖などを主原料として各種の製法で生地を作り、クリームやジャムなどを添加して仕上げるものである。具体的にはケーキ、パイ、タルト、プディング、クレープ、シュークリーム、ビスケットといったものが含まれる。また小麦粉を使うものではないが、アーモンドやヘーゼルナッツから生地を作るマカロン、卵白生地のメレンゲ、デザート菓子ともいわれるムース、ゼリー、ババロア、カスタードプディングなどの冷菓もパティスリーとして扱われている。
コンフィズリーは砂糖菓子の意で、砂糖を主原料とする菓子や、砂糖の特性を生かして作られる菓子類である。具体的にはドロップ、ヌガー、キャラメル、マシュマロなどのキャンディ類や、チューインガム類、チョコレート類、飴掛けしたナッツやフルーツ、マロングラッセなどの砂糖漬け果実などが含まれ、現代では工場生産されるものがほとんどである。なおチョコレートはショコラトリ―(仏:chocolaterie)として独立した一部門とすることもある。グラスリーは氷菓の意で、アイスクリーム、シャーベットなどの凍らせて食べる菓子である。
「パティスリー」「コンフィズリー」といった言葉は、それぞれこれらの菓子を扱う菓子店を指す用語でもある。ヨーロッパでは18世紀にコンフィズリーがパティスリーから分離し、独立した業種となった。これらのほかに洋菓子に属するものとして、主にアメリカ合衆国で発達したスナック菓子(英:snack)がある。穀類を原料として塩辛い味付けをする軽食替わりの菓子で、ポテトチップス、ポップコーンなどのものである。
日本では和菓子と同様、保存性の観点から菓子の水分含有量にしたがって生菓子、半生菓子、干菓子という形に分類されることも多い。生菓子は加熱していない菓子のことではなく、水分の多い菓子のことで、おおむね30%以上の水分を持つ菓子が該当する。ショートケーキやパウンドケーキ、シュークリーム、ゼリー、ババロアなど、パティスリーの多くは生菓子であり、「パティスリー」を洋生菓子全般の意味で用いることもある。干菓子はおおむね水分が10%以下のもので、チョコレート、キャンディ、チューインガムなどのコンフィズリーのほか、ビスケットやリーフパイなどの焼き菓子も含まれる。半生菓子はその中間で、洋菓子では一部のスポンジケーキや砂糖漬けなどが該当する。
主な洋菓子
パティスリー
スポンジケーキ / パウンドケーキ(カトルカールとも) / ロールケーキ / タルト / シュークリーム / エクレア / アップルパイ / カスタードプディング(プリン) / マカロン / ゼリー / ムース / ババロア / スフレ / パンナコッタ / バウムクーヘン / ビスケット・クッキー / ウエハース / プレッツェル
コンフィズリー
キャンディ / ドロップ / ヌガー / タフィー / キャラメル / マシュマロ / グミ / ゼリービーンズ / マジパン / ドラジェ / チューインガム / チョコレート
グラスリー
アイスクリーム / シャーベット / アイスキャンデー
スナック菓子
ポテトチップス / ポップコーン / スナックバー 
 
 
 
ヨーロッパ菓子史
菓子と宗教
4世紀後半のローマ帝国の衰退をはじめ、ヨーロッパは幾つもの王朝が勃興しては争う時代となった。以降、ルネサンスまで菓子作りにおいてローマのような躍進的な創造はあまり見られない。また、この時代は都市構造や家屋整備の面でも停滞が見られ、一般の家々にオーブンを備える事は許されず、柔らかなパンや菓子生地を焼ける大きなオーブンは、各地の修道院や教会、荘園の領主などのみが所持していた。オーブンの使用料として卵や蜂蜜、チーズなどを納める事が求められ、この事は封建制度における弊害である反面、納められた材料を用いての菓子製造の専業化が進み、結果的にローマ時代に培われた菓子の製造技術が途切れず受け継がれていく事となった。また、修道院や教会によるキリスト教の行事や祝祭日のための菓子の製造は、フランスの「ガレット・デ・ロワ」や「オスティ」などの宗教菓子を経て、クリスマスや復活祭など、後年ヨーロッパにおけるキリスト教の行事を彩る様々な菓子の発展へと繋がっていった。
イスラム文化と砂糖と十字軍
7世紀にイスラム教が成立、それを背景とするイスラム帝国が勃興する。同じ頃ペルシアではサトウキビを発酵させない精糖法が考案され、長期保存が可能になった砂糖は貴重な交易品としてイスラム帝国の拡大とともに東西に広まっていった。711年、イスラム帝国ウマイヤ朝の時代には、北アフリカ一帯も勢力下に治めイベリア半島も征服、地中海沿岸に大きく版図を広げた。合わせてサトウキビの栽培と精糖技術も地中海沿岸諸国に広がったが、ヨーロッパに広く砂糖が知られるようになるのは、後の十字軍の時代であった。
イスラム教成立以降キリスト教世界との対立は続き、ヨーロッパにおいてようやく国家的安定が得られはじめた11世紀から13世紀までの200年間、聖地奪還を掲げて幾度もキリスト教圏から東方へと十字軍の遠征が行われた。人の往来は交流を生み軍路の発達は物流を助け、結果として砂糖や香辛料をはじめとする東方の物産がヨーロッパに広まる事となった。だが、イタリア諸都市を通じ地中海貿易でしか得られない砂糖は、貴族や富裕層の間でしか手にできない貴重品であり、そのほとんどが滋養のためのいわば薬用として処方されるもので、菓子製造に利用するのではなく、当初はわずかにふりかけるといった用いられ方だったとも考えられている。また、貴重品であった砂糖の取引はやがて教会の許可制となり、修道院などで薬酒として作られていたリキュール酒の材料として香辛料と共に用いられる事となり、後年、甘いリキュール酒として菓子作りに活かされる事となった。
砂糖だけでなく、十字軍のもたらした文物はヨーロッパの菓子作りに様々な影響を与える事となった。小麦の育たない寒冷地でも栽培できる穀物、ソバも十字軍によってヨーロッパにもたらされたもので、フランスではサラザンと言われている。中世においてアラブ諸民族を指すサラセンに由来した名だと考えられており、現代でもクレープなど様々な菓子に利用されている。また、フランス南西部に伝わる「パスティス」とモロッコに伝わる「パスティリャ」や、オーストリアの「シュトゥルーデル」とトルコの「バクラヴァ」の形の類似などから、広い範囲での交流があったとも考えられている。
食文化の暗黒期とも言われていた中世だが、ローマ時代に基本がほぼ完成していた各種の焼き菓子には、砂糖やリキュールなどによる更なる工夫の素地が用意された時代でもある。さらにインド原産のオレンジやレモン、中国原産のアプリコットなどがイスラム世界を経由して、さらに十字軍により運ばれ、砂糖の広まりとともに砂糖漬けにされた果実が、食後のデザートとして用いられるようになり、糖菓としての確立につながる事となる。そして、ブドウ酒や果実のジュースを入れた容器を塩を混ぜた雪や氷の中で撹拌するといった、現代にも通じる氷菓の製造法も伝来し、アラビア語で飲むを意味する「シャリバ」が語源と言われる、フランスの「ソルベ」、英語の「シャーベット」といった氷菓もイタリアなどで作られはじめた。現代欧風菓子の、小麦粉などの焼き菓子を主体としたパティスリー(Patisserie)、糖質が主体となった糖菓であるコンフィズリー(Confiserie)と氷菓であるグラス(Glace)といった大別は、中世の十字軍の東方遠征により図らずも育まれた文化交流によって成立していったとも考えられている。
ルネサンスと大航海時代
ローマの衰亡以降、イタリア半島は統一を欠き紛争が続いていたものの、地中海貿易を担うヴェネツィアやフィレンツェなどが都市国家として発展していた。14世紀にこれらイタリアの都市国家が中心となって興ったルネサンスは食文化にも及び、十字軍のもたらしたイスラム圏からの食材を用いて、さらに工夫を重ねた菓子が登場する事となった。
一方、レコンキスタにより1492年、イベリア半島はイスラム支配を脱し、ヨーロッパの他の王朝に先駆けて強力な王権を獲得したスペインとポルトガルは、民族主義意識の高まりを背景にイスラーム勢力の駆逐と領土拡張に乗り出す事となった。新航路の発見は領土と交易品をもたらし、ひいては莫大な富をもたらす。さらに、15世紀にかけてイスラム王朝の一つであったオスマン朝が帝国として台頭、地中海貿易をほぼ掌握したオスマン帝国による貿易関税への不満も加わり、ヨーロッパの各国が外洋へと走り出す、大航海時代となっていった。大西洋を渡り、西インド諸島はヨーロッパ諸国の一大サトウキビ生産地となり、貴重な輸入品であった砂糖をヨーロッパ人自ら精製し手にする事になった。そして、スペインによりチョコレートがヨーロッパにもたらされたのもこの時代であった。
フランス美食の王国
フランス菓子が世界に知られる完成度を得る背景には、ヨーロッパ諸国の興亡と王朝間の婚姻があった。諸侯が割拠していた西フランク王国をまとめたカペー朝が1328年に断絶した後、フランスはイギリスとの百年戦争に苦しむ事となる。1453年にフランスの勝利で戦争は終結し、以降、次第に国力をつけ幾度もイタリアに攻め入り、イタリア戦争を引き起こした。1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスが、政略結婚とも言える形でフランスのアンリ2世に嫁している。文化的には後進であったフランスに、ナイフとフォークを持ち込んだと言われ、実際に当時のイタリアの生活様式が全て再現できるよう、料理人や製菓人まで供にしていた。シャーベット、マカロン、フランバジーヌ、プティ・フールなど、今日フランスの伝統菓子とも思われているほとんどは、イタリアから伝わったものだとも考えられている。さらに1615年ルイ13世にスペイン王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリッシュ、続く1660年ルイ14世にスペイン王フェリペ4世の娘マリア・テレサが嫁ぎ、チョコレートとその調理法もフランスに渡った。ルイ15世に嫁いだポーランド王の娘マリー・レクチンスキーは父娘ともに美食家でも知られており、ババやヴァローヴァンを創造したと言われている。1769年オーストリアのマリー・アントワネットがルイ16世に嫁いだ事で、ドイツ菓子の製法も流入する。ヨーロッパ主要国の菓子の製法がフランスに集まり、ヨーロッパの菓子の集大成としてのフランス菓子が、その完成にむけて大きく躍進する事になる。
菓子製造の近代化と産業革命
イタリアをはじめ元はヨーロッパ各地で創作された菓子が、フランス菓子として現代に認知されている要因の一つに、菓子の製法を系統立ててまとめ正確に伝播できるようにした点が上げられる。1784年、革命前のフランスに生まれたアントナン・カレームは製菓だけでなく料理の技量においても秀逸であり、製菓や料理の技法を記した多数の著作を残した。シャルロット、ジュレ、ババロア、ブラン・マンジェ、プディング、ムース、スーフレなど、まさに現代に主流となっている口当たりの良い菓子をこの時代にデザートとして提案しており、同時代のみならず後の菓子職人達にも大きな影響を与えている。
18世紀に始まった産業革命にともない、精糖産業にも変革が訪れる。16世紀に寒冷地でも栽培できる甜菜(サトウダイコン)からも砂糖が精製できる事が発見されていたが、サトウキビを越えて広まる事はなかった。だが、1806年イギリスを封じ込めヨーロッパの経済支配を狙ったナポレオンの大陸封鎖令により砂糖が入手できなくなった事から、甜菜の栽培による砂糖生産が奨励される事になる。19世紀中頃に生産が軌道に乗り精糖産業の工業化が進んだ。この事は様々なコンフィズリーは元より、ビスケットやチョコレートなどの普及へと繋がり、ローマの昔から富裕層や特権階級の享受するものだった甘い菓子が、ヨーロッパ中に豊富に出回りはじめるきっかけとなった。
パティスリーそしてコンフィズリーの普及と完成を助けた産業革命だが、氷菓やアイスクリームこそ産業革命の申し子と言える菓子であった。1867年ドイツで製氷器が発明され、アイスクリーム製造の機械化は一気に進んだ。アメリカでは企業で量産されるようになり、後にアメリカの国民食と言われるほどの普及を見る。以降、グラス(氷菓)は、デザートやアントルメとしてのヨーロッパ式と、量産システムによるスナックとしてのアメリカ式の2つの傾向に別れて発展する事になった。
菓子と健康
イギリスで16歳以下に対するテレビ番組でジャンクフードをコマーシャルすることはできない。2007年、イギリス政府は、合成保存料の安息香酸ナトリウムと合成着色料の入った食品が、子供に注意欠陥・多動性障害(ADHD)を引き起こすという研究結果を受けて、ドリンクやお菓子にそれらが入ったものが多いとして注意を促し、2008年4月、英国食品基準庁(FSA)は注意欠陥・多動性障害と関連の疑われる合成着色料6種類について2009年末までにメーカーが自主規制するよう勧告した。ガーディアン紙によれば、この政府勧告による自主規制の前に、大手メーカーは2008年中にもそれらの食品添加物を除去する。自主規制対象のタール色素は、赤色40号、赤色102号、カルモイシン、黄色4号、黄色5号、キノリンイエローである。
2008年3月、これを受けて、欧州食品安全庁(EFSA)は、イギリスでの研究結果は1日あたりの摂取許容量(ADI)の変更にのための基準にはできないと報告した。しかし、4月イギリスは再び排除すべきだと勧告を行い、8月には欧州は摂取量の見直しをはじめこれらの合成着色料を含む飲食品に「注意欠陥多動性障害に影響するかもしれない」という警告表示がされることになると報道された。 
 
 
 
ビスケット
語源 
語源はラテン語のビス・コクトゥス(biscoctus)で、ビス(2度)・コクトゥス(焼かれたもの)。後に、2度焼かれたパンという意味のラテン語ビスコクトゥス・パーニス biscoctus panisともいわれる。現在、フランス語ビスキュイ(biscuit)、ポルトガル語ビスコイト(biscoito)、オランダ語ビスクヴィー(biscuit/biskwie)も2度焼かれたといった意味をもっている。 
ビスケットは保存食 
人類がパンを作り始めたのは今から1万年も昔。バビロニア人は小麦粉を発酵させる原理も知っていたようである。チグリス、ユーフラテス河一帯に栄えたバビロニア遺跡からは、小麦粉をこねてパンを作った道具や、その様子を描いた壁画が発見されている。 
ヨーロッパでは古代から、航海や遠征のための食糧として、日保ちを良くするために2度焼いたパンを持参していた。当時の言葉では食糧としてのパンと、菓子としてのビスケットとは明瞭に区別されていなく、混用されていた。 
これがビスケットの起源ではないかと思われている。ギリシャをへてヨーロッパに広まったビスケット。探検家のコロンブスやマゼランも、長い航海にのり出す時は大量のビスケットを積み込んだという話が残っている。 
ちなみに16世紀の日本には、すでに南蛮菓子として「びすかうと」がはいってきている。明治のはじめには、この直訳なのかビスケットに「重焼麺麭」という漢字を当てていた。
  
女王様の愛したビスケット 
ビスケットが本格的に作られるようになったのは16世紀。ヨーロッパの宮廷で盛んに食べられるようになり、いろいろな味やおいしさが工夫されだした。イギリスのエリザベス女王は、技師オスボンに命じて宮廷に焼きがまを作らせ、ビスケットを焼かせたと言われている。また、フランス王妃、マリー・アントワネットも、宮廷でビスケット作りをさせていたという。ビスケットにオスボン、マリーという名が残っているのも、そのためだといわれている。やがて産業革命が起こり、製造機械も高度化して大量生産され一般にも普及してきた。
   
ポルトガル人と一緒に日本に上陸 
1543年種子島に漂着したポルトガル人は、鉄砲とともにカステラやビスケット、ボーロといったいろいろな南蛮菓子を日本に伝えた。日本に上陸したビスケットは、当時では、ちょっと異質な味だったので、あまり人気がなかったようだ。また面白いことに16〜17世紀初めにかけ、日本製ビスケットをルソン(フィリピン)に輸出していたという。
  
アメリカではクッキー日本やヨーロッパではビスケット 
日本ではビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、本来、同種のものをさす。ただ比較的糖分や油分が多く含まれていて、手作り風の外観をもつものをクッキーと呼んでもよいという決まりがあり、区別して使う傾向がある。 
外国では、ビスケット(英)クッキー(米)ビスキュイ(フランス)ビスキュイート(独)などと呼ばれている。アメリカでは、ビスケットというとやわらかい菓子パンのことを呼び、イギリスのビスケットに当たるものはクッキーと呼ばれている。イギリスにはクッキーという言葉自体がないなど、ビスケットとクッキーの使い分けは、あまりはっきりしていないようだ。
  
「方庵日録」 
日本でのビスケットの歴史をみると、水戸藩士の蘭医・柴田方庵という人がでてくる。それまでは長崎周辺で外国人向けにだけ作られていたが、水戸藩が“保存のきく食糧”という点に注目し、その製法を調べたようだ。柴田方庵が長崎留学中にオランダ人から学んだビスケットの作り方を手紙にし、安政2年(1885年)2月28日水戸藩に宛てた史実がある。このことを日記に書き「方庵日録」として今でも残っている。これが日本でビスケットが作られたことが明確にわかる最も古い記録である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コーヒー
 
 
 
コーヒーの歴史
 
1.コーヒー発祥における2つの伝説
コーヒー発見には、数多くある伝説の内、二大伝説と言われるものがあります。
それはキリスト教国での説である「ヤギ飼いカルディの話(エチオピア起源説)」とイスラム教国の説である「僧侶シェーク・オマールの話(アラビア起源説)」です。
ヤギ飼いカルディの話(エチオピア起源説)
この説は、レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニの「眠りを知らない修道院」(1671年)に記されているもので、6世紀頃のエチオピア高原が舞台です。
ヤギ飼いカルディは、或る日放し飼いにしていたヤギ達が昼夜の別なくひどく興奮しているのを発見しました。
調べてみると、どうも丘の中腹に自生している潅木の赤い実を食べたらしいのです。
近くの修道僧にこれを告げると、それでは試しに食べてみようということになり、食べてみると気分はみるみる爽快になり、体に活力がみなぎってきたのです。
僧はさっそく僧院に持ち帰り、ほかの僧たちにも勧めました。 それからは徹夜の宗教行事のときに睡魔に苦しむ僧はいなくなったということです。
僧侶シェーク・オマールの話(アラビア起源説)
こちらは、回教徒アブダル・カディの「コーヒー由来書」(1587年)に記されているお話で、13世紀頃のイエメン山中が舞台です。
回教僧のシェーク・オマールは、無実の罪でイエメンのモカからオーサバというところへ追放されてしまいました。 食べるものもなく山中をさまよい歩いていると、一羽の鳥が赤い木の実をついばんでは陽気にさえずっているのを見つけたのです。
ためしにその実を摘んで煮出すと、何ともいえない独特の香りがし、飲んでみると、疲れが嘘のように消え去って元気が回復しました。
その後、医者でもあった彼はこの実を使ってたくさんの病人を救いました。 そして罪を許されて再びモカへ帰り、聖者として人々にあがめられたということです。
どちらの伝説が正しいの?
管理人の見解ですが、エチオピアは人類の祖先ホモ・サピエンスが住んでいたところでもあります。 また、野生のコーヒーの木は、エチオピアをはじめアフリカ大陸のあちこちで見つかっています。
簡単ですが、上記のことを理由に、文字に残されている伝説より大昔に人々がコーヒーの赤い実を食べていてもおかしくないと考えています。
コーヒー歴史は、エチオピアで始まったと言ってよいと思います。
 
2.アラビア諸国からヨーロッパに(10世紀初頭-15世紀頃)
その後、コーヒーは10世紀初頭から人々に飲まれ始めたのではないかと考えられています。それは、アラビアの医師ラーゼスが残した記録に、バンと呼ばれる乾燥したコーヒーの実を砕いて水に浸して煎じ、バンカムと呼んで医薬にしていたとかかれているからです。
その約100年後に医学者で哲学者のアビセンナが、バンとバンカムについて、やはり「薬用」だと書き残しています。
このような事から、コーヒーが飲まれ始めた当初は、薬として飲まれていたようです。
その後、長い間コーヒーはイスラム教寺院の中だけに、門外不出の秘薬として伝えられていきました。夜通し行う宗教儀式の前に眠気を払う霊薬として飲まれたのです。そんな中、豆を煎って飲むようになったのは13世紀頃からと考えられています。
13世紀中頃になって初めて、イスラム教の一般信者にその存在が知られ、寺院の回りはコーヒーの露天であふれかえり、人々は、儀式的にお祈りの前にコーヒーを飲むようになったといわれています。
それからメッカ、カイロ、ダマスカスへと伝わっていき、 14世紀中頃には世界最古のコーヒー店「カーネス」が当時のコンスタンチノープルに作られました。
世界的な広まりをみせる中、人々の中でのコーヒーの高い人気に賛否両論が起こり、ついにメッカの地方長官カイル・ベイが「コーヒー禁止令」を発布して最初のコーヒー弾圧をしました。しかし、当時のエジプト国王・サルタンが大のコーヒー好きでありましたので、その「コーヒー禁止令」を知って激しく怒り、すぐさま禁止令を撤回して「コーヒーを飲むのはコーランの教えや宗教上の罪悪にはならない」と宣告しました。
以後コーヒー弾圧は何度か繰り返されます。それだけコーヒーに魅せられる人が多かったということだと思います。
こうして16世紀中ごろにはトルコへ、その後ヨーロッパへと上陸していきます。
 
3.ヨーロッパから世界各地へ(15世紀初頭-現代)
ヨーロッパ諸国へのコーヒーの広がりは、15世紀初頭のベネチアを皮切りに、ヨーロッパ全土へと浸透していきます。
ローマでは、イスラム教徒の飲み物をキリスト教徒が飲むのはどうかと、賛否両論が持ち上がります。当時の法王クレメンス8世は「悪魔の飲み物といわれるのにこんなにおいしい。これを異教徒に独占させておくのはもったいない」と、コーヒーに洗礼を施してキリスト教徒の飲み物として受け入れました。
イギリスではコーヒーハウスが数多く作られ、紳士の社交場として人気を博しました。男たちはここで政治を語り文学を論じ、ビジネスを展開しました。
当時コーヒーハウスに入れるのは男性だけで、中には家に帰らずに入り浸る男たちも現れる始末。そこで1670年代にはコーヒーハウスの閉鎖を求める主婦たちの嘆願書が出されています。
フランスにもトルコ・コーヒーが伝わります。コーヒーはフランス上流階級をも魅了してやがてサロンが数多く作られ、新しい文学や哲学や芸術も生まれました。その波は一般市民にも及んで、あふれるほどの街角のカフェを生み出していきます。
特に15世紀末に誕生した「カフェ・プロコプ」にはルソーやバルザックなどの文化人が次々に集い、知的サロンとしてにぎわいました。
やがてフランスでドリップ式が、イタリアでエスプレッソが考案されて、コーヒーを飲むスタイルが徐々に変化していきます。
これだけ世界的に人気のあったコーヒーですから、その栽培に興味を持った人たちもたくさんいました。13世紀にはメッカへの巡礼者たちが大量の生豆を持ち出し、それが各地に植えられ、17世紀にもインド人のババ・ブーダンがイスラム巡礼の際に、メッカからコーヒーの実を盗み出して南インドのマイソールに植えています。
また、18世紀前半にはフランス海軍の将校ド・クリュー自分の飲み水を注いでコーヒーの苗木を守り、フランス領マルチニーク島に運んだという話が残っています。これがやがて中南米へと広がって行たのです。こうしてコーヒーの広まりと同時にコーヒーの栽培も世界各地に拡大していったのです。
 
 
 
日本のコーヒー史
 
1.日本へのコーヒーの伝来(江戸時代-明治初頭)
はじめて日本にコーヒーが伝わったのは、江戸時代初頭の長崎出島で、人々に受け入れられるようになったのは、明治時代になってからです。
西欧諸国ではコーヒーハウスが次々とオープンして、コーヒー文化と呼べる文学や芸術が開花していたころ、日本は江戸時代で、厳しい鎖国政策の真っ只中にありました。
当時最先端だった飲み物のコーヒーは、長崎出島のオランダ商館設立(1641年・寛永18年)以降オランダ屋敷に持ち込まれただろうと推測されます。
しかし外国人に接触できたのは、役人、商人、通訳、遊女などの限られた日本人のみ、1776年(安永5年)に記された「ツンベルグ日本紀行」(山田珠樹訳・雄松堂書店刊)には、「二、三の通訳のみがようやくコーヒーの味を知るのみである」とあります。
せっかく出島に入ってきた西洋文化の象徴「コーヒー」も、江戸時代の日本では普及しませんでした。
本格的な普及は、明治も半ばを過ぎてからになります。
 
2.ようやく人々に受け入れられ始める(明治時代)
伝来当初はコーヒーに対して拒否反応を示した日本人でしたが、開国して明治時代に入ると、西洋文化の象徴であるコーヒーを積極的に受け入れようとする姿勢が見えてきます。これは西洋文化を取り入れ、西洋人と積極的に付き合おうという日本人の文明開化への憧れでもありました。
そして長崎、神戸、横浜、函館などに次々に外国人居留地が作られて、そこで外国人から接待を受けたり、欧米諸国への使節や視察や留学などで洋風の食事を経験したり、横浜などに外国人相手のホテルが作られたりと、日本人が洋食やコーヒーを口にする機会はどんどん増えていきました。
それでも最初は、ほんの一握りの上流階級の人々の口にする、ハイカラな高級飲料の域を出ることはありませんでした。
日本で最初の本格的コーヒー店は、日本人の鄭永慶が東京上野の西黒門町に開いた「可否茶館」という店でした。
1888年(明治21年)の春のこと、アメリカに留学し、帰国後に官吏や教育者を経てこの店を開いた鄭永慶は、文学者や芸術家達が集うフランスの文学カフェをイメージしていました。しかし時期尚早で、残念ながら数年の後には閉店せざるをえませんでした。
コーヒーの輸入量を見ても明治10年にはじめて18トンが輸入され、明治21年ごろに60トン程度に増え、明治40年代になって80トン程度にはなりましたが、まだまだ多いとはいえず、とても一般の人々に普及する量ではありませんでした。
喫茶店がいくつも開店し、ハイカラ好きの人々や文化人、芸術化がそこに集い、コーヒー文化と呼べるものが日本に根付き始めたのは、明治に終わりに近くなった頃でした。
 
3.ようやく大正時代にて拡大、近年のグルメ志向(大正時代-現代)
日本でのコーヒー文化の先駆けは、「パンの会」(コーヒー愛好家の会)です。森鴎外が指導して1909年(明治42年)に創刊された文芸雑誌『スバル』のメンバーである北原白秋、石川啄木、高村光太郎、佐藤春夫、永井荷風などが日本橋小網町の「メイゾン鴻の巣」を利用して毎月会合をもっていたのです。
その店は本格的なフランス料理と洋酒を飲ませ、コーヒーも本格的なフランス式の深煎りコーヒーを出していました。メイゾン鴻の巣はさながら文士の社交場だったのです。 明治時代から大正時代にかけて、このような文化サロンの役割を果たすカフェがいくつかできて、日本にもやっとカフェ文化の風が入ってきました。 しかし、いずれもまだまだ一般の人には敷居の高い店ばかりでした。
そんなところに出来た、『カフェ パウリスタ』は、最初こそ文士や文学青年たちの社交場でしたが、一般の人達が気軽に立ち寄れる値段と雰囲気で、あっという間に大繁盛して、大正時代の最盛期には全国に20余りの支店を数えるほどになりました。では、なぜそれほどパウリスタは一般の人々に人気を呼んだのでしょうか。
それは、高級西洋料理店プランタンのコーヒーが当時15銭だった時に、パリやニューヨークのカフェを模しながら、しかもコーヒーの普及とサービスに徹したパウリスタでは、5銭で飲むことが出来たのです。
三分の一の値段で本格的な香り高いブラジルコーヒーを味わうことが出来たので、全国に散らばったパウリスタの店で始めてコーヒーの味を知った日本人の数は数え切れません。パウリスタはコーヒーの大衆化に拍車をかけた店として大きな足跡を残しました。
そして大正時代には確実にコーヒー愛好家が増え、昭和に入ってますます需要を伸ばしますが、第二次世界大戦でコーヒーは『敵国飲料』として輸入停止になります。日本人の生活から一時期コーヒーは姿を消してしまいます。
その後、戦後では昭和25年から輸入が始まり、珈琲は「平和の使者」とばかりに、人々を感激させました。
現在の日本では様々な形でコーヒーが飲まれています。喫茶店と家庭、レギュラーコーヒーとインスタントコーヒー、ホームコーヒーとオフィスコーヒーサービス、各種の缶コーヒー、そしてグルメコーヒー、フレーバーコーヒーという具合です。
近年ではグルメ指向の人も増えてきたおり、よりおいしい本格的なものを求めるコーヒーマニアが増えてきています。
  
 
 
コーヒー豆の種類
アラビカ種
原産国:エチオピア。味、香りとも優れ、コーヒーの全生産量の約880-90%を占めます。海抜800-2000mの高地と18-25(平均21度前後)度の気温が最適で、多雨でも少雨でもない気候、水はけの良い傾斜地での栽培に適しています。高品質で比較的高収量で、世界のコーヒー生産において主流となっていますが、高温多湿の環境には適応せず、霜害に弱く、乾燥にも弱いのが難点。レギュラーコーヒーに最も多く使用されている品種です。
ロブスタ種
海抜200-800mの低地・傾斜地の栽培に適しします。アラビカ種と比較すると、病気に強い品種として評価されていますが、味、香り共にアラビカ種よりも劣るという評価です。焙煎度合いによってロブスタ種ならではの美味しさを味わう事が出来ます。一般的にはインスタントコーヒー、缶コーヒー等に多く使用されています。
リベリカ種
ロブスタ種よりも低地で平地での栽培に適しています。生育旺盛で環境適応性が十分あり根が深いと言う事もあり雨の少なさにも強く、害虫病にも強いのですが、除去作業に手間がかかり収穫も長い年月を必要としているため、あまり人気の無い品種です。世界のコーヒー全生産量の約1%程度の生産量となっています。味、香り共にアラビカ種より劣っているとの評価です。
 
 
 
コーヒー豆の銘柄
キリマンジャロ (原産地:タンザニア)
キリマンジャロは酸味・甘み・コクに優れたコーヒー豆です。高地で栽培されたこの豆は、そのバランスの良い酸味と苦味、雑味の無い後味、豊かに広がる芳香は他の追随を許さないほど優れています。このようにキリマンジャロは昔から世界中の人々に愛されている銘柄です。焙煎度合いは「シティロースト」や「フルシティロースト」が適している。
グアテマラ (原産地:グアテマラ)
グアテマラコーヒーは、その多くが山の傾斜地で栽培されており、豊かな降雨量と肥沃な火山灰土壌、そして水はけのよさ、高原地帯の適度な気温など、コーヒーの栽培に非常に適した条件がそろっています。苦味のバランスが良く、酸味が少し強めのコーヒーです。ストレートで芳醇な香りをお楽しみください。焙煎度合いは「ハイロースト」や「シティロースト」が適しています。
ブラジル (原産地:ブラジル)
世界のコーヒー生産量の3分の1近くを供給する世界第1位のコーヒー産出国。現在では、サンパウロ州、ミナスジェライス州、パラナ州、エスピリット・サント州など、気温の適した標高の高い地域で栽培されています。ほどよい酸味と苦味があり、香りが高い。ブレンドのベースとして欠かせないコーヒー。焙煎度合いは「ハイロースト」や「シティロースト」が適しています。
エメラルドマウンテン (原産地:コロンビア)
エメラルドマウンテンの栽培地はアンデス山地1700m以上の高地が選ばれ、完熟豆だけを手摘収穫、カフェテロが欠点豆や未熟豆等を自らの手で徹底的に取り除きます。比類なき深い味わいと香りを送り出すため、加工は厳格に管理され、コロンビア国立コーヒー生産者連合会の鑑定士による品質検査に合格したものだけが初めてエメラルドマウンテンとして認定され、低温コンテナ船で出荷されます。コロンビア特有の甘い香りと深いコク。そして確かな甘味を兼ね備えた最高級ウォッシュドアラビカコーヒーです。焙煎度合いは「ハイロースト」や「シティロースト」が適しています。
コナ (原産地:ハワイ島)
ハワイ諸島の中で「ビッグアイランド」の愛称で呼ばれるハワイ島の西側にコナ地区があります。このコナ地区で栽培されるコーヒーがコナコーヒで、100年以上の歴史をもっています。他国の農場と比較すると、規模が小さくすべて手作業で行っている為、生産量が全世界のコーヒー生産量の1%程度を貴重な豆となっています。芳醇な香りと豊かなボディ、あふれ出す独特の酸味が個性的な銘柄です。焙煎度合いは「シティロースト」や「フルシティロースト」が適しています。
ブルーマウンテン (原産地:ジャマイカ)
レゲエやカリプソの調べとともに、ブルーマウンテンは、カリブ海に浮かぶ美しい島ジャマイカの代名詞のひとつとです。かつては英国王室御用達として用いられ、日本での人気の高さに説明はいらないでしょう。風光明媚な南国の楽園から、ほんの少量だけ生産される、良質の香りと調和のとれた味わいを持ち、真に世界の最高級品の名を与えられるにふさわしいのが『ブルーマウンテン』です。また、ブルーマウンテンは輸入される豆のほとんどが麻の袋に入って輸入されてくるのに対し、唯一木製の樽に入って、証明書つきで輸入されるほどの最高級品です。気品あふれる香り、コク、しっとりとした甘みと、正にコーヒーの王様にふさわしい味わいです。焙煎度合いは「ミディアムロースト」や「ハイロースト」が適しています。
モカ (原産地:イエメン)
「モカ」とは、ヨーロッパ諸国にコーヒー豆を輸出するための港として栄えたイエメンの町の名前がもととなり、ここから出荷されるイエメンとエチオピア産のコーヒー豆が「モカ」と呼ばれています。モカでは、モカ特有の果実の様な香りがあり、特に日本では高い支持を得ており人気の高い銘柄です。焙煎度合いは「ハイロースト」や「シティロースト」が適しています。
マンデリン (原産地:インドネシア)
エキゾチックなテイストの中にある、厚みのあるボディーが人気のインドネシア産コーヒーです。コーヒー初心者の方から、コーヒーこだわり歴の長い方で、幅広く人気のある銘柄であるマンデリン。ほろ苦さと、まったりしたコクが特徴的です焙煎度合いは「シティロースト」や「フルシティロースト」が適しています。 
 
 
 
コーヒー哲学序説 / 寺田寅彦 
八九歳のころ医者の命令で始めて牛乳というものを飲まされた。当時まだ牛乳は少なくとも大衆一般の嗜好品《しこうひん》でもなく、常用栄養品でもなく、主として病弱な人間の薬用品であったように見える。そうして、牛乳やいわゆるソップがどうにも臭くって飲めず、飲めばきっと嘔吐《おうと》したり下痢したりするという古風な趣味の人の多かったころであった。もっともそのころでもモダーンなハイカラな人もたくさんあって、たとえば当時通学していた番町《ばんちょう》小学校の同級生の中には昼の弁当としてパンとバタを常用していた小公子もあった。そのバタというものの名前さえも知らず、きれいな切り子ガラスの小さな壺《つぼ》にはいった妙な黄色い蝋《ろう》のようなものを、象牙《ぞうげ》の耳かきのようなものでしゃくい出してパンになすりつけて食っているのを、隣席からさもしい好奇の目を見張っていたくらいである。その一方ではまた、自分の田舎《いなか》では人間の食うものと思われていない蝗《いなご》の佃煮《つくだに》をうまそうに食っている江戸っ子の児童もあって、これにもまたちがった意味での驚異の目を見張ったのであった。  
始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい「おくすり」であったらしい。それを飲みやすくするために医者はこれに少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった。粉にしたコーヒーをさらし木綿《もめん》の小袋にほんのひとつまみちょっぴり入れたのを熱い牛乳の中に浸して、漢方の風邪薬《かぜぐすり》のように振り出し絞り出すのである。とにかくこの生まれて始めて味わったコーヒーの香味はすっかり田舎《いなか》育ちの少年の私を心酔させてしまった。すべてのエキゾティックなものに憧憬《どうけい》をもっていた子供心に、この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡って来た一脈の薫風《くんぷう》のように感ぜられたもののようである。その後まもなく郷里の田舎へ移り住んでからも毎日一合の牛乳は欠かさず飲んでいたが、東京で味わったようなコーヒーの香味はもう味わわれなかったらしい。コーヒー糖と称して角砂糖の内にひとつまみの粉末を封入したものが一般に愛用された時代であったが往々それはもう薬臭くかび臭い異様の物質に変質してしまっていた。  
高等学校時代にも牛乳はふだん飲んでいたがコーヒーのようなぜいたく品は用いなかった。そうして牛乳に入れるための砂糖の壺《つぼ》から随時に歯みがきブラシの柄などでしゃくい出しては生の砂糖をなめて菓子の代用にしたものである。試験前などには別して砂糖の消費が多かったようである。月日がめぐって三十二歳の春ドイツに留学するまでの間におけるコーヒーと自分との交渉についてはほとんどこれという事項は記憶に残っていないようである。  
ベルリンの下宿はノーレンドルフの辻《つじ》に近いガイスベルク街にあって、年老いた主婦は陸軍将官の未亡人であった。ひどくいばったばあさんであったがコーヒーはよいコーヒーをのませてくれた。ここの二階で毎朝寝巻のままで窓前にそびゆるガスアンシュタルトの円塔をながめながら婢《ひ》のヘルミーナの持って来る熱いコーヒーを飲み香ばしいシュニッペルをかじった。一般にベルリンのコーヒーとパンは周知のごとくうまいものである。九時十時あるいは十一時から始まる大学の講義を聞きにウンテル・デン・リンデン近くまで電車で出かける。昼前の講義が終わって近所で食事をするのであるが、朝食が少量で昼飯がおそく、またドイツ人のように昼前の「おやつ」をしないわれらにはかなり空腹であるところへ相当多量な昼食をしたあとは必然の結果として重い眠けが襲来する。四時から再び始まる講義までの二三時間を下宿に帰ろうとすれば電車で空費する時間が大部分になるので、ほど近いいろいろの美術館をたんねんに見物したり、旧ベルリンの古めかしい街区のことさらに陋巷《ろうこう》を求めて彷徨《ほうこう》したり、ティアガルテンの木立ちを縫うてみたり、またフリードリヒ街や、ライプチヒ街のショウウィンドウをのぞき込んでは「ベルリンのギンブラ」をするほかはなかった。それでもつぶしきれない時間をカフェーやコンディトライの大理石のテーブルの前に過ごし、新聞でも見ながら「ミット」や「オーネ」のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着《まんちゃく》するのが常習になってしまった。  
ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物うくて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の慢性的郷愁と混合して一種特別な眠けとなって額をおさえつけるのであった。この眠けを追い払うためには実際この一杯のコーヒーが自分にはむしろはなはだ必要であったのである。三時か四時ごろのカフェーにはまだ吸血鬼の粉黛《ふんたい》の香もなく森閑としてどうかするとねずみが出るくらいであった。コンディトライには家庭的な婦人の客が大多数でほがらかににぎやかなソプラノやアルトのさえずりが聞かれた。  
国々を旅行する間にもこの習慣を持って歩いた。スカンディナヴィアの田舎《いなか》には恐ろしくがんじょうで分厚《ぶあつ》でたたきつけても割れそうもないコーヒー茶わんにしばしば出会った。そうして茶わんの縁の厚みでコーヒーの味覚に差違を感ずるという興味ある事実を体験した。ロシア人の発音するコーフイが日本流によく似ている事を知った。昔のペテルブルグ一流のカフェーの菓子はなかなかにぜいたくでうまいものであった。こんな事からもこの国の社会層の深さが計られるような気がした。自分の出会った限りのロンドンのコーヒーは多くはまずかった。大概の場合はABCやライオンの民衆的なる紅茶で我慢するほかはなかった。英国人が常識的健全なのは紅茶ばかりのんでそうして原始的なるビフステキを食うせいだと論ずる人もあるが、実際プロイセンあたりのぴりぴりした神経は事によるとうまいコーヒーの産物かもしれない。パリの朝食のコーヒーとあの棍棒《こんぼう》を輪切りにしたパンは周知の美味である。ギャルソンのステファンが、「ヴォアラー・ムシウ」と言って小卓にのせて行く朝食は一日じゅうの大なる楽しみであったことを思い出す。マデレーヌの近くの一流のカフェーで飲んだコーヒーのしずくが凝結して茶わんと皿《さら》とを吸い着けてしまって、いっしょに持ち上げられたのに驚いた記憶もある。  
西洋から帰ってからは、日曜に銀座《ぎんざ》の風月《ふうげつ》へよくコーヒーを飲みに出かけた。当時ほかにコーヒーらしいコーヒーを飲ませてくれる家を知らなかったのである。店によるとコーヒーだか紅茶だかよほどよく考えてみないとわからない味のものを飲まされ、また時には汁粉《しるこ》の味のするものを飲まされる事もあった。風月ではドイツ人のピアニストS氏とセリストW氏との不可分な一対がよく同じ時刻に来合わせていた。二人もやはりここの一杯のコーヒーの中にベルリンないしライプチヒの夢を味わっているらしく思われた。そのころの給仕人は和服に角帯姿であったが、震災後向かい側に引っ越してからそれがタキシードか何かに変わると同時にどういうものか自分にはここの敷居が高くなってしまった、一方ではまたSとかFとかKとかいうわれわれ向きの喫茶店《きっさてん》ができたので自然にそっちへ足が向いた。  
自分はコーヒーに限らずあらゆる食味に対してもいわゆる「通」というものには一つも持ち合わせがない。しかしこれらの店のおのおののコーヒーの味に皆区別があることだけは自然にわかる。クリームの香味にも店によって著しい相違があって、これがなかなかたいせつな味覚的要素であることもいくらかはわかるようである。コーヒーの出し方はたしかに一つの芸術である。  
しかし自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅《うち》の台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。やはり人造でもマーブルか、乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネーションでもにおっていて、そうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のようにきらめき、夏なら電扇が頭上にうなり、冬ならストーヴがほのかにほてっていなければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光《せんこう》のアルペジオは確かにそういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであろう。  
研究している仕事が行き詰まってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである。  
こういう現象はもしやコーヒー中毒の症状ではないかと思ってみたことがある。しかし中毒であれば、飲まない時の精神機能が著しく減退して、飲んだ時だけようやく正常に復するのであろうが、現在の場合はそれほどのことでないらしい。やはりこの興奮剤の正当な作用でありきき目であるに相違ない。  
コーヒーが興奮剤であるとは知ってはいたがほんとうにその意味を体験したことはただ一度ある。病気のために一年以上全くコーヒーを口にしないでいて、そうしてある秋の日の午後久しぶりで銀座《ぎんざ》へ行ってそのただ一杯を味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷《ひびや》へんまで来るとなんだかそのへんの様子が平時とはちがうような気がした。公園の木立ちも行きかう電車もすべての常住的なものがひどく美しく明るく愉快なもののように思われ、歩いている人間がみんな頼もしく見え、要するにこの世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた。気がついてみると両方の手のひらにあぶら汗のようなものがいっぱいににじんでいた。なるほどこれは恐ろしい毒薬であると感心もし、また人間というものが実にわずかな薬物によって勝手に支配されるあわれな存在であるとも思ったことである。  
スポーツの好きな人がスポーツを見ているとやはり同様な興奮状態に入るものらしい。宗教に熱中した人がこれと似よった恍惚《こうこつ》状態を経験することもあるのではないか。これが何々術と称する心理的療法などに利用されるのではないかと思われる。  
酒やコーヒーのようなものはいわゆる禁欲主義者などの目から見れば真に有害無益の長物かもしれない。しかし、芸術でも哲学でも宗教でも実はこれらの物質とよく似た効果を人間の肉体と精神に及ぼすもののように見える。禁欲主義者自身の中でさえその禁欲主義哲学に陶酔の結果年の若いに自殺したローマの詩人哲学者もあるくらいである。映画や小説の芸術に酔うて盗賊や放火をする少年もあれば、外来哲学思想に酩酊《めいてい》して世を騒がせ生命を捨てるものも少なくない。宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈《かんか》を動かして悔いない王者もあったようである。  
芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手《へた》な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。  
宗教は往々人を酩酊《めいてい》させ官能と理性を麻痺《まひ》させる点で酒に似ている。そうして、コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察《どうさつ》と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。前者は信仰的主観的であるが、後者は懐疑的客観的だからかもしれない。  
芸術という料理の美味も時に人を酔わす、その酔わせる成分には前記の酒もあり、ニコチン、アトロピン、コカイン、モルフィンいろいろのものがあるようである。この成分によって芸術の分類ができるかもしれない。コカイン芸術やモルフィン文学があまりに多きを悲しむ次第である。  
コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。(昭和八年二月) 
 
 
 
紅茶
 
 
 
紅茶から見るイギリスとアメリカ 
■1 紅茶文化
1-1 「茶」という言葉の伝播
広東語ch’a系(陸路)
cha, chai, tchaĭ, chayなど日本語、ポルトガル語、ヒンズー語、ペルシャ語、アラビア語、ロシア語、トルコ語へと伝播。
福建語tay(te)系(海路)
tay (te), thee, tee, tea, theなどオランダ語、ドイツ語、英語、フランス語へと伝播。
○The Oxford English Dictionary.(Vol.II)(Oxford: Clarendon Press, 1989)
Properly, the name of TEA in the Mandarin dialect Chinese, which was occasionally used in English at the first introduction of the beverage.
○The Oxford English Dictionary.(Vol.XVII)(Oxford: Clarendon Press, 1989)
tea(ti:) The original English pronunciation (te:), sometimes indicated by spelling tay, is found in rimes down to 1762, and remains in many dialects; but the current (ti:) is found already in the 17 th c., shown in rimes by the spelling tee.
○The Oxford English Dictionary. (Vol.II)(Oxford: Clarendon Press, 1989)
1.=Bohea tea. The name was given in the beginning of the 18th to the finest kinds of black tea; but he quality now known as‘Bohea’is the lowest, being the last crop of the season.
○The Oxford English Dictionary. (Vol.XVII)(Oxford: Clarendon Press, 1989)
tea(ti:) The original English pronunciation (te:), sometimes indicated by spelling tay, is found in rimes down to 1762, and remains in many dialects; but the current (ti:) is foundalready in the 17 th c., shown in rimes by the spelling tee.
1-2 トーマス・ギャラウェイ(Thomas Garway)
A Broadsheet of Tea by Thomas Garway back to 17th Century
Following is the text of the famous broadsheet or advertising leaflet circulated by coffeehouse proprietor Thomas Garway, the first to sell tea in England, with contmporary spelling , but today's punctuation. The Drink is declared to be most wholesome, preserving in perfect health until extreme Old Age.
The particular virues are :
It maketh the Body active and lusty. It helpeth the Head-ach , giddiness and heaviness thereof.It removeth the Obstructions of the Spleen. It is very good against the Stone and Gravel, cleansing the Kidneys and Urinators being drunk with Virgin's Honey instead of sugar. It taketh away the difficulty of breathing, opening Obstructions. It is good against Lipide, Distillations, and cleareth the sight. It removeth lassitude, and cleareth and purifieth adult Homors and a hot Liver.It is good against Crudities,strengthening the weakness of the Ventricle or stomack, causing good Appetite and Digestion, and particularly for Men of corpulent Body and such as are the great eaters of Flesh.It vanquisheth heavy Dreams, easeth the Brain , and strengtheneth the Memory.
It overcometh superfluous Sleep, and prevents sleepiness in general, a draught of the Infusion being taken , so that without trouble whole nights may be spent in study without hurt to the Body, in that it moderately healeth and bindeth the mouth of the stomach.
It prevents and cures Agues, Surfeits and Fearers, by infusion a fit quantity of the Leaf, thereby provoking a most gentle Vomit and breathing of the Pores, and hath been given with wonderful seccess.
It (being prepard with Milk and Water)Strengtheneth the inward parts, and prevents consumptionk, and powerfully assuageth the pains of the Bowels, or griping of the Guts or Looseness.It is good for Colds, Dropsies and Scruffy , if properly infused purging the Blood of Sweet and Urine, and expelleth Infection.It driveth away all pains in the Colicky processding from Wind, and purgeth safely the Gall.And that the Virtures and Excellencies of this Leaf and Drink are many and great is evident and manifest by the high esteem and use of it (especially inlater years) among the Physicians and knowing men of France, Italy, Holland an dother parts of Christendom: and in England it had been sold in the Leaf for six pounds, and sometimes for ten pounds the pound weight, and in respect of its former scarceness and dearness, it hath been only used at Regalia in high Treatments and Entertianments, and Presents mad ethereof to Princes and Grandees till the year 1657 . The said thomas Garway did purchase a quantity thereof, and first publickly sold the said Tea in Leaf and Drink , made according to the directions of the most knowing Merchants and Travellers into Eastern Countries: And upon knowledge and experience of the said Garway's continued care and industry in obtaining the best Tea, and making Drink thereof , very many Noblemen, Physicians, Merchants and Gentlemen of Quality have ever since sent to him for the said Leaf and daily resort to his House in Exchange Alley aforesaid to drink the Drink thereof. And to the end that all Persons of Eminency and Quality, Gentlemen an dothers, who have occasion for Tea in Leaf may be supplied . These are given notice that the said Thomas Garway hath Tea to sell from sixteen to fifth Shillings the pound.
1-3 ポルトガル、ブラガンザのキャサリン王女
(Katherine of Braganza, a Portuguese princess)
イギリスに紅茶が広まったのはポルトガル王女のキャサリンがイギリスのチャールズ2世と結婚したからでした。キャサリン王女はかなりお茶好きだったようで、イギリスへの嫁入り道具として喫茶道具、中国茶、砂糖を持っていきました。それによりお茶に砂糖を入れて飲む贅沢な飲み方が広がり、宮廷や上流階級に喫茶の風習が広まったのです。
1-4 ベッドフォード公爵7世夫人、アンナ・マリア
(wife of the 7th Duke of Bedford , the Duchess of Bedford)
磯淵猛の紅茶の話
○ロンドンから北に100キロメートル、ベッドフォードシャーのウォーバン・アビーへ。ここにはアフタヌーンティーの創立者と言われる、七代目ベッドフォード公爵夫人、アンナ・マリアが住んでいた館がある。
○時は1845年頃、公爵夫人はこの館の応接室に人を招き、午後のひとときをおしゃべりに費やした。その室は、ブルー・ドロウイングルームと呼ばれ、金の模様がちりばめられたブルーのシルクの壁布に、美しい金細工の絵柄の天井から豪華なシャンデリアが吊り下げられている。
○豪華でおいしいと名高いイギリスの朝食は、朝からディナー・メニューと言われるほど盛りだくさんで、ランチは召し使いの手を煩わせないというのが習慣だったが、観劇や音楽会が終ってからのディナーは、かなり遅い時間になったので、いくら朝食をたくさん食べていても空腹に耐え切れなくなってしまう。
○そこで公爵夫人は、この応接室で、スコンやサンドイッチ、ケーキなどをサービスし、紅茶と一緒に楽しんだとのことである。
○1845年と言えば、既にインドのアッサム茶は本格的な茶栽培が行なわれていて、奇跡と言われた中国種の茶樹も、カンベル博士によってダージリン地方で栽培が成功していた。
○「公爵夫人のアフタヌーンティーでは、中国のラプサンスーチョンやインド用意されていた」とある。ラプサンスーチョンは中国武夷山の正山小種(セイサンショウシュ)として紅茶の元祖であり、インドのダージリンは、世界最高の香りとして王侯貴族に崇められた最高級茶である。果して、今日味わっているようなダージリンの、フルーツとも花のようなとも言われる香りを当時の公爵夫人たちは、既に楽しんでいたのだろうか。
1-5 アフタヌーン・ティー(afternoon tea)
イギリス人は紅茶好きで知られているが、起き抜けにも、朝食時にも、昼前にも、昼食時にも、午後にも、夕食時にも、就寝前にも、喫茶を楽しむ習慣を持つ。この場合は、その中でも午後4〜5時くらいの間に軽食を取りながら飲むお茶をいう。上流や中流階級では5時頃(five o’clcok tea)が伝統であったが、一般では4時頃、(four o’clock tea)になるのが最近の傾向ともいえる。個人差はあるものの、日本のおやつは3時というのが通例だが、イギリスの場合は4時半といってもよさそうだ。
紅茶と一緒に出される食べものは、サンドイッチ(tea sandwich)、スコーン(scone)、手作りのケーキ(home-made cake)、ビスケット(biscuit)などか通例。喫茶店などではスコーンがI〜2個だけのこともあるが、スコーンにサンドイッチとケーキを組み合わせて出すところもある。ただし、ハイ・ティー(hightea)とちがって、肉料理は出きないのが原則。
夕食の支度に取り掛かる前に、学校から帰宅した子供と母親とでその日の出来事を語らいながら、バターつきパン(bread and butter)と熱い紅茶で-・休みという家庭もある。日曜日にはそれこそ家族全員揃っての‘Sunday a afternoon tea’が楽しめるわけである。
また、この時間帯に人の家に招待された場合は、こういう茶席になるものと心得ていた方がよい。ハイ・ティー(high tea)の場合もそうだが、単に‘tea’といってこのお茶を指すこともあり、「茶を飲む」というよりは「食べる」という意味合いが強いためにヽ‘eat tea’という言い回し(⇒eating tea)も使われる。
この習慣の起源については19世紀までさかのぼった言い伝えがあるが、その背景には次のような事情があった。18世紀の後半には産業革命により工業化の時代となって、生活様式に変化が生じ、それまでは昼であぅたはずの‘dinner’の時間帯が、午後の3〜4時頃になり、さらに19世紀に入るともっとずっと遅くなって、8〜9時くらいになった。つまり、昼食は今日よりも早い時間帯であったにもかかわらず、夕食は反対に遅いということになる。7代目ベッドフォード公爵夫人(Duchess of Bedford)のアンナ(Anna:1788-1861)は、午後4時頃(5時頃ともいわれる)の空腹と退屈とを紛らわすために、紅茶を飲みながらバターつきバンやケーキやらを食べ始めたという。それが1840年のことと推測されている。そのうちにその席には友人たちも招待されるようになって、やがてはそれが上流階級での流行になり、さらにその後に中流階級にも普及して今日のように定着して行ったとするのが通説。ただし、第2次世界大戦以降は、日常生活のペースが速くなってきたため、この習慣にも陰りが生じてきている。実際に、子供は別としても、一般には日曜日などに客を招待した場合を除きあまり行なわれていない。
ちなみに、19世紀末葉の上流階級では、この茶席へ招待された女性は特別な‘茶会服(tea gown)を身につけるようになっていた。丈が長くゆったりしたウェストのこしらえで、生地は柔らかく半ば透けて見えるものを用い、レースの襞飾りには花綱飾り(festoon)をあしらっていた。また、この時代は馬車で午後のドライブ(afternoon drive)へ出かける習慣もあり、それが食欲増進にもつながって、帰宅後に出されるこのお茶は格別であったろうと考えられる。さらにつけ加えれば、エドワード王(Edward Z:1901-10在位)の時代には、このお茶は5時あるいはそれ以降の時間帯まで後退し、上流階級の間では完全な社交の時間にまでなっていて、給仕入はむろんのこと楽士の演奏つきの茶席であった。
この時に好まれる紅茶の種類は、アール・グレイ(Earl Grey tea)、キーマン(Keemun tea)、オレンジ・ベコー(Orange Pekoe tea)、ダージリン(Darjeehling tea)、セイロン(Ceylon tea)、ラプサン・スーチョン(Lapsang Souchong tea)のほか、チャイナー・ブラック(China black tea)など。
1-6 アッサム紅茶とR.ブルース少佐 (Maj.Robert Bruce)
○1 アッサム紅茶
アッサムは、紅茶大国といえるインドで産出されている紅茶の約半分を占めるほど、紅茶の栽培が盛んな地域で、世界でも最大の紅茶の産地と言われています。その特徴は、クセが少ないのですが、濃厚な風味と香りのよさ、深みのある赤い水色が人気で、紅茶を代表する銘柄として世界中で広く愛飲されています。そんなアッサムの濃厚な美味しさは、ストレートでももちろんですが、ミルクを加えても紅茶の風味が落ちないのが特徴です。アッサムを硬水でいれるとパンチのある渋味が和らぐこともあり、硬水が主流だったイギリスで最初にアッサムが人気となりました。また、アッサムは風味が濃厚なのでタンニンやカフェインが多くクリームダウンを起こしやすいため、アイスティーには向きません。しかし、成分が抽出しやすく、ティーバッグや他の茶葉とのブレンド用の紅茶として使用されています。
○2 R.ブルース少佐(Maj.Robert Bruce)
○ロバート・ブルースによるアッサム種の発見
1823年になると、ロバート・ブルース少佐がインドのアッサムの北東で自生していた茶の茂みを発見しました。その後、弟のチャールズ・ブルースは、この自生の茶樹や茶種子を、カルカッタ植物園長のウォーリック博士に送りました。しかし、残念ながらすぐには認められませんでした。
ブルース兄弟の功績が認められなかった理由としては、当時のイギリス東インド会社が中国茶の貿易を独占していたこともあって、本格的にインドにおける茶の製造に乗り出す必要がなかったということがあげられます。
○茶業委員会の設立
しかし、1833年になると、イギリス東インド会社は中国茶の貿易の独占権を失いました。これが転換点となり、英国人はインド独自の茶の製造に本格的に着手していきます。1834年には、インド提督のウィリアム・ベンティック卿により、「茶業委員会」が設立されました。茶業委員会のメンバーは中国に送られ、中国種の茶の種を輸入しようとしました。茶業委員会は最初、ロバート・ブルースがアッサムで発見した茶の木はインドに固有のものではないと考えていて、インドで中国種の茶を栽培しようとしたのです。そうして、中国産の茶の種がカルカッタの植物園に植えられて栽培されました。
チャールズ・ブルースによるアッサム種の栽培
そうしている間に、アッサムで、チャールズ・ブルースは、茶園を開発するために土地を開拓していました。自生していたアッサム種の茶の茂みから葉をむしって実験も行なっていました。ブルースは、中国から二人の茶の専門家を雇い、彼らの助けもあって、ブルースは着実に茶製造の秘密を学んでいきました。
アッサム種の開発と茶園の開拓はとても厳しいものだったようです。茶園で働いていた労働者たちに、トラやヒョウなどの猛獣が襲いかかることもありました。また、入植地が地元の部族たちによって襲撃されることもありました。それでも、ブルースたちは懸命に茶園の開発を続けていきました。
○アッサム種の成功
1838年には、アッサム産の茶葉が英国に向けて発送されました。翌年にはロンドンのオークションにかけられて、当時のバイヤーたちから優秀な茶葉であるという評価を受けることができました。
アッサムで製茶に成功した後、1850年代になると、ヒマラヤの山すそにあるダージリンでも、茶の栽培が開始されました。
その後、インドの茶の輸出量は年々拡大を続けていき、1885年には輸出量は3万5274トンにまでなりました。
今日、インドは世界で最大の茶の生産国のひとつになっています。また、驚くべきことにインドでは、二百万人以上の人がお茶に関連した仕事に従事しているといわれています。
1-7 「ボストン・ティー・パーティ」
○「Tea Party」の訳について
The Boston Tea Partyは、「ボストン茶会事件」と訳されることもあるが、「茶会」が事件になったわけではない。よくその内容を理解してカタカナ表記する方がよいのではないかと思われる。Partyには「徒党」「集団」というい意味をはじめ、「政党」という意味もあるだけに奥深い。
○「ボストン・ティー・パーティと独立戦争」
1769年の春、現在のカリフォルニア南端サンディエゴ湾の中に一隻のフリーゲート号が入港してきた。乗船していたのは、カリフォルニアへ殖民を目指すスペインの探検家だった。16世紀にもスペイン人はカリフォルニア海岸を船で探検したが、当時中南米の殆どを占領していたスペインにしてみれば、カリフォルニアを殖民する余裕がなかったという。
200年余の年月が過ぎ、1769年の夏、サンディエゴのプレシディオ(要塞)ヒルの上に、セラ神父がカリフォルニア最初のミッション(伝道寺院)を建立した。翌1770年には北上して風光明媚なモントレーに上陸した一隊は、ここにも新しいミッションを建立した。その後、30年の間に広大なカリフォルニア海岸の南半分に渡って19ヶ所ものミッションを建立してしまった。そして、それらがインディアン達の交易所や伝道所となり、更には植民地化の拠点ともなった。
1763年に集結したヨーロッパの7年戦争の間に、植民地だったアメリカでは、イギリスとフランスが闘い、イギリスが勝ったことにより、広大なカナダの植民地を手に入れた。
しかしながらイギリスは、莫大な戦費のために国の財政が窮乏した。そこで、時の国王ジョージ3世は「植民地防衛のための費用なのだから、植民地の連中に分担させよう!」と考え、関税法を改めて税金の取りたてを強化した。印紙税法が制定されたのが1765年。
当時、イギリスの東インド会社は、植民地を含む本国との茶貿易について、とても不公平な独占権が与えられていて、他の国の東インド会社は密輸という手段で対抗していた。植民地の人々は無論反発して、イギリスからの輸入品に不買運動を行った結果、茶税だけを残して印紙税法は撤廃された。
しかし、茶は植民地の人たちの中にも既に浸透しており、密輸茶の人気は高まるばかり、イギリスの茶の売り上げは落ち込んでいった。困ったイギリス東インド会社のために、イギリスは「本国に関税を払わないで、アメリカに茶を売ってもよい」と宣言。正規輸入される茶は安くはなったが、密輸に従事していた人たちは激怒する。
1770年、ボストン虐殺事件勃発。重い税金に反対したボストン市民と英国軍が衝突。兵士が群集に向け発砲し、死者5人。ボストン茶会事件のきっかけになる。そして1773 年12月16日のこと。「積み荷の茶を塩水で混ぜ合わそう!」とインデイアンに扮装した人々は無言で、ダートマス号、エリーナ号、ビーバー号に乗っていた茶箱342個を海に投棄してしまう。この事件の後、その近辺の海で獲れる魚は茶の味がするといわれたとか。この事件を契機として、フィラデルフィアなどでも「ティーパーティ」が開かれ、最終的には独立戦争へと発展した。
1774年、海路と並行して、陸路でメキシコ北辺からカリフォルニア中央部に到達するコースを作り上げる必要があり、英雄ファン・バウディスタ・デ・アンサにスペインから命令がくだった。
探検隊でもあったアンサは、アリゾナの南端にあるツーバック根拠地を指揮していた。アンサは命令を受けた年(1774年)に1度予備審査を行う。ツーバックから74日かけてモハベ砂漠を横切り、現在のロサンゼルスに近いサンガブリエル・ミッションに到達している。
2度目は、まず始めに同じルートを辿り、最大の目的は伝説のサンフランシスコまで一挙に足を伸ばし、そこの殖民の拠点を築く事であった。アンサがツーバックを出発したのは、1775年10月23日の事で、240人もの部下を従え、1000頭もの家畜を連れていたという。
同年4月19日早朝、大陸の反対側のボストン郊外では、豊かな森の連なるレキシントンの原野で、後にミニットマンと呼ばれるようになる植民地側の民兵達とイギリス駐屯地との間に最初の銃火が交わされ、独立への革命は熱き火蓋は切って落とされた。
一方、太平洋岸でワシントンが独立軍の指揮を取り始めていた時、他方では、太平洋岸を目指したアンサ探検隊がアリゾナの荒野の中をヒラ・バレーに沿って西へ進んだ(ここは第二次大戦の最中に日本人と日系人が強制収容された場所でもある)。
数ヶ月後、砂漠や山脈を超えて、アンサ達がなだらかな丘の上から美しいサンフランシスコ湾を見下ろしたのは、1776年3月の事で、それから4月へかけて、平和でのどかな湾の周辺を調査して、砦とミッションを建てる場所を決定した。アメリカの独立宣言書が公布される3ヶ月前の事である。
結局その年の9月には砦が、10月にはミッションが建てられ、スペイン領サンフランシスコはアメリカ独立宣言の年に誕生する事になった。
当時、このカリフォルニアから南米の南端まで領有した強大なスペインから見れば、独立したばかりのアメリカ合衆国は、物の数ではなかった。しかし、その後スペインの新大陸における政治的野望は跡形もなく消え、アンサの功績も忘れ去られようとしている。
1-8 アヘン戦争
イギリスでは19世紀にはお茶が広く国民に普及してきました(図表と写真)。当然、お茶の輸入量も増大しました。とくに、それまでイギリスの茶貿易を独占していたイギリス東インド会社の貿易独占権が廃止され(1833年)、貿易が自由競争になったことも大きな要因でした。
○1 お茶の飲みすぎで経済悪化
お茶の輸入量が増えればその分輸出国への支払いが増えます。当時、国際間の支払いは銀で行われており、イギリスに銀の不足が目立ってきました。もとよりイギリスはアメリカ独立戦争の影響で植民地からの銀の供給が困難になっていたことに加え、産業革命の進行などにより、たくさんの銀が必要となっていました。そこへお茶の輸入量がふえたため、中国に払う銀が底をついていたのでした。東インド会社は逆に中国から銀を引き出すために、イギリスの羊毛や綿織物をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国のお茶をイギリスへ、といういわゆる「三角貿易」を考えついたのでした。もともと中国ではアヘンはポルトガル商人によって医薬品として輸入され、その輸入量は年間約1000箱に過ぎないものでした。ところが1830年ころから急激に輸入量が増大し、なんと2万箱。35年には3万箱、39年には4万箱へと激増していました。中国国内では逆に銀が流失し財政が窮乏するとともに、アヘンよって風紀の乱れなど社会が混乱してきました。
○2 イギリスの武力挑発東インド会社はアヘン取引に直接かかわらず、会社の許可のもとに新興の自由貿易商人にアヘンを売り込ませていました。この中には幕末から明治に日本の茶貿易で活躍したジャーディン・マジソン社(日本では「英一番館」とよばれていた)も含まれていました。1839年、中国では林則徐がアヘン取締りを強化しました。折も折り、イギリス人水夫が酒に酔って中国人を殺害する事件が勃発し、中国はイギリスに犯人引渡し要求を拒否されたため、対抗してマカオを封鎖したのでした。翌年になるとイギリスは海軍を派遣し、中国海軍を破り、主要な港を占領したため中国はイギリスの条件を受け入れ、1842年、戦争は終結しました。これが「アヘン」戦争でした。
○3 中国茶の輸出はさらに増大この結果、中国は、1.ホンコンをイギリスに譲り渡し、2.カントン港のほかさらにシャンハイなど5港を開港することになりました。したがって、この戦争を機に、中国からさらにお茶の輸出が増大することになりました。以後、中国は苦闘と混乱の時代を迎えることになりました。ホンコンはつい最近、1999年中国に返還されたことはご存知のとおりです。アヘン戦争は日本にも大きな影響を与えました。幕末、ペリー艦隊の浦賀来航を機に、外国人排斥運動、つまり攘夷運動が激化したのもアヘン戦争によって欧米列強の実力を知らされたからでした。これほどアジア諸国に大きな影響を及ぼしたアヘン戦争もその発端は「イギリス人のお茶の飲みすぎ」だったのです。
1-9 紅茶に関する年表
1559年ジャン・バテスタ・ラムジオ『航海記』(ペルシャ人からお茶の事を聞いたという内容。おそらく、緑茶のこと) *ヨーロッパにおける最初の茶の記述。
1610年ヨーロッパに茶が伝わる。このときの茶は「緑茶」であったようだ。
1613年平戸のイギリス商館滞在のリチャード・ウィッカムの手紙によると、「ミヤコで上等のお茶一壷」を買ってくれるようにとの依頼の手紙を書いた。「上等のお茶」とは抹茶であったと推測される。
1658年『マーキュリアス・ポリティカス』(Mercurius Politicus)に世界最初の紅茶の新聞広告。
“That Excellent, and by all Physitians approved, China Drink, called by the Chineans, Tcha, by other Nations Tay alias Tee, is sold at the Sultanese-head, a Cophee-house in Sweetings Rents by the Royal Exchange, London.” (中国人によって『チャ』ほかでは『ティ』とも呼ばれ、すべての医師から折り紙をつけられた素晴らしい中国の飲み物が、王立取引所の近くスイーティング・レーンにあるサンタネス・ヘッド・コーヒ−・ハウスで売られております。)
1660年トーマス・ギャラウェイ、紅茶を宣伝。
1662年チャールズ2世とポルトガル、ブラガンザのキャサリン王女の結婚(キャサリン王女、ヨーロッパの紅茶の習慣をイギリスに伝える)
1665年トーマス・ギャラウエイで紅茶の売り出し(OEDの例文に記録がある)
1706年トワイニング、ロンドンに「トムズ・コーヒー・ハウス」を開店。(一般市民への紅茶の販売。当時、コーヒー・ハウスは女人禁制)
1717年トワイニング「ゴールデン・ライオン」開店。(女性向けの紅茶販売店)
1740年ダンカン・フォーブスの手紙(トゥイデール卿宛)
「紅茶はいまではごくあたりまえになりました。それで、ごく貧乏な労働者家庭でも、朝は紅茶で食事をします」
1750年ラネラ・ティ・ガーデン改装。1000個のランプを設置。
1750年トーマス・ショート『紅茶、砂糖、ミルク、ワイン、酒、パンチ等に関する論説』 * イギリスで最初の紅茶に関する医学的見解(紅茶を推奨)
1756年ジョナス・ハンウェイ『紅茶論』 *紅茶は有害という説。
1756年ウェッジウッド、シャーロット王妃より紅茶ポット、スプーン、紅茶カップなどの注文を受ける。(王室御用達となる)
1759年ウエッジウッド、独自の新しい工房を開く(カリフラワーウェア)
1770年ジョサイア・スポード、陶器工場を開く。
1772年ジョン・コークリー・レットスン『紅茶の医学的特徴と飲茶の効用に関する考察』 * 紅茶を推奨
1773年ウェッジウッド、ロシアの女帝カテリーナから「ディナー・セット」総数952点の注文を受ける。
1784年紅茶税の引き下げ
1790年ベッドフォード公爵七世夫人、アンナ・マリア、アフタヌーン・ティーの習慣を普及させる。
1793年トマス・ミントン、ミントン社設立。
1802年tea gardenの用例がある(OEDの例文に記録がある)
1830年C.A.ブルースがインドのアッサム地方で茶樹を発見。
1834年紅茶貿易の自由化。
1836年ジョン・フランシス・ディヴィス『中華帝国とその住民たちの出版による挿絵入り』
1840年〜42年アヘン戦争
1847年ロバート・フォーチュン『三年間に亙る中国北方諸省遍歴記。茶・絹・木綿産地への訪問を含む。中国人の農業、および園芸、新植物等についての報告付き』(『遍歴記』)
1848年サミュエルズ・ボール『中国における茶の栽培と製造』
1852年ロバート・フォーチュン『松羅山と武夷人を含む中国の産茶地域の旅、ヒマラヤ山脈中の東インド会社の茶園についての小記付き』(『茶区訪問記』)
1857年ロバート・フォーチュン『中国人の間での滞在。内陸で、海岸で、そして海上で。1853から1856年に及んだ第3次訪問の間における諸事件と冒険の物語。多くの自然の生産物および美術作品、養蚕その他についての覚え書きを含む。目下の戦争についての提案つき』(『中国人の間での滞在』)
1869年スエズ運河開通。これにより中国とイギリスは60日間の短縮。ティー・クリッパーの衰退。
■2 紅茶と日本人
「紅茶と言えばイギリス」と言われる程、紅茶=イギリスという固定観念がある。しかし、もともと「茶」の発祥の地は言うまでもなく、中国である。「紅茶」を英語では緑茶などとはっきり区別する場合には、“tea”ではなく、“black tea”と表現する。(1)これを直訳すれば「黒茶」となる。一方、中国茶には分類上「紅茶」「黒茶」も両方存在する。“black tea”を「紅茶」と訳したところに日本の英国紅茶の受容の原点があるのではないとの仮説を基に、訳語からその受容の一端を明らかにしていきたい。
2-1 日本人と紅茶の出会い
日本人が初めて紅茶を口にしたのは、1791年(寛政3)11月1日と言われている。その日本人は大黒屋光太夫(1751-1828)である。紀州藩の米などを積んで伊勢の国の神昌丸船首、大黒屋光太夫等16名は1782年には白子港を出帆。遠州灘で暴風雨にあい、ロシア領カムチャッカに漂着。9年後にペテルブルクに到着。女帝エカテリーナ2世に帰国を許され、1792年に根室に帰着した。帰国する前年の1791年11月1日に大黒屋光太夫一行は女帝エカテリーナ2世の宮廷でのお茶会に招待された。この時に振舞われたのが欧風紅茶(tea with milk)と言われている。1983年に日本紅茶協会はこの11月1日を「紅茶の日」と定めた。その後の影響については定かではないが、日本人と紅茶の出会いが1791年にあったということだ。
2-2 中国茶の分類
「茶」の歴史は中国に始まる。中国茶の分類は、「五大茶」+「近代紅茶」=「六大茶」と分けることもできよう。中国人の色彩感覚で茶葉の外観によって分類された。しかし、紅茶は例外的に、抽出した茶液の色によって呼び名が決まったのである。
   緑茶:不発酵茶(西湖龍井・碧螺春・黄山毛峰など)
   白茶:弱発酵茶(白牡丹・白毫銀針など)
   黄茶:弱後発酵茶(君山銀針・霍山黄芽など)
   青茶:半発酵茶(武夷岩茶・安渓鉄観音・凍頂烏龍茶など)
   紅茶:完全発酵茶(川紅工夫・英徳紅茶・キーマン紅茶など)
   黒茶:後発酵茶(六堡茶・プーアル茶など)
六大茶の中ではもちろん、緑茶の歴史が最も古く、日本への受容も奈良時代までにさかのぼることができる。黒茶は今では高濃度のカテキンを含むことで一躍名をはせることとなったプーアル茶などがそうである。紅茶は現在我々が飲む紅茶である。その発祥地は福建省であり、紅茶が世界にひろまることとなるが、あとはその生産地により呼び名が変わることとなる。また、製茶法的なことから言えば、殺青から始まる「緑茶、黄茶、黒茶」と萎凋から始まる「白茶、青茶」「紅茶」となる。殺青は、「茶採みをした新鮮な葉の中の酵素を加熱することによって殺すことである。」(3)これにより茶の香・色・味を獲得するのである。萎凋は新鮮な葉をしおらせる工程が中心となる。萎凋によって発酵が進行するのである。
2-3 ヨーロッパの茶史:緑茶から紅茶へ
「茶」の発祥地は中国である。従って紅茶の原点もまた中国である。ヨーロッパに茶がもたらされたのは1610年と言われている。オランダ東インド会社の船が日本と中国の茶を持ち帰ったとされている。どのような茶の種類のものであったかははっきりしないものの、それは緑茶であったようだ。その後18世紀初頭には、Bohea tea(武夷茶)がもたらされ、茶葉が黒かったことからblack teaと呼ばれるようになり、これがヨーロッパの人にはいわゆる(中国)紅茶ということになる。武夷茶は福建省の武夷山でとれるいわゆる半発酵の烏龍茶のことである。英語で最も権威のある英語辞典The Oxford English Dictionaryに“Bohea tea. The name given in the beginning of the 18th to the finest kinds of black tea”(4)とある。ボヒー(武夷茶)は茶葉が黒かったのでblack teaと呼ばれるようになったのだ。従って、茶葉が緑茶と比べて黒ければヨーロッパ人にとってはblack teaということになる。中国茶の分類によるところの黒茶とは違ったものである。現在のいわゆる英国紅茶は1823 年にC.A.ブルース(Charles Alexander Bruce,1793-1871)がインドのアッサム地方で茶樹を発見し、さらに中国の茶製法を利用することで、インド紅茶が誕生し、中国茶からインド紅茶、スリランカ紅茶へと移っていくこととなる。ブルースはその後、生涯アッサムで生活を送った。当時イギリスは、中国に頼らずに紅茶を確保することを考えていた。内田慶市によれば、東インド会社が中国から輸入したのは、‘Bohea’,‘Congou’(‘Congo’),‘Souchong’,‘Pekoe’(‘Pecco’)であるという。これは何を意味するかといえば、当時black teaと呼んでいたものは、今でいうウーロン茶のことであった。
2-4 日本の紅茶受容――黒茶から紅茶へ
中国茶が日本に伝えられた時、茶葉は外見又は煎汁の色は褐色ないし文字通り茶色であった。しかし、緑茶が伝わってから茶葉は茶色から緑へと変わった歴史がある。さて、中国茶が六大茶に分類されることは前述したが、手元の『岩波日中辞典』(第二版)で「こうちゃ」をみると「【紅茶】hongcha」とある。(6)反対に『中国語大辞典』で“hongcha”をひけば「紅茶」となる。
日本にblack teaが紹介された経緯には、中国語と英語に注目しておくと面白いことに気がつく。幕末にヨーロッパやイギリスに関するものが日本にもたらされるには、鎖国の影響もあり、当然中国語とオランダ語が、今で言う日本の国際語ということになる。ここで考えておきたいのは、black teaの中国語訳「黒茶」、がいつの間に「紅茶」といわれるようになったかだ。春山行夫の『紅茶の文化史』によれば、日本で初めて「紅茶」(ルビは「べにちや」)という表現が登場したのは、1868年の『万国新聞紙』の5月上旬号である。春山はさらに漢訳にも注目し、1866から1869年にかけて出版されたロブシャイトの『英華字典』にはblack teaの訳語はなく、1872年のJ.ドーリットルの『英華萃林韻府』(二巻本)には「黒茶」という訳語がある。日本国内の動きを見てみると、1874 年には政府は『紅茶製法布達案並製法書』を府県に配付して、その製造を奨励。1875年には日本政府が中国(清)より技術者を招き、茶技術伝習をすると共に多田元吉を中国に派遣、さらに翌年には多田元吉、石河正竜、梅浦精一がインドにも派遣された。1877年に帰国し、高知県下でインドでの伝習製法を試し、紅茶5000斤を輸出し、好評を博した。1878年には政府は『紅茶製法伝習規則』を発布し、紅茶伝習所を各県に設置。さらに、同年には多田元吉編注『紅茶説』(勧農局)、多田元吉『紅茶製法纂要』(上下)が世に出ている。前後するが、1887年には日本に初めて紅茶が輸入された。1890年には多田元吉がインドから持ち帰った茶の種子をいかして、東京西ヶ原の農務省直営茶園を設置し、「紅茶用品種」の育成をはじめたのである。日本の紅茶の受容では多田元吉を抜きして語ることはできない。『紅茶の事典』によれば、茶業近代化の功労者の多田元吉が名実ともに「紅茶」という日本語を造ったということになりそうだ。
言葉上の紅茶受容史の原点は、black teaの翻訳が「黒茶」ではなく、多田元吉によって「紅茶」として訳され、定着したところにあるようだ。中国語の「紅茶」は日本からの逆輸入ということになりそうだ。このあたりは、今後の研究調査が待たれるところである。日本では少なくても1868年には「紅茶」が紹介された。中国語の事典・辞典で1872年に登場することになる。こうした紅茶の歴史を見ると、茶の原点は中国にあるが、紅茶の流布はイギリス。そして、「紅茶」という言葉は英語のblack teaの日本語として誕生した造語である。茶の日本への受容史を中心に、日本語としての「紅茶」についても考察すると、明治期に入ってからの日本は、まさに文明開化を迎え、東洋よりも西洋に眼が向いていたことは確かである。「中国紅茶」ではなく、「英国紅茶」が注目を浴びるようになったのもこうした時代の流れかもしれない。
現在における日本国産紅茶生産者は50(2003年3月現在)を数える。埼玉県では日高市の「吉野園」、入間市の「むさしの紅茶」の名前が見られる。日本におけるお茶の五大名場(狭山・静岡・宇治・九州・伊勢)でも、「色は静岡、香りは宇治よ、味の狭山でとどめさす」と呼ばれる狭山周辺で紅茶が生産されているのは興味深いこところである。 
 
 

  
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