和菓子と餅

和菓子和菓子辞典
餅の種類安倍川もちあんころ餅一升餅鶯餅梅が枝餅鬼餅「おはぎ」「ぼたもち」御福餅鏡餅かしわ餅川渡るもちかんころ餅草餅くじら餅くるみ餅小袖もち御城之口餅五平餅子安餅さくら餅信玄餅ずんだ餅草加せんべい大福餅大根餅ひっぱり餅べこ餅ぼたもち(牡丹餅)丸餅わらび餅餅紋
和菓子 
【和菓子】日本風の菓子。ケーキなどを洋菓子と呼ぶのに対して、餅菓子、まんじゅうなどを区別していう。 
【道明寺】道明寺粉を材料としてつくった和菓子。道明寺だんご、道明寺桜餅、道明寺つばき餅。 
【茶巾芋】 蒸した薩摩芋をすりつぶして、砂糖・塩などで味をつけ、布巾に包んで形よくしぼった和菓子。 
【焼菓子】和菓子の中で平なべや天火で焼いて仕上げた茶通、どら焼、桃山などをいう。 
【桃山】白餡(しろあん)に砂糖と卵黄、また少量のみじん粉またはくず粉を練り混ぜて焼いたもの。 
【最中】餅米を用いて薄く丸く焼いた皮を二片合わせ、その中に餡(あん)を詰めたもの。形が円形で「最中の月」に似るところからいう。 
【餅菓子】糯米(もちごめ)または糯米の粉を原料に使用した和菓子。大福、柏餅、桜餅、切り山椒、すあまなどをいう。
  
【練山椒・煉山椒】ねりざんしょう。しんこ餅や求肥(ぎゅうひ)に粉山椒か山椒の汁を加えて練り混ぜた和菓子。 
【練切・煉切】ねりきり。白餡に砂糖を加えて練り、つなぎに微塵粉(みじんこ)、山芋、求肥(ぎゅうひ)などを加えて製した餡を、木型に押しつけて細工をほどこした和菓子。 
【銅鑼焼】小麦粉・卵・砂糖を原料として丸く銅鑼の形に焼いた二枚の皮の間に粒餡をはさんだ和菓子。 
【撮羊羮】つまみようかん。餡をまるめてその中央をつまんだかたちにしたもの。 
【椿餅】蒸した道明寺粉でこしあんを包み、二枚の椿の葉ではさんだ和菓子。
 
【京菓子】京都で製造された和菓子。特に近世初期、禁裏御用を許された二八軒の菓子舗の製造になる上菓子をいうことがある。 
【小麦饅頭】小麦粉に砂糖または水あめとふくらし粉などを加えてこね、中に餡(あん)を包んで蒸して作る和菓子。 
【玉兎】たまうさぎ。餡を小さく丸めて求肥(ぎゅうひ)に包み、うさぎの形に丸め、目と耳をつけた和菓子。 
【素甘】すあま。蒸した上Z粉(じょうしんこ)に砂糖を混ぜてついて作った餅状の和菓子。 
【式菓子】儀式の時に配る菓子。おもに和菓子が使われる。 
【細波・小波・漣】さざなみ。うるち米の粉を砂糖で固め、表面に近江八景を浮き出させた落雁(らくがん)。滋賀県堅田の名物。
   
【轡・銜・勒】くつわ。江戸時代に尾張国津島神社の県祭(あがたまつり)に参詣する人の、厄病よけ、邪気払いのみやげとしてつくられたもの。油で揚げた米団子で、もと、馬のくつわの形をしていた。 
【棹物菓子】さおものがし。羊羹、ういろうなど、細長く棒状をしている和菓子の総称。練った材料を棹などに流してかためるところからの名。 
【茶通・楪津宇】ちゃつう。小麦粉に卵、砂糖、挽茶などを加えてこねた種で餡を包み、皮の上面に煎茶をつけて鉄板で焼いた和菓子。 
【小桜】天和期前後、京都の桔梗屋から売り出された和菓子の名。 
【黄金牡丹】こがねぼたん。白練りの餡(あん)に鬱金(うこん)粉、卵黄、上粳(じょううるち)粉をまぜ、適当な大きさに切り、小豆餡を包んで蒸したもの。 
【浮粉】米を粉状にしたもの。和菓子の材料、紅や臙脂(えんじ)を凝結させるのに用いる。また、小麦粉のでんぷんを精製したもの。菓子の材料、かまぼこの増量材、糊の素材として用いる。
  
【道明寺粉】道明寺乾飯をひいて粉にしたもの。和菓子の材料にも用い、道明寺だねともいう。 
【道明寺乾飯・道明寺糒】どうみょうじ‐ほしいい。道明寺で作られる乾飯。糯米(もちごめ)を蒸して天日に干したもので、水に浸したり熱湯を注いだりしてやわらかくして食する。かつて、道明寺で天満宮に供えた饌飯の下りを乾燥貯蔵したことにはじまり、軍用、旅行用の貯蔵食品とした。 
【捏芋・仏掌薯】つくねいも。ナガイモの品種。関西を中心に田畑に栽培される。いもは径約20cmの不規則な塊状。成分は濃厚で粘りが強く、大半が和菓子の原料となるほか、とろろ料理として生食される。優良品種に「あおやま」「たかしろ」「みたけ」などがある。漢名、仏掌薯。つくいも。こぶしいも。やまといも。ぶんごいも。つくね。 
【菓子型】和菓子の落雁(らくがん)などを作る時、材料を入れて打ち抜いたり、洋菓子を焼くのに用いる金属製の型、ゼリー型などをいう。
 
和菓子辞典

 

 ■あい
あそびかん(遊びかん)  
風流堂の銘菓。1cm角のサイコロ状にした一口サイズの羊羹で、紅羊羹、黒糖、柚子、柿、抹茶、生姜の6種類の味がある。外側はシャリシャリして中はしっとりとしている。 
あまなっとう(甘納豆)  
小豆、うずらまめ、きんときまめ、いんげんまめ、そらまめ、ささげ、グリンピースなどを砂糖液に漬けて甘く煮詰め、さらに白砂糖をまぶしつけたもので、砂糖漬け菓子の一つ。豆以外の栗やさつまいもでつくったものもある。  
あられ 
もち米を主原料とした焼き菓子で、降ってくるあられに似ているので、この名がある。本来は、餅をさいの目に切り、炒ってふくらませたもの。あられは、すでに平安時代に鏡もちを欠き砕いてつくったようだといわれている。商品として多量に生産されるようになるのは、江戸時代になってから。関東では「あられ」「おしおせん」、関西では「おかき」「かき餅」といわれる。 
あられ、おかき、かきもち 
「あられ」桃の節句の雛祭の折に雛壇に供えられる「雛あられ」は、もち米製品で、寒い時期に降る霰に形が似ていることからこの名が生まれた。「おかき」「かきもち」お正月に飾られた鏡餅をかき砕いて、焼いて醤油を付けるとか油で揚げて塩で食べることから名称が生まれた。 
あるへいとう(有平糖)  
白砂糖に水あめを配合し、煮詰め、成形、冷却あるいは細工してしあげる。あめを細工したもので、種々の細工がきくので、昔から飾り菓子としてお祝いものや供え物、茶の湯のときの干菓子などに用いられてきた。もとは南蛮菓子の一種で、ポルトガル語の「砂糖菓子」を意味するアルフェロアがなまったもの。桃山時代にポルトガル船によって日本に輸入されたといわれる。 
いしごろも(石衣)  
半乾きのあん玉に糖衣をかけたもので、半生菓子の一種。白い砂糖の衣を通して見えるあんの色が美しい。 
いとちゅう(いと忠)  
長野県飯田市。明治元年(1868)「糸屋」横前忠吉が小問物店を始め、通称「糸忠」と呼ばれる。昭和30年和生菓子の製造を始め、昭和45年屋号を「いと忠」と改める。昭和59年第20回全国菓子大博覧会にて「巣ごもり」が名誉金賞を受賞。平成元年第21回全国菓子大博覧会にて「結び羽二重」が名誉金賞を受賞。平成6年第22回全国菓子大博覧会にて「うめゆら」が金賞を受賞。平成10年第23回全国菓子代博覧会にて「桃のワルツ」が全菓博会長賞を受賞。平成14年第24回全国菓子大博覧会にて「フルーツな巣ごもりたち」が金賞を受賞。 
いのこもち(亥子餅)  
陰暦10月上亥の日に新穀で作られる餅。玄猪餅(げんちょもち)。鎌倉時代の有職故実書「年中行事秘抄」に、「亥子餅事或記云、盛朱漆盤立紙四枚、居御臺一本上、女房取之供朝飼、次召蔵人所鉄臼、其上分擣、令為猪子形、以錦嚢之挿於夜御殿帳畳四角」(朱塗りの盤四枚に紙を立て、台の上に据え、女房がこれを取り、朝飼(あさがれい)に置く。次いで蔵人所の鉄臼に餅を入れて搗く。猪子形に作り、寝所の四隅に挿す)、鎌倉時代の事典「二中歴」に「十月亥子群忌隆集云、十月亥日、作餅食之、令人無病也。」「亥子餅七種粉、大豆・小豆・大角豆・胡麻・粟・柿・糖」、応永29年(1422)の「公事根源」に「豕子餅上亥日此餅は内蔵寮よりそなへ奉る。朝飼にてきこしめす。十月の亥日餅を食すれば、病なしといふ本説あり。この事いつ比よりはじまるともみえず。延喜式に載たれば、往古よりはやありける事ならんかし。承安四年にさた有て、大外記頼重師尚など勘文をまゐらす。それも本朝のおこりをばたしかにも申さず。みな本書本説をのせたり。」とある。
 ■うえ

 

ういろう(外郎)  
うるち米粉に少量の水を加えて練り、砂糖を加え、箱に流して、せいろうで蒸したお菓子。はじまりは鎌倉時代のようだ。当初は黒砂糖を使い、色が薬の外郎に似ているので、「ういろう」という名前が付けられたといわれる。白砂糖を使うようになって色は異なり、名前だけはそのまま残った。   
● 
米粉に、黒砂糖・水などを混ぜ、型に入れて蒸した菓子。元の順宗皇帝の礼部員外郎の役職にあった陳延祐(陳宗敬)が、1386年、元の滅亡に際し日本に帰化し、陳外郎と称し、その子の大年宗奇が将軍足利義満の招きで京都に移り、明国の薬「霊宝丹」を伝え、この薬が効能顕著として時の天皇から「透頂香」の名を賜り、後に外郎の薬として「ういろう」と呼ばれるようになる。宗奇が自ら作り外国信使接待の時に供した菓子は、評判となり、外郎の菓子として「ういろう」と呼ばれるようになった。その後、五代目定治が、北条早雲に招かれ小田原に移り、江戸時代には「ういろう」は、小田原の名物として世人の広く知るところとなり、1718年に二代目市川団十郎が歌舞伎の「外郎売り」を演じ歌舞伎十八番の一つとなっている。また、「外郎餅」として、蕨粉と小豆あんを主原料とした蒸し菓子があり、室町時代に周防山口の秋津治郎作が製法を考えたとされる。 
うえむらよしつぐ(植村義次)  
京都市中京区丸太町通鳥丸西入ル。明暦3年(1657)創業。初代近江屋善兵衛が、御所の斜め向かいに店を構え、今に至る。京都で唯一残る「洲濱」を専門に扱う店。数百年前から、葵祭りの際には下鴨神社の御神饌として植村義次製の洲濱が供えられ続けているという。棹物の「洲濱」と「春日の豆」「押物」の三品のみを作る。「春日の豆」は洲浜生地をあっさりひねりお多福をかたどり、丸太通の古名春日小路に因んで名付けられた。当代十四代目の考案した「押物」は、白い正方形の落雁に洲浜生地で四季折々の模様を配した干菓子 。 
うぐいすもち(鶯餅)  
餅菓子の一。餅または求肥の皮で餡を包んで両端をつまみ、黄粉をまぶした菓子。山東京山の弘化3年(1846)「蜘蛛の糸巻」に「鶯餅、一名を仕切場と唱へ、茶席にも用ひ、通人の称美したものなるに、今や駄菓子や物となりて、おつかァ四文くんねへのいやしき小児のものとなりぬ。」とあり、幕末にはこの菓子が大衆化していたことがわかる。奈良大和郡山の菊屋では、天正年間に郡山城城主大和大納言秀長が関白秀吉を城中に招き茶会を催した折、御菓子司であった初代菊屋治兵衛が作った粒餡を餅で包み黄粉をまぶした餅菓子を秀吉が気に入り鶯餅の名を賜り名物鶯餅として売出し、のち店が郡山城大手門の入口あるため人呼んで城之口餅と名が変わったと伝え、鶯餅の原型と唱える。 
うんぺい(雲平)  
和干菓子の一種。砂糖にみじん粉をまぜ、ぬるま湯を少量落としてまとめ、着色をして、種々の形にかたどったもの。雲平細工といい、3月3日節句の雛菓子、5月5日男児の節句に松竹梅にかたどったりなど飾り菓子として多く用いられる。  
 ■お

 

おうせいあめ(黄精飴)  
長澤屋の銘菓。甘野老(アマドコロ)の根茎の煎汁に餅米と水飴と砂糖を混ぜて造った求肥飴に片栗粉をまぶした菓子。寛永12年(1635)朝鮮通信使をめぐる国書改竄の罪で南部藩に御預になった対馬藩の方長老(ほうちょうろう)が黄精と同属別種のアマドコロを見つけ製法を伝えたとされる。黄精は、中国雲南省に自生するユリ科アマドコロ属のカギクルマバナルコユリの根茎ことだが、外観が似て薬効も変わらないユリ科アマドコロ属の鳴子百合(ナルコユリ)が一般的に黄精として栽培加工される。甘野老は玉竹(ぎょくちく)、萎蕤(いずい)といい、貝原益軒の宝永6年(1709)刊「大和本草」に「黄精と萎蕤と相似たり黄精は茎青し萎蕤は茎紫なり、萎蕤根は蘆値相似たり薬肆に生姜手の黄精と称するは是真の黄精也、地黄手の黄精と称するは萎蕤也。黄精萎蕤の葉有両々相対者不相対者相対するはまれなり。」とあり、形態も薬効も似て黄精とも呼ばれているという。菅江真澄の「いはてのやま」の天明8年(1788)8月の盛岡「廿九日つとめて出たつ。もはらこゝのつちけとて、夏引の糸あまたくり返しもて、つむぎ、しまをりをし、黄精を蒸してぞ沽る宿の、軒をつらぬれたれど、偏精やいと多く、正精や、まれならんかし。この市中にながれたる中津河を橋よりわたれば、鹿角郡へわかれたる巷ありて、西にわかれては猶黄精をぞうるめる。黄精膏もあり、つとにせよなどよばふ。」(29日早朝に出発した。もっぱらこの地の産物として、夏蚕の糸をたくさんとってつむぎやしま織をし、あまところを蒸してあきなう店が軒をつらねていたけれども、偏精が多く、正精はまれであろう。この市中を流れる中津川の橋をわたると鹿角郡へわかれる辻道があって、西にわかれる道をゆくと、やはり黄精を売っている。黄精膏もあり、みやげにもどうぞと呼びかけている。)(現代語訳東洋文庫)とある。正精と偏精は、唐の孟顯の「食療本草」に「根葉花實皆可食之。但相對者是、不對者名偏精。」、朝鮮の許浚の光海君5年(1613)刊「東醫寶鑑」に「其葉相對爲黄精不對爲偏精功用劣」、平賀源内の宝暦13年(1763)刊「物類品隲」に「黄精に偏精正精の別あり、本邦に所産のものは皆偏精にして正精はなし、偏精所在に多し、南部産上品茎葉甚大なり、その正精は享保中漢種を伝て今官園にあり、根葉和産と畧相似たり、葉薄両々相対して出ず、是正精にして偏精に比すれば功用勝れりとす、惜らくは世上至て希なり」とあり、葉が対生するものを正精、対生していないのが偏精としており、葉が対生するカギクルマバナルコユリが正精、偏精はナルコユリやアマドコロなど葉の互生するものを指すと思われる。黄精膏は、唐の孫思貎の「備急千金要方」に「黄精膏方黄精一石去鬚毛、洗令淨潔、打碎蒸、令好熟、押得汁、復煎去上遊水、得一斗内乾薑末三兩、桂心末一兩微火煎之、看色鬱鬱然欲黄、便去火待冷」とあるが、東洋文庫訳註に「黄精膏は、盛岡地方でむかしからアマドコロの根茎をとろ火で長く煮て、それに黒砂糖を加え、器物にわけて売ったがそれを指すと思われる。」とあり、製法は異なり、いわゆる薬菓子として売られていたようである。黄精飴は、嘉永6年(1853)創業の長澤屋初代が工夫したものとされ、黄精膏とのかかわりを示す史料は未詳。 
おきなあめ(翁飴)  
水あめ、砂糖と寒天で作った飴。こしとねばりがある。  
おこし(粔籹)  
[1] もち米、うるち米、粟等を原料としたおこし種に豆類やごまなどを混ぜ、煮詰めたシラップを掛け、延ばし板等で任意に成形、切断して仕上げたもの。  
[2] おこしのルーツは神代まで遡るという伝統食である。「著聞書」には、おこしは米を熱して膨らませることから「興米(おこしごめ)」と記されているが、米を発酵させることを「寝かす」というのに対して付けられた呼称だという。東京・浅草で有名な「雷おこし」は江戸時代から250年以上も続く伝統菓子で、炊き上げた粳米(うるちまい)を乾燥させて粒状にしたものを水飴で固めたもの。ほかにも、もち米を蒸して餅にしたものを薄く伸ばして乾燥させ、細かく切ってから蜜と混ぜて作った埼玉県熊谷市の「五家宝」などもよく知られている。 
● 
糯米や粟を蒸し、乾かし、炒ったものを、水飴や砂糖の蜜を加熱して掛けて混ぜ、湿らせた木枠に入れて薄く延ばし、切り分けて冷まして板状に固めた菓子。胡麻・落花生・大豆などを混ぜたものもある。興米(おこしごめ)ともいう。中国漢代の「楚辭」招魂に「粔籹蜜餌、有粻〓(食皇)些」、王逸注に「以蜜和米麺煎熬作粔籹」、北魏の「斉民要術」に「膏環、一名粔籹、用秫稻米屑水蜜溲之、強澤如湯餅麺、手搦團、可長八寸許、屈令兩頭相就、膏油煮之。」とあり、平安時代に唐からもたらされた唐菓子で、源順の承平4年(934)頃の「和名類聚抄」に「文選注云、粔籹、巨女二音、和名於古之古女、以蜜和米煎作也」、「色葉字類抄」に「羹續オコシコメ、靱胱同、興米同、俗用之」とあり、黒川道祐(-1691)の「雍州府志」に「興米(おこし)室町四条南松木町所有為宜、近世二口屋、并虎屋之製亦佳、其製法熬米以滑飴粘固之、或長或円造之、是自粘固之中挽興之謂也」、喜田川守貞の嘉永6年(1853)頃の「守貞漫稿」に「粔籹おこしめ、古来より有之、和名抄に粔籹以蜜和米、或曰粔籹は餅米を煎て水飴にてこねかため、竹筒等に搗籠押出し製す云々、今世は糯米を蒸して日に晒し、干いゝとなして後、水飴と砂糖を以て煉之、筥に納れさまし、拍子木の形に截る、今俗右のほしいゝのまゝなるを田舎おこしと云也、江戸にての名也、江戸には此製多し、又大坂道頓堀二つ井戸辺に、津の国清兵衛と云ふ者、享和文化比より売之、始めは小行なりしが、今は近国西国に其名高く繁昌して今に存す、当家の製は、粳を蒸して干飯となし、これをひきて小米糒となし、飴と琉球黒砂糖の上品を撰み、又出島糖を加へ製す、故に堅きこと石の如し、号けて岩於古志と云ふ、太さ方五六分許、長四寸許、一価四文也、近年京坂の??皆必ず是を模製するなり、江戸にも近年模製して売る店あれども行はれず」とある。千利休の芝山監物宛消息に「例の如く御もちおこしごめ好物、炭一荷、色々御心ざし辱く候」、「津田宗及茶湯日記」天正六年三月四日条に「菓子おこしごめ、かや、きんとん」と見える。 
おはぎ(お萩)  
「もち米」あるいは「うるち米」を炊き、軽く搗いてものを丸め、あん、きな粉、ゴマなどをつけたもち。 ぼたもち(牡丹餅)との区別は諸説あり、一般的には春に作れば「ぼたもち」、秋に作れば「おはぎ」とよばれていたが、今はいつ作っても「おはぎ」ということが多い。そのほか、こしあんをつけたものを「ぼたもち」といい、つぶあんをつけたものをと「おはぎ」いう説、中がもち米主体であれば「ぼたもち」、うるち米主体であれば「おはぎ」という説などがある。お彼岸に供える風習から育ったお菓子といえる。 
● 
餅米、または粳米と餅米を混ぜて炊き、軽く搗いて小さく丸め、小豆餡・黄粉・擂胡麻などをまぶしたもの。「物類称呼」に「牡丹餅ぼたもち又はぎのはな又おはぎといふは女の詞なり、関西および加州にてかひもちと云、豊州にてはぎ餅と云、羽州秋田にてなべすり餅と云、下野及越前越後にて餅のめしと云、下総にてがうはんと云、今按に、ぼた餅とは、牡丹に似たるの名にして、中略なりとぞ、萩のはなは、其制煮たる小豆を、粒のまヽ散しかけたるものなれば、萩のはなの咲みだれたる如しと也、よつて名とす」とあり、牡丹餅の小豆の粒が萩の花の咲き乱れるさまに似ていることから「萩の餅」と呼ばれるようになり「お萩」となったが、いずれも女房詞とする。萩の花の季節に合わせ、春から初夏にかけて作るものを「ぼたもち」、秋に作るものを「おはぎ」、また餡をつけたものを「ぼたもち」、黄粉をまぶしたものを「おはぎ」、さらに漉餡を使ったものを「ぼたもち」、粒餡を使ったものを「おはぎ」などとするところもある。
 ■か

 

かいちゅうしるこ(懐中しるこ)  
携帯用のしるこ。さらしあんに砂糖、塩、でんぷん、求肥などが加えられ、最中の皮で包んだものと、材料を固めたものとがあり、そのまま器に入れて熱湯をそそぐと、即席にしるこができる。 
かしわもち(柏餅)  
しん粉(うるち米の粉)で円形の平たい餅を作り、小豆あんか味噌あんを入れ、二つ折りにして、かしはの葉でつつんだもの、5月5日の端午の節句を祝って作る餅。 柏餅は江戸時代寛永年間頃(1624-1644)つくられ始めたようだ。当初は塩あんでだったが、江戸時代後期になって小豆あん、味噌あんが一般的になった。(「ちまき」は大変古い、草木の葉で包んだり、巻いたりした菓子のはじまりは「源氏物語」に書かれていることに発している) 
● 
平たい丸型に丸めた新粉の餅を二つに折り、間に餡をはさんでカシワ又はサルトリイバラの葉などで包んだ菓子。餡の種類は、粒餡、漉し餡のほか、みそ餡がある。5月5日の端午の節句の供物として用いられる。柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないことから、家系が途絶えないという縁起に結びつけたものとされる。山崎美成(1796-1856)の「世事百談」(1843)に「端午の日に柏の葉に餅を包みて互に贈るわざは江戸のみにて他の国には聞こえぬ風俗にして、又ふるき世よりのならわしにもあらざるにや、ものに見えたることなし。徳元が俳諧初学抄に、五月の季に見えず。かゝれば寛永の頃より後のことか、寛文年間のこととおもはる。」とあり、喜田川守貞の「守貞漫稿」(1853)に「米の粉をねりて、円形扁平となし、二つ折りとなし、間に砂糖入り赤豆餡を挟み、柏葉、大なるは一枚を二つ折りにしてこれを包み、小なるは二枚をもって包み蒸す。江戸にては、砂糖入り味噌をも餡にかへ交るなり。赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裡を出して標とす。」とある。 
カステラ  
天正年間(1573-1592)長崎にポルトガル人がその製法を伝えた。卵、砂糖、小麦粉、はちみつ、水あめ、牛乳などで調整した半流動状の生地を、木枠に流し込み、1時間程度の時間をかけてオーブンで焼いて作る。もともとは西洋からきた洋菓子だが、日本に入ってから日が長く、今では日本独特のものとなっている。 
● 
鶏卵と砂糖を泡立てて小麦粉を合わせた生地を型に流し込み焼いた菓子。「かすていら」とも呼ばれ、角寺鉄異老(原城紀事)、加須底羅(和漢三才図絵)、春庭餹(古今名物御前菓子図式)、粕底羅(酒井様御菓子値段帳)、加寿底羅(豆腐百珍)、家主貞良(諸国板行帖)などの字が当てられた。室町末期にポルトガル人が長崎に伝えたといわれ、小瀬甫庵の寛永2年(1625)自序「太閤記」に「上戸にはかすていら、ぼうる、かるめひら、あるへい糖、こんへい糖などをもてなし、我宗門に引入る事、尤もふかゝりし也」とあり、伴天連が布教のために用いたという。カステラの名の由来には諸説あるが、新井白石の「西洋紀聞」に宝永5年(1708)「カステイラと申すは、イタリヤなど聞えし地に近き国にて、むかし其国にて作り出せし菓子の、此土に伝へし物は、今も候なる」、正徳2年(1712)頃に成った寺島良安の「和漢三才図会」に「加須底羅(かすていら)以西巴爾亜、保留止賀留、加須底羅、同国之異名南蛮也、造法出於此故名」、大槻磐水の天明8年(1788)「蘭説辨惑」に「「かすていら」は本名「かすている、ぶろふど」なり、「かすている」は城の事、「ぶろふど」は「ぱん」の事、よく久しきに耐へるもの故、もと軍陣長旅などの時用るものといふ」などとあり、スペインのカスティーリャ王国のポルトガル発音カステイラ(Castela)であるというのが一般的。カステラの製法については、「料理塩梅集」地巻に「かすてら仕様一、玉子一つにさとう拾匁づヽ入、こねかげんはしるく、さしにて、おとし申にべたり、べたりと仕程にして能也、粉はうどんの粉斗にて水不入、五つにても十にても玉子わり、玉子汁におふし粉を入こね申候、扨鍋はたに美濃紙にごまの油を引、其紙を敷、其上へこね汁をうつし、上にも右のごとくの油紙あて、火のしに火を入あて、上よりも色付程やく也、扨下のやけたる時、上を下へ返し、能かげんにやく也、扨きり候て、中へ火け入不申候へば、右の鍋にて、四方より能かげんにやく也」とあるのが最も古い記録とされ、「和漢三才図会」には「按加須底羅造法浄麪一升白沙糖二升用鶏卵八箇肉汁、溲和以銅鍋、炭火熬令黄色、用竹針為窠孔、使火気透於中、取出切用、最為上品」とある。日本での製造は、伊藤小七郎(長崎代官村山等安)がポルトガル人から最初に製法を習い、文禄元年(1592)肥前名護屋城に滞留していた豊臣秀吉に南蛮菓子として献上したといい、本山萩舟の「飲食辞典」には「製造者の始まりは長崎本博多町和泉長鶴とあり、東漸して京では五条烏丸西入ル一文字忠兵衛、江戸では日本橋呉服町鳥谷嘉七であったといわれ」とあるが、それぞれ出典は不詳。 
かせいた(加勢以多) 
マルメロというバラ科の植物の実で作ったジャムを、もち米の薄種に挟んだもので、江戸時代に細川三斎が作らせたものといい、将軍家や公家たちへの献上品としても使われたという。加勢以多(かせいた)の名は、ポルトガル語の「CaixadaMarmelada(カイシャ・ダ・マルメラーダ)」で、「マルメロジャム入りの小箱」の意という。以前は「山城屋」という店が伝統の製法で作り続けていたが途絶え、平成10年(1998)に「お菓子の香梅」が復元し、関連会社の「古今伝授の間香梅」が主に水前寺公園内で販売している。「お菓子の香梅」では、マルメロの代わりにカリンを用い、砂糖で煮てジャムにし寒天で固めた羊羹を薄く切り、餅を薄く伸ばして焼いた玉川で羊羹を挟み、そのまま1日おいてなじませ、カットして細川家の定紋である九耀の紋の焼き印を入れている。 
かのこ(鹿の子)  
求肥またはようかんをあんで包んで丸め、その周囲に甘く煮た小豆、白いんげんなどを張りつけたもの。表面の小豆の粒が鹿の背の斑紋に似ているところからこの名があり、江戸時代から伝わるお菓子。 
かりんとう(花林糖)  
小麦粉に砂糖を加え油で揚げ、外側に煮とかした黒砂糖または白砂糖かけたもの。かりんとうが庶民に親しまれるようになったのは、明治初期東京浅草あたりから。 
かるかん  
鹿児島県の銘菓で、地元で採れる山芋を生かしてつくられたお菓子。山芋をすりおろし、米の粉と砂糖を加えてこね合わせ、せいろうで蒸してつく.。蒸し上がった菓子はふわりと軽いので、軽い羹(あつもの)というところから「かるかん」と呼ばれる。はじまりは安政年間(薩摩藩主島津斉彬のころ)といわれる。 
● 
山芋をすりおろし、糝粉(しんこ)と砂糖を合わせ水を加え練り合わせて蒸した菓子。鹿児島県の名菓。はじめ棹物として作られたが、その後軽羹で餡を包み饅頭にした軽羹饅頭が考案された。元祖を称する「明石屋」の「軽羹の由来」によると、薩摩藩主島津斉彬が江戸風月堂主人の推挙により江戸から招聘した菓子職人八島六兵衛が安政元年(1854)に考案し、その後明治初年に屋号を木原政吉に譲ったとされる。ただ、軽羹の初見は元禄12年(1699)島津家20代綱貴の50歳の賀の祝いに「軽羹15棹」とあるといい、「御献立留」に正徳6年(1716)「正徳六年申壬二月十一日・・・御間くわし一、かるかん一、やうかん一、おほろんちう」、「借銀売物部合並諸式直段定」に天明5年(1785)「かるかん一箱代壱貫六百四拾八文・・・天明五巳十二月」、「波見浦船網内改方日帳」の享和元年(1801)3月21日の献立に「一、御菓子かるかん三切ヅツ一、せんじ御茶」とあり、軽羹饅頭は弘化3年(1846)11月島津家28代斉彬が犬追物をしたときの召し上がりものにあり、翌年には蒸し立て軽羹饅頭、翌々年には軽羹饅頭紅あん入りなどが出てくると云う。 
かわばたどうき(川端道喜)  
京都市左京区下鴨本通北山角。文亀3年(1503)創業。山科国紀伊郡鳥羽村の渡辺進が「餅座」の権利を取得し、永正8年(1511)「餅の司」に任ぜられる。応仁の乱後困窮して食事もままならない朝廷のため、後柏原天皇(在位1500-1526)の頃より、天皇の朝食として、搗餅を芯に外を塩味の漉餡で丸めた「御朝物(おあさもの)」毎日六個を献上し、後に朝食の前に見るだけになり「朝餉の儀」として形式化したが、毎日欠かさず献上することが明治2年(1869)の東京遷都まで続いた。渡辺進は、天文5年(1536)法華の乱で洛外に追放されたようで、その後、渡辺家の娘婿となった中村五郎左衛門(-1592)が初代道喜となる。「川端道喜文書」に「佐子上臈局被官人鳥羽中村五郎左衛門入道々喜居屋敷地子并商賣諸公事役・同関兵士見入役以下事、被見除畢、向後不可有相違、若違犯之族在之者、可被處厳科之条、宣存知之由所被仰下也、仍下知如件、元亀三年八月三日」とあり、元亀三年(1572)には剃髪入道して法名の「道喜」を名乗り、佐子上臈局の被官人となり、諸役免除を受けている。川端の名は、鳥羽村より新在家に移り、その家が御溝の流れに沿っていたため川端の道喜と呼ばれたことによるといい、川端の姓を名乗るのは四代目道喜からという。初代五郎左衛門入道道喜は、国学や和歌に秀で、武野紹鴎から茶道を学んだとも伝えられ、千利休との親交もある。「家の鏡」に「正月二日には、まへの年の新嘗曾に、帝御手つから供し給ひし御洗米をは、内侍所にして、道喜父子にたまふ事、道喜か家にかきれり、すへてその調進し奉る人はおほけれと、いまたかヽるたくひをきかす、これひとへにむかしやんことなかりしいさをしをは、ふかくうつくしミおほしめすゆゑそかし、猶人にことなる事は、御所をはしめ奉り、御清火とたにいへは、道喜の家の火をめされ、そのほかすへて、御神事、あるひは諸方神社御参向の事なとある御かたかたも、かならすこの家の火を用給ふ、これまた先租よりまことをつくして、火をきよめ来れるしるしのあらはれたるにて、此家の火の清きにさたまれる事」とあり、朝廷と川端道喜の特別な関係が記されている。また、「言継卿記」天文21年(1552)6月13日に「自薄所取次、正親町町人餅屋四郎左衛門、自去年六月所労、腰不立、云々、脈之事申候間、薄令同道、近所於山国所(禁御仕丁)、脈取之、脚気之様也、則帰宅、薬之事申候間、令思案可道之由返答」、同14日「自餅屋早々中酒にとて、鈴一対両種(鮒のすし、まき)、送之、同薄礼とて来之間、一盞勧了」、同15日「餅屋四郎左衛門薬令調合、独活寄生湯七包、愛洲薬廿一服、七日之分遣之了、山国仕丁礼に来、親類歟」、同21日「餅屋四郎左衛門薬払底之由申候間、同薬七包遣之、同愛洲薬廿服遣」、同29日「正親町餅屋薬之事申候間、先独活寄生湯三包、愛洲薬十服遣之、直令調合可遣之由申了、薬種代三十疋送之」、7月2日「餅屋へ薬共令調合、独寄十包、愛洲薬卅服等遣之」、同16日「正親町之餅屋へ、同薬十三包遣之了」、永禄7年(1564)11月10日に「正親町餅屋渡部子長鶴明日元服云々、強飯、鈴等送之云々」、元亀2年(1571)7月8日に「近所餅屋渡辺瓜十、送之」とあり、四郎左衛門の名が見えるため、渡辺進と五郎左衛門入道道喜の間にもう一代あるのではともいう。
 ■き

 

きぬた(砧)  
長久堂の銘菓。呉服の反物を象り、芯の部分に小豆と五温糖で製した練羊羹を用い、羽二重のように薄く延ばした求肥を白い絹に見立てて綾巻きとし、上に阿波の和三盆をまぶしてある。嘉永6年(1853)長久堂の初代長兵衛が丹波に帰郷した折に、織り上げた絹をやわらげて艶を出すために打つ砧の音を聞いて考案したという。明治に入り「きぬた」はパリ万国博覧会に出展されて賞を受け、皇室お買い上げとなる。 
きびだんご(吉備団子)  
黍の粉と餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して碁石形に作った菓子。吉備津神社では直会(なおらい)で黍団子を食べたが、かき餅のような形状で、黍の粉で作られ砂糖入りの餡をつけたり汁をかけて食したという。安政(1854-1860)のはじめ頃、岡山藩の城下町で瀬戸物屋を営んでいた「広瀬屋」隠居の武田半蔵が、狂歌師の笹野一方と信楽屋隠居の3人で「きびだんご」をもとに茶席に出す新しい菓子を考案し、武田浅次郎がこれを引きつき、安政3年(1856)「広瀬屋」を「広栄堂」と改め、池田藩の筆頭家老で大茶人の伊木三猿斎の指導を受けて茶席向けに改良し、池田藩に献上したところ藩主から備前の国印である釘抜き紋の使用の印許を下頂されたという。明治24年(1891)に現在のような丸形、箱入れ販売が始り、明治28年(1895)日清戦争終戦で引揚げてきた帰還兵に、武田浅次郎は桃太郎の衣装をまとい宇品港へ出向き、「日本一、吉備団子」の旗を片手に「鬼ヶ島を征伐した桃太郎の皆様、故郷への土産は岡山駅で売っている吉備団子」と宣伝し、1箱5銭の吉備団子が飛ぶように売れ、これを期に岡山名物吉備団子が有名になったという。 
ぎゅうひ(求肥)  
白玉粉に砂糖や水あめを加えて練り上げた餅状のもの。純白で柔軟性があり、昔は牛の皮に似ているので、「牛皮」「牛脾」とも書い。仏教思想から鳥獣肉を食べなかった時代にその字をきらって「求肥」と書き改められたという。求肥は羽二重餅のようにそのままでも餅菓子になるが、生地として用い、あんを巻いて「求肥まんじゅう」、ようかんを巻いて「きぬた」、その他「若草」「甘露梅」など多くの餅菓子に用いられている。 
● 
白玉粉や餅粉などのもち米からできた粉と砂糖で作るやわらかい餅状の生地で、餅のようにかたくならず、日持ちする。作り方は、米と水を合わせて蒸し、砂糖を加えてねる「水ねり」、水でこねたたねを茹でてから砂糖を加える「茹ねり」がある。求肥を生地だけで作る流し求肥や、あんを包んでうぐいす餅などに加工したり、煉切(ねりきり)のつなぎに使うなど広く使われる。日本には平安時代に唐から伝わった。なお牛皮や牛肥とも表記するが、これは古い時代の求肥が玄米のもち米を用いて作られたために色が黒く、牛の皮に似ていた為と言われ、日本では獣食を忌む傾向が強かったために、求肥の字を当てたとされる。 
きんぎょく  
ようかん風でゼリー状の和生菓子。寒天に砂糖や水あめをまぜ、型に流して冷やし固めたもの、涼味をおびた透明、半透明のお菓子。 
きんつば(金鍔)  
四角に切ったあんを、あらかじめ薄くといておいた小麦粉の液につけて、鉄板の上で焼いたもの。きんつばの前身は、京都の「銀つば(米粉を使い皮が白みがかっている)」といわれる。亭保年間(1716-1736)江戸に渡り、小麦粉に変るとともに、「金つば」と名付けられた。「つば」の名は、当時の形が刀のつばに似ているところからきているといわれる。現在の「きんつば」の形は、明治時代になってから。 
きんとん(金団)  
餡をフルイでこしだしてソボロにし、粒餡・求肥・羊羹などの芯にまぶしつけたもの。また、餡のそぼろ。「貞丈雑記」に「きんとんと云は、粟の粉にてちいさく団子の様にして、其中へ沙糖を入たる物也。條々聞書、亥の子の箇條に、御なりきりとて、きんとんの様なるもち参候とあり。亥の子の餅、昔は碁石の如くする也、其丸みの大さきんとんほどあるなり。酌并記の一本に云、人の前にてきんとんくふこと、れうじにくへば、中なる砂糖出て、顔へかかる物なり、其用心してくふべきもの也とあり。きんとんは、粟の餅の粉にて作る、色黄なるゆへに金団と云也。又すいとんとも云。夏は水にひたすゆへなり。」、「日葡辞書」に「Qinton中に砂糖の入った、ある種の円い餅」、享保3年(1718)刊「御前菓子秘伝抄」に「きんとん餅唐干餅米を上白にして、一粒つヽゑり、粉にして、絹ふるひにて漉、湯にてこね、ちいさく切、平め、中へ白砂糖をつヽみ、丸くして、湯をたて、煎し、上に浮き申候時、丸き盆の上にあけ、きなこにても、又胡麻を炒りてなとも、粉にして、付申候。」とあり、中に砂糖を包んだ団子を指していたが、宝暦11年(1761)刊「御前菓子図式」に「大徳寺きんとん右に同じ。だんご拵へ、色黄にして、内へ餡包、丸くして、上に小角豆の粉付申候。」とあり、中に餡を包む形となり、天保12年(1841)刊「菓子話船橋」には「紫きんとん一是も求肥を切て、中の種にして、上餡にて餡ころの様にくるみ、其上へ又上餡を裏漉にして、そぼろにかけるなり。紅餡、白餡、色々あり。何れも右の通り同じ製し方なり。」とあり、現在のような姿になっている。 
 ■く

 

くずざくら(葛桜)  
あんを葛(くず)で包み、これをさらに桜の青葉に包んだまんじゅうで、透明感のあるくず生地を通してあんが見え、涼感があるため、夏向きのお菓子として親しまれている。関西では、葛まんじゅうと呼ばれている。冷たく冷やして食べると美味しいお菓子。 
くずやき(葛焼)  
葛をやや固めに練り上げ、表面に片栗粉を付けて焼いた菓子。中に餡の入ったもの、葛と漉し餡・砂糖を合わせ練り、蒸した後に表面を焼いたものなどもある。形も四角や丸などいろいろある。 
くりかのこ(栗鹿の子)  
桜井甘精堂の銘菓。明治25年に五代目桜井佐七が考案した栗菓子。栗だけで練り上げた栗餡に大粒の栗が入った栗きんとん。「栗かの子」という名前は、あんの中の蜜栗が、鹿の子まだら(鹿皮の模様)に似ていることから名付られたという。また他に、餡で餅・求肥・羊羮などを包み込み、表面に栗を貼り付けた鹿の子餅を、栗鹿の子と呼ぶ。 
くりきんとん(栗金団)  
栗を茹でるか蒸してから中の実を取り出し、擂鉢などで擂り潰しながら砂糖などを加え余熱で砂糖を溶かすか、漉して砂糖などを入れて炊き上げるかし、茶巾で包み、栗の形に絞ったもの。中に餡などを入れるものもある。「貞丈雑記」に「きんとんと云は、粟の粉にてちいさく団子の様にして、其中へ沙糖を入たる物也。條々聞書、亥の子の箇條に、御なりきりとて、きんとんの様なるもち参候とあり。亥の子の餅、昔は碁石の如くする也、其丸みの大さきんとんほどあるなり。酌并記の一本に云、人の前にてきんとんくふこと、れうじにくへば、中なる砂糖出て、顔へかかる物なり、其用心してくふべきもの也とあり。きんとんは、粟の餅の粉にて作る、色黄なるゆへに金団と云也。又すいとんとも云。夏は水にひたすゆへなり。」、「日葡辞書」に「Qinton中に砂糖の入った、ある種の円い餅」、「御前菓子秘伝抄」(1718)に「きんとん餅唐干餅米を上白にして、一粒つヽゑり、粉にして、絹ふるひにて漉、湯にてこね、ちいさく切、平め、中へ白砂糖をつヽみ、丸くして、湯をたて、煎し、上に浮き申候時、丸き盆の上にあけ、きなこにても、又胡麻を炒りてなとも、粉にして、付申候。」、とあり、金団の古い形態の製法に似ている。 
くりまんじゅう(栗まんじゅう)  
栗あん、又は栗を混ぜた白あんを詰めた、小判形のまんじゅう。表面に卵黄を塗って焼くため、上側がつやのある焦げ茶色になっている。 
くりようかん(栗羊羹)  
小豆の練り羊羹または蒸し羊羹の中に、蜜煮の栗を散らして入れたもの。また、寒天に水を加え火にかけて溶かし砂糖を加え栗あんを入れ練り上げて作った羊羹。 
 ■けこ

 

げっぺい(月餅)  
中国のお菓子の一種。中国では、陰暦8月15日は中秋節でこの日は種々の果物、野菜に、それに月餅を供え、一家の円満を祈る風習が古くから行われている。小麦粉に卵や油を入れた作った皮で、小豆あんやクルミなどのナッツ類やゴマなどを混ぜたあんを包み、型にいれて押し、表面が艶の良い鮮明な模様を持った菓子に仕上げられる。 
ごかぼう(五家宝)  
干し飯を膨らませて水あめで棒状に固め、青黄な粉をまぶし適宜な長さに切った菓子。埼玉県熊谷の名物。 
こしのゆき(越乃雪)  
長岡大和屋の銘菓。山川、長生殿と共に日本三大銘菓のひとつ。糯米の寒晒粉に、「生」と呼ばれる水分を多く含むしっとりとした和三盆を混ぜ込み、しばらく寝かせ、木枠に収めて上から押して固めた一口大の干菓子。口に含むと淡雪のようにはかなく溶ける。長岡藩九代牧野忠精が安永七年(1778)病にかかった時、大和屋の始祖の岸庄左衛門が、寒晒粉に甘みを加えた粉菓子を作り献上したところ程なく平癒し「実に天下比類無き名菓なり、吾一人の賞味は勿体なし、之を当国の名産として売り拡むべし」という言葉と共に「越之雪」の菓銘を賜ったという。 
こなし  
あんに小麦粉、もち粉等を混ぜて蒸し、揉んで仕上げたもの。ねばりがあり、錬りきりと同じように細工菓子や包み生地として利用される。 
こんぺいとう(金平糖)  
南蛮菓子の一。周りに角状の突起がある小球状の砂糖菓子。芥子粒・蕎麦の実・粟・胡麻・餅米を細かく砕いたイラ粉、ザラメなどを核にし、糖蜜の衣をきせたもの。回転する釜の中に核を入れ、釜を加熱しながら回転させ、砂糖を煮溶かした糖蜜をふりかけ、徐々に水分を飛ばしてはまた液状の糖蜜をかけることを2-3週間繰り返し製作する。ポルトガル語で砂糖菓子を意味する「confeito」(コンフェイト)が語源。金米糖、金餅糖、糖花とも書く。わが国における金平糖の語は、「耶蘇会士日本通信」の「一五六九年六月一日附、都発、パードレ・ルイス・フロイスより、パードレ・ベルショール・デ・フイゲイレドに贈りし書翰」に「予(フロイス)はコンフエイトス(金平糖)入のフラスコ(硝子瓶)一つ及び蝋燭数本を贈りたり。」とあり、永禄12年(1569)フロイスがキリスト教布教の許可を得るため織田信長に謁見したとき金平糖を贈ったとあるのが初出という。貞享5年(1688)刊の井原西鶴著「日本永代蔵」に「これも南京より渡せし菓子金餅糖の仕掛、色々穿鑿すれども終に成り難く、唐目一斤銀五五匁づつにして調へけるに、近年下直なる事長崎にて女の手業に仕出し、今は上方にも是を習ひて弘まりける。初めの程は都の菓子屋にさまざま心を砕きしに、胡麻一粒を種として、この如くなれる事を知らざりき。これをそもそも智慧付きしは、長崎にわづかなる町人二年余り心をつくし、唐人に尋ねしに、更に覚えたる人あらずして気をなやませける。律儀なる他の国にもよき事は深く秘すと見えたり。」とあり、「守貞漫稿」に「金平糖或は金米糖と書く、砂糖に小麦葛を交へ練り、芥子を種として銅鍋を以漸くに大とし製す、大略一人一日拾斤を製すを常とす、精粗あり大小あり、大阪のみにて製之しが、文政以来江戸に一二戸製之店を開き、近年は諸所に在之、円にして外面委く角あり、角をいらと云也」とある。 
 ■さしす

 

さくらもち(桜餅)  
塩漬けした桜の葉を巻いた餅菓子。小麦粉、白玉粉(もち米の粉)、砂糖を混ぜてこね、鉄板上で薄く延ばして焼き、これであんを巻くか、あるいは包み、桜の葉で被って作る。桜の香りを楽しむ季節のお菓子として親しまれている。桜の名所だった江戸向島長命寺の人が考案したといわれる。関西では、道明寺干し飯を蒸して、あんを入れて俵形に作り、桜のはで包んだ道明寺桜餅が多い。 
● 
濾し餡を生地で包み塩漬けした桜の葉を巻いた菓子。関東では小麦粉を薄く焼いた皮で餡を巻いた物で、関西では道明寺粉を蒸かして作ったつぶのある餅で饅頭のように包んだ物。関東地方では関西風の桜餅を特に道明寺と呼ぶ。関東風の桜餅は文政13年(1830)喜多村信節の「嬉遊笑覧」に「近年隅田川長命寺の内にて、桜の葉を貯へ置きて、桜餅とて柏餅のやうに葛粉にて作る、始は梗米にて製せしが、やがてかくかへたり」とあり、享保2年(1717)桜の名所として知られた江戸向島の長命寺の境内で、同寺の門番であった下総国銚子の山本新六が売り出したのに始まるという。 
ささやいおり(笹屋伊織)  
京都市下京区七条通大宮西入花畑町。享保元年(1716)創業。初代笹屋伊兵衛は伊勢田丸町の人。当地で菓子職人をしていたが、御所の招聘により上京「笹屋」の暖簾を掲げたという。明治に入り六代目当主が初代の出身地である田丸姓を名乗る。また同時期に御所から百官名の一つである「伊織」の名を授かり現在の屋号となる。代表銘菓の「どら焼き」は、江戸末期に五代目伊兵衛が創出したもの。東寺の僧侶の副食となる菓子づくりを依頼され考案されたもので、最初は境内で作っていたらしく、寺にあった銅鐸(どら)を焚き火の火で熟して小麦粉、砂糖などを入れた生地を薄く焼き、その皮で棒状に練ったこし餡を何重にも巻いてつくったという。このどら焼が評判となり、東寺の銅鑼を熱して皮を焼いたことから、弘法大師の命日にあたる毎月21日に限定して販売される。 
しおがま(塩がま)  
みじん粉、砂糖、塩、塩漬けのしその葉を合わせ押し固めてつくる。押し物菓子の一種で、落雁風の和干菓子。宮城県塩釜港附近で売り出されたことから発祥の地名がつけられ、いまでは各地でつくられている。 
しみずや(清水屋)  
静岡県島田市。享保6年(1721)清水屋五代目伝左衛門が、島田宿に長逗留していた紀州浪人の置塩露庵(おしおろあん)より甘酒皮の饅頭づくりの秘法を伝授され、従来の薬饅頭にかえて酒素饅頭を創作し、その後参勤交代中の松江侯松平不眛公の目にとまり、「一口で食べられる大きさがいい」と助言を受け「小まん頭」を作り街道一と称さたという。 
じょうよまんじゅう(薯蕷まんじゅう)  
まんじゅうの皮のつなぎに山芋をすって入れ、蒸してふくらませたもの。関西では、おめでたいときに紅白の薯蕷まんじゅうを用いることが多く、「上用まんじゅう」ともいわれる。しっとりした口当たりが上品なお菓子。 
● 
山芋をすりおろし砂糖と粉を加え混ぜ合わせた生地で、餡を包んで蒸した饅頭。しょよまんじゅう。上用饅頭ともいいうが、特に白くて高級なものを上用という場合もある。薯蕷はヤマノイモの漢名。「薯(しょ)」も「蕷(よ)」もヤマノイモの意。天保8年(1837)起稿「守貞漫稿」に「薯蕷饅頭じやうよまんぢうと云、京阪近年の製なるべし、餡同前上製也、山のいもを以て皮とす」とある。塩瀬では、始祖の林淨因から五代目の紹絆が元へ菓子製法を学びに行き、帰国後中国の宮廷菓子に学び薯蕷饅頭を作り出したという。 
しるこ(汁粉)  
主に小豆を砂糖で甘く煮て、中に餅や白玉団子などを入れた食べ物。餡の違いによって、漉し餡の「御前汁粉」、つぶし餡の「田舎汁粉」、粒餡の「小倉汁粉」と呼ぶ。関西では御前汁粉を「汁粉」「漉し餡のぜんざい」、田舎汁粉を「善哉(ぜんざい)」という。関東で「善哉」は餅の上にあんを載せたもので、関西で「亀山」と呼ぶ。「嬉遊笑覧」には「今は赤小豆の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり」とあり、「和菓子の系譜」は、本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になったとする。 
すあま(素甘)  
上しん粉(うるち米)と砂糖を混ぜて煉り、蒸したあと軽く搗いてつくられる餅状の菓子。しんこ餅ともいう。角のない三角形や棹物といわれる棒状の形のもの、色はピンク・緑などがある。紅白にした「鳥の子餅」としてお祝いごとに多く用いられる。「すはま」は別菓子である。 
すはま(洲浜)  
豆飴ともいう。きな粉や青きな粉に砂糖、水あめを錬り混ぜて生地を作り、棒状にして形を整えたもの。「すあま」とは違う。 
 
大豆を焦げないように煎って外皮を除きそれを砕いて粉末にした洲浜粉に水飴と砂糖を練り混ぜ、棒状にし、三方向を細い麺棒等で押し成形し、切り口が洲浜形になるようにした菓子。弘安年間(1278-1288)京都の松寿軒が創製したといわれる。大豆粉に水飴と砂糖を練り混ぜた生地で作った菓子は元来豆飴と呼ばれていたが、豆飴で洲浜形を作ったものが流行ったため、この生地をも洲浜と呼ぶようになり、洲浜形の菓子を作るところが減った結果、形としての洲浜より、その生地自体を意味するようになったという。「嬉遊笑覧」には、「すはまは、洲浜にて其形によりての名なり、もと飴ちまきなり、麦芽大豆を粉にして練り、竹皮に包みたるものなり、又豆飴ともいうなり、今も大豆粉を飴にて練り、茶食とすもの是なり」とある。 
すや  
岐阜県中津川市。元禄年間(1688-1703)創業。初代赤井九蔵が中仙道中津川宿に「十八屋」の屋号で酢の店を開く。大田南畝(蜀山人)の享和2年(1802)の「壬戌紀行」に「十八屋」の名があるという。七代目の頃(明治期)に菓子屋となる。「すや」の名は「酢屋」から。 
 ■せそ

 

せきのと(関の戸)  
深川屋の銘菓。赤小豆のこし餡を白い求肥で包み、その上に阿波の和三盆糖をまぶした餅菓子。歌舞伎の「積恋雪関扉」(つもるこいゆきのせきのと)にちなみ、鈴鹿の嶺に降り積もる白雪になぞらえたと伝えられる。「御室御所御用所関の戸服部陸奥大掾」と書かれた外箱の内に収められた総螺鈿の菓子箱が現存し、天保元年(1829)光格上皇から陸奥大椽の官位を賜り、御室御所に納められていた。 
せきはん(赤飯)  
おこわともいう。もち米に対してその1割程度の小豆か、ささげを混ぜて作る。 
せんべい(煎餅)  
うるち米系のものと小麦粉系のものとがある。一定の形に抜いて焼いたもので、種に、砂糖、卵、水あめ、みそなどを加えたり、表面にしょうゆなどを塗って焼くものもある。通常せんべいというと、関西では甘味のある薄い板状に焼いたもの、関東では、塩せんべいなど米菓をさすことが多い。「煎餅」というのは、中国に古くからあったようで、小麦粉を練って油で焼いたり、揚げたりしたものだった。これが「唐菓子」として奈良時代に日本に伝えられた。うるち米は明治に始まるとされている。名物せんべいに「山親爺」「八戸せんべい」「花いかだ」「磯部せんべい」「草加せんべい」「紅梅焼」「栃の実せんべい」「松風」「芝舟」「八ッ橋」「亀の甲せんべい」「瓦せんべい」「九十九島せんべい」などがある。 
醤油せんべい  
弘法大師が開いた西新井大師の門前町の「入山せんべい」は備長炭を使った昔ながらの手焼作業で作られている。また、深川不動の門前では、醤油の重ね焼で黒々とした「黒子せんべい」、もろみ醤油に海苔を巻いた田村焼、上質なゴマを使用した「胡麻せんべい」、海苔を入れて焼いた「海苔せんべい」、七味をふんだんに使った「山椒せんべい」、激辛の「特辛子せんべい」、金箔貼りの「と金」、季節ものの「桜せんべい」などがある。 
江戸時代の名物せんべい  
当時人気の歌舞伎狂言「助六」の舞台で登場する人物に「朝顔仙平」という通行人がいるが、これは市井で評判を得ていた「槿(あさがお)せんべい」をもじったものであつたという。せんべいは江戸期300年の歴史のなかで町人が生んだ食文化の一つで多種多様のせんべいが世に出た。たとえば百人一首のかるた形の「歌せんべい」、銅鍋で表裏を焼いたかき餅風の「軽焼せんべい」、落花生など豆類を入れて焼いた「南部せんべい」、味噌を練りこんで作る愛知の「八丁味噌せんべい、」京で有名な「聖護院八つ橋」などがよく知られている。こうした江戸期における醤油せんべい人気の一方で、せんべいの原点といわれる小麦粉、卵、砂糖を用いた「瓦せんべい」が各地で売られていた。「和名抄」にある小麦粉せんべいが時代につれて進化したものだが、ほかにも、関西ではもち米を使ったかき餅がおかきと呼ばれて好まれていた。 
草加せんべい  
せんべいは江戸時代に飛躍的に発展したといわれるが、なかでも「草加せんべい」が有名になったのは、一つは柴又から草加にかけた一体で江戸の初めごろから古米を粉にして焼く間食の習慣があり、それが一般に出回ったこと。二つめは、正保年代(1600年代ころ)に醤油が民間にも広まって江戸の人々に常用されるようになり、それとせんべいが結び付いたこと。さらに、草加が奥州街道の宿場として栄えていたためにそこへ物産が集中して売られたことが三つ目の理由となった。 
ぜんざい(善哉)  
関東でいう汁粉のこと。「守貞漫稿」に「京坂にては、専ら赤小豆の皮を去ず、黒糖を加へ、丸餅を煮る。号て善哉と云。江戸は赤小豆の皮を去り、白糖の下品或は黒糖を加へ、切餅を煮る。号て汁粉と云。京坂にても皮を去りたるは、汁粉又は漉餡の善哉と云。江戸にて善哉に似たるをつぶしてつぶしあんと云。又こしあんの別に全体の赤小豆を交へたるを鄙汁粉と云。」とある。善哉の語については、「嬉遊笑覧」に「祇園物語又云、出雲国に神在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちと申は是申あやまるにや、十月には日本国の諸神みな出雲国に集り給ふ、故に神在と申なり、その祭に赤小豆を煮て汁をおほくし、すこし餅を入て節々まつり候を神在もちひと申よし云々いへり。(中略)また神在餅は善哉餅の訛りにて、やがて神無月の説に附会したるにや。尺素往来に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことと聞ゆ。善哉は仏語にてよろこぶ意あるにより取たるべし。」とあり、「佛説無量壽經」の「於是世尊告阿難曰。云何阿難。諸天教汝來問佛耶。自以慧見問威顏乎。阿難白佛。無有諸天來教我者。自以所見問斯義耳。佛言。善哉阿難。所問甚快。發深智慧真妙辯才。愍念衆生問斯慧義。」(ここに世尊、阿難に告げて曰く、いかんぞ阿難、諸天の汝を教えて仏に来し問わしむるか。自ら慧見を以って威顔を問えるかと。阿難、仏に曰く、諸天の来りて我を教えるものあることなし。自ら所見をも以ってこの義を問うのみと。仏の曰く、善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問えり。)から来た語とする。 
 ■た

 

だいなごん(大納言)  
小豆(あずき)の中の特定の品種群。小豆の中で粒が大きく、深紅色のものを指す。市場では粒の大・中・小で大納言・中納言・小納言と呼ぶ場合もあり必ずしも品種名とは一致しない。実際の流通上は「大納言(17g以上)」と「普通小豆(17g未満)」に分けるのが普通。また、大納言小豆を使用した菓子に大納言の名を付けるものも多い。大納言の名の由来は、「大納言の烏帽子に似ている」「大納言家の菓子をこしらえるために特に小豆の大粒のものを選り分けて粒を揃えた」「煮ても皮が腹切れしにくいことから、殿中で抜刀しても切腹しないですむ大納言から」「尾張の国で品種改良された大粒の赤小豆で、尾張の名産でもあったところから尾張大納言から」などといわれる。ただ、土居水也(1574?-1654)の著とされる、土居清良(1546-1629)の伝記であり我が国最古の農書でもある「清良記巻七(親民鑑月集)」の「五穀雑穀其外物作分号類の事」「小豆の事」に「一、大納言。一、牛木豆。一、少納言。此三色は、三月末四月中に植てよし。」と大納言の名が見える。ちなみに、家康の九子義直(尾張大納言)、十子頼宣(紀州大納言)、秀忠の次男忠長(駿河大納言)がそれぞれ権大納言に任ぜられたのは寛永3年(1626)。駿河大納言は寛永10年(1633)切腹している。 
だいふくもち(大福餅)  
「あん」を薄い餅の皮で包んだもの。昔は塩あんで、昼飯の代用としても食べられた。江戸中期、夜に焼鍋に大福餅を並べて焼きながら売り歩くことが流行り、江戸のひとびとに好まれたお菓子とのこと。 
● 
小豆でできた餡を薄い餅で包んだ和菓子の一種。大福餅(だいふくもち)。餅粉や米粉、求肥などを蒸して皮を作るもの、皮に豆などを入れたもの、餡に小豆以外を使うもの等色々ある。明治大正期までは鉄板の上で炙って売る屋台店のようなものが多くあったという。「寛政紀聞」の寛政10年(1798)冬の条に「此頃夜々大ふく餅といふ物を拵へ売行き、世間甚流行也、籠之内へ火鉢を入レ焼キ鍋をかけ、其上ニ餅をならべ、むしやきにせし物にて至てあたヽか故、冬ノ夜之寒サ之折はうけ之宜敷餅也、元来ハ馬夫など之下賤之者之たべ候はらぶと餅といふ物を少し丁寧に拵たる迄之由也。」とあり、「はらぶと餅」を少し丁寧に作ったものを云うとし、寛政10年頃には大流行した事が知れる。文政13年(1830)序「嬉遊笑覧」に「鶉焼とハその鳥の丸くふくらかなれば准へて名づけたる歟。後世はらぶとヽいふ餅是なり。皮うすくして餡は赤小豆に塩のみ入て砂糖けなく唯大に作りたるものなり。大ふく餅ともいふ。後、其形を小く作り餡もこし粉に砂粉を加へたるを専ら大福餅と呼。はらぶと餅ハ近頃迄もありしが今は絶たり。」とあり、寛永15年(1638)年「鷹筑波集」に「音たかき欲にやふけるうずら餅」、延宝7年「洛陽集」に「二口屋御狩そいそぐ鶉餅」などとある「鶉餅」が後世「腹太餅」と称され「大腹餅」とも云い、それを小さくして砂糖を入れ漉餡にしたものが大福餅とする。天保2年(1831)山田桂翁の「宝暦現来集」には「おた福餅、明和八年の冬、小石川御箪笥町に、至て貧敷後家暮らしの、おたよと申女商人なるが、白き餅の中へ塩計のあんを入て売たるもの也、一両年過ると、その餅へ砂とうを入、外にて腹ぶと餅と唱へ替て売たり、又寛政中此より、同じ餅をあたヽめて大福餅と唱へ替、一寸専ら流行のものなり、又近此は漉あんにして砂とうを入る、古へはつぶしあんに塩計也。」とあり、明和8年(1771)小石川の「おたよ」という後家が「おた福餅」として塩餡のものを売り、それに砂糖を入れたものを「腹ぶと餅」を名を替え、寛政(1789-1800)中頃よりその餅を温めたものを「大福餅」と称したとある。後世の書物には「お玉」としたものが多い。 
たねや  
近江八幡市。創業明治5年(1872)。江戸時代から穀物や根菜類の種子を商っていた山本家七代目久吉が、京都亀末にて修業の後、明治5年(1872)「種家末廣」の屋号で、近江(滋賀県)八幡町池田町に、菓子業の初代として創業。のちに屋号を「種家」と改名。八代目脩次が、東京塩瀬総本家に修業し、宮内省大膳寮に二年奉職終了後、大正10年(1921)種家の二代目を継承。昭和33年(1958)有限会社たねや菓舗と改組。昭和47年株式会社たねや設立。 
だんご(団子)  
団子は遣唐使がもたらした唐菓子(からくだもの)がルーツだというが、唐菓子のなかの一つである「団喜」が変じて今日の団子となったらしい。神仏への供物としての歴史があり、たとえば「みたらし団子」は下鴨神社の御手洗祭の神饌菓子であったが、饅頭同様、一般に普及するようになると各地で次々と特徴ある団子が作られ、桃太郎の昔話に出てくる「黍団子(きびだんご)」や「追分団子」、うさぎの餅つきで親しまれる「月見団子」などさまざまな団子が出現した。 
● 
米や他の穀物の粉に水や湯を加えて捏ね小さくまるめて蒸すか茹でるか焼き、砂糖・醤油・味噌・胡麻・黄粉・餡などを付け或は中に包んだものなどの総称。江戸後期の国学者石原正明(1760-1821)の「年々随筆」に「米の粉を粘て、まろめて蒸したるを、世にダンゴとぞいふなる、團子といふ字、唐書にみえて、おなじさまなる物と見ゆれど、音訓にわたれヽば、これによりたる名にはあらじ。八種の唐菓子といふ中の團喜よりうつれるにやあらむ。いま團喜の形を見るに、米の粉に胡麻をまじへ、粘して丸くしたるものなり。白き黒き相まじりたるが、碁に似たれば、團碁といふものなるを、漢音によみなして、好字に書改めて、團喜といふにやあらむ。」とあり、奈良時代に中国から伝わった八種の唐菓子の一つ「團喜」に由来するという。また、江戸の国学者谷川士清(1709-1776)の「和訓栞」に「ダンゴは團子と書き西土の稱也、伊勢ではオマルといひ、尾州ではイシイシといふ」とある。
 ■ちつて

 

千歳飴  
11月15日を中心に、子供の成長を祝う「七五三」の縁起飴。紅白の棒飴で、江戸時代に浅草の飴売七兵衛が「千年飴」「寿命飴」と名付けて売ったのが始り。宮参りの後、親戚や知己へのお礼に配るのが慣例。 
ちゃつう(茶通)  
小麦粉に卵白と砂糖、抹茶を加えてこね、あんを包み、皮の上部に茶の葉を2・3枚つけて焼いたもの。焼きながら方形につくる。6面に焼き色が付き、角などに茶の緑色が残る。 
ちゅうか(中花)  
小麦粉、卵、砂糖を使ってどら焼き生地より柔らかい生地で鉄板上で各種の形に焼きあげ、あんや求肥などと成形して、表面に焼き印などを押して仕上げたもの。あゆ焼きが代表的。 
ちょうきゅうどう(長久堂)  
京都市北区上賀茂。創業天保2年(1831)。初代長兵衛が、室町四条において「新屋長兵衛」という屋号で創業。明治22年(1889)二代目・長助とその妻・久の名を取って「長久堂」と屋号を改める。求肥菓子で有名。名菓「きぬた」は、嘉永6年(1853)初代長兵衛が郷里の丹波で、織り上げた絹をやわらげて艶を出すために打つ砧の音を聞き、考案したという。 
ちょうせいでん(長生殿)  
金沢の森八の銘菓。松江の山川、長岡の越乃雪と共に日本三大銘菓のひとつ。北陸の糯米を使った落雁粉に阿波徳島の和三盆と少量の水飴を加え、小堀遠州直筆の篆書体「長生殿」の彫り込まれた木型で打ち上げた落雁。紅白の2種類があり、紅は山形産の本紅を用いるという。森下屋三代目八左衛門が、加賀藩三代藩主前田利常の好みで唐墨の形の落雁を造り、菓銘は小堀遠州の命名によると伝える。 
月見団子  
旧暦八月十五日の月を十五夜、同九月十三日の月を十三夜といい芒や団子、芋、豆、栗などを供える風習がある。団子の形状は関東が丸形、関西は里芋の形で餡でくるむ。 
つやぶくさ  
小麦粉に水を加えて軟らかめの生地として、砂糖、卵、水、膨張剤を加え焼くと、表面に丸い気泡の孔開いたものが焼き上がる。焼いた面であんを包んだもの。 
つるやよしのぶ(鶴屋吉信)  
京都市上京区今出川通堀川西入。享和3年(1803)初代鶴屋伊兵衛により掘川上立売下ル北船橋町で菓子司「鶴屋」として創業。嘉永7年(1854)京都所司代認可の上菓子屋仲間に所属。三代目伊兵衛のとき屋号を「鶴屋吉信」と定める。有名な、青い柚子の実をすりつぶし求肥と混ぜ合わせこれを指先でひねって粒状にしたあと阿波和三盆をまぶした「柚餅」は、明治初年に三代伊兵衛が考案したものという。 
 ■と

 

とうまんじゅう(唐饅頭)  
小麦粉、卵、砂糖を水で混ぜ合わせ、三味線胴状の金型に流し、あん玉をいれて両面をやいたもの。 
どうみょうじ(道明寺)  
道明寺粉(もち米を水に浸してから、蒸して乾燥し、粗くひいたもの)白玉粉、小麦粉などを使って「あん」を巻き、これを塩漬した桜の葉で巻いて仕上げた餅菓子。桜の香りがしてたいへんお美味しいお菓子。関西では道明寺を使っての桜もち(道明寺ともいう)が多く、関東では焼皮の桜もちが多い。 
● 
道明寺粉。もち米を蒸して乾燥させたもの。糒・乾飯(ほしいい)とも呼ばれる。また、道明寺粉を材料にして作った、道明寺団子、道明寺桜餅、道明寺椿餅なども道明寺と呼ばれる。天野信景(1663-1733)の「鹽尻」に「河内国道明寺は尼寺也、干飯を道明寺と云は、此寺より製し出せし物、精白にして黄なりし故名とす、今も飯糒を大家にまいらせ、又寺尼売侍るとなん、寺領三百石」、加藤江曳尾庵の「我衣」に「道明寺は河内国にある寺なり、然るに干飯を、道明寺に住給ふ道真、筑紫へ流人と成給ふ故に、配所へ毎日陰膳を居へ給ふ、飯を干飯にして引わりたるを、後に此寺の名を呼ぶ」とある。 
とらや(虎屋)  
室町時代創業の和菓子屋。室町時代末期、すでに虎屋と名乗り、後陽成天皇(1571-1617)の在位中(1586-1611)から御所御用を勤めたとの記録がある。虎屋の口伝によると、奈良時代に平城京の東大寺域内にある水門の里黒川郷に住み、姓も黒川氏を称したといい、その後いつの時代かは不明ながら「禁裏ニ御供」して京の郊外山科郷に移り、製粉・うどん・索餅(さくべい)などとともに菓子の御用を勤めたとされる。明治維新後、東京遷都に伴い東京に移住した。 
どらやき  
小麦粉、卵、砂糖をまぜて水でとき、鉄板で円形に二枚焼いて間にあんをはさんだもの。明治初期に創案され、名前の由来は、形が船のどら(銅鑼)の形をしているからという説、鉄板のかわりにドラの上で焼いたからという説がある。  
 ■なにぬねの

 

ねりきり 
練り物の一種で上生菓子といわれるもので、和菓子の代表的なお菓子。あんを作るとき、よく錬ることが名称の由来。白あんに砂糖を加え火にかけてよく錬り、つなぎにみじん粉、ぎゅうひなどを加えて作った錬り切りあんをいろいろな形に彫刻した木型に押し付けたり、細かい手細工をして造形的な美しさを出す。色彩も豊かで四季の感じを盛り込んだものが多く、古くから祝儀や茶の湯の菓子として用いられたきた。 
 
練切餡の略。白小豆・白隠元などを煮て漉したで作った白生餡に砂糖を加えて練り白餡を作り、求肥をつなぎに加えて練り上げ裏漉ししたもの。また、その餡で作った菓子。適度に粘りがあり細工がしやすく、着色したり成形して、上生菓子のひとつとして茶席の主菓子に用いられる。求肥の代わりに白玉粉を茹でたものや大和芋、味甚粉、葛種を加えることもある。また、山芋を蒸して裏漉しした後、砂糖を加えて練り上げる「薯蕷(じょうよ)練切」もあり、高級品とされる。作るときによく錬ることが名称の由来という。
 ■はひふへほ

 

はなびらもち(葩餅)  
白餅を丸く伸ばし、その上に紅色の菱餅、白味噌餡、ふくさ牛蒡をおいて、二つに折った菓子。明治のはじめに京都の川端道喜が裏千家11世玄々斎の依頼により茶の湯の菓子として創った。玄々斎が慶応2年正月の宮中献茶の際に下賜された菱葩(ひしはなびら)を砕いて饅頭の原料に混ぜ初釜用の主菓子とし、東京遷都の後、許しを得て裏千家初釜用の「御菱葩(おんひしはなびら)」の創作を依頼したという。菱葩は、宮中の正月行事である「歯固(はがため)」に由来し、歯固に用いられた品は時代により変遷があるようだが、源高明(914-983)の「西宮記」の天徳五年(961)正月一日に「内膳供御歯固、大根、瓜、串刺、押鮎、焼鳥等、付進物所、進物所例云、正月元日早朝、供奉屠蘇御膳事、猪宍二盤、一鮮、二焼、押鮎一盤(切盛置頭二串)、煮塩鮎一盤(同切置頭二串)」とある。江戸時代初期の「後水尾院当時年中行事」に「いつの頃よりの事にか、其やう、まづ御さかづきに三方一ツに、ひし花びら、こぶ、かちぐり、くしがき、かずのこ、あめ、五辛等、さまざまの物をとり入て、御前にまゐらす、御はしをとらるヽまでもなく、むかはるヽばかりにて、撤して庇におきて、中臈下臈あまたすヽみよりて、彼さまざまの物をとり分、ひし花びらのうへにつつみかさねて、女中上中しもにたぶ」とあり、歯固に用いられた品を菱花びらの上に包み重ねて食べている。川端道喜に伝わる「御定式御用品雛形」の絵には、三宝の上に、縦四枚、横三列の十二枚の白い葩が並び、その上に紅の菱餅が載り、その上に押し味噌、竹の皮で包んだ飴、野老、搗栗、榧の実などの一番前に鮎が二匹並べてあるといい、同家に伝わる話か、鮎が牛蒡に変わり、公家百官雑色に至るまでに、葩の上に菱餅をのせ、牛蒡をのせ、味噌をつけて渡したという。川端道喜の「御菱葩」は、餅粉に砂糖を少量加えたものを蒸し、薄く丸く延ばし、その上に、同様にした赤の餅皮を菱形に切ったものを付着させ、蒸かし上げた牛蒡と白味噌餡を置き二つに折ったもので、以前は牛蒡が餅皮より出ていたが、今は牛蒡が餅皮の中に包まれている。味噌餡が柔らかいため着物を汚す者が多いからという。 
はぶたえ(羽二重餅)  
もち米粉(白玉粉)と砂糖を合わせて求肥(ぎゅうひ)に練り上げた餅菓子。長方形に切られ、羽二重のように滑らかな舌触りが特徴。明治30年ころ福井県の羽二重の機械販売業者が考案したといわれる。 
● 
餅粉を蒸し、砂糖・水飴を加えて練り上げた、福井県の餅菓子。明治38年(1905)福井県福井市の松岡軒の二代目・淡島恒が当地で隆盛であった絹織物「羽二重」にあやかると同時に先代絹重こと淡島重兵衛が丸十印奉書紬の製造を家業としていたところから「羽二重餅」の名称をもって新しい菓子を製造創業発売したのがのはじまりという。他に羽二重餅の元祖を称しているのは、弘化4年(1847)創業の錦梅堂(福井市)が、福井藩主松平家の御用達であった初代が考案し、献上したのが起源としている。ただ、福井県下の羽二重織の起源は明治20年(1887)3月福井市に群馬県桐生森山芳平の職工高力直寛を招聘し伝習したのがはじまりとされることろから、羽二重餅の名称はそれ以降のことと考えるのが妥当か。 
ひちぎり(引千切)  
雛祭りに京都で食べられる菓子。宮中の儀式で、御着帯の祝いなどに用いられた「戴餅」「小戴」に由来し、戴餅は丸めた餅の真ん中をくぼませ、そこに餡をのせたもので、引千切はその土台の餅に柄のようなものがついている。昔の職人が注文をさばくのに餅を丸めるひまがなかったので、引きちぎって製造したのが始まりといわれる。「引千切」の名も「引きちぎる」ことからきているという。その形があこや貝(真珠の貝)に似ていることから「あこや餅」とも呼ぶ。 
ひなあられ  
パフしたもち米を主材料とし、シラップを適宜着色して掛けたもので、パリッとした食感がある。甘納豆や雲平ものなどを添えて製品とする。行事菓子。 
ひめこそで(姫小袖)  
讃岐の和三盆糖と寒梅粉で作った打菓子で、中に漉し餡が入っている。姫小袖の名の由来は、この菓子の表の綸子の模様を紅白に染め分けた形から名付けられたという。松江藩の御留め菓子で、藩御用の折に特別に使われ、一般には販売が禁止されていた。明治維新の折には、一度絶えてしまい、明治の代に復活させたもの。一力堂菓子帳に依れば、嘉永年間当時は「沖の月」の御銘が付いていたという。 
ふかがわや(深川屋)  
三重県亀山市関町。創業寛永年間(1624-1629)。初代服部伊予保重は甲賀深川郷の人で、元は伊賀の土豪であったが織田信長に追われ甲賀に移り町人となり、その後、関に移り住み、銘菓「関の戸」を考案し深川屋を創業したという。天保元年(1829)七代目服部吉右衛門のとき光格上皇から陸奥大椽の官位を賜り、御室御所の御用達菓子司を仰せつかる。店舗は天明四年(1784)の建物。 
ふくさや(mサ屋)  
長崎県長崎市船大工町。寛永元年(1624)創業。カステラで有名。初代が、ポルトガル人よりカステラ製造を伝授され、引地町に店を構えたという。六代目市良次の頃、引地町から、現在の船大工町に移転。初代以来「avの字を商標としていたが、12代清太郎が、新しい商標として「蝙蝠」の商標を定めた。蝙蝠(こうもり)は中国では慶事と幸運の印としておめでたいものとされていて、また、蝙蝠の「蝠」の字が「福」と同音「フウ」であるところからという。全国的な知名度では文明堂には劣るが、通の間では福砂屋のカステラは文明堂より評価が高いといわれる。カステラの底に双目糖(ザラメ糖)が残るのが特徴。 
ふくまめ(富久豆)  
たねやの節分の日の歳時菓子。つくね芋に片栗粉と砂糖などを混ぜたものを木型で型取り、乾かしてから食紅と烏賊墨で目鼻や髪を描いた、縦15cm、横11cmのお多福面と、紅白に染め分けた砂糖を炒り豆にからませた豆菓子130gが入った干菓子。1月16日から2月3日の節分までの期間限定販売。 
ぼんたんづけ(文旦漬) 
鹿児島の果実菓子。文旦の外皮を薄く切り、糖蜜で煮た後、乾燥させ、砂糖をまぶして作ったもので、長崎名物のザボン漬と同様なもの。  
 ■ま

 

まつやとうべい(松屋藤兵衛)  
京都市北区北大路紫野大徳寺前。江戸時代後期の創業で創業以来二百数十年という。明治までは御所出入りの菓匠として御所の東、清和院門の近くにあったが、河原町通りの拡張に伴い洛北に移転し、昭和12年(1937)現在の紫野大徳寺門前に移転した。先祖は豊臣秀吉の家来で但馬出石11万石の大名の前野但馬守長康であったが、豊臣秀次の家老となり、文禄4年(1595)秀次謀反に連座し切腹したが、その子の一人が京都の松ヶ崎に匿われ、名を伏せるため松ヶ崎の松をとって松屋と名乗り、その何代か後に菓子屋を始め、松屋藤兵衛を名乗ったという。銘菓「紫野松風」で有名。 
まるぼーろ  
小麦粉に、卵、砂糖を混ぜ、両面から焼いたやや厚みのある平たい円形の焼き菓子で、佐賀県名物。直接ポルトガル人から伝授されたとか、鍋島藩の御用菓子司が長崎でオランダ人から製法を習ったものとかいわれている。 
まんじゅう(饅頭)  
まんじゅうは当時の諸々の文化と同じように中国から伝来したもので、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に出てくる「十字饅頭」が初めての記録らしい。京都五山の一つ東福寺の聖一国師が宋からその製法を持ち帰ったのだという説や、1341年に宋から帰朝した同じく京都建仁寺の龍山禅師が伝えたという説などがある。初めは鶏肉や鴨肉、野菜などを詰めて蒸して作られたが、やがて小麦粉に餡を詰める形式のものが作られるようになり、桃山・江戸時代の茶道の隆盛期に発達して今日の原形をなしたという。砂糖が非常に貴重な時代は特権階級の人々だけが食する食べ物であったが、やがて庶民の間に普及が進むと、全国各地でそれぞれの特徴をもった饅頭が作られるようになった。 
 
小麦粉などを練って作った皮で小豆餡などの具を包み、蒸した菓子。中国の饅頭(マントウ)が起源とされるが、現在中国の饅頭は中に餡も具も包まない一種の蒸しパンで、日本で中華まん・中華饅頭とされるものは、中国では包子(パオズ)と呼ぶ。宋の高承の「事物紀原」に「諸葛公之征孟獲。人曰、蠻地多邪術、須祷於神、假陰兵以助之、然其俗必殺人以其首、則神享為出兵。公不從、因雜用羊豕肉、而包之以麺、象人頭以祀、神亦享焉、而為出兵。後人由此為饅頭。」とあり、諸葛孔明(181-234)が人の首の代わりに羊や豚の肉を小麦粉の生地で包み人の頭にかたどり神に供えたのが始めとする。日本では、黒川道祐の「雍州府志」(1684)に「建仁寺第二世龍山禪師入宋、于時中華人林和靖末裔林浄因、執弟子禮、斯人於中華製造饅頭、元順宗至正元年、龍山歸本朝日、林浄因相従来。在本朝改氏鹽瀬始住南都製之形状片團。是稱奈良饅頭。是本朝饅頭之始也。」(建仁寺の第二世龍山禅師、宋に入るや、中華の人林和靖の裔孫浄因弟子の礼を執る。斯の人は中華に於て饅頭を製造する。元の順宗至正元年(暦應4年)、龍山本朝に帰る日、林浄因相従いて来る。本朝に在りて氏を塩瀬と改め始め南都に住して之を製すに形状は片団。是れを奈良饅頭と称す。是れ本朝饅頭の始なり。)とあり、暦応4年(1341)林浄因が龍山禅師に従い来日し饅頭を製し、これが今も残る「塩瀬」という。また、虎屋では仁治2年(1241)7月聖一国師が宋より帰朝し、筑前博多の崇福時に住し、栗波吉右衛門に饅頭の製法を伝え「御饅頭所」の看板を書き与え、後にこの饅頭は酒皮饅頭とも虎屋饅頭とも呼ばれるとする。ただ、仁治2年(1241)「正法眼藏」の「看經」に「堂裡僧を一日に幾僧と請じて、斎前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。」とあり、すでに饅頭のことが見える。
 ■みむめ

 

みかいこう(未開紅) 
薄紅と白の生地を重ね合わせて延ばし、四角に切って、小豆の漉餡を四方から包み込み、中央に芯をつけた菓子。宝暦10年間(1760)の長谷川良隅撰の「御前菓子図式」によれば「未開紅右、だんご、紅にて染、薄く延して、四角に切り、上に落雁の炒粉を付ける也。内に羊羹包申候。尤、角よりよせ申候。」とある。未開紅は、未だ咲き染めぬ紅梅のことで、紅梅のなかでも八重で花が大きく、つぼみのうちから紅の種類。 
みずようかん(水羊羹)  
ようかんの一種で、寒天液とあんを合わせて型に流し、固めたもので、名前の通り水分を多く含んでいることが特徴。夏向きのお菓子。 
 
羊羹と同様に、寒天を煮溶かし、餡・砂糖を加えて混ぜ、容器に流し込んで冷やし固めるのが一般的な製法で、練羊羹より寒天や餡を少なめに煮詰めずに水分を多くして柔らかく作ったもの。夏菓子として冷やして食べるのが一般的。餡を使わずに黒砂糖を使うものもある。水羊羹の起源は定かでないとされ、虎屋では、初めて「水羊かん」と菓銘が記されているのは延享3年(1746)で、安政3年(1856)の資料によると水羊羹の原材料として「小麦のこ」「葛のこ」とあり、当時の水羊羹は葛と小麦粉が使われていたという。 
みそまつかぜ(味噌松風)  
焼き菓子の一種。小麦粉、砂糖、水飴を水で混ぜて作った生地に白味噌を加え、平鍋に流しいれて形を整え、表面にケシ粒やゴマを散らして、上から天火で焼いたもの。白味噌以外に八丁味噌などで作られるものもある。固いせんべい状のものから柔らかいカステラ状のものまで、様々である。表面はケシで飾られ、焼き色がついているのに、裏側は白くてさびしいことから「うらさびし」の連想から、この名がついたという。田宮仲宣の享和3年(1803)刊の随筆「東牖子(とうゆうし)」には「干菓子の松風は初め京都より製り出し、或る御方に御銘を乞い奉りしに、御覧あって松風と名づけ給ふ、その心は、表に火の強く焦げし跡泡立ちしあと、ケシをふりしなどしていろいろ斐あれど、裏は絖とて模様なし、うら淋しき義によりて名づけ給えりとかや」とある。応永28年(1421)創業の亀屋陸奥では、元亀元年(1570)から始まった織田信長の石山本願寺攻めの際、顕如に従った三代目当主の大塚治右衛門春近が、小麦粉を練り麦芽飴と自味噌を混ぜて焼き上げた菓子を創出し、戦後、顕如が、籠城時に春近がつくった菓子をしみじみと味わいながら、「忘れては波の音かとおもうなり、枕に近き庭の松風」と歌を一首詠み、以来この菓子は「松風」と名づけられたとしている。 
みぞれかん(霙羹)  
寒天に砂糖を加えた「錦玉(きんぎょく)」に、水洗いしたもち米を水に漬けて蒸して乾燥させた「道明寺(どうみょうじ)」を蒸して戻して混ぜ、型にはめて固めたもの。透明な錦玉の中で白い道明寺が、霙(みぞれ)が降っているように見えるので「みぞれ羹」と呼ばれる。道明寺羹(どうみょうじかん)。 
みなづき(水無月)  
外郎生地に小豆をのせ三角形に包丁した菓子。京都では、6月30日の大祓「夏越祓」(なごしのはらえ)を終えて「水無月」の菓子を食べる風習がある。古くは、旧暦六月朔日に氷室から宮中に運び入れられた氷を、神に捧げ、国家安泰・無病息災を願う、氷室の節供が執り行われ、時代が下ると、これを町衆が真似て、氷に模して外郎を三角に切り、神棚に供え、無病息災と家内安全を祈り食すようになり、江戸時代中期に小豆をくわえるようになったという。 
むらさめ  
砂糖に少量の塩を加え、寒梅粉(もちを焼き上げ製粉したもの)、上南粉(蒸しもち米あるいはもち生地を乾燥、粉砕し炒ったもの)等を混ぜて生地を成形用の木枠に入れて、押し蓋で軽く押した菓子。成形のために蒸すことも多い。  
 ■も

 

もなか(最中)  
もち米をこねて薄く延ばしたものを任意の型に合わせて焼き、それを「最中」の皮として2枚あわせ、中にあんを入れたもの。起源は平安時代の「後撰和歌集」源順の歌「池の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける」といわれる。宮中で月見の宴を催したとき、丸い白餅が菓子として出され、その形がちょうど池の面に浮かぶ中秋の名月にそっくりだったので、歌に因んで「最中の月」と名付けられたという。 
 
糯米(もちごめ)粉をこね、薄くのばして焼いた皮を2枚合わせ、中に餡を詰めたもの。文化年間(1804-18)初に、江戸・吉原仲ノ町の煎餅で名を売った「竹村伊勢」が、糯米の粉を練って蒸し、薄く延ばしたものを丸く切って焼き、砂糖をかけたものを「最中の月」と名付けて売り出したのが初めとされ、「吉原は竹の中から月が出る」「竹村は星の座敷へ月を出し」(柳多留)と川柳にも詠まれるほど吉原名物となる。「最中の月」は、陰暦十五夜の月(仲秋の名月)のことで、後撰和歌集の源順「池の面に照る月なみを数うれば今宵ぞ秋の最中なりける」とある。のち、「最中饅頭」として餡を入れたものが出るようになり、文政7年(1824)刊「江戸買物独案内」には日本橋通三丁目の御菓子所「吉川福安」に「元祖最中饅頭」とあり、日本橋東中通川瀬石町の御菓子所「林屋善助」にも「最中饅頭」とある。現在のような最中は、明治-大正時代まで下り、型がつくられるようになってからという。 
ももやま(桃山)  
白あんに砂糖、卵黄、少量のみじん粉(もち米から作った粉)を錬り混ぜ、型に入れて打ち抜き、表面を焼いて作る。最初茶人に好まれたので、京都の地名にちなんで名付けられたという。 
もりはち(森八)  
石川県金沢市尾張町。寛永2年(1625)創業。初代森下屋八左衛門(亀田宗兵衛)が寛永2年(1625)に菓子屋を創業。三代目八左衛門が藩主前田利常候より町年寄役を命ぜられ、以後代々町年寄、銀座役を勤める。江戸表に召された三代目八左衛門は、藩主利常の創意により小掘遠州の筆になる「長生殿」の三字を原型とした銘菓長生殿を造る。文久8年(1863)十一代目八左衛門の時に家柄町人として苗字帯刀をゆるされ、「森下屋」から森下と改め、明治2年(1869)に屋号を「森八」と改称。十三代の夭逝で十二代目八左衛門は長女を十四代目としたが、後継者がなく、明治44年(1911)10月、姻戚関係の中宮茂吉に家業の一切を譲る。十五代当主中宮茂吉は、翌年10月に合名会社森八を設立。十六代中宮茂一が戦死したが、昭和24年商売を再開。昭和42年株式会社森八へ改組。「長生殿」「千歳」「黒羊羹」などが名高い。
 ■やゆよ

 

やまとや(大和屋)  
新潟県長岡市柳原町。日本三大銘菓のひとつである越之雪が名高い。安永七年(1778)創業。長岡藩九代牧野忠精が安永七年(1778)病にかかった時、大和屋の始祖である御用金物商の岸庄左衛門が、寒晒粉に甘みを加えた粉菓子を作り献上したところ程なく平癒し「実に天下比類無き名菓なり、吾一人の賞味は勿体なし、之を当国の名産として売り拡むべし」という言葉と共に「越之雪」の名を賜い、その後この菓子の製造を続け、文化6年(1809年)には藩の贈り物用菓子の御用達を命ぜられる。天保元年(1830年)には柳原町の会津屋次右衛門に替わり長岡藩の鉄物御用を命じられ、千手町村から現在の柳原町に移転し、御用菓子屋、御用金物屋を続けた。 
やまかわ(山川)  
松江の風流堂の銘菓。松江藩七代藩主、松平不昧公の歌「散るは浮き散らぬは沈む紅葉ばの影は高尾の山川の水」から名付けられたという、不昧公好みの菓子。松江藩御用菓子司の三津屋惣七にだけ作らせた「座菓子」の一つで、同家のみ「不昧翁好山川」が許され、本来は煎り米粉(定差粉)を阿波産の三盆白でもみ、型枠に打ち固めた薄紅色の秋物の1色だったという。明治維新後廃藩で姿を消してしまったこの銘菓を、明治中頃、風流堂二代目の内藤隆平が復元をした。上白糖に寒梅粉を用いた紅白の落雁で、ほのかに塩味がする、しっとり感のある落雁で、口溶けがよく、あとに残らない。器に盛るときも手で割り、偶然の形を楽しむ。金沢の長生殿、長岡の越乃雪と共に日本三大銘菓と数えられている。 
ゆべし(柚餅子)  
ゆずを使ったお菓子。ゆずの皮ともち米粉、うるち粉、砂糖などを混ぜて蒸し、竹の皮に包んで棒状に作ったもの。ゆずの風味をつけた「餅菓子」「ようかん」などもゆべしという。ゆずの果実の身を取り除き、米粉、調味料、木の実詰めて蒸し、干したものは「丸ゆべし」といい、餅菓子のゆべしと区別する。丸ゆべしは室町時代につくられ、「柚干」と書かれた。当時のものはみそ味で菓子というより保存食品に近いものだった。   
ようかん(羊羹)  
[1]和菓子の棹(さお)もの菓子といわれている。あんに砂糖を入れ、寒天を加えて煮詰め、型に流して固めた「練りようかん」、同様な材料で水分を多くし口溶けよくした「水ようかん」、小豆のこし粉、小麦粉、砂糖を混ぜて錬って蒸した「蒸しようかん」がある。あんに白あん、抹茶を加えたもの等いろいろある。ようかんは、鎌倉・室町時代にかけて、中国から禅宗が伝来し、間食の風習ができるとともに点心の一つとして生まれた。点心とは、空心(すきばら)に小食を点ずるという禅語で、間食を意味している。 
[2]羊羹という熟語にはヒツジの字(羊)が三個も含まれていることから想像できるように、もとはヒツジの肉を汁で煮込んだ中国の食べ物であったものが、平安時代に遣唐使によって我が国にもたらされたのだという。初めは赤豆、麺粉、砂糖を材料とした「蒸し羊羹」が主流であったが、1600年ごろに「てんぐさ」と「和三盆」を使った「練羊羹」が考案され、さらに江戸時代の末には「水羊羹」が生まれて今日の代表的な羊羹の三つの流れが固まったのだといわれる。ただし、水羊羹についていえば、材料は小豆と砂糖、寒天を使うものの、水分が多くて軟らかいだけの羊羹であったらしく、冷やして食べる今日の「夏の季節菓子」のようなものであつたかどうかはわからないらしい。その後、庶民の間に普及が進むにつれて各地で特色ある羊羹が作られるようになり、現在では栗、梅、柚子、くるみ、柿、杏、無花果、枇杷、葡萄、レモン、りんご、桃などを使ったものがいろいろと製造されている。 
 
餡に砂糖を加え、蒸したり寒天を入れて固めた棹物の和菓子。一般には小豆を主体とした餡を寒天で固めた菓子。蒸羊羹、練羊羹、水羊羹がある。羊羹は「戦国策」や「史記」にもその名が見え、本来は「羊の羹(あつもの)」で、羊の肉を煮た汁物。鎌倉時代から室町時代に、禅僧によって日本に伝えられ、羊肉の代わりに小豆を用いたものとされ、「庭訓往来」や「遊学往来」などに初めて名が出るが、このときにはすでに菓子となっている。「嬉遊笑覧」(1830)に「沙糖は下学集また林氏節用集に載たれば、その頃には異国よりわたりも多くなりしにや、されどさたうを用ひざる物多かり。庭訓に羊羹と砂糖羊羹と二種出たり。唯羊羹は沙糖は入らざるなり」とある。また同書に「今の羊羹は昔の法に非ず。明人は豆沙糕(米羔)といふとなり。宋書、毛脩之伝、脩之嘗為羊羹、以薦虜尚書云々あるものは羊肉のあつものなり、菓子の羊羹は豆沙糕(米羔)なり、求肥ももと牛皮糖なると同じ、獣を不潔とする故これらの字を書改めしならめど、羊字をかへざるはいかヾ、又羹は糕(米羔)と同音なる故糕(米羔)といふべきものをも誤りて羹とかけり。」とある。「守貞漫稿」に「羊羹の古製小豆一升砂糖准之小麦粉五勺鍋墨少し加へゆるく煉り合せ蒸籠に掛けさまして後に細長く四角に切る。色黒し云々。古製は此ごとく甚粗製也。今製の蒸羊羹の類にて、古の砂糖羊羹也」とあるように初期の羊羹は、小豆を小麦粉と混ぜて作る蒸羊羹で、これから、ういろうが派生している。練羊羹は寒天に餡を加え棹状に固めたもので、正保4年(1647)京都伏見の美濃屋太郎左衛門が寒天を考案して以降のものと考えられ、「嬉遊笑覧」には「茶の湯の口取に練羊羹、うばたまなどは紅粉や志津麿始めて製す。寛政の頃よりなり」とあるが、駿河屋によると天正17年(1589)第4代岡本善右衛門によって発想され、その後改良を加え万治元年(1658年)第6代善右衛門に至って、漸く完成されたとある。江戸時代は練り羊羹が全盛となり、従来の蒸し羊羹は下物とされ、関西では丁稚羊羹と称された。練羊羹より寒天や餡を少なめに煮詰めずに作った水分の多いのが水羊羹で、虎屋によると「水羊羹」と菓銘が記されているのは延享3年(1746)という。
 ■らりるれろ

 

らくがん(落雁)  
穀粉(もち米、うるち米、大麦、大豆、小豆、そば、栗、そら豆など)に砂糖と少量の 水、水あめなどを加えてよくもみまぜ、これを各種の形を彫りつけた木型に詰めて抜とり、焙炉に入れて乾燥してつくる、打ち物菓子。らくがんの名の起こりには諸説ある。中国の「軟落甘」という菓子の軟を略したもの、「落甘」といわず「落雁」となつたのは、当時黒ごまをちらしていたらしく、その様子が舞いおりる雁に似て、近江八景の一つの「堅田落雁」になぞらえ「落雁」になったというものなど説等。   
● 
米や麦や豆などの粉に砂糖や水飴などを混ぜて、型に入れ押し固め、乾燥させて作った菓子の総称。もとは、精白した糯米を蒸し上げ、乾燥させて糒(ほしいい)にし、石臼で挽砕したものを炒って作った。寺島良安(生没年未詳)の正徳2年(1712)頃「和漢三才図絵」に「〓(米散)(ラクカン)〓(食散)同熬稻也、今云落雁之類矣、造法糯米蒸〓(食強)微乾、砕末晒乾微炒以沙糖汁溲洩之、入模範、按之形随模、性脆軽易消散、又堪為鳥餌、落雁之名本于此」とあり、もち米を炒るもので、いま云う落雁の類か、造法は糯米を蒸し、乾燥させて、砕いて粉にして、日に晒して乾かし、軽く炒り、砂糖の汁でこれを練り、型に入れて押えると、形は型通りになる、性質は脆く軽く、容易く解ける。鳥の餌ともなしうるので、落雁の名がついたものか、という。落雁の名の由来は、後小松天皇の御代に本願寺第五世綽如上人(1350-1393)が北陸巡錫のみぎりこの菓子を進められ、白い上に黒胡麻の散ったのが雪の上に雁の落ち来る風情に似ているとして「落雁」と名付けられた。中国明朝の軟落甘の軟の字を略して落甘といい、それが落雁となったなど、諸説ある。また、加賀の御所落雁では、金沢藩三代の小松中納言前田利常が、小堀遠州に意匠させたこの菓子を後水尾天皇に献上したところ、田の面に雁の落ちたところに似ているとして、天皇から「落雁」の御染筆を賜り、特に御所の二字を冠した、とも伝えられている。山岡浚明(-1780)の「類聚名物考」に「もと近江八景の平砂の落雁より出し名なり。白き砕米に黒胡麻を村々とかけ入れたり、そのさま雁に似たれば也、昔は州浜のさまなりしが、今は種々の形出来たり、かヽるものといへども、その初は故由有しが、後はとりうしなへる事多く、その名同じくして物異に変るもの也」とある。軟落甘に由来するとの説には、安積澹泊(1656-1738)編纂「舜水朱子談綺」に「軟落甘」の名が見え、そこに「ラクガン」と振り仮名があり、また「炒米糕(サウベイカウ)米を炒て粉にし、沙糖を入れ、らくがんを造る如く木形にいれ、打出すなり」とあるところから、これを敷衍したものとして、谷川士清(1709-1776)の「倭訓栞」に「らくがん落雁とかけり、炒米糕なりといへり、されど明朝に軟落甘といふ軟を略せしなりと、朱子談綺に見えたり」、喜多村信節(1783-1856)の「嬉遊笑覧」に「朱子談綺に軟落甘といふは糕の名なり、この軟字を略して落甘といひしをやかて落雁と書こととなれり」とある。朱舜水(しゅしゅんすい/1600-1682)のいうところの「軟落甘」が如何なるものか詳らかでないが、青木正児(1887-1964)は「華國風味」で、清の呉長元の「宸垣識余」に「松子海哩〓(口幹)」とあるものが、清の顧仲清の「養小録」にある「松子海〓(口羅)〓(口幹)」と同様のものであるとし、元の「居家必用事類全集」の「回國食品」に「哈耳尾、乾麺炒熟羅過、再炒下蜜、少加水攪成、按片刀裁。」とあるものと製法が似ており、中央アジアから蒙古を経て伝わったもので、「哩〓(口幹)」「〓(口羅)〓(口幹)」「落甘」は、そのものの口音を写したもので、「〓(口羅)〓(口幹)」が「おこし」のように硬いのに対し「軟落甘」は柔らかなもので麦粉で作られたものとする。ここにある清の呉長元の「宸垣識余」は「宸垣識略」のことと思われるが、該当する記載は見当たらず、清の敦崇の「燕京歳時記」に「按、宸垣識略、前明冬至賜百官甜食一盒、凡七種、一松子海哩〓(口幹)。鄭以偉曰、〓(口幹)字諸字書不載、今亦不識海哩〓(口幹)為何物。蓋縁元人語也。」(宸垣識略には、明では冬至になると百官に甘い食物一箱ずつを賜った。中におよそ七種入っていて、これを一にスンズハイリカンという。鄭以偉がいうには、〓(口幹)の字は諸々の辞書に記載がない。いまハイリカンが何物なのか知らない。けだし元人の蒙古語によるものであろう。)との引用に見える。ただ、軟落甘なるものに「らくがん」と仮名を振るということは、それ以前に落雁が一般的なものになっていたと考えるのが妥当と愚考する。しかも落雁を炒米糕でなく軟落甘とし、軟落甘が米粉でなく麦粉で製したものであるとすると、朱舜水が見た落雁は麦落雁ということになる。 
りょうぐちやこれきよ(両口屋是清)  
愛知県名古屋市。寛永11年(1634)創業。大阪道秀町の菓子司、初代猿屋三郎右衛門が、寛永11年(1634)那古野本町に饅頭屋を開業し、貞享3年(1686)には尾張藩2代藩主徳川光友(1625-1700)から「御菓子所両口屋是清」の表看板を下賜されたという。
 ■わ

 

わかあゆ(若鮎)  
楕円形に焼き上げたカステラ生地で求肥をつつみ、半月形に整形し、焼印で目とひれの印をつけた和菓子。京都や岐阜などでは求肥のみを入れるが、関東では求肥と餡が入っていることが多い。 
わかくさ(若草)  
求肥に寒梅粉に砂糖を加えた薄緑色の粉をまぶした菓子。松江藩七代藩主松平不昧公の「曇ぞよ雨ふらぬうちに摘てこむ栂ノ尾山の春の若草」の歌より名付けられた不昧公好みの菓子で、明治維新の折りに一度途絶えたが、彩雲堂の初代・善右衛門が古老や茶人の言い伝えをもとに明治40年頃に復活させたという。この彩雲堂以外にもいくつかの菓商がこの菓子を作っている。 
わさんぼん(和三盆)  
主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種。和三盆の原料となるサトウキビは、地元産の「竹糖」(通称、細黍とも言う)という品種が用いられ、絞って汁を出した後、ある程度精製ろ過して結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を数度繰り返し、最後に一週間ほどかけて乾燥させ完成となる。盆の上で砂糖を三度ほど「研ぐ」ことが「和三盆」の名の由来になっているが、最近では製品の白さを求めて5回以上「研ぎ」と「押し舟」を行うことが多い。こうして出来あがった和三盆は、粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから色がかかった白さとなる。口に含むと素早く溶け風味のよい甘さが広がるため、和三盆そのものを固めただけの菓子もある。代表的なものとしては落雁と似た製法による打ちもの、半球状に押し固めた二つ一組を和紙に包んでひねり羽根つきの羽根に似たものなどがある。 
わらびこ(蕨粉)  
シダ類である蕨の地下根茎に含まれる澱粉。蕨の地下茎を叩きほぐして洗い出し、精製する。同様の方法で葛の根から得られる澱粉である葛粉よりも強い弾性・粘性を持つ。特産地は、岐阜高山・奈良・福岡・長野等だが、葛以上に原料の採取や製造に手間がかかり、収率が悪いので、今日では製造者が非常に少なく、生産量は極めて少なくなっている。秋に収穫し、農家の囲炉裏の上で乾燥し薫製の香りがし、赤みを帯びた物が上質。本蕨粉をわざと数年寝かし、さらに乾燥させてから使う菓子屋もある。非常に高級な菓子材料の一つ。 
わらびもち(蕨餅)  
蕨粉に水と砂糖を混ぜたものを、加熱しながら透明になるまで混ぜた菓子。蕨粉に水を混ぜたものを、加熱しながら透明になるまでかき混ぜ流水に入れて冷やし固め黄粉や黒蜜をかけて食べるものと、蕨粉に水と砂糖を混ぜたものを加熱しながら透明になるまで混ぜ出来上がった生地で餡を包み黄粉をまぶしたものなどがある。ただ、蕨粉は今日では製造者が非常に少なくなっており、蕨粉の代わりに甘藷澱粉や、タピオカ澱粉、葛粉を材料にして製造したものがほとんどなのが現状という。

 

餅1 
餅とは、糯米(もちごめ)を蒸して、臼で粘り気が出るまでつき、丸や平らにした食べ物。語源は「餅飯(もちいひ)」を略し「もちひ」とされるが、「もち」の意味は明らかでない。小鳥や昆虫を捕らえるため、竿の先などに塗って用いる粘り気の強い「鳥黐(とりもち)」や、その原材料となる「黐の木(もちのき)」など、粘り気のあるものには「もち」が使われている。そのため、古くから「もち」は、粘り気のあるものを意味していたと考えられる。また、餅は長期保存に適した食べ物であるため「長持ち」の「もち」とする説や、携帯できる飯として使われていたため「持ち歩く」の「もち」とする説があるが、正確な語源は未詳。  
 
餅2 
穀物、特にもち米に水分と熱を加えた後に、外力を加えて練り合わせ、成形した食品の一種。餅つき(もちつき)は、日本独特の「つき餅」(搗き餅)の生成方法である。餅つきは神事としての側面を持つ。厳密にいえば、中華文明圏などでは穀物の粉から作った「菓子に代表される餅」しか存在しないが、日本には「菓子の餅」と「つき餅」という製法も材料も違う2種類の餅が存在する。 
餅 
餅は中国・朝鮮半島地域・東南アジアなどに多くの種類がある。古くは主に小麦を粉にして平たく固めてから加熱した粉食のことを指していたが、大麦、粟、トウモロコシなど他の食材を用いた粉食のことをも含めるようになった。ここでいう餅は、主にもち米を粉にしてから湯を加えて練る方法で作るものを指し、日本の羽二重餅などの求肥餅や白玉や粽、中国の「水磨年糕(シュイモーニエンガオ・shuǐmó niángāo)」、韓国の「トック」などが挙げられる。これらの穀物の粉から作った餅の味付けには、甘味を利かせるものが主体、プラス塩味を加減(時に塩辛いものもある)。酸味は、日本の「すあま」にやや見られるものの例としては稀な部類に入る。 
中華料理由来の月餅や饅頭は、小麦粉から作った「餅」が発達・改良されてきたもので、麺類もその派生であるともいわれている。和菓子の中にも、「そば餅」などと、日本で一般的に饅頭と呼ぶ物を「餅」と呼んでいる例がある。 
つき餅(搗き餅) 
日本ではもち米を用いて作る餅がより一般的である。製法は、まずもち米を磨いでから十分に水に浸しておいた後に、水気を切り、蒸し布で包んで蒸篭等で蒸す。次に、蒸したもち米を杵と臼で米粒の形がなくなるまで搗き、いろいろな形状に成形する。最後に、それらを味付けしたり、餡や黄粉をつけて食べる。 
中国にも、蒸したもち米を固めたものがあるが、製法はもち米を底の浅い器に敷き込み押し固めるというもので、日本とは異なる。「餅」という字を用いず「糯米糕」「糯米糍」などと呼んでいる。 
歴史 
古来から稲作信仰があり、特に平安時代から朝廷に推奨され顕著になった。現在も受け継がれ、正月などの晴れの日の行事には欠かせない縁起物の食材となっている。このため、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことから、多様なつき餅の食文化を形成した。 
材料 
角餅・丸餅には、原材料にもち米をそのまま使ったものと餅米粉を使ったものとがある。食味・歯ごたえを左右する腰の強さ・焼いた際の膨れ具合・煮た場合の溶け具合・伸ばした時の伸び具合や粘り具合等について前者が勝る。廉価なつき餅には餅米粉に馬鈴薯等のでん粉を加えたものがある。 
種類(丸餅・角餅) 
もち米を搗くまではどの地方でも同じ製法をとるが、その後の形成方法は関東と関西で異なる(鏡餅を除く)。関西では、搗き立てをそのまま手で捏ね丸める「丸餅」が主流である。関東では搗いた後の餅をいったん板状に成形し、固まったところで切り分ける「角餅」が主流である。  
 
餅3 
「モチ」は民俗学でいう晴れの日(非日常、とくに神祭など祝いの日)の食べ物で、稲作農耕の食文化の一つとして伝えられた。古い日本では「モチヒ」と言い、モチは糯もちごめ(粘りの強いコメ)や黐もち(ヒエなどをねって粘りをだしたもの)、「ヒ=飯」は穀物を煮たり蒸かしたりした食べ物のことで、その二つの単語を合わせた言葉である。「モチ」という言葉の由来は、モチヒを省略したものや、搗いたモチを満月(望もち月づき)のように形づくった(現在の鏡餅)からともいわれる。漢語の「餅へい」は小麦粉をこねて丸く平たく焼いた食品のことで、日本では独自に「もち米などを蒸して搗いた食品」に限定している。 
餅を神祭や通過儀礼の食品としたのは稲霊信仰によるもので、餅を食べることで神の霊力を体内に迎え、生命力の再生と補強を願ったという。年間で最も重要な神祭のお正月を年玉(年魂)といい、昔は家族やゆかりの人に餅を配る風習が各地にあり、戦後の食糧難時代にも搗きたての餅を近所に配り歩く家庭が少なくなかった。 
鏡もち 
鏡もちの名前は平安時代には「もち鏡」と呼ばれていたが、鎌倉・室町時代になってからは「鏡もち」という今現在みなさんにもなじみの名前になった。古くから鏡は霊力を供えたものとして扱われ、餅は神聖な力がやどる食べ物とされていた。その餅を神の宿る鏡にみたてて形作ったのが鏡もちだといわれている。 
お正月に飾る飾る「鏡餅」は、訪れた年神が宿るとされ、「お供え餅」「お雑煮」の習慣とともに現代に生きている。 
力もち 
江戸時代には人々の間で餅を年中行事などにも作って祝うことが一般化した。諸国の街道筋では食べると力がつくというキャッチフレーズで「力もち」なる名物餅も売り出され始めた。諸国を旅する旅人にとって炭水化物の摂取は切実な問題で、そんな中で生まれた「力もち」という名物餅は正しい選択だったといえる。 
長もち 
その昔熊などの獲物を追うマタギ(猟師)はもちを粉状にしたもの(お湯に溶いて食べる)を持って獲物を追って険しい雪山を駆けめぐった。厳しい環境で炭水化物に富んでいる「もち」は、極限状態の人間にとって非常に頼もしい携帯食だった。餅は日持ちがよく、保存食として優れ、エネルギーも高いので携帯や常備食、非常食としての価値から、このような言葉に変わったのかもしれない。 
 
餅4 
平安時代に京都で、餅屋が専門職として成立した。餅という言葉の由来には諸説がある。腹にもたれるという意味の餅飯(もちいい)、携帯に便利な携飯(けいはん)のほかに、餅は、望月(もちづき)の望であるとの説がある。特に、望月の望の「円」は、円満の象徴であり、我々の祖先は太陽や月を尊敬し、祭りなどのたびに太陽や月になぞらえた餅の形を円にしたのではないかと言われている。 
 
餅5 
中国古代の書物によれば麦や小麦粉を原料にし、薄く焼くもちを「餅」と言い、お米を原料にして蒸したもちを「咨」と言った。日本でも餅の漢字を用いて「もち」と言うが、これは「もちい」の略で、いわば糯米を蒸して臼でついたものの意である。韓国ではもち米で作るものもあるが、基本的に粳米を主原料にした蒸し餅が多い。地方によってお餅の種類や作り方は多様で、蒸した餅は「OO떡:トッ」、種類によって「OOビョン(餅)」、「인절미・インジョルミ/きな粉餅」のような類である。

 

餅の種類 
お餅には、様々な種類がある。日本だけでなく、中国や韓国・東南アジアなどにもたくさんの種類がある。以前は、主に小麦を粉にして平たく固めて加熱した粉食のみのことを指していた。大麦、粟、とうもろこしなど小麦粉以外の食材を用いた粉食も最近では使用されるようになってきた。味は甘いものから塩辛いものまで、様々なものがある。中華料理由来のものに、月餅や饅頭など がある。小麦の「餅」が発達し、改良されてきたもので、麺類もその派生であると考えられている。和菓子の中で「そば餅」という饅頭があるが、一般的に饅頭と呼ぶものを「餅」と呼んでいる。日本で作られる餅の中では、米などの稲系のものから作られるものが多い。作った餅が簡便で、作りやすく加工しやすいためといわれている。餅は日本人には欠かせない食品で、長い間愛され続けてきた食品で、多くの種類がある。
 
もち米を搗いて作るもの 
のしもち(延し餅・伸し餅)、切り餅 / 搗いた餅を1cm内外の厚さに手で延ばし板状にした餅。包丁で好みの大きさに切断して食べる。切り餅と呼ばれるのは延し餅を切ったもの。 
なまこ餅 / 搗いた餅を海に棲むナマコ状の半楕円形に伸ばした餅。包丁等で適当な厚さに切って食べる。焼いたり、油で揚げて食べる。 
海苔なまこ餅 / 餅に青海苔を加えて搗き、なまこ餅にしたもの。 
豆なまこ餅 / 餅に黒豆や大豆を加えて搗き、なまこ餅にしたもの。 
丸餅 / 搗いた餅を丸く成形したもの。大きさや厚みによってそのまま食べたり板状に切断して食べる。 
鏡餅 / お供えとして大小の丸餅を二段に置いたもの。正月の間は食べず鏡開きのときに固くなったものを包丁を用いず、木槌等で砕き割る。適当な大きさになったものは焼いたり煮て食べる。水に漬けてから蒸し、搗き直して食べる場合もある。 
あぶり餅 / 竹串にさして炭火であぶった餅。 
鳥の子餅 / 鳥の子供の姿に似せてずん胴のひょうたん型に成形した餅。子供の一生に擬えて一升餅で作る。餅を二分して食紅(しょくべに)で赤く着色したものを紅白餅として祝う風習があるが、一生を二分するのは不遜として紅白に分けない場合もある。 
磯辺餅(いそべもち) / 切り餅を焼き、熱いうちに醤油を付けて海苔を巻いたもの。
からみ餅 / 大根おろしにからませて食べる。 
きなこ餅(安倍川もち) / 焼いた餅または煮た餅に大豆を臼で引いて粉状にしたきな粉に砂糖を若干加えたものをまぶして(混ぜて)食べる。 
ずんだ餅 / 茹でた枝豆を擂り鉢等を用いて潰したものに搦めて食べる。 
揚げ餅 / 七味味の揚げ餅餅を 1cm 内外のサイコロ状に切断、または前記鏡餅で砕いた破片等を油で揚げた餅。揚げた際に醤油・薬味などをまぶして食べる。 
かんころ餅 / さつまいもを輪切りにし湯がいて天日で干した物ともち米を一緒に蒸して、混ぜてついた黄色の餅(甘古呂餅)。
 
草餅 / ヨモギを混ぜてついた緑色の餅(ヨモギ餅)。 
栃餅 / 栃の実を混ぜてついた茶色の餅。 
菱餅 / 雛祭りの際に雛壇に飾る餅。 
あんころ餅・ぼたもち / 小豆でつつんだ餅。 
あん餅 / 中にあんこが入った餅。  
花びら餅 / 牛蒡を餅でつつんだもの。  
かき餅(かきもち) / 「おかき」。餅を薄く切断したものを天日で乾燥させ、焼いたもの。醤油等を塗る場合もある。 
柏餅 / 塩漬けした柏の葉でくるんだ餡入りの餅。 
あらかね餅 / 餅米の中に普通の米を混ぜてついた餅。
 
もち米を使うが搗かないもの 
桜餅(道明寺) / もち米を蒸してから乾燥し、軽く砕いた道明寺粉で作る餡入りの餅で、塩漬けした桜の葉で包む。 
羽二重餅、走井餅 / 砂糖や水飴を加えて練った柔らかい餅。  
ムーチー(鬼餅) / 水で練ったもち粉を月桃(さんにん)の葉で包んで蒸した沖縄の餅。 
日本の粽 / ササの葉で巻かれた餅(中国の粽はおこわの一種)。  
トック / 韓国の餅の一種。もち米粉を練って、押し出し方式で作る。 
煎餅(せんべい、いりもち) / 練って作った餅を薄く成形して天日で乾燥させ、焼いて醤油等を塗ったもの。
 
うるち米を使うもの 
五平餅(五兵衛餅、御幣餅、吾平餅) / うるち米の餅を板に付け火であぶり、味噌が塗られている餅。 
月見団子 / ピンポン玉程度の大きさの丸餅をピラミッド状の三角錐に積み、月に供えてから食べる。 
串団子 / 一口で食べられる大きさの団子状に成形した丸餅数個を串に刺したものを食べる。生のまま又は焼いたものに醤油・砂糖・片栗粉で作った甘辛いタレを搦めたみたらし団子(御手洗串団子)や小豆・枝豆などのつぶ餡や漉し餡を付けて食べる。醤油を塗って焼いた串団子に海苔を巻いたものを磯辺団子と言う。 
牛蒡餅 / うるち米の餅と黒砂糖などを混ぜて芥子をまぶした餅。
 
でん粉を用いるもの 
葛餅 / クズのでん粉や、代用品としての馬鈴薯でん粉などを用いる。 
蕨餅 / ワラビのでん粉を用いる。 
蘇鉄餅 / ソテツのでん粉を用いる。  
小麦粉を用いるもの 
焼皮桜餅(長命寺) / 小麦粉に寒梅粉(もち米の加工品)を加えて、鉄板で焼いた皮(煎餅の一種)で餡を挟み、塩漬けした桜の葉で包む。 
その他の材料のもの 
木の実などの灰汁(あく)を抜くために数日間から一週間程度水に晒した後、粉状にして蒸して搗いたものなど。栃餅(とちもち)・藁餅など。  

 

安倍川もち1 
安倍川餅は、静岡県名物の和菓子の1つで、柔らかい餅にきなこや餡子などを塗した物。最近は、抹茶をまぶしたものなどもある。名前の由来は、江戸の初期には、日本で有名な武将徳川家康が安倍川近くにある茶店に立ち寄った。店主が、安倍川上流で取れる砂金に例えて、きな粉をつきたての餅にまぶしこれを「金な粉餅」と称してだした。「金な粉餅」に家康は、大喜びして安部川にちなみ安部川餅と名付けたそうだ。 
 
安倍川もち2 / 徳川家康命名の「安倍川餅」 
徳川家康が天下の権を手中にしたのち、駿府城に在って、幕府三百年の偉業の基礎を築いた時代に、家康は、井川(静岡市)の笹山金山や梅ヶ島(静岡市)の日影沢金山などを御用金山として、海野彌兵衛(うんのやへい)を奉行として盛んに金鑛の採掘を行った。なにしろ、場所が安倍川源流の山奥だから、何千人という坑夫を送り込んで働かせるのには、慰安の施設も必要で、傾城小屋(けいせいごや)を建て、駿府二丁町(現静岡市駒形五丁目界隈)の遊女を出稼ぎさせるという騒ぎまでして、四斗樽へ三百杯という大量の金を掘り出した。 
ある時、家康がこの金山を検分に出向いた際、ある男が餅をつ搗き、豆の粉をまぶし献上したのを食べたところ、大変美味かったので、献上した男を呼び寄せて、この餅の製法を尋ねた。「この餅は、金山から産出し安倍川へ流れ下る金の粉をすく掬いあげて、餅にまぶしてつくるので金粉餅(きんこもち)と申します」と答えた。家康はこの男の奇智を誉め、褒美を与え、この餅を「安倍川餅」と命名したという。 
この「金粉餅」は、今川・武田の戦国の頃(約四百二十年前)から、梅ヶ島金山で「今年も金が多く産しますように」と神前に供えられて、豊富な産金を祈ったものだとも伝えられている。
 
「五郎右衛門餅」が「安倍川餅」の元祖 
天正十年(1582)に駿府(静岡市)に生まれ、仕官してさまざまな勲功をたて、役を辞したのち、便船に乗って唐(から)・天竺(てんじく)・阿蘭陀(おらんだ)をはじめ諸州を巡り歩いた渡邊幸庵という人物がいた。幸庵は異境にあること四十余年、99歳の時に帰国し、町々をさまよい歩くこと十年、のち武江大塚に閑居して正徳元年(1711)130歳で没したと伝えられるが、幸庵が種々の記録を物語ったものを筆記した「渡邊幸庵対話記」には、安倍川向こうの丸子に伝わる「五郎右衛門餅」の話が乗っている。 
五郎右衛門餅は、東新田(静岡市)という所の米で作った、なかなか風味のよい餅でした。のちに光友卿の内室となった尾張公の姫君は、この餅が大好評で、飛脚を使って江戸へ取り寄せて召し上がったほどで、用人もその手数や費用などで困り、五郎右衛門をはじめ臼取衆を江戸へ呼び寄せて、江戸の者に製法を見習わせたならば同じ風味の餅ができるであろうと、五郎右衛門の指図通りの道具万端を調え、米も東新田のものを使って搗かせ、姫君に差し上げたところ、いつもの餅とは味が違うとご機嫌斜めでした。 
恐る恐る事の次第を申し上げると、先日到来の残りはないかとのことで、残り分を差し上げたところ、やはりこれでなければと快く食べられました。名物は、やはりその土地のものに限るものだと、五郎右衛門一行は丸子へ帰り、その後は姫君の生涯を通じて毎日のように餅を江戸へ運んだという由緒ある。 
公家衆なども東海道を下る際には必ず五郎右衛門方へ立ち寄って餅を食べ、「鄙にも稀な」(田舎には珍しい)美味しい餅だと誉め称えたという。この丸子の「五郎右衛門餅」というのは、恐らく「安倍川餅」のことと考えられる。
  
八代将軍徳川吉宗 
江戸時代、根岸鎮衛という旗本が、天明から文化(1781-1811頃)にかけて三十余年間に書き継いだ随筆集に「耳嚢(みみぶくろ)」という書籍があり、その巻の三に「阿部川餅の事」の一項目がある。 
駿州府中阿部川の端に阿部川餅とて名物の餅あり。都鄙の知れる事ながら変わりたる餅にもあらず。有徳院様には度々御往来も遊ばし御上がりにも成て委細(いさゐ)御存知故「阿部川餅やうの餅は通と途になし」との上意なりしに(後略) 
有徳院様とは紀州公時代の八代将軍徳川吉宗公であり、東海道を江戸への往還の折、神君・徳川家康公が「阿部川餅」の名付親であることをご承知で阿部川餅は街道一の餅だと賞味されたと記されている。この項では御賄頭(まかないかしら)・古郡孫太夫、駿河代官・文右衛門は餅米十表で餅を搗き献上したところ、殊のほかご賞味され、年々献上したところ、段々昇進して、古郡孫太夫は西丸御留守居役にまでなったともある。
 
さまざまな話題 
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に 「爰はなにあうあべ餅の名物にて、両側の茶店はいづれも綺麗に花やかなり・・・」 と書かれ、彌次郎兵衛・喜多八のご両人は、前の晩に、二丁町遊郭で、祝儀の返しに重箱に入れた安倍川餅を貰って食べている。 
「安倍川で馬は黄粉をあびてゆき」 などと古い川柳にもあるように、本来は黄粉だけのものだったが、のちには餡のものも作るようになった。安倍川餅が特に評判が良くなったのは、徳川時代に珍重した白砂糖を使ったことで、伊勢参りの男が、値段を聞いてびくりしたのに、 「のろまめ、砂糖の高いのを知らねえか、白砂糖をつかう餅が、道中のどこにある」と、江戸っ子が罵った言葉が「役者見立五十三次」という評判記にある。天明の頃(1780年代)創製された駿河の砂糖の品質がよかったことから、安倍川餅が白砂糖を使って一層名物の価値を高めたことは大変興味深い。安倍川畔で売られた餅は、一つの木盆に黄粉と餡の二種類を並べて盛った上へ砂糖をかけたものだった。 
昔は、同じ安倍川名産であった安倍川紙子に因んで「かみこ餅」とも呼ばれ、五個で五文の「五文採(ごもんどり)餅」だったが、あとでは一個五文で売られた。搗きたての純白な餅に砂糖と黄粉をふりかけて、その形も櫃形で相当大きなもののようだ。  
明治維新の際、酒豪(一説に下戸ではないが酒好きではなかったという)の西郷隆盛が、東征の有栖川(ありすがわ)大総督宮を安倍川まで出迎えのため、茶店に休憩しながら安倍川餅を食べていた姿を見かけた古老が、当時の思い出話として語り伝えている。 
昔、駿府の人たちが西へ旅立つ時には、親戚知人が彌勒まで見送り、亀屋とか葉婦屋などという茶店で別れの酒宴を催し、また、出迎えもしたもので、上戸党には、餅をわさび醤油で食べる楽しみもあった。安倍川餅は、昔から文人墨客の紀行に書かれ、近世になってからは、諸画伯のスケッチとなって広く天下に紹介され、また、文壇の耆宿、泉鏡花の「雛祭」という幻妙な随筆にも描かれている。 
春の水汲みて練るらん杵の音   梧泉  
 
あべかわ餅3 
煎った大豆の粉であるきな粉をまぶしたモチのことを、きな粉餅やあべかわ、安倍川餅とも呼ぶ。あべかわ、元々は静岡県にある安倍川が、名の由来だ。その昔、安倍川の上流には金山があり、金の採掘で栄えていた。川のほとりの茶店では、つきたての餅にきな粉をまぶしたものを供していた。ある日、安倍川を訪れた徳川家康に、この餅を献上した際、餅の名を聞かれたところ、とっさに「安倍川の砂金をまぶした金粉餅です」と紹介した。家康はその味と機転に感心し、改めて「安倍川餅」と命名されたという説がある。安倍川餅は、きな粉だけをからめたものから、きな粉に黒蜜や砂糖を用いた甘いものへと変化し、東海道を通る人々に親しまれ、様々な随筆、紀行文に登場する。そういったことから、東海道中の名物としてだけではなく、きな粉を使った餅として、安倍川の名が全国的に広まった。  
 

 

 
あんころ餅 
餅を小豆でできた餡で包んだもの。餡が餅の衣になっていることから「餡衣餅(あんころももち)」と呼ばれ、それが「あんころ餅」になったという。おはぎ、牡丹餅と同一視されるが、中身が完全な餅である。関西や北陸地方(特に京都・金沢)を中心に夏の土用の入りの日にあんころ餅を食べる風習があり、「土用餅(どようもち)」と呼ばれる。発祥は定かではないが、ウナギを食べるのと同様に、土用餅を食べて精を付けて夏の暑さを乗り切るためとされている。江戸時代に、疲れた旅人が食べやすい様に一口サイズになったともいわれている。 
 
一升餅・一生餅(いっしょうもち)誕生祝い餅(たんじょういわいもち) 満1歳の誕生日を祝う伝統行事で、人間の一生と餅の一升とをなぞらえ、一生(一升)食べるのに困らないよう、一生(一升)健康に育つように、一生(一升)丸く(円満に)などといった願いをこめ、これからも健やかに育つことを祈るとともに、1歳まで無事に成長したことを祝い、これからも健やかに成長することを祈る。日本の昔からの風習に、欧米のように毎年の誕生日を 祝う風習はなかった。しかし、一年目の初誕生日だけは、その家庭の祝い事として古くから一生餅の行事が行われていたようだ。地方によって、誕生祝い餅、踏み餅・立ち餅・転ばせ餅・転ばし餅・背負餅(しょいもち)しょわせ餅・力餅・タッタラ餅など様々ある。 
お祝いの仕方 
一升餅を背負えるかどうかで、その子の将来を占うといった意味合いが込められているようだ。一升の丸餅を子供の背中に背負わせる。普通、風呂敷でお餅を包み、肩から脇に掛けてたすきがけで背負う。 
また、必ずしも背負わせるとは限らないようで、「丈夫な足になる様に」「一生食べ物に困らない様に」という願いを込め、お餅の上に立たせる地方もあり、祝い方は各地様々である。地域によっては重ねたお餅を踏ませたり、小さなわらじを履かせて歩かせたり、筆(芸術家)・そろばん(商人)・お金(富豪)を並べて餅を背負ったまま子供がどこに歩いていくかで将来を占ったりもする。 
背負って歩けるということを喜ぶ地方と、転ぶことを喜ぶ地方とがある。 
誕生日前から、早く歩き出した子供は、将来早く家を離れたり、親元から遠く離れて暮らすようになると言って嫌い(男の子が将来養子などに出ないで、その家の姓を受け継いでもらう為に)餅を背負わせて、わざと突き倒したりする地域もある(「転ばせ餅」「転ばし餅」の由来)。 
 
鶯餅 
あんを求肥で包み、丸く包んだものを楕円形にし、左右に引っ張りうぐいすの形にした和菓子。鴬に見立て、青きな粉をまぶしたり、よもぎを混ぜた生地で包んだりふりかけて作る。春の訪れを感じる餅。 
 
梅が枝餅1/大宰府 
由来は菅原道真が太宰府に左還されていた時、寂しそうな彼を見た安楽時の門前で餅を売っていたお婆さんが元気づける為に、餅に梅の枝を添えてあげたのが始まりだと言われている。菅原道真は、現在、学問の神として親しまれている人で、平安時代の学者で、他にも漢詩人、政治家など色々な顔を持ち、33歳のときに文章博士に任じられ、右大臣にまでに昇った偉人。しかし、藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷された。その後大宰府で没され、菅原道真の好物だったこの餅を梅の枝にさして霊柩に備え送ったそうである。その故事に習い、魔を防ぐに特効があるという事で有名になった。 餅の表面は焼き立てでカリッとして香ばしく淡白な味で、餡子は熱々でやわらかさと濃厚な甘みがあって絶妙だ。 
梅ヶ枝餅2 
梅ヶ枝餅には梅は入っていない。名前の由来は平安時代に大宰府へ左遷された道真公にまつわる伝説である。菅公が榎寺に謫居した際、安楽時の門前で老婆が餅を売っていた。道真公の境遇に同情して時折この店に迎え、また餅を持参しては道真公の無聊を慰めた。道真公が薨去された時、道真公の好物であったこの餅を梅の枝にさして霊柩に供えて送った。この故事にならい梅ヶ枝餅と称し、道真公の霊が通じたか梅ヶ枝餅を食うと病魔を防ぐのに特効があるといい著名となった。 
 

 

 
鬼餅1/沖縄 
この餅は、月桃(げっとう、沖縄ではサンニンと呼ぶ)の葉でくるんで蒸したもの。サンニンには驚くほどの生命力があることから、子どもの成長を願って、餅を包む葉として使われる。 
首里の金城(かねぐすく)に兄と妹が住んでいた。両親が亡くなって妹は嫁に行き、しばらくして兄は「(一人になったから)山で暮らそうねえ」と言って、一人で山に入ったらしいよ。初めは、山羊・ニワトリを捕まえては食べていたが、だんだん味に飽きてきて、人の子どもを煮たり焼いたりして食べ始めた。人間の味はちょうど塩加減がよく、一度食べたらもう止められなくなった。近所の村を荒して、幼い子を連れて行くので、親たちは自分の子どもが狙われたら大変だ、と彼を追い払った。とうとうたどり着いたのが大里村の西原という所だった。ここで人が住めるほどの立派なガマ(洞穴)を見つけて、やっぱり同じことを繰り返した。もう子どもでは間に合わなくなって、若いねーねーを誘拐して、食べるようになった。ある日、妹は村人にこう言われた。 
「あんたの兄さんは、鬼になったさあ。人を喰っているらしいよ」。彼女は、えっと思ったが、この世でたった一人のきょうだいである。自分の目で確かめるまでは信じたくないと、急いで、西原のガマへ出かけた。兄は留守であったが、大鍋がぐつぐつ煮えていた。何の気なしに蓋を取ってみると入墨をした女の人の指が出てきた。ああ、やっぱり兄さんは、本当にね、人を殺して食べていたんだ。鬼になっていたんだ。頭がくらくらした。倒れ込むほどショックを受けた。帰ろうとした時に、兄が戻ってきて「美味しいものを炊いているから、食べていかないか?」と言った。だけど、見てしまったさね。「兄さん、餅(ムーチー)が好きだったよね、今度、作って持って来るから一緒に食べようねえ」とごまかして、逃げて帰った。 
たった一人の血を分けた兄が鬼になっている、自分の兄弟でなかったら、どんなによかったか。どうして、どうして、人を喰う鬼なんかに。妹は自宅に戻ると、次々に餅をこしらえた。頭は真っ白になったままだが、思いは一つ。これ以上、どうして人に迷惑を掛けられようか。涙をこぼしながら、鬼を退治しよう、肉親の自分に出来ることはそれだけだ、と決心した。モーアーサーをこねて混ぜ込んだ。どっさり餅の中に混ぜて餅を作って、兄を訪ねた。「兄さん、今日は天気がいいさね。海でも見ながら食べようよ」と、下心を隠して誘った。兄は疑うこともなく、妹についてきた。今の大里公園からは、与那原の海がまぶしいほどの陽光を浴びて広がっている。妹は崖まで兄を連れてゆき、崖っぷちに座らせた。 
兄は大好きな餅、美味しい餅だから、ハウハウ食べるわけ。食べて食べてもう気が変になるほど(鬼になっているから、初めから変になっているか)腹に入れた。腹は、だんだん膨れてきた。それでも食べるものだから、腹はパンパンに膨れて、ついにパーンと破裂した。苦しさに悶えながら、崖から落ちて死ぬわけさ。それからは、彼は幽霊になって出て来るようになった。ムーチー(餅)の匂いがすると、食べたくてたまらなくなって現れる。餅を作っていると 「アノ鬼がやってくるよお、何とか家に入らないようにしよう」と、みんなは鬼の足を焼くことを考えた。鬼の足を作って家の四隅に置き、ムーチーのゆで汁をこの足にかける。ゆで汁をかけながらまじないを唱える。「鬼のひさ(足)焼き焼き、鬼のひさ焼き焼き、鬼のひさ焼き焼き、鬼のひさ焼き焼き」こうすると鬼は退散する、と信じられている。まじないをやらないと鬼は餅に触れ、次の一瞬にはすっかり腐って、食べられなくなるとされた。
 
鬼餅2(ウニムーチー) 
昔、首里金城に妹と兄がいました。兄はひょんなことから大里村に移り住みました。その兄が、夜な夜な村を襲いにわとりや山羊、牛を盗み、時には人間までも食べる「大里鬼」になって、洞窟に住みついているという噂が広まりました。妹は実否を確かめようと思い、大里の洞窟に行きました。 
「兄さん、妹です。」と、妹は洞窟の前で大きな声で叫びました。どうやら、兄である鬼は外に出ていて留守のようです。そこで、妹は洞窟の中に入っていきました。すると、思わず鼻をつく悪臭がプンプンしました。洞窟の中には、牛や山羊の骨が散乱しており、噂通り兄が鬼となって村の牛や山羊を襲い、食べていると悟り、怖くなって帰ろうと外へ出た所に鬼となった兄が帰ってきました。見ると、兄は筋肉隆々で、口は裂け牙がむき出し目は爛々と輝き、赤黒い毛に覆われた鬼の姿になっていました。 
妹は反射的に逃げようとしましたが、「妹か、何故逃げるのだ。一緒に肉でも食べよう」と鬼となった兄に襟元を捕まえられ、洞窟の中のほうへ引っ張られました。妹はとっさに、「兄さん、それではちょっと待って下さい外で用をたしてきますから」と言いましたが、鬼は逃げられるのを警戒して「ここでやれ」と言いました。しかし、妹はいくら兄妹でも兄の前ではできないというので納得し、鬼はその代わりに妹の手首に縄紐(なわひも)を結びつけました。妹はすぐ外に出て、用をたすふりをして縄紐をほどき、その縄紐を木に縛り、一生懸命逃げました。 
洞窟の中にいた鬼は、「遅いな。何しているのかなあ。」と外にでました。縄紐が解き、妹が逃げていることがわかると、「おい、こらー、待て!」と叫びながら妹の後を追いかけましたが妹はすでに逃げていませんでした。 
数日して鬼は、今日は恨みをはらし食べてやろうと、首里金城の妹の家へやってきました。一方、妹の方は、鬼を退治しようと考えて、自分の餅はあたりまえの餅をつくり、鬼の兄に食べさせる餅は、餅の中に鉄を入れ、どんな鬼でも食べられないように作った鉄餅を準備して待っていました。「兄さんこの間はすみません。今日はお詫びにおいしい餅をたくさん召し上がって下さい。いっしょに外の景色を見ながら食べましょう。」と、妹は言葉巧みに誘い出し、崖の近くまでおびき寄せました。妹は、「さあ、どうぞ召し上がって下さい。」と鉄餅を鬼になった兄に差し出しました。 
そして、妹はとてもおいしそうに自分の餅を食べてみせました。ところが、鉄餅を口に入れた鬼の兄はそれが噛み切れないで困っていました。鬼の兄でも食べ切れない餅を妹がおいしそうに食べているのを見て、鬼は妹の口の頑丈さにびっくりしていたところ、餅を食べあぐみながら妹のホー(陰部)を見つけた鬼はいぶかって、「お前の下の口は一体なんだ?」と尋ねました。すると、妹は機転をきかして、「上の口は餅を食べる口。下の口は鬼をかみ殺す口です。」と言ったかと思うと、妹は着物をまくりあげて、下をあからさまにして鬼である兄に迫りました。びっくりした鬼はふいをつかれた思いで飛び上がるや、足を踏み外して崖下に転落してしまい、死んでしまいました。 
首里金城町の御嶽(ウタキ・拝所)に死んだ鬼の角を葬っており、そこはホーハイウタキと呼ばれて鬼餅伝説の拝所と知られている。この鬼を退治したのが旧暦の12月8日なので、沖縄ではその日を厄払いの日として鬼餅(ウニムーチー)を作って食べるようになったという。また、その年子供の生まれた家庭では、生まれた子供の健康を願って普通の餅より大きい「力餅(チカラムーチー)」を作って食べる風習もある。 
 

 

 
「おはぎ」と「ぼたもち」1 
「ぼたもち」は春に「牡丹餅」、秋に「御萩」と呼ばれる。小豆餡をまぶしたものをぼたもち、黄粉を用いたものをおはぎ。こし餡を使ったものをぼたもち、粒餡や煮た小豆そのままを使ったものをおはぎ(逆の場合もあり)。餡ではなく中の米の状態によって区別し、完全に餅の状態までついたもの(皆殺し)をぼたもち、ついた米の粒が残っているもの(半殺し)をおはぎ。季節によって呼び分け、春夏はぼたもち、秋冬はおはぎ。 
女房言葉でぼたもちを「おはぎ」(他には「おべたべた」)と呼んだとする説明もある。 
「ぼたもち」は春に「牡丹餅」、秋に「御萩」と呼ばれる。 
「おはぎ」と「ぼたもち」2 
「お萩」と「牡丹餅」は基本的に同じもので、違うのは食べる時期だけ。ぼたもちは、牡丹の季節、春のお彼岸に食べるもので、あずきの粒をその季節に咲く牡丹に見立てたものだ。おはぎは、萩の季節、秋のお彼岸に食べるもので、あずきの粒をその季節に咲く萩にに見立てたものである。何故牡丹の方にだけ餅が付いたか、由来は「倭漢三才図会」に「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」とあり、牡丹餅がぼたもちになり、萩を丁寧に言っておはぎになったというのが、最も一般的な説。 
歴史 
お彼岸におはぎをいただくようになったか、江戸時代にさかのぼる。この時代、お彼岸や四十九日の忌明けに食べる風習が定着したようだ。  
あずきの赤色には、災難が身に降りかからないようにするおまじないの効果があると信じられ、古くから邪気を払う食べ物としての信仰が、先祖の供養と結びついたと言われている。  
仏教では、彼岸は、彼の岸として悟りの境地を言い、苦しみに満ちている此岸と対になる言葉として使われている。そこで彼岸中は仏道修行に励む訳で、祖霊崇拝の慣習を合わさり、ぼたもちやおはぎを捧げ、先祖を慰め、自分自身の功徳を積んでいた。「暑さも寒さも彼岸まで」と言われるよう、春の彼岸は農作業が始まる時期で、秋の彼岸は収穫の時期にあたる。春には収穫をもたらす山の神などを迎えるためぼたもちを、秋には収穫を感謝しておはぎを作ったとも言われている。
 
御福餅 
御福餅は、伊勢市二見町の御福餅本家が販売製造。名の由来は、二見興玉の神社の敷地内、天の岩屋の外に祀られている神アマノウズメノミコトの通称「御福さん」にある。御福餅の形は、二見浦の清き渚が打ち寄せる波を表している。赤福餅と御福餅の違いは「五十鈴川の清流」を表現し、おかめの顔が箱に描かれている。

 

 
鏡餅1 
鏡餅とは、丸く平らに作った餅。正月や祝い事のとき、神仏に供える。お供え。おかがみ。鏡餅は、丸く平らで鏡の形に似ていることからこの名がついた。鏡は古くは円形で祭具として用いられ、特別な霊力を持つものと考えられていた。現在でも神社の御神体として、円形の鏡が祭られている。室町時代、武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、鎧や兜を意味する「具足(ぐそく)」の餅で「具足餅(ぐそくもち)」と呼ばれた。具足の前に鏡餅を供えたのは男子で、女子は鏡台の前に供えていた。新年を迎える際に鏡餅を飾る風習は、紀元前の垂仁天皇の時代、大物主神の娘である大田田根子に、大国主命が「元日、荒魂の大神に紅白の餅を祭れば幸福が訪れる」と教えたことに由来する(垂仁天皇の時代の話は全般に忠実性に欠け、鏡餅の風習について断定できない)。 
鏡餅2 
鏡餅は、正月などに神仏に供える円くて平たい餅のこと。大小2つの餅を重ねて供える。地域によっては餅を三枚重ねたり、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたもの(石川県)、餅の替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸め、とぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々。名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられた。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。 
鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降のこと。武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えた。鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれた。今日では、三方に半紙を敷き、その上に裏白(羊歯の一種)を載せ、大小2つの餅を重ね、その上に串柿・干しするめ・橙・昆布などを飾る。 
鏡餅3 
鏡餅とは神様と人を仲介するもので、1年間の幸せを願う「晴れの日」に神前に捧げた餅をみんなで分け合って食べることで、神様からの福を受ける信仰の名残りである。つまり、鏡餅は神様にお供えしてからいただく尊い餅である(「お供え」が鏡餅の別名となった)。 なぜ重ねた餅を鏡餅と呼ぶようになったか、 ひとつには丸い餅の形が昔の銅鏡に似ていることからという(古来から鏡は神様が宿るところとされていた)。また、鏡餅の「鏡」は「鑑みる(かんがみる)」、つまり良い手本や規範に照らして考えるという意味の言葉にあやかり、「かんがみもち」とよぶ音がしだいに変化して鏡餅になったとも言われている。 鏡餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿には1年をめでたく重ねるという意味もある。 鏡餅の起源に明確な記録はないが、元禄年間の書に丸餅と角餅を重ねた絵が残されており、この頃かといわれる。 

 

 
 
かしわ餅1  
柏餅は、平たく丸めた上新粉の餅を二つ折りにして、間に餡を挟みカシワ又はサルトリイバラの葉などで包む和菓子。中の餡の種類は、みそ餡・漉し餡・粒餡などあり、5月5日の端午の節句の供物としても用いられる。他にもカシワの葉には、新芽が育つまで古い葉が落ちないことから、家系が途切れない、子孫繁栄といった縁起をかついだものの意味ともされている。 四国地方など関西圏以南では、カシワの葉があまり手に入らないので、サルトリイバラ(サンキライ)の葉など他の葉を使用する事もあり、地方により名前が異なる場合もある。  
かしわ餅2 
かしわの葉の上に、上新粉(じょうしんこ)と片栗粉を混ぜてつくった餅に餡(あん)をはさみ、編み笠(あみがさ)のように二ツ折にしたものを包んで、5月5日の端午の節句につくる。かしわの葉を用いたのは、新芽が出ないと古い葉が落ちないので、家系が絶えないとされたからである。 
かしわ餅3 
蒸した上新粉の餅を丸扁平にして、中にあんを入れ二つ折りにして柏の葉で包んだもの。端午の節句に供物。柏の木の古い葉は新芽が育つまで枯れないので、子孫繁栄の縁起の良い葉とされ、柏餅を包む手つきが神前でかしわ手を打つ姿に似て、武運を祈願する端午の節句にふさわしいという意味がある。関東は本柏の葉、関西はサンキライの葉で包む。 
 
川渡るもち 
古くから12月1日を「をとごのついたち」といって、朝、餅をついて食べる習慣があり、これを食べると水難を免れることができるとされていた。この縁起にちなみ謙信公が犀川を渡って出陣の際、餅をつき士卒に食べさせて元気をつけ合戦に大勝したと伝えられる。この故事にちなみこの地方では12月1日に川渡もちを食べ無病息災を願う風習とされている。  
 
かんころ餅 
かんころ餅は、長崎では有名なお菓子で、五島列島を代表する名産品。長崎地方で多く生産されている良質のさつまいもを輪切りにスライスして、湯がき、天日に干した物を「甘古呂」と言う。すべて手作業で作られた甘古呂と餅を一緒にして、突合わせたのが「甘古呂餅」。「甘古呂餅」は、昔食料が不足していた時代から、語り継がれている。その時代に高価だった餅米とさつまいもを混ぜ合わせて、量を増やすという庶民の考えからだと言われている。 
 
草餅 
よもぎの葉をつき混ぜた餅であんを包んだもの。 
 
くじら餅1 
「くじら餅」と名前だけを聞くと、動物の「くじら」を由来として作られた餅かなと想像してしまいますが、一説には、この餅の形がクジラの肉にそっくりといった説もある。「くじら餅」を漢字では「久持良餅」となり意味は保存に適している事から付けられたようだ。江戸の時代には、朝鮮の通信使の人達の接待などに使用されていたと考えられている。最上地方ではひな祭りなどで、各家庭で作られ、おひな様に供える風習がある。 一般的な「くじら餅」は、もち米やうるち米を始め、砂糖・クルミなどを使い、練って蒸したもの。 
くじら餅2 
山形県最上地域でひな祭りの時期に各家庭で作られ、おひな様に供える風習がある。もち米やうるち米、砂糖、くるみなどを使い、練って蒸して作る。「くじら」の由来は、餅の形がくじらの肉にそっくりといった説もある。漢字で「久持良餅」となり、保存に適しているという意味だ。誕生時期は不明だ、江戸時代、朝鮮の通信史の人たちの接待などに使用されていたと言われている。 
 
くるみ餅1 
仙台などで「くるみ餅」といったら、くるみ餡を使った餅の事を表す。大阪などの「くるみ餅」はくるみを使用するわけではなく、「餅を餡でくるむ」といった語源からつけられている。またくるまれている餡は枝豆が主流と言われているので、大阪の「くるみ餅」は、ずんだ餅に似ている。 
くるみ餅2/かん袋の和泉屋 
かん袋は、鎌倉時代末期、元徳元年(1329)和泉屋徳兵衛が和泉屋という商号で御餅司の店を開いたのが始まり。安土桃山時代に、豊臣秀吉が大阪城を築城し、その際に堺の商人へ多額の寄付を要求した。文禄二年(1593)春中頃、桃山御殿が完成したのを機会に、秀吉は寄付金の礼として堺の商人納屋衆を招いた。その時、天守閣は瓦を葺く工事中だった。暑い日盛りの下で、蟻がえさを運ぶように職人が一枚一枚瓦を運び上げていた。この様子を見た和泉屋徳左衛門は、容易に片付かないと思い、毎日奉仕に出た。餅作りで鍛えた腕力を使い、瓦を取っては次から次へと屋根の上に放り上げた。瓦は春風に煽られて、紙袋がひらひらと舞い散るように屋根に上がった。居合わせた人々は、度肝を抜かれた。これを見た秀吉が「かん袋が散る様に似ている」と、その腕の強さを称えた。秀吉は「以後かん袋と名づけよ」と命じ、それより「かん袋」が和泉屋の商号になった。 室町時代の中頃(1420)堺の町は明との勘合貿易の貿易港として栄えていた。明国より入荷した農作物を利用し、五代目の和泉屋忠兵衛は塩味で挽き合わし、茶菓子を作り出した。お餅をくるんで食べるところから「くるみ餅」と名づけた。その後、ルソンから砂糖が輸入され、甘味が加えられ現在のくるみ餅となった。 
 

 

 
小袖もち1/宇土市 
むかし、むかし、宇土のお城のお殿様に、名和伯耆左衛門尉という殿様がいた。ある日のこと、城下の町人たちの様子を、直に見たいと思い、みんなにわからないように、一人で城を抜け出し、あちこちを見てまわったそうな。そのうち腹が減ってきたお殿様は、町外れの茶屋に入っていった。広い台に腰をかけ、娘の出した茶を飲んでいると、ふと、箱に並べてある、かわいらしい餅に気がついた。 
「おい、娘。その餅を持ってまいれ。」と言うと、持ってきた餅を、一口食べてみた。丸くて、小さい餅で、中には黒いあんが入っている。聞くと、その餅は茶屋の娘、お静のお母さんが毎朝作っているということだった。「うん、こりゃあうまか(おいしい)。」とお殿様は誉め、なんと三皿も平らげてしまった。そして、「うまかった。」と言っただけで、お金も払わずに、さっさと出ていこうとした。 
いつもは、家来といっしょなので、代金は家来が払う。お殿様は、うっかり、いつもの癖で店を出てしまったのだ。しかし、お殿様の顔を知らない娘は、驚き、急いで殿様の袖を捕まえて、「お客さん、お餅代ば頂戴いたしとうございます。」と言った。すると、お殿様も、ハッと思い、ふところを探ってみた。でも、みんなにわからないように城を出てきたものだから、お金までは気がつかなかった。おとなしく、やさしい娘だから強くは言われないが、お殿様は、たいへん困ってしまった。困り果 てたお殿様は、着ていた羽織の小袖を、ビリッとちぎり、「これを持って城内に来い。そしたら餅代をとらす。」と言って、帰ってしまった。 
娘のお静は、店を片付けた後、「あん(あの)時は、うっかりして、あのお侍さんの名前ば聞きそこのうたばってん(聞き損ねたけど)、お城のお侍さんは、たくさんおらすけん、どぎゃんしたら(いるから、どうしたら)よかろうか。」と思い悩み、町の世話役に相談をもちかけた。世話役が、お侍さんがくださった小袖をよく調べてみると、小袖に付いている紋は、お城のお殿様の紋に違いないということがわかった。 
「さあ、おおごつばい(大変だ)。お殿様にご無礼ばしたっだけん(したんだから)、このままじゃ済まんばい。」 
「お静さんだけじゃなか。かかさん(お母さん)の命も危なか。」 
「名主どんてちゃ(でも)、どぎゃん(どんなに)なるかもわからん。」 
「えらいこつ(たいへんなこと)になったばい。」と、世話役も、名主も大心配し、町中の大騒ぎになってしまった。 
「知らずにしたっじゃあるばってん(したんだけど)、お殿様にご無礼してしもうた罰は、免れるこつはでけん(免れることはできない)。私は覚悟するばってん、なんも知らんお母さんに、罪のかかったらどぎゃん(どう)しよう。」 
いろいろ考え悩んだあげく、娘は決心し、お城にあがり、あの小袖を見せてお殿様に、お目通 りを願い出た。家来が小袖を持って、お殿様に娘の話をすると、覚えのあるお殿様は、すぐ、「おお、あの娘が来たか。」と言い、お目通りが叶うことになった。そして、通された娘は、「お殿様とは知らなかったものですから、たいへんご無礼申し上げました。わたしはどぎゃん(どんな)罰を受けてもいたしかたございません。覚悟はできております。ばってん(でも)、お母さんの命だけはお助けくださいませ。」と、涙ながらにたのんだ。お殿様は、一生懸命たのむ娘の話を、よく聞き、その母を思う心にたいへん感心した。「あの餅は、うつくしゅうて(美しくて)、本当にうまかった。また食べに参るぞ。今度は、お前の美しい心がしみ込んで、またまた良い味になることであろう。」と、たいそう誉めたたえ、小袖に添えて、たくさんのお金をさずけた。 
どうなることかと、町中の人が眠れずに心配していたところへ、娘が無事帰ってきたばかりか、小袖と、ご褒美のお金までいただいてきたものだから、またひと騒動になった。 
それからは、だれ言うともなく、その餅の事を「小袖餅」と言うようになったそうな。 
小袖餅2/肥後・宇土市 
永正十四年の或日宇土城主名和伯耆左衛門尉は民情を見んものと独り忍びで城下を歩かれ、とある町端れの茶店に這入り心ゆくばかり餅を味われました。城主のお顔を知らない茶店の娘静江はさっさっと出て行かれる城主に「お餅代を戴きます」と申しました。城主はお金が無いのに気付、ほとほと困られ遂に小袖を切って「是を持って城内に来い。さすれば餅代をとらす」と言って立ち去られました。小袖の紋で城主であることを知った娘静江は自分の無礼の罰が母に及ぶ事を恐れ、其夜城内に忍び込み母を救けて私独り成敗して下さいと嘆願いたしました。城主は静江の孝心に感激せられ、小袖と沢山のお金を下し置れました。それから静江の孝心と餅の美味を賞へて誰言ふとなく「小袖餅」と名付けられ次の様な俗謡さえ流行しました。餅は餅でも小袖の餅は、可愛い静江の味がする。
 
御城之口餅/豊臣秀吉が名付けた餅 
その昔 天正の頃より大和紀伊和泉三ヶ国の大守郡山百万石の城主大和大納言秀長公或る時兄なる関白秀吉公を城中に招き豪華なる茶会を催さる節御用菓子を司る弊店祖菊屋治兵衛を召され何か珍菓をとの仰せを畏み感激して辛苦考案の餅菓子を造りて献上せし処関白殊の外なる満悦にて以来鴬餅と名付けよとのことに治兵衛一代の面目とこれより名物鴬餅として売出すこととなりぬ 爾来四百年の星霜を閲するに店舗の構へ郡山城大手門城の入口なるがため いつとはなく歳月を経るままに人々呼んで城之口餅とはなりぬ 
 
五平餅 
五平餅は、木曽・伊那地方を始め岐阜・東海・三河・南信濃などに昔から伝わる郷土食で、潰したご飯を串焼きにした餅。名の由来は、神に捧げる「御幣」の形をし、この名がついたとするのが一般的。他にも五平、あるいは五兵衛という人がご飯を潰して味噌をつけて焼いて食したのが始まりとされている由来もある。どちらの由来も、江戸時代中期に木曽・伊那地方の山に暮らしていた人々によって作られていたものが起源である。五平餅は、米が貴重と言われていた時代に、特別な食べ物として祭りや祝いの場で捧げられて食べられていた。
 
子安餅(こやすもち)/宇美八幡宮 
西暦201年神功皇后は、応神天皇をご出産した。それ以来その地を宇美と称するようになった。この故事より、572-582年の間に敏達天皇御宇創立と宇美八幡宮誌に記載されている。応神天皇のご誕生の地であることに、安産信仰の地として、平安時代から宮中参拝の記録が多数残っている。雅子妃殿下ご懐妊のとき、祈願した御腹帯と御護符とを、宮司が東宮にご献上している。古くより、安産の神様/子安の神様と云われ、博多を中心に遠方からのお参りも多い。この故事より餅を「子安餅」と命名。 
 

 

 
さくら餅1 
関東のさくら餅はクレープのような焼き皮製の生地を餡子でそっと包む。関西のさくら餅はつぶつぶでもちもちの生地でしっかり餡子を包む。関東は「長命寺」、関西は「道明寺」と呼ぶ人もいる。関東の桜餅「長命寺」は、桜餅は1717年八代将軍吉宗が隅田川に桜を植え、向島長命寺の門番のとても沢山散り積もる桜の葉に悩まされた。そこで、桜の葉っぱを塩漬けにし、餅を作リ、売ったものが「長命寺」桜餅の由来とされている。現在は、作り方が多少変わり小麦粉を使った生地を薄く焼いて、あんこを包んだものが一般的。関西の桜餅「道明寺」は、「道明寺粉」という材料を使って作られているからだ。「道明寺粉」は、もち米を1度蒸し、乾燥させ細かく砕いた物で、戦国時代などに武士の携帯食として重宝されていた。 
さくら餅2  
元禄4年八代将軍吉宗のころ千葉県銚子から出て、東京隅田川の東岸にある、長命寺の門番になった山本新六という者が、隅田川にあった桜の葉を使って桜餅をつくり売始めた。このころは桜の葉を塩漬けにしておいて餅を包んだ。  
 
信玄餅 
武田信玄の名前が由来で戦の時は、兵糧攻めに餅を持ち込む事もあった。その為、攻め手側の糧食不足になる事も多かったようで、非常用の食料として切り餅を常備していたようだ。戦国時代信玄は、戦上手と言われ、餅が糧食として戦いを支えていたせいもあるかもしれない。信玄餅の特徴で、安倍川餅と大きく異なっている点は、安部川餅より小さく、黒蜜をかけて食べる事。 
 
ずんだ餅 
ずんだ餅とは、宮城県の有名な郷土菓子の1つで、ずんだ餅の他にもじんだん団子、ずんだん餅、ぬだ団子などとも呼ばれる。枝豆を茹でて、薄皮を剥いて潰し、砂糖を混ぜてできたずんだを餅にまぶして作る。 
 
草加せんべい 
せんべいの起源は実に古く、千数百年前といわれる。元来、日本では糯(もち)、うるちを問わず、米を蒸したものを「飯」と呼び、今の「強飯」でこれが昔の常食だっ。これを搗(つ)きつぶしたものをもち(餅)といった。餅には生餅と、乾餅(ほしもち)があり、乾餅は別名「堅餅(かたもち)」とも呼ばれ、焼いて食べる保存食として重宝がられた。 
そのため、戦陣に携行する兵糧でもあった。後世、この中に豆や胡麻をついて入れたり、塩味をつける製法が好まれた。これが「塩堅餅」で、これを焼いたものが後の「塩せんべい」で、草加せんべいの源流となった。 
草加せんべいは本来この「塩せんべい」で、江戸時代、利根川沿岸で醤油が造られるようになると、焼せんべいに醤油を塗るようになった。草加では、専らこの醤油せんべいが売れ、従来の塩せんべいは醤油せんべいに代わったが、名前は古くからの塩せんべいと言われつづけてきた。 
醤油塗りの焼きせんべいが日光街道「草加」の名物になった理由は、良質の米が獲れ、また良質の水と良質の醤油が身近にあったためといわれ、さらに永い伝統により熟練された製造方法で造られ、長い日光街道の間食としても好まれ、値段も手ごろで軽量であったことによるものだ。 
草加が日光街道の宿場町として栄えていた頃、旅人相手の茶店が街道にあった。その茶店のおせんさんという女性が作って売っていたお団子が非常においしく、当時往来の人達に大変親しまれた。おせんさんは、商売上手な人でだんごを使った新しい商品が作れないかと考えていた。ある日、武者修行の侍が茶店に立ち寄り「おせんさん、お団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては」と教えてくれた。おせんさんは早速売り出してみると、好評で喜ばれ、日光街道に名物が出来たというのが、今の草加せんべいと伝えられている。
 
大福餅 
餅を薄くのばし、粒あんをたっぷり包んだもの。焼くと膨れ上がることから「腹太餅」と呼ばれ、その感じがでっぷり福々してることから大福餅と名がついた。 
 
大根餅 
大根餅は、飲茶の代表的なメニューで、一般的に、大根を千切りにして茹で干しえびやシイタケのみじん切りにして上新粉を加えて練りあわせ蒸した物。味は「大根」の風味は無いと言われ、他にもさらに焼いて食べる場合もある。
 
ひっぱり餅 
鎌倉時代、平家追討の功を上げながら、兄・源頼朝と対立し、一転して追われの身となった源義経は、現在の奈良県・吉野から岩手県・奥州平泉へと逃れた。どのようなルートを通ったのか、じつは良く分かっていない。石川県の能登半島には、義経が通ったという伝説が数多く残っている。その1つ、志賀町の福浦に伝わる「義経の船隠し岩」に、ひっぱり餅の由来がある。 
志賀町の福浦港から北へ続く「能登金剛」と呼ばれる海岸まで逃れてきた義経一行。このあたりは「ヤセの断崖」がある荒々しい断崖絶壁の海岸地帯で、義経は海難を避けるため、ここに48艘の船を隠す。このとき、同行していた弁慶が、旅の携行食にと餅を作るのだが、蒸し上げた餅米を杵でつかず、その自慢の剛力でこねてはひっぱり、こねてはひっぱり、ひと臼分をこね上げた。そこに「不動滝」の水を振りかけてさらにひっぱり、薄くひろげ、乾燥させたものを携え、義経一行は再び出発する。この地方に伝わる「ひっぱり餅」の由来となった。その後、福浦では、よくついた餅を臼から水の中へ入れ、琉球ござの上に乗せて数人の女性で四方八方からひっぱり、薄くひろげ、それを乾燥させて保存食にした。
 
べこ餅1  
5月5日子供の日と言えば、かしわ餅と考え勝ちだが、北海道では、べこ餅を食べる事が風習だ。道南を始め日本海沿岸の地域で、よく食べられる。名前の由来は、白黒の2色が牛を連想させるので牛を方言で言ったら「べこ」というので付けられた、べっ甲のような色合いをしているのでべこ餅になった、ベロッと出した舌に似ているのでベロがべこ餅になった、牛(べこ)が臥せている姿にそっくり、米の粉でできているので米粉(べいこ)からべこに変わった等がある。 
べこ餅2 
主に節句や小正月、彼岸、葬式の時に檜山の各家庭で作られていた米粉と砂糖をベースとした素朴な味わいのお菓子。節句の時には「かしわもち」よりもよく食べられている。 
由来は白黒の色合いのものが多く、乳牛のホルスタインに似ていることから、牛の方言「べこ」からとった「ホルスタイン説」、道南地方に古くからあるべこもちは黒一色が多く、べっ甲に似ていることからとった「べっ甲説」、原料からきた「米粉(べいこ)説」、牛の舌に似ていることからきた「舌(ベロ)説」など諸説あり明らかでない。 
べこもちのルーツは、下北半島だとする説が有力で、下北のべこもちは「くじらもち」とも呼ばれ、かまぼこのように細長く成形し、それを輪切りにし、蒸して作るきれいな模様のもので、檜山地域のものとは異なる。 
檜山のべこもちは、煮詰めた砂糖に米粉を加えながら練り上げ、木型に押して型をとった後、蒸したもので、特に檜山南部地域では「かたこもち」とも呼ばれている。木型を使う方式がどのように生まれたかは定かではなく、新潟県佐渡地方には「かただんご」といって同じように木型で使うお菓子があり、また、下北半島の一部でも木型を使って作るお菓子がある。それらの地域に住んでいた人々が北海道に移住した時に、故郷の木型を持ってきたのが始まりかもしれない。
 
ぼたもち(牡丹餅) 
うるち米ともち米を混ぜて炊き、米粒が残る程度について1-2口大程度の俵状にまるめ、餡をまぶした食べ物。甘味を口にする機会の少ない時代に御馳走で、来客のもてなしや田植えの後の寄り合い、子供のおやつ、また法要の際などに供された。小豆餡のほか、黄粉、青海苔、ゴマ、ずんだ等も使われる。表面に餡をまぶす以外のものでは、握り飯の具材のように中に餡を詰めることもある。 
 
丸餅 
ついた餅を丸くしたもので、よく食べられている普通の餅のことを表している。「切り餅」は、この丸餅を切ったもの。「あぶり餅」は、炭火であぶったもので、作り方、加工方法などによって、餅の名前が変わってくる。 
 
よもぎ餅 
蓬餅は、春先の和菓子を代表している餅の1つで、ヨモギの若芽には、爽やかな香りが引き立って昔から皆に愛されている和菓子。ヨモギ餅は主に上新粉などに、白玉粉を混ぜた粉に水と砂糖を足してこねて生地にして、この生地を蒸して餅にする。そして餅を突きながらヨモギを加えて混ぜて作る。ヨモギを丸める際に、餡子を包むことも多く甘さが引き立つ。  
 
わらび餅 
蕨餅(わらびもち)は、昔からワラビから取れるデンプン蕨粉が使われいる和菓子。他に岡太夫という別の名称で呼ばれる事もある、透明で見た目にも涼しげで、夏の菓子として重宝されている。一般的な蕨餅は、蕨粉と水を同時に加熱しながら透明になるまでかき混ぜて、そしてさらに流水に入れて冷やし固めたものを黄粉や黒蜜をかけて食べる。 
 
餅紋

 

 
  黒餅    白餅  細輪に重ね餅  菱餅    雪餅   
餅とはいうものの、円形を白地、紺地に書き出したもの。紋章としては最も原始的なもので、餅を丸くする民俗から、餅に付会したものと思われる。餅は、朝廷の式典にも用いられるし、保存性の良さから軍陣の食糧としても重宝された。「もち」は「持」「保」に通ずるところから目出度いものとされ、黒地に描く「黒餅」は「石持」に通ずるので、武士の一所懸命の所領・石高を保有するとして喜ばれた。白餅と黒餅の両者を、石持とよぶのは、ここからきたのだろう。 
餅紋は黒田氏のそれが有名である。最初白餅であったものが、黒餅に転じていったようだ。「関ヶ原合戦屏風」に書かれている、黒田長政の陣地には黒地に白抜きと赤地に白抜きの餅紋の旗が見える。これは月といってもいいが、白餅といえるだろう。白が黒に転じたのには、黒田の名前から連想した。餅紋は白黒にかかわらず石餅(石持)という、そのコクから黒のイメージに転じた。戦場で家紋をかくとき白地に白餅を書くとすれば線描きで丸く描く以外にない。これでは目立たない。後世、家紋はほとんど黒地を中心として表わすようになった。などなどから白餅が黒餅に転化していったようだ。浅野・竹中・五十嵐・安信・筑紫の諸氏が黒餅紋を用いた。また、餅紋のなかには、菱がたや、重ね餅などもあった。 

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。