利休最後の手紙

 

利休最後の手紙1手紙2千利休1利休2小説利休3利休4利休切腹の真相5千利休という名前徳川期の茶の湯 
千利休 / 下剋上の時代と利休わび茶の歴史信長との出会いまで信長時代秀吉と茶湯利休と政治定御茶湯の事利休の世俗的関心利休と禅「わび茶」と「さび」堺 と香りの物語
利休最後の手紙1
態々御飛脚 過分至極候 
富左殿 柘左殿御両所 為御使 堺迄可罷下之旨 
御諚候条 俄昨夜罷下候 仍淀迄 羽与様 織部様 
御送候て 舟本にて見付申 驚存候 
忝由 頼存候 恐惶謹言 
二月十四日      利休 
松佐様 
天正19年2月13日(1591)豊臣秀吉よりの使者、富田(左近将監知信)・柘植(つげ)(左京亮)により、堺への退去を命ぜられた利休は、この夜にわかに聚楽の屋敷を後にした。淀の船着場まで下った時に、見送りに来てくれていた2名に気づく。羽柴与一郎こと細川三斎(忠興)と古田織部であった。両人の姿を見て、自分の真の理解者たちへ心からの感激の情を、飛札をくれた三斎の家老である松井(佐渡守康之)へ、返礼をかね書き遣わした書状である。現存する利休最後の書状とされている。
  
細川忠興、古田織部ともに戦国大名で、細川29才古田48才だった。ちなみに細川の奥方は、美人で名高いクリスチャンで、明智光秀の娘。古田は岐阜県本巣町生まれで、利休亡き後の茶道のリーダーになり、徳川二代将軍秀忠の師匠にもなった。 
俗に利休七哲といわれる人達がいる。茶道の家元のひとつである表千家の4代目に江岑(こうしん)宗左が1662年書いた江岑夏書という本に七哲がでてくる。人によって幾らか名前が変わっているが、以下の4名は常に含まれている。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、古田織部。蒲生、利休の子供である少庵を自国会津(福島県)に匿った人。高山、キリシタン大名でキリスト教を信じてフィリピンで亡くなった。
  
利休は大徳寺の山門(金毛閣)の上層に雪駄を履いて杖をつき、雪見をしている利休像を安置したゆえに秀吉の怒りをかって堺に下向を命じられた。淀川から堺に下る利休を送ったのは古田織部と細川三斎だけだった。2月25日その利休像が一条戻橋に磔にされ、その三日後利休自身の首も曝された。
 
利休の最後は、表千家所蔵の千利休由緒書によって伝えられている。堺で静かにしていた利休は2月16日京都に呼びつけられる。京都の聚楽屋敷に呼び戻された時、3000人以上の上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだ。利休は弟子の岩井からの事前連絡で、検使役3名、尼子、安威、蒔田を茶の湯の仕度をして待った。利休の弟子であった蒔田淡路守が介錯をした。一条戻り橋に利休の生首がおかれた。首は一端、秀吉の近くまでは行ったが程なく一条戻り橋に戻された。
 
一条戻橋  
京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋である。単に戻橋ともいう。794年の平安京造営のときに、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋され、橋そのものは何度も作り直されているが、現在も当時と同じ場所にある。平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったから、堀川を渡ること、即ち戻り橋を渡ることには特別の意味が生じて、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった。現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものである。  
「戻橋」という名前の由来については『撰集抄』巻七で、延喜18年(918年)12月に漢学者三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。  
『平家物語』剣巻には次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる。  
戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。  
戦国時代には細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首された。また秀吉のキリスト教禁教令のもと、1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた。ただし、利休の首は「聚楽大橋」のたもとに曝されたとの記録もあり、この頃戻り橋の名は聚楽大橋すなわち現在の中立売橋に移転されていたと考えられている。徳川和子の入内行列が中立売橋を渡る際、幕府は戻り橋の名を嫌って「万年橋」と改名したが、京童の間には定着しなかった。  
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋に渡りに来ることがあった。 
  
利休切腹の表向き原因のひとつは、大徳寺山門の楼上に安置された利休の木像。利休像のとなりは、十六羅漢像、釈迦像とその弟子迦葉と阿難。釈迦の弟子の仲間入りも問題、また山門の下を勅使も秀吉も通るからか。 
利休への使者より前に、前田の部下により、木像は縄で縛られて降ろされた。 
2週間前に豊臣秀長が死んだ、大和・郡山百万石の大名で秀吉の弟。時の権力者で利休を公然と支持したのが秀長と北政所である。嫌っていたのが淀殿と石田。その中間が大政所で、北政所とともに木像がしばられた時、秀吉にあやまったら如何と心をくだいた。 
利休は石田の気にさわることもしている。秀吉から小田原に来て挨拶せよとの要請に、伊達政宗は遅れ不興をかった。徳川の秀吉へのとりなしを仲介したのが利休であった。
  
2月25日付で、利休が遺偈(ゆいげ)と和歌を残している。 
人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺 
 じんせいしちじゅう りきいきとつ わがこのほうけん そぶつともにころす 
堤ル我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛つ 
 ひっさぐる わがえぐそくのひとたち いまこのときぞ てんになげうつ
芳賀幸四郎/吉川弘文館 
「七十年のわが生涯を顧みると、そこには悲喜・苦楽・得失・栄辱、まことにさまざまなことがあった。しかし、その人生ともおさらばじゃ。といって、今のわしには生への執着もなければ死の恐怖もなく、また恩怨もなければ愛憎もない。力囲 !咄!エイッ!クソッ!一切合財、これでご破算じゃ。そしてわしのこれから超人する世界、そこには悲喜も苦楽も、得失も栄辱も、さらには迷悟も生死もない絶対の世界である。さあ、これからその世界で自由自在に遊戯三昧をしようぞ。」 
桑田忠親/中央公論社 
「七十年もの長い人生を過ごしてきたが、本当に、しっかりと大法を会得するのは、容易なことではないぞ。いまや、わが、この明暗の両頭を切断すべき名剣をふるい、仏陀も祖師も共に滅殺し、無位の真人となりおおせたのだ」 
唐木順三/筑摩書房 
「我も今日まで七十の齢を重ねた。ウンと力み、嗚呼と嘆じた過去であるが、ソレも何だ、咄、ナニクソ、我が這裏には金剛王の宝剣がある。霊妙、活機、仏もなく、祖もなく、天地一枚の極地を得てゐる。世間の煩累も萬物糾縄も、我身には指も触れさせぬぞ。」 
小松茂美/中央公論社 
「人生ここに七十年。えい、えい、えい!(忽然と大悟した時に発する声)。この宝剣で祖仏もわれも、ともに断ち切ろうぞ(まさに、活殺自在の心境)。私はみずから得具足(上手に使える武器)の一本の太刀を引っさげて、いま、まさに我が身を天に抛つのだ(いまや、迷いの雲も晴れた、すっきりした心境)。」 
利休の斎号は抛筌斎。意味は、魚を捕る道具である筌(せん)をなげうつ、つまり、道具は中身を入れるものであり、その中身が大事なのだということか。 
 
「力囲希咄」禅における「喝(かつ)」と同じく、大声を発することであろうが、臨済禅で言う「喝」そのものだと思う。臨済禅の「喝」には四喝があり、修行者への叱咤/師家(しけ; 出家、在家を問わず、師と仰がれるにふさわしい学識人徳を備えた禅匠)への威嚇/師弟が力量をためしあう勘験/それらすべてを含む一喝であるが、利休は死に面して自らにその「喝」を発した。 
「祖仏共に殺す」芳賀幸四郎の引用する「無門関」第1則「趙州無字」に添えた無門慧開の一節「天を驚かし地を動かして、関将軍(関羽)の太刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向かって、遊戯三昧ならん」よりむしろ、「臨済録」にいう 「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺す、羅漢に逢っては羅漢を殺せ」によるべきと思う。 
不立文字、教外別伝を旨とする臨済禅の思想においては、経典や祖師の残した書物に一切とらわれてはならない。利休の斎号である抛筌斎にもその意思が現れている。脱俗、無一物、祖仏共に殺し、ありとあらゆるものを脱却し、そして直指人心、見性成仏こそがここで利休が言わんとしていることであろう。利休が命を賭して貫き通した表現の世界、台子茶事の新たな作為機転、草庵茶の侘と創意、それらも機を一にする。  
既得したすべての太刀、筌、ひいては茶の湯の道を天に抛ち、言葉では語り得ない禅の道を生きんとし、そしてその禅の道をも棄てさることこそが茶の道、禅の道そのもの、真理を行じ生きることだとする利休のこの遺偈は、日本臨済禅の三師、応燈関(大応国師=南浦紹明、大燈国師=宗峰妙超、関山慧玄=妙心寺開山)の一人と称され、大徳寺の開山となった宗峰妙超の気迫みなぎる遺偈「仏祖を截断し、吹毛常に磨く。機輪転ずる処、虚空牙を咬む」と同じ次元として捉えねばならない。  
(注1/吹毛とは利剣(=鋭利な剣)のことである。余談ではあるが、「宗湛日記」によると、利休は切腹半年ほど前の茶会に、「吹毛」からはじまる春甫和尚の墨蹟を掲げていた。注2/近重物安説に言う、中国蜀の禅僧、幹利休の遺偈が利休遺偈に酷似していたとしても、意は言外にあるとすべきであろう。) 利休参禅の師であった大徳寺古渓宗陳和尚は、利休の大徳寺山門、金毛閣の上に利休像を安置した罪に連座したが、秀吉の生母大政所や正室北政所の助命により助かる一方、利休はそれを固辞し(「千利休由緒書」)、禅の道に参じたものとして、少なくとも利休号を受けたものとして、まことの表現者たるべく茶の道において禅の道を全うせんとしたのだろう。 
大徳寺開祖宗峰妙超は、南浦紹明の向上出身の一路、千聖不伝の末期の一句を受け継ぎ、悟道の真実を厳しく求道し、名誉と権勢を固辞した。妙超、大徳寺開創にあたって仏像を安置する仏殿を設けず、仏法を演法する法堂を設けて「汝等諸人この山中に来って、道のために頭を聚む。衣食のためにすること莫れ」と説き、遺誡に「老僧行脚の後、或は寺門繁興、仏閣経巻に金銀を鏤め、多衆閙熱(にょうねつ)、或は誦経諷呪、長座不臥、一食卯斎、六時行道、縦使(たとひ)恁麼(いんも)にし去ると雖も、仏祖不伝の妙道を以て胸間に掛在せずんば、忽ち因果を撥無し真風地に堕つ、併是れ邪魔の種族なり。老僧世を去ること久しくとも児孫と称することを許さじ。或はもし一人あり、野外に綿絶し、一把茅底、折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事を究明する者は、老僧と日日相見、報恩底の人なり。誰か敢えて軽忽せんや。勉旃、勉旃。」(「いかに形の上で立派になり、学徒が集り、規矩が行なわれても、仏祖不伝の妙道を胸におかなければ真風は地に堕つ。小さな草庵で脚の折れた鐺(なべ)で野菜根を煮なければならないような生活をしていても、己事を究明している者は宗峰と日日相見する報恩底の人である」(「日本中世禅思想の展開」荻須純道)と述べるが如くに、まことに仏道の正脈を堅持しようとした求道一途の禅僧であった。そして利休遺偈もまた、妙超の禅の道をなぞらえるがごとく、まさに利休が発心し、求道し、生きぬいた侘茶の道そのものだろう。
 
利休最後の手紙2

 

天正19年1月(1591)利休を庇護した豊臣秀長が死亡した。秀吉に寵愛された利休が失脚した理由はここにある。 数年前から秀吉政権は、正室ねねと秀次らの派と、側室淀殿と石田三成・前田玄意らの二派に分かれて暗闘が続いていた。秀長死亡し淀殿・三成派は、利休をはじめ秀長の息のかかった勢力を追い落とそうと策謀。これに町人出身で虎の威を借り名門貴族や大名・武士たちを見下し増長していた利休らに、不満の公家・武家体制が同調した。 
わずか一カ月後の閏1月21日、一年数カ月前に利休が大徳寺に寄進した二層山門「金毛閣」の上に置いた利休の木像が不謹慎といいがかりをつけた(頭巾をかぶり杖を突きぞうりをはいた立像だが、山門をくぐる天皇、摂関、太閤殿下までぞうりで踏みつけている)。 
利休は親しい大名の細川忠興や利休七哲のひとり芝山監物らに頼み必死に弁明に努めるが、監物がもっとも頼みとした蒲生氏郷にまで「一笑一笑(もうむだだ)」と断られた。堺の会合衆仲間住吉屋宗無や万代屋宗安も利休の手紙につめたく顔をそむけ。 
2月14日秀吉は利休を堺に追放。このとき愛娘のお亀にあてた和歌が「利休めはとかく果報ものぞかし菅丞相になると思へば」(菅丞相は無実の罪で左遷された菅原道真のこと)である。利休の周りに蟻のように群がった人影はなく、淀の渡しに見送りにきたのは、細川忠興と古田織部の二人だけだった。 
2月16日利休は芝山監物に次の返事を出した。利休の最後の手紙。
 
御詠(監物の手紙にそえてあった彼の歌)に又一入(ひとしお)涙斗(ばかり)に候 返し おもひやれみやこをいでて今夜しも淀のわたりの月の舟路を 返々(かえすがえす)御詠ながめ 返ししかね候まま 御使を待せ申候 いつもと申候ながら今夜又 宮古(都)の名残旁々(かたがた)に候 宮古出ての淀の川舟とよみ候を 思ひいだすにも涙に候 やがてやがて待申候待申候 
ことさらに天気も能成(よくなり)候 かなしく候かなしく候 かしく
 
死の少し前、利休は長老前田利家の助命申し出を謝絶している。利家は正室北政所ねねを通じてわびを入れれば、殿下は許されようと知恵をつけた。利休は男が御婦人方に延命を頼んだとあっては無念だ、処刑されたほうがいいと断った 。 
今井宗久とともに織田信長に仕えていたころ、利休は14歳年下の秀吉を「藤吉郎」と呼びすてにし、秀吉は「宗易公」と敬っている。山崎合戦以後は「筑州(筑前守の略)」にかわり、やがて「上様」「関白様」となるのだが、心の奥底のどこかに「この成り上がりの猿め」という意識があったのかもしれない。秀吉のほうも独裁的権力に酔いしれた今、かつての利休の横柄な面影が浮かぶと、卑屈だった過去の自分がいまいましく、茶坊主のくせにと憎しみがつのったと思われる。 
2月25日秀吉は金毛閣の利休木像をひきおろし、戻橋にさらして磔にした。知らせを受けた利休は静かに辞世を詠んだ。 
「提(ひっさぐ)る我が得具足の一太刀(ひとつたち)今此時ぞ天に抛(なげうつ)」 
2月26日京の聚楽屋敷に移された利休は、茶室不審庵で自作の茶杓を使って朝の茶の湯を催したのち腹を切った。介錯は門下の蒔田淡路守である。享年69。 
当日は大雨に雹が降り雷鳴とどろく春の嵐が吹き荒れていた。屋敷の周りは大名上杉景勝の指揮する軍勢三千が弓、槍、鉄砲を装備して、厳重にとり囲んでいた。利休の門下の大名たちが、利休救出のため武力行使に出るおそれがあるとの情報があったからだ。 
利休の首は検使の安威摂津守・尼子三郎左衛門によって秀吉に届けられたが、秀吉は見向きもせず、戻橋にさらせと命じた。利休の首を金毛閣の利休木像で踏みつけさせるという、むごたらしいものだった。連座して大徳寺の古溪はじめ三長老も処刑されるところを、北政所ねねと大政所のとりなしで救われている。  
 
千利休1

 

大永2-天正19年(1522-1591)戦乱の16世紀、堺の平和と繁栄を支えたのは海外貿易で莫大な財をなした豪商達である。茶の湯を始め日本の先進文化の担い手となった。 茶道では今日まで続く「わび茶」を完成させた千利休が大変有名である。 
当時の堺商人達は、豊富な財力を背景に時の権力者も一目置く勢力を誇り、自治都市を築いていた。利休も堺の豪商達の一人であった。 
「わび茶」というのは時にはたった二畳の小さな茶室の中で行われるものであった。堺の建て倒れとまでいわれ、金の襖絵や南蛮屏風に囲まれ暮していた堺の商人が、簡素極まりない部屋の中で茶の湯を味わう、あらゆる贅沢の中から極限まで無駄を省き緊張感を作り出した。これ以上の贅沢はない創意を極めた文化と言える。 
逸話に、利休は秀吉をもてなすために当時大変珍しかった朝顔をたった一輪を残し、あとはすべて切り捨ててそれを飾ったと言われている。 
千利休は堺の裕福な町衆、魚屋(ととや)に生まれた。早くから茶の湯に親しみ、北向道陳ついで武野紹鴎にわび茶を学び、南宗寺の大林宗套に参禅して宗易の法号を得た。 
茶の湯をもって信長に接近し、後に秀吉の茶頭として仕え茶道を大成した。北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るったが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃した。現在の茶道千家の始祖であり茶聖と称せられている。  
 
千利休2

 

安土桃山時代の茶人で織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた。本姓田中、通称与四郎、宗易(そうえき)と号し、利休という居士号は正親町(おおぎまち)天皇より下賜されたと言われる。1522年(大永2)堺の魚問屋・田中与兵衛の子として生まれ、若くして茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事した。また堺・南宗寺の大林宗套に参禅し、禅の影響を強く受けた。確かな記録にみえる最初の茶会は23歳のときで、1565年(永禄8)には戦国武将・松永久秀の茶会に招かれ、茶匠としての才能を現した。 
1568年(永禄11)上洛した信長が堺に矢銭(軍資金)を課すと、町衆は抗戦派と和平派に分かれた。このとき和平派として信長に近づいた商人・茶人の津田宗及・今井宗久と親しかった関係から、信長に茶頭として仕えることになった。73年(天正元)京都・妙覚寺における信長の茶会に招かれ、さらに75年には同じく信長の茶会で点茶の役を務めている。ただ信長の名器蒐集(名物狩り)には批判的であった。  
1582年(天正10)の信長の死後、秀吉に仕え重用されたが、たんなる茶頭としての立場を越えた、いわば側近としての役割が次第に強くなっていった。85年秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会では、正親町天皇に献茶する秀吉の後見役を務め、87年京都・北野天満宮における歴史的な茶会「北野大茶湯」を推進し、「天下一の茶匠」の名を不動のものとした。 
茶人としての名声をほしいままにした利休であったが、89年大徳寺山門の楼上に自身の木像を置いたことなどが不敬不遜の行為としてとがめられ、91年秀吉の命により自刃した。享年70歳であった。秀吉政権を裏で支え、また利休の最大の理解者であった丹羽秀長(秀吉の弟)の死による権力闘争に巻きこまれたとの説が有力であるが、真の理由は不明である。利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統を受け継ぎ、茶会と点前形式の完成、独創的な茶室と道具の創造、茶道の精神性の深化という面で現代の茶道の基礎をつくりあげた。  
また、従来の茶会は饗宴的な遊興性が強かったが、料理の簡素化をはかり、茶会の趣向にわびの美意識を貫いた。妙喜庵待庵のような二畳敷という極小の茶室をつくり、茶陶についても、長次郎を指導していわゆる楽焼をつくり、「宗易(利休)型」茶碗を完成させた。その他の道具のデザインにも独創的な試みを企て、従来の名物中心の茶に対し、新作・無名の「高麗茶碗」や「瀬戸茶碗」などを積極的にとりあげた。また、掛物は禅の墨跡を中心にすえ、禅の「枯淡閑寂」の精神を茶の湯に求めた。 
千利休には長男道安と次男少庵(利休後妻の連れ子で宗淳ともいう)の二人の息子がいた。1591年、千利休が71歳で自刃した時はともに46歳で、道安は飛騨の金森長近の許に、少庵は会津の蒲生氏郷の許に身を寄せた。しかし間もなく前田利家や徳川家康らの斡旋で赦免され京都の本法寺前に土地を与えられ千家再興が認められた。だが、道安は、再び世間には出ないと決心していたので家督を継がず、のちに細川忠興の保護を受け、豊前の地で1607年、62歳で亡くなっている。 
利休の跡を継いだ少庵は大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を本法寺前に移した。これが現在の表千家の不審庵である。少庵の隠遁後、千家を継いだ子の宗旦は利休の侘び茶を推進し、いわゆる茶道を確立した。後に三男宗左が不審庵表千家、四男宗室が今日庵裏千家、二男宗守が官休庵武者小路千家の祖となって現在にいたる。
 
小説・千利休3

 

権力に屈服しても人間として屈服しない道を 
堺のまちも、一時期は、「自由都市」「商人の運営する都市」といわれた。多くの大名が、堺の商人たちの財力の前に屈し、ご機嫌を伺ったことは確かである。それによって堺の商人が増長しなかったとはいえない。 
織田信長はその増長に鉄槌を加えた。かれは強引に多額な矢銭を要求し、「応えなければ堺を焼き払う」 と胴喝した。 
もしあの時、矢銭を払わなかったならば、おそらく信長は堺のまちを焼き払ったに違いない。そうなれば、「自由都市」あるいは、「商人の運営する都市」も、わずかな時間内に完全に燃え尽きてしまう。跡形も無くなる。残るのは灰だけだ。そう考えると、堺が矢銭を提供することによって生き延びられたのは幸運だった。しかし、それはまちそのものの権力者に対する屈服に他ならない。 
あの時、利休は、(たとえまちは屈服しても、人間が屈服しない道はないのか?) と、必死になってその道を求めた。 
利休の求める道というのは、決して隠者の道ではなかった。 
「現実から逃れても、真の解決はない。それはいかに、茶の極意といい、歌道の極意といっても、結局は隠遁の美学だ」 
そういう戦闘的な気概は利休の胸の底にふつふつとたぎっている。利休は逃げるのは嫌いだ。どんな難題が目の前に現れようと、勇気を持ってそれに立ち向かって行くのが人間だと思っている。しかしそれはただ気概を持てば実現できるということではない。やはり手段が必要だ。手段は、それを扱う人間の気持ちの持ち方による。 
「根源になる気持ちをどう設定するか」ということが、利休最大の課題であった。隠遁を否定し、最高権力に立ち向かって行くのにはどうすればいいのか。堺という自由都市は、外国人宣教師がいかに熟めようとも、結局は、「人工のまち」だった。利休は、「堺のまちが、織田信長という権力者に屈服したのは、まち自身が一つの精神を持っていなかったからだ」と考える。ではどうするか。 
「まちに住む一人一人が、まちびととしての精神を持つことだ」まちびとという言葉を考えついた時の利休の頭の中には、外国人宣教師から問いた、「ヨーロッパにおける市民」の姿があった。
 
まちびと精神 
したがって、千利休と兄秀吉との問に波立つ精神の争いが、次第に高まっていることを秀長はよく承知していた。折りに触れて、際どい場面が展開される。その度におそらく秀長は、(兄も兄だが、利休も利休だ) と、当惑の情を持ったに違いない。もっと言えば、(利休はたとえ天下一の茶人とはいっても、兄に扶持されている身なのだから、与えられた給与に対する忠誠心を発揮すべきだ) と考えていた。一言で言えば、「利休よ、もっとうまくやれ」ということである。ところが利休はうまくやらなかった。かれにとって、秀吉に屈服することは、「自分の茶の精神が屈服することだ」と思っていた。そのことは同時に、「まちびと精神が屈服することになる」ということである。 
豊臣秀長が死ぬ前後に、秀吉の母大政所 (仲) と秀吉の妻北政所(おねね・おね)から密使が来た。 
「私たちが命乞いをいたしますから、あなたも関白様に謝ってください」という口上である。しかし利休は丁重に断った。「もはや、ここに至ってはお力添えをいただいても無駄だと存じます。ご好意は、決して忘れません」と、密使に伝えた。しかし利休はこのことを、側にいた者に、「俺も天下に名を成した者だ。女性の嘆願によって死を免れたといわれては、末代の恥だ」と、武士のようなことを言っている。利休にとって、「まちぴと精神」というのは、このように堂々と武士の面目に通ずるものを持っていた。
 
信長に、にじり口から入った以上は、あなたも私と同じただの人間だ、と告げた 
信長は大きく笑った。そして、「千宗易、考えたな」と上機嫌になった。利休はほっとした。実を言えば利休にとって、これは乾坤一擲の大勝負だった。信長が凡庸な権力者であり、にじり口から身を屈めて入らせたことに腹を立てれば、その場で体を反転させ怒って出て行ってしまうだろう。そして、「あの無礼な宗易を処分せよ」と、罰を与えるに違いない。ところが信長はそんなことはしなかった。にじり口から身を屈めて入って来たし、利休の、「にじり口から入った以上は、あなたも私と同じただの人間だ」と言われても、腹を立てない。逆に上機嫌になってニコニコ笑っている。千利休は信長の態度に感嘆した。そして、(こういう武士が、日本にもいたのか) と一驚した。 
あの日、利休が点てた茶を信長はうまそうに喫んだ。もちろん、その頃の信長は作法も何も知らない。差し出された茶碗をムンズと掴み、ガブリと喫んだ。その豪快な喫み方がひどく利休の気に入った。そういう喫み方もまた、「市中の山居」における、信長らしい喫み方であった。帰り際に信長は言った。「茶というのは面白い。俺も習おう。おまえが師匠になれ」と告げた。利休は平伏し続けた。そして、胸の中に今までになかった、大きな生き甲斐が湧いてきたのを感じた。
 
茶の道は給与にもなると閃いた信長 
堺のまちの商人から茶の道を教えられた信長は、「これは政治に活用できる」と考えた。信長は天下への道をまっしぐらに走り上っていたが、部下に対する給与面で行き詰まっていた。その頃の給与はいうまでもなく土地で与えられる。だから武士たちには、「一所懸命」という考えが洗っている。一所懸命というのは、「ひとつ所に命を懸ける」という意味だ。ひとつ所というのは土地のことである。したがって中世から続いてきた荘園制の名残が強く、武士に限らず戦国時代の日本人の価値観は、「土地」を至上に考えていた。一所懸命というのは、「一坪でも土地を多く持ちたい。自分の土地を奪おうとする奴は、命懸けでこれと戦う」ということである。 
が、日本の国土はそれ程広くはない。信長は外国人の宣教師から、世界地図を見せられ、あるいは地球儀を見せられて、そのことをよくわきまえていた。 
「日本は狭い」というのが信長の実感だった。だから、「無定限、無定量に部下に土地を与えていたので、やがて日本の国土では収まりがつかなくなる」という土地不足、すなわち給与不足を痛感していた。いま信長が考えるのは、「土地に代わるべき価値のある物が要る。それも給与として与えられる物だ」ということだ。 
堺のまちで会合衆と呼ばれる商人代表たちに会い、千宗易という魚屋兼倉庫業者から、茶の点前を振る舞われた信長は、天才的な閃きによって、この解決策を発見した。つまり、茶の道は給与にもなる。
 
信長は茶会の開催権は一手に掌握した 
信長はさらに工夫した。それは、「茶会の開催権は、自分が一手に掌握する」と宣言したことである。つまり茶の会も簡単には開けなくなった。開く時は信長の許可を得なければならない。言ってみれば、茶会の開催をパテント制にし、その権限の一切を信長が一手に握ってしまったということである。 
こういう独占と制約は、信長が意図した効果を生んだ。それは彼の部下大名たちが、給与としての土地よりも、むしろ茶道具の名器を欲しがるようになったことである。 
「誰々よ。今度の手柄は見事だ。どこどこの土地をやろうか?」と言っても、その部下大名は首を横に撮る。「それよりも、貴方様がお持ちになっているあのお茶碗をいただけませんか」と言う。あるいは、「せめて芸の会を一度だけ開かせてはいただけませんか。それによって、私の勢威が高まります」と告げる。 
信長は胸の中でニンマリと笑う。(作戦が成功した) と思うからだ。こうして天下人の織田信長が軸になって、茶の道に関わりのある価値を新たに提出したことにより、土地一辺倒だったかれの部下大名の価値観が大きく変わっていった。先を争って、「名のある茶道具を手に入れよう」あるいは、「俺の名によって、茶会を一度開きたい」という願望が高まっていったからである。大名たちの茶の道に対する需要は、そのまま民間にも広がっていった。
 
利休が豊臣秀吉に抵抗し得たのは強靱な精神・まちびとの思想による 
たとえ茶の道を極めた茶頭の一員だといっても、しかし堺の一介の商人であった千利休が、なぜ日本の最高権力者である豊臣秀吉にそこまで抵抗し得たのか、考えて見れば利休の精神力には計り知れない強靭なものがある。 
かれのその強靭な精神は、あくまでも、「自分はまちびと(市民)である」と考えた自己保持にある。そして利休の考えた、「まちびと(市民)」の思想は、かれがはじめて日本で生んだものであった。かつての日本にはそういう考えはない。 
かれは、台子式大名茶に対し、佗びを軸とする町人茶を生んだ。これは、「権力者の独占であった茶を、大衆に解放した」ということである。同時にまた、権力者の台子茶には、山上宗二が言ったように、「茶の名人とは、唐物を所持し、茶の湯も道具の目利きも上手、この道に志深き者をいう」という条件を設定したのに、利休はピタリ当てはまった。したがって山上宗二から見れば利休は、「茶の湯の名人」である。しかしだからといって山上宗二は、点前の名人だけを単に「名人」として貴んだわけではない。かれは他にも、「宗匠」と、「侘数奇者」の二系列を設定している。宗匠というのは、茶の技術に長けたいわゆる「茶の湯の者」である。 
侘数寄者というのは、「手許不如意(金がない)で、茶に志す者」をいう。山上宗二は、この侍数寄者について「一物も持たず、胸のかくごひとつ、作分ひとつ、手柄ひとつ、この三箇条の調たるをいう」と定義している。 
一物というのは唐物のことだ。つまり、志だけで茶の道に志している人々を侍数寄者といった。つまり侘びとは、「金も物もなくて、佗びしい存在」ということかもしれない。 
名人であった千利休は、この侘数寄者たちに深い関心を持った。高所から関心を持ったのではなく、自分を同列に置いた。したがってかれが、台子式の大名茶に対し大幅な改良を加えたのは、「大名茶を侘数寄者の茶に近づけよう」ということだ。
 
利休のまちびと精神は西洋かぶれと違う 
したがって利休の考える、「まちびと(市民)」というのは、自分の身近なところで祖父をはじめ、「阿弥」と呼ばれた社会的劣位者たちの実態を身に染みて感ずると共に、同じ堺のまちの日比屋了慶の教会に集まるキリシタンたちの実態とが、入り交じって出来上がったものだといえる。 
だから、日比屋了慶や教会で人々を導く外国人宣教師たちが語る、「ヨーロッパのまちや市民」とも、ひと味違ったものを利休は頭の中につくりだしていたり、そしてかれの自負心は、「自分が日本ではじめての市民になろう」ということであった。 
普通なら、そのまま西洋かぶれをしてしまう。つまり、外国人宣教師たちが教える、「解放された自我意識を持つヨーロッパの市民」に近付こうとし、その考え方や行動をそのまま取り入れたに違いない。 
しかし利休はそうはしなかった。最大の理由は、やはり阿弥という芸能者の存在である。阿弥たちは、自らの芸能をもって社会的対抗要件とし、また身分解放の武器にした。その意気込みや熱情にあてられて、足利義政をはじめ、多くの権力者たちが、この阿弥に接近し、かれらの特殊技能を生かした。
 
戦う精神のまちびと思想 
利休はやがて、「市民という言葉は、そのままでは日本に馴染まない。もっと和風の言葉をつくりだすべきだ」そう考えて、ついに、「まちびと」という言葉をつくりだしたのである。 
利休が自分の茶室を、「市中の山居」と言うのにも、その辺の意味が込められている。山居という以上、もちろん茶を学んだ師の北向道陳や武野紹鴎の言う、「隠遁の精神」と無縁ではないことは確かだ。しかしそれは、「逃げるための基地」としての山居ではない。「前に出るための基地」としての山居である。つまり、山居に隠遁しても、それは一切の世事から脱走し、自分分だけの閑寂に浸るということではない。現実に起こった問題に、「どう対処すべきか」ということを、静かに考え抜く場のはずだ。 
千利休が生涯を通じて、「非常に頑迷であり、また戦闘的であった」といわれるゆえんは、この、「戦う精神」にある。 
考えてみれば、最後の最後まで日本の最高権力者である豊臣秀吉に対し、己を保ち続けたというのは、秀吉から見れば、「町人風情の最大の反乱」であったに違いない。しかもそれは、千利休という存在の、「たった一人の反乱」であった。しかし秀吉は、その"たった一人の反乱"に手を焼き通した。秀吉は、例の得意な人心管理方法であるニコポンや、金品のばら撒きなどをもって、利休を懐柔しようとした。しかし利休はその手に乗らなかった。最後まで己を保った。それは、かれの独創である、「まちびとの精神」を、貫き通したからである。 
その意味でいえば、いま利休は、かつて親しくした博多の商人島井宗室にも、その"まちびとの精神"があったような気がする。
 
利休の切腹 
利休はコトコトとひとりで笑う。そして、(まさに俺は、秀吉を踏んづけてやりたかった。あの高慢な成り上がり者の頭を、一度でいいから踏みつぶしてやりたいと願い続けてきた) 博多に流された古渓の入れ知恵だけとはいえない。利休自身にも、秀吉に対して、(あの高慢チキな鼻を叩き折り、存在そのものを踏みつけてやりたい) という怨念があったのである。 
しかしそれが見抜かれた。利休は観念していた。(あの行いは、俺にすれば大人気ない。まさに秀吉公から見れば、その罪は万死に値するものだ) と考えている。 
したがって、いまよし屋町の屋敷に入って、静かに秀吉の罪の申し渡しを待つ身に、何の迷いもなかった。まさに、晴れ渡った夜空に明るい光を投げる月のような心境である。 
翌日、秀吉からの使いが来た。「関白様は、その方に切腹を申し渡された」と告げた。検使としてやって来たのは尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守の三人だった。 
千利休が切腹したのは、天正十九年二月二十八日のことである。当時の記録によれば、この日は大雨が降り、強い風が吹いていた。その嵐の最中に、利休は堂々と腹を切った。介錯をしたのは茶の弟子蒔田淡路守であった。かれは刀を一閃させただけで、見事に利休の首を斬り落とした。首は脇の部屋に控えていた後妻の宗恩に渡された。宗恩はすぐ、夫の首を白絹で包んだ。この時利休は、一首の歌と、称を残した。遺言の歌は次のようなものである。 
利休めはとかく果報のものぞかし 菅丞相になるとおもへば 
菅丞相というのは、いうまでもなく菅原道真のことだ。菅原道真は、学者の身であったが時の帝に信頼されて、朝廷の高い位に昇った。それを妬んだ者が、道真の足 引っぱり讒言して、道真を九州の大事府に左遷した。そのため、大事府で死んだ道真の怨霊が都を走り巡り、疫病を流行らせ、自分を追い落とした連中を片端から呪い殺したという。 
利休が菅原道真に自分をなぞらえてこんな歌を詠んだのは、天正十九年の二月に秀吉によって、堺に追放された時のことだという。  
 
千利休4

 

信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。大阪堺の魚問屋「ととや」に生まれる。当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国となっていた。そして多くの商人は優れた文化人でもあった。 
利休の父は堺で高名な大商人であり、彼は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。 
紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。珠光はあの一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視した。大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していく。 
紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、精神的充足を追究し、“侘び”を具体的に表現した。 
利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具のみならず、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物は禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を省いてイブシ銀の緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。 
活力に湧く自由都市・堺に目をつけたのが1568年に上洛した信長だった。彼は圧倒的な武力を背景にして、堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。そして、新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指した。信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用しまくる。 
※現代でも高価な茶碗は重宝されるけど、戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値するもので、その価値は今とは比較にならないものだった。有名なエピソードでは名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀。彼は数度にわたって信長を裏切っており、冷酷な信長なら問答無用で捕らえて斬首するハズなのに、1577年、信貴山城に籠もった久秀を2万の兵で包囲した降伏勧告で、「もし平蜘蛛釜を渡せば命までは奪わぬ」と説得した。かねてから信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらん!」と、なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばした。現代では信じられなけど、茶器が人の命を左右する時代が日本にあったんだ。(利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれている) 
信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)に重用した。利休は1573年(51歳)、1575年(53歳)と2度、信長主催の京都の茶会で活躍している。信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。 
利休60歳の1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。 
後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近、古田織部など優れた高弟が生まれた。 
1585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。 
翌年に大阪城で秀吉に謁見し、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服した大名・大友宗麟は、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記した。 
※秀吉は茶会を好んだが、いかんせん本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、自慢できる茶器が不足していた。そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。この過程で利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、ろくろを使用しない独自の陶法で樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まった。 
1587年(65歳)、秀吉は九州を平定し実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、まさに国民的行事。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が総合演出を担当した。当日の亭主には、利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となった!秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまったという。
 
ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。ガッカリして秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!秀吉は利休の美学に脱帽したという。 
秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。 
弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを「利休七則」という)。「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休。 
秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。 
利休が設計した二畳敷の小さな茶室「待庵(たいあん)」(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。彼が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。 
「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)
 
利休と秀吉の蜜月は茶の湯の最盛期となった「北野大茶湯」をピークとして、徐々に歯車が噛み合わなくっていく。秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕を埋めてしまう。これは信長でさえやらなかったことだ。堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく思った。1590年(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ即日処刑される。利休ショック。茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。 
そして翌1591年!1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と利休は平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。 
9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。 
それから1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」と命令を受ける。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリと分からせようと思っていた。 
秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(ねね)か母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。だが、利休はこれを断った。「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはずだ。秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになる。 
利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。 
利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達し爆発した。 
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。 
26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。 
27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。 
そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。 
利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。さらに17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺の街を焦土と化し、豊臣家はここに滅亡した。
 
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南したが、織部の茶が高い人気を集め始めると、かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。 
利休、織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。 
利休の子孫は、大徳寺にいた孫の千宗旦が家を再興し、宗旦の次男・宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・宗佐が「表千家不審庵」を、四男・宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。 
 
千利休5 切腹の真相

 

戦国時代、京の都の北部に位置していた一条戻橋、天正19年ここに罪人の遺体が晒されたといいます・・その罪人は千利休でした。  
なぜ利休は死ななければならなかったのか・・その理由は今も日本史上最大のミステリーの一つです・・その手掛かりと言えるものがある茶会の記録(津田宗及日記)の中に残されています。  
天正15(1587)年、秀吉は九州を平定して名実ともに天下人に近づきます・・この頃から秀吉は自らの権力基盤を不動のものとする為、厳しい支配体制を敷くようになります。  
天正16(1588)年、『刀狩』を実施、農民から武器を取り上げて反乱の芽を摘み取り、武士との間に厳格な一線を引こうとしたのでした。  
それまでは秀吉自身も含め身分を問わず実力のある者たちが自由に活躍する事が出来ました・・しかし、全国を平定すると体制を維持する為、厳格な身分制度が必要となってきたのです。  
秀吉は各地の大名たちに対しても支配者として、それまでになく厳しい態度を示すようになります・・関東の大名・北条氏は、服従の意を表明しなかったため大軍で攻め入り、領地のほとんどを没収しています。  
更に東北の大名・伊達正宗は、謀反の動きがあると厳しく処罰し、切腹寸前にまで追い込まれました。
 
九州の大友宗麟は、秀吉の様子をこう語っています…  
「利休以外には、関白様に一言も物を申し上げられる者はいない」(大友宗麟の書状)  
秀吉に意見できる大名は少なくなり、近づく事が出来るのは茶人の利休だけとなっていきます・・こうした利休を頼って徳川家康や前田利家、蒲生氏郷などが集まるようになっていきました。  
いち茶人を取り巻く大名たちの動きは、身分の統制を強めている秀吉には不穏な動きと映ります・・秀吉はやがて利休の茶の湯に対しても規制をかけるようになりました。  
茶の湯の秘伝を授ける際には、秀吉の許可を得て目の前で行う事・・利休と大名たちの茶の湯を通じたつながりに歯止めをかけようとしたとも言われています。  
更に利休に衝撃を与える事件が起こります・・利休の愛弟子である茶人が秀吉の機嫌を損ねたという理由で鼻と耳をそぎ落とされ処刑されたのです。  
茶人であれ逆らえば容赦はしない事を暗に示したともいえる出来事でした・・利休と秀吉との溝はますます広がって行きました。  
天正18(1590)年 利休69歳、ついに決定的ともいえる出来事が起こります・・秀吉と利休が同席した茶会でのこと・・この時、秀吉は利休が席を外したすきにチョットしたいたずらを仕掛けます。 
 
それは抹茶の入った茶碗と茶入れの隙間に一輪の野菊をしのばせる事でした・・あの朝顔の茶会の時のように一輪の花を際立たせて見せてくれたように、この野菊にも利休ならではの工夫で応えてくれるのではないか秀吉は期待します。  
ところがこの時、利休が行ったのは、野菊を無言で取り去る事でした…  
「利休は、野菊をまったく無視してますよね・・ポッと抜いて脇に置くだけでしょう・・秀吉にしてみればどういう趣向でこれを仕上げていくのかなと期待したのに無視された・・これが秀吉にしてみれば利休との別れになったのだと考えます」  
二人の対立は、もはや取り返しのつかないところまで来ていました。  
天正19(1591)年、利休についての見過ごし難い噂が秀吉の耳に入ってきます…「利休が自分の名声が高い事をいいことに、このみの茶碗を不当な高値で売りさばいている」と言う事でした。  
更に京都の寺、大徳寺に自分を敬わせるための木像を作らせたというのです・・事実、大徳寺には利休の木像がありましたが、これは多額の寄付をした利休に感謝し、寺側が独自に行った事で利休が作らせたものではありませんでした。  
しかし秀吉は、こうとらえました・・置かれているのは大徳寺の山門の楼閣だ・・秀吉がくぐる事もある山門に自分の木像を置くとは思いあがっている!!  
秀吉の耳に入ったこれらの情報は、利休を危険視する秀吉側近の中傷によるものだと考えられています。  
天正19(1591)年2月13日、秀吉は利休を京都から追放する事を決めます・・処罰が決まるまで堺で謹慎する事が決まりました。  
同時に秀吉は、大徳寺にあった利休の木像を京都の一条戻橋のたもとに晒しました・・直ちに謝罪し、服従せねば本人をもこうなるという脅しでした。  
利休を慕う大名の中には、秀吉の母と妻を通じて詫びるとよう助言する者も現れます・・しかし利休はこれを固辞します…  
「茶の湯で天下に名をあらわした私が命が惜しいとて女性たちを頼ったとあっては無念でござります」  
利休もまた天下に名をはせた茶人としてのプライドから進んで屈することは出来ませんでした・・利休の最後の手紙というものが残されています。 
 
「かつての日々を思い出すと涙が流れます・・悪い天気もいつかは良くなりましょう・・悲しい気持ちです」  
時がたてばいずれ秀吉も心を鎮めてくれるのではないか・・利休はそう願っていたのかも知れません。  
「まあ秀吉にも迷いがあったのです・・一応、ケンカをふっかけた訳ですから相手が屈服して謝ってくれば、おそらく振り上げた拳も下ろしたでしょう・・しかし利休の方では、芸術家としてあえて頭を下げるという行動には出なかった」  
京都追放から10日後、秀吉は最後の決断を下さざる得なくなります・・それは切腹を申しつける事でした。  
天正19(1591)年2月28日、降りしきる雨の中、利休の屋敷を3000人もの兵が取り囲みます・・利休に切腹を申し渡す使者、利休の反応は…  
茶を点てもてなす事だったといわれます。  
これが利休最後の茶となりました・・この夜、利休は切腹、茶の湯一筋に生きた70年の生涯でした。  
千利休の死後、秀吉はその一族をも処罰、千家一族はバラバラになり、利休の茶の湯の伝統は危機に晒されます・・しかし、それを救ったのが徳川家康など利休に助けられる事も多かった武将たちでした。  
利休の死後、利休の子、小庵は会津に送られ謹慎の身となった・・この時、小庵を支援し、秀吉に恩赦を願い出たのが利休と深い親交のあった会津の大名、蒲生氏郷と徳川家康でした。  
利休の死の3年後、小庵は秀吉に許され京都に戻ります・・この小庵が利休の伝統を継承したことで今も続く、表千家、裏千家、武者小路千家などの茶の湯の流派が生まれることになったのです。  
会津若松では、今も千家のルーツを築いた小庵をしのぶ茶会が開かれています。  
「継承者の小庵さんが京都に戻らなかったら全てのお茶の文化というのは変わっていただろうと思います」  
利休の死後、まもなく秀吉は、九州に名護屋城を築城  
それでは、最後に・・近年、九州で利休と秀吉の絆を物語るものが発見されました・・利休を失った秀吉の想いにまつわる秘話です。  
佐賀県唐津市、名護屋城跡・・秀吉が築いたこの城跡から近年、注目すべき遺構が見つかりました・・茶室の後です。  
これまで秀吉は、名護屋城では黄金の茶室を愛用してきた事が知られてきました・・しかし、見つかった茶室は素朴でつつましいたたずまい・・利休が生前愛していた茶室によく似たものでした。  
秀吉がこの頃に出した手紙です  
「利休が好むような屋敷になるようねんごろに造ってほしい」(秀吉が部下に宛てた手紙)  
かつては利休の造る茶室に不満をもらしていた秀吉、しかし利休の死後、日が経つうちに利休が伝えようとしていた素朴な美しさが理解できるようになったのかも知れません。  
「昨日、利休の作法で食事をしましたが、たいそう趣がありました」(秀吉が母親に宛てた手紙)  
戦国時代、その後の日本の基礎となる革新を行いながら非業の死を遂げた千利休・・その利休の死を誰より悲しんだのは、共に天下に駆けのぼりながら切腹を命じざる得なかった豊臣秀吉自身だったかもしれません。 
 
「千利休」という名前

 

堺の今市町に田中与兵衛の子として生まれる。姓は「田中」で「千」は当初通称であったとみられる。与四郎の名で記録上に登場しはじめるのは、天文4年(1535)4月のことで、14歳のことである。 はじめ、能阿弥流の茶匠北野道陳に茶技を習う、ついで、道陳の紹介で武野紹鴎に師事し、珠光流の寂び茶事を学んだといわれる。入門は利休19歳の時である。ちなみに「利休」という名は、天正13年(1585)10月、豊臣秀吉が念願の関白職に任じられた返礼として開いた禁中での茶会において、秀吉の後見役として用いた居士号である。
 
【遺偈】 ゆいげ 高僧が臨終に際して後人に残すためにつくる偈(げ)。死後に残された偈。 
【偈】げ (梵gDthDの音訳)仏語。経典中で、詩句の形式をとり、仏徳の賛嘆や教理を述べたもの。四句から成るものが多い。狭義には原始経典を分類した九分教、十二分教などの一つをさすが、広義には経の本文を重ねて韻文で説いた祇夜(ぎや)、偈頌でない散文でも字数が32字を一節とする首盧迦(しゅろか)なども意味する。伽陀(かだ)。諷誦(ふうじゅ)。偈頌(げじゅ)。孤起頌(こぎじゅ)。 
【開経】かいきょう 仏語。三部経のうち、本経の予備として説く序説の経文。法華経を本経とした無量義経の類。経典をひもとくこと。そのとき唱える偈(げ)を開経偈という。 
【正信】しょうしん 正しい信仰。正法を信じる心。 
【正信偈】しょうしんげ 「しょうしんねんぶつげ(正信念仏偈)」の略。 
【正信念仏偈】しょうしんねんぶつげ 親鸞の「教行信証」の行巻末尾にある偈頌(げじゅ)。7言120句から成り、弥陀の本願と救い、釈迦出世の本懐などを説き、真言七祖の教えを述べたもの。真宗で和讚とともに仏前で読む。正信偈。 
【半偈】はんげ 仏語。偈文の半分。普通には涅槃経にある「諸行無常、是生滅法、半滅滅已、寂滅為楽」の後半の偈八字をいう。釈迦が雪山で菩薩の行を修めていたとき、羅刹から前の半偈を聞いて歓喜し、後の半偈も聞こうとしたが羅刹が語らなかったので、自分の身を羅刹に与えることを約して聞くことができたという。 
【偈頌】げじゅ (梵gDthDの音訳の「偈」と意訳の「頌」を合わせたもの)=偈 
【七仏】しちぶつ 仏語。釈迦如来が世に現れる前に出た仏に、釈迦を加えて七と数えたもの。毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くながんむにぶつ)、迦葉仏(かんしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の総称。過去七仏。「しちぶつやくし(七仏薬師)」の略。 
七仏通戒(つうかい)の偈(げ) 仏語。過去七仏が通戒(略戒)とした偈。簡略に諸仏の教戒を示した偈。「諸の悪はなすなかれ(諸悪莫作)、衆(もろもろ)の善は奉行せよ(衆善奉行)、自ら其の意を浄くせよ(自浄其意)、これ諸仏の教なり(是諸仏教)」。 
【讚仏歌】さんぶつ‐か 仏語。仏を賛嘆する歌。仏前で詠む和讚、今様(いまよう)、偈(げ)、詩、和歌、訓伽陀(くんかだ)など。 
【讚仏偈】さんぶつ‐げ 仏語。仏の功徳を賛嘆した偈。特に「無量寿経‐上巻」にある法蔵菩薩が世自在王仏を賛嘆した「光顔巍々」で始まる一偈八十句。
 
【往生礼讃偈】おうじょうらいさんげ 唐代の僧善導の著。六時に行なう念仏行者の行法とその功徳を説く。詳しくは「勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈」という。 
【歴劫不思議】りゃっこう‐ふしぎ (「法華経‐観世音菩薩普門品」にある偈の句「弘誓深如レ海、歴レ劫不二思議一」から)いくら時を重ねて長く考えてもわからない不思議なこと。 
【唄】ばい (梵pathakaの音訳、唄匿(ばいのく)の略)仏語。仏教儀式で唱える歌謡。漢語または梵語で偈(げ)・頌(しょう)を詠歌し、三宝の功徳を賛嘆するもの。短い詞章を一音一音長く引き伸ばして時間をかけてうたう。 
【念彼観音力刀尋段段壊】ねんぴかんのんりき‐とうじんだんだんえ (「だんだんえ」は連声で「だんだんね」とも)仏語。「法華経‐普門品」の中の偈(げ)。観音の力を念ずるときは、敵が刀の害を加えようとしても、その刀は突然いくつにも折れこわれるということ。 
【如来唄】にょらいばい 如来の勝れた色身をたたえた勝鬘経の八句の偈(げ)。梵唄(ぼんばい)に用いる。 
【調声】ちょうしょう 仏語。法会のとき、導師が経や偈などの初めの一句を唱えて、唱和のために調子をととのえること。句頭、唱歌ともいう。 
【懺法】せんぼう 仏語。経を読誦して、罪過を懺悔(さんげ)する儀式作法。罪障を懺悔するために、特別に行う法要で、古くは悔過(けか)といった。法華懺法、観音懺法、阿弥陀懺法などは滅罪生善の後生菩提のために行われ、吉祥懺法は鎮護国家、息災延命の祈願をこめて行われる。中古以後、法華懺法が盛んで、懺法は法華懺法の略称となった。読誦する経文や偈(げ)文。仏名を念誦すること。 
【是生滅法】ぜしょうめっぽう 仏語。万物はすべて変転し生滅するもので、不変のものは一つとしてない。「涅槃経」の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の四句偈の一つ。 
【生滅滅已】しょうめつ‐めつい 仏語。涅槃経に説く四句偈の一つ。生滅の世界から超脱すること。涅槃(ねはん)にはいること。 
【常不軽】じょうふきょう 「法華経‐常不軽菩薩品」のこと。その中の24字の偈(我深敬二汝等一不二敢驕慢一所以者何汝等皆行二菩薩道一当レ得レ作レ仏)を唱え礼拝巡行すること。 
【祇夜】ぎや (梵geya「応頌(おうじゅ)」または「重頌」と訳す)仏語。十二部経の一つ。経典中、散文の教説を重ねて偈(げ)で述べ敷衍(ふえん)したもの。 
【常在】じょうざい 仏語。時間の流れにかかわりなく、恒常的に存在すること。常にいること。いつもそこに居住していること。 
【常在霊鷲山】じょうざい‐りょうじゅせん (「法華経‐寿量品」にある自我偈(げ)の一句)仏語。釈迦の寿命は永遠であり、方便のために入滅を示したが、実は常に説法し衆生を済度しているということ。 
【諸悪莫作】しょあくまくさ 仏語。諸悪をしてはいけないということ。七仏通誡の偈の初句。 
【頌文】じゅもん 仏語。経や論の文章の終わりに、仏の功徳をほめて述べる韻文。偈。 
【頌偈】じゅげ 仏語。仏の徳をたたえる一種の詩。偈。 
【偈佗】げだ =偈
 
【頌】じゅ 仏語。中国で、一般に韻文体の歌謡、詩句、聖歌など。狭義には経文中の韻文体の詩句をいい、広義には散文・韻文にかかわらず、字数が三二からなる一節。 
【錫僧】しゃくそう 九僧の一。法会の際、偈(げ)を唱え、錫杖(しゃくじょう)を振る役の僧。 
【止止不須説】ししふしゅせつ (「法華経‐方便品」で、舎利弗(しゃりほつ)が釈迦に、法華一乗の法門を説くよう願った時に、釈迦の答えた偈(げ))止みなん止みなん説くべからずの意。 
【四句】しく 四個の句。(四つの句から成るところから)「げ(偈)」の異称。 
四句の神歌(かみうた) 平安末期から鎌倉時代にかけて歌われた雑芸(ぞうげい)としての神歌の一種。二句の神歌に対して今様(いまよう)歌と同じ形式の七五七五の四句の歌謡。「梁塵秘抄」に集載されている。 
【以呂波歌】いろはうた 涅槃経の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅巳、寂滅為楽」の意を表わしたといわれる「色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ、有為(うゐ)の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」の七五調四句四七文字からなる今様歌。俗説に、弘法大師の作というが、現在では否定されている。平安中期ごろ韻学の世界で作られ、声調を整えるのに用いられ、また手習いの手本や字母表および物の順序を示すのにも使われた。最も古く見えるのは承暦三年の「金光明最勝王経音義」である。末尾に「京」がつけ加えられたのは鎌倉時代から、「ん」がつけ加えられたのはかなり後と思われる。いろは字。 
【賛嘆・讚歎・讚嘆】さんたん 感心してほめること。感嘆して称賛すること。(「さんだん」と濁る)仏語。偈を唱えて仏徳をほめたたえること。平安初期から行われた国語による仏教讚歌。法華讚歎、百石(ももさか)讚歎、舎利讚歎など。前二者は和歌の体。 
【下火】あこ (「下火」の唐宋音)禅宗で火葬の時、松火で棺に火をつけながら引導をわたす儀式。後には松火に火をつけないで、偈(げ)を唱えて、点火のしぐさをするだけになった。 
【十二分経・十二分教(ケウ)】じゅうにぶん‐きょう 仏語。経典の形態を形式や内容によって分けたもの。修多羅(しゅたら=契経)、祇夜(ぎや=応頌または重頌)、伽陀(かだ=諷誦、偈、偈頌または孤起頌)、尼陀那(にだな=因縁)、伊帝曰多伽(いていわったか=如是語、本事)、闍陀迦(じゃだか=本生)、阿浮陀達摩(あぶだだつま=未曾有)、阿波陀那(あばだな=譬喩)、優婆提舎(うばたいしゃ=論義)、優陀那(うだな=自説)、毘仏略(びぶつりゃく=方等、方広)、和伽羅那(わからな=授記)。前三者は経文の形式から、後九者は経文の内容から立てた分類。十二部経。 
【訓伽陀】くんかだ (「伽陀」は梵gDthDの音訳で、広義では偈または諷誦と訳す。歌謡の意)仏前で伽陀のかわりにうたう邦語の歌謡の称。今様形式と朗詠形式とがあり、法隆寺や天台宗で用いる。 
【略頌】りゃくじゅ 仏語。仏典の経・論などを覚えやすく韻文化したもの。偈。 
妙法の偈 仏語。すぐれて微妙な法を説いた偈頌(げじゅ)。 
【梵唄】ぼんばい 仏語。仏徳を賛嘆するために、曲調にのせて経文などを唱詠するもの。声明(しょうみょう)。梵音。四箇の法要の一つ。法会のはじめに「如来妙色身、世間無与等」などの偈を唱えて仏徳を賛嘆するもの。
 
徳川期の茶の湯

 

 

織豊時代  
16世紀後半には畿内の富裕な商人たちの間では茶の湯が広がっていましたが、信長は商人たちから有名な道具を召し上げて権力の誇示・家臣への褒賞として用いたと言われます。功績を挙げた家臣に茶道具の下賜や茶会開催許可を恩賞として与える事で、領地を家臣に与えすぎないようにするという訳です。既に茶を嗜む人々の間で茶道具の所持はステータスシンボルとなっていましたが、この事がそれに拍車をかけたと思われます。  
信長が倒れた後にその後継者となった秀吉は、信長と同様に茶の湯を利用するとともに、禁中で茶会を催したり大徳寺茶会で広く人を招き自分の茶道具を誇示したりして茶の湯の文化的地位上昇を図りました。茶の湯を自分の時代の文化とすることで自分の権威向上にもつなげようとしたと思われます。その集大成が北野大茶会でした。  
この時代、秀吉の下で茶の湯を大きく発展させたのが千利休です。彼については、茶の湯通史である程度述べましたし、詳しく述べだすとそれだけで長いレジュメが一本できてしまいますのでここでは申し訳ないですが割愛します。 
 
大名茶人  
利休が秀吉と対立して自陣に追い込まれた後に茶の湯の指導的地位に立ったのは利休の弟子・古田織部でした。利休が小間で茶事を完結させ主客の緊張感ある関係・世間での身分差に捉われない茶の湯を目指したのとは異なり、小間から広間に途中で席を移したり貴人席を設け武家・町人の区分を設けたりといった事をしています。利休が手捏ねの楽焼を好んだ一方で、織部も独自の陶器を好んでいます。これまでの道具の評価には捉われず自身の価値観により道具の価値を新しく作り出すという点で共通すると言えます。また同時代の織田有楽は、茶会で主君が家臣宅を訪問する際に茶席から入り奥座敷に通る「数奇屋御成」の儀礼を固めたと言われています。時には秀吉との衝突も辞さず茶の湯の質を純化し高めようとしていた利休に対し、彼らは時の政権に公認され保護される文化として茶の湯が扱われる時代において権力による要求に応えつつもその範囲内で可能な限り茶の湯の芸術性を高めていくという道を選ぶ事になったものと思われます。  
17世紀に入り徳川氏が政権を握った後もその傾向は続き、織部の弟子・小堀遠州は国産の新興陶器を盛んに取り上げて銘をつけて諸大名に分け与えました。これらの道具は「中興名物」と呼ばれ珍重される事になります。遠州は寛永十三年(1636)に将軍・家光の前で点前をする栄誉に預かります。これは彼の流儀が徳川政権に公式に採択された事を意味しており、諸大名にも遠州流を学ぶものが多く見られるようになります。一般に遠州の茶の湯は優雅で比較的リラックスした雰囲気を持つものであったと言われ、それが置けいれられたと言われています。同時期の金森宗和は「姫宗和」と呼ばれるほど優美・端整な流儀の茶の湯を行い、色絵のついた仁清焼を作らせ好んで用いました。彼の流儀は優美な趣味を好む朝廷貴族に受け入れられる事となります。片桐石州は利休の長男・千道安に学び「天作のわび」を重んじるなど利休の好みに近い茶の湯を行いました。彼の流儀は将軍・家綱に採択され遠州流に代わって主流となります。  
彼ら大名茶人が時の政権公認の文化としての茶の湯のあり方を模索した一方で、利休の孫・千宗旦は仕官せずそうしたしがらみのない状態で利休の流れを汲む茶の湯を追及していました。ただ、宗旦はそうした茶を息子達を仕官させる事で普及させようとしていましたし、朝廷貴族と交流を持ち広げようとしていたようですが。 
 
徳川期初期の町人  
徳川政権が成立した時期には、徳川氏と結びついた御用商人が力を持ち財を蓄えました。彼らは諸大名とも経済的に繋がりを持ち利権を得る事になりますが、茶の湯を通じて大名と交わりを持っていたのです。またこの時期は一般町人や女性にも茶の湯が広がり始めており、石州流の大口樵翁が「刀自之袂」を著して女性茶人の心得を説いたのは画期的な事でした。基本的に男性と同様に慣習に従うが、男性と同席する事に伴う無用な誤解を招くのは避けるよう配慮を求めると言う内容でした。 
 
朝廷での茶の湯  
秀吉が宮中で茶会を行って以来、徐々に朝廷にも茶の湯が根付いていきます。ただその様式は世間一般と些か異なっており、茶の後で宴会・歌舞音曲・遊戯(双六など)が催される事が通例で道具も金の茶道具などが好まれたようです。17世紀半ばには常修院宮慈胤法親王により朝廷の茶も様式化されていきます。小座敷を中心にして茶を行い書院も用いて音曲を楽しむ、比較的新しい陶器を珍重、掛け物では伝統的貴族文化を重んじるといった性格が確立されていきます。朝廷では他とは異なった独自の茶の湯文化が育っていたと言えます。それは村田珠光・千利休に代表される侘び茶よりも寧ろ足利時代の闘茶に近い遊興的な性格を持っていたのです。  
17世紀後半には後西院・真敬法親王らが茶を好み、後西院が親しい人々を中心に限られた客たちと茶を楽しんだ一方で真敬法親王は武家も含め広い範囲の人々を客として招いています。近衛家熙は楽焼を用いるなど外部の流儀も取り入れたと言います。その一方で、和歌や物語解釈と同様に「秘伝伝授」されるものとされたのも朝廷茶の湯の特徴でした。 
 
千家の宗匠たち  
17世紀後半になると宗旦の息子たちは長男・宗守(武者小路千家)が高松松平家、三男・宗左(表千家)が寺沢家などを経て紀州徳川家、四男・宗室(裏千家)が加賀前田家に仕官しつつもそれぞれ拠点を京に置いて活動しています。茶の湯の中心地である京を押さえた上で各地に流儀を伝える事で、利休の血脈と言う強みもあり次第に三つの千家流は力を伸ばしていく事になります。また当時、表千家からは新たな流派が多く生まれており藤村庸軒や杉木普斎などを輩出しています。普斎は伊勢外宮御師で伊勢や担当区域・網干で教えを広げ、弟子の習得に応じて「伝書」を与えていました。一方で同様に表千家から分かれた山田宗徧は「茶道要録」「茶道便蒙鈔」といった茶書を刊行して世間への啓蒙を進めています。17世紀初頭より町人らを対象に茶の解説書が多く見られていますが、その代表的存在と言えるでしょう。18世紀になると裏千家の一燈宗室も「又玄夜話」「茶道浜真砂」などの茶書を刊行するとともに、茶の湯の広がりに対応した新しい稽古方法として表千家の如心斎宗左(一燈の実兄)・川上不白とも相談して「七事式」を開始しています。一度に多人数を相手にする・広間で行うなど旧来のあり方と比べて異なっていたため批判もありましたが、茶を学ぶ人口が増加した事を受け、多人数を対象としての教授法が必要とされており七事式は定着。多人数を収容するスペースを確保するため広間を用い、基本学習としての反復練習を重んじる七事式は千家流においても時代に対応した変化を余儀なくされた事を示しています。また、この時期に三千家とも一子相伝制度・惣領制など形式が整えられています。同時期、川上不白は江戸に根拠を置き関東への茶の湯の広がりに一役かっています。 
 
大名の茶の湯  
大名たちは多くがステータスシンボルのためや社交場の必要もあり茶道具の収集に力を注ぎました。17世紀後半の伊達綱村や18世紀初頭の島津吉貴は数多くの茶会・茶事を催した事で知られていますが、点茶など茶の湯における実務はお抱えの茶道役が担っていたようです。この二人に代表されるように、茶道役を召抱えて実務を行わせ大名は名目上のみの亭主であったのが通例だったようです。こうして茶の湯における実務から解放された大名の中には道具の分類など特化した関心を示す事例も現れました。例えば18世紀前半の松平乗邑は家蔵道具や他家からの借覧道具を図・寸法・付属品に至るまで記録し分類した「三冊名物集」をまとめています。  
尤も、全ての大名が茶の湯の実務ができなかったわけでは勿論ありません。18世紀後半の柳沢堯山は石州流を学び利休の流れを汲む侘び茶を好み、しばしば自ら茶会を催しました。また既存の道具だけでなく自らの好みの道具も新たに作らせたり茶席を設計したりしています。また石州流伝授者として免許発行するほどの腕前でした。同時期の松平不昧も石州流伊佐派を学び真台子の伝授を受ける腕前で、大名に茶を教授したり名物道具を収集するほかにやはり自らの好みの道具を作らせたりしています。また不昧は茶器を時代別・種別に分類しランク分けした「古今名物類聚」を編纂した事でも知られます。  
幕末期の大老として知られる19世紀半ばの井伊直弼も、石州流を修め好みの道具を作らせるだけでなく自ら窯を設けて道具を作ったり家臣に教授したりしています。また「一期一会」「余情残心」の言葉で知られる「茶湯一会集」を著して茶の湯における理念を説いてもいます。後に茶の湯の近代化を進めることになる裏千家の玄々斎とも親交があったのは知られています。 
 
幕末期の町人茶の湯  
19世紀になると町人の茶の楽しみ方も多様性が見られるようになります。茶道具の分類の他に茶書や古典・会記まで記録した「茶器名物図彙」を編纂した大坂の草間直方のように茶器研究をする者、北陸の銭屋五兵衛のように投機の一環として茶道具を集め茶の湯を行っていた者、伊勢の竹川竹斎のように仲間と教養を高める目的で茶を嗜む者まで多種多様であった事は、茶の湯が富裕層を中心に町人にも広く根付いていた事を意味しています。 
 
おわりに  
徳川期には、茶の湯は利休ら時代のように文化の主役として時代を象徴する事はありませんでした。しかし町人・武家を問わずステータスシンボルとして、必須教養として上流階層の文化素養を支える役割をしっかりと果たしていたのです。近代に入ると、圧倒的な技術・軍事力を持つ西洋文明を礼賛する風潮が高まり茶の湯もその煽りを受けて敬遠され逆境の時代がしばらく続きましたが、その風潮が収まると新たに台頭した実業家たちが自らのステータスシンボルに茶の湯を選ぶのは自然な成り行きでした。彼らは「近代数寄者」として茶道具を収集するのみならず独自の感性で趣向を凝らし茶の湯の歴史に特筆すべき一頁を形成する事になるのです。 
 

 


 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 
 
利休と政治 

 

下剋上の時代と利休
1333年という年は鎌倉幕府が崩壊した年であると同時に、観阿弥が生まれた年でもある。このことはわたしには大変象徴的な意味を持っているように思われる。なぜなら鎌倉幕府が崩壊したという事実は、一つの時代の終焉と同時に新しい時代の幕開けを意味しており、ここから利休が自刃した天正十九年(1591)までの約二百六十年間は、時代区分的には南北朝時代、室町時代、戦国時代と区分されるが、もっと包括的に言えば下剋上の時代と言ってよいと思われるからである。下剋上とは下位の者が上位の者を押しのけて勢威を揮うこと、臣が君に取って代わることを意味する。つまり既成の支配体制が崩れ、新しい支配権を巡って力と力が直接ぶつかり合う時代ということである。力の強いものが勝ち、力の弱いものが負けて滅亡する、力の論理の時代である。この時代をなぜ利休自刃の年で切ったかと言うと、秀吉は天正十年(1582)本能寺の変を聞いて姫路から取って返し山崎に明智光秀を破ったが、その後天正十一年ライバルの柴田勝家を賎ケ嶽に倒してもなお天下の支配権は安定しなかった。天正十三年越中の佐々成政誅滅、天正十五年の島津征伐、天正十七年の小田原の北条攻め、それに引き続く天正十八年の会津進駐と約八年の間秀吉は戦陣に明け暮れ、秀吉の全国支配体制が完全に確立したのは天正十八年(1850)九月である。したがって天正十八年という年は、約二百六十年間にわたった下剋上の時代が終って、新しい封建的政治体制が誕生した年なのである。そして利休はその翌年の天正十九年に自刃して果てているのだ。何と象徴的な話ではないか。 
下剋上開始の時期に観阿弥・世阿弥の親子が活躍し、能の世界を確立して「さび」の美を完成させ、下剋上の時代の終末の時期に利休が登場して茶の世界を確立して「わび」の美を完成させた。しかも世阿弥の後に世阿弥なく、利休の後に利休なく、能も茶もその時点をピークとして後は形式に流れ、遊芸の一つに堕して今日に及んでいる。世阿弥の「さび」も利休の「わび」も今はもうない。世阿弥の「さび」は彼が遺した二十数編の能楽論と四十三番の能の脚本の中に遺されているが、利休の方は体系的に書き残されているものは何もなく、茶道に関する遺物が多少遺っているだけであり、利休を知るには自筆の書状、他者の茶会記、関連歴史文書から察する他はない。 
「利休研究」を書き始めるに当たって、利休という人物の歴史的位置、それに関連して観阿弥、世阿弥の歴史的位置を確定しておくことは、利休を理解する上に極めて重大な点であろう。 
利休は二百六十年にわたる下剋上の時代の終末に当たり、力の論理の終幕を飾るものとして、自刃という形の死を得たものだというのがわたしの認識なのである。つまり利休の死によって秀吉の力による征服の歴史は終了し、後は支配体制の強化によって権力を補強することだけが課題となって来るのである。この後慶長年間の豊臣から徳川への政権交代のための大阪城攻防戦や関が原の合戦があるが、これは新しい体制固めのための支配権力内での政権争いであって、もはや下剋上ではない。秀吉が作った全国的な封建的支配体制は、強化されこそすれ変革されることはなかったのである。  
 
わび茶の歴史

 

ところで利休の「わび茶」はまったく利休の創始したものかと言うとそうではない。これには利休の師の師である村田珠光(しゅこう)以来の百年に及ぶ歴史があるのだ。その点について簡単に述べよう。 
わが国での喫茶の歴史は遠く九世紀の初頭にさかのぼる。資料的には嵯峨天皇の御世に空海と天皇が茶を喫して別れを惜しんだということが書き残されている。これは当時が盛唐の時代で遣唐使の最盛期であり、平安宮廷は唐一色に塗りつぶされていたからで、喫茶の風も最新の唐風ファッションであった。しかし遣唐使の廃止(894)以後は文化の国風化、唐風文化からの離脱が進むにつれ、喫茶の風も次第に薄れ何時か忘れ去られてしまった。 
茶が復活したのはそれから三百年後の鎌倉時代の初期、宗の臨済禅と禅林の茶礼を伝えて帰朝した栄西(ようさい)からである。この当時の茶は栄西の「喫茶養生記」の内容からすると薬湯として用いられたものであって、まだ嗜好品として嗜まれたわけではなかった。同じ時代に明恵高弁が槙ノ尾の西明寺で茶を栽培したと言われているが、これももちろん薬の一種としてであろう。 
こうして禅を通じて招来された茶は、鎌倉時代宋から来日する多数の僧侶の影響で禅林の茶礼として定着し、来客の接待にも使われるようになった。この当時の喫茶の方法は今の茶の作法とはまったく違うもので、まず侍僧が来客の一人一人に天目茶碗と菓子を盆に載せたものを配る。この時茶碗の中には既に抹茶が仕込まれている。次に侍僧が一人一人の前に行って、中腰のまま左手に持った湯瓶(浄瓶(じんびん))から天目茶碗に湯を注ぎ、右手に持った茶筌(ちゃせん)で点茶する。そして客はこれを飲むというものである。 
こうして喫茶の風は鎌倉末期から南北朝にかけて次第に公卿や武家社会に広まり、茶は薬から嗜好飲料に変わって行き、茶寄合や闘茶が盛んになり、遊戯の道具となって行く。闘茶とは茶の種類当てのゲームで、「本非の沙汰」とか「四種十服の勝負」などと言って、栂(とが)の尾産の茶を本茶とし、それ以外の茶を非茶として本非を飲み分け、その的中率を競うものである。 
ところでゲームには賞品が付き物だから闘茶は賞品を巡ってのギャンブルあり、賞品を賭けもの(懸物)と言って、懸けものを目指してのスリルとギャンブルが茶寄合の中心的関心事となって行く。時あたかも下剋上の幕開け時代だったから、昔ながらのあらゆる規制が緩み、自由の雰囲気が社会にある陽気さを与えており、享楽的気分・官能的要求は人々の心に溢れ出していたと言ってよい。「バサラ大名」とか「バサラ茶」というものが生まれたのもこの時代で、バサラ大名の代表は当時佐渡判官だった佐々木道誉であった。 
バサラとは梵語の跋折羅に由来し金剛と訳されるが、金剛石がすべてを打ち砕くところから、標準を外れた、遠慮なく振舞う、身分を超えた贅沢をすると言った意味に使われるようになったものである。 
「太平記」によれば道誉は「宿所に七所を粧いて七番茶を調え、七百種もの賭物を積み、七十服の本非の茶を飲んだ」と言う。またこういう茶寄合というものは茶事が終ると「茶具を退け美肴を調え、酒を勧めて杯を飛ばす・・・もって歌い、もって舞い、一座興を増し、また絵、また管、四方の聴を驚かす」といった猥雑な遊興の場でもあった。 
つまりそれはゲームでありギャンブルであり、猥雑なレジャーであり、しかも度を超えた贅沢であったわけである。さらにもう一つ付け加えるならば、異国趣味、唐物趣味、舶来崇拝でもあった。つまり座敷飾りの絵画、書、三具足(香炉、燭台、花器)等々を高価な舶来物で埋め尽くしたのである。唯ここで一つ注目しておきたいのは、そういうバサラ的茶寄合の茶事においても、点茶のやり方は先に述べた禅林茶礼の方式がそのまま守られていたことだ。南北朝時代の茶寄合はだいたい以上のようなものであったが、こうした茶寄合・闘茶の風が一世を風靡するにつれ、一般庶民の間にまで茶を飲む習慣が普及して行ったことは重要である。
 
室町初期に入ると茶の栽培が盛んになり生産高が増加して、寺の門前などでは一服一銭の茶店も立つようになって行く。ここまで来ると茶は一部の特権階級のものから一般庶民の中まで浸透して行き、公卿社会や為政者足利幕府では茶事が盛んに行われたが、義満は和歌・連歌・田楽・猿楽などにも強い興味を抱いていたから、茶一辺倒になることはなかった。茶が将軍の嗜好の中で大きな比重を占めるようになるのは、書院造り建築が武家文化の象徴として本格的に展開して来る義政の時代からだろう。茶の湯もまたこの書院造り建築を場として定型化して行くのである。 
書院造りでは従来の板の間が畳敷きになり、床の間が生まれ、違い棚が作られる。そこで座敷飾りの方法も自ずから決まって来る。書院の茶は折り目正しい形式ばった茶で、従来の茶寄合とはまったく性質を異にし、優れた芸術品を鑑賞しつつ一服の茶を味わって、俗世間とは別の風雅な天地を建立しようというものであり、清潔で風格の高い茶事であった。しかも書院の結構は非常に和風化が進んでいた。唯茶事に使用される道具類は床の間に懸ける絵画はもちろん、香炉、香合、花瓶、茶壷、茶入れ、茶碗などすべて舶来の名品・珍品ばかりで、この点だけはバサラ茶や茶寄合と異なるところはなかった。 
義政の同朋衆であった能阿弥や相阿弥による「君台観左右帳記」によれば、義政の手許には厖大な唐物名物が集積されていたことがわかる。書院茶はこの限りでは後に利休が大成したとされる「わび茶」と比べ、はるかに装飾物過多な茶であった。 
この「格式法儀」の厳重な書院台子(だいす)の茶を「わび茶」に変革した最初の人は村田珠光である。珠光は奈良の春日社の僧杢市(もくいち)検校(けんぎょう)の子として生まれ、称名寺の下僕となり、帰京して大徳寺の一休宗純の弟子となり、深く禅に親しむと同時に茶に傾倒して数寄者と言われた。一休にも深く愛され印加の印として闦悟(かんご)克勤(こくごん)の墨蹟を貰っている。珠光は青年時代闘茶に熱中して寺を追われ、諸国を流浪して闘茶の判者を勤めたと言うから、相当の道楽者でありアウト・ローであったらしい。その珠光が「わび茶」の創始者になる上にもっとも大きな影響を与えたのは一休であり禅であったのは間違いない。唯ここで言っておきたいのは、球光の場合禅が茶に影響を与えたとは言え、禅の精神が全面的に茶に取り入れられ、茶禅一味が実現されたという意味ではないことである。 
その点については「わび茶」の完成者と言われる利休においてもまったく同じであって、茶と禅との関係は別個に論ずる予定だが、ここで言う禅の影響というのは、禅の表現の一つである簡素なものを尊ぶという点に関してである。禅がありのままで簡素なものの中に真実を見出したのに対して、「わび茶」が簡素のものの中に美を見出したという意味においてである。 
そう言う点で珠光は四畳半の茶室を考案してのだが、従来の大広間や書院の広さを四畳半に限定したということには大きな意味があった。なぜなら四畳半と言う極めて狭い空間は、従来の過多な装飾を大きく制限せざるを得ないものであり、そのため座敷飾りは必然的に簡素化されざるを得なくなっただけでなく、茶事に参加する人数も小人数に限られることになったからである。このため従来の寄合茶の性格は一変し、茶会はお互いに心の通じ合った少数の人々の、心の交流に場に変わって行ったのである。つまり座敷が四畳半の空間に限定されたということは、従来の茶を本質的な面でまったく異なるものに変革する意味を持っていた。
 
しかし珠光の「わび茶」の本質は「藁屋ニ名馬ヲ繋ギタルガヨシト也。然レバ即チ、粗相(そそう)ナル座敷二名物置キタルガ好シ。風体ナホ以ッテ面白キ也」(山上宗二記)という言葉が象徴するように、すべて簡素をもってするにもかかわらず、一点豪華主義と言うか、簡素の中に名馬を必要としたこともまた特徴で、この場合の名馬はやはり従来の唐物名物であったのである。そこに書院茶の母斑(ぼはん)を色濃く揺曳していたと言っていいだろう。珠光自身多数の唐物名物を所持していたことは有名であって、つまり珠光の段階ではまだ茶の和様化は不徹底だったと言わねばならない。しかし珠光の「わび茶」の創始者としての業績は極めて偉大であり、それは次の武野(たけの)紹鴎(じょうおう)に引き継がれて更に徹底化されて行く。 
先に上げた「山上宗二記」は天正十七年(1589)利休の高弟の山上宗二が著した茶道の秘伝書であるが、その時代の茶人の資格を茶湯者、数寄者、名人の三段階に分けている。茶湯者とは茶道具の目利きができて茶湯も上手であり、茶湯を教えることによって暮らしを立てているもののこと、数寄者とは胸の覚悟と作分(さくぶん)(工夫のこと)と手柄が揃っているもののこと。名人とは目利きも茶湯も上手で、胸の覚悟、作分、手柄も揃い、唐物名物を所持し、且つ一道に志の深いものを言うとある。 
つまり利休の時代にあっても名人と言われる最高の茶湯者は唐物名物を所持していなければならないという認識だったのであって、利休自身も最後まで何点かの唐物名物の所持者であった。利休の「わび茶」というものはそういうものであったことをここで確認しておく必要がある。 
もっとも「わび茶」にはもう一つ別に珠光の弟子の粟田口善法とか宇治のノ貫(へちかん)の流れがある。 
同じ「わび茶」であっても彼らは俗世の権力や富を嫌い、無権力と無産の中に広く自由な世界を打ち立てようとしたのだ。「山上宗二記」が粟田口善法について「カン鍋一ツニテ一世ノ間、食ヲモ茶湯モスル身上ヲ楽シミ、胸ノキレイナルモノトテ珠光褒美候也」と書いているのだが、これは「わび」の窮極であって、明らかに利休の「わび」を超えており、むしろ「さび」の世界に至っていると言っていいであろう。 
また柳里恭の「雲萍雑誌」という書には、ノ貫(へちかん)が利休を評したという次の言葉が載っていると言うが、この言葉の中には利休の本質ばかりでなく、ノ貫の本質まで見事に表れていて興味が深い。 
「利休は幼き時は心いとあつき人なりしに、今は志薄くなりて昔とは人変われり。人も二十年づつにして志の変ずるものにや。われも四十才にして自ら棄つるの志気とはなれり。利休は人の盛んなことまで知りて、惜しいかなその衰うるところを知らざるものなり。世の移り変われるを飛鳥川の淵瀬にたとえぬれども、人は変われることそれより疾し。かかれば心あるものは身を実土の堅きにおかず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなかようにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。蓮胤(長明)は蝸牛にひとしく家を洛中に曳く。われは蟹に似て他の掘れる穴に宿れり。暫しの生涯を名利のためにくるしむべきやと、いとおしくおもう」 
この善法やノ貫は佛教の諸行無常の哲学を身を以って生き、この精神を茶において実践した人たちである。唐木順三はこれを「わびをもわびた」と表現しているが、彼らが唐木の言うところの色即是空の空に達していたとするならば、それは佛教で言う悟りの境地であって、これ正に茶禅一味と言うことができるだろう。とすればそれは「わびをも侘びた」と言うような文学的表現と言うか、論理的に明確でないフィーリングに寄りかかった表現で済ますことはできない大きな問題ではないか。この点については後に詳しく述べる予定なのでここではこれだけにしておくが、一口に「わび茶」と言っても、珠光、紹鴎、利休の「わび茶」の他に善法やノ貫の「わび茶」があったことを忘れてはならないし、善法・ノ貫に照らしてみる時、珠光、紹鴎、利休の「わび茶」の本質が逆に明らかに浮かび上がって来るのではないか。 
ところで話が横道に逸れたので珠光につづく紹鴎に戻ろう。前に紹鴎を珠光の弟子のように書いたが、実は紹鴎は珠光の直接の弟子ではない。珠光は元亀二年(1502)に死んでいるが、紹鴎の生まれたのは永正三年(1506)と言われ、珠光の死後に生まれているのである。唯紹鴎の茶は珠光の「わび茶」を継承しそれを発展させたものである点珠光➝紹鴎の線は繋がっていると見てよい。 
武野紹鴎は堺の舳松町(へのまつちょう)に住む皮革商で、当時重要な軍需品であった皮革の商いで巨富を積み、和歌や茶に傾倒した。「山上宗二記」に次のような記事がある。 
「紹鴎三十マデ連歌師ナリ。三条逍遥印殿(三条実隆)の「詠歌大概之序」ヲ聞キ、茶湯ヲ分別シ名人ニナラレタリ」 
紹鴎は実隆に師事して「伊勢物語」や歌論を学んだが、「詠歌大概」一巻を与えられるまで歌学を追求していた。紹鴎は藤原定家の小倉山荘色紙の一枚を持っていて、これを茶室の懸物に使ったと言うが、当時舶来ものの絵画か禅僧の墨蹟しか懸けなかった床の間に、定家の色紙を用いたというのは、和歌の世界に深く入り込んでいた紹鴎が、そこに茶の世界と共通する優れた味わいを発見して、茶の和洋化を進めるために敢えてこれを用いたものと推察される。 
「山上宗二記」にも「茶湯ノ名人二ナリテ後ハ道具一種アレバ、ワビ数寄スルガ専一ナリ。心敬法師連歌の語に曰く。「連歌ハ枯レカジカケテ寒カレと。茶ノ湯ノ果テモソノ如クナリタキト、紹鴎常ニ言ウト、辻玄哉言ワレシトナリ」の言葉がある。これを見ても紹鴎が常に「枯れかじけて寒かれ」という連歌の精神によって茶道を考えていたことは明らかで、茶道においても心敬の言う味わいを目標としてそれを「わび茶」の要点として追求していたに違いない。 
また紹鴎は大徳寺の古岳宗旦に参じ、次いで古岳の法嗣(ほっす)となった大林宋套に参禅した。このことを以って紹鴎が深く禅の精神を体得し、これを茶道に取り入れ茶禅一味が一層進められたと説く学者もいるが、これは大いに疑わしい。紹鴎が参禅したのが一休ならいざ知らず、当時の禅僧はこの古岳宗旦にしろ大林宋套にしろ、利休と親交のあった大林宋旦の法嗣の春屋宗園や古渓宗陳にしても、その言動から察するに相当世俗化した連中であって、当時の禅僧自体に一休のような厳しい禅の修業と実践があったとは到底考えることができないからである。この辺りは何れ別項で詳しく論ずることになるのでここではこれ以上触れないが、紹鴎において彼の参禅がどれだけ「わび茶」を徹底する力にいっていたかどうかは極めて疑問である。 
ところで紹鴎が従来の唐物名物一辺倒から目を転じて国産の道具類に新しい美を見出し、これを大胆に茶道に取り入れたことは正に革命的だったと言ってよい。紹鴎は優れた目利きで、彼が見出したものには信楽(しがらき)の水差し、備前の建水、竹の自在鉤、木地の釣瓶型の水差し、木の曲げ物の建水、竹の蓋置きなどがあるが、彼はこれらのものを好んで用い、新しい芸道の在りかたを切り開いたのである。従来ならば一顧も与えられなかったこれらの国産の雑器が、紹鴎の目利きによって新しい価値を与えられ、新しい美となって茶の世界に初めて登場したのだ。四畳半の茶室の創作と言い、これら国産雑器の美の発見と言い、世の流れが和様化に向かっていた時とは言え、紹鴎の業績は限りもなく大きい。もしこの紹鴎という天才がいなかったら、利休の茶も決してわれわれが知っているようなものにはなり得なかったに違いない。この点で利休は珠光や紹鴎という偉大な先輩の切り開いた土地においてこそ大きな収穫を上げ得たのであって、「わび茶」というものは決して利休一人の創作物ではなかったのである。  
 
信長との出会いまで

 

利休は大永二年(1522)千與兵衛の子として生まれ、幼名與四郎と言った。(利休の生誕の時期についてはいろいろ喧しい議論があるが、ここでは一応の定説に従って詮索しないことにする)この時はまだ信長も秀吉も生まれていない。信長が生まれたのは利休が十三才の時天文三年(1536)である。したがって信長と秀吉は略同年輩だが、利休はそれより十二才乃至十四才年上ということになる。 千家の職業は堺の納屋衆(なやしゅう)、つまり倉庫業者で中程度の商人だった。祖父は田中千阿弥と言い足利義政の同朋衆の一人だったが、応仁の乱の折り山名宗全と細川勝元の争いのとばっちりを受けて一時堺に退去した。乱後義政が隠居し家督を義尚に譲ったのを機に帰洛して義尚に仕えたが、義尚が没した時堺に帰り再び出仕することはなかった。この利休の祖父の経歴についてはいろいろの説があるが今は問わないことにする。ここで堺に生まれ堺に育った利休を知るためには、当時の堺の町がどんな性格を持っていたかを知ることが重要であろう。 
先ずルイス・フロイスの「日本史」によると1562年頃、つまり利休が四十才の頃の堺について次のように書いている。 
「堺は日本のベニスである。単に大きな町というばかりでなく富裕であり、商取引が盛んで一般諸国の共同市場の観を呈しており、常に各地から人々が集まって来る。堺の市民の傲慢で気位の高いことは非常なもので、彼らは唯欲望をほしいままにして暴利をむさぼり、逸楽に耽り快楽に浸って飽くことを知らない」 
また「耶蘇会日本通信」所載の同じ時期のパードレ・ガスパール・ビレラの書簡にはこうある。「余が数年間滞在した堺は人口多く富裕な市にして海の良い港であり、百を越える広壮な寺院がある。その地は富裕で坊主などは富の大部分を収納するから、彼らの堂や、その国風に応じて贅沢に住むところの家は立派で見るべきものが多い。この市の人は富かつ怠惰だから毎日僧院を訪問し、宴会や遊興やそれに類する肉体的娯楽に時を過ごし、そのため僧院はよく整備されている。また市の主だった家の子息たちは僧院に入って一層繁盛にするから、庶民はこれを尊敬し丁重に扱っている。住民の数が多いから僧院や家々も多く金銭を所有している。余は僧院数ヶ所を見たが、その一つから出る時壮麗なことこれ以上のものはあるまいと思うにもかかわらず、次の僧院へ行くと前の僧院はこれと比較にならないと思うのだった」。 
また「日本全国で当堺より安全な町はないし、他の諸国に動乱があってもこの町が巻き込まれることはなく、負けたものも勝ったものもこの町へ来れば皆平和に暮らし、諸人が相和して他人に危害を加えるものはいない。町の中で争いが起こることはなく、敵味方の区別なくみな大きな礼儀と愛情をもって交際している。町にはあらゆる方角に門があって番人がおり、争いがあればすぐ門を閉じてしまうのもその一つの理由だろう。争いが起きた時にはその犯人や関係者をすべて捕らえて処罰する。町は極めて防備が固く、西側は海だし他の側は深い濠を廻らしてあって常に満々たる水をたたえている」 
さてここに堺商人の反権力、独立不羈の精神を示すものとして永禄十一年(利休四十七才)の時の事件がある。 
岐阜城を発して京都に入り天下統一に乗り出した信長は、その軍費に当てるため堺にニ万貫の矢銭を課して来た。堺のほか石山本願寺や大和法隆寺はこれに応じたが、堺ばかりはこれを拒否した。これは堺の会合衆三十六人が、三好長慶の後を継いで信長と激しく対立していた三好三人衆と結びついていたからであるが、信長から早速堺を攻撃する旨達せられると、強く反発して能登屋、臙脂屋(べにや)を大将として諸国の浪人を集め、北の口に菱を撒き、濠を深くし、櫓を構えて合戦の用意を固めた。しかし堺全市を焼き払い全市民を殺戮するという信長の恫喝(どうかつ)にはさすが強気の堺衆も遂に膝を屈し、浪人を置かないこと、三好一味に加担しないことを制約し、ニ万貫を上納してことは収まった。これは堺衆の信長に対する全面降伏で、以後堺は信長の直轄地となり、松井友閑を奉行に迎えて、自由都市としての堺の歴史は幕を閉じた。この時堺の富商の中にも硬軟二派があった。硬派は自主防衛を主張するのに対して軟派は穏健に事を納めようとした。この穏健派は主として茶人グループであった。納屋衆の今井宗久は信長入京の翌月早くも秘蔵の「松島の壷」と「紹鴎の茄子の茶入れ」を献上して信長の権力と結びついている。硬派は主として日蓮信者であり、軟派が禅に結びついていことは特徴的である。
 
こうして堺が信長に降伏すると、堺衆が信長の茶会に招かれるようになり、千宗易も宗久の推挙で信長の茶湯者として仕えるようになる。この当時堺では富商たちの間で茶湯は極めて盛んであり、数多くの茶会が開かれ多くの茶湯者を輩出した。例えば奈良の塗師屋(ぬしや)松屋久政の茶会記によれば、永禄二年(1559)の四月十八日から二十三日まで堺滞在中連日のように茶会に招かれており、その回数は九回の多きに及んでいる。六日間に九回だから一日平均1.5回ということになり、茶湯の流行の盛大さに驚かされる。招いた側には天王寺屋道叱(どうしつ)、納屋宗久、住吉屋宗左衛門、樋口屋道閑、薩摩屋宗折、木下宗五郎、北向道陳、天王寺屋了雲、千宗易などの名があり、これを見てもいかに茶湯が堺商人の中に流行していたかがわかる。紹鴎はもちろん、利休の高弟の山上宗二も薩摩屋という堺の商人であったし、この他に天王寺屋宗及(そうぎゅう)(津田宗及)の名も忘れることはできない。 
それともう一つ忘れてならないことは、彼らの茶が前に述べた粟田口善法やノ貫のような「わび茶」ではなく、紹鴎の流れとは言え相変らず名物道具の所持に熱中していたことである。例えば永禄七年(1564)の奥書を持つ茶書「分類草人木」には次の記述がある。 
「数寄ということ何れの道にも好み嗜むを言うべし。近代茶の湯の道を数寄と言うは数を寄するなれば、茶の湯には物数を集むるなり。諸芸の中で茶の湯ほど道具を集むるものこれなく・・・」とある。しかもこれは永禄七年だから、利休が四十三才の時のものであり、この時代でも唐物一辺倒ではないにしても、名物収集が彼らの茶の大きな重点であったことは疑いない。因みに「わび茶」の推進者の紹鴎でさえ「六種に上る名物を所持しているものを名人と称していた」と「山上宗二記」には記されている。 
更にここで堺と佛教との関わりあいを確認しておくことも重要であろう。南北朝から室町初期にかけての堺の有力者たちは時宗の信者であった。ところが応仁の乱によって堺が対明貿易港となるに及んで、新興の商人たちの多くは禅宗か日蓮宗の信者になった。 
現世利益を説く日蓮宗が新興商人たちに受け入れられたのは当然だが、一方禅宗が堺で盛んになったのについては一休の影響が大きい。一休は応仁の乱で焦土と化した京都を逃れ、堺に一庵を作って街頭に風狂僧の面目を発揮したらしい。これが堺と禅宗との結びつきの端緒だと言われている。このことがあって一休の法系につながる大林宋套が南宗寺を創建し、それ以来堺に禅宗が盛んになったと見てよかろう。当然のことながら南宗寺は京都の大徳寺と密接な繋がりを持つようになり、大林宋套も笑嶺宗訢(そうきん)も古渓宗陳も、南宗寺から応仁の乱後再建なった大徳寺の住職に出世している。南宗寺その他の禅宗寺院の建立や、南宗寺から大徳寺への住職の出世などはもちろん、堺商人の富裕な財力のバックによって初めて実現したものに違いない。そういう意味で堺商人と禅宗とが密接に結びついていたのは疑いなく、その懇親の場として茶湯が用いられてことも事実である。こう見て来ると利休に関係を持つこれら禅僧たちは、堺商人を強力なスポンサーとして、その援助を大いに多としており、彼らとの交際の内容や利休などに与えた数々の偈(げ)などを見ても、明らかに堺の富裕な商人たちと癒着していたと見てよく、禅僧としては一休などと比べものにならない堕落の淵に落ちていたと見るべきであろう。このことは利休と禅との関係を論ずる時忘れてはならない重要な点である。 
ところで利休は天文九年(1540)十九才の時父與兵衛を亡くし、同じ年紹鴎に入門したと言われている。利休(当時は與四郎)が紹鴎に茶を学ぶため初めて門を叩いた時、紹鴎は予め下男に露地を掃除させた上で與四郎に改めて露地の掃除を命じた。見ると露地には塵一つ落ちていない。考え込んでいた與四郎はやおら傍らの木の幹を揺すった。木の葉が数枚露地に舞い落ちた。それを物陰で見ていた紹鴎が、利休の咄嗟の機知と茶の作分の見事さに感嘆したという話が残されているが、真偽のほどはわからない。しかしこの話はあまりでき過ぎている上に、利休の作分があまりあざとくて、すんなり心に入って来ない。紹鴎がこれに舌を巻いたというのも、もしそれがほんとうだとしたら、紹鴎の国産雑器の中から名物を掘り出したという作分まで、何となく嫌な匂いがして来てしまう。茶で言う作分と言うのは工夫という意味だが、殊に利休の作分なるものについては後でじっくり検討してみたい。
 
紹鴎が亡くなったのは天文二十四年(1555)だから、利休は約十五年間紹鴎の弟子として茶を研鑚したことになる。今井宗久は紹鴎の女婿であり、その関係で利休と宗久は早くから親しい間柄であった。同じ天文二十四年紹鴎は宗久と宗二を招いて茶会を催しているが、これが紹鴎が生前行った最後の茶会となった。利休もこの年自ら亭主として催した茶会に、万代屋宗安、今井宗久、宗好らとともに師の紹鴎を招き、秘蔵の牧渓自画賛や高麗茶碗でもてなしている。当時の利休は師の紹鴎を迎えて茶会を催すことができるまで実力を付けていたということが知られる。なお利休のもう一人の師の北向道陳も永禄五年(1560)に亡くなっているが、この時利休は四十一才だから、四十台から後はもう独立した茶湯者として彼独自の茶湯の道を歩き出したことになり、このあたりから宗久、宗及、宗易の三人の若手の時代が展開するわけである。 
ところで利休は永禄元年(1588)頃からしばしば三好長慶の弟の実休の茶会に招かれている。この実休は物外軒と号し、武将の中での数寄者で、唐物の珠光茶碗や「天下無双の名物」(山上宗二記)と言われた「三日月の壷」を所有していた。物外軒という号とうらはらなようで可笑しいが、とにかくこの三好家は河内、和泉、四国、淡路の四ヶ国の守護であり、管領細川家の家宰として堺とは関係が深く、三好長慶は主家を押しのけて京畿に勢力を張り、細川氏綱に攻められた時などは堺に逃げ込んで難を逃れたりしている。大徳寺の聚光院は三好長慶の菩提を弔うため、古渓宗陳の弟子の笑嶺宗訢を開山として開かれた寺であり、ここに利休の墓があることから見ても、堺と三好氏が深い関係にあったことが知られる。利休はこの三好実休のような武将茶人と早くから交際関係を持っており、それが後に信長や秀吉との関係に発展して行くのである。堺が信長の矢銭強要に対し三好氏を頼んだのも、万事実利的で政治的な堺商人の性格の現れであろう。利休もまた一茶人でありながら、こういう実利で政治的な堺商人の性格を終生持ちつづけて生きたのであって、そこに利休の「わび茶」の特殊な性格が生まれて来るのである。 
この頃利休は珠光の言う「藁屋の名馬」に強い執心を燃やしていた。永禄五年(1562)利休四十一才の時、津田宗達(宗及の父)、北向道陳、今井宗久の三人を客として朝会を催しているが、床に圜悟克勤の墨蹟を掛けている。圜悟克勤は北宗から南宗にかけての臨済宗の禅僧で禅禄「碧眼禄」の著者として名高く、大徳寺派の祖の一人である。この圜悟の墨蹟は一休が珠光に印加の印として与えたもので息子の宗珠に伝わり、それを利休がどういう経緯を経てか一千貫で買ったと言うのである。当時米一石一貫文と言うから、米千石の値段である。その頃の米の価値を現在に換算することは難しいが、現在ならおそらく何千万円という価格になるのではなかろうか。これを見ても当時の利休の納屋衆としての財力の大きさと彼の名物に対する執心の強さがはっきりわかるのである。 
この他利休が所持していた名物は、天正十一年(1583)秀吉が自ら発起して「道具揃え」、つまり名物展覧会を催した時、利休が持参したものは九点におよび、珠光香炉、小紫肩衝(かたつき)、細口花入、牧渓の潚湘(しゅうしょう)夜雨(やう)の図、橋立の大壷などの名前が見える。 
これを見ても利休が多数の名物を所持する数寄者であり、この点に関する限り従来からの数寄者の概念に一致していることは明白だ。名物に対する傾倒は後に利休が自ら長次郎に命じて新しい茶碗を作り出したり、自ら竹を切って花入れを作ったりするようになっても、決して消え去ることはなかった。
 
先にも書いたように堺に対する矢銭問題が起こる前に、いち早く信長に近づいたのは今井宗久である。宗久は岳父紹鴎伝来の松島の茶壷と紹鴎の茄子の茶入れを、折から摂津芥川に陣していた信長に献上した。これが永禄十一年の初めで、その同じ月すぐ信長は堺に対して二万貫の矢銭を課しているのだから、信長としては宗久を使って強硬な堺の会合衆を懐柔しようという意図があったに違いない。事実会合衆の三十六人の会議が信長の要求を拒否し、浪人を集め、濠を深くし、櫓を組み、北口に菱を撒くなどの戦闘態勢を取ったに見かかわらず、結局信長の前に屈したのは、今井宗久や父宗達の後を受けて天王寺屋を継いだ津田宗及などの説得が功を奏したものであろう。三十六人の一人だった宗易ももちろん宗久や宗及と同心であったに違いない。この一件で信長は堺支配のパイプ役としての宗久を大いに買ったであろうし、宗久もまた火薬を製造していわゆる死の商人として信長を助け、同時に巨利を博したのである。こうなれば宗久が信長に重用されて茶頭となり、宗久の推挙で宗及や宗易が信長に仕えるようになるのは無理のない筋道だったと思われる。 
宗及・宗易が信長に召し出されたのは天正二年(1574年)三月で、信長が京都相国寺で茶会を催し、宗久とともに得意の千鳥の香炉の拝見を許された時であるらしい。同じ年の四月信長は正倉院の名香蘭奢待(らんじゃたい)の一片を切り取って二人に与えており、この二人が信長にいかに厚遇されていたかを物語っている。 
さらに「信長公記」の天正三年十月の条の記録によれば、信長が京・堺の茶人十七人を京都の妙光寺に招いて大茶会を開いているが、その茶頭は宗易と記してある。この茶会は信長が加賀・越前の一向一揆の平定と、石山本願寺征伐の戦勝を祝って開いたものだが、そういう晴れがましい席で宗易が茶頭に指名されたということは、信長が宗易に並々ならぬ信頼を置いていたことを示している。ここで宗易は堺の宗易から天下の宗易になったわけだが、これが宗易五十四才の時のことである。 
翌天正四年にはかねて築城中の安土城が完成し、信長は岐阜から安土へ移って来るが、宗易もその一角に屋敷を貰って専門に信長の茶頭として仕える身となった。この頃宗久、宗及、宗易の三人は信長から三千石を給されている。信長から見れば一介の茶坊主に三千石とは破格の待遇であるが、これは信長の奔放な性格と、もう一つは彼にとってドル箱であった堺商人をしっかり自分の手に引き付けておくための方策であったろう。この頃の堺は納屋の宗久より宗及を中心とする天王寺屋の力が急激に上昇していたから、信長は宗及には最大級の気を遣っている事実があり、宗久の方は次第に影が薄くなりつつあった。信長という男はこのあたりの切り替えが早い。宗易に関しては信長はそういうこととは関係なく茶頭としての優れた能力だけに注目して重用したものと見られ、また宗易の茶湯者としての実力は三人の内誰が見ても最も傑出していたのであろう。こうして宗易は信長の三千石の茶頭として活躍することになる。  
 
信長時代

 

さて信長は将軍義昭を傀儡(かいらい)化して天下の実権を握ると、自分の文化的教養を粉飾するため、当時有識者が嗜みとしていた茶湯の道に異常な関心を燃やして行った。しかし信長の茶湯に対する態度はあくまで政治的理由と彼一流の気まぐれからであったから、秀吉のように心からそれにのめり込むということはなく、「金銀米銭御不足これなき間、この上は唐物天下の名物、召しおかるべし」(信長公記)と言うようなもので、外面的、形式的な関心に過ぎなかった。だから集めた名物も論功行賞や政治的手段として惜しげもなく部下や政敵に与えたりしている。したがって自ら茶会を催すことも少なく、そういう記録は秀吉とは比較にならないくらい少ない。利休たちも信長の茶会に列するよりも、その周辺の武将たちと多く茶会を持っている。惟任(これとう)日向守明智光秀をはじめ松井友閑、佐久間正勝、荒木村重、牧村長兵衛といった連中である。この牧村長兵衛は後に牧村兵部の名で知られた利休の弟子七人衆の一人となる。 
秀吉と利休が出会ったのもこの頃だ。秀吉は天正四年の頃戦功の褒美として茶湯興行の許しを得、信長から牧渓の「月の絵」や「乙御前の壷」を貰っているから、秀吉もこの頃やっと一人前として茶湯に携わる資格を与えられたらしい。利休と秀吉が何時どのようにして出会い、どのようにして親しい間柄になって行ったのか詳しい記録はないが、この頃利休が秀吉から丸壷を贈られ、秀吉も利休から霰釜(あられがま)を貰っていることからすると、同じ頃信長の三人の茶頭の一人として秀吉と利休の交際が始まったと見るべきだろう。つまり利休を含めた三人の茶頭は信長の生前から秀吉とは親しい仲になっていたのであって、ことに信長の晩年にはこの関係は相当深いものがあったから、秀吉が実権を握るとそのまま秀吉の茶頭として仕えることになったものと思われる。 
天正十年(1582)六月本能寺の変が起こり信長の時代が終る。秀吉が中国の毛利攻めからとって返し、山崎に明知光秀を討ち、次いで最も強力なライバルであった柴田勝家を賤ケ嶽に破り天下の覇権を掌握する。これは誰でも知っている事実だ。この時点で信長から秀吉への政権交代が完了する。この秀吉時代が始まった天正十年利休は六十一才であった。したがって利休が茶頭として秀吉に仕えたのは、自刃した七十才までの丁度十年間である。 
ところで利休が独自の作分を茶の中に取り入れ始めたのは五十代の末頃かららしい。利休は天正七年十二月宗久と宗及の二人を招いて茶会を催しているが、この頃には炉に「肩のたれたる釜」を吊るし、床に元の禅僧東陽徳輝の墨蹟を掛け、それにマイスケ了真というものから買った無銘の葉茶壷を据え、「はたのそりたる茶碗」を使ったと言う。 
「肩のたれたる釜」と言うのは型のくずれたいわゆるゲテ物であるし、茶壷も無銘、「はたのそりたる茶碗」とは長次郎に作らせた楽茶碗のような不均衡な形の茶碗であったと思われる。これが利休五十七才の暮れであるから、利休が独自の「わび茶」の世界を展開したのは、ほとんど秀吉時代の十年間と見ていいであろう。そして「わび茶」の展開の時期が利休が色濃く政治の世界に踏み込んで行った時期と重なっていることも明白である。 
一方で「わび茶」というような独自の芸術的な世界を切り開きつつ、一方で天下の政治と深く関わり合い、秀吉の政治にある役割を果たしたことは歴史的事実である。利休の藝術と言われるものがそのようにして成立したとすると、この二つがまったく無関係に共存し、それぞれに独自の発展を遂げたということは理解しがたい。芸術と政治が同じ利休という人格の二つの側面である以上、それらはお互いに関連し依存し制約しあって存在し発展したと見るのが自然の論理だろう。したがって利休の藝術と政治がどのように相互に影響し合って存在したかを探ることは忘れては成らない視点であると考えられる。 
秀吉の茶会に宗易の名が初めて現れるのは、天正十年十一月、秀吉が宗久、宗及、宗易、宗二の四人を迎えて開いた山崎の茶会である。この時は前半は秀吉が点茶し、後半は宗及が点茶している。この後天正十一年閏正月、秀吉はまだ山崎で宗久、宗及、宗易、宗二、重宗甫、万代屋宗安の六人を客として茶会を開いているが、特に注目されるのは勝家を滅ぼした秀吉が凱旋の途次近江の坂本で催した茶会である。この茶会のことを記した「宗及茶会記」には茶頭宗易と明記されている。秀吉は信長の茶頭であった宗久、宗及、宗易の三人を徐々に自分の茶頭に替えることによって、茶の面でも天下人たる信長にとって代わろうとしていたに違いない。 
ことにその中で秀吉は宗易に注目していたようである。信長が三人を茶頭として優遇したことの裏側には、堺の財力を利用し鉄砲や硝煙を手に入れるという政治的意図が強く働いていたのだが、秀吉にとっては今はもうそういうことはまったく問題ではなくなっている。彼は信長がやり終えたところから出発できたのだから、全国の財力を支配している秀吉にとっては、堺の財力に頼る必要はまったくなく、そういう意味では三人の茶頭に特に関心を示す必要もない。今や秀吉にとって欲しいものは、尾張中村の匹夫の出である彼が持っていない文化的権威であったろう。 
この点では信長も同じであったが、支配者としての前途を遠望できる地位にたどりついた秀吉にとっては、その欲望は信長の十倍も強いものがあったに違いない。事実その後秀吉の茶湯へののめり込み方は正にすさまじいものがあり、黄金の茶室とか禁裏茶会とか、北野の大茶会、そして名護屋や小田原での陣中茶会と、戦いの場まで必ず茶頭をつれて行つたほどで、秀吉の政治と茶湯は双頭の鷲のように切り離しがたいほどの関係になって行くのである。後に利休が秀吉の怒りを買って自刃に追い込まれたのも、秀吉の茶湯が政治との関わりを断つことができないほど一体化されたものであったからであり、政治の埒から一歩でも踏み出した茶湯というものは、彼の身辺に関する限り存在を認めることはできなかったのである。こういう観点からするならば、山上宗二が秀吉から酷刑に処せられたのも、利休自刃と本質的に同じ性質のものであったと思われる。それでは以後の秀吉と利休の関係を時を追って見て行くことにしよう。  
 
秀吉と茶湯

 

秀吉は柴田勝家を倒すと石山本願寺に大阪城を築き始め、それは天正十一年五月にでき上がって六月初め頃移っている。そして七月二日に宗及、宗易の二人だけを客として茶会を開き、それからは連日のように茶会を開くのだが、八月には再び宗及、宗易だけを客として茶会、そして九月には秀吉の肝入りで「道具揃え」というものが催されている。呼び出されたのは松井友閑、宗易、荒木道薫、万代屋宗安、それに宗及の五人。この頃秀吉は名物道具の収集に執念を燃やしていたから進上物も多く、この会に秀吉が持ち出した道具は十点にも及んでおり、何れも天下の名器とうたわれたものばかりである。 
それは次のとおりだ。初花の肩衝(かたつき)、玉礀筆「遠寺晩鐘図」、松本茄子、鏑無(かぶらなし)の花入れ、牧渓筆「月の絵」、虚堂の墨蹟及び四十石、松花、撫子、公方、荒身の五つの大壷である。このうち初花の肩衝は家康から献上されたもので、彼は政治的理由でこの稀代の名器を秀吉に贈ったらしい。秀吉の名物狩りは信長の上を行くものであったから夥しい名物が秀吉の手許に集中していた。所詮秀吉の茶湯は名物中心の大名茶であった。もっとも秀吉は宗易との関係を深めるにしたがって次第に「わび茶」への関心を深めて行ったことは確かだ。その現れとして秀吉は大阪城の山崎丸に草庵風の茶室を作らせ、宗易を茶頭としてしばしば茶会を開くようになって行く。利休が次第に「わび茶」の世界を切り開いて行き、秀吉をもこの世界に引き込んで行ったことは、実は利休の悲劇だった。なぜなら秀吉は利休の「わび茶」に魅力を感じ、その中に踏み込んで行くと同時に、「わび茶」の世界でも自らを一流の人物と認めさせたい欲望を激しく燃やして行ったからである。しかし利休と秀吉の関係に破綻が起こって来るのはまだ先のことで、当分は蜜月時代が続いて行く。秀吉は利休が展開する知的で美的な世界に、利休の手引きで一歩一歩踏み込んで行く。それはおそらく秀吉にとっては新鮮な驚きであり目を洗われるような体験であったに違いない。つまり秀吉は「わび茶」の世界を自らのものになし得たと誤認するまでは、利休を師として利休を立てることに何の抵抗も感じなかったであろうし、誤認にせよ秀吉が自らの「わび茶」についての自信を獲得するためにはある時間が必要であった。しかも利休は明敏な頭脳の持ち主であったから、政治上のことでも利休は秀吉にとっては利用価値は大きいものがあったし、両々あいまって二人の蜜月がしばらくの間続いたのは至極当然のことであったと思われる。 
しかし秀吉の覇権獲得はこの段階ではまだ完全ではなかった。信長の二男の織田信雄(のぶかつ)が駿河の徳川家康と組んで、秀吉の支配下に入ることを激しく拒んでいた。そこで天正十二年小牧・長久手の戦いが起こった。この戦いはそれまでのものと違って奇妙な戦いであった。普通戦いとは言えば両軍の主力が激しくぶつかり合って短期に勝敗が決するものであり、長期戦になっても双方が真剣に戦略を戦わすものである。ところがこの戦いは約十ヶ月両軍が対峙していたが、ただ小競り合いをやるだけで両軍とも真剣に相手を倒そうというところがなく、お互い時間を費やしながら和議のチャンスを窺っていただけであった。そし何時か曖昧のうちに和議が成立し、戦いはなんとなく終ってしまったのである。 
これは秀吉にしてみれば家康と言う何を考えているのかわからない複雑な人間が相手であったことが原因だろう。秀吉もこの家康だけは他の単純な戦国武将たちとは違う、何か不気味なものを感じていたに違いない。だから秀吉はただ力づくで押しつぶしてしまおうという方法を取ることができず、上述のような不得要領な戦いになってしまったのであろう。秀吉は家康を下手に扱うと自分の命取りになると直感していたらしい。実際秀吉が家康をただ力によって征服しよう としていたら、歴史はわれわれが今知っているものとは、まったく違ったものになっていたかも知れない。
 
ところで秀吉の茶湯への執心はそれがどんなものであれ、この時点で秀吉の内部に食い込んでしまっていて、茶を抜きにした生活など考えられないところまで来ていた。だからこの十ヶ月にわたる戦いの最中にも、秀吉は陣中で宗及、宗二、住吉屋宗無らを客として茶会を催しているし、その他にも和議も調わぬ十月一旦大阪城に戻り、宗及、宗駅らと所蔵の松花、捨子、佐保姫など九つの大壷の口切り茶会を開いたり、まだ同じ月松井友閑、細川幽斎、宗易、宗及、宗休、宗薫、千紹安、山上宗二、高山右近、古田織部など、当時の数寄者、茶匠二十九人を招いて大茶会を開催したりしている。これはもう熱病のようなもので、秀吉が茶湯に完全に熱くなっていた状況を手に取るように示している。それはもう秀吉にとっては趣味の域を越えたものであり、政治の中にまで食い込んで、極端に言えば茶湯政治と言った一面さえ見せるようになって行ったのだ。その走りと見られるものが天正十三年三月の北野の大徳寺における大茶会である。これに関する「宗及他会記」の記事を見てみよう。 
「三月五日に大徳寺において大茶会をご興行なされ、京、堺の茶湯仕る衆、茶道具を持ち罷り寄り候。堺へは南北を分けて宗易、宗及折紙を廻し候。堺衆二十四・五人罷り上り候。紫野中の塔頭方々似合い似合いに借り、屏風以下にて囲い、その内にて茶湯面々に仕り候。秀吉様御馬廻衆、大名衆も茶湯仕る衆いずれも右の分也。京衆五十人ばかり罷り出候」 
これはずいぶん大袈裟な茶会だ。堺・京の茶湯者七十人ばかり、それに秀吉の側近の武将たちや大名たちが加わったのだから、おそらく百人を越えたのではないか。その大人数のものが大徳寺の各塔頭(たっちゅう)のそれぞれの部屋に分かれて茶の湯の会を開いたというのである。 
これではもうお互いに心の通じ合ったもの同士で静かに茶を楽しむなどというものとは程遠い、茶の湯の一大ページェントであり、茶湯を利用した秀吉の政治的デモンストレーション以外の何物でもない。しかも秀吉は自ら塔頭の一つである総見院に陣取り、玉礀筆の「青楓」「遠寺晩鐘」、それに虚堂の墨蹟を飾り、薄板に鏑無の花入れを据え、台子の上に内赤の盆にのせた茄子の茶入れ、珠徳の茶杓、数の台にのせた白天目を置き、台子の下段にはもと印拙所持の桶、胡桃口の柄杓立て、合子(ごうす)、紹鴎伝来の小霰釜と金の蓋置きを飾り、臨時に茶屋を立てて茶を供したと言う。これはもう名物満艦飾の道具自慢でしかない。この時宗易、宗及の席も秀吉ほどではないが名物尽くめになっている。ここではまだ「わび茶」は登場していないばかりか、禁裏茶会、北野の大茶会とこの傾向はさらにエスカレートし大規模化して行くのである。 
一方天下統一のための秀吉の事業はいよいよ最終段階に入っていた。同じ年の春根来(ねごろ)・雑賀(さいが)の一揆勢を討滅し、六月には四国の長曾我部元親を、八月には越中の佐々成政を攻めこれを降している。後は薩摩の島津があるだけだ。 
ここでもう一つ特に記しておかねばならないことは、秀吉がこの天正十三年三月に内大臣に任ぜられ、七月には関白になっていることである。匹夫から身を起こし人臣として最高の関白に任ぜられた秀吉の得意は想像に余るものがあったろう。そしてこの得意が次々と茶湯による大ページェントを展開させて行く原動力であったことは間違いない。
 
天正十三年九月七日、秀吉は禁裏に伺候し、正親町(おおぎまち)天皇に茶を差し上げた。いわゆる禁裏茶会である。この日天気は快晴で、秀吉は巳の刻(午前十時)に参内し、常の御所で天皇らと一献の儀があり、ついで紫宸殿(ししいでん)の北の座敷で近衛信輔らと一献あった後、小御所に正親町天皇、陽光院誠仁親王、皇太子和仁親王、た伏見宮邦房親王、竜山近衛前久及び取次役の菊亭晴季を迎えて秀吉の点前で茶を献じたのである。 
「天皇還御の後、小御所の端の座敷で利休居士すなわち利休の宗易が点前で茶をたて、一条内基らの摂家、清華衆や公卿にお茶を供して日暮れに及んだ。茶は初花、新田の大壷の茶で、釜は責紐の釜、松花と四十石の大壷を網を掛けて拝見させた」と「兼見卿記」にある。禁裏の茶会は大成功であった。 
これは朝廷に対してと同時に全天下に対する秀吉の関白就任の大披露であり、なお秀吉に不満を抱く諸侯への精神的勝利宣言でもあったわけだ。つまりここにおいて茶湯は政治の道具、強力な武器として使われており、この時宗易にも利休という勅賜号を与えることによって完全に自己の支配下に収めた。利休の方でも秀吉に協力して茶湯を政治の武器として使うことに唯々諾々として従っている。この時点で利休は完全に秀吉の世界に取り込まれ、もはや退路は断たれたのだが、利休の方もこのことに何らかの抵抗を感じていた気配はまったくない。むしろ彼の方も勅賜の居士号や禁中での点前を名誉として恐懼して拝受していたと見る他はない。利休と政治との関係については別項で述べるが、この禁裏の茶会が利休と政治との関わり合いの一つの重大な事件であったことは明記しておく必要があろう。 
さて利休の賜号問題という難しい議論があるが、わたしのこの論文では今特に重要ではないので、学者たちの大体の結論を書いておくだけに留める。禁裏茶会において秀吉は宗易の後見を必要としたが、宗易は無位無官であるからそのままでは昇殿を許されない。そこで秀吉は便法として宗易を居士にして、僧侶と同じ出世間の身分にしてしまうことによってこの場を切り抜けたのだ。秀吉は大徳寺の古渓宗陳に居士号を選ばせ、事前に天皇に内奏して[利休号]を勅賜する形を取ってもらったと、先ずこういうことであろう。今のところこの考え方に大きな疑問点はないようだし、極めて説得性がある。おそらく事実もこの通りだったに違いない。居士号勅賜の経緯はそれでいいとして、もう一つ利休という名前の意味についてもいろいろな議論がある。 
元来居士号というものは修行中の弟子が大悟徹底したと師が認めた時、弟子の個性やその精神状況を考慮し、更に激励・訓戒の意味もこめて選び与えるものである。そしてその際「居士号ならびに頌」と言って、居士号とその意味を記した証書を与えるのが慣例であった。 
大徳寺の開山大燈国師宗峰妙超が弟子の慧玄の大悟徹底に際して与えたという「関山道号及び道号煩」が今も妙心寺に蔵されていて見ることができる。ところが利休の場合古渓宗陳の「道号及び煩」があるはずなのにそれが伝わっていない。もちろんそれは古渓から利休に与えられたに違いない。天正十九年利休自刃の後秀吉に没収されたのではないかと言う学者もいるが、あくまで推測の域を出ない。それはとにかくこれは利休が自刃後わりあい早い時期に何らかの理由によって失われてしまったらしい。なぜなら利休が自刃して四年ほど経った文禄四年八月、利休の次男少庵が仙岳宗洞に「利休」の意味を尋ね、仙岳がこれに答えて書き与えた「利休号頌」が今日なお裏千家に残っているからだ。この他にもそれからまた十年ほど経った慶長十年に、利休の長男道安が春屋宗園に求めた「利休号頌」も記録されている。この二つの頌は禅語で書かれていて大変難しいもので、一般には「名利共休」または「名利頓休」と解されており、つまり名誉欲や利財欲からまったく解放されているという意味である。 
ところがある学者は利休がそういう意味だとすれば禅の悟達の段階では大変低次元で大悟徹底からは程遠いことになり、本当の利休の意味は春屋宗園の頌にある「宗門参得老古錐」の古錐という意味だと主張している。老古錐とは古くなって先が鈍磨したもう役に立たない錐(きり)を意味する。利休の利は名利の利ではなく鋭利の利で、その鋭利さが鈍磨してしまうことが利休の休の意味である。だから利休とは老古錐であり役立たずということである。つまり老古錐とは普通に解釈すればもうろく爺とか役立たずだが、禅では悟達の中でも極めて高い境地で、悟りの臭みが完全に消え去り戒律も規範も忘れ果てて無心に行動しても、その言動が天地自然の大道と合致している境涯だそうだ。利休とはそういう意味だと言うのである。これは利休という人物をどう理解するか、それと同時に当時の禅とか禅僧をどう理解するかについての重大な問題と直接関わっているので、ここではこれだけにして後に詳しく検討することにしたい。 
それはともかくとして禁裏茶会に際し秀吉が宗久や宗及ではなく利休を居士号勅賜という破天荒な待遇まで敢えて与えて自分の後見役に選んだということは、もはや誰が見ても秀吉が利休を天下一の茶頭と認めたことの証拠であり、秀吉がそう認めたことは天下がそれを認めたということでもあった。利休はこうして天下一の茶頭になったのである。時に利休六十四才、破局まで後六年である。そしてこの六年が利休の「わび茶」の完成の時期であったのだ。  
 
利休と政治

 

利休が何時頃からか政治に関心を持ち始めたかは明確ではないが、おそらく秀吉が利休を茶頭として重用して行った過程で、ほとんどそれと並行的に進行して行ったのではないかと推測される。学者の説によれば、秀吉と信雄・家康との小牧・長久手を中心とする戦いの中で利休が書いた三通の書状があり、竹鼻城攻略の処置とか和議のために秀吉が相手側に言ってやった条件、和議成立についての秀吉の満足などを報じたものだと言う。 
この戦いには利休も従軍しており、陣中茶会にも奉仕しているので、上記のような相当重要な情報にも接する機会があったものと思われるが、そういう情報をいち早く知人に報じていることは、利休がこの種の情報に極めて敏感であり、且つ強い関心を示していたことの証拠であろう。更に翌年七月には佐々成政征伐に関し細川忠興の老臣の松井康之からの、「秀吉から佐々成政征伐の出陣の命を受け、宮津から海路出陣しようとしてその準備に忙殺されている」という書状の返書として、「佐々征伐も四国の長曾我部征伐も時間の問題でしょう。内府様からは佐々に対して家康を介して老臣を人質に送るか国を明渡すかに二者択一を申し渡しに、織田信益様、滝川雄利、津田四郎左衛門尉、富田平衛門が向かっています。この解決を待って七月三日に予定していた内府様の四国出陣も日延べになり、七日京にはお入りになりました。わたしも八日に入京の予定です」と書き送っている。 
この書状などを見るととても一茶頭の消息文とは見えず、武将と武将がお互いに情報を交換し合っているように見え、利休が自ら政治の輪の中へ首を突っ込んで行っている状況が手にとるようにわかる。ここには政治に対する警戒心よりも強い好奇心の方がはっきり現れていて、利休が一茶頭に過ぎないことを思うと、そこに何か危なっかしい感じが残る。 
利休がこういう強い政治的関心を抱いていたということは、利休の「わび茶」の性格と深く関わっていると考えざるを得ない。学者の論には「わび茶」は「わび茶」、政治は政治と切り離して考えている人が多いが、これでは一つの人格を総合的に捉える方法ではなく、正しい認識は得られないと思われる。つまり強烈な世俗的関心を背景とする堺商人である利休が、一方で政治とか蓄財とか名誉欲とかに強烈に執着しながら、他方で最も非世俗的、もっと言えば反世俗的な「わび茶」を完成したとするのは、どう考えても矛盾撞着を免れず、利休がジキルとハイドのような二重人格に分裂してしまう。そこで利休のこの世俗的関心が事実として証明されている以上、他方の「わび茶」の本質を再び検討せざるを得なくなるのは当然で、この点がわたしの「利休研究」に取り組んだ原因なのである。 
さて利休はこの後ますます深く政治の世界に首を突っ込んで行く。それは利休の意志だけでなく、秀吉が利休を政治の道具として使い始め、利休がそれに何の抵抗もなく乗って行ったからである。 
例えば同じ年の八月二十二日付けで柴山監物(利休七哲の一人)に宛てた書状では利休はこんなことを書き送っている。 
「戦況が知りたいので細井新介に書状を出した。どうかご一報願いたい。敵の様子をはっきり承りたいと思います」 
一介の茶頭がどうしてこんなことをしつこく聞きたがるのだろうか。こういう情報を手に入れたがる人間は、それを得て好奇心を満足させたらそのまましまっておくかと言うと決してそうではない。必ずその情報をもとにして何らかの行動を起こす筈であり、それを政治的行動と言うのである。つまり利休はすでにこの時点で個人的に集めた情報によって、何らかの政治的行動を起こしていると見る他はないのである。更に明白な政治的行動を示しているのは次の文章である。
 
薩摩の島津義久が豊後の大友宗麟領に侵入して九州の政情は安定しなかった。そこで秀吉は島津に対して侵略を止めるよう強硬に説諭し、「もしこの命に背くなら成敗する。よく考えて返答しろ」と申し入れた。この時秀吉の書状の添状として細川幽斎と利休が連署して島津家の宿老伊集院忠棟に書状を送り、それが現存しているのである。それによると「貴家と大友との間の敵意は相変らずで、戦いはまだまだ続いていると聞いております。しかしながら一切の経緯を水に流して秀吉公の命令に服し和議を調えるべきです。両国の境界については裁判で理非を明らかにするべきで、両者に秀吉公からその書状が届くでしょう。もしご承引くださらなければ、秀吉公は自ら討伐に出向かれるご所存です。ご分別になるのは今ですぞ」 
という内容である。これは明らかに幽斎と利休の私信ではなく、秀吉の内意を受けて出された政治的文書であって、この際の利休は例の安国寺恵瓊(えけい)を彷彿させる政僧そのままの姿を示している。こういう利休はもはや一介の茶湯者ではなく、俗界を泳ぎ回る政僧以外の何者でもない。この書状に付随するものとして天正十三年十二月十三日付けで島津義久から利休へ宛てた書状があり、それには「この度は関白殿へ挨拶として使節を送ったから万事よろしく取り成していただければありがたい。今後とも宜しく頼む。ついては生糸十斤を贈ったから収めてくれ」と記されている。誇り高い薩摩の太守が一介の茶頭利休に書状や礼物を贈って、頭を下げて秀吉への取り成しを頼んでいるのは異常であり、この時の利休が秀吉に対して強い政治的発言力を持っていると島津が見ていた証拠であろう。ことほどさように利休は秀吉とその政治の内部に食い込んでいたと見て差し支えない。 
ここまで来ると利休はどっぷり首まで政治に浸かっているのは事実であり、もうどうやってもそこから抜け出すことはできない。おまけに秀吉はますます茶湯に入れ揚げつつあったから、諸大名も茶湯に励まざるを得ず、そうなれば天下一の茶頭者利休の姿は自ずから天下にクローズ・アップされて来ることになる。 
天正十三年十月の秀吉の先の書状にもかかわらず、島津の大友に対する侵略は一向に止まなかったので、天正十四年四月大友宗麟は秀吉に救援を求めて上洛し、秀吉は羽柴秀長、宇喜田秀家、細唐幽斎、前田利家、安国寺恵瓊、それに利休を同席させて手厚い饗応を与えた。利休はこのような重要な政治の場にまで大名と肩を並べて同席したのである。また宗麟は秀吉自慢の黄金の茶室(後述)で利休と秀吉の点前で茶を供されている。謁見が上々の首尾で終った後、宗麟は羽柴秀長の宅へ挨拶と礼に出向いたが、そこでも数々の歓待を受け、辞去する宗麟に秀長はこう言っている。 
「手を取られ候て、何事も何事も美濃守かくのごとく候間、心安かるべく候。内内の儀は宗易、公儀の事は宰相(秀長)存じ候。御為に悪しき事はこれあるべからず候。いよいよ申し談ずべし」さらに「宰相殿を頼み申し候はではにて候間、能く能く御心得入るべく候。今度利休居士心を添えられ馳走の様子申し尽くし難く候。永々忘却あるべからず候。ここもとの儀見申し候て、宗易ならでは関白様へ一言も申し上ぐる人これ無しと見及び候。大かたに存じ候ては以ての外に候。とにかく当末(現在未来)とも、秀長公、宗易へは深重隔心なく御入魂(ごじっこん)専一に候」 
これは宗麟が大阪滞在中妙国寺の宿舎から宿老宛て書き送ったものである。宗麟は秀吉の歓待にも感激したが、それよりもさらに秀長の交誼と利休の政治的地位の重大さに感銘を受けたようだ。確かに秀長をして「内内のことは宗易」と言わせるほど利休は秀吉の懐深く食い込んでいたし、「宗易ならでは関白様に一言も申し上ぐる人これなし」と感じた宗麟の見識が正当なものであったかどうかは別として、これはおそらく大方の認めるところであったに違いない。ここでは宗易は表は茶湯者、裏は政治家という二つの顔を持った人物として浮かび上がって来るのである。
  
大友宗麟の訴えもあり、島津義久の不遜な代度に業を煮やした秀吉は、天正十四年四月遂に島津征伐に踏み切り、四国勢を豊後に、毛利勢を豊前に入れて先ず北九州を抑えた。しかし島津の防戦も激しく遠征は天正十五年に持ち越された。天正十五年正月秀吉は博多の豪商神谷宗湛を大阪城に招いて大茶会を催した。この茶会には大小名が数多く居流れる中で利休が点前を勤めた。 
秀吉はこの三月自ら出陣し、長州の赤間ケ関、門司、小倉を経て筑前から筑後へ入り、熊本、八代を経て薩摩の泰平寺に本陣を据えた。四月豊臣秀長の軍が日向から攻め下って島津軍に決定的打撃を与え、島津義久は遂に五月八日剃髪して泰平寺に赴き秀吉に降った。秀吉は人質をとって義久を許し、筑前博多に戻って二十日ほど滞在した。 
この間利休は新茶を携えて九州に下り、博多で秀吉と合流している。「宗湛日記」によると六月十四日利休は箱崎の灯篭堂で神谷宗湛、島井宗室、柴田相仁を客として昼会を開いた。この茶室は茅葺の深三畳で、壁も青萱蔀(あおかやしとみ)という草庵風のものだったが、道具もみな利休好みの新儀の道具で名物道具は使われていない。茶碗は新焼き茶碗となっているから、利休が長次郎に焼かせた形の崩れたものであったかも知れない。 
釣瓶、水差し、面桶水翻(みずこぼし)、引き切り蓋置きなどというものも利休がた新しく見出した道具であろう。この場合は政治的配慮のまったくいらない数寄者だけの集まりであるから、利休も何の気兼ねもなく自ら工夫した新儀の道具を披露したのであろう。この茶会には利休が本来希求していた、「わび茶」への道がはっきり姿を現している。もちろん箱崎の陣所では秀吉の茶会も催された。六月十九日と二十五日の二回である。前者は三畳、後者は二畳半とあるからも、利休はこの時点ですでに秀吉をも「わび茶」の世界に引き入れることに成功していたものと思われる。 
さて九州から凱旋した秀吉の心中には、遂にして天下を統一した自信が満々と膨らんでいたことであろう。今はもう秀吉の覇権を脅かす勢力は広い天下を見回しても取りたてて言うほどのものはない。例え地方的に叛意を見せるものが出たにしても、それを討伐することは今の秀吉には何の不安もない。そこで元来の秀吉の稚気に満ちた性格が顔を見せて来る。おそらくそれが北野の大茶会であったろう。天正十五年七月二十八日に京都に次のような高札が建てられた。  
 
定御茶湯の事

 

一、北野の森において十月朔日より十日の間天気次第、大茶湯なさるる御沙汰に付いて、御名物ども残らず相揃えられ、数寄執心の者に拝見させらるべき御ため、お催し成され候事 
一、茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶なきものはこがしにてもくるしからず候間、提げ来たり仕るべく候事 
一、座敷の儀は松原にて候間、たたみ二畳。但しわび者は綴付(とじつき)にても、稲掃(いなはき)にてもくるしかるまじき事 
一、日本の儀は申すに及ばず、数寄心がけこれあるものは、唐国の者までも罷り出ずべく候事 
一、遠国の者まで、見せらるべきため、十月十日まで日限御延べ成され候事 
一、かくのごとく仰せ出ださるるは、わび者を不憫に思し召すの儀に候ところに今度罷り出でざる者は、向後においてこがしも立て候事無用との御意見の事に候。罷り出でざる者のところへ参り候者も、同前たるべき事 
一、わび者においては、唯々遠国の者によらず、お手前にてお茶くださるべき旨、仰せ出だされ候事以上 
七月二十八日  
 
北野の大茶湯の趣旨はこの高札にはっきり示されているがその特徴を見てみよう。 
1、第一条に秀吉所蔵の名物を残らず陳列して見せるのが目的だとはっきり示している。これは稚気満々の秀吉が膨大な名物を天下に見せびらかして自己満足しようというのであり、それを何のこだわりもなく誠に無邪気に宣言しているのだ。つまり秀吉は稚気と茶目ッ気を臆面もなく披露しているのだが、デスポットの心情というものは無意識のうちに権力の誇示、支配欲の誇示が働くもので、表面の無邪気さと裏腹に権力者の顔がはっきり姿を現している。 
第二条や第三条は身分は構わない、道具も何でもいい、場所は誰でも二畳まで、何処に陣取るかは自由、また第四条は外国人でも構わない、第五条では遠国のものもやって来い、そのため二ヶ月先に開くことにすると、茶湯に関する限り四民平等、上下自由を謳っており、秀吉の開放的な面がよく出ている。だからここまで読んで来たものは次の六条で何かこちんと冷たいものに触れて、今までの自由な気分にいきなり頭から冷水を掛けられた思いがするだろう。 
2、第六条は今度の催しはわび者を哀れに思ってのものだから、この呼びかけに応じてみんな出て来てしかるべきで、もし出て来ないものは今後茶湯を禁ずる。出て来ない者と付き合うものも同じだと言うのだ。つまり第二条から第五条までいくら自由で開放的であっても、それは秀吉の気分の上のことで、本意は第一条や第六条にあるのである。「茶湯は誰でもみんなやろう。しかしおれの命令どおりにやれ。命令に反する者は茶湯をするのは罷りならん。そんな者と付き合う輩は以ての外だ」と秀吉は言っているのである。だから敢えて言えば第二条から第五条がどんなに四民平等・上下自由を謳っているように見えても、所詮これは見せ掛けだけのもので、それにうかうか乗ってつい軌道を踏み外すと、どんな目に合うかわからいなという性質のものであることがはっきりしている。第六条があまり厳しいのを憚ってか言い訳のような第七条がついているが、それにはわび者なら遠国の者でも秀吉が自ら茶を振舞おうとある。さすがにいくらか気が咎めたのではあるまいか。 
ところでこの北野の大茶会の相談役はもちろん利休であり、利休だけでは足りず宗及が加えられている。つまり実際の企画プロモーションは利休と宗及が相談して取りまとめたと見て差し支えあるまい。利休はここでも押しも押されもせぬ茶湯の第一人者である。 
この大茶会の様子を見てみよう。先の高札では「わび者を不憫と思うから」とか「わび者に茶を下される」とか、この茶湯がわび者の大集会のように言っているが、秀吉の言う「わび」とは決して「わび茶」の精神を汲み取ったものではなく、この高札の調子では単に貧乏人のことを言っているに過ぎないように見える。したがって秀吉は展示物として黄金の茶室まで持ち出しているのだ。秀吉の席は自らのものと利休・宗及・宗久のものと合わせて四席設けられたが、四席とも三人の所持する名物に加え秀吉自身のものと合わせて名物の大洪水である。だから秀吉の周辺に関する限りこの催しは「わび茶」どころの話ではなく、その名の通り大名茶そのものであったと言う他はない。
 
この大茶湯については竹中重門の「豊鑑」、久保権太夫の「長闇堂記」、それに興福寺多門院の僧英俊の「多聞院日記」などがあるが、それらを総合すると次のようであったらしい。この大茶湯は天正十五年十月一日から十日間ということで始められた。高札で庶民に告知しただけでなく、公卿たち、堺衆、奈良の茶湯者たち、遠くは博多の神谷宗湛にまで参会が求められている。そういうわけで集団参加としては公卿が一番多かったとのことだ。場所は北野神社の辺りで、北野の経堂から松梅院にかけて数寄屋が八百軒も立ち並んだと言う。千五・六百軒という説もあり正確な数はわからないが、広い松原や野原に一杯に数寄屋が建てられたのであろう。人々は好むところに簡単な仮小屋を建てたり、敷物を敷いたりして柴垣や葦垣で囲い、それぞれに茶事を楽しんだらしい。ところで秀吉の四つの茶席では籤でどの席へ行くかが決められ、五人一組で茶をいただいたき、その数は八百三十人に上ったと言う。この席は午前中で切り上げられたが、八百人と言うと一席二百人だから、秀吉も午前中に二百人分の茶を立てたとすると、これはまるで人間ミキサーのようなものでへとへとに疲れ果てたことであろう。午前中に二百人という数はほとんど不可能な数字で八百三十人という数は疑わしいが、秀吉もせいぜいサービスに努めたのであろう。 
午後から秀吉は広い地域にわたって建てられた茶席を見て廻っている。ここで二・三の席が目に止まったらしいが、山科のノ貫が柄が七尺もある朱塗りの大傘を立て、二尺ほどの間を置き葦で囲って席としたが、太陽の光に朱塗りの傘が色鮮やかに輝いて人の目を驚かせた。秀吉もこの工夫を大層誉めて諸役を免除したという。とにかく北野の大茶会は大成功であった。これによって庶民関白様の評判は上々であったし、その噂は全国に伝えられた。秀吉の期したものは十分達せられた。 
ところがこの大茶湯は予定は十日間だったのにたった一日で中止されてしまったのである。それは九州征伐の後肥後の大半を領していた佐々成政の失政で、肥後の国に一揆が起ったことが伝えられたからだと言われている。そもそもこの大茶湯は九州征伐の凱旋記念の行事のようなものであったし、秀吉は一日でくたくたに疲れてしまったであろうから、それやこれやで「やめた!」と叫んだのであろう。この辺りに気まぐれな独裁者秀吉の面目が躍如としているのでないか。 
さて秀吉が北野の大茶会に次いで催したのは天正十六年四月の後陽成天皇の聚楽第行幸である。秀吉は自ら禁裏に赴いて天皇を聚楽第に迎え、五日間にわたって公卿・門跡及び武家とともに管弦、和歌、舞楽を楽しんだ。この時二十六名の大名が呼び集められたが、彼らに子々孫々まで禁裏御料などに対して異乱しないように申し渡し、同時に秀吉の命に絶対服従することを誓わせた。秀吉はこの盛儀を利用して、皇室をバックに自己を権威付けたのである。 
大友宗麟の子の義統(よしたね)もこれらの大名の一人であったが、行幸が終った後秀吉から茶会に招かれた。四畳半の茶室で濃茶、二畳の茶室で薄茶を秀吉自ら点前で供した。この二畳の茶室での道具が「囲炉裏に責紐(せきひも)の釜自在に釣られ候。天下一の井戸茶椀、水差しに釣瓶、蓋置きは竹の引き切り、水こぼしは面桶であった」と言う。この中で「責紐の釜」や「天下一の井戸茶碗」はもちろん名物だが、「釣瓶の水差し」や「竹の引き切り蓋置き」などは利休が新に取り上げた極めてわびた道具である。二畳の座敷と言いこれらのわびた道具と言い、この場合の秀吉は利休の「わび茶」の強い影響下にあつたと言える。彼は名物に執心しながらも、利休の「わび茶」の中にある一つの精神性に魅せられていたのであろう。わび茶に関する限り秀吉は利休の世界の虜であった。秀吉は利休にはあって自分にはない珍しい世界に魅せられ、この世界も楽しんでいたように見受けられる。しかし精神の深みに踏み込んで入って、そこで別の広大な天地を創り出す藝術などに無縁な秀吉は、藝術を表面的な理解だけでそのすべてを理解したと誤認しがちだ。そして「わび茶」という藝術世界のすべてを理解したと誤認した時利休に悲劇が起こる。その道行きはこの時点でも着実に進行しつつあったと言うことができるだろう。
 
その予兆は利休と極めて親しい関係にあった大徳寺の古渓和尚の流罪という形で現れて来る。古渓和尚がなぜ流罪にされたのかははっきりしたことがわかっていない。秀吉が故信長の冥福を祈るために発願し、古渓にその造営を依頼したにもかかわらず遂に実現を見なかった天正寺に関連したことだろうと推測されているだけである。造営中止という秀吉意向に対して古渓に何か秀吉を刺激するような言動があったのではないかという推測があるのだが、これはあくまで推測でしかない。天正十六年九月四日の朝、利休は配流される古渓を送別するため春屋宗園、三浦紹ンなどの禅僧を招いて聚楽の屋敷で茶会を催した。 
利休はこの茶会で秀吉から預かっていた虚堂の墨蹟を床に掛けている。秀吉から配流される古渓の送別茶会をするというだけでも憚りがあるのに、その茶席に秀吉から預かった虚堂を無断で使うというのはどう考えても大胆不敵な行為である。こういうところに利休の秀吉に対する心情が鋭く現れており、後の悲劇を暗示しているように見える。 
ところで大宰府に流された古渓は博多の神谷宗湛と茶会を開くなど流謫を楽しみ、一年も経たない天正十七年七月に許されて帰洛している。古渓帰洛の報を聞いて秀吉は上機嫌だったと言うから、流刑の理由も秀吉の気まぐれ的なもので大したことではなかったらしい。古渓の赦免について利休が奔走したのは当然のことで、それか秀吉の怒りを解いたとすると、この時点で秀吉と利休の間には何の違和感も生じていなかったものと見られる。 
問題はこの天正十六年から十七年にかけての時期、一層であった大徳寺の山門が利休の寄進によって現在見るような堂々たる二層建てに改築中であったことである。この金毛閣の上層に古渓肝入りの利休の寿像置かれたことが、利休切腹の直接の原因になったのだから、古渓の流刑は利休の運命と深く関わっていたと言っていいだろう。つまり利休の悲劇の足音は初めてこの時響き出したのである。しかし時は何事もなく過ぎて行った。 
九州平定後の秀吉の政治的課題は小田原に依って関東一円に威勢を揮っている北条氏政・氏照親子と奥羽の伊達正宗の去就であった。尤もこの二人とも明らかに叛意を表したり不穏な動きがあるというわけではなかったが、北条親子は秀吉からの度々の上洛の命を、仲立ちに立った徳川家康を頼みにして遷延し続けていた。遂に業を煮やした秀吉が二十二万の兵をもって小田原攻めを開始したのは天正十八年三月である。北条側は成り上がり者の秀吉に対してあまりにも自尊の気が強すぎ、そのため情勢判断を誤った。秀吉の側から見れば北条など今や物の数ではない。お伽衆、能役者、連歌師などを引き連れての小田原攻めは、秀吉だけを見る限りまるで物見遊山旅行のような観を呈する。利休を召し連れたのはもちろんだが、その子の道安、宗及の子の宗凡、それに針屋宗和なども同行している。小田原方の関東の属城攻撃には前田利家、上杉景勝、古田織部などが当たった。
 
伊達正宗は小田原参陣の秀吉の要請に対して遅参し、五月になってようやく小田原に到着したが、秀吉は怒って初め引見しなかった。これに対して木村吉清が斡旋に務め、秀吉は一分の領地を没収しただけで正宗を許している。この斡旋に利休は木村吉清とともに深く関わっていたらしく、正宗は利休に茶湯の教授を依頼したりしている。それを証明するのは六月十日付け木村吉清宛の書状であるが、「正宗公只今お訪ねの事。外聞忝き次第に候」「御存知の旨貴所より正宗様へ仰せ上げられ候はば、本望たるべく候」と正宗が秀吉に帰参が叶ったことを喜び、それを知らせることを頼んでいることから察することができる。 
おそらく利休は秀吉の信用を利用して、木村吉清とともに正宗のため種々斡旋したのであろう。あれほど怒っていた秀吉の機嫌を百八十度転換させ、利休に茶湯の指導を頼んだという正宗を時が時だけに奇特なものとその器量を誉め、こんな者に逆心はあるまいと言わせたのに関しては利休の力が大きく働いていたに違いないのである。この時点ではまだ「内々のことは宗易」と言った大和大納言秀長の言葉は生きていたのである。 
ここで利休を巡る情勢を観察してみると、小田原攻めについては秀吉のもとに二つの意見があり、石田光成や増田長盛を中心とする強硬派と、前田利家や浅野長政を中心とする宥和派があった。強硬派はあくまで北条や伊達を制圧する考えであるのに、宥和派はできるだけ平和裡に事をすすめようという考えである。したがって宥和派が伊達正宗を帰順させたことに強硬派は憤懣やる方ない思いであったことだろう。その当事者が木村吉清と利休であったのである。石田光成が利休を小憎らしい坊主めと思い、時あらばとの思いを深めたであろうことは想像に難くない。しかもこの時点で利休の強力な後ろ盾であった大和大納言が亡くなっている。石田光成はにんまりしたかも知れない。 
さて秀吉は最初小田原の早雲寺に陣したが、石垣山に一夜城を作ってそこに移り戦いを監督した。関東一円の属城を根こそぎ奪われた氏政・氏照親子は七月九日に至って遂に五代に亙った小田原城を開城して秀吉の軍門に降り、氏政・氏照は切腹させられ北条氏は滅亡した。こうして北条・伊達が征服され秀吉の全国支配は完成した。政治的下克上の時代はこの天正十八年七月を以って約二百六十年の幕を閉じ、ここから一応形のでき上がった封建的支配体制の強化の時期が始まるのである。秀吉の政治世界における権力は完全に確立した。
 
秀吉は小田原落城の後関東を経て、新に支配地となった会津若松まで諸国を巡察して九月の初めに帰京した。利休は小田原在陣中秀吉の茶事の相手を勤めるかたわら、関東各地に転戦していた茶湯の弟子の古田織部に有名な「武蔵鐙の文」と共に韮山から切り出した竹で作った「音曲」という名の花筒を送ったり、自分のためにも「園城寺(おんじょうじ)」と名付けた一重切りの花筒を作ったりしている。 
しかしこの小田原在陣中に利休に対して強烈な衝撃を与えた事件も起こった。利休の弟子の中でもわび茶の茶湯者として他に抜きん出ていた山上宗二の言動が、秀吉の逆鱗に触れて惨殺されるという悲惨な事件である。ことが具体的にどうであったのかはわからないが、鼻と耳を削ぎ落とされた後殺されたというから、秀吉の誇りを余ほど強く傷つけて逆上させてしまったに違いない。関白になって秀吉の成り上がり者特有の傲慢さは鼻持ちならないものになっていたであろうが、「わび茶」一筋に生きる山上宗二にも命を懸けて築き上げたものに対する高い誇りがあったに違いない。したがってここでは二つの強烈な個性がぶつかり合ったのであるが、秀吉の「わび茶」についての誇りは内容の伴わないものであったから、そこを突かれると兎の毛で突いても全身で飛び上がるほどの屈辱感に襲われたはずであり、そうなれば遮二無二相手を権力で押しつぶすしかなかったのであろう。こういうことは今まで秀吉が歩いて来た覇道の中では日常茶飯事であったが、秀吉はもはや覇道における最終的勝利者であり、政治的面では秀吉の誇りを傷つけ得るものなどいない。この面では秀吉が征服の対象とすべきものはなくなってしまっていたのである。秀吉は関白であり天下様になった。独裁者というものはそれが単に政治面でオールマイティであるに過ぎないにもかかわらず、全人格的にオールマイティなくてはならないと思い込んだり、あるいはオールマイティであると誤認したりするものであって、これは独裁者というものが持つ通弊である。したがって秀吉は利休に導かれて入り込んだ「わび茶」という精神的世界でも専制君主でなければ承知ができず、またそうであり得ると誤認したのである。 
おそらく誇り高い山上宗二にはそれがどうしても我慢できなかったのであろう。そして秀吉の「わび茶」についての知ったかぶりの皮を容赦なくひん剥くような言葉を吐いてしまったのであろう。宗二の殺され方のむごたらしさは精神界における君主としての誇りや威厳を傷つけられた秀吉のヒステリー症状の現れであったろう。今や秀吉と「わび茶」の世界との蜜月時代は終わり対決の時代が始まったのだ。その第一の犠牲者がこの山上宗二だったのである。とすれば宗二の死は利休の悲劇の予兆でもあったという見方は当然成立する。利休の言動にもそれを読み取れるものはいくらもある。その一つはこうだ。
 
利休は小田原落城後秀吉の関東・奥羽巡行に従わず直接帰京した。八月の初旬だったと思われる。八月九日には奈良の松屋久好を招いて茶会を開いているからだ。秀吉は九月下旬に大坂城に帰り、京都に戻ったのは二十日過ぎだったらしい。その留守中の九月十日、利休は神谷宗湛と大徳寺の球首座(きゅうしゅり)を聚楽第の自分の屋敷に招き、書院の台子で茶を立てて二人を供応している。利休はまず黒茶碗で茶を立てた後、勝手から別の瀬戸茶碗を取り出し、黒茶碗を片付けてこう言ったという。 
「黒きに茶を立て候こと上様お嫌い候ほどに、この分仕り候」 
黒い茶碗は秀吉が嫌いだから今度は黒茶碗をやめてこっちで立てようと言うのだが、これはずいぶん人を食った話である。利休がほんとうにそう思っていたのなら、黒茶碗で茶など立てなければいいのに、すでに黒茶碗で茶を立てて飲ましてしまった後でこんなことを言っているのだ。ここには秀吉などに「わび茶」などわかってたまるものかと言う利休の思いと、それをぬけぬけと仲間に口外して憚らない利休独特の倣岸な姿勢がはっきり現れている。もしこの二人のどちらかが秀吉に告げ口でもしたら、もうこの時点で利休は宗二の二の舞を踏んでいたに違いない。幸いなことにこの二人は利休と心を割った友であったから何事もなく終ったのだが、利休もそういう心のおけない友であったからこそ、この言葉となったのだろう。しかしこれはどう見ても極めて危険な言動であったことは間違いない。 
そして九月二十三日遂に運命の茶会が開かれる。この茶会は「野菊の茶会」とも言われるもので大変重要なものだから、「津田宗風茶湯日記」からやや詳しく述べてみよう。「野菊の茶会」は聚楽第で秀吉主催のもとに黒田如水、針屋宗和、津田宗風を客として開かれ、利休が茶頭を勤めた。床には北条氏政から没収した牧渓筆の「遠浦帰帆」の大軸を掛け、その下方床柱の前に鴫肩衝を元紹鴎所持の天目茶碗の中に入れておいた。ところが利休が面桶の水翻(みずこぼし)を持って出て炉端に坐ってみると、肩衝と天目茶碗の間に一茎の野菊が挟んであった。利休は何気ないふうに洞庫から瀬戸の水差しと柄杓を取り出し、床の前ににじり寄った。黒田如水以下三人の客が固唾を飲んで見守っていると、利休は気にも止めない風に野菊をすっと抜いて畳の上に横たえ、肩衝を天目に入れたまま持って座にもどり、茶を立てて客に供した。そこへ秀吉も勝手から出て来て座に加わり相伴した。茶が終って客たちが鴫の肩衝を拝見している間に、利休は天目と水差しを洞庫に仕舞い、拝見の終った肩衝を床の間に飾り、次いで野菊の花を取ってこれをさり気なく床の勝手側の隅に寄せ掛けておいて席を退いた。この一茎の野菊はわびを衒(てら)った秀吉の作為であったが、利休はこの時少しも慌てずさらりとこれを処理したのは、心憎いほど見事なあしらいであった。
 
問題はこの時の利休と秀吉のそれぞれの心の内だ。利休は一茎の野菊を敢えて邪魔者としては取り扱わず、かと言ってそれを自らの茶の中に組み込もうともしなかった。心の中では何を小癪なと無視したであろうが、それを煙にも見せないあしらいで見事に捌いたのである。これは浅薄な秀吉の作為に対する無言の批評であるが、それを決して他人には知らさない処置の仕方で報いたのだ。もちろん秀吉に対する世辞の一言もなかった。 
「ちゃちなことをするんじゃないよ。わたしは何も言いはしないし、世辞なんぞ口が裂けても言わないよ。しかしこういうやり方なら文句の付けようはないだろう」 
これに対して秀吉はどう思ったか。室内に入る前は「どうだ、中々のものだろう。おれだってこれくらいのことはできるんだ。奴一言ぐらい世辞を言うかな。あいつのことだから黙ったまま認める形であしらうかな、それとも・・・」 
そして利休が退いた後で「畜生、やりやがったな・・・人のことを馬鹿にしやがって・・・それも粗末にでも扱いやがったら只じゃおかないぞと思ったのに、こっちに何も言わせないようにうまく捌きやがって・・・うーむ、憎い奴だ。余計許せない」 
おそらくこんなことではなかったろうか。何しろ秀吉は今や「わび茶」の世界でも利休にうんと言わせたくてうずうずしていたのだ。「わび茶」の世界でも第一人者として認めさせたがっていたのである。しかし利休にしてみれば「この世界のことだけは、例え天下様の秀吉であろうと、山上宗二がそうであったように、偽物などに一歩でも踏み込ませてたまるものか、それは「わび茶」の世界の第一人者としてのわたしの誇りが許さない」ということであったろう。秀吉はわび茶人としての利休に無視され、さり気なくあしらわれたのである。この件に関して秀吉は「あれはおれの作分だった」と言えなかっただけに、茶事の後も利休に一言も言うことができなかった。ある場合には人間は反対されたり非難されたりするより無視される方が余程ひどく傷つくことがある。この場合はおそらくそのケースであったに相違ない。秀吉の心には深い傷跡が残り、そこから心の内部に腫れ物ができ、根を持って痛み始めたことであろう。この場合茶事の後でも利休が一言、「上様もお人が悪い。わたしを慌てさせようとしてあんなことをなさったのでこざいましょう」とでも言ってにっこり微笑んで見せれば、世辞など言わないでも秀吉のことだ、「ばれたか、おかしかったぞ、ハッハッハッ」くらいなことで済んでしまったかも知れない。 
しかし利休にはそれができなかったのだ。利休は心の中で厳しく秀吉と対決していたからである。山上宗二が殺された時の利休については何も書き残されたものがなく、その後の利休の言動についても宗二に直接関連するものがないので、この件についての利休の感懐は知る由もないが、利休が激しいショックを受けなかった筈がない。おそらくそれが先の「黒茶碗の茶会」や「野菊の茶会」のような利休の余裕のない言動になって現れたのではないか。筆者にはそう思えて仕方がないのである。こうして秀吉の心の傷は一触即発のところまで来てしまった。後は誰かが秀吉の心のダイナマイトに点火するだけである。
 
天正十九年二月二十二日付けの、利休から細川忠興宛ての書状が二通残っている。同じ日に同じ人へ二度も手紙を書くということは、われわれのように通信の便宜が整っている時代の人間でも、何か余程せわしない心境にある時でなくてはこんなことはしない。まして飛脚の足に頼らなければならない当時にあっては、筆者の心境に相当切迫した思いが去来していたと見るべきである。利休の心は異常に揺れていたにちがいない。 
その一通は「利休の鞘の文」と呼ばれるもので、「大徳寺から帰宅しました。困却の果てに床に伏せっておりますが、あまり遅延したので引木の鞘を進上いたします。すべてはお目にかかった上で謝意を表したいと存じます」という意味の手紙である。もう一通は「なかなかに住まれずばまた住みてわたらん浮き世のことはとてもかくても」という歌が書かれ、「昨日は大徳寺へ少用御座候て参り候。今日は内々さびしく餅屋道喜などと話申し候。夜に入り候て御入会の時分、伺ひ申し候。ちと話し申し度く候。恐惶かしく二十二日易と」というのである。この二つの書状を見て気が付くことは、第一の書状と第二の書状が大徳寺に行って帰ったことを二度書いていることである。そして第一の書状では困り果てて寝ていると言い、第二の書状では寂しくて仕方がないので夜に成ったら伺いますと述べていることである。つまり利休は第一の書状で何らかの事件に巻き込まれて身に危険を感じ、万一の場合に備えて遺品のつもりで細川忠興に引木の鞘を送ったのだが、それでも不安は収まらず誰かに心中を打ち明けずにはいられない、居ても立ってもいられない気持で第二の訪問予告の手紙を書いたのだろう。 
ところでこの何らかの事件というのは大徳寺に関するものであることは明らかだから、当然利休が二層目を寄進した山門の楼上に飾られた木像問題ということになる。この山門は連歌師の宗長が寄進したものだが、資金が続かず一層のままで放置されていた。それを見た利休が私財を擲って上層の部分を寄進し山門を完成させた。感謝した古渓宗陳ほかが協議して、利休の寿像を作って楼上に置いたところ、それが問題にされたのである。 
この楼上にはもと龍翔寺の本尊であった釈迦像と迦葉・阿難の二大弟子の像、それに十六羅漢が安置され、その傍らに頭巾をかぶり雪駄を履き杖をついて雪見をしている姿の利休像が置かれていたのである。ところで山門というものは勅使も通れば関白も通るものだ。その頭上を雪駄履きの一介の茶坊主が踏みつけるというのは不遜僣上の行為だということになったのだ。もっともこの木像を造って楼上に上げたのは古渓宗陳ほかの者たちだったから彼らも同責である。このことが秀吉の側近で問題にされているとの噂が流れて、古渓と利休は急遽会談して善後策を講じようとしたのであろう。しかしどう相談してみても名案などあるはずもなく彼らは困却したに違いない。それがこの二通の手紙の利休の言動の直接原因である。しかしながらこの時点では利休は予め遺品を贈っておこうとは思ったものの、事態が決定的だとは考えていなかった。「住まれずば・・・」の歌がそれで、浮世のことは面倒くさいに違いないが、とにかくなんとか辻褄を合わせて生きて行こうというのである。だから困却はしていたが、命に関わる大事が迫っているとはまでは思っていなかったのかも知れない。
 
ところで利休の茶の弟子であり、お互い深い友情で結ばれて居た細川忠興はもちろん事情を知る位地にあったし、利休からの話を聞いて、いろいろ利休救済のために奔走したに違いない。しかしこの事件は細川忠興の手に余った。秀吉の怒りが一時的にでも激しいものがあったからである。忠興は利休に生貝の炙ったものを贈って慰めるぐらいのことしかできなかった。これに対する利休の返書が残っており、贈り物に対して丁寧に礼を述べた後、「また宗無一儀ふしぎに存じ候。もずやらとてもの御事に候。能く能くお尋ね仰ぐところに候。一笑一笑」とある。 
これは宗無や宗安の上に利休の件に関し不利な状況がうまれたのか、それとも利休のために不利益なことをしたのか謎である。よく調べて教えていただきたいと言うのである。しかしこの謎は今にして何ら解く鍵はみつかっていない。そして逆に三月十三日利休に対して堺に下って蟄居して謹慎しているようにという秀吉の命令が下る。この日利休の屋敷に茶の弟子の富田左近将監知信と柘植左京亮の二人が来て上意を伝えた。利休は早速聚楽第の屋敷を出て船で淀川を下り、その夜のうちに堺の自邸に帰った。船が出る時ふと見ると川岸に細川忠興と古田織部の二人が見送っている姿が目に入った。利休は翌十四日細川忠興の家老の松井康之宛てに次の書状を送っている。 
「態々御飛脚過分至極に候。富佐殿、柘植殿御両所、御使として堺まで罷り下るべき旨御諚候、俄かに昨夜罷り下り候。よって淀まで羽与様(細川忠興)、古識様(古田織部)お送り候て、船にて見付け申し驚き存じ候。忝き由頼み存じ候。恐惶謹言」
 
ところで利休の助命運動はさまざまな形でなされたらしい。「利休由緒書」には「加賀大納言利家卿より、御内証にて大政所様(秀吉の母)、北政所様(秀吉の妻ねね)を頼み奉り御詫事申し上げ奉り候はば、御免なさるべし」と勧告して来たのだが、「天下に名を顕し候我等が命惜しきとて御女中を頼み候とは無念に候。たとえ御誅伐に逢い候とも是非なく候」と言って、その助命嘆願を自ら拒否したとあるが、おそらく真相であろう。なぜならこの木像事件に連座して利休同様処断されるはずだった大徳寺の古渓ほか三人の者が大政所らのとりなしで赦免されているからである。利休はその時点で完全に覚悟を決めたらしく、財産処分の遺言状を書いている。 
何者かの讒言によって一時的に怒り狂った秀吉は、時が経つにつれて助命運動と利休自身の謝罪を期待し出していたと思われる。なぜなら大徳寺の金毛閣が完成したのは天正十七年のことで、この時からもう二年も経っているのだから、今頃になって殊更問題にするのはおかしなものであり、また利休が新儀の道具によって利を博し売僧(まいす)の行為をしているというのも、事の当否は別としてそれは今始まったわけではない。その他噂程度のことはあるが重大な問題は起こっていない。秀吉としては一度言い出してしまった以上自分から取り下げるのはプライドが許さない。だからこれは利休の方から折れて来るのが当然だと思っており、謝罪して来たものを許すのは寛仁な為政者として彼の面目にこそなれ不名誉ではないと考えている。ところがこの時利休は明らかに意地になっていたに違いない。利休を堺に追い降してから約十日間、秀吉はじりじりして待ったであろう。しかし利休からは何の意思表示もない。遂に秀吉は堪忍袋の緒を切らせ、前にもまして怒り心頭に発した。二十五日秀吉は利休の木像を一条戻橋のほとりに磔にし、京中の曝しものにすると同時に利休に帰京を命じた。二十六日利休が聚楽第の屋敷に戻るや、上杉景勝の配下三千人に屋敷の周囲を固めさせている。これは利休に師事していた数寄大名が密かに利休を奪って隠そうとするのを防ぐためであったと言う。そして一日おいて二十八日大雪雨があり大粒の雹が降った。利休の悲劇を最高度に演出する舞台のような天候であった。利休は不審庵に茶の用意をし、尼子三郎左衛門、安威攝津守及び蒔田淡路守の三検使を迎え入れ、一会の茶会を持った後切腹して果てた。利休の茶の弟子であった蒔田荒時守が介錯して首を打ち落とした。 
次ぎの間から妻のおりき(宗恩)が出て気丈にも白い綾の小袖を利休の屍の上に着せ掛けた。利休の首は蒔田・尼子の両人が聚楽第に持参したが、秀吉は実見に及ばず、直ちに戻橋に曝された。木像が首を踏みつける形に置かれたと言う。悲惨な最後であった。 
利休処断の原因としては木像問題、売僧問題の他、秀吉が利休にその娘を差し出すよう命じたのを利休が拒否したからとか、利休が秀吉毒殺に加担したとかいろいろある。が、どれが真実であったかは別として、それらは単なるダイナマイトの導火線であって、ダイナマイトそのものではない。殊に利休の娘の問題や秀吉暗殺加担問題などはほとんど根拠がなく問題にするに足りない。利休の木像が磔ににされたのは事実であったから、これが口火になったのは間違いないが、その他に木像の脇に磔の理由を書いた高札が何枚も立てられたと言うから、売僧問題もおそらく理由にされたのであろう。しかし筆者はこれらの件はあくまで導火線の口火であって、その元にあったものは先にも述べた秀吉の下の二つの派閥の争いにあったのではないかと考えている。この場合石田光成の名が自ずから浮かび上がって来るのだが、直接的に誰が秀吉に吹き込んだかは別にして、その後ろに石田光成がいたことだけは略確実である。なぜなら光成らの強硬派にとって伊達正宗処理問題では見事に宥和派にしてやられており、宥和派に対する攻撃の機を虎視眈々根輪っていたであろうことは想像に難くないからだ。天正十九年一月宥和派の最高有力者の大和大納言秀長が没したことは正にその時が来たことを示しており、後は利休を取り除けば強硬派路線で秀吉に迫るには大変やりやすい状況が生まれる。時期的に見ても利休が狙われたのは当然のことであったろう。利休を陥れるについては材料はいくらでもあった。その材料のうち秀吉にとって最も刺激的なものを先ずぶつけ、その上で残りの材料をぶちまければ秀吉は完全に乗って来るはずであった。だから木像問題は案外後から理屈付けに使われたものであって、真の口火は「黒茶碗の茶会」とか「野菊の茶会」に関する利休の言葉を捏造して吹き込んだのかも知れない。
 
だがそのもう一つ奥にある真のダイナマイトは秀吉と利休の人間と人間としての対立、「わび茶」の世界には権力者といえども一歩も踏み込ませないとする利休の誇りと、どんな世界においても第一人者でなければ我慢できないデスポットとしての秀吉の支配欲・プライドとの激突であったことは言うまでもないだろう。これは明らかに藝術と政治の対決であったのだ。そして秀吉は現実の利休を権力で叩き潰したのだが、利休の藝術そのものを叩き潰すことはできなかった。この事件は藝術や学問は力では支配できないものだということを見事に証明している。利休の悲劇は彼の政治的関心から生まれた。利休だって政治の論理と藝術の論理が共存し得るものだと誤認していたわけではなかったろう。それは十分わかっていても、彼の内部に政治への興味・関心・情熱(?)といったものが湧きあがって来るのをどうしても抑えることができなかったのであろう。彼は結果的には自己の内なる藝術と自己の外なる政治とを両立させ得ると誤認したばかりでなく、自己の内側でも藝術と政治の矛盾に気が付いていなかったということになってしまった。しかし彼が気が付いていたかどうかには関わりなく、藝術と政治は彼の内部で矛盾し、相互に関連し依存し制約し合っていたにちがいない。したがって彼が大成したと言われる「わび茶」が真に精神的に統一された世界を構成していたかどうかは極めて疑問と言わなければならない。筆者は利休の「わび茶」の中にもある種の政治が含まれていたという気がするのである。わたしは利休の「わび茶」なるものの本質を根本的に検討し直すことがどうしても必要だと痛感せざるを得ない。  
 
利休の世俗的関心

 

先にも紹介したルイス・フロイスの「日本史」の次の言葉は外国人たちの基準で見たものであるから、必ずしも客観的であるとは言えないかも知れないが、フロイスがその短い言葉の中で、堺及び堺商人の特質の一面を鋭く抉っていることも事実だろう。 
「堺は日本のヴヱニスである。単に大きい町というばかりでなく富裕であり商取引が盛んで、一般諸国の共同市場のようなものであって、常に各地から人々が集まって来る。堺の市民は傲慢で気位が高いことは非常なもので、彼らは只欲望をほしいままにして暴利をむさぼり、逸楽に耽り快楽に浸って飽くことを知らない」 
またフロイスは堺商人について別のところで次のようにも言っている。 
「もし自分らが天国に至るには、どうしても自分の債権と俗世の名望を棄てなければならないとしたら、むしろ天国へなど行きたくないと大びらに言い切る始末である」 
これによってわかることは堺の商人というものが名誉と利益にあくなき執着心を持っているということであろう。そして執着心を実現する手段としては、当時の人は「堺の町人は父子の間でも互いに利を争いたぶらかし合う」と言っていたと言う通り、商売上は相当あくどい方法を用いてもそれを当然としていたと言うことであろう。確かに現代においては金は汚いものという観念があるが、当時はそんな観念は存在しなかったし、むしろ金や富は尊いものという観念の方が優先していたのであるが、そういう中でも堺商人の金や富を手に入れるやり方は汚いという評価があったようである。 
つまり堺は大きな交易都市であり、交易によって商人が利を取るのは当然である。その方法が多少汚く見えようとそれは商人の特徴であり非難さるべき筋合いではないというのが、堺商人の通常の観念であったようだ。この考え方は堺商人の間では何の不思議もないものであったけれど、外国人にはそれが「暴利をむさぼり」と見え、堺以外の人々にも違和感を与えていたことは間違いないと思われる。「江州商人の歩いた跡には草も生えない」と言われているあれである。 
利休もまたそういう堺商人の家に生まれ、堺商人としての感覚を身に付けて成長した。したがって利休が名望と富と金についての世俗的関心や欲望が強かったと言っても、それは堺商人としての基本的性格であり、彼自身は必ずしもそう思っていなかったであろう。 
利休はその独立不羈の性格と天賦の才能が相俟って、堺人の中でも特にこれらの性格が強烈な人間のように思われたかも知れない。それはおそらくその通りであったろう。事実利休は天下一の茶湯者となり、これ以上を望み得ない名望を獲得したが、彼はそこで満足しただろうか。利休がその名望に満足し、茶湯の世界の外に出ようとしなかつたなら彼の悲劇は防げたかも知れない。しかし利休はそこに留まることができなかった。利休がどのようにして政治に深入りして行ったかは前章で詳しく述べた通りである。 
たとえ天下一の茶頭になり、政治上の枢機や秘密の情報が耳に入って来たとしても、それをまったく知らない顔をして「わび茶」という精神世界の確立一辺倒になっていることも、難しいとは言えできないことではなかったろう。だが利休の世俗的関心はあまりにも強く、自分からどろどろした政治の世界に身を委ねて行ったのである。 
茶湯を通じて有力な大名たちと対等になり、また彼らを弟子にすることによってそれ以上の格で交際することは、利休の欲望に大きな満足を与えたことであろう。しかも利休は秀吉側近の第一人者であり、秀吉についての情報は誰よりも詳しい。「内々のことは宗易に」と大納言秀長に言わせたほど秀吉に密着しており、秀吉の信用を得ている。彼は初めは秀吉風情と軽く見ていたものの、秀吉が関白になりもはや不動の地位がはっきりして来ると、逆に「宗易ならでは関白様に一言も申し上ぐる人なし」と言われることがたまらなく嬉しくなって来る。利休は秀吉とともに権力の甘い蜜に魅せられて次第にその虜になって行ったと見てよい。  
 
しかしながら利休は一面において「わび茶」の伝統の中から生まれ、その影響下に成長した人間でもあった。第一章の2、で述べた通り、村田珠光の後を受けて「わび茶」の世界を大きく前進させた武野紹鴎の直接の弟子であり、紹鴎の後を受けて「わび茶」の世界をさらに切り開いて行った茶湯者である。だから只の政治好きの茶湯者という人間であったわけではない。それどころか「わび茶」の大成者と言われた男である。そこが利休の不思議なところだ。利休は二畳半または二畳の茶室を創造し、今ままで目もくれられなかった国産の材料に独自の作分を用いて新しい茶道具を作り、そこに新しい価値を付与し新しい美の世界を展開した。 
竹の花入れ、竹の茶杓、面桶の水こぼし、引き切りの蓋置き、釣瓶の水差し、それに今焼きの茶碗などはすべて利休が創作し、唐物名物に置き換えて行ったものである。それだけではない。彼は新しい点茶の作法、手順、喫茶の方法など茶会の流れの道筋を確立し、それによって「わび茶」の世界という、現実の世界の外の新しいもう一つの世界を創り出したのだ。これは間違いのない事実である。この「わび茶」という一つの精神世界の本質については後に詳しく論ずるので、ここでは利休の中で政治と「わび茶」というどうにも溶け合いそうもない二つのものが同時に存在し、それぞれ独自の大きさを持って歴史に影響を与えたという事実を指摘するにとどめよう。 
利休のもう一つの世俗的関心は金である。堺商人の商売とか金についての観念は既に述べた通りだが、利休もまたこの性格を色濃く持った堺商人であったと見て間違いない。利休は名だたる茶湯者であったから道具類の目利きを依頼されることは多く、目利きの礼を取るのは正当な報酬であった。これは何ら非難されるべきことではない。 
ある学者に依れば直接あるいは間接に墨蹟、絵、風炉、釜、花入れ、茶碗、茶入れ、茶杓などの道具の目利き、修理、周旋などに関する利休書状と見られるものが三十通も現存するそうである。利休は信長の茶頭時代から目利きに活躍していた。 
茶器売買を周旋していたことを語る書状も残っている。また島井宗室に宛てたもので、秀吉が宗室秘蔵の掛け物を召し上げ、その代わりに般若の壷と金子五十枚をやろうと言っていると告げ、この般若の壷はもとわたしが平野道是から金子三十枚で買い取ったものが秀吉に移ったものだから、もし貴方が壷は不要だと言うなら、わたしの方で金子三十枚で売却して金で送ってあげてもよい。昨今金一枚で五百目が相当だから、すべてで二千貫になる勘定である云々と言うもので、これで見ると利休の商売上の駆け引きがはっきり透けて見えて来る。つまり平野道是から買ったのが(利休の言葉を信用すれば)三十金だったと仮定して(?)、それを秀吉に譲るのに三十金で渡したはずはないのに、また同じ壷を三十金で買い戻して、それをもう一度商売に使おうというのである。これは商売人としては何ら非難されるものではないのであろうが、まるで骨董屋のすることであって、到底「わび茶」という精神世界の帝王がやることとは思われない。これで見ると利休は天下一の茶頭になってからも、目利きや道具斡旋で謝礼を取るほかに、自分でも相当あくどい商売を続けていたもののようである。 
天正十二年九月のものと推定される宛先不明の自筆消息文というのでは、「筆をさいさい下され候とてなかば喜び候。同じく銀をおそえ候はば、猶々然るべく候」とあるが、「筆をちょいちょいくれて半分うれしい。どうせのことならお金も添えてくれればもっとうれしいのだが・・・」と言うことだろう。これは余程親しい友だちへの手紙だろうが、冗談半分にしてもあまり露骨で浅ましい。 
また天正十四・五年頃のものと思われる芝山監物宛ての書状では「(()鴈(かも)塩引きなどは下され候ても入り申さず候。自然銀子など候はば一折給うべく候・・・とてもの事に銀をも、情を入れられ候て、下さるべく候。待ち申し候」というのがある。芝山監物は利休七哲の一人で最も親しい弟子ではあったけれど、「鴈の塩引きなんかくれてもいらない。それよりお金があったせなにがしか欲しい。いっそのことお情けでお金を恵んでくれ。待っている」となると、もうこれは冗談めかして言っているが、どうも下品でとても笑えるものではない。却って賤しい本心が見え透いてほんとうにこれが利休の手紙なのかと疑いたくなる。尤もこんなことは堺商人の間では別に何でもないことなのかも知れないがとても一般に通ずる感覚ではない。 
利休処刑の重要な理由となったものに売僧(まいす)問題というのがある。興福寺多聞院の英俊が残した「多聞院日記」の天正十九年二月二十八日の条に、「数寄者の宗易、今暁腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧の頂上なりとて、以ての外、関白殿立腹」と記されている。しかし新しい着想のもとに今までの注目されていなかった道具や材料を見出し、それによって新しい道具、新しい美を創り出すのは芸術家の仕事であり、そういう道具が高い値段で取引されたとしても、それは少しもインチキではなく正当の報酬である。しかし古い価値観で動いている一般社会から見ると、なんであんなものがそんなに高価なのかということになり、それで大きな利得を得ている者に対しては嫉妬心も手伝ってインチキ商売と非難することは往々にしてあることである。確かにこういう場合目先を変えただけの際物と真の新しい価値のあるものとは非常に見分けにくく、それはある時間の網目を潜らないと一般には見えて来ないだろう。だからこそ売僧呼ばわりが出て来るのもやむを得ないのだが、利休の創り出した新儀の道具というものは、唐物一辺倒だった当時の美術界に新風を巻き起こし、歴史の波を超えて現代に至るまでその価値を保っている本物だったのだから、この非難は故のないものであったと言う他はない。 
只これらの商品の売買に当たって利休が堺商人らしい相当なあくどさを発揮していたであろうことも十分想像され、それがこのような悪評を呼んだものであろうと思われる。しかしながら商取引としてのこういう行為は、一般市井では当然のこととして通用しているものだから、利休が一介の茶湯者であったならば、特に糾弾されるようなことは決して起らなかったに違いない。これが問題になったのは利休が天下一の茶頭であり、秀吉を動かす力さえある実力者と見られていたからである。つまり天下一の茶頭というのは形式はともかく実質的には強めて高い政治的地位だったのである。市井の一介の茶頭の行為と、最高の政治的地位にあるものの行為とは、それが同じ行為であっても意味はまったく違って来る。利休がこの点にあまりにも無頓着で無防備であったことは、間違いなく彼の重大な過失であったと思わざるを得ない。それは彼の世俗的関心が、特に金や富に対する執着心があまりにも強かったことから起ったことだ。堺商人的感覚そのままでは天下一の茶頭は勤まらなかったのである。  
 
利休と禅

 

利休の〈わび茶〉については一般に「茶禅一味」などと言って、利休においては茶と禅が一体化されていたかのような受け取り方が流布しているように見えるが、これはひどい誤解である。確かに利休の交友の中には禅僧が重要な位地を占めており、利休自身若い頃から堺の南宗寺の大林宋套に参禅していたと言われている。しかしそれは言われているだけで、参禅の内容を示す文書が何もなく、各種の利休論を調べても利休がどのように修行したかについて書いたものは見当たらない。利休が何時、誰に師事し、どのような禅の修行をしたかということはほとんど記録がない。 
もし利休がほんとうに禅の精神を自分のものにしようとすべてを擲って参禅したのであれば、そのことが利休の記録に一切現れないということは理解できない。ことに座禅というものは師の印可を受けたらもう坐らなくてもいいというものではなく、一生を通じて修行の続くものである、利休に関して沢山の記録が残されている50-60代において、何一つ参禅に関する記録が見えないのは、利休にとって禅とは何であったかを疑わせるに十分であ る。これは利休の問題である前に、多分に当時の禅宗、ことに大徳寺系の臨済宗というものの問題ではないかという気がする。一つ前の時代、15世紀前半頃、一休宗純が生きていた時代の臨済宗の状況が参考になるだろう。 
一休宗純は応永元年(1394)に生まれた。利休に先んずること約150年である。亡くなったのは文明13年(1481)で利休に約110年先んじている。一休の生きた時代は室町時代の将軍義持、義教、義政、義尚の頃である。能では世阿弥、茶では村田珠光、連歌では宗長、心敬などが活躍している。一休は後小松天皇の落胤と言われ京都に生まれた。6才の時安国寺に入り、清師仁、謙翁宗篇、無因宗因などに学んだ。後に大徳寺に入り華叟宗曇に参じた。この時の一休の修行は一命を擲ったような徹底的なもので、27才の若さで師のか華叟印可を与えられた。華叟大徳寺の住職であったが、幕府統制下の大徳寺を嫌い近江の堅田の祥瑞庵に住した。彼は純一無雑な林下の宗風を好み、京都の禅家の頽廃を激しく拒否した。一休にとっては広い京都を見回しても大燈国師の遺風を正しく継承している師はこの華叟他に見当たらなかったのである。 
この時代の一休は大徳寺ではなく堅田の祥瑞庵において華叟の峻厳苛烈を極める薫陶を受けたのだ。華叟は漁民の細々とした布施で生きていたから三度の食事もままならない状況にあった。一休は京都に出て香包みや雛人形の彩衣作りなどをしてやつと師と二人の衣食を賄ったと言う。しかも時間のある限り座禅三昧、冬は菰をかぶって終夜坐り続けるという物凄い修行の末、華叟の印可を受けたのであるが、この修行は一休が83才の生涯を遂げるまで変わらなかった。ところが法兄の養叟は堅田において一休と同様の修行を積みながら、華叟の法嗣となって大徳寺に入るや忽ち豹変し、大徳寺に集まる有徳人にやすやす印可を与えて謝礼を取り始めた。一休はこれを怒り〈自戒集〉を著して徹底的に養叟を罵倒した。こういう一休であるから第46代の大徳寺の住職となり紫衣を賜ってもほとんど寺に住することなく、限りなく町をさまよい市井の町人・百姓に立ち混じって法を説きつづけ、風狂の名をほ しいままにして果てた。 
これを見てもわかる通り、利休の時代の約百年においても、禅は世俗に汚れて堕落しつつあり、大燈火国師の法系の純一無雑な禅精神を守るものは、華叟・一休などのむしろ例外に近い存在であ った。従って利休時代の大徳寺系の禅がどんな状態に陥っていたか、当時一人の一休も現れなかったことを見ても察しはつく。大徳寺の大林宗套が武野紹鴎に一閑の居士号を贈り、津田宗及に天信を贈っているところを見ても、明らかに居士号の安売りであり、養叟と選ぶところがない。印可の大量販売であることは疑いようがない。従って利休の居士号 も大徳寺や堺南宗寺が堺商人たちの財力に依存し、見返りに居士号を乱発した例と推理できる。この当時の禅僧は大林宗套にしても笑嶺宗訢や春屋宗園・古渓宗陳にしても社会上層の有徳人と完全に馴れ合った堕落し切った禅僧たちであり、彼らの居士号に対する偈(げ)や頌(じゅ)の文言にもはっきり現れている。
 
春屋宗園の偈から見てみよう。この偈は利休が亡くなって約15年経った慶長10年(1605)長男道安が利休という居士号の意味がわからず、それを春屋宗園に尋ねたのに対して春屋が応えて作ったものである。 
(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり。道安老人愚拙に利休の義を述ぶるを求む。小偈を以ってその責めを塞ぐ) 
参得宗門老古錐 平生受用哉流機  全無技倆白頭日 飽青山対枕児呼 
参得す宗門老古錐 平生哉流の機を受用す 全く技倆なし白頭の日 青山に対するに飽きて枕児を呼ぶと読む。 先ず彼は利休を禅人と言っている。禅人と言う呼称は少なくとも大悟徹底した人と言う意味だろう。利休は大悟徹底した人であったろうか。あれだけ権力の奥深く侵入し、時には権力を借りて極めて政治的な行動に奮闘し、(内々のことは宗易に)とまで言わせた利休、金に強い執着を持ち、茶道具を商売の種にして大枚の金を得ていた利休。これが大悟徹底した人の行動であろうか。 わたしから見れば利休は禅人などとはまったく無縁な優れて世俗的な人物、敢えて言えば俗物中の俗物であったとしか思えない。にもかかわらず禅の専門家、自らも世俗を離れて終生求道に徹することを本分としている筈の禅僧が、利休を禅人と称するのはどういうことか。これはもう春屋自らが禅を離れ世俗に堕している証拠ではないのか。 
次に来る言葉にもそれははっきり現れている。雅称という言葉である。春屋によれば居士号というものはもはや雅称でしかないのだ。つまり現代のわれわれが俳句を作る時用いる雅号の佛教版ということであろう。居士号もこの時代にはここまで成り下がっていたのである。現代においては死者に法名を与える場合居士号何十万円、大居士何百万円と言う相場があると聞くが、当時 も大同小異だと言えそうだ。 
偈の内容は禅語特有の難解なものである。「老古錐」というのは古くちびた錐、つまり鋭敏な切っ先が擦り切れてもはや錐の用をなさないものという意味である。利休居士は長年の間禅の修業を積んで、錐の本来の意味である鋭い先端でものを貫くということからまったく自由になった。何ものにも囚われない心境に達していると言うのである。こ れはもう大悟徹底した後の、悟りの臭みも消え果た最終窮極の境地に達していると褒め上げている。 
「平生受用哉流の機」は、日常どんなことが起ってもそれに対して自由自在に対応していささかも遅疑逡巡することがないというほどの意味。「まったく技倆なし白頭の日」は、あらゆる作為や分別から離れて老年を悠々と楽しんでいるということであり、最後の「青山に対するに飽きて枕児を呼ぶ」は 、青い山を見ているのにも飽きて枕をとってごろりと横になると言う意味だ。おそらく現実の利休とはまったく無縁な境地と言う他はないだろう。もし利休がこんな境地を獲得していたとするならば、利休切腹の前の彼の言摂行動はまったく違ったものになっていたであろうし、後で述べる遺嵑偈や辞世の歌のようなものを作ることもなかったろう。 
仙岳宗洞が文禄4年(1595)利休の次男少庵に与えた偈も同じようなもので、やはり彼も「泉南宗易禅人」と利休を禅人と呼んでおり、偈の内容も難しい禅語で飾ってはいるが春屋と同じ追従でしかない。これが生涯の友であった古渓宗陳となると、只の友情を表すのに禅語で褒め上げただけのものだ。これは頌で偈ではないがやはり追従であることに変わりはない。 
泉南抛筌斎宗易について三十飽参の徒なり。禅余以て茶事を努と為す。この頃かたじけなくも特に綸命を下し利休居士号を賜う。この盛挙を聞き、歓びに堪えず。贅一偈をつくり、以て賀忱を述ぶ (宗易は30年もの長い間わたしのもとに参禅し続けた人である。禅の修行の他は茶事を業としている。この度忝くも天皇が特に命令して利休居士の号を与えられることになった。このすばらしい慶事にわたしも嬉しくて溜まらず一偈を作ってお祝いする次第だ)。 
これらの頌や偈は、利休はすでに悟りすまして絶対自由の境地に悠々として遊んでいる人のように表現しているが、彼も現実の利休がそんな人間でないことは知り過ぎるほど知っていたはずであり、にもかかわらずこういう歯の浮くような世辞追従を何のためらいもなく書き記し、人前に曝して恬として恥ずるところがないのに驚く。つまりこの時代の禅はもはや 本来の禅ではなく、一つの教養としての禅になっていたのではないのか。 
居士号を勅賜されるまで利休が使っていた抛筌斎という斎号について取り上げる。抛筌とは元来禅語である。筌とは魚を取るための伏せ籠の意味で、それを抛つというのは手段や方便という一切の作為を捨てて、何ものにも囚われないまったく自由な境地で行動するという意味である。これは先の老古錐と同じで、大悟徹底のもう一つ上の段階の境地、言葉で言ってしまっては身も蓋もないが、絶対自由の境地ということである。禅の窮極の境地を表す言葉は他人が付けてくれてさえ恥じて辞退するのが当然で、それを自らの斎号として名乗るということはをどう思われるであろうか。利休は自らの現実の姿と抛筌斎という文字が表す人格との間の目も眩むような懸隔、断絶に気付いていなかったのであろうか。もしそれに気付かなかったとすれば利休には心というものが存在しないことになる。気付いていて敢えて使っていたとすれば、傲慢不遜な人間ということになる。利休という人間が他人の思惑を一切考えない稚気と無邪気で成り立っている人物であろうか。もしそうだとするとあの政治的人間としての利休とは何処で繋がるのであろうか。どう考えても抛筌斎という斎号には利休の自意識 、気負い、極度に強烈な自己顕示欲の匂いを感じる。
 
自らの斎号に抛筌斎を使うことは禅の精に百八十度背馳するものであるが、そういうことが起る原因の一つは利休が禅を自己の精神の問題としてではなく、教養の一種として捉えたからと考える。なぜ禅を教養として重視したかと言うと、それは当時において知的階級の教養として最高に格好よいものであったからに違いない。当時の知的上流階級にとって、禅は和歌や連歌以上に最高の教養であったからである。 機を見るに敏な利休がこのことをはっきり認識していたことは確かである。彼が完成させたと言われる〈わび茶〉は、禅の「本来無一物」という考え方を取り入れることによって初めて成立し得るものであり、そこから大名茶とは違う〈わび茶〉という別の世界が生まれて来るからである。「茶禅一味」という言葉はそういうところから言われるのであるが、この場合の禅が本来意味されて来たような禅であるのか、教養としての禅であるかの弁別は非常に重大な問題であ る。 
一口に〈わび茶〉と言っても利休の〈わび茶〉の他に、粟田口善やノ貫のような徹底した〈わび茶〉の流れもあったのであり、この人たちの場合茶と禅との関係は、彼らが禅の修行に励んでいたかどうかという意味ではなく、教養としての禅を踏み越えて、より禅の精神に近づいていた、いや近づこうとしていたと言っていいだろう。山上宗二なども利休門下ではありながら、師とは別の世界の茶でややこれに近いと思われる。善法の場合は〈かん鍋一つにて一世の間、食をも茶湯もする身上を楽しみ〉と言うのだからこれは正に「無一物」に近く、ここから生まれて来るのは利休の〈わび茶〉とは違った世界の茶であり、これこそ「茶禅一味」の茶であるだろう。 
利休の〈わび茶〉というものがもし成立し得るとすれば、それはこの二つの微妙なバランスの間においてである。茶を立てて飲むということは本来飲食であって、人間の本能的欲望を基礎においているもので、一方禅は人間の精神の在り方に関するものだから、これは理論的に言って明らかに対立概念で、この二つを適当に按配してバランスを取るということはそもそも不可能である。だから精神に重点を置けば必然的に善法やノ貫のようなものとならざるを得ない。利休はこの問題をどう処理した か、禅を精神の問題から教養の問題に置き換えたのである。教養とは観念であり意識の世界であり、精神の中核ではなくその機能の表皮の部分である。この表皮の部分であれば本来人間の本能的欲望の対象である茶とはよく融合する。利休はこのことに気付いており、そこに利休独特の〈わび茶〉の世界が形成されて来る基礎があるのである。 
それでは〈わび茶〉とは何かという問題になるが、禅の「本来無一物」の精神ではなく、その考え方を利用して、そこに新しい視角を切り開こうということであろう。だから〈わび茶〉というものは物質的欠落の中から、それを超える新しい美を見出そうというのであり、禅は精神的欠落・孤独の中からそれを超えた自由を見出そうとするのである。よく〈わび茶〉との対比概念として〈さび〉が言われるが、 〈さび〉は精神的欠落を意味しておりむしろ禅と共通の基盤に立っているものと考えられる。 こうして利休は茶湯の中に意識的・計画的に教養としての禅を導入して行った。 
利休の精神に教養としての禅がいかに食い込み、自らの本来の言語のようになってしまったかを、最期の偈や辞世の歌に見る。 
人生七十 力回囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺 
提(ひ)っさぐる 我が得具足(えぐそく)の一太刀(ひとつたち) 今此時ぞ天に抛(なげう)つ 
「おれは七十年間の人生を力んで送って来たものの、今はああ・・しかし何くそ・・おれの胸の中に祖先も仏も共に殺すくらいの何ものにも囚われない宝剣があるぞ。さあこい」 の意味か。辞世の和歌の方もほとんど同じ意味に受け取れる。「咄」何くそだとか、「祖仏共殺」「一太刀」「天になげうつ」などの言葉に引っかかる。ここに利休の追い詰められて無理矢理肩肘を張り、やたらに気負っている姿がはっきり透けて見えて来る。偈と辞世は切腹の四日前に作られたもの だが、利休はこの時既に覚悟を決めて秀吉の切腹の命を待っていたのであろう。秀吉に対する激しい感情と対抗意識が強烈に出てしまったのか。ここには特別に自我意識の強い普通の人間がいるだけで、大悟徹底した禅人などの姿は欠けらもない。只それが難解な禅語で書かれているだけである。つまり彼は禅について深い教養を持っていたが、禅の精神は持ち合わせていなかった。むしろそれとは逆に我執を他人の十倍も持っていた。死を覚悟したこの時点においても彼の心は我執ではち切れそうになっていた。これが生涯の果てに利休が辿り着いた心境であったのだ。利休の〈わび茶〉なるものが禅の精神とはまったく関係のないものであることが、はっきりと裏付けられ 見えて来る。 
利休の偈が実は中国の三国時代の蜀の禅僧、その名も幹利休の遺偈の模作と言われている。 
人生七十力口希 肉痩骨枯気未微 這裏咄提王宝剣 露呈仏祖殺機 
 
利休の「わび茶」と「さび」

 

世阿弥は利休に先んずること約百五十年、室町時代に約八十年の生涯を精一杯生きた人物である。彼はその藝術を能の舞台で演じ尽くしたが、彼が偉大だったことは実践の面だけでなく、約二十篇の能の脚本と二十一篇の能楽論を書き遺したことである。彼の舞台がどんなものであったかわれわれは今それを見ることができないが、彼の創り出した能作品と能楽論は鑑賞したり学んだりすることはできる。これは実に素晴らしいことであって、世阿弥はその作品によって彼の藝術論をこの上もなく鋭利・鮮明に表現してくれているのである。 
特に素晴らしいことは、彼が本質と現象という抽象論理を意識的に把握していたことだろう。この当時において事物を分析して本質を抽象し、本質と現象の関係を明確にするということは誰にもできなかった。それは百五十年を経た時代に生きた利休にもできなかったことである。しかし世阿弥にはそれができたし、それをやることによって彼は自分の藝術論を打ち建てたのだ。しかも彼の藝術論の質の高さは、現代においてもその類を見ないほどのものである。実際筆者も様様な藝術論を読んで来たし、たくさんの文芸評論家が様様な藝術論を展開しているのも見て来た。しかしそれらの中には芸術の本質に迫り、それを超えるようなものは見当たらなかった。それでは世阿弥は藝術の本質をどんな方法によって把握したのかと言うと、わたしにはそれが禅と深く関わっていたと考えるのである。彼の所論の中で仕手の最高至上の演技を規定するに際して、「妙」という字が現れて来る。例えば芸の位を表す「九位」において上三花(じょうさんか)の最高を妙花風と言っている。 
「妙と言っぱ、言語道断、心行所滅なり」 
言語道断とは言語では言い表せないということであり、心行所滅とは心の作用も絶え果てた無心の境だと言うのである。これはもちろん禅の用語であり、論理の世界を超越し、心さえも作用しない、魂が何の規制も受けることなく完全な自由を獲得している状態である。つまり大悟徹底してすべての我執から解脱した涅槃の世界であり、これを涅槃妙心と言う。そういう状態で能が演じられる芸位を妙花風と言ったのである。 
これは釈迦の諸行無常の哲学をしっかりと踏まえ、そこに人間存在の絶対的孤独と対決するという体験を元として始めて得られる心境である。決して頭脳的操作からは生まれ得ない思想であり、それが能作品として表現されたものが「砧」である。「砧」における夫に裏切られた女房の絶対的孤独がそれを余すところなく表現している。 
「妙」とはこの絶対的孤独と真正面から対決し、それを乗り越えたところに生まれる完全な心の自由である。このことは生半可な禅の修行からは決して獲得できない考え方だ。世阿弥と禅の関係については、奈良の補厳寺において竹窓智厳に参禅したということがわかっているだけで、何時どんな修行をどのように行ったのかは何の記録もない。もちろん利休のように生前に居士号を受けたというようなこともない。それにもかかわらず世阿弥はここまで佛教哲学と禅の本質をしっかり捉えて、それを自らの藝術に生かしているのである。世阿弥の藝術というものは、佛教哲学殊に禅と無関係に考えることはできないし、それ抜きにしては世阿弥の藝術や藝術論は成立し得ない。と言うことは世阿弥は並々ならぬ態度で禅の修行に打ち込んだ、そういう体験を持っていると見るのは妥当であろう。そして世阿弥の禅の修行は、そのまま能の演技の修行に通じていたのであろう。世阿弥は自らもいわゆる妙花風の仕手であって、その演技はこの時代の最高の水準に達していたと言う。
 
「さび」という概念はもと「さぶ」、「さびし」から出た語で華美・未熟・浅薄・卑猥・新しさ・騒がしさとは正反対の、閑寂・枯淡・老成・古び・落ち着きと言った概念だった。つまり基本的には寂しいであり孤独感である。それを室町時代の連歌師心敬は「ひえ」、「からび」などと表現し、連歌の美の窮極の境地とした。これを一口に言ってしまえば精神的な欠落感に基づく美意識、孤独の美である。 
つまり世阿弥の美である「さび」は、人間存在の絶対的孤独に基づいているから、藝術の本質に迫り、時代を超えて現代人の心にも迫って来るのである。このように見て来ると世阿弥の禅が利休のような教養としての禅ではなく、彼の魂と藝術そのものであることがはっきり浮かび上がって来るだろう。世阿弥の藝術は佛教哲学、禅の本質によって初めて実現したものであったのである。 
茶においてもこの「さび」という概念は初期においては存在していた。村田珠光も「心の文」の中で「ひえやせる」とか「ひえかえる」ということを言っているし、利休の師である武野紹鴎も心敬の言葉をかりて、「ひえかれてかじかれ」ということを言っている。 
「さび」と「わび」とがはっきり分れて使われ、「わび」に集中したのは利休からである。そもそも「わび茶」が現れたのは書院の茶・大名茶に対するものとしてで、初めて「わび数寄」という言葉が現れるのは「山上宗二記」においてであり、志・作分・手柄の三つを具えたものと規定されている。志とは茶湯を生涯の事業とする志であり、作分とは作為・工夫のこと、手柄とはその成果、つまり具体的な工夫とか作品を意味する。この三拍子揃ったものが「わび数寄」だと言うのだ。唐木順三はその著書「利休」の中で次のように指摘しているが的確である。 
「わびは対比において起る。過去の豪奢に対する現在のわび、世間の豪勢に対する自分のわび、また自己の豊富に対する自己のわびなどである。豪奢や豊富に対して言えば隠逸や貧寒であるが、これは量的な相違はあっても有に対する有であることには違いはない。極小の量を以って極大の量を批判するという性格は確かにある。緊密にして凝った量は粗大にして乱雑な量より高い。密度の高い量にこもって散漫に対抗するところに「わび数寄」があったのである。だから贅沢や豪勢に対立し、それを白眼視するが、対立する対象がなくなればわび自体の存在が怪しくなる」 
これをわたし流に言えば物質的欠落感ということだ。物質的に欠落して最期に残った貧しく粗末なものの内に見出す美ということである。唐木も言うようにそこには常に対極にある豪奢が意識されている。従ってわびの美は常に作為から生み出される。徹底的に作為なのである。
 
ここでわたしが思い出すのは、柳宗悦が庶民の雑器の中から見出した、いわゆる民藝の美のことである。利休もまた面桶の水こぼし、釣瓶の水差し、引き切りの蓋置、新焼きの茶碗などを、民衆の雑器の中から新しい美として見出しているが、これは彼の美意識による作分・工夫であって、それらの物は常に利休の側から見られているのである。つまりそれを作り出した無名の工人たちやそれを使用して来た庶民たちの立場から眺められているのではなかったのだ。 
柳宗悦も全国各地の無名の工人が作り出した、各種の生活雑器の中に美を見出し、いわゆる民藝復興の旗頭となったが、これは柳宗悦という天才のいわゆる作分であって、この点利休と非常に似ている。なぜなら彼は決して民衆を愛し民衆の心になって彼らの心を理解し、それによって新しい美を発見したのではないからである。まさかと思う向きは次の柳の言葉を読んでいただきたい。 
「無学な職人たちに美を解せよと言うのは無理ではないか」(「民藝美」他力入門の美) 
「あの職人たちがどうして美しいものを産めるのであろうか。彼らにどんな資格を予期したらいいのだろうか。わたしは明らかに言おう。職人たち自らにそんな力はないのであると。彼ら自らの力がそれ(素晴らしい作物)を産んだのではない。他力に助けられて様々な不思議を演じたのである」(「工芸文化」美の国と工房) 
この文章に一貫して流れているのは、彼の以上に肥大したエリート意識とその裏返しの庶民に対する徹底的な蔑視である。彼に言わせれば庶民に美など作り出す力はないのであり、それは他力に助けられて産み出されたのだと言うのである。柳はその他力が何であるかについては他のところで「神の恩寵・仏の慈悲によるものである」などと言っている。ところが彼は他のところでこんなことも言っているのだ。 
「貧困な生活が持つ謙虚さが積極的に品物の美しさに働いていることに注意したい。もし作者に貧しい生活がなかったら品物はもっと騒がしく高ぶったものになったであろう。そこに生まれる質実な美しさは貧の徳から生まれたのである」(「民と美」) 
これではまるで工人たちは貧困でなければならず、その上無学で美など解さない人間でなければならないみたいである。 
そして柳は民藝の美は貧困から来る謙虚さから生まれたというのである。しかしもしそうならこれは自力の美であって、無名の工人たちはそういう美を作り出す能力を内に秘めていたのであり、それがあればこそ柳が嘆賞するような美が作り出せたのではないか。ここで柳の論は完全に矛盾し撞着に陥っているが、それはおそらく彼があまりにも強烈なエリート意識に取り憑かれていたため、客観的な目を失っていたからであろう。
 
いささか議論が横道にそれたようだが、わたしが言いたかったことは利休が見つけた新しい美にしても、柳が発見した民藝の美にしても、それは利休や柳の側から一方的に規定された美であって、あくまで作分・工夫によるものであつたということと、もう一つは利休や柳が意識していなかったにせよ、何れの場合にも民衆はそういう美しいものを作り出す能力を具えていたということである。この点で利休と柳はなんと似ていることであろうか。柳のやったことは利休がやったことの近代版であって、その方法論はまったく同じだったと言っていいだろう。しかも柳も利休も美の実作者でなかった点も特に注意しておく必要がある。 
利休が「わび茶」に入って行ったのはもちろん村田珠光から武野紹鴎へと発展して来た「わび茶」の伝統を引き継いだからである。殊に紹鴎は唐物名物一辺倒であった時代にあって、定家の色紙を床に掛けたり信楽の水差、竹の自在鉤、木地の釣瓶型水差し、木の曲げ物の建水など、日常の雑器類の中に美を見出してこれを取り上げ、自らも竹の蓋置などを工夫している。従って利休が工夫して作り出した新しい茶道具なども、実は師の工夫の延長であったことは言うまでもなく、こういう視点は利休の独創による工夫というものではなかったことに注意したい。只彼は群を抜く卓抜なデザイン感覚の持ち主であったから、長次郎に焼かせた木守,勾当(こうとう)、大黒などの茶碗は現代に至るまで名品として尊重されている。 
このデザイン感覚という点から見ると,少なくとも利休がその建築に関与したと見られる京都山崎の妙喜庵待庵という二畳の茶室などは天井・窓・床などに今日見ても斬新なデザインが溢れており、彼の才能が並々のものではなかったことを想像させるのに余すところがない。 
現在重要文化財に指定されている大徳寺真珠庵庭玉軒とか三玄院篁庵、慈光院蜜庵、玉林院南明庵、聚光院閑隠席などはもちろん利休以後の建造であるが、これらは利休の茶室からの流れであり、その影響を受けたものであることは間違いあるまい。これらの茶室のデザインを見ても利休の「わび茶」のデザインがいかに後の時代に大きな影響を与えたかが窺えるが、それは茶室にせよ茶碗その他の茶道具にせよ、彼のデザイン感覚の卓抜さによるものであろう。そしてこれらの道具立ての中で行われた彼の茶湯のやり方もまた、同じデザイン感覚に支えられた的確でスマートな方式であったに違いない。 
それは微に入り細にわたって次第に格式化されて、今日に及んでいるのだろうと思われるが、何れにせよ源流が利休の茶の方式であることは疑いあるまい。この茶湯の流儀なるものがまた利休独特のデザインであることも言うまでもなかろう。利休には茶湯論なるものがなく、道具論もない。利休自作の茶道具とが茶室もほとんど残っていない。 
また自作と言われるものも、長次郎のような専門家に委嘱して作らせたものが大半で、真の自作と言えるものは「園城寺の花入れ」などほんのわずかなものに過ぎない。この点は光琳や乾山や光悦などの超一流のデザイナーとは大きく違っている。彼らはデザイナーであると同時に製作者であったからだ。にもかかわらず利休が今日までも「わび茶」の大成者であり、大利休であるのは、主として利休のデザイナーとしての技量によるものではないだろうか。
 
諸々の利休論を読んで驚くのは、利休の「わび茶」とは何かに真正面から取り組み、それを詳述して本質を解明したものがほとんど見当たらないことである。それはおそらく利休の「わび茶」と言っても現実にはその実体がなく、研究材料が極めて乏しいからかも知れない。それにもかかわらずそれぞれの論者が利休の「わび茶」の本質に触れないまま、「わび茶」の完成者として讃えてやまないのはほとんど理解に苦しむ。これは何とも不思議な光景である。 
先にも述べた通り利休の「わび茶」というものには精神的な世界の追求という面は薄く、極めて主知的で作為的な美的世界(?)があるばかりである。だからそれが一つの美であるとするならば、美とは何ぞやという問いを改めて問わねばならないことになるだろう。例えば終生世俗的であり、政治的権威への強烈な執着から解放されることがなかった利休が、世俗とは対極にある心の世界、美の世界の王者であるという議論はどのようにして成り立つのだろうか。利休が作った美(?)に対する根本的な問いは未だかつて問われたことがなく、利休は「わび茶」という美的世界の王者として今でも君臨し続けているのだ。 
しかし今はもうこの問いに明確に答えることなく、利休を「わび茶」の完成者として讃仰してこと足れりとするような、曖昧な利休観をのさばらせておくことは、学問の権威において許されてはならない。利休の前に利休なく、利休の後に利休なしと言われる。それは世阿弥にしても同じだ。利休と世阿弥とはまったく違うが、利休や世阿弥の後は同じだ。形式化し家元制度化し、そしてそういう能楽や茶道の驚くべき繁栄。 
しかし能や茶がどんなに世俗社会で隆盛を極めようと、それは世阿弥の能や利休の茶とは何の関わりもない。なぜかと言うと世阿弥の場合は彼が到達した精神世界があまりにも深く、当時の人だけでなく後世に至ってもそれがほとんど理解されることがなかったからであり、利休の場合は物質的な欠落という量的な世界にとどまっていたため極めて理解されやすく、形式化しやすくできていたためである。世阿弥には能作品や能楽論があり、それを手掛かりに彼の世界を垣間見ることはできるが、利休にはほとんどその材料がなく、従って形式化され誤解されっぱなしになるのは止むを得ない。そして誰も利休の「わび茶」やその美を解するものはいない。
 
しかしわたしに言わせれば「わび茶」の完成者、わびの美の世界の王者としての利休は立証不可能な幻想の産物に過ぎず,利休は所詮デザイン感覚の優れた俗人に過ぎなかったとしか考えられない。ずいぶん乱暴な言い方のように思われるかも知れないが、木守、勾当、大黒などの楽茶碗にしても、また特に「園城寺の花入れ」などにおいては、精神的な何ものかより、むしろ利休の作為ばかりがちらちら目に付いてしまうのだ。ここには柳が見付けた民藝の器にあるような、何も主張していないにもかかわらず、しかし惻々(そくそく)として心に迫って来るような精神的美は見出すことができない。また利休の「わび茶」なるものも、これは言ってしまえばマイナスの贅沢であり、有徳者たちだけの楽しみの世界であり、粟田口善法やノ貫など自らマイナスの世界に生き、そのマイナスの世界の中に茶の至福を見出したものとはまったく異質なものである。唐木順三はわびはいくらわびても結局「有に対する有だ」と言っているが、利休の場合はあくまで有の世界であって、むしろマイナス側の豪奢であり、それが強烈に意識されていて、作為的に作り出されたものなのである。 
従って善法やノ貫の茶は「さび茶」と言った方が妥当なのかも知れない。只善法やノ貫についてはほとんど何の資料も残されていないので、これは推測に留めておく他はない。何れにせよそれらは利休の「わび茶」とはまったく異質な「さび」に近いものであったと思われる。 
それでは「さび」とは何かと言うと、先に述べたように精神的な欠落感を元にして起って来る感情である。辞書によれば「さびる」とは「寂びる」であり、古色を帯びる、衰える、心に寂しく思うの意だとある。「さび」の美とは単に古色を帯びるということではなく、心に寂しく思うという方から来ていると思われる。つまり寂しいという感情から出て来る。珠光の「心の文」の「冷えやせる」、「冷え枯れる」というのも、心が孤独でぎりぎりの状態を示している。つまりそれは人間の心の孤独である。それも世俗的な意味での孤独ではなく、その孤独のもう一つ奥にある人間存在そのものが持つ孤独なのである。人はそれが王者であれ富者であれ普通市井の人であれ、自分の心の奥の暗い闇の、その底を覗き込んだ時、人間という存在が本質的に持っている非条理な孤独、絶対的な孤独に直面することになる。その時人は人間という存在がどんなにちっぽけで無力で非力な存在であるか思い知らされる。そして底知れない孤独感に包囲されて身動きが取れなくなる。しかし人はたった一人で孤立して生きているわけではない。数限りない人間が群がって一つの社会を形成して生きている。従って人は真実に己の心の奥底を見つめた時、己れ一人が孤独なのではなく、己れを取り巻くすべての人がまったく自分と同じであることを知る可能性を持つ。 
この可能性を生かし得なかったものは、己れの孤独が己れ一人の孤独ではなく、人間と名のつくすべての人の孤独であることを解し得ず、なんとかして己れ一人だけこの孤独から逃れたいと間違った抵抗に突っ走ることになる。それは無限闘争の世界であり、世俗への単純な回帰であり、修羅の世界である。地獄である。しかし己れの孤独に徹し、己れの孤独が生きとし生けるものの孤独であることを悟ったものは、その時同じ苦しみに悩む人々への愛を覚える。孤独なるが故に孤独なもの同志の連帯を求めようとする。その時彼の心に人々への愛が生まれ安らぎが訪れる。心をがんじがらめに縛っていたあらゆる我執の緊縛がはらはらこぼれ落ち、今まで心を領して来た我執の苦悶が雲散霧消し、信じられないような自由と安らぎが心に返って来る。人々への愛だけが心に満ちる。この愛が「冷え枯れかじかれ」た状況の中で美を生みだすのである。 
世阿弥の言う「却来」であり、「妙」である。「さび」とはこういうものであり、「さび」の美はこうして生まれる。 
芭蕉の「さび」もまさにこれである。わたしはこれを「孤独の連帯」と名付ける。 
この「さび」の感情は人間の感情の表層にではなく、中層にでもなく、最深層に属する感情であるから、超歴史的・超社会的な感情であり、それなるが故にこそ、われわれは世阿弥の「さび」に反応し、芭蕉の「さび」に感じて心を強く動かされるのである。「さび」の美とはそういう精神世界の美であり、「わび」の美とはいろいろな仕掛けで粉飾されていながら、結局は物質的世界の美なのである。「わび」の美はそれが美だと言うなら世俗の美であり、「さび」の美は世俗を超えた真の人間の美である。美が本質的に一つしか有り得ないとするならば、「わび」の美は真の美ではなく、「さび」の美こそ真の美である。 
「さび」という概念は室町時代の世阿弥あたりによって初めて言われたものであるが、真の藝術というものはすべてこの「さび」を根本とするものであり、古今の業平や小町や伊勢の歌にも、新古今の西行や定家の歌にも、実朝の歌にもそれを見出すことができる。「さび」と言うと特定の時代の特定の美を表すように考えがちだが、美というものはいろいろの種類があるものではなく、それが人間の精神が生みだす産物である以上、どんな時代においてもどんな社会にあっても、美の根本は一つでなければならない。これは極めて狭小・偏頗な議論と見えるに違いないが、こういう観点からあらゆる美学を統一することは決して不可能なことではないと筆者は考えている。しかしこの問題は膨大な領域にわたるものであり、ここで論じ尽くすことは不可能であるから、一つの問題提起としておく他はない。  
 
堺 香りの物語

 

千利休と堺  
動乱の戦国時代、現代に通じる茶道を確立した堺商人の千利休。近年では日本の茶道も世界的な拡がりを見せ、既にその名前は世界中で知られるようになったかと思います。  
小学校の社会科の教科書でも必ずその名前は出てくるので、茶道と利休、あるいは堺商人の利休という名前は誰でも覚えているかと思います。でも、茶道の心得のある人ならともかく、実際に文化人としての利休とはどのような立ち位置にあったかというと、案外と漠然としたイメージでしか語られないように思います。実際、利休は大変ユニークで独創的な文化や造形物を生み出しましたが、茶道は日本の伝統文化のスタンダードになっているので、その独創性が捉えにくくなってしまっているように思います。  
ここでは、一旦茶道という枠から離れて、改めて利休の人となりを人間関係や環境の中から考えて行きたいと思います。  
まず利休の父、田中与兵衛。堺の会合衆である「納屋十人衆」のひとりとされ、商才に長けた豪商だったとされています。家業は魚問屋(ととや)だそうですが、中々手広く仕事を拡げて貸倉庫業や運輸業なども扱っていて、相当裕福な家だったといわれています。  
ところで、この堺の納屋十人衆とは何かというと、当時の堺の自治に関わっていた36人の豪商で構成されていた会合衆という組織の中で、特に有力な納屋衆(今で言う倉庫業)の10人を指すそうです。ところで、当時の様子に関しては、ポルトガルから日本に来た宣教師が、「イタリアのベネチアの町のように執政官によって治められている」と書簡に記していたように、有力商人による自治組織によって堺が都市国家のように運営されていたようです。  
では、利休は代々堺の豪商の血筋だったのかというと、どうもそうでは無くて、祖父の名前は田中千阿弥といって、時の八代将軍足利義政のお伽(とぎ)衆の一人だっと言われています。  
このお伽衆とは、将軍家に仕える相談役、今風に言えばコンサルティングのような役職に当る同朋衆の中で、特に話し相手というか、文化的な物語や各地方の特産などをしていたようで、コンサルティングの中でも、諜報部門のようなものと考えた方が良さそうです。  
そして、時期が丁度応仁の乱の頃で、敵方に内通したとの疑いをかけられて、戦禍から逃れようと堺へ移住したとされています。この祖父の千阿弥の出身は諸説色々とあるそうですが、どうも堺近辺の出身ではないようです。  
一般的には利休は堺の商人として知られていますが、必ずしも代々堺の出身だったのではなく、しかも祖父は将軍に仕える立場だったのですから、元々相当な事情通な家系だったといえるかもしれません。  
信長や秀吉ばかりでなく、松永久秀にも近しく、武家権力の中枢に接近しながらも宮廷文化とは対極的な独自の価値観を生み出した利休の独創性は、こうした利休周辺の環境や人間関係が大きく影響したものだろうと思います。  
師としての武野紹鴎  
利休が17歳の時と19歳の時と、それぞれ二人の師について茶を学んだとされていますが、その一人に武野紹鴎(たけのじょうおう)という非常にユニークな茶人がいました。  
この紹鴎も堺の大変な豪商だったそうです。屋号を「皮屋」と言い、武具甲冑などに関係する商家であったといわれます。まだ紹鴎が若かった時、京都に赴き、歌学の権威であった三条西実隆について古典を勉強し連歌に没頭していたそうですが、その後、堺に戻ってからは、南宗寺に住した禅僧大林宗套に参禅し、茶の湯に開眼すると、その後は「茶禅一味」の侘び茶を深めていきました。この南宗寺は、大阪府堺市にある臨済宗大徳寺派の寺院で、もちろん現在の堺市にも健在です。  
「茶禅一味」とは、茶道とは禅宗から起ったものであり、禅と同じものを追求する、といった考え方です。この考え方は、一休禅師にまでさかのぼるとされています。  
このような禅の要素をとり入れた茶道は、利休をはじめ、当時の茶人達に大きな影響を与えました。その一人に松永久秀がいます。久秀と言えば、最近ではアニメにもなったカプコンのゲーム「戦国BASARA」にも見られるように、とかく謀略面が注目されますが、彼もまた当時の最高の茶人の一人に数えられる人でした。  
茶人としての久秀というと、平蜘蛛(ひらぐも)茶釜とか、九十九髪茄子(つくもなす)といった茶入れなど、名茶器の所有者として知られています。もっともこの二つの名茶器は、信長や秀吉、家康などの画策や伝承などで有名で、伝説の茶器といった感じです。  
インターネット上では、この平蜘蛛釜も九十九髪茄子も検索すれば画像を見ることができますが、実際には伝承が残っているだけでどちらも本物かどうかは判断保留のままのようです。こうした当時の茶器は、大半が宋や明といった中国など、海外から輸入された舶来品で、当時の貿易港だった堺にも相当な茶器が輸入されたものと思われます。  
実は、こうした海外の珍しい舶来品と共に、恐らくまだ利休が南宗寺で紹鴎をはじめとする、様々な文化人に学んでいた頃、フランシスコ・ザビエルが堺に到着します。ザビエルはその後京都へ発ちますが、その間、利休や紹鴎と同じく堺の豪商だった日比屋了珪がザビエルを支援して住居を提供し、後にキリスト教徒として洗礼を受けることになります。  
このザビエルの居住地が、現在、堺市内のザビエル公園として残されています。また日比屋了珪の屋敷は、利休や紹鴎の住居と600メートル程の距離で、同じ堺衆として近しい間柄だったといわれています。  
実際、利休がこの時ザビエルに会っていたかどうかは全く分かりませんが、少なからず宣教師達に堺の街中で会い、時には親しく懇談した事もあったかも知れませんが、流石に推測が過ぎるかとは思います。  
このように応仁の乱以降の時の最高権力に最も近く、更に文化的にも常に最先端の文物に触れる機会の多い環境の中にあって、遠くは一休禅師に通じる精神性と最先端の海外からの舶来品の渾然一体とした中で利休は成長していったといえます。  
利休の色  
さて、利休周辺の人間関係から少し離れて、利休が及ぼした波及効果、その後の影響について、江戸時代の利休に関わる流行色についてみていきたいと思います。  
利休に因んだ色の名前は結構な数があります。まずは利休が好んだという謂れのある利休色。その他にも利休茶、利休白茶、利休鼠、利休藍(藍利休とも)等は今日でも良く知られた色の名前とされています。  
これらの色は、実際には利休が好んだ色というよりは、むしろ抹茶の色のイメージから後世の人が「利休」を形容して呼んだものと言われます。大体は江戸時代後期の流行色だったそうですが、既に利休の名前がステイタスになっていて、着物などに用いられていく過程で「利休」の名前を冠していったものではないでしょうか。  
総じて江戸時代の色の名前は品が良いというか、風情のある名前を生み出してきましたが、特にグレーと茶色が人気で、魅力のある名前が作られてきました。  
そうした色の名前の中でも特に利休の名前が使われた色は、抹茶を連想させるやや緑掛かった渋みのある上品な色で、人気が高かったようです。  
こうした利休の名前を冠した色の中でも、今日でも、もっとも良く知られているのが利休鼠(りきゅうねず)かと思います。この色も、新緑を思わせる淡い緑色をかすかに帯びた、上品なグレーで、着物に良く使われた色だったようです。  
現在、この色の名前が知られるようになったのは、北原白秋による「城ケ島の雨」の詩の一節「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる」が一役買ったと言えるでしょう。  
白秋は利休鼠という色についての知識があったでしょうが、幾ら江戸時代の流行色だといっても、広く全国津々浦々まで知られていた訳でもなかったかと思います。この白秋の詩が知られるようになって、改めて「利休鼠」という江戸時代の色が再認識されるようになったのだといえます。  
今日では、利休という名前から連想されるイメージとして、抹茶の色とか侘び寂びを感じさせる古風な雰囲気が上げられるでしょうが、江戸時代の人々にとっては、もちろん侘び寂びや素朴さを感じさせる部分はあったでしょうが、そればかりでは無かったようです。鮮やかさや華やかさとは違った、一見地味に見えても瞬間的に感じるような、一歩引いたところに現れる新鮮な色彩として「利休の色」を感じたように思います。  
そういった意味でも、少し洒落たイメージとして「利休」というブランドを大事にしてきたのかもしれません。  
路地と茶花  
利休は当時沢山の茶室を作ったそうですが、現在では、唯一、国宝にも指定されている京都山崎の「待庵」に当時のままの姿を見ることができます。残念ながら滅多に見学することが出来ませんが、インターネットなどで画像は確認することは可能です。利休没後から半世紀後に「数寄屋工法集」という本が書かれましたが、この中には利休作と伝えられる茶室が幾つか描かれています。現在では、こうした資料を基に利休が作ったとされる茶室が復元され、全国各地で見ることが出来ます。  
利休が目指した茶室という空間は、畳二畳分よりも僅かに小さい「一畳台目」と呼ばれるような慎ましい小空間です。しかし、この小さな茶室が設えられる敷地に広がる素朴な庭と、茶室に至るまでに通る路地という屋外の空間が同時に存在していることに大きな意味があるとされています。この屋外の庭や路地を含めて、利休が目指した茶のための空間というべきかと思います。もちろん茶室が一番大事な場所でしょうが、利休は茶を楽しむまでの待ち時間も非常に重視していたようです。洗練された庭園というよりも素朴な山村のような風情を求め、飾らない路地という屋外の空間に、茶席への「導入部」といえる少しの時間を過ごすための演出を目指したといえます。  
〜利休と茶花〜  
煌びやかで華やかな空間とは対極的に、慎ましくて、素朴な利休の茶室の特徴は、その空間を飾る生け花にも反映されます。一般的に茶花と呼ばれますが、鮮やかな生け花とは対極的に、地味な花の一輪挿しなど大変素朴なものです。これら茶花は、「花は野にあるやうに」生けるのが良いとされますが、路地から垣間見える季節の花や、茶室に生けられる茶花も含めて、花の生け方にも細心の注意を払うことを利休は指摘していました。このような茶花として、利休が特に好んだとされる「利休七選花」と呼ばれる花がありますが、その中の二つの花について注目したいと思います。  
ひとつは山法師(ヤマボウシ)。最近は街路樹や庭木としても目にするようになりましたが、国内の山地に自生するミズキ科の高木です。6〜7月に花をつけますが、花自体は非常に小さいもので、その周りの包というつぼみを包む白い4枚の葉の方が美しいことで知られています。実はこのヤマボウシよりも近隣種であるアメリカから来たハナミズキの方がもっと良く見かけるかも知れません。 ハナミズキは4月下旬から5月にかけて葉に先駆けて開花するので、大木になると見事ですが、日本の在来種のヤマボウシは葉が大きくなってから花が付くので、少し地味な印象です。  
もうひとつは白侘助(シロワビスケ)。椿よりも一回りくらい小さな花を12月頃から3月に掛けて花が開ききらない七部咲きのような可憐な花を咲かせます。かつてはお茶の木と椿との交雑種ではないかと言われていましたが、最近の研究ではどうも違うらしく、今ひとつ原種不明の交雑種とされています。  
利休が好んだとされる花は、総じて自然の風景や、何気ない日常の中で見かけるような、気を付けないと見落としてしまいそうな可憐な花を一瞬の間だけ咲かせます。庭木としてはあまり目立たない控え目な花を、利休は茶花として位置付け、新しい美の価値をもたらしたと言えるかも知れません。  
その後、利休とその弟子達  
利休には有力な戦国大名を含め多くの弟子がいましたが、これら弟子達は後世になって利休七哲、あるいは更に加えて利休十哲と呼ばれています。この弟子達は、蒲生氏郷を筆頭に、細川 忠興(三斎)や古田 重然(織部)などが良く知られています。細川や古田織部といった名前を挙げれば、大名としてだけでなく文化人としても今日まで語り継がれる程に、既に利休の弟子という範疇を越えているように思いますが、利休に通じる部分が伺えるのも確かです。利休がその時代に目指したもの、あるいは現代にまで継承されてきたものを考える上で、利休の後の弟子達による文化の継承について考えてみることも必要かも知れません。そこで、まずは大阪に一番縁の深い高山 重房(右近)について見ていきたいと思います。  
高槻城城主として、またキリシタン大名として大変に有名な高山右近。織田信長、豊臣秀吉に仕えながらバテレン追放令によりフィリピンのマニラへ追放されることになった非業の武将として知られていますが、このマニラ追放時には既に海外にも右近の高名が伝わっていて、到着時には大変厚遇されたそうです。右近は、残念ながらマニラ到着後1年も満たない間に病に倒れてしまいますが、同時に追放の令を受けた内藤如庵はその後12年間程マニラの地で翻訳等に携わり、一緒に渡った500名程の武士団と共にマニラの日本人町の開発に関わったそうです。  
ところで、利休の茶道は当時のキリシタンの影響を強く受けていると言われることもありますが、実際右近が利休の弟子達に影響を与えて、カトリック入信に勤めてきた経緯があるそうで、利休の弟子達の中にはキリシタンが少なからずいたことは確かです。  
丁度この頃、ポルトガルからインドを経て日本に来たカトリック司祭のジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」という本を書いていますが、その中で、高山右近と茶道について記しているそうです。  
そこには、利休の茶室と同じように非常に小さな庵が茶席としての空間であっただけでなく、右近にとっての祈りと黙想のための空間となり、一人庵に篭る様が描かれていますが、この宣教師から見た右近の姿には大変興味深いものがあります。  
茶道の動作がカトリックのミサに通じる部分があるという指摘もあるそうですが、当時の様々な文物や文化が行きかった中で生まれた茶道には、少なからず当時日本に赴いたキリシタンの影響もあっただろうし、また右近を通じて直接、間接的に茶道に影響した部分もあったかも知れません。残念ながら、右近の場合、細川三斎、古田織部、あるいは織田有楽斎のようにその後の茶道の系譜に影響を及ぼすような足跡はあまり見られませんが、今日の茶道の精神性には、むしろ右近の精神が引き継がれているという言い方もできそうです。  
千年桜の香りに  
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」  
百人一首でもお馴染みの小野小町の歌ですが、実はあまり良い歌でもないのかな、と思ってしまうところもあります。この「花の色」とは桜の花の事で、それが色あせていく様を自分の姿に重ね合わせて、時間の過ぎていく様を謳ったと言われますが、桜といえば、色があせる間もなく、満開になったその瞬間から散ってしまうという印象かと思います。梅や桃の花なら、色あせる様も印象深いのですが、桜となるとちょっと・・・という感じがしてしまいます。  
こんな風に、この歌にはやや違和感を感じていたのですが、実は桜が直ぐに散ってしまうもの、という固定観念が出来たのがもっと後の時代で、桜といえばソメイヨシノを指すようになってからだという事を最近知るようになりました。  
ソメイヨシノとは桜の木の名称ですが、実は園芸種のひとつで、ほとんど結実しないため接木で増やしていくことになります。正確にはソメイヨシノという種類の桜の木があるというより、ソメイヨシノという一本の桜があって、その一本から接木によって同じ花を咲かせている、といった具合です。もともと園芸種は野生種に比べると木の寿命が短くて、ソメイヨシノの寿命は30年程度といわれますが、一度に植えられた桜並木などある時期に一斉に枯れてしまって、また新しい木を植え直していって、それまでと同じように一斉に咲いているといった様子です。  
同じ一本の桜の木であれば、自然環境が一緒なら全く同時期に開花して、同時に散ってしまうことになるので、各地で一斉に咲く見事な桜を満喫することが出来る、となった訳です。このソメイヨシノが生まれたのが江戸時代の中期頃と言われ、日本中に広まったのは明治になってからなので、一斉に咲くソメイヨシノを楽しむようになったのはせいぜい、ここ100年程度の事だそうです。  
桜の季節になると、各地の桜の巨木や老木のテレビ中継が見られますが、これらは寿命の短いソメイヨシノとは異なり、ヤマザクラやヒガンザクラなど野生種の桜で、数百年の樹齢になるようです。  
大木になると、それこそ1千年に近い樹齢になり、全国的な桜の名木に数えられる大変立派な桜の木ですが、それぞれ野生種らしく一本一本個性があって、個々に違った花を咲かせるので、普段見慣れた桜とは少し違った趣きがあります。例えば岐阜根尾谷の淡墨桜、山梨武川村の山高神代桜、福島の三春滝桜は、日本三大桜と呼ばれる程の大木で、開花シーズンになると良くテレビニュースでも放映されるので、知っている人も多いかと思います。  
こうした桜の巨木は、それぞれの地方で大事にされながら、毎年美しい花を咲かせています。よく「千年桜」という言い方もされたりしますが、こうした桜の巨木は、ソメイヨシノとは違った魅力のある花を咲かせるので、是非一度見に行くのも良いかと思います。  
堺の歴史と香り  
少し堺の歴史を紐解きながら、堺の香りの文化について考えていきたいと思います。  
堺は、摂津国、河内国、和泉国の3つの国の境界として発達してきましたが、その歴史は大変古く、仁徳天皇陵古墳に代表される百舌鳥古墳群など大和朝廷成立期の4〜5世紀まで遡ります。  
この地が上記の3つの国の中間として「さかい」と呼ばれるようになるのは、平安時代頃といわれます。その後西日本の海運の拠点として発展していきます。  
この海運業を中心として戦国時代に大きく発展し、「自由都市」堺として広く世界に知られるようになりますが、千利休も丁度その時期に誕生し、堺商人として、また文化人として活躍しました。  
応仁の乱(1467〜1477)によって京都が衰退し、日明貿易船の初帰港として整備されてから1615年の大阪夏の陣までの150年間が、紆余曲折を経ながらも文化と経済の中心地として繁栄した時期です。1568〜1598年の織田信長、豊臣秀吉による安土桃山時代を迎えることになりますが、この時代の、今風に言えば「文化サロン」の中心に千利休が居たという事になります。  
現在でも、お香は堺市の伝統産業として息づいていますが、広く普及している線香が堺で作られるようになったのも、概ねこの安土桃山時代から江戸時代にかけての頃といわれます。当時、国際的な貿易港として発展していた堺では、海外の貴重な香木や香草が数多く取引され、日本各地にもたされてきた経緯があり、線香の製造を産業とする基礎が整っていたようです。そこに中国から線香の製造方法が伝えられ、江戸時代には堺で作られた線香が日本各地に広がっていったとされています。  
さて、堺に広く香木などが輸入されたのは、この信長から秀吉の時代からの国際的な貿易によるものですが、それ以前から既にこの地では国際港としての役割がありました。  
堺港が発展したのは、鎌倉時代以降といわれますが、それ以前は住吉津(すみのえのつ)が国際的な玄関口としての役割を果たし、遣隋使や遣唐使もこの港から出発していました。大和川を挟んで堺市のすぐお隣に住吉大社が鎮座していますが、住吉津は、この住吉大社の南側にあったとされています。  
推古天皇の時代に住吉津から飛鳥まで竹内街道が通され、その後大陸からの様々な文化がこの街道を通じて飛鳥や奈良に伝わっていきました。この住吉津と飛鳥を結ぶ竹内街道は、飛鳥の地から二上山麓を越えてほとんど直線で堺市内の開口(あぐち)神社へと到達します。そして、開口神社から北上すると住吉津に到着します。恐らく、このあたりが長い船旅を終えて、あるいはこれからの船旅に備えて物資を仕入れたり宿泊するための拠点として大きく発展していたことが想像されます。その際、様々な物資と共に香木や薬草の取引もされていたのではないかと思われます。このように奈良時代や平安時代には既に香木類がこの地、堺を通じて日本国内に拡がっていった様子が伺えます。  
遣隋使や遣唐使が仏教を日本に伝えると共に、香木やお香、薬草なども一緒に持ち帰り、まず最初に堺の地に降り立って、そこから奈良や京都といった都に持ち運んでいったのでしょうか。自由都市として堺が繁栄した時代よりはるか昔から、海外の玄関口としての堺には、海外の新しい文化と共に様々なものがもたらされてきたのかも知れません。  
開口神社と住吉  
開口神社(あぐちじんじゃ)は、堺市内にある大変古い由緒のある神社です。南海本線「堺駅」から「堺東駅」に向かって暫く歩いて行くと、商店街の中にその神社はあります。阪堺線の「大小路駅」からは徒歩三分ぐらいです。  
社伝によると、神功皇后により、この地に塩土老翁神という神様を祀るべしとの勅願によって創建されたという御由緒があり、だいたい3世紀くらいまで遡るそうです。神功皇后といえば、大阪の住吉大社にも祀られていて、この二つの神社は非常に縁の深い神社であることがよく分かるかと思います。  
住吉大社は海の神様、航海の神様を祀る神社であり、またこの地は、古くは遣隋使、遣唐使がここから出発、到着した港だった事は前述の通りですが、この開口神社も古くから大阪湾の出入り口となる場所を守る神社として、大事にされてきました。  
この開口神社を西端として、日本最古の街道と言われる竹内街道が二上山を越えて飛鳥や奈良にまで繋がり、様々な大陸の文化を持ち帰ったとされています。この竹内街道が整備されたのが613年とのことですが、それ以前から既にこの地は人の往来が盛んだったと言われます。  
そして、この開口神社を中心として堺の街が作られていったそうです。地元では「大寺さん」という呼び名もあるようで、明治期に廃寺になったそうですが、かつて境内に念仏寺という宮寺が存在し、行基上人によって建立されたとの事です。  
このような由緒ある神社ですが、普段は都会のオアシスのような清閑とした場所で、様々な石碑や無礙庵という茶室もありますが、観光地というよりも地元に親しまれている神社といった雰囲気でしょうか。毎年9月中旬に行われる八朔祭になると様子が変わって、堺市内でも最も古いとされるふとん太鼓が担ぎ出され、相当な数の観光客で賑わいます。  
この場所を中心として堺市が長い年月を掛けて発展していった経緯は、今では振り返るのが難しいほど街中に溶け込んでいて、あまり垣間見る事も出来ませんが、本来の堺市の中心地、そして海の玄関口である住吉津と飛鳥や奈良をつなぐ重要な中継地だった場所が今でも地元に親しまれている神社だという事は、覚えておくのも良いかもしれません。  
一寸法師の由来(1)  
住吉津から堺、そして竹内街道を越えて飛鳥、奈良へと続く道が古代の重要な文化伝来のルートで、戦国時代より遥か以前から最先端の文化や文物が往来する街として、堺が発展して来た過程が事が少し見えてきたかと思います。  
飛鳥時代、聖徳太子が活躍した時代より以前になると、情報が限られますが、堺から二上山にかけての古代の街道沿いには沢山の古墳群があるので、恐らくはこの時代には既に相当な人の往来があったのでしょう。  
そして、人の往来と共に海外の商人を通じて色々な物の往来もあったかと思われます。  
ところで、誰もが良く知ってる昔話の「一寸法師」。  
一寸法師といえば、お椀の船で京に上って、針の刀で鬼退治、鬼が持って打出の小槌で大金持ちになるといったお話ですが、実は大阪付近での話だったそうです。お爺さんとお婆さんが子供ができますようにと住吉の神様にお願いしたら、一寸法師が生まれて・・・といった話で始まり、川を伝って淀川から加茂川へと、お椀の船で京に向かったというのが元々のお話です。この住吉の神様というのが住吉大社なので、まさに堺から大阪市南部にかけてのお話ということになります。  
この一寸法師の話は、室町時代か、それより少し前くらいに出来たお伽話らしいですが、江戸時代頃に日本全国に広まったそうで、その頃から徐々に住吉の神様という部分が、色々な地域に伝わると共に曖昧になっていったようです。  
この一寸法師の話、実は世界中に良く似た話はあって、例えばアンデルセンの親指姫や、イギリスの親指トムといったようにヨーロッパや、更にはインドやトルコにもあるそうです。元々の話はヨーロッパの物語で、それがインド、トルコあたりに伝わったらしいとも言われますが、どうやら日本の一寸法師の話も含めて、どこの話がどのように伝わったのかあまりはっきりしないようです。  
さて、日本の場合、一寸法師の話も元々はヨーロッパから伝わって来て今に至ると考えるには、宣教師が堺を訪れた戦国時代よりもう少し時代が遡るようなので、ヨーロッパから直接日本に伝わった訳ではないようです。むしろ堺に到着した様々な文物と一緒に物語の原型のようなものが日本に伝わったと考えた方が良いかもしれません。  
このあたり、改めて一寸法師の物語をもう少し掘り下げて行きたいと思います。  
一寸法師の由来(2)  
一寸法師の話のクライマックスの場面で登場する打出の小槌。  
小さな一寸法師が、鬼が持っていた打出の小槌を使って普通の背丈の青年となり、鬼がさらった娘を取り返して結婚して、更にご飯と、金銀財宝を打ち出して末代まで栄えたという話ですが、幸運を何でも生み出す打出の小槌といえば、大黒様が持っている小槌と同じで、この小槌を持った福の神である大黒様は中国から伝わった大黒天を指します。  
もともとはインドのマハーカーラというシヴァ神の別名のひとつで、大黒様の温和なお顔とは違って非常に険しい姿の神様でした。それがインド、チベットなどに伝わり、商業の神様に転じて行ったそうで、いつの間にか手に持ってた法具が小槌となって、福をもたらす打出の小槌になったそうです。  
さて、ヨーロッパでは一寸法師はどのように呼ばれているのでしょうか。  
一寸法師を英語に訳するときは、ドワーフ(dwarf)とするそうですが、それだと、一寸法師がまるで長い顎髭を蓄えた老戦士みたいになってしまいそうです。最近はゲームや映画などで「ドワーフ」という名前が登場することもあるので、かなり聞き覚えのある人もいるかも知れません。実はドワーフと言えば、高度な鍛冶技術を持ち、優れた武器を製造するというイメージが加えられる事が多く、製鉄と深い関係があるようです。  
ちなみに一寸法師も針を刀にして大活躍しますが、どうも針を広めると同時に一寸法師の話も日本中に拡がったようで、鉄製品と密接に関わっていて、洋の東西で意外な接点があったりもします。  
鉄といえば、堺も刃物や自転車など今日でも盛んな産業のひとつで、元々は鉄砲鍛冶から転じたと言われますが、当時色々なものが堺に集まっていたと言ってしまえばそれまでですが、何かと縁があるのかも知れません。  
香り椿  
椿というと、あまり香りの印象が無いように思いますが、最近は園芸種で「香り椿」という種類のものもあります。椿は、学名でCamellia japonica(カメリア・ジャポニカ)と言って、日本原産の花として世界的に良く知られています。  
この椿、もともと南方の植物で、中国では雲南省などかなり南部にしか自生していないそうで、かつては日本の特産品として椿油と共に中国に持ち込まれた経緯があるそうです。  
ちなみに、中国では椿の事は山茶、あるいは海石榴と字を当てるそうです。山茶花といえば、日本ではサザンカの事を指しますが、サザンカと椿はあまり区別されていない感じです。サザンカという和名自体が中国の山茶花の読みからと言われるので、サザンカと椿は混合しながら各地に拡がっていったのかも知れません。  
花だけでなく椿油やサザンカ油も椿、サザンカ、チャは全てツバキ科の植物で、やはり自生地としては日本が北限だそうです。  
さて、本題の香り椿ですが、ヒメサザンカという沖縄などに自生するツバキ科の植物があり、これを親として様々な園芸種と交雑して花に香りがあるツバキがあるそうです。  
このヒメサザンカは冬に白い小さな花をつけますが、その花に香りがあることは知られていたものの、従来はあまり積極的には園芸種として用いられませんでした。 ただし、この花の香りは、梅の花のような感じとも、バラの香りをやわらかくしたようなとも評されるそうです。  
この香り椿の園芸種は、もともとアメリカで試みられたそうで、1990年頃、それが日本に紹介され色々な香りを持つ椿の品種が作られるようになったという事なので、かなり最近の事で、まだまだ一般的にはあまり知られていないかもしれません。  
興味のある方は、一度「香り椿」を探してみてはどうでしょうか。可愛いらしい小振りな花から大輪の鮮やかな花まで、色々な種類があるようです。  
堺と白檀(1)  
お香の原料として、特に珍重されてきた香木に沈香と白檀がありますが、沈香の逸話があまりに良く知られているからか、白檀の方は何時頃日本に入ってきたのかあまり追求されなかった印象です。  
これらの香木は、仏教と共に日本に伝来した事は間違いない事ですが、中国や朝鮮半島の方面から伝わってきたという漠然とした事しか知られていないような気がします。  
もともと仏教は北インド、今のネパールの辺りから興ったとされていますが、お香を焚くなど香りの文化はもう少し古い文明、エジプトや古代ペルシャに遡るそうで、概ねインドから中近東、北アフリカにかけての文化だとされています。中近東の香りといえば、聖書にも出てくる乳香や没薬、甘松等や、バラの香りが思い浮かびますが、白檀も古代エジプトでは遠くインドから運んできてミイラの防腐剤として使われていて、少なくとも4000年前から白檀は貴重なものとして、西アジアや北アフリカまで運ばれていたとされています。実際、今日でも中近東のモスクでは白檀を焚いているそうですから、世界中で最も知られている香木のひとつだろうと思います。  
そうした西アジア発祥の文明がインドで融合してお香の文化が取り込まれ、東の端の日本まで貴重な香木として持ち込まれてきた事は確かです。  
ところで、日本に仏教が伝来したのは聖徳太子の時代より少し前の事。確かな年代となると、552年説と538年説の二説がありますが、その時に朝鮮半島の百済から伝わったとされています。日本書紀などによると、百済聖明王の使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典などを献上した事が記されていて、難波津から大和川を船で上って海柘榴市(つばいち)という現在の奈良県桜井市に上陸したとされています。この時に、お香も伝わったかどうかは分かりませんが、お香の存在自体はその頃あたりから知られていたように思われます。  
ちなみに、現在ではかつて海柘榴市があった山の辺の道の起点である初瀬川沿の地に、仏教伝来の地碑が建っているので、奈良に赴く際に立ち寄ってみても良いかもしれません。  
堺と白檀(2)  
仏教が伝来した6世紀頃は、恐らくお香もかなり国内に持ち込まれたはずだと思いますが、沈香については有名な日本書紀の記載がありますが、それ以外のお香の材料については大体同時期に入ってきただろうという事になっていて、あまり詳しく研究されてきた事もないように思います。  
さて、沈香は、推古天皇の時代(595年)に淡路島に漂着した木片を島民が薪代わりに焚いたら、良い香りがしたので献上され、聖徳太子がこれは沈水香だと大変喜ばれたといった逸話が伝わっています。この時の香木をもとに観音菩薩が刻まれて、吉野に安置されたそうですが、現在、法隆寺夢殿に安置されている観音菩薩像がそれではないかと言われています。  
仏教伝来から数十年で沈香が珍重された経緯を考えれば、当時は、新しい文化を取り入れて、それが一斉に開花したような状態だったんでしょうか。お香の原料もほとんどが東南アジアやインド原産ですから、恐らく中国との交易によって、難波津へ、そして陸路や大和川を上って飛鳥まで運ばれていったと思われます。  
ところで、白檀の名前が確実に記されているのは、奈良時代、鑑真和尚が苦労の末、日本に辿り着いた際、香木や薬草の中に白檀もあったとされていますが、流石に遣隋使が派遣されてから200年程後のことなので、それより以前には既に国内に白檀が持ち込まれていた事でしょう。  
ところで、鑑真和尚も鹿児島県の坊津に到着した後、大阪の難波津に入り、大和川、淀川を経て奈良に入ったとされています。  
飛鳥時代、更には遣隋使や遣唐使の時代に至るまで、長い間難波津や住吉津が海外との交易の窓口とされてきましたが、丁度その時、積極的に仏教やその文化を国内に取り込もうとする時期と重なっていました。飛鳥時代や奈良時代、既に堺周辺には仏教の文化と共に、様々な薬草や香木が持ち込まれていた事が伺えます。  
そして、今でも堺から飛鳥に向かう竹内街道沿いには、仏教が日本にもたらされた後、遣隋使の時代に至るまでの様々な史跡が残されています。  
ハナミズキ  
最近良く街路樹などで見かけるようになりましたが、ハナミズキをは比較的最近になって日本に紹介された北アメリカ原産の樹木です。桜が終わって4月の下旬頃になると、白やピンクのハナミズキの花が咲き始めるので、公園や街路樹として見覚えのある人も多いことと思います。  
このハナミズキが日本に植えられるようになったのは、大正時代、ワシントンDCに桜の木が送られた返礼としてアメリカからハナミズキが贈られたのがきっかけで、その後徐々に国内に街路樹や庭木として拡がっていった経緯があり、実はよく見かけるようになるのはほんの最近の事だそうです。  
外来種のハナミズキは、少し前まで病気に弱くて、庭木としてはなかなか根付かないような印象がありましたが、近縁種で在来種のヤマボウシと交配して、病気に強い品種やハイブリッド種もあり、最近では結構人気の高い園芸種だそうです。ヤマボウシも茶花として名前は知られていましたが、どちらかといえば地味な山の木で、昔は庭木や公園に植えられる事も少なかった印象ですが、最近は魅力的な園芸種も増えて積極的に植えられているようです。  
ヤマボウシは葉が先に出て5月下旬から6月初頭に掛けて白い可愛い花を上向きに付けるので、木としては大分印象が違いますが、最近のハイブリッド種は花がピンクだったり、葉と花がほぼ同時に出たり、かなり色んな種類が出てきています。どうやら園芸種ではハナミズキとヤマボウシの区別が曖昧になっているような印象です。  
さて、ゴールデンウィーク前後に葉に先駆けて魅力的な花を咲かせるハナミズキは、花の時期ばかり注目されますが、実は赤い実を結ぶ夏、紅葉の秋と、四季を通じて楽しませてくれる魅力的な木です。秋の紅葉や赤い実は、ヤマボウシもよく似ていて、実は季節の茶花として、春の白い花だけでなく、初夏の若い実や、秋の紅葉など一年を通じて重用されてきました。  
花だけでなく、季節ごとに色んな表情を変えて楽しませてくれるハナミズキ。花が終わった後も一度ゆっくり楽しんで欲しいと思います。  
海の堺、陸の今井(1)  
戦国時代、貿易港として世界に開かれ、自由都市として知られていた堺。  
堺の歴史を紐解く場合、堺と並んで江戸時代まで隆盛を極めた奈良県今井町についても触れるべきでしょうか。この今井町は、戦災で多くが消失してしまった堺に比べて、豪商の商家が立ち並ぶ伝統的建築群保存地域として当時の風情を良く残していて、今日では奈良県の代表的な観光地のひとつとして良く知られています。  
さて、今井町は、堺から奈良に向かう竹内街道を東に進んで、二上山を越えて奈良盆地の南側、現在の橿原市の中心部に位置しています。畝傍山、耳成山、天香久山の大和三山の中間に位置し、南に下れば飛鳥、北上すれば奈良市の市街に向かうことが出来ます。  
もともと今井町は、奈良興福寺の荘園、奈良県内に散在する環濠集落のひとつとして発展し、室町時代には大阪南部の富田林市などと共に一向宗の寺内町として栄えましたが、戦国時代から江戸時代にかけて、大阪や堺と奈良の各地とを繋ぐ陸路の中継地として大きく発展する事になります。  
かつては「海の堺、陸の今井」と呼ばれる程の栄華を誇った今井町ですが、その歴史は堺とは非常に深い繋がりがありました。  
応仁の乱によって京都が混乱し、後に織田信長が登場するまで乱世の時代に突入しましたが、丁度その時期、堺は貿易港として莫大な物資が集まると同時に、文化的にも情報発信拠点としての役割を担うことになりました。今井町の興隆は、この信長の頃に当たります。  
さて、堺と信長との関係について見ていけば、千利休や今井宗久、あるいは小西行長といった名前が必ず挙げられるかと思いますが、これら堺の豪商や堺に縁の深い大名などの活躍と今井町の興隆は、非常に深い部分で繋がっています。  
さて、改めて自身の出身地であり、氏の由来でもある今井宗久と今井町との関わりについて改めて見ていきたいと思います。  
海の堺、陸の今井(2)  
戦国時代の堺の豪商、かつ茶人だった今井宗久に因んだ史跡は、堺市内にも幾つか残されています。  
大仙公園の敷地内に「黄梅庵」という茶室がありますが、この茶室は宗久にゆかりのある茶室だと言われています。もともと今井町の豊田家にあった茶室で江戸時代中期頃のものとされていますが、昭和55年に堺市に寄贈されたそうです。  
今井町の記録によれば、豊臣秀吉が行った吉野山花見の際に設けられた茶室で、「宗久茶屋」と呼ばれたものだそうですが、それが事実かどうかは良く分からないようです。また、堺市の南、南宗寺の隣に臨江寺も宗久ゆかりの寺で、今井家累代の墓所となっています。  
宗久は今井町で生まれたとされていますが、活躍の中心は主に堺で、あまり今井町には宗久に因んだ史跡は残されていませんが、その影響は顕著で、江戸時代には茶道や和歌、俳諧など文化、芸術活動が活発で、経済だけでなく文化的にも周辺地域の拠点として発展していったそうです。  
さて、宗久は千利休、津田宗及と共に「天下三宗匠」と称されたように、信長や秀吉に仕えた茶人として良く知られていますが、案外堺の会合衆の一人である豪商としての側面はあまり注目されないようにも思います。  
信長が十五代将軍足利義昭を奉じて入洛する際、堺に矢銭(軍用金)を要求したのに対し、自由独立の気運の強い堺の会合衆はこれに抵抗して信長勢と対立状態に入りますが、宗久はいち早く信長に接触し、最終的に堺は他の地域とは異なり矢銭を用意し、信長の支配下に入ることは歴史的には良く知られた事かと思います。今井町も信長とは対立関係に陥りますが、これも最終的には宗久の仲介によって戦火を間逃れる事になります。  
全く確証の無い単なる憶測ですが、利休が日本全国のみならず海外の情報にも長けたシンクタンク的な役割とすれば、宗久は新進気鋭の軍需産業のCEOといった感じで、共に反骨的な武野紹鴎に影響されて、新たな日本のリーダーを目指すと同時にリーダーの育成を目指し、たまたま最適な人物として織田信長を見出した、というシナリオも描けるように思います。  
甲冑を扱う宗及は、相応に軍事の素養もあったはずで、だからこそいち早く信長の要請に応えて鉄砲や火薬の製造を手がけ、同時に新たな価値観として茶道を新たなリーダーの象徴として全国に浸透させていったのではないかと。  
まるでハリウッドと軍産共同体とCIAのような今時風の物語になってしまいそうですが、もう少し信長と宗久の目指した世界、という見方で歴史を捉えてみても、案外面白いかも知れません。  
カーネーションの香り  
カーネーションの花といえば、「母の日」の贈り物として広く親しまれています。5月になってゴールデンウィークが過ぎる頃、母の日が近づくと花屋さんでよく見かけるようになり、その母の日が過ぎると割引セールが始まって、そのまま徐々に姿を消してしまうような印象です。  
何となく5月の花というか、季節の花のような扱いに感じます。  
ところで、この母の日にカーネーションを贈る習慣は、もともとは20世紀のアメリカでの社会運動から始まっています。南北戦争の終結直後、女性政治活動家ジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe)が、夫や子供を戦場に送られるのを拒否しようと立ち上がり、1870年に「母の日宣言(Mother's Day Proclamation)」という平和と訴える声明を発表しました。女史は、「母の日(Mother's Day)」を平和の日として広く認知させようと訴え続けますが、やがてアン・ジャービス(Ann Maria Reeves)という社会活動家に引き継がれて行きました。「母の日」運動を引き継いで、彼女もまた戦時中の負傷兵の治療や公衆衛生の改善等の活動に取り組み、南北戦争後には平和的和解のために「Mother's Friendship Day(母の友好日)」といった平和活動を続けて行きます。  
アン・ジャービス女史の娘であるアンナ(Anna Marie Jarvis)が、生前の母の活動を偲んで、1907年の5月の第2日曜日に、友人を招いて記念会を開催し、その際母が生前好んだ白いカーネーションを贈ったのが母の日の起源とされています。  
翌年、母アン・ジャービスが長年日曜学校の教鞭を執っていた教会で、最初の公式の「母の日」としての式典が行われました。この母の日のセレモニーが青山大学に在籍していた宣教師によって紹介され、1913年に日本で最初の「母の日」の行事が行われたとされています。  
さて、母の日の贈り物として親しまれているはずのカーネーションですが、花は直ぐに思い浮かべられても、花の香りについてはあまりピンと来ないかも知れません。カーネーションは、実は古代ギリシャの時代から栽培されてきた花で、園芸種の品種も多く、香りの種類もかなり多いそうです。更に香りの強弱も花の種類によってあるそうなので、案外カーネーションの香りと言っても直ぐに思い出せない人もいるかと思います。  
このカーネーションの香りは、古代からハーブや香水としても利用され、ワインの香り付けなどにも使われてきました。  
一般には、カーネーションの香りは、丁子(クローブ)に似たスパイシーな甘い香りとされていますが、スパイシーな香りに加えて、バラやヒヤシンスのようなフローラルな香りやバニラのような甘い香りが程良いバランスを持つ香りと言われます。  
身近で誰もが知っている花でもあるカーネーション。梅や桜を満喫した後、5月に入ると少し食傷気味になりますが、世界中で愛されたこの花の香りをじっくりと鑑賞してみて欲しいと思います。  
利休梅の花  
利休鼠や利休色など、利休の名を冠した色の名称は沢山ありますが、花の名前となるとどうでしょうか。利休が好んだとされる茶花は沢山あるものの、案外、利休〜といった具合に利休の名前を冠した花の名前はそれほど多くない様子です。  
例えば、庭木として知られる利休梅や園芸種で「利休」と名付けられている椿などありますが、やはり利休の名前を園芸種に付けるとなると、少し敷居が高いのかも知れません。  
さて、利休梅(りきゅうばい)ですが、もともと中国原産で、明治時代に日本に入ってきたとされています。中国での名前は「白鵑梅」。春に枝先に花径4cmほどの大きさで、五弁の梅に似た白い花を咲かせます。この野趣溢れた可憐な花は、茶花としても尊ばれてきたとされますが、直接利休と縁のある花ではないようです。  
利休梅と命名された由来は諸説あるようですが、そのひとつが「花が咲く頃が、ちょうど利休忌の頃に咲く」といった謂れがあります。  
利休が秀吉の命により切腹した日が天正19年(1591年)3月26日とも27日とも言われますが、丁度その頃に庭に咲くので利休梅と呼ばれるようになったという説です。実際の利休梅の開花時期は4月上旬から5月頃までとされるので、春先から暫くの間、楽しむことが出来るようです。  
他の説では、利休が仕覆に使ったとされる梅鉢紋の緞子を「利休緞子」あるいは「利休梅緞子」などとも呼ばれますが、この利休緞子の柄を彷彿される花なので、この名前が付いたとも言われます。  
ソメイヨシノの花が咲き終わった頃、利休梅の花が咲き始めるそうですが、案外地味な印象の花なので身近なところで咲いていても気付かないかもしれません。春になる頃、近くを散策して是非利休梅を見つけてみたいと思います。  
大阪の梅  
2月上旬になると、大阪でもぼちぼちと梅の花が見られるようになります。大阪市内で梅の名所といえば、まずは大阪城公園内の梅林が上げられるかと思います。  
大阪城公園は、2月上旬あたりにぽつぽつと梅が咲き始めて、1ヶ月の間楽しむことが出来ます。その間は行楽客も多くて、大阪城周辺も結構賑やかになります。3月下旬から4月上旬の桜、更に梅林の近くの桃園と、春になる頃には次々と花が咲くので、約3ヶ月間程は大阪城公園だけでも見所が沢山あるといったところでしょうか。  
この大阪城公園の梅林は、現在でこそ800本を越す大阪市内でも屈指の梅の名所となっていますが、実は1970年代に整備された比較的新しい公園です。丁度梅林から大阪城の天守閣が良く見えて、写真を撮るには良い場所なので、梅の時期には遠方からの観光客も見られます。  
梅が咲き始める頃になると、「待ってました!」とカメラを持った愛好家が一斉にやってきて、梅を楽しむというよりカメラの邪魔にならないように気を使いながら公園内を進むような具合ですが、それも大阪城の梅林の楽しみ方かも知れません。まだ肌寒い時期ですが、咲き始めの甘い梅の香りがかすかに感じられる、のどかな公園です。  
大阪城から大川を下って少し歩くと、天神祭でお馴染みの大阪天満宮があります。  
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」  
有名な道真公の歌ですが、大宰府から京都の自邸にあった梅の木を偲んだ歌とされるので、この歌に因んだとすれば京都の北野天満宮の梅の花でしょうか。天満宮の神紋も梅の花の模様で、道真公が好んだ花というよりも、天満宮の象徴のようになっています。  
もちろん大阪天満宮も沢山の梅の木が植えられていて、毎年1月24日と25日には初天神梅花祭が行われます。梅の花はまだまだ寒い季節にゆっくりと開花しますが、梅の甘い香りと共に少しずつ春が近づいているように感じます。  
陽光桜  
陽光桜は、ソメイヨシノが咲くより少し前、鮮やかなピンクの大輪の花を咲かせる桜です。まだあまり知られていない種類かも知れませんが、大変魅力的な花です。新しい桜なので大木はまだ見かけませんが、最近では少しずつ植えられるようになっています。  
桜といえば、ソメイヨシノが最も親しまれていると思いますが、もともとこの種はテングス病などの病害虫に弱く、40〜50年ほどの寿命です。花付きがよく、どんな環境下でも育つ丈夫な桜として、寒さに強い「アマギヨシノ」と暑さに強い「タイワンヒザクラ」を掛け合わせて陽光桜は生まれました。  
この桜が誕生するまで、様々なエピソードがありましたが、ここでは詳しい話は控えたいと思います。この桜は平和への祈りを込めて、日本国内だけでなく世界の至るところでしっかりと根付いて欲しいという思いから生まれた花であり、今でも世界中に親善と平和への願いを込めて無償で送られ、植樹されているそうです。興味があれば、是非「陽光桜」と、インターネットで検索してみて欲しいと思います。  
こうした、この花の様々な逸話を集めてくると、「夢桜」という言葉にもっともふさわしいように感じます。最近では、大阪市内でもちらほらとこの桜を見かけるようになっています。大阪城公園の中にも何本か植えられているそうです。他の桜に比べて少し早咲きなので、開花時期になれば分かると言われています。  
「こんな桜があるんだ」と色々と調べていくと、画像を見る限り抜けるような色鮮やかさが特徴で、知らずに見たら桃の花と見間違えるかも知れません。そういえば、改めて色々な場所の桜を思い浮かべると、この特徴的な桜を見たような記憶もあるので、春になったら記憶を頼りに探してみたいと思います。