茶の湯と信楽焼

 

 
茶 
茶を飲む風習がわが国に伝えられたのは、奈良時代に遣唐使や中国から日本へきた僧侶たちによるものと言われる。茶が植えられたのは平安初め805年、唐に渡り仏教を学んだ最澄(767-822)と永忠(742-816)が、お茶の種を持帰り比叡山のふもと(現在の滋賀県坂本)に植えたのが始まり。平安末、中国の宋に渡った栄西(1141-1215)が質のよい茶を持ち帰り、京都・栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の明恵(みょうえ・1173-1232)に茶の実を贈った。ここは茶の木の成長に適し大変良い茶がとれるようになり、以後、宇治や静岡など日本全国へと広がっていった。
  
  
栄西は茶は飲んで楽しむだけでなく、病気にもきく薬であると「喫茶養生記」(きっさようじょうき)に書き、時の将軍源実朝(1192-1219)に献上したことから、健康回復の薬として飲まれるようになり、しだいに武家の間に広がった。お茶が盛んになるにつれ、中国から茶の道具も多く輸入されるようになった。 
  
室町時代のはじめになると、武家・商人の間にも茶を飲む風習がひろがった。しかし、このころ茶を飲むことはぜいたくで、遊びのひとつとして考えられていたようで、闘茶(飲んで産地を言いあてる)などが流行った。 
  
室町時代も中ごろ、贅沢で華やかな茶会から、村田珠光(1423-1502)が始めた簡素で落ちついた草庵の茶法を楽しむようになった。広い部屋ではなく四畳半(よじょうはん)のような狭い部屋での茶会となった。そのころから一般にもひろまり、町角などで売られた一服一銭という簡素なお茶の飲み方も生まれた。  
武野紹鴎(たけのじょうおう・1502-1555)は珠光が理想とした草庵の茶を学び、さらに簡素にした「わび茶」を始めた。それは簡素な中に心からお客さまをもてなす、精神面が生かされたもので、囲炉裏を切った農家風の建物が使われるようになった。 この紹鴎のわび茶の精神を受継いだのが千利休である。
 
利休は姓を田中、名を与四郎といい堺に生まれ、幼いころから茶を学び、やがて紹鴎の弟子となった。 その後、織田信長(1534-1582)の茶道役として仕え、次いで豊臣秀吉(1536-1598)に仕え三千石を与えられた。このころから利休や堺の商人たちによって茶の湯が盛となり、中でも利休が秀吉に重用された。しかし大徳寺の山門(金毛閣)に利休の木像が安置されたことが問題となり、秀吉から切腹を命ぜられた。
利休には二人の男子があり、切腹のあと長男の道安(1546-1607)は飛騨に隠れ、次男の少庵(1546-1614)は会津若松の蒲生氏郷に預けられた。その後、蒲生氏郷や徳川家康(1542-1616)の取りなしにより秀吉の怒りがとけ、少庵が千家を継ぐことになった。 現在まで続いている千家茶道の基を築いたのは、少庵の子で利休の孫にあたる千宗旦(1578-1658)である。宗旦には四人の男子があり、長男の宗拙、次男の宗守は早くから家を出たので、宗旦は三男の宗左に不審菴(ふしんなん)をゆずり、その北側に今日庵を建て四男の宗室とともに移り住んだ。後に宗守が官休庵をおこし、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が生まれ、以後今日まで多くの茶人を世におくりだした。

 

京都の茶湯 
村田珠光(むらたじゅこう、1423-1502)が創始し、武野紹鴎(たけのじょうおう、1502-55)が洗練し、千利休(せんのりきゅう、1522-91)が大成した茶湯は、桃山時代から江戸時代初期にかけて大名や富商の嗜みとして大いに興隆しました。しかし、その流行と普及につれて茶湯の理念である「わび」の心が忘れられ、茶湯は単なる風流な趣味ないし遊芸へと変化していきます。 
このような風潮に対する反省は、利休の孫にあたる千宗旦(せんのそうたん、1578-1658)のころからおこりつつあり、宗旦の息子達によって流派が成立するころには、茶湯は茶禅一味を実践した「茶道」へと展開していきます。 
茶の伝来  
日本での茶の飲用起源については明らかではありませんが、9世紀初頭に永忠ら中国(唐)へ留学した僧によって伝えられたと考えられています。当時の喫茶方法は、陸羽(りくう)の「茶経」(8世紀中期成立)に記されているような唐風の団茶法(だんちゃほう)と呼ばれるもので、蒸した茶葉をさまざまな形にして乾燥保存し、飲む時は必要量をほぐして、粗く粉末にしたものに塩や生姜を加えて釜で煎じました。 
本格的な茶の栽培が始まるのは、鎌倉時代に明庵栄西(みょうあんえいさい/ようさい、1141-1215)が宋より抹茶の製法(摘採→蒸製→乾燥→粉砕)を伝来してからであり、この茶種は右京区の栂尾(とがのお)を初めとして各地で栽培されるようになります。 
茶寄合(ちゃよりあい)の流行  
南北朝時代になると茶の品質を当てる茶勝負(闘茶)の会、いわゆる茶寄合が盛んに催されるようになり、延暦寺の学僧玄慧法印(げんえほういん、?-1350)が記したとされる「喫茶往来」(きっさおうらい)には、この茶寄合の座敷飾や現在建仁寺の茶会(四つ頭<よつがしら>茶会)で行われているような茶礼が記されています。 
このような禅院の茶礼は、特に武家社会に受容され、それは書院造の発展にともない、唐物・唐絵などで座敷を飾り、唐物の器物を用いて点前作法を行う書院(殿中)茶湯へと展開します。 
ちなみに書院の茶湯では座敷に隣接する場所(茶湯所)で用意された茶を持ち運ぶか、台子(だいす、茶道具をおさめる4本柱の棚)を座敷に持ち込んで点茶をするかの2方法がとられました。 
また、この頃には東寺をはじめとした社寺の門前などで参詣人相手の一服一銭の立売茶店も出現するようになります。 
市中の山居(さんきょ)  
15世紀後半には、のちに茶祖と仰がれる村田珠光(むらたじゅこう、1423-1502)が登場します。珠光は、唐物の持つ完全美よりも、国産品が持つ不完全さに美を求め、備前焼や信楽焼(しがらきやき)などの粗相な器を茶湯に取り入れました。 
また、珠光は、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394-1481)に参禅して体得した禅の精神をもって、茶禅融合を提唱し、座敷飾などを極力簡素化した質素な美を追求しました。 
この美意識の変化は、室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ、1436-90)が建立した東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい、左京区銀閣寺町慈照寺内)のような書院の小型化や、書院に代わる草庵茶室の出現をもたらしましたが、その中心は富裕な町衆でした。 
当時、彼らの間では、町の中に草庵を持つことを「市中の山居」(しちゅうのさんきょ)と言い、特に京都においては、珠光の養子村田宗珠(むらたそうじゅ、生没年不詳)などの茶人達が「下京茶湯者」と呼ばれたように、公家や武家が住む上京ではなく、商工業者が密集する下京に閑居を求めました。 
堺の茶人武野紹鴎(たけのじょうおう、1502-55)もまた四条室町に山居を構えた下京茶湯者であり、珠光の茶湯の特色をより一段と明確にした人物です。紹鴎は四畳半を基本とする草庵茶法をつくり、わび茶への志向をはっきりと打ち出します。 
この後、茶湯は三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)らの戦国大名に荷担されて発展の機運に向かっていくのですが、それをさらに推進したのは織田信長(1534-82)ついで豊臣秀吉(1536-98)です。 
千利休(せんんのりきゅう)  
武野紹鴎に師事した千宗易(そうえき、利休、1522-91)は、今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)らとともに信長・秀吉の茶頭となり、天下一の宗匠の名を得ました。天正13(1585)年10月、宗易は利休の居士号を勅賜され秀吉が催した禁中の茶会に出席、同15(1587)年10月1日の北野の大茶湯では、秀吉の呼びかけに応じ茶を点(た)てています。 
この利休の茶は継子千少庵(しょうあん)や孫の宗旦(そうたん)に受け継がれ、千家の茶として発展する一方、利休七哲と呼ばれる大名達にも受け継がれました。ことに天正19(1591)年春、利休が秀吉の命により自刃してからは古田織部(ふるたおりべ、1544-1615)やその弟子小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579-1647)、遠州の後継者の片桐石州(かたぎりせきしゅう、1605-73)らが次々と江戸幕府の将軍指南役となり、「大名茶」と呼ばれる系譜を確立します。 
また、「楽家文書」によると、利休は信長茶頭時代より、朝鮮から渡来した阿米夜(あめや)の子長次郎(ちょうじろう、?-1589)を指導して好みの茶碗を制作しており、のちに聚楽の土で焼いたこの茶碗は、秀吉から「楽」の印が与えられ楽焼と呼ばれるようになります。 
堂上(とうしょう)の茶  
茶湯は、もともと公家社会とあまり縁がなく展開しましたが、秀吉のころから次第に公家社会にも浸透するようになり、堂上の茶と呼ばれるようになりました。 
その傾向は、江戸初期、寛永文化の一環として一段と進みました。この傾向をさらに進めたのが、近衛応山(このえおうざん、信尋<のぶひろ>、1599-1649)・一条恵観(いちじょうえかん、昭良<あきら>、1605-72)の寵顧をうけ、さらに後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)・東福門院からも信頼を受けた金森宗和(かなもりそうわ、1584-1656)です。 
宗和の茶趣は、彼が指導して焼かせた野々村仁清(ののむらにんせい、生没年不詳)の色絵の陶器がよく示すように、わびを基調としつつも優雅な王朝古典趣味を漂わせたものでした。 
三千家(せんけ)の成立  
利休の切腹後、千道安(どうあん、利休の長男、1546-1607)・少庵ともに身柄を大名に預けられますが、数年後ゆるされて帰京しました。道安は秀吉の茶頭に復帰しますが、秀吉が没したことで堺へ退きます。これに対して京都に留まった少庵はその子宗旦とともに千家の再興にあたりました。 
宗旦は父少庵と同様に大名家からの招請を拒否し、本法寺(ほんぽうじ、上京区小川通寺之内上る本法寺前町)の門前に簡素な草庵をかまえ、清貧に甘んじながら、利休以来のわび茶の道統の護持とその深化につとめていました。 
一方で彼は大名家の庇護がなくては道統の維持さえ困難な時勢を洞察して、家督をゆずった三男江岑宗左(こうしんそうさ)を紀州徳川家に、ついで四男仙叟宗室(せんそうそうしつ)を加賀前田家に、次男一翁宗守(いちおうそうしゅ)を讃岐松平家にそれぞれ茶頭として仕えさせます。ここに表千家(不審庵<ふしんあん>)・裏千家(今日庵<こんにちあん>)・武者小路千家(官休庵<かんきゅうあん>)の世にいう三千家の原型が成立し、宝暦・明和(1751-71)のころから利休流茶道の家元として栄えるようになります。なお、下京の本願寺と関わりが深く、利休と同門の藪内家を下流(しもりゅう)と呼ぶのに対して、三千家を上流(かみりゅう)と呼んでいます。 
この後、三千家流以外にも遠州流・石州流などの諸流派が競い起こり、茶湯は武家・公家・僧侶の社会からあふれて京都・大坂・江戸をはじめ地方都市の富商や豪商らの間にまで普及するようになりました。

 

いけばな 
「いけばな」とは、自然の草花や樹木を素材として、それを器とともに組み立てる伝統芸術です。室町時代から江戸時代にかけて、池坊(いけのぼう)を中心に大成されました。立花(たてはな・りっか)・抛入れ(なげいれ)花・生花(せいか)・盛花(もりばな)などの様式があり、また花道(かどう)と総称されたこともありましたが、現在では「いけばな」の呼称が一般的です。 
いけばなの源流  
挿した花を観賞するということは古くから行われてきたことでした。「枕草子」(23段)に 
勾欄(こうらん)のもとに、あをき瓶のおほきなるをすゑて、 
桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、 
いと多くさしたれば、勾欄の外まで咲きこぼれたる 
と見えるように、大きな瓶に大ぶりの花を挿したものが、当時の瓶花の主流だったようです。また、平安期の花合(はなあわせ)や前栽合(せんざいあわせ)なども、縁からそれらを観賞したようで、特にさまざまな草木を植え込んだ前栽は、草体のいけばなの源流のひとつと見られています。 
 こうした「美」の対象としての花と、神の依代(よりしろ)として神聖視された花や仏前に供えられた花が習合して、いけばなの源流が形作られていきました。 
七夕法楽花会と池坊の登場  
室町時代になると、三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の頃から花の御所や北山殿で、七夕法楽として仏教的行事の中で花を立てることが、盛んに行われるようになりました。朝廷でも15世紀のはじめに、伏見宮(ふしみのみや)貞成親王(さだふさしんのう)の邸宅であった伏見殿で、七夕法楽花会が数多く行われていました。花鳥の絵を掛け、屏風を立て、そこに瓶に挿した花を飾り楽しみました。この花会は仏教的行事とはいえ、花を見ながら歌を詠み酒を飲むという、かなり自由な雰囲気のものでした。花会の後に花は一般に公開したため、徐々に「見せる」ということが意識されるようになります。 
花会において花を立てることは、その周囲の飾り付けを含めて、依頼を受けた専門の者が担当していました。将軍に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の立阿弥(りゅうあみ)や能阿弥(のうあみ)、山科家の雑掌(ざっしょう)である大沢久守(おおさわひさもり)、六角堂(頂法寺<ちょうほうじ>)の池坊専慶(いけのぼうせんけい)らがそうです。中でも池坊専慶は、寛正3(1462)年に京極持清(きょうごくもちきよ)に招かれ花を立て、大変評判となりました。 
彼らの登場の背景には、床の間を持つ書院造の出現にともない、その座敷飾として花を立てることの需要が高まったことがあります。その後、立花は装飾性を強めていきます。 
16世紀前半には、文阿弥(もんあみ、2世)と池坊専応(いけのぼうせんのう)の二人がそれぞれ「文阿弥花伝書」「池坊専応口伝」という書を残し、立花の理論・様式の基礎を確立しました。文阿弥は青蓮院(しょうれんいん)尊鎮法親王(そんちんほっしんのう)のもとで、専応も禁中や青蓮院で、たびたび花を立てています。文阿弥(二世)と池坊専応の評判は 
池の坊御前の花をさすなれば 
一瓶なりとこれや学ばん 
すいに花たつる文阿弥当世の 
人の心にかなふなるべし     
と歌に詠まれています(「多胡辰敬家訓」たごときたかかくん)。 
立花の大成  
豪壮で華麗な安土桃山時代の建築に合わせるように、立花も大型で複雑なものへと変化していきます。初代池坊専好(いけのぼうせんこう、1536-1621)は文禄3(1594)年に前田利家邸において座敷飾を施し、「池坊一代の出来物」と賞賛されました。この時の飾りは「砂の物」といって、大きな盆に砂を張りその上に花を立てたもので、平安時代の洲浜台(すはまだい)に原型があります。 
それを受け、立花を大成させたのが二代池坊専好(1576-1658)です。後の公家近衛家煕(このえいえひろ)の談話筆録「槐記」(かいき)には「立花の中興は専光(好)に止りたり。専光を名人とす。」と評されています。後水尾上皇(ごみずのおじょうこう、1596-1680)は立花好きとして有名で、幕府との争いから逃避するかのように、専好を召して立花会を頻繁に開いていました。そこで専好は、上皇・公家・僧侶に対して指導的役割を果たしており、専好の作品を図化したものは、現在も多数残されています。 
この頃から花といえば池坊だという考えは、人々の間に広がっていきます。専好による様式の完成以降は、立花(たてはな)は立花(りっか)と読まれるようになります。 
また、花器も、それまでは他の用途に作られた器が転用されていましたが、この頃になると国内で大型の立花瓶が生産されるようになります。 
茶花・抛入れ花・生花  
形式が確立し大型化していった立花に対して、庶民の間では形にとらわれないシンプルな花が求められました。室町期には自由な形のいけばなは「生花」「なげいれ」と呼ばれ、これは安土桃山期に茶席を飾る茶花として千利休(せんのりきゅう)により確立されます。利休は「花は野にあるように」といって自然のままの簡素なスタイルを主張しました。 
この茶湯(ちゃのゆ)からの流れは江戸期には抛入れ(なげいれ)花と呼ばれ、寛永の頃(1624-1644)から一般の大衆の間にも流行し始めます。気易く即興的にいけられることと大きな空間を必要としないことから、茶席だけでなく日常生活の中にも広がっていきました。 
さらにその流れは、明和から天明の頃(1764-89)に生花(せいか)という形でひとつの完成を見ます。遠州流、源氏流、少し下って未生流(みしょうりゅう)など次々に新しい流派が誕生し、それぞれの主張のもとに生花の指導を始めます。池坊側もそういった新しい流れを無視することはできず、生花(しょうか)として様式に取り入れていきました。 
江戸時代後期には生花(せいか)がおおいに流行し、またその形式も定まっていきます。それを嫌った文人たちは、煎茶を愛好し、中国の花書「瓶史」(へいし)の影響を受けて、文人花という様式を作り出しました。 
町人への立花の普及  
公家の教養であった立花は、二代池坊専好の頃から富裕な町人の間にも普及し始め、門弟にも多くの町人が含まれるようになりました。池坊の拠点が、下京の町衆の中心的存在であった六角堂に置かれていたということも普及を助けました。 
慶長4(1599)年に初代専好が寺町四条下るの大雲院で開催した百瓶花会では、町人の参加は100人中4人でしたが、寛文13(1673)年に出版された「六角堂池坊并門弟立華砂之物図」では、門弟21人中半分以上の12人が町人で占められています。その背後には、床・棚を備えた民家の構造上の発達や、富商が自らの財力を示す象徴的存在として立花を取り入れたということが見受けられます。その後、池坊の門流は全国に及ぶようになります。 
また、花の栽培が桃山時代以降に本格化したことも、いけばなが大きく普及した理由のひとつにあげられます。椿や菊などの品種改良も盛んに行われました。 
家元制度の確立  
池坊では、二代専好の弟子に大住院以信(だいじゅういんいしん)や安立坊周玉(あんりゅうぼうしゅうぎょく)、富春軒仙渓(ふしゅんけんせんけい)、十一屋太右衛門(じゅういちやたえもん)などの人物があらわれ、隆盛を迎えます。特に大住院以信は江戸で大名家へ出入りし、高い評価を得ました。一時は、門弟でありながら池坊と名声を二分するほどの人気でした。 
しかしその結果、大住院以信は池坊側と、特に同じ門弟である安立坊周玉と対立し、最終的に池坊を離れることになります。その中で、池坊には一門を守らなければという危機意識が生まれ、家元制度が確立されたのです。延宝6(1678)年には永代門弟帳が作られ、階梯制のシステムが整備されました。このシステムは全国に広がり、爆発的に門弟が増加しました。文化年間(1804-18)には6万人の門弟を数えたといわれています。 
「道」としてのいけばな  
秘伝を習得しようとする求道的精神の高まりの中、「茶道」「香道」などとともに、いけばなも「道」としての性格を強めていきます。元禄元(1688)年刊行の「立華時勢粧」(りっかいまようすがた)に初めて「花道」という言葉が使われています。幕府による教化政策に儒教思想が重視されるとともに、いけばなは道義的意味合いを強めていきました。そして女性の習い事として庶民に浸透していき、次第に稽古による礼儀作法の習得が目的となっていきました。  

 

信楽焼(滋賀県甲賀郡信楽町) 
伊賀焼と信楽焼はどちらも奈良時代からといわれ、その歴史の盛んな時代は室町時代後期〜江戸時代と言われている。 
室町時代後期、茶の湯が盛んになり茶道具として使われる事が多くなった。元々は日用や農業用の壺や甕ばかり焼いていたが、千利休の師、茶人・武野紹鴎が、信楽焼に素朴で侘びた風情を見出したことに始まる。以後、桃山時代にかけ、茶の湯の流行とともに信楽焼は茶人の要望に応じ茶陶を焼く窯として用いられるようになった。村田珠光、武野紹鴎の弟子、利休によって茶の湯が「侘び茶」と言い大成した。彼らは古信楽を愛したが、江戸時代に茶道の流行が去ると茶陶としての信楽焼も衰退した。 
その後、信楽は民芸品として日用雑器の生産が主となった、たぬきの置物は有名である。

 

信楽焼1 
信楽は、日本六古窯の一つで1250年の伝統を誇る日本最古の産地。始まりは天平14年(742)聖武天皇が紫香楽宮の造営に着手したとき、布目瓦、汁器の須恵器を焼いたことに始まり、その後、水がめ、種壷、茶壷、茶器、徳利、火鉢、植木鉢など大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残し今日に至る。 
古代日本の歴史から見ると信楽は朝鮮文化の影響を受け、日本の文化として栄えていた近畿地方の中心にあり、古代の主要道になっていたことや焼きものにふさわしい土がたくさんあったことから、当時の天皇が宮を造営するには理想的な土地だった。 
室町・安土・桃山時代には茶陶が盛んになり、江戸時代には茶壷の生産が盛んとなり、商業の発達に伴い、日用の雑貨類(梅壷・みそ壷・徳利・土鍋等)が造られるようになった。明治時代、うわぐすりが研究され火鉢生産が盛んになり昭和30年代前半まで主製品(国内シェア約80%位)だった。その後、植木鉢や花瓶等が生産され現在に至る。 
最近は、傘立・タイル・庭園用品(テーブルセット・燈籠・照明具)・食器・置物などいろいろと生産され、中でも「狸」の置物は有名。 
特徴 
自然釉/うわぐすりをかけないで焼く。灰が溶けて自然にうわぐすりをかけたようになる(ビ−ドロ釉という)。 
火色/焼成することによって表面にほの赤く、あるいは薄いかき色のような色になる。  
焦げ/薪の灰に埋まる部分が黒褐色になった溶岩のような色になる。  
これらが登り窯・穴窯における特徴で「古信楽」と呼ばれる特有の土味を発揮して、素朴で暖かい情感を表わしている。  

 

信楽焼2 
信楽は付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。信楽焼は、長い歴史と文化に支えられ、この地の伝統的な技術によって今日に伝えられ、日本六古窯のひとつに数えられている。中世末期頃より窖窯によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められ、日本独自の陶磁器産地としての歴史が展開してきた。 
信楽焼の特徴は、信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として「わび」「さび」の趣を今に伝える。 
信楽焼ならではの素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともに「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきたのもその所以ともいえる。 
江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、一躍全国の需要をまかなうほどに大きな成長を遂げた。その他、神仏器や酒器、茶器、灯火具などの小物陶器や壺、火鉢などの大物陶器が生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。 
特徴 
土中の鉄分が赤く発色する火色や、窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれる。 古信楽にはしばしば見られる特徴的な窯変の現象もある。器面の素地が荒く、細かな石粒(石英粒や長石粒、珪砂)などが多く含まれている事も特徴の一つ。 
信楽焼の焼かれた甲賀地域(滋賀県最南部)は、伊賀地域(三重県)と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれるが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽特有の土味を発揮して、素朴であたたかい情感は、この古琵琶湖層の粘土にある。 
灰釉の他にも、植木鉢や火鉢に見られる「なまこ釉」など、絵付の商品が少ないため釉薬の種類が多いこと、大物づくりの成型、乾燥、焼成技術なども信楽焼の代表的な特徴である。 

 

信楽焼3 
有史以前の信楽を見ると、昭和63年信楽町宮町にて狩猟動物解体用とみられるサムカイトの石器が発見されている。このことから推測の粋は出ないが、この付近に縄文から弥生時代の生活の痕跡を見られるかもしれない。信楽北部には古墳時代末期の古墳が2基あり、相当に早くから開けた地域であることを語っている。 
歴史時代にはいると、和銅年間(708-715年)飯道寺が信楽北部の山中に開基され、最盛期には全山僧坊36を数えたという。 
信楽の町の歴史を語る上で欠かせないのが、奈良に都が移る以前に、信楽に都があったという事実だ。天平14年(742)聖武天皇のみぎり、紫香楽の宮造営の勅命が出た。最近まで、信楽に本当の都があり、政が行われていたことについては異論を唱える人も多かった。かって発掘され、宮趾と言われていた史跡が、国分寺の遺跡であって、宮跡とは言えないというのがその見方だ。しかし昭和48-49年にかけての圃場整備のおり、今まで言われていた宮跡からおよそ1.5Km北方の田の中から巨大な三本の柱が発見された。この柱の太さは40-50cm、長さ60-70cmのもので、宮跡級の柱根と確認され、以後今日に至ってもその調査は継続されている。この発掘で、土器、高坏、須恵器、土師器、木簡等、貴重な資料が出土している。天平15年10月15日(743)大物造顕の詔勅が発せられた。この詔勅が後に現在の東大寺大仏となる。翌日16日、東海、東山、北陸三道二十五国の調、庸等の物を紫香楽宮に貢がせしめている。ここにいたって紫香楽の宮は都としての認可を受けたことになる。ところが天平17年(745)4月1日、3日、8日、11日と紫香楽の宮近郊での山火事が相次いだ。それに加えて、4月27日の記述に、「この日、通夜、地震すること三日三夜」とあり、5月1日から10日まで連日地震の記述がある。このため天皇は、平城宮への遷宮を決定した。(以上続日本紀、正倉院文書) 
このように信楽焼きの歴史を語るとき、その始めを縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器等、いわゆる焼き物の始源にまで遡ることもできるが、われわれ陶工がそれを語るときは、中世の焼き物(平安時代末、12世紀末)にその始源を求める。なぜならば、本格的な硬質陶器が焼かれたのが中世だからである。ただ、中世の信楽焼も須恵器の流れをくむものであり、その発展の上に信楽焼の始まりがあることは否定できない。中世の窯の代表的なものは、中世六古窯とか、日本六古窯と呼ばれ、信楽焼もそのひとつだ。 
中世の信楽古窯についての本格的な発掘調査は一部にとどまるが、雲井地区(聖武天皇が都を作った地域)だけでも47ヵ所の窯跡および灰原が確認されていて、勅旨、長野、神山地区を合わせると、100ヵ所を超えると推定されるが、未調査のまま破壊されたものも少なくないのは残念だ。
   
信楽の町は滋賀県の最南端に位置し、南には三重県伊賀、西南は京都府と接している。交通にしても、信楽から伊賀までは車で20分、奈良京都にはおよそ1時間、三重県の津までは1時間、大阪の枚方までは・時間と、どこに出るにもそれほど時間を要しない。このことは、聖武天皇が奈良から信楽への新しい道を作り、都を作ったのも、この信楽の地が交通の要所だったからに他ならない。 
この信楽の北に位置する宮町から北西、およそ16Kmの所に鏡山という小高い山がある。この鏡山の麓からは須恵器窯が50基以上発見されていて、一大集落をなしてなしていたことを伺わせる。「日本書紀」垂仁天皇三年の条によると、「近江の国の鏡村の谷(はざま)の陶人(すえびと)は、天日槍(あめのひぼこ)の従人なり」と書かれている。この陶人というのは、須恵器生産に携わった工人のことだ。須恵器は『穴窯』で焼かれたもので、還元焼成の焼物だ。焼成温度は摂氏1100度から1200度までのもので、自然釉の掛かるものもある。そしてこの鏡谷と信楽の中ほどに位置する水口町泉に下山古窯跡がある。この他にも中世以前の灰釉陶器や緑釉陶器を焼いた窯跡も信楽の近くにはたくさん存在する。これらの地では5世紀から12世紀まで生産が続けられていて、このことが信楽焼の発生と多いに関係すると思われている。 
「工芸志料」によると信楽の開窯は弘安年間(1278-87)「北条時宗、貞時時代」と記されている。これは出土品からも当を得た記述といえる。そして、中世の焼き物というとき、16世紀までを言い、17世紀つまり徳川時代からは近世の焼き物という。徳川時代にはいると、信楽のみならず各地の窯場では、それまでの穴窯に代わり効率の良い登り窯を取り入れることになる。
 
室町時代になると、茶がおこり侘茶の求める日本本来の美、「わび、さび」と焼締め陶の持つ素朴さが一つになり、村田珠光(1423-1502)が信楽の焼物をお茶の道具として取り入れている。珠光が現われるまでの茶道は、書院唐物飾りだった。だが珠光はお茶に精神性を取り入れ一休から受けた直入の精神性、能阿弥から受けた書院茶の法を一つにまとめ、それまでの茶の湯を茶の道つまり茶道にまで高めた。後の千利休(1522-1591)も「法は紹鴎に得申、道は珠光に得申」と述べている。この珠光が和物の備前ものや信楽ものにその美を見い出し茶に用い始めた。この頃の信楽はまだお茶の道具としてのものを作っておらず、珠光は、その頃信楽で焼かれていたものを茶道具に転用していた。珠光が見い出した草庵茶を一層押し進め、侘茶の方向を求めた武野紹鴎(1502-1555)は、信楽苧桶(鬼桶)水指を茶に用い、侘物にその美を見い出している。そして、紹鴎信楽と言って、彼の好みの信楽を茶に用いまた、自分の好みを信楽で作らせている。彼の弟子に千利休を筆頭に、津田宗及、今井宗久がいる。 
千利休(1522-1591)は茶の湯の大成者だ。彼は早くから茶の湯を好んでいて、16歳で、茶会を開いている。そして19歳の時(1540)武野紹鴎の弟子となった。同時に禅に親しみ参禅をしている。信長の時代には、津田宗及、今井宗久と共に信長の茶頭となり、本能寺の変(1582)で信長横死の後は豊臣秀吉に近づき秀吉の茶頭となり、その名を天下に知らしめた。当時「宗易(利休の別名)ならでは関白様へ一言も申し上る人無之」と噂されるほどに秀吉の近くにいた。その彼が、1591年2月13日、大徳寺山門に乗せた木像事件その他で罪を着せられ、28日切腹させられた。この切腹事件の理由については未だに謎とされている。 
珠光が茶の湯の開山であり、紹鴎が茶の湯の中興の祖、利休が茶の湯の大成者であることは万人の認めるところである。利休は、村田珠光の茶の湯の源流を探究し、茶の湯の法、その理念の純化と深化に努めた。つまり、珠光の侘茶精神を深め、草庵茶をもって茶の真髄としている。 
利休信楽と言われるものがある。これは利休が紹鴎や珠光が茶の湯の世界に取り上げたと同じように、信楽の焼き物の持つその雅趣と利休の茶の湯の精神とが合致したからである。そして、利休の好みを信楽の陶工に指図して茶道具を造らせた。これが利休信楽である。 
こうして信楽焼も、16世紀の中頃から、中世窯の3種であったすり鉢、甕、壷以外に、茶の湯の道具をも焼くようになっていく。それは、信楽焼きの持つ素朴さ、侘とさびの美を備えた信楽焼きが、茶の湯の精神と合致し、それまでの農雑器としての信楽と共に美術品としての信楽焼の面ももって行くことになる。 
慶長2年(1597)豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、朝鮮(韓国を含む)の多くの陶工が連れて来られた。それら陶工が、有田焼、萩焼、薩摩焼その他多くの窯場を造った。それら陶工が日本に持ち来ったものに、登り窯がある。連房式登り窯は、それまでの穴窯に比べると非常に効率がよく、大きく且つ沢山の作品が一度に焼けるという合理的な窯だった。そのため、17世紀にはいると、全国の窯場に登り窯が築かれるようになって行った。 
信楽もその例外ではなく、17世紀にはいると穴窯は無くなり登り窯に代わって行った。

 

信楽焼4/穴窯 
滋賀県の最南部に位置する甲賀市信楽町は、東を三重県伊賀、西を京都府山城に接する山間部にあり、古くは「紫香楽」とも称されていた。信楽焼は、平安遷都(794)以前、天平時代に聖武天皇が離宮を紫香楽に造営された折(742)に、宮の造営用にこの地の土を以って布目瓦(ぬのめかわら)や什器(須恵器)を焼いたのがその起源とされている。 日本六古窯(瀬戸、常滑、丹波、備前、信楽、伊賀)の一つとして13世紀末の鎌倉時代には既に窯業の本格的な興隆期を迎えていたようだ。信楽焼は創始より江戸初期までが所謂「穴窯時代(古信楽時代)」であり、登り窯は豊臣秀吉の朝鮮出兵以降のものとされている。 この変遷期に千利休によって大成された「侘び茶」が流行すると共に、もともと生活に密着した素朴な農の実器であった紫香楽の焼きものが、例えば豆類を入れる壷が「旅枕」に、麻を紡ぐ際に用いた「緒に桶」が「鬼桶」とその名を代えて茶の湯に採り入れられるようになった。茶人達は人が蹲(うずくま)っているようなその姿から種壺を「蹲る」と称して重用したと云う。 登り窯の普及と共に、無釉・焼き締めのものから釉薬を施したものに、又、品種も次第に多くなり所謂大量生産の時代になった。昭和の半ば以降近代化の波と共に、赤松を燃料とする登り窯は重油に、さらにガス・電気へと多様化し、成形方法も手捻り(てびねり)や手轆轤(てろくろ)等の手作業から鋳込成形や自動轆轤が急速に普及する様になり現代に至っている。 穴窯は構造的に熱効率が悪く、窯内部の温度むらが大きい事から大変扱いにくいと言う難点がある。反面、作品の呈する表情や景色の豊かさと云う点においてはこれに勝るものはないとも言われる。赤松の灰や炎の織り成す自然釉・緋色(ひいろ)・焦げ(こげ)・窯変(ようへん)等の様々な表情から色絵陶器とは違った古信楽時代の土のぬくもりや素朴で野生的な穴窯独特の魅力を見せてくれる。  
 
信楽焼・タヌキ 
信楽焼の知名度を一躍広めたやきものに「陶器製タヌキ」がある。人気は、日本人が昔から狸をひょうきん者とかずうずうしいとか、愛嬌ものとかいう動物として印象づけ、しかも実際生きている動物としてより、絵とか置物にした狸をコッケイ視し、親しみを感じていたところにあると思われる。 
「タヌキ寝入り」「タヌキ親爺」「捕らぬタヌキの皮算用」「タヌキの金玉は千畳敷」などのことわざがあり、コッケイな顔つきの人には「タヌキ」のアダ名をつける。タヌキは人を化かすといいながら、ニクめないしその図々しさにも逆に親しみを感じる。近頃はタヌキを「他を抜く」意味にも使っている。狸にまつわる民話も各地にあり、昔から話題のつきない存在だ。 
室町時代以降のお茶会で「タヌキ香合」が陶器で使われ、掛軸にも狸の絵が描かれている。てまり歌に「雨のしょぼしょぼ降る晩に、豆狸(まめだ)が徳利もって酒買いに」という節がある。置物狸が大流行したのは、実はこの「酒買い小僧」スタイルの狸である。 
灘の造り酒屋では、酒蔵に豆狸が住んでいないとおいしい酒が造れないという話がある。それ程古い酒蔵、古い伝統と経験がないとよい酒が造れないという例えである。その清酒は慶長年間に完成し、江戸初期から一般庶民の口に入るようになり、酒は徳利をもって行って、酒屋で樽から注いでもらいもって帰ったもので、その使い走りを子供にさせたものである。酒買い小僧の狸の置物は、その姿をタヌキの置き物にしたものである。
 
陶器製の狸、特に酒買い小僧といわれる(徳利と通帳を持ち、傘を冠っている)形の置物は、信楽のみならず、常滑や備前、清水などでも古くから焼かれている。どの産地が最初であるか今のところ明らかではない。清酒が酒屋で売られるようになった江戸時代から、狸のやきものは造られていたようだ。信楽で記録に残っているのは幕末の門左衛門が確かに狸の置物を造っていた。 
一説に、徳利又は通帳に「まる八」マークがあるのは、尾張徳川家の裏紋で、尾張八郡を支配する意味であり、しかも徳川家康はタヌキのアダ名があったことから、尾張知多半島にある常滑焼で、「まる八」の紋を入れて造ったのが人気を博し、それを模して、狸の置物には「まる八」と意味も分からないまま造るようになったという説がある。現在、八相縁起といって、笠は災難除け、腹は太っ腹、顔は愛想よく等々言って8つの縁起があるという意味での「まる八」と結びつけているが、これは昭和27年、石田豪澄が「まる八」紋に合わせて詠んだものであって八相縁起の意味の「まる八」紋ではない。 
今日のように全国的にタヌキの置物が流行したのは、狸庵初代、藤原銕造(明治9年-昭和41年、三重県槇山から9才の時京都の伯父のもとに引き取られ、11才頃からロクロをひいたという人で、信楽へは昭和10年頃、日本一大きな土瓶を頼まれ、大物なら京より信楽でと思い立って移住されて以降、陶製狸の置物づくりに専念された)氏の独特な形、顔立ちが、信楽タヌキの愛嬌ある姿の伝統を開き、築き上げた功績によるものである。つまり、信楽タヌキの顔や体形は藤原銕造氏の原形の継承であるといえる。  
 

  
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四規(しき)/和敬清寂  
この4つの文字の中には、すべてのお茶の心がこめられているといわれています。 「和(わ)」とは、お互いに心を開いて仲良くするということです。 「敬(けい)」とは、尊敬(そんけい)の敬で、お互いに敬(うやま)いあうという意味です。 「清(せい)」とは、清(きよ)らかという意味ですが、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということです。 「寂(じゃく)」とは、どんなときにも動じない心です。  
お茶を飲むとき、お点前(てまえ)をするとき、また、お客様になったとき、お招きしたときなどに、この「和敬清寂(わけいせいじゃく)」ということばを思い出し、おけいこに励みましょう。  
 
利休七則  
茶は服(ふく)のよきように、炭は湯の沸(わ)くように、夏は涼(すず)しく冬は暖(あたた)かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降(ふ)らずとも雨の用意、相客(あいきゃく)に心せよ。
 
利休道歌/利休百首 
千利休の教えをはじめての人にもわかりやすく、おぼえやすいように和歌の形にしたもの。 
百首と言っても実際に100あるものそうでないものが存在する。咄々斎の反古襖に書かれたものが有名。もともとは武野紹鴎のものがはじめで片桐石州の石州百首等が存在する。
 
その道に入らんと思う心こそ我身ながらの師匠なりけれ 
何事でもその道に入りそれを学ぶにはまず志を立てねばならない。自発的に習ってみようという気持ちがあれば、その人自身の心の中にもうすでに立派な師匠ができている。 
習ひつつ見てこそ習へ習わずに善し悪し言ふは愚なりけり 
批評するなら先ずその対象になるものに自ら入り込まねばならない。口先だけの批評では人は納得しない。 
志深き人には幾たびも憐れみ深く奥ぞ教ふる 
熱心な弟子には親切な師匠であるべき。実の子に教えるが如く憐れみ深く細々と教えなさい。 
恥を捨て人に物問ひ習ふべし是ぞ上手の基なりける 
知らない事を恥ずかしいと思わず、師匠や先輩に質問しなさい。一時の恥ずかしさっっさえ忍べばそれは一生の得となる。 
上手には好きと器用と功積むとこの三つ揃ふ人ぞ能くしる 
何事でも名人上手になる為には、好き、器用、功積むの三つが必要条件である。他から強いられていやいや習うのでは上達が難しいし、要領よくする方がいいし、こつこつと努力を重ねる事が芸道修行の上で、最も大切。 
点前には弱みを捨ててただ強くされど風俗いやしきを去れ 
点前は力が弱すぎてもいけないし、力が入りすぎてもいけない。弱くも強くもない中庸を得た点前が良い。  
手前には強みばかりを思ふなよ強きは弱く軽く重かれ 
軽い物を持つ時は重い物を持つ気持ちで、重い物を持つ時は軽い物を持つ気持ちでしなさい。 
何にても道具扱ふ度ごとに取る手は軽く置く手重かれ 
道具を置いた手を離す時は手をすぐに引くのではなく、ゆっくりと離しなさい。  
手前こそ薄茶にあれと聞くものを 相になせし人は誤り 
何事も基本が大切である。点前の巧拙は運びの平点前の薄茶で最もよく現れる。  
濃茶には手前を捨てて一筋に服の加減と息をもらすな 
濃茶は服加減が第一である。加減良く濃茶を練る事に専念し、点前の上手下手は考えないようにしなさい。腹に力を入れ呼吸を整えなさい。  
濃茶には湯加減熱く服は尚ほ泡無きやうに固まりも無く 
濃茶の時、湯は熱めで、茶を入れる前によく拭き、初めの練り方を十分にしなさい。泡や団子がある内はよく練られていない。  
とにかくに服の加減を覚ゆるは濃茶度々点てて能く知れ 
濃茶を加減良く練るには更なる修行が必要である。  
よそにては茶を汲みて後茶杓にて茶碗の縁を心して打て 
茶杓を打つ時や栓打ちをする時は十分な注意を払いなさい。 
中継は胴を横手にかきて取れ茶杓は直におくものぞかし 
中継は蓋が深いので胴の横に手をかけて持ち、茶杓を置く時はまっすぐに置きなさい。道具にあった使い方をしなさい。  
棗には蓋半月に手をかけて茶杓を円く置くとこそ知れ 
棗は蓋と手が半月になるように持ち、茶杓を置く時は丸く置きなさい。このように置くと安定し、見た目も美しい。  
薄茶入蒔絵彫物文字あらば順逆覚え扱ふと知れ 
薄茶入で蒔絵、彫物、文字がある時は蓋と胴の出合いをよく見定めるように注意しなさい。  
肩衝は中次とまた同じ事底に指をばかけぬとぞ知れ 
肩衝を持つ時は胴の横から持ち、底に手を廻さないようにしなさい。  
文琳や茄子丸壺大海は底に指をばかけてこそ持て 
文琳、茄子、丸壺、大海を持つ時は底に指をかけて持ちなさい。  
大海をあしらふ時は大指を肩にかけるぞ習ひなりける 
大海の場合は平棗扱いで、左手の親指を茶入の肩にかけて持ちなさい。  
口広き茶入れの茶をば汲むと言ふ狭き口をばすくうとぞ言ふ 
大海、鮟鱇の茶は汲む、その他の茶入の茶はすくうと言います。 
筒茶碗深き底よりふき上り重ねて内へ手をやらぬもの 
筒茶碗を拭く時は先ず底を拭き、その後に縁を拭きなさい。普通に拭けば指や手先が茶碗の内部に触れていまいますよ。  
乾きたる茶巾使はば湯は少しこぼし残してあしらふぞよき 
茶巾の湿りが少ない時には湯を捨てる時に少しこぼし残しておきなさい。臨機応変で点前をしなさいという心得。  
炭置くはたとへ習ひに背くとも湯のよくたぎる炭は炭なり 
少々形が悪くても、よく湯がたぎるように炭をつぎなさい。美より用。  
客になり炭つぐならばその度に薫物などはくべぬ事なり 
亭主に所望され炭をつぐ時は絶対に香をくべないように。香をくべるのは亭主の役割である。  
炭つがば五徳挟むな十文字縁をきらすな釣合を見よ 
炭をつぐ時は五徳を挟むと風通りが悪くなる。炭と炭の縁を切れば火のめぐりが悪くなるのでしないように。  
焚え残る白灰あらば捨て置きてまた余の炭を置くものぞかし 
初炭に用いた枝炭があれば景色としてそっとしておきなさい。  
崩れたるその白灰をとりあげて又たきそへる事はなきなり 
枝炭は置くときにくずれたり、また燃え残っても置き直さないで景色としなさい。  
炭置くも習ひばかりにかかはりて湯のたぎらぬ炭は消え炭 
炭は下火の多少等で置き方や数を変えなければならないので、教えられた通りに置いても火がおこらない事もある。炭は火がおこるように置きなさい。  
風炉の炭見ることはなし見ぬとても見ぬこそ猶も見る心なれ 
風炉の場合、美しくされた灰形が崩れるような事をしない為に初炭では拝見をしない。後炭の時にしなさい。  
客になり風炉の其うち見る時に灰崩れなん気づかひをせよ 
風炉の灰はとても扱いが難しいので客は亭主の辛苦を察して風炉を拝見する時は静かに控えめにしなさい。  
客になり底取るならばいつにても囲炉裡の角を崩し尽すな 
炉で廻り炭(七事式)の場合、囲炉裏の四隅の灰を崩さないようにしなさい。火のめぐりが悪くなる。  
墨蹟をかける時にはたくぼくを末座の方へ大方はひけ 
墨蹟をかける時には啄木(掛物の巻き緒)を必ず下座の方に引いておきなさい。  
絵の物をかける時にはたくぼくを印ある方へ引きおくもよし 
絵の物をかける時には啄木(掛物の巻き緒)を印のある方へ引いておいてもよい。  
絵掛けものひだり右向きむかふ向き使ふも床の勝手にぞよる 
人物画の場合、向かって左向きは人物の背が勝手付になるように掛けなさい。床によって掛けるものを選びなさい。  
掛物の釘打つならば大輪より九分下げて打て釘も九分なり 
掛物の釘を打つ場合には大輪(天井の回り縁)より9分下の壁に打ちなさい。竹釘の皮の面を上にしてやや斜め上向きに9分の長さを残して打ちなさい。  
床にまた和歌の類をば掛けるなら外に歌書をば荘らぬと知れ 
道具の取り合わせは重複を避けなさい。和歌を掛ければ歌書を飾ってはいけない。  
外題あるものを余所にて見るときは先づ外題をば見せて披けよ 
由緒のある掛物、天皇の書かれた物等を床に掛ける時は軸飾り(掛物を巻いたまま床に飾り、外題を拝見)してから床に掛けなさい。  
品々の釜によりての名は多し釜の総名鑵子とぞいふ 
釜は形やその他の理由から様々な名称があるが、総称すると鑵子と言います。  
冬の囲炉裏縁より六七分高く据えるぞ習ひなりける 
炉縁より釜の口が6.7分の高さで釜を据えると、柄杓が扱いやすい高さですよ。  
姥口は囲炉裏縁より六七分低く据えるぞ習ひなりける 
姥口の場合は胴の上部に柄杓をかける為、炉縁より6.7分低く釜を据えなさい。  
置き合せ心をつけて見るぞかし袋は縫目畳目に置け 
置き合わせは非常に難しいので袋の縫い目を畳の目に合わせて置きなさい。  
運び点て水指置くは横畳二つ割にて真ん中に置け 
運び点てで水指を置く位置は畳の横幅を二つ割りにした中央ですよ。  
茶入又茶筅のかねをよくも知れあとに残せる道具目当に 
茶入や茶筅を元の位置に戻す時は、別の器物を目当てに置きなさい。  
水指に手桶出さば手は横に前の蓋取り先に重ねよ 
手桶水指の場合、置きあわせは手を横一文字にし、蓋は両手で前を取り、向こうの蓋に重ねなさい。  
釣瓶こそ手は竪におけ蓋取らば釜に近づく方と知るべし 
釣瓶の場合、手を縦に置き、釜に近い方の蓋を取り、向こうの蓋に重ねなさい。  
余所などへ花を贈らば其花は開きすぎしはやらぬものなり 
花を贈る時には、未来に楽しめる花(開ききっていない花)を贈るべきである。  
小板にて濃茶を点てるば茶巾をば小板の端に置くものぞかし 
風炉の板敷を使う濃茶の点前は茶巾を右前角に置きなさい。  
喚鐘は大と小とに中々に大と五つの数を打つなり 
喚鐘は大小中中大と打ちなさい。銅鑼は大小大小中中大である。  
茶入より茶掬ふには心得て初中後掬へそれが秘事也 
茶入より茶すくうには初めは少し、次は少し多め、後はたくさん入れなさい。  
湯を汲むは柄杓に心つきの輪のそこねぬやうに覚悟して汲む 
湯を汲む時は柄杓の月の輪(合と絵が繋ぎ合った所)がゆるまない様に注意して汲みなさい。  
柄杓にて湯を汲む時の習には三つの心得あるものぞかし 
柄杓の扱いの心得。十分に汲まず9分目まで汲む。湯は底、水は中程を汲む。油柄杓(だんだん上にあがる)をしないように。 
湯を汲みて茶碗に入るる其時の柄杓のねぢは肱よりぞする 
湯を汲んで茶碗に入れる時は手首を回すのではなく、肘より回しなさい。 
柄杓にて白湯と水とを汲む時は汲むと思はじ持つと思はじ 
湯や水を汲もうと思わないように。柄杓を持とうと思わないように。手首より肘に注意しなさい。  
茶を振るは手先を振ると思ふなよ臂より振れよそれが秘事なり 
薄茶を点てる時は手先を振ると思わないで肘より振ると思いなさい。 
羽箒は風炉に右羽よ炉の時は左羽をば使ふとぞ知る 
風炉は陽なので右羽の陰、炉は陰なので左羽の陽を使いなさい。  
名物の茶碗出でたる茶の湯には少し心得かはるとぞ知れ 
名物の茶碗や由緒のある茶碗を扱う時は、普通の扱いをせずに、古袱紗に乗せ、茶巾で拭きなさい。  
暁は数寄屋のうちも行燈に夜会等には短檠を置け 
暁は陽なので行燈の陰、夜会は陰なので短檠の陽を使いなさい。  
ともしびに陰と陽との二つあり暁陰に宵は陽也 
暁は陽なので行燈の陰、夜会は陰なので短檠の陽を使いなさい。  
燈火に油を注がば多く注げ客にあかざる心得と知れ 
客へのもてなしの心得。燈火を暗くしては客が居辛くなるので配慮しなさい。  
いにしへは夜会等には床の内掛物花はなしとこそきけ 
利休居士以前の夜会には掛物・花は使わなかった。  
炉のうちは炭斗瓢柄の火箸陶器香合ねり香としれ 
炉の時は炭斗は瓢、柄付の火箸、陶器の香合、ねり香である。  
風炉の時炭は菜籠にかね火箸塗り香合に白檀をたけ 
風炉の時は炭は菜籠に入れ、金属製の火箸、塗物の香合、白檀をたきなさい。 
いにしへは名物等の香合へ直ちにたきもの入れぬとぞきく 
名物・拝領物の香合の場合、汚したり傷つけたりしないように下に紙等を敷いて香を入れなさい。 
蓋置きに三つ足あらば一つ足前に使ふと心得ておけ 
三つ人形などの本足の場合、一つだけ他とは違うものが前である。 
二畳台三畳台の水指は先づ九ツ目に置くが法也 
台目畳の時に水指は客付の畳から畳目が9ツ目の所に置きなさい。  
茶巾をば長み布幅一尺に横は五寸のかね尺と知れ 
茶巾は曲尺で長さ1尺、横5寸の大きさである。  
袱紗をば竪は九寸横幅は八寸八分かね尺にせよ 
袱紗は曲尺で縦9寸、横8寸8分の大きさである。  
うす板は床かまちより十七目または十八十九目に置け 
薄板(床に飾る花入の下に敷く板)は床框より奥へ畳目で17から19目に置きなさい。床の大小、花入によって変えなさい。 
うす板は床の大小また花や花生によりかはるしなしな 
花入を置く位置は薄板の位置によって定まる。 
花入の折釘打つは地敷居より三尺三寸五分余もあり 
花入の折釘を打つ時は地敷居より3尺3寸5分の高さに打ちなさい。 
花入に大小あらば見合せよかねをはずして打つがかねなり 
花入の大小・床の高低で釘の位置を変えなさい。 
竹釘は皮目を上に打つぞかし皮目を下になすこともあり 
竹釘は皮目を上に打つのが原則であるが、不便な時は下にしてもよい。 
三つ釘は中の釘より両脇と二つわりなる真ん中に打て 
横幅の広い大横物を掛ける時は真ん中の釘と端の中間に打ちなさい。掛け緒は真ん中を吊し、次ぎに左を掛け、次ぎに右を掛け、最後に真ん中をはずす。 
三幅の軸をかけるは中をかけ軸先をかけ次は軸もと 
三幅の軸をかける時は中をかけ、軸先をかけ、次は軸もとを掛ける。 
掛物を掛けて置くには壁付を三四分すかしおく事ときく 
掛物を掛けて置く時には壁付より3.4分離しておかないと壁や掛物を損じてしまう。 
時ならず客の来らば点前をば心は草にわざをつつしめ 
不意の来客が来た時は点前は十分謹んで丁寧にしなさい。 
花見よりかへりの人に茶の湯せば花鳥の絵をも花も置くまじ 
花見から帰ってきた人が茶会に来る時は花や鳥の絵や花を入れても面白くない。 
釣船はくさりの長さ床により出船入船浮船と知れ 
舟形の花入を吊るには床によって光線のくる方向へ向けたり、その逆へ向けたり、床の上に鎖を束ね、小さな錨を置き、花入をそれにもたれかけさせなさい。 
壺などを床に飾らん心あらば花より上に飾り置くべし 
壺等を床に飾る時には花入より上座に置きなさい。 
風炉濃茶必ず釜に水さすと一筋に思ふ人はあやまり 
湯の温度は茶の精気によって変えなさい。精気の衰えた茶に熱湯を注いではおいしくない。 
右の手を扱ふ時はわが心左の方にあるとしるべし 
右の手を扱う時には左手がおろそかになりやすいので注意しなさい。 
一点前点るうちには善悪と有無の心わかちをも知る 
一点前を点る間は無我夢中でしなさい。 
なまるとは手続き早く又遅く所々のそろはぬを言う 
むらのある点前をしてはいけない。 
盆石を飾りし時の掛物に山水などはさしあひと知れ 
盆石を飾る時には山水の絵は掛けてはいけない。 
板床に葉茶壺茶入品々をかざらでかざる法もありけり 
板床に葉茶壺、茶入等の品々を飾るべきではないが、飾る時は紙等を敷きなさい。 
床の上に籠花入を置く時は薄板などはしかぬものなり 
籠花入を置く時は薄板等は敷かないように。 
掛物や花を拝見する時は三尺程は座をよけてみよ 
掛物や花を拝見する時は3尺程離れて見なさい。 
稽古とは一より習ひ十を知り十よりかえるもとのその一 
稽古とは繰り返す事である。十まで習ったらそれで終わりではない。 
茶の湯をば心に染めて眼にかけず耳をひそめて聞くこともなし 
奥義とは自分で求め、自分で得るものである。 
目にも見よ耳にもふれよ香を嗅ぎてことを問ひつつよく合点せよ 
六感をすべて使って覚えなさい。 
習ひをばちりあくたぞと思へかし書物は反古腰張にせよ 
書物に頼っているうちは、妙境に達する事はできない。書物には要の事やコツはあえて書いていない。それは口伝で伝える。 
茶を点てば茶筅に心よくつけて茶碗の底へ強くあたるな 
茶を点てる時には茶筅によく注意して茶碗の底に強く当たらないようにしなさい。 
水と湯と茶巾茶筅に箸楊枝柄杓と心あたらしきよし 
水、湯、茶巾、茶筅、箸、楊枝、柄杓、心は新しい清浄なものがよい。 
茶はさびて心はあつくもてなせよ道具はいつも有合にせよ 
茶は質素で心に満足を与えるようにしなさい。道具は身分相応なものがよい。 
釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具をもつは愚かな 
茶は道具で点てるものではなく、心で点てるものである。 
かず多くある道具をも押し隠し無きがまねする人も愚かな 
道具は使うからこそ道具としての価値がある。使わない道具は道具としての価値が無い。 
茶の湯には梅寒菊に黄葉み落ち青竹枯木あかつきの霜 
茶の湯では陰陽の調和が重要である。 
茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし 
言うは易し、行うは難し。 
もとよりもなき古の法なれど今ぞ極る本来の法 
茶の湯とはただの遊びではなく、心を養うものである。 
規矩作法守りつくして破るとも離るるとても本を忘るな 
規則は守らなければならないが、例え破ろうとも離れようとも本質を忘れず、臨機応変にしなさい。規律を守り背かずに生きるのはよいが、眼前の事実を前にしてそれらを飛び越えた最良の選択を探し出しなさい。

 

茶筅 
池田氏は「茶筅の形状が抹茶の泡立ちに及ぼす影響を調べているうちに、泡沫生成には茶筅の二重構造が大いに寄与していることがわかった。」と述べた。 
「茶筅の歴史に関する文献は少ない」として、江戸時代の文人近衛家熙が「かい記」の中で山科道安に語った言葉「茶筅ノ吟味ナドハ、世間ニ、絶テナキ事ナリ」(美しく作られながら、一度使えば二度と晴れの場に出してもらえずに捨てられる茶筅のことなど、誰が調べようというのか。茶筅の由来を調べようなどという人は絶えていない)を紹介され、茶碗や茶入れなどの他の茶道具については多くの文献があるのに対し茶筅に関しては文献が非常に少ないことを述べられた。 
さらに「泡を立てる理由」として、漆間元三「茶業と茶の湯」より、味をまろやかにする(苦味の緩和)、ふつふつを湧きあがる泡に限りない生命力を見出した。この泡の生命力に茶を加味することによって薬効の効果を期待したのではないか。のふたつの理由を述べられた。 
次に、「茶筌と茶筅の違いについて」として、「茶筅の原点はササラである。竹の棒で作ったササラは祝具と祝い棒としての2つの働きをもっていて、災害や病気を払い、健康や家族繁栄を願うために使われるササラの持つ霊力を、薬の薬効にもおよぼそうとしたのが茶筅である。」(漆間)「茶筅の字はもともと鍋などの焦げ付きを落とす道具、筅(さらら)から由来している。」(「王服茶筌由来記」)茶せんは物を洗うものではなく、お茶を点てる茶道具であり、見て綺麗で、使いやすく、長持ちする事が肝要。竹の性質の全てをほぼ完璧なまでに引き出し、お茶を点てるためのみに作り上げ、それも美術品のように綺麗に仕上げられた作品で有るという意味で、高山では昔から「茶筌」という字を使っている。という3つの説を紹介された。ここでは、「二重茶筅ができた時、うけをイメージして筌という文字を使っているのではないか。」「弥生時代の出土品の中に筌のようなものがある。」などといった議論がされた。 
また、「茶筅は原則として使い捨て」として「茶筅は数ある茶道具の中でも代替の効かないもので、技術と精魂とを込めて作られる工芸品である。しかしその用途から必然的に消耗品であり、本来なら1回の使い捨て、大事に用いても数十回も使えば穂が折れてしまう。」(熊倉功夫「茶の湯」)ことを述べられた。 
さらに池田氏は、「茶筅の種類」「内穂の開き具合」「起泡の回数」「茶筅の形状」「内穂の役割」として、具体的データーをあげ考察を行った。 
沖縄のブクブク茶、富山のバタバタ茶、島根のぼてぼて茶の茶筅はいずれも一重の作りになっているのに対し抹茶用の茶筅は内穂と外穂からなる二重構造であり、これが泡沫生成に大きく影響しているのではないかと述べられた。 
茶筅の内穂の形状から考察を行い、茶筅の二重構造をつくる内穂について条件をかえ、起泡性に及ぼす影響を調べたと述べられた。 
内穂がしっかりと閉じた状態で出荷された茶筅の起泡回数を重ね、内穂のほどけ具合と起泡性の関係をみることにした。今回の起泡試験では、内穂が完全にほどけるまでは起泡性は高くなるが、内穂が完全にほどけた後は安定した泡立ちが得られると考えられることがわかったと述べられた。 
茶筅の形状を「対照二重」「内穂絞り」「外穂のみ」「二重」を用意し総穂数も示し実験を行った。その結果、泡沫生成には内穂が深く関わっていることがわかったと述べられた。 
泡立ちには内穂があり、開いていることが重要でさらに柔らかい方がよく泡立つこと今回の実験データからわかったとされた。