鍋島焼

 

鍋島焼は江戸時代の有田焼の一様式で単に「鍋島」とも「鍋島様式の肥前磁器」などとも言う。佐賀藩の官立の窯で焼かれた磁器を藩主鍋島家にちなんでの名である。鍋島焼は日本随一の官窯だ。 
藩の御用品、将軍家・公家・諸大名家(諸侯)への贈答品として焼かれた磁器だけに民間の窯(民窯)の磁器と比べ格調高い仕上がりになっている。民窯の磁器との違いを出すため、独特の形状「木盃形」をしているものが多く、伝統的な「花鳥・山水」の文様に加え、着物の文様「染織文様」を応用するなどデザインにも工夫が凝らされている。金や銀を用いない落ち着いた色調だが、えも言われず美しい。
形 
鍋島焼は諸侯のための実用品として焼かれた磁器だけに圧倒的に食器が多い。なかでも皿は独特の形状「木盃形(高台が高く円形)」のものが大部分を占める。変形の皿もあるが、ほとんどの皿は一尺・七寸・五寸・三寸いずれかの木盃形だ。成形は轆轤(ろくろ)細工により行われるが、整形には削り出しによる「丸物造り」と型にかぶせることによる「型打ち造り」とがある。いずれの整形法によっても形状は緻密で一分の歪みもない。鍋島焼の形は端整さの一言に尽きる。 
色 
鍋島焼の美しさは地の色にある。「透明感のある白(純白)」地があってこそ染付の藍、上絵付の赤・緑・黄、青磁にあってはその青が映える。民窯の代表的有田焼「古伊万里」は金や銀を多用した金襴手(銀襴手)が世に知られているが、鍋島焼は金や銀を用いない。華やかながら抑制のきいた配色だ。品格を意識した抑制のきいた配色、落ち着いた色調によって醸し出される上品さと言える。 
デザイン 
実用性と品格を意識した抑制のきいたもので、伝統的(中国風)な花や鳥、山水画調の文様もさることながら着物の染織文様を応用したデザインや地の白を活かしたデザインなど「純和風」と言うべきものは実に斬新だ。和漢両様、また、和漢融合のデザインは鍋島焼の独創と言っていい、工芸美の極致たる所以である。 
美意識 
鍋島様式の花や葉などの素材は、いずれも計算され洗練された文様となって表現されている。余白や青海波(せいがいは)などの連続地紋を巧みに使い分け、全体としての美しさを作り上げる構成に現代のデザインに通じるものがある。色絵磁器である色鍋島で使われる色は、染付の藍を別にすれば上絵の赤・黄・緑の三色に限定され、その中で美しい色絵をつくりあげている。鍋島様式の特徴のひとつに櫛目高台があり、高台部に寸分の狂いなく、櫛の目のように等間隔に描かれた文様は、描きはじめと描き終わりの見分けがつかない程の精密さである。 
種類 
代表的なものは色彩のある色鍋島で、将軍への献上品や他藩公への贈答用に特別に焼かれたものである。染付の鍋島のことを藍鍋島といい、作品の大半がこの藍鍋島と青磁釉をかけて焼かれた鍋島青磁である。その他、銹釉を使った銹鍋島、呉須をいれた釉薬を流し掛けて焼き上げた瑠璃鍋島がある。 
鍋島様式の特徴の一つに規格化された形がある。鍋島焼は城内での使用をはじめ、食生活用品の比率が高く、ほとんどが会席膳用の食器といわれている。木盃の形をした深めの皿に高めの高台をつけた、高台皿と呼ばれるものが、七寸皿、五寸皿、三寸皿などのサイズでつくられていた。

藩窯 
鍋島焼は城内で使用する御道具として焼かれたが、大きな目的は京都御所をはじめ、将軍家、徳川諸藩、諸大名への献上品にふさわしい最高級の作品の製作であった。磁器製作の最先端をいく鍋島藩にとって、その技術を高め秘匿することが極めて重要であり、何度かの移転ののち1670年代に秘窯と呼ばれる大川内山に藩窯を移したり、有田の中心部に赤絵町を設けて赤絵屋を登録し、一定地域に居住させ管理保護したことなどから知ることができる。赤絵町のシステムを保持するために、大川内山の藩窯で焼かれたものも、他の有田の窯のものと同様にこの赤絵町に持ち込まれて絵付けされていた。その御用赤絵屋として有名なのが現在13代になる今泉今右衛門家である。 
藩窯の監督ともいえる陶器方役副田(そえだ)氏の系図によると、鍋島藩窯は寛永(1624-44)時代に岩谷川内(いわやごうち)に副田日清を派遣した頃にはじまり、寛文(1661-73)時代に南川原(なんがわら)へ、延宝(1673-81)時代に大川内山(おおかわちやま)(現在の佐賀県伊万里市)に移窯し、明治4年(1871)の廃藩置県で藩が無くなるまで鍋島焼が焼成された。大川内山以前の作品を古鍋島(初期鍋島)や松ケ谷手と称し、その製陶技術の最盛期は、元禄時代を中心とする時期と考えられている。
 
栗田美術館   2004/6/6 
相場師の作った美術館、老人にはきついロケーションだが半日楽しむ。懐かしい小学校の裏山を思いださせてくれた。

  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 
 
日本磁器の歴史

 

磁器の始まり 
日本磁器の創始は、唐津の陶器窯においてであったとの考えが有力になっており、その年代は1610年代に置かれている。寛永14年(1637)磁器の商品的価値に注目した鍋島藩の介入による、有田の窯場の整理・統合以降、磁器中心の生産へと転換し、積極的な保護奨励策の下、有田の磁器生産は急速に成長した。草創期の磁器は、技術的には朝鮮半島の影響が指摘されているが、当時中国から大量に輸入されていた明時代末期の民窯系磁器の影響も色濃く、かなり早い段階から染付磁器も焼造され始めた。有田で初期(1640年代まで)に焼かれた磁器は、一般に初期伊万里と呼ばれており、素朴かつ自由で力強い作風は評価が高い。伊万里(焼)の名は有田一帯でつくられた磁器が主として伊万里津(港)から各地に出荷されたことに由来する。 
色絵の誕生 
当初、中国の染付を指向した有田の磁器は、寛永末-正保初め1640年代になると色絵磁器の焼成も可能となった。色絵の始まりについてはなお不明のことが多いが、正保4年(1647)当時日本にいた中国人からその技術を習得したということが、酒井田柿右衛門家の古文書「覚」からうかがえる。当時中国から大量に輸入されていた景徳鎮民窯の南京赤絵や、ショウ州窯のいわゆる呉須赤絵の影響なども看過できない。色絵の誕生により、有田では古九谷様式・柿右衛門様式・古伊万里様式・鍋島様式という絢爛豪華な色絵磁器隆盛の時代を迎えることになった。
古九谷様式 
古九谷の由来は、それが従来大聖寺藩の九谷窯(石川県)で生産されたと考えられていたためである。しかし近年の考古学的発掘によって、山辺田窯で古九谷の色絵素地が、また色絵を専門に行った工房跡、赤絵町遺跡からは古九谷の色絵陶片が出土しており、古九谷は肥前・有田の初期色絵磁器であるとの考えが現在主流となっている。この段階の白磁胎はまだあまり精錬されていないが、大胆で豪快な造形と斬新な絵付けはそれを補って余りあり、宴会に用いる器として当時流行した大皿の名品を数多く生み出した。 
その文様は「御ひいながた」寛文7年(1667刊)に描た小袖図案や、明時代末の「八種画譜」漢画モチーフなど、同時代の流行意匠を積極的に採り入れており、中でも菱形文や亀甲文などの幾何学文様を巧みに用いる感覚は、斬新かつ現代的でさえある。大きな特徴の一つに、一点として同じデザインがないことがある。 
柿右衛門様式 
柿右衛門様式の名は日本の色絵磁器発展に貢献した初代酒井田柿右衛門(-1666)に由来するが、一般に有田で輸出用につくられた高品質の色絵磁器の一群を指す。 
色絵の誕生・発展にともない、従来の白磁素地の改善が進められ、濁手(にごしで)とよばれる乳白色の独自の白磁胎が誕生する、時期は延宝年間(1670年代)頃と考えられている。濁手の白磁胎を生かしながら、明るい色調の赤絵によって、花卉文や動物文が繊細かつ優美な筆致で丁寧に描かれた。ここにいわゆる柿右衛門様式の完成を見る。主として轆轤型打ち成形された薄手の磁胎によって、歪みがなくシャープで繊細な造形をつくり出している。赤絵町遺跡の発掘などから、柿右衛門様式の磁器は古九谷様式を基礎に展開したと言われる。しかし、柿右衛門様式は清の康煕年間(1662-1722)の五彩など中国・景徳鎮窯の色絵磁器をその範とし、当初それらの代替品として国外で需要されたため、主に国内向けの古九谷様式の製品とは大きく雰囲気を異にする。17世紀後半からは型物の人形もつくられるようになり、赤絵町遺跡からはその土型も出土している。 
オランダ東インド会社を通じてヨーロッパに渡った柿右衛門様式の製品は、1710年頃にヨーロッパで最初の磁器焼成に成功したドイツのマイセン窯をはじめ、フランスのセーブル窯、イギリスのチェルシー窯など各地でその倣製品がつくられた。 
古伊万里様式 
江戸時代の肥前磁器の中でも1640年代までの染付を中心とした磁器を初期伊万里と呼ぶのに対して、1690年頃から生産が始まった中国・景徳鎮窯の五彩や金襴手を志向した色絵磁器を古伊万里様式と呼んでいる。 
万治2年(1659)輸出の止まった景徳鎮に代わり、オランダ東インド会社から東南アジアやヨーロッパ向け輸出磁器の大量注文を受けた有田では、明時代後期の五彩や当時ヨーロッパで流行していた後期バロック趣味をも採り込みながら、装飾性を過剰なまで追求した染錦手を完成させ、輸出磁器の中心となった。元禄年間(1688-1704)には、景徳鎮窯の嘉靖年間(1522-1566)や万暦年間(1573-1619)の金襴手を倣って、染錦手に金彩を施した、いわゆる金襴手様式も登場し、以後柿右衛門様式に代わり内需を満たすとともに、輸出磁器の花形としてヨーロッパの需要をも大いに満足させた。 
鍋島様式 
磁器生産の確立・展開によってその商品的価値が高まるにつれ、有田を領有する鍋島藩は、磁器生産体制への管理を強化し、正保4年(1647)有田皿山代官を置いた。鍋島藩は藩の調度品をはじめ、将軍家への献上用や各大名・公家などへの贈答用として、良質の磁器をつくる目的で寛永年間(1624-1644)頃、有田の岩谷川内に一種の官窯ともいうべき藩直営の窯・藩窯を築いた、ここに鍋島様式の磁器の誕生を見る。藩窯は寛文年間(1661-1673)に有田の南川原に移り、延宝3年(1675)には伊万里の大川内山に移ったと言われる。厳格な規格と製品管理、それに当時の景徳鎮窯を倣った完全分業体制の下、最高の職人技術によって完璧なまでの様式美をそなえた製品がつくられ、元禄年間(1688-1703)頃の大川内山藩窯の時に最盛期を迎えた。とりわけ、色鍋島と呼ばれる色絵磁器は鍋島様式を代表するものであり、洗練された和様の意匠と熟練した技術はいかにも官窯らしい風格をそなえている。木杯形と呼ばれる高台の高い深皿が代表的で、尺皿・七寸皿・五寸皿・三寸皿と厳格に規格化されていた。
磁器のひろがり 
有田では1640-50年代にかけ、従来の朝鮮半島の技術から脱却して、中国の窯業技術を基礎にした窯業体制への大規模な転換が行われた。この背景には、中国の明から清への王朝交代にともなう内乱により流出した、華南の窯業技術の影響が指摘されている。1661年の遷界令によって、景徳鎮窯の磁器の輸出が完全にストップしたため、国内外の磁器需要の担い手として、景徳鎮に代わり有田がクローズアップされた。中国の最新の磁器焼造技術を導入し技術革新を行った有田の窯業は、1659年にはオランダ東インド会社から大量の注文を受け、さらに景徳鎮窯磁器に匹敵する水準の製品をつくり上げるまでになった。ここに肥前磁器の海外大輸出時代が幕を開け、1650-60年代から中国明末の芙蓉手写しの染付大皿が輸出用として大量につくられた。先の技術革新の中から生まれた色絵磁器も、ヨーロッパを中心とした海外に輸出されて人気を博した。 
1684年の遷界令の解除によって中国の磁器が輸出を再開すると、肥前磁器の需要は極端に減り、むしろ国内市場を狙った染付を中心とした食器などの日常製品への転換を図った。製品の低価格化や技術の簡便化とともに、画一化が進むことになったが、一般庶民層にまで磁器が普及する結果をもたらした。1610年代に有田で始まった磁器生産は、17世紀の段階では有田以外ではわずかに九谷窯(石川県)と姫谷窯(広島県)が知られるのみであった。これは磁器の商品的価値に注目した鍋島藩が、その技術が他藩に流出するのを極端に警戒し、厳重に管理したためである。しかし、技術の流出を完全に押さえることはできず、18世紀になると九州各地で磁器の生産が始まった。天明年間(1781-1788)頃には京都でも磁器焼造が始められた。18世紀後半には、砥部焼(愛媛県)、須恵焼(福岡県)、小峰焼(宮崎県)、意東焼(島根県)など各地で磁器を生産する窯が興った。さらに文化年間(1804-1818)には、瀬戸でも染付の焼成に成功し、その後飛躍的に生産量を伸ばし、磁器発祥の地である有田を凌いで、東日本では瀬戸物(せともの)がやきものの代名詞になるまでに至った。

柿右衛門様式

 

初代柿右衛門である酒井田喜三右衛門(さかいだきざえもん)が色絵磁器の焼成に成功したのは、日本で初めての磁器ができた元和2年(1616)からおよそ30年後の1646年前後とされている。「古伊万里」「鍋島」と並んで有田の磁器の三大様式の1つである「柿右衛門様式」の特徴は、白い素地の余白をたっぷり残して描かれた色絵磁器である。古伊万里の華麗さ・鍋島の精緻さに対して、柿右衛門の何とも言えない温かみのある大和絵的な花鳥図・左右非対称の伸びやかな絵模様は、ヨーロッパの王侯貴族の心をしっかり捕らえ、競って収集されたようである。中でも英国女王メアリー2世とドイツのアウグスト1世の柿右衛門コレクションは特に有名。アウグスト1世の命により誕生したドイツのマイセン窯、イギリスのチェルシー窯・ボー窯、オランダのデルフト窯、フランスのセーブル窯・シャンティー窯などは柿右衛門様式の写しから磁器の製作を始めた。
濁手(にごしで) 
柿右衛門の色絵がより美しく映えるようにと開発された素地が濁手である。「濁」とは佐賀県地方の方言で、米の研ぎ汁のことをいいう。真っ白ではなくて温かみのある乳白色の柔らかい磁胎、それが柿右衛門独自の「濁手」と呼ばれる作品群である。 
この濁手の技術が完成して濁手作品が盛んに出来るようになったのは、5代柿右衛門(1660-1691)のころと言われている。オランダ貿易でヨーロッパに輸出された「柿右衛門」の大半はこの濁手の作品である。ところが、この濁手は原料の調達・製法の複雑さなどの問題で、膨大なロスを覚悟しなければならなかった。国内外の需要の増大で窯元も忙し、歩留りの悪い濁手作品の製作ばかりを続ける訳にもいかず、錦や染め錦の器の製作に移行した。そのため濁手作品は柿右衛門窯から一旦は姿を消した。濁手が復活したのは、文化庁や一般の愛好家からの強い要望に応え、12代と13代柿右衛門が昭和28年頃復元に成功してからである。昭和46年(1971)濁手の技術は国の重要無形文化財の総合指定を受けた。
伊万里様式(古伊万里、伊万里焼)

 

有田周辺で焼かれた焼物を伊万里と呼んだ。その中でも1640年前後までに出来た素朴な染付磁器は初期伊万里と言われ大変貴重で、今では高価なものとなっている。伊万里様式が豪華絢爛で華美な様式に変化したのは、1659年に始まった長崎出島からの、オランダ東インド会社(VOC)による貿易が最盛期を迎える元禄時代1690年頃。東インド会社は当初、ヨーロッパの裕福な王族・貴族に大変人気があった中国磁器の貿易を行っていたが、明・清の動乱の為に製品が少なくなり、日本の焼物へと品物を代えていった。その頃ヨーロッパで人気のあった中国磁器とは、景徳鎮で製作された青花白磁(染付)や、五彩(古赤絵)と、染付の上に赤地に金彩を施した様式(のちに金襴手(きんらんて)と呼ばれる)などの豪華な色絵磁器だった(当時ヨーロッパには磁器の製作技術がなく、その供給は中国や日本などのアジアからの輸入にたよっていた)。これに影響を受け、有田から輸出される焼物は華美な色絵磁器の伊万里様式が確立され、バロック期のヨーロッパの王族・貴族の城の調度品として珍重された。輸出された磁器の8-9割がこの古伊万里様式の大壷や大皿の類いである。1680年代にVOCによる中国磁器の輸出は再開したが、今度はその頃人気のあった日本の伊万里様式に中国景徳鎮が影響を受け、中国製の伊万里様式の磁器が出来るほどであった。その後、中国との価格競争のはて江戸後期の1750年代には輸出は下火になり、日本国内向けの簡素な絵付けの器の生産が多くなった。有田の古伊万里は、当時の鍋島藩の財政を支える花形の輸出品であった。
有田焼

 

有田焼1 
有田は九州の西北、佐賀県の有田は磁器の発祥地であり色絵磁器の誕生した場所である。有田の泉山(いずみやま)で磁器の原料である鉱石(磁器鉱)が発見され、日本で初めての磁器ができたのは元和2年(1616)朝鮮人の陶工によるものとされている。良質の磁器を作ってもその需要がなければ発展しない、有田は2里(8km)ほどのところに伊万里港を持ち、日本全国に出荷できる恵まれた地の利があった。古い有田焼が「伊万里」と呼ばれるのはそのような背景がある。そして有田が世界的な磁器の産地として急激に発展したもう1つの大きな要因は、鎖国政策の日本が世界に向けて窓を開けていた隣の長崎の出島に近かったことである。オランダ東インド会社(VOC)の帆船で有田の焼物が初めてヨーロッパへ輸出されたのは1659年で、およそ100年間出島からの輸出は続き、有田は世界でも有数の磁器の産地になった。  
有田焼2 
18世紀に作られたと見られる有田焼(伊万里焼)有田焼(ありたやき)は、「伊万里(いまり)」とも呼ばれる佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。伊万里の名称は、有田焼積み出しの際、伊万里港からなされていたことによる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、天皇家に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。 
有田、三川内、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。また英語での呼称も 「Imari」が一般的である。「有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もある。 
肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰った。肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った、その中の一人が李参平(りさんぺい、イ・サムピョン、一説には韓国の忠清南道金江出身)である。彼は1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていた。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。広く信じられているように日本で最初に磁器を焼いたかどうかまでは別としても、肥前磁器の発展に大いに貢献したことは確かであり、有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。 
近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(藍九谷)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色一色で図柄を表わした磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、釉薬を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられる。 
寛永14年(1637)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し現在の皿山を形作った。この頃までの有田焼を骨董界ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。 
その後1640年代に中国人によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになった。伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっている。ただし従来言われていた加賀国(石川県南部)での生産も、1650年代から20年間程ごく小規模に行なわれていた。なお、ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていた。 
色絵蓋付大壷(江戸中期)17世紀後半に生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、窯跡の発掘調査の結果によれば、この種の磁器は柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっており、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっている。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。 
17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになった。有田の金襴手は中国明代後期の嘉靖・萬暦期の金襴手をモデルにしている関係から、皿底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多いが、これは中国製のイミテーションを試みたとするより、デザインの一部として取り入れたものであると考えられている。 
また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産した。安価で流通したこれらの碗は、当時出現して人気を得た屋台でも食器として使用された。当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶ。 
一方、「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。 
当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。 
磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、万治2年(1659)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。 
こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい価格競争に晒されることとなる。また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行なった事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。
鍋島焼

 

鍋島焼1 
鍋島の歴史と概要 
「鍋島焼」は当時肥前の国の大名であった鍋島藩直営の御用窯で作られた磁器を指し、「古伊万里」「柿右衛門」と並んで肥前磁器三大様式のひとつである。「古伊万里」「柿右衛門」様式と決定的に違うことは、100%国内向けで幕府・大名の贈答品のみに用いられ、一般に販売されるものはなかった。また「古伊万里」「柿右衛門」が中国の磁器を手本にし、その名残を今でも残しているのに対して「鍋島」はあくまでも純和風にこだわり、鍋島独自の意匠を確立した。藩の手厚い保護下に管理・育成されたことで初めて可能だったと言える。藩は当時、有田周辺に13軒あった脇山(民窯)の優秀な職人を引き抜き、有田の岩谷川内に窯を開いた。それが鍋島磁器の始まりだが、すぐに同じ有田の南川原山に移り、そして延宝3年(1675)に伊万里の大川内山に移転してから本格的な鍋島藩窯として明治4年まで続いた。その間、鍋島藩は技術の漏洩を防ぐために大川内山の入り口に関所を設けて職人を隔離し、厳しく管理していた話は有名である。  
鍋島様式意匠の種類 
染付[そめつけ]鍋島焼では藍鍋島とも呼ばれる/ろくろや型打ちで成形した素焼きの器に、酸化コバルト(呉須)で絵付けをし釉薬をかけて還元焔焼成をした焼き物。初期の有田は、古伊万里も柿右衛門もこの染付磁器で始まった。特に鍋島の染付物は藍鍋島と呼ばれてその青の美しさは格別だった。 
青磁[せいじ]/全体に青い(薄い青から緑に近い色)釉薬のかかった器で、その釉薬の原料は大川内山の天然の鉱石と柞の木の灰を混ぜて作った。出来のよい鍋島青磁は中国の砧青磁にも匹敵すると言われた。染付と合わせた意匠の染付青磁という手法もある。  
銹釉[さびゆう]/酸化第二鉄を用いた茶色の釉薬で、初期の鍋島では器型の縁取りや絵柄の一部に用いられた。古瀬戸ではそれを飴釉と呼んでいる。  
瑠璃釉[るりゆう]/染付の呉須を薄くして釉薬に使用した焼き物。鍋島ではこの瑠璃釉や青磁の上に赤や緑で上絵を描くこともあった。  
色絵[いろえ]色鍋島/鍋島の色絵の特徴は、まず染付で絵の輪郭線を描きその上に釉薬をかけて本焼をし、線の中に色絵の絵の具を塗ることだった。原則として鍋島の色絵の具は赤・緑・黄の3色で、この色鍋島こそ鍋島の地位を確固たるものにしたと言える作品である。  
高台皿 
柔らかなカーブで上向きに立ち上がった深めの皿。寸法は1尺・7寸・5寸・3寸の4種類。最初期のものは別としてこの高台皿には厳しい決まりがある。高台の直径は皿自体の直径の2分の1、器の高さは皿の直径の5分の1で統一されている。他の焼き物が1点1点が同じ器でないところに面白味を出したのに対し、鍋島は大名用の揃い食器であることから、使い やすく、しまいやすいことに重点を置いたためと言える。 
鍋島焼2 
鍋島焼は、佐賀鍋島藩の藩窯である。二代藩主鍋島勝茂のとき、藩で窯を直営して秀れた作品を焼き、城内の調度品や、将軍家・諸大名などへ贈答品に充てるために、寛永五年(1628)京都から浪人の副田日清を招いて陶器方主任とし、有田の岩谷川内に開窯したのが起こりである。染付や青磁がある。寛文元年(1661)窯を南川原の柿右衛門窯の近くに移したが、これは赤絵の技法を採り入れるためであったとみられる。その作品は岩谷川内時代のものに比べて格段に進歩し、既に鍋島焼の特色を表した精巧なものになっている。延宝三年(1675)には更に窯を不便な山間の大河内に移して、窯技の秘密の洩れるのを防いだ。爾来明治四年(1871)の廃藩置県まで二百年間、この地で製作が行われた。岩谷川内時代を創始期、南川原時代を準備期とすれば、大河内時代は完成期で、鍋島焼を代表する秀作はこの時代に焼かれ、かつ期間も長く、鍋島焼の最も充実した時代なので、大河内焼の名は鍋島焼の別称のようにも使われている。 
鍋島焼は、素地・釉料・顔料は最良精選のものを使い、優秀な陶工を集め、成形・焼成にも念を入れ、特に意匠・絵付に留意したので、秀れた文様の美しい精巧な磁器が作られ、その表現には日本的な婉美な特色が溢れている。染付・青磁・色絵があるが、殊に色絵が代表的で、これを色鍋島と呼ぶ。作品は主に皿・鉢・向付の類で、皿の高台は高く、染付で櫛歯文様を描いたのは、櫛高台と云って特色の一つになっている。また色絵の輪郭が染付なのも鍋島特有で、これは同じ文様を幾つか表す必要から生まれたもので、青海波や墨流しの文様で、白抜きに使われる墨はじきの手法も、鍋島特有のものである。 
鍋島焼3 
鍋島焼は江戸時代の有田焼(肥前磁器)の一様式で単に「鍋島」とも言う。肥前・佐賀藩の官立の窯で焼かれた磁器を藩主鍋島家にちなんでこう呼ぶ。官立の窯やそこで焼かれた陶磁器を官窯(かんよう)と言うが、鍋島焼は日本随一の官窯である。官窯で藩の御用品、将軍家・公家・諸大名家(諸侯)への贈答品として焼かれた磁器だけに民間の窯(民窯)の磁器と比べ格調高い仕上がりになっている。民窯の磁器との違いを出すため、独特の形状「木盃形」をしているものが多く、伝統的な「花鳥・山水」の文様に加え、着物の文様「染織文様」を応用するなどデザインにも工夫が凝らされている。金や銀を用いない落ち着いた色調だが、えも言われず美しい。 
鍋島焼は諸侯のための実用品として焼かれた磁器だけに圧倒的に食器が多い。なかでも皿は独特の形状「木盃形(高台が高く円形)」のものが大部分を占めている。変形の皿もあるが、ほとんどの皿は一尺・七寸・五寸・三寸いずれかの木盃形である。成形は轆轤(ろくろ)細工により行われ、整形には削り出しによる「丸物造り」と型にかぶせることによる「型打ち造り」とがある。いずれの整形法によっても形状は緻密で一分の歪みもない。 
鍋島焼の美しさは配色もさることながら地の色にある。鍋島焼の地は「透明感のある白(純白)」。この地があってこそ染付の藍、上絵付の赤・緑・黄、青磁にあってはその青が映える。民窯の代表的有田焼「古伊万里」は金や銀を多用した金襴手や銀襴手が世に知られているが、鍋島焼は金や銀を用いない。華やかながら抑制のきいた配色になっている。鍋島焼の色とは官窯としての品格を意識した抑制のきいた配色、落ち着いた色調によって醸し出される上品さと言える。  
鍋島焼のデザインも実用性と品格を意識した抑制のきいたものである。伝統的(中国風)な花や鳥、山水画調の文様もさることながら着物の染織文様を応用したデザインや地の白を活かしたデザインなど「純和風」と言うべきものは実に斬新である。和漢両様、また、和漢融合のデザインは鍋島焼の独創と言える。 
鍋島焼4 
鍋島焼(なべしまやき)は、17世紀から19世紀にかけて、佐賀藩(鍋島藩)において藩直営の窯で製造された高級磁器である。藩直営の窯で焼かれた製品を指して単に「鍋島」ともいう。佐賀藩の支配下にあった肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。これを近代以降「鍋島焼」と呼び、「伊万里焼(有田焼)」と区別している(有田磁器の一様式と位置付け、「鍋島様式」と呼称する場合もある)。 
*肥前国の有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本の代表的な磁器生産地として知られる。陶磁器生産の先進地である中国では早く漢代末期には磁器が創始され、宋代以降は景徳鎮を中心に白磁、青磁、青花(白地に青の文様を表す)、五彩(色絵)などの磁器が生産されていたが、日本では長らく陶器や無釉の焼き締め陶が主流であり、磁器の生産が始まったのはようやく17世紀前半のことであった。文禄・慶長の役に際し、豊臣秀吉は当時の朝鮮から陶工を日本(九州)へ連行したと言われており、彼らの技術がもとになって近世初期、九州各地に陶器産地が生まれたとするのが今日の通説である。高取焼、上野焼(あがのやき)、唐津焼などはいずれも朝鮮から渡来した陶工によって創始されたと伝えている。有田地方の窯で製造され、伊万里の港から出荷された伊万里焼(有田焼)も同様に朝鮮渡来の陶工によって創始されたと伝えられ、伝承では元和元年(1616)、朝鮮出身の陶工・李参平が有田の泉山で白磁鉱を発見してから、磁器の生産が行われるようになったという。李参平に関する伝承を文字通り信じるかどうかは別としても、この時期(17世紀初頭)、肥前国において日本の磁器生産が始まったということは定説となっている。 
こうして生産が始まった伊万里焼とは別に、藩窯製品としての「鍋島焼」が作り始められた正確な時期や事情については、藩の公式の記録が残っておらず判然としない。伝承によれば鍋島焼は寛永5年(1628)、有田の岩谷川内(いわやがわち)で創始されたとされ、寛文初年頃(1661)、有田の南川原(なんがわら)に窯を移し、さらに延宝3年(1675)、有田と伊万里の中間の山中にある大川内山(おおかわちやま)に移ったという。大正時代、東京日々新聞の記者であった大宅経三は佐賀藩の御道具山役(藩窯の主任)の地位にあった副田(そえだ)家の過去帳を調べ、その調査結果を著書「肥前陶窯の新研究」(1921)に発表している。同書によれば、鍋島焼は素性不明の浪人・高原五郎七(五郎八とも)が有田の岩谷川内(いわやがわち)で青磁を焼造し、佐賀藩の御用を務めたのが起源であるという。この五郎七は、秀吉の家来とも朝鮮から渡来の工人ともいわれる半ば伝説上の人物で、藩のキリシタン取締りを避けて出奔してしまったという。その後、寛永5年(1628)、五郎七の教えを受けた副田喜左衛門日清という人物が御道具山役となり、手明鑓(てあきやり)という武士待遇の身分で佐賀藩に仕えた。以後、副田家が代々御道具山役を務めている。ただし、藩窯が岩谷川内および南川原にあった時代の製品がどのような様式のものであったかについては定説を見ず、今日「鍋島」と称されている独特の様式をもった磁器はおおむね大川内山窯の製品と見なされている。1952年以降行われた大川内山窯跡の発掘調査の結果、出土した磁器片と伝世品の磁器とは一致するものが多く、鍋島の産地が大川内山であったことは学問的にも確認されている。ただし、鍋島には製作年を明記した作品が少なく(江戸時代末期には若干の製作年銘入り製品がある)、同じ文様を長期間使うことが多く、年代による作風の変化を追うことは困難である。陶磁研究家の矢部良明は大川内山の製品を初期(1680年代)、盛期(1690年代から1750年頃まで)、後期(1750年頃から廃藩置県の1871年まで)の3期に区分している。 
鍋島光茂の指示書/鍋島焼の歴史を語る際にしばしば引き合いに出される史料として、鍋島宗家に伝来した「有田皿山代官江相渡手頭写」(ありたさらやまだいかんへあいわたしてがしらうつし)という文書がある。これは元禄6年(1693)、2代藩主鍋島光茂が皿山代官に与えた手頭(指示書)である。現存する文書はその写しであるが、盛期鍋島焼に関わる数少ない公的史料として重視されている。この「手頭」は近年皿山(藩窯)の活動が低調であるとして、以下のように厳しい注文をつけており、藩の皿山に対する高い関心が伺われる。 
近年、皿山の製品が「毎年同じものにて珍しからず候」、つまり作風がマンネリ化しているので「当世に逢い候やう」、もっと現代風の製品を作るように求めている。最近、製品の納期が遅れ「間に合はず緩かせのやうに相成る儀」が目立つので、そのようなことがないよう戒めている。「脇山の諸細工人大河内本細工所へみだりに出入致さざる様」、つまり伊万里焼の他の窯の職人たちが大川内の藩窯にみだりに立ち入らないように求めている。他の窯の製品でも斬新なデザインのものがあれば、これを取り入れるように指示している。献上用の製品の余りものや、不出来の製品は、藩庁の年寄や進物役と相談のうえ、割り捨てるよう指示している。以上のように、佐賀藩としては藩窯の製品の質を常に高く保ち、不良品を世に出さないことを方針とし、技術の漏洩を防ぐため、藩内の他窯の職人といえどもみだりに藩窯に出入りすることを禁じていたことがわかる。 
藩窯の組織/大河内藩窯の御細工場(磁器工房)は、細工方11名、画工9名、捻細工4名、下働き7名の31名から構成されていた。他に「御手伝窯焼」として本手伝10名、助手伝6名がおり、その他御用赤絵屋、御用鍛冶屋、御用土伐、御用石工、薪方頭取などの諸職が存在した。これらの職人によって磁土の精製、成形、下絵付け(染付)、本焼き、上絵付け(色絵)、上絵の焼き付けなどの工程が分業で行われ、さらに原料の磁土を採掘する者、窯を焚くための薪を供給する者など、多くの人材が関わっていた。色絵(赤絵)の場合、下絵付け(呉須というコバルト質の絵具を用いる。焼きあがると青色に発色する)と上絵付け(下絵の上に赤、黄、緑の色絵を施し、再度焼く)は完全な分業であった。すなわち、本焼きまでの工程は大川内の藩窯で行われ、上絵付けは有田の赤絵町で行われた。御細工場の職人たちは身分が保証される代わりに、製品の質の確保と、技術漏洩防止のため、藩からの厳しい統制下に置かれていた。藩窯が有田や伊万里の中心部から遠く離れた山間の大川内に置かれたのも、情報漏洩を防ぐためであったと言われている。 
将軍・大名への贈答用高級品として作られ、一般に出回っていなかった鍋島焼が鑑賞陶磁として注目されるようになるのは大正期以降である。鍋島焼を紹介した最初の文献とされるのは、イギリス人フランシス・ブリンクリー(1841-1912、軍人出身のジャーナリスト)が1901-02年に刊行した「日本と中国」(Japan and China: Its History, Arts and Literature)とされている。物理学者・貴族院議員の大河内正敏(1878-1952)は陶磁研究家として知られ、彩壺会という研究会を主宰。大正5年(1916)に三越 で「柿右衛門と色鍋島」という展覧会を開催、同年同じく「柿右衛門と色鍋島」という題名の講演録を出版している。これは日本人によって書かれた最初の本格的な鍋島焼紹介書であり、以後の研究にも同書の影響が大きい。 
製品の特色/鮮やかな青色が特徴。大川内藩窯の主力製品は皿、向付などの食器類であり、近世に他の諸窯で盛んに焼かれた茶陶はほとんど焼いていない(ただし、香合の作例が若干ある)。壺、瓶子のようないわゆる「袋物」や蓋付碗、香炉のような製品も現存するが、いずれも数は少なく、主力は皿類である。鍋島の皿は木盃形(もくはいがた)と称される独特の形状のもので、側面から見ると高台(こうだい)が高く、高台から縁へ張りのあるカーブを描く。皿は円形のものが主で、直径が1尺、7寸、5寸、3寸に規格化されている。特に直径1尺(約30cm)の大皿は現存品が少なく「尺皿」と称されて珍重されている。皿には高台周囲に短い脚を付した三脚皿や、八角皿、花形などの変形皿もある。向付や小皿は同文様のものが5客、10客などのセットで作られた。一方、尺皿には互いに同模様のものが少なく、1点生産だったものと思われる。
墨はじき 
「墨はじき」とは、江戸期から鍋島でよく使われた白抜きの技法である。技法の手順としては、まず墨で文様を描き、その上を染付で塗る。すると墨に入っている膠分が撥水剤の役目をし、墨で描いた部分が染付の絵具をはじく。その後、素焼の窯で焼くと墨が焼き飛び白抜きの文様が現われるという、染織のろうけつとよく似た技法である。 
鍋島ではこの「墨はじき」による白抜きは、主文様を引き立たせるための脇役の表現方法という目的を感じさせてくれる。墨はじきによって描かれた個所は、染付の線描きされた個所と比べるとやさしい控えめな印象を与える。鍋島ではその特性を最大限に生かすために、墨はじきが主文様の背景に使われることが多い。染付で描いてもよさそうなところを、あえて一手間二手間かけ、主文様を引き立たせるために墨はじきを使い描く、鍋島らしい神経の遣い方である。
景徳鎮 / ブランド構築の難しさ

 

景徳鎮という地名はほとんどの人が聞いたことがあるだろう。 
現代の景徳鎮はさびれた町だ。確かに今でも陶磁器の町だが、道端で売られているのは日常使いの安物ばかりで、観光客向けに派手な昔の名品の彷古品(複製品)が土産物として売られている 、観光客が極めて少ない。一部の若手作家が自分の窯を構え、芸術的要素の強い作品を作ってはいるが、あまり市場性があるとは思えなかった。中国国内の新聞でも近年の景徳鎮の凋落ぶりは話題になっており、「中国磁都」の称号を他の町に譲るべきはでないか、などと書き立てられている。せっかく世界中の人々に知られている「景徳鎮」(Jingdezhen, Chingtechen, Kingtehchenなどさまざまな表記がある)というブランドがあるのに、現在の体たらくはあまりにもったいない。  
どうしてこうなってしまったのだろうか。景徳鎮は中国江西省の北東部にあって、2000年以上前の漢代から陶磁器の生産が始まっていたとされる。後には一貫して宮廷御用達の器を焼く「官窯」が置かれた。宋代には青磁、白磁を産み出し、元代にはいわゆる「白底青花」(白地に青で花鳥風月が描かれた繊細な磁器は誰でも見たことがあると思う)と呼ばれる高品質の染付磁器を産出し、宮廷でも用いられただけでなく、欧州やイスラム圏など海外にも輸出された。清朝の雍正、乾隆期(1723-1795)が最盛期とされ、その後、徐々に衰退の道をたどった。  
一時は欧州の王侯貴族を魅了し、「China」(磁器)の代名詞にもなった景徳鎮が、平凡な一地方都市になってしまったのはなぜなのか。その理由は一景徳鎮だけに留まらず、中国の製造業が現在でも抱えている問題点と共通性があり、中国経済の今後を考える上でも大きな示唆を与えてくれる。  
景徳鎮のライバル有田 
景徳鎮の成長と衰退を考える際に、日本を代表する陶磁器の町であり、かつては景徳鎮に学んで成長してきた有田と比較しつつ話をすると、よりわかりやすい。  
有田はご承知のように、日本で最も歴史ある磁器の産地で、江戸時代前期の16世紀後半から生産が始まっていたとされる。江戸時代後期に全国各地で磁器生産が始まるまで、日本で唯一、長期間にわたって磁器の生産が続けられていた。有田焼は「伊万里」とも呼ばれるが、これは製品の積み出しが伊万里港から行われていたことによる。 
有田での磁器生産の始まりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、肥前国鍋島藩主が連れ帰った陶工のひとりが1616年に有田で白磁鉱を発見し、窯を開いたことによるとされている。その後、1640年代には景徳鎮の職人から技術を学び、色絵磁器が生産されるようになる。明から清への移行期の戦乱や清朝の海禁令(一種の鎖国政策、1656年)などで景徳鎮の輸出が減少したことをきっかけに、その品質の高さが注目され、オランダ東インド会社などの手によって欧州への輸出が急増した。18世紀後半以降は日本国内向けが中心になるが、明治以降は輸出が再び盛んになり、欧州での評判は中国製磁器を圧倒した。  
現在に至るまで「有田」「伊万里」が日本を代表する陶磁器ブランドして認知されているのはご承知の通りである。毎年4-5月のゴールデンウイークに行われる有田陶器市は今年で106年目になる。毎年数十万人の買い物客が押し寄せる世界最大級の陶器市としてますます賑わっている。  
なぜ有田が成長したのか 
有田の成長の要因は、地域を挙げての「粗製濫造」防止に対する取り組み、言い換えれば「有田」という地域そのものをブランド化するための努力にあったことが、これまでの研究で明らかになっている。有田では以下のような取り組みが行われてきた。()内はその目的 
1866年 陶業盟約(協同組合)結成(職工子弟の共同教育、商標保護、競争乱売の防止) 
1867年 巴里万国博覧会への出品(海外でのブランドイメージの構築) 
1871年 日本初の陶磁器技術者養成学校「勉脩学舎」(現有田工業高校)設立(人材育成) 
1879年 九州初の企業法人「香蘭社」の設立(陶工・絵付師・陶商の結社) 
1888年 有田貯蔵銀行(現佐賀銀行)設立(設備投資資金の融資) 
1896年 有田品評会(現在の有田陶器市)開催(商品の品質向上を競う) 
江戸幕府の時代、すでに陶工子弟の共同教育や「有田(伊万里)」という商標の保護、乱売の防止などといったブランド育成策を掲げて地域が取り組みを始めていたことがわかる。パリ万国博覧会に出展したのも明治維新前である。1871年の「勉脩学舎」(現有田工業高校)の設立は、その資金を地元有志の寄付でまかなったという。今日まで100年以上も続いている「有田陶器市」の原点は品質向上を競い合う品評会であった。こうした「ヒト・モノ・カネ」に地域を挙げた取り組みが、今日に至る有田の歴史を支えてきたのである。 
外地人の集合体だった景徳鎮 
研究では「近代に入ると、世界市場における景徳鎮の重要度は総じて低下した。日本の産地にとっても、海外市場における競争相手はもはや中国ではなく、イギリスやドイツに移っていた」と ある。そのうえで、景徳鎮における生産の際立った特徴として、この町が地元住民でなく出稼ぎ職人によって支えられていたことを指摘している。 
清の康熙帝の時代(在位1661-1722年)から200年以上にわたり、景徳鎮で仕事をする職工のほとんどが外地からの出稼ぎ者で占められていたという。職工たちは景徳鎮に定住しているわけではないので、川の水かさが減って製品の水運に適さない季節になると故郷に帰ってしまう。 
そのため景徳鎮の工場は「租厰制」と呼ばれる標準貸し工場を職工が利用するシステムになっており、職人の自前の工場ではなかった。工場のオーナーにしてみれば、職人はいついなくなってしまうかわからないから、その職人独自の設備や仕様を取り入れて工場を改造することはリスクを伴うので、やりたがらない。そのため職工は誰もが同じような設備を持つ標準工場を使わざるを得ず、技術の画一化、陳腐化が発生しやすく、技術革新が進みにくかった。 
また職人にしてみると、自分の個性に合わせた工場のシステムを構築することができないので、製品の品質はいきおい職人個人の技能に依存せざるを得なくなる。そのため職人の腕は確かだが、システム化されにくく、技能の伝承がしにくいという弊害があった。 
加えて大きかったのが職工同士の地域対立である。景徳鎮の職工は製造する磁器の種類によって出身地が異なっており、しばしば対立が起きた。1926年には「景徳鎮の楽平籍と都昌籍の(職工たちによる)大械鬥があり、両県人民がお互いに仇討ちで殺し合い、数ヶ月続き、(中略)景徳鎮では空前の大惨事になった」といった状況だったという。 
このような状況では、有田の人々が実践したような地域全体の利益を考えた行動などは、景徳鎮では望むべくもなかったと言っていいだろう。 
「定着」の有田、「流動」の景徳鎮 
近代以降の有田と景徳鎮で最も違ったのは何か。それは有田では江戸時代の末期から地元の人々が「粗製濫造の防止」に力を合わせ、技能の向上と蓄積、地域ブランドの構築に取り組んだのに対し、景徳鎮では磁器製造に携わっていたのは外地人であったため、「地域ブランド」という考え方が普及せず、技術力が蓄積していきにくかったという点である。つきつめて言えば、有田の人々はその土地に「固定」していたのに対し、景徳鎮で磁器生産に従事する人々は「流動」が前提だったということになるだろう。その違いが技術力の蓄積の差となって表れ、地域ブランドの価値に反映した。  
興味深いのは、こうした景徳鎮のような「地元民は貸し工場などを立てて外地の人々に貸し、自分自身はその産業に従事しない」という形態は、現在の中国でもごく普通に見られる形であるということだ。また出身地域間で従業員の対立や集団抗争などが発生するのは、現在の中国の工場でもしばしば見られる現象である。 
今年5月、筆者は広東省の東莞市に行ってきた。東莞のような農村から急激に工業化したような地域では、現在では工場が林立している土地は、大半がもともとは農地だった。中国の農地は農民の集団に所有権がある。仕組みをごく簡略化して言えば農民は土地を進出してくる工場に貸すか、もしくは自分たちで公司を作って貸し工場を建て、そこにテナントを入れるなどの形で「大家さん」になっている。こうした形態は工場進出が進んだ地域ではごく普通にあることである。いま東莞の「農民」は自分たちが建てた出稼ぎ者向けのアパートで、不景気で仕事がなくなった入居者が帰郷してしまい、家賃収入が入らずに困っている。 
また多少形態は違うが、例えば上海から近い江蘇省や浙江省などの農村に行けば、地元の農民はもはや自分で農業はやっていない。何をしているかといえば、農地はより貧しい安徽省や江西省などから来た外地の出稼ぎ農民に耕させ、自分はもっと賃金の高い工場で働くとか、別の商売をするなどして、より効率よく、楽に収入を得ている。 
こうしたやり方自体、悪いことではないが、自分で体を動かして生業に取り組むのではなく、自分の資産を他人に貸すことによって収入を得ようとする傾向は中国社会には非常に強い。つまり言葉を変えれば、工夫の積み重ねで生産性を上げ、技術を蓄積して高収益を目指すという「製造業(industry)型」より、資産を貸す、運用する、回転させることによって収益を上げる「取引(trade)型」の性向がより顕著だと言っていいだろう。景徳鎮の来歴を見る限り、どうもこうした傾向は清朝の時代から本質的には変わっていないように思われる。  
景徳鎮、有田、マイセン 
有田と世界の関係では、有田の人々の努力はあったものの、現時点で陶磁器のトップブランドとして広く世界の人々に認知されているのは、残念ながら欧州系のブランドが多い。 
例えば、ドイツにマイセンという窯元がある。「西洋白磁の頂点」とも称されるマイセンは1705年、ドイツのザクセン候アウグストス強王が錬金術師ベドガーに磁器の制作を厳命したことに始まる。当時、ヨーロッパでは中国や日本の磁器が上流社会にもてはやされていたが、純白で薄く、硬くて艶やかな硬質の磁器はヨーロッパでは生産する技術がなかった。そのため列国の王侯貴族、事業家たちはやっきになってその製法を見つけようとしていたという。 ベドガーによる4年間の研究の末、1709年ドレスデンで欧州初の硬質磁器が誕生した。中国風の染付が完成したのは1717年とされる。この後、ベドガーは製法の秘密漏洩を恐れた国王によって城内に軟禁されたまま37歳で生涯を終えるという悲惨な運命をたどるのだが、ともかくそのくらい欧州と中国や日本の技術差は大きく、欧州はなんとか追いつこうと必死だったのである。 
現在、一般に売られているカップ&ソーサーの値段を比べてみれば、マイセン数万円、有田数千円、景徳鎮数百円といった感じだろう。もちろんそれぞれ普及品かから高級品まであるから一概には言えないが、この3者の中ではマイセンが世界各地で圧倒的な高価格で売られていることは間違いない。 
技術の蓄積とブランド構築ができずに衰退し、低価格品に甘んじている景徳鎮。懸命の努力で品質は世界トップレベルだが、ブランド力では欧州に及ばない有田。最後発ながらブランド力をいかんなく発揮し、品質、価格とも世界のトップを行くマイセン。何やら世界経済の縮図を見ているようである。 
 
筆者の授業には中国を中心にアジア諸国からの留学生が大勢いる。「欧米と競争するのはかくも大変である。日本もずいぶん頑張っているが、あのトヨタですら、ブランド力ではドイツ企業にまだまだ及ばない。中国の若い人も相当に性根を据えて頑張らないと、とても太刀打ちできる相手ではないよ」。冗談半分ではあるのだが、中国企業、特に製造業にいま最も必要なのは、長い視野の取り組みで技術力を向上させ、企業内に組織能力を蓄積していくことである。しかし景徳鎮の事例を見る限り、その道はなかなか険しいものであろうと判断せざるをえない。それはまた同時に、中国進出日系企業の最大の課題でもある。