波佐見焼

 

波佐見焼と「くらわんか」1 
波佐見焼の歴史は、江戸時代初期、今から約400年前に始まる。現在、内窯業関係者は町の就業人口の約4割を占め、110社ほどの窯元が生産している。特に和食器の出荷額は国内全体の15%にも及び、長崎県下では最大、全国でも3位の実績を誇っている。 
これほどの生産量誇っても波佐見焼が全国的に知れていないのは、江戸時代に波佐見で焼かれた器が当時の積出港である伊万里から出荷され、伊万里焼と言うブランドで流通していたからである。明治に入ると積出駅の有田の名前を取り有田焼ブランドで出荷され、波佐見焼の名前は表舞台には登場しなかった。 
現在では波佐見焼と言うブランドを表に出すようになってきたが、まだ多くの波佐見焼が有田焼(肥前の器)として出荷されている。
  
波佐見焼のあけぼの・磁器の誕生 
16世紀末-17世紀はじめにかけて、陶器生産は肥前一帯へ広まりを見せた。波佐見にはじめて窯が築かれ、陶器の生産が開始されたのもこの頃。現在、波佐見での最古の窯とされているのは平成5年の発掘調査で明らかになった稗木場地区に所在する下稗木場窯跡。時代は1590-1610年代頃と考えられている。窯体は1室の大きさは幅2.3m、奥行き1.9mほど、窯の全長は22m以内、部屋数も12室以内に収まる小規模な登り窯であった。 
波佐見における窯業生産の歴史はここから始まった。 
豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役(1592-1598)の後、参加した九州各地の大名達は、多くの朝鮮李朝の陶工を日本へ連れ帰った。当時の波佐見の領主である大村義明公も、多くの李朝陶工を連れて帰った。その中の一人李祐慶によって、慶長4年に築かれたと言われる窯がある。村木地区に所在する畑ノ原窯跡がそれで、昭和56年の発掘調査によれば、窯の部屋数24室、全長約55.4mを誇り、当時としては巨大な規模を持つ窯であったことが判明した。出土製品の中に僅かながら磁器も含まれ、波佐見における磁器の誕生を知る上で、非常に重要な窯である。
   
青磁・輸出・くらわんかの時代 
寛永14年(1637)佐賀藩の有田・伊万里では、窯場統合により陶器の生産が廃止され、その流れを受け波佐見も本格的な磁器の生産が開始された。有田では、染付け・色絵を始めたが、波佐見は青磁を中心に生産した。平成9年の三股青磁窯跡の発掘調査では、大量の青磁が出土している。波佐見の青磁の釉薬は、水色に近い透き通った色合いを基調とし、器の表面に草花の模様を流れるように掘り出したものが多く見られる。技術的にもトップレベルであったと考えられ、当時はかなりの高級品だったと考えられる。 
17世紀の中頃になるとオランダ東インド会社などを中心に、肥前の焼物の海外輸出が始まった。波佐見からは青磁の大皿や染付けの大椀、鉢などが輸出され、かなりの活気を見せた。海外輸出は17世紀中頃から末まで約40年間続いた。 
元禄年間(1688-1703)下火になり、国内向けの磁器を生産するようになった。その頃、大阪淀川を行き来する三十石船に「酒くらわんか・飯くらわんか」と掛け声をかけながら商売をする船が繁盛し、そこで使われていた器が俗に言う「くらわんか」であった。波佐見はその最大の生産地であり、幕末まで生産を続けた。
  
コンプラ  
コンプラと言う言葉を何処かで耳にされた方も多いはず。江戸時代の終わりから明治・大正にかけ、波佐見では海外輸出用の酒やしょうゆを入れる瓶が量産されていた。それがコンプラ瓶である。 
コンプラとはポルトガル語のコンプラド−ル(仲買を意味する)から来ています。 
コンプラ瓶の表面に、「JAPANSCH ZAKI(ヤパンセ サキ・日本の酒)」、「JAPANSCH ZOYA(ヤパンセ ソヤ・日本の醤油)」と書かれてあった。このコンプラ瓶は長崎出島よりヨーロッパや東南アジアに向けて、大量に大量に輸出された。 
明治・大正・昭和・平成 
明治に入り大村藩の支援がなくなると、巨大登り窯は廃止され、個人所有の小規模な窯へと転じ、資本を失い危機に立たされた。しかし陶工たちの努力と新しい技術の導入で次第に活気を取り戻した。その頃から江戸時代に続き日用食器を中心に生産し、型紙刷り・銅版転写技術を取入れ、湯呑や碗などに緻密な模様が描かれる様になった。 
当時、最も多く作られていたのは徳利で、最盛期には年間35万本も作られていたようだ。大正に入ると長崎県東彼杵郡陶磁器株式会社(1918)が設立され、窯業界は安定し、「鋳込み・石膏型・機械ロクロ」導入により、多種多様な製品が生産されるようになり、現代の基礎を築かれた。 
昭和の大不況の後、石炭窯が次々と築かれ、洋食器や酒樽などが盛んに作られるようになった。戦争を乗り切り再び活気を取り戻し、ニーズに応えさまざまな商品が開発生産され、昭和53年波佐見焼は通産省の「伝統工芸品」に指定された。

 

くらわんか2 
江戸時代、大阪・京都間の重要な交通手段として、淀川を行き来する三十石船が利用されていた。あの森の石松琴平参拝や、東海道中膝栗毛でも登場する船。この三十石船を相手に、小船で近ずき「餅くらわんか・酒くらわんか」と、お世辞にも上品とは言えない言葉で、酒や煮物を器に盛って売りつける商売が繁盛していた。その売り声から「くらわんか船」盛り付けに使われた器を「くらわんか茶碗」と呼ばれるようになった。 
くらわんか船はおもに大阪枚方を中心として多く出船していた様で、飲み食いした後の器はそのまま淀川へポイッと捨てられていた。その後、この様に使い捨てされるような、安い大量に作られた器を総称して「くらわんか手」と呼ぶようになった。この安い、言いかえれば庶民が気軽に使える日用食器を、元禄の頃から幕末まで大量に作り続けていたのが、波佐見だった。
 
くらわんかの原料 
波佐見で産出(三ノ股)する陶石は、見た目には白く見えるが、鉄分とチタンが含まれているため、焼くと鼠色がかる。そのうえ陶土の90%がヨワ石と呼ばれる耐火度の低いもので、1200度を越えるとガラス化し、ツクに使用する耐火粘土も1300度を越すと曲がって役に立たないものが多かった。 
このような原料であったために、薄手でなおかつ白い生地は作ることが出来なかった。そのため市場で勝ち残るためには、安価で大量に出荷することが要求され、全工程に合理化が進められた。 
いかに合理的にくらわんかが量産されたか 
薄手の物が出来ないため厚く作ったが、限られた時間で早く作るためロクロも雑になり、必然的に分厚くもなったようだ。くらわんかは全体的に分厚くて重いのはこのような原因からと言われている。 
絵付けも安価な呉須を用い、つけたてで余白の多い簡単なものが描かれていた。加えてコンニャク芋を使った版画印刷の手法も用いられていたようだ。 
欠点も美点 
鼠色の生地に、つけたてで描いた簡単な模様、大量生産と実用性だけを目的とした器は、美しいとは言えず、当時でも素気ないものと思われる。しかし、長年の手慣れによる流動感に溢れた線の美しさ、コンニャク芋を使った印判により図案化され、エンドレスの未見の図案が発見される面白さがある。焼成は低温で時間をかけて焼かれたために柔らかく、しっとりした潤いのある生地と呉須の発色を生んだと言われている。寸法も人間の体から的確に割り出されおり、手に持った時の確かな手応え、素朴で豊で味わいのある姿が、現代の人たちの間に徐々にファン層を広げていると言える。

 

波佐見焼と「くらわんか」3 
慶長4年、波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋、山似田の3か所に連房式階段状登窯を築き、やきものづくりを始めた。これが波佐見焼の始まりで今から約400年前のこと。 
波佐見焼といえば、染付と青磁が中心だが、初めは施釉陶器を生産していた。その後、村内で磁器の原料が発見され、しだいに染付と青磁を中心とする磁器へ移行。大村藩の特産品となり、江戸後期には染付の生産量が日本一に。こうして波佐見焼は、染付・青磁ともに大生産地に発展してきた。 
皿山役所を設置し、磁器の生産に力を入れる大村藩。製造されるほとんどは日常食器で、唐草模様を筆で簡単に描いた「くらわんか腕」と呼ばれた丈夫で壊れにくい、厚手で素朴な製品は波佐見焼の代表になった。波佐見焼の食器づくりは、庶民の食文化を大きく変え、生活を豊かに彩り、私たちの暮らしになくてはならない身近なものになっていった。 
巨大な連房式登窯で生産をし、手頃な価格で全国へ、また、海外へと販路を広げていった波佐見焼。その歴史の数々は、町のあちらこちらに残された登窯跡が物語っている。 
江戸時代から続く庶民の日常食器/簡単な染付紋様を描いた器・くらわんか腕は、波佐見焼の歴史を知るうえでも欠かせないもののひとつ。この名前は、江戸時代、摂津の淀川沿いの船に、小舟で近づき「餅くらわんか、酒くらわんか」と言って売った商人その言葉から名づけられた。土もの風の少し粗い素地と簡素な絵柄で、手頃な金額で売られたくらわんか腕は、たくさんの庶民の人気を得た。磁器腕は高級なもの、庶民には手が届かない、という当時の常識を大きく変え、日本の食文化の発展に大きな影響を与えた。手軽で良質な暮らしの食器を供給するという波佐見焼の姿勢は、400年たった現在を変わることなく貫かれている。 
くらわんか腕が放つ謙虚な美しさ/庶民の器として世に出たくらわんか腕だが、素朴な中にも巧みな雅さがあると、一部で熱狂的に愛され、後に他の産地もこれを模造するほど、多くの人に認められるようになった。その独特の美しさは、庶民のために庶民が作ったということに尽きる。時代の流れとともに、社会の環境や価値観も変わり、くらわんか腕もしだいに作られなくなっていった。  
はじまりは酒・醤油の輸出容器だった/染付白磁の、燗付徳利に似たコンプラ瓶。別名「蘭瓶」とも呼ばれ、オランダ人やポルトガル人を相手にした仲買商人「金富良商社」によって輸出され、その名が付いたといわれる。コンプラ瓶には、オランダ語でJAPANSCHZOYA(日本の醤油)、JAPANSCHZAKY(日本の酒)と書かれた2種類がある。日蘭貿易の最盛期・1650年頃から明治末期頃まで、醤油・酒などを入れて、オランダ東インド会社により、東南アジアやオランダ本国に、長崎・出島から盛んに輸出された。独自のデザインとしゃれた洋文字はオランダ人の注文で、どっしりとした形は安定を考えたものといわれる。 
波佐見と海外を結ぶ掛け橋/コンプラ瓶には、たくさんのロマンが秘められている。たとえば、ジャガタラお春の調度品に含まれていたとか、フランスも皇帝ルイ14世が愛用していたとか、ロシアの文豪・トルストイが自室の書斎の一輪挿しにしていたなど、話題はつきない。大村藩は、1665-1873年の約200年間、皿山役所を開設し、波佐見皿山の発展に力を注ぎ、今日の波佐見焼の隆盛を築く礎となった。貿易に携わった「金富良商社」は、皿山役所のもとで急速に成長し海外へ進出した。波佐見と海外を結ぶ大きな架け橋であったコンプラ瓶の存在は長崎出島のロマンとともに、現在も尚、語り継がれている。  
波佐見焼の特徴は、透けるような白磁の美しさと、呉須(藍色)で絵付けされた「染付」の繊細で深い味わいにある。そして、透かし彫りや編目模様の優雅さは波佐見焼ならではのものである。庶民の器として誕生した波佐見焼は、長い歴史の流れの中で、すばらしい伝統美を培ってきた。「くらわんか腕」と呼ばれる茶碗や皿、「三股徳利」など、たくさんの日用食器が生産され、伊万里商人の手によって江戸・大阪方面に大量に売り出された波佐見焼。その時代の人々のさまざまな暮らしにあわせて、変化し、改良し、提案してきた。波佐見焼の400年の歴史は日本の食文化の歴史でもある。
狂歌・雑俳の中の「くらわんか舟」 
淀川両岸一覧 (文久元年刊行)より 
喰う蚊と くらわんかとにも 起こされて 寝る間も夏の淀の川舟 [作者不知] 
夏の淀川の船旅は、蚊の襲撃に悩まされる。ぶんぶんと飛んで来て肌を刺し人の血を「くらう」蚊と、この地の名物「くらわんか舟」の商人の、蚊の襲撃のように猛烈な声にも起こされて、眠る間もない夏の夜の淀の川船である。「夏」は「夏」と「無つ」との掛詞。また、「喰らう蚊」と「くらわんか」を対にしている。 
ひらかたに箸のみらるる 蛍かな [沾徳] 
くらわんか舟で買い求めた酒や食べ物の器は、淀川に投げ捨てられて沈んでしまうが、ただ箸ばかりは、ぷかぷかと枚方辺りの水面を流れていく。その箸の上を、蛍の光がゆったりと、夏の夜に漂っている。「み」は「箸のみ」と「見らるる」の掛詞。 
ひらかたの 砧も遠し 上り舟 [燈外] 
大阪から京都に向かう上り船は、川の流れに逆行するために、下りよりも二倍の時間 を要する。しかも、水勢が強くて船の操作が困難な場所では、沿岸から綱を引いて遡航するのである。引き綱の場所は、枚方の近辺では三カ所ある。<出口村の松カ鼻から枚方船番所まで(左岸)、*大塚から前島(右岸)、*楠葉から橋本(左岸)> 大塚から前島の間は、上り船から見ると左岸で綱を引くことになるが、左岸は河内の国ではなく、摂津の国である。従って、河内の枚方で打つ砧の音も、上り船では遠くになるために、聞こえてこない。 
はなし出す 人の尻馬口車 いずれ調子に のり合いの舟 [江戸平秩東作] 
三十石船に乗り合わせた乗客たちは、人の話の「尻馬」に乗ったり、「口車」に乗ったり、いずれにしても調子に「乗って」、全く見も知らぬ人々と話し合っている。「乗る」と云う言葉の掛け合い。 
酒くらえ 餅をくらえの 口に似ず あしをいただく ひらかたの舟 [鬼拉亭力丸] 
枚方の「くらわんか舟」は、「酒食らえ、餅食らえ」と云う汚い言葉に似ず、「おあし」(代金)を貰うと、それを押し頂いているよ。葦の生い茂っている枚方の宿の食らわんか舟は。「銭」と「葦」との掛詞。 
美濃おうみ 外にふしみの夜舟には 寝物語りも おおき乗り合い [江戸有大甚] 
美濃、近江、その外に伏見の人々が、今、夜船で大阪に向かっている。乗客は互いに身を合わせ重なり合って(身の合う身=美濃・近江)、屋根のかかっている場所の外まで伏して寝る(外に伏し身=伏見)。そして、美濃と近江の間にあって寝て話が出きると云う「寝物語の里」のように、お互いに寝物語をしている人も多い。二重三重に掛詞を使っている技巧。 
五畿内物産図会 (文化十年刊行)より  
おあがりなされませと 云えぬ代ろ物は 茶めし 芋汁 くらわんか舟 [朶雲] 
「おあがりなさいませ」と丁寧な言い方ができない代物は、茶飯、芋汁、そして、くらわんか舟。これらは気の利いた食事とはとても云えない。 
寝そこない 寝そこない草の 胡蝶かな [到丘] 
くらわんか舟のけたたましさに、蝶々も寝ようとすれば寝損ない、寝ようとすると寝損なって、舟の屋根に掛けてある苫草に留まっている。 
事しげく 都近くの言葉には くらわんかいぞ まさしかりける [鉄格子] 
忙しい都近くの人の話言葉としては、「くらわんかい」と云うのも、うってつけなんだろうなあ。 
狂言の鬼か 夜舟の 京のぼり いでくらおうと 舌打をして [砂角] 
京都に上る夜舟で、人々は「さあ喰おう」と云って、くらわんか舟の飯を、がつがつと舌鼓を打って食べている。まるで、狂言の鬼が「さあ喰おう」と云って、人を喰うかのようだ。 
枚方で 酒買う舟の ぎょうぎょうし [巴文] 
行々子(よしきり)が鳴く淀川の岸の枚方で、くらわんか舟から酒を買う三十石船の乗客たちの声のの何と仰々しいことよ。行々子は葦原の中に巣を作る「よしきり」のこと。「行々子」と「仰々しい」とを掛けているもの。 
淀川の 清き流れに 濁りたる言葉も味や 食らわんか舟 [可笑] 
淀川の清らかな流れの中では、枚方のくらわんか舟の、濁った汚い言葉も味なものだ。 
のぼりくだり 淀の川うち 雑言を にうり名代の くらわんか舟 [子行] 
上り下りの淀川の内で、名代のくらわんか舟は、客に悪口雑言を浴びせ掛けて物を煮売りする。 
器まで きたな口にて まずかわな 乗合い見かけ 喰わんかと云う [清峨] 
食べ物の器まで汚いのに、さらに口汚い言葉で売りかけるので、まずそうだが、まずはこれを買いましょう。乗合船を見かけて「くらわんか」と云うから 
乗合いの 夢のただ中 獏さえも くらわんかとて 呼びさます舟 [庭茂] 
乗合船で見る夢の中で、夢を食うと云う獏さえもが「くらわんか」と云って、夢を食べて、人を眠りから呼び覚ます。獏が夢を「食う」と、「くらわんか」とを掛けている。 
商いに へつらいもなく 言葉まで げに現銀な くらわんか舟 [一雛] 
商売に何の諂いの態度もなく、言葉まで実に現銀で、代金を貰うと途端に態度が変わる食らわんか舟である。 
河内名所図会 (享和元年刊行)より  
桃酒酌に 夢やぶられて 朧月 [梅園] 
くらわんか舟が「酒くらわんか、くらわんか」とがなり立てるのに驚き、夢を破られて、ぼんやり眼で月を眺めると、月もまた、ぼんやりとかすんだ三月の朧月である。 
霜 天に 満ちて貨食の声あらく 喰え喰えと 到る客船 [班竹] 
霜の降りた寒空に、くらわんか舟の商う声が荒々しく「食らえ、食らえ」と客船に近づいてくる。張継の「風橋夜泊」の詩を踏まえたものである。もとの詩は「月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓の漁火は愁眠に対す 姑蘇城外寒山寺 夜半の鐘声客船に到る」。「客船に到る」のは「寒山寺の鐘」ならぬ「食らえ、食らえ」の荒々しい声である。
「貝々づくしの背景」江州音頭  
貝々づくし  
はあーかいかいずくしとこら でーたわいなーよーほーほい(お囃子)  
あー大きな貝ならほら貝かい 小さな貝なら蜆の貝かい   
黒い貝ならダボ貝かい 白い貝なら帆立の貝かい  
枚方名物くらわんかい 食ろたらさっさとぜぜ払わんかい   
払ろたらさっさと帰らんかい 江州音頭は踊らんかい  
さー踊ったら掛け声こら かけんかい(お囃子)  
踊り子さんよしんどいかい(お囃子)  
あら ほんまにほんまにしんどいかい(お囃子)  
さーっ! しんどかっても掛け声だけはかけんかい(お囃子)  
歴史背景  
豊臣秀吉が大阪城・伏見城を築くと、この二拠点を結ぶ最短の道として、文禄5年(1596)淀川左岸に「文禄堤」を築造し、堤の上を道路とした。この道がのちの京街道で、江戸時代になると東海道の延長部として京都・大阪を結ぶ主要街道になった。   
元和2年(1616)に、東海道57宿として伏見・淀・枚方・守口が設けられた。寛永12年(1635)から参勤交代制度が出来ると京街道には、紀州・泉州の大名を始めとして長崎大名の往来もあって街道は賑わった。特に徳川御三家である紀州藩の行列は有名であった。伏見や枚方は陸路と水路の要所となり、宿場町として栄えた  
くらわんか船と三十石船   
江戸時代当時、東海道から京都を経て、大阪方面を目指す旅人は、陸の道ではなく、京都伏見の船着場で船に乗り淀川を下るのが一般的でした。 歩くと一日かかる道のりも、船なら半日で着く。人や馬より多く荷物も運べる。船宿が上流の伏見には五十二軒、下流の大坂には二十四軒あり、坂本龍馬で有名な寺田屋も伏見の船宿のひとつだ。  
宿を基点に、例えば、京の伏見港を深夜に出発した三十石船が大阪の天満橋詰八軒屋・八軒家浜(現在の京橋近く)に着くのが早朝であった。三十石船は二十八人までの客が乗って、すし詰め、もちろんトイレはない、シラミが沢山、異臭を放つという状況。約十里(40km)を下りが6時間、上りは陸で3人以上の人夫が綱を曳いて10時間かけての航行である。  
今なら、大阪から京都でも、京都から大阪に行くときでも、お金は一緒。川を上るとき(大阪から京都)と、下るとき(京都から大阪)では、運賃が違う。下りは流れに乗れるが、上りは船頭が岸へ上がって太綱で船を引っ張るから、時間も倍、運賃も高かったのだろう。三十石船は昼夜二回の運行。  
2〜3人分席を1人で確保する豪商はまだしも、川風の吹く冬などは一般客は寒さも厳しく大変であった。三十石船は、京都伏見と大阪八軒家の中間にある今の枚方市の枚方浜に停泊した。旅程の中間地点にあたる枚方浜はトイレ休憩所でもあったのだ。(男ならまだしも女の人は大変だったろう)。  
乗客の顔ぶれとは、寺社などへの旅人、武士、商人、僧侶、巫女、山伏、俳人、婦女子(実家に帰るなどの)などで、はては巾着切り(泥棒)まで紛れ込んでいたらしい。(オイオイ)  
淀川の旅客船である28人乗りの三十石船を待ち構えて、この船に漕ぎ寄せ、船縁に船を繋ぎ止め、乗り込んできた売人が「起きよ起きよ、寝ぼけの奴ら」「餅くらわんか、酒くらえ、銭がないのでようくらわんか」などと怒鳴って、うとうと眠りについていた乗客をたたき起こして、喧嘩ごしで酒食を売りつけたそうだ。  
あん餅・ごぼう汁・酒などを売る茶船が、つまり飲食物の乗り込み販売を業とするのが「くらわんか舟」である。  
口汚いのは、彼らが河内者であったため?で、大阪町奉行所が悪口禁止のお触れを出したくらいである。  
『東海道中膝栗毛』の野次さん喜多さんも船上にあって、売り言葉に買い言葉、彼らと騒動を起こしており、当時の狂歌にも詠われているほど、「くらわんか舟」は淀川の船旅の名物であった。  
   淀川の清き流れに濁りたる 言葉も味やくらわんか船  
   喰らう蚊とくらわんか船に起こされて 寝る間も夏の淀の川船  
   商ひにへつらいもなく言葉まで げに現金なくらわんか船     
等が残っている。この舟人の暴言・不作法は、かえって旅人に人気があり、幕府お墨付きの無礼講であった。  
くらわんか船の茶碗は波佐見焼が使われ、料金の支払いは器の数で料金を計算したため、客によっては、ごまかして器を川に捨てた人もあったそうで、今でも川底からくらわんか茶碗が発見されるときがあるのだそうだ。 

 

波佐見町 
藍彩窯のある波佐見町は長崎県のほぼ中央、東彼杵郡の北部に位置し、東は武雄市、嬉野町に、北は佐賀県山内町、有田町に接している。長崎県内でも海に面していない数少ない町でもある。400年の伝統をもつ全国屈指の焼き物の町として栄えてきた。九州の焼き物といえば、有田焼や伊万里焼を思い浮かべる方が多いが、実は波佐見、有田、伊万里は地理的にも近い位置にある。波佐見は海に面していないため、九州から全国へ流通する際、海路を使う場合は伊万里港、鉄道を使う場合は有田駅を経由した。そのため、焼き物としての起源はほぼ同じであるにも関わらず、波佐見の焼き物が九州の有田や伊万里の名で流通した歴史がある。全国の一般家庭で使われている日用食器の13%は波佐見町で生産され町内には陶磁器に関する581の事業所があり、町内の約3、000人が窯業関係の仕事にたずさわっている。まさに九州の「焼き物の町」なのである。 
日本最古の窯「畑ノ原窯跡」 
畑ノ原窯跡は、1981年に発掘調査が行われ、窯の部屋数約24室、全長約55.4mを測り、当時としては巨大な規模を持つ窯であったことが判明した。出土した製品は、陶器(溝縁皿)を主体とするものの、僅かだが磁器も含まれ、陶器と磁器を同時に焼成していたことがわかった。畑ノ原窯跡は、波佐見における磁器の誕生、さらには、国内磁器生産開始期の様相を知る上で、非常に重要な窯である。 
波佐見焼の歴史を語る5基の古窯跡 
畑ノ原窯跡(村木郷)1610-1630年代、肥前磁器生産開始期の様相を伝える窯。 
三股青磁窯跡(三股郷)1630-1650年代、国内有数の青磁を生産した窯。 
長田山窯跡(井石郷)1690-1740年代、18世紀前半代の青磁生産窯。 
中尾上登窯跡(中尾郷)1640-1920年代、全長160mを越える世界最大規模の登窯。くらわんか碗・コンプラ瓶等を大量生産。 
永尾本登窯跡(永尾郷)1660-1950年代、全長155m程を測る、中尾上登窯跡に次ぐ巨大窯。くらわんか碗・コンプラ瓶等を生産。 
皿山役所跡(永尾郷)寛文6年(1666)大村藩によって設置された窯業管理機関。 
股砥石川陶石採石場(三股郷)磁器の原料となる陶石の採石場。江戸初期から昭和時代まで採石が続けられた。
 
飛鳥時代 710頃   行基が金谷山東前寺を建てたと伝えられている。 
奈良時代 742 天平14 金屋神社が建てられたと伝えられる。 
平安時代 1177頃 鹿山神社が建てられたと伝えられる。源為朝の八島の大蛇退治の伝説がある。 
鎌倉時代 1281頃 波佐見氏の名が武士団の中にある。 
1350 観応元 波佐見六郎俊平は足利直冬に従い筑前の月隅城を攻める。 
1551 観応2 幸天三所大明神を彼杵より金谷山に遷座。 
1566 永禄9 後藤貴明、波佐見・川棚を攻撃する。萱地が原の戦いで内海城内海政通は戦死。 
1579 天正7 渋江公師、長島より波佐見の岳ノ山城へ移る。 
1582 天正10 原マルチノなど少年使節ローマへ長崎より出発する。 
1585 天正13 少年使節ローマへ着き、ローマ法王を訪問する。1587/秀吉禁教令  
1590 天正18 少年使節長崎へ帰る。    
1592 文禄元 文禄の役、秀吉の命に従い朝鮮に大村喜前、兵を出す。    
1597 慶長2 慶長の役、秀吉の命に従い朝鮮に大村喜前、兵を出す。 
1598 慶長3 大村喜前、朝鮮人陶工を伴いてもどる。僧明了、金山安楽房を建てる。 
1599 慶長4 波佐見焼が始まったといわれている。永尾の陶山神社の玉垣に「慶長4年・・・」と彫られている。1600/関ヶ原の戦
 
1605 慶長10 喜前、東前寺を再建。 江戸時代 
1612 慶長17 大村藩で内で総検地が行われる。キリシタン禁令 
1616 元和2 東島久兵衛、三股に新登窯を開く。 
1623 元和9 僧明信、教法寺を建てる。 
1624 寛永元 大村藩、キリシタン禁制を行う。1626/長崎で踏絵  
1629 寛永6 東前寺を金屋より平瀬に移す。マカオで原マルチノ死亡。 
1637頃 寛永14 幸天三所大明神を金屋より亀井山に遷す。島原の乱 
1644 正保元 中尾山に新たに陶磁窯を開く。 
1661 寛文元 中尾山に下登窯を開く。 
1665 寛文5 大村藩、三股に皿山役所を設ける。 
1666 寛文6 永尾皿山おこる。 
1667 寛文7 稗木場皿山おこる。 
1668 寛文8 福田代助が水唐臼を始める。 
1682 天和2 内海銅山を開く。 
1685 貞亨2 幸天三所大明神(波佐見神社)を現在地へ遷す。松尾儀右衛門、中尾に大新登窯を築く。 
1697 元禄10 百貫窯おこる。 
1732頃 享保17 皿山の人形浄瑠璃が始まると伝えられる。亨保の大飢饉 
1742 寛保2 三領石を建て、佐賀領・平戸領・大村領の境を決める。 
1844 天保15 郷村記(波佐見)ができる。1868/明治維新
   
1870 明治3 神仏分離令により東前寺が廃寺となる。三股の皿山役所が廃止される。藩制改革により波佐見村は、上・下の二村になる。 
1870頃   波佐見地方に飢饉が起こる。大村藩が大村県となる。 
1871 明治4 大村県が長崎県となる。 
1874 明治7 佐賀の乱、1877/西南の役  
1879 明治12 東前寺が再興される。 
1897 明治30 波佐見金山の採掘が始まる。下波佐見村役場平瀬に新築。 
1902 明治35 陶磁器意匠伝習所を中尾に開設する。稗木場陶磁器意匠伝習所を皿山に開設する。1904/日露戦争 
1912 大正元 石炭窯が始まる。 
1914 大正3 波佐見金山が閉山する。 
1917 大正6 上波佐見に電灯がともる。 
1923 大正12 下波佐見に村営電気事業が始まる。 
1930 昭和5 県窯業指導所ができる。 
1933 昭和8 上波佐見村高等国民学校開校。電話が通じる。 
1934 昭和9 上波佐見村が上波佐見町になる。 
1941 昭和16 太平洋戦争 
1945 昭和20 長崎原爆、終戦 
1952 昭和27 中尾郷の大水害。 
1956 昭和31 上・下波佐見村が合併し波佐見町となる。国際連合加盟 
1978 昭和53 波佐見焼が「伝統工芸品」の産地に指定される。
 
三川内焼(みかわちやき)は平戸焼(ひらどやき)ともいう長崎県佐世保市で生産される陶磁器。昭和53年(1978年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品の認証を受け。現在14の窯元がある。天草陶石を用いた白磁に藍色で絵付けがされた物に代表される。
娘の大好きな湯呑・西海陶器

 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 

 

波佐見町と波佐見焼  
波佐見町は、長崎県の中央北部に位置し、長崎県佐世保市・川棚町、佐賀県の有田町・山内町・武雄市・嬉野町と隣接する県境の町。町の周囲には木々に覆われた緑豊かな山々がめぐり、その山々を発した多くの小河川は、谷間をぬって波佐見川へと注ぎこんでいる。波佐見川の流れに沿うように、中央から西部にかけて平野が広がっている。波佐見町は山あいの盆地の町で、長崎県内では数少ない「海無し町」で、様々な「山のとうせき産物」に恵まれている。中でも、町南東部の丘陵一帯から産出する磁器の原料/陶石は、江戸時代、波佐見の地にやきもの生産/窯業を定着させ、発展させた。このように、波佐見町は、燃料(木々)、水(小河川)、土(陶石)というやきもの生産に欠かせない3つの条件が揃った、窯業に非常に適した環境を持つと言える。江戸時代には銅、明治時代には金(「波佐見金山」)が採掘されていた。波佐見の窯業は、江戸時代初期、今から約400年前に始まり、以降、一度も途絶えることなく続けられてきた。現在、波佐見町の人口は15、679人、世帯数は4、641世帯を数え(2004年3月末)、町の就業人口約8、500人のうち窯業関係者は約4割を占め、110社程の窯元が、日々多くのやきものを生産している。和食器の出荷額は国内全体の13%に及び、長崎県下では最大、全国でも第3位の実績を誇っている。400年という長い歴史に培われた窯業の伝統を保持しつつ、現在も「やきものの町」として生き続けている。ところが、波佐見で生産されたやきもの「波佐見焼」は、残念ながら、全国的に知れ渡っているとは言えない。それは、江戸時代には当時の積出港の名を取り「伊万里焼」と、明治時代以降は、積出駅の有田の名を取り「有田焼」と称されてきたためで、「伊万里焼」「有田焼」の中には多くの「波佐見焼」が含まれている 。
 
波佐見焼のあけぼの  
織田信長や豊臣秀吉が天下統一へのラストスパートをかけ、戦国の世がまさに終わろうとしていた天正年間(1571-1591)頃、肥前(現在の佐賀県・長崎県の一部)で初めて陶器が焼かれた。(佐賀県北波多村所在の岸岳古窯跡群と考えられ)その後、16世紀末-17世紀の初めにかけ、陶器生産は肥前一帯へ広まりを見せ、肥前産の陶器/唐津焼は、瀬戸・美濃産陶器と国内市場を二分するまでに急成長を遂げていく。波佐見の地に初めて窯が築かれ、陶器の生産が開始されたのもこの頃である。平成5年(1993)稗木場地区に所在する下稗木場窯跡の発掘調査は、波佐見焼の歴史に新たな1ページを加えることになった。物原の調査によって出土したやきものは全て陶器で、皿、碗、船徳利、壺、大型の甕などが発見されている。出土品の中には、従来まで波佐見最初の窯とされてきた畑ノ原窯跡のものよりも、さらに時代が遡る様々な特徴が見られ、下稗木場窯跡は町内最古の登窯であることが明らかになった。下稗木場窯跡が営まれていた年代は、製品や窯の特徴から1590-1610年代頃と考えられる。ほぼ400年前、波佐見窯業は下稗木場窯跡の陶器生産で幕を開けた。
 
磁器の誕生  
豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役(1592-1598)の後、参加した九州各地の大名達は多くの朝鮮李朝の陶工を日本へ連れ帰った。その陶工達によって、様々な新しい窯業技術が肥前へもたらされた。中でも磁器生産の技術は、肥前窯業界を大きく進展させることになった。以前、輸入にたよる他なかった磁器は、李朝陶工の力添えにより、初めて国内で、肥前で生産できるようになった。当時、波佐見の地は大村氏が領有していましたが、領主である大村喜前公も、多くの李朝陶工を連れ帰った。その一人である李祐慶によって、慶長4年(1599)に築かれたと言い伝えられている窯が、波佐見にある。それが村木地区に所在する畑ノ原窯跡である。出土した製品は、陶器(溝縁皿)を主体とするものの、僅かだが磁器も含まれ、陶器と磁器と同時に焼成していたことがわかった。畑ノ原窯跡は、波佐見における磁器の誕生、国内磁器生産開始期の様相を知る上で、非常に重要な窯と言える。畑ノ原窯跡出土品の様々な特徴から、李朝の陶工が深く係わっていたことは推測されるが「李祐慶」が実在したかどうかはわかっていない。操業年代は、これまでの研究成果から1610-1630年代頃と考えられ、言い伝えの慶長4年(1599)に開窯を求めることは難しくなった。しかし、畑ノ原窯跡は、そのすぐ側にある古皿屋窯跡・山似田窯跡と同じく、波佐見の地で最初に磁器焼成に成功した窯であることは間違いない。
 
青磁の時代  
寛永14年(1637)佐賀藩の有田・伊万里では、藩による窯場統合によって、陶器生産を主体とした窯が廃止され、以降は磁器の生産が主流となった。大村藩の所領であった波佐見もほぼ同様の動きをみせ、1630年代頃には本格的な磁器生産を開始した。1630-1650年代、有田の窯では、染付を多く生産し、また、色絵も焼き始めているが、波佐見の場合、青磁を中心に生産していた。当年代を代表する窯として、三股地区に所在する2基の窯、三股古窯跡、三股青磁窯跡があげられる。三股地区は、磁器の原料である陶石を豊富に埋蔵している地区で、畑ノ原窯跡などの陶工達が磁器の本格的な生産を始める為に、この地へ移動したと考えられている。平成9年(1997)三股青磁窯跡の発掘調査が行われ、大量の青磁が出土している。青磁の釉薬は、水色に近い透き通った色合いを基調とし、器の表面に、草花の模様を流れるように彫り出したものが多く見られる。また、牡丹や梅樹の形を貼り付けたシックな製品も作られていた。技術的に、肥前でトップレベルの青磁であったことは間違いない。また、この窯で生産されたと考えられる青磁は、滋賀県彦根城家老屋敷跡、東京都汐留遺跡龍野藩脇坂家屋敷跡、新潟県高田城跡、宮城県仙台城跡など、主に富裕な人々の住居跡から出土し、当時かなりの高級品であったと思われる。磁器生産が始まりたかだか20数年の後、今から約350年も昔に波佐見では非常に優れた青磁を生産していた。  
 
海外輸出の時代  
17世紀の中頃、中国では明朝から清朝へと政権が交代し、清朝の支配に反対する人々が各地で内乱を起こした。その結果、多くの窯が壊され、また他国との貿易を禁止し、やきものの輸出は完全に途絶えてしまった。それまで中国のやきものを世界中に運んでいたオランダ東インド会社などの貿易商人達は、その代わりに、力をつけつつあった肥前のやきものに目をつけた。このようにして肥前のやきものの海外輸出が始まった。17世紀後半代の肥前窯業界は、輸出品の増大によって、これまでにない活気をみせることになった。波佐見でも、海外からの注文が殺到し生産が追いつかなくなり、寛文年間(1661-1673)を中心に、次々と新たな窯が開かれてた。寛文6年(1666)大村藩は三股(現永尾地区)に皿山役所を設け、やきもの生産の直接的な管理を行うようになった。波佐見で焼かれた海外輸出品には、青磁の大皿と染付の大碗・鉢がある。青磁大皿は、主に、永尾地区の木場山窯跡で生産されていた。口径が30以上ある大きな皿で、内側には草花などの模様が華麗に彫り出されていた。代表的な染付には、雲竜荒磯文大碗・鉢がある。器の外側に雲と竜、内側には荒磯文と呼ばれる模様を描いたもので、肥前一帯で盛んに作られていた。これらの製品は、長崎出島を通じ、インドネシアなど主に東南アジア諸国へ大量に運ばれて行ったと考えられている。波佐見焼が荒波を越えて海外へ運ばれていた時代、海外輸出時代は、17世紀中頃から末頃まで、約40年間続いた。この時代、輸出景気の追い風にのり、大村藩の支援を受けることによって、波佐見は磁器の大生産地へと発展を遂げた。
 
「くらわんか」の時代  
17世紀の末頃に中国の内乱がおさまると、中国のやきものは再び世界中へ輸出されることになった。質・量ともに肥前のやきものを上回る中国のやきものは、海外の市場を急速に奪い返した。その結果、肥前窯業界は、輸出品から国内向けのやきもの生産へと方向転換することになった。それは、赤穂浪士の討ち入りがあった元禄年間(1688-1703)のことである。波佐見の窯も海外輸出品の生産をやめ、国内向けの磁器、とくに安い日用食器を生産するようになった。 
表題にある「くらわんか」とはいったい何なのか。江戸時代、大坂・京都間の重要な交通手段として、淀川を行き来する三十石船が利用されていた。この船に小舟で近づき「あん餅くらわんか、酒くらわんか」とかけ声をかけながら、酒や食い物を器に盛って売る商いが繁盛していた。小舟はそのかけ声から「くらわんか舟」、使われた器は「くらわんか茶碗」と呼ばれ、この器は、食べ飲みした後、淀川へポイと投げ捨てられていたそうである。その後、いつの頃にか、江戸時代の使い捨てされるぐらいの安い日用食器を総称して「くらわんか手」と呼ぶようになったと言われている。元禄の頃から幕末まで、波佐見では安い日用食器「くらわんか手」を大量に生産し続けた。後述する窯の数や大きさから考えれば、その生産量は全国一であったと考えられる。当時の波佐見は、まさに「くらわんか」の時代であった。平成3年(1991)に中尾地区の中尾上登窯跡の発掘調査が行われ、窯の部屋数33室程、全長160に及ぶ、世界最大規模の登窯であったことが判明した。この部屋数は、天保年間(1830-1843)頃にまとめられた「郷村記」の数値とほぼ一致をみる。郷村記によれば、天保年間頃、波佐見では全長100を越える巨大登窯が8基存在し、全体で年間48、446俵のやきものを生産していたことがわかる。1俵当たり何個のやきものが積められていたかは定かではないが、膨大な量であったことは間違いない。「くらわんか」の時代、波佐見では、碗・皿をはじめ、様々な種類の磁器が生産されていた。量産品のため丁寧なつくりではないが、素早い筆使いによって生き生きとした模様が描かれ、やや灰色がかった釉色やぼってりとした量感に素朴な温かみが感じとれる。これらのやきものは、三越浦(長崎県川棚町)や伊万里津(佐賀県伊万里市)から船で全国中へ運ばれ、当時の多くの人々に愛用されていた。全国の江戸時代の遺跡からほぼ確実に波佐見焼が出土することは、そのことを如実に示している。波佐見焼は、江戸時代のベストセラー商品だった。 
 
江戸時代の終わりから明治、大正時代にかけて、波佐見では海外輸出用の酒や醤油をいれる瓶が量産されていた。コンプラ瓶である。仲買を意味する「コンプラドール(Comprador)というポルトガル語に由来する長崎出島の商人/コンプラ仲間が取り扱っていたことから、そう呼ばれるようにな った。コンプラ瓶には「JAPANSCH ZAKY」(サキヤパンセソヤ)もしくは「JAPANSCH ZOYA」というオランダ語が書かれている。意味は、前者が「日本の酒」、後者が「日本の醤油」であり、出島からヨーロッパや東南アジア諸国へ向けて大量に積み出され。ロシアの文豪トルストイも一輪挿しとして愛用していたと伝えられている。「くらわんか」の時代の波佐見は、世界に類を見ない巨大な登窯を築き上げ、膨大な量の磁器を産み出していた。この大量生産によって、やきもの1個当たりの値段を下げ、それまで高価であった磁器を庶民が購入できる安い品物へと変えていったのである。磁器を庶民に広く普及させるのに大きな功績を残し、また、日本のやきもの文化へ多大な影響を与えたと言える。現在、私たちは普段なにげなく磁器の器を使っているが、その礎を築いたのは波佐見なのだ。

 
明治・大正時代  
明治3年(1870)、寛文6年(1666)から続いてきた皿山役所が閉鎖され、大村藩の支援がなくなると、巨大な登窯は生産を停止するか、または、分割され個人所有の小規模な窯へと転じた。明治時代の幕開けとともに、資本を失った波佐見窯業は存亡の危機を迎える。陶工達は新たな技術の開発・導入を積極的に行い、窯の火を絶やさぬよう努めた。明治35年陶磁器意匠伝習所を設立して優れた職人の育成を行い、明治38年に上波佐見村陶磁器信用組合を結成、業界の振興を図った。波佐見窯業は自活の道を歩みだし、再び、江戸時代の活気を取り戻した。明治時代の波佐見では、江戸時代に引き続き、日用食器を中心に生産していく。明治8年頃に「型紙刷り」(カッパ刷り)明治24年頃には「銅版転写」が採り入れられ、湯呑みや碗に緻密な模様が刷られるようになる。この時代、最も盛んに生産されていたのは、徳利である。明治17年の記録では、波佐見全体で年間10万1376本の徳利が生産された。明治中頃の最盛期には年間35万本も作られ、全国へ運ばれた。明治20年頃から、朝鮮半島への輸出用壺が作られ始めたと言われている。大正7年長崎県東彼杵郡陶磁器株式会社の設立によって、窯業界の土台は安定したものとなり、大正時代の末期には「鋳こみ」「石膏型」「機械ロクロ」の導入で、多彩な製品が量産されるようになった。大正14年に、石炭窯が波佐見で初めて中尾地区に築かれ、以降、それまでの登窯にかわり、生産の主役となっていく。明治から大正時代の波佐見窯業は、職人、企業人をはじめ、多くの人々の努力によって好不況の波をのりこえ、近代的な産業へとたくましく成長していった 。

 
昭和時代  
昭和初頭の大不況をのりきった波佐見窯業は、その後ただちに活発な動きを見せる。石炭窯が次々と築かれ、窯元は山間部から平野部へ進出した。昭和5年には、長崎県窯業指導所が開設され、新しい窯業技術の研究や指導が行われるようになった。窯業界も昭和9年波佐見陶磁器工業組合を設立、その拠点を作り上げた。昭和のはじめ頃、波佐見では洋食器や酒樽などが盛んに作られていた。昭和12年日本は日中戦争を引き起こた。国内も次第に戦時体制に組み込まれ、窯業界は様々な統制を受けた。昭和15年やきもの価格の制限、またやきものに記されていた窯元の名前は消され、番号化された。昭和16年太平洋戦争が勃発、日本はさらなる泥沼へ進んでいく。多くの職人は戦場へとられ、また、燃料の制約や減産令によって、波佐見窯業の苦難の時代は続く。戦局が悪化し物資が乏しくなると、水筒や手榴弾までもやきもので作られた。昭和20年8月15日、日本は戦争に敗れ、再び平和な時代が訪れる。波佐見窯業はいち早く再建にのりだし、昭和30年代の神武景気を足がかりとし、以降、日本経済の急速な成長による購買力の高まりに支えられ、さらに、道路整備による流通網の発達、窯業技術の進歩・近代化が要因となって、波佐見窯業はこれまでにない飛躍的な発展をとげていく。戦後の波佐見は、国民の多様なニーズに応えるように、様々な日用食器を生産した。先へ先へと進む波佐見焼だったが、同時に歴史や伝統をふりかえる気運も高まりをみせ、昭和43年波佐見焼創業370年祭が行われ、陶祖李祐慶の顕彰碑が建立され、波佐見の地に窯業を伝えた大恩人として奉られることになった。昭和54年波佐見町内古窯跡群の分布調査、中尾下登窯跡の発掘調査、そして、昭和56年には畑ノ原窯跡の発掘調査が行われ、考古学による窯業史の解明もスタートした。昭和53年波佐見焼は、通産省によって「伝統的工芸品」に指定された。この指定により江戸時代以来の伝統が保護されるとともに、「波佐見焼」の名前も知名度を上げていくことになった。
 
現代  
平成4年「長崎県窯業試験場」は新設移転し「長崎県窯業技術センター」として生まれ変わった。新たな設備によって、窯業技術の研究・指導はさらに充実したものとなっている。同年、地元の波佐見高校に、やきものを通した教育、後継者育成の場である「陶心館」が完成。平成5年畑ノ原窯跡の復元・保存工事が竣工、復元登窯に火が入れられ、約400年の時を越えた陶工達の交流が行われた。波佐見町施行40周年を迎えた平成8年中尾地区が「陶芸の里」として整備され、江戸時代から続く窯場に一層の魅力が加わった。 
波佐見焼の国内シェアは13%を占め、茶碗、湯呑みなどの日用食器をはじめ「ニュー・セラミックス」「給食用食器」など、様々なやきものが生み出されている。近年の「平成不況」により、やきものの生産高、販売額はともに落ち込みを見せているが、波佐見窯業は、その潜在的に高い生産力、技術力を保ちながら、今後のさらなる発展へ向け日々努めている。波佐見焼の400年に及ぶ長い歴史は、職人達の卓越した技術によって支えられてきた。その技術を今に受け継ぐ「伝統工芸士」「技能士」は、現在、波佐見町に58人を数える。「現代の名工」は4人、平成9年田澤大助氏が、波佐見で初めて「長崎県無形文化財」の指定を受けている。

 

佐世保市と三川内焼  
佐世保市は、長崎県北部に位置し、県庁所在地の長崎市からは車で約1時間半の場所にあり、市の東部は佐賀県に接しています。周囲は国見山、烏帽子岳、弓張岳など200-700m級の山々に囲まれ、平坦部は少なく、西部から南部の海岸線は、複雑なリアス式海岸を形成している。この地形を生かし、良好な港として「佐世保港」が形成された。西側の沿海には、多くの島々からなる「九十九島」がある。海と山の変化に富む自然景観のある町である。市の産業構造としては、かつては、造船業を中心とする第2次産業が市の基幹産業として盛んだったが、オイルショックや造船不況のあおりを受け、往時の勢いは薄れつつある。現在では小売・サービス業を中心とする第3次産業が中心で商業都市的な色彩の濃い。観光施設としては、滞在型リゾート施設である「ハウステンボス」や西海国立公園「九十九島」などが有名である。 
三川内の窯業は、今から約400年前に平戸藩の御用窯として成立した。主に天皇家や将軍家、大名家といった権力者への献上品の製造が主な仕事とされていた。そのため、有田焼や波佐見焼のように産業としての色彩は薄く、繊細優美な絵付けや、精巧緻密な細工物に代表される技術の洗練化が使命となっていた。明治時代になって、そうした素晴らしい製品がヨーロッパに向けて数多く輸出され、世界各地の美術館において「古平戸」と称して所蔵されている。現在も、そうした技術を受け継ぐ窯元達の製品は目を見張るものが多く、たくさんの愛好家に利用されている。三川内焼は、肥前地区の焼き物産地の中でもとりわけ小さな産地である。そのため認知度も高くはなく、肥前地区の焼き物の総称としても利用されることもある有田焼の名称を使って市場に出回ることが多かったようだ。また、有田焼、波佐見焼、三川内焼と陶磁器産地が隣り合わせにある地理的な特性もあり、なかなかその区分は難しいものがある。「唐子絵」に代表される呉須による絵付けや「透かし彫り」に代表される細工物、そして「卵殻手」とも言われる薄作りという他産地では決して真似ができない三川内焼の素晴らしさだ。
 
三川内焼は陶器に始まる  
戦国末期の天正18年(1590)に豊臣秀吉は九州に次いで東北を平定し、天下を統一しました。諸大名を指揮下に治めた秀吉は、文禄元年(1592)には唐入りと称して大陸へ侵攻した、朝鮮の役である。秀吉の天下統一から朝鮮出兵という武家社会の再編成の時期、焼き物の画期でもあった。文禄2年朝鮮に在陣していた唐津岸岳城主の波多三河守は秀吉の勘気を受けて改易、転封されている。このとき、波多氏の保護にあって朝鮮系陶器を焼いていた岸岳諸窯の陶工も離散する事件となった、世に言う「岸岳崩れ」である。離散した陶工は肥前各地で窯を開き、陶器を焼き始める。これらの窯は伊万里椎の峰、西有田、有田、波佐見でほぼ一斉に始まり、佐世保地方でも三川内の木原葭の本窯や柳の本窯、新行江の牛石窯が開かれた。佐世保地方で初めての窯業が起り、陶器として始った。これらの窯では唐津系陶器が焼かれた。葭の本窯でも、木灰を釉薬とした陶器の皿、茶碗、鉢、そして片口やすり鉢などの雑器を主体としながら、わずかに茶器も造っていた。慶長3年(1598)秀吉死去、それを契機に諸大名は朝鮮から撤退した。その際、多くの朝鮮の技術者を連れ帰った。自国の殖産興業のためであった。朝鮮は高麗時代より焼き物の先進地で、日本国内で白い磁器はまだ焼く技術がなく、もっぱら輸入にたよっていた時期であり、西国の諸大名は新しい時代の焼き物の到来を見越して、陶工も加えたのである。平戸の松浦鎮信が連れ帰ったのは、釜山に近い熊川の巨関や高麗媼である。平戸に来た朝鮮陶工は平戸島の中野に窯を開いた。中野窯は陶器ではなく磁器を焼き、1630年頃まで三川内では依然として陶器が焼かれていた。朝鮮の役は膨大な人命と財産を消耗しましたが、一方では新しい焼き物文化を定着させることにもなった。秀吉の天下統一から朝鮮の役は、三川内を含む肥前さらには日本の焼き物の画期を演出した。
 
陶器から磁器への転換  
肥前磁器の発祥地は有田です。朝鮮陶工の李三平により、1610年頃には有田天狗谷で磁器の生産が始まっていました。一方の三川内では依然として陶器が焼かれていましたが、時代の流れは磁器に有利でした。それは、食器として土物の陶器は、清潔感あふれる白い磁器とは勝負にならなかったのです。1630年頃に始まる窯のなかで、最初は陶器を焼き、後半になって磁器に転換する窯があります。木原地蔵平窯と三川内長葉山窯です。これらの窯では、有田が磁器で隆盛を迎えるなかで、技術革新を求め、1640年頃にようやく磁器に転換できました。有田より30年近く遅れるのは、技術の秘匿により有田から情報が出なかったこと、さらに自前で原料となる白磁鉱を確保できなかったことにあります。巨関の子の今村三之丞が、寛永10年(1633)に針尾三ツ岳で網代石と称する白磁鉱を発見し、さらに寛永14年(1637)に佐賀藩が朝鮮陶工保護のため、有田の日本人陶工を追放する事件が起こります。結果として、その技術が三川内に入り、原料も確保できていたことから、1640年前後に三川内では磁器に転換できました。
 
民窯と藩(官)窯  
松浦鎮信は朝鮮陶工に磁器を焼かせるため、最初は平戸島中野に窯を開かせ、三川内で陶器から磁器に転換する時期に合わせ、今村三之丞を平戸藩御用窯棟梁に任じ、長葉山窯に最初の藩窯を置いた。御用窯が軌道に乗り出す慶安3年(1650)に中野の陶工の三川内移転はほぼ終了した。最初の御用窯となった長葉山窯は、巨関と一緒に来日した高麗媼(日本名中里エイ)が元和8年(1622)が開いた窯である。三之丞は同じ朝鮮陶工というよしみを通じて長葉山に藩窯を置いた。陶器から磁器に転換が終わり、御用窯として十分に機能できる技術や環境が整備されていたことも大きいことである。最初の御用窯は民窯と同居する形となったが、寛文7年(1677)三之丞の子、つまり第2代の棟梁となる弥治兵衛は三川内皿山に新たに細工所を新築して移転する。新たに御用窯となったのは三川内東窯である。この窯も、民窯の寄り合い(共同窯)で一部分を藩窯とした。三川内では、伝統的に民窯を間借りする形となったが、実は窯の運営は藩が行い、民窯の各窯元は藩窯を使わせてもらっていたのが真相のようだ。藩窯は17世紀後半は三川内東窯、18世紀になると三川内西窯に固定され、明治を迎えるまで三川内から移転することはなかった。藩は三川内地区の三川内、江永、木原を三皿山に定め、江永、木原に番所を配置し、三川内には代官所を置いて窯業全体の管理を行っていた。民窯では専ら日用雑器が焼かれ、主に関西方面へ供給されていた。御用窯では、藩直営ということもあり、採算を度外視して高級品が焼かれた。藩が使用する食器や調度品、家臣への下賜品、他藩への贈答、そして朝廷や幕府への献上品へとランクごとに、さらに精巧さは上がっている。有田では、民窯でも赤絵に代表される柿右衛門のように高級品が造られたが、三川内の民窯では日用雑器の生産に終始した。藩窯の超高級品と民窯の低価な雑器生産という、2極構造は根本的に有田とは異なっている。

 
輸出と大量生産の時代  
17世紀後半の民窯では、一時期海外への輸出品製造で沸い。この時期は、中国が明から清へ政権が移る混乱期にあたり、海外への陶磁器の輸出が止まった。そこで、東南アジアやヨーロッパ向けの陶磁器貿易品を扱っていた中国商人やオランダ東インド会社は、日本にそれらの製造を求めてきた。その窓口は有田であり、積み出した港から伊万里と呼ばれる所以となった。それらが製造された時期から初期伊万里、古伊万里、伊万里と区分されるが、輸出の盛期は17世紀後半から18世紀中頃の古伊万里の時代である。輸出品のなかで、特に低廉な焼き物として大ぶりな「雲龍文碗」がある。これは主に東南アジア向けの一般庶民が使う普及品で、有田では製造が追いつかず周辺の三川内、波佐見、嬉野そして遠く天草でも一斉に生産が始まった。三川内では、木原山の地蔵平窯、江永山では江永古窯、そして三川内皿山では長葉山窯、三川内東窯で焼かれた。この東南アジア向け輸出品は、有田主導において周辺諸窯が下請けとなった。有田でも造られていたが、ヨーロッパ向け輸出品や国内向け高級品は有田の独占品だった。利幅の大きい製品は有田で造られ、利幅が小さい物は周辺下請けに出された。この有田主導の焼き物の流れは、やはり李三平などの朝鮮陶工により、肥前でいち早く磁器の生産に入ったことによる技術の熟度と、その販路開拓は他地域より先行し、窯業全体の成熟度は周辺窯業地域と比較すると格段に先進地であったことによる。その輸出景気も中国の政権が安定する元禄期(1690年前後)、中国からの輸出が再開され、生産は頭打ちになった。有田からの斡旋による注文がなくなった。そこで、三川内の諸窯では国内向けへの磁器の生産に転換せざるを得なくなった。17世紀の末から18世紀の初め、「雲龍文碗」を焼いていた窯は、代わって「刷毛目」の碗と皿を焼き、その後はさらに低廉な粗磁の生産に入る。これは波佐見で「くらわんか茶碗」と呼ばれる磁器の一種で、陶器の生地に白土で化粧をして見かけは白磁とした低コスト品で陶胎染付けと呼ばれた。さらには、コンニャク印判で模様を付けた「くらわんか茶碗」も造られるようになる。18世紀の三川内焼は、波佐見の生産圏に取り込まれた。御用窯では、精緻で独特な焼き物を造り、他の追従を許さない程の技術をもちながら、民窯では有田や波佐見の周辺諸窯に甘んじたのである。

 
長崎と三川内  
19世紀になり、幕末期の三川内焼は、民窯においては関西向けの酒器が造られるようになった。それまでの厚手のものとは異なり、薄手で生地も精選され、染付けも精巧となった。幕末期の京大阪は政局の中心地でもあったことに関係するのかもしれない。絵のなかには黒船が描かれたものもあって時代相を表している。御用窯の代表作品でもある唐子絵の碗や皿は、藩窯の後期に製造が始まるが、民窯においても酒器などの高級品が造られるようになるなど、官と民の技術の差がなくなり、また藩窯の独占品であるべき唐子絵も民窯で焼かれるようになった。「紅皿」も大量に造られた。これは杯状の形状をなし、外周に「大坂新町お笹紅」のロゴが入っている、一種の商品名であり、大阪で最も繁栄した新町という遊郭街に店を構えていた「お笹紅」の商鋪が紅の容器として注文したものだ。1804年(文化元年)に平戸藩は長崎に平戸焼物産会所を設置して輸出品の生産にも入った。代々御用窯の棟梁を務めた今村家屋敷跡(伝代官所跡)の発掘では、幕末期の地層から上絵付けの前の白磁生地のコーヒー碗と皿が出土した。上絵付けする直前の焼きで火割れとゆがみが生じたために廃棄されたもので、御用窯では、この頃では海外向け輸出赤絵のコーヒー碗皿を造っていたようだ。大英博物館のコレクションにも同一品がある。この時期は藩財政の逼迫もあり、利益が見込める輸出品の生産に御用窯は転換していた可能性が高いと思われる。松浦家は1871年(明治4年)に平戸焼物産会所の一切の業務を、古川運吉に譲り、官営から民営となり商鋪名を満宝山枝栄となった。御用窯もこの時点で解体され、御細工人の一部は満宝山枝栄に残り、他は窯元となり、あるいは雇われて職人となった。
 
明治から今日の三川内焼  
満宝山枝栄は、明治7年には古川運吉から豊島政治に譲られ、製造と販売を行ったが間もなく解散した。窯跡は三川内東窯の東の山林にある。窯室は数室の小窯であり、付近にはコーヒー碗皿を焼いたときのハマが散乱している。コーヒー碗皿は、多くは赤絵である。17世紀後半の御用窯でも赤絵は一時期造られたが、その後は幕末まで赤絵は造られていない。コーヒー碗皿は輸出品として満宝山以外でも「三川内今村造」などの銘で製造され、明治の前半期は多くの窯元で扱っていた。御用窯時代に造られた白磁、細工物、献上唐子、秋草文染付けの技術を継承する形として、御用窯時代の細工人が窯元になり、あるいは各窯元で雇われた元細工人の作品が造られるようになった。豊島政治は、1899年(明治32年)に陶磁器意匠伝習所を三川内山に設立した。御用窯時代の技術の後継者養成の役割があった。また、今村豊寿は、平戸藩時代の御用絵師の田中南文を呼んで、中国南画を陶画に取り入れるよう、絵画塾を開いており、伝統と平行して新しい意匠を取り入れる努力もした。

 

波佐見焼・三川内焼のできるまで 
陶磁器の種類と特徴  
やきものの始まりは、人類が火を発見し、焼けた土が固まることを知ったときといわれる。日本における「縄文土器」と呼ばれるやきものは、紀元前1万年以前に誕生し、貯蔵・煮炊き・祭祀用としてさかんに用いられていた。これらは窯を用いず「野焼」という方法で焼かれていたが、次第に窯が用いられ、その進歩とともに、材料や釉薬、成形など技術の発展もあり、多種多様なやきもの(陶磁器)を生み出してきた。  
土器 
土器は一般的に低温(900℃前後)で酸化焼成され、素地中の鉄分によって赤茶色になったものが多く見られる。また無釉がほとんどであり、多孔質で吸水性は大で、不透光性である。叩くと濁音を発す。人類のもっとも原初的な発明で、世界各地におけるやきもののスタートに位置付けることができる。日本では縄文、弥生土器、埴輪がこれに当たり、現代でも植木鉢などとして用いられている。  
陶器 
陶器の種類は大変多くあり、釉薬が掛かっているのが一般的で、多少の差はあるが、吸水性があって不透光性である。叩くと土器より高めに焼成しているため、やや高い音のものが多いようである。 
粗陶器 / 山や田圃等の有色粘土を主原料とし、地方の民芸品や陶芸作品に多く見かけられる。楽焼き等の低火度(800-900℃)から食器や花瓶等のように比較的高温(1250℃程度)のものまで幅が広く、その呈色も温度や雰囲気(酸化、還元)によって淡色-黄褐色-褐色-黒褐色と色の範囲も大変幅広い 。  
精陶器 / 長石質や石灰質の陶器で白又は淡色を呈し、吸水率が数%しかないように焼かれた硬質陶器から、多孔質で吸水性の大きいものまである。大物では衛生陶器がこれに当たる。 
b器 
色は陶器と同じ有色で、緻密で硬く焼き締まり、吸水性が無くな不透光性である。叩くと磁器に近い響きを持った音を発す。素地は、天然原料をそのまま用いたもの(粗b器)や、水簸して微粒にし調整したもの(精b器)がある。通常施釉されたものが多く、ストーンウェアと呼ばれるもの、陶管、産地では備前焼等がこれにあたる。 
磁器  
緻密で硬く白色で、叩くと金属的な高い響きを持った精音を発す。吸水性はなく、基本的に透光性である。これは発色の中心となる酸化鉄の混入を極力抑え、焼成によって素地が熔化するからである。一般的には還元によって焼成され、素地中の酸化鉄が還元(酸化第1鉄)されて、より白さを際立たせる。酸化焼成されることもあるが、この場合は素地中に酸化鉄として残りアイボリーとなる。 
軟磁器 / 焼成は1250℃-1300℃で行われ、長石22-28%、粘土質物30-37%、石英25-40%からなる。波佐見・三川内をはじめ肥前地区は広くこれにあたり、主に陶石だてといって陶石を砕いて微粉砕-水簸して作る。一方海外や日本の中部地域ではこれらを配合によって作るのが一般的のようだ。  
硬磁器 / 焼成は1400℃前後で行われ、長石22-28%、粘土質物45-55%、石英22-28%からなる。粘土質物が多くて耐火度が高く、高温焼成となるが、緻密で硬く、高級な磁器や科学磁器類に多く見られる。日本では大倉陶苑、ヨーロッパではマイセン磁器等がこれに当たる。  
特殊磁器 / 特殊という意味は、電気的特性、耐熱、耐火、強度等ある目的によって調配合され、結晶化等によってその目的を果たすものと言える。例えばアルミナ磁器は強さが要求される学校や病院等の給食食器やホテル等の食器に、ペタライト磁器は熱衝撃に強い土鍋等に用いられる。この他、ステアタイト磁器、ムライト磁器など電気用、化学用磁器として新しく作られている。
 
陶磁器の製造工程  
原料 
磁器原料の「陶石」は、石英粗面岩や流紋岩などに含まれる長石が熱水変質作用を受けて、粘土鉱物に変わった白色緻密な岩石を「陶石」という。天草陶石など良質な陶石の主構成鉱物は、石英、セリサイト、カオリナイトである。着色不純物(Fe2O3:TiO2)が少なく、磁器原料としてそのまま用いることができる。  
陶石の種類 
陶石の産地は、熊本県の天草・波佐見の三股・三川内の網代・有田の泉山・石川県の服部・愛媛県の砥部・兵庫県の出石などがある。中でも品質、埋蔵量とも日本一の陶石は天草で、波佐見焼、三川内焼、有田焼はじめ、各地の陶磁器の原料として用いられている。 
三股陶石 / 波佐見の三股陶石には「強石」と「弱石」がある。可塑性と耐火度が高い陶石の強石は陶土に使用され、可塑性と耐火度が低い陶石の弱石は釉薬原料として使用されている。 
網代(三岳)陶石 / 佐世保市針尾にあり、寛永10年(1633)に発見され、長い間三川内焼を支えた原料である。高級白磁の釉薬原料として木灰と共に用いられた他、天草陶石と配合して薄手の製品を作る陶土の原料としても用いられた。 
天草陶石 / 天草陶石には海岸脈と皿山脈がある。海岸脈陶石は鋳込み成形に適し、皿山脈陶石はロクロ成形に適し、用途により両陶石をブレンドして用いる。 
磁器の原料(陶石)の枯渇 / 肥前地区の主原料の天草陶石は、約400年間使用され良質の原料は少なくなっている。陶石だけでなぜ磁器製品ができるか / 陶石には石英(乾燥・焼成収縮を小さくする)、セリサイト(可塑性があり、長石と同様ガラス化により焼結する)、粘土(可塑性があり、焼成腰を強くする)がバランス良く自然に配合されているためである。 
製法 
天草陶石は一般に露天掘だが、一部坑道掘でも採掘されている。採掘した陶石は等級別に選別され、製土工場へ運ばれ陶土に加工される。 
粉砕(陶石を砕いて粉末にする) / ジョークラッシャーで粗粉砕された数種類の陶石を鋳込み用とロクロ用に配合して、スタンプミルでさらに微粉砕する。  
水簸(水に溶かして粒子を整える) / スタンプミルで粉砕した陶石粉と水を撹拌槽に入れて分散させ、数以上の砂状を分離した縣濁液を水簸槽へ流し、沈殿した0.05(50)以上の粒子を除去(珪石粒)、遊離している粒子を沈殿タンクへ集める。沈殿タンクで数日放置すると粒子は沈殿し、上澄み液(水)を取り除いて濃縮する。 
徐鉄(鉄分を除去) / 原料や粉砕工程で混入した磁性体(鉄など)を除去するため、強力な磁場(磁石)の中へ縣濁液を流し、磁性体を取り除く。 
脱水(圧力をかけて水分を絞る) / 縣濁液の脱水には、フィルタプレスが最も広く用いられている。濃縮した縣濁液をフィルタープレス機へ圧送し、プレスケーキの水分を20-25%になるよう縣濁液の圧力と時間で調整し脱水する。  
土練り(土のかたさを均一にする) / 脱水したプレスケーキを粗く切断して、土練機に投入し混練しながら真空室に導いて脱気し、その後、オーガー(スクリュー)で棒状として押し出す、これで陶土(坏土)のできあがる。 
陶土粒度の調製 / 水中における沈殿速度と沈殿時間は、原料の比重、粒子の大きさ、水温等により沈降速度が異なるため、水流を調整し粒度を調整する。陶石中の有色不純物である酸化鉄の量が少ない順に「特上」「選上」「選中」「選下」の等級に選別される。
 
石膏 
石膏の利用は古く、エジプトの古代文明に始まり、建築材料や、またピラミッドなどにおいて石材の接着剤に使用され、今日まで数千年の長い間様々な場面で活用されてきた。現在石膏が使用される分野は、焼石膏の分野だけでも、陶磁器用、歯科用、外科用、工業模型用、金属鋳型用、チョーク、美術模型、塗料用、模型用などあらゆる分野で利用されている。このように石膏が利用される理由は、取り扱いが比較的簡単/短時間で固化し複製が容易/固化した型の強度が適当で加工性も良い/人体に影響が少ないなどが挙げられる。石膏型の作成は、原型・捨型・ケース・使用型の順につくる。 
原型 / 石膏型を作る場合、まず製品の寸法に一定の割掛けをして製品の型(元型)を作り、これを原型という。 
捨型 / 原型を元にケース(型子)を作るための型を作る。「使用型」と基本的に同じだが、ケースを作った後は使用できないので「捨型」と呼ばれている。 
ケース(型子) / 使用型を数多く作るため、捨型を元にしてケース(型子)を作る。製品を量産する場合には、このケースが必要となる。 
使用型 / ケースに石膏を流し込んで作る。使用型とは実際に粘土や泥漿を用いて直接成形をするための石膏型である。 
石膏型の必要性 / 石膏を顕微鏡で見ると微細な穴が開いている。これこそが石膏を用いる大きな理由である。陶土は石膏で成形すると、陶土に含まれる水が石膏の微細な穴に吸収されて、生地ができる。そして一定時間後に生地は収縮し、型から外すことができる。使用型の使用回数 / 石膏型の石膏が陶土や泥漿の水分により微量溶けだしたり、型の吸水率低下のため、成形のための使用回数には限界がある。鋳込み成形では、目安として80回-100回程度で、型にレリーフ等がある場合使用回数は少なくなる。
 
粘土 
粘土の可塑性(成形性)を応用して、指先やヘラなどで形を作る成形法。型やロクロ成形などのように同じ形を大量に作ることは困難だが、作者の個性を出しやすい手工による成形法である。特に熟練を必要としない人でも容易に取り組める。この成形法で用いる粘土は、耳たぶくらいの柔らかさが適当で、土の中の空気を除き、土を均質にすることが大切である。  
手捻り(てびねり) / 板または紙や布を敷いた上に陶土の塊を置き、手や指で押す・捻る・摘むなどの動作を加えながら徐々に形づくる方法。 
紐づくり / 板または机上ロクロに紙や布を敷き、紐状の撚り土を渦巻状に巻上げながら茶碗やコップなどを指で形づくる方法。 
板づくり(たたらづくり) / 練り土を板状にして、曲げたり付け合わせたりして皿や鉢などを成形する方法。 
型起こし(押し型) / 型に陶土(坏土)を押し込んで成形する方法。装身具などを簡単に、また同じ形状の製品を沢山作ることができる。 
土錬りが不十分だとどんな欠点がでるか / 土の中に空気が取り除かれないと、本焼成後に丸く盛上がるように膨れたり穴が開いたりする。手作り製品を乾燥させるとよく割れるのはなぜか / 成形において製品の内厚が不均一であったり、手作り(押す・捻る・摘むなどの動作)成形での生地の接着不良などにより乾燥後の割れにつながると考えられる。江戸時代に作られた角皿や変形の皿、鉢等はどのような方法で作られたか / 多くは「型打ち」と呼ばれる方法で作られた。まず、皿や鉢等の内側(見込み)部分の形を木型や土型(素焼型)で作る。皿や鉢をロクロ成形したものを柔らかいうちに型に被せ、丹念にたたきながら型に密着(変形)させて作る。
 
ロクロ成形 
ロクロ成形は、坏土をロクロの中心に据えて回し、その遠心力を利用して形を作る方法。回転体による形状の皿、ボウル、コップ、壷などを成形するために適した方法である。 
手ロクロ、蹴ロクロ、電動ロクロ / 坏土をロクロの中心部に据え回転させながら指やヘラを使って形づくる「手作り」による方法。成形品は、糸で切り離し、半乾きになったら削り仕上げをする。手で回す手ロクロ、足で回す蹴ロクロ、電気モーターで回す電動ロクロなどがあり、現在は電動ロクロが主流になっている。 
機械ロクロ / 電気モーターで回転させた台に石膏型をセットし、型の中に坏土を押込み、鏝を上部から押えながら形づくる方法。一定時間放置してから型から成形品を外し、縁や高台の削り仕上げをする。同一形状の製品を大量に作ることができる。 
ローラーマシン / 電気モーターで回転させた台に石膏型をセットし、型に坏土を載せて、加熱・回転している鏝を上部から押え込みながら形づくる方法。機械ロクロよりさらに寸法精度が高く、大量生産に適した自動成形機である。 
波佐見・三川内で生産される皿やボウルなどの陶磁器製品の成形は、どのような成形法で行われているか / 波佐見・三川内の生地製造業においての皿やボウルなどの成形方法は、同一形状で大量生産が可能な機械ロクロやローラーマシンなどで行われている。手ロクロ、蹴ロクロ、電動ロクロなどに比べ、石膏型を用いていること、機械装置であることなどから量産に優れている成形法である。やきもの(製品)を見ただけで、手ロクロと機械ロクロの違いを見分ける方法があるか / 見ただけでは正直なところ見分けるのは困難。強いて言えば、量産ものか少量か、形状や厚みが同じか微妙に違うか、価格が高いか安いか、作者が明確か、等で区別するほかないようだ。
 
鋳込み成形 
鋳込み成形法には、排泥鋳込み成形(袋流し)と圧力鋳込みがある。排泥鋳込みは、花瓶、急須、土瓶などの袋状の形状を成形するのに適し、中空形状の石膏型(使用型)に泥漿(ドロドロにした素地土)を流し込んで成形する。圧力鋳込み成形法は、皿や鉢などの変形ものを成形するのに適し、予め二重型にした石膏型(使用型)に素地土を圧力を加えて注入し成形する。 
排泥鋳込み成形 / 石膏型に泥漿(ドロドロの状態にした土)を流し込み、一定時間経過すると素地中の水分が石膏型から吸収され、型面部分から徐々に固まる。必要な厚みの層になったら余分な泥漿を型から排出する。しばらく型を放置した後、型から成形品を取り出す。急須や土瓶などの注口や把手や茶漉しなどについては、予め同じ成形法で成形しておき、泥漿を接着剤として本体に接合し組み立てる。 
圧力鋳込み / 二重型にした石膏型にやや固めの泥漿を圧力を加えながら注入し成形する。一定時間注入した後、型から成形品を取り出す。大量に成形するためには、複数の型を積み重ねて一度に鋳込む。 
鋳込み土(泥漿)はどういう方法でつくるのですか / 鋳込み成形を行うには、できるだけ水分を少なくして流れやすい泥漿にする必要がある。そのために素地土に水を加え(約29%)水ガラスや炭酸ソーダなどの解膠剤(分散剤)を徐々に加えて(2/1000%)撹拌する。鋳込み成形法で作った製品の特徴 / 排泥鋳込みの製品は、成形品の肉厚が一定になり、高台内側が凹むなどの特徴がある。圧力鋳込みの製品では、成形品(製品の表側)に鋳込み痕が残るなどの特徴がある。袋流し成形法(排泥鋳込み)は、波佐見地区が得意とする成形法で、伝統的工芸品産業に指定された全国の陶磁器産地の中で唯一部門として認定されている。
 
素焼 
充分乾燥した生地を800-950℃程度の温度で焼成することを素焼という。素焼は、素地の強度を増し、加飾や施釉など取扱い中の破損を避けるために行う。素焼により素地は吸水性を増すため、絵付や施釉の操作が容易になる。 
成形品(生地)の乾燥 / 生地は天日やプロクター乾燥機(乾燥室内に温風を循環させ、生地を移動させながら乾燥)などにより均一に乾燥を行う。 
窯詰め / 生地が充分に乾燥した後、窯詰めをする。素焼では重ね積みが一般的だが、重ねることによって中まで熱が回りにくい状態になったり、重量によって生地が破損しないように注意が必要 。 
焼成 / 天草磁器の場合、焼成温度は900-950℃程度で電気炉やガス炉によって行う。焼成初期段階で窯の天窓を開放して湿気を逃がすことが必要となる。 
掃除 / 素焼が終了した素地は、羽根箒やエアーコンプレッサーなどを使って、成形仕上表面の付着物を取り除いた後、検品を行う。 
生地の乾燥での注意点 / 陶土は乾燥とともに収縮しますが乾燥が不均一な場合、収縮差が歪みとなって変形や割れが生じる。特に厚味のある生地の場合、表面と内部との乾燥の不均一により割れが生じやすくなるため徐々に乾燥させることが必要である。素焼の温度が高かったり低かったりすると / 素焼素地は、温度が低く焼き不足の場合、施釉時に釉はげや素地の割れが生じる。高過ぎる場合は、吸水性が低下し絵具や釉薬の付着が悪くなる。
 
下絵付 
一般的に、素焼した素地に絵具で描画することを下絵付という。下絵付の後、釉薬(透明釉)を施し本焼きをすることにより釉薬が溶けて絵具が発色する。釉薬の下に絵があるため下絵と呼ぶ。 
伝統的な技法 / 筆を使った下絵付には、模様を線画で表現する線(骨)描き、線描きした輪郭の中や広い面に絵具を染みこませる濃み(ダミ)、筆勢を利用して一気に絵を描く付立てなどの技法がある。筆を使った技法の外に、絵具を吹き付ける吹墨や吹き掛け、和紙に絵具を染みこませて行う和紙染め、蝋やゴム液などにより白抜きの模様を描く方法など様々な技法がある。 
印刷による方法 / 銅版転写やスクリーン印刷、パッド印刷など量産を前提とした方法である。銅版転写は、エッチングを施した銅板に絵具を刷り込み、和紙に写し取って素地に転写する。スクリーン印刷は版の紗目をとおして絵具を素地に写す方法で、素地に直接印刷する場合と紙に印刷したものを転写する方法がある。パッド印刷は版上の絵具をシリコンで写し取り素地に転移する。 
絵具の種類 / 下絵具は一般的に呉須(ゴス)と呼ばれている。呉須には、自然に産出する天然呉須と科学的に合成する合成呉須があり、天然呉須は入手し難いため現在では合成呉須が使われている。合成呉須は着色材のコバルトやマンガン、鉄などの酸化物とカオリンなどを調合して作られる。 
下絵付で赤や黄などのカラフルな色は出せるのですか / 下絵具としては、赤、ピンク、オレンジ、グリーン、黄、紫などたくさんの色があるが、1300℃前後という高い温度で焼成するため上絵のような鮮やかな発色はしない。やきものの絵具はなぜ高温でも燃えて無くならないか / 絵具は耐火度が高く、また高温で釉薬と反応して発色するコバルト、クロム、鉄などの酸化物で作られているからである。下絵付製品の特徴 / 下絵は釉薬の下に絵具があるため、上絵とは異なり耐久性がある。そのため、酸による色落ちや引っか掻きによる傷が付かない。
 
釉薬 
釉薬は、色彩や肌合いといった装飾性ばかりでなく、汚れや水漏れ防止といった機能性を付加するために施される。焼成により釉薬と素地が溶け合った中間層ができることにより製品の強度を高める。施釉する素地は、手の脂が付かないようにして付着したほこりや汚れを取り除く。この時、下絵付をしたものは絵具部分に触れないように注意する。施釉方法には、製品を釉薬の中に浸ける浸し掛けや柄杓などにより製品に釉薬を施す流し掛け、スプレーガンにより釉薬を吹き付ける吹き掛け、刷毛や筆などで釉薬を塗り付ける塗り掛け等がある。特殊なものを除いては、浸し掛けや流し掛けがよく用いられ、焼成後の釉面も平滑で自然に仕上がる。吹き掛けは、釉薬を霧状にして素焼き面に付着させるが、1回の吹き掛けでは充分な厚味が得られないため数回の吹き掛けが必要である。また、浸し掛けや流し掛けとは異なり焼成後は細かい凹凸のある釉面になる。塗り掛けも焼成後は刷毛目の凹凸がある釉面になる。他にも、製品の内外や部分的に異なる釉薬を施釉する掛け分という方法もある。いずれも施釉後は高台部分の釉薬を剥ぎ取って水拭きし、乾燥後本焼成を行う。 
高台の底に釉薬がかかってないのは何故ですか / 製品は棚板という熱に強い板にのせて焼成する。焼成中に高台部分の釉薬が溶けて棚板にくっつくのを防ぐために高台底の釉薬を剥ぎ取って焼成する。釉薬にはどのような種類があるか / 釉薬には、700-1100℃で焼成する低火度釉と1200-1300℃で焼成する高火度釉がある。1300℃前後で焼成する天草磁器には高火度釉を用いる。波佐見では下絵具の発色や焼成温度範囲の広いことなどから石灰釉(透明釉)が多く用いられる。その他の釉薬には、艶消(マット)釉、乳濁釉、失透釉、結晶釉などの種類がある。基礎釉に着色材を添加することで青磁釉や天目釉などの色釉ができるが、基礎釉の性質や着色材の添加量によって、また、酸化焼成や還元焼成といった焼成雰囲気によって発色は異なる。
 
焼成 
陶磁器原料の製土・成形・乾燥・素焼・施釉の各工程を終えると、焼成により熱エネルギーを得て焼き固める工程が本焼成である。目的に応じた表面・形状・強度などの性質を形成させるためのものである。陶磁器製品の品質を最終的に決定する重要な工程である。 
窯詰め / 窯詰めは製品の均一な収縮と、棚板へのくっつきを防ぐため、棚板の上に珪砂やアルミナ質の粉末を散布し、その上に並べる。また場合によっては、製品が火炎や灰、煙などからの悪影響を防ぐため、「さや」あるいは「ぼし」と呼ばれる耐火度の高い容器に入れて積み重ねることもある。 
焼成 / 磁器の本焼成は、通常1000℃くらいまで酸化炎焼成(あぶり)を行い、次に還元炎焼成(攻め)に移り、最後は中性炎に近い還元炎焼成(あげ火)で1300℃で焼成を行う。しかし、目的によっては最初から最後まで酸化炎焼成を行うこともある。 
窯出し / 室温近くまで徐冷した後、窯出しを行う。200-300℃以上から急冷すると、貫入や釉飛びなどの欠点が出やすいので注意が必要。 
窯の種類 / 陶磁器の窯として広く採用されているものは、シャットル窯やトンネル窯、あるいはローラーハースキルンなどがある。 
窯の燃料 / 昔の登り窯では、主に火力の強い松の木をはじめとする天然木が用いられていた。明治以降は石炭や重油などが用いられ現在はブタンやプロパンなどの天然ガスが主として用いられている。 
磁器は焼くとなぜ白くなるか / 陶磁器原料は天然原料であり、微量の酸化鉄やチタンなどを含んでおり、酸化炎焼成では、これらがやや黒みを帯びて発色する。しかしこれを還元炎焼成することで酸化鉄が変化し、肥前磁器独特の美しい青白い発色を示すようになるす。焼成中、窯の中の製品を見ることはできないか / 長崎県の窯業技術センターには、世界初の焼成中の窯の内部を観察できる透視炉がある。これまで見ることのできなかった焼成中の製品表面の変化を観察することが可能となった。主な窯の特徴 / シャットル窯(単窯)は少量多品種で小規模生産に適し、焼成時間は10時間以上かかる。トンネル窯やローラーハースキルン(連続窯)などは、常時連続して製品の焼成が可能で、量産に適す。特にローラーハースキルンは、約4時間程度の非常に短い焼成時間で焼成される。
 
上絵付 
上絵付は、本焼成された陶磁器の釉の上に上絵具を用いて模様を施し、通常750-850℃の酸化炎で焼き付ける装飾技法。下絵付と異なり上絵付には、多種多様な色彩の絵具があり、古くから用いられている伝統的な方法や印刷による方法で行われている。 
伝統的な方法 / 下絵付の表現方法と似たところが多く、その中心は筆による。ヨーロッパや中部地区では油溶き法による手描きが多いようである。波佐見・三川内では、主に水溶き法で描き、線画筆、刷毛等を使い目的に応じて使い分ける。手描き他、吹きやたたき等様々な技法がある。 
印刷による方法 / 印刷方法としては、スクリーン、パッド、平版などがあるが、主にスクリーン印刷で行われている。直接製品に印刷する方法もあるが、転写(絵具が印刷された転写紙を水に漬けて、台紙から外れた絵具部分を製品に貼る)による方法が一般的 。 
上絵付の焼成 / 上絵付の焼成は、800℃前後で酸化焔焼成する。上絵付の窯は、古くは錦窯(マッフル窯)が用いられたが、現在は一般的に電気窯やトンネル窯が用いられている。上絵付けの窯は、特に湿気を嫌うので十分注意し、また転写などの製品を焼成する場合は、ガスがこもらないように注意しながら焼成する。 
上絵具の種類と特徴 / 大別すると和絵具と洋絵具がある。和絵具は、透明なガラスの粉末(融剤)に酸化鉄や銅、コバルト等の着色材を加えたもので、「盛絵具」や「具絵具」と呼ばれる。厚く盛ることで透明性の高い深い発色が保たれる。肥前地区や九谷、京都など日本で伝統的に用いられる絵具である。洋絵具は、着色材に融剤を加えて釉面に融け付かせるもので比較的層が薄くて発色する。