焼物名 | 関連焼物名 | 産地 | 歴史地名 | |||
あさひけん | 【朝日軒】 | 陶器 | 三重県伊勢山田 | 朝日軒棚吉作の陶器。明治年間三重県伊勢山田で焼かれた。雅致に富む。 | ||
いどやき | 【井戸焼】 | 磁器 | 熊本県 | 肥後国 | 肥後国(熊本県)の焼物師井戸新九郎が焼いた磁器。 | |
いりやけんざん | 【入谷乾山】 | 陶器 | 東京都台東区 | 江戸入谷村 | 尾形乾山作の陶器で江戸入谷村(東京都台東区)で作成されたものの称。 | |
うんざんやき | 【雲山焼】 | 陶器 | 佐渡相川 | 江戸後期文化年間に、佐渡相川の人、伊藤甚兵衛が始めた陶器。 | ||
おむろやき | 【御室焼】 | 【仁清】 | 陶器 | 京都府 | 京都の仁和寺門前で、正保ごろから野々村仁清が焼きはじめた陶器。元禄初年で絶えた。仁清焼。おもろやき。 | |
おりべやき | 【織部焼】 | 陶器 | 瀬戸系 | 瀬戸系の陶窯で作る陶器。茶人古田織部の好みに従ったもの。茶器、懐石に用いられ斬新な器形と文様で知られる。【古田織部】安土桃山時代の茶人。美濃国の人。通称左介(さすけ)。名は重然(しげなり)。千利休の高弟。織部流の開祖。信長・秀吉・家康・秀忠に仕えた。大坂の陣の直後、豊臣方へ内通の疑いで切腹を命ぜられた。(1544-1615) | ||
きちろくやき | 【吉六焼】 | 陶器 | 江戸浅草 | 文政・天保年間、下総国海上郡布間村の人井田吉六が、江戸浅草で焼いた陶器、または、陶製の玩具。 | ||
きっこうやき | 【吉向焼】 | 隅田川焼 須坂焼 |
陶器 | 摂津国13村 | 江戸時代、戸田(吉向)治兵衛が創始した陶器。楽焼風の交趾(こうし)写しが多い。摂津国13村で焼き始め、諸藩の御庭焼を経て、江戸に出て隅田川焼を始めた。二、三代目は信州須坂藩に招かれ製作した(須坂焼)。 | |
きゅうさいやき | 【休斎焼】 | 【信楽焼】 | 陶器 | 滋賀県 | 近江国水口 | 信楽焼の一種。近世、近江国(滋賀県)水口(みなくち)の茶人、休斎が製作した焼物。休斎の銘がある。 |
ぎょうきやき | 【行基焼】 | 陶器 | 全国 | 各地に散在するねずみ色の素焼の陶器。天平時代、行基が創始したと伝えるが根拠はない。 | ||
くうちゅうしがらき | 【空中信楽】 | 陶器 | 近江国甲賀郡信楽 | 江戸時代の陶芸家本阿弥光甫(号は空中斎)が、近江国甲賀郡信楽の土で焼いた陶器。本窯焼と楽焼とがある。 | ||
けんざんやき | 【乾山焼】 | 陶器 | 京都、江戸下谷村、下野佐野 | 尾形乾山が焼いた楽焼風の陶器。光琳の画風をとり入れた装飾的な意匠に独特の趣がある。乾山。おがた‐けんざん(をがた‥)【尾形乾山】江戸中期の陶工、画家。光琳の実弟。名は惟充。通称は新三郎、権平。別号に紫翠、尚古、習静堂など。京都の人。陶芸は野々村仁清の影響を受け、絵は光琳に学んだ。晩年、江戸の下谷村に窯を開いた。ほかに下野の佐野に開窯した、いわゆる佐野乾山のことが伝えられている。(1663-1743) | ||
けんしんやき | 【見心焼】 | 陶器 | 尾張 | 文政年間に尾張の藩士杉山見心が焼いた陶器。九郎焼に似てやわらかく厚手。 | ||
げんばやき | 【玄馬焼】 | 陶器 |
宮城県 |
仙台堤町 | 陶器の一種。幕末に仙台の堤町で佐藤玄馬が焼いた茶碗。 | |
げんぴんやき | 【元贇焼】 | 陶器 | 愛知県 | 名古屋 | 中国明代、乱を避けて日本に帰化した陳元贇が、寛永ごろ、名古屋で焼いた安南染付風の陶器。瀬戸産の土を用い、呉須(ごす)で書画を書き、これに白青色の透明な釉(うわぐすり)を施したもの。 | |
こうえつらくやき | 【光悦楽焼】 | 陶器 | 京都郊外の鷹ケ峰 | 本阿弥光悦作の楽焼陶器。元和元年京都郊外の鷹ケ峰に隠棲してからの作とされ、茶碗が主で、おおらかで力強いすぐれた風格と細かく鋭い箆(へら)使いは高く評価されている。光悦焼。 | ||
ごろうやき | 【五郎焼】 | 磁器 | 名古屋、旧春日井郡大森村 | 名古屋の東北部、旧春日井郡大森村の五郎という者が、川名村に窯を設けて製した焼物。磁器が多く、上絵に銅版の絵を用いたので銅版焼とも呼ぶ。 | ||
ごろしちやき | 【五郎七焼】 | 磁器 | 佐賀県 | 肥前国有田南河原 | 江戸初期、肥前国(佐賀県)有田南河原の陶工、高原(竹原)五郎七が関係して焼かれたという染付磁器。また、五郎七・五郎八兄弟の焼いたものともいうが、いずれも確実な遺作はない。 | |
ごろはちぢゃわん | 【五郎八茶碗】 | 磁器 | 佐賀県 | 肥前 | 江戸初期、肥前(佐賀県)の高原五郎八によってつくり出されたという染付磁器の大型の碗。のちには、大きくて粗末な染付の飯茶碗の称となった。ごろはち。 | |
さのけんざん | 【佐野乾山】 | 【乾山焼】 | 陶器 | 栃木県 | 下野国佐野 | 尾形乾山が元文二年ごろ下野国(栃木県)佐野に招かれ、その地で製した陶器。 |
じゅらくやき | 【聚楽焼】 | 【楽焼】 | 陶器 | 京都 | 天正年間に始まった、手でつくねた軟質の陶器。楽長次郎が聚楽第の瓦を焼いたところから称したとも、また、聚楽第の土で茶碗を焼いたからともいう。のち、楽焼と呼ばれる。 | |
しゅんけいやき | 【春慶焼】 | 陶器 | 愛知県 | 尾張国瀬戸 | 陶器の一種。春慶、鎌倉時代の尾張国(愛知県)瀬戸の陶工が作った茶入れ類。二代藤四郎基通も剃髪して春慶と称したが、作には別に藤四郎春慶の名がある。 | |
にんせい | 【仁清】 | 【仁清焼】 【御室焼】 |
陶磁器 | 京都府 | 【仁清】にんせい/江戸初期の陶工。丹波国(京都府)北桑田郡野々村に生まれる。通称、清右衛門。一七世紀後半に活躍。京焼の色絵を大成。仁和寺門前に御室窯を設けて陶磁器を焼いた。特に蒔絵の趣を表した絵付けに最も特色を示している。また、その制作した焼物をもいう。生没年不詳。 | |
はくあん | 【伯庵】 | 陶器 | 瀬戸系 | 陶器の一種。桃山末期から江戸初期にかけて短期間、瀬戸系統の窯で焼かれ、茶碗が多い。江戸初期の幕府の外科医、曾谷伯庵の愛蔵の名器からこの名がつけられたという。 | ||
らくやき | 【楽焼】 | 陶器 | 京都 | 千利休の指導を得て京都の長次郎が創始した茶器。豊臣秀吉から「楽」の印を賜ってから、家号としてこれを用いる。中国の交趾焼の技術をもとに、手捏(てづく)ねで成形し、低い火度で焼きあげた独特の作行のもので、釉薬の色から白楽・黒楽・赤楽などの呼び名がある。聚楽焼。【長次郎】桃山時代の陶工。楽焼(らくやき)の始祖。姓、田中。千利休の指導のもとに、火度の低い手作りの茶碗を焼き、豊臣秀吉から楽の字を賜る。(1516-1592) |
■織部焼 桃山時代の慶長10年(1605年)頃から元和年間(1615-1624年)まで、主に美濃地方で生産された陶器。美濃焼の一種で、基本的に志野焼の後に造られた。 千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。当時の南蛮貿易で中国南方からもたらされ、茶人たちに珍重された交趾焼(華南三彩)を元にしたと考えられる。大量生産のため、陶工加藤景延が唐津から連房式登窯を導入したと伝えられる。開窯直後の慶長年間が最盛期で、優品の多くはこの時期に造られた。織部焼には京風の意匠が用いられたことや、1989年京都三条の中之町から大量の美濃焼が発掘されたことから、ここから美濃へ発注された事が想定される。当時の三条界隈には「唐物屋」と呼ばれる、陶磁器や絵画、染織を売る道具屋が軒を連ねており、織部焼もここで売られていた。織部焼には、しばしば唐津焼と共通した文様が見られるが、これは唐津にも唐物屋から発注されていた事から起きる現象であろう。 元和年間に入ると、器形と模様の単純化が急速に進み、瀟洒な作風へ変貌していった。中之町発掘の美濃焼は改元直後に急いで廃棄された形跡があり、古田織部の切腹との関係が指摘されている。この時期の代表的作品として、矢七田窯で焼かれた矢七田織部があげられる。矢七田織部は織部焼に特徴的な緑釉を殆ど用いず、形もより具象的である。元和末年から寛永初めになると、古典的青磁の復興を目指した黄緑色から淡青色の御深井(おふけ)釉を用いた御深井焼が本格化し、織部焼は姿を消した。 近年まで古田織部が関与した事を示す資料がなかったが、織部が花押を鉄絵で記した沓茶碗が発見されたことや、京都の古田織部の屋敷跡から織部焼が発掘されたことから、伝承通り織部が関わっていたことが証明されつつある。ただし、この名称が用いられるようになったのは、織部死後しばらく後の寛文年間頃からであり、一般に広まるのは元禄に入ってからである。 ■色 / 釉薬の色になどにより、織部黒・黒織部、青織部、赤織部、志野織部などがあるが、緑色の青織部が最も有名である。織部黒・黒織部は茶碗が殆どあり、それ以外は食器類が大半を占める。 ■形・文様 / 整然とした端正な形を好み、抽象を重んじる他の茶器とは違い、歪んだ形の沓(くつかけ)茶碗や、市松模様や幾何学模様の絵付け、後代には扇子などの形をした食器や香炉など、具象的な物が多い。 ■生産技術 / 登り窯の利用や、木型に湿らせた麻布を張り、そこに伸ばした粘土を押し付けるという手法で、少し前の志野焼と比べ大量生産が行われた。そうした量産化された茶碗でありながら、同じ作振り、同じ模様で描かれた物はなく、当時の陶工の作陶姿勢において、一碗一碗違った茶碗を造るという意識が徹底していたことを物語る。 ■釉薬 / 一般に「織部釉薬」といった場合は、透明釉薬に酸化銅などの銅を着色料として加え酸化焼成したものを言います。 |
■楽焼・聚楽焼 長次郎を祖とする楽家代々の作品をいい、轆轤(ろくろ)を使わず手びねりで成形し、低火度で焼成した軟質陶器で、茶碗を中心に茶の湯の道具のみが焼かれる。また、手捏ねの軟陶の総称としても楽焼の名が使われる。瓦職人であった長次郎が利休に見出され、聚楽第内で千利休好みの茶碗を焼成し、はじめ「今焼」とよばれ、聚楽第で製陶したことから「聚楽焼」と呼ばれ、秀吉より「樂」の印字を賜り、以後家号として「樂」を用い、樂焼の名で呼ばれるようになる。 楽焼の基本的技法は、長次郎作と伝える三彩瓜文鉢などからして交趾系のものとされ、伝存する「天正二春 依命 長次良造之」の刻銘の赤楽獅子留蓋瓦の土や釉が赤楽茶碗「無一物」や「白鷺」などと極めて類似しているところから、天正二年(1574)には楽焼が作られる条件や可能性があったとされる。楽茶碗の初見は、「松屋会記」天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン」とされるが、「天王寺屋他会記」の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二 茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易 茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正7年(1579)、天正8年(1580)頃に作り始められ、当初は専ら赤楽が作られたが、天正14・5年頃から美濃で焼成される引き出し黒の技法が導入され黒楽が作られたと推測されている。いずれにしても天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、「山上宗二記」に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになる。おもに京都の聚楽土を用い、手捏ねで成形したあと、鉄や竹のへら、小刀で削って形をととのえ、素焼する。黒楽は、素焼きした素地に加茂川黒石を使った釉をかけ乾燥させることを繰り返し、匣鉢(さや)に入れて1000〜1250度の温度の窯で焼成し、窯から鉄鋏で挟み出し急冷する。そのため黒楽は鋏痕がついている。赤楽は、唐土(とうのつち 鉛釉)に長石分を混ぜた半透明の白釉を赤い聚楽土の上にかけ、800〜1000度くらいの低温で短時間で焼成する。赤楽には見込みに目がある。最近のものでは白素地に黄土で化粧がけした上に透明な楽釉をかける。 ■楽茶碗 / 楽家歴代によって造られた茶碗、これを本窯物と呼び、楽家以外の脇窯物といわれる、楽家四代楽一入の子、彌兵衛が玉水に開窯した玉水焼の茶碗、楽一入の門人であった長左衛門が金沢の大樋村に開窯した大樋焼の茶碗、楽家の窯で焼かれた茶人の手捏ね茶碗をいう。楽茶碗は轆轤を用いず、手捏ねにより形成され、内窯と呼ばれる家屋内の小規模な窯で焼かれる。釉薬の色から、赤楽・黒楽・白楽などの種類がある。楽茶碗の初見は、「松屋会記」天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン、吸茶、三畳」とされる。ただ、「天王寺屋他会記」の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二 茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易 茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正七年(1579)、天正八年(1580)を楽焼の創始期とする説がある。いずれにしても天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、「山上宗二記」に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになる。 ■楽家(らくけ) / 樂焼の創始者長次郎を祖とする樂焼本窯の家系で、千家十職のひとつ。楽茶碗を中心に茶の湯の道具のみを焼く。「本阿弥行状記」に「楽焼の事、飴屋長次郎が親は中華の人なり。長次郎陶物を焼はじめし故、飴屋焼きと申せしを、天正十二年豊臣殿下樂といふ字の印を遣わされしより、則これを姓として、楽焼と始(初)めて申せしとぞ。今の吉兵衛(道入)は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に薬等の伝も譲りを得て慰みにやく事なり、後代、吉兵衛が作は重宝すべし。しかれども当代は先代より不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし。」、「茶道筌蹄」楽焼歴代に「飴也 朝鮮の人也、或説にあめやは朝鮮の地名、大永の頃日本へ渡り、後弥吉と云ふ、長次郎まで四代あるとぞ」「尼焼 日本人貞林と云ふ、飴屋の妻也」「長次郎 飴也の子なり、利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」、文政13年(1830)序の「嬉遊笑覧」には「豊臣太閤聚楽にて朝鮮の陶師をめし利休に其法式を命じて茶碗を焼せらる、是を楽焼といふ、聚楽の字を分て印となす、その陶師を朝次郎と称するは朝鮮の一字を取たる也、その子孫今に栄ふ」、天保8年(1837)「茶器名形篇」に「楽焼家系譜 飴也。朝鮮人来朝して楽焼の祖となる。妻は日本人飴也。没後長次郎幼少に依て母の剃髪後茶器を造て焼たる尼焼と云。母迄は楽焼とは不言。住所上長者町西洞院東え入北側。」とある。初代長次郎以来15代を数える。 初代・長次郎。 二代・常慶。三代・道入。別名ノンコウ。四代・一入。五代・宗入。六代・左入。七代・長入。八代・得入。九代・了入。十代・旦入。十一代・慶入。十二・弘入。十三代・惺入。十四代・覚入。当代十五代吉左衛門(1949〜)は、覚入の長男。昭和48年(1973)東京芸術大学彫刻科卒業。昭和56年(1981)15代吉左衛門を襲名。覚入が隠居後の印として用意していた大燈国師筆の樂字印を用いる。 |
■丸亀京極家と仁清焼 ■仁清焼 / 京焼の名を高めたのは、御室仁和寺の門前に窯を開いた野々村清右衛門の釜・御室窯で、御室焼、仁清焼などと呼ばれた焼物であった。仁清は丹波の北、桑田郡野々村の出身といわれ、正保4年(1646)以前頃には仁和寺門前に開窯していたと思われる。 始め、御室焼、仁和寺焼と銘されているが、万治3年(1660)になって「仁清焼物」などと記され、仁清の名が高まっていった。仁清の没年は定かではないが、元禄7年ごろ亡くなったと考えられる。この仁清焼も二代になって評価が落ちて、元禄末年頃に初代仁清の弟子の尾形蘇山の乾山窯が京都を代表する窯となった。 野々村仁清は丹波国桑田郡野々村(現京都府美山町)の出身で、本名を清右衛門といいます。江戸時代初期に瀬戸で修行を積み、京都洛西の御室仁和寺の門前に御室窯を開きました。 「仁清」というのは仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせた雅号で、仁和寺宮から使用を許されたものです。また「播磨大掾」という国司の位ももらっています。陶工にこのような名前や位が与えられるのは異例のことで、このことからも仁清の持出した技術と天賦の才覚をうかがい知ることができます。仁清は色絵陶器の完成者とも京焼の大成者ともいわれていますが、仁和寺宮を中心とする貴族や大名らと交流を深め、それらの人々の需めに応じて華麗で典雅な作品を数多く作りました。その作品は巧みな糎櫨の技術と華麗な上絵付けに支えられた茶壷、水指、茶碗、香炉、香合などの茶道具で占められていますが、代表作といわれるものは色絵の茶壷です。その色絵茶壷の名品を数多く収集していたのが丸亀滞京極家でした。 ■丸亀京極家と仁清焼 / 仁清と丸亀藩京極家との関係については明らかでありませんが、仁清の名品の多くは丸亀二代藩主京極高豊侯の時代に集められたものとみられています。高豊俣は詩歌や絵を趣味とし、白からも絵筆をとるなど文人であり、また茶人でもありました。六万余石の小藩がこれほどの名品を数多く入手できたのは、ときの藩主の文化的な素養と卓越した手腕によるものといえましょう。 ■御室焼(おむろやき) / 仁和寺門前で野々村仁清が創始した色絵の陶器。元禄(1688-1704)初年に絶えたが、のち永楽和全が再興。優麗典雅な作風で京焼の手本となった。仁和寺焼。仁清焼。おもろやき。 ■野々村仁清 / 江戸時代初期の慶安(1648〜1652)から延宝(1673〜1681)のころに活躍した陶工。通称は清右衛門。丹波国北桑田野々村の出身で,京都の粟田口や美濃の瀬戸で製陶を学んだ。その後京都の御室(おむろ)にあった仁和寺の門跡(もんぜき)の知遇を得,仁和寺前に窯を築いた。仁清の号は仁和寺の“仁”と清右衛門の“清”をとって門跡から与えられたもの、という説がある。狩野派や土佐派の画風・漆器の蒔絵などを取り入れ,金銀を使った優美華麗な日本的意匠の絵付は,とりわけ仁清作品の特徴を成し,のちに「京焼」として受け継がれた。また法螺貝(ほらがい)・雉子(きじ)・宝船などをかたどった置物や香炉には,優れたろくろ技術が示されている。現存する主要作品には,『色絵藤花文茶壺』『色絵雉子香炉』『色絵梅月文茶壺』『色絵桜花文茶壺』などがある。 ところが、仁清の色絵陶器は大正時代までその存在が知られておらず、昭和の初めまでその生涯は謎に包まれていた。そこで、著者はまず、仁清が世に出ていった跡をたどり、次に仁清が創作していたころを描いてみせる。仁清の作品が世に出るようになったのは、所蔵していた旧大名らが度重なる金融恐慌で手放したからである。では、なぜ大名らは仁清を愛好したのか?ここに、金森宗和なる人物がカギを握る。この人は茶人で公武の社会に交わったが、仁清を指導して優雅な色彩に特徴のある茶陶器をつくらせた。清貧に甘んじた茶人、千宗旦との対比で「乞食宗旦、姫宗和」と称された。そして、徳川家とも縁戚関係があった。仁清の色絵陶器がいかにすぐれたものだったか、次のエピソードが雄弁に物語る。加賀藩五代藩主、前田綱紀が仁清の二代目に、徳川綱吉の母、桂昌院に献上する13個の香合を発注し作らせた。しかし、その作品は綱紀の気に染まず、突っ返されたのだった。これを境に仁清の窯は没落してゆく。初代仁清の力量がいかに偉大だったかを裏付ける話である。 |