かいすいえんやき | 【魁翠園焼】 | 楽焼風 | 陶器 | 東京都 | 江戸郊外角筈 | 御庭焼。美濃国(岐阜県)高須城主松平氏が、江戸郊外角筈にあった下屋敷で、嘉永年間、瀬戸の陶工を招いて焼成させた楽焼風の陶器。「魁翠園製」の印を押してある。 |
かいらくえんやき | 【偕楽園焼】 | 陶器 | 石川県金沢市 | 紀州徳川家御庭焼。文政7年(1824)10代藩主徳川治宝の西浜御殿内の偕楽園で始められた。永楽保全、9代了入、10代旦入、青木木米ら京都から多くの陶工が招かれた。光沢の強い法花風の交趾写しが特に優れた。文政10年(1872)〜嘉永5年(1852) | ||
かさまやき | 【笠間焼】 | 相馬焼風 | 陶器 | 茨城県笠間市付近 | 安永年間(1772-1781)、久野半右衛門が信楽の陶工、長右衛門を招いて開窯した。後に、藩窯となった。土瓶や甕、壷などの日常雑器が主である。 | |
かせやまやき | 【鹿背山焼】 | 磁器 | 京都府相楽郡木津町鹿背山 | 文政10年に創始され明治頃まで焼かれ、染付けを主とした。 | ||
かまちやき | 【蒲池焼】 | 柳川焼 | 陶器 | 福岡県柳川 | 慶長年間、家長彦三郎に始まる。柳川焼。 | |
かめやまやき | 【亀山焼】 | 伊万里焼風 | 磁器 | 長崎県 | 長崎市伊良林町大窪山 | 文化元年大神甚五兵衛が長崎市後方にある垣根山で創始した染付白磁。三代目に廃絶。亀山磁器。文化元年(1804)〜廃絶 |
からつやき | 【唐津焼】 | 彫唐津、絵唐津、朝鮮唐津、三島唐揮 | 陶磁器 | 佐賀県唐津市 | 肥前(佐賀県、長崎県) |
室町時代に始まり文禄・慶長の役後に渡来した朝鮮陶工が多くの窯を築き盛んになった。絵唐津、斑唐津、朝鮮唐津などがある。唐津物。唐津に近い岸嶽山麓の窯を中心に肥前一帯の百余の窯で作られたものを唐津焼と呼ぶ。元和2年(1616)李参平が白磁を創始し、正保の初め柿衛門が赤絵を始めると、その影響で肥前の窯々は陶器から磁器に転じ、唐津風の陶器を焼いていた窯々は概ね廃窯した。唐津の古窯址からの陶片は、甕・壷・摺鉢などの日用雑器が多く、素地は概してざらっとした砂目の堅い重い土で、またやや鉄分を含み、焼き上がると暗い鼠色になるものが多い。釉薬は土灰釉といって長石に雑木の灰を混ぜたものが最も多い。唐津は朝鮮人が興した窯だけに李朝によく似た素朴重厚な作行のものが多い。初期は無地が多く、慶長元和頃には鉄絵文様のある絵唐津が可成り作られた。釉薬・文様から、無地唐津・斑唐津・絵唐津・彫唐津・朝鮮唐津・青唐津・黄唐津・黒唐津のほか、瀬戸唐津・献上唐津・三島唐津・刷毛目唐津などに分けられる。窯は朝鮮系の割竹式と呼ばれますもので、窯の1/3程が地下に沈み天井は地上に築いた細長い傾斜したもので、焼室が幾つかに分かれた新しい様式の窯。またこの頃、蹴轆轤が移入された。慶長から元和(1596-1624)〜 |
かんりくやき | 【閑陸焼】 | かんろくやき | 磁器 | 愛知県瀬戸市 | 尾張国春日井郡瀬戸 | 尾張国春日井郡瀬戸(愛知県瀬戸市)の加藤勘六が二代にわたって焼いた磁器。かんろくやき。 |
きしだけがま | 岸嶽窯 | 佐賀県東松浦郡北波多村 | 唐津焼の古窯。〜文禄年間 | |||
きっこうやき | 【吉向焼】 | 亀甲焼 | 大阪市十三 | 吉向治兵衛が大阪の十三に開いた窯。通称亀次に因んで亀甲焼といったが大阪寺社奉行水野侯から「吉向」を拝領した。陶技・意匠にすぐれ近世屈指の名工に数えられ、後に江戸に移って文久元年(1861年)に没した。五代目のとき二家に分かれ、東大阪市日下町の十三軒、杖方市の松月軒がそれである。亀甲焼。文久元年(1861)〜 | ||
きづやき | 【木津焼】 | 粟田焼風 | 陶器 | 石川県 | 加賀国木津 | 江戸時代文久年間、加賀藩主が京都の陶工を招いて加賀国木津で作らせた粟田焼風の陶器。 |
きていやき | 【亀亭焼】 | 京焼 | 磁器 | 京都府 | 京都五条坂 | 京焼の一種。寛延年間、陶工和気平吉(亀亭)が京都五条坂に開窯、初め土瓶、土鍋などの雑器を製したが、二代亀亭(一説に三代)に至り有田焼に技法を学び磁器を作るようになる。 |
きびやき | 【吉備焼】 | 陶器 | 岡山県笠岡市茂平付近 | 植木鉢、花瓶などがある。 | ||
きゅうさいやき | 【休斎焼】 | 【信楽焼】 | 陶器 | 滋賀県 | 近江国水口 | 信楽焼の一種。近世近江国水口の茶人、休斎が製作した焼物。休斎の銘がある。 |
ぎょうざんやき | 【尭山焼】 | 赤膚焼 | 焼物 | 奈良県北西部 | 大和郡山 | 近世大和郡山城主、柳沢尭山が陶工に命じて庭園で焼かせた焼物。赤膚焼(あかはだやき)。 |
きょうやき | 【京焼】 | 清水焼、粟田焼 | 陶器 | 京都府 | 京焼が盛んになり各地に大きな影響を与えるようになったのは仁清が現れてから。仁清が御室に窯を拓き/正保4年(1647)色絵を大成し、更に金銀彩を施した華やかな宮廷趣味の 焼物 | を始めてから京焼は作風が一変した。仁清の色絵の流れを汲むのは古清水でいろいろの窯が京都一円に興きた。また仁清とともに京焼に光彩を添えたのは乾山だが、個性的な乾山より通俗的な仁清の影響を受けたものの方が多い。清水・粟田は年とともに窯数も多くなり京焼の二つの中心地となった。京都で産する陶磁器の総称。 桃山時代末〜江戸時代三百年にわたる全国の指導的地位にあった。粟田焼の陶器と清水焼の磁器に大別。|
きよみずやき | 【清水焼】 | 京焼 | 陶磁器 | 京都府 | 京焼の一つ。慶長の頃から京都の清水坂のほとりで製せられたもの。染付けに特色がある。明治以後の京都で産する陶磁器の通称になる。 | |
きりこみやき | 【切込焼】 | 伊万里風 | 陶器 | 宮城県仙台市北三番丁 | 陸前国 | 伊達政宗のとき今の仙台市北三番丁で鎌田某が創始したと伝えられ御用達もあった。伊万里の陶工を招き加美郡切込村(宮崎町切込)にも開窯。嘉永・安政年間(1848-60)が最盛〜明治廃藩まで |
きわらやき | 【木原焼】 | 陶器 | 長崎県佐世保市木原町 | 備前国 | 慶長8年(1603)〜大正年代 | |
きんかざんやき | 【金華山焼】 | 陶器 | 岐阜県 岐阜市稲葉山 | 美濃国稲葉郡金華山 | 楽焼風の茶器、日用雑器。三代藤四郎景国作の茶入は金華山と呼ばれて名高い。 | |
きんたろうやき | 【金太郎焼】 | 【相川焼】 | 陶器 | 新潟県佐渡相川 | 寛永12年に黒沢金太郎が開窯した。土質は堅く釉はねずみ色を呈する。相川焼。 | |
くさつやき | 【草津焼】 | 陶器 | 滋賀県草津 | 天明年間に始められたという。信楽土で作り、草津焼の窯印がある。 | ||
くたにやき | 【九谷焼】 | 有田焼風 | 陶磁器 | 石川県加賀市、小松市 | 大聖寺藩主前田利治・利明の二代の御用窯に始まる。明暦頃から元禄末にかけて焼かれたものは古九谷と呼ばれ豪快な色絵が有名。文化年間に金沢周辺で窯が再興され現在に及ぶ。細密な絵付の赤絵、金襴手がとくに知られている。くたに。 | |
げんこうさいやき | 【元光斎焼】 | 【常滑焼】 | 陶器 | 愛知県常滑市 | 常滑焼の一種。江戸時代、渡辺弥平が尾張侯に茶器、花瓶などを献上して元光斎の号を賜わったのにはじまる。最初は手捻りであったが二代村田長七から轆轤(ろくろ)を使用した。 | |
げんないやき | 【源内焼】 | 舜民焼、交趾焼風 | 陶器 | 香川県大川郡志度町 | 平賀源内が18世紀半ばに長崎から伝えたという交趾焼の陶法により始め、西洋風のデザインが特徴。宝暦年間(1751-64)〜 | |
げんばやき | 【玄馬焼】 | 陶器 | 宮城県 | 仙台堤町 | 幕末、仙台堤町で佐藤玄馬が焼いた茶碗。 | |
げんぴんやき | 【元贇焼】 | 陶器 | 愛知県 | 名古屋 | 中国明代、乱を避けて日本に帰化した陳元贇が、寛永ごろ、名古屋で焼いた安南染付風の陶器。瀬戸産の土を用い呉須で書画を書き、これに白青色の透明な釉を施したもの。 | |
けんややき | 【乾也焼】 | 陶器 | 東京 都 | 向島長命寺 | 三浦乾也が明治8年東京向島長命寺に開窯して焼いた陶器。 | |
げんりゅうやき | 【元立焼】 | 【薩摩焼】 | 陶器 | 鹿児島県 | 薩摩焼の一つ。寛文の頃、大隅国帖佐で小野元立坊が焼いた陶器。 | |
こいしはらやき | 【小石原焼】 | 【高取焼】 | 陶器 | 福岡県朝倉郡小石原村 | 高取焼が創窯後の寛文7年(1667)に小石原村に窯を移転したのが始まり。小石原高取と呼ぶ。隆盛を極めたが宝永5年(1708)に早良郡原村に藩窯が移された。 | |
こいとやき | 【小糸焼】 | 陶器 | 岐阜県高山市 | 飛騨国大野郡小糸 | 飛騨国の細江三郎右衛門が、文政年間(1818-1830年)に始めたものだが、ほどなく廃した。 | |
こいまり | 【古伊万里】 | 陶器 | 佐賀県有田町一帯 | 伊万里焼きの陶器のうち元禄以前の作りの 総 | 称。柿右衛門が色絵磁器を始めると間もなく、その秘法は漏れて有田一円の窯々でも色絵磁器を作るようになった。有田焼は主として伊万里の港から各地に送られ、また肥前一帯の窯元たちは伊万里の商人の支配下にあり、これから俗に伊万里焼と呼ばれた。肥前の色絵磁器は、柿右衛門・古伊万里・色鍋島の三つに大別できる。古伊万里の最盛期は元禄から享保にかけ庶民文化を背景に生まれ、町人らしい華やかさ、情熱、混濁といったものと成金趣味的な低俗さがあった。||
こうざんやき | 【江山焼】 | 楽焼風、交趾焼風 | 陶器 | 愛媛県伊予郡 | 明治年間、愛媛県伊予郡で焼かれた陶器。楽焼風、交趾焼風の花瓶や置物などを産した。 | |
こうだやき | 【高田焼】 | 平山焼、上野焼風、八代焼 | 磁器 | 熊本県八代市高田 | 寛永年間上野(あがの)喜蔵が開窯。初期の作はなまり色の釉をかけた豪放なもの。八代焼。熊本県奈良木村、寛永9年(1632)〜 | |
こうらくえんやき | 【後楽園焼】 | 陶器 | 東京都 | 御庭焼。水戸徳川家の江戸中屋敷にある後楽園で焼成された陶器。宝暦年間に創始され、高台に後楽園製または後楽の円印が押してある。江戸時代 | ||
こうらくえんやき | 【後楽園焼】 | 陶器 | 岡山県 | 御庭焼。備前の後楽園で藩主池田綱政によって始められた陶器。宝永ごろから素焼の白土に顔彩を施した色備前を焼き、黄白色のオランダ釉などを特徴とする。 | ||
こくたに | 【古九谷】 | 姫谷焼 | 磁器 | 石川県 | 加賀国九谷 | 江戸時代大聖寺藩が領内の加賀国九谷で明暦頃から元禄にかけて作らせた。染付、天目、青磁などがあるが、渋く豪放な作風の色絵が特にすぐれている。古九谷には皿・鉢・徳利・瓶・香炉などあるが代表的な名作は大皿。素地はやや灰色を帯びざらっとした白磁が特徴的で大胆な構図、雄勁な筆致、渋い深い調子の上絵付が魅力。その装飾法には絵画風と幾何学的模様と二つがある。古九谷によく似た色絵磁器で姫谷焼というのがあるが起源・沿革は 不明 | 。明暦(1655-58)〜元禄末(-1703)
こさつま | 【古薩摩】 | 【薩摩焼】 | 陶器 | 鹿児島県 | 薩摩 | 薩摩焼初期の陶器。江戸初期、朝鮮から帰化した陶工によって鹿児島の帖佐、加治木御里、苗代川、做野の窯で焼成された。 |
こすぎやき | 【小杉焼】 | 相馬焼風 | 陶器 | 富山県射水郡小杉町 | 越中国小杉 | 天保6年(1835)ごろ与右衛門が相馬焼の技法を伝えて創窯。製品のうち徳利の種類が最も多く、鴨徳利・太鼓徳利・瓢箪徳利・茄子徳利などあり、特に鴨徳利が有名である。釉は銅青磁釉、飴釉が用いられており、形に特徴がある。初代のロクロが特に巧みである。明治20年(1887)ごろ廃窯。 |
こすなやき | 【小砂焼】 | 陶器 | 栃木県 | 下野国那須郡小砂村 | 江戸時代、安政年間に下野国那須郡小砂村で、藤田半兵衛が藩主の命令を受けて焼いた楽焼に似た陶器。おもてに「小砂」の文字を刻んだところからいう。 | |
こせと | 【古瀬戸】 | 陶器 | 愛知県瀬戸市 | 瀬戸 | 瀬戸で鎌倉時代から室町末期頃まで焼かれた陶器。釉は灰釉か飴釉。 | |
こせんじょうやき | 【古戦場焼】 | 桶狭間焼 | 陶器 | 愛知県 | 尾張桶狭間 | 江戸末期に尾張桶狭間の近くでつくられた陶器。桶狭間焼。 |
こそべやき | 【古曾部焼】 | 京焼系 | 陶器 | 大阪府高槻市古曾部 | 安土桃山末期から江戸初期に開窯。遠州七窯。京焼や絵唐津、高取焼などに似たものもあり赤絵に特色がある。寛政2年(1790)〜明治末 | |
こたんば | 【古丹波】 | 【丹波焼】 | 陶器 | 兵庫県多紀郡今田町 | 丹波焼のうち桃山時代以前のもの。兵庫県多紀郡今田町付近の山間で焼かれ、大がめ、壺などがある。 | |
こぢょうさ | 【古帖佐】 | 【薩摩焼】 | 陶器 | 鹿児島県 | 大隅国姶良郡帖佐郷 | 薩摩焼の初期の陶器。朝鮮の陶工金海らが大隅国姶良郡帖佐郷で作った。 |
ことうやき | 【湖東焼】 | 磁器 | 滋賀県彦根市 | 滋賀県彦根井伊家の藩窯とその周辺で焼かれた。藩窯は1824年の14代直通亮に起こり、染付、赤絵が中心であった。次代の直弼の死後1862年に廃窯された。天保13年(1842)〜文久2年(1862) | ||
こはぎ | 【古萩】 | 陶器 | 山口県萩 | 慶長年間、朝鮮の陶工によってつくられた朝鮮風の陶器。 | ||
こばんこ | 【古万古】 | 陶器 | 三重県中部 | 伊勢国小向村 | 江戸時代元文頃、豪商沼波弄山が伊勢国小向村で焼いた陶器。 | |
ごはんやき | 【御判焼】 | 【薩摩焼】 | 陶器 | 鹿児島県 | 薩摩 | 薩摩焼初期の陶器。文禄の役後、領主島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工・金海に帖佐城内で焼かせた御庭焼で、秀作に義弘自ら「萬」の字の刻印を押したという。 |
こひぜん | 【古肥前】 | 古唐津 | 陶器 | 佐賀県 | 肥前国 | 肥前国(佐賀県)の唐津焼の古い陶器。古唐津。 |
こまやき | 【駒焼】 | 【相馬焼】 | 陶器 | 福島県相馬地方 | 多く走る馬を描くところからいう。相馬焼。 | |
ごろうやき | 【五郎焼】 | 銅版焼 | 磁器 | 愛知県 名古屋東北部 | 名古屋の東北部、旧春日井郡大森村の五郎という者が川名村に窯を設けて。磁器が多く上絵に銅版の絵を用いたので銅版焼とも呼ぶ。 |
■九谷焼(石川)にまつわる歴史技法 古九谷(九谷、大聖寺、石川)は、有田(有田、肥前、佐賀)、姫谷(福山、備後、広島)と共に、近世(江戸時代)初期、日本の三大色絵磁器として、その大胆な図柄、流麗な筆致、深みのある色調で、広く海外にまで知られていました。 山中温泉から大聖寺川を約14kmさかのぼる奥深い山麓に、九谷(くたに)村(現在、廃村)がありました。ここは、江戸の始め、色絵磁器で有名な古九谷(こくたに)発祥の地であり、九谷磁器窯址(くたにじきようあと、蓮房式登窯)の石碑が立っています。大聖寺藩の吹座役を務めていた後藤才次郎(ごとうさいじろう)が、重罪人を鉱夫に使った金山があったこの地に、金鉱を探し求めてやってきた時、良質の陶土を発見した、との伝承があります。 ■ 主原料の陶石は、カオリン(カオリン石、アルミニウムの含水ケイ酸塩、Al2O3・2SiO2・2H2O、長石の変質)の一種です。長石(アルミノケイ酸塩)類が自然に分解し流れて沈積した白色の粘土は、磁器の原料となります。陶磁器の中で、磁器は、粘土質物や石英、長石を原料とし、1300〜1400℃程度の高温で、約15〜20時間ほど焼成、最も硬く、軽く弾くと金属音がします。素地(きじ)がよく焼き締まってガラス化し、吸水性のない純白透明性の焼物となります。色絵磁器として、有田焼、九谷焼などが有名です。 また、九谷焼では、九谷五彩と呼ばれる青,黄,紺青,紫,赤の色鮮やかな五色の絵具を使用しています。 赤と黄には酸化鉄を、青には酸化銅、紺には酸化コバルトを、紫には酸化マンガンを使用しています。色絵模様の下絵付けの藍色、呉須(ごす)の主成分は酸化コバルトで、少量の鉄、マンガンが含まれています。上絵具の熔剤には、白色の粉末、唐の土(塩基性炭酸鉛)、白玉(無色ガラス粉末)、日の岡(珪石)の3種を使用していますが、唐の土の鉛化合物は有毒なので代替品が考慮されています。 九谷焼の特色は、磁器の素地が純白でなく、やや青味がかっていることです。これは陶石に含まれている鉄とチタン酸化物の焼成による着色と考えられています。九谷焼の陶石の原料として、九谷陶石(九谷)、荒谷陶石(荒谷)、花坂陶石(能美)などが使用されています。 大聖寺藩の初代藩主、前田利治(としはる)、1618年(元和4年)〜1660年(万治3年)の命により、後藤才次郎(同名4名在、うち定次)が、有田(肥前、佐賀)の陶業技術修得に遣わされ、1655年(明暦元年)頃、九谷の地に窯を築き、田村権左右衛門(たむらごんざえもん)、?〜1683年(天和3年)を指導し、古九谷の生産が始められたと言われています。その築窯、焼成のため、多数の工人が有田から招かれ、九州に伝わる明(中国)の技術が導入されたと考えられています。 古九谷は、学問的には、有田(別名、伊万里)の移入説と九谷焼独自の開窯説が長い間対立していました。1970年(昭和45年)以降の発掘調査で、1655年(明暦元年)の銘の入った白磁の大皿や、古九谷の特徴とされる朱と藍の二彩の絵付皿が発見され、九谷で実際に焼かれたことが確かめられ、これより少し前の1650年(慶安3年)頃に開窯されたと考えられています。 1690年(元禄3年)頃、古九谷は突如として姿を消しますが、その廃窯の事情を語る文献資料は全く伝わっていないという。その原因は謎ですが、大聖寺藩の御用窯であったが、藩の財政の悪化により廃止、大量生産の安価な伊万里の色絵磁器が入ってきたことなど、種々の要因が重なったと考えられています。 江戸時代後期、九谷焼の復興を目的とした再興九谷の最初の春日山窯(金沢)、加賀藩営で量産に成功した若杉窯(小松)、古九谷についで声価の高い吉田屋窯(大聖寺)、赤絵細描で独特の趣を持つ宮本屋窯(大聖寺)、京風の優美な金襴手(きんらんで)の永楽窯(大聖寺)、洋絵具を加味して華やかな新しい画風を始めた九谷庄三(くたにしょうざ、寺井、能美)など、特色ある上絵付の作風を持つ窯が次々と生まれています。 1806年(文化3年)、絵師、陶工として名高い京都の青木木米(あおきもくべい、春日山窯)、1767年(明和4年)〜1833年(天保4年)が、九谷再興のため加賀藩に招かれ、約2年間指導、現在、卯辰山(山の上町、金沢)の地に春日山窯跡の碑が立っています。 1823年(文政6年)、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門(よしだやでんえもん、吉田屋窯)、1752年(宝暦2年)〜1827年(文政10年)72才が、120年ぶりに古九谷青手の技法を再興、1826年(文政9年)、飯田屋八郎右衛門(いいだやはちろうえもん、宮本屋窯)、1818年(文政元年)〜1852年(嘉永5年)らが赤絵、金襴手(きんらんで)の技法を開発しました。 1835年(天保6年)、斉田道開(さいだどうかい)、1796年(寛政8年)〜?が、佐野窯を築いた後、名工、九谷庄三(くたにしょうざ)、1816年(文化13年)〜1883年(明治16年)が、彩色金襴手(きんらんで)の画風を大成し、明治時代の九谷焼を風靡(ふうび)しました。明治の半ば頃、九谷焼は日本の輸出陶磁器の首位に立ち、ジャパンクタニの名で世界に知られました。各時代の上絵付の作風は、明治以降の今日までの九谷焼上絵付に強い影響を与えています。 ■九谷村(九谷、山中、江沼、大聖寺)は、かって山田光教寺(浄土真宗、現在廃寺、加賀)の蓮聖(本願寺8世蓮如の4男)が九谷坊を開き、また、江戸の頃は大聖寺藩の流刑地であり、重罪人を鉱夫に使った九谷金山がありました。 ■九谷焼の陶土は流紋岩の風化物で、主成分はケイ素(約74%)、酸化アルミニウム(約17%)です。しかし、陶土の鉄の含有量が比較的高く、白い素地ができないので、それを覆い隠すため、上絵が発達しました。 九谷焼きの製造は、陶石を粉砕、水簸(すいひ)、水分除去の工程を順次加えて陶土とします。生乾きの段階で仕上げ削りをし、完全に乾燥し、約700℃で素焼きします。素焼きの上に呉須(ごす、鉄、マンガン、ニッケルを含むコバルト塩の顔料)で模様の骨描きをし、釉薬(ゆうやく、長石、石灰石、滑石などを混合粉砕して泥漿水(でいしょうすい)にしたもの)をかけ、1300〜1380℃で本窯焼成します。これに上絵を施し、上絵窯(錦窯)で焼成します。 九谷焼の窯は、江戸の慶長から寛永の頃、中国から伝わった登窯(のぼりがま)でした。山の斜面に角型の煙突のように築きます。内部は何室かに区切られていて、下からまず第一室を焼き、順次一室ずつ上へ炊きあげます。第二室からは側面の小さな焚口から薪を投げ込みます。燃料は炎が高く上がる赤松が最も効率が良いとされています。1877年(明治10年)頃、ヨーロッパの窯が導入されましたが、燃料も石炭、重油、プロパンガス、そして今日主流の電気窯へと変わってきました。 ■九谷焼は、石川県の金沢、小松、能美、加賀(九谷、江沼、大聖寺)地域で作られた焼きものですが、その名称については、元禄の頃は大聖寺焼(だいしょうじやき、ほか大聖寺染付、大聖寺伊万里)、一般に広く九谷焼と呼ばれるようになったのは、江戸後期の1803年(享和3年)以降からと言われています。また、創始期の九谷焼を、再興時代に入ってからの九谷焼と区別する意味で、江戸末期の1840年代より、古九谷と呼称するようになりました。また、九谷焼は、大別すると古九谷、再興九谷、明治九谷、現代九谷の4つの時代に分けられると言われています。 |