三種類の暦太陽年グレゴリオ暦中国の暦古代の太陰太陽暦古代からの暦日本の暦七曜と週現代に受け継がれる旧暦自然の暦
諸話 / 日本の時代区分仏の時間億劫天女の舞い降りた岩十劫の成道趙州問死大智度論
Calendarの語源はラテン語・カレンダエ=カレンデ(Kalendae)。月の満ち欠けで日を数えていたローマ人は、見張りを立て西の空に新月が初めて見えると叫んで知らせた。「叫ぶ」に由来するカレンデが、やがてローマ暦で一日(ついたち)を表すようになり、この日が「勘定を清算する日」であったことから、経済行為に欠かせないカレンダーの語源となった。 
日本の「こよみ」は、日読(かよみ)、細読(こまよみ)で、日にちを知るとともに、天文気象の予言書であった。本居宣長は「真暦考」の中で「こよみ」は年月の流れを読むという意味の「来経(きへ)よみ」が変化したものだと言っている。 
 
中国の「暦」という字は、木木の部分が禾禾で、ガンダレを含めた上半分がものごとの順番を表す「レキ」になっている。下半分の「日」は、丸の中に点を入れた太陽である。太陽がのぼる回数である日にちの順番という意味である。すでに殷墟の亀甲文からも見られるため、未来の吉凶占いにもまつわるとされている。
 
現代の暦には、学術的なものと日常生活用のものがある。前者は天体の位置や日食・月食などを記した天体暦、それを応用して編纂される航海暦や航空暦などがある。パリ天文台のフランス暦、グリニッジ天文台のイギリス暦、アメリカ海軍天文台のアメリカ暦、日本では海上保安庁水路部が刊行する天体位置表が、精度の高い専門家用である。後者が私たちが使うカレンダーで、年中行事や休日を知る上で欠かせないものである(元の資料は天体暦を基礎に作られる)。
 
1日の概念/人にとって昼間は活動して夜は休むのが生活サイクル。 
1ヶ月の概念/夜は人にとって月の満ち欠けのサイクルが基準となった。 
太古の昔から、人は自然の流れに順応し、食料や住居の予定を組んだりしていた。1年ごとのサイクルを身体で覚え、やがて農業や牧畜の進歩とともに、正確な日にちを数えるようになった。何日で満月が来るか、何日で季節が一回りするのかを知るという、自然の暦が暦の発生っとなった。 
しかし、地球の自転1回を1日とすると、月の公転周期(1朔望月)は平均29.53日、地球の公転周期は365.24日と、整数でないため近代暦法の成立めざして各文明が挑戦することになった。三つの周期をどう組み合わせるかで、太陰暦、太陰太陽暦、太陽暦の暦法に区別される。
 
 
 
 
三種類の暦
 

 
太陰暦
太陰とはお月さまのことで、原始時代には1日の半分を月と向かい合って暮らしたわけで、想像以上に月との関わりや思い入れが深かったはずである。月の満ち欠け周期は、1年という季節の一回り周期よりもはっきり身近に認識できたはずで、もっとも古く自然に発生した暦は太陰暦だと思われる。 
太陰暦は太陽の運行とは無関係で、日付と太陽の公転による季節とはどんどんズレていく。生活用には不便で、現在残るのは、宗教的に使われる「イスラム」暦だけである。一ヶ月の長さは29日か30日で、12ヶ月が1年になり太陽暦にくらべて10日以上足りず、17年ぐらいで夏と冬が逆転する。
 
太陰太陽暦
日本で広く使われた「陰暦」は太陰太陽暦である。日本、中国の他に、インド暦、バビロニア暦、ギリシャ暦、ユダヤ暦などが太陰太陽暦である。 
1朔望月が29.53日余であることから、30日の月を大の月、29日の月を小の月として交互に並べ、たまに大の月を閏(うるう)月として2度繰り返すことになる。しかし、これではズレがでるため、実際の策定作業には複雑な調整が必要だった。いずれにしても、太陰太陽暦は複雑な作り方をしたので、人々は公けに策定された暦を見ないと、日付と節気が分からない、という不便なものだった。現代中国の最大行事である春節(旧正月)が、太陽暦で見ると2月だったり、1月だったりと毎年変わっている。
 
太陽暦
人類は月の満ち欠けの周期では季節の循環や自然現象の変化に対応できないこと知った。農耕・牧畜の生活に必要な、1年という周期を、太陽や恒星の出没時刻や、その方位の観測から求めようとした。 
地平線上の一定点に沈む太陽を観測したのが、イギリスのスト−ンヘンジ遺跡である。中国・インド・ペルシャ・アラビアでは、黄道にそって28または27の星座を設定し、月の運行を観測することで、太陽の位置を推定した。バビロニアでは、ぎょしゃ座のα星カペラが日の出前に出現する日を一年の始めとした。古代中国では、季節を定める星を辰と呼び、赤く光るさそり座のα星アンタレスを大火と名付けて辰とし、夕方南中に来る時を五月とした。
 
 
太陽年

太陽暦は、地球が太陽を一周する時間を精密に観測することからスタートした。 
いくつかの決まった星が、太陽と同じ方向にあって、しかも同時に出没するのを観測した。その位置を星図に記し、太陽が星座の間を縫って移動し、一年でまた同じ位置に戻るのが分かる。その見かけの運動による軌道が黄道(こうどう)である。そして分点(春分・秋分)と至点(夏至・冬至)も決まるので、この暦による季節は不変のはずであった。ところが長期の間に徐々にズレを生じた。その原因は地球の自転運動にあった。長期に観測すると地軸の傾斜角は一定なのに、回転中のコマが頭を振るように軸の向きが変わるのである。これを歳差運動といい、春分点での太陽の見かけの運動と背景の恒星を、長期にわたって観測するとで分かった。歳差は非常にわずかなもので、紀元前130年ごろになってやっと発見された。
 
エジプト暦
人類が最初に手にした太陽暦はエジプト暦で、月の運行から1ヶ月を30日とし、12ヶ月を1年とした上で5日を加えて365日としたものある。 
きっかけは恒星シリウス(おおいぬ座α星)が年に一度、太陽と同じ方角から、しかも太陽と同時に昇ってくることに気付いたことである。その日はナイル増水の時期と一致し、農業にとってきわめて重要な節目であった。この日を年の初めとしたことが、現在のカレンダー・1月1日の起源である。 
1年は4ヶ月ごと3つに区切られ、洪水の季節、種まきの季節、収穫の季節と呼ばれた。各月に特別な名前はなく、何番目の月と呼ばれ、週間の概念はなかった。 
エジプト暦はシリウスの出が4年で1日ずつ遅くなることを見逃したか無視していた。太陽年ではなくて恒星年なので、1年を365.25日と計算していた。BC.238年には端数の0.25日を4年に1度、閏年の1日として加える案まで決まったという。
 
ローマ暦
現在、世界中で使われているカレンダーは、ローマ暦の系譜に属するものだが、当初のローマ暦は太陰暦で、太陽暦のエジプト暦にははるかに及ばないものだった。 
BC.8世紀ころの1年は10ヶ月304日で、月の名前に以下が当てられていた。 
1月・マルチウス・Martius 
2月・エイプリリス・Aprilis 
3月・マイウス・Maius 
4月・ユニウス・Junius 
5月・クインチリス・Quintilis 
6月・セクスチリス・Sextilis 
7月・セプテンベル・September 
8月・オクトーベル・October 
9月・ノーベンベル・November 
10月・デケンベル・December 
*追加 
11月・ヤヌアリウス・Januarius 
12月・フェブルアリウス・Februarius 
しばらくすると二ヶ月が加わり、1年は12ヶ月で355日になった。年に10日余りの不足は二年に一度の閏月で補った。1年355日で1ヶ月30日前後というのは、ほぼ「太陰暦」で朔望月を月の単位としていたことがわかる。
 
ユリウス暦
ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、クレオパトラの時代にエジプトに侵攻し、優れたエジプト暦を知った。BC.46年、カエサルはアレキサンドリアの天文学者ソシゲネスの助言のもとに、改革を始めた。 
その年を大きく置閏して445日とし、旧来のローマ暦をエジプト暦に合わせた。また、月の名前にローマ暦のものを当てた。その時11月Januariusから新年が始まるようにし、5月から7月に移ったQuintilisに自分の名を当てて「7月=ユリウス=Julius」と改めた。 
後年AD.8年に、皇帝アウグストゥスの戦勝を記念し「8月=セクスチリス=Sextilis」を「Augustus」改め、うるう年も4年に1回とし、ほぼ現在のカレンダーと同じ形式になった。
 
グレゴリオ暦
 

エジプト人がシリウスの観測で1年を測った365.25日は「恒星年」であって、実際の太陽年365.2422日とは、微妙な差があり、約128年で1日進むことになる。 
325年小アジアのニカエアで行われた宗教会議で、春分の日は3月21日と定められ、そのユリウス暦の制定から約1,600年たった、ローマ法皇グレゴリウス13世の時、わずかの差が積もり積もって、春分の日(昼と夜が同じ)が3月11日になってしまった。
 
キリスト教で重要な復活祭は、春分の日を基準に決定されるので、春分の日が次第に夏に移ってしまうことは宗教的な問題であった。そこで法皇は、神聖ローマ帝国の諸侯と取り決めを行い、1582年3月に「新暦」を公布した。春分の日を3月21日と定めるため、AD.1582年10月5日から14日までの10日間を削除した。次に将来ののズレを防ぐため、4年に1回のうるう年に対し、400年に3回を調整年として平年とすることにした。400で割り切れない世紀末のうるう年をやめたのである。 
この合理的なグレゴリオ暦だったが、ローマ教会が定めたもので宗教的理由から世界に広まるのに意外な時間を要した。イギリスでは18世紀、日本は19世紀(明治6年)、中国、ソ連、ギリシャ、トルコなどは20世紀に入ってからである。
 
これほど完全なグレゴリオ暦だが、フランス革命の時に、改革の波に乗って急進的な暦が採用された。年初をエジプト・ナイル川の氾濫期の1月ではなく、パリでの秋分の日とし、週を廃止して10日ごとの旬で区切り、30日が1ヶ月で、時刻も10進法を取り入れた。この暦は、1793年11月から12年間使われ終わった。 
カレンダーが毎年いらないようにしようという試みもある。その一つが「国際固定暦」で、毎月をすべて4週間とし1年を13ヶ月とする。合計364日で、12月28日の後ろに週や月から独立した日を1日おく。閏年には6月28日の後ろに独立日をおいて調整する。これで毎月の同じ日が同じ曜日になり、毎年同じ日に同じ祭日がくることになる。「世界暦」というのもある。1年を4分し、91日×4=364とする。91日はすべて31日+30日+30日の各月に分けて、その名称は現在の暦と同じにする。不足する1日は12月30日の後ろに置いて、どの月、どの週にも属さないものとする。閏年の1日は6月30日の後ろに置いて独立日とする。こうすると、1月1日、4月1日、7月1日、11月1日は常に日曜日となり、毎年同じカレンダーが使える。
 
中国の暦

日本の暦法の元ともなった中国の暦は、世界でも代表的な太陰太陽暦である。最古の王朝・殷の時代から使われ、BC.14世紀の甲骨文にも残っている。BC.104年前漢武帝の太初元年に制定された太初暦(のち三統暦)が文書に残る最初のこよみである。AD.85年後漢の時に行われた四分暦はユリウス暦と同じで、1年を365日と四分の一とするところから名がついた。 
太陰太陽暦だから、基本の単位は朔望月で、常用年は30日の大の月と、29日の小の月を交互に並べ、12太陰月からなる。3常用年に1回閏月を置くか、5年に2回置くか、または閏月を19年間に7回設ける方法がとられた。ただし、二十四節気に従って農業を営むために太陽年が併用された。春秋分点と夏冬至点の観測が簡単なことから、各点の間を3等分し十二気とした。これは月の朔望周期より長い30.436日であった。1太陽年を24等分したのが24節気である。 
1日の「時」は12等分(2時間)され、十二支の名が当てられ子、丑、寅と真夜中から始まる。古代の水時計では、1日を100等分し「刻」といった。夏至は昼が60刻で夜が40刻、冬至はその逆であった。1刻は14.4分で、西洋時計を使うようになってから、15分(1quarter)の意味に変わった。
 
干支
古代中国では日、月、年を60干支の周期で記録した。干支は十干と十二支を60進法で組み合わせたもので、古代の中国から日本まで、有史以来連続して使われた日や年を表す記号で、史実の時代特定などに重要な役割を果たすものである。 
殷(前1400-)の甲骨文字や、次の王朝・周(前1050-)の銅器には、干支の60周期を月や年の表示に使った例はなく、日にちの順番のみに用いられたようである。十二支を12年周期の年の番号に使ったのは、紀元前7世紀からだと、前5-前3に記された歴史・天文の文献が書いている。 
60日の周期は、十干、つまり10日ごとの「旬」に分けられた。各旬は甲から始まるので、この日を六甲といった、上旬・中旬・下旬など現代の言葉でなじみのものである。この60進法は中国文化の影響を受けた日本、朝鮮、ベトナムなどにも深く浸透した。 
十干は甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)。十二支は子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。この二つの周期の組合わせは10と12の最小公倍数である60で一巡する。
 
古代の太陰太陽暦
 

ヒンドゥー暦
儀式のため30日の常用月が用いられた。紀元前1,500年ごろ、インド最古の四部教本の一つリグ・ベーダによると、1ヶ月が30日で5年ごとに閏月を加えたようである。その際、さらに太陰年と太陽年の調整のため10日間の置閏も行われた。毎日の月の位置と、毎月の太陽の位置が、黄道上の星座・ナクシャトラで表された。教本ヤジュル・ベーダとアタルバ・ベーダには、それぞれ27個と28個のナクシャトラが載っている、この数は、ほぼ1太陰月に相当する。1年は宗教上の理由から6つの季節に分けられ、春季・暑季・雨季・秋季・冬季・露季があった。
 
バビロン暦
古代文明が栄えたバビロニアでは、昼と夜をそれぞれ3分割し、6つの時間帯で1日が構成された。しかし、春分・秋分以外は昼夜の長さが異なるため、日常生活では日時計や水時計を使い2時間づつ12等分していた。南部のバビロニアでは6ヶ月ごとに起こる月食を1年の単位としていたため、聖書に異常に長寿な人物が現れたりする。歴史時代のバビロニア諸都市国家では、354日の12太陰月が季節とずれないように閏月を置き、さらに特定の穀物の収穫日をもって再調整していた。 
紀元前9世紀ごろ、それまで数百年の記録から、235朔望月が19太陽年になることに気付き、19年に7回の閏月を置くようになった。
 
ユダヤ暦
現在でも使われているユダヤ暦の置閏法は、ほとんどの太陰太陽暦と同じである。 
19年周期で3、6、8、11、14、17、19年目に30日の閏月を置く。1年の日数は、353,354,355日のいずれか、閏年は383,384,385日のいずれかである。午後6時から24時間の1日が始まり、1時間は3.3秒×1080の単位に分かれる。BC.3761年がユダヤ暦の創世記元年で、ユダヤ暦に239か240を加えると西暦に直せる。 
当初、月の名前は、現在の日本と同じように数字を当てはめていたが、BC.6世紀のバビロン捕囚以後は、ニサン、イヤル、シワン…のように、バビロニア月名が使われるようになった。ユダヤ人はバビロンとパレスチナに追われて、各地に離散したが、ユダヤ暦は長期の発展を遂げている。現在のものは、AD.921にバビロンとパレスチナのユダヤ人が、年始の繰り延べに関して大論争した時に決まったもので(決着はユダヤ教の法学者・サディア・ベン・ヨゼフの裁定によりバビロン側の勝利)、その後変わっていない。
 
ギリシャ暦
BC.5世紀アテネの天文学者メトンは、19年周期の暦を提案し、BC.432ごろにアテネで採用されたといわれている。メトン法は、中国では前6世紀の章法、BC.9世紀のバビロニア暦と同じ計算式を持つ、かなり正確な太陰太陽暦である。アテネの暦では、夏至の後にくる初めての新月を1年の始めに定めた。 
ただし、年代の呼び方が数字ではなく君主の名前などを使ったため、アレキサンダー大王の東征などで版図が拡大すると、不都合が生じた。ギリシャの歴史家は、諸外国との関係や歴史上の事跡を記述するため、すでに4年に1度開催されていたオリンピックを利用した。BC.776-AD.393まで千年以上も開催された競技会は、全ギリシャに共通して用いられる年月の尺度になった。この方法はオリンピアード暦としてかなり実用的なものだった。
 
古代からの暦
 

イスラム暦
太陰暦として現代に至るまで使われている希少な暦法。サウジアラビアやペルシャ湾岸の君主国では公式に使われ、一般のイスラム諸国では太陽暦との併用が行われている。BC.622予言者マホメットがメッカからメジナ(ヘジラ)へ入った年をヘジラ紀元・元年とする。1年は常に12太陰年で、30日と29日の月が交互にくる354日である。閏月がないので月の季節は年々変わっていって、32年半で元の月と季節の関係に戻る。ただし、朔望月の日数は整数ではないので、最後の月にときどき閏日をいれる。 
1日は前日の日没から始まる。9月のラマダーンは断食月で、イスラム教徒は断食の前に、肉眼で新月を見る必要があるとコーランに記されている。
 
マヤ暦
中央アメリカ全域で使われていたマヤ暦は、優れた計時(日・年)能力を持っていた。象形文字で表記される暦は、遺跡などではっきり確認できる。マヤ暦とアステカ暦は、ほぼ同じ形で文化圏全域で使われていたが、16世紀にスペイン人がグレゴリオ暦を持ち込むと、この古代暦は急速に姿を消した。 
基本となる暦は365日からなる太陽暦と、260日からなる祭祀暦の組み合わせだった。宗教儀式に使われるものは、1年は1から13までの数字に、20個の名前を組み合わせて260日で構成されていた。季節を数えるためのものは、20日×18月+5日=365日で、最後に付け加える5日間は非常に不吉な期間とされた。 
260日と365日の暦を組合わせると、52年で一巡する。暦は神の予言を伝え、日々の吉凶を占い、人々の運命を左右する神聖なもので、メソアメリカ全域の人が日々の行動指針を暦に求めていた。
 
日本の暦

暦の渡来
暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わった。大和朝廷は百済から暦を作成する暦法や天文地理を学ぶため僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられる。暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたった。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所で、暦と占いは分かちがたい関係にあった。 
平安時代、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい/921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになった。
日本書紀に、欽明天皇14年(553)百済から専門の学者とともに暦書を輸入したと記述される。持統天皇4年(690)国家としての暦法を定めたとある。以来、中国の暦が順次用いられ、清和天皇の貞観4年(862)唐の宣明(せんみょう)暦が採用され、その後、中国との国交が途絶えても823年間にわたって使われた。これは太陰太陽暦で、太陽暦の1年を二十四節気に分けたり、干支、五行、二十八宿などの星占いや迷信も同時に移入された。
当時の暦は「太陰太陽暦」または「太陰暦」「陰暦」と呼ばれる暦だった。1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち欠けする周期に合わせる。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいた。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わる。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなる。そのため、2〜3年に1度は閏月を設け13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節した。大小の月の並び方も毎年替わった。暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷やのちの江戸時代には幕府が監督した。太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続いた。
暦の普及  具注暦と仮名暦
陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていた。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれている。また、具注暦は「注」が具(つぶさ=詳細)に記入されているのでこの名がある。具注暦は、奈良時代から江戸時代まで使われたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっている。かな文字の普及によって、具注暦を簡略化し、かな文字で書いた仮名暦が登場した。鎌倉時代末期からは手書きでなく印刷された暦も現れ、暦はより広く普及した。
 
近世の改暦
江戸時代に入り天文学の知識が高り、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となり、江戸幕府のもとで暦を改めようとする動きが起きた。平安時代の貞観4年(862)から中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成し、800年以上もの長い間同じ暦法を使っていたため、実態と合わなくなってきていた。貞享2年(1685)渋川春海(1639-1715)によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められた。これを「貞享の改暦」と言う。江戸時代そのあと「宝暦の改暦」(1755)、「寛政の改暦」(1798)そして「天保の改暦」(1844)と4回の改暦が行われた。西洋の天文学を取り入れ、より精密な太陰太陽暦が作成された。江戸幕府の天文方が暦の計算を行い、賀茂氏の系統を受け継いだ幸徳井(こうとくい)家が暦注を付け加え、各地の出版元から暦が出版された。
5代将軍綱吉の頃、改暦の気運が高まった。宣明暦は1年を365.2446日としていたため、この頃になると日食や月食の予報も狂いだし、冬至が2日も早くなってしまった。江戸時代に入って天下も落ち着き、学問も盛んになり、当時の天文学者・渋川春海が元の授時暦を研究し改良案を練っていた。彼は独自の観測を続け、中国と日本の経度差を折り込み、日本版・太陰太陽暦の第一号を完成させた。何度も朝廷に上奏し、貞享暦として貞享2年(1685)に採用された。
この後、改暦の活動は断続的に明治まで続いた。8代将軍徳川吉宗は天文学に興味があり、治世下で優れた暦の誕生を図ったが、意図半ばで没した。この事業は継続され、宝暦5年(1755)宝暦暦の施行を見た。ただ、当時は暦学者に恵まれず、この暦が宝暦13年の日食を予告できなかったこともあり、評判は良くなかった。寛政10年(1798)天文家・高橋至時(よしとき)等が海外の文献などを研究し、精密な寛政暦を完成させ施行された。天保13年(1842)に実施された天保暦は、太陽年換算で365.24223という太陽暦とほぼ同じ優れたものだった。この天保暦は29年間使用され、明治6年(1873)グレゴリオ太陽暦にその座をゆずった。
 
生活と暦
はじめ暦は朝廷や貴族のものだったが、印刷された暦が出版されるようになり、多くの人が利用するようになった。農作業や商売にも季節や行事を知るために暦は必要だった。とくに太陰太陽暦では、毎年大の月、小の月の並び方が変わるので、代金の取り立てや支払いを月末にする商店にとってはどうしてもかかせないものだった。そのため、いろいろな暦が工夫され使われることとなった。
地方暦
京都で暦は出版されたが、暦の需要が増すと各地でも暦が出版され始めた。古いものは、鎌倉時代まで遡るといわれる「三島暦」(現在の静岡県三島市で出版)がある。また、「伊勢暦」(現在の三重県伊勢市で出版)のように伊勢神宮の神官である御師(おし)が全国に配ることにより、広く普及した暦もある。
絵暦(えごよみ)
現代と違い文字が読めない人が多かった時代に、絵だけで作られた暦が登場した。現在の岩手県で作成された「田山暦」と「盛岡絵暦」がある。
大小暦(だいしょうれき)
大の月、小の月の並び方を知るために登場した暦である。絵や文章の中に大の月、小の月を折り込み、アイデアやユーモアのセンスを競い、江戸時代に大流行した。
暦の形いろいろ
よく使う部分を残して簡略化した暦を「略暦」と言う。柱に貼ったり、小さく畳んで持ち歩けるようにしたり、日常的に使われた江戸時代のいろいろな暦が残っている。現在のカレンダーと同じように、商店が宣伝のために年末にお客に配るようになった。
明治の改暦
明治維新(1868)によって明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進めた。その中で、暦についても欧米との統一をはかり、明治5年(1872)11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表した。これによって明治6年(1873)から、太陰太陽暦に替わり現在使われている太陽暦が採用された。準備期間がほとんどなく、本来ならば明治5年12月3日が新しい暦では明治6年1月1日になってしまい国内は混乱したが、福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるための書物を著している。現在私たちが使っているカレンダーは太陽暦によるものだが、その中にも大寒、小寒など古来から太陰太陽暦で使われた季節を現わす言葉が残っている。
 
暦の中のことば
暦には通常、月、日、曜日、休日などが書かれている。しかし、そのほかにも昔の暦から受け継がれてきたことばが見られます。 
旧暦
旧暦という言葉は、単に昔の暦という意味で使用されたり、明治6年(1873)以降使用されている太陽暦(新暦と呼ばれる)への改暦以前の太陰太陽暦のことを呼んだりするが、一般には、最後に用いられた太陰太陽暦である天保暦を基にした暦を指すと言われる。現在でも、旧暦に合わせて祭りなどの行事が行われることがあり、旧暦による日付が入っている場合がある。  
暦注
昔の暦は1冊の本になっていて、方角の吉凶などの非科学的、迷信的な注が多く書かれていた、この注のことを暦注と言う。暦注に書かれたことばの多くは現在の暦からは消えてしまったが、干支(えと)、六曜(ろくよう)、二十四節気(にじゅうしせっき)や雑節(ざっせつ)など、現在の暦でも使われていることばもある。
月の長さ
カレンダーには1月のように31日ある月と、4月のように1日短い30日の月がある。また2月は28日で、4年に1回の閏年(うるうどし)には29日になる。1年を地球が太陽のまわりを1回転する期間とし、このように12ヶ月を設けるのは、古代ローマ以来の風習が伝わったものである。閏年は、地球が太陽のまわりを回る実際の期間は約365.24日なので、4年に1回調節を行わなければならないため。
大の月小の月
暦が7世紀はじめに伝わって、明治5年(1872)まで日本で使われていた暦は「太陰太陽暦」「太陰暦」「陰暦」と呼ばれる暦だった。太陰とは天体の月のことで、太陰太陽暦は1ヶ月を天体の月が満ち欠けする周期に合わせる。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいた。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.24日で、季節はそれによって移り変わる。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなる。そのため、2-3年に1度は閏月を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節した。毎年、次の年の暦を計算して決定するので大小の月の並び方も毎年替わった。
 
大小暦
毎年、月の大小の並び方、あるいは閏月を知ることは人々にとって非常に重要なことだった。月末に支払いや代金の取り立てをする商店では間違えないように「大」と「小」の看板を作り、月に合わせて店頭に掛けていた。暦がだんだん普及してくる中で、江戸時代には大の月、小の月の並べ方だけを示す「大小暦」、当時は「大小」とのみ呼ばれた暦が登場した。ただ大小の月を示すだけでなく、絵や文章の中に月の大小と配列を折り込み、工夫をこらして楽しむようになった。干支の動物などのおめでたい図柄や人気のあった歌舞伎から題材をとるなどさまざまな大小が作られ、年の初めには「大小会」を開いて交換したり、贈り物に配られたりした。江戸時代の貞享頃(17世紀末)から始まり、明和から寛政年間(18世紀後半)に最も流行した。有名な画家も「大小」を製作している。明治時代になり「太陽暦」になると「大小」は必要なくなり作られなくなった。
 
一月・睦月・むつき/お正月に一族や知り合いが、睦まじく集まる。 
二月・如月・きさらぎ/衣更着の転字、冬の衣服を着替える頃。 
三月・弥生・やよい/草木がいよいよ生い茂る。 
四月・卯月・うづき/卯の花の咲く季節。 
五月・皐月・さつき/文字はサツキツツジだが、本来は早苗の月、つまり田植えの季節。 
六月・水無月・みなづき/元の字は水之月で、田に水がある月。
 
七月・文月・ふづき/穂見月が転じたもので稲穂が出てくる月。 
八月・葉月・はづき/稲穂がますます盛んに出る月。 
九月・長月・ながつき/夜長月ともいい、イネが成熟期に入る。 
十月・神無月・かんなづき/神之月の変形、または神が天に去る月。 
十一月・霜月・しもつき/霜が降り始める季節。 
十二月・師走・しわす/極月の文字で、一年万事の終わり。
 
雑節
大寒や立春などの節気は中国で作られたので、日本の気候に合っていないものも多いが、日本で作られて日本の生活にマッチしているのが雑節である。 
節分/冬と春を分けるという意味で邪気祓いをする。 
八十八夜/立春から88日目で苗代つくりの季節。八十八は米の字も表す。 
入梅/梅雨に入り田植えの好適期。 
二百十日/経験的にこの頃は、暴風雨があることに気付き、江戸初期から暦に記されるようになった。 
土用/五行によって春夏秋冬の季節の末尾18日間を土用といい、立秋前の土用はうなぎで滋養をとる。
 
暦の出版権
昔の暦は縦・三段に分かれ、上段は幕府方で計算されたカレンダー部分、この内容が京都へ送られ土御門家で中・下段に吉凶・世俗信仰などが記入された。こうして完成した原稿が伊勢、京都、南都(奈良)、三島、江戸、会津などの、特定の版元の手に渡って暦が出版された。明治新政府は太陽暦の公布にあたって、過去の暦の中下段は迷信であって知識の発達を妨げるものだから、新暦に使ってはいけないとの詔書が添えた。
 
明治の改暦には、各地で出版権をめぐり軋轢がおきた。その紛糾を収めるため、明治16年に伊勢神宮が出版権を統括することとなり、昭和20年の大戦終了まで続いた。現在の暦編纂所は東京天文台で、各地の日出入時刻、月の朔望と出入時刻、二十四節気、雑節や日食・月食などが計算されている(出版権は自由)。
 
 
七曜と週
 

七曜
キリスト紀元の少し前であるが、占星術の方から7つの惑星の名前を、連続した日に周期的連続性を保たせながら結びつけることが行なわれた。この時代の惑星という言葉の中には太陽・月もふくまれる。当時の人が考えていた、地球からの距離の遠い順にならべると、土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月であった。それらはおのおの、連続する1時間ずつを順次支配するとされた。たとえばある日の第1時を土星とすると第2時は木星、第3時は火星、第4時が日…そして第7時が月という具合にである。第8時は再び土星、第9時が木星というように割付けると、第1日の最後の方は第21時が月、第22時が土、第23時が木で第24時が火となり、翌日の第1時は日となる。このような配当をずっと続けて、第1日から順に第1時の星をとると、土・日・月…という現在の七曜の順序になる。
七曜が文献にあらわれる最初は紀元前26年から30年の間に書かれたチブルウスという人の詩の中である。七曜は中国には唐の時代に伝わって、それから日本にも渡って来たものである。この曜日が毎日連続的に使用されているのは、「御堂関白記」と呼ばれる藤原道長の日記(998-1021)が最初である。この日記は「具注暦」に書きこまれていて、ここに出ている曜日は確かに現在私たちの使用している曜日とつながっていることは計算によって確認できる。しかし戦国時代から徳川の初めの頃、関東では間違った曜日が使われていた。つまり本当の木曜日の時に関東では日曜日としていたのである。この誤解は1685年、貞享暦採用とともに直された。
西暦前に考案された七曜は3世紀にはローマ世界でかなり普及し、やがて東方世界にも伝播した。しかしその伝播は決して早いものではなかった。インドには5世紀のころに伝えられたが、一般には使用されず、天文学者のあいだで行われただけで、広く民衆のあいだに行きわたったのは9世紀ごろといわれ。中国に仏教を通じて七曜が知られたのは、8世紀のはじめに義浄が訳した「仏説大孔雀呪王経」であったといわれ、これには七曜の名称が書かれている。しかし、中国にはそれ以前からペルシアに起ったマニ教を通じて七曜が伝わっていた。
七曜が日本に伝わったのは、806年に唐から帰国した弘法大師が唐の不空が編纂した「宿曜経」を招来してからである。
曜日の名前は東西ともに占星術によるものである。日本の七曜暦は惑星の位置を記した天体暦で、日と月、そして火星・水星・木星・金星・土星の、5つの惑星の運行を表した暦だった。七曜はかなり昔に中国から入り、998年に書かれた藤原道長の日記に曜日が記されている。明治の改暦にあたっても、その曜日名がそっくり太陽暦に移行された。
西洋の七曜は旧約聖書を起源とし、神が6日間で天地を創造し、7日目を休息したことから、仕事をしない安息日とした。SUNDAY(SUN)、MONDAY(MOON)、SATURDAY(SATURN)などは共通した曜日名である。
 

週は日数の人為的な区切り方で、天体の運行とは無関係である。おそらく商業が発達し、市が立つ日の間隔として使われたのではないかと推測されている、たとえば、西アフリカでは4日周期、中央アメリカでは5日、古代アッシリアでは6日。古代ローマでは8日(nundinae)、ユダヤの7日、インカ人は10日の週を使ったことが知られている。
古代ギリシアには週はなかったらしい。ローマ人は8日を1週間として生活していた。ローマ人がいつ、どんな理由から8日を単位にしたのか、またその後1週間を7日に変えたのかは明らかでない。7という数は、世界中のほぼいたるところで特別に扱われている。
「7」を神秘的な数とする風習は古代から世界各地にあり、ローマ人やサクソン人は1〜7の日に神々の名をつけていた。
 
現代に受け継がれる「旧暦」
 

暦は全部で3種類。現在は「太陽暦」が国際標準 
今回は新年を迎えての第1号ということで、暦についてのお話をお願いしようと、先生にご登場願った次第です。 
早速ですが、普段私達は当り前のように暦に従って生活をしているので、暦については良く知っているものと思っていました。しかし、先生のご著書を拝読して、ちょっと踏み込んでみると意外に知らないことが多く、その奥深さにびっくりしているところです。 そもそも、暦には今私達が使っている新暦と、明治初頭まで使われていた旧暦がありますよね。この2つはどこが違うのですか? 
おっしゃる通り、明治5年まで日本は旧暦を使っていましたが、グローバルスタンダードに乗り遅れてはいけないということで、欧米で使われていた新暦を使うことにしたのです。 新暦は「太陽暦」といって、ご承知の通り太陽の運行、つまり地球の公転を基準に作られています。正確には365・2422日で1周しますが、新暦では1年を365・2425日として、端数の0.2425日をまとめて4年に1回閏日を置いています。ただし、閏年に当る年でも「西暦が100の倍数であって400で割り切れない時」は、閏日は設けないことになっています。こうすることで、真の1太陽年との誤差を最大限無くしているのです。 
太陽暦はどこで作られたのですか? 
古代エジプトです。その後、古代ローマのジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が改良し、紀元前46年に「ユリウス暦」を制定しましたが、さらに正確性を持たせた現在のスタイルに改良したのは、ローマ教皇のグレゴリオ13世です。1582年のことです。 
だから新暦のことを「グレゴリオ暦」ともいうのですね。 
そうです。今、欧米を中心に世界のほとんどの国で使われているのは、このグレゴリオ暦です。 
では、旧暦は? 
「太陽太陰暦」といって、約2500年前に中国で作られたもので、日本には6世紀中頃に伝わってきました。これは、太陽暦と、月の満ち欠け(地球に対しての月の公転)を基準にした「太陰暦」とを組み合わせたものです。 まず、太陰暦を説明しますと、月の満ち欠けの周期は29日半で、それを1か月として1年を計算すると354日余りですから、太陽暦に比べて1年が11日短くなります。つまり、太陰暦を使っている国では、私達よりどんどん先に暦が進んでいってしまうわけです。 
現在は、どこの国が使っているのですか? 
イスラム諸国です。 
でも、どんどん先に進んでいくと、日付と季節が狂ってきますよね? 
はい。ですから、イスラムの世界には季節の行事というものがありません。ラマダンという断食の慣例がありますが、冬に行なう時もあれば、夏の時もあります。私たちの感覚ではちょっと理解しづらいのですが、季節との対応が全くないイスラムでは、それが1つの文化となっているのです。 
なるほど。では、その太陰暦と太陽暦を組み合わせた太陽太陰暦とは、どういう仕組みなのです? 
太陽暦との差が累積して1か月になった頃に「閏月」を設けて、そのズレを調整しているものです。 
しかし、ということは太陽太陰暦でも最大1か月は日付と季節がズレるということですよね。日本でも昔使っていたということですが、正確な季節が分らないと何かと困りませんか?特に農作業をする時は、種を蒔くにも苗を植えるにも適した時期があるわけで、それが分らないと失敗してしまいますよね。 
そこで、「二十四節気」という季節を表す目標を置いて、そのズレを補っていたのです。 
二十四節気といいますと? 
春分や秋分、夏至、冬至など季節の節目を表す言葉がありますよね? その総称です。これは、冬至を起点として1太陽年を24等分したものなんです(表参照)。 
どうやって1太陽年を測ったのですか? 
地面に柱を立てて、1年で一番影が長い日をチェックしたのです。何年も続けるうちに、約365日でその日が巡ってくることが分った。そこで、その日を「冬至」と名付け、起点にしたのです。 
なるほど。確かに分りやすい目印ですね。 
二十四節気はもともと中国の黄河中流域で作られたので、日本の気候とは多少ズレがありますが、それでもおよそ半月ごとの季節の変化を表す目印としては十分だといえます。
旧暦では「月」がカレンダー 
「旧暦」についてまとめますと、日付は月の満ち欠けで、季節は二十四節気で分るようになっていたということですね。 
そうです。 旧暦の良いところは、「今日は満月だから15日」というように、月の形で今日が何日だと分るところでしょう。いってみれば月がカレンダーなのです。そして、二十四節気を知っていれば季節が分る。種蒔きや田植えに適した日が、ちゃんと分るのです。 新暦になった今でも、旧暦時代の風習が残っていますが、季節にぴったり合わせるためには旧暦の日取りに従った方がいいものも多々あります。 
といいますと? 
例えば七夕がそうです。旧暦の七夕・7月7日は、現在の7月30日−8月28日頃に当り、ちょうど梅雨も明けて澄んだ夜空が広がる時期です。また、旧暦7日の夜は半月と決まっていますから、月明かりも少なく、夜11時頃に沈んでしまうので、星空がよく見える。 
しかし、今の7月7日は、たいてい梅雨の真最中で、しかも満月の場合もあるので、星が見えないことの方が多いですよね。これでは七夕の意味がありません。 
旧暦7月7日であればこその七夕だったのに、新暦になって「7月7日が七夕です」と固定してしまったために、こうしたことが起こったのですね。 
そうなんです。旧暦では、さまざまな慣習が、気候にぴったり合っているのです。 季節を知る目印としては、二十四節気をさらに細かく分けた七十二候というのもあるんですよ。 
それも中国で作られたのですか? 
元々はそうですが、当然日本と中国は気候が違いますから、72もの細かさに分けると、どうしても合わないものが出てきます。そこで、1685年に渋川春海という天文暦学者が日本の気候や風物に合わせてアレンジしたのです。 例えば「桜はじめて開く」なんて、いかにも日本的でしょう。 
そうですね。 そういえば七十二候以外にも、日本風にアレンジされたものがありますよね? 
「雑節」ですね。これは、気象の変化に迷信や風習が絡み合った、日常生活の中から生れた文化です。中でも八十八夜や二百十日、二百二十日なんかは、中国生れの二十四節気や七十二候ではどうもしっくり表現できない、日本独自の気候に基づいて作られたものです。 また、旧暦には日の吉凶を記した「暦註」もあります。おなじみの大安や仏滅といった「六曜」、一白水星とか二黒土星などの「九星」も暦註の1種です。 これらが実に楽しく組み合わさったのが、旧暦なんです。 
新暦へと改暦された今でも、二十四節気や六曜はしっかりと残っていますね。 それにしても、これだけの要素があると、カレンダーも大変ですね。当時のカレンダーはどうなっていたのですか? 
それがうまくできているんですよ。 まず、太陽太陰暦では、1年は354日ですから、30日の月と29日の月を交互に配置していました。それぞれ「大の月」「小の月」といいます。そこに、二十四節気や暦中などを細かく入れ込んでいたので、さながら1冊の本のようです。 
また、1年間の主な暦註を1枚の紙にまとめた暦もありました。私たちがカレンダーを見る時は、例えば「今日は1月20日だから大寒だ」という見方ですが、「今年の大寒は1月20日だ」という見方をしていたのです。 
ついでにいえば、正式な暦には載っていませんが、地域ごとの「自然暦」というのもありました。日本は地形が入り組んでいますから、隣同士の村でも微妙に気候が違うことがあります。そんな背景から、村落ごとの暦が生れたのです。 
中国で生れたものを生かしつつ、日本独自の風土をうまく取り入れてきた…。そういう意味では、暦は日本の風土が育んだ、素晴らしい文化だといえますね。 
それにしても、暦は知れば知るほど奥が深いですね。 
そうでしょう。実は私も、もともとは古代史の研究をしていたのですが、いつの間にかすっかり暦にはまってしまって…(笑)。今ではこちらが専門です。
 
自然の暦
 

太陰暦は日にちを数える手軽な方法だが、季節のサイクルに一致しない。農業が始まった頃、種を播き、肥料を施し、収穫をあげる時期を知るため、太陽暦がない人々は自然界の変化を利用した。植物の開花や、野鳥の活動などを季節のメドに、農作業の準備をしたり、また漁民は魚の回遊を予測した。
  
東北地方ではコブシの花を「種まき桜」という所が多く、苗代に種を播く季節に咲く。 
秋田県山本郡では、コブシの花を田打ち桜と呼ぶ。
 
春先の雪解けによって、山肌に描かれる絵模様も自然の暦である。長野県・白馬岳は、頂上の雪が消えて「代馬」になったとき、田の代かきを始めることからその名が付いた。山梨県北巨摩郡の農鳥岳の名は、雪が鳥の形に消え残っている時に、代かきを始めたことによる。宮城県栗駒山では、雪が坊主の形に残り、それを種まき坊主と呼んでいる。岩手・秋田県境の駒形山では、白馬の形が現れる時を種まきの時期としている。
 
日本は桜前線で見るように、春耕秋収の時期がズレるので「藤の花が咲いたらアワやヒエの種を播く」という風習が各地にあるのは、合理的なことである。 
伝承が文書化された会津農書(1684)に、種まき桜のほかに、田植えの頃に咲く卯の花を五月乙女花と記している。
 
秋田地方では、晩秋の雷鳴をハタハタ雷といい、遠雷が響く時にハタハタがとれるので一斉に出漁する。 
島根県では、麦わらの時期に鯛がとれるので、麦わら鯛という名がある。

  
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日本の時代区分

 

日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説はないが、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半-12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期-明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、太平洋戦争での敗戦をもって近代と現代を区分することもある。 
上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。 
一般によく知られている時代区分は、主として中央政治の所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は 中央政治の所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代・戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれている。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている。 
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化などとする区分もある。  
 
区分1

 

旧石器時代 
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。  
縄文時代 
約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んでおもに竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。栽培も行われ、後期から晩期にかけては稲作が行われた。南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。 
弥生時代 
紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。 
当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。 
古墳時代 
3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中ごろに機内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。 
4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。 
倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場によりヤマト王権による列島支配が強まり、一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。 
飛鳥時代 
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前半にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。 
7世紀中ごろの大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。 
奈良時代 
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。 
文化面では「日本書紀」「万葉集」「風土記」などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。 
平安時代 
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。 
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。 
奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、「源氏物語」・「枕草子」に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。 
鎌倉時代 
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。 
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。 
文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀ころからアイヌ文化が成立した。 
南北朝時代 
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。 
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。 
室町時代 
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。 
足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から[日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。 
戦国時代 
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。 
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えた。 
安土桃山時代 
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。 
秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。 
江戸時代 
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。 
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると、江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。この後幕府は、17世紀中葉までに、武家諸法度の発布や参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化をすすめ、社会の安定化に努めた。そうした中勃発した島原・天草一揆は、キリスト教禁止強化と幕府による管理貿易である鎖国の完成へとつながった。琉球王国と蝦夷地の支配も大名を通じて行なわれた。 
一方で、社会の安定化に伴い、耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらし、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。 
社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。18世紀に入ると幕府財政が慢性的に悪化し、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力は断続的に行われた(寛政の改革、天保の改革等)。この時期、都市町人を中心とする化政文化が花開いた。しかし、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化などを背景として、幕藩体制は次第に動揺していった。 
19世紀中ごろまでに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)により、幕藩体制は限界を迎えていた。同後半の黒船来航と日米和親条約締結を契機として、幕府の管理貿易体制(鎖国)は解かれ、結果として幕府の威信は低下し、朝廷の権威が増大した。幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、反発する薩摩藩、長州藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北し、瓦解した。 
江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。 
明治時代 
明治年間(1868年-1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けると、明治新政府を樹立した。新政府は天皇大権のもと欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。その過程で琉球王国や蝦夷地を日本領とし、現在の日本につながる国土の領域をほぼ確定した。新政府は不平等条約の改正を目指し、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治や韓国併合を行なった。 
文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来し、その有様は文明開化と呼ばれた。それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。 
大正時代 
大正年間(1912年-1926年)は大正時代と呼ばれる。日本は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになった。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動の結果、アジアで最初の普通選挙が実施され政党政治が成立したが、同時に治安維持法が制定され共産主義への弾圧が行われた。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。 
昭和時代 
昭和年間(1926年-1989年)は昭和時代と呼ばれる。大正期から続いた不景気が世界恐慌が直撃し、社会不安が増大した。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中華民国との日中戦争(支那事変)に発展した。これがアメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退し、日本はドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟結び、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入した。 
日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊戦に圧倒され、原子爆弾を投下されて太平洋戦争に敗れた。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、象徴天皇制、国民主権、平和主義などに基づく日本国憲法を新たに制定した。サンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。自民党と社会党の保革55年体制のもと、高度経済成長を経て経済大国の仲間入りを果たした。昭和末期にはバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。  
平成時代 
平成年間(1989年-)は平成時代と呼ばれる。昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、その後の長期にわたる不況は失われた10年と呼ばれ、経済面での構造改革が進められた。政治面では冷戦が終結した結果、自社両党による55年体制が崩壊し、非自民連立内閣が成立した。 
戦後一貫して進んできた文化・生活の多様化が、一層進展している。 
 
日本の元号 
飛鳥時代 645-715  
大化645-650 / 白雉650-654 / 白鳳? / 朱雀? / 朱鳥686 /大宝701-704 / 慶雲704-708 / 和銅708-715 
奈良時代 715-806  
霊亀715-717 / 養老717-724 / 神亀724-729 / 天平729-749 / 天平感宝749 / 天平勝宝749-757 / 天平宝字757-765 / 天平神護765-767 / 神護景雲767-770 / 宝亀770-781 / 天応781-782 / 延暦782-806 
平安時代 806-1185  
大同806-810 / 弘仁810-824 / 天長824-834 / 承和834-848 / 嘉祥848-851 / 仁寿851-854 / 斉衡854-857 / 天安857-859 / 貞観859-877 / 元慶877-885 / 仁和885-889 / 寛平889-898 / 昌泰898-901 / 延喜901-923 / 延長923-931 / 承平931-938 / 天慶938-947 / 天暦947-957 / 天徳957-961 / 応和961-964 / 康保964-968 / 安和968-970 / 天禄970-974 / 天延974-976 / 貞元976-978 / 天元978-983 / 永観983-985 / 寛和985-987 / 永延987-989 / 永祚989-990 / 正暦990-995 / 長徳995-999 / 長保999-1004 / 寛弘1004-1013 / 長和1013-1017 / 寛仁1017-1021 / 治安1021-1024 / 万寿1024-1028 / 長元1028-1037 / 長暦1037-1040 / 長久1040-1044 / 寛徳1044-1046 / 永承1046-1053 / 天喜1053-1058 / 康平1058-1065 / 治暦1065-1069 / 延久1069-1074 / 承保1074-1077 / 承暦1077-1081 / 永保1081-1084 / 応徳1084-1087 / 寛治1087-1095 / 嘉保1095-1097 / 永長1097-1097 / 承徳1097-1099 / 康和1099-1104 / 長治1104-1106 / 嘉承1106-1108 / 天仁1108-1110 / 天永1110-1113 / 永久1113-1118 / 元永1118-1120 / 保安1120-1124 / 天治1124-1126 / 大治1126-1131 / 天承1131-1132 / 長承1132-1135 / 保延1135-1141 / 永治1141-1142 / 康治1142-1144 / 天養1144-1145 / 久安1145-1151 / 仁平1151-1154 / 久寿1154-1156 / 保元1156-1159 / 平治1159-1160 / 永暦1160-1161 / 応保1161-1163 / 長寛1163-1165 / 永万1165-1166 / 仁安1166-1169 / 嘉応1169-1171 / 承安1171-1175 / 安元1175-1177 / 治承1177-1181 / 養和1181-1182 / 寿永1182-1184 / 元暦1184-1185 
鎌倉時代 1185-1134  
文治1185-1190 / 建久1190-1199 / 正治1199-1201 / 建仁1201-1204 / 元久1204-1206 / 建永1206-1207 / 承元1207-1211 / 建暦1211-1214 / 建保1214-1219 / 承久1219-1222 / 貞応1222-1224 / 元仁1224-1225 / 嘉禄1225-1228 / 安貞1228-1229 / 寛喜1229-1232 / 貞永1232-1233 / 天福1233-1234 / 文暦1234-1235 / 嘉禎1235-1238 / 暦仁1238-1239 / 延応1239-1240 / 仁治1240-1243 / 寛元1243-1247 / 宝治1247-1249 / 建長1249-1256 / 康元1256-1257 / 正嘉1257-1259 / 正元1259-1260 / 文応1260-1261 / 弘長1261-1264 / 文永1264-1275 / 建治1275-1278 / 弘安1278-1288 / 正応1288-1293 / 永仁1293-1299 / 正安1299-1302 / 乾元1302-1303 / 嘉元1303-1307 / 徳治1307-1308 / 延慶1308-1311 / 応長1311-1312 / 正和1312-1317 / 文保1317-1319 / 元応1319-1321 / 元亨1321-1324 / 正中1324-1326 / 嘉暦1326-1329 / 元徳1329-1331(大覚寺統)、1329-1332(持明院統)  
大覚寺統 / 元弘1331-1334  
持明院統 / 正慶1332-1333 
南北朝時代 / 室町時代 1134-1467  
建武1334-1336(南朝)、1334-1338(北朝)  
南朝(大覚寺統)  
延元1336-1340 / 興国1340-1347 / 正平1347-1370 / 建徳1370-1372 / 文中1372-1375 / 天授1375-1381 / 弘和1381-1384 / 元中1384-1392  
北朝(持明院統)  
暦応1338-1342 / 康永1342-1345 / 貞和1345-1350 / 観応1350-1352 / 文和1352-1356 / 延文1356-1361 / 康安1361-1362 / 貞治1362-1368 / 応安1368-1375 / 永和1375-1379 / 康暦1379-1381 / 永徳1381-1384 / 至徳1384-1387 / 嘉慶1387-1389 / 康応1389-1390 / 明徳1390-1394  
 
応永1394-1428 / 正長1428-1429 / 永享1429-1441 / 嘉吉1441-1444 / 文安1444-1449 / 宝徳1449-1452 / 享徳1452-1455 / 康正1455-1457 / 長禄1457-1461 / 寛正1461-1466 / 文正1466-1467 
戦国時代 1467-1573  
応仁1467-1469 / 文明1469-1487 / 長享1487-1489 / 延徳1489-1492 / 明応1492-1501 / 文亀1501-1504 / 永正1504-1521 / 大永1521-1528 / 享禄1528-1532 / 天文1532-1555 / 弘治1555-1558 / 永禄1558-1570 / 元亀1570-1573 
安土桃山時代 1573-1615  
天正1573-1593 / 文禄1593-1596 / 慶長1596-1615 
江戸時代 1615-1868  
元和1615-1624 / 寛永1624-1645 / 正保1645-1648 / 慶安1648-1652 / 承応1652-1655 / 明暦1655-1658 / 万治1658-1661 / 寛文1661-1673 / 延宝1673-1681 / 天和1681-1684 / 貞享1684-1688 / 元禄1688-1704 / 宝永1704-1711 / 正徳1711-1716 / 享保1716-1736 / 元文1736-1741 / 寛保1741-1744 / 延享1744-1748 / 寛延1748-1751 / 宝暦1751-1764 / 明和1764-1772 / 安永1772-1781 / 天明1781-1789 / 寛政1789-1801 / 享和1801-1804 / 文化1804-1818 / 文政1818-1831 / 天保1831-1845 / 弘化1845-1848 / 嘉永1848-1855 / 安政1855-1860 / 万延1860-1861 / 文久1861-1864 / 元治1864-1865 / 慶応1865-1868 
明治時代以降  
明治1868-1912 / 大正1912-1926 / 昭和1926-1989 / 平成1989- 
 
区分2

 

古代 
ヤマト王権が統一国家を形成しようとしていた6世紀には、倭王家の系譜を記す「帝紀」・倭国の神話を記す「旧辞」が、7世紀前半には厩戸皇子らによって「天皇記」が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した8世紀前半には、日本最初の正史である「日本書紀」が完成した。「日本書紀」は中国の正史の影響を強く受けており、天皇支配の正統性を強く訴え、皇位継承の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、「日本書紀」を含むその後の正史(いわゆる六国史。「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。 
正史である六国史の編纂は「撰国史所」などと呼ばれていた機関を中心に国家事業として行われたが、「日本三代実録」を次ぐ「新国史」の編纂が途中で中止されたのを最後に正史の編纂は行われなくなり、平安中期以降は官人らが政務処理に先例を参照するための歴史資料として「類聚国史」「日本紀略」「百錬抄」やその他各種の年代記が編纂された。以上の歴史叙述はすべて漢文体によるものだったが、平安後期になると、人間をあるがままに日本風に描くという国風文化の影響のもと、表現形式がより柔軟かつ豊富な和文体による歴史物語・軍記物語・説話集が多数記されるようになり、これらは、従前の正史的歴史観への新たな歴史的意味付けの所産であると解されている。代表的なものとしては、歴史物語では「栄花物語」「大鏡」「増鏡」などが、軍記物語では「平家物語」「太平記」などが、説話集では「今昔物語集」などがある。こうした作品により、武士や庶民へも歴史認識が広く流布することとなった。 
中世 
鎌倉時代以降の武家台頭に対し、危機感を募らせていた公家層を代表して、新たな歴史認識を示したのは慈円の「愚管抄」である。慈円は末法思想と「道理」をテーマとして国初以来の歴史を説き起こし、武家が大きな政治権力を握ったことを「道理」観念で合理的に理解しようとしており、同書をもって初めて歴史認識が明確に示されたとする見解もある。中世には仏教的な歴史意識が広まったが、それに対抗して神官の間では「日本書紀」神話の講読が盛行し、神道の立場を中心として神話と歴史を結合させる思想が起こった。これを背景として、中世中期には、北畠親房により神道的な神国思想をテーマとする「神皇正統記」が著された。また、中世のもう一つの歴史認識は、年中行事や有職故実などの儀礼を通じて歴史を考えるというもので、そのため、故実を伝えるための日記や各種記録文書が多数作成された。その影響で、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」も日記体をとっている。 
近世 
近世(江戸時代)に入ると、将軍家や大名家は権力を正当化するため、儒教思想を積極的に採用し、歴史の編纂を通じて自らの正当性を主張した。代表的なものに「武徳大成記」「本朝通鑑」「大日本史」などがある。儒教は本来合理的な思考を有しており、儒教思想の興隆は合理主義的な歴史叙述、例えば新井白石の「読史余論」「古史通」などとして結実した。これらの動きは実証的な歴史研究、すなわち18世紀の荻生徂徠や伊藤東涯らによる政治制度史研究へとつながっていき、あわせて国学へも大きな影響を与えた。近世期の合理的・実証的歴史認識の一つの到達点が富永仲基である。仲基は、仏教・儒教・神道といった宗教・思想も歴史的に変化してきたのであり、これらを絶対視するのでなく客観的に捉えるべきことを唱えている。こうした状況は、日本の歴史研究が近代的な歴史学を受容するための十分な素地を既に生んでいたと評価されている。一方、江戸後期には幕藩体制の矛盾と対外緊張の高まりの中、庶民の間でも歴史への関心が広がり、「日本外史」「皇朝史略」など通俗的な歴史書が多く出版された。 
近代 
幕末から明治維新にかけて、文明史など西欧の近代歴史学が一気に流入したが、特に進歩史観・進化史観が日本で急速に広まった。これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが田口卯吉「日本開化小史」や福澤諭吉「文明論之概略」などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進み、脱亜論と結びついていった。 
一方、明治政府の立場からは、天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史叙述が構築されていった。それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の新政・明治維新が最も重要な改革に位置づけられ、こうした国家主義的な歴史観はとりわけ歴史教育の現場へ積極的に導入されていった。これは前代の国学や尊王思想を背景とするもので、根底には「日本書紀」以来続いてきた日本の歴史の独自性を強調する考えが流れていた。このように、明治以降の歴史認識・歴史叙述には、2つの潮流-歴史に普遍性を見出す方向と日本の歴史の独自性を強調する方向-を見出しうるのである。 
明治20年に実証主義史学の祖ランケの弟子に当たるルードビヒ・リースが帝国大学に招聘された。リースは厳密な実証史学を指導し、いわゆる官学アカデミズムが形成されたが、史料考証を重んじすぎるという憾みがあった。明治末期には、ドイツ歴史学派の影響による発展段階説が唱えられ、またマルクス主義による唯物史観が紹介された。大正期に入ると、マルクス唯物史観が重んじる歴史法則性を強く否定視する歴史理論(カントやディルタイ)が紹介され、歴史哲学への関心を高める契機となった。この時期は社会経済史・文化史・思想史など幅広い分野に関心が拡がっていた。こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた(「神道は祭天の古俗」事件、南北朝正閏論争、天皇機関説事件など)。歴史学が実証主義を重視しすぎ、歴史認識や史学方法論を軽んじたことも国家主義的な歴史観の台頭を許す一因となり、昭和期に入ると国粋主義的な天皇を中心とする歴史観(皇国史観)や勧善懲悪史観が隆盛するに至った。 
現代 
第二次世界大戦後は、日本の歴史の独自性を主張する立場は大きく後退し、歴史に普遍性を見出そうとする社会科学的な立場が主流となった。その中でも実証主義史学と特に唯物史観史学の2つが主潮流をなした。国家主義的な歴史観のくびきから解かれた戦後史学は多くの重要な実績を残したが、実証主義には歴史哲学を軽視するという弱点が、唯物史観には教条的になりがちという弱点があり、1960年代後半頃からその限界が指摘され始めた。1970年代からは、戦後歴史学に対する反省と見直しが始まり、1980年代からは特に精力的な取り組みが加速していった。この時期からは、従来あまり顧みられていなかった民俗学や文化人類学などの成果を歴史学へ学際的に反映させる試みが積極的に行われている。これらの歴史研究の結果、人口に膾炙した歴史像を大きく覆すような成果が多数発表されており、網野善彦などがその代表として挙げられようが、反面、一般の間の歴史像と近年の研究成果との乖離が広がっていることも近年指摘され始めている。 
他方で戦後は歴史の大衆化が進み、海音寺潮五郎や司馬遼太郎など歴史小説の流行、または邪馬台国論争の隆盛のように歴史ブームというべき現象も起きており、学術的信頼性のない説(九州王朝説など)も一定の広がりを見せている。さらに、戦後大きく後退していた日本の歴史の独自性を強調する立場が、平成初年頃から自由主義史観と称してその主張を展開している。これらはいずれも歴史学と呼びうるレベルにはないが、一般の歴史に対する関心の反映として認識することができる。 
 
 
仏の時間

 

「劫」(こう) 
仏語。きわめて長い時間。一般に、天人が方四十里の大石を薄衣で百年に一度払い、石を摩滅しても終わらない長い時間といい、また、方四十里の城に芥子(けし)を満たして、百年に一度、一粒ずつとり去り芥子はなくなっても終らない長い時間という。 
 
仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位。サンスクリット語のカルパ(kalpa कल्प)の音写文字「劫波(劫簸)」を省略したものである。循環宇宙論の中で、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間と言われる。また、ブラフマー(仏教では梵天)の1日(半日とする説もある)に等しい。西洋では、まれにエオン(aeon)と意訳されることがある。 
 
大乗仏教の論書である「大智度論」には「1辺40里の岩を3年に1度、天女が舞い降りて羽衣でなで、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話が載っているが、これはあくまで比喩であって定義ではない。 
 
カルパを音写した劫波の略。「長時」「分別」「時節」と訳される。上下四方とも四十里の城に芥子粒を満たし、百年ごとに一粒を取り出し、すべての芥子を取り尽すに要する時間を一劫とし、芥子劫という。また、上下四方四十里の大盤石を天人が天衣をもって百年に一度ずつ払拭して、その大盤石が摩滅し尽すに至る間を一劫とし、盤石劫というのである。劫には小・中・大がある。(1)小劫:上述のように四十里四方の城と石をもって表されたのが小劫。(2)中劫:八十里四方の城と石。(3)大劫:百二十里四方の城と石をもって表される。カルパkalpa。空想的な時間を単位とする期間。ヒンドゥ教の世界観では、人間の四十三億二千万年を一カルパとするが、仏教徒の間では単に「想像も計算も超越した極めて長い期間」という漠然とした概念を示す。 
 
亀の甲より年の劫。これは「亀の甲」と「年の劫」との語呂をあわせた洒落であるが、年長者の智慧を尊ぶべきことの譬えである。齢とともに積んだ経験の貴さ、年功の大切さを言おうとするので「年の功」とも書くこともあるが、もとは「年の劫」である。 
仏教が説く時間のうちで最も長いのが「劫」であり、最も短いのが「刹那」である。最長の時間の単位である「劫」は、梵語のkalpa(カルパ)を「劫波」と漢語の音で写したのを略して用いているのである。では「劫」とは、どれほど長い時間であろうか。実は永遠と言ってよい程であり、我々の日ごろの経験的な時間の数では到底、言い表わすことはできない。そのようなとき仏教では比喩を用いる。仏典では、四十里四方の大石を、いわゆる天人の羽衣で百年に一度払い、その大きな石が摩滅して無くなってもなお「一劫」の時間は終わらないと譬えている。また、方四十里の城に小さな芥子粒を満たして百年に一度、一粒ずつ取り去り、その芥子がすべて無くなってもなお尽きないほどの長い時間が一劫であるという。この比喩を「磐石劫」「芥子劫」といい、 「雑阿含経」や「大智度論」など多くの経論に説かれる。さらに「劫」の永さを強調し、終わりのないくらいの長い歳月を「永劫」という。「無量寿経」に「兆載永劫」とあるように、これも仏教語である。ここから「未来永劫」とか「永劫回帰」などの言葉が生まれた。 
与謝野晶子に「劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という有名な歌がある。劫初とは「観無量寿経」に「劫初已来」とあるように、永遠の昔に世界が成立した当初のことである。無始已来、絶え間なく続けられてきた人類の営為である文化・芸術の偉大な殿堂に私も黄金の釘を一本打つように新しい活動をしたいという意気込みを示す感銘深い歌である。 
ところが、私たちは「劫初已来」「未来永劫」などと聞けば気後れする。このような心持ちのことを「億劫」という。長い時間の努力を億劫がり、煩悩のままに生きる私たち凡夫にとっての救いとは、常に如来の大悲に照らされていると気づかされ、感謝の生活を送ること以外にはない。 
 
梵語kalpaの意訳で佛教の言う非常に長い期間を言う、盤石(ばんじゃく)劫の一劫とは四十立方里の岩に天人が百年に一度舞い降りて衣の袖で岩面を一度なでる、その岩が磨耗するまでを一劫と言う。また芥子劫も有り芥子の実を百年に一度大きな城都に一粒ずつ落とし満杯になって一劫とする数え方もある。今現在の劫を賢劫と言い過去の劫を荘厳劫(そうごんこう)・未来劫を星宿劫と呼びこれを三世三千佛と言う、曼荼羅に登場する賢劫の千佛はここから由来している。阿弥陀如来は宝蔵菩薩時代に五劫の間修行して如来と成った。 
劫の分類は複雑で宇宙形成から壊滅までの劫を器世間と言い時間を単位とする物を歳敷劫という。 
無限大と言える過去に「錠光如来」が出現し、その後も如来が現れ53番目に「世自在王如来」が現れる、「宝蔵菩薩」は世自在王如来の弟子で師から210億の佛の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった。 
忘却と五劫 
阿弥陀如来は五劫思惟菩薩(ごこうしいぼさつ)の修行時代を経て、如来となられたそうである。3年(百年)に一度舞い下りる天女の羽衣に触れて岩が擦り切れるまでを劫(こう)と云う時間単位で表すそうであり、その五倍もの永きに亘る思惟の末、悟りを啓かれた阿弥陀如来であればこそ、親鸞曰く、他の如来が見捨てるような人間であっても阿弥陀如来は救って下さると説く。落語の「寿限無(じゅげむ)・五劫の擦り切れ(ごこうのすりきれ)」で有名であり、人間には忘却の言葉の方が良く似合っているようだ。 
仏教の「劫」 
劫には大劫(mahākalpa)と中劫(antarakalpa。中間劫、もしくは小劫とも訳される)の2種類がある。大劫がヒンドゥー教の劫に当たり、単に「劫」といえばほとんどは大劫である。ただしヒンドゥー教と違い、具体的な長さは特に決められていない。中劫とはその大劫を均等に80分割したものである。そのため、実際の長さははっきりしないものの、1大劫=80中劫である。大乗仏教の論書である 「大智度論」には「1辺40里(現代中国の換算比で20km。漢訳時も大きくは違わない)の岩を3年に1度(100年に1度という説もある)、天女が舞い降りて羽衣でなで、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話が載っているが、これはあくまで比喩であって定義ではない(他にも芥子粒のたとえなどがある)。なお、このたとえは落語 「寿限無」にも「五劫のすり切れ」として登場する。 
ヒンドゥー教の「劫」 
1劫(カルパ)=1000マハーユガ(mahayuga)、1マハーユガ=4ユガ(yuga)=神々の12000年(4つのユガは不等長で、1ユガ=神々の4800、3600、2400、1200年)、神々の1年=360太陽年とされている。つまり、1劫=43億2000万年である。なお、マハーユガを神々のユガ、あるいは単にユガということもあるため、1劫=1000ユガとする資料もあるが、同じ意味である。
 
億劫

 

現在、日常的に使われる億劫(おっくう)や永劫(えいごう)などの言葉は、この「劫」に由来する。億劫は本来「おくこう」と読むが、「おっこう」を経て「おっくう」に転訛したものである。これは百千万億劫の略語で、数式にすると100×1千×1万×1億となる。そのため、きわめて長く、ほぼ無限の時間を表すことから、一般的にわずらわしくて気が進まない様子を指して言うようになったものである。囲碁で無限に繰り返すパターンのうち最も簡単なものを劫と呼ぶ。 
億劫とは、面倒臭くて気が進まないこと(さま)。億劫は元仏教語で、非常に長い時間を表した。億劫の「劫」はサンスクリット語「kalpa」の音写で、古代インドで最長の時間の単位。「一劫」の長さは、100年に一度、天女が高い岩山に舞い降りてきて羽衣で頂上を撫で、その摩擦で岩山が消滅するまでの時間という、限りなく無限に近い時間を表す。この「一劫」の一億倍が「億劫」で、考えられないほど長い時間を表す。そこから、「億劫」は「時間が長くかかるためやりきれない」という意味や、計り知れない時間がかかることは容易ではなく面倒に感じることから、「面倒臭い」の意味で用いられるようになった。 
億劫の読みは「おくこう」であったが、促音化して「おっこう」となり、「おっくう」となった。 
 
なにが億劫かといって、仏教の時間の単位を覚えるほど億劫なことはない。たとえばこの「劫」という言葉、もともとはサンスクリットのカルパ(kalpa)の訳語だが、「大智度論 」巻五によれば、一辺が約十四キロ立方の岩に百年に一度天女が降りてきて、その羽衣と岩との摩擦によって岩がなくなってしまってもまだ一劫には及ばないという。また別な喩えもあり、同じく約十四キロ四方の城に芥子を充満させ、百年に一粒ずつそれを取り出して全部を取り出し終えてもまだ劫には満たないのだそうだ。 
一劫でさえこうなのだから、億劫となれば時間が長すぎてやりきれない。そんな先にしか結果がでないのでは面倒くさいしやる気にならない。そこで億劫はそういう意味になったのだろう。「おっこう」が転化して「おっくう」になった。 
だいたい、百年のあいだには天女の羽衣より風雨のほうが岩を侵食しやすいだろうし、芥子粒だって虫に喰われたり腐ったりしてしまうと思うのだが、その辺はどうなのだろう。 
現実の問題はややこしくて億劫だから、やはり純粋理論的に考えたということだろうか。理屈じたいあまりに現実味がないが、とにかく膨大な時間であることだけは分かる。 
さらにインドには「百千万億」とか「那由他」「阿僧祇」などという数量もあり、那由他は十の十数乗、阿僧祇は数十乗とされるが、経典には「百千万億那由他阿僧祇劫」なんてことも書いてある。 
億劫がらずに一劫を計算した人があり、それによればおよそ四十億年くらいらしいのだが、それならこの「〜〜〜劫」は何年ぐらいなのか。さすがにここまで来ると厳密なのかいい加減なのかも判らない。 
しかし約七十五分の一秒とされる刹那からこの劫まで、とにかくインド人の考えた時間はミクロでもマクロでも気が遠くなるほど幅広い。挙げ句に、彼らはゼロまで発見してしまったのである。 
明らかに、ゼロの発見と「色即是空」の「空」はどこかで繋がっているのだろうと思う。もしかすると、彼らは億劫な現実をすっきり表現するためにそれらを案出したのではないか。億劫がって何かを産みだした希有な例かもしれない。
 
天女の舞い降りた岩

 

有名な「寿限無」という落語に出てくる男の子に付けられた長い名前があります。 
「寿限無 寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶら小路のぶら小路 パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」 
「寿限無」とは寿(とし)が限り無いこと。「五劫の擦り切れ」も長い年月のことで、昔ある大きな岩の上に3年に1度天女が舞い降りたとき、羽衣の袖や裾が岩に触れます。たとえ固い岩でも、裾が触れたときほんのわづかだけ磨り減るだろうということで、何万回、何億回、それ以上限りなく触れられているうちに、大きな岩も磨り減ってなくなってしまうかもしれない、その長い年月を「一劫」と数えて、それが5回繰り返された期間が「五劫」というわけです。大げさではありますが、子供の長寿を願っての名前なのでしょう。(天女の降りた岩は四十里四方の大きなものともいいます。仏教の「磨石劫」という考えによるもの) 
君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌ならなむ  拾遺集 
特別な岩や石には、天女のほか、いろいろな神さまが舞い降りてきたという伝説が各地にあります。岩の上が神々の現れる場所にふさわしいものだったのでしょう。 
神々がその上に乗った岩は、磐船(いわふね)です。馬に乗って現れた神々も多いのですが、石の上に馬の蹄(ひづめ)の跡を残し、「馬蹄石(ばていせき)」と呼ばれます。神が鳥の姿に身を変えて降りた石の上には、鳥の足跡の窪みがはっきりと残っていたりします。神々が現れ、そこで神祭が行われたような場所が「磐座(いわくら)」です。 
源義経や弁慶が腰を掛けた石というのも全国各地にあります。西日本では菅原道真が腰を掛けた石というのが多いかもしれません。こうした伝説も、石の上に神々が現れた古い話を思い出し、そういった石そのものを貴んできた日本人の心が、伝説の人物に神に近い姿を感じ取って思い描いたものなのでしょう。 
「腰掛け石」の中には観光客が何度も腰掛けたような石もありますが、その石が擦り切れてなくなってしまうのがいつのことなのか想像もできません。
親鸞聖人様は、 
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり。(歎異抄) 
阿弥陀さまが、五劫という長い間思案されて、たてられた本願をよくよく考えてみると、それは、ただこの親鸞一人をお救いくださるためであった》とおっしゃっています。阿弥陀さまは、とても三年どころではありません。五劫というとてつもない時をかけてついに成就され、阿弥陀さまとなられて、今ここで私一人を救わんが為に働いて下さっているのです。そのご恩に感謝のお念仏を申させて頂きながら日暮をさせていただきましょう。
人として生まれることの得難さ 
仏典が示すところによりますと、われわれが住むこの地球が属する宇宙は、一つの小世界でありまして、それが千体集まって小千世界、その小千世界がまた千体集まって中千世界、さらにそれが千体集まって大千世界となり、これを総称して、三千大千世界と言っています。今日の科学からいいますなら、地球が属する太陽系天体は、銀河系宇宙の中にあって、銀河系宇宙の直径は約十万光年、厚さ約二万光年の円盤状で、その中に三百億以上の恒星があるといいます。しかもこのような宇宙は無数で、およそ百億ぐらいあって大宇宙を形成しているというのです。まさに広大無辺としかいいようがありませんが、その全大宇宙に、どれほどの生物が存在するのでしょうか。それは地球だけをとってみても無限無量といっていいでありましょう。釈尊は小指の爪の上に土を置かれて「大地の土とどちらが多いか」と阿難に尋ねられました。「もちろん大地の土が多いです。問題になりません」「そのように人間に生まれることは得難いのだ」と訓されたと「雑阿含経」は示します。また「涅槃経」にも「世に生まれて人となること難し、仏世に遇うことまた難し、尚大海の中にて、盲亀の浮木に遇うが如し」とあり、ご存知の有名な比喩であります。目の見えない亀が、大海に漂う丸太ん棒の穴に出くわすことが難しいように、人と生まれ、仏法に出会うことは得難いのだと。まさに「万劫にも受け難きは人身」でありますが、その人身を受けていながら、われわれはその喜びと救いに気づくことに、また、うといのであります。
かけがえのないいのちの喜び 
「万劫」「億劫」の劫とは、四十里四方の鉄の城に、芥子粒を満たし、百年に一度その芥子粒を一粒だけ外に出す。そのようにして、城の芥子粒がなくなっても劫という時間は尽きない。これを芥城劫といいます。もう一説ありまして、やはり四十里四方の石に百年に一度天女が降りてきて、舞い踊る。その羽衣で石がすりへって磨滅しても劫という時間は尽きない。これを磐石劫といいます。どちらにしましても劫という時間は、想像を絶する永遠の時間であります。それに万億がつくのですから、途方もない永遠の時間をかけても、人間に生まれることは得難いというのです。一つの微細な原始の生命が、人間に進化形成されるには、三十数億年を要したと科学者は説きます。そして、今日人類の数は五十億人といいますが、その一人は、五十兆もの生命細胞の調和集合体であるそうです。 
一口に「いのち」といいますが、科学者は植物的生命、動物的生命、精神的生命に分類します。人はこの生命の総合体でありましょうが、精神的生命細胞は百四十億あり、天才といえどもその全部を使ってはいないのだそうで、だから人間は無限の可能性を秘めているといっていいのであります。こうしてみますと釈尊は降誕されるや「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと伝えますが、この際限もなく広大な宇宙の中でも、人間に生まれたことは不可思議なことでありますし、その一人ひとりはまことに尊き存在であると思わざるを得ません。その心を以て世界を見ますれば、一草一木もすべて、かけがえのない存在であったと見て取れまして「光明寂照遍河沙」の思いを新たにするのです。 
そして、人間と生まれ、そのような心を持っていたことを喜ばざるを得ません。そのような人を、臨済禅師は、赤肉団上一無位の真人と呼ぶのであります。
 
十劫の成道

 

「舎利弗、阿弥陀仏は、成仏よりこのかたいまに十劫なり」 
極楽のご主人たる阿弥陀さまに就て説かれる最後は、阿弥陀さまは仏になられて以来、どの位経たれたのかということです。 
寿命無量のところで触れましたが、阿弥陀さまは報身仏であります。一言で仏さまと私たちは呼んでいますが、仏さまには三つの立場があります。一つには法身仏で、色も形もない真如そのものである仏さまです。二つには、報身仏で、因位の願行に報いて成就された仏さまで、今、ご本願を建て永劫の修行をされ、ご本願に酬報して、光明無量、寿命無量の徳を成就された阿弥陀さまはその代表であります。三つには応身仏と云いますが、これは衆生の機根に応じて、仮に穢土(娑婆)に出現された仏さまで、この世ではお釈迦さまがそれであります。また、法身仏は無始無終であり、報身仏は有始無終で、応身仏は有始有終と云われます。 
始めも無ければ、終わりも無く、因も無ければ、果もない、永遠の真理から、法蔵菩薩(因)と顕れ、阿弥陀仏(果)と成就された仏さまですから、阿弥陀さまには報身仏として、成仏された始めがなければなりません。また光明無量寿命無量の阿弥陀さまになられたのですから、終わりはないのは当然のことであります。そのことを有始無終と云うのです。親鸞聖人は「一念多念文意」に、このことを次のように述べておられます。 
「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり」 
法蔵菩薩が、始めて阿弥陀仏になられた時を示されたのが、この「小経」の文であります。 
劫とは、梵語カルパの音写で、インドの時間の単位です。極めて長い時間で、その長さを磐石劫とか芥子劫と云って譬喩で表されます。「大智度論」には四十里四方の石を、百年に一度ずつ薄い衣で払って、その石が摩滅しても劫は尽きず(磐石劫)、また四十里四方の城に芥子を満たして、百年ごとに一粒ずつ取り出して、すべての芥子がなくなっても劫は尽きない(芥子劫)と述べられています。この譬喩の石や城の大きさ、それに年数の示し方には諸説があります。私たちには考えられないような長い時間でありますが、しかし、無限ではありません。大谷光瑞猊下が計算されたということですが、それによると一劫は四億三千二百万年になるそうです。経文には十劫とありますから、その十倍ということになります。 
そして「いまに十劫なり」とありますように、今より計算して十劫の昔にということになります。この「今」は、お釈迦さまがこの「小経」をお説きになっている「今」なのであります。先に「いま現にましまして法を説きたまふ」とあった「今」と同じ時であります。このことを讃嘆されている「ご和讃」を私たちは良く聞いております。 
「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫へたまへり、法身の光輪きはもなく、世の盲冥をてらすなり」 
これは、「讃阿弥陀仏偈和讃」の第一首目にあるご和讃であります。 
ところが、「大経讚」には「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫とときたれど、塵点久遠劫よりも、ひさしき仏とみえたまふ」とあり、「諸経讃」には「久遠実成阿弥陀仏、五濁の凡愚をあはれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城には応現する」とあるのです。 
阿弥陀さまが、阿弥陀さまと成られた時のことを、「讃偈讃」には「いまに十劫をへたまへり」とありますが、「大経讃」では「塵点久遠劫よりも、ひさしき仏とみえたまふ」とあり、更に「諸経讃」には「久遠実成阿弥陀仏」と、断言されてあります。一体、阿弥陀さまは十劫成道の阿弥陀さまなのでしょうか、それとも久遠実成の「弥陀さまなのでしょうか。 
また、十劫という時を限れば、お釈迦さまより十劫以上昔の衆生は救われないことになります。十劫か久遠か、この問題について、真宗の各学派ではそれぞれの説を立てゝ解釈をしています。 
こゝでは、空華学派の鮮妙師の説を要略して、この問題を味わうことにします。鮮妙師は、十劫の十は満数で久遠に通ずるというような説を退けて、あくまでも十劫は限りある十劫とされます。では十劫以前の衆生はどうなるのかと云えば、十劫以前の衆生にも、その十劫前に報身仏となって下さった阿弥陀さまがあるというのです。ということは、衆生の一人一人に、五劫の思惟があり、四十八願を建て、永劫の修行をして阿弥陀となって下さることになります。だから一切の衆生を投網でからげ取るように救われるのではなく、一本釣りのように、私たち一人一人のために阿弥陀さまとなって救ってくださると云うのです。ですから、無量の衆生には、無量の阿弥陀さまがいらっしゃることになり、また、その無量の衆生は三世に無窮でありますから、発願成道も亦無窮でなければなりません。ここに私のための、私の阿弥陀さまがいらっしゃることになるのです。この説を数数成仏説と云います。
 
趙州問死

 

衆に示して云く、三聖と雪峰とは春蘭秋菊なり。趙州と投子とは卞璧燕金なり。無星秤上両頭平らかなり。没底航中一処に渡る。二人相見の時如何。 
挙す、趙州投子に問ふ、大死底の人却って活する時如何。子云く、夜行と許さず明に投じて須からく到るべし。 
三聖雪峰第三十三則三聖金鱗にあります、三聖慧然臨済の嗣、雪峰は徳山の嗣、大趙州は南泉普願の嗣、投子義青は太陽警玄の嗣、ともにこれ並ぶなき大宗旨と、春蘭に比するに秋菊、卞璧燕金軽重亡きこと双方比類なき宝、星のない秤世間の秤ではなくという、計るに計れないんでしょう、底なしの航海ですか、航は舟にエです、二人相見の時如何という、そりゃ行深般若波羅蜜多、彼岸にわたるに深浅ありと、ここに至って切磋琢磨、油断なき日々という、ちらともあればそれによって倒れるんです、転んでもただでは起きない日々ですか、大趙州でさえ投子に問うんです、大死底の人却って活するとき如何、死にゃ生き返るんですか、いいえ自分死ぬ分回りが生きるといえばいいか、あるとき有頂天あるときなんでもなくです、つまらないといってはその分面白かったりする、それはまた風力の所転、ですがそいつをよこしまにするなという、世間文人などの孤独ではない、ひとりよがりじゃないってことです。ここが仏教の断然仏教たるゆえんです、一生不離叢林、良寛対大古法にがきどもを以てする所以です、わかりますかこれ。そりゃ我無ければ他が為以外にはなく、あるいは自未得度先度他の故にですが、だからかくの如しじゃない、もってこれを回転です、でなくば臍を噛む思いですか。明に投じてすべからく到るべし、夜行を許さずの一点ゆるがせにせぬ覚悟です。なんでもありの悟ればマルというのは終わったんです、ただの人の200%日々是好日これ。 
頌に云く、芥城劫石妙に初めを窮む、活眼環中廓虚を照らす。夜行を許さず暁に投じて到る。家音未だ肯へて鴻魚に付せず。 
劫という長い時間を論ずるのに、一大城東西千里南北四千里、これに芥子を満たして、百歳に諸天来たって一を取る、芥子尽きるまでと、一大石あり方四十里百歳に諸天来たって衣に払う、石のすりきれて尽きるまでという、こっちのほうが一般的です、芥城劫石長い時間ですか、趙州六十歳再行脚という、我より勝れる者は三歳の童子といえどもこれに師事し、我より劣れる者は百歳の老翁といえどもこれに教示すと為人の所です、まさにこれより始まる、廓虚自分というものの失せきって行くありさまです、これなおざりにしちゃいかんです、できたと思ってもますますです、どこまで行ってもの感がありますよ、アッハッハ活眼環中上には上があるんですか、なにさ一生この事の他ないんです。夜行を許さず暁に投じて行く他ない道中、なんていうんだろこれ、裏を見せ表を見せて散る落ち葉、焚くほどは風がもてくる落ち葉かなでもいいです、たいていの人の持つ裏表、家庭の事情がないんです、鴻魚手紙で通信することです、うっふっふそういったこといらんのですよ。至道無難唯嫌揀択ただ憎愛なければ洞然として明白なり、余は明白裏にあらずという、すでに明白裏にあらずんばなんとしてか唯嫌揀択、云うことは云いえたり礼拝し去れという、趙州大趙州です。そりゃまっしぐら脇目も振らずの他ないんです。そうですよどんなに年食おうが遅いってことないんです、得られたことだけがあるんです、しからずんばまた生まれ変わって得て下さいってね。
 
「大智度論 」巻五

 

從阿僧祇劫已來發大誓願 
阿僧祇義。菩薩義品中已說。劫義佛譬喻說。四千里石山有長壽人。百歲過持細軟衣一來拂拭。令是大石山盡。劫故未盡。四千里大城。滿中芥子。不概令平。有長壽人百歲過一來取一芥子去。芥子盡。劫故不盡。菩薩如是無數劫。發大正願度脫眾生願名大心要誓。必度一切眾生斷諸結使。成阿耨多羅三藐三菩提。是名為願
阿僧祇劫よりこのかた、大誓願を発す。 
阿僧祇の義は、菩薩義品の中に、すでに説けり。劫の義は仏の譬喩して説きたまわく、「四千里の石の山に長寿の人有り。百歳を過ぐるごとに細軟の衣を持して、一たび来たりて払拭して、この大石山をして尽くさしむも、劫は故(もと)より未だ尽きず。四千里の大城を芥子にて中を満す。概(なら)して平らかならしめず。ある長寿の人、百歳を過ぐるごとに一たび来たりて一芥子を取り去る。芥子尽くれども、劫は故より尽きず。菩薩は、かくの如き無数の劫に大誓願を発して衆生を度脱す。願とは大心の、必ず一切の衆生を度して諸の結使を断ぜしめ、阿耨多羅三藐三菩提を成ずと要誓す、これを名づけて願と為す。 
■阿僧祇劫(あそうぎこう)/無量の時間を指す。
阿僧祇(あそうぎ、asaJkhya) 
無数と訳す。印度数目の一、無量数或いは極大数の意と為す。また阿僧伽、阿僧企耶、阿僧、僧祇等に作る。意訳して不可算計、或いは無量数、無央数と称するは、一阿僧祇には一千万万万万万万万万兆(万万を億と為し、万億を兆と為す)有るに拠る。印度の六十種の数目単位の中に阿僧祇を第五十二数と為す。
又言從種三十二相業已來。是名菩薩 
問曰。何時種三十二相業因緣 
答曰。過三阿僧祇劫。然後種三十二相業因緣 
問曰。幾時名阿僧祇 
答曰。天人中能知算數者。極數不復能知。是名一阿僧祇。如一一名二。二二名四。三三名九。十十名百。十百名千。十千名萬。千萬名億。千萬億名那由他。千萬那由他名頻婆。千萬頻婆名迦他。過迦他名阿僧祇。如是數三阿僧祇。若行一阿僧祇滿行第二阿僧祇。第二阿僧祇滿行第三阿僧祇。譬如算數法。算一乃至算百百算竟還至一。如是菩薩一阿僧祇過還從一起 
初阿僧祇中。心不自知我當作佛不作佛 
二阿僧祇中。心雖能知我必作佛。而口不稱我當作佛 
三阿僧祇中。心了了自知得作佛。口自發言無所畏難。我於來世當作佛 
釋迦文佛。從過去釋迦文佛到剌那尸棄佛為初阿僧祇。是中菩薩永離女人身 
從剌那尸棄佛至燃燈佛為二阿僧祇。是中菩薩七枚青蓮華。供養燃燈佛。敷鹿皮衣布髮掩泥。是時燃燈佛。便授其記。汝當來世作佛名釋迦牟尼 
從燃燈佛至毘婆尸佛為第三阿僧祇。若過三阿僧祇劫。是時菩薩種三十二相業因緣 
問曰。三十二相業何處可種 
答曰。欲界中。非色無色界。於欲界五道在人道中種。於四天下閻浮提中種。於男子身種非女人。佛出世時種。佛不出世不得種。緣佛身種。緣餘不得種 
問曰。是三十二相業因緣。於身業口業意業何業種 
答曰。意業種非身口業。何以故是意業利故 
問曰。意業有六識。是三十二相業。為是意識種。是五識種 
答曰。是意識非五識。何以故。五識不能分別。以是故意識種 
問曰。何相初種 
答曰。有人言。足安立相先種。何以故先安立然後能種餘相。有人言。紺青眼相初種。得此眼相大慈觀眾生。此兩語雖有是語不必爾也。若相因緣和合時便是初種。何必安立足為初 
問曰。一思種。為多思種 
問曰。幾許名一福コ 
答曰。有人言。有業報轉輪聖王。於四天下受福樂得自在。是名一福コ。如是百福成一相 
復有人言。作釋提桓因。於二天中得自在。是名一福コ 
復有人言。作他化自在天王。於欲界中得自在。是名一福 
復有人言。除補處菩薩餘一切眾生所得福報。是名一福 
復有人言。天地劫盡一切眾生共福コ故。三千大千世界報立。是名一福 
復有人言。是福不可量不可以譬喻知。如三千大千世界一切眾生皆盲無目。有一人能治令差。是為一福。一切人皆被毒藥。一人能治令差。一切人應死。一人能捄之令脫。一切人破戒破正見。一人能教令得淨戒正見。如是等為一福 
復有人言。是福不可量不可譬喻。是菩薩入第三阿僧祇中。心思大行。種是三十二相因緣。以是故。是福無能量。唯佛能知
また言わく、「三十二相の業を種えてより已来、これを菩薩と名づく」、と。 
問うて曰く、何の時にか三十二相の業の因縁を種うる。 
答えて曰く、三阿僧祇(あそうぎ)劫を過ぐして、然る後に三十二相の業の因縁を種う。 
問うて曰く、幾時をか阿僧祇と名づくる。 
答えて曰く、天人中のよく算数を知る者も極数はまた知ること能(あたわ)ず。これを一阿僧祇と名づく。一一を二と名づけ、二二を四と名づけ、三三を九と名づけ、十十を百と名づけ、十百を千と名づけ、十千を万と名づけ、千万を億と名づけ、千万億を那由他(なゆた)と名づけ、千万那由他を頻婆(びんば)と名づけ、千万頻婆を迦他(かた)と名づけ、迦他を過ぐるを阿僧祇と名づく。かくの如く三阿僧祇を数う。もし一阿僧祇行じて満つれば、第二の阿僧祇を行じ、第二の阿僧祇満つれば、第三の阿僧祇を行ず。譬えば算数の法は、一を算えて乃ち百百を算うるに至り、算えおわりて、また一に至るが如し。かくの如く菩薩は一阿僧祇を過ぎて、また一より起つなり。 
初の阿僧祇の中には、心に自ら、「われはまさに仏と作るべし、仏と作るべからず」、を知らず。 
二の阿僧祇の中には、心によく「われは必ず、仏と作るべし」、と知るといえども、口に「われはまさに仏と作るべし」、と称えず。 
三の阿僧祇の中には、心に了了と自ら「仏と作ることを得。」と知り、口に自ら言(ごん)を発して難を畏るる所無く、「われは来世に於いてまさに仏と作るべし」、とす。 
釈迦文仏は、過去の釈迦文(しゃかもん)仏より剌那尸棄(らなしき)仏に到るまでを初めの阿僧祇と為し、この中に菩薩は永く女人の身を離る。 
燃灯仏より毘婆尸仏(びばしぶつ)に至るまでを第三の阿僧祇と為す。 
もし三阿僧祇劫を過ぎれば、この時、菩薩、三十二相の業の因縁を種う。 
問うて曰く、三十二相の業は何処(いづく)にてか種うべき。 
答えて曰く、欲界中にして色と無色界には非ず。欲界の五道に於いては人道中に在りて種え、四天下に於いては閻浮堤中に種う。男子身に於いて種え、女人には非ず。仏の出世時に種え、仏、出世せざれば種うることを得ず。仏身に縁(よ)りて種え、余に縁りては種うることを得ず。 
問うて曰く、これ三十二相の業の因縁は身業口業意業に於いて、何業にか種うる。 
答えて曰く、意業に種えて身口の業には非ざるなり。何を以っての故に。この意業は利なるが故に。 
問うて曰く、意業には六識有り、この三十二相の業はこれ意識にて種うと為すや、これ五識にて種うるや。 
答えて曰く、これ意識にして五識には非ず。何を以っての故にか、五識は分別すること能わざれば、ここを以っての故に意識にて種うるなり。 
問うて曰く、何(いか)なる相をか初めて種うる。 
答えて曰く、ある人の言わく、「足安立相を先に種う。何を以っての故にか、先に安立し、然る後によく余の相を種う」、と。ある人の言わく、「紺青眼相、初めに種う。この眼相を得て大いに衆生を慈しみて観る 」、と。この両の語有りといえども、この語は必ずしも爾(しか)らず。もし相の因縁和合する時、便ちこれ初めて種うるなり。何んが必ずしも足を安立するを初と為さんや。 
答えて曰く、三十二の思いにて三十二相を種う。一一の思いにて一一の相を種うるも、一一の相は百の福徳にて荘厳するなり。 
問うて曰く、幾許(いくばく)をか一福徳と名づくる。 
答えて曰く、ある人の言わく、「ある業報は転輪聖王なり、四天下に於いて福楽を受け自在を得。これを一福徳と名づけ、かくの如き百の福にて一相を成すなり」、と。 
また、ある人の言わく、「釈提桓因と作りて二天中に於いて自在を得。これ一福徳と名づく」、と。 
またある人の言わく、「他化自在天王と作りて、欲界中に於いて自在を得。これ一福と名づく」、と。 
また、ある人の言わく、「補処の菩薩を除いて、余の一切の衆生の得る所の福報、これ一福と名づく」、と。 
また、ある人言わく、「天地の劫尽きんに、一切の衆生は福徳を共せんが故に、三千大千世界に報(ほう)立ち、これを一福と名づく」、と。 
また、ある人の言わく、「この福は量るべからず、譬喩を以って知るべからず。三千大千世界の一切の衆生、皆盲(めし)いて目(まなこ)無きに、一人有りてよく治して差(い)えしめば、これを一福と為すが如し。一切の人皆毒薬を被(こう)むるに、一人よく治して差えしむ。一切の人まさに死すべきに、一人よくこれを捄(あつ)めて脱(まぬ)がれしむ。一切の人戒を破り正見を破るに、一人よく教えて淨戒、正見を得しむ。かくの如き等を一福と為す 」、と。 
また、ある人の言わく、「この福は量るべからず、譬喩すべからず。この菩薩、第三阿僧祇の中に入りて心に大行を思い、この三十二相の因縁を種う。ここを以っての故に、この福はよく量る無く、ただ仏のみよく知りたもう 」、と。
劫(こう) 
梵にkalpaに作り、音訳して劫波、劫跛、劫簸、羯臘波に作り、意訳して分別時分、分別時節、長時、大時、時と為す。原、古代印度婆羅門教の極大時限の時間単位なり。仏教はこれに沿うて、これを視て不可計算の長大年月と為し、故に経論中に多く譬喩を以っての故に事に喩えてこれを顕す。婆羅門教の認むる所は世界はまさに無数劫を経歴すべしと為し、一説には一劫は大梵天の一白昼に、或いは一千時(yuga)、即ち人間の四十三億二千万年に相当し、劫末に劫火の出現有りて一切を焼毀し、また重ねて世界を創る、と。 
別の一説は則ち一劫に四時有りと為す、即ち(一)円満時(梵kRtayuga):一百七十二万八千年に相当す。(二)三分時(梵tretaayuga):一百二十九万六千年に相当す。(三)二分時(梵dvaayuga):八十六万四千年に相当す。(四)争闘時(梵kaliyuga):四十三万二千年に相当す。四者凡そ四百三十二万年なり。現に正しく争闘時に処すと称し、この外に上記の一劫四時の説法に拠り、婆羅門教は並びに四時を相い較べて、時間を上るにいよいよ形短少し、人類の道徳もまた日に疾かに低落すと為し、もし争闘時結束せば即ち劫末と為し、世界は即ちまさに毀滅すべし、と認む。 
仏教の時間に対する観念は、劫を基礎と為すを以って来たして、世界の生成と毀滅の過程を説き明かす。劫に関する分類は、諸経論に各種の説法有り、「大智度論巻38」によれば、劫に二種有り、一を大劫と為し、二を小劫と為すと云い、 「妙法蓮華経憂波提舎」は五種の劫に分く、即ち夜、昼、月、時、年なり。「大毘婆沙論巻135」には劫を以って中間劫、成壊劫、大劫の三種有りとし、「倶舎論巻12」には壊劫、成劫、中劫、大劫等の四種有りと為し、 「彰所知論巻上」には劫を分ちて中劫、成劫、住劫、壊劫、空劫、大劫等の六種有り、「瑜伽師地論略纂巻1下」には九種の劫有りと為す、即ち(一)日月歳数なり、(二)増減劫なり、即ちこれ饑、病、刀の小三災劫を称して中劫と為す、(三)二十劫を一劫と為す、即ち梵衆天劫なり、(四)四十劫を一劫と為す、即ち梵前益天劫なり、(五)六十劫を一劫と為す、即ち大梵天劫なり、(六)八十劫を一劫と為す、即ち火災劫なり、(七)七火を一劫と為す、即ち水災劫なり、(八)七水を一劫と為す、即ち風災劫なり、(九)三大阿僧祇劫なり。諸経論中にまた小劫、中劫、大劫の名目有るも、小劫、中劫は同じく梵語antara-kalpaの訳と為し、大劫は則ち梵語mahaa-kalpaの訳と為す。鳩摩羅什訳の法華経中は皆小劫と称し、法意訳する所の提婆達多品中は則ち中劫と称するも、二者は皆同じくantara-kalpaの訳と為す。また 「大楼炭経巻5」には刀兵等の三災を以って三小劫と為し、「起世経巻9」にはこれを称して三種の中劫と為し、「立世阿毘曇論巻9」には八十小劫を以って一大劫と為し、「大毘婆沙論巻135」には則ち八十中劫を以って一大劫と為し、これ等の差異は均しくantara-kalpaの異訳と視るべし。ただし 「大智度論巻38」に「またある人言わく、時節歳数を名づけて小劫と為す」と云い、また窺基の「瑜伽論劫章頌」に「日月歳時を小劫に収む」と云えるは、即ち日月歳時を名づけて小劫と為すの説にして、婆沙等の中劫とはその時量固より同じからず。これに依るに旧の小劫には自ら二種の別有るを知るべし。蓋し劫は時の時限を意味するものにして、その分類もまたかくの如く多種なりといえども、その中、長時の劫は多く世界の成立及び破壊等の経過に関連して説明せらるるを見るなり。前述の 「大毘婆沙論」等に劫を中間劫、成壊劫、及び大劫の三種とし、また「倶舎論」等に成劫、住劫、壊劫、空劫の四種となせるが如き皆その説なり。就中、「大毘婆沙論巻135」に中間劫にもまた減劫、増劫、増減劫の三種有りとし、就中、減劫とは人寿無量歳より減じて十歳に至る間を云い、増劫とは人寿十歳より増して八万歳に至る間を云い、増減劫とは人寿十歳より増して八万歳に至り、また八万歳より減じて十歳に至る間を云うとす。蓋しこの三種の劫は、住劫二十中劫の差別を示せるものにして、 「大毘婆沙論巻135」に「成じおわりて住の中に二十中劫あり、初の一は唯減、後の一は唯増、中間の十八は亦増亦減なり」と云い、「倶舎論巻12」には「この洲の人寿は、無量時を経て住劫の初に至りて、寿はまさにようやく減じ、無量より減じて極十年に至るを、即ち名づけて初の一住中劫と為す。この後の十八は皆増減あり、謂わく十年より増して八万に至り、また八万より減じて十年に至る。爾るを乃ち名づけて第二の中劫と為す。次後の十七も例して皆かくの如し。十八の後に於いて、十歳より増して極めて八万歳に至るを第二十劫と名づく。一切の劫増は八万を過ぐることなく、一切の劫減は唯極十年なり」と云えり。これに依るに住劫二十中劫の中、初の第一劫は即ち減劫、後の第二十劫は即ち増劫、中間の十八劫は即ち増減劫なるを知るべし。ただし劫の時量は各中劫に相い等し。即ち初の減劫は有情の福勝るるが故に下ること極めて遅く、後の増劫は有情の福劣るが故に、上ること極めて遅く、中間の十八は上下交も遅疾あるが故に、この三劫の量は相い等しと為す。これ所謂小乗の説なり。またもし 「瑜伽師地論巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」、「瑜伽師地論略纂巻1」等に依らば、大乗は二十中劫の各劫に皆増減有りと立て、故に必ずしも「大毘婆沙論」の所説の三種の劫の如くあらずして、即ち各中劫を以って唯一の増減劫と為すなり。別に 「優婆塞戒経巻7」の所説の如きは、十歳より増して八万歳に至り、八万歳より減じて十歳に至り、かくの如く増減すること十八反を満たすを称して中劫と為すと、これ一種の異説なり。またこの中劫の中には定んで皆三災現ずることあり、三災とは刀兵災、疾疫災、饑饉災なり、これを小の三災と名づく。然るに災の現ずる時限等に就きては異説あり。 「大毘婆沙論巻135」に依るに、各中劫の中に劫現じ、人寿極十歳に至る毎に乃ちこの三災現ず。就中、刀兵災とは、その時の人心に瞋毒増上して相い見れば則ち猛利の害心を起し、手に随って執る所皆利刀なり、各兇狂を逞しくして互いに相い残害するを云う。七日七夜にして即ち止む。疾疫災とは、刀兵災の後、非人毒を吐いて疾疫流行し、遇えば輒ち命終して救療し難きを云う。七月七日七夜にして即ち止む。饑饉災とは、疾疫災の後、天龍忿恚して甘雨を降さず。これに由りて饑饉し、人多く命終するを云う。七年七月七日七夜にして即ち止むと云えり。 「雑阿毘曇心論巻11」、「倶舎論巻12」等また皆これに同じ。但し「瑜伽師地論巻2」に依るに、災の時日は婆沙等に異ならざるも、人寿三十歳の時に倹災(即ち饑饉災)起り、二十歳の時に病災起り、十歳の時に刀災起るとなせり。これ共に、一劫中に三災並び起ると為すの説なり。然るに 「立世阿毘曇論巻9」には住劫二十小劫の中、第一劫現じ、人寿十歳の時に大疾疫災起り、第二劫人寿十歳の時に大刀兵災起り、第三劫人寿十歳の時に大飢餓災起り、共に七日にして一時に息滅す。乃至かくの如く一劫の中に次第に一災起る。今は第九の滅劫なるが故にまさに大飢餓災起ることあるべしと云えり。これ一劫一災の説なり。もし婆沙等の如く一劫中に三災並び起ると説かば、住劫二十中劫は各尽く小三災劫なり。もし立世阿毘曇論の如く別劫に次第に一災起ると説かば、第一劫は疾疫劫(rogaantara-kalpa)、第二劫は刀兵劫(zastraantara-kalpa)、第三劫は饑饉劫(durubhikSaantara-kalpa)、乃至第十九劫は疾疫劫と称すべし。住劫にかくの如く二十中劫あり、壊劫、空劫、成劫にもまた各二十中劫あり、合して八十中劫なり。ただし壊、空、成の三劫には増減の別無しといえども、而もその時量は住劫と等しきに由り、彼に準じて各二十中劫と為すなり。またこの八十中劫を名づけて一大劫と称す。一大劫は即ち成、住、壊、空の四劫を総括し、世界の一始終の期間なり。壊劫の時、器世間壊し火、水、風等の三災有り、称して大三災と為し、以って前説の小三災に別す。その中、火災は七日輪の出現するに由りて起る。風猛焔を吹いて、初禅以下は尽く焚焼を被る。水災は雨霖に由りて起り、第二禅以下は悉く浸没を被る。風災は風の相い撃つに由り起り、第三禅以下は悉く飄散を被る。その次第は初に火災を以って壊滅すること七回、また水災を以って壊滅すること一回、水災の後また七火あり、かくの如き水災の七次を満たして、更に七火起り、この後一風災起りて、第三禅以下の器世界は等しく飄散を被り、総計して八次七火災、一次七水災、一次風災あり、即ち所謂六十四転大劫なり。かくの如く初禅以下の器世界は一大劫を経る毎にこれを壊し、第二禅は八大劫毎にこれを壊し、第三禅は六十四大劫毎に一たびこれを壊す。色界中、第四禅のみは三災の為に壊せらるることなし。この故に、初禅大梵天の寿量は六十中劫即ち一大劫(空劫二十劫を除く)、第二禅天の寿量は八大劫、第三禅天の寿量は六十四大劫なり。また大劫を累ねて十百千と為し、乃至積んで阿僧祇の数に至るを一阿僧祇劫(asaJkhyeya-kalpa)と名づけ、また積んで三に至るを三阿僧祇劫と名づく、但しその計量に関しては異説あり。 「大毘婆沙論巻177」には四説を挙げ、一説は中劫を積んで阿僧企耶に至るを一阿僧祇劫となすと云い、一説は成劫を積むと云い、一説は壊劫を積むと云い、かくの如き説者は今の如く大劫を積むと云えり。また 「菩薩地持経巻9」には「劫に二種あり、一には日月昼夜時節歳数無量なるが故に阿僧祇と名づく。二には大劫無量なるが故に阿僧祇と名づく」と云えり。この中、後説は婆沙の正義に同じく、前説は歳数劫に亦して説けるものなり。蓋し通論するに、劫の時限は悠久にして算数を以ってこれを計ること難し。故に 「長阿含経巻21三災品」に「四事あり、長久無量無限にして日月歳数を以って称計すべからざるなり。云何が四と為す。一には世間災漸く起り、この世を壊する時、中間長久無量無限にして日月歳数を以って称計すべからず。二にはこの世間壊しおわりて中間空曠にして世間あることなく、長久逈遠にして日月歳数を以って称計すべからず。三には天地初めて起りて向に成ぜんと欲する時、中間長久にして日月歳数を以って称計すべからず。四には天地成じおわりて久住して壊せざるを日月歳数を以って称計すべからず」と云えり。これ即ち成、住、壊、空の四劫の長久無限なるを説けるものなり。また 「雑阿含経巻34」には芥子劫盤石劫の説を出だせり、即ち「譬えば、鉄城あり、方一由旬にして、高下もまた爾り、中に芥子を満つ。人あり百年に一芥子を取りてその芥子を尽くすもなお竟らざるが如し 」と云い、また「大石山の不断不壊にして、方一由旬なるが如き、もし士夫あり、迦尸(kaazi)の劫貝を以って百年に一たび払い、これを払うてやまず、石山ついに尽くるも劫はなお竟らず」と云えるこれなり。 「大毘婆沙論巻135」、「大智度論巻5、38」等もまたこの譬喩を引けり。この中、前者を芥子劫(sarSapoopama-kalpa)と名づけ、後者を盤石劫(parvatoopama-kalpa)と名づく。更に種種の劫の説明あるもここに挙げず。
大迦葉復言。佛問汝。若有人四神足好修。可住壽一劫若減一劫。佛四神足好修。欲住壽一劫若減一劫。汝默然不答。問汝至三。汝故默然。汝若答佛佛四神足好修。應住一劫若減一劫。由汝故。令佛世尊早入涅槃。是汝突吉羅罪。阿難言。魔蔽我心。是故無言。我非惡心而不答佛
大迦葉、また言わく、「仏は汝に問いたまわく、「もしある人、四神足を好く修むれば、寿に住まること一劫、もしくは減一劫(げんいっこう)なるべし。 」と。仏は四神足を好く修めたまえば、寿に住まること一劫、もしくは減一劫ならんと欲したまえり。汝、黙然として答えざれば、汝に問うこと三たびに至りたまえるも、汝は故(ことさら)に黙然せり。汝、もし仏に答うるに、 「仏は四神足を好く修めたまえり」、とせば、まさに住まりたもうこと一劫、もしくは減一劫なるべし。汝に由(よ)るが故に、仏世尊をして早く涅槃に入らしめたり。これ汝が突吉羅罪なり 」、と。阿難が言わく、「魔がわが心を蔽(おお)えり。この故に無言なりき。我は悪心もて仏に答えざるには非ず」、と。