周期 繰返し

 

歴史に記された教訓三顧の礼臥竜に学ぶ梟雄とジャングル法則 
 
【コンドラチエフの波】18世紀以来の物価・利子率・生産量などの動きにみられる50〜60年を周期とする波動。理論を主張したコンドラチエフの名。 
【時間】時刻と時刻との間。ある長さの時。古典物理学では空間から独立した絶対時間として扱ったが、相対性理論では空間とともに四次元の世界を形成するものとして扱う。 
【時間】物理学で地球の自転の周期を測定して得た単位。最近ではセシウム133の同位元素の発光する特殊なスペクトル線の振動周期を基準とする。 
【サイクル】(cycle)振動、周波数の単位、現在はヘルツを用いる。周期。物体がある状態から一定の変化をたどり再び元の状態にもどる。景気などが一定の周期で繰り返し循環する。 
【バイオリズム】(bio-rhythm)生命の活動を通して肉体・感動・知性などにあらわれる一定の周期をもった律動。
【年輪】樹木の幹の横断面(木口)にみられる同心円状の輪。形成層の活動は外界の状態に影響され、気温年較差の大きい温帯などに生育する樹木では年を単位とする周期性があり材部に粗と密の輪縞ができる。 
【黒点】太陽面の黒い斑点、太陽面より温度が低いため黒く見える。寿命は数時間から数か月、約11.1年周期で増減する。強い磁場があり活動は地球の磁気あらしやオーロラ活動の原点となる。 
【御蔭参】御蔭年に伊勢神宮に参拝する。江戸時代以降間欠的におこった大群衆の伊勢参りをいう。お蔭(恩恵)のいただけるありがたい年としてお蔭年の観念が発生し約60年を周期として顕著にあらわれた。季節は3月ごろが多かった。疫病などがなおったことを感謝して神社仏閣に参詣する。お礼参り。
【周期】ひとめぐりの時期。ある現象が一定時間ごとに同じ変化を繰り返すとき、その一定時間をいう。 
【循環】めぐりめぐってもとの所へと還ること。 
【サロス周期】(Saros)ある場所で観測した日食・月食が再び同じ場所に同様の形であらわれるまでの循環の周期。周期は18年11.3日。
【性周期】発情周期または月経周期のこと。 
【パルス】(pulse)急激に立ち上がり短い継続時間でまた急激に降下するような波形の電圧または電流。 
【メトン周期】(Meton)19太陽年または235太陰月。古代ギリシアの天文学者・数学者メトンが、6940日で月相と季節との関係が循環することを発見した。 
【交流】人が互いに行き来すること。異なる地域・組織に属する人人の間の行き来を言う。電流の強さと流れる向きが周期的に変化する電流。 
【潮位】基準面からの海面の高さ。 
【楽音】楽器の音。楽器の音のように定まった音の高さの感覚を与え、一定の周期をもって振動がある時間継続して起こるような音。高さ、強さ、音色など耳で識別される三要素をもつ。
【繰返】同じことを何度もする。反復。 
【繰り返す】一度繰った糸などをまた繰る。同じことを何度も行なう。 
前轍を踏む 前の人の失敗を後の人が無反省にくりかえす。 
【呪文・咒文】修験場、陰陽道などで唱えるまじないの文句。超自然の力をよびおこし直接に問題を解決できると信じられた一定の文節や無意味な音節のくりかえし。 
【再三再四】 再三を強めていう。 
【幾重】いくつかかさなっている。 
幾重にも 何度もくりかえして。かさねがさね。相手にひたすら深く頼む気持を表わす。 
【千度祓】せんどばらい。神道行事として行う祓の一方式。中臣祓(なかとみのはらえ)などの祓のことばを千度くりかえし唱える修法で多人数が同時に行うのを常とし、十人ならば百遍、百人ならば十遍をもって千度祓とする。
【輪廻生死】三界六道の迷いの世界に流転して生死をくりかえす。
【六道】すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上。六観音・六地蔵・六道銭・六道の辻などはこれに由来する。六趣。 
【六道輪廻】一切の衆生が六道の世界に生死をくりかえして迷い続けること。流転輪廻。六趣輪廻。六趣輪。 
【習う・慣らう・馴らう・倣う】慣から派生。何回もくりかえして常のことになる。 
【旋頭歌】頭(上三句)を旋(めぐら)すくりかえす意で和歌の歌体の一つ。五・七・七・五・七・七の六句からなる。本来は歌垣などの民謡の場で、五・七・七形式の片歌が二人によって唱和されていたものが、後に一人によって歌われるようになって成立した歌体。民謡的色彩の濃いものが多く和歌が口唱性を捨てて個人の文学として確立していくにつれて衰退。 
【数奇】すうき(数は運命、奇は不遇の意)運命のめぐりあわせが悪い。不運不幸を繰返す。
【流】水などが自然に低い方へと移動すること。杯に残る酒のしずく。時の経過や物事の移り変わり。また、大勢の人が通りを往来するさま。血統や系統。技芸などの流儀流派。質物を受け出す期限が切れて所有権がなくなること。あてもなくさすらうこと。定めない境遇。催し物、会合、計画などがやめになること。中止。会合、催しなどの終了後、数人で別のところへ行くこと。
【廻・回・巡】かこみ。周囲。ある物のまわりを移動すること。一定の順序でまわること。回転。循環。 
【巡り合う・回り合う】周囲をめぐって出会う。別れ別れになっていた人がめぐりめぐって再び出会う。あれこれと遍歴したあとで出会う。 
【七巡・七回】七度めぐること。幾度もめぐること。 
【仕合・幸】めぐり合わせ。運命。機会。よい場合にも悪い場合にも用いる。幸運であること。また、そのさま。 
【三廻・三囲】みめぐり。三回めぐること。七日間の三倍。二一日間。七日間を一区切として「ひとまわり」というところから言う。 
【三囲神社】みめぐりじんじゃ。東京都墨田区向島二丁目にある神社、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。江戸時代の俳人、宝井其角が雨請いのために、「夕立や田を見めぐりの神ならば」の句を神前にささげたところ、たちまち雨が降ったという伝説がある。
【地獄巡】温泉地などで絶えず煙や熱湯などが噴出している所をめぐり歩くこと。 
【出合・出会】出て会うこと。出席すること。対面。面会。偶然に会うこと。めぐりあうこと。めぐりあい。ある人と会ったはじめ。男女がしめしあわせて会うこと。密会。つきあい。交際。知りあい。 
【御詠歌】霊場めぐりの巡礼や浄土宗の信者が鈴を振りながら哀調を帯びた節まわしで声を引いて歌う、仏の徳などをたたえた歌。 
情けは人の為ためならず 情を人にかければ巡りめぐって自分にも善い報いが来る。 
【周忌】しゅうき。人の死後、満一年目の忌日。人の死後、毎年めぐってくる忌日。 
【斎日・忌日】いみび。神に仕えるため汚れを避け慎むべき日。陰陽道などで災いがあるとして慎む日。縁起の悪い日。
【忌日】きにち。命日。 
【正日】しょうにち。人の死後喪にはいって四九日目の日。一周忌の当日。毎年の命日。 
【祥月】しょうつき。人の死後一周忌以降の死去した月と同じ月。元来は正月と書いたが紛らわしいので中国の小祥・大祥の祥の字を借りた。祥月命日の略。 
【祥月命日】人が死んだ月日と同じ月日。正忌(しょうき)。正忌日。忌辰(きしん)。 
【時世時節】ときよじせつ。その時その時のめぐりあわせやうつりかわり。 
【天命】天の命令。天が人間に与えた使命。天のめぐりあわせ。天道。 
【天運】天から授かった運命。自然のめぐりあわせ。
【生死硫転】しょうじるてん。生死を重ね絶えることなく三界六道の迷界を果ても無く巡る。 
【蛟竜】こうりょう。時運にめぐり会わず実力を発揮し得ない英雄や豪傑をたとえていう。 
【幸運・好運】よいめぐりあわせ。幸福な運命。しあわせ。高運。 
【因果】原因と結果。一切の現象の原因と結果の法則。仏教では、六因、四縁、五果を以て一切の因果関係を説明する。因果応報。不幸。不運。ふしあわせ。 
【青春】人生の春にたとえられる若くはつらつとした時代。青年時代。
【遊行】ゆぎょう。僧侶が衆生教化や修行のために諸国をめぐり歩くこと。行脚。 
【旬】中古、朝廷で行われた年中行事の一つ。毎月1日11日16日21日に天皇が臣下から政務をきく儀式。始めは毎月行われ後に4月1日と10月1日だけとなり、4月を孟夏の旬、10月を孟冬の旬と称し合わせて二孟の旬という。この日、司奏・監物奏・六府番奏・少納言庭立奏などの諸官の奏、歌舞、賜禄などの事があり、孟夏の旬には扇、孟冬の旬には氷魚を賜るのを例とした。魚介・果物・野菜など季節の食物が出盛りの時。物がよく熟した時節。最も味がよい季節。物事を行うのに最も適した時期。最も盛んな時期。
 
歴史に記された教訓

 

歴史から学ぶべき事は多い。歴史に学ぶ事は、決して閑人(ひまじん)の道楽ではない。人類が生きて行く上では、歴史こそ大切な、最も価値ある「教訓集」である。ところが、この「教訓集」を否定する人が居るかも知れない。 
それは、「歴史」という過去の出来事が、単に事件の事例であり、これから先、人類が遭遇するであろう未経験な事態には、全く役に立たないと決め付けている理由によると思われる。 
だが、こうした考えは間違っている。 
確かに歴史を振り返れば、十八世紀以前には、原始共産制(【註】階級分化以前の原始社会に存在したと推論される社会体制。その主体は血縁を中心に、土地その他の生産手段を共有し、共同の生産と平等な分配が行われたとされる社会制度)を除き、私有財産制の否定と、共有財産制の実現によって、貧富の格差をなくそうとする思想や運動である「共産主義」という考え方はなかった。 
それどころか、マルクス・エンゲルスによって体系づけられた共産主義は、二十世紀後半に「共産主義社会の崩壊」と云う時代が来る事も予期できなかったのである。プロレタリア革命を通じて実現される、社会体制は“砂上の楼閣(ろうかく)”と消えた。したがって、歴史から学んでも、何の教訓もえられないではないかと言う考え方がある。 
ところが、こうした「歴史教訓諭」を一蹴(いっしゅう)する考えは正しくない。古代や中世において、確かに共産主義も存在しなかったし、共産主義が崩壊したと言う歴史もない。歴史がないから、参考にする事例もない。この意味で、歴史教訓諭を安易に見る考え方がある。 
だが、こうした歴史には存在しなかった事を、更に歴史の中で探し出していくと、「一時期、世界を支配していた原理や体制が老朽化して崩壊する」という事態があった事が分かる。これと、「共産主義崩壊」を重ね合わせれば、その時期に、国家がどう動き、その民族がどのような決断をし、何処に善後策を探し求めたか、確かにこうした「動いた跡」は参考になる。そそまま真似をする事は出来ないが、その時代の賢者の苦慮(くりょ)した跡と、その行動原理は、原罪人にも見習うべき足跡が沢山残されているからだ。 
さて歴史を紐(ひも)解くと、歴史に刻まれている多くは、“戦争”や“革命”といった血腥(ちなまぐさ)いものが大半である。まさに人類の歴史こそ、悲劇的な結末をイメージさせるカタストロフィ(catastrophe)である。人間は何故に、こうまで争いを好み、大異変を好むのか。心はどうして安住(あんじゅう)しないのか。この探究こそ、人間の持つ正体を見極めるキーワードとなろう。 
歴史を見ると、そこには各々の時代的区分として、各流れに断片的な、区切れ目が存在することが分かる。句切れ目ごとに時代を象徴するような事象が流れ、戦争や事件が起り、それが波打って、一種の渦を巻き起こしている。流れと、その時代を風靡(ふうび)する巨大な渦。これを遠望的に眺(なが)めれば、そこには歴史の大変動を読み取る事が出来る。 
また歴史は、河の流れに酷似する部分がある。 
河は、滔々(とうとう)の流れるばかりでない。ある時は氾濫(はんらん)を起し、激流となり逆巻く。逆巻いた波は、更に激しさを増し、巨大な渦を造って何もかもを呑(の)み込んでいく。風によって、波の高低は上下の振幅の激しさを増し、あるいは風が止み、さざ波へと変貌(へんぼう)する。この河こそ、歴史を押し流す原動力である。 
また、河の流れの行き着いた先には、必ず滝がある。ひとたび其処(そこ)が、落下点となる。そして再び、落ちた箇所から河となって、流れ始める。 
高きところから流れ下る、上流域では流れも細く、水量も少ない。下流に下るに隨(したが)って、水量を増し、河幅も広くなる。しかし、河幅か広くなっても、常に流れる水のねりは、凪(なぎ)の日ばかりではあり得ない。突如の突風に、大きな波のうねりを造る事もあろうし、あるいは渦巻き、渦の中に引き込む恐ろしい力も持っている。あるいは滔々と流れながら、その先が海へと展(ひら)けているかも知れない。 
人は、この河の流れに小舟を乗せ、これを下る旅人であろう。しかし、この旅人に降り懸(か)かる運命は、常に順風満帆(じゅんぷうまんぱん)とは限らない。大波を受けて途中で転覆(てんぷく)するかも知れないし、あるいは大渦に呑み込まれて藻屑(もくず)と消え、敢(あ)え無い最期(さいご)を遂げるかも知れない。 
さて、「歴史」とは、人間の集団活動の時間的な集積だという事が言えよう。その集積の中に、人(ひと)様々に生活があり、人生の軌跡を描き出している。人間の行為の多くは、「欲望」に集約されている。この欲望こそ、「人の行為」であると言える。そして歴史を丹念に追って行くと、人の行為の中には、ある一定の自然科学的な法則に行き当たる。 
更に、この自然科学的な法則を紐(ひも)解いていくと、歴史の中には、単に繰り広げられる「人間模様」だけではなく、歴史を繰り広げる人間の叡智(えいち)が点在しており、この叡智に、後世の人間は学ぶべき価値感を見い出すのである。そして、この叡智こそ「教訓」と云われるものなのである。 
叡智を学べば、人生はそれだけ豊かになる。過失や被害妄想なども、事前の止めることが出来よう。深傷(ふかで)を負わなくて済む。そこには回避する項目がゴマンときるされているからだ。人が歴史に学ぶべきである。 
人類の棲む地球自体の未知なるものを求めると同時に、人類の歴史に記された国々の気候や風土、それに気質や生活様式に適(かな)ったものを探究することが、自分の生まれ育った環境下を理解することでもある。 
さて、一説によれば、「歴史は繰り返す」と言う。しかし実際には、歴史は繰り替えされる事はない。歴史が繰り返すように見えるのは、人間性の反復であるからだ。 
つまり、歴史が繰り返すのではなく、人間性が繰り返されるのである。 
これを「お人好しな日本人は、歴史が繰り返す」と見ているのである。大きな間違いである。 
歴史は繰り替えされない。そのように映るのは、人間性の反復だけである。 
人間性が繰り返すのであれば、現在、中国の彼地では、老獪(ろうかい)な中国人と、お人好しな日本人が、老獪の糸に操られて、再び、彼地の砂上の楼閣を築き上げているのである。一切を、人間性の老獪な彼等から、巻き上げられる事を知らないで。 
実際に私たちは、過去から現実に対する教訓を得るよりは、現実から過去について、真摯(しんし)に学ぶ事の方が多いのである。>  
 
孔明 「三顧の礼」

 

劉備玄徳(りゅうびげんとく)は建安十一年(206)四十六歳になっていた。当時の劉備は、荊州(けいしゅう)の長官・劉表(りゅうひょう)の一傭兵隊長でしかなかった。関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)という一騎当千の荒武者は揃(そろ)っていたが、知謀(ちぼう)に長けた軍師は持っていなかった。 
劉備は必要にかられて、荊州の野に遺賢(いけん)を探し求めて奔走した。知謀に長けた補弼(ほひつ)の家臣が欠けていたのである。その時、奇(く)しくも水鏡先生といわれた司馬徽(しばき)に出くわす。 
司馬徽は劉備にこう応える。 
「儒者や俗人では、時にあった仕事は出来ません。それを知っているのは俊傑だけです。この地方では伏竜(ふくりゅう)と云う鳳雛(ほうすう)ならいますが、それは諸葛孔明(しょかつこうめい)と士元(ほうしげん)です。私の友人に諸葛孔明が居ます。これが臥竜(がりょう)です。将軍は御会いになりませんか」 
こう勧められて、劉備は是非孔明に会いたいものだと思う。 
そこで劉備は、「きみの友人なら、きみも一緒に着いて来てくれまいか」と懇願する。 
これに対し、司馬徽は、「いや、将軍自らが出掛けて行くべきです。決して呼びつけてはなりません。どうか駕(が)を枉(ま)げて、孔明の家をお訪ねしていただきたいのです」 
劉備は、こう言われて孔明を訪ねた。しかし、一度目も二度目も会えなかった。 
劉備は一傭兵隊長とは言え、「左将軍」と「宜城亭侯(ぎじょうていこう)」肩書きを持ち、千軍万馬の間を駆け巡る将軍としてその名は、この地方でもよく知られていた。この劉備が白面の青年を訪ねたのである。それも「三顧(さんこ)の礼」を尽くしてである。異例の出来事であった。そして劉備の低頭平身は、乱世に相応しい従来の中国における君臣関係を超えたコペルニクス的な回転に他ならなかった。 
劉備は孔明(こうめい)に時勢について熱っぽく語り、漢王室の衰微に嘆き、漢王室の衰退を望む勢力が大きくなって、いまや風前の灯火(ともしび)だと説き始める。そこには君主としての沽券(こけん)など、金繰(かなぐ)り捨てた等身大の劉備の姿があった。 
孔明はこの時、劉備の見せた熱意に、「ひとつこの人に賭けてみよう」という気を起させたに違いない。 
ついに孔明は劉備の「三顧(さんこ)の礼」に応えた。また、孔明は劉備の人柄に惹(ひ)かれ、これを機に仕える事になる。 
劉備のモットーは、「人を知り、士をを待(たい)す」であった。孔明も、劉備の熱意と誠意には心を動かさずにはおかないものがあったのだろう。そして、時は動乱の時代であった。 
孔明には自らの描いた気宇壮大(きうそうだい)なプランがあった。これこそ「天下三分の計」であった。そして「天下三分の計」を提唱し、独自の国家論を示す事になる。 
時代は風雲急を告げる三国動乱の時代であり、この時代の幕開けは、曹操(そうそう)率いる魏軍を、「赤壁(せきへき)の戦い」である。義軍を打ち破った様々な孔明の奇策(きさく)が、光り輝くことから、この三国時代は始まる。 
ここで用いられた孔明の奇策は、孔明自身の特異な本質を物語ったものと言えよう。 
その後も、孔明の特異な本質は、様々な局面に対して用いられ、万民の信頼を得て、劉備のカリスマ性と、孔明の知謀が巧妙な調和となり、人を束ね、動かす事になる。これは「水魚の交わり」として、後世にも名高い。 
また、孔明の特異な本質は、「奇策」に代表され、その要(かなめ)となるものは、政治力学を駆使したものであった。 
そして、知謀の将たる孔明は、在野の武将が目指した武力を至上とする思想とは異なり、豪傑・武将が見せつける力での圧倒ではなく、頭脳を駆使して立ち回ったところに、孔明自身の知将としての存在を、否応なく見せ付けていく事になる。 
また、孔明が描いた天下三分の計は、強大な力を持つ魏(ぎ)に刃向(はむ)かう事ではなく、その魏の存在を素直に認め、これを天下三分の計の一国とし、更に孫権(そんけん)の呉(ご)を一国に加えて、自らは蜀(しょく)として、天下を三分の一ずつの力関係において、ここに「天下の拮抗(きっこう)」を求めた事であった。 
この国家論こそ、大国二国が相対一元論での対局に陥る事なく、更にこれに一国加わる事により、大国二国を制する絶妙な拮抗力に目を付けた事であった。この国家論は、これまでの一国支配構造を目指す国家理念とは異なり、本質的には政治力学を駆使した新たな国家経営論であった。したがって、魏と呉の二大対極の中に、蜀の一国が加わる事で、ここには牽制(けんせい)し合う絶妙なバランスが出来上がったのである。 
孔明が天下三分の計の発想に至ったのは、これ迄の劉備に仕える以前の、長い間に集積した情報の積み重ねがあった。戦乱の中を歩き回り、国々の風土気候を調べ、人間までもを研究していった足跡が見て取れる。更には、情報網の独自な展開も、天下三分の計の発想に繋(つな)がったものであろう。 
こうした一面が、孔明を予言者的な聖域にまで押し上げ、更には戦いの場を武力のみに集約せず、「外交」という情報戦に展開した事で、孔明の存在感は益々大きくなっていく。そして軍師としての孔明に働きは目覚ましく、天下三分の計の発端となる赤壁の戦いは、孔明の力量を否応なく見せ付けていく。赤壁の戦いによって、孔明の描いた壮大なプランは、ここに開花するのである。孔明がこれまで胸に秘めた天下三分の計の大計画は、この時に動き始めたのである。 
曹操の魏軍が、百万の大軍を以て南下し始めたのは西暦208年の建安13年の事だった。劉備軍が曹操軍に追われる形で、夏口(かこう)に向かい、劉表(りゅうひょう)の子である劉(りゅうき)を頼った。そこで樊口(はんこう)の布陣していた際、魯粛(ろしゅく)の勧めで、孫権の力を借りて、曹操軍に対抗する策をとるのである。 
この策は、まさに曹操との武力の均衡を保つ妙案だった。 
一方、長坂坡(ちょうはんは)で劉備軍を壊滅寸前にまで追い込んだ曹操軍は、江陵(こうりょう)から長江(ちょうこう)を東へ下り、この時に劉備軍と孫権が連合の手を握った事を知る。しかし、魏の曹操軍の快進撃は目覚ましく、劉備と孫権の連合軍など、如何ほどのものかと侮(あなど)り、また自軍の力を過信しはじめる。この過信状態にある曹操軍と、劉備・孫権の連合軍が赤壁において激しい戦闘を繰り拡げるのである。そして曹操軍は、この戦いに大敗し、敗走するのである。 
曹操軍を打ち破る要因を作ったのは、孔明の戦略によるところが多い。孔明の戦略は、国家間の力関係を巧みに利用した頭脳戦であった。また孔明の策術家としての特異な才能も光る。同時に戦局の局面には、孔明の奇手の策術が見事に働いている。 
「天には天文に通じ、地には地理に通じ」と謂(い)われた孔明は、単に天体の星の動きを観察するだけの知識に止まらず、日々の気象の変化や、季節ごとの風向きの変化まで、地理的に把握していたと思われる。そして、これを戦いに用いたのであった。これが孔明の知謀たる所以(ゆえん)であろう。 
例えば、赤壁の戦いにおいて、一万本の矢を三日以内に用意するという孫権の条件においても、敵から矢を奪うのであるから、敵から矢を奪うにはどうしたらよいか、また、矢をこちら側に射掛けさせるのであるから、この場合を気象条件はどうした場合に可能か等の詳細な事象を知らねばならなかった。 
更に、風向きを返るには、どうしたらよいかという物理的な事象には、その風向きの風力を考慮した火の力を最大限に発揮する気象分析が必要であった。 
これ等のいずれの奇策も、幾多の情報を知り得、更には分析すると言う能力が必要だった。孔明はこうした奇策を総て会得していたのである。孔明の奇策により、赤壁の戦いに勝つ事が出来たのである。 
人は、それぞれに人生に志を持っている。しかし、事、志(こころざし)とたがい、ついに失敗して強に至る者が多い。 
その意味で、劉備が弱者でありながら、戦乱の世を生き抜けて強くなり得たのは、孔明の働きによるものも多いが、また劉備自身、天運に恵まれたばかりでなく、人を動かすカリスマ性と同時に、孔明の知謀も、また絶妙に絡み、その総力の結晶が「天下三分の計」の実現でもあった。  
 
孔明 「臥竜に学ぶ」

 

「三国志」の物語の中には、英雄や豪傑が星の数ほど登場し、そしてやがては、空しく消えて行った。しかし諸葛亮孔明だけは、こうした登場人物の中でも、群を抜いて輝いた存在であったと言える。 
「三国志」で、孔明にまつわる故事(こじ)は多い。喩(たと)えば、「水魚の交わり」とか、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」とか、「死せる諸葛(しょかつ)、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」などであり、ここに孔明の偉人ぶりが偲(しの)ばれる。 
また、孔明が三国時代に登場して、奇略(きりゃく)を縦横に用い、神懸(かみがか)り的な知謀家に仕立て上げたのは、のちの中国史明代においての大衆小説となった「三国志演義」である。「三国志演義」こそ、中国人民に支持された書物はないであろう。また、中国大衆人民が求めた歴史上の人物の中で、諸葛亮孔明ほど、大衆が最も贔屓(ひいき)した人物は他に居ないであろう。 
では、何故に孔明は、大衆からこのように判官(ほうがん)贔屓され、親しまれたのであろうか。 
それは孔明が、「天下三分の計」を構想し、これを創り出す政治的思想が、実は、孔明自身に「臥竜(がりょう)」と称される、野に臥(ふ)した時代からの温めに温めた計略(けいりゃく)あったからだ。臥竜孔明は天下に躍(おど)り出る時機(とき)を、自らの描いた計略とともに待ち続け、気宇壮大な夢を抱いて野に臥した時期があった。そして時は乱世である。乱世こそ、計略を自分の意の儘(まま)に駆使して、同じ土俵に上げ易い時代はないからである。 
「乱世」とは、まず、天の理(ことわり)が崩壊し、平時が戦時に変わり、その結果として武が擡頭(たいとう)して来る世の中である。 
またそれに伴い、「利」も、文から武に移行しはじめる。 
武への移行とは、大方が、乱世をうまく渡り歩く為に奔走(ほんそう)する、「利」に群がる人間の習性が表面化することである。双方を取り上げて、天秤(てんびん)に掛け、その値踏みをするのである。 
その為には、まず多くの勢力を見回して、最も強いと思われる力に依存し、行動する事が世渡りの基本になるからだ。乱世では、これが世間風の常識となる。 
だが、孔明を見た場合、青年孔明は、最も常識と思われる生き方を、敢(あ)えて選択せず、孔明の選んだ勢力は、何と、弱少に属する劉備玄徳(りゅうびげんとく)であった。劉備はその当時、非力であった。 
その非力の劉備に、孔明はわが人生の総(すべ)てを賭(か)けたのである。当時の弱小勢力に、敢えて賭けたのであった。その当時、劉備に賭けることは、不確定要素の強い危険性を孕(はら)んでいたが、孔明は、敢(あ)えてこれに賭けたのである。 
では、なぜ劉備に賭(か)けたのか。 
それは劉備玄徳と言う愚直なほどの人間性と、虚心で素直な長者風の風格に惹(ひ)かれたであろう。また、劉備はどこか漢王室を開いた劉邦(りゅうほう)を彷佛(ほうふつ)とさせるところがあり、百敗しても、その百敗の上に、更に百一敗を重ねて、挑(いど)み掛かるしぶとさを持っていた。 
劉邦は、前漢の初代皇帝で、高祖(こうそ)といわれた。劉邦は農民から出て、泗水(しすい)の亭長となり、秦末に兵を挙げて、項梁(こうりょう)・項羽(こうう)らと合流して、楚(そ)の懐王(かいおう)を擁立(ようりつ)し、巴蜀(はしょく/中国、巴州・蜀州の総称。巴は今の四川省重慶地方、蜀は成都地方)・漢中を与えられて漢王となった人物である。後に項羽と争い、前202年これを垓下(がいか)に破って天下を統一を果たす。そして、長安(ちょうあん)を都として、漢朝を創立する。 
劉備玄徳は、自ら漢王室の末裔(まつえい)だと自称していたが、おそらくでまかせであろう。しかし、それにしても、どこか劉邦を彷佛(ほうふつ)とさせるのである。それは何故か。 
劉備には、劉邦同様、百敗を重ねても、更に百一敗を重ねて、傷付いても、立ち上がる気魄(きはく)を持っていた。 
傷付いて、何もやらないか、あるいはやるか。それは、その本人の持つ、個性からくる「したたかさ」であろう。 
傷付いて、何もやらなければ、それまでである。それから先は、何も見えてこない。しかし劉備は、百敗に、もう一敗重ねて、百一敗になっても、起き上がって来る「したたかさ」があった。これが劉備の魅力であったと言っても過言ではない。したがって、孔明は劉備のこうしたところに魅了されたに違いない。 
しかし、それを更に決定的にしたのは、孔明自身の持つ、熟慮であり、胆力であった。 
然(しか)し乍(なが)ら、常識的判断ばかりに囚(とら)われていると、不可能を可能にする発想は生まれて来ない。優劣や強弱に捕われれば、創造的は活力は生まれてくることはなく、弱肉強食の論理しか派生しない。孔明の場合、むしろ強敵に積極的に抗(あらが)い、立ち向かうのが孔明の思想的態度であった。弱肉強食の論理を覆(くつがえ)し、あくまでこれを否定し、その間隙(かんげき)を縫(ぬ)って、逆転を狙うところに孔明の掲げる特異な哲学があった。 
この意味に於て、孔明は権威に与(くみ)せず、強大な勢力に依存しようとはしなかった。自らの熟慮と胆力をもって、劉備に賭(か)け、わが生きていく道を、自らで切り拓(ひら)くと同時に、己(おの)が可能性にわが命を賭けたのである。またこれは、孔明の個性が、乱世の常識を破ったのである。 
つまりこの事は、「有から有を生み出す」個性の選択が、孔明の生き方をも決定したのであった。 
そして、劉備との「水魚の交わり」を得る前は、荊州(けいしゅう)の地・隆中(りゅうちゅう)において、晴耕雨読(せいこううどく)の生活を続けていたのである。大志を抱いた竜は、この時、野に臥して晴耕雨読の生活を続け、その姿はまさに「臥竜(がりょう)」だったのである。 
「臥竜」という言葉は、時機(とき)を得れば、力を発揮する人物を評して、中国では古くから使われた言葉である。天に昇り上がった竜よりも、まだ頭角を顕わさず、野に臥(ふ)した竜を畏怖と尊敬の念で、人は彼を「臥竜」と呼ぶのである。 
それは、時機を得れば恐るべき実力を発揮して、天に翔(か)け昇る竜であるからだ。これこそが、野に臥して実力を蓄え、世に躍(おど)り出る時機を窺(うかが)う恐るべき存在であった。 
孔明は大志を秘め、隆中時代は、いつの日か、世に躍(おど)り出る時機をひたすら待ち続けた、まさに恐るべき臥竜であったのである。 
時は、後漢の政治が壟断(ろうだん)した時代であった。まさに乱世へと移行しようとした過度期であった。風雲急を告げるこの時代は、霊帝(れいてい)の光和(こうわ)七年(184)であった。そして、奇(く)しくも甲子(きのえね)の歳にあたっていた。甲子の歳は、昔から革命の起る歳とされていた。 
事実、太平道の首領・八門(パーモン)先生こと、張角(ちょうかく)は、「蒼天(そうてん)巳(すで)に死し、黄天(こうてん)当(まさ)に立つべし。歳は甲子に在(あ)り、天下太平とならん」と、太平道の農民信者に檄(げき)を飛ばし、革命蹶起(けっき)を促した時であった。 
この号令に遵(したが)い、中国全土で約四十万の農民革命軍が応呼し、新しい国造りを目指して武器と手に取り、蜂起したのであった。彼等は街から村へ、村から街へと、燎原(りょうげん)火の如く悉々(ことごと)くを掠(かす)め去ったのである。そしてこれを機に、本格的な乱世の世が到来するのである。 
その頃、野に臥した、臥竜孔明が荊州(けいしゅう)の地・隆中(りゅうちゅう)に居たのである。 
後漢末の献帝朝の建安初年(196)からほぼ十年間は、荊州地方は平和な別天地であり、その繁華第一である襄陽(じょうよう)一帯には、後漢末の清流派知識人の骨格を守り続けた毅然(きぜん)たる人物が居た。その中でも、水鏡(すいきょう)先生こと、司馬徽(しばき)らを中心に、崔州平(さいしゅうへい)、徐庶(じょしょう)、石韜(せきとう)、孟建(もうけん)といった孔明の師友が居て、その中で見識と器量を買われた孔明は、周囲から臥竜と称されていた。 
孔明は青年期、晴耕雨読の生活を続け、極めて恵まれた人間環境の中で育ち、叡智(えいち)を蓄えつつ、人間を磨き、臥竜の如く、野に臥した時代があった。 
臥竜と云う言葉は、一種独特の響きがある。野に隠れて、世に知られていない大人物を指す。そして心包強く、天に躍り出る時機を、ひたすら待つのである。 
孔明は、天に舞い昇る時機を待つ、まさに臥竜だった。夕嵐(ゆうあらし)の中に潜む巨大な竜であった。 
夕嵐。それは嵐を呼ぶ前兆である。また、夕方に強く吹く風のことを、こう呼ぶ。 
黄昏時(たそがれどき)の、夕闇(ゆうやみ)が迫る頃を前後して、時折、強い風が吹くことがある。西の空から、冬を感じさせる冷ややかな風が渡り込むと、そうした時に、ふと、心に微(かす)かな胸騒(むなさわ)ぎを覚える……そんな強い風が、音をたてて断続的に吹き荒れる。まさにこれこそが、夕嵐なのだ。 
人はそうした時、何かしら、得体の知れない胸騒ぎを覚えるのである。夕嵐は、こうしたものを連想させる。それは吉凶に限らず、である。 
諸葛亮孔明とは、こうした時代の変化の嵐を呼ぶ人物であった。 
「士は己(おのれ)を知る者の為に死す」という言葉がある。 
「己を知る者のために」、死力を尽くし、才知を傾ける人物こそ、諸葛亮孔明であった。 
さて、運否天賦(うんぷてんぷ)は、人為に非(あら)ず、天の意によるものである。また、人の運・不運も天意によるものである。人に与えられた運と言うものは、万人に等しく与えられているものである。しかし、それをいつ、運が巡り、その巡りを読み、それに乗って、自分を生かす事が出来るかは、個人の伎倆(ぎりょう)と力量による。そして運・不運を決定するのは、その時代時代に応じた風である。その風はいつの時代にも吹いている。 
しかし、その風の音を聴き、それを捉えるのはその人の伎倆(ぎりょう)によるものである。 
その風を巧みに読み、これを捕らえる事こそがその人の運命を決定する生き方となる。また、幾重にも分かれる分岐点に、人は常に立たされていると言える。そして、一度、道を決定し、斯道(しどう)に邁進(まいしん)する覚悟が出来たなら、迷う事なく、その道に命を賭(と)して邁進しなければならない。道は、わが前にあるのである。その道を、真直ぐ進めばよいのである。自分の足を信じればよいのである。 
その、邁進する乾坤一擲(けんこんいってき)の時機を逃がしては、自らの生命など、燃やしようがないのである。 
一方、わが斯道(しどう)に邁進する原動力は、「まごころ」である。陽明学が説かんとする「まごころ」こそ、人が命を賭(と)して進むべき道なのである。その道は、臥竜として、わが身を瞶(みつ)め直しながら、自分自身を奮い立たせる激励であり、また、己(おの)が霊魂(たましい)と格闘する闘魂である。 
孔明も、こうした心境で、「天下三分の計」に臨(のぞ)み、巴蜀(はしょく)の経営に乗り出したに違いない。そして孔明は、劉備と劉禅(りゅうぜん)と言う父子二代に仕え、ついに五丈原(ごじょうげん)で五十四歳の生涯を終えた。 
孔明の生涯を振り返ると、隆中(りゅうちゅう)の草廬(そうろ)を出てから、既に二十七年の歳月が流れていた。また、蜀の宰相としてその地位に就いて、実に十三年の事であった。 
「晋陽秋(しんようしゅう)」によれば、孔明が死んだ時、東北より西南に向かい赤い芒角(かど)のある流星が流れたと記載している。これが蜀漢の陣営に落ち、二度までは空中に舞い戻ったが、三度目にはついに舞い戻らず、地に落ちて帰らなかったと言う。 
この流星にまつわる話を聞くと、流星の落下する態(さま)は、大志を抱いてそれを果たすことが出来ず、五十四歳で陣中に病没する、孔明自身の無念さをこの流星が象徴するかのようであった。しかし、この未完成には気宇壮大な男のロマンがあり、それは永久(とこしえ)に広がっているように思える。 
後主・劉禅(りゅうぜん)は、孔明の死を悼(いた)み、直ちに特使を下原の丞相府(じょうしょうふ)に派遣した。そして孔明に、丞相武郷侯の印綬(いんじゅ)を贈り、忠武侯(ちゅうぶこう)と諡(おくりな)し、天下に大赦(たいしゃ)の詔(みことのり)を発した。孔明の亡骸(なきがら)は、かねてより願い出ていた、かつて劉備と「水魚の交わり」を結んだ古戦場・漢中の定軍山に葬られた。ここは魏と戦って、勝利を収めた思い出深い古戦場であったからだ。 
孔明の墳墓(ふんぼ)は、山その儘(まま)が用いられ、棺を入れるだけの広さの冢(つか)が掘られ、副葬品は、普段孔明が着ていた平服を納めるに過ぎなかった。これは一国の宰相としては、あまりにも簡素を極めたものだった。 
また、それに見合うかのように、孔明の財産と言えば、成都(三国の蜀の都)に桑を八百株ほどと、痩せた土地の纔(わずか)に15頃(けい/中国の地積の単位で、1頃は100畝(ほ)で、1畝は100歩であり、今日の面積で言えば約15分の1ヘクタール(0.67アール)のこと)、を所有するだけだった。その上に、余分な財産は蓄えていなかった。 
孔明は、自分の死んだ後も、家族の衣・食・住はこれだけあれば充分であると考えたのであろう。 
「児孫(じそん)のために美田を買わず」という言葉がある。これは西郷隆盛の言葉である。 
西郷隆盛は、子孫の為に財産を残すと、かえってよい結果にならないから、そうしない事を、敢(あ)えて実行した人であった。この意味に於て、孔明の清潔さと酷似する。 
世の中には、一旦権力の座に上り詰めると、その地位を悪用して、人民の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)り、我田引水を図って、賄賂(わいろ)を取り、巨万の富を築き上げる我利我利(がりがり)亡者(もうじゃ)がいる。その上、国家人民や、県民の運命には何の関心も示さず、ひたすら吾(わ)が身一身の利害を図る官僚や政治家が、決して少なくない。不正や談合で、私腹を肥やす輩(やから)は少なくない。 
しかし、孔明はこうした吾が身一身の利害には、露(つゆ)程も関心を示さなかった。その証拠が、桑を八百株ほどと、痩せた土地の15頃(けい)であった。私財は、清々しいほど、纔(わずか)なものであった。これこそ「身を殺して仁を為(な)す」ではないか。また、「家の為にせず、国と為にす」ではないか。 
かつて孔明は、劉備に「三顧(さんこ)の礼」をもって迎えられた。そして「天下三分の計」を実現に移す。 
更に精進努力して、再び漢の王国を中原(ちゅうげん)に建設する為に粉骨砕身(ふんこつすいしん)し、蜀と言う国家の運命に殉じる(ある物事のために自分の生命を投げ出す)覚悟をする。その、自らの持てる全力を国家建設の為に傾け、燃焼するのである。これこそが、無から有を生み出す、孔明の掲げた哲学ではなかったか。 
そこには凡夫(ぼんぷ)が決して想い描けない、途方もない戦略構想に賭けた、壮大な男のロマンがあった。 
そして、一片(いっぺん)の私心もなく、憂国の情に燃え尽きた臥竜孔明の壮烈なロマンがあり、それは今なお、歴史の中で語り継がれている。
 
梟雄とジャングル法則

 

斎藤山城守秀龍(やましろのかみ‐ひでたつ)は後の、斎藤道三(どうさん)である。後世から戦国期の梟雄(きょうゆう)と指名された人物である。 
梟雄とは、残忍で猛々(たけだけ)しい戦国大名を言い、永らく下剋上(げこくじょう)の悪の代名詞として使われた。 
普通、梟(ふくろう)は普段は大人しい、とぼけた顔をして立ち木の止り休んでいる。特に昼間はそうである。しかし、いざ夜に入ると獲物(えもの)を前にして残忍となる。その上、獰猛(どうもう)で、残忍の本性を顕(あら)わし、情け容赦(ようしゃ)が無い。 
斎藤道三もこの梟雄に喩(たと)えられた。また、この時代にあって、「美濃の蝮(まむし)」とも称せられ、懼(おそ)れられた。然(しか)も、権某術数(けんぼうじゅっすう/巧みに人を欺(あざむ)く謀(かはりごと)のことで、マキアヴェリズム(Machiavellism)にも喩えられる。目的のためには手段を選ばない、権力的な統治様式で、マキアヴェリの「君主論」の中に見える思想)に長け、下剋上の代表として世に知れ渡っている道三であった。 
戦国期を、近世の歴史学者達は、一口に「下剋上」の時代を言い捨てる。 
しかし、文弱(文事ばかりにふけって弱々しいこと)に流れ、政務を放り出して風流韻事(ふうりゅういんじ)に現(うつつ)を抜かし、「われ関(かん)せず」を決め込んだ守護家は追放されても不思議でなかった時代である。 
「君(きみ)、君たらざれば臣(しん)、臣たらず」 
この時代は、このように評された。 
主君が主君らしい人格と力量を備えていなければ、家臣もまた、こうした主君には忠誠を誓うことができないのである。「まこと」を尽す心の原動力となるものは、その人の持つ正義感ではない。また潔癖感(けっぺきかん)でもない。人を遇する能力である。 
実力主義が横行する時代、少しでも隙(すき)を作れば、下剋上の起るのは日常茶飯事であり、当時の武家に於ては物の道理であった。 
問題なのは、誰が国の主になろうとも、君主らしく人民を愛し、外敵から国を護り、善政を行わなければならない。善政とは、人民の為になる政治であり、必ずしも正しい政治とは限らない。人民が利益を得る政治であり、至る所に罰則を設け、何事も規制し、監視し、清廉潔白(せいれんけっぱく)の政治を断行することではない。 
したがって、実力者の世の中になると、過去は問題ではなく、「今」が問題であった。こうした世の中では、敢(あ)えて過去を問う必要はないのである。 
問題なのは、いつの時代においても、「今」の天下の実情を見渡さければならない。 
平安期が終り、鎌倉期に突入し、主上は、公家の平安時代的な飾り雛(びな)から転落した殿上人(てんじょうびと)は、最早(もはや)無用の長物に成り下がっていた。更に、北条高時(ほうじょう‐たかとき)の滅亡により、室町期に入ると、足利氏が擡頭(たいとう)するが、その時代の後期には「応仁の乱」が起り、その後は戦国時代と称される、激しい競争の時代が訪れる。戦時のこの時代、文弱は無用の長物であった。 
こうした時代の終焉(しゅうえん)は、第十五代将軍義昭が織田信長に追われるまでの、約180年間続いた室町幕府に終止符が打たれることになり、信長の天下統一までの経緯(いきさつ)の中に様々な日本人の歴史と、歴史の中に記された多くの教訓が残されている。 
戦国時代、室町幕府の威信は地に墜(お)ち始めていた。殿上人と呼ばれる公家たちを守護し、天下を治めるべき将軍家は、一介の飄客(ひょうかく)と成り下がっていた。まさに花柳(かりゅう)界隈の巷(ちまた)に遊ぶ「浮かれ男(お)」(【註】浮かれて遊びあるく男)の如きであった。 
将軍が浮かれ男の如き遊人(あそびにん)となり、政務を蔑(ないがし)ろにすれば、当然、世の中は乱れて来る。戦時の風雲急を告げるこの時代、格式や見栄、形式や権威にこだわると、名家と雖(いえど)も、没落が免れなかった。 
世の中が乱れに乱れている時は、人々は喩(たと)え天下に多少の害毒は流そうとも、国主として国を治め、これを立派に経営して行く能力が有れば、こうした人間の出現を喜ぶ。将軍家を助けて主上を奉じ、争乱を鎮圧し得る英雄であれば、多少の悪事は眼をつぶるものである。 
暴力が横行し、争乱が常である世の中では、仁義や道徳と云った最善を理想と掲げる道では、到底、天下は治まりそうもないのである。争乱の世の中の人民は、最善が得られない場合、それに次ぐ第二の次善を欲し、強き覇者(はしゃ)を求めるものである。そして、毒を以て毒を制する武将が、文弱な主君に成り変わり、出現するのである。 
それには、家柄や格式や生まれなどは、二の次となる。 
瀕死(ひんし)の重症患者に、最終的に施される投薬は、非常に副作用の激しい猛毒である。猛毒も重病人にとっては良薬となることがある。斎藤道三も、蝮(まむし)の毒をもって、瀕死の世の中を立て直そうとした戦国武将だった。 
事実、文弱な守護家の統治によって、瀕死の重病人であった美濃の国が、果たして生き返るか否かの瀬戸際(せとぎわ)にあった。 
斎藤道三は、守護の美濃源氏の土岐氏(ときし)に取り入り、天文21年(1552)土岐氏を追放して美濃国を領する国主となり、後に織田信秀(おだの‐ぶひで)と結び、信長を女婿(じょせい)とするに至った。 
斎藤道三が戦国有数の「梟雄」と畏怖(いふ)され、近国無双の大将と評されたのは、実に此処にあったのである。 
これは近代の政治家・毛沢東に匹敵する。毛沢東は大変な女好きであったが、一方で偉大な政治家であった。では、毛沢東が女好きの不評を買いながら、なぜ偉大な政治家と呼ばれたのか。 
それは、政治とは本質的に結果責任の世界であるからだ。終わりよければ総(すべ)て善しである。それ以外に、政治家を判断する上で、正否を断ずる価値尺度は存在しない。 
時代の指導者が無類の女好きで、癖悪く手当りしだいに女を犯し、人妻を寝取り、抱き放題であったとしても、事に臨み沈着冷静であり決断と実行により英断できれば、人民はこうした人を覇者(はしゃ)に選ぶ。 
また、浴びるほど酒を呑み、アル中寸前であったとしても、剛毅果断(ごうきかだん)かつ意志がしっかりした信念の持ち主ならば、「論語子路(しろ)」が論ずるように、「剛毅木訥(ぼくとつ)仁に近し」であり、意志が強く、飾りけがなくて、実行力に富み、口数が少ない人物ならば、道徳の理想とする仁に近いと評されるのである。不言実行である。 
この不言実行の人こそ、人民に平和を保障し、生活基盤を支えて仕事を与え、国中の人民に一家団欒(いっかだんらん)の日常生活を約束する人なのである。この一面を取って有能な指導者と称するのであって、潔癖な政治家、不正のない政治家、賄賂(わいろ)などの腐敗を嫌う政治家を有能と言うのではない。単に清廉潔白(せいれんけっぱく)な政治家を言うのではない。 
人民に安らぎを与え、平和を与え、経済を安定させ、仕事を保障できれば、後世の歴史学者達は「第一級の政治家」と歴史書に記録する。政治家の善悪を決める物指しは、これ以外にない。 
ところが、デモクラシーを二言目に持ち出す輩(やから)は、民主制の陥る罠(わな)が控えていることに気付かない。一国の主権が人民にある等というと、体制や機構が民主的に変化すると錯覚し勝ちである。 
そして、デモクラシーは自己主張ばかりが強くなると、愚民政治に陥り易い。マスコミに誘導され、角(つの)を矯(た)めて、巨牛を殺すのは衆愚(しゅうぐう)の常である。人民が愚民であればあるほど、民主主義は「悪魔の道具」になり易いのだ。 
民主主義が正しく機能するのは、人民一人一人が有能な政治家を選ぶ見識を持たねばならない。その為には、確立した個人を確保する為に、相当な教養が必要になる。人民が政治家を選ぶことによる自覚がなければ、この社会システムは正しく機能しない。無知と事なかれ主義が蔓延(まんえん)している世の中にあっては、全く機能しないのである。 
このように民主制の欠点を指摘すると、似非(えせ)民主主義者達は、民主制そのものを批難していると思い込むようだ。そして、デモクラシーの抱える欠点を指摘する有識者に噛(か)み付き、攻撃する。これこそ、民主主義が歪曲(わいきょく)されている現実であろう。 
これは自分の国が一番と思い込む人間や、自分の信じる宗教や宗派が一番と思い込む人間が顕われる現象である。自分の国、自分の信仰する宗教や宗派が、世界の中で一番と思い込むことは非常に結構なことである。 
そして、デモクラシーと言う政治システムが、世界最高に社会システムと思い込むことも、非常に結構なことである。 
しかし、客観的に観(み)る事を忘れている。「世界の中で一番」と信ずる盲信は、実はその中に含まれる欠陥や盲点に全く気付いていないという事である。これこそ、多難が予想されるジャングルの中を、安穏とした平和ボケに浸り、愚行を地で行くようなものである。 
二言目には民主主義、民主主義と喚(わめ)き立てている人間には、その中に、一定の法則を見る事ができる。それは彼等が揃(そろ)いも揃って、似非(えせ)民主主義者であると言うことだ。与野党の政治家を含み、デモクラシーを標榜(ひょうぼう)している政治家は、総て似非民主主義者である。 
これは自分が生まれ育った環境と、その生活様式が最高であると思い込むのと酷似する。あるいは自分の信じる宗教の宗派こそ最高である、世界中で一番である言う考え方に酷似する。そしてこうした盲信的な思い込みは、常に裡側(うちがわ)から境界を付けていることである。 
更に、こうした盲信的思索を、自然科学的に分析すれば、例えば地球は、他の星に比べて驚くほど恵まれていて、その恵まれた条件が偶発的に重なり、突然変異が繰り返されて生命が生まれ、人間は猿から進化した生き物であると、ダーウィン進化論を安易に信じる愚行によく似ている。 
また、こうした結論を下す人は、地球と言う肉体生命を養う環境下に生まれたからこそ、地球が一番いいと思うだけであって、こうした思考回路で物事を考える人は、民主主義を世界最高のシステムであると信じる人と同じ種類の人間であり、こうした人が現代の世に、驚くほど溢れていることに気付かれよう。つまり、権威の一仮説を盲信する人達である。 
盲信者は誘導によって作られる。権威のマスコミ誘導によって作られる。これこそが、民主主義の盲点である。また、偽善者たちがマスコミを煽動(せんどう)媒体にして、政治の世界の倫理を論(あげつら)ったり、モラルを持ち込んで、政治の本質を茶化してしまうのである。 
そして最終的に選ばれて、合格点を貰(もら)うことのできる政治家達は、エネルギーに乏しく、右顧左眄(うこさべん)して、前進や後退の瞬時に下さねばならない命令系統に確信が持てない、気弱で軟弱な人間だけとなってしまうのである。 
こうした人間は、まさに文弱なであり、流れのままに身を委(まか)せ、その日暮らしの、八方美人の優等生だけになってしまう。 
しかし、国家や人民に災厄(さいやく)を齎(もたら)す可能性の高い政治家は、実にこうした種類の人間であり、真面目(まじめ)だけが取柄(とりえ)で、その実は無能な指導者であることを忘れてはならないだろう。 
この世の中の構造は、タテマエとホンネが罷(まか)り通り、あるいは建前と偽善が交叉(こうさ)している。どんな人間でも、自分の恥部を隠すイチジクの葉をもぎ取れば、その根底にある魂胆(こんたん)は我田引水の利益誘導が隠せず、実に弱肉強食であり、優勝劣敗であり、適者生存の過酷な「ジャングル法則」が横たわっており、そこはまさに修羅の巷(ちまた)である。この巷を、どうして真面目で、無能な政治家が切り盛りできると言うのであろうか。 
適用される「ジャングル法則」は、洋の東西を問わず、また、昔も今も変わらない。 
人間は欲望の生き物である。したがって、汚濁や腐敗に真っ直ぐに眼を向け、社会正義の実現の為に身を燃やし、焼け爛(ただ)れた躰(からだ)で、夜も昼も寝られないという高潔(こうけつ)の士は十万人に一人、あるいは百万人に一人であろう。 
戦乱の時代、激動の時代、需(もと)めるベきは多少行儀が悪くても、有能な指導者である。風が吹いて、海が大荒れになれば、わが身の保身の為に、浅瀬に立つ指導者ではない。安直で律儀な正義論を振り回し、不正撲滅の小旗を振り翳(かざ)す真面目が取柄だけの無能な指導者ではない。 
デモクラシーの世の中に必ず登場し、民主制の落し穴に気付かない安直な人間は、マスコミに誘導され、自称インテリと銘打った女達を煽動し、人民を盲目にさせ、本来の政治の結果責任を安直な倫理で縛り上げ、本性が善なる指導者までもをこき下ろす。 
こうした指導者が世に出て来ると、敵国にいいようにされ、丸腰外交を展開させて、弱気に笑い、相手の言い成りになって注文に応じ、幾らでもその注文に準じた無償援助を湯水の如く浪費する。 
軽薄才子(けいはくさいし)。指導者にこうした人物が選出されるようになると、その国は滅ぶと「韓非子(かんぴし)」には出ている。沈香(じんこう)も焚(た)かず、屁もひらない。一穴主義。女にも近寄らず、義理や人情にも流れず、人情の機微も知らずに、潔癖(けっぺき)を守り通す。汚濁の中に遊び、俗(ぞく)に塗(まみ)れ、しかし俗に染まらない、そんな指導者を殆ど見かけなくなった。これこそ、時代の悪しき反映である。 
こうした実情下にあり、政治的なビジョンのスケールが大きく、エネルギーに溢れた指導者は、最早(もはや)日本では困難になったと見るべきであろう。そして、軟弱なインテリ層の支持を受けた指導者が導く国家展望は、国家エネルギーを衰弱させ、これが政治力に連動されて、やがて崩壊の道を辿るであろう。 
「国は汚職では滅びないが、正義は国を滅ぼす」とは、当代一流のコラムニスト・山本夏彦の言葉である。


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。