諺 ことわざ 人の知恵

 

 

ああ言えばこう言う 
愛、屋烏に及ぶ 
愛出ずる者は愛返り、福往く者は福来る 
合縁奇縁 
不思議なめぐり合わせの縁。人と人とが互いに気心が合うかどうかは、みな因縁いんねんという不思議な力によるものであるということ。人と人の結びつきについていうが、特に男女の間柄についていう。▽「合縁」はもと仏教語で、恩愛から起こる人と人の結びつきの意。「奇縁」は不思議なめぐり合わせの意。また、思いがけない不思議な縁の意。「愛縁機縁」「相縁機縁」とも書く。
愛多き者は則ち法立たず 
愛多ければ憎しみ至る 
匕首に鍔を打ったよう 
相碁井目 
挨拶は時の氏神 
愛してその悪を知り、憎みてその善を知る。 
愛してその醜を忘る 
愛想づかしも金から起きる 
愛想も小想も尽き果てる 
相対の事はこちゃ知らぬ 
開いた口が塞がらない 
あきれて物も言えない。唖然とする。太宰治『如是我聞』 / 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開いた口がふさがらぬとはこのことである。
「一般的にあり得ないような、あまりのことにびっくりし、あきれて何を言ったらいいのか分からなくなってしまうこと」です。一般的に、相手のひどい態度や様子などに対する心境を表現します。「開いた口が塞がらぬ」ともいいます。単純に「自分が驚いた」というだけでなく、「ひどすぎる」「あきれる」という意味も含んでいるため、使い方によっては相手を非難するようなニュアンスになってしまう点に注意が必要です。褒め言葉やいい意味として使うのは誤用? / 感動などにより、ぼうっと恍惚(こうこつ)状態になってうっとりしているときも、口が開いたまま何も言えなくなってしまうことがあるでしょう。そこで、「開いた口が塞がらない」を、「予想を上回っていて、いい意味でびっくりした」「感動して何も言えなくなった」といった意味でも使えるのではないか、と思う人もいるかもしれません。しかしこの用法は、現代では避けた方が当たり障りがないといえます。実は「開いた口が塞がらない」について、「言葉も出ないほどうっとりしている様子」という意味が掲載されている辞書もあります。江戸時代である1748年に初演された浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』の中でも、「師直は明いた口ふさがれもせずうっとりと」というせりふがありました。そのため、いい意味で使うことが完全に誤用というわけではありません。しかし一般的には使われない用法であり、2021年にはアナウンサーが「感動した」という意味で「開いた口が塞がらない」を使ったことを「不適切な表現だった」と訂正する出来事もありました。いい意味で使うのは一般的な用法ではなく、褒めたつもりでも相手の気分を害してしまったり、正しい日本語が使えないと思われてしまったりなどのデメリットが多いため、「あきれ返った」という悪い意味でのみ使う方が無難です。
相手の態度やようす、言ったことばを受けて、思っていたより、すごかった為、おどろき、どう反応していいか分からず、ことばも出ないようすをいったもの。「あきれかえって物も言えない」という意味で、普通では考えられないような行為、ようすや ことばに、おどろくことを言います。どちらかというと、悪いことを嫌ったりする場合に、使われるようですが、いい意味でも、使われるようです。とにかく、おどろいて、物が言えない為、口が開いたままになり、何もしゃべれなくなった状態を言います。開いた口=口が開いたままの状態になっていること。塞がらない=「ふさがらない」と読み、開いていたものが閉じなくなる。開いたままになる。 あきれかえる=「あきれる」を強調したことば。あきれる=態度や言葉が、思っていたより違う為、おどろき、何もできなくなること。 あっけにとられる。
開いた口には戸は立たぬ 
開いた口へ牡丹餅 
愛立てないは祖母育ち 
相手変われど主変わらず 
相手のさする功名 
相手のない喧嘩はできぬ 
相手見てからの喧嘩声 
愛は小出しにせよ 
愛は憎悪の始めなり 
愛別離苦 
逢い戻りは鴨の味 
藍より出でて藍より青し 
逢うは別れの始め 
合うも不思議、合わぬも不思議 
阿吽の呼吸
二人以上が一つの事をする時の微妙なタイミングや気持ち。また、それが一致すること。語源・由来 / 阿吽の呼吸の「阿吽」は、サンスクリット語「a-hum」の音写。「阿」は口を開き、「吽」は口を閉じて発する声のことで、そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、両者が息を合わせることを「阿吽の呼吸」と言うようになった。寺社の山門にある狛犬や仁王の口は一体が口を開き、一体は口を閉じて「阿吽」を表している。密教では、阿吽が「万物の根源」と「一切が帰着する知徳」の象徴とされている。これは梵語の悉曇(しったん)の字母表で、最初の韻が「阿(a)」、最後の韻が「吽(hum)」であることに由来する。
2人以上で物事を行う際に息が合っていることを表します。言葉がなくても意思の疎通ができており、タイミングや間合いがお互いに一致している状態を指します。例えば、家族と一緒にいるときに探しものをしていると、何を探しているか言わずとも目当てのものを渡してくれるような場面です。「言わなくてもお互いにわかり合っている状態」とも言い換えられ、主に家族や友人、恋人のように付き合いが長い相手同士で使われます。「阿吽の呼吸」の由来は仏教の「真言」 / 「阿吽の呼吸」に含まれる「阿吽」は、仏教用語の「真言」(仏の真実の言葉)です。語源となっているのはサンスクリット語で、インドから中国を経て日本に伝わったとされています。仏教用語としての「阿吽」は、阿吽の呼吸とは少し異なる意味をもちます。「阿吽」という言葉が「対となるもの」を表すようになり、そこから転じて「阿吽の呼吸」という慣用句が生まれました。ここでは、「阿吽の呼吸」の成り立ちについてわかりやすく解説します。「阿吽」の語源はサンスクリット語 / 阿吽の呼吸の「阿吽」の語源は、サンスクリット語(梵語/ぼんご)です。古代のインドで誕生し、中国から仏教とともに日本に伝わりました。「阿吽」は仏教用語の真言の一つに含まれます。元々「阿吽」という漢字があったわけではなく、サンスクリット語の「あうん」という音に読み方が似ている漢字を当てはめたものです。サンスクリット語では「阿」が1文字目、「吽」が最後の文字であることから、「阿吽」は万物の始まりと終わりまでを象徴する言葉です。また、口を開けて発声する「阿」に対し、「吽」は口を閉じて発声することから、息の出入りを表す言葉でもあります。現在の意味は「阿吽=対となるもの」が転じたもの / 万物の始まりと終わりという意味に加え、「阿吽」には反発する2つの存在という意味があり、対比や対立などを表す際に使われます。例えば、神社・寺院などに置かれる金剛力士像や狛犬のように、2体で1つとして扱われる像は「阿吽」を踏まえて作られたものです。金剛力士像や狛犬を観察すると、一方が口を開けていて、もう一方が口を閉じていることがわかるでしょう。2体の相対する姿から、意味が転じて現在の「阿吽の呼吸」という表現が生まれました。
二人以上で一緒に物事をする時の互いの微妙な気持ち、またそれが一致することをいい、「あうんのこきゅう」と読みます。二人以上で何かをする時に、絶妙なタイミングや間合いでそれがピッタリと一致し、お互いの呼吸が合っている様子を表す慣用句です。言葉を交わさなくとも意思の疎通が取れていること、息が合っている時に使います。例えば、団体競技での連携などはまさに阿吽の呼吸です。その様子を見ていた第三者が、「阿吽の呼吸だ」と、評する際に使います。阿吽の意味 / 「阿吽」とは元々は梵字であり、万物の始まりと終わりの象徴、息を吸って吐くこと、という意味の言葉です。「阿」は口を開いて息を出すこと、「吽」とは口を閉じて息を吸うことを表し、その気息の出入りを「阿吽」と言います。口を開いた「阿」と閉じた「吽」で一対とする仁王像や狛犬などによく見られる形です。梵字では「阿」が始めの一文字で、「吽」が最後の一文字という順番になっています。そこから由来して「万物の始まりと終わり」という意味を持つようになったそうです。そのため「阿吽」は、「始まりから終わりまで対であること」を表す場合があります。「お互いの呼吸やタイミングが合う」という意味の「阿吽の呼吸」とはニュアンスが違う点に注意しましょう。阿吽を表す像 / 阿吽で有名なのは、神社に鎮座し、邪気を祓う狛犬です。寺院の表門などで睨みを利かせている「仁王像」「金剛力士像」も阿吽を表しています。向かって右側、口を開けて「あ」と表現しているものが「阿像」、口を閉じて「うん」と表現しているものが「吽像」です。つまり像の表情は、「あうん」の音を二体で表現している、ということになります。阿吽の呼吸の由来 / 上述のような対になって呼吸を表す様子が転じて、息がぴったりであることを阿吽の呼吸と呼ぶようになったと考えられています。「阿吽」のみでは息がぴったりという意味までは持たないので、息がぴったりであることを言うときには「阿吽の呼吸」と使うようにしましょう。
息がぴったり合う様子のこと。今でもスポーツにおけるチームプレーや、夫婦、長年のコンビなどに使われることも多く、聞いたこともあるのではないでしょうか。複数人で何かをする時、言葉や合図などがなくても絶妙にコンビネーションが成り立つ時によく用いられる言葉です。そのため「阿吽の呼吸」とはその瞬間の行動そのものだけでなく、強い信頼関係や深い関係性を表現する際や、それを称えるようなニュアンスで使われることもあります。語源 / 「阿吽(あうん)」という言葉は、サンスクリット語が由来です。サンスクリット語は梵語(ぼんご)とも言い、古代インドが発祥の言語。仏教用語の多くはサンスクリット語がもとになっていると言われています。このサンスクリット語において、「阿(あ)」は口を開いて最初に出す音、「吽(うん)」は口を閉じた最後の音です。そのため「阿吽(あうん)」とは仏教用語の真言で、“万物の始まりと終わり”の象徴ともされていました。寺院や神社などで『金剛力士像』や『狛犬』を見かけたことはあるでしょうか。金剛力士像とは仏法の守護神で、寺院内に敵が入り込むことを防いでいます。これらの像の一対は、一方が口を開けた「阿形(あぎょう)」、もう一方が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の表情を持つのが一般的です。これらの一対は二つが合わさることでひとつの物事を行っており、口を開く“吐く息”である「阿」と、口を閉じる“吸う息”の「吽」がぴったりと噛み合っています。「阿吽の呼吸」とはこの様子から転じた慣用句で、まるで呼吸が合うかのようにぴったりと噛み合う様子を指す言葉になりました。
敢えて遅れたるに非ず、馬進まざればなり 
敢えて主とならずして客となる 
敢えて天下の先とならず 
逢えば五厘の損がいく 
仰いで天に愧じず 
青柿が熟柿弔う 
青田と赤子はほめられぬ 
青菜に塩 
青菜は男に見せな 
青は藍より出でて藍より青し 
青色の染料は藍から取るが、原料の藍よりも青いの意から、教えを受けた人が教えた人より優れること。弟子が師よりまさっていることにいう。
弟子が師よりまさっていることのたとえ。[使用例] 萩の舎や門下の才媛たちの間で、「あいよりあおし」と定評されていたのは花圃であり、その花圃と並んでその才幹を着目されているのが一葉であった[宮本百合子*婦人と文学|1948][解説] 青色の染料は、藍という植物から採取し、その色は原料の藍よりも青いところからいわれます。「荀子―勧学」にあることばから。「出しゅつ藍らんの誉ほまれ」とも。(「荀子‐勧学」の「学不レ可二以已一、取二之於藍一、而青二於藍一、冰水為レ之而寒二於水一」から出た語。青色の染料は藍から取るが、原料の藍よりも青いの意から) 教えを受けた人が教えた人より優れること。弟子が師よりまさっていることにいう。藍より出でて藍より青し。出藍(しゅつらん)の誉。氷は水より出でて水より寒し。《「荀子」勧学から》青色の染料は草の藍からとるが、それはもとの藍草よりももっと青い。弟子が師よりもすぐれていることのたとえ。出藍しゅつらんの誉れ。
出典 / 荀子(じゅんし)・勧学(かんがく)。意味 / 弟子が師を越えることのたとえ。「藍(あい)」は蓼(たで)科の一年草。これをしぼって青い染料をとる。本来の意味は、学問は中断しなければ、すぐれた効果を上げるということ。原文 / 君子曰、学不レ可二以已一。青取二之於藍一、而青二於藍一。冰水為レ之、而寒二於水一。〔君子曰(いわ)く、学は以(もつ)って已(や)むべからず。青はこれを藍(あい)より取りて、藍よりも青し。冰(こおり)は水これを為(な)して、水よりも寒(つめ)たし〕。訳文 / 君子がいった。「学問は中途でやめてはいけない。青という色は藍(あい)という草から取るが、その色は元になっている藍よりもいっそう鮮やかな青色になる。氷は水が元になってできるが、いったん氷になると、水よりももっと冷たい。解説 / 一般には[意味]のように師弟関係を表す句として用いられているが、「君子曰(いわ)く、学は以(もっ)て已(や)むべからず」とあるように、学問は中断してはいけない。努力すればするほど精錬されてすぐれたものになるというのが本来の意味である。青と藍(あい)の句が用いられて、氷と水の句はあまり用いられない。『荀子(じゅんし)』の冒頭の一句だが、宋(そう)代の刊本には「青取二之於藍一」と「取」の字が用いられており、このほうが常用されている。ただ宋代の王応麟(おうおうりん)の『困学紀聞(こんがくきぶん)』巻十には、「青出二之藍一」と引用されており、これが「出藍(しゅつらん)の誉(ほま)れ」のもととなっている。
1.人は学問や努力によって、もともと持って生まれた本性をも越えることが出来ること。2.弟子が、師の学識や技量を越えること。一般的には2の意味合いで使用される事が多いようで、弟子が研鑽(けんさん)し師を追い抜くこと、またはその可能性があるということを言います。さらには、それは恥ずべきことではなく望ましいことだ、という意味も含まれています。由来 / 青色の染料は「藍(あい)」という草から採るけれど、その原料の「藍」よりも染料「青」の方がずっと青いことから、教えを受けた人が教えた人より優れる事のたとえとして使われるようになりました。
青葉は目の薬 
青表紙を叩いた者にはかなわぬ 
赤い信女が子を孕む 
赤犬が狐を追う 
明き所には王法あり、暗き方には神明あり 
赤子のうちは七国七里の者に似る 
赤子の手をひねる 
赤子は泣き泣き育つ 
赤子を裸にしたよう 
暁知らずの宵枕 
垢で死んだ者はない 
飽かぬは君の御諚 
垢も身のうち 
明るけりゃ月夜だと思う 
垢を洗って痕を求む 
上がって三代、下がって三代 
秋荒れ半作 
秋カマスは嫁に食わすな 
秋高く馬肥ゆ 
空が澄んださわやかな秋の季節のたとえ。秋空が高く澄みわたり、ウマも食欲が盛んでよく肥える意。
北方の騎馬民族の匈奴が、秋も深まり空が高く澄んで馬も元気に肥えるようになると大挙して略奪にやってくるので警戒するように、との意味。 日本では、秋 の季節のすばらしさについて語る言葉として定着している。○ 出典『漢書かんじょ』趙充国伝、杜審言「蘇味道に贈る」。秋は空が澄みわたって高く見え、馬は肥えて逞たくましくなる。秋の好時節のこと。「天高く馬肥ゆ」が一般的な言い方となっているが、本来は「秋高く馬肥ゆ」であり、「辺境の異民族が攻めてくる時期になったから、防戦の準備をおこたってはならぬ、といういましめの言葉」である。
空き樽は音が高い 
商い三年 
商い上手の仕入下手 
商いは数でこなせ 
商いは門門 
商いは本にあり 
秋茄子嫁に食わすな 
秋茄子は嫁に食わすなとは、憎らしい嫁に美味しい茄子を食べさせるのは、もったいないという意味。秋茄子は体を冷やすから、大事な嫁に食べさせるなという意味。秋茄子は種が少ないので、子種ができなくなるから食べさせるなという意味などある。「なす」は東日本の言い方で、西日本では「秋なすび嫁に食わすな」とも言う。
1.秋茄子は、美味であるので他家からの憎い嫁に食わせてはもったいないという姑の嫁いびりの有様。2.秋茄子は、種子がないので子宝に恵まれなくなる。3.秋茄子は、美味であるため過食してしまいがちであるが、毒性のアルカロイドを含有し、健康を害する恐れもあるので、大切な嫁に食べさせてはならない。4.東洋医学の見方では茄子は体を冷やす食べ物に分類され、特に女性にとって体の冷えは健康によくないため、子供を生んでほしい嫁に茄子を食べさせすぎてはいけない、という戒め。
語源・由来 / 秋茄子は嫁に食わすなの語源は、意味にも書いてある通り、三種類の説がある。一般的には「憎らしい嫁にはもったいない」という意味で使われ、同趣旨のことわざに「秋かます嫁に食わすな」「秋鯖(あきさば)嫁に食わすな」「五月蕨(ごがつわらび)は嫁に食わすな」があり、いずれも嫁いびりの句であることから、封建的な家族制度の中で生まれた言葉のようである。「体を冷やすから」や「子種を心配して」というのは、嫁に対する姑の言い訳から生まれたのかもしれない。鎌倉時代の和歌集『夫木和歌抄』には、「秋なすび わささの粕につきまぜて よめにはくれじ 棚におくとも」とあり、これが秋茄子は嫁に食わすなの語源ともいわれているが、「秋鯖」などの例もあることから説得力に欠ける。また、「わささ」とは「若酒」と書き「新酒」のことで、「よめ」は「夜目」と書き「ネズミ」を表し、「酒粕に漬けた秋茄子を美味しくなるまで棚に置いておくのは良いが、ネズミに食べられないように注意しろ」という意味で、本来は「秋茄子はネズミに食わすな」であったともいわれる。しかし、この和歌が語源であったとしても、「夜目」は隠語であったことや、ネズミを「嫁が君」と言うのは、一般的に正月三が日のみ使う忌み詞で、秋には使われていないことから、この和歌に出てくる「よめ」については「ネズミ」を表している可能性があるというだけである。
1. 意地悪な姑説 / ひとつ目は、「秋に旬を迎え、おいしくなる茄子を嫁なんかに食べさせるのはもったいない」という、姑さんの意地悪な気持ちを表しているというもの。同じような言葉で「秋かます、嫁に食わすな」「秋鯖、嫁に食わすな」「五月蕨、嫁に食わすな」などがあり、いずれも嫁イビリを匂わせる慣用句です。封建的な家族制度のなかで生まれた言葉なのかもしれませんが、意味には諸説あり、その理由や語源はハッキリしていないのが実のところです。2. やさしい姑説 / 一方で、「秋茄子は嫁に食わすな」には、意地悪ではなく、嫁の体を気遣う意味合いがあるという説もあります。茄子には体を冷やす働きがあるので、涼しくなってきた秋に茄子を食べると、出産を控えたお嫁さんの体が冷えてしまうので、やさしい姑さんがお嫁さんを心配しているのだというものです。また、秋茄子は種が少ないので、子宝に恵まれないとう縁起の悪さを気にしているのだという解釈もあります。3. 実は「嫁」とは夜目(ネズミ)を指す説 / また、ここでいう"よめ"は「夜目」と書き、ネズミのことを指しているという説もあります。つまり、おいしい秋茄子をネズミに食べさせるのはもったいないということで、おいしいものをとられたくないという意味として取れますね。鎌倉の和歌集に由来することわざ? / 鎌倉時代の和歌集『夫木和歌抄』には「秋なすび わささの粕につきまぜて よめにはくれじ 棚におくとも」という歌があります。これは、酒粕につけた秋茄子をおいしくなるまで棚に置いておくのはよいけれど、ネズミ(夜目・よめ)に食べられないように注意しましょうという意味です。「秋茄子は嫁に食わすな」は、その和歌が語源ではないかとも言われているんですよ。
姑の嫁いびり / 一般に知られている意味は、「秋にとれる美味しい茄子を憎い嫁には食べさせるな」というもの。茄子は収穫時期により呼び方が異なり、6月頃から収穫された茄子は夏茄子、秋茄子とは9月以降に収穫された茄子のことを指す。夏茄子に比べ秋茄子は、皮が柔らかく水分を多く含んでおり、甘みや旨味が強い。そんな美味しい秋茄子を、わざわざ嫁に食べさせるのはもったいないという嫁いびりを表している。嫁へのおもいやり / 「秋茄子嫁に食わすな」には、嫁いびりとは反対に姑の優しさを表す意味もある。「茄子は体を冷やすため、涼しくなってきた秋に茄子を食べると、大切な嫁の身体を冷やしてしまう」という嫁の身体を気遣ったものだ。また、茄子は種子が少ない野菜のため、子どもができにくくなるといけないと案じて食べさせないという解釈もある。茄子が体を冷やすと言われるのは、カリウムが多く含まれているから。カリウムには利尿作用があるため、水分と一緒に塩分も排出され血圧が下がる。血圧が下がると、全身の血流がゆっくりとなって体温が上がりにくくなるという。嫁ではなくネズミだった? / 「秋茄子嫁に食わすな」の元となったと言われる和歌が、鎌倉時代の私撰和歌集『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう)に収録されている。「秋なすび わささの粕につきまぜて よめにはくれじ 棚におくとも」この歌の「よめ」は「夜目」と書き、ネズミのことを指すという解釈がある。これは「酒粕に漬けた秋茄子を棚に置いておくのはいいが、ネズミには食べられないように気をつけなさい」という意味で、本来は「秋茄子ネズミに食わすな」であったとも言われている。
『秋茄子は嫁に食わすな』の意味で一般的に広く知られているものは、少なからず悪い印象を与えるものでしょう。妻として嫁いだ先で、夫の母親にあたる姑(しゅうとめ)が、「秋茄子のように美味しいものを、嫁の分際で食べるなんてとんでもない」と嫁いできた妻を嫌って差別する、早い話が嫁いびりであるいじめを意味することわざです。しかし、実はこの『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざには、まだほかの意味があるということをご存じでしょうか?それは、先ほどご紹介した意味とは真逆で、姑が嫁をいたわり大切にするというものなのです。ではどのような意味かというと、夏野菜である茄子には体を冷やす作用があるため、「せっかく嫁いできた大切な嫁の体調を守るために、食べさせてはいけない」というもの。特に妊娠している場合にはよくないからというのです。また、秋茄子には種が少ないことから、「秋茄子を食べるとせっかく嫁いできた嫁が、秋茄子のように子種が無くなり、子宝に恵まれなくなって大変だ」という縁起かつぎの意味もあります。特にこのことわざが生まれたとされる時代は、「嫁は世継ぎを生むことが一番大切な役目」とされた封建制度の時代とされ、嫁が子宝に恵まれないと大変なことになる時代だったのです。『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざは、ここまで真逆な意味を持つことから、「よくわからないことわざ」といえるかもしれません。しかし、このことわざにはまだ意味があり、その意味には嫁も姑も関係ないというのです。ではどのような意味かというと、「せっかくの美味しい秋茄子を、ネズミに取られて食われないように注意しなさい」というもの。ではなぜ急にこのような意味が出てきたかというと、「嫁」は元となった由来では「夜目(よめ)」と書き、この「夜目」とはネズミを指す言葉だからというのです。『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざにはこれだけの意味があります。そのため、このことわざは単体では使いづらく、「前後の文から正しい意味を推察する必要があることわざ」ということになるのです。なぜ茄子なの? / このことわざの一番の謎の1つは、なぜ食べさせてはいけない食べ物が茄子なのか?と思う方もいるかもしれません。茄子は皆さんのイメージだと夏野菜という方が多いことでしょう。しかし茄子は、秋もまだ収穫できる野菜です。この時期の茄子は、種が少なくなって実も引き締まることから、多くの方が食味がよくなり美味しいと感じるといいます。「だから茄子なのか」というと、実は『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざ以外でも、嫁いびりの意味に使われることわざの中には、他の食べ物を使ったそっくりなことわざがいくつもあるのです。使われている食べ物は、「秋カマス」「秋サバ」「五月蕨(ごがつわらび)」など、その時期に美味しいとされる食べ物ばかりといいます。このことからも『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざは、嫁の立場が弱い封建的な社会の中で生まれたのかもしれません。由来 / 『秋茄子は嫁に食わすな』の意味はいくつもありますが、実際にどの時代にできたことわざかというと、詳しいことはわからないというのが実情です。そのため由来もはっきりとはしていません。『秋茄子は嫁に食わすな』は嫁いびりのことわざとして生まれ、「嫁を思いやっているんだ」という言い訳を由来として気遣う意味が生まれたのではないか、と推察する意見もあります。そんな中、1つだけ由来とされるものが分かっているとされる意味が1つ。それが、「秋茄子をネズミに取られないよう注意しろ」というあの意味の由来です。なぜ「嫁」は「夜目」が転じたものが由来といわれ始めたのかというと、鎌倉時代の『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』という和歌集に収められた一首の和歌にたどりつきます。「秋なすびわささの粕につきまぜてよめにはくれじ棚におくとも」この和歌を紐解いていくと、「わささ」は「新酒」のことを指す古語で、「よめ」は先にもご紹介したように「ネズミ」のことです。つまり、「秋茄子を酒粕に漬け込んで、美味しくなるまで棚の上に置いておくのはいいものの、うっかりネズミに取られないように気をつけろ」という意味になります。そして、この和歌が由来となって、今の形になったという説があるのです。しかし、この由来が『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざを生んだとする説は、一般的見解としては疑問視されています。理由はいくつかありますが、由来の根拠の1つである「よめ」が、ネズミから嫁に転じるのに無理があると考えられるからです。「夜目」は元々が特定の相手に伝わればよいという隠語であり、さらに「嫁」に転じたとされる由来の元となった「嫁が君(ネズミのこと)」も、一般的に正月の三賀日限定で使われていた、縁起をかついで代わりに使う忌み詞(いみことば)だといいます。また、『秋茄子は嫁に食わすな』ということわざの由来をこの和歌とするには、同じ意味で食べ物だけ違うことわざが多数あることからも、根拠が薄いとされているようです。
秋の雨が降れば猫の顔が三尺になる 
秋の稲妻は千石増す 
秋の入り日と年寄りは、だんだん落目が早くなる 
秋の扇 
秋の鹿は笛に寄る 
秋の空と男心は七度変わる 
秋の日と娘の子はくれぬようでくれる 
秋の日は釣瓶落とし 
秋の日は、井戸の釣瓶が落ちるように早く沈み、暮れてしまう。秋の日暮れが早いことのたとえ。補説秋になると、日没の時刻が早まるだけでなく、その後の薄明の時間も短くなり、日が沈んで間もなく真っ暗になる。
「釣瓶」とは、水を汲むために竿や縄の先につけて、井戸の中におろす桶のこと。秋の日は釣瓶が井戸に滑り落ちるように早く沈み、あっという間に暮れてしまうということ。
秋の日が急に暮れる様の事です。秋の太陽は高度が低く、かなり斜めに沈むため、地上付近の空気の層を長く横切ることから日射しが弱まります。また、日の入りも早まっていることから、日暮れが早く感じられ井戸の桶が落ちる様にたとえて「秋の日はつるべ(釣瓶)落とし」と言われます。各地の10月31日の日の入りは、10月1日より約30分早まっていて夕暮れが早く感じられます。
夏は一年のうちでもっとも昼間の時間が長い季節。夏が終わり、秋に近づいてくると少しずつ日が短くなっていく。早い時間に外が暗くなっていることに気づいて、秋の訪れを感じたことがある人も多いだろう。このことわざは、そんな秋の日暮れが早い様子を「釣瓶落とし」に例えて表現したものだ。現代ではあまり馴染みのない「釣瓶落とし」とは、井戸水を汲むための桶やその周辺の装置のこと。深い井戸の底でも届くよう、桶は縄や竿にくくりつけられている。井戸の上部に備え付けられた滑車によって上下する仕組みになっており、手を離すと真っすぐに桶が井戸に落ちていく。つまり、「秋の日は釣瓶落とし」は、“釣瓶落としのように秋は日が暮れだすとあっと言う間に暗くなってしまう”といった意味を持っている。では実際、秋は他の季節に比べて日が暮れるのが早いのだろうか。東京の年間の日没時間を調べてみると、もっとも日没時間が早いのは11月下旬〜12月上旬で、16時半頃には日が沈んでしまう。6月下旬〜7月上旬の日没時間が19時近くになることを考えると、実に2時間半も早い計算になる。もう一つ、「薄明(はくめい)」の時間についても理解しておきたい。薄明とは、上空の大気が太陽光を散乱させ、日が沈んだ後も空がぼんやりと明るく見える現象。「逢魔が時(おうまがとき)」や「マジックアワー」と呼ばれるのもこの時間帯のことだ。日の長い6月の場合、薄明の時間は1時間50分ほど。つまり、日没後も2時間程度は空がうっすら明るい状態が続き、ゆっくりと暗くなっていく。一方、9月、10月は6月に比べると30分近く薄明継続時間が短い。日没が早いことに加えて、日が沈んでから暗くなるまでが早いため、夏に比べてあっという間に日が暮れるように感じるのも当然かもしれない。
「秋の日は釣瓶落とし」(あきのひはつるべおとし)とは、井戸で水を汲むための桶「釣瓶(つるべ)」が滑車でするすると勢いよく落ちていくように、秋はいったん日が暮れだすとすぐに夕陽が沈んで暗くなってしまうという意味のことわざ。この「秋の日は釣瓶落とし」では、日没の時刻が早まることよりも、日が沈みかけてから完全に暗くなるまでの時間が短くなる(速まる)ことに焦点が当てられているように思われる。秋は日が暮れるスピードが本当に速いのだろうか?速く感じるのはなぜなのか?その理由について簡単にまとめてみた。秋は日没の時刻が早い / まず、秋は夏よりも日没の時刻が最大で2時間以上早くなる。夏の日没の時刻に慣れてしまうと、いつもよりも早い時間帯に日が暮れてしまうので、日暮れの「時刻」が早いという意味で、「秋の日は釣瓶落とし」が一つの意味を持つことになる。秋は薄明が続く時間が短い / 日没後もしばらくは空が暗くならず、ぼんやりと明るい状態が続く現象を「薄明(はくめい)」という。これは上空の大気が太陽光を散乱させることで生じる自然現象だ。一年でこの薄明が継続する時間が最も長い月は6月で、秋頃(9月・10月)は6月と比べて30分近く薄明の時間が短くなる。つまり、秋は日没から完全に暗くなるまでの時間が夏よりも短くなるため、薄暗くなってから急に真っ暗になるように感じ、その速さが「秋の日は釣瓶落とし」ということわざに表れているのだろう。
「朝顔やつるべ取られてもらい水」現代では「朝顔につるべ取られてもらい水」と紹介されることもあるようだ。加賀千代女(1703-1775)は江戸中期の俳人。歌の意味は、井戸で水を汲もうとしたら、朝顔のツタ(つる)が釣瓶に巻き付いており、ツタをちぎってしまうのは可哀想なので、隣の家に水をもらいにいったという内容。ちなみに、秋の七草の朝顔(キキョウ)のように、古典文学では朝顔と書いてキキョウなどの花を表すことがあるが、この歌は江戸中期の俳句なので、現代のアサガオと同じ朝顔であると解釈してよいだろう。
秋の夕焼け鎌をとげ、秋の朝照り隣へ行くな 
秋葉山から火事 
秋日和半作 
空家で声嗄らす 
空家の雪隠でこえなし 
諦めは心の養生 
失敗や不運だったことをくよくよと考えるよりは、きっぱりと諦めたほうが精神の健康にはよいということ。 過去の失敗や不運にとらわれていつまでも悔やんでいても、心の健康を害す。
生活をしていると、とかく諦めきれないことが多いです。でも、諦めないで、ずっと引きずっていると、心には大きな負担がかかります。ですから、すぱっと諦めてしまいましょう。それが、心の養生になります。人に仕返しをしようとして失敗し、それでも諦めきれないとか、好きな人にふられたが、それでも諦めきれないとか、いろんなことがあります。でも、クヨクヨと悩んでいても、何も解決しないなら、すぱっと諦めて、もっと建設的なことに心を向けましょう。だめなら、諦めるしかないのです。もちろん、まだ可能性があるなら、諦めない方がいいときもあります。しかし、どうしようもないことなら、すぱっと諦めれば、心の負担はとても少なくなります。
過ぎ去ってしまった過去の失敗や悪い出来事などを、いつまでも悔やんでみても、 心がくもってゆくだけで、心の健康にっとってあまりよくない、ということのようです。 ですから、きっぱりと、だめになってしまったことを忘れ、今できる身近なことから始めてみる、 というのが、心の健康にとって、一番よい、ということではないかと思います。
目標に向かって努力することはできますが、運は努力ではどうにもならないのではないでしょうか。また、十分に気を付けていても、思わぬ失敗ということも避けられない場合もあるのではないでしょうか。 不運に見舞われたり、失敗をしてしまったりすると、とても悲しい気持ちになりますね。しかし、やり直すことのできないことをいつまでも考えているよりも、諦めは心の養生と気持ちを切り替えて、次に進むことを心がけたいですね。
「出る月を待つべし、花の散るをうらむことなかれ」  生きていれば、声をあげて嘆きたくなるようなことに遭遇する。また、あの時こうしておけばよかったと後悔することも多い。だから過去にこだわりたくなる気持ちは分かるが、いたずらに過去にこだわってばかりいても仕方がない。散ってしまった花は、もはやどうにもならないのである。人が積極的に生きるということは、もしかしたら、次々に“祭り”を作っていくことではないのかと思ったりする。自分が肩入れしたり、参加した“祭り”であっても、過ぎ去ってしまえば、それは過去という世界へ飛んでいく。車窓から眺める景色が、次々に後ろへ飛んでいくようなものではないか。そこでは、新たに自分の前に出現する風景の素晴らしさを楽しんだり、感動したり、新たな発見に満足したりするしかない。次々にそうした発見を重ね、それに身をゆだねることが、旅をエンジョイするコツでもある。人生もまた同じであろう。新たな“祭り”を発見したり、それに参加できなくなった時、人は老いるのであろう。“祭り”を発見する能力が生きる能力だともいえる。作者:中根東里(1694−1765)は儒学者、書名:「壁書」。
呆れが礼に来る 
商人と屏風は曲がらねば立たぬ 
商人に系図なし 
商人の嘘は神もお許し 
商人の子は算盤の音で目をさます 
商人の空誓文 
商人の空値 
商人の元値 
商人は木の葉も錦に飾る 
商人は損していつか倉が建つ 
商人は損と原価で暮らす 
商人は腹を売り客は下より這う 
顎のしずく、口に入らぬ 
悪、小なりとて為す勿れ 
悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に議るに足らず 
悪因悪果 
悪縁契り深し 
悪言の玉は磨き難し 
悪言は口より出ださず、苟語は耳に留めず 
悪妻は百年の不作 
悪性の気よし 
悪事千里を走る 
悪事千里を行く 
悪事身に返る 
悪獣もなおその類を思う 
悪女の賢者ぶり 
悪女の深情け 
性格の悪い美人と、性格は悪くないが不美人、どちらを選ぶかとなれば、大抵の男は、性格は二の次にして美人を採る。言うまでもなく、この二つのタイプの両脇に、性格の良い美人と、性格も悪い不美人がいる。しかしこちらは答えが明瞭なので、問題の起きようもなく、しかもそうそう居るものではないから、今回の考察から除外して構わないのである。まあナンダカンダ言っても、男は「イイ女」が好きなんである。”いやぁ、よだれの出るような、イイ女だねぇ!一晩でいいから、お付き合い願いたいモンだねぇ!”このように、男のスケベな眼差しを浴びることに狎れ、甘い言葉でおだて上げられていれば、女は気持ちよく思い上がって、驕慢になる。男に可愛がられようとする、健気な努力を怠り、プライドだけが高くなる。愛嬌を振るのはカネの為。”愛??そんなママゴト!フン!”・・こんなのに限って、”アタシってこう見えても尽くすタイプなの”ってほざく。 この格言の「悪女」とはこの「イイ女」の反対、「悪いイイ女」ではなくて、”イヤァー、折角だけど、遠慮させてもらうわ、ハハ・・”の口。性格の悪い美人に辟易すると、”やっぱり女は心だわ”と改心して、いざ付き合ってみれば、痒いところに手が届く、まさに至れり付くせりの殿様気分。しかし勝手気儘に生きてきた男が、女に何から何まで世話を焼かれるというのも、次第に鬱陶しくなってくるもので、まして「たまにはイイ女と・・・」遊んだことがバレたりしたら、その焼もちの激しいったらありゃしない。”アタシがこれだけあんたのことを思って尽くしているっていうのに・・・”女の献身がなんとなく重く被さってくるんですね。”悪かった悪かった・・・謝る、ほんの出来心だから・・・”???あっ!そうか!悪女ってのは、男に”悪かった悪かった”って、すぐ謝らせる女のことだったのか!そして謝ればまあ何とか許してくれる深い情けもある。そうか世の中の女はほとんどが「かわいい悪女」ってことなのね。 
悪女は鏡を疎む 
悪銭身に付かず 
悪に従うは崩るるが如し 
悪に強ければ善にも強し 
悪人あればこそ善人も顕れる 
悪人には友多し 
悪人の友を捨てて善人の敵を招け 
悪人は、我が造りしものに捕らえらる 
悪人は善人の仇 
悪の裏は善 
悪の報いは針の先 
悪の易きや火の原を燎くが如し 
悪は一旦の事なり 
握髪吐哺 
悪は延べよ 
欠伸を一緒にすれば三日従兄弟 
悪法もまた法なり 
悪木盗泉 
悪を長じて悛めずば、従って自ら及ばん 
悪を為すも刑に近づく無し 
悪を悪むは、その始めを疾む 
悪を見ては農夫の努めて草を去るが如し 
安坐で川 
挙ぐることは鴻毛の如く、取ることは拾遺の如し 
開けて悔しき玉手箱 
朱を奪う紫 
挙げ句の果て 
上げ膳据え膳 
阿衡の佐 
阿漕が浦に引く網 
顎で背中を掻く 
顎で蠅を追う 
顎振り三年 
朝雨に傘いらず 
朝雨は女の腕まくり 
朝の雨はすぐにあがるものだから、たいしたことはないということ。朝に降る小雨はすぐに晴れてしまうことが多く、女が腕をまくってもこわくないのと同じことだということから転じたことわざ。
朝雨はすぐにあがるものだから、女の腕まくりと同様、大して気にかけることはない。
朝に降る雨はすぐにやんでしまうことが多く、女性が腕まくりして腕力がない。それらのことから、朝雨も女の腕まくりも大したことがない、大げさに騒ぐほどのことではないという意味である。
女が腕まくりしていくら力んで見せても、すぐにへたばってしまう。同じように、朝降る雨は、じきに上がるから恐れるに足りないことをいう。 / 恐れるに足りない、たいしたことではないことのたとえ。朝に降る雨は、すぐにあがり晴れるから気にすることではない。同じように、女性が威張って腕まくりをしたって、朝雨のようにすぐに収まるので恐れることはないことから。
朝の雨はすぐにあがるものだから、心配はないということ。女が腕まくりをして気勢を示しても、朝の雨のように長続きはしないもの。だから、どちらも恐れるに足りないということ。類義語、朝雨に傘いらず。朝の雨は晴れの兆し。
浅い川も深く渡れ 
朝謡は貧乏の相 
朝起き千両、夜起き百両 
朝起きは三文の徳 
朝雷に川渡りすな 
朝神主夕坊主 
朝顔の花一時 
朝駆けの駄賃 
麻殻に目鼻をつけたよう 
朝曇りに驚く者は所帯持ちが悪い 
朝曇り昼日照り 
朝酒は門田を売っても飲め 
浅瀬に仇波 
朝題目に宵念仏 
朝茶は七里帰っても飲め 
明後日紺屋に今晩鍛冶屋 
朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ 
朝虹は雨、夕虹は晴れ 
わが国は西から東に向かって気圧の谷が通るから、朝虹は西に雨が降っていることを示し、夕虹は東には雨が降っているが、西は晴れていることを示している。 したがって、朝虹は雨になり、夕虹なら翌朝は晴れになる公算が強いのである。
朝につるる蓬 
朝寝朝酒は貧乏のもと 
怠け者をいましめる言葉。朝寝と朝酒は怠け者のしるしで、そのような怠け者が貧乏になり生活に困るのは当たり前だということ。
朝寝好きの夜田打ち 
朝寝八石の損 
朝寝坊の宵っ張り 
夜はいつまでも起きていて、朝は遅くまで寝ていることをいい、そのような習慣をもつ人にたとえる。
麻の中の蓬 
朝の一時は晩の二時に当たる 
朝のぴっかり姑の笑い 
朝腹に茶漬け 
朝日が西から出る 
朝比奈と首引き 
朝風呂丹前長火鉢 
浅みに鯉 
朝飯前のお茶漬け 
朝焼けは雨、夕焼けは晴れ 
朝油断の夕かがみ 
朝を荷って金を捨てる 
薊の花も一盛り 
海驢の番 
悪しき人に順って避けざれば、繋げる犬の柱を廻るが如し 
足寒ければ心を傷む 
朝に紅顔ありて夕べに白骨となる 
朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べに白骨(はっこつ)となる / この世をわがもの顔に誇る若者の血色のよい顔も、たちまちに白骨となって朽ち果てるの意で、生死の測り知れないこと、世の無常なことにいう。
朝に其の事を忘るれば、夕べに其の功を失う 
朝には富児の門を叩き、暮には肥馬の塵に随う 
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり 
朝に夕べを謀らず 
明日は明日の風が吹く 
今日どんなにたいへんなことがあったにせよ、明日は明日で別のなりゆきになる。くよくよと心配し、取り越し苦労をしても始まらない。
明日夕べに及ばず 
足駄をはいて首ったけ 
足駄をはく 
足の跡はつかぬが筆の跡は残る 
足の裏の飯粒をこそげる 
足下から鳥が立つ 
足下に火が付く 
足下の明るいうち 
足下の鳥は逃げる 
足下を見る 
足を重ねて立ち、目を側ててみる 
足を削りて履に適せしむ 
足を知らずして履を為る 
足を万里の流れに濯ぐ 
足を棒にする 
足がひどく疲れるほど、歩きまわる。足を摺粉木(すりこぎ)にする。
味無い物の煮え太り 
明日ありと思う心の仇桜 
明日があると思っていると、桜の花がはかなく散るように、機会を失うことになる。世の無常なことをいう。
飛鳥川の淵瀬 
明日食う塩辛に今日から水を飲む 
明日知らぬ世 
明日のことは明日案じよ 
明日の事を言えば鬼が笑う 
明日の百より今日の五十 
明日はまだ手つかず 
明日は我が身 
今日、他人の身の上に起こったことは、明日は自分の身の上にふりかかってくるものと思わなくてはならない。他人の災難をひとごとと思って見過ごしてはいけない。
預かり物は半分の主 
小豆の豆腐 
東男に京女 
男は、粋いきな江戸の男がよく、女はたおやかな京都の女がよい。また、似合いの男女の取り合わせをいう。[解説] 古来、東国の男は勇猛で、男らしいことで名高く、京の女は情味にあふれ優雅なことで知られましたが、江戸っ子の粋と京女の女性らしさが対比的に取り合わされ、転じて、似合いのカップルの意味を表すようになったものと思われます。他にも、「京女に奈良男」「越後女に上州男」「筑前女に筑後男」など地名を冠して、対照的に男女の取り合わせの妙を述べたものが全国に数多くあります。
あずり貧乏人宝 
汗出でて背を沾す 
畦から行くも田から行くも同じ 
遊びに師なし 
与うるは取らんがため 
当たった者の、ふの悪さ 
当たって砕けろ 
成功するかどうかわからなくても、思いきってやってみよということ。
頭が動けば尾も動く 
後を滅せんと欲して雪中を走る 
後は野となれ山となれ
目先のことさえ解決できれば、後はどうなってもかまわないというたとえ。由来は、作物を収穫した後の耕地は、もう作物を収穫した後だから野になろうが山になろうが知ったことではない、ということからきています。また、江戸時代の浄瑠璃作家、近松門左衛門の作品「冥途の飛脚」の一節で「栄耀栄華も人の金、はては砂場も打ち過ぎて、あとは野となれ大和路や」からきているとも言われています。 [類義語] 先は野となれ山となれ/末は野となれ山となれ/旅の恥はかき捨て/旅の恥は弁慶状。対義語 立つ鳥跡を濁さず/飛ぶ鳥跡を濁さず/鳥は立てども跡を濁さず/鷺(さぎ)は立ちての跡を濁さず 。水鳥が飛び去った後の水辺が、濁らずに清いままであることから、立ち去る者は、自分のいた場所を汚れたままにせず、綺麗にしてから立ち去るべきだという戒めの言葉になります。引き際は、綺麗であるべき、という意味もあります。
穴があったら入りたい 
穴蔵で雷聞く 
侮る葛に倒さる 
彼方を祝えば此方の怨み 
穴の端を覗く 
穴の狢を値段する 
穴を掘って言い入る 
姉女房は身代の薬 
あの声で蜥蜴食らうか時鳥 
あの世千日、この世一日 
訐きて以って直と為す者を悪む 
痘痕も靨 
家鴨の鴨の気位 
阿鼻叫喚 
(あび-きょうかん) 非常な辛苦の中で号泣し、救いを求めるさま。非常に悲惨でむごたらしいさま。地獄に落ちた亡者が、責め苦に堪えられずに大声で泣きわめくような状況の意から。「阿鼻」は仏教で説く八熱地獄の無間むけん地獄。
危ない事は怪我のうち 
危ない所に登らねば熟柿は食えぬ 
危ない橋も一度は渡れ 
危ない橋を渡る 
虻蜂取らず 
虻もたからず 
虻も取らず蜂に刺される 
油紙に水を注ぐよう 
油紙へ火の付いたよう 
脂に画き氷に鏤む 
油に水 
油を売る 
(江戸時代、髪油を売り歩く者が婦女を相手に話し込みながら商ったところから) 仕事を怠けてむだ話をする。また、仕事の途中で時間をつぶして怠ける。
油を以って火を救う 
油を以って油煙を落とす 
阿呆に付ける薬はない 
阿呆の一徹 
愚かなものが、つまらないことにこだわって頑固にそれを押し通そうとすること。
雨上がりの薬缶照り 
甘い粉にむせる 
甘い物に蟻がつく 
雨栗日柿 
雨垂れ石を穿つ 
雨垂れは三途の川 
雨夜の月 
余り寒さに風を入る 
余り茶に福あり 
余り円きはまろび易し 
余り物にも福がある 
網、呑舟の魚を漏らす 
阿弥陀も銭で光る 
網無くて淵をのぞくな 
網にかかった魚 
網にかかるは雑魚ばかり 
悪事をはたらいても捕まるのは小物ばかりで、大物は巧みに逃げてなかなか捕まらないということ。
網の目から手 
網の目に風たまらず 
網の目に風とまる 
雨、塊を破らず 
蛙鳴蝉噪 
黄牛に腹突かれる 
雨が降ろうが槍が降ろうが 
どんな困難があってもやりとげるという強い決意のたとえ。石にかじりついても。
飴で餅 
飴と鞭 
飴と鞭とは、支配や懐柔の方法で、甘い扱いをして譲歩する一方で厳しく締めつけること。 権力者の人民懐柔策で、一方では弾圧法規を制定すると共に、一方では生活に役に立つとされる政策を実施することである。鞭を前者に、飴を後者に例えた言葉である。
雨に沐い風に櫛る 
雨に濡れて露恐ろしからず 
雨の降る日は天気が悪い 
雨の夜にも星 
雨は花の父母 
雨晴れて笠を忘る 
雨降って地固まる 
トラブルが発生したが、それが解決してしまうと、それが発生する前よりかえって良い状態になっていること、又は、往々にしてそういうものであるという達観。
雨を冒して韮を剪る 
飴を舐らせて口をむしる 
危うきこと朝露の如し 
危うきこと虎の尾を踏むが如し 
危うきこと累卵の如し 
危うきを見て命を致す 
怪しきを見て怪しまざれば、怪しみ却って破る 
過ちて改むるに憚ることなかれ 
過ちて改めざる、是を過ちと謂う 
過ちの功名 
過ちは好む所にあり 
過ちを文る 
過ちを観て仁を知る 
荒馬の轡は前から 
嵐の後には凪がくる 
嵐の前の静けさ 
暴風雨が襲来する前に辺りが一時静まり返るところから、変事が起こる前の不気味な静けさをいう。
争い果てての乳切り木 
新たに沐する者は必ず冠を弾く 
蟻集まって樹を揺るがす 
有りそうで無いのが金、無さそうで有るのが借金 
有りての厭い、亡くての偲び 
蟻の穴から堤も崩れる 
蟻の思いも天に昇る 
蟻の熊野まいり 
蟻の塔を組む如し 
蟻は蹴る能わず、針は呑む能わず 
蟻も軍勢 
歩く足には泥がつく 
有る手からこぼれる 
ある時はありがあり、ない時は梨もない 
有る時は米の飯 
有る時払いの催促なし 
有るは厭なり、思うは成らず 
有るは借銭、無いは金 
淡きを食らい薄きを着る 
合せ物は離れ物 
慌てる蟹は穴へ入れぬ 
慌てる乞食は貰いが少ない 
他者よりも多く貰おうと急いで貰いに行く乞食は、施す人からその欲深さを嫌われて、結局は貰い分が減ってしまうというたとえ。自分の都合のみを押し付け理不尽な要求をする人間は、相手の反感を買い、結局は損をするという意。
阿波に吹く風は讃岐にも吹く 
合わぬ蓋あれば合う蓋あり 
阿波の着倒れ、伊予の食い倒れ 
阿波(徳島)の人は着る物にぜいたくをし、伊予(愛媛)の人は食べることにお金をかける気風があるということ。
粟一粒は汗一粒 
粟の粃有るが若し 
粟を給すること多くして馬痩す 
粟を量りて舂く 
鮑の片思い 
晏嬰の狐裘 
鮟鱇の待ち食い 
あんころ餅で尻を叩かれる 
暗室に欺かず 
晏子の御 
安車蒲輪 
鞍上人なく、鞍下馬なし 
案じるより団子汁 
安心立命 
案ずるより生むが易い 
物事は、実際に行ってみると、事前に心配していたほど難しくはないということです。由来は、言葉の通り妊婦さんが、赤ちゃんを産むのに不安になっていても実際産んでみたらそれほどのことでもなかったということから来ています。
安石出でずんば蒼生を如何せん 
安宅正路 
暗中的を射る 
暗中模索 
手がかりのないまま、あれこれとやってみること。暗闇くらやみの中で、手探りをして求める意から。「模」は「摸」とも書く。
安に居て危を思う 
安歩以て車に当つ

 

衣、新を経ずんば何に由りて故ならん 
帷幄の臣 
威あって猛からず 
いい後は悪い 
言い勝ち功名 
言いたいことは明日言え 
意到りて筆随う 
言うた損より言わぬ損が少ない 
言う勿れ、今日学ばずして来日ありと 
言うに落ちず語るに落ちる 
言うは易く行なうは難し 
何かをする(しろ)と言葉で言うのは簡単だが、それを実際にするのは非常に困難であることが多い事。
言う者罪無くして聞く者を戒む 
家売れば釘の価 
家柄より芋茎 
家其の所に足る者は、聖人にも従わず 
家に諫むる子あれば、其の家必ず正し 
家に<タン>石なし 
家に杖つく 
家に無くてならぬものは上がり框と女房 
家に鼠、国に盗人 
家に幣帚有り、之を千金に享つ 
家の高いより床の高いがよい 
家は弱かれ主は強かれ 
家貧しくして孝子顕る 
家貧しくして親愛散じ、身病みて交遊罷む 
家貧しくして良妻を思う 
家が貧乏であると、やりくりじょうずのよい女房がいてくれたならば、と痛切に思うようになることをいう。
家貧しくて親老ゆれば録を択ばずして仕る 
家を出ずれば七人の敵あり 
家を移して妻を忘る 
鋳掛け屋の天秤棒 
烏賊の甲より年の功 
怒りには則ち理を思い、危うきには義を忘れず 
怒りは逆徳なり、兵は凶器なり、争いは末節なり 
怒りは敵と思え 
怒りを遷さず 
怒れる拳笑顔に当たらず 
衣冠の盗 
毬栗も内から割れる 
生き馬の目を抜く 
勢いを以って交わる者は勢い傾けば即ち絶ゆ 
行きがけの駄賃 
「あることをするついでに、別のことをして利益を得ること」という意味があります。本来の目的を達成する過程で利益を得た場合に使われる言葉です。「行き掛けの駄賃」は、もともと「馬子(まご)が問屋に荷物を取りに行く途中に、他の荷物を運んで得る駄賃」という意味の言葉でした。
意気軒昂 
意気込みが盛んなさま。威勢がよく元気な様子。
生きての恨み死しての嘆き 
憤りを発して食を忘る 
生き二両に死に五両 
息の臭きは主知らず 
生き恥かくより死ぬがまし 
醜い行いをしてまでも生きていくよりは、潔く死んだほうがましな時があるという事。
生き身に餌食 
生き身は死に身 
意気揚揚 
衣錦の栄 
戦を見て矢を矧ぐ 
異口同音 
「多くの人がみな口をそろえて、同じことを言うこと。 また、みんなの意見が一致すること」です。“口”は「こう」と読むのだそうですが、一般的には「いくどうおん」と発音されます。
生簀の鯉 
意見三両、堪忍五両 
意見と餅はつくほど練れる 
韋弦の佩 
懿公鶴を好む 
諍い果てての契り 
諍い果てての乳切り木 
砂長じて巌となる 
砂に黄金、泥に蓮 
砂を集めて塔を積む 
井渫えて食われず 
いざ鎌倉 
石、玉をつつみて山輝く 
石臼に箸を刺す 
石が流れて木の葉が沈む 
石蟹の穴へ海蟹は入らず 
石車に乗っても口車に乗るな 
石地蔵に蜂 
石で手を詰める 
石に裃 
石に灸 
石に漱ぎ流れに枕す 
石に錠 
石に立つ矢 
石に花咲く 
石に蒲団は着せられぬ 
石に耳あり 
石の上にも三年 
冷たい石の上でも、三年もすわり続けていれば石が温まってくる。最初は辛くとも、三年も辛抱すれば報われることのたとえ。[解説] 江戸初期には「石の上にも三年いれば温まる」といいました。この「いる」はすわるという意味です。一七世紀末頃から後半を略した現在の形がしだいに定着して、今日では、元の形はすっかり忘れられてしまいました。その結果、温まるイメージが浮かびにくくなり、長くがまんしていれば慣れると解釈する人も少なくありません。用法として多いのは、就職や開業の際の心構えとして、ともかく三年は辛抱しようとするものです。また、夫と別れて実家に帰りたいという新妻に対して、仲人がなだめるときにもよく引かれていました。「三」は、一般に区切りとして意識される象徴的な数で、この場合も、「三年」は厳密な年数というより、新しい環境や仕事に慣れ、ゆとりの出てくる時期を示すものでしょう。
石の物言う世の中 
石橋を叩いて渡る 
どんなに安全そうなことでも十分に確認してから行動することのたとえ。
石部金吉鉄兜 
医者が取るか坊主が取るか 
医者寒からず儒者寒し 
医者上手にかかり下手 
医者知者福者 
医者と味噌は古いほどよい 
医者の薬も匙加減 
医者の自脈効き目なし 
医者の只今 
医者の不養生 
人に養生を勧める医者が、自分は健康に注意しないこと。正しいとわかっていながら自分では実行しないことのたとえ。
石破れ天驚く 
貴珠賤眸より出ず 
衣食足りて礼節を知る 
石を抱きて淵に入る 
以心伝心
以心伝心とは、心の内で思っていることが、声に出さなくても互いに理解しあえること。以心伝心は、「心を以って心に伝える」と読み下す。つまり、うわべだけの行動や言葉で表すのではなく、何も口に出さずとも相手の考えていることが理解でき、そして相手のために行動するという心がけが大切であるという意味を表している。[由来] 以心伝心の語は、禅宗の慧能(えのう)が「言葉では表せない仏教の神髄、教え、考え方を、無言のうちに師匠から弟子に伝えること」という意味を説明するのに「法即以心伝心、皆令自悟自解」という言葉を用いたことが由来とされる。「法即以心伝心、皆令自悟自解」という慧能の言葉は「六祖壇経(ろくそだんきょう)」という経典に書かれている。経典とは、仏教の教えを書きとどめた書物のことである。
渭樹江雲 
<イスカ>の嘴 
居ずば出会え 
出雲の神より恵比寿の紙 
出ずる息の入るをも待つべからず 
いずれ菖蒲か杜若 
伊勢へ七度、熊野へ三度 
伊勢や日向の物語 
葦巣の悔い 
居候置いて合わず居て合わず 
居候の三杯目 
急がば高火 
急がば回れ 
危なくて短い道よりも安全で長い道を通ったほうが速く着くということから、物事は慌てずに着実に進めることが結果としてうまくいくということ。
急ぎの文は静かに書け 
磯際で船を破る 
磯の鮑の片思い 
痛い上の針 
衣帯を解かず 
痛くもない腹を探られる 
(腹痛でもないのに痛い所はどこかと探りまわされる意から) 何のやましいこともしていないのに、疑いをかけられる こと。
板倉殿の冷え炬燵 
板子一枚下は地獄 
痛し痒し 
(かけば痛いし、かかないとかゆい意から) 二つの方法のどちらをとってもぐあいが悪く、どうしたらよいか迷う。また、ぐあいのよい面もあれば悪い面もあって、困る。
戴く物は夏も小袖 
鼬になり貂になり 
鼬の最後っ屁 
鼬の無き間の貂の誇り 
鼬の道切り 
痛む上に塩を塗る 
韋駄天走り 
一悪を以て其の善を忘れず 
一運ニ腰三拍子 
一翳眼にあれば空華乱墜す 
一淵には両鮫ならず 
一押しニ金三男 
一か八か 
一眼の亀浮木に逢う 
一芸は道に通ずる 
一言居士 
一期一会 
茶道に由来する日本のことわざ。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉。一生に一度だけの機会そのものを指す語としても用いられる 。
一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう。千利休の弟子宗二の『山上宗二記やまのうえそうじき』に「一期に一度の会」とあるのによる。「一期」は仏教語で、人が生まれてから死ぬまでの間の意。
一合取っても武士は武士 
一言既に出ずれば駟馬も追い難し 
一事が万事 
一つのことで全てが推測されるようす。普通は一つの悪い例を挙げて、そこから他の悪い様に敷衍する。
わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる。一つの小さな事柄の調子が他のすべての場合に現れる。
一字千金 
一日三秋 
一日千秋 
一日敵を縦せば数世の患い 
一日作さざれば一日食らわず 
一日作さざれば百日食らわず 
一日の長 
少し年長であること。転じて、ほんの少し経験があり、技能などが他よりわずかにすぐれていること。自分の経験・能力・技能などを謙遜していう語。
一日再び晨なり難し 
一時の懈怠は一生の懈怠 
一字の師 
一樹の蔭一河の流れも他生の縁 
一場の春夢 
一善を廃すれば衆善衰う 
一衣帯水 
一種二肥三作り 
一諾千金 
一と言うたら二と悟れ 
一度あることは二度ある 
物事が一度起こると、同じようなことが続いて起こるものだから、気をつけねばならぬというたとえ。
一度死ねば二度死なぬ 
一度はままよ二度はよし 
一度見ぬ馬鹿、二度見る馬鹿 
一度焼けた山は二度は焼けぬ 
一無かるべからず、二あるべからず 
一難去ってまた一難 
一つの災難が過ぎてすぐに別の災難が降りかかること。次々に災難が襲ってくること。
一に看病二に薬 
市に帰するが如し 
一日一字を学べば三百六十字 
一日之を暴して十日之を寒す 
一日猿楽に鼻を欠く 
一日の計は朝にあり 
市に虎あり 
一に養生二に介抱 
市に禍を買う 
一人虚を伝うれば万人実を伝う 
一人倹を知れば一家富む 
一人の斉語、衆楚の<かまびす>しきに耐えず 
一人善く射れば百夫決拾す 
一念岩をも徹す 
一念天に通ず 
一年の計は元旦にあり 
何事もまず初めに計画を立てることが大事であるという意味。
一農耕さざれば民之が為に飢う 
一の裏は六 
一暴十寒 
一馬の奔る、一毛の動かざるは無し 
一引き二才三学問 
一姫二太郎 
一富士二鷹三茄子 
初夢の「一富士二鷹三茄子」 現在は、元旦(1月1日)の夜から2日の朝にかけて見る夢を「初夢」としています。初夢の夜をいつにするかについては様々な説があり、室町時代の京都付近では、節分の夜から翌日の立春の明け方にかけての夢が初夢とされていました。江戸時代には、大晦日から元旦にかけて見る夢、2日に見る夢、3日に見る夢など、いろいろな説があったようです。なお、江戸の人々が動き出すのは2日からで、元旦の町は人通りもほとんどなく、庶民の多くは正月を寝て過ごしていたそうです。
由来 / 「一富士二鷹三茄子」のことわざを聞いて、「富士山は日本一の山だし、鷹も、鋭い眼光で高い空を悠々と飛んでいるから、何となくわかる。でも、野菜の茄子が3番目なのはなぜ? 」と思う人も多いのではないでしょうか。確かに奇妙な取り合わせです。「一富士二鷹三茄子」のことわざは江戸時代初期にはすでにあり、江戸時代中期の旅行家・百井塘雨(ももい とうう)の紀行『笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)』、江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』、喜多村信節(きたむら のぶよ)の随筆で、江戸時代後期の風俗の百科事典とも言われる『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』、江戸時代後期、平戸藩主・松浦静山 (まつら せいざん) の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』などの文献に記載されています。由来は諸説あり、徳川将軍家に縁の深い駿河国(するがのくに、現在の静岡県中部)と結び付けた説が多いのが特徴です。
駿河国の名物を順に挙げたとする説 / 最も有力なのが、駿河国の名物を並べたという説。徳川家康(とくがわ いえやす)が隠居後の居城としていたのが、駿河国にあった駿府城(すんぷじょう)。日本一の富士山、富士山麓に棲む鷹は鷹の中でも最高の種、駿河国で生産される茄子も逸品であることから、優れたものの象徴として三つを並べたというものです。
駿河国で高い物を順に挙げたとする説 / 徳川家康が駿府城にいた際、初茄子の値段がとても高かったため、「ます一に高きは富士なり、その次は愛鷹山(あしたかやま)なり、その次は初茄子」と言い、そこから「一富士二鷹三茄子」という言い回しがされるようになった、という説もあります。
縁起の良い物を順に挙げたとする説 / 富士は高く大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」の意味で、縁起のよい物を順に挙げたとする説もあります。また、富士は「不死」に通じるので不老長寿を、鷹は「高・貴(たか)」と訓が共通するので出世栄達を、茄子は実がよくなるので子孫繁栄を意味するとした説もあります。
徳川家康の好物を並べたとする説 / 江戸幕府を開いた徳川家康は、風景では富士山が、趣味では鷹狩りが、食べ物では茄子がことのほか好きだったとか。その三つを初夢に見ると、天下を取った家康にあやかれるというわけです。
日本三大仇討を由来とする説 / 富士は曽我兄弟の仇討、鷹は忠臣蔵、茄子は新陰流(しんかげりゅう)の剣豪・荒木又右衛門(あらき またえもん)の「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじ の けっとう)」と、仇討を三つ並べたとする説もあります。それぞれ、「富士:曽我兄弟は、建久4(1193)年5月28日、源頼朝(みなもと の よりとも)が行った富士の裾野の狩り場で、父の仇・工藤祐経(くどう ゆうすけ)を討った。この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると、能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、人気を得た。鷹:赤穂浪士の主君・浅野家の家紋が鷹の羽。茄子:荒木又右衛門の生誕地である伊賀の名産品が茄子。「鍵屋の辻の決闘」とは、寛永11(1634)年11月7日、渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現・三重県伊賀市)で討った事件で、「伊賀越の仇討ち」とも言う。」ということに由来します。
江戸・駒込を由来とする説 / 江戸時代、最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が名産物であったことに由来するという説もあります。江戸時代の川柳に「駒込は一富士二鷹三茄子」と詠まれました。つまり、「一富士二鷹三茄子」の三つがそろっていた所が、東京・駒込。江戸時代のパワースポットでもあったのです!
「一富士二鷹三茄子」の続き / ところで、「一富士二鷹三茄子」には続きがあることをご存じですか? 四以降についても諸説あります。
四扇五煙草六座頭 / 『俚言集覧』(自筆本)の欄外に、「一富士二鷹三茄子」の後に続けて「四扇五煙草六座頭(しせん ごたばこ ろくざとう)」とした書き込みがあります。「一富士二鷹三茄子 瑞夢の次第を云 一説に駿河国の名物を云といへり 一富士二鷹三茄子四扇五多波姑六座頭」なお、「多波姑」は煙草のこと。「富士二鷹三茄子四扇五多波姑六座頭」の形が広く使われたわけではなく、後に四以下を付け加えたと考えられています。同じ内容を挙げた辞典類の多くは、『俚言集覧』を出典としています。一説として、「一富士二鷹三茄子」と「四扇五煙草六座頭」はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願うとも言われています。
四葬式五雪隠 / 「四葬式五雪隠」または「四雪隠五葬式」というものもあるようです。俗信による逆夢とする解釈もあるようですが、「物好きが後から加えた地口にすぎない」という説もあります。
良い夢を見るために、江戸の人がやっていたこと / 室町時代頃から、「縁起のよい七福神の乗った宝船の絵を枕の下に入れて寝るとよい夢が見られる」言われるようになりました。宝船は、他界から金銀財宝を積んで訪れ、富をもたらしてくれる船で、お金を入れた袋・打出の小槌・隠れ蓑・酒壺などを積んだ帆掛船に七福神が乗っている江戸の絵柄が一般的です。江戸後期の風俗史家・喜多川守貞(きたがわ もりさだ)の、京坂・江戸の風俗を図解して考証した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、「正月二日、今夜宝船をしきて寝るなり。昔は節分の夜これを行う。今や禁裏に用いたまふは、船に米俵を積む図也。民間にて売るものは、七福神或いは宝尽等を描く 」と記されています。京都・大坂では、節分に諸社寺で宝船の絵が頒布されていましたが、江戸では元旦の朝、宝船の絵を売り歩く商売が繁盛したようです。宝船の絵には、「長き世のとおの眠りのみな目覚め波乗り船の音の良きかな(ながきよのとおのねふりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな) 」という、上から読んでも下から読んでも同じになる回文の歌が書かれており、これを三度読んで寝ると良い夢を見ることができ、幸運が訪れると言われています。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをしたのだとか。「南天のところに行って夢の内容を話すと、難を転じて良くなる」という言い伝えがある地域もあるそうです。
一枚の紙にも裏表 
一網打尽 
ひと網であたりのすべての魚や鳥獣などを捕らえること。転じて、犯人などをひとまとめに捕らえること。『呂氏春秋りょししゅんじゅう』異用いようにある、四面に網を張り、四方からの獲物をすべて捕らえようと祈っている呪師じゅしの故事を踏まえたものか。「打尽」はここでは捕り尽くす意。「打」は動詞の上につけて動作を表す助字。「…する」の意。
一目置く 
一目の網は以て鳥を得べからず 
逸物の鷹も放さねば捕らず 
一も取らず二も取らず 
一文吝みの百知らず 
一文銭で生爪剥がす 
一文銭も小判の端 
一文高の世の中 
一葉落ちて天下の秋を知る 
一葉目を蔽えば泰山を見ず 
一陽来復 
一粒万倍 
一利を興すは害を除くに如かず 
一輪咲いても花は花 
一蓮托生 
よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮はすの花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。もと仏教語。
一を聞いて十を知る 
物事の一端を聞いただけで、その全体を理解できるほど聡明である。非常に賢くて理解がはやいことのたとえ。
一を知りて二を知らず 
一を以て万を知る 
一攫千金 
一度に巨額の利益を得ること。
一度にたやすく大きな利益を手に入れること。一つの仕事で巨利を得ること。「一攫」は一つかみの意。「攫」を「獲」と書くのは本来は誤用。「千金」は大金の意。非常に高価、貴重なことのたとえ。
一家の富貴は千家の怨み 
一家を機杼す 
一気呵成 
一騎当千 
群を抜いた勇者のたとえ。また、人並みはずれた能力や経験などのたとえ。一人の騎兵で千人もの敵を相手にできる意から。「当千」は「千に当たる」で、千人を敵にできる、千人に匹敵する意。「千」は「ぜん」とも読む。
一饋に十度立つ 
一簣の功 
一挙手一投足 
一挙両得 
一つの行為で、同時に二つの利益が得られること。一つで二つの利益が得られること。また、わずかな労力で多くの利益を得るたとえ。「一挙」は一つの動作・行動。
一箕を以て江河を障う 
一薫一蕕十年なお臭あり 
一鶏鳴けば万鶏歌う 
一結杳然 
一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ 
一行失すれば百行共に傾く 
一口両舌 
一狐裘三十年 
一刻千金 
一壺千金 
一災おこれば二災おこる 
一死一生乃ち交情を知る 
一子相伝 
一視同仁 
一瀉千里 
一升入る瓢は海へ行っても一升 
一将功成りて万骨枯る 
一人の将軍が功績をたてる裏には、戦場で多くの兵士が犠牲となり、屍(しかばね)をさらしているのだ。陰にあって働く多くの無名の人たちを忘れて、功名を一部の指導者に帰することを怒っていう言葉。
一人が功績を上げる陰で、多くの人が犠牲となること。[由来] 唐王朝末期の詩人、曹そう松しょうの漢詩「己き亥がいの歳」の一節。戦乱に苦しめられる庶民の暮らしを心配した上で、「君に憑たのむ、話かたる莫なかれ封ほう侯こうの事を、一将功成りて万骨枯る(お願いだから、軍功を挙げて高い地位を得たいなどと言わないでくれ。一人の将軍が功名を上げる陰で、おびただしい数の人骨が朽ちていくのだから)」とうたっています。[解説] [1] 詩題の「己亥の歳」とは、西暦八七九年。七世紀の初めから約三〇〇年間続き、文明の華を誇った唐王朝も、このころには衰退し、各地で反乱が起こっていました。この後、わずか三〇年足らずで、唐王朝は滅亡してしまいます。そんな大混乱の時代、本当に求められているのは人々を困窮から救ってくれる人材なのに、将軍たちは自分の手柄しか考えていない。詩人の熱い義憤が込められた作品だからこそ、人々に愛唱されて、故事成語となったのでしょう。[解説] [2] 元の詩では、犠牲になるのは庶民ですが、現在の日本では、多くは成功者とその部下や協力者の関係を指して使われます。また、曹松の批判精神を受け継ぎ、部下や協力者の存在を忘れて、成功者だけが手柄を独占していることを非難する意味合いで用いられるのがふつうです。
一升徳利こけても三分 
一升徳利に二升は入らぬ 
一升の餅に五升の取粉 
一所懸命 
「昔、武士が賜った『一か所』の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたこと」に由来したことばです。これが「物事を命がけでやる」という意味に転じて、文字のほうも「一生懸命」とも書かれるようになりました。
一心岩をも透す 
一炊の夢 
一寸先は闇 
将来のことは、ほんのわずか先のことですら、全くわからないということ。
一寸の光陰軽んずべからず 
一寸延びれば尋延びる 
一寸の虫にも五分の魂 
どんなに小さく弱い者でも、それ相応の意地や感情があり侮ってはいけない。
一石二鳥 
一つのことをして、二つの利益を得るたとえ。一つの行為や苦労で、二つの目的を同時に果たすたとえ。一つの石を投げて、二羽の鳥を同時に捕らえる意から。今では、ここから「一石三鳥」「一石四鳥」などという語も使われる。
一殺多生 
一銭を笑う者は一銭に泣く 
一旦緩急あれば 
一箪の食一瓢の飲 
一知半解 
一籌を輸す 
一張一弛 
一朝一夕 
一朝の怒りに其の身を忘る 
一丁字を知らず 
一擲乾坤を賭す 
一擲千金
一時に惜しげもなく大金を使うこと。大事を思い切りよく実行すること。豪快な振る舞いや思い切りのよいたとえ。一度の賭かけに惜しげもなく大金を賭ける意から。「擲」は投げる、投げ出す意。「千金一擲せんきんいってき」ともいう。
一滴舌上に通じて、大海の塩味を知る 
一頭地を抜く 
一刀両断 
一得一失 
一敗地に塗る 
一杯の徳も必ず償い、睚眦の怨みも必ず報ゆ 
一杯は人酒を飲む二杯は酒酒を飲む三杯は酒人を飲む 
一髪千鈞を引く 
一班を見て全豹を卜す 
一匹の馬が狂えば千匹の馬が狂う 
一匹の鯨に七浦賑わう 
一夫関に当たれば万夫も開くなし 
一夫耕さざれば天下其の饑を受く 
一片の雲も日を蔽う 
鷸蚌の争い 
溢美の言 
いつまでもあると思うな親と金 
相続にも当てはまる有名なことわざ「いつまでも親が面倒をみてくれるわけでもなく、お金も使えばいつかはなくなってしまうもの。 だから、節約して真っ当に生きよ」という、有名な戒めのことわざで、相続の場合にも当てはまります。
いつも月夜に米の飯 
いつも柳の下に泥鰌は居らぬ 
乙夜の覧 
佚を以て労を待つ 
従兄弟同士は鴨の味 
猗頓の富 
井戸から火の出たよう 
井戸の端の童 
居ない者貧乏 
田舎に京あり 
田舎の一升は江戸でも一升 
田舎の学問より京の昼寝 
稲荷の前の昼盗人 
井に坐して天を見る 
古を以って今を制すれば事の変に達せず 
犬一代に狸一匹 
犬が西向きゃ尾は東 
犬と猿 
犬に肴の番 
犬になるなら大家の犬になれ 
犬に念仏猫に経 
犬に念仏を唱えたり、ネコにお経を聞かせたりしても何の効果もないように、どんなにりっぱな道理を説いても、それを理解できない人には無意味である、というたとえ。
犬にも食わせず棚にも置かず 
犬に論語 
犬の一生は三日 
犬の尾を食うて回る 
犬の川端歩き 
犬の遠吠え 
臆病者が陰でいばったり、陰口を言ったりすることのたとえ。「遠吠え」とは、犬などの動物が遠くで声を長く引いて吠えること。弱い犬が相手から遠く離れたところで、尻込みしながら吠え立てることから。主に、勝ち目のない相手を陰でののしるたとえとして使われる。
犬は人につき猫は家につく 
犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ 
犬骨折って鷹の餌食 
犬も歩けば棒にあたる 
犬がふらふら出歩くと、棒で殴られるような災難に遭ったりする。じっとしていれば良いのに、余計な行動を起こすべきでないとの戒め。行動を起こすと、幸運なことでも、災難なことでも、何らかの経験をすることができる。じっとしていると、そのようなことはできないので、積極的に行動すべきである。
犬も朋輩鷹も朋輩 
稲は実るにつけて俯き、侍は出世につけて仰向く 
豕を抱いて臭きを知らず 
猪も七代目には豕になる 
命あっての物種 
生きていてこそ様々な事もできるが、死んでしまえば何にもならない。命が何よりも大切であるということ。「物種」は物のもととなるもの、物事の根元の意。
命あれば海月も骨に会う 
命長ければ恥多し 
命長ければ蓬莱に会う 
命に過ぎたる宝なし 
命の洗濯 
平生の苦労から解放されて、命がのびるほど思うぞんぶんに楽しむこと。寿命がのびるほどの保養。
命は槿花の露の如し 
命は義によりて軽し 
命は鴻毛より軽し 
命は宝の宝 
命は風前の灯のごとし 
命は法の宝 
命より名を惜しむ 
井の中の蛙大海を知らず 
「小さな井戸の中にいる蛙は、大きな海などの井戸の外にある世界のことを知らない」と言う意味から、自分の狭い知識にとらわれてしまい、物事の大局的な判断ができないこと。
祈るより稼げ 
衣帛を重ねず 
衣は新に如くはなく、人は故に如くはなし 
医は仁術 
医は仁術などと言われた時代はもうとっくの昔のことで、(医も算術)になってから久しい。医者稼業とか開業医というように医業は採算を抜きにしては成立しない職業であることは言うまでもない。ただ、医業は収益を挙げるのが最終目的ではなく、患者さんの健康問題に力をかすのが第一目的で、その行為の報酬としてなにがしかの収入を得るのが本来の姿であるはずである。 しかし、医院とか病院を経営していくためには、赤字経営にならないように冗費を省くのは当たり前のことであろうが、積極的に収入を増やす方法を考える様になるのが自然の成り行きであるようだ。特に健康保険が絡まってきて、経済面から色々な制限規則がかせられるようになって来ると、保険金の給付が受けられる項目をうまく選んで病名をつけ、それを裏付けるのに許された必要検査をやり、投薬も出来るだけ新薬とか高価薬を処方して利鞘を稼ぐような対策を取ることが習慣になってしまったということである。 病院勤務の医師は、病院経営者の方針に従うように有形無形の圧力をかけられているうちに、自主的の判断などはいつの間にか消えてなくなり、そこの病院のやり方に順応することになると思う。個人開業医の場合は、自主的に、もっとも営利的な医業方式を選んでしまうのではないか。そして、患者におもねって、不必要だと思いながらも色々な検査をしたり、注射をしたり、投薬もするなどの誘惑に勝てないのだと思う。これが外科医の場合には、患者の信用をよいことにして、不必要な手術をすすめて、収入の増加も図るということがあろう。外科医が多ければそれに応じて手術数も増えるという統計から押して考えると、外科手術が必要であるか否かは、外科医の匙加減にかかっているということに違いない。だから、外科手術などをすすめられた時には、患者側としては、頭ごなしに医師の言葉を信用して手術が必要だと決めてしまわないで、納得のゆくまでよく説明を求めることである。その上、さらに念のためセカンド・オピニオン(違う医師の意見)も聞いてみるなどの努力を怠るべきではない。 
衣鉢を継ぐ 
意馬心猿 
茨垣を裸身で潜る 
茨に棘あり 
茨の中にも三年の辛抱 
渭浜の器 
韋編三絶 
移木の信 
居仏が立ち仏を使う 
今泣いた烏がもう笑う 
今の甘葛、後の鼻面 
今の情けは後の仇 
今参り二十日 
今際の念仏誰も唱える 
芋茎で足を突く 
芋頭でも頭は頭 
芋の煮えたもご存じない 
芋虫でもつつけば動く 
倚門の望 
いやいや三杯 
卑しむ金木で目を突く 
厭と頭を縦に振る 
いらぬ物も三年たてば用に立つ 
伊蘭の林に交われども赤栴檀の香は失せず 
入り日よければ明日天気 
入り船あれば出船あり 
入り船によい風は出船に悪い 
炒り豆と小娘はそばにあると手が出る 
炒り豆に花 
入るを量りて出ずるを為す 
入れ物と人はある物使え 
色男金と力はなかりけり 
色気と痔の気の無い者はない 
色気よりも食い気 
色欲より食欲を優先する。転じて見た目や形より実質をとることの例え。
色の白いは七難隠す 
色白の女性は、他の欠点を補って余りある魅力がある。[解説] 「七難」は仏教用語の七難ではなく、さまざまな難点という意味。
色は思案の外 
色を見て灰汁をさせ 
曰く言い難し 
鰯網で鯨捕る 
鰯で精進落とし 
鰯の頭も信心から 
一旦信じてしまえば、どんなものでもありがたく思えるということ。江戸期、節分に鬼除けのため、玄関先に鰯の頭を吊るす習慣があり、それに由来するという説が有力。
鰯の頭をせんより鯛の尾に付け 
言わぬが花 
あけすけに言うよりも、黙っている方が粋あるいは奥ゆかしく好ましい。
言わぬ事は聞こえぬ 
言わぬは言うにまさる 
言わねば腹ふくる 
韋を佩びて以て己を緩くす 
衣を解き食を推す 
夷を以て夷を制す 
殷鑑遠からず 
因果応報 
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
因果の小車 
韻鏡十年 
印形は首と釣り換え 
慇懃無礼 
内心では大変尊大であったり相手を小馬鹿にしたりしているが、言葉や物腰など表面だけは丁寧な様を装う態度のこと。 表面上の言葉や物腰などが、極端な謙譲や丁寧を呈し、かえって、相手を敬遠乃至小馬鹿にしている印象を与えること。
咽喉夕臂の地 
陰徳あれば陽報あり 
陰徳は末代の宝 
引導を渡す
葬式に際し、導師の僧が死者がさとりを開くよう説ききかせる。転じて、相手に教えさとすような態度で言う。また、縁を切ること、相手の命がまもなくなくなることを宣告することなどにいう。

 

有為転変の世の習い 
有為も辛いも食うての上 
飢えたる犬は棒を怖れず 
飢えては食を択ばず 
飢えに臨みて苗を植うる如し 
上には上がある 
上に交わりて諂わず、下に交わりて驕らず 
上見ぬ鷲 
上を下へかえす 
烏鳶の卵毀らずして後鳳凰集まる 
魚の木に登るが如し 
魚心あれば水心 
一方に好意があれば相手もおのずから好意をもつことのたとえ。また、お互いが自然に引かれ合うことのたとえ。[解説] おそらく「魚、心あれば、水、心あり」が元の形だったと思われます。これが長く使われているうちに「魚うお心ごころ」、「水みず心ごころ」と濁って発音するようになり、それぞれ一語と解されることになったものでしょう。二つの名詞が連なるとき、後ろの語の語頭が濁音になるのは、連濁といわれ、日本語ではよく起きる現象です。無生物の水に心があるのは理解しにくいようですが、切っても切れない親密な関係を古くから「魚うおと水」にたとえ、漢文由来の表現では「水魚の交わり(思い)」とも言いますから、かつては特に違和感はなく、自然に受け入れられるものでした。
魚と水 
魚に泳ぎ教える 
魚の釜中に遊ぶが如し 
魚の水を得たるが如し 
魚の水を離れたよう 
魚の目に水見えず、人の目に空見えず 
魚は江湖に相和る 
魚は鯛 
魚を争うものは濡る 
魚を得て<せん>を忘る 
うかうか三十きょろきょろ四十 
羽<かく>肉を飛ばす 
羽化登仙 
浮き沈み七度 
雨奇晴好 
浮き世の苦楽は壁一重 
この世の中の苦と楽とは隣り合っていて、いつでも変わる可能性があるということ。
浮き世は衣装七分 
浮き世は牛の小車 
浮き世は回り持ち 
浮き世渡らば豆腐で渡れ 
鶯鳴かせたこともある 
鶯のかいごの中の時鳥 
有卦に入る 
右顧左眄 
烏合の衆 
規律も統制もなく、ただ寄り集まっているだけの集団。秩序のない人々の集まりや軍勢にいう。からすの集まりが無秩序でばらばらであることから。
雨後の筍 
兎死すれば狐これを悲しむ 
兎の上り坂 
兎の罠に狐がかかる 
兎も七日なぶれば噛み付く 
兎を見て犬を放つ 
牛売って牛に成らず 
牛追い牛に追わる 
牛に経文 
牛に対して琴を弾ず 
牛に乗って牛を尋ねる 
牛に引かれて善光寺参り 
牛の歩みも千里 
牛の一散 
牛の小便と親の意見は長くても効かぬ 
牛の鞦と諺とは外れそうでも外れぬ 
牛の角を蜂が刺す 
牛は牛連れ 
牛も千里、馬も千里 
烏衆の交わり 
羽觴を飛ばす 
後ろ髪を引かれる 
あとに心が残って、先へ進むことができない。未練が残って、きっぱりと思い切ることができない。
後ろ千両前一門 
後ろに目無し 
後ろの目、壁に耳 
後ろ坊主の前角鬘 
後ろ指を指される 
周囲の人から悪口を言われる・非難されることを意味します。自分のした行動や発言に対して否定的な意見を言われる状態をあらわすため、良いフレーズではなく悪いフレーズとして用いられます。[由来] 後ろ指を指されるは、義経記という南北朝時代の争いについて述べた巻物に由来しています。元々は当人のいない所でその人の悪口を言うという陰湿な意味が込められており、時代の経過と共に「反感を買う」という意味に転じました。人間同士の衝突が起こるのは、昔も今もそれほど変わりがないようです。
牛を馬に乗り換える 
牛を食らうの気 
牛を桃林の野に放つ 
右次左次物言わず 
氏無くして玉の輿 
蛆虫も一代 
烏鵲の智 
氏より育ち 
家柄より育つ環境が人柄に大きく影響し、大切であるということ。
臼から杵 
嘘は盗人の始まり 
平気で嘘をつけるような人は盗みも悪いと思わなくなるという例え。転じて、嘘をつくのはよくないということ。
失せたる針をば債らぬもの 
嘘から出た実 
うそのつもりで言ったことが、(多くの場合は偶然) 事実になること。
嘘つきは泥棒の始まり 
嘘と坊主の頭は結ったことがない 
嘘にも種がいる 
嘘は後から剥げる 
嘘八百 
嘘も方便 
嘘をつくことは悪いことだが、時と場合によっては必要なこともあるということ。「ものごとがスムーズに運ぶためには、嘘が必要なこともある」とか、「大きな善行を成し遂げるためなら、小さな非行は許される」という意味のことわざです、「目的を達成するための使う便宜的な手段」をあらわし、あくまでも相手の利益になることを前提に、やんわりと嘘を肯定している表現です。
「嘘をつくのは良くないが、物事を円満にまとめるためには、嘘をつかなくてはならない時もある」という意味のことわざです。「嘘」には「事実でないこと」「人をあざむくために言う、事実に反したこと」という意味があります。また、「正しくないこと」「不適当なこと」という意味もあります。そして、「方便」とは「目的を果たすための一時的な手段」という意味を表します。もともとは仏教語で、衆生(しゅじょう:全ての生き物。特に人間を指す)を導くのに用いる、便宜的な方法のことをいいます。
本来「方便」は仏教語で、仏が衆生を教え導くための便宜的な方法の意味。「嘘も方便」の成句は江戸時代から見られ、『法華経譬喩品』の「三車火宅」のたとえに由来するといわれる。このたとえは、ある老人の家が火事になり、その中で何人かの子供が遊んでいた。老人が「危ないから早く逃げなさい」と言っても子供たちは耳を貸さなかったため、「外に出ればお前たちが欲しがっていた羊の車、鹿の車、牛の車があるよ」と言って外へ連れ出したというもの。「嘘も方便」は、同じく仏教に由来する「有相方便(うそうほうべん)」という言葉を茶化したものだともいわれています。「有相」とは形あるものという意味で、対義語は形をもたない「無相(むそう)」です。仏が伝えようとする真理は形のないもの(無相)なので、そのままでは人間が理解することはできません。それを言語や絵画、仏像などの目に見える形(有相)にしたものが、真実ではないが真実に近い「方便」です。
(類語)嘘は世の宝 (対義語)嘘は泥棒のはじめ  
嘘を言うと閻魔様に舌を抜かれる 
嘘を言えば地獄へ行く 
嘘をつかねば仏になれぬ 
有象無象 
打たぬ鐘は鳴らぬ 
歌より囃子 
打たれても親の杖 
うだつが上がらぬ 
内閻魔の外恵比寿 
内兜を見透かす 
内で掃除せぬ馬は外で毛を振る 
内で蛤、外では蜆 
内に省みて疚しからず 
内に誠あれば外に形る 
内の米の飯より隣の麦飯 
内の中の盗人は捕まらぬ 
内の前の痩せ犬 
内裸でも外錦 
内広がりの外すぼり 
内弁慶の外地蔵 
家にいるときは人もなげに振る舞う人が、表に出ると人が変わったように、地蔵のような穏和な人になることをいう。
内股膏薬 
烏鳥の私情 
迂直の計 
訴え無きを以て貴しと為す 
梁の塵を動かす 
美しいも皮一重 
打つも撫でるも親の恩 
子を叱ってぶつのも、ほめて撫でるのも、すべて親の愛情のあらわれだということ。
移れば変わる世の習い 
器と名とは以て人に仮すべからず 
打てば響く 
反応があるさま。効果があるさま。刺激を与えればその分だけ成果を挙げる様子を表すことも多い。
烏頭白くして馬角を生ず 
烏兎匆匆 
独活の大木 
独活の煮え太り 
鰻に梅干し 
うなぎと、うめぼしを、いっしょに食べると、腹を痛めるので、 同時に食べないような習慣があった。[解説] うなぎは、あぶらの成分が多いので、下痢を起こしやすく、また、 梅干は、すっぱさが強いので、胃に良くないと考えられていたようです。現在では、この食い合わせの科学的理由は、はっきりしないようです。この他に、いっしょに食べると、害のある食い合わせは、「西瓜(すいか)と天ぷら」、 「こんにゃくときゅうり」、「牡蠣(かき)とえび」、「かにとしいたけ」、 「さばとかぼちゃ」、「とうもろこしとはまぐり」、「はまぐりとみかん」 などが、あるようです。
自惚れと瘡気の無い者はない 
兎の毛で突いたほど 
鵜の真似する烏 
鵜の目鷹の目 
産屋の風邪は一生つく 
盂方なれば水方なり 
旨い事は二度考えよ 
馬逸足と雖も輿に閑わざれば良駿と為さず 
旨い物食わす人に油断すな 
旨い物は小人数 
旨い物は腹にたまる 
旨い物は宵に食え 
馬に乗るとも口車に乗るな 
馬に乗るまでは牛に乗れ 
馬には乗ってみよ、人には添うてみよ 
馬の耳に風 
馬は馬方 
馬は馬連れ 
馬も買わずに鞍を買う 
馬痩せて毛長し 
生まれた後の早め薬 
生まれながらの長老なし 
生まれぬ先の襁褓定め 
馬を牛と言う 
馬を牛に乗り換える 
馬を得て鞭を失う 
馬を崋山の陽に帰し、牛を桃林の野に放つ 
馬を買わんと欲してまず牛を問う 
馬を鹿 
馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない 
海魚腹から川魚背から 
海千山千 
長い年月にさまざまな経験を積んで、世の中の裏も表も知り尽くしていて悪賢いこと。また、そういうしたたかな人。「海に千年、山に千年」の略。海に千年、山に千年棲すみついた蛇は竜になるという言い伝えから。
海に千年河に千年 
生みの親より育ての親 
海の事は漁師に問え 
海の物とも山の物ともつかぬ 
有無相通ず 
梅に鶯 
梅を望んで渇きを止む 
埋もれ木に花咲く 
烏有に帰す 
怨みに報ゆるに徳を以てす 
怨みほど恩を思え 
怨み骨髄に入る 
売られた喧嘩は買わねばならぬ 
自分の身に危険が迫ってくれば、それを防がなければならないというたとえ。
売り家と唐様で書く三代目 
売り言葉に買い言葉 
相手の暴言に対して、それ相応の調子や同じような暴言で言葉を返すこと。
売り出し三年 
瓜に爪あり爪に爪なし 
瓜の皮は大名に剥かせよ、柿の皮は乞食に剥かせよ 
瓜の蔓に茄子はならぬ 
瓜は二つ 
売り物には花を飾れ 
漆は剥げても生地は剥げぬ 
憂え身に及びて後憂うるも及ばず 
憂えを救い災いを分かつ 
烏鷺の争い 
浮気と乞食はやめられぬ 
噂をすれば影がさす 
竿を好むに瑟を鼓す 
雲雨の交わり 
雲煙過眼 
雲霓の望み 
雲根鈍 
雲散霧消 
生んだ子より抱いた子 
膿んだものは潰せ 
雲中の白鶴 
雲泥の差
(白居易の「傷友」より) 同じ基準で比較して、天と地のように大きな差がある。雲泥の違い。
雲泥万里 
運は天にあり 
運は寝て待て 
運否天賦 
運用の妙は一心を存す 
運を天に任せる 
運を待つは死を待つに等し

 

栄華有る者は必ず憔悴あり 
郢書燕説 
嬰児の貝を以て巨海を測る 
頴水に耳を洗う 
詠雪の才 
穎脱して出ず 
盈満の咎 
英雄色を好む 
傑出した男は、決まって女好きである。[解説] 英雄は、知力や才能、または胆力、武勇などが特にすぐれていること、またそういう人。並外れた能力をもつ者は、あらゆることに並外れたさまを示すということで、卑俗な女色を取り合わせたものでしょう。
英雄人を欺く 
笑顔に当てる拳はない 
得難きは時、会い難きは友 
易簀 
益者三楽、損者三楽 
益者三友、損者三友 
易者身の上知らず 
靨は七難隠す 
えぐい渋いも味のうち 
会者定離 
えせ侍の刀いじり 
えせ者の空笑い 
得たり賢し 
枝、本より大なれば必ず披く 
枝先に行かねば熟柿は食えぬ 
枝を伐って根を枯らす 
枝を矯めて花を散らす 
あまり重要でない欠点を直そうとして、かえって重要な部分を傷つけたり全体を損なったりすることのたとえ。角を矯(た)めて牛を殺す。
越鶏は鵠卵を伏す能わず 
越俎の罪 
越鳥南枝に巣くい、胡馬北風に嘶く 
越陣は悦に安んじ、楚人は楚に安んず 
得手に鼻突く 
得手に帆を揚げる 
機会に恵まれ、自分の得意な事を(調子に乗って)大(おお)いに揮(ふる)うこと。得意とするものを発揮する好機が到来し、待ってましたとばかりに調子にのることのたとえ。
江戸中の白壁は皆旦那 
江戸っ子の往き大名帰り乞食 
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し 
江戸っ子は宵越しの銭は使わぬ 
江戸っ子は得た金をその日のうちに使ってしまって、翌日に持ちこすようなことはしない。江戸者の金ばなれのよさを誇っていう。
江戸の敵を長崎で討つ 
江戸は八百八町、大阪は八百八橋 
江戸べらぼうに京どすえ 
画に描いた餅 
(どんなに巧みに描いてあっても食べられないところから) 何の役にも立たないもの。また、実物・本物でなければ何の値打ちもないこと。画餅((がべい)。
柄の無い所に柄をすげる 
榎の実はならばなれ、木は椋の木 
海老踊れども川を出でず 
海老で鯛を釣る 
(高価なタイを安いエビで釣るところから) 少量の元手やわずかな労力で大きな利益を得ること。
海老の鯛交じり 
笑みの中の刀 
栄耀の餅の皮 
選んで粕を掴む 
縁あれば千里を隔てても会い易し 
宴安は酖毒 
<えんえん>に滅せずんば炎炎を若何せん 
煙霞の痼疾 
鴛鴦の契り 
轅下の駒 
猿猴が月を取る 
遠交近攻 
円鑿方<ぜい> 
塩車の憾み 
遠心は近隣に如かず 
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや 
燕雀鳳を生まず 
円石は千仭の山に転ず 
偃鼠河に飲むも満腹に過ぎず 
淵中の魚を知る者は不詳なり 
塩鉄の利 
円転滑脱 
縁と命は繋がれぬ 
縁と浮世は末を待て 
鉛刀の一割 
豌豆は日陰でもはじける 
縁なき衆生は度し難し 
炎に付き寒に棄つ 
縁に連るれば唐の物を食う 
炎に趨り熱に付く 
縁の切れ目は子で繋ぐ 
縁の下の鍬使い 
縁の下の筍 
縁の下の力持ち 
人には見えないところで力をつくし、苦労すること(人)のたとえ。脚光を浴びていないが、陰で重要な役割を果たす者のたとえ。
縁の下の舞 
縁の目には霧が降る 
縁は異なもの 
男女の縁はどこでどう結ばれるかわからず、不思議でおもしろいものであるということ。
円木警枕 
閻魔の色事 
遠慮なければ近憂あり 
遠慮ひだるし伊達寒し

 

老い木に花咲く 
老い木は曲がらぬ 
老いたる馬は道を忘れず 
老いたるを父とせよ 
追風に帆を上げる 
老いては子に従え 
年を取ったら何事も子供に任せて、それに従うのがいいということ。
老いてはますます壮んなるべし 
老いて再び稚児になる 
老いの一徹 
老人は、いったんこうと思い定めると、かならずそうしようと頑固に思い続ける。かたくなな老人の気質をいう。
老いの学問 
老いの木登り 
王侯将相寧んぞ種あらんや 
往者は諫むべからず 
応接に暇あらず 
負うた子に教えられて浅瀬を渡る 
負うた子より抱いた子 
負うた子を三年探す 
会うた時に笠を脱げ 
横着者の節句働き 
追う手を防げば搦めて手が回る 
奥に媚びんよりは竈に媚びよ 
王は十善神は九善 
鸚鵡能く言えども飛鳥を離れず 
往を彰かにして来を察す 
枉を矯めて直に過ぐ 
往を告げて来を知る 
負えば抱かれよう 
大嘘は吐くとも小嘘は吐くな 
大男総身に知恵が回りかね 
体が大きく間抜けな男をからかっていう言葉。または、体が大きいからと言って、それだけで威圧されるものでもないという警句。
大男の殿 
大風が吹けば桶屋が喜ぶ 
ある事によって、まったく無関係と思われるところに影響が出る、また、とてもあてにできそうもないことに期待をかけるたとえ。強い風によって砂ぼこりがたつと、砂ぼこりが目に入ったために盲人がふえ、その人たちが三味線で生計を立てようとするため、三味線が多く必要になり、三味線の胴に張る猫の皮の需要も増え、そのために猫がへり、その結果、増えた鼠が桶をかじるので桶屋がもうかって喜ぶというもの。
狼に衣 
大川に水絶えず 
大河を手で堰く 
大木一本倒るれば小木千本の嘆き 
大きい薬缶は沸きが遅い 
大きな家には大きな風 
大きな話より小さな現実 
大木の下に小木育つ 
大木の下に小木は育たず 
大阪さかいに江戸べらぼう 
多し少なし子三人 
大遣いより小遣い 
大掴みより小掴み 
大取りより小取り 
大所の犬となるとも小所の犬となるな 
大中の小中 
大鍋の底は撫でても三杯 
大船に乗る 
大船も小穴から沈む 
大風呂敷を広げる 
現実に合わないような大げさなことを言ったり、計画したりする。
大水に飲み水なし 
陸に上がった河童 
(河童は水中では能力を十分発揮できるが、陸に上がると力がなくなるとされるところから) 力のある者が、環境が一変するとまったく無力になってしまうことのたとえ。
置かぬ棚を探す 
置かぬ棚をも探せ 
傍目八目 
尾から行くも谷から行くも同じ事 
大鋸屑も言えば言う 
大鋸屑も取柄 
起きて働く果報者 
起きて半畳寝て一畳 
沖な物あて 
沖にも付かず磯にも付かず 
屋烏の愛 
屋下に屋を架す 
屋上屋を架す 
奥歯に衣着せる 
奥歯に物がはさまる 
思っていることをはっきりと言わないので、何か隠し事をしている様な言い方になり、すっきりしないこと。
臆病風に吹かれる 
臆病な気持ちになる、怖気づく、怖くなってくる、という意味で用いられる表現。
奥山の杉のともずり 
お蔵に火がつく 
送る月日の関守なし 
屋漏に愧じず 
桶屋の縄たが 
螻蛄の水渡り 
驕る平家は久しからず 
『平家物語』の「驕れる人も久しからず」による表現で、栄えている者も、その力と地位を頼みに勝手なことをしているとすぐに滅んでしまうという意味だが、眼前の成功や勝利への戒めとして用いられることが多く、まさに「平家を滅ぼすは平家」。
驕る者は心嘗に貧し 
驕れる者久しからず 
地位・富・名声などを笠に着て威張り散らしているような者は、遠からず没落するものだ、という意味の表現。平家物語の冒頭にある「驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し」の一文に由来する表現。
教うるは学ぶの半ば 
教えの民を化するは命よりも深し 
お仕着せの長口上 
伯父が甥の草を刈る 
遅牛も淀、早牛も淀 
遅かりし由良之助 
恐れ入谷の鬼子母神 
「恐れ入る」の「入る」を地名の「入谷」にかけ、同地の鬼子母神につづけた軽口。[解説] この鬼子母神は東京入谷真源寺を指します。「恐れ入りました」ということですが、軽妙にしゃれることによって、おどけや皮肉など、さまざまなニュアンスが生じます。「恐れ入谷」と略すこともあります。
おたまじゃくしが蛙になる 
煽てと畚には乗るな 
小田原評定 
落武者は芒の穂にも怖ず 
落ち目に祟り目 
お茶を濁す 
「言葉を濁す」と混同して使っている人が少なくありませんが、「お茶を濁す」は「いい加減な言葉や行動でその場をごまかす」といった意味。茶道に通じていない人がお茶をいい加減に混ぜてその場を取り繕ったことから、この表現が使われるようになりました。
お茶を挽く 
茶の葉を挽いて抹茶を作るのが暇のある人の役割だったことから、特に用事があるわけではなく、暇であることを指す言葉です。特に、芸者や遊女などに客がつかず、商売が暇なことを言いました。
落ちれば同じ谷川の水 
夫の心と川の瀬は一夜に変わる 
頤で蝿を追う 
頤を解く 
男心と秋の空 
秋の空が変わりやすいところから、それと並べて、男の心が変わりやすいことをいう。男の心と川の瀬は一夜に変わる。
男伊達より小鍋だて 
男猫が子を生む 
男の目には糸を張れ、女の目には鈴を張れ 
男は三年一度笑う 
男は閾を跨げば七人の敵あり 
男は辞儀に余れ 
男は裸百貫 
男は度胸、女は愛嬌 
男は度胸があってこそ男、女は愛敬があってこそ女だ。男にとって大事なのは、決断力があり物怖じしないことで、女にとって大事なのは、にこやかでかわいらしい振る舞いだということ。
男は松、女は藤 
男は妻から 
男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く 
落とし穴に落とし石を下す 
落とした物は拾い徳 
大人は火の子 
踊り三人見手八人 
同じ穴の狐 
同じ穴の狢 
仲間ではなく別々のように見えても、同類であるということ。多く悪党についていう。
同じ釜の飯を食う 
鬼が住むか蛇が住むか 
鬼が出るか蛇が出るか 
鬼瓦にも化粧 
鬼に金棒 
ただでさえ強い鬼に、強力な武器である金棒を持たせると、さらに強くなる。もともと強い者に何かが加わって、さらに強力な者になることのたとえ。また、すぐれた者に似つかわしいものが加わって一段と引き立つことのたとえ。
鬼に瘤を取られる 
鬼に衣 
鬼にもなれば仏にもなる 
鬼の居ぬ間に洗濯 
遠慮しなければならない人がいない間に十分にくつろいで、のんびりすること。
鬼の霍乱 
鬼の首を取ったよう 
鬼の空念仏 
鬼の立てたる石の戸も情けに開く 
鬼の女房に鬼神 
鬼の目にも涙 
どんなに冷酷で無慈悲な性格の人間であっても、同情や憐れみを感じ涙を流すこともあるのだということ。強く恐ろしく見える鬼も泣くことがあるということから転じた。
鬼の目にも見残し 
鬼も十八番茶も出花 
鬼も頼めば人食わず 
鬼も角折る 
鬼を一車に載す 
斧の柄朽つ 
己達せんと欲して人を達せしむ 
己に克ち礼に復る 
己に如かざる者を友とするなかれ 
己の頭の蝿を追え 
己の長に伐らず 
己の欲せざる所は人に施す勿れ 
己を舎てて人に従う 
己を責めて人を責むるな 
己を虚しうす 
己を以て人を量る 
斧を掲げて淵に入る 
斧を研いで針にする 
尾羽打ち枯らす 
羽振りのよかった者が、落ちぶれてみすぼらしい姿になるたとえ。タカの尾羽は傷つくと、みすぼらしくなることから。
帯に短し襷に長し 
帯にするには短いし、襷に用いるには長すぎる。 どっちつかずの中途半端で、物の役には立たないことをいう。
思し召しより米の飯 
溺るるに及んで船を呼ぶ 
溺れる者は藁をも掴む 
(「溺れそうになっている人は、麦藁のように頼りないものであっても、永らえようとして頼ってしまうものである」ということから) 危急の時にあっては、普段なら取り合わないような、頼りないものにでさえ、助けを求めてしまうものであるということの例え、または、そのようなものにまで、助けを求めてしまうような危急の状態にあること。
お前追従する者は必ず陰にて謗る 
おまえ百までわしゃ九十九まで
夫婦仲よく、ともに長生きしよう。ともに元気で長く連れ添おう。
御神酒上がらぬ神はない 
思い内あれば色外に現る 
思い置きは腹の病 
思い面瘡思われ面皰 
面い立ったが吉日 
何かしようと決意したら、そう思った日を吉日としてすぐ取りかかるのが良いという意味。思い立つ日が吉日、思い立ったら吉日とも。
思い半ばに過ぐ 
思い邪無し 
思う事言わねば腹ふくる 
思う事一つ叶えばまた一つ 
思う子に旅させよ 
思う仲には垣をせよ 
思うに別れて思うぬ添う 
思う念力岩をも徹す 
思えば思わるる 
重き馬荷に上荷打つ 
重きを負いて遠きに渡れば地を択ばずして休む 
表木綿の裏甲斐絹 
重荷に小付け 
親思いの主倒し 
親思う心にまさる親心 
親方思いの主倒し 
親方日の丸 
(親方は日の丸、すなわち国の意) 経営上破綻をきたしても、国がその面倒をみてくれるからよいの意で、官庁や国営・公営企業などの安易な経営体質を皮肉っていうことば。
親が親なら子も子 
親が死んでも食休み 
親苦労する、その子楽する、孫乞食する 
親孝行と火の用心は灰にならぬ前 
親子の仲でも金銭は他人 
親子一世、夫婦は二世、主従は三世 
親知らず子知らず 
危険な山道、海沿いの断崖絶壁の道などの難所のこと。険しい道が行く手を阻み、親は子を、子は親を顧みる余裕がないほどの難所という意味から。新潟県糸魚川市の海岸に「親不知子不知(おやしらずこしらず)」と呼ばれる地帯がある。
親父と南蛮は辛いほどいい 
親擦れより友擦れ 
親の恩と水の恩は送られぬ 
親と子供は銭金で買われぬ 
親に先立つは不幸 
親に似た蛙の子 
親に似ぬ子は鬼子 
親には一日三度笑って見せよ 
親に目なし 
親の甘茶が毒となる 
親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない 
親の意見と冷や酒は後で効く 
親の因果が子に報う 
親が行った悪いことは、その子供に及び、結果として、 何の罪もない子供が、苦しむこと。 このことわざは、仏教的考え方、「以前に行った善悪が原因となって後の結果として、良い事や 悪い事が現れてくる」という「因果(いんが)」のことを言っている言葉のようです。 この場合の因果とは、悪い行いの報いとしての子供の不幸を取り上げていますが、 良い行いをした場合の報いも、あると思われます。別の言い方として、 「親の罰は子に当たる(おやのばちはこにあたる)」ということわざもあるようです。 親=子を産み、その子を育てて、やしなっていく人。父や母。子を持つ者。 因果=「いんが」と読み、前に行ったよしあしが原因となり、 のちになってその結果のよしあしが現れること。原因と結果。 子=親から、生まれてきた人。子供。 報う=「むくう」と読み、むくいる。 罪=「つみ」と読み、道理に反した悪い行い。 むくいる=受けた行いなどに対して、それと同じようなことを返す。 善悪=「ぜんあく」と読み、善と悪。善いことと悪いこと。 罰=「ばち」と読み、人の悪い行いに対する神仏のこらしめ。 普通、「ばちがあたる」という言い方をする。「ばつ」とも読む。 ばつ=悪い行いに対するこらしめ。 
親の打つ拳より他人の摩するが痛い 
親の奥歯で噛む子は他人が前歯で噛む 
親の恩は子で送る 
親の恩より義理の恩 
親の心子知らず 
親が子を思う気持ちが通じないで、子は勝手気ままなものであるということ。
親の十七子は知らぬ 
親の脛をかじる 
親の背でもただは掻かぬ 
親の光は七光り 
親の目は贔屓目 
親の物は子の物、子の物は親の物 
親の欲目 
親の欲目と他人の僻目 
親は親、子は子 
親はなくとも子は育つ 
親は木綿着る子は錦着る 
親馬鹿小馬鹿 
お山の大将俺一人 
親見たけりゃ子を見ろ 
親も親なり子も子なり 
泳ぎ上手は川で死ぬ 
及ばぬ鯉の滝登り 
愚か者に福あり 
負わず借らずに子三人 
終わり良ければすべて良し 
物事は最後の結果さえよければ、その過程での失敗などは問題にならない。いろいろな経緯はあっても、最終的によい結末を迎えたときに、ほっとした気持ちで使われる。
尾を塗中に曳く 
尾を振る犬は叩かれず 
尾を振る犬も噛むことあり 
恩が仇 
温故知新 
前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすること。古いものをたずね求めて新しい事柄を知る意から。
穏座の初物 
恩讐分明 
C正定省 
雄鳥が卵を産む 
女心と秋の空 
女賢しくして牛売り損なう 
女三人あれば身代が潰れる 
女三人寄れば姦しい 
女と坊主に余り物がない 
女の一念岩をも透す 
女の腕まくりと朝雨には驚くな 
女の髪の毛には大象もつながる 
女の心は猫の目 
女の目には鈴を張れ 
女は三界に家なし 
女やもめに花が咲く 
恩の腹は切らねど情けの腹は切る 
恩甚だしければ怨み生ず 
乳母日傘 
陰陽師身の上知らず 
温良恭検譲 
恩を仇で返す 
世話になったり恩恵をこうむった者が、恩返しをしないどころか、敵対して害を加える。
恩を以て怨みに報ず
 

 

飼い犬に手を噛まれる 
日ごろから面倒をみていた人や部下に裏切られることを意味する「ことわざ」です。飼い犬は、可愛がっていてもふとしたひょうしに噛みついてくることがあります。人間も同じように裏切ってくることは決して少なくありません。
飼い飼う犬も主を知る 
貝殻で海を量る 
貝殻で海を干す 
会稽の恥 
解語の花 
海賊が山賊の罪をあげる 
書いた物が物を言う 
懐寵尸位 
快刀乱麻を断つ 
快犢車を破る 
海棠の眠り未だ足らず 
飼い鳥を刺す如し 
甲斐無き星が夜を明かす 
櫂は三年櫓は三月 
隗より始めよ 
遠大なことを望むのなら、まず手近なところから始めるとうまくいくものだ。言い出した者から、率先して挑戦・実践すべきである。  
回瀾を既倒に反す 
怪力乱神を語らず 
咳唾珠を成す
磑風舂雨 
凱風南よりして彼の棘心を吹く 
風邪は万病のもと (CommonCold) 
ちょっと風邪気味だ、ほんの鼻風邪の程度だからなどといって風邪を馬鹿にしてはいけない。風邪を引いたときには、ごく初期の時に、(いざ鎌倉)と大事を取るのが一番よいことは誰しも知っているが、すぐ仕事を休むわけにはいかないので無理しながら暫く我慢しておくうちに、発熱するとか、声が出なくなったり、咳がひどくなってから周りの人からすすめられて、やっと床につく・・というパターンが普通のようである。(風邪をこじらせて)余病を引き起こしたなどは自慢にもならない。最初からそうならないように注意するのが、生活の知恵というものであろう。 風邪はヴァイラス(ウイールスとも呼ばれる)という「ばい菌」による伝染病で、その種類も200以上あるのだからやりきれない。そのなかでも、症状がひどく、広い範囲で(流行)する性質のヴァイラスはフルーといって区別されている。フルーは「スペイン風邪」、「はやり風邪」として全世界を風靡してデビューして以来、名前は「香港フルー」とか「オーストラリア・フルー」と変えることはあっても、本幹はそのまま、めんめんとして今日まで続いている。そして、幸いにも、フルーのためには、予防のためにワクチンが開発されているので、フルー・シーズンにさきがけて、注射を受けられるようになっている。 フルーは風邪の一種だといっても、性質が強烈で、人体に入ると全身症状を起こして、老人とか乳幼児、またエイズにかかって(抵抗力)の弱った人などには死病となることがある。しかし、「普通の風邪」を引いただけで、死ぬことは少ない。「余病」というのは曖昧であるが、急性中耳炎、急性副鼻腔炎、急性肺炎、急性腎炎、急性膀胱炎、急性神経炎などいくらでもある。風邪のヴァイラスによって引き起こされた各器官の急性炎症に効く薬はないとされているので、風邪が大事にならないように、早くから、昔からすすめられている、充分水分を取って、暖かくして、安静にして(果報は寝て待て)式の(治療法)をとるのが最良である。 
偕老同穴 
間、髪を容れず 
汗馬の労 
看板に偽りあり 
看板に偽りあり 
管豹の一斑 
完膚無し 
完璧 
管鮑の交わり 
冠古けれども沓に履かず 
冠敝ると雖も必ず首に加う 
歓楽極まりて哀情多し 
冠履倒易 
冠履は同じく納めず 
冠履を貴んで頭足を忘る 
韓廬を馳せて蹇兎を追う 
棺を蓋いて事定まる 
管を以て天を窺う 
骸骨を乞う 
睚眦の怨み 
鎧袖一触 
害心ある者妨害あり 
外柔内剛 
蓋世の気 
我田引水 
最近、情報メデアでよく話題に上がる前立腺癌と乳ガンなどの治療法の選択肢のことで、外科的手術を選ぶべきか、それとも放射線治療にするべきか、患者が決めるのに苦慮するという報道がある。問題は、外科医は手術を薦めるのに反して、放射線科の医師は放射腺治療を薦めるということである。それも、何人もの外科医に相談してみても答えは手術、放射線科医師は誰もが放射線治療を支持するという現実では、中立の立場から判断することなど無理な相談である。専門家の意見がまとまらないで、素人の患者が選択を任せられるというのでは困ったものである。癌治療の最前線にある二つの専門科が、掛け値なしで、自分が実行できる治療法が最適であると信じているという現状が発生した理由は、医師も人の子で(身びいき)の感情が先行する傾向から抜け出せないからであろう。この外科医の考え方について、放射線科に属する慶応大学の近藤医師の著書にも取り上げられているので、ご承知の読者も多いと思う。要するに外科医は手術以外の治療法でも手術と同じ成績を上げることがあることには、考えが及ばないということらしい。しかし、アメリカでは大分以前からオンコロジストという腫瘍専門科医が癌治療の検討会(TumorBoard)に出席して発言しているので、中立的な立場から意見を述べるようになっている形式が取られているので、患者が医学的の判断を強いられることはなくなっている。残されているのは、患者の自主的決定であるから、治療の結果がどう出ても医者を恨むことも出来ない仕組みになっている。 
医療に関する考え方もその人が携わっている分野に都合の良いように判断して意見を出すことになるので、いわゆる客観的は見方というものは求めるのが無理というべきであろう。従って誰に相談するかによって答えは予測されていると見るべきであるから、初めから相談する相手を上手に選ぶことが大切である。 

枯れ木も山の賑わい
つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。 / 枯木も山の風致を添えるものである。転じて、つまらない物も数に加えておけば無いよりはましであることのたとえ。 / 枯れ木でも山に趣を添える。つまらぬものでも無いよりはましであるという意。「枯れ木も山のにぎわい」の意味は、つまらないものでもないよりある方がまし、という意味です。木が生えていない土ばかりの山では殺風景である。たとえ枯れてしまったつまらない木であっても、多少の趣を添えることができ、ないよりもあった方がにぎやかになってよい。……「枯れ木」は「つまらないもの」の例えですから、人を招待するときや目上の人に対して用いるのは失礼になります。本来は、招待を受けた側が、「私のような者がお招きにあずかるのは畏れ多いことでございますが、「枯れ木も山のにぎわい」と言いますから、是非参加させていただきます。」などと用いる言葉なのです。近代の小説から、「枯れ木も山のにぎわい」の使い方を見てみましょう。林不忘の「丹下左膳ぜん こけ猿の巻」の中の一部分です。「二重三重の剣輪が、ギッシリ左膳をとりまいている。こうなってはいかな左膳でも、空を翔(か)け、地にもぐる術のない以上、一本腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくらなければならない……。「ウフフ、枯れ木も山のにぎわいと申す。よくもこう木偶(でく)の坊がそろったもんだ」刀疵(きず)の影深い片ほおに、静かな笑みをきざませて、左膳は野太い声でうめいた。(林不忘「丹下左膳 こけ猿の巻」昭和9年) 」ここに示されている「枯れ木も山のにぎわい」は、取り巻く剣陣の数は多いのに、左膳一人も倒すことのできない相手陣を見下してのせりふの一部分です。ここでは、「木偶の坊」がそろっている状態について、「枯れ木も山のにぎわい」と捉えた上で、「弱くてつまらない者でも、いないよりはいる方がましと言うからな。」と笑っているのです。
玩物喪志 
がんぶつそうし。無用なものを過度に愛玩して、本来の志を見失ってしまう意で、枝葉末節なことにこだわり、真に学ぶべきことや学問の本質を見失うこと。また、自分の好みで、珍しいものなどを過度に愛好して正しい心を失うこと。▽「玩」はもてあそぶ、むさぼる意。「喪」は失う意。「物ものを玩もてあそべば志こころざしを喪うしなう」と訓読する。 / 珍しいもの、風変わりなものをもてあそんで、本来の志を見失ってしまうこと。また、無用のものに熱中して、仕事や学業などが疎おろそかになること。 / 「書経」旅獒(りょごう)の「人を玩(もてあそ)べば徳を喪(うしな)い、物を玩べば志を喪う」から、珍奇な物に心を奪われて大切な志を失うこと。
雁は八百、矢は三本 
雁は八百、矢は三文 
雁も鳩も食わねば知れぬ 
眼裏に塵あって三界窄
がんりにちりあってさんがいすぼし。(小さな塵でも目の中にはいると視界がぼやけるの意から) 心にちょっとした迷いでもあると世の中の本当の姿を見ることができないということのたとえ。  

 

木、縄に従えば則ち正し 
聞いた百より見た一つ 
聞いて極楽見て地獄 
既往は咎めず 
棄灰の刑 
奇貨居くべし 
葵<かく>の志 
木株にも物着せよ 
木から落ちた猿 
気が置けない 
気が利き過ぎて間が抜ける 
危機一髪 
ひとつ間違えば、非常な危険に陥ろうとする瀬戸際。髪の毛一本ほどのわずかな違いで、危険や困難に陥るかどうかの、きわめて危ない瀬戸際をいう。「危機」は非常に危ない状態。「一髪」は一本の髪の毛。
聞き取り学問 
聞き取り法問 
忌諱に触れる 
麒驥の跼躅は駑馬の安歩に如かず 
麒驥も置いては駑馬に及ばず 
危急存亡の秋 
箕裘の業 
枳棘は鸞鳳の棲む所に非ず 
雉子の頓使い 
規矩準縄 
聞くと見るとは大違い 
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥 
自分が知らないことを聞くのは、恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らないので、そっちの方がよっぽど恥ずかしいという意味。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、ちゃんと素直に聞くのがいいですよ。ということわざです。
聞くは気の毒、見るは目の毒 
聞くは法楽 
聞けば聞き腹 
旗鼓相当たる 
騎虎の勢い 
箕山の節 
起死回生 
死にかかった人を生き返らす意。医術のすぐれて高いことの形容。転じて、崩壊や敗北などの危機に直面した状態を、一気によい方向に立て直すこと。絶望的な状況を立て直し、一挙に勢いを盛り返すこと。「起死」「回生」はともに、死にかかった人を生き返らせること。「回生起死」ともいう。
樹静かならんと欲すれども風止まず 
旗幟鮮明 
木七竹八塀十郎 
起承転結 
話や文章の内容を分かりやすく伝えるための、構成の組み立て方です。簡単に説明すると、話や文章の内容が、起、承、転、結の4つのパートで構成されているということ。起承転結は、プレゼンテーションなどのビジネスの場面で使われることもあれば、作文や論文から小説、漫画、シナリオまで幅広いジャンルで使われています。
帰心矢の如し 
雉の隠れ 
幾事密ならざれば則ち害成る 
雉も鳴かずば打たれまい 
無用のことを言わなければ、禍いを 招かないですむことのたとえ。
机上の空論 
机の上で考えただけの、実際には役に立たない意見。実地に適用できないむだな議論。
雉を食えば三年の古傷も出る 
杞人の憂い 
鬼神は敬して遠ざく 
鬼神は邪無し 
傷口に塩 
瑕に玉 
傷持つ足の下り坂 
鬼籍に入る 
死んで鬼籍に記入される。死亡する。鬼録に登る。
機先を制する 
驥足を展ぶ 
汚く稼いで清く暮らせ 
北に近けりゃ南に遠い 
北枕に寝るな 
来る者は拒むこと勿れ、去る者は追うこと勿れ 
来る者は日々に親し 
騎竹の年 
騎竹の交わり 
吉事門を出でず 
機知の巧有れば必ず機知の敗有り 
羈鳥旧林を恋い池魚故淵を思う 
吉凶は糾える縄の如し 
吉凶は人によりて日によらず 
橘中の楽 
啄木鳥の子は卵から頷く 
狐、虎の威を借る 
力のない者が、強い者の権威を頼みにしていばることのたとえ。
狐が下手の射る矢を恐る 
狐之を埋めて狐之を<あば>く 
狐死して兎泣く 
狐死して丘に首す 
狐其の尾を濡らす 
狐と狸 
狐七化け狸は八化け 
貂は高価な毛皮を持つ、イタチに良く似た実在の動物である。さて、貂がなぜ妖怪かというと、三重県では「狐七化け、狸八化け、貂の九化け、やれ恐ろしや」との言い回しがある。これは、狐や狸よりも貂の方が変化の術に優れているという事。
狐に小豆飯 
狐につままれる 
狐の子は面白 
狐の嫁入り 
(1)闇夜に山野で狐火が連なっているのを、狐の嫁入りの提灯行列に見立てて、いったもの。狐の行列ともいう。(2)日が当たっているのに、にわか雨の降ること。二者とも、狐に化かされていると錯覚して、このような呼び方が生まれたと思われる。(2)は夕方などに天然現象としてよくあることだが、(1)については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚した体験が、この種の伝承を生んだのであろう。狐が人を化かして、闇夜に火をとぼすという俗信は、広く信じられてきた。近世随筆の『北越雪譜』中巻にも「狐の火を為(な)す説はさまざまあれどみな信(うけ)がたし。我が目前に視(み)しはある夜深更の頃(ころ)例の二階の窓の隙(すき)に火のうつるを怪しみその隙間よりみれば狐雪の掘場の上に在りて口より火をいだす」と、体験を語っている。狐が人を化かすという俗信の淵源(えんげん)は、山である他界にすむ四足獣が神の使者とみなされてきたからで、賢くて人里近くに現れる狐は、霊獣とみられることが多かった。稲荷(いなり)信仰の拡大における使者の狐も同じ。ミサキ狐(神の使者としての狐)の活動の伝承は専女(とうめ)(老狐の異称)の古語がこれを語っている。古代民俗の聖火に対する信仰が、神の使者たる狐と結び付き、零落して、化かされるような伝説に変質して伝えられたのである。
狐を馬に乗せたよう 
木強ければ則ち折る 
来て見れば、さほどでもなし富士の山 
木で鼻をくくる 
相手からの相談や要求に対して、無愛想にふるまう。冷淡にあしらう。
岐に哭し練に泣く 
木に竹を接ぐ 
木に餅がなる 
木に縁りて魚を求む 
機に因りて法を説け 
杵で当たり杓子で当たる 
昨日の襤褸今日の錦 
昨日の敵は今日の味方 
昨日までは敵だった者たちでも、事情が変わって今日は味方同士になること。人の心や運命がうつろいやすく、あてにならないものであることのたとえ。
昨日の友は今日の仇 
昨日の淵は今日の瀬 
昨日は昨日、今日は今日 
昨日は今日の昔 
昨日は人の身、今日は我が身 
他人にふりかかった災難が、いつ自分にもふりかかるかわからないこと。人の運命の予測しがたいことのたとえ。
昨日は嫁、今日は姑 
気の利いた化け物は引っ込む時分 
茸採った山は忘れられない 
木の長きを求むる者は必ず根本を固くす 
木登りは木で果てる 
木の股から生まれる 
木の実は木の本 
驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば之に及ぶ 
機は得難くして失い易し 
木は木、金は金 
木は規に依って直く人は人に依って賢し 
貴は驕と期せずして驕自ずから来る 
気は心 
わずかでも気のすむようにすれば心も落ち着くこと。量は少なくとも誠意の一端を示すこと。贈物などをする時に用いる。
木は檜、人は武士 
気は世を蓋う 
驥尾に付す 
季布の一諾 
木仏金仏石仏 
危邦に入らず乱邦に居らず 
君、臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ 
君射れば臣決す 
君飾らざれば臣敬わず 
君君たらずと雖も臣臣たらざるべからず 
君君たり臣臣たり 
君に事えて数すれば斯に辱めらる 
君辱めらるれば臣死す 
亀毛兎角 
木もと竹うら 
鬼門金神我より祟る 
客の朝起き 
九牛の一毛 
急行に善歩無し 
窮寇は追うこと勿れ 
朽策の六馬を馭するが如し 
丘山は曳くきを積みて高きを為す 
九死に一生を得る 
ほとんど助からぬ命を、奇跡的に助かることをいう。
九仞の功を一簣に虧く 
窮すれば通ず 
窮すれば濫す 
せっぱ詰まると、人は善悪のみさかいがなくなり、どんな悪いことでもやってしまう、ということ。
九層の台は累土より起こる 
窮鼠猫を噛む 
弱いものでも、追いつめられるて逃げ場を失うと、居直って天敵といえるような相手でさえも立ち向かって、異常な力を出して反撃するものですから、相手が弱くても、逃げ道のないところに追いこんではいけないという教えです。
窮鳥懐に入る 
窮鳥懐に入れば猟師も殺さず 
朽木は雕るべからず 
笈を負う 
裘を反して薪を負う 
杞憂 
将来のことについて、する必要のない心配をすること。根拠のない心配。取り越し苦労。
今日あって明日ない身 
京女に江戸男 
男は、粋いきな江戸の男がよく、女はたおやかな京都の女がよい。また、似合いの男女の取り合わせをいう。
胸襟を開く 
隠し立てをしないで、心の中に思っていることをすっかり話す。心の中をうちあける。胸臆(きょうおく)を開く。
郷原は徳の賊 
強将の下に弱兵なし 
兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ 
兄弟は他人の始まり 
兄弟は両の手 
驚天動地 
天を驚かし大地を動かすという意味で、世間をあっといわせること。世間を激しく驚かすこと。
強弩の末魯縞に入る能わず 
恭なれば則ち患に遠ざかる 
京に田舎あり 
京の着倒れ大阪の食い倒れ 
京都の人は衣装に、大阪の人は食べ物に、財産を使い果たすほど金をかける。
今日の情けは明日の仇 
人の心は、その時その時の利害や感情に左右されて、常にかわるということのたとえ。
今日の後に今日はなし 
今日の一針、明日の十針 
今日の夢大阪の夢 
今日は人の上、明日は我が身の上 
狂夫の言も聖人之を択ぶ 
狂夫の楽しみは智者の哀しみ 
喬木は風に折らる 
経も読まずに布施を取る 
狂瀾を既倒に廻らす 
恭礼に近づけば恥辱に遠ざかる 
虚虚実実 
互いに策略や手段を尽くして戦うこと。また、うそとまことを取り混ぜて、相手の腹を読み合うことにもいう。「虚」は守りの弱いところ、「実」は守りの堅いところ。実を避け虚をついて戦う意。「虚」「実」のそれぞれを重ねて、意味を強調した語。
曲学阿世 
跼天蹐地 
虚舟舟に触るとも人怒らず 
曲肱の楽しみ 
虚にして往き実にして帰る 
虚に拠り影を搏たしむ 
居は気を移す 
虚名久しく立たず 
許由巣父 
器用貧乏人宝 
清水の舞台から飛び下りる 
思い切った行動を取ること。「清水の舞台」とは、京都にある清水寺(きよみずでら)の本堂のことをいいます。清水寺の本堂は前部分が山の斜面にせり出すように建てられていて、長大な柱で「舞台」と呼ばれる部分を支えています。この柱の数は実に139本といわれており、そこに釘は使われておらず、「懸造(かけづくり)」あるいは「舞台造(ぶたいづくり)」と呼ばれています。この本堂は、1633年(寛永10年)に徳川家光の寄進によって再建されたもので、国宝として認定されていて、毎日多くの観光客が訪れています。ちなみに舞台の高さは11メートル程度ですので、現代の高層建築物に慣れた目から見ると、「聞いたほどには高くないなぁ」と感じる人も多いようです。 「清水の舞台から飛び降りたつもりでやってみるか!」などと、思い切りや決断を表すときに使われるこの言葉。鎌倉時代の「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」には、そこから飛び降りた男の話が載っています。口論の末、追われた男が清水寺の御堂に逃げ込み、そこにあった衝立を抱えて舞台から飛び降り、怪我もせずに谷底に着地して逃げ延びた、というくだりがあります。実は、清水寺の代々の寺務長は日記をつけていて、その日記をひも解いて、今までに何人の人が舞台から飛び降りたか、そしてその人がどうなったか、という記録が残っています。現存する日記は1694年(元禄7年)以降のもので、その年から明治政府が「飛び降り禁止令」を出した1872年(明治5年)までの148年間に、234人の人が飛び降り、235件の飛び降り事件が記録されています。234人、235件と差が出ている理由は、同じ人(女性)が2度飛び降りているからです。そして、飛び降りて生きていた人は・・・、実に85%(200人)あまりの人が生還しています。 江戸時代には「傘を差して清水の舞台から飛び降りると恋が成就する」などという俗信もあったようで、いつの時代も「飛び降りること」が連想されていたと思われます。 
綺羅、星の如し 
嫌いは知らぬの唐名 
錐、嚢を通す 
切り株にも衣装 
錐の嚢中に処るが如し 
桐一葉 
器量より気前 
錐を立つる地なし 
麒麟児 
騏の躓き 
騏も老いては駑馬に劣る 
切る手遅かれ 
綺麗な花は山に咲く 
岐路亡羊 
軌を一にす 
驥をして鼠を捕らしむ 
木を見て森を見ず 
小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ。
錦衣玉食 
金甌無欠 
槿花一日の栄 
金科玉条 
金(きん)や玉(ぎょく)のように貴ぶべき立派な法律。転じて、絶対に正しいと思って守るべきもの。漢の揚雄(ようゆう)の文章に出る語。
巾幗の贈 
金銀は回り持ち 
金言耳に逆らう 
金谷の酒数 
金剛なれば則ち折る 
琴瑟相和す 
琴瑟調わず 
金城鉄壁 
金城湯池 
錦上花を添う 
善美なものの上に、さらに善美なものを加えること。本来、美しい錦にしきの上に、さらに美しい花を添える意。よいもの、美しいもの、めでたいことなどが重なることに用いる。「錦」は美しい綾織物あやおりもの。
金石の交わり 
琴線に触れる 
心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激して、感動や共鳴を与えることです。
金銭は親子も他人 
禁断の木の実 
禁じられているけれど、きわめて魅力的な快楽や行動のたとえ。[由来] 「旧約聖書―創世記・三」に書かれている、エデンの園にあった、善悪を知る木の実のこと。この世界を創造した神は、アダムとイブという人間の男女をも創り出し、エデンの園に住まわせました。二人は、エデンの園に生えている木の実を自由に食べていいのですが、真ん中にある木の実だけは、「食べると死ぬから食べてはいけない」と禁じられていました。しかし、イブは蛇にそそのかされてその実を食べ、アダムにもそれを食べさせてしまいます。その結果、人間は知恵を得ましたが、代わりに、エデンの園から追放されたのでした。
禽鳥、百を数うると雖も一鶴に如かず 
金湯の固きも粟に非ざれば守らず 
金時の火事見舞い 
金の卵を産む鵞鳥を殺すな 
金の茶釜の七つもあるよう 
金蘭の契り 
金を炊ぎ玉を饌う 
金を攫む者は人を見ず 
疑心暗鬼を生ず 
疑う心があると、何でもないことにまで恐ろしく感じられたり、疑いの気持ちを抱いたりするものである。
疑事無功 
義は泰山より重く、命は鴻毛より軽し 
耆婆、扁鵲でもいかぬ 
牛飲馬食 
牛首を懸けて馬肉を売る 
牛耳を執る 
牛鼎の意 
牛蹄の<しん>には尺の鯉無し 
牛刀を以て鶏を割く 
徼幸は性を伐つの斧なり 
尭鼓舜木 
行住坐臥 
尭の子尭ならず 
業は勤むるに精しく嬉しむに荒む 
玉石混淆 
すぐれたものと劣ったものが区別なく入り混じっていることのたとえ。宝玉と石ころが混じり合っている意から。「玉石」は宝玉と石。
玉石倶に焚く 
玉斧を乞う 
魚豕の惑い 
魚腹に葬らる 
漁夫の利 
両者が争っている間に、第三者が利益を得ること。
魚目燕石 
義理と褌欠かされぬ 
義理張るより頬張れ 
義を見てせざるは勇無きなり 
「目の前に困っている人を見かけたら、 見て見ぬふりをするのではなく、手を差し伸べることの出来る人こそが、勇気を持った 人である」という意味だ。

 

苦あれば楽あり 
苦しい事のあとには楽しい事がある。また、苦労は必ず報われて安楽となる。
株を守りて兎を待つ 
食いつく犬は吠えつかぬ 
食い物と念仏は一口ずつ 
食い物のあるのに鉄砲汁 
空谷の跫音 
食うことは今日食い、言うことは明日言え 
食うた餅より心持ち 
空中楼閣 
食うに倒れず病むに倒れる 
食うべき折りに食わざるは粮なき者となる 
食おうとて痩せる 
苦髪楽爪 
釘の裏を返す 
釘の曲がりは鉄槌で直せ 
釘を刺す 
(釘を打ちつける意から) 相手が約束を破ったり、逃げ口上を言ったりできないように、かたく約束しておく。また、相手の行動を予測してきつく注意する。
公卿にも襤褸 
公卿の位倒れ 
苦言は薬なり、甘言は病なり 
草、囹圄に満つ 
臭い物に蝿たかる 
臭い物に蓋をする 
悪事や失敗、醜聞など、都合の悪いことが、他に漏れて世間に知られないように、根本的な解決をはかることなく、一時的にその場しのぎの方法で隠そうとすること。悪臭の元を絶たないで容器の蓋を閉め、悪臭が漏れるのを防ぐということから。
臭い者身知らず 
草木も眠る丑三つ時 
腐っても鯛 
高級魚の代表である鯛は、傷んだところで、それでも下魚よりは価値があると言うことから、高級なものが、多少悪くなっても、何らかの価値があること、特に、家柄がよかったり、昔業績を上げ評価されている人が、落ちぶれたところで、やはり気品があったり、役に立つことを言う。
楔を以て楔を抜く 
腐り縄に馬を繋ぐ 
腐り縄にも取り所 
腐れ縁は離れず 
腐れ木は柱と成らず 
草を打って蛇を驚かす 
孔子の倒れ 
孔雀は羽ゆえ人に捕らる 
鯨に鯱 
鯨も魚、白魚も魚 
医師は人を殺せど薬人を殺さず 
薬あればとて毒を好むべからず 
薬九層倍 
薬の灸は身に熱く、毒な酒は甘い 
薬人を殺さず、医師人を殺す 
薬も過ぎれば毒となる 
薬より養生 
癖ある馬に乗りあり 
癖なき馬は行かず 
曲者の空笑い 
糞も味噌も一緒 
下さる物なら夏も小袖 
管の穴から天を覗く 
下り坂に腰を押す 
管を巻く 
良く分からないことをあれこれと言ったり、しようもないことを何度も繰り返ししゃべること。「酔っ払ってくだを巻く」といった風に、酔っ払いについて形容するのに使われることが多い。
管を以て天を窺う 
口あれば京へ上る 
口あれば食い、肩あれば着る 
口動けば手が止む 
口から出れば世間 
朽ち木は柱と成らず 
口先の裃 
口自慢の仕事下手 
口だけは達者だが、仕事がさっぱりできないこと。
口叩きの手足らず 
口でけなして心で褒める 
口では大阪の城も建つ 
口と財布は締めるが得 
くちなわの口裂け 
口に甘いは腹に毒 
口に栄耀、身に奢り 
口に風邪をひかす 
口に地代は出ない 
口に関所がない 
口に使われる 
口に戸は立てられぬ 
他人が言うことを、止めるわけにはゆかぬことをいい、人のうわさや批判することを、防ぐ方法はないことにたとえる。
口に糊する 
口に蜜あり腹に剣あり 
口は口、心は心 
口は重宝 
口は虎、舌は剣 
口は禍の門 
唇亡びて歯寒し 
口弁慶 
口先だけで、行動が伴なわない人のたとえ。
口も八丁手も八丁 
しゃべることもすることも非常に達者であること。
狗猪も余を食わず 
口より出せば世間 
履新しと雖も冠となさず 
沓の蟻、冠を嫌う 
轡の音にも目をさます 
靴を度りて足を削る 
靴を隔てて痒きを掻く 
苦爪楽髪 
衢道を行く者は至らず 
苦肉の策 
敵をあざむくために、自分の肉体を痛めつけて行うはかりごと。転じて、苦しまぎれに考え出した方策。[由来] 「三国志演義―四六〜四九」で語られる話から。後漢王朝も滅亡寸前となった三世紀の初め、中国北部を支配下に収めた曹操そうそうという武将は、南方へと軍を進めました。迎え撃つのは、孫そん権けんと劉りゅう備びの連合軍。有名な「赤せき壁へきの戦い」です。このとき、孫権軍の将軍、周しゅう瑜ゆは、ささいなことで黄こう蓋がいという武将に腹を立て、まわりが止めるのも顧みず、棒打ち一〇〇回という理不尽な刑罰を与えました。これを恨みに思った黄蓋は、ひそかに曹操軍に寝返りの申し入れをします。そこで曹操軍が、夜、寝返ってくる黄蓋の船を迎え入れたところ、実は、これは周瑜の作戦。黄蓋は突然、火を放って曹操軍の船を焼き払い、孫権・劉備の連合軍は大勝利を得たのでした。この作戦を、「三国志演義」の原文では「苦肉の計」と呼んでいます。
国大なりと雖も戦いを好めば必ず亡ぶ 
国に入ってはまず禁を問え 
国に盗人、家に鼠 
国乱れて忠臣見る 
国破れて山河あり 
戦争によって国が荒廃してしまったことを嘆くことば。また、人間の愚かな営みが、自然の前ではいかに無意味かを表すことば。[由来] 中国の詩人、杜と甫ほの詩「春しゅん望ぼう」の冒頭。七五五年、安あん禄ろく山ざんという武将の反乱によって、唐王朝の泰平の夢は破られました。反乱軍は、翌年には都を攻め落とし、皇帝までもが逃げ出してしまいます。そんな七五七年のある春の日、反乱軍の制圧下にあった都にいた杜甫が作ったのが、この作品。「国破れて山河在り、城春にして草木深し(都は戦乱で荒れ果たが、山や川は変わらぬまま。城壁にも春が訪れて、草木が生い茂っている)」とうたい始めた後、混乱した世の中を嘆き、離れ離れになった家族を案じ、最後に、そんな中で何もできないままに年老いていく我が身を悲しんで、終わっています。
苦杯を嘗める 
九は病、五七は雨に四つ旱、六つ八つならば風と知るべし 
苦は楽の種 
九百九十九匹の鼻欠け猿、満足な一匹の猿を笑う 
首斬る罪人にも三日の日延べあり 
頸を述べ踵を挙ぐ 
窪い所に水溜まる 
雲となり雨となる 
雲に梯 
雲に汁 
蜘蛛の家に馬を繋ぐ 
蜘蛛の巣で石を吊る 
蜘蛛は大風の吹く前に巣をたたむ 
雲は竜に従い風は虎に従う 
雲を霞 
雲を掴む 
雲を掴んで鼻をかむ 
どうやっても出来ないこと。[由来] 空に浮かんだ雲を手に取り、鼻をかむということ。
供養より施行 
食らえどもその味わいを知らず 
鞍掛け馬の稽古 
暗がりから牛 
暗がりに鬼を繋ぐ 
暗がりの渋面 
暗がりの恥を明るみへ出す 
苦楽は生涯の道連れ 
水母の風向かい 
水母の行列 
水母の骨 
水母骨に会う 
蔵の内の財は朽つることあり、身の財は朽つることなし 
暗闇の鉄砲 
暗闇の独り舞 
暗闇の頬被り 
暗闇では顔が見えないのに、なお頬かむりをして顔を隠そうとする。無益なこと、無用なことのたとえ。
苦しい時には親を出せ 
苦しい時の神頼み 
苦しくて自分の力ではどうにもならなくなると、人は神仏に頼り、何とか救いを求めようとする。転じて、日頃疎遠な人や義理を欠いている人に、苦しい時だけ助けを求めることのたとえ。
苦しい時は鼻をも削ぐ 
車の両輪 
車は海へ舟は山 
車は三寸の楔を以て千里を駆くる 
車を馬の前に置く 
車を借る者は之を馳せ、衣を借る者は之を被る 
紅は園生に植えても隠れなし 
暮れぬ先の提灯 
黒犬に噛まれて灰汁の垂れ滓に怖じる 
食わず嫌い 
食べたことがなく、味もわからないのに嫌いだと決め込むこと。また、その人。ある物事の真価を理解しないで、わけもなく嫌うこと。
食わず貧楽高枕 
食わせておいて扨と言い 
食わぬ飯が髭に付く 
食わぬ犬をけしかける 
食わぬ殺生 
鍬を担げた乞食は来ない 
句を作るより田を作れ 
君子危うきに近寄らず 
君子行いを以て言い、小人舌を以て言う 
君子重からざれば威あらず 
君子蕩蕩として小人戚戚たり 
君子に三戒あり 
君子たる者は若いときは色欲を戒め、壮年時代には人と争うことを戒め、年取ってからは欲深にならないように戒めなければいけないということ。
君子に三楽あり 
君子に二言なし 
君子の交わりは淡きこと水の如し 
君子は憂えず懼れず 
君子は屋漏に恥じず 
君子は下問を恥じず 
君子は器ならず 
君子は義に喩り小人は利に喩る 
君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す 
君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む 
君子は三端を避く 
君子は死するに衣冠を脱がず 
君子は独りを慎む 
君子は豹変す 
本来は「(豹の毛が抜け替わってまだらの模様が鮮やかになることから)君子(人格者)は過ちを速やかに改め、鮮やかに名誉を一新する」といった意味で、考え方や態度が一変するときに使われます。
君子は庖廚を遠ざく 
君子は交わり絶ゆとも悪声を出ださず 
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず 
葷酒山門に入るを許さず 
薫は香を以て自ら焼く 
君命も受けざる所あり 
薫蕕は器を同じくせず 
愚公、山を移す 
愚者の百行より知者の居眠り 
愚者も一得 
虞<ぜい>の訴え 
愚を守る 
群蟻腥羶に付く 
群軽軸を折る 
群犬怪しむ所に吠ゆ 
群して党せず 
論語(霊公第15 - 22) / 「君子は矜して争わず群して党せず」人とあらそわずに誇りをもて。党派的になりすぎてはいけない。
「群(ぐん)して党(とう)せず」――広く交わっても党派を組まないのが「君子」だった昔である。「党」といえば国の統一を乱す「徒党」「私党」を意味した時代に、「政党」の意義を世に知らしめるのは難事だったろう 、民撰(みんせん)議院設立建白書(けんぱくしょ)を出した日本初の政党が「愛国公党」と名乗ったのも、党が国を分断するものでも、私的利益を追求するものでもないことをアピールしたかったのだろう。政党とは公的理念にもとづく結社なのを示したのである 。政党の英語名パーティーは部分の意味のパートに由来する。社会の一部分しか代表しない政党への徒党視は西欧にもあった。しかし、そんな「部分」相互の対抗が生むダイナミックな政治が社会全体の時代への適応をもたらしたのだ 。事実上の次期首相選びとなる自民党の総裁選が告示され、予定通り石破茂(いしば・しげる)、菅義偉(すが・よしひで)、岸田文雄(きしだ・ふみお)の3氏が立候補した。また立憲民主、国民民主などが結成する合流新党の代表選も泉健太(いずみ・けんた)、枝野幸男(えだの・ゆきお)の両氏の間で争われ、10日投票という誰が選ばれるかは、それぞれの党内事情でほぼ決まっている選挙だ。だがことは好悪や利害がものをいう徒党ではなく政策や理念が問われる公党のトップ選びである。国民もここは各氏の経綸(けいりん)を聞き、後々のために心に留めておこう 。ともあれポスト安倍政権の新たな政治のステージを構成する各「部分」が決まっていくこの1週間となる。それぞれの投票権を行使する議員らには、あらためて国民に対する責任を胸に呼び起こしてほしい。
軍者ひだるし儒者寒し 
群盲象を評す 
軍門に降る 
群羊を駆って猛虎を攻む 
軍は和にあって衆にあらず 

 

形影相同じ 
形影相弔う 
形影相伴う 
敬遠 
蛍火を以て須弥を焼く 
桂冠 
傾蓋故の如し 
(鄒陽「獄中上書自明」から) ちょっと会っただけで、旧知のように親しくなる。 傾蓋旧 (きゅう) の如し。
謦咳にに接する 
荊棘の道 
桂玉の艱 
鶏群の一鶴 
醯鶏甕裏の天 
鶏犬相聞こゆ 
鶏犬雲に吠ゆる 
経験学問にまさる 
鶏口となるも牛後となる勿れ 
傾国 
<けい>蛄春秋を知らず 
稽古に神変あり 
荊妻 
敬して遠ざける 
経師は遇い易く人師は遇い難し 
慶者堂に在り弔者閭に在り 
軽車の熟路に付くが若し 
傾城 
美人の意、および遊女の意。漢書に美人を「一顧傾人城、再顧傾人国」と表現したのに基づき 、古来君主の寵愛を受けて国 (城) を滅ぼす (傾ける) ほどの美女をさし、のちに遊女の同義語となった。浄瑠璃,歌舞伎の役柄に多く取入れられ、女方の基本の一つとされる。
傾城買いの糠味噌汁 
蛍雪 
蛍雪の功を積む 
兄たり難く弟たり難し 
軽諾は必ず信寡し 
兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ 
兄弟は手足なり 
は渭を以て濁る 
刑は軽きを厭わず 
刑は刑無きに帰す 
桂馬の高上がり 
鶏鳴狗盗 
鶏鳴の助 
桂林の一枝、崑山の片玉 
鶏肋 
怪我の功名 
災難や過失と思っていたことが、思いがけなくよい結果を生んだときにいう。何げなくしたことが、偶然にもよい結果をもたらしたときなどに用いる。
袈裟と衣は心に着よ 
獣雲に吠ゆる 
けちん坊の柿の種 
血気盛りに神祟らず 
結構は阿呆の唐名 
桀の犬尭に吠ゆ 
褻にも晴れにも歌一首 
煙る座敷には居られるが、睨む座敷には居られぬ 
螻蛄才 
螻蛄の水渡り 
螻蛄腹立てれば鶫喜ぶ 
蹴る馬も乗り手次第 
毛を謹みて貌を失う 
毛を吹いて疵を求む 
毛を見て馬を相す 
犬猿の仲 
犬と猿のように、互いにいがみあう関係。仲の悪いことのたとえ。
蒹葭玉樹に依る 
喧嘩過ぎての空威張り 
喧嘩過ぎての棒乳切り 
喧嘩にかぶる笠はない 
喧嘩は降り物 
喧嘩両成敗 
中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。
懸河の弁 
牽強付会 
拳拳服膺 
涓涓塞がざれば終に江河となる 
乾坤一擲 
さいころを投げて天が出るか地が出るか賭けること。命を懸けた一か八かの勝負をすること。
見性自覚 
見性成仏 
賢者ひだるし伊達寒し 
剣術十年、槍三年 
賢人は危うきを見ず 
健全なる精神は健全なる身体に宿る 
涓滴岩に穿つ 
犬兎の争い 
捲土重来 
いちど敗れた者がふたたび力を盛り返し、反撃に転じること。「けんどじゅうらい」とも。転じて、ものごとに一度失敗した者が再起を期して準備をととのえ、再挑戦してくること。
剣は一人の敵、学ぶに足らず 
犬馬の心 
犬馬の養い 
犬馬の歯 
犬馬の労 
堅白同異の弁 
肩摩轂撃 
倹以て廉を助くべし 
倹より奢に入るは易く奢より倹に入るは難し 
黔驢の技 
賢路を妨ぐ 
剣を売り牛を買う 
剣を落として舟を刻む 
堅を被り鋭を執る 
剣を使う者は剣で死ぬ 
賢を見て斉からんことを思う 
鯨飲馬食 
一度に並外れた量の飲食をすること。鯨が飲む様に大量に酒を飲み、馬が食べる様に大食する意から。
芸が身を助けるほどの不仕合わせ 
芸術は長く人生は短し 
芸人に年なし 
芸は道によって賢し 
芸は身の仇 
芸は身を助ける 
どんな分野であれ、他人に秀でる能力があれば、思わぬところで役に立つものである。
撃壌の歌 
逆鱗に触れる 
隙を過ぐる駒 
下戸の肴荒らし 
下戸の建てた蔵はない 
下戸の手剛 
下戸は上戸の被官 
下種と鷹とに餌を飼え 
下種の後知恵 
愚かな者は、必要なときは知恵も出ないで、事が過ぎたあとに名案が浮かぶこと。
下種の一寸、のろまの三寸、馬鹿の開けっ放し 
下種の勘繰り 
品性に欠け、心の卑しい者は何事においても余計な邪推を働かせて、相手に悪意や敵意があるのではないかと疑うという意味のことわざ。
下種の口に戸は立てられぬ 
下種の逆恨み 
卑しい者は、好意で忠告してくれたことでも、悪口と受け取り、かえって恨むこと。
下種の謗り食い 
下種の知恵は後から 
下種の話は糞で収まる 
下駄も阿弥陀も同じ木の切れ 
下駄を預ける 
(人に下駄を預けると身動きならなくなるから) 相手を信頼して、自分がかかわっていること一切の処理を、すべて一任することをいう。
外題学問 
月下氷人 
月旦拍 
外法成就の者は子孫に伝わらず 
外法の下り坂 
外面如菩薩内心如夜叉 
厳家には桿虜無し 
原憲の貧 
現在の甘露は未来の鉄丸 
言は身の文 
言悖りて出ずる者は亦悖りて入る 

 

小家から火を出す 
鯉が踊れば泥鰌も踊る 
濃い茶目の毒気の薬 
恋に師匠なし 
恋に上下の隔てなし 
鯉の滝登り 
鯉が滝を登ること。転じて、人の栄達、立身出世のたとえ。[解説] 黄河の急流にある竜門という滝を登ろうと、多くの魚が試みたが、わずかな魚だけが登り、竜に化すことができたという言い伝えから、その魚を鯉と想定して言ったもの。
鯉の人跳ね 
恋の山には孔子の倒れ 
恋は曲者 
恋は思案の外 
恋は仕勝ち 
紅一点 
多くのものの中で、ただ一つ異彩を放つもの。多くの男性の中にただ一人いる女性。
光陰に関守なし 
光陰人を待たず 
光陰矢の如し 
月日が過ぎるのは矢のように速い事の例え。
紺屋の白袴 
(紺屋は白い生地を紺(こん)に染めるのが商売であるが、それが白いままの袴を着けているというので) 他人のことにかまけて、自分の専門技術が役に立たないことをいう。転じて、人には口やかましくいうが、自分のこととなると、からきしだめな人間をいう。
行雲流水 
後悔先に立たず 
何かしてしまった後で悔やんでも、もうすでに取り返しがつかないこと、したがって、後で悔やまないように、事前に熟考すべきである、ということ。
口角泡を飛ばす 
唾を飛ばすほど激しく議論をするさまを表現することば。
高閣に束ぬ 
溝壑に<うず>まる 
江河の溢は三日に過ぎず 
好機逸すべからず 
剛毅木訥仁に近し 
好客三年店を変えず、好店三年客を変えず 
孔丘盗跖倶に塵埃 
孝経で親の頭を打つ 
肯綮に中る 
膏血を絞る 
巧言簧の如し、顔之厚し 
好言は口よりし、莠言も口よりす 
巧言令色鮮し仁 
口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。「巧言」は「言を巧(たく)みにす」とも読み、口先・言葉を飾っておべんちゃらを言うこと。「令色」は「色(いろ)を令(よ)くす」とも読み、顔つきを物柔らかにすること。
孝行のしたい時分に親はなし 
親の気持ちがわかるような年になって孝行がしたいと思っても、もう親はいない。親の生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することが多いということ。
鴻鵠一挙千里、恃む所は六<かく>のみ 
巧妻常に拙夫に伴のうて眠る 
巧詐は拙誠に如かず 
恒産無き者は恒心無し 
功罪相半ばず 
功績と罪過が半々で、よいとも悪いともいえない。
高山の巓には美木無し 
嚆矢 
行尸走肉 
膠漆の交わり 
孔子に論語 
孔子も時に会わず 
後者の戒め 
巧者は余り有り拙者は足らず 
膏燭は明を以て自らを鑠く 
項斯を説く 
口耳四寸の学 
口耳の学 
香餌の下必ず死魚あり 
好事魔多し 
物事がうまく進んでいる時ほど、意外なところに落とし穴があるという事。
好事も無きに如かず 
好事門を出でず悪事千里を行く 
好事を行いて前程を問う勿れ 
工人数業を変うればその功を失う 
荒神の火傷 
後塵を拝する 
後続する。先行する者に倣う。出し抜かれる。
後生畏るべし 
孔席暖まらず墨突黔まず 
黄泉の客 
黄泉の路上老少無し 
浩然の気 
鴻漸の翼 
巧遅は拙速に如かず 
口中の雌黄 
皇天親無く惟徳を是輔く 
口頭の交わり 
荒唐無稽 
根拠がなく、現実味が感じられないこと。また、そのさま。「荒唐」も「無稽」も、「根拠がないこと」の意。
<こう>兎三窟 
<こう>兎死して走狗煮らる 
功成り名遂げて身退くは天の道なり 
江南の橘、江北に植えれば枳となる 
効能書き読めぬ所に効能あり 
孝は妻子に衰う 
妻子を持つと、それに対する愛情が先になり、親に対する孝行の心が薄れることで、いつまでも親孝行を忘れないようにせよという教え。官は宦成るに怠り、病は小癒に加わり、禍(わざわい)は懈惰(かいだ)に生じ、孝は妻子に衰う。此の四者を察して、終わりを慎むこと始めの如くせよ。詩に曰く、初め有らざる靡(な)し。克(よ)く終わり有る鮮(すくな)しと。(『説苑』 敬慎篇) 官と宦は大体同じ意味でありますが、強いて区別する時は、官は一般的総称、宦は人間を主として具体的に用いる。文字本来の意味から言えば、役所の中に書類等の山積しておるのが官。宦は臣下が官庁の中におるという文字であります。出世するにしたがって役人は怠けてくる。病気は少し治ってきた時に気がゆるみ、不養生をして悪くなる。禍(わざわい)は怠けるところから生じてくる。親孝行は女房子供を持つ頃から衰えてくる。まことにその通りであります。だから『詩経』にも、「初め有らざる靡(な)し。克(よ)く終わり有る鮮(すくな)し。」(終わりまで立派にやりとげることの難しさをいったもの)と言うてある。  
孝は百行の本 
公は明を生ず 
膏は明を以て焚かる 
<こう>飯も壺<そん>に及ばず 
甲張り強くして家押し倒す 
高飛の鳥も美食に死す 
光風霽月 
好物に祟りなし 
弘法筆を択ばず 
一般化して、技量が優れていれば道具に左右されないの意。達人の域に達すればどのような状況でも失敗しないの意。転じて、自分の技量の不足を道具の所為にしてはならない、更には、失敗を周りの環境の所為にしてはならないという戒め。
弘法も筆の誤り 
高木に縁りて四方を望む 
高木は風に折らる 
高木は風に嫉まる 
小馬の朝駆け 
高慢は出世の行き止まり 
厚味寔に<せき>毒 
功名を竹帛に垂る 
鴻毛を以て炉炭の上に焼く 
蝙蝠も鳥のうち 
紺屋の明後日 
甲羅を経る 
蛟竜雲雨を得 
黄粱一炊の夢 
亢竜悔いあり 
紅炉上一点の雪 
甲論乙駁 
行を省みる者は其の過ちを引かず 
公を以て私を滅す 
声なきに聴き形なきに視る 
声なくして人を呼ぶ 
声梁塵を動かす 
小男の腕立て 
小男の総身の知恵も知れたもの 
氷に鏤め脂に画く 
氷は水より出でて水より寒し 
氷を叩いて火を求む 
木陰に臥す者は枝を手折らず 
(「韓詩外伝‐二」の「食二其食一者不レ毀二其器一、陰二其樹一者不レ折二其枝一」による) 情けをかけてくれた人に対しては、害を加えないのが人情であるということ。
小刀に鍔 
古稀 
狐裘にして羔袖す 
狐丘の誡め 
狐裘蒙戎 
狐裘弊ると雖も補うに黄狗の皮を以てすべからず 
故郷へ錦を飾る 
社会的に成功して、故郷へと帰ること。[由来] 「梁書―柳りゅう慶けい遠えん伝」に出て来ることばから。六世紀初め、南北朝時代の中国でのこと。梁りょう王朝を開いた武帝は、大臣の柳慶遠をとても信頼していました。柳慶遠が出身地の中国西部の長官として赴任するときには、「そなたが『錦を衣きて郷きょうに還かえる(豪華な衣服を着て故郷へと帰る)』ことになったから、私は西の方の政治については何の心配もない」と言って送り出したということです。日本では、ふつうは「故郷へ(に)錦を飾る」の形で使われます。
故郷忘じ難し 
鼓琴の悲しみ 
狐疑逡巡 
枯魚河を過ぎて泣く 
黒牛白犢を生む 
告朔の<き>羊 
黒甜郷裡 
鵠は浴せずして白し 
黒白を弁せず 
鵠を刻して鶩に類す 
虎渓三笑 
虎穴に入らずんば虎子を得ず 
「リスクを負わねば成功はつかめない」という意味。
虚仮の一心 
沽券に関わる 
股肱の臣 
糊口を凌ぐ 
虎口を脱す 
虎口を逃れて竜血にいる 
ここばかりに日は照らぬ 
心内あれば色外に現る 
心の中で思っていることは、自然と顔色や動作などに現れる。思い内にあれば色外に現あらわる。
心焉に在らざれば視れども見えず 
志ある者は事ついに成る 
志は木の葉に包む 
志は満たすべからず 
心に笠着て暮らせ 
心に連るる姿 
心を以て心に伝う 
心の仇は心 
心の鬼が身を責める 
心の駒に手綱許すな 
心の欲する所に従えども矩を踰えず 
心は面の如し 
心は小ならんことを欲し志は大ならんことを欲す 
心は二つ身は一つ 
心広く体胖なり 
心程の世を経る 
心持ちより搗いた餅 
心安いは不和の基 
小米も噛めば甘くなる 
虎視眈眈 
虎が目を見張って、獲物を狙う様、転じて、実力ある者が、じっと機会を伺っている様子。
孤掌鳴らし難し 
胡椒丸呑み 
小食は長生きのしるし 
乞食に朱椀 
乞食に貧乏なし 
乞食にも門出 
乞食にも三つの理屈 
乞食の朝謡い 
乞食の大連れ 
乞食の系図話 
乞食の子も三年たてば三つになる 
乞食の断食 
乞食も場所 
小姑一人は鬼千匹に向かう 
湖上に魚を鬻がず 
孤城落日 
勢いが衰えて助けもなく心細いさま。孤立して援軍のない城が、沈もうとする夕日に照らされている光景。「孤城」は孤立して援軍の来ない城のこと。「落日」は西に沈む夕日。
古人の糟粕 
去年の暦 
炬燵水練 
炬燵で河豚汁 
炬燵弁慶 
小宝脛が細る 
壺中の天 
胡蝶の夢 
凝っては思案に能わず 
木っ端を拾うて材木を流す 
コップの中の嵐 
(W=B=バーナード作の劇の題名 Storm in a Teacup による) 当事者どうしは勢いこんでいる争いやもめごとが、狭い範囲にしか影響を与えないで終わってしまうことのたとえ。内輪もめ。
骨肉相食む 
骨肉の親 
涸轍の鮒 
子で子にならぬ時鳥 
事ある時は仏の足を戴く 
事が延びれば尾鰭が付く 
尽く書を信ずれば則ち書なきに如かず 
琴柱に膠す 
事に敏にして言に慎む 
琴の緒絶ゆ 
言葉多き者は品少なし 
言葉は心の使い 
言葉の下に骨を消す 
言葉に物はいらぬ 
言葉は国の手形 
言葉は身の文 
小鳥網で鶴をせしめる 
小鳥を捕らえて大鳥を逃がす 
子供川端火の用心 
子供の喧嘩に親が出る 
子供は教え殺せ、馬は飼い殺せ 
子供は風の子 
子供は活発で、寒風が吹いていても戸外を駆け回って遊ぶものだということ。
小無に子を呉れるな 
小鍋は直に熱くなる 
子に黄金満<えい>を遺すは一経に如かず 
子に過ぎたる宝なし 
子にすることを親にせよ 
子に引かるる親心 
小糠三合あるならば入り婿すな 
子の心親知らず 
親は子のほんとうの心を知らぬというが、じつは成長してゆく子供の心理に追いつけないで、子供は無思慮なものと、親が決めこんでいる場合が多いことをいう。
此の父有りて斯に此の子有り 
斯の人にして斯の疾あり 
子は有るも嘆き、無きも嘆き 
子は一世、夫婦は二世、主従は三世、他人は五世 
子は生むも心までは生まぬ 
子は親を映す鏡 
子供は親から多大な影響を受ける、という意味で用いられる言い回し。子供の振る舞いを見れば親の考え方や品性の程が窺い知れる、といった意味合いで訓戒のように述べられる場合もある。
子は鎹 
子は三界の首枷 
琥珀は腐芥を取らず 
小判で面張る 
虎豹豈犬羊の欺きを受けんや 
虎豹の駒は食牛の気あり 
鼓腹撃壌 
小袋と小娘は思ったよりいりが多い 
小舟の宵ごしらえ 
瘤の上の腫れ物 
子ほど喜ばせにくいものはなく、親ほど喜ばせやすいものはない 
孤父の戈を以て牛矢を<さ>す 
小坊主一人に天狗八人 
枯木栄を発す 
枯木死灰花開く 
古墓犂かれて田と為り、松柏摧かれて薪と為る 
子煩悩に子なし 
小股取っても勝つが本 
駒の朝走り 独楽の舞い倒れ 
小娘と小袋は油断がならぬ 
虚無僧に尺八 
小村の犬は人を噛む 
米食った犬が叩かれずに糠食った犬が叩かれる 
米の飯と天道様は何処へ行っても付いて回る 
米の飯に骨 
米の飯より思し召し 
米屋は三度目にかえよ 
米を数えて炊ぐ 
子持ち二人扶持 
子持ちの腹に宿無しが居る 
蜘蛛の子を散らすよう 
(蜘蛛の子の入った袋を破ると四方八方に逃げ散る様子から) 大ぜいの者がばらばらに逃げまどう様子をいう。
子養わんと欲すれども親待たず 
子故の闇 
惟日も足らず 
此もまた人の子なり 
之を亡地に陥れて然る後に存す 
之を用いれば則ち虎となり用いざれば則ち鼠となる 
転がる石には苔が生えぬ 
頃は三月、夜は九月 
転ばぬ先の杖 
健康問題に注意するのはよいことではあるが、これも「石橋を叩いて渡る」の式で、おっかなびっくりで神経質になってしまっては人生は楽しくなくことは疑いない。病気の事以外でも疑心暗鬼で心配が先に立つ人よりは、何事も楽観的にみて行動する人の方が「病は気から」と言われる心因性の病気にかかる率は少ない筈である。しかし「年寄りの冷や水」の諺にもあるように、無理をするのも、体には良いとは思えない。それが運動をして体を鍛えるということであれば話は別である。 とにかく適当な運動は、心臓病の人にも糖尿病の人にも良効果があると言われているし、骨や関節の保全にも役立つとされている。ただし、運動とゼンソクの関係は簡単によいとかわるいとかと決められないらしい。それから、運動による減量法も流行している。運動もよいが、転んで怪我をしたくないと言うのであれば、安全な所を選んで、杖でもついて、極端に走らないよう工夫をすべきであろう。そうして気分爽快となれば、それが健康にもつながるものである。 
転べば糞の上 
衣の袖から鎧が見える 
衣は新しきに若くは莫し、人は故きに若くは莫し 
衣ばかりで和尚はできぬ 
衣を染めんより心を染めよ 
転んでもただは起きぬ 
たとえ失敗した場合でもそこから何かを得ようとする。欲の深い、また、根性のある人のたとえ。
子を思う夜の鶴 
子を知ること父に若くは莫し 
子を捨てる藪はあれど親を捨てる藪はなし 
子を見ること親に如かず 
子を持って知る親の恩 
子を持てば七十五度泣く 
崑山玉を出だし麗水金を生ず 
崑山の下、玉を以て鳥を抵つ 
根性に似せて家を作る 
今度と化け物見たことない 
北海道の言葉で「"今度"と"化け物"は見た事がない」って言い回しがある。「今度会おうね」とか「また今度ね」とか言う人はお化けと同じくらいもう見る事はない、って意味なんだけど本当にその通りだと思う。「またね」と手を振って消えて行く人は、もう二度と会えない人かも知れない。
蒟蒻で石垣を築く 
蒟蒻で学者は田舎が良い 
蒟蒻の幽霊 
紺屋の明後日 
紺屋の白袴 
(紺屋は白い生地を紺(こん)に染めるのが商売であるが、それが白いままの袴を着けているというので) 他人のことにかまけて、自分の専門技術が役に立たないことをいう。転じて、人には口やかましくいうが、自分のこととなると、からきしだめな人間をいう。
金輪際の玉も拾えば尽きる 
ご意見五両、堪忍十両 
五噫を歌う 
合歓の木は槐の木 
郷に入りては郷に従う 
剛の者に矢が立たぬ 
合抱の木も毫末に生ず 
合浦の珠還る 
濠濮の間の想い 
毫毛斧柯 
毫釐の差は千里の謬り 
呉越同舟 
仲の悪い者同士、また、敵味方が、同じ場所にい合わせること。また、反目し合いながらも共通の困難や利害に対して協力し合うことのたとえ。[解説] 中国の春秋時代、呉の国と越の国とは何度となく争っていました。現在でも知られるエピソードが多く生まれましたが、そのひとつが兵法書「孫子」の一節に顔を出しています。呉の人と越の人は、当然、反目しあっていました。ところが、両国の人が同じ舟に乗り合わせ、しかもその舟が嵐に遭ったときには、両国人は左右の手のように協力して対処するというのです。現在では、ライバル企業同士が合併を果たしたような場合、「呉越同舟」と形容されます。「水と油でうまく合わない」という意味でも、元のライバル同士が協力しあうという意味にも解釈されます。姉妹都市の市民同士のように、仲がよくて対立がない場合、「呉越同舟」とは言いにくい感じです。一方、野球のチーム同士のように、いくら双方のメンバーの仲がよくても、基本的にライバルである場合は、「呉越同舟」が使えます。「呉越同舟」と表現しようとする場合、双方の関係を確認する必要があります。
呉下の阿蒙 
五月蕨は嫁に食わせるな 
御器も持たぬ乞食 
呉牛月に喘ぐ 
極楽願わんより地獄作るな 
極楽の入り口で念仏を売る 
後家花咲かす 
後光より台座が高くつく 
後生大事 
心をこめて物事にはげむこと。また、物を大切にすること。もともとは仏教のことばで、「後生」は、死んで来世らいせに生まれ変わること。来世の安楽を願うために、一心不乱に仏道にはげむことが大事であると、信心を説いたことば。
後生願いの六性悪 
後生は徳の余り 
後生より今生が大事 
御所内裏の事も陰では言う 
御所の御成りはすわすわ半時 
五十歩百歩 
五十歩も百歩もたいして変わらない。どちらも同じようなもので、論ずるに値しない。似たり寄ったり。
五十にして四十九年の非を知る 
五十にして天命を知る 
五重塔も下から組む 
梧前灯下 
<ご>鼠五技にして窮す 
五臓六腑に沁みわたる 
身にしみて深く感じる。腹にしみるという意味。「五臓六腑」は、中国医学において人間の内臓全体を言い表す言葉。つまり、体全体で深く感じることを表します。
碁で勝つ者は将棋で負ける 
碁で負けたら将棋で勝て 
五斗米のために腰を折る 
事は蜜を以てなり、語は泄を以て敗る 
五風十雨 
呉服五層倍 
五本の指で切るにも切られぬ 
<ごまめ>でも尾頭つき 
<ごまめ>の歯軋り 
実力のない者が、いたずらに苛立ったり悔しがったりすることのたとえ。ごまめは小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、この句では実力のない者のたとえとして使われている。実力のない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、いきりたつことをいう。また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる。
芥溜めに鶴 
五里霧中 
五里にもわたる深い霧(きり)の中で方角が分からない状態になることを意味する。転じて、物事の状況や手掛かりをつかめず、すっかり迷ってしまい、方針や見通しが立たずに困ること。また、そのような状態を意味する。その他にも、事情がはっきりしない中、手探りで何かをする意味でも用いられる。
五両で帯買うて三両でくける 
碁を打つより田を打て 
言語道断 
根本的な真理は言葉で表現できないこと。言葉で言い表せないほど酷いこと。もってのほか。
権者にも失念 
権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる 
人が苦労して行ったことでも、別の人がすぐにぶち壊してしまうことの例え。
 

 

才余りありて識足らず 
才あるも才あらざるも、亦名其の子を言う 
綵衣以て親を娯しましむ 
塞翁が馬 
人生の幸・不幸は予測しがたく、幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらないとのたとえ。
斎戒沐浴 
採菓汲水 
才覚の花散り 
歳寒の松柏 
災害は忘れた頃にやってくる 
自然災害はその被害を忘れたときに再び起こるものだという戒め。「天災は忘れられたる頃来る」、「天災は忘れた頃来る」、「天災は忘れられた頃に来る」などとも記述される。また、上記の「天災」の箇所は「災害」と書かれることもある。科学者で随筆家の寺田寅彦による言葉 。
細工は流流仕上げを御覧じろ 
物事のやり方にはいろいろな流儀があるのでやり方について口を出さず結果を見て判断してほしいということ。
細工貧乏人宝 
歳月人を待たず 
細行を矜まざれば、終に大徳を累わす 
才子才に倒れる 
才子多病 
宰相とならずんば則ち良医となれ 
才色兼備 
特に女性について、優れた学識やスキルを持ち、なおかつ容貌が美しい、その両方を持ち備えた人物こと。
采薪の憂い 
採ずる仏の鼻を欠く 
災難なら畳の上でも死ぬ 
賽の河原 
親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土にある河原。西院(さいいん)(斎院)の河原ともいう。ここで子供が石を積んで塔をつくろうとすると、鬼がきてそれを崩し子供を責めさいなむが、やがて地蔵菩薩が現れて子供を救い守るという。このありさまは、「地蔵和讃」や「賽の河原和讃」などに説かれ、民衆に広まった。賽の河原は、仏典のなかに典拠がなく、日本中世におこった俗信と考えられるが、その由来は、『法華経』方便品(ほうべんぼん)の、童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳があると説く経文に基づくとされる。また名称については、昔の葬地である京都の佐比(さい)川や大和国(奈良県)の狭井(さい)川から出たという説、境を意味する賽から出たという説などがある。
賽は投げられた 
サイコロはもう振られてしまった。いったん決断して行動を始めた以上、最後までやりぬくしかない、ということのたとえ。
財布の紐を首に掛けるよりは心にかけよ 
豺狼路に当たる、安んぞ狐狸を問わん 
福は眥に盈たず、禍は世に溢る 
竿竹で星を打つ 
竿の先の鈴 
竿の三年櫓は三月 
竟に入りては禁を問う 
魚は上揩ノ焼かせよ、餅は下種に焼かせよ 
坂に車 
酒外れはせぬもの 
酒屋へ三里、豆腐屋へ二里 
左官の垣根 
先勝ちは糞勝ち 
先立つ物は金 
何をするにしても、まず最初に必要となるのはお金という事。お金が無ければ何も出来ないという喩え。
先の雁より手前の雀 
先は野となれ山となれ 
先んずれば人を制す 
鷺と烏 
鷺を烏 
策士策に溺れる 
謀略に富んでいる人物は、あまりに先を読み過ぎてかえって失敗するものであるというたとえ。
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿 
庭木の剪定法をいったことばで、桜の枝は切らずにおくのがよく、梅の枝は切るのがよいということ。桜は枝を切るとそこから腐りやすくなるので切らないほうがよく、梅は枝を切らないとむだな枝がついてしまうので切ったほうがよいとされることから。また、桜の枝は切らずに折り、梅の枝は折らずに切るほうがよいともいわれるが、桜は折ることもよくない。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」とも書く。
桜三月、菖蒲は五月 
桜は花に顕る 
簀を易う 
酒入れば舌出ず 
酒買って尻切られる 
酒が酒を飲む 
酒極まって乱となる 
酒と朝寝は貧乏の近道 
酒と産には懲りた者がない 
酒なくて何の己が桜かな 
酒に別腸あり 
酒の徳孤ならず必ず隣あり 
酒の中に真あり 
酒の酔い本性違わず 
酒は愁いを掃う玉箒 
酒は燗、肴は刺身、酌は髱 
酒は古酒、女は年増 
酒は三献に限る 
酒は適量を飲むのがいいということ。「三献」は酒宴の礼法で、大・中・小の杯で酒を三杯勧めることを一献といい、それを三回繰り返した三献がほどよい量ということから。
酒は諸悪のもと 
酒は天の美禄 
酒は猶兵のごとし 
酒は飲むとも飲まるるな 
酒は飲むべし飲むべからず 
酒は百毒の長 
酒は百毒の長 
酒は本心をあらわす 
酒はやめても酔いざめの水はやめられぬ 
酒を嗜む勿れ、狂薬にして佳味に非ず 
笹の葉に鈴 
囁き千里 
差し出る杭は打たれる 
匙の先より口の先 
砂上の楼閣 
基本がしっかりしていないために、物事が長続きしないこと。 また、実現不可能なこと。一見、すばらしく思えることでも、実は、あまり確かなことではないということ。砂の上の高い建物は、いつ崩れるかわからないという意から。
匙を投げる 
(調剤用の匙を投げ出す意から) 医者がこれ以上治療の方法がないと診断する。医者が病人を見放す。物事、人の状態などに働きかけて、救済したり、思うような結果を導いたりすることに対し、そういう見込みがないとあきらめて、手を引く。手のほどこしようがなく断念する。
左遷 
今までより低い役職や能力に見合わない業務に配置転換することです。 また、地方への転勤を左遷と呼ぶこともあります。左遷は、古来中国で『右を上位、左を下位』と考えたことに由来します。
沙汰の限りに非ず 
左袒 
沙中の偶語 
五月の鯉で口ばかり 
薩摩守 
里腹七日 
鯖の生き腐り 
鯖を読む 
様に様を付ける 
寒さ小便ひだるさ欠伸 
寒さの果ても彼岸まで 
鞘走りより口走り 
左右を顧みて他を言う 
皿嘗めた猫が科を負う 
皿に桃を盛る 
去り跡へは往くとも死に跡へは行くな 
猿が魚釣る 
猿が仏を笑う 
猿知恵 
猿に烏帽子 
猿に絵馬 
猿に木登り 
猿の尻笑い 
猿の水練、魚の木登り 
猿の空蝨 
猿の人真似 
猿は人間に毛が三筋足らぬ 
猿も木から落ちる 
木登りが上手な猿でも、時には木から落ちることがある。 どんな名人でも、失敗することがあることの例え。 また、得意を鼻にかけ油断すると失敗するものであるとの戒め。
去る者は追わず 
去る者は日日に疎し 
猿を<こう>中に置けば豚と同じ 
触らぬ神に祟りなし 
その物事にかかわりさえもたなければ、災いを招くことはない。めんどうなことによけいな手出しをするな、というたとえ。
触り三百 
山雨来たらんと欲して風楼に満つ 
三益友 
三年勤め学ばんよりは三年師を選ぶべし 
三槐を植う 
三欠くの法 
三寒四温 
三寒四温とは冬季に寒い日が3日ほど続くと、そのあと4日ほど温暖な日が続き、また寒くなるというように7日周期で寒暖が繰り返される現象。朝鮮半島や中国北東部に典型的に現れる現象で、日本でもみられる。一般に寒い日は晴れで、暖かい日は天気が悪い。日本では本来は冬の気候の特徴として使われたが、最近では春先に使われることが多い。
三界に家なし 
三界の火宅、四衢の露地 
三顧 
三顧の礼 
真心から礼儀を尽くして、すぐれた人材を招くこと。また、目上の人が、ある人物を信任して手厚く迎えること。「顧」は訪ねる、訪れること。 中国三国時代、蜀しょくの劉備りゅうびが、わびずまいの諸葛亮しょかつりょう(孔明こうめい)を訪ねたが、なかなか会えず、三度目にやっと面会できた。
三国一 
三五の十八 
三歳の翁、百歳の童子 
三猿
[さんざる、さんえん] 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している意匠である。「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智の3つの秘密を示しているとされる。『論語』に 「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」 (礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ) 「礼節に背くことに注目してはいけません、礼節に背くことに耳を傾けてはいけません、礼節に背くことを言ってはいけません、礼節に背くことを行なってはいけません」 という一節がある。一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったという。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多い。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれている。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいう。 南方熊楠によれば青面金剛と猿の関係はインドに起源があり、青面金剛はインドのラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神の転化であり、三猿はラーマに仕えたハヌマーンの変形という。また庚申の「申=さる」である、庚申信仰で人の悪事を監視して天帝に報告する三匹の「三尸虫」を封じるため、悪事を見ず、聞かず、話さない三匹の猿を出したなどの説もある。江戸中期に出版された『和漢三才図会』の「庚申」の項を見ると三猿の挿絵が添えられている。  
「他人の欠点や過ち、自分にとって不都合なことは見たり聞いたり言ったりしない方がいい」 というもので、 「弱点を突くような人やうわさ好き、口の軽い人など印象の悪い人にはならないように 」 という一種の教訓のようなが思いが込められています。
・・・ 庚申は中国から伝えられた信仰で、この日の夜に身体にすむ三尸(さんし)虫が天に登って天帝にその人の悪事を告げるといわれ、それを防ぐために集まって語りあかす庚申講が中世以来盛んになった。この際に庚申の猿にちなんで青面金剛の神像下に3頭の猿(三猿(さんえん))を描き、これを俗に〈言わざる、見ざる、聞かざる〉と称し、このような行為をつつしむことで人生を安全幸福におくることができるとする教えが尊ばれた。庚申信仰はもと日吉神社の神使が猿であるとされたように、山の神の使わしめを猿と考える民間信仰を基礎とし、中国伝来の教義をもって形をととのえたために、貴賤をとわず全国的に信仰されるに至ったものではなかろうかと考えられている。 ・・・
山紫水明 
三枝の礼 
三舎を避く 
山椒は小粒でもぴりりと辛い 
山椒目の毒原薬 
三日向顔せざればその心測り難し 
三日書を読まざれば語言味無し 
三尺下がって師の影を踏まず 
先生に従って行くときは、弟子は3尺くらい離れて、先生の影を踏まないようにしなければならない。先生を尊敬して礼儀を失わないように心掛けるべきであるといういましめ。
三十にして立つ 
三十の尻括り 
三十振袖四十島田 
三十六計逃げるに如かず 
いかに巧妙な孫子の策(三十六計)よりも、トラブルにあっては、まずそれから逃れることが最善の方法であるとのたとえ。
算術者の不身代 
三寸の舌に五尺の身を亡ぼす 
三寸の轄 
三寸の舌を掉う 
三寸の見直し 
三寸俎板を見抜く 
三損友 
三代続けば末代続く 
山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し 
山中暦日なし 
三度の火事より一度の後家 
三度の飯も強し柔らかし 
三度目の正直 
三人行えば必ず我が師あり 
三人子持ちは笑うて暮らす 
三人市虎を成す 
三人旅の一人乞食 
三人虎を成す 
三人寄れば金をも溶かす 
三人寄れば公界 
三人寄れば文殊の知恵 
特別に頭の良い者でなくても三人集まって相談すれば何か良い知恵が浮かぶものだ、という意味。
三年園を窺わず 
三年たてば三つになる 
三年父の道を改むること無きは孝と謂うべし 
三年飛ばず鳴かず 
三釜の養 
三編回って煙草にしょ 
秋刀魚が出ると按摩が引っ込む 
三面六臂 
三つの顔と六つの腕をもつ意から、一人で何人分かの働きをすること。また、一人で多方面にわたって活躍すること。「面」は顔。「臂」はひじ・腕のこと。
山門から喧嘩見る 
三余 
算用あって銭足らず 
算用十八、手六十 
算を乱す 
財少なければ悲しみ少なし 
材大なれば用を為し難し 
才槌で庭掃く 
財に臨みては苟くも得んとすること母れ 
財宝は地獄の家苞 
財を先にして礼を後にすれば民利る 
財を積む千万なるも薄伎身に在るに如かず 
雑魚の魚交じり 
雑魚も魚鰭 
坐して食らえば山も空し 
座禅を組むより肥やし汲め 
座を見て皿をねぶれ 
座を見て法を説け 
讒臣国を乱し妬婦家を破る 

 

思案の案の字が百貫する 
尸位素餐 
塩辛を食おうとて水を飲む 
仕置き場の巾着切り 
塩にて淵を埋ずむ如し 
塩を売れば手が辛くなる 
四海兄弟 
四海波静か 
死灰復燃ゆ 
四海を家とす 
四角な座敷を丸く掃く 
四角い座敷を掃除するのに、四隅を残して中央だけを丸く掃いてごまかすことから、神経の行き届かぬ仕事をすることをいう。
鹿の角を蜂が刺す 
屍に鞭打つ 
(ししにむちうつ) 死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。
鹿待つところの狸 
鹿見て矢を矧ぐ 
鹿を馬 
鹿を逐う者は兎を顧みず 
鹿を指して馬と為す 
只管打坐 
志学 
歯牙にもかけない 
それほど取るに足らない。問題にしない。相手にしない。無視する。
歯牙の間に置くに足らず 
敷居が高い 
閾を跨げば七人の敵あり 
色即是空、空即是色 
至貴は爵を待たず 
死棋腹中に勝着あり 
色欲は命を削る斧 
しくじるは稽古のため 
四苦八苦 
仏教用語。お釈迦様は、35才で、仏の悟りをひらかれたときに、最初に、人生は苦なり と仰言ったと言われます。これは、どんな人の人生も、本質は苦しみだと言うことです。ですから、浄土真宗の開祖、親鸞聖人も、人生のことを、難度海(なんどかい)とか、生死の苦海(しょうじのくかい)と言われています。確かに、人生、苦しいことと楽しいこととどちらが多いかと言われると、苦しいことが多いように思います。社会的な地位や、名誉、財産を得ても、それで安心というわけではありません。いろんな不満が出てきたり、いろんな不安がでてきます。苦しみ、悩みのない人は誰もいないでしょう。お釈迦さまが、すべての人が逃れることが出来ない、苦しみを、大きく四つ、さらに 四つ、全部で八つに分けて教えられたものです。
1 生苦
2 老苦
3 病苦  
4 死苦  (上記 四つを四苦という)
5 愛別離苦(あいべつりく) 
6 怨憎会苦(おんぞうえく) 
7 求不得苦(ぐふとっく)  
8 五陰盛苦(ごおんじょうく)  (四苦とあわせて八苦といいます)
二千六百年前に説かれた仏教ですが、この四苦八苦の教えを聞くと、人間は、どんな時代も、どんな場所でも同じことに苦しみ悩んでいることがよく分かります。私たちが幸せになれないのは、苦しみの原因が分からないからです。苦しみから目をそらしている間は、心からの安心や満足は、ありません。苦しみから目をそらさず、見つめて行くことが本当の幸せへの第一歩です。

至言は言を去る 
至言は耳に忤らう 
子貢が多言も顔子の一黙には如かず 
市虎三伝 
獅子吼 
しし食った報い 
獅子屈中に異獣なし 
獅子身中の虫 
仏徒でありながら、仏法に害をなす者。組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。
死して義ならざるは勇に非ざるなり 
人として当然行うべき正義と知りながら実行しないのは、勇気がないからである。
死しての千年より生きての一日 
死して後已む 
死しての長者より生きての貧人 
獅子に鰭 
獅子に牡丹 
獅子の堂々たる姿に、絢爛(けんらん)豪華な牡丹の花を配した図柄。また、そのさま。転じて、とりあわせ、配合のよいことのたとえにも用いる。牡丹に唐獅子(からじし)。
死屍に鞭打つ 
獅子の子落とし 
獅子は小虫を食わんとてもまず勢いをなす 
獅子奮迅 
獅子も頭の使いがら 
死者に鞭打つ 
死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。
私淑 
支証の出し遅れ 
師匠は鐘の如し 
四時の序、功を成す者は去る 
榻の端書き 
死児の齢を数う 
蜆貝で海を量る 
蜆千より法螺貝一つ 
四十過ぎての道楽と七つ下がって降る雨は止みそうで止まぬ 
四十にして惑わず 
人間は、四〇歳にもなれば、惑うことがなくなるものだ、ということ。[由来] 「 論語 ―為政」に見える、孔子のことば。
四時を貫きて柯を改め葉を易えず 
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり 
人生は悪いことばかりが続くことはない、良いこともあると言うこと。
死生、命あり 
咫尺を弁せず 
死せる孔明、生ける仲達を走らす 
三国志に由来する故事である。この故事の原文は「死諸葛走生仲達」であるため、正確には「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」となるが、前者のほうが有名であるためか辞書にも前者が記載されていることがほとんどである。なお、孔明は諸葛亮の字、仲達は司馬懿の字である。
士族の商法 
舌三寸に胸三寸 
舌も胸も寸法でいえば三寸あるかないかの小さいものだが、その働きは大きいので注意が肝要だということ。つまり、口と心(胸)は慎まなければならないという意味。
舌三寸の囀りに五尺の身を果たす 
親しき仲に垣をせよ 
親しき仲に礼儀あり 
親しみが過ぎて遠慮がなくなると不和のもとになるから、親しい間柄でも礼儀を重んじるべきである”ということわざです。
親しき仲は遠くなる 
下地は好きなり御意はよし 
滴り積もりて淵となる 
舌の剣は命を断つ 
舌の根の乾かぬうちに 
言葉を言い終わるか終わらないうちのこと。前言を軽々に撤回したり、前言に反した事を言ったときに非難する意味。
舌は禍の根 
ことばは禍を招くもと。禍は多くことばから起こるものであるということ。口は禍の元。
舌を二枚使う 
舌を巻く 
四知 
七擒七縦 
七細工八貧乏 
七尺去って師の影を踏まず 
七生七擒 
七十の三つ子 
七度探して人を疑え 
七人の子とはなすとも汝に心許すな 
七年の病に三年の艾を求む 
至知は幾ならず 
七歩の才 
七夜のうちの風邪は一生つく 
死中に活を求む 
死を待つよりほかにないような絶望的な状態の中にあっても、なお生きるべき道を捜し求める。また、難局を打開するために、あえて危険な状況の中に飛び込んで行く。[解説] 「晋書―呂光載記」にあることばから。
四鳥の別れ 
鷙鳥百を累ぬるも一鶚に如かず 
疾行には善迹無し 
漆膠の契り 
七珍万宝随一は人の命と人の誠 
知って知らざれ 
知って問うは礼なり 
失敗は成功の基 
失敗は、その原因をつきとめて改善すれば、むしろ成功への契機となる。失敗したからといってくじけず、冷静に対処することが将来の成功をもたらす。
疾風迅雷 
強い風とはげしい雷(かみなり)。また比喩的に、非常にすばやくすさまじいこと。
疾風に勁草を知る 
櫛風沐雨 
七的張りて弓矢至る 
室に怒りて市に色す 
室に入りて矛を操る 
疾雷耳を掩うに及ばず 
湿を悪んで下きに居る 
四天二天 
舐犢の愛 
至徳を論ずる者は俗に和せず 
四斗八斗 
子と袍を同じくせん 
市道に交わり 
死なぬ子三人皆孝行 
死なぬものなら子一人、減らぬものなら金百両 
慈なるが故に能く勇なり 
品川海苔は伊豆の磯餅 
士に一定の論あり 
死に牛に芥かける 
死に馬に鍼 
死に馬が屁をこく 
死にがけの念仏 
死に花を咲かせる 
立派に死んで、死後に誉れを残す。また、死んでかえって誉れが増す。
死に別才あり 
死に別れより生き別れ 
死人に口なし 
死人は無実の罪を着せられても釈明することができない。また、死人を証人に立てようとしても不可能である。
死人に妄語 
死ぬ死ぬという者に死んだ例しなし 
死ぬほど楽はない 
死ぬ者貧乏 
死ぬる子は眉目よし 
死ねば死に損、生くれば生き得 
鎬を削る 
駟の隙を過ぐるが若し 
死は或いは泰山より重く或いは鴻毛より軽し 
死は己を知る者の為に死す 
芝居は無筆の早学問 
驟戦えば則ち民罷れ、驟勝てば主驕る 
死馬の骨を買う 
柴舟の宵ごしらえ 
四百四病の外 
四百四病より貧の苦しみ 
渋柿が熟柿に成り上がる 
渋柿の長持ち 
糸麻有りと雖も菅<かい>を棄つること無かれ 
揣摩憶測 
死命を制す 
死ぬか生きるかという大事なところを押えて、その人の運命やことのなりゆきを自分の手ににぎる。相手の急所を押える。
四面楚歌 
周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がいないこと。また、そのさま。孤立無援。中国楚その項羽こううが、四面を囲む漢の劉邦りゅうほうの軍の中から楚の歌を聞き、楚はすでに漢に降くだったのか、と驚き嘆いた故事から。
下いびりの上諂い 
駟も舌に及ばず 
霜を履んで堅氷至る 
社未だ屋せず 
社燕秋鴻 
釈迦に経 
釈迦に経の読み違い 
釈迦に宗旨なし 
釈迦に説法 
「お釈迦様に仏教の教えを説く」、すなわち「知り尽くしている人にそのことを説く愚かさのたとえ」
杓子馬も主が使えば歩く 
杓子定規 
誤った基準で物事を判断すること。一つの基準を全てに当て嵌めて、融通の利かない様。緊急時に杓子定規な対応をしていては間に合わない。
杓子で腹を切る 
杓子は定規にする 
杓子は耳掻きにならず 
尺の木も必ず節目あり、寸の玉も必ず瑕<てき>あり 
尺も短き所あり、寸も長き所あり 
借家栄えて母屋倒れる 
尺を枉げて尋を直くす 
社稷の臣 
車軸を流す 
社鼠の患い 
鯱鉾立ちも芸のうち 
尺蠖の屈するは伸びんがため 
<しゃっ>火微なりと雖も卒に能く野を燎く 
借金は身上の薬 
射は仁の道なり、正を己に求む 
娑婆で見た弥次カ 
しゃべる者に知る者なし 
しゃべる者は半人足 
沙弥から長老 
沙弥から長老にはなれぬ 
三味線を弾く 
相手の言うのに調子を合わせて適当に応対する。また、事実でないことを言ってごまかす。一つは、相手の発言や会話の流れにあわせて、真剣味のない言動をすることです。正しいことであったり、自分の意見や意思、本心を表現することなく、抗うことなく流れに任せるような場合に使われます。もう一つは、相手に意図的に誤解を招くような言動を取ってごまかすことです。あからさまに嘘をつくのではなく、誤解を招く言動をとったり、話をずらしたりしながら隠したいことなどが伝わらないようにする要な場合に使われることがあります。
舎を道傍に作れば三年して成らず 
炙を欲する色 
醜夷に在りて争わず 
衆寡適せず 
習慣は自然の如し 
習慣は第二の天性なり 
衆曲は直を容れず 
衆愚の諤諤たるは一賢の唯唯には如かず 
衆口金を鑠かす 
衆口は禍福の門 
衆之を悪むも必ず察す 
宗旨の争い釈迦の恥 
衆少多きを成す 
周章狼狽 
衆心城を成す 
修身斉家治国平天下 
終身善を為し一言則ち之を破る 
終身道を譲るも百歩を枉げず 
衆草と伍す 
秋霜烈日 
舟中も敵国 
衆と好みを同じくすれば成らざるなし 
舅の物で相婿もてなす 
姑の仇を嫁が討つ 
姑にいじめられたかたきを、自分の息子の嫁ではらす。だから嫁いじめは順繰りに続くものだ。
姑の十七見た者がない 
姑の三日誉め 
主と病には勝たれず 
衆怒犯し難し 
秋波を送る 
女性が、相手の関心を引こうとして、こびを含んだ目つきで見る。
愁眉を開く 
衆盲象を模す 
衆力功あり 
湿を悪みて下きに居る 
臭を万載に遺す 
菽水の歓 
菽麦を弁ぜず 
祝融の災い 
守株 
主将の法は務めて英雄の心を攬る 
主従は三世 
手足処を異にす 
手足を惜く所なし 
首鼠両端 
酒池肉林 
酒池肉林とは、酒や食べ物が豊富にある、非常に贅沢な酒宴。「酒地肉林」と書くのは間違い。酒池肉林は、『史記(殷本紀)』の「以酒為池、懸肉為林(酒を以て池となし、肉を懸けて林となす)」からできた四字熟語。この故事は、殷の紂王(ちゆうおう)という暴君が催した宴のことで、大量の酒で池を作り、肉の塊を吊るして林にした豪奢な遊び形容したものである。 美女に囲まれた酒席を「酒池肉林」と言うことも多いが、この四字熟語には酒と肴(肉)が贅沢に並んだ宴の意味しかないため誤用である。このような意味が「酒池肉林」に含まれるようになったのは、「肉を懸けて林となす」の後に「男女を裸にして、その間(池や林のこと)を追いかけっこさせたりしながら、幾日も酒宴をした」という意味の話が続くことからの連想とも思えるが、後続部分を知っているならば「酒池肉林」が指す部分や意味が理解できるはずなので、単に「肉」という字の印象によるものと思われる。
出家の念仏嫌い 
出藍の誉れ 
朱に交われば赤くなる 
習慣、特に悪習は付き合う相手に影響される。
朱買臣五十富貴 
須弥山と丈競べ 
春宵一刻直千金 
春日遅遅 
春秋高し 
春秋に富む 
春秋の筆法 
駿足長阪を思う 
春氷を渉るが如し 
春風駘蕩 
春風の中に座するが如し 
春眠暁を覚えず 
駿馬痴漢を乗せて走る 
春蘭秋菊倶に廃すべからず 
雌雄を決す 
宵衣肝食 
小異を捨てて大同につく 
わずかの意見の相違は無視して、大勢の支持する意見に従うことをいう。
傷弓の鳥 
小弁は義を害す 
葉公の竜 
しょう事なしの米の飯 
証拠の出し遅れ 
小忍ばざれば則ち大謀を乱る 
勝者の用うる所は敗者の棋なり 
蕭牆の患い 
小心翼翼 
正直の頭に神宿る 
正直の儲けは身につく 
正直は阿呆の異名 
正直は一生の宝 
正直貧乏横着栄耀 
正直者が馬鹿を見る 
悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直な者はかえってひどい目にあう。 世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らないことをいう。
小事に拘わりて大事を忘るな 
小事は大事 
生者必滅 
命あるものはいつかは必ず死ぬという無常を表す言葉。
掌上に運らす 
霄壌の差 
猩猩は血を惜しむ、犀は角を惜しむ 
猩猩能く言えども禽獣を離れず 
小事を軽んずる勿れ 
小人の過つや必ず文る 
小人閑居して不善を為す 
(「礼記‐大学」の「小人間居為二不善一、無レ所レ不レ至」による) 徳のない、品性の卑しい人は暇であるととかく良くないことをする。
小人窮すればここに濫す 
小人罪なし、玉を懐いて罪あり 
小人の腹を満ち易し 
小人の交わりは甘きこと醴の如し 
小人の勇 
小人は始め有りて終わり無し 
小水石を穿つ 
小水の魚 
誦数以て之を貫く 
小節を規る者は栄名を成す能わず 
少壮努力せず老大徒に傷悲す 
笑中に刀あり 
掌中の珠 
小忠は大忠の賊 
小恥を悪む者は大功を立つる能わず 
小敵と見て侮る勿れ 
少年老い易く学成り難し 
年月が過ぎ去るのは早いもので、自分は若いと思っているうちにすぐに年老いてしまう。それに反して、学問の方はなかなか思うように進まない。だから、寸刻をおしんで勉強しなくてはならない。
少年に学ばざれば老後に知らず 
少年よ大志を抱け 
小の虫を殺して大の虫を助ける 
賞は厚くし罰は薄くすべし 
松柏摧かれて薪と為る 
商売は草の種 
商売は道によりて賢し 
焦眉の急 
勝負は時の運 
勝ち負けはその時どきの運によるもので、強い者が勝つとはかぎらない。[解説] 勝敗は、人知では計りがたい何物かに支配されることを示し、勝負の前にも後にも用いられます。
正法に不思議なし 
章甫を履に薦く 
章甫を資して越に適く 
将門に必ず将あり、相門に必ず相あり 
証文の出し遅れ 
小利大損 
小利は大利の残ない 
鷦鷯深林に巣くうも一枝に過ぎず 
蕉六の夢 
将を射んとせば先ず馬を射よ 
敵の大将を射止めようとするときは、先にその乗馬を射るがよい。目標をさだめて攻撃したり、わがものにしようとするときは、直接ねらうのではなく、まず周囲のものに打撃を与えたり、味方につけたりするのが上策であるというたとえ。
鍾を聞いて日と為す 
小を捨てて大に就く 
燭を乗りて夜遊ぶ 
升を以て石を量る 
杵臼の交わり 
諸行無常 
諸行無常は、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはないという意味。三法印、四法印のひとつ。
食牛の気 
食後の一睡万病円 
食指が動く 
食前方丈一飽に過ぎず 
食なき者は職を択ばず 
職人貧乏人宝 
初心忘るべからず 
世阿彌の「花鏡」にある語。能楽で、若年のころに学んだ芸や、その当時の未熟だったこと、また、時期時期での初めての経験を忘れてはいけないという教え。転じて一般に、習い始めたころの、謙虚なはりつめた気持を常に失ってはならない、また、最初に思いたった一念を忘れてはいけないの意。
蜀犬日に吠ゆ 
書は言を尽くさず、言は意を尽くさず 
書三度写せば魚も魯となる 
黍離の嘆 
書を校するは塵を払うが如し 
書を以て御する者は馬の情を尽くさず 
精げの中の籾 
知らざるを知らずと為せ 
知らずば人に問え 
知らずば人真似 
知らぬ顔の半兵衛 
何も知らない振りを装って物事に取り合わぬことを意味する慣用句。「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」のような表現で使われる。
知らぬ神より馴染みの鬼 
知らぬが秘密 
知らぬが仏 
事実を知らないが故に心を乱されず仏のようにいられるの意。転じて、知らないでいることを嘲あざける。
知らぬが仏、見ぬが秘事 
知らぬ京物語 
知らぬ呉服商売より知った小糠商い 
知らぬ他国にも鬼はない 
知らぬは亭主ばかりなり 
知らぬ仏より馴染みの鬼 
知らぬ道も銭が教える 
白羽の矢が立つ 
虱の皮を槍で剥ぐ 
虱は頭に処りて黒し 
芝蘭の室に入る如し 
尻馬に乗る 
無批判に他人の言動に便乗して軽はずみな行動をする。人のあとに続き、調子に乗ってその真似をする。
尻から抜ける 
尻切れ蜻蛉 
尻毛を抜く 
知りて知らざれ 
尻に火がつく 
事態が差し迫って、追いつめられた状態になる。お尻に火がついたら? それは熱くてたまりません。
尻に帆かける 
支離滅裂 
物事、特に話や行動などに一貫性がなく、ばらばらであるさま。
尻も結ばぬ糸 
知るの艱きに非ず、行うの惟艱きなり 
知る人に縄を掛ける 
知る者は言わず言う者は知らず 
知る者は博からず 
汁を啜って同罪 
白河夜船 
知ったかぶりをすること、または、ぐっすり眠り込んで、何が起こったか知らないことのたとえ。京都の白河(一説に、船の通れない谷川の名ともいう)のことを聞かれた人が、地名とは知らずに川の名と勘違いして、夜船で通ったから知らないと答えたため、京都見物に出かけたという嘘(うそ)がばれてしまった、という話に基づく。
白き糸の染まんことを悲しむ 
代物には花を飾れ 
吝ん坊と灰吹きは溜まるほど汚い 
吝ん坊の柿の種 
仕を致す 
死を鴻毛の軽きに比す 
死を作るより田を作れ 
歯を没す 
信、豚魚に及ぶ 
深淵に臨んで薄氷を履むが如し 
真金は鍍せず 
信言は美ならず、美言は信ならず 
唇歯輔車 
神出鬼没 
自由自在に素早く現れたり、隠れたりすること。きわめて巧妙に出没し、所在が分からないこと。出没の変幻自在なさま。
信賞必罰 
賞すべき者は必ず賞し、罰すべき者は必ず罰する。賞罰を明らかにすること。出典は『韓非子(かんぴし)』。
針小棒大 
針のように小さい物事を、棒のように大袈裟に言い立てること。
心中より饅頭 
浸潤の譖り 
信心過ぎて極楽を通り越す 
信心は徳の余り 
信心も欲から 
薪水の労 
進退これ谷まる 
身体髪膚之を父母に受く 
心胆を寒からしめる 
死んだ子の年を数える 
死んだ子は賢い 
死んだ者の因果 
死んで花実が咲くものか 
枯れてしまった木には、花も実もならないように、人間も死んでしまったらおしまいである。生きていればこそ、よい時も巡ってこようというたとえ。
心頭を滅却すれば火もまた涼し 
信なき亀は甲を破る 
信の闇より無闇が怖い 
親は泣き寄り他人は食い寄り 
神仏混淆火事掛合い 
心腹の疾 
深謀遠慮 
辛抱する木に金がなる 
辛抱は金、挽臼は石 
森羅万象 
森羅万象は、あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、及び宇宙空間を指す。 キリスト教徒であるイエズス会は、「御主デウス森羅万象ヲツクリタマウ」と『日葡辞書』で記した。
薪燎を積むが如し 
針縷に順う者は帷幕を成す 
慈ある父も益なき子は愛せず 
時雨の化 
自家撞着 
自家薬籠中の物 
地が傾いて舞が舞われぬ 
自画自賛 
自分で自分のことを褒めること。自分で描いた絵に自分で賛を書く意から。「賛」は絵画に書き込む詩や文章などのこと。また、詩や文章などを画面の中に記すこと。
<じ>基有りと雖も時を待つに如かず 
自彊息まず 
児戯に類す 
自業自得 
自分でつくった善悪の報いである業は、当然自ら受けるべきであるということ。多く悪業について言い、自身の苦境は自身が招いたものであるという意味で用いる。
地獄極楽は心にあり 
地獄で仏に会ったよう
非常な危難にあったり、大変困ったりしている時などに思いがけない助けに会った喜びをたとえていう。地獄で仏。地獄の仏。
地獄にも知る人 
地獄の一丁目 
地獄の上の一足飛び 
地獄の釜の蓋が開く 
地獄の沙汰も金次第 
(「閻魔大王が下す地獄での判決も金次第では軽くもなる」ことから) 世の中、金があれば何でも解決できるというたとえ。
地獄は壁一重 
地獄耳 
地獄も住家 
十歳の翁、百歳の童 
磁石鉄を吸うとも石を吸わず 
磁石に針 
地震雷火事親父 
世間で人々が恐れるものを順に並べていう言葉。
地震の時は竹藪へ逃げろ 
事実は小説よりも奇なり 
耳順 
自縄自縛 
辞譲の心は礼の端なり 
爾汝の交わり 
時節の梅花春風を待たず 
児孫自ずから児孫の計あり 
児孫のために美田を買わず 
地蔵の顔も三度 
地蔵は言わぬがわれ言うな 
じたばたしても鶏は裸足 
十把一からげ 
(本来なら10の束に束ねるべきものを、一つに束ねることから) 区別することなく同じ扱いにすることをいい、数は多くても価値に乏しいことにたとえる。
十編探して人を疑え 
十編読むより一遍写せ 
日月逝けり、歳我と与にせず 
実は嘘の奥にあり 
地頭に法なし 
自分で蒔いた種は自分で刈らねばならぬ 
ここでの「種」とは、作物が種から始まり、芽を出し、葉が育ち、実をつけるように、物事の始まり、きっかけ、原因を意味します。すなわち、自分できっかけを作って招いた悪い事態のこと、またはそのきっかけが、 「自分で蒔いた種」ということになります。それを「自分で刈る」と言っているわけですから、自らの言動に対して最後まで責任を負うという表現になります。
自分の頭の蝿を追え 
自分の子には目口が明かぬ 
自分の盆の窪は見えず 
耳聞は目見に如かず 
自暴自棄 
希望を失い、自分などどうなってもいいとやけくそになること。失望などのために投げやりな行動をして、自分を駄目にすること。また、そのさま。「自暴」はめちゃくちゃなことをして、自分自身のからだを損なうこと。
慈母に敗子あり 
自慢高慢馬鹿のうち 
自慢の糞は犬も食わぬ 
自慢は知恵の行き止まり 
麝あれば香ばし 
蛇が出そうで蚊も出ぬ 
鵲巣風の起こる所を知る 
弱肉強食 
弱い者が強い者のえじきになること。強い者が弱い者を思うままに滅ぼして、繁栄すること。「強食弱肉」ともいう。
麝香は臍故命をとらるる 
弱冠 
蛇の道は蛇 
蛇は寸にして人を呑む 
蛇を禁ずるに邪を以てす 
十囲の木始め生じて蘖なれば足掻いて絶つべし 
十月の投げ木 
獣窮まれば則ち噛む 
十行倶に下る 
十七八藪力 
十読は一写に如かず 
十人十色 
考え・好み・性質などが、人によってそれぞれに異なること。
十年一剣を磨く 
十年一昔 
「世の中は移り変わりが激しく、10年も経つともう昔のことになってしまう」という意味のことわざです。
十八の後家は立つが四十後家は立たぬ 
重箱で味噌をする 
重箱に鍋蓋 
重箱に煮染め 
重箱の隅を楊枝でほじくる 
些細な点まで干渉、穿鑿(せんさく)したり、どうでもよいようなつまらない事柄にまで口出しをすることのたとえ。
十分はこぼれる 
重宝を抱く者は夜行せず 
十目の視る所、十手の指す所 
柔も亦茹わず剛も亦吐かず 
十文が油をとぼして五文の夜なべせよ 
柔能く剛を制す 
充閭の慶 
獣を得て人を失う 
獣を追う者は目に太山を見ず 
豎子の名を成す 
儒者の不身持ち 
順境は友を作り、逆境は友を試す 
蓴羹鱸膾 
順風満帆 
順風を帆いっぱいにはらむこと。転じて物事がすべて順調に運ぶこと。ことが非常にうまく進むこと。
上位は国を医やす 
城下の盟 
常着よしの晴れ着なし 
上交諂わず下交驕らず 
城狐社鼠 
上戸に餅、下戸に酒 
上戸の手弱 
上戸は毒を知らず、下戸は薬を知らず 
常山の下 
常山の蛇勢 
盛者必衰 
無常なこの世では、勢いの盛んな者もいつかは必ず衰えるということ。
常住坐臥 
常常綺羅の晴れ着なし 
上手な嘘より下手な実意 
上手の小糸 
上手の鷹が爪隠す 
上手の手から水が漏る 
名人や上手といわれる人でも、まれにしくじることがある。
上手の猫が爪を隠す 
上手はあれど名人はなし 
上手は下手の手本、下手は上手の手本 
上手昔より上手ならず 
冗談から駒 
(「瓢箪から駒が出る」をもじっていった語) 意外な所から思いがけないことがおこる。また、たわむれのことが事実となる。
上知と下愚とは移らず 
上の上は下の下を知る、下の下は上の上を知らず 
情張りは棒の下 
城府を設けず 
女子と小人は養い難し 
《「論語」陽貨から》女性と徳のない人間とは、近づけると図に乗るし、遠ざければ怨むので、扱いにくいものである。
助長 
而立 
次郎にも太郎にも足りぬ 
人口に膾炙す 
沈香も焚かず屁もひらず 
人後に落つ 
仁者は憂えず 
仁者は盛衰を以て節を改めず 
仁者は敵なし 
仁者は山を楽しむ 
人心の同じからざるは其の面の如し 
人心は山川より険し 
人事を尽くして天命を待つ 
人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる、という意味があります。全力を尽くしたのであれば事の成否は人知を越えた天任せなのだから、「どんな結果になろうとも後悔はない」という心境を表す言葉としても使用されます。
人生意気に感ず 
人生七十古来稀なり 
人生は朝露の如し 
人生夢の如し 
人生僅か五十年 
人間の一生はたかだか五〇年ほどの短いものである。人生のはかなさをいう。
人跡繁ければ山も凹む 
人中の麒驥 
沈丁花は枯れても芳し 
仁なれば則ち栄え不仁なれば則ち辱めらる 
人面獣心 
迅雷耳を掩うに暇あらず 

 

水火の争い 
水火は辞せず 
水火を通せず 
水火を踏む 
粋が川へはまる 
粋が身を食う 
水臼の夢 
垂拱して天下治まる 
垂鏡私無し 
吹金饌玉 
水魚の交わり 
推敲 
水行して蛟竜を避けざるは漁夫の勇なり 
<すい>策繁く用うるは遠きを致すの術に非ず 
随珠和璧 
水晶の削り屑 
水晶は塵を受けず 
水晶を灰汁で磨いたよう 
醉生夢死 
垂涎 
食物を食べたくて涎よだれを垂たらすこと。(比喩的に) ある物を切実に欲しがること。
好いた同士は泣いても連れる 
好いた目からは痘痕も靨 
水中に火を求む 
水滴石を穿つ 
錘刀を以て太山を墜つ 
きりや小刀のように小さな刃物で、大きな山を切りくずす。小さな力を以て強力な相手に立ち向かうことで、これをそこなうことができないのをいう。
翠は羽を以て自ら残なう 
推輓 
酸いも甘いも噛み分ける 
経験をつんで世間の微妙な事情や人情の機微に通じ、分別がある。
騅逝かず 
垂簾の政 
数奇 
数行並び下る 
末重き物は必ず折る 
末始終より今の三十 
据え膳食わぬは男の恥 
女性のほうから言い寄ってくるのを受け入れないのは、男の恥だということを意味することわざです。
末大なれば必ず折る 
末の露、本の雫 
末は野となれ山となれ 
好かぬは得せぬの唐名 
姿は俗性を現す 
姿は作り物 
好きこそ物の上手なれ 
好きには身をやつす 
空き腹にまずい物なし 
隙間風は冷たい 
過ぎたるは猶及ばざるが如し 
行き過ぎたことややり過ぎたことは及ばないことと同じで、正しい道には適っていない。物事の中庸を尊ぶべきであるということ。
好く道より破る 
優れて良き物は優れて悪し 
少しきを救わざれば大破に及ぶ 
すさまじきものは宮仕え 
進むを知りて退くを知らず 
雀網で雁 
雀脅して鶴失う 
雀海中に入って蛤となる 
雀の上の鷹猫の下の鼠 
雀の千声鶴の一声 
雀の角 
雀の涙 
ごくわずかなもののたとえ。
雀原へ礫 
鼈が時をつくる 
捨て子は世に出る 
捨て子も村のはごくみ 
捨てる神あれば拾う神あり 
世の中はさまざまであるから、見限って相手にもしてくれない人がいるかと思うと、一方では助けてくれようとする人もある。たとえ非難され排斥(はいせき)されようとも、くよくよ心配することはないことをいう。
捨てる子も軒の下 
砂の底から玉が出る 
砂原は三里行けば二里戻る 
脛一本腕一本 
脛に傷持つ 
隠している悪事がある。自分の身に後ろ暗いことがある。やましいことがある。脛疵。
脛に傷持てば笹原走る 
拗者の苦笑い 
素引きの精兵 
すべての道はローマに通ず 
滑り道とお経は早いほうがよい 
住まば都 
速やかならんことを欲すれば則ち達せず 
住むばかりの名所 
住めば都 
どんな所でも、住み慣れるとそこが居心地よく思われてくるということ。[補説]住むのなら都会が良いの意で使うのは誤り。
相撲に勝って勝負に負ける 
相撲の取り口では十分に相手を圧倒していながら、勝負では負ける。いい相撲であと一歩で勝ちというところまでいきながら、最後には負けてしまう。転じて、内容としてはよい経過をたどりながら、最後の結果で失敗することのたとえ。
相撲に負けて妻の面張る 
擂粉木で芋を盛る 
擂粉木で重箱を洗う 
擂粉木で腹を切る 
駿河の富士と一里塚 
するは一時名は末代 
人の肉体は1代で滅びるが、その名はよいにつけ悪いにつけ後世まで残る。
寸陰を惜しむ 
寸膠は黄河の濁を治する能わず 
寸進尺退 
寸善尺魔 
寸鉄人を殺す 
寸土寸金 
寸にして之を度れば丈に至りて必ず差う 
寸の金を切ることなし 
寸を進めずして尺を退く 
寸を<ま>げて尺を伸ぶ 
随珠を以て雀を弾く 
頭寒足熱 
頭巾と見せて頬冠り 
ずくなしの大だくみ 
木菟引きが木菟に引かれる 
杜撰 
杜撰とは、物事の行い方がいい加減だという意味のこと。書物などに誤りが多いという意味でも使われる。杜撰の語源は、「杜」が中国王朝の宋の時代にいた杜黙という詩人、「撰」が詩を作ること。杜黙が作る詩には、格式に合わないものが多かったという故事を由来にしている。
図星を指す 

 

生相近し習い相遠し 
井蛙の見 
井蛙は以て海を語るべからず 
生ある者は死あり 
青雲の志 
徳を磨いて、立派な人物になろうとする心。また、功名を立て立身出世をしようとする心。「青雲」は雲の上の青い空を意味し、高位・高官、立身出世のことをいう。
青雲の交わり 
精衛海を<うず>む 
西王母が桃 
臍下丹田 
青眼 
成蹊 
晴耕雨読 
成功の下久しく処るべからず 
正鵠を失わず 
生殺与奪 
生かすも殺すも、与えることも奪うことも自分の思うままになること。絶対的な権力を握っていることをいう。
青山骨を埋ずくべし 
西施にも醜なる所有り 
西施の顰みに倣う 
済勝の具 
精神一到何事か成らざらん 
盛事は説かず 
聖人に夢無し 
聖人は褐を被て玉を懐く 
聖人は尺璧を貴ばずして寸陰を重んず 
清水に魚棲まず 
清濁併せ呑む 
心が広く、善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。度量の大きいことのたとえ。
成竹を胸中に得 
成中星を視れば数星に過ぎず 
井底の蛙 
急いては事を仕損じる 
急ぎ慌てて行うとやり損なう。落ち着いてやるべきだ、といった意味の言い回し。
青天の霹靂 
思いがけず生じる大事件のたとえ。
青天白日 
盛徳の士は乱世に疏んぜらる 
性に率う、之を道と謂う 
盛年重ねて来らず 
生年百に満たず、常に千歳の憂いを懐く 
生は難く死は易し 
生は奇なり死は帰なり 
清白を子孫に遺す 
性は猶湍水のごとし 
性は道によって賢し 
清風故人来たる 
青蠅白を染む 
成立の難きは天に升るが如し 
声涙倶に下る 
精を得て<そ>を忘る 
生を重んずれば則ち利を軽んず 
生を偸む 
生を視ること死の如し 
積悪の家には必ず余殃あり 
席暖まるに暇あらず 
尺蚓堤を穿てば能く一邑を漂わす 
積羽舟を沈む 
赤手を以て江河を障う 
析薪を負う 
赤心を推して人の腹中に置く 
赤縄 
石上五穀を生せず 
雪上霜を加う 
積水淵を成す 
積善の家には必ず余慶あり 
石鼠五能一技を成さず 
積土山を成す 
跖の狗尭に吠ゆ 
咳払いも男の法 
赤貧洗うが如し 
鶺鴒原に在り、兄弟難を急にす 
世間知らずの高枕 
見聞が狭く世情にうとい者が、気にするどころかそれをよいことにして、平気でのんびりとしていること。[解説] 「高枕」は、枕を高くして眠ること。心配もなく安心して眠ること。
世間の口に戸は立てられぬ 
世間は張物 
世間は広いようで狭い 
世人交わりを結ぶに黄金を須う 
世帯仏法腹念仏 
切匙で腹を切る 
折角 
尺蠖の屈するは伸びんがため 
石火光中此の身を寄す 
折檻 
節季の風邪は買ってもひけ 
積毀骨を銷す 
節供倒しは薬礼になる 
席巻 
切磋琢磨 
学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。「切」は獣の骨や角などを切り刻むこと。「磋」は玉や角を磨く、「琢」は玉や石をのみで削って形を整える、「磨」は石をすり磨く意。「磋」は「瑳」とも書く。
切歯扼腕 
節制は最良の薬 
雪駄の裏に灸 
雪中の松柏 
雪中の筍 
雪隠で饅頭 
雪隠の錠前 
窃<ぷ>の疑い 
雪泥の鴻爪 
せつないときの神叩き 
せつない時は茨も掴む 
せつない時は親 
節を折る 
拙を守る 
背中に眼はない 
背中の子を三年探す 
背に腹はかえられぬ 
同じ身体の一部でも背と腹をとりかえることはできない。大切なことのためには、他を顧みる余裕がないことのたとえ。大きな苦痛を避けるためには、小さな苦痛はやむをえない。
瀬のわきは渦 
狭家の長刀 
狭き門より入れ 
蝉は七日の寿命 
蝉雪を知らず 
瀬より腹 
瀬を踏んで淵を知る 
千日の勤学より一時の名匠 
川淵深くして魚鼈之に帰し、山林茂れば禽獣之に帰す 
千貫の鷹も放さねば知れず 
千貫のかたに編笠一蓋 
千鈞の重きを鳥卵の上に垂る 
千金の裘は一狐の腋に非ず 
千金の子は市に死せず 
千金の子は坐して堂に垂せず 
千金の弩は<けい>鼠の為に機を発たず 
千金の弩を以て潰癰を射る 
千金は死せず百金は刑せられず 
千鈞も船を得れば則ち浮かぶ 
千金を買う市あれど一文字を買う店なし 
千軍は得易く一将は求め難し 
千軍万馬 
たくさんの兵卒とたくさんの馬。または、多くのいくさに出て経験が豊かであること。転じて、社会経験が豊富であること。
千軒あれば共過ぎ 
線香も焚かず屁もひらず 
千古不易 
千石取れば万石羨む 
千石万石も米五合 
詮索物、目の前にあり 
千載一遇 
千年に一度出会う、めったにないよい機会。絶好のチャンス。 出典は晋の袁宏((えんこう)(四世紀の人))の文。「千載一遇は賢智(けんち)の嘉会(かかい)、之(これ)に遇(あ)うは欣(よろこ)び無き能(あた)わず(千年に一度出会うような賢人たちの集まりは、喜ばしい限り)」とある。
千雀万鳩鷂と仇を為す 
千畳敷に寝ても一畳 
千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ 
先生と言われるほどの馬鹿でなし 
泉石烟霞の病 
戦戦兢兢 
恐れてびくびくしている様子。何かに恐れて気をつけ慎む様子。「戦戦」は震えて恐れること。「兢兢」は緊張して恐れるさま、恐れて戒め慎むさま。
戦戦慄慄日に一日慎め 
川沢<お>を納れ山藪疾を蔵す 
栴檀の林に入る者は染めざるに衣自ずから芳し 
栴檀は双葉より芳し 
先手は万手 
船頭多くして船山へ登る 
指図する人が多過ぎるとかえって統率がとれず意に反した方向に物事が進んで行くことの意。
船頭のそら急ぎ 
千日に刈った萱一日に亡ぼす 
千日の旱魃に一日の洪水 
千日の行を一度に破る 
先入主となる 
千人心を同じうすれば則ち千人の力を得 
千人の指さす所病無くして死す 
千人の千年、蜻蛉の一時 
千人の諾諾は一士の諤諤に如かず 
千の倉より子は宝 
浅は与に深を測るに足らず 
<せん>は蛇に似たり、蚕は<しょく>に似たり 
千聞は一見に如かず 
人から幾度も話を聞くより、実際に一度見る方が効果があるということ。
先鞭をつける 
千篇一律 
千万人と雖も吾往かん 
千三つ 
先憂後楽 
すぐれた為政者というものは、人々が心配し始める前に憂い、人々が楽しんだ後で自分も楽しむべきだということ。また、先に苦労すれば、後で楽ができるという意味でも使う。君主や政治家の心がまえを説いたことば。
千羊の皮は一孤の腋に如かず 
千里駕を命ず 
千里眼 
千里行を留めず 
千里同風 
千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず 
千里の馬も蹴躓く 
千里の馬も蹴躓く 
千里の行も足下より始まる 
千里の堤も蟻の穴から 
千里の野に虎を放つ 
千里の道も一歩より起こる 
千里一跳ね 
千里も一里 
千慮の一失 
千慮の一得 
<ぜい>鑿相容れず 
是是非非 
正しいことは正しいこととし、悪いことは悪いことと、そのまま認めること。私情を交えず、公正に善悪を判断すること。「是」は、正しいこと。「非」は、正しくないこと。
絶体絶命 
困難・危険から、どうしても逃れられないさま。追いつめられ、切羽詰まったさま。「絶」は窮まる意。追いつめられ窮地にある立場や状態をいう。
銭ある時は鬼をも使う 
銭あれば木仏も面を返す 
銭金は親子でも他人 
銭無き男は帆の無き舟の如し 
銭無しの市立ち 
銭は足無くして走る 
銭は阿弥陀ほど光る 
銭は馬鹿かくし 
銭儲けと死に病に徒はない 
銭持たずの団子選り 
是非は道によって賢し 
善悪の水波の如し 
善悪の報いは影の形に随うが如し 
善悪は友による 
善悪は友を見よ 
善因悪果を招く 
善言は布帛よりも暖かし 
前車の覆るは後車の戒め 
前車の轍を踏む 
善者は弁ならず、弁者は善ならず 
善書は紙筆を選ばず 
前事の忘れざるは後事の師なり 
禅譲放伐 
前人木を植えて後人涼を得 
前轍を踏む 
善に強い者は悪にも強い 
善には善の報い、悪には悪の報い 
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや 
善の裏は悪 
善は急げ 
よいことはためらわずすぐに行え。
善は失うべからず、悪は長ずべからず 
善馬の肉を食らいで酒を飲まざれば人を傷う 
善敗己に由る 
膳部揃うて箸を取れ 
善も積まざれば以て名を成すに足らず 
前門の虎、後門の狼 
ある危難を避けたところ別の危難に遭遇する状況のたとえ。ある難問・災難を解決・回避したとしても、別の難問・災難に直面することが明らかであり、危難を逃れるのが甚だ難しい状況のたとえ。
善を責むるは朋友の道なり 

 

創痍未だ癒えず 
滄海の遺珠 
滄海の一粟 
滄海変じて桑田となる 
喪家の狗 
宗祇の蚊帳 
創業は易く守成は難し 
叢軽軸を折る 
糟糠にだに飽かざる者は梁肉を務めず 
糟糠の妻 
(「糟糠」は酒糟と糠でそれらを材料としたきわめて貧しい食事) 成功者において、不遇の時代に我慢強く見捨てず、夫を支え続けた妻。
糟糠の妻は堂より下さず 
葬式すんで医者話 
曾参人を殺す 
宋襄の仁 
漱石枕流 
滄桑の変 
甑中塵を生ず 
桑中の喜び 
桑田変じて滄海となる 
そうは問屋が卸さぬ 
双璧 
比較対照される一対の立派なものや人。
桑蓬の志 
桑麻の交 
草莽の臣 
草木皆兵 
蒼蠅驥尾に付して千里を致す 
総領の十五は貧乏の世盛り 
総領の甚六 
総領息子(跡継ぎ、一般には長男)は、将来の不安がないので、弟や妹より凡庸に育ってしまうということ。
巣林一枝 
倉廩実ちて囹圄空し 
倉廩実ちて礼節を知る 
葬礼帰りの医者話 
滄浪の水清まば以て吾が纓を濯う可し 
甑を落として顧みず 
楚王細腰を好み朝に餓人有り 
惻隠の心は仁の端なり 
即時一杯の酒 
則天去私 
鼠穴を治めて里閭を壊る 
底に底あり 
底もあり蓋もあり 
楚囚其の冠を纓す 
謗りを止むるは身を修むるに如くは莫し 
謗れば影さす 
俎上の魚 
俎上の魚江海に移る 
俎上の鯉 
粗相が御意に叶う 
そっと申せばぎゃっと申す 
袖から火事 
袖から手を出すも嫌い 
袖すり合うも多生の縁 
道を行くとき、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも前世からの因縁によるという意味から、どんな小さな事、ちょっとした人との交渉も偶然に起こるのではなく、すべて深い宿縁によって起こるのであるという意味のことばである。
袖の上の玉の砕けたよう 
袖の下に回る子は打たれぬ 
袖は長くとも手を伸ばされぬ 
袖引き煙草に押し付け茶 
袖振り合うも多生の縁 
外愛嬌の内そんぶり 
外襤褸の内錦 
備えあれば患い無し 
前もって準備を整えておけば、いざというときに何が事が起きても心配無用であり、という意味のことわざ 。
備わらんことを一人に求むなかれ 
其の一を知りて其の二を知らず 
其の君発を好めば其の臣決拾す 
其の樹を陰とする者は其の枝を折らず 
其の誼を正し其の利を謀らず 
其の国に入れば其の俗に従う 
其の子を知らざれば其の友を視よ 
其の進むこと鋭き者は其の退くこと速やかなり 
其の地に非ざれば之を樹うれども生ぜず 
其の罪を憎んで人を憎まず 
罪は憎むべきだが、その罪を犯した人まで憎むべきではない、ということ。
その手は桑名の焼蛤 
(「食わな」と「桑名」、三重県の桑名名物の「焼き蛤」とを語呂(ごろ)合わせした句) そんなうまいことを並べても、その手には乗らないことにたとえる。
其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し 
その右に出ずる者なし 
其の身正しければ令せずして行わる 
其の道に非ざれば則ち一<たん>の食も人に受くべからず 
其の本を揣らずして其の末を斉しゅうす 
側杖を食う 
蕎麦の花も一盛り 
娘はみな年頃になると、女らしい魅力が出て美しく見えるということ。地味で目立たない蕎麦の花も、時期が来れば力一杯咲いて、それなりに美しく見えることから。
楚人弓を遺れて楚人之を得 
楚人好く楚語を説く 
空念仏も三合どまり 
信心のない念仏を称えても三度と続かない、の意味である。
そろそろ行けば田も濁る 
算盤で錠が開く 
添わぬうちが花 
損して得取れ 
子供の頃、失敗した時に、この失敗を次に活かせば良いと言う意味で、周囲の大人からよく言われた「ことわざ」である。
損して恥かく 
損者三友 
蹲鴟を悪鳥と為す 
蹲鴟を羊と為す 
損せぬ人に儲けなし 
樽俎折衝 
損と元値で蔵を建て 
象の牙を見て乃ち其の牛より大なるを知る 
象は歯有りて以て其の身を焚くかる 
草履履き際で仕損じる 
粟有れども食わざれば飢えに益無し 
賊に兵を借す 
賊の後の棒乳切り木 
 

 

大海の一滴 
大は小を兼ねる 
大きい物であれば、小さい物の用途にも用いられる。 余分に取っておけば、それに満たない物も補充できる。
宝の持ち腐れ 
役に立つ物を持っていながら、使用せずに放っておくこと。 すぐれた才能・手腕があるのに、それを活用しないことの例え。
多芸は無芸 
竹を割った様 
畳と女房は新しい方が良い 
新しい畳は気持ちが良いように、女房も新しい方が良いと言うことから、新しいものは何でも気持ちが良いと言うこと。
多多益々弁ず 
立っている者は親でも使え 
急ぐ用事のとき、手近なところに人がいたら、たとい相手が親であっても遠慮なく用を足してもらえということで、座っている者が、身近な人間に用事を頼むときに、言いわけとして用いる言葉。
立つ鳥跡を濁さず 
立ち去る者は、見苦しくないようきれいに始末をしていくべきという戒め。 また、引き際は美しくあるべきだということ。
立て板に水 
よどみなく、すらすらと話すことのたとえ。
蓼(たで)食う虫も好きずき 
人の好みはそれぞれで、一概には言えないということ。 蓼の実は苦く、大抵の動物は倦厭するが、好んで食べる虫もいることから。
立てば芍薬(しゃくやく) 座れば牡丹 歩く姿は百合の花 
すらっとした美しい女性をたとえています。 牡丹(ボタン)は枝分かれした横向きの枝に花をつけるため、まるで美しい女性が座っているかのように見えるさまを表現しています。 百合(ユリ)は風を受けて揺れるさまから、女性が優美に歩く姿のようだと比喩しています。
棚からぼた餅 
(棚から 牡丹餅 ぼたもち が落ちてきて、それがうまく口の中に入る事から。) 思いがけない幸運に恵まれること。
狸が人に化かされる 
旅の恥はかき捨て 
旅先では、知り合いがいないので、恥をかいたところでその場限りですむ。 また、旅の解放感も加わって、ふだんなら自制する恥さらしな行為も気がとがめない。
旅は道連れ世は情け 
同行者がいると旅が心強く楽しいものになるように、世の中を渡るのにも、それぞれが互いに思いやりをもって助け合うことが大切であるという教え。
短気は損気 
短気を起こすと、結局は自分の損になる。「損気」は「短気」に語呂を合わせたもの。 短気をいましめた言葉。
田歩くも畦歩くも同じ 
大隠は朝市に隠る 
大禹は寸陰を惜しむ 
大怨を和すれども必ず余怨有り 
鯛の尾より鰯の頭 
大海知らぬ井の蛙 
大海の一粟 
大海を芥を択ばず 
大海を手で塞ぐ 
大海を耳掻きで測る 
大廈成りて燕雀相駕す 
大廈の材は一丘の木に非ず 
大廈の<たお>れんとするは一木の支うる所に非ず 
大家後無し 
大寒にして後裘を求む 
大旱の雲霓を望む 
大姦は忠に似たり 
対岸の火事 
「自分にはまったく影響がなく、痛くもかゆくもない できごとのたとえ。」 である。ことわざ「他山の石」の意味は、「自分にとって参考になり役に立つ、自分とは関係のな いところで起こった事柄のたとえ。
大器小用 
大器晩成 
大きな器は完成するまでに時間がかかることから、真に偉大な人物も大成するのが遅いということ。大人物は遅れて頭角を現すということ。才能がありながら不遇である人に対する慰めの言葉としても用いる。「大器」は偉大な器量をもつ人。「晩成」は多くの時間を費やして成就すること。
大義親を滅す 
大疑は大悟の基 
大義名分 
人として、また、臣として国家や君主に対して守るべき道理・本分や節義。ある行為のよりどころとなる正当な理由や道理。「名分」は身分などに応じて、守るべき本分。
大魚は小地に棲まず 
大軍に関所なし 
大軍の後には必ず凶年あり 
大賢は愚なるが如し 
大絃急なれば小絃絶ゆ 
大巧は巧術無し 
大行は細謹を顧みず 
大孝は終身父母を慕う 
大巧は巧術無し拙なるが若し 
太公望 
大巧を天下に建つる者は必ず先ず閨門の内を修む 
大巧を成す者は衆に謀らず 
大巧を論ずる者は小過を録せず 
大国を治むるは小鮮を烹るが若くす 
太鼓を打てば鉦が外れる 
泰山頽れ梁木壊る 
泰山卵を圧す 
太山に登りて天下を小とす 
泰山の霤は石を穿つ 
泰山の高きは一石に非ず 
泰山は土壌を譲らず 
泰山北斗 
泰山前に崩るるとも色変せず 
大山鳴動して鼠一匹 
事前の騒ぎばかりが大きくて、実際の結果が小さいこと。
太山を挟みて北海を超ゆ 
大匠に代わりて<き>る者は其の手を傷る 
大匠は<き>らず 
大匠は拙工の為に縄墨を改廃せず 
大樹将軍 
大樹の下に美草無し 
大上は徳を立つる有り 
大人は虎変す 
大人は赤子の心を失わず 
大声俚耳に入らず 
太盛は守り難し 
大智は愚の如し 
大敵と見て恐れず、小敵と見て侮らず 
泰斗 
鯛なくば狗母魚 
大恩は報ぜず 
大吉は凶に還る 
大工の掘っ立て 
乃公出でずんば蒼生を如何せん 
大黒柱と腕押し 
大黒柱を蟻がせせる 
大根を正宗で切る 
醍醐味 
仏語。仏陀の、最上で真実の教え。物事の本当のおもしろさ。深い味わい。
大事小に化し小事無に化す 
大事の中に小事なし 
大事の前の小事 
大きな物事を行うとき、やむをえず犠牲にする小さな物事。現代語では、大きな物事を行うときに油断してはならない小さな物事の意で用いることが多い。
大事は必ず細より作る 
大事は小事より顕る 
大事は小事より起こる 
大丈夫の一言は駟馬も走らず 
大人は大耳 
大体に従う者は大人と為る 
大地に槌 
大椿の寿 
大徳は少怨を滅ぼす 
大同小異 
細かい点に違いはあるが、だいたい同じであること。似たりよったりで大した差のないこと。「大同」は、ほぼ同じであること。「小異」は、わずかな違い。
大同廃れて仁義あり 
大の虫を生かして小の虫を殺す 
どうしてもやむをえない時には、大きなものを救うために、小さなものを犠牲にするということのたとえ。小の虫を殺して大の虫を助ける。大を生(い)けて小を殺せ。
大馬越を思わず 
日月は地に墜ちず 
瓜を投じて瓊を得 
日月に私照無し 
財布の底と心の底は人に見せるな 
七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず 
太鼓も撥の当たりよう 
太鼓判をおす
「太鼓判」とは、一般的には太鼓のように大きな印判のことをいいます。太鼓のように大きな判を押すことで、「確実であることを保証する」という意味につながります。
鯛の尾よりいわしの頭
高嶺の花 
遠くからただながめるだけで、手に取って自分のものにすることができないもののたとえ。
高みの見物
高をくくる 
大したことは無いだろうと甘く見積もることである。漢字では「高を括る」と書く。高を括るの「高」は分量を表し、「括る」は「予想する・はかる」の意味である。このくらいの量(高さ)だろうと予想する(括る)ことの意味から、高を括ると表現するようになった。
竹屋の火事
出しに使う
叩けばほこりが出る 
どんなことでも細かく探し出せば、欠点や弱点が出てくることをいう。
立つ瀬がない 
世間に対して面目が保てない(ので困る)、という意味の表現。
伊達の薄着  
縦のものを横にもしない
盾をつく 
戦いのために盾を地面に突き立てる。転じて、反抗する。逆らう。
棚に上げる
他人の空似
他人の飯を食う
狸寝入り 
都合の悪い時などに、わざと寝たふりをすること。空寝(そらね)。
駄目をおす 
囲碁で、駄目を詰めてふさぐ。わかりきった物事の万一の場合を考えてさらに確かめる。くどく念をおす。だめを聞かす。
断金の交わり
断腸
はらわたを断ち切ること。また、はらわたがちぎれるほどの悲しさ、つらさなどをいう。はなはだしく興趣のあること。また、哄笑するほどおもしろいこと。 

 

知恵者一人馬鹿万人 
血は水よりも濃し 
着眼大局 (碁から) 
仲裁は時の氏神 
けんかや口論で争っているときに、仲裁に立ってくれる人は氏神と考えて、素直に従うのがよいことにたとえる。
朝三暮四 
目先の違いにとらわれて、結局は同じ結果であることを理解しないこと。また、言葉巧みに人を欺くこと。転じて、変わりやすく一定しないことや生計の意味でも使われる。「暮四朝三ぼしちょうさん」ともいう。
長所は短所 
塵も積もれば山となる 
塵のように取るに足らない存在であっても、それが時間をかけて積もっていけば山のようになるように、些細な行動も、時間をかけて継続すると、やがて、思わぬ大きな結果につながるものであるということ。一般には、些細であってもよいから善行や努力などを、地道に積むことのすすめ。
知恵と力は重荷にならぬ  
近火で手をあぶる  
池魚のわざわい
竹馬の友 
幼友達のこと。幼いころ竹馬に乗って、一緒に遊んだ友達の意。中国晋しんの桓温かんおんは殷浩いんこうと並び称されることが不満で、少年のときに自分が捨てた竹馬を殷浩が拾ったものだったとして、自分が上に立つべきだと主張した故事から。
血で血を洗う 
悪事には悪事で、暴力には暴力で対抗することで、殺傷に対しては殺傷で報復することをいう。また、血族どうしが争って、自分の利益のために同族を陥れることにたとえる。
血も涙もない 
人間らしい思いやりがなく、冷酷である。
提灯に釣鐘
外見は似ていてもまったくつり合わず、比較にならないこと。  

 

ついた餅より心持ち 
月と鼈(すっぽん) 
月もスッポンも同じように丸いが、比較にならないほどその違いは大きいこと。二つのものがひどく違っていることのたとえ。提灯 (ちょうちん) に釣鐘。
月夜に釜を抜かれる 
(「抜く」は盗むこと) 月の明るい晩に釜のような大きなものを盗まれることから、はなはだしく油断をしていることにたとえる。
角を矯(た)めて牛を殺す 
罪を憎んで人を憎まず < 古之聽訟者惡其意不惡其人/孔子の言葉 
罪は憎むべきだが、その罪を犯した人まで憎むべきではない、ということ。[由来] 「 孔叢子 ―刑論」に出て来る、孔子のことばから。
爪で拾って箕(み)でこぼす 
(「箕」は竹などで編んだ穀物を選別する道具) 細かく爪の先で拾い集めたものを、箕で大量にこぼしてしまうことから、苦労して少しずつ集めたものを、いちどきに使い果たすことをいう。
爪に火を灯す 
ろうそくや油の代わりに爪に火をともす。ひどくけちなこと、つましい暮らしをすることのたとえ。
爪の垢を煎じて飲む 
『爪の垢を煎じて飲む』という言葉には「優れた人物にあやかること」という意味があります。『爪の垢』とは、爪と指の間にたまった老廃物やゴミのことです。『煎じる』は、ものを水で煮出すことで、漢方薬を作る際などによく使用されています。
鶴は千年亀は万年 
(鶴と亀は、千年、万年の寿命を保つという、「淮南子‐説林訓」などに見える中国の伝説から出た語) 長寿でめでたいことをいう。
杖にすがるとも、人にすがるな  
月の前のともし火  
月夜のかに
辻褄を合わす
都合よくすじみちが通るようにする。工作して前後や二つの物事が矛盾しないようにする。
角を出す  
壷にはまる  
旋毛が曲がる爪に火をともす  
面から火が出る
面の皮が厚い 
どんなことを言われようと顔色を変えたり、表に出したりしないふてぶてしさを意味する言葉です。面の皮が厚い人を良いようにいうこともできれば、鈍感や人間味のない悪い印象で使うこともできます。
面の皮をはぐ
鶴の一声 

 

亭主の好きな赤烏帽子 
(「烏帽子」は烏色(からすいろ)の黒い帽子) たとえ人の失笑を買うようなものでも、主人が好きだというのなら、家族はこれに従わなければならぬことをいう。
敵に塩を送る 
敵の弱みにつけこまないで、逆にその苦境から救うことのたとえ。[由来] 日本の戦国時代のこと。甲 斐(現在の山梨県)を中心に勢力を築いていた武将、武田信玄は、領地が海に面していませんでした。
敵を見て矢をはぐ 
木偶(でく)の坊 
役に立たない者や、気の利かない人を罵っていう言葉。
鉄は熱いうちに打て  
[ Strike while the iron is hot. / 鉄は熱して軟らかいうちに鍛えて有用な形につくりあげることから ]  
鉄は、熱して軟らかいうちに鍛えよ。精神が柔軟で、吸収する力のある若いうちに鍛えるべきである、というたとえ。人も精神が柔軟性に富む若い時代に有益な教育を施さなければならないということのたとえ。  
物事は、関係者の熱意がある間に事を運ばないと、あとでは問題にされなくなるというたとえ。 手遅れにならないうちに処置を講ぜよということのたとえ。  
鉄は真っ赤に焼けている時は、やわらかく、形を変えられますが、さめて、 かたくなった状態では、形が整わないということから生まれた句。大人のときより 若いときのほうが、新しいことを覚えるのが早く、しっかりと身につく、という意味があり、 又、何かを行う場合には、人の関心が高く熱意のあるうちに、始めるべきで、よい時機(チャンス)を 失ってはいけないという意味もあるようです。又、別の言い方として、「幼子は白き糸の如し」 (おさなごはしろきいとのごとし)ということわざがあり、これは、幼い時を白い糸にたとえ、 白い糸がどんな色にも染まるということから、 幼い時のしつけの大切さを言ったもののようです。  
出る杭は打たれる 
才能や手腕があって頭角をあらわす者や、さし出たことをする者は、とかく他から憎まれたり、人から非難されたりするということである。
手を拱く(こまぬく、こまねく) 
天は二物を与えず 
天は一人の人間にいくつもの才能を与えることはない。また、ひとつの才能に秀でている者は、往々にして他に欠点があるものだ。
手があく  
手がかかる  
手が回らない  
手が回る
てこでも動かぬ 
梃子の力を応用すれば、小さな力でも大きなものを動かすことができるのだが、どのような方法を用いても、びくともしないことをいう。堅い信念や決意を示す言葉。
手塩にかける  
「自ら世話をして大切に育てること」を意味することわざ。きめ細やかな世話をするという意味に加えて、「他人任せにしないで、自分で行うこと」というニュアンスが含まれる。
手玉に取る  
思いのままに操り翻弄すること。
鉄は熱いうちに打て  
鉄は熱して柔らかいうちに打って鍛えるように、人も純粋な気持ちを失わない若いうちに鍛錬すべきである。また、物事を行うにはそれに適した時期を失ってはいけない 。
鉄砲玉の使い  
手取り足取り  
手に汗をにぎる  
手にあまる  
手につかない  
手に乗る
手のうらを返す 
またたくまにすっかり様子の変わるさまを表わす。たなごころをかえす。てをかえす。てのひらをかえす。
出ばなをくじく
出たばかりのところや、やり始めたばかりのところで、邪魔が入ったり中断を余儀なくされること。「出鼻を挫く」「出端を挫く(でばなをくじく)」などと書く。「出鼻を折る」「出端を折る」も同じ意味。
手八丁口八丁 
手先も口先も達者であること。口も八丁手も八丁。
手前みそ 
自分で自分をほめること。「手前」は、自分のこと。また、自分の手で行うこと。昔、味噌は自家製でそれぞれ自分の作った味噌を自慢し合ったことから。
手も足も出ない 
施すべき処置・手段もなく困りきる。追いこまれて進退きわまる。また、無力でどうすることもできない。
出る幕がない  
手を打つ  
手を変え品を変え  
手を切る  
手を下す  
手を抜く  
手を引く  
手を広げる  
手を結ぶ  
手を焼く
天狗になる 
得意になる。鼻高々になる。いい気になって自慢する。
天に唾す 
天を仰いで唾すれば、その唾は自分の顔面にかかってくるように、人に危害を及ぼそうと考えて、かえって自分が害をこうむることをいう。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず 
人間は本来平等であって、貴賤・上下の差別のあるものではない。  

 

灯台下(もと)暗し 
「人は身近なことには案外気付かない」ことを意味します。当たり前のように目の前に存在していたとしても、人間は意識しないと多くの事柄に気付きません。
同病相憐れむ 
豆腐に鎹(かすがい) > 糠に釘と続けることもある 
同類相哀れむ 
遠くの親類より近くの他人 
年上の嫁は金の草鞋を履いて探せ 
年寄りの冷や水 
飛ぶ鳥跡を濁さず < 「立つ鳥跡を濁さず」の変形、近年みる形で古いものではない 
立ち去る者は、見苦しくないようきれいに始末をしていくべきという戒め。また、引き際は美しくあるべきだということ。
飛ぶ鳥を落とす勢い 
捕らぬ狸の皮算用 
(狸をまだ捕まえていないのに、その皮を売ったと考え、儲 もう けの計算をすることから) 手に入れていないものを当てにして、様々な計画を立てること。
虎の威を借る狐 
自らに権力・権威があるわけでもないのに、他人、特に仕えている者の威光を背景に権勢をふるう者のたとえ。
虎は死して皮を残す人は死して名を残す
獣の王者の虎は、死んでのちりっぱな毛皮を残すように、人は死んだあとに優れた名を残すように努力せよ、という教訓。
取り付く島も無い 
海で溺れても上陸する島がないこと。頼りとしてすがる手掛かりがないこと。相手を顧みる態度が見られないこと。
泥棒にも三分の理あり 
悪事を働く泥棒にも、それなりの理由があることをいう。いかなることでも、こじつければなんとでも理由がつけられることのたとえ。
泥棒を捕らえて縄をなう / 泥縄 
どんぐりの背比べ 
飛んで火に入る夏の虫 
明るさにつられて飛んで来た夏の虫が、火で焼け死ぬ意から、自分から進んで災いの中に飛び込むことのたとえ。
峠を越す  
唐人の寝言  
遠きを知りて近くを知らず  
時は金なり 
時間は大切なものであり、金銭と同等の価値がある。だから、時間をむだに費やしてはならない。
読書百篇義自ずから現る  
毒にも薬にもならず  
どこ吹く風
とどのつまり  
「いきつくところ」「結局」という意味。色々な過程を経て、いきついた最後の場面で使われる慣用句です。「とどのつまり計画は失敗に終わった」というように、色々手を尽くしたけれど結果が思わしくなかった場合に用いられるため、ややネガティブな意味合いがあります。
隣の花は赤い 
鳶が鷹を生む  
平凡な親がすぐれた子を生むことのたとえ。
鳶に油揚げをさらわれる  
自分のものになると思っていたものや、大切にしていたものを不意に横取りされ、呆然とすること。
虎に翼 
虎の尾をふむ 
虎の子 
(虎がその子を非常に大事に守り育てるというところから) 大切にして手離さないもの。秘蔵する金品。
泥を吐く 
 

 

無い袖は振れぬ 
無い物はどうしようもない。力になりたいが、資金力が無いとどうにもならないこと。
泣き面に蜂 
悪い目にあっているとき更に別の悪い目にあうこと。 不幸や災難が重なること。
泣く子と地頭には勝てぬ 
(「地頭」は平安時代から鎌倉時代に荘園を管理していた権力者) 聞き分けもなく泣いている子供と、権力をほしいままにしている地頭には勝てないということから、権力をもつ者の前に出たら、どんなに道理を尽くしても無駄であるから、長いものには巻かれるのがよいことにたとえる。
泣く子は育つ 
無くて七癖 
いかにも癖がないように見える人でも、子細に観察すれば、七つぐらいの癖はすぐに見つけられることをいう。 「七」は「無くて」との語呂(ごろ)合わせで、とくに意味はない。
情けは人の為ならず 
人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、ということ。誤って、親切にするのはその人のためにならないの意に用いることがある。
為せば成る (上杉鷹山が家臣に示した和歌から) 
夏の雨は馬の背を分ける 
七転び八起き 
何度失敗しても屈することなく立ち上がることのたとえ。また、人の世の浮き沈みの激しいことのたとえ 。
名は体を表す 
『名前にそのものの本当の姿が表れている』という意味を持つ慣用句です。 『体』は音読みで『たい』と読み、『ありのままの形』を意味します。ものや人に名前を付けるときは「こんなふうに思われたい」「こういう人になってほしい」などの願いを込めるものです。
怠け者の節句働き 
生兵法は大怪我のもと 
少しばかりの知識や技術は、それに頼ったり自負したりして、かえって大失敗をすることのたとえ。生兵法は大疵 (おおきず) のもと。
ならぬ堪忍するが堪忍 
とても堪忍できないようなことを堪忍するのが本当の堪忍である。だれでもがまんすることはがまんのうちに入らず、とてもがまんできないところを辛抱することがたいせつである。
内助の功 
長いものには巻かれろ 
自分より力の強いものや上位の者には、とりあえず従っておくのが無難で得策であるというたとえ。
長口上はあくびの種   
泣かず飛ばず  
泣かぬほたるが身をこがす   
流れにさおさす   
鳴く猫はねずみを捕らぬ   
仲人七嘘 
情けが仇 
同情や思いやりからしたことが、かえって相手のためにならないこと。
なしのつぶて 
音沙汰のないこと。音信のないこと。 投げた礫(つぶて)はかえらないところから、「梨」を「無し」にかけて語呂を合わせていう。「なしの礫もない」の形で、意味をさらに強めていう。
生木を裂く   
波風が立つ   
波に乗る   
なめくじに塩   
習うより慣れよ   
習わぬ経は読めぬ   
生る木は花からちがう   
何でも来いに名人なし 

 

煮え湯を飲まされる 
信頼していた者に裏切られてひどい目にあう。「煮え湯」は,沸騰した熱い湯のこと。 信頼している相手から,何も知らされないままに「煮え湯」を出され,疑うことなくそのまま飲んでしまえば,大変なことになるでしょう。
二階から目薬 
逃がした魚は大きい 
いったん手に入れかけながら逃がしたものは、実際以上に大きなものに思われ、くやしいものだ。
憎まれっ子世にはばかる 
人から憎まれるような子は、世間に出ると幅をきかし、威勢をふるう。
日光を見ずして「結構」と言う勿れ 
日光の東照宮を見たことがないものは、建築の美を語る資格がない。東照宮を中心とする日光の美しさをたたえたことば。
二度あることは三度ある 
同じようなことが二度続けてあった時は、必ずもう一度繰り返される。物事は繰り返されるものである。
二兎を追う者は一兎をも得ず 
うさぎを二兎同時に追いかけても、結局両方とも捕らえることはできない。二つのことを同時に成し遂げようとしても、結局どちらも失敗に終わるということ。
女房と畳は新しいほどよい 
新しい畳は気持ちが良いように、女房も新しい方が良いと言うことから、新しいものは何でも気持ちが良いと言うこと。
逃げるが勝ち  
争わないで相手に勝ちを譲るほうが、大局的に見れば得策である。
錦を着て郷にかえる  
立身出世し功なり名遂げて、晴れがましい顔で故郷へ帰ることをいう。
西と言ったら東と悟れ 
西も東も分からない 
二束三文  
売値が非常に安いこと。いくら売っても、もうけが出ないほどの安値で売ること。投げ売り。昔、金剛草履(藁わらや藺いなどで作られた大形で丈夫な草履)は、二足でわずか三文の値段で売られていたことから。「束」は「足」とも書く。
二束のわらじを履く  
両立しえないような二つの職業を同一人が兼ねること。特に、江戸時代、博徒が捕吏を兼ねることをいった。現在では「会社員と作家の二足の草鞋を履く」など、両立が困難と思われるような職業を兼ねることにもいう。
似たもの夫婦 
煮ても焼いても食えぬ 
どのような手段を用いても、手に負えぬことをいう。
二度教えて一度叱れ   
二度聞いて一度もの言え   
二の足を踏む   
二の舞を演じる   
二枚舌を使う 
人間の皮をかぶる 
心や行ないが人非人であれば、その人は単に人間の姿をしているにすぎない。
人参飲んで首くくる 

 

糠(ぬか)に釘 
(糠に釘を打ち付けても手応えがないことから) 手応えや効き目が全くないことの喩え。 進んで、そのような手応えの無いものに働きかけることは無駄であることの戒め。
盗人に追い銭 
泥棒に物を盗まれた上に、さらに銭をくれてやることをいう。損をした上に、さらに損害を重ねることにたとえる。
盗人にも三分の理 
悪事を働く泥棒にも、それなりの理由があることをいう。いかなることでも、こじつければなんとでも理由がつけられることのたとえ。
濡れ手に粟(あわ) > の掴みどり-と続けることもある 
なんの苦労もしないで利益を得ることを「ぬれ手で粟(あわ)」という。ぬれた手で粟をつかめば、粟粒がそのまま手についてくるところからそういうのである。
盗人が盗人に盗まれる   
盗人の昼寝   
盗人を見て縄をなう   
濡れ衣を着る   
濡れぬ先の傘   
濡れ鼠 

 

猫に鰹節 
猫に小判 
(猫に小判を与えても、その価値を知らない猫にとっては何の意味もないことから) どんな立派なものでも、価値がわからない者にとっては、何の値打ちもないものであるというたとえ。
猫にまたたび 
猫の手も借りたい 
非常に忙しく手不足で、どんな手伝いでもほしいことのたとえ。
猫も杓子も < 「女子も赤子も」を「めこもしゃくしも」と読んだことより 
「誰も彼も」、「なにもかも」という意味を持ちます。肯定的にも否定的にも使える言葉で0す。否定的なニュアンスで使用する際は、「どいつもこいつも」、「なんでもかんでも」というような訳になります 。
猫をかぶる 
本性をかくしておとなしそうに見せる。また、知っていながら知らないふりをする。
寝耳に水 
思いがけないことが起こったり、思いもよらない知らせを受けたりした時に使う言葉です。 たとえば、「彼が自動車事故に遭うなんて、寝耳に水だった」のように、予想していなかった状況に直面した時に使います。 この言葉の由来を、「眠っている時に耳に水が入り、驚いた様子を表している」と想像する方も多いのではないでしょうか。
願ったり叶ったり 
根がなくても花は咲く 
猫なで声 
ネコが人になでられる時に出すような、こびを含んだ声音(こわね)。ネコを自分になつかせようと、甘く、柔らかく言いかける語調。
猫にかつおぶし   
猫の額   
猫の前のねずみ   
猫の目のよう   
猫は虎の心を知らず 
猫ばばを決め込む  
( 猫ばば・猫糞 )
悪事を隠して知らんぷりすること。特に、拾った物を密かに自分の物にすること。
猫が糞に砂や泥をかけて隠すことから、悪事を隠すこと。転じて拾った物をこっそり自分の物にしてしまうこと。
猫が糞に泥をかけて隠すことからという。悪事をごまかして知らない顔をすること。特に、拾った物をひそかに自分の物にしてしまうこと。「財布をねこばばした」。
《猫が、糞をしたあとを、砂をかけて隠すところから》悪いことを隠して素知らぬ顔をすること。また、拾得物などをこっそり自分のものとすること。「拾った物を猫糞する」
猫が糞をした後に砂をかけて隠すことから喩えたもの。「糞(ばば)」は、大便など汚いものをさす幼児語である。江戸時代後期頃から用いられた語と思われ、それ以前に用例は見られない。一説には、猫好きの老婆が借金をなかなか返さなかったことから、猫好きの老婆が語源で「猫婆」を本来の形とする説もある。
他人のものをこっそり隠して自分のものにするという意味です。ネコババを漢字で書くと「猫糞」。猫がフンをした後に砂をかけて隠すことから、そういう意味で使われるようになりました。糞をババと呼ぶのは、江戸時代の幼児語で、今の言葉でいえば便をウンチと呼ぶ感じですね。ちなみに汚いものを「ばっちい」と言うのも、糞(ババ)から派生した言葉なのだそう。猫好きの老婆が借金をなかなか返さなかったことから、「猫婆」を語源とする別説もあるようです。
1.物を拾ひ取りて知らぬ顔で自分の物に為てしまふことを云ふ。猫は己の糞を隠すと云ふより、転じて隠して知らぬ顔してゐることに云ふ也。2.「猫の糞を踏んだやう」の略にて、悪しき所為を隠して知らぬふりすること。「猫糞をきめ込む」などいふ。3.他人の金品を隠匿して知らぬ顔をすることをいふ。猫が糞をする時には、地を掘つてなし、後で土砂をかけて置くからいつたもの。「ばば」は糞のことをいふ。「猫ばばをきめこむ」に同じ。4.他人の金品を隠匿して知らぬ顔をすることをいふ。猫が糞をする時には、地を堀つてなし、後で土砂をかけて置くからいつたもの。「ばば」は糞のことをいふ。「猫ばばをきめこむ」に同じ。5.他人の金品を誤魔化して知らぬ顔をして居ることをいふ。6.委託金品を横領費消すること。或は窃盗金品や横領金品を地中に隠匿なすこと。隠匿し知らぬ顔をしてゐるを「ねこばばをきめこむ」といふ。7.他人の金品を横取りして陰匿すること。ババは糞のことで、猫が糞をするときには地を掘り後で土砂をかけて置くことから出た語。8.他人の金品をごまかす。(横領) 江戸時代の中頃、猫の好きな一老婆が三匹もの猫を飼つていたが、この老婆はもの忘れをするのか、承知の上の欲張りからか、とかく人からものを貰つても返礼もしなければ、届け物を頼まれても途中で横取りする癖があつたところよりこの語あり。9.委託金品を横領消費することをいう。 
猫もまたいで通る   
ねじを巻く   
寝た子を起こす   
根堀り葉堀り 
根も葉もない 
物事の根拠や証拠などが全くないことを意味する表現。
寝る子は育つ 
念には念を入れよ 
細かく注意した上に注意を重ね、さらに確認することをいい、少しの手落ちもないことにたとえる。  

 

能ある鷹は爪を隠す 
優れた能力のある人はそれを無駄にひけらかしたりしないということのたとえ。
能なし犬は昼吠える 
能なしの口たたき  
残り物には福がある 
人が取り残した物の中には、思いがけず良いものがある。人と競って先を争うのを戒めるとき。また、順番が後になった人を慰めるときや、自らのげん直しに使われることが多い。我先にと人を押しのけるよりも、人と争わず遠慮深い人にこそ幸運がある。
のどから手が出る 
自分で自分を抑えられないほど、欲しくてたまらないことのたとえです。 喉から手が出ることは現実にはあり得ませんが、あり得ないことをしてしまいそうなほど欲しくてたまらないという欲望を表現しています。
喉元過ぎれば熱さを忘れる 
煩悶するほどの苦痛、苦労、激痛も、それが過ぎてしまえばその痛みや苦しみをすっかり忘れてしまう。 苦境の時に恩を受けた恩人のことを、苦境が過ぎると忘れてしまう。
のみの夫婦  
乗りかかった船
(乗って岸を離れた船からは下船できないところから) 物事を始めてしまった以上、中途でやめるわけにはいかないことのたとえ。
乗るか反るか
成功するか失敗するか分からないが、とにかく運を天に任せて思いきってやってみようという意志。
暖簾に腕押し
(暖簾を腕で押したときのように) 手ごたえがないこと。 張り合いがないこと。
 暖簾を分ける 
 

 

馬鹿とはさみは使いよう 
はさみは上手に使えば切れるが、下手な使い方をすると切れるものも切れなくなる。愚か者はどうにもならないようだが、やはり使い方しだいで役に立つことがある。
馬鹿の一つ覚え 
愚かな人は、聞き覚えた一つのことを、どんな時にも得意げに持ち出す。 何度も同じことをいう人をあざけっていう。
恥の上塗り 
恥をかいたうえに、また恥をかくこと。 恥の恥。
八細工七貧乏 
八方塞がり 
陰陽道(おんようどう)で、どの方角に向かって事を行っても、不吉な結果が予想されること。どの方面にも差し障りがあって、手の打ちようがないこと。
初物を食えば七十五日長生きする 
花より団子 
(花見に来て、花よりも花見団子に夢中になることを嘲って)風流より実利を重んじること。 もとは、風雅を理解しないことに対する軽侮であったが、時代が下るにつれ、実利より外見を重視することに対する非難の意となっている。
歯に衣を着せぬ 
言葉を飾ることなく率直に意見を述べるとこや、遠慮なハッキリと物を言うこと意味する慣用句です。
早起きは三文の徳 
「早起きをすると、少しだけ良いことがあるよ」という意味なのです。とはいえ「少し」なので、早起きしても少ししか良いことがない、という反対の意味で使われていたという説もあります。
背水の陣 
逆境に追い込まれて覚悟を決め、全力をあげて勝負すること。 逃げようのない位置に自分をおき決死の覚悟で戦うこと。 「背水」は、河を背にすること。  
吐いた唾は呑めぬ   
歯がたたない   
馬鹿につける薬はない   
馬鹿の一念   
測りがたきは人心   
馬脚をあらわす   
白紙に戻す   
拍車を加える   
薄氷をふむ   
化けの皮を現す
今まで包み隠してきたことがばれて、正体や素性を現すことをいう。
箱入り娘 
めったに外へも出さないようにして、家庭の中で大事に育てられた娘。
恥と頭はかき次第   
箸にも棒にもかからぬ
細い箸でも太い棒でも引っ掛からない、どう扱いようもないことにたとえる。
始めが大事  
箸より重いものを持たない   
恥を知らねば恥かかず   
橋を渡す   
畑ちがい   
旗を揚げる   
蜂の巣をつついたよう   
鳩に豆鉄砲 
何かに驚かされて唖然とする様子。驚いて目を丸くする様子。
鼻息が荒い   
鼻が利く  
鼻であしらう 
相手の言動に対して、まともに取り合わずに冷淡に扱う。
鼻にかける   
鼻につく  
鼻持ちがならない   
羽をのばす   
歯の抜けたよう   
腹八分目に医者いらず   
鼻を折る   
鼻を高くする   
鼻をつく   
鼻をならす   
花を持たせる 
勝利や功名を相手にゆずる。相手を立てる。
幅を利かせる   
羽目をはずす  
腹が黒い 
意地が悪くて心の中で良くないことを考えたり悪いことをたくらんでいること。
腹がすわる 
物事に動じなくなる。落ち着く。覚悟する。度胸が据わる。
腹の虫がおさまらぬ  
どうしようもなく腹が立つ、怒りが込みあげてくる、立腹してやまない、などの意味の表現。
腹の皮がよじれる   
腹を合わせる  
腹をかかえる   
腹を決める  
腹をさぐる   
腹を割る   
腸わたが煮えくり返る   
腫れ物にさわるよう   
歯を食いしばる 
悔しさ・苦痛などを歯をかみ合わせて必死にこらえる。
万事休す 

 

引かれ者の小唄 
(「引かれ者」は江戸時代に裸馬に乗せられ刑場に引かれてゆく罪人) 負け惜しみから強がりを言って、鼻歌まじりの小唄を歌うことで、どうにも動きがつかなくなった者が、平気を装い強がりを言うことにたとえる。
人の噂も七十五日 
世間で人があれこれ噂をしていても、それは長く続くものではなく、やがて自然に忘れ去られてしまうものだということ。
人の口に戸は立てられぬ 
他人が言うことを、止めるわけにはゆかぬことをいい、人のうわさや批判することを、防ぐ方法はないことにたとえる。
人の振り見て我が振り直せ 
他人のふるまいを見て感じることがあったら、わが身を振り返り、改めるべきところを改めよ。他人の行いを批判する前に、まず自分のことを省みよ。
一人口は食えぬが二人口は食える 
人を呪わば穴二つ 
人を見たら泥棒と思え 
他人を軽々しく信用してはいけないということ。
火のない所に煙は立たない(火のないところに煙は立たぬ) 
「まったく根拠がなければうわさは立たない」という意味の「火のない所に煙は立たぬ」ということわざ。
百聞は一見に如かず 
何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうがまさる。
冷や飯を食わせる 
冷たい態度であしらうようす。
瓢箪(ひょうたん)から駒 
(瓢箪くらいの大きさのものから、駒すなわち馬のように大きなものが出るようなありえない状況から)冗談や誤解で言ったことが意図せずに実現してしまうこと。
火を見るより明らか 
「きわめてはっきりとしており、疑いようのない様子」を表す表現です。 この表現は、悪い結果になることがはっきりと予見される場合に使われます。 このまま行くと、落第することは火を見るより明らかだ。
日暮れて途遠し  
膝が笑う   
膝をくずす   
膝を屈する  
膝を進める   
膝を正す   
膝を交える   
額を集める   
左うちわで暮らす  
左うちわとは、生活が豊かで気楽な生活を送ること。 「左うちわで暮らす」「左うちわの生活」と用いる。 左扇(ひだりおうぎ)とも。
一泡吹かせる  
相手の不意をついて驚きあわてさせる。
一筋縄で行かぬ  
普通のやり方では処理できない。
人のふんどしで相撲をとる  
他人の物を利用して、身を削ったり努力すること無しに自分の利をはかること。
一肌脱ぐ  
少し労力を割いて、手助け、支援すること。 「一肩脱ぐ」とも書く。 全力で事に当たる場合は「諸肌を脱ぐ」などと表現する。
人を食う   
火に油をそそぐ 
勢いが盛んなものに対し、さらに勢いを加えること。不本意なことについて用いられることが多い。 「火に油」「火に油を加える」などとも表現される。
火の消えたよう
火の車  
家計が非常に苦しいことのたとえ。
日の目を見る 
それまで埋もれていたものが世に知られるようになる。 また、長い間不遇だった者が世に認められるようになる。「日の目」は、「日の光」や「日光がもたらす明るさ」という意味があります。   
火蓋を切る  
火蓋を「開く」という意味で、火縄銃に点火の準備をすること。 転じて物事が始まるという意味に用いられます。 
貧乏くじを引く 
くじ引きで当たると逆に不利益を被るくじ。 「貧乏クジを引く」で、立場や状況から不利益を被るはめになることを示す表現。

 

風前のともし火 (「座禅三昧経」から) 
夫婦喧嘩は犬も食わぬ 
笛吹けど踊らず 
覆水盆に返らず 
「一度離婚した夫婦は元に戻ることはできない」、転じて「一度起きてしまったことは二度と元には戻らない」と言う意味。覆水収め難し、覆水不返、覆水難収、覆水不可収とも。
武士に二言はない 
武士は一度言ったことを取り消すようなことはしない。信義を重んじ約束を守る意。
武士の情け 
武士は主君を持ち、その命を忠実にこなすことが生き様でありそんな中で相手を辱めることなく遂行しつつ相手に最大限の配慮をすることが武士の情けということになります。相手に情けをかけることは武士にとってはあってはならぬことその上で、武士にも情けをかけるべき事もあるという「例外にすべき」こともあるのだと。
武士は相身互い 
武士は食わねど高楊枝 
武士が貧しい境遇にあってお腹がすいていても、まるでお腹がいっぱいのように楊枝を高々とくわえて見せておかなければいけない、といった武士の清貧や高潔さをあらわしています。現代では気位が高いことや、やせ我慢をすることに用いられることがあります。
豚に真珠 
豚もおだてりゃ木に登る 
袋のねずみ 
袋のなかに追いこまれた鼠のことで、逃げようにも逃げ場がないことをいう。
吹く風枝を鳴らさず  
ふぐにもあたれば鯛にもあたる   
豚に念仏猫に経   
淵に雨   
ふちゅうの魚   
ふところを叩く    
船は船頭に任せよ   
船を漕ぐ   
冬の雪売り   
篩にかける   
古傷は痛みやすい    
踏ん切りがつく   
分相応に風が吹く 

 

臍が茶を沸かす 
下手な鉄砲も数打ちゃ当たる 
下手でも、数多くやっているうちにはまぐれで成功することもある。
下手の考え休むに似たり 
下手の横好き 
ある物事が”下手”なのにも関わらず、好きで熱心に取り組み続けることを指す。 なかなか上達しないのにいつまでも諦めずに何かを続けている人、夢中になっている人が使う表現。 もともと「横」には「見当外れ ・本筋から逸れる」という意味がある。
へそを曲げる   
屁のかっぱ  
想像上の生き物のおならなんて頼りないでしょう。想像だけの頼りないものの「屁」だから、すごく頼りないよね。そういう、頼りないこと、たやすいことを、「カッパの屁」って言うんです。
蛇に噛まれてくち縄に怖じる   
蛇に見込まれた蛙   
弁慶の立ち往生   
弁慶の泣き所 

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い 
あるものを憎むとそれに関連する全てのものが憎くなってくるということ。
臍(ほぞ)を固める 
固く心を定めて決心し、覚悟することをいう。
仏作って魂入れず 
元の意味は「仏像を作っても魂を入れなければ、単なる木や石と同じである」であり、そこから転じて「せっかく良いものを作っても、大事なものが抜け落ちていれば、作った努力もむだになる」ということです。
仏の顔も三度まで 
正確には「仏の顔も三度」。どんなに温和な人であっても、無法なことをたびたびされるとしまいには怒ってしまうというたとえです。これは、江戸時代の頃に使われていた「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹を立つ」という表現に由来しています。
坊主の花かんざし    
棒にふる 
それまでの努力や苦心の結果をすっかり無にしてしまう。無駄にする。駄目にする。 ふいにする。
忘年の交わり   
吠え付く犬は噛み付かぬ   
細くても針はのめぬ   
ほぞを噛む  
すでに及ばないことを悔やむ。返らないことを後悔する。
ほっぺたが落ちる    
ほっぺたをつねる   
骨折り損のくたびれ儲け 
全く利益の伴わない無駄な努力。
骨抜きにする   
骨身を削る  
体がやせるほど、苦心・苦労する。
盆と正月が一緒に来たよう
用事が幾つも重なり、非常に忙しいさま。喜ばしい出来事が幾つも重なり、非常にめでたいさま。
 

 

蒔かぬ種は生えぬ 
枕を高くして寝る 
負け犬の遠吠え 
争いに負けた者が、負けを認めない主張をしたり、陰で悪口を言ったりすることのたとえ。
負けるが勝ち 
一時は相手に勝ちを譲り、しいて争わないのが、結局は勝利をもたらすということ。
馬子にも衣装 (歌舞伎から) 
(馬子のように下賎な者でも立派な衣装を着ると立派な人に見えることから)見た目が立派だからと言って、中身がそれに伴っているというものではないという警句。 中身が無くても、見た目をそれなりに整えれば、ごまかせるものである。
待てば海路の日和あり 
今は思うようにいかなくても、じっと待てばそのうちにチャンスがめぐってくる。 だから辛抱強く待てということ。 「待てば甘露の日和あり」とも。
丸い卵も切りよで四角 
魔がさす  
心の中に悪魔がはいったように、ふと悪念を起こす。 思いもよらない出来心を起こす。
幕を切って落とす   
負け惜しみの減らず口  
負けた者が、くやしさを我慢できないで、憎まれ口をたたくこと。
枡で量って箕でこぼす 
苦労してためたものを無駄なことに一度に使ってしまうたとえ。 ますできちんと量るように苦労してためたものを、箕に移して一度にこぼしてしまう意から。 「箕」は、竹などで編んだ目の粗いふるい。
的を射る   
まな板の鯉  
《俎板の上の、料理されるのを待つ鯉の意から》相手の意向や運命にまかせるよりほかに方法のない状態のたとえ。俎板の魚 (うお) 。
眉が曇る   
眉が晴れる   
眉に唾をつける   
真綿で首を絞める   
眉をひそめる   
眉を開く   
眉を寄せる   
満を持す 
「満」は「みちること」「いっぱいになること」を意味する語だが、ここでは「弓をいっぱいに引きしぼること」を意味し、「持す」は「保つ」を意味する。満を持すは、弓を引きしぼったままの状態を維持することから、十分に準備をして機会を待つ意味となった。

 

ミイラ取りがミイラになる 
水の泡となる 
三日坊主 
あきっぽくて何をしても長続きしないこと。また、そのような人のことをあざけっていうことば。修行に耐えられず、三日で還俗( げんぞく / 一度、出家した者が、再び俗人に戻ること)をしてしまう僧侶の意から。
三つ子の魂百まで 
これは3歳頃までに人格や性格は形成され、100歳までそれは変わらない。 という意味で使われることわざです。
実るほど頭を垂れる稲穂かな (詠み人知らずの俳句) 
戒めの言葉。身分が高くなればなるほど、稲穂のように頭を下げて腰を低くしましょうの意。国会議員などに戒めとして言われる。人格者ほど謙虚であるというたとえ。[類義] 米は実が入れば俯く、人間は実が入れば仰向く/人間は実が入れば仰向く、菩薩は実が入れば俯く/実の入る稲は穂を垂れる/実る稲田は頭垂る/実るほど頭の下がる稲穂かな
「中身の詰まっ(つまっ)てない稲はピンと立ち,中身が熟した稲ほど実の重みで頭が下がる様子から,知識や徳を積んだ人ほど謙虚(けんきょ)な人間になること」を示すことわざに,「実るほど頭を垂れる稲穂かな」があります。とても有名なことわざなのですが,どこからきたことわざなのかはわからないようです。大辞林(だいじりん)には,次のように解説されています。学問や徳行(とっこう)が深くなれば,かえって謙虚(けんきょ)になる。実る稲田(いなだ)は頭垂る(あたましでる)。実るほど頭を垂れる稲穂かな。要は豊かに実った稲はその重みで頭が下がる,その様子から何らかを学び修めた人は謙虚さを兼ね備えるようになるという意味です。稲が生長するには稲自体のもつ力だけでは成長しません。土や水,日光などいろいろな要件が揃っ(そろっ)て,時間とともに稲穂の中身が詰まっていくのです。つまり,稲自体の力に加え,直接的にも間接的にも多くのはたらきによって稲穂の中身が詰まっていくのです。私たち人間もこれまで成長するまでに様々な支えとご縁がありここまで育ってきました。これからも,自分の目には見えないたくさんの「はたらき」に支えられて育っていきましょう。決して中身が詰まらず,ピンと反り返ったままではなく,自ら頭を下げられる存在となるべく育っていきましょう。
今から25年ぐらい前になるでしょうか。社会人になってビジネス書を読むようになりましたが、その内容に自分が納得する、しっくりゆく書物に巡り合えませんでした。ある時、出張で海外に出かける際に飛行機の中で暇つぶしにと書店で買ったのがパナソニックの創業者松下幸之助氏の「人生談義」という文庫本でした。暗い飛行機の中で手元灯をつけながら読みましたが、「あの松下幸之助さんがこのような生き方・考え方で生きてこられたのか!」と心から感動し、涙が止まりませんでした。松下氏を始め、世の素晴らしい経営者、人たちに共通することは何か。突き詰めて考えてみると、それは「謙虚さ」ではないかと気が付きました。人生観、経営哲学から、熱意、人徳、優しさなど、すべてが謙虚な姿勢から滲み出ているものではないかと。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という有名な言葉があります。稲の穂は実るほどに穂先が低く下がるものです。人間も本当に偉くなればなるほど、謙虚な姿勢で人と接することが大切であり、会社も成長・発展すればするほど、会社の態度・社員の態度が丁重にならなければならないと考えます。「謙虚さ」なら自分にも身に付くのではないか。そう思っていましたが、実際は意識して簡単に取り組めるものではありませんでした。なぜなら松下氏はお金がない、学問がない、病気がちであったという、幼少期からのないないづくしの人生経験の中から謙虚さが身に付いているのです。片や恵まれた私たちが「謙虚さ」を身に付けるためにはどうすればよいか。私には正直分かりません。今はただ、自らを足りないもの、至らないものと深く思い込み、謙虚な姿勢になるよう自らを仕向けるしかないと思っています。実るほど頭を垂れる稲穂のように。
4月は学校では入学の、会社では入社の季節です。入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんは、新しい世界でいろいろなことを学び、吸収し、成長していく自分や、新しいことにチャレンジする自分への期待と希望に胸をふくらませていらっしゃるのではないでしょうか。これから進まれる新たな環境のなか、皆さんが日々試行錯誤し努力しながら、一歩一歩着実に成長していかれますことを心より念じております。さて今月は、新たな一歩を踏み出される皆さんが今後さまざまなことを学び、経験されていくうえでご参考になればと思い、「人間の知恵」と「仏の知恵」について考えてみたいと思います。まず人間の知恵とはなんでしょうか。広辞苑によると知恵とは、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」とあります。人間の知恵には、生きるための知恵、仕事をスムーズに進めるための知恵、成績や結果を出すための知恵などさまざまな知恵があると思いますが、その知恵を得るために私たちは多くの知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけようと頑張ります。つまり自らが「賢くなろう」と努力するわけです。これに対し、仏の知恵とは、仏の方から私たちに働きかけ、さまざまなことに執着し、他者と比べて優劣を気にし、他人を妬み嫉む自分の姿に気づかせ、目覚めさせてくれます。この働きを仏教では光と表し、仏の知恵の光に照らされ、私たちは今まで見えなかったことを見えるように、気づかなかったことに気づかされ、目覚めさせていただきます。つまり煩悩まみれの自分の姿に気づき、ただ頭が下がるようになります。このように人間は自ら賢くなるように努力し、知恵をつけようと頑張るのですが、ついてきた知恵を誇り、自分の力で生きていけると思うようになると横柄になります。また、自分の言うことが正しく、自分は善人であると思い込んでしまいます。自分の力で生きていると思っているので、仏の働きに見向きもせず、自分の姿を正しく見ることができなくなり、おのずと頭が上がってしまいます。「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を皆さん一度はお聞きになられたことがあるのではないでしょうか。この言葉の意味は、「故事・俗信 ことわざ大辞典(小学館)」によりますと、「稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくる。学問や徳行が深まるにつれ、その人柄や行為がかえって謙虚になることのたとえ」とあります。頑張って身につけた知識、学問、教養が本当に深まり、身についてくると、おのずと人格も形成され、周囲に対し「お陰様で」と謙虚になり、思いやりの心を持って接することができるようになります。この「深まり」こそが仏の知恵の働きかけであり、「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、すぐ思い上がり、自惚れてしまう私たちに、そうした自分の姿になってないか問いかけてくれる言葉ではないでしょうか。近年、自らの知恵を頼み、高圧的になったり、自分の意見以外は間違っていると固執する人が増え、人間関係や社会がギスギスすることが多くなってきたように感じます。「お陰様で」というこれまで大事にしてきたことが薄れてきたようにも感じてしまいます。これから入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんには、知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけるプロセスの中で、頭が上がりがちな自分の姿に気づかせてくれる仏の働き(知恵)に素直に耳を傾ける心がけを持っていただきたいと思います。そうした心がけを持って日々精一杯努力することで、皆さんの人生がより実りあるものになるのではと思うのですがいかがでしょうか。
耳に胼胝(タコ)ができる 
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ (空也の作とされる和歌から) 
身から出た錆 
見かけばかりで空大名   
右の耳から左の耳  
神輿を上げる   
神輿をすえる   
見ざる・聞かざる・言わざる
「見ざる・聞かざる・言わざる」というと、「都合の悪いことに知らんぷりをする」とか、「保身のために余計なことには無関心を装う」というネガティブな意味合いにとりがちです。「三猿」の意味をどうとるかに、その人らしさが出る気がします。無関心な保身ではなく、現実に賢く対処するための知恵として理解してみては?
三猿といえば、日光東照宮。「三猿」で有名なのは、日光東照宮の彫刻ですね。神厩舎(しんきゅうしゃ)、つまり神馬をつなぐ馬屋に、三猿の彫刻があります(重要文化財)。八面の彫刻で、人の生涯の生き方を教える手本とされているそうです。「見ざる・聞かざる・言わざる」はまだ幼い子供の猿で、ふたつの意味が込められているようです。1.子供のころは、悪いことを見たり聞いたり話したりしないで、素直にまっすぐ成長しなさい、という意味。2.大人の処世術として、余計なことは見たり聞いたり他人に話したりしないほうがいい、という意味。俗世の現実としては後者のほうが身に沁みますが、そんなことをわざわざ、徳川家康公を祀るお社に彫りますか? という疑問が。まあ、忍耐を重ねて天下をとった家康公としては、らしい気もしますけれど。 個人的には、前者のほうが気に入りました。
庚申講が由来とも / 「三猿」の元になる教えは、「道教」と「論語」に由来しているようです。道教は中国の土着の伝統宗教で、いろんな言い伝えがあります。その中に、庚申(こうしん)信仰、というのがあり、猿は神様の使いとされています。庚申塔や庚申塚には、「三猿」の絵がよく描かれていて、「目と耳と口を慎んで、厄難を避ける」という意味が込められているようです。人間の身体の中には、三尸虫(さんしちゅう)という虫がいて、この虫が60日に一度めぐってくる庚申(こうしん=かのえさる)の日の夜、眠っている間に天界にのぼり、天帝にその人が犯した罪を話し、それによってその人の寿命が決まるといわれています。
それを避けるために、庚申の夜はみんなで酒を飲んで、眠らずに徹夜して、天帝への告げ口を避けるという風習があったようです。公式に酒を飲む口実が欲しかったんだろうなーという気もしますが、つまるところ長寿と福を願う風習といえるでしょう。これが「かのえさる」の日に行われたために、虫が猿にすり変わり、「見ない聞かない、天帝に告げ口しない」ことが災厄を避けることになる、という考えに転化したのでしょう。
論語の「礼」の教え / 「論語」は、賢人であり思想家である孔子と、その弟子たちの言動を記録した、2000年以上読み継がれているベストセラーです。この中にも、「三猿」につながる教えがあります。「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」 (礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ) 「礼」とは、社会規範にのっとった、TPOにふさわしい言動のことです。
孔子は、人の内面における「仁(真心、思いやり、愛)」を、態度や行為としていかに表すか(「礼」)を、わかりやすく人に教え伝えることで、乱れた世の中をよくしようとした人です。なのでこの句も、ただ四角四面に「礼儀を守れ」といっているのではなく、常に自分の頭で考え、節度を持ってふさわしい言動を選択するようにという、実践的な教えかと思います。「不躾に見るな、そば耳立てるな、無責任にしゃべるな、よく考えて行動しろ」ということでしょう。本人の自覚が大事で、他人がどんなに教えたり強制しても難しい、ということのようです。
天台宗では座禅の教えに / 漢語の「不見、不聞、不言」という教えが留学僧を経由して日本に伝わり、天台宗の教えとなったようです。「心を惑わすようなものは見ない、聞かない、言わない」ことにより、災厄を避けるという考え方のようです(このへんはちょっとあやふやです)。ブリタニカでは「三猿」を・・・「耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過を言わず」という天台宗の止観(しかん)の空、仮、中の教えに基づくもの ・・・としています。止観(しかん)の「空、仮、中」ってなんぞや? と思いましたが、これは一般的にいう禅(座禅)や瞑想に通じてくるようです。一周回って、「そもそも見るとはなんぞや? 聞くとは? あなたが目にしているものは、本当にそこに在るものでしょうか?」みたいな話になってきました!三猿、奥が深いです。
東洋以外でも有名に / この思想はヨーロッパに伝わり、東洋の「Three wise monkeys」として知られるようになりました。インドのマハトマ・ガンディーは、常に三猿の像を身につけて、「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたそうです。三猿の像は、日本の人からもらったものだともいいます。余計なものを見聞きしたり、みだりにしゃべりちらかすことの害悪は、洋の東西を問わず誰もが実感していて、そのためにこの考えが広く伝わったのでしょう。日本では、何よりも語呂合わせがおもしろい、というのが大きかったでしょうね。
さらに股間に手をあてて「せざる」と、色事の方に広げた「四猿」もあるようで。あらゆることに適用できる展開力に、「行いをつつしめ」といった孔子様もびっくりです 。
ネットリテラシーも「三猿」で / Webに情報があふれ、無責任な情報も即座に拡散する現在では、「三猿」もネットリテラシーとしての意味合いを持ってきそうです。 1.あやしげなリンク先をほいほい見にいかない。2.信頼度の低い情報に耳を貸さない。 3.しっかり確認を取らずに情報を広めない。気をつけたいですね。 三猿の意味はいかようにもとれます。調べてみたら、思った以上に深い意味がありました。「見ざる・聞かざる・言わざる」からどんな教訓を得るかは、自分次第。しっかり考えて、「申」の年を賢く乗り切りたいものです。 
水入らず   
水掛け論   
水際立つ   
水と油   
水に流す
過去にあったことを、すべてなかったこととする。過ぎ去ったことをとがめないことにする。水にする。水になす。
水を打ったよう   
水をさす   
水を向ける   
味噌も糞も一緒  
三日見ぬ間の桜   
身の毛がよだつ   
耳が痛い   
耳が遠い   
耳が早い   
耳に入れる   
耳に逆らう   
耳にする   
耳に入る   
耳を疑う   
耳を貸す   
耳を傾ける    
耳をくすぐる   
耳を澄ます   
耳をそろえる   
耳をふさぐ   
身もふたもない 
器(うつわ)の物を入れる部分(身)もなければ蓋もない。器にも入っていない。露骨すぎて情味も含蓄もない。直接すぎて話の続けようがない。
身を粉にする 
身を粉にする「粉」の読みは「コ」である。非常に苦労して働くの意味で、自分の身体をこなごなに細かく砕くようにしてまで働くという比喩。慣用句であるから慣用的な読みの「コ」に固定化されるはずのものであるが、漢字に引きずられて「コナ」と発音したら、やはり誤用である。

 

昔取った杵柄(きねづか) 
昔、杵を取って餅をついたことがあるので、いくつになっても体が覚えているというような表現をする時に使う言葉です。専門用語では手続き記憶といいます。
虫のいい 
「虫のよい話」などの形で用いられ、自身にとって都合のいいことばかりであることを意味する表現。 「虫がいい」あるいは「虫のいい」ともいう。 調子に乗っていて、身勝手なさまを意味する表現。
虫の居所が悪い
ちょっとしたことでも怒るような「機嫌が悪い状態」になっていることを意味します。 トゲがあることを言ったり、ツンツンした態度を取ったりしている人の様子を指す言葉です。
虫の知らせ 
よくないことが起こりそうな気がすること。 悪い予感。
娘十八番茶も出ばな 
鬼でも年ごろになれば少しは美しく見え、番茶でもいれたばかりは香りがある。器量が悪くても年ごろになれば少しは娘らしい魅力が出てくるということのたとえ。
無理が通れば道理が引っ込む 
道理に反するようなことが、平気で通用することになれば、この世に正義は行われなくなるというたとえ。 無理が権力を背景にして通用しているときには、正論は通らなくなることをいう。
無理は三度 
向かうところ敵なし   
虫が知らせる  
なんとなく心に感じる。 どうもそのような感じがする。 予感がする。
虫が好かない   
むしずが走る   
虫の息   
虫も殺さぬ   
胸が痛む   
胸がいっぱいになる   
胸がさわぐ   
胸がすく   
胸がつぶれる   
胸三寸に納める 
言いたいことがあっても、おくびにも出さず、心のなかに納めておくことをいう。
胸に一物 
心にわだかまるものがあり、期することがあることをいう。
胸に浮かぶ   
胸に刻む   
胸に釘   
胸に迫る  
胸に手をあてる   
胸を痛める   
胸を打つ   
胸を躍らせる   
胸を焦がす   
胸をさする   
胸を突かれる    
胸をときめかす   
胸を割る   
無用の長物 
あっても益のないもの。 あっても役に立たないどころか、かえってじゃまになるもの。

 

明鏡も裏を照らさず 
名物に美味いものなし 
芽が出る 
目くそ鼻くそを笑う 
目は口ほどにものを言う 
「目は口以上にその人の感情を表す」という意味のことわざです。 口では肯定的なことを言っていたとしても、相手の仕草や目つきからなんとなく本心でないことが感じられることもあるはず。
名馬にくせあり   
目が利く   
目が肥える   
目がない   
眼鏡にかなう   
目から入って耳から抜ける 
きわめて賢いこと、抜け目がなく敏捷なことを形容します。 類義語としては、「一を聞いて十を知る」があります。 賢い、鋭い、という意味を持つようになりました。
目から鼻へ抜ける 
日常的にはあまり使いませんが「目から鼻に抜ける」という言葉は「賢く、抜け目なく、敏捷である」という意味です。
目白押し
メジロにはお互いに押し合うように、ぴったりと枝に並ぶ習性がある。 このことから、込み合っていることや物事が多くあることを意味する慣用句として「目白押し」がある。 また、縁台に一列に並んで腰を掛け肩を左右に押し合って端の者を順々に押し出す遊戯として「目白押し」がある。
目の上のこぶ   
目で殺す 
色目をつかって相手を悩殺する。
目と鼻の間   
目にあまる   
目に入れても痛くない   
目に物見せる  
その状態を見せる。相手をぎゃふんといわせる。ひどい目にあわせる。思い知らせる。
目の敵にする
見るだけで憎くて仕方がないような敵と見なすこと、見るたびごとに敵として憎悪すること、などの意味の表現。  
目の正月   
目の前が暗くなる   
目は心の鏡   
目引き袖引き   
目星をつける   
目もくれない   
目を疑う    
目を奪う   
目をかける   
目を凝らす   
目を皿にする   
目を盗む   
目を細める   
目を丸くする   
目をむく 
怒ったり、驚いたりなどして目を大きく見開く。  

 

餅は乞食に焼かせよ魚は殿様に焼かせよ 
餅は餅屋 
本木(もとき、幹のこと)に勝る末木(うらき、枝のこと)無し 
物は試し 
桃栗三年柿八年 > ゆずは九年でなりかかり梅は酸いとて十三年-と続けることもある 
桃と栗は芽生えてから三年、柿は八年で実を結ぶということ。 資本を投じてから相当の年月を経なければ、それ相応の利益を得ることはできない、という意。
門前市をなす 
門前の小僧習わぬ経を読む 
(寺の門前で遊んでいる小僧(この場合近所の子供)でも、いつも見聞きをしていれば、習わない経が読めるようになるように)繰り返し見聞きできる環境におけば、自然とその知識がつくようになるものであるということ。 しばしば、「門前の小僧」の句で用いられる。
元のさやに収まる   
元の木阿弥 
手を加えた甲斐があって一旦良くなったものが、再び元のつまらない状態に戻ってしまうこと。折角(せっかく)の苦労や努力が無駄になること。故事 / 「和州諸将軍伝」筒井順昭が病死したとき、嗣子の順慶が幼少だったので、遺言によって順昭の死を隠し、順昭と声のよく似た木阿弥という盲人を招いて薄暗い寝所に置き、順昭が病床にあるように見せ掛けていたが、順慶が長ずるに及んで木阿弥は元の市人の身に戻った。[ 和州諸将軍伝は江戸時代の軍記物。宝永4年(1707)。閑雲子。大和国(現在の奈良県)の筒井氏に関する記載が中心。] 諸説 / 朱塗りの朱が剥(は)げて木地が現われたという意味の「元の木椀」から転じたものかとも言われる。
物は考えよう   
物は相談   
物も言いようで角が立つ   
もろはの剣 
 

 

焼き餅焼くとて手を焼くな 
焼け石に水 
事態が悪化するまでは、それを収拾するのに効果のあった対処法であっても、悪化してしまった後の状況となっては、何の効果もないこと。
焼木杙(やけぼっくい)に火がつく 
安物買いの銭失い 
柳の下にいつも泥鰌(どじょう)はいない 
薮から棒
《藪の中から突然に棒を出す意から》突然に物事を行うさま。だしぬけ。唐突。「―の話」[補説]「藪蛇」との混同で、「藪から蛇」とするのは誤り。
薮をつついて蛇を出す(略)薮蛇 
病は気から 
高血圧があると血圧計に出た時、そんなはずはない、血圧計が壊れているのでは?と疑う人もあるかも知れないが、何種類もの血圧計で測っても(高血圧)の数値が出たら、その数値を信じるほか致し方もあるまい。しかし、その数値を金科玉条として、その人が高血圧症であると即断してはいけない。そもそも、血圧というものは、刻々と変動しているもので、何時も一定の数値を保っているものではない。血圧は朝起きた時と、一日の活動を開始してからの期間とか就寝時に測った数値は同じでない位は誰にでも想像できよう。特に運動している時とかその直後には血圧の上昇が考えられる。それでは、精神的の興奮は血圧に影響があるのかの問題であるが、それが大ありである。たとえば、ホワイトコート・シンドロームという現象にも明らかに示されている。これは、医師などの付けている白衣のある所で測った血圧値は高くなることである。その血圧上昇の程度は患者により様々で、予断は出来ないから厄介である。そしてその疑似高血圧には(慣れ)の現象がないので、高血圧症の病名を付けられる可能性がある。  
山より大きな猪(しし)は出ぬ 
闇夜に提灯 
闇夜に鉄砲 
闇夜の烏 
八百長   
前もって勝敗を打ち合わせておき、表面だけ真剣に勝負を争うように見せかけること。 転じて、一般に、前もってしめし合わせておきながら、さりげなくよそおうこと。
やすりと薬の飲み違い   
柳に風   
柳は風のままに、なびくのと同じように、相手に逆らわず、さらりとかわしてあしらうことのたとえ。相手の強い態度に巧みに応対して受け流すこと。従順なものは災いを受けないことにいう。
藪医者の手柄話   
藪医者の病人選び   
病上手に死に下手   
山高きが故に貴からず   
闇から闇   
暗黒世界から暗黒世界に移っていくこと。瞬時も光明に出合わないこと。煩悩の世界を流転すること。胎児を出生しないうちに死なせること。
矢も楯もたまらず 
やり玉に上げる 
槍の穂先で突きあげる。槍で突き刺す。多くの中から選び出して犠牲にする。特に、非難、攻撃の目標などにして責める。  

 

有終の美 
最後までやり通して、立派な成果をあげること。 終わりを立派にすること。
雄弁は銀沈黙は金 
油断大敵
注意を少しでも怠れば、思わぬ失敗を招くから、十分に気をつけるべきであるという戒め。 「油断」は気をゆるめること。 油断は大失敗を招くから、どんなものより恐るべき敵として気をつけよ、という意。
指をくわえる 
うらやましがりながら、手出しができないでいる。 空しく傍観する。 また、なすことなく引き退く。
指を指す   
指をそめる   
夢は逆夢 

 

宵越しの金は持たぬ 
「てやんでえ、こちとら江戸っ子だい。宵越しの銭は持たねえや」…  落語や時代劇でおなじみのせりふです。でも、江戸っ子はどうして宵越しの銭を持たなかったのでしょうか。きっぷがいいという気質もあったのでしょうが、最大の理由はおそらく、大火事が頻発したことでした。天正18年(1590)から明暦3年(1657)までの67年間で、記録に残る大火が 140回。つまり江戸は半年に1回、大火事に見舞われていたのです。木と紙の家に火がつけばひとたまりもありません。その度に、体ひとつで命からがら逃げ回ったことでしょう。その上、江戸はお金を貯めておくのが難しいまちでした。銀行のような貯蓄機関がなかったのす。といって住居には鍵がないので、隠しても泥棒にいつ盗まれるか分かりません。江戸ではお金の保管が非常に難しかったので、焼けたり盗まれるよりは使い切ってしまった方がいいと考え、「宵越しの銭は持たない」江戸気質が育ったのでしょう。火災の度に、町民はお金も家財道具も失いました。しかし何度焼け落ちても、江戸はその度に復興しました。家具やお金を失っても、人々のエネルギーさえ残っていれば、まちは見事によみがえることを何度も何度も実証したのです。商店街の衰退や、ふるさとの過疎化の進行は、江戸の火事とちょっと似ています。ただ一晩で燃えてなくなるか、長い期 間にゆっくり滅びていくかの違いだけです。江戸の町民はその度立ち上がり、まちの復興を果たしてきました。現代の私たちも、エネルギーさえ残っていればまちの復興はできるはずです。ここで泣き言でも言おうものなら、 江戸っ子に「てやんでえ、べらぼうめ」と笑い飛ばされることでしょう。
その日に稼いだお金は翌日に持ち越すことなく、その日中に使い果たすという意味。あまり思い悩んでクヨクヨしない、お金にキレイでお金離れが良いという江戸っ子の気風の良さを表しており、自慢でもありました。しかし理由は他にもあったようです。火事と喧嘩は江戸の花と言われるほど火事が多かった江戸の町。今の銀行のようなものはありませんから、コツコツ貯金していても一晩で無くなってしまうということもありました。また天気によって仕事の有無が左右される職人や、屋台や棒手振りの商人などもその日その日で収入が違います。そんな日常を少し粋がって表現していたのかもしれませんね。もちろん、きちんと貯金をして将来設計を立てていた人もたくさんいるわけですから、必ずしも江戸っ子が無計画に生きていたということではありません。お金のことをいつまでもグズグズと言わないという、江戸っ子の心意気を表しているのでしょう。
欲と二人づれ   
欲に目見えず   
横車を押す 
理に合わないことを強引に押し通すことのたとえ。
横槍を入れる 
第三者が横から人の話や仕事に口を出して妨害すること。 差し出口をすること。
葦の髄から天井のぞく 
世は情け 
世渡りには、お互いに人情や思いやりの心を持って助け合うことが必要であるということ。
夜道に日は暮れぬ 
夜目遠目傘の内
女性は、夜見るとき、遠くから見るとき、傘をさしているときは、一段と美しく見えることをいう。 かすかにしか見えないとき、ぼんやりとしか見えないとき、人間は想像力をかきたてられて、実際より美しく見せるのであろう。 
寄らば大樹の陰 
強大なものが安心。 頼る相手を選ぶならば力のある者が良い。
喜んで尻餅をつく  
弱り目に祟り目
災難にあっているとき更に災難にあい災難が重なること。
 

 

来年の事を言えば鬼が笑う 
むかしから、来年の事を言うと鬼が笑うと言います。それには、こんなわけがあるのです。むかしむかし、とても強いすもうとりがいました。ところが突然の病で、ころりと死んでしまいました。人は死ぬと、えんま大王のところへ連れていかれます。生きている時に良い事をした者は、楽しい極楽へ送られます。生きている時に悪い事をした者は、恐ろしい地獄へ送られます。えんまさまは、すもうとりに聞きました。「お前は生きている時、何をしていた?」「はい、わたしはすもうをとって、みんなを楽しませてきました」 「なるほど、そいつはおもしろそうだ。よし、お前を極楽に送ってやろう。だがその前に、わたしにもすもうを見せてくれ」「でも、一人ですもうをとる事は出来ません」「心配するな。ここには強い鬼がたくさんおる。その鬼とすもうをとってくれ」 えんまさまは、一番強そうな鬼を呼んできました。相手が鬼でも、すもうなら負ける気がしません。すもうとりはしっかりとしこをふんでから、鬼の前に手をおろしました。鬼も負けじとしこをふんで、手をおろしました。「はっけよい、のこった!」えんまさまが言うと、すもうとりと鬼が四つに組みました。 鬼は怪力ですもうとりを押しますが、でもすもうとりは腰に力を入れて、「えい!」と、いう声とともに、鬼を投げ飛ばしました。投げ飛ばされた鬼は岩に頭を打ちつけて、大切な角を折ってしまいました。 「ああっ、大切な角が」 角が折れた鬼は、わんわんと泣き出しました。「こらっ、鬼が泣くなんてみっともない!」 えんまさまが言いましたが、でも鬼は泣くばかりです。困ったえんまさまは、鬼をなぐさめるように言いました。「わかったわかった。もう泣くな。来年になったら、新しい角が生えるようにしてやる」 そのとたん鬼は泣きやんで、ニッコリと笑いました。そんな事があってから、『来年の事を言うと鬼が笑う』と、言うようになったそうです。
楽あれば苦あり 
今は、安楽な思いをしていても、そのうち苦しいと思うときは来るものである、逆に、苦しいと思っているときもいつまでも続くものではない。 その時々の感情に流されず、良いときは用心し、苦しいときはそれから抜け出せるよう努力すべきであるという戒め。
楽は苦の種苦は楽の種 
らちが明かない 
ものごとがいつまでたっても進展しない、はかどらないという意味でよく使われます。 この「らち」は漢字で「埒」と書き、囲いや仕切りを意味します。

 

理屈と膏薬はどこへでもつく 
律義者の子だくさん 
律儀者は、品行方正・家内円満なので、自然に子供が多く生まれるということ。
理に勝って非に落ちる 
良薬は口に苦し
(効き目のある薬が苦いように)いさめる言葉は、非難されているように聞こえ、素直に聞くことはできないものである。しかし、反省しその言に従うことが結局自分のためになる。
臨機応変 
状況に応じた行動をとること。場合によって、その対応を変えること。「臨機」は事態にのぞむこと。「応変」は変化に応じる意。「機きに臨のぞんで変へんに応おうず」と訓読する。

 

瑠璃も玻璃も照らせば光る
類は友を呼ぶ
「気の合った者や似通った者は自然に寄り集まる」という意味があります。 趣味や好みが似ている人が自然と集まり、仲間がつくられるさまを指します。

 

礼も過ぎれば無礼
度を越した礼儀は、かえって相手を小ばかにしているように受け取られ、無礼と同じことになりかねないから注意が必要である。 礼儀も、ほどほどにせよという教訓。

 

労多くして功少なし 
労力をかけることが多い割には、それに対する見返りが少ないこと。 無駄な努力。
老少不定(ろうしょうふじょう) 
ろうそくは身を減らして人を照らす 
老馬の智 
六十の手習い 
学問や習い事をするのに年齢制限はない、何歳になって始めても遅すぎることはないという意味が込められていて、「六十」は「七十」でも「八十」でもよいということです。
ローマは一日にして成らず 
露命をつなぐ 
論語読みの論語知らず 
論語を読んで内容を理解してはいるが、その内容を実行しない人。 転じて学識を持っているが実行の伴わない人を、嘲っていう言葉。
論より証拠 

ボイルハイツは1952年の11月にアメリカにやってきた私が最初に住み着いたところであるだけに思い出が深い。ボイルアベニューにある引退者ホームはユダヤ系の引退者ホームであったと聞いている。日本人町からファースト・ストリート(第一街)を東に行って橋を渡り、坂を上りきったところにある南北の道がボイル・アベニューであり、第一街を通るPカーが停まるところでもあった。この交差点から北へ歩くとホワイト・メモリアル病院があり私はそこで耳鼻科の修練生として留学したのだが、スポンサーは436南ボイル・アベニューに診療所を構えていた原初治先生(H. James Hara, M.D.という看板)であったのだから、ボイル・アベニューは通り慣れた道であった。 菜食主義を実践していたホワイト・メモリアル病院の食堂で三食することになった私には、時々、日本人町に降りて、日本食を食べるとか、セブンスデイ・アドベンチスト教会員の家庭料理に招かれる以外には菜食で生きたことになる。日本に居たころは粗食が健康によいとか、お寺で食べた精進料理がおいしかったことは見聞きしていたが、菜食主義の料理には接したことはなかった。ここで、取り上げてみたいのは、菜食主義者が喧伝する、菜食の効能のことである。 菜食主義者が口にしない肉類のことでも規則の解釈が一筋縄ではいかないようである。旧約聖書にある、動物の肉でも豚肉は禁忌であるが、それ以外の肉類はよいのか。鳥の肉や魚の肉は問題ないのか。動物の卵は肉の中に入れないのかどうか。などいろいろと疑問が出てくる。菜食主義者はもともと宗教色が強くて医学的にみれば必須アミノ酸が欠乏するおそれがあることが指摘されているが、菜食者が健康を保持できないで長生きできないという統計などはないらしい。この統計というものは始めに結論ありで、証拠をでっち上げるために作られることが多いのであまり信用できない。沖縄人が長生きをするのは黒豚を食べる習慣があるからなども怪しいものと思うが、魚では鰭や尻尾のない貝類とか蟹類、さらに、鰻などはいけないなどの規則は迷信に近いと思う。 
 

 

輪をかける 
若い時の辛労は買ってもせよ 
若気の過ち 
人は(厄年)になる頃には何となく自分の健康状態が気にかかるようになるらしい。若くて健康に自信のある頃は、フル・スピードで暴飲暴食もするし、睡眠時間も切りつめて仕事や付き合いに精を出すのは誰しもやることである。 とにかく、歳をとってスタミナも落ち、酒量も減るのは当たり前のことで、「若気の過ち」が祟ったと思う人はいない。しかし長年に亘って大酒を飲み、煙草もどんどん吸っていると肝臓の機能も悪くなり、肺や胃癌にかかる可能性も増加することは確かである。この不摂生も年を重ねていると(蓄積作用)が出てくるとも考えられ、慣れて抵抗力がつくから害にならないと安心するのは筋が通らない。ところが、人には遺伝的要素による体の仕組みによる個人差というものがあり、若い頃から摂生に努めていたから成人病にはかからないという保証はないのであるから話がややこしくなる。従って運を天に任せて好きなように生きる方が楽しいと言う人があっても、あながち間違いだと決めつけることは出来ないと思うが、無鉄砲な生き方は危険が伴うと心に銘じるべきであろう。
わが刀で首切る 
我が身をつねって痛さを知れ 
わざわい転じて福となす 
「災い転じて福となす」 身にふりかかってきた災難を,立場や見方を変えてみることによって,うまく 活用し,逆に自分の役に立つものにすること。 幸福への足がかりにすること。
わざわいは口から 
和して同ぜず 
論語の中に「和して同ぜず」という言葉があります。 君子は誰とでも「協調」するが、道理にはずれたことには「同調」しない。 主体性をもって人とつき合うべきだ、という意味のようです。
渡りに船 
川を渡ろうとするときに、渡し場に都合よく船がいること。 必要なものや望ましい条件がたまたま具合よくそろうことのたとえ。
渡る世間に鬼はなし 
世の中には無情な人ばかりがいるのではなく、困ったときには助けてくれる情け深い人もいるものだということ。
笑う門には福来る 
いつも笑いが絶えない家には自然と幸福がやってくる、いつも明るく朗らかでいればおのずと幸せがやってくるという意味です。また、悲しいことや苦しいことがあっても、希望を失わず朗らかに生きていれば幸せが訪れるという意味もあります。
割れ鍋に綴(と)じ蓋(ぶた) 
破損した鍋にもそれ相応の蓋があること。 どんな人にも、それにふさわしい伴侶があることのたとえ。 また、両者が似通った者どうしであることのたとえ。
わわしい女は夫を食う 
「口のやかましい女は、夫の身をだめにする」という意味。もともとは狂言【太鼓負】に出てきた言葉。「わわしい女は夫を食ふといふが、そなたのことぢゃ。」・・・と家では情けない夫が妻に言った言葉。似た言葉で「雌鳥歌えば家滅ぶ」というヒドイものもある。確かに、しとやかな女性は素敵だけれど、あまりに言いすぎでは?がみがみ言われて言い返せない情けない夫たちの声が語り継がれてことわざになったのでしょう。  
 

 

 

  
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