失敗に学ぶものがあるか

 

太平洋戦争概要概要1概要2概要3概要4概要5国内体制シビリアンコントロール学歴偏重外交中国三国軍事同盟ABCD包囲網日米交渉軍事補給情報戦技術力工業力主要作戦インパール作戦太平洋戦争年表松岡洋右万骨枯る武器なき戦争国連安保理「5大国制」
日本のレーダー真珠湾攻撃海軍人事戦艦大和戦艦大和ノ最期開戦と日本人
 
太平洋戦争概要
 
 
■太平洋戦争1
(英/Pacific War、中/太平洋战争) 第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国(日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)との戦争である。太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。なお当時日本政府は大東亜戦争と呼称していたが、敗戦後連合国に使用を禁じられた。  
「太平洋戦争」という名称は、連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で当時の日本側の正式名称であった「大東亜戦争」を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせる検閲によって定着した名称で、戦後になってGHQが作った呼称である。実際、戦時中のアメリカでは主戦場がアメリカ側から見て太平洋地域であったことに因む「Pacific Theater(太平洋戦域)」という術語が広く使用されており、太平洋戦争という名称が戦時中に使われたことは、いずれの国に於いても無かった。  
戦争の期間は「1941年12月7日(ハワイ現地時間。日本時間では12月8日)から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とするのが一般的である。太平洋戦争当時の文献などを見ると「大東亜戦争」以外にも、「世界維新戦争」、「亜細亜維新」、「昭和維新戦争」などという表現も見られる。  
現在の日本においては、戦争の経緯や目的の違いから「日中戦争」と「太平洋戦争」とが別個の戦争として認識されることも多いが、当時使用された「大東亜戦争」は「支那事変」(現在使用されている日中戦争)もその範疇に含むものであった。現在においても対中戦争と対米英戦争を区別しない概念として「昭和戦争」、「アジア・太平洋戦争」などの用語が使用されている。ビルマ等アジアで主に英軍と戦った戦争を太平洋戦争と呼ぶ事に違和感があるとする意見があるためである。  
イギリスでは「War with Japan(対日戦争)」と呼ばれ、ヨーロッパでは、日中戦争は第二次世界大戦とは区別されず、日中戦争が発生した1937年7月7日からを太平洋戦争の始期とみなすことがある。  
中華民国および中華人民共和国では「中日戦争」として認識され、8年間としている。 
関与した国家・勢力  
枢軸国側  
戦闘参加国 / 大日本帝国、タイ王国(1942-45)、満州国、中華民国南京政府、蒙古自治邦政府、自由インド仮政府、ビルマ独立義勇軍(1941-42のビルマ進攻作戦のみ)  
協力・支援国 / 仏印政府(ヴィシー政権下のフランス、ドイツ(遣日潜水艦作戦や柳船など)、イタリア王国(1941-1943、遣日潜水艦作戦など※)  
民兵・ゲリラなど日本軍支援でつくられた郷土義勇軍 / インド国民軍、ビルマ防衛軍、郷土防衛義勇軍(インドネシア)、スマトラ義勇軍、ボルネオ義勇軍、ジャワ防衛義勇軍、マレー義勇軍、マレー義勇隊、越南青年先鋒隊(ベトナム)、フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉、比島ラウエル大統領付親衛隊、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、皇協維新軍(中国)、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍、満洲イスラム教徒騎兵団  
連合国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国 / ビルマ(1943-1945)、フィリピン第二共和国(1943-45)、ベトナム帝国(1945-)、ラオス王国(1945-)、カンボジア王国(1945-)、ギリシャ、クロアチア独立国、ブルガリア(1941-1944※)、独立スロバキア(1941-1945)、ハンガリー王国(1941-1944※)、ルーマニア王国(1941-1944※)、セルビア救国政府(1941-1944※)、ピンドス公国・マケドニア公国(1941-1944)、フィンランド共和国(1941-1944※)、ロシア諸民族解放委員会(1944-1945)  
連合国側  
戦闘参加国 / アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア・ニュージーランド連合軍、カナダ、オランダ、中華民国重慶政府、ソビエト連邦(1945)、蒙古人民共和国(1945)、八路軍、自由フランス(1945)  
参戦兵力の多かった統治領 / (イギリス領インド)、イギリス領マラヤ、アメリカ領フィリピン  
その他 / 大韓民国臨時政府、フクバラハップ(フィリピン共産党の抗日武装組織)、抗日マラヤ人民軍(マレーシア華僑の抗日武装組織)、フォース136(英軍によって訓練されたゲリラ部隊)、東南アジアボランティア軍(華僑武装組織)、ニューギニア族民兵(両陣営の原住民兵として参加)  
枢軸国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国 / 南アフリカ連邦、レバノン(1943-45)、エルサルバドルコスタリカ、ドミニカ(イギリス委任統治領)、ニクラグア、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、パナマ、キューバ、ノルウェー、リベリア、エジプト王国、シリア(フランス統治委任領)、サウジアラビア、イラク、イラン、メキシコ(1942-45)、ブラジル(1942-45)、コロンビア(1943-45)、ボリビア(1943-45)、イタリア王国(※1943-45)、フィンランド(※1944-45)、ルーマニア王国(※1944-45)、ブルガリア王国(※1944-45)、ペルー(1945)、ベネズエラ(1945)、ウルグアイ(1945)、パラグアイ(1945)、エクアドル(1945)、トルコ(1945)、アルゼンチン(1945)、チリ(1945)、ベルギー(1945)  
 
通史概略  
開戦前史  
ベルリン会議(1885年)とアジア分割競争  
アメリカの太平洋戦略  
満州国建国と中華民国  
中国戦線の泥沼化と三国同盟の締結  
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉、大紅門事件、蘆溝橋事件をきっかけとする中国大陸における陸軍の暴走、それに呼応して起きた郎坊事件、広安門事件、通州事件、第二次上海事変により在中邦人の安全が脅かされる事態になる。この結果、政府は軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展する。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日華事変の戦線は伸び未曽有の長期戦に陥っていた。  
劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、国際世論(欧米世論)を味方につけ、支援を引き出すために、国民党中央宣伝部国際宣伝処を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。その結果、ニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し日華事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国々は中国からの撤兵を日本に求めた。 
 
三国同盟の締結  
1940(昭和15)年7月22日、第二次近衛内閣が成立した。組閣後4日目の7月26日閣議で「基本国策要綱」を決定した。翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。 一方、大日本帝国政府は1940年(昭和15年)9月27日にナチス・ドイツ政府や、イタリア王国政府と日独伊三国軍事同盟を締結して国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、日米関係は一層悪化した。これを受け日米開戦が論じられるが政府と海軍の一部には慎重論も強い一方で陸軍は主戦派が多かった。日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。日本と中国は共にアメリカに物資を依存して戦争を行っていた。この時点で日本は石油の6割以上をアメリカから輸入していたため、アメリカなしではそもそも日中戦争の遂行は不可能な状況であった。  
第二次欧州戦線の勃発と欧米の情勢  
1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にもかかわらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入できない状況にあった。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。1941年4月の米英の統合会議では対独戦のあとに、対日戦に入ることが決定された。  
タイ王国による南部仏印侵攻  
1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。  
日米交渉の決裂と南進論の活発化  
米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省・海軍)が使用していた暗号解読機(九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナ北部に進駐し、援蒋仏印ルートを遮断したが、新たにビルマを経由する援蒋ビルマルートが作られた。1941年、駐米大使野村吉三郎のもとに陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄が渡米、民間人井川忠雄らとともに、アメリカ国務長官コーデル・ハルを交えて秘密交渉による日米関係改善が模索された。この交渉により策定された「日米諒解案」ではホノルルにおける日米首脳会談実現の可能性も示唆されていたが、枢軸外交にこだわる外務省の忌避により、交渉のさらなる進展を許可する回訓が遅れる中、独ソ開戦となり、世界の枠組みが大きく変化する中、アメリカにとって日米関係改善は急を要するものではなくなり「日米諒解案」は流産してしまった。 
開戦を決意(四回の御前会議)  
その後も日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉をよる続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」(対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは満州に向けて内地から兵員の大移送が開始されると共に、7月28日には南部仏印へもフランス政府との合意に基づき進駐を実施した。 一方、アメリカは、7月18日、アメリカ陸軍長官・海軍長官からルーズベルト大統領に中国からアメリカ人が操縦する150機の爆撃機で9月から10月にかけて東京・大阪・京都・横浜・神戸を奇襲爆撃で焼き払う作戦計画が提出され、大統領による承認がなされる。7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース隊を核とした日本本土への先制攻撃作成(J.B.No.355)が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された。さらに7月25日には在米日本資産を凍結(ハーバート・フーバー前大統領はドイツと戦争するために日本を戦争に引きずり込もうとするものであったとしている)、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣の完成)。この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄からはじまり、最初は航空用燃料の停止、北部進駐に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていた蘭印との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった(特に航空用燃料の欠乏が激しく、アメリカによる働きによって蘭印交渉でも航空燃料は要求量の1/4しか確保できず、決裂の原因となった)。また、40年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたがアメリカ政府の干渉によって契約までたどり着かなない上、仏印への和平進駐及び満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなかく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。一方、連合国側は8月25日にイギリスとソビエトは共同してイラン進駐を行っているがこれに対しては欧米列強の非難はなかった。  
9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。  
戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衞内閣は総辞職する。後継の東條内閣は18日に成立し、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて「帝国国策遂行要領」を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。  
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。  
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハル国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けたこともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。米国は満州国を承認していないため、満州国からも軍を撤退させる事を意味する。後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーが、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と日本を弁護している程極めて強硬な内容であった。東京裁判の判事であった。ラダ・ビノード・パールも後に引用している。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対し無制限潜水艦作戦を発令した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。 
 
宣戦布告と開戦  
日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。  
続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。  
日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交することが決まっていて、また、アメリカに対し宣戦布告をする可能性が高いことも分かっていたが、野村吉三郎が陸軍主計大佐新庄健吉の葬儀に参列していたため、真珠湾攻撃後の手交となった。  
なお、この覚書には戦争をうかがわせる記述が無く、「宣戦布告無しのだまし討ち」であるとアメリカ大統領が議会で発言している。また、日本側でも宣戦布告と受け取られない事を懸念して修正を求める声もあったが、外務大臣が無修正で押し切っている。  
なお、日本はイギリスに対して開戦に先立つ宣戦布告は行っておらず、対英開戦後の12月8日の朝7時半になってロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡したものの、これは正式な宣戦布告ではなかった。同日に、オランダは日本に宣戦布告した。  
公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略である」とする真珠湾攻撃陰謀説の根拠となっている。  
また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。  
第31代大統領ハーバート・フーヴァーが太平洋戦争は対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルト大統領の願望だったと述べている。 
日本軍の攻勢  
1940年9月以降日本軍は仏印進駐を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。1941年12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラの陸軍部隊の上陸(マレー作戦の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイの合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻したことに最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りを買った。  
なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。上陸作戦は宣戦布告無く開始された。  
日本海軍は、真珠湾を拠点とするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させ、戦艦8隻を撃沈破するなどの大戦果を挙げたものの、第三次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦(艦載機を含む)を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。  
また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合国軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。  
しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。 
マレー沖海戦  
一方、真珠湾攻撃の2日後(1941年12月10日)に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認し、チャーチルの強い希望でこの地域での戦闘の抑止力として配備されていたイギリス海軍の、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスは、日本海軍(第22航空戦隊)の双発の陸上爆撃機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな雷撃爆撃によりあっけなく撃沈された。なお、これは史上初の行動中の戦艦に対して航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈(他には日本海軍の戦艦大和と戦艦武蔵のみ)となり、戦艦に存在するとされた潜在的な抑止力は大いに低下したとされる。 なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また太平洋戦域では、戦艦と空母の艦隊の中での役割(攻撃主体と艦隊護衛)が入れ替わるきっかけとなった。  
この後日本軍は、連合国軍の拠点(植民地)であるマレー半島、フィリピン、ボルネオ島(カリマンタン島)、ジャワ島とスマトラ島などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。  
真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告し、12月11日には日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。  
前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。  
1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。  
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。  
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。  
この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。  
第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本軍は足止めされ、戦争資源を消耗してゆくことになる。  
1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。 
 
戦局の転換期  
4月、アメリカのアメリカ海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定するが、その直後に空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受ける。6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母ですぐ戦場に移動できるのは瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画され大鳳、雲龍、天城、葛城を筆頭に信濃や伊吹などの建造を行なうが、艦載機・搭乗員・燃料の不足により開戦時に匹敵するような能力の機動部隊運用は終戦時まで困難なままであった。対するアメリカは、終戦までにエセックス級空母を14隻建造している。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する。  
アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機などによりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。なお、アメリカ政府は、ミッドウェー海戦において勝利を収めたものの、国民感情に悪影響を及ぼさないために、この初の本土空襲の事実を公開しなかった。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。  
ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米豪両軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。  
10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の大型空母ホーネットを撃沈、大型空母エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が皆無という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。  
しかしその後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。  
1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。  
1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。  
1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での趨勢は最早決していたため、戦況には大きな影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは孤立化し始めるものの、周辺の島々が占領され補給が途絶えた中、自給自足の生活を行いつつ連日連合軍と航空戦を展開し、終戦まで持ちこたえた。 
連合軍の反攻  
米統合参謀本部の作成した「日本撃滅戦略計画」では、「1、封鎖、特に東インド諸島地域の油田およびその他の戦略物資を運ぶ日本側補給路の切断 2、日本の諸都市への継続的な空襲 3、日本本土への上陸」によって日本を撃滅できると想定していた。開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半から戦略計画に基づき反攻作戦を本格化させた。  
南西太平洋地域軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」に対して、米海軍部は一歩ずつ制空権を確保しながらでなければ前進できないとし「オレンジ計画(アメリカ海軍の対日戦争計画)」の再興を図った。結局ニミッツ海軍大将の中部太平洋地域軍がマーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、マッカーサー陸軍大将の南西太平洋地域軍がソロモン諸島、ニューギニアを経てフィリッピンへと侵攻する「太平洋横断:望楼(ウオッチタワー)作戦」が1943年に主軸作戦として発動された。その手始めに43年11月20日の南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。  
同月に日本の東條英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。  
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。  
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。  
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。  
しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字どおり壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。  
陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃圏内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った影響は大きく、攻勢のための布石は完全に無力化した。  
これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発には時間がかかった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。  
各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衞文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。  
この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すら困難な状況であった。  
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、まだ多くの空母や戦艦が残存していたものの、組織的な作戦能力は喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。  
レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。 
 
戦争末期  
1944年8月グアム島をほぼ制圧し終えた頃、アメリカ太平洋艦隊司令部では9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は海軍が全艦隊への補給能力の限界に達していることや日本本土への影響力行使の観点から意味がないと判断していた。このため次の攻撃目標は台湾ではなく海軍部内では沖縄とされた。フィリピンレイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要衝であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。  
レイテ攻略により、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり台湾攻略の戦略的な価値は更に下がったが、政治的に国民的英雄となっていた米陸軍のマッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、攻略方針について統合参謀本部で米海軍と陸軍は対立してしまった。しかし、1944年6月の八幡空襲を皮切りにした「日本本土への継続的な爆撃」は中国大陸成都基地からの散発的な空爆に代わって、11月のグアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備にともなうボーイングB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始により、統合参謀長会議でヘンリー・アーノルド陸軍大将(硫黄島攻略提唱当時)が日本本土への戦略爆撃をより効果的にできるように硫黄島の攻略を唱えたために、ついに海軍側の主張する沖縄上陸とその前提の硫黄島攻略がアメリカ軍全体の基本戦略となった。  
1944年の10月14日にルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を促した。同12月14日にスターリンは武器の提供と樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについても話された。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた(ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定))。 沖縄上陸に先駆けて1945年2月19日から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。アメリカ海軍の強力な部隊に援護された米海兵隊と、島を要塞化した日本陸海軍守備隊との間で激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。最終的に日本は東京都の一部硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、北マリアナ諸島から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。日本軍はB-29を撃墜するための新型戦闘機「震電」などの迎撃機の開発を進めることになるが、実用化には至らず、既存の戦闘機で体当たり戦法などを用い必死に抵抗したが、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。  
1945年3月10日には国際法違反である無差別爆撃・東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、ヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将がB29で編成された第21爆撃集団の司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。併せて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、イギリス軍も加えて度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。  
迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北と空襲による生産低下で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策を編み出していた英米軍に対し戦果は上がらなくなった。  
この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、1944年6月に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。  
その後、5月7日にナチス・ドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙していくことになる。とりわけ、ソ連はドイツ敗北で日本侵攻を目指して兵力を極東へ移動させた。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったが、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。  
アメリカ軍を中心とした連合軍は日本上陸の前提として沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃により、連合軍側は予定よりやや遅れたものの6月23日までに戦域の大半を占領するに至り、いよいよ日本本土上陸を目指すことになる。  
また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である世界最大の戦艦大和も4月7日に撃沈され、残存する戦艦の長門や榛名、日向、伊勢なども燃料の枯渇から行動できず、防空砲台として米軍機の攻撃にさらされるだけであった。一方で特攻兵器の「震洋」や回天・海龍などが生産され各地に基地が設営された。作戦用航空機も陸海軍機と併せると1万機以上の航空機が残存し本土決戦用に特攻機とその支援機として温存され、一部を除いてB29などへの防空戦には参加しなかった。  
この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対して基本的な操縦訓練を終えたパイロットが操縦する特攻機による攻撃が残された主な攻撃手段となり、連合軍艦艇に被害を与えるなどしたものの日本軍の軍事的な敗北は明らかであった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦に合わせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画された。1945年7月26日に連合国によりポツダム宣言が発表される。 
 
終戦  
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による犠牲者を減らすためと、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人に併せ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、軍部は昭和天皇に原爆開発を禁じられたにもかかわらず開発を試みたが日本の原子爆弾開発は基礎研究の域を出なかった。  
その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。  
6月22日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結のことを口にされた。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍と違って陸軍は、降伏を回避しようとしたので御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。  
翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。8月14日には葛根廟事件が起きた。そのような中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した(三船殉難事件)。  
また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。  
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の下、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。しかし、南樺太や千島列島では、9月4日までソ連軍との間で大規模な戦闘が行われた。また、沖縄や南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者が出た。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争、国共内戦などに多数の元日本軍将兵が参加することとなった。  
海外在住の日系人  
戦前から安い賃金でよく働くという日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカ、オーストラリア、カナダ、ペルー、ブラジルなどをはじめに移民排斥運動が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることに繋がると共に移民者は差別や偏見を受けていた(注意:当時は白人至上主義絶世期だったため、日本人のみに限らず、有色人種に対する差別や偏見も激しかった)。太平洋戦争が始まるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも、「敵性市民」として財産を没収されてアメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた(この際同じように敵国だったドイツ系の住民やイタリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する)。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日の丸を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線(米軍は日系日本人が離反し日本側に付くことを恐れたため、太平洋戦線ではなく欧州戦線へ投入された)の最前線に送られた。戦線での日系部隊の活躍はすさまじく、半数以上の犠牲をはらいつつも任務を遂行し、活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊となった。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。 
戦後処理と問題  
戦争裁判  
1946年5月から1948年にかけて日本の戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、戦前期日本の指導者らが連合国により戦犯として裁かれた。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、指導者であっても不起訴となった者もあった。また、フィリピンや中華民国などで非公式の戦争裁判(B、C級戦犯)が行われたが、これらの裁判は、裁判の体を成しておらず、多くの無実の人が不法に処刑されたともされる。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の事後法ではない国際法に違反する行為に対する裁きを受けていないため、勝者による一方的な裁判であった。  
占領政策と戦後処理問題  
GHQは民主化政策を進めると共に、国力を削ぎ、日本が二度と脅威となる存在にならないよう、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」に沿って、大規模な国家改造を実施した。大日本帝国の国家体制(国体)を解体した上で、新たに連合国(特に、アメリカ合衆国)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に民主化政策を実施した。並行して日本人の意識改革のため、言論が厳しく統制(プレスコードなど)されるとともに、教科書やラジオ(ラジオ放送「眞相はかうだ」等)などのメディアを通じ、情報誘導による民主化政策が実施された。しかしながら、民主化政策はその後の冷戦体制構築のため路線変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)につながった。  
1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、GHQは廃止され、戦後処理は終了した。ただし、占領政策と戦後処理の結果、歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊と自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など国内問題や靖国神社問題や日本の歴史教科書問題などへの諸外国の干渉や東アジア各国に対する弱腰外交など様々な歪みが生み出されたとする主張がある。  
ソビエト軍とアメリカ軍は朝鮮半島を分割占領し、朝鮮人の手による朝鮮人民共和国‎の建国を認めず、解体を命じて弾圧を行った。1948年8月13日の韓国独立、1949年9月9日の北朝鮮独立をもって朝鮮民族は独立したが南北分離独立を認めない勢力もあり、済州島四・三事件などの鎮圧事件が起き、まもなく朝鮮戦争が勃発して南北分断が確定した。  
日本人の引揚げと復員  
連合国に降伏を予告した1945年8月14日当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ロシア国立軍事公文書館の資料によると、ソ連は満州や樺太などから日本軍将兵や民間人約76万人をソ連各地に強制連行し、約2000ヶ所の収容所などで強制労働を課した。  
軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置された。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管した。  
政府は1945年9月28日にまず、舞鶴、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定した。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われた。  
戦争賠償と戦後補償  
勝戦国に対する賠償と戦後関係  
中華民国(中華人民共和国含む)  
本大戦とそれに先んじて起きていた日中戦争では、中国大陸において中華民国軍と日本軍の間で激しい攻防戦が行われ、数百万余の犠牲者を出すと共に、日本軍が多数の民間人に対して虐殺・略奪をおこなったとされるが、日中間では地域や規模などについて研究の相違が存在している。  
太平洋戦争が終わると、中華民国を率いていた中国国民党と、太平洋戦争前から対立していた中国共産党の間で国共内戦が勃発した。そして、1949年には中国共産党が勝利して中華人民共和国を中国大陸に樹立し、敗北した国民党は台湾に逃れた。その後の1952年に、主権を回復した日本国政府は、中華民国を「中国を代表する政府」として承認し、直ちに賠償問題の討議を行ったが、中華民国政府は賠償を放棄した。  
その後1972年に中華人民共和国の周恩来首相と日本国の田中角栄首相が会談し、日本は中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認し、併せて中華民国と断交することとなった。なお、この会談において賠償問題についても話し合われたが、中華人民共和国側は中華民国と同様に賠償問題を全面的に棚上げし、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)によって賠償放棄が宣言された。代わりに「隣国として助け合うこと」、「過去の過ちと反省」などの理由から、日本が中華人民共和国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することが約束された。  
日本国が1979年から中華人民共和国に対し行ってきたODA総額は、現在までに3兆円を超え、近年まで年間1000億円の資金が中華人民共和国に援助されていた。  
オランダ  
オランダは、1942年の日本軍によるオランダ領東インド(蘭印)攻略によって、同地を長く植民地として支配し続けた蘭印軍66,219名(連合軍82,618名)が捕虜とされたほか、民間人9万人余が捕らえられ、彼らが東インド住民を懲罰するために設けた監獄に収容されるという屈辱を味わった。なおオランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所に収容され、そこで被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした白馬事件が起こった。  
蘭印軍を放逐した日本は、かねてからオランダの圧政下で独立運動を行っていた蘭印の住民に独立を約束し、1945年9月に独立する運びとなっていた。しかし、1945年8月14日にポツダム宣言の調印が各国に予告されると、その3日後の1945年8月17日に、スカルノは独立を宣言した。しかし、オランダ軍はこれを認めず、スカルノら独立運動家とオランダ軍の間でインドネシア独立戦争が勃発した。その後オランダ軍は敗北し、オランダ領東インドは1949年にインドネシアとして独立を果たした。  
国家補償・元捕虜や民間人への見舞金の支払い・36億円/昭和31年(1956年・日蘭議定書) 個人補償・2億5500万円/平成13年(2001年・償い事業1)  
終戦後オランダは、捕虜虐待などの真偽が不明瞭な容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。戦後間もなくのオランダは、ナチス・ドイツ軍の侵略によって社会が疲弊していた。そんな最中、最大の植民地だった東インドを失い、経済は大打撃を受けた。このことから、独立戦争の要因を作った大日本帝国軍と、独立戦争の指導にあたった日本兵の行為に対する評価も加わり、反日感情が長らく残った。  
1971年に、太平洋戦争当時の日本軍大元帥であった昭和天皇がオランダを訪問した際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止された。その後1991年に来日した女王は、サンフランシスコ平和条約と日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」として賠償を要求した。それに対して日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。  
また2007年にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」と述べた。  
なお、サンフランシスコ平和条約の締結時に、オランダの植民地であった東インドに対する日本の侵攻に対して「被害者」の立場をとり、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したオランダに対して、インドネシア政府は、「インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」と強く批判している。また、インドネシア大統領のオランダ訪問時にも、植民地支配に関しての謝罪を求めているが、オランダからはインドネシアへの謝罪が出たことは無く、白人至上主義が全面的に出ている表れとなった。  
戦災国に対する補償と戦後関係  
日本は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負った。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しなかった。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになった。  
サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術・労働力などの経済協力)支援を行った。他にも貸付方式による有償援助もあった。  
領土返還と領土問題  
戦後、東京にアメリカ陸軍の元帥であるダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が置かれた。沖縄、奄美群島、小笠原諸島、トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。太平洋戦争中に占領された小笠原諸島や南西諸島、北方領土の返還問題はサンフランシスコ平和条約後も続き、小笠原諸島が1968年にアメリカ施設下から日本に復帰。1972年には、沖縄本土復帰が佐藤栄作政権のもと実現した。 しかし、ソ連に占領された北方領土は、ロシア連邦と日本国が意見でくいちがい、政治問題として棚上げされ、未だに解決していない(北方領土問題)。 
 
戦後の世界への影響  
太平洋と欧州において繰り広げられた全世界規模の消耗戦は世界経済に大きな打撃を与えた。国際機構として国際連合が組織された。  
日本は敗戦国であることに加え、飢饉も起こり、終戦直後は混乱を極めた。戦後の日本は、徐々に経済と社会の復興を実現し、さらには高度経済成長を果たし、奇跡とも称された。しかし、太平洋戦争の評価については、日本国民間でも定まっておらず、様々な論が並存している。  
東南アジアにおいては、大戦による欧州諸国・日本の国力低下や、太平洋戦争による経験を通じ、独立運動が高まり、終戦直後より各地で独立戦争が勃発。大航海時代以来の欧米による植民地支配(帝国主義)が崩壊する転機となった。  
ベトナムでは多くの日本軍将兵が現地に残留し、ベトナム独立戦争に参加し、クァンガイ陸軍士官学校などの教官やベトミン軍将兵としてフランス軍と戦いベトナム独立に貢献した。戦没者は靖国神社に祭られている。  
インドネシアでは多くの日本軍将兵が現地に残留し、インドネシア独立戦争に参加し、インドネシア軍将兵としてオランダ軍やイギリス軍と戦いインドネシア独立に貢献し、戦没した日本兵はカリバタ英雄墓地に祭られている。その後残留した日本人により、インドネシアとの架け橋となっていく。  
台湾では、空襲はあったものの地上戦がなかった、他地域に比べ引き揚げが基隆港より比較的平和に行われた。が、その後当初日本統治に変わる歓迎した国共内戦に敗れた蒋介石国民党政府により二・二八事件から始まる戒厳令を布かれることにより統制の時期を迎えることになる。  
朝鮮半島においては、日本の敗戦に伴い在留日本人の釜山港から引き揚げが始まる。ソ連から戻った金日成率いる赤軍による朝鮮戦争が1950年より3年間はじまり、南北朝鮮は分裂することとなる。  
中国大陸では日本軍将兵が国共内戦に加わるなどして、中華民国政府(白団)や中国共産党軍(東北民主連軍航空学校)の近代化に貢献した。  
インドにおいては特にインパール作戦からなる日英の戦いはインドに独立の可能性を与え、1947年、ガンディーにより独立を果たす。なお東京裁判においてインド出身のパール判事は日本無罪を主張した。  
アメリカにおいては、日本には勝利したものの軍需産業の活発化がはじまり、そのまま国共内戦の激化、冷戦による朝鮮、ベトナムでの赤化の抑えと超大国へと変貌していく。 
戦争の評価  
日本  
太平洋戦争の評価については、歴史家だけでなく知識人、作家、一般国民を巻き込んだ議論の的となっており、様々な見解と評価がある。  
1.ABCD包囲網やハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方、  
2.アジアを欧米の植民地から解放したとする見方、  
3.欧米の帝国主義者と同じくアジア征服を企んだとする見方、  
4.自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方、  
5.米国は日本に石油・物資を販売しながら蒋介石の中国国民党へも強力な援助を継続しており、日中共に米国と対立して戦争継続は最初から困難であった。米国は日中に対して決定的な影響力を開戦前から持っているため、太平洋戦争は米国の日本・中国双方の弱体化策であるとの見方。  
6.フランクリン・ルーズベルト米国大統領による策略(陰謀)とする見方。  
欧米  
欧米でもこの戦争については色々な見解が存在する。著名なSF作家であり歴史研究家でもあったH・G・ウエルズは、「大東亜戦争は大植民地主義に終止符をうち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」として、この戦争が文明史的な意義を持つと評価している。歴史家アーノルド・J・トインビーも、「アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間信じられてきたような不敗の神ではないことを西洋人以外の人種に明らかにした」と述べている。英国の歴史家クリストファー・ソーンも、非白人種による史上初めての大規模な戦争であり、これにより、19世紀以来の人種主義(白人中心主義)が後退していく重要な契機になったとしている。  
また、アメリカでは第二次世界大戦が米国史上はじめて経験した総力戦であったことから、国家や国家理念を象徴する戦いとして位置づけられており、特に大きな被害を出した硫黄島の戦いを題材としたモニュメントがアメリカ独立戦争のモニュメントとともに並べられることもある。また、異文明との文明衝突の見地から、アメリカ人には、この戦いで見られた日本人の行動(精神)の記憶が、後にも残存しており、アメリカ同時多発テロ事件の際には、KAMIKAZEという言葉が報道記事に使用された。  
また原子爆弾の都市への投下の正当性の問題については、ジョン・ロールズをはじめ、その正当性(十分な必要性)が議論されている。正当性が問われる理由の根拠として、人口希薄地帯に原子爆弾を投下し、威力を理解させ降伏を迫れば日本は受け入れる以外の選択はほとんど無かった可能性が高いことが挙げられる。  
ヴェノナ文書の公開以降、ルーズベルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないかという疑念が確信へと変わりつつあり、歴史観の見直しも進んでいる。また、日米戦争を引き起こしたのは、ルーズベルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのかという視点まで浮上してきた。  
アジア  
中華人民共和国(1949年以後の中国)や朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)では、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、これらの国以外からは、日本を加害者とする評価だけではなく、肯定的な評価もなされている。日本軍による占領政策は概ね否定的であり、民間徴用に伴う虐待(「びんた」は多くのアジア諸国で現地語化した)や徴発・軍票体制による旧経済の混乱、農産品市場の脆弱さに伴う飢餓の発生などが論点として挙げられる(反日感情も参照)。肯定的な評価としては現地人による自警団・自衛団を日本軍が組織したこと、それが有能で才能ある現地人の発掘に繋がり独立運動の中核を担う人材となっていったこと、日本軍の強調した民族自決と日本を長兄としたアジア連帯のうち、とくに前者が民族意識の高揚に繋がったことなどが挙げられる。中国は結果的に米英、ソ連の援助を利用して日本を追い出し、さらに欧米勢もほとんど駆逐して香港とマカオの返還で完全に外国勢力駆逐を完了した。  
太平洋戦争で大日本帝国に解放されたベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、タイ、ビルマ(ミャンマー)など東南アジアの歴史学者の多くは、太平洋戦争とそれに続くアジア各地の独立戦争を一連の流れとして考えており、欧米の戦勝国が日本の戦争責任を非難することについて、「欧米によるアジア植民地の歴史を歪曲することだ」と断じている。  
これは、当時のアジアにおいて大日本帝国とタイ王国の2ヶ国以外の総てのアジア地域はヨーロッパやアメリカの植民地若しくは隷属地であったため、(1)植民地支配からの解放に大きく寄与したとして肯定的に評価しているケース、(2)欧米に奴隷扱いされていたアジアの人々に、教育や政府機関、軍事力を整えたことを肯定しているケース、(3)戦後、再びアジアを植民地化しようと再上陸してきたヨーロッパ宗主国(特にイギリス、フランス、オランダ)に対して、旧日本軍の残党と共に戦ったことを好意的に評価しているケース、(4)日本軍の後盾で政権についた政治家(例:ベトナムのバオ・ダイ)の都合で親日的姿勢をとったケースなど様々である。  
インドネシアでは太平洋戦争終戦後、直ぐにオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)となったが、独立には残留日本兵も関与したこともあり、日本軍を独立の英雄として称えられるが、他方、日本軍による強制労働により、多くのインドネシアの若者が犠牲になった。戦後の賠償交渉では、インドネシア政府は労務者の総動員数を400万人と主張している。  
台湾  
当時は日本統治下であった台湾では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。また戦後の国共内戦で敗北し、台湾に移ってきた中国国民党の強権統治に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいる。  
戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然のことではあるが、不当な強制連行であったと批判する反日活動家もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している反日活動家もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と(講和条約により日本政府が台湾の統治権を放棄したために別の国家扱いになったため)区別して取り扱いがなされたことに対する批判もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点の一つとなっている。  
マレーシア  
他民族で構成されるマレーシアでは、太平洋戦争について見解は多様であるが、典型的な意見としては、日本による統治が、イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ諸国によるアジア植民地支配を駆逐し、アジア人自身を覚醒させたとして評価するものがある。とくに、マレー人の間では、イギリスによる長い植民地統治による愚民化政策と西洋文明の浸透(文化侵略)などによって、独自のアイデンティティーを喪失したという論調が強いとされる。戦争当時、マレー人は英国人と比べて極めて低い権利しか与えられず、いわゆる奴隷であった。当時のマレー系住民は自らを支配する存在である「白人」が無敵で、絶対的な存在だと信じていた。しかし、英国東洋艦隊が同じ東洋人である日本人によって撃滅されたことや、イギリス帝国絶対不敗神話の象徴だったシンガポールが陥落したこと、イギリス軍が焦土作戦のため、徹底的に破壊した発電所や工場などの都市設備を日本人がいとも簡単に短期間のうちに復旧させてみせたことなどを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この出来事は長い間、支配に甘んじてきたマレー系住民の意識を変える転機となり、独立心を芽生えさせた。  
ほか、植民地統治の過程で流入した華僑や印橋などの異民族との抗争を経験をしたことから、ヨーロッパ各国が行った行為に対する批判が強く、ヨーロッパ(特にイギリス・フランス・オランダ)のメディアが日本軍による戦争を批判することに対しては、ヨーロッパ各国が行った植民地支配の歴史を歪曲しようとしているとして批判的な立場をとっている。チャンドラ・ムザファーは「欧州は、日本とアジアを分断するために、日本批判を繰り返しているのではないか」と発言したり、マハティール・ビン・モハマド首相は「もしも過去のことを問題にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話をすることが出来ない。…我々は彼らと戦争をしたことがあるからだ。勿論、そういう出来事が過去にあったことを忘れたわけではないが、今は現在に基づいて関係を築いていくべきだ。マレーシアは、日本に謝罪を求めたりはしない。謝罪するよりも、もっと社会と市場を開放してもらいたいのだ。」と発言しており、ほかルックイースト政策などでも窺える。  
他方、大戦中は、民族系統に問わず日本軍に協力した者や抗日活動に身を投じた者もおり、このうち抗日運動に身を投じたのは華人系の住民が圧倒的に多く、これは日中戦争が影響している。マラヤの華僑は故国のため、国民党政府軍に物心両面の援助を惜しまなかった。中国大陸に渡り抗日軍に身を投じたり、中国国民党組織に向けて情報提供する者、抗日救国運動に力を注ぐ人々もいた。華人系マレー人のオン・カティン住宅・地方自治相は、小泉純一郎首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝した時、「私は、この歴史教科書と首相の靖国神社参拝への抗議の意思を表明する先頭に立ちたい」「侵略戦争を正しい戦争と教えることは、次の世代を誤って導くことになる」と述べている。 
 
■太平洋戦争2
世界恐慌後、世界再分割をめざす後進資本主義国であり、第1次世界大戦後の英米中心の世界秩序であったヴェルサイユ・ワシントン体制の打破をめざした日独伊のファシズム枢軸国の侵略・膨張に対し、米英仏の先進資本主義国や社会主義国のソ連、そして日本の侵略を受けていた中国などが体制の違いを超えて連携して形成した連合国との間に起きた全世界的規模の戦争をいう(1939/9/3-1945/8/15)。 
1939/9/1早朝、ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍が突如(ドイツは10年間の不可侵条約をポーランドと締結したが1939/4/28にその無効を通告)ポーランドを侵略、これに対して、同月3日に英仏がドイツに宣戦布告。ドイツは1940/4より北欧・西欧へ電撃作戦を展開、破竹の進撃で、6月にはフランスを屈服させ、ヨーロッパ大陸からイギリス軍を駆逐するとともに、イギリス本土上陸目的のための英本土空襲をはじめた。イギリス本土空襲を受けてアメリカは大量の軍需物資をイギリスに送り支援したため、ドイツは英本土上陸を断念、引き換えに独ソ中立条約を無視して1941/6/22にソ連への侵略作戦をはじめた。 
中国大陸への侵略を繰り返していた日本は、ドイツの快進撃でヒトラーによる新た世界秩序の確立を確信、独伊と同盟し、英米に対抗する新世界秩序形成の一環を担う戦略を取り、1940/9/27日独伊の三国同盟を結び、アメリカヘの譲歩を拒否、1941/4/13日ソ中立条約を締結(満州及び外モンゴルの領土保全と不可侵)、1941/12/8の真珠湾奇襲攻撃で対英米戦争へと突き進んだ。日本の攻撃に呼応して独伊もアメリカに宣戦布告、ヨーロッパ戦線とアジア戦線が一体化し、第2次世界戦争は、日独伊(枢軸国側)と「反ファシズム」で結束した英米ソ中(連合国側)の全面対決となった。奇襲により緒戦に勝利をつかんだ枢軸国側の勢いは長くは続かなかった。戦争の長期化は、戦争遂行の潜在的経済力の差を明らかにし、やがて戦力の差となって現れ戦況は連合国側が有利に展開した。ヨーロッパ戦線は、1943/2/2ソ連軍がスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で独軍を破ったことが転機となり、ドイツ軍は守勢・撤退に追い込まれた。アジア・太平洋戦線では1942/6ミッドウェイ海戦で大敗北をきっし日本軍が1943/2/1ガダルカナル島撤退に追い込まれた。1943/9/8伊(バドリア政権)の無条件降伏(政権を追われたムソリーニはドイツの助力でイタリア北部にファシスト国家「サロ共和国」を樹立)を受けて連合国側は、1943/11/22カイロ会談(ルーズベルト・チャーチル・蒋介石)・28日テヘラン会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)、1945/2/4ヤルタ会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)、7月17日ポツダム会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)などを通じて、戦争遂行の戦略と戦後処理について協議を重ねた。  
1944/6/6アイゼンハワー総司令官率いる米英を中心とする連合国軍が、対独第2戦線を形成し、北仏ノルマンデイーに上陸作戦(1941/12アメリカ参戦時にソ連が提案した作戦)を敢行、「砂漠の狐」と異名をとったロンメル将軍のドイツ軍殲滅に成功、ヨーロッパ戦線での連合国側の勝利を決定的にした。勝利を目前にしたアメリカ大統領ルーズベルトが、1945/4/12ジョージア州の別荘で脳溢血にて63歳で死去する(同年1月に就任したばかりの副大統領ハリー・トルーマンが大統領に就任)中の4月25日東側からドイツに攻撃をかけていたソ連軍と西側からドイツ軍を攻撃していたアメリカ軍が、エルベ河畔のトルガウで出合い、お互いが抱き合って勝利を祝うと共に、二度と戦わないことを誓った(「エルベの出会い」「エルベの誓い」)。その3日後の4月28日ムソリーニが愛人のクララ・ペタッチと共にイタリアのパルチザンに捕らえられ、イタリア北部の小村のドンゴで処刑されてガレージのたる木につるされ、2日後の4月30日ヒトラーがベルリンの地下壕で愛人エヴァ・ブラウンと自殺、5月8日ドイツも無条件降伏に追い込まれた。日本も1945/4/7日本海軍の象徴であった不沈戦艦「大和」を失い、6月23日沖縄戦で惨敗、東京・横浜・大阪を中心とする大都市がB−29の空襲で焦土と化したが、軍部は無謀な本土決戦(一億総玉砕)を叫び、犠牲を積み重ねていた。8月6日広島と9日長崎への原爆投下とヤルタ協定にもとづく8日のソ連の参戦(9日ソ連軍北満・北鮮・樺太侵攻)で、ついに15日ポツダム宣言を受諾・無条件降伏、9月2日降伏文書に調印し、第2次世界大戦は終結した。 
第2次世界大戦での死者は、各国政府の公式発表によれば、連合国側がイギリス約40万人、フランス約25万人、オランダ約23万人、アメリカ約55万人、ソ連610万人以上、中国1、000万人余、枢軸国側が日本310万人以上、ドイツ約325万人、イタリア約38万人に及び、人類史上最大のものであった。 
 
■太平洋戦争3
欧州戦争の開始 
関東軍がノモンハン事件でソ連・モンゴル軍と戦闘をおこなっているころ、1939/8ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだ。ドイツは日本・イタリアとソ連に対抗するために防共協定を結んでいたのだから、日本にとっては不可解。平沼騏一郎内閣は欧州情勢は複雑怪奇と声明して総辞職し、阿部信行内閣にかわった。ドイツは、イギリス・フランスとの開戦に向けた準備としてソ連との提携という戦術を一時的に採用しただけのことだった。 
1939/9ドイツがポーランドに侵入、これに対してイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、欧州戦争が始まった(第2次世界大戦ともいう)。阿部内閣と続く米内光政内閣は、欧州戦争へは介入せず日中戦争の解決に専念するとの態度をとった。 
南進論の高まり 
1940/1日米通商航海条約が失効すると、軍需物資の確保が次第に困難になった。同年3月汪兆銘を主席とする新しい中国国民政府が南京に樹立され、兵站を確保できていない日本軍の物資略奪・残虐行為が後を絶たず、占領地行政に失敗している状況で、日中戦争を終結させる有効な手段ともなりえなかった。そのうえイギリス・アメリカが重慶の中国国民政府に対して東南アジア経由で支援を強めていた(この軍需物資の支援ルートを援蒋ルートとよぶ)。日中戦争の解決への見通しがたたない状況のなか、援蒋ルートの遮断と石油などの資源の確保をめざし東南アジア進出を主唱する動き(南進論)が強まる。とりわけ、ヨーロッパでドイツ軍がオランダ・フランスを降伏させるや、陸軍がドイツとの提携強化・東南アジア進出を主張して米内内閣と対立した。
 
近衛新体制 
新体制運動の開始 
近衛文麿らは、一国一党体制にもとづく新しい国民組織をつくり、それを基礎として強力な内閣を組織、戦争・政治にわたる統一的な指導を実現させようとした。この近衛新党づくりが新体制運動だ。これには陸軍や革新官僚もそれぞれの思惑から積極的で、政党のなかでも既成政党の解消を主唱する動きが強まっていった。そうしたなか、陸軍は軍部大臣現役武官制を利用して米内内閣を総辞職に追い込む。畑俊六陸相を辞職させ、後任を推薦しなかったのだ。1940/7近衛文麿が内閣を組織し、対米強硬派の松岡洋右が外相、東条英機が陸相に就任した(第2次近衛文麿内閣)。 
大政翼賛会の成立 
第2次近衛内閣が成立すると、すべての合法政党が自主的に解散し、近衛による新党結成を待ち望んだ。そうして1940/10近衛首相を総裁として大政翼賛会が結成された。これは政府の決定を伝達するための機関(上意下達機関)であり、のちには町内会・部落会・隣組が下部組織に編制された。この結果、近衛らが構想していた一国一党体制をささえる政治組織の結成は実現しなかったものの、帝国議会は行政の補助機関となってしまった。1940/10産業報国会の中央組織として大日本産業報国会が創立されるなど、各分野の諸団体の統合も進んだ。 
小学校の国民学校への改称 
1941小学校が国民学校と改称され「皇国臣民の練成」がめざされた。このとき義務教育が8年に延長されたが、戦争の激化にともなって実施が延期され、実現しなかった。
 
東南アジア進出 
北部仏印進駐 
第2次近衛内閣は大東亜共栄圏の建設を掲げ、日中戦争の解決を求めて南進を本格化させた。フランス領インドシナの北部地域を軍事占領した。 
北部仏印進駐/1940ハノイ周辺に軍隊を進駐 
 日独伊三国同盟/1940日本全権松岡洋右外相 
 日華基本条約/1940汪兆銘の南京政府を承認 
 日ソ中立条約/1941松岡洋右外相とモロトフ外相 
 日米交渉の開始/1941野村吉三郎駐米大使とハル国務長官 
北部仏印進駐にあたり、アメリカとの関係を悪化させることを警戒した近衛内閣は、1940/9日独伊三国同盟を結び、ドイツ・イタリアとの提携強化によってアメリカを牽制する一方、両国間の対立を調整するため、1941/4から日米交渉を開始した。南進を進めるうえでの北方からの軍事的脅威を弱めるため、1941/4日ソ中立条約を結んだ。松岡外相は、日独伊三国軍事同盟にソ連を加えた四国協商を実現させ、それによりアメリカを圧倒しようという構想をもっていたが、すでに独ソ関係は険悪となっていた。 
独ソ戦争の開始 
1941/6ドイツが突如ソ連に宣戦布告、独ソ戦争が始まった。世界軍事情勢が大きく変動した。それに対し第2次近衛内閣と軍部は、7月天皇臨席のもとで重要国策決定のための会議(御前会議)を開き、情勢が有利になればソ連に侵攻する/南進をすすめて対英米戦を辞せずと決定した。そして陸軍は関東軍特種演習のもとに満州に兵力を集結させたが、対ソ武力行使は中止された。 
日米交渉の難航 
日米交渉は三国同盟の解消や日本軍の中国からの撤退などの問題をめぐって難航し、対米強硬派の松岡外相が交渉の打ち切りを主張した。それに対し、交渉継続を主張する近衛首相は、いったん内閣総辞職をおこない、松岡外相をのぞいたうえで第3次内閣を成立させた。交渉を継続させるため、アメリカに好印象を与えようとした。ところが、第3次近衛内閣成立直後の7月末、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行されると、アメリカは日本に対する経済制裁を強化した。石油輸出を全面禁止し、在米日本資産を凍結したのだ。イギリス・オランダ領東インドが追随したため、ジャーナリズムはABCD包囲陣と書き立て国民の危機感をあおった。第3次近衛内閣と軍部は、9月御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定、(1)日米交渉成立の期限を10月上旬とし、(2)10月下旬をめどにしてアメリカ・イギリス・オランダとの開戦準備を整えることとした。
 
アジア太平洋戦争 
日米交渉の決裂 
10月上旬、ハル国務長官が日本軍の中国(満州を除く)・仏印からの撤退を要求し、日米交渉は完全に行きづまった。すでに「帝国国策遂行要領」の定めたタイムリミットが到来していた。第3次近衛内閣は、交渉の妥結を主張する近衛首相らと撤兵を拒否する東条陸相が対立し総辞職した。後継首相には、木戸幸一内大臣の推挙により、対米最強硬派の東条英機陸相が就任した。主戦論者によって開戦論を抑制するという賭けだった。東条内閣と軍部は、11月御前会議で日米交渉が不成立の場合には12月初旬に武力を発動することを決定した。これに対して、アメリカは満州事変以前の状態への復帰を要求した(ハル・ノート)、事実上の最後通牒であり、アメリカは日本から開戦に導くことによって戦争の名分を得ることをねらっていた。12月1日御前会議で開戦を決定、8日日本軍はハワイ真珠湾とマレー半島を奇襲攻撃した。アメリカ・イギリス・オランダに対して宣戦布告し、日中戦争を含めて大東亜戦争と称した。ドイツ・イタリアも三国軍事同盟にもとづいてアメリカに宣戦布告、1942/1アメリカ・イギリス・ソ連・中国などが共同宣言を発して連合国(the United Nations)を結成し、全面的な世界戦争が始まった。 
緒戦の勝利 
緒戦は日本側に有利に進んだ。イギリスの拠点香港・シンガポールを陥落させ、1942春までにフィリピン・ビルマ(今のミャンマー)・ジャワなど、東南アジア・西太平洋地域を占領した。しかし同年夏から戦局が転換した。ミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ海軍に惨敗、また、日本軍がソロモン諸島のガタルカナル島への上陸作戦を開始したが、まもなくアメリカ軍の反攻がはじまった。1943/2日本軍はついにガタルカナル島から撤退、以後、戦局の主導権を完全に連合国軍に奪われる。ちょうどドイツ軍がスターリングラードでソ連軍に敗北したのと同時期であり、1943/8にはイタリアが降伏した。  
大東亜共栄圏の実態 
日本は東南アジア・西太平洋の広大な地域を占領するに際し、欧米による侵略からのアジアの解放・大東亜共栄圏の建設を主唱したが、占領地では征服者として君臨し、軍政を実施して石油・錫・鉄鉱石など重要資源の確保と現地軍の自活を優先させた。軍政担当者は軍票を乱発して物資を徴発したり、現地住民を軍用工事に労務者として強制労働させたりした。タイとビルマをむすぶ軍用鉄道(泰緬鉄道)の建設工事には、労務者だけでなく連合国軍の捕虜も動員された上に、劣悪な条件のなかで工事が強行されたため、多くの労務者・捕虜が死亡した。戦局の悪化とともに、民心を把握する必要から占領政策を転換させる。1943ビルマ・フィリピンを独立させ、さらにインドの独立をめざして自由インド仮政府を樹立させた。そして同年11月、それらの政府に加えて満州国、中国汪兆銘政府、そしてタイの代表者を東京に招いて大東亜会議を開催した。占領地域の結束を誇示しようとしたのだ。とはいえ、マレーやオランダ領東インド(いまのインドネシア)については重要資源の供給地として日本領に編入する方針をとっており、占領地域すべての国家的独立を認めたわけではなかった。独立を認めらたビルマ・フィリピンでも日本の軍事的支配という実態は変わらなかった。そのため、占領当初は日本軍に協力的だった各地の民衆も、期待が幻滅に代わり、しだいに抗日の傾向を強めていく。
 
国民生活 
翼賛選挙 
1942/4東条内閣は総選挙の実施に際し、候補者の推薦制を導入した(翼賛選挙)。当選議員のほとんどを含む唯一の政治団体として翼賛政治会を結成させ、一国一党体制を形式的に整えた。 
国民の戦争への総動員 
戦争の拡大とともに徴兵の強化・軍需生産の拡大により労働力が不足した。中等学校以上の学生・生徒を勤労動員、未婚の女子を女子挺身隊に編成して軍需工場などに動員し、朝鮮人や占領下の中国人を強制連行して鉱山などで働かせた。戦局の悪化にともない、1943大学生と高等学校・専門学校生徒の徴兵猶予が停止され、徴兵適齢の文科系学生が軍に召集された(学徒出陣)。さらに、朝鮮や台湾でも徴兵制が導入された。朝鮮では1938に特別志願兵制度、1944徴兵制が実施され、台湾では1942に特別志願兵制度、1945徴兵制が実施された。しかし、船舶の大量喪失により、東南アジアの占領地から石油・鉄鉱石などの資源を国内に輸送することが不可能になり、日本経済は致命的な打撃をうけた。1944末からの本土空襲により都市での国民生活は破綻、国民学校児童の疎開(学童疎開)もおこなわれた。
 
敗北 
戦局の悪化 
1944/7マリアナ諸島のサイパン島が陥落。これは東京が連合国軍の空襲圏内に入ったことを意味し、日本の敗戦は必至となった。その結果、昭和天皇から絶対的な信頼を得ていた東条内閣も総辞職、かわって陸軍軍人小磯国昭と穏健派の海軍長老米内光政が内閣を組織した。1944末からマリアナ基地のB29による本土爆撃が開始され、1945/3には東京が夜間に無差別爆撃をうけた(東京大空襲)。1945/4沖縄本島にアメリカ軍が上陸(沖縄戦)。日本軍は、中学校・師範学校の男子生徒を鉄血勤皇隊に組織して実戦に投入、高等女学校・女子師範学校の女子生徒をひめゆり部隊などに編成して従軍看護婦として動員した。また、アメリカ軍による住民の無差別殺戮、日本軍による住民虐殺・集団自決への誘導などがおこなわれ、多数の非戦闘員が犠牲になった。沖縄戦の敗北がはっきりした段階で、昭和天皇も終戦を決意し、1945/4小磯内閣にかわって鈴木貫太郎内閣が成立。一億玉砕を掲げて本土決戦の態勢を整え、天皇制護持に向けて終戦工作が進められた。一方、ヨーロッパでは5月ドイツが無条件降伏した。 
連合国の対応 
連合国の目標は日本の無条件降伏だった。  
カイロ宣言[1943/11]米(ローズヴェルト)英(チャーチル)中(蒋介石)対日領土方針(朝鮮の独立など)日本の無条件降伏までの行動の続行を表明 
ヤルタ協定[1945/2]米英ソ(スターリン)ドイツ降伏後2-3か月以内のソ連の対日参戦・南樺太と千島のソ連帰属を決定 
ポツダム宣言[1945/7]米(トルーマン)英中 日本に無条件降伏を勧告  
日本の無条件降伏 
ポツダム宣言の発表に対して鈴木内閣が黙殺との態度をとると、アメリカが広島・長崎へ原子爆弾を投下、ソ連が宣戦布告して満州・朝鮮・樺太ついで千島に侵攻した。鈴木内閣と軍部は8月14日御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、連合国に通告した。同日付で「終戦の詔書」が発せられた。それにともなって鈴木内閣が総辞職し、皇族東久邇宮稔彦王が内閣を組織した。軍内部の主戦論者の不満や敗戦にともなう国民の動揺を抑える意図から初の皇族首班内閣が組織されたのだ。9月2日降伏文書に調印、連合国軍による日本占領が始まる。
 
■太平洋戦争4
日中戦争の発端となった1938年7月の盧溝橋事件、その真相は今も明らかになっていない。事件が起きると当時の近衛首相は直ちに不拡大方針を打ち出した。当時、日本の傀儡国家満州国は強力な軍事力を持つソビエトと直接向き合っていた。陸軍参謀本部の中には「対支一撃論」と呼ばれる主張があった。即ち大軍で威嚇し攻撃すれば、中国はすぐに鉾を収めるというもので、この主張に押し切られ軍の派兵が決まった、これは6年前に起きた満州事変の影響があった。関東軍が独断で戦争を拡大、わずか4ヶ月で中国東北部のほぼ全域を占領した。政府は、その後、関東軍の行動を追認、傀儡国家満州国が建国された。蒋介石は軍閥や共産党との対立が続き日本軍への積極的な抵抗は命じなかった。国民党の体制について日本は、党は堕落し党員は腐敗、中国は四分五裂して国家の体をなしていないと分析していた。しかし、中国は満州事変から6年大きな変貌を遂げ、軍閥との戦いに勝利し国家体制の整備を続けていた。蒋介石日記「7月8日(盧溝橋事件の翌日)日本は盧溝橋で侵略行為に出た。わが軍の準備ができてないと見て、屈服させるつもりか。今こそ応戦の決意を示す時だ」。 
1938年8月、盧溝橋から1月後に上海で新たな武力衝突が起こった。当時上海には、欧米諸国や日本が権益を持つ租界があり、3万人の日本人も暮らしていた。この居留民保護を目的とする日本軍が5000、蒋介石はこれを上回る精鋭を送った。日本陸軍は10万を超える陸軍を送り、戦火は一気に拡大する。蒋介石の下には30人に上るドイツの軍事顧問団がいた。リーダーは歩兵部隊の育成の第一人者として知られ彼によれば「中国兵の士気は高い。徹底抗戦の構えは整っている」。当時、日本と防共協定を結んでいたドイツ、その一方で日本に敵対する中国に軍事支援を行っていた。ナチスドイツは「日本との協調関係は維持する。しかし武器などの中国への輸出も、偽装できる限り続ける」とした。ドイツは装甲車や戦闘機などが大量に輸出、ドイツ式ヘルメットをかぶり、軍事訓練を受ける中国兵士たちに、最新兵器の使い方を教え精鋭部隊を育成した。盧溝橋事件の半年前に作成された地図によれば、この下の地域、南京、上海ではすでに防御陣地が築かれていた。上海の西に防御線を敷き、首都南京を守る体制を敷いていたのである。蒋介石日記「中国北部でいくら戦争をしても誰も注目しません。国際都市上海で戦争をすれば、国際世論を喚起できます」「アジアの問題は、ヨーロッパ、世界各国と共同で解決する。そして、侵略者日本を処置する」。
  
水路(クリーク)が網の目のように走る地形を利用した上海での戦いは、激戦となった。主戦場となった郊外には、クリークが網の目のように走り、ドイツに学んだ中国軍は、この地形を利用した防御体制を敷いていた。狙撃兵に左腕を打ち抜かれた第9師団の機関銃兵Kさんは「家は男一人家を守るためには、片腕でも両足なくしても内地に帰らなきゃ。一発の弾丸ぐらいで死んでたまるか」。中国は一撃すれば屈服するという言葉とは裏腹に、敵愾心を募らせていた。10月20日東京の参謀本部は大規模な増援部隊の派遣を決定。この軍の決定は戦いの早期終結を図るため、戦場を上海付近に限定した。そのため蘇州と嘉興を結ぶ線を引き、その線を越えて西に進軍することを禁じた、これを「制令線」と言った。陸軍増派の決定は、政府にも大きな決断を迫ることになった。戦いが拡大した以上、正式に宣戦布告し、国際法上の戦争にすべきかどうかには問題があった。日本は当時国際法上の戦争にしたくない事情があった、鍵を握っているのはアメリカ。当時アメリカは、国際都市上海を爆撃する日本に批判を強めていた。日本は石油や兵器の材料の多くを、アメリカに依存していた。アメリカには戦争当事国への戦略物資の輸出を禁じた中立法があった。もし日本が宣戦布告すると、アメリカがこの中立法を発動する恐れがあった。結局日本は戦いを支那事変と称し、国際法上の戦争ではないという立場をとり続けた。11月5日およそ7万の増援部隊が上海の南、杭州湾に上陸を開始、これを機に形勢は日本軍有利に傾いていく。 
蒋介石はアメリカやヨーロッパに働きかけを強め、戦局の打開を図ろうとした。戦争の拡大を恐れる欧米諸国が、ブリュッセルで国際会議を開こうとしていた。蒋介石はその場で日本の不当性を訴え、制裁措置を発動させようとした。川沿いに建つ「四行倉庫」が最大の激戦地となった。この倉庫の対岸には欧米諸国の租界があった。欧米諸国のメディアは、四行倉庫の攻防戦を撮影し世界に伝えた。これこそが蒋介石の狙いだった。蒋介石の言葉「この場所を死守させる。そうすれば、世界中の人々に感動を与えることができる」。しかし、ブリュッセルで開かれた国際会議は、蒋介石の期待を裏切り、各国の日本との関係悪化を決定的なものにする経済制裁の発動に、踏み切ろうとしなかった。四行倉庫での激戦は4日間で終わり、蒋介石はドイツ式の精鋭部隊を失った。日本軍は11月上旬上海を陥落させた。この辺で一度交代を期待する兵士の思いをよそに、M現地司令官らは戦地拡大に動き出していた。11月22日司令官は参謀本部に電報を送った「制令線に軍を留めることは戦機を逸するのみ。南京に向かう追撃は可能なり」。一気に首都南京を攻め落とすことを進言した。参謀本部は制令線を超える追撃は、命令逸脱行為であるとしたが、現地に呼応するS作戦部長は昭和天皇を前にした大本営御前会議で、独断で「新たなる準備態勢を整え、南京その他を攻撃することも考慮しています」と報告した。
  
12月1日軍中央は南京攻撃を正式に命令する。現地軍の独走、軍上層部による追認と、満州事変と同じ構図が繰り返された。20万を超える日本軍が一斉に南京に向かって進撃。11月30日蒋介石の新たな挽回の方策はソビエトに参戦を促すことだった。ソビエトは当時蒋介石の要望に答え、武器の供与を行っていた。スターリンは中国に当てた電報の中で「兵器の供給は1億中国ドルまで増やすことができる。戦闘機200機、戦車200両も供給することができる」。12月5日「ソビエトは出兵するが最高会議の承認が必要である。会議は遅くとも2ヵ月後には開催される」と即時出兵はできないという回答だった。スターリンは日本のほか、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったドイツ軍に、神経を尖らせていた。蒋介石は南京郊外の農村に400を越える陣地を築き、防衛ラインを敷いた。南京から15kmの郊外の村で、12月上旬激しい戦闘が始まった。12月7日蒋介石は南京防衛軍およそ10万を残し、自らは戦線の立て直しを図るため、南京を離れた。相前後して、ドイツ軍事顧問団や国民政府の幹部も、城外に逃れた。12月10日日本軍は総攻撃を開始し、中国防衛軍司令官が逃亡、残された中国兵は指揮系統を失い大混乱に陥った。攻撃開始から3日後、南京は陥落した。13日城内掃討の命令が下った「青壮年はすべて敗残兵または便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕、監禁すべし」。
  
当時城内には、戦火に巻き込まれた人々を保護するため難民区が設けられていた。日本軍は難民区の中にも、中国兵が潜んでいるとして掃討対象とした。難民区を運営する国際委員会は、捕まえられた中国兵は捕虜と認められるため、人道的に扱うよう求めた。日本は、当時、捕虜の扱いについて定めた国際法を批准していた。この国際法に対して陸軍省は「日中両国は国際法上の戦争状態に入っていないため、捕虜などの言葉の使用は避けるように」と指示している。上海から南京にいたるまで、日本は宣戦布告せず、日中両国間の事変としたまま戦線を拡大した。従って、捕虜の取り扱いを定めた国際法が、機能する状態ではなかったとしたのである。皇族も参加する南京入城式が2日後に迫った15日、新たな掃討命令が下った「連隊は難民地区の敗残兵を、徹底的に捕捉、殲滅せんとす」。逮捕、監禁命令が、捕捉、殲滅に変わった。日本では、南京陥落を大々的に報じて国民は祝賀ムードに沸き返っていた。近衛首相は声明を発表「日本は今後中国の国民政府を相手としない」。この声明により日中両国は外交による対話を失い、戦争は解決の糸口を見せないまま長期化していく。  
蒋介石は屈服せず、新しい首都を重慶と定め、徹底抗戦の決意を新たに「私は屈服して滅亡するより戦って死ぬことを選ぶ」。南京陥落は多くの外国人によって目撃され、国際社会に波紋を広げていくことになる。あるドイツ外交官が、アメリカ人宣教師によって撮影された説明書つきフィルムと共に、衝撃的な歴史的資料として本国に多くの報告書を送った。ヒトラーは報告書が送られた1938年軍事顧問団の中国派遣を打ち切り、日本との関係を深めつつあった。このフィルムのコピーがアメリカに渡っていた。当時、日本軍の勢力拡大に神経を尖らせていたアメリカでは、このフィルムの上映会が繰り返し行われた。「何人もの民間人がロープで縛られ、川岸や池のふち、空き地に連行され、機関銃や銃剣、手榴弾で殺された」。このフィルムにメディアも注目し、日本の残虐行為を非難する記事があふれた。 
蒋介石はアメリカの世論に注目、メディアをはじめアメリカ社会への働きかけを強めていく。アメリカでは日本製品の不買運動が広がり、1939年政府は日本との貿易を制限する政策をとり始める。毛沢東率いる八露軍も日本軍に対するゲリラ戦を展開。 
南京陥落から4年後の1941年、日本はアメリカとの全面戦争に突入、中国も日本に宣戦布告する。日本は盧溝橋から始まった事変から世界戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、そして軍の独走を止めることのできなかった国のあり方。日本の戦線はアジアから太平洋へと拡大し、国民は次々と戦線へ動員されていった。
  
■太平洋戦争5 / 総括
攻撃偏重主義、戦闘意義の不徹底、情報の軽視と多くの失敗を犯した。基本的な戦闘理由の忘失が致命的で、一体何のための戦闘で、何を望んでの戦闘かといった事すら失念しているとしか思えない。 
米軍や連合国側は全て合理的で完璧に作戦を遂行しているようなイメージがあるが、彼らも同じ人間で下記の4海戦で相当のミスを犯している。 
真珠湾奇襲/攻撃の予測は立っていたが、日本軍を軽視し過ぎ大損害を被った。ミッドウェイ海戦/ミッドウェイ基地航空隊が役にたたず効率を欠く。ソロモン海戦/本来なら輸送船団ごと全滅している海戦。レイテ沖海戦/囮作戦に完全に引っかかり、レイテ湾の危機を招く。 
愚かな戦い方で敗亡していった国家や軍隊は別に歴史上珍しい事例ではない。近代戦のため死傷者の数が桁違いに多くなり一層の悲劇となった。戦争とは錯誤の繰り返しで、過失の数と、その過失の処理により勝敗が決まるもので、あまりにもうかつな人命消費といえる。 
不幸な戦争で約300万名もの命が失われた。このうち相当数の死者は1944-45にかけてのものである。1945に入ってからの日本の戦死者は、太平洋戦争の死者の半数を数え、沖縄戦の20万、東京大空襲の10万、広島、長崎の15万など、簡単に挙げただけで300万人の相当数を占める。日本にアメリカに攻め込みワシントンを占領する程の国力がないのは、陸軍でさえ理解していたはずである。その上で戦争を強行するのなら、日露戦争のようにはっきりとした勝算と目的を持っておこなうべきであった。 
戦争中の軍の行動にも疑問が残る。国民に対する極端な秘密主義は軍民一致の思想から大きくずれ、勝った勝ったの大本営放送は、軍や政治家自身さえも情勢判断を誤らせる結果となった。
 
国内体制

 

大本営  
日清戦争から大東亜戦争(日中戦争及び太平洋戦争を含む戦争の日本政府の呼称)にかけての戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。  
日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま、大東亜戦争終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。  
大東亜戦争末期には日本の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が「大本営発表」として流され続けた。このことから現在では、権力者が自己の都合の良いように情報操作をして虚偽の情報を発信することを揶揄して「大本営」「大本営発表」という表現が用いられる。  
概要  
陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時においてのみ陸海軍の軍令が対等となったばかりであり、戦時大本営条例により戦時における海軍の軍令をも統括していた陸軍の参謀総長のみが幕僚長とされた。同年9月15日、戦争指導の拠点を広島に置くために天皇が移り、大本営も広島に移った(広島大本営)。1896年4月1日大本営解散の詔勅によって解散した。  
日露戦争における大本営は1904年2月11日に設置された。このときは1903年の大本営条例の改訂により、戦時においても軍令機関が対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。1905年12月20日解散した。  
日中戦争(支那事変)は正式には戦争ではなかったため、1937年11月18日、大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止され、新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定された。1937年11月20日、大本営が設置され、そのまま大東亜戦争に移行した。戦争末期には長野市松代町に建設された地下壕への遷都も計画されたが(松代大本営)、未完成のまま終戦を迎え、1945年9月13日に廃止された。  
組織  
大本営の組織の実体はほとんどが参謀本部及び軍令部の組織であった。大本営会議は天皇、参謀総長、軍令部総長・参謀次長・軍令部次長・参謀本部第1部長(作戦部長)・軍令部第1部長・参謀本部作戦課長・軍令部作戦課長によって構成された(陸軍大臣と海軍大臣は会議に列したが発言権はなかった)。大本営の組織には内閣総理大臣、外務大臣など政府側の文官は含まれない(例外として、小磯内閣期に首相が大本営のメンバーとなったことがある)。大本営と政府との意思統一を目的として大本営政府連絡会議が設置された。  
また大本営は戦果に関する広報も行っていたが、1943年中盤以降の戦況の悪化に伴い日本軍が敗走を続けると、真実を伝えないという、いわゆる「大本営発表」を行った。  
なお、内部の相互交流は昭和期はあまり盛んではなく、それにより作戦課の参謀が現地情報及び敵軍の傾向を軽視して把握しないまま作戦を立案するという悪癖を生んだ。 
 
シビリアンコントロール1
シビリアンコントロールとは、文民が最高指揮権を持ち、実質的な力を持つ軍人を統制する原則である(文民とは軍人以外つまり官僚や政治家)。 
日本は1878/参謀本部條例の制定により、参謀本部つまり軍部の独立が実現した。この意味は軍令(軍隊を指揮統率すること)に関して政府や陸軍省の干渉を認めないことである。陸軍省は軍政(軍隊の維持、管理など)のみを担当する機関とされ、1893/この海軍版といえる海軍軍令部(軍令部)が設置された。1900/陸海軍省の大臣は現役の大将か中将に限るという制度(軍部大臣現役武官制)が制定された。これは政府や内閣の軍隊統制権の否定、シビリアンコントロールの否定である。もし軍が政府に対する不満があれば、陸海軍大臣の辞職によって内閣をつぶすことができる事になる。その悪例として1930のロンドン軍縮会議において、浜口首相が海軍の反対を押し切って軍縮案に調印したため、それを不満とする海軍大臣と軍令部長が辞職し、そのために内閣が倒れた(統帥権干犯問題)。この事件により、その後軍に対抗できる政治家が減少し、5・15事件(1932)で犬養毅首相が暗殺され、2・26事件(1936)では斉藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣が暗殺され、岡田内閣が総辞職に追い込まれる事態に及び、ますます気骨のある政治家は減少した。次期首相の広田弘毅は、陸軍の要求である外相と法相の人事条件を受け入れる事により、やっと組閣できる有様だった。陸海軍の介入を阻止できなかった政府に最大の責任があるが、藩閥、軍閥が中心となっている政府の成立過程を考えると当然ともいえる。藩閥とは主に薩摩、長州の出身者で構成された政治の世界の勢力を指し、軍部においても同じ勢力があった。海軍は薩閥が握り、陸軍は長閥が握るという、明治維新以来の勢力図である。海軍の領袖は山本権兵衛で、陸軍は山縣有朋である。山本は比較的公平な性格とされるが、山縣は長州系の軍人を優遇し、それ以外のものに対してきわめて冷淡であったと伝えられる。
 
文民統制・シビリアンコントロール2
文民統制(シビリアン・コントロール、civilian control of the military)とは、文民の政治家が軍隊を統制するという政軍関係における基本方針である。政治が原則的に軍事に優先することを理念とする。文民(civilian)の語意を明確にする意図から政治統制(Political control)の表現が用いられる事がある。文民統制・シビリアンコントロールとは民主主義国における軍事に対する政治優先または軍事力に対する民主主義的統制をいう。主権者である国民が、選挙により選出された国民の代表を通じ、軍事に対して、最終的判断・決定権を持つ、という国家安全保障政策における民主主義の基本原則である。軍について一般的に最高指揮官は首相・大統領とされるが、あくまでも軍に対する関係であって、シビリアン・コントロールの主体は、立法府(国会・議会)そして究極的に国民である。このため欧米では本質を的確に表現するPolitical Control(政治統制)、Democratic Control Over the Military(デモクラティック・コントロール)など民主的統制という表現が使われることが一般化しつつある。民主主義国において、戦争・平和の問題は、国民の生命・身体の安全・自由に直結する、最も重要な問題であり、主権者である国民が国民の代表を通じて、これを判断・決定する必要がある。シビリアンコントロールにおいて、職業的軍事組織は軍事アドバイスを行い、これを受けて国民の代表が総合的見地から判断・決定を行い、その決定を軍事組織が実施するということが原則となる。国防・安全保障政策の基本的判断や決定は、選挙で選出された国民の代表が行う。彼らが軍人より優秀ということではなく、国民の代表という正当性を体現するからである。何よりも国民の代表は、国民に対し説明責任を持ち、国民は彼らの決定に不服があれば、選挙を通じて彼らを排除出来るからである。シビリアンコントロールの下、法の支配と民主主義の政治過程を尊重する観点から、軍事組織の構成員は、あくまで軍事の専門家としての役割に特化し、政治判断に敢えて立ち入らないとされる。軍事組織は予断を行わず正確に情報を開示し、国会(国民)に判断・決定を仰ぎ、国会(国民)の決定を確実・正確に執行する役割に特化する。兵は任官において議会や大統領(元首)などに、あるいは立法および国民に対する忠誠の宣誓が求められる。
 
一般に軍事的組織構成員も、国民の一人として投票権を行使する。しかしながら、シビリアン・コントロールの下、軍事的組織は政治的中立性、非党派性を保つべきものとされ、軍事的組織構成員が政治的活動を行い、政治的意思表明を行う場合は軍務を辞するべきものとされる。日本において、シビリアンコントロールとは、軍事的組織構成員には発言権が無いこと一般的に理解されているが、自衛隊は「軍」ではないとの建前から政軍関係に関する議論が乏しく、実態は、軍事的組織の予算、人事、そして行動につき「最終的な」命令権が、軍事的組織そのものにはなく政府や議会にあることが制度的に保証されている状態をいうとの理解にとどまっている。現に防衛政策立案に際して、軍事の中枢たる統合幕僚監部及び陸海空幕僚監部が、防衛省内局と共に大きな役割を担っている。これに対しシビリアン・コントロールの観点からは、軍の役割・任務など、防衛政策の基本的問題は、立法府(国会)を中心としたオープンな国民的議論により、判断・決定されなければならない。オープンな国民的議論を通じて形成された広範な国民的合意に基づいてこそ、防衛政策は正当性を持ち、またそのより有効な実施が保証される。また、シビリアンコントロールにおける「シビリアン」とは、日本語訳で文民、つまり一般国民代表たる政治家のことを指し、防衛省の事務官(背広組)を含めた官僚のことを指すわけではない。現在、日本の防衛省においては、防衛大臣の下に防衛参事官がおかれ、「防衛省の所掌事務に関する基本的方針の策定について防衛大臣を補佐する」という大きな権限が与えられている。そして、官房長・局長は防衛参事官をもって充てるものとされ、幕僚監部が作成する諸計画に対する指示・承認、並びに、幕僚監部に対する一般的監督について、防衛大臣を補佐する権限を与えられている。このため、制度的・慣習的に内局が幕僚監部より優位に立ち「文官優位」「文官統制」の傾向を持つとの指摘がある。
 
サミュエル・P・ハンティントン(ハーバード大学)によれば、文民統制に大きく2つの形態が存在する。第一に「主体的文民統制」であり、文民の軍隊への影響力を最大化することによって、軍隊が政治に完全に従属させ、統制するというものである。しかしこれは政治家が軍事指導者である必要があるため、軍隊の専門的な能力を低下させるとになり、結果的に安全保障体制を危うくする危険性がある。もう一方に「客体的文民統制」がある。これは文民の軍隊への影響力を最小化することによって、軍隊が政治から独立し、軍隊をより専門家集団にするというものである。こうすれば軍人は専門化することに専念することができ、政界に介入する危険性や、軍隊の能力が低下することを避けることができる。また現代の戦争は非常に高度に複雑化しているため、専門的な軍人が必要である。 
 
文民 
「文民」という語は日本国憲法を制定する際に造られた言葉である。制憲議会では、第9条に関して芦田修正が行なわれたが、この修正により自衛(self-defence)を口実とした軍事力(armed forces)保有の可能性があると危惧を感じた極東委員会が、芦田修正を受け入れる代わりにcivilian条項を入れるように求めた。しかし当時の日本語にはcivilianに対応する語がなかったため、貴族院の審議では「現在、軍人ではない者」に相当する語として「文官」「地方人」「凡人」などの候補が挙げられた。「文官」では官僚主義的であるとされ、「文民」という語が選ばれた。第二次世界大戦以前には軍人が内閣総理大臣を務めることが多々あり、その反省から現行の日本国憲法第66条第2項には「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されている。「文民」は「文官」「一般市民」「非戦闘員」のニュアンスを持ち、「軍(現在の自衛隊)の中に職業上の地位を占めていない者」を指すと考えられる。文民統制という文脈では「軍人以外の人間」、具体的には「政治家」を指し、防衛省の「官僚(背広組・文官)」を示すものではない。過去の日本において「文民」と言う場合に「旧職業軍人の経歴を有しない者」と規定するか、あるいは「旧職業軍人の経歴を有する者であって軍国主義的思想に深く染まっている者でない者」とするか、意見が分かれていた時代もある(1965/5/31衆議院予算委員会 高辻正己・内閣法制局長官答弁など)。かつて野村吉三郎(元海軍大将、太平洋戦争開戦時の駐米大使)の入閣が検討されたこともあったが、「文民」規定の問題から断念している。その後、元職業自衛官の永野茂門(終戦時は職業軍人)が法務大臣になった時や中谷元が防衛庁長官となった時にも問題視する意見が出た。ただしこの見解は国際的な基準があるわけではなく、例えば米国の国防長官も文民であることが条件であるが、退役してから10か年が経過すると文民として扱われる。また、英国での要件は文民かつ政治家であることを要する。 
 
歴史的経緯 
歴史上多くの王や貴族などの支配者は政治家であると同時に軍人でもあった。軍事力を常に掌握しておくことが、政治的権力の維持のためにも必要であり、また外交が発展する近代までは安全保障の重要性が今以上に高かったためである。また軍隊の組織も発展途上であり、軍事戦略・作戦・戦術に関する理論体系も整っておらず、兵器も原始的なものであったために専門的な知識・技能がなくとも作戦部隊の指揮官としての仕事がこなせたことも大きな要因である。しかし近世以降戦争が高度化・複雑化してくるとともに軍事に関して専門的な知識・技能を持つ人材の確保が軍隊の急務となり、高度な専門知識・技能を習得した職業軍人が中枢を占めるようになってきた。それと同時に、まだ当時は軍隊に残っていた王族や貴族といった政治家勢力を軍隊から排除することが軍隊の指揮統率の合理化の上で必要である、ということが職業軍人たちから主張されるようになり、軍事の政治との分離が進んだ。これが軍隊の専門化を進め、現代の文民統制の基本形となっている。
 
欧州 
文民統制は17-18世紀のイギリスにおいて登場した。中世の国王の軍事力乱用やクロムウェルの独裁政治の影響から国王の常備軍を危険視する声が高まり、議会と国王の権力闘争が行われた中、1688名誉革命と翌年の権利章典によって、議会が軍隊を統制することによって国王の権限を弱体化させようとした。しかし議会はその意思決定に多大な時間がかかり、また軍事に関する決定事項は膨大であるために軍隊の仕事がしばしば滞り、結局後に議会は軍隊の指揮監督権を国王に返還した。1727責任内閣制が発足して陸軍大臣が選ばれたが、軍隊の総司令官の人事権と統帥権は国王にあったため、陸軍大臣は軍事政策に関する権限のみ委託されており、二元的な管轄が残っていた。本格的に政軍関係問題が浮かび上がったのは19世紀に入り、プロフェッショナル将校団が台頭してきたことに起因する。プロイセン王国の将校であったカール・フォン・クラウゼヴィッツが「戦争論」のなかで「政治が目的であって戦争は手段である」と述べて政治の軍事に対する優越を論じ、その上で「戦争がそれ自身の法則を持つ事実は、プロフェッショナルの職業軍人に外部から邪魔されずにこの法則にしたがって専門技術を発展させることが認められることを要求する。」として軍事専門家組織としての軍隊の確立を要求した。これが現代の文民統制の原型である。また同時に効率的に軍事を政治の統制下におくために「武官を入閣させるべきである」と論じた。しかしクラウゼヴィッツの理論は後世の研究者たちによって「政治を軍事行動に奉仕させるために、武官を入閣させるべきである」と誤解され、第一次世界大戦や第二次世界大戦における総力戦の理論に転用され、大量殺戮・破壊の背景となった。第一次世界大戦前夜のドイツにおいては、総動員の速度差で、東西2正面の敵国を各個撃破するという軍事戦略が、唯一の方法として決定されていた。この戦略を採る場合、動員の速度差に依存する関係で、自国の制御下にない敵国が総動員をかけてしまうと、自国の政治決断を待たずに即、自国も戦争準備に入らねばならないことになり、結果的に自国の元首による開戦決定という、文民統制の基本中の基本が不可能になった。 
如何に有利に見える軍事戦略でも、それが軍事以外の視野を持たない場合、国家の自律性そのものを危うくしてしまう。このことは、軍事の統制権が簡単に失われかねない事例として、文民も深く教訓として心に留めておくべきだろう。このような作戦を立案しながら、説明を欠いた軍人側の無節操、重要な総動員指令に関して、充分な検討を行わなかった文民側の失策である。結果として、軍事戦略以外の視野を持つものが指導力を持たなかった第一次世界大戦後半のドイツにおいては、軍事戦略が国家戦略に優先すべきと考えたルーデンドルフが陸軍参謀総長として、権勢をふるい、軍事的勝利のみを追及して休戦にいたるまでに時間がかかった。ドイツ軍の優勢な時期での小さな譲歩の機会、アメリカとの外交の機会、などを全てを失してしまい、講和条約の締結においては、連合軍に大幅な譲歩を強いられている。軍事戦略以外の視野を持つものが指導力を持たない場合、外交、経済の面での、交渉準備、国家指導、ひいては軍事行動の目的そのものがおろそかになり、結果的に悲惨な結末をもたらすケースの、好例である。第2次大戦後の金融システムまで、戦争指導に組み込んで居たアメリカ政府の例を見ても、優れた文民による統制は優位を生む。
 
英国1 
ピューリタン革命(1642)後、クロンウエルはチャールズ一世を処刑後、1655の反乱を機に軍事独裁化の方向をとった。そのため彼の死後、常備軍に対する強い警戒心が生まれ、以後今日に至るまで武力による政権は誕生していない。英国においてシビリアン・コントロールの考え方が初めて法文化されたのは権利章典(1689/12/16)である。この権利章典は、ジェームズ2世と国会の抗争の結果制定されたものであるが、その中に次のような文言が挿入された。「平時において、国会の承認なくして国内で常備軍を徴集してこれを維持することは、法に反する」こうして国王が国会の感情を無視して行動することは、もはや不可能となり、常備軍は国会のコントロール下に置かれることとなった。 
 
英国2 
英国における軍事力統制の政治制度としては、行政府においては、第1に文民で構成された政府首脳部が国民に対して責任を有すること、第2に軍首脳部はこの文民政府の指導の下にあること、第3に軍部の運営は内閣の一員である文民即ち軍事担当相の指示によることである。立法府においては、第1に和戦の決定、緊急事態における権限の付与などを行い、第2に軍事予算を票決し、第3に軍事政策の執行に対して究極的な監督権を行使できることである。司法部においては、第1に国民の民主的な基本的権利が軍によって侵害されるようなことがないよう軍の責任を追及できること、第2に軍人の権利や自由について管轄権を持つことであるとされている。また民主主義社会における軍事力統制においては、このような制度上の原則のほか、管轄上の能率性と軍事的適合性を考慮しなければ社会の安寧と平和の維持を害することとなる。具体的には、国防費の決定、装備品の取得の必要性、コソボ等外国への軍事力投入の可否などは議会による軍のシビリアンコントロールである。またいろいろな場面における実質的な意思決定は憲法上の権限により首相が行うこととなっている。組織的には1964軍令の組織が改革され、統合と複合が進められたが、冷戦終結後は見直しが行われ、国防大臣(Secretary of State for Defence)は防衛調達担当長官(Minister of State)、3軍担当長官(Minister ofState)、及び副長官(Parliamentary Under-Secretary of State)という3長官の補佐を受けることとなっている。国防委員会及び上級管理機構は、国防大臣の下に副長官及びそれと同格で議会での答弁も行う参謀総長、以下文官の国防調達局長、軍人の国防兵站局長など文官と軍人の局長や各軍参謀長によって構成されている。
 
米国1 
米国は軍隊を創設した当初から強力な常備軍を持たないことを掲げ、その統帥権を伝統的に文民政治家に委ねてきた。独立戦争においてワシントンが最高指揮官となり、南北戦争においてもリンカーンが戦争指導を行った。合衆国憲法においては大統領は軍隊の最高指揮官であると定めており、大統領が軍隊を統帥し、軍隊の維持および宣戦布告は議会の権限であると定めていた。そのために第二次世界大戦時のアメリカ合衆国においては文民統制が機能しており、フランクリン・ルーズベルト大統領は、ウィリアム・リーヒ統合参謀本議長との協議を通じて戦争指導を行った。朝鮮戦争時においては、国連軍の司令官であったダグラス・マッカーサーが軍事的合理性から、核兵器の使用を含めた中華人民共和国への攻撃を示唆した。これに対し、トルーマン大統領は、中国への攻撃は、軍事面からは必要かもしれないが、全体的な国際情勢の観点から不利益となりうると考え、マッカーサーと意見が対立したために彼を罷免した。ベトナム戦争において現地の総司令官ウェストモーランドは「政治がガイダンスを示さないために軍人が政治に介入せざるを得なかった」として国家戦略の不在のために軍事作戦の目的が曖昧化していたと述べており、また当時のアメリカ第7空軍司令官は政府の指令を30回も破っていたことに示されるように、常に文民統制が効率的に機能していたわけではない。
 
米国2 
18世紀独立前後の米国には、常備軍と民兵の2つのタイプの軍事力があったが、民兵は国民と一体と考えられたのに対し、常備軍は将と兵との間に明確な一線がひかれ、すこぶる貴族的だったことなどから警戒される立場にあった。当時の大陸会議(1776/6/12)による宣言では「平時における常備軍は、自由に対し有害なものとして避けられるべきであり、しかもいかなる場合でも、軍は文民の権力に厳に服従し、統制されるべきである」とされ、シビリアンコントロールの原則が明記された。独立宣言(1776/7/4)の中にも英国国王の罪状を並べた中に「王は平時においては、我らの議会の同意なくして、常備軍を我らの間に留め、軍隊をして文権から独立せしめ、かつ優位ならしめた」という指摘があり、またバージニア権利章典(1776/6/2)、ペンシルベニア人権宣言(1780/3/2)及びマサチューセッツ憲法(1780/3/2)など諸州の憲法等に、常備軍の危険性と軍隊の文権(CivilPower)に対する服従が明記されている。独立戦争(1975-83)終結後の大陸会議(1784/6/2)では「平時における常備軍は共和政体に矛盾し、国民の自由にとって危険であり、それは一般に独裁制を打ち立てるための破壊的な道具に変わる」というエルブリッジ・ゲリーの意見が通った。 
1778制定された連邦憲法では、シビリアンコントロールという用語こそ用いられはしなかったが、文権優越の精神のもと、国民により選挙で選ばれる最高の文民たる大統領は、合衆国陸海軍及び現役に招集された民兵の最高司令官である(第2条2節)とし、国民の直接選挙で選ばれた連邦議会のみが戦争を宣言し、陸軍を徴募・維持し、海軍を建設・徴募することができる(第1条8節)とした。
 
日本/戦前・戦中 
戦前の日本ではドイツを参考にし陸海軍の統帥権は天皇にあると帝国憲法で定められ、統帥権は独立した存在だった。帝国憲法における内閣と議会は天皇の補弼と協賛のための機関であり、文民統制の基礎としては非常に危ういものだった。日本の政軍関係はロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題に見られるように、たびたび政治と軍事の乖離が問題となった。昭和以降、関東軍は内閣の不拡大方針を無視して、勝手に中国国民党政府との戦争を推進した(張作霖爆殺事件、盧溝橋事件)。ゴーストップ事件のようなささいな事件においても政軍関係が問題となり、また民族主義の青年将校団が、五・一五事件、二・二六事件を起こすと、軍は天皇の大権にのみ服し、文民政治に従属しない実態が露呈した。昭和12年支那事変の発生に伴って大本営が設置されたが、大本営の頂点は天皇であり首相ではなく、また議会や内閣は関与しなかった。政軍関係は大本営政府連絡会議を設置して維持され、天皇・政府首脳の意向に沿って政府方針の範囲内で軍事戦略を組み立てる体裁をとった。太平洋戦争中は、陸軍大臣東條英機及び海軍大臣嶋田繁太郎がそれぞれ参謀総長・軍令部総長を兼任した。東條・嶋田両名が現役軍人であったことをもって、統帥権の暴走とする論もあるが、正しくは政府の統帥に対する従属である。実際、陸海軍大臣が総長を兼職したものであり、当時から軍政軍令の混淆は違憲であるとの批判が根強くあった。
 
日本/戦後1 
戦時中の反省から、日本国憲法第66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されている。歴代防衛庁長官・防衛大臣は文民であり、現職の自衛官や自衛隊員が就く事は認められない。ただし日本においては、武力組織の行動について国防の方針に則って制約を明示するのではなく、単に「軍事」に関する感情的な嫌悪感からその行動に足枷をつけさせようとしている勢力が大勢を占めている。自衛官が公の場で発言すること、意見することすら「シビリアンコントロールの侵害」と主張する勢力があり、戦闘教義すら確立できていない大きな原因となっている。自衛官・学生生徒の宣誓には「政治的活動に関与せず」の文言がある。軍事分野については、(シーレーンなど、日本の国情を考えれば日本の防衛は経済的にも日本ひいては世界の運命を左右するにもかかわらず)一般的に市民生活と遊離しているという印象が大きいためか、市民レベルでの成熟した議論はなされていないのが現状である。
 
日本/戦後2 
「民主主義的政治による軍事に対する統制」によって「政治に対する軍事組織の影響を排除する」ことがシビリアンコントロールの核心である。軍事が政治目的達成に最も良く貢献し得るために必要な軍事的合理性及び軍事的効率性の追求は、シビリアンコントロールを逸脱しない範囲内でのみ許容される。一方、シビリアンコントロールは、国の防衛を全うするための一つの制度であるから、軍事が果たすべき機能を不当に阻害し、弱化するものであってはならず、また「政治が軍事を適切に用い得る」制度と運用法でなければならない。 
憲法下の自衛隊は、所謂「三つ矢研究」に関連して防衛庁が昭和40年に衆議院防衛図上研究問題等予算小委員会に提出した文書で報告されているように、国会との関係、政府との関係並びに防衛庁内部の関係夫々において制度上シビリアンコントロールに関する問題はないとされているが、実はこの制度は未だ有事の洗礼を受けていない。それどころか、昭和25年警察予備隊の庶子的な誕生と、その後50年間にわたるわが国政治の軍事に対する消極姿勢によって、最も厳しい状況即ち有事においてこの制度が如何に機能するかの検証も済んでいないし、「政治が軍事を適切に用いる」見地からの検討も終了していない。 
(注)自衛隊の定員、主要部隊編成の基本は防衛2法により国会で議決され、防衛予算は国会において審議され、出動は国会の承認を要することにより自衛隊は国会の監督下にあり、自衛隊の出動決定及び最高指揮権は、国会議員の中から国会の議決で指名された内閣の首長たる内閣総理大臣が保有し、自衛隊は文民たる国務大臣としての防衛庁長官の管理下にあり、各自衛隊の幕僚長は長官の部下であり、基本的方針は全て長官の決定によることになっているので、民主的文民統制の基準は全て満たされており、自衛隊に対する法制上の文民統制は万全であるといわれている。 
近年わが国においても、新防衛計画大綱による自衛隊の役割の拡大、日米防衛協力指針関連法の成立と関連の論議、PKF凍結解除の動き、邦人救助の事態及びゲリラ・テロの可能性を否定し得ない情勢等、内政・外交上防衛力の活用を必要とする場面が着実に増加していると認められ、しかも軍事の専門性・技術性は、益々進行するものと見られる。このため、政治が軍事の実態を十分に掌握した上での判断・処置が適時・適切に行われることの重要性が一層高まることが予想され、有事若しくは国家としての危機管理が必要な状況を前提として「政治が軍事を適切に用いる」見地からシビリアンコントロールの在り方を見直すことは急務である。 
 
学歴偏重1
いかなる組織も一番重要なのはトップである、国家や組織は上層部の弛緩から腐敗する。偉い人が尊敬できない状況では、下々の者もいい加減になる。 
陸海軍の指導者つまり将官になるには幾多の試験を乗り越えなくてはならない。陸軍士官学校や海軍兵学校に入るのは、東大に合格するより難しいとされていた。その上に陸軍大学と海軍大学が存在し、ここに入ることは軍部の中枢に入ることを意味した。試験地獄となるが、家柄に関係なく出世できるという利点もあった。戦場や政治の世界で求められる資質は、刻一刻と変化する状況に的確な判断を下せる人間であり、こういった人材の集め方は、今も昔も問題があったといえる。 
陸軍では陸軍大学を卒業したものに特別な襟章をつけることを認め、その形が江戸時代の貨幣「天保銭」に形が似ていたので、陸大卒業者は俗に天保銭組と呼ばれていた。これに対し陸大を出ていないものは無天組と呼ばれ、出世や赴任地などで差別された。この制度は、無天組は皇道派、天保銭組は統制派に分かれ陸軍内部に対立を生みだす要因になっていた。 
皇道派とは天皇絶対主義のことで、天皇に尽くすことは国家に尽くすことであり、そのためならどのようなことをしてもよく、それが皇道の実践になるという考え方である。統制派とは、軍隊は上から下への命令が大原則で、国家の危急に備え、軍だけではなく経済なども厳しく統制しようという考えである。危険な考え方だが、組織論や常識論から考えると、原理主義的な皇道派よりはまともといえる。この対立の結果、統制派のリーダーとされる永田鉄山軍務局長が、皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で斬殺される事件が起こっている。2・26事件も皇道派の将校が中心となっている。日本の進路を左右した事件の一因に、出身校で出世を決定するという学歴偏重主義があった事は大いに注目すべきだ。  
 
学歴偏重2 / 大日本帝国陸軍
大日本帝國陸軍とは、1871-1945まで、日本が保有していた陸軍である、略して帝国陸軍と呼ばれた(普通は日本陸軍と呼び大日本帝国陸軍とは呼ばない)。また、国軍、皇軍という呼称も、日本陸軍を表す場合が多い。 
大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。参謀本部に相当する日本海軍の組織は軍令部である。したがって、全軍の最高司令官は大元帥の天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。諸外国の軍隊のように、陸軍総司令官、海軍最高司令官のような最高位の軍職(ポスト)は存在しない。 
創生期/帝国陸軍の起源は、明治維新後の1871に、薩摩・長州・土佐から徴集され組織された天皇直属の「御親兵」である。この兵力を背景に廃藩置県を断行した。御親兵はその後「近衛」と改称された。その時点では士族が将兵の中心であったが、陸軍としては徴兵制による軍備を目標としていた。近衛は徴兵制を武士を冒涜するものと不満を募らせ、征韓論による西郷隆盛の下野を機に将校兵卒が大量に辞職した。以後は徴兵制に基づく鎮台が陸軍軍制の主力となる。当初は専ら国内の治安維持、叛乱勢力の鎮圧(西南戦争ほか)などを担った。
 
明治4年(1871)2個鎮台が置かれた。2年後の明治6年全国を6個の軍管区に分けて、それぞれに1個ずつの鎮台を置いた。この体制下で、西南戦争の鎮圧などに当った。明治21年6個鎮台はそのまま師団に改変されて第1-第6師団が置かれる。また、御親兵は近衛師団となり禁闕守護を任務とする。 
外征の開始/明治7年の台湾出兵以降、徐々に外征軍としての性格を色濃くするようになり、明治21年(1888)拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団制への改組を行った。 
明治27年日清戦争開戦時には、常設師団は7個であったが、戦争後明治31年常設師団6個師団(第7ないし第12師団)が増設された。日露戦争では全ての師団が戦地に派遣されたため、内地に残留する師団がなくなってしまった。そこで、日露戦争中の明治38年4月に4個師団(第13師団ほか)が新編された。国運を賭して行われた日露戦争の奉天会戦における勝利を記念して陸軍記念日が制定された。 
日韓併合後は、旧大韓帝国軍人を朝鮮軍人として編入した。また、朝鮮半島防衛のため2個師団を交代で朝鮮半島に派遣していたが、辛亥革命後の中華民国の混乱から警備強化の必要性が高まり上原勇作陸相は2個師団の増設を西園寺公望首相に求め、その混乱から西園寺内閣は結果的に倒れることとなる。その後、陸軍省の要求が通り大正4年朝鮮半島に衛戍する2個師団(南部に第19・北部に第20師団)が編成されることに決まった。 
軍縮期/世界的な軍縮の流れに従って山梨半造陸相及び宇垣一成陸相の下で3次にわたる軍縮が行われ、4個師団(第13師団・第15師団・第17師団・第18師団)が廃止され、平時兵力の3分の1が削減された。宇垣軍縮では、同時に陸軍の近代化を目指しており航空兵科が新設されるなどしたほか、平時定員を減らしつつ有事における動員兵員数を確保するため、学校教練制度を創設して中学校等以上の学校に陸軍現役将校を配属することとした。 
昭和期/昭和期に統帥権の独立を掲げ、政府の統制を逸脱して独断専行の行動が顕著になる。二・二六事件以降の「軍部大臣現役武官制」を盾に倒閣を繰り返すなど政局混乱の原因をつくり、日中戦争から太平洋戦争に至る無謀な戦争へと突き進んだ。ソ連を仮想敵国としてとらえて作戦計画を立案し、しばしば海軍と衝突した。満州事変、盧溝橋事件を経て中国大陸へ大量に派兵し、太平洋戦争(大東亜戦争/第二次世界大戦)では歩兵部隊を主力に、戦車部隊や航空隊を南方に派遣し多くを失った。 
支那事変の長期化・戦線の拡大に伴い師団の増設が相次ぎ、昭和12年(1937)からは留守師団を元に百番台の特設師団が設けられるなどした(第101師団など)。また、昭和15年8月から8個常設師団が満州帝国に永久駐屯することとなった。さらに、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には本土決戦に備えて大量に急増の師団が増設された。規模が拡大したため、軍の上に方面軍や総軍が設けられた。
 
陸軍の解体/ポツダム宣言受諾後、戦闘行動を停止した各地の陸軍部隊は、それぞれその地区を管轄する連合国軍に降伏し、その管理下で復員業務に従事することとなった。そして、陸軍省も第一復員省、復員庁に改組され、その後陸海軍の残務処理は厚生省、後に厚生労働省が担当することとなった。 
軍閥・軍国主義思想/明治11年8月に精鋭である筈の近衛砲兵が反乱を起こすという竹橋事件が起こり、政府に衝撃を与えた。また、自由民権運動の影響を陸軍が受けることを防ぐために、軍人勅諭が出された。ここでは「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」の徳目を掲げると共に、その中で政治不干渉を求めていた。しかしながら、陸軍軍人の中核を占める陸軍士官は、陸軍省職員として官僚機構の側面も有しており、古くは薩摩藩・長州藩等出身の将校らとその他の藩又は幕府出身の将校らとの対立があったとされる。また、陸軍士官学校・陸軍大学校という近代的士官教育制度確立後は、兵科間であるとか、陸軍大学校を経たエリートたる中央幕僚(陸軍大学校卒業徽章が天保通宝に似ていることから天保銭組と俗称された)と隊付将校(無天組)との間であるとか、派閥間の思想又は人事上の対立(皇道派・統制派の対立)など、無数の内部的な抗争を生みやすい状況であった。 
関東軍など、外地に所在する現地部隊が、中央の統制を充分に受けずに行動するなどの問題点も抱えていた。そのため「スマートネイビー」を標榜とする海軍とは、偏った陸軍悪玉海軍善玉論等に影響され対照的にイメージされやすく、日本陸軍に対する悪い印象は一般的である。
 
最後の陸軍大臣下村定大将は敗戦後の第89回帝国議会において、斎藤隆夫代議士からの質問に対して、日本陸軍を代表して問題点を総括している(昭和20年11月28日)。「軍国主義の発生に付きましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考へ方を過つたこと、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かつたこと、是が根本であると信じます、・・・或る者は軍の力を背景とし、域る者は勢ひに乗じまして、所謂独善的な横暴な処置を執つた者があると信じます、殊に許すべからざることは、軍の不当なる政治干与であります・・・私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じて此の点に付き全国民諸君に衷心から御詫びを申上げます・・・此の陸軍の過去に於ける罪悪の為に、只今斎藤君の御質問にもありましたやうに、純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないこと、殊に幾多戦歿の英霊に対して深き御同情を賜はらんことを、此の際切に御願ひ致します」これが、陸軍解体直前の陸軍大臣による総括であった。陸軍指導者が軍人としての正しい振舞い方を誤り、また軍人勅諭でも禁止されていた政治関与を行ったことを、国民に対して明確に謝罪するとともに、全ての軍人が誤ったわけではなく、純忠なる軍人があったことも否定しないようにお願いして演説を終えた。
 
学歴偏重3 / 大日本帝国海軍
大日本帝國海軍は、1945以前に大日本帝国が保有していた海軍で、通常は「日本海軍」「帝國海軍」と呼ばれた。軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、天皇が最高統帥権をもっていた。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。軍令部に相当する日本陸軍の組織は参謀本部である。全軍の最高司令官は大元帥の天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。戦時には大日本帝国陸軍と合同で大本営を設置した。
 
戦略 
日本は四方を海洋に囲まれ、日本海軍は西太平洋の制海権を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また一方で英国海軍に大きな影響を受け、戦闘においては「見敵必戦」と「制海権の確保」を重視して攻勢を良しと考えてきた。このため、本土防衛よりも海上戦力の増強を優先的に行った。 
日本海軍の戦略戦術研究の功労者として佐藤鉄太郎中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり基盤を築いた。明治40年に「帝国国防史論」を著し「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として国体を永遠に護持しなければならない」と延べ、日本の軍事戦略や軍事力建設計画に影響を与えた。
 
歴史 
日本神話における神武天皇の御船出の地、宮崎県日向市美々津が日本海軍発祥の地とされており、美々津港には海軍大臣米内光政による「日本海軍発祥の地」碑が現存。江戸時代の幕藩体制においては鎖国が行われ、諸藩の大船建造は禁止されていたが、各地に外国船が来航して通商を求める事件が頻発するようになると、幕府や諸藩は海防強化を行うようになる。軍艦奉行、長崎海軍伝習所が設置され、開国が行われたのちの1860には咸臨丸が派遣される。1864には初の観艦式が行われた。王政復古により成立した明治政府は、江戸幕府の海軍操練所や海軍伝習所などの機関を継承し、幕府や諸藩の軍艦を整理・編成したのが基礎になる。 
1870陸海軍が分離され、1872海軍省が東京築地に設置される。初期には川村純義と勝海舟が指導する。1876に海軍兵学校、1893には海軍軍令部をそれぞれ設置する。明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。参謀本部が設立され、海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。 
日露戦争後は、1920に海軍増強政策である八八艦隊案を成立させ、アメリカを仮想敵国に建艦競争をはじめる。1922のワシントン海軍軍縮条約及び1930のロンドン海軍軍縮条約により主力艦の建艦は一時中断されるが、ロンドン海軍軍縮会議が決裂した後に再開され、太平洋戦争開戦時には艦艇385隻、零戦などの航空機3260機余りを保有する規模であった。
 
陸軍とは関係が良くなく、しばしば官僚的な縄張り争いによって無用の対立を見た。陸海軍の予算は均等であるのに人員は海軍のほうがはるかに少なかったために、海軍では伝統的に官給の衣食が富裕であり、この特権を維持することを目的として、日中戦争時に仮想敵国にアメリカを加えていたと陸軍側から見られていた(陸軍は伝統的にロシア・ソ連を仮想敵国としていた)。しかし、艦船や航空機等の高額な兵器が必須である海軍の実情を考えれば陸軍に対して贅沢であったとは言えない。むしろ機械化に対して無理解であった陸軍により問題があった。太平洋戦争前から海軍においては山本五十六を始めとして航空主兵論があったが、結局海軍内の官僚的硬直性から艦隊決戦主義を見直すことができなかった。この問題は戦局の進展とともに変化せざるを得ず、大戦末期において海軍は実質的には空軍化した。  
 
外交

 

 
中国
中国1  
1937/7/7北京市西南の廬溝橋で日中間で起きた衝突(廬溝橋事件)を発端に日中戦争が勃発した。これに対し日本政府は事態のこれ以上の泥沼化をおそれ、不拡大方針をとったが、局地解決をいう一方で、動員出兵の準備もするという非常に中途半端な策をとった。これは陸軍強硬派の勢いに押されたためと思われる。その後の外交交渉も、中国軍の廬溝橋への駐屯禁止や、事件の謝罪など、とうてい中国側が呑めない要求で、交渉をゆき詰まらせた。当初日本側で計画されていた近衛首相の中国訪問も陸軍の妨害により中止させられている。天皇に裁可を仰ぐという意見も秩父宮から出ていたが、天皇に責任を負わせられないという理由で認められていない。結局、手詰まりになった日本政府は「帝国政府は爾後、国民政府を対手とせず」との声明を出し、自ら和平の道を閉ざしてしまう。和平の相手の存在を認めないという矛盾した方針により戦争の長期化が確定し、日中間の戦争はますます泥沼化することになった。
 
中国2 
日中戦争は昭和12-20年(1937-1945)に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争。日本の公式呼称は支那事変、中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦。英語ではSecond Sino-Japanese War。日本では当初、北支事変、後に支那事変と称しており、新聞等マスコミでは日華事変などの表現が使われた。現在日本政府の正式な呼称は変らず、防衛省防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である「戦史叢書」、靖国神社や各県の護国神社では「支那事変」の呼称を使用。マスコミでは「日中戦争」という呼び方が広く定着している。これは日英米間の開戦とともに、蒋介石政権は日本に宣戦布告し、日本側は「支那事変開始時点に遡って今回の戦争全体を大東亜戦争と称する」と定めたため、おおまかに戦争と認識されることが多いからである。マスコミでは「支那」という言葉の使用を嫌って日中戦争と言い換える例が多い。 
「事変」という呼称が選ばれたのは、「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間、双方が望んだからである。宣戦布告を避けたのは両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためである。国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても宣戦布告は不利とされたのである。
 
中国3 
支那事変は日中戦争の呼称として、大日本帝国政府が定めた公称である。事変は、昭和12年7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と中華民国とは次第に戦争の様相を呈していった。しかし昭和16年12月までの間は、双方が宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。双方ともに戦争の意志はなく、事実、外交関係が維持継続されていた事からも明白である。 
特に中国にとって、アメリカ合衆国で中立法の適用を避けたいことも大きい。中立法は1935に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき若しくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国への武器および軍需物資の輸出を禁止するものであった。当時、米国は日本へこの中立法の適用を検討したが、中国が多量の武器を米国から輸入していた事もあって発動は見送られた。 
しかし、長期化と共に米英は援蒋ルートなどを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。昭和16年12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入した。同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。 
日本では初め北支事変、後には支那事変の呼称を用いた。新聞等マスコミでは日華事変などの表現が使われる場合もあった。他に日支事変とも呼ばれる。 
戦後は昭和12年7月以降を含めて「日中戦争」と呼ぶ呼称が広まった。これは「事変」といいながら事実上の戦争であるとの指摘、さらに主としてマスコミが「支那」「大東亜戦争」という言葉の使用を避けた為である。ただし防衛庁防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である「戦史叢書」、靖国神社や各県の護国神社では公式な「支那事変」の呼称を使用している。 
 
中国4 
日中戦争(支那事変・日華事変)昭和12年7月7日夜半、盧溝橋(ろこうきょう/北京の南を流れる廬溝河に架かる橋)事件(「7・7事変」)にはじまり日本の無条件降伏にいたるまでの日本と中国の戦争をいう。 
盧溝橋事件発生当初、日本政府(第1次近衛内閣1937/6/4-1939/1/5)は北支事変と呼び戦線不拡大方針をとり、また陸軍中央でも不拡大論があったが、やがて中国の抗戦力を軽視した一撃論が台頭、排日姿勢を強めていた蒋介石政権を倒して華北を第2の満州国にしようとする「華北分離論」をとなえる拡大論が大勢を占め、政府は、同年7/11に現地停戦協定が成立したにもかかわらず、内地や関東軍・朝鮮軍から4個師団・2個旅団(合計約10万)の派兵を決定、現地軍も再度の衝突を契機に7/28には総攻撃に出て北京・天津一帯を占領する。8/13には、大山勇夫中尉射殺事件をきっかけに上海において日本の上海海軍特別陸戦隊が中国軍と衝突(第2次上海事変)、同日政府は上海派遣軍(2個師団)の派兵を決定するとともに、海軍も15日より長崎県大村基地からの南京空襲を開始、戦火は一挙に広がった。 
しかし共産軍との内戦に勢力を裂いていた蒋介石は、西安事件(1936/12/12西安で張学良が蒋介石を監禁し共産軍との内戦を停止し、抗日戦争に立ち上がることを要求した事件で、「双十二(そうじゅうに)事件」ともいう)を契機に内戦を停止、共産党との第2次国共合作を行い、共産軍とともに抗日戦争遂行へと戦略を変更したため、日本軍は中国軍の激しい抵抗にさらされることとなった。 
こうして日本は宣戦布告のないまま、1937/11/20には日露戦争以来の大本営を設置するとともに、11月にはさらに第10軍(3個師団半)を投入し、12/13には南京を占領する(その際、約20-30万の捕虜や非戦闘員の住民を殺害するとともに略奪・放火・暴行・強姦事件を多数ひきおこした/南京大虐殺)。
 
政府(近衛内閣)は国民政府の首都南京の占領(陥落)でたちまち強行姿勢に転じ、(対ソ戦を最優先に考え、また米英との最終戦争では日本は中国と共同で戦うことをもくろんでいたため、このときに中国軍と戦うことは得策ではないと思考していた)陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長らを中心する戦線不拡大派が主張するドイツ駐華大使トラウトマンを仲介とする和平工作(トラウトマン和平工作)を打ち切り、1938/1/16「爾後国民政府を対手とせず」と声明(第1次近衛声明)、日本軍は蒋介石政権打倒を目的に徐州・武漢・広東を攻撃する大規模な連続作戦を展開、中国大陸の大部分の工業地帯の占領に成功する。 
だが敗退を余儀なくされた国民政府は降伏を拒否、首都を南京から重慶に移して徹底抗戦を続けたため、日本の軍事動員力の限界と相俟って、戦線は厳しい状態に至った。満州事変が5ヵ月で終結した経緯から、中国全土を支配するのも短期間で可能と考えた極めて安易な作戦の、それは一定の結末でもあった。 
そのため日本国内では、1938/4国家総動員法が公布され、次第に経済統制が強化されるとともに、国民精神総動員運動などによるファッショ化がますます深刻化していた。かかる日本の中国への侵略は、英米など諸外国の権益を侵すことを意味したが故に、それはそれまでのアジアで形成されていた米やヨーロッパ列強秩序の破壊であった。そのため、英・米・ソは蒋介石政権を物的・人的に支援するところとなる。日本軍は、重慶に対して海軍主体の戦略爆撃攻撃を反復するとともに、昭和13年後半からは蒋介石(重慶)政権の支援網を絶つための戦略を展開、昭和14年には海南島・南寧・汕頭を占領、昭和15年には仏印北部にまで侵略する。これで日本と英米との対立は頂点に達し昭和16年12月の太平洋戦争開戦へとつながる。 
対英米開戦後も日本軍による重慶攻略作戦は継続されるが、ガダルカナル攻防戦の激化により中止のやむなきに至り、その後日本軍は、中国共産党の軍隊である八路軍などのゲリラ戦に遭遇、結局敗戦まで、70-150万の兵力を(旧満州を除く)中国戦線にはりつけなければならなかった。 
そうした中で日本軍は、非人道的な「三光作戦」(日本軍が意のままにならない「敵性」地域において、一般民衆の生命・財産・生産基盤の徹底的破壊それ自体を目的として繰り広げた軍事作戦〔「無人区化政策」〕で、日本軍による殺しつくし〔殺光=さっこう〕焼きつくし〔焼光=しょうこう〕奪いつくす〔搶光=そうこう〕作戦を指す中国側の呼称。日本軍では燼滅〔じんめつ=焼きつくすこと〕作戦と呼んだ。昭和15年北京の北支方面軍司令部に、各師団長、旅団長が集められて「燼滅作戦を実施す」との作戦命令が下った。命令は「敵地区に侵入した際は、食糧は全て輸送するか焼却し、敵地区に残さないこと/家屋は破壊または焼却すること/敵地区には人を残さないこと」であった。
 
中国5 
ドイツの対中軍事協力は、1927戦略動員局のマックスバウアーMax Bauer大佐が、蒋介石と会談したことから本格化。1928中国軍の兵力は225万もあったが、訓練が行き届いていなかったため、バウアーは小規模の中核となる軍隊の創設を提案する。1933-1935ワイマール共和国のドイツ陸軍総司令官だったゼークト将軍も中国に滞在した。目的は中国における共産党軍の討伐、戦地における戦術実地研究と兵器の性能テストである。公的なドイツ軍事顧問団も中国国民党政府に派遣され、フォン・ファルケンハウゼンvon Falkenhausen 将軍など20数名の元将校と10数名の民間人からなっていた。第一次大戦でドイツは山東省において、日本軍と戦い敗北を喫していたから、日本に対する報復や攻撃を躊躇するものはほとんどなかったと考えられる。中国との兵器取引のために、1935貿易会社HARPO(Handelsgesellschaft zur Verwertung industrieller Produkte)が設立され、ドイツは兵器を中国に大量に供給し始める。1936独中政府はハプロ条約を締結した。ドイツは中国に武器を供与する見返りに、モリブデン、タングステンなど兵器生産に必要な希少金属を輸入することを取り決めた条約である。加えてドイツから1億マルクの対中借款協定も成立した。外貨資金手当てが可能になった中国は、小火器、火砲などをドイツから輸入した。ドイツ軍事顧問団も、国民党軍に、陸戦、特に陣地構築に関する有益なアドバイスをした。1937/8以降、上海事変や南京攻略で苦戦した日本陸軍は、ドイツの軍事顧問団のおかげで、本来は二流の中国軍でも頑強な抵抗ができたと言い訳をするほどであった。ドイツと中国の取り決めでは、1937-38中国軍20師団を訓練することになったいたが、1937の上海事変の際には、訓練中の師団は8師団だけだった。米英仏独も中国側に武器供与、軍事顧問団派遣、情報提供などによって軍事的に肩入れし、外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けた。あまり言及されないが、1937/8/21南京で中ソ不可侵条約が締結された。これは、日本、ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と、日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵、日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるるようになった。1936日独防共協定には、翌年からイタリアも参加し、日独伊三国防共協定となった。ソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため、同じ反日の中国との友好を求めたといえる。蒋介石の反共的性格を知りながらも、中国共産党にコミンテルンを通じて、国共合作を促すなど、イデオロギーに囚われずに、自国の利益を追求した。独ソ不可侵条約、日ソ中立条約、米英からの援助受け入れなど、まことにソ連外交は豹変する。1940/8中国共産党は、100師団(日本軍の大隊規模で10万人程度か)の兵力を投入、華北の日本軍守備隊陣地、主要な交通機関・鉄道に攻勢を加える「百団大戦」を行った。蒋介石は、中国軍民の支持、国際世論、列国の軍事支援をも当てに「最後の関頭」によって抗日戦の覚悟を世界に公言した。 
 
日満議定書 
日本が、国際連盟のリットン調査団が報告書を発表する前の1932/9/15日本の傀儡政権であった「満州国」との間で、新京(長春)で調印した文書。これにより日本は「満州国」を正式に承認、国交を樹立することになる。 
その第1条は、「満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民カ従来ノ日支間ノ条約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スヘシ」(「満洲国は将来日満両国間に別段の約定を締結せさる限り満洲国領域内に於て日本国又は日本国臣民か従来の日支間の条約、協定其の他の取極及公私の契約に依り有する一切の権利利益を確認尊重すへし」))と規定し、「満州国」が日本の既得権益を確認尊重することを約した。 
第2条では、「日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス之カ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス」(「日本国及満洲国は締約国の一方の領土及治安に対する一切の脅威は同時に締約国の他方の安寧及存立に対する脅威たるの事実を確認し両国共同して国家の防衛に当るへきことを約す之か為所要の日本国軍は満洲国内に駐屯するものとす」)と規定され、共同防衛がうたわれ上で日本軍が駐屯することとしていた。 
これで満州国が日本の傀儡政権であることが名実ともに明らかになったが、調印前の同年3月には「満州国」執政溥儀と本庄繁関東軍司令官の間で国防・治安維持の日本への委託、参議や地方官吏への日本人の登用と日本側への任免権付与が約束されていた。 
なお、日満議定書と同時に交わされた秘密文書で鉄道・港湾・水路などの敷設・管理の日本側への委託、日満合弁の航空会社設立等が確認された。  
 
リットン調査団 
満州事変の調査と、事態解決方法検討のため派遣されたイギリスのサー・ビクター・リットン卿を団長とする国際連盟の調査団。 
1931/9日本の満州侵略(満州事変)が開始されると、理事国に選ばれたばかり中国は国際連盟に提訴、それを受け国際連盟理事会は同年12/10現地調査団を派遣することを満場一致で採択した。それに基づいて組織されたものが「リットン調査団であった。調査は翌年2月から開始され、リットン一行は2月末、東京に着き、日本各地を視察して、3/14上海入りをし、その後、上海・南京、「満州国」などを訪れた。1932/10/1通告された報告書は日本の満州における既得権益を認めながらも日本の行動と「満州国」は承認しなかった。 
1933/2/14国際連盟臨時総会で、リットン報告書に基づいて日本軍の占領地域からの撤兵と中国の満州の統治権を承認する勧告案が採択されると、日本は同年2/24国際連盟を脱退する。 
 
三国軍事同盟
日本がファシズムの独伊と結んだ最大の理由は、圧倒的な国力を誇る米国対策である。松岡洋右外相の論理によると、日独伊が同盟することによって、ソ連に直接圧力をかけ、最終的には日独伊ソ四国同盟を構成し、その力をもって米国に対抗しようというものであった。しかし、この案にはスターリンが独ソ不可侵条約を結んだ時と違い、ドイツが差し出したポーランドのようなソ連に支払う代価がなかった。それに、仮に四国同盟が実現したとしても、スターリンの性格を考えるとソ連が日本に協力してアメリカを敵にまわすとは思えず、したがってこの案自体が非現実的なものといえる。またヒトラーの共産主義嫌いも四国同盟の実現を難しいものにしていた。 
松岡の思惑とは別に、陸軍は違う観点で同盟締結を求めていた。当時ヨーロッパでは独軍が圧倒的優位にち、ドイツがヨーロッパを統一してしまうという意見が一般的だった。これは日本陸軍の独断でなく、アメリカも同じ見方をした軍人が多く、当時にしてはあながち無理な想定とも言い切れない。ドイツがヨーロッパの支配者となり、しかる後アメリカと結んだ場合、日本は世界で孤立してしまうこととなり、米独の要求に抗す術を失ってしまう。そこでドイツと同盟を結べば、ドイツとアメリカが手を結ぶことを妨げ、アメリカを牽制してその間に東洋の支配を固めることができるというのが陸軍の考えだった。海軍は最大最強の仮想敵国であるアメリカを刺激するとして、当然反対の立場をとった。
 
もともと三国軍事同盟自体、主眼を対米、対ソどちらに比重を置いているのか非常に曖昧である。仮想敵国を陸軍はソ連、海軍はアメリカと設定した陸海軍に責任がある。陸軍は米軍と戦争になっても洋上では大兵力を運用できないため、大陸の様な泥沼戦にならず、短期決戦に強い日本陸軍が有利として楽観視していた。この考えは数年後米軍が大きな間違いと証明するが、それなりの論拠はある。海軍にしてみれば、ソ連海軍など相手にもならないと、やはりソ連との関係を軽視していた。しかし、もしどちらかと戦争になれば国家が困窮し結局自分達も困る、という簡単なことを理解し、陸海軍の協力を重視した軍人は非常に数が少なかった。自分の組織の事しか考えず、大きな視点で物事を考えようとしない軍隊をもったのが日本の不幸であった。 
結局、近衛首相(首相自身は同盟に反対だった)が期待した海軍も、国内の人気低下をおそれ同盟賛成にまわった。海軍の無責任はもちろんだが、自身で反対しなかった近衛首相にも重大な責任がある。 
もっともそれ以前にどれほど独伊が信頼でき、頼りになるかも検討しなければならなかった。枢軸とはベルリンとローマを結ぶ縦の線のことを指し、日本を枢軸国と呼ぶのは厳密には間違っている。まずドイツを見てみよう。資源は乏しいが、工業技術や軍事力などは当時世界でトップクラスの力を持ってはいた。しかし、ヒトラーのアジア人蔑視の思想などをみると、本気で信頼できる相手とは言い難い。次にイタリアであるが、国力の不足や戦争に向かない国民性を考えると、とても頼みになるとはいえない。また、マキアベリズム(権謀術数の肯定)発祥の国でもある。 
最大の問題点は、両国とも日本から遠く離れた場所に位置し、世界戦争になった時互いに協力できないことだ。現に第二次世界大戦ではそうなってしまい、わずかに潜水艦がドイツと往復しただけである(交流に向かった5隻中、帰還したのは1隻)。
 
ABCD包囲網
ABCD包囲網とは、1941東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。ABCDの部分は制限を行っていたアメリカ(America)英国(Britain)オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べたもの。ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれる。1941第二次世界大戦中の西太平洋地域における戦争、大東亜戦争(太平洋戦争)と呼ばれる戦争の開戦以前、日本は1937から中華民国と日中戦争(支那事変)を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件等の日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に関心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。そして近衛内閣が1938に発表した東亜新秩序声明にアメリカは態度を硬化させ、1939に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940/1に条約は失効し、アメリカは屑鉄、航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主にオクタン価の高いガソリン)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫は地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。1940/9イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への侵出など日本の拡大政策を牽制するために、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941/6に交渉を打ち切った。
 
1941/7には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁のため、アメリカは対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、ウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」と論評している。1941/9日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に、甲案、乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかしアメリカは、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。これは、暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると判断した日本政府は、交渉の継続を断念した。なお、日本側が乙案を最終提案と考えており、交渉終了の目安を11月末程度と考えていたことは、暗号解読と交渉の経過により、米国側にも知られていた。包囲網は「欧米各国の日本に対する経済・軍事同盟」に近い実態があった。「包囲網とはあくまで日本側からの呼び名であり、連合国側にはそのような意識は無かった」との指摘がある。その根拠としては、「これらの国が何らかの条約を結んだ記録は発見されていない。ましてや、軍事同盟などは結ばれていた形跡はない」といったものである。当時のイギリス首相であるチャーチルは、1941の対日政策について、「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」としており、1941/7のアメリカによる経済制裁措置を受けて、「イギリスも同時に行動を取り、二日後にはオランダがこれにならった」と述べている。イギリスの同時代人の戦史家、リデル・ハートやJ・F・C・フラーも、「オランダは誘導されて、追随した」「オランダは、アメリカとイギリスの措置に加わった」と述べている。また、アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは「1941後半にイギリスとオランダが協調して、資産凍結と禁輸措置を実行した」としている。これらの事実から英米蘭が協調的に対日政策を実行していたことが読みとれる。  
 
日米交渉
太平洋戦争阻止にもっとも重要な日本とアメリカの関係は、すでに冷え切っていた。交渉を続けようと努力する日本に対し、アメリカは何の権限もないメンバーを送り、時間稼ぎと割り切って交渉を続けていた。そのメンバーから提示された条件である満州国の承認など、旨すぎる話を鵜呑みにした近衛首相や野村駐米大使は無能といわざるを得ない。野村大使は英語が苦手で語学力のなさにつけ込まれたところもある。あまりの好条件に疑問をもった松岡外相は、日本からは折角の交渉に水を注す者として、アメリカ側からは策略を見切った者とされて日米双方から疎まれて解任されしまう。当時の首相には大臣の任免権はなく、そのために第二次近衛内閣を解散しての解任である。松岡の四国同盟策はこの時に崩壊し、日本には三国同盟の義務のみが残った。 
第三次近衛内閣は南進政策をとり、仏領インドシナへの進駐を開始した。これはフランスのヴィシー政府の了解を得ていたが、このヴィシー政府自体ナチス占領後の傀儡政権で、実質的には日本軍の侵略である。この行動に対しアメリカは、1941/7/25日本の在米資産を凍結した。イギリスも日英通商条約の破棄を通告し、オランダ領インドネシアも日本資産の凍結と石油協定の停止を発表。8月1日アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止する。 
ここまで事態が悪化してしまっては、中国を含む占領地からの無条件撤退しか和解の道はなかったが、アメリカを軽視している陸軍の反対により実現せず、問題を解決できなくなった近衛内閣は総辞職する。後継には皇族をという声が多い中、皇族に責任を負わせたくない木戸幸一内大臣により、強硬派の東条英機が指名され、これにより平和の道は完全に閉ざされることになった。
日本海軍と昭和一六年の日米交渉  
はじめに  
本稿は、昭和一六年(1941)の日米交渉に関する、新に公開された史料を紹介するものである。今回紹介する新史料は、同年前半に日本海軍首脳が発した横山一郎在米大使館附海軍武官宛の電報である。また、海軍の先輩である野村吉三郎駐米大使を助けろという「普通の海軍武官としてではない」訓令を受けた横山大佐は、野村大使にこれらの電報を渡したであろうことは、想像に難くない1)。  
これらの電報は、国立国会図書館の憲政資料室に所蔵されている「野村吉三郎関係文書」(以下、「野村文書」を略す)にある2)。長い間野村家には史料等は保存されていないと思われていたが、平成16年、著者は御遺族の御好意により、野村の遺した文書や記録の調査をおこなうことができ、それによって「野村文書」が現存していることが判明した。  
大きく日記、手帳、覚書、書簡、写真からなっている「野村文書」には、歴史的に価値があるものが多く存在している。下記にある文書は、その一部分である。  
紹介する文書の多くは、学者に今まで眼を通されていなかったため、日米交渉の初期における日本海軍の役割が、既存の認識以上に重要であったことを明らかにするものである。なお、これらの文書から、海軍首脳が南方進出や日独伊三国同盟、支那事変という日米国交を非常に悪化させていた問題について何を考えたのか、日米国交調整について何を考えたのか等を、ある程度理解することができるため、有力な材料となるであろう。  
この文書を補完する史料としては、外務省刊行の『日本外交文書:日米交渉1941年、上巻』や、大久保達正他が編集した『昭和社会経済史料集成第十二巻:海軍省資料(12)』、角田順他が編集した『太平洋戦争への道:別巻 資料編』がある。そのほか、オーラル・ヒストリーとして、読売新聞の『昭和史の天皇』vol. 30 には、横山海軍武官や磯田三郎陸軍武官などのインタビューが収録されている3)。  
著者より見て、紹介する文書のなかに、特に興味深い点が二つある。 
一つ目は、海軍兼次官井上成美中将と軍令部次長近藤信竹中将が四月一四日に作成した「史料2」にある。この文書は、いわゆる「日米諒解案」の全文、もしくはその詳しい条項や条件に関する報告が含まれていたと思われるワシントンからの早期の(未だ発見されていない)電信に基づいて構成されているものである。すなわち、「史料2」は、四月一七日に野村大使が外務省経由で正規に東京へ「諒解案」を提出4)する前に、すでに海軍首脳がその条項や条件を知っていたことを明らかにする。この点については、カリフォルニア大学のPacific Historical Reviewに掲載される予定である著者の論文で、詳細に分析されている5)。そのためここでは、野村大使が東京から独立し、独断で「諒解案」作成に関与していたという学者の通説的理解は、今となってはまったく根拠のないものとなった、というにとどめておく6)。  
二つ目の興味深い点は、「史料5」と「史料6」にある。これらの文書は、五月一二日にワシントン大使館に送られた、「諒解案」に対する日本政府の「修正案」に関連しているものである7)。よく周知であるその二つの案の相容れない内容についての分析には、ここでは立ち入れないことにする。しかし、「修正案」を受けた野村大使は、ハル(Cordell Hull)国務長官に提出する前、三国同盟による日本の対独軍事援助義務が強く再確認される字句を抜いた8)。  
これは確かに、大使としての権限を逸脱する行動である。多くの学者たちは、野村が「アメリカの立場を考慮」するうえで、「何故野村がこのようなことをしたのか判然としない」と、長らく疑問してきた9)。  
五月九日に作成された「史料5」は、この「判然としない」疑問を解く鍵を提供してくれるであろう。要するに、野村はこの行動によって、五月九日に「米独開戦即日米開戦ト考フルハ當ラズ」と主張した海軍首脳と、日独不可分論者である松岡洋右外相との現れた対立を、引き起こそうとしていたのであろう。この工作は実らなかったことはいうまでもない。「史料6」は、野村の修正に関する勧告が含まれていたと思われる、横山武官からの(未だ発見されていない)電報に対する海軍の対応である。五月九日に三国同盟に対する懸念を表した海軍首脳が、五月一三日に完全に立場を転換し、対米妥協を不可能にする松岡外交と「完全ニ一致」している、と「史料6」では述べられている。数週間後、独ソ開戦に対する対応として、日本政府が南方進出(南部仏印進駐)を決定し、そしてそれに続く米政府が対日全面禁輸を行った。日本海軍にとって、「史料5」に照らす限り、全面禁輸の断行は対米戦への突入を意味した10)。  
結論として、下記にある文書によって、真珠湾攻撃前夜の日米交渉に関する新たな視角を設定することができ、そのため、ぜひ通読していただきたい。  
史料1 
海軍次官豊田貞次郎より野村大使宛  
(日付は不明であるが、野村が三月八日に発した第一三六号の電報11)に言及しているため、三月上句前後に発したものである、と推測できる。なお、起草者も不明であるが、電報の文脈から考えて海軍の出身者にちがいない。これに関して、この文書は、野村が敗戦後執筆した『米国に使して』が言及している、豊田貞次郎海軍次官と野村との間で繰り広げられた、松岡洋右外相の渡欧に関する一連のやり取りの一つである可能性が高いであろう12)。)  
一、近衛内閣退陣政変説ノ如キハ議会終期ニ於テ首相病気引籠リニ関連シ一部ニ流布サレタルモ事実無根ニ付キ既定ノ方針ニ依リ此ノ上トモ御盡力アラシトヲ切望ス  
二、松岡外相渡欧ニ関シテハ外務省公表ノ次第アル処事実上ノ目的ハ独伊首脳ト一般外交問題ニ付キ隔意無キ懇談ヲ遂ゲ皈途「モスコー」ニ於テ日蘇関係ヲ調整セントスルモノニシテ概ネ左ノ通リ  
(イ)「ヒトラー」「リッブベン」「ムッソリニ」「チアノ」ト対面個人的接触ヲ深メテ今後ノ外交ニ資ス  
(ロ)「ヒトラー」「ムッソリニ」ノ対日態度ヲ打診スルト共ニ為シ得レバ対英上陸作戦等ニ関スル独ノ腹ヲ突キ止ム  
(ハ)戦後経営ニ関スル「ヒトラー」ノ胸算(独ハ個別的ニ講和条約ヲ締結セントスルヤ又ハ国際会議ヲ企図スルヤ等)ヲ聞キ右ニ対シ戦後ノ日本ノ立場ヲ有利ナラシムル為一石ヲ投シ置クコト  
(ニ)対支和平工作及対蘇国交調整ニ関シ為シ得ル限リ独ヲ利用スルコト  
三、右ニ関シ海軍ヨリ外相ニ  
(イ)独ノ一部ニハ独ノ春季攻勢ニ康應シ帝国ヲシテ極東英領ヲ攻略セシメントスル意嚮アル様称ナル処(軍務機密第四二四号軍令部機密第三四七番電参照13))右ニハ同意シ難キコト  
(ロ)帝國政府内部ニ硬軟両論対立シアルガ如キ印象ヲ與フル言動ハ厳ニ慎マレ度コトヲ強ク要望シアリ四二四番電14)ノ通リニシテ要スルニ海軍トシテハ政略作戦ニハ絶対反対ニシテ内外諸情勢ヲ省察シ極メテ公正妥當ナル見解ヲ堅持シ政府ニ協力シアル次第ニシテ対佛印ニ対シテモ本方針ヲ以テ進ミ居ル次第ナリ 御参考迄 (第二第三項ニ関シテハ厳に貴使限リノ含ミトセラレ度)  
四、一行(海軍ヨリ特シ藤井中佐ヲ附シアリ)ハ十二日東京発四月下句皈着ノ予定但シ情勢ニ依リ独伊蘇聯ノ外地ノ枢軸同盟國ニモ立寄ルコトアリ  
五、下村中将ノ渡米ニ関シテハ研究ノ上追而回答致スベキモ情勢ニ依リ速ニ軍令部総長ヲ打チ合セノ為派遣ノ予定15)  
六、英米ノ関係ニ関シテハ全ク貴見ニ同意ニシテ一方ニ於テ英ヲ叩キ他方米ト友好関係ヲ保タントスル如キコトハ中央當局ニ於テハ全然考ヘ居ラザル処ニシテ此ノ方針ニテ全体ヲ指導セラレツツアリ  
七、貴電第一三六号16)「ハル」トノ会談ノ際ニ於ケル「シンガポール」蘭印ニ対スル帝國ノ態度ニ関スル貴使ノ應酬ハ全ク同感ニシテ中央ニ於テハ右方針ニ下ニ処理シツツアリ  
史料2 
海軍兼次官井上成美・軍令部次長近藤信竹より在米大使館附海軍武官横山一郎宛  
四月十四日次官次長宛武官  
貴電ノ趣旨ハ当方モ同意ニシテ米側ガ貴電第三号ヲ約スルニ対應シテ我方ヨリハ概ネ第二号17)ヲ以テ応セントスル趣旨ハ時宜ニ適シタルモノト認ムルヲ以テ莫斯科第四二二番電18)ノ関係モアリ之ガ促進ニ一層ノ努力ヲ致サレンコトヲ期待シアリ右海軍限リノ意向トシテ大使ニ傳ヘラレ度而シテ本件ノ交渉ハ極メテ慎重ナルヲ要スルヲ以テ已ニ御存知ノコトナルモ貴官ハ左記諸項御念ノ上大使ノ輔佐ニ遺憾ナキヲ期セラン度  
一、日米国交調整ハ戦争不拡大ヲ基調トスル三国同盟ノ趣旨ニ沿ヒ行ハルベキモノニシテ此際本同盟ノ趣旨ト矛盾セル帝国外交方針ノ大転換ナリトノ印象ヲ生ゼシメザルヲ要ス、  
二、大東亜ニ於ケル帝国ノ指導的地位並ニ自給自足態勢ノ確立ハ自存自衛上ノ要求ニ基キ帝国不動ノ国策ニシテ日米両国々交調整モ右帝国々策ヲ阻害サザル範囲タルヲ要ス、  
三、支那ノ主権ヲ尊重シ領土不併合ヲ確認スルハ差支ヘキナキモ米国ヲシテ支那事変ニ容喙介入セシムルハ東亜ニ於ケル帝国ノ地位ニ動揺セシムル端緒トナルヲ以テ日支直接交渉ノ既定方針ハ之ヲ堅持スルヲ要ス(莫斯科第四二二番電参照19))  
四、蘭印ニ対シテハ帝国ハ経済的発展ヲ企図シアリテ強力手段ニ訴ウル意図ナキモ蘭側ヲシテ帝国ヲ見縊ラシメ第二号国策ノ具現ニ大ナル支障ヲ來タス虞ナキ様之ガ表現ニ関シテハ特ニ慎重ヲ期スルノ要アリ、  
五、米国ハ日米萬一ノ場合ニ備ヘンガ為濠洲新西蘭ゝ印馬来群島方面ニ於テ鋭意対日戦備ヲ増強新設セントシツゝアリト認メラルノ所右ハ帝国トシテ自衛上黙過シ得ザル所ナルヲ以テ日米国交調整ニ当リテハ本件モ当然考慮スベキモノト認ム  
六、我方ノ眞摯且大局的態度ヲ以テスル日米国交調整ノ企図ガ動モスレバ却ッテ彼ヲ増長セシメ反対ノ結果ヲ來タス虞アルヲ以テ帝国ガ日米国交調整ヲ焦慮シアルガ如印象ヲ與ヘザル様交渉技術上留意ヲ要ス、  
七、留保ノ参戦避止ノ問題ハ其ノ趣旨ニ於テ全然仝意ナルモ之ガ表現方法ハ内外ニ及ボス影響ヲ考慮シ特ニ慎重ヲ期スルノ要アリ追テ当方トシテハ日米ハ愈々緊迫シツゝアリ日米国交調整ハ之ヲ必要トスルハ勿論ナルモ此際施策上慎重ヲ期スルコト肝要ト認メアリ  
尚本件当方ヨリ未ダ陸、外ニ連絡シアラズ念ノ為  
史料3 
海軍兼次官井上成美・軍令部次長近藤信竹より在米大使館附海軍武官横山一郎宛  
四月二二日次長次官武官  
日米国交調整ニ関シ陸海軍共ニ此機会ヲ捕捉シ概ネ四月一七日附野村大使電ニ依ル貴地案ヲ基礎トシ日米関係ヲ調整スルコトニ意見一致シアリ20)但シ内閣ニ就テハ多少修正ヲ要スルモノアルモ右ニ関シテモ已ニ陸海軍間ニ於テ検討ヲ了シ外務亦略ニ仝意見ニシテ本二十二日松岡外相ノ皈京ヲ俟チ態度並ニ修正事項ヲ正式決定ノ上訓令発出ノ運ビトナル見込ミナリ  
史料4 
海軍次官澤本頼雄・軍令部次長近藤信竹より在米大使館附海軍武官横山一郎宛  
五月一日發返電  
中央ニ於ケル其後ノ処理状況陸軍電ノ通リナル処21)三日非公式大本営政府連絡会議開催セラル予定ニ付米国早ニ訓令発出ノ見込トナル見込追テ海軍ノ修正意見ハ__機密914電22)ノ範囲ヲ出ツルモノニアラサルモ政府ノ決定ニ先立チ之ヲ内示スルハ適当ナラサルニ付差担フ  
史料5 
海軍次官澤本頼雄・軍令部次長近藤信竹より在米大使館附海軍武官横山一郎宛  
昭和十六年五月九日次官、次長  
左ノ諸項考慮ノ上米ノ近ク執ラントスル対独対日方策等ニ関スル貴方ノ観察改メテ至急報告アリ度  
一、三国条約ニ基キ帝國ノ対独軍事援助義務ハ法的ニハ米ガ独ニ攻撃シタル場合ニノミ發生スルモノニシテ又之ヲ實際問題ヨリスルモ米独開戦ノ場合帝國ガ執ルベキ対独援助ノ方法竝ニ其ノ時機ハ帝國独自ニ之ヲ決定シ得ベキ問題ニシテ米独開戦即日米開戦ト考フル當ラズ 然レドモ米独開戦スルヤ否ヤニ拘ラズ米ガ対日全面的禁輸ヲ行フ場合ニハ日米開戦不可避トナルベシ 此ノ見地ニ於テ米ノ参戦、不参戦若クハ日本ノ三国同盟廃棄、不廃棄ハ日米和戦ヲ決スル根本要件トハナラズ 寧ロ米国ガ全面的禁輸ノ対日圧迫ノ措置ニ出ズルコトコソ日米間ノ危機招来ノ最大原因ナリ  米ノ反省ヲ必要トス  
二、貴方観測ニ依レバ今ヤ米ノ参戦ハ必至ニシテ動カスベカラザルガ如キモ果シテ然ラバ日米国交調整ニ依ル米国ノ参戦ヲ阻止セントスル目的ハ画餅ニ帰スベク 逆ニ米ヲシテ欧州参戦ノ為一時日米ノ関係ヲ調整センシ 野望ヲ助成スル結果ニ陥ルベシ  
三、最近ノ加奈陀・豪州共ニ対日妥協的態度ヲ示シ來レル特ニ豪州労働党首ハ日濠相互不可侵協定スラ 秘密裡ニ提案シ來レリ 是實ニ米独開戦ヲ象徴スルモノニシテ米国現下ノ立場ハ右ノ如ク英国ノ危機ニ直面シ其ノ対策ニ窮シアリトモ認メラルル所ニシテ第一號三国同盟ノ運用ニ関スル帝国ノ所信トモ照応シ 此際帝国トシテハ焦慮スルコトナク毅然タル態度ヲ堅持シテ元来ヲシテ日米国交調整ハ戦争不拡大ニ寄與スベキモノ主旨ニ依ルヲ正シク反省セシメ 其ノ対英行キ過ギヲ抑制スルニ努ムルヲ要スト認ム  
四、現下米国ノ執ルベキ方策ニ関シテハ米州武官会議ノ結論タル当分正式ノ参戦ヲ避ケ最悪ノ場合ニ在リテモ自国艦艇ヲ以テスル護送ノ実施程度ナルベキ概旨ハ中央ニ於テモ至極仝感ニシテ右以外ノ?(まま)方策例セバ対独宣戦対日積極策等ヲ執ル算ハ少シト認メアリ  
五、帝国ノ執ルベキ態度ハ他国ニ引摺ラルルコトナク独自ノ立場ニ於テ国家永遠ノ繁栄ト世界平和トヲ確立スルニアリ 是帝国ガ独伊トモ結ビ蘇連邦トモ和シ更ニ米トモ調整セントスル所以ニシテ 米ノ好ム所ニシ従ッテ三国同盟ヲ放棄スルコト能ハサルト共ニ帝国ノ利害ヲ無視シ徒ラニ独伊ニ引摺ラルルガ如キコトナキハ亦贅言ヲ要セザル所ナリ 帝国ガ米ト和セントスル熱意ハ強烈且不変ナルト共ニ仝時ニ米トモ均シク其ノ熱意ヲ有スベキヲ期待スルモノナリ  
史料6 
海軍次官澤本頼雄・軍令部次長近藤信竹より在米大使館附海軍武官横山一郎宛  
五月十三日次長次官武官  
昨十二日ノ四相統帥部連絡相談会ニ於テ松岡外相ハ帝国修正案ノ「ライン」ニ於テ日米国交調整ニ最善ヲ盡スベキ旨所信ヲ披瀝セリ23)右帝国ノ修正案ハ当初ヨリ陸海外三省間ニ完全ニ意見ノ一致ヲ見タルモノナルニ付右念ミノ上大使ヲ輔佐シテ修正案ノ本旨貫徹ヲ期シ努力アリ度尚今後ノ交渉状況貴方ニ於ケル情勢ニ関シテハコノ上共細大トナク速報アリ度  
注  
1) 横山一郎『海へ帰る:横山一郎海軍少将回想録』(原書房)。  
2) 国立国会図書館憲政資料室にある「野村吉三郎関係文書」は2008年3月公開された。  
3) 外務省編『日本外交文書:日米交渉、1941年』(外務省、平成3年)、上巻、;大久保達正他編、『昭和社会経済史料集成第12巻:海軍省資料(12)』(大東文化大学東洋研究所、昭和62年);稲葉正夫、小林龍夫、島田俊彦、角田順編、『太平洋戦争への道:別巻 資料編』(朝日新聞、昭和38年);読売新聞編、『昭和史の天皇』(読売新聞、昭和49年)vol. 30.  
4) 前掲、『日本外交文書:日米交渉』上巻。  
5) Peter r Mauch、 “A Bolt from the Blue? The Imperial Japanese Navy and the Draft Understanding between Japan and the United States、 April 1941、” Pacific Historical Review、 forthcoming.  
6) 通説的理解の代表的なものとして、細谷千博「外務省と駐米大使館:1940−41年」細谷千博、斉藤真、今井清一、蝋山道雄編、『日米関係史開戦に至る10年1931−41年』(東京大学出版会);Robert J. C. Butow、 The John Doe Associates: Backdoor Diplomacy for Peace、 1941、 (Stanford、 Ca.、 1974) を参照のこと。  
7) 前掲、『日本外交文書:日米交渉』上巻。  
8) 野村吉三郎『米国に使して:日米交渉の回顧』(岩波書店)。  
9) 須藤眞志、『日米開戦外交の研究:日米交渉の発端からハル・ノートまで』(慶應通信)。  
10) 日本海軍の開戦決意について、麻田貞雄、『両大戦間の日米関係:海軍と政策決定過程』(東京大学出版会)や、波多野澄雄、『「大東亜戦争」の時代:日中戦争から日米英戦争へ』(朝日出版社)が最も詳細な研究である。  
11) 前掲、『日本外交文書:日米交渉』上巻。  
12) 前掲、『米国に使して』。  
13) 軍務機密第四二四番電は、不明である。ただし、軍令部機密第三四七番電は、前掲、『昭和社会経済史料集成第十二巻』。  
14) 軍務機密第四二四番電は、不明である。  
15) ここに予想されていた下村正助中将の渡米は、実らなかった。しかし、陸軍が岩黒豪雄大佐をアメリカに派遣した同時に、海軍が下村中将の渡米について考えたことは、興味深いであろう。  
16) 前掲、『日本外交文書:日米交渉』上巻。  
17) ワシントン電第二号と第三号は、不明である。  
18) 前掲、『日本外交文書:日米交渉』上巻。  
19) 同上。  
20) 前掲、『日本外交文書:日米交渉』上巻。「諒解案」に対する陸海軍の意見としては、前掲、『太平洋戦争への道:別巻 資料編』を参考。  
21) 陸軍電とは、おそらく野村の『米国に使して』に乗っている在米岩黒豪雄宛の電報である。前掲、『米国に使して』。  
22) 機密914電は、不明である。  
23) 「五月十二日第二三回連絡懇談会」前掲、『太平洋戦争への道:別巻 資料編』。 
 
創氏改名 
民族性を奪う皇民化「内鮮一体」化政策が進められていた朝鮮において、その仕上げとして行われた新たな日本式「氏」の創設と日本式「名」への改名を強制した政策。1939/11/10朝鮮総督府(南次郎朝鮮総督)は制令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」と20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」公布、1940/2/11より施行した。朝鮮人の名前は、先祖の出身地(本貫・ほんがん)と男性血統を示す標識である「姓」と個人別の「名」から成り、名前は終生不変、夫婦別姓(家族内に複数「姓」あり)であったが、創氏改名は全朝鮮人に対して、従来の「姓」とは別に「氏」(家族は同一「氏」のみ)を作り、日本式に「名」を改めることを意味した。創氏は法的に強制され改名は任意とされたが、現実には改名も事実上強制された。5000年の朝鮮文化を否定する政策は、朝鮮民族に計り知れない苦痛をもたらし、届出期間の1940/8/10までに約8割322万戸の創氏改名がなされた。抗議の自殺、日本人高官をもじったり「犬糞食衛」「犬馬牛豚」などに創氏改名して抵抗する人々もいた。創氏の届け出がない場合も、従来の「姓」が新しい「氏」とされ、あらゆる場で差別と虐待が繰り返され、その目的は家制度を韓国式から日本式に改めることにあった。 
1936/8朝鮮総督に就任した南次郎は、その直後に神社規則を改正し、1邑面(町村)1社を目標に神社建設を行い、1937/7/7日中戦争開始から毎月1日を愛国の日として神社参拝を強制した。同年10月「皇国臣民の誓詞(ちかい)」を定め、学校・官公庁をはじめ全ての職場でその唱和を義務付け、同年12月23日全朝鮮の初等学校と中学校に御真影(天皇・皇后の写真)を下賜、その伝達式を行う等の皇民化「内鮮一体」化政策(ただし参選権等日本人と同じ権利を保有することは否定)を推し進めた。1941/3/31国民学校での朝鮮語による学習を廃止、1943には兵役法を改正し朝鮮に徴兵制を施行した。
 
軍事

 

 
補給
部隊に対する補給 日本軍はとかく補給部隊(当時は輜重部隊と呼称)を軽視する傾向にあった。それをもっとも表しているのが陸軍に「輜重輸卒が兵ならば、蝶々、トンボも兵のうち、電信柱に花が咲く」海軍では「くされ士官の捨て所」という言葉で、いかに他部隊に侮られていたかわかる。将校も中将までしか出世できず、左遷的なイメージがあった。つまり人材、資材、兵器などあらゆる点で最低の待遇しか受けられず、作戦で満足な働きができなかったことは間違いない。 
もう一つ、補給を軽視する言葉として「敵さん給与」という言葉がある。要は敵の物資の略奪である。敵から略奪するならまだしも、敵陣に着くまでは、付近の住民から奪うのである。「孫子」にも「智将は務めて敵に食む 敵の一鐘(石)を食むはわが二十鐘(石)に当たる」という記述があるが、これは航空機も自動車も無い2500年前の春秋時代の話で、当時の戦況には通用しない。しかも南方の国々は農業国とはいえ、麻や煙草などを主体としたプランテーション農業なので、すぐに食料が手に入る訳ではない。フィリピンなどは穀物の大半を輸入し、1944記録的な凶作に見舞われたベトナムでは日本軍の強制挑発により、200万人が餓死したとされている。中国では日本軍は蝗(いなごの意)軍と呼ばれ、住民の恐怖と反発を呼んでいた。 
補給面とは別に、住民の恨みを買う点でもこの戦術は失敗である。現地人を敵に回して勝った軍隊は歴史上ほとんどない。一個師団とはいえ、たかが一万人前後であり集まって軍団となったところで、100万-億の単位で居住する現地民に比べればひとたまりもない。日本は略奪だけではなく、言語強制による文化侵略もおこなっており、住民がゲリラ化するのは必然であった。当時の強制日本語教育について、ある参謀は「太閣が朝鮮を攻めた時、そこの民に'いろは'を使わせればよいと言ったが、我が軍もその心意気である」と放言している。彼は豊臣秀吉の朝鮮出兵の敗因(住民反抗と朝鮮水軍による補給線の切断)を知らなかった。 
 
シーレーン問題を1941のアメリカと比較してみると、日本の資源の乏しさがわかる。 
       石炭       石油       鋼材  
日本     71,630       142       4,720 
アメリカ  505,489    189,985       75,184(年産額―単位千トン) 
このほかアメリカは中南米、カナダ、オーストラリア、英領植民地などの資源を自由に使えるのに対し、日本はこれから南方資源を獲得しなければならなかった。また獲得に成功したとして、日本の造船能力ではそれらの資源を持ち帰るのは困難である。
 
日米の輸送船における造船能力を比較してみる。 
日本     336万トン(1941/12-45/8まで)  
アメリカ  10116万トン(1940/7-45/8まで)  
開戦当初、日本には護衛艦隊が存在しなかった。1942/4に第1,2護衛隊が設立され、1943/11海上護衛総司令部が発足した。護衛専門の航空隊(第901航空隊)ができるのは、その1ヶ月後である。そもそも日本に護衛専門の艦艇はなく、戦前は北洋漁業保護のためにつくった海防艦が4隻あっただけで、これが商船護衛に使われた。ちなみに5隻目の海防艦が竣工したのは1943/3である。あまりに遅すぎる対応で、その武装もまた貧弱だった。その後、1944には101隻、1945には50隻と大増産されたが、急造のため武装、速力に大きな問題があった。武装面では大砲一門しか積んでいない潜水艦に海上戦闘で負け、速力では鈍足のため輸送船についていけない低性能ぶりで、ものの役に立たなかったといえる。そこで海上護衛総司令部は高速駆逐艦の協力を連合艦隊に求めたが、艦隊決戦を重視する連合艦隊は非協力的で、2線級の駆逐艦や旧式艦を出すばかりだった。最終的に日本の輸送船の被害は843万トンにのぼった。 
また輸送船は軍事物資の輸送以外に国内の民需にも不可欠で、企画院の見積もりによれば300万トンの船が最低限必要とされていたが、この計算も若い職員が一晩で仕上げたものという。1943/1にはその最低ラインすら割り、戦争経済が破綻する事態におちいる。終戦時に166万トンまで落ち込み、国内の経済は完全に停滞していた。ちなみに現代では約3000万トンの輸送船が使用されている(輸送量は1隻につき10倍)。 
古来補給を軽視した軍隊の末路は悲惨なもので、第二次世界大戦の総力戦的な性質と、日本の地理的状況が国民に悲惨な負担をかけることになった。この点で海軍は戦争経済というものを全く理解していなかったといえる。
 
情報戦
当時の日本は情報戦についてひどくぞんざいであった。 
ハワイ、オワフ島に10人程スパイを送り込んだ事もあるが、スパイとして質が低く、プロといえるものはほとんどおらず、結局一番役に立ったのは土産ものの絵葉書で、真珠湾攻撃のときは、この絵葉書のコピーが各パイロットに支給されて大いに役に立っている。この場合は敵の油断に救われており、アメリカにも結構な油断があった事も分かる。 
最も有名な情報漏洩はミッドウェイ海戦だろう。当時日本海軍が使用していたD暗号は無限乱数というものを用い、理論上解読不可能とされていたが、実際は有限乱数が使用され理論上解読可能であった。その上、撃沈された潜水艦(伊124)から暗号表を入手されたため、作戦目標がミッドウェイ島であることを解読されてしまう。情報漏洩が敗因というわけではないが、無視できない敗因の1つに挙げることができる。もし情報漏洩がなければミッドウェイ島は簡単に占領できたかもしれない。似たような経過で、連合艦隊長官の山本五十六大将の乗機が撃墜されている。 
情報軽視の風潮は、中国戦線から続く連戦連勝が敵を侮る風潮を生み、地味で出世につながらない作業を多くの軍人が嫌ったのが原因である。
 
技術力・工業力の格差
開戦時、日本の技術はそれなりに発達し、一部の分野ではアメリカを追い抜いてさえいた。酸素魚雷などがその代表的なもので、この技術は終戦まで連合国が真似できなかった程、素晴らしい技術といえる(魚雷の推進に、通常使われる空気ではなく、水に溶ける酸素を使用する事により、航跡を隠す事ができる)。だが、ほとんどの技術は欧米に比べ劣っていたといわざるを得ない。 
特にレーダー開発の遅れは致命的で、これが個々の海戦の主敗因といえる。日本の技術関係者も、開発努力を怠らなかったが、軍人の無理解が大きな妨げとなった。海軍のなかには遠くから敵を見つけて攻撃することから、卑怯者が使う兵器と侮蔑する軍人さえいたという。また陸軍に至っては、レーダー研究者を単に成人として徴発し、穴掘りに使役したりしていた。単純な技術の遅れもさることながら、こうした軍全体の軽視が、レーダー(日本では電波探信儀、電探と呼称)開発に悪影響を及ぼしていたといえる。 
航空機に関しては、零戦などの優秀な戦闘機が存在したが、戦争後期になるとその優位も崩れ制空権を奪われた。その要因の1つに日本の航空機全体の装甲の薄さにある。日本の戦術思想は航続距離と空戦性能を重視するため、装甲を犠牲にして自重を軽くせざるをえなかった。 
日本海軍と米海軍の主力艦上戦闘機の重量と馬力を比較してみる。 
航空機名          エンジン馬力(hp)  重量(kg)  
零式艦上戦闘機21型    940hp         2410kg  
F6F-3ヘルキャット     2000hp         5643kg  
 
日本の戦闘機はエンジン馬力がなく、それを補うために自重(主に装甲)を犠牲にした。零戦の軽さは芸術的ともいえるし、その空戦性能は当時世界一だったが、パイロットの防護という点では軽快さを上げる位しか防御対策がなかった。また陸軍主力戦闘機の一式戦闘機「隼」も同じように軽量であった。こういった軽戦闘機思想はパイロット練度が高い戦争初期でさえ問題となり、歌にまでなった加藤隼戦闘隊の加藤中佐ですら、爆撃機の小口径銃に撃墜された。戦争中期以降になるとその弱点をますます露呈することになる。米海軍ヘルキャットなどは1対50の損害率を誇り、いかに優れた防弾機構を持っていたかわかる。爆撃機の思想にも同じことがいえ、日本の代表的な爆撃機である一式陸上攻撃機などは燃料を翼内部にまで満載し、攻撃されるとすぐ火がつくため、米軍に「一式ライター」などと呼ばれていた(そのかわり5500kgという双発機としては驚異的な航続距離を持っていたのも事実である)。 
対照的に米軍はパイロットを大事にしている。人命尊重もさることながら、パイロットの損失が大きな代償をともなうことを冷静に判断していたからである。当時一人前のパイロットを育成するのに2年の歳月と約75000ドル(現代の2億円)の費用が必要とされていた。日本軍にもそれを理解していた人間もいたが、エンジン性能の低さと、熟練者でないと自殺に等しい軽快さを生かした空戦戦法、そして精神主義が装甲を増やすの妨げていた。技術の低さを人命で補うしかなかった日本軍の悲惨さを表す例である。そして、この思想は究極の自殺攻撃である「特攻」につながることになる。 
個人兵器である小銃は、明治38年(1905)に制式採用された三八式歩兵銃が主に使用され、あまり出来のよいものとはいえなかった。この銃は設計図の上では優秀なものとされているが、同じ銃どうしの部品に互換性がなく様々な問題をおこした。当時の日本の工業技術では、規格品の製造はそれほど難しかったのである。だがそれ以前に明治時代のものを1941に使用していた日本陸軍には驚くばかりである。この小銃の性能の低さ、言い換えれば日本の工業力の低さも「バンザイ攻撃」の要因の一つといえる。
 
原子爆弾は日独双方ともに理論上は完成していた。ただ工業力と技術力と上層部方針の格差のため、最初に完成したのはアメリカであった。工業力とは技術力とは違い、その国の基本的な国力(人口、領土、資源)が大きく関わってくる分野である。当時のドイツは技術分野の多くでアメリカを上回っていたが、資源の欠乏(特に石油)が致命的な弱点になっていた。日本は双方の分野でアメリカに遠く及ばず、イタリアに至っては、前世紀の小銃(1891型マンリカ.カルカノ銃)を主力兵器として使用していた 。 
工業力の格差について当時の日米の兵器生産量を挙げる。 
            日本        アメリカ  
小銃生産量     260万挺      1700万挺  
火砲生産量      3万門       30万門  
 
航空機、戦車の生産量。 
           日本      アメリカ      イギリス     ドイツ  
航空機生産量  59000機    262000機    96000機     93000機  
戦車生産量    4000輌     76000輌    28000輌     27000輌 (1941-44) 
ソ連の戦車生産量は83000輌とアメリカさえもしのいでいた(日本はこのようなドイツの機甲師団を屈服させるような国とノモンハンで戦車戦を演じた)。航空機はまだしも(ただし軽戦闘機も戦略爆撃機も同数に数えてあるのに注意)この戦車生産量の差には驚かされる。戦車の性能面においてはもっとひどく、日本の中戦車は諸外国の基準では軽戦車扱いで、欧州戦線で独戦車に散々な目に遭った米主力戦車シャーマンが、太平洋戦線ではほぼ無敵だった。国際基準、世界の常識に大きく遅れていたのが、当時の日本戦車だ。
 
戦場における問題点 
陸上の戦闘は兵力の多寡がものをいい、ほとんどのケースは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けている。海戦は兵力の運用次第では逆転もあり得るため、ここで主に太平洋戦史に多大な影響を及ぼした海戦を考察する。
 
真珠湾奇襲 1941/12/7 
目的/対米戦を決心した日本は、資源確保のため南方への進出を最大目標とした。南方作戦のためには米太平洋艦隊の機先を制し、これを撃滅すべきとして、山本五十六連合艦隊司令長官が強硬に主張した作戦である。日本軍被害/航空機29機 沈没、特殊潜航挺5。米軍被害/沈没、戦艦5、大破、軽巡1、駆逐艦3、中破、戦艦1、小破、戦艦2、航空機479機。  
問題点/最大の失策は、宣戦布告より先に奇襲をかけたため卑怯な日本人としてアメリカ国民の怒りを買った事である。また、真珠湾の造船所や石油タンクなどを無傷で残したことや、周辺に存在するはずの空母を逃すなどのミスも目立つ。これは主に指揮官の南雲中将のミスである。この世界初の空母部隊の指揮官に選ばれた南雲中将は、本来水雷(魚雷戦)専門の軍人であり、海軍内の序列人事により彼を起用した海軍に責任がある。その他の問題としては、完全な奇襲で、しかも熟練パイロットを起用しての作戦なのに、艦載機29機の損害は日本軍の航空機のもろさを露呈している。また、無駄になった特殊潜航挺は後の潜水艦軽視につながることにもなる。
 
ミッドウェイ海戦 1942/6/4 
目的/対米戦早期解決を目論んだ山本五十六長官は、米太平洋艦隊の母港であるハワイを攻略する事を計画した。その足がかりとしてミッドウェイ諸島攻略を立案した、リスクの高いこの作戦の支持者は少なかった。ちょうどそのころ米軍機が空母から東京を空襲したため(ドゥーリトル空襲)、衝撃を受けた軍令部はミッドウェイ作戦を再検討する。山本長官の真珠湾以来の強硬姿勢も効を奏し、この作戦は承認された。日本軍被害/沈没、空母4、重巡1、大破、重巡1、航空機322機。米軍被害/沈没、空母1、駆逐艦1、航空機150機。 
問題点/一般に情報戦の敗北などといわれているが、当時の日米の実力差を考えると少なくとも第一要因にはなり得ない。米太平洋艦隊司令長官ニミッツ自身が「米国の指揮官にとって、それは不可避な惨事を事前に知ったようなものであった」と後に述べている程の戦力差があったからだ。作戦の最大の失敗は優柔不断な艦載機の運用にあったといえる。敵艦が見つからないため、艦載機の魚雷や対艦爆弾をミッドウェイ島の攻撃のために陸上爆弾に変更し、その後、敵艦発見の報で装備を対鑑装備に戻している最中に爆撃を受け、その結果空母3隻を一気に失った。これもやはり指揮官である南雲中将の失策である。約2ヶ月前、インド洋で同じような付け替え作業をやったとき3時間半かかった事が教訓になっていない。また同時進行していた陽動作戦のアッツ島攻略戦に空母を2隻も割いたのも無駄である。作戦の重要性を考えれば、どちらが重要なのかはいうまでもなく、その証拠にアッツは占領後、大した支援も受けられず日本軍の玉砕第1号になっている。他にも空母艦隊を先頭に起き、主力の戦艦艦隊が後方に位置するという、戦力分散の愚を犯しているが、これは司令官である山本五十六大将の責任といえよう。その他(あるいは最大の)の要因として、米軍を侮っていた事が挙げられる。真珠湾の成功に気をよくして「南雲艦隊無敵」とか「急がなければ敵が逃げる」と放言する参謀がでてくるほどの慢心は、目に見えないところで作戦に影を及ぼしていたとおもわれる。 
 
第一次ソロモン海戦 1942/8/7-8 
目的/南方にまで戦線をのばした日本は、南太平洋の制空権確保のため、ガダルカナル島に飛行場を建設した。その1ヶ月後(8/6日)、ミッドウェイ海戦の勢いに乗った米軍が完成したばかりの飛行場を占領。これを知った日本軍はラバウルより三川艦隊(巡洋艦と駆逐艦で編成)を派遣し、揚陸作業中の米軍輸送船団の撃滅をはかった。日本軍被害/小破、重巡1。米豪軍被害/沈没、重巡4、大破、重巡1、駆逐艦1、中破、駆逐艦1。 
問題点/戦闘結果だけで判断するなら、日本軍の圧勝である。勝因としては日本海軍が得意とする夜戦に持ち込めたことと、装備して日の浅いレーダーを米軍が使いこなせなかったことである。しかし、この作戦の本来の目的である輸送船団撃滅を果たせなかったことが、後のガ島戦に大きな影響を及ぼすことになる(結局ガ島での日本軍の戦死、戦病傷死者は31000名中、21000名であった)。司令官の三川中将の言い分としては、周辺にいるかもしれない機動部隊を警戒して撤退したとのことであるが、作戦の重要性を考えれば艦艇を犠牲にしてでも遂行すべき作戦である(しかもこの時、米機動艦隊はガ島周辺より撤退しつつあった)。この失策は三川中将自身というより、輸送艦撃沈を戦果とみなさない帝国海軍の姿勢に問題があるといえる。この海戦もそうだが、この後のソロモン海域における個々の戦闘での日本軍は勝利には、功名首を競う古代中世的な、ただ敵を倒すだけの戦いが目立つ。一番重要なのは皆が役割を果たし戦闘目的を達する事で、敵を多く殺すのが戦争ではない。その後周辺海域(ルンガ、ツラギ間)は日米あわせて50隻以上の船が沈んだため、「鉄底海峡(IRON BOTTOM)」と呼ばれるほどの激戦地になった。つまり日本軍が最も嫌い、逆に米軍が得意とする消耗戦が始まった、1943/11/24セントジョージ岬沖海戦まで、ソロモンでの死闘は続くことになる。
 
レイテ沖海戦 1944/10/18-26 
目的/このころ米軍の攻撃も熾烈を極め、日本軍の主な拠点は占領されるか(サイパン、タラワ、クェゼリン)、爆撃と補給線遮断により、実質的機能停止(トラック、ラバウル)に陥っていた。ここに米軍は、かつてマニラを追い出された報復と、現地民の救出のためにフィリピン奪回を計画した。これはマニラ陥落の時、現地司令官だったマッカーサーが強硬に主張したとされている。これを阻止するため日本側は捷一号作戦を発動、連合艦隊の残存艦艇のほとんどを集めて米上陸部隊の撃滅をはかった。この作戦の特殊な点は囮艦隊を使って米軍機動部隊を誘い出し、その上で上陸中の部隊に戦艦大和を中心とする主力艦隊で砲撃を加えようとしたところにある。囮艦隊に空母を4隻も使用したところに、日本側がいかにこの作戦に賭けていたかがわかる。日本軍被害/沈没、空母4、戦艦3、重巡6、軽巡4、駆逐艦4、潜水艦5。米軍被害/沈没、軽空母3、駆逐艦3(うち空母2隻は神風特別攻撃隊によるもの)。 
問題点/日本軍被害のうち、正規空母1隻、軽空母3隻の被害は任務が囮のため、やむを得ないともいえる。しかし囮部隊が仕事を果たしたのに、戦艦部隊がレイテ湾に突入しなかったため、この作戦自体が崩壊することになった。戦艦部隊司令官の栗田中将は、戦後もその原因を黙して語らなかったため、この行動は「謎の反転」と呼ばれることになる。このためレイテ島にいた84000名の日本軍は、4000名を残して全滅する。元々この作戦はアメリカに一矢報いて有利な和平をもちかける事が最大の目的である。そのために日本は残存艦艇を集め、一大決戦を計画した。作戦に参加した戦闘艦艇だけで日本軍64隻、米軍218隻という歴史上前代未聞の規模の海戦である。これに破れた連合艦隊は以後、作戦実行能力のほとんどを失った。
 
主要作戦

 

  
真珠湾攻撃 
真珠湾攻撃に備えて、休みなしの猛訓練が続いた。特に雷撃機に関しては熾烈を極めた。なぜなら、落下後通常60mもぐる魚雷を水深12mの真珠湾で使用せねばならなかったからだ。魚雷の改造はもとより、機体を高度10m以下に落下させて魚雷の照準発射を行わなければならない。 
鹿児島市民の証言/そらびっくりしたよ。初めて見る飛行機が自分の頭すれすれをかすめ飛んでいく。それも一機だけではなく、何機もだ。その風圧で漁船が転覆してたっけ。その訓練は何日も続いた。これはえらい訓練をしとる。きっと近いうちに何か始まるんじゃないかと思いましたよ。 
雷撃隊員の証言/あの訓練のときは朝8時に飛び立ち、昼食のために帰ってから、再び飛び立ち4時に戻ってから今度は午後8時から夜間訓練でまた空へ。宿舎に帰り着くのは12時だった。こうして厳しい訓練を終え、最後の演習も終え、ハワイに向けての遠洋航海となったけど、真珠湾攻撃を知らされたのは出港直前の空母の中だった。 
日米交渉決裂、11月26日単冠湾を出た機動部隊は一路ハワイへ昭和16年12月2日、攻撃決定「新高山上レ」の暗号電を受け取る。8日、6隻の空母から飛び立った183機は米軍に見つかることもなくまず飛行場を爆撃<、つづいて雷撃隊が艦船に対して魚雷を放った。第2波171機もこれに参加。かくして奇襲作戦は成功。帰らぬ攻撃機は29機であった。 
艦爆隊員の証言/真珠湾に近づくとすでに第一波攻撃によって湾内や飛行場からはもうもうたる黒煙が上がっていた。湾上空は黒い雲に覆われていたが、近づくとそれは高角砲弾の弾幕だとわかった。やがて突撃命令が出て私は攻撃目標を探した。無傷らしき戦艦を見つけ、高度4000から急降下に移る。下からは無数の真っ赤なすじがこちらに向かって飛んでくる。機の左右を音を立ててかすめて行く。高度450で爆弾投下、力いっぱい操縦貫を引く。かかる重力で目の前が真っ暗にななった。すぐに後ろの射手から「やった!命中したっ」という声が聞こえた。 
雷撃隊員の証言/真珠湾攻撃を知らされたとき最初は興奮したものの、冷静になって考えるとわれわれ雷撃隊はほとんど無事に帰還できないのでないかと思った。その日は第一次攻撃隊として参加、ハワイ上空に進入した。攻撃目標は空母、戦艦である。隊長に続いて敵艦に迫る。高度5m。しかしよく見るとそれは巡洋艦ではないか!やり直すべく、私は機を上昇させた。隊長らはその敵艦に魚雷を命中させている。ゆっくり旋回して今度はカリフォルニア型らしき戦艦にねらいをつける。魚雷発射。「当たった ばんざい」うしろで叫び声がする。見ると水柱が天高くあがっていた。帰途突如として弾幕が私たちを包んだ。カンカンという連続音。うしろで「アチィー」という叫び声がした。何と下から上につきぬけた弾丸は彼の背中と飛行服の内側を突き抜けたのだった。まさに間一髪だった。
   
珊瑚海海戦 
ポートモレスビー攻略作戦のために南下してきた日本機動部隊に対して、米軍はヨークタウン、レキシントンの2空母をもって迎撃作戦を展開。昭和17年5月7日、互いに敵空母を発見し攻撃に向かうも日本軍は敵機動部隊を発見できなかった。米軍もまた日本機動部隊を発見できず、攻略部隊の小型空母「祥鳳」を撃沈するにとどまった。翌日、同時刻くらいに飛び立った日米の攻撃機による史上初の空母決戦が行われた。空母「瑞鶴」「翔鶴」のうち「翔鶴」が3発被弾、中破。米軍は「レキシントン」撃沈、「ヨークタウン」中破であった。 
 
ミッドウェー海戦 
ミッドウェー攻略と敵機動部隊への攻撃という2つの曖昧な作戦目的のまま出撃した日本軍「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母に対して、早くから日本の暗号電文を解読し、ミッドウェーに来ることを知っていた米軍は、これを迎え撃つため、「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3空母が出撃した。昭和17年6月5日ミッドウェー島にたいして攻撃をおこなっていたさなか、索敵機から空母発見の報が入った、しかし遅すぎた。敵機動部隊攻撃用においていた雷撃隊は「付近に敵艦隊なし」という判断から、魚雷から爆弾に換装して、ミッドウェー島攻撃の準備を終えたところであった。このまま爆装で出撃させていればよかったのだが、南雲長官(後、サイパン島にて玉砕)はまた魚雷に換装させた。更にミッドウェーから帰還した飛行機も魚雷を積むために着艦させた。そうこうしているうちに敵の空母からの雷撃隊がやってきた。しかし護衛なしの雷撃隊はことごとく零戦隊に撃ち落とされた。やがて準備も整い、赤城から第一機目の攻撃機が発艦した。あと5分もすれば、全機発艦できる。ちょうどその時、雲の切れ目から急降下爆撃が次々に舞い下りてきた。あっという間に3空母は艦載機とベテランパイロットを満載したまま炎上した。無事だった飛龍から発進した攻撃機はヨークタウンを大破。しかしこの後エンタープライズからの攻撃機により、大破炎上。日本はこの日一気に4空母を失った。 
雷撃隊員の証言/ミッドウェー攻撃から帰ってきて、「加賀」の搭乗員待機室にいたとき、ドーンというものすごい振動があった。「やられたぞ」みなの顔が緊張している。爆発音は続いた。「だめかもしれん」その時、部屋の一角が破れ、炎と黒煙がはいってきた。息ができない。我先にと出口に押し合う。やっとのことで甲板にでると格納庫で誘爆しているのか、飛行甲板がめくれあがって吹き飛んでいる。そんな中で消火隊が命がけで火を消そうとしていた。しかし、焼け石に水だった。ついに退去命令がでて、私たちは海に飛び込んだ。 
駆逐艦乗務員の証言/「目標左ぃー加賀上空!」あっという間に降下した爆撃機は我々の砲が回頭するまもなく、爆弾を放った。加賀の甲板から閃光が走った。赤城、蒼龍とも同様、炎上する炎は何百メートルにも達した。指揮所員たちは「えらいことになった」といっている。飛龍だけは何とか無事のようだ。やがて敵機も去り、我々は空母の乗員救出を始めた。艦を停止して、負傷者を引き上げているとき、「雷跡っ!」という声がした。みると二本の雷跡のうち一本が艦尾に向かってぐんぐん迫ってくる。艦尾には多数の救助した空母乗員がいた。ついに、ガツンと命中したが爆発はしなかった。皆、恐怖の表情で上からのぞいていた。  
エンタープライズ飛行隊長の証言/私は4隻ある空母のうち、手近な2隻に目標を定めた。零戦は雷撃機にそなえてか低空にいる。ラッキーだ。目標を定めて降下に入った。その頃になって、やっと対空砲火が火を噴き始めた。爆弾を落下させる直前、甲板上に航空機が満載になっているのがわかった。急降下爆撃は成功した。ふりかえると3隻の空母が炎上していた。帰途につくと後方から零戦がおそってきた。激しい衝撃を感じ、後ろを振り返ると射手が倒れていた。エンタープライズに着艦すると、ヨークタウンが敵攻撃隊にやられている最中だった。 
飛龍雷撃隊員の証言/「赤城がやられている」という声で甲板にあがってみると加賀、蒼龍とも巨大な火炎をあげていた。しばらく呆然としていたが悲痛な気持ちの中「敵討ちをせねば」と心に誓った。発艦準備をする。零戦6機、艦攻10機、ちょっと前まで100機以上の航空機があったというのに・・・。1時間ほどの飛行で敵空母が見えてきた。そのときグラマンの攻撃に合い、我が機は穴だらけになり、射手は足を撃ち抜かれた。弾幕の中に突入するともうグラマンは追ってこなかった。激しい対空砲火を抜け、魚雷を投下した。「ヨークタウン」の艦橋をかすめ飛んだとき、火だるまの隊長機が空母に体当たりしていた。魚雷は空母の中央付近に命中した。無事帰り着いたのは半数ほどであった。 
 
南太平洋海戦 
昭和17年10月26日ガダルカナル攻防をめぐって機動部隊同士の決戦が行われた。「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」「隼鷹」の4空母対、「エンタープライズ」「ホーネット」の2空母である。米軍は日本機動部隊を発見するも、攻撃隊はこれを見つけられず、逆に日本側はのべ6回に上る攻撃を行い、多くの犠牲を出しながらもホーネットを撃沈した。 
 
ソロモン海戦 
ガダルカナル攻防をめぐり、ソロモン付近で数回にわたる艦船どうしの戦闘があった。第一次ソロモン海戦では巡洋艦4隻撃沈その他3隻に損害を与えた。また戦艦金剛、榛名によるガ島の敵飛行場への砲撃も行われた。第三次ソロモン海戦では、未曾有の大乱戦となった。 
巡洋艦乗員の証言(第一次ソロモン海戦)/闇の中で3隻の敵艦が浮いていた。私の艦は旋回直後に4本の魚雷を発射した。しばらくすると巨大な水柱がわき起こり、それが静まったとき、すでに敵艦の姿はなかった。あたりで一斉に火蓋が切って落とされ、主砲、高角砲、機銃すべてから光の筋が飛んでいった。すさまじい音で気が違いそうだった。さまざまな光が辺り一面に交錯していた。この世のものとは思えぬ光景だった。 
駆逐艦乗務員の証言/敵艦に向けて探照灯が照らされた。かくして、見方主力の砲撃が始まった。我が駆逐艦は敵中央に突入。回りに敵をみながら、撃って撃って撃ちまくる。やがて敵艦隊から離脱し、本体に合流しようと回頭したとき、探照灯に照らされ、砲撃を受けた。二方向から攻撃されたが、どうやら一つは味方らしい。至近弾を食らった私は意識を失った。 
 
レイテ沖海戦 
昭和19年10月、日本海軍は四つの部隊からなるレイテ島攻撃作戦、捷号作戦を発動。航空部隊の小沢艦隊がおとりとなって、敵主力を北方へ誘致し、その間に戦艦大和を旗艦とする栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊がレイテ島に突撃するという大作戦である。おとり艦隊は見事に敵を北方へ誘致したが、西村艦隊は駆逐艦一隻を残し全滅。志摩艦隊もまた、壊滅状態に陥り作戦不能となった。栗田艦隊の方は敵の6波にわたる猛攻で、戦艦武蔵が魚雷20本、爆弾14発を受けて沈没。その他、巡洋艦、駆逐艦にも相当の被害がでており、部隊の再編をはかったとき、総勢40隻以上いた艦艇も15隻しか残っていなかった。それでもレイテ湾に向かって進撃は続いた。「小沢艦隊、敵機動部隊を北方へ誘致す」電文がとばされた。しかし、栗田長官には届かなかった。全く情報のないまま、敵の攻撃を受け続けた栗田艦隊は、なんとかレイテ湾目前まで迫ったが、なぜか突入を断念し、反転した。付近に米機動部隊がいると判断したためというが真相は今もって謎である。この作戦で事実上、日本海軍の水上部隊は消滅した。 
小沢艦隊空母乗員の証言/強力な三式弾でいくら落としても、敵の爆撃機は次から次へとやってきた。爆弾が降り注ぎ、艦腹に魚雷が命中した。敵攻撃機が激突し、バラバラになった死体が飛んでくる。機銃は焼けて真っ赤になってくるのを冷やしながら撃ちまくっている。横を膝から下を切断された将兵が機銃弾を運んでいる。異常な光景がふつうに感じられた。 
西村艦隊戦艦乗務員の証言/「総員退去」艦長から命令が下った。炎上もせずに静かに沈んでゆく。艦橋の中はいすに座った司令官、艦長が静かにたたずんでいた。一番砲塔は最後まで火を噴いていた。後は、艦と一緒に沈んで行くだけだ・・・。そう思うと、ほっとした気持ちになった。しかし、私は海上漂流中に捕虜となった。この艦の乗員1400名のうち生き残ったものはわずかに10名であった。 
 
ガダルカナル島 
ガ島に飛行場を建設していた日本軍は、完成したと同時に上陸してきた米軍に奪われてしまった。昭和17年8月7日のことであった。かくしてガ島奪回作戦が始まった。軍首脳は敵はわずかであると判断、まず900名の一木支隊が向かった。だが、上陸した米軍は戦車部隊、重砲部隊を加えた16000名であった。この一木支隊は上陸後すぐに全滅した。続く第2回総攻撃は5000名からなる川口支隊であった。彼らもまた、後一歩のところで、火力不足のため撤退した。ついに第3回攻撃には17000名以上の兵員が参加、総攻撃をかけ、いったんは占領したものの、すぐに奪われてしまった。翌年2月7日の撤収完了までに12600名が戦死。そのうち8600名が病死、餓死、行方不明者であった。 
ガ島帰還兵の証言1/大発艇でガ島に向かっているさなか、敵戦闘機がおそってきた。バリバリッと低空で機銃を発射してくる。あっという間に死傷者が続発した。ギュウギュウずめの大発の中で、みな必死で反撃する。やっとの事で島に着いたとき動ける兵員は1/4しか残っていなかった。制空権は完全に掌握されていた。 
ガ島帰還兵の証言2/11月頃になると餓死者が続出するようになってきた。私は食べれそうなものは何でも食べた。蛇、トカゲ、カエル、オタマジャクシ、しかし12月になるといよいよ食べるものがなくなってきた。ついにシラミやウジ虫まで食べ出した。死はすぐそこまできていた。マラリア熱にうなされながら早く死んでしまいたいと思っていた。まわりの戦友はほとんど死んでしまった。 
 
インパール作戦

 

インパール作戦1 
太平洋戦争中もっとも愚かな作戦のひとつインパール作戦。あまりに長い補給線は必ず寸断される。無理な作戦とわかっていながら、押し通した軍司令官。そこには緻密で合理的な考えではなく、いわゆる義理人情的なものが存在していた。いったん動き出した作戦は簡単に中止することはできない。一軍司令官の判断ミスでは到底すまされない大きな犠牲がでた。戦死者数の詳細は不明だが、47000-65000人ではないかといわれている。 
防衛ラインの拡大というのが基本構想だが、あわよくばインドまで進行しようというねらいがあったものと思われる。参加師団は第15,31,33師団の3個師団。参加人員は最終的に88000名を数えた。作戦開始は3月なかば位からで、1ヶ月以内に攻略できるという考えであった。しかし5月の本格的な雨季になっても攻略できなかった。敵の攻撃は激しかった。雨は降り続き、食料はとっくに底をつき、伝染病が蔓延した。軍司令官は作戦不可能を訴える師団長全員を解任した。ようやく作戦中止命令がでたのは、7月なかば、前線に知らされたのは7月の末であった。ここから地獄の退却行が始まった。 
インパール帰還兵の証言1/部隊が撤退することになった。しかし我々には突撃命令がでていた。敵陣の直前で待機していると、後方から激しい砲弾が飛んできて、目の前の敵陣地に炸裂した。撤退前に集中攻撃を行うのである。しばらくして攻撃がやんだ。隊長が突撃しようとしたとき、今度は敵が一斉に砲撃を開始した。物量にものをいわせた、すさまじい攻撃だった。やがて攻撃もやみ、進退きわまっていると後方から伝令がきた。「多数の死傷者がでたから、本体に合流して、撤退せよ」我々はほっとした。 
インパール帰還兵の証言2/山を下っていると、下に小川が見えた。そこで休憩をしようと林の中を進んでいると、死臭が漂ってきた。小川にでてみると、なんとそこには200人近い日本兵の死骸があった。しかし、そこだけではなかった。インパール街道には、累々と死骸が横たわっており、半死の状態の者は自殺用に「手榴弾をください」と訴えた。だめだというと「私を殺してください」と哀願してきた。長い軍隊生活の中でも、これほどの惨状は初めてだった。 
英国軍将校の証言/ある街を通過するさい、そこに550体の死体があるのを見た。その多くは石仏の周囲に集まっていた。そのような光景は、そこだけではなかった。あらゆるところに放置されたままのほとんど白骨化した死体があった。
 
インパール作戦2 
インパール作戦(作戦名ウ号作戦)は、昭和19年3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦。補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。 インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されるなど、作戦開始前から問題点が数多く指摘されていた。こうした問題点を内包していたことで、当初はビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部総てがその実施に難色を示したインパール作戦であったが、1944年1月に大本営によって最終的に認可された背景には、敗北続きの戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いていた。 上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消された。ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍では、インパール作戦実施を強硬に反対した総参謀副長稲田正純少将が東條英機首相と富永恭次陸軍次官によって1943年10月15日に更迭され、第15軍内部でも作戦に反対した参謀長、小畑信良少将は就任後僅か1ヵ月半で牟田口自身によって直接罷免された。 また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれた。この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられなかった。 インパール作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれ、インド国民軍6000人も作戦に投入された。そのうちチンドウィン河まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅している。 なお、連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に約15万人がこの地域に配備されていた。 
 
インパール作戦3 / 牟田口廉也 
(明治21年10月7日-昭和41年8月2日)佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。 盧溝橋事件や、太平洋戦争開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮、最終階級は中将。木村兵太郎や富永恭次と同じく東條英機に重用され、腹心の一人であった。当時の大日本帝国陸軍の将官の評価の際にそのレベルの低さを象徴する人物として、杉山元、富永恭次等と共に真っ先に名前が挙がることが多く、インパール作戦における様々な失策愚策も、一貫して反省せず弁解じみた発言や態度を通したことから、死後も再評価はされず、旧日本軍の中で痛烈な酷評を受る軍人である。 少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。昭和12年盧溝橋事件で中国側への攻撃を「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として独断で許可し、日中戦争の端緒を作り出した。太平洋戦争開戦直後のシンガポール攻略戦で名を馳せたが、インパール作戦では決定的な敗北を喫した。 第15軍司令官に就任し、昭和19年3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2000m級の山岳が連なる地帯で補給を軽視した作戦を立案した。当初、上部軍である南方軍司令官や自軍の参謀、隷下師団は補給が不可能という理由でほぼ全員が反対した。牟田口は「イギリス軍は弱い、必ず退却する」と強硬に主張、やがて南方軍も大本営も作戦を承認することになった。危惧通り作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。一介の中将に過ぎない牟田口が本来親補職(天皇より任免される職)である師団長を独断で更迭することは、前代未聞の事態であった。
 
ビルマ方面軍司令官河辺正三中将はこうした惨状を前に「こんなことで作戦がうまくいくのか」と疑問を呈したというが、口を差し挟むことは行わなかった(河辺は盧溝橋事件の際も牟田口の上官であった)。戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。補給については牟田口は、牛に荷物を運ばせて食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を実施させたが、もともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなかったため、牛はつぎつぎと放棄され、ジンギスカン作戦は失敗した。 牟田口は作戦が敗色濃厚と知るや、15軍の撤退を待たず「北方撤退路の視察」を名目に敵前逃亡した。この点に牟田口自身は戦後、防衛庁戦史編纂室に対して「当時、私が第一線にとどまることに身の危険を感じたため、シュウェボにいち早く後退したかのように言われるのは心外至極のことである。あの時、軍司令官たる私がチンドウィン河畔に留まって諸隊の退去を指導することの重要さは私も十分承知していた。しかし、それよりチンドウィン河以東ジビュー山系間の補給体系をすみやかに確立することこその行動であった。卑怯呼ばわりされては、悲憤の涙なきを得ない」としている。 作戦失敗の責任が牟田口ただ一人の失策によるものではなく「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」の言葉に代表される、日本軍全体にはびこっていた補給軽視、機械化軽視の構造的原因が根底にあったことは間違いないが、牟田口の一連の作戦指導における無能さが決定的な影響を与えたのも確かである。当時このような歌も流行った「牟田口閣下のお好きなものは一に勲章二にメーマ(ビルマ語で女)三に新聞ジャーナリスト」。作戦失敗ののち予備役に編入されるが、その直後陸軍予科士官学校校長に就任し、終戦を迎える。終戦後、戦犯容疑で逮捕されてシンガポールに送致されるが、作戦失敗で日本軍の甚大な損害を招き、英軍の作戦遂行をむしろ容易にしただけであったため、不起訴処分となって釈放された。  
 
インパール作戦4 
インパールはビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街。ここは英軍の最前線基地になっていた。どうして日本陸軍はビルマを征服したのか、実は日中戦争を有利に進めるためだった。 米英は中国に対して戦略物資の援助を行なっていた。その物資は英領ビルマから昆明を経由して蒋介石軍に届けられていた。日本がビルマを占領すれば、米英は中国を支援できなくなり、中国は世界から孤立してしまう。そして日本軍はこれに成功した。1942年初頭、 英軍は強力な日本軍の前に成す術も無く敗走し、ビルマを放棄してインドに逃げた。 
1944年に入ると状況は大きく変化した。その最大のものは制空権で、連日のように続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われた。あの加藤健夫中佐が戦死したのも、ビルマ上空で ある。圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握り、中国との連絡路の奪回に動き出した。少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行 い、中国軍と連携させることに成功した。この情勢を放置しては、ビルマを征服した意味が無くなってしまうと、日本陸軍は、英軍の最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの意図を挫折させようとした。インパール作戦は、戦略的には道理に適った作戦だった。 
問題はその手段だった。ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、それを超えた後はアラカン山系という、標高2000m級の山々が聳えていた。もちろん、まともな道路は なく、自動車も荷車もロクに通れなかった。歩兵が文字通り歩いて越えるしかなかった。ここで当然問題になるのは「補給」である。前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか補給畑の将校は、連日のように知恵を絞 り考えた。得られた結論は「不可能」だった。しかし、この作戦は強行された。 
1944年3月10万の将兵が、ビルマ-インド国境に殺到した。どうしてこんなことになったのか。強烈な個性を持った一人の将軍が登場する、牟田口廉也である。在ビルマ日本軍の編成は 以下のようであった。東南アジア方面を統括する「南方軍」で寺内寿一元帥がヘッド(親の七光りでのし上がったキャリアで実務に興味もたなかった、シンガポールで美食と観光三昧の生活を送っていたそうで ある)。その下に「ビルマ方面軍」があり、ヘッドは河辺正三中将だった。その下に「第15軍」がありインドのイギリス軍と対峙していた。このヘッドが牟田口廉也中将だった。河辺と牟田口は親友の関係だった。インパール作戦をやりたいと言ったのは牟田口 だった。彼は「軟弱なイギリス軍など、あっというまに倒して見せる」と豪語した。だから歩兵の携帯用食糧だけで十分、補給の事を考える必要が無いとした。補給の専門家は、一人残らず反対した。しかし彼らの意見は黙殺されてしまった。
 
日本軍は、補給を軽視する伝統があり、補給畑に行く人はノンキャリアだった。キャリアがノンキャリアをバカにするのは当然のことで、 河辺は「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」と言った。寺内は「良きに計らえ」。東条は「やれるならやりたまえ」だった。彼はインドの亡命政治家チャンドラ・ボースを利用し、政治的なプロパガンダを打ちたがっていた。捕虜となったインド兵を中心に、インド解放軍を編成させていた彼は、「日本軍のインド侵攻」に甘い夢を見たい気分だった。こうして十分な検討もなされぬまま、作戦は勢いのみで走り出した。もっとも、牟田口は画期的な補給作戦を案出して見せ た「ジンギスカン作戦」である。ビルマの民衆から大量に牛を徴発し荷物を運ばせ、兵隊は腹が減ったら牛を殺して食えば良いというもの。牟田口は「これぞ一石二鳥」と悦に入っていたよう だ。古のジンギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたという。牟田口は牛を見たことがなかったか、牛は背中に重い荷物を背負ったまま大河を泳いだり、険しい山道を進むことが苦手な動物なの だ。歴史上のジンギスカンは、牛ではなく羊を連れ草原地帯を進軍した、「ジンギスカン作戦」は失敗に終った。チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も山道を進むことができず放棄された。それでも牟田口は意気軒昂としていました。彼は幕僚に「日本人は、もともと農耕民族で草食動物なのだ。ジャングルの中で草を食えば補給などいらぬのだ」 といった。 
日本軍は良く頑張りアラカン山系を突破し、インパールの街を、北、東、南の三方から包囲した。インパールは山間の盆地で、陸上の連絡路は北方のディマプールに延びる一本道しか なかった。佐藤中将の第31師団はこの道を遮断し、コヒマ部落で英軍を大いに苦しめた。コヒマの戦いは、イギリスで出版される戦史物で必ず詳説されているそう、それほどに激しい戦いだった。佐藤師団がコヒマで 英軍を食い止めている間、残りの2個師団が補給切れになったインパールを占領する手はずだったが、計画は失敗した。
 
なぜかインパールが補給切れにならなかったからである。制空権を完全に掌握していた英軍は、空から飛行機で補給物資を送り込んだ。日本軍首脳部は、このような事態を、まったく想定していなかったという。先に補給切れに陥ったのは日本軍で 、大砲は5月の段階で、一日に一門当たり3発の砲弾しか発射できなかったという。この時点で作戦の失敗は明白になった。しかし牟田口はそれを認めようとはしなかった。インパール攻略に苦戦する2個師団を「軟弱」と決め付け、師団長を2人とも 解任した。そして、神社(日本は占領地域に神社を造くっていた)に篭もり、毎日、水垢離していたという。この間に、前線の日本軍は、まさしくジャングルの草を食って生きる状態になった。補給を後方に督促したが、牟田口司令部は「もうすぐ届く」などと嘘をつき 、何もしていなかったし、やりようも無かったのだ。 
7月に入り雨季が到来し、ジャングルは疫病の巣と化し、痩せ衰えた日本兵は次々に病に倒れた。コヒマの佐藤師団は、銃剣で戦車に渡り合うという苦境に陥っていた。補給は一向に行なわれず、このままでは全滅 と彼は悲痛な決断をした。独断で全部隊を撤退させた。日本陸軍発祥以来の大事件で、牟田口はこれを理由にインパール作戦の中止を言い出した。日本陸軍は機能的組織ではなく、単なる共同体と化していた。10万の日本軍将兵の無事に生還できたのは3万人 で、残りの殆どが飢えと病で帰らぬ人となった。日本軍の退却路は、死体の山が散乱し「白骨街道」と呼ばれました。 
生還した佐藤師団長は、日本刀を引っさげて牟田口司令部に乗り込んだ。「叩っ斬ってくれるわ」という剣幕に、牟田口が逃げ回り何事も無く済んだ。佐藤は軍法会議で死罪になることを覚悟し 、裁判の壇上で、牟田口や河辺の「犯罪」を弾劾してやろうと準備していたという。軍法会議も裁判も行なわれず、佐藤中将は「精神病」という事にされた。佐藤の責任を追及すると、牟田口や河辺をはじめ 皆が責任を問われることになり、これを避けるため「事故」として「無かったこと」にしてしまったようだ。 
 
インパール作戦5 / 白骨街道 
第2次世界大戦中インパール(インド東北の辺境、マニプール土侯{どこう}国の首都)作戦ほど悲惨な戦闘はなかった。作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も遅すぎた。 大本営が第15師団に退却命令を出した昭和19年7月15日、時すでに雨期に入っていた。日本軍の、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった)、兵士達はこの道を「靖国街道」「白骨街道」と呼んだ。 食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった。 
 
インパール作戦6 
(昭和19年1月-10月) 東京で大東亜会議が華々しく開催されたころ、太平洋と東アジアの戦況は大きく変化しようとしていた。アメリカ軍はギルバート諸島に上陸、本格的反攻に転じようとしており、ビルマ戦線ではウィンゲート挺身旅団がアラカン山脈とチンドウィン河を越え日本軍の後方に侵入、鉄道破壊などの撹乱をはじめていた。ビルマ防衛の天険であるアラカン山脈が簡単に突破され、日本軍では英印軍のビルマ奪回作戦の拠点であるインパールを攻略し、防衛戦を西に進める作戦が急に浮ぴ上がった。インド進攻作戦は、以前「二十一号作戦」として検討されたが、日本軍と運合国軍の戦力の差がありすぎるという理由で無期延期されていた。1943年3月27日にビルマ方面軍が創設され、方面軍司今官に河辺中将、麾下の第15軍司令官に牟田口中将が就任したころから、これがインパール作戦と姿を変え、ふたたぴクローズアップされる。 方面軍や各師団の中には補給の困難さ、英印軍の増強、航空勢力の劣性を理由として作戦実行には多くの困難があるという声も依然として少なくなかったが、第15軍司令官牟田日廉也中将はインパール作戦の実施を強力に押し進め、河辺ビルマ方面軍司令官も、各方面で意気のあがらない全般的戦況をインド方面の作戦で変えようと考えていた東条首相や杉山参謀総長の意向になるべくなら沿いたいという気持ちだった。6月24日にラングーンで以後の作戦構想を決定する兵棋演習が実施された。本来はビルマ防衛強化を目的としていたが、演習はインド北束部の要衝インパールを攻略して防衛線を前進させる構想で進められた。 そして8月12日大本営が作戦準備を許可し、ビルマ方面軍から第15軍に対し「う」号作戦と呼ばれるインパール作戦の作戦準備要綱が示され、第15軍はマンダレー近くのメイミョウで25日に兵棋演習を行ない、牟田口司令官はインパール攻略のみならず、さらに北のディマプールまで突進する構想で演習をリードした。8月26日ボースは第15軍の新参謀長久野村少将と、曽て藤原機関長としてインド国民軍と関係が深かった当時15軍の参謀の藤原少佐の訪問を受けた。久野村少将はドイツ駐在の経験があり、会談はドイツ語で進められ、ポースは牟田口軍司令官のインパール進攻作戦ではインド国民軍と緊密な連合作戦を行いたいという意向を伝えられた。インド国民軍を率いてインド領内へ進軍する機会を待ちこがれていたボースが勇躍したことは一言うまでもなかった。 ちょうどこの8月カナダのケベックで行なわれた米英統合参謀長会議で、インドと中国を結ぶビルマルート再開を目指す北部ビルマ奪回作戦が翌1944年2月中句実施と決定された。そしてインドのニューデリーに東南アジア連合軍司令部が設置され、司令官にはイギリスのマウントバッテン将軍が任命された。決戦の機は熟していた。
 
日印共同作戦 
12月28日南方総軍がインパール作戦決行を決め、翌1944年1月7日に参謀本部が認可、作戦実施命令が出された。その日の午後、ラングーンのビルマ方面軍司今部を訪れたボースは、河辺司令官の「いよいよ日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」というあいさつに、「今ここに神に祈ることがあれば、それは一日も早く祖国のために私の血を流さしめたまえの一念につきる」と決意を述べた。 当初予定されていた2月半ばの作戦開始は、参加師団の到着を待ち3月8日になった。自由インド仮政府とインド国民軍はラングーンヘ進出し、作戦に先立ち日本軍とインド国民軍の合同幕僚会議が作られ、インパール攻略後の、占領地行政が論じられた。ボースは、これまでのように占領地に日本軍が軍政を敷くのではなく、ただちに自由インド仮政府に警察を含め、すべての行政権を与えることを求め、これが認められた。さっそく、ポースは占領地の復興に必要な技術者を葉め、耕作労働者や穀物の種まで用意し、さらに占領地で使う仮政府発行の紙幣の印刷まで行なっている。インド進攻を目指す国民軍は2個師団がすでに編成清みで、1個師団が編成中だった。当時のインド国民軍の建制は次のようになっている。なおインパール作戦に参加したのは第一師団だけであり、その第1連隊の正式名称はネルー運隊だったが、将兵はスバス連隊と呼ぴ、ポースへの敬愛の情を表わしていた。
 
インド国民軍進軍 
作戦計画の大綱は、第31師団がインパールの北100Kmのコヒマに突進、第15師団は東北方面からインパールを攻略し、第33師団の山本支隊がパレルからインパールへ突進、第33師団主力がトンザンを経て南西からインパールを攻略するというものだった。インド国民軍は、第33師団主力の南、チン高地のハカ、ファラム地区の守備につき、その側面を援助するとともに、第44、45師団がアキャブで展開する攻撃の目標がチッタゴンであるように見せかける陽動作戦と呼応し、海岸沿いにチッタゴン方面に進撃することになった。ボースはラングーンから戦線に出発するすべての部隊を閲兵した。インド国民軍の将兵はいっせいに「チヤロー・デリー」の歓声で激励に応え、マンダレーヘ進発した。 磯田中将が機関長となった光機関は作戦開始に先立って、国民軍の志願兵で編成した工作隊を各方面に進出させた。英印軍の配置を探り、気候、地形などの作戦情報を入手し、食糧確保のための住民工作がその任務だった。 ある工作隊は、前面の英印軍のイギリス人大隊長が司令部に出かけて留守であるという情報を入手し、武器を持たず光機関員とともに寝返りの説得に行った。接近し英印軍が射撃をはじめると、国民軍工作員が光機関員の前に出て、ヒンドゥー語で「日本人を殺すな、われわれインド人の独立のために戦っているんだ」と叫ぶと、射撃は一時は正むが、今度は声のする方に射ってくる。すると光機関員が立ち上がってヒンドゥー語で「同胞を射つな。射つならまず俺を射て、俺はお前たちに話に行くところだ。武器は持っていない」と叫ぶ。このくりかえしに相手は根負けし、とうとう留守番のインド人副隊長の所へ案内され、一晩がかりで日説き落とし、ついに一個大隊全部が国民軍に寝返るということも起きている。
 
立体防御・円筒形陣地 
作戦開始予定日である3月8日の3日前の5日、北部ビルマにウィングート旅団の侵入が行なわれた。83機の輪送機と80機のグライダーによる2個旅団による大規模なもので、強力な戦闘機による支援を受けていた。ビルマ方面軍の航空戦力は爆撃機と戦闘機をあわせて100機に満たなく、大部分をウィンゲート部隊の攻撃に向けたため、インパール作戦の地上部隊に対する支援にはごくわずかしか振り向けられなかった。作戦開始直後、作戦は順調に推移し、一度はコヒマの一部を日本軍が奪ったが、英印軍は円筒形陣地を構築し、頑強な抵抗を続けた。分断包囲されると直径10数Kmの円形に集結し、中央に重砲を置き、円周には戦車と機関銃を配置して日本軍の突撃を退けようとするもので、食料・弾薬は毎日のように輸送機で空輸するという、これまでの常識では考えられなかった空陸共同の立体的防衛戦闘法である。日本軍の各師団は険しい山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数しか携行しなかった。3週間でインパールを攻略する予定でいたため、弾薬も最小限しか持たず、20日分の食料しか用意していなかった。 スリム中将の指揮する東部インド国境を守る英印軍の基本構想は、人的損害を避け、分断・包囲にあえば円筒形陣地を構築したり後方の拠点に後退し、満足な装備を持ずに日本アルプスに匹敵するビルマ西部の山岳地帯を越え、補給線の伸ぴた日本軍を平野部の出口で迎え撃つというものだった。シンゼイワに陽動作戦を実施した第55師団の花谷正師団長は、前線を訪れた方面軍情報参謀の全富興志二少佐に「むこうの師団長は豪気なもんだよ。毎日8時になるときちんと天幕から出てきて、犬をつれて円形陣地の中を散歩してござる」と苦笑しながら語っている。日本軍は食料や弾薬の補給をほとんど得られず、孤立しているとはいえ豊富な支援を受ける円筒形陣地にてこずった。インパール作戦は牟田口中将の考えていたように20日間で終了しなかった。第33師団は逃げ遅れた第17インド師団を包囲したが、頑強な抵抗を受け、戦車連隊などの増援を得た敵の反撃にあい、3月末に退路を開放してしまった。3月19日に国境を突破した第15師団は23日にはインパール東北のサンジャック前面に進出、29日にはコヒマヘの街道を遮断したが、英印軍の猛反撃に阻正され、それ以上進むことができず、牟田口軍司令官から前進が遅いという叱責の電報を受けとっている。また北からコヒマに向った第31師団は3月21日にウクルルを占領し、22日にはサンジャック北側の高地を攻撃したが攻略には失敗した。4月5日、宮崎少将指揮下の第31師団の支隊はコヒマの一角に突入したが、南西に強靱な円筒形陣地を築いた英印軍は増援軍を加えて反撃し、両軍は死闘を繰り返していた。
 
雨期 
1944年4月6日戦線はすでに膠着状態を呈していたが、ポースは司令部をメイミョウに前進させるため、ラングーンを出発した。インパール占領に備え自由インド仮政府の行政機関を運営する人員も同行していた。戦場の正確な状況を知ることができず、第15軍司令部からの勇ましい報告しか入っていなかったためだった。このころ第15軍の司令部ではコヒマ占領が完全にできたと判断し、ディマプール進軍を命じたが、独走を懸念したビルマ方面軍は追撃中止を命じている。戦線の近くに進出したボースは、軍司令部で聞いたのとは様子が異なるのを知り、インパール作戦の難行に気がついたらしい。5月10日インド本国でとらわれていたガンジーの釈放を知ったポースは、これはイギリス軍が日本軍に対する勝利の目安をつけたためと判断し、ビルマ方面軍の河辺司令官にあてて、インパール攻略の強行とインド国民軍の増強を改めて強調する電報を打っている。 チン高地を制圧したスバス連隊の第1大隊は5月16日、第31師団支援のためコヒマヘの転進命令を受けた。コヒマまでは途中にナガ山地を越え500Kmを越す距難を踏破しなければならなかったが、祖国進軍に勇躍した国民軍は、入院中の兵士が病院を抜け出してまで参加して出発した。しかし、補給が満足に準備されていなかったため、国民軍が進軍を開始してからは、一粒の米も支給されなかった。 これはインド国民軍に限らす、日本軍将兵への補給も同様だったが、作戦のための移動は自動車で行ない、食料の補給は指揮官の責任で行なわれるものと考える国民軍の将兵にとって常識を外れた現象だった。国民軍と行動を共にしていた光機関の将校は、武土は食わねど爪楊枝、補給がなければ現地でなんとかするという日本軍の考え方との板挟みになっていた。光機関の将校は大部分が中尉か少尉だったが、任務はインド国民軍に対する「内面指導」を行なうことあるとされていた。しかしインド国民軍では単なるリエゾンオフィサー(連絡将校)として扱い、インド国民軍の要求を日本軍の上部機関に伝えることがその任務であると考えていたことからくる行き違いもそれに加わっていた。 さらに日本軍とインド国民軍の行動を困難にしたのは雨期の早期到来だった。インドとビルマの国境地帯は年間雨量は8000mmにも達し、現地人が「虎も出歩かない」というほど強い雨が続く。道路は寸断され、乾期の小川が濁流となり、低地はたちまち泥沼と化してしまう。例年雨期の最盛期は6月から8月にかけてだが、この年は4月に入ると雨期が本格化し、英印軍にはプルドーザーなどの機械力があったが、日本軍とインド国民軍には人手に頼る人海戦術しか方法がなく、補給なしで山地で行動する兵士たちの体力をさらに消耗した。
 
補給 
シャ・ヌワーズ・カーン中佐の指揮するスバス連隊は半月の雨中の難行軍の末、6月はじめコヒマの南に到着した。しかし、5月25日第31師団の佐藤幸徳師団長は、第15軍から1ケ月も一発の弾丸、一粒の米も補給されないことを激怒し「6月1日までにはコヒマを撤退し補給を受けられる地点に向い移動する」という電報を軍司令部にすでに打電していた。牟田口軍司令官が翻意を促したが、佐藤師団長は、「善戦敢闘60日におよぴ人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、師団に撤退を命じた。 佐藤師団長はシャ・ヌワーズ・カーン中佐を訪れ、師団とともに撤退することを勧めたが、中佐は「自分も部下もはじめて踏んだこの祖国の地から去ることはできない」と抗議し、「インパール攻略はいずれ再開されるから、その時に本分を尽くせ」という説得にも耳を貸さず、インド国民軍第一師団司令部の位置まで後過し、その指揮下に復帰することを申し出た。この申し出が6月22日に許可されたことを聴いたポースはすぐにビルマ方面軍の河辺司令官を訪れ、「ただちに第一線へ視察と激励のため出発したい」と伝え、危険であると引き止める河辺司令官に、「残りの国民部隊をすべて第一線に投入したい。婦人部隊のジャンシー連隊も同様です。われわれは戦いがいかに困難であり、どんなに長引こうとも、いささかも士気に変わりはなく、独立の大義達成のためこれくらいの犠牲は甘受し、日本軍と協力して目的を完遂したい」という決意を述べている。
 
作戦中止 
雨期の最盛期の撤退行でスバス連隊は半数近い犠牲を出しながら、ガンジー連隊、アザード連隊への支援合流を目指してタムに到着したが、そこで聞いたのは命令変更で国民軍第1師団には復帰できないということだった。シャ・ヌワーズ・力ーン中佐たちは、ことここに至っては日本軍と行動を共にせず、スバス連隊は独自にイギリス軍と戦おうという決心をした。電報でこれを知らされたボースがカレワヘの撤退命令を出し、スバス連隊はやっとそれに従ったのである。 パレルの英印軍航空基地正面に進出したが、追撃砲だけの装備で敵の圧倒的な砲火に撃退させられ、崩壊に瀬していた山本支隊を支えていたガンジー連隊とアザード連隊も、補給の少なさに悩まされていた。道路が通じていたためときどき補給が行なわれたが、十分ではなく、ヒンドゥー教徒の最高の禁忌である水牛を殺して食べるほどだった。いったん国民軍に投降した英印軍の兵士が、「独立の大義は埋解できたが、こんな生活では将来に希望がまったくない」という置き手紙を残して姿を消したこともあった。 敵に退路を開放し、作戦失敗を悟った第33師団の柳田師団長は作戦中止を具申し、牟田日軍司令官から指揮権を剥奪され、すでに5月9日に解任されていた。重病の第15師団の山内師団長も5月15日に更迭され、独断撤遇命令を出した第31師団の佐藤師団長も7月7日に解任された。第15軍は指揮下の3個師団の全師団長が作戦中に解任あるいは更迭されるという異常な事態となって、だれの目にもインパール作戦の失敗は明らかだった。ビルマ方面軍が第15軍のインパール作戦を中止し、チンドウィン河の線まで撤退する命令が出されたのは7月12日だったが、日本軍とインド国民軍の将兵には、陸空からの追撃を受けながら雨中の敗走が残されていた。 インパール作戦には約6000名のインド国民軍の将兵が参加した。チンドウィン河に到着したのはわずか2600名で、その内2000名はただちに入院が必要だった。400名が戦死し、1500名が飢餓と病気で死亡し、800名が衰弱してイギリス軍の捕虜となり、残りの700名が行方不明となった。  
 
インパール作戦7 / インド国内の同志への呼びかけ(1944/3/20) 
ボースのラジオ放送 / 自由インド仮政府の率いるインド国民軍は、日本草軍との密接なる強力のもとに、聖なる使命に出発した。日印同盟軍が国境を越えインド進軍を開始したこの歴史的な瞬間にあたり、自由インド仮政府は次のように声明する。1857年の戦いにインド軍はイギリスの侵略軍に敗れたが、インド民衆はイギリスの支配に精神的には降伏はしなかった。非人道的な抑圧や強制的な武器剥奪にもかかわらず、インド民衆はイギリスの支配に対して抵抗を継続し続けた。宣伝、煽動、テロ、サボタージュといった手段、そして武力による抵抗、あるいは最近のマハトマ・ガンジーに指導されたサチャグラハの不服従運動により、単に独立闘争を継続しただけでなく、自由獲得の目的に向かい、大きな前進を遂げている。 
この大戦が始まってから、インド民衆と指導者はイギリスから平和のうちに自由獲得のためにあらゆる手段を尽くした。しかし、イギリスは帝国主義戦争遂行のためのインドの支配をますます強化し、あらゆる搾取と非道な抑圧によりインドを巨大な軍事基地化し、オーストリア、アメリカ、重慶、アフリカから軍隊を呼び、疲弊したインド民衆にさらに耐えられないほどの負担を課し、インド各地にこれまでにない飢饉を発生させている。  
インドを戦火の災害から救う最後の試みとして、マハトマ・ガンジーはイギリス政府に対し、インド独立の要求を認め、インドから撤退することを勧吉した。しかしイギリスはガンジーや数万の愛国者の投獄でこれに答えた。イギリス政府の非道はガンジー婦人の獄死にその極に達した。
 
悪化する一方のインドの状況を目にしたアジア在住三百万のインド人は、祖国解放のため国内で戦うインド民衆に積極的に呼応参加するため厳粛な決意をした。いまや政治目的のためにインド独立連盟が設立し、インド解放の軍隊であるインド国民軍が編成され、1943/10/21には自由インド仮政府が樹立した。インド国民軍は着々と準備を整え、1944/2/4にはビルマのアラカン地区において祖国解放の闘争を開始した。  
この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーヘの進撃を続けている。大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの僕滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。  
いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。  
自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。
 
自由インド仮政府は、兄弟たちがわれわれの解放を目指す日本とインドの両国に対し直接、間接に援助を与えることを要請する。自由インド仮政府は、全インド人が組織的サボタージュによって敵の戦争遂行を阻止し、自由獲得の闘争が一日も早く達成されることを要請する。  
さらにわが兄弟である敵陣営のインド人将兵が、暴虐な支配者のための戦いを拒否し、すみやかにわが陣営に参加することを要請する。われわれは、イギリス政府に勤務するインド人官吏が、聖なる戦いにおいてわれわれに協力することを要請する。われわれはインド民衆が英米の手先でないかぎり、恐れるものは何もないことを保証し、解放地区には自由インド仮政府を樹立し行政を行なうことを保証する。  
自由インド仮政府は、同胞のインド民衆に対し、英米の飛行場、軍需工場、軍港、軍事施設から遠ざかり、われわれの敵撃滅の戦いの巻き添えにならぬように勧告する。  
兄弟姉妹諸君、いまや待ち望んだ自由実現の絶好の機会が訪れている。諸君がこの機会を利用しその任務を遂行すれば、自由は遠からず達成されるであろう。この重大なときにあたり、インドはインド人がその義務を果たすことを期待しているのである。  
自由インド仮政府首席 インド国民軍最高司令官 スバス・チャンドラ・ボース
 
硫黄島玉砕 
昭和20年2月下旬495隻の艦船が硫黄島に集結した。上陸部隊は75000名。これに対し硫黄島守備隊の日本兵は、21000名ほど。米軍司令官は「これだけの兵力なら5日で攻略できる」といった。しかし地下陣地を構築し、持久戦をもくろんだ守備隊は、3月25日のバンザイ突撃まで、決死の抵抗を続けたる。米軍の死傷者は28000人を越えた。 
硫黄島守備隊の証言/上陸前3日間、艦砲射撃と航空機の爆撃が続いた。この攻撃で、山の形が変わっていた。私たちは必死の抵抗を続けたが、次第に追いつめられていった。壕にいると、マシンガンを撃ちながら、米兵が入ってきた。倒れたふりをして反撃しようするとあわてて逃げだし、こんどは火炎放射器と爆薬で攻撃してきた。その他にもガソリンを流し込んで火をつけたり、黄燐弾を投げ込んだり、ダイナマイトを仕掛けたりしてきた。私たちは壕から壕へと移動を続けた。 
米海兵隊員の証言1/身を守る物や隠す物がない岩ばかりの島で砲弾が次々と降り注いできた。その砲撃はきわめて正確で多くの死傷者と精神異常者を出した。日本兵は突然現れて、攻撃してきた。あるとき日本刀を振りかざして、ある海兵隊員に斬りつけてきた。彼は反射的に手を出してさえぎろうとしたが、ひじまで、縦にまっぷたつにさけてしまった。また、日本軍の銃弾により、戦車内部の砲弾が炸裂し、中にいた乗組員は全員ゼリー上の液体と化していた。 
米海兵隊員の証言2/我々はあるトーチカを攻撃した際、その中にいた日本兵の死体を隣のトーチカに放り込み、出入り口を塞いだ。その近くを基地として使っていたが、いつからか変なうわさが立ち始めた。出入り口を塞いだトーチカから日本兵の霊がこっちをのぞいているというのである。ちょうど一週間くらいたった頃、そのトーチカがいきなり爆発した。おそるおそる中を調べると、我々が放り込んだ死体のほかにもう一体の死体があった。彼は手榴弾で自殺したようだった。  
 
戦艦大和の最期 
昭和20年4月6日、大和は軽巡一隻、駆逐艦8隻を伴い沖縄に向けて進撃を開始。大和特攻、菊水作戦の発動である。翌7日、延べ数百機に上る攻撃機により、3時間あまり撃たれ続け、ついに没する。あとには5隻の傷ついた駆逐艦が残った。 
大和乗務員の証言/大和の傾斜はもう45度を超えていて、ほとんど横倒しの状態である。外に出ていよいよ海に入ろうという時、突然大和が沈みだした。私の体は意志に反して海中に引きずられていく。もうだめかと思ったとき、突然吸い込みがなくなった。水面めがけて泳ぐが、なかなかでられない。何度も水を飲んでやっとの事で海面から顔を出した。私が沈んでいるときに大きな爆発があったらしいが、ぜんぜんわからなかった。救助をしている「冬月」は1キロもさきにいた。 
駆逐艦乗務員の証言/二個の爆弾が降ってきた。一個はそれたがもう一個が前甲板に命中した。付近にいたものは跡形もなくなっていた。操縦がきかなくなった。ふと見ると大和がぐんぐん迫ってくる。どうやら向こうも操縦不能らしい。ぎりぎりのところを通り過ぎ、ほっと大和を見るとそこらじゅうがめちゃくちゃに破壊されていた。機銃員がぼんやりと立っている。それから何十分たったか。大和を見るとゆっくりと転覆していた。やがて完全に逆さまになり、船底には何百人もの人間がはい上がってきた。そのままゆっくり沈むものと思っていたが、突然ドドーンという爆音とともに大爆発を起こし、船底にいた者は150-200mは吹き飛ばされていた。我々は生存者の救助に向かった。 
 
太平洋戦争年表

 

 
1941/12/8-1945/8/15 第2次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。戦時中の日本では「大東亜戦争」と公称。満州事変(1931)、日中戦争(日華事変)(1937-1945)の延長として日本が起こした戦争。
1939/  第2次世界大戦の勃発  日・独・伊のファシズム3国は結束を強める。  
1940/   日独伊三国同盟が成立。日本では対英米戦が目標とされる。これに対し米国は連合国側に接近、日本の南進政策を阻止する姿勢を明らかにした。  
1940/9  日本は資源確保のため北部フランス領インドシナ(仏印)に進駐。  
1941/4  日米会談が始まるが、これは対ソ開戦/陸軍部内に根強い日中戦争の収拾/対英米決戦の3案のいずれを選ぶべきかを決するための時間稼ぎだった。  
1941/7  日本軍は南部仏印にも進駐。米国は態度を硬化させる。  
1941/9  日本政府は御前会議で対英・米・オランダ戦争の期日を決定。米国も日本側からの攻撃を待ち、参戦の名義を得ることにした。  
1941/10 日本で東条英機内閣成立。  
1941/11/26 ハル・ノート/日米交渉最終段階で、米国国務長官C.ハルは、太平洋周辺地域各国の不可侵条約締結、中国・仏印からの日本軍撤退、在重慶国民政府以外の中国政府の否認などを提案した文書(「ハル・ノート」)を示した。 
1941/12/1 ハル・ノートを最後通牒と見なした東条英機内閣は、御前会議で対米開戦を決定。  
1941/12/8 真珠湾攻撃/日本軍はハワイ島パール・ハーバー(真珠湾)軍港の奇襲攻撃に成功、米英蘭に宣戦布告。また同日、フィリピンのダバオにも爆撃を行う。  
1941/12/10 マレー沖海戦/日本海軍の航空隊はマレー半島東方海上で、イギリス東洋艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルスを撃沈。日本は南西太平洋の制海権を掌握し、マレー半島上陸開始。開戦後約5ヵ月間に日本軍は香港、マレー半島、フィリピン、ジャワ,ビルマ(ミャンマー)の各地を占領、優勢を誇る。日本政府は、これら地域の豊かな資源で長期戦態勢は整ったと強調。  
1942/2 日本軍のシンガポール占領。この直後、日本軍は反日運動に加わったとされる華人男性を連行し大量処刑(シンガポール華人虐殺)。その人数は不明だが日本側からは5000人、シンガポール側からは10万人という数字も出ている。 
1942/3/9 ジャワ島占領。
 
1942/5/7-8 珊瑚海海戦/ニューギニア南岸のポート・モレスビー攻略を目指す日本海軍機動部隊は、米海軍機動部隊と戦い、米大型空母レキシントンを沈めるが、日本の小型空母「翔鳳」を失って攻略作戦を中止し、戦略的には敗北。  
1942/6/5-7 ミッドウェー海戦/中部太平洋ミッドウェー島攻略に向かった日本海軍機動部隊が、待ち受けた米国海軍機動部隊と海空戦を繰り広げ、日本艦隊は航空母艦4隻、兵員3500,飛行機200余機(全機)を失い、致命的な打撃を受けた。この戦闘を境に太平洋戦線の主導権は米国に移り、戦局は連合国有利に転換。 
1942/8-1943/2 ガダルカナル戦/日米両軍はソロモン諸島南端ガダルカナル島を巡って激しい戦いを繰り広げる。日本軍は作戦上で失敗、ソロモン海戦に敗れ、基地航空隊も激しく損耗。物資不足、マラリアの感染にも悩み、日本軍は派遣部隊の3分の2、餓死者を含め約21000人を失った。連合軍は総反攻の転機をつかむ。 
1942/8-11 ソロモン海戦/ソロモン諸島の日本軍は、延びきった輸送線を断たれて苦戦。8月8日の第1次海戦では日本は米・豪連合軍の重巡洋艦4隻を撃沈。8月24日の第2次では日本は空母「竜驤」を失う。11月14日の第3次は消耗戦となって日本の輸送船団は打撃を受け、戦艦「霧島」などを失った。
 
1943/2 日本軍、ガダルカナル島からの撤退。 
1944/6-7 サイパン島陥落/6月15日、米軍が上陸攻撃を開始。この攻防戦の一環として6月19-20日、マリアナ沖で日本海軍と米国機動艦隊が衝突(マリアナ沖海戦)。日本は「大鳳」「翔鶴」などの航空母艦や航空機の大半を失い、太平洋水域の制海権を喪失。日本軍のほとんどが戦死する激戦の末、7月9日米軍はサイパン島を占領。サイパン島陥失で米軍に日本本土空襲の基地を与えたことになり、東条内閣は総辞職。 
1944/10/12-15 台湾沖航空戦/台湾にいた日本軍航空隊は、米軍レイテ島上陸支援のため沖縄を攻撃しながら南下していた米国機動部隊を集中攻撃、2隻の巡洋艦を大破させるが、逆に日本機動部隊の航空戦力の大半を失う。  
1944/10/23-26 レイテ湾海戦/フィリピンのレイテ島争奪をめぐって日米両国海軍がほとんど全力をあげて空前の大海戦を展開。マッカーサー連合国軍南西太平洋方面司令官は、レイテ島確保に成功。日本艦隊は突入作戦に失敗し、巨艦「武蔵」をはじめ連合艦隊の主力を失い、以後戦闘艦艇としての連合艦艇はなくなった。またこの戦いで初めて神風特別攻撃隊が登場。この頃から日本本土がサイパン島を基地とする米空軍の空襲を受けるようになる。  
1945/2/19-3/26 硫黄島作戦/第2次大戦の3大激戦の一つに数えられる(他の二つはスターリングラードとエル・アラメイン)。日本軍21000名の死守する硫黄島(小笠原諸島南方)に、米軍第3、4、5海兵師団61000名が上陸開始。約1ヵ月の激戦で日本軍の大部分は戦死、3月26日には残兵800名も突撃玉砕し、日本軍は全滅した。米軍の死傷も甚大で死傷29000名を数えた。
 
1945/4-6 沖縄戦/3月にグアム島から発進した約55万人の米軍大艦隊は、4月に沖縄本島中部西海岸に上陸し、太平洋戦争で最初で最後の地上戦に突入。日本側は、現地召集の防衛隊と学徒隊2万人余を加えた約10万の兵力を中心に応戦、多数の住民を巻き込んで、3ヵ月に及ぶ戦闘が行われた。日本海軍航空部隊は「菊水(きくすい)作戦」と呼ぶ特攻攻撃作戦を実行、4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで、特攻攻撃で2000人が戦死。これに呼応して陸軍航空部隊も特攻攻撃を行い約1000人が戦死。本島南端の摩文仁(まぶに)まで撤退した司令部壕で作戦を指揮した牛島満司令官が6月23日、最期まで戦えと命じて自決して、日本軍の組織的な抵抗は終わるが、沖縄の日本軍が降伏調印したのは9月7日であった。沖縄戦の犠牲者は日本軍9万人余、一般住民9万人余、米国軍13000人弱とされる。沖縄戦では非戦闘員に対する配慮がなされず、正規軍より一般住民の犠牲の方が大きかった。沖縄県民の犠牲者は計12万人以上と推定され、その中には「鉄血勤皇(てっけつきんのう)隊」とよばれた男子学徒隊、「ひめゆり部隊」などの女子学徒隊の犠牲者も含まれる。精神的に退路を断たれた住民の集団自決、日本軍によるスパイ取締りの名の下の住民虐殺、食料強奪、壕(ごう)追出しなどが相次いだ。  
1945/4/7-8/17 鈴木貫太郎内閣/終戦の密命を帯びて登場した鈴木首相はソ連を仲介とする終戦工作に失敗。
 
1945/7/26 ポツダム宣言発表/米・英・中3ヵ国首脳名で日本に無条件降伏を要求。
 
1945/8/6 米軍はウラン235型原子爆弾「リトル・ボーイ」(爆発力TNT火薬20キロトン相当)を広島市に投下、死者26万を超える被害を出した。  
1945/8/8 ソ連は対日宣戦し、ポツダム宣言に参加。
 
1945/8/9 米軍はプルトニウム239型原子爆弾「ファットマン」を長崎市の浦上地区に投下。市街の3分の1が焦土と化し、死傷者15万に及んだ。
 
1945/8/15 鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言を受諾し総辞職。ここに日本は連合国に無条件降伏し、太平洋戦争は終結。  
1945/9/2 東京湾に入った米国戦艦ミズーリ号上で連合軍最高司令官マッカーサーと日本側外相重光葵との間で降伏文書の調印がなされた。  
鈴木貫太郎   
外国に憧れて海軍に入った鈴木貫太郎は、アメリカを始め世界を見て回った。そして太平洋を戦争の海とすべきではないという信念を持つにいたる。これは国際協調を旨とする昭和天皇と全く同じ考えであった。天皇の意を受けて、貫太郎は戦争終結に尽力した。  
無私無欲の精神  
鈴木貫太郎は、明治、大正の時代に活躍した海軍の軍人である。昭和の時代には、天皇の侍従長に就任、昭和天皇が最も信頼した人物だった。さらに政治家でもあった。日本が始めて経験する敗戦、その最も困難な時代に政治の舵取りを託された男、それが鈴木貫太郎である。  
海軍時代の彼の口癖があった。「軍人は政治に関わるべきではない」。これは彼の確固たる信念であり、政治に介入しながら戦争への道を暴走した軍部タカ派に対する批判でもあった。しかし皮肉なことに、彼が関わりを避けてきたその政治家として、彼の名は歴史に残ることになった。日本の歴史は、彼の堅い信念を曲げさせるほど強力に彼を必要としたのである。政治的駆け引きが得意だったわけではない。行政能力に優れていたわけでもない。彼にあったのは「無私無欲の精神」であった。その精神一つで、国の運命を背負って立つのである。  
「モーニングを着た西郷隆盛」  
鈴木貫太郎は、1867年12月24日に生まれた。明治政府ができる前年である。生まれた場所は、大阪の泉州。明治になってすぐ、父は江戸(東京)に移り、その後、千葉県にある関宿に移った。落ち着いたのは、父が群馬県庁に勤めることになり、前橋に住むようになってからである。貫太郎は11歳になっていた。  
父は貫太郎を医者にさせたかった。自らが下級官吏で薄給だったからである。しかし、貫太郎は海軍を志願した。海軍に入れば、外国に行ける。こんな漠然とした外国への憧れを抱いていたのである。もちろん父は大反対である。関東出身者には軍人としての立身出世の道はないと言われていた時代である。幕末、関東勢は徳川側に付いたからである。  
息子の熱意に父も折れ、海軍兵学校の受験が決まった。猛勉強の甲斐あって、1874年海軍兵学校に見事一発合格を果たした。海軍人生の始まりである。  
海軍時代、貫太郎に最も大きな影響を与えた人物が、山本権兵衛(薩摩出身、後の海軍大将、首相)であった。21歳のとき、砲艦「高雄」の乗組員となり、その艦長が山本であったのだ。山本の口癖が、「俺の命は西郷隆盛先生からの預かりものだ」であった。「俺は西郷先生と一緒に死んだつもりで、お国に命を捧げる決意をしている。だから、何も怖いものはない」。貫太郎は直接西郷を知らない。しかし、山本が西郷との思い出を、声を震わせ、目を潤ませながら語るのを聞いて、いつも胸が熱くなった。  
後に鈴木貫太郎は「モーニングを着た西郷隆盛」と称された。誠心無比、無私無欲の生き方が、西郷隆盛を思わせたからである。山本権兵衛から受けた薫陶のたまものであろう。  
侍従長として  
1929年、鈴木貫太郎は海軍の軍令部を経て、昭和天皇の侍従長に任命された。侍従長とは天皇の側に仕え、何かと相談に乗るという重職である。  
当時、年若き天皇の憂慮は深まるばかりであった。1931年の満州事変、翌年の満州国建設、続いて国際連盟の脱退。陸軍による暴走は歯止めがかからず、日本は孤立化の危機に立たされていた。国際協調を信念とする天皇は、国際連盟脱退には終始反対の意向であった。しかし政府は陸軍に押し切られて、ずるずると脱退まで至ってしまったのである。  
天皇の眠れない夜が続いた。夜遅く、貫太郎が天皇から呼ばれることも少なくなかった。貫太郎が宮中に駆け付けると、政務室に憔悴しきった天皇が座り込んでいる。貫太郎の顔を見ると安堵し、時局についての意見を求めることが度々あったという。貫太郎は天皇の最も頼れる側近であり、なくてはならない存在になっていた。  
貫太郎が侍従長を勤めた約8年間は、軍部のテロにより内閣が次々に倒れる恐怖の時代であった。1936年、2・26事件が勃発。国家改造を要求する青年将校のクーデターである。狙われたのは総理大臣の岡田啓介、内大臣の斉藤実、蔵相の高橋是清など政権の中枢人物。それと侍従長の鈴木貫太郎であった。  
26日早朝、安藤輝三を指揮官とする150名の部隊が鈴木邸を襲った。熟睡中の貫太郎の部屋に十数名の兵士が踏み込み、貫太郎を取り囲んだ。下士官2人が交互に拳銃を発射。4発が68歳の老侍従長に命中し、貫太郎はその場に倒れた。誰かが「とどめ、とどめ」と叫ぶ。下士官が銃を構えた次の瞬間、部屋の隅で銃を突きつけられていたタカ夫人が、「武士の情けです。とどめだけは、やめてください」と叫んだ。  
そこに指揮官の安藤大尉が入って来て、状況を見て取るや、「気をつけっ!」と号令。兵士たちは反射的に直立する。「閣下に対して、敬礼!」。そして「よし、引き揚げ!」。兵士たちは一斉に部屋を出た。これが貫太郎の生死を紙一重で分けた瞬間であった。  
指揮官の安藤は、2年ほど前、貫太郎に面談を申し込んだことがある。貫太郎の話を聞いた安藤は、「西郷隆盛のように腹の大きい人物だ」と感嘆したという。この安藤が鈴木邸襲撃を担当することになったことは、不幸中の幸いであった。  
「俺は運のいい男だから、俺についてくれば間違いない」。戦時中、彼は常に部下にそう言って激励したという。この度の襲撃でも、まさに「運」が彼に味方した。やらねばならない最後の仕事が残されていたからだ。  
鈴木貫太郎内閣誕生  
アメリカと戦争してはならない。世界を見て回った貫太郎のこれが国際認識であった。海軍兵学校卒業後、初の遠洋航海でアメリカに渡り、実感したことがある。この国は、いずれ世界一の大国になるだろう。こんな国と戦争したら、日本はひとたまりもない。  
1917年練習艦隊の司令官としてアメリカに渡った際、サンフランシスコでの歓迎会で次のようなスピーチをした。「日米戦争は考えられないことである。太平洋は文字通り、太平(平和)の海であり、神が貿易のために造られた海である。この海を軍隊輸送に使うとしたら、両国共に天罰を受けるであろう」。この考えは生涯変わらなかったが、彼の願いむなしく日本は対米戦争に突入し、太平の海を戦争の海にしてしまうのである。  
開戦当初のはなばなしい戦果に国民が熱狂する中、貫太郎は醒めた目で戦況を眺めていた。日米の国力の差は歴然としている。早期講和しか日本の選択肢はないはずだ。ところが、緒戦の大勝利に酔いしれて、政府と軍部の頭から早期講和が吹き飛んでしまった。  
貫太郎が懸念したとおり、戦争が長引くにつれ戦況は絶望的となった。44年に東条英機内閣の総辞職、続く小磯国昭内閣も1年持たなかった。後継首相に誰を推すか。重臣会議(首相経験者など)で白羽の矢が立ったのが、当時枢密院議長の鈴木貫太郎だった。忠誠心が厚く、天皇の信任も厚い。それに軍人経歴も申し分ない。全員一致であった。  
貫太郎は、「自分は政治に疎いし、その任ではない」ときっぱりと固辞した。この返答は予期されたものだった。貫太郎は忠誠の人である。天皇の大命が下れば話は別だ。天皇も鈴木内閣を強く望んでいたのである。  
貫太郎は天皇に拝謁した。固辞する貫太郎に天皇は、「頼む。どうか、曲げて承知してもらいたい。この危急の時、もう他に人がいないのだ」と懇願した。天皇に懇願させた自分を悔いながら、「不肖鈴木貫太郎、身命を賭して、ご奉公申し上げます」と申し上げた。その時彼は、天皇は戦争の早期終結を望んでおられると直感した。  
聖断下る  
戦争を止めることは、始めるよりはるかに難しい。首相が戦争終結(降伏)を示唆するだけで、軍部のクーデターが発生し、戦争貫徹派に政権は握られる。貫太郎は、秘かに期するものがあった。この内閣は戦争終結内閣である。何が何でも、この内閣で戦争を終わらせなければならない。戦争終結のチャンスはおそらく1度だけ。失敗は絶対に許されない。その一度のチャンスのために、戦争貫徹派の陸軍を味方につけておく必要がある。  
就任演説で、貫太郎は戦意高揚を強く訴えた。陸軍を安心させるためである。1945年5月末の東京大空襲で、皇居が焼失した後ですら、貫太郎は徹底抗戦を断固主張した。これには天皇も失望したほどであった。貫太郎は、まだ時ではないと考えていたのである。  
7月の末、アメリカからポツダム宣言の内容が示された。これは日本に無条件降伏を求めるものであったが、天皇について一言も触れられていなかった。その頃、内閣の意思は戦争終結でまとまっていた。しかし天皇の身分保障がなされるのか、論争はその一点に絞られていたのである。有利な条件を得るためには、本土決戦も辞さない。これが陸軍の主張である。天皇の安全に対する確約を取れない以上、貫太郎も静観するしかなかった。  
8月6日、原爆が広島に投下。市街の大半が一瞬にして壊滅した。ついに来るべき時が来た。一気に決着をつける時、戦争終結のたった一度のチャンスの時である。8月9日午前、最高戦争指導者会議が開催。ポツダム宣言受託の是非が論じられた。議論の最中、2発目の原爆が長崎に投下された。暗然たる思いの中、重苦しい議論が続いたが、結論はついに出なかった。即時受託派が3名。あくまで条件を付けるべきという条件派が3名。続いて開催された閣議でも同様に議論は分かれたままである。  
貫太郎は初めからこの結果を予想し、御前会議(天皇参加の会議)で決着をつける腹づもりであった。きわどい多数決でポツダム宣言を受託したとしても、陸軍は猛反発しクーデターは必至であった。聖断(天皇の決断)を持って戦争を終わらせるしかない。そのためにぬかりなく、周到に準備していた。一刻も猶予できない。陸軍過激派の巻き返しもあり得るし、原爆の東京投下の懸念もあった。  
その日の夜11時半、御前会議が開催。参加者一同の発言が終わり、貫太郎はおもむろに立ち上がり、天皇の判断を仰いだ。天皇の判断は明快だった。「これ以上、戦争を続けても国民を苦しみに陥れるばかりである。私は涙を持って即時受託に賛成する」。聖断が下った。あちこちから嗚咽がもれたが、貫太郎は毅然たる態度を崩さなかった。まだ終わっていないことを知っていたのだ。  
予想通り、陸軍の猛烈な突き上げが始まった。貫太郎は、14日再び御前会議を開催し、天皇の聖断を仰がざるを得なかった。しかし天皇は少しも変わっていない。「自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい」と語り、さらに続けて「この際、私として、なすべきことがあれば何でも厭わない」とまで言い切った。これを聞き、閣僚たちの多くはむせび泣き、床に崩れ落ちて号泣する者もあったという。翌日15日、天皇による玉音放送が流れ、ついに戦争は終わった。ここに鈴木内閣の使命も終了したのである。  
その日の夕方、貫太郎は参内した。天皇に閣僚全員の辞表を手渡すためである。「鈴木、良くやってくれたね」と天皇は貫太郎をねぎらった。「本当に良くやってくれた」ともう一度言った。天皇の目にうっすらと光るものを見た貫太郎は、肩を小刻みに震わせた。大粒の涙が、堰を切ったようにあふれ出て、床にぽたぽたと落ちた。  
3年後の1948年4月13日、貫太郎は帰らぬ人となった。「生涯一事」という言葉があるが、鈴木貫太郎は「戦争の幕引き」という最も困難な仕事をやり遂げるために生まれてきたような男であった。そして信念と忠誠心を持って、それを見事に成し遂げた。意識が朦朧とする中、タカ夫人の手を握りながら、うわごとのように「とわの平和、とわの平和」と発し続けたという。これが最期の言葉であった。享年82歳。
 
松岡洋右

 

明治13年-昭和21年6月27日(1880-1946) 日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死。
 
アメリカ留学 
1880年(明治13年)に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれる。 
洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け、入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(MerrimanColbertHarris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と公言していた。 
オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられるが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。
 
外務省時代 
帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は独学で外交官試験を目指すことを決意。1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格し、外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある。 
外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。1919年(大正8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。
 
満鉄から代議士へ 
退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。 
1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。 
ジュネーブ総会派遣 
1931年(昭和6年)の満州事変をうけて、1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかった。が、「9月18日以前原状復帰は現実にそぐわないという認識・滿洲の自治・日本権益の有効性を認め」ながらも結果として「滿洲を国際管理下に置く事」を提案し、滿洲を滿洲国として認めない内容だったため日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に滿洲国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。 
このような中の10月、松岡は同総会に日本首席全権として派遣。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡全権はあくまでも脱退を極力避ける方針で望んだ。 
日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。なお、聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのはヨーロッパの中小国であった(スペイン、スイス、チェコ、インドネシアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダ)。 
松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の滿洲視察」という滿鉄弘報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満洲開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。当時の文藝春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。 
日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日、軍縮分館で行われた総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで議場を退場した。 
松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。42対1は当時流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは1番なんだ。」等と一部で評された。 
その後、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭遇し、松岡は「日本は賊の国だ」と罵られた。
 
議員辞職・再び満鉄へ 
帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。 
帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころから親ファシズムの論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」等と唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。38年3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力して5000人を超えるユダヤ人難民を保護している。 
外務大臣就任 
1940年(昭和15年)7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東條英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる「荻窪会談」で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したという。 
20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。
 
三国同盟・日ソ中立条約 
ドイツ総統府でヒトラーとの会談に臨む松岡松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団(ユーラシア枢軸構想・四国連合構想)を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。こうして松岡は日独伊三国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。 
日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月27日成立し、松岡外相はその翌年の1941年(昭和16年)3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。 
日米交渉 
一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。 
ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかったとの評がある。しかし1941年(昭和16年)6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解することになる。独ソ開戦については、ドイツ訪問時にリッベントロップ外相から独ソ関係は今後どうなるか分からず、独ソ衝突などありえないなどと日本政府には伝えないようにと言われ、ヒトラーも独ソ国境に150個師団を展開したことを明かすなど、それとなくドイツ側が独ソ戦について、におわす発言をしたのにも関わらず、松岡はこれらのことを閣議で報告しなかったばかりか、独ソ開戦について否定する発言を繰り返していた。 
すると松岡は、締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」をアメリカに提案するなど、その外交施策も混乱を招くこととなる。日米交渉開始に支障となると判断した近衛文麿は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。
 
戦後の評価 
「対米強硬派」「親独」、「昭和天皇独白録」での天皇の評価(とされる)など、戦後の松岡の評価は著しく低い。しかし松岡は第二次近衛内閣で対米英戦争を懸念し南部仏印進駐に一人強行に反対した。それが原因で事実上の更迭となるが、その後、松岡の推測通りに現実に対米英戦争の直接的な原因(対日禁石油政策)となっている。南部仏印進駐の危険性を認識出来ていたのは松岡だけであった。 
その後 
対米強硬論を唱えていたが、数十年ぶりに米国の留学先を訪れた際、「余はかつて人生の発育期をこの地で過ごし、生涯忘れべからざる愛着の情を持つに至った」と発言しているように、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年(昭和16年)12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。 
しかし、開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記している。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。このことは、開戦前と後では、松岡の気持ちが変化したことが伺える。 
その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。1945年、友人である吉田茂から和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。松岡も乗り気ではあったが、ソ連が拒否したため幻に終わる。 
敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。 
辞世の句 「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」 
 
松岡洋右と小泉純一郎 
小泉純一郎内閣が誕生して以来、外交において、孤立化が進んでいます。アジア諸国との関係改善は彼が政権を去るまで絶望的と見られていますし、国連では、2006-2007年の通常予算案の成立に対するアメリカによる阻止の呼びかけに応じたのは日本だけという有様です。 
第五代大統領以来、孤立主義を外交の柱の一つに掲げてきた合衆国はともかく、国連中心主義を唱えてきた日本のこうした姿勢は転向と受けとられても仕方がないでしょう。それでいて、小泉首相は東アジア共同体の創設に意欲的です。しかし、世論調査を見ると、小泉首相の孤立外交に必ずしも否定的ではないのです。 
日本は、戦前、孤立主義に傾きながら、それを世論が後押ししたという歴史があります。そこには、松岡洋右というアジテーターの存在があるのです。 
松岡洋右は、1880年3月4日、山口県に生まれ、親戚を頼って、1898年に渡米し、1900年、オレゴン大学法学部を卒業し、02年、帰国しています。米国滞在を通じて、「道を歩いていてアメリカ人に衝突しそうになったら、絶対に道を譲ってはいけない。殴られたら殴り返さなければいけない。アメリカでは一度でも頭を下げたら、二度と頭を上げることはできない」という信念をこの極端に負けず嫌いの青年は抱くことになり、こうしたコンプレックスが後の外交交渉に影を落とし続けます。 
04年、外交官試験に合格し外務省に入省します。ただ、この就職に関しては、三輪公忠の「松岡洋右――その人間と外交」(中公新書)によると、日露戦争にための徴兵忌避が真の目的だったのではないかという説もあります。後の合衆国大統領がベトナム戦争時にカナダへ渡ったり、テキサスの州兵に志願したりするのと同じかもしれないというわけです。 
東京帝国大学の出身者でもなく、オックス・ブリッジやIVYリーグへの留学経験もない若者でしたから、省内で出世は厳しかったのですけれども、彼には英語が堪能で、特にスピーチの能力が高く、それにより広く注目され始めていきます。1921年、41歳のときに外務省を退官して、満鉄に入り、この野心家は満州における権益拡大を推進します。 
1930年、満鉄を退職し、2月の第17回衆議院議員総選挙に山口二区から立候補して当選しています。政友会のこの新人議員は幣原喜重郎外務大臣の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく非難し、その威勢のよさからメディアや言論人、大衆から支持を受けていくのです。 
1931年、満州事変が起きます。翌年、国際連盟はヴィクター・アレキサンダー・ジョージ・ロバート・リットン卿を団長とする調査団を派遣し、9月、彼は報告書を連盟に提出します。この動きに日本国内の世論は反発し、政府もまた報告書正式提出の直前に満州国を正式承認してしまいます。小泉首相の靖国神社参拝に向けられた国際世論に対する反応と同様、日本が国益を守ろうとしているだけなのに、外国がとやかく言うとは何事かというわけです。 
10月、英語によるスピーチが巧みであるという理由で、松岡洋右がジュネーブの国際連盟特別総会に首席全権として派遣されます。彼は、12月8日、1時間20分に及ぶ演説を準備原稿なしで総会で行うのです。それは、小泉首相が自らの政策を「三位一体改革」と命名したように、日本を十字架のイエス・キリストに譬えたはなはだ不遜なものです。 
欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているけれども、イエスが後世になって理解されたように、日本の正当性は必ず認められるだろうという内容です。キリスト教に関する知識もろくにない日本国内では、この演説に喝采しましたが、言うまでもなく、諸外国、特にキリスト教国からは猛反発を受けたのです。 
鳥飼久美子は、「歴史をかえた誤訳」において、概して、英語に通じていると過信がある政治家に外交上の失態が多いと指摘しています。中曽根康弘や宮澤喜一、石原慎太郎など挙げればきりがありません。他方、故エドウィン・ライシャワー駐日米国大使は、あれほど日本語が堪能であっても、公式の場では通訳を介しました。あくまで日本語がネイティヴな言語ではないからです。 
日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定していました。翌年の2月24日の総会で、同報告書は予想通り圧倒的多数で可決されました。松岡は前もって用意していた宣言書を朗読した後、閉会前に会場を退場します。その後、日本は正式に国際連盟から脱退することになります。 
ところが、帰国した松岡は「言うべきことをはっきり言った」、「国民の溜飲を下げさせた」、「欧米にこびへつらわず、毅然としていた」初めての外交官として、国民に熱狂的に歓迎されるだけでなく、言論界でも、石橋湛山や清沢洌など一部の識者を除けば、彼のパフォーマンスをほとんどが支持していたのです。「聯盟よさらば」と大見出しをうち、松岡を英雄のように扱った新聞もありました。国際社会から完全に孤立してしまったのに、日本国内では、それにメシア的行為として酔いしれてしまったのです。 
松岡は、「聖域なき構造改革」あるいは「痛みを伴う改革」よろしく、「国民精神作興」や「昭和維新」などを唱え、1933年12月、政友会を離党し、「政党解消連盟」を結成して議員を辞職します。その後の1年間、全国遊説を行い、得意の弁舌により、政党解消連盟の会員を200万人にします。当時、ワイドショーがあったら、彼は毎日のように登場していたでしょう。 
1940年7月22日に成立した第二次近衛文麿内閣で、松岡は外務大臣に就任します。近衛も、松岡に劣らず、国民の人気が高く、今のイラク戦争同様、泥沼化した対中戦争で疲弊した日本をさらなる戦争遂行のための国家総動員体制へと変えていくのに適任だったのです。 
かつて冷や飯を食わされた外務省のトップになった松岡は官僚主導の外交を排除すると発表し、主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し、軍部と連携する強硬派の外交官である白鳥敏夫を外務省顧問に任命します。さらに、有力な外交官たちには辞表を出すように圧力をかけています。 
ポーカーの名手で知られる松岡外相の外交方針は次のようなものです。「大東亜共栄圏」の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に了解を結んで中立化させます。 
それにはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツに仲介してもらい、さらに、ドイツの友好国イタリアとも提携して、日本=ソ連=ドイツ=イタリアというユーラシア大陸を横断する枢軸勢力を形成します。そうすれば、米英を中心とした先進帝国主義勢力との均衡が生まれ、それを通じて世界平和や秩序の安定に寄与できるというものです。 
松岡は、1940年9月、日独伊三国軍事同盟を結び、翌年の3月には日ソ中立条約を締結します。松岡外交は日本国内から圧倒的な支持を受け、その構想は完璧かと思われました。けれども、ドイツ側からソ連に接近しないほうがいいとアドヴァイスされていました。松岡は無視したのですが、その理由がすぐに明らかになります。1941年6月、ドイツはバルバロッサ作戦を開始します。ところが、日本は中立条約を守り続け、シベリアに兵を送らなかったため、ソ連を東西ではさみうちにするというドイツの思惑もはずれることになります。 
松岡は対米強行でありながら、アメリカとは最終的に協調すべきだと考え、その圧力としてユーラシア枢軸を使おうとしていたのです。しかし、それは日中戦争で疲弊した日本をさらなるカタストロフによって精神的な開放感を得ようとする方向に向かわせることにしかなりませんでした。 
山田風太郎は、「人間臨終図鑑」において、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と言っています。外交という「相手の手」をよく見なければならない行為に、「己の手ばかりを見ている」ようでは、政策は独善的になり、孤立してしまうのは当然の帰結でしょう。 
敗戦後、A級戦犯として逮捕されたものの、結核が悪化し、東京裁判公判法廷に一度出席するにとどまります。その際、罪状認否において、英語で”Notguilty”と主張しています。1946年6月27日、米軍病院から転院を許された東大病院で、66歳の生涯を閉じています。「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉」という辞世の句を残しています。 
1978年、靖国神社がA級戦犯らの合祀を強行しました。そのとき、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁は「松岡洋右」の名を上げて合祀に抗議します。現在に至るまで、天皇は、それ以来、靖国神社に参拝していません。 
一方、小泉首相は、靖国神社に不戦の誓いを新たにするために参拝し続けています。その度に、アジア諸国のみならず、アメリカも愚行と非難し、日本は孤立化を深めています。小泉首相だけでなく、彼の後継者と目される政治家は、ぞっとすることに、「己の手ばかりを見ている麻雀打ち」なのです。けれども、世論も小泉首相の行動を必ずしも強く批判していませんし、後継者たちにも期待しているのです。 (2005/12) 
 
 
終戦記念日からはじまる話  
今年は60回目の「終戦」の年です。いわゆる「終戦記念日」の8月15日はポツダム宣言を受諾することを昭和天皇自らがラジオ放送を通じて伝えた『玉音放送』が放送された日です。要するに「ポツダム宣言受諾記念日」なんです。連合国との正式な敗戦の儀式は東京湾の戦艦ミズーリーでの降伏調印の9月2日ですので、ある意味ではこちらが正式な「敗戦記念日」という気もしますが、今はほとんどの日本人が忘れている日になりました。  
しかし、60年前の8月15日前後には、実際に敗戦を受け入れる側の日本政府、特に陸海軍首脳部の混乱というのは、調べてみれば茶番、喜劇の類のオンパレード。敗戦という初体験の事態に参考する前例もなく、詳しい研究もない軍部では、まず敗戦の実務交渉に誰が出て行くのかですったもんだが起こったことはあまり知られていません。  
「俺は嫌だよ、いかないよ」「私は陸士でドイツ語をやってね、英語は分からないしね・・・」「おい俺にいかせるのか、お前偉くなったなぁ」という将軍、提督が続出。  
実際に降伏に向けて汗を流した東久邇宮内閣(皇族・陸軍大将)で、ポツダム宣言受諾を決した鈴木貫太郎内閣は15日に総辞職してしまっていましたから、抗議する相手もいませんでした。  
結局貧乏くじをひかされて降伏受諾の実務交渉に向かわされる軍側キャスティングは、陸軍が参謀本部次長の河辺虎四郎中将。海軍が軍令部次長の大西瀧治郎中将ということに決まりました。お互い階級も立場も同じの横並び。気を遣っています。  
ところが、使節団員に決まっていた大西中将がいきなり腹を切ってしまいます。この人は特攻の生みの親と云われていますが、情の人でも部内では有名で、送り出した部下達には「必ず俺も後から行く」と約束していたのを忘れていなかったということでしょうか。しかし部内は大騒ぎです。「おいおい何をするのや!大西」(大阪弁だったかは判りませんが)と海軍上層部は動揺を隠せない中で、とにかく代理を捜せねばという実務派もいたとようです。そこで目を付けられたのがソ連大使館付武官として赴任する辞令が出たまま、ソ連からのビザがおりないで軍令部出仕(待機)という立場にいたところ、14日のソ連参戦で行き場の無くなった横山一郎少将です。上手い具合に彼は米国大使館付として勤務の経験(補佐官と武官)があり、アメリカのエール大学への留学経験もある知米派。英語も上手い。なおかつ海軍省副官を務め米内海軍大臣などとも面識がある。まさに天の配剤だと云うことで「あいつが良い、あいつなら英語でも出来るで!」(海軍省に大阪出身者が居たかどうかは重ねて不明)と推薦されることになった。しかし当人は「エッ、俺?」と困惑しているのを因果を含められて行かされることに決まった。  
そんなに何で交渉に行きたくないのかと云えば、まず「恥辱」だというのを唱える人もいるのだが、私はそうじゃないと思う。この頃だと使節団の一員と云うだけで味方に殺される恐れがはなはだ大きかった。しかも、行きも帰りも帰ってからも。それに当然ながら「俺は戦争が終わるのなら死にたくない」というのが高級軍人達の本音でもあったろう。それまでお国のためにとか言っていたのにである。この豹変を側で見ていた下級士官は相当幻滅させられたと、私は当の一人から直に聞かされたことがある。しかし、それも人情だろうし、後世の我々が責められる類の話でもないか。  
使節団には比島に来いという指令が既に米軍から出ていた。長駆するには海軍機しかないということで、輸送機の手配は海軍に決した。海軍では厚木と鹿屋の航空部隊が、この使節団の航空機を狙ってくる可能性が高いということで、ことは極秘に進められた。改めて連合国に連絡を取ると、まず沖縄の伊江島飛行場まで来いという。東京近郊から沖縄まで一気に飛ばないと先の事情で危険だしということで、使用機は一式陸攻に決まった。この機体には『安導権』(無害通航を保証する証)示す白と緑の十字を機体に描かねばならない。そうしないと米軍機には未確認機として処理され撃墜されかねないのだ。しかし、そんな安導権を示す機体を堂々と滑走路に置けば、この機が降伏処理に向かう特別機だというのが一目瞭然になる。「じゃ、どうする、どうする」と海軍側ではなった。  
そこで一計を案じて、横須賀に二機の安導権表示機を用意し、更に木更津にも同様の機数を用意する欺瞞策を講じることにした。横須賀の機体はたちまち厚木航空隊に発見されてしまい、襲来した戦闘機の機銃掃射で穴だらけにされてしまった。厚木空は徹底抗戦派の牙城だった。しかし彼等も木更津の機体には気付かなかった。しめしめとばかり、この機体に乗り込むことが出来た。機体は欺瞞航路を取り、木更津から鳥島、鳥島から種子島、種子島から伊江島という航路を飛行していった。途中、種子島上空で米軍機が護衛に現れると、搭乗していた使節団一同を安堵させたという。敵が護衛に現れて安心するという心理も不思議だが、それほど味方が危険だったのである。使節団は伊江島で米軍の用意したC54輸送機に乗り換えると一路マニラに向かった。機内では美味しいジュースや煙草でもてなされたらしい。  
マニラ到着後、早速進駐日の交渉が始まった。最初連合軍側は23日の進駐を希望したが、日本側が準備期間を欲しいと頑張り26日に決まった。何処へ進駐するのかという話になった時、交渉団を青ざめさせる提案がなされた。連合国側は厚木基地への進駐を要求してきたのである。「おいおい厚木はあかんよ」と日本側一同が顔を見合わせた。横山少将は咄嗟に厚木は大型機の着陸には不向きな戦闘機専用の航空基地なんだと説明して、進駐場所の変更を求めた。それはおかしいと米軍側が一枚の航空写真が出してきたという。そこには厚木基地のエプロンに四発機が駐機している姿がはっきり写っていた。ここで日本側はしどろもどろになってしまった・相手側に「じゃ、厚木の滑走路はどれ位の厚みのコンクリートを張っているのか」という質問をされると、海軍随員一同は顔を見合わせたのだそうだ。実は誰も答えを知らなかったらしい。困惑顔になった彼等は無口になり、それで反論も止まった。結局、厚木進駐反対案は却下されてしまった。この日はこれで交渉は終わり、一同は宿舎に移動させられる。そこには食事とよく冷えたビールが用意され、交渉団はほっと一息いれることが出来たという。8月19日の夜は既に暮れていた。  
翌朝、再び会談場所に着いてみると、テーブルには昨夜の交渉に基づいて作成された議事録が用意されていた。あとは、一ページ毎に内容を確認を取るだけの実務手続きの場になっている。再交渉を目論んでいた日本側は肩すかしを食らった形になった。英語の分からない河辺団長(ドイツ語は相当いけたらしい)は、海軍の横山少将に下駄を預けることになった。横山少将も何とか交渉をと内容確認でも疑問を呈してみたが、もう誰も相手にしてくれない。ただただ、実務的な手続きで終始する。米軍側では、既に交渉は終わっていたのである。もし、山下奉文大将がこの席にいたら「YesかNoか」と迫られて困惑したに違いない。二時間ほどで、この手続きが終わると、彼等日本使節団は空港に直行させられ、来た時と同じ空路を伊江島に引き返した。伊江島に安導権を描いた陸攻が整備と燃料を補給を米軍側の協力で終えて待機していた。ただ、二機の内の一機は移動中に滑走路脇の泥濘に車輪がはまり、修理が必要な状態であったが、部品とかの関係で急の修理は不可能であると云われた。意気消沈した使節団は、仕方なく随員を残して、河辺・横山を中心に使節団の主要メンバーが無事な一機乗り込み木更津基地へ戻るため離陸した。  
離陸時間は18時45分を回っていた。計算では木更津への帰投時間は23時半を回ることになる。夜間飛行で夜の海を飛ぶのはどうかと思った機長兼主操縦員須藤大尉は、海岸沿いの航路を取るべきと使節団随員で今回のフライトプランを作成したパイロット出身の寺井中佐に提案した。寺井は横山少将に、その意見具申をそのまま伝えた。すると横山も異論は挟まなかった。それで、この陸攻は往路とは違う海岸伝いを飛ぶ航路を復路に選んだ。この偶然の決断が実はその後の日本の命運を握る事になった。というのも、予科練上がりの須藤大尉や副操縦員大西兵曹長(彼は選抜されてNY大航空工学科に留学経験のある優秀な下士官)は、伊江島での燃料補給でガロンとリットルの違いに十分注意を払わないでいたせいで、実は陸攻の燃料タンクはフルタンクになっていなかったのだ。燃料計が機内にあるはずなので判りそうなモノだが、実は翼の燃料タンク分は、胴体タンクとは別系統、燃料コックを切り替えて使用する方式なので、胴体タンクへ燃料が入ってこないと判らない。不足分は翼の方にあったので、ベテランの彼等も事前に判らなかったらしい。それにしても離陸前の点検の落ち度ではあるのだから、やはり彼等も敵地で相当緊張していたのだろう。  
交渉機は燃料切れで、天龍川河口から東へ三キロの海中に不時着した。夜間に海への不時着は大変な危険を伴うのだが、須藤大尉は沈着冷静に着水を成功させた。機外に脱出した使節団は夜の海を泳いで海岸に向かうと、そこには漁師が棍棒を持って待ちかまえていた。干物泥棒を警戒して不寝番をしていたのだ。泳ぎ着いた集団が陸軍中将や海軍少将などだと知った漁師は慌てた。すぐに地元の青年団に人をやった。青年団から来た人が使節団の人物を確認して、今度は憲兵隊に連絡が行った。憲兵隊でも交渉団の存在は知らされてはいなかったが、一団に参謀本部次長がいるのでは文句も言えない。直ぐに近くの浜松陸軍飛行学校(現空自浜松基地)に一行を案内した。そこには故障して放置されていた陸軍の重爆が一機あるだけで、他に使節団が乗れそうな機体はなかった。他の交通手段も手配できそうにないことが判明し、学校長の命令で基地の整備員が総動員されて、徹夜でこの爆撃機の修理が始まった。  
その頃東京では、総理の東久邇宮、外相の重光、海相の米内など政府首脳が使節団の帰国を待っていた。予定の時刻になっても木更津に到着していないと言う報告を受けて、彼等は気を揉んでいたが、深夜になってから浜松憲兵隊から使節団無事の報告が入り、安堵感が一同に流れた。結局、政府首脳部も徹夜で彼等の帰りを待つことになった。浜松基地では、まさに戦争状態で修理が行われていた。戦闘停止で放心状態の所に、この騒動だから、現場も相当に混乱したのだろうが、案外彼等も充実感を味わっていたのかも知れない。一瞬でも先行きの不安は忘れていたろうし、仕事の使命感にも燃えることが出来た。修理は朝日の昇る頃までには終わり、無事に離陸した重爆が調布飛行場にたどり着いたのは21日の午前八時頃だった。  
使節団は早速車を仕立てて東京の総理官邸に向かうと、連合国との交渉の内容を説明した。「なに!26日に厚木に進駐してくるのか」と一同は大慌てだったろう。とにかく何とかしないといけないと厚木空の徹底抗戦派の旗頭である小園安名大佐には、早速手を回して拘束軟禁の措置がなされた。一説では陛下直筆の命令文を提示して納得させたとも云われているが、事実は副長の命懸けの行動があったかららしい。しかし、部下の抗戦派達は陸軍航空部隊の抗戦派が巣くう狭山飛行場(現空自入間基地)に愛機を駆って逃亡していった。まだまだ混乱は続いたが、それでも約束の26日に厚木は、政府首脳部のコントロール下に置かれる見込みが何とかついた。ところが肝心の26日には、駿河湾に台風が上陸してきて、さすがの連合軍も進駐は28日まで繰り延べになった。「おお、神風が吹いているぞ」と思った人も多かったのではないだろうか。  
それにしても使節団が太平洋の何処かに不時着して遭難していたら、連合軍進駐時の混乱は、こんなものでは収まらなかったろう。最後の最後で、日本の運は上向いてきていたのかも知れない。8月15日の玉音放送の後、御聖断を仰いで終戦を決定した日本政府の中では、暑い夏は続いていたのでした。ここにも忘れられた日本の歴史の一部がある。 
 
 
 
最初の特攻
背景  
最初の特攻隊出撃はフィリピンのレイテ湾での戦いであった。ミッドウェー海戦以降の日本軍は大東亜戦争初期の勢いは無く、豊富な物資と強大な工業力をもつ米軍に徐々に追い詰められていった。そんな中昭和19年6月15日、本土防衛の為の重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略された。これによりB29による本土爆撃が可能となった。  
米軍はサイパン陥落の後、マッカーサーの約束の地であるフィリピンを攻略し、日本本土攻撃の足がかりにしようとしていた。フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であり、大本営も米軍がここの獲得に動くことを予測していた。  
捷1号作戦  
昭和19年10月17日、米軍はレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始した。 翌18日に大本営はフィリピン防衛の為の作戦「捷1号作戦」を発令した。この作戦ではボルネオ島ブルネイで補給を済ませた栗田艦隊がレイテ湾に突入し、米軍攻略部隊を撃滅するという計画になっていた。他に米艦隊をひきつける囮として小沢艦隊、遊撃隊として西村艦隊、志摩艦隊も参戦。そして、基地航空部隊である第一航空艦隊も作戦を支援するという目的で戦列に加わっていた。  
しかし、第一航空艦隊の当時の戦力は、零戦34、偵察機1、天山3、一式陸攻1、銀河2の合計約40機しかなかった。遊撃隊が米攻略部隊を撃破するためには、なんとしても米機動部隊の動きを抑えるしかなかった。その役目を第一航空艦隊が担っていたのであったが、これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。  
実は、この第一航空艦隊こそが最初の神風特別攻撃隊を編成した隊であったのである。そして、第一航空艦隊の司令長官は特攻の生みの親といわれた大西瀧治郎中将であったのである。  
神風特別攻撃隊の編成  
大西中将は昭和19年10月17日マニラに赴任した。19日午後にマバラカット飛行場に出向いた。そして、このマバラカット飛行場の第201海軍航空隊本部において歴史的な会議が行われたのである。  
大西中将は遂に、 米軍空母を1週間位使用不能にし、捷1号作戦を成功させるために「零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?」と体当り攻撃を部下達に提案した。  
回答をすべき立場であった201空副長の玉井中佐は、責任者の山本司令が不在のため、自分だけでは決められないと大西中将に話した。しかし、大西中将は既に山本司令からは了解を得ており、そのことを玉井中佐に伝えた。玉井中佐は考える時間が欲しいと指宿大尉と共に会議の席を中座し、二人で話し合いを行った。人一倍温厚謙虚と言われた玉井副長であったが、戦況を考えるに体当り攻撃しか方法はないと決心した。そして、それを大西中将に伝えたのである。  
ここに特別攻撃隊の編成が正式に決定された。 玉井中佐は自らが手塩にかけて教育訓練を行ってきた、第10期甲種飛行予科練習生出身の搭乗員23名に相談した。この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。当時の戦況、そして搭乗員の士気というのはそのようなものであった。詳細については別のページで触れたい。  
指揮官には海兵70期の関行男大尉が指名された。深夜、玉井副長から関大尉は呼び出された。関大尉は玉井副長から指揮官について相談された。関大尉は10秒前後、目をつむってうつむき、考えていた。最期に、「是非、私にやらせてください」と言った。ここで、最初の特攻隊である24名が決定した。この隊名を神風特別攻撃隊と命名し、その下に本居宣長の大和魂について詠じた、  
「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」  
より、4つの部隊にそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名付けられた。  
大西瀧治郎中将の苦悩  
大西中将は海軍首脳の計画した特攻の全責任を負わされていた。大西は特攻の口火を切り、若者達を死地に送り続けた。しかし、大西は特攻の責任を自らの命を絶つことにより全うしたのである。  
昭和19年10月20日朝、大西は特攻隊員達を集め訓示した。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ、顔面が蒼白で引きつっていたという。  
訓示では「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ」と言った。  
大西は涙ぐんで、「しっかり頼む」と言って訓示を終わった。大西中将はパイロットの一人一人と握手して彼らの武運を祈った。 大西は米軍が特攻対策を講じ、その戦果が急激に落ちてからも特攻をやめなかった。しかし、大西自身 「特攻を命ずる者は自分も死んでいる」 と言って、生ある者としての振る舞いを禁じているが如くだったという。  
昭和20年5月、大西は軍令部次長として内地に帰還した。官舎に独居して妻とは一緒に住まなかった。それを聞いた者が「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めた。大西は「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と答えた。大西の目には涙がいっぱい溜まっていたという。 大西には、最期には必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟ができあがっていたのであろう。しかし、自らにそのような覚悟があるからといって、特攻が正当化されることはないということを彼は次のように語っていたようである。  
「特攻は統率の外道である」「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」  
つまり、自分が死んで後その評価は百年経っても定まらない、誰も自分がやったことを理解しないだろうと語っていたのである。 大西は、敗戦の翌日未明、自らの命を絶つことによって責任をとった。  
「吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」 から始まる遺書を残して。 
大西瀧治郎中将特攻作戦の真意  
大西中将の特攻作戦の真意とは何だったのか?その答えとも言える証言が角田氏の「修羅の翼」中に掲載されている。これをみると確かに「特攻は統率の外道である」 「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」という大西中将の発言を裏付けているようにも考えられる。また、後に関係者が多くを語られなかった非常にデリケートな面があったと推察される。角田氏が「修羅の翼」を出版してやっと残す事ができた非常に貴重な証言である。  
ダバオにて  
昭和19年11月下旬、角田氏は特攻隊員として辻口兵曹、鈴村兵曹とともにダバオに派遣された。到着した夜、歓迎会が開かれた。司令部からの参加者は司令官上野少将、参謀長小田原大佐、先任参謀誉田中佐、飛行隊長添山大尉であった。  
皆、大変暖かい人々で、隊内でやっと見つけた椰子酒も特攻隊員だけにと、自分たちにはいくら勧めても受けなかった。また、上野少将が自分たちの前で一言も口を利かなかったことが角田氏にとって印象深かかった。その理由は戦後わかることとなる。  
そんな中、小田原参謀長から特攻の趣旨について聞かされているかとの質問があり、角田氏は良く分からなかったと答えた。参謀長はしばらく考えた後に話し始めた。  
特攻の真意  
「そうか、それではもう一度分かりやすく私から話そう」と、言葉を選ぶように静かに話しだした。  
「皆も知っているかも知れないが、大西長官はここへ来る前は軍需省の要職におられ、日本の戦力については誰よりも一番良く知っておられる。各部長よりの報告は全部聞かれ、大臣へは必要なことだけを報告しているので、実情は大臣よりも各局長よりも一番詳しく分かっている訳である。その長官が、『もう戦争は続けるべきではない』とおっしゃる。『一日も早く講和を結ばなければならぬ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、成都にいつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。残念ながら、現在の日本の戦力ではこれを阻止することができない。それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分しか残っていない。  
軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミニウムもあと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなければならぬ。燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立てているが、とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。  
そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。  
敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分味方に三分である。具体的には満州事変の昔に返ることである。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。  
万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国である。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。  
このことは、大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。  
宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱ともなりかねない。  
極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』とおっしゃるのだ。  
では、果たしてこの特攻によって、レイテより敵を追い落とすことができるであろうか。これはまだ長官は誰にも言わない。同僚の福留長官にも、一航艦の幕僚にも話していない。しかし、『特攻を出すには、参謀長に反対されては、いかに私でもこれはできない。他の幕僚の反対は押さえることができるが、私の参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』  
として、私にだけ話されたことであるが、私は長官ほど意志が強くない。自分の教え子が(参謀長は少佐飛行隊長の頃、一時私たち飛行練習生の教官だったことがあり、私の筑波空教員の頃は連合練習航空隊先任参謀で、戦闘機操縦員に計器飛行の指導に当たられた。当時、大西少将は司令官だった)妻子まで捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、黙り続けることはできない。長官の真意を話そう。長官は、特攻によるレイテ防衛について、  
『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。  
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。  
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。  
陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道がほかにあるであろうか。戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。  
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。  
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。  
もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』  
と仰っしゃった。私に策はないので同意した。これが私の聞いた長官の真意である。長官は、『私は生きて国の再建に勤める気はない。講和後、建て直しのできる人はたくさんいるが、この難局を乗り切れる者は私だけである。』と、繰り返し、『大和、武蔵は敵に渡しても決して恥ずかしい艦ではない。宮様は戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しいと仰せられた』とまで言われたのだ」  
角田氏は小田原参謀長のこの話は、自分たちのみではなく一言も口を利かない上野少将に対する長官の伝言ではないか、また、小田原参謀長も長官の後を追う気だと感じたとのことである。  
戦後  
当時の日本人がそうであったように角田氏も戦後、大変なご苦労をされ、生活を支えてこられた。昭和も終盤に差し掛かった頃、周りの勧めもあり、戦記を少しずつまとめていかれた。このページでも参考とさせていただいていて、正史とされている「神風特別攻撃隊」(猪口力平、中島正両氏)の内容と自ら耳にされた小田原参謀長の話との相違について、角田氏は当時司令官であり、話を聞いていた唯一の生存者である上野少将に確認を取るために夫人に依頼した。実は特攻作戦には反対であったという上野少将は旧軍人らしく、黙して語らずということで確認するすべはなくなってしまったということであった。 
関行男隊長  
関大尉は敷島隊の隊長として神風特別攻撃隊の先駆けとなった。初めての特攻隊の指揮官はぜひ海軍兵学校出をということに添った人選であった。関大尉の苦悩する姿が記録に残っている。  
神風特別攻撃隊の誕生(玉井副長と関大尉の会話より)  
やがてコトリコトリとしずかな足取りが降りてきて、長身の関大尉の姿が士官室にあらわれた。急いだのだろう、カーキ色の第三種軍装を引っかけている。玉井副長に近寄って、「およびですか?」と聞いた。玉井副長はすぐそばの椅子をかれにすすめ、もの音の絶えた夜気の静けさのなかに、われわれはむかいあった。玉井副長は、隣にすわった関大尉の肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、「関、きょう長官がじきじき当隊にこられたのは、『捷号』作戦を成功させるために、零戦に250キロの爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、という計画をはかられるためだったのだ。これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが、・・・・・ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でおさえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。−−−−1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・ と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。「ぜひ、私にやらせてください」すこしのよどみもない明瞭な口調であった。玉井中佐も、ただ一言、「そうか!」と答えて、じっと関大尉の顔を見つめた。  
 
その後、上記文章の作者である猪口大佐、玉井中佐、関大尉の3人が今後のことを語り合った。この時、猪口大佐は玉井副長に隊の名前を「神風隊(しんぷうたい)というのはどうだろう?」と提案し、「それはいい、これで神風をおこさなくちゃならんからなあ!」と言下に賛成した。  
そして、猪口大佐は大西中将に報告した。その際、大西中将は「うむ」と力強くうなづいた。昭和19年10月20日の午前1時が過ぎていた。こうして「神風特別攻撃隊」が誕生したのであった。  
兵学校出の関大尉は軍人精神をたたき込まれており、特攻隊の隊長を受けることを諒解したものと考える。私はこの関大尉も本当の関大尉であると考えている。しかし、当然ながら関大尉も一人の人間である。一人の人間としては本当はどのように感じていたであろうか。  
当時の関大尉は新婚で、満里子さんという新妻がいた。また、母のサカエさんは四国の西条で一人暮らしていた。この二人のことを考えないはずはない。玉井中佐から話を受けたとき、一瞬にして彼自身の人生と後に残すことになる二人のことを考えたであろう。考えた上で、彼は戦士としてすべての私的立場をなげうち、特攻を自らにやらせて欲しいと申し出たのである。  
しかしながら、関大尉の苦悩は次のように記録されている。  
同盟通信特派員 小野田政と関大尉の会話記録  
数日間下痢に悩んでいた関は、その日の夕方、マバラカット基地バンバン川の土手で同盟通信特派員の小野田政に会った。関の話しぶりは、特攻攻撃のやり方全般について、それほど気乗りしていない様子であった。関はこう語った。  
「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語−訳注]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」
 
万骨枯る 

 

 
「一将功成って万骨枯る」 曹松  
巳亥歳         巳亥の歳  
沢国江山入戦図   沢国の江山 戦図に入る  
生民何計楽樵蘇   生民 何の計あってか樵蘇を楽しまん  
憑君莫話封侯事   君に憑(ねが)う 話る莫れ封侯の事を  
一将功成万骨枯   一将功成って万骨枯る  
 
実り豊かだった川も山も、みんな戦場になってしまった。  
民衆はどうやって日々の生活を楽しめるというのか。  
お願いだ。誰それが王侯に封じられたなんて話はよしてくれ。  
一人の将軍が手柄を挙げた陰では幾万という人が屍となっているのだ。  
 
「一将功成って万骨枯る」この一句はもう故事成語にまでなってますね。「巳亥の歳」は西暦879年。この頃唐王朝は【黄巣の乱】により乱れまくっていました。この反乱は唐王朝滅亡のきっかけとなります。曹松。晩唐の詩人。字は夢徴。豫州の人。生涯不遇で、ロクな職にもつけず、諸国を放浪しました。70を過ぎて科挙に合格するも、まもなく亡くなります。 
 
   
守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の 浮かべる城ぞ頼みなる  
   浮かべるその城日の本の 皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし  
1897年(明治30年)鳥山啓作詞の「軍艦」に曲を付けて軍歌とし、その後、1897年(明治30年)頃に、准士官相当官の軍楽師だった瀬戸口藤吉が新たに作曲し、1900年(明治33年)に「軍艦行進曲」として誕生した(この当時、軍楽科の最高階級は軍楽師であった。昭和18年には軍楽少佐までの階級が設けられた。)。初演は、同年4月、戦艦富士乗組の軍楽隊によって行われた。戦前盛んに演奏され、1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦時にも繰り返しラジオから流された。海軍省の制定行進曲であり、海上自衛隊でも、海上幕僚監部通達により儀礼曲の一として「軍艦行進曲」の名称で制定されており、進水式や出港式典などで奏楽されている他、観閲行進曲として奏楽されている。日本を代表する行進曲の一つであり、戦後はパチンコ店などでも流されるなど、広く国民に親しまれていた。
 
「昭和陸軍」の失敗
カギを握る4人のエリート  
「満州事変以降の『昭和陸軍』をリードしたのは陸軍中央の中堅幕僚グループ『一夕会』。満州事変の2年前の1929年に結成されました。メンバーは東条英機、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一ら約40人。  
一般的には東条が日本を破滅に導いたように思われていますが、昭和陸軍の戦略構想を立てたのは永田と、石原、武藤、田中の4人。東条は彼らの構想に従って動いたに過ぎません。  
永田を中心にした彼ら4人とも、単なる軍事エリートではなく、当時の日本社会では知性と教養を併せ持つ知的エリートでした。戦前の陸軍は何も考えずに暴走したと思われがちですが、そうではなかったのです」  
川田稔・名古屋大学名誉教授はそう語る。川田氏は、戦後70年に合わせて『昭和陸軍全史』全3巻(講談社現代新書)を上梓。永田、石原、武藤、田中の4人を軸に、なぜ日本が無謀な戦争に突き進んでいったのか明らかにしている。  
「一夕会が存在感を強めたのが、1931年の満州事変の発端となった『柳条湖事件』です。満州事変は関東軍作戦参謀だった石原のプランに基づくものでした。彼は日中間で紛糾していた満蒙問題解決のため、武力行使による全満州占領を目指していたのです」  
石原は関東軍赴任前から、20世紀後半期に日米間で戦争が行われるとする「世界最終戦争」という独自の世界観を持っていた。  
「石原は将来的に、アジアの指導国家となった日本と、欧米を代表する米が世界最終戦争を戦うと予想。その戦争に勝つためには鉄・石炭などの資源が必要で、そのために全満州の領有、さらには中国大陸の資源・税収などを掌握しなければいけないと考えたのです」  
石原らの謀略、越権行為に対し、当時の若槻礼次郎内閣は戦線の「不拡大」を決めたが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大。陸軍省の軍事課長だった永田も、石原らの行動を支持した。  
満州事変は、永田を中心とした一夕会の周到な準備によって遂行されたものだったのだ。  
「陸軍きっての俊英と知られた永田は第一次世界大戦前後の6年間、ドイツなどに駐在。大戦の実態をまざまざと見ました。  
人類史上初の総力戦となった第一次世界大戦でドイツが負けたのは、資源が自給自足できなかったため。次の世界大戦はさらに機械化が進み、資源や労働力が必要になると確信した永田はドイツの轍を踏まないよう、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えねばならないと危機感を募らせた。  
永田の目には、敗戦で過重な賠償を課されたドイツが、次の大戦の発火点になるのは必至だった。そこに日本は必ず巻き込まれる。その時に備えて国家総動員体制を早期に整えなくてはならないと考えたのです」  
だが、当時の日本は多くの物資をアメリカからの輸入に頼るなど、自給自足には程遠かった。  
「そこで永田が考えたのが中国の満州と華北、華中の資源を確保することでした。当時、中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府が中国の統一を目指して北伐を実施。この動きに永田らは、日本の資源戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。永田や石原が満州事変を起こしたのは、そうした危機感によるものでした」
繰り返される内紛  
そんな一夕会の構想とは逆に、当時の日本政府は、第一次大戦の戦禍を踏まえて結成された国際連盟の常任理事国として、国際協調を模索していた。  
「この頃の一般世論の感覚は、いまの日本人の感覚と近かった。歴代内閣はワシントン条約など様々な国際条約を結び、平和を保つために国際協調路線を進めていて、政党政治はそれなりに安定していました。  
一夕会からすると、とにかく波風をたてまいとする内閣、政党政治家はあまりに無知。いつまでたっても国家総動員体制はできず、日本は次の大戦で滅ぶか、三流国に転落すると、危機感が強まる一方だった」  
そうして、永田らは政党政治家にとって代わり、自分たち陸軍の手で政治を支配しようと動きだす。  
「彼らは『統帥権の独立』と『陸海軍大臣武官制』を使って内閣に執拗な恫喝を繰り返し、屈服させていきました。  
'31年12月に発足した犬養毅内閣では、一夕会の政治工作により、一夕会が推す荒木貞夫が陸相に就き、永田も陸軍省ナンバー4の情報部長に就任。一夕会系幕僚が陸軍の要職をほぼ独占してしまった。陸軍中央は、直ちに関東軍の全満州占領や満州国建国の方針を承認しました」  
さらに、'32年5月、青年将校が犬養首相らを殺害する5・15事件が発生。政党政治は終焉を迎える。'33年には満州国独立を巡り、日本は国際連盟を脱退した。  
陸軍の主流派になった一夕会では権力闘争が激化。皇道派と統制派に分かれた内紛のなかで、永田は執務中に斬殺される。  
永田の死後は、石原と武藤が永田の国家総動員構想を推進していく。'36年、皇道派の青年将校らによる反乱「2・26事件」が起きたが、石原、武藤は二人三脚で鎮圧する。  
「永田の構想を直接引き継いだのは武藤でした。武藤は永田の構想に基づき、'32年に誕生した満州国とは別に、華北地域に親日の傀儡政府を作って、華北の資源を確保しようとした。いわゆる華北分離工作です。  
武藤が資源確保を急いだのはドイツでナチスが政権を取り、ベルサイユ条約を破棄して再軍備を行ったことが大きい。第二次世界大戦が現実味を帯びていたのです」
読みはことごとく外れ…  
ところがこれに待ったをかけたのが石原だった。石原も当初は華北分離工作を支持していたが、途中でそれを止める。理由は、ソ連の存在だった。  
「満州国と華北に接するソ連極東軍が、軍備を大幅に増強していたのです。華北分離工作を続けると、危機感を持ったソ連が介入して戦争になる恐れがあると危惧した。  
ソ連との戦争になれば、アメリカから物資を輸入せざるを得ません。しかし華北分離を進めると、中国に権益を持つ英米との関係が緊迫し、石油の輸入も受けられない。よって自重すべきだというのが、石原の考えでした」  
しかも石原は、たとえ欧州で次の大戦が起こったとしても、日本は介入すべきではないという立場だった。  
「しかし、武藤は欧州で大戦が起これば必ず日本も巻き込まれると主張。華北分離工作を止めてしまうと、大戦の準備ができなくなるとして石原と鋭く対立したのです。  
'37年7月、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まりました。石原は速やかに事態を収拾させようとします。石原は、華北には北京があるので、国民政府が絶対に屈しない、必ず長期戦になると予想していました。  
対して、武藤は『一撃で中国を屈服させられる』と豪語。戦線の拡大か不拡大かで、陸軍中央を巻き込んだ大論争に発展しました。一夕会のメンバーで、武藤と同期の田中新一も武藤に同調。結局、武藤は石原を排除して実権を掌握。石原は失脚しました」  
しかし、石原の予言通り、国民政府は頑強な抵抗を繰り返し、日中戦争は泥沼化していく—。  
'36年11月、日本は日独防共協定を調印。'38年4月、近衛文麿内閣は国家総動員法を公布。ついに国家総動員体制がスタートした。'39年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、欧州で第二次世界大戦が始まった。武藤は永田や自分が考えた通りの展開になったとして、'40年6月、「綜合国策十年計画」を策定する。  
「この中で武藤は『大東亜協同経済圏』という言葉を使い、日本、朝鮮、中国としていた自給自足圏を東南アジアにまで拡大する構想を初めて掲げました。これが後の大東亜共栄圏構想です。  
第二次大戦勃発に合わせて調査し直したところ、自給自足のためには石油やボーキサイト、スズ、石炭や鉄も足りないことが判明。それで東南アジアでも資源を確保しようとしたのです」  
南方にはイギリス領が多く、南方進出はイギリスとの戦争を意味した。一方で、武藤は対米戦は絶対避けるつもりだった。  
「武藤は『アメリカは物資と財力で世界一であり、年間軍事費は約140億円(日本は20億円)で日本はかなわない』、『対処を間違えば日米戦争を太平洋上に始めて、世界人類の悲惨なる状態になる』と述べています」  
そこで武藤が考えたのが、ナチスドイツにイギリスを倒してもらい、欧州でのアメリカの足場を崩すことだった。  
日本が日独伊三国同盟を結んだのはそのためだった。しかも、武藤は、三国同盟にソ連が加わった4ヵ国連合を結成して、アメリカを封じ込めようと考えていた。実際、ドイツは'39年8月に独ソ不可侵条約を結んでいた。  
「日本は'41年4月、日ソ中立条約を結んだのですが、それから2ヵ月後に、何とドイツが不可侵条約を破棄してソ連と戦争を始めたのです。  
武藤は、イギリスに加えソ連とも戦争する二正面作戦は『ヒトラーの頭が狂わない限りあり得ない』と考えていたが、そのまさかが現実になった。このため武藤はドイツと距離を置くことを主張しますが、田中は『日本とドイツでソ連を挟み撃ちにすべき』と反論し、激しく対立しました」  
頼みのドイツとソ連が戦争を始めたのだから、大東亜共栄圏構想は根底から覆ったも同然。しかもソ連はイギリス、アメリカと協調し、逆に三国同盟包囲網が整った。  
にもかかわらず、武藤も田中も南方進出の方針を変えず、'41年7月、南部仏印に進駐。アメリカは事前の警告通り、直ちに石油を含む対日輸出の全面禁止に踏み切った。  
「武藤は南部仏印に進駐したぐらいのことで、アメリカが石油を禁輸するとは予想してなかった。石油を禁輸すれば日本が東南アジアの石油を求めて南方に進出してくるのは明らか。アメリカはイギリスを助けるため、まずドイツを叩くつもりで、二正面作戦となる日本との戦争を望んでいないと思い込んでいたのです」  
武藤は外交交渉での事態の打開に一縷の望みを託すが、田中はアメリカとの戦争を主張した。結局、ハル米国務長官は日本軍の中国、仏印からの無条件撤兵、三国同盟からの離脱などを求める、いわゆる「ハル・ノート」を提示した。  
「田中は、これを飲めば日本は満蒙の権益を失ってしまうので到底我慢できない。アメリカと戦えば長期戦になり勝ち目はほぼないが、ドイツ次第では万に一つの勝機があるかもしれないと考えた。  
アメリカの戦争準備が整う前の有利なタイミングで開戦すべきと主張し、万策尽きた武藤も開戦を承認。こうして無謀な戦争に突き進んだのです」
最後は国民と心中する  
'41年12月8日、ついにその時が訪れる。南雲忠一中将率いる機動部隊がハワイのアメリカ艦隊を奇襲。初戦の戦果に日本中が沸いたが、物量に勝るアメリカが次第に攻勢に転じ、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に基づき、各地で玉砕した。  
「アメリカとの戦争に負けたら陸軍は権力を失う。どうせ権力を失うなら、日本民族ともども心中しようという精神構造が陸軍にはあった。同じ負けるにしても、陸軍という組織を残すためにできるだけ有利な条件で降伏しようとも考えた。そのために人命を犠牲にした作戦も敢行させたのです」  
太平洋戦争での悲劇を引き起こした、一夕会の中堅幕僚たちの失敗。現場の暴走を陸軍中央は抑えられなかったのか。  
「陸軍のトップは永田ら一夕会の操り人形だったので、中堅幕僚が暴走しても、それをコントロールできませんでした。永田らは第二次大戦が必ず起こると想定して、自給自足の完璧な安全保障体制の構築にこだわりました。結局、軍人ゆえの合理性から完璧を目指そうとして、目の前の事態に対処できずに状況は悪化していった。確かに永田の予想通り第二次大戦は起こりましたが、日本が国際連盟を脱退していなければ、別の展開になっていたかもしれない。複雑怪奇な国際情勢の中で、完璧な安全保障など、そもそも可能だったのか。むしろ戦争を起こさないようにする多種多様な対応こそが、求められていたのではないでしょうか」
 
 
 
 
 
パール / 極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事 
「私は日本に同情するがため、かの意見を呈したのではない。私の職務は真実の発見である」「本官は、各被告(いわゆるA級戦犯)はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき、無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張する」 
「もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においてはこの原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の(無差別殺人の)指令、および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものである」 
「日本とドイツに起きたこの二つの国際軍事裁判を、他の国の法律学者がこのように重大問題として真剣に取り上げているのに、肝心の日本において、これが一向に問題視されないというのはどうしたことか。これは敗戦の副産物ではないかと思う。米国の巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切が誤りであったという罪悪感に陥り、バックボーンを抜かれて無気力になってしまった」
 
インテリジェンス 武器なき戦争

 

ここで言うインテリジェンスとは、世で言う「スパイ」と同義と思っていいだろう。手嶋龍一はNHKの海外特派員として活躍、特にワシントン勤務中に東西冷戦の終結を迎える。 
のちにその時代の問題を書いた、『たそがれゆく日米同盟』『外交敗戦』などのノンフィクション作品が認められて、ハーバード大学国際問題研究所に迎えられる。その後ドイツのボン支局長、再びワシントン支局長を経てNHKを退職、ノンフィクション・インテリジェンス小説家として脚光を浴び今日に至る。 
一方佐藤優は、ノンキャリアながら外務省切っての情報分析プロフェッショナル、特に屈指のロシア通として活躍する。ところが2002年、背任と偽計算業務問題の容疑で起訴され、現在同省を休暇中だが、この逮捕劇を「国策捜査」と断じて、「国家の罠」を上梓、一躍ベストセラーに躍り出、その後外務省のラスプーチンと呼ばれて、出版に講演に対談に多忙な日々を送っている。 
この異色の二人が、インテリジェンスの神髄を語るのだから、息も継がせぬ迫力感で一気に読ますのは流石である。いわば実力伯仲の格闘家が、その持てる攻撃と防御の技を駆使して、お互いに一歩も引かぬ攻防を繰り返す様に圧倒される思いだ。 
我々素人は、スパイとかインテリジェンスというと、すべて同じもののように思いこんでいるが、佐藤ラスプーチンによると、戦前のスパイ養成目的の中野学校の「秘密戦」という分類では、 
1.積極的「諜報」=ポジティブ・インテリジェンス 
2.「防諜」=カウンター・インテリジェンス 
3.「宣伝」 
4.「謀略」 
の4つに分類されるのだという。佐藤ラスプーチンは、日本のカウンター・インテリジェンスはかなり高度なのだが、その他こうしたインテリジェンスに沿った仕組みや、系統だった組織、統率する機関がなく、しかもそれぞれ縦割りの弊害、必要とする上層部にスムースに届かず、しかも日本には教育機関がないため、適材が育っていないと指摘する。 
特にポジティブ・インテリジェンスにしても、映画で見るようなスパイ活動でなく、必要とする事項は、新聞などに掲載される記事からだけでも、かなり多くの収穫を得られるのだと指摘する。それと当該国の重要なポジションにいる人たちと、いかに親密になれるかということが重要で、しかも彼らの発言から、いかに「言外の意味」をくみ取る能力があるかが重要なのだという。 
そのためには、金額は別として、自由になる機密費が必要だというのだが、さてみみっちい日本のマスコミやそれに踊らされる国民が、それを是とするかどうか、例えば今回安倍内閣が熱望する日本版NCS構想にしても、もっとも配慮すべき問題であろう。 
ワシントンとロシア(モスクワ)と、真反対に位置しながら、それぞれその存在を早くから認め合ってきたことが、この対談の各所で伺われ、お互い共通した判断を示すことに驚かされる。 
とは言えすべてが納得ではなく、手嶋が佐藤の判断ミスを指摘する場面もあって、息を呑む思いがするが、佐藤はその挑戦を正面から受けて一歩も引かない。 
最後に両者は、日本版NCS構想に触れるが、両者ともそうした機構構築以前に、少なくとも200名くらいの専用スタッフの充実と教育を提言する。機構が先行すれば、主導権を巡って警察庁・防衛庁、それに外務省などの綱引きが行われ、関連各省庁は、情報の提供を渋るという「縦割り構図」が避けられないと警告している。 
確かにその弊害を指摘する声も多いが、特に優秀なインテリジェンス・オフィサーの選定が急務であり、佐藤ラスプーチンは、最適の人事トップ・オフィサーととして手嶋を推挙している。さて安倍首相が、この本を読んで感銘を受けていればいいのだが。 
それにしても、この佐藤優そして手島龍一というポジティブ・インテリジェンス・オフィサーとして得がたい2人の人材を、日本という国がそして安倍首相が、果たして生かして使いきれるか、そこに日本とアメリカの揺るぎない連携と、北方四島問題を含む、対ロシア交渉の鍵が隠されていると思うのだがどうだろうか。
帝国海軍が日本を破滅させた 
不思議な本である。表題からある程度同感できると思って読んでるうちに、「同感、同感」という思いがあったのが、次第に「何で」という気になってくる。下巻になると「まだ懲りないのか」という感を深くする。著者は1927年(昭和2年)福岡生まれ、陸軍士官学校61期生(最後の入校者)、戦後大分経済専門学校卒。三井鉱山(株)、三井石油化学工業(株)に勤務、1987年退職後、戦史研究に基づく執筆活動に入る。 
一貫して「陸軍悪玉、海軍善玉」史観を批判し日本敗戦の真相を追究してきた。主要著書に「帝国海軍の誤算と欺瞞(1995星雲社)」、「帝国海軍「失敗」の研究(2000芙蓉書房)」、「太平洋に消えた戦機(2003光文社)」、があり、本書はこれらに続く「帝国海軍研究」の決定版といえよう。 
そもそもの基本的原因は大日本帝国憲法にある。統帥権(軍の最高指揮命令権)の独立である。これは立法・行政・司法に並立する(あるいは超越する)第4の権力である。(もう一つ問題点があった。憲法に内閣総理大臣の規定がなく、国務大臣の一人でしかなく、大臣をまとめるだけで抑えることはできなかった。意見が合わないと閣内不統一ということで内閣総辞職に追い込まれた)。 
しかし、日清戦争では政・軍の調整を元老(伊藤博文・山県有朋・大山巌・井上馨・松形正義)が行い、軍も平時は陸海並列対等であったが、戦時大本営条例では参謀総長(陸)が全軍を統帥し軍令部長を指導することができた。日清戦争を何とか勝利したが三国干渉で臥薪嘗胆している中で、海軍は陸軍の下に立つことを好まず陸海並立対等を唱えた。一時は沙汰止みになったが海相山本権兵衛の強力な意向でついに成立した。 
これが戦争の統一指導を阻み、海軍の担当分野への陸軍の介入を拒否した原因になっている。日露戦争が実は辛勝であったのに現象面での快勝を理由に次の仮想敵をアメリカにして戦備増強を図って、軍縮条約に反対し国家予算の多くを獲得した。このため国民的英雄東郷元帥を取り込んだのは許せない。それが戦略思想面では「艦隊決戦」「通商破壊軽視」となって表れ、更に「艦隊保全」「情報軽視」につながったと考えられる。 
大東亜戦争では、当初考えられていた「速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに更に積極的措置により蒋政権の屈服を促進し独尹と提携してまず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む」とあり太平洋地域は持久正面であった。これを山本五十六は、ハワイ奇襲による開戦に切り替え、表面的な勝利は得たが山本の期待した戦意の喪失とは逆に燃え上がらせてしまった。 
また、戦力転換点(彼我の戦力と兵站支援力のバランスが逆転する距離)を勝手に越えてその後始末を陸軍に要求したり(代表例がガダルカナル)、世界の海軍の常識である通商破壊戦を全く考えず相手の輸送船は航行自由、我の輸送船はほとんど沈められるという結果をどう考えればいいのだろうか。 
開戦時の戦力で戦うという考え方から戦力の補充という点に考えが向いていないのも問題である。特に、パイロットは世界一の技能集団であったのに次第に消耗し、適切な補充施策がないまま戦力は一気に低下している。戦果確認も、確認機を置いた当初と異なり各自の報告のみの積み上げとなれば戦果は当然過大となる。 
これを客観的に分析することなく突入した搭乗員の報告を尊重するという情緒的な処理で確認し、しかもそれを自分でも信じてしまった。しかも、これに乗っかった陸軍の少壮参謀がいる。自分たちが現地で見たものよりも海軍の意向に乗じようとして、終末作戦指導をした者たちである。瀬島、服部、辻など自分の責任を感じることなく戦後を生き延びたことは到底許しがたい。 
というふうに、著者は海軍を指弾しその説得力は抜群である。ただこれで陸軍は善玉にはならない。特に政治的に動いて世界の世論に与えた影響は無視できない。
日本をダメにした売国奴は誰だ! 
「戦後 歴史の真実」「新 歴史の真実」に続く三冊目の戦後史の総括本である。前野氏の若干の思い入れを差し引く必要はあるが、まずは傾聴すべきであろう。 
現在のわが国の状態はいったい何であろうかというところから始まる。国家観の喪失、領土意識の希薄、自虐的歴史観、受動的な外交、教育の退廃、倫理の崩壊、などの現状は何に起因するのかという見地から論を進めている。現状を一言で言えば、歴史遺産を放棄した無責任社会といえよう。 
これを戦後の日本国憲法と教育基本法に起因するという。吉田茂に発する官僚出身政治家特に首相による現在の実利的政策が積み重なって次第に歪みを生じたとする。自虐的に謝罪は繰り返すが、日本の立場を相手に分かるように説明していない。ただ繰り返すことで丁寧な説明といっても信用はされない。そこには明瞭な国家観、歴史観のないただ場当たりのよいことを進めていることだという。最近の皇室典範改正問題、靖国参拝違憲判決など歴史の重みを考えない傲慢な考え方であるとしている。 
ひところ、官僚は一流といわれたことがある。官僚がしっかりしているから政治家は三流でもかまわないといった考えである。大臣就任時に「何も分かりませんがこれから勉強します」が平気で通っていた。何時ごろからか、官僚に国家観が希薄になり、実利を追うようになってしまった。 
法案の大部分を内閣提出法案が占めているが、ほとんどが官僚によって立案され、与野党の議員に根回しして国会を通過させているのが実態であろう。立法権の簒奪である。更に怖いのは通達である。これは議会に諮ることも閣議にかけることもなく事務官僚が出せるのである。バブル崩壊のきっかけとなったのが、大蔵省(当時)の銀行局長の金融機関への総量規制の通達である。このことによって生じた経済の混乱に対する責任は誰も取っていない。それどころかその局長は更に栄進していると指摘している。 
その官僚の主流は東大出身者である。東大出がすべて悪いわけではないが、コミュニズムに犯されたものが多いのも事実である。特に法科系の学者は日本弱体化の推進者であったといって過言ではない。さらにはこれを推進していった偏向メディアについても触れている。自らを良識的と唱えたり、進歩的と形容したりして世論をミスリードした責任は重い。 
氏が日本再生の「起死再生策」として次の三つを上げている. 
一つ目は、戦後60年、マッカーサーの戦後政治による偽りの歴史観、この呪縛からの脱却 
二つ目は、総理が国会で「大東亜戦争は、自存自衛の戦争だった」と宣言すること 
三つ目は、総理に石原慎太郎都知事を起用すること。現実的な対応を考えれば安倍晋三を考えている。 
これらの論に対しては賛否諸々であろうが、原点に返って考えてみる価値はあろう。
国防 
戦後60年、世界各地で続発した戦争や紛争をよそに、ひとり平和を謳歌してきた日本では、いつしか「国」という言葉が風化し、口にされることがなぜかはばかられる風潮が定着してしまっていた。しかも今日本では、「国民」が「市民」に取って代わられ、国益・国冨・国是・特に国防・愛国など当然の国家意識や思想が無残に失われ、まさにロストネーション(失国)・アンチネーション(無国家)ともいえる状態に陥っている。 
ここ最近近辺が急にあわただしくなり、しかも多くの「国民」が、他国の工作員によって理不尽に誘拐されながらも、30年にも亘って取り上げられずにきた。このことがいかに異常なことなのか、誰しも気付くべきであろう。 
石破氏は軍事オタクと呼ばれて揶揄されるなど、ネガティヴに評価されてきたが、同書を読む限り、はじめて本物の防衛庁長官だったという思いがする。 
従来GDPの1%という枠に縛られながらも、経済大国だったことから、世界2位の予算を持つ軍事大国というふうに語られてきた。しかしながら、その予算の大きな部分を人件費が占め、しかも兵器輸出を禁じられているため非常に高価なものになることから、実質的には、表面的で派手な印象を与える分野が強調される半面、いざ有事に本当に役立つのかどうかが疑問視されていた。しかも同書でも強調されるように、相変わらずの縦割り運営のため、陸海空の連携システムでさえ、すっぽり脱落していたようだ。また戦の本質をまるで知らない文官統治は、百害あって一利無しだと、明確に指摘している。 
同書はまた政治家にしても官僚にしても、国防という意識が稀薄で、しかも日本を取り巻く環境の激変に対して、柔軟に対応するという発想が、いかに欠けていたかも教えてくれる。今や冷戦の解消により北方&重装備重視から、対北朝鮮・中国へ、対テロ戦略へと、大きな戦略転換が要求されるようになった。 
やっと出来た有事立法にしても、実際運営上はたして円滑に活用出来るのか問題点は山積していることがわかる。さて石破氏辞任のあと、折角進みかけた問題点解決のための施策が、元の木阿弥にならないことを祈りたい。 
大体「専守防衛」という戦略自体、一旦緩急時に日本国内で国民の犠牲を覚悟して戦うという、かってなかった無謀でリスクの大きい仕組みだということを、日本人全体が充分自覚しておく必要があるのではないか。
戦後 歴史の真実 
著者は読売新聞社・東京新聞社を経て故五島昇氏にスカウトされ、氏の懐刀として政界・財界・マスコミに亘って活躍し、五島氏の死後は中曽根元首相のお庭番的存在として知られる。 
同著は「東京裁判」を無条件且つ無批判に受け入れて、なんらの疑問に感じなかった日本人の姿勢が、戦後日本の憂れうべき状況を招いたのだといことから説き起こして、その真実の姿を愛する孫たちに伝えたいとして、こうした日本にしてしまった張本人として、政界・財界・マスコミなどの罪を俎上に上げる。同書のページをめくれば、氏の伝えたい歴史の真実とは、氏の孫だけでなく、日本を愛するすべての人に知ってほしいことだと気付くだろう。 
同書はまず<勝者が敗者を裁く>と言う理不尽きわまりない「東京裁判」の無効性と、日本の無罪を叫んだ「東京裁判」でただ一人の判事、インドのパール博士のことから書きはじめる。その後日本を訪れたパール博士は、まず広島で原爆慰霊碑の「やすらかに眠って下さい。あやまちはくり返しませぬから」という言葉の<まず主語の欠如と、加害者不在で被害者があやまるという>異様さを指摘するが、結局無視されてきたことを問う。 
そして「東京裁判」で、博士が「適性を欠いていた」と指摘した検事や判事達でさえ、後にこの裁判の違法性を語っているのに、当の日本人だけが「東京裁判」にまったく疑問を感じずに、柔順に受け入れてきたのだということを明白にして行く。 
続いてアメリカが、いかに巧妙に日本を戦争に巻き込んだか、その戦争がいかにアジア諸国に感謝されたかという事実、よき伝統と精神を破壊した戦後教育、「保守」と「革新」を逆に報じ続けてマスコミ、議会を乗っ取った官僚勢力などなど、政界・財界・官僚それにマスコミの醜いそして無能でハレンチな裏面を徹底的に暴いて行く。痛快な反面意外と思えるのは、吉田首相を二流(官僚)政治家と切って捨てていることである。彼から日本の政界を蝕む官僚の跳梁が始まったというのである。 
特筆すべきは、くにのために活動する各ジャンルの人を、はっきりと名前を挙げて紹介していることである。それを知るだけでもこの本を読む価値があるというものである。
国民の歴史 
いまの中・高校の教科書、とりわけ歴史の教科書の問題点、すなわち国に対する愛着心とか誇りを失わせるばかりの自虐的記述に危機感を抱いて発足した「新しい歴史教科書を作る会」が、西尾幹二氏を著者として発刊した770ページを超える迫力に満ちたパイロット版である。発売以来ベストセラーのトップを走り続けていることは、いかに多くの人が日本の教育問題の現況を憂い、新しい視座を求めているかというバロメーターとなるだろう。 
こうした傾向はバブルが崩壊した後の10年におよぶ経済的混迷の中で、いたずらに周章狼狽することでなく、戦後の似非平和主義の誤謬のなんであったかをを冷静に見詰めようとする動向の一端とみるべきであって、危険な民族主義の台頭と指摘するのは、決して正鵠を得たものとは謂えない。 
まず本書は縄文に発した日本文明を明確に一つの文明圏として捉えようとするところからスタートし、弥生に発したと見られてきたコメ文化も縄文人によったものだと最新の発掘の成果と(コメDNA)分析データなどから指摘する。 
同書は塾長が常に指摘してきた(日本の歴史教育の)日本史・東洋史・西洋史という縦割り構造を排除して、相互における原因・結果・比較などを折り込みながら、例えば「漢の時代に行っていた明治維新」「世界史はモンゴル帝国から始まった」「西洋の革命より革命的だった明治維新」「アメリカが先に日本を仮想敵国にした」など、読者の従来の浅薄な知識を見事に引きはがされるような刺激的で且つ説得力にとんだ斬新な記述に満ちている。 
日本人はどうも論理的な発想とか比較文明論的な面に欠けている。例えば長安の都を真似た平城京から平安京まで、一切城壁をを持たなかったこと、同時に皇居(御所)にすら城壁はおろか一切武器らしい装備を持たなかったという日本が、常に平和的思考を持ち続けていたこと、歴史を通じて海外派兵の少ない事実などにもっと目を注ぐべきだということを本書は教えてくれる。
新歴史の真実 
祖国ニッポンに、誇りと愛情を 
著者は東急グループ総帥故五島昇の秘書として財政界で活躍した人で、前著に”愛する孫たちに語って聞かしたい戦後日本の真実”がある。 
本書は、戦後占領軍・左翼勢力によって歪められ覆い隠くされ、その後いまだに日教組の誤った戦後教育によって貶められ続けてきた戦前戦後の日本の歴史の真実を、対象を孫たちから我々日本人の全体にまで拡げて書かれたものである。ここにある各章から私たちは、いかに正しい日本の姿を知らなかったことに慨嘆することになる。 
「第一章 戦後歴史の総括」では、いつからなぜ日本がこのような謝罪国家・自虐国家になり下がったか、その元凶と理由についてが明白にされる。悲しいことだが、このまま無気力で無目標国家日本のままだと未来はないと喝破する。 
「第二章 日本を骨抜きにした戦後の指導者たち」では、自立の道を捨ててアメリカの庇護のもとで、商人国家として道を選んだ吉田茂・池田勇人・佐藤栄作という官僚出身の首相たちを切る。また日本を誤った道へと誘い込んだ共同通信・朝日新聞というマスコミ、共産党・社会党という左翼政党それに日教組・総評などの暗躍を暴露する。その一方で、党人派の復活に活躍した中曽根康弘と彼らを援助した良識派財界人を紹介する。併せて、戦後政治を危惧して「松下政経塾」を創立した松下幸之助の功績を挙げる。いまその潮流は、確実に日本の未来に明るさを差し示すのだ。 
そうした中で、もっともショックを受けたのは、「第八章 歴史からの教訓と反省と希望」の中で、1952年4月に講話条約が発効し独立を回復した際、国会の全会一致で<A級を含め戦争犯罪人とされた人たちを戦犯と見なさないという決議が(共産党・社会党も加わる)全会一致で採択された>という事実である。私たちは今こそ声を大きく上げてこの事実を(再)発信していかなければならない。特に靖国神社に絡んで、執拗に内政干渉を行う中国・韓国には、明確にこの事実を知らしめる必要がある。今や国会議員でも、保守・革新を問わず戦争を知らない世代が大半を占める。しかもあやまった戦後教育のせいで、アメリカの「(日本を)二度と立ち上がられない国に造りかえる」占領政策と、それに便乗した共産主義という不毛の精神文化の汚染をインプットされていてしまっているのだ。あのしたり顔で戦争の罪を言挙げする野中広務でさえも、決して戦前派でなく当時まだなにもわからぬ子供に過ぎなかったのである。 
日本人すべてが、共産主義という悪魔のイデオロギーとアメリカ型物質至上主義の呪縛からの脱出のために、ぜひ本書の熟読されることを提唱したい。
7つの中国 
21世紀中国の覇権主義から全人類を守るために 
筆者・訳者とも台湾出身。数千年という歴史の中で、初めて民主的な選挙によって施政者を選ぶという、稀有の経験をした台湾からの鋭利な視線が、巨大且ついろんな顔を持つ中国の現状を冷徹に捉えて、時代錯誤な大中華的覇権指向を「全人類の災厄」と論破する。 
筆者は、小平が採用した「左派の政治的必要性から右派の資本主義的市場経済を取り込む」という、火と水を融合一体化する矛盾の中で生まれた近代化政策が、4つの危機【人口増大・高齢化・厳しい雇用問題・農業資源の枯渇・自然生態の破壊と環境汚染の蔓延・食料危機増大問題】を生んだと指摘する。 
すなわち急速な工業化は農村との極端な収入格差を生み、離村・都市流入があとを絶たず、しかも軍事費の増加に反比例して、低レベルに止まる教育費は、相変わらず低い文化水準を余儀なくし、科学技術の振興はおぼつかない。また「党がすべてを統括する」という仕組みは、企業の活動・人権の確保、結社の自由など近代的な活動を阻害し、汚職や特権行使などの腐敗を増加させると著者は言う。「社会主義・共産党」というと、過去の絶対君主制とはまったく違う「人民に総意による民主的な政治システム」と思われているが、その内容は過去の専制政治とまったく変わらず、ただ新しい言葉で修飾したにすぎない。例えばかつての保甲制度(隣組の相互監視制度)は、一般庶民がそれと気付かないだけで現在の村民(居民)委員会に置き変わっただけであるとする。また著者は「近代化」とは、西欧に源を持つ合理主義・ヒューマニズムそれに法治主義にほかならないが、中国当局は「社会主義」という神聖な枠を堅持するという「反近代化」を金科玉条として、非合理主義・専制主義・人治主義によって、他民族を圧迫し拡大政策をとって周辺国に恐怖と警戒心を与え続けているのだと言う。そして現在の世界の潮流は、限定された地域での小競り合いはあれ、大局的にはヨーロッパにおけるEC統合、国連の活動それに世界規模で生まれている国際的非政府組織(NGO)の活躍など、民主的・国際的・多元的な動きが成長しており、しかもそれに情報のグローバル化と企業の多国籍化の潮流が加速されている。筆者は、そうした中で「政治は左、経済は右」という矛盾した政策がいつまでもつかと懸念を表明する。その結果現在の中国で拝金主義が横行し、2000年になると、間違いなく2億の農民が土地を離れて奔流のごとく都市に流れ込む「盲流」が起きると警告する。 
結論として著者は、そうした危機を回避するために(中国指導者が正しい認識と度量の広さを持って)今の中国を解体して「7つの小さい中国=和平七雄」になることを提言する。その中には自治を回復した「ウイグル・チベット・モンゴル]なども含まれる。そうした中国が相互補助を行うことが「世界平和に至る」あらたな生き残りの道だと説く。
露清秘密条約と日露戦争を考える  
日清戦争で敗れた清朝は、その翌年に、李鴻章を派遣し、モスクワでレバノフ全権代表との間で露清条約を締結していた。1896年5月22日にモスクワで締結された条約は、公開用のダミーの条約と厳重に秘匿された秘密条約との2種類があった、という。秘密条約の根幹は、露清軍事同盟である。共同敵国と想定されていたのは日本である。この秘密条約の存在は、清朝の上層の極めて限られた軍機処の成員だけに秘匿されていた。1900年の義和団の騒乱を鎮圧するため、8カ国の共同出兵が行われ、鎮圧後、ロシア軍は中国の東北部から撤兵せず、そのまま駐留し続けた。それが、日露戦争の原因であることは、誰もが知りうる表面的な史実である。  
問題は秘匿された秘密条約の存在を中国の誰が、日本側の誰に情報をリークし、日本側に日露の開戦を準備させたのかである。盛宣懐が孫宝瑄という人物、すなわち李鴻章の兄の娘を妻とする人物にリークしていた。それは、孫宝瑄の日記の一節にある。孫から知日派の知識人で日本人に広く知られていた汪康年を通じ、近衛篤麿が率いる東亜同文会の上海在住のメンバーに洩らされた、と考えられる。1902年より汪康年自身も上海で反ロシア運動を国民運動として組織する。かくして、日露戦争において清朝は日本側に好意的な中立政策を保持することで、清露秘密条約に対し事実上の違約を表明する。  
ところで、中国でも、この条約の締結書原本が研究者のごく一部で確認されたのは、中華民国の国民党政府のもと、外交文書の歴史研究が開始された時期である1930年代である。けれども、条約原文が一般に公開されたのはさらに遅い。1965年に台北で出版された『光緒中俄密約全巻』が最初である。  
この秘密条約の史料集を読むと、ロシアは三国干渉だけでなく対日の露清軍事同盟をもって日清戦争における日本の極東権益を制約しようとしたことが理解できる。また、李鴻章は親露路線をとり、光緒帝とその師である翁同和も、それを熟知していたことが分かる。  
日本の学界の理解では、1900年に露清密約が結ばれたと解釈されている。事実は、決してそうではない。1896年の段階で、露清の軍事同盟がすでに成立していた。そうすると、日露戦争とは、幕末以来の最大の外圧であるロシアの極東軍事侵略への対抗策としても理解されなくてはならないだろう。帝政ロシアと後のスターリンの極東支配への対抗関係が、同時に、日本による大陸の軍事支配として具現する。後者の負の面だけをとりあげ、日本帝国主義批判として歴史総括すると、一面的な自虐史観と非難されることになりかねない。  
帝政ロシアの極東進出とスターリンの極東支配に対し、それに対峙する日本側の対抗手段が稚拙であるとしても、日本近代を貫くナショナリズムの正当性までをも捨て去り、日本帝国主義批判のみに終始する歴史総括はどうかと思われる。 
 
国連安保理事会「5大国制」の起源 
 アメリカから見た中国とフランス 

 

はじめに  
世界の平和と安全に対する国際連合の役割に対する期待が高まっているが、他方では、湾岸戦争以後の多国籍軍方式とくにその変種であるイラク戦争での有志国方式の導入にともなって、国連に対する幻滅感のようなものが広がっている。国連が期待に応えられていない背景には、国際社会の構造変容やアメリカ(アメリカ合衆国)の対外行動の変化など多様な要因があるが、一つの重要な問題として、国連が当初から「5大国制」という大国中心システムを採用してきたことが指摘できよう。「世界平和を維持する大国の責任」論は、国連安全保障理事会における「常任理事国制度」という「大国中心の国際システム」を生み出したが、それが21世紀の国際平和の創出に期待される機能を果たせていないのである。では、大国中心主義の淵源は何であったのであろうか。  
国際連合の設立に際しては、憲章第51 条の挿入をめぐる争いのほかに、総会での表決権(ソ連プラス15 共和国の議席の要求問題)と安保理での拒否権(拒否権の運用方法)に関する米ソの間の対立が重大な問題となったが、現在多大な期待が寄せられそれだけに多くの疑問が突きつけられている国連の平和維持機能との関わりでは、安保理の構成つまり「拒否権をもつ常任理事国制度」が「5大国制」として確立されたことの意味を設立の歴史過程の中に検証することが必要であろう。第2次大戦は大国の協力のもとで遂行されたのであり、国連憲章は、大国間協力が戦後も続いて世界平和を保障するという仮定のもとに作られた。したがって、安保理の全会一致制(拒否権制)が世界平和を保障すると考えられた(Hovet、 ¶)。のちの常任理事国に擬せられたのは、まず、大西洋憲章で主導権を握ったアメリカとイギリス、次いで、ソ連、中国、そして最後に5番目の構成国となって現在に至る「5大国制」を形成したのがフランスだった。米英が中心となって構想した国際連合の組織的特質は、第1に国際連盟で疎外されていたソ連を大国として処遇したこと、第2に中国とフランスを常任理事国という大国にしたこと、の2点に集約される。したがって、世界の平和と安全の維持に対する現在の国連の機能を検証するためには、中国とフランスがなぜ戦後の国際機構で大国として扱われることとなったのか、その経緯を歴史過程の中に明らかにすることがまず求められよう。とくに、1944年夏のダンバートン=オークス会議までフランスの常任理事国としての地位が認められなかったのはなぜか、に注目しなければならない。  
かつてはアメリカ大統領FDR(フランクリン・D・ルーズヴェルト)の個人的志向(ドゴール嫌い)から解釈されることが多かったが、近年の研究では、第1次大戦でパクス・ブリタニカが終った後の時代に経済力を急上昇させたアメリカが世界的な影響力(覇権)の拡大を目指す新たな対外路線を模索し始めた事実との関連で中国・フランス問題を論じる傾向が強まっている。  
ブルーメンソールは、「これまでの歴史家は、FDRとドゴールのパーソナリティの違いを強調しすぎた」と指摘し、ドゴールは計算された強硬な態度をよくとったが、そこには人間性にあふれたパーソナリティがあったのだと強調して、次のように主張する。FDRは、魅力的な外面をしていたが、そこには文明社会の標準を好む貴族的で地主的な本質が覆い隠されていた。  
アメリカ政府内では、将来のフランスが果たすべき役割について、フランスを大国として処遇すべきだと考えた国務省に対して、FDRはフランスは制度的再編成をしなければ国内の政治的安定を実現できないとみてフランスの大国化に疑問をもっていた。ドゴール個人を高く評価しない点では、両者は一致していた。つまり、FDRの対フランス政策を理解するカギは、パーソナリティではなくて政策であった(Blumenthal、 303-304)。  
ブルーメンソールの立論はなおパーソナリティ論にとどまったと言わざるをえないが、フロムキンは、アメリカの世界戦略の変化に注目して、フランス問題の最大のポイントが「FDRの自由貿易への志向」にあったと指摘して次のように述べる。FDRはウィルソンと同様に戦後世界での自由貿易のための十字軍に加わろうとし、商業上のライバルであるイギリスのコモンウェルス体制の周りに張り巡らされた関税障壁の除去を目指したのであり、彼の世界的な非武装化(米英を除く)構想においてもフランスはベルギー、オランダ、ギリシャなどと同じ地位に引き下ろされていたのだ(Fromkin、 454-462)。  
中国に関して、Zi(ズー)は、FDRの主張で中国が、チャーチルの要求でフランスが、大国の仲間入りをしたという通説的な理解を批判する。両国の大国としての立場は、「3大国によって認められた」のではなく、フランスも中国も枢軸国との共同の戦いへの貢献によって自らその地位を獲得したのだ、と強調する(Zi、 47-48)。  
ドゴール政府に対するアメリカの態度は偏見と無知から生じたものだと指摘したウッドワードの主張も、フランスと中国が実質的に大国としての内実を持っていたことを強調する点では、Zi と共通する(Woodward、 492)。  
中国が大国としての実質的な内容をもっていなかったと見るゲルマンは、FDRはチャーチルに確信を持たせて英米同盟を確かなものとし、ソ連に無条件の軍事援助を与え、第二戦線をできるだけ早く開こうとしたけれども、独日を敗北させるために中国を太平洋の大国にしようとした点では非現実的だった、と厳しい評価を加えている(Gellman、 282)。 
1章 第2次世界大戦、連合国宣言、新たな国際機構  
パールハーバー事件は、第2次大戦の中にある国々の間の力のバランスを大きく変えた。アメリカは、対日宣戦によって孤立主義の伝統の束縛から逃れることができ、世界の新しい秩序形成へ向けてリーダーシップをとるために公然と行動できることとなった1)。1937 年隔離演説の精神が単なるFDR個人の意思を超えて「アメリカの構想」となった。その第一歩が1942年1月の連合国宣言であり、次の大きな一歩が1943 年10 月の「モスクワ宣言」における新たな国際機構設立の合意である。  
アメリカが対日宣戦をした12 月7日、チャーチルはFDRと相談して、速やかにチャーチル自身を含むイギリス代表団がワシントンへ赴いて戦争遂行に関して協議することを決めた(暗号名でアーカディア会議と呼ばれた)2)。12 月11 日、ドイツとイタリアが三国同盟に従ってアメリカに宣戦布告すると、アメリカが主導権をとって主要にドイツと戦うための「連合国」の結成が図られた。12 月22 日にワシントンに着いたチャーチルとFDRの間で検討され、ソ連の駐米大使リトビノフの意見を聞きながら最終的に26 カ国の名で1942 年1月1日に発表された「連合国宣言」は、「各政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するための並びに自国の領土及び他国の領土において人類の権利及び正義を保持するために欠くことのできないものであること並びに各政府が、世界を征服しようと努めている野蛮かつ獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事しているものであること」を確認した上で、枢軸国と戦うこと、かつ枢軸国と単独の休戦・講和を行わないことを盟約した。  
主要にFDRとチャーチルがこの宣言を作成する過程で、フランスと中国に関して2つの問題が生じた。第1は、署名国の記載の順序、第2は、署名国の資格である。  
12 月25 日に出来上がった宣言草案の署名国は、最初にアメリカとイギリス、次にイギリス連邦のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカが並び、そのあとはアルファベット順になっていて合計16 カ国だったが、12 月27 日にハリー・ホプキンズ補佐官はFDRにメモを出して、「中国およびソ連のような国々を、アルファベット順のなかから引き上げて、わが国および連合王国と一緒に置きたいと、私は思います。この差別は、自国において積極的に戦争に参加している国であり、また、枢軸によって踏みにじられた国々であるということにあります。この順序は極度に重要であり、国務省によって心をこめて精査されるべきであると、私は思います」と主張し、この提案が受け入れられた(シャーウッドU、11)。ソ中をアルファベット順から除外して特別扱いしたことは、アメリカがソ連と中国を他の連合国と区別して位置付けたことの反映であり、また、この両国を並べて特別扱いをした最初の意志表明であったが、この問題がチャーチルとの間で重大な対立を生むことはなかった。  
第2の署名国の資格問題は、フランスをめぐる米英間の意思の齟齬の重大な第1歩だったといえよう。チャーチルは、12 月27 日に宣言案の「この宣言に参加せんと欲する諸政府」(the governments signatory hereto)という文言のあとに「及び諸当局」(and authorities)という文言を挿入することを提案した。FDRは、ドゴール配下の「自由フランス」を参加させるためのこの提案に賛同し、リトビノフに同意を求めたが権限がないとの理由で拒否され、結局、挿入されなかった3)。ホプキンズは、12 月27 日のメモで「私自身の気持ちでは、当分のあいだは自由フランスは含まれるべきではないと思う」(シャーウッド、11)と記したように、自由フランスの参加に消極的であり、さらに、ハルはもっと明確で反対の立場だった。ここには、FDRに対するハルおよび国務省の対フランス政策に関する構想の相違が反映していた4)。  
枢軸諸国と戦う集団の名称について、チャーチルは彼の祖先のマールボロ公爵がフランスのルイ14 世との戦いにヨーロッパ諸国を糾合したときの「大連合」(Grand Alliance)を採用したいとしたが、FDRはアメリカ憲法と抵触しかねない「同盟」という用語に難色を示し、また、一部で言われていた「協力国」(Associated Powers)は第1次大戦時の名称で陳腐だとして、連合国(United Nations)を主張して、チャーチルも賛同した(Howard、 1)。  
1943年にモスクワに集まった4カ国(米英ソ中)の外相は、10月30日に4大国宣言(モスクワ宣言)に合意した。その第4項では、「国際の平和と安全を維持するために、大国であれ小国であれすべての平和愛好国家の主権平等の原則に基づき、かつ、そのようなすべての国家に開かれた一般的国際機構を出来る限り速やかに設立することが必要であることを承認する」(Mangoldt、 8)と述べて、国際連盟(League of Nations)に代わる新たな国際機構を4大国を中心に設立することを最終的に確認した。ここに、のちの国連が連合国中心でかつ4大国を軸とする構造をもつことが決められたのであり、翌年にフランスを大国として処遇することが新たに合意されて5大国制になる安保理の構成に即してその意味を解明することが必要となる5)。  
アメリカ国内では、積極的に一般的国際機構を設置してアメリカがその主導権を握ることを目指す国際主義的な意見に対して、国際機構の設立を避けて大国間の相互理解を進めれば十分だと考える孤立主義的な潮流もあった。モスクワ宣言の第5項が「法と秩序を再確立し一般的な安全保障体制を開始するまでに国際の平和と安全を維持するために、われわれ4カ国は、互いに協議し、必要ある場合には諸国家に代わって共同行動をとるために他の連合国と協議する」と述べたのは、第4項への抵抗感を減少させる意味もあったが、1944 年1月の国務省内の文書では「国内の世論は第4項に強い支持を与えている」と評価していた6)。  
1941 年の大西洋憲章において始まった新たな国際機構の設立を含む「戦後計画」への取り組みは、真珠湾後の1942 年に本格化した(Bennett、 2)。 
2章 アメリカ外交における中国とフランス  
FDRは、1942 年春、モロトフ外相に「アメリカ、イギリス、そして多分中国と並んで、ソ連は軍備を持った国となり、他の国々は非軍事化されるだろう。ヨーロッパ諸国の植民地帝国は切り離され、3大国または4大国(great powers)に統治が委任されることことなろう」と伝えて、ソ連が戦後世界における警察官の一人となることを認める趣旨の発言をしていた7)。  
他方で、かつて世界を覆うイギリス帝国を築き上げたイギリスは、アメリカの台頭がイギリス帝国の後退につながることを警戒し始めていた。国際機構の設立に関するイギリス外務省内の検討は、1942 年に出された「4大国プラン」と題するジェッブ・メモから始まった。同メモは、アメリカの主張する「4大国支配論」の意味、有効性、イギリスの国益との関わりを検討して、アメリカだけが後押しする中国が大国化しつつあること、イギリスの主張する大国フランスが排除されていること、などの問題点を指摘した上で、代替案を提案することは難しいとして、アメリカのヨーロッパおよび世界へのコミットが不可欠な実態に鑑みて、もしアメリカがコミットしないことになるとイギリスはソ連と同盟しなければならず、そのソ連が協力を拒否したらイギリスはドイツと協力関係を結ばなければならなくなる、と問題の難しさを分析した(Woodward、 434-435)。11 月27 日に至って戦時内閣は、4大国プランを支持して、中国を大国として処遇することに同意する方針を決めた8)。しかしソ連は、1943 年10 月のモスクワ外相会議の段階でも、同月末に成立するモスクワ宣言に中国を参加させることに反対だった。  
アメリカにとってフランスの処遇は、ビシー政権との関わりで複雑な性格を持った。ドゴールは、1940 年10 月27 日に、自分がフランスの名で、かつ、フランスの防衛のためにのみ、フランスの戦争活動を指揮すると宣言した。アメリカ政府が基本的にドゴール派ではなくてビシー政権(ペタン政権)との外交関係の維持を優先させたのは、ビシー政権をできるだけ中立にしておきたいこと、およびカリブ海や北・西アフリカのフランス領をナチス支配からはずしたいと考えた事情もあった(Gellman、 286)。だからFDRは、連合国宣言の作成に際してイギリスが強く「自由フランス」を原署名国に推したにも関わらずビシー政権との関係維持を考慮に入れて拒否したのである(Woodward、 432)。  
1942 年6月段階で、ドゴールへのフランス国民の支持の高さが明確になるとアメリカはドゴールの自由国民委員会をフランスを代表する組織と認めたが、その意味は、戦争遂行におけるフランスのレジスタンス運動の象徴ということであり、ビシー政権に代わる臨時政府として承認することは回避し続けた。フランスがノルマンジー作戦で解放されて連合国に参加するのは1945 年1月1日のことになる。  
アメリカがフランスを大国として処遇する意思のなかったことは、国務省内に国務長官の諮問機関としてサムナー・ウェルズ国務次官を座長に1942 年に設置されたPIO(戦後国際機構問題検討委員会)の議事録からも読み取れる。1942 年10 月30 日には、戦後に設立されるべき国際機構の名称問題が議論され、「(国際連盟を作った1918 年当時に)南アフリカ外相(現首相)のスマッツ将軍がUnited Nations がよいと提案したことがあるとショットウェルが発言すると、マックルワースが、その名称にするとアルゼンチン、ドイツ、フランスなどの国々が加盟しにくくなることが懸念されると発言した」9)。ここでは、フランスは、ビシー政権の時代だったとはいえ、敵国ドイツや中立国アルゼンチン(ドイツへの親近感から連合国入りを拒否していた)と同列の扱いだった。しかもこの会議でウェルズは、「そのような国々にこそ加盟してもらわねばならないのだ」と発言して、フランスの新国際機構加盟が当然の前提ではないことを示しており、戦後の世界平和を主導する大国と見なされる余地はなかった10)。  
1943 年3月12 日にイーデン外相がワシントンに赴き、ハルやFDRと会談した。3月17 日の、イーデン、ハル、FDR会談では、FDRもハルも、極東の日本を抑制するためにきわめて役立つという観点から、中国を大国として処遇することを重視したのに対して、イーデンは中国の安定達成能力に疑問を投げ、革命の試練を乗り切れるかどうかを問題視して、中国が太平洋のあちこちに出没する事態は好ましくないと反論した(シャーウッドU、 267)。イーデンは、FDRが中国におけるアメリカの権益を利用してアメリカ国民に国際的責任を負わせようとしているとみたが、この解釈は、FDRの戦後構想がアメリカの世界的な主導権の確立にあったことを窺わせる(Woodward、 440)。3月27 日の会談では、FDRとウェルズは、戦後の国際機構が単一団体とその下の地域組織から構成されるだろうと述べた際に、最終的には米、英、ソ、中が実質的決定を行うのであり、この4カ国は長きに渡って世界の治安維持に責任を負わねばならなくなる国であると言った(シャーウッドU、 268)。ホプキンズは、FDRが中国を味方にできると考えた根拠は、中国がソ連との間に深刻な政策上の不一致があるからであると指摘している(シャーウッドU、 268)。英ソが中国を大国として処遇することにいやいやながら最終的に認めたのは、1943 年モスクワ外相会談のときである。イギリスは、中国に敵対的な態度をとると中国がアメリカに接近して植民地主義反対で協調するのではないかと恐れてしぶしぶ認め、日ソ中立条約との関係で中国に接近しがたい事情もあったソ連のモロトフ外相は、中国を認めないなら英米からの援助を中国により多く振り向けねばならなくなりそれだけ対ソ連援助を減少させざるをないとハルに言われて譲歩することとなった(Zi、 55)。  
1943 年11 月〜 12 月のテヘラン会談の際に、スターリンは、フランスへの全面的な不信感を口にして、フランスから帝国を取り上げるべきだと発言した。この考えは、かねてからFDRが考えていたことだったが、チャーチルは、ヨーロッパ大陸には強いフランスが必要であるので植民地を取り上げてフランスの誇りを傷つけたくはなかったし、そもそもこの案はすべての植民地を国際的な信託統治へ移行させようとするFDRの企みに道をつけてしまうものと警戒したのである(Royal Institute、 354)。強いフランスの必要性とは、イギリスとソ連との間の緩衝地帯の必要性、および、アメリカの影響力・支配力の及びにくいヨーロッパの再建にはフランスの政治力が必要だということを含意していた。このテヘラン会談は、FDRが国際連合構想の大枠を初めて表明した国際会議となった(Phillips、 216)。  
1944 年6月12 日、ハルがハリファックス駐米大使に、ソ連が中国と同席することを嫌うならダンバートン=オークスでの開催を提案している会議は米英ソだけの3ヶ国会談でもよいと伝えたときに、中国に幻想は持っていないがアメリカ世論は中国を3大国と同様に処遇するよう求めていると強調した。ソ連は、米英からの説得を受け入れたが、中国を含めた会議は3カ国会議のあとに設定したいと主張し、了承された。7月には、チャーチルが、世界機構設立に関する会議へのフランスと中国の参加を主張したイーデン案について、フランスは自国政府を広い基礎の上に確立するまでは参加を認めるべきでなく、中国を4大国の一つと認めるのはばかげていると、強く反対している11)。こうして、ダンバートン・オークス会議は、中国があとから参加するという変則的な会議となった。  
1944 年8月21 日〜 10 月9日のダンバートン・オークス会議で、3大国および中国と並んでフランスを安保理常任理事国とすることが合意された。8月24 日、FDRを含むホワイトハウスの会議で、フランスが永続的な政府を樹立したときに安保理常任理事国の椅子を与える何らかの条項を受け入れるべきだ、ということが決定された(FRUS 1944 Vol.1、 731)。28 日には、運営委員会で、国際機構が設立されるまでにフランスの政府が公式に承認されるか否かに関わらずフランスに常任理事国の地位が準備されることが望ましいという一般的な合意が成立した(FRUS 1944 Vol.1、 737、740)。  
アメリカは、国の規模、人口、資源、その将来、連合国への貢献に照らしてブラジルを同じく常任理事国にしようとしたが、英ソに拒否された(Hull、 1678、 Russell、 443)。ソ連の反対理由は、常任理事国を4カ国または最大5カ国に限定したいということだった(FRUS 1944Vol.1、739)。フランスの処遇は、このブラジル問題との関連もあって、中国問題よりも大きな軋轢を3大国の間に生み出した。  
フランスに関してアメリカ政府は、戦後における大国としての地位を認めないとする点で一致した政策路線をもっていたが、政策の具体化に当たってはFDRとハルの間で対仏政策の根拠が異なっていた。FDRの判断基準が主要に「ドゴール評価」にあったのに対して、ハルの基準は「ビシー政権の評価」にあったといえる。ドゴール評価の面では、ドゴールのパーソナリティに対する反発よりも、「フランス帝国死守」という理念的な特質への反発が強かったとみるべきだろう。FDRがフランスに対して厳しい態度を固める契機となったのが、1941 年12月のサン・ピエール島、ミクロン島占拠事件である。ビシー政権のジョルジュ・ロベール提督の管理下にあった2つのフランス領の島(カナダのニューファウンドランド沖)の無線施設がドイツ軍によって利用されることを危惧したカナダ政府は、11 月に、米英の同意のもとに、連合国の利益のために両島を管轄下におくことを決めたが、主権侵害だと怒ったドゴールと自由フランス海軍が自ら占拠する方針を打ち出した。イギリスはやむなしと追認し、ビシー政権との間で西半球におけるフランス領土の保全を協定したばかりのアメリカは認めることを拒否したが、12 月24 日に自由フランス軍は両島を占拠してしまった。カナダとアメリカの強硬な反対で、ビシー政権が両島への支配を回復したが、この過程は、FDRにドゴールに対する強い不信感をもたらしたのである。ホプキンズ研究者のシャーウッドが、「かの恐るべき手に負えない自由フランスの指導者シャルル・ドゴール将軍」、「この問題に対するドゴールの行動は明らかに無法であって弁解の余地がない」、「ドゴール将軍のあまり魅力のない資質」(シャーウッドU、 39-40、 47)、と書いたのは、ホプキンズやFDRの意思を反映したものと解される。この当時には、フランス国民の支持はドゴール個人ではなくて自由フランスに対するものであったことは明白だった。  
そもそもアメリカ政府内では、フランスの処遇について、大国としての認知に積極的な国務省と消極的なFDRという相違があった。FDRは、サン・ピエール島・ミクロン島占拠事件を通してドゴールのパーソナリティに対する不信感を増した。FDRは、フランスが国内的な安定を実現する能力を持っているかどうかに疑問をもち、植民地住民の民族的熱望の高まりに適切に対処する能力に欠けるとみていた(Blumenthal、 303)。したがって、狭くドゴール問題と見るのではなくて、文字通りの「フランス問題」として広く捉えることが必要である。  
アメリカがフランスを5大国の1つとして受け入れるまでのプロセスは、3期に分けられる。第1期は、1940 年のフランス降伏から1942 年春で、ビシー政権にも自由フランスにも、主権国家としての資格を認めなかった。第2期は、1942 年夏から1944 年春で、FCNL(French Committee of National Liberation フランス国民解放委員会 1943 年6月2日設立)を主権国家の政府に準ずるものと認めたが、それは戦後世界における平和創造の課題とは関係なく、単に、フランス国の利益を守り管理するという「国内的な統治の主体」としての認知に止まった。  
第3期が、1944 年夏(ダンバートン・オークス会議)から1945 年2月(ヤルタ会談)で、フランスを戦後の国際機構で大国(安保理常任理事国)として処遇することを認めた。  
フランスの大国化を目指すイギリスは、アメリカの「4大国案」(フランスぬき)には同調しがたかったが、最終的には受け入れざるをえなかった。イギリスの戦時内閣は、1942 年11月27 日、イーデン外相の提言に沿って、当面、アメリカ案を支持してゆくことを決めた。 
3章 アメリカと英ソの協調と対立  
アメリカにとって、戦後世界を主導するのは、1941 年の大西洋憲章に見られるように、まず米英の2大国であった。しかし、枢軸諸国との戦争に勝利する観点に立つと、現にドイツとの死闘を繰り返しているソ連の力が不可欠であり、また、ソ連を連合国に引き入れない場合にはソ連が1922 年のラパロ条約や1939 年独ソ不可侵条約のように再び単独でドイツと提携する危険性が懸念されていた。  
したがって、1941 年12 月の連合国宣言起草は、米英の首脳(FDRとチャーチル)が基本枠組みを作りそれに対してソ連の了解を求めるという手続で進められ、ここに3大国中心の原則が生まれた。1943 年11 月のカサブランカ会談も3大国首脳会談だった。1944 年のダンバートン・オークス会議も、運営委員会(steering committee)の構成国は米英ソであって、8月21日〜9月28 日が米英ソ会議、9月29 日〜 10 月7日が米英中会議となった。中国は3大国が合意した内容をあとから追認しただけで、実質的には3大国会議であり、1945 年2月のヤルタ会談も3大国だった。結局、中国を含む4大国首脳会談は一度も開かれなかった。4大国の代表による重要な会議は、モスクワ外相会議(1943 年10 月)だけだった。  
3大国間の協調によって戦後世界の平和を構築するという基本原則は、連合国宣言の後も維持されたが、アメリカとイギリスはそれぞれの思惑から「大国の範囲」の拡大を図り、それがのちの国際連合の5大国制を生み出した。  
米英ソの3大国が中国を「大国」として処遇することを決定した時期については、諸説ある。  
1942 年1月の連合国宣言で中国がアルファベット順の例外として原署名国の4番目に入れられたことをもって「大国」として認知されたとする解釈もありうる。アメリカが中国を原署名国にしようとしたのは、中国の対日戦争への激励、戦後に日本の野心を抑制しソ連との均衡を図るには強力で友好的な中国の存在が不可欠であること、ナショナリズムの台頭するアジアで西欧諸国が支配的な立場にいると思われるのを避けるため、であった(Zi、 55)。この解釈を補強するのが、FDRが提唱し英ソも基本的にその表現を受け入れた「4大国による警察官」(four policemen)構想である。世界平和の維持を米英の任務と考えてきたFDRは、1942 年、「4大国による警察官」構想を出し、それがのちの国連安保理事会を米英中ソを核とするものとして構想する出発点となった(Hilderbrandt、 122)。彼は、4大国以外の国々は戦後には非武装化されるだろうという前提に立って、軍事力を独占する4大国が世界の危機の際にはその軍事力と経済力を行使する必要があると考えた。  
フランスに関しては、まず、ビシー政権問題があった。フランス(ビシー政権)との外交関係の維持を重視したアメリカに対して、イギリスは反英的なビシー政権から距離をおき、この観点からドゴール支持へ傾斜した。その背景には、フランスの大国化を認めるイギリスとそれに消極的なアメリカとくにFDR、という対比があった。  
つまり、中仏の処遇をめぐる3大国間の対立は、それぞれの「戦後構想」の違いに起因している。端的に表現すれば、「単一の世界」構想と「勢力圏」構想の争いであり、それは「民族自決」論と「植民地維持」論の争いと関連していた。  
連合国の勝利が近づき、戦争の最終的な勝利(ドイツ・日本との戦い)のための3大国の協議が急進展してくると、それと同時に、戦後処理とそれに基づく戦後平和構想に関する3大国間の意見の違いが表面化してくる。  
早い時期に出されたFDRの4カ国警察官構想は、「地域的勢力圏の要素と大国間協力の要素の双方を包含するプラン」(Schild、 xi)だったが、当初は「地域的勢力圏の要素」の面を主とすると受けとめられ、したがって、ハルの普遍的世界機構構想と対立するものであり、他方では、大国間協力を含意するがゆえにチャーチルの地域的安全保障機構構想とも両立しない性格をもっていた12)。チャーチルは、戦後世界の平和をヨーロッパ、アジア、アメリカの3地域ごとの独立した「地域機構」(Regional Council)とその上に立つ調整機関としての「世界機構」(World Council)という二重構造の中で実現しようとしていた13)。  
勢力圏構想に基づくチャーチルの「地域機構」構想は、第1次ケベック会談(1943 年8月17 − 24)でFDRに拒絶されて挫折した。したがって、モスクワ宣言(4カ国宣言 1943 年10月30 日)で、「この4カ国は、すべての平和愛好国の主権平等の原則に基づき、かつ、国際の平和と安全の維持のために、大国たると小国たるとに関りなくすべての国に開かれた、一般的な国際機構を可能な限り速やかに設立することが必要であると認識している」と表現した際には、地域機構の連合体という性格は含まれていない。イギリス政府内では、イーデン外相はチャーチルと異なって、FDRの「単一の世界機構」構想にもチャーチルのフランスの強化にも賛成する立場をとっていた。チャーチルの「地域機構」構想は、国際連盟の失敗に鑑みて、戦争の防止に必要なのは力の均衡であるとする信念に立っていたが、戦後のECからEUへの発展途上に見られたようにアメリカをヨーロッパから排除するのではなくて、むしろアメリカをヨーロッパ問題に介入させてソ連と対抗する力を形成する必要を感じていた(Royal Institute、 320-321)。どの国にとっても、戦争の終結が近づいて戦後世界での自国の位置を高めようと考えたときには、領土的な意味での「勢力圏」が第1の関心となるのは当然である。  
スターリンとチャーチルはそれに敏感に反応したが故に、思想対立を超えて共通の立場を見出した。その一つの結果が英ソで勢力圏を取り決めた1944年の「英ソ秘密協定」である。協定は、戦勝勝利のための協力関係の強化だとされたが、実質的には、戦後世界の構造を見通した勢力圏協定であり、強大化するアメリカに対してそれぞれ異なるスタンスで対抗しようとしていたイギリスとソ連がバルカン地域に対する影響力の確保という観点で一致した結果である14)。  
FDRが勢力圏構想を支持しなかったのは、孤立主義の歴史的経過から見れば自然だった。  
孤立主義感情の根源には、第1次世界大戦への参戦が期待した結果を生まなかったという幻滅感があり、それは英仏の帝国(植民地体制)に対するオープンドアーの要求が拒否されたことが主要な原因だった。孤立主義者のジェラルド・P・ナイ上院議員は、第2次大戦勃発直後に、「現在のヨーロッパの紛争に民主主義の理想がわずかでも含まれていると考えるような馬鹿げたことはやめよう。そこに含まれている最大の課題は、現在の帝国主義と帝国の維持、そしてそれを危うくするような新たな帝国主義と帝国の建設を阻止することでしかないのだ」(Appendix to the Congressional Record 1939、 89)と言い、議会議事録に収録されたアイオワ州のある牧師は「第1次大戦でアメリカは、13 万人が戦死したのに何の見返りもなく感謝もされず、かえって、参戦が遅かったと非難されたものだ。貸し付けた数十億ドルの戦費も返済される見込みがない」(Appendix to the Congressional Record 1939、 97)と言った。その含意は、英仏の植民地がアメリカの商品と資本に開放されなかったという不満である。FDRは早くも1937 年に「隔離演説」によってヨーロッパの紛争への介入の意思を見せたが、国内の孤立主義感情が強く、政策的な提案には至らなかった。彼は、孤立主義と早い時期に決別していたと見られるが、英仏の世界的な帝国体制の解体を望む点では一貫していた。アメリカにとっての第2次大戦後の課題は、軍事的な安全保障とアメリカの経済的な発展を保障する自由貿易体制の構築という2つであった。この2つの課題を同時に実現する方策は、「単一の世界」構想であり、それは勢力圏構想と対立するものだった。1944 年の英ソ秘密協定について、FDRは事前にイギリスから内容を知らされたときに黙認する態度を取ったが、それが戦争勝利のための方策であること、したがって戦後に向けた勢力圏の取り決めであってはならないこと、を留保条件としたのである。勢力圏構想は、「特恵関税によって守られた市場」をも意味していたのであり、それは1 9 世紀末以来アメリカが主張してきた「自由市場」構想と対立していた(Rothwell、 9)。  
したがって、「単一の世界」構想と「地域機構」構想との対立は、「民族自決」論(英仏植民地体制の解体)と「植民地維持」論、および「自由貿易主義」と「保護貿易主義」という二重の対立構造の上に成立していたと解することが適当だろう。 
終わりに  
アメリカとイギリスの間の対仏政策の相違は、「民族自決論」と「植民地維持論」の対立を背景としていたが、その対立は、同時に、世界覇権と世界市場を求めるアメリカを阻止しようとするイギリスの抵抗を意味していた。アメリカ外交に即してみると、FDRはアメリカ帝国主義の台頭を人道主義的な原則で覆い隠していた、という評価を与えることもできる(Blumenthal、 311-312)。対仏政策でしばしばFDRと衝突した国務省は、第2次大戦後にも海外に陸海軍基地を拡大する必要性を感じており、フランスが強い影響力をもつ北・西アフリカ地域への進出を重視する立場もあってフランスの大国化に肯定的だった。  
戦後のフランスの位置付けについて対立したFDRと国務省は、ドゴール評価については一致点が高かった。そこから英仏の一致がより強くなる。つまり、「植民地維持論」での一致である。イギリスは、ソ中を重用して戦後世界を構想するアメリカのもとでジュニア・パートナーにされてしまう危険性を感じ取り、そのようなアメリカに対抗するためには、大陸における強力なフランスが必要であって、フランスの大国化がアメリカ、ソ連、ドイツに対する保険になると考えたのであるが(Blumenthal、 311)、ドゴールもフランス帝国の財産がなければフランスの復活は不可能だと考えていたのであって「植民地維持論」で英仏の共通性が維持されたのである。  
アメリカは、大西洋憲章で「米英中心主義」の世界を構想し、真珠湾事件を受けて連合国宣言を作成する際にソ連を巻き込む「米英ソの3大国中心主義」へ広げ、1942 年中にさらに、「中国を含む4大国中心主義」へ拡大させたが、国連創設の間際までアメリカ政府内でも中国を大国とみなす意識が弱かったことは、1944 年のダンバートン=オークス会議が、ソ連への配慮もあって形式的には、「米英ソの前半」と「米英中の後半」に分割されたことに見られる。  
ローゼンマンがヤルタ会談について回顧したときに「FDRはヤルタで、フランスにドイツ占領地域を与え、フランスがサンフランシスコ会議を主催する3大国(Big Three Powers)に加わるようにした」(Rosenman、 521)と書いたように、戦後世界構想の基盤となるべき「4大国制」もしくは「5大国制」は現実政治上の「決断」あるいは「建前」であって、3大国プラス1または4大国プラス1という意識は残っていた15)。  
4大国中心主義が、「拒否権方式をもつ安保理」という意味を持つようになったのは、1944年である。同年の9月18 日、ソ連外相グロクイコはステティニアス国務次官に、拒否権のない安保理事会は認められないと伝え、ステティニアスはそうなったら国際連合は無力になると反論したが、ヤルタ会談の際にスターリンはさらに、国連から脱退する権利と追放されない権利の双方を欲すると述べている(Dallin、 22-23)。それだけに、「ソ連抜きの戦後国際機構はありえない」というアメリカの懸念もいっそう高まり、フランスと中国を大国として処遇する戦後世界構想の必要性と現実性が強まったといえる。 
注  
1)シルドは、最初の2期の間は、国際主義的対外政策を志向する議会や国民の孤立主義感情に打ち勝つことができなかった。それが可能になったのは、真珠湾事件とアメリカの参戦以降のことである、と述べている。.  
2)イギリスは、ドイツ第1の共通認識に立って、武器貸与法による兵器の供給を優先的に受けてきたが、アメリカの港ですでにイギリス向けの貸与兵器が停止命令を受けており、太平洋重視戦略への転換の影響である可能性が懸念されたことも、アーカディア会議開催の一因だった。シャーウッド、U-2。  
3)のちになって、リトビノフが本国にFDRとチャーチルの要請を伝え、本国政府は承諾の返事を返したが時間的に間に合わなかった、という事情が明らかになる。シャーウッド、13。  
4)ウッドワードは、シャーウッドの説明とは異なって、FDRはビシー政権との関係の維持を重視する立場から自由フランスを署名国にすることに頑強に反対したとする。Woodward、 432.  
5)国務次官として参加したステティニアスは、米英ソが、将来にわたる緊密な協力関係を約束し、戦時の協力を戦後も続けることが国益にとっても平和愛好国の利益にとってもきわめて重要であることを確認したことにモスクワ外相会議の最大の意義を見出している。Stettinius、 14.  
6)“Public Attitudes Regarding Methods of Using Force to Maintain Peace and Prevent Aggression”、 Jan. 5、 1944、 RG 59、 General Records of the Department of States、 Records of Harley P. Notter、 Records of the Advising Committee on Post-War Foreign Policy 1942-1945、Lot 60D-224、 Box 90.  
7)カーケンダルは、 1 9 4 2 年の時点でFDR が「4カ国警察官構想」を固めたとみている。Kirkendall、 259.  
8)フロムキンは、次のように表現する。「中国はアメリカの子分で、実際にはそうでもないのに大国として扱われた」。Fromkin、 457.  
9)P-I.O Mintute 14、 Oct、 30、 1942、 RG 59、 General Records of the Department of States、 Records of Harley P. Notter、 Records of the Advising Committee on Post-War Foreign Policy 1942-1945、Lot 60D-224、 Box 85.  
10)新たに設立される国際機構の名称は、1944 年のダンバートン=オークス会談の頃には、アメリカ以外の国もUnited Nations でよいとするようになっていた。同会議では、ソ連のグロムイコ外相はWorld Unionが良いと言い、イギリスのカドガン外相もUnionを含む名称にしたいと言ったが、あまりこだわらなかった。Hull、 252.  
11)Woodward、 451. イギリス外務省はこのチャーチル構想に対しては、イギリスはもともとフランスを世界機構の常任理事国とすることとしてきたのであり、アメリカは公然と、ソ連は隠然とイギリス案への支持を表明してきているのであり(世界機構の第1回会議のあとならという条件で)、しかも、イギリスは中国を4大国の一つと認めてきた経過があるので、この2つの問題でチャーチルのような行動をとると、対外的に困難な立場に陥る危険性があると意見を出している。  
12)オストローワーは、戦争初期におけるFDRの現実主義への強い傾斜を強調している。「FDRは、真珠湾のあと2年も経たないうちに、勢力圏という非ウィルソン的プランを蘇えらせて戦後世界を構想するようになった。FDRは、国家主権の概念とくに大国の国家主権をいい加減に扱いたくはなかった。リアリストのウォルター・リップマンやニコラス・スパイクマンは、世界の世論、国際法、新しい道義が世界平和実現のキーとして諸大国の軍事的経済的支援にとって代わると信じたウィルソン主義者に同調しなかったが、FDRも彼らと同様の観点から戦後の平和を考えていたのである」。Ostrower、 13.  
13)駐ソ・イギリス大使のサー・スタッフォード・クリップスは、5つの地域機構を主張した。ヨーロッパ、アジア、アメリカ、イギリスコモンウェルス、ソ連の諸共和国。Royal Institute、 435.  
14)ただし、通説的な解釈は、シルドの次のような説明である。「1944 年のバルカンの分割と10 月のパーセンテージ取り引きは、チャーチルの主たる関心が、東欧におけるソ連を封じ込めるために、限られた勢力圏を認めることによってイギリス帝国の立場を維持することにあることを示していた」。Schild、 46.  
15)Zi は、次のように言う。「米英ソの3大国は、大国一致の原則では一致していたのであり、それが本質だった。違ったのは、ただこの原則の適用方法についてだけだった」。Zi、 51. 

 


  
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出遅れた日本のレーダー

 

真珠湾攻撃 / 新高山登れ 
1939年9月にドイツがポーランドに進撃して第二次世界大戦が始まった。翌年の9月に日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を調印する。翌年連合国がABCD包囲網をつくると、日本はそれを解除させるための交渉を米国と始める。これに対して米国は日本軍が中国大陸から撤退すること、三国軍事同盟の破棄を要求する。1941年8月に米国が発動機用燃料と、航空機用潤滑油の日本への輸出を禁止すると、陸軍を中心に早期開戦の強硬論が主流になって、10月に東条内閣が成立し11月5日に大本営が連合艦隊に真珠湾攻撃準備を命令する。 
11月26日、連合艦隊は択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾から出航して西に向かう。12月2日、17:30、広島に停泊している連合艦隊の旗艦『長門』から「新高山登れ一二〇八」が呉通信隊経由で東京目黒の海軍通信隊に送信され、さらに千葉県勝浦にある行田船橋無線局から20:00に4175kHz、8350kHz、16700kHzの3つの周波数を使って放送される。西経165度、北緯4343度付近を航行中であった連合艦隊は「新高山登れ」を受信すると南に転進してハワイに向かう。 
ハワイ時間の午前5時頃、ハワイの北360kmの太平洋海上では南雲忠一中将が指揮する第一航空戦隊の空母『赤城』、『加賀』、山口多聞少将が指揮する第二航空戦隊の空母『蒼龍』、『飛龍』、原忠一少将が指揮する第五航空戦隊空母『瑞鶴』、『翔鶴』からなる機動艦隊がハワイに向かっている。 
ハワイ時間06:00、東の空が白むと第一次攻撃隊の搭乗員に「発艦はじめ」の号令がかかる。日の出26分前、下弦の月、気温摂氏22度。東北東13mの風で、空母は風に向かって速力を時速44kmに上げる。空母『赤城』から制空隊隊長板谷茂少佐が乗る零戦が最初に発艦し、6隻の空母から次々と機が離艦する。第1次攻撃隊は淵田美津雄隊長が指揮する九七式艦上攻撃機49機、村田重治隊長が指揮する九七式艦上攻撃機40機、高橋赫一隊長が指揮する九九式艦上爆撃機51機、板谷茂隊長の零戦43機の合計183機である。 
続いて第二次攻撃隊の169機が07:15に発艦する。 
偵察のため先に発進した零式水上偵察機から07:35、淵田機に、「アメリカ艦隊、真珠湾に在り。」「風向80度、風速14m、雲量7、雲高1700m。」と電信連絡が入る。
米国航空機早期監視レーダーSCR-270 
ハワイのオワフ島南の真珠湾には米太平洋艦隊の基地がある。1941年6月に米陸軍はオワフ島に6台の航空機早期監視レーダーSCR-270を設置して、北の空の警戒を始めた。11月にSCR-270を再配備して1台を島北端のカフク岬にある陸軍基地に配備して北の空の監視を強める。 
ハワイ時間の1941年12月7日、日曜日の朝、カフク岬ではレーダーの操作員のロッカードが、エリオットに操作訓練をしていた。気温は摂氏18度。曇りで雲の灰色と紺色の海が北の地平線に溶けている。レーダー用発電機からのエンジン音がゴウゴウと響いている。2人は昨夜ここに着いてレーダーの傍のテントに泊まり、朝の4時からレーダーを動かして訓練を始めた。7時になれば訓練を終了する。 
このレーダーの周波数は102-110メガヘルツ(MHz)で、波長に換算すると2.8mである。性能は240km離れた空を飛ぶ航空機を探知できる。レーダーは4台のトラックから成っている。1台目は電源車、2台目はアンテナを積載し、3台目は高さ16mの折り畳み式のアンテナ塔を積載している。4台目はレーダー操作室である。操作盤に送信機、受信機と目標位置表示機が組み込まれている。ロッカードが操作盤の前に座ってレーダーを操作し、エリオットが指導している。表示機はAスコープで直径13cmのブラウン管画面の左側と右側に白い波形が映っている。右の波形は発射した電波が目標に反射して戻ってきて受信された電波を示している。左の波形と右側の波形との間隔が探知した目標までの距離である。この間隔が広いと目標までの距離が大きい。そして編隊のように反射する目標が大きければ、反射波が強いので、右の波形は大きい。 
ハワイ時間06:45、小さな反射波がブラウン管に映る。エリオットは規則に従ってシャフター基地に電話して探知したことを連絡する。この反射波は日本軍の偵察機であった。日本機はレーダー波を逆探知するための電波探知機を持っていないので米国のレーダーに発見されたことに気付かない。 
カフク岬の西にあるカワイロアのレーダーも、東のカアアワのレーダーも探知するが7時になって、訓練時間が終わったので、この2台のレーダーは停止される。しかしカフク岬ではロッカードがレーダーの操作についてエリオットに質問していたために停止せずに電波を出し続けていた。 
07:02、大きな反射波がブラウン管に映る。今までに見たことが無いような大きい反射波なので、アンテナの向きを調整してレーダーが故障していないことを確かめて、それが航空機の編隊であると判断して、エリオットがその位置と時間を地図に記入する。編隊はハワイの北方約220kmの距離にあって、ハワイに進んでいる。07:06にエリオットが報告のためにシャフター基地の情報センターに電話するが、電話交換員のマグドナルドしか居ないので、彼に大編隊の航空機が近づいていると伝える。14分後の07:20、情報センターのタイラー将校から折り返し電話がある。エリオットが、「07:02、北の方向約220のもに大きな航空機編隊を探知しました。ハワイに向かって飛行中。現在はハワイからの距離147kmの位置で、時速280kmの速度で接近中。」と伝える。タイラーは米国本土から飛んで来る米軍のB-17爆撃機と思って、「味方機だ、心配するな。」と答える。2人は暫く探知を続ける。編隊はオアフ島の西に向かう。07:39、編隊までの距離が32kmになると、レーダー波がオアフ島の西にあるライアナエ山脈に隠れて、ブラウン管から波形が消える。2人はレーダーを停止して迎えのトラックに乗って基地に戻った。
「我、奇襲に成功せり。」 
攻撃隊はオアフ島に向かって飛行している。制空隊の隊長であった淵田美津雄が飛行中の情景を描いている。 
「天候はあまりよくない。風は北東十数メートルで、海上はしけている。空は千五百メートル付近から三千メートルにかけて、密雲がとざしている。編隊群は高度三千メートルで、雲の上をすれすれに飛んでいる。雲上は快晴である。東の空に昇ったばかりのまっかな太陽が、大きく荘厳に輝いている。海面は見えない。下に見えるのは、真綿をちぎって、しきつめたような白一色の雲海であ。…私は前方の雲から島影を見つけようとひとみをこらしている。雲は次第にとぎれてきた。ときどき、海面が雲のすき間を通して、見え隠れする。突如、飛行機の真下に、長く続く白い一線が目にうつった。オアフ島北岸の海岸線である。私はただちに右に変針し、全軍をオアフ島の西海岸の方へ誘導した。真珠湾の上空は晴れている。やがてオアフ島の真ん中にひろがる平野を通して、真珠湾が見えてきた。見下ろす真珠湾一帯には、朝もやが立ちこめている。朝食の炊煙が、たなびいているようにも見える。静かな景色である。…私は時計を見た。時刻は午前三時十九分、ちょうどいい。いまから突撃の下命をすれば雷撃隊の先陣が午前三時半きっかりに攻撃の火ブタをきるであろう。私は後席の電信員を振り返って「ト連送」と命じた。まちかまえていた水木徳信一飛曹が攻撃隊に、07:49、「ト、ト、ト、…」と打電する。」無線機は『九六式空三号無線電信機』で周波数7635kHzである。「ト、ト、ト、…」は瀬戸内海の柱島に停泊している連合艦隊の旗艦『長門』が直接受信して、作戦室にいる山本五十六司令長官に伝えられる。日本時間の12月8日の03:19である。 
07:53、上空には敵戦闘機の姿は見えず、対空砲火も見えない。淵田隊長は、「我、奇襲に成功せり。」と打電する。 
07:55に高橋赫一隊長の九九式艦爆が真珠湾上空に到達し、ホイラー飛行場に250キロ爆弾を投下して攻撃が始まる。第一次攻撃は08:25に終了、第二次攻撃が08:49から始まり09:45に攻撃が終了する。日本軍編隊を発見したレーダーSCR-270も再び動かされ、攻撃を終わって北に帰る日本機を追跡していたが、そのレーダー情報は混乱のために紛れてしまう。真珠湾攻撃で米太平洋艦隊は戦艦5隻が沈没し、米国民間人68人と、軍関係者2336名が死亡した。日本時間の12月8日午前7時、NHKラジオから臨時ニュースが放送される。 
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。
真珠湾を忘れるな 
ワシントン時間の12月7日、12:29にルーズベルト大統領が日本に宣戦布告する。 
SCR-270を開発した米国ニュージャージー州の陸軍通信研究所の科学者達は真珠湾攻撃を聞いて、「ハワイのレーダーは役に立たなかったのか。」と心配するが、数日後ワシントンにいる陸軍通信研究所のコルトン大佐から、「レーダーは7時2分に日本の編隊を発見していた。」と電話が入る。 
米国でレーダーを開発してきた放射波研究所は英国にレーダー運用についてのコンサルタントを依頼する。英国からワトソン・ワットが、真珠湾攻撃のわずか2日後の12月9日にワシントンに到着する。ワットは世界で始めてレーダーを実用化したレーダー技術者である。ワットは海軍調査研究所や陸軍通信研究所を訪問し、パナマ基地に設置してある射撃制御レーダーSCR-268も調査する。 
「米国のレーダーの性能は、英国よりも優れている。しかしレーダー操作者は十分に訓練されていないし、レーダー情報を使うための運用システムが全く出来ていない。」と報告書する。それまでは米国のレーダー開発は政府、官、学、民間企業の連携が良くなかったが、真珠湾攻撃の衝撃により連携が強まり、米国でのレーダー開発は急速に進む。 
12月中旬に米国海軍は約100台の艦船搭載レーダーCXAMを艦船に装備し、陸軍は射撃制御レーダーSCR-268と、航空機早期監視レーダーSCR-270数百台をアイスランドやパナマなどに配備する。真珠湾で撃沈された戦艦『カリフォルニア』に搭載されていた航空機監視レーダーCXAMは海中から引上げられ、ハワイのレーダー学校に設置されて操作教育に使われる。翌年1月には放射波研究所からカマーが英国に派遣され、英国の航空機早期監視レーダー『チェーン・ホーム』を調査し、6月に帰国してからマイクロ波を使用する航空機早期警戒システムの開発を始める。 
真珠湾攻撃から62年後の、2003年12月20日の土曜日、日本の編隊を発見したジョージ・エリオットがフロリダで85歳で亡くなった。息子のトムが、父は、「もしも我々の報告を聞いて、すぐに対応をしてくれていたなら、もっと多くの人命が助かったかもしれない。」と、いつも話していたと語っている。 
真珠湾攻撃がレーダーで発見されたことを日本も戦争中に知っていた。 
戦争中の昭和18年2月に泉信也が『ラジオロケーターの話』を書いている。 
米軍が開戦前からラジオロケーターを開発して、1941年春からハワイに設置していた。11月27日から毎日朝4時から7時までラジオ・ロケーターによる防空警戒体制をとる。このうちの1台のラジオ・ロケーターは7時過ぎまで訓練を続けて日本機を発見する。攻撃を受けてハワイに設置してあるラジオ・ロケーターは8時30分から再び稼動を開始した…」続けて、真珠湾攻撃後に米軍が「ロバーツ委員会」を組織して、「なぜ防空が出来なかったか?」を調査し、翌年の1月23日に『日本軍による真珠湾攻撃』が出されたことを紹介している。 
『ラジオロケーターの話』には日本軍がフィリピンで奪取した米軍の射撃制御レーダーSCR-268の図や、シンガポールで奪取した英国のレーダーの写真も掲載している。レーダーは最先端の軍事技術である。なぜ英米のレーダーについて一般に紹介することが許されのであろう。開戦翌年の昭和17年4月18日の昼、米陸軍B-25爆撃機が東京を空襲した。日本軍がレーダーの必要性を痛感してレーダーの開発と装備のために、民間の技術を活用しようするのはこの後である。雑誌『無線と実験』も昭和18年に英米のレーダーを頻繁に掲載する。
日本本土空襲1942年4月 
真珠湾攻撃の後、日本軍は太平洋全域に進撃し、米国は敗退が続いていた。ルーズベルト大統領は反撃のために日本本土への空襲を指示する。指揮官はドーリットル陸軍中佐、空襲にBー25爆撃機を使うことにして、空母からの発艦訓練を1ヶ月間行う。燃料タンクを増設した16機のB-25爆撃機を空母『ホーネット』に搭載して4月1日に出航、日本時間の14日にミッドウェーの北で空母『エンタープライズ』と合流して日本に向かう。 
4月10日の午後6時半頃、日本軍は米空母数隻がハワイの北にあって、東京空襲の気配があるとの無線を傍受すると、太平洋沖1000km付近まで哨戒機を飛ばし、監視艇で偵察していた。 
4月18日、03:10、空母『エンタープライズ』のレーダーCXAM-1が東19kmに小型艦艇を捉える。06:30に日本海軍の監視艇『第二十三日東丸』が空母を発見して、「敵空母を発見。我が地点、北緯36度、東経152度。」と通報する。日本海軍は、米軍が空母から艦載機が飛び立って往復攻撃をするであれば、出撃するのは日本からの距離が450kmよりも近くになってからで、本土への空襲は19日以前にはありえないと考えていた。しかし空母から飛び立ったのは長距離飛行可能なBー25爆撃機であった。 
空母が発見された位置は発進予定地点よりも約360kmも遠い犬吠埼の東1040kmで、ここから爆撃機が発進すると中国大陸まで飛行できるかどうか微妙な距離であった。しかしハルゼー中将は攻撃を決断する。4月18日、07:25、空母『ホーネット』からB-25爆撃機16機が発艦して、低空飛行で日本本土に侵入する。 
千葉県勝浦と、神奈川県衣笠には海軍の航空機早期監視レーダー『一号一型電波探信儀』が配備されていたが爆撃機を探知できなかった。12:15、ドゥーリットル中佐の1番機が東京上空で高度を400mに上昇させて爆弾を投下する。16機のうち13機が東京、川崎、横浜、横須賀を爆撃し、2機が名古屋と四日市、1機が神戸を爆撃する。
ミッドウェー海戦1942年6月 
海軍はミッドウェー島を占領する作戦を進めていた。2度と本土空襲をさせないためにミッドウェー作戦の重要性が高まる。 
米軍は日本の暗号通信を傍受して日本の作戦をあらかじめ知っていた。ニミッツ大将は空母『ホーネット』、『エンタープライズ』、『ヨークタウン』の3隻をミッドウェー海域に向かわせ、ミッドウェー島にはSBDドーントレス急降下爆撃機18機、F4Fワイルドキャット7機、PBYカタリナ飛行艇30機、B―17爆撃機17機、B−26マローダー爆撃機4機など合計112機を配備し、航空機早期監視レーダーSCR-270をミッドウェー島に設置する。 
日本の空母『赤城』、『加賀』、『蒼龍』、『飛龍』の4隻が攻撃機発進予定地点であるミッドウェー島の北西約450kmに向う。日本軍の主力部隊はミッドウェーのはるか西方1250kmにあった。米国の3隻の空母はミッドウェー島の北320kmにあった。『エンタープライズ』、『ヨークタウン』は対空捜索レーダーCXAMを搭載している。このレーダーの探知距離は高度3000mの航空機を130kmの距離まで探知できる。しかし米空母と日本空母の距離はまだCXAMの探知距離外であり、お互い哨戒機で捜索していた。 
6月3日、09:00、米軍カタリナ偵察機がミッドウェーの西方1250kmに日本主力部隊を発見してミッドウェー島からB-17爆撃機が爆撃するが日本軍の被害は無かった。 
6月5日の04:30、ミッドウェー島北西450kmの日本空母から零戦36機、艦爆36機、艦攻36機合計108機の攻撃隊がミッドウェー島の攻撃に向かう。 
05:30米軍偵察機はミッドウェー島の北西270kmに日本空母を発見し、05:55ミッドウェー島の航空機早期監視レーダーSCR-270がミッドウェー島に向かっている日本軍の編隊を探知する。 
「北西方向150km、高度3300mに敵編隊発見。」 
直ちにF-2Fバッファロー20機と、F-4Fワイルド・キャット6機がスクランブルして高度5000mまで上昇する。米軍レーダーが発見してから40分後の06:35に日本軍攻撃隊がミッドウェー島を空襲するがミッドウェー基地の航空機は既に飛び立っていた。零戦は12機のF-2F、2機のF-4Fを撃墜する。07:05、攻撃隊の友永大尉が「第二次攻撃が必要。」と電信連絡をする。 
日本空母を発見した米軍は07:00にSBDドーントレス急降下爆撃機、TBDデバステーター雷撃機、戦闘機の総数約150機を空母から発進させる。この頃、日本空母は、ミッドウェー基地からの米軍機に攻撃されていたが殆ど被害を受けていなかった。南雲長官は第二次攻撃機が装備していた魚雷を、ミッドウェー島を再び攻撃するために、陸用爆弾への交換を指示する。爆弾の交換作業が半ば進んだ頃、07:28に偵察機の利根4号機から、「ミッドウェー島北430kmに米艦隊10隻、進路南。」と報告が入る。南雲長官は、積み替え作業中の陸用爆弾を、再び魚雷に交換することを命令する。このため艦内に弾薬庫に戻せない爆弾が艦内に山積みになる。日本空母は米軍魚雷攻撃を避けるために、上空への監視がおろそかになっていた。 
10:20、ドーントレス急降下爆撃機30機が上空から急降下爆撃する。空母『赤城』の中央のエレベーター付近に爆弾が命中し、交換作業中で山積みになっていた爆弾に次々と誘爆し、さらに航空機燃料へも引火して火炎が広がる。同じ頃、空母『加賀』、『蒼龍』も攻撃され、炎上する。 
空母『飛龍』は攻撃されていなかった。『赤城』の炎上を聞いた山口多聞少将は米空母を攻撃するため10:58に零戦6機、艦爆18機を発進させ、13:31に零戦6機、艦攻10機が発進する。この日本の攻撃機も空母『ヨークタウン』のレーダーCXAMによって探知された。さらに『飛龍』も空母『エンタープライズ』からの艦爆24機に急襲されて炎上し沈没する。山本長官は日本時間の6日、02:55、ミッドウェー作戦を中止する。 
日本軍は『赤城』、『加賀』、『飛龍』、『蒼龍』の4隻の空母を失い、約300機の艦載機と、熟練パイロットを失う。米軍の損失は空母『ヨークタウン』1隻、駆逐艦1隻、航空機152機であった。キスカ作戦に向かった戦艦『日向』には波長10cmのマグネトロンを使った『100号』が搭載されていたが戦闘に使われる事は無かった。
ガダルカナル島 
ミッドウェー海戦の10日後の1942年6月16日、日本海軍はガダルカナル島北岸に上陸してルンガ川の周りのヤシ林を切り開いて飛行場の建設を始める。しかし飛行場の建設はオーストラリア海軍情報部が監視していた。飛行場がほぼ完成する8月7日、米軍約2万人がガダルカナル島に上陸して飛行場を占拠しヘンダーソン飛行場と名づける。米軍はガダルカナル島の戦力を増強に、早期航空機監視レーダーSCR-270、射撃制御レーダーSCR-268を設置して日本機を探知すると直ちにスクランブルできる体制を整える。日本海軍が設置していた『一号一型電波探信儀』は米軍に捕獲調査され、日本のレーダーは米国のレーダーよりも劣っていることが分析された。
第一次ソロモン海戦のレーダー 
この飛行場を奪還するために数ヶ月間の間激しい戦闘が続く。 
8月8日の深夜、三川軍一中将が指揮する重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻の艦隊がラバウルから出撃してガダルカナル島とサボ島の間の海峡で米を奇襲して重巡洋艦『キャンベラ』、『ヴィセンヌ』、『クインシー』、『アストリア』の4隻の艦を撃沈する。 
米の駆逐艦『サン・ジュアン』には水上監視レーダーSGが搭載され、『クインシー』と、駆逐艦『パターソン』は航空機監視レーダーSCを搭載していたが、レーダー波が陸地からの反射波に紛れたために日本艦隊を発見できなかった。艦船搭載用レーダーSGは1942年に完成したばかりの米国始めての周波数3GHzマイクロ波レーダーである。SCは航空機監視レーダーCXAMを小型にしたレーダーである。米国海軍はこの海戦でレーダーが役に立たなかった原因をすぐに調査し、レーダー開発部門に報告する。
第ニ次ソロモン海戦のレーダー 
8月24日、米空母『サラトガ』、『エンタープライズ』と、日本海軍空母『翔鶴』、『瑞鶴』、『瑞鳳』などの機動部隊がガダルカナル島の北に向かう。『翔鶴』と『霧島』は航空機監視レーダー『二号一型電波探信儀』を搭載していた。『翔鶴』のレーダーが『エンタープライズ』から飛来する爆撃機を探知するが、この情報は報告されなかった。逆に、空母『竜驤』からガダルカナル島に向かって飛ぶ日本機を、『サラトガ』のレーダーが150kmの距離で探知して、ガダルカナル島の米軍基地に連絡する。この戦闘で空母『竜驤』が撃沈される。
サボ島沖夜戦のレーダー 
10月11日、21:23、ガダルカナル島北西360kmのサボ島沖、旗艦『青葉』が米巡洋艦艦隊を発見する。米国軽巡洋艦『ヘレナ』と、軽巡洋艦『ボイス』はSGレーダーを搭載している。21:25、『ヘレナ』のレーダーが右舷285度、距離25kmに日本艦隊を発見する。21:46、『ヘレナ』が砲撃して『青葉』は大破、『古鷹』、『吹雪』も沈没する。
南太平洋海戦のレーダー 
10月25日と26日、『サウスダコダ』の射撃制御レーダーFCと、射撃制御レーダーFDが32機の日本機を撃墜する。11月12日夜、ルンガ沖で『ヘレナ』の水上レーダーSGが22kmの距離にある日本艦隊を発見して砲撃し戦艦『比叡』が沈没する。 
11月14日夜、戦艦『ワシントン』の射撃制御レーダーFCが17kmに戦艦『霧島』を発見して砲撃、『霧島が沈没する。 
日本軍は戦力を消耗して、1943年2月7日、ガダルカナル島から撤退する。4月18日、09:30、山本長官が乗る一式陸攻がブーゲンビル島東上空で、待ちかまえていた米軍のロッキードP38によって撃墜されて、山本長官が戦死する。
 
大東亜戦争の真相 / なぜ真珠湾を攻撃したか

大東亜戦争のうち、太平洋戦略あるいは対米戦略の最大の誤りが真珠湾攻撃ではなかったろうか。  
日本が開戦に踏み切った最大の理由は石油にあったという。当時、日本国内の年間石油消費量400万キロリットルに比し、スマトラのパレンバンにあった精油所だけで年470万キロリットルを産出していたという。実際に南方各地から内地への原油輸送量は1942(昭和17)年に167万キロリットル、翌昭和18年には230万キロリットルを記録した。もっとも、昭和19年からはそれまで不具合の多かった米軍の魚雷がようやく改良されたこともあって日本の船舶喪失は急増し、石油は勿論すべての輸送は落ち込んだ。  
なぜ米国に対する攻撃はフィリピンの基地攻撃だけに留め、一方では東南アジアを攻略し、石油を始めとする資源確保を主眼としなかったのだろうか。仏印(ベトナム)、蘭印(インドネシア)の両国宗主国である仏・蘭はすでにドイツに降伏し、日独伊三国同盟のもと、日本にとって最も作戦し易い状況にあったというのに……。なぜ、わざわざ真珠湾を攻撃してアメリカを奮起させなければならなかったのだろうか。軍部の意見も圧倒的多数(……というより、山本五十六を除く全員)はこうした考えであったという。第一、1936(昭和11に改訂された国防方針でも、対米戦争ある時は以下のように定められていた。  
米国を敵とする場合の作戦は次の要領に従う。  
東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、且つ本国方面から来攻する敵艦隊の主力を撃滅するをもって初期の目的とする。  
これがため海軍は作戦初頭にすみやかに東洋にある敵艦隊を撃滅し東洋方面を制圧し、陸軍と協同してルソン島及び付近要地並びにグァム島を攻略し、敵艦隊主力東洋海面に来航するに及び、機を見てこれを撃滅す。  
敵艦隊を撃滅した以後の陸海軍の作戦は臨機これを策定す。  
開戦直前の11月15目、大本営政府連絡会議では戦争終末促進を腹案として決定している。その中でも「適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む」とか「対米通商破壊戦を徹底す」といった文言が見られる。  
1940(昭和15)年11月の大統領選挙で、ルーズべルトは選挙に3度目の勝利を得るために米国は戦争に参加しないと公約せざるを得なかった。国民の9割が戦争に反対であったのがその理由である。米国の事実上の植民地にすぎないフィリピンを攻略するのと、米国の領土であり太平洋最大の海空軍基地である真珠湾を攻撃するのでは米国民の反応は全く異なったであろう。欧州戦線に対しては米国は武器供与、輸送船団護衛などで援助していたが、時刻の駆逐艦2隻、輸送船2隻をドイツのUボートに撃沈されても、なおかつ参戦に踏み切ることはできなかった。こうした事情を分かっていながら、日本は真珠湾を攻撃して眠れる獅子を叩き起こしてしまった。  
実のところは、山本五十六が零戦を始めとする航空機の性能がかなりのレベルに達していたため、力試しに戦争(あるいは戦闘)をしてみたかっただけではないのか。彼はあたかも対米戦争に反対であるかのような言動を取っていた。それならば、どうして最後の段階で「対米戦争に勝ち目はない」と言わず、「1、2年は十分暴れて見せます」などと言ったのだろうか。勿論、米国に勝てるとは言っていないし、日本を守れるとも言っていない。暴れて見せるとだけ言ったのだから、ウソは言わなかったつもりだろう。彼の言動はよほど注意して観察する必要があったように思う。ハッタリや芝居が多かったように思う。戦争を避けるつもりなら、どうして1941年5月2日に戦艦長門上に士官を招集して戦争に向けた特訓をし、早い時期から真珠湾攻撃の訓練までしていたのか。例の南部仏印武力進駐に先立つこと3ヵ月近い。  
この時期は公私の日米関係修復が活発に行われ、4月16日に日米了解案(いかさまと言われる)が提示され、5月12日に松岡外相の意向を汲んだ修正案が野村大使からハル長官に手渡され、6月21日に米国が対案を以って回答した……という頃である。天皇、近衛首相、軍部首脳が揃って真剣に対米戦回避に努力していた。その後、9月6日の御前会議で天皇が「よもの海みな同胞と思う世になど波風の立ちさわぐらん」と朗読し、東條は帰庁して「聖慮は平和にあるぞ」と言い、武藤軍務局長は「戦争などとんでもない」と部下に伝えたというのは有名な話である。  
この9月頃には軍令部総長であった永野修身は外交交渉継続に真正面から反対し、即開戦を叫び始めていた。また、対米戦争に自信の持てなかった天皇を次第に戦争に向けて洗脳していった一人が聯合艦隊参謀長・宇垣纏ではなかったか。永野修身、宇垣纏、米内光政、山本五十六、どうも胡散臭い面々である。  
とも角、山本五十六こそが「聯合艦隊司令長官を辞める」と脅して強引に、まことに強引に真珠湾、更にはミッドウェイ作戦までやり通した。正に国を相手のポーカーに勝ち、国を滅ぼしたと言えよう。山本が海軍大学校の教官をしていた時、質問に答えた学生が「戦争でもっとも大切なのはスパイや暗号解読などにより敵の動静を知ること」と述べたところ、山本は「相手の手の内を見ながらポーカーをやるようなことを考えるな」と言ったそうで、山本の本質を暴露したエピソードと思う。彼が亡国の徒と呼ばれず、未だに一部の人々に軍神と評されているのはまことに不思議である。映画まで作ってこの男の“功績”を称える日本人とは一体何なのか。  
真珠湾攻撃に批判的な文、例えば「もし山本が常識人の分別にしたがって真珠湾攻撃を強行することなく、陸海軍が定石どおりフィリピン、マレーに進攻するのみであれば、日米戦争はよほど異なった様相を呈したであろう。  
もとよりアメリカが供手傍観したとは考えられないが、自国を遠く離れた植民地の攻防となると死活の問題ではなく孤立主義と欧州優先策がのさばり、本格的反攻を展開するまでには時日を要したと思われる。早晩、南方資源を支配する日本を駆逐すべく陸海空三軍を動員して奪取にとりかかったであろうし、かねて想定したマーシャル諸島水域で日米海軍の大きな海戦が繰り返し起こったであろうと思われる」と書いている同じ人物が、「山本は精魂をつくし、勇敢に、ひたむきに戦い続けた」と山本を賞賛している。理解できない。ガダルカナルで日本軍が悲惨な戦いを続けている時、山本はラバウルに進出する前で、トラック基地に停泊した戦艦大和に居住して軍楽隊付きの昼食を楽しみ、士官を相手のブリッジなどにも余念がなかったというのに。  
今の時代に至っても、真珠湾攻撃だけを取り出して言えば勝利だったというような意見がある。どうしても身内贔屓(ひいき)が消えないということか。いや、陸軍軍人だった方が海軍の作戦を徹頭徹尾誹謗しているのに真珠湾攻撃は成功と見なしている。成功しても失敗しても戦争目的に反し、勝てば勝つほど結果は悪いという作戦だったのだから、評価すること自体がおかしい。最初から取り得のないどころか墓穴を掘ること間違いなしの作戦だったと思う根拠を挙げよう。  
最も成功する場合、全空母と戦艦を沈め、燃料タンクと工廠を破壊し、飛行場の全航空機を壊滅させることが期待できる。この場合、米国の歴史に比類なき壮大なる破壊と殺戮を目前にした数十万の米国人は怒り心頭に発し、全国民が一致団結し、欧州戦線をさて置いて太平洋戦争に臨むことになる。失われた艦艇、航空機他は大西洋から回航すれば日ならずして充当できる。パナマ運河を破壊しない限り、米国即時の反攻を遅らせるだけで、一旦反攻が始まれば米軍の全戦力が鉄鎚の如く日本軍に降りかかることになる。また湾内での攻撃であるから、せっかく破壊し沈座させた艦艇の相当数は後日修理して戦線に復帰できる。真珠湾の艦艇と設備を一時全壊させることと引き換えに、その後半年くらいの遅れがあるとはいえ、米軍の全力投球による反攻を受けることは決して戦略上の勝利とは言えないだろう。  
最も失敗する場合、聯合艦隊の進攻を察知され、米軍ハワイ基地航空機の攻撃を受け、聯合艦隊は全滅する。この場合、米軍による東南アジア方面への攻撃は日本軍による各他の占領が完了する前に開始できる。この可能性は大いにあった。実際の機動部隊集結でも、1941(昭和16)年11月17日には山本五十六が乗った聯合艦隊旗艦「長門」が九州・佐伯湾に入港した。山本五十六一流の演技であろう。空母他の艦艇はすでに集結を終わっていたから、これだけの大移動を米側のスパイが察知しないのは期待すべくもなかった。危険極まりない行動で米側が見逃したのが不思議なくらいである。戦中といえども米国はスパイ活動により日本の戦闘機の生産量などを数えていたのであるから、かかる大規模な移動を見逃すはずがないのだが。  
実際の攻撃では戦艦を転覆ないし沈め、空母は逃し、陸上基地の航空機は殆どを破壊した。燃料タンクと工廠は残った。冷静に見れば、これは「破壊された艦艇を手付かずの工廠で早く直し、燃料を補給して反撃に出なさい」というメッセージと取れるくらいだ。現に沈座した戦艦のカリフォルニア(1942年3月に浮揚後、1944年5月に新鋭艦として同年12月現役復帰)、テネシー(1942年3月現役復帰)、メリーランド(2週間で修理後、1942年2月現役復帰)、ペンシルヴァニア(1942年8月現役復帰)の6隻の内4隻は早速修理され、戦線に復帰して日本の戦艦より活躍している。結局、戦艦アリゾナ、オクラホマ、標的艦ユタ以外は全艦戦線に復帰しているのである。  
日本側で真珠湾攻撃についてその華々しい戦果を書きたてた本は多いが、こうした事後の真相には触れたがらないようである。空母がいなくて逃したなどといっているが、もし敵空母がハワイ近海にいれば日本側は敵艦載機に相当叩かれたであろうし、真珠湾内にいたとして首尾よく沈めたとしても2カ月くらいで戦線に復帰し、翌年5月・6月の珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦には間に合ったであろう。後に真珠湾の工廠は珊瑚海海戦で大破した空母ヨークタウンを応急修理し、資材と工員を乗せたままミッドウェイ海戦に向かう洋上で修理を継続する離れ業を演じた。敵ながら天晴れというところか。日本はこうした面でも負けていた。  
それはともかくとして真珠湾の被害くらいでは依然として日本を強敵と見なさなかった米国は対日戦争を欧州戦よりずっと小さな比重で進めることとなった。それでも日本海軍は開戦半年以降、大勢として負け続けたのである……物量に優りながら。  
ここで明らかなように、実際の真珠湾攻撃では相手の戦艦などを2、3ヵ月行動不能にしただけである。その代償として、全アメリカ人を立ち上がらせてしまった。例えて言えば、わざわざ遠方へ出向いて行って熊蜂の巣をつつき、戦闘蜂を数匹殺すようなものである。作戦そのものが間違っている。蜂を数匹殺したから作戦そのものは成功だったなどと言えようか。しかも、その蜂の殆どは後に蘇生して反撃に加わっている。山本五十六の真珠湾攻撃はこれほどソロバンに合わない作戦であったが、現在に至るまで筆者が非難する程には非難されていない。山本五十六が軍令部を振り回し、もともと戦略を持たない海軍をとんでもない方向に持って行ってしまったと言われる方でも、真珠湾攻撃は成功と位置付けている。どうしてだろうか。  
中国を敵に廻してしまい、対米戦も決定してしまった後、真珠湾を攻撃しないことだけが唯一開戦後の和平工作の可能性を残し得た。  
ハードな意味だけではない、真珠湾攻撃で頭に来た米国はもともと気に喰わなかった日県人を収容所に放り込んでしまった。これもあって開戦後の米国内情報はさっぱり取れず、かの有名な日本側の過大戦果をもとにその後の作戦を立てたのだから、撃沈敵空母数が建造空母数を遙かに上回るようなことにもなってしまった。  
真珠湾攻撃の罪は計り知れなく重い。  
 
 
日本海軍は人事でも負けていた 

 

ミッドウェイ海戦を描いた日本映画で、燃えさかる艦橋に立ちつくして退艦していく乗員を見守っていた空母『蒼龍』の柳本柳作艦長。空母『飛龍』の艦橋で味方駆逐艦から処分のために魚雷が発射されるまで、退避する乗員に山口多聞第二航空戦隊司令官と共に手を振っていた加来止男艦長。  
現在でも軍艦の艦長は艦と運命を共にするものという考え方の人が残っているほど、この姿勢は日本人に浸透している。海の武人として潔い身の処し方には、どこか切腹する武家の姿にも重なり、日本人としては感動を覚えるのかも知れない。  
一人前の艦長や司令官を育てるには、20年以上の長い期間と経験、そして教育が必要である。無論、税金も。簡単に代替の効かない人材を、轟沈など退艦の機会を逸して失うのは仕方がないとしても、その責任感から自ら望んで死を選ぶのは、果たして正しい判断なのだろうか。  
太平洋戦争中に日本海軍が保有した戦艦は12隻であった。そのうち、『大和』と『武蔵』は開戦日の昭和16年12月8日の時点では、連合艦隊に編入されておらず、緒戦に参加可能な戦艦は10隻であった。4年後の昭和20年8月15日の時点で沈んでいた戦艦は11隻。このうち『陸奥』は御存じの通り戦闘ではなく事故による自沈であった。他は交戦の結果、撃沈されたり、沈底させられたりしている。徹底的に日本海軍が米軍に壊滅させられたのが、よく理解できる数字である。なお、被害を受けながらも沈没を免れた『長門』もビキニ環礁で核実験に供され沈没しているので、実質的には日本海軍の戦艦は一隻も残らなかった。  
沈没した戦艦の中で艦と運命を共にした艦長は8人いた。艦は沈没したが、何等かの理由で退艦して生還した艦長は3人。最後まで艦を守った『長門』の艦長杉野修一大佐は、蛇足だが日露戦争の旅順閉塞作戦に参加し福井丸で行方不明となった、あの杉野兵曹長の子息である。彼は前配置の空母『大鷹』の艦長時代に、比島沖で米潜水艦の雷撃により乗艦を失っている生還組で、動かす燃料の乏しくなった長門に発令されて来た。  
さて、まずは生還した戦艦艦長の名前を確認しておこう。  
『比叡』艦長 西田正雄大佐(昭和17年11月13日南太平洋で沈没)  
『霧島』艦長 岩淵三次大佐(昭和17年11月15日南太平洋で沈没)  
『榛名』艦長 吉村真武大佐(昭和20年7月28日江田島湾内で着底)  
偶然だが、この3戦艦は『金剛』型の同型艦で、就役時は巡洋戦艦であったが、後に改装を繰り返して、開戦時には戦艦へ艦種を変更している。  
既に述べたように日本海軍の戦艦は12隻しかなかった。しかも、当時は海軍戦力の主体と考えられていた艦種なので、いわば国家威信を背負う配置であった。そのため戦艦の艦長には選りすぐりの大佐が命じられた。  
また、戦艦の艦長は将官へ昇進する大切なステップでもあった。太平洋戦争中の連合艦隊司令長官を例に見てみると、山本五十六こそ戦艦の艦長に就いていないが、古賀峯一は戦艦伊勢、豊田副武は戦艦日向、小澤冶三郎は戦艦榛名の艦長を、それぞれ大佐時代に務めた。このようなエリート達の配置であった戦艦の艦長に選らばれたということで、まず、その人材が優秀であったという証としたい。  
なお、『榛名』艦長の吉村大佐は、既に航行不能となっていた『榛名』を指揮して航空攻撃に対している内に、艦が破壊され着底してしまったため、厳密には沈没したとはいえないので、今回は此処で取り上げることを省くことにする。なお『榛名』が江田島湾内に着底して18日後には日本は敗戦を向かえた。 
『比叡』艦長、西田正雄大佐の場合  
西田大佐は海軍兵学校44期。同期には真珠湾攻撃のプランニングをし、部下から変人参謀と言われた黒島亀人、蒼龍艦長としてミッドウエイ海戦で戦死する柳本柳作、部内で「ドイツ小島」と言われた小島秀雄などがいる。西田のハンモックナンバー(海兵卒業時の成績)は同期生95人中3番。卒業時に優等生として恩賜品を下賜された秀才であった。  
卒業後は大尉の時に水雷学校高等科を卒業。この後、駆逐艦や巡洋艦で水雷長の勤務を積み水雷屋として一人前になった。やがて大尉の時に海軍大学校甲種学生に進み、在学中に少佐となる。海大も22人中2番で卒業。海兵優等卒業と海大甲種学生優等卒業という看板は将官への切符を手に入れたようなものだった。  
この後の配置はエリートコースの典型のようである。海大卒業と同時にイギリス駐在となり、後にイギリス大使館付武官補佐官に正式に発令される。帰国後は海軍省軍務局1課勤務。翌年中佐に昇進すると当時の海軍最速駆逐艦島風の艦長となる。その後、海大教官、ロンドン軍縮会議随員、第三艦隊参謀、支那方面艦隊参謀と順調に栄職配置を次々にこなし、同期の一選抜として昭和12年12月1日に大佐に昇進する。この時、大佐になれたのは同期中でたったの7人。軍人は規定により、特定の年数を経ないと上位の階級には昇進できない仕組みになっていた。これを実役定年といった。実役定年は階級により定められていたので、早く大佐になれば、それだけ上位の少将になれる可能性が高まる。海兵卒業者の概ね6割は大佐に昇進できるよう配慮されていたといわれているが、西田の同期で大佐に一番遅く昇進した者は昭和16年10月15日と4年の開きがあった。戦時で昇進が全体に早まっていたのにである。大佐へ昇進と同時に、西田は軍令部第3部8課長となる。その後は、水上機母艦千歳艦長、第4艦隊参謀、巡洋艦利根艦長を歴任。そして開戦時に戦艦比叡の艦長を命じられた。この艦長職を無事に勤め上げれば、翌年には少将に昇任して、艦隊の参謀長や、戦隊司令官への道が開ける筈であった。  
しかし、比叡の艦長となって1年2ヶ月後に、第3艦隊第11戦隊として同型艦霧島と第三次ソロモン海戦に参加した事が彼の運命を狂わせた。昭和17年11月12日、ガタルカナル島泊地に侵入してアメリカの巡洋艦群と交戦した比叡は、砲撃の被害により舵機室に浸水し操艦不能となった。それでも機関は無事であったため航行を続けたが、翌日の早暁にはアメリカの空母機とガ島から飛来した米海兵隊機の反復攻撃を受けて、進退窮まった西田大佐は戦隊司令官の強い指示を受けて総員退艦を決心し、艦を自沈させるように講じて、自らも迷いながらも乗員と共に比叡を降りた。この時の様子を後に西田大佐は次のように語っている。なお、11戦隊の司令官は阿部弘毅少将。戦隊旗艦はあの駆逐艦雪風である。  
『12日の夜戦及び13日の総員退去に至るまでの情況は、第11戦隊司令官より、すでに報告せられた通りである。艦長として、戦闘指導適切を欠き、艦に重大なる損傷を受け、応急その効を奏するを得ずして、帝国海軍作戦上最重要なる任務を有し、且今日まで各種の光栄ある任務に服したる陛下の御艦比叡を、連合艦隊司令長官閣下の御訓示に背き、艦を見棄てついにこれを沈没に至らしめた。  
また、忠勇なる多数の部下将兵を徒死せしめたその罪は、死を以ってするも、償い得ず、ただ恐懼に堪えざるものなり。  
「比叡乗組員の収容と処分についての所見」  
? 10時35分「乗員ヲ収容シ処分ス」  
上命令を受け、あまりの意外を感じ、司令官のご意志いずれにあるやを知るに苦しめり。当時の状況は、早朝より反復雷爆撃を受けるも、魚雷一本も命中せず、爆弾は二、三発命中するも被害いうに足らず。缶室進水せるものありしが、排水使用の見込みあり、機械また完全にして、ただ問題は舵機室の浸水のみ。これを調査した結果、下甲板第18区被弾浸水により、通風筒及び通風弁破損し、舵機室に浸水せしこと判明。直接舵機室被弾によるものにあらざること、おおむね確実なり。したがって、極力下甲板第18区の遮防作業一時成功せるも、排水中再び失敗したるをもって、さらに第3回作業を下令せしところにして、応急及び敵機撃攘とその回避のほかに余念なき時に、上の命令を受け、実際あまりの意外さに、ただおどろけり。小官このとき「乗員収容を見合わされたし」との信号発信せんとするも、咄嗟に適当なる文案浮かばず、また、信号の方法に困惑し、そのままとせり。この受信を信号(文字不明)夜戦艦橋より怒鳴りしため、耳に敏感な乗員はこれを知り、みずから艦内一部に伝播せり。しかし、小官は、遮防成功が第一と考え厳命を下す。なお、遮防の見込みつくまでの時間の余裕を得るつもりにて、駆逐艦照月を曳航の件再考ありたき旨信号す。  
?「退去準備ヨケレバ知ラセ」  
再び司令官より命令あり。GF司令長官(山本長官)御訓示の次第もあり、本艦の状況はまだ退去を考えるごとき状態にあらず。極力応急に努めたきにつき、再考ありたしとの旨一筆し、第10分隊長をして雪風に持参せしめんとす。  
?「総員退去セヨ」  
司令官より三度目の命あり、各艦より短艇来る。とりあえず御真影のみ奉安することとし、その他の書類など内密に準備すべきを副長に命ず。第6分隊長小倉益敏大尉を艦橋に呼び、司令官命令による艦長の苦衷を伝えるため、雪風に使者として行くべきを命ず。その要旨は「第3回遮防作業実施中にして、あらたに作成せし防水要具おおむね完成し、これが成功せば舵機室排水の見込み十分あり、一時間ぐらいになんとか見込みつく見通しにて、それまで総員退去命令は、ご猶予ありたし」ということであった。さきに第11分隊長に託したる一筆は、第6分隊長の雪風に赴く際の艇指揮者に、これを携行せしむ。第6分隊長、間もなく帰艦し、「一時間で見込みがつくなら、全力を尽くしてやってみることである。しかし、見込みがなくなったときは、駆逐艦の曳航は不可能になったと思え」との司令官の言を伝えり。朝方よりの雷爆撃の回避は、艦長、航海長の技量にあらず。本艦の自然の回避にして、艦長、航海長はたんに速力を令したにすぎず、それにて十分回避の目的を達しあるため、大丈夫、魚雷命中などなしと思わしめたり。なお、魚雷、爆弾が何発命中しようと、これがため比叡が沈没することはあり得ず、もし最悪の場合、沈没の気配濃厚になってからでも、総員退去は遅くないと考え、小官としては最後を共にするまでのことと、至極平静な考えであった。かかるとき、突然思いもよらぬ司令官の命令?が来たので、まったく面食らい、どう考えても信号での意見具申はできないと思った。そのうち?の命令が再び届いた。「なあに、最後まで頑張るのだ」と固い決意でいたのであるが、そうしたことを思考中にも、司令官の命令を無視し、違反しているような気がしてきた。このため若干平静を欠き、判断にも影響を及ぼすようになった。?の命令が来るに及んで、一層自己の置かれた立場が、苦しく感じられてきた。しかしながら、比叡を預かっているのは艦長である小官である。ゆえに、自分の最善と思うことを行うべきだと考え直し、第6分隊長を派遣することを決意したのである。しかし、やはり内心、なんとなく司令官に楯ついているように思えてきた。二度ならず三度までも命令を受けながら、これに従っていないと言う考えが交錯するに至った。  
これは、比叡護衛の警戒駆逐艦に、敵機の命中弾や至近弾がしきりに落下したこともあり、相済まぬ、という気持ちにさせられたことが、多分にあったのも事実である。頑として動かなかった司令塔の天蓋からおり、後甲板に向かったことも、現場の部下を激励するためであったが、多少焦慮した結果であり、艦長としてもっとも大切な、操艦、敵機撃攘回避などを、おろそかにしたものであったと悔いている。この間、爆撃を受け回避せざりしため、命中弾3発を被ったのである。  
「遮防成功ス、タダイマヨリ排水ヲ始ム、浸水多量ニツキ、排水ハ長時間ヲ要スル見込ミ。状況ハ刻々報告ス」遮防作業の終了報告を受けたとき、ただちに司令部に発信し、これで比叡を必ず救ってかえれると、愁眉をひらいた明るい気持ちで、再び夜戦艦橋に移動せり。12時20分、運用長大西中佐来りて報告あり。「排水始めたるときは快調に進みしが、二段ぐらい引いてからは、排水はにわかにおとろえ、いささかも進捗せず」と。思うに漏水個所のあるやもしれずとの疑いを強くする。12時25分、敵爆撃機、雷撃機十数機来襲せり。「前進一杯」を命じたるも、実際は前進原速を令するのみ。これは夜戦艦橋と司令塔天蓋との連絡不良のためなり。これがため、前部揚錨機室右舷及び、右舷機械室前部に魚雷各一本命中、爆弾飛行甲板に命中す。小官、夜戦艦橋にありしため、機械に上の通り誤りありたるほか、防御砲火の指揮も適切ならず、右副砲の指揮官さきに戦死せるためか、砲火の威力乏しく見えたり。舵機室の排水の見込み、ついに立たず、右舷機使用不能、機械をもってする操艦まったく不能となる。艦がまだまだ敵機の雷爆撃に耐え得ることには自信あるも、司令官に猶予を乞いたる時間もすでに経過し、艦の状態は当時より一層不良となれり。かくなれば、いまは司令官の命に従うほかなし。自らは艦と運命を共にし、乗員を退去せしむべしと考えたり。われひとりのみ艦に残らんとしても、部下が残させてくれぬのは当然で、あまりにも浅墓な考えなりしを、悔ゆるも及ばず。御下賜品と勲章のみは遺品としたく、航海士に託して、持ち出させたり。その後司令官より、「艦長に話したきことあり、ただちに雪風に来たれ」との伝言あり。退艦は最後にするも、一切は司令官に一任するほか詮無し。退艦の途中、2回空襲あり、一回は友軍艦攻上空に来たり、これを攻撃す。雪風に収容せられたる後、GFより「比叡処分を待て」の命あり。あれば、ただちに比叡に帰艦すべきことを申し出しが、これは許されず、ついにそのままとなれり。憶うに、あの程度の雷爆撃ならば、比叡は十分に耐え得て、決して沈没するものにあらずと、今も固く信ずるものなり。にもかかわらず、これを見棄てて、沈没せしめたるを思うとき、ただ、痛恨きわまりなく、上陛下に対し、そして、艦上に倒れし戦友諸兄に対し、死をもってするも償い得ざる大罪を犯し、まことに申し訳なく、ただ恐懼に堪えざるものなり』(昭和17年11月20日 西田艦長の手記より抜粋)  
西田の判断は現在なら当然なのだが、この判断を当時の海軍大臣嶋田は良しとしなかった。一説には当時の山本大将が強く弁護したというが、帰還した西田大佐は翌年の昭和18年3月に予備役に編入される。つまり首である。その上、即日召集となり予備役大佐として、廈門在勤武官、第256空司令、第951空司令、福岡地方人事部長と、これまでとは比較にならない裏街道を歩かされることとなった。いわゆる懲罰人事である。西田大佐は航空部隊での勤務は千歳艦長のみ。それ故か第256空は上海・竜華飛行場に昭和19年2月に開隊した戦闘機の錬成部隊。第951空は、この部隊が昭和19年12月に編成替えで吸収された航空隊で、同じ上海・竜華飛行場に展開した戦闘機部隊と念が入っている。  
西田大佐は秀才故に先を読めたので、合理的な判断として艦と運命を共にせず、捲土重来を期して(上官の阿部司令官の命令でもあり責任はあまり問われないだろうという判断もあったのかもしれない)退艦したのではないだろうか。しかし、この行動を海軍認めず、屈辱的な人事で応じた。この人事を知った艦長職の人間は、どんな状態であれ退艦は出来ないと悟らざる得なかったのではと思わされたろう。また、そういう効果を狙ってエリートの西田を嶋田大臣はスケープゴートにしたとも想像できる。 
『霧島』艦長、岩淵三次大佐の場合  
岩淵大佐は海軍兵学校43期卒業。成績は上の下というあたり。中尉の大正9年12月に横須賀航空隊におかれていた兵科航空士官養成コースの第5期航空術学生に進んでいる。同期は7名。訓練中に2名が殉職するという航空揺籃期のパイロット訓練生だった。翌年の10年7月に課程を修了。この当時は志願が前提の航空術学生のはずなのに、卒業後に大尉となると運送艦松江の分隊長に発令されている。松江は日露戦争時に仁川で自沈していたロシアの貨物船を海軍が救難整備した三等海防艦が前身の運送艦である。二線級のロートル艦にパイロットの資格者を海軍省は何故乗せたのか、今となっては判らない。これは想像だが何等かの理由で目を悪くしたか、あるいは本人が敢えて航空部隊勤務を辞退したかではなかろうか。  
いずれにせよ、彼は翌年の11年には横須賀海兵団分隊長、ついで大正12年12月から海軍砲術学校高等科学生に進む。高等科学生は選抜試験があるので自ら選んで進んだものと思われる。砲術学校高等科学生を終えた者は各艦の砲術長として経験を重ね、徐々に大きな艦の砲術長へと進むのが通常の配置である。  
岩淵大佐も翌年の卒業後は戦艦日向分隊長を経て、大正14年2等海防艦対馬砲術長を皮切りに、大正15年潜水母艦迅鯨砲術長、昭和3年佐世保海兵団分隊長を経て、昭和4年巡洋艦矢矧(初代)艦長。翌年、巡洋艦大井砲術長、巡洋艦阿武隈砲術長、巡洋艦鳥海砲術長と一年毎に乗艦を変えて大砲屋として修練を積んでいる。昭和8年には古巣の戦艦日向の砲術長となり同時に中佐へ進級。  
岩淵は結局、海軍大学甲種学生には進まなかった。現場で叩き上げる典型的な大砲屋コースを歩いている。昭和9年呉警備戦隊参謀、翌10年呉鎮守府参謀を務めて、参謀職のキャリアも経験した。12年には順調に大佐に進級となり、13年水上機母艦神威艦長。同年12月より16年4月まで海軍省人事局2課に出仕。同年4月より練習巡洋艦香椎艤装委員長、同年7月艦長。同年11月水上機母艦秋津州艤装委員長と慌ただしく配置をこなしていく。昔パイロットとして訓練を受けた経験を買われて、水上機母艦の艦長に二度も選ばれた気がしないでもない。また、練習巡洋艦の艦長に指名されているところから見て、操艦能力も優秀な人ではあったと想像する。  
翌17年4月に戦艦霧島艦長へ栄転。戦時には、砲術家として経験が豊富で、戦艦の砲術長を務めた経験のある岩淵は戦艦艦長には適任の配置であった。霧島は比叡とコンビを組んで第三次ソロモン沖海戦に参加。同年11月14日にアメリカ戦艦ワシントンとサウスダコダと交戦。サウスダコダを撃破するが霧島も被害甚大で、翌15日午前3時20分に沈没してしまう。霧島はアメリカ戦艦として直接砲撃戦を闘い撃破した唯一の日本戦艦となった。甚大な被害を受け沈没しつつあった霧島は、やがて総員退艦を令することになる。艦と運命を共にする覚悟を決めていた岩淵大佐は艦橋に残っていた。ところが、そんな彼を部下達が無理矢理に退艦させたと言われている。一説には抵抗する岩淵がラッタル(階段)の手すりに両手でしがみつくのを、部下達はその指を一本一本外して担ぎ出したという。  
そんな経緯のためか、共に闘った比叡の西田大佐と違い、生還後は第11航空艦隊司令部付、横須賀鎮守府付という謹慎的な配置となるものの、昭和18年5月には少将に昇進。同日付で舞鶴地方人事部長となり、翌年11月には第31特別根拠地隊司令官として比島マニラに赴任した。極端な左遷とは言えないものの、同年にはマリアナ沖海戦や比島沖海戦などがあったことを考えると、戦艦の艦長や戦隊の司令官などの配置もあったはずで、特に米戦艦との直接交戦経験者である岩淵を活用すべきであった気もするのだが、やはり乗艦を失った艦長には、海軍は冷たかったようだ。  
岩淵少将はマニラ市街戦を避けようと山岳地帯に撤退した陸軍とは共同歩調をとらず、市内に残り侵攻して来た米軍と正面から交戦する道を選ぶ。そして、このマニラ防衛戦で部隊と共に玉砕し彼も戦死したのだった。なお、死後に中将に進級する栄誉を得る。なお彼の同期で唯一の中将進級者である。(正確には同期の中沢佑が海軍省廃止の日に中将に昇任しているがこれはカウントしていない)  
岩淵がマニラを離れなかった理由に関しては、死に場所を求めたという見方もある程で、霧島と運命を共にしなかったことを彼はずっと後悔していたのかも知れない。一説には第31特根隊はマニラ市の防衛を命じられていたので、その命令が海軍上級司令部から変更されない限りは、撤退する理由がない事を陸軍側に申し入れたともいわれている。命令に忠実で部隊を見捨てず、部下と運命を共にした姿は指揮官としての彼の覚悟のほどを示しているのかもしれない。  
アメリカ海軍でもイギリス海軍でも、艦長が乗艦と運命を共にした例がある。しかし、両国とも生還した艦長は査問委員会で、退艦時の状況を査問され、その是非を判断された上で、問題がなければ職務に復帰を許される。敢闘して艦を失うのは、戦争時は仕方がないという合理的な判断があったものと思われる。  
日本でも英米でも艦長となれる人材を育てる手間は変わらない。貴重な人材を有効に活かす人事について、日本はあまりに偏狭であった。平時に自らの操艦ミスで艦を失うのと、戦闘で艦を失うのとを同列には扱えない。戦闘詳報等の資料と生還した乗員の証言などを検討して、艦長の指揮と退艦に至るまでの判断を評価する場を設けて、その判断が是となれば、その人材を再活用するのに何が憚れるだろう。日本海軍は、その人事においても英米に負けていたのかも知れない。 
 
戦艦大和 1

大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦、大和型戦艦の一番艦であった。  
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し、1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦「武蔵」がトラック島に進出する1943年(昭和18年)2月まで継続した。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。  
当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなす。  
艦名「大和」は、旧国名の大和国に由来する。日本の中心地として日本の代名詞ともなっている大和を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる。同様の名称として扶桑型戦艦がある。正式な呼称は“軍艦大和”。沈没してから半世紀以上が経過したが、本艦を題材とした映画やアニメが度々作られるなど、日本人に大きな影響を与え続けている。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少なく、1941年(昭和16年)10月30日に撮影された「豊後水道で公試運転する勇姿」がもっとも有名である。 
建造  
1934年(昭和9年)、ロンドン海軍軍縮条約の失効後に米英が建造するであろう新型戦艦に対抗することを目的に、軍令部より艦政本部に向けて18インチ砲(46cm砲)を搭載した大型戦艦の建造要求が出された。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。当時航空主兵論が言われ始め飛行将校からは第三次海軍軍備補充計画における大和型戦艦2隻(大和、武蔵)の建造が批判されていた。  
1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から「官房機密第3301号」として第一号艦製造訓令が出る。完成期日は1942年(昭和17年)6月15日だった。11月4日に、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された。戦艦「長門」や空母「赤城」を建造した乾ドックは大和建造の為に1m掘り下げて拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。イギリスやアメリカに本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、設計者達に渡された辞令すらその場で回収された。  
戦艦大和の46センチ主砲弾機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる)がかけられた。そのためドックの近所の全ての民家から干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密であった。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が「大和」の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している。  
そして1940年(昭和15年)8月8日進水。もっとも、進水といっても「武蔵」の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、「大和」の場合は注水済みの造船ドックから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった。「天皇陛下進水式御臨席」の予定もあったが、結局は久邇宮朝融王大佐(皇族軍人)臨席のもと、嶋田繁太郎海軍中将/海軍大臣代理により、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていた巨艦は低い声で「大和」と命名される。軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した2つの候補から天皇が選定した1つをその艦に命名するのが慣例であるが、もう1つの艦名は不明である(一説によれば「飛騨」との案があったという)。  
10月19、20日に航行試験を行い、30日に全力公試27.46ノットを記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令部が「大和」を見学した。1941年(昭和16年)12月7日公試が終了する。12月16日就役し、第一戦隊に編入された。「大和」の1/500模型は昭和天皇天覧ののち、海軍艦政本部の金庫に保管された。  
「大和」には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の巣状の装甲などである。その他、観測用の測距儀も非常に巨大なものが採用され、進水時には世界最大最精鋭の艦型であった。電波探信儀(レーダー)は就役後に順次装備された。初期のものは性能が安定しなかったが、1944年(昭和19年)以降に量産された仮称二号電波探信儀二型(22号電探)は日本製の電探としては比較的良好な性能を発揮した。 
連合艦隊旗艦  
1942年(昭和17年)2月12日、「大和」は連合艦隊旗艦となる。参謀達はそれまで旗艦だった戦艦「長門」に比べ格段に向上した「大和」の居住性に喜んでいる。3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した。5月29日、ミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため直接米軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、米軍潜水艦に対して二番副砲と高角砲が発砲した。同6月14日柱島に帰投する。  
機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母「加賀」の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。  
アメリカ海軍側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母「ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった。日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、アメリカ戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった。  
1942年(昭和17年)8月7日、米軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まる。8月17日、「大和」は共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する。8月21日、グリメス島付近を航行し、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。8月28日、チューク諸島トラック泊地に入港した。入泊直前、米潜水艦から魚雷3本を撃ち込まれ、2本は自爆、1本を回避している。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった。第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦「霧島」が「大和」と同世代の米新鋭戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」との砲撃戦で大きな被害を受け自沈された。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性と米国の積極性を比較する意見もある。  
1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務を「大和」の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備する。再びトラックに向かったのは8月16日。ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている。作戦行動を終えた駆逐艦が「大和」に横付けし、駆逐艦乗組員が「大和」の巨大で整った風呂を利用することも多かったという。10月中旬、マーシャル群島への出撃命令が下る。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦「武蔵」以下、「大和」、「長門」などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。  
1943年(昭和18年)12月、「大和」は戊一号輸送部隊に参加する。これは「大和」と駆逐艦「秋雲」、「山雲」、「谷風」が横須賀から宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を日本からトラック泊地へ輸送する作戦である。12月25日、トラック島西方180海里でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷する。「大和」は被雷後速力を18ノットに増速して離脱、魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた。浸水量は3000-4000トンである。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥に対して、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修が行なわれた。修理と並行して、両舷副砲を撤去。高角砲6基と機銃を増設し、対空兵装の強化を図った。  
1944年(昭和19年)5月4日、宇垣纏中将が「長門」から移り、第一戦隊旗艦となる。6月14日、ビアク島に上陸した米軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、米軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった。「大和」は「武蔵」と共に北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加する。「大和」は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している。「大和」は発砲していないという証言もある。同日、日本軍機動部隊は米潜水艦の雷撃により空母「大鳳」「翔鶴」を失う。6月20日、「大和」はアメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。「大和」が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。6月24日、日本に戻った。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載してシンガポールへ向い、7月16日、リンガ泊地に到着した。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した。 
レイテ沖海戦  
1944年(昭和19年)10月22日、「大和」はレイテ沖海戦に参加するため、第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した。23日早朝に栗田艦隊旗艦・重巡洋艦「愛宕」が潜水艦に撃沈されたため、「大和」座乗の第一戦隊司令官宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた。24日、シブヤン海で空襲を受け、姉妹艦「武蔵」を失う。「大和」にも艦前部に爆弾1発が命中した。25日午前7時、サマール島沖にて米護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行う。  
この戦闘で「大和」は主砲弾を104発発射した。32,000mの遠距離から放った「大和」の砲撃は第一斉射から目標を挟叉し、アメリカ側から「砲術士官の望みえる最高の弾着」との評価を受けている。ただし、「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している。当時の大和砲術長だった能村(後、大和副長)は、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で、最初の「正規空母」は護衛空母「ホワイトプレインズ」、次の艦は「ファショウ・ベイ」である。至近弾による振動で「ホワイトプレインズ」は黒煙を噴き、「大和」ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい。米軍側の記録では、「ホワイトプレインズ」は命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている。能村は、第一目標に四斉射した後「米軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している。  
戦闘中、「大和」は米軍駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまで米軍空母と反対方向に航行することになった。さらに米軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した。この戦闘では、「大和」の右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発砲し、森下艦長と能村副長が制止するという場面があった。  
アメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、重巡「利根」艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、「ガンビア・ベイ」は午前8時15分に重巡「羽黒」と「利根」の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。「ガンビア・ベイ」への命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている。  
アメリカ側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727の主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。また第七戦隊の重巡各艦も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃している。この砲撃でアメリカ駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホーエル」ではないかと言われている。「ジョンストン」も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、「大和」が敵艦を直接葬った可能性はない。なおこの海戦で、「大和」が電測射撃で重巡洋艦「鳥海」を味方撃ちしたという説もあるが、「鳥海」及び「筑摩」が損傷した時期には日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。  
アメリカ軍の損害は、アメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」と「ジョンストン」、「ホーエル」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」が沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母「セント・ロー」が沈没、数隻が損害を受けた。  
サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けて、レイテ湾に突入することなく反転を命じた。宇垣の著作には、当時の「大和」艦橋の混乱が描写されている。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近(錨鎖庫ではないか?)に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した。  
10月28日、ブルネイに到着する。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが、特に戦闘は起きなかった。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する。同日夕刻、「大和」は戦艦「長門」、「金剛」、駆逐艦「浦風」、「雪風」、「磯風」などとともに内地に帰還したが、台湾沖で「金剛」と「浦風」が潜水艦に撃沈されることとなる。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛4代目艦長にかわって有賀幸作大佐が5代目艦長となる(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)。  
姉妹艦「武蔵」の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え、いずれ「大和」も同じ運命を辿るのではと覚悟する者もいた。宇垣は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した。  
レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、「大和」と「信濃」が合同することはなかった。「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている。1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。  
同年3月28日、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。  
3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった。 
海上特攻準備  
4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。  
1 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。  
2 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。  
3 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。  
この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた。  
一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が戦艦大和による海上特攻を主張した。連合艦隊参謀長草鹿龍之介はそれをなだめたが神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画した。神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神は参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、うまくいったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」という。草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。  
神は軍令部へ向かったが、作戦課長富岡定俊に燃料がないと反対されたため、軍令部次長小沢治三郎中将から直接承認を得た。小沢によれば「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と許可を与えたという。及川古志郎軍令部総長は黙って聞いていたという。神は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し草鹿参謀長は戦艦「大和」の伊藤整一司令長官に作戦命令を伝え説得しに行ったが、なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と説得すると伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得し、大和による海上特攻が決定した。  
4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。一方で、草鹿の回想録では4月6日に訪れたことになっている。  
『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。宇垣は及川の対応を批判している。また草鹿の回想録にも「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と記されている。  
特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。  
4月30日、昭和天皇は米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。  
4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」  
4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」を掲げた。片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。  
第二艦隊は「大和」以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。  
アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の「大和」の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の「大和」の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。  
天一号作戦(菊水作戦、坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた。しかし「大和」を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米軍潜水艦「スレッドフィン」と「ハックルバック」に行動を察知された。4月6日21時20分、「ハックルバック」は浮上して大和を確認。艦長フレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は「大和」と「矢矧」に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された。  
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった。「武蔵」は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャーは何としても「大和」を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという。またミッチャーは、各部隊の報告から「大和」が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた。なお、スプルーアンスは、アメリカ留学中の伊藤と親交を結んだ仲であった。 
坊ノ岬沖海戦  
4月7日6時30分ごろ、「大和」は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。九州近海までは、レイテ沖海戦で「大和」に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った。能村はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった。  
その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。「スレッドフィン」が零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。米軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が「大和」を発見。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も「大和」を視認した。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。「大和」は主砲を3発撃ったが、米偵察機を追い払うことはできなかった。  
4月7日12時34分、「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、空母「ベニントン」第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、米軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。「大和」は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。また、一発が「大和」の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある[誰によって?]。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた。  
米軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な「大和」が完全に回避する事は困難だった。「ベニントン」隊に続き「ホーネット」第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が「大和」を攻撃。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。12時40分、「ホーネット (CV-12) 」第17雷撃機中隊8機が「大和」を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言]。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村は4本、森下は2本、清水は3本(全員左舷)と証言した。これを受けて、米海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、米軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。「大和」では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。  
13時、第二波攻撃が始まる。米軍攻撃隊94機中、「大和」に59機が向かった。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、「大和」が主砲を発射したと証言している。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。いずれにせよ米軍機の阻止には至らず、「エセックス」攻撃隊が「大和」の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。さらに直撃弾と火災により、「大和」から米軍機を確認することが困難となる。米軍機は攻勢を強めた。「エセックス」雷撃隊(ホワイト少佐)が「大和」の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張。「バターン」雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張。「バンカーヒル」雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。「キャボット」雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、「大和」の右舷に照準を定めたが、進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二派攻撃が「大和」に命中させた魚雷は29本となった。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる。  
防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長は、米軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。「大和」は速力18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された。13時25分、通信施設が破壊された「大和」は「初霜」に通信代行を発令した。  
13時30分、「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「ラングレー」攻撃隊105機が大和上空に到着した。13時42分、「ホーネット」「イントレピッド」第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。この頃、上空の視界が良くなったという。  
このように14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。  
『軍艦大和戦闘詳報』による主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また「大和」を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。  
12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。  
13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障。  
13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。  
13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵。  
14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中。  
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。  
14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。  
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す。  
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令。 
沈没  
「大和」は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生。艦上では、爆弾の直撃や米軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる[誰?]。また、「大和」が左舷に傾斜したため、右旋回が出来なくなったとする見方もある。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。これらのことにより、米軍は容易に「大和」に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった。  
また傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。  
14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅する。有賀艦長は最後を悟り、艦を北に向けようとしたが、「大和」は既に操艦不能状態だった。「大和」は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった。護衛駆逐艦からは航行する「大和」の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた。  
「大和」への最後のとどめになった攻撃は、空母「ヨークタウン」第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃である。14時10分、トム・ステットソン大尉は、左舷に傾いたため露出した「大和」の艦底を狙うべく、「大和」の右舷から接近した。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した。後部への魚雷は、空母「ラングレー」隊の可能性もある。  
この魚雷の命中は、「大和」の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。  
最後の複数の魚雷が右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた。伊藤長官は森下と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。有賀は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、「大和」は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた。有賀は羅針儀をつかんだまま海中に没した。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下が若手将兵を脱出させていた。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた。  
14時20分、「大和」はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。14時23分、上空の米軍攻撃隊指揮官達は「大和」の完全な転覆を確認する。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある。「大和」は直後に大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分、「初霜」の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している。  
所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。軽巡洋艦「矢矧」から脱出後、17時20分に駆逐艦「初霜」に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた。「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名。第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名である。護衛していた軽巡洋艦「矢矧」446名(沈没)、駆逐艦「磯風」20名(自沈)、「浜風」100名(轟沈)、「冬月」12名、「涼月」57名(大破)、「雪風」3名、「霞」17名(自沈)、「朝霜」326名(轟沈)、第二艦隊将兵計3721名が戦死した。「初霜」は負傷者2名だった。  
戦艦「大和」の沈没によって連合艦隊は完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった。4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。同様の感想は、「大和」の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている。  
沈没要因としては以下が考えられている。  
「大和」が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式 L1(km)= 116.34 \times \sqrt{ho}(km)+ \sqrt{ht}(km) (L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6kmとなり、計算の結果は213km以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。徳之島から見えたという伝承がある。  
爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。米軍と森下、清水は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村は「主砲弾の自爆」という表現を使っている。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある。  
同型艦「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、「大和」は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた、「武蔵」に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀幸作艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀が巨艦「大和」の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。1945年(昭和20年)以降の「大和」は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった。有賀も海兵同期の古村啓蔵第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下信衛は「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている。航海士の山森も、沖縄特攻時の米軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした。その一方で、森下ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある。  
アメリカ軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが意図的に左舷を狙ったという米軍記録や証言は、現在のところ発見されていない。  
さらに、米軍艦載機が提出した戦果報告と、日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発。米軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発。米軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が「大和」を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている。米軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、米軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた。米軍は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した。海底の「大和」の調査でも、残存している部分だけで戦闘詳報に記載のなかった魚雷命中跡が4箇所確認されている。  
菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。  
うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。「大和」を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも駆逐艦「浜風」に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている。 
現在  
戦闘詳報による沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067。だが実際の「大和」は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している。艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれていた。右舷を下にした艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までの原型をとどめた部分は、北西(方位310度)に向いている。転覆した状態の2番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、東(方位90度)方向を向いている。あわせると276mとなる。原型をとどめぬ艦中央部は3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に転覆した状態で、根元から脱落した艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる。  
主砲と副砲塔はすべて転覆時に脱落した。特に3基の主砲は、砲塔の天蓋を下にして海底に塔のように同一線上に直立している。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味している。主砲の砲身自体は泥に深く埋もれており、観察できていない。また艦首切断部付近で発見された2番主砲塔は、基部が酷く破損しており、基礎部分から下が横倒しになっている。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている。1番(艦首から70m)と3番主砲塔(艦尾部スクリュー付近)には著しい損壊は認められていない。副砲は砲身が視認されており損傷もない。  
4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。主舵には損傷はなく、正中の位置となっている。艦首部分には左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔がある。2009年(平成21年)1月になって「大和」の母港であった呉市海事歴史科学館・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指している。一方で、遺品の引き揚げに立ち会った大和乗組員が複雑な気持ちを抱いたという証言もある。  
「大和型戦艦」らしき2隻の戦艦が動く映像が発見されたことがあるが、のちにこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ型戦艦の戦艦アイオワと戦艦ミズーリの物だと分かった。アメリカ公文書館IIには、B-24に対して主砲を発射した「大和」の映像が残されているが、遠距離撮影のため不鮮明である。1988年(昭和63年)11月、保科善四郎(元海軍中将)は松永市郎(元海軍大尉)を通じてアナポリス海軍兵学校に「大和」の絵画(靖国神社遊就館展示絵の複製)を寄贈。松永がアーレイ・バーク海軍大将とエドワード・L・ビーチ・ジュニア海軍大佐にその事を語ると、二人とも「大和は美しい船だった」と語っている。 
元海軍戦艦「大和」高角砲員 大和沈没時の状況を振り返る  
戦後68年、戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元海軍戦艦「大和」五番高角砲員、坪井平二氏(90)の証言を紹介する。  
〈坪井氏は大正11年生まれ。昭和18年4月、徴兵により大竹海兵団入団。同年7月卒団、戦艦「大和」に乗り組む。以後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と転戦し、沖縄特攻に参加。〉  
昭和20年4月7日正午前、戦闘配置に昼食が届けられた。「大和」最後の食事となる握り飯三個とタクアンふた切れ、それに缶詰の牛肉ひと切れ。  
12時35分、敵編隊が来襲。対空戦闘が開始されたが、低い雲に邪魔されて主砲の咆哮は聞くことができなかった。我ら高角砲と機銃が応戦するが、左舷ばかり集中攻撃され、私のいた右舷には敵機が近づいてこなかった。1機だけ近づいて、ゴーグルをかけたパイロットの赤い顔が「ニコッ」と笑ったのが見えた。  
第二波の攻撃は「大和」に集中し、回避運動による動揺で射撃が難しくなった。キツい臭いと煙が充満してきたと思うと、すぐ隣の一一番高角砲が全員戦死と知らされた。第三波攻撃の頃には左傾斜がひどくなり、高角砲の焼けた空薬莢が砲員に向かって落ちてくる。指揮所から指示が来ても対応できなくなり、そして指示自体が来なくなった。そうなると班長の命令で砲側照準(砲塔から直接敵を狙う)を行ない、とにかくやみくもに撃つしかなかった。  
突然、砲塔の窓から海水が流れ込んできた。「総員最上甲板!」と聞こえた時には、すでに全員で上甲板に出ていた。傾斜がさらにひどくなる中、かつて呉のドックで見上げた“赤い腹”(右艦腹)に這い上がった。そこではみんな最後にポケットの乾パンをかじったり、恩賜の煙草を吸ったりしていたのが印象的だった。我々は袖や裾を結わえ、沈没に備えた。  
14時25分、「大和」沈没。戦闘服のままで、ズルズルと海の中に潜るように引きずり込まれていった。巨艦の沈下する大渦に巻き込まれ、身体が木の葉のようにクルクル回転した。夢中で水をかき分けようとするが、効果は全くなし。目の前を大小無数の気泡が、白い球となって上がっていった。  
気がつくと、真っ黒い油の層になった海面に浮いていた。周囲には戦友の頭や顔が見えた。上官の顔も見える。「よーし、生き残ってやるぞ!」と思った。そこに上空45度くらいから向かってくる敵機が、チカチカ光ったかと思うと機銃弾が飛んできて、一列縦隊に水柱を上げた。一人また一人と黒い頭が水中に没して消えてゆく中、私は運よく駆逐艦「雪風」に救助された。  
航空機時代の到来を世界に示したのは誰あろう、日本である。その日本海軍の至宝「大和」が1機の掩護もなく米艦上機と死闘を交えなければならなかったとは、なんという運命のいたずらであろうか。 
 
有賀幸作 

明治30年-昭和20年(1897-1945/4/7) 日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県中南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読むのが正しいが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。  
長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生れる。父作太郎は、旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。一年上の先輩に、中沢佑中将や、後に沖縄特攻で第2水雷戦隊共に戦った古村啓蔵がおり、作太郎は古村の海軍兵学校入学時の保証人でもあり、海軍兵学校に入る前から交流があった。  
実家の平野屋金物店は有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが、父、次郎、さらに三男の正次、妹のふさへが相次いで病死したため、名義上家督を継ぎ、金物店店主となっている。なお実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。  
1917年(大正6年)11月24日、海軍兵学校卒(45期、順位57/88)。同期には、空母「瑞鶴」、「大鳳」艦長を務めた菊池朝三、軍令部第一部長の富岡定俊、「大和」艦長で後に第2艦隊参謀長となる森下信衛、上記の古村啓蔵がいる。  
初代神風型駆逐艦「水無月」(380トン)から経歴をスタートさせ、水雷戦隊の指揮官として経験を重ねた。1922年に戦艦「長門」の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあった。1923年大尉昇進、翌年1月27日、宮坂好子と結婚。10月に長男正幸が誕生した。12月、峯風型駆逐艦「秋風」の水雷長に就任し、川内型軽巡洋艦「神通」水雷長。この時美保関事件に遭遇し、水城圭次艦長の自決を経験した。1927年12月「那珂」水雷長、1928年6月7日長女良江誕生、12月10日球磨型軽巡洋艦「木曾」水雷長に転任。1929年11月、若竹型駆逐艦「夕顔」の艦長に任ぜられ、初めて船の総責任者となった。航海長は当時の有賀を見て「これが駆逐艦乗りか」と感嘆した。  
1930年12月、有賀は若竹型駆逐艦「芙蓉」艦長に転じ、中国大陸沿岸警備任務についた。1932年、峯風型駆逐艦「太刀風」と「秋風」の艦長を兼務する。1933年11月、神風型駆逐艦「松風」艦長、1934年11月に新鋭の吹雪型駆逐艦「電」艦長となる。有賀はようやく第一線級戦力の艦長をまかされたのである。1935年10月、艦長勤務を離れ、鎮海警備府参謀を命じられた。翌年9月17日、次女公子が誕生する。12月、軽巡洋艦「川内」副長勤務。1938年12月、掃海艇6隻からなる第一掃海隊司令に任命され、日中戦争に加わった。掃海任務だけでなく、上陸支援や中国軍掃討任務もこなしたため、中国側から懸賞金をかけられ、その値段が徐々に上がっていったという一幕もある。  
1939年11月、第二艦隊第二水雷戦隊第十一駆逐隊司令(「初雪」と「白雪」)司令となる。1940年11月、大佐に昇進。1941年6月18日、第四駆逐隊司令に任ぜられ、最新の陽炎型駆逐艦4隻(「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」)を指揮下においた。11月15日、有賀は遺書を書いた。好子が遺書を読むのは、1945年9月20日に戦死内報が届いた時である。  
机上の理論より実戦での経験を大切にする当時としては数少ない軍人の一人であった。豪放大胆な性格で、戦上手な指揮官として部下からの信頼も厚い人物であった。  
太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として近藤信竹海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し、マレー作戦を支援した。12月8日朝、「野分」に命じてノルウェー船を拿捕する。日本軍のシンガポール占領の後、ジャワ海に進出した。3月1日、有賀指揮下の「嵐」と「野分」は商船3隻(4000t、3000t、3000t)、油槽船2隻(1500t)を撃沈し、商船「ビントエーハン号」(1000t)を拿捕。さらに英国駆逐艦「ストロングホールド」、米砲艦「アッシュビル」を沈めた。3月4日、重巡洋艦「愛宕」と共同で豪州護衛艦「ヤーライ」、油槽船1隻を撃沈し、オランダ商船「チャーシローア」を拿捕した。一連の戦闘を「チラチャップ沖海戦」という。ミッドウェー海戦に参加。ミッドウェー海戦では、大破炎上した航空母艦「赤城」を指揮下の駆逐艦「野分」「嵐」の魚雷によって沈没処分するという悲劇を味わった。有賀は初めて撃った魚雷が「赤城」に対するものだったことを嘆き続けた。その後ソロモン方面の諸海戦に参加。10月26日の南太平洋海戦では 被弾した「翔鶴」から南雲忠一長官を迎え、一時的に中将旗を掲げた。1943年3月1日、重巡洋艦「鳥海」艦長となり、南方に進出する。米軍機から10回近く襲撃されたが、高射砲長との息のあった連携で「鳥海」は被弾しなかった。1944年4月21日、デング熱に罹患し内地へ帰還。水雷学校(横須賀)教頭を拝命する。しかし実戦畑を歩いてきた有賀にとっては机上の学問を教授しなければならない教頭の職は本意ではなかったらしい。  
1944年(昭和19年)11月6日、「大和」艦長を命じられる。実際に着任したのは12月10日である。久しぶりの海上勤務である上に、帝国海軍の象徴・宝刀とも言える「大和」の艦長に補されたのが非常に嬉しい事であったらしく、海兵団にいた長男有賀正幸宛に、秘匿艦であり、本来ならば「ウ五五六」と暗号で記述するべきであるにも関わらず「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を書いた手紙を送っている。手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書いてあり、これを読んだ正幸は、有賀が死を覚悟したことを悟ったという。  
「大和」では、有賀の豪放磊落な性格(その時の逸話は後述)は大和乗組員に好意を持って受け入れられたという。連日の訓練で常に先頭に立ち、防寒コートも手袋着用せずに艦橋に立つ有賀の姿は畏敬の念で見られた。一方で、海軍兵学校同期生の古村啓蔵(第二水雷戦隊司令官)は、有賀が「燃料不足で主砲の訓練さえできない」と弱音を吐くのを見て驚いたという。4月7日、坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、「大和」は沈没。有賀も沈没した大和と運命を共にした。戦死時は海軍大佐であった。享年49。戦死後、4月7日付で海軍中将に昇格した。  
墓所は長野県辰野町見宗寺。なお、近くの法性(ほっしょう)神社に、戦う大和と有賀艦長の肖像レリーフで飾られた自然石の記念碑が建立されている。 
死をめぐる諸説  
有賀幸作は戦艦大和と運命を共にし戦死したが、戦死時の状況には諸説がある。  
最も有名なのは、有賀が羅針儀に自身を縛り付けて大和と共に死を迎えたというものである。この説の出典は、大和の生還者でもある吉田満著のベストセラー『戦艦大和ノ最期』からである。羅針儀緊縛説はその壮絶さもあり、戦艦大和を扱った映画でも度々この説が採用され、広く巷間に知られ通説とされている。しかし出典の著者である吉田満は現場を直接見ていない。吉田は様々な生存者から聞いた話と吉田が実際に体験したことをベースに本を書いたが、噂や未確認情報なども記載され、初版出版時から抗議や疑義を受けた内容を多く含んでいた。だが、殆どそれらに対する追求取材、改訂がなされることはなかった。  
近年、防空指揮所で有賀と共にいた塚本高夫二等兵曹(艦長付伝令)や、江本義男大尉(測的分隊長)が「鉄兜を被ったまま指揮用の白軍手で羅針儀をぐっと握りしめていた」と証言したことから、現在では有賀は大和の対空指揮所にあった羅針儀にしがみ付き、そのまま沈んだとする説が有力になっている。(2005年に公開された東映映画『男たちの大和』では、有賀の最後をこの説に従った描写にしている。)中尾大三中尉(防空指揮所高射砲長付)によれば、有賀は第一艦橋に下りていき、姿を消したという。これらの証言からも、有賀は羅針儀に縄で体を縛りつけてはいないという点では一致している。  
大和沈没後に有賀が洋上で漂流し、声をかけたら海に沈んだと主張する生存者もいるが(辺見じゅん著『男たちの大和』で紹介された説)、状況から判断して前艦長であった森下信衛第2艦隊参謀長を有賀艦長と見誤ったものと考えられている。  
沈没時の混乱もあり、実際の目撃談や勘違いの目撃談、あるいは虚構(小説や映画でのフィクションの描写)が入り乱れ、有賀の最期に付いてはいまだ不明な部分もある。 
逸話  
家族思いの人物であり、帰宅すると女中にまで土産を配った。有名料理店や遊園地、観光地を巡るなど、家族団欒につとめた。長男は、有賀本人にとっても憩いの時間だったのだろうと述懐している。一方で、潜水艦事故で沈んだ第六潜水艇と佐久間勉艇長の遺書を見学した時には、息子に軍人としての覚悟を語ったという。  
見事な禿頭の上に大変なヘビースモーカーで、部下から「エントツ男」とあだ名されたりしていた。また、極度の水虫にかかっており、艦内でも草履を履いていた。  
第四駆逐隊で有賀の部下だった者は、戦友会で「戦があれほど上手い人はいなかった」「絶対にやられることないと思った」「困った顔を見たことがない。安心できた」「部下を可愛がり、怒ったことはなかった」「部下がタバコをかすめたことに気付いても何もいわなかった」「戦闘中でも決して慌てなかった」「笑っているが、締めるところは締める人」などと、戦争が終わってからも高く評価している。元「鳥海」高射長は、爆弾・魚雷に対する回避運動に優れ、臨機応変に対応する実戦型指揮官だったと回想。忍耐力と決断力がある点で、キスカ島撤退作戦で名を馳せた木村昌福少将と似ていると評した。また有賀があまりにも前線に出るため、心配した山本五十六大将が「有賀を殺すな」と言ったという。  
戦死した部下の内縁の妻が横須賀に住んでいた有賀を尋ね、遺族扶助料をめぐるトラブル解決を依頼した。有賀はただちに東北地方へ遺族間のトラブル解決に出向いた。  
駆逐艦「電」艦長だった時、山本啓志郎(後の自衛艦隊司令官)が通信士少尉として着任した。有賀は本来大尉がやるべき当直将校と哨戒長をまかせ、操艦もまかせた。事故が起きれば艦長の責任になるのだが、有賀は教育を優先した。さらに上級司令部からの通達、戦策を片端から読ませ、山本を鍛えた。山本は有賀に仕えたことを神に感謝したという。  
1942年3月1日ジャワ攻略戦の際、駆逐艦「嵐」が逃走するイギリス駆逐艦「ストロングホールド」を追撃した。距離10kmで砲術長と水雷長が撃たせてくれと懇願すると、有賀は指揮所で「足が痒くてかなわん。薬を塗ってくれ」と衛生兵に水虫の治療をさせ、発砲を許さなかった。距離6000mになってから大声で射撃を命じ、英国駆逐艦を撃沈した。また3月4日には、艦砲で開けた穴に爆雷を投げこむ方法で油槽船を撃沈した後、英軍将兵18名、中国人船員12名を救助した。  
ミッドウェー海戦時、乗艦の駆逐艦「嵐」は沈んだ赤城の乗組員1400名で満載となり、彼らは甲板上で波しぶきに震えていた。そこで「人道問題なり、見るに忍びぬ、一刻も早く収容されんことを望む」と打電し、戦艦「榛名」に移乗させた。  
菊水作戦が発令された際、大和やその他の艦に乗艦していた傷病者と古参兵、兵学校卒業直後の士官候補生計53名が第二艦隊司令長官伊藤整一中将の命令により退艦命令が出される。しかし『戦艦大和の主』を自称していた奥田少佐(第二主砲砲塔長)に激しく退艦を拒否される。その際、奥田少佐は「大和が死にに行くのなら、ワシが付いて行って最後を見てやらねばならぬ」と激怒し、艦橋に居た有賀の所に怒鳴り込んで行ったと云う。有賀は怒り狂う奥田少佐に対し軍人勅諭を例に出しながら説得する。有賀の説得に奥田少佐も折れ退艦命令を受け入れる。有賀・奥田両名も涙を流し、その姿に艦橋に居た将校・兵士も思わずもらい泣きをしたという。  
候補生退艦にあたって有賀に直談判したのは、阿部一孝先任候補生であるという。問答を繰り返すうち、氏名不詳の士官が「もっと鍛えなければどうにもならん」と説得した。候補生室に戻った阿部は仲間達に囲まれたが、候補生指導官の副砲長清水芳人少佐が「乗艦したばかりで配置がないではないか」と諭し、全員が諦めたという。  
大和副長の能村次郎によれば、候補生が集合したのは艦長室前で、有賀の退艦命令の後に候補生を説得したのは能村とされる。  
菊水作戦出撃前の夜(能村副長の記憶では4月5日夜)、連合艦隊最後の出撃に未練が無い様にと将兵を気遣い『無礼講の宴会』を許可した。宴もたけなわの時、青年海軍士官達が飲んでいる所へ訪れ、その際酩酊した1人の士官に「木魚が来た!」と頭をペチペチと叩かれたと云う。有賀は青年士官の無礼な行為を許し、高笑いをしてされるに任せていたと云う。なお、このエピソードは、1981年に劇場公開された東宝映画『連合艦隊』(監督:松林宗恵。特技監督:中野昭慶)でも、形を少し変えた上で描かれている。  
有賀は「大和」での勤務が短く操艦に慣れていなかった為、多数の魚雷を被雷したという評がある。これに対し、航海士の山森は「あの状況では森下参謀長(レイテ海戦では巧みな操艦を行い、大和に被害をあまり出さなかった)でも同じだっただろう」と述べている。 
 
戦艦大和 2 

まえがき  
今、巷では何故か大和ブームである。宇宙戦艦ヤマトではない、かつて太平洋戦争時に実存した「戦艦大和」のこと。その背景については色々考えられようが、それはさて置き、このブームが大変に微妙だなと思うのは、そこから繋がっていく先が、非戦の方向にも好戦の方向にも向かい得ると云うところか。  
大和ブームの盛り上がる原動力として、ぼくは以下の3様を考えるのだけれど、まずひとつは、戦争を体験した世代が大和の姿を象徴的に借りることによって、自らもその渦中にあった太平洋戦争と云うものを振り返ってみようとする動き。次に、大和をゴリアテの巨人のごときと捉え、その姿に戦争のもつ罪や愚かしさを重ねてみようとする世代。もうひとつが、それこそ宇宙戦艦ヤマトへ向けられるような、ある種憧れの気持ちである。  
おそらく大半の人は、3番目に挙げた理由からブームに乗っかっているのだろうが、それは結構怖いことだと思う。なんとなれば、戦艦と云うものは、戦争をするための兵器なのだ。たといその裏に様々な美談等いくらあろうとも、兵器が人の殺傷を目的としていることに変わりはない。もしもそのようなものに憧れの気持ちを抱いてしまうことがあったとすれば、それは戦争を賛美する方向以外のなにものでもないと思う。少々短絡的かもしれないが、そう云う危惧は十分にあるとぼくは考えている。  
さて、今回ぼくは、戦艦大和について書こうとしているわけだが、それはいったいどう云うことなのか。実は、ひょっとしてと思うのだけれど、従前からの読者の方ならば、以下本文の記述を読み進めながら、なんとなくの不信感を抱かれるのではないかなと。  
「オタクはこれまでずっと戦争反対を唱え続けてきたな。それはまあ認めてやろう。しかしそれにもかかわらず、戦艦大和、この未曾有の巨大兵器について、無闇に詳しいのはいったいどう云うわけだ。実はオタクは、日夜密かに兵器研究に没頭し以って来るべき日○戦争に加担すべく準備を進めておるのではないか」  
もちろんそのようなことはない。ぼくはただ、知らないことを批判したり非難することはしたくないと考えているだけ。  
ぼくは、感覚的とか直感的とか云ったことをあまり好まないタイプの人種である。人によっては、例えば「戦争? なんだか嫌な感じがするなあ」と云った具合で戦争反対を唱えることがあるかもしれず、それはそれで別に良いと思うけれど、ぼくは例えば戦争が嫌だと云う理由を徹底的に理論化しなければ気がすまない。そのために必要なのは戦争に関するありとあらゆるデータなのである。実際我が家の書庫には、戦争反対論以外にも、戦争賛美論、各種戦記類、軍事研究類、各種兵器詳論諸々も数多い。昨年夏に編纂した「原爆の記」にも、兵器としての原爆について、少し詳細な部分の記述があるが、あれもまた感覚的でなく嫌悪を表現するための理論武装と云えよう。  
今回、ぼくが大和のことを書こうと思ったのもそれだ。ぼくは安易にブームに乗るつもりはないし、当然そのブームを感覚的や直感的や生理的にだけで批判するつもりも毛頭ない。ただ、戦艦大和と云う物体の正体を正確に捉え記しておく必要はあると考えた。もちろん大和については、これまで膨大量の書籍が出版されており、それを読めば十分だと云うことは分かっている。それでも、それら書籍は読む人も限られているはずだし、ならば、この際ブログにてそれを一般的読者にも拡げ……とか思いながら、実はこの超ローカルブログは、さらにさらに読む人は限られておるのだったなと、今更のように気付いたりした。しかしそれでもぼくは、何もしないではおられないタイプの人種なのである。 
大和の概略  
さて、いったい戦艦大和の正体とはいかなるものであったのか。まずはその主要緒元からみてみることにしよう。  
(以下は、公試運転時における緒元)  
 全長        263m(水線長256m)  
 最大幅        38.9m  
 公式排水量  69,166トン  
 最大速度            27ノット  
 機関:艦本式タービン12罐4軸、15万馬力  
 主砲        46.45cm口径、3連装砲塔3基  
 副砲        15.5cm3連装砲塔4基  
 兵員      約2500名(通常時)  
数字にしてみると、漠然として分かり難いが、実は当時、大和は世界最大、未曾有の巨艦と云ってよいフネであった。大和竣工以前に連合艦隊の旗艦だった戦艦長門が、全長213.5m、全幅29m、排水量36,000トンなのだから、感覚的にはその2倍くらいの大きさで、見る者を圧倒したはずである。  
しかし、艦体の大きさ自体は、戦艦にとってそれほど意味があるわけではない。戦争を行なうフネの種類としては、駆逐艦、巡洋艦、航空母艦、潜水艦、戦艦、等々あるが、それぞれの目的によって艦体の大きさは必然的に決まってくるのであって、別に大きければ良いと云うものではないのだ。  
それでは戦艦とはいったいどう云う目的をもったフネなのか。実は戦艦と云うのは早い話し、大砲を撃つための砲台であって、それ以外の何者でもない(その当時の概念では)のである。だからそれは別にフネでなくても良いわけだが、ただ、同じ場所にじっとしている大砲では、あまり役には立たないだろう。そこで、大砲の台を海に浮かべ、自在に動き回れるようにスクリューや舵を付け、必要な兵員も乗船させる。それが戦艦と云うフネであるわけだ。  
それで、砲弾を互いに撃ち合うのが海戦だとすれば、当然相手よりも大きな大砲を持っている方が有利であるのは云うまでもない。大砲がデカければ、より遠くへ砲弾を飛ばすことができるし、砲弾自体の破壊力も大であるからだ。それがために、戦艦に搭載する砲は、列国海軍が競い合うようにしながら次第に巨大化の方向を目指していくことになる。ちなみに、戦艦「三笠」(明治38年の日本海海戦で、露西亜のバルチック艦隊を撃破した)の主砲は30cm(砲筒の内径を示した数字である、以下すべて同じ)であったが、大正期に建造された「長門」では40cmとなり、そして昭和期に建造の大和が46cmである。40も46もたいして変わりあるまいと思われるかもしれないが、最大射程としてはそれぞれ、3万6千m、4万2千mであるから、その威力の差は歴然だろう。当時、主砲の試射に立ち会った人の回想によれば、大和の46cmに比べると長門級の40cm砲は、まるで子どもの玩具ほどに思えたそうである。  
話しを戻すと、その巨大化していった砲を積むために、艦体もそれにつれて大きくなっていったわけで、結果として大和は世界最大のフネとなった。ただ、その大きさ自体は戦力とは無関係で、実は巨大なるが故の問題もあった。それについては、後述する。  
上述のように戦艦とは、砲弾を撃つためのフネであり、むしろ砲そのものと云って良いが、それでは大和の主砲とはいったいどのようなものであったのか。  
上の緒元にもあるとおり、大和の主砲は、内径46cmの砲筒を3連納めた砲塔が、艦前部に2基、後部に1基の、計9門で構成されている。46cmと云えば、大人がすっぽり入るほどの大きさであり、それだけをみれば、サーカスなどで使われる”人間大砲”とそれほど変わりないようにも思える。しかし、外径で云えば、砲の先端部で83cm、基部では190cmにも及び、長さは、砲尾部分を含め22mもあるのだから、その巨大さは想像を絶すると云って差し支えあるまい。その砲から繰り出させる砲弾は、通常、長さが約190cm、重量約1.5tの91式徹甲弾で、これが1万m以上の上空に達しながら4万2千mの彼方までぶっ飛んでいくのである。それを押し出す火薬(装薬と云う)の量も、重量330kgと半端ではない。もしもこれだけの火薬が市街地で爆発すれば、小さな家など跡形もなく木っ端微塵だろう。  
通常は斉射と云って9門の砲を同時に発砲するから、そのエネルギーたるや尋常ではない。公試運転時の主砲斉射試験では、その爆風が人体に与える影響を推定するため、甲板の各所にカゴに入れたモルモットを置いたが、試験終了後のモルモットは、内臓が飛び出し全部死んでいたそうである。 
大和の主砲  
大和主砲の発射に関して、もう少し詳しく書き述べておこう。  
前号では、46cm主砲のいかに巨大なものであったかと云う点について述べたが、しかし一方でそれは驚くほどの精密さ、繊細さを兼ね備えた代物でもあった。そのことは最大射程4万mと云うことからも明白である。  
山登りが好きな人なら、この距離は比較的容易に実感できようが、40km彼方の山と云えば、地平の遥か向こうに小さく霞んで見える程度に過ぎない。それを正確に狙って大砲を撃つことを想像してみれば、その射撃のいかに困難かが理解できるだろう。しかも戦艦の主砲が標的とするのは、動かざること山の如しの”山”ではなく、せいぜい長さ200mほどの動くフネなのであり、己もまた波の上に浮かぶフネである。  
この困難な射撃を実現するための機構については、その概略解説だけで一冊の本が出来るほど複雑なのであるが、まあとりあえず、さわりのところを掻い摘んで一説。  
大砲と鉄砲の違いはその大きさである、と云ってしまえば身も蓋もないが、実は射撃術の面から云えば、両者の相違は弾丸の飛跡のみである。つまり、ライフル銃などは概ね直線的に弾が飛ぶが、大砲の弾は放物線を描いて飛んでいくと云うこと。  
これは野球のボールを遠投する際と同様で、思い切り放ったボールが、大きな山なり軌道を描きながら相手のミットに吸い込まれる、あの感覚。けだしあの時、人の頭脳は無意識のうちに複雑な放物線の弾道計算を瞬時に行なっているのである。  
大砲の射撃も、初期の時代には人間が狙いを定めて行なっていたのだが、射程が延びるに従って、さすがにそれでは巧い具合に的に当たらなくなってきた。人の感覚的に行う計算もまんざらではないのだが、やはりそれにも限度と云うものがある。そこで近代砲戦の場に一躍脚光を浴びるようになったのが、科学的根拠に基づいた弾道計算手法なのだ。  
さて、それではこの近代砲戦の具体的な様子を、46cm砲の場合を例に取りながら追ってみるとしよう。  
まずは標的までの距離の測定。これはもっとも重要な要素であるが、測り方は、人間の目の原理と同じである。つまり左右に離れた両目の視差によって対象物の遠近が分かるという理屈。大和の場合は、双眼の距離が15.5mの測距儀と呼ばれる装置を墻楼の天辺(各砲塔にも予備の測距儀がある)に備えていた。人の両目の間隔は、10cm程度だから、単純にその150倍の能力と云えるのかどうか? いずれにせよこの超高性能測距儀で標的までの正確な距離を割り出し、それが分かれば、あとは弾道計算に入る。入力されるデータは、ある程度事前に設定しておけるものと、時々刻々リアルタイムに変動するものに分別できる。  
まず前者を列挙すると、大気の温度・湿度、風速・風向(高層の風は、風船を飛ばし測定した)、各砲塔の高さの修正値、照準装置と砲塔との距離、砲弾の種類、装薬の種類・量・温度・経年変化の係数。微妙なところでは、射撃海面における地球の自転速度、砲齢と云うものもあった。砲齢とは砲の履歴のことで、端的に云えば、今までに何発の弾を撃ったかである。砲身は射撃を繰り返す度に高圧、高温、磨耗の洗礼を受け劣化していくから、それが弾道に微妙な影響を及ぼすわけだ。ちなみに砲身には定められた寿命があり、大和の46cm砲の場合だと、通常量の装薬での射撃は200回が限度と規定されていた。その後はどうするか? 当然ながら新品と交換し、古いやつは捨てる。  
次に後者の、時々刻々変動するデータであるが、これには自艦の速度・針路、標的の速度・針路、自艦の上下左右の動揺角があり、これらは、15m測距儀のさらに上部、艦のもっとも高所に位置する主砲射撃指揮所に置かれた方位盤と云う装置で測定される。盤と云えば、平たい板状の装置を連想するが、実際の方位盤は一辺が60cmほどの長方形の柱で、その外周には潜望鏡のような感じで3つの眼鏡が付いていた。  
おのおのの眼鏡には、射手・旋回手・動揺手の3名が取り付くのだが、それぞれの役割は、射手が上下照準、旋回手が左右照準、動揺手は自艦の揺れ修正となっており、彼らは自分の側のハンドルを操作しながら、視野内の十字基線中心に標的をピタリと合わせるのである。この動きは、猟師が動く獣に狙いを定める感覚に例えれば分かりやすい。つまり彼らは、猟師ひとりが行う照準操作を三人が分担して行っていたと考えれば良いだろう。  
これら多くのデータは、一箇所に集められ計算される。現代であればコンピュータが瞬時に結果をはじき出すところであろうが、当時は、精密な歯車を組み合わせた機械式計算機が処理を行なった。それは、墻楼の下にある艦内発令所に設置された射撃盤と呼ばれるもので、計算の結果は、各砲塔内に置かれた示針(本針と云う)に伝えられる。砲塔内にいる砲手が狙うのは実はこの針なのであって、砲手はハンドルを廻し、それに連動して動く追針を本針に合わせるようにする。砲塔と砲身はこのハンドル操作によって向きを変えるのだから、本針に追針がピタリと合致すれば、その時点で砲身は正しく標的の方向を向いたことになるわけだ。なお、老婆心ながら述べておくと、砲手のハンドルを廻す力がそのまま砲塔や砲身を動かしていたわけではない。それらの重量物は、強力な水圧ポンプの力でよって動いていた。さしずめパワーステアリングと云ったところか。  
射撃の引き鉄を引くのは、砲手ではなく、射手の役目になる。彼は自身の照準および各砲手、旋回手、動揺手らの照準が標的に合致したその瞬間を捉え引き金を引く。どれかひとつでも外れた照準があれば、発射用の電気回路は形成されない。すべての回路が閉じた瞬間にだけ砲身尾栓に電気火花が走り、装薬に点火、計9門の砲身は大黒煙とともに重量約1.5tの砲弾を弾き出すのである。  
さて、そのように綿密な計算によって発射される砲弾であるが、実際には一撃目で的を射抜くことは稀であった。さすがに34万メートルの遠方射撃では、どれほどの正確さで狙おうと、ある程度の誤差は生じてくる。  
それではどうするか。早い話し、一射目は試射と云うことにして、そこから得られる誤差修正値を加えた二射目以降で的に当てればよいのである。少々とろいような気もするが、このあたりが目測による射撃の限界と云ったところであろう。  
ところで、大和の主砲射撃は、9門の一斉射であるから、9個の砲弾が目標めがけ飛んでいく。しかし前述のような誤差あるいは砲弾どうしの干渉などによって、それぞれの砲弾が着弾する地点は、ある程度の拡がりをもった範囲に分散することになる。この範囲を散布界と云うが、当然これは狭い方が良い。3万メートルの射撃の散布界は、通常500mから1km程度と云ったところ。ただ、結果が1kmの散布界と聞けば、おそらく各砲員らは落胆のため息をつくはずである。  
着弾点と散布界の観測は、艦側からの目視では不可能のため、水偵を飛ばし上空から行なった。しかしこれもまた原始的な方法で、実戦の場合、無防備な水偵は相手側にとって格好のカモとなるに違いない。まあ、それは置くとして、弾着は、観測用水艇から、やや左とか、少し近いとか云った風に報告され、艦側では、それに対する修正動作を行い二射目に備えることとなる。散布界の範囲内に標的が収まっていれば、夾叉と云って9個の砲弾のどれかが目標に当たるだろうと云う判定が下された。  
以上のことを考えれば結局、射撃のメカニズム自体は驚異的に緻密であったが、弾が出た後のことは割合に大雑把だったと云えるだろうか。しかしこれがその当時の技術限界であったことは止むを得ない事実であるし、その限界にあくまでも挑戦し続けた日本海軍と、旧来の限界を別次元の技術開発によって乗り越えた米軍との思想差が、太平洋戦争時において、彼我の運命を分けたと云う見方もできよう。 
大和の防御力  
「攻撃は最大の防御である」これは、帝国陸海軍において、明治時代の創成以後、連綿と受け継がれてきた基本中の基本思想・戦略であった。  
たとえば、太平洋戦争初期に華々しい活躍を行なった零戦は、防御を徹底的に無視した軽量な機体設計によって、高速性と俊敏性を獲得し、さらに搭乗員の神業的操縦技術を駆使することで恐るべき攻撃性を備えた戦闘機に成り得た由である。艦船の場合でも、駆逐艦などは、2千トンそこそこ(大和砲塔の一基にも満たない)の、ほとんど装甲も無いぺらぺらな艦体に、5万馬力の機関(大和は15万馬力!)を積み、40ノット近くにも達する超高速で駆け回りながら、当時世界に並ぶもののない高性能を誇った93式酸素魚雷を撃って撃って撃ちまくっていた。  
しかし、さすがに建造までに膨大な労力、費用と長期間を費やし、多数の兵員も載せたフネを無闇に沈めてしまうわけにはいかないから、概ね軍艦の類は、前述した思想の適用をあまり受けず、設計上も、艦の防御は砲熕に次ぐ最重要課題とされていたようである。  
戦艦の防御能力には基準があって、それは「自艦の主砲攻撃に耐え得ること」である。つまり大和の場合だと、敵の撃った46cm主砲弾を撥ね返すだけの防御力を備えていなければならなかった。これがいわゆる「巨艦・巨砲主義」の考え方で、敵が自艦と同じ能力の主砲をもっているなら、勝つことも無い代わりに負けることも無いだろう。しかし、相手よりも強力な大砲を自分がもっていたとすれば、敵の手の届かぬ遠方から一撃必殺、これにて勝利は間違いなしと。割合に単純に思えるが、これこそが日本海海戦で露西亜バルチック艦隊を撃破して以来、帝国海軍が神話的に継承してきた思想なのであった。  
さて、話しを大和に戻そう。  
戦艦大和の防御力は、件のような理由から、46cm主砲弾の直撃にも耐える凄まじい能力が要求された。しかし、それだけの観点から云うならば、基本的にはフネを分厚い鉄板で覆ってしまうだけで済むから話しは比較的単純である。  
いちおうその分厚な鉄板について述べると、例えばフネの側面に張られた甲板、舷側アーマーは、厚さが410mmもあった。これは普通の鉄板ではなく、撃ち込まれた徹甲弾を絶対に貫通させず強力に撥ね返す性質をもたせた特殊鋼材「VH鋼(Vickers Hardened)」である。―VH鋼の名称に使われたVickersと云うのは、英国ビッカース社に由来するが、元々この社が開発した艦船装甲用VC甲鉄(大正4年以降、日本でも製造が行えるようになった)を基に、呉工廠にいた佐々川清(のち技術少将)が研究を重ね、昭和12年に実用化されたもの。この鋼材の存在があったからこそ大和も存在し得たと云われるほどの優れものであった。  
それで、比較的単純でない話しの方であるが、完全防御と云うだけなら、この種の甲板でフネ全体を包んでしまえば、どんな攻撃にもビクともしない不沈艦が出来るはずである。ただ、それをやれば、そもそもフネ自身の重みで海に浮くことすらできまいし、よしんば浮いたとしても、気息奄々のノロノロ運転では戦闘どころの騒ぎではない。  
ところが大和は、最大速力27ノット。当時の戦艦としては最高速の部類を誇っていた。最高度の防御力を要求されていた割には俊足であったと云え、これは基本設計のいかに優れていたかを証明するもの。ただ、欲を云えば、当時最新鋭の軽巡や空母が30ノット、駆逐艦に至っては35から40ノット近い速力を出していたのだから、27ノットの戦艦では厳しかったかもしれない。逃げ足の速いのも強力な武器であるし、なにしろ、逃げるが勝ちと云う諺もある。  
結局、戦艦大和の防御設計としては、バイタルパート(主要防御区画)と呼ばれる部分のみを強力な甲板で覆う形式を採用した。従って艦首や艦尾等の防御は、ある程度軽微なものになっている。これは前述の理由から止むを得ないことであった。また、最強のVH鋼を使った装甲であったが、それは敵主砲から繰り出させる徹甲弾には有効でも、航空機から投下される爆弾に対しては案外に弱かった。と云うか、「巨艦・巨砲主義」の辞書中には、航空機からの攻撃など、はなから載っていなかったのだ。  
大和最期の模様は後述するが、結局大和が沈没した要因は、当然予測していた敵戦艦の主砲攻撃ではなく、魚雷と航空機投下爆弾の集中攻撃によるものであった。ただ、そのことによって、大和の防御設計が無意味であったとは云わない。もしも大和にこれほどの防御力がなければ、昭和18年に受けた魚雷攻撃によって、あっさりと沈んでしまったかもしれず、沈没云々と結果論をいかほど述べ連ねたところで、そもそも不沈艦なるものなど存在するはずがないのだから。  
大和の最後に受けた攻撃は通常ならば一個艦隊が3回全滅するほどの大破壊力であった。  
なお、甲板以外の防御についても若干述べておく。  
艦体の水線下は数百の防水区画によって区切られており、これは被弾の際の浸水を最小限に食い止める構造であるが、大和では、さらに防水区画への注水機能が採用されていた。  
たとえば、左舷前方に被弾し、そこに開いた穴から浸水が始まると仮定しよう。防水区画によってその浸水は通常、被害区画以上の体積に広がることはない。ただし、フネは浸水の重みで左前方に傾くことになり、結果、速力は低下し、操舵も困難になる。もっとも重大な支障は、主砲の射撃への影響である。前号で主砲射撃がいかに精密な作業かを述べたが、フネが僅かでも傾いていると、その精密作業は不可になるのだ。そこで、右舷後方の防水区画に適量の海水を注入することで、フネのバランスを取り戻すのである。フネ全体としては若干沈むことになるが、なにしろ水平を保ってさえいれば、戦艦としての機能にまったく支障はなかった。大和と同型艦である武蔵は、昭和19年に敵魚雷の被弾を受け、左舷前部を損傷したが、その時の浸水量は約2000トン。反対側防水区画への注水量と合わせると、計4000トンで、これは駆逐艦2杯分に相当する水量である。これだけの海水を腹に呑み込んだまま、未曾有の巨艦は平然と航海を続けたのである。 
戦艦大和の最期  
戦艦大和は、呉海軍工廠で建造されたフネである。その略歴を以下に示す。  
 起工    昭和12年11月4日   
 進水    昭和15年8月8日  
 予行運転 昭和16年10月16日  
 公試運転 昭和16年10月22日  
 竣工    昭和16年12月16日  
 沈没    昭和20年4月7日  
 除籍    昭和20年8月31日  
それでみると、大和は概ね4年の歳月をかけて誕生し、概ね4年間の生涯を終えたフネであったと云えよう。  
起工の日付は、起工式のそれで、造船ドックの最底部に軍艦の芽と云える鉄材が最初に鋲で打たれた日(儀式であるから、本物の鋲は打ったりしない)のことを云っている。これをもって、”巨大戦艦大和がこの世に芽生えた瞬間”と称しても間違いではないが、しかし起工とは、それまで行ってきた設計を具現化する行為の始まりであって、ほんとうの意味での大和の芽生えは、昭和9年、海軍艦政本部において基本設計が開始された時点、すなわち”その図面上に最初の線が引かれた時”とした方が適切かもしれない。都合10年間、それは長い期間であったと云えるのかどうか。そうしてそれは、日本が悪夢への坂道を急速に転がり落ちていった歳月そのものでもあった。  
大和の建造された造船ドックは、つい先ごろまで呉に現存していたが、押し寄せる近代化の波に抗しきれず、近年、その長い歴史に幕を閉じたと聞く。  
呉海軍工廠生まれの大和には、兄弟があった。長崎造船所で建造された、戦艦武蔵である。  
軍艦と云うものは、用兵上の原則として、必ずペアで行動することが決まっており、したがって通常は同型の艦が複数(2の倍数)建造された。例えば、長門型の戦艦として、長門・陸奥が、翔鶴型の空母で、翔鶴・瑞鶴が、と云った具合。実際、大和型は、大和・武蔵に続き、3号艦、4号艦も建造されていた。しかし、戦況の変化から3号艦は空母へ改造、4号艦は建造中止となっている。ちなみに、3号艦から改造された空母「信濃」は、昭和19年竣工の僅か10日後、和歌山県沖を航行中に米潜水艦の雷撃を受け、浸水。その後必死の航行を続けるも艦の傾斜は収まらず、結局ただの一度も戦闘に加わらないままに、その巨体を海底に沈めている。  
大和の弟分である戦艦武蔵は、昭和17年8月5日の竣工。工期的には大和とほぼ同じ長さであるが、砲熕や鋼板など主要材料の多くを呉海軍工廠からの供給に依存しながらの建造であり、しかも長崎造船所は民間会社であることから、竣工までには相当の労苦があったらしい。  
武蔵は、竣工の翌年、それまでの大和に替わり連合艦隊の旗艦に就任した。余談であるが、一説によると武蔵は、当初から連合艦隊司令長官(当時は山本五十六大将)の座乗が決まっており、それは幾多の豪華客船建造を手がけた長崎造船所の実績が買われたものであると。なにしろその長官室は、超一流ホテルの最高級ルーム以上の豪華さであったと云われる。ついでに述べると、連合艦隊司令部には、長官の昼食時に軍楽隊が音楽を演奏する習慣があり、さすがに戦闘中はやらなかったが、彼らは戦局が相当に悪化したのちも、この優雅な習慣を止めようとはしなかった。ちなみに長官や艦長の食事はと云えば、毎回昼が洋食のフルコース、夜が同じくフルコースのディナーか、高級料亭もかくやの豪華和食であった(ただし料金は自前である)、それはお偉方の特権だろうと思われ勝ちだが、艦隊では士官の昼食も簡易なフルコースであるのが通常であったし、朝食はパンとハムエッグにコーヒーと云うハイカラ将校もいた。ならば下士官兵はどうだと問われれば、彼らにしても昼御飯には、カレーライスやハンバーグと云った洋食を喰っていた由である。海軍と云うのは概ねそのような風土をもったところだったのだ。  
その後武蔵は、連合艦隊旗艦として各艦隊を率いながら太平洋の戦域を善戦したが、昭和19年10月24日、フィリピン沖のシブヤン海上にて、米航空隊の集中砲火を受け沈没。大和に先立つこと約半年の壮烈な最期であった。  
明けて昭和20年。この時期に至ると、かつて威容を誇った帝国海軍の各艦隊も、ずいぶん尾羽打ち枯らした状態となっていた。そもそもフネはまだあっても、それを動かす油が尽きていた。最強の戦艦大和といえども、燃料がなくては海に浮かぶ兵舎のごときである。特に大喰らいであった大和は、来る日も来る日も内海に留まり、その堂々たる様とは裏腹に、艦隊のお荷物的な存在と成り果てていることは誰の目にも歴然だった。  
そのような折り、ついに大和にも、待ちに待った出撃命令がくだったのである。しかしそれは片道燃料のみ搭載が許された特攻攻撃であった。  
この作戦の裏事情については、これまで膨大な諸説が語り尽くされているから、ここでは述べない。ただ間違いなく云えるのは、大和がこの時点ですでに無用の長物であったこと、しかし誰もそれを認めるわけにはいかなかったこと、そのためにある人は大和に最期の死に花を咲かせようとし、ある人は燃料庫に残った最後の油を掬い取り、黙って大和に帰還分の燃料を与えた。そうして大和は作戦を完遂することなく海の藻屑と消えた。そう云うことである。  
海上特攻準備発令 4月5日13時59分 / GF電令作第603号 / 第一遊撃部隊「大和、信濃、第二水雷隊(矢矧オヨビ駆逐艦六隻)」ハ海上特攻トシテ八日藜明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ急速出撃ヲ準備スヘシ  
海上特攻発令 4月5日15時00分 / GF電令作第607号(部分抜粋) / 海上特攻隊ハ七日黎明時豊後水道出撃、八日黎明時沖縄西方海面ニ突入、敵水上艦艇ナラビニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スヘシ  
4月6日03時20分 / 第2艦隊、山口県徳山沖を出撃 / 旗艦:大和 第2艦隊司令長官:伊藤整一中将 大和艦長:有賀幸作大佐 / 水雷隊:矢矧 / 駆逐隊:雪風、磯風、浜風、朝霜、霞、初霜、冬月、涼月  
4月7日12時35分 / 米艦載機約200機来襲、第1次攻撃開始 / 後部電探室付近、艦橋前方左甲板に爆弾2発命中、火災発生 / 左舷に魚雷1本命中 / 副砲火薬庫および2番主砲の火薬庫に誘爆 / 左舷に5度傾斜。注水により回復。速力22ノットに低下 / 米艦載機約150機来襲、第2次攻撃開始 / 左舷中央部に魚雷数本命中 / 後部艦橋付近等に爆弾3発命中 / 左舷艦首、艦尾、右舷中央部に魚雷5本命中 / 左舷に15度傾斜、速力12ノットに低下 / 主砲、副砲、高角砲使用不能 / 左舷に魚雷1本命中 / 傾斜35度 / 14時20分、総員退艦命令。  
14時23分、左舷に傾き転覆 / 2番3番主砲の火薬庫に誘爆、艦体が中央部で切断 / 艦内に大爆発 / 九州坊ノ岬沖(北緯30度22分、東経128度4分)に沈没  
戦死者2,498名、生存者269名 
 
戦艦大和ノ最期 / 吉田満 

徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米  
今ナオ埋没スル三千ノ骸  
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何  
立花隆にして「昭和の平家物語」八木義徳にして「わが国戦争文学の最高峰」と云わしめた書。ついに意を決し、読んでみた。口語訳ではなく、原文のママの完全版ということである。  
内容については、ドキュメント形式の記録体であり、副電側士少尉として大和艦橋に勤務して奇跡の生還を果たした著者が、あまりに生々しい出撃から轟沈までの艦内の様子を克明に綴ったもの。これを読まずして大和を、そして戦争を語るなかれ。私ごとき若輩が云々、解説ぶって能書きを垂れるよりも、ここは原文を紹介し、みなさまにも戦争の凄まじさ、悲哀さ、愚かさを噛みしめてほしい。願わくば、買って読んでみて。まず読んで衝撃だったのは、艦内において、若い将校たちがかなり熱く議論をかわしていたことだろうか。例を挙げる。 
一次室(ガンルーム、中尉以上の居室)にて、戦艦対航空機の優劣を激論す  
戦艦優位を主張するものなし  
「『プリンスオプウェールズ』をやっつけて、航空機の威力を世界に示したのものは誰だ」  
皮肉る声あり   
設計当時、すなわち十年の昔、無敵を誇りたる本艦防禦力も、躍進せる雷撃爆撃の技術と圧倒的数量の前に、よく優位を保ちえる道理なし  
ただ最精鋭の練度と、必殺の闘魂とに依り頼むのみ
 
戦う前からこれなのだから、悲壮極まりない。最期の酒宴も終わり、若い士官は残してきた新婚の妻の身を想い、年老いた(といっても40代とかだが。)下士官は妻子を想い、何をかいわんや。そしていよいよ、そのあまりに無謀な作戦大綱が示される。  
本作戦の大綱次の如し─── 先ず全艦突進、身をもって米海空勢力を吸収し特攻奏効の途を開く 更に命脈あらば、ただ挺身、敵の真只中にのし上げ、全員火となり風となり、全弾打尽くすべし もしなお余力あらば、もとより一躍して陸兵となり、干戈(かんか)を交えん かくて分隊毎に機銃小銃を支給さる  
あまりにアホな作戦なれど、筆者たちは受け入れざるをえない。その理不尽さ。以下のように続く。  
世界海戦史上、空前絶後の特攻作戦ならん  
終戦後、当局責任者の釈明によれば、駆逐艦三十隻相当の重油を喰らう巨艦の維持はいよいよ困難の度を加え、更に敗勢急迫による焦りと、神風特攻機に対する水上部隊の面子への配慮もあって、常識を一擲、敢えて採用せる作戦なりという あたら六隻の優秀艦と数千人の命を喪失し、慙愧に堪えざる如き口吻あり  
かかる情況を酌量するも、余りに稚拙、無思慮の作戦なるは明かなり  
その中にあって、なお議論は続く。  
天号作戦の成否如何 士官の間に激しき論戦続く   
必敗論圧倒的に強し  
「大和」出動の当然予想せらるべき諸条件の符号   
米軍の未だかつてなき慎重なる偵察  
情報により確認せる如く、沖縄周辺に待機せる強力かつ大量の機動部隊群  
大海戦に前例を見ざる航空兵力の決定的懸隔  
併せて発進時期、出動経路の疑問  
提灯を掲げてひとり暗夜をゆくにも等しき劣勢なりというべし  
豊後水道にて逸早く潜水艦に傷つかん  
あるいは途半ばに航空魚雷に斃れん(青年士官の大勢を占めたるこの予測は鮮やかに的中せり)  
痛烈なる必敗論議を傍らに、哨戒長臼淵大尉(一次室長、ケップガン)、薄暮の洋上に眼鏡を向けしまま低く囁く如く言う  
「進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ  
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」  
これ、臼淵大尉の持論にして、また連日「ガンルーム」に沸騰せる死生談義の一応の結論なり 敢えてこれに反駁(はんばく)を加え得る者なし  
死ぬと分かってなお死ににゆかざるを得ぬ若者の、痛切なまでの自己の行動に対する原理。弁護なのか。それとも、本意なのか。国のために死ぬ。それでいいじゃないか。いや、それだけじゃ嫌だ、もっと何かが欲しいんだ。鉄拳制裁、その腐った根性を叩き直してやる………そんな議論の一応の結末。悲しすぎる。  
緊張と悲哀と悲壮の渦巻く中、大和特攻艦隊は静かに九州沖を南下する。そして、ついに米軍機の猛攻が訪れる。  
運悪く低く立ちこめる曇り空にて、かつて飛来する十数機の爆撃機編隊(大和へ対してスキップボミングを試みたのだろう。)を一斉射で葬り去った46サンチ主砲及び三式弾(巨大な散弾のようなもの。)も、気がつけば目の前に殺到する航空機群に、照準が間に合わない。むなしく、空を裂くのみ。さらには、針鼠のように装備された対空砲火すら、初速も遅く、目測射撃には限界が生じていた。おりしもアメリカ軍にはVT信管という、対空弾の1発1発が電波を発して、航空機に命中せずとも金属を探知し至近で爆発、その弾の破片で航空機本体や搭乗員にダメージを与える秘密兵器が大量に装備されており、日本軍へ致命的な損害を与えていた。(マリアナの七面鳥撃ち………マリアナ沖海戦で、あまりに日本軍機がカンタンに落ちるので、米軍にそう云われた。)  
※大和に対しては、一度、一撃で全滅させられた反跳爆撃よりも、効率は下がるが雷撃・艦爆によって倒そうとした米軍の現実主義・効率主義が観てとれて、非常に興味深い。反跳爆撃つまりスキップボミングは、攻撃機ではなく爆撃機で艦船を襲う方法で、低高度で爆弾を投下すると、高速の爆弾が海面を跳ねて艦船へ突き刺さり、魚雷と同様の効果を上げるばかりか、爆撃機の大編隊による大量同時攻撃が可能で、一機一発の雷撃や艦爆よりはるかに高い命中率と効果を誇った。日本の輸送船団は、これで大打撃を被った。  
電探室は早々に被弾し、大和は耳を奪われる。  
宜(むべ)なるかな 二十五耗機銃弾の初速は毎秒千米以下にして、米機の平均速力の僅か五乃至六倍に過ぎず  
かくも遅速の兵器をもって曳光修正を行うは、恰(あたか)も素手にて飛蝶を追うに似たるか(略)  
最近頻発せる対空惨敗の事例において、生存者の誌せる戦訓はひとしくこの点を指摘し、何らかの抜本策の喫緊なることを力説す  
しかもこれらに対する砲術学校の見解は、「命中率の低下は射撃能力の低下、訓練の不足による」と断定するを常とす そこに何らの積極策なし  
砲術学校より回附せられたる戦訓のかかる結論の直下に、「この大馬鹿野郎、臼淵大尉」との筆太の大書の見出されたるは、出撃の約三か月前なり  
更にその上に附箋を附し、「不足なるは訓練に非ずして、科学的研究の熱意と能力なり」と前書きして、次の如く記す───  
「ドイツ」の渡洋爆撃を無力とした「イギリス」の最新対空兵器を知らぬか 高角砲弾に長さ数百米の鎖をもつて分銅を結びつけ、「ロケット」により弾速を落とさぬやうに発射する 鎖はその倍の直径の円を描きつつ敵機に襲ひかかる 命中率少なくとも五〇%とすることは容易だ 点をもつて点に当てる(日本のあらゆる対空砲火)、面をもつて点を捉える、その差はほとんど無限に近い かういふ状況にあつて、なほ訓練の不足、とは何の意味か───  
中尉、少尉、挙ってその下に署名したるは言うまでもなし  
かかる狼藉も、何びとの叱責もうけず ただその戦訓綴込は、徹底せる沈黙をもって幹部間に回覧されたるのみ  
「世界の三馬鹿、無用の長物の見本───万里の長城、ピラミッド、大和」なる雑言、「少佐以上の銃殺、海軍を救うの道このほかになし」なる暴言を、艦内に喚き合うも憚るところなし  
軍とはいえ、巨大な官僚組織………日本の官僚統治機構は軍にまで浸透し、そして軍にとってもっとも重要な自由な思想・発想を奪った。いまの日本でも、現実に起こっていることではないのか。自衛隊に限らず、すべての役所において。戒めねばならない。  
そのためにみすみす死なねばならぬ身の無念さがほとばしっている。  
大和は見事な操艦術にて巨体をひるがえし、爆撃、魚雷をかわすが、先の鈍速の機銃がかっこうの餌食となり、直撃弾多数、鉄の塊、人の命、空にひるがえる。火を噴き、艦内電線多数遮断、電源供給が止まり、電気式兵器次々と無力となる。艦橋も死屍累々、当日、たまたま艦橋勤務の筆者は既に運良く電探室の被弾を免れているが、ここでも運良く、無事である。断続して魚雷命中。浸水。その応急処理を担当する応急科員も修羅場。作業中にまた被弾、作業断念、部屋に大量の海水、上部ハッチへラッタルを駆け上がり、最初の1人が出るやすぐさまハッチを閉め、留め金をし、浸水をそこで押しとどめる。自分に続きラッタルを駆け上がる戦友の頭を蹴落とし、ハッチを閉じるその地獄や、担当員の心情如何。  
さらには米軍の執拗にて正確無比な雷撃。応急科の中央管制所が破壊され、浸水対応処理の指示が不可能となる。艦橋にてそれを行う。片舷に集中する魚雷。艦は大きく傾斜する。そうなると水面下の防備の薄い部分が露になり、非常に危険だ。そこに戦時の鬼の決断。  
米軍よく渾身の膂力を、連続強襲、魚雷片舷集中の二点に注げるか  
艦長「傾斜復旧を急げ」と叫ぶこと数度 伝声管の中継により所要部署に伝う  
されど復元は容易ならず 防水区割以外の右舷各室に、海水注入のほか方策なし  
防水区割りとは、万が一浸水した場合、反対舷側のそこへ海水を注入し、バランスをとる大和ならでは最新機構だったが、この時点で既に3000トンの海水を注入し、もういっぱいとなっていた。そこで、機関室へ海水を入れることを決断したのである!  
先日、美浜原発の高圧蒸気管破裂事故で、高温高圧の蒸気をあびた作業員がどうなったか! 燃え盛る全力運転中の巨大ボイラーへ、海水をぶっかけるのだ!  
外の戦況を窺い知ることもできず、炎熱と騒音の中、ひたすら汗と油にまみれて大和を動かしていた機関員たちのいる場所へ、水を!  
海水「ポンプ」所掌の応急科員、さすがに躊躇  
「急げ」われ電話一本にて指揮所を督促  
非常退避の「ブザー」も遅きに失したるか  
当直機関科員、海水奔入の瞬時、飛沫の一滴となってくだけ散る  
彼らその一瞬、何も見ず何も聞かず、ただ一魂となりて溶け、渦流となりて飛散したるべし  
沸き立つ水圧の猛威  
数百の生命、辛くも艦の傾斜をあがなう  
されど片舷航行の哀れさ 速度計の指針は折れる如く振れ傾く  
隻脚、跛行、もって飛燕の重囲とたたかう  
襲来はすでに第4波まできていた。筆者の冷徹な観察眼は、ここで敵の様子まで描写する。  
第四波左前方より飛来す 百五十機以上 魚雷数本、左舷各部を抉る  
直撃弾多数、後檣および後甲板  
来襲機の艦橋攻撃いよいよ熾烈なり  
銃撃は投下、反転の後、直線的に艦橋に迫りつつ概ね二斉射なり  
火柱、唸り、硝煙、彼らが息吹の如く窓より吹き込む  
紅潮せる米搭乗員の顔、相次いで至近に迫り、面詰せらるる如き錯覚を起す  
カッとまなこ見開きたるか、しからずんば顔の歪むまでにまなこ閉じたり 口を開き、歓喜の表情に近き者多し   
砲火に射とめられば一瞬火を吐き、海中に没するも、既に確実に投雷、投弾を完了せるなり  
戦闘終了まで、体当たりの軽挙に出ずるもの一機もなし  
正確、緻密、沈着なる「ベスト・コース」の反覆は、一種の「スポーツマンシップ」にも似たる爽快感を残す 我らの窺い知らざる強さ、底知れぬ迫力なり  
周囲の駆逐艦も、米軍の猛攻と戦い、1隻、また1隻と轟沈していた。駆逐艦などというものは、対潜、対艦に威力を発揮するものである。戦艦と共に、そもそも対空戦闘用の艦船などあるはずもない。  
艦橋下部に被弾多く、臨時治療所配置の軍医官総員戦士と  
群がる負傷者、その只中に獅子奮迅「メス」を揮う軍医、これらすべてを爆風薙ぎ倒す  
その後、唯一の小休止があり、ついにいよいよ最期の攻撃が来る。筆者は、そのわずかな隙間に、傾斜計をにらみつつ、ポケットのビスケットを口にする。  
うまし 言わんなくうまし  
執拗に狙われる大和艦尾。魚雷命中。どんな暴風の中でも微動だにしなかった大和のケツが、ボーンと海上に浮き上がる。高さ10メートルの巨大な舵の機構が破壊され、動かなくなり、左旋回のみとなってしまう。その中で黒煙吹き上げる駆逐艦「霞」がよろよろと正面に迫ってきて、正面衝突の危機。皮肉にも、これまでで最も絶妙なる操艦でギリギリかわす。艦長、思わず高笑い。自嘲の笑いか。傾斜35度。火災と浸水は収まらず、武器は使えず、満身創痍、爆雷は全弾命中、さらには数発分に相当する痛恨の一撃が魚雷となって襲い(潜水艦か?)傾斜が一気に進む。筆者はここで、ポケットに忍ばせておいた配給のサイダーを呑む。既に恐怖が麻痺したのだろうか?  
「傾斜復旧の見込みなし」  
ついに戦闘放棄、艦隊解散、総員退艦の指令が下される。高級士官、次々に死への旅路への準備を急ぐ。天皇の写真と共に艦長室、司令官室へ入る。また、羅針儀に身体を縛りつける副長ら。筆者も続こうとするが、「若いモンは泳げ」と殴り倒される。さっきまで戦って死ねと云っておきながら、ここにきて生きろとは何事かと、憤る筆者。しかし命令ならばやむなし。筆者は沈没寸前の大和へ、何ともいえぬ「美」すら見出す。  
眼を落とせば、屹立せる艦体、露出せる艦底、巨鯨などいうも愚かなり  
長さ二百七十米、幅四十米に及ぶ鉄塊、今や水中に踊らんとす  
ふと身近に戦友あまた認む 彼、また彼 (略)  
恍惚の眸をもって見入るは何  
視界の限りを蔽う渦潮 宏壮に織りなせる波の沸騰  
巨艦を凍て支う氷にも似たる、その純白と透明  
更に耳を聾せんばかりの濤音、一層その陶酔を誘う  
見るは一面の白、聞くはただ地鳴りする渦流  
大和傾斜90度。艦船にてかかる前例なし。転覆は必至。みな一斉に蟻の如く逃げ出して、海中へ飛び込む。間に合ったもの、間に合わなかったもの。艦尾より飛び込み、巨大なるスクリューに巻き上げられたもの。舷側に並んで万歳三唱をする兵士の列を遠目に見て、兵隊人形のようだと、筆者。救助要請を受けた駆逐艦はしかし、沈没の余波を恐れて、近づかない。そしていよいよ………。大和は轟沈する。  
「大和」あなや覆(くつがえ)らんとして赤腹をあらわし、水中に突っ込むと見るや忽ち、一大閃光を噴き、火の巨柱を暗天ま深く突き上ぐ 装甲、装備、砲塔、砲身、───全艦の細片ことごとく舞い散る  
更に海底より湧きのぼる暗褐色の濃煙、しばしすべてを噛み、すべてを蔽う  
駆逐艦航海士の観測によれば、火柱頂きは二千米に達し、茸雲は六千米の高みまで噴き上がれり  
閃光よく鹿児島より望見し得たりと、のち新聞も報道  
先端を傘の如く大きく開き、その中に、最期を見届けんと旋回する米機数機を屠れり  
悪天のため空しく艦底に積まれし主砲砲弾、全弾自爆をもって敵と刺違う  
大和は沈んだ。しかし生き残った者への試練は続く。生存への奇跡は、ここから始まる。  
煙突に呑まれたるもの究めて多かるべしと  
恐るべきその吸引力 長大なる空洞、多量の海水と共にいっさいの固形物を吸いこむ  
帰還後、生還者につき、入水時の位置を図示せしめたるも、煙突の周囲は広範囲の隙間を示す われ五歩右にあらば危からん  
水中爆発でもみくちゃにされながら、なんとか浮上。その後は、漂流の地獄。重油にまみれ、サメと戦い、睡魔と戦い、疲労と戦い、発狂と戦い、敵機の機銃掃射と戦う。士官は兵を集め、グループを造り、集団での救助を待つ。軍歌を歌い、君が代を歌い、ちょっとでも気を抜くと、そのままストーンと海中に没し二度と上がってこない。漂流3時間、駆逐艦接近。針路上の筆者、急いで泳ぎ、どける。間に合わなかった者、空しくスクリューの魔の淵の餌食。「しばし待て」艦壁際でさらに待つ。「いまさら何を待てというのか」ここにきて力つきる無念の者もあり。ロープが1本、降りてくる。順番にのぼらなくてはならない。兵卒が2人、耐えられなくなって我れ先に自分だけそのロープをつかむ。「ズルットソノママ」姿を消す。筆者は云う。安心感か、他愛もない………。ロープを握る力も無い。しかも重油で滑る。手首にロープを結びつけ、順に引き上げてもらう。「アゲーエ」人1人上げるのがやっとだ。その者の靴にすがる兵士。靴が脱げ、落ちる。まるで「蜘蛛の糸」だ。戦争の地獄は、このようなところにもある。  
「初霜」救助艇に拾われたる砲術士、洩らして言う───  
救助艇忽ちに漂流者を満載、なおも追加する一方にて、危険状態に陥る 更に収拾せば転覆裂け難く、全員空しく海の藻屑とならん   
しかも船べりにかかる手はいよいよ多く、その力激しく、艇の傾斜、放置を許さざる状況に至る  
ここに艇指揮および乗組下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひしめ)く腕を、手首よりばっさ、ばっさと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落とす せめて、既に救助艇にある者を救わんとの苦肉の策なるも、斬らるるや敢えなくのけぞって堕ちゆく、その顔、その眼光、瞼より終生消え難からん  
剣を揮う身も、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ぎつつ船べりを走り廻る 今生の地獄絵なり─ 
逃げる駆逐艦を執拗に追う米軍機、米潜水艦。しかし、救助作業の最中は、機銃掃射が単発的にあるだけで、米軍偵察機が常に駆逐艦の上を旋回し、自軍の攻撃を許さなかった。人道的配慮などというは愚か。武士の情けか。残存艦隊は、命からがら随時佐世保へ入港する。生き残ったものへは、慰労の休暇が下賜された。筆者は、故郷へ帰る。  
漂流者慰労の休暇を賜わり、思い掛けず故郷に旅立つ  
途次、電報を打つ  
遺書すでに参上したれば、父上、母上、諦め居らるるやも知れず───喜びの心構えをしつらえ給え  
家に着く 父、淡々として「まあ一杯やれ」  
母、いそいそと心尽くしの饗応に立働く ふと状差しに見出した、わが電報───文字、形をなさぬまでに涙滲む  
かくもわが死を悲しみくるる人のありと、われは真に知りたるか その心の無私無欲なるを知りたるか  
故にこそ生命の如何に尊く、些(いささ)かの戦塵の誇りの、如何に浅ましきかを知りたるか  
大和は沈んだ。護衛の駆逐艦も沈んだ。日本海軍最期の艦隊は崩壊した。日本は負けた。大和が敵を引きつけたおかげで、菊水作戦による特攻隊は多大な戦果をあげたということで、天号作戦は成功したと司令部より報告された。しかし米軍の報告によると、沖縄沖での日本軍の(狂ったような。)体当たり攻撃は350機であり、米軍の被害は20数隻が軽傷、駆逐艦3隻のみ、沈没ということだった。  
全作戦終了後、連合艦隊司令部より、このような布告がある。  
「昭和二十年四月初旬、海上特攻隊トシテ沖縄島周辺の敵艦隊ニ対シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ、帝国海軍ノ伝統ト我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揚シ、艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士、皇国護持ノ大義ニ殉ズ 報国ノ至誠(しせい)、心肝(しんかん)ヲ貫キ、忠烈万世ニ燦(かがやき)キタリ ヨッテココニソノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス」  
つまりこういうことである。  
「うん、まあよくやった。おまえらは帝国海軍の誇りだ。褒めてやる」  
徳之島の北西二百浬(カイリ)の洋上、「大和」轟沈して巨体四裂す 水深四百三十米  
今なお埋没する三千の骸  
彼ら終焉の胸中果して如何 
 
初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。  
その理由として 
(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない 
(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない 
(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した。  
戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。  
■ 
大和を含む第二艦隊に特命! 沖縄に民需物資を届けよ!  
昭和58年8月20日発行中央公論増刊「歴史と人物」(太平洋戦争終結秘話)を伝える惠隆之介氏(元海上自衛隊士官、作家、沖縄出身)によると、沖縄に突っ込む大和には、極秘任務として無謀と分かりつつも大量の民需物資の輸送作戦もその任にあったという。  
その内容の一部はこうだ。  
「歯磨、歯ブラシ各50万人分、美顔クリーム25万人分、生理バンド15万人分」  
まさに生活必需品であり、沖縄の人々への想いが伝わる。これらの物資は昭和20年3月下旬、下士官以下ブーブー云ってる中、密かに呉より大和に積まれたという。   
にわかに信じがたい(ウソだろ、というのではなく、特攻作戦なのか輸送作戦なのか、判然としがたいその分裂した作戦要綱に愕然とする。)が、これだけは云える。  
大和はただの特攻ではなかった。らしい。  
彼らが無駄死にだったのかどうか、それは後世に生きる我々次第であろう。 
 
1999年にTV朝日にて放映された、「今よみがえる 戦艦 大和」は、タイタニック号を調査したフランスの潜水チームによる大和の潜水調査ドキュメントと、それによって得られた詳細な海底の模様から、沈没の様子を再現していた。  
まず、海底の大和がどのようになっているか。  
大和は、船首から1/3ほど、つまり第1主砲と第2主砲の間ほどより真っ二つに折れ、船首部はそのまま、艦底を海底につけた形で沈んでいた。それより後ろの艦尾部は引っくり返って、やや離れた場所で舵やスクリューが遠い水面へ向けて露になっていた。4本あるスクリューの1つが吹っ飛んで無く、海底に突き刺さっていた。そして、右舷後方に、直径30mもの大穴が空いていた。  
艦橋は、ぐしゃぐしゃにつぶれて、引っくり返った艦首部の先の下敷きになっていた。周囲には46cm1.5トン砲弾を含めた無数の物体が散乱していた。  
そして主砲は、第1・第2・第3と、一直線上に、定規で引いたように並んで、これも引っくり返って海底に埋まっていた。だから、砲身は、見えない。  
この状況と、他の生存者や吉田満の証言から、大和沈没の瞬間が想像できる。  
左舷へ集中して攻撃を受けた大和は進行方向へ向かって左側に大きく傾き、傾斜が復旧することなく沈んだ。90度にまで達したという傾斜の後、ついに転覆して、ズーンと大和は引っくり返った。その瞬間、主砲(ついでに副砲も。)がスポッと抜けて、暗黒の海底へ真っ逆さまに落ちていった。  
大和の46cm主砲は、6階建て構造で、高さ20m、一基2700トンにもなる。重駆逐艦一隻、もしくは軽巡洋艦一隻分の重量がある。武蔵のときは、別場所(呉海軍工廠)で製造した後、専用の運搬船を造って運び、専用のガントリークレーンをも造って、設置した。これは甲板の大穴へ、スポッとはめ込んでいるだけなのだ。従って、艦が逆さまになったなら、スポッと抜けるのは道理。そんな状況、起こるはずも無かったのだが、起こったのである。  
主砲が抜け落ちた瞬間、抜けた大穴へ大量の海水が入り込んだ。そこで大和は初めて一気に沈んだ。  
吉田満によると沈没後20秒ほどで、大爆発が起こった。これが水上で爆発していたら、生存者はもっと少なかったろうという。  
その爆発は、おそらく、鉄鋼弾が引っくり返った拍子に弾薬庫の中で暴れて、爆発し、誘爆したのだろうと結論づけている。艦内事故で最も恐ろしいのがこの弾薬庫誘爆であり、三笠も二度もこれで沈み(艦の底が抜けて一瞬にして着底している。)陸奥も船体が一撃で裂けて轟沈している。鉄鋼弾は1発で敵艦を貫いて内部火災を起すほどの威力があるから、それがぜんぶ一気に艦内で爆発したら、どんな艦でもひとたまりもない。ちなみに砲弾の搭載量は砲身1つにつき100発、計900発ということである。(900×1.5トン=弾だけで1350トンとは)  
案の定、大和は、第1主砲と第2主砲の間ほどより真っ二つに折れていた。つまり、その部分にあったのが、両砲塔へ送る弾薬の詰まった弾薬庫なのだ。そして艦尾にあった第三主砲塔弾薬庫も誘爆。  
しかし謎がある。それは右舷後方の大穴。魚雷が集中したのは左舷なのだ。  
しかもその穴は、とても魚雷の1発や2発で空くような穴ではなく、それらとは比較にならないほど大きい。じっさい、魚雷による穴と較べても、何倍も大きい。さらに、装甲が内部よりめくれあがっていた。  
この事実に、調査に同行した生存者の人たちが推測したのは、機関部に海水が入り込んで、内部より水蒸気爆発を起こしたのではないか───というものだった。事実、吉田満によると戦闘中に機関区の一部へ水を入れ、艦のバランスを保っているが、罐のそばにいた人間は爆発で四散している。大和が半分に折れたわけだから、注水とはレベルのちがう量の海水が容赦なく12罐ある機関部全体に押し寄せたのだろう。  
あとは、そのまま、大和は海底へ向かった。  
内部や、周囲の、何千人もの人間と共に。(公式の乗組員数は2500人) 
 
しかし、大和は沈没後、すぐに終戦になったから、これでもまだいいほうで、武蔵などは、生き残り部隊は再度招集され、武蔵沈没を秘匿する意味もあって、最前線に送られ、ほとんど死んだ。  
大和よりも武蔵のほうが、民間にて造られたという意義、連合艦隊旗艦にありながら、大和よりも活躍せず、先にあっさり沈んでしまった悲運、いまや大和こそ日本海軍の象徴となってしまっている事実、大和はいちおう名誉の戦死扱いだが、武蔵は沈没すら隠され、生存者に不名誉すら与えていた事実、等を加味し、まことあらゆる意味で悲劇の戦艦と云うに相応しい。実はだから、我輩は武蔵贔屓。吉村昭の「戦艦武蔵」は名作である。  
武蔵は魚雷によって主砲が途中で使えなくなったとのことだが、数少ない生き残りの証言によると、主砲自らの衝撃で壊れてしまったとのことだ。大和も武蔵も設計上のスペックを実戦に投影させるには、実射訓練が少なすぎたようだ。  
そもそも、大和と武蔵の主砲は同時攻撃が計画されていたということで、両艦には無線射撃指揮装置が設置されており、大和のトリガーを引くと武蔵の主砲も撃つことができた。逆もとうぜん可能。30000mもの射程を誇る46cm砲である、そんな遠くでは当時のレーダーでは正確なピンポイント射撃は正直不可能であり、事実、ほとんど当たらなかった。そのリスクを少しでも無くす為の大和・武蔵同時発射装置だが、対艦船の話であり、群がる航空機に対しての話ではない。実戦で撃つ機会はおろか、武蔵が沈んでそれも不可能となったのだった。  
実際、私の実家が、戦争末期にアイオワ級の戦艦3隻から、艦砲射撃をくらっている。アイオワ、ミズーリ、ウィスコンシンの3隻。30kmもの向こう、水平線の彼方から、射撃が行われた。40cm主砲、800kg砲弾。雷のような音が鳴り響き、戦艦の弾が、真上から空気を裂いてギーン! と「落ちてきた」という。落ちた地面には爆発により直径10m、深さ数mの穴が空いて、簡易防空壕などは壕ごと吹っ飛んだという。  
さて、その命中範囲である。  
街の軍需工場を狙ったのだが、街中が穴だらけにされた。住宅地も何も、お構いなしだった。電線には、バラバラになった人間がブラブラと下がっていた。終戦直後の市の航空写真を見ると、見事に蜂の巣にされている。工場を撃つのですらそうなのだから、動き回る戦艦相手に、やはり無理があったのだろうか。  
武蔵は大和とちがって、轟沈せず、直接の沈没原因は浸水であるから、艦首より静かに水中へ没して行った。従って、シブヤン海の底には、そのままの形の武蔵が、静かに眠っている可能性が高い。何千人もの忘れられた骸と共に。  
ところで、大和級3番艦を改造した空母「信濃」って知ってます? レイテ沖海戦に参戦するべく突貫工事をしてましたが、完成2週間で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、いちばん空しい沈み方をしました。(ちなみにその信濃の艦内には、はじめて実戦配備される特攻ロケット兵器「桜花」の部隊がありましたが、乗務員ごと沈みました。) 
 
開戦と日本人 / 12月8日の記憶
 

はじめに  
12月8日の記憶は、8月15日の衝撃の影に埋もれてしまい、その重要性が見落とされる傾向にある。昨年度は本誌上において『玉音放送直後の国民意識』を検討したが、開戦時の民衆意識を知ることが敗戦直後の意識を理解する手掛りになるのではないかと考えた。そこで今年度は開戦から本土初空襲のあった昭和17年4月頃迄の民心の動向について言及する。 
第一節 事変と開戦  
「開戦」と言うと一般には太平洋戦争が連想される。しかし、旧大日本帝国は昭和6年(1931)の満洲事変以降、事実上侵略戦争に突入している。満洲事変にせよ、日華事変にせよ、政府はこれらの戦闘が宣戦布告を伴わないとの理由から「戦争」と呼ばず公式には「事変」と称することにしていた。対米英開戦に至りこれを「大東亜戦争」と呼称することとし、漸く政府は「戦争」をしていることを認めたのである。近年、歴史学では満洲事変以降、太平洋戦争の敗北にいたる期間を「十五年戦争」と呼称することにしているが、それでも、戦前と言えば太平洋戦争が連想されるのが一般の認識である。この理由に満洲事変、日華事変当時の日本社会を知る世代が少なくなったということも挙げられよう。しかし、こうした理由もさることながら、この底流には日本人の対アジア観・対西洋観が横たわっており、それは今日においても基本的に変わってはいない。  
近代日本の対アジア観はその原形を少なくとも征韓論にまで湖ることができる。日本の近隣アジア諸国に対する関係の認識は、丁度、天皇と臣民の関係に似ている。つまり、皇室が国民の宗家であるように、日本はアジア諸国の宗主国であると自覚されていた。このため近隣諸国を対等な関係にある国家とは認識することが出来なかった。「事変」という言葉の発想もこの点にある。対等な国家として認識していない相手に「宣戦布告」をする謂れはないということである。大陸への「進出」は「政治的には欧米の東洋侵略によって植民地化せられた大東亜共榮圏内の諸地方を助けて、彼等の支配より脱却せしめ、経濟的には欧米の搾取を根絶して、共存共榮の圓滑なる自給自足経濟艦制を確立」するためであると国民に宣伝されていた。このように、周本人のアジア観には常にアジアに対する侮蔑と独善的な理想が混在していた。  
日清戦争以来、中国人を「チャンコロ」という蔑称で呼んでいたが、大陸での戦況ははかばかしい展開が見い出されることもなく戦線は泥沼化していた。この事変の長期化は「日支提携による東亜の自主的確立を浴せざる欧米諸國蛇びにコミンテルンの聲策」、と「飽くまで我が實力を過小に評慣し、背後の勢力を侍み」とし大日本帝国の「善意」を理解しようとしない一部の「不逞」支那人のためであると宣伝していた。中でも、この「背後の勢力」が事変長期化の最大の原因であると共に、「東亜」の平和を乱す元区と見なされていた。言うまでもなく「背後の勢力」とはABCD包囲網の内の主にアメリカ、イギリスを指している。当時の日本人の欧米に対する認識は常に「醇化」の対象であると同時に、醇化の完了、すなわち超克すべき存在として認識されていた。それは日清・日露戦争以来の「列強」に対する意識でもあったが、さらには西洋文明の存在そのものが日本文化の主体性を脅かしているという危険感が非常に強かった。このため開戦の日の日本人の表情には、強敵に対する緊張と新しい挑戦への歓喜という二面が表れるのであった。  
十五年戦争という枠から見れば太平洋戦争はそれ自体が戦争全体の末期に位置している。「開戦」の時点で、既に満洲事変以来10年が経過しており、慢性的な戦時体制の下に非常時の日常化が進行していた。当然、労働情勢、農村情勢には相当な疲弊が蓄積されており、日常化した戦時体制の中で、人々は12月8日の朝を迎えるのであ?た。 
第二節  「臨時ニュースを申し上げます」  
昭和16年(1941)12月8日早朝、初冬の抜けるような青空が日本列島に広がっていた。午前7時、ラジオが定時の時報を告げると、「しばらくお待ち下さい」というアナウンスが入った。その一瞬の静寂を破るかのように臨時ニュースのチャイムがけたたましく鳴り響き、館野守男アナウンサーの張り詰めた声が続いた。  
「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます。  
大本営陸海軍部十二月八日午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。  
大本営陸海軍部十二月八日午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。  
なお今後重要な放送があるかも知れませんから聴衆者の皆様にはどうかラジオのスイッチをお切りにならないようお願いします。」  
この日は臨時ニュースが13回、定時のニュースを含めるとニュース放送回数は16回となり局の新記録となった。ニュースの合間には「愛国行進曲」、「軍艦マ・一一チ」、「敵は幾万」が国民の戦意を高揚するために流された。午前10時40分、第二回目の大本営発表があり「我が軍は本八日未明戦闘状態に入るや機を失せず香港の攻撃を開始せり。」と発表された。午前11時45分には内務省情報局から「ただ今アメリカ、イギリスに対する宣戦の大詔が発せられ、また同時に臨時議会招集の詔書が公布されました。」と発表された。  
正午にはラジオの時報に次いで「君が代」が流れた。詔書が読みあげられると、東条英機首相が「大詔を拝して」と題する演説を行った。この後「帝国政府声明」があり、「英米両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度」のため開戦が止むに止まれぬものであったと説明された。午後一時、第六回目の大本営発表になり漸くまとまった戦況が発表されたが、真珠湾奇襲攻撃の戦果については巧妙に後送りにされていた。  
一、帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。  
二、帝国海軍は本八日未明上海において英砲艦「ベトレル」を撃沈せり、米砲艦「ウエーク」は同時刻に降伏せり。  
三、帝国海軍は本八日未明新嘉波を爆撃し大なる戦果を収めたり。  
四、帝国海軍は本八日未明「タバオ」「ウェーキ」「グアム」の敵軍事施設を爆撃せり。  
午後5時には灯火管制がひかれた。この日の夕刊はどの新聞も一面に大見出しで日本の開戦を告げていた。特大の活字の見出しの下には必ず「宣戦の大詔」がこれまた紙面の上段一杯に掲載され、その下段には戦況や戦果が書かれていた。「有楽町のホームで一つの新聞を読み、もう二つをオーバ一のポケットに挟んでおきました。すっかり興奮してしまい、ポケットから二つの新聞が盗まれてしまったのも全く知りませんでした。」とある様に、誰もがこの一大事に新聞を競って読んだのである。  
午後6時、首相官邸から情報局による放送があり、政府の発表は「政府が全責任を負い、率直に、正確に、申し上げるものでありますから、必ずこれを信頼して下さい。」とし、定時刻のニュースは聞き漏らしのないようにと国民に注意した。午後7時30分、これまた情報局次長奥村喜和男により「宣戦の布告にあたり国民にうったう」と題する放送が行われた。この演説は「日本国民の言ひたかつたことをズバリと言つてくれて胸のすく思ひがし、感激を以て聴き入る。アナウンサーが『大放送』といつたのは、そのときのわたくしの気持ちにピッタリ合つた言葉としてうれしかつた。」と記録されている。  
戦意高揚のプロパガンダには歌謡も大いにその役割を振った。「宣戦布告!」、「太平洋の凱歌」、「届け、銃後のこの感謝」といった扇情的な「ニュース歌謡」がそれである。中でも取り分けその名を記憶に留めた「進め一億火の玉だ」は早くも8日午後、ニュースの間奏曲として度々放送されている。なんとも稚拙な歌詞であったが「火の玉」というフレーズが国民の気持ちにピッタリときたのであろう、後に流行語となる程であった。  
「進め一億火の玉だ」  
一、行くそ行こうぞ ぐわんとやるぞ 大和魂だてじゃない みたか知ったか底力  
  こらえこらえた一億の かんにん袋のをが切れた  
二、靖国神社の御前に 柏手うってぬかづけば 親子兄弟夫らが  
  今だ頼むと声がする おいらの胸にゃ ぐっときた  
三、さうだ一億火の玉だ 一人一人が決死隊 がっちりくんだこの腕で  
  まもる銃後は鉄壁だ 何がなんでもやり抜くそ  
午後8時45分、この日8回目の大本営発表が行われ海軍の目覚ましい戦果が発表された。  
一、本八日早朝帝国海軍航空部隊により決行せられたるハワイ空襲において現在までに判明せる戦果左の如し。戦艦二隻轟沈、戦艦四隻大破、大型巡洋艦約四隻大破、以上確実、他に敵飛行機多数を撃破せり、わが飛行機の損害は軽微なり。  
二、わが潜水艦はホノルル沖において航空母艦一隻を撃沈せるものの如きもまだ確実ならず。  
三、本八日早朝グアム島空襲において軍艦ペンギンを撃沈せり。  
四、本日敵国商船を捕獲せるもの数隻。  
五、本日全作戦においてわが艦艇損害なし。  
午後9時になると二つの大本営発表が行われ漸くこの日の臨時ニュースは幕を閉じた。午前7時に始まった臨時ニュースに殆どの国民が釘付けにされた。この日の放送には国民の戦意を高揚させる周到な配慮がなされていた。真珠湾攻撃の戦果が後に回され、その前に東条首相の「大詔を拝して」や奥村情報局次長の「戦線の布告にあたり国民にうったう」といった扇情的な演説を流すあたりは予め考え抜かれた演出を見るようである。 
第三節 緊張と歓喜の朝  
12月8日の人々の表情で最も多い受け止め方は「スッとした」といった一種の爽快感、開放感、歓喜といった強い、そして明快な肯定である。次いで、「いよいよ来るべきものが来た」という実感とその「来るべきもの」に対する緊張感である。緊張感は将来に対する不安感と背中合わせになっている面もあるが、寧ろ、やっと「進むべき道が示された」ことによる安堵感が圧倒的に多い。僅かではあるが戦争の行き先に不安を感じた者があり、そして、最も少ないのが日本の敗北を予感した者であった。  
歓喜を最も素直に表現していったのは少国民の世代である。軍国主義的な教育のためでもあるが、大人と違って不安や緊張の材料に思慮が至らないためでもあろう。山中恒氏は開戦の放送を聞いて思わず「うわ一い、やった、やったあ!」と叫び、当日「集団登校する子どもたちのなかから、はやくも館野アナウンサーの音色をまねてく臨時ニュース〉をやってみせるものもでてきた。」と回想している。「通学する自転車で、友人と『国のため、天皇陛下のため』を熱っぽく語りあった。」とある様に、臨時ニュースは逸速く登校の際には軍国少年の話題となっていた。そして、彼らの間では「この日を境にして、父親を日中戦争で失っていた同級生が急にチヤホヤされる」ようになり当分ヒーロー扱いを受けることとなった。  
ここで青年期に開戦を迎えた人の手記を見てみよう。小長谷三郎はその日記に「来る可きものが遂に来た。何時しか来るぞと予期して居たものが遂に来た。」「これぞ我らがひそかに期待した英米への欝憤晴らしだ。」とし、さらに「我らの気持ちは最早昨日までの安閑たる気持ちから脱けだした。落ち付く可き処に落ち付いた様な気持ちだ。其れと共に新しい押さえ難い意気に駆り立てられないでは居られないのだ。個人主義的な一切の気持ちは何処かへすっ飛んでしまった。そして愛国的な民族的な大きな気持ちに支配されてしまった。」と結んでいる。同年輩の山口正彦も「この日、天気晴朗なれど波高し。富士の麗峰(ママ)は一億国民の決意の前に雄々しく輝いてゐる。想へば隠忍数十年の長い歳月であつた。然し今帝国は自国の存立と名誉の為に決然として立ち上つたのだ。経済、通商不通は覚悟の事だ。英米何ぞおそるべき。俺はこの記念すべき日に高等学校受験への決意を新たにしよう。」と記している。二人に共通しているのは共に開戦を「欝憤晴らし」、「天気晴朗」といった明快な肯定で受け止めている点と、「愛国的な民族的な大きな気持ちに支配され」、「この記念すべき日に高等学校受験への決意」といった偉大なる「国史」に自己を託したいとする青年らしい願望である。事変の長期化と非常時の日常化という閉塞状況を打破するものとして開戦は受け止められていた。これは世代を越えた共通の反応であり、まさに「もやもやしていたものが一挙に吹き飛んだ」のであった。  
しかし、「この朝のゆきき人の面わにも 国のさだめを負ひし色みゆ」と詠まれた様に町の表情は緊張の面持ちで占められていた。電車の中でも「人は黙して緊張しきった空気がピンとはりつめていた」。この町の表情をロベール・ギランは次のように説明している。「彼らは何とか無感動を装おうとしてはいたものの、びっくり仰天した表情を隠しかねていた。この戦争は、彼らが望んだものではあったが、それでいて一方では、彼らはそんなものを欲してはいなかった。〈中略〉何だって!またしても戦争だって!このうえ、まだ戦争だって!というのは、この戦争は、三年半も続いている対中国戦争に加わり、重なる形になったからである。それにごんどの敵は、何とアメリカなのだ。アメリカといえぱ、六ヶ月足らず前には、大部分の新聞や指導者層が御機嫌を取り結んでいた当の相手ではないか!」。  
緊張と歓喜の中にあって極く少数の者ではあるがこの戦争に不安を感じ敗戦を予感した人もいた。これは少なくとも次のような範疇に入る人々である。  
第一に何等かの事情から欧米の技術水準や国力を熟知していた人々である。あるニケ国のうちどちらの戦力が高いかという判断は、両国の産業、経済、文化、軍事に対し相当な知識がなければ困難であり、知識人といえども専門分野の相違や知識の程度に左右されていた。むしろ、「工場で働いていると日本でどれだけ飛行機が生産できるか、それが大体わかるんです。だから、日本がアメリカと戦争しても勝てるわけはないじゃないですかと誰もが思っていました。〈中略〉若い労働量の豊富な工員たちは、戦争に行っているので、…(中年の工員は)これからの労働力を思い、そして暗然とした」、また「こんなことを始めてしまって日本は一体どうなるのか」とある技術者は日記に記している。この様に特殊な環境にあった人の方が判断の材料を持っていた。中等以上の学校では、「強い衝撃を受けて 然となり、続く言葉にはうわの空であった。〈中略〉級友も同じように感じたらしく(私にはそう思えた)、教室は粛として声がなかった。」13》、「勝てる見込みがゼロに近いことを私たちは開戦以前に知っていた。先進国のなかで、もっとも財力のある国と、貧乏を自他ともに認める国が戦って勝てる道理はなかった。少なくとも中学生の常識ではそうだった。」といった記録も見られる。しかし、こういった例は全体から見ると極めて少ない。「少なくとも中学生の常識ではそう」という点も多分に本人の思い込みではないかと思われる。同じ中学生でも先に挙げた例もある。そもそも上級学校への進学率自体からして当時は低い。大学においても事情は同じで「『全学生火の玉となって聖戦完遂に進もう』という教授たちのアジテーションに体をふるわせて、万歳を叫んだものもいた。講義どころではなかった。」といった具合で、この第一の範疇に居た人は殆どいなかったようである。  
第二は、第一で示したような人が身近にいてそうした人から影響を受けていた場合である。一般の庶民層で否定的な態度を示したのはこの範疇に入る者が多い。牧師を友人に持つ進歩的な父親の下で育った柴田洋子は開戦の報に「『ドキン、やっぱり!』と思ったが、予想に反して日本軍はどんどん勝ち進んだ。」16}とある。いずれにせよ、以上の二点はレア・ケースであった。  
第三が徴兵忌避に典型されるような前線に対する恐怖である。これは敗戦の予感に直結するわけではないが、開戦を否定的な態度で迎える要因である。応召の対象になりそうな年代の者、その年齢の夫や子供を持つ婦人、既に応召された者を持つ婦人といった人々がこれに当てはまる。前線に対する恐怖は本能的に出てくるものと考えられるが、国民の圧倒的多数が開戦を明快な肯定的態度で受け入れたのは何故であろうか。  
一つには戦争末期に見られたような事態を全く予想していなかったことが挙げられる。しかし、これにもまして満州事変以来、日常化した戦時体制の中で徴兵に対する諦念や覚悟が一般化し、「戦死」に対する観念が貧弱になっていたことが挙げられる。この時代、生命は「人生観」としてではなく「死生観」として語られていた。それは日本人に固有なものであるかのように強調され美化されていた。人が「死生観」を欲するのは「死」に対する恐怖から解放されたいからであり、この意味に於いて「死生観」の欲求は普遍的なものである。この時代に語られた「死生観」は戦場における「美談」であったが、戦争が慢性化し「戦死」と直面せざるを得ない状況下ではかえってこうした「美談」の内に人々は自己を埋没させていったのである。  
満州事変以降、急速に流行した「戦時佳話」、「軍国美談」はこうした「死生観」の欲求に応える要件を十分に備えていた。そこでは「死」は何処までも美しいものとして、全く一瞬の内に「死んだ」としてしか描かれていない。陣き、苦しみ、切り刻まれていく様に「死んでいく」姿は皆無である。結果としての「死」だけが美化され、「死」に至る残虐で悲惨な過程は削除されていた。「軍国美談」による「死生観」は結果としての「死」だけにより構成され、これが銃後の国民の知り得る唯一の「戦死」であった。この銃後の死生観は「決死」の思想と呼ぶことが出来よう。というのは、「決死」とは死を決意することではあるが、必ず死ぬという「必死」とは異なるからである。生還の見込みがあるからこそ決意の意味が出てくる。純然たる「必死」であればそこには「生」に対する諦念しかありえない。結局、どの程度「死」を現実的に考えていたかということである。銃後の「決死」の思考は「死」が観念の世界にあるだけで、「生死一如」、「死は鴻毛よりも軽し」といったレトリックばかりが先行する中で成り立っていた。このように12月8日の人々の表情を読み取るには、既に戦争が日常化した中で新たに対米英開戦が起こったという点を忘れてはならない。 
第四節 緊張から熱狂へ  
12月8日早朝の緊張と歓喜は、午後8時45分発表のハワイ空襲の大戦果により人々を一気に熱狂と興奮の渦に巻き込んでいった。宮城前は朝から必勝祈願に訪れる「赤子」で「二重橋を間近に拝する濠端は早くも民草の奉拝で埋」っていた。これは「蒼い月光を通して遥かに拝される大内山、この世は森厳の気ひとしおみちみちて宮城前には民草群れひきもきらず」に「深更」まで続いた。同夜からは灯火管制がひかれ「徹底的な灯火管制のために暗くて歩けな」い程であったにもかかわらずである。  
この「民草」の意気は軍への献金の激増、志願兵の急増となって現れた。東京の本郷連隊司令部には従軍志願者が詰め掛け、「中には連日のように出頭して来る人もあるのでその都度説得に困る」、「指を切り流れる鮮血でしたためた血書の嘆願書も少なくない。」という状況であった。海軍にも「八日以来富に」、「無敵海軍にあこがれて海軍志願兵を応募する皇国の若人たちは区役所の兵事係に続々つめかけて」いた。献金となると更に多くの人がこれに参加し、「開戦第一日の八日以来銃後国民の愛国の赤誠は奔流の献金部隊となって陸軍省に殺到」、開戦以来3日で1600件、金額にして215万円にも達した。ハワイ空襲で戦果赫々たる海軍省にあっては「九日は午前六時半というに早くも門前に十数名が押しかけ十余名の受付子に嬉しい転手古i舞をさせ」、僅か2日で160万円に達した。献金、志願は連日のように新聞の紙面を賑わせ献金の見出しだけを挙げてみても、「銃後の赤誠 献金隊区役所に殺到」、「賞金を献金」、「門松代献金」、「永続国防献金貯金 大塚の警防団に狼火」、「匿名の老婆が銅貨で献金」、「小石川の僧侶 托鉢献金」9}ときりがない。廃品回収も各地からその高成績を伝える記事が報道され、「隣組長から組内に敵国人が住んでいて鉄の垣があるからこれを隣組で没収出来ないか」という問い合わせが当局にくる程であった。  
国民の熱狂は民心の自発的な行為に止どまるものではなく、全国の翼賛組織、自治体による「決議文」の採択、各種「決起大会」の開催へと瞬く間に発展していった。これら半官半民の運動は開戦以前から当局により計画されていたものであった。軍国議会と呼ばれた第七十八臨時国会では「大東亜戦争目的貫徹決議案」が12月17日に満場一致で採決された。しかし、これに先駆けて全国の自治体では同様の決議文が続々と採決されている。東京市小石川区では緊急区会を9日午後3時から開催し、「畏くも弦に宣職の大詔拝し我ら小石川区民は大御心を奉載し練力を學げて暴虐なる敵國米英を降伏せしめもつて震襟を安じ奉らんことを期す 右決議す」とし、これを回覧板を通じ全区民に告知すると共に陸海軍省、前線司令官にも伝達した。この種の決議も引用していたらきりがない。決起大会の類も同様であるが、次にその代表例を見てみる。  
東京では10日午後1時から新聞社八社の共同主催で「米英撃滅国民大会」が小石川後楽園で催され、数万の観衆がこれに詰め掛けた。大会は宮城遥拝、国家斉唱、英霊への黙濤の後、奥村情報局次長の挨拶で始まった。次いで陸海軍による戦況報告、徳富蘇峰、緒方竹虎、正力松太郎、三木武吉といった言論界のそうそうたる面々による演説、宣言の決議、万歳斉唱、最後に「愛国行進曲」を斉唱して終わるというプログラムであった。この模様は全国にラジオ中継され、会場の熱気はスピーカーを通じ全国に伝播していった。閉会後、興奮さめやらぬ聴衆は近隣の神社に、そして、宮城前へ、宮城前へと参拝に繰り出し全国に「万歳」の嵐がこだました。先に引用した小長谷三郎もこの群衆の中にあって、「此の日の後楽園の光景、それは熱狂した市民の姿であり、戦う日本の姿であると思った。名士の一言半句に耳を傾けわけもなく拍手かっ采するのである。自分も此の群れに居て何か力強い、興奮にじっとして居られなかった。」と記している。官憲の記録にも、「純忠愛國の熱情膨濟として全國に沸騰し、各地に於いて戦勝、國威宣揚祈願祭、在郷軍人、學生、生徒の街頭行進、市町村民大会等の開催せらるSもの多く、國民は斉しく政府の剴切周到なる措置に対し絶封的支持を表明するとともに、陸海軍の神速果敢なる作戦とその赫々たる戦果に感奮興起し、挙國一致燈制益々強化せられたる感深し。」とある。  
開戦後、戦況を逸速く知りたいがためラジオを購入する人が増え、神奈川県下だけでも開戦後、2日間で500件余りの新規加入者があった。これは日露戦争を契機に農村地帯で新聞購読者が増えたという事例とよく似た現象であるが、大きく異なるのはラジオが民衆統制の有効な手段として利用されるようになった点である。ラジオが地方・全国レベルでの統制手段を、回覧板が地域の統制メディアとして活用された。実際、ラジオがなければ戦争を「終わらせる」ことも出来なかったであろう。ラジオと並ぶ開戦後のベストセラーに『世界地図』があった。それは「飛ぶように売れて行つて、世界地図という地図は週報の付録に至るまで皆売りつくしてしまつた」。国民新聞などはこれを予想したか早くも9日の紙面に小さいながらも「太平洋要図(亜米大陸南洋)新聞二頁大多色刷定価五十銭国民新聞社発行」と宣伝している。「自分で書いた『南洋』の地図の上に『皇軍』の進撃の後をたどるのが日課」となった位であるから、『世界地図』がよく売れたのも当然と言える。  
逆に開戦により最も大きな煽を食らったのは、映画館、遊興街であった。横浜の映画街では開戦以来「ばつたり客足が減」り、「ドル箱であったアメリカ映画は以降絶対に上映しないことに業者が自治的に申し合わせた」。また、「遊興街の客足減の見積りは四割強で、これは増税が利いたことも争われないが、ことに待合、料亭等は全く火が消えたよう」であった。もっとも、こうした傾向は個人主義的傾向の払拭ということで歓迎された。「最も顕著なことは物資不足を訴へる不平不満が市民生活から消滅し」、「これまで自分の利害ばかりを中心に『某店では抱き合わせでないと売つてくれない』だの『私の家では家族一同イカの夢ばかり見てゐる』といった不平不満がなくなり建設的試案が投書の形で書き綴られ始めた。」とし新聞もこの傾向を評価している。犯罪等も減少し警視庁管内では詐欺事件は開戦以前は一日平均3件強であったのが、開戦後は一週間に3件という激減ぶりを示した。こうした民心動向は労働情勢にも反映し「労働争議の発生は更に著減し、また係争中のものもその早急解決に拍車を加え、其他出勤率向上、欠勤、早退、遅刻の減少、作業能率増大等の好現象となりて現はれ、就中従来職場に於いて見受けられたる階級的観念または待遇上の不満に基く各種の不穏落書は其跡を絶ち、これに代わりて聖戦完遂の意気を高調せるものを散見せらるs実情」にあった。 
第五節 民衆統制の方針と総翼賛の最高潮  
開戦後、民衆統制の方針は「決戦生活訓五訓」として12月10日午前6時30分のラジオによる全国一斉常会の場で国民に提示された。  
一、強くあれ、日本は国運を賭してゐる、沈着平静職場を守れ  
二、流言に迷うな、何事も当局の指導に従って行動せよ  
三、不要の預金引出し、買溜めは国家への反逆と知れ  
四、防空防火は隣組の協力で死守せよ  
五、華々しい戦果に酔うことなく、この重大決戦を最後まで頑張れ  
要するに、職分奉公、防諜、貯蓄奨励、防空、長期戦の覚悟の五点である。民衆統制の組織・機構は敗戦まで朝令暮改を繰り返したが、この五点は最後まで統制の原則として繰り返し強調されていった。  
職分奉公については既に見た通りであり、開戦当初の民衆の勤労意欲と戦意の高揚は昭和17年3月頃まで持続する。この間は戦前において当局の言う治安情勢が最も安定した時期であった。  
開戦直後の流言の発生状況も「造言蛮語の取締に就いては厳重注意取締中なるが、皇軍の赫々たる戦果と当局の適切なる輿論指導の為、民心は極めて明朗闊達何等も不安動揺認められざる情勢」であった。防諜は以前にも増しその徹底をはかることが要求され、新聞等にも防諜特集の記事が多く組まれた。「巧妙極める外人スパイの暗躍、恐るべき実例を紹介」とし家庭にある写真はスパイに狙われる可能性があるとか、「知らぬ間に...壁に秘密盗聴機、敵は隣に・油断ならぬ」とし主婦から酔っ払いの話に至るまで軍に関することは片っ端からスパイに狙われているといったことが新聞紙上で説かれていた。防諜対策には「”軍隊の事は知らぬ”これぞ国民の合言葉に」といった「三猿主義」が決まって持ち出された。しかし、開戦当初はともかく「軍隊のこと」は国民が最も気になる事であり、結局防諜こそ流言の温床にほかならなかった。  
預金引き出しに至っては献金に多数の人が詰め掛ける位で、物不足への不満も決戦に対する覚悟が民心の大部分を占めるようになった。しかし、物不足は不満が減ったというだけで、物が出回るようになった訳ではない。これについて12日午後7時30分のラジオ放送で井野農相は「国民が不自由を忍べば決して食糧不安のない」事を訴え、外米輸入がなくなっても「麦や甘藷類を雑ぜて辛抱さへすれば飢に苦しむことのない様な手配は既にしてある。」と説明した。「飢に苦しむ」事はないまでも長期戦となる以上それなりの覚悟が必要であると国民に覚悟促した。その他方では「元来東亜共栄圏は立派な農業圏であり畜産権であり、水産圏」であり、「米に就いてみても国外へ輸出し得る国としては、仏印、タイ等であり両国で二千二百万石の輸出余力」があるとし、東亜共栄圏の完成に向けて国民の一層の協力を駆り立てた。このような国民に覚悟を促すことによりさらなる協力を引き出すといった手法は、民衆統制の常套手段として敗戦まで繰り返されていった。戦争末期になると生活と戦況の絶望的状況は「死」の覚悟と引き換えにされていく。  
防空、長期戦の覚悟も同様な民衆統制の手法であった。本土空襲や戦争の長期化について事前に国民に理解を求めるのみならず、これを戦意の高揚に転化していこうとする狙いが当局にはあった。こうした世論操作は『国内世論ノ指導要綱』として開戦直後には既にまとめられていた。  
『国内世論ノ指導要綱』は空襲について「国土モ亦戦場トナルコトアルヘキヲ理解セシメ」、その狙いが「実際的効果ヨリモ寧ロ国民ノ精神的動揺ヲ目的トスルモノ」にあるとした。対策として「恐怖心ヲ防止スルト供二、沈着消火二挺身スルコトニヨリ、実害ヲモ最小限度二食ヒ止メ得ベキコト」と「空襲時二於ケル流言輩語ノ流布ヲ未発二防止スルコト」の二つをあげている。民間防空は防諜と背中合わせであった。そして、空襲の被害発表については「国民ヲ恐怖二陥ルコトナク、却テ敵’嵐心ノ発揚二導ク如ク考慮スル」とした。  
この空襲対策は昭和17年4月18日の本土初空襲の際には見事に効をそうした。この時は軍も虚をつかれ、「旭電化上で黒いものが落ち、ものすごい地響きを立てた。そのまま飛鳥山の方へ飛び去って行ったようである。そして後から空襲警報が鳴り出した」。しかし、市民の問でも「今のは本当に空襲だろうか、それとも演習だろうかと騒ぎだした。」9粒であり、緒戦の戦勝ムードの中でまさか帝都に敵機が来るとは誰も思っていなかった。この所謂ドゥーリトル空襲は中型のB25、16機による散発的な空襲であったため、爆撃を目の当たりにした者以外は「その日の夕刊を見るまではみんな半信半疑」であった。また、敵機を目撃した者も「この頃はまだ敵機より憲兵のほうがこわかった。」ために妄りに口外は出来なかった。しかし、実際に爆撃を受けた者は「歯をえぐられ、左の頬にかけてぱっくりと口があいてく中略〉払っても払っても消えない血痕は、雨の降るたびに浮きあがり……」とその惨状を生々しく記録している。  
この空襲はどう報道されたのであろうか。まず、18日午後2時の東部軍司令部発表は「現在までに判明せる敵機撃墜数は九機にして我が方の損害軽微なる模様、皇室は御安泰」13》とある。実際は一機も撃墜されていなかったが、「あッ敵機の胴体に命中弾」、「かくて敵機を撃墜せり」、といった作り話がまことしやかに報道された。これが防火活動となるとさらにエスカレートし「素手で焼夷弾を処理」、「病床蹴つて隣家へ手掴みで焼夷弾捨つ」といった「手掴み」物が何例も報道され、「濡れ莚(ムシロ)凄い効果」といったことが盛んに報道された。空襲が小規模であったために未然に消し止めたり、延焼を防いだりした実例がかなりあったことも事実ではある。しかし、この空襲による全焼家屋は百数十戸、死者約50名、負傷者約400名を数えていた。こうした被害にっいては「軽微」で片付け鎮火の成功例ばかりが喧伝された。しかも、この初空襲の体験が防空活動の教訓とされるようになり、「平素ノ訓通リ恐怖狼狽セズ、沈着機敏二防護活動ヲ為スニ於イテハ、被害ヲ最小限二喰イ止メ得ルコト確実ナリ」19》という信念が残された。後のB29による本格的な空襲ではこの「空襲体験の教訓」が逃げ遅れによる多くの焼死者を招くのである。  
『国内世論ノ指導要綱』は戦争の長期化を国民に「必定ナルコトヲ覚悟セシメ」、対策に「物資ノ節約二努メシムルー方、増産計画ノ確立二付毫ノ遺算無カラシムル如ク国民各階層ノ実践的努力ノ必要ヲ力説」する事とした。南方物資についても「進ンデ前途二洋々タル希望ヲ抱カシムルー方、過早浮薄ナル楽観ヲ厳戒」し、長期戦に伴う生活の逼迫は敵国にもあり「我ノミニ非ザルコト」を国民に訴えることとした。近代戦は銃後の我慢競べという訳である。そして、ここでもまた「国民苦痛ハ之ヲ敵悔心ノ刺激二導キ、却テ戦意ヲ昂揚セシムル」としている。  
民間において「敵撫心ノ発揚」は敵性文化の排撃という運動に現れた。この傾向は以前から根強いものであったが、開戦後はこの国粋主義に敵憶心が加わっていくのである。例えば、興亜写真報国会は「アメリカニズムの一掃」を掲げ、「いまだに残存する“アメリカ臭”風物の記録撮影」に銀座に繰り出した。アメリカかぶれしたポスター、横文字の看板、アメリカ映画女優ばりの洋装女といったものがカメラの放列に曝され、「銀座に見る敵性ぶりはまだ相当なものく中略〉これでも戦争してゐる銃後かと疑われる」と批判の弁を立てた。適性文化の排撃にはドイツやイタリアのクラシックは良いがアメリカやイギリスのものは駄目といった、近代の中から英米色だけを取り除くという奇妙さを伴なった。開戦前、アメリカ映画がドル箱であったという事実は、殆どの日本人が西洋文化に強い憧れをもっていたことを示している。これを俄かに敵性として排撃するのは劣等感の現われに他ならないが、戦前は禁欲の美徳に巧妙にすり代えられていた。  
世論指導は敵漁心を煽ると同時に「敵国ノ実力ヲ下計算シ、戦争遂行ヲ容易視スルコトヲ戒メ」るものでもあった。当局はことある毎に「緒戦の勝利に酔うな」と国民に呼び掛けてきたが、その実、翼賛会、在郷軍人会といった半官半民組織を通じ国民の熱狂を喚起していた。そもそも「敵国ノ実力ヲ下計算」していたのは政府であり、だからこそ無謀な戦争を始めることが出来たのである。結局、この点は全く守られなかった。「米軍滅茶苦茶の狼狽ぶり 俺は味方だの信号も聞かず友軍機撃墜の大戦果」、「大統領、一時は失神状態 国務省も蜂の巣!」22》、「米市民神経衰弱 悲喜劇を綴る恐怖のドン底」、「敗報相次げど施す術なし 狂はん許りのルーズヴェルト」24}等々、緒戦の新聞紙面は「下計算」の見出しで賑わっていた。実際には12月8日以来、「Remember Perl Harber」がアメリカ人の合言葉となっていったことは周知の事実である。  
そうしたアメリカの世論をよそに銃後の国民は皇軍破竹の進撃に拍手喝采を送っていた。12月10日のグァム、マキン、タワラ三島占領を皮切りに、13日九竜半島制圧、21日ダバオ陥落、23日ウェーク島占領、そして25日クリスマスの夕方香港が陥落した。号外の相次ぐ中でも香港陥落に銃後は一段と沸き立った。大英帝国アジアの拠点にまた一つ日の丸の旗が揚がり、銃後の師走は戦勝気分で暮れていった。  
しかし、年明けの正月は一層、戦時色の濃いものとなった。「門松代献金」を全区の隣組で申し合わせた東京都瀧野川区では、さらに年始年末の虚礼廃止、物資の節約、貯蓄の励行、行楽旅行の絶対廃止を申し合わせ、「各町会を通じ区民一同に徹底させる」事となった。こうした動きは全国的なものであった。当局も「年末年始をねらう敵機の空襲に備へ南北関東地区に対し三十一日夜から一月四日朝まで夜間のみ警戒警報」を発令した。これは期間といい「夜間のみ」といい何とも奇妙な警戒警報であり、暗に戦勝気分に自粛を求める当局側の意図が伺えよう。かくして、大晦日の除夜の鐘は「防空警報伝達ノ信号二類似スルモノト認メラル、(?!)ヲ以テ、之ガ差止」を決定することとなり、初詣での電車の終夜運転も中止、灯火管制に付き夜間外出も自粛を要請されることとなった。東京市では警視庁と申し合わせ次のような懸垂幕を市内の映画館、劇場に正月一杯掲げることにした。  
「一億決死だ  真に銃後国民として、如何にもつ〉ましやかできりっと戦時下らしい質素な身なりをしないと命がけの兵隊さんに申し訳がありますまい」  
これではおとそ気分も吹っ飛ぶといったところであるが、実際の民衆の関心も正月気分というよりは、正に戦勝気分であった。「皇軍の輝かしい開戦の戦果を見ようと、どっと押しかけた観客で映画館は長い列、々、々。某ニュース映画館は列が電車軌道にまではみ出し交通巡査が出動して取り締まりに当たった」。明治神宮では終夜電車の廃止、灯火管制といった事情にもかかわらず、「午後五時二十分から奉拝が許された定刻前から戦捷の喜びと口口の決意を神前に口はうと待ちに待つた市民は掃浄められた参道の玉砂利をふみしめて引きもきらず」、参拝に来ていた東条英機に「東条さん万歳」の声が渦のように巻き起こったという。小長谷三郎も「神宮に参拝の人の群れは皆漫刺たる国民的意識に張り切って居る」、「唯日本国民のみが持つ誇りを心の底にありし事を覚えて自分の存在が解ったように思われる。」とこの年の正月を記している。  
1月2日閣議は宣戦の大詔が「換発アラセラレ」た12月8日を「皇国二生ヲ享クルモノノ斉シク永遠二忘レ能ハザルノ日ナリ」とし、毎月八日をこれまでの興亜奉公日に代えて大詔奉戴日とすることに決定した。こうして毎月八日には宣戦の詔書奉書、必勝祈願、国旗掲揚、職域奉公が各家庭・職場・学校等で行われることとなった。八日が休日と重なった場合、「殊更二祭式二参加ヲ強制セサルコト」、「殊更二出勤、出校セシムルニモ及ハス」とあったが、開戦当初の国民の熱烈な自発性は官僚機構に吸い上げられ、結局この日に託つけた貯金、債券購入、勤労奉仕が実施されていく事となった。  
2月15日シンガポールが陥落し18日には第一次戦捷祝賀会が盛大に挙行された。これに先立つ1月19日、既に次官会議の席上に『新嘉披陥落ノ際二於ケル戦捷祝賀行事実施要領』が提出されており、これまた「戦勝二酔ツタ」当局による演出であった。当日は東条英機首相による演説が全国に放送され、ラジオを通じた万歳の一斉唱和が行われた。宮城前に遥拝に詰め掛けた民衆に、白馬「白雪」に跨った天皇が二重橋の上から挙手の礼を以て答えるという演出がなされた。これは昭和13年10月28日の武漢陥落以来のことであり、感極まった「赤子」が唱和する「君が代」は宮城を幾重にもこだました。3月に入ると、1日には満州帝国建国十周年記念式典の挙行。6日にはハワイ海戦における特攻隊隊員が九軍神として発表され、新聞は「軍神」の生い立ちから、その人となり遺族に至る迄を事細かに報道し、遺族には全国から激励の手紙や見舞い金が殺到した。9日には蘭印軍が降伏し、10日の陸軍記念日には記念式典の挙行。そして、12日蘭印降伏を祝し第二次戦捷祝賀会が挙行され、列島全土に日の丸の花が咲き誇った。この時期、銃後の戦意は最高潮を迎え特高月報1月分、2月分の目次に「労働運動の状況」、「農村運動の状況」の項目はなく、これが最後の戦捷祝賀会になろうとは誰も予想だにしなかった。この日、小長谷三郎はこう記す。「自分は丙種合格であり第一線に立つ能わざりしを実に残念に思う。この偉大な戦果を喜ばぬわけではないが、それが大きければ大きいだけ肩身の狭きを覚ゆ。」 
第六節 開戦半年目 一敗戦の予兆一  
『特高月報昭和16年12月分』はその「概説」で「開戦後直近の好現象も今後予想せらる〉戦争の長期化に伴ひ、如何なる程度に持続せらる〉や不明なり」と懸念を表明している。民心の不平不満が減ったとはいえその原因が解決されていない以上、このような懸念がでてくるのは当然である。この懸念は早くも的中し、『特高月報昭和17年3月分』の「概説」では「食料不足其他生活必需物資の入手困難、物価の昂騰等に基づく生活不安と相侯って労働者の不平不満は漸く一般に禰漫し、作業への熱意の喪失、労働争議の不滅少傾向等相当憂慮すべき実情」にあると報告されている。  
労働情勢悪化の最たる原因が飯米の不足であった。主に肉体労働者、学校、多子家族、業務用米といった方面で飯米不足が深刻化した。「労働者の世帯多き」横浜大岡警察署管内においては調査総戸数の63.3%が配給米の食い込み(次の配給日迄に配給米を食べてしまうこと)を来たしており、全世帯の5.3%が配給日の3日前には米櫃が空になるという状況であった。このため、出勤率の低下や微用工の逃亡が報告されている。京都市室町国民学校においては児童の体重増加の平均が昭和13年においては2.46kgであったのに対し昭和16年は1.4kgに止どまった。このため「空腹に堪えず弁当の早喰いを為す者、或いは他人の弁当を盗食するの事件頻発」、「朝礼訓示の際又は体操の時間等に児童の昏倒する者激増」という有様であった。こうして「井戸端会議の話題はいつも米の不足ばかり」となり、いつしかそれは流言を生むに至った。それは「本能的に飯米不足は死を連想するものの如く流言等に於いて死に関するもの其の大半を占め」、買い出しの米を巡査に取り上げられ首を吊って死んだ者の話とか、一椀の飯を争って兄が弟を殺してしまったといった悲惨なものが多かった。不足は米に限ったものではなかった。生活必需品の殆どが配給制となっていたが制度の運用は著しく公正・平等に欠き、寧ろ自由販売が統制配給となったことは流通機構を不透明にし不正が横行する結果となった。統制配給による変化はまず店員の態度に現れる。「配給店や店員達の態度がガラリと尊大になり、〈中略〉あたかもお役所の観を呈し彼らが勝手に設けた時間以外」には販売をしない。横浜では八百屋が「毎日町内会から人手を出して、坂道では荷車を押し上げてくれ」と要求し問題となった。物不足は買い溜めを煽り、買い溜めが物不足を生むという悪循環に加え、販売時間の制限は行列を益々長くした。ところが、当局はこの行列を「堵列」と称し時間の空費であるとしてその取り締まりに乗り出した。こうした庶民の苦労をよそに「行列を無視して所謂『顔』の注文乃至は電話注文」がなされ、「特定の得意に対して前以て品物を除け置き残品を販売する傾向が暫時顕著」であった。「顔」、「得意」は無論公定価以上の闇値で買って」いた。  
民衆のやり場のない不満が募る中、4月18日のドゥーリトル空襲による国民の敵憶心と士気の高揚もカンフル剤的なものでしかなかった。空襲が小規模であったため、「記者達の軍部への空襲問答の笑止極まる軍部の答弁に愈々日本機で日本空襲の醜態が暴露された」、「東条の逆賊奴が国民を脅かしたるニセ空襲である」といった思わぬ「不敬不穏投書」が飛び込んできた。本土初空襲は体制への不平不満の吐け口となったのである。  
4月30日、第21回総選挙が行われたが、これは棄権をする者は事前に申告が義務付けられ、投票者には「投票済証」を交付し自宅の軒先に貼らせるという「翼賛選挙」であった。しかし、当局のこうした締付けにもかかわらず、一般勤労者は「労働強化に依る疲労或は時間的余裕なきこと等を理由に其の関心は極めて低調」であった。  
この頃になると、応召で空いた熟練労働者の穴を「白紙召集」の徴用で埋めていった結果、労働力の不足に加え質の低下が問題となってきた。小長谷三郎の日記にも4月6日、4月14日、5月18日と立て続けに死亡事故の発生が書かれている。そのうちの二件は「新米」連結手によるものであった。本職を離れた徴用工員は配置先の「職員、古参工員から『徴用!徴用!』と呼び捨てにされ」、「新規徴用工員の最高初給賃金は客観的に低廉なる実情」にあった。この年、労働争議の発生件数は支那事変以来最低となったが、「争議未然防止件数の増加並びに変態的争議と目すべき逃走・転職・転労・集団暴行・合法的怠業等の頻発」、「労働情勢の険悪化が憂慮せらるる状況」であった。  
労働者の集中する都市と対照的なのが農村情勢であり、3月17日、農村共同体建設同盟の自発的解散をして「階級的農民組織は菰に全く其の影を没し、我国農民運動史上當に画期的段階」に入った。この年、小作争議の発生件数は著しく減少し支那事変勃発の年の5分の1、938件に止どまった。特高月報の目次からは「農村情勢」の項目が4月分以降8月分に至るまで見い出すことが出来なくなる。買い出しの人を相手に闇値で農作物を売り付ける農民は、食糧難の都会より遥かにましに思われた。都市住民の農村観には「土百姓共我等京洛の人間は貴様共刃逐致すそ馬鹿御前等は死んで地獄に落ちれば本望だ」という激烈な形容にみられる様な反感もあった。ところがこれに対し農民も強い反感を都市の住民に抱いていた。その理由は主に農作物の低物価政策と供出の二点にあった。低物価は「小麦一俵とスフのズボンー着と交換では百姓が嫌になる」という感情を農民に広げた。昭和17年2月に始まった衣料切符制では一年100点の乙種が都市部に80点の甲種が郡部に割り当てられ、この差別待遇は農民の不評を買っていた。「遊んで居る都会人が沢山食べて我々が腹を減らして居てよいのか」とある様に、供出は「遊んで居る都会人」に米を呉てやっているようなものという認識が一般化していた。この一方、農村においても応召徴用による労力の不足が深刻化していた。この年、北海道における離農者1,874名中応召徴用による離農者は570人であり、同じく千葉県においては1,256人中実に807人を数えた。離農は全国的な傾向でありその殆どが都市の工場に吸収されて行くのである。この都市と農村の間での悪循環は戦争という名の近代化によりますます加速されていった。また、食料配給制の施行に伴い都市と農村の関係は「飯米」を持つ者と持たざる者という関係に変わり、両者の間での感情的な亀裂を決定付けるものとなっていった。 
むすびにかえて  
民衆統制の方針は覚悟を促すという面と「南方物資」に見られるような希望を喚起させる面とを持っていた。これは民衆心理の二面性とも合致するものである。民心には國髄信仰に対する翼賛と植民地獲得に対する「欲算」、英霊に対する憧憬と前線に対する恐怖といった相反する気持ちが存在し、状況に応じそのいずれかが民衆の表情に現れるのである。「民衆の側の戦争責任」という観点からすれば、この点に民衆の主体性、一貫性のなさがあり、それゆえ戦争責任が自覚されないという結論になる。確かに民衆の戦争責任を断定するにはこのような正論も重要である。しかし、それは結果論に過ぎず、そこから民衆の実像や戦争協力に対する彼等の動機を引き出すことは出来ない。このことは都市と農村の関係を考え合わせた時、一層明瞭となろう。  
農村はしばしばファシズムの温床であるかのようにいわれてきたが、封建的であるという事とファシズムの温床であるという事は区別されるべきである。体制の側が農村を堅固な支持基盤とするために農本主義を打ち出したのであり、農村の中からファシズムが出てきた訳ではない。これに対し、都市部が翼賛運動のメッカであったことに異論の余地はあるまい。農村と較べ一次集団の崩壊が著しかった都市では「臣民」という概念が人間的紐帯の復活を担っていた。農村でも翼賛運動は展開されるが熟練労働を要する「農民」の結束が堅固な一次集団としての機能を失った訳ではない。封建性がファシズムに、近代化がデモクラシーに必ずしも結び付くとは限らないのである。  
仮に全体主義が近代化の挫折から生じたものであったとするならば、臣民化はその挫折への答えであった。この中で12月8日の熱狂はその「挫折」の超克に位置付けられる。戦争は単に戦闘に対する勝利だけではなく、自らの信仰(皇国イデオロギー)に対する勝利でなけれけばならなかった。しかし、この超克は束の間の『坂の上の雲』であった。戦捷祝賀会の華々しい舞台裏で、戦争という名の近代化は民衆生活の随所にその歪を現していく。それは都市住民と農民、配給店と買い物客、庶民と『顔』、徴用工と古参工員との間に様々な感情の亀裂と利害の対立を生み出していくのである。  
戦況が悪化していく中で次第に國髄信仰に対する勝利だけが民衆の戦意のより何処となっていく。戦争末期の惨状はもはや「決死」ではなく「必死」が、「戦死」ではなく「餓死」のみが迫っていることを示していた。しかし、開戦の熱狂の対極に来るものが何であるかを知る者は極く僅かであった。人々は、止み難い「生」への執着と捨て切れぬ國燈への信仰との狭間で8月15日を迎えるのである。  
この日、開戦の日の情景を想起したのか、ある作家の日記にはこう記されていた。  
「私は恥ずかしかった。ものも言えないくらい恥ずかしかった。」(太宰治)