教育

 
【教育】知識を与え個人の能力を伸ばす。一定期間、計画的、組識的に行なう学校教育。 
【学校】一定の設備と方案によって教師が児童、生徒、学生に継続的に教育を施す所。日本では大宝令で制度化された。現学校教育法は小学校、中学校、高等学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校および幼稚園としている。 
【幼児教育】小学校入学前の幼児の教育。就学前教育。 
【義務教育】法律によって、国民がその保護する子弟に義務として一定期間受けさせなければならない普通教育。日本の現行学制では小学校と中学校との九か年の教育をいう。
  
【道徳】人間がそれに従って行為すべき正当な原理(道)と、その原理に従って行為できるように育成された人間の習慣(徳)。はじめ慣習、風習、習俗の中に現れ、その批判、反省により慣習から分化し精神的規範・規準として現れる。 
【道徳教育】道徳心を高め行為を正しくするための教育。徳育。学校教育の一部として、社会の理想とする行為や生活態度を身につけさせる教育。昭和33年から小・中学校に道徳の時間が独立して設けられた。 
【道徳心】道徳を守り、行為しようとする心の働き。 
【教養】学問、知識などによって養われた品位。文化に関する広い知識。 
【情操】情感ゆたかな心その働き。道徳的、芸術的、宗教的などの高次な価値をもった感情。 
【情操教育】情操を豊かに健全に育成するための教育
   
【実習】講義を聞いたり、資料によったりすることだけで学習していたものを、実地に、または実物をもって学ぶこと。 
【孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教(おし)え】孟子の母が子の教育に適した環境を選んで居所を三度移し変えたという故事。最初、墓の近くで孟子が葬式のまねをした、次に市場の近くで商人のかけひきのまねた、学校のそばに転居すると今度は礼儀作法のまねをした。 
【鉄は熱いうちに打て】(Strike while the iron is hot)成長後では教育効果があがらないから若いうちに鍛錬しておけ。時機を失しないように処置をせよ。
  
【良心】人間が生来もっていて物事の是非・善悪を判別する意識。生来ではなく教育によって育てられた善悪、正不正を判定する人間の能力。「良心の呵責」「良心的な店」 
良心の自由 人の精神的活動はいかにあろうとも法律で禁止・強制されない。憲法が保障する自由権。 
【自由教育】政治、宗教、職業などのすべての束縛から離れ、人間としての資質・教養を高めるための教育。被教育者の資質、個性を重んじ自発的活動に中心をおく教育。 
【全人】知識・感情・意志の調和した円満な人。完全な人格を備えた人。 
【全人教育】知識に加え、性格教育、情操教育なども重視する教育。
   
【人格教育】調和と統一のとれた円満な人格完成を目指す教育。知識・技能教育に対し直接心情に触れる教育。 
【個性教育】各人の個性を尊重し、その持っている可能性を引き出そうと努める教育。 
【英才教育】知能のすぐれた児童、生徒に、特別に行なう教育。 
【天才教育】すぐれた知能や才能を持っている幼児の特殊才能を、特別に助長、発達させるための特殊教育。 
【精神教育】精神を訓練する教育。特に、志操や根性の鍛練や徳性を養うことを目的とするもの。 
【生涯教育】人間の学習を一生継続するものとして家庭、学校、社会教育の関連を再検討しようとする教育論。 
【家庭教育】家庭生活の中で行なわれる心情・人格性に根ざす教育。 
【国語教育】日常生活に必要な国語を正しく理解し・表現することを目的とする教育。
  
【修身】自分の行いを正し修めること。身を修めて善を行うよう努めること。旧学制下の小学校・国民学校などで、道徳教育を行うために設けられていた教科名。教育勅語をよりどころとしていた。昭和20年廃止。 
【女大学】江戸時代に広く行なわれた女子の教訓書。父母、夫、舅姑(しゅうとしゅうとめ)に従順に仕え、家政を治めることなどを説く。女子のための教訓書一般。旧式な女子教育。「今様女大学」 
【努力】ある物事を成し遂げるため休んだり怠けたりすることなく努め励む。精を出すこと。/努力家/奮励努力/ 
【一所懸命】一か所の所領を命にかけて生活の頼みとする。命がけのこと。一生懸命。 
【がんばる・眼張る・頑(グヮン)張る】頑強に座を占める。一所にじっと控える。困難に屈せず努力し続ける。
   
【我慢】じっと耐え忍ぶ。辛抱する。 
【仕付・躾】(躾)礼儀作法を身につけさせる。「子どものしつけ」「きびしいしつけ」 
【生活】世の中に暮らしてゆくこと。 
【生活学習】具体的な生活をみつめ、実生活を通じて生きた知識を習得していく学習。 
【生活教育】生活学習によってなされる教育。ペスタロッチの生活学校論に端を発し、デューイの生活教育論となり、日本の生活綴方運動の教育観にまで及ぶ。 
【生活指導】子どもの現実の生活に即してその主体的な生き方を見いだしていけるように指導すること。
  
【徳育】道徳心を高め、道徳的行為を促進するために行う教育。道徳教育。 
【偏向】かたよって中正を失うこと。また、その方向や傾向。「偏向教育」 
【同和教育】(「同和」は「同胞一和」の略)日本の社会の中に残っている身分差別とそれに結びつく貧困から被差別部落の人々の解放をはかるため、ひろくすべての国民を対象として行われる教育。第二次世界大戦以前の融和教育の妥協性、観念性を克服して、人権意識の確立と具体的施策の充実を目ざす民主的な教育。 
【政治教育】特定のイデオロギーに基づく政治活動のための教育。

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。
 
 
 
 
明治憲法と教育勅語 
明治憲法の発布と教育
国会開設の詔勅(明治十四年)が発せられて後、政府は憲法制定の準備を進め、明治二十二年二月十一日に「大日本帝国憲法」が発布された。これがいわゆる明治憲法であり、その後はこの憲法に基づいてわが国の政治が行なわれ、したがってその後の教育行政はこれを基本として実施されたのである。
明治憲法には、教育に関する規定は設けられなかったが、教育の基本となる勅令を発する根拠となる条文があり、また教育行政の基本となる官制等の制定に関する条文が設けられている。これらは天皇の大権事項として定められているのである。このほか、教育財政等に関する法律は、帝国議会の審議を経て定められたものであるから、もとより憲法に基づくものである。
教育行政組織の基本をなすものは官制であり、それはすでに内閣制度創設以後定められていたが、憲法によってその基礎が与えられた。憲法第十条には、行政各部の官制、文武官の俸給の制定、文武官の任免を天皇の大権事項として定めている。これに基づいて勅令をもって各省官制、地方官官制、直轄学校の官制等が制定され、また高等官・判任官の官等俸給令が定められた。このように明治憲法においては法律によらず勅令をもって行政組織の基本が定められ、これに基づいて教育行政が実施される組織となっていたのである。
教育に関する規定を憲法の条文中に設けるか否かについては、憲法の起草過程において問題とされたが、結局設けられなかった。そこで教育に関する重要事項、特に教育の目的・内容等に関する基本事項は勅令をもって定められることとなったのである。明治二十三年の小学校令制定に際し、帝国議会の開会を目前に控えて、これを法律によるか勅令とするかについての論議もなされたが、結局勅令をもって公布された。その後は教育に関する基本法令は勅令をもって定められることとなった。明治憲法には第九条に、法律の執行、公共の安寧秩序の保持、臣民の幸福の増進のために必要な命令を発することを天皇の大権事項として定めており、右の勅令はこの条文に基づくものといえる。このことは明治憲法下における教育法令の勅令主義とよばれ、教育行政の基本的性格をなすものである。
教育勅語の起草と発布
明治二十年代の初めに確立されたわが国独自の近代国家体制は、政治の面では大日本帝国憲法によってその基礎が置かれた。他方、国民道徳の面からこの体制の支柱として位置づけられるのが「教育に関する勅語」(教育勅語)である。教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。また日本軍隊の創設者であり、軍人勅諭の発案者でもあるといわれる山県有朋が内閣総理大臣として参画したことも注目すべきである。教育勅語が発布されると、やがて国民道徳および国民教育の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。
明治二十年前後において、わが国の近代学校制度がしだいに整えられたのであるが、その際国民教育の根本精神が重要な問題として論議されたのである。すでに前章において述べたように、十二年に教学聖旨が示されたが、十五年以後になると、条約改正問題を控えて欧化主義思想が国内を支配し、従来の徳育の方針と激しい対立を示すようになった。そして徳育の方針に関し、論者は互いに自説を立てて論争し、いわゆる「徳育の混乱」と称せられる状況を現出した。すなわち、十五年に福沢諭吉は反儒教主義の徳育論として『徳育如何』を刊行して、新しい時代には新しい道徳が必要であることを説き、加藤弘之は『徳育方法論』(二十年刊)において宗教主義による徳育の方策を示し、また能勢栄は『徳育鎮定論』(二十三年刊)を発表して、倫理学を基本として徳育に方向を与えるべきことを主張した。一方これらに対して内藤耻叟は『国体発揮』において教化の根本は皇室において定めるべきであるという思想を公にし、さらに元田永孚は『国教論』において祖訓によって教学を闡(せん)明すべきことを主張して、教学聖旨以来の思想を表明した。また西村茂樹は修身書勅撰の問題を提出して、徳育の基礎は皇室において定めるべきであり、明倫院を宮内省に設け、聖旨を奉じて徳育の基礎を論定すべきであると建言している。また当時の文部大臣森有礼は儒教主義を排し、倫理学を基礎とした徳育を学校で行なうべきことを主張した。
このように二十年前後における徳育の問題は、各種各様の意見が並立して修身教育をも混乱させることとなっていた。このような論争の中で、地方の教育界においてもこのことが問題となり、どのような方針によって修身科の教授をなすべきかを論議し、地方長官に対して、その基本方針について明確な結論を要求するものもある状態であった。そのため二十三年二月末の地方長官会議においては、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を内閣に提出するようになった。この建議は閣議においても取り上げられて論議され、明治天皇の上聞に達した。芳川文相が後に述べているところによれば、明治天皇は榎本文相に対し、徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(さん)を命ぜられたとのことである。同年五月榎本文相に代わって芳川顕正が文部大臣に就任したが、その親任式に際して、明治天皇から特に箴言編纂のことが命ぜられたのである。その後徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、教育勅語の成立に至っている。
教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。勅語の起草に参与した元田永孚は勅語発布後に、山県総理大臣にあてた書簡において当時の有様と勅語発布の意義を次のように述べている。
「回顧スレハ維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆ント支離滅裂二至らんとするも幸二 聖天子叡旨之在ル所と諸君子保護之力とを以扶植匡正今日二至リタル処未夕確定之明示あらさるより方針二迷ふ者不少然ルニ今般之勅諭二而教育之大旨即チ国民之主眼ヲ明示せられ之ヲ古今二通し而不謬之ヲ中外二施して不悖実二天下万世無窮之皇極と云へし彼ノ不磨之憲法之如キモ時世二因而者修正を加へサルヲ不得も此ノ 大旨二於テは亘於万世而不可復易一字矣」
明治二十三年十月三十日、明治天皇は山県総理大臣と芳川文相を官中に召して教育に関する勅語を下賜された。これによって国民道徳および国民教育の根本理念が明示され、それまでの徳育論争に一つの明確な方向が与えられたのである。
教育勅語発布後の教育
徳教に関する勅諭のことが内閣において議せられている間に、芳川文相はどのようにしてこの勅諭を奉体し聖旨を全国に公布すべきかについて方策を練っていた。明治二十三年九月二十六日芳川文相が山県総理大臣に提出した閣議を請う文には、次のようにくわしく奉体の方法を述べている。
徳教二関スル 勅諭ノ議
我カ叡聖文武ナル
皇上陛下ハ夙二徳教ノ弛廃二赴ントスル傾向アルヲ軫念アラセラレ曩時辱クモ親ク前任文部大臣二 勅スルニ徳教ノ基礎トナルヘキ要項ノ 勅諭ヲ草スルヲ以テス顕正叨リニ其後任ヲ襲フノ日二方リ内閣総理大臣ヲ経テ申テ 勅旨ヲ伝ヘシメラル顕正謹ンテ之ヲ拝シ恐懼措ク能ハス爾来焦心苦慮シテ以テ 勅旨二副ハンコトヲ冀フ惟フニ其事荀モ学説二関シ理想二渉ルトキハ 勅諭二対シ他ノ論難攻撃ヲ試ムヘキハ勢ノ免レサル所ナルヲ以テ遠ク既往二鑒ミ深ク将来ヲ考へ我カ建国ノ大本二基キ徳教ノ主義ヲ定メ遂二 勅諭案ヲ草スルニ至ル案成リ浄写シテ恭ク之ヲ陛下二捧ケ内旨ヲ伺ヒ奉リタル二大要別紙ノ通ニテ然ルヘシトノ 御沙汰ヲ蒙レリ而シテ
勅論ヲ発表スルノ方法ニアリ即チ高等師範学校二 聖駕親臨ヲ仰キテ 勅諭ヲ賜ハランコトヲ願ヒ本大臣之ヲ受ケ以テ訓令ヲ全国二発シ普ク衆庶二示スカ或ハ不日小学校令発布ノ同時二於テ 勅諭ヲ公布セラルヘキカ
其二者ノ一ヲ選用シ 勅諭ヲ発表セラルヽ二於テハ本大臣 聖意ヲ奉体シ務メテ徳教ヲ普及拡張セシムルノ方法ヲ設クルヲ任トス故二一方二於テハ教科書ノ巻首二弁スルニ 勅諭ヲ以テシ臣民ノ子弟ヲシテ日課ヲ始ムルゴトニ之ヲ拝誦セシメ自然 聖意ノ在ル所ヲ脳裏二感銘シ以テ徳教二風化セシメントス又他ノ一方二於テハ耆徳碩学ノ士ヲ選ヒ 勅諭衍義ヲ著述発行セシメ本大臣之ヲ検定シテ教科書トナシ倫理修身ノ正課二充テントス
蓋シ道徳ノ国民二欠クヘ力ラサル猶ホ塩ノ肉二於ケルニ異ナラス塩アレハ肉全ク道徳ナ力リセハ国民存セス則チ道徳ハ国民ノ塩ナリ
此レ我力
皇上陛下ノ 聖念ヲ徳教二軫セラルゝ所以ナリ@二別紙 勅諭草案及其発表ノ方案等二就キ謹テ閣議ヲ請フ
明治二十三年九月二十六日
文部大臣 芳川顕正
内閣総理大臣伯爵 山県有朋 殿
このように政府は教育勅語発布以前から勅語奉体の方法等を慎重に考慮し、その精神の徹底について企画していたのである。
教育勅語が発布されると、芳川文相は翌十月三十一日勅語奉承に関する訓示を発し、勅語の謄本が各学校に下賜され、学校では奉読式を行なった。なお二十四年六月に制定した「小学校祝日大祭日儀式規程」によれば、紀元節・天長節などの祝日・大祭日には儀式を行ない、その際には「教育二関スル勅語」を奉読し、また勅語に基づいて訓示をなすべきことを定めている。このように教育勅語は教育の大本を明示する神聖な勅諭として厳粛なふんい気のもとで取り扱われることとなったのである。
教育勅語が発布されると、直ちに「勅語衍(えん)義」すなわち解説書の編纂を企画し、井上哲次郎が選ばれて執筆にあたった。その草案ができると、これを多くの学者・有識者に回覧して意見を求め、二十四年九月に刊行した。その後勅語衍義は師範学校・中学校等の修身教科書として使用された。このほか民間でも多数の解説書を出版している。
教育勅語は、小学校および師範学校の教育に特に大きな影響を与えたが、なかでも修身教育において顕著であった。二十四年十一月の小学校教則大綱は二十三年の小学校令に準拠して定めたものであるが、同時に教育勅語の趣旨に基づくものであった。特に「修身」について、「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と定め、授けるべき徳目として、孝悌(てい)、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等をあげ、特に「尊王愛国ノ志気」の涵(かん)養を求めている。歴史(日本歴史)についても、「本邦国体ノ大要」を授けて「国民タルノ志操」を養うことを要旨とし、また修身との関連を重視している。このように教則大綱を通じて教育勅語の趣旨の徹底を図った。教科の教授時数についても、修身はそれまで毎週一時間半であったものが、尋常小学校では三時間、高等小学校では二時間に増加し、この点からも修身教育を特に重視していることが知られる。
小学校の修身教科書は教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行なわれることとなった。そこでその後の修身教科書はきわめて忠実に教育勅語に基づいて内容が編集されている。当時の小学校修身教科書を見ると、毎学年(または毎巻)勅語に示された徳目を繰り返す編集形式がとられている。これは後に徳目主義と呼ばれているもので、教育勅語発布直後の修身教科書の特色である。三十年代になると、ヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として編集した人物主義の修身教科書が多くあらわれたが、その際にも人物に教育勅語に示された徳目を配置して編集しており、教育勅語の趣旨は一貫している。このほか勅語の全文を各巻の巻頭にかかげているものも多く、高等小学校では一巻または一部を勅語の解説にあてているものも多い。
師範学校について見ると、二十五年に尋常師範学校の学科課程が改正されたが、その際従前の「倫理」を「修身」と改め、毎週教授時数も一時間から二時間に増加している。そして修身の教授要旨を「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キテ人倫道徳ノ要領ヲ授ク」と定めている。倫理を修身に改めたことについては、従来の「倫理」は倫理学を授ける学科目であると誤解している傾向のあることを批判して、修身は「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ徒二理論二馳セス専ラ躬行実践ヲ目的」とするものであると説明している。師範学校は国民一般の教育にたずさわる小学校教員を養成する所であり、そのため政府は特に師範学校に対して教育勅語を徹底させる方策をとったものと見ることができる。 
 
 
 
教育勅語 
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日       御名御璽
口語訳
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や秩序を守ることは勿論のこと、国家に非常事態発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるだけでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
教育勅語は、明治天皇が首相と文相にみずから与えた勅語であり、文中では「爾臣民」(なんじしんみん)、すなわち国民に語りかける形式をとる。
まず皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが「国体の精華」であり、教育の起源なのであると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、一朝事ある時には進んで国と天皇家を守るべきことなど、守るべき12の徳目(道徳)が列挙され、これを行うのが天皇の忠臣であり、国民の先祖の伝統であると述べる。これらの徳目を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓って締めくくる。
12の徳目
1.父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
2.兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
3.夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
4.朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
5.恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
6.博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
7.學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
8.以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
9.コ器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)
10.進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
11.常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法令を守り国の秩序に遵いましょう)
12.一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう) 
 
 
 
世界が驚嘆した識字率世界一の日本
日本の識字率は、数百年に亘って世界一を誇る。江戸時代の幕末期においては、武士はほぼ100%読み書きができたという。庶民層でも男子で49〜54%は読み書きができた。同時代のイギリスでは下層庶民の場合、ロンドンでも字が読める子供は10%に満たなかった。
世界一の就学率、識字率
日本は世界一の識字率を誇る。江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だった。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70〜86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の修学数の方が多かったという記録もある。
もちろん、寺子屋は義務教育ではない。寺子屋制度は、庶民自身の主体的な熱意で自然発生した世界的にも稀有なものだった。当時の日本は、重要なことは役所や国がやるべきだなどという発想はなく、自分にとって重要であるならば、自分たちで自治的に運営するのが当たり前という感覚を持っていた。
これに対し、1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、わずか20〜25%だった。19世紀中頃の、イギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10%程度だったという。フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10〜16歳の就学率はわずか1.4%にすぎなかった。  『大江戸ボランティア事情』
江戸時代の幕末期では、武士階級はほぼ100%が読み書きができたと考えられている。 町人ら庶民層でみた場合も、男子で49〜54%、女子では19〜21%という推定値が出されている。 江戸に限定すれば70〜80%、さらに江戸の中心部に限定すれば約90%が読み書きができたという。  『「奇跡」の日本史』
外国人たちを驚かせた識字率の高さ
多くの外国人が、日本人の識字率の高さに驚嘆し、記録を残している。
1853(嘉永3)年に黒船を率いてアメリカからやって来たペリー提督は、日記(『日本遠征記』)に日本について「読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」と記している。ペリーは日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の本好きと識字率の高さに驚いた。
また、1860(万延元)年に日本との間に通商条約を結ぶために来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー(エルベ号艦長)は、航海記で次のように述べた。
「子供の就学年齢はおそく7歳あるいは8歳だが、彼らはそれだけますます迅速に学習する。民衆の学校教育は、中国よりも普及している。中国では民衆の中でほとんどの場合、男子だけが就学しているのと違い、日本ではたしかに学校といっても中国同様私立校しかないものの、女子も学んでいる。日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」 『エルベ号艦長幕末記』
1861(文久元)年に函館のロシア領事館付主任司祭として来日したロシア正教会の宣教師、ニコライは、8年間日本に滞在した。そして、帰国後に、ロシアの雑誌『ロシア報知』に次のような日本の印象を紹介した。
「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている。この国では孔子が学問知識のアルファかオメガであるということになっている。だが、その孔子は、学問のある日本人は一字一句まで暗記しているものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知っているのである。(中略)どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他のおもだった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない。(中略)読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」 『ニコライの見た幕末日本』
トロイアの遺跡発掘で有名なドイツのシュリーマンは、1865(慶応元)年に日本を訪れた時の印象を、著書で次のように記した。「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」 『シュリーマン旅行記 清国・日本』
1908(明治41)年、日本人781人が初めてブラジルへ移住を始めた。同年6月25日、『コレイオ・パウリスターノ』紙のソブラード記者は、ブラジルにやってきた日本人の様子をまとめたレポートを新聞で紹介した。記事の中で、ソブラード記者は、驚くべき清潔さと規律正しさや、物を盗まないこと等とともに、日本人の識字率の高さについて、「移民781名中、読み書きできる者532名あり、総数の6割8分を示し、249名は無学だと称するが、全く文字を解せぬというのではなく、多少の読書力を持っているので、結局真の文盲者は1割にも達していない」と報じた。 『蒼氓の92年 ブラジル移民の記録』
日本語の存続を守った圧倒的な識字率の高さ
1945(昭和20)年、大東亜戦争に敗れた日本は、母国語を失いかねない危機に見舞われた。戦争中、玉砕するまで戦い抜いた日本人を見たアメリカ人は、「日本人は間違った情報を伝えられていて、正しい情報を得ていないに違いない。なぜなら、新聞などがあのように難しい漢字を使って書いてある。あれが民衆に読めるはずはない。事実を知らないから、あんな死に物狂いの戦い方をするのだ。だから、日本に民主主義を行き渡らせるには、情報をきちんと与えなければいけない。そのためには漢字という悪魔の文字を使わせておいてはいけない」と考えた。 『日本語の教室』
日本語の改革を初めに提起したのは、GHQの民間情報教育局(CIE)のキング・ホール少佐だった。彼は、「漢字はエリートと大衆の調整弁であり、漢字の持つ特異性によって情報はコントロールされ、民主主義は広がらない」と考えていた。朝日新聞社などの新聞社も「漢字を廃止してローマ字に」と唱えた。当時の新聞は活版印刷で、かなや漢字の活字をひとつずつ埋め込んでいく作業量が多く、コスト削減のために少ない数で済むアルファベットを採用したかったからだ。また、戦前から存在した日本語をかな文字やローマ字にしようと考える勢力もこの動きに呼応し、日本語は危機を迎えた。「フランス語を日本の公用語にせよ」という暴論まで日本人作家からとびだした。
1946(昭和21)年3月、マッカーサーの要請により、アメリカ教育使節団が来日した。使節団はアメリカの教育制度の専門家27人だったが、日本の歴史文化に精通していたわけではなかった。25日ほどで日本を視察し、報告書で「日本語は漢字やかなを使わず、ローマ字にせよ」と勧告した。「ローマ字による表記は、識字率を高めるので、民主主義を増進できる」というのが、彼らの考えだった。
1948年8月、CIEは「日本語のローマ字化」を実行するにあたり、日本人がどれくらい漢字の読み書きができるか調査を行なった。調査地点は270ヶ所の全国の市町村で、15歳〜64歳の1万7千百人が調査対象になった。調査対象となれば、炭焼きのお婆さんでもジープで連れ出して日本語のテストをさせたという。
調査の結果、テストの平均点は78.3点で、日本人は97.9%という高い識字率を誇っていることが判明した。テストで満点を取った者は4.4%で、ケアレスミスで間違えたのではないかという者で満点と認めてもよいという者が1.8%いた。合計すると6.2%(約500万人)が満点という好成績だった。
CIEはこの結果に驚き、日本の教育水準の高さに感嘆し、「日本人の識字率の高さが証明された」との判断が大勢を占めた。CIEの教育・宗教課長だったハロルド・ヘンダーソンは日本の禅や詩歌を愛する知日家で、ローマ字化推進論者のホール少佐の意見を抑えた。ホールがヘンダーソンの後継者として課長になると見られていたが、他のポストに移され、日本語のローマ字化の企みは潰えた。「アメリカ教育使節団報告書」は、教育勅語の廃止、六三制義務教育、PTA導入、教員組合の組織の自由などを勧告した。戦後の日本の教育はこの勧告に基づいて行なわれていったが、唯一、実現されなかったのが「日本語のローマ字化」だった。圧倒的な識字率の高さが母国語の存続を守ったのである。 『国語施策百年史』