札所巡り

 
札所巡り考  
御詠歌
秩父札所巡り                                       
札所一番 誦経山四萬部寺(ずきょうさんしまぶじ)  
奈良時代、聖武天皇の頃(724-748)行基という名僧が諸国巡回の際、秩父の地に立ち寄り苦行練行していたところ、栃樹の上に聖観音菩薩が現れ、行基に御告げをした。御告げに従い、行基は観音像を彫刻し、岩窟の中に留め置いたと伝えられる。永延2年(988)播磨国円教寺の性空上人(しょうくう)の弟子幻通(げんつう)が、上人の遺命により秩父の地に赴き、四万部の経典を読経し経塚を築いたとされている。四萬部寺とうい寺名はそれに由来される。岩窟に安置されていた観音像を本尊として本堂を建立した。  
ありがたや一巻ならぬ法のはな 数は四萬部の寺のいにしえ  
札所二番 大棚山真福寺(おおたなさんしんぷくじ)  
大鵬禅師は老いてよく岩屋に籠って読経をしていたところ、あるとき一人の老婆が朝夕に来て熱心に拝するので、「汝はいかなるものか」と尋ねた。老婆は「私はこの里に嫁いだが、嫉妬に狂い、鬼となり苦しんでいる。仏に帰依させてほしい」と願ったので、これをあわれんだ禅師は、供養のために堂宇(どうう)を建て、聖観世音(しょうかんぜおん)を刻んで安否したという。老婆が残した竹の杖が寺宝となっている。禅師は高徳な人で村人に慕われ、その名が地名となって今も残っている。  
廻り来て願いをかけし大棚の 誓も深き谷川の水  
札所三番 岩本山常泉寺(いわもとさんじょうせんじ)  
この寺の住職が重い病で倒れ苦しんだとき、夢枕に観世音が現れた。「この寺には万病に利く泉水がある。これを服せよ」との御告げに従って、庭の泉水を呑むと住職の病はたちまち回復した。これを村人たちにも伝えて泉水を長命水(ちょうめいすい)とよぶようになったという。  
補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝津瀬  
札所四番 高谷山金昌寺(こうこくさんきんしょうじ)  
金昌寺の御本尊が巡礼姿の娘に身を変え、極悪人として人に忌み嫌われていた悪人の荒木丹下という男を改心させ、仏道へ導いたという。そのことから、この寺は荒木寺、あるいは新木寺とも呼ばれるようになったという。荒木観音は古く高篠の山中にあったが、いつの頃からか荒木(山田)に移されて荒木古堂とも呼ばれている。 
あらかたに参りて拝む観世音 二世安楽と誰も祈らん  
札所五番 小川山語歌堂(おががわさんごかのどう)  
ある時、この観音堂に一人の旅僧が訪れ、僧と長興寺の大旦那本間孫八の二人は夜を徹して和歌を詠み、また、奥義を論じあった。夜明けには旅僧の姿はなく、ただ語り合い和歌を詠みあった記憶のみが残された。旅人を観音の権化であろうと考えた孫八は、この堂を語歌堂と名づけて信仰したという。  
ちちはは父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし  
札所六番 向陽山卜雲寺(こうようさんぼくうんじ)  
奈良時代、聖武の頃(天平時代)武甲山にいた山姥(やまうば)が里人を苦しめていた。行基菩薩がこの地を訪れた時、里人はこれを訴えて助けを求めた。行基は武甲山蔵王権現社に参籠し、山姥をこらしめて、再び当地に現れぬようにと諭して追放した。山姥は、以後この地で悪さをしないことを誓い、自らの前歯一枚、奥歯二枚を折って差し出したという。その証しに、行基は聖観世音を彫り、里人に与えた。里人は観音像を蔵王権現社に安置し、以後平安を得たという。  
初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世の夢ぞ覚めける  
札所七番 青苔山法長寺(せいたいさんほうちょうじ)  
行基菩薩が自ら刻んだ観音像を背負って、この地に来た時、急に背中の像が重くなった。これを何かの霊験であろうと考えた行基は、そこに御像を置いて行脚をつづけた。時を経たある日、牧童が草刈をしていると、一頭の牛が現れた。しかし、その牛は地に伏して動かなくなってしまった。牧童は牛を哀れに思い、いたわりつつここで一夜をあかした。夜明けには牛の姿はなく、十一面観音の像があった。これを聞いた村人たちは、牛は観世音の化身であろうと考え、堂を建立し、十一面観世音像を安置したという。この堂を人々は牛伏堂と名づけたという。  
六道を兼ねて巡りて拝むべし 又後の世を聞くも牛伏  
札所八番 清泰山西善寺(せいたいさんさいぜんじ)  
ある時、一人の旅僧が現れ、当寺の御詠歌を知るかと尋ねた。老人が進み出て 「ただ頼め、誠の時は西善寺 来たり迎えん 弥陀の三尊」と詠んだ。それを聞いた旅僧は「誠にあり難い御詠歌である。」と言い、その僧が節付けして踊ると、里人もこれに習い唄い踊った。その後、里人達は折に触れ唄い踊った。その後、乱れた人心は平和を取り戻し、仕事に精を出し毎日を感謝の心でを送るようになり、また寺も栄えたという。  
ただ頼め誠の時は西善寺 きたりむかへん弥陀の三尊  
札所九番 明星山明智寺(みみょうざんあけちじ)  
建久2年(1191年)、横瀬に兵衛という貧しい少年がいた。少年は、病に伏した母親をいたわりながら生活していた。ある日、少年が観音堂の近くで木の実を拾っていると、老僧が現れ、母の病を治したければ「観音経の『無垢清浄光、恵日破諸闇』の二句を唱えなさい。」と教えてくれた。少年は、早速母をつれて観音堂へ参拝し、母子とも一心に読経した。すると、内陣から「明々たる星」がとび出て母の頂きを照らし、たちまち母の眼はひらき、眼が見えるようになった。それを知った領主は、孝心深き少年に田畑を与え、本尊の霊感を後世に伝えようと寺号を明星山にしたという。  
巡りきてその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるらん  
札所十番 万松山大慈寺(ばんしょうさんだいじじ)  
摂津の国より来た儒者が仏道をののしっていた。そこでこの寺の本尊が老僧に姿をかえて問答した。「普門品のげに羅刹鬼国(らせつきこく)とあるが、その国はどこにあるのか答えよ。答えられなければ仏法は虚言(うそ)である」と儒者が満面朱のごとくにして、つかみかからんばかりに詰問した。老僧は「汝の問う羅刹鬼国とは即ち汝が分怒のさまをいうなり」といって笑って去った。儒者はこの一言で自らを恥じて仏道を信じるようになったという。  
ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六つの巷の苦にかはるべし  
札所十一番 南石山常楽寺(なんせきさんじょうらくじ)  
常楽寺の中典開基となった門海上人は観音堂建立の後、次は仁王門を造立せんと尽力した。資材を集め、ようやく着工した頃、上人は重い病に倒れてしまった。薬を服すも効果なくもうだめかと思っていた時、枕元に金剛神が現れ、上人の手を取って体を起こすと「仁王門建立には自らも助力いたさん」と言った。 翌日より上人の病が癒えて、やがて仁王門が完成したという。金剛神は金剛力士でもあり、仁王尊のことである。  
つみとがも消えよと祈る坂ごおり 朝日はささで夕日かがやく  
札所十二番 仏道山野坂寺(ぶつどうざんのさかじ)  
甲斐(現在の山梨)の商人がこの地で山賊に襲われた。商人は「もうこれまでと」肌に付けていたお守り袋から観音像を取り出し一心に「南無観世音」と唱えると、不思議にも観音像から光が射し山賊は恐れをなし退散した。山賊の頭目は商人に今までの悪事をわび、心を入れ替えて出家した。修行を続ける山賊に心を打たれた商人がこの地に御堂を建立して観音様を安置したのが、野坂寺のはじまりだといわれている。  
老いの身に苦しきものは野坂寺 いま思い知れ後の世の道  
札所十三番 旗下山慈眼寺( きかざんじげんじ)  
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際この地に御旗を立てた為「旗の下」の地名が生まれ、この寺の山号・旗下山もこれに由来している。しかし、「はたのした」の地名はガケの下に位置する事から「はけのした」に なったという説もある。  
御手に持つ蓮のははき残りなく 浮世の塵をはけの下寺  
札所十四番 長岳山今宮坊(ちょうがくさんいまみやぼう)  
甲斐の武田軍と北条軍との戦が絶えなかった頃、武田軍が秩父にやってきては神社仏閣に火を付け、里人をいじめていた。この寺は長岳山金剛寺と呼ばれ、修験者の道場として非常に栄えた寺であったが、武田軍に焼かれてしまった。「信玄焼」といわれ、今でもその文献や口碑が各所に残っている。その後建てられたのが、今の観音堂である。  
昔より立つとも知らぬ今宮に 参る心は浄土なるらん  
札所十五番 母巣山少林寺(ははそざんしょうりんじ)  
近江商人が東国へ行く途中、湯尾峠へさしかかると「近江の国に疫病をはやらせようと思ったが、定朝が観音像を作った為、その霊験で思うような事ができず、近江に見切りを付けて、東国へとゆくとしよう」と話している不思議な声を聞いた。商人は、たいそうおどろき、定朝にこの話をした。定朝は「それは大変だ。この観音像を東国へ持っていき疫病から救ってやりなされ」と言った。商人は像を抱いて東国を訪れ、疫病を救う為にと領主に願い出て、母巣の森に御堂を建てて観音像を安置したところ、東国の疫病はことごとく退散した。母巣山蔵福寺の草創である。草創期より江戸幕府末期までは、母巣山蔵福寺と呼ばれ、秩父妙見宮の別当寺として栄えていた。明治の排仏毀釈の影響で廃寺となったが、同地柳島(現東町)にあった五葉山少林禅寺が、民衆信者の誓願によって民制役所の許しを得て、札所として母巣山少林寺(寺院としては五葉山少林寺)と認められ信仰を集め た。  
みどり子の母巣の森の蔵福寺 ちちもろともにちかひもらすな  
札所十六番 無量山西光寺(むりょうざんさいこうじ)  
円比丘という僧がいた。ある夜、月を眺めていると老婆が現れ、「観音様を導くからどうか私の菩提を弔ってほしい」と言って姿を消した。円比丘がさっそく霊を供養すると、約束どおり観音像を授かり御堂を造って納めた。それが、西光寺千手観世音様だといわれている。  
西光寺誓いを人に尋ぬれば ついの住家は西とこそ聞け  
札所十七番 実正山定林寺(じっしょうざんじょうりんじ)  
東国の方にわがままな御殿様が住んでいた。ある日、家来の林太郎定元が苦言を述べたことに腹を立て、御殿様は定元を追放してしまった。その後、定元とその妻は相次いで病死し、取り残された子供はお寺に引き取られた。ある時、御殿様が狩りにこの地を訪れたところ、定元の子供に会い、深く反省し、その子供に林源太良元と名づけ、領地を授け御堂を建てて定林寺とした。それから、この寺を林寺と呼ぶようになった。  
あらましを思ひ定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける  
札所十八番 白道山神門寺(はくどうさんごうどじ)  
昔この地は神社であったが荒廃してしまい、村人達は再建しようと相談していた。 すると、「神社ではなく、お寺を作りなさい」というお告げがあり、村人達はさっそく御堂を建て聖観世音を安置した。それからは信者も増え、ついに日本百観音霊場の札所にまでなった。 
ただたのめ六則ともに大悲をば 神門にたちてたすけたまえる  
札所十九番 飛淵山龍石寺(ひえんさんりゅうせきじ)  
弘法大師が千手観音像を刻み、村人達が悪龍を退治しようと観音様に念じたところ、龍を退治してくれた。それから、村人達は御堂を建て、千手観音を安置した。これが、この寺の始まりといわれている。その他に、岩石の間から龍が立ち上り雨を降らせた事から、龍石寺と呼ばれるようになった、とも言われている。  
天地を動かす程の龍石寺 詣る人には利生あるべし  
札所二十番 法王山岩之上堂(ほうおうさんいわのうえどう)  
昔は願上寺といわれ大伽藍の寺であったが、永禄の兵乱により焼かれ、御本尊は仮堂に安置されていた。その後、この村の打田武左衛門慰政勝によって観音堂が建てられた。  
苔むしろしきてもとまれ岩の上 玉のうてなも朽ちはつる身を  
札所二十一番 要光山観音寺(ようこうさんかんのんじ)  
観音寺は「矢之堂」とよばれている。それには、いくつかの由来話がある。その昔、行基菩薩がこの地を訪れ、ここ八幡の社地に「聖観音」の像を刻み、祀ろうとした。これを伝え聞いた所の悪鬼共が、観音像の開眼の日に火の雨を降らせて妨害した。その時、白馬にまたがった八幡神が現れ神矢を放ち悪鬼を打ち払ったという。今も、「矢の根」が寺宝とされている。  
梓弓いる矢の堂に詣で来て 願ひし法にあたる嬉しさ  
札所二十二番 華台山童子堂(かだいさんどうじどう)  
讃州(香川県)に、ある農家の主人がいた。主人は金持ちであったが、飢えた行脚僧に食事を恵まなかった。しかし、その罰として、主人の息子は犬に変えられてしまった。罪を悔いた主人は、四国、西国、坂東の各霊場をまわり、童子堂まで来て詣でたところ、息子が犬から人間に戻れたそうである。  
極楽をここで見つけて童う堂 後の世までもたのもしきかな  
札所二十三番 松風山音楽寺(しょうふうさんおんがくじ)  
天長年間(824-834)、慈覚大師が巡行した際この地で聖観音を刻んだ。安置する場所を探し山道を行くと、多数の小男鹿(牡鹿)が道案内をした、という伝説がある。  
音楽のみ声なりけり小鹿坂の 調べにかよう峰の松風  
札所二十四番 光智山法泉寺(こうちさんほうせんじ)  
武蔵国の恋ヶ窪に、口中の腫れ物に苦しむ遊女が居た。  遊女は観音を信仰する大変慈悲深い女性で、毎朝修行僧に施しをしていたという。そんなある朝、秩父から来たという僧が、一本の楊(やなぎ)の枝を遊女に与え、「この枝で口の中をそそぎなさい」と教えた。遊女は、僧の教えどおりに楊の枝で口中をそそいでみる事にした。すると、口中の腫れ物はみるみるうちに快癒し、痛みも全て消えてしまった。 以来、この寺には病の回復を願う礼拝者も多いという。  
天照す神の母祖の色かへて なおもふりぬる雪の白山  
札所二十五番 岩谷山久昌寺(いわやさんきゅうしょうじ)  
様々な悪行を積み重ね、家族や村人からも追い出された鬼女が居た。鬼女は、ここ久那の岩洞に住み始め、一人の女の子を出産した。しかし、これまでの悪行が祟って、娘が十五歳の時に命を落としてしまった。ただ一人残された娘は母親とは異なり、非常に澄んだ美しい心の持主だった。そのため母親の罪を大変悲しみ、後世で母親が苦しまないようにと観音堂の建立を発願した。この娘のやさしさに心打たれた村人達は、彼女に惜しまず協力をし、観音堂は建立されたという。  
水上はいづくなるらん岩谷堂 朝日もくなく夕日かがやく  
札所二十六番 万松山円融寺(ばんしょうざんえんゆうじ)  
弘法大師がこの地に巡錫(じゅんしゃく)し、21日間に及ぶ護摩(ごま)の修行を成し遂げると、そこに観世音が現れて「この事後の大徳に任せよ」と告げた。その後、巡錫に訪れた恵心僧都は、聖観世音を彫り、村人と共に堂宇を建立して観世音を安置したという。  
尋ね入りむすぶ清水の岩井堂 心の垢をすすがぬはなし  
札所二十七番 竜河山大淵寺(りゅうがさんだいえんじ)  
宝明という名の行脚僧が、ここ影森の地で病に倒れ、7年の間病床にあった。そこへ訪れた弘法大師は、宝明から病の話を聞くと、聖観音像を彫り与えた。宝明は病の回復を祈願し、礼拝を続けた。するとどうした事か、7日目に霊験があり病は跡形もなく完治してしまった。これに歓喜した宝明は、弘法大師の彫った観音像を本尊として、堂宇を建立したという。  
夏山やしげきが下の露までも 心へだてぬ月の影もり  
札所二十八番 石龍山橋立堂(せきりゅうさんはしたてどう)  
弘法大師が柚の老木を刻んで馬頭観音とし、ここに安置したのが始まりといわれている。西国、坂東、秩父の百観音霊場のうち、馬頭観音を本尊としているのは本寺と松尾寺(両国二十九番)だけであり、非常に珍しいものである。  
霧の海たち重なるは雲の波 たぐひあらじとわたる橋立  
札所二十九番 笹戸山長泉院(ささとさんちょうせんいん)  
元正天皇の頃、山の麓に龍女が現われ不思議な灯りをともし、村人達は大変気味悪がっていた。そこへ十余人の巡礼僧が立ち寄ったので、村人は灯りのともる岩屋まで案内する事にした。すると、岩屋から聖観音像が発見された。その後村人達は僧の指示に従い、ここに堂を建て聖観音を安置したという。  
分けのぼり結ぶ笹の戸おし開き 仏を拝む身こそたのもし  
札所三十番 瑞龍山法雲寺(ずいりゅうさんほううんじ)  
平安時代、深谷山・岩の上堂に安置されていた深谷(ふかたに)観音が、鎌倉時代法雲寺開創に伴って、法雲寺境内に遷された。  
一心に南無観音と唱ふれば 慈悲ふか谷の誓ひたのもし  
札所三十一番 鷲窟山観音院(しゅうくつさんかんのんいん)  
鎌倉時代の初期、畠山重忠がこの地に狩りにやってきた。鷲の巣を見つけたので矢を射ってみたが、どうしたことか、何度射っても全て跳ね返されてしまう。不思議に思った重忠が、巣を降ろしてみると、平安時代将門の乱で所在不明になっていた聖観音像がそこにあった。その後重忠はここに堂を建て、聖観音を安置したという。  
深山路をかき分け尋ね行きみれば 鷲の岩谷にひびく滝つ瀬
札所三十二番 般若山法性寺(はんにゃさんほうしょうじ)  
武州豊島郡からこの地に豊島権守の娘が嫁にやってきた。その娘が実家に帰るため「さいが淵」を通りかかった時、突然、悪魚に襲われてしまい溺れそうになった。すると、どこからか1艘の舟が近づいてきた。その舟には笠をかぶった女性が1人乗っており、溺れかけていた娘は幸運にも助かった。この舟を漕いでいた女性こそ、法性寺本尊の化身だった。それを知った父権守は大変感謝し、3日3夜般若心経を写し続け、寺の観音様を供養し深く帰依した。  
願わくは般若の舟にのりを得ん いかなる罪も浮かぶとぞ聞く  
札所三十三番 延命山菊水寺(えんめいさんきくすいじ)  
本寺の近くの峠に8人の盗賊が住みつき、悪事を繰り返していた。そのため、8人峠と呼ばれ村人や通行人から恐れられていた。ある日、そこへ旅の僧が通りかかった。盗賊達はいつものように僧が身に付けている物を剥ぎ取ろうとした。ところが、僧が手に印を結んだ途端、金縛りにあったかのごとく全く身動き出来なくなってしまった。そして「盗みの罪はきわめて重いが、今ここに心を改めるなら仏の慈悲が下されよう。」という僧の戒めに、8人の盗賊は許しを請い、僧から与えられた3つの観音像を安置し、仏道に励んだ。  
春や夏冬もさかりの菊水寺 秋のながめに送る年月  
札所三十四番 日沢山水潜寺(にったくさんすいせんじ)  
平安時代前期、この地は雨が降らず旱魃(かんばつ)に苦しんでいた。そこへ1人の旅僧が現れ、村人に観音信仰を説き、木札に「樹甘露法雨」と墨書して立てた。すると、瞬く間に雨雲が空を覆い尽くし雨を降らせたという。その地、札を建てた所が札立峠、祈った所が水潜寺の始まりである。  
萬代の願ひをここに納めおく 苔の下より出づる水かな  
坂東札所巡り                                        
第一番 大蔵山杉本寺(たいぞうざんすぎもとでら)  
天平6年(734)行基菩薩が刻んだ十一面観音像を安置し始まる鎌倉最古の寺。光明皇后の恩召により行基が本堂を開創。仁寿元年(851)慈覚大師が、寛和2年(986)には花山法皇の命を受けた恵心僧都が、それぞれ十一面観音像を安置し、三尊同殿となった。文治5年(1189)11月23日の夜、火災が起 き、三体の本尊自らが境内の大杉の下に難を避けたので、以後「杉の本の観音」と呼ばれるようになった。建久2年(1191)源頼朝が再興し、以前の三尊像を内陣に安置するとともに、別の十一面観音像を寄進。行基作の十一面観音像には信心がなく、御堂の前で馬に乗る者を必ず落馬させるという言い伝えがあり、下馬観音と呼ばれたが、大覚禅師が祈願した後に袈裟で尊像の眼を覆うと、落馬する者も なくなった。以後行基作の尊像は覆面観音とも呼ばれる。神奈川県鎌倉市  
頼みあるしるべなりけり杉本の 誓ひは末の世にもかはらじ  
第二番 海雲山岩殿寺(かいうんざんがんでんじ)  
養老5年(721)大和・長谷寺を開き、また観音霊場めぐりをはじめたとも伝えられる徳道上人が、ここで熊野権現の化身である老翁から霊洞があることを聞き、祠を建てた。数年後に僧行基が訪れ、十一面観音像を安置したのが開創。治承4年(1180)源頼朝が石橋山の敗戦で、船により房総に逃れる際、観音さまが船頭となって助けたとされ、以来、源頼朝は観音さまを守り本尊とし、源一族の帰依は厚い。天正19年(1591)観音堂を徳川家康が再興した。文豪泉鏡花ともゆかりが深 く、瓢箪池は鏡花の寄進である、小説「春昼」はここで書かれた。神奈川県逗子市  
たちよりて天の岩戸をおし開き 仏をたのむ身こそたのしき  
第三番 祗園山安養院(ぎおんさんあんよういん)(田代寺)  
建久3年(1192)源頼朝の家臣で、戦場でも僧「然が宋から持ち帰った絵姿を鎧の中に入れる信心篤い田代信綱が、数々の武功は観世音の加護によるものと、報恩のために尊乗上人を開山として建立。当時は別の寺院であった安養院は、嘉禄元年(1225)北条政子が夫 の源頼朝を弔うため、祗園山長楽寺が元となっている。(同年、政子も亡くなり安養院に祀られた)長楽寺は元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡の際に兵火で焼失し、浄土宗名越派の開祖である尊観上人が開いた寺で、同じく焼失した善導寺跡に移り、二寺は合併されて安養院となった。延宝8年(1680)安養院は再度火災に遭ったが、田代寺の千手観音像を移して祗園山安養院田代寺として再復した。神奈川県鎌倉市  
枯樹にも花咲く誓ひ田代寺 世を信綱の跡ぞ久しき  
第四番 海光山長谷寺(かいこうざんはせでら)  
養老5年(721)大和・長谷寺を開山した徳道上人は、1本の楠から2体の十一面観音を作り、1体を大和・長谷寺の本尊とした。もう1体を祈請の上で海に流したところ、天平8年(736)に三浦半島に漂着し、藤原房前が徳道上人を招請し、漂着した観音像を本尊として長谷寺を開山した。康永元年(1342)には足利尊氏が本尊を金箔で修復、明徳3年(1392)足利義満が光背を作ったといわれ、歴代の権力者の庇護はあつ く、慶長12年(1607の徳川家康による再興時の棟札には「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とある、伽藍修復を期に浄土宗に改宗した。神奈川県鎌倉市  
長谷寺へまいりて沖をながむれば 由比のみぎはに立つは白波
第五番 飯泉山勝福寺(いいずみさんしょうふくじ)  
天平勝宝5年(753)唐の高僧である鑑真和上が招来し、孝謙天皇に献上した十一面観音像を、道鏡が祀ったのがはじまり。坂東霊場記によると、道鏡が下野国薬師寺戒檀院再興に向かう途上で、観音像が急に重くなり、ついには一歩の進めなくな り、そこに一宇を建て祀ったとされる。創建当時は補陀洛山弓削寺といい、弓削氏の氏寺であり、場所も2Kmほど離れた千代村にあった。天長7年(830)本尊の霊告により現在の地に移された。太田道灌が戦国時代の初めに城を築いた折に移転したともいわれる。応永25年(1418)小田原城の鬼門鎮護の道場となって、称光天皇から勝福寺の勅号が与えられた。江戸時代には相撲興行が行なわれ、名力士雷電が、土地の力持ち大岩大五郎を投げ飛ばした話が伝わる。文化元年(1804)二宮尊徳18歳のとき、旅の僧の「観音経」の訓読を聞いて感激し、「利他」に生きるという心を授かったという。神奈川県小田原市  
かなはねばたすけたまえと祈る身の 船に宝をつむはいいづみ  
第六番 飯上山長谷寺(いいがみさんはせでら)  
神亀2年(725)この地から400mほど離れた地から泉が湧き、五色に輝いた。通りがかった行基が祈願したところ、泉から十一面観音の金像が現れたため、近くの楠で十一面観音像を刻み、金像を胎内に納め、堂宇を建立したのがはじまり。大同2年(807)弘法大師が密教の道場にした。別の縁起/この地の領主であった飯山権太夫が旅の僧に一夜の宿を提供したところ、僧からお礼に大和長谷寺の本尊と同木という観音像を授かった。権太夫はさっそく一宇を建立し供養を行なったが、この旅僧こそが弘法大師であったという。建久年間(1190-1199)源頼朝が秋田義景に仁王門を造営させた。神奈川県厚木市  
飯山寺建ちそめしよりつきせぬは いりあいひびく松風の音  
第七番 金目山光明寺(かなめさんこうみょうじ)  
大宝2年(702)海女が相模湾に金目川が流れ入る小磯の浜で潮を汲んでいた時、木片が桶に入った。海女は木片を捨てたが、何度捨てても入るので不思議に思い持ち帰った、行脚の僧から聖徳太子 作の観音像と教えられ、家の奥に祀ったのが始まりとされる。のちに道儀上人が一宇を建立、天平年間(729-749)行基が観音像を刻み、その胎内に観音像を納めた。この故事 から「お腹籠りの観音さま」と呼ばれ、北条政子が実朝出産の折に安産を祈願している。明応年間(1492-1501)観音堂が建立された。本尊を安置する厨子や前立本尊も同時代の作である。元禄年間(1688-1704)慶賀和尚により中興された。神奈川県平塚市  
なにごともいまはかなひの観世音 二世安楽とたれか祈らむ  
第八番 妙法山星谷寺(みょうほうさんしょうこくじ)  
天平年間(729-749)行基がこの地を訪れ「見不知森」の中に法華経を読経する声を聞いた。声の主を探すと、古木の下の観音像であった。行基は村人にこのことを告げ、堂宇を建立したのが開創。延暦年間(782-806)坂上田村麻呂が東国遠征の途中に立ち寄り、戦勝の祈願を行なっている。鎌倉時代には兵火で多くの伽藍が焼失、野火で観音堂も全焼したが、本尊は火中から飛び出し、南に600mほど離れた樹の上に止まって光明を放った。この場所に現在の本堂が再建された。神奈川県座間市  
障りなす迷ひの雲をふき払ひ 月もろともに拝む星の谷  
第九番 都幾山慈光寺(ときさんじこうじ)  
白鳳2年(673)慈光翁が僧慈訓に命じて千手観音増を刻ませ祀ったのが始まり。白鳳9年(680)役小角が西蔵坊を設けて修験の道場を開いた。鑑真和上の高弟、釈道忠により釈迦如来像が大講堂に安置され、全山の堂宇が整えられた。その後、慈覚大師が密教の法門を伝えた。平安時代 、清和天皇から「天台別院一条法華院」の勅額を与えら栄えた。貞観13年(871)大般若経600巻(152巻が現存・国重文)が寄進され、文治5年(1189)源頼朝から奥州藤原氏征討のための祈願に際して、愛染明王像と寺領1200町歩が寄せられている。文永7年(1270)後鳥羽天皇、藤原兼実らが法華経など全23巻を書写した法華経一品経が奉納され た。後に太田道灌の軍勢の討ち入り、上田朝直による焼き討ちがあり、江戸時代に再興されたが往時の復興を見るには至らなかった。埼玉県比企郡ときがわ町  
聞くからに大慈大悲の慈光寺 誓いもともに深きいわどの  
第十番 巌殿山正法寺(いわどのさんしょうほうじ)  
養老2年(718)沙門逸海が当地で修行していたところ、僧侶に化した観音が夢に現れたので、岩殿山の山腹のがけを削り、千手観音像を岩窟に納めたのが開創。延暦年間(782-806)坂上田村麻呂が奥州平定の途上、悪龍退治をしたという伝説も伝わる。この地に棲みついた悪龍の退治を田村麻呂が周辺の住民に依頼されたため、岩殿の観音に祈願したところ、6月にも関わらず大雪が降り出した。その大雪のなかに1ヶ所だけ雪の消えている峠を見出し、まさに悪龍のいるところとして観音様から授かった矢を放ったところ、見事に悪龍は射止められたというもの。鎌倉末期には66坊を擁す関東屈指の大伽藍を構えるに至った が、 永禄10年(1567)松山城合戦の兵火で焼失、天正2年(1574)僧栄俊が再興した。埼玉県東松山市  
後の世の道を比企見の観世音 この世を共に助け給へや  
第十一番 岩殿山安楽寺(いわどのさんあんらくじ)  
行基がこの地を霊地とし、聖観世音菩薩を刻んで岩崖に納めたことがはじまり。坂上田村麻呂の奥州平定の際、戦勝を祈願して七堂伽藍が建立された。天慶3年(940)平将門の乱に際、百院百壇を設けて修法し、叛乱を治めるのに効験があったといわれる。鎌倉時代、源頼朝の異母弟 の範頼が平治の乱(1159)の後助命されて稚子僧としてあずけられたが、後に領主となってからは所領の半分を寄進、三重塔や大講堂などを建立した。現在の本堂は、寛文元年(1661)秀慶法印によって再建されたもの。埼玉県比企郡吉見町  
吉見よと天の岩戸を押し開き 大慈大悲の誓いたのもし  
第十二番 華林山慈恩寺(かりんさんじおんじ)  
天長元年(824)慈覚大師が勝道上人や弘法大師の足跡を尋ね日光山に登った際、日光山の頂からスモモの実を空に投げると、この地に落ちて一夜にして李花の大樹となり、千手観音を刻んで一宇を建立した。寺名は、唐の玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰った仏典の漢訳に努めた大慈恩寺にちなんで命名された。中世には66もの僧坊を抱え、天正19年(1591)徳川家康から寺領100石の寄進を受けるなど寺勢を誇った。元禄7年(1694)古地図で は約13万5000坪の境内を構えていた。日光輪王寺宮法親王歴代の参籠所にもなっていた。 
境内の近くに玄奘三蔵法師の霊骨塔がある。昭和17年南京を占領した日本軍が稲荷神社を建立しようと整地した際に偶然頂骨を発見 した。昭和18年頂骨は南京政府に返されたが「日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にする」と の趣旨で分骨された。分骨は当初、芝の増上寺に安置され、後に慈恩寺に移され、昭和28年霊骨塔が建立された。埼玉県岩槻市  
慈恩寺へ詣る我が身もたのもしや うかぶ夏島を見るにつけても  
第十三番 金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)  
推古天皇36年(628)3月18日檜前浜成・竹成という兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、小さな観音像が投網にかかった。当地の豪族である土師直中知に相談し、草堂に祀ったのが始まり。大化元年(645)勝海上人が新たに観音堂を建立し、本尊を秘仏と定めた。天長年間(824-834)慈覚大師が「お前立ち」の観音像を刻み、さらに信仰が深まったといわれる。鎌倉時代は源頼朝が深く帰依、江戸時代には徳川家の祈願所となったことにより、坂東札所第一の巨刹となった。坂東の第一番札所でないことを不満に思った江戸っ子の「江戸自慢十三番がこのくらい」という川柳がある。東京都台東区  
ふかきとが今よりのちはよもあらじ つみ浅草にまいる身なれば  
 
第十四番 瑞応山弘明寺(ずいおうさんぐみょうじ)  
養老5年(721)天竺の善無畏三蔵法師が開設、天平9年(737)行基菩薩が当地で霊感を得て草庵を建立し、観音像を刻んだのが始まり。弘仁年間(810-824)弘法大師が善無畏と行基の後を継いで伽藍を建立、一千座の護摩を修した。長暦年間(1037-1040)疫病が流行した際に、光慧上人が秘法を修し、宝瓶から霊水を注いで民衆を救ったという。鎌倉時代には源家累代の祈願所として、江戸時代には坂東観音三十三ヵ所の札所として栄えたが、廃仏毀釈により、寺有地の多くが市などに譲渡された。神奈川県横浜市  
ありがたやちかひの海をかたむけて そそぐめぐみにさむるほのみや  
第十五番 白岩山長谷寺(しらいわさんちょうこくじ)  
高崎領の郷士高崎氏は42歳の厄年の難を恐れていた。ある夜、一人の旅僧の求めに応じて一夜の宿を提供した、僧は役行者のゆかりの地である白岩に生えていた古い柳の木で、十一面観音を彫り、高崎氏に与えた。この僧 は行基であった。延暦・大同年間(782-810)伝教大師、弘法大師も訪れ、仁寿元年(851)在原業平が堂宇を修築した。後に源義家や新田義貞などに篤く信仰され、修験道の中心道場として栄えた。新田義貞挙兵の際、修験者達が坂東八ヵ国に檄を伝えたという。天分元年(1532)上杉憲政が伽藍を整え日本三長谷のひとつとされ たが、永禄6年(1563)信玄の箕輪城攻略で焼失、現在の観音堂は武田勝頼が天正8年(1580)世無道上人に命じて再建させたもの。群馬県群馬郡榛名町  
誰も皆な祈る心は白岩の 初瀬の誓ひ頼もしきかな  
第十六番 五徳山水澤寺(ごとくさんみずさわでら)  
推古天皇の御代(592-629)高野辺左大将家成の後妻が、家成上洛の間に先妻の子を妬み、親族の兼光と謀って吾妻川に沈めようとした。二人を殺した後、伊香保姫を手にかけようとしたところ、赤城山から黒雲が起こり風雨激しく、雷鳴が轟き渡ったため、兼光は驚き逃げ帰った。伊香保姫はことの次第を都に報告、長男の家定が兼光らを成敗した。姫は後 に高光中将に嫁ぎ幸せになったが、その高光中将の菩提のため、慧灌僧正を招いて千手観音像を安置し祀ったのが始まり。千手観音は七難即滅、七福即生のご利益があるといわれ、かつては三十余の御堂、御仏の数は1200体にも及んだ、再三の火災により焼失し、現在の建物は元禄年間(1688-1703)に開始され33年にも及ぶ大改築によるもの。江戸、日光、善光寺にそれぞれ36里という位置にあり、歴代天皇の勅願寺として、また上野国国司の菩提寺として伝わる。群馬県北群馬郡伊香保町  
たのみくる心も清き水沢の 深き願いをうるぞうれしき  
第十七番 出流山満願寺(いずるさんまんがんじ)  
天平神護元年(765)勝道上人が創建した。子に恵まれないのを嘆いた若田氏高藤介の妻が岩窟(観音霊窟)の十一面観音に祈願し、授かったのが勝道上人で、上人はこの観音に帰依して霊窟で3年にわたり修行を し、後に男体山に登拝して日光山を開いた。このため、日光の修験者はまず満願寺で修行を行なったという。弘仁11年(820)弘法大師が勝道上人の遺徳を偲んで参籠した。その際に刻んだ千手観音像が現在の本尊と いう。応安元年(1368)足利義満寄進の観音堂が焼失、明和元年(1764)に再建 。栃木県栃木市  
ふるさとをはるばるここにたちいづる わがゆくすえはいづくなるらん
 
第十八番 日光山中禅寺(にっこうさんちゅうぜんじ)  
出流山を開いた勝道上人は、男体山の山中に浄土があると信じ、天平神護2年(766)日光に四本龍寺を建てた。神護景雲元年(767)男体山の登頂に挑戦するが二度にわたり失敗。延暦元年(782)三度目の挑戦でようやく前人未到の男体山の頂上を極めた。延暦3年(784)の春、上人が小船で中禅寺湖を周遊した際に湖面に千手観音を感得し、桂の巨木を立木のまま刻んだのが本尊となった。本尊の周囲には源頼朝が奥州平定の際に寄進した四天王が脇侍として配されている。 明治35年山津波により、観音堂は湖畔に押し流されたが、本尊は奇跡的に3日後に湖上に浮かんだ。これをきっかけに現在の歌ヶ浜に移し復興された。栃木県日光市  
中禅寺のぼりて拝むみずうみの うたの浜路にたつは白波
 
第十九番 天開山大谷寺(てんかいざんおおやじ)  
弘仁元年(810)弘法大師が大谷石に本尊の千手観音像を刻み、開基。この辺りは山中に住む毒蛇の流す毒により地獄谷と呼ばれていたが、湯殿山の3人の行者が千手観音像を刻んで住民の苦難を救ったことに始まる。江戸時代 、徳川家康の娘である亀姫が篤く信仰し、伝海僧正により中興された。以後は天台宗に属し、輪王寺の末寺として寺格を誇った。宝永年間(1704-1711)松平輝貞、奥平昌成らによって堂宇が整えられた。昭和37年石仏保存維持工事の際、堂下から縄文初期から弥生時代に至る人骨や土器・石器などが発掘されている。栃木県宇都宮市  
名を聞くもめぐみ大谷の観世音 みちびきたまへ知るも知らぬも  
第二十番 獨鈷山西明寺(とっこさんさいみょうじ)  
天平9年(737)行基により開創。 延暦年間(782-806)に弘法大師が巡錫した際、その徳の高さを妬んで法相宗の僧らが大師を岩屋におしこめた。大師は所持していた独鈷によって難を逃れたことから、獨鈷山と呼ばれるようになった。一山12坊を構えるに至ったが度々の兵火 で焼失。鎌倉時代、北条時頼が本堂を修復し、益子寺を西明寺と改めた。その後、再び兵火にかかる災厄に遭遇するが、応永元年(1394)堂宇が再建、明応元年(1492)楼門が、天文7年(1538)三重塔が建立された。栃木県芳賀郡益子町  
西明寺ちかひをここに尋ぬれば ついのすみかは西とこそきけ  
第二十一番 八溝山日輪寺(やみぞさんにちりんじ)  
天武天皇の時代(673)役ノ行者により創建。大同2年(807)弘法大師は八溝川を渡った際に、香気を感じ、川の水をすくうとその中に梵字が浮かんだ。大師は山の姿が八葉の蓮華を伏せたようであったため八溝山と名づけた。この山に住 む鬼を退治した際に現れた大己貴神・事代主神の二神のお告げに従い、二体の十一面観音を刻み、日輪寺、月輪寺の二寺を建立した。仁寿3年(853)慈覚大師の来錫を縁として天台宗になった。鎌倉時代 、源頼朝が寺領を寄進、室町時代に本堂は総欅作りの大伽藍となり、雷神門、札堂、薬師堂、不動堂などが揃えられた。寛永20年(1643)火災で本堂を焼失したが、水戸藩の保護もあり再建された。明治13年に火災により堂宇を全焼。現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和48年(1973)再建されたもの。茨城県久慈郡大子町  
迷ふ身が今は八溝へ詣りきて 仏のひかり山もかがやく  
第二十二番 妙福山佐竹寺(みょうふくさんさたけじ)  
寛和元年(985)坂東巡礼中の花山法皇が神々のお告げに従い、随行していた元密上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させた。保延6年(1140)観賢上人の教えにより、本尊に深く帰依した初代佐竹昌義は、この寺で長さ20尋に1節しかない奇竹を発見。これぞ出世の瑞兆と姓を佐竹に改めた。天文12年(1543)兵火で焼失したが、同15年(1546)佐竹義昭が佐竹城の鬼門除け のために、それまでの洞崎峰の観音山から現在の地に移して再建した。慶長7年(1602)佐竹氏が秋田へ移封されてからは急速に衰退、明治の廃仏毀釈によって荒廃し、昭和24年までは無住の寺 だった。茨城県常陸太田市  
ひとふしに千代をこめたる佐竹寺 かすみがくれに見ゆるむらまつ  
第二十三番 佐白山観世音寺(さしろさんかんぜおんじ)  
白雉2年(651)狩人の粒浦氏が白馬、白鹿、白雉の守る霊木で千手観音像を刻むことを仏師に依頼、尊像を安置するために堂宇を建立し、三白山と称した。孝徳天皇の勅願所となり正福寺と呼ばれ、鎌倉時代初期までは関東有数の霊場として栄えた。建保2年(1214)近隣の徳蔵寺との寺領争いがきっかけ で、宇都宮氏の一族、時朝が正福寺を滅ぼし、寺跡に城を築いて笠間氏を名乗った。時朝は僧侶の亡霊に悩まされ、観音堂を再建。幕府から無断で兵を動かし、築城したことを咎められたが、観音さまの霊験によって助けられ「佐く(たすく)」の文字を使って山号を佐白山と改め、信仰した。 天正18年(1590)笠間氏が滅ぶと、正福寺も衰退、一時は廃寺寸前までに至るが、昭和5年現在地に移され、寺号も観世音寺と改められた。茨城県笠間市  
夢の世にねむりもさむる佐白山 たえなる法やひびく松風  
第二十四番 雨引山楽法寺(あまびきさんらくほうじ)  
用明天皇2年(586)中国から渡来した法輪独守居士が草庵を建立し、招請した延命観音を祀ったのが始まり。推古天皇が病気平癒を祈って効験があり「勅願寺」とされた。光明皇后は安産祈願の際に「法華経」を写経して奉納した。安産祈願の観音として知られるようになった。弘仁12年(821)大干ばつの折、嵯峨天皇が「法華経」を奉納祈願すると、3日にわたって雨が降った。これより山号が、 それまでの天彦山から雨引山に改められた。応永3年(1396)兵火で多くを焼失したが、鎮守のマタラ神が住職を励まし、七日七夜で再建させた。以後、毎年4月にマタラ神祭が行なわれるようになった。江戸 時代も家康が寺領を寄進するなど寺勢を誇った。茨城県桜川市  
へだてなき誓をたれも仰ぐべし 佛の道に雨引の寺  
第二十五番 筑波山大御堂(つくばさんおおみどう)  
延暦元年(782)徳一法師によって開かれ、弘仁年間(810-824)弘法大師によって真言密教の霊場となった。本尊は弘法大師の刻んだ千手観音像である。筑波山は、はるか昔からイザナギ、イザナミの二神が祀られていたが、後に二神を千手観音、十一面観音の権現として崇めた。この神仏習合は明治に入るまで続き、現在の筑波神社と大御堂は同体であった。江戸時代に入って 益々栄え「神社仏閣湧くが如くに興隆」「堂塔楼門最美なり」などと賛美されたが、明治の廃仏毀釈、神仏分離により本堂は破却された。昭和5年に仮堂のみ再建されたが、昭和13年山津波により倒壊。昭和36年民家を移して本堂が再建された。茨城県つくば市  
大御堂かねは筑波の峯にたて かた夕暮れにくにぞこひしき  
第二十六番 南明山清瀧寺(なんめいさんきよたきじ)  
推古天皇15年(607)勅願により聖徳太子作の聖観音像が龍ヶ峰に安置され草創と言われる。かつてイザナギノミコトが小野山に遊行した際、喉の渇きを覚えたので天の鉾で山を突くと、清水が湧き出た。行基菩薩が神亀5年(728)この滝に霊感を得て、観音像を作ったことが始まりとする説もある。花山法皇が「山の上では老若皆が参拝することは難しい」として山の中腹に移した。鎌倉時代 、八田知家の保護により栄えたが、永禄から元亀年間(1558-1573)に兵火で焼失し、元禄年間(1688-1701)本堂が再建され。明治に入り急速に衰退、無住の期間も長く続いた。昭和44年不審火により山門を残し焼失。現在の本堂は昭和52年地元信徒の熱意により再建されたもの。現在の本尊は佐白山観世音寺の住職により寄進された。茨城県新治郡新治村  
わが心今より後はにごらじな 清滝寺へ詣る身なれば  
第二十七番 飯沼山円福寺(いいぬまさんえんぷくじ)  
神亀5年(728)漁夫の清六と長蔵が観音の夢告に従い、銚子の浦に網を投じたところ、瑪瑙を脇にはさんだ十一面観音像が出現した。二人は出家し草庵を結んで像を安置した。大同年間(806-810)弘法大師が巡錫した際に本尊の連座を造り、開眼をおこなった。このときに、この地の海上長者という豪族が財を提供し、壮麗な伽藍を建立した。この後も海上氏の庇護のもとに発展し、天正6年(1578)八間四方の観音堂が建てられた。安永2年(1773)十間四方の銅葺きに改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔などが整備された。昭和20年戦火により寺宝類を収めていた本坊客殿以外はすべて焼失、現在の観音堂は昭和46年再建された。千葉県銚子市  
このほどはよろずのことを飯沼に きくもならはぬ波の音かな  
第二十八番 滑河山龍正院(ぬめかわさんりゅうしょういん) 
承和5年(838)冷夏にみまわれ大凶作で飢饉に見舞われた、領主の小田将治は慈覚大師を導師として仏天に祈った。結願の日に朝日姫という少女が現れ、将治を小田川の淵まで案内し消えた。川には小船を浮かべる老僧がおり、川から一尺二寸の観音像を掬い上げて将治に渡し「この淵より湧く水をなめよ」と告げて姿を消した。将治が老僧の教えに従ったところ、天候は回復し、作物も実るようになったため、将治は堂宇を立てて尊像を祀った。後にこの観音像は定朝作といわれる観音像の胎内に収められた。建保4年(1216)暴風雨により本堂、護摩堂、三重塔、鐘楼などを失ったが、元禄9年(1696)徳川綱吉が現在の観音堂などが再建された。享保年間(1716-1736)門前一帯が 火事になったが、仁王像が観音堂の屋根から大きなうちわで炎を扇ぎ返し、本堂から下の集落は大火から免れることができた。以降、仁王尊は「火伏せの仁王尊」として信仰を集め、毎年1月8日に注連縄が奉納される。千葉県香取郡下総町  
音にきく滑河寺の朝日ヶ渕 あみ衣にてすくふなりけり  
第二十九番 海上山千葉寺(かいじょうさんせんようじ) 
和銅2年(709)行基菩薩がこの地を訪れ、池に一つの茎、二つの花、千枚の葉がある青蓮華とその花の中で説法をされる阿弥陀如来、観音菩薩を見つけたことに喜び、観音像を刻んで安置したのが始まり。聖武天皇から海照山千葉寺の勅額が与えられた。十八面四間の観音堂が建立され繁栄したが、永暦元年(1160)に落雷によって堂宇、霊宝を全て焼失。しかし、本尊は近くの桜の木の枝に難を避けたといい、このときの縁より現在の場所に移った(ただし、境内から奈良時代の布目瓦等が出土しており、実際には創建以来、場所は変わっていないと考えられる)。中世、源頼朝の旗揚げにも力を貸した豪族 の千葉氏の祈願所として栄えた。頼朝は運慶作の愛染明王を寄進している。江戸時代、家康の寄進を受け、秀忠も数度にわたって参詣するなど栄えた。文政11年(1828)豪壮な構えの観音堂が建立され たが、昭和20年戦火で失われた。千葉市中央区  
千葉寺へ詣る吾が身もたのもしや 岸うつ波に船ぞうかぶる  
第三十番 平野山高蔵寺(へいやさんこうぞうじ)  
用明天皇の代(585-587)徳義上人がこの地で、観音の宝号を一日に数千遍唱える修行を行なった。ある日、雷鳴が激しく轟く中、一人の老翁が現れ「永く国土を守護し、衆生を済度するために観音が飛来された」と古木を指した後に忽然と消えた。上人がその梢を見ると、観音像が安置されていたので、堂宇を建立して祀ったのが始まり。行基菩薩が観音像を刻み、その頭部に徳義上人が感得した尊像を納めた。この里の有力者だった猪(いのう)長官は40歳になっても子がなく、観音様に百日参拝をして祈ったところ、女の子を授かった。子与観と名づけられたその子は、心の清らかな子に育ったが、器量が良くなかったために良縁に恵まれない。そこで、父親同様に観音様にすがると「鹿島に行って、日天を拝しなさい」のお告げがあ り、そのとおりにしたところ結婚し、男子を授かった。この男子こそが藤原鎌足であるとされる。鎌足はこの観音を深く崇拝し、白雉年間(650-654)本堂や阿弥陀堂、三重塔、鐘楼などを建立した。貞観年間(859-877)慈覚大師が不動・毘沙門の両像を納めた。現在の本堂は大永6年(1526)藤原時重により建立された。お告げに従い、この地にあった「アサバ」という大木一本から造られたもので、 そのため本堂の柱には大小があるのだという。千葉県木更津市 
はるばると登りて拝む高倉や 富士にうつろう阿裟婆なるらん  
第三十一番 大悲山笠森寺(だいひさんかさもりでら) 
延暦3年(784)伝教大師最澄が楠の霊木で十一面観音像を刻み、山上に仮堂を建てて安置したのが始まり。長元元年(1028)後一条天皇の勅命により本堂が建立されたが焼失。現在のものは文禄年間(1592-1595)再建された もの。文永4年(1267)日蓮上人が本堂の片隅の間に籠り、最初の信徒となった墨田五郎時光との対面も、ここで行なわれた。現在の本尊は背面腰部に応永13年(1406)仏師慶賛が彫造したと墨書されている。千葉県長生郡長南町  
日はくるる雨はふる野の道すがら かかる旅路をたのむかさもり  
第三十二番 音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら) 
延暦年間(782-806)伝教大師最澄が東国を巡錫中、道に迷って困っていると一人の樵が一夜の宿の提供を申し出た。樵の草庵に泊まり、目が覚めると樵の姿はなく、草庵も熊野権現の社であった。最澄は社の横に庵を造り、十一面観音像を刻み始めたところ、夜毎に金沢谷が光るので彫ってみると、聖観音像が現れた。後に最澄に勅命を受け帰京したが、慈覚大師が師の志を継ぎ、楠から千手観音像を刻んで安置した。堂宇は大同2年(807)坂上田村麻呂が建立。文化10年(1813)仁王門を残して諸堂が焼失したが、本堂、四天門ともに文化14年(1817)再建されている。千葉県いすみ市  
濁るとも千尋の底は澄みにけり 清水寺に結ぶ閼伽桶  
第三十三番 補陀落山那古寺(ふだらくさんなごじ)  
養老元年(717)元正天皇の病気平癒を祈願し、行基菩薩が海中より香木を得て千手観音像を刻んだところ、たちどころに病が平癒、天皇の勅願によって堂宇を建立した。後に慈覚大師が修行し、正治年間(1199-1201)秀円上人により真言密教の霊場となった。鎌倉時代 、源頼朝が七堂伽藍を建立、足利尊氏や里見義実も信仰を篤くした。元禄16年(1703)大地震により堂塔は全壊したが、徳川幕府により宝暦9年(1759)現在地に再建された。2年後には多宝塔も建立され た。嘉永7年江戸の力士「一力長五郎」により客殿前の大蘇鉄が奉納された。千葉県館山市 
補陀洛はよそにはあらじ郡古の寺 岸うつ浪を見るにつけても  
西国札所巡り (西国観音巡礼・西国三十三ヶ寺札所巡り)            
西国一番札所 那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)  
仁徳帝の頃(4世紀)印度天竺の僧、裸行(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積み、滝壷で24cmの観音菩薩を感得、ここに草庵を営んで安置した。推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、観音菩薩を胸佛に納め勅願所と本堂が建立した。平安朝中期から鎌倉時代に「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にし近畿各地の三十三観音様を巡拝したので、西国第一番札所となった。 
補陀落や岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬  
西国二番札所 紀三井山金剛宝寺護国寺(きみいさんこんごうほうじごこくじ)  
通称/紀三井寺。宝亀元年(770)唐から渡来した為光上人はこの地に泊り、その夜半に名草山山頂付近から発する霊光を見た、翌日、山に登り、そこで金色に輝く千手観音像を感得した。為光上人はこの地は観音慈悲の霊場であるとし、十一面観世音菩薩を刻み、これを祀る堂宇を建立した。 
ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん  
西国三番札所 風猛山粉河寺(ふうもうざんこかわでら)  
宝亀元年(770)猟師の大伴孔子古が山中で霊光を発する場所を見た。霊光を見た孔子古はこの地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立した。小堂に童男大士が訪れ、七日間、堂に籠もって仏像を刻み、これを本尊にするようにと孔子古に与えた。翌日、童男大士が去ると、その仏像は金色に輝く観世音菩薩になった。孔子古は童男大士こそ観世音の化身と考え、以後、殺生をやめ供養礼拝した。 鎌倉時代、七堂伽藍が整ったが、天正13年(1585)秀吉は天下統一の望みを達成するため、紀州攻めを敢行し、当寺より約10粁西にある新義真言宗の総本山 根来寺を中心に一帯は火の海と化し、粉河寺も全山焼失した。現在の諸堂は大小20有余数えられるが江戸時代の再建である。 
父母の恵みも深き粉河寺ほとけの誓いたのもしの身や  
西国四番札所 槇尾山施福寺(まきのおさんせふくじ)  
第29代欽明天皇の時代行満上人によって開かれた。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師、空海が勤操大徳について出家得度した寺として有名。弘法大師20歳で剃髪、髪を納めたのが髪堂である。 
深山路や檜原松原わけ行けば 槙の尾寺に駒ぞ勇める  
西国五番札所 紫雲山葛井寺(しうんざんふじいでら)  
神亀2年(725)聖武天皇の発願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得、平安時代に平城天皇の皇子・阿保親王が再興した。河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけ発展し、寺葛井寺も百済(くだら)王族「辰孫王」の子孫王氏一族の「葛井給子」が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のため創建された。永正七年(1510)の勧進帳によると、聖武天皇の勅願による2Km四方の七堂伽藍の建立で古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、落慶法要に天皇も行幸された。聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)3月18日入仏開眼供養のため藤原朝臣前卿を勅使に、行基菩薩を御導師を勤めた。 
まいるより頼みをかくる葛井寺 花のうてなに紫の雲  
西国六番札所 壺坂山南法華寺(つぼさかさんみなみほっけじ) 
大宝3年(703)元興寺の僧弁基が山中で修行中、水晶の壺の中に観世音菩薩を感得。その壺を坂上に安置し、観音像を刻んで本尊とした。養老元年(717)元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。 
岩をたて水をたたえて壺坂の 庭のいさごも浄土なるらん  
西国七番札所 東光山龍蓋寺(とうこうさんりゅうがいじ) 
天智天皇2年(663)義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立した。義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれ、出生は謎である。寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、それを聞いた天智天皇が引き取り、岡の宮で養育した。後に義淵僧正は岡宮を譲り受けた。寺名の由来になった伝説は、大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍をその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという、その池が本堂前の龍蓋池である。 
けさみればつゆの岡寺庭の苔 さながら瑠璃の光なりけり  
西国八番札所 豊山長谷寺(ぶざんはせでら) 
朱鳥(あかみどり)元年(686)道明(どうみょう)上人は、天武天皇の病気平癒ために銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、神亀四年(727)徳道(とくどう)上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩を安置した。開基はこの徳道上人。枕草子など平安文学に「初瀬詣で」がしばしば紹介され、清水寺や石山寺と並んで賑わった。当時の建物は何度かの火災のために残っていない。「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれ、昔は豊初瀬(とよはつせ)泊瀬(はつせ)など美しい名でよばれ、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていた。真言宗豊山派の総本山として、全国に末寺三千余ヵ寺、檀信徒三百万人ともいわれる。四季を通じ「花の寺」として信仰をあつめている。 
いく度も参る心は初瀬寺 山も誓いも深き谷川  
 
西国九番札所 興福寺南円堂  
弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善のために建てた。不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されていた。興福寺は藤原氏の氏寺で、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。その上不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。 興福寺/天智天皇8年(669)藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた山階寺(やましなでら)が始まり。その後飛鳥廐坂の地に移し廐坂寺(うまやさか)と称した。都が平城京へ移され、平城京左京三条七坊に移し「興福寺」と改号、創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。 
春の日は南円堂にかがやきて 三笠のやまにははるるうす雲  
西国十番札所 明星山三室戸寺(みょうじょうざんみむろとじ) 
宝亀元年、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建された。 
夜もすがら月を三室戸わけゆけば 宇治の川瀬に立つは白波  
西国十一番札所 深雪山上醍醐寺(みゆきやまかみだいごじ) 
貞観16年(874)聖宝・理源大師は上醍醐山上で地主横尾明神(よこおみょうじん)の示現によって霊泉(醍醐水)を得た。小さな堂宇を建立、准胝観音像・如意輪観音像を安置したのに始まる。准胝堂(じゅんていどう)の近くの醍醐水は、寺の創建から、今も清水が湧き出る霊泉である。聖宝・理源大師が初めて登山された折、老翁が現れてこの湧き水を飲み「ああ、醍醐味なるかな」と賞賛。伽藍の創建をすすめたとされ、寺名の由来ともなった。 
逆縁も漏らさで救う願あれば 准胝堂はたのもしきかな  
西国十二番札所 岩間山正法寺(いわまさんしょうほうじ)  
大宝二年(702)泰澄は鎮護国家法師に勅任され、養老六年に元正天皇の病気平癒祈願のため、奈良へ来た。同年、加賀白山をを開く途上、霊地を求め弟子神部浄定と少沙弥(寝行者)を従えて岩間山を訪れ、山中の桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその体内に納め祀った。ご本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、苦しむひとびとを悉く救済し、日の出頃、岩間山へ戻られた時には汗びっしょりになられ、そのお姿から汗かき観音さんと呼ばれている。本堂横の池は、芭蕉が「古池やかわず飛び込む水の音」を詠んだ池である。 
みなかみはいずくなるらん岩間寺岸うつ波は松風の音  
西国十三番札所 石光山石山寺(せっこうざんいしやまでら) 
東大寺の大仏建立の際、必要な資金がないことを憂えた聖武天皇が、僧良弁を吉野に籠もらせ祈らせたところ、夢に比良明神が現れ近江の国石山にて祈れと勧められ、早速石山で祈願したところ、陸奥の国に金脈が発見されたので、この霊験をもとに創建された。本尊は縁結・安産・福徳の霊験あらたかな、如意輪観音菩薩。国宝の本堂には紫式部が源氏物語を執筆した「源氏の間」がある。 
後の世を願う心はかろくとも 仏の誓い重き石山  
西国十四番札所 長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ) 
天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのがはじまり。「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれたものを、後に智証大師が厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来する。 
いで入るや波間のの三井寺の 鐘のひびきにあくる湖  
西国十五番札所 新那智山観音寺(しんなちさんかんのんじ) 
天長年間(825)嵯峨上皇の勅命で弘法大師が、東山連峰の南麓に堂宇を建立し十一面観音像を祀ったのが始まり。永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請し、山号を新那智山とし、この地を今熊野と名付けた。後白河法皇が、持病の頭痛を観音に願ったところ快癒、以来頭痛、中風平癒、厄除け開運で栄える。 
昔より立つとも知らぬ今熊野 仏の誓いあらたなりけり  
西国十六番札所 音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら) 
奈良時代の末(778)大和・子島寺の延鎮上人が夢告をうけ音羽の滝を尋ねあてて行叡居士に逢い、霊木を授けられ観音像を彫造して、滝上の草庵に祀ったのに始まる。そして間もなく、坂ノ上田村麻呂公が、滝の清水と上人の観音信仰に導かれて仏殿(本堂)を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置して寺観をととのえた。 
松風や音羽の滝の清水を むすぶ心は涼しかるらん  
西国十七番札所 補陀洛山六波羅蜜寺  
天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創。当時流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮めたという。空也上人の祈願文では、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。 
重くとも五の罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
西国十八番札所 紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)  
用明天皇2年(587)聖徳太子は四天王寺建立にあたり、この地を訪れ澄んだ泉を見つけ沐浴した。沐浴を終え、傍らの木に掛けておいた念持仏をとろうとしたが重くてとれなかった。太子は念持仏がここに留まろうとしているとして、六角堂を建立。我が国最初の伽藍建立。「六角さん」の名称で京の町の人々に親しまれてきた。 本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分の如意輪観世音菩薩で、霊験をたたえた説話が数多い/平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて今少し南北どちらかに御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂がにわかに5丈(15m)ばかり北へ退いた話は有名。 境内東北隅には聖徳太子を祀った太子堂があり、2才の頃の南無仏像が安置されてる。太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊」と呼ばれ、この池坊代々の執行によっていけばなが完成されました。六角堂はわが国のいけばな発祥の地でもある。 
わが思ふ心の中はむつのかど ただまろかれと祈るなりけり  
西国十九番札所 霊鹿山行願寺(れいゆうざんぎょうかくじ) 
寛弘元年(1004)一条天皇の御願により、行円が一条北辺堂(いちじょうほくへんどう)を復興し行願寺と名づけたことにはじまる。いっさいの人々の成仏を「願い、行(ぎょう)じる」思いが込められている。行円は出家前九州で狩りをして暮らしていた。あるとき射止めた雌鹿の胎内に子鹿を宿しているのを見て殺生の罪深きことを感じ仏門に入る決意をした。京に入り母鹿の皮を身につけ、首に仏像を掛け、修行に励んだ。人々は「横川皮仙(よこかわかわひじり)」と呼んだ。 
花を見ていまは望みも革堂の 庭の千草も盛りなるらん  
西国二十番札所 西山善峰寺(にしやまよしみねでら)  
長元2年(1029)源算上人の開山。源算上人は、恵心僧都の高弟で、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕蜜の蘊奥を極め47歳の時当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となした。長元7年9月後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ良峯寺の寺号及び聖詠を賜わった。後花園天皇が伽藍を改築、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火で焦土と化した。徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧した。 
野をもすぎ山路に向かふあめの空 善峰よりも晴るる夕立  
西国二十一番札所 菩提山穴太寺(ぼだいさんあなおじ)  
奈良時代末期、慶雲二年(705)文武天皇の御世に大伴古磨によって創立。応和2年(962)丹波在住の宇治宮成が京都の仏師感世に聖観音像の制作を依頼、造立した。そのお礼と、宮成は自慢の葦毛の馬を感世に与えたが、惜しくなり感世を矢で殺し馬を取り戻した。ところが帰宅してみると観音像の左胸に矢が刺さっており、血が流れていた。殺したはずの感世は無事だったので、宮成は心を入れ替え穴太寺を建てた。 
かかる世に生まれあふ身のあなうれいやと 思はで頼め十声一声  
西国二十二番札所 補陀洛山総持寺(ふだらくさんそうじじ)  
平安時代、藤原山蔭卿の父である高房卿は大宰府に赴任の途中、猟師たちが一匹の大亀を捕らえていた。高房卿は、自分の着物と交換し、大亀を河に放し助けた。翌朝、継母嘆のたくらみにより山陰は河に落とされた。悲しんだ高房卿は「観音様、今一度我が子山蔭に、亡骸としてでも会わせて下さい」と、常日頃より信仰している観音様に祈念した。すると昨日の大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れた。観音様の御恩に感謝した高房卿は観音様の造像を発願した。高房卿は亡くなり山蔭卿が、父高房卿の遺志を継いで千手観音を像立し、総持寺を創建した。 
おしなべて老いも若きも総持寺の ほとけの誓い頼まぬはなし  
西国二十三番札所 応頂山勝尾寺(おうちょうざんかつおうじ)  
奈良末神亀4年(727)双生児の善仲・善算両上人が山中に草庵を構え、光仁帝皇子が開城が、両上人を師として仏界を求め、天平神護元年(765)彌勒寺(みろくじ)を開創、「妙観」と言う観音化身の比丘が白檀香木をもって十一面千手観音を彫刻し本尊とした。第六大座主行巡(ぎょうじゅん)上人は、清和帝の玉安穏を祈って効験を示した事より、王に勝つ寺「勝王寺(かつおうじ)」の寺名を賜う。彌勒寺側は王を尾の字に控え「勝尾寺(かつおうじ)」と号す。 
重くとも罪には法の勝尾寺 ほとけを頼む身こそやすけれ  
西国二十四番札所 紫雲山中山寺(しうんざんなかやまでら)  
聖徳太子の創建といわれる、わが国最初の観音霊場。本尊は十一面観世音菩薩で、古くより安産・求子の観音として数多くの信仰を集めた。御本尊のお姿はインドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が女人救済の悲願をこめて、自ら等身像を彫刻されたことに故実する尊像と伝えられる。謡曲「満仲」歌舞伎「菅原伝授手習鑑」は、平安中期に多田源氏満仲の信護をうけた時代、当山にまつわる美女丸・幸寿丸の哀話から創作されたもの。 
野をもすぎ里をもゆきて中山の 寺へ参るは後の世のため  
西国二十五番札所 御獄山清水寺(みたけさんきよみずでら)  
印度僧法道仙人は景行天皇の御時に中国、朝鮮を経てこの地に開山。鎮護国家豊作を祈願した。推古35年(627)推古天皇勅願により、根本中堂建立、法道仙人一刀三礼の秘仏の十一面観音、脇士昆沙門天王、吉祥天女の聖像を安置した。 神亀2年(725)聖武天皇の勅命により行基菩薩が千手千眼菩薩を造立し、大講堂を建立し安置した。此の地は水に乏しく、仙人、水神に祈って霊泉湧出し感謝の余り清水寺(きよみずでら)と名付けられた。 
あはれみや普き門の品々になにをか波のここに清水  
西国二十六番札所 法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ) 
大化五年(649)孝徳天皇の病気を加持祈祷により直したことから天皇の帰依が厚かった法道上人が翌、白雉元年(650)聖観音像を本尊にこの地に堂を創建し、天皇が行幸され法華山一乗寺の山号を賜った。 
春は花夏は橘秋は菊 いつも妙なる法の華山  
西国二十七番札所 書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)  
康保3年(966)性空上人によって開かれ、西の比叡山と言われ、鎮護国家の道場でその中心になる大講堂である。 
はるばるとのぼれば書写の山おろし 松のひびきも御法なるらん  
西国二十八番札所 成相山成相寺(なりあいさんなりあいじ)  
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食ぺる物もなくなり、餓死寸前となった。死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。 
波の音まつのひびきも成相の 風ふきわたす天橋立  
西国二十九番札所 青葉山松尾寺(あおばさんまつのおでら)  
和同元年(708)唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望み、中国の霊験新たな馬耳山に似ていると登山したところ、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結んだ。元永2年(1119)鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて。織田の兵火によって一山ことごとく灰燼に帰したが、天正九年(1581)細川幽斉の手によって復興、京極家の修築等を経て、享保十五年(1730)牧野英成によって今日の姿を整えるに至った。 
往昔は幾世経ぬらん便りをば 千歳もここに松の尾の寺  
西国三十番札所 厳金山法厳寺(がんこうざんほうごんじ)  
神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、行基を勅使にとしてつかわし、堂塔を開基させたのが始まり。行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。翌年、観音堂を建立し千手観音像を安置した。 
月も日も波間に浮かぶ竹生島 船に宝を積むここちして  
西国三十一番札所 姨綺耶山長命寺(いきやさんちょうめいじ)  
人皇十二代景行天皇20年、長寿の大臣武内宿彌(たけのうちすくね)当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈り三百歳以上の長寿を保ち、六代の天皇に仕えた。その後聖徳太子が諸国歴訪の折り、此の山に来臨され、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字と観世音菩薩の御影を拝され感歎されていると、忽ち巌の影より白髪の老翁現われ「此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう」と告げた。早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、武内宿彌長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付けた。 
やちとせや柳に長き長命寺 運ぶ歩みのかざしなるらん  
西国三十二番札所 繖山観音正寺(きぬがさやまかんのんしょうじ) 
聖徳太子がこの地に来臨された折、人魚が現れ「私は前世殺生を生業としていて、仏法を信心していなかったためこんな姿になった。太子様がlここに堂を立て、観音の像を安置供養していただけると往生することができる」と訴えた。そこで太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立された。 
あな尊と導きたまえ観音寺 遠き国より運ぶ歩を  
西国三十三番札所 谷汲山華厳寺(たにくみさんけごんじ)  
桓武天皇、延暦十七年(798年)開祖は豊然上人、本願は大口大領です。奥州白川郷の大口大領はつねづねより十一面観音の尊像を建立したいと強く願っており、京の都から観音像を故郷へ持ち帰る最中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊上人という聖(ひじり)と力を合わせ山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置した。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、いっこうに尽きることが無く、それより後は燈明に困ることが無かったという。この話を聞いた、醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を燈明に用いたのにちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜した。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされている。  
いままでは親と頼みし笈摺を脱ぎて納むる美濃の谷汲 
よろずよの願いをここに納めおく水は苔よりいづる谷汲 
世を照らす仏のしるしありければまだともしびも消えぬなりけり  
四国札所巡り (四国八十八箇所)                           
四国一番札所 竺和山霊山寺 (じくわざんりょうぜんじ) 
奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開いたお寺。その後、弘法大師が四国巡錫の時、ここで21日間修業した際、天人があらわれ「人々を救うため88ヶ所を開かんと願うならば、ここを第一番と定むべし」と告げて姿を消した。そこで釈迦如来を刻み、天竺を日本に移すというところから竺和山霊山寺と号し、四国第一番の札所とされた。戦国時代、長宗我部の戦乱のために焼け、明治時代にも火災に遭 ったが、現在は全て再建復興された。  
霊山の釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も消えうせにけり  
四国二番札所 日照山極楽寺 (にっしょうざんごくらくじ) 
弘法大師が四国巡錫の途中、ここで21日間、阿弥陀経を唱えて修業したところ、満願の日に阿弥陀如来があらわれたので、ご本尊として阿弥陀様を刻まれた。阿弥陀様のお顔は穏やかで、慈悲の光はかくかくと輝き、その光は海辺にまで及び、そのため漁をする漁師はまぶしさに仕事ができ なかった。そこで光を遮るため本尊の前に小さな丘を築いたところから、山号を日照山と呼ぶようになった。天正年間に戦乱のため焼けたが、本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の作で、国の重要文化財となって いる。 
極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口癖にせよ  
四国三番札所 亀光山金泉寺 (きこうざんこんせんじ) 
奈良時代、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が建てたお寺。その後、弘法大師が四国をまわられた時、黄金の泉が湧き出たところから、金の泉の寺、金泉寺と名づけられた。800年前の源平の昔、源氏の大将の源義経は一ノ谷から四国に向かい、今の徳島県小松島に上陸し、平家を追って讃岐の屋島に向か った。その途中、この寺に立ち寄り休憩した時、弁慶の力を試すため、境内にあった大きい石を持ち上げさせた。「弁慶の力石」は今でも境内に残っている。 
極楽の宝の池を思えただ 黄金の泉澄み湛えたる  
四国四番札所 黒巖山大日寺 (こくがんざんだいにちじ) 
弘法大師がこの地で長らく修行されたおり、大日如来があらわれたことから、1寸8分の仏像を刻まれてご本尊とし、お寺の名前を大日寺とされた。長い年月の間に幾度か廃寺になったりもしたが、その度に復興して現在に至ってい る。 
眺むれば月白妙の夜半なれや ただ黒谷の墨染めの袖  
四国五番札所 無尽山地蔵寺 (むじんざんじぞうじ) 
五百羅漢で有名なお寺。1200年ほど前、嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が開いた。昔は阿波のみならず、讃岐、伊予に300余りの末寺がある大きなお寺だったが、戦国時代に戦乱 で焼けてしまった。今も境内は大変広く立派なお寺で、本堂の裏手には、奥の院五百羅漢さまがある。羅漢とは、まだ仏様には達しませんが、修行中の人間の中では一番功徳を積んだ学者、即ち人間の中では最高の位にあ る。人間の喜怒哀楽の表情をいろいろあらわしたのが、この五百羅漢で、それは、仏につかえ修行するお坊さんの顔である。  
六道の能化の地蔵大菩薩 導き給えこの世後の世
四国六番札所 温泉山安楽寺 (おんせんざんあんらくじ) 
昔、このあたりに温泉が沸き、病に効き目があった。この地に来た弘法大師は、人々を病や厄から救うため薬師如来を刻み、お堂を建て、温泉山・安楽寺と名づけた。昔は山手の谷あいにあ ったが、長宗我部の兵火に遭い、現在のところに移った。戦後、お遍路の火の不始末から再び焼けたが、現在は立派に再建された。 
仮の世に知行争う無益より 安楽国の守護を望めよ 
四国七番札所 光明山十楽寺 (こうみょうざんじゅうらくじ) 
弘法大師がこの谷を行脚中に、阿弥陀様があらわれたので、この地に堂宇を建て、阿弥陀様のお姿を刻み本尊とされた。樟で刻まれたご本尊は、阿弥陀如来が極楽浄土で瞑想にふけるお姿で ある。人間が極楽浄土で受ける十の喜びが得られるように、十の光明に輝く楽しみがありますように、というところから光明山・十楽寺と名付けられた。 かつては山奥の谷あいにあったが、戦乱のため焼け、現在のところに移った。 
人間の八苦を早く離れなば 到らん方は九品十楽  
四国八番札所 普明山熊谷寺 (ふみょうざんくまだにじ) 
弘法大師がこの山で修行中、あらわれた紀州熊野権現さまから、1寸8分の観音様を授かった。大師は等身大の千手観音を刻み、伽藍を建てて奉納されたのが、この熊谷寺である。残念ながら、このご本尊は、昭和二年の火災で本堂ともども焼失してしま った。 
薪取り水くま谷の寺に来て 難行するも後の世のため  
四国九番札所 正覚山法輪寺 (しょうかくざんほうりんじ) 
弘法大師が開かれたお寺で、ご本尊は大師が刻まれた釈迦如来の涅槃像である。お釈迦様は80歳の時、涅槃に入ることを悟られました(涅槃に入るとは、俗人の言葉で言えば死ぬこと)。お弟子さんを集め、最後の教えを説かれたのち横になり、涅槃に入られた。頭を北に、顔は西を向き、右脇を下にしたお釈迦様のまわりに、沢山のお弟子さんが集まり、悲しみにくれている様子を刻んだのが、法輪寺のご本尊、釈迦涅槃像で ある。お寺は、開かれた頃は山あいにあったが、天正年間に戦乱のため焼かれ、現在の場所に移った。 
大乗の秘法も科もひるがえし 転法輪の縁とこそきけ  
四国十番札所 得度山切幡寺 (とくどざんきりはたじ) 
お大師さんが四国を廻られた時、山のふもとで一人の女が毎日機を織って暮らしていた。大師は機織りの女に、布を分けてくれるように頼んだところ、惜しげもなく機織りの布を途中から切り、大師に差上げた。大師は大変喜ばれ、何か願いごとはないかと尋ねた。その女は「千手観音となって衆生を救いたい」と答えた。その心に感心し、直ちにその場で千手観音の像を刻み、機織りの女を得度させたところ、千手観音の姿(仏様)になったと言われ る。このことから山号を得度山と言い、機織りの布を切ったところから切幡の名が生まれた。 
欲心をただひとすじに切幡寺 後の世までの障りとぞなる  
四国十一番札所 金剛山藤井寺 (こんごうざんふじいでら) 
弘法大師が42歳の厄年に自ら薬師如来のお姿(座像)を刻まれ、開かれたのがこのお寺。ここより南、川淵という場所に八畳岩があり、弘法大師はその上に護摩壇を築き、17日間修行 し境内に五色の藤の木を植えた。この藤の木にちなんで、藤井寺の名がつけられた。建立当時は七堂伽藍が建ち並ぶ大きなお寺だったが、戦国時代に長宗我部の戦火に、更に江戸時代にも火災に遭い、ことごとく焼けてしま ったが、幸いにもご本尊だけは難を免れた。 
色も香も無比中道の藤井寺 信如の波のたたぬ日もなし  
四国十二番札所 摩盧山焼山寺 (まろざんしょうざんじ) 
お四国詣り6つの難所(鶴林・太龍・神峯・横峰・雲辺・焼山寺)の一つで、役行者小角が開創した。焼山寺一帯に毒蛇がおり、作物を害し、人々に危害を与えていた。弘法大師が来られた時も、全山が火の山となり登山を拒 んだが、進むにつれ火は次第に消え、山頂近くに着くと、大きな岩穴に悪魔の蛇がいた。虚空蔵菩薩の助けで毒蛇を岩穴に封じ込め、以後、人々は安心して住むことができるようになった。全山火の山と化した ことから焼山寺、火の恐れがあることから山号を摩盧山と言うようになった。摩盧とは梵語で水輪の意味で、火を防ぐための名前である。 
後の世を思えば苦行焼山寺 死出や三途の難所ありとも  
四国十三番札所 大栗山大日寺 (おおぐりざんだいにちじ)  
弘法大師巡錫の時、大日如来があらわれ「この地は霊地なれば、一宇を建立すべし」のお告げがあり、お堂を建てて大日如来を刻まれたのがはじまり。昔は神仏混交といい、神様と仏様は一緒に祀られて いた。明治のはじめ、神仏分離によって、お宮とお寺にはっきり分れた。道をはさんでお宮とお寺が向いあい、昔の名残りをとどめている。神仏分離の時に、阿波一の宮神社の十一面観世音菩薩(行基菩薩作)を大日寺に移し本尊としたので、大日如来は脇仏となっ た。 
阿波の国一の宮とはゆうだすき かけて頼めやこの世後の世  
四国十四番札所 盛寿山常楽寺 (せいじゅざんじょうらくじ) 
弘仁6年、この地を巡錫した大師は、弥勒菩薩のご来迎を拝し、感得した尊影を直ちに彫って本尊とし、この寺を開創した。ご本尊が弥勒菩薩なのは四国の札所ではこの常楽寺だけである。 
弥勒菩薩とは、お釈迦様が亡くなられてから56憶7千万年のちにこの世に顕れ、衆生を救うという仏様、いわば未来に光を与えて下さる仏様である。 
常楽の岸にはいつか到らまし 弘誓の船に乗り遅れずば  
四国十五番札所 薬王山国分寺 (やくおうざんこくぶんじ) 
奈良時代、聖武天皇は全国にそれぞれ国分寺を建てたが、ここは阿波の国分寺で、その頃の阿波の国の政治・文化の中心でもあった(諸国の国分寺の総本山が奈良の東大寺)。開かれた当時は、東大寺と同じく法相宗 だったが、弘法大師が立ち寄られてから真言宗となった。天正年間に長宗我部の乱により、伽藍は焼けてしまったが、250年前の寛保年間に再建され、その時、曹洞宗に改められた。境内は昔の面影を残して いるが、特に庭は立派で、文化財として専門家の間では高く評価されている。 
薄く濃く分け分け色を染めぬれば 流転生死の秋の紅葉は  
四国十六番札所 光耀山観音寺 (こうようざんかんおんじ) 
1200年以上も昔、奈良時代の天平年間に、聖武天皇の勅願により開かれた。その後、弘法大師がとどまり、ご本尊の千手観音を刻まれた。明治の頃、姑をいじめた女性がこの観音寺でその報いを受け、雨が降っているのに着物に火が燃え移り全身に大火傷をして、大師の戒めにより反省した、という話も伝えられて いる。 
忘れずも導きたまへ観音寺 西方世界弥陀の浄土ヘ  
四国十七番札所 瑠璃山井戸寺 (るりざんいどじ) 
飛鳥時代・白鳳年問、天武天皇の勅願により開かれ、本尊の七仏薬師如来は聖徳太子の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。弘法大師巡錫のみぎり、このあたりが水に恵まれないことを聞き、杖をついて一夜のうちに井戸を堀り、井戸に自分の姿を映されたところから井戸寺と呼ばれるようになった。今も残る境内の井戸をのぞいて自分の姿が映れば、その一年は無病息災だと言われてい る。 
面影を映して見れば井戸の水 結べば胸の垢や落ちなむ  
四国十八番札所 母養山恩山寺 (ぼようざんおんざんじ) 
行基菩薩が、厄除けのため薬師如来を刻み、本尊として祀り、開いた。昔から女人禁制のお寺だった。弘法大師がこの恩山寺で修行した時、大師の母君、玉依御前が大師を訪ねてこちらに来られたが、女人禁制のため登山することができ なかった。大師は、仁王門の近くで17日間修業され、女人解禁を祈念して禁を解かれ、母君と一緒に登山し、朝夕親孝行を尽くされ、それから山号を母養山・恩山寺と言うようになった 。 
子を産めるその父母の恩山寺 訪らひ難きことはあらじな  
四国十九番札所 橋池山立江寺 (きょうちさんたつえじ) 
立江のお地蔵さんの名で親しまれている。奈良時代、行基菩薩が訪れた時、一羽の自鷺が飛んできて、橋の上にとまった。「これ仏の導きなり」と直ちに伽藍を建立したのが 始まり。昔から四国の関所と言われ「心正しからざる者は恐れおののき、足が震えて、よくお詣りしない」と言われる。昔、石見の国のお京という女性が悪事を働き、罪滅ぼしか、追手から逃れるためかお四国参りをした。立江寺の本堂にぬかずくやいなや、お京の黒髪はたちまち逆立ち、本堂の鐘の緒に巻き上げられ。後悔した彼女は、信心し仏の道に入った。 
いつかさて西の住まいの我が立江 弘誓の舟に乗りて到らむ  
四国二十番札所 霊鷲山鶴林寺 (りょうじゅぜんかくりんじ) 
弘法大師が来錫された時、二羽の白鶴が地蔵菩薩を守護しながら舞い降りるのを見て、地蔵菩薩を刻み、堂塔を建立したことから、鶴林寺と呼ばれるようになった。山の形が印度の霊山、鷲峰山に似ている ことから霊鷲山と号されるようになった。平安時代、桓武天皇の勅願により開かれた寺で、源頼朝以来、幕府の信仰篤く、阿波の殿様、蜂須賀侯も山林を寄進してい る。阿波の札所のほとんどは、戦国時代、長宗我部の乱により焼けておりますが、鶴林寺は幸い難をまぬがれ、本堂、三重塔など昔の姿のまま残っている。 
繁りつる鶴の林をしるべにて 大師ぞ居ます地蔵帝釈  
四国二十一番札所 舎心山太龍寺 (しゃしんざんたいりゅうじ) 
桓武天皇の勅願寺で、延暦12年に弘法大師が開基した。弘法大師19歳の時、四国に来られ、この山で修行された。この時、竜や山伏が大師の心を試そうと妨げたが、少しも動ぜずに修業を続けた。人里離れた深い山奥で難行苦行を重ねたが、それでも悟りを開くことができず、高い崖の上から身を投げて悟りを開こうと したこともあった。のち、太龍寺をあとに室戸岬へ向かい、東寺でついに悟りを開かれた。 
太龍の常に住むぞやげに岩屋 舎心聞持は守護のためなり  
四国二十二番札所 白水山平等寺 (はくすいざんびょうどうじ) 
弘法大師41才の時、この地に来錫し、開創したお寺。石段を登って本堂へお参りする途中に大師堂があり、昔そのあたりに乳のような水が湧き出たところから、白水山の山号が生れた。弘法大師はその水を浴びて修行したが、人々が受けるご利益が分け隔てなく平等であるように、と言って平等寺と名づけ た。 
平等に隔ての無きと聞く時は あら頼もしき仏とぞみる  
四国二十三番札所 医王山薬王寺 (いおうざんやくおうじ) 
発心の道場と言われる阿波23ケ寺最後の札所。医王山の山号からもわかるように本尊は薬師如来。四国札所には医王山と呼ぶお寺が5つある。開基は行基菩薩だが、弘法大師42歳の時、厄除けに本尊の厄除薬師如来を刻まれ、厄除けの根本祈願寺として開山した。本堂までの石段は二つに分れ、下が33段で女厄坂、上は42段で男厄坂と呼ばれ、お詣りする善男善女の厄払いの場所で ある。 
皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬を与へまします  
四国二十四番札所 室戸山最御崎寺(むろとざんほつみさきじ)(通称・東寺) 
室戸岬の突端の山の上にある。弘法大師19才の時、仏法の迷いを払わんと、大和の国大峰山から高野山ヘ、更に阿波の太龍寺へ登り、命がけの難行苦行をしたが、悟りを開くことができ なかった。そして次に来られたのが、この室戸だった。「法性の 室戸と言えど 我住めば 有為の波風 立たぬ日ぞなし」と詠み、東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれた。そこで山の上に東寺を建てた 、本尊の虚空蔵菩薩は創建と共に大師が刻まれたもの。 
明星の出でぬる方の東寺 暗き迷いはなどかあらまじ  
四国二十五番札所 宝珠山津照寺(ほうしゅざんしんしょうじ)(通称・津寺) 
弘法大師が漁民の航海の安全と豊漁を願って延命地蔵菩薩像を刻み、伽藍を建立したのがはじまりで、海上の安全と火災除けに霊験あらたかなお寺。土佐藩の殿様が室戸沖で時化に遭った時、一人の僧が現われ船の舵を取り、無事港に入ることができた。港に着き、お坊さんの後を追うと、津寺の本堂の中に消えた。そこで本尊を拝 んだところ、全身潮でびしょぬれであったと言う。 
法の船入るか出づるかこの津寺 迷う我が身を乗せて給へや  
四国二十六番札所 竜頭山金剛頂寺(りゅうずざんこんごうちょうじ)(通称・西寺) 
大同二年(807)勅願により弘法大師が開基。本尊の薬師如来は弘法大師が刻み、一度も人の目に触れたことのない秘仏。海抜160mの山の上にあるが、室戸岬の最御崎寺と相対している ことから、最御崎寺を東寺、こちらを西寺と呼ぶ。昔は沢山の僧侶や修験者などがいた大きいお寺だった。明治までは室戸沖でも沢山の鯨が捕れた。「鯨一頭、七浦栄える」と言われ、大漁の時には浜は大変な景気で、道行くお遍路さんにも鯨の肉を接待した。 
往生に望みをかくる極楽は 月の傾く西寺の空  
四国二十七番札所 竹林山神峯寺 (ちくりんざんこうのみねじ) 
勅命によって、天照大神その他の諸神を祀った神社として創建。のち、行基菩薩が来錫して十一面観世音菩薩像を刻み、これを本尊として安置。その後、弘法大師が伽藍を建立、神仏を合祀してここを第二十七番札所に定めた。 四国でも指折りの難所で、高さ600m余りの神峰山を目指して登る参道は長く険しく、特に半ばから上は「真っ縦」と呼ばれる急勾配で、足は震え、登りながらもお大師さんの息切れが聞こえてくるようなありがたいところで ある。 
御仏の恵みの心神の峯 山も誓いも高き水音  
四国二十八番札所 法界山大日寺 (ほうかいさんだいにちじ) 
本尊は大日如来で、行基菩薩によって開かれた。弘法大師が刻まれた薬師如来は、本堂上の奥の院に祀られている。昔は七堂伽藍が整い、脇坊や末寺もある大きなお寺で、藩政時代の頃、お寺の修繕等は全て藩の費用で賄っていた。小高い丘の上にあり、いつもきれいに掃き清められた静かなお寺で ある。 
露霜と罪を照らせる大日寺 などか歩みを運ばざらまし  
四国二十九番札所 摩尼山国分寺 (まにざんこくぶんじ) 
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて建てたお寺。聖武天皇は大変仏教に力を入れ、諸国に国分寺を建立し、奈良にはその総本山に当たる、東大寺を建てた。豊臣秀吉が天下を統一する少し前、土佐の豪族、長宗我部元親は四国を統一し、天下を狙い、結局秀吉に敗れた、彼はこの 地の出身。彼は四国統一の時、各地のお寺を次々と焼き払ったが、出身地のこの国分寺には本堂を再建して寄進している。土佐の苔寺とも言われ、苔むした本堂や仁王門など、いずれも国の文化財に指定されている。 
国を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益残せり  
四国三十番札所 百々山善楽寺 (どどざんぜんらくじ) 
1千年余り前、菅原道真の長男、高視朝臣は高知に島流しとなっていました。その縁で、道真公を太宰府天満宮にお祀りする特、九州太宰府にある菩提寺にちなんで弘法大師が建てたのが安楽寺で ある。30番札所は安楽寺と善楽寺の二つがある。もとは善楽寺が30番札所だったが、明治3年神仏分離・排仏毀釈により、多くのお寺は一時廃止された。その時に善楽寺もなくなり、本尊阿弥陀如来を安楽寺に移し30番札所としたもので ある。のち善楽寺は復興されたが、ご本尊は安楽寺に安置されている。同じ境内には薫的さんをお祀りする薫的神社がある。 
人多く立ち集まれる一の宮 昔も今も栄えぬるかな  
四国三十一番札所 五台山竹林寺 (ごだいざんちくりんじ) 
聖武天皇はある日、唐の五台山で文珠菩薩を拝んだ夢をみた。そこで唐の五台山に似た山を見つけるよう僧行基に命じたた。行基はこの地へ来た時「この山こそ五台山そっくりだ」と言って五台山と名づけ、お寺を建てた。本尊は智恵の文珠菩薩で、信心して拝めば利口になれるというご本尊で ある。戦国時代も、武士はお互いに戒めて、境内に入ることを禁じていた。 
南無文珠三世諸仏の母ときく 我も子なれば智こそ欲しけれ  
四国三十二番札所 八葉山禅師峰寺 (はちようざんぜんじぶじ) 
弘法大師が開基したお寺で、通称・峰寺と呼ぶ。浦戸湾を見下ろす、風光明美な小高い山の上にある。浦戸湾入口近くにあり、土佐の殿様、山内候が浦戸港を出る時は、必ずここに海上安全を 祈願した。山の姿が八葉の蓮の花に似ていることから、山号を八葉山と名づけられた。 
静かなる我が源の禅師峰寺 浮かぶ心は法の早船 
 
四国三十三番札所 高福山雪蹊寺 (こうふくざんせっけいじ) 
四国の札所には珍らしく臨済宗妙心寺派のお寺。延暦年間に弘法大師によって開かれ、はじめは高福寺と呼ばれていた。その後鎌倉時代、運慶が本尊を刻んで奉納したところから運慶寺と改められた。更に天正年間に土佐の豪族、長宗我部元親が浦戸に城を築いて本拠とし、近くにある運慶寺を崇敬し、臨済宗に改めた。元親の死後は長曽我部家の菩提寺とし、寺の名前も元親の法号をとって雪蹊寺と呼ぶようにな った。 
旅の道うえしも今は高福寺 後の楽しみ有明の月  
四国三十四番札所 本尾山種間寺 (もとおざんたねまじ) 
百済の大工達が、難波の四天王寺建立を手伝うため来日、帰る途中、土佐沖で暴風雨に遭い、この地にたどりついた。大工達が薬飾如来を刻み、お寺を建てたのが寺の 始まりである。弘法大師が唐から持ちかえった五穀の種を蒔いたことから、種間寺と呼ばれる。村上天皇の頃、藤原信家が勅使として「種間」の勅額を奉納した。その際、大般若経6百巻を写経して奉納しようとしたが、どこからともなくお坊さんが現われ「あなたの願いをかなえてあげよう」と3年3ケ月写経を終え納めたが、にわかに大嵐が吹き、写経は空高く巻き上げられ、舞い降りた時は文字が消えていた。信家が書いたものでな く返されたのでしょう、「白字大般若経」と言われ朝廷に奉納された。 
世の中に蒔ける五穀の種間寺 深き如来の大悲なりけり  
四国三十五番札所 醫王山清瀧寺 (いおうざんきよたきじ) 
養老年間、行基菩薩が開いた。行基は人々の災難、病を除くため一刀三礼の薬師如来を刻み奉納した。一刀三礼とは、一度刻んでは三回礼拝して仏像を仕上げること。のち に、弘法大師がこの山で17日間修業し、満願の日に金剛杖で地面を叩いたところ、清水が沸き出したと言われ、今も裏山から清らかな水があふれるように流れ出してい る。又、平城天皇の第3皇子、高丘親王が来られ、五輪の塔を建立された。 
澄む水を汲むは心の清瀧寺 波の花散る岩の羽衣  
四国三十六番札所 独鈷山青龍寺 (とっこうざんしょうりゅうじ) 
弘法大師は唐の青龍寺で修業したが、日本へ帰る時、師の恩に報いるため、師にゆかりのある寺を日本に建てようと、はるか東の空に向かって独鈷を投げたところ、この寺の裏山、今の奥の院にある松の木に舞い降りた。そこでこの地にお寺を建て青龍寺と名づけ、山号を独鈷山と呼ぶようにな った。 
わずかなる泉に住める青龍は 仏法守護の誓いとぞ聞く  
四国三十七番札所 藤井山岩本寺 (ふじいざんいわもとじ) 
奈良時代、聖武天皇の勅を奉じ、行基菩薩が開いたお寺で、昔は福円満寺と呼ばれ、日本最初の星祭を行った道場である。弘法大師は、この地の仁井田大明神のお告げで、五色の御幣を空中に投げたところ、雉や白鷺など五つの鳥となって舞い降りた。そこにそれぞれお宮を建てが、岩本寺はそのお宮を管理する別当職 だった。どこのお寺もご本尊は一つだが、五色の御幣のいわれから「方よけ不動に福観音、子育て地蔵に未来の阿弥陀、ふせ薬師」の五体がご本尊様である。 
六つの塵五つの社あらわれて 深き仁井田の神の楽しみ  
四国三十八番札所 蹉跎山金剛福寺 (さだざんこんごうふくじ) 
札所のうち、お寺とお寺の問が一番長いところが、岩本寺と金剛福寺の間で、120Km(30里)もある。弘法大師も岩本寺から足摺へは足をひきずりながら行 ったので、足摺山とも言われる。弘法大師は果てしなく広がる海が、観音様がいる補陀落に通じるところから伽藍を建立、千手観音を祀った。足利から徳川時代にかけ、武士や、近海を荒しまわった海賊も、この足摺には一目おい た。平安時代、都の鬼の片腕を切り落とした渡辺綱は、源頼光の命を受け、足摺へ参り、お堂を建てたと伝えられる。 
補陀落やここは岬の船の竿 取るも捨つるも法の蹉跎山  
四国三十九番札所 赤亀山延光寺 (しゃっきざんえんこうじ) 
奈良時代、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が薬師如来を刻み本尊とし、お堂を建てた。弘法大師はこちらに永くおられ、脇仏として日光、月光菩薩を刻んだ。水が乏しいので、大師が杖で地面を叩 き祈ると水がわき出たと伝えられ、その跡は今も残っている。延喜年間、赤い亀が竜宮から釣り鐘を背負ってきたと伝えられ、山号を赤亀山と言うのは、この伝説に由来する。釣り鐘は今から1070年位前の延喜11年(911)に造られた、国宝に指定されて いる。 
南無薬師諸病悉徐の願いこめ 詣る我が身を助けましませ  
四国四十番札所 平城山観自在寺 (へいじょうざんかんじざいじ) 
大同二年(807)弘法大師が平城天皇の勅願所として、一本の霊木から本尊の薬師如来と脇仏の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩の三尊を刻んで安置し、開基したお寺。平城・嵯峨の両天皇は、一切経および大般若経を納めたのみならず、毎年勅使を下向させ護摩供を修せられた。そのため、この地方は御荘、寺のある町は平城と呼ばれてい る。 
しんがんや自在の春に花咲きて 浮世逃れて住むや獣  
四国四十一番札所 稲荷山龍光寺 (いなりざんりゅうこうじ) 
弘法大師がこの地へ来た時、白髪の老人が現われ「我この地に住み、法教を守り、人々を救わん」と言って姿を消した。大師は伽藍を建て、稲荷大明神龍光寺と名づけた。明治の神仏分離でお宮とお寺は別々に祀られるようにな ったが、今もお寺と並んで稲荷神社がある。お稲荷さんはもともと、稲を象徴する農業の神様だが、お寺は南予地方の米どころ、三間平野を見下ろすところにあり、付近の人々は、お寺とお宮を合わせて「三間のお稲荷さん」と呼んで いる。 
この神は三国流布の密教を 守らせ給わん誓いとぞ聞く  
四国四十二番札所 一{王果}山佛木寺 (いっかざんぶつもくじ) 
弘法大師が四国巡錫の時、牛をひいた老人が現われた。大師がその牛に乗ってこの場所へ来られた時、楠の上に輝く玉をごらんになり、その楠で大日如来を刻み、お堂を建てられたのがこの仏木寺で ある。近所の人は「お大日さん」と呼んでいる。 
草も木も仏になれる仏木寺 なおたのもしききちくにんてん  
四国四十三番札所 源光山明石寺 (げんこうざんめいせきじ) 
奈良時代、欽明天皇の勅願により建てられた。源頼朝もお堂を建て、母親の池の禅尼の冥福を祈ったことから、源光山と呼ぶようになった。昔、女神が山のふもとにあった大石を、一夜のうちに山の上まで運びあげようとした。ところが天の邪鬼が、石をかついで登る女神の後から「コケコッコ」と朝を告げる鶏の鳴き声を真似 ねた。女神は、こんなはずではなかったが、と思いながらもその場に石を下ろして消えた。大石は今も奥の院にある。夜明けに石を下ろしたところから、明石寺と呼ばれ、大きな石を担ぎ上げたところから、「あげいしさん」の名が生まれた 。 
きくならく千手不思議の誓いには 大盤石も軽くあげ石  
四国四十四番札所 菅生山大寶寺 (すごうざんだいほうじ) 
大宝年間、百済のお坊さんが、十一面観音像を持って日本に渡り、こちらに庵を結び奉納したことから大宝寺と呼ばれるようになった。昔この地に兄弟の猟師がおり、ある夜、山の中に不思議な光を発見し、訪ねましたところ、十一面観音の霊像 だった。殺生の悪業なることをさとされたので懺悔し、庵を結んだところが大宝寺だとも言われている。 
今の世は大悲の恵み菅生山 終には弥陀の誓いをぞ待つ  
四国四十五番札所 海岸山岩屋寺 (かいがんざんいわやじ) 
四国山脈の山ふところ深く抱かれ、奇岩怪石そそり立つ岩のもとにあり、古くから修業の霊地として知られる。昔、山に法華仙人という修行僧がいた。弘法大師がこの地に札所を開こうと したところ、仙人が「ここは我が修業の地であるから、他の所へ移ってくれ」と言った。大師は「あなたは自分一人のためであるが、私は衆生のためにお寺を開くのであるから、このところをよく考え、この地をゆずってくれ」と頼 むと、悲願にうたれこの地をゆずり、仙人は更に山奥の方古岩屋に移 った。大師は不動明王を刻み、お寺を開き札所と定めた。「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえん」と詠み、山号を海岸山と号した。 
だいじょうの祈る力の岩屋寺 石の中にも極楽ぞある  
四国四十六番札所 医王山浄瑠璃寺 (いおうざんじょうるりじ) 
行基菩薩は奈良大仏殿建立の勧進のため全国を廻り、その時、この地を修業地として伽藍を建て、薬師如来を刻んで奉納した。薬師如来は「薬師瑠璃光如来」といい、 お寺の名前を浄瑠璃寺と呼ぶようになったのが、伊予の国の医王山である。徳川時代、山火事のためお堂は焼けたが、のち、この地の庄屋の出身である尭音というお坊さんが本堂を再建した。 
極楽の浄瑠璃世界たくらへば 受くる苦楽は報いならまし  
四国四十七番札所 熊野山八坂寺 (くまのざんやさかじ) 
役の行者が開き、のち弘法大飾が霊場と定めた。古くは八王寺と呼ばれ、伽藍建立にあたり、八つの坂道を開き、道を造ったところから八坂寺と呼ばれるようになった。又、紀州熊野権現をお祀りしているところから、山号を熊野山と名づけられた。 
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ  
四国四十八番札所 清滝山西林寺 (せいりゅうざんさいりんじ) 
行基菩薩が開き、のち弘法大師が現在のところに移し、十一面観音を祀った。大師巡錫の折、干ばつが続き、人々は水に困っていた。たまたま老婆が遠方から水を運んでいるのを見た大師は一杯の水を乞われた。老婆は惜し気もなくその水を大師に差上げた。大師は老婆の真心に打たれ、手に持った杖で地面を叩き、祈りを捧げ ると、たちまち水がわき出て淵となった。それ以来、そこには絶えることなくこんこんと清水がわき続け、付近の人は杖ケ淵と呼ぶ。 
弥陀仏の世界をたずね行きたくば 西の林の寺に詣れよ  
四国四十九番札所 西林山浄土寺 (さいりんざんじょうどじ) 
行基菩薩が開き、弘法大師が四国巡錫の時、伽藍を再建した。寺領は8町四方に及び、66坊備わるお寺だったが、兵火に遭い焼けた。その後、伊予の豪族河野氏が本堂を再建した。本堂の空也上人の像は、平安時代のもので ある。空也上人は、京都の六波羅密寺を開いた人で「民衆を弥陀により済度せん」と、なりふり構わず全国を廻り、念仏を唱え人々の苦しみを救ったお坊さんで ある。上人はこの浄土寺に3年間とどまり、民衆の教化に努め、お寺を去るとき自ら刻んだのが空也上人像で、国宝になっている。 
十悪の我が身を捨てずそのままに 浄土の寺に詣りこそすれ  
四国五十番札所 東山繁多寺 (ひがしやまはんたじ) 
奈良時代、孝謙天皇の勅願により開かれ、昔は120の末寺と伽藍36坊が備わる大きいお寺だが、戦乱で焼けた。今も境内は広く、山の中腹の静かな環境にあり、道後平野を見下す大変眺めのよいところ。この繁多寺は一遍上人が学問修業をされたところで もある。一遍上人は鎌倉時代、伊予の豪族河野家に生まれた。武士の家に生まれ、仏門に入って諸国を廻り、時宗を開いた人。松林に囲まれた広い境内の一角には歓喜天、お聖天さんが祀られてい る。 
よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ  
四国五十一番札所 熊野山石手寺 (くまのざんいしてじ) 
神亀五年(728)聖武天皇の勅命を受け伊予の大守、越智玉澄が鎮護国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名付けた。翌天平元年に行基菩薩が来錫し薬師如来を刻み、本尊として開創した。四国遍路の元祖、衛門三郎はもともと強欲な男で、托鉢僧として訪れた大師の鉄鉢を割り、追い払ってしま った。すると翌日から8人の子供が次々と急死、前非を悔いた三郎は大師を求めて四国中を廻り、今際の際に大師に出会っ。三郎を許し、小石に「衛門三郎再来」と記し手に握らせた。間もなく、伊予の領主河野息利に、その小石を握り締めた子供が誕生し、三郎の再来とわかったという。その石が宝物館に 収められたことから、石手寺と改められた。本堂、仁王門、三重塔など鎌倉時代のもので、国宝、重要文化財に指定されている。松山では石手のお大師さんと 呼ぶ。 
西方をよそとは見まじ安養の 寺に詣りて受くる十楽  
四国五十二番札所 瀧雲山太山寺 (りゅううんざんたいさんじ) 
行基菩薩が開いたと伝えられる。奈良時代、豊後の国(大分県)の真野長者が、難波へ向う途中、松山の沖で時化に遭 った。船は今にも引っ繰り返りそうになったが、太山寺の裏山に光り輝く観音様の導きで、船を無事に岸へつけることができた。真野長者は早速国へ帰り、大工を集め、木材を積んで松山に来た。長者 は助けてもらったお礼として、ひと晩のうちに建てましたのが太山寺の本堂である。―夜建立の本堂と言われ、四国88ケ所の中でも―番立派な本堂で、国宝に指定されてい る。 
太山へ登れば汗の出でけれど 後の世思へば何の苦もなし  
四国五十三番札所 須賀山圓明寺 (すがざんえんみょうじ) 
奈良時代、行基菩薩が開いたお寺。戦国時代に戦火のため焼けたが、寛永年間に再建された。須賀氏と言う豪族が再建したところから、山号を須賀山と呼ぶようになった。 
来迎の弥陀の光の円明寺 照り添う影は夜な夜なの月  
四国五十四番札所 近見山延命寺 (ちかみざんえんめいじ) 
天平年間に行基菩薩が開き、荒れていた堂宇を弘法大師が再興した。昔は近見山の頂上にあったが、度々の戦乱で焼け、江戸時代の享保12年に、現在の山のふもとに移った。寺宝に宝永元年鋳造の梵鐘があり、この梵鐘は、かつて長宗我部の兵士達に略奪されそうになった時、自ら海中へ沈んで略奪を逃れたと言い伝えられてい る。 
曇りなき鏡の縁と眺むれば 残さず影を映すものかな  
四国五十五番札所 別宮山南光坊 (べっくさんなんこうぼう) 
今治沖に大三島と言う島がある。そこの大山祗(おおやまずみ)神社は、瀬戸内海でも安藝の宮島と並ぶ代表的なお宮で、奈良時代に大山祗神社の別宮をこの地に遷したのが、今の南光坊で ある。昔はどこでも神様と仏様を合わせてお祀りしたが、明治時代、神と仏を分けてお祀りした名残で、今もお宮と並んで建っている。昭和20年、戦災で本堂、薬師堂、鐘つき堂などが焼けてしまい、ご本尊は大師堂に併せて祀られてい る。 
このところ三島に夢の醒めぬれば 別宮とてとも同じ垂迹  
四国五十六番札所 金輪山泰山寺 (きんりんざんたいさんじ) 
弘法大師41歳の時、この地へ来られ、長い間雨が降り続き、川は氾濫していた。近くを流れる蒼社川が毎年氾濫し、田畑や家を流して農民を苦しめていた。大師が川原に祭壇を設け 祈ると、満願の日にお地蔵さんがあらわれた、この地に松を植え、お堂を建てはじまり。昔は七堂伽藍の備わる大きいお寺だったが、度々の戦で焼け、残ったのが今のお寺で ある。本尊はお地蔵さんで、お地蔵さんの願いの第―、泰産(たいざん/安らかに産む)から、泰山寺の名がつけられたと言う。 
みな人の参りてやがて泰山寺 来世の引導頼みおきつつ  
四国五十七番札所 府頭山栄福寺 (ふとうざんえいふくじ) 
弘法大師が四国をまわられ、護摩を焚いて海上の安全を祈ったところ、たちまち風がおさまり、海の中から阿弥陀様があらわれ。これが本尊の阿弥陀様である。平安時代、僧の行教が九州の宇佐八幡に行 った時、時化に遭い、この地に流れついたが、山の姿が京都の男山によく似ているところから、お寺の境内にお宮を建てたのが、今お寺と並んでお祀りされている勝岡八幡で ある。  
この世には弓矢を守る八幡なり 来世は人を救う弥陀仏  
四国五十八番札所 作礼山仙遊寺 (されいざんせんゆうじ) 
昔、この作礼山に仙人がいて、40年もの間お経を読み続けていたが、ある日突然姿を消した。仙人がいたところから、仙遊寺と呼ばれるようになった。 
立ち寄りて作礼の堂に休みつつ 六字を唱え経を読むべし  
四国五十九番札所 金光山国分寺 (こんこうざんこくぶんじ) 
奈良時代、聖武天皇は全国に国司を派遣し、その地方の政治・文化の中心となる国分寺を建てた。このお寺は伊予の国分寺である。昔はこのお寺のあるあたりが伊予の国の中心だった。お寺は度々の戦いのため4回も焼け、今の本堂は寛政年間に建てられたもの。お寺の近くに国分寺の七重の塔の遺跡や、南朝の忠臣 ・脇屋義助(新田義貞の弟)の墓がある。  
守護のため建てて崇むる国分寺 いよいよ恵む薬師なりけり  
四国六十番札所 石鉄山横峰寺 (いしづちざんよこみねじ) 
白雉2年(651)弘法大師が生れるよりまだ以前、役の行者が開いた。その後の大同6年、訪れた弘法大師が錫を留められ、42才厄除けの法を修した。四国で―番高い石鎚山(1982m)とは谷をへだてて向いあった山の上にあり、四国札所で―番の難所で ある。 
縦横に峰や山辺に寺建てて あまねく人を救うものかな  
四国六十一番札所 栴檀山香園寺 (せんだんざんこうおんじ) 
聖徳太子が天皇の病気平癒を祈願して開かれたお寺で、小松の子安さん、四国61番子安大師と言い、広く知られる安産の守り仏。弘法大師が四国をまわられる時、道端で難産に苦しむ婦人を見かけた。大師がお祈りを捧げられ ると、たちまち玉のような男の子が生まれた。以来ここは子安大師と言って崇められ、子宝に恵まれない人、また恵まれた人がそのお礼にお参りすることが多いお寺で ある。 
後の世を思へば参れ香園寺 とめてとまらぬ白滝の水  
四国六十二番札所 天養山宝寿寺 (てんようざんほうじゅじ) 
天平年間、聖武天皇が諸国に一の宮を造られた時、伊予の国の一の宮のご法楽所として創建された。天養2年(1144)に再建されことから天養山と改号した。昔、伊予の国司 の越智氏の夫人が難産で苦み、弘法大師にお願いたところ、玉のような男の子が生まれた。夫人が嬉しさのあまり詠んで奉納した歌がご詠歌となり、それ以来このご詠歌を毎日三回唱えますと安産すると言われてい る。 
さみだれの後に出でたる玉の井は しらつぼなるや一の宮川  
四国六十三番札所 密教山吉祥寺 (みっきょうざんきちじょうじ) 
札所の中で、毘沙門天を本尊するのはこのお寺だけ。昔は現在とは別のところにあり、 多くの末寺をもつ大きいお寺だったが、戦国時代に全部焼け、現在のところに建立された。門柱に「四国唯一、毘沙門天」と石に刻まれている。恵まれない過去を背負い、あるいは病気に苦しみながらも順拝を続ける遍路の未来に明るい希望を与えて下さる。本堂の前に「成就石」と言って、真ん中に穴のあいた石があ る。永い間水に打たれ、石に直径40m余りの穴が空いたもので、永い間信心すれば願いがかなうことを教える成就石である。 
身の中の悪しき悲報を打ち捨てて みな吉祥を望み祈れよ  
四国六十四番札所 石鈇山前神寺 (いしづちざんまえがみじ) 
大和の国の大峰山を開いた役の行者が開いた寺で、日本七霊山の―つ、石鎚山の前神さんとして、昔から崇められている。明治の神仏分離により、神と仏は分けて祀られるようになり、お宮は石鎚神社となり並んで祀られてい る。石鎚山は毎年7月1日から10日間お山開きで、昔は女人禁制だった(今でも7月のI日から2日までの2日間は昔どおりの女人禁制)。10日間の大祭が終 ると、11日にはご神体がふもとの前神さんに帰られる。 
前は神後ろは仏極楽の よろずの罪を砕く石鎚  
四国六十五番札所 由霊山三角寺 (ゆれいざんさんかくじ) 
奈良時代に行基菩薩の開いた。弘法大師が四国をまわられた時、三角寺に登られ、十一面観音のご本尊と1尺8寸のお不動様を刻み、三角の護摩壇を築いて、21日問修業された ことから三角寺と呼ぶようになった。山の中腹にあり、なかなかの難所で、昔から伊予の関所と言われ「心の曲がった者は、罪を怖れてようお詣りしない」と言われて きた。 
おそろしや三つの角にもいるならば 心をまろく慈悲を念ぜよ  
四国六十六番札所 巨鼇山雲辺寺 (きょごうざんうんぺんじ) 
延歴8年(789)寺の建築用資材を求めて雲辺寺山に登られた弘法大師が、山の趣に神韻を感じ、この地こそ霊山なりと、山頂近くに堂宇を建立したのがはじまり。それから十数年後に、嵯峨天皇の勅願を奉じて再び登山した大師が、ここを札所に定めた。天正年間に長宗我部の兵火に遭って焼失しましたが、後年に阿波藩主蜂須賀家の保護を得て再建した。 
はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今はふもとにぞ見る  
四国六十七番札所 小松尾山大興寺(小松尾寺)(こまつおざんだいこうじ) 
弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅願を奉じた弘法大師が、熊野三所権現を勧請して、権現鎮守の霊場として開創した。天正年間の兵火でほとんどの堂宇は焼失し、現在の本堂は慶長年間に再建されたもの。石段下の大樟の木は、弘法大師のお手植えと伝えられ る。 
植え置きし小松尾寺を眺むれば 法の教えの風ぞ吹きぬる  
四国六十八番札所 琴弾山神恵院(琴弾八幡)(ことひきざんじんねいん) 
奈良時代、日証上人がこの地に来られた時、海のかなたに七色の雲がたなびき、浜べの船の中から琴の音が聞こえてきた。たずねたところ、船の中から「これ宇佐八幡大菩薩なり、我れ当山の霊峰に留まらんとす」とのお告げがあ った。そこで上人は四国中より穢れなき童を集め、船を山の上に引き上げ、琴とともにお祀りしたのが神恵院のはじまりで、山号を琴引山と号すようになった。 
笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも法の声々  
四国六十九番札所 七宝山観音寺 (しっぽうざんかんのんじ) 
巡錫の折、琴弾山の八幡宮に詣でられた弘法大師は、お告げをいただかんと阿弥陀様を描き、札所と定めると共に聖観音を刻み、観音寺を建立した。その時、境内に七つの宝を埋めたところから山号を七宝山と号するようになった 。 
観音の大悲の力強ければ 重き罪をも引き上げてたべ  
四国七十番札所 七宝山本山寺 (しっぽうざんもとやまじ) 
奈良時代、平城天皇の勅願により、弘法大師が創建されたお寺。昔は七堂伽藍が備わる、2,000石を領する大きいお寺。戦国時代、長宗我部の戦乱のため焼かれたが、本山寺は不思議に焼け残 った。言い伝えでは、長宗我部の兵が本山寺を焼き払おうとしたところ、蜂の大軍が襲いかかり、追い払ったそうである。本堂は大同2年(807)弘法大師が―夜のうちに建立 したと伝えられ、国宝に指定され、太山寺の本堂と並ぶ立派なものである。 
本山に誰か植えける花なれや 春こそ手折れたむけにぞなる  
四国七十一番札所 剣五山弥谷寺 (けんござんいやだにじ) 
行基菩薩の開いたお寺で、弘法大師のご学問所として有名である。大師は讃岐の国の生まれ、幼少の頃に弥谷寺で勉強した。唐の国から帰り、再び弥谷寺に登山し、修業したが、その時、五柄の剣が天から降ってきた。大師は「願わくば千手大悲の像を造り、伽藍を再興して法門を開き、衆生を救わん」と誓 い、千手観音の像を造ったと伝えられる。 
悪人と行き連れなんも弥谷寺 ただかりそめも良き友ぞよき  
四国七十二番札所 我拝師山曼荼羅寺 (がはいしざんまんだらじ) 
弘法大師が唐の国から帰り、お母さんの菩提のため、唐の国の青龍寺にならって建てたのが曼荼羅寺である。境内に弘法大師お手植えの不老松があるが、周囲60mもある見事な松で ある。 
わずかにも曼荼羅拝む人はただ 再び三度帰らざらまし  
四国七十三番札所 我拝師山出釈迦寺 (がはいしざんしゅっしゃかじ) 
弘法大師のご和讃に「御年七つのその時に 衆生の為に身を捨てて 五つの嶽に立つ雲の たつる誓いぞ頼もしき」とある。大師7歳の時、寺の裏山に登り「我、一切の衆生を済度せん」と言って、山の上から谷底に飛び降りた。その時天人が舞い降り、大師を抱き留めた。大師は不思議な仏の力に喜び、ありがたい霊験を後の世に伝えようと、釈迦如来を祀 ったのが出釈迦寺である。出釈迦寺の奥の院、捨身ケ嶽(481m)は弘法大師の衆生済度の根本道場である。 
迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺  
四国七十四番札所 医王山甲山寺 (いおうざんこうやまじ) 
弘法大師が四国を廻られた時、一人の老人が現れ「私は昔からこの地にいて、人々のため福徳を与え、仏法を広めてきた。ぜひお堂をこの地に建てるとよい。私がそれを守るであろう」と言 った。お告げにより建てたのが甲山寺である。その後、弘法大師は満濃池の大工事を行ったが、大変な難工事だった。そこで大師は甲山寺に詣り、薬師如来を刻み、工事の成功を祈 ったところ、たちまち満濃池は完成した。お礼に伽藍を建立、薬師如来を祀り、医王山と号した。その時、山の形が甲に似ているところから甲山寺と称した。 
十二神味方に持てる戦には 己と心兜山かな  
四国七十五番札所 五岳山善通寺 (ごがくざんぜんつうじ) 
弘法大師誕生の所であり、大師自ら建立されたお寺。大師は奈良時代の宝亀5年6月15日に生れました。唐に渡り勉強し、日本に帰ってから唐の青龍寺にならって建てられたのが善通寺で、大師のお父さんの名前 ・佐伯善通から善通寺と名づけた。 
我住まば世も消え果てじ善通寺 深き誓いの法の灯し火  
四国七十六番札所 鶏足山金倉寺 (けいそくざんこんぞうじ) 
宝亀5年(774)和気道善という長者が開創し、唐から帰朝した大師が、先祖の菩提のために伽藍を造営し、薬師如来を刻み本尊とした。四国霊場88の寺院は、弘法大師が開いたと伝えられてい る。従ってほとんどのお寺が真言宗だが、この金倉寺は天台宗である。天台宗は京都の比叡山延暦寺を本山とする宗派で、伝教大師が開かれたもの。金倉寺は弘法大師の甥にあたる、智証大師の生れた所で ある。 
まことにも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり  
四国七十七番札所 桑多山道隆寺 (そうたざんどうりゅうじ) 
昔、和気道隆という長者の桑畑に桑の大木があった。その桑の木の梢に不思議な光が現われたので、道隆はその桑の木を切り、お薬師さんを刻みお祀りしたのが、本尊の薬師如来で、それを安置するために堂宇を建立したのがこの寺のはじまり 。 
願いをば仏道隆に入り果てて 菩提の月を見まくほしさに  
四国七十八番札所 仏光山郷照寺 (ぶっこうざんごうしょうじ) 
札所の中で珍しい時宗のお寺。神亀2年(725)に行基上人が開創 した。昔から念仏の道場として知られ、道場寺とよばれていたが、時宗を開いた一遍上人が立ち寄り、伽藍を再建し、名前を郷照寺と改めた。 
踊り跳ね念仏唱う道場寺 拍子を揃え鐘を打つなり  
四国七十九番札所 金華山天皇寺(高照院)(きんかざんてんのうじ) 
弘仁年間、弘法大師が開創。高照院は、付近では天皇寺、天皇さんの名で呼ばれ、崇徳天皇ゆかりのお寺。崇徳天皇は島羽天皇のあとに天皇位についたが、間もなく位を弟の近衞天皇に、更につづいて後白河天皇に奪われた。心穏やかでない崇徳天皇は藤原氏と組 み兵を起したが敗れ、讃岐の国に島流しとなった。いわゆる保元の乱で、崇徳天皇は都、京都を恋いながら46歳で讃岐で亡くなった悲劇の天皇である。その時、柩をしばらくこのお寺に置き、付近の泉の水で遺体を清めた ことから、天皇寺と呼ばれるようになった。 
十楽の浮き世の中を尋ぬべし 天皇さえもさすらいぞある  
四国八十番札所 白牛山國分寺 (はくぎゅうざんこくぶんじ) 
奈良時代、聖武天皇による讃岐の国分寺である。本堂は鎌倉時代に建てられたもの(国宝指定)。奈良時代の創建当時の礎石や、瓦を焼いたかまど跡などがある。国分寺の吊り鐘は奈良時代のもので国宝となってい る。慶長年間、高松の生駒侯は鍾音に魅かれ、田地をお寺に寄進し、吊り鐘をお城に持帰った。ところがご城下で鐘をつくと、音は異なり「国分ヘ帰りたい、国分へ帰りたい」と聞こえた。 更に、高松城下に悪い病気が流行り、これは吊り鐘のたたりではと、吊り鐘をもとの国分寺に返したという。ご本尊は高さ5mもある、千手観音菩薩の立像である。 
国を分け野山をしのぎ寺々に 詣れる人を助けましませ  
四国八十一番札所 陵松山白峯寺 (りょうしょうざんしろみねじ) 
弘法大師と智証大師の二人によって開かれたお寺。崇徳天皇ゆかりのお寺で、境内には天皇の御陵(お墓)がある。白峰寺があるのは、五色台の中の一つ白峯である。 
霜寒く露白妙の寺のうち 御名を唱ふる法の声々  
四国八十二番札所 青峰山根香寺 (あおみねざんねごろじ) 
弘法大師の甥の智証大師がこの山に来た時、白髪の老人が現われ「この地は観世音菩薩の霊地である。法華三味の道場を作り、観世音菩薩を刻むように」と言い姿を消した。そこでほこらを建て、祀られたのが始 り。弘法大師がこの青峰に登ると、欅の木の下に白猿を連れた老人がおり、修行するように言った。大師は香木で観音像を刻み、香りが高いことから根香寺と名づけた。その木の香が川に流れて香る ことから、香りのよい川、香川の名が生れた。昔、この青峰に牛鬼が住み、付近を荒らし、里人を苦しめていた。山田蔵人徳兵衛という弓矢の名人が、牛鬼を退治しようと山中を探したが見 らず、本尊に祈り断食してついに牛鬼を討ち取った。牛鬼の像が境建てられている、山田徳兵衛は秀吉の家来だったと言われる。 
宵の間のたえふるしもの消えぬれば あとこそ鐘の勤行の声  
四国八十三番札所 神毫山一宮寺 (しんごうざんいちのみやじ) 
奈良時代・大宝年間創建、はじめ大宝院と言っていた。聖武天皇は諸国にお宮とお寺を一つづつ建て、全国を治めた。讃岐には田村大明神と国分寺が建てられた。その時、讃岐一の宮である田村大明神の別当職のお寺として、大宝院から一の宮寺と改めた。昔の名残りをとどめ、今も讃岐一の宮の田村神社と並んで いる。 
讃岐一宮の御前に仰ぎ来て 神の心を誰かしら言ふ  
四国八十四番札所 南面山屋島寺 (なんめんざんやしまじ) 
奈良時代、唐の国の鑑真和尚が難波ヘ向う途中、この屋島に立ち寄り、お堂を建てたのが屋島寺のはじまり。その後、弘法大師が登山し、本堂を建立し、十一面観音像を刻み本尊とした。境内には天然記念物「相生の松」や、源氏の武士が血に濡れた刀を洗ったという「血の池」、国宝の吊り鐘等 の遺跡がある。 
梓弓屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇むもののふ
四国八十五番札所 五剣山八栗寺 (ごけんざんやくりじ) 
弘法大師が開かれたお寺。弘法大師が修行中、五柄の剣が天から降ってきたので、これを岩穴に埋め山の鎮守とし、山号を五剣山と名づけた。大師が唐の国に渡る前、この山に植えた8本の栗の木が、唐から帰ってみると皆大きく成長していたので、寺の名前を八栗寺と呼ぶようにな った。戦国時代、土佐の豪族、長宗我部元親の戦乱のため寺は焼けたが、高松・松平侯が再建した。境内には歓喜天(お聖天さん)が祀られている。 
煩悩を胸の智火にて八栗をば 修行者ならで誰か知るべし  
四国八十六番札所 補陀落山志度寺 (ふだらくざんしどじ) 
太政大臣・藤原鎌足の子供、不比等は父の菩提を弔うため、中国から宝物を送ってもらったが、途中、志度の沖で嵐に遭い、宝物は海に沈んでしまった。不比等は残念に思い、宝物を探すため、都からこの志度に来たが、土地の海女を妻に迎え、房前という男の子が生まれた。海女は事情を聞き、海に潜 り竜神と戦い、宝物をとり返したが、まもなく死んだ。不比等は妻の死を哀れみ、海辺の近くに墓とお堂を建て、子の房前を連れて都へ帰った。房前は母の願いどおり出世し大臣に なったが、母の供養のため、志度の海岸にある墓に参り、お堂を増築したのが志度寺である(謡曲「海女」で知られる)。海女の墓、苔むした五輪の塔は、今も境内にあ る。 
いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ  
四国八十七番札所 補陀落山長尾寺 (ふだらくざんながおじ) 
長尾寺の山号は、志度寺と同じ補陀落山。補陀落とは、印度の南の端、観音様の住む八角形の山、観音の霊地のことで、観音様をあらわす山号。天平年間、行基菩薩が開いたお寺で、弘法大師が再建した。その後も戦乱のため焼けたが、高松藩 ・松平候が1681年に再建し、真言宗から天台宗に改められた。源義経の愛妾、静御前は長尾町の東の方、現在の大内町小磯で生まれた。彼女は若い頃、京に上り白拍子(遊女)となり、義経に見そめられ、鎌倉・鶴ヶ岡八幡宮で 「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」 と唄 い頼朝の怒りに触れた話は有名。義経と別れ讃岐に帰り、寺に参詣得度し、この地で一生を終ったと伝えられる。 
あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ  
四国八十八番札所 医王山大窪寺 (いおうざんおおくぼじ) 
四国88ケ所とは、88の煩悩を除き、88の功徳をもたらすところからお大師様が定めもので、この大窪寺が最後の札所で、奈良時代、元正天皇の頃、行基菩薩が開いた。弘法大師が唐から 帰朝後、現在の大窪寺の奥の院の岩穴で修行し、大きな窪の傍らにお堂を建て、薬師如来を刻み奉納したことから大窪寺の名が生まれた。大師は四国を廻る時、ずっと持って いた杖を大窪寺に納め、ここを四国88番の霊場の結願所と定めた。上番から打ち始めたお遍路さんは、この大窪寺で打ち納めとなるわけで、続けてお詣りする人は杖を持ち帰 るが、打ち納めの人は金剛杖を納めるのがならわしである。 
なむ薬師諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺  
 
札所巡り考                                         
巡礼 
我が国で最初に「巡礼」という言葉を使ったのは最後の遣唐使船で入唐し、帰国後「入唐求法巡礼行記」を著した円仁(天台宗)である。最も古い「巡礼」は南都七大寺巡礼で、京都の清水寺や六角堂などを巡る京都七観音参詣なども古くからあった。その後「六部」といわれる「廻国巡礼者」が法華経の写しを持って全国の六十六ヶ所の霊場へそれを納めて巡るという巡礼が生まれ、やがて「西国三十三ヶ寺巡り」ができ、それから数百年後に「四国八十八ヶ所巡り」が定まったよう だ。西国の場合、初めは長谷寺を一番札所としていたらしいが、鎌倉時代に東国から物見遊山を兼ねて上方に来る鎌倉武士が伊勢神宮へまいり、熊野に行き、そして西国の観音霊場を巡り、最後に岐阜の谷吸山で結願して帰国するという順序を定めたらしい。「四国遍路」についても文献上は「四国辺地」という言葉で「今昔物語」「梁塵秘抄」に あり、八十八ヶ寺を巡る事が定まったのは江戸の中期以降で、それまでは修行僧の場であった。  
札所 
もともとは本尊を安置する堂宇の柱などに、金属製や木製の納札に祈願、名前、生地などを記して打ち付けたことから札所と言われるようになった。そのため、札所寺院を参拝することを「打つ」と言う。現在は札を打つことはなく、紙の納札を納札箱に納める。その札所を打った証として御朱印を頂く。  
御朱印  
御朱印は、お納経とも呼ばれる。本来は観音経などを浄写して寺ごとに納め、その証として朱印を受けていた。朱印は徳道上人が閻魔大王から授かった三十三所の宝印が起源といわれる。一般には三つの印で構成され、右上に札所番付の札所印、中央に札所本尊の梵字を刻んだ本尊印、そして左下には札所名の寺院印が押され、本尊名などが墨書きされる。御朱印は札所本尊の分身とされている。 
御詠歌  
巡礼者が仏や霊場をたたえ歌う歌で、西国札所の場合は花山法皇が札所を巡拝した折り各霊場に一首ずつご奉納した和歌が起源と言われる。  
札所と数1 
法華経(妙法蓮華経)の観世音菩薩普門品(ふもんぼん・観音経)で、観世音菩薩が33の化身をして人々を救うという思想からきている。秩父の観音札所だけは34か、もともと観音霊場は近畿地方から始まった。その後、関東地方の板東三十三所が開創され近畿地方の三十三所には「西国」の文字が冠されるようになった。室町時代になって秩父巡礼が開創され、秩父観音霊場の割り込み運動がおき、打開策として一カ所増やし三十四カ所として西国、板東、秩父を合わせて日本百観音が提唱されたためである。観音様の縁日は十八日であるが、二十三番札所勝尾寺創設のとき、「妙観」という観音化身の比丘(びく)が白檀香木をもって7月18日から8月18日の間に十一面観音を彫刻して本尊としたことに由来している。  
「八十八」という数2 
88という数字に関し、諸説があり根拠は見つかっていない。高野山・僧の著「四国遍礼功徳」に「四国中、名所旧跡多きなかに、札所八十八ヶ所と定むること、ある人の曰く、苦集滅道の四諦に見思の惑ということあり。この煩悩、よく三界の生死の苦果を招き集む。この見惑というに八十八使あり。この数をとって八十八ヶ所と定め、これを礼し巡るうちに、かの見惑の煩悩を断滅するによれる数となん。」記述があり、これに則って八十八の霊場を廻り、願いをかけることが始まったという説がある。しかし、同書に「八十八番の次第、いずれの世、誰の人が定めあえる定かならず・・・」とも書かれ、当時も四国八十八ヶ所がどのようにして起こり、引き継がれてきたか判っていないとされていた。 
また、農村地域で弘法大師講が盛んであったことから、分解すると八十八となる「米」という字にちなんで五穀豊穣を願ったものという説や、弘法大師が前厄を払うために巡錫したのが八十八個の寺であったからといった真しやかな説もある。  
西国観音巡礼1 
西国観音巡礼は、巡礼の歴史の中で最も古く、多くの人気を集めた。養老2年(718)大和長谷寺の徳道上人が、病で瀕死の状態にあった時、夢の中で閻魔大王から「悩み苦しむ人々を救う為に、三十三ヵ所の観音霊場をひろめ、巡礼をすすめなさい」と三十三の「宝印」を授けられた。生き返った上人は、三十三ヵ所の霊場を設けたが、世の理解を得られなかった。上人は、その宝印を中山寺に埋めたと伝えられている。その270年後、西国巡礼は永延2年(998)花山法皇(冷泉天皇の第一皇子)により復興され、現在でも盛んに行なわれる。このことから、徳道上人の法起院、花山法皇ゆかりの花山院と元慶寺は、番外寺となっている。現在、中山寺に埋めたとされる宝印を見ることはできないが、各札所に参拝した際にいただく御朱印はご本尊様の分身で、「宝印」を象徴するものである。全て集めることで極楽浄土への招待状になるとされている。  
西国巡礼2 
原始的な巡礼は、古神道に基づいてたものかも知れないが、本格的な巡礼としては西国33所観音巡礼が最初とされている。 
最初に巡礼を行ったのは大和國長谷寺の徳道上人だといわれる。播磨國揖保郡生まれの徳道上人は、11歳で父を19歳で母を失い、両親の菩提を弔うために21歳のとき大和國初瀬の弘福寺で出家した。76歳のとき楠の霊木から十一面観音を刻み、これを本尊として長谷寺を開創した。晩年は長谷寺門前の法起院に隠棲し、80歳で松の木の上から法起菩薩として去ったといわれる。 
徳道上人が三十三所巡礼を開いた経緯伝説/62歳のある日、病のため仮死状態になった。夢の中で閻魔大王と出会い「おまえはまだ死ぬことは許さない。三十三カ所の観音霊場を造り、人々に巡礼を勧めなさい」と言われ、起請文と三十三の宝印を授かった。仮死状態から蘇り閻魔大王から賜った「三十三の宝印」に従い、三十三霊場を定めた。しかし、このときは三十三霊場は世の人の信用を得られず巡礼は発展しなかった。上人は機が熟すのを待つため、宝印を摂津國中山寺の石櫃に納めた。伝説から、長谷寺は三十三所の根本霊場と呼ばれ、徳道上人が晩年を過ごした法起院が番外札所とされている。  
花山法皇は、冷泉天皇の第一皇子として生まれ、17歳で円融天皇より帝位を譲られ第65代花山天皇となった。最愛の弘徽殿女御の死により無情を悟り元慶寺で落飾(出家)し、わずか2年、19歳で皇位を退き法皇となった。その後、比叡山で修行し、紀州熊野那智山に参籠した際、法皇の前に熊野権現が姿を現し、徳道上人が勧めた観音霊場が人々から忘れ去られてしまっていることを示し、これを再興するように伝えた。法皇は徳道上人が埋めた宝印を掘り起こし書写山・性空上人、河内石川寺・仏眼上人、中山寺・弁光上人を伴って熊野那智山を1番として三十三の霊場を巡った(徳道上人が霊場を定め270年後にあたる)。その後、西国巡礼が盛んになったと伝えられる。この伝説では花山法皇は西国札所中興の祖とされ、花山法皇が落飾(出家)された元慶寺、晩年を過ごし41歳で生涯を閉じた摂津國花山院は巡礼札所番外寺院とされている。  
徳道上人と花山法皇の話はあくまで伝説である。史実では「寺門高僧記」第四に収録されている圓城寺(三井寺)の僧・行尊による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初である。行尊が巡礼したのは1090年のころである(徳道上人より370年ほどあと)。このときは第一番長谷寺、第三十三番千手堂(三室戸寺)であった。その後。三井寺の覚忠が巡ったときは、第一番那智山であり、第三十三番三室戸寺だった。このときの巡礼は番付は異なる所属寺院は現行と同じで、今日の巡礼を決定的なものとした。その後、東国で西国巡礼が盛になり、お伊勢参りや熊野三山参拝をした後で参るのに都合がよいことから第一番那智山・青岸渡寺、帰路に都合がよい三十三番谷汲山・華厳寺になったと言われる。また、その帰路に寄りやすいので信濃國の善光寺と北向観音が結願御礼の寺院となったという説がある。  
四国八十八箇所 
由来1 
四国八十八箇所は、四国にある88か所の弘法大師(空海)ゆかりの札所の総称。「四国遍路」「四国霊場」とも言う。 
江戸時代ごろから西国三十三箇所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。四国八十八カ所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八ヵ所を通し打ちで巡礼した場合の全長は1200-1400km。八十八番霊場御印譜遍路は順番どおり打たなければならないわけではない。1度の旅で八十八ヵ所のすべてを回ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡るのを「区切り打ち」という。順番どおり回るのを「順打ち」、逆に回るのを「逆打ち」という。遍路(巡礼者)は札所に到着すると、本堂と大師堂に参り、般若心経などの読経を行い、その証として納札(おさめふだ)を納める。境内にある納経所(のうきょうじょ)では、持参した納経帳に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字などを墨書してもらえる。この一連の所作を納経とも言う。朱印目当てに急ぎ巡る遍路は、判取り遍路またはスタンプラリーと揶揄されることもある。全てを廻りきると「結願(けちがん・結願成就)」となり、その後、高野山(奥の院)に詣でて「満願成就」とする。 
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人だった。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれる。 
江戸時代初期に「四国遍路」という言葉と概念が成立した。この頃には僧侶だけでなく民衆が遍歴しはじめる。17世紀には真念という僧によって「四国遍路道指南」(-みちしるべ)というガイドブックが書かれている。手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めた。  
由来2 
今から1200年前、弘法大師が42歳のときに人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場。後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりと伝えられる。人間には88の煩悩があり、四国霊場を八十八ヶ所巡ることによって煩悩が消え、願いがかなうといわれている。徳島阿波(発心の道場1番から23番)、高知土佐(修行の道場24番から39番)、愛媛伊予(菩提の道場40番から65番)、香川讃岐(涅槃の道場66番から88番)に至る1450キロを巡拝する四国遍路は昔も今も人々の人生の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる祈りの旅なのである。 八十八ヶ所の由来はいろいろ説がある、八十八の煩悩からきたともいい、男四十二、女三十三、子供十三の各厄年を合わせた数、そして俗界三十二、色界二十八に、無色界二十八の見惑を合わせた数、またわれわれの命の糧「米」の字を分解したとするもの、曼荼羅の八葉蓮台の一葉一葉に十一面の方向(十一面観音様のお顔が全方向を向いているように)があるとした説、八雲、八重、八百八町、八百万神など八は末広がりでこれ以上のない満数、無限大で宇宙を表すところからきているとする説などさまざま。  
由来3 
四国の宗教文化を考えるとき、四国遍路を抜きにすることはできません。四国遍路とは、弘法大師ゆかりとされる霊場寺院(札所)88カ所を巡拝する習俗で、今日も根強く続けられています。 
ところが、そのはじまりについては、史料がほとんどなく、確かなことは分かっていません。弘法大師が始めたともいわれますが、事実ではありません。また今日まで、熊野信仰との関係、一宮信仰、山岳信仰、海の信仰など、多様な要素が指摘されてきてもいます。それほど、四国遍路の成立の背景は複雑だということなのでしょう。 
ここでは、四国遍路の成立につながっていくと考えられる宗教者や霊場の動向について、時代をおって紹介してみることにします。 
古代-中世初頭には、聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動が目立つようになります(往生伝や仏教説話集をみればよく分かります)が、12世紀には、彼らの修行場として「四国辺地」がありました。これは四国の海岸部をめぐる修行の道でした(今昔物語集)。 
いっぽうで、11世紀に弘法大師信仰がさかんになり、大師が讃岐出身だったこともあり、四国はとくに重視されました。現在の88カ所霊場に含まれている太龍寺(21番)、金剛頂寺(26番)、曼荼羅寺(72番)、善通寺(75番)などは、史実の上からも大師とのつながりが分かっていますが、この頃には大師信仰の霊場として地位を固めたようです。しかし、「四国辺地」との関係はわかりません。 
中世には、山伏が「四国辺路」を行いました(醍醐寺文書)。これは、四国を旅する修行と思われます。山伏は聖の一種でもあり、霊場を渡り歩いて修行しました。同様の旅の宗教者として時衆聖や六十六部聖がありました。時衆聖の祖である一遍は、山中にある岩屋寺(現在は45番札所)で修行したり、熊野へ詣でたりしました。また、六十六部聖は、中世後期から近世にさかんでしたが、近世初頭の彼らの四国における霊場は、今日の札所寺院と一致しており、太龍寺(21番)、竹林寺(31番)、大宝寺(44番)、雲辺寺(66番)でした(奈良市中之庄経塚出土史料)。 
以上のことから、「四国辺地(辺路)」をベースに、さまざまな聖たちの活動や弘法大師信仰が連鎖的に複合し、88カ所をまわる四国遍路がはじまっていったと考えられます。 
なお、四国遍路が霊場寺院をつなぎ歩くことに基本があることから、霊場を結ぶ役割を果たした存在を考えておく必要があります。私はとくに、中世後期に各地で地域的な結合組織をつくる山伏の存在は、そのカギになると考えています。 
ところで、高知県本川村越裏門地蔵堂の鰐口銘(文明3年[1471])には、「村所八十八ケ所」とあります。これが88カ所のミニチュアを指すのなら、四国遍路のはじまりは、銘の年代以前ということになりますが、真偽のほどは謎です。  
四國邊路指南(しこくへんろみちしるべ) 
四国遍路が盛んになったのは、貞享4年(1687)に刊行された「四国遍路指南」の刊行による。著者は眞念という人で、宿泊所情報なども盛り込まれていた。この本によって八十八箇所が固定化され、それまで順番などなかった札所の寺に順番が付けられた。  
同行二人  
仮に一人で四国八十八箇所をめぐっても、同行二人(どうぎょうににん)と言って常にお大師さん(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。同行二人の巡礼者ともう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来や菩薩などのことを想っても良いとする教えもある。  
白衣  
笈摺(おいずる)とも呼ばれ、巡礼者が着なければならないとされる、白い着衣。寺院や門前の店で購入すると「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的。袖があるものを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もあるが、明確な区別はない。宝印を受領するためだけの実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ぶ。巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束としてとらえる説もあれば、巡礼といえども修行中なので清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なのでみな白衣を着るとする説もある。  
金剛杖  
木製の杖で空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわ、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわし。巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたといわれる。金剛杖には「同行二人」「南無大師遍照金剛」や梵字が書かれ、般若心経が書かれているものもあり、杖の上部の細工は塔頭を模している。橋の上ではついてはならない。  
逆打ち  
四国を時計回りに札所の数字を昇順に巡礼するのを順打ち、反時計回りに降順に巡礼するのを逆打ちという。第一番札所から巡礼を開始し、逆打ちする場合は第三番札所金泉寺から大坂峠越えで第八十八番札所大窪寺に向かうのが一般的。映画「死国」で禁忌などのようにとらえられているが、順打ちよりも困難な場合が多く、ご利益が順打ちよりも大きく、順打ち3回分のご利益があると言われている。また、逆打ちだと順廻りしているお大師さんと遭遇する確率が高いことから、ご利益があるとも言われている。  
お接待  
道中、お遍路さんに対して地元の人々から果物や金品、善根宿など、お接待または接待とよばれ、食べ物や飲み物、手ぬぐいやときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統がある。これに対し、遍路は持っている納札(おさめふだ)を「お接待」してくれた人に渡すことになっている。こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人もお参りができたといわれる。今日でも四国西南部ではお接待の場ともなった「茶堂」が残っている。「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師のある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものとか様々である。 
納札  
札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経を写経したものを納めるのが正式とされるが、読経したのち自分の名前を書いた納札を納めても良い。衛門三郎が自分が空海を探しているということを空海に知らせるために(空海が立ち寄ると思われる)寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていた。このことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」とも言う。現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れる。 
善根宿  
善人宿とも呼ばれ、自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設である。 
通夜堂  
寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所では霊場が巡礼者にたいして用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない(布団も基本的にはない)。 
十夜ヶ橋(とよがはし)  
現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたがどの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。このため巡礼者は橋の下には空海がいるかもしれないから橋をわたるときは杖を突いてはならないというならわしがある。
札所の故事来歴  
第三十番札所の「善楽寺(高知市一宮)」は、元は土佐一ノ宮高賀茂大明神(土佐神社)で別当の神宮寺が納経を行っていた(当時、高鴨大明神と神宮寺はほぼ一体の存在であった)。明治の廃仏毀釈によって「神宮寺」は廃寺となり、高賀茂大明神の本地仏である阿弥陀如来も二十九番札所国分寺に移された。明治9年これを安楽寺へと移すこととなり、三十番札所も安楽寺が引き継いだ。善楽寺は神宮寺の塔頭寺院として葬儀などを執り行っていたが、神宮寺と共に廃寺となった。しかし昭和4年地元から葬儀を執り行う寺院の復興が望まれ、さいたま市にあった東明院の寺基を移す形で善楽寺を復興し、国分寺から旧神宮寺の弘法大師像や寺宝を引き継いだ。このころから善楽寺が「善楽寺は弘法大師巡錫地であるから第三十番札所である」というようになった。三十番札所が二ヶ所存在するような事態となった。昭和17年善楽寺を札所とし、安楽寺を奥の院とする取り決めがなされたが履行されず、二ヶ所併存状態が続いたため、遍路たちも戸惑いながら2を巡礼する姿が見られた。安楽寺を弘法大師ゆかりの阿弥陀如来を安置する本尊奉安の霊場、善楽寺を開創霊場として、どちらで納経を行ってもよいこととなった。平成5年元日より、「善楽寺」を第三十番札所、「安楽寺」は第三十番札所奥の院とすることで正式に決着した。 
神仏分離令によって、第六十八番札所「琴弾八幡宮」の本地仏(本尊)の阿弥陀如来像を隣接する第六十九番札所「観音寺」の西金堂に移し、神恵院とした。これ以降、観音寺には一寺院の中に二つの札所が存在する。本堂と大師堂はそれぞれ存在するが、納経所はひとつである。  
高野山 / 高野山真言宗本覚院 
弘法大師が遙かに都を離れ、高峰である高野山を発見した物語。大師が、2年の入唐留学(にっとうるがく)を終え、唐の明州(みんしゅう)の浜より、帰国の途につこうとした時、迦藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を空中に投げた。その三鈷は空中を飛行して現在の迦藍の建つ壇上におちていたといわれる。大師はこの三鈷の行方を求め、大和の宇智郡に入ったとき、異様な姿をした一人の猟師に逢った。身の丈2m余り、赤黒い色をした偉丈夫で、手に一張の弓と矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れていた。大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出逢い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに勿然と幽邃(ゆうすい)な台地があった。そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけて、この地こそ、真言密教にふさわしい地であると判断、この山を開くことを決意した。このとき山中で出逢った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神(にうつひめみょうじん)であり、漁師は狩場明神として大師の手によって祀られた。  
遍路1 
遍路とは、辺土(へんど)を巡礼することをいう。巡礼とは遠隔地にある聖地を巡り歩いて参拝すること。日本で遍路といえば、仏教的な意味合いを持つ行動だと思われるが、本来は聖地を巡る旅を指す言葉。仏教だけにとどまらず、さまざまな宗教においておこなわれている宗教的行為である。仏教の遍路がほかの宗教の巡礼と違うのは、聖地を一直線に目指すのではなく、円を描くように複数の聖地を巡る点にある。目的地への到達だけが目的ではなく、その旅の行程すべてが修行であるという意味合いが強い。 
四国霊場は弘法大師空海が修行をおこなった八十八所を指す。すべてを巡ることでお遍路さんの心は浄化され、悟りへ近づくといわれる。四国霊場は四つの分野に分かれており、その一つひとつに意味がある。 
徳島県の「発心(ほっしん)の道場」(第一〜二十三番)。求道(ぐどう)心を起こし、いかなる困難にも負けない悟りを得る場所で、すべてのはじまりとなる。高知県の「修行の道場」(第二十四〜三十九番)。19歳の若き弘法大師は室戸岬で修行に励み悟りを得た、高知県は修行を実践する場所である。愛媛県は「菩提(ぼだい)の道場」(第四十〜六十五番)。煩悩(ぼんのう)を断ち切り、迷いから目覚める場所とされている。香川県は「涅槃(ねはん)の道場」(第六十六〜八十八番)。煩悩も迷いも消し去り、ついに悟りの境地を得る場所である。  
遍路2 
人は何故遍路をするのか?そういうことに、最初から気付いていなくてもよいが、だんだんと分かる道でなければ、何のための行為か、誰にも理解できない。「俺は遍路を歩きで一回りしてきたよ」何かの自慢話であるのだろうか?遍路は、そして人生は行そのものである。きつい歩きをするのは、それこそが日頃の生き方に対する、何かの答・助言でなければ意味は理解し難い。一生懸命歩を進め、たどり着いた寺で御本尊などを拝むこと、達成感に満足をすることが、それが己の人生の一部やその投影になっていなければ、どういう意味があるのか理解できないし共感もない。 
衛門三郎、何故に大師を追って遍路をしたのか?それは古いとしても、真念師の遍路札所とその流行、それは今に「何を示しているのか?」である。師の道を辿ることは、何がどう偉い心がけなのだろうか?遠い地域の方々が四国へ赴き、何を勉強されているのであろうか?感じ、考え、少しずつ分かり、その繰り返しは遍路においても人生においても一緒である。宗教心というものは、形式でなく心がけである。結果としてどうであるかではなく、どういう風に理解するために努力した過程を過ごしたかである。 
生かされる自分、守ってくれる自然、生きる喜びやこの世に生を受けた意味、そういうことをひとつひとつ確認する旅、寺や神社というものの基本だと思う。 
さ迷う肉体と精神は誰でも同じであろう。それを何となく少しずつ理解できていく、そういう歩みは全てのことにおいて同じと思う。結果が他人と違うことは当たり前だ。人の最期は同じのはずである。立って半畳寝て1畳、それ以上必要もない。ましてやその後など、白い小さな陶器の中である。「跡」というのはそういうものである。過程が重要である、今生きることそのものがどれだけ充実しているのか、それが人生であり遍路であるはずである。 
私はまたひとつ勉強になった。自分ひとりの旅ではなく、行き交う人によってまた勉強になる。「人生は80年」とかは私は思っていない、「多くの人から意見を聞き、考え方を聞くからこそいろいろな参考になる」ということから、時間的な80年ではなく、いろいろな生き様を多く体験できる、そういう生き方は自分が80年で分かったこと、人に聞いて分かったこと、それを合計していくと数100年にもなると思っている。その中にひとつの答・道を見つけたとき、それはまたひとつの結論であり、自分1人の体験だけでは生まれなかった真を見出す作業になっている。出会い、話を聞き、そして考え、理解や結果を見出すからこそ、そこに人生がある。
四国遍路の歴史 
四国遍路の源流―古代・中世 
四国遍路はどのように始まったのだろうか。空海が始めたとか、右衛門三郎が空海を追って四国を巡ったのが始まりだなどといわれるが、確かなことはわからない。 
四国遍路の歴史を考える上で、まず注目しなければならないのは、古代末期から中世初頭における聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動である。彼らは、人里離れた山や洞窟などで修行したが、なかには、四国の海岸沿いを歩む「四国辺地」の修行をする者がいた。これが四国遍路の祖型である。 
一方で、11世紀に弘法大師信仰がさかんになる。空海が讃岐出身だったことや、若き日に四国で修行した事実から、信仰の中では四国は重要な位置を占めた。現在の札所でもある太龍寺、金剛頂寺、曼荼羅寺、善通寺などは、この頃、大師信仰の霊場として地位を固めていった。ただし、「四国辺地」との関係は不明だ。 
中世には、聖の一種でもある山伏の修行として「四国辺路」が行われた(京都醍醐寺文書、神奈川県愛川町八菅神社所蔵碑伝)。「海岸大辺路」ともいわれたらしく(徳島県神山町勧善寺所蔵大般若経)、「四国辺地」の系譜が生きていたのである。山伏と同様の旅の宗教者である時衆聖や六十六部聖なども、四国遍路の形成に関わっていたと考えられる。 
以上のことから、「四国辺地(辺路)」をベースに、さまざまな聖たちの活動や弘法大師信仰が連鎖的に複合し、四国遍路が成立したのだろう。 
文明3年(1471)の高知県本川村越裏門地蔵堂の鰐口銘には、「村所八十八ケ所」と刻まれている。これが四国八十八カ所のミニチュアならば、八十八カ所という霊場群の起源は、15世紀にまでさかのぼることができる。ただ、そうだとしても、明確に札所が固定されたものであったかどうかはわからない。 
八十八カ所巡拝の定着と大衆化―近世 
16世紀には、俗人による遍路が見られるようになる(土佐一宮落書など)。宗教者の修行である「四国辺路」とは性格が変わりつつあったのだろう。 
そして江戸時代になると、固定された八十八カ所の巡拝として四国遍路が定着し、大衆化した。とくに、17世紀後半、ガイドブックが出版され、不特定多数の読者に情報が伝えられるようになった意義は大きい。 
この大衆化に大きな貢献をしたのが、高野聖とも伝えられている真念である。彼は、初の四国遍路ガイドブック「四国辺路道指南」(1687年刊)を執筆した。この「四国辺路道指南」は、経路の明確化を意図して作られ、詳細な情報が記されている。初めて八十八の番号と札所が一対一で対応させられた点でも特筆される。以後、改訂・増補を重ねて150年以上にわたって利用されたロングセラーだった。 
真念は、「四国偏礼霊場記」(1689年刊。真念の情報をもとに、高野山の学僧寂本が札所の見取り図や由来などをまとめたもの)、「四国偏礼功徳記」(1689-90年刊。真念によりまとめられた霊験記集成で、寂本の序をもつ)にもかかわっている。また、道標を建立するなど、遍路の行程に即した環境整備も行った。 
さらに遍路の大衆化に貢献したものとして注目すべき出版物が絵図である。宝暦13年(1763)、細田周英による「四国偏礼絵図」が刊行された。西国巡礼のような案内図がなかったので作られたものだという。ほかにも数種類の遍路絵図が知られているが、これらの絵図もガイドブックと相まって、遍路へと人々を誘ったであろう。 
では、遍路者はどんな人たちだったのだろうか。出身地は、四国や近畿、山陽を中心とし、東日本や九州は少なかった。遍路を行った人数は、18世紀後半から増加し、19世紀前半にとくに多くなっていた。また、近世を代表する遠隔参詣だった伊勢参りなどと比べると、個人参拝や女性、病人、困窮民の多さが特徴だった。 
低迷から変貌、そして癒し―近代・現代  
明治時代初頭、四国遍路は低迷期を迎えた。その原因として、まず神仏分離政策が挙げられる。札所には神仏習合色が濃厚な寺院が少なくないため、影響を蒙ったのだろう。また、急速な近代化のなかで、病人や困窮民が多数含まれる遍路者への忌避感もあった。 
しかしながら、遍路が途絶えたわけではなく、200基を超える道標を建てた中務茂兵衛のような人物もいた。 
やがて、新しいスタイルが生まれる。自動車や鉄道などの発達により、短期間での移動が可能になったため、知識人や裕福な都市住民による遍路が見られるようになったのである。ただし、多くの場合、実態は観光であった。 
太平洋戦争末期から敗戦直後の事実上の中断期を乗り越え、1950年代頃から遍路は復興する。さらに、高度経済成長期、モータリゼーションの進展する中、団体巡拝バスの運行やマイカーでの遍路行がさかんになった。観光的要素と同時に、物質的にめぐまれた時代のなかで欠落してきた精神の安穏を求める志向が相まって、長期的な遍路ブームが続いた。 
そして21世紀初頭の今、経済の低迷、社会不安のなか、「癒し」や自分探しの旅として四国遍路の人気は、世代を超えて高い。最近は徒歩による遍路も人気を集めている。休憩所の新設、遍路道の整備など、遍路の環境を改善する動きも盛んだ。四国遍路の歴史は、まさに「現在進行形」なのである。  
十三仏真言 
真言(しんごん)、大日経などの密教経典に由来し、真実の言葉という意。転じて仏の言葉をいう。真言宗の「真言」もこれに由来する。真言は音が重要で翻訳せず音写を用いる。真言は漢字や梵字で書かれたものが伝わった。漢訳では呪、明呪と訳される。なお比較的長い呪文である陀羅尼(だらに)は由来が異なる。 
十三佛とは、それそれ異なる徳を持ち、この世に生きる私達の御守り本尊として宗派に捉われず広く信仰されている。初七日から三十三回忌までの追善供養を受けもち、法要に必ず御本尊として拝まれる先祖供養の仏様でもある。
 
不動明王(ふどうみょうおう)面相は御仏の教えに従わない者に向けられ、右手には魔や災厄を打ち祓う剣、左手には悪や煩悩を縛るけん索を持っている  
のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん  
釈迦如来(しゃかにょらい)仏教の開祖である釈迦であり、左手には施無畏の印を結び、右手は人々にかざすかのように開かれている  
のうまく さんまんだ ぼだなん ばく  
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)「三人寄れば文殊の知恵」と言われる様に、知恵と徳を司る御仏、この世の善悪を判断し、偉大な知恵を持って正しい道理を指し示している  
おん あらはしゃ のう  
普賢菩薩(ふけんぼさつ)理知と慈悲の功徳を備えた釈迦如来の脇侍、象は悪鬼を踏み潰し人々の煩悩を打ち砕き、悟りの世界へ導く  
おん さんまや さとばん  
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)釈迦の入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、人々を救済し幸福をもたらすとされる御仏  
おん かかかび さんまえい そわか  
弥勒菩薩(みろくぼさつ)弥勒菩薩は釈迦の弟子で釈迦入滅後、五十六億七千年前の後に現れて衆生を救うとされる未来仏 
おん まい たれいや そわか  
薬師如来(やくしにょらい)人々を病気から救い、健康をさずける仏様、左手には薬壺を持ち、右手は人々をあまねく照らすように高く掲げている  
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか  
観音菩薩(かんのんぼさつ)観音菩薩は三十三身に変化し、自在な観音力で人々の悩みを晴らし願いを叶える御仏  
おん あろりきゃ そわか  
勢至菩薩(せいしぼさつ)絶大な知恵の光明で一切を明るく照らし出す仏様、人々にあまねく光を当て、迷いや苦しみをなくす  
おん さんざんさく そわか  
阿弥陀如来(あみだにょらい)人々を苦しみから救い、往生させ、成仏させるために極楽浄土をつくった御仏 
おん あみりた ていせい から うん  
阿閦如来(あしゅくにょらい)仏の備える五種類の知恵を持つ五智如来の一つ、不動の菩提心を司り、厳しい修業で得た徳により、人々に無病息災を授ける  
おん あきしゅびや うん  
大日如来(だいにちにょらい)日は太陽を表し、宇宙の根本を司る御仏、曼荼羅では最高の位置にいるとされ、知恵と慈悲の仏徳で人々を悟りの世界へと導く 
おん あびらうんけん ばざら だとばん  
虚空蔵菩薩(こうくうぞうぼさつ)無限でつきる事のない功徳を秘めた御仏、虚空は「空や宇宙」を、蔵は「人々がその恵みをどんどん取り出せる」ことを意味する  
のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか
千社札(せんじゃふだ) 
室町時代の頃から数多くの神社仏閣を巡拝する風習が生まれ、江戸時代には四国八十八箇所の霊場参詣や、各地の観音霊場の札所巡りが流行った。そのとき訪れた証(あかし)として、自分の名前などを記した木や紙の札を納めたことに由来する。本来は寺院が対象だったが、数多くの神社仏閣を巡礼する千社詣が流行ると、神社に千社札が貼られるようになった。最初は手書で、のちに木版刷りに、さらには黒刷りから色彩刷りへと変化、デザインを競ったり、できるだけ高い所に貼付けるなど、趣味の分野にもなった。  
江戸期の四国遍路と西国巡礼 
江戸期の西国三十三ヶ所巡りは大変なブームとなり、人々のあこがれの的になった。 
江戸期の四国八十八ヶ所巡りと西国三十三ヶ所巡りについて、比較してみると、東国からの旅として、四国は1両、西国は10両としている。この違いは四国ではあくまで「遍路の旅」で、施しものに頼れる旅であったのであろう。西国は京大阪の名所巡りを兼ねた旅であったのではなかろうか。 
四国遍路は別名「乞食遍路」とも呼ばれ、割安で廻れた為に、貧しい農民や女性の巡礼者が過半数を占めていたようで、厳しい自然環境の中で、長期間立ち向かわなければならない四国の地は「遊びの気持ち」で順拝する事は許されず、命がけの厳しい信仰に裏付けられた旅だった。また、一部の人々にとっては死への旅立ちででもあったようだ。業病、村八分、不義密通などで、その地で住めなくなった人にとっては、四国行きは人生からの逃避の旅で、終生遍路を続け、その途中で倒れた人の墓が「遍路墓」として霊場札所に多く残っている。 
津軽・黒石の法眼寺には、東北という遠隔の地であり、裕福な大商人が西国巡礼をして各霊場の砂を持ち帰り、それを寺の境内に埋めて石塔を建てて、これにお詣りして西国三十三ヶ所巡りをしたと同じ御利益を受けるというものがあった。常滑の龍雲寺では近在の風習として娘が18才を迎えると縁者が先導して西国三十三ヶ所巡りし、達成すると大きな観音さんの人形を寺に奉納することになっており、奉納された観音人形が、今もこの寺の観音堂に数多く祀られている。大阪・生野の舎利尊勝寺には三十三ヶ寺の巨大な石像の観音像が置かれ、それらを巡るようになっている。  

「聖地巡礼」と「順に巡る巡礼」 
「巡礼」とはあくまで宗教上の事柄であろう。そこには「宗教上の聖地をたずねる旅をして、その地に立ち、できれば聖者と同じ気持ちになろう」とすることと「聖者ゆかりの地(寺)などを順に巡る(旅)」という二つの意味を持つように思う。 前者は一般的に「聖地巡礼」と呼ばれ、世界的な宗教で行われている。キリスト教ではその聖地エルサレムへの旅やヤコブゆかりの教会があるスペインのサンディアゴデコンポステラへフランス側からピレネー山脈を越えて800Kmに及ぶ巡礼の旅などがあり、イスラムでは年に一回、ハッジ(巡礼月)に行われるメッカやメディナへの巡礼がある。この時は世界各国からムスリムが凡そ100万人も集まるという。仏教でもインドの釈迦4大聖地への巡礼の旅があり、これはブッタガアヤ、サルナート、クシナガラなどの聖地へのお参りである。ヒンズー教では川縁の町ベナレスが聖地として有名で、チベット仏教ではラサのポタラ宮殿への礼拝や聖地カイラス山への巡礼を五体投地までして達成する、という風習が今でも行われている。 
後者に述べた「順に巡る」という巡礼こそ我が国で行われている巡礼で、3大宗教上の聖地のない我が国では高名な神社や御利益のある仏像を祀る寺院、それに巷間に受け入れられている七福神や不動明王や高僧の由来がある地(寺院)などを順に巡る旅が「巡礼」として古くから存在している。 この「順に巡る」ことをについて考えた時「華厳経」の中に出てくる「善財童子」が五十三人の「善知識」(人生の師)を訪ねる話が仏教における順に巡るという巡礼の起源なのではないかと思う。いわゆる「八十華厳」で最後の20部を占める章「入法界品(にゅうほっかいほん)」には少年の善財童子が旅に出て、53人の「善知識」にあい、悟りの世界に入って行く様子が記されている。 この経典は1世紀ごろ中央アジアで成立、仏教の根幹となっている経典であり、ここに説かれた善知識を訪ね、自己を悟りの世界に入れるように研鑽していくという思いは、やがて聖者ゆかりの地などを巡り、同じように研鑽していくという考えにも発展していったのでは?ちなみに「東海道五十三次」の五十三という言葉もここからきたと言われている  
大山不動(おおやまふどう) 
雨降山大山寺(うごうさんたいさんじ)、お寺さんでは「あぶりさんおおやまでら」と呼んでいる。天平時代・勝宝七年(755)奈良東大寺の別当・良弁の開創で、かつては別当八大坊、十八ヶ坊を擁した古刹である。良弁は東大寺を建立した工匠・手中明王太郎を伴って入山して佛堂を創建した。その後聖武天皇より勅願寺の宣下があり国家鎮護の道場とされた。879年大火で佛像・僧房のほとんどが焼失。弁真僧正は一時子易に一道山地蔵院を立てた、884年安然僧正により再興されて再び山上に戻った。 
大山は原始神道の一部である山岳信仰の山、特に雨乞い・雨止みの山として農民に崇められ、鎌倉時代に北条氏の保護を受け隆盛を見た。当時奉られていたのは倶梨伽羅竜王(八大竜王・別名大山竜神)で、その後修験道の祖である役小角(えんのおずぬ)信仰との関連から、不動信仰の寺となった。 
本尊は鋳鉄造不動明王座像で、コンガラ・セイタカの二護法童子像と共に鎌倉時代の文永年間に大山中興の祖・大楽寺の願行上人によって納められたもの。 
現在「不動参り」といえば成田山新勝寺が有名だが、江戸時代はもっぱら大山不動のことを指し、高幡不動・成田不動と共に関東の三大不動の一つとされた。 
大山不動を「関東札所巡り三十三ヶ所の第一番とされる」は間違い、三十三ヶ所巡りは観音様の霊場である。これは「利根川志」に引用されている「相馬日記」に「そもそも坂東に不動明王の古霊場三所あり。相模国大住郡の大山寺と武蔵国多摩郡の高幡寺と、この新勝寺となり。なかんづく今三所の中に、こよなう参詣人多かるは、この成田の霊場」とある、「板東三不動の一番」という位置づけであった。 
伽羅蕗(きゃらぶき) 
大山名物として知られる佃煮。「伽羅蕗」はもともと修験者が携行した保存食だが、むしろ食中毒の薬で、津和蕗の茎を醤油で煮染めたものであった。漢方で津和蕗の茎や葉には肉や魚による食中毒に対する解毒作用があるとされ、海沿いに自生するもので山中では求めにくいため佃煮にして携行したことらしい。蕗は、蕗の薹(ふきのとう・漢方では「蜂斗菜(ほうとさい)」)に去痰・鎮咳・苦味健胃の作用があるが、薬として服用されることがなく、澤の近くなどに自生しているため保存食にする必要もない。おそらく明治以降、食品として蕗の佃煮を売るときに商品名として「伽羅蕗」の名を冠したものと思われる。 
津和蕗は日本の温かい海岸付近に自生する蕗に似たキク科の常緑多年草。乾燥や潮風に強く、日本庭園にもよく植えられる。葉は蕗に似て柄が長く、厚くて若葉は綿毛に包まれているが成葉は艶があり、「津和蕗」ではなく「艶蕗」と思っている人もいる。若い葉柄は煮物などにして食用。葉は炙って湿布とし、腫れ物や湿疹に用いる。 
伽羅蕗は、五月末から六月にかけ山蕗を採取し、茎の部分を塩蔵。その後根の部分を切捨てて適宜の長さに切揃え、醤油で炒煮する。  

五木寛之『百寺巡礼』  
なぜ人は寺院を巡るのか?信仰と観光の癒し  
日本全国にある百の寺を巡礼するシリーズの最終巻であるが、自分自身が九州に在住しているということもあって『四国・九州篇』から手に取ってみた。日本における仏教の歴史は朝鮮半島にあった百済の聖明王が、欽明天皇に仏像・経典を贈った538年(552年)にまで遡り、中世期には鎌倉仏教の登場で仏教の信仰と勢力は大衆にまで広がった。  
日本仏教が日本文化・芸術や日本人の心理構造に与えた影響は極めて大きかったが、江戸期の『寺院諸法度・寺社奉行』による新たな布教の取締り、『寺請制度(檀家制度)』による葬式仏教への変質によって、仏教のダイナミズムやその思想の影響力は衰えることになった。  
その代わりに、近世江戸期には神社仏閣を回る巡礼に『娯楽・旅行』としての楽しみが加わることになり、仏教・神道の純粋な信仰とは別に、寺社に詣でて現世利益を祈る人たちが急速に増えていった。現代の神社仏閣巡りの観光旅行・願掛けも、その伝統の延長線上にあるものといえる。  
王政復古を掲げた明治維新が成立すると、天皇家の正統性を強化する国家神道を国民に広げるため、神道と仏教が混合した神仏習合を否定する『神仏分離令』が出された。神社と寺院を信仰対象として分離しただけでなく、神道の八百万の神々の本体が如来・菩薩であるという『権現思想』も否定され、仏教は異国から舶来した邪教的な扱いを受けることになった。  
更に、神道を国民統合の宗教として振興しようとする国策の過程で、神道を崇拝して寺社勢力の不正・腐敗を嫌っていた民衆と神官によって、寺院や仏像、経典が破壊され財産が没収される『廃仏毀釈運動』が起こる。江戸期の檀家制度によって既得権益化し、『民間信仰の拠点』としての性格を弱めていた日本仏教は、廃仏毀釈で一時的に壊滅的な打撃を受けた。  
殖産興業・富国強兵をスローガンとした明治期以降は、人々の意識は『物質的な豊かさ・軍事的な栄光』へと向かい、『仏教の教え・無常の世界観』は廃れていったが、現代の日本では再び仏教の教えや寺院の巡礼に、中高年を中心とした人々の関心が向かい始めているという。なぜ、仏教の世界や教えに関心を抱いたり寺院を巡拝しようとする人たちが増えたのか。その理由には、現代が苦悩や不安、混乱を感じやすい孤独で流動的な時代であるということ、雇用・所得や老後保障の不透明感が増していることなどが想定される。  
寺社巡りに関する情報が増えて、『背景知識も楽しめるレジャー(観光)』としての魅力が増していることも無視できない。聖地を巡る『巡礼』というような大仰な目的があるわけではなく、特別な悩みや悲願があるというわけでもない、世俗の喧騒を離れた旅行・散策を楽しみ、寺社の荘厳・静寂な景観に対する感銘を味わうために寺社巡礼をするというのも悪くはないだろう。  
モノとカネ、欲望が奔騰してそれらに悩まされる『俗世の塵埃(じんあい)』から少し距離を置いて癒されたい、煩雑な都会を避けて静かな瞑想・思索の時間に沈みたい、そういった人の内面にある清らかな休息と寂静への思いが人々の足を寺社に向かわせるのかもしれない。  
『百寺巡礼』は、五木寛之が日本全国の寺院を100宇(う)選んで巡礼するという紀行文のシリーズであるが、旅の率直な感想や巡礼のしみじみとした実感だけではなくて各寺院の由緒・来歴も興味深く語られるので、日本仏教の歴史や人物を概観しながら読み進めることができる。私は殆どの寺院に実際に足を運んだわけではなく、普段から寺社巡りの趣味を持っているわけでもないのだが、読んでいるとふと近郊に行く機会があれば、それぞれの寺院に立ち寄ってみたくなるような誘惑的な体験記となっている。  
第91番 観世音寺(かんぜおんじ)  
福岡県の太宰府市にある太宰府天満宮は、朝廷の藤原時平の讒言によって左遷された右大臣・菅原道真公を祀った『学問の神様』として有名であるが、その太宰府天満宮の数百メートル先に日本有数の古刹である観世音寺(かんぜおんじ)がある。  
福岡県の中心都市は今では福岡市と北九州市であるが、太宰府市の歴史は九州全体を統治した政治軍事拠点の『大宰府都府楼(大宰府政庁)』が置かれた7世紀半ばまで遡ることができ、天平18年(746年)に完成したとされる観世音寺は約1300年の歴史を持つ。観世音寺は大和王朝時代に天智天皇の発願によって建設が開始され、奈良王朝時代に完成した寺であり、平安中期に建設された太宰府天満宮よりも時代的には明らかに古い。  
大和王朝が地方機関として置いた大宰府は、中国大陸・朝鮮半島との外交や軍事の役割も担っており、観世音寺は天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔う目的で建立された寺であり、奈良の東大寺・下野の薬師寺と並ぶ『天下の三戒壇』の一つであった。  
奈良期から平安期までは国家が仏教・寺院・僧侶を管理する『官僧官寺』の時代であり、戒壇というのは鑑真の律宗をベースに、戒師が僧侶に公式の戒律を授与するための場所だった。戒壇を持つ寺院は奈良期までは東大寺・薬師寺・観世音寺の3つであり、これらの寺院は私度僧(自分で僧侶を名乗る)ではなく『公式の僧侶』を認定できる寺として強い権威を保有していたとされる。  
木造建築である寺院の多くは、火事や災害、戦争(兵火)によって建立当時の姿(木材・仏像・仏具等)を失っているが、1300年近い歴史を持つ観世音も建立当時のものとして残っているのは日本最古の鐘楼と江戸期に再建された金堂・講堂だけだという。やや荒涼とした寂しい佇まいで隆盛期の華やかな寺院の面影は残されていないが、そこが1300年の履歴を持つ古刹の独特な味わいになっているという五木氏の評価は首肯できるものではある。  
本尊は、講堂に安置された聖観音立像(しょうかんのうりゅうぞう)だが、最も見応えのある仏像は宝蔵に安置された5メートル前後の巨大な三体の仏像、不空羂索観音立像、十一面観音立像、馬頭観音立像のようである。静寂な空間にそびえ立つ巨大な仏像に対置する脆弱・微小な自我、そのコントラストの衝撃と宇宙大の視点から見た自我の小ささの実感が伝わってくるが、『圧倒的な大きさ・広がり』と対峙することによって自己の悩み・苦しみが癒されることもあるのではないかと感じた。  
第92番 梅林寺(ばいりんじ)  
久留米市にある世俗から隔絶した禅宗(臨済宗)の修業道場である梅林寺。旧久留米藩主・有馬家の菩提寺でもあったが、現在においても文明社会の物質的な快適さや利便性の多くを享受せず、観光寺として売上を上げるために大衆に媚びることもなく、昔と変わらない質実・素朴な雲水の修行生活が続けられているという。あくまで禅僧である雲水の修行道場なので、一般の観光客が入山することはできず、世俗の雑音や欲望から離れた空間がそこには作られているが、現代でもこういったストイックな寺院と修行生活が残されていることは驚異的でもある。  
強く雪が舞い散る季節に五木氏は梅林寺を訪問するのだが、梅林寺の雲水は氷のように冷たい床を素足で歩き、雪の降る外路を草鞋で歩いている、厳しく簡素な生活そのものが修行という中でも食生活は質素で低カロリーなものである。現代の飽食の時代においても外界の食文化に乱されることなく、肉食を禁じる仏教の戒律を厳密に守っているという。  
住職も雲水も肉・魚は一切食べず、朝はお粥と漬物程度、昼は米飯は多く食べるが一汁一菜、夜も昼の残り物を中心とした食事という余りにストイックな食生活、それで常住坐臥とされる重労働も含まれる作務をこなして栄養失調や貧血にもならないというのは、現代の栄養学・必須カロリーの常識を超えた生活様式ではある。禅宗はただ瞑想して座禅を組むだけという宗派ではなく、『炊事・掃除・洗濯・托鉢(布施)・早寝早起き』といった日常的な規則正しい生活動作を無駄なくこころを込めてすること自体が修行としての役割を果たしている。  
食事の準備にしても禅寺の多くが近代化されたキッチンに移行しているのに、梅林寺の典座寮では今でも古色蒼然とした巨大な竈(かまど)を使い、薪を手でくべて炊き具合を確認しながら米を炊いているというのには驚かされる。お風呂も現在の綺麗なシステムバスやシャワー設備などは望むべくもなくて、人ひとりがただ体を沈めるだけの五右衛門風呂を薪で沸かして、短時間で無駄なく入っているのである。トイレや風呂では他の雲水との私語も許されない、生活の全てが神仏への勤行であると同時に自己精神を研ぎ澄ます修行であるという厳しさがそこにある。  
生活時間の全てを勤行・作務・瞑想・布施に費やす雲水の睡眠時間は平均3〜4時間、雪が降る真冬でも素足に草鞋を履いて、お布施を得るために人々の家を回り街頭に立つ。仏教の原点でもある乞食(食の施しを乞う)の業が今もなお忠実に守られ、近代的な労働(雇用)とは異なる作務・布施の修行の尊さに対して、在家の人々が米や金を浄財として布施する。お布施として得られた米を、雲水たちは一粒たりとも落とさないように一斗桝に移していくが、現代人の多くが忘れかけている『食への感謝・米粒の価値・他者への施し』といったものについて考えさせられる。  
丹波の瑞巌寺を前身とし、元和7年(1621年)に創建された梅林寺の本尊は如意輪観音坐像(にょいりんかんのんざぞう)。  
第93番 善通寺(ぜんつうじ)  
讃岐うどんで知られる香川県にある善通寺は、真言密教の祖である弘法大師・空海ゆかりの寺(空海が建立した寺)であり、四国八十八箇所巡りの第75番札所である。四国八十八箇所の寺院を巡る経路のことを『遍路』といい、悲願成就や苦悩解消、自己探求のために遍路を歩いて巡礼の旅をする者を『お遍路さん』という。いつも空海上人が一緒に連れ添ってくれるという『同行二人』の遍路は空海信仰に基づく巡礼であるが、空海とは日本仏教界でも別格の超人・聖人であり、日本各地でイエス・キリストのような奇跡の神話的事績を数多く残している。  
真言宗善通寺派の総本山である善通寺は、約4万5千平方メートルの広大な寺域と空海信仰の拠点であることを誇っているが、弘仁4年(813年)に空海が自分が学んだ唐の青龍寺に倣って建立したとされる。現在の建物の多くは三好実休の兵火を受けた後、江戸期に再建されたものであるが、東院(伽藍)と西院(誕生院)の二つの領域に分けられており、金堂には本尊として薬師如来像が安置されている。  
この本尊の中には空海が彫ったという小さな仏像が納められているらしいが、永遠に人目につかずに眠る仏像のイメージが、更に空海の神秘的かつ超越的な信仰心のイメージをかきたてるかのようでもある。高さが45メートルもあるがっしりとした男性的な五重塔も善通寺の見所となっているが、何度も火事で焼却しており、現在の五重塔は明治35年(1902年)に完成した4代目の塔ということである。  
善通寺の西院は『誕生院』と呼ばれているが、それは御影堂(みえどう)の奥にある奥殿で空海が誕生したというエピソードが残されているからであり、そのことが善通寺の真言宗における格式の高さの根拠ともなっている。この御影堂の下には、地下道の漆黒の闇の中を手探りで進んでいって、空海像を拝観できる『戒壇めぐり』というものもあるようだが、ここでは骨格から再現された空海の音声が流されるそうだ。五木氏は東院にそびえる二本の巨大なクスノキを前にして、古代讃岐の文明の歩みや自然信仰に想像を巡らしているが、宗教的霊地の多い四国には大和朝廷中心の歴史とは異なる古代の時間が流れていたのかもしれない。  
第94番 霊山寺(りょうぜんじ)  
四国八十八箇所巡りの第1番札所となっているのが霊山寺(りょうぜんじ)であり、徳島県の鳴門市に位置している。タクシーの運転手との雑談で『讃岐男(協調的でおとなしい香川の男)に阿波女(働き者でしっかりした徳島の女)』という男女の相性の話がでるが、四国人の開放的で楽観的な気質が海洋性の景観・気候にあるという仮説は風土論ではよく為されるものではある。  
四国遍路の旅は今でこそ巡礼ブームの一つとなっているが、元々は修行僧たちが徒歩で回る過酷な信仰の旅であり、この四国遍路が庶民の間にまで広がったのは室町後期から江戸期に掛けてのことだという。霊山寺はその名前から想像すると深山幽谷の中にひっそり佇む寺という感じであるが、実際には車や人が行きかう街中の路上に山門が建てられており、第1番札所なのでお遍路さんが必要とする『遍路グッズ』を販売している商店が周囲に多くあり人通りも多い。  
霊山寺の創建は奈良時代の天平年間(729年〜749年)に遡るほどに古く、聖武天皇の発願で行基によって開基された寺であるが、五木氏が賑やかな寺院の様子や手水場の横にある自動乾燥機の存在に驚いたように、良くも悪くも利便性にも配慮した寺院観光の拠点としての性格も併せ持った寺となっている。創建は非常に古い由緒ある霊山寺であるが、何度も火事の被害を受けており、明治24年(1891年)の火事で本堂・多宝塔以外のすべてを消失しているため、建物自体は比較的新しいものが多い。  
空海と二人でいく同行二人(どうぎょうににん)のスタートとなる寺で、金剛杖を持ち白装束に身を包んだお遍路さんの姿が多いが、白装束は俗世を一時的に捨てた死装束のメタファーでもあり、遍路の旅は『彼岸を経て現世に回帰する旅・過去の自分を殺して生まれ変わる旅』としての意味を強く持っている。  
第95番 興福寺  
興福寺というと、奈良にある藤原氏の氏寺で法相宗の大本山である興福寺、『南都北嶺』で比叡山延暦寺と並び称され春日大社も擁していた興福寺のことを思い浮かべやすいが、本書では九州の長崎県にある興福寺を取り扱っている。長崎といえば江戸幕府の鎖国政策の中で、唯一、海外・外国人に対して開かれていた異国情緒溢れる国際都市であり、徳川家康によって南蛮貿易が規制された後には、『長崎の出島』でオランダ人と中国人(清朝)のみに貿易が許された。  
オランダ人は出島の外に出ることが許されなかったが、江戸初期までは中国人は長崎市中に『唐人屋敷』を構えて居住することができ、その影響で長崎市内には今でも中華街(中華料理屋)があり、中国文化を反映した祭り・建物・食品が多く残っている。長崎の観光名所である中島川の眼鏡橋(日本最古の石橋)にも中国の土木技術が応用されているが、この眼鏡橋を1634年に掛けたのが興福寺の二代住持の黙子如定(もくすにょじょう)である。  
中国風の大きな朱色の門を持つ豪壮な興福寺は、『日本の中の中国』という異名を持つ唐寺の代表であり、興福寺の住持も9代目までは中国人僧侶が務めていたという由緒を持っている。長崎の禅宗信徒から承応3年(1654年)に招聘された黄檗宗(おうばくしゅう)開祖の隠元隆g(いんげんりゅうき)も、この長崎の興福寺で住持を暫く務めていたのである。興福寺の創建は元和6年(1620年)に真円という中国僧が作った航海の安全祈願の庵だとされるが、本格的に伽藍の建築整備が始まったのは二代住持の黙子如定の時代からだという。  
承応3年(1654年)に63歳で招聘された隠元隆gは中国禅宗の高僧であり、日本で黄檗宗を開いたことや隠元豆を持ち込んだことでも知られるが、興福寺中興の祖として活躍し多くの扁額に自筆で文字を書き残している。中国人技術者の手によって中国風の伽藍として建築された興福寺は、日本寺院の本堂のことを『大雄宝殿(だいおうほうでん)』と呼んでいるが、大雄宝殿には瑠璃塔(るりとう)と呼ばれる上海製のガラス張りの燈籠が天上から掛けられていたりする。  
明朝末期の中国禅宗がそのまま長崎に持ち込まれたかのような興福寺であるが、こういった中国風のエスニシティも長崎の街の一側面であり、17世紀当時の中国人の文化的・宗教的なアイデンティティへのこだわりといったものも伝わってくる。隠元隆gを巡るエピソードとして、中国式の精進料理である普茶料理を通して『和』の精神を説いたというものがあるが、中国の高僧である隠元が日本的な調和を重視していたというのも面白い。普茶料理は身分や階級の差を越えて、一つの食卓をみんなでぐるりと囲んで食事を取ることに特徴があるということで、明治期以降の『卓袱台(ちゃぶだい)の食文化』との類似性も指摘されるという。  
第96番 崇福寺(そうふくじ)  
日本最古の黄檗宗の唐寺として『三福寺』があるが、三福寺とは興福寺・福済寺(ふくさいじ)・崇福寺のことである。崇福寺は興福寺と同じ雄大な中国風の建築物を持っているが、本堂である『大雄宝殿』の読み方が興福寺の『だいおうほうでん』ではなくそのまま『だいゆうほうでん』と読むところに違いがある。  
外国に移住した中国人は『チャイナタウン』と呼ばれる中華風の街(コミュニティ)を形成することが多いが、江戸時代の国際都市であった長崎では元禄2年(1689年)に中国人居住地としての『唐人屋敷』が作られ、中国人はこの制限された区域の中で独自の文化・生活・宗教を発展させていった。中国との貿易は日本に先進的な文物と経済的な利益をもたらし、中国人を親しみを込めて『阿茶さん』と呼ばれていたりもしたが、当時長崎の人口が6万人なのに対して、中国人が1万人も移住してきていたという。  
華僑は同郷人が集まって相互扶助する文化を持っているが、長崎の唐人屋敷に居住していた中国人たちも同郷人を集めて寺院を作ることとし、長江(揚子江)流域の江蘇省・浙江省・江西省の出身者らが興福寺を建立し、崇福寺のほうは福建省福州の出身者によって建設された。優雅な朱色の龍宮門が特徴の崇福寺は、寛永6年(1629年)に福州から超然(ちょうねん)という高僧を招いて創建されたが、この寺も8代目までは中国人僧侶によって住持が担われていた。  
また、崇福寺は仏教寺院ではあるが大雄宝殿の後ろに媽祖堂(まそどう)を持っており、中国・台湾で航海・長旅の安全を司る神とされる媽祖神を祀っているので、中国の現地の民間信仰と仏教とが混合した側面がある。  
第97番 本妙寺(ほんみょうじ)  
熊本県は豊臣秀吉の家臣の猛将であった加藤清正が統治した時代があり、清正は朝鮮出兵・虎退治の武勇だけでなく難攻不落の熊本城を建設したことでも知られる。『隈本』という元々の地名を畏れ(おそれ)につながるということで、『熊本』という文字に改めたのも加藤清正と言われる。  
仏教と加藤清正のつながりは『日蓮宗』にあるが、清正は自らの軍旗を『南無妙法蓮華経』とするほどの熱心な日蓮宗信徒であり、彼が自らの菩提寺として創建した寺が本妙寺である。本妙寺は迫力と威厳のある仁王門で参拝客を迎え、約11万2千平方メートルの広大な寺域を持っているが、その最大の特徴は戦国武将が建立した寺に相応しい質実剛健の力強い気風・剛胆が感じられるというところにある。  
476段もある石段を登った先に、歴史の教科書や熊本のパンフレットでよく知られた加藤清正の銅像が立っているが、熊本県民は現在でも『清正公さん(せいしょうこうさん)』ということで清正に対して特別な敬慕の念を持っている傾向があるという。日蓮宗の大本堂は開祖・日蓮がイメージした法華経の世界を立体化した仏像配置である『一塔両尊四士(いっとうりょうそんしし)』を本尊として採用していることが多い。  
この本妙寺でも須弥壇に題目宝塔を置いて、その左右に釈迦牟尼仏と多宝如来を配して、更に地涌四大菩薩(ちゆうよんだいぼさつ)という4体の菩薩像を安置しており、これが『一塔両尊四士』の配置を持つ本尊とされている。日蓮宗では宗祖日蓮に対する個人崇拝もあるので、『一塔両尊四士』の手前に日蓮像が置かれることも多いが、本妙寺の日蓮像には安房(千葉県)の法難で受けた額の傷が寒さで傷まないようにという配慮から、赤と白の綿帽子をかぶせて上げているのが面白い。  
五木氏は本妙寺にある胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる急な石段を登っているが、この古い石段は崩壊防止のために通常は通行禁止とされ、新しい隣の石段のほうを登るようになっている。新しい石段の左脇の人も通らない寂しい場所には、加藤清正の嫡男である加藤忠広の一族が眠る『六喜廟』がある。加藤家は清正の没後に徳川幕府の難癖によって改易され、忠広の代で没落してしまったために、このような目立たない場所で祀る葬られ方をしたのではないかと言われている。  
第98番 人吉別院(ひとよしべついん)  
峻険な山々で外界から隔絶された秘境的地勢にあった人吉藩、そこでは浄土真宗(一向宗)の禁制に対抗して、さまざまなカムフラージュ策を講じて『隠れ念仏』のかたちで信仰を守った。戦国時代には石山本願寺を本拠として強大な軍事力と影響力を誇った一向宗(浄土真宗)であるが、一向一揆を恐れた戦国大名によって一向宗を禁制して弾圧する動きが強まってくる。  
しかし、一向宗の信徒たちは『講』というグループを作って全国的な宗教ネットワークを作り上げ、石山本願寺が織田信長に開城してから後にも、地域社会における一定の影響力を維持し続けた。一向一揆を恐れる藩主によって厳しい一向宗の禁制が行われても、信者たちは『隠し仏壇・隠れ仏間・仏像の隠蔽空間』などを作って、『隠れ念仏』という形態で極楽浄土を目指す阿弥陀仏信仰を守ったのだった。  
浄土真宗本願寺派の人吉別院は創建が明治11年(1878年)で、五木寛之の『百寺巡礼』の中では最も新しい寺院となっている。真宗禁制が解禁されたのは明治8年(1875年)の明治政府による信教の自由の布告からであったが、西南戦争が終わる頃まではなかなか表立って真宗の信仰をすることは難しかったらしい。  
人吉別院を初めとする真宗寺院は、参拝客を集める観光寺院ではないので一般の人の姿は殆ど見られず、本堂の中も信者が集まりやすいように外陣が広く作られており、内陣には本尊の阿弥陀如来像が安置されている。人吉別院の本堂には阿弥陀如来の仏像だけではなく、信者に対して慈愛・慰撫の優しいまなざしを注ぐ親鸞聖人の肖像(御影)が掲げられている。  
第99番 富貴寺(ふきじ)  
『仏の里』と呼ばれる大分県の国東半島には、磨崖仏の石仏群や修験道が隆盛した峻険な山々があり、仏教信仰と神仏習合の深い歴史を持っている。国東には全国に約4万ある八幡宮の総本山である『宇佐八幡宮(宇佐神宮)』があるが、この宇佐八幡宮の境内にはかつて弥勒寺という広大な神宮寺が存在していた。  
弥勒寺は平安中期から鎌倉期に掛けて100以上の荘園を支配するほどの隆盛を見せたが、その後は次第に影響力を衰微させていき幕末に強風で伽藍が倒壊してから再建されることはなく、現在では廃仏毀釈の影響で礎石しか残っていない。過去に華やかに繁栄した弥勒寺の消失は諸行無常の理を感じさせるが、国東半島の付け根部分(豊後高田市)にある富貴寺はその弥勒寺の関係で建立された寺である。  
五木氏は大和が『官の仏の里』であるとすれば、国東は『民の仏の里』であるという面白い表現を用いるが、国東半島の仏教は神仏習合によって生み出された仁聞菩薩(にんもんぼさつ)を開祖とする『六郷満山(ろくごうまんざん)』によって発展拡大した経緯を持っている。  
自然の岩肌に石仏を刻み込む磨崖仏の存在は、古代の国東半島における自然信仰(アニミズム)と仏教信仰との違和感のない調和を示しており、人里離れた山岳修行の場でもあったこの地では『神仏習合』に行き着くことは必然でもあった。大和朝廷の鎮護国家の仏教のように国家の制度によって認可されたり規制されたりする人為的な仏教の歴史は、国東半島の仏の里の信仰のあり方とは対極的なものであり、信仰の起源は自然界に霊威を見出すことにあるのかもしれない。  
宇佐八幡や富貴寺をはじめとする自然豊かな信仰拠点では、巨木・巨石・山・岩などに対して畏怖や尊崇の念がもたれていたが、そういった原始的な宗教感情というものは現代人にとっても完全に無縁のものとは断言できない部分もあるだろう。  
第100番 羅漢寺(らかんじ)  
『百寺巡礼』で回る最後となる満願の寺が、大分県の霊気漂う耶馬渓の山奥にある羅漢寺であり、その山には無数の岩窟があり『五百羅漢像』と呼ばれる無数の石仏が並んでいる。『羅漢』とはストイックな学問と修行によって悟りを得ようとする上座部仏教(小乗仏教)の最高位にある修行者であり、大乗仏教で利他行に奔走する『菩薩』の修行者と比べると苦しんでいる他人を救済しようとする意図が弱いとされる。  
羅漢とは悟り(解脱)によって自分の苦悩を滅却しようとする最高位の修行者であるが、日本では羅漢にも菩薩と同じ『衆生救済の役割』が割り当てられており、両者の区別は必ずしも鮮明ではなくなっている。日本では小乗仏教的な羅漢信仰よりも大乗仏教的な菩薩信仰のほうがポピュラーであるが、それは仏教に自分の苦しみや悲しみを救って欲しいという人々の『現世利益の思う』があるからであろう。  
大分県中津市にある羅漢寺は創建時期が非常に古い古刹であり、中大兄皇子と藤原鎌足によって大化の改新が断行された大化元年(645年)にインド人の法道仙人によって開山されたと伝えられている。羅漢寺の歴史そのものは日本最古の寺の一つに分類されるものであるが、羅漢寺の建物は比較的新しいものである。昭和18年(1943年)に起こった火事によって全焼したので、昭和44年(1969年)に再建されたものが現在の羅漢寺の建物となっている。  
羅漢寺の開祖の法道仙人はこの山の峻険な地形に霊威を感じ、釈迦の聖跡であるギシャクツ山になぞらえていたとされるが、念持仏である金銅仏一体を残してこの山を下った。羅漢寺という名称を確立させたのは、延元2年(1337年)にこの山を訪れた臨済宗の円ガン昭覚であり、洞窟の内部に16羅漢の画像を掲げた。その後、中国僧の逆流建順が訪れて昭覚と力を合わせて、現在の羅漢寺の信仰対象・観光資源にもなっている『五百羅漢像・千体地蔵』を安置したという。  
臨済宗の寺であった羅漢寺を曹洞宗へと改宗させる契機となったのが、藩主・細川忠興の支援を受けた曹洞宗の鉄村玄サク(てっそんげんさく)の羅漢寺復興事業であり、鉄村玄サクは『中興の祖』といわれている。自然の景観をそのまま残す岩窟に安置された『五百羅漢像』の存在感は圧巻であり、『インド人・中国人・日本人の僧侶』がコラボレートして作り上げた羅漢寺の来歴を見ると、国籍・人種を問わず人々を救済しようとしてきた仏教の持つ普遍性や汎用性を感じさせられる。 
五木寛之『21世紀仏教への旅・中国編』  
頓悟禅の六祖・慧能と曹洞宗の道元が伝えた禅宗の教え  
日本仏教の禅宗の歴史は平安後期に始まるとも言われるが、鎌倉時代の栄西(1141-1215)の臨済宗と道元(1200-1253)の曹洞宗が一般にはよく知られている。本書は五木寛之が中国の禅宗の事績やエピソードを辿りながら、寧波(ニンポー)の天童寺や広州の光孝寺を旅して、日本に臨済宗・曹洞宗として伝播した南宋時代の禅宗に思いを馳せる紀行文の形式となっている。  
禅は仏教の修行法である六波羅蜜の『禅定』とも解釈でき『瞑想』との差異も必ずしも明瞭なものではないが、自己の仏性と向き合い精神を統一する『坐禅』によって解脱(悟り)に近づこうとする宗派である。禅宗は5世紀頃に、インドの達磨大師(ボーディ・ダルマ)を始祖として中国に伝来し、達磨は嵩山少林寺で『面壁九年』の坐禅という苦行を成し遂げたという。  
修行法としての瞑想そのものは仏教の開祖である釈迦(仏陀)の時代からあり、釈迦の直弟子である摩訶迦葉(まかかしょう)が、蓮華の花をちぎった釈迦に対して微笑を返したという『拈華微笑(ねんげみしょう)』のエピソードが残っている。拈華微笑のエピソードは“言葉・文字”を介さずに仏教の奥義を直接的に伝達する『教外別伝(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもんじ)』の起源でもあり、それらは禅宗の教えの伝達法でもあるのである。  
禅宗の奥義は自己を内観・反省することによって自己に内在する仏性に気づく『見性(けんしょう)』にあるが、曹洞宗の道元は認識論的な見性にこだわることを戒め、ただひたすらに黙々と坐禅に勤める『只管打坐(しかんたざ)』の重要性を説いた。  
もう一つの禅宗の特徴として、師から弟子への直接的な仏法(正法)の教授を重視する『師資相承(ししそうしょう)』ということがある。禅宗は独りで坐禅に三昧(さんまい)する孤独な修行法であるように見えて、師匠と弟子の物理的な面授による仏法の教授を重んじる宗派でもあり、正式な禅師となるには『師の衣鉢を継ぐ(面授し修行して認めてもらう)』ことが前提条件となっている。  
禅宗は臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(隠元が開祖)の宗派による教え方や修行法の違いはあるが、経典の学問や秘境での難行苦行、密教的な加持祈祷(超能力)ではなくて、『坐禅・公案・読経・作務』を修行法として取り入れたことに最大の特徴がある。道元のように坐禅と作務(日常の作業)を重視するか隠元のように公案を重視するのかの違いはあれど、達磨大師以降の禅宗の基本理念である『不立文字・教外別伝・直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)』によって悟りを得ようとする姿勢は共通している。  
これらの禅宗の基本理念は、教学の知識に溺れず言葉による概念的理解(装飾性)に拘泥せずに、自己の本性(仏性)を坐禅や作務、公案の体験を通して、徹底的に自己洞察することで悟りの境地に到達しようとするものである。正確には、悟り(解脱)への志向性を意識せずに、日々の坐禅や作務・雑務に黙々と勤める中で、いつの間にか必然と仏性を得た悟りの境地に近づけるという発想と解釈することができる。禅宗では『掃除・炊事・洗濯』など身の回りの雑事(作務)を疎かにしてはならないと教え、規則正しい生活習慣を形成して自分のことは自分でするという自律性が重視される。  
これは自分自身は労働をせずに高尚に見える仏道修行のみに専念して、『在家信者の布施』によって生活をするという従来の上座部仏教のエリート主義的な修行観のコペルニクス的転換でもあった。特に道元は、『経典の学問・坐禅の修行・公案の頓知』以上に、日常生活を維持するための雑務・労働のほうが尊い仏教修行であると説き、自分の身体を動かして雑務に励むことを忌避するエリート主義的な仏教観には懐疑的であった。頭脳(座学)による知識・認識の展開よりも、経験的な身体感覚や実際的な作務のほうを重視するというのも禅宗の一つの特徴だろう。  
曹洞宗では日常生活や作務のやり方について、『行持綿密・威儀即仏法』ということで実に細かい一挙手一投足まで規定していたりするのだが、これは道元の『生活そのものが修行』を反映したものである。道元の教義や行動規範は余りに厳しくて人口に膾炙しにくい性質のものであったが、曹洞宗にはその後、第四祖の瑩山紹瑾(けいざんしょうきん,1268〜1325) が現れて禅宗の大衆化・啓発化を推し進め総持寺(そうじじ)を開いた。曹洞宗は道元を開祖とする福井県の永平寺と瑩山紹瑾を開山とする神奈川県(横浜市)の総持寺の二大本山制を取るようになった。  
道元は、建仁寺で栄西の弟子の明全(みょうぜん)に弟子入りした後に、明全と共に南宋の太白山・天童寺に渡って、天童寺の如浄(にょじょう)に教えを請う。天童寺の修行によって悟りを開いた道元は、如浄から曹洞宗の印可を授けられたので、永平寺のことを中国の天童寺に対して『小天童』と呼ぶこともあるという。本書では、五木寛之が天童寺を訪れて礼拝するが、中国の寺院の装飾・儀礼・参拝方法は日本とは異なっており、赤や黄色といった鮮やかな原色で寺が装飾されており、イスラームのように身体全体を仏前に投げ出す五体投地の方法で参拝が行われている。  
永平寺は山を切り開いて建設された天童寺の伽藍を模倣して建造されたとも言われるが、中国の禅宗の教義・作法・雰囲気と日本の禅宗のそれらとでは様々な差異があるようで、食事も修行の一つとする同じ禅宗であっても、中国は日本ほど形式的に厳格な側面はないと語られている。仏教史の読み物としては第二章『六祖・慧能(えのう)』が興味深い内容になっているが、現代の禅宗の理念・修行の基盤を確立した慧能は、特別な家柄や学問を持たない貧しい農家の出身であった。  
温暖湿潤気候の蒸し暑い中国の広州で光孝寺や南華寺を訪れた五木寛之は、曹洞宗の五祖・弘忍(601-674)が、なぜ学問と人格に秀でていた仏教エリートの神秀(じんしゅう)ではなく、六祖として慧能(638-713)に衣鉢を継がせたのかを考えているのだが、エリートとしての履歴を有さない慧能には禅宗を民衆に普及させるための才覚があったのかもしれない。慧能の身体は広東省韶関市郊外にある南華寺に現在でもミイラ(即身仏)として保存されていると言われ、本書の冒頭のカラーページには即身仏の慧能の写真も掲載されている。  
中国大陸の『南船北馬(移動手段)』の文化論的な南北地域の差異に触れながら、慧能のライバルの神秀が学問や修行の勤勉な積み重ねによって悟りに到達できるとする『北宗禅(漸修禅)』を開き、慧能が気づきや洞察によって一気に悟りに到達できるとする『南宗禅(頓悟禅)』を開いたという経緯を説明している。陸地を一歩一歩進んでいく『馬』を移動手段とする北部の南宋の支配階層には神秀の地道な『北宗禅(漸悟禅・漸修禅)』が受け容れられやすく、海上・河川をすいすいと動く『船』で移動する南部の庶民・商業階層には慧能のアクロバティックな『南宗禅(頓悟禅)』が受け容れられやすかったという仮説である。  
『悟り(解脱)』に地道なプロセスが必要なのか不要なのかという立場の違いは本質的なものではあるが、曹洞宗を確立した慧能は自分自身が心穏やかになり苦悩を脱却できるか否かが重要であると考えていたようだ。経典の研究にコツコツと専心したり、厳しい修行や規則に耐えたりすることそのものは、悟り(解脱)に近づくこととは本質的な相関関係がないとするのが慧能の立場だろう。  
ありのままの自己と対峙して、人間の本質的な尊厳にハッと気づく『見性』を悟りよりも重んじていた節があり、これは田舎の農村から特別な修行もせずに無知無学のまま仏門に入り、短期間で弘忍の衣鉢を継いだ慧能ならではの『発想の大転換』であったようにも感じる。慧能に対して神秀のほうは、専業的な僧侶として長い期間にわたって難解な経典の研究や厳しい修行の実践に努めてきていたため、それらの『過酷な修行・学問のプロセス』が悟り(仏教の最終目的)に直結しないという慧能の想定外の発想を受け容れることは出来なかっただろう。  
本書の後半は、禅宗の中興の祖である白隠禅師のエピソードや欧米(パリ)におけるZENブームの実情が語られていたりもするのだが、『仏教の旅』という紀行文を通して“日本人にとっての禅とは何か?国際的な禅の流行の背景にあるものは何か?自分にとって禅は価値あるものか?”と思わず問いかけてしまう面白さがある。  

縁起と高僧伝 / 性空蘇生譚をめぐって  
はじめに
性空は、平安中期の法華持経者としてよく知られているところである。性空にまつわる伝承も、往生伝や説話集に収載されるものから、在地の伝承まで多くの伝承をみることができる。
性空の伝承として、霧島・背振山での修行、六根清浄の聖としての奇瑞譚、和泉式部の結縁譚、生身の普賢菩薩の感見譚などが知られるところである。また、室町物語では、『硯破』として性空の発心譚がある。近世になると、善光寺縁起に性空の渡唐譚がみられ、血盆経の縁起や、秩父三十四所開創縁起に性空の蘇生譚がみられる。
性空は京の人であり、九州で修行し、播磨で書写山円教寺をひらいてそこで示寂した。このような経歴からもわかるように、性空の伝承の分布は基本的に西国を中心としたものである。このなかで、善光寺縁起と秩父三十四所開創縁起は東国に分布しており、その中でも秩父三十四所開創縁起は、同様の伝承が近畿地方と関東地方に分布しているという特徴を持っている。また、このような寺院縁起のなかにみられる伝承は、独自の展開をみせており、こういった伝承を検討していくことによって、伝承の形成の一面を明らかにすることができよう。
本発表では、このような特徴的な分布を示す秩父三十四所開創縁起について、近畿の事例を検討するなかで、その伝承の位置づけをおこないたい。  
1 秩父三十四所開創縁起
秩父三十四所開創縁起の中で、もっとも古いとされている資料は、秩父三十四番札所法性寺に蔵されている札所番付、一般に「長享番付」と呼びならわされている資料である。この「長享番付」は、長享二(一四八八)写とされる資料であり、秩父札所を一番から書き上げたのち、ごく短い秩父札所の開創縁起が述べられている。それによれば、性空上人が、冥途で七日説法し、罪人を救済したので、布施に秩父巡礼・坂東巡礼・西国巡礼のことを教わった。熊野権現など諸神を召して(秩父巡礼を開創した?)、ということが述べられており、行基菩薩が文治三年(一一八七)にこの番付を作成したこととなっている。
同じく法性寺蔵の行基菩薩作とされる「武州秩父郡御札所之縁起」によると、文暦元年(一二三四)、書写開山性空が、冥途で紺紙金の泥法華経一万部の読誦をおこなった。その布施として、倶生神が性空に石札を与えた。そして、妙見菩薩が導き、熊野権現が合計十三人(十三権者)で順礼をおこなった。これが秩父巡礼の開創とされている。また、この縁起と同一の巻本に表装されている仮名縁起では、性空は冥途で四万部の法華経を読誦したこととされている。
秩父二十五番札所御手判寺の閻魔王の手判(図1参照)の縁起では、熊野権現をはじめとする十三権者が順礼の時(すなわち、秩父巡礼創始の時)、性空が、閻魔王宮で法華経を十万部読誦し亡者を救済した。その布施として、「石の手判」「石の證文」を得た。手判石は御手判寺へ納められ、證文石は、西国の札所中山寺へおさめられたという。(『新編武蔵風土記稿』、文化七〔一八一〇〕〜文政一一〔一八二八〕編)
以上の縁起は、性空の生没年とあまりにかけはなれた年代のできごととして述べられている場合が多いが、秩父一番四萬部寺の縁起では、十三権者の秩父巡礼開創にふれながら、性空の生没年と矛盾しない縁起が語られている。(「経塚再興碑」宝暦六〔一七五六〕、「武州秩父札所第一番目法華山四萬部寺大施餓鬼因縁記」伝・享禄四〔一五三一〕等)
以上のような秩父札所の開創縁起は、以下のようにまとめられるだろう。
(1)性空が、冥途で紺紙金泥の法華経読誦をおこなう / 但し、巻数は、一万部・四万部・十万部
(2)法華読誦の功徳により亡者を救済する
(3)布施に、石札・手判石・証文石、あるいは、百所の巡礼の事などを得る
(4)甲午年、性空を含む十三権者が秩父巡礼を開創する / 但し、「長享番付」では、七日説法であり、四萬部寺では、性空の伝記と矛盾しない縁起が語られている等、異伝もある。  
2 近畿の関連伝承
前節において、秩父開創縁起にみられる性空蘇生譚を概観したが、これとほぼ同様の伝承が、兵庫県たつの市円融寺にみられる。円融寺の寺宝である紺紙金泥法華経の縁起であるが、それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容である。紺紙金泥の法華経と、御手判石の違いはあるが、秩父二十五番札所御手判寺の縁起と同様の話柄である。
円融寺縁起は、貞享三年(一六八六)の成立であり、当寺の中興は、慶長四年(一五九九)没の法印祐範である。それ以前の資料には性空将来の紺紙金泥の法華経についての記述はない。
さて、円融寺にみられるような近畿における性空蘇生譚に関する伝承をまとめると、以下のように分類することができる。
(1)性空蘇生譚  円融寺・兵庫県御津町 / 木之本地蔵・滋賀県木之本町
(2)性空と尊恵の蘇生譚  常住寺・三重県伊賀市 / 常光寺・大阪府八尾市
(3)尊恵蘇生譚に性空が関与する伝承  血盆経将来伝承
(4)尊恵蘇生譚  温泉寺・兵庫県神戸市等
以下、これらの概略を確認しておきたい。
2-1 性空蘇生譚
近畿における性空蘇生譚は、先に見た貞享三年(一六八六)成立の円融寺縁起と、貞享元年(一六八四)刊の『地蔵菩薩霊験記』巻四「江州木之本地蔵霊験」にみえる。木之本地蔵では、天正四年(一五七六)のこととして、性空が閻魔王のもとから将来した錫杖というものの存在がある。
2-2 性空と尊恵の蘇生譚
貞享四(一六八七)成立の伊賀国の地誌『伊水温故』所収の常住寺縁起には、承安二年(一一七二)、尊恵と性空が閻魔王宮大極殿で法華十万部読誦の導師として法会をおこない、尊恵が常住寺本尊である閻魔王像と八部の法華経を得たという伝承がみられる。
なお、常住寺は、寛文初年(一六六〇年代前半)、本寺である比叡山松寿院を介して江戸開帳をおこなっている。
天明八(一七八八)以前成立の常住寺蔵『万人講縁起』では、長保二年(一〇〇〇)、尊恵と性空が、閻魔王宮大極殿で法華十万部転読をおこない、万人講の縁起・法華経三部をこの世に将来したという伝承がみえる。
2-3 尊恵蘇生譚に性空が関与する伝承
天明八(一七八八)年成立の『血盆経略縁起』では、承安二年、性空により尊恵が閻魔王のもとに召し寄せられ、布施に血盆経と閻魔王自作像を得たとある。また、これに続いて、八尾地蔵房の「十万人講」に言及している。これは、2-2で示した、八尾の常信寺蔵『万人講縁起』にみられる伝承であり、血盆経将来譚と『万人講縁起』との密接な関連がうかがえる。
正徳三刊(一七一三)刊の『血盆経和解』には、尊恵が閻魔王宮で法華十万部読誦の導師になり、布施に閻魔王から血盆経を与えられた事が述べられているが、注記に、尊恵は性空と同時代の人であると記されており、尊恵と性空が一対のものとして認識されていたことを知ることができる。
2-4 尊恵蘇生譚
さて、以上見てきたなかで、性空の蘇生譚は、尊恵という人物の蘇生譚と関わりが深いことを見て取ることができる。
尊恵は、平安末期の著名な蘇生者であり、『平家物語』諸本に、平清盛が慈恵大師の再誕であることを告げた人物としてみえている。この『平家物語』諸本の伝承の出典とされるのが『冥途蘇生記』である。
尊恵の伝承を『古今著聞集』によって確認すると、尊恵は、もと叡山の学呂で、清澄寺に遁世する持経者であった。承安二年(一一七二)、閻魔王宮法華十万部転読の法会に参加し、平清盛が慈恵僧正の再誕であると告げられ、閻魔王から清盛を賛嘆する偈を得て蘇生した。その後、往生したという。
この伝承は、室町期以降、尊恵が閻魔王より法華経を得てこの世に将来したという伝承として展開を見せている。この展開については拙稿で明らかにしたところであるが、概略を確認しておきたい。
有馬温泉寺では、温泉寺如法堂の縁起として、尊恵が閻魔王宮の法会のために奉納した法華経についての伝承が成立していた。ところが、享禄二年(一五二九)、温泉寺の火災からの復興勧進のために作成された縁起には、温泉寺宝塔の地下から尊恵が将来したという閻魔王書写の金紙金字の法華経と両界曼荼羅が発掘された、という伝承がみえている。この温泉寺の復興勧進のなかで、如法堂縁起としての尊恵の伝承は、閻魔王書写の法華経と、それへの結縁をすすめる伝承へと転換を遂げたのである。
やがて、この伝承は、一五七〇年代以降、周辺の蓮華寺・青林寺・近江寺などへ伝播していくことになる。他方で、近世の温泉寺においては、『冥途蘇生記』の形式をとって、尊恵による果生と呼ばれる往生の契券・女人往生のための『仏説転女成仏経』・閻魔王手書の法華経という三点の将来品がこの土にもたらされたこととなっている。その中でも、往生の契券とされる果生を中心としたあまねく衆生を済度する論理に基づいた縁起へと変貌を遂げるのである。  
3 近畿の関連伝承の位置づけ
性空蘇生譚から尊恵蘇生譚にいたる伝承すべてに共通する要素として、性空、尊恵、あるいはその両者が十万部法華経法会に参加していることである。そして、血盆経の伝承を除けば、多くは法華経をこの世に将来していることが理解できる。
また、血盆経の将来縁起は、先に見たように、「万人講縁起」と密接な関連を見て取ることができるが、それと同時に、近世の温泉寺縁起では、女人救済経典の将来が述べられており、尊恵の伝承の展開とも密接に結びついた伝承である事が理解できる。
すなわち、有馬温泉寺において、16世紀前半に成立した、尊恵が閻魔王宮の十万部法華経法会に参加し、布施に経典を与えられ、この土に将来した、という伝承が、まず、周辺地域へ伝播する。そして、温泉寺における尊恵将来経の伝承の展開の影響を受けて、常住寺や、血盆経の伝承が形成されることが理解される。また、尊恵蘇生譚と共通の要素を持っていることから、尊恵蘇生譚の影響を受けて、円融寺の性空蘇生譚が形成されたとみられよう。
これらの伝承の成立時期であるが、尊恵と性空にかかわる伝承や性空蘇生譚などは、資料上では、いずれも貞享年間(一六八四〜一六八八)に見いだされていることから、17世紀後半にはいずれの類型の伝承も形成されていたことがうかがえる。また、常住寺は、寛文初年(一六六〇年代前半)に江戸開帳をおこなっていることから、この時期に同寺の縁起が整備されたことが推測される。性空蘇生譚は、尊恵蘇生譚の影響をうけて、17世紀半ばごろには成立していたことが推定できよう。  
4 秩父三十四所開創縁起と近畿の伝承
3節において、近畿の性空蘇生譚は、尊恵蘇生譚の展開のなかに位置づけられる伝承であり、それは17世紀半ばごろには成立していたことが推定されることをみた。それでは、秩父三十四所開創縁起と近畿の性空蘇生譚の関係はどのようにとらえることができるだろうか。
これまでの研究では、秩父三十四所開創縁起は、西国三十三所開創縁起の影響を受けて形成されたとされている。しかし、「長享番付」とほぼ同時期から資料上にあらわれる西国三十三所開創縁起では、徳道上人が閻魔王から教わった観音巡礼を、花山法皇と仏眼上人が復興するというのが主であり、性空は重要な扱いがされていない。同時期の西国三十三所開創縁起を見る限り、「長享番付」で性空がクローズアップされることを理解するのは難しい。
秩父三十四所開創縁起をみると、基本的には、性空上人が、閻魔王宮で何万部かの法華経の法会に参加し、布施に巡礼のことを教わる、というものである。話柄からみれば、3節で確認した尊恵蘇生譚から展開した性空上人蘇生譚の中に位置づけることができよう。特に、秩父二十五番御手判寺の縁起では、性空は冥途で十万部法華経読誦の供養をおこなったと述べられており、顕著な類似を示している。
すなわち、秩父三十四所開創縁起にみえる性空蘇生譚は、近畿地方における17世紀の性空蘇生譚の展開、より大きくは、尊恵蘇生譚のなかに位置づけられるべき伝承であり、その成立も自ずから下げざるをえないであろう。17世紀の秩父は、三十四所として札所が整備される時期であり、この時期に近畿地方から性空上人の蘇生譚をとりこむかたちで秩父三十四所開創縁起が形成されたとみるべきであろう。  
おわりに
以上、近畿の性空上人蘇生譚のなかに、秩父三十四所開創縁起を位置づけた。民衆レベルでの近畿から東国への文化の伝播が明らかとなったと思われる。
しかし、性空と尊恵が結合する要因や、近世にみられる西国三十三所開創縁起との関係、近畿から秩父への伝播の要因等、明らかにすべきことは多い。秩父への伝播に関しては、曹洞宗系の唱導僧などの活動が考えられるが、今後の検討課題としたいと思う。  
 


  
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