喪中のマナー
「終」 諸話 / 藤原行成家族の葬送藤原道長家族の葬送藤原道長死の教科書文学の中の「死」悲嘆死に様故事と諺葬祭史・上代江戸明治大正昭和悲嘆史総理大臣の葬儀徳川将軍の葬儀死の諸話 
【終】つい つまるところ。究極。最後。人生の終わり。「ついの」の形で用い上代から「ついに」の形で用いられる。 
終の事 いつかはそうなること。 
終の住処(すみか) 最後に住むところ。終生住むべきところ。死後に落ち着くところ。 
終の道 人が最後には行かなければならないあの世への道。死出の道。 
終の別れ 最後の別れ。永遠の別れ。死別。 
【終】おえ おわること。きわみ。果て。 
【終に・遂に】ついに 一つの行為や状態がずっと最後まで持続するさま。どこまでも。いつまでも。最後まで。行為や状態が最終的に実現するさま。最後に。とうとう。結局。いよいよ。「ついに駄目になる」  
【仕舞・終・了】しまい おわること。やめること。すんでしまうこと。おわり。特に人の境遇、一生の結末。 
仕舞を付ける 決着をつける。きまりをつける。 
【終・畢】おわり 続いている物事のそれ以上の先がなくなること。最後の部分。しまい。はて。人の一生が終わりになる。最後の時。臨終。末期(まつご)。 
終わりの宴 平安時代宮中で書物の講義や勅撰集の撰進が終わった時に催す宴会。 
終わりよければすべてよし 物事を完成させる過程で結末さえ立派にできていれば、途中の失敗などは問題にしない。 
終わりを告げる おしまいになる。おわりになる。「式も終わりを告げる頃」 
終わりを全うする なすべきことをなしとげて一生を終える。
 
【夭す】ようす 年齢が若くて死ぬ。若死する。 
【細行】さいこう 小さくて取るにたりない行い。些細な行為。 
細行を矜(つつし)まざれば終(つい)に大徳(だいとく)を累(わずら)わす ちょっとした行いを慎まないでいると、ついにはその人の大きな徳にまで悪い影響を及ぼす結果になる。 
【吠死】ほえじに 苦痛のあまり大声でわめきながら死ぬこと。 
【果口】はてくち 命の終わるきっかけ。破滅のもと。物事の終わりぎわ。終了のまぎわ。しまいぎわ。 
【果たせる哉】はたせるかな 思ったとおり。やっぱり。あんのじょう。はたして。 
【聞こえよがし】 当人がそばにいるのに気づかないふりをしてあてこすって皮肉、悪口をいうこと。きこえがし。 
【千秋楽】 物事がいよいよ最後になること。最後。結構な楽しみ。 
涓涓塞(ふさ)がざれば終(つい)に江河となる 小さな流れも小さい間にせきとめなければ、ついには大河となる。 
命の際(きわ)[=境・瀬戸・瀬戸際] 死にぎわ。命の終わる瀬戸ぎわ。死ぬか生きるかの境目。 
【足掛】 (多く年月などを表わす数詞の上につけて用いる)年、月、日などを数える場合、始めと終りの端数をそれぞれ一年・一月・一日とするおおよその数え方。 
【一大事】 きわめて重要なこと。容易ならないできごと。大事件。大変。仏がこの世に出る最大の目的とした事柄。悟りを開くきっかけ。
 
【最後】 物事のいちばん終わり。最終。終末。 「けふを最後、只今かぎりの別なれば」 
最後の審判 約聖書の黙示録に示されたこの世の終わりの神の審判。この世の終わりに、神が人類の罪を審判し、神の義と聖とを貫徹するというキリスト教の信仰。 
最後の晩餐 新約聖書の福音書に叙述されたキリスト受難前夜の晩餐の状景。 
【名残・余波】なごり(「波残(なみのこり)」の変化) ある事柄が起こりその事がすでに過ぎ去ってしまったあと、なおその気配・影響が残っていること。余韻。余情。死んだ人の代わりとして、あとに残るもの。子孫。末裔。人と別れたあと心にそのおもかげなどが残って忘れられない。これで最後だという別れの時。最後。最終。 
名残多し なごり惜しい気持が深い。心残りが多い。 
名残の裏 連歌や俳諧連句を懐紙に書くときの最後の折の裏の称。名裏(なうら)。 
名残の表 連歌や俳諧連句を懐紙に書くときの最後の折の表の称。名表(なおもて)。 
名残の折(おり) 連歌や俳諧連句を懐紙に書くときの最後の折の称。百韻形式では四枚目の折、歌仙形式では二枚目の折に当たる。なごりおり。 
名残の杯 別れを惜しみながらくみかわす杯。別離の杯。 
名残の霜 (八十八夜以後霜は降らないとされたところから)八十八夜頃に置く霜。最後に置く霜。別れ霜。忘れ霜。 
名残の袖(そで) 別れを惜しむことのたとえ。名残の袂(たもと) 
名残の茶事 口切の茶事のあと約一か年、前年の茶を飲み、なお飲み残した前年の茶で、八月末から九月にかけて催す茶会。 
名残の月 夜明けの空に残っている月。有明けの月。陰暦九月十三夜の月のこと。前月十五夜の名月に対してその年の観月最後の月とするところからいう。後の名月。 
名残の涙 なごりを惜しんで流す涙。別離を惜しんで流す涙。別れの涙。 
名残の花 散り残っている花。花盛りをしのばせる花。 
名残の雪 春先まで消え残っている雪。春になってから降る雪。 
名残を惜しむ なごり惜しいと思う。別れを惜しむ。
 
【切・限】きり 限度。際限。かぎり。はて。演劇、芸能などで最後に上演される幕、段、席。宴席などが終わりになる頃合。「限度とする」「境目とする」の意を表わす。
 
【今】 過去と未来との境になる時。現在。ただいま。今の時代。現代。現今。こんにち。新しいこと。新しい。こんどの。現代の。今の。「今浦島」「今牛若」 
今が今 ちょうど今。たった今。今の今。 
今か今か ある物事、状態が、早く現われることを待ち望む気持を表わす。もう…するか。「今か今かと待ちわびる」 
今こそあれ 今こそこんなになっているが。 
今此の時 こんにちただいま。 
今少し もう少し。もうちょっと。 
今という今 今を強めた語。たった今。ただ今。 
今ともに 今に至るまで。今もって。 
今泣いた烏がもう笑う 今まで泣いていた者が、すぐあと、きげんを直して笑っていること。おもに、子供の喜怒哀楽の感情の変わりやすいのをはやしていう。 
今なり 程度がもう一段加わるさまである。 
今に始まったではない 従来からあったことで少しも変わらない。 
今の今 ちょうど今。たった今。 
今の今まで 「今まで」の意を強めていう語。 
今の因果は針の先回る 昔のことよりも今のことの因果のほうが早くめぐってくる。因果はきわめて早くめぐってくるものだ。 
今の上(うえ) 今の天皇。今上(きんじょう)。 
今の内(うち) ごく近い将来きっとあること。今のあいだ。「今のうち(に)食べておこう」 
今の夫(おうと・おっと・おとこ) 後添(のちぞ)いの夫。 
今のおつつ 今のこの世。ただ今現在。
 
今の事 目の前に迫ったこと。今すぐにも起こりそうなこと。はっきりと言うのをはばかる時にいう語。例のこと。 
今の先(さき) 今少し前。つい今しがた。たった今。 
今の所 現在のところ。 
今の程(ほど) 今、こうしている間。現在。時をおかないで今のうち。 
今の間(ま) 今こうしているあいだ。現在のところ。また、この瞬間。(多く「に」を伴う)たちまち。またたく間に。見ているうちに。 
今のまさか (「まさか」はまのあたり、現在の意)さしあたって今この時。 
今の世 今の時代。現代。当世。この世。現世。 
今は 現在は。今頃は。こんな状態になった現在ではもはや。もうそろそろ。おっつけ。これからは。今後は。 
今を限り ものごとの最後。もうこれまで。生涯の最後。臨終。死。 
今は斯(か)く (今はこのようになったの意)もはやこれまでだ、最後だの意にが多い。 
今はこれまで もはやこれまでで終わりだ。もうこれが最後だ。 
今は昔 今ではもう昔のこと。むかしむかし。説話や物語文学の冒頭に使われる慣用句。 
今一息(ひといき) もう少し。あとちょっと。 
今一(ひと)つ もうひとつ。更にもう少し。 
今もかも 今頃はまあ。想像していうのに用いる。 
今をも知らぬ 今どうなってしまうかわからない。今、死んでしまうかもしれない。人の命、運命の定めないことにいう。 
今や 今まさに。今こそ。今にも。今はもう。 
今や今や ある物事、状態がすぐにでも起こらないか、やってこないかと待ち望む気持を表わす。今か今か。 
今や遅し 今か今かと待ちかねる気持や状態をいう。 
今を時めく 現在、世にもてはやされている。今を盛りとさかえている。
 
【止・留】とめ 継続していたものごとの終わり。最後のもの。続けてきた動作・表現などの最後。 
【詰】とめ 最後。結局。結末。しきり。限り。勝負が決まりそうな最後の段階。一般に物事の決着をつけるべき最後の追込みのところ。 
詰めの城 二の丸三の丸に対して本丸のこと。出城に対して根城(ねじろ)をいう。 
此処で逢(あ)ったが百年目 めぐりあうことが最後となるかもしれない機会。さがしていた相手にめぐりあった機会を逃がしたくない時などにいう。 
此処を最後 死力を尽くして戦うべき最後の場。ここが瀬戸際だと思って死力を尽くすこと。 
【巻軸】かんじく 巻き物の終わりの軸に近い部分。書物などの終わりの部分。連判状などで最後に署名すること。またその人。 
【落句】らっく 漢詩で結びの句。律詩では最後の二句をいう。和歌の最後の句。短歌の五句目。最後の文句。おち。 
【画竜】がりょう (「りょう」は「竜」の漢音)絵に描かれた竜。がりゅう。 
【画竜点睛】 中国の張僧が金陵の安楽寺の壁に竜の絵をえがき、最後にひとみを書き入れたら、たちまち竜が天に飛び去ったという「歴代名画記‐七」の故事から。最後にたいせつな部分を付け加えて、物事を完全に仕上げること。物事の眼目、中心となる大切なところ。最後の仕上げ。 
画竜点睛を欠く ほぼ良い状態でありながら大事な一点だけ不十分な個所があること。 
【大切】おおぎり 江戸の歌舞伎で二番目狂言(世話物)の最後の幕。(大喜利)演劇でその日の興行の最後の一幕。物事の最後。おわり。 
【大引】おおびき 三人でめくりカルタをする時、親、胴二(どうに)についで、最後に札をめくる番にあたる者。順番が最後になること。最後に責任をとる立場。 
【立て通す】 最後まで立てておく。立て続ける。最後までしつづける。ある態度や主張、または状況などを最後までつらぬく。
 
【結句】けっく 詩歌の最後の句。結びの句。物事の終わり。最後。結末。 
鼬の最後屁 鼬が敵に追われた時、悪臭を放って難をのがれること。せっぱ詰まった時、非常手段を用いること。 
【果】はて はてること。物事の終わり。しまい。末。最終。最後。人の死後の忌(いみ)や喪の終わり。人の境遇の最後に行きついたところ。ふつう悪くなった場合にいう。末路。なれのはて。 
【見果てる】みはてる 見終わる。最後まで見る。最後まで面倒を見る。最後まで世話をする。 
【仕上・仕揚】 物事をし終えること。物を作りあげること。完成すること。最後のしめくくり。最後の工程。(死後の作法のしめくくりの意とも、また、死者の霊を天にあげる意ともいう)死後三日目、七日目、四九日目などの忌日にいとなむ法事。忌中払。葬礼の後、手伝いの人々に饗応すること。 
【遣り切れる】みはてる 最後までし遂げることができる。そのままでいることができる。がまんしきれる。 
遣り切れない 最後までし遂げられない。これ以上できない。やっていけない。がまんできない。耐えられない。かなわない。 
【有終】 終わりをまっとうすること。最後までよく仕上げること。 
有終の美 最後までやり通して立派な成果をあげること。終わりを立派にすること。 
【伊邪那岐命・伊弉諾尊】 国うみを行なった男神。神代七代の最後の神。天神の命で、伊邪那美命とともに大八洲の国や、万物を司る神々を産み、最後に天照大神、月読尊、素戔嗚尊を産んで、治めさせる国々を定めた。 
【始終】 始めと終わり。始めから終わりまでの事柄。事の経過。最後。結末。事の終わり。 
【藍尾・婪尾】らんび 饗宴の席で、順々に杯を回し、最後の者が三杯連飲すること。最後。最末。
 
【終曲】 ソナタ形式の曲の最後の楽章。オペラの幕切れを飾る最後の曲。フィナーレ。 
エピローグ(英epilogue) 西洋演劇で、芝居の最後に俳優の一人が述べる閉幕の辞。詩、小説、戯曲などの終わりの章。物事の終わりの部分。書物の最後に記すことば。あと書き。跋文。 
【終着】 最後のところに到着すること。終点に着くこと。 
【終着駅】 鉄道の終端にある駅。終点。最後にたどりつくところ。 
【終末】 おわり。しまい。終尾。 
【終末論】 世界および人類が最後には破滅を迎える運命にあると説く宗教上の思想。特にユダヤ教、キリスト教などでは、天変地異によってこの世が終わり、最後の審判で神の善が永遠の勝利を得るとする。終末観。 
【追込】 競争で勝敗の決まる最終段階。そのときの最後の努力。スポーツから出て広く使われる。 
【急】 事態のさしせまったさま。にわかなさま。いそがしいさま。緊急。にわかな変事。切迫した事態、事柄。 
急の舞 能楽の舞の名称。囃子(はやし)によって伴奏されるテンポの急調なもの。 
【九仞】きゅうじん(「仞」は中国の周代の尺で八尺、一説に七尺、また五尺六寸とも四尺ともいう)高さが非常に高いことをいう語。 
九仞の功を一簣(いっき)に虧(か)く (非常に高い築山をきずくときに、最後にたった簣(もっこ)一杯の土が足りないだけでも完成しない意から)長い間の努力も最後のほんのちょっとの手違いから失敗に終わってしまう。 
尻を端折(はしょ・はしお・はせお)る 話や文章などの最後の方を簡単にする。
 
【殿】しんがり(「後駆(しりがり)」の変化) 軍が退却する時、軍列の最後にあって敵の追撃に備えること。あとぞなえ。しっぱらい。隊列・序列・順番などの最後につくこと。最後尾。最下位。 
【殿備】しんがりぞなえ 軍列の最後尾に立つ軍隊。 
【押・抑】おさえ 敵が侵入するのを防ぐために国境などを守ること。隊や行列のうしろにいて備えや列の乱れを防ぎ整えるもの。念を押すこと。宴席などで最後に出すもの。要求不平などを制して自分の思い通りに人を支配すること。 
押さえが利(き)く 部下を統率するだけの能力がある。全体を引きしめるだけの力がある。 
押さえの杯(さかずき) さされたのを押し返して、しいて相手に飲ませる杯の酒。 
押さえを乗(の)る 馬に乗って行列の最後を行く。 
【切能・尾能】きりのう 一日の番組の最後に演じる能。五番立ての能組のときの最後に位置するところから、五番目物ともいう。切。切の能。 
末通(とお)る 終わりまでやりとげる。最後までつらぬき通す。成功する。 
末遂(と)ぐ ある事を最後までしっかりとやりとげる。 
【聖餐】せいさん イエス‐キリストの最後の晩餐を記念する礼典。聖晩餐。 
【聖餐式】(英Communionの訳語)イエス‐キリストが最後の晩餐で、パンと葡萄酒をとり「これわがからだなり、わが血なり」と言ったことに基づき、これを記念してパンと葡萄酒を会衆に分ける教会の儀式。洗礼式とともに、カトリック教会で、もっとも重要視される。聖体拝領。 
【切幕】きりまく 歌舞伎の舞台で、鳥屋(とや)と花道をへだてる垂れ幕。あるいは、楽屋と舞台をへだてる、すなわち舞台の向かって左手すみにある垂れ幕。または、能舞台の楽屋と橋がかりをへだてる垂れ幕。揚幕(あげまく)。歌舞伎で最後の幕。また、序幕に対して、最後の狂言。切狂言。 
【立通】たてとおし 最後まで立て続けること。一つの態度や立場、または状況などを最後まで続けること。 
【落】おち ある場所からひそかに逃げて行くこと。地位や品格などが下がること。おちぶれること。落語などで話の結びの部分。しゃれや意外な結末などで、人を笑わせたりして効果的に話を終わらせることば。さげ。よい結果。よい評判。喝采。物事が進んで最後にゆきつく点。結末。清算取引で転売や買い戻しをして建玉(たてぎょく)を取引所の帳簿から除くこと。また、その玉。
 
【掉尾】ちょうび 尾を振ること。一説に、つかまえられた魚が死ぬ直前に尾を振るの意とする。物事が最後に来て勢いの盛んになること。とうび。「掉尾の勇を奮う」「掉尾を飾る」 
【納・収】おさめ 国などを統治すること。物事をそれで終わりにすること。最後。 
納めの庚申(こうしん) その年最後の庚申の日に三尸(さんし)の災いを防ぐために庚申堂に参詣すること。果ての庚申。 
【落】おとし 話などが進んで最後にゆきつく所。話の結末。落語などの話の最後につく滑稽やしゃれ。おち。 
【決勝】 最後の勝敗を決めること。運動競技で最終的に勝敗を決めること。優勝者を決める。 
【決勝点】 勝敗を決める最後の地点。ふつうは競走で、そこに早く着くか否かで順位の決まる地点。ゴール。 
デッドライン(英deadline) 越えてはならない最後の線。最後の限界。死線。 
毒を食わば皿まで すでに罪を犯したからにはためらわずに最後まで悪に徹しよう。どうせここまでやったのなら最後までやり通そうの意でも用いる。 
とことん どんづまり。最後の最後。副詞的に用いて、徹底的に、どこまでも。 
【天目】てんもく (武田勝頼が自刃したところ)最後の場所。勝敗の最後の分かれ目。 
【止・留・泊】とまり 最後に落ち着くところ。終わり。果て。しまい。最後まで連れ添う人。終生を託する相手。本妻。 
とどのつまり (「どどのつまり」とも。ボラは成長して行くに従って名称が変わり、最後に「とど」といわれるところからという。一説に「とど」は「止」、また「到頭」の変化とも) いろいろやって、せんじつめていった最後のところ。副詞的にも用いる。結局。畢竟(ひっきょう)。多く思わしくない結果である場合に用いる。 
【取】とり 寄席で最後に出演する者。真打。映画で最後に上映する呼び物の作品。 
【止矢】とめや 最後に射る矢。最後にとどめを刺すための矢。 
奈落の底 仏語。地獄の底。底の知れない深いところ。どん底。物事の最終。最後の最後。 
【落ちる・堕ちる・墜ちる】おちる あちこち回って最後に行き着く。
 
【納会】 ある事を終えてその事のしめくくりとして催す会。その年の最後にしめくくりとして催す会。取引市場で当限(とうぎり)の取引の最終立会日。その月の最後の立会日。12月の場合は特に大納会という。 
オメガ(ギリシアomega) (アルファベットの最後の字であるところから)最終のもの。究極のもの。 
【白鳥の歌】 死に瀕した白鳥がうたうという歌。その時もっとも美しくうたうと伝えられる。ある人の最後に作った詩歌、歌曲など。 
【限】かぎり 時間的限界に到達すること。最後。おわり。 
限りの旅(たび) 二度と出かけることのない旅。最後の旅。 
【最後身】さいごしん 仏語。流転輪廻の生死がたちきられる最後の身。修行が完成して仏果に至ろうとする阿羅漢、または等覚の菩薩の身。最後の身(しん)。 
【最後通牒】 国家間の友好的な外交交渉を打ち切り、最終的な要求を提示し、一定期限内にそれが受け入れられなければ実力行使をする旨を述べた外交文書。 
【舞納】まいおさめ 舞い終えること。最後の舞を舞うこと。最後の舞。 
【最後屁】さいごべ 鼬(いたち)が追いつめられた時、身を防ぐために尻から放つ悪臭。せっぱ詰まった時、苦しまぎれに考える手段。窮余の一策。 
【三番太鼓】 時刻を知らせて打つ太鼓。また、その音。江戸時代、大坂新町の遊郭で大門を閉じる合図に打った太鼓のうち、最後の太鼓。その時刻は寛永末までは四つ(午後一〇時頃)、宝永頃は八つ過ぎ(午前二時頃)であったといわれている。限りの太鼓。 
【三番茶】 二番茶を摘み取った後に出た新芽でつくった茶。最後の茶摘みのもので、味、香ともに劣る。 
【詰手】 一定の場所に詰めて働く人や兵士。戦いや勝負などの最後の段階で、相手に勝つためにとる手段。 
【後書】あとがき 手紙、文書、著述などの最後に書き添える文章。奥書。跋(ばつ)。 
【帳尻】 帳簿、帳面の記載の終わり。帳簿の最後にしるす収入支出の最終的計算。帳簿の決算の結果。つじつま。 
【下】げ 価値が低いこと。劣ること。下等。書物、文の章段、演劇の場面など二つまたは三つに分けたものの最後のもの。「下の巻」 
血の余(あま)り (両親の最後の血でできた子の意)末っ子。
 
【黒川】 謡曲、奥州の黒川遠江守は会津豊前守と戦って敗れ、最後の決戦の前夜、八幡大菩薩の霊夢をうけ、家宝の太刀を焼いて泰山府君(たいざんぶくん)をまつる。翌日黒川勢は泰山府君の力添えで会津方を破る。廃曲。 
壇ノ浦の戦い 寿永四年三月二四日壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は源義経の率いる源氏の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼と共に入水し、知盛ら一族の多くは戦死、宗盛・建礼門院らは生捕りとなり、平氏は滅亡した。 
【像法】ぞうぼう(「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。 
詮の詰(つ)まり とどのつまり。あげくのはて。結局。最後。せとぎわ。 
【捨仮名】すてがな 他の読み方をされるおそれのある漢字の読みの最後の一字をかたかなで、その漢字の下に小さく添えたもの。これによって、その場合の読み方をはっきりさせる。「様ン(さん)」「二人リ(ふたり)」の類。 
【末娘】 最後に生まれた女子。 
【終筆】しゅうひつ 書道で、一字を書き終えるときの、最後の筆。書きおさめの筆。 
【終発】 最後に出発すること。その日の最終に発車する汽車、電車など。 
【十二月】 一年の最後の月。年の終わりの月。師走(しわす)。極月(ごくげつ)。 
【割台詞・割白】わりぜりふ 歌舞伎で一つの台詞(せりふ)を幾人かに分けて言うこと。歌舞伎で、二人の役者がそれぞれ本舞台と花道などにいて、思い思いの台詞を交互に述べ、最後の一句を同音に述べること。 
【別霜】わかれじも 晩春の頃、その年前半の最後に降りる霜。忘れ霜。別れの霜。 
【論議・論義】 能の構成部分の一つ。問答形式の部分で、地謡もしくはワキやツレとシテが掛け合いで謡う。原則として中入前か一曲の最後の地謡の前にはいる。 
【流通分】るずうぶん 仏語。経典を解釈するとき、全体を三分した最後の部分。その経典を広く後世に流布させるため弟子に与えられたことを記した結びの部分。
 
【至極】しごく 最後にたどりついたところ。また、そこに到達すること。頂点に達すること。 
運の尽(つ)き 人の命運が尽きて最後の時が来たこと。また、そのことを事実として示しているような事柄。 
仍って件(くだん)の如し 「そこで前記記載の通りである」の意で、書状、証文などの最後に書き記す語句。 
【湯の子・湯の粉】 茶の湯で、会席の最後に出す湯桶の湯にはいっているかき餅やおこげ。 
【行き着く】 資力・気力・精力などが最後のところにくる。いきつく。 
【遺教】ゆいきょう 仏語。釈迦が最後に説きのこした教え。また、総じて仏の教えをいう。遺法(ゆいほう)。 
【遣り残す】 仕事などを、最後までやり通さないで、中途でやめて残す。中途はんぱでやめてしまう。しのこす。 
【遣り遂げる】 最後までやり通す。しとげる。完成する。 
【遣り切る】 最後までし遂げる。やりとげる。 
カタストロフィー(英catastrophe) 物事の悲劇的な結末。破局。演劇、小説などの最後の場面。終幕。大詰。 
【見果】みはて 見ることの最後。見おさめ。限界まで見きわめること。 
見始めの見納(みおさ)め 初めて見て、しかもそれを見ることの最後でもあること。二度と見ることのないこと。 
【見届ける】 事のなりゆきを最後まで見きわめる。終わりまで確かめる。「最期を見届ける」 
【見極める】 最後まで見とどける。つきとめる。 
【見切る】 最後まで見る。見終わる。見果てる。 
【見納・見収】みおさめ これを限りと見ること。見るのが最後となること。「この世の見おさめ」 
【末路】 道の終わり。道のすえ。人の一生のすえ。生涯の最後。晩年。「悪人の末路」 
【末法】まっぽう 仏語。三時の一つ。釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期で、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期とされ、一万年の間とする。日本では正法・像法各千年の後、永承七年に末法にはいったとする。末法時。 
【末日】 一定期間の終わりの日。最後の日。
 
【最後っ屁】さいごっぺ 「さいごべ(最後屁)」の変化した語。「鼬(いたち)のさいごっぺ」 
【坊主捲】ぼうずめくり 百人一首の歌ガルタで行う遊戯の一つ。百人一首の読札は官人・姫・僧(坊主)に大別されるが、それら一〇〇枚を裏返しに重ねて一枚ずつめくって各自手元に積み、姫をめくった者は自分の手元に積んだ札を場に出し、僧をめくった者は場の札全部を引き取って、最後に手元の取札の少ない者を勝ちとする。 
【弁当納】べんとうおさめ 昔、京都で、一年の最後の行楽をいう。東山の東福寺では、陰暦10月17日、明治以後は11月17日(現在は10月17日)に開山忌が行われるが、そのころ山内の通天橋付近の紅葉が見頃となり、人々は酒食を携えてここに遊び、年中の行楽の納めとした。 
【振り切る】 後から追いあげてくるものを、最後まで追いつかせない。 
【踏み止まる・踏み留まる】 危険な場所・場面などで、他人が去った後もなお、その場所に残ってがんばる。「最後まで踏み止まる」 
【不備】 文意のととのわない意で、手紙文の最後に添えることば。不具。不宣。 
百里を行く者は九十を半(なかば)とす (「戦国策‐秦策・武王」から)一〇〇里の道を行く者は、九〇里を半分と心得なければならない。何事も終わりの少しの所が最も困難であるから、九分どおりの所を半分と心得て、最後まで緊張して努力することが肝要である。 
【一通】ひととおり 一度通ること。さっと通り過ぎること。最初から最後までざっと行うこと。一回順を追うこと。あらまし。ひとわたり。いちおう。 
【畢竟ず】ひっきょうず 考えを最後のところまで押しつめる。物事に一つの結論を出す。 
【引際】ひけぎわ 取引市場で、最後の立会いである大引(おおびけ)に近い時刻。 
【引き切る・挽き切る】 最後まで引く。十分にひっぱる。 
【張り通す】 (主張、意志、意地などを)最後までつらぬく。 
【針口】 和裁で、運針のとき、最後に留める針の穴。また、その場所。  
 
【婆抜】ばばぬき トランプ‐ゲームの一種。手札に同位札二枚の組み合わせができれば場に捨てていき、最後までばば(普通はジョーカー)を持っていた人が負ける。 
【五更】ごこう 一夜を五分した最後の時刻。現在の午前三時から五時まで。また、午前四時から六時までとも。寅の刻。戊夜(ぼや)。五声。 
【乗り切る】 乗ったままで最後まで行く。船などに乗って越える。 
残り物に福あり 人が先に取って残したもの、または最後に残った物に思わぬ利得がある。 
【残楽】のこりがく 雅楽の管弦の特殊な演奏法。最初の一返は全員演奏、二返目の初めは各管の音頭と両弦、やがて笙(しょう)の音頭が抜け、しばらくして笛が去り、三返目には両弦の間をぬって篳篥(ひちりき)が時々流れ、最後は箏の手で終わる演奏法。 
【名残狂言】なごりきょうげん 役者がその地を離れようとするときや引退しようとするときに演じる最後の歌舞伎狂言。秋九月が多い。 
【思い果つ】おもいはつ 最後まで愛したり、世話をしたりする。思い続ける。 
【取席】とりせき 寄席で、その日やその部の最後の高座。真打(しんうち)がつとめる。 
【乙矢】おとや 手に持った二本の矢のうちで、二番目に射る矢。 
乙矢御免(ごめん) 弓を射るのが上手な者が、貴人の前で弓を射る時に、最後の乙矢を射ることを免ぜられること。たとえば一〇本の矢のうち、九本まで命中した時、一〇本目の矢を射ないでも一〇本当たったと認められること。 
【止相場】 取引所で、各立会の最後の値引値段。大引値段。 
【止草】 田草取りで三番草を取った後、二〇目ぐらいに行う最後の草取り。 
【届ける】 最後までやり通す。 
【落とす・貶とす】 話などを、最後にある点にゆきつかせる。帰着させる。 
年の夜(よ) 大晦日の夜。一年の最後の夜。除夜。
 
【点睛】てんせい(「睛」はひとみ)動物を描いて、最後にひとみを描き入れること。 
【点炭】てんずみ(文字を書いて終わりに点をうつのに似た心持でするところからいう)茶道で、炉や風炉に炭を入れるとき、最後につぐ小形の炭。 
【弥終・弥果】いやはて いちばんあと。最後。 
【結末】けつまつ 最後のしめくくり。最終的な結果。終局。「悲しい結末を遂げる」 
【貫く】 はじめの気持や考えなどを変えることなく最後まで守る。「初志(愛)を貫く」 
【詰軍】つめいくさ 敵を一方に追いつめて戦うこと。敵を最後の所まで追いつめた戦い。 
【挙句・揚句】 連歌、連句の最後の七七の句。 
【詰】つまり 事件の展開する最後の段階では。はては。結局。とどのつまり。 
【尽目】つきめ だんだん減ったり衰えたりして最後に全く消滅しきってしまう時。 
【突き通す・吐き通す】 (吐通)最後まで言い張る。「うそを吐き通す」 
【付き従う・付き随う】 あとに付いて行く。供をする。また、他人の意のままになる。 
【落ち着く・落ち付く】 判断、議論、談などが、最後にある点にゆきつく。帰着する。 
ためらう(ためらふ) 心を静めて様子をうかがう。よくよく様子を見る。 
【納相場】 取引所で一年の最後の立会日における相場。 
【立ち通す】 最後まで立ったままでいる。立ち続ける。 
【繰上】 芝居で、せりふの調子を掛け合いでだんだんせり上げていく型。互いに「さあさあさあ」と詰めより、最後に一方が相手をきめつけること。 
【大納会】 取引市場で一年の最後の立会(たちあい)。例年一二月二八日が原則。 
【大団円】だいだんえん 小説、劇などの終わり、または最終のこと。特に、最後がめでたくおさまること。おおぎり。 
【大三災】だいさんさい 仏語。世界が壊滅する壊劫の最後に起こるという火災・水災・風災の三天災。火災には初禅天までが焼失し、水災には第二禅天も流失し、風災には第三禅天も破壊するという。
 
【蘇婆訶・薩婆訶】そわか (梵svDhDの音訳)仏語。真言や陀羅尼の最後に添えていうことばで、願いの成就を祈る秘語。いやさかの意で用いる。元来は良い供物の意。 
【奏事】そうじ 天皇に奏上すること。また、奏上した事柄。鎌倉時代、幕府の訴訟手続きの一つ。判決・訴訟手続きの過誤に対する救済手続きである覆勘・越訴・庭中に取り上げられなかった案件に対する最後の救済方法。 
【総押の備】そうおさえのそなえ 合戦で、全軍の最後に配置される部隊。 
【宣戦布告】 最後通牒により理由・条件を付して他国に対して戦争に訴える旨を宣言すること。特に、ハーグ条約の開戦規定による戦争開始の宣言。 
【煎じ詰める】 行きつくところまで考えをおしすすめる。考えを最後のところまで押し詰める。 
【絶筆】 書くことをやめること。かきおさめること。擱筆(かくひつ)。その人が生前、最後に書き残した筆跡や絵画など。 
【聖杯】 神聖な杯。キリストが最後の晩餐に用いた杯。 
【住み果つ】 最後まで住む。一生住み通す。永久に住み通す。 
【捨筆】すてふで 漢字を書くとき字画にないが最後に加える点のようなもの。たとえば「土」「中」を「扠」「儼」と書いた場合の「丶」のこと。 
【大回・大廻】おおまわし 俳諧で、最後の五文字が最初の五文字に接続した、意味の切れ目のない作り方。 
【末始終】すえしじゅう 最後。最終。「末始終はどうせろくな事はない」 
【切ねた】 寄席などで、芸人が最後に出す得意の芸。 
【遂行】 物事を最後までやりとおすこと。なしとげること。「職務の遂行」 
粋が身を食う 粋人ともてはやされたりしていると、遊興に深入りしすぎ、最後には身をほろぼすことになる。
 
【真打・心打】 落語・講談・義太夫・浪曲の寄席(よせ)の一座で、最後に出演する最もすぐれた者。落語家の最高の資格。 
真を打つ 寄席などで、最も芸のすぐれた者として、最後に高座にのぼって話をする。 
【尻巻・後巻】 最後。しんがり。しまき。 
【尻払・後払】 最後に残って処置すること。しんがりをつとめること。しっぱらい。 
【尻果・後果】しりはて 最後。いちばんうしろ。 
【尻括・後括】しりくくり  物事をきちんと最後までまとめあげること。後始末をちゃんとつけること。物事の結びをつけること。 
【除夜】 おおみそかの夜。一年の最後の晩。除夕(じょせき)。 
【序破急】じょはきゅう 雅楽の楽曲構成上の三区分。洋楽の楽章に相当する。「序」は最初の部分で、拍子にはまらないのが特徴。「破」は中間の部分で、音楽は拍子にはまるがゆるやかな速度で奏される。「急」は最後の部分で序や破にくらべると少し急テンポ。舞楽のときは、序は登場音楽で、破と急は舞の伴奏音楽となる。破は延拍子、急は早拍子で奏される。 
【終幕】 演劇の最後の一幕。 
【終尾】 物事の終末。最後の部分。おわり。 
【帰する】 結局ある一つのところに落ち着く。最後にはそこへ寄り集まってくる。帰着する。 
【終点】 いちばん終わりのところ。最終の地点。特に、列車・バスなどが、最後に行き着く停留所や駅。 
【帰結】(―する)いろいろな議論や行動などが最後におちつくこと。また、そのおちついた所。結着。帰着。 
【終章】 最後の章。 
【終極】 物事の最後。究極。 
観念の眼(まなこ) 観念を目にたとえていう語。観念の窓。(「観念の眼を閉じる」の形で)絶望的な状況にあきらめて目を閉じる、いよいよ最後であることを覚悟する意。
 
【貫通】 物事を最後まで続けること。また、筋道を正しく通すこと。 
寂は雨(あめ) 江戸時代、最後には死んでしまう運命にあること、また、先行きの見通しが暗いことの意をいう慣用句。 
【締備】しまりぞなえ 軍陣の最後を取り締まること。また、その隊。しんがり。 
【仕舞・終・了】 序列、順位、時間などの最後の部分。ものごとの最終。 
【為抜く・仕抜く】 最後までずっとする。「一生苦労をしぬいた」 
死に馬に鍼(はり) なんの効果もないことのたとえ。また、絶望と思っているものにも、もしやと期待して、最後の手段を講じてみるたとえにも用いる。 
【為遂げる・仕遂げる】 最後までする。やりおえる。成就する。しおおす。 
【為詰める・仕詰める】 最後までやりとおす。やりおおす。しどおす。 
【仕納】 それを終わりにすること。最後の仕事。 
【三役揃踏】 大相撲本場所の千秋楽で、最後の三番の取組みの前に東西の大関・関脇・小結にあたる力士が、東西別に各三人ずつ土俵に上がり、正面に向かって四股(しこ)を踏むこと。 
【三仏】さんぶつ 法身(ほっしん)・報身・応身の三身。現在賢劫四仏の前、過去荘厳劫の最後の三つの仏、毘婆尸・尸棄・毘舎婆のこと。 
【再臨】 キリスト教で昇天のイエス‐キリストが、再びこの世に現れること。そのときは、この世の終わりの日であり、人類すべての者が、最後の審判を受けるという。 
【最末】さいまつ 最も末であること。いちばんあと。最後。最尾。 
【最果】さいはて いちばん終わり。最後。最終。また、いちばんはずれのところ。「さいはての地(国)」 
【歳除】さいじょ (歳末の除日(じょじつ)の意)一年の最後の一日。大晦日。おおつごもり。除歳。 
【最終】 最も終わりであること。いちばん終わり。最後。
 
【行き着く】 事を続ける精力、資力等が最後のところにくる。いきづまる。 
【此切・是切】 物事を、これまでと終極的に限定し、あとを捨てる意を示す。これで終わり。これが最後。この場かぎり。これっきり。 
【五無間】ごむけん 仏語。八大地獄の最後にあたる無間地獄。また、その地獄の五種の相。「ごむけんごう(五無間業)」の略。 
【孤注】こちゅう(「孤」は一つ、「注」は投げ出してかけるの意)ばくちで、負け続けた者が、最後に所有金のすべてを出して勝負をすること。また、危険をおかすことのたとえ。 
腰が弱(よわ)い 粘り気がない。最初の力が最後まで続かない。 
【柿落】こけらおとし (新築、改築工事の最後に屋根や足組みなどの柿(こけら)1を払い落としたところから)新築または改築された劇場で行なわれる初めての興行。新築落成を祝う最初の興行。 
【乙子】おとね 月の最後の子(ね)の日。 
【言納】いいおさめ 今までたびたび言ってきたことを、それを最後として言うのをやめること。「小言の言いおさめ」 
【結論】 (―する)最終的に意見をまとめること。論じつめた結果、最後に決定した判断。「結論を持越す」 
【決着】 最後のさま。ぎりぎり。 
跡を絶(た)つ 主として男女が交渉を絶つ。特定の時期を最後としてそのことが起こらなくなる。 
【治・納・収】おさまり 物事が最後に落ち着くところ。結末。決着。また、うまく落ち着くように処置すること。 
件の如(ごと)し 前に述べたとおりである。前記記載のとおりである。書状、証文などの最後に書きしるす語句。多く「よって…くだんのごとし」の形で用いる。「如件」と書くことが多い。
 
【一通三下】いっつうさんげ 寺で法要の開始を知らせる太鼓の打ち方。初めは強く間をおいて打ち、しだいに弱く、小刻みにし、最後に強く三つ打つ。禅寺では、太鼓のほかに、三下板(さんげはん)、長板などを用いて、食時、上堂の合図にこの打ち方で打つ。 
【切前】 一日の興行の最後から一つ前の番。また、その演目。切狂言、切舞、切語り、真打などの始まる以前、またはそこに出演する芸人。 
【一息切断】いっそくせつだん 最後の息を引き取ること。息が絶えること。 
【切語】きりがたり 浄瑠璃などの寄席(よせ)でその日の最後の一番を語ること。また、その人。きり。 
【切回向】きりえこう 勤行の終わりにする回向。寒念仏のうち、最後の日の修行。寒明けの節分の日がそれにあたる。 
一生の別れ 一生涯再び会うことのできない最後の別れ。転じて、この世の別れ。死別。 
【極所】 ゆきつく最後のところ。はて。 
【大際】おおぎわ 年の最後。おおみそか。おおつごもり。おおどし。 
【究極・窮(キュウ)極】 物事をはてまできわめること。また、そのようにして最後に到達する所。「究極の目標」 
【一簣】いっき(「簣」は土を運ぶかごの類)一荷のもっこ。また、それに盛った土。わずかな量のたとえ。「九仞の功を一簣に欠く」 
一簣の功(こう) (「書経‐旅娉」の「為レ山九仞功虧二一簣一」から)最後のひと骨折り。完成直前の努力。 
【脚韻】きゃくいん 詩歌などの句末や行末に同じ響きの語を繰り返す押韻法。漢詩では、句の終わりにふむ韻。ヨーロッパの諸国語では、行末の最後の単語あるいは音節に同じ母音または同じ母音と子音を置くこと。 
【木守】きまぶりとり残された人。最後に残された人。 
【流す】 全力を出さないで、手を抜いたり、らくなやり方にしたりする。 
【一期限】いちごかぎり 一生の最後。臨終。
 
【至る・到る】 事柄をいくつかあげ、最後に、強調したいものとして、ある事柄を特にとりあげる表現。…ということになる。…に話が及ぶ。 
老いの入舞(いりまい) 老人になってから、最後の花を咲かせること。また、老後の安楽。「入舞」は、舞い終わって退場する直前に引き返して舞うこと。 
【聞納】ききおさめ 聞くことの最後。「今生の鐘の響きのききをさめ」 
【貫徹】 主義主張、方針などをつらぬきとおすこと。また、最初から最後までやりとおすこと。貫通。「意志(初志)を貫徹する」 
天地の歌(うた) 「天地の詞」の一字ずつを、第一字に、または、第一字と最後の字とに用いて作った和歌。 
【完遂】 完全に成し遂げること。最後までやり逐げること。 
絵の事は素(しろ)きを後(のち)にす (「論語‐八x」の「絵事後レ素」から)絵を描く時には、最後に白色を加え、彩りを引き立たせて絵を完成させる。 
余り物に福あり 人の残したもの、または最後に残ったものにかえって意外な利益や幸福がある。 
【仮名尻】かなじり いろは四十七文字の最後につける「京」の字。 
【開眼】かいげん(仏像の眼を開く意から) 新しい仏像、仏画を作り、最後に目を入れて魂を迎え入れること。また、その供養の法会。一般の木像、画像にもいい、転じて、一般的に物に魂をふき込むことをもいう。*続日本紀‐天平勝宝四年四月乙酉「廬舎那大仏像成、始開眼」 
【言い詰める】 最後のところまで言う。 
念仏の口止(くちど)め 一二月の一定の日にその年最後の念仏をすること。翌年の念仏の口明けまでは念仏を唱えない。 
【土壇場・土断場】 首斬りの刑を行う場所。首斬り場。しおきば。どだん。最後の決断をせまられる場面。せっぱつまった場合。進退きわまった場合 
【往しな】いにしな 行くとき。帰るとき。いきしな。死にぎわや、散りぎわなど、ものごとの最後の時期。
 
【押台】 丁重なもてなしの宴で最後の御馳走を盛って出す盛り台。 
【上馬・揚馬】あげうま 神事の際に競馬や騎射(うまゆみ)を行なうこと。また、その馬に乗る人。あげま。流鏑馬(やぶさめ)などの時に、いちばん最後に乗って走る馬。 
あれきり あの機会を最後として。あの時だけで。あの時以来。あれっきり。「あれっきり会わない」 
【大詰】演劇、戯曲の最終幕の意。大切り。大団円。物事の終末の段階。終局。「捜査が大詰を迎える」 
梅は花の兄菊は花の弟 その年最初に咲く梅花を兄として、最後に咲く菊花を弟としていう。 
【内何個】うちなんこ 碁石や小石などを握って差し出し、互いにその数を言いあてる遊戯。隠しだてしないさま。あけなんこ。 
【打止・打留】 芝居、相撲などの興行の終わり。打ちあげ。一般に物事の最後、終わり。 
【上】あがり すごろくやゲームで、札が最終の所にはいること。また、競馬でゴールまでの最後の三ハロン(六〇〇メートル)のこと。 
小馬の朝いさみ[朝駆け] 初めに力を入れすぎて、最後までいかないうちに疲れてしまうことのたとえ。 
【徹する】 物事の奥底までとおる。つらぬきとおる。考え方や態度などが最後まで変わらないでつらぬかれる。徹底する。 
【前晩】ぜんばん(「せんばん」とも)前日の晩。ゆうべ。昨夜。やぜん。よべ。前夜。昨晩。 
【晩ずる】 晩になる。日が暮れる。 
【晩御飯】 晩の食事。夕食。 
【晩】 夕方。夕暮れ。転じて、夜の意。「ばんめし(晩飯)」の略。 
【一夜】 日暮れから次の日の夜明けまで。ひと晩。ある晩。ある夜。また、先夜。一晩中。よもすがら。終夜。 
【放参】ほうさん 仏語。(禅宗で、晩の参禅から修行僧を解放すること。後に、晩参を放免する意)晩参を含むすべての行事を休むことをいうようになった。晩に看経(かんきん)すること。禅寺で、夜、経文を黙読すること。
 
【遅知恵・晩智慧】 子供の知恵の発達が普通より遅いこと。奥知恵。その場に間にあわず、あとになってから出てくる知恵。 
【朝晩】 朝と晩と。あさゆう。朝にも晩にも。あけくれ。いつも。 
昨日の夜(よる) 前の晩。昨夜。昨日の、前の晩。一昨夜。 
【前夜】 前の晩。昨夜。夜前。記念日、祭事など特定の日の前の晩。 
此の夜(よ) 昨夜。朝または昼に前の晩をいう場合。 
【叩菜】たたきな 菜を刻むこと。また、その菜。正月七日の七草粥に入れる菜。六日の晩にこの菜をたたく行事があるところからいう。 
【良宵】 気持のよい夜。晴れた、ながめのよい夜。また、めでたい晩。 
【夜中】よじゅう ひと晩中。夜どおし。終夜。 
【夜さ】よさ 夜。晩。夜さり。 
【宵越】 一夜を経ること。行為や状態が前日の晩からもちこすこと。また、そのもの。 
【闇の夜の】やみのよの 卻月のない晩は暗くて一寸先もわからないところから、「行く先知らず」にかかる。 
【明晩】 あすの晩。明夜。翌晩。 
【明夕】みょうせき 明日の夕方。明日の晩。 
【星月夜】 星の明るい晩。月が出ていないで、星だけが輝いている夜。星明りの夜。 
【三度三度】 食事に関して、一日の朝・昼・晩ごと。「三度三度の食事にこと欠く」 
【一晩】 晩方から朝方までの間。いちや。ひとよ。ある晩。ある夜。いちや。ひとよ。 
残火の茶会(ちゃかい) 前の晩に茶会のあったことを聞いて来た客に、早朝、残火2で催す茶会。残火会(え)。残火。
 
【日すがら・終日】ひすがら 朝から晩まで。終日。 
【日がな一日】一日中。終日。「日がな一日釣糸を垂れる」 
【小夜すがら】さよすがら 夜どおし。終夜。ひと晩中。 
【昨晩】 きのうの晩。ゆうべ。 
【晩食】 晩の食事。夕食。おそく食事をすること。また、その食事。 
【一夜】 日暮れから次の日の夜明けまで、ひと晩。終夜。ある夜。 
【晩方】ばんがた 夕方。暮れ方。日暮れどき。晩。 
【岡見】 (―する)民間習俗の一つ。大みそかの晩に、蓑を逆さに着て岡の上に登り、こずえ越しに自分の家を見ること。来年の運勢、吉凶、天候などがわかるという。 
【徹夜】 夜を徹すること。一晩じゅう。夜どおし。また、一晩じゅう寝ないでいること。徹宵。 
【小昼飯・小中(チュウ)飯】こちゅうはん(「こぢゅうはん」とも) 朝昼晩の三度以外の軽い食事。 
【突き当たる】 行きあってぶつかる。衝突する。ぶつかる。ゆきあたる。 
【朝暮】ちょうぼ 朝と晩。あさゆう。朝(ちょうほ)。朝晩の区別なく、いつも。あけくれ。 
【旦暮】たんぼ 朝と晩。あさゆう。朝夕(ちょうせき)。旦夕(たんせき)。朝から暮までの時間。わずかの間。ちょっとの間。朝夕を過ごすたくわえ。朝晩の食事。 
【旦夕】たんせき 朝と晩。朝夕。旦暮。つねづね。しじゅう。平生。 
【先晩】 先日の晩。数日前の夜。先夜。 
【前夕】ぜんせき 前日の夜。前夜。前晩。 
【晨夜】しんや 朝と夜。朝はやくから晩おそくまで。 
【尽日】じんじつ 朝から晩まで。一日中。終日。各月、または季節の末日。みそか。おおみそか。 
【晦朔】かいさく みそかと、ついたち。また、一か月間。朝と晩。また、一日間。 
【夙夜】しゅくや (―する)朝から晩まで同じようにすごすこと。終始かわらないでいること。 
【終日】 朝から晩まで。まる一日。ひねもす。
 
【一夜塩】 ひと晩、塩を振りかけておくこと。また、一夜だけ塩づけにした物。 
【異夜】ことよ 他の晩。他日の夜。ことよさ。 
【一夕話】いっせきわ ある晩に語った話。 
【晏起】あんき (「晏」は晩(おそ)いの意)朝、遅く起きること。朝寝。 
【晏駕】あんが (「あんか」とも。「晏」は、晩(おそ)い、「駕」は、乗り物の意。天子が死んでもう朝廷に来ないことを、いつもより遅いお出ましと表現したもの)天皇、上皇の死を忌んでいう語。崩御。 
運が蹲(つくば)う しあわせが終ろうとする。運が尽きる。 
運の尽き 人の命運が尽きて最後の時が来たこと。また、そのことを事実として示しているような事柄。 
楽しみ極まりて哀情(あいじょう)多し (漢武帝の「秋風辞」の詩の「歓楽極兮哀情多少壮幾時兮奈レ老何」から)=たのしみ(楽)尽きて悲しみ来たる 
楽しみ尽きて悲しみ来たる 楽しみも極度に達すると、かえって悲しみの気持が強くなる。楽しみは永久には続かない。 
【灰燼】かいじん(近世は「かいしん」とも)焼け尽きた灰と、燃えさし。また、焼け滅びること。*方丈記「七珍万宝さながら灰燼となりにき」 
灰燼に帰(き)す あとかたもなく燃え尽きる。 
【立ち消える】 炭火やろうそくなどが燃え尽きる。炭火やろうそくなどが、燃え尽きないで、途中で消える。 
気が尽(つ)きる 気力がなくなる。精根が尽きる。根気がなくなる。元気がなくなる。
 
【冥加】みょうが 仏語。冥々のうちに受ける神仏の加護。知らないうちに受ける神仏の恵み。また、偶然の幸いや利益を神仏の賜うものとしてもいう。身分、また職業を表す語の下に付けて自誓のことばとして用いる。その者として違約や悪事をしたら神仏の加護が尽きることがあっても仕方ないの意。 
冥加に余る 冥加を過分に受けて、まことにありがたい。しあわせすぎる。冥加に尽きる。 
【無尽蔵】 仏語。尽きることのない財宝を納める蔵(くら)。無限の功徳を有することをたとえていう。寺に設けられた庶民のための金融機関。信者の布施した財物を蓄えて貸し出したもの。取っても取っても尽きないこと。無限にあること。「無尽蔵の水資源」 
【切れる】 使ったり売れたりして、物が尽きる。ある定められた時間が尽きる。期限になる。 
【絶える】 さらに続くべきものの先がなくなる。尽きる。途中で消える。滅びる。 
【極る】きわる 尽きる。 
【荒む】すさむ 勢いが尽きてやむ。衰える。 
【性根】しょうこん 一つの事を長くやり続ける根気。「性根尽きはてる」 
【余光】 残っている光。灯火のもう少しで燃え尽きそうな光。日没後にもなお残っている光。 
【無尽灯】 仏語。一人が法を聞いて他を教導すれば、それが次々にひろがっていつまでも尽きないのを、一個の灯火が無数の灯火にひろがるのにたとえていった語。 
【死期】 命が尽きる時。臨終。また、命を捨てるべき時。しご。「死期が迫る」 
【無尽】 尽きることの無いこと。限りが無いこと。「縦横無尽」「無尽の興味」 
【命終】みょうじゅう 生命が終わること。定命が尽きること。死ぬこと。 
【死有】しう 仏語。四有の一つ。寿命が尽きて死のうとする瞬間をいう。 
【皆】 居合わすすべての人。また、あるもの全部。全部のもの。みんな。全部にわたってその状態であること。残らず。すべて。ことごとく。みんな。 
皆になる 全部なくなる。尽きる。消える。 
木っ端の火(ひ) (すぐ燃え尽きて火持ちがしないところから)はかないこと、たわいのないことのたとえ。
 
【忽諸】こっしょ たちまちに消滅すること。たちまち尽きること。 
【南無阿弥陀仏】 (梵namo mitDbhDya buddhDyaの音訳で、「帰命無量光覚」と訳す)仏語。阿弥陀仏に帰依することを表すことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。多く、感動詞的に用いる。なむあみだ。なんまいだぶつ。死ぬこと、物事の尽きること、終わることをいう。 
【枯渇・涸渇】 かわいて水分がなくなること。水がかれること。物が欠乏すること。乏しくなること。尽きて無くなること。 
【途方・十方】 方向。めあて。あてど。方針。方法。手段。すべ。すじみち。道理。 
途方に暮(く)れる 手段が尽きてぼんやりする。どうしてよいか手段に迷う。 
【談叢・談藪】だんそう 話の内容が広く尽きないこと。いろいろの話を集めたもの。叢談。 
俎上の魚(うお) (まないたの上の魚、の意から)相手のなすがままになるよりほかにない状態、運命の尽きたもののたとえ。 
【極まる・窮まる】 果てまで来る。終わりとなる。尽きる。 
【尽滅】じんめつ すっかり滅び尽きること。 
【尽期】じんご 物事が尽きる時期。際限。未来永却。永久。 
尽期の君(きみ) 未来永却変わるまいと堅く誓い合った愛人。 
【柵・轣zしがらみ 物事をせき止めるもの。引き止めるもの。 
【寒灰】かんかい 火が燃え尽きたあとの灰。つめたい灰。心の働きがなくなったさま。 
【切目】 尽きるとき。終わり。果て。「金の切れ目が縁の切れ目」 
【馬の爪】 卻馬の爪が、すり減って尽きてしまうほど遠い所という意から、「筑紫」にかかる。「筑紫」の「つく」には「尽く」の意もかけてある。 
【竭尽】けつじん 尽きること。なくなること。また、力を尽くすこと。 
【渓壑・谿壑】けいがく 深い谷。渓谷。(深い谷川の水は尽きることがないところから)欲が深くて飽くことを知らないことのたとえ。ひじょうに欲が深いこと。  
 
【喪中】 喪に服している期間。厳密には誰が亡くなったかで期間が異なり、一番長いのが親が亡くなった場合の12ヶ月(もしくは13ヶ月)を喪中とするのが一般的。祖父母の場合は3ヶ月と短くなり、例えば今年の1月に祖父が亡くなった場合は、4月には喪が明けるので年末の喪中ハガキは不要となる。
 
喪中のマナー 

 

喪中の場合は喪中ハガキを出し、新年の挨拶をご遠慮するのがしきたりだが、年賀状はもちろん、新年会や落成式、婚約発表や結婚式などに参加するのは控える。また、喪中に年を越す場合は、門松や注連飾り、鏡餅などの正月飾りや年始参りもしない。初詣として神社に参拝することも控える。喪中とは亡くなった方への礼儀として身を慎むことである。世間では年賀状だけ辞退し、新年会、初詣、お祝いの席へ参加している例が多くあるがマナー違反である。 
喪中と似たものに忌中(きちゅう)がある。仏教の忌日の考えに基き四十九日の忌明け前を忌中といい、喪中よりも更に身を慎む期間といえる。お歳暮やお中元が忌中にあたる場合は贈答はしないが、忌が明けた後は喪中であってもお中元お歳暮はしても差し支えがない。
 
喪中の新年の過ごし方 
一般的に正月飾り(鏡餅、門松、しめ縄など)、おせち料理、お屠蘇でのお祝いはせず、普段どおりに過ごす。故人の冥福をお祈りすることが大事なことである。「あけまして、おめでとう」新年のごあいさつはせず、神社や仏閣への初詣も控えた方がよい。
 
喪中の新年は仏閣へお参りしてはいけないの誤り 
喪中の人の神社・仏閣へのお参りで、神社は×お寺は○(神社とお寺を一緒に考えるのが大きな間違い)。「死」に対する考え方が神社とお寺では違うのである。神社は死をケガレと考え、お社(やしろ)の中での葬儀はできない(ケガレている間は鳥居をくぐることは許されない)。仏教では死はケガレではなく、お寺の本堂でも葬儀をする、初七日法要、四十九日法要もする。本堂にまつってある本尊に手を合わせてお参りをすることは、喪中であろうとなかろうと大切な方を亡くした後だからこそ大切なこととなる。お寺へのお参りは葬儀や法要だけでなく、根本的にお正月には旧年の感謝と新年のご挨拶が大切で、喪中でもお参りに行くへきである。 
喪中時の初詣について神社の場合、参拝は五十日祭を過ぎた忌明けから可の場合と、喪中期間中(半年〜1年)は不可という場合がある。神社は絶対に初詣がダメかというと、実はそうでないケースもある。神道では一般的に五十日祭を終えて忌明けになれば鳥居をくぐっていいと言われている。つまり没後五十日を過ぎれば神社へお参りしても可というわけだ。
 
喪中・忌中 (浄土真宗的) 
一般で語られる喪中・忌中 
宗教用語というのは、時代とともに変化することが多々ありますが、変化が「迷い」によって起こるものと、「覚り」によって純化・発展するものがある、という別には注意が必要となります。世間一般では上記の原因のうち「迷い」の比重が高く、「喪」もその例に漏れません。 
「喪」 
死亡した人を追悼する礼。特に、人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠り、身を慎むこと。親疎によってその期限に長短がある。わざわい。凶事。 
死んだ人の身内の人が、ある期間、他との公的な交際を避けること。 
人の死後、その親族が身を慎むこと。古くは喪屋にこもって別火の生活を送り、髪や髭も伸びるにまかせたという。喪は忌と服に分かれ、時代による変化を伴ないながらも近世まではきびしく守られてきた。元来は死者の魂の復活を願う強い気持ちから生まれたものと思われる。 
喪は「哭(なく)+口二つ+亡(死んでいなくなる)」をあわせた会意文字で、死人を送って口々に泣くことを示す。ばらばらに離散する意を含み、相(二つにわかれる)と同系のことば。また、疏[ソ](ばらばらになる)はその語尾の縮まったことば。 
喪中は「喪に服している期間」。 
「忌」 
いみはばかること。きらい避けること。「忌避・禁忌」。忌中は近親に死者があって、忌にこもる期間。特に死後49日。 
親族などの死後、晴れがましい場に出ることなどをつつしんでいること。忌中はその家のだれかが死んで、家人が慎んでいる期間。[普通四十九日ないし三十五日間で服喪期間は終わるが、次に迎える正月は欠礼する慣行になっている] 
己[キ]は、はっと目だって注意を引く目じるしの形で起(はっとたつ)の源字。忌は「心+[音符]己」の会意兼形成文字で、心中にはっと抵抗が起きて、すなおに受け入れないこと。 
 
などというように、死を嫌い、死を避ける感情をそのまま是とし、結果として、晴れやかな行事に参加することを開催側が避けさせ、遺族はその意を受けて、一定期間世間に出ることを避けさせられ、家に籠らされていたのです。 
これは「中有」(死の瞬間から次の生を受けるまでの中間の時期)の思想と相まってより強固な儀礼となりました。ちなみにこれは正統な仏教思想ではなく、むしろカースト制度や外道思想を批判した中で引用されているのですが、後の人たちが批判精神を受け継がず、霊の概念を固定化・実体化し、霊魂として既成事実のように受けとってしまったために起こった誤りで、今もその悪影響が払拭されていません。
「忌」と「喪」の違い 
「忌」:平安時代に定めた「延喜式の細目」に、「死の穢は49日」と規定している。家族の死の不浄を持つ者は、49日の間、外の人と接触してはならないと定め、この49日の間、社会的に色々な行動を慎む事を強制された間を「忌中」と言うのである。 
「喪」:自発的に故人のために、自分の行動を慎むことを「喪」と言う。喪中は、明治7年太政官布告の「服忌令」に、たとえば父母・夫は13ヶ月、妻は6ヶ月というように期間が定められたが、忌は必然とするが、喪に服さないからといって、社会的に制裁される事はない。 
との資料があります。平たく言えば、「忌」は強制、「喪」は自発的な慎みです。 
喪中や忌中が、上記の誤った思想に基いて行われたとき、果たして遺族は本当に心慰められ、生きる力を回復し、心豊かになれるのでしょうか。また周りの人たちは、この儀礼を通じて、遺族と新たな関係を築くことができるのでしょうか。 
現実問題として言えば、ある一定の効果は認めなければならないでしょう。親しい人の死を経験した親族などにとっては常日頃と同じ心境で居られるわけはなく、煩わしい世間の慣習等から一定期間解放されることができるので、その効果を無視することはできないからです。 
ただしこうした儀礼も、形ばかりが固定化し、生活を窮屈にしている面も否めません。さらに、儀礼の軸となる人生観や世界観が迷信に偏っていたり、周囲の人たちが消極的な姿勢で臨んだのでは、喪が「冷淡な遠慮」となる懸念があります。「死者を出した家人は一定期間、悩み悲しんでいなくてはいけない」という、ステレオタイプなレッテルを貼れば、その悲観的レッテルに遺族が支配され、周囲も悩みの解決に関して積極的になれない要因となってしまいます。 
これは、迷信と不勉強が招いた結果といえるでしょう。現状打破のためには、人々を縛る迷信を排除し、遺族の身心や日常生活の回復に周囲が積極的になる必要があります。さらに、死別の厳しい縁を仏縁の徳に転じ、求道の起点となるよう努力することが求められます。
覚りの眼で見た喪中・忌中 
浄土真宗は、親鸞聖人の姿勢に見習い、迷信排除の方向を示していて、これは他宗の追随を許さぬほど峻烈です。 
「正像末和讃」 悲歎述懐 
五濁増のしるしには  
この世の道俗ことごとく 
外儀は仏教のすがたにて 
内心外道を帰敬せり 
   かなしきかなや道俗の  
   良時・吉日えらばしめ  
   天神・地祇をあがめつつ  
   卜占祭祀つとめとす  
そこで、友引の葬式を避ける等の日柄を選ぶような習俗や、茶碗を割ったり清め塩を用いる習慣や、道理に外れた占いなどを信じる等、様々な迷信・俗信を批判してきました。なぜなら、「自灯明・法灯明」という尊い主体や普遍的道理を、迷信は蔑ろにし、生きる方向を見失わせてしまうからです。迷信の打破ということは、一朝一夕に成せるものではありませんが、普段の活動の積み重ねによって社会に広めていくことが大切なのでしょう。 
そうすると、「喪中」についてはどのように考えればよいのでしょう。喪中であっても年賀状を出してもいいのか、積極的に出すべきなのか、逆に世間一般に習って喪中葉書を出す方が良いのでしょうか。 
実は、喪中といいますのは、本来(元来ではない)、如来の本願を通して、ご逝去された方と新たな出会いを果たす期間であり、そのために、世間の慣習等を破っても大目に見ていただける期間であり、遺族に対する周りの優しさをあらわすものでした。いわば、宗教的継承期間と位置づけることができるでしょう。 
年賀状についていえば、「宗教的に重要な日々だから、年頭の挨拶を出すことができなくても仕方ない」と、周りから大目に見ていただける期間であるわけです。ですから、「喪中葉書を出す元気があるのなら、年賀状を出しても構わない」とも言えるでしょう。 
しかし仏教は、一理にかたよって全体を忘れてはならないことも教えます。理論と現実が遊離しては徳を得ることはできません。喪中の期間を有効に使い、ご逝去された方の遺徳を偲び、導かれ、如来の本願をより一層深く領解・体解させていただくというのは、とても重要な経験であるわけです。 
また、「普段の年と同じように年賀状を出す」ということは、如来と私の関係においては問題ありませんが、親戚や友人との関係においても同様かは、その人の普段の生き方や徳、つまり実績が問われていきます。つまり、「教義上問題ない」ということと、「現実に問題がない」ということは、関係はあっても、関係性の種類が違ってきます。専門用語で言いますと、「理事無礙法界」と「事事無礙法界」にあたり、ここで問われるのは「事事無礙法界」についてであり、親戚や友人の胸に私の姿がどう映っているか、ということを離れて答えを出すことはできません。喪中でも年賀状を出す状況にまで成っているのか、ということを鑑みる必要があるでしょう。 
そうすると「年賀状を出すか出さないか」に問題があるのではない、と分ります。出す意味はどこにあるのか、出さない意味はどこにあるのか、と問い、周りとの関係性の上に自分が育てられる事実をしっかり見極めて日日を重ねていく、ということが肝要なのでしょう。

 


  
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■「終」 諸話
 
藤原行成家族の葬送・追善仏事・忌日について
 

 

平安中期の代表的な政治家の一人であった藤原行成は妻・母親・外祖父の遺骨を川に流している。葬法そのものが非常に珍しいのだが、それにもまして重要なことは右の三人の出自はすべて源氏であって、藤原氏の行成が他氏の身でありながら三人の墓を喪失させていることである。本稿はこの問題を家族史の立場から考察した。 
はじめに
藤原行成の葬送・墓制に関する研究史を振り返れば、行成が妻や母親や外祖父を水葬したことが取り上げられるのが一般的であった(1)。水葬は当時でも珍しいことであったから、研究者が葬法に注目して行成を取り上げることは当然のことである。ところが、ここで注目しておきたいことは、行成が水葬に付した家族成員の内容である。妻は源泰清娘・母は源保光娘・外祖父は源保光である。3人に共通することは、源氏の出ということであるから、藤原氏の行成からすれば3人とも出自を異にしている。
平安時代の中期に出自を異にするということは、原則的に、墓地を異にすることを意味する。当時の原則的入な墓規定は、夫婦であっても婚姻関係に左右されることなく、「死者は父親の墓地へ入る」であって、夫と妻はそれぞれの父親の墓地へ葬られ、夫婦単位で墓地を形成する理念が確立していなかった。そのため、夫婦が出自を異にしていた場合は、妻は夫の墓地ではなく、父親の墓地へ入ったから夫婦は別墓地となった、藤原道隆(木幡)・高階貴子(桜本〉夫婦、藤原道長(木幡)・源倫子(仁和寺)夫婦、源師房(北白河)・藤原頼宗娘(木幡)夫婦、藤原忠実(木幡)・源師子(北白河)などはその事例である。したがって、夫が妻の墓を自由に動かすことはできなかった(2)。
ところで、行成は自己の近親者を水葬にしているのであるが、遺骨を水葬にするということは、恐らく墓を作らなかった可能性が強い。そうすると、藤原氏の行成が3人の源氏の墓を喪失させたことを意味している。つまり、他氏の人間が墓を左右しているのである。行成の葬制についてはこの事実にもっと注目すべきなのである。行成は明らかに有資格者とは思われないのに、他氏の妻と母と外祖父の遺骨を処分しているのである。これは何故であったのであろう。本稿では、平安時代の葬制・墓制からみるとやや例外的な行動がみられる行成を中心にして分析していきたい。 
 
1 父方の葬制と追善仏事
藤原行成の家族系図(3)とその葬送関連事項については次に示すとおりである。行成は父方の祖父が一条摂政伊尹であり名門の出である。そして、父方の祖母(恵子女王、醍醐天皇孫〉は、母方の祖父(源保光、醍醐天皇孫)とキョウダイであるから、父と母はイトコ同士であった。また、行成の妻の父親(源泰清)も醍醐大皇の孫であったから、彼の家族は醍醐源氏との深い関わりを有していることが特色である。

表1 藤原行成家族の没年・葬地・墓地・四十九日
                         // 年齢 / 葬地 / 墓地 / 49日
祖父 / 伊尹 / 天禄3年(972) / 11月1日没     // 49歳 / 天安寺 / / 法性寺
祖母 / 恵子女王 / 正暦3年(992) / 9月27日没   // ?歳 / 不明
外祖父 / 源保光 / 長徳元年(995) / 5月8日没   // 72歳 / 松前寺玉殿→水葬
外祖母 / 不明女
父 / 義孝 / 天延2年(974) / 9月16日没      // 21歳 / 不明 / / 桃園殿御堂
母 / 保光娘 / 長徳元年(995) / 1月29日没     //?歳 / 松前寺玉殿→水葬 /
本人 / 行成 / 万寿4年(1027) / 12月4日没    // 56歳 / 不明 / / 世尊寺
妻 / 源泰清娘 / 長保4 年(1002) / 10月16日没  // 27歳 / 鳥部野→水葬 / / 三条第
子 / 実経 / 寛徳2 年(1045) / 7月10日没     // 27歳 / 不明
子 / 良経 / 康平元年(1058) / 8月2日没     // ?歳 / 不明 
子 / 行経 / 永承5 年(1050) / 閏10月14日没   // 39歳 / 不明
子 / 女(長家妻) / 治安元年(l021) / 3月19日没 // 15歳? / 観隆寺玉殿 / / 世尊寺

図1 藤原行成家族系図   (省略)
図2 天延2年(974)義孝の四十九日に諷誦料を出した人々   (省略)

では、行成の家族成員の葬送と追善仏事について、父方の家族成員からみていきたい。まず祖父の伊尹である。伊尹は右大臣師輔の嫡男であり、天禄2年(971)太政大臣となったが、同3年8月に病気となり、11月1日49歳で死去した。翌日、遺体は葛野郡に所在した天安寺(清原夏野の山荘が寺とされた地)へ移された(4)。5日に同寺の艮の地で葬送が行われた(5)。恐らく火葬であったと想像されるが、詳細は不明である。墓地にっいてもはっきりしない。12月17日に四十九日の法事が法性寺で営まれた(6)。
2年後の天延2年(974)に当時流行していた疱瘡のために行成の父義孝がわずか21歳で死去した。9月16日の朝、兄の少将挙賢が亡くなり、その夕方には弟の義孝が亡くなったから、当時の人々は深く同情した。義孝の葬送と墓地の史料は残されていない。しかし、追善仏事については史料が残されているのでそれをみておきたい。
義孝の十四日、及び四十九日の法事が「桃園御堂(7)」で行われている。『大日本史料』天延2年閏10月3日条引用の「親信卿記」に「於桃園殿御堂、修故少将(義孝)七々日御法事、…出諷経所々、本家、太政大臣(藤原兼通)、殿北御方(恵子女王)、女御(藤原懐子)、左衛門督(源延光)、中宮大夫(藤原為光〉、左大弁(源保光〉、同北方(保光妻)、右兵衛佐(藤原親賢)、侍従(藤原義懐)、故少将少郎(行成)」とある。義孝の法事の諷経料を出した人々は、右の面々であるが、ここに記された人々が、死者にとって最も親しい親族・姻族であったと思われるので系図で示してみよう(『大日本史料』説では「本家」とされた人物に関しては人物名を記入していないが、この10人以外に諷誦料を出している人物は義孝の妻(保光娘)以外に考えられないであろう)。
これらの人々は、死者の父方のオジ、実母、キョウダイ、妻方の両親、オジ、そして妻と息子であったことが判明する。この中で、源延光がやや縁遠い人物のように感じられるが、源延光は義孝の母親恵子女王のキョウダイであり、また、妻の父親の保光のキョウダイでもある。義孝からは母方のオジであり、妻方のオジにも当たる人物である関係から延光が登場するのであろう。全体的な印象としては、父方と妻方のバランスの取れた関係であったと言えるであろう。
次に、行成が成人し、21歳の時に父方の祖母恵子女王が亡くなった。父親を早くに亡くした行成にとって、父方の祖母は常に彼を支援してくれる人物であったと考えられる。事実、行成が16歳で従五位上に昇進したのは恵子の年給によるものであった(8)。行成は父親を失いながら、元服後、比較的順調に昇進することができたのは、蔭ながら恵子が果たした助力によるものであったであろう。
恵子は正暦3年(992)9月27日に亡くなったが、恵子については『小右記目録』に死亡の事実が記録されているのみで、葬送・墓制・追善仏事いずれも史料が残されておらず、具体的な経過は全く知ることができない。したがって、行成のかかわり方も明らかにすることができない。
以上、行成の父方の主要な肉親である伊尹・恵子・義孝の3人についてみたが、父親の追善仏事を除けば、ほとんど史料が残されていないために、行成の父方の実態については残念ながら明らかにすることができない。 
 
2 母方の葬制と追善仏事
次に、母方の成員の葬送と追善仏事をみたい。行成の外祖父は代明親王の子源保光である。保光は長徳元年(995)5月8日72歳で亡くなった。行成は24歳であった。行成は父親を3歳の時に失ってから、母親とともに外祖父によって育てられた。保光は左大弁を勤めた知識人であり、後に行成も同様なコースを歩むが、彼は外祖父から単に養育のみならず学問に於いても多大な恩恵を受けたのである。したがって、保光は行成の実質的に父親代わりであった。
生前、保光は都の北方の地に松前寺(円明寺)を供養する、『権記』正暦3年(992)6月8日条に「被供養圓妙寺、卿相以下莫不会集」とある。この松前寺では、保光の娘であった藤原懐平の妻(行成の母の姉妹〉の一周忌の法事が翌年の4月16日に行われている(9)。また、同寺は保光一族の寺であったようで、長保元年(999)には、保光の兄の重光の一周忌の法事が行われている(10)。
さて、保光の葬送・墓地の検討をする前に、保光の娘っまり行成の母親について先に叙述しておかなければならない。というのは、外祖父(保光)が亡くなった年に、外祖父より先に母親(保光娘)が亡くなっているからである。行成の母親は1月29日に亡くなった。行成24歳。その時の史料は残されていないが、後年行成が外祖父と母親を改葬する際に回想した『権記』寛弘8年(1011)7月ll日の記事に「去正月廿九日先妣即世、…、先妣瞑目当于納言在世之日、納言在世之日納言素不許火葬、仍於件寺(松前寺)垣西之外、造玉殿安之、即是納言在平凵被行事」とある。母親が死去した時、葬送は実家で行われ、その父(保光)が葬送を執り行った。保光は、我が娘を火葬に付すことに耐えがたく、娘の遺体を松前寺(円明寺)に移送し、垣の西側に玉殿(霊殿)を造り、そこへ遺体を安置した。
これで理解されるように、保光娘の遺体の処遇は、死者の息子(24歳)が決定したのではなく、父親(72歳)が決定している。したがって、保光娘は実家の父親によって実家の娘として処遇され、実家の墓地(松前寺)に葬られたのである。
同じ年の5月9日、今度は外祖父の保光が亡くなった。これについても同書同日条に「同年五月九日納言又薨去、…、納言下世之時、又思遺言、同安御骸於北山幽閑之地、不得晨于今未改葬」とある。保光は遺言を残し、自分も娘と同じ寺(11)に玉殿を造らせた。『権記』には玉殿を造ったとは書かれていないが、「同安御骸」とあり、「不得晨于今未改葬」とあるから、保光の葬法は、娘と同じ方法での葬法を遺言し、将来は改葬しなければならない方法であったとあるから、それは玉殿の形態であったと解釈するのが妥当であろう。このようにして、保光とその娘は松前寺に別々に造られた玉殿に納められた。いわゆる父娘同墓地となったのである。
次に、行成の外祖母(保光妻)についてみると、彼女の出自にっいては記録が残されていないので人物を特定できない。ただ、『権記』には外祖母と思われる女性についての記述が見られる。保光が死去した3年後の長徳4年(998)3月20口条に「老尼御悩危急、自近衛殿告来、乍驚馳詣」とあり、4月2日条に「依病已危急、不能参入之由」とある。近衛殿に住む「老尼」がそれと推測される人物であり、彼女については『権記』に何度も記述されており、特に親しい人物であったようである。黒板伸夫氏は「行成の外祖母すなわち源保光室であろう(12)」といっている。支持すべき見解である。恐らく、彼女は保光が死去した後に出家し尼となっていたのであろう。外祖母とおぼしき老尼は3月から4月に重病となったが、『権記』は5〜6月の間が欠けているため、その後の消息については分からない。
母方の家族成員は、行成が成人後に死去したこともあって、外祖母を除き、外祖父・母親の葬送の事情がかなり明らかになる。 
 
3 妻方の葬制と追善仏事
次に、行成の妻とその親族についての葬送の史料をみていきたい。まず、妻の父親の源泰清であるが、彼は長保元年(999)4月11日に死去している。行成28歳である。葬送の史料はほとんど残されていないので、特に云々することはない。
次に、長保4年(1002)10月16日、行成の妻である泰清娘が亡くなった。行成31歳。妻は7人目の子供を妊娠しており、10月10日頃から赤痢を患っていた。14日に無事女児を出産したが、16日に生まれたばかりの女児は没し、母親も瀕死の状態になり、出家させ仏の加護にすがった。しかし、夜中の2時ごろ息を引き取った。『権記』に「丑剋気漸絶、年廿七、悲働之極何事如之」とある。行成は18歳の時に妻と結婚し、14年間で7人の子供をもうけ、内3人が夭折したという。
葬送は、早くも翌日の17日行われた。同記に「此夕葬送于鳥部野」とあって、場所は鳥部野であった。遺体は火葬に付された。18日に「寅剋許自葬送處向白川、流亡者骨粉、釈貞持之、順闍梨加持光明真言、雖往生之菩提、愁憂無極」とある。葬送の翌日、行成は妻の遺骨を鳥部野から白川に運び、そこから川に流した(なお、夭折した子供の処遇ははっきりしない)。
ところで、筆者の調査によれば、この時代の妻の葬送の主催者は、
(1) 実家の父親が生存している場合は父親
(2) 実家の父親が死去している場合は夫もしくは子供
(3) 実家の父親・夫が死去し、子供のいない場合は実家の血縁者
であったようである。いずれの場合であっても、最終的に墓。は妻の実家に作られのが原則であったと考えられる。行成の妻の葬送は、実家の父親はすでに死去しているから、夫の行成が主催して執り行っているのである。通常ならぼ、遺体を火葬した後、遺骨を妻方の墓地へ移送し、そこに墓が作られるはずである。しかし、行成はどういう訳か妻の遺骨を川に流し去っている。
12月4日には、妻の四十九日の法要が行われた。法要には藤原有国・藤原高遠・藤原兼隆・平親信などが出席しているが、妻の実家の血縁者らしい人物は記録されていない(13)。残念ながら、行成は法要の行われた場所を記録していないので、その性格を知ることはできない。続いて、一周忌の記録をみると、翌年(長保5年)の10月15日に法要が行われている。場所は「三条」と書かれてあるから、三条邸で行われたのであろう。この三条邸とは黒板氏の考察によって、行成妻の自宅と考えられる(14)。そうすると、一周忌の場所は妻の家の三条邸であったことになる。また、16日は正日であるが、『権記』には「諷誦愛宕寺、以泰助為代令斎」と記している。愛宕寺は妻方に関連する寺であったのであろう。
このようにみてくると、行成妻の葬送の性格は複雑である、行成は夫として妻の葬送を行い、水葬という当時では非常に珍しい葬送を採用し、遺骨を流し去っている。妻の遺体を、夫の意志で処分しているから、夫の主導性が強い印象である。しかし、−t一方で妻の一周忌は妻の自宅と寺で行われているから、必ずしも夫主導の性格が強いとばかりはいえない面も見受けられる。行成妻の葬送と追善仏事には、夫の主導性と妻方の地位の尊重の両面性がみられる。
次に、寛弘7年(1010)4月5日、源泰清の妻(行成妻の母親〉が62歳で死去した。行成39歳遺体は11日に山寺に移送され、16日に葬送(15)が行われているが詳細は不明である。
続いて、5月24日彼女の四十九日の法事が世尊寺で行われている。翌年の4月5日には同じく世尊寺で一周忌の法要が行われている。この時、行成は『権記』に「還到世尊寺、令修故京兆(泰清)室家尼周閼法事、則孝朝臣行事、只請七僧」と記している。これによれば泰清妻の法要は、世尊寺で則孝という人物が中心になり執り行われている。この則孝とは源則孝(宇多源氏時中の子〉のことで、行成の家司であった人物である(16)。したがって、一周忌の法要は行成が主催しているのである。
とすると、泰清妻に対する処遇はさまざまな問題点を含んでいる。というのは泰清妻は、行成からみれば妻の母親であり、直接的には血縁関係はない。それ故、葬送を始め、四十九日の法要や一周忌の法要などは全て泰清妻の実家の責任で執り行われるべきものであって、婿の行成が為すべきことではない。ところが、四十九日の法要が婿側の寺院である世尊寺で開催され、一周忌の法事も婿側の寺院である世尊寺で開催され、しかも婿の行成が主催しているのである。ここには、追善仏事や寺院を厳格な系譜観念に則って取り扱う理念がみられず、極めて流動的で、その場に即してどうにでも対応できる観念があったのではないかと推測される。
以上のように、行成は妻方の葬送・追善仏事に深く関与している実態が理解できるであろう。 
 
4 子供の葬送と追善仏事
行成には2度目の妻との間に娘がいた。娘は12歳の頃の寛仁2年(1018)に藤原道長の子長家と結婚した。娘は病弱な体質であったようで、3年後の治安元年(1021)の春から夏にかけて疫病が流行した際、罹病し早世した(1η。行成50歳。『小右記』によれば、3月19日の明け方のことであった。夫の長家はわずか17歳であった。この頃、若い夫婦は妻方に居住していた時代であったから、妻の父(行成)や母(源泰清娘)が死者を見守った。姻戚関係にあたる長家の実父(道長)や実母(源明子)は手紙で連絡はするが、息子の妻の死の席に参集することはなかった(18)。
葬送については、『更級日記』の傍注に「権大納言記、三月十九日、卯刻、病者気絶、悲嘆之甚不知所為、四月九日斂観隆寺北地」とあり、4月9日であったようである。一方、『栄花物語』(巻第16)には「(死亡の日から)7日8日ばかりありて北山なる所に、霊屋という物造りて、ようさり率て出て奉らんとて、つとめてよりこの御急ぎをそそのかせ給ふ」とあり、遺体を北山の地に造った玉殿に安置したのは3月の26日か27日であった書きぶりである。
双方の史料を検討すると、『権大納言記』の筆者は死者の実父の行成である。したがって、同記の記述内容は最も信頼できるから、行成娘の葬送は4月9日に行われ、遺体は観隆寺(19)の北辺に造られた玉殿という建造物に安置されたと考えるのが妥当である(20)。
『栄花物語』によれば、遺体を北山に送り出す時、夫の長家は霊柩車のお供に付くことを当然としたが、その口は父親の道長が忌の目であった故に、舅の行成が強いて押し止め(父親が忌の日で息子に支障が出るという根拠は不明)、北山には行成がお供として行ったという。その時、行成は北山にさまざまな調度品を運び入れたとあるから、それらは葬送の場の飾り物として設置されたのであろう。
追善仏事は、中陰仏事が2度行われておD、周忌仏事にっいては明らかでない。『栄花物語』(巻第16)に「かくて日来過ぎぬれば、御法事は世尊寺にてせさせ給ふ。中将殿(長家)の御方より、ようつおぼし急ぎたり。御正日は殿(行成)にて経仏など申しあげさせ給ふ」とある。これによれば、四十九日の法事の場所は2度とも妻方の寺院である世尊寺で行われている。『栄花物語』の記述で興味深いことは、最初に行った御法事の方は死者の夫である長家が万事の準備をし、正日の法事は死者の父親の行成が中心になって挙行されていることである。
行成娘の玉殿が造られた観隆寺は詳細がはっきりしないが、道長方の寺院ではないので、妻方の行成方の寺院であったであろう。とすると、行成娘は父親(行成)が生存中に死去したから、実家の父親によって葬送され、父親の用意した観隆寺の玉殿に安置されたのである。
これは、かつて、外祖父(保光)が我が娘(行成母〉を婚家先ではなく自分の寺に収容したのと同じ行動をとっているのである。つまり、女性は原則的には実家の墓地に収容されるのがこの時代の慣行であったからである(なお、玉殿に納められた遺体がその後どうなったのかについては明らかでない)。 
 
5 行成の忌日
以上の考察で明らかになったように、行成は自分の娘に対しては、その死の処遇を婿の長家(道長方)にゆだねることなく、父親として対応している。これは、娘を父方で処遇しているから父系観念に基づいていると解釈できる。その一方で、行成の妻方に対する関わり方をみると、父系系譜に基づいた理念が乏しく、彼は明確な親族意識に欠けるのではないかという印象さえ受ける。そこで、行成の親族意識の範疇を確認するために、彼がどの範囲の親族に対して忌日(命目)を守っているのかを調査し、彼の親族観の一端をみることにしよう。忌日は一搬に広範囲な親族の命円を守るのではなく、狭い範囲の肉親・姻族のそれを守る傾向がある。そこで、行成の祖父母・外祖父母・父母・妻の命日について、『権記』にどのように記述されているのか調査した(21)。
まず、祖父の伊尹についてである。伊尹の命日は11月1日である。『権記』に11月1日の記事は6ヵ年分が残されている、うち5ヵ年分については、他の記事が記述されているにもかかわらず、祖父の忌日に関する記事は何一つ残されていない。ただ、寛弘元年条には「依御物忌」という記事がある。忌日に「物忌」と記述することは、父親の長保元年条、妻の寛弘2年条の2ヶ所にみられるので、寛弘元年条の「御物忌」が祖父の忌日を守っている証拠と考えられなくもない。しかし、外祖父(保光)や父親(義孝)命日の記事と比較すれば、一目瞭然であるように、2人には「御忌日」「斎食」「諷誦料」などのように明らかに忌日を守っている記事内容がみられる。
しかし、伊尹の方には忌日を守っていると思われる記事が何一つ残されていない。したがって、寛弘元年条の「御物忌」は、長徳元年10月7日条、長徳3年5月24日条、同年12月10日条にみられる「御物忌」と同様に、忌日とは関係のない通常の物忌の記事であったと考えられる。そうすると、「権記」には祖父の忌日の記事は見当たらないから、彼は祖父の忌目は守っていなかったと考えられる(22)。
次に、祖母の恵子女王の命凵は正暦3年(992)9月27日である。恵子は、夫の死後2G年もの長きにわたって生存していた。恵子は花山天皇の外祖母であり、幼くして祖父・父を亡くしていた行成にとって恵子は最も親しい父方の肉親であった。その恵子の命日の9月27日の記事は11ヵ年分残されている。しかし、それらには孫の行成が忌日を守っている記事が全く残されていないので、行成は祖母の忌日を守っていなかったと判断される。
桃氏は「一般に忌日は尊属は父母に止まり、祖父母に及んでゐない(23)」と指摘しているが、この点は行成の場合も同様に祖父母の忌日を守っていない。
では、外祖父母をみていきたい。まず、外祖父の保光であるが、彼の命日は5月9日で、日記をみると、行成はきちんと忌日を守っていることが確認できる。特に長保2年条は「故中納言御忌日」とその旨が明記されている。
次に、外祖母については先に言及したように長徳4年の4〜5月頃に死去した可能性が強い。しかし、その後の『権記』を調査しても、外祖母の忌日を守っている記事は見当たらないので、行成は外祖母の忌日は守っていなかったと考えられる。っまり、行成は外祖父の命日のみを守り、外祖母の方は守っていなかったことになる。
次に、父母の忌日はどうであろうか。両親の命日に関しては、日記に明確であるように、問題なく共に忌日が守られている。そして、行成の妻(源泰清娘)は、長保4年(1002)10月16日に没しているが、その後4年連続して忌日の記事がみられるので、妻の忌日も守られていたと考えられる。
以上の調査結果をまとめると、行成は外祖父・父・母・妻の4人の命日を守っていたことが判明する。命日を守る対象とされる人物は、行成にとっては最も親しい人物であったことを示すから、行成にとって、外祖父と両親と妻が最も重要な人物であり、その中には祖父母は含まれていない。
ところで、行成の忌日で注目すべきことは、行成が父方の祖父の忌口を守らず母方の祖父の忌日を守っている事実である、桃氏は先にも見たように「一般に忌日は尊属は父母に止まり、祖父母に及んでゐない」と述べているが、氏の調査によれば、行成の同世代の人物である道長は父・母・姉(詮子〉、実資は祖父・祖母・父・母・妻・女児・実資乳母の忌冂を守っていると報告している(24)。
行成と外祖父の問題を考える上で参考となるのは、実資の事例である。実資は、行成と同じく父親を早くに失い、祖父の養子とされた。そのため、実資には養父母と実父母の2組の両親が存在した。桃氏が指摘するように、実資が実頼夫婦の忌凵を守ったのは、祖父母として守ったのではなく、養父母として守ったのであって、それが一見すると祖父母と父母の忌日を守ったかのごとくみえるのであろう。
行成の場合は、「外」祖父の忌日を何故守っているのであろう。それは、行成の幼年期をみれば分かるように、彼は誕生の年に祖父を失い、3歳の時に父親の義孝を失っている。それ以降、彼は母と共に外祖父の保光によって24歳まで育てられた。外祖父はあたかも実父のような存在であって、行成にとって義孝は生みの親、保光は育ての親という実態があった。したがって、行成は父方の家族の一員という意識より、母方の家族の一員という意識を濃厚に持って育った。そのため、行成にとって保光は特別な人間であり、このような行成の特殊事情が当時としては例外的な忌日の守り方として外祖父の忌日を守るという行動が生まれたのであろう。
しかし、どのような事情があれ、行成が「外」祖父の忌日を守るという行動は、父系の観念からは逸脱するものである。しかし、行成の行動には、原則的には父系の観念を中心とするという理念がありながら、その観念が強固ではなく、双系的な理念が一部に見られるというこの時代の特色をよく現している。
葬送における行成の妻方への関与の態度をみるとかなり広い範囲の親族観を保持していたと思われるが。忌日の実態からみると、行成の重要な親族の範囲は実は非常に狭いことが理解される。 
 
6 行成の親族意識
寛弘8年(1011)、40歳の行成は外祖父(源保光)と母親(保光娘)の改葬を思い立った。前述のように、2人の遺体は外祖父が建立した松前寺に玉殿を立てそこに安置されていた。改葬は安置された日から16年目のことであった。7月5日陰陽師の賀茂光栄に相談し、ll日に改葬をすることに決定した。夜の6時頃自宅を出発し、IO時頃に遺体の改葬に取りかかり、明け方に作業を終えている、翌日、取り集めた遺骨を焼き、灰とした。それを小桶に入れ、鴨川まで運び、川に投げ入れた。水葬を終えたのは朝の8時頃であったc25)。行成は、3年前に正妻(源泰清娘)を水葬にしていたが、今度は外祖父と母親を水葬にしたのである。
次に、行成自身は道長と同じ日に56歳で亡くなった。万寿4年(1027)12月4日のことであった。『栄花物語』(巻第30)によれば、両手で娘と息子の手を握ったまま息を引き取ったという。葬送は16日であった(26)。四十九日の法要は万寿5年(1028)1月22日世尊寺で行われた(27)。一
周忌の記録は残っていない。総じて、行成の葬送関係の記録はほとんどみられない。また墓地についても同様であり、行成の墓地は何処であったのか明確でない。
では最後に、行成の家族成員の葬送と追善仏事について総合的に考察しておきたい。行成家族では、家族で最も中心的な父系の家族成員である伊尹・義孝・行成の葬送・墓制の史料がほとんど残されていないという致命的な問題点が存在する。その点を承知した上で、以下の考察を進めたい。
葬制や追善仏事を家族という視点で分析すると、父系の家族成員は、あまり問題にならない。というのは、祖父・父・男子という父系の家族成員は原則的に父方の実家で葬送が行われ、法事も父方に関連する寺院で行われ、父方の実家に関運のある墓地に埋葬されるのが一般的である。つまり、葬送その他がすべて父方で行われる。
その点、妻となった女性の処遇は男性のように単純ではない。道長家族に関連する女性達を調査すると(28)、原則的に女性は実家で葬送され、実家に関連する寺院で法要が行われる。しかし、法要などが夫方で挙行されることがみられる。っまり、女性の場合は葬送その他が実家で行われる場合と、婚家先で行われる場合の2通りがある。これらの、道長家族の実態を念頭において、同世代の行成家族の葬送追善仏事を死亡順にみていこう。
まず、取り上げなければならない人物は、父親の義孝である。彼の葬送・墓地については明確でないが、四十九日の仏事は「桃園御堂」で行われている。この「桃園御堂」はそのその所有者が誰であったかによって、追善供養の性格が判断される。夫方の可能性もあり、妻方の可能性も考えられなくはない。残念ながら、筆者には桃園第の所有者を決めがたいので、義孝の仏事の性格を云々することはできない。
次に、行成母(義孝妻)は若くして夫を失った後、父親(保光)が健在でかっ長命であったから父親より先に死亡した。そこで、彼女の遺体の処遇はすべて父親の意志の下で決定され、遺体は父親の建立した松前寺の玉殿に安置された。既婚女性が自分の実家の主催による葬送を得て、実家の寺院を墓地としているから当時の典型的な慣行に則った形式であったといえよう、
次に、行成外祖父の保光は娘と同じ年に疫病に感染して死去した。遺体は保光本人の遺言によって、自らが建立した松前寺の玉殿に安置された。そこには娘の玉殿がすでに設けられていた。したがって、保光父娘は同墓地となった。
ところが、17年後に重大なことが発生した。保光父娘が安置されていた玉殿は、建物に遺体を収容する形式であったから永久的な施設であるとは認識されていなかった。いずれ時期が来れば改葬することが必要であった。通常、改葬は死者の父系の実家の血縁者によって、処置されていたと想定される。ところが、保光父娘の遺体は娘の子供である行成によって処置された。常識的に考えれば、母親の遺体を息子が処遇することは不白然とはいえないかもしれない。そこで、行成が主導して実母(保光娘)を水葬に処したことは不自然なことではないとしよう。
しかし、行成は外祖父の遺体をも主導して川に流している。いうまでもなく、行成の出自は「藤原」で、保光の出自は「源」である。保光には子供がいなかったのではなく、『尊卑分脈』には永光(年齢不詳)という子供がいたことが記録されている。また、保光には重光(大納言)という兄がおり、彼の一周忌が松前寺で行われたことは前にみたが、重光には通雅・長経・則理等の子供がいたのであるから(29)、保光一族は成員が欠如していたのではない。
にもかかわらず、行成は藤原氏の成員でありながら、源氏の成員の遺骨を処置しているから、この事実は、父系の観念では説明できないから双系の理念で解釈しなければならないであろう。つまり、行成は一方で義孝の子供として父方の藤原氏の成員権を持つ人物であり、もう一方で母方の源氏の準成員権を持つ人物として認識されていたのである。ただし、この双方に広がる成員権意識は、双方に平等であったとは考えられず、父方の出自意識が基本であり、母方への出自意識は付帯的であったと想定される。いずれにしても、出自原理を逸脱していると思われる行成の行為は、この時代では許容される範囲内であったのである。
次に、注目したいのは、正妻(源泰清娘)の葬送である。行成は長保4年(1002)に死去した妻を火葬に付した後、遺骨を川に流している。このような処置をしたのは行成の意志であったと考えられえる。とするならば、行成の行為は、道長家族の葬送のあり方と比べて特異である。というのは、道長家族に関係する妻達の場合、源倫子(仁和寺)、妍子(木幡)、威子(木幡)、嬉子(木幡)、藤原斉信娘(法住寺)達はいずれも父方の墓地に葬られており、妻の遺体を夫が主催して、墓地を決めたり、改葬したりしたという例は見出せないからである。妻は、本来実家である父方で葬送され、父方の墓地に埋葬されるのが原則である。したがって、「藤原氏」の行成が「源氏」の妻の遺体の最終的な処置をするなどということは、やはりこれも出自原理を逸脱しているとしか表現できない。
行成は、外祖父そして自分の妻に対して遺体の最終的な処置をするという、特異な行動を見せている。さらに、ここでもう一つの例をみておきたい。それは、妻の母親(源泰清妻、出自不明)に対してである。妻の母親は寛弘7年に死去し、葬送関係の史料は残されていないが、注目すべきことは彼女の四十九日の追善仏事は、婿の寺である世尊寺で行われていることである。さらに注目すべきは、彼女の一周忌の法要も娘婿の寺である世尊寺で行われ、それを娘婿の家司が取り計らっているのであるから、行成が主催しているのである。妻の追善仏事ならともかく、その母親の法要を、娘婿の寺で行うということは系譜の理念からいえば逸脱した行為と考えられる(30)。
妻の母親の死に対しては、婿として取らなければならない一定の約束事があったと考えられるが、ここまで深く関与することは常識的には考えられない。なぜなら、通常妻は出自を異にしておウ、その母親はさらに出自を異にしているから、世代がさかのぼるほど血縁性は遠ざかる。婿の行成が四十九日の寺を提供したり、一周忌の法要を主催したりする親族的な理由は見当たらない。それにもかかわらず、行成は妻の母親の法要に深く関与している。この行動もやはり特異な行動と考えられる。 
 
おわりに
葬送・追善供養・忌日における行成の行動を分析すると、外祖父・母親・妻の母親に対する態度に典型的に表れているように、彼には、父方・母方・妻方に対して自由な行動様式がみられ、父系観念が希薄なことが特色といえるであろう。行成の「家」は、父系制理念とはほど遠く、双系制的理念に基づいているというより、系譜的親疎の理念に左右されない極めて流動的な親族理念に基づいている。つまり、「家」が充分形成されていないと評価すべきであろう。 

(1)角田文衛「藤原行成の妻」(『角田文衛著作集』第6巻、法蔵館、1985年)270〜1頁、田中久夫『祖先祭祀の研究』(弘文堂、1978年)14〜6頁、朧谷寿「平安時代の公卿層の葬墓」(笠谷和比古編『公家と武家II−「家」の比較文明史的考察』思文閣出版、1999年)144頁。
(2) 栗原弘「平安時代の入墓規定と親族組織」(秋山国三先生追悼会編『京都地域史の研究』校倉書房、1991年)参照。
(3)家族系図は、『尊卑分脈』第2編、379〜82頁、黒板伸夫『藤原行成』(吉川弘文館、1994年)278〜9頁、北村章「一条朝四納言の研究ノート(3)」(『群馬女子短期大学紀要』第12号、1985年)48頁、角田、注(1)前掲論文、270〜1頁などを参考とした。
(4)『親信卿記』天禄3年11月2日条。
(5)『尊卑分脈』第1編、379頁。
(6)r日本紀略』天禄3年ユ2月/7日条。
(7)桃園第を妻方と解釈するか夫方とするかについては非常に困難な問題がある、同第は、王氏領の性格と藤原氏領の性格の両面性を内在している。高橋康夫氏は「世尊寺縁起」によって、保光が「桃園」を家号としたのは、あくまで娘と孫を養育するための寄住とし、彼は桃園第の所有者ではないとし、同第は伊尹→義孝→行成と相続されたと想定している(「桃園・世尊寺」朧谷寿・加納重文・高橋康夫編『平安京の邸第』〈望陵舎、1987年〉参照)。筆者は、保光の兄重光が、「一条北大宮東」に居住していたという『日本紀略』永観元年3月2日条からしても、この地区は王氏領であった可能性が強く、桃園第は恵子女王の婿伊尹、保光娘の婿義孝が2代にわたって一時的妻方居住した邸宅と推測したいが、この見解では行成が桃園第を世尊寺とした事実を充分説明できない欠陥がある。この点については見解を保留しておきたい。いずれにしても、桃園第(世尊寺)は源氏と藤原氏の双系的性格の入り混じった寺院であった。
(8)『公卿補任』万寿4年条。
(9)『小右記』正暦4年4月16日条。
(10)『権記』長保元年7月2日条。
(11)田中久夫氏は保光父娘の玉殿の位置について、娘は円明寺、父親は寂楽寺の北山としている(田中、注(1)前掲書、60頁)。これは明らかに誤りである。寂楽寺辺の墓地は村上源氏の具平親王の一族の墓地であり、保光は醍醐源氏であり彼が、そこを墓地とする根拠はない。また、『権記』に、「北舎代下、令季信朝臣、摺火於御棺、又到西倉代下、令輔忠朝臣邦祈并理義朝臣等措火」とあり、保光父娘の玉殿は松前寺の「北舎代下」と「西倉代下」の地に造られていたことが記されている。したがって、保光父娘の玉殿の場所はともに松前寺であったとすべきである。
(12)黒板、注(3)前掲書、73頁。
(13)『権記』長保4年ユ2月4日条。
(14)黒板伸夫「「藤原行成」の家政と生活基盤」(山中裕編「摂関時代と古記録」吉川弘文館、1991年)388〜93頁。
(15)『権記』寛弘7年4月5日、1]日、16El各条。
(16)黒板、注(10前掲論文、382頁。
(17)津本信博『更級日記の研究』(早稲田大学出版部、1982年>128頁。
(18)『栄花物語』巻第16。
(19)観隆寺については詳細不明。
(20)行成は、外祖父親娘が玉殿に安置されていた経験があるから、自分の子供が死去した際、玉殿に納めることを発想するのは自然の成り行きであったと考えられる。
(21)祖父 伊尹(天禄3年(972)11月1日没)長徳4年・長保元年・長保2年・長保3年・寛弘元年・寛弘4年各条。
祖父母 恵子女王(正暦3年(992)9月27日没)長徳元年・長徳4年・長保元年・長保2年・長保3年・寛弘元年・寛弘2年・寛弘3年・寛弘4年・寛弘5年・寛弘6年各条。
外祖父 源保光(長徳元年(995)5月9日没)長保2年・長保3年・長保4年・長保5年・長保6年・寛弘4年・寛弘8年各条。
外祖母 不詳
父親 義孝(天延2年(974)9月16日没)長徳元年・長保元年・長保2年・長保3年・長保4年・長保5年・寛弘元年・寛弘2年・寛弘5年・寛弘6年・寛弘8年各条。
母親 保光娘(長徳元年(995)1月29日没)長保2年・長保3年・長保4年・長保5年・寛弘3年・寛弘4年・寛弘5年・寛弘6年・寛弘7年・寛弘8年各条。
妻 源泰清娘(長保4年(1002)10月16日没)長保5年・寛弘元年・寛弘2年・寛弘3年・寛弘5年・寛弘8年(1011)各条。
(22)『公卿補任』長保3年条に「藤行成…故太政大臣(伊尹公)孫(但為子)」とあって、行成は祖父伊尹の養子となっていたとある。黒板伸夫氏はこの説を肯定し、「行成が伊尹の子として扱われたことは彼の官位昇進の状況からみても事実であると思う」(黒板、注(3)前掲書、7頁)といっている。行成は誕生が天禄3年であり、同年の11月1日に伊尹は死去している。行成の誕生後に伊尹が死去した可能性があり、行成養子説は成立しないわけではない。しかし、忌日の実態からすれば、『公卿補任』説は受け入れがたい。なぜなら、2人の間に養子関係があったならば、行成は実資のように養父として伊尹の忌日を守ならければならないはずである。しかし、行成は伊尹の忌日を守っておらず、これは2人の間に養子関係がなかったことを反映していると考えられるからである。
(23)桃裕行「忌日考」(『桃裕行著作集4 古記録の研究〔上〕』思文閣出版、1988年)222頁。
(24)桃、注前掲論文、217、221各頁。
(25)『権記』寛弘8年7月11〜2日条。
(26)『小右記』万寿4年12月16日条。
(27)『左経記』万寿5年1月22日条。
(28)別稿「藤原道長家族の葬送・墓制・追善仏事」(発表予定)参照。
(29)『尊卑分脈』第3篇、448〜9頁。
(30)行成の最初の妻が源泰清娘の娘であり、2番目の妻も同じく泰清の娘であるという説がある(『栄花物語』巻第14)。行成が妻の母親の法要に深く関与した理由にこのような事情があったのではないかと推測される。しかし、仮にそうであっても婿が妻の母親の法要を主催する理由にはならない。 
 
藤原道長家族の葬送について 

 

はじめに
家族という視点から、葬送と追善仏事を分析するとどのようなことが言えるのかという関心の下に、前稿において藤原行成家族の葬送と追善仏事について分析した(1)。本稿ではそれにつづいて同世代の人物である藤原道長家族を対象として取り上げより理解を深めることを目指したい。道長家族については言及すべきことが多いので、本稿では道長家族の葬送の基礎的な事実を明らかにしておきたい。 
 
1 道長・源倫子の祖父母・外祖母・父母の葬送
まず、道長と倫子の祖父母と外祖父母そして父母の葬送をみることにしたい。道長の祖父母(師輔・藤原盛子)についてみると、祖父の師輔は平安時代の政治家として重要な人物であるが、葬送に関する史料はみあたらない。一方、祖母の藤原盛子(父経邦、真作流)についても葬送の史料はみられない。
次に、外祖父母(藤原中正・不詳女)についてであるが、二人についても、葬送の史料は残されておらず、ここで検討することができない。次に、父母(兼家・藤原時姫)についてみていこう。兼家は正暦元年(990)7月2日東三条第(2)で死去した。62歳であった。兼家が死去すると、喪中の間、遺族は「東三条院の廊・渡殿を皆土殿にしつつ、宮・殿ばらおはします(3)」と、東三条院の渡り廊下の板敷きを取り除いて土間にしてそこに籠った。ただし、『大鏡』(兼通)によれば、子供の道兼は父兼家と何か確執があったのか、土殿に籠らず、夏の暑さにかこつけて、御簾も巻き上げて、念誦などもせず、人々をあつめ『古今和歌集』などを広げて、遊び戯れ、父親の死を少しも悲しまなかったという。しかし、道長や道綱は定めどおり、追善供養を営んだと伝えている。
兼家の葬送は7月9日に行われた(4)。場所は鳥部野の北辺であった。『本 朝世紀』に「摂政大臣葬送也、…鳥部野北辺也、七大寺并諸寺等、各唱念仏、依例弁少納言外記史、率史生左右史生官掌召使等、参彼葬送之山辺、献厨家酒肴、是故実也」とある。『古今著聞集』(巻第13)に、「法興院入道殿かくれさせ給て、御葬送の夜、山作所にて萬人騒動の事ありけり。町尻殿おどろかせ給て、御往反ありける。御堂殿は、すこしもさわがせ給はで、人々に尋きかせ給て、「馬のはなれたるにこそ」と仰られけり。」とあって、鳥部野の葬送の時何か騒ぎがあったことを伝えているが、詳しくは分からない。兼家の遺体は鳥部野で火葬に付され、遺骨は木幡へと運ばれた(5)。次に、兼家の妻時姫については葬送の記録は残されていない。

続柄 / 名前 / 没年 / 年齢 / 火葬地 / 墓地
祖父 / 師輔 / 天徳4年(960)5月4日 / 53歳
祖母 / 藤原盛子 / 天慶6年(943)9月12日 / / / 金龍寺?
外祖父 / 藤原中正
外祖母 / 不明
父 / 兼家 / 正暦元年(990)7月2日 / 62歳 / 鳥部野 / 木幡
母 / 時姫 / 天元3年(980)1月21日 / / / 木幡
本人 / 道長 / 万寿4年(1027)12月4日 / 62歳 / 鳥部野 / 木幡
正妻 / 源倫子 / 天喜元年(1053)6月11日 / 90歳 / 広隆寺乾原 / 仁和寺
妻祖父 / 敦実親王 / 康保4年(967)3月2日 / 75歳 / / 仁和寺
妻祖母 / 藤原時平娘
妻外祖父 / 藤原朝忠 / 康保3年(966)12月2日 / 57歳
妻外祖母 / 不明
妻父 / 源雅信 / 正暦4年(993)7月29日 / 74歳 / / 仁和寺
妻母 / 藤原穆子 / 長和5年(1016)7月26日 / 86歳 / / 観音寺霊屋
子供 / 頼通 / 承保元年(1074)2月2日 / 83歳 / 栗小馬山? / 木幡
子供 / 頼宗 / 治暦元年(1065)2月3日 / 73歳
子供 / 能信 / 治暦元年(1065)2月9日 / 71歳
子供 / 顕信(出家) / 万寿4年(1027)5月14日 / 34歳
子供 / 教通 / 承保2年(1075)9月25日 / 80歳
子供 / 長家 / 康平7年(1064)11月9日 / 60歳
子供 / 長信(出家)
子供 / 彰子 / 承保元年(1074)10月3日 / 87歳 / 大谷口本院
子供 / 妍子 / 万寿4年(1027)9月14日 / 34歳 / 大谷寺北 / 木幡
子供 / 威子 / 長元9年(1036)9月6日 / 38歳 / 園城寺北地
子供 / 嬉子 / 万寿2年(1025)8月5日 / 19歳 / 船岡西野 / 木幡
子供 / 盛子
子供 / 寛子 / 万寿2年(1025)7月9日 / / 岩陰
子供 / 尊子 / / 85歳?
子供 / 女
頼通妻 / 隆姫女王 / 寛治元年(1087)11月22日 / 93歳 / 鳥部野
頼宗妻 / 藤原伊周娘
能信妻 / 藤原伊周娘
教通妻 / 藤原公任娘 / 万寿元年(1024)1月6日 / 24歳 / / 木幡
長家妻 / 藤原行成娘 / 治安元年(1021)3月19日 / 15歳 / / 観隆寺霊屋
長家妻 / 藤原斉信娘 / 万寿2年(1025)8月29日 / / / 法住寺霊屋
彰子夫 / 一条天皇 / 寛弘8年(1011)6月22日 / 32歳 / 岩陰 / 円融寺
妍子夫 / 三条天皇 / 寛仁元年(1017)5月9日 / 42歳 / 船岡山 / 北山陵
威子夫 / 後一条天皇 / 長元9年(1036)4月17日 / 29歳 / 浄土寺西原 / 菩提樹院陵
嬉子夫 / 後朱雀天皇 / 寛徳2年(1045)1月18日 / 37歳 / 香隆寺乾原 / 円乗寺陵
盛子夫 / 三条天皇 / 寛仁元年(1017)5月9日 / 42歳 / 船岡山 / 北山陵
寛子夫 / 小一条院 / 永承6年(1051)1月8日 / 58歳
尊子夫 / 源師房 / 承保4年(1077)2月17日 / 70歳 / 雲林院? / 北白河

以上、道長の祖父母・外祖父母・父母六人の葬送についてみた。いずれも、史料不足で残念ながらその実
態については充分解明できない。
では次に、道長の妻源倫子の祖父母・外父母・父母の葬送についてみることにしよう(6)。まず、倫子の祖父母(敦実親王・藤原時平娘)と外祖父母(藤原朝忠・不詳女)の葬送に関してはいずれも史料が残っていない。
次に、倫子の父母(源雅信・藤原穆子)の世代をみていこう。父親の源雅信については葬送の史料は残されていない。一方、母親の穆子は実態がかなり明らかになる。
穆子は夫の雅信が死去(正暦4年〈993〉)した後、出家をして一条殿に住んで「一条尼上(7)」と呼ばれていたが、長和5年(1016)7月26日、86歳で死去した。遺言によってその夜に棺に入れられた。そして、8月1日遺体は東山の観音寺(8)に移された。同日条の『御堂関白記』に「今日一条尼上渡観音寺、是存生作置舎所也」とある。ここでいう「存生作置舎所」とは、6年前の寛弘7年(1010)9月29日条に「一条尼上観音寺作無常所、修小法事…女方(倫子)参堂、四面指廂」とある建物のことだと推測され、遺体を納めるためのいわゆる霊屋(9)のことであろう。つまり、穆子は生前に自らが霊屋を建ており、彼女の死後そこへ安置されたのである。
『栄花物語』(巻第12)によれば、穆子は、「あがみかどの御事始に、かくなりなむ事の、折しも口惜しき事。さはれ、さるべきやうにて暫は山寺に納め置かせ給へれ。雲煙とも、この世の大事の後に心安くさせ給へ」という遺言をしていたという。つまり、自分の死を自覚していた穆子は、この年の1月に即位したばかりの後一条天皇にはばかって、「自分の死の喪を秘し、適当な処置をして、当分は観音寺に遺体を納め、御禊や大嘗会の終った後に葬式をするように」という遺言であった。そこで、母親の意を汲んだ、娘の倫子は穆子の死去の後、葬式はせず、穆子自身が造っていた霊屋に一旦遺体を納め、時の過ぎるのを待つことにしたようである。
3年後の寛仁3年(1019)の9月頃に、倫子は母親の穆子を改葬したようで、『栄花物語』(巻第16)に「大殿の上、一条殿の尼上をば、観音寺といふ所にこそは斂め給ひしか、それをこの頃とかくし奉らせ給ひて後は、忌ませ給へば」とある。残念ながらこれ以上の史料はみあたらず、穆子の遺体は改葬の際どのような処遇を受けたのか、何処へ運ばれたのかなどについては知ることができない。 
 
2 道長夫婦の葬送
では次に、道長夫婦の葬送についてみていきたい。まず、道長は寛仁3年(1019)54歳で出家した。その年の7月には法成寺の建設に着手し、治安2年(1023)には金堂と五大堂が竣工し、彼は来世への準備を滞りなく完成させた。晩年、道長は多くの近親者の不幸に見舞われた。万寿2年(1025)には娘の寛子と嬉子が亡くなり、万寿4年(1027)には顕信と妍子を失った。同年10月28日に、妍子皇太后の四十九日の法事が法成寺で行われたが、心身が衰弱していた道長はその夜から床に伏した(10)。病勢は日を追って悪化した。
11月25日には、阿弥陀堂に移りそこに身を横たえた。12月2日の夜中は苦しみの余り、医師の但波忠明が呼ばれ、背中の腫れ物に針を刺して膿汁を出したところ、道長は「吟給声極苦気也者(11)」という状態であった。そして、4日には、立ててあった屏風の西側をあけ、手には蓮の糸から作られた村濃の組紐を九体の阿弥陀仏の手を通し、それが中尊仏より道長の手に渡された。道長は、多くの僧たちの読経の中、五色の糸を握り締めて、極楽浄土に思いをはせて亡くなった。62才であった。
お棺は道長が病気になった日から作られていたとあるから、誰の采配であったのか、道長が死去する前に造られており(12)、死去した翌日、入棺された。陰陽師を召し、葬送の諸行事を占わせた結果、葬送は7日の夜、場所は鳥部野と定められた(13)。『小右記』万寿4年12月7日条に「今夜前太政大臣禅閣於鳥戸野葬送」とあるように、葬送は夜に行われた。夕暮れに道長の御棺は車に乗せられ、法成寺から鳥部野に移送された。式場には七大寺・十五大寺の僧が来集し、導師は天台座主の院源であった(14)。同書によれば、葬礼に参集した卿相は大納言藤原斉信、前中納言藤原隆家、中納言藤原実成、権中納言藤原朝経、同源師房などであった。
葬送儀式の終了とともに遺体は荼毘に付された。翌日の夜明け方に、「殿ばら・さべき僧(15)」によって、骨が拾われそして瓶に入れられ、権左中弁藤原章信(元名の孫)が首に懸け、定基小僧都(前浄妙寺別当)が伴って遺骨は木幡に送られた。
次に、源倫子についてみたい。倫子は父方の資質(祖父75歳・父74歳)を受け継いでいた故か、当時としては破格の長命に恵まれ、天喜元年(1053)6月11日90歳で死去した。道長が死去してから26年後のことであった。15日に、藤原頼通によって漏刻博士が召され、入棺・葬送のことが決定され、その日の昼の12時頃から御棺が作られ、夜中の12時ごろに入棺された。葬送は22日に行われた。遺体は車に載せられ(推測)東洞院大路を北に進み、土御門大路を西に折れ、さらに一条大路を西に進み、西京を経て葬送の地へと運ばれた(16)。『大鏡』裏書によれば、そこは「広隆寺乾原」であった。
後年、藤原忠実の言談を記録した『中外抄』(61)に「我(忠実)、先年故殿(忠実の祖父師実)の御共に法輪寺に参りし時、小松の有りしに、馬を打ち寄せて手を懸けむとせしかば、故殿の仰せて云はく、「あれは鷹司殿(倫子)の御葬所なり。そもそも墓所には御骨を置く所なり。所放也。葬所は烏呼事なり。また骨をば祖先の置く所に置けば、子孫繁昌するなり。鷹司殿の骨をば雅信大臣の骨の所に置きて後、繁昌す」と云々」とある。これは、忠実が祖父の師実に連れられて嵐山の法輪寺へ行く途中に、広隆寺の近くで倫子の葬送の地を教えられたこと述べているのである。倫子が死去した天喜元年に、師実(倫子の孫)は12歳であり、祖母の葬式を記憶していたのであろう。倫子の遺体はそこで荼毘に付され、遺骨は実父源雅信の墓地のあった仁和寺の北に埋葬された(17)。 
 
3 道長の子供の葬送
本章では道長の子供の世代の葬送についてみていきたい。まず倫子腹の男子をみていこう。長男の頼通は晩年には宇治の平等院に住み、延久4年(1072)に出家し、承保元年(1074)2月2日83歳で没した。『百錬抄』同日条に「宇治前太政大臣薨。八十二御宇治」とあり、『扶桑略記』同日条に「宇治前大相府薨、年八十三」とある。いずれも非常に簡略な記述である。頼通は道長の後継者であり、平安時代で最も有名な政治家の一人でありながら、葬送の史料はほとんど残されていない。『栄花物語』にも具体的な記述が見られないから、頼通は宇治の平等院で死去し、その近辺で火葬されたことが推測される以外、これといって記述することができない。
道長には頼通以外にも、倫子腹に教通、明子腹に頼宗・能信・顕信・長家などたくさんの男子がいる。ところが、彼らの葬送に関する史料はとほとんどみあたらない。そこで、男子については検討を断念し、女子についてみることにしたい。
まず、倫子腹の彰子をみることにしよう。彰子は、頼通が亡くなった同じ年の承保元年(1074)10月3日、87歳という高齢で死去した。場所は父親の道長と同じ法成寺阿弥陀堂であった。即日入棺のことがあった。葬送は6日に「大谷」という所で行われた(18)。『勘仲記』正応5年(1292)9月10日条の記録によれば、「東山大谷」とあるから、大谷とは鳥部野の北辺にあった大谷の地と想定される(後に見る、妍子の火葬の地とほぼ同地であろう(19))。彰子はそこで火葬された(20)。その後、遺骨が何処へ運ばれたのか明確でない。
彰子が亡くなった際、白河天皇は関白の教通に御禊を目前に控えているから「な籠らせ給ひそ(今は喪に籠もってはいけない)」と命じたが、教通は「いみじき事あちとも、いかでかこの度の御事を仕まつらではあらん(どのような世の大事があろうとも、彰子の葬送の事を奉仕しないでおられようか)(21)」と天皇の命令を拒否し、喪に籠もった(『栄花物語』巻第39)。長寿であった同母のキョウダイの頼通と彰子を同じ年に失い、最後に残された教通(79歳)は、関白でありながら、もはや国家の大事よりも肉親の大事を優先させた(ちなみに教通は1年後に死亡)。教通は葬送の日、彰子の遺体を乗せた霊柩車の後から歩いてお供をし、葬送の地大谷に向かったのである。
では次に、妍子・威子・嬉子の三人の姉妹についてみていこう。3人の中で妍子と嬉子は父道長より先に死去しており、史料の豊富な時期でもあり、葬送の史料が詳細に残されている。まず、妍子である。妍子は、没年・火葬地・墓地・四十九日・一周忌すべて判明している。道長家族の中でこの5つの史料が残っているのは兼家・道長・嬉子だけであり、葬制・追善仏事・墓地の資料が最も整っている人物である。妍子は万寿4年(1027)9月14日に死去した(22)。前日には危篤になり、午後2時頃出家をした。切られた髪は6尺ほどの長さであったという(23)。そして、午後4時ごろ容態が急変し死去した。『小右記』によると、妍子の枕元には道長・倫子・頼通・教通・頼宗などがいた(24)。道長は、息絶える妍子に対し「老たる父母を置きて、いづちとておはしますぞや。御供に率ておはしませ(年老いた父母を残して何処へ行ってしまうのか。私をお供につれて行きなさい)」と声を上げて泣いたと、『栄花物語』(巻第29)は伝えている。落胆して臥していた倫子に対して、頼通がお薬を差し上げたという。
家族の者が亡くなると、葬送その他の段取りをしなければならない。平安時代は儀礼の日時には非常に神経質であったから、適切な日時・場所はすべて陰陽師に尋ねその後に決定された。妍子の時は、暦博士の賀茂守道が呼ばれた(25)。彼の占いによって、葬送の日は16日と決まった。14日に死去し、2日後には葬送であるからかなりあわただしい日程であった。場所は守道が葬送の地として「祇園の東、大谷と申して広き野(26)」を推奨しており、『小右記』がこれを「大谷寺北、粟田口南(27)」と記録しているから、前述の彰子と同じ鳥部野の北辺の大谷の地であったと考えられる。
葬送の当日、官司やしかるべき縁故の人々が参集し、葬送の準備に携わった。夕方、頼宗や能信や長家、そして妍子の乳母子の藤原惟経や家司の藤原惟憲などによって、入棺が行われた。その棺の中には道具類が入れられた。御棺は糸毛の車に乗せられ、明るい月光の下を鳥部野の地へ向かった。道長は車のお供をしようとしたが、歩行が困難であったため周囲の者に肩をかけてもらい歩いて従った。内大臣の教通以下が相従った。女房達も6両の車に乗ってお供をした。頼通は「衰日」のため随行できなかった。
葬送の地は広い野となったところであった。儀礼は夜中になって始まり、仏前に供える御膳の役は乳母と縁故の深い女房達が奉仕した。未明に火葬され、夜明け方に式はすべてが終わった。朝の8時頃、遺骨は皇太后宮権亮藤原頼任が肩に懸け、大僧都永円などが伴い木幡へ納められた(28)。
次に威子についてみたい。威子は長元9年(1036)9月6日に夫の後一条天皇の後を追うようにして亡くなった。その年の夏に流行し始めた天然痘に罹り、9月3日(4日とも)に出家し、その3日後に死去した。38歳であった(29)。彼女の葬送についての詳細な史料は残されていない。ただ、死去後、死者にお膳が供えられたようで、その際の様子が『栄花物語』(巻第33)に記録されている。それによれば、母屋の御簾を少し上げて、威子の霊前にお膳をお供えしている。この時のお供え役は命婦の君で、左衛門の内侍・侍従内侍・出羽弁などが取り次いてお供えしている。彼女達は、威子が生きている時にお給仕を世話していた女房達よりも階級の上の者であったと記録されているから、死者に供えるお給仕役は特別であったことが判明する。前述した妍子の葬送の際のお膳役の女房と併せて参考とすべきである。
また、頼通は威子の同母キョウダイであるから、当然喪に籠もらなければならない立場にあった。ところが、彼は関白左大臣の要職にあったため、公務に差し支えが出るので喪に籠もらず、10月の大嘗会の御禊の奉仕を行っている(30)。先述したように、彰子が亡くなった際、白河天皇が当時の関白教通に御禊を目前に控えているから「今は喪に籠もってはいけない」と命じたが、教通は天皇の命令を拒否し、喪に籠もったことと対照的である。
さて、威子の葬送の詳細については伝わっていないが、『大鏡』裏書に「九月十九日奉葬園城寺北地号桜本」とある。葬送の地は「園城寺」であったとされている。しかし、こ の時代に藤原氏の基経流の死者が園城寺へ移送されたという記録はみあたらないから、威子の葬送の地は園城寺であったとは考えがたい。この「園城寺」とは三井寺のことではなく、「園」は「圓」の誤写であって、円成寺(円城寺)のことであろう。この円成寺は東山の西麓に所在し、現在の左京区鹿ヶ谷辺にあった(31)。鹿ヶ谷辺は「桜本」とも呼ばれる所であり(32)、『大鏡』に「号桜本」とあるのはこのことを指していると考えられる。つまり、威子の葬送の地は円城寺の北辺の桜本と呼ばれた所であったであろう。そうすると、威子の夫の後一条天皇の葬地は「浄土寺西原(神楽岡東面)(33)」であったから、この地は「円城寺北地」と近接している。恐らく、威子は彼女より5ヶ月前に死去した後一条天皇のすぐ近くの場所で葬送されたのであろう。火葬であったと推測されるが詳細は不明である。墓地についても、史料が残されていない。
次に、嬉子の場合をみていこう。嬉子の葬送史料は道長家族で最も詳細に明らかになる。嬉子は父道長42歳、母倫子44歳の時の子供で、15歳で東宮敦良親王の妃となった。19歳の万寿2年、妊娠中に赤裳瘡に感染した。同年8月3日親仁親王(後冷泉天皇)を出産したが、病気が悪化し、5日に上東門院第で急死した(34)。父親の道長は先月にも寛子(後述)を失ったばかりで、立て続けに二人の娘を失ったのである。遺体の傍らには道長・倫子・頼通・教通がいて、嘆き悲しんだ(35)。ここでも、嬉子の周辺には同母のキョウダイが記録されていて、異腹の明子腹のキョウダイは一歩下がった位置にあったようである。
嬉子は、午後の2時から夕方にかけて亡くなったようであるが、その日は夜になるにつれて雨脚が激しくなったが、道長は嬉子の非常事態に耐え切れず、陰陽師の中原恒盛(常守)に命じて、上東門院の東対の屋根の上に昇らせて「魂呼(魂喚)」を行わせた。この魂呼とは、死者の横たわっている家の屋根に死者の着物を持って昇り、抜け出たばかりの魂を北の方向に向かって三度招くように呼び戻す呪法である(36)。藤原実資は魂呼を「近代不聞事也(37)」と書き記しているので、この呪法は道長の時代でもほとんど行われていないことであった。それを道長があえて行ったということは、道長の悲嘆が非常に大きかったことを意味している。
翌6日、夜明けとともに、陰陽師の安倍吉平(晴明の男、72歳、当時の大家)が呼ばれ、葬送の際のしかるべき事が決められた。対応は頼通が行った。道長は茫然自失の状態であったからである(38)。その結果、6日の夜に遺体を法興院へ移すことになった。早速、道長の車を霊柩車とすることになり、車に喪の飾り付けが行われた。嬉子はお産の後に亡くなったことであり、体が汚れていることもあって、お湯を浴びせ体を清めた。この役目は乳母の小式部(不詳女)が担当した。この時、道長・倫子夫婦は「自分達を残して何処へ行くのか」と嬉子に語りかけ涙を流したという。遺体を湯浴みさせた後に着物を着替えさせた(39)。
また、この日は御棺を造るには忌む日であったので、二人の僧侶に別々に造らせ、清通法師の造った方を用いたという。夜中の12時頃に(『左経記』)遺体がお棺の中に納められた。そして、蓋がしっかりと閉ざされた(40)。遺体は上東門院第からそう遠く離れていない法興院へ移送された。道長は嬉子の車の後から歩いてお供をしようとした。しかし悲しみの余り歩行も満足にできない有様で、片手は頼通が、もう一方は三井寺の僧都が抱え、腰を教通が後押ししたという。道長に続いて多くの上達部・殿上人が歩いて従った。近習の女房達は車三両に乗って従った(41)。倫子は、その葬列には加わらなかった(ただし倫子は10日に非公式に法興院に渡っている)。当時、死者の女性の親族は葬送・葬列・移送の正式な列には加わらないのが慣行であったからである。また、夫の敦良親王も東宮であるから、手紙のやり取りはあっても、敦良が妻方の里第へ来て、葬式に参加するということはない。これは天皇とその妻との関係も同様である。
遺体は、車ごと法興院の北の僧坊に安置された。女房達は嬉子が存命中と同じように伺候し、お膳などのお給仕は乳母の小式部が泣きながら奉仕をした(42)。遺体は9日間法興院へ安置された後、8月15日の夜船岡の西野(岩陰)で葬送されることになった。その日の早朝検非違使が集められ、行路(京極から北行し、一条から西行)が前もって修理され払い清められ、葬送に必要な物品が全て岩陰に運び込まれた(43)。法興院から岩陰までは遠いということから、出発は夕方の6時になった。遺体を乗せた車が出発すると、それに歩いてお供をしたのは道長・教通・藤原行成・藤原頼宗・能信・藤原兼隆・藤原定頼・藤原広業・源朝任などであった。ただ、関白の頼通は衰日ということで参加しなかった。葬送の式は岩陰の地で行われ、嬉子はそこで火葬された(44)。遺骨は乳母子の藤原範基が首に懸け、定基僧都が付き添って木幡墓地へ送られた(45)。遺族は墓地の木幡へは同行しなかった。それがこの時代の習慣であったからである。
次に、道長のもう一人の妻明子腹の娘であった寛子の葬送を見ていこう。寛子は元の皇太子であった敦明親王(小一条院)と結婚した。二人の結婚は典型的な政略結婚で、敦明は、もともと藤原顕光の娘延子と幸せな結婚生活をしていた。しかし、道長は自分の政治的な野心を実現するために、敦明に対して皇太子の地位を強引に辞任させ、その代償として敦明を準太上天皇とし、我が娘寛子を与えたのである。寛仁元年(1017)11月のことであった。
この事態に落胆した延子は嘆き悲しみ世を去った。8年後の万寿2年(1025年)7月9日寛子は、その頃流行していた赤裳瘡に感染し死去した。当時の人々は、寛子の死を顕光と延子親子の怨霊の仕業であったとした(46)。
寛子夫妻は最初寛子の母親邸の高松殿に居住していたが、高松殿が焼失したために道長が買得した山井第に転居し(47)、寛子はそこで重病となった。7月8日に、夫の小一条院は妻の寛子が道長に「今一度見奉らん(最後に一目お会いしたい)」と言っていると伝えると、道長が山井第に渡ってきた(『栄花物語』巻第25)。皆は最期を覚悟し、寛子を出家させることになった。髪を剃って尼にしたのは入道の顕信であった。重病人の周りにいたのは、夫の小一条院、父親の道長、母親の明子・同母キョウダイの顕信・頼宗・能信・長家であった。
実父の道長は、娘の危篤にもかかわらず、嬉子(正妻の子供)が妊娠中で里下がりしているのでそちらの面倒を見なければならないということで、寛子のことは最期をみることができないで、「見捨てたてまつる」と、泣く泣く山井第を去っていった。寛子は翌朝亡くなった。その死は使いの者によって道長に知らされた。お葬式は、2日後の11日ということになった(48)。
11日の夕方、寛子の遺体は車に乗せられ山井第を出発し、岩陰の地へ向かった。行列の先頭には松明が一つ点されただけであった。霊柩車の付き人の動向を見ると、寛子の車のすぐ後ろから徒歩でお供をしたのは夫の小一条院であった(49)。父親の道長は体調が悪いということで葬送にも加わらなかった。『左経記』は車のお供をした人物について、「山送人々権大納言能信・権中納言長家、是兄弟也、自余男女以侍候云(50)」と、寛子の同母の能信と長家がお供をしたと記録している。異母キョウダイの頼通(関白左大臣)と教通(内大臣)の動向は明確でない。しかし、『左経記』の記述から理解できるように、同書が当時の関白左大臣と内大臣を差し置いて、権大納言や権中納言のみを書き記すとは考えにくいので、恐らく、頼通と教通はお供には加わらなかったのであろう。
岩陰の地で寛子の遺体は火葬に付された。火葬後の遺骨の処遇については史料が残されていない。
さて、寛子の葬送全体で問題としたいことは、この葬送の主催者は誰であったかということである。主催者の有資格者は寛子の父親の道長か夫の小一条院のどちらかである。『栄花物語』に、「はかばかしくもおぼし掟てさせ給ふべくも見えさせ給はず」とあり、主催者と思われる人物は、葬送の当日心が動揺して葬送の指図ができなかったと記述されている。同物語はその人物を明確にしていないので道長であったのか、小一条院であったのか明確でない。
松村博司氏は小一条院であろうとしている(51)。支持すべき見解である。その理由として、『栄花物語』は寛子の葬送に関しては小一条を中心に描写しており、道長が主体者としては描かれていないこと、そして、道長は体調が悪いことを理由に野辺送りに加わっていなことがあげられる。また、習俗として重要なことは、遺体を移送する霊柩車が小一条院所有の車(嬉子の時は道長の車が霊柩車とされた)であったことに象徴的に表されており(52)、小一条こそ、寛子の車の直ぐ後ろについて従った人物であることである。つまり、寛子の葬送の主催者は小一条院であったであろう。 
 
4 道長の男子の妻の葬送
では次に、道長の男子達の妻の葬送についてみていこう。まず、頼通の妻隆姫女王を取り上げよう。隆姫は寛治元年(1087)11月22日に没した。93歳という異例の長寿であった。夫の頼通は13年前の承保元年(1074)83歳で亡くなっていた。二人の間には子供がいなかった。隆姫は亡くなった時、自分の両親はもとよりキョウダイも夫も全て亡くしていた。しかも、子供がいなかった。このような場合、誰が葬送全般の責任者となるのであろうか。通常は、隆姫の父方の血縁者の誰かが責任者になったと思われる。隆姫の場合は隆姫の弟師房の男子源俊房(隆姫からはオイ、父方の最高位者)が責任者となった。『栄花物語』(巻第40)に「左の大殿(俊房)よろづに扱ひ申させ給ふ」とある。
葬送は12月7日鳥部野で行われた(53)。葬送の全般を俊房が取り仕切ったのであろう。隆姫は、摂関家の嫡男頼通の正妻であったとはいえ、年月は過ぎ去り、彼女の死は道長の死から60年後のことで、道長の子供の世代では恐らく最後まで生き残った人物であった。隆姫の場合は死亡年月日と葬送の地のみが明らかになり、葬送の詳しい様子や墓地については史料が伝わっていない。
次に、教通の妻について取り上げたい。教通の妻は藤原公任の娘で、二人の間には子供が数人生まれた。そして、治安3年(1023)妻はまた妊娠したため、二条第から三条にある藤原登任の第宅へ移った。そこは、妻がいつも安産できる縁起の良い家であったからである。しかしこの度は、年末に無事男子を出産した後、産後の肥立ちが悪く、年が明けるとすぐに亡くなった(万寿元年1月6日)(54)。24歳であった。
公任娘が危篤となり急逝する事態に参集した人々をみると、重態の時に妻の弟の藤原定頼がみえ、死去すると同時に実母(昭平親王娘)が遺体を抱き上げ横に寝かしつけている。その近くで、夫の教通と妻の実父の公任が大声を上げて泣いていた。もちろん子供達もその傍で泣いていた(55)。要するに、教通の妻の死の周辺には妻方の親族のみが参集し、夫方の親族は誰一人として見当たらない。夫方の両親である、道長と倫子は息子の妻の所へ直接出向いて来る様子はなく、手紙のやり取りで間接的に関与するのみである。
葬送は1月14日に行われた。夕暮れに、夫の教通の車を霊柩車とし車輪に絹の布を巻きつけて装飾を施した(56)。車の準備ができると、車を寄せてお棺を車に乗せた。教通の妻の葬送では、お棺を担いだメンバーが判明する。『栄花物語』(巻第21)に「さて御車寄せたれば、殿(教通)・大納言(公任)・内供の君(良海、妻の兄弟)など、むつまじくおぼす人などしてかき乗せ奉り」とあるように、夫や妻方の父親や兄弟など、死者に最も親しい男性の親族成員がお棺の引き出しの役割をしていた。
お棺が霊柩車に移されるといよいよ三条の登任の第宅から葬送の地(不明)へと向かった。車の後ろには教通と公任が藤衣を着て従った。定頼もお供するべきであったが、彼は当日が忌日であったため参加しなかった。これ以外の参加メンバーは明確ではないが、教通の両親の道長夫婦が出席したのであれば、『栄花物語』が書き漏らすとは思えないので、彼らは出席しなかったと推測される。したがって、妻が死去した場合は、葬送の列でも妻方の親族が中心となり、原則的に夫方の親族は参加しなかったと考えてよいであろう。
さて、公任娘の遺体は不明地で火葬されたが、その後について『栄花物語』(同巻)は「御骨は内供の君、さるべき人人具しておわす」と記述している。これについて松村氏は「御骨は内供の君が持ち、然るべき人々を供に従えて第へお帰りになる」という現代語訳をし、「語釈」の個所で「御骨は…御骨は内供の君が持ち、然るべき人々を供に従えて第へ帰られた。ただし、「具して」の下、富岡甲本は、「こはたへおはす」となっている。中宮安子の場合、東三条女院詮子の場合など、葬儀の後木幡へ赴いているが、ここは確証が得られない(57)」と言っている。松村氏は、この個所については十分な確証がないまま、公任娘の遺骨を内供の君が邸宅の方へ持って帰ったと解釈している。
しかし、筆者の調査では、火葬後の遺骨を自宅へ持ち帰えると言う事例はみられず、平安時代にそのような慣習があったとは考えられない。平安時代にはまだ仏壇などという設備は成立しておらず、穢れに対して非常に神経質であった貴族が、遺骨と言う典型的な穢れ物をわざわざ邸宅内へ持ち込むなどと言う非常識な行為があったとは考えられない。この個所はやはり富岡甲本が「こはたへおはす」となっているように、火葬の後遺骨は木幡に運ばれたとするのが正しいと考えられる。
次に、長家の妻を取り上げよう。長家は若くして、二人の妻を次々と失った。まず、寛仁2年(1018)、長家(14歳) は藤原行成の娘(12歳?) と結婚した。最初の妻は病弱な体質であったようで、治安元年(1021)の春から夏にかけて疫病が流行した際、罹病し早世したようである(58)。『小右記』によれば、3月19日の明け方のことであった。長家はわずか17歳であった。この頃、若い夫婦は妻方に居住していた時代であったから、妻の父(行成)や母(源泰清娘)が死者を見守っていた。長家の実父(道長)や実母(源明子)は手紙で連絡はするが、息子の妻の死の席に参集することはなかった(59)。
葬送は4月9日に行われ、『栄花物語』によれば、遺体を北山に送り出す時、長家は霊柩車のお供に付くことを当然としたが、その日は父親の道長が忌の日であった故に、舅の行成が強いて押し止め(父親が忌の日で息子に支障が出るという根拠は不明)、北山には行成がお供として行ったという。その時、行成は北山にさまざまな調度品を運び入れたとあるから、それらは葬送の場の飾り物として設置されたのであろう。遺体は北山の観隆寺(60)の北辺に造られた霊屋という建造物に納められた(61)。
春に妻を亡くした長家には、秋になるとすぐに結婚話が持ち上がり、11月には再婚したようである(62)。4年後の万寿2年(1025)に長家は赤斑瘡に感染したものの回復した。ところが、夫の病気に妻が感染した。妻は妊娠7〜8ヵ月ほどであったが、病は日々重くなり、8月27日には男子を早産したが、死産であった。直後に危篤となり、母親(斉信妻)も尼となって娘の危急を支援した。わずかに小康を保ったが29日には死去した。
死者の周囲には妻方の両親と夫がおり、主としてこの三人が死者を悲しむ中心人物であった。夫方の両親はといえば、手紙による交流のみがあって、死の事実を知っても、彼らが息子の妻の死の席に参集することはない。道長は手紙によって斉信娘の死を知らされると、自身も最愛の嬉子を失ってまだ1ヶ'EA{月と経たない身であったから、「大納言いかに思ひ給ふらん(大納言はどのように思っておられるだろう)(63)」と同情し食事もとらず涙を流したという。
悲しみの中で夜が開けると、陰陽師を呼んで葬送のことについて占いをさせた。それによって、9月15日の夜に遺体を法住寺に移し、9月27日に遺体を納めることが決定された。斉信娘の葬送については、『小右記』などにも記録されていないので、詳細については『栄花物語』(巻第27)による外はない。問題は葬送の日は何時で、遺体は最終的にどのように処遇されたのかである。『栄花物語』によれば、15日の移送の日は「こたみの御ありきの、例の様にありけれど」とあって、今度の行列は普通の外出のようにしたとあるから、やはり15日は遺体の移送日であって、27日が正式の葬送の日であったと考えられる。
15日には、霊柩車の輪に布が巻かれた。斉信娘はお産で穢れたまま亡くなったので、お湯で体が清められ(嬉子の場合も同じであった)、お棺に入れられた。若い母親に続いて赤ちゃんも同じ棺にいれ、母親が懐に抱いたようにして寝かせられた(通常、子供が死去した場合は葬地に放棄される(64))。そして、出棺の後、霊柩車の後ろには斉信と長家と死者に縁故の深い人々がこれに続いた。さらに、死者の母親(斉信妻、通常女性の親族は霊柩車の列には加わらない)が車に乗ってお供をした。女房達も車に乗ってお供の列に加わった。
遺体が移された法住寺では、27日に土塀が築かれ(65)、屋根には檜皮が葺かれた霊殿が造られた。そこに霊柩車を運び入れ、お棺を載せたまま車輪を外し、霊殿に納めた。安置された遺体がその後どのような処遇を受けたかについては明らかでない。 
 
おわりに
本稿は、「藤原道長家族の葬送・墓制・追善仏事の研究」の一部で、道長家族の葬送の基礎的な事実を記述した。追善仏事については別稿で発表予定である(「藤原道長家族の追善仏事について」(『比較家族史研究』第19号)。また、葬送の分析については「葬送における既婚貴族女性の地位について」で、墓制については「藤原道長家族の墓制について」で後日発表の予定である。 

(1)栗原弘「藤原行成家族の葬送・追善仏事・忌日について」(『名古屋文理大学紀要』第4号、2004年)。
(2)兼家の死去した場所は、『公卿補任』(永祚2年条)は「東三条第」としている。『栄花物語』(巻第3)も東三条第であった書き方がされている。『大鏡』(兼家)は法興院としている。兼家は出家の身であったから法興院で死去した可能性がある。どちらとも決しがたいが、ここでは『公卿補任』説に従っておく。
(3)『栄花物語』巻第3。
(4)『小右記』正暦元年7月9日条。
(5)『御堂関白記』寛仁元年2月27日条。兼家の墓は木幡にあった。
(6)道長の妻は、源倫子の他に、源明子がいる。明子についても葬式・追善仏事・墓地の史料を検証したが、ほとんど見つけることができなかったので、本稿では明子については言及することができなかった。
(7)『御堂関白記』寛弘3年10月11日、同7年9月29日各条。
(8)この東山観音寺とは、かつて藤原緒嗣が建立した寺であったと推測される。ただし、緒嗣は式家の出身であり、穆子は北家の出身であるから、必ずしも同系統の寺であったわけではない。角田文衛「鳥部山と鳥部野」(『王朝文化の諸相』角田文衛著作集4、法蔵館、1984年)349頁参照。
(9)霊屋については、田中久夫「玉殿考」(『祖先祭祀の研究』弘文堂、1978年)、清水擴「墓所堂としての仏堂建築―平安貴族の葬法と建築(下)―」(『日本建築学会計画系論文報告集』No。402、1989年)、堅田修「王朝貴族の喪葬」(『古代学研究所研究紀要』第1輯、1990年)、新谷尚紀「火葬と土葬」(林屋辰三郎他編『民衆生活の日本史・火』思文閣出版、1996年)参照。
(10)『小右記』万寿4年10月28日条。
(11)『小右記』万寿4年12月2日条。
(12)『栄花物語』巻第30。宇多天皇の場合は『西宮記』12に「御棺先年所造構」とあって、亡くなる前の年に造られていた。
(13)『日本紀略』万寿4年12月7日条。
(14)『栄花物語』巻第30。
(15)『左経記』長元元年1月22日条に、御読経の料を寄せた人々が記されているが、その全てが出席者ではないから、正確な出席者はわからない。ただ、「事了子刻院宮殿上(倫子)同車…」とあるから、倫子の出席は確認できる。
(16)『定家朝臣記』天喜元年6月11日条。
(17)『定家朝臣記』天喜元年6月22日条。
(18)『扶桑略記』承保元年10月6日条。
(19)加納重文「大谷」(『平安時代史事典』角川書店、1994年)参照。
(20)『大鏡』裏書。
(21)『栄花物語』巻第39。『栄花物語』の現代語訳は松村博司『栄花物語全注釈』7(角川書店、1978年)によった。以下同じ。
(22)『小右記』万寿4年9月14日条。
(23)『栄花物語』巻第29。
(24)『小右記』万寿4年9月14日条。
(25)『栄花物語』巻第29。
(26)『栄花物語』巻第29。
(27)『小右記』万寿4年9月17日条。『日本紀略』万寿4年9月16日条に「大峰寺前野」とあるが、この大峰寺については詳細不明。所在地は『今昔物語集』に「一条、西洞院」としているが、誤りか。
(28)納骨について、『栄花物語』は「御骨は、木幡僧都と宮の亮頼任と、木幡に率て奉りぬ」としている。これについて、松村氏は「木幡僧都」を「定基」とし、「尚侍嬉子が亡くなった時も木幡に骨を持て行った」とか、「このあたり、『小右記』には記事がなく、『左経記』には欠文になっているため、事実の検証ができない。しかし、運んだ顔ぶれからみて妥当と考えられるので、恐らく事実そのままと認めてよいであろう」としている(松村、注(21)前掲書6、86〜7頁)。しかし、『小右記』には「辰時許権亮頼任持御骨向木幡、大僧正永円・御乳母子法師相副」と、明記されている。したがって、松村氏が「木幡僧都」を「定基」としているのは「大僧正永円」の誤りで、嬉子の死去の際骨を持って行った定基とは別人である。
(29)『扶桑略記』長元9年9月6日条。『栄花物語』巻第33。
(30)『栄花物語』巻第33。
(31)『山城志』(巻第5)、『山城名勝志』(巻第13、上)。角田文衛「尚侍藤原淑子」(『紫式部とその時代』角川書店、1966年)527〜8頁参照。
(32)『栄花物語』(巻第5)によれば、藤原伊周の母親の霊屋があったのは「桜本」であった。
(33)『日本紀略』長元9年5月19日条。
(34)『小右記』万寿2年8月5日条。『左経記』同日条。
(35)『小右記』万寿2年8月6日条。
(36)『左経記』万寿2年8月23日条。『栄花物語』では、魂呼をした人物は賀茂守道としているが、『左経記』・『小右記』の記録から中原恒盛(常守)とすべきである。松村、注(21)前掲書5、211〜2頁参照。
(37)『小右記』万寿2年8月7日条。
(38)『栄花物語』巻第26。
(39)『栄花物語』巻第26。
(40)『小右記』万寿2年8月6日条。『左経記』同日条。『栄花物語』巻第26。
(41)『栄花物語』巻第26。
(42)『栄花物語』巻第26。
(43)『栄花物語』巻第26。
(44)『小右記』万寿2年8月16日条、『左経記』同日条、
(45)『小右記』万寿2年8月16日条。
(46)栗原弘『平安時代の離婚の研究』(弘文堂、1999年)117〜8頁。
(47)『御堂関白記』寛仁元年11月22日条。『百錬抄』治安元年4月5日条。角田文衛「山井第」(『平安時代史事典』角川書店、1994年)2615頁。
(48)『小右記』万寿2年7月9日条。『左経記』同日条。『栄花物語』巻第25。
(49)『栄花物語』巻第25に「御車の後には院おはしませば」とある個所を、松村氏は「柩をのせた御車の後ろの座席」と解し、小一条院は寛子をのせた車に同乗していたと解釈している(松村、注(21)前掲書5、161頁。また最新の注釈書である小学館版『栄花物語2』1997年、484頁も同じ解釈をしている)。一方、『大日本史料』(2−21−328頁)万寿2年7月11日条は「小一条院歩ミ従ヒ給フ」と小一条院は歩いたと解釈している。これは、明らかに『大日本史料』の解釈が正しい。松村氏のいう霊柩車に遺族が同乗したとする見解はこの時代には考えがたい習俗である。また、『大日本史料』説が正しいことは、『栄花物語』に「院(小一条院)は故宮( 子)の御供にも、この女御(寛子)の御送もひたたけて歩ませ給ふ」とあって、小一条院は母親の葬送の際も、妻の葬送の際も歩いて従ったと記述されているからである。『左経記』万寿2年4月4日条に「小一条、并式部兵部卿宮、并帥左衛門督、大蔵卿皆歩行喪葬云々」とある。
(50)『左経記』万寿2年7月11日条。
(51)松村、注(21)前掲書5、161頁。
(52)『栄花物語』巻第25に「院の御車に装束せさせ給ふ」とある。
(53)『中右記』寛治元年12月7日条。
(54)『小右記』は万寿元年1月6日。『栄花物語』は1月5日。
(55)『栄花物語』巻第21。
(56)霊柩車に布を巻きつけ装飾することについては、松村、注(21)前掲書4、513〜4頁参照。
(57)松村、注(21)前掲書4、516頁。
(58)津本信博『更級日記の研究』(早稲田大学出版部、1982年)128頁。
(59)『栄花物語』巻第16。
(60)観隆寺という寺院については、堅田、注(9)前掲論文、32頁。また、藤原実頼の妻藤原能子の葬送がここで行われている(『日本紀略』康保元年4月13日条)。
(61)周知のように行成の外祖父源保光、母源保光娘の二人の遺体は、洛北の松前寺にあり、二人とも霊屋に納められていた(後に遺骨を鴨川に流した)。行成は、親しい血縁者が二人まで霊屋に納められていたので、自分の子供が死去した際、霊屋に納めることを発想するのは自然の成り行きであったと考えられる。栗原、注(1)前掲論文参照。
(62)『小右記』治安元年10月24日、11月23日、12月18日各条。
(63)『栄花物語』巻第27。
(64)『小右記』正暦元年7月13日、正暦四年2月9日各条。
(65)『栄花物語』では、15日の記事は明確であるが、27日の記事は明確に日付が施されていないために、はっきりしない。しかし霊屋に車ごと納められたと言う記事は、9月27日に行われた後冷泉の五十日のお祝いのすぐ直後に配置されているので、これらのことが27日に行われたことを示していると考えられる。そこで、本稿ではこれらのことが27日行われたとした。  
 
藤原道長

 

平安時代中期の公卿。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。 晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。  
生涯
出生から青年期
康保3年(966年)、藤原兼家の五男(または四男)として京都に生まれる。同母の兄姉に道隆・道兼・超子(三条天皇母)・詮子(一条天皇母)らがいる。
祖父の師輔は村上天皇の治世を右大臣として支えた実力者で、娘の中宮・安子が後の冷泉天皇、円融天皇を生んだことで外戚として立場を強化した。これにより、師輔の家系の九条流は本来嫡流であるはずの兄の実頼の家系(小野宮流)よりも優位に立つことになる。
天禄元年(970年)、摂政・太政大臣だった実頼が死去すると師輔の長男の藤原伊尹が摂政となるが、2年後に急死してしまう。後継を次男の兼通と三男の兼家が争うが、結局兼通に関白が宣下される。兼通と兼家は不仲で、兼家は不遇の時期を過ごすことになる。貞元2年(977年)に兼通は病死するが死ぬ寸前に兼家を降格させることまでしている。
兼通の最後の推挙により小野宮流の藤原頼忠が関白となったが、天元元年(979年)に頼忠は兼家を右大臣に引き上げてやり、ようやく不遇の時期を脱した。次女の詮子を円融天皇の女御に入れ、天元3年(980年)に第一皇子・懐仁親王を生んだ。
同年正月、15歳にして従五位下に初叙した。その後、侍従を経て右兵衛権佐となる。
永観2年(984年)、円融天皇は花山天皇(冷泉天皇の皇子)に譲位し、東宮には詮子の生んだ懐仁親王が立てられた。兼家は懐仁親王の早期の即位を望んだため、寛和2年(986年)6月に兼家と三男の道兼が中心となって策謀を仕組み、花山天皇を唆して内裏から連れ出し出家退位させてしまう。この事件の際に道長は天皇失踪のことを関白頼忠に報告する役割を果たした。
速やかに幼い懐仁親王が即位(一条天皇)して、外祖父の兼家は摂政に任じられた。兼家は息子たちを急速に昇進させ、道長も永延元年(987年)には従三位に叙し、左京大夫を兼ねた。翌永延2年(988年)正月、参議を経ずに権中納言に抜擢された。
これより以前に、道長は左大臣・源雅信の娘・倫子と結婚し、永延2年(988年)には長女彰子が雅信の土御門殿で誕生している。続いて安和の変で失脚した左大臣・源高明の娘・源明子も妻とした。  
伊周との争い
正暦元年(990年)正月、正三位。7月、兼家が死去し、長男の道隆が後を継いで関白、次いで摂政となった。同年10月、摂政道隆の娘・定子立后に際し、道長は中宮大夫に任ぜられた。翌正暦2年(991年)、権大納言、次いで正暦3年(992年)、従二位に叙せられる。
一方、道隆の嫡男の伊周は、正暦3年、正三位権大納言、正暦5年(994年)には道長を凌いで内大臣に任じられ、父の後継者に擬されていた。また、一条天皇の定子への寵愛も深く、そのために兄の伊周への信任もことの外厚かった。
長徳元年(995年)4月、都で赤斑瘡(「あかもがさ」。今でいう「はしか」)が猛威をふるい、公卿たちも次々に死去した。その最中に関白道隆も病に倒れるが、これは疫病ではなく普段の大酒が原因で道隆は天皇に後継の関白として伊周を請うがこれは許されず、病中の内覧のみが許された。道隆が死去するとその弟の道兼に関白宣下されるが、道兼は就任わずか数日で病で死去し「七日関白」と呼ばれた。
『大鏡』などによると伊周は自らが関白たらんと欲し、一条天皇の意中も伊周にあった。一方、道長は伊周が政治を行えば天下が乱れると考え、自らが摂関になろうとした。一条天皇の母后・東三条院(詮子)はかねてより弟の道長を愛し、逆に甥の伊周を疎んじており道長を強く推したが、天皇が考えを変えないため涙を流して固く請い迫まり、このために遂に天皇も道長の登用を決めたという。
道長と伊周の対立は続き、同年7月24日(旧暦。8月22日)には陣座で諸公卿を前に激しく口論し、その3日後2人の従者が都で集団乱闘騒ぎを起こしている。天皇は詔して道長に内覧を許し、次いで9月に右大臣に任じ藤原氏長者となった。左近衛大将をも兼ねる。
長徳2年(996年)正月、伊周とその弟隆家は女性関係が原因で花山法皇に矢を射かける事件を引き起こした。ことはすぐに露見し4月に罪を責められた伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されて失脚した(長徳の変)。なお、これを憂えた中宮定子は髪を切って尼となったが、後に天皇の命で宮中に戻っている。
7月には道長は左大臣に昇進し名実ともに廟堂びょうどうの第一人者となる。次席の右大臣には兼通の子の顕光が任じられたが、顕光は当時から無能者と軽んじられている人物だった。  
一条天皇と道長
当初、一条天皇は内覧の宣旨のみを道長に与えたが、これは伊周への配慮であると同時に、道長が未だに権大納言でしかなく、大臣の地位に無かったために関白の資格に欠けていた事情もある。だが、直後に右大臣・藤氏長者に補されたにも関わらず、道長は依然として関白に就任せず、内覧と一上の資格を有した右大臣(後に左大臣)の地位に留まり続けている。
関白の職権そのものには決裁権がなく、あくまでも最高決裁権者である天皇の後見的存在であった。このため、天皇との関係次第によってその権限は左右される性質のものであった(現に道長と三条天皇とは疎遠であった)。また公式な政府の最高機関である太政官には摂政・関白は大臣兼任であったとしても関与出来ない決まりであった(道長の息子はまだ若く、大臣に就任して道長の立場を代理することはできなかった)。そこで道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、太政官の事実上の首席である左大臣(一上)として公事の執行にあたると同時に関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたのである。
長徳4年(998年)、道長は大病に陥り、出家を天皇に願い出る程に深刻だった。天皇がこれを再三慰留し、やがて平癒して政務に復帰している。
長保元年(999年)11月、一条天皇のもとへ長女彰子を女御として入内させる。その入内は盛大なもので豪華な調度品が用意され、その中には参議源俊賢を介して公卿たちの和歌を募り能書家の藤原行成が筆を入れた四尺の屏風歌もあり、花山法皇までもが彰子の入内のために和歌を贈った。その中で唯ひとり中納言藤原実資だけは歌を献じるのは拒んだ。実資は小野宮流(実頼の家系)の継承者で当時では有職故実に通じた一流の学識者で、権勢におもねず筋を通す態度を貫いた。
翌長保2年(1000年)2月になって道長は彰子を皇后(号は中宮)とした。先立の后に定子がおり、すでに第一皇子敦康親王らを生み帝寵も非常に深かったが、道長は定子を皇后宮と号する事で一帝二后を強行した。これは先例がないことであったが道長は権勢で押し通し、また東三条院の後援と蔵人頭・藤原行成の論理武装が説得の大きな手助けとなった。
寛弘5年(1008年)9月、入内後10年目にして彰子は道長の土御門殿において皇子・敦成親王を出産し、翌年にはさらに年子の敦良親王も生まれた。待望の孫皇子が誕生した時の道長の狂喜ぶりは『紫式部日記』に詳しい。
寛弘8年(1011年)6月、病床に臥した一条天皇は東宮居貞親王(冷泉天皇の皇子)に譲位し、剃髪出家した後に崩御した。一条天皇と道長・彰子は信頼関係にあったとされるが、その一方で後世の記録ではあるが『古事談』や『愚管抄』には、道長・彰子が天皇の遺品を整理している際、「王が正しい政を欲するのに、讒臣一族が国を乱してしまう」という天皇の手書を見つけ、道長が怒って破り捨てたという逸話が記載されている。一方、同時代の記録である藤原行成の日記『権記』には、一条天皇が死の直前に側近の行成に定子が生んだ敦康親王の次期東宮擁立の相談を行ったが、既に道長・彰子と深く結んでいた行成は却って天皇に迫って、道長の外孫である彰子が生んだ敦成親王の次期東宮擁立を認めさせたという経緯や、その一方で彰子自身も一条天皇の意を尊重して、定子亡き後、我が子同然に養育した敦康親王の次期東宮擁立を望んでいたが、父道長がそれを差し置いて敦成親王の立太子を後押しした事を怨んだと言う経緯等が記述されている。
少なくとも一条天皇と道長・彰子の間に敦康・敦成両親王の将来を巡る対立があった可能性は、極めて濃厚である。  
三条天皇との対立
三条天皇は東宮に4歳の敦成親王を立てた。長和元年(1012年)1月、三男顕信が突然出家したことに衝撃を受けている。同年2月、道長は東宮時代の三条天皇に入内させていた次女の妍子を皇后(号は中宮)とした。当初、天皇は道長に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任した。道長は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后超子を失い成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は親政を望んだ。妍子が禎子内親王を生んだこともあり、天皇との関係は次第に悪化していった。
天皇には妍子とは別に東宮時代からの女御娍子(藤原済時の娘)が第一皇子敦明親王始め多くの皇子女を生んでおり、天皇は娍子も皇后(号は皇后宮)に立てることとした。ところが立后の儀式の日を道長は妍子の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしなかった。実資が病身をおして意を決して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった。 翌年の娍子参内の行賞として娍子の兄の通任を叙任しようとした際に、道長は本来は長年娍子の後見をしたのは長兄の為任であるとして通任を叙位しようとした天皇の姿勢を批判して、最終的に為任を昇進させた。
三条天皇と道長との確執から政務が渋滞し、大勢は道長に有利であった。これに対して三条天皇は密かに実資を頼りとする意を伝えるが、実資も物事の筋は通すが権勢家の道長と正面から対抗しようとはしなかった。孤立した天皇は長和3年(1014年)、失明寸前の眼病にかかり、いよいよ政務に支障が出てこれを理由に道長はしばしば譲位を迫った。道長が敦成親王の即位だけでなく同じ彰子の生んだ敦良親王の東宮を望んでいるのは明らかで、天皇は道長を憎み譲位要求に抵抗し眼病快癒を願い、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じた。
長和4年(1015年)10月、譲位の圧力に対して天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬことを詔する。11月、新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。これを理由に道長はさらに強く譲位を迫り眼病も全く治らず三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子敦明親王を東宮とすることを条件に譲位を認めた。
長和5年(1016年)正月、三条天皇は譲位し、東宮敦成親王が即位した(後一条天皇)。道長は摂政の宣下を受けた。東宮には約束通り、敦明親王が立てられる。だが、敦明親王と道長には外戚関係がなく、母の娍子の生家は後ろ盾にならず親王の舅は右大臣顕光だが、人望がなくまるで頼りにならなかった。この年の7月、土御門殿が火災で焼失する。諸国の受領は道長の好意を得るために1間ごとに分担して資財をもってその再建に尽くした。特に伊予守であった源頼光は建物の他に道長一家に必要な生活用品全てを献上した。受領に私邸を造らせ、あたかも主君のように振舞う道長の様には政敵であった藤原実資でさえ呉の太伯の故事を引用しながら、「当時太閤徳如帝王、世之興亡只在我心(今の太閤(=道長)の徳は帝王のようで、世の興亡はその思いのままである)」と評している(『小右記』寛仁2年6月20日条)。その一方で、前年に焼失した内裏の再建は土御門殿の再建を優先する受領たちによって疎かにされ、実資を嘆かせている(『小右記』寛仁2年閏4月27日条)。  
晩年
翌寛仁元年(1017年)3月、道長は摂政と氏長者を嫡男の頼通に譲り、後継体制を固めた。5月に三条上皇が崩御すると、それから程ない8月、敦明親王は自ら東宮辞退を申し出た。道長は敦明親王を准太上天皇とし(院号は小一条院)、さらに娘の寛子を嫁させ優遇した。東宮には道長の望み通りに敦良親王が立てられる。12月、従一位太政大臣に任じられ位人臣を極めるが、程なくこれを辞した(道長が太政大臣に任じられたのは、翌寛仁2年正月に行われた後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕するためである。天皇の元服の際には太政大臣が加冠を務める例であった)。一応、政治から退いた形になるがその後も摂政となった若い頼通を後見して指図している。
寛仁2年(1018年)3月、後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を女御として入内させ、10月には中宮となした。実資はその日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言葉を記した。威子の立后の日(10月16日(11月26日))に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)を詠んだ(『小右記』、原文漢文)。実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。この歌は道長の日記『御堂関白記』の、この宴会についての記述の中には記されていないが、道長に批判的な実資の日記に書き残されて後世に伝えられることになった。
寛仁3年(1019年)3月、病となり剃髪して出家する。半年後に東大寺で受戒された。法名は行観(後に行覚)。
寛仁5年(1021年)、道長の末女・嬉子も将来の皇妃となるべく尚侍となり、東宮敦良親王に入侍したが、嬉子は親仁親王を産んで万寿2年(1025年)に早世した。
晩年は壮大な法成寺の建立に精力を傾けた。造営には資財と人力が注ぎ込まれ、諸国の受領は官へ納入を後回しにしても、権門の道長のために争ってこの造営事業に奉仕した。更に道長は公卿や僧侶、民衆に対しても役負担を命じた。道長はこの造営を通じて彼らに自らの権威を知らしめると同時に、当時の末法思想の広がりの中で「極楽往生」を願う彼らに仏への結縁の機会を与えるという硬軟両面の意図を有していた。『栄花物語』は道長の栄耀栄華の極みとしての法成寺の壮麗さを伝えている。道長はこの法成寺に住んだが、寛子・嬉子・顕信・妍子と多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。
万寿4年12月(1028年1月)、病没。享年62。死の数日前から背中に腫れ物ができ、苦しんだとされ、癌または、持病の糖尿病が原因の感染症ではないかといわれている。死期を悟った道長は、法成寺の東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわった。僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出した。その一方で頼通の異母弟・能信は摂関家に疎んじられた即位前の後三条天皇をほぼ独力で庇護し、それが摂関政治の凋落・院政へと繋がっていく。  
御堂関白記
道長の33歳から56歳にかけての日記は『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)と呼ばれ、自筆本14巻、書写本12巻が京都の陽明文庫に保存されている。誤字・当て字が随所に散らばり、罵言も喜悦の言葉も素直に記してある所を見れば、大らかで直情径行な道長の気性がよく分かる。また正妻源倫子のことをすべて「女房」と表現しており、「女房」という言葉を現代語と同様の意味で用いていることが注目される。当時の政治や貴族の生活に関する超一級の史料として、1951年(昭和26年)に国宝に指定された。2011年5月、ユネスコの「世界の記憶」への推薦が決定した。  
人物・逸話
○ 豪爽な性格であったとされており、『大鏡』には次のような逸話が残されている。若い頃の話として父・兼家が才人である関白頼忠の子の公任を羨み、息子たちに「我が子たちは遠く及ばない、(公任の)影を踏むこともできまい」と嘆息した。道隆と道兼は言葉もなかったが、道長のみは「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と答えている。また花山天皇が深夜の宮殿をめぐる肝試しを命じた際には、同様に命ぜられた道隆と道兼が逃げ帰ってしまったのに対し、道長一人大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってきたという。
○ 父・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見た源頼光は将帥の器であると感嘆して、自ら従うようになったという。
○ 弓射に練達し、後に政敵となる兄・道隆の嫡男の伊周と弓比べをし、「我が娘が寝極に入るならば当たれ」と言って矢を放つと見事に命中し、伊周は外してしまった。続いて道長が「我れ摂関に至らば当たれ」と言って放つとやはり命中した。道隆は喜ばず、弓比べを止めさせたという(『大鏡』)。
○ 文学を愛好した道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている(自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる)。また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。
○ 歌集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。また、花山天皇時代に行われた寛和二年内裏歌合に召人として参加している。もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである。
○ 政治家としては、長保元年(999年)に新制(長保元年令)を発令し、過差(贅沢)の禁止による社会秩序の引締や估価法の整備などの物価対策などにも取り組んだ(道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政や武家政権に政治の実権を奪われる遠因となる)。
○ 『本朝世紀』長保元年6月14日条によれば道長が前年の祇園天神会の行列で出された山鉾が、天皇の大嘗祭で用いられるものそっくりに作られていたために道長が同年の祭りの停止を命じたところ、天神が怒って報復を示唆する詫宣をしたために道長がやむなく祭りを許したことが記されている。
○ 容姿については頭髪が薄かったらしい。
○ 晩年はかなり健康を害しており、50歳を過ぎたあたりから急激に痩せ細り、また水をよく飲むようになり、糖尿病が発症したと思われる。さらに視力も年々衰えて、目の前の人物の顔の判別もできなくなった事から、糖尿病の合併症としての視力低下と思われる。それに加えて胸病(心臓神経症)の持病もあった。
○ 仏教(特に浄土教)に対して信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で臨終の時を迎えたとされる。
○ 法成寺を建立したことから御堂関白とも呼ばれるが、実際に関白になったことはない。  
 
 

 

最期の遺言 / 木下尚江(1869〜1937) 社会主義者
早稲田在学中に郷里から「父病気帰れ」との手紙を受ける。翌朝上野から汽車に乗り、故郷に帰る。病名は胃癌である。
「父の日ごとに重なりゆく病の様が見える。余が帰宅後僅かに5日にして遂に最後の日が到来した。母は台所に食事の用意をなしたまうので、妹が病床の裾に座ってその小さき手に父の痛みを押さえていた。余は枕頭に手をついてその著しく変わり果てたる父の寝顔を見つめていたが、父はやがてポカリと大きく両眼を開きて、余と妹を呼びたもうた。…『汝等はこの世にただ一人の兄、一人の妹名のだから、行く末永く睦まじくせねばならぬぞ』とのたもうた。
父はさらに余の顔を見つめ給いて『家のことは母にきけ。学校は卒業せよ。倹約を忘れるな。他に何も言い置くことはない』…これが父の遺言であった。父はまた『わがめはどう変わったであろう』と問いたもうた。余は『否、何事もあらず』と確実に答えたが、実は死の影すでに父の顔を覆いて、その瞳のごときもよほど広がっていたのである。夕暮れ頃から父の容態ヒタヒタと変わって、近親故旧空しく病床を囲んで、時の至るを待つより他術がない。やがて遠寺の鐘が響いた。(中略)突然咽のたんが絡んで、息苦しげにがらがらがらと鳴る。咳一つの力で払いのけえるものと思えど詮なし。『父よ父よ』と余は相触れるばかりに顔すり寄せて叫んだ。『余りに声が高い』と母と伯父とに戒められたが、余は静かに叫ぶ力をもっていなかった。ああ人間の無力さ。
父が喉頭のガラガラと鳴る音次第に静かになっていく。次第に低くなっていく。そして忽全く止んでしまった。父の呼吸の全く絶えてしまったのである。」
突然の死 / 田岡嶺雲(1870〜1912) 明治時代の評論家
「突然と母屋の方での異様の叫び声に目を覚ますと、うなされた後のように胸騒ぎがする。不吉の前兆、とっさに余はかく思い浮かべた。吾知らず起き直った際、アタフタとした足どりで人が来た。余は背筋に氷を注ぎこまれたようにゾッと身震いをした。
余が母屋に来たときは、父はすでに昏睡状態に陥っていた。いびきのようにせまって高い呼吸に、わずかに「生」の名残をとどめている他には、もう一切の意識を失っていた。決断を示した引き締まった口、慈悲を宿した目の光、奮闘に黒ずんだややかどのある顔の色は、死の青白き薄影を浴びながら、昨日までものそれとたいした変わりはなかった。枕頭をめぐって座った祖母や伯母や母や兄や弟やが、父の耳元について、刻々に現世を遠ざかりゆく父を活かそうと努めた。腸を絞る悲痛な響きが陰にこもって、外面の白みゆくにつれて次第に薄るる灯の影が、見るにうすら寒かった。
祖母や伯母が呼ぶ父の幼名も、母と子が呼ぶ父よの叫びも、消えゆく生命の意識に現世の記憶を呼び起こさしむる事はできなかった。医は病を癒すも死を救うものではない。医師も施す術を知らなかった。父はその朝の日の昇る前に死んだ。その日は春の彼岸の中日であった。
死する者自らよりいえば、その死は悦喜に連続した楽しい夢であろう。その死にはなんの苦痛を感ずるいとまもなかった。しかし残った者にはこれほどあっけない死に方はない。一言の遺言もなく、一言の決別もない。祝いの宴が終えて、爛酔した身を厠へ起って卒倒したままに蘇らなかったのである。口にこそださね、父の胸に絶えざる憂いの種だった兄の身が定まった。それにあたかも良の病もやや軽快した。父の脳はこの喜憂の激変に強き衝動を感じて、その死を速めたのであろう。」
覚悟の死 / 鈴木貫太郎(1867〜1948) 海軍大将。太平洋戦争中最後の首相
「大正6年の6月1日、海軍中将に任ぜられた。ちょうどその頃私の一生の中で最も悲しむべきことですが、父が5月に東京に出てきて、顔色が悪いので、海軍の本多軍医局長に診ていただいた。そうしたら癌の疑いがある、それも相当に進んでいた。その時は関宿の町長をしていまして、自分でも癌だということを自覚しておりました。(中略)本多さんがいわれるのに、父に対しては、いい加減な気休めなどいわん方がいい、自分で癌ということを承知してその死期を待っていて悟っておられるから、ただ苦しみのないように気を付けて、慰めのようなことはいわん方が良いということだった。十数日を経過して次第に食べ物が入らなくなり、6月21日、それまでに親戚子供や孫あたりを集めて大勢で看護の中に、もっとも安らかになくなったのです。その臨終の際、父は、自分は群馬県で属官をしておった。この属官はいくら働いてもいくら良い考えをしてもみな上の人の功績になる。これは当然のことだが、せめてお前たちは奏任官だけにはしてやりたいと思っていた。お前も孝雄も将官になり、他の者もそれぞれ奏任官になり、その点については少しも不足はない。兄弟仲良く今までどおり暮らすようにといわれてから後はほとんど口を聞かなくなりました。それからしばらくして、明日の潮時は何時かなと聞いた。5時頃でしょうと答えたら、そうか5時頃か、ああ天なるかな命なるかな、というてから、からからと笑いましてそのまま眠ってしまい、明日の朝5時頃果たして変化が起こった。昔の人は潮時にいけなくなるんだと考えて、自分の死期を悟ったのであろうと思います。84歳でした。その後は注射でもっているばかりで段々脈も悪くなり、21日のお昼頃、まったく脈も絶えて誠に安らかになくなられました。
その時に相当の年の熟練の看護婦が、こういう立派なご臨終は大悟徹底していられるからでしょう。色々の人の臨終に立ち会ったが、これで二度目であって、一度は禅宗の高僧がちょうど同じだと言った。」
悲しい別れ / 木村太(1889〜1950)
「父の病症は悪化して、かかりつけの歯医者ぐらいでは手に負えなくなった。それで大学の診察を受けると、顎癌だということで、入院することになった。(中略)それから何日かして、父の大手術の日がいよいよ来たが、その予後は面白くなかった。そして4月の末の日病態悪化、危篤の電話がかかってきた。母はそう聞くと、たちまち泣濡れて、私を捕まえて、「ああ、どうしよう」と言った。父を失う悲しみの思いに混じって、後の身の不安が襲いかかっているのだと私にはわかった。店といっても、預かって経営しているだけで、子供の教育費から小遣いその他まで、父から手当ての形で支給されているにとどまっていて、この父が亡いあとの保証はまるっきりついていなかったのだから。私には、その母の心への察しがはっきりよくついた。が、でもこの場合はそんなことに関わっているときではない。とにかく、すぐに駆け付けなければならない…臨終の父の床へ。という思いがしたのは、母も私も同じで、母も涙を拭い、私もわくわく動悸打つ胸を抑えて、すぐ病院へ一緒に行った。
病室は、もう人でごった返すように一杯になっていた。左の顎を取り去って、咽喉に穴をあけて、そこからゴムの管で滋養を注入してもたせていた父の命も終わりに瀕して、顔には死色が漂っていた。やがて臨終。私達は代わり代わりに、その前に立って、命が去るのを見送り、別れを告げた。水にしたした脱脂綿を唇につけて、死に行く肉体の咽喉をうるおす末期の水を捧げるなどということは、この父の場合、不必要、不可能だった。ただ、顔をのぞき込んだだけ。それでも、顔の半分を厚く覆った包帯の影から現われた、片方だけの半面の方の顔しか見ることができなかった。
最期に続いては、満室のむせび泣き、啜り泣き。その一時が終わると、遺骸運び出しの順序になった。」
死の前の吉兆 / 吉川英治(1892〜1962) 小説家
「少し話は飛ぶが、父は大正7年の3月、浜町三丁目の新居で亡くなった。料亭”喜文”の裏門の間向いで、うなぎの寝床みたいな細長い家の奥の間だった。亡くなる一週間程前、父は母にむかって『英のやつ、あんなで、いいのかなあ。…あれでやって行けるかしら』と、ぼくの前途を、しみじみ心配していたという。
潰瘍症状も、慢性なので、かかりつけの医師も何ら警告はしていなかった。唯2、3日前から、呼吸困難を告げていたので、大森の海岸付近にでも、閑静な家を見つけて、療養したら、と母も言うし、医師も同意なので、友人と共に、心当りの転地先を見つけに行った。そして、帰ってきたら、もう昏睡状態におちており、明日まで、どうかと、医師も首をかしげていた。
---その朝に限って、こんな事があった。父は茶好きで、おまけに、毎朝暗いうちに目を覚ます。同時に、湯加減よく、濃い煎茶の一ぷくが、すぐ出ないと機嫌が悪い。
多年のその習慣で、今朝も母が未明に起きて、勝手口のガス七輪で、お湯を沸かしていると、病床の方から『おいく、おいく』と人恋しそうに、何度も呼ぶ。『はい、ただ今』と答えながら、とにかく先に、茶を入れて、いつものように、母が枕元へ持っていくと、父は起き直って『なあ、おいく。今朝ばかりは、お前の姿が観音様のように見えたよ。観音様が台所にいるかと思った……』と、手を合わしかけたので『いやですよ』と、母は笑いにまぎらしたが、そんなに言われたのは、夫婦となって、今朝が初めてだったので、うれし涙がこぼれたと、母はいった。
それから少したって、『今朝は、むすびにしてくれ』というので、膳にのせてゆくと、手さぐりで床の上に畏まった。もう視覚もきかなかったものとみえる。それでも父は畏まって、むすびを食べた。病中一度もあぐらや、寝そべったままで、食事した例はない。そういう人であった。その晩の11時35分に息を引き取った。僕は父の顔が、色を引くのを見てから、真っ暗な2階に上がって、唯一人で突っ伏していた。そのうちに、知らせで寄ってきた知人の細君が、僕を揺り起こしに来た。びくッと、我に返ったように、僕が顔を上げたら、その細君は悲鳴に似た声を上げて、階段を駆け戻ってしまった。あとで聞いたら、ぼくの顔が狂気したように見えたのだそうである。自分では知らなかったが、そんな慟哭に沈んでいたらしい。」
死者を慰めるノリト / 柳田国男(1875〜1962) 民俗学者
「父は先祖を祀る時も、自分の息子が死んだときも、自分一人で拝んで、自分の感覚に相応するノリトを作っていた。葬式を神式でするというので神葬祭といったものらしく、神道とはいわなかったように思う。ともかく日本の神道の弱点は、その場合に応じてそれに相当するノリトをあげることができなかった点である。中央の神主ですらそれが難しく平田盛胤などという人は名家に葬式があると必ず頼まれて行き、いい声で哀れに長いノリトを読んでいたが、これなどにもどうかと思う点が多かった。
まだ葬式の時はそれでもいいが、何か特殊の問題が起こったときに困ってしまう。相手が知らないからそれをいいことにして、どうにかゴマ化しているが、祭の種類と目的とはいくつもあるのに、ノリトの数はそれほどない。一番極端な例が現われたのは、母が29年7月に死に、その9月に父自身が死んだときのことである。
布佐の私どのの神主は、金毘羅さんの行者からあがってきた、もと船乗りかなにかしていた男で、何時でもノリトは大祓いの時のものしかやらない神主であった。みればそれもふり仮名つきのものであった。大祓いと言うものは「先ぶれ」の様なもので、ただ場所を清め、心を清める用意だけをするにすぎないものであるのに、人の最期をこのノリトで片付けられてはあとに残る者の良心がすまなかった。父の葬式の時は、私自身気持ちが非常に弱って、悲しみに何もわからなかったが、一年祭の忌あけには、もっと父の魂を引き止めておきたいし、とても大祓いのノリトでは気がすまなく大変に苦しんでしまった。どこかに古代作文の能力のある人はいないかと捜したが、千葉の田舎などにはそんな人がいるはずがない。土地では神主さん自身の家の葬式を仏教でするような時代であった。そこで私は自分で作ろうと思い立ち、まとめてみた。大変な事業だったが、父はさぞ私の心持ちを喜んでくれただろうと信じている。今はもう残っていないが、色々の祭のために三つほど書いたことを覚えている。」
恐れていた時 / 広津和郎(1891〜1968) 小説家
「私は私の子供時分から恐れていた瞬間が近づきつつあるのを、今ははっきり覚悟しなければならなかった。この瞬間を想像すると、私は長い間どんなにおびえたことであろう。私は子供の時分から、父が好きであったが、青年時になった頃には、どんなことでも解かってくれる友達の様な感じもしていた。私は父にはどんなことでも打ち明けられた。女の失敗でも。父は何でも私を解かってくれ、私を慰めてくれた。…しかし子供の時から恐れていたその瞬間が近づいてきた今、私は時分の心を見つめてみると、何時かその瞬間に対する用意を少しづつでもしていたものか、思ったよりも落ち着いていられるのが不思議であった。意識するしないにかかわらず、こうした心構えというものは時が来ると自然にできているものなのであろうか。…子供時分からの父に対する思い出が、いろいろと浮かんで来るのを、私は静かに味わいながら、父の居眠りを見守っていた。(中略)
夜中に父が私を呼ぶので、枕元に行くと、
『俺は治るよ。今一休和尚の言った言葉を考えていたのだが、あの位はっきり考えられたのだから、俺の頭は確かにはっきりしている。これなら死にっこない。一休が……何だっけかな。……一休が、今はっきりしていたのに……』父はまだるっこしさに、少し眉をひそめて考え出そうという顔をしたが、それきり眠ってしまった。
2度目に私が呼ばれたのは、もう明け方であった。(中略)
母は台所に行って、ワサビ下ろしでボケの実をおろし始めた。どうせ気休めにしかならないのだから、余り濃い汁を飲ませるのは痛ましいと思ったので、私は立っていって、水を割るようにと母に言った。母はそのとおりにした。それを父に飲ませると、父は目をむいて言った。『薄いじゃないか。何故カスを取ってしまったんだ。……江見はカスごと飲めと言ったぞ。もう一度作り直してきてくれ』母は黙って台所に立っていった。『薄めることがあるものか。何故濃いまま飲ませないのだ。……わからんな。わからんな』と父は舌打ちするように言った。
ただし母が再び作り直して来た時には、父はまた眠ってしまっていた。そしてそれきりもう目を覚まさなかった。『わからんな。わからんな』が最後の言葉となった。翌日の午後攀じ4時8分---昭和3年10月15日---父は静かに行きを引き取った。」
人生の転機 / 榎本健一(1904〜1980) 喜劇役者
「勘当が許され、伯母のところで暴れたことも内緒にしてもらって、家に帰っていたが、まもなく、父親は病状が悪化して北里病院に入院した。入院中の父親を見舞に行ったとき、あの気の強い父親が、さすがにやせ衰えて元気がまるでなく、ものをいうのも大儀そうであった。そのうち、『健一、俺の命を半分とったのはお前だぞ』とポツンといった。別に息子が憎いという言い方ではなくて、長い間の感慨がこの一言に出たという感じであった。が、僕にとっては体中の血が一時に逆流するように思われた。この時ほど父親に申し訳内と思った事はなかった。
大正11年5月16日、病院からの急報の電話が入った。父親が危篤だというのである。僕は夢中で妹や家の者たちに『すぐあとから来い』と自転車に飛び乗って病院に駆け付けた。すでに父親は口もきけず目を閉じている。明らかに昏睡状態である。僕は思わず父親にすがって詫びた。
『お父さん、今まで心配ばかりかけてすみませんでした。これから心を入れかえて、きっと真面目になります。一生懸命働いて、立派になりますからどうか今までのことは許してください』。夢中になって父親に言った。すると、もう意識のない筈の父親の目からスーッと涙が流れてきた。それを脇にいた看護婦さんがガーゼで拭いてくれた。そして父親は死んだ。最期に僕のいうことがわかってくれたに違いない。僕は、もうたまらなくなって泣きながら外に飛び出して、自転車に飛び乗り涙でくしゃくしゃの顔のまま親戚に、父親の死んだことを知らせて回った。父親は42歳だった。これから僕の気持ちはガラッと変わった。」
看護婦としての父の死 / 亀山美知子(1945〜) 京都市立看護短大客員
「昼前、病院に出ていた私は、案の定、父が危篤になったためすぐ帰るようにという姉からの伝言を受けた。学生には実習中事故がないようにと注意し、急いで休暇の手続きをとった。
自宅を出かける用意をしながら、私はとまどった。どれくらいの期間になるか皆目見当もつかない。それに何気なく、黒いパンタロンを取り出しかけて私は躊躇した。喪服の準備をするようではばかられたのである。
午前6時40分、父がかかりつけていた成人病センターに着いた。どうしてこんなに早く着いたのか、自分でも信じられないほどだった。
父は、母と姉、姉の夫に囲まれて眠っていた。呼吸も脈も落ち着いていたが、意識は完全に無くなっていた。2時間後、中脳が圧迫されたことを示す瞳孔の変化をを見つけた私は恐ろしくなった。それは異様なまなざしだったからだった。
4月23日午前零時10分。一瞬、私は病室を出た。そのとき父の心臓が停止した。医師と看護婦が父をのぞき込むように立っている。モニターの波は一つの線になってしまった。ついに、父の心臓は、力尽きたのだった。
全てが、終わった。死は一瞬の出来事だった。意識のない父にとっては、もっと呆気ないものだったろう。
私は何気なく、父の足元の壁を見上げた。そこには誰かが貼った古びた風景写真がある。なぜか、そのとき、ニコニコと笑っている男の子の姿が見えた気がした。あまりにも健やかな笑顔だった。私には、それが父が生まれ変わった姿のように思えた。アジアには、古くから「生まれ変わり」の思想がある。小さなころから聞かされてきたその類の多くの話は私の中にごく自然にその思想を根付かせることになった。父とともに死を闘ってきた私は、その幻影の出現で、ふっと開放感を味わうことになった。
父の死について / 高野悦子(1929〜)
「『お前の周りにはお年寄りが多いから、少しは人と別れる練習をしておきなさい』と、50歳になってもまだ肉親の死に目にあったことのない私に、父はそういった。(中略)そんな説教をした父が、腹部大動脈瘤の破裂でそれからまもなく倒れた。そして、57日間の闘病生活のあと死んだ。
いま思えばおかしなことである。82歳の父をもちながら、私は一度も父の死について考えたことがなかった。必ずいつかは私にも訪れる親との別れを、私はなんの心の準備もないまま、呆然と迎えてしまったのである。(中略)私は父の骨を、父がいちばん活躍したハルビンの地を流れる松花江にながした。  
 
「死の教科書」 モンテーニュ 

 

フランス人モンテーニュは、1572年から約20年間にわたって『エッセィ』を書き続けた。その内容は「哲学の勉強は死ぬことの用意」だというわけで、「死」が主要なテーマとなっている。今からおよそ400年前、日本でいうと信長が将軍義昭を追放して、室町幕府が滅亡した頃(1573)に当たる。昨今「死」が書籍のテーマを賑わせているが、モンテーニュが語ったことを、今の時代が超えているかどうか知っていただくために、このテーマを選んでみた。
死を容易と思う人たち
庶民でも、普通の死ばかりでなく、非常な困難な死に直面しても、生まれつき単純なためか、全く平然として、何ら変わった態度を見せない者もたくさんいる。ある男は絞首台に引かれていく途中で「この道を通っては行けない。借金のある商人に見つかって、襟首を捕まえられる恐れがあるから」と冗談を言ったという。ある男は、懺悔聴聞僧から、「お前は今日、わが主と晩餐を共にするだろう」といわれると、「あなたが自分で行くがいい。私は断食中だから」と言った。ある男が絞首台に昇ったところヘ、皆が一人の女を連れてきて、「この女と結婚するなら命は助けてやる」と言った。男はちょっと女を見ていたが、びっこであることに気づいて「俺を縛ってくれ、あいつはびっこだ」と言った。
死の準備教育
足をしっかり踏まえて死を受けとめ、これと戦うことを学ぼう。そしてまず手始めに、最大の強みを敵から奪うために、普通とは逆の道を取ろう。死から珍しさを取り除こう。死に親しみ、馴れ、しばしば死を念頭に置こう。いつも死を想像し、しかもあらゆる様相において思い描こう。馬がつまづいた時にも、瓦が落ちてきたときにも「これが死であったら」ととっさに反芻しよう。お祭やお祝い事の最中にも、我等の境遇を思い起こさせるこの繰り返しを常に口づさもう。そして喜びにうつつを抜かし、こうした喜びが如何に多くの死に狙われているかを忘れないようにしよう。古代エジプト人は祝宴の投中や、御馳走の合間に、会食者への警告として、人間のミイラを持ってきた。死はどこで我々を待っているかもわからない。あらかじめの死を考えておくことは、自由を考えることである。死の習得は、我々をあらゆる隷属と拘束から開放する。
別れの準備
私が死ぬ前にしなければならないことを完成しようと思うならば、例えそれが1時間ですむことであっても、いくら暇があっても足りないように思える。我々は事情が許すかぎり、いつでも靴をはいて出かける用意をしていなければならない。特にその時には、自分のこと以外には何も用事がないようにしておかねばならない。なぜなら、死ぬときになれば余計なことを考えなくても、なすべきことが充分にあるだろうから。ある者は死によって輝かしい勝利が途中で中断されることを嘆き、ある者は娘を嫁がせないうちに、あるいは子供の教育を見てやれないうちに死ぬことを嘆く。私はありがたいことに、いつでも何も哀惜せずに、死ねるような気持になっている。もっとも命だけは別で、それを失うことが私の心を重くするのはなんとも仕方がない。私は全ての絆から解放されている。私自身を除いて、皆に半はお別れしている。
死の教育に意味がある訳
皆は私にいうかも知れない「死の事実は想像を超えているから、どんな見事な学問だって、いざその場に臨めば何の役にも立たない」と。何でも勝手にいわせておけ。だが、あらかじめ考えておくことは、確かに利益をもたらすものだ。それに少なくとも、動揺や身震いもせずにそこまで行けるということは、些細なことではない。あっという間の急激な死なら、それを恐れている暇がない。しかし穏やかな死ならば、病気の経過につれて、いつの間にか生を軽視していることに気がつく。熱病にかかっているときよりも健康でいるときのほうが、死の決意を消化するのにずっと手間がかかる。私は人生の喜びを楽しむことが出来なくなるにつれ、生に対して執着がなくなったから、以前よりも死をこわがらずに見つめることができる。
死は自然が助けてくれる
シザーは歳をとった兵士が路上で「死を賜りたい」と願い出たのに対し、そのよぼよぼな姿を見て「お前はそれでも生きているつもりか」と冗談を言った。もしいっぺんでそんな状態になったとしたら、我々はそのような変化に耐えられないだろう。しかし自然の手に導かれて、緩やかに、感じられないほどの坂道を、一段一段下っていくうちに、自然は我々をこの惨めな状態にすべり込ませ、慣らしてくれるのである。
死が恐ろしいと思える条件
「戦争で体験する死が、家の中で体験する死よりもはるかに恐ろしくないのはなぜだろうか。また、死は常に一つであるのに、百姓や卑しい境遇の人々の方にずっと多くの落ち着きが見られるのはなぜだろう」と考えてみた。私は、死そのものよりも、死の周りを取り巻いている人々の恐ろしげな顔つきや、ものものしい儀式が恐怖を生むのだと本当に思っている。そこにはいつものがらっと変わった暮らしぶりが見られる。母や妻や子供の泣声、びっくり仰天した人たちの訪問。あおざめた顔色と、泣きはらして付き添う召使い。陽のささない部屋、医者と僧侶に取り巻かれた病人の枕辺。つまりまわりにあるものは、全て恐怖と戦懐ばかりである。病人はすでに土中に埋められたも同然である。子供は友だちでさえ、仮面をつけたのを見れば怖がる。我々もそれと同じである。人からも、物からも、仮面を取り除かねばならぬ。仮面を取ってみれば、その下にはつい先日、身分の卑しい下男下女が、何の恐れもなく甘受したのと同じ死を見いだすだけである。
異常な死とは何か
人は生まれつき災害にさらされており、自ら期待する寿命をいつ中断されるかも知れない。老哀の果てに力つきて死ぬのを期待し、これを寿命の終局だと思うのは、何と虫のよい夢であろう。というのは、あらゆる死のうちでこれほど珍しい、普通でない死に方はないからである。我々は老衰による死だけを自然の死と呼んでいる。まるで高いところから落ちて首の骨を折ったり、難破して溺死したり、ペストに罹って死んたりすることが、自然に反するとでもいうかのようだ。いや、我々の普通の状態は、これからの不幸に会わせないとでもいうかのようだ。こんな言葉にいい気になってはいけない。むしろ、一般的で普通で、誰にもあることを自然と呼ぶべきであろう。老衰で死ぬことは、珍しい変わった、異常な死であり、それだけ他の死よりも不自然な死である。
死の実習
死は一度しか経験できない。死に臨むときは、誰もが皆初心者なのである。古代には、時間の使い方の非常にうまい人たちがいて、死ぬときにさえ、死の味を味わおうと努め、心を緊張させ、生から死への移り変わりがどんなものかを知ろうとした。だが彼らとてそこから戻って来て、報告したわけではない。
ローマの貴族ユリウスは、カリグラ帝に死刑の宣告を受け、いよいよ獄卒の手にかかろうという時、友人に心の状態を尋ねられ、「私は今、気持ちを整え、全力を緊張させてあっという間に過ぎる死の瞬間に、果して精神の引越しをいくらかでも少しでも認めることが出来るかどうか、見届けようとしている。そしてそれについて何かを知ったら、出来れば戻ってきて、知らせてやりたいと考えているところだ」と答えた。この人は死ぬときまで哲学したばかりではなく、死そのもののなかで哲学している。けれども、いくらか死に馴れ、死を経験する何らかの方法はあるように思う。我々も死についての完全とまではゆかなくても、せめて無益でないような、自分を強くし、落ち着かせるような経験を持つことは出来る。城内に踏み込むことはできなくても、せめてこれを眺め、その通路に出入りすることは出来る。
事故による体験
私の心に刻み付けられた死の思い出は、私に死の姿と観念を、まざまざと見せてくれ、いくらか死と仲良しにしてくれた。ようやく目が見えだしたが、視力は非常にぼんやりして弱く、光以外には見分けることが出来なかった。精神の機能は肉体が回復するつれて正気を取り戻していった。私は自分が血まみれになっているのに気がついた。胴衣が吐いた血で汚れていたからである。投初に浮かんだ考えは「頭に一発火縄銃をくったな」ということだった。私は自分の命がもはや、唇の先に引っ掛かっているにすぎないように思って、この命を外に押し出すのを手伝うかのように、じっと目を閉じながら、ぐったりと力が抜けて、そのまま消え入る自分に、快感を味わっていた。もっともそれは私の心の表面に浮かんだ一つであって、他の想像と同じように弱く、徴かなものであった。だが本当にそこには不快感がないばかりか、とろとろと眠りに落ち込んでゆくときに感ずるあの心地良ささえ混じっていた。
死からの回復
私が自分の家に近づいたとき、すでに私の落馬のことが知らされていて、家の者たちが、こういう場合に普通叫ぶような叫び声をあげて迎えに駆けつけた。(中略)その間、私の気分は本当に、きわめて穏やかで静かだった。他人のためにも、自分のためにも悲しくなかった。けだるさと極度の衰弱があるだけで、苦痛は少しもなかった。あのまま死んだら、嘘でなく、実に幸福な死であったろう。やっと正気に返って、力を取り戻したとき、それは2、3時間後だったが、いっぺんに痛みにとらえられたような気がした。落馬したときに、手足の至る所に打僕を受けていたからである。もしも私がここから次の教訓をくみ取らなかったとしたら、この些細な事故の話は全く空虚なものであったろう。事実、私は、死に馴れるためには、死に近づくしかないということを悟ったのである。
他人の死の観察
死は人の生涯においてもっとも注目すべき行為であるが、他人が死ぬときに示す落ち着きを判断するには、次のことを銘記しなければならない。即ち「人はなかなか死期に達したとは思わないものだ」ということである。これが自分の最期だと覚悟して死ぬ人はほとんどいない。またその時ほど、はかない望みに欺かれることもない。その望みが絶えずこうささやく。「他の人はもっと病気が重かったが死ななかった。お前は人が思うほど、見込がなくはない。それにいざという時に、神様がいろんな奇跡をお示しになる」と。我々は余りに自分を重大なものと自惚れるからこう考えるのである。自分が死んでしまえば、世界が何らかの損害をこうむり、我々の状態に心を動かすように思うのである。
安楽死の勧め
ローマの富豪アッテイクスは、病気にかかったので、婿のアグリッパと友人を呼んで、「自分はこれまで病気を直そうとしても無益なことを思い知ったし、生命を延ばそうとしてすることは、すべて苦痛を延ばし増大させることであることを思い知ったから、今度は生命と苦痛の両方を終えようと決心した」と言った。そこで自殺をするために断食を選んだところ、はからずも病気が治り、死のうとして取った方法で病気が回復した。医師や友人たちはこの幸運を祝い、彼とともに喜びあったが、それが思い違いであったことがわかった。というのは、それでも彼の意見を翻させることが出来なかったからである。彼は、いずれは超えねばならぬ通路だし、せっかくここまで来たのだから、改めて出直すことはない、と言って聞かなかった。彼は死を心ゆくまで知ったあとで、死と会うことに平気だったばかりでなく、熱中した。哲学者のクレアンテスの話はこれとよく似ている。彼は、歯茎が腫れて腐ったため、医者から厳しい断食を命じられた。2日間断食すると、大変良くなって医師からも治ったからいつもの生活に戻ってよいと言われた。ところが衰弱の中ですでにある快感を味わっていたので、いまさら後に下がるまいと決心して、すでに十分進んできた道をそのまま突っ走った。
気を紛らす事態
激戦の最中に、武器を手にして死ぬ人は、死を味わっていない。死を感じも考えもせずに、戦間の激しさに心を奪われているのである。私の知っているある貴族が、決闘の最中に転倒して、自分でも敵から9回か10回、剣で突かれたように感じ、並居る人々も口々に「魂の救いをお祈りしなさい」と叫んだが、彼があとで私に語るところによると、その声は耳に聞こえたが、そのために少しも動揺することはなく、ただ危地を脱して仕返しをすることしか考えていなかったそうである。
悲しみからの逃避
私はかって、自分の性格から、非常な悲しみに打たれたことがある。しかも、激しい以上に当然な悲しみだった。もしもその時、自分だけの力に頼っていたら、おそらくまいってしまったであろう。だが、それを紛らすために、強烈な気分転換を必要としたので、わざと努めて、恋をあさった。それには私の若さも手伝った。恋は私を慰め、友を失った悲しみから救ってくれた。ほかの場合もこれと同じで、つらい考えに捉えられた時は、それを征服するよりも変える方が近道だと思う。そのつらい考えに、反対の考えでなくとも、少なくとも別種の考えを置き換えるのである。変化は常に気分を軽くし、溶かし、散らしくれる。私はそれと戦うことが出来なければ、それから逃げる。
無くならない悲しみ
賢者は臨終の床にある友人を25年後も、1年後とほとんど遣わずに思い浮かべる。エピクロスによると、そこには何の違いもないそうである。なぜなら、悲しみは、前から覚悟していようが、年を経て古くなろうが、軽くなるものではないと考えているからである。けれどもこの悲しみの感情も、多くの他の考え事に次々と横切られるうちには、しまいに哀えて弱ってくる。
哀れを誘う原因
プルタークでさえ、死んだ娘のおかしい身振りを思いだして懐かしがっている。別れの挨拶、あるしぐさ、ある特別の可愛らしさ、遺言の思い出などが我々を悲しませる。シーザーの衣服は、彼の死をさほどにも悲しまなかったローマの全市民の心を動かした。耳を聾するほどに口々に名前を呼ぶ声、例えば「ああ、可哀想なご主人様」とか、「我が偉大なる女よ」とか、「ああ、大事なお父様」、「可愛い娘よ」とかいう胸を刺す繰り言も子細にみれば、唯の言葉と音の嘆きにすぎないことがわかる。言葉と抑揚とが心を打つのである。ちょうど説教者の興奮が彼らの理論以上に聴衆を打ち、屠殺される家畜の哀れな声が我々を打つようなものである。ところが、その事柄の本質と実質のはうは、考察も洞察もされないのである。
私の希望する死に方
もしも、生まれた土地以外の場所で死ぬことを恐れるなら、また、家族の者から離れては安心して死ねないと考えるなら、フランス国外へは出ていかれないだろう。だが、私は人と違っている。死はどこにおいても、私には同じである。だが、もし選べるものなら、床の中よりも馬の上で、家の外で、家族の者たちから離れたところで死にたい。友人たちに別れを告げるのは、慰めよりもむしろ胸をかきむしられる思いがする。私は世間の儀礼の義務などは喜んで忘れる。実際、友情の義務の中で、これが唯一の不快なことである。また、あの物々しい永別の言葉も忘れたいものである。なるほど皆にそばにいてもらうことには、いくらかの利益があるかも知れないが、そこには不快なことも生じてくる。私は瀕死の病人が、いかにもみじめに、一杯の人に囲まれているのを何度も見た。この人の集りが彼を窒息させるのである。平穏のなかに死なせてやることは、彼らから見れば義務に反することであり、愛情が薄く、世話が足りない証拠である。だから、ある者は瀕死の病人の日を、ある者は耳を、ある者は口をうるさがらせる。瀕死の病人の心は、友人たちの悲嘆を聞けば、おそらく憐愍で締めつけられるだろうし、ほかの連中の見せかけのごまかしの泣声を聞けば憤慨で締めつけられるであろう。常々、感じやすかった人が弱ってくれば、ますます感じやすくなる。こういう大事な瀬戸際には病人の気持ちに合った優しい手が必要なので、その手でもってちょうど病人のひりひりする所をさすってやらなければならない。それが出来なければ全然手を触れないことだ。この世に生まれるために産婆が必要なら、この世から出ていくときにはなおさら賢い男が必要である。こういう賢い友は、こういう場合のために、どんなに高い代価を支払っても買うべきであろう。
死を共にする者の会
各人は色々な死に方の中に、多少の選択の余地を持っているから、さらに一歩進めて、死のあらゆる苦しみから免れた死に方を見いだすように努めようではないか。例えば、アントニーとクレオパトラの「死を共にする者の会」の会員のように、死を快適なものにさえ出来ないだろうか。哲学や宗教から生まれる、激しい模範的な死には触れないでおく。愚か者にふさわしい死と、賢者にふさわしい死がある以上、この中間にふさわしい死を探そうではないか。
自然は死の教師
大抵の人にとって死の準備は、死そのものよりも苦痛だったことは確かである。死が目前にあるという感しは、我々を、どうしても避けられないものは、避けまいという咄瑳の決心で元気づけることがある。昔、多くの剣士たちは、始めはこわごわ戦ったが、後には敵の剣に咽を差し伸ベ、敵を促しながら、勇敢に死を飲み下した。だが死を将来に待ち受けることはゆったりした強さを、従ってなかなか得がたい強さを必要とする。あなた方は死に方など知らなくとも、少しも心配することはない。自然が、その場で余すところ無く十分に教えてくれるであろう。あなた方のために、正確にその努めを果たしてくれるだろう。そんなことに気を病む必要はない。
老齢の恩恵
神様から少しずつ生命を取り上げられてもらえる人々は、恩恵に浴している人々である。これこそ老齢の唯一の恩恵である。この最後に来る死はそれだけ無害なものであろう。この死は、その人間の半分か4分の1しか殺さないからである。今も私の歯が1本、痛みも苦労もなく抜け落ちたところである。これがその歯の自然の寿命だったのだ。私の存在のこの部分もその他の多くの部分もすでに死んでいる。また、私の盛りの頃に技も活発で第1位を占めていたあの部分も半分死にかけている。私はこうして溶けて、私から抜け出て行くのである。  
 
文学の中の「死」
 

 

乙女の死 / 『風宴』 梅崎春生(1938)
知らない人の死に立ち会うときの、青年の居心地の悪さと、やるせなさがうまく描かれている部分を見てみたい。学生である主人公は、友人のいる下宿に訪ねていき、偶然にも少女の死に会う。
「その時、壁の向こうで腸の千切れるような悲痛な泣声が起こった。別の声がそれを押っかぶせて娘の名を呼んだ。きみちやん!きみちやん!段々呼ぶ声が乱れ始めたと思うと、血をはくような号泣がそれに取って代わった。幾人もの鳴咽が断絶しながら起こった。襖を開く音がして、慌ただしいスリッパの音がしどろもどろに乱れながら遠のいて行った。(中略)
臨終。此の号泣を、此の下宿人は今皆聞いている。手も足も出ない下宿人達の心の姿勢は、此の上も無く奇怪なものに思われた。私は此の部屋にじっとすわっていることに、一種の不快な興奮を感じて、呼吸をぐっととめた。娘の名を連呼する泣声が再び烈しく起こった。鳴咽の声が仇に高まって来た。それにつれて、私の体にある袋のようなものがふくれたり小さくなったりするのが耐えがたく切なく感じられた。」
このあと主人公の学生は、喫茶店で過ごし帰ろうとするが、友人がもう一度下宿につれて帰り、通夜に参列することになる。娘の母親に案内されて奥の間の八畳に行き、死んだ娘と対面することになる。
「私達は枕頭に並んですわった。どうしていいのか判らない。恐ろしく悲しいような、むなしいような気がする。手や視線のやり場がなくて窮屈な感じに耐え難くなった時、死床の裾を迂回して向う側にすわったおかみさんの手が、顔をおおった白い布をはぎとった。」
妻の死 / 『リツ子・その死』 壇一雄(1950)
小説家壇一雄が、結核で死の床に伏す妻リツ子を看取る、厳しい状況を描いたもの。医者に僅かな命と知らされた作者は、布団のなかに入っていても、なかなか寝つかれるものではない。
「リッ子は死ぬ。二三日中に。これは確実だ。煙になる。亡びる。消えてゆく。死とは何だ。どうとりつくろうても、分明けな現実の感銘に近よらない。相変らず、波頭の不吉な幻覚ばかりが、頭をしびらすほどの、恐怖の形で襲い寄るばかりである。」
次にリッ子の母が、作者をより惨めな場所においやる。
「階上に上ってみるとリツ子の母が泣いている。私の袖を曳いて太郎の部屋の階段のところに連れだして、ぶるぶるふるえながら、
『まあ、壇さん。リッちやんな危篤ですげな、なあ』私は黙って肯いた。
『なんごと、かくしなさすと?親ですよ』とリツ子の母がかん走った。私も興奮から鼓動が部厚になってゆくようで、他愛もない遠い声のように聞えていた。」
その夜は大雨で、停電となった。雷の音に合せるように、リッ子は苦しそうに声を上げる。
「唇を濡らしてやる。乳房の辺りだけまだしきりに浴衣を掻きのける。悲しいうめき声がつづいている。
明るい稲妻に、瞬間、リッ子の顔が蒼白く浮上った。すさまじい雷雨がすぐ続いた。『ウォー、ウォー』ともう一度おおきいうめき声である。そのままぐったり奈落に陥ちこむふうだった。呼吸だけ僅かにはあはあと残っている。(中略)私は相変らず、手首を静に握っている。ともすれば微弱な脈拍が絶え間のない波の音にまぎれそうになる。
『あっ』と左手をリッ子の口にかざしたが、もうリッ子の息は絶えていた。」
ぼけ老人の死 / 『悦惚の人』 有吉佐和子(1972)
姑の死で始まるこの小説、舅の茂造は84才の高齢でぼけが始まっており、妻の死にあっても、別に悲しんでいるふうでもない、嫁の昭子は舅のさまざま世話をし、茂造が俳個して交番で保護されているのを、連れ戻した数日後の夕食時のこと、
「『ママ、お祖父ちやんが変だよ』茂造は目を閉じたままだったが、急に形相が変わっていた。顔が長くなったように見えた。喉がごろごろと鳴っている。いびきではなさそうだった。手首をさぐっても脈がない。
昭子が医者のところへ電話をかけている間、信利(夫)も敏も凝然として茂造を見ていた。顔色も変っている。血の気がひいたように思われた。信利は自分も茂造と同じ顔になっているのではないかと思っていた。戦場でまわりの人間がばたばた死んで行くのを見ていた頃が思い出されたが、あの経験とはまったく違っていた。平和なのだ、こうして親の死に目に会えるのだからと平静にそう思った。」
船での死 / 『船長泣く』 吉村昭
漁船が遭難して多くの犠牲者を出すのは珍しいことではない。しかし海上という、いわば極限状況での死は、ドラマチックで悲惨なものがある。本書のなかでは、漁に出た漁船がなかなか漁に結び付かず、船員のなかに手足のむくみが出てくるものが現われる。最初に52才の機関長が死んだが、若い者たちに動揺を与えるまでには至らなかった。
「遺体の処理について、船長を中心に会話が交わされたが、話はあっさりとまとまり、かれらは、異国に水葬という習慣があることを聞き知っていたが、海中に投棄でもするようなその処理方法は非情なものに感じられた。死者はあくまでも土に帰すべきもので、故郷の地、それが不可能の場合は船が漂着した地に埋葬することが、死者に対する儀礼であり遺族への義務であると信じていた。そうしたことから、かれらは水桶を棺桶代わりにして伝二郎の遺体をおさめ、船室に安置することに定めた。
かれらは沸かした海水で遺体を丁重に清め、髭を剃り船室に運びおろした。そして、空の水桶のなかに遺体を押しこんだ」
胎児の死 / 『ガラスの結晶』 渡辺淳一
会社勤めの律子は、同じ会社の社員の子を宿し、妊娠4か月に至って堕胎手術を行なう。
「『かなり大きくなっています』
膿盆の中央に白い胎児が横たわっていた。胎児は全体に薄い膜をかぶっているらしく、膜が端のほうで千切れて、そこから細い足がのぞいていた。2本の手と2本の足がある。顔と思われるところもたしかにある。目鼻立ちはまだはっきりしないが、中央に何か寄り集まった凹凸がある。頭の部分は少し黒みを帯びている。」
このあと律子は、わが子をみつめているうちに可哀想になり、手放したくなくなり、医者に欲しいとお願いする。
「『君が…』『いけませんか』『いかんというわけではないが…』『私のものでしょう』それはそのとおりだった。胎生4カ月を過ぎた子は未熟児として正式に火葬に付し、葬るのが原則であった。普通は堕した子はそんなことをしないが、するのが望ましかった。」
師匠の死 / 『枯野抄』 芥川竜之介(大正7年)
松尾芭蕉の死を描いた短編で、大正7年の作である。このとき芭蕉は51才、四方から集まったきた門人たちに囲まれて静かに息を引き取ろうとしている。
「寂然と横たわった芭蕉のまわりには、まず、医者の木節が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら浮かない眉をひそめていた。(中略)
芭蕉はさっき、痰せきにかすれた声で、おぼそかない遺言をした後は、半ば眼を見開いたまま、昏睡の状態にはいったらしい。うすものある顔は、かん骨ばかり露にやせ細って、しわに囲まれたくちびるにも、とうに血の気はなくなってしまった。とくに痛ましいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮かべながら、まるで屋根の向こうにある、際限ない寒空でも望むように、いたずらに遠いところを見やっている」
いよいよ師匠が死に、続いて末期の水の場面に入る。
「『では、御先ヘ』と、隣の去来に挨拶した。そうしてその羽根楊子をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そっといまわの師匠の顔をのぞきこんだ。実を云うと彼は、こうなるまでに、師匠と今生の別れをつげると云う事は、さぞ悲しいものであろう位な、予測めいた考えもなかった訳ではない。が、こうして、いよいよ末期の水をとって見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切って、如何にも冷淡に澄みわたっているのである。」
安楽死 / 『高瀬舟』 森鴎外(大正5年)
安楽死問題には必ず取り上げられる短編で、時代は寛政の頃。喜助という30才ばかりになる男が、弟殺しの罪で舟で運ばれる間に、身の上話をする。喜助は弟と二人で働いていたが、そのうち弟が病気となって家で寝込むようほなる。ある日、いつものように喜助が帰ってくると、弟が布団のうえに突っ伏しており、あたりが血だらけになっていた。
「…弟は真蒼な顔の、両方の頬から顎へかけて血に染まったのを挙げて、わたくしを見まわしたが、物を言うことが出来ません。息をいたす度に、傷口がひゅうひゅうと云う音がいたすだけでございます。」
兄の喜助は、なんとかして事情を聞き出すことに成功する。
「『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思ったのだ。笛を切った、すぐに死ねると思ったがそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力一ぱい押し込むと、横へすべってしまった。』」
これを抜いてくれたら早く死ねると、何度も弟は兄に頼む。そこで喜助は抜いてやろうと、剃刀の柄をしっかりと握って引き出した。間が悪いことがあるもので、その瞬間に弟の世話をしてくれる婆さんが、戸口を開け、この有様を見、あっと云ったきり表に飛び出していった。
「婆さんが行ってしまってから、気が付いて弟を見ますと、弟はもう息が切れていました。」
父の死 / 『塩狩峠』 三浦綾子(1968)
この小説は、明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして列車を止め、多数の乗客の生命を救った永野信夫の物語である。信夫の中学が終る年に、彼の父が亡くなるが、その葬儀は遺言によってキリスト式に行なわれた。式のあと、信夫は死のことを考え始める。
「朝夕床の中で、目をつぶっていると、信夫は死という字が、大きく自分に向かってのしかかってくるような圧迫を感じた。祖母の死といい、父の死といい、いずれも余りに急激であった。それは、有無を言わさぬ非情なものであった。そこには、全くの相談の余地も、哀願の余地すらなかった。せめて、二日、三日でも看病することができ、死んでいく者と残される者とが、話し合うことができたならば、いくらか悲しみは和らぐかもしれなかった。けれども祖母も父も、あっという間に意識を失い、ただおろおろと見守る中に息を引き取った。」
恋人の死 / 『愛と死』 武者小路実鷺(1974)
主人公には夏子という恋人がいた。そしてこの主人公は、一人神戸からヨーロッパに遊学の旅に出る。旅行の間でも二人の手紙のやり取りが行なわれていたが、帰りの航路のなかで主人公宛に電報が届く。それは、夏子が流感に罹って死んだとの通知である。
「人生は無情であり、悲惨なことはいくらでも起こり得ることを僕は理屈では知っていた。しかし自分がこんな目にあうとは、逢うまでは思わなかった。あんないい人間が、あんな丈夫だった人間が、こうももろく死ななければならないのか。あんなに逢いたがってくれたのに、遂に僕の帰るのを待てずに散っていったのが、どう思ってもあきらめがつかない。
僕は誰もいない処をさがしたが、船の中だし、二等だったので同室のものが二人いるので、心ゆく許り泣くわけにもゆかなかった。人が寝しずまってあたりがしんとしているなかを、声がもれないように忍び泣いた。」
肺ガン死 / 『優しさと哀しさと』 波辺淳一
院長が倒れ検査の結果「肺ガン」であった。院長には病名を隠し、放射線治療など行なうが、ついに広がったガンが胸膜炎を起こした。
「神野院長が最後の烈しい発作に襲われたのは、それから3日後の夕暮れどきだった。突然、夕立が襲い、それが通り過ぎるのを待つよううに、院長は咳きこみ、そのまま呼吸困難に陥った。いま骨ばかりになった院長の体が、海老のように丸くなり、酸素をもとめて、口だけが宙につき出される。部屋にはひゅうひゅうと低い角笛のよううな呼吸音だけが続き、両手が苦しげに喉をかきむしる。神野院長のまわりには、充分の酸素が送られ、静脈からは何本もの強心剤が流されているが、癌細胞でうずめられた肺は、もはや酸素をとり込み、吐き出す力もない。同様に癌で圧迫され、弱りきった心臓は、肺に血を送り込み、酸素をとり出す力もない。医師達は、いまはなすすべもなく、癌が最後の跳梁を欲しいままにするのを、ただ手をこまねいて見ているだけであった。
やがて、雨が完全に上ったころ、神野院長は最後の力をふり絞るように、頭をもたげ、顎をつき出した。それから思いがけない大きな息を吐くと、すべての力が尽きるようにゆっくりと、頭から白い枕のなかに落ち込んだ。
子宮ガン死 / 『神々の夕映え』 波辺淳一(1978)
本書では、治療の見込のない重度障害児の手術と臓器移植の問題、また安楽死がテーマとなっている。こでは48才の子宮癌の女性で、大学で手術をしたものの手遅れで、夫が院長の知人のため、この病院に送られてきたものである。癌の末期は死を看取るだけなのだが、この半月間ほど彼女は激痛で苦しんでいた。ここでは主治医が看護婦から夫人の様子がおかしいといわれ、様子を見に来るところである。
「私が病室に行くと、夫人はすでに目を閉じ、口だけでかすかに呼吸をくり返していた。宙に向けて軽く口を開けては閉じる、それは彼女の意志というより、体に残っている余力が、辛うじて口を動かさせているといった感じだった。夫人の横には長女と次女の二人がついていた。『いまから10分前に、こんな状態になって、もうう呼んでも全然答えないのです』長女の声は、さすがにうわずっていた。(中略)聴診器を当てたままにしていると、次女のほうが不審そうに私を見ているのがわかった。彼女の眼差しは、『ママが死ぬというのに、なにもしないの?』と訴えているようでもあった。私は婦長を見て「テラプチク」といった。それは強心剤だが、いまの夫人にはすでに効果があるとは思えなかった。むしろ現在の呼吸が弱った酸素欠乏の状態では、かえって心臓にショックを与える危険性があった。だが注射はするにこしたことはない。少なくとも次女はそれで納得するかもしれない。同じ死ぬにしても、第三者が納得できるだけの形を整えることが必要だといえた。」注射をうち、病室には西日が差すようになった。
「ドアの外を行く足音がして消えた。夫人の口から突然、引きこむような悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。それはなにか電流にでも打たれたような急激で荒々しかった。次の瞬間、夫人の顎が落ち、思いがけなく大きな息が洩れた。
死の苦悶 / 『イワン・イリッチの死』 トルストイ(1886)
死んでいく人間の心理をたんたんと描写し、「死」の教科書には必ず登場する短編が本書である。主人公のイワンは平凡な男で、左の脇腹が痛いという意外は何処に病気というわけではなかった。しかしこれが原因となって不機嫌なことが多くなる。死や人生について考えることが多くなり、また家族との精神的な距離も目に付いてくるようになる。
「結婚……それから思いがけない幻滅、妻の口臭、性欲、虚飾!それからあの死んだような勤め、金の心配、こうして1年、2年、10年、20年と過ぎていったが−すべては依然として同じである。先へ進めば進ほど、いよいよ生気がなくなってくる。自分は山へ登っているのだと思い込みながら、規則ただしく坂を下っていたようなものだ。(中略)こうしていよいよ終わりが来た−もう死ぬばかりだ!」
イワンはこうして何日も何日も、死について悩み苦しむ。そして僧が来て聖餐式を受け、ほんの束の間気分が軽くなった。しかしそれは本当の解決にはならなかった。これから3日間彼は叫び通したのである。「その3日間、彼にとっては時間というものが存在しなかった。彼はその間ひっきりなしに、打ち勝つことの出来ない、目に見えぬ力に押し込まれた、黒い袋のなかであがき続けた。ちょうど死刑囚が首切り人の手のなかで暴れるように、所詮助からぬと知りながら、暴れ回った。どんなに一生懸命もがいても、次第次第におそろしいものの方へ近寄っていく、彼はそれを各瞬間ごとに感じた。」
それから3日目の終わりで、死ぬ2時間前のことであった。このとき中学の息子が側に来ており、イワンはその手を取り、自分の唇に接吻した。息子も泣き、妻も絶望した表情でじっと夫を見つめている。彼は考えた。『俺が死んだらみんな楽になるんだ』と。そして手を一振りした。
「すると突然はっきり分かったいままで彼を悩まして、彼のからだから出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出ていくのであった。四方八方、ありとあらゆる方角から。妻子が可哀そうだ、彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分ものがれなければならない。『何ていい気持だ、そして何という造作のないことだ。』と彼は考えた。『痛みは?』と自問した。『一体どこに行ったのだ?おい、苦痛、お前はどこにいるのだ?』」
こうして彼が死を探したが、何処にも死はなく、そのかわりに光りがあった。これはほんの僅かな出来事であったが、彼は喜びのなかで死んで行くことができた。しかしかたわらに居る人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお2時間続いたのであった。(岩波文庫より)
トルストイがその17年前に完成した大作『戦争と平和』にも「死」の描写の印象深いものがある。主人公の一人アンドレイ公爵が戦争で負傷し、自宅で死を迎える場面である。
「彼は懺悔式と聖餐式を受けた。一同はさいごの別れに彼のそばに行った。息子が連れてこられたとき、彼はわが子に唇をつけて顔をそむけたが、それは、苦しかったからでも、子供がいとしかったからでもなく……ただ、これで自分に要求されることは全部だと思ったからであった。けれども、息子を祝福するように言われると、彼は言われたことを実行して、まだ何かすることがありはしないかとでも聞くように、あたりを見回した。魂に見捨てられる肉体の、さいごのけいれんがおこった時、公爵令嬢マリアとナターシャとはそこにいわあせた。」  
 
言葉・悲嘆

 

死をあらわす言葉
人が老いて命の終わりが近づいてくると、まず体が衰弱(すいじゃく)してくる。ではどうして衰の字に衣があるのか。「衰」は死者の襟もとに麻の組ひもを飾って魔除けとしたことを字に示した。葬礼の時には、日常の礼を控えるので、控えて少なくなることをあらわし、それが衰微の意味と変化したもの。
次に「憔悴」(しょうすい=やせおとろえること)の「憔」(ショウ)。焦は火の上で鳥が焼けて肉が縮むこと。そこから憔は心が焼け体が縮むこと。悴(スイ)の卒は死者の襟もとを結ぶ形で、憔悴は死に近い状態をあらわす。
「急」(キュウ、いそぐ)の字は、逃げる人の後ろから手を伸ばして捕まえる形を描いたものに心を加えた形。そこからせわしい心の状態を意味する。「急卒」(きゅうそつ)はにわかなこと。卒もにわか。「急逝」(きゅうせい)は急に亡くなること。
「危篤」(きとく)は病気が非常に重く、命があぶないことである。「篤」(トク)は馬が疲れる意味やてあついという意味があるが、病気が重いという意味もある。「瀕死」(ひんし)の重体というが、「瀕」は水際のことで、死が際まで迫っているということである。「臨終」は同じく死に際で、終わりに臨むことである。
そして死。「死」は偏の部分のタの上にトが組合わさった人の残骨の形、右のつくりの部分は「人」でその骨を拝している形で、死者を弔う意味であるという。
同じくシと発音する「屍」(しかばね)は尸と死が組合わされた形である。死亡して葬らない間は、尸(かたしろ)をたてることがないので、屍はまだ完全に魂が抜けきっていない遺体ということがいえるのではないだろうか。かたしろとは死者の霊の言葉を語る霊媒のことで、かっては子供がその役目をした。
死亡すると目を閉ざす。「瞑目」は目を閉ざすことで死ぬことをあらわす。また安らかに死ぬことなどの意味がある。「瞑」は目が冥(おおわれて暗い)で、目をふさぐという意味。
落命、絶命、隕命、畢命はそれぞれ死を意味する。「命」は人々を集めて口で意向を告げることで、命令に近い。そこから命は天からさずかった生きる定めのことをいう。
さて死者の霊魂は肉体から離れて、あの世へと旅立つのであるが、霊の旧字は「靈」と書き、巫女の雨乞いの儀礼をあらわした。そののち神霊を降すのも同じ儀礼が行われるので、霊は神霊のことを指すようになったという。
次に「魂」である。魂は云と鬼という字からなっている。云は雲気のこと。中国では魂魄(こんはく)といい、死者の魂は雲のように上に昇り、魄は魂の重い部分として、地の中に同化するものと言われている。魄の白は生気を失った頭骨の形である。
次に死をあらわす言葉に逝去、終焉などがあるが、「逝去」(せいきょ)これは他人の死の尊敬語であるが、「逝」はふっつりと折れるようにいってしまうこと。「終焉」(しゅうえん)は死に臨むこと。末期の意味であるが。「焉」の文字はえんという鳥の事で、終わりという意味はない。
「遷化」(せんか)は人が死ぬこと。高僧が死ぬことの意味の場合「せんげ」と発音する。遷のしんにゅうのない字は、死者を仮もがりするため、板屋などに移す意味の字である。藤堂明保の『漢字源』では頭の泉門から魂が抜け去る動作で、遷は中身がよそへ移ることと解している。
「卒」という字は「卒去」(そつきょ=一般の人の死)、「卒年」(死亡したときの年令)など死と関係の深い字である。これは死者の襟を結び留めた形で、死者の霊が迷い出ることを防いだという。
「斃」(ヘイ)は人がのたれ死ぬことをいう。敝は布が古びてだめになることであり、斃は疲れて倒れ死ぬこと。死亡の「亡」は死者の足を曲げている形といわれるが、『漢字源』では人を衡立で隠し見えなくなる意味にとっている。
戦歿者などの「歿」はつくりが水に沒すること。そこで死んでこの世から見えなくなることを意味する。
「訃報」(ふほう)の訃の字は、人が死んだことを急いで知らせるという意味であるが、つくりの「卜」は占いの割れ目で死の意味はない。
「故人」の故の文字は固まって固定した事実で、古いなどの意味である。故人を死んでしまった人の意味に用いるのは日本語で、故○○とするのも日本の用法である。また物故者の物故は中国の古典にみられるが、諸物はことごとく朽ちるため「故」といった。
僧侶の死は往生(おうじょう)、入定(にゅうじょう)、入寂(にゅうじゃく)、帰寂、滅度、入滅、寂滅、涅槃などという。また「帰幽」「昇天」などともいう。帰幽の幽は糸の束を火であぶって黒くすることで、そこから暗黒をさすようになった。そこで「帰幽」とは暗い所に帰るということになる。
「涅槃」はサンスクリット語でニルヴァーナ。火が吹き消された状態をいう。釈尊の入滅も涅槃という。仏教用語では他に「彼岸」、「浄土」があるが、「彼岸」は悟りの世界、仏界のことで、向こう岸に到達した状態をいう。「浄土」は仏国土の意味で、これも神道やキリスト教では使わない。
「彼岸」の反対語である「裟婆」(しゃば)は、これはサンスクリット語のサハーを漢字にあてたもので大地という意味がある。
押されて死ぬのは圧死、車に轢かれて死ぬのを轢死(れきし)、凍えて死ぬのを凍死、火に焼けて死ぬのを焦死、焚死(ふんし)焼死などという。水の中では、水死、溺死。
若くして死ぬのを早世(そうせい)夭折(ようせつ)、短命、早世(そうせい)などという。7才以下は無腹、8才から11才は下殤(かしょう)、12から15までは中殤、16から19までは長殤、長命で死亡する時は寿夭(じゅよう)寿終。子が親に先立つことを逆さ事という。
死のことば
逝(ゆく)、果てる、消える、罷(まかる)、歿す、終わる、引取る、身罷(まかる)、消え果てる、絶入る、事切れる、息盡(いきつく)、鬼籍(きせき)に入る、成仏、往生する、雲隠れる、死出の旅、帰らぬ旅、不帰の客
死の儀礼
死が発生するとまず葬儀の準備から始まる。しかし死を忌むこととして考えられた長い歴史がある。
この忌(キ、いむ)の「己」は『漢字源』によると、はっと目だって注意を引く目印の形で、忌は心に抵抗が起きて受け入れないこととある。忌が使われる熟語に、「忌日」(きじつ)=親の命日。事を行なうのに忌み避ける日。「忌中」(きちゅう)=喪に服している期間。人の死後49日間。「忌服」(きふく)=喪に服している期間。忌は家で慎む期間、服は仕事しながら慎む期間。「忌諱」(きき、慣用できいともいう)=命日と諱(いみな=死んだ王の名)。いみきらう。いみさける。「忌辰」(きしん)=死者の命日などがある。
「凶」。これは胸に入れ墨をした形で、横死者の遺体の胸に入れ墨をして、その霊の災いを防いだという。
「儀式」の「儀」は、ほどよく整って手本となる人間の行為という。私儀の場合は、私に関することという意味で日本語である。「式」の字は巫女などが左手に呪具を持つ形で、法式の意味となる。
「祭」は肉と又と示からなる。示は祭卓をあらわし、その上に肉を供えて祭ることである。「祭祀」の祭は人を祭り、祀は巳(蛇)からわかるように大地などの自然神を祀ることをいう。「齋場」の斎は、神事を行う婦人が髪に飾りをつけ、祭卓の前で奉仕する意味。
「喪」は哭と亡とからなる字で、死者を送って口々に泣くこと。「喪礼」(そうれい)は葬儀や喪中の礼法。「葬」の字は草むらに遺体を遺棄し、風化したものをあらためて祭ること。これは漢字が出来た当時、複葬が行われていたことを示すものである。手あつく葬るのを「厚葬」、簡単に行うのを「薄葬」という。
「弔」(チョウ)は矢に糸をまきつけたものの形で、屍を野に捨て、その骨を拾うときに、弓を持参したのではという。「弔慰」=死者を弔い、遺族を慰めること。
「香奠」の奠は酋(樽酒)を台に乗せて神に供えること。「香典」の典は書物を台の上に平に並べた形で、どちらも、仏前に香を供えるという意味となる。
さて次は遺体を「棺」に入れる順となるが、棺は遺体を布でくくって納める木製の箱。官は館の原字で周囲を塀で取り巻いた館。「柩」の久は遺体を後から支える形。それを納めたものが柩である。「殯」(ヒン)は賓、つまり主人に次ぐ位の客をあらわす。そこで殯は死者に対して客のように大切に扱うこと。
「廟」(びょう)はもともと朝礼を行うところで、それが祖先の霊を祭る場所であったが、政教分離により祖先の祭だけを行う場所となった。
「墳墓」の「墳」は土を盛り上げて作った墓。「墓」の莫の字は夕暮れや暗黒の意味がある。墓は古くは地下に作られ、土を盛ることはなかったという。墓には「碑」がつきものであるが、これは立てた石で、墓穴に棺を下ろすとき石に穴をあけて、そこに紐を通して下ろしたという。のちにそこに経歴が記されるようになった。古い石碑にはそうした穴が開いているという。石碑に刻まれている「諡」(シ、おくりな)は死んだ人の功績につける名。「諡号」は生前の功績を賛えてつける称号。「諱」(キ、いみな)。人の死後その人の本名を避けること。つくりは違(いきちがい)の原字でぶつからないように避けること。
次ぎに遺族のことを調べてみると、この「遺」の貴は貝を両手に持って人に与える形である。寡(カ、やもめ)は未亡人のこと。廟中にあって、頭に喪章をつけた婦人が、霊を拝する形。男は鰥(やもお)と書く。つくりは涙のことで、魚のように目をあけて涙を流す妻を失った者をあらわす。
悲嘆の過程をあらわす言葉
親の死、配偶者の死、子供の死、遺族にとってその悲しみはさまざまな違いがある。また月日の経過とともにその悲しみのニュアンスは微妙に変化していく。そうした違いを一言で悲しみと片付けることは出来ない。漢字は多くのニュアンスを知っているのである。
死を迎える患者の心理経過を研究したキューブラー・ロスは有名な5段階説を発表したが、それにそってみていくと、
(1) 死の事実の否認と隔離
(2) 怒り
(3) 取引
(4) うつ状態
(5) 受容
これは患者の心理状態であるが、家族の死を体験する遺族にとっても心理的変化がある。遺族の悲嘆には次のようなものがある。
(1) 肉体的苦痛と虚脱感
(2) 悲しみ
(3) 罪意識を感じる
(4) 運命に対する怒り
(5) 現実感の喪失
(6) 幻覚
こうしたものをランダムに複合して感じながら徐々に日常生活に復帰していくことになる。
まず人間の心の字を見ると、「心」(シン、こころ)は心臓の形を描いたものである。
熟語には、「心喪」(しんそう)=定まった喪の期間が過ぎても、心のなかで喪に服すること。「心痛」(しんつう)=悲しんだりして心を痛めること。「心労」(しんろう)=思いわずらうこと、などがある。
おどろき
死の宣告を受けたときは、悲しみより先に驚きや拒絶となってあらわれる。
「驚」(キョウ)の字は馬が驚いて前脚を上げて上向きになった姿を形にしたもの。「驚愕」はおどろき恐れるという意味。驚の同訓には愕、駭(がい)がある。驚ははっとして心がしまること。愕は驚いて何をしていいかわからないこと。駭は驚より強くびっくりして肝を潰すこと。
「愕」(ガク)の咢は口々に騒ぐ様子。予期しない事態に驚く。「愕然」(がくぜん)=非情に驚くさま。
「慄」(リツ)の栗は針が連なっているので、連続して刺すことを意味する。慄は刺激が連続して続くこと。「慄然」(りつぜん)=恐れて震えること。
「憾」(カン)は心に強くショックを受けること。「憾恨」(かんこん)=いつまでも残念に思う。
「愴」(ソウ)は形声文字で、心をいためること。「愴然」(そうぜん)=つらさにうちひしがれるさま。「悲愴」(ひそう)=かなしく愴(いた)ましいこと。
かなしみ
家族や知人の死にともなう感情に悲しみがある。
「悲」の「非」は羽が左右に裂けること。胸が裂けるような苦しみを表す。悲は喜びの反語で、熟語には、「悲哀」(ひあい)=悲しく哀れなこと。「悲傷」(ひしょう)=悲しみ痛む。「悲嘆」(ひたん)=悲しみ嘆く。「悲壮」=いさましくかなし、などがある。
「悲辛」(ひしん)=つらいかなしみ。「悲惨」(ひさん)=かなしくいたましい。「悲報」=かなしい知らせ。「悲痛」=かなしくいたましい。
「哀悼」の「哀」(アイ)は衣の襟もとに死者の魂をよぶための祭具を入れて、魂よばいをする形である。哀の反語は楽で、心にあわれを感じてかなしむ意味。「哀傷」は人の死を悲しみいたむこと。「哀別」は別れを悲しむことである。
「悼」(トウ)は人の死を思って悲しむこと。「哀悼」(あいとう)は人の死を悲しみいたむこと。「悼惜」(とうせき)は人の死を悲しみいたむ。
なく
「泣」(キュウ)は、水粒のこと。「説文」に声を出さずに涙を流すのを「泣」とある。
「涕」(テイ)は下へ落ちる涙で、「涕泣」は涙を流して泣くこと。
「哭」(コク)は大声を上げてなくこと。慟哭、悲哭、哭泣(こくきゅう)などの熟語がある。「啼泣」(ていきゅう)も声をあげてなく意味である。
「咽」(エツ)は声がむせびふさがること。むせび泣くのを「鳴咽」(おえつ)。
「慟」(ドウ)の動は上下に動くこと。そこで慟は体を上下して悲しむこと。「慟哭」(どうこく)は身を震わせて大声で泣くこと。
なげく
「嘆」(タン、なげく)は興奮して口が熱くなって乾くこと。「嘆息」(たんそく)は、なげいて溜息をつく。「歎」(タン、なげく)はおどろいて息をはあと出す。この字はよい場合にも悲しい場合にも用いる。
「慨」(ガイ)の既は腹が一杯になることで、慨は心中が一杯で胸が詰まること。慨嘆(がいたん)=胸を詰まらせて嘆くこと。
「愁」(シュウ)の秋は草木も人の心も引き締まること。そこで心が引き締まること。
「愁心」(しゅうしん)=心細い気持ち。「愁傷」(しゅうしょう)=ご愁傷さまです、で用いられる。悲しみ嘆くこと。
いかり
遺族にとって、さまざまな抑圧されたエネルギーが怒りとなって、吹き出すことがある。
「怒」(ド)は形成文字で奴がいかるさまの音を形容する。「怒気」=いかったさま、
「怒号」=怒って叫ぶ。同訓に忿(フン)、恚(イ)、慍(ウン)、憤(フン)、瞋(シン)、嚇(カク)がある。忿は腹を立てて恨むこと、恚は恨み怒ること、慍は心の中でむっとする、憤は怒りが吹きでそうになること、瞋は怒って目をむくこと、嚇はかっとして怒鳴ること。
「怨」(エン)の字は、人が二人小さく屈んでいる姿を描いたものに心を加えた形。いじけて発散できない心を表す。「怨霊」(おんりょう)=うらんでたたりをする死霊。「怨魂」(えんこん)=恨み心。恨みを残して死んだ者の魂。「怨嗟」(えんさ)=恨み嘆く。
なやむ
遺族が死に対する責任や罪意識に悩むというのは、親の場合では「生前もっと親孝行させてあげるんだった。」「もっと早く病院にかかればこんなことにはならなかった」などのように、自分を責めさいなみ、悩むのである。
「悩」(ノウ)の字の意味は心をみだすこと。悩と思は同じ形であり、ここから「思うことは悩むことである」という事が語源的にもよくわかる。「苦悩」=苦しみ悩むこと。同訓に屯(チュン)、懊(オウ)、艱(カン)がある。屯は心配事があって悩むこと、懊は恨みもだえること、艱は事の難儀なこと。
「懊」(オウ)の奥とは部屋のすみに米がちらばることで、そこから奥深いすみのこと。懊は奥のすみに心がこもること。「懊悩」(おうのう)=心の底から深く悩むこと。
「憂」(ユウ)は頭と心が悩ましく足が滞る字。沈んだ気持ち。「憂服」(ゆうふく)=悲しんで喪に服すること。「憂鬱」(ゆううつ)=思い悩んで心が晴れないこと。「憂苦」=憂え苦しむ。
なぐさめる
なぐさめるという漢字は「慰」である。「慰」(イ)の尉は火で押し伸ばす意味がある。そこから不安の気持ちを抑える慰安の意味となる。「慰藉」は慰めいたわること。同情して慰めること。「慰撫」(いぶ)=なだめること。慰めいたわること。「慰謝」=慰めいたわる。
あわれむ
「憐」(レン)のつくりは次々と続いて絶えることのないこと。心があることに惹かれ、思いが絶えないこと。あわれむという意味がある。「憐愍」(れんびん)=かわいそうに思うこと。「憐惜」=あわれみおしむ。あわれむの同訓は恤(ジュツ)、矜(キョウ)、哀、閔(ビン)、愍(ビン)がある。恤は同情すること、「救恤」。矜、閔、愍はいずれも心でふびんに思う意味。
「憫」(ビン)は隠れた点まで思いやること。「憫凶」(びんきょう)=父母に死別する不幸。
さまざまな心の状態
遺族が身内の死を体験した時には、その心の傷は何年も、時によっては一生癒されないまま継続するという。
「惜」(セキ)の昔は日が重なるなど重なることを表し、惜は心に思いが重なって忘れられないこと。「惜別」(せきべつ)=別れを惜しむ。別れをつらく思う。
「忘」(ボウ、わすれ)の亡の字はなくなるという意味。そこから心のなかに記憶がなくなること。「忘形見」(わすれがたみ)=忘れないように残しておく記念の品。
「忍」(ニン、しのぶ)刃はしなやかで強い特性があり、こうした性質の心をしのぶという。「忍土」(にんど)=この世。裟婆世界。「忍辱」(にんじょく)=恥を忍ぶ。仏教語ではニンニクと発音する。
「忽」(コツ)勿は吹き流しがゆらゆらしてはっきりしないこと。心がはっきりせず見過ごしている状態。「忽然」(こつぜん)=たちまち。にわかに。「忽焉」(こつえん)=すみやかな様子。たちまち。
「念」(ネン)今は中に入れて含むことを表し、念は心の中に深く考えること。「念仏」(ねんぶつ)=一心に仏の名号を唱えること。
「悶」(モン)の門は入り口を閉ざすこと。胸がふさがって外に出さないこと。「悶死」(もんし)=もだえ苦しんで死ぬ。「悶絶」(もんぜつ)=苦しみ悶えて気絶する。
「悔恨」(かいこん)=後悔して残念に思うこと。悔は心が暗い気持ちになること。恨の艮(コン)の字は、目の縁に入れ墨をしていつまでも残ること。そこで恨は心の傷がいつまでも残ること。  
 
死に様

 

○ 相対死(あいたいじに)
心中。江戸幕府は「心中」の語を禁じた。
[男女申し合わせ相果てた者のこと]不義にて相対死した者の死体は取り捨て、弔いをしてはならない。但し一方が生きていた場合、下手人として処罰する」
○ 圧死(あっし)
物につぶされて死ぬこと。
「1293年4月5日、鎌倉に大地震が起こった。…天は鳴動し、地は揺れ動き、泣き叫ぶ人の声で、物の区別もつかない。壁は倒れ、棟は落ちて、あるものはたいらに押し潰され、男女合わせて、死者はおよそ1万人及んだ。」(北条九代記」11)
「神戸市西区の県立神戸高塚高校で、1年生石田僚子さん(当時15歳)が校門の門扉に頭をはさまれて圧死した事件で、兵庫県は16日、僚子さんの遺族と賠償額6千万円で示談が成立したことを明らかにした。」
○ 安楽死(あんらくし)
助かる見込のない病人を苦痛から解放するために死期を早めること。
「昭和25年4月14日に東京地方裁判所で判決のあった某朝鮮人の病母嘱託殺人事件は、わが国はじめての安楽死事件として注目された」
○ 縊死(いし)
首をくくって死ぬこと。
「天皇は使者を出して皇女を調べたが、皇女は知らないと答えた。そして急に神鏡を持ちだし、五十鈴川に行き人の寄らない場所を選んで鏡を埋め、首をくくって死んだ」
[首縊(くびくくり)見分]自縊の場合は首筋が伸び、縄目がくびれ込み、洟やよだれをたらし、両足へ血が下がり太くなっている。他人の仕業ではこれはない。
「縊死の特徴は、首をつった瞬間に意識を失うことである。」
○ 医療事故死(いりょうじこし)
「医療事故とは、診療中に思いがけなく期待に反した悪い結果が起こったことをいい、その結果死亡したことを医療事故死という」
○ 討死(うちじに)
戦場で戦って死ぬこと。
「合戦の場で主君とともに討死し、また腹を切るのは常の習いだが、こんなためしは他になかろうと舌をまかない人はいなかった」
「島原にて具足は陣屋にかざり置いて、袴羽織にて戦い、そのままにて討死」
○ 怨死(うらみじに)
恨んで死ぬこと。
「口惜しと思ひ給ひけるにや、七日といふに、怨死に死に給へり」
○ 殪死(えいし)
たおれ死ぬこと。
○ えつ死(えつし)
暑気にあたって死ぬこと
「1871年ドイツ凱旋軍のベルリンに入るや、えつ死あること免れざりき」
(*えつは日偏に曷と書く)
○ 横死(おうし)
事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬこと。
○ 思死(おもいじに)
思いつづけて死ぬこと。
「思死(に)死に給ひなば恐しくもこそ」
「思死(に)極めるのが恋の極致、主従の間もこの心ですむ」
○ 客死(かくし)
旅先で死ぬこと。きゃくし。
[野口英世博士アフリカに客死す]博士はアフリカ黄熱病の病原体研究のため昨冬ロックフェラー研究所より単身西アフリカのアシアンチ州アクラに出張研究中…研究の犠牲になってこの病気のために倒れたのである。
○ 仮死(かし)
呼吸が停止し、一見して死とちがわぬ状態。
○ 餓死(がし)
飢え死に。
「築地のそばや道ばたで餓死している者の数はたいしたものだ。誰もその死骸を片付けようともしないので、臭気が都中にあふれ、それが腐爛していく様子は、とても目をむけられない。」
「筑前でも、キリシタンが信仰のために監禁されていたが、中5人は餓死した」
「天明3年秋、北国飢饉にて、南部・仙台・津軽餓死に及べり。その秋南部より山ごしに、羽州秋田へ来たれる回国の行者がかたるには、南部領を過ぎた時、どの方角でも白く小山のごとく積み置いたものが多い。何かと見ると、餓死人の死骸20、30集め置いたものなり。」
○ 過失致死(かしつちし)
不注意や怠慢などの過失によって死に至らすこと。
○ 過労死(かろうし)
働き過ぎが原因で死ぬこと。
「過労死は、その原因が過労であること、発症から死亡までを24時間と限定しないこと、また死亡に限らず、重度障害者としての生存者を含む点で、突然死と区別されます。」
○ 敢死(かんし)
死を覚悟すること。
○ 急死(きゅうし)
突然死ぬこと。突然死
「一般的にいえば、外因的急死は法医学の対象であり、内因的急死は病死であるので病理学の対象となる。」
「そんな彼に急死が来ることも計算にいれた暮しであって、悔いることはなかっただろう」
○ 窮死(きゅうし)
窮迫して死ぬこと。
○ 切死・斬死(きりじに)
切り合ってその場で死ぬこと。
「只一騎馳せ帰り、大勢の中へかけ入りて、切死にこそ死にけれ」
○ 絞死(こうし)
首を紐または手で絞めて殺すこと。
「死班が縊死(いし)と絞死との鑑別に役立つことがある。…絞死ではその死んだ時の体形に従って下位に死班が出来ている。」
○ 焦死(こがれじに)
恋い慕うあまり、病気になって死ぬこと。
「千愁百病となつて、焦死その数を知らず」
○ 獄死(ごくし)
牢獄の中で死ぬこと。
「前項の規定は、在監中死亡したる者ありて死体の引取人なき場合にこれを準用す。」
○ 個体死(こたいし)
主に人の死をさす。
「従来の心臓死のほかに、脳の死(脳の不可逆的機能喪失)をもって人間の個体死と認めてよい」
○ 骨折死(こっせつし)
骨折が原因で死ぬこと。
[ウルトラCで骨折死]私立西山高校2年の器械体操部員新見悦子さん(17)が、跳馬の練習で前一回半回転跳びをしたさい着地に失敗、頭からマットに落ち首を骨折、27日死亡。
○ 惨死(ざんし)
むごたらしく死ぬこと。さんし。
○ 慙死(ざんし)
恥じて死ぬこと。
○ 事故死(じこし)
事故にあって死ぬこと。
「両親パチンコ中にヨチヨチ、1歳坊やが事故死」
○ 自然死(しぜんし)
寿命が尽きて死ぬこと。
「自然死とは、全身諸臓器が老化して死に至るものと思われるが、いわゆる老衰といわれている死体を解剖しても、本当の自然死というものはほとんどなく、おおむねなんらかの疾病による死亡と考えられる」
「さびしいわれわれは、あなたのその自然死のような絶対の寂けさを思うと羨ましくなります。」
○ 十死(じっし)
生きる見込みなく、きわめて危いこと。
「既に十死の体に見え候」
○ 愁死(しゅうし)
うれえて死ぬこと。
○ ショック死
体験したり見聞きした出来事に驚いて急死すること。
「ショック死は英仏ではインヒビシオン死ともいうが、たびたび腹部を蹴られたりした結果ポカリと起こる」
○ 殉死(じゅんし)
主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること。
「明治天皇の霊柩を送りまつりし悲しき夜、我等は更に一つの悲報に接しぬ。それは日露の役に偉勲をたてて赫々たる名誉を天下に輝かしたる乃木将軍殉死の報これなり」
○ 衝撃死(しょうげきし)
大きな衝撃が原因で死ぬこと。
[犠牲者の約200人『衝撃死』]名古屋空港の中華航空機墜落・炎上事故で亡くなった乗客・乗員263人のうち200人前後は墜落の衝撃で全身を強打、ほぼ即死状態だったことが29日、愛知県警と運輸省航空事故調査委員会の調べでわかった。
○ 焼死(しょうし)
焼け死ぬこと。
「火は燃え上がり、城は崩れて軍卒はことごとく逃げた。狭穂王と妹は城のなかで死んだ。」
「(城の火が)焼け静まって跡をみると、正成は自害して焼け死んだように作られていた。寄せ手の軍兵たちはこれを見て、楠木正成は自害したと思い、万歳を唱えながら、憐れむ者も多かった。」
「入院患者が焼死。足が不自由、逃げ遅れ」
○ 殤死(しょうし)
わかじに。はやじに。
「頼朝の息女乙姫君は…同20日の正午、ついに息を引き取られた。御年いまだ14歳である。」
○ 情死(じょうし)
相愛の男女(同性の場合もある)がいっしょに自殺すること。
「情死のはじめてして、寛永17年に伊丹左京と舟川妥女という二人の美少年の同性心中が『藻屑物語』に記録されている。」
○ 浸死(しんし)
水におぼれて死ぬこと。
○ 震死(しんし)
雷にうたれて死ぬこと。
「およそ震死する人で、その体が焼け焦がれている場合は珍しいが、音に驚いて肝を潰す場合が多い。あるいは落ちた家はどうもないが、隣の家の者が死亡することを聞くことがある。」
○ 心労死(しんろうし)
悩み苦しんで死ぬこと。
「父親の心労死も要求する『日航御巣鷹事故』の息子」
○ 水死(すいし)
水に溺れて死ぬこと。
「享保9年6月、深川八幡社地の相撲の番付を見るに、成瀬川土左衛門が前頭のはじめにある。江戸の方言に溺死の者を土左衛門というのは、成瀬川が肥大の者ゆえに、水死して全身が膨らんでいる姿を土左衛門の如しと、冗談をいっていたが、ついには方言となるという。」
[和歌山中学校短艇部ボート]岡道雄部員らが明光丸で和歌浦からこぎ出したが、激浪に巻き込まれ8人全員水死。
○ 垂死(すいし)
ほとんど死にそうな状態。
○ 衰弱死(すいじゃくし)
おとろえ弱って死ぬこと。
[マッターホーンで連続遭難]北壁頂上近くで大津市・八日市山の会の徳田則夫さん(34)ら二人が猛吹雪で衰弱死。
○ 戦死(せんし)
戦争で死ぬこと。
[28年目の戦死者]フィリピン・ルパング島で元陸軍1等兵小塚金七さんが、警察軍との銃撃戦で死亡。戦後28年目、小野田元少尉らと潜行中だった。
○ 即死(そくし)
間をおかずに死ぬこと。
「フグは熱物であるから、体内に鬱火が盛んな人がこれを食うと、火の気が盛んに湧いて脈彬絡をふさぎ即死に至る。虚火の人がフグを食べても死なないなり」
「高い所から落ちるとか、氷の上を滑って倒れるとか、汽車の衝突とかの結果即死する事がある。これは脳震盪である。」
○ 尊厳死(そんげんし)
助かる見込のない患者の痛みを軽減したり尊厳を保つために、生命の延長に支障があっても、モルヒネなどの沈痛剤を積極的に使用すること。消極的安楽死。
「ヒロイックな医療処置の不実施は、『生命維持装置の停止』と一般に表現されるが、これに伴ってひき起こされる死に対しては、『尊厳死』という命名が、ひろくゆきわたりつつある。」
○ 倒死(たおれじに)
路上などに倒れて死ぬこと。
○ 致死(ちし)
死にいたらせること。
○ 窒息死(ちっそくし)
呼吸困難で死ぬこと。
「窒息死のときは、病死のときとはちがって、個体としては死んでいるが、身体の組織、細胞はまだ平常通り新陳代謝をいとなんでおり、血漿の酸素をとって組織中にできた炭酸ガスを排出する。」
○ 中毒死(ちゅうどくし)
毒物を摂取して死亡すること。
「冷房中の密室で、湯わかし器不完全燃焼。5人中毒死。」
○ 直撃死(ちょくげきし)
物体などが急所などに激しく当たって死ぬこと。
「通行人直撃死-保険の対象外。ゴルフ路上素振り-練習にあらず。大阪地裁、加害者の請求棄却」
○ 墜落死(ついらくし)
乗っていた航空機などが墜落して死ぬこと。
[米国で空の留学死]大阪府立泉尾高校1年河田天君(16)が夏休みを利用し米カルフォルニア州レイク・エルシノ町でスカイダイビング訓練中に墜落死。
○ 溺死(できし)
溺れ死ぬこと。
「水浴中または水泳中、急に死ぬことがあるが、これは真の溺死ではない。心臓麻痺がその原因であることが多い。」
○ 転落死(てんらくし)
転落して死ぬこと。
「幼児どぶ川転落死『両親』の権利生活」
○ 凍死(とうし)
低い温度によって死ぬこと。
「屋外では、5度C、無風状態で空腹・半裸体ならば1日以内に死の転帰をとる。」
[蔵王熊野岳・川鉄スキー部員7人]猛吹雪のため、山口晃リーダーら4人凍死。
○ 徒死(とし)
いたずらに死ぬこと。
○ 頓死(とんし)
脳卒中などでにわかに死ぬこと。
[蔵人式部丞貞高、殿上においてにわかに死す]その身は栄華にあかし、この家次第に衰え、天命を知る歳になって、ふだんの不養生がたたって頓死せられた。
○ 乳幼児突然死(にゅうようじとつぜんし)
「1979年の第9回国際死亡分類の修正の際に、乳幼児突然死症候群(SIDS)として正式に登録され、新しい疾患概念として確立されるに至った。
○ 脳死(のうし)
回復不可能な脳の機能停止。
「脳を大脳と脳幹に分けて、外側の大脳だけが死んで脳幹が生きている状態を『植物状態』、大脳がまだ生きていて脳幹が死んでいる状態を『脳幹死』、全部死んだ状態を『全脳死』というのだとよく説明されます」
○ 野垂死(のたれじに)
路傍などに、倒れて死ぬこと。
○ 爆死(ばくし)
爆弾の破裂によって死ぬこと。
[浜松市外神久呂村駐在所、森下巡査]山林で爆薬を使った密猟犯を取り締まり中に爆死。犯人も首つり自殺。
○ 早死(はやじに)
年若で死ぬこと。
○ 犯罪死(はんざいし)
犯罪行為が原因で死ぬこと。
「犯罪死は、主要刑法犯、とくに凶悪犯の殺人、放火および強姦致死、粗暴犯のなかの暴行・傷害致死で成立する。その他業務上過失致死(交通事故によるもの以外)を含む。」
○ 乾死・干死(ひじに)
うえじに。
「頼豪はやがて乾死に死ににけり」
○ 病死(びょうし)
病気で死ぬこと。
[死ぬるを病死という事]今の世、表立った文書などに、人の死ぬを病死ということとしている。そもそも人は病気でなくて死ぬことは、百人や千人のうちの一人くらいで大変にまれなことである。がいして皆病気で死ぬのであれば、それをことさらに言わなくてもよいと思われる。これは昔、乱れた時代には、戦って死ぬ者が多かったために、病死は病死と分けて言った当時のなごりである。」
「半年間、足取りプッツリ、都会の片隅で孤独の病死」
○ 瀕死(ひんし)
死期が迫ること。
「これまで彼女の瀕死の床を見舞うことも一再できなかった私としてだけの思いである。」
○ 腹上死(ふくじょうし)
性行為が原因で脳血管障害などで死ぬこと。
「どうやら東郷の死因は単なる酒や過労による心不全ではなくて、熊本市内でひろった女との度の過ぎた遊びによる腹上死だったらしい、というものだった」
○ 服毒死(ふくどくし)
毒を摂取して死ぬこと。
「その子孫に毒薬を飲ませ、首を締めて殺したあと、長屋親王は薬を飲んで自害された。天皇は勅を出して、彼の遺体を城の外に捨てて、焼きくだき、川に散らし、海に捨てさせた」
「甲州にかがいもあり。…やがて蒸して手習いの子供にふるまったところ、しばらくしてその子供11人残らず死亡した。親たちは聞き驚いて師匠のところへ来て、このように大勢が一同に死んだことは不思議なり、きっと毒を入れたに違いないという」
○ 刎死(ふんし)
自ら首をはねて死ぬこと。
「11月3日、ある者が宮の東の岡に登り、何か怪しい言葉を口にしたあと、自らの首をはねて死んだ。この夜当直の者は、すべて爵一級を賜った。この月大きな地震があった。」
○ 憤死(ふんし)
憤慨して死ぬこと。
○ 斃死(へいし)
たおれ死ぬこと。
○ 変死(へんし)
自然死ではなく、犯罪に起因するものではないかという疑いのある死。
「変死の者を内緒で葬った寺院にはお仕置きの事」
「変死者又は変死の疑いのある死体があるときは、その所在地を管轄する地方検察庁又は区検察庁の検察官は、検視しなければならない」
○ 暴死(ぼうし)
にわかに死ぬこと。
「7月18日南大風が吹いたとき、満汐にのって右のにごり水を江戸に吹き寄せた…信州・上州にて暴死のものおよそ3、4千人、死骸は利根川を流れ下って、房総行徳所々の浦々に流れ着いたのを、その場所にて葬った事、数えきれない。」
○ 悶死(もんし)
もだえ死ぬこと。
○ 扼死(やくし)
手で首を圧迫して殺すこと。
「気管と頚動脈を圧迫して窒息させるのだが、喉頭頭部の両側をつよく圧迫すると、瞬間的に呼吸がとまり、反射的に心臓麻痺をおこす」
○ 夭死(ようし)
年若くて死ぬこと。
○ 臨死(りんし)
病気や事故などによって生命が回復不可能な状態にあること。臨死患者、臨死体験。
「臨死患者にとって死は終末的なもので、医師がどんなに努力しても身体的な治療は全く効果がないのである」
○ 轢死(れきし)
車輪にひかれて死ぬこと。
○ 落死(らくし)
落ちて死ぬこと。
「皇后の妹の3人を妃とした。竹野媛(ひめ)だけは不器量なので里に帰された。そのことを恥じて、葛野で自ら輿から落ちて死んだ」
○ 老死(ろうし)
年を取って死ぬこと。
「頼朝は…その後、鎌倉へ入ってから病気になられた。翌年のお正月、1199年1月13日、遂に亡くなられる。53歳であった。これを老死と言ってはいけない。ひとえに平家の怨霊のなせる技である。多くの人を殺したためといわれる。」
○ 若死(に)(わかじに)
若くして死ぬこと。
「今どきの人、生まれ付き弱いところに、淫事を過ごすために、皆若死(に)をすると思える」  
 
故事と諺
 

 

○ 哀哀たる父母、我を生みて苦労せり
父母の没後、その恩を偲ぶ情をいう。「詩経」
○ 悪人は畳の上では死ねぬ
悪いことをする人は、畳の上で家族に見取られて死ぬことはできず、非業の死を遂ることが多い。
○ 朝(あした)に紅顔あり、夕(ゆうべ)に白骨となる
人生は無常で、生命ははかないものであるという気持ちを歌ったもの。「和漢朗詠集・下」
○ 朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり
朝に道を聞くことができたら、夕に死んでも心残りはない。「論語・里仁」
○ 在りての厭い、亡くての偲び
人の在世中は嫌なところばかり目につくが、いざ亡くなると美点が思い出されてなつかしく思われる。「毛吹草」
○ 生(いき)顔と死(しに)顔は相好が変わる
生前の顔と死後の顔では、面相が変わること。
○ 生二両に死五両
出産には2両、葬式には5両の経費がかかること。
○ 一期一会(いちごいちえ)
一期とは仏教語で一生のこと。一会とは仏事の集まりを言う。生涯に一度の集まりを大切にすること。茶道での用語。
○ 一殺多生
多くの人の幸せのために、ある人を犠牲を払わせるのもやむえないという考え方。
○ 一度墓場へ持っていったものは持ち帰るものではない
各地の習慣。
○ 1年に二人目の死者が出たら人形を入れて埋葬する
1年に二人死ぬと、もう一人死ぬという俗信から、3人目の代わりに人形を入れるもの。
○ 一敗地に塗(まみ)る
戦いに負けて臓器や脳が飛び出し、泥だらけになるなるという意味。完全に負けて見る影もないという形容。「史記・高祖本紀」
○ 一蓮托生(いちれんたくしょう)
死後まで運命や行動をともにすること。極楽浄土で同じ蓮花の上に生まれる意味から。
○ 一献酒は飲まぬもの
盃一杯だけのお酒は葬式の時の作法だから、普段は飲まない。
○ 往(い)に跡へ行くとも死に跡へ行くな
先妻と離別したあと後妻に行くのは良いが、死別したあとには嫁ぐものではない。死者の美点ばかり追想しては、今の妻がひがむことになる。
○ 引導を渡す
葬式のときに死者が成仏するように導師が教え諭す言葉。本来は迷っている人を仏道に引き入れ、導くことをいった。
○ 卯(う)の日重ね
十二支の卯の日は、吉事を行なうと重なるからよく、凶事はますます悪くなるという俗信。2度あると困るので、この日は婚礼と葬式は避けた。
○ 生まれるも一寸、死ぬのも一寸
人は生まれるときと死ぬときには苦しむが、それもわずかな間である。
○ 海行かば水漬く屍
大伴家持の長歌の一節。海山で戦死することがあっても、後退しないという歌の一節。
○ 江戸と背中が見て死にたい
死ぬまでに一度は、江戸見物をしたい。
○ 縁と命はつながれぬ
一度死ねば蘇らないように、一度切れた縁はつなぐことが出来ないという意味。
○ 老いのみ老いて墓知らぬ狐
歳ばかりとって、死に場所も知らない愚か者のこと。
○ 老いて死するは兵の恨み
戦場で死ぬのでなく、歳とって病死するのは武士にとって残念なことである。「源平盛衰記」
○ 老いて死せざる是を賊となす
一生、善行もなくただ歳を重ね、死にもせず風俗を損なう者は、社会の害賊である「論語・憲問」
○ 横死(おうし)の九法
横死する九つの原因を述べたもの。九つのすべてが食事の方法に関係する。「釈氏要覧」
○ 御忌参りの衣装較べ
親や祖先の法事に集まった人が、衣装を競う合うこと。物事の本質を忘れること。
○ 偕老(かいろう)同穴
生きている間はともに老い、死んでからは同じ墓に眠ること。歳を取るまで仲よく暮らすこと。「詩経」
○ 火事と葬式に行けば勘当もゆりる
火事や葬式の時にわびを入れれば、勘当されている者でも許される。
○ 餓死の翌年に漁がある
凶年の翌年は大漁である。悪いことのあとには、良いことがある。(岩手県)
○ 佳人薄命(かじんはくめい)
美人は生まれつき病弱であったり、不幸なものが多い。(蘇軾)
○ かつえて死ぬは一人、飲んで死ぬは千人
餓え死にする者は少ないが、酒を飲み過ぎて死ぬ者は多い。
○ 門松は冥土の旅の一里塚
門松は正月を祝う目出度いものであるが、それだけ死に近くなるから目出度くないとも言える。一休の狂歌という。
○ 館舎を捐(す)つ
貴人の死をいう。捐館(えんかん)は仏教の葬式の時、生前社会に尽くした人に用いる。
○ 棺を蓋(おお)いて事定まる
人の評価は死後に初めて決まるという例え。「晋書」
○ 棺をひさぐ者は歳の疫ならんことを欲す
棺を売る者は、疫病が流行して死者が出たらよいと考える。自分さえよければよいという例え。「漢書・刑法志」
○ 棺桶に片足を突っ込む
歳をとって、死期が近いこと。
○ 北枕で寝るな
死者の頭を北枕にして寝かせるので、それを連想させるので忌む。
○ 吉事には左を尚び、凶事には右を尚ぶ
左は陽、右は陰から吉事には左を上位、凶事には右を上位にすること。
○ 鬼録に登る
「鬼」は死者の霊のこと、死んで亡者の戸籍に入ること。鬼籍に入るともいう。
○ 草葉の陰
墓の下。あの世のこと。
○ 碁打ち親の死に目に合わぬ
碁に熱中すると、親の死に見取れないことになる。年中行事であった御城碁では、勝負がつくまで帰宅が許されなかったという。
○ 鼓琴(こきん)の悲しみ
琴の好きな人が死んだとき、家人が霊前に遺愛の琴を置き、友人がその琴をひいて泣いたという故事。知己に死に別れた悲しみをいう。「世説新語」より。
○ 後家を立てる
夫の死後、ずっと未亡人で過ごすこと。
○ 後生大事
来世の安楽を大事にすること。常に心をこめて努めること。
○ 鼓盆(こぼん)
妻の死。荘子が妻を失ったとき、盆を叩きながら歌った故事。「荘子・至楽」
○ 今生の暇乞い
この世に別れを告げること。
○ 最期の十念
死に際に念仏を十度唱えること。
○ 五月(さつき)坊主に蝿たかる
5月は農繁期で法事を行なう家もなく、僧侶が暇なこと。
○ 去る者は日日に疎し
死んだ者は日ごとに忘れられていくこと。また、離れて暮らしていると親密さがうすらいでいくこと。「文選」
○ 3年父の道を改めざるは孝というべし
父の死後3年の喪の間は、父のやり方を変えないで生活する者は、親孝行である。「論語・学而」
○ 鹿の死するに音(こえ)を択(えら)ばず
殺されそうになれば、鹿でさえ声を荒げるように、人も苦しまぎれに悪いことをしたり、言ったりするものである。「左伝」
○ 屍(しかばね)に鞭打つ
亡くなった人の悪口をいう。
○ 死後四十九日魂はその家に留まる
49日間は死者の魂が次の生を得るまでにさまよう期間だから、まだこの世に魂が残っていると考えた。
○ 地獄の釜の蓋が開く
正月16日と7月16日は、地獄の鬼も亡者の折檻をやめて休み、この時には地上の使用人も薮入りとして休みがもらえた。
○ 死して酒壷となる
臨終の時、側にいた友に、「陶芸家のそばに葬ってくれれば、やがて土になり、そして酒壷になるかもしれない」という故事。非常に酒好きなこと。
○ 死してのち已む
生きているかぎり努力すること。
○ 死児の齢を数う
死んだ子が生きていたら、今は何歳かを数えること。どうにもならない過去の愚痴を言うこと。
○ 死生、命(めい)あり
人の生死は天命によるもので、人の力ではどうしょうもないこと。
○ 死中に活を求む
助かる見込みのない状態の中で、生き延びる道を求めること。「後漢書」
○ 七本塔婆になる
死ぬこと。死後7日目ごと、四十九日まで計7本の塔婆を立てる風習から。
○ 死出の山
死後、越えて行くと考えられた山。また「十王経」の地獄にある山。
○ 死に花が咲く
死に際に、立派な言行があること。
○ 死人のあるとき四十九日間はお宮の鳥居をくぐってはいけない
赤穂地方の諺。
○ 死人を起こし、白骨に肉す
危険な状態にあるものを助けること。非常に恩になること。「左伝」
○ 死ぬ先の引導
手回しが良すぎることの喩え。
○ 死は或は泰山より重く或は鴻毛より軽し
命を捨てるにも、場合によって軽重がある。平素は命を大切にし、死ぬときには潔く死ぬ心掛けが必要ということ。泰山は中国の名山、鴻毛はオオトリの羽毛。(司馬遷)
○ 死を見ること帰するがごとし
落ち着きはらって、死に向かうことがまるで家に帰るのを楽しむかのようである。「大戴礼」
○ 死を見ること生の如し
死地に臨んでも、恐怖を感じないで、生き続けるように落ち着いている様子。「荘子・秋水」
○ 死んだ後の祭
親の死後に供養を手厚くするより、生前に少しでもよけいに孝行したほうがよい。
○ 親(しん)は泣寄り、他人は食寄り
不幸があったときに、身内のものは心から悲しんでくれるが、他人は食物にありつくために寄り集まる。「世話尽し」
○ 人命は至重なり
人の命はかけがえのない大切なものである。「十八史略」
○ 炊臼(すいきゅう)の夢
妻の死を知らせる夢。妻に先立たれること。「酉陽雑俎」
○ 生死則涅槃
生死の苦しみは、そのまま悟りの縁となること。
○ 生芻(せいすう)一束
生のまぐさの一束。母の死を弔って生芻を霊前に供えた中国の故事から、死者への贈り物をさす。
○ 生は寄なり、死は帰なり
人がこの世に生きているのは、この世に一時的に身を寄せているのであって、死は本来の場所に帰ることである。揚子江を渡ったとき、舟が竜の背中に乗り上げて、同船の客が騒いだが、王はこの言葉を述べて少しも動揺しなかったという。「淮南子・精神訓」
○ 泉下(せんか)の客
黄泉の下の人になる。亡くなること。
○ 線香は千日の功徳あり、抹香は万日の功徳あり
線香や抹香を焚くと死者に功徳があるが、それぞれ「セン」と「マン」に掛けた諺。
○ 千人の指さす所、病なくして死す
多くの人から恨まれれば、病気がなくても死ぬ。「漢書」
○ 善人なおもて往生を遂ぐ、况んや悪人おや
善人が極楽往生できるのだから、仏の力に頼るしかない悪人が救われるのはいうまでもないことである。まさに仏の慈悲の力の偉大さが発揮できる場だからである。「歎異抄」
○ 喪家(そうか)の狗
喪中の家の飼い犬。不幸のあった家では、悲しみの余り犬に餌をやるのを忘れ、犬が痩せ衰えること。そこから見るからに痩せ衰え元気のない人をさす。
○ 葬式すんで医者話
葬式がすんでから、医者の善し悪しを論ずる。すんでから後悔を口にすること。
○ 葬車の後に薬袋
棺を乗せて運ぶ車の後に、薬の入った袋を下げる。間に合わないことを喩えた中国の諺。
○ 喪なくしていためば憂い必ずむかう
嘘から出たまこと。葬式がないのにみだりに憂い悲しんでいると、必ず本当の不幸がやってくるという。「左伝」
○ 桑楡(そうゆ)まさに迫らんとす
桑楡はくわとにれの木。夕陽の影が木の梢にかかって、落日が近いことから、死期が近いこと。「文選」
○ 葬礼九つ酒七つ
葬礼は九つ(昼の12時頃、宴会は七つ(午後4時頃)に行なうのが通例であるという意味。
○ 空の煙
空にたちのぼる煙。死者を火葬にした煙。死ぬことを言う。
○ 泰山くずれ、梁木(りょうぼく)やぶる
偉人の死。泰山は中国一の名山、梁木は建物の大事な梁(はり)で、大きくて大切なものが壊れることから、偉大な人の死を形容する。「礼記・檀弓」
○ 大丈夫、死すれども冠を捨てず
立派な男子は死ぬときには、みっともない死にかたはしない。「左伝」
○ 玉となって砕くとも、瓦となって全からじ
人間は潔く死にたいものである。瓦として無事に生き延びるより、砕けても玉のほうがよいという意味。玉砕。「北斉書」
○ 断腸の思い
はらわたがちぎれるほど悲しくて痛ましい思い。
○ 断末魔
仏教の言葉で、体内には末魔という部分があって、命終わるときにこれが分解して苦痛が生ずるという。臨終の苦痛をさす。
○ 朝開暮落(ちょうかいぼらく)
朝に花が開き、夕方には散る意味。人の命のはかない喩え。
○ 弔者門に在り賀者閭にあり
(閭は村の門)。弔いの客が家の門にいるときに、お祝いの客が村の入り口に到着している。悪いことの後に良いことがある中国の諺。
○ 寺にも葬式
葬儀のないところはないという喩え。人の世話をやいた人もやがては人の厄介になる。
○ 天地に万古あるも、この身は再び得られず
天地は永遠に存在するが、人生は再びやり直すことは出来ない。「菜根譚」
○ 東海を踏みて死す
世の中のことを憤慨して死ぬこと。東海は渤海湾、または東シナ海をさす。「史記」
○ 屠所(としょ)の羊
屠殺場にひかれていく羊。刻々と死期が迫る喩え。
○ 土壇場に直る
首切り刑を行なう土壇の上につくことから、最期の場に臨むこと。
○ 土手っ腹に風穴をあける
土手っ腹とは、ふくれた腹をいい、そこに鉄砲の玉を撃ち込むぞというおどし文句。
○ 友引に葬式をするな
この日に葬式をすると、続いて葬式を出すようになるという全国的な俗信。
○ 土用の死人を盗人が取る
土用の日に土を犯すのを忌み、埋葬せずに置いたもの。そこから、意外なことがあってじゃまなものが片付く喩え。
○ 虎は死して皮を残し、人は死して名を残す
虎は死後皮として珍重され、人は名誉や不徳が語りつがれる。生前から死後の名誉を重んじ。行ないを戒める諺。
○ 鳥のまさに死なんとする、その鳴くや悲し
鳥の死に際の声は悲しい。「人のまさに死なんとする、その言や善し」の対句で、人の死に際には本音が出るという喩え。
○ 鳥辺山の煙、仇野の露
(京都の鳥辺山はかっては火葬場、仇野は埋葬地であった。そこから人の生のはかないことを喩えたもの。
○ 奈落の底
地獄の底。そこから深い底、深い不幸の喩えとなる。
○ 人間到る処青山有り
自分の骨を埋めるところはどこにでもあるものだ。一生郷土にいるのでなく、志を立てて遠くへ行く気持ちを表したもの。
○ 墓場に花は植えぬ
墓場に花を植えると死に花が咲くといって忌む。(十津川の民俗)
○ 白玉楼の人
白玉楼とは文人が死後行く天上の楼閣といわれる。文人の死をさす。
○ 帛(はく)を散じて亡卒の遺骸を収む
高価な絹で戦死者の遺体を収容する唐の故事より、戦死者を手あつく葬ること。
○ 柏舟(はくしゅう)の操
夫の死後も操を守り、再婚の勧めも断って「柏舟」の詩を詠んだ故事から、未亡人が夫のために操をたてること。
○ 蓮の台の半座を分かつ
極楽浄土に往生した者が座る蓮華の座に、死後も共に往生して、座を同じくすること。
○ 白骨に肉を付ける
死者を再生させるほどに功徳があること。
○ 万死の床に臥す
ほとんど死にそうな状態で床に伏すこと。
○ 引かれ者の小歌
江戸時代、刑場まで馬に乗せられ引かれていく者が、鼻歌を歌う意味から、負けた者が強がりを見せること。
○ 非業の死
前世からの業によって定められた寿命の終わらないうちに死ぬこと。尋常でない死にかたをすること。
○ 左膳で食事すると果報を落とす
左膳とはお膳の木目を縦にすること。これは死者に供える作法であるため、普段は忌む。
○ 百歳の後
死ということを遠回しに言う言葉。「詩経」
○ 百人殺さねば、良医になれぬ
医者は患者を稽古台ににして腕を磨く。
○ 普請と葬式は一人でできん
家を建てたり、葬式をするときは、近所の手伝いがいる。普段の近所付き合いが大切との戒め。
○ 布施ない経に袈裟を落とす
布施のないときには、略式にして経を読むときにも袈裟を掛けない。報酬が少ないと仕事も手を抜いて行なう喩え。
○ 二人並びたる中を通り過ぐべからず
俗説で、不吉とか死ぬとかいう。
○ 墓木すでに拱(きょう)す
人が死んで多くの年月を経たこと。また世間なみの年齢で死んでいれば、もう墓の木も一抱えの大きな木になっているのに、死なずに生きている者をあざける場合にも用いる。「左伝」
○ 道で葬式に出会ったら見えなくなるまで、親指を隠しておかないと親が死ぬ
各地でいわれる俗説。
○ 冥加に尽きる
冥加とは知らずに受けている神仏の加護。この加護から見離されること。
○ 虫の息
今にも絶えそうな弱々しい息づかい。
○ 無常の風は時を選ばず
人の命を花に例え、それを散らす(死)風は老若に関係なく訪れるということ。
○ 冥土の道は王なし
死後の世界は上下の差がなく、死を免れるものもないこと。
○ めでたくなる
「死ぬ」「倒れる」などの言葉を忌むで使う。
○ 雌鳥が鳴くと凶事がある
普段は時を告げない雌鳥が鳴くと、悪いことが起こる前兆である。各地の俗信。
○ 亡者にも鎧
死者にも身なりを調えれば立派に見えること。
○ 以て瞑すべし
それによって安らかに死ねるだろう。それくらいできれば死んでも後悔しないから、それで満足すべきであるという意味。
○ 病獲麟(かくりん)に及ぶ
病気が重くなって臨終になる。獲麟は絶筆のこと。「源平盛衰記」
○ 病上手に死に下手
よく病気に罹る人は、かえって容易に死なないこと。
○ 憂患に生き安楽に死す
人は悩みや障害があるときには生命を守ろうと努力するが、安楽にふけっている時には油断して死にやすくなる。「孟子」
○ 幽明境を異にする
幽とは幽界、明とは現世。死んで冥土と現世に分れること。
○ 夜、爪を切ると親の死に目に合えない
各地の俗信。
○ 老少不定(ふじょう)
老人が早く死に、若い者が後に死ぬとは限らない。
外国の諺
○ 悪魔すら死ぬと喪主に事欠かない
どんな悪人にも利害関係のある人がいて、その死を悲しむこと。
○ うぶ声は死の始まり
○ 狼の死は羊の安全である
○ 大人は子供が暗闇を怖がるように死を怖がる
○ 神から愛される人は長生きしない
○ 今年死んでおけば来年は死を免除される
人は2度死なぬ。
○ 死者と不在者は、友でも友でなくなる
○ 死神は親羊と同様子羊も貧り食らう
死は誰も容赦しない。
○ 死人はどんな話もしない
死人に口なし。
○ 死は医者に挑戦する
○ 死は万病に効く膏薬
○ 死は賄賂が効かない
○ 死んだ犬は噛みつかない
○ 葬式は一度あると二度ある
災いは続いて起こる。
○ 妻が死んで羊が生きていれば男は金持ちになる
○ 天国には、地上からでも水上からでも同じように行ける
地上で死んでも海で死んでも行き着く先は同じ。
○ 病気になったことのない者は最初の病気で死ぬ
一病息災。
○ 冬温かだと墓地が肥える
冬に雪が降らないと病死する人が多い。
○ 良い姑は一人しかいない、そして彼女はあの世にいる
○ 欲望を放棄する者は死にはじめる 
 
葬祭史

 

 
上代
日本では上代より死者儀礼を大変重んじてきた。3世紀前半の葬儀の様子は『魏志倭人伝』の中に、「死が発生すると喪主は泣き、哀悼人は歌舞宴酒の行為を行なった」とある。まず人が死ぬと新しく喪屋を作り、その中に棺を置き、白細布で装飾して、数々の儀礼や歌舞を行なった。遺体を蘇生させるために行なう儀礼をモガリという。人々は昼夜遺体を守る一方、酒や料理を供え、死者の生前の事績や哀悼の言葉を述べた。そうして一定の時期がすぎると、棺を土の中に埋葬する。このモガリの風習は古代アジアに共通にあり、『高句麗伝』にも「死者喪屋内にあり、3年経て吉日を選び弔う」とある。さて埋葬には行列が欠かせないが、この役割に岐佐理持が死者の食べ物を持ち、箒持ちが葬地を掃き清め、泣女が大声を挙げて悲嘆を表した。又幡旗をひるがえし、音楽を奏し、松明を燃して行列をしたのである。
日本各地に古墳を作り、莫大な予算をかけて行なわれた死者儀礼も、646年の詔で大きな規定を受けた。墓の大きさや築造の期間が制限され、喪屋を営む風習や、殉死などが禁じられるようになる。この法律は西暦222年、魏の文帝の葬制の令を模倣したものである。
さて日本に仏教が導入されると、これまでの葬送儀礼と質的に大きな変化が生じた。特に仏教を擁護しその普及に勤めた聖徳太子の葬儀(622没)はどうだったのだろう。『扶桑略記』には「葬送で輿に乗せられ、葬列に加わる陪従の人々は、おのおの雑花を手に捧げ、仏弟子は仏を賛える歌を歌い、道の左右の百姓も、手に花を持ち仏歌を歌い、あるいは声を失い大声で泣いた。荼毘にふされたあとには、諸国の百姓が遠くからの墓参が絶えなかった」とある。
しかしこれが事実であったことが疑問視されている。まず当時の仏教の目的は、『鎮護国家』つまり、国家の平安を祈る呪術的な要素が多く、そうした術の執行者である僧侶は死の汚れを恐れ、病気回復の祈祷を行なったが、死亡したあとの葬儀はこれまで通り神式で行なわれたものと考えられる。もっとも追善供養という仏教儀礼は、例えば盂蘭盆会なども657年から始められている。
さて記録に残る日本での火葬の始まりは西暦700年、法相宗の祖・道昭が最初といわれている。道昭は入唐して、玄奘三蔵を師事し660年帰国している。道昭のあと、3年後に持統天皇が飛鳥岡で火葬にされている。このように仏教の発達と共に火葬が普及していった。
黄泉の国
日本神話のなかで最初に登場する神々がイザナギノ尊、イザナミノ尊の二柱である。イザナミノ尊が火の神を産んだときに、身の一部を焼かれそれが原因で亡くなられた。妻の死を知った夫のイザナギノ尊は、「わが愛妻を犠牲にしてしまった」といって悲しみ、イザナミノ尊の枕の方や足の方にふしてお泣きになり、その時に流した涙によって出現した神が泣沢女(ナキサワメ)の神である。その後、イザナギノ尊はイザナミノ尊を黄泉の国まで追いかけて話し合われた。しかしその国で、亡き妻の醜い姿を見たために心変わりをされ急いでそこを逃げ出し、黄泉津平坂まで帰ってきた。彼の体はそのために死の汚れが付いているので、橘の小門(日向)に行き、払いすすぎを行った。(1巻『神代上』)これが死の汚れを水で清めるはじまりである。しかし死の汚れが、当時の葬送儀礼にどのように反映されているかはよくわかっていない。
葬儀の役割
天孫降臨に先だって出雲国に降った天の稚彦は、いつまでたっても復命せず、それどころか問責の使者雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を弓矢で射殺し、仰向けになって休んでいたところ、天から返された矢に当たって死んでしまった。その妻の下照姫は、夫の死を嘆き悲しみその声は天まで届いた。この時、天国玉神(あまつくにたまのかみ)はその声を聞いて、その遺体を天に上げ送らせた。そして天上に喪屋を作り、モガリの式を行った。式にはガンが持傾頭者(きさりもち=死者に供える食物を持つ役)と持帚者(ほうきを持つ役)を、スズメをつき女とした。そして八日八夜嘆き悲しんだ。(2巻『神代下』)この役割は『古事記』のなかでは、更に細かく規定している。
「死者の食物を持つ役をガンが、帚を持つ役をサギが、料理人をカワセミが、臼をつく女をスズメが、そして泣く女をキジが担当し、八日八夜というもの遊んで騒いだ。」このように鳥が葬儀に関係するのは、死後人間の霊が鳥に移るという信仰に由来する。古代エジプトでも人の魂はカー(鳥)として現わされた。またヤマトタケルノ尊が死後白鳥になって飛んでいったお話しは「景行天皇」の章に記されている。
神武天皇と天皇の死亡年
初代天皇である神武天皇は、橿原宮(かしはらのみや)で崩御された。127歳であった。翌年9月12日、畝傍山(うねびやま)の東北の陵(橿原市大字洞字)に葬られた。『古事記』には神武天皇の死亡年を110歳と記している。このように古代天皇の死亡年は、『古事記』と『日本書紀』とでは大きく食い違っていることが多い。30代の継体天皇の場合には、『古事記』82歳、『日本書紀』43歳となっている。なぜこのように食い違っているかは謎である。
『日本書記』には41代の持統天皇まで、40人の天皇が記されているが、その40人(39代の弘文天皇は記されていない)のうち、死亡年が記されている者は17名である。鎌倉時代の歴史書『神皇正統記』に記されている死亡年によると、この41人の天皇の平均寿命は79歳で、100歳以上が12人である。
殉死の禁止と埴輪の始まり
垂仁(すいにん)天皇(11代)の28年10月5日、天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられた。11月2日、倭彦命は身狭(むさ)の桃花鳥坂(築坂)に葬られた。このとき仕えた者たちを集めて、全員生きたまま陵のまわりに埋めた。何日間も死なないため、うめき声が聞こえた。やがて死んで腐っていくと、犬や鳥が集まってそれを食べた。天皇はこのうめき声を聞かれて心を痛められ、群卿を詔して、「生きているときに愛し、使った人々を殉死させることはいたいたしい。古の風習であっても、良くないことは従わなくてもよい。これからは殉死を止めるように」と言われた。(6巻『垂仁天皇』)
それから4年後、垂仁天皇の32年7月6日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。葬るまでに日があったので、天皇は群卿を詔して、「殉死がよくないことは良くわかった。今度のモガリはどうしようか」といわれた。野見宿禰(のみのすくね)は、
「君主の陵墓に生きている人を埋立るのは良くないことです。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」と言った。そして、使者を出して出雲の国の土部(はじべ)100人を呼んで、土で人や馬や色々のモノを形作って、天皇に献上して言った。
「これからは、この埴(黄赤色の粘土)で生きた人に代え、陵墓に立て、後世のきまりとしましょう」。
天皇は大いに喜ばれ、その土物を墓に立てた。それ以来この土物を埴輪、あるいは立物とも言った。天皇は命を下されて、「今後、陵墓には必ずこの土物を立て、人を損なってはならぬ」と言われた。そして野見宿禰の功績をほめられ、土師の職に任じた。それ以後天皇の喪葬を土部連(はじべのむらじ)らがつかさどるようになった。
景行天皇の妃の死
景行天皇(12代)の皇后である播磨大郎姫が亡くなられた。そこで墓を日岡に作って埋葬するため、その遺体を担いで印南川を渡った。その時たつまきが川下から吹き、皇后の遺体を河の中へ吹き飛ばし、見えなくなってしまった。ただ櫛とそれを収める箱(ヒレ)だけが残された。そこで仕方なくこの二つの道具だけを持って墓に埋葬した。このためにこの墓をヒレ墓と呼ぶ。さて天皇はこの出来事を大変に残念に思われ、「この川の物は食べない」と誓われた。この話は『播磨風土記』の残されている。
父の死を偲ぶ白鳥
成務天皇(13代)は、成務天皇の60年の夏に107歳で亡くなられた。翌年9月6日、遺体は奈良市北部の狭城盾列陵(さきのたたなみのみさぎ)に葬られた。この古墳は全長219メートルの前方後円墳で、4度盗掘された記録が残されている。仲哀天皇は即位した年の11月、群臣を詔して、
「自分が20歳にならないときに、父はすでに亡くなった。魂は白鳥になって天に昇った。それ以来、父を慕い思わぬ日は一日としてない。願わくば陵の回りの池に白鳥を飼い、それを見ながら父を偲び心を慰めたい」と言った。そして諸国に白鳥を献上させた。(8巻『仲哀天皇』)
9年後の2月5日、天皇は急に病気になられ、翌日に死亡された。時に52歳。皇后と大臣は天皇の喪を隠して天下に知らせなかった。秘密のうちに天皇の遺体を棺に納め、竹内宿禰に任せて、海路で穴門に移し、そして豊浦宮で、人目を避けるため燈火を焚かないで仮葬した。この年は新羅の役があり、天皇の葬儀は取り行われなかった。
仁徳天皇(16代)が行った魂よばい
「魂よばい」とは、肉体から去っていった魂を、もとに戻して生き返らせようという願いを込めた儀式である。
応神天皇が亡くなられたあと、太子は位をおおさぎの尊(のちの仁徳天皇)に譲ろうとしたが、それがかなわないので、「長生きして天下を煩わせても忍びない」といって自殺された。これを聞いたおおさぎの尊は3日後にかけつけ、胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らない様子であった。自分の髪をとき、死体にまたがって「弟の皇子よ」と3度叫ばれた。するとにわかに生き返られた。そしておおさぎの尊に向かい「天命なのです。もうだれもとめる事は出来ません。もし先帝の身許にまいることがありましたら、兄王がたびたび位を辞退されたことを申し上げましょう」といい、棺にうつ伏せになって再び亡くなられた。おおさぎの尊は麻の白服を着て激しく亡き、遺体を山の上に葬った。(11巻『仁徳天皇』)
67年の冬、天皇は河内に行幸して陵地を定め、すぐに着工した。全長486メートル、高さ30メートルの前方後円墳である。これが世界一の仁徳天皇陵である。完成した年代はわからないが、彼は工事着工後20年間生きた。
外国からの弔問団
19代・允恭(いんぎょう)天皇の42年1月、天皇が亡くなられた。78歳。新羅の王は、天皇が亡くなったことを聞いて驚き悲しみ、多くの調べの船に沢山の楽人を乗せてたてまつった。この船は対馬に停泊してそこで大いに泣き、そして筑紫についてからも大いに泣いた。泣くことが一つの儀礼であった。難波津に停泊してみな麻の白の喪服を着た。
船には様々な楽器が用意され、沢山の曲を捧げて、難波から京に至るまで、泣いたり踊ったりして弔慰をあらわした。そしてモガリの宮に出向きそこで会を催した。10月10日、天皇を河内の陵に葬った。11月、新羅の弔使たちは、喪礼を終えて帰国した。(13巻『允恭天皇』)彼らはおよそ一年喪礼のために滞在したことになる。今ではとても考えられない。
雄略天皇のへの殉死
清寧(せいねい)天皇(22代)の元年10月、雄略天皇を陵に葬った。この時、近習の隼人たちは昼夜陵のそばにいて悲しみ、食物も取らなかった。そのため彼らは7日目には死んだ。役人は彼らの墓を陵の北に作り、礼をもって彼らを葬った。(15巻『清寧天皇』)これは一種の殉死といえないこともない。
殯宮儀礼の成立
安閑天皇(27代)の時代である6世紀前半、百済から五経博士が招かれ、中国的礼法が伝えられた。礼法のうち、喪葬儀礼が調えられて「殯宮(モガリのみや)儀礼」が一つの決まりとなっていった。殯宮儀礼とは、棺を埋葬するまでの一定期間、モガリの宮に安置し、そこで様々な儀礼を行うことを指す。
岩脇紳は「モガリ」のなかで、埋葬までのモガリの期間は、『令集解』にある喪の期間とだいたい一致すると述べている。
しのびごとを笑う
敏達天皇(30代)の14年(585)8月、国内に疫病が流行して多くの人々が死んだ。このとき天皇も疱瘡に冒された。この病で死者が国にみちあふれた。8月になって天皇の病が重くなり大殿で崩御された。この時モガリの宮が広瀬に建てられた。
蘇我馬子は刀を付けて死者にしのびごと(死者を哀悼する詞)を述べた。このとき、物部守屋は馬子の不格好な姿を笑った。次に守屋がしのびごとを読むと、馬子はその動作を笑った。この時代から葬儀に不謹慎な者が列席していたようである。
街中でしのびごとが奏上される
推古天皇は敏達天皇の皇后であった人で、敏達天皇が崩御されたときに、モガリの宮にこもっておられた。彼女が皇位についたのは39歳のときである。推古天皇の20年(612)2月20日、皇太夫人が陵に葬られた。この日、軽の街中でしのびごとが奏上された。1番目に阿部内臣鳥(あべのうちのおみとり)が天皇のしのびごとを読み、霊にお供えをした。供物には祭器、喪服などが1万5000種あった。2番目に皇子たちが序列に従って行われ、3番目に中臣宮地連烏摩侶(なかとみのみやどころのむらじおまろ)が蘇我馬子のことばを奏上した。4番目には馬子大臣が多くの氏族を従えて、しのびごとを述べさせた。
聖徳太子の死
推古天皇の29年(621)2月、仏教普及に勤めた聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなった。この時、諸王から農夫に至るまでその死を悲しんだ。そしてこの月に陵に葬った。太子の死を知った高麗の僧は大いに悲しみ、太子の為に僧侶を集めて斎会を催した。
推古天皇の36年(628)2月、天皇は病気になってふせるようになられた。翌年3月75歳で亡くなられ、朝廷の中庭にモガリの宮がおかれた。
この年は春からずっとひでりが続き、9月になって初めて喪礼が行われた。このとき群臣たちはモガリの宮でしのびごとを述べた。天皇は亡くなる前に、「この頃はひでり続きで、穀物が実らず、農民は大いに餓え苦しんでいる。私のために陵を建て、厚く葬ってはならない。ただ竹田皇子の陵に葬ればよい」と言い残されたので、その通りに実行された。
豪華な葬儀の廃止
中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した大化の改新(645)の翌年、孝徳天皇の2年1月1日、賀正の礼が行なわれたあと、改新の詔が発せられた。同じ年の3月22日、厚葬と旧俗の廃止が告げられた。
中国皇帝はその民をいましめて次のように言っている。「昔の葬礼では丘の上に墓を作り、盛り土や植樹をしなかった。」これは漢の「武帝紀」の記録である。
また「棺は骨を朽ちさせることが出来れば十分であり、また浄衣は遺体を腐らせるまで持てばよい。私の墓は丘の上の開墾できない所に作り、代が代わった後にはその場所がわからなくなっても構わない。金銀銅鉄を墓に収めることは必要ない。土器で車の形を作り、草を束ねて従者の人形を作ればよい。棺は板の隙間に漆を塗るのも3年に一度で十分である。死者に玉を含ませる必要もない。玉で作った衣や飾り箱も無用である。これは愚かな者のすることである」と述べている。
墓の制度
詔はさらに続く。
「この頃我が国の人民が貧しいのは、むやみに立派な墓を作ることに費やしているため」として、墓の制度を決め、尊卑の別を設けることになった。次がその時に決められた墓制である。
皇族以上の墓制
墓の内(玄室)は長さ9尺、巾5尺。外域は縦横9尋(約15メートル)高さ5尋。労役に従事する数は1,000人、工事期間は7日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いてもよい。
上臣の墓制
内(玄室)は長さ9尺、巾5尺。外域は縦横7尋、高さ3尋。労役に従事する数は500人、期間は5日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いずに輿を担ぐ。
上臣の墓制
内(玄室)は長さ9尺、巾5尺。外域は縦横5尋、高さ2尋半。労役に従事する数は2,150人、期間は3日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いずに輿を担ぐ。
大仁・小仁の墓制
内(玄室)は長さ9尺、巾4尺。盛り土なし。労役に従事する数は100人、期間は一日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いずに輿を担ぐ。
庶民の墓制
死者は土中に埋葬する。垂れ帛は粗い布。一日もとどめることなくすぐに埋葬する。王以下庶民に至るまで、モガリ屋を作ってはならない。畿内より諸国に至るまで葬り場所を決めて収めて埋葬し、方々にみだりに埋葬してはならない。
また人が死んだときに殉死をしたり殉死を強制してはならない。また死者のために宝物を収めたり、死者の哀悼のために遺族が髪を切ったり、股を刺したりして、しのびごとをのべたりしてもならない。もし詔に背いて禁を犯したものは、必ずその一族を処罰する。
以上のような法律があったことは、それが当時行われていたことを示している。
また辺境の役人が任務を終えて郷里に帰る途中で死んだりした場合に、その近くに住む人が、「どうして家の近くで死なせた」と言って、死者の同伴者に祓えの費用を強要することがある。そのため、家族が道中で死亡しても、その始末をしないことが多い。また溺死した者があったとき、それを目撃したものが、「どうして溺死者を人に見せた」と言われて、そのつれに祓えのつぐないを要求する。このために人が川に溺れても救おうとしない者が多い。
天武天皇の死
朱鳥元年(686)5月に天武天皇の病気が重くなった。天皇の病の原因は草なぎの剣の祟りであるということで、即刻熱田神宮に送り返した(6月10日)。天皇は使いを飛鳥寺にやり「私の体が病で臭くなった。出来れば仏の力をかりてやすらかになりたい。そこで衆僧たちが力を合わせて仏に祈願してほしい」と依頼した(6月16日)。9月4日、親王以下諸臣に至るまで、天皇の病気平癒の誓願が川原寺で行われた。しかしこうした努力の甲斐もなく、9日崩御された。56歳。以後陵に収められるまで、2年3カ月にわたって、モガリの宮の儀礼がおこなわれた。
崩御された2日後、はじめて発哀(みね=声を出して哀惜をあらわす礼)が行われた。そしてモガリの宮が南庭に立てられた。9月24日、モガリの宮でモガリと、発哀が行われた。27日午前4時、多くの僧尼がモガリの宮で発哀を行った。、またこの日はじめて奠(みけ=死者に供えもの)が供えられ、しのびごとが述べられた。この日は大海宿禰(おおしあまのすくね)他6名がしのびごとを行った。大海宿禰は天皇をお育てした幼児のことをしのびごとをした。
28日、僧尼が殯宮で発哀をし、また布勢朝臣(ふせのあそん)他4名がしのびごとを行った。29日、僧尼が発哀をし、また阿部久努朝臣他3名ががしのびごとを行った。30日、僧尼が発哀をし、百済王がしのびごとを行い、続いて国々の造がそれぞれしのびごとを行い、様々な歌舞が披露された。(29巻『天武天皇』)この日まで6回発哀の儀礼が行われており、歌舞が行われた最後の日は21日目にあたる。
モガリの宮
さてこれまでに何度も登場したモガリの宮とモガリについて、様々な説明がなされてきた。国文学者の折口信夫は、モガリの期間を死者を蘇生させる「魂呼び」の期間としている。しかし岩脇紳は「モガリ」をするまでに準備に10日前後かかるので、この間に死の確認が十分に行われたはずであるので、この期間はモガリの宮で、遺族が喪に服す期間であると述べている。つまり死とそれに係わりの最も濃い者が一定の期間、自分を日常の空間から隔離する場所というのである。
「それでは殯宮は何ゆえに必要になったのであろうか。殯宮の中に配偶者がじっと籠って、ひたすら死者に対して哀悼の意をあわらすことが、人間の本来の感情に基づいているとしても、わざわざ殯宮と称する別小屋を設け、そこに死者を安置し、配偶者が籠るということの主旨を説明されねばならない。」(前出151頁)
モガリまでの過程は(1)死亡(2)モガリ。これはモガリの宮を建ててそこに安置し、陵に埋葬するまでの期間を指す。(3)埋葬。これは山陵などに埋葬することを指すが、これも陵が完成するまでの期間と関係があるかも知れない。
日本の当時の儀礼慣習は、多く唐の風習を取り入れたものであるから、それを参考にすることは常識となっている。例えば、『儀礼』によると、納棺や埋葬までの期間は、それぞれ位によって異なっており、役が高いほどその期間が長くなっている。例えば納棺をする日は、天子は7日目、諸候は5日目、大官、一般士人は3日目とある。また墓への埋葬は天子は死後7カ月後、諸候は5カ月後、士大夫階級は3カ月後とある。従って天子のモガリは、7日より始まり、7カ月後の埋葬の時まで続けられることになる。
古代葬儀の精神
さてここでまとめに、折口信夫の『上代葬儀の精神』より、「喪」、「モガリ」、「しのびごと」そして「ホウリ」についての意味をみていきたい。
まず「もにこもる」とは、普通親とか親類の誰かが死んで、喪の期間中じっとしていることと解釈されるが、実は「物のなかに入って外に出られないということです。何のためにそうするかというと、我々には謹慎しているのだとしか思えませんが、…けがれているから謹慎しているのではなく、身体が空っぽになっている為に、身体の中に物が入るのを待っているのです」(『折口信夫全集20巻』中公文庫版363頁)。この新しいものとは、蘇った死者の魂のことで、服喪期間とは関係なく、「そのものが入るとすぐにモから出てくることになる」と言っている。つまり喪にこもる人は、死者の魂を受け継ぐ人ということになり、それがすむとモが終了することになる。
「モガリ」については、「その間は復活せられるかも知れないと思っている。つまり、魂が遊離していられる時期だとこう思っているのです。だから、その間は一所懸命に魂ふりの歌ー鎮魂の歌を唱え、あるいは鎮魂の舞踏を行なっています。」(同書374頁)
折口によればモガリは復活儀礼の期間ということになる。しかし中国から服喪の思想が入ってくると、モガリの鎮魂の意味合いが薄れていったと思われる。
「しのびごと」は、「貴人の死を悼んで平生の徳などを追憶して述べる詞」(『広辞苑』)であるが、「日本紀や続日本記を見ましても、どうも実際はそういうことでなさそうです」(同379)。ではどうかというと、天皇なら天皇をお育てした家の物語で、その天子がいつまでも達者であるようにと祈りの詞をふくんだ寿詞が、しのびごとに代わるもので、尊いお方が死なれた時には、そういうものが唱えられていたが、段々と悲しみを現すように変化してきたと言っている。
最後に「ホウリ」である。これは普通には、遺体を野山に捨ててしまうことと考えているが、本来は地方の国の長(国造)の下にいたものが「ホウリ」で、揺れ動かすことを意味するといっている。そして死者をほうむるということは、その死者が悪い死に方をしたので、村から遠い所に運んで行って、村に帰って来ないようにさせた。それ以外に葬列のことは言わない、と言っている。以上大変に面白い解釈であり、合理的な考え方に慣れ親しんでいる私たちに新しい視点をもたらしてくれる。  
 
奈良時代(710〜784)
道昭の弟子であった行基(668〜749)は、畿内に49ケ所の道場を建てている。これは火葬場と説教所を兼ねたもので、これによって国家中心の仏教が、始めて民衆とのつながりを持つようになった。奈良時代の貴族階級が火葬に移行することで、古墳などを作ってきた葬儀専門集団の一群が、行基の宗教組織のなかに流入してきたようである。
756年聖武天皇が崩御され、葬儀が佐保山陵にて行なわれた。聖武天皇は深く仏教に帰依し、東大寺を建て、鑑真について法名を授かった人であったが、葬送役人の中には僧侶の名前は記されていなかった。獅子座、香炉、天子座、金輪幢、華幔などの供具が準備されたが、僧侶はまだ参加していなかったのである。聖武天皇の七七忌には、遺品を東大寺に施入されている。
 
平安時代(794〜1185)
平安時代には天台宗と真言宗が誕生し大きな影響を与えた。842年、嵯峨上皇崩御にさいし、遺言で葬儀を地味にし、柩を引く者、松明を持つ者、それぞれ12人とし、従者も20人以内にし、土を盛らず樹木も植えず、山陵を造営せず、国忌を設けなくしたため、葬祭費が商布3千段、銭1千貫文ですんだという。
天皇の間で薄葬を尊ぶ風潮が定着し、淳和天皇(840没)の場合には遺言で荼毘のあとは、御骨を砕き、大原野の西にまき、山陵を造ることを禁じた。
清和天皇(880没)は西に向かって結跏趺坐し、手は結定印を結んで崩御された。こうしたことで当時の信仰心のあつさが伺われる。
醍醐天皇は930年9月29日、崩御された。剃髪され法名は宝金剛という。2日後に納棺され、翌日囚人が解き放たれ、また鷹が放生された。葬送は11日後の10月10日に天皇の遺志で薄葬で行なわれた。この葬列には導師役を天台西塔院主が、呪願は基繼僧都が受け持った。遺体は翌日朝8時45分、醍醐寺の山陵に到着した。道を挟んで86ケ所の寺のための幕が設置され、鐘を叩き念仏が唱えられた。12日には山陵に卒塔婆が3基立てられた。このように天皇の葬儀は仏式に定着している。
京都では鳥部野(京都市東山区)を荼毘所にしていた。貞観13年(871年)五條荒木の里、六條久受の里、十條の下石原の西外の里、十一條の下佐比の里、十二條の上佐比の里等が、京都庶民の葬地と定められた。後に京都に五つの三昧場、つまり火葬場ができた。阿弥陀峯、舟岡山、鳥部野、西院、竹田である。又東寺、四塚、三條河原、千本、中山延年寺を五墓所という。
喪服は鈍色(濃いねずみ色)で、死者との血縁の濃さに従ってその濃度を強くした。特に血縁の強い者は乗車調度に至るまで鈍色の物を用いたという。そして死者の住まいには、僧侶を招いて読経してもらい、あるいはその家をそのまま寺に変えて菩提寺にすることもあった。遺骸を埋めた場所には石の碑や卒塔婆を立て、墓標とした。初七日、七七日などには読経をし、一周忌には「御はての業(わざ)」と名づけ供養をした。この日には重服の人も喪服を脱ぎ、平服に改めた。これが最後の法事で、当時三回忌、七周忌はまだ行なわれていなかった。
『往生要集』
この時代で最も後世に影響を与えた書物に、985年に記された『往生要集』がある。これは天台宗の僧・源信が記したもので、死後どうしたら西方浄土に到達することが出来るかを示した手引き書で、のちの浄土宗の葬儀に影響を与えた。そのなかにある臨終作法によると、寺の西域に無常堂を立て、その堂の中に金の阿弥陀像を安置する。仏像の左手に五色の幡を持たせ、その一方の端を病者が握るのである。次に25人の同志は、死んでいく者の成仏を願って念仏を繰り返し唱えるのである。これを二十五三昧講という。さてこの者が死んだあと、同志は四十九日までは七日ごとに集まって念仏を唱える。そして過去帳を作り、命日には念入りに供養するということを実践したのである。
さて墓に卒塔婆を立て、死者を追善供養するようになったのは平安時代の終わりである。1036年に後一条天皇の遺体は浄土寺の西で荼毘にふされた時、墓の上に石の卒塔婆を立て、その回りを柵で囲ったと記録されている。
 
鎌倉時代(1185〜1333)
鎌倉時代は浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場した。この時代は貴族階級が没落し、武士が興隆し、民衆は苦難災厄に悩まされていた。栄西が中国伝えた臨済宗は幕府や大名の帰依を受け、一方、道元がひらいた曹洞宗は地方武士の間に広まった。禅宗の葬法は、中国で1103年に編集された『禅苑清規』が基礎となっている。これは本来僧侶の葬法を扱ったものであったが、日本ではそれに手を加えて武家、および庶民の葬法が作られていった。
この時代には葬事という言葉が忌み嫌われ、「吉事」または勝事と言った。京都の天皇・貴族の間で行なわれた葬儀の概略が、12世紀末の『吉事次第』に次のように記されている。「まず人が死ぬと北枕に直し、衣を上にかけて覆い、枕元に屏風または几帳を逆さに立て、燈火に火をつけ、葬儀が終わるまで消えないように守る。香は燈火の火を着けて焚く。夏は酢を容器に入れて、死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱えるのである。
棺は木製で長さ6尺3寸、広さは1尺8寸、高さ1尺6寸が標準である。夏であれば、棺の中に香や土器の粉をに敷きつめ遺体が動くのを防ぎ、また遺体から漏れる液を吸う役に立てる。納棺には蓆のまま遺体を入れ、その上に梵字を描いた衣で覆う。更に頭、胸、足の3ケ所に土砂をふりかけ、蓋をして、葬儀のときまで北枕にして安置する。
葬儀当日には、早朝から貴所に荒垣をめぐらし、鳥居を立てて貴所屋を仕立てる。貴所屋とは遺体を荼毘にするところで、高さ4尺、広さ2尺、中央に鑢を置く。葬儀は夜間で、執行の人々は何も染めていない白の素服を着け、役人6人で牛車に棺を載せる。このとき遺体の頭は牛車の後の方に向ける。松明を持つ者が前に立って進み、香炉で香を焚く者が棺の傍に従い、そのあと多くの人々が付き従う。出棺後、留守の人は竹の箒で屋敷内を掃除し、使用後箒は河に捨てる。葬列が貴所に到着すると牛を外し、導師は御車の前に並び、咒願をしたのち棺を移して荼毘にふす。収骨は、瓶に納めてから土砂を加え、蓋をして白の皮袋に包む。そのお骨は三昧堂に納める。葬儀が終われば貴所屋、荒垣、鳥居を壊し、そのあとに墓を造って卒塔婆を立てる。回りに簡単な柵を設け、四角に松を植える。」
この当時は葬儀のあと、魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣もあった。以前から七七日、一周忌の法要はあったが、この頃から三回忌から十三回忌の法要が営まれるようになり、法要は寺院で行なわれた。法要は十種の供養、あるいは一切経の供養などを勤め、僧侶には布施として太刀、金銭、牛馬などを与えた。
二人の僧侶の葬儀
光明真言をあげた土砂によって人々は、極楽往生ができると説いた明恵上人(1232没)の葬儀の記録がある。、納棺のあたって香水を遺体に注ぎ、次に「当願恩霊乗棺中十地菩薩侍囲繞引接都率内院中当証如来妙覺位」と唱える。これは菩薩が棺を取り囲み、死者を都率天の中の菩薩の位に迎え入れるという意味である。次に真言を述べ、棺の底に土砂を入れ、納棺してさらに土砂をかける。次に衣をその上から覆い、そして蓋を覆う。葬列の途中には光明真言が唱えられ、埋葬場に到着すると、あらかじめ掘ってあった穴に土砂を散らし棺を埋葬した。このとき『理趣経』が読まれている。そして墓の上に五輪の卒塔婆が立てられた。
日蓮宗の教祖・日蓮(1282没)の場合を見てみたい。死亡した翌日の10月14日、午前8時に納棺され、深夜12時に弟子の日昭・日郎が導師となって葬送が行なわれた。葬送次第には用いられた道具に、先火、大宝華、幡、香、鐘、散華、経、文机、仏、履物、輿の棺、天蓋、太刀、腹巻、馬が記録されている。遺骸は15日、現在の本門寺の山麓で荼毘にふされ、16日収骨し、遺骨は遺言に従って身延山に納骨された。
 
室町時代(1336〜1573)
天皇の葬儀は鎌倉時代から引き続いて火葬にされ、遺骨は寺院に納め、陵墓には卒塔婆を立て、樹木を植えて墓標とした。後光厳天皇(1374没)の崩御には泉涌寺(京都市東山区)に葬り、ここを陵所とした。のちに後円融、後小松、称光、後土御門、後奈良、正親町の諸天皇もこの寺に葬られ、後陽成天皇(1617没)以降は代々の天皇の陵所となった。後光厳天皇の葬列の模様は『後光厳院崩御記』に記されている。「泉涌寺の儀式で、御車が大門から入り法堂の前に寄せ、法堂の仏前には供具が供えられた。前に位牌を立て、供具の上に錦に飾られた輿を据え、錦の幡を四方に立てた。御車に安楽光院の僧侶二人が寄った。そして係りの者が御車から錦に包まれた棺を降ろし、輿のなかに入れた。このあと両寺の長老が焼香し、経をあげる。多くの僧は『楞巌呪』一巻を読み終え、そのあと輿を担ぐ係りが輿を担いだ。僧6人がその脇について光明真言を唱えると、貴族たちは泣きながらその後について南の廊下を渡り、火屋に入った。火屋にはまわりに仮の垣根を立て、その中に幔をめぐらされている。火屋は檜木の皮で作られ、正面に鳥居を立てられている。棚に位牌を乗せ、両脇には香呂がありそこで香をたくのである。棺を入れ、輿を取り除くと、次に長老が焼香をして松明で薪に火を着けた。その間に『楞巌呪』一巻を読み終え、光明真言を唱え、火の燃えているうちに人々は泣きながら立ち去った」とある。
時の将軍足利尊氏(1358没)が臨済宗の等持院(京都市北区)に葬られて以来、等持院は足利氏歴代の廟所となる。
足利義詮(1367没)の葬儀は『大平記』のなかに記されている。それによると、「泣き泣き葬礼の儀式を取り営み、衣笠山のふもとの等持院に遺体を送り届けた。同じ日の午後12時、荼毘の用意が整い仏事の式次第も規則に則って丁重に行なわれた。鎖龕は東福寺の長老、起龕は建仁寺、奠湯は万寿寺、奠茶は真如寺、念誦は天龍寺、下火は南禅寺和尚にて行なわれた」このように完全に禅宗の様式で行なわれたのである。
貴族の葬儀
貴族の間で死者がでると、家では物忌札を門口に立てる。遺体は棺に納め輿に乗せて寺に送り、寺で輿を西向きにして儀式を行なった。まず僧侶が焼香し、次に身内の者が順次焼香する。次に遺体を沐浴剃髪して、黒衣、袈裟、帽子を着けて戒を授け、更に位牌を作って法号を与えた。死者の前に燈火、花、茶湯、香を供え、2日間の間陀羅尼を唱える。その一方で死体を葬るための葬場を設ける。葬場は大屋とその中の火屋からなる。大屋は外周に囲いでめぐらし、広さは7間四方で、四面を板で囲み、東西南北に1間半ばかりの門を作る。東は発心門、南は修行門、西は菩提門、北は涅槃門と名付けられている。各門の入口に鳥居を作り、中央は1間四方の火屋を作る。高さ2間、四面を壁で塗り、それぞれ龕を入れる口を開いておく。
葬儀の日に僧侶は龕前で仏事を行なう。その他の役にに下火(あこ)、起龕、鎖龕、點茶、點湯、掛具、挙経、念誦、起骨、初七等があり、それぞれ僧侶が行なう。寺院での仏事が終われば棺を葬場に送る葬列となる。力者は棺をかつぎ、松明、幡、天蓋を持つ者、鉢、鐃皷を打つ僧、燭台、香呂、花瓶、湯瓶、茶湯、掛具等を持つ僧が続き、位牌は家督の人が持つ。棺の善の綱は日頃故人に縁の深かった者が持ち、僧侶は阿弥陀の大咒を唱えて進んでいく。葬場に至れば、三度火屋を回り、読経してから遺体を荼毘にふす。当日遺骨を納める。これを起骨と言う。のちに諸寺に分納するのである。
 
江戸時代

 

江戸時代(1603〜1867)の大きな特徴は、何といっても寺請制度の確立による葬儀の普及である。徳川幕府はキリシタン禁制のために、寺請制度を強制し、寺院は庶民の戸籍事務を取り扱う機関となった。死人が出た場合に、旦那寺の僧侶は壇家であった者の死相を見届け、邪宗でないことを確認してから、引導を渡すこととなっていた。
『徳川盛世録』は、時の政府の典礼や作法を集めたものであるが、そこから葬儀の部分を取り上げてみたい。
儒葬は林家および古賀氏(幕府の儒者)等に限り儒葬が許された。墓地は江戸では寺院の境内に設けてあり、壇家に限って埋葬ができた。葬列の規模は武家では格式身分によって定められており、通常の行列よりも一層上位の格式をもって行なわれた。従って徒・率馬・対箱・先道具などを用いない身分でも、葬儀の場合に限って徒を立て、馬をひかせ、対箱を持たせ、棺前に槍を立たせることも行なわれた。武家では高張提灯を使用するが町人・百姓等はこれらを使用することができなかった。
武家の葬礼は棺かき、中間、小者などの役の者は白丁を着た。それは単の白布で作られた法披のようなものである。槍・長刀の鞘、率馬、長柄傘などはすべて白い布を掛け、婦人の葬儀には、棺の脇に白小袖に白い衣を被った婦人がついた。町人・百姓等はこうした格好の婦人はつかない。
武家では喪主・会葬人ならびに葬列に加わる侍もみな麻の上下を着た。町人・百姓等では、位牌・香炉持ちと喪主・会葬人等は羽織袴に一刀を帯びた。そして喪主は編み笠をかぶった。喪主・会葬人で刀を帯びる者は、その柄を白紙で包み、こよりでこれを結んで留めた。
武家では忌に当たる近親者の他、親族は自ら会葬せず、使者を立てこれを見送った。
近隣その他親戚の葬礼が門の前を通るときには、武家屋敷では囲いの外に手桶をまばらに並べて水を散布し、家来の侍を麻上下の衣装で出張させ、棺ならびに喪主が通行の際には道端に平伏した。
寺院では壇家より死の知らせ、あるいは葬儀の依頼をを受けた場合に、葬式を行なう前にその家に検僧を使わせ死者を調べた。そして変死の疑いがある場合には、その筋の証書がなければ、葬儀を執行できなかった。なお将軍は代々仏式で葬儀を行ない、その菩提寺は港区の浄土宗・増上寺と上野の天台宗・寛永寺であった。
中流社会の葬儀は、人が死んだら遺体をむしろの上に移し、逆さ屏風を立て、枕元に卓を置き、樒(しきみ)、香を供える。また死亡の知らせを告げ、旦那寺に知らせ枕経をあげていただく。次に遺体を沐浴し剃髪させ、白衣を着せて納棺する。棺は木製で富裕な家では寝棺を使うが、貧民は早桶といって、桶を棺に用いた。棺の中には故人の衣服、調度、六文銭を納めた。寛保2年、徳川吉宗が六文銭を入れることを禁じたことがある。
葬儀は一昼夜を過ぎてから行なう。午後6時から始めるが、百姓町人は多く昼間に行なった。出棺にあたり、門火を燃やし、葬列を送る。葬列は僧侶が鈴を鳴らして進み、高張提灯を持つ者、紙華、幡、天蓋、位牌を持つ者が続き、棺は葬列の中央にあって、その両側に紋のない箱提灯を照らし、後に輿脇の従者が続く。その後に喪主が紋のついた箱提灯を従者に持たせ続く。葬儀が終われば埋葬または火葬になるが、この時代には火葬は真宗に多く、他宗は埋葬が多かった。ただし他宗でも本人が火葬したいという希望があれば、火葬が行なわれた。葬儀の翌日には、寺に墓詣りをし、火葬であれば翌日遺骨を拾い、残りの灰は荼毘場の近くに埋める。これを灰塚といった。江戸の火葬場は、北に小塚原、南に鈴か森の刑場の辺り、そして隅田川の東、行徳街道に当たる中川の辺りにあり、当時三昧場と呼ばれていた。
芭蕉の葬儀
俳人の芭蕉(1694没)は御堂筋の旅宿花屋で客死したが、遺言で彼の遺体は近江膳所の義仲寺に葬られた。そのときの記録によると、芭蕉は弟子たちに囲まれて死亡したあと、すぐに不浄を清め、白木の長櫃に納められた。その夜川舟で伏見まで運ばれた。それには弟子たち11人が長櫃のまわりに付き添い、念仏を思い思いに唱えた。翌日午前10時には大津にある弟子の乙州の家に到着する。乙州は一足先に家に戻って、座敷を掃除し沐浴の用意をした。浄衣は本来白であるが、芭蕉は普段から茶色の衣装を好んでいたため。浄衣も茶色で作った。
さて義仲寺の僧侶が導師を勤め、三井寺から弟子3人が現われて、読経念仏が行なわれた。葬式は14日の午後6時と決まる。昼のうちから300人以上の人が集まり、近郊から会葬にきた老若男女が別れを悲しんだ。焼香する人が多く、境内が狭くなったので、表から入った人も裏から抜けられるように、田に道をつけて、混雑を解消させた。そのあと遺言通りに木曾義仲の墓の右手に遺体を埋葬した。すでに時間は午前12時を過ぎていた。なおその時の葬儀費用は次のようである。
一、真愚上人金一両 / 一、御齋米料同一両 / 一、御供養料同一両 / 一、御茶湯料同百匹(一匹は二五文) / 一、御弟子観門子同百匹 / 一、三井寺常住院御弟子二人同二百匹 / 家来衆三人銀三両  
 
江戸時代の葬儀
『九十箇条制法』にみる真宗の掟
『九十箇条制法』は、浄土真宗の門徒、僧侶に対する掟や、浄土真宗の中興の祖である蓮如(1499没)の御文に見える掟などを集めたものである。書かれたのは今から約320年以上前の寛文8年(1668)である。そこから死に関するものを拾ってみた。当時の真宗の考え方がうかがえる。
1.焼香する理由は?
香をたくと、香のある間は、火が燃えて煙が出る。人の口から息が出るのは、ちょうどこの煙のようなものである。煙が消えて冷たい灰となるのは、我々が火葬場の薪となり、最後に灰となるのを忘れないようにするためである。決して死者のために香をあげるのではない。
2.喪の日数は?
父母が死亡した場合には、50日の精進をする。
3.死亡の準備は?
真宗の信者の一員が死亡した場合には、龕(仏像を安置する厨子、または遺体を入れる棺)を設置したり、幕を張ったりすることは真宗では定めていない。ただし世間のしきたりならば行ってもよろしい。これをしても死んで極楽に行くの妨げにはならない。
4.加持祈祷は?
真宗の信者のなかに、病気になったら祈祷やお祓いをし、巫女や陰陽師に頼んで病人を癒すことがあるが、それは宗派の掟に背いている。いそいで門徒と相談することが大事である。
5.他宗での葬儀は?
親が他の宗派で死んだ場合、子供は門徒でありながら、天台・真言など他の宗派で弔うことは、当宗派では大変に嫌っている。たとえ他宗で死んだとしても、後に救われることがある。
(註:浄土真宗は現在でも、葬儀の指示について、細かく指示を与えている寺院があるが、そうした伝統は当時からあったのである)
『男重宝記』にみる弔い状の書き方
『男重宝記』は元祿時代にベストセラーになった、マナーの本であるが、そこから弔い状の書き方をみてみよう。
1.死の呼び方は
天皇が死亡されたことを崩御という。公方将軍の場合に他界、又は薨去(とも、逝去ともいう。長老・和尚を遷化とも入滅ともいう。庶民の場合には(上)遠行、(中)卒去・死去、(下)果つると書くべきである。
2.書いてはいけないことは
弔い状には、「以上」、「参る」、「人々御中」などとは書かない。封じ目に墨を付けず、「より」という字も書かない。要件がある場合にも弔い状の中にには書かず、別紙にて書く。
3.忌み言葉
弔い状には、「猶々」、「重ねて」、「やがて」、「返すがえす」、「又」などと書かない。行数は7行、9行(奇数)に書く。薄墨で書く。
4.書き方のこつ
弔い状は、悔やみだけの文章で、短くさらりと書く。「御力落」と書くのは俗である。「御愁傷」と書く。
5.香奠を添える場合
「香奠として鳥目(お金のこと)百疋(千文)、仏前に呈し候」などと書く。
『律苑行事問弁』にみる葬儀についての規則
この書物は、名古屋・八事にある真言宗・興正寺の妙龍(1705〜1786)が記したもの。妙龍は享保19年(1734)、徳川宗春の命を奉じて30の時に興正寺の第5世となり、以後批判精神にとんだ意見を述べている。この書は僧侶の質問に答える形式をとっている。
1.僧侶は葬儀に出るのは葬式仏教ではないか
質問:さる大名がある寺に命じて、「僧侶は、葬儀の場に出かけて引導を渡すのは、父母や師長、僧徒の場合に限られる。その他の葬送については、行ってはならない。これは仏教徒としての定めであり、戒律として文章化されている」と。これはどの戒律に記されているのか。もしこの通りならば、僧侶は一般の人から葬儀を依頼されても、引導・焼香をしてはいけないのか。
答え:小乗仏教の戒律をあらわした『善見律』には、「旦那が僧侶に葬儀をお願いしても、行ってはならない。ただし僧侶が葬送の場で無常観(人のはかないことを瞑想する)を行うのであれば、それは修行になる。この場合ならば罪はない。」とある。
『資持』には、「他人の依頼でも、世情の為でも、僧侶は無常観を行う場合を除き、葬儀を送ってはならない。」
先の大名の考えは、こうした説にのっとったものである。しかし一概にそうした説にこだわるべきではない。もし人から、死者に引導を渡し、苦を取り去って成仏させてほしいと頼まれれば、行って引導を渡し死者の苦しみを取り去るべきである。『善見律』の意味は、ただ何の意味もないのに白衣を着て、葬儀に応じることを戒めたものである。そしてこれは小乗仏教の教えである。他人の依頼に応じて、大乗仏教の慈悲にかなう他人の苦を取り除こうとする心をもって、引導することとは大変に異なっている。
2.仏式葬儀の効能
質問:葬儀の仕方は経典にどのように書かれているのか。
答え:義浄の『臨終方訣』によると、「もし死者を送る場合、遺体のあるところに行って、下座に座る。死者の右脇を下にして寝かせ、顔は日光に向け、その上座に高い座を敷いて様々な飾りをしつらえる。読経を請われたら僧侶は法座に昇り、(仏に代わって)死者のために『無常経』を読む。孝行な子供は悲しみを止め、泣くことをやめる。そこに集まった人々は皆、死者に心から焼香し散華をする。そして高座にある立派な経典を供養し、その香は僧侶にも捧げられる。焼香がすむと座って合掌し、敬う心をもって一心にお経を聞く。僧侶は一通り読経を勤めあげる。このお経を聞く者は、自分の命がはかないものであり、短い間に終わることを観じ、世間を離れて、悟りの世界に入ることを念じる。お経が終わると、再び散華・焼香して供養する。
また続いて僧侶に、呪文を唱えることを願う。僧は虫のいない清らかな水に呪文を37回唱え、それを死者の上に注ぐ。そして土にも呪文を37回唱えてそれを清め、死者の体の上にパラパラと散らす。こうして儀式が終わったあとは、希望により埋葬して卒塔婆を立てるか、火葬にする。あるいは死者を葬る場所に埋葬する。
この儀式の功徳と因縁の力によって、死者の多くの罪は消滅し、数々の仏様の前にあって大いなる功徳を受け、この上ない菩提を得ることになる。」以上が経典に書かれている。土に呪文をかけることは諸々の儀式経典にある。この呪文は梵字の地大を表し、法にかなっているので利益がすぐに現われる。
戒律を集めた聖典『有部毘奈耶』には、「葬送において僧侶は、『無常経』ならびに偈を唱え、呪文を唱える」とある。この説は美をつくし善をつくしている。これはインドの僧俗両方に通用する、好ましい葬送規則である。
これは即ち大乗仏教の、他者を救済するための素晴らしい技術である。『善見律』の自分のための小さな教えとは比較ができない。南山霊芝はこの教えを知らなかったのである。彼や大名の考えは、法を守るという真心から出たといっても、一を知って、その二のあることを知らないのである。他人を教化し救済するという、大乗仏教の法を忘れていることは残念なことである。南山霊芝すらこの教えを知らなかった。それだから一般の人が知らないのも当然かもしれない。
考えてみると、今の葬送では、子孫または親族は、死者のために焼香するが、その源はみなこの『臨終方訣』によっている。また土に呪文を唱え、その土を遺体に散らす方法は、仏教で普通に行われている方法である。必ず行うべきである。こうした加持土沙の方法は、『不空羂索観音経』ならびに『仏頂尊勝陀羅尼経』等に記されている。
3.剃髪沐浴は必要か
質問:中国の禅師の伝記を集めた『伝灯録』17「南嶽玄泰上座」の遺偈に「剃髪は不要で、澡浴は必要なし。」とある。また「閑居編」34の「孤山智円法師」の遺嘱(生前の依頼)にも、「私が死んだあと剃髪も澡浴も必要ない。浴衣を着せて納棺すればよろしい」とある。この二人の師の臨終作法は全く簡単である。今もしこれに見習ったならば「戒律」に反するのではないだろうか。
答え:新旧の戒律を集めた経典には、臨終の際、剃髪沐浴について説明している文章は見あたらない。従って剃髪沐浴は、その人の希望に従って行うのがいい。特にさし障りがあるわけではない。
『僧祇律』のなかで、修行者の陳如が林の中で死亡した。牛飼いがこれを見つけて荼毘にし、その遺品を王様に献じた。遺品の価値はわずかに五銭であった。この行者は侍者がいなかったので、剃髪沐浴をすることも出来なかった。当時の多くの行者はみなこのようであった。落ちぶれた境涯とはいえ、うらやましいことである。先の二人の禅師は、この流れを追ったものではないだろうか。もし処理を簡単にすることを希望する者は、この方法を真似ることも良いだろう。門人や弟子が多くある人は、遺言によって髪を清め、体を清めることも可能だからである。このような経典に説明のないことについては余りこだわらないのがよい。
4.火葬土葬の優劣
質問:火葬と土葬とはどちらが優れているのか。
答え:いずれも皆よいと思う。釈迦の場合には火葬を行っている。末代の弟子がこれに則るのは当然である。しかし、人それぞれ好きな方法で葬儀を取り行ってどうして悪いことがあるだろう。唐の『高僧伝』に、僧善が病気になって云うには、「私の死後、こわれた物の他は燃してはいけない。私の遺体はかめの中に座らせ、これを埋めてほしい」と言い残している。これもまた一理ある。孤山智円は生前、山を掘ってあらかじめ陶器を埋め、遺体をそのなかに納めるように遺言しておいたことも、僧善に則ったといえる。これは「閑居編」にある。また欽山の国一禅師も、かめの中に亡骸を納めたことが『宋僧伝』に伝えられている。略式の処理を好む者は見習うことも可能である。
中国にはムシロ葬、裸葬があった。僧侶には関係ないかもしれないが、知らなくてはならないであろう。前漢の梁の伯鸞の父が北地で死亡した。伯鸞は幼かったが、特に乱世のこともあり、ムシロに巻いて葬ったと、『後漢書』73にある。これは乱世で貧困の為である。前漢の楊王孫は、死に際してその子供に命じて言った。「私は裸葬をもって土に帰ることを望む」と。「必ず私の指示通りに行って欲しい。死んだら布袋に入れ、それを地中7尺に入れ、下ろすときにその袋を足から引き抜いて遺体を直接土に納めよ」と。詳しくは『前漢書』67にある。これは世の人々がこぞって奢り、厚く葬ることを戒めたものであるが、大変に変わった方法と言えるだろう。
5.葬送の幡と天蓋の起源
質問:今どきの葬送には、必ず白い幡や白い天蓋を作って威儀を保つことを常としている。また徳の高い人の場合には、必ず碑銘を立てて名誉としている。これは戒律に違反することはないだろうか。
答え:インドの風習では葬送の時、香や花、幡や鼓で送ることは「有部毘奈耶頌」に記してある。しかし碑銘を立てて徳を賛えることは見あたらないようである。これは中国の文化が生んだ様式で、すでに定着してしまった事柄である。どうして戒律に反することがあろうか。時に準じて施設してもよいものである。
中国では僧侶の葬送の時、幡や天蓋を使うことが伝えられている。『高僧伝』智首律師の章に、「貞観9年4月22日卒。多くの役人に葬儀の準備の勅令が下される。諸寺や門学では競って白幡を引き、諸街の道にあふれた。門学ともに高碑を立て、弘福寺の門に彫りつけた。」同じく玄宛律師の章に、「貞観10年12月7日卒。幡や天蓋が交互に進み、香や花が空に乱れた。従者は雲のごとく数万人が満ちあふれた。宗正卿李伯は、塔所に碑を立てた。」同じく玄弉三蔵の章には、「葬儀の日を聞いた僧尼は、幡や蓋をもって送り、白蓋、白幡が空に浮かんだ」とある。
6.葬儀の遺言とその変更
質問:葬儀についての遺言は必ず守るものですか。
答え:「私が死んだら竹で編んだむしろに巻いて淵に沈めよ」。あるいは、「遺体を松の下にさらして鳥獣の餌にせよ。葬儀をすることなかれ。碑銘を立てることなかれ」と遺言する人もある。人の心はそれぞれ異なるので、その人の希望にそって行えばよい。又師の遺言に「遺体を外に捨てよ」とあっても、弟子はその通りに行うことが出来ず、葬儀を取りつくろうことが多い。これも又世間の礼法の姿である。出世孝行の一つのあり方である。あえてこだわることはない。時に従い、所に応じて変更しても構わない。
7.遺体に衣服を覆って埋葬する
質問:「僧は下衣で遺体を覆い葬送する。袈裟を埋葬する必要はない」などの説が『事鈔』などにはあるが、僧侶を裸のまま埋葬するのは行きすぎではないか。
答え:『有部尼陀那』の2章に、「ある僧侶が病気で死亡した。人々は衣を取り去り、死体をさらしたまま葬送した。俗人はこれを見て変に思った。仏は「裸のままでなく、袴や覆で身をおおって葬送せよ」と言った。これを聞いた僧侶たちは、彼らの好みの衣で覆った。仏は「好みの衣を用いてはいけない」と言った。これを聞いた僧侶たちは、今度は破れた衣をもって覆った。仏は「好きでも嫌いでもない衣で遺体を覆いなさい」と言った。
ここには、遺体を覆う衣について明瞭な考えがある。そこには、遺体を覆う衣を埋葬してはいけないという説はない。もし埋めることが罪ならば、「五部律」にその注意があるが、実際には規則がないので埋めてもかまわない。そして、当今の行事にあるように、死体を沐浴させたあと、かたびらもしくは着物を着せ、その上に袴および着物を着せて棺に入れて埋葬するべきである。たとえ火葬にするといっても、衣を焼くことは罪ではないのである。
8.守られない戒律
昨今、多くの宗派の信者は少しも戒律を知らないようである。前もってあら布の袈裟を用意して「涅槃衣」と名付け、自分の遺体にその衣を着せて納棺するように遺言するという、とても法にかなったと思える者も多くいるのである。もし火葬にすれば袈裟を燃す罪となると考えることは、おかしいではないか。
また新しい死者を入れた棺桶を仏堂の内に担ぎ入れて葬式を行うことが、世の中の流儀になっている。しかし、250戒のなかに「塔下擔死戒」という戒律があり、死体を担って塔の軒下を通ることを禁じている。ましてや、遺体を仏殿の内に入れて仏前を汚すことは許されないことである。善悪を忘れた末世というべきである。
『播磨屋中井家永代帳』にみる葬儀費用
葬儀でもっとも気にかかることは、葬儀にどのくらい費用がかかったかの明細である。これを記録しておくと、次回の葬儀に大変に参考になる。こうした記録が江戸時代にもあった。以下はその抜粋である。
明和2年(1765)5月20日午後4時頃、ご隠居死去。法名号将光院誓誉寿円法尼。葬礼は同月22日朝出棺。浅草誓願寺本堂において、方丈により引導。出僧8人。九品院での湯灌後に行列。
○費用内訳
(一)誓願寺方丈様ならびに本堂での諸費用金四両八匁(以下略)
(一)九品院へ葬礼の節のお布施金一両二分(以下略)
(一)九品院へ七日より一九日までの仕切雑用金二分
(次に葬儀に必要な費用内容を、金額を省略して順にあげる。)
七日払いの施し物、九品院へ七日寺参り、調菜諸雑用、同所へお袋様・ご新造様のご香奠、浄見寺様へご焼香礼、同寺に七日逮夜お布施、寿円様への院号代、棺掛けむく代、まんじゅう八百、道心(13歳以上で仏門に入った者)に当日より七日まで念仏を勤めていただいたお布施、半紙本堂にて使用、九品院へ葬礼の日の諸用代勝手へ払う、棺掛け麻衣代、葬礼道具品々小買い物代、わらじその他品々、千住火葬場諸費用、七日逮夜までのご法事諸色費用、石塔修理代、寺内に小遣い、葬礼と七日のかご代、総額しめて23両2分。
(註:このように大変細かい内訳を記録している。特に印象に残るのは、葬列の順序が人の名前を記入して記録されており、その順列は血縁関係や交友関係の上下を示す表として見ることが出来る)
『塩沢風俗帳』にみる、葬儀風俗
江戸時代の記録をみると、葬儀の風俗は、最近まで行われていた方法とほとんど変化がないことがわかる。ここに取り上げた『塩沢風俗帳』は、1842年に記されたものであり、最近までそれが続いていたことがわかる。従って現在の葬儀の変化は、いかに大きなものであるかがわかる。
人が死亡したら、親族どもが寄りあって、財産に応じて葬式の相談等を行ったあと、菩提寺に知らせ、その他告知を行う。それにより一人二人と手伝う人が集まる。
24時間過ぎて沐浴させたあと桶(棺)に入れる。また木綿の袋を桶にかぶせることもある。身元のよい者は板で天蓋のような形を作り、これを桶の上に覆うこともある。板あるいは藁で龍頭を作り、紙の幡などを作って野辺送りの支度をする。当郡は火葬にするため、昼夜とも日隠しのためにあしで庵のようなものをこしらえ、まわりに白木綿で天を白く覆う。身分が低い者はこうしたことは出来ないし、また追善供養も身分に応じて行う。親類や手伝いを行った者には斎という飯の振る舞いがある。
○ 持参する供物
悔やみに行く者はお香代として百文、50文、25文位をそれぞれに持参する。特別懇意にしている者は白米1、2升、ローソク、野菜など香代に添えて夫婦ともに悔やみをする。3日目には寺参りとして、菩提寺に参り、施物は金堂分により段々で、2百文、3百文くらいまで身分に応じて出す。また弔いをする者は帯着物を着て、の餅を寺に持参する。また一七日(初七日)まで、毎夜親類をはじめ人々が集まり、特に親類は団子、ぼた餅を持参して仏前に供え、一同仏名を唱えて回向をする。それが終わると、それぞれが持参した品を分配し、煎茶を出して人々に給仕をする。(資料:芳賀登『葬儀の歴史』引用より)
御子神記事
人は死んでから仏壇に祭られ、そして33年の弔いあげがすむと、その死者は完全に清められて始めて家の神様として祭りあげられるという伝統が日本にはある。それを書きしるしたものの一つが『御子神記事』である。書かれた年代ははっきりしないが、資料は『古事類苑』礼式部二より抜粋した。
先祖を御子神として祭るは、神職の家の外にも先規に従って祭っている家筋がある。死亡した時には旦那寺に行って、「亡き父○○については、先例にしたがって、のちに神として祭るので、過去帳に記入しないでほしい」と申しておく。また当時それを断らなかった場合には、3年あるいは7年忌の法事の時に、今日から神に祭るので、過去帳の名前を消してほしいと断り、位牌を墓所に捨てる。(過去帳にある法名を消し、位牌を捨てなければ神とならないと言い伝えられている)。
それからは11月の氏神祭りの日(その他の神祭日には行わず、11月に限る)に神事をすませて、これからは○○を神として祭るという名目で、その子孫をや村の長にあたる人を招いて神事を行う。(この祭事については省略するが、神楽を舞い、死者の霊を下ろして神座に移す儀式を行う)
家により所によっては神祭りの時、神楽を行わず、12月の大晦日に、その嫡家に子孫を集め、鏡餅や洗米、神酒を供えて、御子神の神事とする言い伝えもある。
槙野山の奧、奥の内村などでは、家ごとに神に祭っている。もっともこれは25年、33年忌を寺にて勤めあげ、それより祭り始めることもあり、50年忌にして始めて祭るということもある。 
 
明治時代

 

明治前夜
○ 当時、喪服は白色だった。(慶応元年6月)
ドイツの考古学者シュリーマンが日本に訪れ、ある高貴な身分の役人の葬儀に立ち会ったときの模様を記している。「故人は生前要職にあった自分の衣服を着せられ、帯に日本の刀と扇子を差し、頭には漆塗りの竹製の黒い帽子をのせ、・・・婦人の帽子の箱に似た柩に納められた。死者の脚と腕は折りたたまれ、座ってちょうど生まれる前の胎児の格好になった。(中略)次いで柩は釘で打ちつけられ、百合の花飾りのある白い覆いが掛けられた。そしてその寺院(善福寺)の大きな祭壇の前にある高座に安置された。白の喪服によって礼装した王国政府の300名すべての役人が、その柩の周りで、手指を組むのではなく、掌を合わせて跪いていた。僧侶が祭壇の上のすべての蝋燭に灯を点し、香を焚き、鐘を鳴らして祈梼を行なう間、両側に並んだ他の40名ばかりの僧侶たちが、サンスクリット語で葬送の賦を唱え始めた。葬儀執行者と僧侶たちは白の喪服を纒っていた。宗教儀式が終了すると、一人の僧侶が寺院の階段のところまで進んで、その手にしていた鳥籠をあけ、中に入れられていた一羽の白い鳩を放った。この象徴的な儀式の後、木棺は竹の綱で取り巻かれた。そして柩は竹竿に通され、それぞれの端を二人の日本人が、その寺院の傍らにある墓地に馳足で運んでいった。」(藤川徹訳)
明治時代
○ 神社仏閣の女人禁制廃止(明治5年3月)
これまで神社仏閣では女性の登山参拝が禁じられていたが、この禁制の廃止が布告された。
○ 地震の死者に埋葬料(明治5年3月)
2月6日、島根県に地震があり死者105人を出した。このため死者には埋葬料が支払われ、傷者は仮病院を建て治療を施され、その他罹災者のために食料援助が行なわれた。
○ 僧侶も妻帯肉食が自由となる(明治5年4月)
僧侶も妻帯肉食、及び髪を伸ばすことが自由となる。また法要の時以外には、一般の服の着用が認められる。
○ 自葬の禁止(明治5年6月)
6月28日、葬儀に関する二つの布告が発せられた。一つは自葬を禁止して、今後は神式又は仏式で行なう。第2は神官の葬儀執行を認可したもの。「従来は神官は葬儀に関係しなかったが、今後は葬儀を依頼された場合、喪主を助けること」と定められた。
○ 青山墓地できる(明治5年8月)
神葬祭を行なうにも埋葬地が必要のため、青山百人町ならびに渋谷羽根津村の両地を士民一般の葬地に定められた。
○ 昼間の火葬の禁止(明治6年1月)
大阪府は昼間の火葬を禁止し、夜間の火葬のみを許可した。ただし葬送は昼夜いずれに行なってもよいとされる。
○ 火葬の禁止(明治6年7月)
7月18日、火葬は今後禁止するとの太政官布告がある。その理由は、慶応3年に後光明天皇が死亡されたとき、京都の住民の魚商八兵衛という者が、天皇の遺骸を火葬することを痛み、公卿たちの協力を得て中止させたことがあるが、本令によって厳禁となった。
○ 火葬場跡に千日前の歓楽場(明治7年12月)
大阪府下千日は昔から火葬場であったが、火葬が行なわれなくなってからは、大阪府の四隅に埋葬所が設けられた。そこでこの地は不用の地となったが、気持ちが悪いといって民家を建てようとする人もいない。そこで最初に作られたのが、幽霊などを見せる見せ物小屋で、翌年1月1日開場した。
○ 火葬禁止は1年で廃止(明治8年5月)
火葬解禁に応じて、火葬再開の願いが次々に出される。火葬時間は午後8時より10時まで。翌日の骨上げは、午前8時から午後3時までであった。火葬料金は上等は1円75銭、下等は75銭である。
○ 西洋式火葬場の誕生(明治9年6月)
小塚原の火葬場に西洋式の火葬炉が完成する。煉瓦の石蔵が3,000円。焼却機械が1,800円。この火葬場は、明治20年に日暮里に移転される。
○ 死亡届に医師の診断書が必要(明治10年9月)
コレラ伝染病が蔓延し、その取調べの都合もあり、当分の間はすべて死亡の者は、医師の診断書を添えて警視病院または所轄の分署に届け出が必要との布達がでる。
○ 大阪の芸妓死体解剖を申し出る(明治11年5月)
大阪難波の芸妓若鶴は不治の病に罹り、自分が亡きあとに遺体を解剖して医学の役にたてて欲しいと遺言を言い残した。9日午前、彼女の死亡ののち、同日午後天王寺村の埋葬地へ野辺の送りをして、引導を終えたあと、かねてから準備した小屋へ死体を運び、病院長代理を始め、生徒100名ばかりの臨場のもとに、解剖が行なわれた。
○ 青山墓地に外国人の埋葬地を定める(明治13年6月)
青山の共葬墓地内に、外国人の埋葬地が定められ、それに伴い掃除人数名が増員された。
○ 平民にも院殿大居士を認める(明治13年7月)
これまで寺の戒名に院殿又は大居士をつけるのは士分以上の有位の人であったが、これより平民でも国家に勲労があれば許されることとなる。
○ 東京府の火葬場取締規則公布(明治13年9月)
9月3日の公布では「東京府の火葬場を現在の5ケ所に限る。場主は警視庁の許可を受け、火葬時間は午後8時から午前5時までの夜間。火葬を実施する者は、埋葬証書を確認した後で執行する」とある。
○ 神官が葬儀に関係することを禁止(明治15年1月)
1月27日、内務省より今後神官は葬儀に関係することを禁ずるという通達を出す。
○ 高知新聞の葬儀執行に幾万の行列(明治15年7月)
7月14日、「高知新聞」が発行禁止を命じられたため、「高知自由新聞」は愛友「高知新聞」の葬式執行の広告を出した。16日午後2時、忌中笠という編笠を被った社員が社旗を持って進み、続いて白の高提灯、香炉、蓮華のあと、編集長が新聞紙で貼った位牌を持って登場。「諸行無常寂滅為楽高知新聞の霊」と記した旗をたて、その後に配達人が棺を代る代る担い、記者・株主はいずれも麻の上下でその後を続き、さらに読者がこれに続いた。参加者数は、帳簿に記されているもので2727人。葬列は社主の持ち山を火葬場に見たてて、そこに棺をすえて読経を行なった。この日葬儀を見に集まった人出は幾万という。
○ 横浜の解剖社、死体寄付者に謝礼(明治16年4月)
横浜の医師が設立した「解剖社」は、金10円の謝礼で解剖用の遺体を購入すると広告。これに応じて死体を同社に送り、解剖するケースが少なくなかったという。
○ 死体は24時間経過してから埋葬(明治17年10月)
10月4日、「墓地および埋葬取締規則」が公布され、死体は死後24時間経過しなければ埋火葬できないと定められた。
○ 東大医学部で解剖百体祭(明治18年1月)
東京大学医学部では、1月29日、谷中天王寺にて死体解剖の百体祭を執行して、解剖に関係した人は残らず参詣した。
○ 三菱会社長の死去で6万人分の料理や菓子を用意(明治18年2月)
2月7日、胃癌で死亡した三菱会社長岩崎弥太郎氏は、13日神葬式で葬儀を取り行なった。午後1時下谷茅町の邸を出棺後、北豊島郡染井村の新設の墓地に達した。その行列は巡査、騎馬などのあと、邦楽の奏者が続き、次に「従五位勲四等岩崎弥太郎之棺」と書いた旗を持つ者、造花、生花が300余り続いた。生花は白梅、桃の花。造花は牡丹、芍薬、かきつばたで、次に霊柩が進んだ。棺の周りには三菱の要人24名に護衛され、次に喪主、親戚、社員一同と続いた。この日の会葬者は3万人という。さて霊柩の埋葬式は、墓地の前面に仮小屋が構えられ、墓地の周囲6,000坪の畑一面にむしろを二重に敷き詰められた。また会葬者には貴賎を問わず、西洋料理、日本料理で立食のもてなしがあり、この時の料理、菓子は6万人分という。しかしその8割が午後4時半には大方なくなり、また当日の葬儀に雇った人員は7万人近くいたという。
○ 新年早々の葬式看板に苦情(明治19年1月)
東京の葬儀社が1月4日に開店、神葬仏葬の極彩色の絵を門口に掲げたが、近所から正月早々縁起が悪いとの苦情が出る。後で仲裁が入り円満解決した。
○ 寺院が独力で火葬場建設(明治19年5月)
岐阜市の金華山の麓にある自福寺境内に、一寺院が独力で近代的施設の火葬場を設立する。
○ 上野公園に葬式用通路できる(明治19年10月)
上野公園は葬式の通行を禁じていたので、谷中の墓地に行くのに迂回して行かねばならなかった。そのため公園内に道を作り、葬式通行に便宜を計ることとなった。
○ 欧米で火葬が普及する(明治19年11月)
11月13日の新聞に海外の火葬事情が紹介された。明治9年、火葬がイタリアで行なわれてから、火葬が西洋諸国に普及し始めた。アメリカではニューヨーク、サンフランシスコ、ボストンなどに火葬場が出来、それに反対の声もあがらない。火葬料は40ドル内外である。ドイツでは国の公の認可をとるため、2万3千人の署名が国会に提出された。スイスでは公共の費用が増加しないかぎり火葬を許可するとし、イタリアでは火葬社の社員が増加して、現在6千人以上となる。スェーデン、オランダ、イギリスではまだ顕著な動きがなく、フランスでは明治16年現在、伝染病死すら火葬を禁じているが、火葬は衛生上有効という見解が普及してきている。(註・この記事の翌年の明治20年にフランスで火葬が公認された)
○ 火葬場建設に反対運動(明治20年7月)
日暮里村に新設の火葬場は、近村七ケ村の11名の総代人を選出し、許可取消の申請を警視庁、東京府、内務省に出す。
○ 小塚原の旧刑場跡で刑死人の大供養(明治21年4月)
200年来、小塚原に埋めてあった10余万の囚人のための大供養が行なわれた。当日の供養のために、式場の左右には来賓のための桟敷が設けられた。正午の号砲を合図に、天台宗他1,000人ほどの僧が供養塔の周囲を囲み読経が行なわれた。そのあと供物の餠菓子が集まった人に投げられた。この日、南は山谷より北は千住北組まで人があふれた。
○ 同志社の創立者、新島襄の葬儀(明治23年1月)
民間の教育者と知られた新島襄は、1月23日大磯で死亡。翌24日遺体を京都に送り、27日同志社内で葬儀が行なわれた。礼拝堂の前に3千人収容の天幕が張られ、葬儀場とされた。葬列は午後12時自宅を出棺し、寺町通りを北に今出川通りを西に回って同志社に至る。棺を式場の正面に置き、「新島襄之墓」と書いた墓標をその右に立てた。前面には紳士席、左席を淑女席と区分けされており、式は2時頃まで続けられた。そのあと、会葬者は2列になって柩を若王寺の墓地まで送った。順序は先導、生花、生徒、卒業生、社員、教員、職員、旗、墓標、棺、牧師伝導師、諸総代、諸学校生徒、各教会員等である。
○ ドイツ皇帝の死、西園寺公使葬儀に参列(明治21年6月)
6月17日死去したドイツ皇帝フリードリッヒ3世の葬儀のため、西園寺公使は特派大使として出席。横浜では各国領事館はもちろん、停泊中の各国軍艦は半旗の凶礼をし、英国艦隊の旗艦は正午頃弔砲を放った。
○ 陸軍会葬式を決定(明治24年11月)
陸軍は現役軍人等の死亡者にたいする会葬式を決定する。
1.儀杖兵発差、/ 2.弔銃斉発、/ 3.総代会葬。
○ 貧困者には無料で火葬(明治27年3月)
亀戸、砂村、桐ケ谷他計7ケ所の火葬場では、貧困者に対し1年間200名まで、無料で火葬を行なう旨を東京府庁に出願した。
○ 皇太后崩御され歌舞音曲を停止(明治30年1月)
1月11日皇后陛下崩御につき、歌舞音曲が停止された。営業に関しては15日間。また黒紗を左腕に巻いて弔意を表するため、黒紗は15日までに大小の呉服屋では、ほとんど売り尽くして、価格も暴騰した。
○ 昼間の葬礼を憂う「葬儀論」(明治31年10月)
葬列が昼間挙行されるようになったのは、明治に入ってからのことである。山下重民は、この風潮を嘆く論説を「風俗画報」に掲載した。その要旨は、「葬礼は夜間に行なうべきものであって、日中に行なうものではない。現在日中に葬送をするのは、儀式の華麗さを誇示せんがためであって、遺体を入れた棺を日光にさらすことは、タブーを恐れない振舞いである。心ある者は必ず夜間に葬送すべきである。1には日光をはばかり、2には華麗を示す奢りをはぶき、3には古の法に従うことになるからである。」
○ 勝海舟の死去と葬儀(明治32年1月)
1月21日死亡した海舟の葬儀が25日に行なわれた。午前9時赤坂の自宅を出棺、別荘のある馬込村に埋葬された。儀式は遺言により、「質素を旨とし、生花、造花、放鳥の寄贈を謝絶し、会葬者の弁当料、新聞の広告は一切廃してその費用を赤坂区内の貧民に与える」とのこと。なお葬儀当日は雪で、会葬者は2,000名。青山墓地の祭場左右の茶屋14軒を会葬者の休憩所にあて、さらに広場の左右両側に天幕を張って会葬者の休憩所にしたが、とても入り切れなかったという。
○ 福沢諭吉の死と葬儀(明治34年2月)
2月3日死去した福沢の葬儀は、同9日に行なわれた。福沢邸の前には机を1列に並べ、10数人の接客係に当たる。塾講堂を塾員外会葬者の休憩所、講堂後の教室を塾員の休憩所とした。そして前面庭と駐車場右の空地には、立て札を立てて、臨時駐車場とした。午前10時半、導師の偈の後焼香に移り、正午には棺を輿に収めた。同40分。鈴の音とともに葬列が始まった。
○ 中江兆民の死と告別式(明治34年12月)
明治の思想家、中江兆民が13日死亡。新聞に「宗教的儀式を用いず、告別式を執行する」との広告を出す。これが告別式の始まりと言われる。
○ 八甲田山で199人が凍死、現場で弔魂祭(明治35年7月)
1月23日の陸軍青森歩兵連隊215人のうち、199人が凍死した事故から半年の7月24日、凍死者のための弔魂祭が行なわれた。午前9時よりの祭りには約5万人が参拝。午後は仏式の法要が営まれ、各宗の僧侶160名が参集した。
○ アメリカで霊柩車の広告、登場(明治36年)
アメリカの葬儀雑誌「西洋の葬儀屋」に霊柩車の広告が登場。なおその2年後にはパリの自動車博覧会で、霊柩車が出展された。
○ 9代目団十郎の葬儀に5千人の弔問(明治36年9月)
9月13日死去した市川団十郎の葬儀が20日。青山共同墓地にて行なわれた。当日は生憎の雨天にもかかわらず、葬列には5千人が参加。葬儀は自宅で、午前9時、棺前祭を行ない、正午出棺。棺は総桧で御葉牡丹の金具を打ち、玉垣鳥居にしめ縄を引き渡し、そのなかに寝棺がある。青山墓地に到着したのは午後2時過ぎ、そこで伊藤博文の弔文を俳優川上音二郎が代読。午後4時には埋葬式が終了する。
○ 常陸丸殉難者の合同葬祭行なわれる(明治37年8月)
6月15日、玄海灘で戦死をとげた635名の陸軍公葬が、8月21日、青山練兵場で行なわれた。午前8時40分、青山練兵場に635名の霊柩が到着。斎場は中央に東向きに設けられ、奏とともに霊柩祭壇に安置されるとまず供饌(きょうせん)を行ない、誄詞(るいし)捧読、弔辞等のあと、各宗35派僧侶(約300名)の読経、及び神道13教派神官(約150名)の祭文朗読等が行なわれた。そのあと儀杖兵の一斉射撃を3発し、続いて喪主、遺族会葬者順次玉串を捧げ式を終えた。各霊柩は午後1時、青山墓地に送られて埋棺式を行なったあと、埋葬された。
○ ロシア艦捕虜の葬儀(明治37年8月)
佐世保海軍病院で死亡した軍艦リューリック号の乗組員4名の葬儀が、20日海軍神葬式で行なわれた。佐世保より4名の遺体は、それぞれ二重の杉厚板の棺に収め、ロシア国旗で覆い、ロシア人の墓地を管理する悟真寺に運ばれた。本堂正面の祭壇に棺を安置した後、祭主は他の神官をともなって祭壇に進み、棺前祭を行ない、長文の祝詞(のりと)を朗読したあと玉串を捧げた。坂本艦長は、「母国のために最期まで勇敢に戦い、ついに名誉の戦死をなせるロシア国兵士の霊を弔う」旨の指令長官の弔辞を代読した。
○ 伊藤博文の国葬行なわれる(明治42年11月)
10月26日、ハルビンで暗殺された伊藤博文の国葬が11月4日、行なわれた。午前7時、柩前祭が行なわれる。午前8時、霊柩は官邸を出て、日比谷の祭場に向かう。日比谷公園の祭場は、早朝より清掃され、広場を2区に画して、南方半分を祭場とし、北半分を会葬者の控え所とした。祭場には黒白の鯨幕を2重に引き回し、幄舎に対する幕の中央に祭壇を設け、会葬者控え所には4個の幕舎を設けた。広場の入り口には会葬者名刺受付所を設け、午前8時頃から到着する会葬者に対した。葬列は午前10時過ぎに到着し、霊柩を正面壇上に安置。午後零時20分、霊柩は馬車に移されて、大井町の墓地に至り、埋葬式を行なう。終了は午後4時。
○ 俳優、川上音二郎の葬儀(明治44年11月)
11月11日に死亡した川上音二郎の遺骸は、桧の棺に収められて大阪帝国座に安置された。通夜は帝国座で17日夜営まれた。これより先、霊柩を収めた舞台の花御堂には花輪、花束が飾られ、棺の前には「源宗院音如大仙居士」の位牌が安置。翌午前9時半、導師その他、14ケ寺の僧侶が到着。午前10時半、楽僧の楽が収まると、白綾で包まれた棺が、花御堂を降ろされて正面入り口に運ばれ、竹輿に収められた。前には川上の子供が「霊位」を持ち、後からは喪服の貞奴が続いた。ちょうど棺が帝国座を出た時、先供が新町橋に到着していた。何と言っても近頃にない葬儀とあって、見物人は朝の7時から場所を取っているから、時間と共に道は身動きが出来ず、2階から顔を出す者、屋根に乗って見物している者もいた。ようやく葬列は一心寺に到着。造り供養、花車、白張提灯ついで棺が入った。本堂正面には供花、供果が飾られ、式は午後1時、奏楽と共に開始された。導師は観無量寿経を唱え、退散楽を奏して式は終わり、遺体は午後8時、梅田発の列車で郷里の博多に送られた。
○ 明治天皇崩御(明治45年7月)
7月30日、明治天皇崩御。59歳。大喪の日程は大正元年8月7日に発表された。大喪の期日は3日間で、9月13日夜青山練兵場にて御大喪式挙行。9月14日京都府桃山御陵御埋棺式。9月15日跡始末御祭典。こうして時代は大正に入った。  
 
大正時代

 

○ 半数の市民が喪章を着ける(大正1年8月)
明治45年7月30日に明治天皇が崩御され、国民一般に大喪中の喪章について取り決められた。和服の場合、衣服の左胸に蝶形に結びの黒布を着け、洋服の場合には左腕に黒布を着けるものである。朝日新聞記者が、8月9日午後2時から新橋で喪章着用調査を行なった。その結果、5分間に往来した199人の内、男性140人の着用率は56%、女性は59人の内40%という結果が出た。なお年令から言うと40才以上は着けない者が多かった。
○ 明治天皇大喪(大正1年9月)
明治天皇の大喪は、9月13日から3日間にわたり行なわれた。大喪費用は当時の金で150万円であった。午後8時、1発の号砲を合図に明治天皇の霊柩を乗せた轜車(じしゃ)は、78対の松明(たいまつ)に導かれて宮殿を出発。轜車が青山の葬場殿に到着したのは夜の10時56分。葬場殿の儀が終わったのは午前零時45分である。夜間の葬列のため、その準備も大変だった。皇居の正面の二重橋から西の丸の馬場先門までの間には、約20メートル間隔で高さ6メートルの根越榊10対を立て、その土台には約45センチの白木の台に白木の枠を設けた。榊の梢からは黒白、あるいは濃い鼠色の帛(絹布)を垂らし、榊と榊の間に約18メートルの間隔で、高さ3メートルのガスのかがり火を20対設置した。このかがり火は赤松の丸太3本を組み合わせて作ったもので、これにしめ縄を張り、さらに榊のかがり火の後方には10対のアーク灯を点じ、辺り一帯を真昼のように照らした。馬場先門からは36メートルおきに9メートルの柱を立て、その上にアーク灯をつけた。その間に18メートルおきに、黒白の布を巻いた間柱を立て、頂上から幡旗をつるし、途中で緑葉の環を付けた。さらに柱と柱の間には銀色、あるいは黒白の喪飾りを施した。麹町大通りは車道と人道との間に黒の幔幕を張り、各戸に白張りの提灯を掲げた。青山大葬場入口左右には、擦りガラスをはめた高さ8メートルの白木作りの春日形大燈篭一対を立て、総門の左右には清涼殿形の吊り燈篭4個を立てて、夜間の葬列にふさわしい備えをした。
○ 乃木大将夫妻の葬儀(大正1年9月)
明治天皇大葬の当夜、霊柩発引の号砲を合図に自刃を遂げた乃木大将夫妻の葬儀が9月18日に行なわれた。午後3時赤坂の自宅を出棺、青山斎場に於て神式の葬儀を執り行なった。午後2時半にラッパの合図第1声とともに、前駆並びに花旗の行列を整え、第2声で大将の棺を載せた砲車、及び夫人の棺を載せた馬車の出発準備に取り掛かり、葬儀係はいずれも行列位置についた。次ぎに会葬者一同出発準備をして、第3声「気を付け前へ」の合図とともに行進が始まった。午後4時、祭式が始まり、4時25分、道路に整列した1個連隊の儀杖兵は、「命を棄てて」のラッパの吹奏を終えて、一斉に銃口を天に向け3発の弔銃を発射した。午後5時頃より一般会葬者の参拝が始まった。葬儀委員の3名は椅子に登って「礼拝が済みますれば、すぐにご退出を願います。後がたくさんでございますから、何とぞ早くご退出を願います」と声を嗄らしても、棺前で泣き伏して棺の前を去らない人もいた。5時45分には、一般の参拝を差し止めたがなかなか人は減らず、なかには白髪の老人が懐から祭文を取り出し、涙を流しながら朗読し始め、委員が「ご祭文はそこに置いていただきます」といっても聞き入れないというひと幕があった。
○ 憲法学者の死(大正1年10月)
憲法学の権威、穂積博士が鎌倉の別荘で10月5日死亡。翌6日、東京の自宅に遺体が帰った。葬儀は9日、豊島区の染井墓地にて行なわれた。午前に出棺祭を行ない、午後1時、小石川原町の自宅を出た。葬列は榊・旗についで、祭官が従い、次に勲章3個を大学生が捧持し、幾百の供花が2列になって進んだ。次に「従三位勲一等法学博士穂積八束乃柩」と書いた銘旗。博士の遺体を納めた桧(ひのき)の柩が続いた。白丁(はくてい)30人が担いだ柩の上には大礼服と礼帽が載り、墓場へと向かった。
○ 名古屋に葬式電車製作(大正4年3月)
名古屋市の八事に火葬場完成にともない、そこまで会葬者を電車で運ぶプランが立てられた。そこで尾張電鉄は葬式電車の製作をメーカーに依頼した。電車の側面中央には1.8メートルほどの観音扉を作り、そこから棺を出し入れをし、中央の柩台に安置するのである。この電車は大正10年頃から運転されていたという。
○ 海軍機が横須賀に墜落、乗員3人死亡(大正4年3月)
6日午前、3人乗りの海軍飛行機が墜落、乗組員3名が死亡した。このため、14日に海軍葬が行なわれた。14日正午、水交社を出棺、青山斎場にて葬儀が営まれた。当日午前9時30分、葬儀委員を初め遺族、近親者が控える所に、祭主、5名の祭官を従えて霊前に進み、玉串を捧げて棺前祭を行なった。式がすむと海兵団より派遣された水兵の一隊は砲車を玄関に差し回し、黒布に包まれた白木の棺をそれぞれの砲車の上に載せた。海軍軍楽隊の「葬送行進の曲」の哀音に送られて出発、午後1時40分に青山斎場に到着。葬列は軍楽隊の吹奏とともに斎場に入り、式典が始まった。祭文朗読、弔辞朗読のあと、軍楽隊の「海行かば水漬く屍」の吹奏があり、続いて喪主、親族の玉串奉典等が行なわれた。
○ 東京の墓地問題深刻に(大正4年8月)
当時の8月4日の新聞記事によると、東京の墓地面積は44万6千坪で、もはや新たに墓地を作る余地がないのが現状という記事があった。しかも死亡者数は年々増加して、1万坪の土地を要する事情に迫っているので、市の用地課では郊外に数万坪の敷地を選定する必要に迫っているという。しかしこの地域選定が地方人から歓迎されないため、土地の取得が困難であることが予想されるとある。なお東京市は墓地の永久使用料に、1坪に対し1等6円、2等3円、3等1円50銭、4等60銭で貸与した。
○ 政治家、井上馨の葬儀(大正4年9月)
9月7日午前7時35分、候爵邸に「気を付け」のラッパの第1声が響いた。7時50分、第2ラッパを合図に霊柩は表玄関から引き出された。白の被いの上には大礼服と剣が載っている。棺は長さ4.2メートル、幅1.36メートルの桧の屋形造りの蓮台に移され、前後に15人ずつ、肩代わりを加えて60名によってかき上げられて出発した。午前9時50分、葬列は日比谷公園に到着。総門より馬車、自動車の人も皆、徒歩で入場。霊殿は間口9メートル、奥行き8メートルで、正面南方に北向きに建てられた。内面周囲には白地に黒く家紋の桜菱を染め抜いた幔幕を張り渡し、正面を引き絞っている。棺が霊殿の壇上に安置されると、大導師は衆僧を率いて読経を行ない、10時20分、式を終えた。
○ 文豪、夏目漱石の葬儀(大正5年12月)
夏目漱石の遺体は故人の希望により、12月10日午後1時40分より、医科大学病理解剖室で解剖された。作業は3時30分に終り、遺体は再び邸宅に帰った。翌11日は通夜が行なわれた。白絹の被いが掛けられた棺の上にはケーベル博士の花輪が飾られ、「文献院古道漱石居士」と書かれた位牌を棺前に安置された。葬儀の当日は、午前7時半より読経が始められた。8時半に、第1の馬車に僧侶、次に棺馬車、次に遺族、親族など6輛の馬車に分乘して出発。柩車は9時半に青山斎場に到着。芥川竜之介がフロックコートを着て受付をした。柩は直ちに祭壇に安置され、その上に「夏目金之助之柩」と大書きした銘旗を掲げられた。10時半に読経が始まり、朝日新聞社社長の弔辞朗読が行なわれた。遺体は葬儀後、落合火葬場にて荼毘に附された。
○ 陸軍大将大山巌の国葬(大正5年12月)
12月10日に逝去した大山巌の国葬は、同17日日比谷公園で行なわれた。早朝より、日比谷公園正門から葬儀場の内外は、白い砂をまき掃き清められた。幔門から左右は黒白の幕を張り、正面の祭場は白木造りに白の幕を絞り、白の布で祭壇を設置。左右に立ち並ぶ幄舎は黒白段々の布で天井を覆い、同じ色で柱を包んだ。9時10分、行列が到着し、11時には国葬が終了した。再び霊柩は霊柩馬に移され、上野駅にと向かった。上野駅についた霊柩は、馬車に載せたまま、兵士20名によって担がれ、特別列車の待つ1番線へと向かう。プラットホームには鯨幕を張り、その中で鉄道職員、葬儀係員立会の下で馬車より柩を引き下ろして、特別列車内に運び入れた。列車の内部はことごとく白い幕で飾り、床だけは黒布を敷き詰めた。告別式のあと、霊柩列車は那須野へ向かった。
○ 駐日アメリカ大使の葬儀(大正6年3月)
3月7日、米国大使のガスリー氏は駒沢村のゴルフ倶楽部でプレイ中、脳溢血を起こし、聖路加病院にて同日死亡した。遺体は病院に安置され、夫人その他による通夜をし、翌朝入棺式を行なった。いったん遺体を大使館に移して祈梼式を行なった後、軍艦「吾妻」にてアメリカに移送。遺体は6月25日サンフランシスコに到着。米国政府出迎えの下で、遺体はアメリカ側に手渡された。そして31日、大使の故郷であるフィッツバーグ市の教会で、壮大な葬儀が執り行なわれた。
○ 女優松井須磨子の葬儀(大正8年1月)
大正7年11月5日、世界的に流行していたスペイン風邪に罹って、文学者の島村抱月が死亡した。47才である。その2か月後の1月5日午前2時、抱月と恋仲であった女優松井須磨子が芸術倶楽部の道具置き場で自殺した。5日午後7時半、抱月氏の時と同じく死面(デスマスク)をとり、同11時、納棺式を行なう。僧侶二人の読経によって式をすませ、遺体は黒幕で覆った舞台に移して、しめやかな通夜が行なわれた。翌午後1時より芸術倶楽部で告別式を終え、3時より青山斎場で葬儀が行なわれた。花輪に飾られた霊柩が斎場に着いたとき、これを見ようとする女性たちで道路には人垣がつくられた。
○ 福井市役所会議場を葬儀に開放(大正10年7月)
当時の福井市には公会堂の設備がないため、すべての会合が料理屋で行なわれていた。しかし料理屋も7、80名を収容できる施設はない。そこで市長は一般に市役所会議場を公開するとし、結婚式でも葬式でも使用してくれと述べた。(7月10日大阪朝日より)
○ 総理大臣原敬の葬儀(大正10年11月)
11月4日、東京駅で時の総理大臣原敬は短刀で刺され死亡。葬儀は遺言通り11日、郷里の盛岡で行なわれた。午後1時、位牌を安置した棺が原邸を出発。故人のへその緒が納めてある霊柩が大慈寺山門に到着すると、白丁の手によって本堂仏前に安置された。本堂は狭いために一般会葬者は本堂に上がる階段の上下に溢れ、山門に至るまで人で埋めつくされた。大導師の読経のあと遺族焼香、親族焼香が終り、葬儀委員長の挨拶の後一般会葬者の焼香が続いた。当日は雨で、行列を待っている人の中には雨具を持たぬ人が多く、沿道両側に置かれた焼香炉から、香煙が低迷し、葬列は霧の中を行くようだっという。
○ 大隈重信の国民葬に宮型霊柩車の原形が登場(大正11年1月)
1月17日は大隈重信の国民葬である。13日の新聞には「来る17日正午より日比谷公園にて告別式を行なうにつき、本大学は校葬の礼をもって葬送する。教職員および学生諸君は同日午前7時、校友諸君は8時まで大学に参集せられたし」という早稲田大学の死亡広告が載せられた。大隈邸での告別祭が終わると、すぐに霊柩は自動車に移された。柩の上は白桧の館型の屋根が作られ、扉は丸に花菱の家紋が飾られている。26騎の儀杖兵が捧げる鎗旗の中を「吹きなす笛」のラッパの曲に送られて、霊柩自動車が日比谷に向けて出発。玄関脇には出入りの者が100人、頭を下げて見送った。なお宮型の霊柩車が登場するのは昭和に入ってからである。
○ 森鴎外の葬儀(大正11年7月)
文豪森鴎外の葬儀は12日、途中葬列を廃して谷中斎場で仏式で行なわれた。導師読経に次いで喪主、親族の焼香が行なわれ、遺体は火葬にされた。
○ 舞鶴で海軍合同葬儀(大正11年9月)
8月26日早朝、カムチャッカ方面を警備中の軍艦「新高」が暴風雨で遭難、沈没した。殉難者300余名の海軍合同葬儀が、9月29日午後2時より舞鶴軍港で執行された。午後1時、江口葬儀委員長の命令で、大行列は行進を始めた。この時、加佐郡内の各寺院の鐘が一斉に鳴り響いた。葬列の先頭には海軍兵曹長が進み、「軍艦新高殉難者の柩」と書いた長旗が高く翻った。次は軍楽隊、その後に500メートルの花輪、花立ての列が続く。その後、儀杖隊2箇小隊の行進、次いで祭主、僧侶の列となり、その後に遺骨、遺品を載せた13台の砲車が進んだ。砲車の後は位牌を捧持する300の遺族たち、葬儀管理者、葬儀委員、遺族、親族、次いで儀杖兵1箇小隊、兵員、一般会葬者の順で、集合場所から1.6キロの道は、葬列のために約1時間埋め尽くされた。祭場は北に面して設けられ、場内正面には黒布を垂れ、東西14メートルにわたる遺骨、位牌壇は6段に重ねられ、すべてが白の布を敷き詰めてある。その前には2台の供物壇を設置し、壇の上に鏡餅を供え、その左右には生花、花輪が飾られた。
○ 関東大震災(大正11年9月)
9月1日、午前11時58分、我が国最大の被害をもたらした関東大震災が発生。遺体処理に従事する人夫が2日から募集され、「死体取り扱い人夫募集。日給5円、日払いで三食弁当つき」という文面のビラが貼りだされたが、応じる者は少なかった。『被服廠跡』(東京震災記念事業協会発行)によると「1度に4万4千人の焼死者を出した本所被服廠跡も、2日から死体処理に着手したが、『避難者の持ち込んだ家財道具は3日迄燃えて、消す人のない残り火はここかしこに炎を上げ、その間に肉親の遺骸を尋ねる人の右往左往する悲しい光景には手の着けようもなく、いよいよ火葬に着手したのは5日であった。同日は88人の人夫を雇い入れてその整理に着手したのであったが、これら人夫は余りの酸鼻(さんぴ)に堪えず、午後にはわずかに4人の者より留まり得なかった程で、この死体処理は多額の日当も人夫も誘うことが出来ず、夏の日のことであり、処理は急を要することとて、非常な困難をなめたのであった」とある。
○ 大杉栄の火葬(大正12年9月)
震災のどさくさのなかで、甘粕大尉に殺害された大杉栄ほか2名の遺体は、陸軍病院で解剖された上で、白木の寝棺に納められて、家族に引き渡された。なお棺の中の死体が大杉以外は不明なので、蓋を外して検分すると腐敗がひどくて判別がつかなかった。引取人の希望で遺骨として引き渡すことになり、3体の遺体は病院から落合村の火葬場に送られ荼毘に附した。
○ 吉原で関東大震災の追悼会(大正12年10月)
死者・行方不明14万人を出した関東大震災が発生してから1ケ月。かっては死体が山と詰まれた吉原遊廓の池畔には、白木の箱8個に遺骨が詰められている。婦人矯風会は10月1日午前10時から、災害にあった娼婦1千人のために追悼会を催した。幹事は「私どもの力が弱かったため、この制度を撤廃できないうちに、哀れな犠牲者を多数出したのは申し訳なかった」と弔辞を述べた。岡山支部から上京した部員が花輪を霊前に捧げ、一同一斉に礼拝。引き続き祈梼、讃美歌の合唱で式を終えた。なお、「この讃美歌中、日蓮宗の供養がすぐ傍で始まり、ドンドコドンの太鼓の音と南無妙法蓮華経の唱名の声が入り交じって、双方のために敬虔の念を欠いたのみか、宗教家の道義心を疑わせた」との新聞記事があった。
○ 朝鮮人遭難者の追悼会で主催者の失態(大正12年10月)
10月28日午前10時より芝公園増上寺で、朝鮮人遭難者追悼大法要が開催された。会場の増上寺大本堂には朝鮮総督代理等約800人、朝鮮同胞約50人が参列。読経のあと一般来賓の弔辞朗読に入った。ところが当日の法要にもっとも力を尽くした朝鮮人小説家の弔辞朗読を除外し、そのまま焼香に入ってしまった。そのため氏は焼香の途中で霊前に進み出「この法要の主催者側の一人である自分を、故意に差別して、弔辞の朗読を差し止めるとは何事か。お前達が差別をするならば、自分にも覚悟がある。今日のことは忘れずに記憶せよ」と大声で叫び、その上で弔辞を読み上げたので、法要は混乱状態に陥った。
○ レーニン死す。遺体は永久保存(大正13年1月)
ロシア革命の指導者レーニンが1月21日、53才で死去した。1月27日、トロッキーらの火葬の主張に反して、永久保存処置をされたレーニンの遺体は、モスクワの赤の広場の霊廟に安置された。真冬にまかかわらず、何10万人もの人が最後の別れを告げた。
○ 兵庫県が埋葬形態を調査(大正13年11月)
兵庫県の衛生課で県下の死者の埋葬形態を調査した。その結果、墓地総数は約3万9千ケ所(昭和61年現在2万6千ケ所)。火葬場の総数は1723ケ所(昭和61年現在88ケ所)である。死者総数5万6千人中、火葬が約3万人、土葬が約2万4千人である。なお大正14年の全国の火葬、土葬数を見てみると、火葬55万2千人、土葬が72万7千人で、計127万8千人が死亡していたことになる。ちなみに平成元年の死亡者数は78万8千人で、当時の60%である。
○ 華美を排して市営の葬儀を(大正14年5月)
和歌山市では社会事業施設の一端として、一般の葬儀を取り行なうこととなり5月1日より実施した。和歌山市の葬儀用品は華美なことで全国でも有数であったため、改善をはかるために市が営業を開始したもの。1等24円70銭から3等10円48銭という安さで、貧困者の葬儀は市費で無料で執行することになっている。
○ 葬列も届け出が必要(大正15年4月)
4月1日から交通法規が変わり、葬列を出すにも事前に警察に届け出をし、許可を得ることが義務づけられた。これは自動車の普及に伴い、やむをえない制度といえるが、この当時はすでに都市部での葬列は少なくなっていた。  
 
昭和時代

 

○ 大正天皇、崩御(大正15年12月)
12月25日、葉山の御用邸に療養中の天皇が死去。47才。昭和の葬儀史は大正天皇大喪の昭和2年2月7日から始まる。場所は新宿御苑である。葬儀は崩御2ケ月前の10月21日に制定された「皇室喪儀令」に従って行なわれた。外国からの参列者は26カ国で、葬儀の模様は大正14年開局したラジオ放送で初めて伝えられた。葬列は皇居を午後6時に出発、新宿御苑までの5.8キロの道のりに、先頭が新宿御苑に入ったのは午後7時過ぎで、最後尾の到着は午後9時40分である。
○ 芥川龍之助の葬儀(昭和2年7月)
小説家芥川龍之助の葬儀は、7月23日午後3時より谷中斎場で行なわれた。住職の読経のあと、作家の泉鏡花、続いて菊池寛が弔辞を奉読した。「君が自ら選び自ら決した死について我等何をかいわんや、ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂えるを見て甚だ安心したり、友よ、安らかに眠れ!君の夫人賢なればよく遺児をやしなうに堪えべく、我等また微力を致して君が眠りのいやが上に安らかならんことに努むべし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみに蕭条たるを如何せん。」次に小島政二郎等の弔辞があり、2時間にわたる葬儀を終わった。参列者は750名。遺体はその後染井の火葬場に送られ、芥川家の墓地のある慈眼寺に葬られた。なお戒名はなく、墓碑は「芥川龍之助之墓」とだけ記された。
○ 野口英世の葬儀(昭和3年6月)
野口英世は5月21日、アフリカのアクラで黄熱病の研究中、同病に感染して死亡。彼の遺体は6月13日ニューヨークに到着、15日にロックフェラー研究所で葬儀がおこなわれた。日本にはその後、夫人のメリーから遺髪が送られ、猪苗代湖畔の生家の庭にある記念碑の下と、野口家の墓地に埋められている。
○ 新国劇の沢田正二郎の死(昭和4年3月)
新国劇の創立者である沢田正二郎は3月4日午前、38歳で死亡した。8日午前8時、向島の自宅で棺前祭を行い、10時から遺体を谷中斎場に移して葬儀が行なわれた。続いて午後零時半、日比谷新音楽堂で告別追悼会が開催された。舞台は黒布で飾られた故人の遺影を中心に、造花の花輪が舞台を飾った。定刻になると、帝劇女子洋楽部員の演奏するショパンの葬送曲が流れた。続いて司会者の菊池寛が挨拶をして、山田耕作の指揮で「荒城の月」が演奏された。各団体代表の弔辞の後、サルトリの「別れの哀曲」が演奏された。次に葬儀委員長の謝辞が述べられ、参会者一同順に玉串を捧げ、最後にザクメニックの葬送行進曲で式を終えた。
○ キリスト者、内村鑑三の葬儀(昭和5年3月)
「余はいかにしてキリスト教徒になりし乎」の著者である内村鑑三は、3月28日死亡した。葬儀は30日午前10時から内村邸で聖書研究会の会員葬で行なわれた。遺体は同日火葬にされ、雑司ケ谷の墓地に埋葬された。
○ 連合艦隊指令長官の国葬(昭和9年6月)
5月30日、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破した、連合艦隊指令長官東郷平八郎が死亡した。日比谷公園で営まれた葬儀の模様はラジオで実況された。午前8時30分、砲車に引かれた元帥の霊柩が東郷邸を出発。海軍軍楽隊が演奏する葬送曲とともに、5,000の儀杖兵に守られて9時40分、日比谷公園正門に入った。この時の人出は「朝日新聞」では184万人といわれ、参列者のうちめまいで倒れた者71名、怪我人20名、死亡1名とある。
○ 岡本かの子の葬儀(昭和14年2月)
小説家岡本かの子は2月18日死亡した。夫の一平は通夜も葬儀も身内だけでして欲しいという故人の言葉を守り、誰にも死を知らせず、死亡した6日後に初めて新聞にその死が報道された。また火葬は嫌いという彼女の言葉通り、土葬が行なわれた。2月21日、雨の多摩墓地に棺が運ばれ、あらかじめ掘られてある墓穴に、一面に花を敷き詰められた。その上に棺が降ろされ、棺の上から花がまかれた。「雪華女史岡本かの子之墓」と書かれた墓標がその上に立てられた。文壇中心の追悼会が、四十九日にあたる4月7日、丸の内の東洋軒で行なわれた。
○ 水上龍太郎の葬儀(昭和15年3月)
小説家水上龍太郎は東京日日新聞社(現・毎日)の重役でもあった。53歳で死亡、葬儀は築地本願寺で社葬として行なわれた。式場の豪華さに比べ、祭壇はとても簡素にまとめられ、樒(しきみ)1対、壇上壇下に各1対の造花だけが棺側に飾られ、花輪1つなかった。しかし参列者の数は1万3千人と大勢であった。
○ 北原白秋のデスマスク(昭和17年11月)
詩人の北原白秋が東京阿佐ケ谷の自宅で57歳の生涯を閉じた。この日の夜、恩地孝四郎によってデスマスクが取られ、遺骨は多磨墓地に埋葬された。
○ 島崎藤村の葬儀(昭和18年8月)
8月22日、小説家島崎藤村は、神奈川県大磯の別邸で脳溢血で死亡した。71歳だった。遺体は煙草や筆、原稿用紙などと共に納棺され、生前愛した大磯南本町地福寺境内の梅の木の下に埋葬された。本葬は8月26日、東京の青山斎場で行なわれた。その日は「大東亜文学者決戦大会」の開催日にあたり、大会の名で弔辞をおくることが決められた。その弔辞、「本会名誉会員島崎藤村先生逝かる。先生が、明治、大正、昭和3代に亘って簡素なる境地に徹せられつつ文藻を傾け、筆を息めず、文学報国の実を挙げ来られしは茲に蕪辞を要せざるところなり。今や挙国曠世の大業に就れるに当たり、益々先生の重厚顕現の文学の俟つところ多大なりしに、俄かに逝き給う。(中略)願わくば先生の霊しばらく留まられて我等が盟邦同信の友と決戦下文学の振起を図るを見守り給わんことを。謹みて哀悼のまことを捧ぐ。昭和18年8月26日財団法人日本文学報国会会長徳富猪一郎」
○ 文豪徳田秋声の葬儀(昭和18年11月)
11月18日死亡、葬儀は21日正午から、日本文学報国会小説部会葬で行なわれた。谷中臨江寺住職の読経、引導に始まり、弔辞、遺作の朗読に続いて焼香。式は2時半に終了した。
○ 埋火葬認可の法律制定(昭和22年4月)
「死体もしくは死胎を埋葬又は火葬しようとするものは、死亡地若しくは死産地の市区町村長の認許を受けなければならない。」とする法律が制定された。
○ ガンジー暗殺、遺灰はガンジス河に(昭和23年1月)
1月30日、インド独立の父ガンジーが、ニューデリーで暗殺される。78歳。31日、ヤムナ河畔で100万人のヒンドゥー教徒が見守るなかで午後4時火葬が行なわれ、遺体は36時間燃された後、ガンジス河にまかれた。
○ 太宰治の心中と葬儀(昭和23年6月)
6月19日、東京三鷹の玉川上水で作家太宰治と愛人山崎富栄の死体が発見された。葬儀は21日午後1時から、下連雀の自宅で行なわれた。遺骨は三鷹の禅林寺に埋葬されることとなり、次の案内状が作られた。「前略、先般不幸の際は多大の御配慮を蒙り有難く厚く御礼を申し上げます。就きましては左記の通り埋骨式を営み度く存じますから暑中恐れ入りますが、何卒御くり合わせ御列席たまわり度、おしらせ申し上げます。7月16日」
○ 漕艇協会副会長夫妻の葬儀(昭和27年5月)
奈良県吉野の村上義光公の墓のそばで心中した、宮木夫妻の葬儀は5月5日、東京都墨田区向島の弘副寺で行なわれた。宮本昌常は当時日本漕艇協会の副会長を務めており、葬儀は漕艇協会、艇友会、オアズマン・クラブ合同の「日本漕艇協会葬」で行なわれた。葬儀の後、宮木夫妻の分骨を乗せたモーターボートを先頭に、各大学のボートが墨田川を行進し、最後に遺骨を川の中に沈めた。
○ 歌人斉藤茂吉の告別式(昭和28年3月)
2月25日、斉藤茂吉が死亡した。遺体は28日、幡ケ谷火葬場で火葬にされ、遺骨は2個の骨壷に分骨された。告別式は3月2日午後1時、築地本願寺で行なわれた。葬儀参列者220名、一般会葬者645名。遺骨は青山墓地と山形県の金瓶の宝泉寺に納められた。
○ スターリンの死(昭和28年3月)
3月5日、ソ連の首相スターリンは死亡した。翌6日午前6時、スターリンの死がラジオで伝えられた。モスクワの建物は黒布を付けた半旗が掲げられ、遺体が安置された労働組合会館には、告別に訪れる市民の列が続いた。
○ 箏曲の宮城道雄の葬儀(昭和31年6月)
6月24日刈谷駅近くで、急行「銀河」から落ちて重症を負った宮城道雄は、現場近くの病院で手当てを受けたが翌朝死亡した。遺体は棺に納められ、寝台自動車に移されて午後5時ごろ病院を出発、翌午前5時東京の宮城邸に到着。葬儀は29日午後1時より、芝増上寺で行なわれた。
○ 全葬連設立(昭和31年11月)
全日本葬祭業組合連合会設立される。
○ スタイルヒンの野球葬(昭和32年1月)
1月12日、投手のスタイルヒンは三宿駅前で電車に追突して死亡。彼の葬儀は球会初の「野球葬」として青山斎場で行なわれた
○ 華美智子の国民葬(昭和35年6月)
6月15日の安保反対デモで死亡した華美智子を悼む国民葬が、6月24日午後1時20分から日比谷公会堂と野外音楽堂で行なわれた。舞台中央には、白菊の花で飾られた平和のハトが置かれ、その後ろに遺影が飾られた。式はショパンの「葬送曲」演奏で始められ、社会党書記長らの弔辞の後、「忘れまい6.15」を全員が誓った。参加者は献花のあと、遺影を先頭に衆議院南通用門まで追悼デモを行なった。
○ ケネディ大統領の葬儀(昭和38年11月)
11月25日、アメリカ前大統領ケネディの葬儀が、正午からワシントン市内の聖マシューズ教会で行なわれた。「ケネディよ、永遠に神のみそばに」の祈りの式の後、遺体はアーリントンの国立墓地に埋葬された。
○ チャーチルの国葬(昭和40年1月)
イギリスの元首相チャーチルの国葬が、ロンドンのセントポール大聖堂で行なわれた。葬儀には日本の岸元首相ら、111カ国から国賓が参列。ウエストミンスター・ホールから葬儀場に向かう葬列は長さ1.6キロに及び、70万人の市民が寒空の中を別れを告げた。チャーチルの年令である90の弔砲が発射された。
○ 「祭典新聞」が誕生(昭和44年4月)
業界初の葬儀新聞が誕生。
○ 冠婚葬祭入門ベストセラーに(昭和45年1月)
塩月弥栄子作「冠婚葬祭入門」が発行。全4冊で580万部を突破。核家族社会のなかで「しきたり」の教科書的役割を果たす。
○ 全互協設立(昭和48年)
昭和47年に割賦販売法が改正され、通産省の指導により社団法人全日本冠婚葬祭互助会が設立される。
○ ノーベル賞作家の死(昭和47年4月)
4月16日、川端康成がマンションの一室でガス自殺をした。自宅に帰った遺体は、彫刻家の高田博厚によってデスマスクが取られた。17日に通夜、18日には自宅で密葬が行なわれた。葬儀は死後42日たった5月27日午後1時から、青山葬儀所で行なわれた。葬儀には一般の川端ファンが参列し、主催者側の用意した献花用の3,000本の白菊がたちまちなくなったという。
○ トルコ航空のエアバス墜落、日本人を含む344人全員が死亡(昭和49年3月)
パリのオルリー空港からロンドンに向かったトルコ航空が、パリ郊外の森に墜落。乗客のうち日本人は48人。遺体はパリのリヨン駅の近くのセーヌ河畔の監察医務院に運ばれた。日本から駆け付けた遺族たちは「身元確認が出来てないことと、見るに耐えない状態にある」との理由から遺体との対面を拒否された。遺骨を引き取りたいとの希望もあきらめ、8日に日本大使館で遺骨なしの合同慰霊祭を営み、遺骨代わりに事故現場の土を持ち帰ることになった。
○ リンドバークの死(昭和49年8月)
大西洋横断で有名なリンドバークは、8月26日、ハワイのマウイ島の別荘でガンで死亡した。72歳。ニュヨークで臨終の近いことを知った彼は、マウイで死ぬために死の8日前にマウイに飛んだ。彼の葬儀には、夫人と家族と別荘の近くの友人だけで行なわれた。彼の遺体は希望によって、作業服であった。
○ 毛沢東死す(昭和51年9月)
9月9日、放送で毛沢東の死が告げられると、天安門広場には次々と市民が集まり、黙祷を捧げたり、人民英雄記念碑に追悼の花を置く人々の列が続いた。町を行く誰もが腕に黒の喪章を付けた。
○ プレスリー、42歳の死に8万人(昭和52年8月)
8月16日、エルビス・プレスリーはテネシー州の自宅で心臓麻痺で死亡した。翌日の午後に遺体を公開すると発表されたため、自宅には全米から8万人のファンが押しかけ、空港や道路はパンク状態となった。この日、遺体と対面できたのは3万人。カーター大統領も「わが国の貴重な財産がもぎとられた」と追悼声明を発表した。
○ 中川一郎の準自民党葬(昭和58年1月)
1月9日、札幌のホテルで自民党代議士、中川一郎が自殺。葬儀は1月13日零時半より、東京の築地本願寺で行なわれた。会葬者は約2千人。式場の門前には左右数10メートルにわたって花輪が飾られた。
○ ガンジー女性首相暗殺(昭和59年10月)
ネルーの娘であるガンジー首相が10月31日ニューデリーで暗殺された。彼女の国葬には100人を超す各国首脳が参列。沿道には100万人の市民で埋まった。
○ 映画「お葬式」が大ヒット(昭和59年11月)
伊丹十三の監督した映画「お葬式」が封切られて、3ヵ月で6億5千万円、観客動員数60万人のヒット。葬式というタブーのテーマが大衆の脚光を浴びる。
○ 組葬に仏教団体が拒否(昭和61年9月)
長野県松本市の宗教団体が、暴力団の資金源にもつながる葬儀は拒否することを、9月13日の臨時総会で決議した。内容は (1)暴力団の開催する葬儀を一切拒否する / (2)拒否したことで脅迫された場合、警察にすぐ通報する / (3)警察との協力体制を作る / (4)暴力団の排除と犯罪予防活動を積極的にするの4項目。
○ 通産省が葬祭業の調査結果をまとめる(昭和62年10月)
通産省が「特定サービス産業実態調査報告」の一環で、葬儀業の事業内容(60年11月から61年10月まで)をまとめた。それによると集計事業所数は2,987事業所で、従業員数は2万3608人、年間売上高は3269億3千万円である。これを一事業所当たりでみると、従業員数は8人、年間売上高は1億900万円であった。
○ 集団自殺の7女性、教祖と合同葬(昭和62年11月)
11月1日和歌山県で病死した教祖を追い、信者7名の女性が集団自殺した。2日の通夜、3日の葬儀とも、教祖と信者7人の合葬。浄土宗の僧侶5人が「南無阿弥陀仏」と読経する中、親族50人、参列者300人が仏式の焼香をした。最後に棺を開け、別れの儀式に移ると、悲痛な泣き声があちこちでおきた。
○ 34年ぶり皇族葬儀に戸惑い(昭和62年2月)
故高松宮宣仁(のぶひと)殿下の斂葬(れんそう)の儀を2月10日に控えて、宮内庁では、昭和28年の秩父宮雍仁(やすひと)殿下のご逝去以来の皇族葬儀とあって準備に大忙し。殿下のご遺体を葬場の豊島岡墓地へお運びする「霊車」は自動車に決まったが、大正天皇の霊車は牛車だったし、秩父宮さまの時には馬車が使われた。結局、交通渋滞ではと自動車に落ち着いた。しかしそれも借り上げの霊柩車にするか、天皇陛下の寝台付きの御料車(お車)を拝借するか、最後まで迷い、宮邸から葬場までは御料車、葬場から新宿区の落合火葬場までは霊柩車と決まるまでに6日かかった。(朝日新聞2.7より)
○ 裕次郎の葬儀(昭和62年7月)
アクションスター石原裕次郎が7月17日、癌のために死亡。密葬は19日正午から自宅で行なわれ、約1千人の弔問客が冥福を祈った。なお石原プロとテイチクの合同葬は、8月11日午後1時より青山葬儀所で行なわれた。葬儀委員長は渡哲也。会場入り口付近には、高さ6メートルの裕ちゃんの立像。式場前庭にはファン用の仮祭壇が設けられ、愛用したベンツも展示された。「夜霧よ今夜も有難う」などのヒット曲が流れる中、勝新太郎が弔辞を述べた。葬儀費用は1億5千万円。
○ 葬儀費用平均で319万円(昭和62年11月)
葬式費用の総額は平均で319万円で、4年前の1.5倍であることが互助会「くらしの友」の調査でわかった。対象は東京、神奈川、千葉、埼玉の400世帯。総費用の内訳は葬儀業者の支払(35%)、お寺への支払(17%)、会葬者への接待費(14%)などの順。お寺への戒名料、お経料の平均額は44万9千円。
○ 南アフリカ航空墜落(昭和62年11月)
日本人乗客47人を含む160人乗りのボーイング747型がモーリシャス北東の海域に墜落。この事故で犠牲になった漁船員38人の所属する日本水産の社葬が、12月23日午後1時から北九州市の北九州会館で営まれた。遺族、関係者ら約1千人が出席した。白菊に包まれた祭壇には38人の遺影と、インド洋の海水を染み込ませた位牌が並んだ。
○ 高知学芸高校の惨事(昭和63年3月)
3月24日、高知学芸高校の修学旅行の一行193人を乗せた列車が、中国・上海近郊で他の列車と衝突、教師、生徒27人が死亡。犠牲者のうち11人の葬儀が28日午前から午後にかけて、それぞれの自宅や寺院で行なわれた。なお5月29日午後、27人の合同慰霊式が高知市の高知県民体育館で行なわれた。約4千人が参列した。午後2時、1分間の黙祷に続いて校長の「かっての皆さんの姿を私たちはどこに訪ねればよいのでしょうか。ただ霊前にぬかずいて、安らかに眠られることを祈るのみです」と挨拶した。
○ 三木元首相の葬儀(昭和63年12月)
11月14日死亡し三木武夫元首相の衆院・内閣合同葬儀が12月6日午後、北の丸公園の日本武道館で営まれた。遺骨は午後1時25分南平台の私邸を出発、自衛隊・警視庁の儀杖隊に迎えられて武道館に到着。弔砲は取りやめられた。式は葬儀副委員長の開会の辞に続いて1分間の黙祷をしたあと、三木氏の姿をスクリーンに映しだした。追悼の辞の後、天皇、皇后両陛下のお使いの礼拝と皇族の供花に続き、政治家たちの献花が行なわれた。衆院・内閣合同葬儀は三木氏が初めて。
○ 昭和の終焉(昭和64年1月)
1月7日、昭和天皇崩御。大喪は平成元年2月24日に行なわれた。  
 
悲嘆史

 

死と同居した西洋の伝統
タブーとされる「死」も、末期の患者に病名を知らせ、終りの準備を行っていた時代があった。フランスの民俗学者であるアリエスは、「死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないものとする昔の態度は、死がひどく恐ろしいもので、それをあえて口にすることも差し控えるようになっているわれわれの態度とは、あまりにも反対です。」といっている。
現代では、死を間近かに迎えた本人や家族に対し、「死」は口に出来ないテーマであるが、そのように変化したのはそんな昔のことではないとアリエスは言っている。では「死」はいつ頃から恐ろしいものとして感じられるようになったのか。西洋では20世紀の中頃から、その変化が顕著になったといわれる。その理由は二つある。
死がタブーとなった理由
アリエスによると、今世紀に入って人々は、「人生とは幸せであることが大切であり、死の苦しみや醜さは、幸せの生活を混乱させるもので、出来るならばそれを見せないでおきたい」(『死と歴史』70頁)と考えるようになったと言う。そうした考えを起こさせる原因の一つが、人が病院で死ぬようになり、死が(醜いもののように)人の目から覆い隠されていったためであると言っている。
それ以前には、人は自分の寝室で死を迎え、死が近づくと、多くの人が彼の部屋に出入りして、最後の別れを述べたりした。しかし時代の変化につれ、死の指導権は本人から遺族へ、そして今日では医師と看護スタッフに移ったという。
病院で末期患者を扱う医師たちに課せられた役割の一つは、生き残った遺族を混乱させないような形で、患者に死を迎えさせるようにすることである。一方遺族に対しても課せられた課題があった。それは、人前で悲しみや苦しみをあまり目立った形で表現しないことである。
日本の場合の「タブー」
こうした状況は日本でも同じように起こっている。「死」は病院の一見清潔な医療機器の背後に隠され、家族は末期患者に病名や病気の進行状態を口にすることはタブーとされる。今日「死」や「葬儀」がタブーではなくなったのではなく、その実態は「死」が厚化粧して、安全で危険がないとされる場面で語られているにすぎないようである。
では一見進歩と見えるこうした状態が、抱えている問題とは何であろうか。それは末期患者の場合、死を前にした苦悩を誰にも相談したり告白出来ないまま、悶々として死んでいくことである。またそれを看取る家族も、相手を気づかうがゆえに「死」の話題を避け、お互いに心を秘めたまま死を迎えることである。このため「末期患者」は、自分の本当にやりたいことや言い残したいことを秘めたまま死を迎えることになる。またそれを看取る家族も、自分の抱える悲しみや苦悩を押し隠したまま生きていくことになる。では日本人はいつ頃から、「死」や「悲嘆」をタブーとして秘めるようになったのだろうか。一つには西洋社会と同じく、人が病院で死ぬようになってからということが通説となっている。では昔はどうだったのだろう。
王朝時代から中世人の悲嘆
平安前・中期の世相を描写した『源氏物語』には、当時流行していた末法思想が、仏教界のみならず一般思想界にも影響を及ぼしていた。仏教は日本人に「死」について考えることを教えたが、またそれを克服する知恵も授けるはずであった。しかし、死後浄土に生まれるとされる死者ばかりではなく、生きていく者にも力を与えるものが必要であった。それは「和歌」というものであった。それでは当時の人々の日記から悲嘆と慰めについて見てみよう。
母の死
それでも、母親が健在だった間はまだよかったが、その母も、久しく煩って、秋の初め頃、ついにはかなくなってしまった。全く途方に暮れた。この侘しさはたとえようもない。(中略)周囲の人たちは長い間、煩って亡くなった人のことは、今はもう甲斐ないことと諦めるにつけ、この私のうえをひどく気遣って、「このうえはどうしたらいいだろう。ああしてみては、こうしてみては」と、言いながら母の死を悲しむ涙にかさねて泣き惑うのだった。(円地文子訳)
これは平安前期の右大将道綱の母が記した『かげろう日記』から取ったものである。時は964年。次の場面では、この母の一周忌を終えた時の心境を記録している。
1年の忌みも明けたので、今は喪服を脱ぎ、鈍(にび)色のもの、はては扇に至るまで祓い清めながら、
藤衣ながす涙の川水は岸にもまさるものにぞありける。
(今、喪服を祓い流すにあたって、とめどもなく流れる新たな涙の川は、岸にも溢れるほどで、着ていた時にも増して悲しいことだ)と思われ、つい泣きくずれてしまった。
その後、相変らず、ものはかなく所在ないままに、琴の塵など払って弾くともなしに掻き鳴らしてみたりする。もう、喪の忌みも過ぎ、何事も帰らぬ過去となってしまったのに、それでも、母さえ生きていてくれたらと、切ない思いにさいなまれる。
乳母の死
『更級日記』は菅原孝標(たかすえ)の娘の日記で、1020年9月に13歳で筆を起し、1059年、夫橘俊通と死別した頃までが書かれている。この日記のなかにいくつもの悲嘆の場面が登場してくる。
その春、疫病のために世の中が大層騒がしくて、まつさとのあたりの月を感慨深く眺めた乳母も、3月朔日に亡くなった。せんすべもなく悲しいので、物語を読みたい気持ちも起こらなくなってしまった。終日ひどく泣き暮らして外を眺めたところ、夕日がはなやかにさしているところへ、桜の花が残りなく散っている。
散る花も又来む春は見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき
(今散る花は又来年も見ることが出来るが、別れてしまった人は逢うすべもなく悲しい)
父の死
平安初期の物語の『落窪物語』では、源大納言の死が扱われている。彼は大納言に格上げされて喜んだのも束の間、7人の子供たちに遺言を言い残し11月7日に死亡した。
格別惜しいと思う齢でもない。そう考えながらも、そこは人情で、子供たち、女も男も寄り集まって哀惜される有様は見るもあわれであった。
大将殿は、若君たちにつきそって、三条の邸におられたが、日々大納言邸に赴いた。身の汚れをはばかって、立ちながら哀痛しつつ、葬儀なども自分で世話するつもりであった(中略)
大納言の邸では、亡くなって3日目に、日がよいというので埋葬した。大将殿の参列のお供には、四位、五位の人々がたくさん従って行った。忌中は、誰もみな、つねとちがった喪舎の低い建物に移り、正殿に高徳の僧侶があまた籠っていた。
大将殿は毎日参られる。立ちながら人々に対面されて、いろいろの指示をした。女君は鈍色の濃い喪服をつけて、日々の精進のため、少し青ざめている様子があわれに見えるので、男君は悲しんで、
なみだ川わが涙さへ落ちそひて
君がたもとぞふちと見えける
(あなたの涙に、私の涙さえも流れ添って、あなたの袂に涙の淵ができたようにみえる。)と言うと、女君、
袖くたす涙の川の深ければふちの衣といふにぞありける
(袖をくさらす涙の水底が深いから、ふち衣と人が言うのです)(小島政二郎訳)
当時の貴族は、このように悲しみも、慰めも、歌という形に表わして、悲嘆を人生の一こまのなかに上手に織りなしていたのである。
『発心集』のなかの悲嘆
『発心集』は鎌倉初期の仏教説話集。『方丈記』で有名な鴨長明(1155〜1216)が晩年の1216年頃編集したものである。
娘の死のあとを追って
「ある女房、天王寺に参り、海に入る事」の話。これは大変に仲の良かった母娘が暮らしていたが、ある日、娘が母親に先だって亡くなってしまった。母親は娘の死を大変に悲しみ、女房の仲間も「さぞかし気を落としのことでしょう。無理もない」と慰めていた。
などという間に、1年、2年ばかりが過ぎた。しかしその嘆きは少しも収まることがない。日月がたつほど増していくこともあるので、具合の悪いこともある。めでたい場面にも同じように涙を抑えて暮らしているので、人目について仕方がないようになった。そのあげく人からも、「彼女の態度こそ腑に落ちない。子が親より先に亡くなることは、今にはじまったことではない」と非難がましい口調でいう人も現われた。
この女性はそのあと、四天王寺に参って三七日間念仏したあと、海に入った。当時は四天王寺の西門は極楽の東門に通ずるとされ、西門のわきの浜辺から入水することが流行した。仏教の西方浄土思想が人を死に追いやったという矛盾した価値観が行われていたが、そうした考え方は、次々と生まれる『往生伝』のなかでも評価され、この女性も無事往生したとして、その標しである紫の雲が現われたと結んでいる。
息子の死を聞いて
「勤操、栄好を憐れむ事」の話。僧の栄好は寺院の房内に歳老いた母親を住まわせ、毎日自分の食事の分から母に分け与えて暮らしていた。ある日、栄好は自分の命の短いことを知り、仲間の勤操に自分の死を隠して母親を養うようにお願いした。栄好の死後、勤操は栄好に代わって食事を提供した。ある日、母親は偶然に息子の死を知った。
母親は、聞くとすぐに倒れふして、嘆き悲しんで「わが子ははかなく亡くなったのに、知らずにいたとは。明日の夕方にはわが子が来るだろうかと待っていたのに。今日の食事が遅いので不審に思わなかったら、わが子の死んだことにも気づかないでいた。」と言ってたちまちにして絶命した。
悲しみがもたらすショックと絶望は人の命までも取ってしまうものなのである。
歌の力
日本では昔から、和歌で自分の気持ちを表現する習慣をもっていた。鎌倉時代の歌人である藤原定家(1162〜1241)は、その母の死に際して次の歌をよんでいる。
母身まかりにける秋、野分しける日、もとすみ侍ける所にまかりて藤原定家朝臣
たまゆらの露も涙もとヽまらす
なき人こふるやとの秋かせ
鎌倉時代の仏教説和集『沙石集』(1283)のなかで、作者の無住一円は和歌の効用について述べている。「和歌の道を思いとくに、煩悩のために心が乱れ、動揺する心を抑え、苦しみを超えてもの静かな状態にする働きがある。また少ない言葉の中に心を言いあらわすことが出来る。心を不動にさせる惣持(そうじ)の意味がある。惣持とはいはば、真言陀羅尼なり」(五巻)
このように、和歌は悲しみや苦しみの気持ちを型にはめて表現し、この過程で人の心を慰める作用があると述べている。こうした伝統は万葉集の時代から、戦前まで綿々と受け継がれてきたのであった。もっとも言うは易しで、実際にその時の心境を歌にすることは難しいかもしれない。民俗学者の柳田国男は言っている。
「人は嘆きの最も切なるとき、すなわち古い友のしきりに慰めに来てくれる頃に、歌に心情を留めようとするから行きづまる。少なくとも誰でもいうような言葉で、わずかな部分をしか表白し得ずにしまうのである。」(『ささやかなる昔』)
江戸時代人の悲嘆
『説教集』のなかの悲嘆
説教は人形じょうるりなどのあと、江戸時代の初めに劇場において盛んに上演された。伴奏に三味線を使い、その語りをあやつり人形で使って見せるものである。話しの筋は単純であるが、人な感動させるためにオーバーな勧善懲悪な展開が多いが、当時の人々にとっては大変リアルな娯楽であった。次にあげる『かるかや』『しんとく丸』『あいごの若』は、いずれも『説教集』のなかにある。(『新潮日本古典集成』)
母の死
『かるかや』は、筑紫出身の僧苅萱(かるかや)の幼な子石童丸が、母を麓に残して女人禁制の高野山に父を訪ねる話。そこで偶然出逢ったかるかやは、父はすでに没したと偽って帰すが、その一方母は宿で死亡していた、
(石童丸は)妻戸をきりりと押し開き、屏風を引きのけて見ると、あらいたわしや母上様は、北枕に西を向いて、往生遂げておわします。
息子の石童丸は死骸にがばと抱きつき、これは夢かうつつか、夢ならばはや覚めよ、うつつならばとくと覚めよと、顔を母の顔に押当てて、「なうなう、いかに母上様。寄る辺もない山中に、石童丸は、誰かに預けておいて捨てていずこに行きたまう。行かねばならない死の道ならば、共に連れて行かずに、一人ここに残し置いて、憂き目を見させたまう」と、抱きついてはわっと泣き、押し動かしてはわっと泣き、流涕(りゅうてい)焦がれ、消え入るようにお泣きある。
さてそのままでもいかないので、清い水を取り寄せ、開きもしない口を開け、小指に水をすくって、「今あげるこの水は、同じ冥土にいます重氏様が手向ける末期の水でござるぞ。よきに受取り成仏めされ。またいま参るこの水は、国元に残した姉の手向ける末期の水です。どうぞ受け取って成仏なされ。またいまさしあげるこの水は、これまでお供もうして、あって甲斐なき石童丸の手向けなり。よく受け取って成仏なさって下さい」ともだえ焦がれて泣きあげる。
『あいごの若』では13才の息子を前にして、母親の亡くなる場面である。
今ひとしおのお嘆きは、若君さまにてとどめたり。「なう母上様。だれとてもだれとても、無常は逃れがたけれど、今の別れはやりきれません。どうしても行かねばならない道ならば、我をも連れて行きたまえ。」と、流涕焦がれ泣きたまう。されどもかなわぬことなれば、御台所(奥方)の御死骸、野辺に送らせたまいける。無常の煙となしたまう。
妻の死
『しんとく丸』は継母の讒言(ざんげん)で、父信吉に家を追われた俊徳丸が、盲目の弱法師となって天王寺をさまよう話。ここでは妻の死を前にした信吉と俊徳丸の場面、
信吉、この由ご覧じて、御台(妻)の死骸にいだきつき、「これは夢かうつつかや、うつつの今の別れかや。今一度、物憂きこの世に生きていて下され」と嘆きたまう。しんとく丸も母の死骸にいだきつき、「これは夢かうつつかや。うつつの今の何とてか、年にも足らないそれがしを、誰に預け置いて母は先立ちたまうぞや。どうしても行かねばならない道ならば、我をも連れて行きたまえ」と、抱きついて、わっと泣き、押し動かし、顔と顔と面添えて、流涕焦がれて嘆かるる。
この三つのいずれにも泣く場面では、「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きたまう」という台詞が使われていて面白い。また死の場面には医者がおらず、家族との水いらずのやり取りがなされている。こうした状況のなかでは、「死」がお互いにとって秘すべきタブーなどということが起こりえないのである。
父の死
俳人の小林一茶(1763〜1827)は、1801年4月、信州の郷里で父親が熱病に倒れた時から、翌年5月の死亡後の初七日までの間を、『父の終焉日記』に記録している。
「…いまわの時を待つのみの心の苦しみ悲しみを、天神地祇もあわれみもなく、夜はほがらかに明かかり、午前6時頃、眠るごとくに息たえさせたまいけり。あわれ空しき屍にとりつき、夢ならば早く醒めよかし、夢にせよ、うつつにせよ、闇に灯りを失える心地して、世に頼みなき曙なりけり。
…誰しも一度は行く道なれど、父の命の昨日今日とは知らざるけるも愚かなり。一昨日迄は、父といどみあいいさかわれし人達も、屍にとりつき、涙はらはらと流して、称名の声も曇りがちになるは、さしも偕老同穴のちぎりの未だつきせざりしとは、今こそ思い知られたり。(4月20日)」
通夜、葬儀のあと、23日には骨上げがおこなわれる。
「…けさの暁は別れかなしき白骨を拾う。喜怒哀楽はあざなえる縄の如く、別るる世の中、今さら驚くべき事にはあらねど、今までは父を頼みに故郷へは来つれ、今より後は誰を力にながらうべき、心を引きさるる妻子もなく、する墨の水の泡よりも淡く、風の前のちりよりも軽き身一つの境涯なれど、ただ切れがたきは玉の緒なりき。
生き残る我にかゝるや草の露
昼は人々より集い、力を添う物語などに、しばし悲しみを忘るるに似たり。夜は人々もおおかたもどりて、灯火の明きにつけても、病床のほとりのなつかしく、あからさまに寝たまいし父の目覚むるのを待つ心地して、悩みたまう顔は目をはなれず、呼びたまう声は耳の底に残りて、まどろめば夢に見え、醒むれば面影に立ち添う」(4月23日)
愛児の死
お路は、滝沢馬琴の息子の嫁として、1827年3月、22才の時に滝沢家に嫁いだ。7年目にして夫を亡くし、そして1848年11月、馬琴の死を看取った。そのときのお路の日記には、「六日暁、寅の刻に、端然として御臨終遊ばされ候、年八十二」とある。
翌年10月9日、病弱な息子の太郎が死亡した。この時、さしもの気丈夫のお路も筆を取ることが出来なかった。お路は10月22日、ようやく筆を取り、9日の事柄を書き記した。
「今朝5時過ぎより太郎煩悶はなはだしき。母・悌三郎・おさち等色々手当致しそうろえども、その甲斐もなく、ついに巳の上刻、息絶えたり。時に享年22才。それより家内愁傷おおかたならず、混雑いうべくもあらず。…
つぶさに記したく思えども、9日以後、愁傷腸を断つ心地して、筆を取ることも厭わしく、後のためにと日記しるさんと筆取りそろえば、胸のみふたがり、一字も書くことかなわず。それゆえに久しく打ち捨ておきし程に、9日以後人の出入りも多く、忘れしゆえに省きて記さず。心中察すべし。」
それから14日後の11月6日、この日は馬琴の一周忌、そして太郎の四七日にあたる。この日の日記には、
「今日太郎四七日、祖孫打ち続きかかる嘆きもあることやと、一人愁いやるかたなく、しばし涙にむせかえりつる事、察すべし。読経終り。…今晩九時、枕につくといえども、太郎の事のみ胸にたえず、落涙止む時なく、実その身も忘るるほどの事なり。」
現代人の悲嘆
人は家族の死に直面したとき、どんな反応をし、どんな覚悟をするのだろうか。それを書き残した物で公にされているものは多くない。親子や親友の間での書簡で行なわれることもある。
母の死
画家の岡本太郎が、フランス留学中の昭和11年2月、父の岡本一平から母かの子の訃報を受け取った。次は太郎が父に書き送った返事である。
あの電文を受け取った日は全くひどい打撃を受けました。
しかし、それから出来るだけ強く、お母さんが、ほんとうに何処かに立派に生きつつあるということを信じることに努めました。事実今はそんな気持ちになっていて、大分心がやわらぎました。ただし初めの衝撃があまり強かったので10日を経った今日迄、肉体的にすっかり参ってしまっています。
今日あたりはそれでもどうやら元気が出て来ましたから安心して下さい。
はじめの3日間は打ちのめされたようになって床についたまま、眠りつづけてしまいました。目が覚めてお母さんの「死」を考えると、うそのようでもあり、又とても、恐ろしいことのようであり、変な気持でいると、突然涙にむせんでしまったりしました。少し用事で外出しようとして、5分間も外を歩くと、もう、腰がぬけたようにへばってしまって、アトリエに引きかえし床につくとそのまま又ぐっすりと寝込んでしまいました。
死の直後から半年間に11通の往復書簡がかわされ、その間に二人の心が徐々に癒されていった。この手紙は岡本太郎の「母の手紙」の末尾に集録されている。
夫の死
次はガンを看取った妻の印象をつづったものである。資料は『ガン病棟の99日』。ジャーナリストの児玉隆也氏は昭和49年12月に入院し、死の1カ月前に『ガン病棟の99日』を書き上げている。次は、同じ書物に含まれている児玉正子夫人の手記から取ったものである。
部屋に夫と私だけが残された。なにか叫べば聞こえるのではないか、眼を醒ましてくれるのではないか。私は夫の耳元で叫んだ。どうして、こんなに早く死んじゃったの。あなた。あなた!
しかし、夜中だから隣の人の迷惑になる、あまり取り乱してもとへんに冷静になってしまった。そうすると、今度は恐くなってきた。だんだん冷たくなってくる。冷たくなってからはさわるのが恐ろしかった。
無我夢中で、義姉からもらったお経を2回も繰り返し唱えた。そのうち少し落ち着いてきた。
このように、病院は個室と言えども公の場なのである。最後に『更級日記』から夫を亡くした作者の言葉を引用。
人々は皆よそに別れすんで、元の家には自分一人が心細く悲しいありさまで、久しく便りをくれない人に、
繁りゆく蓬が露にそぼちつつひとにとはれぬねをのみぞ泣く
(誰も訪れてくれないので、よもぎが繁ってゆくのですが、私はその露に濡れながら、声をたてて泣いてばかりおります)  
 
総理大臣の葬儀

 

○ 伊藤博文(1841〜1909)
山口県萩の人。憲法制定に当る。首相・枢密院議長・貴族院議長(いずれも初代)を歴任、組閣4度。また、日清戦争の講和全権大使、1905年(明治38)韓国統監。10月26日、ハルビン駅で韓国人安重根の銃弾3発を胸に受け間も無く絶命した。遺体は軍艦「秋津洲」で横須賀軍港に着き、11月4日、日比谷公園で国葬が行われた。午前7時、柩前祭が行なわれる。午前8時、柩は官邸を出て、日比谷の祭場に向かう。日比谷公園の祭場は、早朝より清掃され、広場を2区に画して、南方半分を祭場とし、北半分を会葬者の控え所とした。祭場には黒白の鯨幕を二重に引き回し、幄舎に対する幕の中央に祭壇を設け、会葬者控え所には4個の幕舎が設けられた。広場の入り口には会葬者名刺受付所を設け、午前8時頃から到着する会葬者に対した。葬列は午前10時過ぎに到着し、霊柩を正面壇上に安置。式典終了の後、午後零時20分、霊柩は馬車に移されて、大井町の墓地に至り、埋葬式を行なう。終了は午後4時。(68歳)
○ 黒田清隆(1840〜1900)
戊辰・西南戦争に官軍参謀、北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長。明治30年頃から座骨神経痛や高血圧に悩まされ、明治33年8月23日朝、脳溢血で倒れまもなく死亡した。彼は火葬にふされたあと、青山墓地に埋葬された。(60歳)
○ 山県有朋(やまがたありとも)(1838〜1922)
長州藩士。松下村塾に学ぶ。明治初年欧米を視察し、徴兵令を制定。のち内相・首相を歴任。日清戦争に第1軍司令官、日露戦争には参謀総長。のち枢密院議長。大正10年11月、気管支カタルを患った。翌年2月1日死亡した。最期の言葉は「いろいろお世話になりました」であった。葬儀は2月9日、日比谷公園で国葬として行われた。葬儀委員長には田中義一大将が任命された。国葬は明治の元勲というばかりでなく、枢密院議長の現職にあるというのが理由である。午前10時、19発の弔辞砲を合図に開始された。午後1時、棺は護国寺に到着し、そこで埋棺式が行われた。「東京日日新聞」は「民抜きの国葬で、幄舎(あくしゃ)の中はガランドウの寂しさ」と報じた。前月、同じ日比谷公園で行われた大隈重信の国民葬には30万人の会葬者が集まったのだが。(84歳)
○ 松方正義(1835〜1924)
薩摩藩士。1881年(明治14)大蔵卿となり、紙幣整理・官業払下げなどにより西南戦争後の財政窮乏を克服。蔵相・首相を歴任して金本位制の確立など国家財政の整備に尽した。大正13年7月2日午前危篤に陥り、午後10時40分呼吸麻痺の状態で死亡した。葬儀は三田の本邸斎場において国葬として行われた。(90歳)
○ 大隈重信(1838〜1922)
佐賀の人。参議・外相・枢密顧問官・首相。外相として条約改正に努力中、1889年(明治22)爆弾テロで片脚を失う。98年憲政党内閣で首班。また、東京専門学校を創立、その後身早稲田大学の総長。大正10年8月、膀胱炎の診断を受けるが、前立腺ガンの症状があらわれている。翌年1月10日死亡。1月17日は大隈重信の国民葬が行われた。大隈邸での告別祭が終わると、すぐに霊柩は自動車に移された。柩の上は白桧の館型の屋根が作られ、扉は丸に花菱の家紋が飾られてた。26騎の儀丈兵が捧げる鎗旗の中を「吹きなす笛」のラッパの曲に送られて、霊柩自動車が日比谷に向けて出発。この霊柩自動車はのちの宮型霊柩車の原形ともなった。(84歳)
○ 桂太郎(1847〜1913)
山口県の人。3度首相となり、日英同盟締結・日露戦争・日韓併合条約締結などに当る。下野後、立憲同志会を組織。大正2年新政党を組織する準備に着いたが、4月上旬より腹痛に悩まされた。胃がんであった。もともと18貫あった体重が3か月の間に14貫となり、10月10日死亡した。(66歳)
○ 西園寺公望(きんもち)(1849〜1940)
維新の際軍功を立て、1870年より10年間フランスに遊学。後、政友会総裁・首相。1919年(大正8)パリ講和会議首席全権委員。昭和15年11月10日微熱を発し、翌11日腎孟炎と診断。同24日、静岡県興津町の別邸坐漁荘で死亡。(92歳)
○ 山本権兵衛(1852〜1933)
鹿児島の人。海相として日露戦争を遂行。1913年首相となり、翌年ジーメンス事件により辞任。関東大震災の翌日、再び首相となる。昭和8年3月、前立腺肥大症を患う。彼の妻は同年3月30日がんで死亡。その年の12月8日、死亡。(81歳)
○ 寺内正毅(まさたけ)(1852〜1919)
山口藩出身。長州閥の1人で、陸相。韓国統監を兼ねて韓国併合に関与、後に朝鮮総督。1916〜18年首相。大正8年11月2日、心臓肥大及び糖尿病が原因で危篤状態に。11月3日午後零時15分、平井赤十字病院で死亡。葬儀は11月7日、芝山内増上寺金堂で挙行された。午前11時、葬列は麻布の元帥邸を出発、午後2時10分、葬場に到着、19発の元帥弔砲が秋空に向かって放たれた。(67歳)
○ 原敬(1856〜1921)
盛岡の人。外務次官・朝鮮公使を歴任。退官後大阪毎日新聞社長。のち逓相・内相を経て政友会総裁。1918年平民宰相として最初の政党内閣を組織。1921年11月4日、東京駅で19歳の青年に短刀に刺されて死亡。葬儀は遺言により東京では行わず、遺体は11月9日、郷里の盛岡に送られた。11日葬儀。午後1時、位牌を納めた棺が原邸を出発。式場の大慈寺には会葬者が溢れ、山門に至るまで人で埋めつくされた。(65歳)
○ 高橋是清(これきよ)(1854〜1936)
日本銀行総裁、再三蔵相。原敬の暗殺後、一時首相・政友会総裁。昭和11年2月、岡田内閣の蔵相在任中に、2・26事件で拳銃の弾を受けて死亡。本葬は1か月後の3月26日、築地本願寺において盛大に行われた。午前11時半、赤坂表町の自邸を出て15台の自動車を連ね、11時50分本願寺に到着。午後2時、儀仗兵の弔砲3発が轟いて式が終り一般告別式に移り、30余の焼香台に会葬者が押し寄せた。(83歳)
○ 加藤友三郎(1861〜1923)
広島県の人。日露戦争時、連合艦隊参謀長。海相として88艦隊計画の実現に努力。ワシントン会議の首席全権。その後、首相。大正12年8月25日午後零時35分、一族の見守るなか青山の自邸で死去。葬儀は8月28日神式で執行された。永田町首相官邸の大広間の式場にて、午後零時20分、祭主による祭文を奉読して故首相の勲績を偲び、親族等の拝礼が行われた。、午後4時、一般会葬者の告別式を終え、午後5時、青山墓地にて埋葬式が行なわれた。(62歳)
○ 清浦奎吾(けいご)(1850〜1942)
熊本県の人。法相・農相・枢密院議長を歴任。1924年いわゆる超然内閣の首相。晩年は重臣会議の1員。昭和17年の秋より衰弱し重態であったが、11月5日午後4時52分、熱海市伊豆山の別邸「米寿庵」で死亡。(92歳)
○ 加藤高明(1860〜1926)
愛知県の人。岩崎弥太郎の女婿。外交官より政界に入り4度外相。第1次大戦中、対華21ヵ条要求を提出。憲政会総裁として、原敬と併称される。第2次護憲運動の結果、首相。大正15年1月28日午前2時頃、突然病状が険悪になり、午前8時40分死亡。かねてから慢性腎臓炎でたんぱく尿があり、また心臓疾患があるところに、今回の発熱で急に心臓の衰弱をきたし、心臓麻痺になったものと病気経過が発表された。現職の総理大臣であったため、内閣は即日総辞職が決行された。葬儀は2月2日、青山斎場で行われた。(66歳)
○ 若槻礼次郎(わかつき)(1866〜1949)
松江の人。東大卒。蔵相・内相を歴任、1926年憲政会総裁となって組閣、30年ロンドン軍縮会議首席全権。翌年民政党総裁となり再び首相、満州事変勃発後、辞職。以後、重臣として活動。昭和24年11月20日死亡。(83歳)
○ 田中義一(1864〜1929)
山口県の人。原内閣の陸相。1925年(大正14)政友会総裁。27年組閣、対中国積極外交を推進、張作霖爆殺事件の責を負い総辞職。昭和4年9月28日、貴族院議員当選祝賀会の主賓として出席。翌日29日午前6時、急性の狭心症で死亡。(65歳)
○ 浜口雄幸(おさち)(1870〜1931)
高知県人。蔵相・内相を経て、民政党初代総裁として首相となり、緊縮政策を断行、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。昭和5年11月14日、岡山県での陸軍特別大演習に参加する途上、東京駅のホームで右翼の銃に狙撃された。幸い一命を取り留め、手術後静養していたが、翌年8月傷口に繁殖した菌によって腹部に膿がたまり、それが肺を破って、26日に死亡した。葬儀は8月29日、日比谷公園で「党葬」として行われたが、日比谷公園に至る沿道や式場一帯は、最後の別れを惜しむ大衆が21万5000人にも達した。墓は東京青山墓地の加藤高明の墓の隣りにある。(61歳)
○ 犬養毅(1855〜1932)
岡山県の人。慶応義塾に学ぶ。第一議会以来、連続して代議士。国民党・革新倶楽部の党首を経て、1929年政友会総裁、31年首相。昭和7年5月15日午後5時半、首相官邸で7名の1団に射撃され、輸血の効もなく、11時すぎに死亡。葬儀は5月19日、首相官邸のホールで行われた。たまたま日本に来ていた喜劇王チャップリンも、首相の葬儀にあたって次の弔電をよせた。「憂国の大宰相犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す、チャールス・チャップリン」。遺骨は青山墓地に納められている。(77歳)
○ 斎藤実(1858〜1936)
岩手県生れ。海相・朝鮮総督・首相・内大臣を歴任。2・26事件の犠牲となって死亡。(78歳)
○ 岡田啓介(1868〜1952)
軍人・政治家。海軍大将。福井県生れ。連合艦隊司令長官、田中・斎藤両内閣の海相。1934年(昭和9)首相。2・26事件の際襲撃されたが難を免れ、以後重臣として国政に関与。昭和27年10月17日死亡。(84歳)
○ 広田弘毅(こうき)(1878〜1948)
福岡市生れ。玄洋社の一員。駐ソ大使。斎藤・岡田両内閣の外相。近衛内閣外相。昭和21年1月15日、A級戦犯として極東国際軍事裁判にかけられた。5月18日、夫人が自殺。昭和23年11月12日、死刑判決が下り、12月23日刑が執行された。(70歳)
○ 林銑十郎(1876〜1943)
金沢市出身。朝鮮軍司令官・教育総監・陸相を歴任。1937年2月首相。4か月で総辞職。昭和18年1月、風邪気味で渋谷区千駄ケ谷の自邸に引き篭り、医師の手当てを受けていたが、19日下痢を起こし、25日脳溢血を併発。2月4日午後11時過ぎに死亡。葬儀は興亜同盟葬として青山斎場にて、午後1時から2時まで仏式で、2時から3時までは一般告別式が行われる。(69歳)
○ 近衛文麿(1891〜1945)
東京生れ。1933年貴族院議長。37年第1次、40年第2次組閣。昭和20年12月6日GHQから彼の元に、12月16日に巣鴨拘置所に出頭せよという指令が発せられた。出頭を明日に控えた夜、自宅で青酸カリを飲んで自殺。東京裁判の検事団から医師が送られて検視が行われた。葬儀は12月21日、麻布の有栖川宮公園内にある養正館で行われた。遺骨は京都の大徳寺に埋葬されている。(54歳)
○ 平沼騏一郎(きいちろう)(1867〜1952)
岡山県生れ。東大卒。検事総長・大審院長・法相を歴任、1936年(昭和11)枢密院議長。39年組閣、ついで国務相・内相。右翼団体、国本社を主宰。昭和23年1月、A級戦犯として終身刑の判決を受けたが、病気のため仮出所を許され、昭和27年8月22日病死。(84歳)
○ 阿部信行(1875〜1953)
金沢の人。浜口内閣宇垣陸相の下に次官、陸相代理。1939年(昭和14)首相兼外相。朝鮮総督・翼賛政治会総裁。昭和28年9月7日死亡。(77歳)
○ 米内光政(よないみつまさ)(1880〜1948)
岩手県の人。海軍大将。海相。1940年組閣、半年で辞職した。後、東条内閣の倒壊、太平洋戦争の終結に努力。彼は昭和20年頃から健康を害していた。そして昭和23年4月20日、目黒の自宅で死亡した。(68歳)
○ 東条英機(1884〜1948)
東京生れ。関東軍参謀長・近衛内閣陸相を経て、1941年組閣、陸相・内相を兼ね、太平洋戦争を起し、参謀総長・商工・軍需各相をも兼務。戦況の不利に伴い44年辞職。昭和23年11月12日、極東裁判で絞首刑の判決を受け、12月23日刑が執行された。(64歳)
○ 小磯国昭(1880〜1950)
宇都宮生れ。3月事件に関与。拓相・朝鮮総督歴任。太平洋戦争末期(昭和19年7月から20年7月)の首相。戦後、A級戦犯で終身禁固刑。昭和25年11月3日、巣鴨収容所で病死。(70歳)
○ 鈴木貫太郎(1867〜1948)
海軍大将。千葉県出身。連合艦隊司令長官・軍令部長・侍従長・枢密顧問官。2・26事件で重傷。太平洋戦争末期、終戦内閣の首相。日本を終戦に導いた彼は、3年後の昭和23年4月17日、肝臓がんで死亡。彼が生前自分でつけた戒名は「大勇院尽忠日貫居士」である。(81歳)
○ 東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)(1888〜1990)
久邇宮朝彦親王の9男子。昭和20年8月、初の皇族内閣を組閣し、降伏文書調印と軍隊の復員・解体などの終戦処理にあたる。平成2年1月20日心不全で死亡。(102歳)
○ 幣原喜重郎(しではら)(1872〜1951)
大阪府生れ。各国公使などを経て、1924年(大正13)以後4度外相。対米英協調と対中国内政不干渉方針をとって、軟弱外交と非難された。45年首相、ついで進歩党総裁。後、民主党・民主自由党に参加。衆議院議長となる。51年3月10日病没。東京築地本願寺で衆議院葬が行なわれた。(78歳)
○ 吉田茂(1878〜1967)
高知県出身。外務次官・駐英大使などを歴任。第2次大戦後、外相。1946年日本自由党総裁、ついで首相。昭和42年8月、心筋梗塞の発作に襲われる。10月20日、神奈川県大磯の自宅で死去。生前の希望で、死亡直後にカトリックの洗礼を受けた。内葬は23日、文京区関口台町の東京カテドラル大聖堂で、近親者・特別縁故者ら1,500人が参列して行われた。また当時東南アジア歴訪中の佐藤栄作首相は、急遽帰国して10月31日、日本武道館で戦後初の国葬を執り行った。この時一般の会葬者は約3万5000人にものぼり、午後3時半から7時半過ぎまで献花の列が続いた。(89歳)
○ 片山哲(1887〜1978)
和歌山県生れ。東大卒。弁護士として無産運動に活躍。戦後、日本社会党委員長。1947〜48年社会党首班内閣の首相。昭和53年5月30日、50年間住み慣れた藤沢市の自宅で死去。前年夏よりベッドで寝たきりだったが、家族に手を握られて苦しみもなく息を引き取った。(90歳)
○ 芦田均(1887〜1959)
京都府出身。外交官を経て代議士。日本民主党総裁。1948年首相在任中、昭電事件で逮捕され政界引退。無罪となったが、判決の翌年の6月20日夜10時57分、東京都港区の自宅で死去。死因は悪性肉しゅ。遺体は解剖のため順天堂大学に運ばれた。通夜は6月22日、芝の青松寺、葬儀は23日午後1時より築地の本願寺で自民党葬で行われた。(71歳)
○ 鳩山一郎(1883〜1959)
東京の人。政友会に属し、再度文相。戦後、自由党を結成し総裁となったが、追放。解除後日本民主党総裁となり、1954〜56年首相。昭和34年3月7日朝、衰弱していた容態が急変し、午前9時過ぎ発作を起こし、ベッドの近くに倒れ死亡。(76歳)
○ 石橋湛山(1884〜1973)
山梨県出身。第1次吉田内閣の蔵相。自由民主党総裁。1956〜57年首相。昭和48年4月25日死亡。28日池上本門寺で密葬。5月12日、築地本願寺で自民党葬が行われる。(88歳)
○ 岸信介(1897〜1987)
山口県出身。東条内閣の商工大臣。A級戦犯となり巣鴨拘留所に。1957年岸内閣を組織。60年安保条約に調印。昭和62年8月7日死亡。葬儀は11日午後1時より東京・芝公園の増上寺で行なわれ、4,000人を超える関係者が別れを告げた。会場には大門から本堂まで白のテントがはられ、本堂2階の式場正面には白菊と紫のカトレアに祭壇が囲まれ、中央にはモノクロの遺影が飾られた。葬儀の冒頭には葬儀委員長の福田元首相が、「岸先生の生涯は、戦前・戦中・戦後を通じて昭和史そのものだった。昭和史は波乱万丈、有為転変だったが、随所に先生の業績が点滅していた」と称えた。(90歳)
○ 池田勇人(1899〜1965)
広島県人。大蔵官僚を経て、自由党に入り、各省大臣を歴任。自由民主党総裁。1960〜64年首相。高度経済成長政策を推進。昭和39年秋、がんセンターでガンの疑いで入院し、放射線治療を受ける。翌年7月末に本郷の東大付属病院に入院したが、ガンはのど、食道、肺に転移していた。8月13日死亡。(65歳)
○ 佐藤栄作(1901〜1975)
山口県出身。吉田茂政権のもとで各省大臣を歴任。1964〜72年、3次にわたり自由民主党総裁・首相。昭和50年5月19日、自民党幹部、財界首脳と築地の料亭「新喜楽」で会食中、脳溢血で倒れる。それから15日間、「新喜楽」で昏睡したまま、6月3日死亡。6月16日、東京の日本武道館で「国民葬」が行なわれる。この時、三木首相が右翼に暴行を受けるという事件が発生した。(74歳)
○ 田中角栄(1918〜1993)
新潟県人。1972年田中内閣を発足させ、日中国交正常化。1976年ロッキード事件で逮捕。83年有罪判決。85年2月、脳梗塞で倒れ入院。93年12月16日、甲状腺亢進症に肺炎を併発して死去。自民党・田中家合同葬が12月25日午後1時から、青山葬儀所で行なわれた。葬儀委員長の河野洋平党総裁は、弔辞で「生来の明るい性格と人一倍豊かな他人への思いやり、コンピューター付きブルドーザーと称された抜群の才知で驀進続けた党人政治家の努力の軌跡であり、戦後日本のめざましい経済発展と一種絶妙なアヤをなすものでした」と述べた。葬儀に先立ち、長女真紀子さんは遺骨を胸にして、車で自民党本部など元首相のゆかりの地を回った。(75歳)
○ 三木武夫(1907〜1988)
徳島県人。1954年(昭29)鳩山内閣での運輸相。72年の田中内閣での副総理、1974年暮田中退陣のあと、三木政権を発足。昭和61年6月、脳内出血で倒れて療養生活を送り、昭和63年11月14日、議員在職のまま死亡。死因は急性心不全。三木武夫元首相の衆院・内閣合同葬儀は12月6日午後、北の丸公園の日本武道館で営まれた。遺骨は午後1時25分南平台の私邸を出発、自衛隊・警視庁の儀杖隊に迎えられて武道館に到着。式場正面には、青竹と杉の葉で国会議事堂を型取った祭壇が設けられた。式は葬儀副委員長の開会の辞に続いて1分間の黙祷をしたあと、生前の姿をスクリーンに映しだした。追悼の辞の後、天皇、皇后両陛下のお使いの礼拝と皇族の供花に続き、政治家たちによる献花が行なわれた。(81歳)
○ 大平正芳(1910〜1980)
香川県人、田中内閣が発足して外相。1980年5月31日、港区の虎の門病院に入院。6月、衆参両院のダブル選挙で、選挙運動中の6月12日午前2時、容態が急変し、5時54分心筋梗塞のため死去。葬儀は内閣・自民党合同葬儀として、7月9日、日本武道館で行われた。(70歳)  
 
徳川将軍の葬儀

 

徳川家康(初代将軍)
家康(1542〜1616)の死因は鯛のテンプラが原因であるが、もともと胃癌が進んでいたといわれている。葬儀は神式(唯一神道)で久能山に葬られ、後に日光東照宮に改葬されている。
徳川秀忠(二代将軍)
秀忠(1579〜1632)は寛永8年(1631)に発病し、翌9年1月24日死亡、54歳。
遺命により葬儀・法会とも倹約を旨とし、霊牌の他新しく作るべからずとあった。1月25日天海僧正、および崇伝を招いて葬式の内定があり、27日に遺体を深夜密かに増上寺の幽宮に移すこととなった。この時に土井利勝および近臣10人ばかりで奉供するのみで、僧侶はひとりも従わなかった。こうして葬儀は行わず密かに増上寺に移された。
増上寺に葬られた秀忠の棺は隅が丸い長方形の桶で、長さ82センチ、幅67センチ、深さ91センチのヒノキ製の早桶であった。この棺は輿(こし)のなかに納めたまま埋葬された。そして棺のなかは小石がぎっしりと詰められていた。遺体はまげを結った上に、冠をつけていた。副葬品はしゃくと太刀で、棺の外には鉄砲1挺、香炉などが置かれていた。(資料鈴木尚「骨は語る」)
崇源院の葬儀
二代将軍秀忠の正室の崇源院は、寛永3年(1624)9月15日江戸城で死亡した。9月15日遺体は増上寺に移され、それから約1ヶ月後の10月18日、遺体はあらかじめ麻布の「我善坊」にもうけられた荼毘所で火葬にふされた。増上寺から荼毘所まで千間の間にむしろを敷き、その上に白布10反を敷いて、1間ごとに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。荼毘所は百間四方を槍で垣根をつくり、四方に門をつくって各門に額をかけ、幡を10本ずつを立てた。火屋(火葬場)の内構は60間で、こもの上に絹をしき4つの門を立て、2方に種々の供物を供え、四隅には花を飾る紗篭を置く。火屋の右には4つの堂を建てて物具を陳設した。龕前堂には額をかけ、ここにも食物を供えた。白張着を着た100人により龕が運ばれた。錦の天蓋をさしかけ、諸大名、垣の内千間の間を、1間ごとに護衛がつき、外は足軽が警備をした。
行列は1番大たいまつ、左右に大香炉、奉行の僧2人、持者2人、侍2人。次に春湖他6人のあと、左右灑水の僧2名、花篭の僧10名、次に左に日天、右に月天、左開敷2本、右末敷2本、次に紗篭2本ずつ、次に幡が左右5流ずつ、楽器と続く。
あとより、宮仕の女房の輿60ちょうが続き、各自香をたく。下火は増上寺広度院が法文を演説。鎖がん役は寿経寺以下十何寺の僧衆がこれを行う。沈香を32間あまり積み重ね、一時に火をつけたため、その香煙は1キロ以上にわたってたなびいたという。
徳川家光(三代将軍)
家光(1604〜1651)は慶安4年(1651)4月19日の夜よりにわかに病が重くなり、かたわらの酒井忠勝等をかえりみて、「私が死んだ後も魂は徳川家康の祭られている日光山にまいりて、仕えまつらんと願うゆえに、遺骸を慈眼堂のかたわらに葬る」よう命じた。そして翌20日死去。48才。23日に家光の霊柩は上野寛永寺に移され、毘沙門堂門跡公海がこれを迎える役を勤めた。
徳川家綱(四代将軍)
四代将軍徳川家綱(1641〜1680)の時代には、由比正雪らによる江戸幕府覆滅をはかった慶安事件がある。家綱は延宝8年5月8日病死した。40才。
5月9日、土井能登守を寛永寺に使わし、遺命により寛永寺に葬る旨を、門主に伝える。12日、大森信濃守はじめ近侍していた者はみな落髪して、葬送の供奉することを許される。13日、納棺御束帯、小姓稲垣市正等3人、ならびに納戸4人がこれを勤める。棺のなかには太刀、脇差しが納められた。14日午後6時本丸より霊柩を寛永寺の本坊に移す。この日増上寺にも霊牌を奉安して法事をするように依頼する。午後5時、大久保加賀守、寛永寺より僧正5人を同道し、棺を迎えるため北の子橋から登城する。出棺にさいし、鈴木修理、御車に棺を載せ、小姓、納戸方は車を引き出し、篭の者、中間等80人あまりで棺を担ぐ。北の子橋の上で棺を低い台である小榻(こしじ)に下ろし、僧正以下5人による読経が行なわれる。
午後8時、棺は高位者の詰める黒書院の上壇に安置される。棺の前に霊供七五三(本膳七菜、二の膳五菜、三の膳三菜)を供え、衆僧あつまるなか、導師は光明供を修行した。光明供がおわり、酒井雅楽頭他順次焼香し退出する。
15日午前5時すぎ、凌雲院僧正以下の衆僧は黒書院の下壇に参集、夜の勤行懺法を修行する。上壇にお茶、ご膳、お菓子が供えられる。小姓衆がこの役を勤める。勤行がおわり大久保加賀守ほか順次礼拝する。小姓衆はご膳を下げ、衆僧退出する。12時黒書院に衆僧参集、小姓今朝と同じくお茶、ご膳、お菓子を供える。凌雲院は光明供を修する。声明(しょうみょう)の一種である修僧錫杖を唱える。法事がおわり、加賀守等4名は葬地を巡見する。午後4時、黒書院に衆僧集まり、初夜の勤行が定刻に行なわれる。
26日、寛永寺において葬礼が行なわれる。法会は諸天讃光明供。九條錫杖は導師毘沙門堂門跡の公海が行なう。27日、寛永寺において法事始め。夜10時より光明供が行なわれる。6月1日、二七忌で「法華八講」が行なわれ、昨夜より市井営業を許される。
徳川綱吉(五代将軍)
まことに悪評だった生類憐み令を出した五代将軍徳川綱吉(1646〜1709)は、宝永6年1月3日当時流行していた麻疹にかかった。そして同月10日午前6時ころ死亡。64才。
22日霊柩を北はね橋より発引(「引」は柩車の前のひもを引く意)。寛永寺の本坊に移す。途中の道に面した家々では提灯を出し、水桶をならべ、窓に蓋をした。順路は一橋より護持院のそばを通り、筋違橋より広小路に出、山の仁王門より仮のおまし(天皇や貴人の御座所)に入る。棺は上段に安置する。凌雲院僧正ら迎えに出る。かくて七五三に常の御饌を捧げ、導師にて光明供を修する。
28日、寛永寺にて大葬が行なわれる。12時僧正実観封地の法を修し、午後4時ころ七五三のご膳を供え、終わって公弁親王焼香され、衆僧光明供をとりおこなう。午後6時頃霊柩を仮のおましより、塋域(えいいき=墓)に移される。
衣装
出棺お供の面々は熨斗目(のしめ=無地の練貫(ねりぬき)で、袖の下部と腰のあたりに格子縞や横縞を織り出したもの。小袖に仕立てて、士分以上の者の礼服として麻上下(あさがみしも)の下に着用)。
葬儀の役職
法事総奉行(大久保加賀守)、及び(1)法事御用 (2)小普請(建築)奉行 (3)小普請方 (4)大工預棟梁 がある。
東叡山(寛永寺)法事御用には、(1)寺社奉行、(2)大目附、(3)勘定奉行(金銭出納)、(4)賄方(食事のまかないを担当する)、(5)奥祐筆、(6)表祐筆(文書係)、(7)儒者、(8)勘定組頭、(9)代官、(10)漆奉行。
葬儀列次
先頭に高提灯(左右一対)、その間に馬小道具。次に手提灯一対、徒士2名(かちざむらい=徒歩で行列の先導をつとめる)、御目附、小人目附2名、御具足をはさみ徒士目附2名、長刀、徒士頭2名、小姓2名、同朋頭2名、大久保加賀守、位牌、出家、香炉持ち、お棺、4名の僧侶、松平右京太夫、稲垣対馬守、お側衆、等が続き、鑓、お膳奉行、草履とり、槍・鉄砲徒押等が続き、最後に挟筥(具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱。江戸時代には定紋をつけるなど武家の格式を表示した)と馬槍が最後を勤める。
徳川家宣(六代将軍)
家宣(1662〜1712)は正徳2年(1712)9月14日、風邪をひき10月14日死亡、51歳。家宣の遺体は20日に増上寺に移され、11月2日葬儀が行なわれた。昭和33年改葬にあたって墓の調査が行なわれた。宝塔の基段を取り除くと石槨があらわれ、この蓋を開けると銅の棺があった。銅製の棺の蓋のしたに木炭が敷き詰められ、その奥に木棺があった。この銅棺は、中に500キロもある水銀朱が納められていたため、吊り上げるにあたって強力なクレーンが使用された。さて木棺は厚さ3.6センチのヒノキ製で、上面の形は一辺が1メートルの正方形、深さは1.15メートルである。棺の中には紙袋に詰められた石灰と朱のかたまりが見つかった。死装束は束帯姿で、副葬品として、太刀2本、そして袋の中に筆、墨つぼ、毛ぬき、耳かき、鏡などが納められていた。
徳川家継(七代将軍)
(1709〜1716)4月30日午後4時に亡くなられ、明けて5月1日、喪が公表された。5月17日、遺体は増上寺に移された。
徳川吉宗(八代将軍)
吉宗(1684〜1751)宝暦元年6月20日死亡、68歳。死因は中風で尿の具合が悪くなったためといわれる。遺言により霊廟はつくらず、綱吉の廟に合祀された。
葬列
6月10日、午後4時ころ棺を御息所(みやすどころ)から、庭に下ろした。ご用係り、役人がこれを受取り、それから行列は山里御門、吹上大道通り、矢来御門までの間を、畳幅3間を通りに敷きつめ、その上を棺を引いていった。表の土間に手子とんびの者200人が詰め、ろくろで巻き上げる。矢来御門までは公方徳川家重、大納言、及び奥女中が棺に付き添い、奥から矢来御門まで、手子とんびの者頭分27人が取り直し、御門外から上野までは、200人のとんびがこれを担いだ。このうち100人はおかごの者、黒くわ等の軽いご扶持ち、また100人は御用聞き、町人願いの当日召し抱えられたものたちによって棺が担がれた。この200人はサラシ帷子一重、麻黄麻上下一具ずつをつけ、かつぎ棒はひのき製で長さが9寸である。
担ぐ者は無言で、道を回るときは拍子木を打って合図する。棺のなかには、ホウレイ綿におよそ4斗7升の朱が混ぜられている。大変な重量のため、筋違橋御門外より担ぐ人の息遣いが荒くなり、上野黒門前でしばらく休憩して、それから上野へ入った。この槨(棺を納める外枠)のなかに寒水石(結晶質石灰岩)が詰められ、その石ひとつひとつに法華経の文字一字ずつがかかれ、その数およそ6万5千という、このすきまには石灰が入れられている。このなかに入る黄金は11箱、ほうれい綿6駄(一駄は36貫)という。
石槨の蓋石に刻まれた銘文
「貞享元年甲子10月21日誕生、在位凡30年、辞職7歳寛延4年辛末(宝暦元年)6月20日斃、68、勅贈太政大臣一位、賜號有徳院、葬于東叡山(寛永寺)、従五位下守大学頭藤原信充拝書」
徳川家重(九代将軍)
(1711〜1761)このときの葬礼のについての、触書きが出ている。『浮世の有様』によると、明4日、江戸表において、大御所さま尊棺葬送のある間、いよいよ諸事つつしみ、火の元は注意するよう指図があった。
徳川家治(十代将軍)
家治(1737〜1786)は天明6年8月はじめに水腫にかかり、9月6日危篤状態になり8日午前死亡、50歳。死の直後に田沼意次による暗殺説が出た。
徳川家斉(十一代将軍)
(1773〜1841)1月30日、家斉の死去にともない、江戸に触れ書きが出された。
(1)町中鳴りものならびに作事などをしない。
(2)火の用心について入念に行なう。(1月末日)
次に葬儀についての触れ書きをみてみると
(1)出棺のさい、町の道筋、町屋の分は2階の窓を前日より戸を締め切り、錠をかけ封印する。
(2)表の戸は当日の朝より建ておき、透き間がある分は、目張りをすること。家内の者、老人、子供は親類にあずけ、その他のものは表店におかない。火を使うことは当日朝8時にはやめる。(2月23日)
出棺矢来御門より龕堂までの行列。馬、馬方、馬のり、沓箱、挟み箱、台傘、曲録、徒士、具足、徒士目付、具足奉行、小人目付、目付、徒士目付、小十人組、長刀、小十人頭、香炉、同朋これを持つ、老中、出家、棺、かご者頭、若年寄衆、小姓、やり、中奥小姓、御番、目付、徒士目付、やり、ぞうり取り…よりなる。
徳川家慶(十二代将軍)
家慶(1793〜1853)は、6月5日ペリーが来航した達しがあったため、6月7日、家慶は日光東照宮で祈祷を行なっている。そして6月12日ころから暑気あたりにかかり、1ケ月後の嘉永6年(1853)7月22日に死亡している。行年61歳。
葬送の式は8月4日増上寺にて浄土宗式で実施された。
1.御棺において壙四方の結界作法 / 2.伝通院等による棺前焼香三拝、鎖龕(棺の蓋を閉ざす)作法終え退出 / 3.霊厳寺等、棺停安拝し迎檀林誦経咒願 / 4.学頭(僧の役名)先ず灑水(しゃすい=水をそそぐこと)を行なう / 5.天光院鈴を持ち先導 / 6.霊巌寺他敬従持念 / 7.香炉を捧げる / 8.御棺左右に常照院敬い侍(はべる) / 9.衆僧表門の左右で拝迎 / 10.楽人龕前堂表に列居 / 11.導師龕前堂に奉侍 / 12.僧衆を拝迎し先進列行、龕前堂左右に着座平伏 / 13.御棺入。この時導師、龕前堂木戸北方より拝迎終え、南方の曲録に倚る / 14.御棺を龕前堂に奉安 / 15.武家改着装束 / 16.棺前に机を設置し香花燈明を献じる / 17.菓子を奉献する / 18.灑水(常福寺勤奉) / 19.導師着畳 / 20.伽陀(偈)(月窓院勤奉) / 21.導師献香咒願 / 22.広懺悔(威徳院勤奉) / 23.龕前疏(上奏文)(弘経寺勤奉) / 24.後唄(花岳院勤奉) / 25.四誓偈 / 26.回向十方 / 27.導師北方の曲録に倚る / 28.大僧正ご拝礼 / 29.庭上の行列 / 30.御棺出庭上 / 31.供奉役人先進 / 32.合はち / 33.発楽 / 34.行列先進徐行僧衆誦根本咒 / 35.鈴に従い散華 / 36.伶人廟所仮堂の外南方列立 / 37.持物の衆徒随時六観音牌の側に止る / 38.奏楽 / 39.供奉役人拝殿南北奉侍近侍のほか供奉諸士御門外に止る / 40.導師仮堂の外南方曲録に倚る / 41.御棺仮堂内に奉安 / 42.僧衆圍のうち廟堂の外左右列立 / 43.机を設置して香花燈明を献じる / 44.奉香机 / 45.灑水 / 46.四智讃発音 / 47.合はち、鐃(にょう=銅鑼(どら)の一種) / 48.導師献香礼拝おわり曲録に倚る / 49.鎖龕(さがん) / 50.起龕(きがん) / 51.奠湯(てんとう) / 52.奠茶(てんちゃ) / 53.念誦 / 54.導師進棺前献香引導 / 55.誦甘露咒 / 56.導師奉圍遶(かこいめぐらす)御棺終わり着畳 / 57.咒願終わり下堂、つづいて南方の曲録に倚る / 58.僧衆退き圍之外左右 / 59.拝殿に香机ならびに膝つきを設置 / 60.大僧正拝迎役者随従 / 61.奏楽 / 62.名代参堂礼拝 / 63.下堂楽奏 / 64.大僧正南方曲録に復座 / 65.僧衆拝殿着座 / 66.讃偈を称える(光学院勤奉) / 67.設御机(役僧これを行なう) / 68.典供 / 69.導師着座献供咒願 / 70.願生偈 / 71.回向文(阿弥陀本誓願の文) / 72.阿弥陀称号(六字詰七変) / 73.武家拝礼 / 74.導師退出僧衆斑列随従 / 75.収供具 / 76.奉棺壙役者両僧如法監護 / 77.武家退出   以上
徳川家定(十三代将軍)
(1824〜1858)安政5年7月3日、家定はコレラとなり、幕府はこれまでのオランダ医学解禁令を出して、7月4日に私立種痘所の伊東玄朴らを召して将軍の治療にあたらせた。しかし将軍は7月7日に35歳で死去。8月18日に寛永寺に葬られる。7月3日の解禁令により、西洋医学の普及の先駆けとなったのである。
8月18日、遺体を寛永寺に移す。棺の左は落髪した刀の小姓2人、右に脇差の小姓2人。途中龕前堂のうちにある廟まで、代わり代わり役目を勤める。和泉守に導かれ、棺は北詰橋を越え、幕張のうちへ入棺、白綾の覆をかける。仮門を出棺。竹橋の方に棺をおく。このとき仮門の外に田安中納言ほか、棺前にて読経、礼拝の行事を行なう。終わってから出棺。和泉守等かご台にまわり、出棺にさいし拝伏。それより寛永寺まで先立つ。和泉守とその供は棺の脇に立つ。
午前9時、休息のあとかご台より出棺。先に小納戸2人、次に香炉2、左右に落髪の小納戸4人、代わり代わり北詰橋より門外、晏、取建所、幕張うちまでこれをもち、同所門のそとにて香炉を供の同朋に渡す。途中これをもち寛永寺龕前堂まえに向かう。
徳川家茂(十四代将軍)
(1846〜1866)胃腸障害、脚気が原因で慶応2年7月20日、大阪城中で死亡。21歳。幕府は8月20日にはじめて喪を発し、家茂の遺骸は船で9月6日江戸に運ばれた。23日葬儀が行なわれ、芝の増上寺に葬られた。
徳川慶喜(十五代将軍)
(1837〜1913)最後の将軍はそのあと46年間の余生をおくった。大正2年11月22日、午前4時、肺炎による心臓麻痺でで死亡した。葬儀は寛永寺内に新設された齋場で神式で行なわれた。葬列の模様は野村敏雄の『葬送屋菊太郎』に描かれている。「さすがに前公方様を慕う人々の群れは、寒風をおして谷中の斎殿から上野界隈まで、三橋から腰越、清水堂、桜ケ岡、博物館前と押し寄せて、葬列の沿道は人波で埋まった。中でも江戸名残の火消組が一番から十番まで十コの纒(まとい)を押し立てて待ち受ける姿は、いかにも公方様の葬儀にふさわしく、さらに旧幕の昔をしる老人たちの見送りも、すこぶる多かった。山内では木戸銭をとって見物人を店の奥によびこむ茶店まで出た。交通は伝通院まで遮断され、その道筋は榊や生花がすきまもなく飾られた。
慶喜の柩は唐破風型の桧の白木造りで、輦台の長さは2間、高さ6尺、正面と側面は金色まばゆい葵の定紋を打ち、白丁に担がれてしずしずと谷中の墓地にむかう。葬列につきそう遺族は狩衣(かりぎぬ)姿に黒綾織の烏帽子、藁靴、竹杖、婦人は白無垢の紋服、下げ髪で、そのあとから旧幕臣たちの列がつづいた。」  
 
死の諸話

 

日本人の霊魂観
民俗学者の折口信夫は、タマはもともと体にはいったり出たりするものであったが、いつのまにかタマの入れものがタマとなり、タマの働き、作用がタマシイと呼ばれるようになったといいます。また古代にタマの良い部分はカミに、邪悪な部分はモノ(オニ)に分化したともいっています。
古代人は長寿を保って死ねば、すぐに神となると考えられました。また反対に若死した者や、事故などで不慮の死を遂げた者は、忌むべき死者として冷ややかに取り扱われました。変死者は掘って埋めるとか、生き返ってたたりをしないためのましないとかが行なわれました。
八重山での風習に、子供が元気をなくしたりすると、「マブイ(魂)ごめ」の儀式を行ないました。これは麻糸を使い、子供の年だけの結び目を作り、輪にした麻糸のなかに魂を追い込む動作を繰り返し、そのあと麻糸を子供の首にかけるというものです。こうして外に出ていた魂は、再び子供のなかに戻り元気を取り戻すという儀式であります。
死の人類学
歴史家フィリップ・アリエスは「死と歴史」という本のなかで、人間が死について抱く態度が、何時の時代にも同じというわけではなく、時代の変化にともなって移り変わっていることを証明しました。では、地理的な違いで「死」について抱く態度がどう異なるのでしょう?コロンブスの新大陸発見以来、今迄知られることのなかった国々の風俗、習慣が紹介され、そこでの風習が、表面的な差はあっても、共通する事柄も多く見出すことができました。今回は「死と人類学」と題し、死の6つのキーワードを取りあげてみました。
ミイラ
ミイラと聞くとすぐに古代エジプトのミイラを思い起こしますが、実際にはその習慣は世界中にありました。ミイラ作りはもともと宗教上の信仰からきているもので、その主な目的は未来での救済にありました。死者は肉体を離れた後も、その肉体が元の姿をとどめている必要があったのです。古代エジプトでは、死後3千年たつと死者の魂が肉体を得て復活すると信じられていたのです。
最も有名なエジプトのミイラ
ミイラは、肉体が腐敗するよりも早く、急激に乾燥することで出来上がります。死体の水分が半分以下になると細胞の増殖が阻止され、乾燥した風土は置かれた死体はミイラになりやすくなります。古代エジプトでは、これを人工的に作りあげていったのです。死体から脳や内臓を取り出し、香辛料を混ぜた炭酸ナトリウムに70日間漬けます。そのあと死体に、ゴムを充分は染み込ませた綿布の包帯を、頭から足にかけて巻きます。そしてこれを、人の形をした木の墓にしまい、墓室の壁に立てかけて保存しておくのです。
ヨーロッバの自然ミイラ
ヨーロッパでは、キリスト教が死体のミイラ化を歓迎しておらず、また気候もミイラ作りに適しているとは言えません。しかし自然がミイラ作りに適していた所では、あちこちで自然ミイラが残されています。トゥルーズのドミニコ会修道院、およびフランシスコ会修道院の地下埋葬所にあるミイラは、鐘楼の上に死体を吊して作られたものであり、またボルドーのサンミッシェル塔のミイラは、風通しのよい、乾燥した地下で発見されたといいます。フランスでは16世紀末から17世紀初頭にかけて、近体の防腐保存が試みられました。しかし結果は芳しくなく、このことが古代エジプトのミイラ技術の高さを、再評価させることになったといいます。
日本のミイラ
日本のミイラ作りの思想は、仏教思想の影響によるもので、中国の影響を受けています。中国では古くから、仏教徒はミイラになりました。これを「肉身」といい、ミイラになるために死ぬことを「入定」といいます。広東省の南華寺は慧能(えのう)のミイラがありますが、これは唐時代中期のもので、現存する最古のものといわれます。日本には20体以上のミイラが現存します。有名なものは平泉町中尊寺の藤原一族のミイラで、中尊寺の金色堂には、4体のミイラがまつられています。最も新しいミイラでは湯殿山で修行した仏海上人のミイラで、明治38年は入定しました。日本でのミイラ化の目的は、ミロク信仰との関係があり、僧侶としての自分も、ミロクとともに大衆を救おうと、ミロクの出現の時まで、ミイラとなって待ち続けるという信仰に裏付けられています。
供犠(スケープゴート)
宗教的な目的のために、人命を犠牲に捧げる風習は、世界中に見られるものです。古代イスラエルでは毎年購罪日には2頭の羊が準備され、1頭は神に捧げ、1頭は人々がその頭に手を置いて罪を告白し、その後荒野に追放したのです。古代アテネでは、羊のかわりに2人の無宿者を1年間、国費で養う風習がありました。穀物の取り入れの直前の、贖罪の祭になると、この2人を町中に引きずり回し、人々の罪や汚れを2人になすりつけて、最後に郊外に連れて行き、崖の上から突き落とすか、火あぶりにするのです。ギリシャの植民地マッサリアでは、町に疫病が流行ると、民衆は人身御供によって難を逃れようとしました。古代ローマでは紀元前97年に人身御供を禁止しました。それでも毎年5月15日の購罪の祭りには、橋の上から24個の等身大の藁人形を川に投じたといいます。
豊穣儀礼としての供犠
アズテク族の人身御供は、四季の運行に関連があり、トウモロコシの種をまく時期には捕虜を月の神に捧げました。捕虜を木の櫓に縛り付け、矢でこれを狙い、流れた血で土地を肥沃にするというのです。「心臓の犠牲」では犠牲者を石の上に仰向けに寝かせ、5人の祭司がこれを押え、6人目の祭司が黒曜石でその胸を裂き、心臓を切り取って太陽に捧げるのです。この儀式は1人ですんだためしはなく、犠牲者が何百メートルに及んだことがあるといいます。この犠牲者になる者たちは「神の肉」と呼ばれる幻覚キノコを食べて、その試練に臨んだのです。またアメリカでは新婚旅行の名所で有名なナイアガラの滝も、かっては毎年、収穫時には3人の乙女を犠牲にしており、それが1780年迄続けられていたといいます。
巨人の火祭り
ケルト族は、5年ごとに行なわれる大祭に、神々に犠牲を捧げる罪人を養っていました。この犠牲者は多ければ多いほど繁栄が多くもたらされ、供えられる罪人が少ない場合には、不足を補うために戦争の捕虜が犠牲になりました。ある者は矢で、ある者は杭で殺されました。また木と草で編んだ巨大な像のなかに人間や家畜を入れ、これに火をつけるという残酷なこともしました。この古代ケルト人が行なった供犠の儀礼は、近代のヨーロッバの夏至の祭りにその名残を留めているのです。こうした人間の供犠は、かっては世界中に見られましたが、西洋人によるキリスト教思想の普及によって終りをとげたといってもよいでしょう。
墳墓
弔という文字は、矢を弓につかえる形で、古代、葬は野原に捨てることであった。礼で、弓をはり矢をつがえて弔問するのは、鳥獣の害を除去するのである。(酉陽雑俎(ユウヨウザッソ)30巻)
人類はさまざまな方法で死者を葬ってきましたが、同じ国においても、時代の変遷のなかでそれが移り変わってくることがわかります。墳は士を高くもった墓を指し、墓は墓碑を立てるが、埋葬する遺骸は地下にある平なものを指します。
旧石器時代以来、最も広く行なわれているのが、穴を掘って遺体を埋める土葬です。埋葬にさいしては、遺体は樹皮、皮、藁に包んだり、木棺、土器棺、石棺に納めることが多いようです。墓室を地下に設け、上に墳丘を築く場合が一般的で、日本の古墳のように竪穴式石室で、墳丘を築き頂上から掘り下げて墓室を設けるのは珍しいといわれています。墓や外回りに巨石を用いた墓は、巨石墳と呼び、ヨーロッパ西部や、東アジア・インドにも似たものがあります。
殉葬の習慣
墓に死者だけでなく、人や家畜を埋葬する殉葬の習慣も世界中で多く見られます。古代エジプトの第一王朝の王墓には、女官275人、侍臣43人が殉葬されていました。イラクのウル王妃の墓には、入口に6人の男が、墓道には68人の女官が埋められていました。中国では殷の時代の墓に45人の殉葬者があり、それとは別に、埋葬にさいして200人以上の人が犠牲に捧げられています。ソヴィエトのスキタイにある墳墓には、22頭の馬が殉葬に捧げられていました。
墓地の位置
中国の墓地は「周礼」の説によれば、貴族から庶民まで公共の墓地が用意され、そこに埋葬されるようになっていました。しかし戦国末からは家族単位の墓地に分散するようになりました。個々の墓地の選定にあたっては、慎重に占われたようです。そしてのちに、墓地の位置と子孫の繁栄を結びつける風水説が生れました。前に水が流れ、後ろに山を控えた地形が理想とされました。
日本の墓
一般庶民の埋葬地は前代より河川敷や海浜などに設けられ、遺体は遺棄されていました。西暦842年には、京都の鴨河原にある頭骸5,500余を焼いたことが記録に残されています。850年の記録では、貴族の墳墓の上に卒塔婆が立てられたとあります。しかしこれは死者の魂をまつるためのものではありません。
平安中期になって、初めてまつるための卒塔婆が立てられたました。これ以後盛んになってきた浄土教と舎利信仰によって、人骨に人格を認める動きが出たからです。空也(900頃〜970頃)は鳥野辺に葬送された遺骸を集めて火葬に付し、南無阿弥陀仏と唱えました。さらに平安末期には、埋葬地に石製や木製の卒塔婆を立てることが一般的となりました。また火葬骨や爪髪を木製の五輪塔に納め、高野山の奥の院へ納める風習も生れました。何れにしろ石碑が全国的に普及したのは明治時代にはいってからのことです。
墓碑
墓碑は死者の名や没年、生前の業績等を記して墓に立てるもので、墓標は死者の埋葬場所を表示するものといわれています。死者を埋葬した上に石を置いたり立てたりすることは、旧石器時代以来見られ、埋葬地を明らかにするとともに、死者の霊を鎮めるために立てられたと考えられます。古代エジプトでは、第一王朝の王墓の名を記した墓碑を立て、ギリシャやエトルリアでは死者の像を浮き彫りにした大理石を立てています。中国では、後漢の時代から墓のかたわらに碑を立て、同じ頃に墓誌を墓のなかに納めることも始められました。唐代にはいってからは、墓塔が立てられるようになりました。日本では、「喪葬令」に「およそ墓は皆碑を立てよ。具官姓名之墓と記せと定められ、7世紀から9世紀にかけて墓碑が立てられました。
古代ギリシヤ・ローマの墓碑銘
墓碑銘は普通、墓石に刻まれた銘文を言います。古代ギリシャでは紀元前700年頃から、ローマでは前200年頃から作られ、詩文、散文の形で残された古代の墓碑銘は、ギリシャ語のものが数万編、ラテン語のものが数十万編残っているといわれています。ギリシャ語の碑銘は、個人の名前だけを記したもの、あるいは「誰それここに眠る」といった簡潔なものから、詩文の措辞や詩的連想が次第に顕著のものとなり、故人その人に呼びかけたり、故人の最後の言葉などが、碑銘に刻まれるようになりました。このような碑銘は社会のあらゆる階層のものがあり、また烏や犬などの動物の墓碑銘すら残っています。また古典期のアッティカの墓碑には、死者とともに生者の姿が一緒は刻まれているものがあります。生者と死者がともに語りあっている姿は、とても感動的です。
中国起源の墓誌
墓誌はもともと、中国の文章のジャンルの一つで、墓のなかに埋め、時代が移っても、墓の主が誰かわかるために書いたものです。普通、死者の伝記を書いた散文の序と、死者を記念する韻文の銘からなっています。刻される材料は、地中でも保存可能なようほ、石や金属が一般的です。南北朝時代(5、6世紀)、南朝では石の墓碑を禁じましたが、北朝では正方形の石に刻し、その上に石の蓋で覆うようになりました。墓誌は日本では7世紀から8世紀にかけて行なわれましたが、それ以後は見られなくなりました。古代の墓誌は現在16例が残されており、そのうち半分は奈良県で出土しています。
哀悼
服喪、あるいは哀悼のしるしとして髪を切ったり、体に色を塗ったり自分の体を傷つけるする習俗は決して珍しいものではありません。ユーラシアとポリネシアでは王侯や夫の死にさいし、臣下や妻が殉死の代用として髪を切ったり、欠歯をしたりします。日本でも646年の「薄葬の詔」に、殉死や死者のために髪を切り、股を刺して哀悼の意を表すことの禁止する文章がみられ、こうした習慣のあったことを示しています。ハワイ王国のカメハメハ二世の王母が死去したさいに、埋葬の2、3日後、多勢の酋長が舌に墨をするために集まりました。このとき王妃もみなと一緒に舌に入れ墨をしていました。丁度そこに居合わせた人が痛いかと聞くと、「とても痛いわ、でも、私の愛情のほうがもっと大きいの」と答えたといいます。肉体を傷付けることは、哀悼の表現として号泣よりもはるかに効果があるといえます。
死者を涙で弔う風習
「対島に泊まりで大いになき、築紫に至りてまた大いになく。難波に泊まりてみな素服を着て、ことごとく貢ぎ物を捧げ、また種々の楽器を整え、難波より京に至るまで、あるいはなきいさち、あるいは歌舞して、ついにもがり宮に参会した」(日本書紀)
これは允恭天皇が亡くなったときに、それを伝え聞いた新羅の王が、80人からなる弔使団を使わしたときの様子を記したものです。韓国の伝統習慣では葬送のさいに、全身を使って泣き、葬式をすませたあとには近親者はどっと疲れがで、悲しみを超越してしまうといいます。(『白の葬送』金両基より)
また韓国では卒哭祭というものがあります。それは死後3か月を過ぎたら、今迄随時に泣いていたのを止める祭りです。しかし朝、夕に霊前に御飯を供えて泣くことは続けられるそうです。
招魂儀礼としての泣き女
沖縄でも弔問に来た女性はみな泣くという風習がありました。墓に行く葬列では、部落内を通過するときには特に大声をあげて泣いたようです。しかしこの風習も村の話し合いで、殆ど見られなくなっています。日本では『古事記』の中に泣き女の記事が出てきます。死者の周辺で声を上げて泣く行為は、魂呼びと類似した死者蘇生の呪術と言われています。こうした風習も仏教の浸透とともに姿を消していき、泣き女を職業とする人も江戸時代の文書に残されていますが、それ以後殆ど失われたといってよいでしょう。
霊魂
霊魂は普通個人の肉体や精神活動をつかさどる独立した人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在とされています。古代ギリシャでは霊魂について、気息霊、陰影霊などの生霊の観念はもっていたものの、死後にそれが継続するとはっきり信じられていたわけではありません。古代ローマ人も霊魂は対する関心は薄く、それでも死者の祭りは行なわれ、5月には無名の幽霊を祭るレムリア祭が行なわれていました。ローマの哲学者キケロは、善人の魂は死後昇天するとしるしましたが、一般には魂は死後消滅すると考えられたようです。古代エジプト人は肉体に宿る霊魂の存在を信じており、死後肉体を離れた魂は、昼間は地下の世界や砂漠をさ迷い、夜や危険な時になると肉体は帰ってくると信じられていました。したがって彼らにとって、ミイラは必需品だったわけです。また王様の魂は天に上って行くと考えられましたが、庶民の魂も裁きによっては天国に行くことが可能でした。
未開人の霊魂観
ヒューロン・インディアンは、霊魂には頭も体も手足もあると考えていました。エスキモー人は霊魂は人間と同じ格好をしているが、もっと希薄な状態であると信じています。ヌートウカ・インディアンによれば、霊魂は小さな人間の格好をしており、それが脳天に座っていると考えられています。マレー人は、親指くらいの大きさで、容姿や体形は肉体とそっくりであると考えています。そして睡眠や病気などの場合一時的に、死んだときには永久に肉体から離れると考えています。ニアス島民は生れる前にどれだけの長さ、重さの霊魂が望みかを問われ、希望の大きさの霊魂が与えられるといいます。パンジャブ地方の人々は、生前その肉体を飾ったイレズミと同じ模様をつけて天に上ると信じられています。(金枝篇より)