仏の形

 

釈迦如来阿弥陀如来薬師如来大日如来阿閦如来他の菩薩と閻魔大王明王天部の神仏の印相仏の像阿弥陀仏像の変遷運慶快慶塼仏押出仏仏像仏像の種類仏像の時代別特徴
仏像 
如来(にょらい)/悟りを得た者、ブッダともいう。服は布きれ1枚。 
菩薩(ぼさつ)/修行中で、胸飾りなどを身に付けている。他者を救う「行 」をしているので、すぐ助けに行けるよう基本的に立ち姿で表され、瞑想には入らない。 
明王(みょうおう)/修行する者を煩悩から守る仏(真言宗だけに登場)。 
天部(てんぶ)/魔物から仏界、仏法を守る神。元ヒンズー教の神。 
仏たちの関係/如来(悟る)>菩薩(修行中)>明王(民衆を守る)>天部(仏界を守る)
仏像は本来、仏教を始めた釈迦を彫像に現わすものであったが、次第に教義が整備され、またバラモン教、ヒンズー教儒教、神道など各地の神々を包括して行くことによって、多の宗教に見られない程多くの仏像を造り出した。仏像の種類や区分は、教典により異なるが、造像された仏像としては主として、如来部、菩薩部、明王部、天部、羅漢部の五部に分けることができる。その姿は、教典や儀軌によって規定され、着衣(衲衣−のうえ等)、手の組み方(印相−いんぞう)、持ち物(持物−じもつ)、台座(だいざ)、光背(こうはい)、装飾具(宝冠−ほうかん、瓔珞−ようらく、釧−くしろ)等により、区別できる。  
 
如来と菩薩/如来は4種に大別でき、菩薩の種類は数え切れない。一体の如来像と二体の菩薩像で「三尊」と呼ばれる。
如来1(にょらい) 
通常、如来・菩薩・明王・天・羅漢をすべて仏像と呼ぶことが多いが、厳密には、悟りを開いた如来だけが仏、仏像である。この悟りを開いた者、真覚に到達した者、また覚者とも訳される如来は、自ら修業中の菩薩や仏法を守護する天とは区別されている。 
如来の多くは、如来形とよばれる相好、仏の三十二相八十種好と呼ばれる特徴を有していると言われ、彫刻もこれにならって造られているものが多い。すなわち、頭上に盛り上ったお椀のような肉髻(にっけい)、螺貝に似た髪、いわゆる螺髪(らほつ)、あるいは額上にあり光を放つという白い毛の白毫(びゃくごう)、胸前の卍字、手指間の水かきのような縵網相(まんもうそう)、足裏の千輻輪(せんぷくりん)などが一般にみられる。また体には、簡単な衲衣(のうえ)とよばれる法衣をまとい、装飾品は一切つけていない。手には薬師如来など特殊な如来を除いて何ももたず、印相(いんぞう)とよぶ手印(しゅいん)を結んでいる。 
ただし、五智如来の中尊であり、全宇宙を統括するとされる大日如来は、宝髻を高く結い、宝冠を頂き、瓔珞で身を飾っている。また、如来像に宝冠を載せる例としては、他に鎌倉時代に日本で造られた宝冠阿弥陀如来及び、インド中世期に造られた宝冠如来がある。 
こうした如来は、各時代に信仰され、造像されてきたが、その中で代表的な如来が、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・盧舎那(るしゃな)仏・弥勒仏である。
如来2 
如来とは梵語のtath´gata(タターガタ)の意訳であり、ほぼ仏陀の同義語として用いられる tath´ (そのように)とgata(来たれるもの) に於ける合成語と世界大百科事典等には記述されている。 
真理(如)を会得した世界からの来た者(人)、即ち覚りを開いた覚者、「正しく目覚めた人」のことを言い、如とは真理を覚得したことに通ずる。 
日本に於ける主な如来は実在した応身仏で「釈迦如来」に法身仏の「大日如来」「毘廬舎那如来」さらに報身仏の「阿弥陀如来」「薬師如来」に未来仏として「弥勒如来」や「阿閦如来」を含む密教仏群、即ち曼荼羅(金剛界・胎蔵)に画かれる如来群、胎蔵曼荼羅の五仏(宝幢如来 開敷華王如来 無量寿如来 天鼓雷音如来)と金剛界曼荼羅の五智(阿閦如来 宝生如来  無量寿如来 不空成就如来 )がある、これ等両部の如来群を五智如来と呼ぶ事があるが、金剛界は智を表しているが、胎藏界はその影響を受けた呼び方であり本来は五仏と呼称すべきであろう。 
阿弥陀如来が出現以前の錠光如来から世自在王如来までの53尊、また法華経に現される「多宝如来」 が挙げられる、但し歴史的に考察すれば大乗仏教の興りに伴い多くの如来群が生み出されるが、全ての如来は釈迦如来から派生した尊格である。 
仏身観・仏の三身  「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。 
十地経論・巻3に依れば三身説が言われ以下の様になる。 
法身仏とは 宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言える、毘盧舎那仏・大日如来を言い真理を擬人化した仏を言う。 
報身仏とは 菩薩が修行と善行の報いにより到達する姿を仏身で顕したもので阿弥陀如来・薬師如来などを言、概ね他土仏が範疇に入る。 
応身仏とは 衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行う如来で、釈迦如来を言い、釈尊は現在劫すなわち賢劫の自土仏である。 
原始仏教に於いては偶像崇拝は否定されており、仏像は大乗仏教の起こりから始まるが教義を大衆に受け入れさせる為には救いを具体的に表わす必要に迫られた事による、従って仏像は人々の宗教的要求をかなえた産物でもある。 
仏像の姿形として如来は大日如来を除いて上座部仏教と大乗仏教と同じ形で顕れているが菩薩・明王・天部は大乗仏教・密教の像であり豪華な姿の在家貴族の姿形が多い、上座部仏教に於いて菩薩に相当する像は阿羅漢であるが糞帰衣と言う粗末な衣装である。 
仏教は悠久の昔からの宇宙真理を釈迦牟尼が覚ったものであり(宇宙他全てを創造したのは梵天)「多仏思想」即ち過去にも同じ覚りを開いた人物が存在したとする考察が行われた、これは法句経「七仏通誡偈」(諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう))大般涅槃経の教えから言われている。 
・毘婆尸仏(びばしぶつ) vip´syin ヴイオアシュイン 荘厳劫の仏(過去の劫) 
・尸棄仏(しきぶつ) oikhin シキン 荘厳劫の仏 
・毘舎浮仏(びしゃふぶつ) vi⇒vabhu ブイシュアブー 荘厳劫の仏 
・拘留孫仏(くるそんぶつ) krakucchanda クラクッチャンダ 賢劫の仏(現在の劫) 
・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ) kanakamuni カナカニム 賢劫の仏 
・迦葉仏(かしょうぶつ) k´⇒yapa カーシュヤパ 賢劫の仏 までの六仏に釈迦牟尼仏(kyamuni)を加えて「過去七仏」と言われる、七仏の七はインドに於ける古代神話の七仙に由来しておりジャイナ教にも同様の哲学がある。 
また同じ前述の過去仏に 錠光如来と言う如来がある、梵語名dipankara(ディーバンカラ)燃燈如来・定光如来等とも呼ばれる、無限劫の過去仏で前世の釈迦すなわち薔薇門僧の浄幢菩薩を現世で覚者になると予言した。 
燃燈仏は無限劫の過去仏に最初に出現した覚者で、錠光如来(燃燈仏)から53番目に「世自在王如来」が顕れその弟子が阿弥陀如来と言う。 
世自在王如来の弟子となった法蔵菩薩は師から210億の仏の世界を示され五劫の間思惟した後に阿弥陀如来となった。 
又過去仏が作り出されると共に未来仏も考え出された、釈迦如来の後継者を仏嗣(ぶっし)と言い弥勒菩薩(仏嗣弥勒)である、現在、兜率天(とそつてん)において修行中であり五十六億七千万年後に弥勒仏(如来)と成ってこの世に現れると言う。 
時代と共に信仰された如来には変遷がある、日本に於いては主に釈迦如来が請来されてから薬師如来に移り阿弥陀如来となるが、中国に於いては北魏の時代に釈迦の後継者と考えられた弥勒が信仰を集めたが唐の時代に阿弥陀信仰に移る、弥勒信仰は各地で阿弥陀信仰に時の経過と共に凌駕される、原因としては釈迦は自土仏であり、弥勒も実在した可能性があり下生して自土仏となる、自土仏は元来は普通の人間であり他土仏(阿弥陀・観音)よりも荘厳さを体感しにくい為との説がある、また釈迦は理智・哲学の仏で馴染み難くサルベージが理解が難解なのに対して弥勒は中間にあり、阿弥陀や薬師は御利益の仏で救済がダイレクトである、また弥勒の場合は長い時間軸にあり待てる余裕はないが、阿弥陀如来は空間軸にある為に来迎にはワープ(warp)するのか、時間と距離を超越してリアルタイムに現れる為であろう、阿弥陀如来の場合は奈良時代頃から浄土に於いて説法していたが、平安時代頃に観想するに適した定印を結ぶ姿になり、鎌倉時代には浄土信仰の興隆に合わせ来迎印を結ぶ、さらに立像になり来迎はスピードアップするが、後に阿弥陀信仰は尊像の重要視が薄れて六字名号や十字名号の時代になる。 
日本仏教の弥勒崇拝は仏教圏に於いては少数派で現世利益の薬師信仰や観音信仰や地蔵信仰の方が盛んであった、因みに弥勒が釈迦の後継者との解釈に付いて、弥勒の場合は前述の釈尊を含む過去七仏と同様に覚者となる56億7千万年後の仏であり仏教の本質から疑問が残る。   
注1、如来の呼称には多くの呼び名があるこれを如来十号と言う。 
1  如来 覚りを開いた人 真理の体表者 
2  応供(おうぐ) 供応を受ける適格者 阿羅漢 
3  正等覚(しょうとうがく)または正遍知 如来供応正等覚者とも言い正しい覚りを開いた人 
4  明行足(みょうぎょうそく) 明は智慧 行は、おこないを言い明行を兼ね備えた人 
5  善逝(ぜんぜい) 迷いを断ち切り静寂心を会得した人 
6  世間解(せけんげ) 世間の事の理解者 
7  無上仕(むじょうし) 最も秀でた人 
8  調御丈夫(ちょうごじょうぶ) 指導救済者 
9  天人師(てんにんし) 天界人と人間を導く 
10世尊(せそん) 尊敬に値する、釈迦牟尼世尊の略 bhagavat(バガヴァット) 
菩薩(ぼさつ) 
菩提薩(ぼだいさった)を略して菩薩とよんでいる。自らも悟りを求めて修業に励み、かたわら一般衆生の教化にあたり、如来の功徳を与えるという尊である。ふつうこのことを「上求菩提下化衆生」の言葉で説明する。したがって如来ではあっても、修業中の釈迦などは、釈迦牟尼菩薩(しゃかむにぼさつ)とよばれる。.その姿は、古代インドの貴族の姿をかたどったものといわれ、如来とは異なった形で造像されている。螺髪や肉髪のある如来に対して、菩薩の頭部は高い髪に宝冠を頂く。着衣は天衣(てんね)をまとい、腰部には裳(も)、裙(くん)を着けるのが普通である。また身には装身具をつける。耳の耳(じとう)や胸の瓔珞(ようらく)、腕や臂あるいは足首の釧、腕釧、足釧などがこれである。さらに印相は結ばず、蓮華(れんげ)や水瓶(すいびよう)、剣などを持つ。これにも例外があり、地蔵菩薩は、頭髪を剃り頭を丸めた、いわゆる円頂の比丘形で、袈裟を着けた姿に表わされる。また、弥勒菩薩は、如来と菩薩の両方の姿で表わされるが、これは弥勒が釈迦の次にこの世に下生してくる仏であり、現在は兜率天において、菩薩の姿でこの世をいかに救うかを思案しているといわれ、その姿を表わす半跏思惟像も多く造られている。 
わが国の菩薩像の造像は飛鳥時代から始まるが、これには如来の本誓を実行するための補処の菩薩、如来の脇侍像の場合と、菩薩そのものを信仰の対象として、単独または眷属(けんぞく)とともに造像された場合とがある。阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の三尊形式は前者であり、千手観音と二十八部衆などは後者の例である。こうした菩薩の中で、その代表的な菩薩が、観音・勢至・弥勒・文殊・普賢・虚空蔵・地蔵菩薩などである。  
釈迦如来

 

悟りを開かせてくれる。本名ゴーダマ・シッダールダ、BC500年ごろインド北部の釈迦国に生まれた王子。29才で王位の継承を放棄して出家、35才で悟り、80才で死ぬまで説法を続けた。座像は人々を救う方法を考える姿、立像は人々を救おうと立ち上がった姿。 
* 釈迦如来の印相(手の形) 施無畏印(せむいいん)/右手の平をかざして説法する。禅定印(ぜんじょういん)/両手をヘソの前で重ね座禅をする、釈迦が菩提樹の下で悟りを得た時に結んでいた手の形。 
* 釈迦如来の脇侍(左右にいる仏) 文殊菩薩と普賢菩薩。 
文殊菩薩/智恵の仏。釈迦の実在の弟子で高名な賢者。獅子に乗っている、如来となり仏界の南方を治めた。剣を持つことがあるが、智恵が切れることを表している。 
文殊菩薩もまた、釈迦の脇侍として普賢菩薩とともに造像されるが、古い像としては、法隆寺五重塔の維摩居士(ゆいまこじ)と問答をする像(711)などがある。平安時代に入るとこの菩薩は、釈迦から離れて単独の信仰を集め、その種類も増える。記録によれば、最澄が稚児(ちご)文殊を請来(しょうらい)したほか、文殊の霊地とされる中国五台山を巡礼した入唐僧円仁(えんにん)は、比叡山に文殊楼の建立を秦し、円仁遷化(せんげ)後に完成した文殊楼には、七尊形式の五台山文殊が安置された。また文殊菩薩は、戒律を守る修業僧の仏として伽藍の食堂(じきどう)などに安置される。この場合の文殊は、老僧の姿で表され、僧形文殊とよばれている。京都教王護国寺像や法金剛院像などがあり、いずれも平安時代の像である。文殊菩薩が知恵の仏として一般の信仰にまで広がるのは、平安時代末ごろから鎌倉時代にかけてである。このころには、五台山文殊の系統にある渡海文殊(高知竹林寺像、鎌倉時代)などが流行した。また五髻(ごけい)、八髻文殊なども造像され、中村庸一郎氏蔵像(1285)や中宮寺紙造文殊像(1269)などが名高い。いずれもこれらは若々しい像として造られている。  
普賢菩薩/慈悲の仏。行動的な菩薩で至る所に現れる。女人往生を説いたので女性の信仰を集めた。普賢の意味は「普遍の教え」。如来となり仏界の北方を治め た。白象に乗っている。 
普賢菩薩は、文殊とともに釈迦の脇侍として造像されることが多い。しかし飛鳥から奈良時代までの遺品としては、法隆寺金堂壁画にみられるだけである。単独の信仰対象が生れるのは、平安時代、十世紀ごろであるが造像例は少い。平安時代末ごろの像として東京大倉集古館像や京都岩船寺像などがみられる。またこの尊には、天皇の守護仏としての信仰もあり、二十臂の多臂像、普賢延命菩薩が造像されている。大分大山寺像(平安時代中期)や佐賀竜田寺像(1326)などが代表的である。 
釈迦如来1 
仏教を開いた釈迦の像は、欽明天皇七年(538)に仏教伝来とともにわが国へ伝えられた。遺品としては、最も古い奈良飛鳥寺釈迦如来像(605)をはじめ、法隆寺金堂釈迦三尊像(623)、東京博物館蔵法隆寺献納宝物の戊子(ぼし)年銘釈迦および脇侍(わきじ)像(628)、同摩耶夫人(まやふじん)並びに采女(うねめ)像などの飛鳥仏がある。さらに白鳳時代の像としては、京都蟹満寺像、献納宝物甲寅(こういん)年銘光背(654)などがあり、菩提追福の像が多い。奈良時代の像としては、奈良東大寺誕生仏、滋賀善水寺誕生仏、法隆寺五重塔涅槃(ねはん)像(711)など多種にわたり、すぐれた像が多い。平安時代の像としては兵庫円教寺像などがあるが、注目される像は、然(ちょうねん)が中国より請来した清凉寺釈迦如来像(北宋、985)である。この像は次の時代、南都旧仏教を中心とした復古主義により、最も釈迦信仰の盛んとなった鎌倉時代に、三国伝来の瑞像として模刻が流行し、清凉寺式釈迦とよばれた。西大寺の叡尊(えいそん)が仏師らを率いて清凉寺へ出向き、この像を模刻させたことなどが、そうした事情を物語っている。清凉寺式釈迦像としては、東京大円寺像(1258)、奈良西大寺像(1249)、唐招提寺像(1258)など、全国に残されている。  
釈迦如来2 
梵語名 l´kyamuni(シャーキャムニ)の音訳で、l´kya族のmuni(聖者)であり正確には釈迦牟尼世尊と言いうが仏教学面から釈尊と呼び世尊とも言われる、人種的には諸説がありモンゴル系かアーリヤ系の何れかで現在のネパール領内のクシャトリア(注13参照)出身とされる、没年はBC483年、BC383年、BC543年等諸説が交錯する、因みに牟尼(むに)とは「寂黙の聖者」すなわち修行をする聖者に対する尊称である。 
釈迦如来は仏教の初祖であり地域や時代を超えて総ての宗派に於いて信仰を集める存在である、シャカムニ・釈迦族の聖者を意味し唯一実在が確実視される如来であるが、史書なきインド(注11参照)と言われる古代以来よりインド国民の行動様式の特殊性から正確な時期は定かではないが上記の紀元前4〜5世紀と考えられる、釈尊の生涯に於ける行動に付いては、この時代の資料は存在せずバーリ語(p´li)の正典より引用されたものとされている、さらに正典の出自も定かではない,様々に言われているが釈尊はデフォルメされた伝承に満ちているようだ、これは仏教に限らない、総ての宗教に言える事で初期のキリスト教に於いて強い勢力であったアリウス派では「イエスは神ではなく預言者」としている。 
釈迦の伝承では「四門出遊(しもん-しゅつゆう)」等が著名で東門にて老人を見て老いの苦しみを知り、南門に於いて病人を見て病苦を知る、さらに西門では死の苦しみを知り北門で崇高な僧を見て出家を決断する等が伝えられている。 
実在の釈迦如来は釈梼牟尼すなわちGotama(ゴーダマ)釈梼族の聖者や最高の牛を意味し、釈梼牟尼世尊とも呼ばれるが通常は略称で釈尊と呼ばれている。 
Kapilavastu(カピラバストゥ)国の王luddhodana(シュッドーダナ、浄飯王)の子で名前は悉達多・Siddh´rtha(シッダルタ)と言う,但し前述のように人種系としてアーリヤ系かモンゴル系か定かではない、ただし悉達多時代に記述は「中阿含経・柔軟経(にゅうなんきょう)」には出家する以前に父親の悦頭檀王から与えられた環境が著されている、因みにシッタルタ(悉達多)は成就させる意味合いがあるとされる。 
この時代中央アジアからインドに侵攻し支配したアーリア人の興したバラモン教が硬直化し、支配層に対するアンチテーゼ(Antithese)から改革運動が盛んであったと推察される、釈尊は群雄割拠した宗教革命推進指導者の独りであったと考えられる。 
釈迦は出家の際に妻と子供(後の十大弟子の一人R´hula)を残してマガダ国に行き沙門生活を送る、6年後35歳で覚りを開き仏陀となる、45年間の布教活動の後80歳で逝去したとされるが、没年は定かでなくBC383年〜543年説など様々である。 
釈迦の四大聖地と呼ばれる場所に 
1、生誕の処をルンビニ  
2、成道の処をブッダガヤ  
3、初転法輪の処をサールナート  
4、涅槃の処をクシナガラが挙げられ他に 
・祇樹(ぎじゅ)給(ぎつ)孤独(こどく)園精舎すなわち祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)(サヘート・マヘート) 
・竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)(ラージギール) 
・広巌城(ヴエイーサーリー)等も聖地とされている。 
菩提すなわち覚りを得て覚者となった釈尊は鹿野苑、菩提樹の下で比丘時代の仲間5名(五比丘)を相手に初説法を行う、次いで釈迦の十大弟子には入れられていないが、当時の宗教界の巨匠・迦葉兄弟(十大弟子の大迦葉とは別人で三迦葉と言う)の率いる大教団ゾロアスター教団や舎利弗及び目連の学派も傘下に入り1250人の弟子を有したと言う、この教団に貴賎の差別は存在しなかったが弟子達のカーストはバラモン・クシャトリア(注13)で多く占められ財政的に恵まれた人材が多く祇園精舎・竹林精舎等の寄進は活発と言えた、ちなみに祇園精舎(正式には祇樹給孤独園精舎)の寄進者は十大弟子の一人須菩提の伯父須達長者である。 
成道の後数年後に故郷に帰り阿難・優波離・息子の羅睺羅(らごら)など十大弟子のメンバーを含め500人の弟子を獲得したと言う。 
釈尊は29歳で出家し35歳で如来となり80歳で無余涅槃(むよねはん)即ち永遠の覚りに就いたとされる、故郷へ向かう途中に食中毒で倒れクシナガラで沙羅双樹の間に横たわり生涯を終えた。 
遺体は荼毘にされた、仏舎利は後に各地のストゥーパに分散して祀られたと言う、しかし1898年ビブラワー遺跡から英国人(ウイリアム・ペッペ)に依り発見された舎利は容器の銘文から釈迦の遺骨説(注6参照)が決定的である、因みにビブラワーとは釈尊が出家以前に過ごしたカピラ城のあった処でインドとネパールの国境付近を言う。 
仏滅後に仏陀の遺言を纏める会議即ち合誦(ごうじゅ)が行はれ、第一回は500人の結集でラージャグリハ郊外の七葉窟で行われた他、インドに於いて4度開かれたと言う、さらに仏滅後200年頃はマウリア朝のアショカ王の元で千人結集、更に入滅後500年にクシャン朝のカニシュカ王の元で500人結集が行はれて経・律・論の論議がなされ経典作成が行われたとされる。 
釈迦の仏教の根幹は中道と言える、四諦とそれに伴う八正道 (釈迦の教え)・十二因縁(注7)であろう、中道とは梵語でmadhyam´ pratipad(マドヤマー・プラティパド)と言い苦行と欲楽に偏らず八正道を行う事で覚りを完成させる事であるが、有無・断常・一異に極度の対立概念を止めることにある、竜樹は「中論」に於いて縁起と空を中道とした。 
仏教の教祖である釈迦と他の世界宗教の教祖との相違を挙げると釈迦は悠久からの真理の覚りであり、神からの啓示や天使の取次ぎから成立した宗教ではない。 
要するに初期の仏教は神に対してサルベージを求めるキリスト教やイスラム教と違い自らを切り開く哲学である、涅槃経に言う絶対不変は存在せず仮の姿であり滅びる、真理(仏法)を求めよと言う。 
釈迦如来の死後暫く造像は禁止されたが後世になり「仏足跡」や釈梼の説いた法を車輪にたとえた「法輪」を崇拝する時代を経て、いろいろな釈迦像が制作された、釈迦の教義は大衆の心の悩みを解決する事にあって、バラモンの持つ加持祈祷・儀式至上主義や階級制度の否定にあるが後に大乗仏教の興隆で釈迦の仏教とは異質な教義となる。 
釈迦の教団では僧の階級はカーストによる出目とは無関係で、出家後の年数で決められたとされる。 
外形的な行為では成就出来ないとして自己の内面から行う変革が求められた、その基本となる教義が四諦・八正道や十二因縁(注7)などとされる。 
最初の説法はMngad´va(鹿野苑ムリガダーバ)で5人の比丘(びく)に対して行われた、マガダ国の王舎城とコーサラ国のシュラーバスの舎衛城・梢園精舎・竹林精舎を中心に45年教化活動しKu⇒inagara(クシナガラ) に於いて沙羅双樹の下で入滅した、弟子たちは悲しみの中で釈尊の伝導使命が終わる「化縁(けえん)完了」による「任意捨命(しゃみょう)」と考えたと言う、因みに捨命とは 覚りのために命を捨てる。 
日本に於ける釈迦如来像は、日本書紀に拠れば仏教公伝即ち538年百済の聖明王から金銅釈梼像が請来したとされる、国内では遺品は多く存在するが飛鳥寺・法隆寺等の本尊が飛鳥時代の作とされる、釈迦如来像は独尊で造像される事が多いが、大乗仏教の興隆と共に下化衆生に努める菩薩が必要となり、脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩を従えたり十大弟子や八部衆の眷属を従える場合がある。 
また法隆寺本堂の釈迦三尊像と興福寺中金堂は薬王菩薩・薬上菩薩を脇侍としている、これらの多くは偏袒右肩で施無畏・与願印や説法印を結び結跏趺坐するが、平安時代以後は室生寺・清凉寺(優填王思慕像)に代表される立像も現れる、但し禅宗系寺院では法界定印の像が多く安置されている。施無畏、与願像の源流は伝承ではブッダが麻耶夫人の説法に天に出掛けたまま帰らない為にカウシャンビー国のウダヤナ(優填王)が牛頭栴檀(ごすせんだん)で刻んだ釈迦像とされ仏像発生の起源とされる伝承像である、その模刻像を東大寺の僧・「然(ちょうねん)が持ち帰り清凉寺に安置され更にその模刻像は日本に於いて100尊を超える(注10)。 
玄奘の「大唐西域記」に拠れば、この釈迦如来像を見ており模刻像を持ち帰り、それを「然が更に模刻したとされている。 
釈迦が興した仏教には大別して二つの流れがあり上座部(小乗)の応身仏としての釈迦如来と法華経などにより神格化された久遠実情(注12)すなわち大乗の釈迦如来とがある、この神格化は転輪聖王(てんりんじょうおう)をイメージしたとされる、転輪聖王とは転輪王とも言い古代インドの伝説上の英雄神である、転輪聖王は理想的かつ完璧な王としての充分条件を備えている。 
「法華経11章・見宝塔品」を源流とした文化財には南無妙法蓮華経の墨書に多宝如来と併坐して描かれた書や長谷寺の国宝「法華説法図」(千仏多宝塔板)などがある、二仏併坐の代表例として鑑真と共に請来伝承を持ち、創建時の東大寺戒壇院に置かれたとされる像があり奈良国立博物館(銅像 釈迦如来25,0cm、多宝如来24,2cm)に寄託されている、なお模刻像は現在戒壇院に安置されている。(多宝如来は三尊様式と他の如来‐古寺散策 の13参照)  
釈尊を仏陀(覚者)すなわちbuddha(ブッダ)とも呼ぶが、中国に於いて「浮図・ふと」と音訳され、日本に伝わり「ほと」に変わり末尾に「け」が加わり「ほとけ」になったと言われる、また仏(ぶつ)もbuddhaからdhaが抜けたと言われている(高崎直道著より、仏教入門、東大出版会)。 
大乗仏教の興りに伴い多くの如来群が派生するが、歴史的に観れば全ての如来は釈迦如来から派生した尊格である、姿形として持物や冠等の装飾品を身に着けず坐像・立像に誕生仏・苦行像・降魔成道・涅槃像(注9)が作られたが、日本では大乗仏教による久遠実状の釈迦が信仰された為に修行中の像は極めて少なく、成道後の姿を表す施無畏(不安の除去)・与願(願いの成就)印が多い、これを通仏相(つうゆうそう)と呼ばれ平安初期以前の薬師如来もこの形をとる、また釈迦の五印と言われる印相に定印・降魔印・施無畏印・与願印・説法印(転法輪)が言われる。 
誕生仏等も少なく説法中の指定文化財は転法輪像などでも二例のみである、また前述の法界定印像を持つ禅宗系寺院に於いては左指が上の定印を結ぶ釈迦如来像が存在する(法界定印は右指上が多い)。 
日本に於いては施無畏、与願像が大部分を占めるが、インド等では誕生仏、初転法輪、千仏化現、三道宝階降下、説法印像、苦行像、降魔成道図、涅槃図など釈迦八相像と言い多様に作られている、宝冠仏も多く造像され8〜12世紀インドに於ける最後の仏教美術を生んだとされるパーラ朝の作品が残されている、代表作にボストン美術館所蔵の宝冠をいただき瓔珞(ようらく)を着けた釈迦八相像がある、転法輪印は日本では希少であるがインドに於いては転法輪如来として、エローラ10窟、バルコニー・ニューデリー国立博物館などにあり、金剛頂経に於ける大日如来の結ぶ智拳印の源と言われている。 
釈迦如来を初めとして如来像は坐像と立像があるが金堂に本尊として安置された像が坐像で結跏趺坐をしている、一方釈迦の説法をしながらの遊行姿を基本とするのが立像であり、薬師如来など他の如来にも踏襲されている。 
日本の釈迦三尊は普賢菩薩 ・文殊菩薩を脇侍とする例が多いが、他国に於いては敦煌壁画があるが日本独自の配置に近く、中国などは釈迦の眷属として十大弟子の阿難陀・大迦葉を従えている三尊像が多く存在している、又当時生前の釈迦の身長は八尺との伝承もあり、八尺や丈六の像が常識的あるのに対して法隆寺金堂の釈迦は87,5cmと同時代の像と比較して小さい、また脇侍に薬上菩薩・薬王菩薩を従えている、この様式は文化財指定では法隆寺以外に現存例は無く薬王薬上二菩薩経に拠れば主尊は薬師如来とした方が説得力に於いて優るのではないかと思はれる。 
この釈迦如来の源流と言える像は雲崗第十六窟の如来立像や龍門石窟賓陽中洞の本尊等著名な石窟寺院(注14)に見ることが出来る。 
この像の背面に推古三〇年の造像銘が刻まれている中に聖徳太子と妃の病平癒を願ってとあるようだがこの像を作った止利仏師は薬師如来の制作を目指していたが、制作中に太子夫妻が死亡したので名称変更したのではないか。 
法隆寺は阿弥陀如来と思しき尊像を阿?如来とする等一時期密教化した時代があり、その名残が感じられるが密教に於ける釈迦如来の影響力は比較的低い、大日如来を唯一の「普門総徳の尊」(注17)とするのに対して、変化尊か実動部隊的な処遇の「一門別徳の尊」でしかない、曼茶羅には胎蔵界曼荼羅の釈迦院があるが文殊院や虚空蔵院と同程度の空間しか与えられていない、また金剛界曼荼羅には存在しない、東寺では不空成就如来(金剛界・成身会の北尊)を釈迦と同尊と解釈しているがその根拠は明確ではない、また密号では不空成就如来は成就金剛・悉地(しつじ)金剛であり釈尊の寂静(じゃくじょう)金剛とは相違がある、但し小峰彌彦氏(曼荼羅の見方・大法輪閣)に依れば金剛界曼荼羅を感得した金剛界如来の菩薩時代の呼称がが「一切義成就如来」と言い梵語では釈尊の成道前の名・シッダールダを同じ意味を持つ名と言われる(一切義成就如来の梵語名・sarv´ra⇒idhi  サルバアルタシッデイ アルタ=義 シッデイ=成就で シッデイとアルタをシッダールタとなる)。 
釈迦如来は密教名すなわち密号を寂静金剛と言う、密号とは密教に於ける結縁灌頂に使用される呼称を言い金剛号・灌頂号等と呼ばれる、因みに悉地(しつじ)とは梵語Siddhiの音訳で真言の秘法を成就した悟りの境地を言う。 
釈迦如来の特徴として浄土を持たない、全ての如来・菩薩などが自身の浄土を持つのに対して、実在した覚者である釈尊は自土仏であり娑婆すなわち五濁悪世(ごじょくあくせい)の穢土(えど)に留まり衆生の救済(悲華経)に努めるためとされる。 
また異形として宝冠・瓔珞(ようらく)などをつけた釈迦如来は宝冠釈迦如来と言う、埼玉県(金剛院・金錫寺)・鎌倉の円覚寺や建長寺 ・京都の東福寺(三門二階) ・安国寺などに数点存在する、円覚寺などは創建時は盧舎那仏であった様であるが、華厳経に記述される盧舎那仏と釈迦如来の同尊とされる拠り所からきている、この形態は禅宗系寺院に観られる。 
2001年1月現在、我が国に国宝七尊を含む122尊の重要文化財指定の尊像が存在する、像の主な分布として奈良県28尊(18箇所)京都府23尊滋賀県16尊となる。 
また絵画に於いても阿弥陀如来画に次いで多く指定されており国宝2点、神護寺・釈迦如来像・京都国立博物館の釈迦金棺出現図・金剛峯寺の仏涅槃図を含む45点が文化財指定されている。 
但し仏涅槃図19点を加えると(国宝・金剛峯寺)阿弥陀如来図より多くなる。 
多くの人々に知られ宗派に関らず釈尊に関する祭会には、4月8日の花祭りは日本に於いては釈尊の誕生日としておりこれを「降誕会(ごうたんえ)」と言う、また入滅の日を「涅槃会」と言い2月15日に定めている、また覚者となった日を「成道会」と言い12月8日としている,因みに成仏道会の採用は道元による曹洞宗が嚆矢とされる。 
真言 ノウマクサンマンダ ボダナンバク 
注1 釈迦の生涯を八段階の事蹟に分けて八相成道と言う。下天・託胎・誕生・出家・降魔・成道・転法輪・涅槃(インドではこれらの像が制作された。)(釈迦本来は教えの中で(上座部)は与願・加持祈祷などは否定していた)これらは仏伝の釈迦とされるが日本では施無畏・与願印を結ぶ久遠実状の釈迦が大半を占める。例外的に深大寺の倚像・観心寺の半跏像・願興寺の転法輪像が存在するが中国などでは多様な像が多い。 
転法輪とは仏の説法を言い、教義即ち法の輪宝を転がす事を言う、ちなみに大法螺も本来は転法輪と意味を同じくする。    
注2 釈迦五印 釈迦の示す基本印で施無畏印(指を上に手のひらを見せる)・与願印(指を下に手の平を受けるか見せる)・定印・降魔印(手の甲を下に人差し指を下に向ける)・説法印(転法輪とも呼ばれ・両手を胸の前に置き手首を捻る印、鹿野園に於いて初説法を行った印相)がある。 
注3 応身仏とは衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行い、釈迦如来をさす、因みに注3〜注5を「仏の三身」と言う,仏の三身とは 「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。 
注4 報身仏とは修行の結果成道し永遠の仏となる、阿弥陀如来・薬師如来などを言う。 
注5 法身仏とは宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言え、毘盧舎那仏・大日如来を言う。 
注6 仏舎利  1898年インド北部のピプラワーの遺跡からウイリアム・ペッペと言う英国人に依り発見された舎利は容器の古代文字銘文から、釈迦如来の遺骨と認定され後にタイ国(シャム)に渡り、 1900年タイ国のチュラロンコン国王(ラマ五世)から贈呈され名古屋市の覚王山・日泰寺の奉安塔(舎利塔)に安置されている、奉安塔の設計は当時の伊東忠太東大教授の手による、銘文には「釈迦族の聖者を祠る」と言う意味であったと言う。 
山号の覚王山は覚者の王、即ち釈迦如来を意味しておりタイ国の関連から日泰寺とされた、日泰寺は日本に於ける十三宗五十六派が共同で受け入れ現在十九宗で三年毎に住職を勤めている。本来仏舎利を納める卒塔婆すなわち塔は、インドに於いては古来から二種類が存在している、1、釈尊の遺骨を収納する「真身舎利塔」と経典を法舎利として供養する「法身舎利塔」とがある、但し真身舎利には量的に限度がある為に宝石、香木、等で代用された。 
注7 とうじ因縁(じゅうにいんねん)   過去・現在・未来の三世の輪廻を示す因果を言い、十二縁起とも言われる釈迦が覚ったとされる因果法則で、無明(むみょう)から老死に至るまでの順観すなわち苦悩を滅ぼす為の条件を系列化・四諦からの解脱方法を言う。 1、無明  2、行(ぎょう)(以上過去の因)  3、識(しき)  4、名色(みょうしき)  5、六処  6、触(そく)  7、受(以上現在の果)  8、愛  9、取  10、有(う)(以上現在の因)  11、生(しょう)  12、老死(以上未来の果) 
釈迦はバラモン・ヒンズーの言う有我説に対して無我を主張した、根拠は十二因縁(十二支縁起)であり、無明すなわち生・老・死の連続を唱えており、自我を否定している。 
これら原始仏教で説かれる十二支縁起を「業感縁起」と言い、大乗仏教の瑜伽行唯識派の言う「阿頼耶識縁起」如来蔵思想の「如来蔵縁起」華厳宗の言う「法界縁起」とで四種縁起とされている。 
注8 如来には如来十号と言い多くの呼称がある、如来 応供(おうぐ)正等覚(しょうとうかく)  明行足(みょうぎょうそく)善逝(ぜんぜい)世間解 無上仕(むじょうし) 調御丈夫(ちょうごじょうぶ) 天人師 世尊などを言い、詳細は仏像編注3、を参照願います。 
注9 釈迦如来は施無畏・与願印が多いが釈迦五印と言い説法印・禅宗系に多い定印・降魔印が加わる、定印釈迦如来の重文指定に法隆寺・清凉寺・慈眼寺などに約十尊存在する。(いずれも坐像)また説法印(転法輪)は極楽寺(鎌倉)坐像・願興寺(岐阜県・御嵩町)が重文指定であり、願興寺の場合は逆転法輪であり法華経を説いているとされる。 
注10 清凉寺式の像は優填王思慕像(うてんおうしぼぞう)とも言い、伝説上の信仰対象として「瑞像(ずいぞう)」の範疇に属し仏像製作の起源との説もある、また瑞像は模刻が繰り返され清凉寺(注3、参照)の像も「然請来の模刻像である、また教王護国寺の毘沙門天も瑞像と言われる。清凉寺の釈迦如来は伝説上仏像製作の起源と成った像の模刻である。 
因みに牛頭栴檀(ごすせんだん)とは牛頭山に於いて採取された香木を言う。   
注11 史書なきインド  インド哲学は古来よりエジプトと並び最高峰にあるが,劫単位の長いスパンで時間を計るエトスと輪廻転生の信仰から歴史に学ぶ中国とは対照的に、歴史的に考察する思想が育つ事は困難であった。 
注12 久遠実成の釈迦  Mngad´va (鹿野苑ムリガダーバ)で初説法した実在の釈迦ではなく法華経を論拠とし方便を駆使し神格化された釈迦で、本来の姿(本地)を具体的(迹)な姿すなわち釈迦如来を言う,表現を変えれば宇宙の真理を実在した事のある釈迦如来に投影(変換)された。 
即ち法華経如来寿量品第十六に説かれており久遠の過去に釈尊は覚りを得ており実在の釈迦如来は仮の姿と言う。 
注13 カースト ラテン語の castus(カストウス)が語源であり純血、血統を意味する、BC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない。 
インドに於いてはカーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。 
釈迦はカーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、仏教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活し現在にも生きている。 
基本的には四階級と言われるが、事実上は五階級に分類され、さらに夫々が細かく分類される。 
1 ブラーフマナ・バラモン(婆羅門)司祭と訳され聖職に付き式典の祭主を勤める。 
2 クシャトリアと呼ばれ王族・貴族・武士などを指す。 
3 ビアイシャと言い平民を指す。 
4 シュードラと言い賎民を言い卑しいとされる職業に就く。 
5 アチュートと言いカーストの枠内に入れない不可蝕賎民で職業に就く事も出来ない階層を言い、約一億人に上ると言う。 
注14 石窟寺院 山は精霊の住む場所であり、そこに彫られた石窟はガルバ(子宮)と呼ばれ戒律を遵守し石窟瞑想の世界に於いて覚りを目指す格好の場所である、石窟寺院は人里から隔離されているが交通の要路近くに彫られており、水・寒暖に優しいところが選ばれている、代表的な石窟寺院にインドではアジャンター・エローラ・アフガンのバーミヤン・中国の敦煌・雲崗・龍門・朝鮮の石窟庵等が挙げられる。 
注15 釈迦在世当寺の教団内に於ける呼び名について文学博士・田上太秀氏に拠れば釈迦も阿羅漢(アルハット arhat)と呼ばれたとされ、また釈迦も弟子の内でも優れた人には阿羅漢と呼んだという、また優れた弟子達には仏陀(buddha)とも呼んだと言う、しかし仏滅後は神格化が進行し釈迦を阿羅漢、弟子を仏陀とは呼ばれなくなったとされる。 
注16 末法思想と三時観  中国の僧で天台智(ちぎ)の師である、慧思の歴史観でもある、三時思想とも言い阿含経に拠れば釈迦如来の入滅後に弥勒仏の現れるまでの空白期間を示す正法・像法・末法を言う、当初は正法・像法が言われたが六世紀頃にインドで三時観となる、釈尊入滅後に於ける仏教流布期間を三期間の分類したもので正法は釈尊の教えが正しく伝わり、像法に於いてはやや形骸化するが教えの形は守られる、末法に到り経典は残るが漸衰滅亡すると言う。個々の期間は五百年・千年など諸説があるがしだいに千年説が広がる、これは中国に仏教が伝来時には末法にならない為に調整したとも考えられる、また一時観を千年とした根拠は、中国に於いては釈尊の生誕はBC948年としている、これは孔子よりも先に生誕した様に記録したかったとされる、三時観は日本に伝わり最澄が重要視し「守護国界章」を著している。 
仏法とは・証・行・教を言い正法とは三時が揃う事を言い、像法は証が失われ、末法は証と行が失われ教のみが残る事を云う、証とは絶対知の感得を言い行は絶対知の感得の為の修行を言われる、また教は絶対知を感得する案内書すなわち経典を指す。 
末法を法滅と言い経典も無く壊滅的な時代を言い末法の後を言う解釈もある。 
注17 密教に於いては大日如来の変化や実動部隊として各尊(如来・菩薩等)が存在するが、大日如来を「普門総徳の尊」と言いその他の尊格を「一門別徳の尊」と言う。 
阿弥陀如来

 

 
極楽へ往生させてくれる。釈迦と同じインドの王子で、悟ったのは釈迦以前。現在は極楽浄土の主。阿弥陀(極楽)には多くの仏がおり、その阿弥陀仏の主が阿弥陀如来。臨終の際に名を唱えれば極楽から弟子の菩薩たちを従え迎えに来て下 れる。仏界の西方を治めた。 (南無阿弥陀仏の南無は「おまかせします」の意) 
* 阿弥陀如来の印相 親指と人差し指でOKを作っている。 
* 阿弥陀如来の脇侍 勢至(せいし)菩薩と観音菩薩。
阿弥陀如来1 
平安時代中ごろから、浄土信仰と共に大流行した阿弥陀如来は、文献の上では舒明天皇十二年(640)に入唐僧恵穏が宮中で阿弥陀の経典、無量寿経を講説したことを初見とする。白鳳時代に入ると信仰が広がり、献納宝物「山田殿」像や法隆寺押出仏、橘夫人念持仏など、三尊形式の像がされている。奈良時代には、東大寺三月堂不空羂索観音像の宝冠上の化仏のような立像(747)が現れる。他に法隆寺東院伝法堂像、奈良興福院(こんぶいん)などが、この時代の代表的な像である。平安時代初期の阿弥陀像は密教の影響を受け、京都安祥寺五智如来像のように、五智如来のうちの一躯として造像された。しかし京都仁和寺・棲霞寺三尊像など単独像としての造像も多い。末法思想や、源信の「往生要集」によって、浄土教思想の流行した藤原時代は、極楽浄土の教主として阿弥陀信仰は最盛期を迎えた。京都平等院像(1053)や京都法界寺、法金剛院、三千院像(1148)などが、そうした像である。またこの時代には、来迎(らいごう)印を結ぶ阿弥陀像も現れた。鎌倉時代の阿弥陀像は、一刻も早く極楽往生を望む臨終者の気持の表れであろうか立像が多い。また釈迦像とともにこの時代の復古主義により、仏教伝来当初の霊仏として善光寺式阿弥陀三尊の模刻像が流行した。神奈川円覚寺像(1271)などが代表例である。更に五劫思惟(ごこうしい)阿弥陀、宝冠(ほうかん)阿弥陀などの異形の阿弥陀像が増えたのもこの時代の特色である。  
阿弥陀如来2 
阿弥陀如来は極楽浄土の教主である、「南無阿弥陀仏」日本に於いては「念仏」の代名詞と言えるほど衆生に溶け込んだ如来である。 
阿弥陀如来の本願を信じ念仏及び浄土を観想する事により極楽に往生が可能と言う如来である、人間が宗教に求める要因に「現世利益」と、必ず直面する「死への対応」がある、衆生が如来に求めているご利益には、現世利益は薬師如来に願い、死に直面し救済を願うのが阿弥陀如来である。 
梵語名に諸説あるが「無限(Amit´)・寿命(´yus)」の合成語で無量寿如来・Amit´yus buddha(アミターユス ブッダ)とする説と、無量光如来・amit´bha buddha(アミターバ ブッダ)で「阿弥陀如来」は音訳である、異論もあるが意訳を「無量寿如来」とされる説が強い、顕教に於いては阿弥陀如来が正式名称であるが両界曼荼羅の中台八葉院や成身会等に無量寿如来の呼称で存在している、同尊とするは異説もあるが阿弥陀如来と無量寿如来の呼称について密教に於いては修行のマニアルでもある「無量寿如来観行供養儀軌」に無量寿如来根本陀羅尼が説かれている為に無量寿如来が呼称されている様である、要するに密教では即身成仏すなわち現世利益を説き極楽等の浄土を説かない為と思われる、因みに密教に於いては「清浄金剛」「蓮華金剛」などの密号で呼称される事がある、密号とは密教に於ける結縁灌頂に使用される呼称を言い金剛号・灌頂号等とも呼ばれる。 
無量光如来説は古代インド佛教界で言われた永遠の仏陀とする説であり、後説は光背等からゾロアスター教の影響を受けたとされる、梵語の ´bh´は光で無量寿光となる、因みに中国に於いては請来当初で後漢の頃は意訳の無量寿仏と呼ばれたが唐の時代になり阿弥陀如来と呼ばれる様になったとされる、また密教に於いては修行のマニアルでもある「無量寿如来観行供養儀軌」に根本陀羅尼が説かれている為に曼荼羅を初めとして無量寿如来が呼称される様である。 
阿弥陀如来の呼称の由来については阿弥陀経に於いて釈尊が多くの菩薩たちの前で十大弟子の上足、舎利弗に光明は十劫の間、無量であり十万仏土を障礙(しょうげ)される事も無く照らされる為と語りかけている。   
仏教の発祥地インドに於ける阿弥陀信仰について1977年インド・ガンダーラと共に仏像発祥地として双璧であるマトウーラの寺院跡から阿弥陀如来の台座(マトウーラ博物館蔵)が発見されるまでインドに於ける阿弥陀如来の単独信仰は疑問視されていた、またガンダーラに於いて阿弥陀三尊と見られる石像が発見され更にアジャンターなどの石窟の転法輪印像の阿弥陀如来説もある、しかし以後独尊での造像はなく密教の興隆以後五仏の西尊として造像されている。 
阿弥陀如来の出現には無限と言える過去に「錠光(じょうこう)如来(燃燈(ねんとう)仏)」(注13)が出現する、その後錠光如来についで各如来が長い年月の間に現れる、錠光如来から53番目に「世自在王如来」が現れると「法蔵菩薩」は世自在王如来の弟子となり、師から210億の佛の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった、ちなみに東大寺には法蔵菩薩が思惟している阿弥陀五劫思惟像(室町時代)がある、また師が世自在王である為か密教に於いて「観自在王如来」と呼ばれる事もある。 
大無量寿経に阿弥陀如来の出現経過が説かれており、大乗経典に一番多く登場する如来である、人間が高邁な覚りの境地即ち有余涅槃(注16)に達するのは限りなく困難な事であり死に対する絶望的恐怖感から思考されたのが阿弥陀如来と言える、歎異抄・十五條は言う「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと。もてのほかのことにさふらう。即身成仏は真言秘教(真言密教)の本意、六根清浄はまた法花一乗(天台宗)の所説、四安楽の行の感得なり。これみな難行上根のつとめ」と言う。 
法蔵菩薩時代に「世自在王如来」の教えを受け五劫(注6,7参照)と言う無限に近い間修行して本誓(ほんぜい)、すなわち四十八の誓願(無量寿経)をたて行願を行い如来となったとされる阿弥陀を信仰する事により救われようとの考えから成立したものである。 
法蔵菩薩の誓願は漢訳では二十四願であるがその後の魏訳の四十八願に増やされている、阿弥陀四十八願の内特に十八願を王本願と言い四十八願総てを網羅していると言えるが、十八番(王本願)は初期の訳支婁梼讖(しるかせん)訳(漢訳)、支謙(しけん)訳(呉訳)、菩提流支(ぼだいるし)の唐訳には存在せず康僧鎧(こうそうがい)の訳にのみ存在すると言う。 
インドでは「他土仏信仰」(注2)の嚆矢的な如来で二世紀頃には阿弥陀信仰は成立しており釈迦についで古い佛の一つと言える、しかし当地では現在阿弥陀と確認できる独尊での仏像は無い、ただし前述の1977年にBC156刻印の阿弥陀佛とされる台座がマットウラー地方に於いて発見されている。 
我が国には六世紀後半から七世紀初頭頃に伝わり弥勒信仰と混合された形で信仰された、種類としては来迎図・観音菩薩と勢至菩薩を従えた三尊形・浄土変相図(1)浄土曼荼羅参照)の主尊・九品印像などがあり、これ等の多くは観無量寿経を典拠としている。 
代表例として奈良時代には浄土をイメージした法隆寺金堂壁画(六号壁・昭和24年火災にあう)や橘夫人念持佛等がある、平安時代には和様即ち定朝様を確立した平等院像や三千院の三尊像など多く造像された、12世紀後半になると定朝様式から脱皮した運慶による淨楽寺の三尊像や快慶による浄土寺像等が秀作と言えよう。 
天台宗に於いて円仁の五台山念仏を加味した浄土信仰の色彩の強い不断念仏が栄えた、定行三昧法に必要な阿弥陀堂の中で上品上生の像、更に鎌倉時代にはいろいろな来迎絵など佛教美術的にも大きな貢献をしており国宝・重文指定の文化財は最高の数にのぼる。 
源信は往生要集に於いて現世を回避し来世に往生する方法として阿弥陀如来を念仏する臨終の作法を説いた。 
中でも最重視したのは阿弥陀如来を観想する法と臨終の時に来迎を念ずる法を説いた。 
源信の登場以後浄土信仰は貴族社会に深く滲透して定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる、阿弥陀堂からは迎講即ち阿弥陀来迎図が誕生する、主たる堂宇は平等院鳳凰堂 ・法界寺阿弥陀堂 ・白水阿弥陀堂 ・浄土寺や巨大な仏壇・中尊寺金色堂等がある、これらの阿弥陀如来の印相は定印が結ばれている。 
阿弥陀信仰は法然の専修念仏により大衆にも受け入れ可能となり広く信仰される、本尊が毘盧遮那佛や十一面観音の寺に於いても南無阿弥陀仏を称え合掌する人々を多く見かける。 
念仏=南無阿弥陀仏となる原因として阿弥陀如来は薬師如来等のように秘仏にならず,あらゆる人々の前に姿を現し臨終の際に極楽浄土への来迎を約束するのも大きな要因であろう、但し秘仏とされる意味合いが不明であるが善光寺などは絶対秘仏(注15)であり奈良・称名寺の光烟光仏・増上寺安国殿などの例外は存在する。 
「観無量寿経」に拠れば百千万億の夜、摩天の閻浮檀(えんぶだ)金(ごん)色の如く、身の丈六十万億那由他恒河紗由旬(ろくじゅうまんおくなゆたごうがしゃゆじゅん)、仏眼は四天海水の如く--、光明は普く十方世界を照らし等など説かれている。 
恒河紗=ガンジス河の砂の数  那由他=千億、数の単位  由旬=距離の単位 約四十里 
印相や坐像立像の違いは信仰形態の変化により変わり施無畏与願・転法輪・(説法印)・定印・来迎印がある、説法印像は天平時代以前に多く定印(上品上生)は藤原時代から鎌倉前期に多い、そして来迎印像は鎌倉時代中期以後になる。 
梅原猛氏は「阿弥陀像は、奈良時代では主として説法をしている姿で表され、平安時代では坐って沈思黙考している姿であらわされ、更に鎌倉時代には立って念佛者を迎え入れる姿であらわされる」と言われる(仏像のこころ、集英社)ちなみに来迎印は阿弥陀如来特有の印で慰安印と言う名称もある。 
時代と共に信仰された如来には変遷がある、日本に於いては主に釈迦如来が請来されてから薬師如来に移り阿弥陀如来となるが、中国に於いては北魏の時代に釈迦の後継者と考えられた弥勒が信仰を集めたが唐の時代に阿弥陀信仰に移る、弥勒信仰は各地で阿弥陀信仰に時の経過と共に凌駕される、原因としては釈迦は自土仏であり、弥勒も実在した可能性があり下生して自土仏となる、自土仏は元来は普通の人間であり他土仏(阿弥陀・観音)よりも荘厳さを体感しにくい為との説がある、また釈迦は理智・哲学の仏で馴染み難くサルベージが理解が難解なのに対して弥勒は中間にあり、阿弥陀や薬師は御利益の仏で救済がダイレクトである、また弥勒の場合は長い時間軸にあり待てる余裕はないが、阿弥陀如来は空間軸にある為に来迎にはワープ(warp)するのか、時間と距離を超越してリアルタイムに現れる為であろう、阿弥陀如来の場合は奈良時代頃から浄土に於いて説法していたが、平安時代頃に観想するに適した定印を結ぶ姿になり、鎌倉時代には浄土信仰の興隆に合わせ来迎印を結ぶ、さらに立像になり来迎はスピードアップするが、後に阿弥陀信仰は尊像の重要視が薄れて六字名号や十字名号の時代になる。 
末法時代が到来すると信じられた平安前期より鎌倉時代にかけて貴族たちにより阿弥陀の造像は盛んに行われた、この時代信仰面に於いても美術関連に於いても阿弥陀如来を除外して語る事は出来ない、現在国宝等に指定されている仏像はこの時代のものが阿弥陀を中心に多くを占める、これは源信・法然・親鸞・一遍等の念仏・浄土教の流れと一致する、すなわち平安時代までは観無量寿経の観想(観佛)をベースに造像されるが法然・親鸞以降は立像で来迎印が主体を占めている。   
一般に言われる九品印は観無量寿経の14〜16観からとられたと思惟される、この印形は近世に日本で作られたもので形態化すべきではないとする説がある。 
ただ平安時代中・後期には九品印(特に上品上生と来迎印)の阿弥陀如来は多く製作された、この時代の仏像・佛画は阿弥陀如来関連を除いて語る事は出来ない。 
阿弥陀像の異型として宝冠阿弥陀如来は密教的な色彩を持ち紅玻璃色(ぐはりしょく)阿弥陀と呼ばれる絵画や前述の五劫思惟阿弥陀(東大寺)、宝冠阿弥陀如来に耕三寺(広島・快慶作)一乗寺・伊豆山浜生活協同組合(静岡)などがある、五劫思惟像は全国に十尊程存在し東大寺・勧学院、五劫院などが知られている。 
また脇持に観無量寿経をもとにした観音菩薩・勢至菩薩を脇持とするが、他に地蔵菩薩 ・竜樹菩薩(奈良博公式サイト)を加えて阿弥陀五佛や来迎を目的として25菩薩を従えた仏画も存在する。 
稀有な例として即成院(泉湧寺塔頭)では阿弥陀如来坐像が彫刻で二五菩薩を従えている、二五菩薩を眷属とする聖衆来迎図の源流に「阿弥陀五〇菩薩」があり敦煌千仏洞の壁画がこれに相当する。 
現在我が国に1997年現在国宝十八尊(浄瑠璃寺の八尊含む)を含む三百五十一尊の重要文化財指定の尊像が存在する、因みに最古の阿弥陀像は東京国立博物館にあり山田殿と刻まれた法隆寺献納仏である三尊像である。 
国宝重要文化財の中に於ける阿弥陀如来像の分布に於いては滋賀県65尊 ・奈良県53尊 ・京都府51尊と続く。 
また梅原氏の指摘される阿弥陀の信仰による変化について重文以上の像に於いては平安時代に造像された坐像は73,5%に対して鎌倉時代の坐像は20%である、立像については鎌倉時代の作が73%に対して平安時代は20%であり浄土に対する信仰上の変遷により、坐像から立像に変化し死者を極楽浄土へ来迎する姿が多くなる。 
また絵画に於いて阿弥陀如来は観無量寿経をベースに描かれており関連指定作品は多く存在する、 国宝に和歌山・蓮華三昧院(高野山) ・阿弥陀三尊像 和歌山 ・有志八幡康十八箇院(高野山霊宝館)と知恩院の二五菩薩来迎図  ・京都国立博物館に山越阿弥陀図 ・禅林寺の山越阿弥陀図 ・法華寺の阿弥陀三尊童子像があり、その他50点にも及ぶ重要文化財指定がある,現在の寺院に於いて阿弥陀如来は極楽浄土へ来迎されると言う信仰から、薬師如来等と異なり秘仏扱いは稀で多く開放されており例外を除き自由に拝観できる。 
阿弥陀如来に従う二五菩薩は恵心僧都の「往生要集」に記述されており ・観音菩薩・勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在王菩薩・獅子吼菩薩・陀羅尼(総持)菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金剛蔵菩薩・金蔵菩薩・光明王菩薩・山海慧菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧王菩薩・定自在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無遍身菩薩を言う、これらは絵画で占められるが彫刻像は即成院(京都市東山区泉湧寺山内町)に安置されている。 
阿弥陀如来信仰の普及は佛教本来の教義を根幹から変更しキリスト教的な宗教に変えた、佛教は本来修業等により覚りを開き釈迦如来の領域まで到達を目指す宗教であった、 これは初期教団内に於ける呼称で証明できよう、田上太秀氏に拠れば釈迦も高弟たちに阿羅漢 (アルハット arhat)と呼ばれたとされ、また釈迦も弟子の内でも優れた人には阿羅漢と呼んだという、また優れた弟子達には仏陀(buddha)とも呼んだと言われる 。 
阿弥陀信仰の他力本願により主従関係が固定されキリスト教的に変わる、キリスト教に限らず一神教に於いては如何に善行を重ね覚りに至ろうが聖人にまでは到達する事が出来ても主との主従関係は絶対不変である。 
注1  本願 四弘請願(しぐせいがん) 釈迦の前世に於ける善行動を物語化した本生譚(ほんしょうたん)(ジャータカ)が嚆矢とされるが、インドには四弘請願はなく、中国に於いて起こり日本の浄土教で重要視されている、本来は総ての菩薩の必須科目で目標を誓願する事を本願と言い総願とも呼ばれる。 四弘請願とは 衆生無辺誓願度・煩悩無尽 誓願断・法門無量 誓願学・仏道無上誓願 とされる。 阿弥陀如来の四十八誓願 薬師如来の十二誓願 普賢菩薩の十大願などを言う。  
本願寺の呼称は阿弥陀如来の四十八誓願に由来しており、本来は浄土真宗だけのものではない。 
注2  他土仏(たどぶつ)信仰とは大乗仏教が起こり釈尊を思慕した事から生まれた地球空間以外の空間の如来・菩薩である、代表的な尊名は阿弥陀如来・薬師如来等々である、法華経・金光明経・阿弥陀経など多くの経典に記述されているが共通する如来名は阿閦如来と阿弥陀如来のみで異なる尊名が多数を占める、因みに過去七仏は釈尊と同じ娑婆の世界仏である、いわゆる報身佛が他土仏に相当するとも言えよう、これに対して地球空間を「自土」と言う、従って釈迦如来は自土仏である。 
注3 
法身佛 宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言え、毘盧舎那仏・大日如来を言う。 
報身佛 菩薩が修行と善行の報いにより到達する姿を佛身で顕したもので阿弥陀如来・薬師如来などを言う。 
応身佛 衆生を導く為に顕した佛身で成道と入滅を行い、釈迦如来をさす。 
注4  法蔵菩薩が世自在王如来のもとで四十八の誓願を立てたとされる無量寿経(阿弥陀経)も当初は二十四の誓願であったが中国で追加された、大無量寿経に拠れば始めに錠光如来 (D ̄pamkaro n´ma tat´gato) があり、53番目に世自在如来が出現する、王位を捨てた法蔵菩薩は世自在如来の弟子であり54番目の如来とされる。 
注5  浄土(スカーバティー sukh´vat ̄)を論ずる優先課題は五念門であり、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五門を言うが、なかでも観察(浄土を観想)が最も大切で、17種の国土荘厳・8種の仏荘厳・4種の菩醍荘厳よりなると言れる、楽園をsukh´・vat ̄は所在場所を言う。 
注6  劫(こう) 劫波の略語で梵語kalpaの意訳で佛教の言う非常に長い期間を言う、盤石(ばんじゃく)劫の一劫とは四十立方里の岩に天人が百年に一度舞い降りて衣の袖で岩面を一度なでる、その岩が磨耗するまでを一劫と言う。 
また大智度論に依れば芥子劫も有り芥子の実を百年に一度160`平方bの城都に一粒ずつ落とし満杯になって一劫とする数え方もある、またヒンズー教に於いては一劫は43億2千万年とする記述もある、今現在の劫を賢劫(けんごう)と言い過去の劫を荘厳劫(そうごんこう)・未来劫を星宿(せいしゅく)劫と呼びこれを三世三千佛と言う、曼荼羅に登場する賢劫の千佛はここから由来している。阿弥陀如来は法蔵菩薩時代に五劫の間修行して如来と成った、ちなみに阿弥陀五劫思惟像は東大寺(木造・漆箔・106,0cm 室町時代)に合掌姿で存在している。 
劫の分類は複雑で宇宙形成から繰り返す壊滅、空劫、成劫、住劫までの劫を一大劫、器世間と言う時間を単位とする物を歳敷劫という。 
阿弥陀如来が四十八誓願をかなえて覚りを開いてから十劫が経過していると言う、人間が成仏出来るまでの時間軸に三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)の間に積功累徳(しゃっくるいとく)を必要とされる、三阿僧祇劫≑無数≑10の140乗×1劫≑3×10の56乗×1劫となる、但し乗数は52-56等の説がある、因みに積功累徳とは修行に精進を重ね功徳を積上げる事を云う。 また劫の対極にある時間を表す極少時間は仏教用語で刹那(1/75≑秒)と言う。 
無限大と言える過去に「錠光如来」が出現し、その後も如来が現れ53番目に「世自在王如来」が現れる、「宝蔵菩薩」は世自在王如来の弟子で師から210億の佛の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった、因みにヒンズー教に於いては一劫を43億2千万年とされている。 
注7  阿弥陀四十八願 阿弥陀如来が覚りを開くための願、法然が最重要視した十八番が著名で「王本願」と言い、要約すれば清純な心で阿弥陀如来を信じ念仏を唱えれば浄土に往生出来る事、不可能ならば覚者とは成らない。 
本願とは釈迦の前世に於ける善行動を物語化した本生譚(ジャータカ)が嚆矢とされるが、インドには四弘請願はなく、中国に於いて起こり日本の浄土教で重要視されている、総ての菩薩の必須科目で目的を誓願する事を本願と言い、四弘請願(しぐせいがん)とは 衆生無辺誓願度・煩悩無尽 誓願断・法門無量 誓願学 仏道無上誓願とされる。 
阿弥陀如来の四十八誓願 薬師如来の十二誓願 普賢菩薩の十大願などを言う。 
本願寺の呼称は阿弥陀如来の四十八誓願(本願)から由来しているが、本来は浄土真宗だけのものではない。  
注8  ゾロアスター教 BC7世紀頃現在のイラン東北部で発生し、光の神・アフラ・マズダーの名からマズダ教とも言われ当寺のイランを席巻した、一神教信仰の嚆矢とも言える教義を持ち現在の世界三大宗教に儀礼や哲学に影響を与えているがイスラム教に凌駕された。火を崇拝し宗教儀礼に用いる事から拝火教とも呼ばれる、古代から佛教にも大きな影響を与え阿弥陀信仰や不動明王等の火炎光背や、密教で重要視される護摩の火はゾロアスター教が源流とされる。 
釈迦如来が鹿野苑に於いて初説法を行なった後、当寺のインド宗教界の巨匠とされた迦葉兄弟が釈迦の弟子となる為率いた大教団はゾロアスター教団とされている。(迦葉は十大弟子の大迦葉とは別人) 
中国では松教(けんきょう)と呼ばれた。活動期はBC2000年紀ごろからBC7〜6世紀など諸説があるが定かではない。 
現在インドボンベイを中心に約17万人の信徒を持つとされる。  
注9  阿弥陀如来の梵語スペルにamitayus Buddha amitabha Buddha 等がある。 
注10 玉眼 仏像の目を従来は書き込むか彫り込み又は黒い石の嵌込みであったものに日本の独自技術により水晶をレンズ状にして嵌めこんだもので奈良県天理市の長岳寺の阿弥陀如来を嚆矢とする。 
注11 阿弥陀如来の梵語名にAmit´yusの他にamitabaアミターバがあり無限光と訳され統合されている、他にamitaのみとする説やamrtaアムリタ甘露と訳す説もある。 
注12 阿弥陀三尊像に於いて本尊が来迎印を結ぶ堂宇を迎接堂(ごうしょうどう)と言い、迎接会が行なわれた。 
注13 錠光如来 大無量寿経に依れば梵語名dipankara(ディーバンカラ)で燃燈(ねんとう)仏・定光如来と呼ばれる、無限劫の過去仏で前世の釈迦すなわち薔薇門僧の浄幢菩薩を現世で覚者になると予言した。無限劫の過去仏に最初に出現した覚者で、錠光如来から53番目に「世自在王如来」が顕れその弟子が阿弥陀如来と言う。 
注14 阿弥陀如来の語源に前述の「無限(Amit´)・寿命(´yus)」の合成語で無量寿如来・Amit´yus buddha説、とAは否定詞でmit´yusは計量を意味し「量りしれない」寿命・光とも言われる、ちなみに不動明王の場合もAは否定詞でcala は動きを示している。 
注15 絶対秘仏とされる尊像は東大寺二月堂の十一面観音菩薩・浅草寺の聖観音菩薩・善光寺の善光寺如来である。 
注16 有余涅槃(うよねはん) 現世に生きての覚りを言い実現不可能な覚りと言えよう、一方死後に得た覚りを無余涅槃と言う。 
注17 高徳院大仏(鎌倉)は総重量約120tで銅68%・鉛20%・錫9%で鉛の混合割合が高く鍍金が不可能な為金箔張仕上げと推定される。 
鋳造にあたり当時としては世界最先端技術である鋳継部分にずれを防ぐ技法で「鋳からくり」の鋳継を採用している、原型の佛師は肥後別当定慶か湛慶の何れかとされている, 
尚大仏殿は1489年の津波で流失した。他土仏信仰とは我々の住む世界即ち釈迦如来の住んだ空間では無く、別世界空間に於いて釈迦と同様に覚りを開いた仏が存在すると言うインド哲学から生まれた信仰である。      
阿弥陀如来3 
「阿弥陀如来」は四十八願をかけて厳しい修行をされた末、悟りを開いて如来になられた仏さんで我が国では一番多く礼拝されております。「極楽」と言えば阿弥陀如来が居られる浄土のことですがキリスト教の「天国」に対して我が国では極楽と言われるくらいポピュラーな言葉となっております。  
阿弥陀如来を本尊とする浄土系の宗派が、在家の信者にただ念仏を唱えるだけで難しい修行をしなくても極楽往生出来ると説いたのに併せて八大地獄の有様などの話を吹き込んだため、一般大衆は地獄に堕ちることなく浄土に行けることを願い、阿弥陀如来が圧倒的に支持されたのは自然の成り行きでした。これこそ在家仏教そのものと言えましょう。ただ、宗派によって念仏を唱える意味の解釈に違いがあります。  
それと、時代は薬師如来より阿弥陀如来の信仰に移ってまいりましたのは当時は飢饉や衛生状態が劣悪の状態のなか伝染病のような疫病の流行などで多くの死者が出たことでしょう。それらの対策が満足でない現世では救われる期待もむなしくそうなれば阿弥陀如来を信仰して現世を諦め来世の幸せを祈願するようになったのではないでしょうか。   
浄土系の宗派は阿弥陀如来一尊ですがしかし、逆に阿弥陀如来といえば浄土系だけではなく色んな宗派でも尊崇されております。  
阿弥陀如来の印相の「九品(くほん)印」ですが阿弥陀仏が衆生を九種類に分類して救済する方法です。この九品印には異説がありますが私は次の説を選びました。何故かと言いますと立像の場合に多い印相を上品下生と考えるからです。異説では下品上生となります。しかし、どちらを選ぶかは皆さんの自由です。  
九品印は親指と他の一指で丸を作った手の所作で決まり、「上品(じょうぼん)」は親指と人指し指、「中品(ちゅうぼん)」は親指と中指、「下品(げぼん)」は親指と薬指で丸を作り、「上生(じょうしょう)」は瞑想時のスタイルで膝の上で手を組み、「中生(ちゅうしょう)」は両手を胸の所まで挙げ、「下生(げしょう)」は右手が胸、左手は坐像の場合は膝の上に置き立像の場合はだらりと下げて掌を前方に向けます。これら三品と三生の組み合わせが九品印でありますが上品下生の施無畏・与願印は釈迦如来、薬師如来との共通印です。ただし、阿弥陀如来の施無畏・与願印は平安から鎌倉時代にかけて施無畏・与願印のような形のまま親指と他の一指で丸を作る来迎印に変わります。  
阿弥陀への信仰心が篤くしかも現世で多くの善行、功徳を積まれた善男、善女は阿弥陀如来が多くの菩薩を連れて臨終者の枕元まで迎えにきてくださいます。それから宝石で飾られた蓮台に乗せられ直ちにロケットで極楽往生させていただけます。しかし、信仰心も薄く功徳などに縁がなかった方は阿弥陀如来の代理の方しか見えないうえ、雨戸のようなお粗末な蓮台に乗せられそれから長い時間を要する鈍行列車で極楽往生することになります。しかしいずれにしても、九通りあるランクのうちどれかのランクで浄土に行け往生成仏する事が保証されておりますから一安心です。   
阿弥陀如来の印相は数多く九品も二通りの説、しかも説法印、来迎印にしても色んな形がありややこしいです。印相について少し調べてみたいと思っておりますが印相で覚えるとしたら「上品上生(定印)」、「上品下生(施無畏・与願印、来迎印)」で充分だと思います。  
阿弥陀如来の印相は親指と他の指で丸を作るものが多いですがこれはお金を表しているのではなく信者の来世の幸せは任せなさいというOKのサインでしょう。  
極楽浄土に往生することを願う信者の方は阿弥陀如来を篤く信仰するとともに数多くの積善を行い、善因善果の例えよろしく上品上生の阿弥陀如来に迎えてきていただけるような善い生活を心掛けましょう。  
ただ、浄土に迎えに来ていただける阿弥陀如来は上品上生でなく上品下生の形をした来迎印の阿弥陀如来であるとなると話はおかしくなりますので上品下生と来迎印とは別ものと考えるべきでしょう。  
阿弥陀仏には「南無阿弥陀仏」とか俗に「ナマンダブ」とか一番馴染みのある念仏を唱えますが薬師仏を拝む場合でも「南無薬師仏」でなくナマンダブと唱える方も居られます。先日も法隆寺中門前で柏手を打ってお祈りされる方がありましたが振り返る人もなく、ほとんどの方は気付かず違和感がないのも我が国ならではの信仰の姿と言えましょう。  
余談ですが阿弥陀如来が居られる西方極楽浄土は十万億の仏国土を超えたところにあるとのことで、それはそれはこの世の穢土から天文学的遠隔地にあるらしいです。故人はやっと浄土に往生出来たのにも拘らずお盆に穢れた人間社会に短期間といえ呼び戻すことは理解し難いことです。今年米寿の母は親父のお盆供養の迎え火、送り火の行事のため私を実家に呼びます。そこで私は親父は極楽で楽しく過ごしているはずだからそっとしておくほうが功徳になるといいますが駄目ですね。また、阿弥陀一尊では心許ないのか送り火の後近くのお不動さんをはじめ水子観音までお参りに行きます。  
また、来年は親父の七回忌です。息子の私が言うのはおかしいですが親父は馬鹿ほどお人好しで騙されることがあっても騙すことはありませんでした。ですから多分、まかり間違っても七七四十九日までには極楽浄土に往生していると確信しておりますが母親は来年七回忌だといって頑張っております。そこで私は母親にどうのこうの言っても始まりませんので総ての法事は多大な恩になった故人に対する感謝の集いと考えるようにしております。  
脇侍は「観世音菩薩、勢至菩薩」で三尊仏となります。例は少ないですが三尊仏に「地蔵菩薩、竜樹菩薩」が加わった五尊仏もあります。  
古代の人々は夕陽の沈むところに西方極楽浄土があると考えていたらしいですが当時は地球は丸ではなく平盤なものと考えられており平盤な果ての落ち込んだ所または裏側に浄土があると考えていたのでしょうか?それと西に沈む太陽と東から上る太陽を同一のものか、違う新しいものかどちらとを考えていたのでしょうか。太陽が沈むのは我が国では山の端か水平線で、インド、中国では地平線という国土的な違いが西方極楽浄土の考え方にどう影響したのか知りたいものです。    
「阿弥陀籤(くじ)」とは阿弥陀如来の頭光背を連想して考え出されたものです。私の想像ですがお菓子などを持ち寄って当たりとか1,2,3等とかを競ったほほえましい賭け事だったことでしょう。当然、当たり籤は分からないよう丸いグレーの部分は見えないよう隠しておきます。ところが、現在の阿弥陀籤は古代寺院の床を石などで敷く形式「布敷」のような平行線を引いたものになっております。阿弥陀籤といっても若者には分からない死語となりつつあります。死語といえばガイドをやり始めた当時、歌舞伎の「白波五人男」を理解しておられる年配の方ばかりで、法隆寺本尊(西の間)の「阿弥陀如来坐像」は鎌倉時代作で、元の阿弥陀如来坐像は平安時代、「白波」にあって盗まれたという説明をしておりましたが、老若男女にガイドをするようになってからは白波の意味から説明をしております。  
「鎌倉」を訪れてみてまず最初に驚いたのは車の渋滞と、拝観料は安いのに駐車料金は時間制で高いことです。しかし、鎌倉は地理的に充分な駐車スペースの確保が難しいので多くの車が駐車できるよう時間制駐車料金にして解決を図っておられるのでしょう。「高徳院」というより鎌倉の大仏さんが居られる寺院といったほうが話が通じやすいことでしょう。  
「鎌倉大仏」は阿弥陀如来の代表と言えるくらい人気抜群で大仏を写真撮影するため人影がなくなるのを辛抱強く待っておりました。と申しますのも大仏さんの周辺で飲食が出来ますので多くの方がのんびりと過ごしておられるからです。しかし、観光シーズンなら幾ら待っても人物なしの大仏撮影は無理な話でしょう。露坐の大仏であるため圧迫感も受けず無限の開放感に浸りながら拝観できることは忘れ難い体験でした。  
神奈川県では唯一の国宝指定の仏像です。露仏の大仏だけに酸性雨の影響は大丈夫なのだろうか大変心配になりました。ゆくゆくは後世にその姿を留めるために往時の堂内安置となることでしょう。  
服制は「偏袒右肩」が多い中「通肩」です。  
20円で像内に入れていただけます。が、人が次から次へと来られるので早々に退散しなければならない恨みがあります。しかし、国宝指定の仏像内に入り胎内拝観出来るのは鎌倉大仏だけですので内部の出来上がりをご覧になり機械工具の無い時代に制作した工人たちの苦労を偲んでみてください。  
阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、大日如来の区別は顔付き、体付きを見ても見分けが付きませんが手付きの印相を見れば少しは見分けが付きます。前述の薬師如来の施無畏・与願印では平安以降は薬壷を持つようになります。定印の場合阿弥陀如来は弥陀定印で、釈迦如来、薬師如来、大日如来(胎蔵界)の三如来は同じ定印ですから定印の阿弥陀如来はどなたでも見分けることが出来ます。鎌倉の大仏は弥陀定印ですので阿弥陀如来以外ありえないのです。  
ですから、与謝野晶子さんの和歌 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は びなんにおわす 夏木立かな」の間違いが分かった訳です。与謝野さんの勘違いだからと逆に有名になりましたが「釈迦牟尼」を「あみだぶつ」「あみださん」と詠み替えても語呂合わせが悪く納得される歌とはならなかったのでわざと間違えられたことでしょう。ところが、発表後に批判があったので「釈迦牟尼は」を「みすがたは」と詠み替えられましたがその歌はお蔵入りとなったようであります。  
ただ、細かいことを言いますと弥陀定印の場合立てた人差し指の先に親指が乗るような感じで写真のように水平にならず下図のように親指の先は少し上に上がり気味となるのが通常です。多分、親指を水平にされたのは、我が国では仏堂などで垂木を放射状にしなければ構造上不利となるのを分かっていても平行垂木にしてみたり古来の建造物の柱間隔を等間隔にするなどの律儀な国民的性格の表れが出たのでしょう。  
いずれにいたしましても、拝観者は阿弥陀さんだろうが与謝野さんのお釈迦さんだろうかは関係なく大仏さんであればそれで満足という顔をされているように見えました。印相は上品上生です。  
「平等院」は伽藍そのものと「鳳凰堂」の堂内とを見てきたかのように浄土の雰囲気を具現化することに成功しており、栄光と威厳の名残を留める寺院です。  
「阿弥陀如来坐像」は現在、修築も無事に終わり、浄土の世界の如くに荘厳された仏堂にふさわしいふくよかな温顔の美しい仏さんとなって皆さんを迎えてくださいます。    
天才仏師「定朝」が確立させた本格的な「寄木造」の頂点の作品として名高く「仏の本様」と崇められ、これから長く多くの模刻像が制作されました。  
彫りは極端に浅くなっているので一層優美で繊細な感じとなっております。後述の「法界寺像」と同じように弥陀定印となっております。  
「法界寺」は「親鸞聖人」が生誕されたという由緒があり栄華を極めた寺院です。 創建当初の本堂は「薬師堂」だったらしいです。写真の右側に見える瓦屋根の建物がそうです。  
「薬師如来」は「乳薬師」とも言われ、安産と母乳に恵まれる霊験があることで著名ですが驚いたことに現在も薬師堂にはそれらの願いを込めたエプロンが多く奉納されておりこの信仰が連綿と今なお続いておりました。「阿弥陀如来坐像」が安置されております「阿弥陀堂」は国宝指定で、背景に溶け込んだ閑静な佇まいを見せております。  
阿弥陀さんの回りをグルっとと回りながら拝むことが出来ます。常行三昧堂が後に阿弥陀堂となりましたがその阿弥陀堂の典型的な建造物です。  
「阿弥陀如来坐像」は平等院の阿弥陀如来坐像にそっくりで定朝様そのものですが平等院像より控えめの印象があります。伏目で下から拝みますと仏さんの情愛溢れる優しい眼と合い、いかにもよくお参りに来たなと話しかけられているようでした。阿弥陀さんの周囲を念仏を唱えながら右回りの行をいたしましたが三昧境には至りませんでした。貴重な経験、右回りの礼拝が出来ますので多くの人々を魅了し続けて来たことでしょう。内陣の小壁は極楽浄土を髣髴させる飛天像が描かれており肉眼でもはっきりと確認することが出来ます。現存最古の壁画と言われる貴重なものですのでじっくりとご覧ください。  
「三千院」の門前には洛北大原の里で採れた青物の漬物などの名物店が軒を並べております。また、戸外には毛氈を敷いた床机台があり若いカップルがお茶を嗜んでおりました。店が立て込んでいるといっても物静かな落ち着いた雰囲気でしたがシーズンともなれば参詣者で賑わう門前となっていることでしょう。  
「山門」には「三千院門跡」の門標が掲げられております。門跡寺院を表す五本線の筋塀だろうと想像しておりましたところ、人を寄せ付けない高い石垣の塀とそそり建つ「山門」は御殿門ともいわれるだけあって寺門というより城門そのものでした。石垣は自然石を積む野面(のずら)積みでありますが三井寺で初めて知りました高度な石垣技能「穴太(あのう)積み」で築造されておりました。  
「阿弥陀如来坐像」は「往生極楽院」に安置されております。人影がないのを幸いと急いで仏堂の正面を撮影し、さて阿弥陀さんを拝見しようとして基壇を見ると撮影禁止となっており、まさかと思いながら堂内にいらっしゃったお坊さんに仏堂も撮影禁止ですかとお訊ねすると優しく頷かれました。そこで、なるほどと気が付いたことですが仏堂の正面の長押以下は前面開放で、仏堂を正面撮影をいたしますと堂一杯に安置された丈六仏の阿弥陀如来像までが写真に納まってしまい拙いからでしょう。それゆえ、正面からの写真は没にして遠景の写真を用いましたが素朴で簡素な仏堂が冬枯れの淋しい季節に飄々と聳える佇まいは水墨画のような情景で三千院の雰囲気が出ていて良かったのではないかと自負しております。春を迎えればむせ返るような若葉で仏堂は隠れてしまいますがまぶしい華やいだ自然の風景が眼にしみることでしょう。  
「阿弥陀三尊像」は堂内に足を一歩踏み入れると目の前におられ思わすドキッといたしました。通常、高い台座の上に安置されており見おろす状態にありますのが須弥壇、裳懸座は極端に低く仏さんの目線と礼拝者の目線とを合わせておられるようで優しさがあり親しみが感じられました。印相は来迎印で、両手の親指と人差し指を結んで施無畏・与願印のような形の印です。後の時代になると来迎印の阿弥陀仏は坐像ではなく立像となります。脇侍の観世音・勢至菩薩は一般的な立像ではなく跪坐(きざ)像でした。跪坐とは足を少し開いた正座坐りです。説明で跪坐を別名大和坐りということを始めて知りました。跪坐は日本的な坐り方なので大和坐りと呼ぶようになったのでしょう。  
大和坐り(跪坐)は来迎の観音に見られます。それと脇侍は愛らしく前屈みの状態で往生者を優しく迎えに来てくださっているようでした。  
観世音菩薩は白魚のような美しい手で金蓮台を持っておられ亡くなれば直ちに蓮台に乗せて極楽につれていってあげますよ、と勢至菩薩は温かみがある合掌印で往生者を喜んで迎えてくださる雰囲気でした。  
ただ、「往生極楽院」と言うことはもう既に浄土で往生したことになり臨終者を浄土へと迎えるのではなく、もうすでに極楽往生したことになるのではないでしょうか?  
三千院は若いグループが多く阿弥陀如来の前を一瞥して仏堂の斜め前方で手入れが行き届いた庭園にある弁天池の延命水の場所で写真を撮ったり賑やかに談笑しておりました。まだ、極楽浄土を意識しない若さを誇っているようで見果てぬ夢ばかりを追い続けた青春時代を思い出し羨ましい限りでした。  
「興福寺」には鎌倉時代の革新的な傑作で「法相六祖像」があります。像6体のうち2体ずつに分かれていて跪坐が2体、胡坐のような跌坐が2体、左膝を立てて坐るのが2体ありますので是非訪れてみてください。  
「浄瑠璃寺」は寺名が表すように「薬師如来」の仏国土である「東方浄瑠璃浄土」の寺院でありましたのが後の時代に「阿弥陀如来」の「西方極楽浄土」の寺院に変わったのであります。ですからこのお寺にお参りされますと二つの浄土にお願いしたことになる有り難い寺院です。礼拝部分にもう少しスペースがあれば中尊の前に坐れば「九体仏」が見渡せるパノラマとなるのに惜しい感じが致します。九体の「阿弥陀如来坐像」の中尊が来迎印で脇尊が弥陀定印です。中尊が施無畏・与願印から派生した来迎印になっておりますので広く人々から信仰されましたことでしょう。数で圧倒される九体仏を拝まれますと心と身体の汚れを総て洗い流していただけます。  
「阿弥陀の印相」も白鳳時代は「橘夫人念持仏」の中尊のように「施無畏・与願印」でありましたのが天平時代になると「押出仏」のように「説法印(転法輪印)」、平安時代にかけては「鳳凰堂像」、「法界寺像」、「浄瑠璃寺像」のように「弥陀定印」、平安の終わりから鎌倉時代には「三千院像」、「浄土寺像」のように「来迎印」の4種類となります。しかし、この4種類の手印は指の念じ方に異形がありややこしいです。、  
「浄土寺」では「阿弥陀如来立像」が安置されおります「浄土堂」の西側が開放されるようになっています。夕陽が差し込むとまるで極楽浄土の世界を想像させる演出となっておりますが、通常は開放されることはありませんので機会があれば開放される時に伺いたいものです。「阿弥陀如来立像」は像高530pもある巨大像です。印相は右手が下がり、左手が挙がる逆手来迎印となっております。台座は雲形となっており、今まさに西方極楽浄土から飛雲に乗って到着された瞬間の阿弥陀如来です。鎌倉時代になると来迎印の阿弥陀如来は往生者を早く迎えに行くため坐像から立像で表されるようになります。  
「法界寺」は阿弥陀一尊でしたが浄土寺は阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊仏でその周りを念仏を唱えながら行道が行えます。   
阿弥陀如来立像は天才仏師「快慶」の作で数少ない快慶作品の貴重な遺品です。眼を見張るばかりの迫力と異国情緒溢れる作風で新鮮な驚きを感じます。快慶は東大寺を再建された「俊乗房重源」を心酔して阿弥陀信仰が篤く自らを「安阿弥陀仏」と称しましたので快慶作の阿弥陀立像の形式は「安阿弥様」と呼ばれ後世にまでその影響を留めました。  
阿弥陀如来が納まっている「浄土堂」は気宇壮大な大仏様の建築でこれも数少ない大仏様建築を今に伝える貴重な遺構です。 
勢至菩薩/智恵の仏。水瓶を持ち中には汚れを払う霊水が入っている。 
勢至菩薩には単独像がほとんどなく、阿弥陀如来の脇侍像として造像されるのが普通である。東京国立博物館所蔵法隆寺献納宝物「山田殿」三尊像脇侍や法隆寺像(白鳳時代)などが古い像である。 
    
観音菩薩 
慈悲の仏。観音の種類は33種あり、特に有名な6種の観音を「六観音」と呼ぶ。 
観音菩薩は、観世音(かんぜおん)菩薩の略で、如来も含めた数多い諸尊の中でも、最もよく知られており、その信仰は飛鳥時代より今日まで、絶えることなく続いている。したがって各時代を通じて遺品も多いが、三十三化身で知られるように、その種類も非常に多い。そうした中で観音本来の姿といわれるのが聖観音である。この聖観音に、変化の観音である十一面・不空羅索(ふくうけんじゃく)・千手(せんじゅ)・馬頭(ばとう)・如意輪(にょいり)ん観音、あるいは不空羅索観音の代りに准胝(じゅんてい)観音を加えて六観音とよぶ。これらが代表的な観音菩薩である。聖観音の像は飛鳥時代からみられ、法隆寺百済(くだら)観音、救世(ぐぜ)観音、大宝蔵殿観音像などがいずれもこの観音である。次の白鳳時代にはいると、天武天皇朱鳥元年(686)に諸王が天皇のために観音像を造像したことが記録されるなど、その信仰が盛んであったことが知られる。また仏像の上では、はっきりと観音像であることを示す像が多くなる。その中で、最も古い像が東京国立博物館所蔵法隆寺献納宝物の辛亥年銘像(651)である。頭上にこの時代の特徴である三面宝冠を頂き、その正面には観音の本地仏(ほんじぶつ)、すなわち観音に姿を変える前の仏である阿弥陀如来を陰刻し、この像が観音像であることを物語っている。大阪観心寺像(658頃)や法隆寺夢違(ゆめちがい)観音、島根鰐淵(がくえん)寺像(692)もこうした例である。一方、脇侍像としては、献納宝物山田殿像や、法隆寺押出仏(おしだしぶつ)、橘夫人念持仏などがみられる。またこの時代には十一面観音像が現われる。東京国立博物館蔵那智発掘像がこの例である。天平時代にはいると道慈や玄肪(げんぼう)による密教経典の請来(しょうらい)もあり、多面多臂(ためんたひ)の変化の観音像がしだいに増える。東大寺不空羅索観音や大阪葛井寺(ふじいでら)千手観音像などである。またこのころには、馬頭観音や如意輪観音の尊名も知られている。密教の全盛期を迎えた平安時代初期には、観心寺如意輪観音像など、すばらしい像が造像されている。一番遅れて伝えられた准胝観音は、その最も古い像が奈良新薬師寺像(970)である。平安時代の後半には観音信仰はさらに盛んとなり、以後鎌倉時代、さらに現代まで、現世利益の仏として信仰され、数多くの傑作が残されている。 
聖観音(しょうかんのん)/全ての観音の基本形態。阿弥陀如来の弟子で頭に師匠の化仏(けぶつ/小さな阿弥陀仏)を載せている。地獄の最下層にまで助け出しに来てくれる 。
    
十一面観音 
11個の顔で全ての方向を見つめ、苦しんでいる人を見つけ救い出そうとしている。左手に蓮華を挿した水瓶を持つ(この水は一切のけがれを消す)。十一面観音の見所は後頭部 、いつも冷静な仏が笑っており、「暴悪大笑面」(ぼうあくだいしょうめん)と呼ばれる、悪事を笑っているもの。
    
千手観音 
聖観音が変化した強い法力をもつ仏。無限の慈悲で人間以外の生き物も全て救う。顔は十一面あり、手は千本あるものと42本に省略されたものがある。風神 と雷神はこの千手観音に従っている。
馬頭観音/頭上に馬の頭を載せた怒りの観音。諸悪を粉砕する。馬はどんな濁った水でも飲み尽くすことから、人々の不浄な煩悩を断つ仏 。
    
如意輪(にょいりん)観音 
6本ある手に、あらゆる願いをかなえる如意宝珠や、仏の教え(あるいは釈迦自身)を象徴する法輪を持 つ。法輪は武器にもなる。菩薩には珍しく坐像が多い。
不空羂索(ふくうけんじゃく)観音/羂索という綱を持ち、それで人々をもれなく救い上げる。不空とは「願いが空しくない 」という意味。目が額にもある。
    
水月観音 
腰をかけ水面に映った月の光を眺めている、足を崩し手をつき休んだ姿。北鎌倉・東慶寺。
薬師如来

 

    
左手に薬壺(やっこ)を持ち身体と心の病気を癒す。阿弥陀の次に悟りを得た如来。薬は生きている者だけに役立つことから、阿弥陀如来があの世の象徴であるのに対して、薬師如来は「生」の象徴とされる。仏界の東方浄土を7人の薬師仏で治め、代表の薬師如来は背後に背負っている光背(こうはい)に6体の化仏をつけている。 
* 薬師如来の印相 薬壺を持つ。薬師如来も釈迦のように右手をかざしているが、これは説法ではなく患部を手当てしている。右手の「薬指」を少し前に出すことで薬師如来であることを表 すものも多い。 
* 薬師如来の脇侍 日光菩薩と月光菩薩。もしくは十二神将。
薬師如来1 
現世利益の仏である薬師如来は、飛鳥時代の像として法隆寺金堂像(607)があるが、その信仰が盛んとなり、国家的なものにまで高められた時代は、白鳳時代から奈良時代である。天武天皇九年(681)に発願され、持統天皇十一年(697)ごろに完成した奈良薬師寺金堂三尊像、天平十七年(745)に、京及び諸国に発せられた薬師像七躯、経七巻の造写の詔などが、こうしたことを裏付けている。また景戒の『日本霊異記』は、薬師信仰がこの時代には一般民間にまで広がっていたことを伝えている。この時代の像としては、薬師寺像、石川薬師寺像、滋賀聖衆来迎(しょうじゅうらいごう)寺像などが代表的な像である。平安時代は密教の確立された時代である。日本天台の祖最澄は、延暦二十二年(803)の渡唐の際、遣唐船の安穏を祈り太宰府や竈門山寺(かまとやまじ)で六尺の薬師仏四躯を造ったことが知られている。また比叡山根本中堂が薬師如来像を本尊としたことから、これ以後天台宗では、重要な仏としてまつられている。平安時代初期の像としては、京都神護寺像や奈良元興寺像があげられる。また地方像にも、岩手黒石寺像(862)、福島勝常寺像、広島古保利(こぼり)薬師堂像など、すぐれた像が多い。平安時代も中ごろに入ると、末法思想の流行とともに現世仏として信仰され、法性寺や法成寺に安置されていたことが知られている。鎌倉時代にも引き続き現世利益の仏として信仰されており、京都醍醐寺像、高知雪蹊寺(せっけいじ)像、茨城岩谷寺像(1253)など多数の像が残されている。  
薬師如来2 
薬師瑠璃光如来・大医王佛などと言い梵語名Bhaioajya‐guru-vaidurya-prabha(バイシャジャ・グル・ブアイドーリャ・プラバ)の意訳である、瑠璃光浄土のguru即ち教主と医者集団のグルとに解釈される。 
薬師如来の脇侍として日光菩薩・月光菩薩が随い、さらに十二神将が守護する構成となる、十二と言う数字は薬師如来のたてた誓願の数に由来するとされる(新薬師寺・東寺 等)、但し薬師如来の脇侍であるが「薬王薬上菩薩経」には二菩薩が脇侍として説かれている、特に東寺の場合は不空訳の「薬師如来念誦儀軌」に忠実に造像されている。 
薬師如来に関する代表的な経典に玄奘訳の「薬師瑠璃光如来本願功徳経」所謂「薬師経」と義浄訳(注9)の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」すなわち「七仏薬師経」等がある、阿弥陀如来の四八と同様に菩薩時代に本誓(ほんぜい)すなわち十二の誓願をたてる事により如来となった。 
その他薬師如来関連の漢訳経典は「灌頂経第十二抜除過罪生死得度経」・7世紀頃に達磨笈多(ぐつだ)訳の「薬師如来本願経」・8世紀義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願経」の等がある、近年5世紀頃と推定される梵語の写本も発見された、また密教と関連付けされる経典に「薬師七仏供養儀軌如意王経」「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」が言われている。 
薬師如来の供養法として続命法が行われており薬師如来を信仰する衆生を十二神将が守護すると言われている、最澄に薬師信仰に篤かった事から台密に於いては阿閦如来と同尊とする思考も見られるが無理が考えられる。 
インドに於ける古代信仰に長寿・投薬を司る神々の信仰から派生したとされる、また初期仏教に於いて仏陀を医王と呼称されたとの言われる、供養の代表とも言える四事供養(注3)に「湯薬」がありインドに於いても信仰は確認されている。 
薬師如来の特徴は大乗仏教を更にデフルメした如来であり、深遠な哲学の探究は無く物的欲望を満たす仏である、即ちご利益が直接的・具体的であると言うことである、十二の大願を取り上げてみると・光明普照(浄瑠璃浄土で仏に成れる)・除病安楽(病を治す)・安立大乗(解脱に導く)・諸根具足(障害者を治す)・苦悩解脱(悩みを取り除く)・飽食安楽・美衣満足・施無尽仏・安心正見など至れり尽せりで他の如来のような精神的・哲学的なご利益などでは無く非常に実利的かつ菩薩的なご利益である、また神仏融合の先駆け的如来でもある。 
また同じ他土仏(注12)であるが阿弥陀如来の浄土に於ける安寧と違い薬師如来は現世に於ける利益であり具体的である、法隆寺や薬師寺に於いても薬師如来は病気平癒の信仰から造像されている、浄土との往復券いわゆる「二種廻向」即ち「往相廻向」と「還相廻向」を言う浄土真宗ほど便利では無いが、薬師浄土と阿弥陀如来の極楽浄土との最大の相違は極楽浄土が来世を言うのに対して薬師如来の瑠璃光浄土は現世利益を言う。 
また瑠璃光浄土は男性のみの浄土で女性の存在しない事である、これは女性の苦しみを与えないために瑠璃光浄土に於いては男性に変身させる為と解釈があるが、男女差別が強いバラモンの思想からのサルベージとして、初期大乗仏教興隆の先端と言える「八千頌(はっせんじゅ)般若経」等の影響をうけ「変成男子(転女成男)」即ち男性への性転換が考えられたと言えよう。 
薬師如来の造像で現存する場所はインドには作品がなく中国に於いても少ないが龍門石窟(525年)・敦煌千仏洞の薬師浄土変相図辺りが最古とされる、朝鮮には多くの作品が残る。 
除病安楽や呪術・悔過(けか)などを目的として、天平時代には薬師信仰の広まりは顕著で薬師寺を初め元興寺・大安寺・西大寺・興福寺・唐招提寺から国分寺の本尊にまで浸透する、さらに平安時代になると最澄の薬師信仰の篤さから延暦寺を中心に浸透する、因みに最澄は遣唐船に乗船前に大宰府に於いて船中安寧を祈願して四尊の薬師如来像を造像したとされるが現存像は存在しない。 
現存薬師像には該当しないとされるが続日本書紀745年薬師如来像七尊と経典七巻を製作された記録がある、日本に於ける初期の薬師像は法隆寺金堂の607年造像は奈良時代造像説も囁かれ疑問として法輪寺や興福寺の旧山田寺佛頭が685年とされ特に法輪寺像は最古の様式をもつ、薬師信仰は用命天皇の遺言により607年推古天皇と聖徳太子が造像したと言う伝承や、聖徳太子の病平癒祈願に始まるとも言いう法隆寺の薬師如来像を初めとして、日本書紀には686年経典講義が為されたと言い、天武天皇が皇后の病のとき薬師寺建立を発願があり、藤原不比等の病や聖武天皇が病んだとき薬師悔過が天皇家や貴族達の病気平癒に薬師如来に対する祈願が流行し釈迦如来が本尊である筈の国分寺にも薬師如来を本尊にする機運も生まれた、ご利益の関係から四事供養の中に飲食(おんじき)・衣服・臥具・と共に湯薬が加えられている、薬師信仰は8世紀後半から興隆するが怨霊鎮魂にも利用されたようで745年創建の新薬師寺は藤原廣嗣の鎮魂祈願に神護寺は弓削道鏡の鎮魂祈願に利用された形跡が感じられる。 
創建当時には七仏薬師堂が本堂で七尊が本尊であったとされる新薬師寺の場合、薬師如来は鞘佛であり体内に香薬師を収納していたとされ、収納された尊像の霊を封じる目的があり鞘(さや)仏と秘仏の関連は深い,この形態は法隆寺・西円堂や勝持寺など各地に相当数存在しており臨終の際に来迎に現れる為に衆生に身をさらす阿弥陀如来と対照的である。 
また薬師如来は佛教伝来以後日本の古代信仰と融合が困難であったが、峻厳な表情等の造像が為され民衆に神仏融合の思想を植えつけた先駆仏と言える。 
顕教に於いては四方佛の一尊に数えられ前世,即ち瑠璃光浄土に君臨する重要な如来であるが、密教では異なり両界(部)曼荼羅には多くの如来を初めとする仏像が取り上げられているにも拘らず薬師如来の姿は無い、これは教えがご利益に偏り他の如来の持つ真理・覚りの追究などはあまり感じられない為かも知れない、ただし強引ではあるが曼荼羅には存在しない為、阿閦法と共通点を挙げて阿閦如来との同尊説も言われるが如来の持つ哲学・姿形に相違が多い。 
かさねて言えば薬師瑠璃光浄土とは女性の姿は無く、諸々欲悪、悪の道に悩む声等は無い、地面は瑠璃土で構成され、七宝で飾られた浄土とされる国であると「薬師本願経」は言う。 
日本にある如来像の内最も多くの寺院が国宝指定を受けており(阿弥陀如来は16尊の指定であるが浄瑠璃寺に9尊が並ぶ為10箇寺に計算)、各時代を通じて多くの像が制作されたが特に平安時代(重文以上の指定佛の約80%が平安時代の作)に優れた造形の像が多く作られた、前述の如く最澄が薬師信仰者であったせいもあり天台宗の興隆と共に地方にも広がりを見せたが特に皇族・貴族が病気平癒などの祈願を多く受けていた、この時期(6世紀頃)に於いて不空訳の不空訳の「薬師如来念誦儀軌」に従い右手平を胸の前に見せ左手には薬壺を載せる尊像が造像される様になる。 
日本の場合不空の「薬師如来念誦儀軌」の影響を受けて天平時代末から平安時代以降医薬の効験を示す佛として薬壷を持つ像が多く作られる、この経典に忠実な尊像の代表は東寺金堂の薬師如来である、これは主に脇侍の日光・月光菩薩や像高一メートル未満の十二神将の配置にある。 
さらに既存の如来像に薬壺を置かれた例もある、日本以外にこの形態の像は多くはないが中国隋の時代に高揚し敦煌莫高窟148、417、220・雲崗石窟11窟・龍門古陽窟に薬師変相図として存在する、石窟以外ではボストン美術館所蔵の新羅・楡岾寺(ゆうじじ)がある、53佛中の薬師像やソウル国立中央博物館等の像は薬壷を持つ、薬壺持つ事の根拠に付いては前述した不空の「薬師如来念誦儀軌」に記述されている。 
しかしこの時代の民衆は観音・地蔵菩薩のほうが多くの信仰を集めていた様である。 
経典には薬師経以外に数点しか存在せず薬師如来の姿形・印相等は薬師如来本願経に如来形と記述があるが、他には説かれていない為か釈迦如来と同じ形(施無畏与願印すなわち通仏相)をしており判別は難しい、古い造例に於いては右臂・施無畏印で左臂・与願印であるが平安時代以降左手に薬壺を載せる例が増える、また兵庫県水上郡の常勝寺の様な法界定印に薬壷を持つ薬師如来まで存在する、稀に智吉祥印(転法輪印)や天部形もある様だ、これらはインドに於いて釈迦以外にも過去・未来に於いて覚者(如来)が現れると言う哲学的思考から発達した為、姿形的に表現方法が同型に成ったのは致し方のない事であろう。 
薬壷は不空の漢訳「薬師如来念誦儀軌」以後所持する様になったとされる、天平時代の像で法隆寺・西円堂の薬師如来は薬壷を持つが像造当初の薬壷では無いとされている。 注目すべきは日本各地の国分寺や四国八十八ヶ所などに伝わる本尊に現世利益が叶う薬師如来が多いということである。 
薬師如来の特徴として薬壷の他に光背に小さな如来を七尊すなわち七仏薬師(注1)を持つケースが多い、室生寺の場合国宝・釈迦如来は礼堂の蟇股の薬壷、光背の七仏薬師などから現在では薬師如来とされている。 
2001年現在我が国に国宝15尊(興福寺佛頭を含む、室生寺釈迦如来除く)を含む約249尊の重要文化財指定の尊像が存在する、地域的には滋賀県・45尊が最多で奈良県・42尊次いで京都府34尊と続く。 
絵画に於いては金剛院(京都)・高野山の桜池院などに薬師十二神将像がある。  
薬師如来の具体的なご利益から「西国薬師霊場」が昭和の最晩年に49ヶ寺で結成され多くの著名寺院が参加している。 
真言 オン コロコロサンダリマトウギソワカ  
注1  七仏薬師とは初期の経典には記述されていないが「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」義浄訳(注8)・達磨笈多訳の「薬師如来本願経」に記述があり七尊が本願及び仏国土を持つとされる、七仏を個々に祀る事により願いが成就するとあり、薬師如来の光背に化佛が存在するのはこの経典の影響と言える、またこれには七仏を夫々独立形で造像すれば所願成就が叶うといい、供養すれば横死を免れると言う。 
七仏薬師法の採用は日本では円仁が熾盛光法・八字文殊法と共にを請来した大法である。 
主に息災と安産を祈る比叡山の重要な密教修法の一つで義浄が漢訳した経典を採用しており薬師七体を祈るものであるが、東方に七尊の如来が存在し最も遠い第七の如来が薬師如来であるとされる、しかし薬師如来の分身か別尊かの確証はない、七仏薬師信仰は8〜9世紀にかけて天台宗が藤原摂関家の安産祈願を行なってから顕著になる、因みに真言宗に於いては七仏薬師に関する修法は行われていない。 
薬師如来の光背に七尊又は六尊の薬師如来を配置された寺に薬師寺・新薬師寺・醍醐寺、東寺があり新薬師寺の場合は創建当初は七仏薬師が本尊であった。 
七仏薬師信仰から七所薬師に対する信仰も生まれ、京都を中心に延暦寺・広隆寺・珍皇寺・法雲寺・護国寺・観慶寺・平等寺を言われたが現在は言われていない。 
また唐招提寺の薬師如来の光背にも七仏薬師が存在したとされる、さらに神護寺・法隆寺西円堂・醍醐寺・黒石寺(岩手県)等にも、そのこん跡が見られる、現存する七佛薬師像に松虫寺・鶏足寺(己高閣)には七尊が揃い松虫寺は重要文化財指定を受けている、両寺の相違は松虫寺の場合は中尊が大きく坐像に対して、焼失した延暦寺の七仏薬師と同型とされる鶏足寺(下の写真参照)は七尊が立像で像高は概ね均等である。 
瑠璃光浄土を描く曼荼羅で本来は瑠璃光浄土変相図に薬師八大菩薩(文殊菩薩・観音菩薩・勢至菩薩・弥勒菩薩・宝檀華菩薩・無尽意菩薩・薬王菩薩・薬師上菩薩)を描かれる事がある。    
七仏薬師の尊名は以下のようになる。 
(1)善名称吉祥王(ぜんみょうしょうきちじょうおう)如来(東方光勝世界)  光勝国浄土 
(2)宝月智厳光音自在王(ほうげつちごんこうおんじざいおうにょらい)如来(東方浄瑠璃世界)  妙宝国浄土 
(3)金色宝光妙行成就(こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅ)如来(東方円満香積世界)  円満香積国浄土 
(4)無憂最勝吉祥(むうさいしょうきちじょう)如来(東方無憂世界)  無憂国浄土 
(5)法海雷音(ほうかいらいおん)如来(東方法幢世界)  法幢国浄土 
(6)法海勝慧遊戯神通(ほうかいしょうえゆうぎじんつう)如来(東方善住宝海世界)  善住法海国浄土 
(7)薬師瑠璃光(やくしるりこう)如来(東方光勝世界)の呼び名がある。   瑠璃光国瑠浄土 
注2  室生寺金堂の国宝・釈迦如来は後背に七佛薬師が画かれており本来薬師如来である。 
注3  供養  梵語のp仝jan´ (プージャナー)の音訳で仏に供物を供える事、 佛教では供犠(くぎ)すなわち生贄を肯定しておらず様々な供養方が説かれている、法と財とに分かれ礼拝・賛歌・恭順等と四事供養(飲食・衣服・臥具・湯薬)に代表される供え物とがある、その他二種供養とは香華(こうげ)・飲食を供えることを言い三種供養には香華・飲食(利供養)讃嘆恭敬(さんだんくぎょう)敬供養、 密教で用いられる五供養(塗香・華・焼香・飲食・灯明)、その他六種供養・十種供養がある。 
注4  薬師八大菩薩とは 薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・弥勒菩薩 ・文殊菩薩 ・観音菩薩 ・得大勢至菩薩 ・無盡意菩薩 ・宝檀華菩薩を言う。 
注5  四方佛とは 顕教に於いては四方に佛国土があると言う考えがあり、東方の瑠璃光世界に薬師如来 西方極楽浄土(来世)に阿弥陀如来 南方現世に釈迦如来 北方弥勒浄土に弥勒菩薩 が君臨している、この形態は興福寺の五重塔を初めとして多く存在するが、密教寺院である教王護国寺等の五重塔内は五智世界による羯磨曼荼羅で構成されている。 
注6  鞘仏(さやぶつ)とは仏像の胎内に小規模の仏像を施入された外側の仏像を言い現在も厨子に納め施錠し怨霊を封じるため秘仏とされる像が多い。 
注7  中国に於いては随の時代に薬師信仰の広がりが確認されており、雲岡石窟11窟、龍門古陽洞、敦煌莫高窟148窟、417窟、220窟など多くの変相遺例が存在する。 
注8  石窟寺院 山は精霊の住む場所であり、そこに彫られた石窟はガルバ(子宮)と呼ばれ戒律を遵守し石窟瞑想の世界に於いて覚りを目指す格好の場所である、石窟寺院は人里から隔離されているが交通の要路近くに彫られており、水・寒暖に優しいところが選ばれている、代表的な石窟寺院にインドではアジャンター・エローラ・アフガンのバーミヤン・中国の敦煌・雲崗・龍門・朝鮮の石窟庵等が挙げられる。 
注9  義浄 635〜715年 張氏の出身で唐時代の律僧、玄奘三蔵に心酔しインドに渡り約20年間留まり、各佛跡地を歴訪し経典を請来し「金光明最勝王経」「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」等漢訳を行う、著作に「南海寄帰内法伝」「大唐西域求法高僧伝」がある。 
注10 梵語名 Bhaioajya=薬 guru=師匠 vaidurya=瑠璃 prabha=光 (梵語スペルは書き込み不正確)。  
注11 カヤ材とは針葉樹で平安時代初期より木材の材質は楠から檜や榧(かや)に変わり始めた。  
注12 他土仏(たどぶつ)信仰とは大乗仏教が起こり釈尊を思慕した事から生まれた地球空間以外の空間の如来・菩薩である、代表的な尊名は阿弥陀如来・薬師如来等々である、法華経・金光明経・阿弥陀経など多くの経典に記述されているが共通する如来名は阿閦如来と阿弥陀如来のみで異なる尊名が多数を占める、因みに過去七仏は釈尊と同じ娑婆の世界仏である、いわゆる報身佛が他土仏に相当するとも言えよう、これに対して地球空間を「自土」と言う、従って釈迦如来は自土仏である。
    
月光菩薩/智恵の仏。向かって左側。日光菩薩/慈悲の仏。向かって右側。 
日光・月光菩薩は、薬師如来の脇侍仏として造像されてきた。奈良薬師寺三尊像や東京国立博物館木心乾漆日光像、東京芸術大学月光像(各奈良時代)が古い例である。
    
十二神将 
薬師如来の警護。魔物だったが説法に感動し味方になった。各神将は7千人の配下を率い、頭上に干支の動物を冠して全方角を守っている。
大日如来

 

    
密教(真言宗)にのみ登場する特殊な如来で最高仏。宇宙そのもの。すべての仏像は大日如来が時と場所を超えて変化した姿とされる。大日如来を中心に宇宙の構造を図で示したものが曼荼羅(まんだら)。大日如来は坐像しか彫られていない。別名、毘盧遮那(びるしゃな)如来で奈良の大仏が相当する。 
* 大日如来の印相 智拳印(ちけんいん)、左手(不浄、悪)を右手(善)で包み制する。 
* 大日如来の脇侍 阿弥陀如来や釈迦如来
大日如来1 
密教理論から生み出された大日如来には、金剛界胎蔵界大日の二種がある。真言系寺院では金剛界、天台系では胎蔵界大日をまつる例が多い。現存の最も古い像は、安祥寺五智如来の中尊像である。他に和歌山金剛峯寺西塔像(886頃)、運慶作の奈良円成寺像(1176)などが著名である。  
大日如来2 
大乗仏教の教義に於いて言われるMah´y´na(マハー、偉大な・ヤーナ、乗り物)即ち衆生を導く為に大きな乗り物の必要性から多くの如来が顕れる、如来の種類が増えれば統合の必要性が起こる、一言に要約すれば大日如来は密教に於ける宇宙真理を擬人化した如来である、これを東密では「普門総徳(ふもんそうとく)の尊(注9)」と言う。 
仏身観に於いても特別である、他の尊格は一門別徳の尊、すなわち如何なる如来・菩薩・明王に対する信仰でも普門総徳の尊である大日如来に行き着くとされる、これを一門普門(注9)と言う、但し大日如来に対する信仰は如来の教理が宇宙真理そのものである為に普遍性に乏しく、僅かに関西地方に牛の守護神としての信仰や十三仏信仰の一尊や京都に於いて地蔵盆と習合した天道大日如来、すなわち大日盆や名古屋市天白区八事天道の高照寺(臨済宗)等限られた地域に於いて信仰されている。 
華厳経(唐招提寺の毘盧遮那佛)・梵網経(東大寺の毘盧遮那佛)などに毘盧遮那佛が説かれる、これ等の経典が触媒となり密教名に適う意訳の大日如来が善無畏の訳による「大毘盧遮那成仏神変加持経」(大日経)により生まれた,因みに大日如来の典拠となる両部の大経の内、[大日経」には大日如来の呼称は数回であり多くは毘盧遮那と記述されている、「金剛頂経」に於いては全てが毘盧遮那如来の呼称が使われていると言う、しかし日本に於いての密教は大日如来の呼称が一般的に使用されているが、中国に於いては毘盧遮那如来及び遍照如来と呼称されていた(金剛頂経入門・頼富本宏著・大法輪閣 他)、因みに遍照(へんじょう)とは遍(あまね)く光輝く事を意味する、また大日経には摩訶(大)毘盧遮那仏と毘盧遮那仏の区別に付いての記述があり、毘盧遮那仏は経典の主であり曼荼羅の中核に座す如来(大日如来)である、摩訶毘盧遮那仏とは曼荼羅の総てを意味するとされる、従って摩訶毘盧遮那仏を一切如来(sarva tath´gata)とも言われている、また金剛頂経には大日如来の起りはは「一切義成就菩薩」と解釈できる記述も見られる様である。 
大日如来の呼称に付いて気鋭の研究者達による「曼荼羅図典・大法輪閣(注12)」に依れば金剛界曼荼羅の解説に大日如来の尊名は使用されず毘盧遮那如来が呼称されている。 
梵語名に諸説あり「源泉は諸説交錯する、古代イランに於けるゾロアスター教や転輪聖王を源流とする説もあり、大別すると恵果・空海の流れとインド哲学研究者とで解釈は異なるようだ、ここではMah´vairocana(マハ-バイローチャナ)(偉大な太陽)とする説を記述する、密教は顕教の華厳宗を源流としている様で華厳宗の本尊が音訳では「毘盧遮那佛」であり、善無畏と弟子の一行による意訳が大日如来で密教の本尊である、「偉大なる太陽の子」と言う意味であり闇の中でも遍く光明に輝く仏陀である、密教の中では如来の中で最高位の佛で根本本尊すなわち一切諸佛(如来・菩薩・明王・天)の本地佛であり大日如来の応化(おうげ)は全ての仏に及ぶ、即ちコスモロジー(cosmology)宇宙哲学分野の如来である。 
天台宗に於いては教義に制約は少ないが真言密教に於いては教義即ち宇宙真理そのものである、「仏身の教え―法身所説(そのままの姿)―自性法身」と言えるかもしれない、大日如来の智慧の光明は総てに及び慈悲は不滅とされる、密教に於いては諸如来・諸菩薩・明王はこの大日如来(本地佛)より派生し、佛教を興した釈迦如来でさえ曼荼羅の中では胎蔵界曼荼羅の釈迦院に存在するのみである、また大日如来の装着する冠は五智宝冠が普遍的であるが胎蔵界の場合は禅定印を結んだ髪髻冠(はつけいかん)(注11)の大日如来が存在する、大日経・具縁品に於いて髪髻をもって冠と為しと記述があり初期の大日如来は附けていなかったとも言われる、胎蔵大日如来の嚆矢とも言えるラリタギリ遺跡(オリッサ地方)では禅定印の髪髻冠の如来が存在している、しかし金剛智の時代になると「略出念誦経」には「頭に宝冠を具え、髪を垂れ」となる。 
大日如来の呼称に付いては「両部の大経」の内、金剛頂経に於いて主に毘盧遮那佛と呼ばれており、大日経では大日如来と毘盧遮那佛が併用されている、梵語名はvairocanaであるが大日経の中で毘盧遮那の一部分を大日如来と翻訳したのは善無畏(637〜735)と一行(673〜727)であり、大毘盧遮那成仏神変加持経疏・から大日経義疏が出されて大日が普遍化する、またチベット佛教に於いては両部の大経以外に悪趣清浄儀軌による「普明大日如来」が存在すると言う。 
大日如来は躯体等から多くの諸仏を生み出しており「仏眼仏母」すなわち覚りを生む母、正式には「一切仏眼金剛吉祥一切仏母」や三十二相の内最重要の頭部からの「仏頂尊」等々の尊格があり胎蔵生曼荼羅の遍智院(佛心院)に存在している、仏頂尊(注14)で著名な尊格に中尊寺外の「一字金輪(きんりん)仏頂」や青蓮院の本尊「織盛光(しじょうこう)仏頂」等がある。 
諸仏の王者・大日如来は本来坐像であるが少数立像が存在する、弘前市・最勝院五智如来堂の五智如来や當麻寺中之坊宝物館の十三佛来迎図は智拳印を結ぶ立像である。 
密教教義の中核である両部曼荼羅の内 胎蔵(界)曼荼羅では中台八葉院の中尊として金剛界曼荼羅の各会の中尊として君臨している。 
摩訶(偉大)毘盧遮那佛を密教の世界では大日如来と呼ぶが漢訳と和訳の相違と解釈できる、また密号を遍照金剛と言い空海は恵果から同じ密号を与えられている。 
経典、訳者により相違もあるが大日如来は他の如来と違い頭に宝冠をかぶり首には瓔珞(ようらく)・腕には臂釧(ひせん)・腕釧(わせん)等を付け菩薩と同型をしている、現在この形態の如来は大日如来の他に我が国では鎌倉時代の絵画、紅玻璃(ぐはり)色阿弥陀如来・で存在するが極めて少数である、しかし中国に於ける遺尊は菩薩形で占めており釈迦如来と解釈の分かれる尊像も見られる。 
大日如来が菩薩形である理由として佛の王者としての風格を示すと解説する説明書が多いが佛の王者が格下の菩薩と同型では説明が難しいがインド等に於いては菩薩の位置に置かれた盧遮那があると言う、仏像散策(東京書籍)に於いて津田真一氏は菩薩形の典拠に付いて大日経・住心品の「菩薩の身を師子座と為す」に求め善無畏訳の経疏にも触れて「大日経の宗教理念が大乗佛教の正統を継いで菩薩思想にあることを示しており、金剛界はそれを踏襲している」と言う意味を述べておられるが、要するに日本に於いては大日如来及び菩薩・明王達は大乗佛教の仏であり、応身佛である釈迦如来や阿羅漢は上座部の描いた覚者であり、他の如来はその形態を踏襲した姿と言える。 
インドでは佛教の最盛期に純粋に佛陀の像として制作された時代のものと、土着信仰のヒンヅウー教に圧倒されて対抗上考え出された密教にはヒンズー色が強く取り込まれており、仏像もヒンズー色を採り入れたものと解釈した方が良いのではないか。  
密教(密教では梵天・帝釈天などヒンズーの神々を取り込んで佛弟子に取り込んだ形態にしている)が誕生する事によりインドではヒンヅウー教との教義の違いが曖昧になり佛教は土着宗教に取り込まれ13世紀には一部少数民族の佛教徒を除いて表面上は消滅に近い状態である。 
大日如来の造例として恵果から受け継いだ一環にも係わらず中国に於いては、ほとんど見られず、インドに於いても存在は否定的であったが1960年代に入り佐和隆研・頼富本宏の両氏等に指摘されたオリッサ地方・ビハール地方や西チベットに於いて石像をメインに金胎佛が存在する、但し成立が1世紀にわたりタイムラグのある両界(部)曼荼羅に大日如来は本尊で取り扱われている事には注目の必要がある。 
日本には多くの大日如来が現存している、空海が在住していた頃と推定される神護寺の紫綾地金銀泥曼荼羅を嚆矢として、彫刻では京都・安祥寺の五智如来の中尊を最古として空海のグランドデザインによる金剛峯寺には多宝塔に金剛界・大塔に胎蔵(界)を配置した、しかし日本でも大日如来を単独で信仰された例は京都市内や名古屋市の一部などを除いて少ないが平安時代には密教を取り入れた宮廷儀礼や貴族社会の密呪が取り上げられて五大明王等と共に密教の中心として造像される様になる。 
「金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌」に依れば大日如来は念誦に対する秘奥修法を重要視する密教の象徴であり、「仏菩薩を現証す」と言われ多くの修法の本尊である、中尊寺寺外の十七箇院には一字金輪仏頂を本尊とする極秘修法が行われている、一字金輪仏頂(いちじこんりんぶっちょう)とは仏の中に於いて尊格が最上位の如来すなわち仏頂(最勝最尊)を言う、凡ての仏格の功徳は金輪仏頂に帰するとされる、金輪仏頂は二系列があり大日金輪・釈迦金輪の分類される、姿形は菩薩形で宝冠・瓔珞・腕釧などで装飾している、中でも大日金輪は智拳印を結び日輪の中に現れると言う。 
特に真言宗に於いて大日如来は「普門総徳(ふもんそうとく)の尊」(注9)であり言うまでもなく最重要佛である、伝法阿闍梨の資格を取得の為の行即ち四度加行で広沢流では前行の礼拝行の本尊である、但し小野流系に於いては如意輪観音が本尊とされる。 
一方天台宗に於いては円仁の弟子安然は「一大円教」を主張する、即ち仏の教義は全てが密教であると言う、他に教えはなく大日如来一佛のみで諸仏も大日如来そのものであると言う教説を称えている、大日如来は色々な佛に変化して現れるがこれを如来・菩薩・明王の三輪身に変化して金剛界に於いては五智を示している。 
形姿としては四面大日如来・逆智拳印大日如来(愛媛県大三島町・大山祗神社)などの異形も少数存在するが我が国では空海が唐より持ち帰った両界曼荼羅に倣った像が大部分で、金剛界では顕教には存在しない密教特有の智拳印を結び、胎蔵界では大日経に於いて「定に住す」と記述され法界定印を結ぶ、梅原猛氏はこれを智拳印は男性のシンボル的・法界定印を女性のシンボル的な表現とされる、しかし法界常印(禅定印)はスタンダードとして、智拳印は転法輪印(説法印)の発展形であり仏と衆生とを結ぶ「不二、双入」論(両界曼荼羅の誕生・田中公明・春秋社)に説得力が感じられる。 
密教が請来された後、仏像の印形は著しく増加したが大日如来の二つの印は印形の代表的な存在である。 
日本に於いては胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅からの配置で智拳印と定印に限られるが、ナーランダ寺院跡から発見された大日如来は智拳印の中に金剛杵が包み込まれていたり、ウダヤギリ佛塔では大日如来は北側に文殊菩薩と幢幡を両脇に置いて、東面に阿閦如来が弥勒菩薩と宝殊を南面に宝生如来が観音菩薩と剣を西面は阿弥陀如来が金剛手菩薩と華を従えるなど多様性がある、また中期密教を請来した日本には存在しないが後期密教を受容した国に於いて智拳印をそのまま放す転法輪印を結ぶ大日如来が存在している。 
オリッサ・ラトナギリで生まれた8世紀〜12世紀まで続いたパーラ朝では五智如来(五仏)がある、胎蔵の大日如来も独尊で散見出来るが多くはが金剛界五仏で占められており触地印の阿閦如来・与願印の宝生如来・禅定印の阿弥陀如来・施無畏印の不空成就如来で構成されている。 
稀有な例としてチベットやインドのラダック地方で智拳印を結ぶ大日如来(毘盧遮那佛として)の女性尊が存在している、近年大日如来に対する調査研究はチベットやインドネシア等で進行しており、さらに新しい発見が期待される。 
密教の場合の印契(印相)は教理を表現したのみでなく誓願や呪術的にも使われている。 
密教では大日如来は智慧の光が一切に及び慈悲は不滅であると解釈されている。 
また金剛界の五智如来をセットで設定してあるのが、大日寺(吉野)、東寺、編明院(岡山県邑久郡)等である。 
1997年現在国宝・重要文化財指定の像は71尊あり金剛界を表わす智拳印像50尊・胎蔵界を表わす法界定印像21尊で、各県別に見ると以下のようになる。 
和歌山県が金剛峯寺を中心に11尊(智拳印10尊) 
・滋賀県は法界定印像(7尊)を中心に10尊 
・奈良県6尊(智拳印5尊) 
・京都府5尊(智拳印3尊) 
・大阪府5尊(智拳印4尊) 
・兵庫県5尊(智拳印3尊) 
・高知県4尊(智拳印2尊)と続き、時代別では平安時代の像が80%を占める。 
真言 オン アビラウンケン 
注1  梵語名では毘盧舎那仏(Vairocana)の前に摩訶・偉大な(Mah´)を付けた佛を大日如来という。(梵語スペルは文字化けで不正確) 
注2  大日如来の灌頂号すなわち密号を「遍照金剛」と言い,空海が唐に於いて恵果から受けた密号と同じである、密号とは密教に於ける結縁灌頂に使用される呼称を言い金剛号・灌頂号等と呼ばれる。 
注3  五智とは金剛界五如来の智慧である、 唯識では総てを超越した覚りの智慧を出世間智(しゅっせけんち)と呼び修行の段階を四智と言い 1大円鏡智 2平等性智 3妙観察智  4成所作智としているが、密教に於いては最上位に法界体性智を置き五智として優位性を示している、大日如来を中尊とした五仏をすべて五智如来と説明される事があるが胎蔵界曼荼羅は「理」を金剛界曼荼羅では「智」を表している、金剛頂経に於いては大日如来を中心に各如来が仏智を担当している、大日経に於いて大日如来は独尊であり必ずしも五仏は強調されない、日本では胎蔵界も五仏で顕わされるが「胎蔵界五仏」と呼ぶべきである、インド密教を直接請来したチベット等では独尊で顕わされる事が多い、またインドを含めて他国では意訳を含めて金剛界も金剛界五仏と呼ばれるが、日本では概ね五智如来と呼ばれているが種智という表現も使用される、即ち空海の開いた綜芸種智院の例がある。 
但しインドに於いて最後に登場した後期密教すなわち金剛頂経の十五会「秘密集会タントラ」を取り入れている、チベットやブータン仏教に於いては金剛界五仏の内大日如来の多くは、毘盧遮那となり東に下がり阿?如来が中尊として君臨している、チベットに於いては「秘密集合会聖者流三十二尊マンダラ」や三面六臂の主尊「阿?金剛」は憤怒形で同じく三面六臂の「明妃触金剛女」を抱きしめる彫刻や絵画(チベットハンビッツ文化財団所蔵等)が存在している,因みにタントラとは、この場合インドに成立した後期密教聖典の呼称を言う、また密教経典に於ける総称を言うこともある。 
1 大日如来・法界体性智(ほっかいたしょうち) 無垢・清浄識(阿摩羅識)を言い、以下の四智の統括で宇宙の真理を著す知慧・普門総徳の智識    
2 阿閦如来・大円鏡智(だいえんきょうち)総ての森羅万象を鏡す知慧(阿頼耶識)・一門別徳の智識  
3 宝生如来・平等性智(びょうどうしょうち)あらゆる機会平等の知慧(無我)・一門別徳の智識 
4 無量寿如来・妙観察智(みょうかんさつち)正しい観察の知慧(妙観察智)・一門別徳の智識 
5 不空成就如来・成所作智(じょうしょさち)必要な事を行う知恵・一門別徳の智識 
注4 大日如来の眷属では金剛界曼茶羅の成身会では金剛波羅蜜・宝波羅蜜・法波羅蜜・羯磨波羅蜜菩薩を四印会では金剛薩た・金剛宝・金剛法・金剛業菩薩を従える。 
注5 三輪身とは自性輪身(じしょうりんじん)如来の姿/正法(しょうぼう)輪身菩薩の姿/教令(きょうりょう)輪身明王の姿 
注6 胎蔵界の印契は釈迦如来・阿弥陀如来などの如来が結ぶ定印と同型であるが大日如来にかぎり法界定印と呼ばれる。 
注7 五智如来の揃う寺院に教王護国寺・安祥寺(京都)・金剛三昧院木造(和歌山)・大日寺木造(奈良)・遍明院木造(岡山)等がある、文化財指定外ではあるが異形に菩薩形に近い山梨県の宝殊寺・僧形の弘前の最勝院があるり、多くは真言宗寺院で占められるが京都市の臨済宗、建仁寺派で八坂の塔で著名な法観寺(創建時は天台宗)の五重塔には五智如来像が安置されている。 
注8 法身佛とは宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言え、毘盧舎那仏・大日如来を言う。報身佛とは修行の結果成道し永遠の仏となる、阿弥陀如来・薬師如来などを言う。応身佛とは衆生を導く為に顕した佛身で成道と入滅を行い、釈迦如来をさす、以上を三身論と言う。 
注9 真言宗に於いては大日如来の変化や実動部隊として各尊が存在するが、大日如来を「普門総徳の尊」と言いその他の尊格すなわち釈迦如来・阿弥陀如来や観音菩薩等を「一門別徳の尊」と言う、また一門普門とは通常には一つの教義に精通は、凡ての教義に精通出来る意味に使われるが、上記の凡ての如来・菩薩は大日如来に通じる意味於いても用いられる。 
注10 転輪聖王 CakraVartiraajan(チャクラヴァルティラージャン)インドに於ける伝説上理想とされる王で思想の起りは定かでない。 
注11 髪髻冠(はつけいかん)とは冠型に高く編んだ髪型や高く編んだ髪型に飾を装着した冠状。 
注12 チベット密教(後期密教)に於いては大日は毘盧遮那如来と呼称されている、さらに日本とは大日如来の世界の位置付けに隔たりが大きい、日本では宇宙に於ける根本仏であるがチベットでは曼荼羅は多く存在するが大日如来の尊像数は少なく、三身論に於いては報身仏として拝されている、また転生ラマ制度(活仏制度)が盛んでゲルグ派・ダライラマの観音菩薩やパンチェンラマの阿弥陀如来など輪廻転生が浸透している為かも知れない。チベット仏教では根本仏すなわち法身仏は姿を顕す事はない。 
注13 「曼荼羅図典・大法輪閣」の図像は染川英輔氏、作成による慈雲山観蔵院の曼荼羅の下図が掲載されている、この図典で金剛界曼荼羅の解説に於いて主尊は経典にならい毘盧遮那如来とされている。 
注14 仏頂尊には・如来舌(ぜつ)・如来愍(びん)(哀れみ)・如来悲(ひ)(悲しみ)・如来慈(じ)(慈悲)・如来毫相(ごうそう)・如来笑(しょう)・如来牙(が)(歯)・如来捨(しゃ)(悦)・金剛薩た等が挙げられる。 
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ) 
梵語名 sanskrit語のXairocana(バイローチャナ・光り輝く)の音訳で毘盧遮那であり、意訳を広く光を照らす事で「光明遍照」また「光輝普遍」と訳される、経典により相違はあるが毘盧舎那佛(注7)と呼ばれることもある、法身佛(注5)であり智慧と慈悲とを無辺に照射する如来とされ、真理を擬人化した如来で宇宙の真理そのものを顕し悠久の過去から未来まで仏の王者である、宇宙とは仏教用語であり、BC2世紀頃すなわち前漢の思想書である淮南子(えなんじ)や道教の始祖とされる荘子に拠れば「宇」は空間で「宙」は時間を言い、世界は時間と空間のなかで構成されており源流をたどれば宇宙をあまねく照らす古代イランの太陽信仰に有るとされる、vai=広い  ruc=照らす。 
後述するが密教では意訳するとこれに mah´=大、または摩訶(まか)(大)を語頭に付けて摩訶毘盧遮那から大日如来となるとされる、但し摩訶毘盧遮那は曼荼羅の総体を言い、金剛界曼荼羅の主尊を毘盧遮那と言う金剛頂経からの説が妥当であろう。   
毘盧遮那の顕教と密教の相違として挙げれば顕教の場合は装飾を身に着けず釈尊と同じ施無畏・与願の印を結ぶ、毘盧遮那は菩薩形でも智拳印や法界定印を結び装飾品を着ける、2〜3世紀頃に成立した華厳経に拠れば姿を現世に表す時は釈迦如来に変化して千の蓮華花弁に座すと言う、華厳思想は密教すなわち大日経・金剛頂経(両部の大経)に影響を与えているが密教の根本仏・大日如来の呼称に付いては金剛頂経に於いては全てに毘盧遮那と呼ばれており、大日経でも毘盧遮那が多く使われ大日如来の呼称は2〜3回で多くは毘盧遮那が使用されている、即ち大日如来と毘盧遮那佛は同尊であり翻訳者は中国の善無畏たちであるが大日如来は日本独自の呼称とも言える、梵語名はvairocanaであるが大日如来と訳したのは善無畏(637〜735)と弟子の一行(673〜727)である。 
華厳経成立から時が経つにしたがい毘盧遮那は次第に影が薄くなるが、大日経すなわち大拘廬遮那成仏神変加持経による密教の成立で、一部は大日如来として再び脚光を浴びるようになる。 
顕密を区別するもう一つの見解として金剛頂経に異説もあるが、顕教では華厳経に代表される「盧遮那仏」「盧舎那仏」が呼称され密教に於いては大日経の「摩訶毘盧遮那仏」「毘盧遮那仏」が多く使われる。 
また毘盧舎那仏の出自は古く拝火教(ゾロアスター教)のの祖アフラ・マズダー到り非アーリア系とされ阿修羅王と同尊との説も言われアーリア系の帝釈天等とは対比される(雑阿含経)。 
華厳経・梵網経の中に出てくる佛で無数に釈迦を発生させて説法すると言う、時代の要求に応じて釈迦以外にも仏が現れると言う哲学的思考から過去佛・賢劫の千佛・未来佛が発生した為姿形的には釈迦と同じ表現方法を採用したと思われる。 
顕教に於ける三千大千世界即ち全宇宙に君臨する最高位の如来であり梵網経に拠れば100億の釈迦を顕し此処の国に於いて説法をしていると言う。 
日本で現存する佛像は極めて少なく著名な像は「奈良の大仏」で親しまれる○東大寺大佛殿(752年開眼1692年再興)と○唐招提寺金堂と福岡県・観世音寺に隣接する戒壇院と京都墨染の欣浄寺に現存するのみである。但し、東大寺・高山寺・園城寺などに鎌倉時代作の華厳経・大日如来の世界を咀嚼したとされる「華厳海会善知識曼荼羅」は存在する、また中国では石像が奉先寺(龍門)に存在する、応仁の乱以前には高山寺に運慶に依る毘盧遮那仏が存在した記録がある。 
東大寺の場合は造像当初から残る蓮華座の蓮弁に線で刻まれた多くの釈迦如来を発射している、これら一つ一つが蓮華蔵世界を表している。 
梵網経を典拠とする唐招提寺の毘盧舎那仏は印相と光背及び尊像の毛穴から発生した壱千にも及ぶ釈迦如来(蓮華蔵世界)を従えている、但し現在従えている光背の尊像は864尊である。 
従来東大寺の大仏像な創建当初の部分は連弁の一部のみとするのが定説であったが松山鉄夫氏等東京芸大の研究調査により下半身や背部は天平時代の作であるとの報告がなされた。しかし頭部や手の部分は江戸時代の修復であり、私は何度拝観しても天平の情感を感じることは出来ない。 
これは佛師でも陶芸の世界でもその時代の代表作はその時代の文化の中で生きた人間でなければ生み出すことは出来ない、運慶や快慶は鎌倉時代のニューマの中に生き時代の代表作を生む事が出来たのではないか。 
摩訶(大)毘盧遮那仏と毘盧遮那仏の区別に付いて大日経には毘盧遮那仏は経典の主であり曼荼羅の中核に座す如来(大日如来)であり、摩訶毘盧遮那仏とは曼荼羅全体を意味するとされる、almighty(オールマイティー)、即ち一切如来(sarva tath´gata)とも言われている。 
法身佛(以下全編サンスクリット語は梵語で統一)法身仏とは不変の真理を佛身で表現したもので毘盧舎那仏・大日如来を指す。 
真言 オン アビラウンケン  
注1 三千大千世界 梵網経・華厳経によると小釈迦が千箇所集まって小千世界を形成しそれを中釈迦が統括する、中釈迦が千箇所集まって中千世界を形成しそれを大釈迦が統括し、大釈迦が千箇所集まって大千世界となって夫々の釈迦が法を説いている、これらを摩訶毘廬遮那佛が統括している、したがって釈迦の数も膨大な数になる。 
注2 賢劫の千佛  現在の劫を賢劫と言い過去の劫を荘厳劫(そうごんこう)・未来劫を星宿劫と呼びこれを三世三千佛と言う、賢劫の千佛はここから由来している。阿弥陀如来は宝蔵菩薩時代に五劫の間修行して如来と成った。 
劫(こう)とは梵語kalpaの意訳で佛教の言う非常に長い期間を言う、劫には複数の算定方法があり、盤石劫(ばんじゃく)の一劫とは四十立方里の岩に天人が百年に一度舞い降りて衣の袖で岩面を一度なでる、その岩が磨耗するまでを一劫と言う。また芥子劫とは芥子の実を百年に一度大きな城都に一粒ずつ落とし満杯になって一劫とする数え方もある。 
劫の分類は複雑で宇宙形成から壊滅までの劫を器世間と言い時間を単位とする物を歳敷劫という。 
注3 新大仏寺(三重県阿山郡) 鎌倉時代に快慶作の佛頭に江戸時代に躯体を補作した。如来像/坐像 木造 漆箔 293,0cmが阿弥陀如来とも毘廬遮那佛とも言はれる、また鎌倉・円覚寺の宝冠釈迦如来像は当初は盧舎那佛であるが火災時に頭部(鎌倉時代)が避難出来たが、その他は後補であり文化財指定は受けていない円覚寺・宝冠釈迦如来 坐像 木造 260、0cm。 
注4 過去佛/佛教は悠久の昔からの宇宙真理を釈迦牟尼が覚ったものであり過去にも同じ覚りを開いた人物が存在したとする考察が行われた。毘婆尸佛(びばしぶつ)・尸棄佛(しきぶつ)・毘舎浮佛(びしゃふぶつ)・拘留孫佛(くるそんぶつ)・拘那含牟尼(くながんむに)・迦葉佛(かしょうぶつ)までの六佛に釈迦如来を加えて過去七佛と言われる、又過去佛が作り出されると共に未来佛も考え出され弥勒佛(弥勒如来)がある。 
旧訳聖書では神が万物を創造しているのに対して毘盧遮那佛・大日如来は宇宙・真理そのものであり釈迦如来は真理の発見者とされる。 
注5 法身佛/宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言え、毘盧舎那仏・大日如来を言う。報身佛/修行の結果成道し永遠の仏となる、阿弥陀如来・薬師如来などを言う、極楽及び浄瑠璃と言う浄土を持つ他土仏。応身佛/衆生を導く為に顕した佛身で成道と入滅を行い、釈迦如来をさす、娑婆で涅槃に入った自土仏。 
注6 毘盧遮那佛を本尊とした寺院は消滅したが京都・法勝寺(11世紀)と方広寺(16世紀)が存在したとされる。 
注7 毘盧遮那佛と盧舎那佛であるが華厳経に於いては毘を除き遮と舎を併用され大日経に於いては毘盧遮那佛すなわち遮が使用されているが場合が在る、宗派により呼称は違うが同尊である。    
阿閦如来(あしゅくにょらい)

 

阿閦如来の密号を不動金剛・畏怖金剛と呼ばれ金剛界曼荼羅の東の主尊であるが、「阿閦仏国経」は大乗仏教を初・中・後期に分類すれば初期の経典である、阿閦如来は古い歴史を持ち大乗仏教の初期の仏である。 
梵語名 Akoobhya(アクショーブヤ)の音訳であり不動揺・不瞋恚(ふしんい)・無怒(怒り・動揺を静める)・不動如来(動揺しない)等と訳され大円鏡智、即ち全てを映し出す智慧を持つとされる,印の特徴は右手(掌のひらを内に)を大地に触地する降摩印をとる、この印相はインドに於いては釈迦が金剛宝座に於いて覚りを開いた折の印相として八世紀頃から多く造像された様である。 
遥かに遠い東方にある亜比羅提(あびらだい)世界に於いて大日如来に教えを受けて、如来となって東方妙喜国と呼ばれる浄土に君臨していると言う、眷属として四方親近菩薩すなわち金剛薩凱 ・金剛王菩薩 ・金剛愛菩薩 ・金剛喜菩薩を従え胎蔵界曼荼羅の天鼓雷音如来と同じ誓いを持つ。 
降伏・菩提・パワーの作用を持ち誓願・浄土・往生など阿弥陀如来と共通点が多い為に阿弥陀信仰に吸収された感がある。 
密教の世界では智を表す金剛界の東方にあり、大日如来(中央)・阿閦如来・宝生如来(南方)・阿弥陀如来(無量寿、西方)・不空成就如来(北方)で金剛界五仏すなわち五智如来と呼ばれている、胎蔵界曼荼羅の五仏をも五智如来と呼ぶ人もあるがインド等に於いては大日経による胎蔵の大日如来は独尊が多い、また胎蔵界は理を主に表わしており、ここでは胎蔵界五仏を五智如来とは呼ばない。 
五智如来とは五つの知恵を現すもので阿閦如来の場合は大円鏡智を言い鏡の如く物事を著はすという。 
「他土仏信仰」(注1)に於いては阿弥陀如来よりも早く、最初に現れたのは阿閦如来である、日本に於いては信仰の対象としての事例も八世紀頃行われた形跡もあるが、造像も極めて少なく金剛界曼荼羅の一尊として知られている程度である。 
また薬師如来が曼荼羅に存在しない為同じ東方に位置する阿閦如来や不空成就如来(北方)を仝尊と見なす解釈があるが経典に於いても明確でなく無理がある、現存する像は坐像(結跏趺坐)であり、左手で衣の端を握り右手で触地印を結ぶ。 
阿閦如来は中期密教に概ね限定されている日本密教に於いては大日如来に従う東尊で固定されているが、インド仏教が最後に採用した後期密教に於いては金剛頂経の十五会「秘密集会タントラ」を採用する事により、大日如来は毘盧遮那となり東方に下がり、代わって阿閦如来は最高仏となり、五仏の主尊すなわち法身仏として君臨する例もある、これはチベットやブータン密教にも請来され、秘密集会タントラに於いて阿閦金剛を中尊とした「秘密集合会聖者流三十二尊マンダラ」や三面六臂の主尊「阿閦金剛」は憤怒形で同じく三面六臂の「明妃触金剛女」を抱きしめる彫刻や絵画(チベットハンビッツ文化財団所蔵等)が存在している,因みにタントラとは、この場合インドに成立した後期密教聖典の呼称を言う、また密教経典に於ける総称を言うこともある。 
参考として述べれば大日如来の典拠となる大日経には大日如来の呼称は数回であり多くは毘盧遮那と記述されている、金剛頂経に於いては全てが毘盧遮那如来の呼称が使われている、日本に於いては大日如来の呼称が使用されているが、中国に於いては毘盧遮那如来及び遍照如来と呼称されていた(金剛頂経入門・頼富本宏著・大法輪閣 他)。 
真言 オン アキシュビヤ ウン 
注1 他土仏(たどぶつ)信仰とは我々の住む世界即ち釈迦如来の住む浄土では無く、別世界空間に於いて釈迦と同様に覚りを開いた仏が存在すると言うインド哲学から生まれた信仰である、他土仏は法華経・金光明経・阿弥陀経など多くの経典に記述されているが、共通する如来名は阿閦如来と阿弥陀如来のみで異なる尊名が多数を占める、いわゆる報身仏が他土仏に相当するとも言えよう、これに対して地球空間を「自土」と言う、従って実在した釈迦如来は自土仏である。 
因みに過去七仏は釈尊と同じ娑婆の世界仏説と荘厳劫の仏(過去の劫)と賢劫の仏(現在の劫)と各三尊説がある、過去七仏及び荘厳劫の仏と賢劫の仏に付いては如来編参照願います。    
注2 五智とは金剛界五如来の智慧である、唯識では総てを超越した覚りの智慧を出世間智(しゅっせけんち)と呼び修行の段階を四智と言い 
1大円鏡智 2平等性智 3妙観察智 4成所作智としているが、密教に於いては最上位に法界体性智を置き五智として優位性を示している。 
1 大日如来・法界体性智(ほっかいたしょうち) 宇宙の真理を現す知慧   
2 阿閦(あしゅく)如来・大円鏡智(だいえんきょうち) 森羅万象を鏡す知慧 
3 宝生如来・平等性智(びょうどうしょうち) あらゆる機会平等の知慧 
4 無量寿如来 ・妙観察智(みょうかんさつち) 正しい観察の知慧 
5 不空成就如来・成所作智(じょうしょさち) 必要な事を行う知恵  
その他の菩薩と閻魔大王

 

 
弥勒菩薩(みろく) 
釈迦の次に如来になることが約束され、56億7000万年後の世界を救いにやって来る。今どのように人々を救うかと瞑想中(菩薩としては例外的)。仏教思想では世界の中心に須弥山(しゅみせん/高さ12480万Km) がそびえ、上空の兜率天(とそつてん)に彼がいることになっている。 
形は半伽思惟(はんかしゆい)といい、腰掛けて足を組み手の指を頬に当て物思いに耽るものが多い。片足を下ろしている理由は、瞑想中でも苦しんでいる者を救いに行きたいという、弥勒の居ても立ってもいられない気持ちの表れ。微笑している弥勒仏は、人々の救い方を悟った瞬間の表情と言われる。
弥勒仏1 
未来仏である弥勒仏には、兜率天(とそつてん)で瞑想にふける半跏(はんか)思惟の菩薩像と、釈迦入滅後五十六億七千万年後に下生(げしょう)するという如来形がある。文献では敏達天皇十三年(584)に、百済から弥勒石仏がもたらされ、蘇我馬子がまつったことや、秦河勝(はたのかわかつ)が蜂岡寺(京都広隆寺)を創建して弥勒をまつったことなどが古い記録である。飛鳥時代の像としては広隆寺像が名高い。白鳳時代にも造像例は多く、献納宝物の他、大阪野中寺像(666)が知られている。これらはいずれも菩薩形である。奈良時代では法隆寺五重塔南面の本尊(711)や奈良当麻寺(たいまでら)像などの弥勒仏が残されている。以後弥勒下生の信仰とともに弥勒仏の遺品が多く、東大寺像、和歌山慈尊院像(892)、奈良興福寺北円堂像(1208頃)が名高い。  
弥勒菩薩2 
梵語名 Maitreya(マイトレイヤー)パーリ語(p´li)でもmaitreya(メーテーヤ)と言い意訳すると慈からの生まれ、慈悲・慈尊とする解説書が多い、しかし太陽神Miiro(ミイロ)の音訳との考え方が理解しやすくはないか。 
仏滅の後の覚者と成る事を約束されている最高位の菩薩であり一生補処(いっしょうふしょ)(注5)の菩薩と言えるのは弥勒菩薩のみである、覚者(釈迦如来)の後継者を仏嗣(ぶつし)と言うことから「仏嗣弥勒」「未来仏」「慈氏菩薩」「当来仏」等とも呼ばれる、弥勒菩薩に関する典拠に弥勒三部経と言われる「弥勒大成仏経(常仏経)」、衆生済度の為に降臨する「弥勒下生常仏経(下生経)」、死後に兜率天に昇り説法を聞くと言う「観弥勒菩薩上生兜率天経(上生経)」や「賢愚経」等に拠れば弥勒菩薩は現在兜率天で修行中であり釈迦の没後五十六億七千万年後に娑婆に於いて修梵摩(しゅうぼんま)とその妻梵摩越(ぼんまおつ)との間に生まれ、釈迦と同じ竜華樹(りゅうげじゅ)の下において覚りを開き、合計二百八十二億人の僧に三度説法(弥勒の三会(さんね))して人々を救うと釈迦如来から預言されていると言う、これを「龍華三会の説法」と言う、ちなみに「弥勒下生経」の下生(げしょう)とは覚者となって現世に降りて来る事を言い、6万年間教えを説くとされる、また人間の平均寿命は八万歳になると言う、上生とは天界に生を受ける事を言う、因みに須弥山に於ける兜率天は八万由旬(ゆじゅん)の敷地を有し海抜32万由旬の虚空密雲上にあると言う、因みに兜率天の上さらに有頂天があると言う、一由旬とは諸説あるが7マイル〜9マイル、中国では30里〜40里など言われる、兜率天は天界の一国で兜率とは梵語のトゥシタ (Tuoita)の音訳で須弥山の上空にある、三界のうちの欲界に属するがトゥシタは満足の意味を持つ、また弥勒の下生を信じ龍華三会の説法を聞こうとするのを「弥勒下生信仰」と言い、兜率天に生を受ける事を願う信仰を「弥勒上生(じょうしょう)信仰」と言う。 
釈迦如来の弟子として早世したとの伝承もあるようで実在の人物(応身尊)の可能性がある、しかし弥勒に関する経典は概ね大乗経典すなわち方等経(ほうどうきょう)に著わされ報身尊と観られている、日本に於いても初祖として崇める薬師寺の様な法相宗寺院がある、チベットの伝承では唯識論の教義の根幹とも言える「大乗荘厳経論」など五論を著したとされる。 
弥勒信仰はユダヤ教等のメシア思想がインドに入り成立したとの説もある、また拝火教(ゾロアスター教)やアーリア神話にも登場するミトラ神との指摘もある、リグ・ベーダ聖典に於いてマイトレイヤー・ミトラ神はキリスト教以前のローマに於けるミトラス教の神であったとも言われており、仏教仏として西洋では比較的、知名度のある菩薩である、因みに弥勒菩薩を鳩摩羅什(約344〰413阿弥陀経、注2参照)による阿弥陀経には「阿逸多(あいった)菩薩」と記述されている。 
インドに於ける弥勒信仰は釈迦如来に次いで成立したものである、インドの弥勒像は仏塔を持つ宝冠を冠り右で印を結び左で龍華樹を持つ場合が多いがターバンを巻き水瓶を持つ像も弥勒説が言われている,しかし如来像は中国・朝鮮には存在するが現時点でインドに於いては存在しない、朝鮮では三国時代頃からから覇権だけでなく弥勒信仰でも三国で競い合っていた様である、従って韓国にはいたる所に弥勒像がある、百済(全羅北道)が下生すなわち生まれる地と言う伝承があり、躯体に比して著しく頭の大きい弥勒像が阿弥陀如来や観音菩薩を遥かに凌駕して存在する。 
中国に於いても地域間に格差は存在するが多く信仰されている、またベトナムでも弥勒像の存在は他の仏像に比べ最も多いと言われている。 
法相宗に於いては弥勒菩薩を初祖と仰ぐ考えがあり弥勒像を重要視し如来像に於いて脇侍に法苑林(ほうおんりん)菩薩と大妙相菩薩(だいみょう そうぼさつ)を従えることがある、特に薬師寺講堂の三尊像は文化財指定は中尊が薬師如来で脇侍は日光・月光菩薩であるが、薬師寺では2003年から弥勒三尊と呼ばれるようになり脇侍に法苑林菩薩・大妙相菩薩とされるようになった。 
経典の記述は北伝に竺法護に依る「弥勒下生経」、鳩摩羅什に依る「弥勒下生成仏経」「弥勒大成仏経」南伝に「転輪聖王獅子吼経」等があるが、弥勒信仰は中国に於いて作られた偽経が確実な「法滅尽経(ほうめつじん)」で拡大した信仰で、末法思想(注9)は4世紀中国に侵略されたシルクロードの要衝・キジ国で広まる、少し脱線すが近年タリバンに破壊されたバーミヤンの大仏は弥勒仏である。 
日本での弥勒信仰は朝鮮半島を経て伝わり、飛鳥時代から存在するが末法に入り山岳修験者の中にも多い、ミイラに成り弥勒降臨(下生)まで肉体を残そうとの願いや経塚を作り埋経することが各地で行はれた、経塚の代表例は藤原道長による吉野金峯山が有名である。 
末法思想とは釈尊入滅後に、500年(1000年)サイクルで変化する三時思想を三時説と言い「正法」「像法」「末法」の言われは古く最古の経典に属する「阿含経」に記述される、但し三時思想は中国に於いて創められたと言う説も一部にはある。 
弥勒像は二系統に別れ成道後の如来像と菩薩像とになる、飛鳥時代以後に半跏思惟像の菩薩像が作られたが奈良時代以降は製作されず如来像が作られるようになる。 
広隆寺や中宮寺に代表される釈迦の悉多太子時代の樹下思惟像とよく似た半跏思惟像(交脚像も存在)が成道前に於ける弥勒菩薩の代表作をされるのは665年、大阪・野中寺の金銅半跏像に「弥勒御像」の刻文が見られる事から定説化されていたが刻文の時期に疑問があり用語も不自然との指摘がある、また野中寺タイプの半跏思惟像で弥勒菩薩の銘を持つ像が存在するとされるが中宮寺や宝菩提院の尊像とは共通点として半跏像以外は造像目的に相違が感じられる、中国や朝鮮半島を始めとするアジア諸国に於いては弥勒像は多数存在し、特に三国時代から国を挙げて弥勒信仰は篤い韓国に於いては圧倒的である、朝鮮仏教から多くを学んだ日本仏教の弥勒崇拝は仏教圏に於いては少数派で観音信仰や地蔵信仰の方が盛んである。 
弥勒信仰は各地で阿弥陀信仰に時の経過と共に凌駕されるが菊池章太氏の説が面白い、弥勒菩薩は長い時間軸にあり待てる余裕はないが、阿弥陀如来は空間軸にある為に来迎には時間を超越して現れると言う。 
半跏思惟像は30cm前後の銅像が飛鳥時代から天平時代にかけて造像若しくは請来されたと考えられる、法隆寺にあり東京国立博物館に数尊・東大寺・岡寺・四天王寺・観心寺などに存在する。 
平安時代以降には、華厳宗の学僧高弁・明慧等により弥勒信仰が高揚され再度弥勒菩薩像が造像される、観音菩薩のシンボルが化仏に対して弥勒菩薩は仏塔である、呼称も区々で宝塔冠・法界塔印・五輪塔と呼ばれている、宝冠や左手に五輪塔を持った坐像・立像など多様な姿が現れる、また胎蔵界曼荼羅では蓮華座で右手に蓮の花,水瓶を持ち左手は掌をたてる、金剛界曼荼羅では賢劫十六尊として右手は水瓶、左手は腰に当てる、因みに密号を迅疾金剛と言う。 
如来像は坐像が多く一部立像・倚像がある、印相は施無畏与願印が通常であるが触地印(降魔印・試みの大仏・東大寺)が存在する。 
特に菩薩像は中国・朝鮮・日本などで多く制作されおり、法隆寺五重塔内に弥勒浄土が有り、胎蔵界曼荼羅には中台八葉院の中に菩薩として存在は大きい。 
韓国・国宝83号の金銅製弥勒菩薩半跏像(韓国中央博物館所蔵)などは広隆寺の弥勒菩薩と酷似している、即ち宝冠が無紋で王冠形、右膝を大きく誇張、裳の二重巻、左脛に衣紋が無い、等々が挙げられる。(林南壽・広隆寺の研究・中央公論美術出版)さらに広隆寺の像は木裏を正面に彫られており、この手法は日本では見られない。 
また中宮寺の菩薩像の場合上原和氏(大和古寺幻想・講談社)の言われる様に、髪型の双髷(そうけい)は古代中国に於いて双鬟(そうかん)と呼ばれる未婚女性の髪形であり、若い女性をモデルとした菩薩像と考えられる。 
山西省の雲岡石窟(第十窟)には交脚弥勒を中尊とする三尊像があるが、脇侍が両尊(弥勒ではない)とも菩薩半跏像であり半跏像が弥勒とは断定出来ない。 
また中国に於いては「大胞弥勒」「大肚子弥勒仏」等と呼ばれており信仰は篤く、中国で生まれた禅宗系・臨済宗、黄檗宗等では実在の人物布袋を弥勒仏の再来とみるところもある、特に夢想国師疎石(1275〜1351)は布袋(ほてい)(契此(けいし))の垂迹と信じていたとされ東福寺や万福寺などには布袋像が存在する。 
真言 オン マイタレイヤ ソワカ   
盧舎那仏 
盧舎那仏は、釈迦の法身仏という観念上の仏である。遺品としては、奈良唐招提寺像や東大寺大仏などがよく知られている。  
虚空蔵菩薩(こくうぞう) 
智恵と慈悲の菩薩。技能や芸術の力もあり、職人と芸術家の守り本尊。天(虚空)の恵みを仏格化した仏であり、対して大地の恵みを仏格化した仏が地蔵菩薩とされる。 
虚空蔵菩薩もまた、釈迦の脇侍として観音とともに造像されることもある。知恵を授ける仏として、独尊で信仰されることも多い。この菩薩の説く虚空蔵求聞時(ぐもんじ)法は、奈良時代には道鏡や空海がこれを修したことが知られている。奈良額安(がくあん)寺像(奈良時代末期)や広隆寺像(平安時代)が古い。さらに平安時代からは、密教の影響により五大虚空蔵菩薩が造像されるようになった。この像では京都神護寺像(836〜845)が名高い。
    
地蔵菩薩 
釈迦の死と弥勒降臨との間の無仏世界(つまり現代)を救済する為に現れた。閻魔様の正体でもある。大地の仏。 
地蔵菩薩は、菩薩の中で唯一、頭を丸くした比丘(びく)形である。この尊は橘寺伝日羅像、古くは天平時代の東大寺講堂に、その巨像が安置されていたというが、現在平安時代以前の遺品はない。奈良融念寺像、京都広隆寺講堂像(平安時代)が古い。しかし平安時代の浄土思想の発達とともに急激に増え、鎌倉時代には六道の救済者として、その信仰は一般民衆にまで広がった。また鎌倉時代には、半跏形式の延命地蔵も現れた。京都禅定寺(ぜんじょうじ)像や滋賀正福寺像などがこうした例である。鎌倉時代も後半にはいると奈良伝香寺像のような裸形地蔵も造像された。このあとも地蔵信仰は盛んで、江戸時代には子安地蔵が造像されるようになる。
    
閻魔大王 
地蔵菩薩が閻魔となった時に恐い顔をするのは、早く罪を白状させて楽にしてやりたいという優しい心から。閻魔は刑罰を楽しんでいるのではなく、人々を愛しているからこそ、一刻も早く極楽へ行けるように、あえて心を鬼にしているのだ。 
閻魔大王は亡者を取り調べ、罪人を地獄に落とし苦しみを与える。しかし、亡者であっても、他者に苦しみを与えることは閻魔大王の罪になる。人に苦しみを与えることはそれほどまでにいけないことなのだ。その罪ゆえ、閻魔大王は日に三度、それまで従っていた獄卒(手下の鬼)や亡者たちに捕えられ、熱く焼けた鉄板の上に寝かされる。亡者たちは鉄の鉤(かぎ)で大王の口をこじあけ、溶けた銅を口の中に注ぐ。大王は舌や口はもとより、喉から腸に至るまでただれきってしまう。仏像の閻魔大王に、アゴから下が溶け、そのまま胸とくっついているものが多いのはこの為だ 。 
閻魔大王は最初から全ての亡者を天上界に送れば、日に三度の苦しみを受けることもないわけだ。しかし亡者が行った生前の悪事を知 ると、どうしても許すことが出来ないのだ。閻魔大王の願いは、全ての人々が現世において悪事をなさず、良い行いだけをすること。 
   初江王
明王

 

 
明王は密教の中から生れた尊である。明は真言(しんごん)・陀羅尼(だらに)・呪文(じゆもん)の意味をもち、明王とよぶときは陀羅尼の威力を人格化した固有名詞としてつかわれる。また明王を教令輪身(きょうりょうりんじん)ともよぶ。密教では覚者、真理と悟り、その真理と同体と考える如来を法身仏(ほっしんぶつ)、自性輪身(じしょうりんしん)とよび、衆生を導き教化する菩薩を正法(しようぽう)輪身とよんでいる。これに対して法身仏が、教化のしにくい衆生を救済するために怒りの形相、忿怒の姿に変わるとき、これを教令輪身と説明している。明王部の諸尊は、大日如来の教令を受けて忿怒の姿を表し、仏法を守る神である。 
明王の種類は多いが、その像容は一部の例外を除き、いずれも髪を逆立て、炎髪としたり、歯をむき出した怒りの面相、忿怒面、あるいは多面多目、多臂多足とし、体躯に蛇をまきつけたり、虎皮裙(こひくん)とよばれる裳をまとうなど、奇怪な姿で表されている。特に大威徳明王は、六足尊と呼ばれるように、六面六臂六足の珍しい姿を持つ。また光背の多くは火焔である。台座には岩座や鳥獣座、あるいは大自在天とその妃を踏みつけた像などが多い。 
明王像が日本へ伝わったのは、大同元年(806)といわれる。この年、空海が唐より帰朝し、初めて正純密教が伝わり、忿怒の明王が知られるようになった。これ以後、五大明王(不動・降三世(こうさんぜ)・軍茶利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王)を中心に、その信仰が広まりまた多様化していった。五大明王のほか、これに馬頭(ばとう)・歩擲(ぶちゃく)・大輪明王を加えた八大明王、あるいは前代から信仰のあった孔雀(くじゃく)明王のほか、愛染(あいぜん)・烏枢沙摩(うすさま)・大元師(だいげんすい)・青面(しょうめん)金剛夜叉明王などがある。
    
    
不動明王 
明王の主。大日如来の命を受け修行者を護り、必死の形相で煩悩から人々を助け出そうとしている。大日如来自身が変化した姿とする説もある。光背は燃え盛る火焔。右手に剣、左手に羂索(縄)を持つ。刀は煩悩を断ち切る智恵の刀だ。 
不動明王は、五大明王や八大明王の中心に配される明王である。この尊は五大明王の伝来から間もなく単独で信仰を集めるようになった。わが国では阿弥陀や観音・地蔵などとともに最も信仰の多い代表的な仏である。仏像彫刻の上では、平安時代の伝来ということもあって、平安以前の像は一躰もない。一番古い像として挙げられるのが、京都教王護国寺講堂に安置された承和六年(839)造像の五大明王、その中央の不動明王坐像である。この像は髪を総髪(そうはつ:髪全体を左耳前に纏めた髪型)にし、弁髪(べんぱつ:左のもみあげを長く伸ばしたもの)を左肩前に垂らし、両眼を見開いた忿怒相で、特に真言寺院に安置される不動明王像の基準作例とされた。教王護国寺の御影堂には、もう一躰の不動明王坐像が秘仏として安置されており、この像も講堂像と同一系統の像で、同じ頃に造像されたとみられる。一方、天台系寺院に安置される不動明王は、承和五年(八三八)に円珍が感得したという、三井寺の黄不動(きふどう)画像を範としたと推定されている。この系統の不動明王は立像で、沙髪(しゃけい)とよぶ乱れ髪をもつ。これらの平安初期の像に対し、平安中期以降は、右目を見開き左目は下を見る、いわゆる天地眼(てんちがん)、及び右の下牙と左の上牙でそれぞれ唇を噛む上下牙を表わすものが多い。不動明王像の遺品は、その盛んな信仰とともに数も多く、上記の他、和歌山高野山王智院像、親王院像(各平安時代)、京都同衆院像(1005頃)や小浜円照寺像(平安時代)、運慶作神奈川浄楽寺像(1189)など、数えきれない程の傑作がある。 
眷属としては、矜羯羅、制多迦の二童子を従えることが多いが、多に八大童子、三十六童子を従える例もある。
降三世明王(ごうざんぜ) 
シヴァ神が起源。明王のNo2。過去、現在、未来の三世の煩悩を抑え鎮める。目が三つ、足下にヒンズーの神を踏みつけ、左右の手の小指を結ぶ印相。 
五大明王の中で降三世明王は、金剛界大日如来の教令輪身ともいわれ、不動明王に次いで仏格の高い明王である。これらの明王は、不動明王を除き、独尊としてまつられる例は少ないが、関東では軍荼利明王を本尊とする例が一、二みられる。しかしたいがいは五尊一具として、五大堂に安置され、朝敵降伏の像として信仰されるのが一般的である。遺品としては教上護国守講堂の五大明王像(839)を最古とし、そのほか京都醍醐寺像、奈良不退寺像(各平安時代)、京都大覚寺像(1176)などが残されている。 
軍荼利明王(ぐんだり) 
様々な障害を取り除く。体にまとわりつく蛇、親指と小指のみを折った印相。 
大威徳明王(だいいとく) 
戦勝祈願の仏。顔が6面、腕が6本、足が6本という異様な姿で水牛にまたがる。印相は中指を立てつつ両指を組む。 
金剛夜叉明王(こんごうやしゃ) 
金剛杵(しょ)という仏界最強の武器を持ち、目が5個ある。夜叉とは鬼神のこと。 
太元帥明王 
太元帥明王は、承和六年(839)に小乗栖(おぐるす)常暁が請来した像である。常暁が山城小乗栖に創建した法琳寺は、この明王を本尊としていたと伝えられている。戦勝祈願の像として六臂、または八面三十六臂の忿怒形に造られ、宝棒・三鈷・宝輪・斧などの武器を持物としている。遺品は少ないが、奈良秋篠寺像(鎌倉時代)が名高い。 
鳥枢沙摩明王 
鳥枢沙摩明王は、密教や禅宗の中で便所などの不浄処にまつられ、不浄やけがれを焼き尽す力を持った明王である。忿怒の形相に、剣や索、三段叉(さんこさ)などを持物としている。古い像は残らないが、富山瑞竜寺像(江戸時代)などが知られている。 
青面金剛夜叉明王 
青面金剛夜叉明王は、智証大師円珍が請来したといわれる明王である。一面三眼六臂の忿怒形で、体躯には蛇をまきつけている。持物として、剣・宝棒などの武器を執る。病魔や邪鬼を除去するといわれ、特に江戸時代にはいってからは庚申信仰と結びつき、この明王が庚申の本地仏とされて石仏が多く造られた。古い像としては、東大寺像(平安時代後期)が残されている。 
馬頭明王 
馬頭明王は馬頭観音である。この明王もまた奈良時代から知られていたが、信仰が盛んとなったのは平安時代にはいってからである。さらに時代が下って室町時代以降、とくに江戸時代には、馬と結びついて一般民衆の中にまで浸透し、無数の石仏がみられるようになった。作例としては、奈良大安寺像(奈良時代)が馬頭観音と伝えられるほか、石川豊財院(ぶざいいん)像、福岡観世音寺像(各平安時代後期)や京都浄瑠璃寺像(鎌倉時代)などが代表的な像である。 
孔雀明王 
孔雀明王は、明王の中では例外的な菩薩相の像である。この明王は五大明王よりも早く日本に伝えられた。役の行者がその信仰をもっていたと伝えられるほか、『西大寺資財帳』には、薬師金堂内に、孔雀明王菩薩二躯を安置したことが記され、この明王が空海より前、奈良時代には知られていたことがわかる。また平安時代には、円珍や理源大師聖宝(しょうぼう)などが孔雀明王の信仰をもっていたことが知られている。しかし遺品は少なく、主として絵画にみられるが、彫刻の上では快慶作、和歌山金剛峯寺孔雀堂像(鎌倉時代)や奈良正暦寺像が知られる程度である。  
    
愛染明王1(あいぜん) 
愛欲を禁じるのではなく、愛欲の苦悩を体験させ、その苦しみを教訓とし克服することによって悟りに至る、異端の明王。全身が愛欲の炎で真っ赤になっている。弓矢を持った愛の仏で、西洋のキューピッドと同一起源か。 
愛染明王は、愛欲と食欲をつかさどる明王で、平安時代中ごろから鎌倉時代にかけて信仰の盛んとなった。全身赤色で眉間にも眼をもつ三目で、六臂の手には、それぞれ金剛鈴、金剛弓、拳、五鈷杵、金剛箭、蓮華などを持ち、頭には獅子頭をつけた、独特の姿に表される。平安時代の像としては山梨放光寺像、京都神童寺像、仁和寺像が知られている。鎌倉時代にはいると、奈良西大寺愛染堂本尊像(1247)、京都神護寺像(1275)や神奈川称名号像(1297)などが名高い。愛染明王像には二種類あり、弓矢を天に向ってつがえた像を天弓愛染明王と呼んでいる。放光寺像などが代表的である。
愛染明王2 
仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王。梵名ラーガ・ラージャ(Ragaraja)は、サンスクリット経典にその名は見られず、インドでの作例もない忿怒尊である。 金剛頂経類に属する漢訳密教経典の金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経 愛染王品第五に由来し、息災・増益・敬愛・降伏のご利益をもって説かれ、「能滅無量罪 能生無量福」とも説かれている。また、同経典で「三世三界中 一切無能越 此名金剛王 頂中最勝名 金剛薩埵定 一切諸佛母」とも讃えられ、これに基づいて金剛界で最高の明王と解釈される場合がある。 
像容と信仰 
衆生が仏法を信じない原因の一つに「煩悩・愛欲により浮世のかりそめの楽に心惹かれている」ことがある、愛染明王は「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」とする功徳を持っている。 
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしている。 
もともと愛を表現した神であるためその身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。 また天に向かって弓を引く容姿で描かれた姿(高野山に伝えられる「天弓愛染明王像」等)や、双頭など異形の容姿で描かれた絵図も現存する。 
愛染明王信仰はその名が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われており、また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護神としても信仰されている。さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。 
日蓮系各派の本尊(曼荼羅)にも不動明王と相対して愛染明王が書かれているが、空海によって伝えられた密教の尊格であることから日蓮以来代々梵字で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。 軍神としての愛染明王への信仰から直江兼続は兜に愛の文字をあしらったとも考えられている。 
起源 
愛染明王(あいぜんみょうおう)の起源は、学説的には不明だが、愛染明王の真言のひとつ「フーン タッキ フーン ジャハ フーン」から推察するに、後期密教における十忿怒尊のタッキ・ラージャ(カーマ・ラージャ)と関連あると思われる。タッキは愛とか死を意味するとも言われるが、正確な語源は不明。タッキをダーキニー(茶枳尼天)に求める説もある。ダーキニーはしばしば魔女とされることから、タッキ・ラージャを邦訳するならば魔女の王といったところか。タッキはあるいは、失われた神格か俗語なのかもしれない。 
弓をもつ愛欲の神カーマ(マーラ)/カーマとは修行中のシヴァ神に誘惑の矢を放って焼き殺された愛の神である。カーマ神は別名をマーラ(魔羅)ともいい、ブッダを誘惑している。マーラには、ラーガーという娘もいる。 
弓をもつ天界の最高神マーラ(他化自在天)/マーラは第六天に住む天界の最高神であり、他化自在天や第六天魔王ともいう。詳しくは(天魔)の項目で。(天界の最高神ではあるが、仏教では、その上にさらに多くの世界が存在することをご理解いただきたい)他化自在天は弓をもった姿で描かれ、この世のすべてを自在に操り他人を楽しませ、自分も楽しむ神である。見方を変えれば誘惑者であり、また、楽しい気持ちにさせてくれる神である。大日如来はこの他化自在天の王宮で説法したとされる。愛染明王も、愛に対する見方を変え極めた仏といえよう。 
弓をもつ四大菩薩の金剛愛菩薩と愛染明王/金剛愛菩薩がもっとも尊格としては近く、愛の弓を引くおそらく、弓をもつ愛の神を取りいれ、密教の菩薩として解釈されたのが金剛愛菩薩であり、その憤怒尊が愛染明王ではないかと思われる。 
寺院 
愛染明王を本尊とする寺院 
愛染堂(勝鬘院)(大阪市天王寺区)/聖徳太子建立の四天王寺四院の一つ。西国愛染十七霊場 第1番札所。 
金剛三昧院(和歌山県高野町)/北条政子所縁の寺。源頼朝の念持佛である愛染明王を祀る。本尊は国の重要文化財。西国愛染十七霊場 第17番札所。 
舎那院(滋賀県長浜市)/本尊は鎌倉時代の作で国の重要文化財。豊臣秀吉が奉献したとされる。 
愛染院(東京都練馬区)/ 本尊の愛染明王像は秘仏。 
光明山愛染院(東京都板橋区)/地元の染物業者の信仰対象となっている。 
愛染明王を祀る寺院 
西大寺(奈良県奈良市)/重要文化財の愛染明王像は善円の作。京都御所の近衛公政所御殿を移築した愛染堂に安置。西国愛染十七霊場 第13番札所。 
神護寺(京都市右京区)/重要文化財の愛染明王像は仏師康円の作。 
神童寺(京都府相楽郡山城町)/天弓愛染像。 
奈良国立博物館像 - 重要文化財の愛染明王像は鎌倉時代の仏師快成の作。 
覚園寺(鎌倉市二階堂)/愛染堂の愛染明王坐像は鎌倉時代後期の作。 
長雲寺(長野県千曲市稲荷山)/重要文化財の愛染明王像は、寛文13年(1673年)京都の仏師久七作。 
放光寺(山梨県甲州市)/重要文化財の愛染明王坐像は平安時代の作。天弓愛染明王では日本最古の像と言われている。   
天部/仏教に帰依した他宗教の神

 

 
仏像の中で天部とよばれる神将像は、仏教を守護する役目をもち、如来・菩薩・明王とは区別されている。天部の多くは仏教成立以前の古代インドの神々がその前身と考えられている。これらの諸神を大別すると、温和な貴人の姿で表される貴顕天部と、甲冑に身を固め、武器を執り忿怒の姿に表さわれる武人天部に分けられる。貴顕天部の諸神は、梵天帝釈天などヒンドゥー教の最高神に位置することが多い。また吉祥天や弁財天など、女神のいることも特徴の一つである。武人天部は、四天王・毘沙門天・仁王・執金剛神あるいは八部衆・十二神将・二十八部衆・深沙大将・大黒天など、武神に現わされるほか、非人間的な姿の像が多い。八部衆や十二神将、二十八部衆など、主として武人天部の姿をとり、如来や菩薩の本誓を守護し、その実現のために働く尊を眷属とよんでいる。
梵天(ぼんてん) 
ヒンズーの最高神だが、釈迦の思想に感心し仏法の守護神となる。釈迦に悟りの内容を人々にやさしく説くようアドバイスした。梵天がいなければ釈迦は説法をせず、仏教はなかったとまでいわれる。刀利天(とうりてん/須弥山の頂上)に住む。 
帝釈天(たいしゃくてん) 
元々はアーリア人の英雄神インドラ。刀利天の喜見城(きけんじょう)に住む。仏の戦闘部隊の総大将で、衣の下に鎧を着込んでいる。帝釈天は梵天と対で釈迦如来の脇侍になる。妻は阿修羅の愛娘。 
梵天・帝釈天は、いずれもヒンドゥー教の神から、仏教に採り入れられて守護神となり、二神一組としてまつられることが多い。ともに長袖の唐服を身にまとうが、古い時代の像(東大寺三月堂像、747頃)は、その下に甲冑を着けている。頭部は菩薩のように、髪を結い上げ、宝冠を戴くのが普通である。また足は鼻高沓をはき、中国風貴人の姿に表される。東大寺像のほか、奈良法隆寺食堂塑造像(奈良時代)、唐招提寺金堂像(奈良時代)、滋賀善水寺像(平安時代後期)などが、代表的な作例である。これらの像がいずれも立像であるのに対し、空海の請来した新図像に依ったと考えられる京都教王護国寺像(839)は、梵天が鵞鳥(がちょう)、帝釈天は象に騎乗する姿で現わされている。平安時代以降の二神は、各々単独で安置される例が多く、帝釈天が庚申を司る神として祀られるようになるのは、こうした例である。
    
金剛力士(仁王) 
帝釈天が須弥山から下界に降りて変身し、2体に分かれた仏が金剛力士だ。金剛杵を握り、寺門の左右で魔物が入らないように見張る。口を開いて魔物を恫喝する阿形(あぎょう)像、口を閉じて悪人に「ウム、入れ」と仏前での改心を促 す吽(うん)形像。吽形は「悪人こそ寺に入れて善人に変えねば」との考え。対の2神は仁王とも呼ばれる。 
仁王像は普通山門の両側に、伽藍の守護神として安置される。口を開いた像を阿形像(あぎょうぞう)、閉じた像を吽形像(うんぎょうぞう)とよぶほか、金剛力士・密迹(みつしゃく)力士などのよびかたもある。古い像では、東大寺三月堂像のように、堂内に安置され、甲冑に身を固めた像もあるが、一般的には上半身を裸形とする像が多い。遺品は飛鳥時代を除き各時代にみられ、三月堂像、長谷寺銅板法華説相図(白鳳時代)、法隆寺南大門像塑造頭部(711)などが古い像である。平安時代前期には、滋賀着水寺像がある。平安時代後期の像としては、福島法用寺像、京都醍醐寺像(1134)、峰定寺像(1163)などがあげられる。鎌倉時代には、運慶・快慶の競作として知られる東大寺像(1203)のほか、千葉万満寺像、岐阜横蔵寺像(定慶作、1256)や、京都万寿寺像、興福寺像など多数の像が残されている。執金剛神は、仁王と同体といわれ堂内にまつられるが、遺品は少い。東大寺三月堂像(奈良時代)、京都金剛院快慶像が知られている。 
※阿吽(あうん) 
インドの古典文字サンスクリットのa-humの音をうつした言葉、「阿」は呼気「吽」は吸気を表す。阿形は息を吐き、吽形は息を吸っていることで、「万物」を表現している。密教では「あ」が全ての始まりを、「うん」は全てが帰っていく所を表しており、両像は生から死を象徴している。2神は一心同体であり 「あ・うんの呼吸」の語源。
    
吉祥(きちじょう)天 
ヒンズーの幸運と美の女神ラクシュミーを仏教が取り入れた。天部の神としては珍しく如来になる。鬼子母神の娘で毘沙門天の妻。 
吉祥天は唐服をまとった淑女の姿で表されるのがふつうである。この神は金光明経功徳天品(こんこうみょうきょうくどくてんぼん)とともに信仰され、吉祥悔過(きちじょうけか)の本尊として知られている。吉祥悔過は、称徳天皇神護景雲元年(767)に、天下太平・五穀豊穣を祈り、諸国の金光明寺で行われた記録が最も古い。また宝亀三年(772)には、諸国の国分寺で吉祥悔過を行うことを定めるなど、その信仰が国家的なものであったことがわかる。遺品は比較的多く、法華寺伝法堂塑造像、東大寺三月堂像、西大寺像、唐招提寺押出仏像(各奈良時代)、当麻寺像(平安時代前期)、奈良薬師寺像、福岡観世音寺像(各平安時代後期)、滋賀園城寺像、京都浄瑠璃寺像(各鎌倉時代)などが代表的な像である。
    
弁才天 
弁天とも呼ばれる。学問と芸術の女神。七福神の紅一点であり、美人の代表。梵天の妻。 
弁財天も女神であって、金光明最勝王経の大弁財天女品に依拠する神である。吉祥天のように国家的信仰は少なく、個人の信仰によって造像されたと考えられる。神奈川鶴ヶ岡八幡宮の裸形弁財天像(1126)が、中原朝臣の発願によって造像され、舞楽院に安置して芸事の上達を祈ったことなどは、こうした例である。像容には八臂像と二臂像また裸形像がある。遺品としては、東大寺三月堂の塑造八臂立像(奈良時代)、大阪孝恩寺立像(平安時代後期)が古い。坐形をくずして琵琶を弾く豊艶な裸形像は、鎌倉時代以降にみられ、鶴ヶ岡像のほか、江ノ島弁財天像(室町時代)が名高い。
鬼子母神(きしもじん) 
安産と子供の守護神。元々インドの人食い悪神だったが釈迦が改心させた。 
大黒天 
戦闘神だったが鎌倉時代からなぜか七福神の一人に。 
武人天部の中で大黒天は、本来は古代インドの武神であるが、中国へ伝来してからは厨房を司る尊とされた。さらに中国からわが国へは最澄によって伝えられ、鎌倉時代以後に大国主命と結びつき、福神として信仰されるようになった。こうした変遷を物語るように、わが国の遺品のなかでも古い像である滋賀明寿院像や延暦寺本坊像(各平安時代)などは武装の像である。また福岡観世音寺像(平安時代)や奈良松尾寺像、興福寺像(各鎌倉時代)は、袋を負ったほう(示ヘンに包)衣姿の像である。さらに時代が下ると、現在みられるような米俵に乗り、微笑を浮かべた像となる。延暦寺像(1301)や法華寺像(1319)がそうした初期の像である。また異形像としては、室町時代ごろから始まった三面大黒天がある。毘沙門天・大黒天・弁才天の三面を併せもつ福神である。 
阿修羅 
帝釈天と互角に渡り合った悪の戦闘神。元々は正義の神であったが、正義感が強すぎた為に人を許す慈悲心を失い魔物化した。後に釈迦の教えに感銘し仏法の守護神となる。 
※鬼神・阿修羅が帝釈天と戦う場所を「修羅場」という。 
四天王 
仏が住んでいる須弥山の中腹で下界から攻め来る魔物たちを退治する。甲冑(かっちゅう)をつけ、足元に邪鬼を踏みつけている像が大半。全員が帝釈天直属の部下。四天王には八部衆(阿修羅、ガルーダ=カルラ、夜叉、ダイバ、ナーガ、キンナラ、マホーラガ、ガンダルバ)と呼ばれる配下がいる。 
    東>持国天…武器を持つ。 
    南>増長天…武器を持つ。鬼神の長。 
    西>広目天…筆と巻き物を持つ。説得によって悪鬼を改心させる。 
    北>多聞天(毘沙門天)釈迦の遺骨を納めた宝塔を持つ。 
     鬼門のある北を守り、四天王の中で最強。「多聞」とあるように、仏の教えを多く
     聞きこれに精通している。 
     単独で祀られるときは毘沙門天と名が変わる。妻は吉祥天。 
四天王は武人天部の中では、鎮護国家の守護神として最も古くから信仰を集めた尊である。普通須弥壇の四方を固め、持国じこく(東方)・増長(ぞうちょう)(南方)・広目(こうもく)(西方)・多聞(たもん)天(北方)とよばれ、猛々しい武将の姿で邪鬼を踏まえて立っている。また、この二天のみを安置するときは、持国天と多聞天を安置する。さらに二天を左右に安置した門を二天門と呼んでいる。多聞天が単独で信仰されるときは毘沙門天とよばれる。四天王像の古い像としては、法隆寺金堂四天王像(飛鳥時代)、奈良当麻寺脱乾漆像(奈良時代)、東大寺三月堂脱乾漆像(747ころ)、戒壇院塑造像、興福寺木心乾漆像(791)などが代表的な像である。平安時代にはいってからの像としては、教王護国寺像(839)が注目される。鎌倉時代の像としては、興福寺南円堂像・浄瑠璃寺像や興福寺像の模刻として知られる大分県永興寺像(1321)などがすぐれている。平安時代の終りころからみられる二天像は、東大寺像(1159)や長野県藤尾観音堂像(279ころ)などの遺品がみられる。 
伎芸天(ぎげいてん) 
伎芸天の信仰はあまり知られていないが、奈良秋篠寺像の乾漆頭部は、奈良時代の造像である。この像の体躯は、鎌倉時代の補修である。 
詞梨帝母(かりていも) 
詞梨帝母は鬼子母神(きしもじん)の名で知られている。その信仰は平安時代後期より起り、のちに子育ての守護神として信仰され、現代にまで続いている。古い時代の遺品は少いが、東大寺修二合宿所(しゅにえしゅくしょ)像、岩手毛越寺(もうつじ)像(各平安時代後期)、滋賀園城寺護法善神堂像(鎌倉時代)が名高い。 
毘沙門天(びしゃもんてん) 
毘沙門天は四天王のうち、北方多聞天と同尊である。この尊は奈良時代の末頃から単独に信仰を集めるようになった。岩手万福寺像、応保二年銘川端氏像(1162)、福井羽賀寺像(1168)、運慶作静岡願成就院像(1186)、同神奈川淨楽寺像(1189)などが知られている。兜跋毘沙門天は毘沙門天の異形像である。この尊は、王城守護の信仰から盛んに造像されるようになった。かつて平安京羅城門楼上に安置されていたという教王護国寺像(唐、九世紀)が最も古く、宝冠をかぶり西域風の甲冑に海老籠手をつけ、地天の手の掌に立つなど、いかにも異国的な像である。平安時代から全国に教王護国寺像を範とした模刻像が残されるが、京都清涼寺像、滋賀善水寺像(各平安時代)などが代表的な作例である。他に比叡山文殊堂にあった「屠半様」とよばれる唐風の鎧をつけた兜跋毘沙門天像が知られており、その代表例が岩手成島毘沙門天像である。 
韋駄天(いだてん) 
韋駄天は増長天の眷属(けんぞく)の一尊で、僧侶や伽藍の守護神とされるが遺品は少い。岐阜乙津寺像(鎌倉時代)や京都万福寺像(江戸時代)などが知られている。 
深沙大将(じんじゃたいしょう) 
深沙大将も遺品の少い像である。砂漠の中で玄装(げんじょう)三蔵を救ったという奇怪な鬼の姿をした砂漠の神である。岐阜横蔵寺像、京都金剛院快慶像、福井明通寺像などが傑作である。 
十二神将 
十二神将は、薬師如来の本誓を守護する十二人の薬叉大将である。わが国では、もと石淵寺像の奈良新薬師寺像(奈良時代)が古い例である。十二神将は平安時代の中ごろになると十二支と結びつき、各尊を方角に従って配置したり、造像の上でも頭上に十二支をつけ、次第に民間信仰との結びつきを深め、十二支に該当する神将が生れ歳の守護神とされるようになった。しかしこれらの大将は、各遺品の将名・形姿・持物・十二支などが一致する像が少なく、各像の将名を混乱させている。また十二支の数え方も、子を始めとするほか、寅あるいは亥から数える例もある。平安時代後期の像としては、京都広隆寺像(長勢作、1064)のほか、興福寺板彫像が名高い。このほか、兵庫東山寺像は、京都より移された像で藤原時代も初めのころの造像とみられるが、十二神将と十二支が結びついた最も古い像として注目される。鎌倉時代の像としては、京都法界寺像、興福寺東金堂像(三〇七)、奈良室生寺像、神奈川宝城坊像などがすぐれている。また東京国立博物館や静嘉堂文庫、個人の所蔵にわかれている十二神将像は、図像と一致する像があり注目したい像である。鎌倉時代以後の像はいずれも小型化し、教王護国寺像(桃山時代)などは、本尊薬師如来像の台座の周りに配置されている。また奈良戒長寺薬師如来像(平安時代後期)の光背には、後補ではあるが雲座に坐る十二神将が配置された珍しい例である。なお戒長寺には、梵鐘1191の池ノ間に陽鋳された十二神将像があり、これも貴重な遺品である。十二神将の中、宮毘羅大将が単独で信仰されるとき、これを金毘羅大将とよんでいる。 
八部衆 
仏の眷属として仏法を守護する八種の天部。普通は天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩喉羅迦の八像。遺品は少ないが、興福寺乾漆造八部衆像(奈良時代)が有名である。法隆寺五重塔塑造群の中にも乾闥婆・阿修羅像(白鳳時代)がみられる。 
二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう) 
二十八部衆は千手観音の眷属である。仁王をはじめ、梵天・帝釈・四天王・八部衆・弁財天など、経典によって若干の違いはあるが、天部の諸尊を結集した集団である。遺品は多くないが、滋賀常楽寺像、京都蓮華王院(各鎌倉時代)、東京観音寺像(功徳天のみ鎌倉時代)などがみられる。なお風神・雷神は、二十八部衆に含める常楽寺像と含めない蓮華王院像がある。 
竜王像 
天部像には数少いが、雨乞いの本尊として造像されたとみられる竜王像もある。大阪孝恩寺難陀なんだ竜王像・跋難陀(ばつなんだ)竜王像、京都月輪寺竜王像(各平安時代後期)、法隆寺善女竜王像(鎌倉時代)などが知られている。 
歓喜天(かんぎてん) 
特殊な天部像としてあげられるのが歓喜天である。この尊は聖天(しょうてん)とも言われ、平安時代のころから信仰を集めてきた。象頭人身の二身が抱擁する珍しい形式であるが、奈良長岳寺像、神奈川宝戒寺像(各鎌倉時代)などが古い。 
地獄六道関係の諸尊 
仏像の中でも、浄土教美術に属する地獄六道関係の諸尊は、一般的な仏像彫刻の分類には属していない。これらの像には、冥府の裁判所長官である閻魔大王を始めとし、十王・倶主神(ぐしょう)・脱衣婆(ばつえば)・司録・司令などがある。この信仰は、平安時代の浄土教の発達とともに盛んとなったが、彫刻の上では鎌倉時代以降に限り遺品がある。十王は、秦広(しんこう)王・初江(しょこう)王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪(てんりん)王である。これらの王は、人の死後三年間、その人の生れる世界が決定するまでの間、初七日から三回忌に至る各忌日の裁判官であって、中国の五代から宋代までの問に、道教思想が加わって成立したといわれる。十王はいずれも中国宋代の衣冠をまとった姿で造像されている。十王像の遺品としては、神奈川円応寺像1251や奈良白毫寺(びゃくごうじ)像(1259)が名高い。閻魔王の像には、京都宝積寺(ほうしゃくじ)像・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)像など、いずれも鎌倉時代の像がある。閻魔像の一具として造像される像として、倶主神や司録・司令がある。倶主神は人が生れついてから生涯、その肩にあってその人の行為を監督し、死後にそれを閻魔に報告するといわれる。宝積寺像や滋賀浄信寺像(鎌倉時代)などがある。司録・司令は、人の罪状を記録し究明する地獄の役人である。白毫寺像、宝積寺像、奈良金剛山寺像(鎌倉時像代)などが知られている。他に法具に近いものであるが檀孥幢(だんどとう)いわゆる善悪人頭杖(じんとうじょう)がある。円応寺幢(とう)(南北朝時代)が名高い。杖の上の荷葉かように、善・悪を見抜く童形面と忿怒面の二面を載せる。脱衣婆(葬頭河婆)は、三途の川で亡者の衣類を剥ぎとる鬼婆である。長野牛伏寺像(1422)や円応寺像(1514)などが知られている。他に円応寺鬼卒像、宝積寺闇黒童子像(各鎌倉時代)などがある。 
羅漢(らかん) 
阿羅漢(あらかん)とよばれる悟りを開いた仏弟子たちの尊称である。中国や日本では、この仏弟子たち以外にも、高徳な仏道修業者たちを羅漢に含めている。また仏教美術の上で羅漢部と呼ぶときは、祖師や高僧、あるいは聖徳太子や在家の貴人の像まで加えている。これらの像は、聖徳太子や貴人等の像を除き、いずれも比丘(びく)形で造像されるのが普通である。彫刻の上で日本で一番古い羅漢像は、法隆寺五重塔の塑造群像(711)である。なかでも北面の像は、釈迦が涅槃に入らんとする光景で、胸を叩き、こぶしで両股を押えるなど、人間羅漢の働突(どうこく)を伝えた感動ある場景を造り出している。 
この他、各宗派の祖師、たとえば、法相宗の六祖像や無著、世親、達磨大師、聖徳太子、役行者、弘法大師、慈覚大師、日蓮上人らの高僧や貴人らも羅漢に含まれる。これらの像は、僧形のものが多いが、聖徳太子像や役行者像は、それぞれ特異な姿に表される。 
維摩居士(ゆいまこじ) 
維摩居士は在家の仏教信者ではあったが、その明晰な頭脳には仏弟子たちも及ばなかっだといわれている。維摩の信仰は、斉明天皇二年(656)に藤原鎌足が病床に臥したため維摩経を読経したところたちまちに平癒したということから、以後「維摩会(ゆいまえ)」が営まれるようになり盛んとなった。法隆寺五重塔の塑造群像の東面は仏伝に名高い維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩の問答の様子を現したもので、この維摩居士としては最も古い像である。奈良法華寺乾漆像(奈良時代)、滋賀延暦寺、石山寺像(各平安時代前期)、滋賀青竜寺像(平安時代後期)、奈良興福寺像(定慶作、1196)など傑作が多い。  
 
その他の仏 
十大弟子/釈迦の弟子の中の高弟10人。 
釈迦に随侍した十人の高弟を釈迦十大弟子とよんでいる。いずれも智徳第一の弟子たちである。遺品としては、奈良興福寺脱乾漆像(六躯現存、奈良時代)のほか、京都清凉寺像(平安時代後期)、京都大報恩寺像(1200)、神奈川極楽寺像(1268)、称名寺像(鎌倉時代)などが残されている。いずれも一人一人の個性を巧みに表したすぐれた彫刻である。 
舎利弗(しゃりほつ)天才肌の一番弟子/智慧第一 
目連(もくれん)もうひとりの高弟、超能力者/神通第一 
阿那律(あなりつ)眠らない修行でついに失明/天眼第一(釈迦の従兄弟) 
優波離(うばり)もと理髪師の愛嬌者/律第一 
富楼那(ふるな)商人あがりで説法上手/説法第一 
迦旃延(かせんねん)わかりやすい教えの伝道の達人/論義第一 
須菩提(しゅぼだい)“空”をもっともよく理解した人/解空第一 
羅羅(らごら)お釈迦さんのひとり息子は荒行者/戒行第一 
阿難(あなん)お釈迦さんのハンサムな秘書役/多聞第一 
大迦葉(だいかしょう)教団の二代目は清貧の人/頭陀第一 
十六羅漢 
十六羅漢は釈迦より、永くこの世にあって正法護持、衆生救済を命じられた十六人の羅漢である。わが国では室町時代以降、特に禅宗とともに信仰が盛んとなった。多くは山門の楼上などにまつられている。また迦葉かしょう、軍徒鉢歎(ぐんずばたん)尊者を加えて十八羅漢とも呼んでいる。これらの像は絵画に多いが、彫刻としては、京都万福寺像(花范生作、江戸時代)が名高い。 
五百羅漢(らかん)/釈迦の500人の弟子。石仏が多い。 
五百羅漢は第一回の仏典結集(けつじゅう)に集まった五百人の羅漢である。遺品としては、松雲元慶の造像した東京羅漢寺像(1691〜5)が知られているほか、江戸期の石仏に多くみられる。十六羅漢の中で賓頭盧(びんずる)尊者は単独で信仰されている。真言宗寺院などでは本堂廊下や、縁先などに安置され、病気平癒の仏として民間の信仰を集めている。  
無著(むちゃく)と世親(せしん)/5世紀にインドで修行した学僧兄弟。 
役行者(えんのぎょうじゃ)/本名、役小角(えんのおづぬ)。奈良時代に実在した山岳修行者。 
空也上人(くうやしょうにん)/平安時代の修行僧。念仏を唱えながら諸国を遍歴。口から六体の阿弥陀仏が飛び出すという。
 
仏の印相

 

仏の印相について1 
仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して「印」と呼びます。印は、サンスクリット語で「身振り」を意味するムドラーから来た言葉で、本来釈迦の身振りから生まれたものです。特に密教では、誓願や功徳を表わすものとして重要視され、教義の発展と共に細分化体系化されました。古来インドでは手の形で意志を現す習慣がありました。これから発展して印相が生まれました。印相は印契(いんけい)ともいいます。ふつうは簡単に印(いん)と呼ばれています。印は指で輪を作ったり、両手を組み合わせていろいろな形をつくり出します。印は仏様の御利益や担当部門、意志などを象徴的に表します。  
釈迦の五印 / 釈迦の様々な身振りを表わしたもの 
説法印(転法輪印) 
釈迦が最初の説法をしたときの身振りをとらえたもの。胸の前で両手を組み合わせた印で、釈迦が悟りを開いた後、最初に説法を行なった時の姿を表わし、転法輪印(てんぽうりんいん)とも言う。釈迦がさまざまな身振りで説法を行なったことから、いくつかの印がある。 
施無畏印 
人々を安心させる身振り。手を胸の前に上げ、掌を正面に向けた印で、人々の恐れを取り除く事を表わす。(右手を施無畏印とすることが多い。) 
与願印 
人々の願いを聞き入れ望むものを与えようとする身振りで、深い慈悲を表わしている。手を下げ、掌を正面に向けた印で、人々の願いを聞き入れ、望みを叶える事を表わす。(左手を与願印とすることが多い。) 
定印(禅定印) 
心の安定を表わす身振りで、釈迦が悟りを開いたときの姿をとらえたもの。膝の前で掌を上に向け、左手の上に右手を重ね、親指の先を合わせた印で、釈迦が瞑想している時の姿を表わす。阿弥陀如来の場合は、阿弥陀定印(あみだじょういん)、胎蔵界大日如来の場合は法界定印(ほうかいじょういん)と言う。 
降魔印(触地印) 
悪魔を退ける身振り(釈迦が悟りを開いたあと悪魔が悟りの邪魔をしにやってきた際に、釈迦が指先を地面に触れると地神が現れて釈迦の悟りを証明しこれを見た悪魔が退散したという話からそのときの釈迦をとらえたもの)。 
右手をひざの前で伏せ、人差指を下に伸ばし、地面に触れる印で、触地印(しょくちいん)とも言う。阿しゅく如来も降魔印をとることがある。(中指と二本もある。) 
阿弥陀の九品印(くほんいん) 
仏教では人間をその能力や信仰の程度によって、上品・中品・下品の三つの位のそれぞれをさらに上生・中生・下生の三つに分けた九つの段階に区別するが、阿弥陀如来は臨終の人を迎えに来る際その人にふさわしい印を示すとされる。この九種の印の総称が九品来迎印である。両手をへその前で組むのが上品、両手を胸の前に上げるのが中品、右手が上で左手が下になっているのが下品であり、親指と人差し指をあわせて輪を作るのが上生、親指と中指で作るのが中生、親指と薬指で作るのが下生である。これらの手のひらの位置と指の形の組み合わせで九種の印を表わす。(上生印を定印、中生印を説法印、下生印を来迎印と呼ぶこともある。) 
九品印が体系づけられたのは江戸時代の事と言われる。9種類のなかで、座禅をしているような手の形が基本型となります。この形を上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)といいます。 
上品(じょうぼん) 膝の前に掌を上に向けて置き、親指と他の指で輪を造り、重ね合わせる。  
上生(じょうしょう) ひざの上で手を組む。親指と人差指で輪を造る。坐像(ざぞう=座った姿)では一番多いタイプです。阿弥陀の定印とも呼ばれます。 
中生(ちゅうしょう) 両手が胸の前。親指と中指で輪を造る。 
下生(げしょう) 右手が胸、左手ひざ。親指と薬指で輪を造る。  
※立像の場合、左手は掌を前に向けて自然に下げた形。立像(たっている姿)はほとんどこのタイプです。この印は来迎印(らいげいいん)ともいいます。  
中品(ちゅうぼん) 手を胸の前に上げ、親指と他の指で輪を造り、掌を正面に向ける。  
上生(じょうしょう)親指と人差指で輪を造る。中生(ちゅうしょう)親指と中指で輪を造る。下生(げしょう)親指と薬指で輪を造る。  
下品(げぼん) 右手を胸の前に上げ、左手を下げて、親指と他の指で輪を造り、掌を正面に向ける。  
上生(じょうしょう)親指と人差指で輪を造る。中生(ちゅうしょう)親指と中指で輪を造る。下生(げしょう)親指と薬指で輪を造る。  
密教印 
密教において印は単に身振りを表わすだけでなく、教理そのものも表わすようになった。このため密教では印が著しく発達し、種類も増えかたちも複雑になった。主なものとしては金剛界大日如来の智剣印(智拳印)と、胎蔵界大日如来の法界定印がある。 
智剣印は両手とも親指を拳の中ににぎり、左手の人差指を立ててその第一関節までを右手の拳でにぎり胸の前に右拳を重ねたもの。これは密教の密教の教主である大日如来の智慧を示したもので深い思索から行動に移る一瞬をとらえたものだといい右手は仏を左手は衆生を表わすともいう。法界定印のかたちは釈迦の五印の定印と同じである。 
降三世印(こうざんぜいん) 
降三世明王の中央のニ手が結ぶ印で、小指を絡めて胸の前で交差させる。 
跋折羅印(ばさらいん) 
軍荼利明王の中央のニ手が結ぶ印で、、中指、薬指の三指を伸ばし胸の前で交差させる。 
檀荼印(だんだいん) 
大威徳明王の中央のニ手が結ぶ印で、胸の前で小指と薬指を内側に入れて絡ませ中指をたてる。 
大怒印(だいどいん) 
大元師明王が結ぶ印で、胸の前で掌を上に向け、右手の人差指と小指をたてる。五鈷杵を握った手を捻り、甲を内側に向けた印で、普賢菩薩や金剛夜叉明王、愛染明王、三宝荒神など、および弘法大師に見られる。 
来迎印(らいごういん ) 
阿弥陀の九品印の内、下品上生をいい、九品印が確立するまでは来迎印が通例であった。慰安印(いあんいん)ともいう。 
三界印(さんがいいん) 
薬師如来がつくる印で来迎印と同様であるが、作例は少ない。 
吉祥印(きちじょういん) 
釈迦如来がつくる印で、親指と薬指で輪をつくる。阿弥陀の九品印の内、下品下生と同様であるが、作例は少ない。 
合掌印(がっしょういん) 
胸の前で両手を合わせるもので普通にてのひらを合わせただけのものを蓮華合掌、両手を合わせて十本の指をそれぞれ交差させたものを金剛(帰命)合掌と呼ぶ。千手観音や不空羂索観音の中央手に見られる。 
誕生仏の印 
釈迦が生まれた時、右手を上げて天を指し左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と言ったとされる故事に因んで、その姿を表わす。 
阿しゅく如来の印 
阿しゅく如来がつくる印で、左手で衣の端を握る。 
思惟手(しいしゅ) 
弥勒菩薩がつくる印で、右手の人差指を頬に当てる。釈迦の次に悟りを開くとされる弥勒菩薩が、いかにして衆生を救うかを考えている姿といわれる。 
持宝珠印(じほうじゅいん) 
胸の前で両手を上下におき、その間に玉宝珠を捧げもつ印で、菩薩像に見られ、中国で成立した印相とされる。  
安慰印 
施無畏印のように右腕を曲げて手のひらを前に開いて親指と人差指で輪を作って他の三本の指を立てたもの(阿弥陀如来仏の下品上生印や薬師如来の三界印などがこれに当たる)。
印相(いんそう、いんぞう)2 
ヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するものである。サンスクリット語ムドラー (मुद्रा [mudraa])の漢訳であり、本来は「封印」「印章」などを意味する。日本語では印契(いんげい)、あるいは単に印(いん)とも言い、主に仏像が両手で示す象徴的なジェスチャーのことを指す。寺院その他で見かける仏像には、鎌倉大仏のように両手を膝の上で組み合わせるもの、奈良の大仏のように右手を挙げ、左手を下げるものなど、両手の示すポーズ、すなわち印相には決まったパターンがある。それぞれの印相には諸仏の悟りの内容、性格、働きなどを表す教義的な意味があり、仏像がどの印相を結んでいるかによって、その仏像が何であるか、ある程度推測がつく。密教の曼荼羅などには、様々な印相を結ぶ仏、菩薩像が表現されているが、ここでは日本の寺院などで見かける代表的なもの数種類について略説する。 
施無畏印(せむいいん) 
手を上げて手の平を前に向けた印相。漢字の示す意味通り「恐れなくてよい」と相手を励ますサインである。不空成就如来が結ぶ。 
与願印(よがんいん) 
手を下げて手の平を前に向けた印相。座像の場合などでは手の平を上に向ける場合もあるが、その場合も指先側を下げるように傾けて相手に手の平が見えるようにする。相手に何かを与える仕草を模したもので宝生如来などが結ぶ。 
施無畏与願印(せむい よがんいん) 
右手を施無畏印にし、左手を与願印にした印。坐像の場合は左手の平を上に向け、膝上に乗せる。これは信者の願いを叶えようというサインである。施無畏与願印は、如来像の示す印相として一般的なものの1つで、釈迦如来にこの印相を示すものが多い。与願印を示す左手の上に薬壷が載っていれば薬師如来である。ただし、薬師如来像には、本来あった薬壷の失われたものや、元々薬壷を持たない像もある。また、阿弥陀如来像の中にも施無畏与願印を表すものがあり、この印相のみで何仏かを判別することは不可能な場合が多い。図1は香港・ランタオ島の天壇大仏で、施無畏与願印を結ぶ。 
転法輪印(てんぽうりんいん) 
釈迦如来の印相の1つで、両手を胸の高さまで上げ、親指と他の指の先を合わせて輪を作る。手振りで相手に何かを説明している仕草を模したもので「説法印」とも言う。「転法輪」(法輪を転ずる)とは、「真理を説く」ことの比喩である。親指とどの指を合わせるか、手の平を前に向けるか自分に向けるか上に向けるかなどによって様々なバリエーションがある。例えば胎蔵界曼荼羅釈迦院の釈迦如来の場合、両手の指先を上に向け、右手は前に、左手は自分側に向ける。この場合、右手は聴衆への説法を意味し左手は自分への説法を意味する。 
定印(じょういん) 
坐像で、両手の手のひらを上にして腹前(膝上)で上下に重ね合わせた形である。これは仏が思惟(瞑想)に入っていることを指す印相である。 
釈迦如来、大日如来(胎蔵界)の定印は左手の上に右手を重ね、両手の親指の先を合わせて他の指は伸ばす。これを法界定印(ほっかいじょういん)といい、座禅の時結ぶ事でなじみ深い印相である。阿弥陀如来の定印は密教では法界定印とされるが、浄土教などでの場合は同じように両手を重ねて親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作るものもある。阿弥陀如来の印相には沢山のバリエーションがあるので、後に詳述する。 
触地印(そくちいん) 
降魔印ともいう。座像で、手の平を下に伏せて指先で地面に触れる。伝説によると、釈迦は修行中に悪魔の妨害を受けた。その時釈迦は指先で地面に触れて大地の神を出現させ、それによって悪魔を退けたという。このため触地印は、誘惑や障害に負けずに真理を求める強い心を象徴する。釈迦如来のほか、阿閦如来や天鼓雷音如来が結ぶ。 
智拳印 (ちけんいん) 
左手は人差し指を伸ばし、中指、薬指、小指は親指を握る。右手は左手人指し指を握り、右親指の先と左人指し指の先を合わせる。大日如来(金剛界)、一字金輪仏頂、多宝如来が結ぶ。 
降三世印 (こうざんぜいん) 
小指を絡めて胸の前で交差させる印。 
阿弥陀如来の印相には数種類あるが、いずれの場合も親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作るのが原則である。 
定印(じょういん) 
前述の通り。阿弥陀如来の場合は、両手を胸の高さまで上げ親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作るものもある。日本での作例としては、宇治の平等院鳳凰堂本尊像、鎌倉・高徳院本尊像(鎌倉大仏)などがある。 
説法印(せっぽういん) 
転法輪印のこと。両手を胸の高さまで上げ、親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。日本での作例としては、京都・広隆寺講堂本尊像などがあるが、比較的珍しい印相である。当麻曼荼羅の中尊像もこの印相である。 
来迎印(らいごういん) 
施無畏与願印に似て、右手を上げて左手を下げて共に手の平を前に向け、それぞれの手の親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。信者の臨終に際して、阿弥陀如来が西方極楽浄土から迎えに来る時の印相である。日本での作例としては、京都・三千院の阿弥陀三尊の中尊像などがある。浄土宗、浄土真宗の本尊像は基本的にこの印相である。図3は茨城県の牛久大仏で、来迎印を結んでいる。
仏像の手3 
施無畏与願印(せむいよがんいん) 
施無畏与願印の特異な例として、京都蟹満寺の如来坐像の印相です。右手は親指と人差し指の指先をつけ、掌を外へ向けています。左手は掌を開きながらも軽く指が曲がっているところが特徴です。 
降魔印(ごうまいん) 
触地印(そくちいん)とも呼ばれ、お釈迦様が瞑想中に妨害しようとした悪魔を右手を伸ばし大地に触れ降伏させた姿から成立したといわれています。写真は重要文化財の東大寺弥勒仏坐像をモデルとしています。 
来迎印(らいごういん) 
阿弥陀如来様が衆生を極楽浄土に迎える時にあらわれる際に結ぶ印です。親指と人差し指をあわせ右手は胸の前、左手は垂下するというスタイルが基本です。指の合わせ方はいくつかあるようです。 
説法印(せっぽういん) 
転法輪印(てんぽうりんいん)とも呼ばれ、仏が説法するときの手の姿をあらわしているインドの釈迦如来像に多く見られる印です。国内では西方極楽浄土にある阿弥陀如来像の印相として多く用いられています。両手を胸の前にあげ、親指と薬指の指先をつけ掌を外に向けるスタイルです。 
禅定印(ぜんじょういん) 
瞑想の印で、指を伸ばした左掌の上に右手を重ね、左右の親指の指先をつけるスタイルが基本形です。釈迦、薬師、阿弥陀の各如来に用いられ、更に密教の胎蔵界大日如来も禅定印を結んでいます。 
智拳印(ちけんいん) 
胎蔵界とともに宇宙を構成する金剛界の大日如来の結ぶ印です。胸の前で左手はこぶしを作って人差し指を立て、その指を右手の掌で握り締めるスタイルです。この印相では、右手は仏、左手は衆生を象徴していて、煩悩即菩提という教義を示しています。
印相について4 
仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して印と呼ぶ。  
釈迦の五印/釈迦の様々な身振りを表わしたもの 
説法印(転法輪印)/釈迦が最初の説法をしたときの身振りをとらえたもの。 
施無畏印/人々を安心させる身振り。 
定印(禅定印)/心の安定を表わす身振りで、釈迦が悟りを開いたときの姿をとらえたもの。これと同じかたちで阿弥陀如来が結ぶものを阿弥陀定印、大日如来が結ぶものを法界定印と呼ぶ 。 
降魔印(触地印)/悪魔を退ける身振り(釈迦が悟りを開いたあと悪魔が悟りの邪魔をしにやってきた際に、釈迦が指先を地面に触れると地神が現れて釈迦の悟りを証明しこれを見た悪魔が退散したという話からそのときの釈迦をとらえたもの 。 
与願印/人々の願いを聞き入れ望むものを与えようとする身振りで、深い慈悲を表わしている。 
九品来迎印 
仏教では人間をその能力や信仰の程度によって、上品・中品・下品の三つの位のそれぞれをさらに上生・中生・下生の三つに分けた九つの段階に区別するが、阿弥陀如来は臨終の人を迎えに来る際その人にふさわしい印を示すとされる。この九種の印の総称が九品来迎印である。両手をへその前で組むのが上品、両手を胸の前に上げるのが中品、右手が上で左手が下になっているのが下品であり、親指と人差し指をあわせて輪を作るのが上生、親指と中指で作るのが中生、親指と薬指で作るのが下生である。これらの手のひらの位置と指の形の組み合わせで九種の印を表わす。(上生印を定印、中生印を説法印、下生印を来迎印と呼ぶこともある。) 
密教印 
密教において印は単に身振りを表わすだけでなく、教理そのものも表わすようになった。このため密教では印が著しく発達し、種類も増えかたちも複雑になった。主なものとしては金剛界大日如来の智剣印(智拳印)と、胎蔵界大日如来の法界定印がある。 智剣印はは両手とも親指を拳の中ににぎり、左手の人差指を立ててその第一関節までを右手の拳でにぎり胸の前に右拳を重ねたもの。これは密教の密教の教主である大日如来の智慧を示したもので、深い思索から行動に移る一瞬をとらえたものだといい右手は仏を左手は衆生を表わすともいう。法界定印のかたちは釈迦の五印の定印と同じである。 
他の代表的なもの 
安慰印/施無畏印のように右腕を曲げて手のひらを前に開いて親指と人差指で輪を作って他の三本の指を立てたもの(阿弥陀如来仏の下品上生印や焼くし如来の三界印などがこれに当たる)。 
吉祥印/親指と薬指で輪を作ったもの。 
合掌印(金剛合掌・帰命合掌)/胸の前で両手を合わせるもので普通にてのひらを合わせただけのものを金剛合掌、両手を合わせて十本の指をそれぞれ交差させたものを帰命合掌と呼ぶ 。
  
仏の像

 

造り方 
一木造り(いちぼくづくり)/1本の木から掘り出す。 
寄木造り(よせぎづくり)/全身を部分ごとに彫って、合体させる。巨像の制作が可能。 
脱活乾漆(だっかつかんしつ)造/張り子状に内側を空洞にした造り方。土で原型を造り、その上から麻布を何重にも漆(糊)を塗って貼り重ね、内部の土をかき出して背骨の木を入れ、表面に木屎漆(木屑と漆を混ぜたもの)を盛っていく方法。 
合掌 
インドでは人間の身体を左右に分け、右側を清浄、左側を不浄なものとした。右手・仏、左手・人間を指し、合わせることで仏と自分が一体となることを表した。 
運慶 
源平合戦の時代、貴族社会から武家社会へ移行する時代を生きた。運慶の仏像は、格調高いだけでなく、非常に野性的なのは乱世を反映か。仏師が仏像にサインを入れたのは運慶が初めて。東大寺南大門には運慶が作った全長8.4mの仁王が あるが、巨大な4体の四天王(各13m)は燃えてしまった。
三尊様式と其の他の如来 
三尊形式 三尊形式は胎蔵界曼荼羅の源流とも言われ、ガンダーラやマトウーラに於いて見る事が出来る、カニシカ王の舎利容器には薔薇門に対する優位を顕す為に釈迦如来が帝釈天・梵天を従えて彫られている、また脇侍に釈迦の成道以前の菩薩像と弥勒菩薩の組み合わせや、チベット等に於いては舎利弗と目連が脇侍を務める、日本に於いては文殊菩薩と普賢菩薩が釈迦如来の脇侍であり通例化しているが敦煌壁画に見られる程度で日本独自の配置と考えても過言ではない、顕教でも禅宗系では阿難と大迦葉が脇侍である、種々な経典を基にして仏像を安置する形式として三尊を安置する例が多いが、主尊と脇侍の関係に於いて比較的多く採用されている形式をあげた。 
我が国の三尊像に於いて半跏像の菩薩は阿弥陀三尊(勢至菩薩‐観音菩薩)・長岳寺・奈良の興福院・京都の長講堂があり薬師三尊像(日光‐月光菩薩)に東京国立博物館(元京都の高山寺所蔵)がある。  
普賢菩薩 | 釈迦如来 | 文殊菩薩 /釈迦三尊の一般/脇侍の左右逆の場合も稀に存在(願興寺) 
阿難陀 | 釈迦如来 | 大迦葉 /禅宗寺院・東福寺・建仁寺・満福寺等/中国に多い/釈迦如来は定印 
  薬上菩薩 | 釈迦如来 | 薬王菩薩  /法隆寺金堂/興福寺仮金堂 
帝釈天 | 釈迦如来 | 梵天 /造像初期ガンダ‐ラ、カニシカ王の舎利容器 
毘倶胝観音(ブリクテー) | 釈迦如来 | 多羅菩薩  /毘倶胝(びくち)(観音の眉間の皺から生まれた(中尊が観音菩薩も(エローラ窟等) 
観音菩薩 | 釈迦如来 | 虚空蔵菩薩 
阿難陀 | 釈迦如来 | 弥勒菩薩 /無量寿経の世界/東本願寺大師堂(御影堂) 
文殊菩薩 | 釈迦如来 | 弥勒菩薩 /創建時の醍醐寺金堂(現在は薬師三尊) 
阿弥陀如来 | 釈迦如来 | 弥勒如来 /泉湧寺(京都)淨智寺(鎌倉)など/過去、現在、未来の三世仏 
観音菩薩 | 釈迦如来 | 弥勒菩薩 /主に東インド地方 
不動明王 | 大日如来 | 降三世明王  /金剛峰寺・金剛寺(大阪) 
尊勝佛頂 | 大日如来 | 金剛薩埵 /根来寺 大伝法堂 
虚空蔵菩薩 | 毘盧遮那佛 | 観音菩薩 /創建時の東大寺 
   千手観音 | 毘盧遮那佛 | 薬師如来 /唐招提寺 
弥勒菩薩 | 毘盧遮那佛 | 十一面観音 
月光菩薩 | 薬師如来 | 日光菩薩 /十二神将が守護 
勢至菩薩 | 阿弥陀如来 | 観音菩薩 /阿弥陀三尊の多く 
    僧形八幡神 | 阿弥陀如来 | 毘沙門天 /融通念仏宗 
勢至菩薩 | 阿弥陀如来 | 千手観音 /大悲願寺(東京都西多摩郡) 
地蔵菩薩 | 阿弥陀如来 | 如意輪観音 /例は少ない 
金剛手菩薩 | 阿弥陀如来 | 観音菩薩 /例は少ない 
弥勒菩薩 | 阿弥陀如来 | 観音菩薩 /韓国など 
帝釈天 | 観音菩薩 | 梵天 /東寺/瀧山寺 
毘沙門天 | 観音菩薩 | 不動明王 /天台系/横川/正覚院 
毘沙門天 | 十一面観音 | 不動明王 
地蔵菩薩 | 十一面観音 | 不動明王 /福島県・弘安寺 
地蔵菩薩 | 十一面観音 | 毘沙門天 /清水寺本尊/勝軍地蔵菩薩/勝敵毘沙門天 
毘沙門天 | 千手観音 | 不動明王 
日光菩薩 | 千手観音 | 月光菩薩 /道成寺 
大妙相菩薩 | 弥勒如来 | 法苑林菩薩(ほうおんりん) /五重塔の内部・薬師寺(講堂)2003年より弥勒三尊を呼称 
釈迦の菩薩形 | 弥勒菩薩 | 地蔵菩薩 /臨川寺(天龍寺派) 
制多迦童子 | 不動明王 | 矜羯羅童子 /八大童子の内二童子 
吉祥天 | 毘沙門天 | 善膩師童子 /高知県雪渓寺/鞍馬寺 
毘沙門天 | 大随求菩薩 | 吉祥天 /京都・高台寺 
 
日本伝わった如来は前編にある諸如来の他に曼荼羅を主に密教仏が存在している、これ等は独尊の場合は少なく曼荼羅や三尊形式が多い。 
1 胎蔵界曼荼羅の大日如来(遍照金剛)・宝幢如来(福聚金剛)・開敷華王如来(平等金剛)・無量寿如来(清浄金剛)・天鼓雷音如来(不動金剛) 
2 金剛界曼荼羅の大日如来・阿閦如来(不動金剛・畏怖金剛)・宝生如来(平等金剛・大福金剛)・無量寿如来(大慈金剛)・不空成就如来(悉地金剛・成就金剛)以上を五智如来と言う。  
3 七佛薬師 比叡山の密教修法の一つとされ薬師七佛本願功徳経から来ており薬師七体を祈るものであるが薬師如来の分身か別尊かの確証はない、唐招提寺の薬師如来の光背にも七仏薬師が存在したとされる、さらに神護寺・法隆寺西円堂・醍醐寺・黒石寺(岩手県)等にも、そのこん跡が見られる、現存する七佛薬師像に松虫寺・鶏足寺(己高閣)には七尊が揃い松虫寺は重要文化財指定を受けている、両寺の相違は松虫寺の場合は中尊が大きく坐像に対して鶏足寺は七尊が立像で像高は概ね均等である。 
(1)善名称吉祥王(ぜんみょうしょうきちじょうおう)如来(東方光勝世界) 光勝国浄土 
(2)宝月智厳光音自在王如来(ほうげつちごんこうおんじざいおうにょらい)(東方浄瑠璃世界) 妙宝国浄土 
(3)金色宝光妙行成就王(こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおう)如来(東方円満香積世界) 円満香積国浄土 
(4)無憂最勝吉祥王(むうさいしょうきちじょうおう)如来(東方無憂世界) 無憂国浄土 
(5)法海雷音(ほうかいらいおん)如来(東方法幢世界) 法幢国浄土 
(6)法海勝慧遊戯神通(ほうかいしょうえゆうぎじんつう)如来(東方善住宝海世界) 善住法海国浄土 
(7)薬師瑠璃光(やくしるりこう)如来(東方光勝世界)の呼び名がある。 瑠璃光国瑠浄土 
4 錠光如来 梵語名 dipankara(ディーバンカラ)で燃燈(ねんとう)仏・定光如来と呼ばれる、無限劫の過去仏で前世の釈迦すなわち薔薇門僧の浄幢菩薩を現世で覚者になると予言した、また瑞応経等では釈尊の場合は前世は儒童梵士と言われる。 
大無量寿経に依れば阿弥陀如来の場合には54番目の覚者である、無限と言える過去(乃往(ないおう)過去久遠無量(くおんむりょう)不可思議(ふかおもぎ)無央数劫(むおうしゅこう))に「錠光(じょうこう)如来」が出現する、その後錠光如来に次いで各如来が長い年月の間に現れる、錠光如来から53番目に「世自在王如来」が現れると「法蔵菩薩」は世自在王如来の弟子となり、師から210億の仏の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった。 
5 法華経や大日経䟽の中に具現する多宝如来(下記)の他多数如来が作り出されている。  
6 宝生如来 梵語名Ratnasambhava(アクショーブヤ)で五智如来の南方に属し潅頂作用を持ち、万法能生(宝から発生する)・徳を司るとされ黄金色、密号を平等金剛と言い金剛宝・金剛光・金剛幢・金剛笑の四菩薩を従え、印は右手のひらを外に下げる与願印をとる。平等性智(全てに平等の智慧を)総ての衆の利益を本願とする。 攝眞実教に拠れば五指の間より如意珠を降らし天衣服・天妙甘露天・音樂天・宝宮殿を降らし衆生の円満を誓願とする。胎蔵曼荼羅の開敷華王如来と対比される。 
また宝生如来は真言宗に於ける最高の厳義、すなわち最高秘奥とされる大法「後七日御修法(ごしちにち みしほ)」が東寺に於いて真言宗各派の管長などの高僧が集まり国家鎮護などの祈願が行われる真言宗の最高厳儀の本尊である。 
真言 オン アラタンナウサンバンバ タラク 
7 不空成就如来 梵語名Amoghasiddh、不空、すなわち必ず全て円満成就(成所作智)の徳を司るとされ緑色で蜜号を成就金剛・悉地金剛という。 
一切の煩悩を滅す事を本願とする。胎蔵界曼荼羅の開敷華王如来と同じ本願とされる。 
五智如来の北方に属し羯磨の働きをしており、金剛界曼茶羅の北方月輪の中尊で眷属に金剛業・金剛護・金剛牙・金剛拳菩薩を従える。 真言 オン アボキャシッデイ アク  
8 宝幢如来 梵語名Ratnaketu で菩提心の佛で集団の統率する旗手敵存在、赤白色相、蜜号を阿閦如来と同じ福聚金剛と言い、智徳、所謂、大円鏡智、菩提心を持って悪魔を降伏させ、印は右手のひらを胸前で外に向ける施無畏印をとる、宝幢とは国語辞典に依れば法幢の美称で仏法の敵を圧倒する猛将の幢(旗ほこ)の事を言い、覚への出発すなわち発心。真言 ナウマク サンマンダボダナン ラン ラク ソワカ  
9 開敷華王如来 離苦三昧に住み大悲万行、金色、蜜号は宝生如来同じ、種子が花を咲かせる様に(開敷)覚りに導く、平等金剛で衆生に智・徳を平等に開敷する。覚への実践。    真言 ナウマク サンマンダボダナン バン バク ソワカ 
10 天鼓雷音如来 梵語名Divyadundubhimeghairghosa 不動、即ち徳を成就させる仏で、自身の浄土での鼓は自然に妙音を轟かす佛法のアジテーター。涅槃即ち覚の会得。  真言 ナウマク サンマンダボダナン カン カク ソワカ 
11熾盛光如来(しじょうこうにょらい) 京都・青蓮院の本尊で「摂一切佛頂王」とも言い、北極星を偶像化したとも言われ毛孔から飛光を発生させる、即ち無量の光源とされる、円仁が請来した如来で日月星宿等の天を折伏すると言う、また熾盛光法は秘法で特に天台系に於いて天変地異等に関する呪術に使われ天界に君臨する仏とされる。 
12 尊勝佛頂 梵語名vikirloslioaで胎蔵界曼荼羅の釈迦院の中にあり一切の障害の除去や延命・増益があるとされる、真言宗・天台宗でも重要視されている尊勝法の本尊。  
密教界に於いて仏徳を擬人化した尊像で最勝を顕わしたものが尊勝曼荼羅とされる。 
13 多宝如来 過去仏すなわち釈尊以前の尊格とされている、法華経見宝塔品・従地湧出品15章に登場する法華経を肯定する如来で、東方の無量千万億阿僧祇(あそうぎ)宝城国に君臨する如来で智積菩薩等々が従う、因みに智積菩薩とは提婆達多品12章に多く登場する。 
日蓮宗の本尊「三宝尊」に於いて題目(南無妙法蓮華経)の左右に釈迦如来(二仏並座)と共に登場する。(下部に日蓮像が置かれる)  
二仏並座の例として鑑真による日本最初の受戒道場である東大寺戒壇院に安置されていたと言う(12世紀、大江親通著・他からの引用説はあるが七大寺巡礼私記)、金銅塔の中の銅像で 釈迦如来25,0cm、多宝如来24,2cm が現在は奈良国立博物館に寄託されている、日蓮宗の寺院にも散見でき日立市の宝塔寺にも江戸時代の作とされる像がある。 
多宝如来は独尊で造像された例は見られず釈迦如来と並坐形式がとられている、日蓮宗寺院以外には根津美術館の釈尊との並坐像が重文指定を受けている。 
14 一字金輪仏頂 大日如来そのものと言える尊格で如来の中に於ける最勝最尊を仏頂尊と言う、一字金輪・金輪仏頂王・一字金輪王等とも言われている、釈迦金輪と大日金輪の二系列があり姿形としては釈迦如来・大日如来の形を継承している、即ち大日金輪は菩薩形で宝冠・瓔珞(ようらく)・腕釧(わせん)一字金輪仏頂を習得すれば。 
一字金輪仏頂を本尊とする修法は最強かつ極秘とされている。中尊寺の寺外、十七箇院の所蔵する一字金輪曼荼羅は大日金輪である。 
15 仏眼仏母 一切仏眼大金剛吉祥一切仏母」と言い仏母尊とも言われている、胎蔵界曼荼羅の遍知院に存在し仏眼法の本尊である、彫刻に作例はなく絵画に高山寺所蔵の○仏眼仏母絵が知られている。 
注1 薬師王薬師上二菩薩経に拠れば薬師如来の脇持は前二菩薩は適切とする説もある。   
注2 阿難陀・大迦葉 釈迦十大弟子の内二名、    
注3 十大弟子  
(1) 舎利弗(しゃりほつ)(法華経で釈迦の相手として多く登場・シャリープトラ)智慧第一・ 
(2) 摩訶目連(まかもくれん)(通称目連・盂蘭盆会の起源・マハ−マウドガリヤ−ヤナ)神通第一・ 
(3) 摩訶迦葉(一番弟子・釈迦の死後教団を統率、マハ−カーシャパ)頭陀第一・ 
(4) 須菩提(すぼだい)(空の理論の第一人者・スーブーテー)解空第一・ 
(5) 富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)(プールナマイトラーヤニープトラ)説法第一・ 
(6) 摩訶迦旃延(かせんねん)(マハ−カッチャ−ナ)論義第一・ 
(7) 阿那律(あなりつ)(心眼の第一人者釈迦の従兄弟、アニルダ)天眼第一・ 
(8) 優波離(うばり)(元理髪師・ウパーリ)律第一・ 
(9) 羅ご羅(らごら)(釈迦の息子・ラーフラ)戒行第一・ 
(10)阿難陀(釈迦の従兄弟・経典結集は彼の記憶から始まる・アーナンダ)多聞第一・を言う。 
注4 主な五智如来  
注5 観音菩薩を中尊とした三尊佛が少数存在する。 
注6 四方佛 四方に佛国土があると言う考えがあり、東方の浄瑠璃世界に薬師如来 西方極楽浄土に阿弥陀如来 南方娑婆に釈迦如来 北方弥勒浄土に弥勒如来 があり、興福寺や東寺の五重塔を初めとして多く存在する。  
 
阿弥陀仏像の変遷

 

仏の姿というものは、その時代の仏教のあり方によって、その表現が変わってくるものである。 阿弥陀仏には、大きく分けて4つのものがあると考えられる。  
一つは、古代のもの 
二つ目には、古代の流れを引く浄土変相図系のもの 
三つ目には、密教系のもの 
四つめには、浄土教系のものである 
飛鳥時代の阿弥陀信仰は、漠然としているが、中宮寺に残る「天寿国繍帳」などがあるところをみると、多少は、それがあったのかもそれない。また、白鳳時代には、入唐帰朝僧である恵陰が「無量寿経」を講説したところから、阿弥陀浄土の存在が知られるところとなったことは想像に難くない。  
法隆寺にのこる「阿弥陀三尊像」(伝橘夫人念持仏)がその頃の作品である。奈良時代前期の作品で、蓮の花に座し、通仏相で表されている。また、焼失した法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」もやはり、この時代のものと考えられており、衣を通肩に着け、左右の手を胸前に挙げて転法輪印を結ぶ。この相は、敦煌の阿弥陀浄土図にもみられ、我が国でも奈良時代全期に渡ってみられるところから、当時、阿弥陀信仰が、広く行われていたと考えることができる。  
一方で、当麻曼荼羅と言われる浄土変相図が、8世紀に作られている。これは、大陸の影響を強く受けた、もしくは、大陸のものそのものと考えられているが、観経(観無量寿経)を基にした浄土変相図であると考えられている。鎌倉時代初期に、この転写本、模本が作られ、同時代の解釈も加わり、当麻曼荼羅系の浄土変相図が作られたが、他にも大陸から浄土変相図が渡来し、様々な浄土変相図が見られる。 
平安時代には、密教が伝わり、空海の真言宗密教の阿弥陀法による定印の像が行われるようになる。この印相は弥陀定印とよばれ、両手の指を交差させ、ひと指を立てて大指の先に合わせるもので、この定印阿弥陀の形相は、両界曼荼羅の西方に配位する阿弥陀如来に由来する。一方、天台系宗密教では、円仁によって、中国から別の特色を備えた定印阿弥陀像が伝えられている。これは、円仁招来金剛界曼荼羅の尊形が典拠になったもので、宝冠をのせた姿が特徴的である。  
やがて、平安時代後期になると比叡山に恵心僧都源信(942-1072)が現われて、来迎思想を説くにあたり、浄土教の流行、阿弥陀仏に対する信仰が盛んになり、西方極楽浄土の光景を図絵する阿弥陀浄土図の制作が多くなる。  
平等院鳳凰堂は、藤原頼通が作らせたもので、極楽往生するために作らせたものであった。当時は「朝の懺法、夕の念仏」というように、法華経を読んで、現世の罪を懺悔し、阿弥陀の念仏を称えて極楽往生を願うのが、一般的であった。鳳凰堂の本尊の「阿弥陀如来座像」は定朝作の名品であるが、それまでの一木造りではなく、寄木造りであることもよく知られている。定印で、座像である。この頃の阿弥陀仏は、座像が多い、仏画の上でも、同じ傾向が認められる。  
鳳凰堂の扉絵は、大陸系の浄土変相図が基になっていると思われるが、和様の解釈も認められる。  
源信の説いた来迎思想は、やがて阿弥陀来迎図あるいは阿弥陀聖衆来迎図を出現させる。阿弥陀仏の名号を称え、功徳を積み、極楽浄土に往生したいと欲するものの命終わるときに臨み、阿弥陀仏が、観世音・大勢至菩薩等の聖衆とともに現れて、これを迎接する有様を描くものである。来迎相の阿弥陀像への関心が高まり、右手を上げて左手を下げ、それぞれ大指と人指を捻じた、いわゆる来迎印の阿弥陀像も作られるようになる。 
浄土教は、鎌倉期に入り、新たな仏教が生まれる中で、徐々にその姿を変え、描かれる阿弥陀仏も、立像が多くなり、来迎図も、様々なバリエーションを展開している。「早来迎」の阿弥陀如来は、雲に乗り、斜め下に、向かって降下するが、雲や衣がたなびき、いかにも速度が感じられる。また、山の間から姿を現す「山越阿弥陀図」は、密教的な解釈から生まれたものだという説もある。  
現在、阿弥陀仏は、仏像の中でも最も多く、どれも似たように見えるが、時代や、教義によって少しずつ異なった表現がなされている。  
 
運慶・快慶 / 鎌倉時代の仏像

 

運慶、快慶は、ともに慶派の仏師として、12世紀末から13世紀にかけて活躍した。慶派の仏師は、運慶の父、康慶からはじまる。康慶は、奈良仏師、康朝の弟子といわれている。 
飛鳥時代、奈良時代と奈良を中心に制作された仏像は、平安期に入り、密教の興隆によって、その制作の場を京都に移していった。平安中期になると、浄土教系の寺院の建立により、定朝を中心とした仏師集団が活躍する。 
定朝の子、覚助を継ぐ院助に始まる院派、定朝の弟子・長勢の弟子円勢に始まる円派に 分かれていく。定朝の孫の頼助が、奈良に移り活動したのが、奈良仏師のはじまりである。奈良仏師は、円派、院派の傍流として活動を続けていたのである。 
平安末になると、時代が大きく変わり始める。政界では、貴族から武士へと政権が移り、宗教界では、貞慶や、明惠らの高僧が、奈良旧仏教界に現われ、大乗仏教の根幹から変わり、衰退していた南都の寺院に再び活気が戻ってきた。そのような状況のなか、奈良仏師の活躍の場が増えてきたのである。 
運慶は生年がはっきりしない。彼の長子湛慶が、承安3年(1173)に生まれていることと、没年が貞応2年(1223)12月11日であることから、12世紀の半ばには、生まれていたのであろうといわれる。現存する運慶の作品で、最古のものは、奈良・円成寺の大日如来像である、南都の慶派の仏師は、奈良を中心に活躍していると思われていたが、じつは、中部地方、関東地方にも多く活躍の場をもっていたことが知られるようになった。 
最近、ニューヨークのオークションで、およそ14億円という高値で落札されて話題となった大日如来像は、もとは栃木県足利市にあったものである。それと作風を同じくするものに、栃木県の高得寺の大日如来像があるが、こちらも鎌倉幕府のご家人、足利義兼の依頼である。初期の代表作である、願成就院の諸像も静岡県の伊豆の国市にある。その他、愛知県、神奈川県に作品が残っており、その多くが、鎌倉幕府のご家人の依頼だったことが知られている。これらのことから、慶派の仏師は、早くから、東国とのつながりを深めていたことが わかる。 
円成寺の大日如来像をしあげた四年後に、奈良の寺院は、平重衡によって焼失する。東大寺という巨大な寺の復興は、国家事業ともいうべき大事業である。それらの事業に携わったのは、新しい勢力である武士であった。その時に、旧勢力の貴族や宮廷と結びついていた京の仏師よりも、早くからつながりを持っていた運慶らに制作依頼があったのは想像に難くない。 
東大寺の南大門の金剛力士立像二体は、世界で最も有名な運慶、快慶の代表作である。8mを超えるその大きさにも驚くが、畏怖さえ覚える、その形相、身体の筋肉のうねり、一度見たら、二度と忘れることのない迫力である。昭和63年から平成5年にかけての解体修理が行われたが、その構造十本の根幹材を中心に、約3000の部材を組み合わせるという、驚くべき寄木造りであった。吽形は、運慶を中心に湛慶、定覚が担当し、阿形は、快慶を中心に制作されたと考えられている。二像とも同じように見えながら、吽形のほうは、躍動的で、筋肉の動きが激しく、腕や足の動きも不安定とも見えるほどに、動きに力を入れて表現しているのに対して、阿形の方はどちらかというと、安定していて、よくまとまっており、翻る天衣も装飾的で、繊細で優美だといわれる快慶の特徴をよく表している。興福寺北円堂内にある、弥勒仏座像は、その両脇にある無著・世親菩薩像と共に運慶晩年期の傑作である。 
仏像の歴史を良く理解してきた運慶だからこそできる造形であるといわれる、古式に則った弥勒仏と、写実的で当時としては斬新な無着世親像の取り合わせは、非常に面白い。無着世親は、ともにインドの高僧で兄弟であるが、少し前のめりで、うつむき加減の兄無着は、いかにも老成した風貌であるのに対して、顔を上げ気味に、何かもの言いたげな弟の世親は、眼がきらきらとして、まだ壮年の名残が感じられるのである。彫刻家としての運慶の凄さが伝わってくる。 
快慶は、運慶とならぶ康慶の弟子ありながら、古代の彫刻に多くを学んだ運慶よりも、京仏師の作風を多く残す仏師である。この時代にしては珍しく多作であり、多くの仏像が残っている。自らも熱心な浄土宗の信者で、法然の弟子にもなったとされている。 
代表作である、地蔵菩薩像立像(東大寺)も、玉眼を入れ、写実的な顔立ちながら、衣文は、浅く規則的である。これは衣の截金(きりかね)文様の美しさを際立たせるためで、像に施された様々な装飾や彩色も優雅な趣を漂わせている。運慶が人間的なものを指向したとすれば、快慶はこの世ならぬものの美しさを具現したかったのだともいえよう。 
運慶と快慶の後、慶派の仏師は、湛慶をはじめとして、十人以上知られているが、いずれも快慶の作品に近い作風のものとなっていく。盛んになっていく浄土教系の仏教の影響であろう。 
慶派の仏師の作風は、激しく揺れ動いた時代だからこそ、出現した様式であった。また、ともすれば、同一視されがちな運慶と快慶の作風ではあるが、それぞれに異なっていたのである。  
 
塼仏・押出仏・漆箔・切金

 

「塼仏(せんぶつ)」,「押出仏(おしだしぶつ)」とも中国から渡来した技法です。がわが国では飛鳥時代に始まり天平時代で終わりを遂げます。「塼仏」の製法は雌型(凹型)に粘土を詰め、原型像の形を写し、それを自然乾燥、焼成させた後下地を施し、乾燥させた下地に金箔を押したり(貼ること)、彩色(絵付け)したりして、出来上がりです。食品の「たい焼き」は両面の雌型ですが塼仏は片面の雌型の違いがあります。塼仏は焼成いたしますので当然小型のものしか造れません。逆に「塑像」の方は大型の像だけに焼成することが不可能でした。塼仏で金堂などの壁を覆いめぐらし、荘厳(「そうごん」のことですが「しょうごん」と 読みます)された寺院「塼仏寺院」の多くは白鳳時代に造営されましたが現在は1ヵ寺も存在いたしません。 
「塼」とは焼いた煉瓦のようなもので仏像の表現はいたしません。塼や煉瓦を壁材に使用した建築は中国には多いですがわが国では珍しいです。と言いますのは、高温多湿の気象条件では壁材は塼より呼吸する木材のような素材の方が適しているからです。それと、地震、台風の多いわが国では塼造の「鋼構造」より木造の「柔構造」の方が安全で、その証拠に釘を殆ど使わず木組みの繋ぎ目に余裕を持たせた五重塔の技術が生かされた柔構造の高層建築が「霞ヶ関ビル」です。ところが、超高層建築ともなりますと柔構造では建物が風で揺れると高層階の住民が船酔い症状になるため鋼構造の建築方式が技術的には解決されております。  
「押出仏」は鎚鍱(ついちょう)仏とも言います。押出仏の造り方はレリーフ状の型の上に薄い銅板を当てその上から鎚と細かい部分はポンチ状のもので叩き、原型の凹凸像を完成させます。現在のプレス加工は雄型、雌型の一体で製作しますが押出仏は雄型のみで行う違いがあります。精細な部分の表現は出来ず「脱活乾漆造」のように柔らかい感じの像となります。塼仏と同じように堂内の荘厳にも用いられました。その貴重な遺品が歴史の教科書でお馴染みの「法隆寺玉虫厨子」で内壁面には4468体の押出仏で埋め尽くされております。押出仏は鍍金(めっき)のままかもしくは鍍金の上に一部彩色したりして仕上げます。押出仏、塼仏ともに一つの型で同じものが大量に造ることが出来る利点があり、東京上野公園にある法隆寺献納宝物を納めた「法隆寺宝物館」には同じ押出仏が見られます。押出仏は中国・韓国に比べて少ないわが国で「法隆寺宝物館」には数多く収蔵されております。塼仏、押出仏共に簡単安価に造立出来ますので単独像では個人礼拝にも用いられました。 
「漆箔(しっぱく)(うるしはく)」とは原型像の全身に接着剤の黒漆または赤漆を塗り、金箔を一枚一枚押す技法で金鍍金の金銅像のような出来栄えとなります。「法隆寺夢殿の救世(寺名はくせ)観音像」は明治まで絶対秘仏として大切に保存されたお陰で金銅像のような輝きがあり神々しい像となっております。素材の上に白土を施して漆箔を押しますと輝きを抑えることが出来、黒漆、赤漆の使用区別も像の表面の輝きに変化を持たせる高度なテクニックです。漆箔の採用は天平時代には主に木彫像・乾漆像でありますが「鎌倉の大仏さん」は漆箔で仕上げられております。余談ですが「銅鐸」には錫が混ざっていたので当初は金色に輝いていたことでしょう。「銅」の字を見ても金と同じと書きますね。つい最近まで金を重んじ金歯を入れてお獅子ばりの歯をした方を多く見られました 
のに今は全然見なくなりましたのは侘び・寂びの幽玄な世界を愛するわが国だからでしょうか。ひよっとすると「如来」は金色に輝くというルールがなければわが国では金箔の代わりに銀箔を使用していたかもしれません。 
「切金・截金(きりがね)」は切箔とも呼び、金箔を線状、三角、四角に切り、文様(今で言う模様)を描く技法で装飾効果を高めました。また切金は装飾物をあたかも金属製のように見せる技法でもあります。古代は「細金(ほそがね)」と言われていたところから考えると当初は細い直線の切金が主に使われていたと思われます。切金を採用した現存最古の遺品は飛鳥時代作の「法隆寺金堂の四天王像」です。南大門、中門などの「幡(ばん)」に染め抜かれております「文様」は、「多聞天像頭光背」を装飾した「切金文様」です。是非目を凝らしてご覧ください。作業は金箔に静電気を起こさないよう竹小刀で切るので「箔」は竹冠となっております。金箔の厚みは鍍金厚より薄い0.2ミクロン程度という超極薄で、僅かな風で飛ぶため厳しい環境での作業を強いられます。大和は盆地特有の冬は底冷えの寒さ、夏は蒸し暑い気候のうえ、空調設備のない古代ではどんな過酷な環境で作業がなされていたのでしょうか。 
切金は薄い金箔を一重でなく多重に張り合わせて素材の上に丁寧に漆で接着させるというかなりの熟練の技を要する作業で、このような手間を掛けることによって眩い華麗な仕上げとなります。私などは初めから多重の厚さにした一重の金箔で良いのではないかと思いますが、金箔を張り合わせることによって重厚な輝きが出るらしいのです。 
「毘沙門天」は四天王の多聞天が単独で祀られる場合の呼称で「七福神」の一神と言えばお分かりいただけるでしょう。お妃は「吉祥天」です。「毘沙門天像(法隆寺金堂)」の素材は桧の一木造で表面は錆下地に漆箔、切金、彩色で加飾されております。現在でも漆箔とその上に描かれた文様が色濃く残っているこ 
とで有名です。「宝塔」を捧げる手は造られた平安時代は左手であるのに、同じ金堂に安置されている多聞天像に合わせたのか古様の右手になっています。  
紫禁城(中国)は建物への階段は三道に分けられていて、両側は階段、中央には厚彫りされた龍鳳石がずっと敷き詰められてあり皇帝専用の通路です。龍鳳石の素材は塼でなく石でそれは気宇壮大な彫刻で豪華絢爛そのものです。わが国でも飛鳥時代は特異で石の文化が花盛りでした。 
「五尊像」すなわち「三尊像および比丘像」の様式は中国では多く見られますが、わが国では如来と十代弟子の像は法隆寺、興福寺などであまり見当たらず後の鎌倉時代の禅宗寺院で見ることが出来ます。 「法隆寺金堂本尊」の下敷きと言われる「賓陽中洞(龍門)の釈迦如来像」ですが、素材が銅と石の違いか、顔の表情は手本にしたとは私には思えません。2比丘と言えば阿難(あなん)と迦葉(かしょう)のことです。台座(宣字座)の左右に鎮座しておりますのは獅子でわが国では狛犬に変わります。余談ですが「龍門」は洛陽の郊外にあります。龍門は「登龍門」とは関係ありません。龍門は穏やかな流れである黄河の支流「伊水(河)」の川岸にあり、登龍門の龍門は黄河本流の激流にあります。また 「洛陽」は黄河の支流 「洛水」の北側にあり北が陽であるので洛陽と名付けられました。 
平安時代に今の京都・平安京を東西に二分して左京(東側)を洛陽、右京(西側)を長安と名付けておりましたが右京の方は度々河川の氾濫で洪水に見舞われ、それが原因で疫病が発生し、その流行を抑えるための祭礼が八坂神社などの夏祭でした。結果右京は人口が減るばかりで廃れてしまい左京の洛陽だけが人が集まり栄えました。時代ととも治水対策による河川も整備され右京も居住可能となりましたが当時の人たちは洛陽の名前が気に入り平安京・京都全体の代名詞で使うようになりました。今も変わらず京都では洛陽を東西南北に分けての洛東、洛西(らくさい)、洛南、洛北とさらに五行の思想のように洛中までがあります。八坂神社で行われる夏祭に仏教の「祇園精舎の鐘」の祇園祭の名前が付いているのは何故でしょうか?  
「東大寺」の大仏造立のきっかけとなったではないかと言われる「奉先寺大仏(龍門)」は高さ17.1mもあります。金銅像の「東大寺大仏」が1250年前に造立されたことには驚きが隠せないですが、奉先寺大仏も硬い石灰岩を掘って彫刻した中国の技術レベルの高さも凄いものを感じさせます。「奉先寺」というように寺でよく見ていただくと黒い四角の穴に木材を差し込んで堂が建築されておりました。この像は中国唯一の女帝「則天武后」の姿を写した言われるように大変知性を感じさせる端麗な美貌で華厳宗の「盧舎邦仏」であることを忘れてしまいそうです。東南アジアで最初の女帝は「聖徳太子」の叔母さんにあたる「推古女帝」です。  
 
禅寺と枯山水 
禅の開祖はインドの菩提達磨(ボーディ・ダルマ)、聖徳太子と同時代に中国で活躍した。禅は仏教の修行のひとつで、瞑想して心身を統一し、無我無心の境地に到達するのが目的(「面壁九年」もそのひとつ)。禅宗の特徴 、神(仏)をもたない/特定の拝む対象がない/足ることを知る/自己を拝む。 
簡素静寂を重んじる禅寺の庭は「枯山水」という様式で統一される。枯山水の庭は読んで字の如く、水を用いず、敷き詰めた砂利と石を巧みに組合わせ、大海に浮かぶ島々や、雲海から突き出す山々を表現した庭のことだ。石の数は縁起の良い七、五、三をプラスした15個か、簡素に7個の石にしぼって置いてある。枯山水の難しさは、石の配置、庭の背後にある壁の色、瓦の形、生垣の高さ、木の種類、そういった枯山水を取り囲む周囲の造形にも言える。 
水なくして水の趣を表現する枯山水の庭は、芸術作品をこえて、ひとつの小宇宙を形成している。砂利で作った水の流れは「渦巻き」「よどみ」まで表現する。
  
塔 
大きな寺には三重塔や五重塔がある。基本的に釈迦の「お墓」で、仏教寺院では塔こそが最重要建築物だ。インドで釈迦が亡くなった時、弟子たちは仏舎利(ぶっしゃり/釈迦の遺骨)を8つに分け、それをストゥーバと呼ばれる供養塔に納めて祀った。遺骨以外に髪や爪、所持品を納めた塔も建て、全てが崇拝の対象になった。BC250年頃、インド史上名高いアショーカ王は、仏教を広めるためにストゥーバから仏舎利を取り出し、84000個に分け同数のストゥーバを建てた。ストゥーバという言葉は日本に伝わった時 、卒塔婆(そとば)と置き換えらた。卒塔婆は墓石の背後に立てる供養板をいうが、当初は大陸からもたらされた仏舎利を祀る供養塔を指した。遠くからでも卒塔婆(供養塔)が見えるようにと、台座の部分が次第に高くな った。現存する塔は、てっぺんがアンテナのように突き出ているが、あの部分が元々地上にあった卒塔婆だ。つまり、どの塔もてっぺんが重要なのであり、そこから下はただの付け足しだ。古代の寺院の塔は仏舎利を納めたが、後の時代は経典や仏像を納めた。 世界最古の木造建築、法隆寺は五重塔のてっぺんと内部中心の柱の2ヶ所に仏舎利が納骨されている。

  
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仏像

 

仏教は偶像とされる仏像や祖像を大切に崇拝する、但し対象とされる仏の持つ教義、理念を理解しなければ観賞は困難になり、特に仏画は彫刻よりも著しい、仏教以外の世界宗教に於いては偶像崇拝を否定しながら例外的に三位一体や、公教要理・202でモーセの十戒から第二戒の「汝は己の為に像を刻んではならない」を除外する宗派もあるが、基本的には偶像崇拝を否定する、青木前文化庁長官の言葉を要約すれば、主に仏教だけが礼拝の対象とする美術作品が発達した、仏教は神があり神の僕となる事を想定していないで人間が覚者となる事を最終目的とする、その覚者を敬うことから仏教は美術的な尊像を作るのが信仰の証となる。 
仏像とは仏教の祖である釈尊を後世の仏弟子達が釈迦如来を慕いその姿を観想して生まれた、即ち本来は覚者(覚れる者)を造形化したもので礼拝の対象となる彫刻や絵画を言うが、彫刻を仏像・絵画を仏画と区分されている。 
釈尊が覚りを開き直接説いたとされる仏教は現世救済の哲学(宗教全て哲学とが言えなくも無い)であり、初期の仏教には偶像崇拝は存在しなかった、即ち仏教の要諦は覚者(釈尊)の姿形すなわち肉体には関係無く、釈尊が覚った仏法にあると解釈されたからとも考えられる。 
釈尊の教えは人々の生きる悩みを解決する事にありバラモン・ヒンヅウー教の形骸化した儀式至上主義や偶像崇拝的な行動も否定している。 
また教えも口伝、即ち師資相承(ししそうじょう)・(師から弟子へ)であり釈迦が存命ならば仏像・経典も承認しなかったのではないかと思われる。 
仏教に於ける偶像崇拝の対象、即ち仏像は大乗仏教の興りと共に教義を経典の他に理解の容易な形で示す必要から始まったと言える、当初は仏伝が語られそれが仏伝図として釈尊の存在を空白にして彫刻された、それが後に釈尊を蓮華(誕生)菩提樹(覚り)宝輪(説教)塔(涅槃)等をシンボリック的に偶像化される様になる。 
世界的規模の宗教では偶像崇拝を否定する教派は多いが偶像の背後にある神仏を感得して礼拝するものであり、偶像本体を拝する為ではなく一概に否定すべきでは無いと考える。 
仏教は仏像や宗派に依るが祖師などの肖像を重要視する、三位一体で十字架のイエス像やマリア崇拝を言うカトリックのような例外はあるが、基本的には仏教圏が主に礼拝の対象とする芸術性の高い美術品が発達した、本来の仏教は一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)と違い神が存在し神の僕(しもべ)となる事は念頭にない、人間が覚者(如来・成仏)となる事を最終目的とする、その覚者を敬うことから仏教は美術的な尊像を作るのが信仰の証明となる、青木前文化庁長官の言を借りれば『苦諦の除去(悟り)後にある事例は「無」であり、そこに見出せるものは美』であると言う、但し留意しなければならない点は、宗教に優劣は無く個別宗派を称賛や批判するものでは無い。 
仏教が民衆に受け入れられる為には救済を具体的に表現する必要に迫られた、仏像は人々の信仰的要求にこたえて発生したと言える。 
大きな乗り物即ち大乗仏教(Maha-yana)は「上求菩提下化衆生」がポイントであるが特に下化衆生を行う行為が求められる、衆生をサルベージする為に仏像すなわち如来・菩薩・明王・天を登場させた、阿弥陀如来には安寧を、薬師如来には医療行為を弥勒菩薩には次世代の救済が約束される。 
他に救済を目的とせず宇宙真理を表わし、如来の統括する毘盧舎那仏と同尊で密教に於ける大日如来を挙げる事が出来る。 
大乗仏教の起こりと共に釈尊を思慕する所から「他土仏(たどぶつ)信仰」が生まれて阿?如来や阿弥陀如来が登場する、他土仏信仰とは我々の住む世界即ち釈迦如来の住む浄土では無く、異なる空間即ち別世界に釈迦と同様に覚りを開いた仏が存在すると言うインド哲学から生まれた信仰である、他土仏は法華経・金光明経・阿弥陀経など多くの経典に記述されているが共通する如来名は阿閦如来と阿弥陀如来のみで異なる尊名が多数を占める、因みに後述する過去七仏は釈尊と同じ娑婆の世界の仏と考えられ応身仏である、いわゆる報身仏が他土仏に相当するとも言えよう。  
二世紀頃仏教を信仰する阿育(あしょか)王の建てた記念碑(石柱・インド砂岩223p)の中に千幅輪があるのが仏足跡・菩提樹・台座・宝輪等(上座部仏教時代)と共に最初の崇拝された偶像物と言える、この時代はローマとの交易が盛んで大量の金等がインドに流入し金貨の鋳造や彫刻の起る触媒にもなった、特に宝輪はインドに於ける伝説上無敵の転輪聖王が武器に使用した金の輪を釈迦の説法にリンクさせた品で古代インドでは説得力の大さは測り知れない。注6参照 
また偶像崇拝(久遠実状の釈迦如来)のもう一つの起こりとしてBC一世紀頃即ちギリシャ人のミリンダ王が支配していた近い時期に火葬された仏舎利を埋葬する為の「卒塔婆」ストーバ(Stupa)が建設されたが多くは侵攻したイスラムに破壊された。現存しているストーバにパールハット(Bharhut)、ボト・ガヤ(Bodh-gaya)、サンチー(Sanchi)第一塔、第二塔、アジャンター(Ajalp´)の室内塔等があり現在日本に多数存在する五重塔,三重塔、多宝塔等の原流となっている。 
これらインドの塔は土を碗型に盛り上げた中(伏鉢)に仏舎利を納めこれを参拝したのが始まりである、これら卒塔婆にはインド古来の神々は顕わさされているが釈尊の姿は表わされていない、原始仏教に於いては仏法が崇拝されるもので釈尊の姿ではないとの思想からの偶像崇拝否定とも言える。 
我が国に現存する塔の相輪(塔の屋根の上に建っている突出部分)の内、下部より1,露盤(ろばん)2,伏鉢(ふくばち)3,請花(うけばな)4,九輪(くりん)5,水煙(すいえん)6,竜車(りゅうしゃ)7,宝珠(ほうじゅ)とあり、この部分がインドのストーバに相等する、これが中国を経て卒塔婆(そとうば)になり塔と変化していった、塔の文字は土の集合体に草は生えたと言う文字訳である。 
したがって寺院の伽藍配置も初期のものは、信仰対象である塔(仏舎利の保管場所で主に伏鉢の中)を中心に金堂(東金堂・中金堂・西金堂―飛鳥寺跡)を始め諸堂が取り囲んでいたが、信仰の対象が仏舎利から仏像に変化するに及んで伽藍の中心は塔と金堂の並立時代(四天王寺・法隆寺・他)を経て金堂中心になり後には講堂に移る、塔は次第に伽藍の脇(興福寺・東寺他多数)に移動することになる。 
インドではBC二世紀頃から釈迦の前世の行動等が語られる様になる、インドに於いては五百余りの物語がありその姿を描く本生譚(ほんしょうたん)が盛んになる。しかし日本では神格化された久遠実状(大乗仏教)の釈迦が信仰されている関係から現存しているのは法隆寺の玉虫厨子に描き語られるのは捨身飼虎本生図・涅槃経聖行品のみである。 
インドでは本生譚が制作された時代を境に偶像崇拝(ユダヤ教・イスラム教から見れば偶像崇拝)に変化していった。 
大乗仏教の起こりと共に礼拝の対象として製作された像は二世紀初め頃にマトゥラー地方に現れた。 
仏像彫刻の源流でインド独自の美意識を持ち発展したマトゥラー(Mathura)と、ほぼ時を同じくして発生したガンダーラ(Gandhara)の仏像は侵攻したアレキサンダー大王の文化融合政策から送り込まれたギリシャ文化の芸術家によるものである、シルクロード交易で活躍しゾロアスター教(注1)から仏教徒に改宗したソグド人やガンダーラを支配し大乗仏教の帰依した騎馬民族クシャン人に拠るものであり、ヘレニズム(Hellenism)文化を取り入れているがアレキサンダー大王の遠征でガンダーラに入り仏教に帰依したギリシャ人の存在は大きな影響を受けている。 
マトゥラーの仏像はインド独自の伝統芸術が表現されていると言えるがガンダーラの像と融合し中国に亘り中国文化と溶け合い日本に齎された、日本では仏教伝来以前は神祇信仰(じんぎしんこう)いわゆる山川草木を敬い、偶像崇拝を知らない貴族達に教理・理論よりも芸術性を持った彫刻像や建築に大きなカルチャーショックを与えた事であろう。 
初期の仏像はStupaの従的な存在として発生したとの説もあり、自由な様式・表現の像が制作されたが、やがて三十二相・八十種好(注1)の規則が出来た、一般論としてこの規制のおかげで信仰の対象としては規格化されたが今日の視線で彫刻作品として観れば規制に呪縛されており、芸術作品として迫力に欠けるのではないだろうか、しかし日本の仏師達は仏の種類・装備など多くの制約を課せられた中で優れた像を生み出している、この特性は「折り紙」等に観られる様に世界に冠たるに値する日本人の特技の一つであろう、この場合仏教美術の研究と教理の研究に乖離がある事を念頭に置かねばならない、これは茶道具と陶工との関連にも見る事が出来る。 
また概論で述べたように仏教は悠久の昔から存在する宇宙の真理を釈迦牟尼が覚ったものとされており、釈迦以前にも覚者が存在したと考えられ(聖書に於ける創造主の様に天地を作り出したものではない)過去仏や未来仏も作り出された、これを過去七仏と言う。 
下述する毘婆尸仏から毘舎浮仏までを、過去の住劫(じゅうごう)すなわち荘厳劫の覚者であり、拘留孫仏以後の釈迦牟尼仏までは、現在の住劫、即ち賢劫(けんごう)の覚者とされる、因みに西暦1世紀頃のパールハット)に七仏の浮彫が有ると言う。 
・毘婆尸仏(びばしぶつ) 
・尸棄仏(しきぶつ) 
・毘舎浮仏(びしゃふぶつ) 
・拘留孫仏(くるそんぶつ) 
・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ) 
・迦葉仏(かしょうぶつ)に至る六仏になる。 
・釈迦牟尼仏を加えた過去七仏に対して弥勒菩薩の様な未来仏も考え出された、これ等をベースにしてインド哲学は法華経を例にとればガンジス川の砂の数ほどもの如来・菩薩を生むが、密教の起こりと共に更に著しくその数を増やすことになる,因みに過去七仏は毘舎浮仏までを過去の劫(注13)すなわち荘厳劫の仏であり、拘留孫仏-釈迦如来までを現在すなわち賢劫の仏となる。 
これが大無量寿経に依れば阿弥陀如来の場合には54番目の覚者である、無限と言える過去(乃往(ないおう)過去久遠無量不可思議無央数劫(むおうしゅこう))に「錠光(じょうこう)如来」が出現する、その後錠光如来に次いで各如来が長い年月の間に現れる、錠光如来から53番目に「世自在王如来」が現れると「法蔵菩薩」は世自在王如来の弟子となり、師から210億の仏の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった。  
日本教の歴史文化的DNAのなかで熟成された日本の場合一神教徒から見れば異質に写る、日本に於いては神官や僧侶を含めて教義を軽視する人が多く存在している、仏像は本来仏教の持つ哲学や救済の目的を考慮して僧侶や衆生に拝ませる為に製作されるはずであるが、薬師如来や密教に於ける観音菩薩には多くの秘仏が存在する、これには2点の原因が考えられる1点は呪術が目的であり霊験・荘厳さを演出する為と思惟される、もう1点は山川草木に宿る神を崇拝して偶像が無い古代神道に馴染み御神体を覗く事による穢れや祟りに恐怖感を持つ事にあるかも知れない、しかし偶像崇拝は仏像の請来から始まり8世紀すなわち奈良時代に神宮寺・神願寺などに神像が取り入れられて神仏習合が起り次第に恐怖感は希薄になる。 
また教義面に於いても徳川家康の行った檀家制度、明治政府が出した聖職者の婚姻制度に、日本人のエトス(行動様式)が加わり教義に関心を示さない人が多い。 
寺院の創建からの歴史、沿革が在るにしろ所属宗派には無用なはずの教義からは異端像が多く存在する、真言律宗の寺に阿弥陀如来が本尊であったり、浄土真宗系の寺に大日如来が奉られても不思議に感じない、キリスト教社会で言えばマリア崇拝を否定するプロテスタント及びイエスの神性の否定するアリウス派・ネストリウス派の教会にマリア像を安置した様なものではないか。 
日本においては2008年6月1日現在に於ける文化財保存法に指定されている彫刻像は2623件(国宝126件)あるが1件で複数の指定がある、例えば蓮華王院の千手観音は1件で1001尊ありトータルでは5300尊を超える数にのぼる、ちなみに絵画に於いては宗教画以外を含めて1952件(国宝157件)である。  
 
仏像の種類

 

初期の仏教は宗教と言うより哲学であり無神論的要素を含んでいたが、イランのゾロアスター教・インドのヒンズー教・中国の土着宗教や更にはギリシャ・ローマ文化等に出会い、多神教共言える大乗仏教に変貌を遂げる。 
大乗仏教となり信仰の対象としての像が生まれて四つの種類が形成される、1、如来2、菩薩3、明王4、天部とが信仰されているが、本来の意味の仏像は如来のみを意味する、如来とは冒頭に挙げた様に覚者の造形化であるが、梅原猛氏の言葉を借りれば「仏教のさとりの境地に到達した、仏教における最高の理想的境地に住している仏」である、菩薩は現在も慈悲心から菩薩活動を行う「自利利他行(じりりたぎょう)」「上求菩提、下化衆生」等と言われ弥勒菩薩・観音菩薩・勢至菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩等は既に覚者に成っていると解釈される場合が多い、さらに時代の推移と共に菩薩だけでなく明王・天部までも信仰の対象となっている為、広義に解釈して仏像に加えられている場合が多い、そこで現在日本に於いて信仰されてきた仏像を如来から取り上げていくことにする。 
如来とは梵語のtath´gata(タターガタ)の意訳語であり、ほぼ仏陀の同義語として用いられる、tath´(そのように)とgata(来たれる者)合成語と世界大百科事典には記述されている。 
仏教(仏像)には顕教の釈迦如来と密教の大日如来が頂上仏として存在するが、これを関係付ける事に意義があるかも知れない、すなわち大日如来と釈迦如来は同尊か異尊かである、これには大釈別体説と大釈同体説がある、別体説には真言宗があり空海の十住心論に於いては・真言宗(大日如来)・華厳宗(毘盧遮那仏)・天台宗(釈迦如来)の順にランクされている、同体説には天台宗が法華経を最高経典とする為に久遠実成の釈尊と台蜜の大日如来と同列に置く必要がある。  
真理(如)を会得した世界からの来た者(人)、即ち覚りを開いた覚者、「正しく目覚めた人」のことを言い、如とは真理を覚得したことに通ずる。 
造像は大乗仏教の起こりから始まるが教義を大衆に受け入れさせる為には救いを具体的に表わす必要に迫られた事による、従って仏像は人々の宗教的要求をかなえた産物でもある。 
仏像の姿形として如来は大日如来を除いて上座部仏教と大乗仏教と同じ形で顕れているが菩薩・明王は大乗仏教・密教の像であり豪華な在家貴族の姿形が多い、上座部仏教に於いて菩薩に相当する像は阿羅漢であるが糞帰衣と言う粗末な衣装である、通常仏像のは性別は存在しないとされるが、インドでは女性尊が存在し、菩薩信仰に篤い中国に於いては特に菩薩像に於いて唐時代以降は高貴な女性的イメージの菩薩像が現れる。 
大乗仏教に於いて阿羅漢など十大弟子は声門に扱われ軽視されているだけであろうか、これ等釈迦の高弟達は高いカーストの出身者であり目犍連(もっけんれん)の様にビアイシャ(平民)の出身でも富豪出身者が多い。 
また如来の識別方法は簡単な様で複雑な面があり、特に飛鳥・白鳳時代の作品は解釈の難しい仏像もある、かの閨秀歌人、与謝野晶子は吾妻鏡の影響もあるのかも知れないが、鎌倉時代の仏像ですら「みだれ髪」の中で間違いを犯している。 
鎌倉・高徳院(大異山(だいいさん)高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ))の大仏は阿弥陀如来であるのに「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と読んでいる、また室生寺の薬師如来は近年まで釈迦如来として拝まれていた(室生寺の薬師如来は文化財指定は国宝・釈迦如来で受けている)、大安寺の伝馬頭観音は千手観音菩薩で文化財指定を受けている。 
仏像観賞に於いて「仏像のこころ」(岩波書店)で新しいジャンルを開かれた梅原猛氏は仏像の心を知るには形からは入れと言はれる、印相(印契)・舞(日本舞踊もこれにはいる)等は言語が発達以前の意思の表示方法であり仏像の印もその流れの中にあると言える、印相を梵語では身振りを意味するが特に密教に於いては印が教理そのものを具現している。 
材質面に於いては非鉄金すなわちはブロンズ(銅像)に鍍金を施す金銅仏、粘土で成形する塑像、土と木枠で躯体を作り麻布と漆を重ねる乾漆像、脱乾漆像、白檀、楠、欅、檜などの木造、石を斫り出す石造がある、特殊な例として経典の古紙や冊子を張り合わせた紙張貫像(しちょうかんぞう)がある、これは像内に物品が納められるようになっており、茶道具の一閑張細工(いっかんばりざいく)の嚆矢とされる。 
造仏は11世紀中盤から百年程の間に、材質の変化に加え定朝による寄木造や慶派による玉眼の開発により完成を観たと言える。 
また製作年代及び場所は概ね特定されているが飛鳥時代の仏像は請来されたか、渡来人の作品か確定は困難とされる。 
古仏すなわち文化財の像容は時代を経て変化していくが、通常諸外国に於いては古くなると造顕時の状態、すなわち金色に塗りかえられる、日本にでは古仏・仏画を復元する場合に於いて造顕時の金色に輝き、煌びやかな状態まで戻す事は無く、在るがままに近い状態に復元している、ここに日本人の美意識に対する真髄が見られる、徒然草を引用すれば「羅は上下(かみしも)はずれ、螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれ」と言れている、其処には作品の中から時の経過を読み取る文化が存在する。
 
仏像の時代別特徴

 

飛鳥時代 
眼は杏仁形(きょうにんけい)・唇は仰月形(ぎょうげつけい)・顔は長い・アルカイックスマイル・正面のみ対象が多い・裳懸坐・衣文がシンメトリー・銅像 
白鳳時代 
顔は丸く表情に明るさ・肉付きが良い・眉と目の間隔が広い・側面、背後に細工の像がでる・飛鳥寺代の面影を残した像が残る・彫りの深さ・立体感・写実性の始まり・楠材・丈六仏・優美・繊細 
この時代に百済、高句麗が滅び渡来系工人が各地に分散し仏像・工芸品を多く広め絢爛たる天平文化に引き継ぐ・・衣文がシンメトリーから抜け出し皴に自然さ 
天平時代 
均整が取れ写実性に富む・多眼多臂の密教像が出始める・観音像、変化像など種類が多様化・材質が多様化し奥行きがでる(銅像・塑像・乾漆・木心乾漆造)・造仏所が出来て流れ作業化する・ダイナミズム・檜材如来以外の像造 
仏教美術の爛熟期を迎える・木屎漆で衣文などテクスチャーに(texture)奥深さ 
貞観時代 
檀像様(注7)や密教像が増える・木像は80%以上を占める・檜の一木造が多い・翻波式・力感が増し表現の多様化銅像・塑像姿を消す材質もあり地方に広がる神像(神仏習合)の広まり 
藤原時代 
優美なラインを持つ和様彫刻の起こり・寄木造の始まり・彩色像の増加・顔が大きく伏目勝ちで貴族好みの優雅さを持つ・浄土信仰による阿弥陀像が増える・浪漫主義・後半玉眼の起こり・地方への広がり・装飾性 
鎌倉時代 
銅像・塑像の復活・武家好みの豪快さ躍動感・玉眼の浸透・造形、写実性の完成・勇猛力感 
康慶と息子、運慶を先導に慶派の台頭 
南北朝時代 
装飾性・禅宗様肖像が多くなる・為政者による注文が激減 
南都仏師や鎌倉に於いて宋時代の様式を踏襲した臨済宗の注文を受けた作品が残る(東慶寺水月観音など)  
注1   三十二相の主なもの。 
 足下安平立相(そくかあんぺいりつそう)/足の裏が扁平で大地に立つと、地面と足の間が密着する 
 足下二輪相(そっかにりんそう)/足の裏に千幅輪が現れている 
 長指相(ちょうしそう)/手足の指が長い 
 足跟広平相(そくごんこうびようそう)/踵は広く平ら 
 手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)/手足の指の間に水掻きの様な膜がある 
 足趺高満相(そくふこうまんもうそう)/足の甲が高く亀の甲のように盛り上がっている 
 正立手摩膝相(そうりつしゅまそくそう)/直立した時の手は膝をなでるくらいの長さ 
 身広長等相(しんこうちょうとうそう)/身長は手を横に広げた長さに等しい 
 金色相(こんじきそう)/全身が金色に輝いている 
 丈光相(じょうこうそう)/全身の周囲一丈の範囲光り輝いている、丈光相から光背が出来た 
 大直身相(だいちょうしんそう)/体が大きく端直無比 
 真青眼相(しんせいがんそう)/眼晴は青蓮華の如く紺青色である 
 牛眼睫相(ごげんしょうそう)/牛王の如く睫毛がながい 
 頂髻相(ちょうけいそう)/頭上の肉が隆起しており、その形は髷のよう 
 白毫相(びゃくごうそう)/眉間の白い毛が右回りにねじれて、光を発している 
注2  八十種好とは三十二相を詳細化されたもので・眉は新月のように細く美しい・耳輪は長くたれている・腹は細く・臍は丸い・耳朶環状・三道(喉のしわ)・臍は深く右渦をまく・その他手相のことなど八十項目がある。 
注3  如来十号如来には多くの呼称があり如来十号と言う。 
 如来覚りを開いた人 
 応供(おうぐ)供応を受ける適格者 
 正等覚(しょうとうがく)または正遍知如来供応正等覚者とも言い正しい覚りを開いた人 
 明行足(みょうぎょうそく)明は智慧行は、おこないを言い明行を兼ね備えた人 
 善逝(ぜんぜい)迷いを断ち切り静寂心を会得した人 
 世間解(せけんげ)世間の事の理解者 
 無上仕(むじょうし)最も秀でた人 
 調御丈夫(ちょうごじょうぶ)指導救済者 
 天人師(てんにんし)天界人と人間を導く 
 世尊(せそん)尊敬に値する、釈迦牟尼世尊の略 
注4  釈迦の真物とされる仏舎利は1900年タイ国のチュラロンコン国王から贈呈され名古屋市の覚王山・日泰寺の奉安塔(舎利塔)に安置されている。 
覚王とは覚者の王即ち釈迦如来のことで、日泰寺は日本・タイ国から命名された。 
注5  四方仏 四方に仏国土があると言う考えがあり、東方の浄瑠璃世界に薬師如来西方極楽浄土に阿弥陀如来南方娑婆に釈迦如来北方弥勒浄土に弥勒如来があり、興福寺の五重塔を初めとして多く存在する。 
注6  偶像崇拝を一神教は否定するがカトリックは建前として偶像崇拝を否定するが十字架のイエスやマリア崇拝が存在する、仏教は仏像を拝するが偶像崇拝は礼賛しても否定すべきくではないと考える。 
注6  輪宝 全ての悪敵を葬る武器で古代インドに於ける飛翔武器で土着信仰から生まれた転輪聖王を象徴化された八角等の金輪で密教では灌頂等にも使用される。 
注7  檀像 白檀(びゃくだん)・栴檀(せんだん)・紫檀(したん)・等の木材で彫られた像を檀像と呼ばれる、優填王(うてんおう)が造像させた最初の釈迦如来像が檀像であるとされる、木目が微密で薫香を発し珍重された、インドや東南アジアに於いて産出される白檀で造像された檀像は5世紀後半中国に請来されるが中国に於いては白檀など香木は産出されず、清涼寺に請来された釈迦如来像の様に中国桜で代用された、さらに日本に於いてはカヤや檜材が使用され小像が多かった檀像は比較的大きく造像出来る様になる。 
日本に請来された檀像の代表として法隆寺国宝・九面観音と同じく金剛峯寺の諸尊仏龕がある。 
白檀はH10m、幹は60p程度に成長しその中心部の赤味部分のみが仏像などに使用される、硬質で光沢に優れ薬効成分も含む、最高質の栴檀を牛頭(ごす)栴檀と言い牛頭山(インドのマラヤ山)産出の栴檀の下部(根に近い)が特に珍重される、因みに阿含経を基に最初に彫られた釈迦如来像が檀像(牛頭栴檀)と言う。 
注8  仏像の表情にアルカイクスマイル(archaiksmile古式微笑)と呼ばれる事があるが古代ギリシャに於いてはBC600-480年をアルカイク期と呼ばれた、この時期に於ける彫刻の微笑をその後の仏教美術品に受け継がれたと言われるが、日本の仏像との関連は定かではない、わが国の仏像では法隆寺の百済観音・救世観音や中宮寺の如意輪観音、広隆寺の弥勒菩薩の口元をアルカイクスマイルと言われる事がある。 
注9  国宝に指定された仏教関連の彫刻は祖師像を含めて126尊に東京都の西新井大師総持寺所蔵の蔵王権現鋳銅彫像(銅鏡)があり、地域別には奈良県70余尊・京都府余37尊・和歌山県5尊・大阪府、滋賀県各4尊・東京都2尊・岩手県・福島県・神奈川県・兵庫県・大分県が各1尊となる。 
注10 仏の三身とは「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。 
法身仏とは宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言える、毘盧舎那仏・大日如来を言う。 
報身仏とは菩薩が修行と善行の報いにより到達する姿を仏身で顕したもので阿弥陀如来・薬師如来などを言う。 
応身仏とは衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行う如来で、釈迦如来をさす。 
注11 ゾロアスター教 BC7世紀頃-BC3世紀頃に現在のイランで東北部で発生しペルシャ文明の根幹を形成した宗教で世界最古に属する宗教と言える、経典は「アヴェスター」であるがペルシャ文明は口伝であり記録を残したのは古代ギリシャ人とされる。 
神・アフラ・マズダの名からマズダ教・善教・松教とも言われ当寺のイランを席巻した、一神教信仰の嚆矢とも言える教義を持ち現在の世界三大宗教に儀礼や哲学に多大な影響を与えているが後にイスラム教に席巻された。 
善意・良心・道理を重要視した行動を示す、火を象徴として宗教儀礼に用いる事から拝火教とも呼ばれる、ただし祭祀や儀式で火は必ず燈るが礼拝の対象ではない、古代から仏教にも大きな影響を与え阿弥陀信仰や不動明王等の火炎光背や、密教で重要視される護摩の火はゾロアスター教が源流とされる、またイスラム教シーア派にも影響があるとされる。 
もう一つ世界宗教の源流と言えるものに善悪・光闇を峻別したことにある、以前の神はギリシャ神話にもある様に善悪二面性を有していたがゾロアスター教以後の宗教は神と悪魔即ち善悪が分けられた。 
中国では松教(けんぎょう)と呼ばれた。活動期はBC2000年紀ごろからBC7-6世紀など諸説があるが定かではない。 
現在新たな入信者の門を閉ざしておりインドボンベイを中心に世界に広がりが見られるが定かではない、約17万人の信徒を持つ。 
注12 頂相 禅宗寺院に仏像はあるが、本来は「頂相」即ち祖師の像を重要視して拝する。 
注13 劫(こう) 劫波の略語で梵語kalpaの意訳で佛教の言う非常に長い期間を言う、盤石(ばんじゃく)劫の一劫とは四十立方里の岩に天人が百年に一度舞い降りて衣の袖で岩面を一度なでる、その岩が磨耗するまでを一劫と言う。 
また大智度論に依れば芥子劫も有り芥子の実を百年に一度160Km2の城都に一粒ずつ落とし満杯になって一劫とする数え方もある、またヒンズー教に於いては一劫は43億2千万年とする記述もある、今現在の劫を賢劫(けんごう)と言い過去の劫を荘厳劫(そうごんこう)・未来劫を星宿(せいしゅく)劫と呼びこれを三世三千佛と言う、曼荼羅に登場する賢劫の千佛はここから由来している。阿弥陀如来は法蔵菩薩時代に五劫の間修行して如来と成った、ちなみに阿弥陀五劫思惟像は東大寺(木造・漆箔・106cm室町時代)に合掌姿で存在している。 
劫の分類は複雑で宇宙形成から繰り返す壊滅、空劫、成劫、住劫までの劫を一大劫、器世間と言う時間を単位とする物を歳敷劫という。 
阿弥陀如来が四十八誓願をかなえて覚りを開いてから十劫が経過していると言う、人間が成仏出来るまでの時間軸に三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)の間に積功累徳(しゃっくるいとく)を必要とされる、三阿僧祇劫≑無数≑10の140乗≑3×10の56乗×1劫となる、但し乗数は52-56等の説がある。 
因みに劫の対極にある時間を表す極少時間は仏教用語で刹那(1/75≑秒)と言う。 
無限大と言える過去に「錠光如来」が出現し、その後も如来が現れ53番目に「世自在王如来」が現れる、「宝蔵菩薩」は世自在王如来の弟子で師から210億の佛の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった、因みにヒンズー教に於いては一劫を43億2千万年とされている。 
注14 阿弥陀如来の九品印とは・上品上生-・中品中生-・下品下生までの九の上中下、品、生、の印を言う。