神道と神事

 
神棚のお祀りする祭器具とお供え 
神棚には通常、お米・お塩・お神酒をお供えする。お米・お塩は平瓮(ひらか)に、お水は水器、お神酒は瓶子(へいし)という白色陶製の祭器具が用いられる。また魚や乾物、野菜、果物などのお供えも、その大きさに合わせた平瓮に盛る。これらをお供えするには、更に三方(さんぽう)や折敷(おしき)に載せてお供えするのが一般的。この他、宮形の前におく御神鏡や、榊をお飾りする榊立て、神前を明るく灯すための御神灯等が用いられる。 お供えの仕方/我が国では古来より、中央である正中(せいちゅう)を尊ぶため、神棚にお供えする際も、お米を中央とし、向かって右にお神酒、左にお塩・お水をお供えする。但し、棚板のスペースに応じては、1つの三方にまとめてお供えする場合もある。お米やお神酒など日常のお供えはもちろんだが、その他、季節の初物や、戴き物など珍しい食物も、先ず神棚にお供えをしてから、家族でたべるとよい。  
 
参拝作法は「二拝二拍手一拝」 
神道の伝統的な拝礼作法である両段再拝に基づくもので、この拝礼では二拝(再拝)を2回(両段)行うが、二拝を連続して2回行うこともあれば、最初の二拝の後に拍手、又は祝詞奏上を行う場合もある。 拍手については、古くから我が国独自の礼法として、神さまや貴人を敬い拝むときに用いられました(「魏志倭人伝」)。平安時代以降、大陸との交流による影響で、宮中ではこの作法がなくなり、ただ拝礼をするやうになったが、神さまを拝むときには変わらず拍手をした。その後、両段再拝の作法も、各神社や各流派によって多少の違いを生じ、明治8年に式部寮によって編まれた「神社祭式」に「再拝拍手」という形が規定され、これを基本に現行の「二拝二拍手一拝」という参拝作法が慣例化した。  
 
神棚をお祀りする方角 
神棚を祀るときには、一般的に南向きか、東向きにお祀りする。しかし、西や北向きがいけないという理由はない。これには日本人の方角に関する考え方の影響によるもので、東と西は太陽が昇って沈む方角であり、日々の繰り返しの中から重要な方角として尊んできた。北と南の方角は、中国の「天子は南面する」という語に表れているよう、北に在って南に向かうことが君主の地位を象徴することとして尊ばれてきた。この思想的影響を受けながら、祭りを中心とした儀礼の場において、重要な方角と考えられてきた。 現在、家庭に神棚を設けるとき、こうした考えに基づき、太陽の昇る東向きか、陽光が最も降りそそぐ南向きを原則に、家中でも清浄な場所を選んでお祀りする。神社も同様で、一般的に南向きか東向きに建てられていることが多い。  
 
社殿の丹塗り(にぬり) 
神社の社殿等の建造物で丹塗りのものを目にすることがある。特に稲荷神社の場合、社殿はもとより鳥居までもが丹塗りで、崇敬者から奉納された丹塗りの鳥居が幾重にも建てられていることがある。丹塗りの建物は多分に中国・朝鮮などの文化の影響が色濃いようだ。稲荷神社の御本社である京都・伏見稲荷大社は元々、古代、朝鮮からの渡来氏族である秦氏(はたうじ)の氏神で、このことが直接的に社殿の色にも表れたのではないかと思われる。 日本の場合、伊勢神宮の御正殿に見られるよう、本来、素木をそのままに使った建物が一般的であるのは、茶室などの数寄屋造の建築物からも理解できる。これに対し大陸の場合、ほとんどの寺院や御廟が丹塗りの建物である。朱色とはまさに血液の色で、大陸ではこの色が最も生命的な躍動を現すとともに、災厄を防ぐ色としても重視された。大陸文化との交流により稲荷神社をはじめ、その他の神社仏閣にもその影響が見られるようになった。 平安神宮の場合、平安京開都1100年を記念して、明治28年に鎮座した神社である。このため社殿も平安京の正庁であった大極殿を模した拝殿の他、応天門を模した華麗な神門など、丹塗りの社殿で、屋根の色も青緑色といった大陸文化の影響による平安京の建築物を復元した、御祭神を祀る御本殿は素木造りの銅板葺によるものである。 韓国の大統領府である青瓦台の建物や、中国・南京にある孫文を祀る中山陵など青色の屋根の建造物を見るが、日本の場合、神社の社殿として元より青色や青緑色といった屋根を持った建物は多くない。多くは屋根を銅板で葺いたため、当初は銅の茶色が年数とともに錆びて、青緑色に変化したものである。  
 
神宮大麻1(たいま)  
大麻=お伊勢さまのお神札(ふだ)=には、神宮の神楽殿で直接お受けいただくものと、全国の神社(氏神さま)を通じて毎年年末に神宮から各家庭に頒布(はんぷ)される天照大御神のお神札(神宮大麻)がある。お神札は古くから伊勢の御師(おんし)によって配布されてきたが、明治天皇の思召(おぼしめし)により、国民が朝夕神宮を敬拝するために神宮から全国各地にお頒ちすることになった。この神宮大麻は、伊勢の神宮にお参りして、そのご神前を拝むのと同じ気持ちで、皆様方のご家庭においてもお参り出来るようにという意味で、お近くの氏神さま等を通じてお頒ちしている。すべてのものがあらたまる新年を迎えるにあたり、家庭や会社の神棚に新たな神宮大麻と氏神さまのお神札をおまつりし、感謝の祈りをささげることにより、皆様方の毎日に神様の限りなく広く大きなご神恩がいただけ、希望にみちた日々と明るい生活を築いて頂ける。神宮大麻は神社本庁、神社庁を通じ氏神さまで頒布され、毎年新年には氏神さまの神札と共に神棚にお祀りするものだ。  
神宮大麻2  
その伊勢の神宮のお神札を神 宮大麻(じんぐうたいま)といいます。大麻とは、古くは「おおぬさ」と読み、祈りがこめられるお神札の大切な部分(麻串・ぬさくし)に由来する歴史のある 言葉です。  
また昔から、「お伊勢さん」「お祓(はら)いさん」とも呼ばれています。「天照皇大神宮」の神号に神さまの印と大神宮司の印が押され、清浄を第一に数々 のお祭りを経て伊勢の神宮で奉製されています。毎年暮に全国の氏神さまを通じて各家庭に配られる神宮大麻は、氏神さまや他の崇敬する神社のお神札と共に神 棚にお祀りします。  
神宮大麻の起源は、平安時代末期にまでさかのぼり、御師(おんし)・大夫(たゆう)と言われる人々が全国の崇敬者に、「御祓大麻(おはらいおおぬさ)」 「御祓いさん」などの名称で頒布していたお神札に求めることができます。  
御師は神宮に奉仕する神職であると同時に、全国から多くの崇敬者の真心を受け入れ、参宮の案内や自邸の神楽殿での神楽や祈祷を行っていました。この御師 が、崇敬者のためにお祓いし、祈祷をこめて全国に頒布した「御祓大麻」が現在の神宮大麻の起源です。御師の活動により、江戸時代後期の安永年間には、全国 世帯の約九割が大麻を受けていたという記録もあります。  
明治維新に伴う制度改革により、明治五年より神宮大麻は、神宮司庁により奉製頒布されることになりました。明治天皇の大御心(おおみこころ)のもと、国 の隆昌や国民の平安を祈り上げた「神宮大麻」が、神宮の大御璽(おおみしるし)として、全国の家々に頒布されることとなったのです。その後数度の変遷を経て、現在神宮大麻は、昭和21年に設立された神社本庁が神宮司庁から全面委託を受け、全国約八万の神社の神職・総代等によって各家 庭に頒布されています。  
お伊勢さま  
伊勢の神宮は、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする日本で最も貴いお宮である。天照大御神をおまつりする「内宮」は、皇室の御先祖神として尊ばれ、国民の総氏神と仰がれている。豊受大御神をおまつりする「外宮」は、五穀豊穣、衣食住の守り神としてあがめられている。  
お伊勢さまのお神札  
神宮大麻は「お伊勢さま」「おだいじんさま」「お正月さま」として親しまれる天照大御神のお神札。年の初めを迎え、すべてがあらたまるように、神宮大麻もまた新しくおまつりする。ご家庭の平安を祈り朝夕に感謝の誠を捧げることにより、大御神の広大なお蔭をいただき、災いを祓い、希望にみちた明るい一年をお迎える。  
 
おみくじ  
お正月に神社を参拝した際におみくじを引き、今年の年回り(運勢)など占われる。 おみくじは、個人の運勢や吉凶を占うために用いるが、種類もいろいろとあり、その内容には、大吉・吉・中吉・小吉・末吉・凶の順序の吉凶判断の他、金運や恋愛、失せ物、旅行、待ち人、健康など生活全般に亙る記述がある。また生活の指針となる和歌などが記されている場合もある。 占いとは物事の始めにあたり、先ず神様の御神慮を仰ぎ、これに基づいて懸命に物事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れとも言える。例えば、小正月などにその年の作柄や天候を占う粥占神事や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ際、御神慮に適った者が選ばれるようくじを引いて決めることなどが古くから続けられてきた。おみくじもこうした占いの一つと言える。 おみくじを境内の木などに結ぶことは、境内の木やおみくじ納所などに結び付けることにより、神様と御縁を結ぶことができるという信仰に基づくものと思われる。特に吉凶の区別はないが、凶などのおみくじを結んで帰る習わしもあるようだ。吉凶が記されているが、吉凶判断のみならず、記されている内容を今後の生活の指針としていくことが大切で、おみくじをお持ち帰っても差し支えはない。  
 
大祓(おおはらえ)  
大祓は我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢(けが)れ、その他災厄の原因となる諸々の罪や、過ちを祓(はら)い清めることを目的としている。こうしたお祓いは、記紀神話に見られる黄泉(よみ)の国より戻った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が行った禊祓(みそぎはらえ)を起源とし、宮中においても古くより大祓が行われてきた。中世以降、各神社でも年中行事の1つとして普及し、現在では恒例式として全国の神社で行われている。 大祓は年に2度、6月と12月の晦日に行われるが、特に6月の大祓を夏越(なごし)の大祓と呼び、人形(ひとがた・人の形に切った和紙)を用いて、身についた半年間の穢れを祓う。一条兼良(いちじょうかねよし・1402-81)の「公事根源(くじこんげん)」に無病息災を祈るため、茅(かや)や藁(わら)を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを3回くぐりながら、「水無月(みなずき・6月)の夏越の祓いする人は千歳(ちとせ)の命のぶというなり」と唱えたことが記されている。このことは「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文に見える蘇民将来(そみんしょうらい)の説話に、小さな茅の輪を腰につけることにより疫病を免れたと記されていることに由来とすると言われている。 12月の大祓は年越しの大祓とも呼ばれ、同様に新しい年を迎えるための祓いを行い、心身を清める。その年の節目に行われる大祓は、罪穢れを祓うとともに、自らを振り返るための機会としても必要なことと言える。  
 
神輿の渡御  
各地の神社で毎年か何年かに一度のお祭りに伴い、神輿(みこし)や山車(だし)の渡御(とぎょ)が行われている。 普段は鎮守の杜(もり)深くお鎮まりになられている神様が、この時には神輿や山車にお遷りになり、氏子崇敬者の手により地域を巡幸してゆく。この祭りにより神様と人々が一体となり、人々は祭りを通じて活気を取り戻し、神様もこうした人々の姿を見てお喜びになられ、地域の家々に御神徳を与えて下さると信じられている。 渡御のお祭りは、それぞれの神社によって性格も異るが、区分してみると、一つには神様が初めてその神社に迎えられ、祭られるようになった事跡や歴史的な事実を繰り返すために行われるもの、氏子区域や神様に縁故のある地域を巡るもの、御霊会(ごりょうえ)など疫病退散の行事が恒例化したもの、神慮を慰めるためにおこなうもの等に分けることができる。 特色あるものとしては、具体的な事例として、祇園祭などに見られる神輿に山車や屋台が伴って巡幸するもの、海浜や川辺などに渡御する「浜降祭」や「神輿洗い」、神輿を船にのせて海上や川を渡御する「御船祭」など数々の雄壮なお祭りがある。  
 
八幡神社  
八幡神社は、八幡宮や八幡社と呼ぶ社も多く、更に地名等を冠した呼称の社も見られる。全国に本社(境内社を除く)は約9千社あり、その分布もほぼ全国的に見ることができる。 起源は、現在の大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(宇佐八幡宮)を根本社としている。御祭神である八幡神は、第29代欽明天皇の御代(540-571)、豊前国宇佐郡の御許山に初めて現れ、大神比義(おおがみひぎ)によって祀られるようになった。これが宇佐神宮の創祀とされている。 奈良時代、八幡神は東大寺の大仏建立を助けるため上洛し、東大寺の守護神として鎮座(現・手向山神社)し、次第に仏教との習合を深めていったため、仏法守護の神として僧尼からも崇められ、「八幡大菩薩」の号が奉られた。 平安時代には平安京の守護神として勧請され、都の裏鬼門(南西)の方角にあたる京都・男山に祀られたのが、現在の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)である。鎮護国家の神として朝廷の篤い崇敬を受けた。この神社の社前で八幡太郎として名高い源義家は元服の式を挙げ、その後、八幡神を氏族の氏神、また武門の神として仰いだ。 この縁もあり、源頼朝は鎌倉幕府を開くと鶴岡八幡宮を創建し、幕府の守り神とした。また、八幡神は厄除け・安産の神としても民衆から信仰を集めていたので、中世以降、宇佐から石清水、鶴岡八幡宮への分祀過程の由縁地や、これらの神社の各地の神領、また、源氏の武将による祈請などで各地に広く祀られるようになった。現在、関東には約千百社の八幡神社がある。代表的な神社(神社本庁別表神社)としては、東京では江東区の富岡八幡宮、杉並区の大宮八幡宮、同区の井草八幡宮、神奈川県では鶴岡八幡宮の他、平塚市の平塚八幡宮の5社がある。  
 
三社詣  
「鹿児島県神社誌」によると、島津家初代藩主の忠久公(?-1227)が毎年元旦に先ず一之宮神社、次に二之宮(現在の鹿児島神社)、最後に三之宮(現在の川上神社)を参拝したことによる。第18代家久公まで続いたそうで、これが現在でも定例となっているようである。 三社詣や五社詣、七福神巡りなど奇数の社寺に巡拝することがよく見られるが、奇数であることにはこの数が陽数であり、縁起の良い数字であるということからであると考えられる。中国の暦学において、9月9日を重陽というのは陽数が重なるからで、9は陽数の中でも最大の数として最も縁起の良い数となるわけだが、日本では「9」が「苦」の音と混同されて忌み嫌われる数となっている。 平安時代以降、各国ごとに一之宮以下の神社の社格が定められた。時代とともにその順位に変化が見られ、律令制下において国司がその国に赴任する際に巡拝する神社であり、やはり三之宮・五之宮といった形となっている。三・五・七という数の神社への巡拝は、地域などにもより異なるが、古くから行われてきた慣習であるということができる。  
 
鳥居  
鳥居は神社を示し、また神社の神聖さを象徴する建造物とも言える。鳥居は神社の境内と境外を分ける境に立てられ、鳥居の内側は神さまがお鎮まりになる御神域として尊ばれる。鳥居の起源は、天照大御神が天の岩屋にお隠れになった際、八百万(やおよろず)の神々が鶏を鳴かさしめましたが、このとき鶏がとまっていた木が鳥居の起源であるとする説や、外国から渡来したものであるとする説などもあるが、はっきりとしていない。 鳥居は、その材質・構造も多種多様に及び、各神社によっても形態が異なる。代表的なものは、鳥居上部の横木が一直線になっている神明鳥居と、この横柱の両端が上向きに反っている明神鳥居がある。この他、明神鳥居の横木の上部に合掌形の破風のついた山王鳥居や、丹塗りの稲荷鳥居など特徴的なものがある。  
 
氏神さまと他の神社のお神札を一緒にお祀りしてもよいか?  
全国にある神社について、皇室の御祖神(みおやがみ)をお祀りする伊勢の神宮を別格の御存在として、氏神さまの神社と、その他の神社との2つに分けることができる。 氏神さまは、自らが居住する地域の守り神としてお祀りされている神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する方々を氏子と称す。元来は、文字通り氏姓を同じくする氏族の間で、自らの氏族の祖先(祖神)や、氏族に縁深き神を氏神さまと称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでいた。現在のような地縁的な関係を指しての呼称には、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)と言う呼び方があるが、次第に混同して用いられるようになった。 これに対して、地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰などにより崇敬(すうけい)される神社を崇敬神社と言う。神社によっては氏子を一切持たない神社もあるため、神社の維持のため、崇敬会といった組織が設けられている。 よく、年末のお神札配りの際に、「……神社(崇敬神社)のお神札を受けているので、氏神さまのお神札を受けることができない」という方がいるが、まず伊勢神宮のお神札である神宮大麻と、氏神さまのお神札を第一とし、次に他の神社に初詣や参拝した際に受けたお神札を祀るのが本義である。伊勢神宮は日本全国の守り神で、氏神さまは自らが居住する地域をお守り頂いている唯一の神さまだからである。  家庭用の神棚に三社造り(正面の扉が3つある神棚)のものがあるのもこのためであり、真ん中に伊勢神宮のお神札である神宮大麻、次に向かって右に氏神さまのお神札、最後に崇敬神社のお神札を向かって左にお祀りする(一社造りの場合は、一番手前に神宮大麻、次に氏神さまのお神札、最後に崇敬神社の順)。神道の神々の場合、それぞれの神さまが対立するようなことはない。  
 
暮れにお神札を新しくする  
毎年、新しい年を迎えるにあたり、神棚をきれいに清掃して、新たに神社より受けたお神札をお祀りする。古来より、親から子、子から孫へと脈々と続く生命のつながりを尊び、これを発展的に未来へ引き継ぐという考え方がある。こうしたことは神社においても、伊勢の神宮では20年ごとに社殿を造り替え、大神さまに新しい社殿にお遷り戴く式年遷宮が古くから連綿と行われていることや、他の神社においても新たに社殿を造営することにより、更なる御神威の発揚が図られていることに見られる。毎年、神棚のお神札を新しくすることも、これと同様の意味によることである。 八幡神社では、伊勢の神宮のお神札である神宮大麻、氏神さまである八幡神社のお神札、また、その年の五穀豊穣の守り神である年神さまのお神札、台所などにお祀りする竈神さまのお神札を年末年始にお配りしている。 古いお神札は、過去1年間が無事に過ごせたことを感謝し、神社にお礼参りをして納める。この古いお神札は、大晦日の晩、八幡神社の境内でお清めをした後、お焚き上げをする。  
 
厄除け祈願  
厄除けとは、数え年で男性が25歳・42歳・61歳、女性が19歳・33歳・37歳の厄年(それぞれの年齢の前後を前厄・後厄と言う)に神社を参詣して厄を祓い、神々の御加護を願う祈願のことである。数え年では正月に新たに年齢を1つ重ねるので、正月から2月の節分の時期に厄除け祈願を行うことが多いようだ。現在は満年齢で数えるのが一般的で、自分の誕生日など良き日柄を選び、お参りする場合もある。 本来、厄年は長寿を祝う還暦(61歳)や古稀(70歳)などの年祝いと同じく、晴れの年齢と考えられていた。厄年を迎えることは、地域社会において一定の地位となることを意味し、氏神様の神社を管理する宮座への加入や、祭礼などの神事に深く関わるようになった。このために心身を清浄に保ち、言動を慎む物忌(ものいみ)に服する必要があったわけである。厄年の「厄」が、神様にお仕えする神役の「役(目)」であると言われるのも、こうした理由によるものである。 現在、厄年は晴れの年としての意味合いが薄れ、禁忌の感覚が強くなったが、人生の中でも体力的・家庭環境・あるいは社会的に転機を迎える節目の年に、常にお守り戴いている神様に、更なる御神徳を戴くようお願いをすることは大切なことである。  
 
陰陽師(おんみょうじ)と神主  
陰陽師と神主とは基本的に別のもの。古代の律令制下において、陰陽師とは陰陽寮におかれた官職で、中国伝来の陰陽五行説に基づく特殊な占法(陰陽道)により国家や個人の禍福吉凶を占い、それに対処する方術を施す祈祷者のことを言った。 「令義解(りょうのぎげ)」に、陰陽寮の職員として陰陽頭(おんみょうのかみ)・同助(すけ)以下の事務官の他に、学生(がくしょう)に陰陽・暦術・天文等を教授する陰陽・暦・漏刻(ろうこく)の各博士、また技術者としての陰陽師6人がおかれたとある。この役所の目的は、天体や天候の異常を報告すること、暦を作ること、漏刻(水時計)により時刻を知らせること、亀甲や筮竹(ぜいちく)等により占いを行うことで、中でも陰陽師が卜筮と相地(地相に現れた吉凶を見ること)を掌るとある。 これに対して、神祇祭祀を掌るのは専ら神祇官(神主)であり各地の神社(官社)の祭祀を総轄していた。 このように陰陽寮と神祇官は別の官職で、宮中の年中行事の中でも、大晦日の同日に陰陽寮が大儺(たいな・後世の節分行事)という疫鬼を払う行事を行う一方で、神祇官では百官の罪穢を祓う大祓式(おおはらい)が行われた。 時代とともに神道と陰陽道の行事・内容に習合が見られ、中世には陰陽道があたかも神道の一流派として考えられるようになった。その後、平安中期の陰陽道の大家である安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする土御門家(つちみかどけ)が、江戸時代に各派の神道説を取り入れて、土御門神道として一派をなし、各地の陰陽師を支配した。 明治時代、同3年に出された太政官布告により土御門神道が禁止されると陰陽道は衰退したが、行事・内容の一部が神道の中に残され、現在に至っている。恵方や鬼門祓いなど陰陽道的な内容を神道の祈祷の中に見ることができるのは、こうした理由によるものである。  
 
氏神様  
氏神様は、皆さんが住んでいる地域を守る神さま=神社である。古くは同じ一族=氏族がおまつりしていた神さまを氏神といい、後に主として地域の守り神=鎮守さまを意味するようになった。氏神さまに守られている地域の人々すべてを氏子といい、住所によって氏神・氏子の関係が定まっている。神社では例祭を始め、年間執行される恒例のお祭りには申し出の有無に拘わらず氏子の安泰を大神様にご祈念している。これらは神社の本来の祭祀の基本であり、またその神社を支えるのが氏子の皆様である。近年は信仰の自由ということで、氏神意識が薄れ一宗教として神社を捉えがちだが、神社の創始は宗教という言葉すらなかった時代、その地域の村落の形成期に遡り、共同体としての文化を継承しているものであり、個人救済の宗教とは教義が異なる。日本人の祖先は、氏神さまへの感謝と祈りを生活の中心に据え、いろいろな役目を分担しながら毎年のお祭りを行うことで村=地域共同体の和を保ち、村づくり=地域の発展のために努力してきたのである。  
 
産土神  
自分の生まれた土地を守護する神のことで、その地に生まれた人を産子(ウブコ)という。産土とは、生まれた土地・本拠の意味である。民族を通じて結びつく神社と人との関係が氏神と氏子であり、土地を媒介として結びつくのが産土神である。しかし、今日では氏神も産土神も鎮守神も同じような意味で扱われている。  
 
お宮参り(初宮詣)  
子供の誕生に際しては、命名やお七夜、お食初めや初節句など、成長の無事を願う様々な行事が行われる。こうした中でも、初宮参りは初めて氏神さまを参詣することで、新生児が公的な場に外出する最初の機会ということもあり、華やかに行われる行事となっている。 お宮参りの時期は、地域によって差異はあるが、一般的に誕生後1ヶ月目前後に行われることが多い。この時期は、母子共に産屋明けの期日であるとも言われている。しかし、誕生100日目のお食初めのときに行うところもあり、必ずしも一様ではない。 お宮参りの意味は、1つは氏神さまにお参りすることにより、誕生した子供を氏子として承認してもらうこと。2つ目は、未だ生命が不安定な状態にある新生児が、氏神さまのお力を頂くことにより力強い生命力を得て、無事に生育することを願うこと。3つ目は子供が産土神(うぶすながみ・氏神さま)のご分霊を賜わり、この世に生を享けたとする日本古来からの信仰に基づき、これに感謝をするという意味がある。 地域によっては魔除けと称して子供の額に紅の印を付けたり、産の神であると言われている厠神(かわやのかみ・便所の神)をお参りするなど様々な風習が見られる。  
 
七五三参り  
11月15日前後の吉日に、晴れ着で着飾った子供が神社を参詣することを七五三参りや祝いと称し、今まで無事に過ごしてきたことを氏神さまに感謝し、今後も健やかに成長するよう祈願する。 この行事は、3歳の男児・女児の場合は髪置きと言い、頭髪を伸ばし始めることを、5歳の男子の場合は袴着と言い、初めて袴を着用することを、また7歳の女子の場合には、帯解と言い幼児用の紐を解き、大人と同じ帯を用いることを表し、子供の成長を社会に認知するために行われてきた通過儀礼を起源にしている。 七五三の行事は、江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部において華やかな風習として行われるようになった。七・五・三のそれぞれの歳の数は、縁起の良い陽数であることに結びついたもので、11月15日の日取りは、天和元年(1681)のこの日に、徳川幕府五代将軍徳川綱吉の子息徳松の髪置き祝いが行われたことを前例と伝えられ、暦学上でも吉日とされている。 神社への参詣は江戸時代にも行われたが、明治以降はさらに盛んになった。子供が七歳のお祝いで氏神さまを参詣したとき、神社から氏子札が渡され、正式に氏子の仲間入りができるようになったことからである。よく「7歳までは神の子」と言われるが、この時から一人前として扱われるようになった。地方によっては、七五三の年齢のお祝いの子供が神祭りで重要な役割を果たしたり、正月や例大祭に氏神さまを参詣したりなど風習も様々である。  
 
地鎮祭  
地鎮祭(じちんさい)は、建物の新築や土木工事の起工などに際し、その土地の神々を祀り、工事の無事進行・完了と土地・建造物が末永く堅固であることを祈願するために行われる祭り。 一般には「じまつり」などとも呼ばれ、国土の守護神である大地主神(おおとこぬしのかみ)と、その土地の神である産土神(うぶかながみ)、またその土地の精霊である「此の地にうしわきます大神等」をお祀りする。 お祭りの基本的な流れは、神社でのお祭りと同様だが、特に地鎮祭を特徴づけることとして3つの行事が行われる。1つは祓(はら)いの行事であり、四方祓いと称し、祭場四方の敷地を大麻(おおぬさ)で祓ったり、半紙と麻を切って作った切麻(きりぬさ)を撒き、祓い清める。2つ目は起工の行事である刈初穿初(かりぞめうがちぞめ)の儀と称し、施主・施工者が鎌・鍬・鋤などにより、斎砂を用いて草を払い、地面を穿つ所作を行い、神様に工事の開始を奉告する。3つ目はお供えの行事である鎮物(しずめもの)埋納の儀と称し、神霊を和め鎮めるために鎮物の品を捧げて、工事の無事安全を祈念する。 土地の神々に敬意をはらい、その土地の使用を求めて、工事安全と生活の平安を祈願する祭りの意味は、まさに日本人の生活習慣における伝統や信仰に結びついたものと言うことができる。  
 
神道の葬儀1 
神道による葬儀は神葬祭と呼ばれ、我が国古来からの葬法として「古事記」「日本書紀」などの神話にその内容を伺うことができる。 神道の信仰を表すことに「敬神崇祖」という語がある。亡くなった方の御霊(みたま)を子孫が丁重にお祀りすること(祖霊祭)により、次第に子孫を守護する祖神(おやがみ)になられるという考えが示されたもので、仏教伝来以前からの日本人の精神生活の根本であるとともに、この祭祀の始めにあたる神葬祭がいかに重要な儀式であるかが分かる。 地域などによっても異なるが、神葬祭の主な次第の流れは、納棺の後、通夜祭(遷霊祭も含む)・葬場祭(告別式)・出棺祭・火葬祭・埋葬祭・帰家祭(10日祭も含む)・50日祭(若しくは100日祭)・1年祭(家庭の祖霊舎に合祀される)、以後は毎年の命日や、3・5・10年といった式年に祖霊祭を執行するのが一般的である。神葬祭の特徴は、お参りの仕方として焼香ではなく玉串を供えること、参拝方法は神社と同じで二拝二手一拝だが、拍手は忍手(しのびて)といって音をたてないようにする。 告別式の際に神職が奏上する祭詞は、故人の生涯の歩みを述べ、その功績を讃えるとともに、御霊安らかにお鎮まり戴くようにお願いをするもので、一般の方でも理解ができる内容である。この他、仏教のような戒名はなく、霊号が付けられる。この霊号はその人の出自や身分にとらわれず、生前の名前の下に「命(みこと)」の号を付したり、年齢に応じて「彦(ひこ)・姫(ひめ)」「大人(うし)・刀自(とじ)」「翁(おきな)・媼(おうな)」などが付される。  
 
喪に服す(服忌) 
親族の方が亡くなられたとき、身内の者は喪に服すが、これについて定めたものが服忌(ぶっき)の制度で、「服」は喪に従い、死者への哀悼の気持ちを表すこと、「忌」とは死の穢れを忌むことを言う。 戦前までは、江戸時代に武家の間で定められた服忌令が公的な制度として用いられていた。父母の場合、忌の期間が50日、服の期間が13カ月と最長で、親族の範囲により期間が短縮されている。戦後、この制度は廃止され、官公庁においては職員の服務規程の中で、配偶者は10日間、父母は7日間など忌引きの期間を定めているが、基本的には地域の慣例に従っているのが現状。 神道における氏子の服忌は、一般的には50日(49日)までが忌の期間で、一年祭(一周忌)までが服の期間と考えられている。このため、忌の期間である50日を過ぎれば、神社への参拝や家庭での神棚のお祭りも再開して差し支えはない。忌の期間中は神社の鳥居をくぐることを遠慮するとも言うが、やむ得ない事情がある場合には、お祓いを受ければよい。  
 
神道の葬儀2 / 神葬祭  
江戸幕府の政策により日本人はすべてお寺の檀家となり、お葬式は仏教で行う事が当たり前になりました。明治になり宗教の自由が認められましたが、数百年行ってきた先祖の祭祀を変える家は少なく現在に至っております。最近では仏教・檀家離れなどが進み、自由な発想で葬儀を行う事も多くなり、もともと日本で生まれた信仰である神道の簡素でわかりやすい神葬祭が好まれる傾向にあります。  
祭事  
葬儀後はご自宅でみたままつりをお仕えします。十日祭を行いましたので、亡くなった翌日を1と数え、20日目、30日目、40日目は故人の好物などをお供えになり、丁重にお参りを致しましょう。  
50日祭 / 五十日目に行う忌明けの節目となる大切な祭事。神主お仕えのもと、みたま様をお偲び下さい。50日祭に合わせての納骨祭を行う事も多い。その後は1年祭、3年祭、5年祭、10年祭、20年祭、30年祭、40年祭、50年祭という年祭が定められておりますので、節目を大切にお仕え下さい。  
歴史  
日本の古い葬儀の様式は神話の世界に登場し、古事記の中の天若日子の葬儀のくだりに見られます。神葬祭の源流がここにあると言えるでしょう。  
そして、仏教伝来以降、急速に仏式での葬儀が普及しました。さらに江戸時代になると、キリシタン対策のための寺請制度(てらうけせいど=人々は必ずどこかの寺に所属しなければならないという制度)により仏式の葬儀が強制されました。しかし、江戸時代の中後期になると、国学の興隆によって国学者たちが日本古来の精神・文化に立ち返ろうと訴える中で、神葬祭の研究も行なわれるようになり、日本古来の信仰に基づいた葬儀を求める運動(神葬祭運動)がおこりました。その結果、幕府は限定的に神葬祭を行なうことを許可しました。  
明治時代になると、政府の神祇政策の一環として神葬祭が奨励され、例えば、神葬祭専用墓地として青山霊園が設立されました。地域によっては神仏分離や廃仏毀釈に伴い、地域ごと神葬祭に変更したところもあります。葬儀は宗教行為とされる一方、公務員に相当する神主は宗教活動である神葬祭を行なうことを禁止され、神葬祭の普及は停滞しました。  
この時代に生きた出雲大社大宮司、第八十代出雲国造(いずもこくそう)千家尊福公(せんげたかとみ)は、記紀などに記された、天孫降臨に先立つ国譲りの時に結ばれた「幽顕分任の神勅」(ゆうけんぶんにんのしんちょく)によって「顕世の“この世”は天照大御神の皇孫がお治めなされること、幽世の“あの世”は大国主大神が主宰なさること」この幽顕二道を明らかに建てることが、世の人々を救いに導く安心立命の道だとして、大宮司を辞任し、教導職として神葬祭の普及に務められ、明治天皇の内親王殿下のご葬儀を執り行うなど、そのご事績は出雲大社の教えの基礎でもあります。  
戦後、神道が宗教としての立場を取り戻し、葬儀に関わることができるようになり、現在では、依然として仏式の葬儀が一般的ではありますが、儀式の持つ意味が分かりやすい、荘厳だ、経済的負担が他の宗教と比べて少ないといった理由から、神葬祭が増える傾向にあります。  
死生観  
出雲地方では、女性が妊娠すると「あそこの娘さんに霊(ひ)が止まらっしゃった。」という表現をいたします。人の霊魂(霊性)がお腹に宿ったと捉え、人間とは霊が止まる=霊止(ひと)=人なのだという考え方です。この霊魂は神界(死後の世界)からやってきて、死後、この神界へ還るのだと考えました。出雲大社の教えに「表裏一体」「幽顕一貫」という言葉があり、この世を顕世(うつしよ)、あの世を幽世(かくりよ「幽冥」とも書く)と称し、現世と来世は表と裏の関係で、明るいところから暗いところは見えなくとも、暗いところから明るいところが良く見えるように、幽冥から顕世は良く見え現世に生きる子孫の事をいつも見守ってくれていると先人は考えました。これが先祖を大切にする信仰心を生み、日本人の伝統的な祖霊信仰として日本人の根幹に息づいているのです。  
 
神酒口  
神酒口は正月にお神酒徳利の口にさす装飾。地方により、素材は竹、ひのき、紙と異なり、形も「宝船」「高砂」「一つ玉」とさまざまである。その由来は定かではないが、御幣(ごへい、神前に供える白い紙の装飾)の変形したもの、神様を迎え入れるためのアンテナとも言われている。  
    
神酒1 
神酒(みき、しんしゅ)とは、神道において神に供える酒(通常は日本酒)。神饌には欠かせないものである。 「みき」という言葉は「酒」に「御」(み)をつけたもので、酒の美称である。通常はさらに「御」をつけて「おみき」という。古文献では神酒のことを「みわ」と称しているものもある。「みわ」と読む大神神社(三輪明神)は酒造の神ともされている。古事記には「くし」の語があり、沖縄県には「ウグス」の語がある。これらは「奇(くし)」に繋がるもので、酒の効能が奇瑞とされたことによるものである。 
祭礼においては、祭る側の参加者も神酒を頂くことが多い。他の神饌と同様の神と同じものを飲食するという意味のほか、酒に酔うことで非日常の境地に至り、神との交流を深めるという意味もある。 
白酒(しろき)・黒酒(くろき)・清酒(すみさけ)・濁酒(にごりざけ)などの種類があり、醸造法も多様である。白酒・黒酒の「き」は酒の古名で、白貴・黒貴とも書く。黒酒は黒御酒(くろみき)とも。延喜式によれば、白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したもの、黒酒は白酒に草の根の焼灰を加えて黒く着色した酒であると記載されている。後にこれに倣って醴酒を、ゴマの肝臓機能強化を知ってか悪酔い止めにと黒ゴマ粉で濁したものが室町時代に用いられた。今日では、清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用とすることも多い。かつて、神酒は神社もしくは氏子が自家醸造していたが、現在は酒税法の規制があるため、伊勢神宮のように清酒の醸造免許や、税務署からのどぶろくの醸造許可を得ている神社も存在する。なお江戸時代に雛祭りで供えられる白酒の風習が生み出されたのは、白酒を供える風習が変化したものという説もある。
 
神酒2 
御神酒とは本来神様にお供えしたお下がりのお酒を指す。神様に物をお供えしてお参りをすると、神様の霊力がそのお供え物に宿る。お酒をお供えしてお祭りをすれば、霊力の宿ったお酒、すなわち御神酒になる。これを後から頂けば、神様の霊力が直接体内に入ることになる。 
御神酒とすべくお供えするお酒はどのようなものが良いか。「日本酒ならば何でも良いのですか?」「1升ではダメですか?2升必要なのですか?4合ビンやパックのものは?」「ビールじゃいけませんか?」などなど。お酒であれば基本的になんでも構わない、量も同様。大切なことは、お参りする方が神様に召し上がって頂きたいと思うお酒であるという点。自分が普段から美味しいと思って飲んでいるもの、あるいは飲みたいと思うもの、下戸の方でしたら「純米酒」と書かれた日本酒を選ばれるとよいくらい、心を込めて選ぶことこそが重要。
 
日本酒史 
日本の古文献に於ける「酒」の初出は古事記だろう。応神天皇が角鹿-つぬが-(若狭・敦賀)から大和に帰還したときに息長帯日売命-おきながたらしひめのみこと-(神功皇后)が献じた「酒楽(さかくら)の歌」というのがあり、この返歌に次のようにある。 
「この御酒(みき)を 醸(か)みけむ人は その鼓(つづみ)臼(うす)に立てて 歌ひつつ醸みけれかも 舞ひつつ醸みけれかも …」と。また、「風土記」大隈国風土記逸文「醸酒」には、「大隈の国では、一軒の家で水と米とを備えて、村中に告げてあるくと、男女が一所に集合して、米を噛んで酒槽(さかぶね)に吐き入れて、散り散りに帰ってしまう。酒の香が出てくるころまた集まって噛んで吐き入れた人たちがこれを飲む。名づけてくちかみの酒という」ともある。古代、日本酒は「口かみ」により醸造したことが伺える。 
平安時代に入り、日本酒は、現代に繋がる米麹による醸造法が確立されていったようだ。鎌倉時代頃から寺院や神社が酒を造るようになり、各地の僧房が日本酒造りを始め、品質を競ったらしい。また室町時代には木製の大桶を作る技術が開発されて、日本酒の大量生産が可能になった。 
酒の神・三輪明神として知られる大神神社(みわじんじゃ)が奈良県桜井市にある。ここの地名の「三輪」について、韓国の作家、李寧熙(イ・ヨンヒ)女史によれば「みわ」は古代韓国語の「ミバブ」で、「水のご飯」つまり「お酒」のこと。またお酒を意味する「ミキ」とは、「ミ」は水の意で「キ」も古代韓国語の食事のこと。要するに「水食」で、つまりこれも同様に「お酒」のことだそうだ。「日本酒」とは言われるものの、この技術は渡来系古代豪族・秦氏が日本各地に移住して伝えたものだろう。
 
岡崎八幡宮・大木森住吉神社1 
宝亀元年(770)光仁天皇の勅使として、和気清麿公が宇佐神宮へ御下向の時、船木の歴史をお聞きになり、神功皇后の深い因縁の地であることを知った。御帰路の際、宇佐神宮の御分霊をこの地に鎮座されたことが 住吉神社の創立。神功皇后が海外出兵の時、この地の楠の大木を切り、四八艘の軍艦を造った。この地方を船木と謂ふ(日本書紀)御神酒の造り始めは、皇后が中国地方にて米の作り方を習われ、大阪に帰られるとき、この地にお手植え した米で御神酒を造り、神様にお供えしたのが始めと謂われる。住吉大社に「皇后、米の作り方を習い帰らる」の古事がある。その米を早米といい、稲穂の背丈が170cmを超える。毎年のお田植え祭により種子は継承されている。応永三年(1396)長門国守護職大内義弘は当宮に神田寄付、古事により毎年旧暦二月に神田早米植付けをなし祈年祭とし、六月中に刈り上げ、早米初穂をもって神飯(ミケ)・神酒(ミキ)を造り新嘗祭を奉仕。のちに藩主毛利家の御崇敬篤く、祈年祭、新嘗祭を執行する。武運長久、五穀豊饒の御祈祷を執行し早米を毛利家に献上、その御礼として毎年、四十二石(420斗)の酒米が毛利家より当神社に献納された。奈良時代より酒造監察制度はあり、社家の宇津見宮司家が代々醸造に携わり、口伝えにより継承されて きた。現在の醸造法は室町時代の醸造法である。明治時代になり酒税法により明治32年10月5日酒醸免許認可。(清酒醸造) 元来、早米神酒は年代から大木森住吉宮の物と思われる。  
  
岡崎八幡宮/白酒(しろき)の神社2 
お神酒の造り始めは、神功皇后が中国地方にて米の作り方を習われ大阪に帰られる時、この地にお手植えになった米でお神酒を作り、神様にお供えしたのが始めと言われる。大阪の住吉大社に「皇后、米の作り方を習い帰らる」の故事がある、その米を早米(そうまい)と いい、稲穂の背丈が170cmにもなる。毎年のお田植祭により、種子は継承されている。應永3年(1396年)長門の国守護職大内義弘は当宮に神田寄付、古事により毎年旧暦二月に神殿早米植え付けし祈年祭とし、6月中に刈上げ、早米初穂をもって御神飯(おんみけ)・御神酒(おんみき)を作り新嘗祭を奉仕する。後に、藩主毛利家の御崇敬篤く、祈念祭、新嘗祭を執行する。武運長久、五穀豊穣の御祈祷を執行し早米を毛利家に献上、その御礼として毎年、42石の酒米が毛利家より当神社に献納された。奈良時代より酒造監察制度はあり、社家の宇津見家が代々醸造に携わり、口伝えにより継承されている。現在の醸造法は室町時代の醸造法である。明治時代になり、酒税法により明治32年10月5日酒醸造免許を得る。御神酒清酒醸造免許神社は、全国で伊勢神宮、出雲大社、莫越山神社と岡崎八幡宮の四社だけである。  
  
大木森住吉神社(おおぎもりすみよしじんじゃ)3  
人皇第十四代仲哀天皇・神功皇后海外出兵の時、此の地の楠の大木を切って四十八艘の軍船をこの里人に造ら せた。その時住吉の大神はわが和魂は皇后の身を守り、荒魂は先鋒となりて軍船を導かんとのお告げあり。皇后神の教を得て拝礼し、荒魂は軍先鋒となり、和魂は玉船鎮(船玉)となり守り給う。めでたく御帰朝の時、住吉の大神は皇后に教えていう。「吾荒魂を穴門の山田村に祭らしめよ」と。時に穴門直の祖践立津守連の祖田裳見宿祢、神の教えを聞て皇后にもうしていうには「神の居らんとの地に必定〆奉らん」と。則践立をもて荒魂を祭るの神主に勅宣し給う。
  
薩摩焼酎 
焼酎が伝えられた当時、戦国時代末期、薩摩には赤褐色の味醂のような酒があった。清酒の一種で、醸造した酒を絞る前に樫・椿などの灰を入れたもので、酸味が中和されて甘くなり、色が赤褐色になった。濁り酒もあり、諸白といわれる精白米を使った白濁の酒と、粗白米・玄米を使った色の薄黒い味の辛く酸っぱい酒があった。薩摩の人々は酒の醪を蒸留すれば焼酎になることを知ってから、初めのうちはこれらの地酒を蒸留して焼酎をつくっていたようだ。薩摩は火山国で、桜島や開聞岳からの火山灰が積もった土壌は稲作に不向きで、島津藩は常に米不足に悩んでいた。藩内の物産を他藩で米に替えて不足を補っていた。慶長17-18年(1612-3)に米の代用食品として、甘藷(さつまいも)がルソン(フィリピン)から坊津町に伝えられたといわれる。甘藷は鹿児島では唐芋(からいも)と呼ばれた。島津藩の記録では、元禄11年(1698)琉球王尚貞から種子島 ・彈正久基に甘藷が送られ、種子島の石寺野で栽培されたのが伝来の初めとされる。別に宝永2年(1705)山川郷の漁夫・前田利右衛門が琉球へ密航して盆栽にした甘藷を持ち帰り、栽培して種芋を育て普及させたという資料が残っている。米不足の薩摩で、琉球から伝わった蒸留酒の原料に煮米のかわりに煮甘藷を使用するのは当然の成り行きだった。米麹と煮甘藷と水を一度に甕へ仕込む「どんぶり仕込み」は大正時代の初めまで続いた。米のかわりに甘藷を使い、強い酒を生み出す唐芋焼酎づくりは急速に普及し、天明3年(1783)には島津領内に3000軒の焼酎屋があったといわれる。  

  
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