神仏縁起

 

銭洗弁天四柱神社富岡八幡宮水天宮伝通院三島大社坂東三十三所日輪寺根津神社善光寺金龍山浅草寺鑁阿寺織姫神社成田山猿江神社大塚天祖神社大塚滝不動刺抜き地蔵増上寺称名寺
 

 
銭洗弁天 / 銭洗弁天宇賀福神社
 
宇賀福神 
伝説によれば1185年(文治元)源頼朝が巳の年、巳の月、巳の日の夜、夢枕に宇賀福神が現れ、 「自分の隠れ里に湧く水を探しだして祈れば国が栄える」 とのお告げがあったという。宇賀福神とは弁財天の別称。頼朝はさっそく隠れ里を探し出し泉を見つけ、穴ぐらを堀って宇賀福神を祀り、泉水を毎日自分の館に運び神仏に供した。平家の落人が住んでいた里を「隠れ里」と呼ぶことが多いが、一般には世を避け隠れ忍ぶ村里ということである。 
この霊水が鎌倉五名水の ひとつである「銭洗水」。この水でお金を洗うと10倍にも100倍にも増えるといわれる。巳の日ともなると多くの参拝客が訪れ、小さなザルにお金を入れて洗う姿が絶えない。 
扇ガ谷から「假粧坂切通し」を登り詰めたところが葛原ガ岡、左へ下ると銭洗弁天がある。もとは扇ガ谷の八坂神社の末社であったが、昭和45年に独立した。
   
四柱神社 (よばしらじんじゃ)

 

天之御中主神 
高御産霊神 
神御産霊神 
天照大御神  
松本市の中央に位置し高層建築の立ち並ぶ中にあるが、創建当時は女烏羽川の清流に沿う旧松本城内大手門付近の幽玄な景勝地。明治天皇御親政にあたり、惟神(かんながら)の大道を中外に宣布されるご意志により、明治7年筑摩県庁所在地の松本に神道中教院が建立され、四柱の大神が奉斎された。のち新たに一社を興し四柱神社として明治22年この地に鎮斎された。「しんとう」(神道)の呼び名で親しまれている。 
四柱神社はすべての願いが叶うという意味で「願いごとむすびの神」として、全国各地より御崇敬されいる。
古事記の巻頭に「天地初発の時、高天原に成りませる神の御名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神 」と記され、我国の歴史の上で最初に出現された神様。造化の三神ともいい御力によって天地万物が生成されたと言われている。 
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は天の中央に坐す主の神として産霊神の御はたらきを統一する神様。 
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)神皇産霊神(かみむすびのかみ)は宇宙創造の根元の神様で、御神名の「むすびの神」は実をむすぶ、苔がむす等と同様に生産し、果実し、調和させる力を示す。 
天照大神(あまてらすおおのかみ)はこの造化の三神の御神意を地上に顕現される神様で、伊勢の神宮、宮中賢所にも斎される最高至貴の大祖神様。 
明治天皇御製 
めにみえぬ神のこころにかよふこそ 人の心のまことなりけれ あさみどり澄みわたりたる大空の 廣きをおのが心ともがな
  
富岡八幡宮

 

深川が市街化しはじめるのは、三代将軍家光の寛永(1624-1644)のころから。長盛とやらいう法印が発願し、幕府の許可をえて富岡八幡宮を建てたことによる(富岡は「江戸名所花暦」では富賀岡と表記されている。鎌倉の鶴岡八幡宮を意識してそう呼ばれていた?)。神社は誕生早々から江戸市民の関心をよび、寛永二十年(1643)には、はじめて祭礼がおこなわれた。その後「深川の祭礼」は江戸市民の楽しみの一つになった。門前に茶屋がならび、妓をかかえ、色をひさがせた。 
江戸時代の「富くじ」と「勧進相撲」で有名だが、現在では8月15日に開催される「深川八幡祭り」が特に有名。赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられ、3年に1度の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれる。 
富岡八幡宮には元禄時代に豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したとされる総金張りの宮神輿が3基あったが関東大震災で焼失。平成3年に日本―の黄金大神輿が奉納され宮神輿が復活した。  
 
水天宮

 

(水天宮は久留米市の水天宮を総本社とし全国にある神社である。仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった。)  
天御中主大神(あめのみなかぬしおおかみ)/宇宙創造の神  
安徳天皇/81代  
建礼門院/高倉天皇の中宮/安徳天皇の母君/徳子  
二位ノ尼/平清盛の妻/時子/安徳天皇の祖母/建礼門院の母  
文政元年(1818)江戸三田赤羽の有馬藩・有馬頼徳が、領地久留米水天宮の御分社を神主に命じ建てた。明治元年有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年11月現在地に移った。関東大震災で社殿焼失、昭和42年11月現在の権現造りの社殿となる。 
江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言う。ただし毎月五日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され邸内にて参拝を許された。当時、参拝の妊婦が鈴乃緒(鈴を鳴らすさらしの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから御利益が広まった。当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉になさけありまの水天宮という洒落言葉があった程。 
水天宮の御腹帯を「鈴乃緒」と呼び、「戌の日」に安産の御祈祷をするのは、古来お産が軽い言われる「イヌ」にあやかり「戌の日」に帯を締める習慣が古くからあり、それに因んでのこと。(社紋 椿)
 
伝通院 / 浄土宗・無量山傳通院寿経寺

 

(江戸三十三観音の第十二番札所) 
阿弥陀如来 
室町時代、応永22年(1415)秋、浄土宗第七祖の了誉聖冏(りょうよ・しょうげい)上人が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした(現在、この場所には家康の側室茶阿の局の菩提寺吉水山宗慶寺がある)。開山は弟子である西誉聖総上人(増上寺の開山上人)の切望によるものという。本尊は平安時代の僧源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像。 
将軍家の菩提寺として/慶長七年(1602)8月徳川家康の生母於大の方(水野氏)が京都伏見城で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬。位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長八年(1603)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て始め、彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(源誉存応)の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長十三年(1608)九月十五日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧正誉廓山上人(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。 
寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和九年に830石に加増された。また慶長十八年(1613)には増上寺から学僧300人が移されて、関東十八檀林の上席に指定され、檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。正保四年(1647)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。享保六年(1721)と享保十年(1725)の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、江戸名所図会や文化九年(1812)の無量山境内大絵図、東都小石川絵図の安政四年(1857)改訂版でも知ることができる。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。 
幕末の文久三年(1863)2月4日、新撰組の前身となる浪士隊が山内の塔頭処静院(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まった。当時の処静院住職琳瑞は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われるが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。  
明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し庇護は失われた。明治2年(1869)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模が小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つが善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。明治23年(1890)に境内に移した浄土宗の学校を元に淑徳女学校(現在の淑徳学園 高等学校・中学校)を創立した。
文豪永井荷風は、明治12年(1879)に伝通院の近くで生まれ、明治26年までここで育った。その思い出は随筆「伝通院」(明治42年頃)を生み出した。明治41年(1908)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、なぜかその晩には本堂が焼失してしまった(3度目の大火)。「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」。荷風は、パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院があると賞賛した。夏目漱石も若い頃にこの近くに下宿していたため、小説「こころ」で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。  
昭和20年5月25日の空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。昭和24年に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年に戦後2度目に再建されたものである。
伝通院に埋葬された著名人 
了誉聖冏(1341-1420。浄土宗第七祖で、伝通院の開山上人。三日月上人ともいう。)  於大の方(1528-1602。傳通院殿蓉誉光岳智香(智光)大禅定尼。家康の母。墓は本堂の左側に五輪の大塔がある。) 徳川亀松(1643-1647。月渓院殿。三代将軍徳川家光次男)  千姫(1597-1666。天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。二代将軍徳川秀忠の長女、豊臣秀頼・本多忠刻の妻) 鷹司孝子(1602-1674。本理院殿照譽円光徹心大姉。三代将軍徳川家光正室) 藤井紋太夫(?-1694。光含院。水戸徳川家の家老。主君光圀によって惨殺される。)  葛西因是(1764-1823。儒学者)  清河八郎(1830-1863。幕末の勤皇志士、浪士隊の創設者。首だけ埋葬)  阿蓮(おれん)(生没年不明。清河八郎の妻)  杉浦重剛(1855-1924。思想家・教育者) 古泉千樫(1886-1927。歌人)  簡野道明(1865-1938。漢学者)  佐藤春夫(1892-1964。詩人・作家。永井荷風に師事) 高畠達四郎(1895-1976。洋画家)  柴田錬三郎(1917-1978。直木賞作家。「眠狂四郎無頼控」の作者) 橋本明治(1904-1991。日本画家)
   
三島大社

 

大山祇神(おおやまつみのかみ) 
事代主神(ことしろぬしのかみ) 御二柱の神を総称して三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称している。 
御創建の時は不明であるが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残る。平安時代中期「延喜式」には、名神大社に列し、社名・神名の「三嶋」は、地名ともなっている。文治三年(1187)には社殿の造営を行った。いよいよ国衙の崇奉を受けることとなった。中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願した。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなった。この神宝の中でも、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られている。頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の根本である下田街道の起点に位置し、伊豆国一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていった。
明治4年に官幣大社に列せられた。平成12年には御本殿が重要文化財に指定され文化的価値の高さも再認識されている。 
最初に歴史に現れる伊豆の国造(くにのみやっこ)は、物部氏と先祖を同じく する若建命(わかたけのみこと)といわれ、神功皇后の御代というから大化改新よ り400年も前のこととなる。彼は三島大社の祭祀を主宰したとされる。天平14年(742)にはこの若建命の子孫の日下部直益人(くさかべのあたいますひと)に伊豆国造、伊豆直の姓(かばね)を賜ったとの記事が見える。そして代々の宮司が伊豆守、大領などの官吏を兼ねた。国司と大社の宮司が同一という、全国でもめずらしい例であろう。従って、伊豆には総社らしきものはない。三島大社あっての伊豆であった。
 
坂東三十三所 (ばんどう‐さんじゅうさんしょ)

 

関東地方の三三の観音霊場。西国三十三所に模したもの。 
神奈川県/杉本寺・岩殿寺・田代堂長楽寺・長谷寺・飯泉勝福寺・飯山長谷寺・光明寺・星谷寺・弘明寺 
東京都  /浅草寺 
埼玉県  /慈光寺・正法寺・安楽寺・慈恩寺 
群馬県  /長谷寺・水沢寺 
栃木県  /満願寺・中禅寺・大谷寺・西明寺 
茨城県  /日輪寺・佐竹寺・正福寺・楽法寺・大御堂・清滝寺 
千葉県  /円福寺・竜正院・千葉寺・高蔵寺・笠森寺・清水寺・那古寺 
札所巡り / 秩父・坂東・西国・四国
 
日輪寺 / 天台宗・八溝山日輪寺 

 

(坂東第二十−番札所)  
十一面観世音菩薩  
創立/天武天皇の朝(673)・開山/弘法大師・開創年代/大同年間(806-810) 
詠歌/迷ふ身が今は八溝へ詣りきて仏のひかり山もかがやく 
日輪寺は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山脈の主峰、標高1020m頂上にある八溝嶺神社から300mほど下った地点にある。「八溝知らずの偽坂東」といわれ、山麓からの遥拝のみとする者がいたほどの坂東札所第一の難所である。 
「坂東霊場記」には「春夏巡礼のはか、尋常の往来なければ熊笹一面に生茂り、更に道の綾分ち難し」とある。古い大鳥居があったが日本武尊の創建と伝える八溝嶺神社のものである。 
「八溝」という地名は、この地に源流を発する川のことで、ヤは接頭語、ミゾは川のことという説や、日本武尊が東征の折「この先は闇ぞ」と言ったことによるといった説がある。現在も原生林におおわれた日輪寺はまさに山岳信仰の霊地といえる。寺伝によれば、天武の朝(673)役ノ行者の創建といい、「八溝日輪寺旧記書類写」によれば大同二年(807)に弘法大師が八溝川の流水に、香気と梵文とを感得され再建したという。大師はこの山の姿が八葉の蓮華を伏せた如くであったのと、この山の鬼人を退治された時、狩衣を着た二神(大己貴神・事代主神)が現われたのを、二体の十一面観音として刻み、日輪・月輪の二寺を建て、観音霊場とされたとある。仁寿三年(853)慈覚大師の来錫を緑として天台の法流に属し今日に及んでいる。
鎌倉時代には源頼朝が寺領を寄せて信仰し、室町時代の文明年間(1469-87)には日輪寺の本堂は間口十六間、総欅造りの大伽藍となり、雷神門・札堂・薬師堂・不動堂などが甍を並べるに至ったという。また福島県東白河郡棚倉八槻村の都々古別神社の十一面観音像の台座銘に、天福二年(1234)僧成弁がこの日輪寺に三百日問お籠りし、坂東巡礼をしたとあるが、これは坂東札所の成立を知る上で貴重な史料である。天文六年(1537)佐竹義篤と白河城主藤原直広が大檀那となって堂舎を修営および梵鐘を寄進している。中世以降は修験の道場となり、特に江戸期には山伏の往来もはげしく修行の山となった。 
寛永二十年(1643)火災で本堂焼失、仮堂を建立。万治元年(1658)再び炎上したが、水戸義公は二回登拝し再建に尽カ、春秋の二季に野・常・陸三州に守護符の頒布を許すなどして保護した。境内には上之坊月輪寺、中之坊尼寺があった。数少ない往時の遺品の一つに正徳三年(1713)の銘をもつ、観音堂の向拝にかけられていた「鰐口」がある。天保三年(1832)には水戸藩の廃仏運動で、一時は本尊が白河郡高野大梅に避難する法難に遭遇した。 
明治13年火災で惜しくも堂宇を全焼。大正4年仮堂が建てられ、昭和49年五間四面の観音堂が完成した。
  
根津神社

 

須佐之男命 
大山咋命 
誉田別命 
大国主命 
菅原道真公 
1900年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間(1469-)には太田道灌が社殿を奉建している。江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。 
宝永二年綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。現在の権現造りの社殿・唐門・楼門・透塀等がこれで、昭和6年国宝(現重文)に指定されている。家宣は、幕制で根津神社の祭礼を定め正徳4年(1714)江戸全町から山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を行った。神社の三基の神輿は家宣が奉納したもので、同格式の山王祭、神田祭と江戸三大祭といわれていた。
   
善光寺

 

一光三尊阿弥陀如来像(勅命により秘仏) 分身の前立本尊が7年に一度御開帳 
宗派の関係なく宿願出来る霊場 天台宗の大勧進と一山25院、浄土宗の大本願と一山14坊によって運営されている。39の院坊はそれぞれ独立した寺院で、宿坊を兼ねている。 
縁起によると印度の月蓋(かい)長者が娘如是姫の病気を救って下さったお礼に、深海の貴重な金を用いて阿弥陀如来像を作った。仏像はその後百済の整明王の手を経て日本に伝わり、一度佛教反対派の手で難波の堀に投じられたが、本田善光が、信州芋井の庄に安置したという。古くから庶民の信仰を集めてきた。
国宝「本堂」/元禄16年から5ヶ年費やして宝永4年(17017)完成した撞木造りの独特な建築。創建は京極天皇元年(642)。以来12回目の建築。重文山門(1750)・重文経蔵(1759)・仁王門(大正7年):仁王像・三宝荒神・三面大黒天像は高村光雲・米原雲海両氏の合作。 
扁額/伏見宮貞愛親王の御筆。 
戒壇巡り/本堂の本尊下の真っ暗な曲がりの多い通路を辿り、本尊真下にある”極楽のお錠前”に触ると極楽往生が約束されるという。 
伝/皇極天皇元年(642)遷座・白雉五年(654)勅額賜る。 
特記/善光寺は阿弥陀信仰により全国に信者を持ち、善光寺に詣ると仏の世界に導かれると云われ、帰依した源頼朝や参拝した親鸞・一遍から下って庶民と広い信仰を集めた。 
御開帳/善光寺の本堂に安置される秘仏の如来さまと同じ前立本尊を7年に一度、公開する行事。本尊前に建てられた回行柱と本堂の如来さまが糸で結ばれ、この回行柱に触れることで極楽往生できると言い伝えられている。
【縁起】釈尊が印度毘舎離国の大林精舎におられる頃、 この国の長者に月蓋という人がいた。長者はたいそう繁栄したが施す心もなく貪欲飽くなき生活をしていた。 釈尊はある日長者を教え導こうと自らその門を叩いた。釈尊のおいでと聞き長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出たが 「今日供養すれば毎日のように来るであろう供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまった。  
月蓋長者には一人の姫君があり、如是姫といい両親の寵愛は限りなく掌中の玉と愛育されていた。ある年悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまった。長者は王舎城の名医耆婆大臣を招くなど人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、釈尊に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせた。長者は初め不本意ながら我が娘の病苦を取り除きたい一念から大林精舎に参り、釈尊に前の罪障を懺悔し、 如是姫の命を救うよう頼んだ。釈尊は「それは我が力にても及ばぬことであるが、ただ西方極楽世界におられる阿弥陀如来におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、 この如来はたちまちこの場に出現され姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と言った。 長者は自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供えて心からの念仏を続けた。阿弥陀如来は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれた。 すると国中に流行した悪疫はたちまちにしておさまり、如是姫の病気もすぐさま平癒した。 長者はこの上なく如来の光明を礼讃いたしました。 
長者はこの霊験あらたかな三尊仏の御姿を写し、この世界に止め置くことを発願し再び釈尊に頼んだ。釈尊は長者の願いをおかなえ神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わし、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとした。竜王は釈尊に従い、この竜宮随一の宝物を献上した。 この閻浮檀金を玉の鉢に盛って供え、再び阿弥陀如来の来臨を請うと、かの三尊仏は忽然として宮中に出現し、嚇嚇たる光明は釈尊の光明とともに閻浮檀金を照らした。不思議に閻浮檀金は変じて三尊仏そのままの姿を顕現せられた。長者は喜び終生この新仏に奉仕致した。この新仏こそ後に日本国において善光寺如来として尊崇を集めるその仏さまであった。 
この三尊仏は天竺国で多くの人々を救い結縁され、その後百済国に渡った。時に百済国では月蓋長者の生まれ変わりの聖明王が政治を司どり、それと知らず悪行を重ねていた。しかし如来が過去の因縁を話すと改心して善政を行なうようになった。百済国での教化の後、如来は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げた。
欽明天皇13年 尊像は日本国にお渡った。宮中では聖明王から献じられた尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれた。大臣蘇我稲目は生身の如来であるこの尊像を信受することを奏上し、大連物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張した。天皇は蘇我稲目に尊像をお預けたので、我が家に如来を移し、やがて向原の家を寺に改造して如来を安置し、毎日奉仕した。これが我が国の仏寺の最初で向原寺という。  
この頃国内にはにわかに熱病が流行った。物部尾輿は天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するため」と言上、御許しを得て向原寺に火を放った。猛火は仏寺を灰燼にしたが、如来は不思議と尊容を損わなかった。尾輿は再び如来を炉に投じて鞴で吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしたが、尊像は少しも損傷されることはなかった。 手の施しようもなく尊像を難波の堀江に投げ込んだ。その後蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ篤く仏法を信仰し、反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励したので、仏法は初めて盛んになった。
聖徳太子は難波の堀江に沈まれた尊像を宮中にお連れしようとその御出現を祈念したが、如来は水面に浮上し「いましばらくはこの底にあって我を連れ行くべき者が来るのを待とう、そのときこそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ」と仰せられ再び御姿を水底にかくした。その頃信濃の国に本田善光という人がいた、ある時国司に伴って都に参った折、難波の堀江にさしかかると「善光、善光」といとも妙なる御声がどこからともなく聞こえ、驚きおののく善光の前に水中より燦然と輝く尊像が現れた。如来は善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来にお仕えたことを告げ、日本国でも善光とともに東国に下り多くの衆生を救うべきことを告げた。善光は歓喜して如来を礼し、如来を背負って信濃の我が家に帰った。 
善光は初め如来を西のひさしの臼の上に御安置したが、御堂を建てて如来を移した。翌朝参堂すると尊像の姿はなく、元の臼の上にお戻られ「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも念仏の声のないところにはしばしも住することはできない、念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになった。ある時善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様だったが、如来は白毫より光明を放ち不思議なことに油の無い灯心に火を灯した。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれる。
如来の霊徳は人々の知るところとなり、この地を訪れるものは後を絶たなかった。ついに時の天皇である皇極帝は善光寺如来の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を召され伽藍造営の勅許を下された。こうして三国伝来の生身の阿弥陀如来を安置し、善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称し、以来千四百年日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになった。  
仁王門/大正7年の再建、高さ約13m間口約13m奥行き約7m.仁王尊(左が阿形、右が吽形)及び背面の三宝荒神、三面大黒天像は高村光雲、米原雲海の合作による傑作である。
  
金龍山浅草寺

 

聖観世音菩薩 
推古天皇36年(628)早朝、檜前浜成・竹成の兄弟が江戸浦(現在の隅田川)で投網中に一躰の仏像を感得した。郷司であった土師中知はこれを拝 し「聖観世音菩薩」のお像であることを知り、3人で深く帰依したのが浅草寺の草創である。後に3人は「三社権現」(今の浅草神社)として祀られた。 平安初期に慈覚大師が来山し「お前立」のご本尊を謹刻され、のちに「中興開山」と仰がれることになった。鎌倉時代には将軍の信仰も厚く、その外護のもと伽藍もととのい、江戸時代にいたって徳川幕府の祈願所となり、いよいよ堂塔の威容も増し大江戸文化の一翼をにない、庶民安息の浄地となった。浅草寺は「浅草かんのん」の名称で、全国の人から親しまれ、わが国の観音霊場の代表的な寺院となり今日におよんでいる。その間、戦災で堂塔伽藍を失ったが、信徒の尊いお力添えで昭和33年(1958)10月に観音堂が再建された。ついで雷門が95年ぶりに、仁王門が寺宝を収蔵する宝蔵門として、五重塔が永代供養の霊牌を奉安する塔院として復興された。  
「とはずがたり」浅草観音・隅田川
 
鑁阿寺

 

ばんなじ。栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山。山号は金剛山。仁王院法華坊と号する。建久七年足利義兼(法号鑁阿)の創建。足利氏の氏寺。旧称堀内御堂。通称大日堂。 
大日如来(大日は梵MahDvairocana「摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)」の訳)/真言密教の教主で、一切の仏菩薩の本地、一切の徳の総摂(そうせつ)とされる仏。これを本地法身と加持受用(じゅゆう)身とに分け、法身は理体、加持受用身は説法の教主とし、また金剛胎蔵をもって、金剛は智を表すから大日如来を智法身、胎蔵は理を表すから理法身とする。ただし二身も畢竟不離一体とする。その形像は、前者は黄金身で法界定印を結び、金剛界では、白色身で智拳印を結び、いずれも菩薩形で、宝蓮華座上にすわる。摩訶毘盧遮那仏。 
五智/大日如来が備え持つという五種の智恵の総称。密教で、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の五つとする。また、浄土教では仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智の五つとする。 
不動明王(「不動」は梵AcalanDthaの訳)/五大明王・八大明王の一で、その主尊。大日如来が、いっさいの悪魔・煩悩を降伏させるために化現した教令(きょうりょう)輪身で、忿怒の相をとる。形相は色青黒く獰悪(どうあく)で、眼を怒らし、左は半眼、額に水波の相があり、右牙を上、左牙を外に出す。また右に降魔の剣を、左に羂索(けんさく)も持ち、火焔光背を背に岩上または瑟瑟座(しつしつざ)に座している。眷属として矜羯羅(こんがら)・制迦(せいたか)など八大童子をもつ。種々の煩悩・障害を焼き払い、悪魔を降伏して行者を擁護し、菩提を成就させ、長寿を得させるという。日本では平安初期の密教の盛行とともに尊崇され、今日に至る。不動尊。不動。 
守本尊/自分を守ってくれるものとして、いつも心から信仰している仏。 子 千手観音 丑・寅 虚空蔵菩薩 卯 文珠菩薩 辰・巳 普賢菩薩 午 勢至菩薩 未・申 大日如来 酉 不動明王 戍・亥 八幡大菩薩
 
織姫神社

 

天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと・織姫)雨棚機姫神の孫神で奉職工の祖先として栲幡千々姫神あるいは天羽槌雄神等に繋がる神格 
天御鉾命(あめのみほこのみこと)絹を調進する服部一族の祖神 
足利来るなら織姫様の赤いお宮を目じるしに カラリコトントン カラリコトン 足利絵の街機の街・・・と足利音頭に歌われた織姫神社。 
奈良時代初期の和銅6年(713)というのが足利織物が文献上に残る最古のもの。その伝統をもつ足利織物の守り神として祀られているのが織姫神社で、太古機織のことを司どった天御鉾命、天八千々姫命の二柱を祭神としてる。昔は「機神さま」といい、明治12年8月24日合殿されていた通四丁目の八雲神社から、織物に係る神体山であった機神山(はたがみやま)・現在の織姫山南麓に遷宮したが翌13年9月10日火災で焼失し、以来仮宮のまま経過。昭和12年5月7日遷座して現在に至る。足利本銘仙全盛で、織物同業会が皇太子(昭和天皇)誕生記念事業として建てた。当時としては最先端の建築技術である鉄筋コンクリート造りの朱塗りの神殿で、大変な費用と3年をかけてつくられた。
 
成田山 / 真言宗・成田山新勝寺

 

不動明王 
天慶3年(940)寛朝大僧正によって開山。寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受け、弘法大師が敬刻開眼された不動明王を奉持し難波の津の港(現大阪府)より海路を東上して尾垂ヶ浜(千葉県匝嵯郡光町)に上陸、更に陸路を成田の地に至り、乱平定のため平和祈願の護摩を奉修し成満された。大任を果たされた大僧正は再びご尊像とともに都へ帰ろうとしたが不思議にもご尊像は磐石のごとく微動だにせず、やがて「我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん」との霊告が響いた。これを聞いた天皇は深く感動され、国司に命じてお堂を建立し「新勝寺」の寺号を授与し、ここに東国鎮護の霊場として「成田山」が開山。
寛朝大僧正 宇多天皇の皇孫で敦実親王の二男として916 年に生まれ、11歳で出家得度した。32歳のとき京都仁和寺の寛空僧正より伝法潅頂を授法し、仁和寺・東大寺・東寺・西寺などの別当、高野山の座主を歴任。また朱雀・円融・花山三天皇受戒の戒師、円融・花山両天皇出家の戒師及び潅頂の阿闍梨を勤め、行基菩薩・良源大僧正に次いで我が国3人目、真言宗初の大僧正となる。顕密の奥義を極め事相に通達し、声明をよくし東密声明道の中興と称され、殊に雅楽に堪能と伝えられる。不動明王に常に篤き信仰を持ち、ご霊徳が種々伝えられ長徳4年(998)83歳入滅。
ご本尊・不動明王は、平安の瑳峨天皇の勅願により、弘法大師が一刀三礼、敬虔な祈りを込めて敬刻開眼した。弘法大師が伝来、奉修された真言密教の護摩法の正系を伝えている。開山以来、護摩供の香煙は一日たりとも絶えることなく、その輝かしい法灯を護持継承し、わが国不動尊信仰の随一祈願道場として、数多の信仰をあつめている。
お不動さまは本堂の中央に祀られ、信仰の中心となる仏・菩薩の尊像を「ご本尊」と言う。弘法大師が敬刻開眼された不動明王をご本尊とし、お不動さまは、真言密教の根本仏である大日如来の化身である。煩悩や色々な迷いを鎮め、さまざまな障り・災難を払うために恐ろしい姿をしている。また、どんな所へでも出向き、すべての人を救済するため、奴僕(ぬぼく)の姿を示されている。右手には、悟りを開くための智慧を表す利剣を持ち、心のあらゆる迷いを断ち切ってくれる。左手には、索(なわ)を持ち仏教の教えに背く人をも自分の膝元に引き付けて、正しい教えの道に導いてくれる。 
一心にお祈りすることで、何人たりとも救わずにはおかないとするお不動さまの大慈悲心によって、ご霊験ご利益を受けることができる。
 
猿江神社

 

天照大御神(あまてらすおおみかみ) 
宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)   
源頼義奥州遠征(前九年の役・後三年の役)において、家臣の「猿藤太」(さるのとうた)という武将が此の地の入江で力尽きたのを地元の漁師達が手厚く葬り、境内に塚を建た。この縁起により「猿江」の社名となる。康平年中(1058)頃には、稲荷社として境内地300余坪を有していた。江戸時代には、神仏混合の風潮により京都妙連寺の末寺妙壽寺の僧侶が別当職として奉仕し、寺の隆盛とともに其の名を知らしめたという。 
都内でも最古の鉄筋コンクリート造りの御社殿は、旧社殿が関東大震災にて焼失後、昭和六年に宮内庁設計技官の設計により当時としてはとても珍しい頑丈優美な造りの神社として再建された。東京大空襲で近隣一帯(深川)が灰燼に帰した時も奇跡的に難を免れ、錦糸町の駅からは一面の焼け野原に建つ御社殿のみが望めたという。昭21年に伊勢大御神を合祀し社名を猿江稲荷神社より改称。
由来1  
伝承として昔、康平年間(1058-1065)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この附近の入江に勇々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも其の屍より毎夜光明を発し村人この屍を丁重に葬る。  
武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり、又懐中よりありがたき経文一巻がいでたり。よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊稱し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願、病気平癒、悪病退散、等のこの地の氏神社として祭り、又それより地名をも猿江村と稱えはじめ現在に至れり。正に猿江の地名これより発祥せり。  
尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は右末より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としていたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました。江戸時代は猿江稲荷神社と稱し隣接せる、日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司っていたが明示以後、近年になり、神保宮司を祭官として招き、合せて村、町の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。 
由来2  
源頼義・義家父子による奥州攻めで、数々の武勲を打ち立てた家臣の一人に「猿藤太」(さるのとうた)という武将がいた。武勇の士であったが、この地の入り江で力つきてしまった。これを知った地元の漁師達が手厚く葬り、神社の境内に塚を建てて祀ったところ、豊漁が続き、これにちなみ、猿藤太の「猿」と、入り江の「江」の字を結び「猿江」の社名となったという。  
もとは猿江稲荷神社と称し、別当妙寿寺の西にあったが、明治一七年(一八八四)、現在地に移転する。康平年間(一〇五八〜六五)に猿藤太が亡くなったという言い伝えの遺跡は重願寺南方の地で、池があったが埋め立てられてしまったという。  
猿藤太について別の書には、入り江に甲冑を帯びた武士の死骸があり、毎夜光明を放ち、調べると鎧の引合に猿藤太と記し、一部一巻の法華経を持っていたという。猿江神社の別当であった妙寿寺は法華経第一の日蓮宗の寺であり、猿江稲荷の縁起と妙寿寺との関連をうかがわせる。妙寿寺は谷中清水町にあった妙清寺が火除け地として召し上げられ、当時の住持日受が猿江に代地を願い出て、移転し、この時、寺号を妙寿寺と改めたことに発する。また、当所には鎮守稲荷があり、住善寺という寺が別当を勤めていたが、廃寺となり、妙寿寺がその別当になったという。妙寿寺は大震災後世田谷区北烏山に移転した。  
大震災で猿江神社も焼失し、昭和六年(一九三一)、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りとして再建され、東京大空襲では焼けずに残ったという。昭和二一年、伊勢大御神を合祀して、社名を猿江神社に改称した。 
江戸切絵図 / 猿江稲荷社妙寿寺 
土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)  
土井利勝は、安土桃山時代の武将。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。  
[ 大炊頭(おおいのかみ) 大炊寮(おおいりよう)の長官。従五位下相当。大炊寮とは日本の律令制において宮内省に属する機関の一つである。大炊とは大飯炊(おおいかしぐ)の略称といわれる。「おほい(おおい)つかさ」等とも言う。]  
利勝と同じく、江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物が大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さを重んじ、人柄と資質については抜きん出ていたと評される。その言行には模範、教訓となるようなものが多かった。  
秀忠が家督を家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人が不安な様子を見せていた。利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由を問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名の財政が逼迫しているのに、さらに将軍が隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念を秀忠に伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠も納得し、翌年の秀忠隠居は取りやめとなった。  
将軍・家光が増上寺へ参拝へ向かおうとしていた時、櫓の白壁が欠損していることに気づいた。家光は松平信綱に修繕を命令したが、修繕は困難であった。そこで信綱は、他の櫓の戸をはずし、壊れた部分に一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかしに過ぎず、無理であれば無理であると率直に言上すべきであると信綱を叱責した。  
利勝は、最上義俊が最上騒動で改易されて浪人となった際、義光以来の重臣・鮭延秀綱の身柄を預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄を与えた。しかし秀綱はこの5,000石を自分の家臣14人に公平に与えて自らは無禄の客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し、余生を過ごした。その14名は土井家では中級の家士に取り立てられ、大半の家は幕末まで続くことになるが、鮭延の没後、その恩顧に報いるべく古河に鮭延寺を建立して供養に努めた。  
幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となって、その藩の指導をおこなった。  
家康の落胤といわれる利勝であるが、利勝自身は落胤と噂される事を大変嫌っていたと伝わる。 
広重江戸百景 / 小奈木川五本まつ  
広重の絵を見て先ずその構図の妙に感心させられる。有名な松が小名木川に落ちかからんばかりに枝を伸ばし、それを三本の柱が支えている。川筋は大きく右へ反り、上大島町、大島町、そして下大島町あたりの町屋が、松の枝や松の枝を支える柱の間に望まれる。東の空が朱に染まっているところを見ると、早朝の景であろう。一艘の乗合船は、手前、すなわち江戸の方をさして進んでいるように見える。そう思ってみると、乗合の客人はあるいは商用で、あるいは江戸見物のために朝早く起きて行徳あたりから船に乗り込んだ人々かもしれない。本図は、広い意味で物を前面に大きく描く名所江戸百景独特の構図法ではあるが、竪大判の画面を上手く使って、何らの違和感をも感ぜしめない。構図的にも色彩的にもまとまりのいい優品である。  
絵の構図に言及したところで、同じ場所を描いた江戸名所図会「小名木川五本松」と比較してみたい。江戸名所図会は、あくまでも本文の挿絵であり、独立した一枚絵ではないため公正な比較は勿論できないが、構図の意味を考えるいい材料を提供してくれているので敢えて採り上げる次第である。すなわち、本文「五本松」に、「九鬼家の構えのうちより、道路を越えて水面を覆ふところの古松をいふ。(昔は、この川筋に同じほどの古松五株までありしとなり。他は枯れて、ただこの松樹のみいまなほ蒼々たり)」とあり、絵の左半分はその説明である。丹波綾部藩九鬼式部少輔下屋敷の門構えが詳細に分かるし、門のすぐ左、黒板塀の背後に太い幹が見え、九鬼家の屋敷内から蒼々として繁茂する松の枝が張り出していることもよく分かる。一方、絵の右半分は、絵の書き込みの説明である。絵には、「深川の末、五本松といふところに船をさして、川上とこのかはしもや月の友 芭蕉」と芭蕉の句が引かれている。江戸名所図会は満月が東の空に昇ってきたところで、夕方の景であることが分かる。いずれにせよ、これらの二図を比較することにより、江戸名所図会がきわめて説明的で、どちらかといえば散漫な印象を与えるのに対し、広重の画面がいかに緊密に構成され、また、松の木がどの屋敷から枝を張っているかを不問とするなど、決して説明的でないことが知れよう。  
ここで、遅ればせながら写真の登場となる。この写真は、矢田挿雲の「江戸から東京へ」にも掲載されている有名な写真である。ヘンリー・スミス氏の岩波版「名所江戸百景」によると、この木は、九鬼家の屋敷跡地にできた鈴木セメントの出す煤煙の犠牲となって、明治42年2月に枯死した由。また、同時に小林清親の「五本松雨月」にも言及されている。清親の絵が明治13年開板にかかるものであること、また清親の松は旧幕時代と変わらず鬱蒼と茂っていることから判断して、この写真は明治20〜30年代のものであろうか。いずれにせよ、まことに残念ながら小名木川に張り出した部分が枯れかかっていて往時のおもかげがないばかりでなく、こうなっては絵と比較することすら困難である。ただ、松の木が道の真ん中に生えているのは、明治になって、川幅が広げられたか、あるいは道幅が広げられたかの何れかであろう。  
さて、この絵については、先人によりさまざまな指摘が行われている。そのひとつが、川筋の湾曲である。小名木川は人工的に開削された一直線の掘割である。しかるに、広重も江戸名所図会も左右方向は逆だがいずれかに湾曲している。これは、先人も指摘しているとおり、一直線では絵にしにくいからであろう。  
いま一つは、絵の中央に描かれている乗合船についてである。それは、葛飾北斎の有名な富嶽三十六景「御厩河岸より両国橋夕日見」に描かれている乗合船と、江戸名所図会の乗合船が、客の一人が船側から手拭を川に垂らしているのを初め、乗客のさまざまな姿態、行商の荷物、尻をはしょって櫓をこぐ船頭にいたるまで酷似していて、偶然の一致とは思われないことである。ただ、船の進行方向を逆にしていることと、船頭が二人になっていること、乗合衆の構成を幾分変えていることなど若干の変化が見て取れる。これが、広重になると、手拭を川に垂らしている人物が踏襲されているくらいで、前二者ほどの類似性はない。船も右舷ではなく左舷を描くなど変化をつけている。ここでは、この三者の関係を論じるつもりないが、先人の絵の一部を目立たないように頂くことは当時としては常套的な手段であり、見る人もそれを咎めるどころか、翻案の技の巧拙を楽しんだのかもしれない。ひとついえることは、名所絵にせよ、乗合船の乗客の姿態にせよ、ある絵師がひとつの型を作り、後世の絵師がそれを踏襲したということで、型の系譜としてこれを論じることができよう。  
やや長くなったが、序でに小名木川について少し触れておきたい。小名木川の開削は、行徳産の塩を江戸に運ぶために、家康の江戸入府時より早くも始まったもので、広くいえば、関東の河川水運を江戸に直結させる大動脈的な役割を果たしたきわめて重要な河川であった。具体的にいえば、銚子の干鰯、野田の醤油、葛西の灰、そのほか味噌や酒粕などが江戸に運ばれ、江戸からは、明樽、提灯、蝋燭、紙、筆、麻、酒酢などが小名木川を通って関東各地に運ばれていたのである。そのようなことを考えると、小名木川を運行した船は多くが貨物の運送を目的としたものであったと思われるが、広重の絵には乗合船しか描かれていない。風韻を重んじる広重の作画意図であったと思われる。  
  
大塚・天祖神社

 

天照大御神   
創建は鎌倉時代末の元亨年間(1321〜24)に豊島郡領主豊島景村が伊勢神宮の御分霊を勧請したのが始まり、旧巣鴨村の総鎮守。境内には樹齢600年のご神木「夫婦銀杏」がある(高さ25m)。  
明治6年に天祖神社と名前が変わるまで、神明社・神明宮と呼ばれていて、江戸時代には十羅刹女堂(じゅうらせつにょどう)も境内に祀られていた。
 
大塚・滝不動

 

不動明王 
大塚という地名は古墳があったからと伝えられ、寛永のころには豊島郡小石川村の字名として広く知れ渡っていた。その昔、大塚駅前を谷端川が流れ、この付近の流れには小さな堰が設けられ滝のように音を立てて落ちていた。堰の傍らには石に彫られた不動明王が祀られ、「滝不動」と呼ばれて近隣の人々の信仰を集めていた。昭和10年ごろ、谷端川は駅前の開発に伴って暗渠となり、滝不動は安置される所在を失って巣鴨の個人の敷地に引き取られた。昭和20年4月13日に巣鴨は空襲を受け、不動明王は台座を除いて破壊された。10年後、不動明王は、破損を逃れた台座の上に復元され、南大塚の敷地内に安置された。平成11年に元の場所、谷端川の堰があった付近へと移設された。 
  
刺抜き地蔵 / 曹洞宗・萬頂山高岩寺

 

延命地蔵菩薩   慶長元年(1596)創建 
「高岩寺」というお寺の名前より、“とげぬき地蔵” “巣鴨のお地蔵さん”と言った方が通りが良い。最近は“おばあちゃんの原宿”として有名。 
本尊は延命地蔵菩薩で病気平癒と厄除けの御利益がある。正徳三年(1713)小石川に住む田付又四郎の妻が重い病気にかかり、日頃妻が信仰する地蔵尊に祈ったところ、夢に現れた僧から地蔵尊の印像を与えられた。その印像で一万体の紙札を刷り隅田川に流したところ、妻の病気が癒えたと伝えられる。 
この話を聞いた毛利家出入りの僧、西順和尚が二枚の刷り仏を乞い受けた。 ある時、毛利家の女中が口にくわえた針を誤って呑み込んでしまい、 西順和尚が刷り仏を飲ませたところ、針が御影を貫いて吐き出されたという。 これから“とげぬき地蔵”と呼ばれるようになり、針や棘だけでなく、人間のあらゆる苦しみを抜くとして信仰を集めた。 創建は慶長元年(1596)湯島で、明暦年間(1655〜57)に下谷屏風坂に移り、明治24年(1891)に区画整理で現在地に移された。 
本堂横の観音様は自分の体の悪い所と同じ部分に水をかけて白い布で磨くと身代わりになってくれる。
  
増上寺 / 浄土宗大本山・三緑山広度院増上寺

 

阿弥陀如来 
浄土宗大本山増上寺は、明徳4年(1393)浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。その後、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与するところ著しいものがあった。天正18年(1590)、関東新領主として徳川家康公が江戸に入府すると、時の住職12代源誉慈昌存応上人に親しく帰依し、師壇の関係ができ、菩提所となる。慶長3年(1598)、江戸城拡張のために貝塚より現在の芝に移り、家康公が関ヶ原の戦に勝って征夷大将軍となると、増上寺の大造営が開始され、数年を費やして天下無双の大伽藍が完成した。 
江戸時代は、将軍家の菩提所としての外に、浄土宗の総録所として宗学宗制を統轄し、また関東18壇林の首座として、境内地20余万坪、坊中寺院48宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院であった。 
明治以降、廃仏毀釈、境内地の公園指定、本堂焼失(明治6年、同42年)、戦災による諸得堂宇・徳川家霊廟の灰燼化など、政治的、社会的影響を多大に受けながらも、今日、伽藍の整え、東京を代表する寺院として、宗教活動、文化活動の基点となっている。 
三解脱門/(さんげだつもん・三門)元和8年(1622)の建立で、増上寺が江戸時代初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物であり、国の重要文化財に指定されている。様式は、二階二重門朱塗入母家造りで、建物等唐様を中心とし、匂欄等に和洋が加味され、和唐折衷の美しさを見せている。上層内部には、建立当時の京仏師による釈迦三尊(都指定の有形文化財)、十六羅漢の各像を安置する。大きさは、間口十間四尺五寸(19.5m)、奥行五間(9m)、高さ七丈(21m)。 
大殿/昭和49年、現代建築技術の粋を結集して、伝統的な寺院建築様式を取り入れつつ、大本山として念仏道場、諸儀式法要の執行を十分に配慮した斬新な企画のもとに建築された。本堂には、室町期製作の本尊阿弥陀如来像が安置され、両脇陣には、高祖善導大師及び元祖法然上人の各像をお祀りして、参拝者の信仰をあつめている。 
御成門/増上寺の表門は通称、大門と呼ばれ、現在ではコンクリート製ではあるが、ビル街の中にたたずんでいる(芝大門交差点)。大門の下の道路は自動車が絶え間なく走っているが、実は表参道である。道路の脇を固めるビル群にはかつて竹林が鬱蒼と茂り、三門(三解脱門)までの直線道路(参道)を覆っていて、数々の塔頭がその中に建てられていた。増上寺の北に位置する門・御成門は増上寺の裏門である。しかし、将軍家が参詣する際にこの門から出入りをしていたことから「御成門」と称されるようになった。もともとは、御成門交差点にあったが、明治に入り現在地に移された。
 
称名寺 / 金沢山弥勒院、金沢山

 

弥勒菩薩 
横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山の寺院。山号は金沢山弥勒院、金沢山。 
北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224-1276)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、正嘉2年(1258)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち文永4年(1267)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたが、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、以後寺運も衰退したが、江戸時代に入り大幅に復興され、現存する建物が作られた。 
称名寺と縁の深い金沢文庫は、実時が病で没する直前の建治元年(1275)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸した(中でも徳川家康や前田綱紀の持ち出した数はかなりなものだと言われる)「金澤文庫」の蔵書印が捺された古写本は、現在も日本各地に残っている。また嘉元4年(1306)、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、称名寺の僧である俊如房(快誉)が乗船したことが金沢文庫の古文書に見られる。

 


  
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