パンドラ

パンドラオリュンポス神々 と人間の誕生贈り物と代償火を教えた神壺の中の女神神話から自然哲学の発生タレスとミレトス学派ピュタゴラス論理だけの世界医学のヒッポクラテスソクラテスから生の哲学へソクラテスの人間探求パンドラの箱と 旧約聖書の創世記
【パンドラ/Pandora】「すべての贈物」の意、ギリシア神話中の人類最初の女性。プロメテウスが天から盗んだ火を人間に与えたため人間が高慢になったので災いの詰まった箱をもたせて神が地上に送った女。彼女が好奇心からこの箱を開けたので、地上には不幸が広がり「希望」だけが箱の底に残ったという。 
【パンドラの箱】Pandora's box 
【運】個人や集団に幸、不幸などをもたらすはたらき。状況を動かしていく人為を超越したある作用。巡り合わせ。 
【運命】幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力。 
【救世】この世の苦しみや不幸から人々を救うこと。
  
【禍福】わざわいとさいわい。不幸と幸福。 
禍福は糾(あざな)える縄の如し わざわいが福になり、福がわざわいのもとになったりして、この世の幸不幸はなわをより合わせたように表裏をなす。 
禍福門なしただ人の招く所 禍福がはいってくる門は前々から定まっているわけではない。悪を行なえばわざわいが来、善を行なえば福が来るのであって、結局は人が招くものだ。 
禍福をほしいままにす 権威を濫用して賞罰を勝手にしたり、また、退けたり引き上げたりする。 
【明暗】喜ばしいことと悲しいこと。幸と不幸。「明暗を分ける」「人生の明暗」 
【不運】よくないめぐりあわせ。不幸な運命。運の悪いこと。非運。 
【悲運】悲しい運命。不幸な運命。
  
【不幸】ふしあわせなこと。不運。 
【不祥】運の悪いこと。不運。不幸。また、災難。 
【不肖】不運・不幸であること。 
【不仕合・不幸】しあわせでないこと。幸福でないこと。運の悪いこと。不幸。不運。 
泣き面を蜂が刺す 不幸のうえに不幸が重なること。 
【薄倖・薄幸】ふしあわせなこと。不幸。「薄倖の佳人」 
【通塞】運のひらくことと不運なこと。幸と不幸。 
【悲劇】悲惨な人生のできごと。物事が不幸・悲惨な結末に終わること。 
【悲境】悲しい境遇。不幸な身の上。 
【好い面の皮】とんだ恥さらし。いい迷惑。 
【三不幸】孟子のいった三つの不幸。財産の蓄積に専念すること、自分の妻子だけを愛すること、父母の孝養をおろそかにすること。
   
【因果】不幸。不運。ふしあわせ。 
【因業】宿命的に不幸なこと。「因業な生まれ」 
【因果病】悪業の報いと思われるような不幸な病気。 
【凶年】不幸なできごとのあった年。災難の多い年。 
【惨禍】天災や戦争などによる、すさまじく、いたましい不幸。 
【災厄】ふりかかってくる不幸なできごと。わざわい。災難。災禍。厄難。 
【数奇】運命のめぐりあわせが悪いこと。不運、不幸をくりかえすさま。ふしあわせ。不運。 
【禍・災・殃】悪い結果をもたらすような種々の事柄、気配。身にふりかかる傷害、病気、天災、難儀など。災難。凶事。曲事(まがごと)。不幸。 
【妖厄神】人にわざわいをなす神。病気や不幸をもたらす神。疫病神。 
【厄難】ふりかかってくる不幸。災い。災難。災厄。 
【同情】他人の気持や境遇、特に悲哀や不幸を、その身になって思いやること。かわいそうに思って慰めること。おもいやり。
  
【気の毒】他人の不幸、苦痛、難儀などに同情して心を痛めること。 
【好い気味】胸がすくような気持。痛快。 
【落穴】人をだまして不幸や不運なめにあわせようとする悪いたくらみ。策略。謀略。 
【うらぶれる】おちぶれたり不幸に出会ったりして、みじめな有様になる。 
【哀を止(とど)む】悲しみや不幸などを一身に受ける。
  
【絶望】希望や期待がまったく失われること。望みが絶えること。望みを奪われること。 
【闇】先の見通しがつかないこと。希望をもつことができないこと。方途を失うこと。「一寸先は闇」 
【真っ暗】ある事についてまったく知らないこと。前途に希望のまったくないこと。 
【真っ暗闇】前途に希望のまったくないこと。 
【がっかり】期待や希望がはずれて落胆するさま。失望したさま。 
【暗澹】希望を失い、気持が暗く、うちしおれる。明るい見通しがなく絶望的である。 
【暗黒・闇黒】乱れたり、おさえつけられたりしていて希望がもてない状態。 
【失意】思うようにならないで希望をなくす。望みをとげられないために不満なこと。失望。
   
【夢】将来、実現させたいと思っている事柄。将来の希望。 
【希望・冀望】将来への明るい見通し。のぞみ。可能性。見込み。 
【志望】こうなりたい、こうしたいとのぞむこと。 
【熱望】熱心に希望する。切望。 
【素望】ふだんから持っている希望。平素の望み。宿望。宿願。素願。素懐。そもう。 
【切望】強く望み願う。熱心に希望する。 
【企望】何かをするために計画を立て、その達成に望みをかけること。希望。 
【願望】ねがいのぞむ。希望。 
【渇望】のどがかわいて水を欲するように切実に希望する。 
【実現】計画、希望などを現実のものとする。 
【希望的観測】自分につごうのよいように事のなりゆきをおしはかる。 
【光】心に希望を与えるもの。 
【輝く・耀く】明るさがあふれる。
  
【甲斐無い・効無い】物事を行なったり希望したりしただけの効果がない。 
【願わくは】(ねがわくば)願うところは。望むことは。願望や希望の表現を伴ってひたすらねがう意を表す。 
【志願】ある事をこころざし願う。望み願う。 
【初願】はじめからの願い。最初の希望。 
【下心】かねて心に期すること。前からのたくらみ。ひそかに持っている目的、希望。 
【本意】本来の志。かねてからの希望。 
【腰掛】希望する職業や地位などにつくまでの間、一時的に別の職や地位に身をおく。 
【大志】将来や未知のものに対する遠大な希望。大望。「大志を抱く」 
【祈る・祷る】心から希望する。願う。「御幸福を祈ります」 
【押・圧】自分の意見や希望をむりに通そうとすること。 
【青い鳥】幸福。幸福は身近にある。
   
【薔薇色】将来の明るい状態・様子。希望に満ちている様子。 
青雲の志 高位高官の地位にのぼろうとする志。立身出世しようとする希望。 
胸を膨らます 期待や喜びなどが心中に満ちあふれる。「希望に胸を膨らます」 
悪妻は百年の不作 心情の悪い妻を得ることは終身の不幸である。 
昨日は人の身今日は我が身 運命、人事の変遷や災難は予測できないもので、他人の不幸を自分の戒めとせよ。 
親は泣き寄り他人は食い寄り みうちの者は不幸の境遇の時こそ助け合うものだが、他人はうわべの見せかけでしかない。 
喪家の狗(いぬ) 見る影もなくやつれて元気のない人。 
身につまされる 他人の不幸などが、わが身に引きくらべて同情される。他人のふしあわせなどが、ひとごとでなく思われる。
  
アダム
(Adam/ヘブライ語「人、男」の意) 「旧約聖書」に見るヘブライ神話における、人間の始祖。神が天地創造の時、初めてつくった男の名。妻のイブとともにエデンの園にいたが、神の戒めを破ったため、二人とも追放された。 
イブ(Eve/ヘブライ語で「女」の意) 「旧約聖書・創世記」に見るヘブライ神話における人類最初の女性。エバ。 
カイン(Cain) 旧約聖書創世記の中のアダムとイブの長子。弟アベルの供物が神に納められ、みずからの供物は顧みられなかったことを恨み、弟を殺し、神に追われた。 
禁断の木の実 「旧約聖書」の創世記に書かた、エデンの園にあった知恵の木の実。神から食べることを禁じられていたが、アダムとイブは蛇に誘惑されて禁を破り、実を食べ、楽園から追放された。かたく禁じられてはいるが、非常に魅力に富んだ誘惑的な快楽や行動。 
罪の子 (アダムの原罪が子孫である人間全体に及ぶというところから)キリスト教で人間のこと。
  
【原罪】キリスト教で、アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。すべての人間がアダムの子孫として生まれながらに負っている罪。宿罪。 
【エデンの園】「旧約聖書・創世紀」の神話で、神が人類の始祖アダムとイブを住まわせた楽園。 
【失楽園】(原題英Paradise Lost)叙事詩。ミルトン作。1667年完成。神にそむいて地獄に落ちた反逆の天使サタンに誘惑されて、アダムとイブが原罪を犯し、楽園を追われ、キリストの贖罪(しょくざい)に希望をつなぐ姿を描く。
 
パンドラ

 

ギリシャ神話の中に登場する、災いをもたらす箱の名であり、同時にそれを開けた女性の名である。その災いの箱には、箱の隅にたった一つの「盲目の希望」が残されていた、世界の絶望と希望を同時に表した話。転じて、抑圧された環境にてカストロフィな災害・事件が起きたときによく「これはまるでパンドラの箱を開けたような感じだ」と比喩されることもある。パンドラは人間の味方であるプロメテウスとその弟エピメテウスの神話に登場し、この神話を人間の全ての病老苦の起原譚にしている。プロメテウスが茴香(ういきょう)の茎の中に火を隠して盗み、それを人間に与えた。その禁じられた行為の報復としてゼウスはパンドラを作り、災厄の箱を持たせて兄弟神の元に送り込んだ。エピメテウスは兄の留守の間にパンドラを受け取り、妻にしてしまう。その後、パンドラはその抑制の効かない性格から、災いの箱を開けてしまう。 
このくだりをレヴィ・ストロースは以下のように解釈する。プロメテウスは、外見がみずみずしく中は全てを食い尽くす存在(茴香に包まれた火)を盗み人間に与えた。ゼウスもまた外見がみずみずしく中は全てを食い尽くす存在(アテナがデザインし、ヘファイトスが飾り付け、ヘルメスが嘘と欺瞞と欲に満ちた心を吹き込んだパンドラ)を人間に与えた。二柱の神が行った行為は等価であり、人間は未来永劫火によって焼き尽くされる運命を二度も宣告されたに等しい。
 
茴香(ういきょう) 
・芹(せり)科 学名/Foeniculum vulgare ウイキョウ属 
・別名 フェンネル・Fennel / 呉の母(くれのおも・古名)  
・地中海沿岸原産。平安時代に渡来。葉っぱはすごく細い糸状。春から夏にかけて、黄色い傘状の小さい花がいっぱい咲く。古くはローマ時代から栽培されてきた野草。胃薬、香料などに使用される。「魚のハーブ(fish herb)」ともいわれ、魚料理にもよく使われる。実は茶色で細長い。 
・「茴香」は「回香」とも書き、「回」は回教徒(イスラム教徒)を指す。ヨーロッパからイスラム教の地域を経て中国に伝来したことからか。 
・「ブロンズ・フェンネル」「フローレンス・フェンネル」などの園芸品種がよく知られる。茴香に似た「ディル」という花がある、茎も葉も花もそっくりである。 
・花言葉は「賞賛に値する」  
 
プロメテウス Prometheus  
ギリシア神話のティタン神族の1人。アトラスやエピメテウスの兄弟にあたる。ティタン神族とオリンポス神族が覇権を争ったとき、プロメテウスは世界の支配権がゼウスに帰することを予見して彼に味方した。そのため敗れたティタンたちが大地の奥底タルタロスに投げ込まれても、彼だけは神々や人間たちと自由に往来することを許された。しかし、やがて悲惨な状態にある人間に深く同情するようになったプロメテウスは、人間に対して容赦のないゼウスと対立するようになる。犠牲の牛を神々と人間で分け合う方法を決めるときも、またプロメテウスが天上の火を盗み出して人間に与えたときも、ゼウスは痛いめにあった。 
当時の人間は火をもたず、したがって夜は暗闇のなかで野獣を恐れ、火を用いて食物を料理することも知らなかったので、彼は大茴香(おおういきょう)の茎の中に天上の火を隠して地上へもたらしたという。さらにプロメテウスは、人間が生きていくために必要な知恵と技術を教え、まさしく人類の文化の恩人であった。 
ここに至りゼウスはプロメテウスと人間に対して仕返しをする。人間の最初の女パンドラをつくってエピメテウスのもとへ連れてゆき、人間にあらゆる災いをもたらすとともに、プロメテウスを遠いコーカサスの岩山に鎖でつないで大鷲(おおわし)に彼の肝臓を食わせ、夜の間にふたたび肝臓が元どおりに回復するという絶えることのない苦痛を与えた。長い年月ののち、旅の途中のヘラクレスが大鷲を射落としてプロメテウスを救い出し、やがてゼウスとプロメテウスは和解する。
 
ギリシャ神話 / オリュンポス神々・人間の誕生

 

ギリシャ神話において、人類の起源についての説は4つほどあげられる。1つ目はゼウスが、2つ目はプロメテウスが作ったと記されている。一般に1番古い伝統的な考え方としては人類は自然に大地から生じた神々と同族ということになる。最後はヘシオドス説で人類の製作者はオリュンポスの神々ということになっている。 
クロノスが治めていた時代、オリュンポスの神々はまず始めに「黄金の種族」を作り上げた。この種族は苦労や苦しみを知らず、楽しい日々を送っていた。食物は自然に大地に実り、年も取らず眠りながら死んでいく。そして精霊となり、地上で生きている人間を悪から守っていた。 
ところがこの種族は大地が埋め隠して全滅してしまう。今度は前より劣った「白銀の種族」を作った。この種族は大人に成長するのに100年もかかった。やっと成長してもすぐに死んでしまうのだ。そして互いに害しあうことを覚えてしまった。おまけに神々をおろそかにして崇拝もしなかった。この頃、天上の政権はクロノスからゼウスに移っており、彼は少々の気温変化を作ったので人間は洞窟という住処を初めて所有した。この時に「季節の女神」ホーライでも生まれたんでしょうか。 
結局ゼウスはこの種族を滅ぼして、さらに第3の「青銅の種族」を作った。それらはとりねこの木から作られたため、恐ろしく強豪な種族だった。この種族は血の気が多く、軍神アレスを崇拝し、青銅を使って武器を作り殺戮にふけった。そしてとうとう滅ぼしあって自滅する。 
ゼウスは再び第4の種族を作った。それは英雄ヘロス(ヒーロー)たち半神と呼ばれる立派な種族だ。この種族はいわゆる神話内で「英雄」とうたわれている人たちのことだが、これもまたテーバイ遠征やトロイア戦記のような戦争で滅んでしまう。 
そして更に第5の「鉄の種族」を作った。これが我々現在の種族であり、正しいことをしても認められず、悪事をたたえる。そして相変わらず滅ぼしあう。神々はそうした人間を見放し、次々と天界へ上がっていった。最後まで「純潔の女神」アストライアが残ったがとうとう天へ帰ってしまう。 
以上がヘシオドスの説であり、アポロドロス説では「青銅の種族」をゼウスが洪水を起こして滅ぼしてしまうと書いてある。内容はノアの方舟と全く同じ。これら種族と、プロメテウスが作ったといわれる人間の種族と、鉄の種族に属する人間の関係がどうもはっきりとはわからない。  
ある時、人間と神々との間で祭儀の生贄をどのように分けるか問題になった。そこでプロメテウスは大きな牛を屠り、神々に献ずる分と人間が受ける分に分けた。その際プロメテウスはゼウスの知恵を試そうとした。肉の部分は胃袋に包み、骨は脂身で包んでいかにも美味そうに見せかけ、ゼウスの目の前に置いた。 
「どちらでもお好きなほうを。」 
ゼウスは脂身で包まれた骨を選び、案の定たいそう怒った。ちなみにそれ以降、オリュンポスの神々には腿の骨を脂身で包んで焼いて献ずる習わしとなったらしい。 
プロメテウスがゼウスに対して強硬な態度に出れたのは、それなりの理由があった。以前のティタンとの戦いの時、プロメテウスだけはゼウス達オリュンポスの勝利を見越して弟のエピメテウスと共に加勢した。その時にヘカトンケイル達を地獄の底から連れ出し、圧勝を得たのも彼の献策だと言われている。 
ゼウスの今日があるのは、プロメテウスの協力のおかげなのである。 
そんなプロメテウスはゼウスの反対を押し切って人間に火を与えた。それまで人間は闇の中で野獣を恐れ、物を煮たり焼くことを知らず病気になっていた。それでもゼウスは死すべき人間に火を与えることを拒んだ。火を覚えた人間が神々に悪影響を与えると見こんでいたからだ。 
しかしプロメテウスはこれを黙って見過ごすことが出来なかった。とうとう彼は、天上の火を盗み出すために大茴香(おおういきょう)の茎を持って太陽神の燃える車輪に燈心を押し付けて火を移し、隠し持って下界した。この大茴香というのは、地中海の沼沢地に生える雑草で茎を乾かすと燃えやすいそうだ。それ以来、人間は火を得ることによりさまざまな知恵を付けていった。ちなみに最初にプロメテウスの火に気がついたのはサテュロスである。その親分シレヌスは踊りくるう火に思わずキスをし、ひげが焦げたという。 
プロメテウスが人類にもたらした恩恵はこれに留まらず、建築や気候の観測、数学、文字、家畜、造船等を教え授けた。ゼウスに見放されて全滅に瀕していた人類は、ようやく文明に目覚めた 。 
ゼウスにとって、彼のこの態度はいっそう我慢のならないものになる。 
「あなたに滅ぼされたティタン達のあだ討ちのために、ガイアは更に大きな巨人を生み出す。しかも神々はこの巨人たちを倒すことができないのでオリュンポスに危機が迫り、そのときにあなたを助けるのは人間と神の合いの子である1人の英雄だ。それでもあなたは人間に火を渡したことを責めるおつもりか。」 
これは後のギガンテスの戦いのことだが、プロメテウスはすでに予言しているのである。おまけにプロメテウスはゼウスの弱点を知っていたから、下手に手を出すことができない。しかしゼウスはついに決意を固め、「権力」クラトスと「暴力」ビアに命じてプロメテウスをカウカソスの高山の峰にはりつけた。そして大鷲に彼の肝臓をついばませた。夜になると肝臓は元に戻るため毎日耐えがたい苦痛が繰り返されるのであった。 
一方ゼウスはヘパイストスに粘土で美しい乙女を作らせた。アテナが銀白の衣装を、アフロディテが雅と官能を、ヘルメスがずる賢い気質と恥知らずな心を与えた。ゼウスはそれに心を宿らせ、この女を「すべての贈り物」パンドラと名づけた。これが人間女性の誕生である。そしてヘルメスにパンドラをエピメテウスの元へ連れて行くように命令した。 
エピメテウスはいつもプロメテウスに、ゼウスからの贈り物はろくなものではないから受け取るなと聞かされていたが、彼は後で考える人。パンドラの美しさにひかれ家に招き入れてしまった。 
パンドラはゼウスからもらった甕を持っていた。しかし中身を見てはいけないと言う。見てはいけないと言われれば見てしまうのが人間の性で、好奇心に勝つことはできず彼女はとうとう甕の蓋を開けてしまった。 
中の物が一斉に外に飛び出し、驚いたパンドラは急いで蓋を閉めたが、時すでに遅し。中には悪意や欺瞞などの災いの元がしまわれていたのだが、それが世の中に飽満してしまった。蓋の中に残っていたのは希望というポジティブな性質だけだった。 
しかしこの説には少々の疑問が残る。なぜゼウスは災いの元の中にわざわざ希望を入れておいたのでしょう。人間に対する救いの手だったのでしょうか。別の説によると、甕はゼウスが与えたものではなくプロメテウスが世にはびこらぬように蓋をしてしまっていたものでした。しかし彼はこの甕が開けられる事態を把握してあらかじめ希望も一緒にしまっていたのでしょう。とにかくパンドラはこの希望も外に出してくれたおかげで、人間は困難にぶつかっても決して希望をもって諦めないのである。 
違う説では、パンドラが最後に蓋を閉め外に出さなかったものは「予知する力」である。もしこの能力が人間に備わってしまえば、どんな災難が待ち受けているか知ることになる。すると未来というものはなくなり、破滅の道を歩むことになるのだ。人間は希望がなくては前に進むことができないから、ちょっと哲学的な説だ。 
ゼウスによって3万年のはりつけの刑を受けることになったプロメテウスは考え無しにゼウスの怒りを買ったわけではない。彼はゼウスの将来についてある大きな秘密を握っていたのだ。気になって仕方のないゼウスは、プロメテウスにいいかげん屈従するようにオケアノスやヘルメスを遣いに出すが、一向に口を割る気配がない。 
「もう知らん知らんぞ3万年はりつけの刑を受けているがいい」 
しかし、年月が経つにつれゼウスも人間に対して寛容になり正義を持って統治するようになった。それを見たプロメテウスはゼウスとの和解に心が動きはじめる。 
「あなたが人間に対し、正義を持ち続けてくれるならば、私はあなたの未来の危機を教えましょう。」 
「おお、誓おう。して、未来の危機とはなんだ?」 
「ネレイデスの1人でテティスというかわいい娘がいるのはご存知かな。テティスから産まれる子供は父に優る運命を背負っている。彼女には手を出さない方がいいでしょう。かつてあなたが父クロノスを落とし入れたように、今度はあなたが天上の位をおわれるでしょう。」 
ゼウスが今、必死に落とそうとしている相手がまさにテティスであった。 
「良かった、まだ手を出していない。間に合ってよかった。」 
ゼウスは素直にテティスから手を引き、プロメテウスを解放するようヘラクレスに命ずる。彼は「11つめの難事」西の園ヘスペリデスの黄金の果実を取りに行く最中で、スキュティアに寄りプロメテウスの肝臓をついばんでいる鷲を射て解放した。 
彼はゼウスと完全に和解し、天上の住居に戻って神々の相談役または預言者として尊敬された。 
さて、テティスはどうなったかというと、ゼウスが人間のペレウスと結婚させたのだ。この2人からあの英雄アキレウスが生まれるのですが、実はこの結婚にはいわくつきがありトロイア戦争の発端とも言われる大事件が起こります。 
デウカリオンもまた人類の祖先と言われている。彼の父はプロメテウスだが、母親は不明。クリュメネやヘシオネ、プロノイア、アシアー等の説もある。ともかくデウカリオンは、ギリシア人の先祖としてテッサリア地方を統治し、エピメテウスとパンドラの娘ピュラを娶ったというのが通説である。つまりいとこ同士の結婚である。 
彼らはいつも行いが良く、節度をもって国を治め、神々に対しての崇拝も怠らなかった。しかし人類はますます凶暴化していき、ゼウスの頭痛のタネと化した。特に度を越えて暴力に権を振るっていたのは、アルカディア王リュカオンの息子たちである。彼自身も暴君だったという説もある。 
アポロドロス曰くこの時代の人間は「青銅の種族」と言われ、ゼウスはとうとう人類を滅ぼすべく実力行使に踊り出た。まず「北風」ボレアスを岩窟に閉じ込めて、「南風」ノトスを暴れさせ烈しい雨を降らせた。農作物はことごとくなぎ倒されて、ポセイドンもここぞとばかりに暴れだし全ての建物が海に沈んでしまった。ネレイデスたちは海の底で人間の町を見てびっくりしたらしい。多くの人間が溺れ死んでいったが、なんとか逃れた者もいた。しかし今度は飢えに苦しみ、結局は同じ運命をたどらざるを得なかった。 
デウカリオンとピュラだけは父プロメテウスからこのことを聞かされていたので、1つの箱舟を造りそれに食料などを詰め込んだ、まさにノアの箱舟。いよいよ大洪水となると、2人はこの箱舟に乗り込み9日間波に任せて漂流した。船は南へ押し流されパルナッソスに着いた。 
アポロドロス説では彼らの他に数人が生き残ったらしいが、とにかくゼウスが許可した人間以外が滅びたのを見て「北風」ボレアスに雲群を追い散らせた。トリトンが法螺貝を吹いて波を沖へ引かせた。  
とりあえずデウカリオンは船から降りゼウスとテミスに感謝の祈りをささげた。テミスはこのパルナッソスの南にあるデルポイに古くから信託の場所を持つ神である。そして彼らは人類が滅亡したことを悲しんで、テミスに救いの道を求めた。すると女神は彼らにこう告げたのだ。 
「頭を布で包み隠し、衣を解いておまえ達の大いなる母の骨を歩きながら後ろに投げるがいい。」 
母の骨を投げるという恐ろしき事態に当惑しながら、2人は信託の意味を必死に考えた。そしてデウカリオンはある結論に達した。 
「我々の大いなる母というのは大地だ。母の骨というのは、岩のことに間違いない。だから石を拾って後ろに投げろと言われるのだろう。」 
間違えていても石を投げることくらいたいしたことではないので、とりあえずやってみようと2人は転がっている石を拾って肩越しに後ろに投げてみることにした。するとその石はみるみるうちに大きくなり、血が通う人間になったのだ。デウカリオンの投げた石からは男、ピュラの投げた石は女になった。こうして再び人類は増え広がっていった。つまり私らは石から出来た人間なのだ。ちなみに人々のことをLaosと言うのは、石「Laas」からきているとか。  
その後、デウカリオンとピュラの間に数人の子供が出来た。長男のヘレンはギリシア人の祖先と言われている。ギリシア人のことをヘレネスと言われる所以だが、実は祖先として作られた人物であるらしい。だからヘレンはゼウスの子供でデウカリオンの養子だとの説もある。 
またアテナイの初代王アンピクテュオンが産まれたとあるが、大地の子との説もある。 
娘は「第一に生まれた女」プロトゲネイアが挙げられ、彼女とゼウスの間にアエトリオスが生まれた。エンデュミオンやアイトロスなどの西部ギリシア王族の祖先にあたる。 
ヘレンはニンフのオルセイスとの間にドロス、クストス、アイオロスの3人を儲けた。それぞれドリス族・イオニア族・アイオリス族の祖といわれている。 
クストスはペロポンネソス半島を分配し、2人の息子であるイオンとアカイオスによってイオニア族とアカイオイ族が生まれた。イオンの父親はアポロンとも言われているが、母親は2人ともアッティカ王エレクテウスの娘クレウサである。ドロスはペロポンネソス半島に対する地方を得て、ドリス人の祖となった。
 
贈り物と代償

 

ゼウスの時代が全てが平穏な時代の到来とはいかなかったみたいで 
なかでもゼウスがタルタロスに閉じこめてしまったクロノスの兄弟で 
イアベトスの息子プロメテウスには手を焼いていたようで 
プロメテウスは新時代のそのまた先を行くような現代っ子で 
疑問があればそれが誰であれ 最高神ゼウスへでも平気で疑問をぶつけていました 
ゼウスはそのころ青銅器時代の人間達をあまり好ましいとは思っていませんでした 
かたやプロメテウスは人間達が大好きでした 
しかしゼウスは無知の中でこそ人間達は幸せなのだと考えていました 
無知であることで病気や戦い 日々の安心や心配 老いていくこと死ぬこと そういうさまざまな考えることで心労を知らないことで幸せに生きられるのだと考えていました  
人は土から生まれ 日が昇れば起き 腹が減れば食べ 日が沈めば寝る そして老いて土へと帰ってゆく 
 
ある時プロメテウスは このことをゼウスに問いただします 
神よゼウスよ 貴方は何故に人を造り そのままに置き去りにしているのかと 
人間にも火を与えたらどうかと(そのころの人間達はまだ火を扱えなかったのです) 
ゼウスは答えます 人間達に火はいらない 
プロメテウスよお前にはわからないのか 贈り物には代償があるのを 
もしも人間達に火という贈り物を与えたことで その代償の大きさは計り知れないものになる 
人は今のままで十分に幸せなのだ 見よ火はなくとも人々は笑い生きている 
プロメテウスはそれでも問いただします 
それは獣の幸せと変わらないでしょう  
それなら何故に神は人に少しの知恵と考える力を与えられたのかと 
ゼウスはまた答えます 
人間達は神を畏れ 神をあがめ 神が示す謎に悩み 神の気まぐれに驚嘆するではないか 
人間達にはそれだけでよいのだ 他の獣達はそれさえもできまい 
代償に悩み 代償に苦しむこともないのだ 人間達は充分に幸せではないか 
プロメテウスはさらに言葉を続けます 
確かにそれはそれで幸せでしょう しかしもしも人間達に火を与えれば 
人間達はもっと考えること工夫することを覚えるようになるでしょう 
今よりもっと良い暮らしも出来るようになるでしょう もっと幸せに暮らせるでしょう 
ゼウスは答えます 
プロメテウスよ 確かにそうなるであろう 
人間達にはもうすでにその資質は隠されているのだ ただ封印されているだけで 
もしもその封印を解いたら プロメテウスよきっとそなたの言う通りになるだろう 
しかしその代償は極めて大きい 
人間達の欲望は底知れず 次の便利を次の楽をもっと裕福にと際限なく求めるであろう 
人は神の与えた神をあがめること 謙虚であることを忘れてしまう 
我が身が神であると誤った考えを持つであろう 
神の領域 このオリュンポスに攻め上ろうとするであろう 
その代償を考えたことがあるか? 
プロメテウスよ お前は私に対して言葉が過ぎる 
プロメテウスよ そうなれば今のお前と同じことを人間達はするであろう 
二度と私にお前の思いつきなど話してはならん 
 
こうしてゼウスの元から引き下がったプロメテウスですが どうしても納得できませんでした 
彼はどうしても人間達に火を与えたかったのです 
彼は一睡もせずに計画を練りました 
夜が明けようとするとき彼は立ち上がり オリュンポスさんの頂上に立ちました 
彼は茴香の枝の先に布を巻き付けたものを持ち それを東の地平線まだかすかな太陽の焔のなかに差し出しました 
火がついた茴香の枝を彼は服の中に隠し オリュンポス山を降りてゆきました 
彼は洞窟の中にいた人間達に隠していた火を神からの贈り物だと差し出します 
人間達は初めて間近に見る火に最初はおびえます 
それは生き物のようにゆらゆらと動き そばに行くと熱く 手を入れると噛みつきました 
恐れ驚く人間達は 火に近づくことさえも嫌がります 
そこでプロメテウスは火をそこに置くと森へ入り鹿をとってきました 
その鹿肉を火の上へかざします するとジュージューと鹿肉は焼け 
そのおいしそうな香りが洞窟の中に立ちこめてゆきました 
空腹の中我を忘れて一人の人間が飛びつき そのおいしく焼けた肉に食いつくと 
周りの人間達も先を争って肉をがつがつと食い始めました 
 
その様子を見ていたプロメテウスは満足そうにこう言いました 
これは火というものだ 
この火をうまく使うことにでお前達はもっと豊かに暮らせるようになるだろう 
火は太陽の弟で使い方によっては悪い霊へと変わる だから心して使うのだ 
もしも火が逃げようとしたら水を使え そうすれば火は閉じこめることが出来る 
彼はそう言い残すと洞窟を去ってゆきました 
しかし人間達は香ばしく焼けた肉を食べることに懸命で 
プロメテウスの言葉は半分しか聞いていませんでした 
プロメテウスが始めの洞窟に置いていった火は その後隣の洞窟へそしてまた次へと 
段々と広がってゆきました 
 
ある日久しぶりに人間界をのぞいたゼウスはあまりの変わりように驚きます 
人間達が暮らしていたはずの洞窟にはもう誰もいなかった 
近くを見ると小屋が建ち その先には農家があり 
またその先には城壁に守られた都市が作られていた 
家々の屋根からは煙が立ち上っていた 
人間達はそれまでのように肉や魚 野菜などを生で食べてはいなかった 
食べ物を料理し 人々は火の回りで馳走を食べ酒を飲み 談笑していた 
鍛冶屋の炉では鉄を鍛え 鋤や鍬 鍋や釜 そして剣や槍を作っていた 
いたるところに鎧や兜に身を固めた兵士がいた 
彼らは鍛え上げられた剣を持ち 戦車に乗り戦っていた 
海にはあらゆるものを積み込んだ船が 白い帆を風にふくらまして行き交っていました 
 
ゼウスの表情はみるみる怒りへと変わってゆきます 
彼は一番大きい雷を持つと独り言のように怒りに満ちた言葉をつぶやきました 
人間共はそれほどまでに火が欲しいのか それなら使い切れないほどの火をくれてやろう 
しかし 彼の振り上げた腕は途中で止まります 
人間達に最初に火を与えたのはプロメテウスに違いない 
それならばまずはプロメテウスから懲らしめてやろう 
人間共はそれからでもいい 見よそれでなくとも人間達は共に争い苦しんでいる 
しかしその後の苦しみはもっともっと長いものになる 
 
プロメテウスはゼウスの遣わせた巨人に捕らわれてて 黒海の北にそびえるコーカサス山脈の頂に連れてゆかれた 
ゼウスはヘパイストスに命じて 頑丈な切れない鎖を作らせた 
そしてその鎖でプロメテウスを岩に縛りつけた 
ゼウスは縛りつけたプロメテウスの頭上に怪物エキドナとデュポンの子でゼウスの聖獣である大鷲を放った 
二羽の大鷲は彼の上を飛び回り急降下しては 
彼の肉体に飛びつき皮膚を食い破り 肉や肝臓を食いちぎっていった 
彼は苦痛にうめき声をあげ もがき苦しんだ 
人間達は山の上で何か恐ろしいことが起っていることを感じ始めた 
山から吹き下ろしてくる風に乗って麓へと響き押し寄せてくる音 
それは巨人の苦痛苦悶の声のようであり 猛禽が何かを襲うときの鳴き声のようにも聞こえた 
神の命と肉体は永遠で 例え傷ついたとしても一晩ですぐに癒えた 
そのことがプロメテウスの苦痛を永遠とも言えるものにした 
プロメテウスの体が元どおりに癒えると ハゲタカはまたすぐにやってきて彼の肉体に飛びついた 
そしてまた彼の肉体から肉や肝臓を食いちぎると  
癒えるのを待つかのように彼の頭上で旋回していた 
こうしてプロメテウスの支払うべき代償は何百年も続いたのです 
しかしやがて一人の英雄が神々に盾つきます 
彼はコーカサス山へと分け入り 山の頂に登ると 
そこに縛りつけられていたプロメテウスの鎖を断ち切り 
襲いかかる大鷲を殺しました 
彼の名こそ英雄ヘラクレスです
 
火を教えた神

 

神話というものは、たいてい冒頭に天地の創造が置かれている。日本の古事記・日本書紀もそうだし、旧約聖書の冒頭もそうだ。これは宗教としての本質や民族の世界観を考えるうえでとても大切な部分だが、少々わかりにくい。 
ギリシャ神話もこの例外ではない。神話というものは、古い時代の伝承だから現代人の目でながめると、なにが言いたいのか、つじつまもあっていないし、物語として未成熟なものが少なからず含まれているのだが、ギリシャ神話は寓意性に富み、あか抜けていて物語としても上質なものが多い。 
プロメテウスは反逆の神であり、人類の恩人であった。 
ギリシャ神話の大神はゼウスと言い、これが断然偉い。権力を一手に握っている。ほかの神々は人間よりははるかに強いが、ゼウスの前では頭があがらない。権力の分掌は、おおまかに言えば、ゼウス、他の神々、人間たち、この三段階の構造と考えれば当たらずとも遠からず。神々の世界も創世期には群雄割拠、勢力を競いあっていたのだが、ゼウスが現われ、一気に権力を把握した、という事情である。 
プロメテウスはゼウスと従弟くらいの関係で、栄誉ある一族に属してはいたが、ゼウスの力には及ばない。ただ、彼は性格がへそ曲がりなのか、気骨があるのか、唯々諾々としてゼウスに従う神ではなかった。才智にもたけていた。 
ギリシャ人は肉食民族だから牛は大切な食物。彼等の神様もまた牛が好物である。だが一頭の牛を屠っても、おいしいところとまずいところがある。肉屋の店先に立っても、特上、上、並、こまぎれ、臓物、骨と古代人は臓物に高い価値を置いていたが、 
あるとき、「神様と人間と、どの肉を採るかな」 
殺した牛をどう食べるか、取り分が問題になった。調停役をかって出たのがプロメテウスで二皿を作り、「さあ、どっちを採ります?」と、ゼウスに尋ねた。 
一つはおいしい肉と臓物を胃袋に詰めたもの、もう一つは骨を脂で包んで一見おいしそうに見せたもの。ゼウスはうっかりと後者を選んでしまった。口に頬張って気づき、神々が人間よりまずいものを食してよいものか、ゼウスは激しく怒った。 
もとよりこれはプロメテウスの奸計だ。威張りくさっているゼウスに一泡吹かせてやろうと企んだのである。プロメテウスはもともと人間に好意的なところがあったのだ。 
ゼウスとしては、許せない、プロメテウスに怒りを覚え、さらにおいしい肉をもらって食べた人間たちにも悪意を抱いた。 
じゃあ、火を隠してしまえ 
人間たちがようやく覚え始めた火の使用を禁じてやれ、そうすれば肉だっておいしく食べることができまい、と火だねをすっかり隠してしまった。 
プロメテウスは、ここでもふたたび人類の身方となり神々のもとから火を盗んで人間たちに与え、その利用法をしっかりと教え込んだ。このときプロメテウスは火だねを大茴香の茎に包んで神の国から持ち出した、と神話は伝えているが、この記述は民俗の伝承を示して興味深い。大茴香がどんな植物か、私はつまびらかではないけれど、太い茎が中空の筒になっているらしい。そこに火だねを隠すこともできない相談ではないけれど、それよりもなによりも、この大茴香を干してほぐして、よい火口にすることができるとか。火打ち石であれ火鑽りであれ、原始的な火起こしの技術にとって、もっとも大切なのは火花をとらえる燃えやすい火口のほうだ。プロメテウスはこれを人間たちに教えたと、つまり古代の人々がこれを火起こしの大切なノウハウとしていた、とプロメテウスのエピソードから読み取ることもできる。この発見はおもしろい。
 
壺の中の女神

 

エルピスという可憐な響きの名を持つ、きららかな希望の化身。この愛すべき女神を語るには、まず有名な「パンドラの壺」の物語から始めなければなりません。 
昔々のその昔、神の身でありながら人間たちに過剰に肩入れするプロメテウスに腹を立てたゼウスは、彼の愛する人間たちから最も有益な火の恩恵を取り上げ、自分の宮殿の奥深くに隠してしまいました。 
火を失って食物の調理も暖を取ることもできなくなった人間は、飢えと寒さに震えながらバタバタと倒れていきました。すると、彼らの悲惨な有様を座視していられなくなったプロメテウスは茴香の茎を持ってオリュンポスに忍び込み、燃え盛る炎をその茎の中に盗み取って再び人間たちに与えてやりました。さらに、それまで火の保存方法を知らなかった彼らに火種を灰中に埋めて守る「埋み火」を教えてやったのです。 
没収したはずの火がまたも地上で輝いているのを見つけたゼウスは、すぐさまプロメテウスの仕業と見抜き、この露骨な反逆行為に大激怒。即刻彼を捕らえて磔刑に処し、毎日大鷲に肝臓を啄ませるという罰を与えて溜飲を下げはしましたが、大神の意思に背いて炎の力を手に入れた人間たちの方にもきつい仕置きをくれてやらねばなりません。 
そこで、当時地上の人間が男ばかりであったことに目をつけたゼウスは、彼らに贈る最大の災いとして「女」を作ることにしました。早速神々に命じてあらゆる美と才能に恵まれた乙女パンドラをこしらえさせると、彼女に固く封をした1つの壺を持たせ、「これはおまえへの贈り物だ。ただし、決して蓋を開けて中を見てはいかんぞ」と意味深なことを言った上で、人間たちとともに下界で暮らしている男神エピメテウス(プロメテウスの愚かな弟)のもとに嫁がせたのです。 
中身のわからない贈り物ほど興味をかき立てるものはありません。ヘルメスから恥知らずな性格と盗人根性を与えられていたパンドラはたちまち好奇心に負け、夫の留守中にゼウスの言葉に背いて壺の蓋を取りました。 
その途端!病苦・老衰・闘争・労働・狂気・憤怒・悲嘆・懊悩その他もろもろ、数知れぬ禍悪が一斉に飛び出し、仰天する彼女を尻目にあっという間に全世界に飛び散ってしまいました。ゼウスからの世にも奇妙な贈り物は、いずれパンドラの手で開封されるだろうことを見越してありとあらゆる不幸が詰め込まれていた「災厄の壺」だったのです。 
とんでもないことをしてしまったと悟ったパンドラは反射的に蓋を閉めましたが、悪の神霊たちは非常に足が速く、もうすべて飛び出してしまった後でした。かろうじて壺の中に取り留めることができたのは、悪に押しやられて底の方に縮こまっていた唯一の善神「希望(elpis)」のみ。 
ゆえにこの女神エルピスだけは、災いばかりが満ち満ちる世の中にあっても常に人間とともにあり、苦しみに喘ぐ我々を励まし元気づけてくれるというわけなのです。 
    希望の女神/人間の手に委ねられた唯一の善  
   花冠または花籠/碇  
   「希望(elpis)」
 
ギリシャ神話

 

1.神話から自然哲学の発生
はじめに 
ギリシャ神話は「宇宙の生成の物語」「原初の神々の争いと覇権の物語」「オリュンポスの神々の物語」「英雄物語」とで構成されています。これらの物語は要するに「この世界とは何なのか」「どのように生じたのか」をテーマとし、神々と人間の物語というのは「人間とは何なのか」「人間はどのように生きるべきなのか」をテーマにしているものです。 
そして、この問題こそ後世の「哲学者」と呼ばれることになる人々が問題にしていたものなのであり、問題そのものは何ら変わりないのでした。 
ただ、その「問いの仕方」に異りがあり、神話は自然や人間集団の中でのさまざまの葛藤において感じ取られてきた「世界のあり方」ないし「人間のあり方」を、「自然の摂理・ないし超越的なもの(神)との関わりで物語った」という形式のものだと言えます。それに対して哲学者は、その神話物語の伝統で生きてきた中で、後世になって問題を「意図的・自覚的」に設定して、「筋道だった仕方で理性によって」追及しているとなります。 
簡単に言ってしまえば、神話と哲学とでは問題そのものは変わりないけれど、追及の方法論が異なり、後世の哲学は「神話の方法論であった感覚的とらえ」から発展させて「理性的に筋道だった追求」としたということなのです。このページは、こうして神話から生じてきた哲学のその発生から展開をみていきます。 
ただし、このページは神話の持っていた「世界生成」にかかわった問題としての「自然哲学」をテーマにし、神話のもう一つのテーマであった「人間の生き方」にかかわっては、最初のソクラテスだけを紹介するにとどめ、後は別のページ「生と死を見つめた哲学者たち」で扱いたいと思います。 
ギリシャ神話での世界の創成 
問題は「宇宙のはじまり」についてとなります。ここから「神話から哲学」への道が切り開かれていきました。 
先ず「神話」の場面ですが、「ヘシオドスの宇宙生成神話」によりますと「最初に生じたものは何か」と問うて、「始めにカオスが生じた」と言ってきます。その前のことについては何も言ってきません。「モヤモヤがあった」とすらも言ってきません。ところでこのカオスというのは通常「混沌」と訳されていますけれど、ここでは「開き口」あるいは「空隙」くらいの意味だろう、と考えられます。つまり、何かが開かなければ何も始まりません。あるいは「空隙」と捕らえると、ものとものとを「分け隔て」物として認知させる「形の形成の原理」かとも考えられます。なぜなら、「空隙」がないということになったらすべては「一つ」になってしまって「ものの形」などなくなってしまいますから。それはともかく、ここに名前で呼ばれるはじめてのものが生じたことになりました。 
ついで「ガイア(大地)」が生じた、としてきます。これは分かりやすいです。大地は形あるものの生成の「材料的原理」と考えられます。 
ところが次に「大地の奥底にタルタロス」といってくるのですが、このタルタロスというのは無限の深い穴を意味しています。これは、大地が形あるものの生成の「材料的原理」と考えられるのに対して「消滅の原理」であると考えられます。というのも、ここは「二度と地上にでてくることができない」ところであるからで、後には「永遠の地獄」となってきます。生成ばかりでは増える一方になってしまうので「対概念」としてこんなタルタロスのごときを言ってきたのかも知れません。 
そして四番目に「エロース」が生まれた、と言ってきます。このエロースは「愛」ということですが、ヘシオドスによって「神々の中でも最も美しく」「神々や人間の心や思慮をうちひしぐ」と語られていますので、要するに私たちの知っているあの「愛」でいいです。これが、二つのものを引き寄せて「子どもを生む原理」であることはいうまでもありません。 
はじめに生じたのは以上の四柱の神々でした。ここには、先に紹介した太古の時代の人々が出会った「自然の中に見られる生命力」のイメージが色濃く反映していると思われます。典型的なのが「愛エロース」ですが、「ガイア」にもその面影が見られるでしょう。「母なる大地」というイメージです。この母体としての母なる大地に「生産力」としてのエロースが働きかけて事物が生じてくるというわけでしょう。 
「カオス」と「タルタロス」というのが変わったところですが、カオスは「開き口」「空隙」で生成の原理であり、「タルタロス」は消滅の原理だとすると、ここにはかなり理屈っぽい「宇宙にかかわる論理的説明の端緒」があると見なせます。 
自然学の発生とその性格 
さて、古代ギリシャで学問的問いが発生したのは紀元前600年代、タレスやアナクシマンドロスなどいわゆる「自然哲学者」とよばれる人達によってであるといわれます。この人達の特質はどこにあったのでしょうか。また、神話との関連性はどこにあるのでしょうか。 
ところで、このタレスやアナクシマンドロスなどを「自然哲学者」として意味づけて列挙してきたのは後代の哲学者アリストテレスです。その理由は、彼の考える哲学の問題にこの人達が始めて気付いてそれなりの考察をしているからということからでした。しかし、そんなことがどうして彼らのところで行われるようになったのか、ここが問題です。そして、彼らの前にはそうした人達はいなかったのか、ということも問題となります。 
じつはアリストテレス自身も挙げているのですが、ある意味ではその前にもいたのです。アリストテレスがあげているのは今見た神話作家のヘシオドスです。この人は紀元前700年代の人と推定されている「詩人」で、『神統記』や『仕事と日々』という書を残しています。これらは「神話」というべきものです。しかし、詩的にされた神話ですから、ここにはいわゆる「学問的理性の追及」はありません。にもかかわらずアリストテレスが学問の発生のところでこの詩人に触れてくるのは何故かというと、ここには「世界の成り立ち、存在の構造」についてのある考えが示されているからなのです。そのことを私たちは前もってみておいたのでした。 
ヘシオドスがアリストテレスによって「哲学に先立つ人」とされているのは、私達がみてきたように、その説明が非常に「論理的」と見えるからなのでしょう。つまり、宇宙ができるのに「材料(アリストテレスによって概念化され、そのときには「質料因」と訳されています)」が必要なのは言うまでもありませんが、ヘシオドスはここに「大地ガイア」を想定していました。さらにヘシオドスは「運動を起こす原因(アリストテレスの用語では「運動因」)」まで考えていることにアリストテレスは気づいていたのでしょう。いうまでもなく「エロース」でした。つまりこれは、ヘシオドスが宇宙の存在の原因を考えて自分なりの説明をしてきたのだ、とアリストテレスは理解しているわけです。この「理屈・論理」というものが「学問性」だというわけです。 
ちなみに、この神話による世界把握というのは古代の特徴、とうっかり考えてしまいがちですが、実のところ人類史はつい先頃までそうだったのです。西洋はヘブライ・キリスト教のもつ神話的世界把握が18世紀まで絶対的な考えであり、今日でも多くの人に生きています。仏教圏は仏教的世界把握によっていたのです。なぜそうであったのかというと、ここには「神の名で保証される真実」があったからです。人間、不安定なところでは生きていけません。どこかに「寄る辺」がなければなりません。それがここにあったのです。 
ですからギリシャ神話に世界についての把握があって当たり前だったのですが、ギリシャ人の不思議はここからはじまるのです。すなわちこの神話を『聖書』のごとくに大事にしていく一方で、こともあろうに、この民族の柱とも言うべき神話とは「別個に世界を考えよう」とした人々が生じてくるのです。「神による説明」ではなく、「事柄を事柄そのもので説明しよう」という態度を貫こうという人々です。 
これはヘシオドスを一歩進めて「理屈」をこねたというような態度でしたが、こんな態度が生じたのは世界でここギリシャだけでした。実際彼らは世界の人類史の中の異分子とも言えます。こんな「理屈っぽい」民族は他にいません。この異分子が生じた理由ははっきりしませんが、世界のほとんどの民族が家父長制社会からやがて専制君主制へとなっていったのに対し、ここだけが「ポリス制度」という特殊な社会に移行し、「民主制」へと発展していったことと無関係ではないでしょう。なぜなら、ここには「自由なる個人」という意識が濃厚にあり、その個人がみずからの力で自分を主張できたからです。与えられた権威によるのではなく、自分の感性、自分の理性が言ってくることに耳をかそうということです。 
これは、神話というものをどの民族も持っていたのに、ギリシャにだけしか「学問」が生じなかった秘密をも語っています。今、「自由なる個人」にかかわってヘシオドスの名前をあげましたが、こんな古代に詩人として「固有名詞」があげられるなどというのは非常に特異な現象なのです。通常神話というのは「民族のもの」として「個人的作品」ではない筈です。作者なんていないのが普通です。ところがギリシャでは、たしかに核としての神話自体は民族に共通なのですが、細部は詩人によって異なり、しかもそれがそのまま国民の神話になってしまうという不思議な神話の形成・発展をしていくのです。ヘシオドスの前にはホメロスがいます。神話が常に「個人名」と共に伝わっているのです。こうした例は他にはありません。こんなにも古くからギリシャでは「個人」が「自由に自分の感性の赴くまま」を語り歌うことがされていたのです。こうした「個人の精神の自由」がまず何よりも指摘されておかなくてはなりません。このことの大事さは中世をみることですぐ分かります。中世はキリスト教という「絶対権威」ないし「束縛」がありましたから「精神の自由」はありません。果たせるかな「学問」や「芸術」は、キリスト教に奉仕するもの以外は、全く生まれなかったのでした。 
こうした「個人」の自由な自然世界にたいする感情をアリストテレスは有名な「タウマゼイン」という言葉で表現しています。この言葉は一般に「驚嘆する」と翻訳されていて自然の仕組みに「びっくりする心」というように理解されています。確かに現象的にはそれでいいのですが、これは、「世間の常識や権威を疑う心」でもあるのです。ただ「びっくりしたなあ」で終わりでは「哲学の端緒」とアリストテレスが言っていることの意味が分かりません。驚嘆が「疑いの心となり、追及の心」となっているのでなければ話になりません。こうした心は「自由な精神」のあるところにしか生じて来ません。ただ「びっくり」するくらいのことならどの民族の誰もが経験します。ここから、「疑問、吟味、批判し追及する心」が生じて始めて「哲学の端緒」といわれる「タウマゼイン」と言い得るのです。この「精神の自由」をもっていたかどうかが実は分かれ目であって、ギリシャにはそれがあったのです。 
一方、こういう個人が育つためには、「個人の自由による社会体制」ができ、さらに伝統的・保守的な考え方から自由になれる、すなわちさまざまの考え方にふれ、それを自分なりに受容できる機会の多い人々が必要になります。そしてそれを満足させるポリス(自主・自立の共同体で、小さな本当に小さいけれど「国家」といえます。「都市国家」と訳されることもありますがあまりうまい訳ではなく、そのため「ポリス」と原語でしめされるのが一般です)がギリシャに生まれたのです。 
それはまず、小アジアにあったギリシャのポリスからでした。その筆頭がタレスたちを生み出した「ミレトス」でした。そしてもう一つ、南イタリアにあったギリシャ・ポリスもそうでした。ここも小アジアのギリシャ・ポリスと同じような条件が整っていました。彼らは早くから農民であることをやめ、土地にすがることから離れ「自分自身によって立とう」「自由に」ということをもっとも大事なこととしていました。個人の自由というものがなかった専制君主国家との決定的な差がここにあります。この「自主・独立・自治」の精神、「自由・革新」の精神が学問を生んだといえるでしょう。 
それでは、この小アジアで「いきなり」学問的態度が生じたのかというとそれはそうでもありません、エジプトなどに代表される「技術」が背景にありましたし、神話的発想も相当に残っています。しかしやはり、とにかく「神様の仕業」という形で物事を説明しようという態度をやめようとしたこと、自然について説明しようというのならその「観察」に基づいて、「理性的・論理的」に説明するべきだとした点、そしてその自然に「一つの原理」をみようとしたことが決定的に他の民族と違っていたギリシャ独特のものの見方だったのです。 
しかし、彼らは近代以降の哲学者のように「神話の持つ世界観そのもの」を批判していったわけではありません。ギリシャの神話が語っていた世界観そのものは引き継いでいます。もっともそれは古代の思想家すべてに言えることです。そして語り口も詩的であり神話的要素を多分に持っています。それにもかかわらず、自然を自然の要素によって理論的に考えていこうとする態度がはっきりとでてきたのでした。 
まとめてくりかえしておきますが、学問の発生には、「必要のための実用的技術」「快適・安楽のための技術」をこえていく「普遍的真理」への渇望がなければならないのですが、それは、権威や因習にとらわれず自由にみずからの感性と理性をはたらかせ、その言ってくることに耳をかたむけながら、しかしそれを盲信するのではなく、常に批判的に吟味をくりかえしていくという「個人の自由」と「精神の自由」とがなければならなかった、ということなのです。そうした条件をクリァーできた民族としてギリシャ民族がいたわけです。 
自然哲学者 
さて、そのギリシャ人がひどく特別であったのは、「自由」の精神の下に「平等」の精神もあり、それが学問や文化に対して「批判」する精神も生み出していったことです。これは現代の私達からみれば大したことがないようにみえますが、世界中でそんなことができた民族は古代ギリシャ人だけで、現代の私達はそのギリシャに倣っているので批判能力が身についただけのことです。この批判能力というのは、ようするに物事を「経験と理性によって観」、「論理的」に考えることからできることであり、私達がギリシャ人から教わったたくさんのことの中でも、もっとも重要なものの一つです。 
その能力を使って、神話が語っていた「世界の在り方」を、別の角度から語ってみせたのが、後のアリストテレスによって「自然学者」とよばれた人達だったのです。この人達のやり方というのは後世になって「哲学的」とよばれることになる態度でした。この段階で彼らは「自然哲学者」とよばれました。 
ここでは、「経験と理性」によって物事を観て「論理的」に語る、ということですから、なんでもかんでも言われていることを頭から「信じる」などということは決してしません。ああかな、こうかなと「考えていく」態度が一番重要でした。ですから、出された結論がそのまま「信じられる」などということがあるわけもなく、すぐに「批判的」に見られ、さらなる議論を生み出していきます。これが「学問・研究の生命」とも言えるものです。こうして多くの自然学者が生まれていったのです。 
ただ、一つだけ注意しなければならないのは、こうしてこの人達もやがて「哲学者」と呼ばれるようになり、哲学史の始めにおかれるようになってしまったのですが、これはあまりうまいやり方ではありませんでした。というのも、確かに彼等は時間的にはソクラテスよりも早いのですが、その時代には当然「哲学」などという言葉もありません。その言葉はソクラテスによって使われ意味が与えられたのであって、その限りではソクラテスの与えた意味内容が最大に重要なわけです。そこでは「哲学」とは「よく生きることについての知恵の愛し求め」でした。 
しかし、自然学者が問題としたのは文字通り「自然世界」でした。実のところ、この問題はソクラテスの問いからやがて展開して出てくる問題として、ソクラテスの弟子プラトン、さらにその弟子アリストテレスによって引き継がれておもてに出てくることになる問題だったのであり、はじめから正面きって問題にされる事柄ではなかったのです。 
アリストテレスが哲学の姿を整え、さまざまのものの存在の神秘を解明しようとしたところで、自分に先だってそうした問題に少しでも語っている人がいればその人達も問題にしようということでソクラテス以前にさかのぼって見たものなのです。ですから、アリストテレスと関連させてみれば彼等の意味もよくわかるのですが、はじめに哲学の最初と紹介されてしまいますと、彼等の意味もよく分からず、それに一番肝心のソクラテスの与えた意味がぼやけてしまいます。ですから、これはアリストテレス自身が名付けていたようにただの「自然学者」としておいた方が良く、やがてこれが後世になって「自然哲学者」という内容として紹介されるようになったと理解すべきものなのでした。 
それはともかくとして、彼等が神話的にではなく「自然そのものから世界の在り方」を考えようとしたことは、人類の精神史上革命的なことでした。しかし、そうはいっても全くこれまでと違った世界の在り方を示す、というわけではなく、「説明される本体、つまり、世界の在り方」は神話と変わりません。ただ、その説明の仕方が変わったということです。その世界の在り方、つまり世界観は、中世になってキリスト教が入ってくるまで変わりません。つまり、「すべてのものは自然全体の一部」であり、「すべては自然として一つ」だという考え方です。 
さて、それでは自然学者達はどのような説明を与えたのでしょうか。大事なことは次ぎのことです。 
1、事物を「神の仕業」で説明するのではなく、自然物そのもので説明する。 
2、自然的事物の観察に基づいて、理性によって論理的に説明する。 
3、すべての自然、生成変化に「一つの原理」を見て説明する。 
自然学者が説明しようとした世界の在り方そのものは、ギリシャ神話での世界の生成の仕方と同じだといっておきましたが、それはつまり、「もとのもの」が初めからから「在り」、しかも、そのものにはどうも運動の原理がはじめからあって、それで動きだして、事物が生まれ出ていった、ということでは全く変わらない、ということです。 
ギリシャ神話での言い方はどうかと言いますと、 
1.まず始めに何とも名づけようのない「あるもの」が在った。 
2.それが「動きだし」混沌の開き口「カオス」、大地「ガイア」、底無しの「タルタロス」、そして、愛「エロース」の四柱の神々が生まれた、となります。 
3.そしてさらに、大地ガイアは天ウーラノスを生み、そこからたくさんの子供が生まれる。その系譜の中にゼウス、アポロン、アテーナーといったオリュンポスの12神がいる、と 
いったことになります。 
それでは、自然学者による世界の生成の説明はどうか、といいますと、構造は今の神話と全く同じで、ただ、「その、もとのものは何か」という問いが中心になってきます。そしてこの時、その「もとのもの」を「自然そのものの中で」説明しようとした、という点が大事であるわけです。 
この「もとのもの」をタレスは「水」としました。それはきっと、あらゆるものに「水分」が含まれていること、水は気体にも液体にも固体にもなるけど「本体」は変わらないことなどの「観察」があったのでしょう。 
しかし、この説明は神話とは違って、常に「批判」されることを含んでいますから、早速批判されます。つまり、「水」といった「限定」をもっているものがどうして他のものになれるのか、とった批判で、こうして批判者であったアナクシマンドロスはその「もとのもの」は「ト・アペイロン(無限定)」なるものなのだ、と主張しました。 
しかし、そうなりますと、そんな「無限定」なものからどうして「限定された自然物」が生まれてくるのか、という疑問がすぐに出てきてしまいます。こうして批判者アナクシメネスは、「自然的」ではあるけれど、形もなく、目にも見えない、つまり「限定性」のない「空気」こそがその「もとのもの」なのだと主張しました。こういう「存在の原因」をさぐる態度が、後にアリストテレスによって評価されることになるのです。 
自然学者達の批判・探求はまだまだ続きます。続くエンペドクレスは「たった一つ」のものからすべてが派生してくるとすることの無理を思って、この「もとのもの」は四つの原理からなっていると考えました。「絵の具」で考えてみれば分かりやすいように、四色の原色を混ぜ合わせて様々の色が出せます。つまり「混合」の比率が違ってくれば色も変わるように、その「もとのもの」の四つの要素の混合の比率がかわれば、様々のものが生じて不思議はないというわけです。 
そしてこの混合(分離も当然あります)の原理として「愛と憎しみ」といった、イメージ的に分かりやすい説明もしてくれています。 
同じような発想はそれに続くアナクサゴラスにもあり、彼は、たとえば牛乳をのんで髪の毛が生え、筋肉がつくといった「違ったものから違ったものが生じる」ことの原因を、牛乳にははじめから髪の毛の「要素」や筋肉の「要素」が含まれていたのだとしました。つまり、「もとのもの」は無数の「種」であって、この種は「すべて」を含んでいるのです。ですから、この種からは何でも生じることができます。しかし、だからといって何にでもなれるというわけにはいきません。そこには一定のルールがあり、したがって石ころをたべても筋肉は付きません。このルールをつくるものを「ヌース」と名付けました。ヌースはふつう日本語で「知性」と訳されますが、これは「宇宙的な知性」つまり摂理のようなものです。 
こんな具合に自然学者達は「自然」について考えていったのですが、中には、この「もとのもの」からの生成がどうしても理性的に説明できないと考えたひともいます。たとえばパルメニデスは、「ある」ものは「ある」のであって、「ない」ものは「ない」というもっとも基本的な真理にこだわり、結局、生成というのは「ある」ものから「そうでない」ものへの移り行き言う以上、そんなことは起り得ない、と考えました。そして運動を否定してしまい、運動しているように見えるこの世界は「虚偽」の世界なのだと主張したのです。徹底的に「論理」で迫っていった一つの結果です。 
他方、この現象世界に一つの「理、摂理、論理」をみとめ、それを「ロゴス」と名づける一方、この現実世界の「絶え間ない流動」を強調する人もいました。ヘラクレイトスです 
以上が主要な自然学者ですが、最後に彼等を引き継いでデモクリトスが出てきます。デモクリトスは「唯物論」の祖として有名です。彼は全くの物体、それは「不可分の最小物体」で、無数にあって一つ一つ形も位置も動きも違い「空虚」の中を違った方向に動いているとします。その最小物体のことを「原子・アトム」と呼んで、その「アトム」による世界の形成を主張したのでした。魂なんてものも、要するにこのアトムのあつまりで、したがって死んだらそれでバラバラになって終わりです。すべては「機械的運動」なのです。 
ただし、デモクリトスやその師であるレウキッポス以外の自然学者はどうなのかといいますと、彼等の場合には「もとのもの」はある意味で生きているのです。生命そのものともいえ、自らの中に生成の原理をもっているのです。デモクリトスのようにただの死んだ物体の機械的運動ではないのです。なぜなら「自然は生きている」からです。タレスは「自然は神々で満ちている」と言っています。自然は生き生きとした「生命体」なのです。死の世界でただコチコチと動いている時計のような「機械」ではない、と考えていたからです。そこで彼等のような立場を「物活観」とよんでいます。 
こんなのが最初の「哲学者たち」の姿でした。以下の章ではその代表的な人々の語るところを紹介していきます。 
2.最初の自然学者「タレス」と「ミレトス学派」

 

はじめに 
古代ギリシャで学問が生じてきた時、この一つなる「学問」は要するに単なる実用のための「技術」を越えて、事柄そのものが「何であるのか」を「普遍的に」問うようなものでした。そしてアリストテレスの説明によると、この問いは「事柄にたいする驚嘆の心、すなわち、それは一体なんなのだ、という疑問と、それに対する探求への願望(人間は本性上知ることを求める、と彼は説明していました)」から生じ、この驚嘆の心をアリストテレスは「タウマゼイン」と名付けたのでした。ここに、「必要の要請」たる技術を越えた学問の発生の動機がある、と説明したのです。 
ですから、前章でみておいたように、アリストテレスは「神話愛好者」もある意味で「知を求める者」だと言ったわけです。神話には「世界の成り立ち、自然のありよう、人間のありよう」などが語られているからです。しかしこれだけでは「学問」とはなりません。ここでアリストテレスは「タウマゼイン・驚嘆の心」に並べて「スコレ・余裕」ということを言ってきます。この「スコレ・余裕」というのは「生活の余裕」ばかりを意味するわけではありません。むしろ「精神の自由」、権威や因習、常識に囚われない「心の余裕」を意味します。もっとも経済的余裕がなければこうした精神の余裕も生じないかもしれませんが、しかし、経済的余裕が捨てるほどあるからといって「精神の自由」が得られるとは限りません。わが国も経済発展を大いにとげましたが、今や「心の教育」ということが社会問題になるような国になってしまいました。そしてこれまで世界には金銀財宝を山のように集めた国もあり、あるいは多くの民衆を奴隷として使役して「暇をもてあそんでいた」貴族が一杯いた国が大部分でしたが、ほとんどどこからも「精神の自由」に基づく学問は生じることがなかったのです。 
これは古代ギリシャ人が自ら言っていることですが、古代ギリシャはむしろ「貧しい」国でした。しかし、「精神の自由」があったのです。これはまた当時のギリシャ人が誇りにしていたことでもありました。古代のギリシャ人ほど自分達が「自由人」であることにこだわった人種というのはありません。そして一方でその国民性の「優れ」を主張するのに、例えばツキディデスは(アテナイ人についてですが)「知への愛好」をあげてくるのです。こんな態度から培われた「精神の自由」が、「常識」であった「神話」とは別に世界の成り立ちを考えさせ、「権威的学説」を作りあげて盲信するということをさせず、目前の必要を満足させればそれでよしとする態度を捨てさせ、経験的事実の枠内にとどまることをやめさせ、思い込みだけで判断する態度を捨てさせていったのです。じつは近代人がルネッサンスで古代ギリシャに学んだ最大のことが、こうした態度であったのです。 
タレス(BC624頃〜548/545頃) 
こうした態度をはっきりと示してきたのが小アジアのミレトスの人「タレス」である、と後の哲学者アリストテレスは評価したのでした。ここでアリストテレスが「知を愛すること(フィロソフィア=哲学)の始め」といったことから、以降、哲学史の始めにタレスがおかれることになったのです。 
どうしてタレスがそう評価されたのかというと、ソクラテス以来(「哲学」という言葉はソクラテスからです)深められて来たフィロソフィアの問題の一つにタレスが答えていると見なせるからというのがその理由でした。それは、この世界を説明するのに、材料の面で「原理的なもの」に気付いていて、その原理を自然世界そのものに求めて、世界のすべてのものの「始め」は水だ、という形で語ってきたからだ、というものでした。この評価は、世界を神話的に理解するのではなく、自然を自然そのものとして理解しようという「理性的探求」の態度だ、と考えたからでしょう。とはいえ「世界の始めは水だ」という言い方は随分変に聞こえると思います。哲学のはじめがこんなのでは哲学とは何とも奇怪でバカバカしい、という印象になるのももっともです。 
しかし、繰り返しますが、ここには「世界は神様の姿だ」とか「神様が生んだものだ」とか「神様がこねまわして作ったのだ」という説明とは全然違った説明があることには気がつくと思います。それが大事なのです。すなわち、ここには「自然」を「神様」ではなく「自然物で」説明しようという態度がみられます。「神様がつくった」といったらもう話はそこで終わってしまいますが、ここには「自然は自然物の自然的生成によって生じてきた」というはっきりとした意識があります。この「水」の代わりに「原子」とか「素粒子」とかを入れてみて下さい。そのまま現代的な言い方になってきます。 
ではなぜ「水」などといってきたのでしょうか。アリストテレスは、それは「観察」によってだといっています。これも大事な点です。すなわち、観察から物事を言うという態度は「神話」を離れ、事物そのものにとどまって「原因」を言う態度となり、これは斬新でした。 
観察の内容は、すべてのものの「養分」が水気をもっていること、熱ですらそうした水気から生じることなどをあげていますが、これはアリストテレスの推測です。しかし、アリストテレスは、神話で「水の神」を始めとしたのも同じ考えなのだろうと、神話的発想を並べながらタレスの特徴を言おうとしてこのように紹介してくるのですから、ここに「新たなもの」を見ていたのは確かでしょう。それは「原理というもの」の発想と自然観察という「方法論」とにある、としていたのと言えます。 
こうした在り方が「フィロソフィア(原義は「知への愛」ということだが、日本では「哲学」というなじみのない言葉にされてしまった)のはじめと評価されたのです。ただし、このフィロソフィアという言葉はソクラテスによってはじめられるのですからタレスよりずっと後のことで、したがってアリストテレスはタレスたちソクラテス以前の人達を「自然学者」と呼んで、ソクラテス以降からのフィロソフィアと区別はしています。 
しかし、タレスが学問に端緒をひらいた、というのはいいとして、ここまでの説明では何やら「俗世を離れた暇人の頭の体操」のような雰囲気もします。ことがそれだけならそういう印象になるのも仕方ありませんが、それはそうではないのです。むしろこの自然学者たちというのは「実際的な技術」においても卓抜していた人たちなのです。その上で、そうした技術の基礎にある「原理・理法」の問題として以上のような「世界の成り立ち」についての探求をしていたのです。技術は実際的なものですから「利益」を生むだけのものでした。しかし、「原理・理法」を求めるものは後世「学問」と呼ばれることになるのですが、その違いはどこにあるのでしょうか。 
技術者としてのタレスですが、アリストテレスが伝えている有名な逸話によると、彼が学問していてとても貧乏な暮らしをしているのをみてある人が学問など何の役にもたたない、といって非難したといいます。タレスは、それではということで自分の知識からオリーブの豊作を予測して、オリーブの圧搾機を安いうちにあるだけ借り受けてしまい、いざ実がなって人々がその圧搾機を必要とした時、それを高く貸し付けて大もうけをした、という話です。そしてアリストテレスはタレスの言葉を続けて紹介していますが、それは、このように学問というものを金儲けに使うことも可能なのだけれど、しかしそれは自分達学問をするものにとっての関心事ではないのだ、というものでした。 
実際、タレスはその他でも「実用のための技術」においても群を抜く人であったようで、数々の逸話が残っています。一方で「社会的リーダー」としても優れた活動をし、自分の都市ミレトスに様々の有益な働きをしたことが伝えられています。 
技術者としては、クロイソス王の軍が遠征の途中でハリュス河に行き会ってしまった時に、その河の流れを変えて橋を架けることなく渡れるようにしてやった逸話などがよく知られています。おそらく、河をせき止めて河の流れをクロイソス王の背後にもっていって、干上がった川底をわたらせたのでしょうが、これは地形をよむ能力と土木工事の知識が必要です。 
また、彼は社会的活動から身をひいたあと学問に没頭したと伝えられていますが、その多くは「天文学」と「数学」であったようで、「日食の予知」は恐らく一番有名な逸話かも知れません。この彼の予知した日食は今日的に計算すると紀元前585年5月28日におきた日食になります。 
また、これに関係してよく知られている逸話が「ドブに落ちたタレス」の逸話で、それによると、彼が星の観察をしに外出したところ「ドブ」に落ちてしまい、召使いがそれを見て「あなたは天上にあるものを知ることができるのに足下のことは知らないのですね」と言ったという逸話です。これは事態としてもおかしいし、召使いのセリフもおかしいということでしょうが、タレスのために弁護するなら、足元ばかり見ていたら天文学は成り立たないし、生活のことばかり気にしていたら学問は成り立たない、ということになるでしょう。 
その他、数学上の業績も知られ、それはエジプトの「土地を計る技術」からもたらしたものだ、と伝えられています。自分の影の長さが自分の身長と同じになる時刻にピラミッドの影の長さを計ってその高さを計ったのも彼でした。また三角形の定理をもちいて、沖にある船までの距離を計ったとも言われています。 
タレスの業績は以上のようなものですが、もう一つ大事なことがあります。それは、このタレスの探求の態度は「吟味・批判」されつつ継承されていく、という事態を生み出したことです。神話による説明は、それが吟味され、批判され、さらなる説明を呼び起こすということは決してありません。しかし、タレスによって始められた説明の仕方は、すぐに他者によって吟味され、批判されてくるのです。こうして、一つの見解が批判的に継承されていく、という「学問」に絶対必要な「研究の継承」という在り方が形成されていくことになったのでした。 
アナクシマンドロス(BC610頃〜550頃) 
タレスは「ミレトス市」の人でしたが、このタレスに続く人たちがでてきます。そこで彼らを総称して「ミレトス学派」という言い方がされます。タレスに続いた人というのは、タレスの仲間とも弟子といわれるアナクシマンドロスです。彼はタレスより14〜5歳年下の人でタレスと同様ミレトスの人でした。 
彼の業績は一般には、タレスの「水」という言い方に変えて「ト・アペイロン」というものを持ち出し、これは、「水」が「原理」としては限定性をもっていて不適当である、という指摘であって、そこで「無限定」を意味する「ト・アペイロン」というものを言ってきたのだ、と説明されます。 
この「ト・アペイロン」をかつてしばしばそうされたように「無限定的なもの」と訳すと、何か「抽象的な実体」をいっているように誤解されてしまうので、最近ではほとんど訳さず原語のまま「ト・アペイロン」と示しますが、つまりかなり自然的・具体的なものなのです。要するに、まだ「区別」というものが生じる前の、何か自然物すべてを含み込んだ一つなるもの、といった感じのものです。イメージ的には巨大な丸いボールを想像し、その内部は何かで充満しているのですが、それは完全に融合していて「区別」というものが何にもない、といった感じです。それが私たち存在世界の「はじめの」姿だと言うわけです。 
こういう言い方をしてきたのは、「水」であったとしたらなぜ水から火が生じるのか説明できない(なぜなら、水は火を「消す」ものであって、火を生み出すとは観察されない)からでした。ですから、もちろんこの「はじめのもの」が他の具体物であるわけにもいきません。なぜなら、もし「火」だとしたらもはや「水」という要素は蒸発して「なくなって」しまっているでしょう。 
そこで、そうした火とか水とかの限定が生じる前のものでなければならない、という意味合いで「ト・アペイロン」というものを言いだしたのだと考えられます。 
ここで大事なのは、こうした「吟味・批判」を加え、「新たな答え」を提出する、という態度そのものです。私たちにとっては「水」であれ「ト・アペイロン」であれ、いずれにしたって「バカバカしい答え」だと思えます。しかし、くりかえしますが、これらは世界というものを「まともに」考え始めた最初なのです。それ以前には「神様の仕業」として説明する仕方しかありませんでした。そして、このように、世界を理性で納得できるように説明しようとする態度が大切なのです。これが「ギリシャ精神」なのであって、ですから、ギリシャ思想が排斥されていた中世にあっては再び「神話の世界」へと逆戻りしてしまいました。 
今日のような考え方はギリシャ思想が復活したルネサンス以降にやっと再発して、神話的考えと戦いながら苦労惨澹ここまできたものなのです。もしギリシャに彼らが生まれず、あるいは復活しなかったら人類はまだ「神様の仕業」として世界を理解していたであろうことは間違いありません。なぜなら、現代でもまだ神話的に理解する人もたくさん存在しているからです。 
一方、アナクシマンドロスの批判はまだあり、タレスが十分説明していなかった「生成の原因」についても言及していきます。すなわち、この「かたまり」は永遠に動いているのですが(あとで触れますが、彼ら、ないしほとんどのギリシャ人にとっては「世界」はそのものとして「生命」をもった「生き物」なのです。物質は生命のないただの「物」である、という考え方も存在はしましたが少数意見で、これはまた近代に特徴的な考え方です)、そうこうしているうちに、その運動のせいで何やらの「生みだすもの」が生じた、といってきます。これは生物学的には「胚芽」のようなものでしょうが、彼の説明の仕方は天文学的なので「渦巻き星雲」をイメージしたほうがいいです。 
ここに、「冷」と「湿」、「熱」と「乾」という要素が生じてくると言います。たしかに渦巻き星雲だとすればそんな要素が生じてこなくてはならないようです。そしてそれは回転しているうち突然「大爆発」を起こし、火の球となって散り、太陽や月、その他の星々となったと言います。何やら現代天文学の「ビックバン」と同じ考えで興味深いです。そして彼はこの「冷」・「湿」、「熱」・「乾」の四つの要素で存在の生成を説明していくことになります。 
しかし、その「冷・湿」とか「熱・乾」とかは「性質」ではないかと思われるかも知れませんが、この当時は「物」と「性質」という厳密な区別はありません。性質もそれ自体として「存在」なのです。そして彼の存在物の生成の仕方を説明しますと、「暖か」で「湿った」ものの中に生命が生じ、それゆえ「始めの生物」は「魚」のようなものであり、鱗をもった外皮に覆われていたが、やがて年月を経て、そこから陸に上がってくるものが出てきた。人間もその一部であって、始めは魚であったものから生じてきたのだ、ということになります。これも現代の「進化論」と同じ発想です。 
どこからこんな考え方を引っ張り出したのかよく分からないのですが、「観察」が大きな要素になっていることは確かです。それは例えば、陸地が海の乾燥によって生じてきたということを内陸から発見された「化石」などで説明していることからも実証できますし、人間についても、人間の幼児は長期の保護期間を必要とするということから、はじめからこんな存在の形態をしていたのでは生き延びられる筈もないから、人間は始めは他の形態をしていたものから派生してきたものだろう、と推測しています。いずれにしてもただの神話的説明とは次元のことなった説明です。 
同様に、彼は古代人が悩んだであろう、この地球がどうしてこのように「止まって」いるのか、と言う問題にも(当時はまだ天動説しかなかった。地動説はもう少し後代になって提唱されていくる)タレスより進んだ答え方をしています。実際、この地はどうして「動かない」のでしょうか。何かに支えてもらっていない限り「動いて」しまいます。現代の私たちは、地球は「動いて」いるけれど「引力」のおかげで吹っ飛ばされずにすんでいることを知っていますが、これは「知識」としてであって実感している人なんておりません。「動かない」というのが実感です。これにたいしてタレスは「水に支えられている」としました。しかしそれではその「水」は何に支えられているのでしょうか。これは困ります。これにたいしてアナクシマンドロスは宇宙の真ん中に地球があるから、という形で答えてくるのです。真ん中ならすべてに等距離ですから、どちらかの方向に動かなければならないという必然性はありません。これは「理屈」です。このように彼は「理」を以て追及していたのです。 
さて、このような彼等の主張を現代のレベルで「幼稚だ」と言うことは簡単です。しかし、紀元前600年も昔、こんなことを議論していた、ということに私たちはむしろ奇跡的な「知性の発露」を感じないわけにはいきません。考えてもみて下さい。古代だけの話しではなく中世はおろかごく最近まで人類は「神・仏」の世界としてこの世界を理解していたのです。現代でもそのあり方はキリスト教世界やイスラーム世界に濃厚に生き続けています。「科学」などというものはほんの2〜300年前くらいから「復活」して(ギリシャ科学の復活なのですが)、一般的になったのはほんの最近のことなのです。それが世界というものです。それなのに、全面的に神話世界であると考えられている紀元前などという大昔に、ただ一人ギリシャ人だけがこんな議論をしていたのです。このすさまじさを思ってください。そして、この発展の上に「自然科学」の大興隆がおきて、「生物学を基盤とするアリストテレス」の哲学や、「植物学の祖テオフラストス」、「科学者アルキメデス」とか{幾何学のエウクレイデス(ユークリッド)」、「天動説のプルタルコスや地動説のアリスタルコス」などを生み出し、それが「ルネサンス運動(ギリシャ文芸復興運動)」で復活することで近代科学がはじまってくるのです。 
アナクシマンドロスについてはその他、植民団の指導者として「社会的リーダー」であったこと、史上始めて「地図」を作成した人、「日時計」の発明などなどの活動、業績があったことを付言しておきます。 
アナクシメネス(BC587年頃〜528/525頃) 
さらに続いてきたのはアナクシメネスといいます。アナクシマンドロスより25歳くらい若い人でした。学問の特質として「吟味・批判されて継承されていく」という性格があることは先に指摘しておきましたが、そんなことをはじめたのがタレスとそれを引き継いだ人達であったわけです。ですからアナクシマンドロスにも、その主張するところを批判して継承していく人がいた、というわけです。通常哲学史では彼等三人を「ミレトス学派」などと呼んでいます。そしてさらに彼等をひきついでいく一群の人達がいたわけですが、この流れの人達を、ミレトスを含んだこの小アジア一帯を指す言葉であるイオニア地方という名にちなんで「イオニア学派」と呼んでいます。 
このアナクシメネスは、タレスの「水」、アナクシマンドロスの「ト・アペイロン」に代えて「アエール」がそれだ、と言ってきた人、と紹介されます。アエールというのは「空気のような、もやのような大気の形成物」で、通常は「空気」と訳されていますが、日本語の「空気」より物質性が感じられる言葉です。ですから、これは宇宙にまんべんなく広がっている状態では確かに「空気」というか「大気そのもの」ですが、これが「濃くなって」くると「霧」となり、そしてさらに「水」となり、さらに「固形物」となってくる「物」です。 
これを言い出した理由ですが、彼は「限定」ということにこだわっているようなので、多分アナクシマンドロスの「ト・アペイロン」では「無限定なもの」がどうして「限定物」になるのか説明できない、と考えたからだと推察されます。こうした「引き継ぎ」がある一方で、彼は、先輩たちの説明では不十分と考えられた「生成の原因」について多くを語ってきます。 
それは「濃厚化」と「稀薄化」という運動でした。つまり、先に述べたように、彼はアエールが「濃く」なることでそれは「固形」化への方向をとり、「薄く」なることで「気体」へとなる、と言ったのでした。その学説の具体的内容は、今日の科学的知識から言えば「バカバカしい」と言われてしまうようなものですが、しかし、ここには「どうして一つの物からの生成」がありうるのか、という問題意識とそれにたいする誠実な答えを与えようとする努力が見られるのです。そしてもちろん論拠は「観察」による事実からの推論でした。例えば、「濃・淡」と「冷・熱」との相関関係を説明するのに、私たちの「息」のありようをあげているのですが、つまり、口をすぼめて「息を濃くして」息を吐き出せばそれは「冷たく」、口を広げて「ハー」と吐けば「暖かい」ことは私たちもよくしっていることです。 
ただ、こうした彼等の努力の理解のためには、この当時の、というか古代ギリシャの世界観を支配していたある種の存在世界に対する基本的な、ないし前提的な考え方を知らないと旨く理解できないかもしれません。私たちはこの考え方から離れて随分長い時間が経ってしまっているからです。それは、「この世界は一つの生命体」だという考え方です。物質も生命体も「生きている一つ」のものから生じているのです。アナクシメネス的に言うなら、物質は「アエール」の展開物ですが、同時に、アエールは私たちの「息」であり「生命」でもあるのです。現代人は「物質」と「精神」を完全に分断し、「生命」と「身体」も分けて考えています。あるいは「魂」という概念を「肉体」とは全く切り離して考えています。しかしギリシャでは私たちのような「分裂的」な存在理解はありません。アナクシメネスに則してイメージ的に言うなら、アエールというものがあって、これは永遠的であり無限であって、また永遠に運動している「生命体」です。これは生命として運動し続けているのですから、その運動の法則にしたがって(彼の場合は「濃く」なったり「薄く」なったりです)そのアエールは「展開」してこの宇宙を形成し、そこにはこのアエールの展開物である「さまざまの事物」が観察されることになります。魂も肉体もこのアエールの展開以外の何ものでもありません。魂という生命的な展開を「自分の中」に持った「展開物」がたまたま「生命体=生物」という呼び名で呼ばれるだけです。 
ですから、すべての存在の根拠を「神」という名でよぶなら(古代ギリシャには、「神」を人格的に捕らえる一般の神話的見方の他に、このような「抽象的宇宙生命体ないし宇宙摂理」を「神」とする見方もあったのです。この考え方もすごいものです)このアエールは「神」と呼ばれます。そして実際、そう呼ばれていました。タレスの場合も同様で、「万物は神々で満ちている」ということになります。アナクシマンドロスも例外ではありません。「ト・アペイロン」は「神」なのです。 
彼らのいう「神」とは「物語の中で活躍する人間的姿をもった神」とは全然違うことは理解しておかなくてはなりません。要するに「宇宙的生命そのもの」といった感じです。ですから、アリストテレスがタレスの「水」を説明する時、「水はすべてのものの生命の原理だから」という言い方をしていたのも理解できると思います。「水」は文字通り「生きる一つの生命体」なのです。そして私ができるだけ日本語に訳さず、ト・アペイロンとかアエールとか原語のままで示したのも同じ理由からなのです。ト・アペイロンを「無限定的なもの」と訳したのではどうしても「抽象的なもの」に見えてしまいますし、「空気」の場合はやはり「物質的」に響いてしまうからです(ただタレスの「水」はもう一般になってしまっていて原語ではかえってわかりにくいので一般にしたがいました)。 
ですから、時に誤解されるように、彼等の理解は「唯物論」的ではないのです。それは「水」とか「アエール=空気」を現代的に了解してしまったところからくる「誤解」です。そもそも、生命から離れた「機械的物質」などという概念自体がないのです。こうした概念や、物体から離れた「魂」という概念が思考されるようになるのはもう少し時間がかかります。ただしそうなっても、現代のような生命と物質の「分裂」はありません。唯物論の祖といわれる「デモクリトス」でも「アトム(原子と訳され、これは機械的な運動をしている物質です)」は同時に「魂」をも形成しているのです。また「魂」と「物体」とを「分けた」とされるソクラテス・プラトンの場合にしても、それらは同じ大宇宙の中にあるのです。なお、タレスにはじまる「生命体としての宇宙原理」という考え方は哲学的には「物活観」といっています。 
3.神話と音楽と数学のとりあわせ、ピュタゴラス

 

はじめに 
タレスから始まる自然学の継承は、後にその地方の名をとってイオニア学派と呼ばれたわけですが、これは、同時に自然学者たちにもう一つ別の系統がある、という理解からです。そのもう一つの系統のことを「イタリア学派」といいますが、もちろんその活動の舞台がイタリア地方のギリシャ都市にあったからという理由からです。この別はすでにローマ時代の、「哲学者の伝記」を書き残していることで有名な「ラエルティオス・ディオゲネス」という人がはっきりと述べているのですが、ただし、それはかならずしも系統だっているとは言えません。しかし、ともかくイタリア学派という類別があったのです。 
その始めの人とされるのが「ピュタゴラス」で、彼は実際タレスたちとはかなり変わっていました。第一「ピュタゴラス」などと全部分かった人のような名前で言っていますが、この人は確かに実在はしたようなのですが、一つの「神秘宗教集団の教祖」なのでした。教祖というのが一体にそうであるように彼も秘密のベールにつつまれることが多く、また、その集団の思想はすべて教祖一人のものとされてしまう傾向があり、ピュタゴラス個人の思想として何が言えるのかかなり疑問のところがあるのです。 
しかもこのピュタゴラスの教団は、興亡はあったもののかなり長い歴史をもつことになり、ローマ時代にも興隆したりするので、後世の思想までピュタゴラスのものとされてしまっている可能性すらあるのです。しかし、神秘宗教団体という性格からそれを整理するのはほとんど不可能で、結局ピュタゴラス一人の思想ということで紹介せざるをえないのが現状です。 
ピュタゴラスの伝承 
ともあれ彼は、多分紀元前570年頃、タレスたちの故郷ミレトスに近いサモス島に生まれたのですが530年頃故郷を去って南イタリアのクロトンというギリシャ都市に移り住んだと言われます。ですから、たしかに活動はイタリア地方ではあってもイオニア地方の血はひいていたわけです。 
もっとも、クロトン行きまでずっとサモスにいたわけではなく、伝承によると、「エジプト」に行ってそこで祭儀にかかわる事柄などを学んだと言われます。ヘロドトスなどは、ピュタゴラスと名指しこそしていませんが、暗に彼を指し、その「魂に関する」教説は独創的なものではなくエジプトのものだ、とまで言っています。これは確かに両者に類似性があるのであり得る見解です。当時のイオニア地方はエジプトとの交流が盛んであったようで、タレスもエジプトに行っているようですから、ピュタゴラスが行っていても何等不思議ではなく、むしろ可能性は非常に高いでしょう。 
そして、一度はサモスに戻ってきたのですが、その故郷が独裁政治になっているのを見てクロトンへと出ていった、と言われています。そしてその地で自分の教団を結成したようなのですが、どうも一般に言われるような、ただの「宗教教団」であったわけではないようで、ピュタゴラスはこのクロトン市のために法律を制定し、300人ばかりの弟子たちと共にその地をよく治めて名声を得、そのためこの地の国政は「優れた人々の統治」と言われたとの伝承があります。(ちなみに「優れた人々の統治」は「優れた人々」という意味の「アリストス」という言葉と「統治」を意味する「クラティア」という言葉でできている言葉で「アリストクラティア」といいますが、これが日本語では「貴族制」などと訳されて、この誤訳とも言えるまずい訳語のせいでギリシャ社会史はずいぶんと多くの誤解を生んでいます。つまり、この訳語を使うと「そのため(ピュタゴラスとその弟子たちによって、非常によい政治がおこなわれたので)、この地は“貴族制”と呼ばれた」といったような訳になってしまうからです)。 
それはともかくとして、ピユタゴラスはこのクロトンで平和にいられたわけでもないようで、20年くらいここにあった後、メタポンティオンに引き移りそこで死んだといわれます。この死についてもいろいろ伝承がありますが、たとえば、弟子入りを断られた男の恨みをかって襲われた、とか、あるいは彼の評判が高すぎてそのため独裁的になるのを恐れてクロトンの人々が襲ったとか(この伝承では、そこでピュタゴラスは逃げ出したがソラ豆の畑に行く手を阻まれ、畑を台無しにしてはならないと逃げるのをやめ、そこで殺されたという)、あるいは、文芸の女神であるミューズの女神の神殿に逃げ込み、そこで40日間の絶食のため死んだとか、クロトンの人々に絶望して引退してメタポンティオンに行きその地で失望のあまり絶食して死んだ、とかいろいろで、一方では彼の死後もその賛美はやまず、ついに彼の家が神殿にされた、とも言われています。 
あるいはまたピュタゴラスが留守の時、かつてピュタゴラスに弟子入りを断られた金持ちで暴力的・独裁的で品性の卑しいキュロンという男が教団に敵意をもち、徒党をくんで教団を焼き討ちしたという事件も伝えられています。そしてこんなこともあってピュタゴラスはメタポンティオンにひっこんでしまった、と言われているのです。ともあれ、ピュタゴラスのいたクロトンや南イタリアはその当時、さまざまな社会的動乱もあったようでした。 
最初の哲学者としてのピュタゴラス 
以上のような伝承は「教団」の経緯を探り、その社会・文化史的意味を考察する上では大事ですが、ここでは以上の指摘にとどめ「学問の意味」という本題にもどることにしましょう。ところで、それに関係して重要な逸話が一つあります。それは、彼が始めて「フィロソフィア」という言葉を使ったという伝承で、もしこれが本当ならピュタゴラスこそソクラテスに先だって自分を「フィロソポス(愛知者・哲学者)」と名乗った「最初の人」ということになります。しかし、ピュタゴラスの伝承ははっきりしないので、したがってこれを「事実」として彼こそが名称の上でも「最初の哲学者」だとする研究者はあまりおりません。 
ただ、この伝承に含まれている意味は大事であり、この伝承が後世の創作だとしても、少なくとも後世の人から見ればピュタゴラスの為していたことは「フィロソフィア」が確立した後のギリシャで理解されていた「フィロソフィア」そのものに他ならないと評価されているということがあるからです。 
そしてこの「フィロソフィア」ということで当時一般に理解されていたのは「魂に関する事柄の考察」と「世界の原理についての考察」です。プラトンより10歳くらい年長の弁論家イソクラテスも、先のヘロドトスの言葉と同様のことをはっきりと述べて、ピュタゴラスはエジプトに行って始めて彼等の「フィロソフィア」をギリシャにもたらしたがその内容は「祭儀」にかかわることだと言っています。エジプトでの祭儀とは「魂に関すること」になります。実際、ギリシャ・ローマの一般の人々の印象としてはそうした内容がイメージされていたようで、そのため「ペルシャやバビロニア、インドやエジプトにもフィロソフィアがあったし、むしろその方が先だ」と主張する人々がいることを、先に言及した紀元後2世紀の終わりか3世紀の始めころのディオゲネスも伝えています。 
他方で、1〜2世紀頃の学説史家「アエティオス」はピュタゴラスが「フィロソフィアという名称を使った最初の人」として「数及び数の比例が原理だ」とした人と紹介しています。ここでは「原理の学」がフィロソフィアの内容と理解されています。 
アリストテレスはタレスをはじめとしていましたが、イソクラテスやアエティオスの評価もやはり気になるところで、ここに「当時の人々の理解するフィロソフィア」があったのは確かでしょう。そういうわけで、このピュタゴラスにはタレスたちにはない、何か新しいものがあったと理解できるわけで、またこのことが、タレスの伝統にあるイオニア学派とは異なった「イタリア学派」と呼ばれる所以になっているのではなかろうかとも理解できるわけです。そしてまた、「フィロソフィア」というのはソクラテスによって生み出され、プラトンによって確立したものだとするなら、このピュタゴラスが「最初のフィロソポス」と評価されたということは、内容的にピュタゴラスはソクラテス・プラトンの先駆となっていたのではないか、とも理解されるわけで、それは実際その通りなのでした。 
さて、ピュタゴラスはこういった位置にいるのだとすると、結論的に、その思想はソクラテス・プラトンの哲学の中心であった「魂」の論と「イデア」の論に関係してくるのではないか、少なくともそうした方向が示されているだろう、と推測されます。そしてこれもその通りなのです。ということは、ソクラテス的な「生きること」「人間の本体としての魂」ということが問題となり、一方プラトン的なのだとすると、その思想は「数」そして「イデア」への方向を示す筈だと考えられます。事実そうなります。 
ともかく、ピュタゴラスの関心はタレスたちとは異なっていました。タレスはエジプトで「土地の測量」にかかわる規則を学び、そこから「数そのものの一般法則」といった探求の仕方をしたようでした。こうして、どの参考書にもある、「実際的目的」に縛られない「理性そのものの発露」としての「学問」が生じた、という評価がなされることになりました。それがタレスたちの仕事だったとすると、一般の教科書に紹介されている在り方、つまり、タレスたちは「純粋に知的好奇心」をもつことのできたはじめての人達で、彼等の歴史的意味は、その「知的好奇心」の史上初の具体的発露にあった、という評価も大筋において正しいということになります。 
ところがピュタゴラスはそうした特徴はもっていないのです。彼にあるのはエジプトの神職者から学んだことを「人生として生きる」という場面の思想に仕立てあげることでした。ここに、「生きる意味を追及する」という意識的・自覚的な営みが始められることになったのです。ソクラテス的哲学の先駆です。一方、「数」の方も、いわゆる「体系的数学」というよりむしろその「原理性」がクローズ・アップされるのであり、これはまたプラトンでも同様で、プラトンでの「数学の重視」というのは「数学体系」の研究を意味するのではなく、「数」というものの持つ性格そのものが重要だったのです。 
ここに、「学問はいかにして生じたのか」という問題に二つ目の局面があったことになります。すなわち、「生きることの意味を問い、その場面で世界の原理を問う」というピユタゴラスからソクラテス・プラトンへと引き継がれる哲学の局面です。ここでは、「生きる」ということを「神のせい」のままにしてしまう、という態度はありません。これが大事なのです。エジプトの祭儀がピュタゴラスに深刻な影響を与えたことは分かっているのに、現代の哲学史家が「エジプトに哲学があった」と評価していない理由はここにあるのです。「祭儀」はあくまでも「祭儀」でしかなく、その限り「それに従っている」というだけのことです。ギリシャ人が変わっていた点はタレスのところでも指摘しておきましたが、その段階にとどまることをせず「理性で納得しよう、知として理解しよう」という態度を持ったことで、ここでもその姿勢が示されてくるのです。 
ピュタゴラスの「生の哲学」 
ピュタゴラスは、伝承による限りエジプトの魂に関する考え方を勉強し、それを今度は、自分の「人間に対する教説」に仕立てあげ、いわゆる「ピュタゴラス的生活法」というものを打ち立てて行くことになります。その教説は一言で言うと「輪廻」の思想でした。 
古代ギリシャ人の死後に関する一般的な考えは、ホメロスにあるような、「幽体」が地下の国に行く、といったようなものだったでしょう。死んだ後、本体としての「魂」が別の生物の中に入り別の生を送り、これが繰り返されるといった輪廻の考えはギリシャの「オルペウス教」にもあったとされていますが、この「オルペウス教団」については詳しいことが分からず、また、けっして一般的であったとも思えません。ですからヘロドトスが、これはエジプトの考え方の借用だ、と言ってくるのでしょう。ただし、本当にエジプトの思想かどうかは分かりません。ミイラの習慣から、魂が不死だ、とされていたことは確かでしょうが、輪廻となるとミイラの考え方とは合いません。ですから、学んだのは「魂は不死であり、再びこの地上に帰ってくる」ということだけであったのかも知れません。だとすると、輪廻はピュタゴラスに独創のこととなるか、オルペウス教団との関係が問題になりますが、しかしいずれにしても、ピュタゴラスに相当独創的なものであったことは認めてよいと思います。 
問題はここからで、こういうことになると、「生命」とはどういうものになるのかというと、ここでのピュタゴラスの立場は全くギリシャ人的なままでイオニア学派の人々と同様です。つまり「宇宙は一つの生命体」だという例の考え方です。ただしイオニア学派の人々のように宇宙の生成論からする合理的説明はなく、ピュタゴラス的な言い方をしてみると次のようになるでしょう。 
すなわち、宇宙は神の生命に満ちている。しかしそれは展開し様々の事物として生成する。生命そのものは「魂」として展開しているが、そこに神のものと地上にあるものとが生ずる。我々の魂は「かつて神的なもの」であったが、今は天より落ちこの「地上の汚れ」の中をさまよっている「没落したもの」である。しかし、その神性は「魂」のうちに保たれていて、したがってそれは不滅であるが、肉体から離れたからといってすぐ天なる神のもとに帰れるわけではない。地上の汚れに染まっているからである。したがって、我々の魂は「浄化」されない限り、地上の肉体の汚れの中を何時までもグルグルとさまよっていなければならない。しかし、もし浄化されたならば、我々の魂はこの地上を去って、故郷なる天の神の元に帰ることができるであろう、といったような具合になります。 
こうしてピュタゴラスは哲学の教科書などでは「神秘主義」などというレッテルがはられることになります。それはともかく、ここに「人生の目的」がはっきり打ち出されています。そして彼の独創的であったことは、これを単に宗教的信念などに終わらせず、また、宗教的呪術や儀礼による浄化という方法をとらなかったことでした。 
まずは「生活そのもの」の規定からで、ピュタゴラスの徒と呼ばれた人々は、私有財産をもたず、集団での共同生活をしました。一方、そこまで行かない人々にも共に勉強することは許したようで、この人々は普通の生活をしていたので「ピュタゴラスの徒」とはよばれず、ピュタゴラス主義の人というような呼ばれ方で区分が為されたようです。こうした生活を通して、たとえば当たり前ですが、肉食の禁止などによって「身を清めよう」としたのです。 
したがって、ここでは「医術」が重視されました。身体をバランスよく、健康的にして、身体的節制をこころざしたからです。ですから医術というよりむしろ「養生法」といったほうがよく、事実、彼等は「薬」といったものはあまり認めませんでした。実際、医術のうちでも「養生」に関する部門が一番であり、食事と休息、また料理の在り方などが研究された、とあります。ピュタゴラスにとっては「節制・節度、調和・秩序、温和」を保ち、肉体的欲望・快楽、苦痛などによってかき乱されないことが大切とされていたようです。 
ピュタゴラスにおける「魂の哲学―音楽と数の神秘―」 
医術についで、さらに独特なのが「音楽」なのでした。これは「魂の浄め」のためです。しかし、これだけなら「生活法」の一つということでの了解となり、彼の学園は美しい音楽が流れ、バランスのとれた野菜の料理が出、節度ある人々が行き交うという、なかなか素敵な学園が頭に思い浮かべられて終わりになってしまうのですが、問題はここからでした。つまり、音楽はただ「奏でられる」だけのもので終わっていなかったのです。 
すなわち、音楽とは「ハルモニア(ハーモニー)」ですが、これは「数の比」にほかならないことを発見したことがその始まりです。つまり、音楽の基本であるオクターブ(下のドから上のド)は2:1の比になっていること(分かりやすくいえば弦の長さが2:1ということ)、5度音程(ドからソ)は3:2の比、4度音程(ドからファ)は4:3の比となっています。つまり、完全和音の音程は1、2、3、4という4つの数の比になっていることを発見したのです。なんと、魂を浄化するものの正体とは「数及びその比」であった、というわけです。 
こうして、「1、2、3、4」という数は「基本の数」ということになり、しかも、この足した数は10になります。こうして、「10は完全数」ということになり、これはテトラテュクス(「4つ組数」とでも訳すしかない)と呼ばれ、ピュタゴラス教団のシンボルとなります。そしてこれは一つの点を一番上におき、その下に二つの点、その下に三つの点、その下に四つの点をおいてみますと、「正三角形」の形になりますので、シンボルとして「形化」することもできました。 
ようするに、音楽はその内部に一つの秩序を持っていたわけで、それは「数的な秩序」であったわけです。音楽が数的秩序であったということになりますと、これは「宇宙そのものの本性」ではなかろうか、ということになっていきます。つまり、宇宙は「数的な秩序」のもとにあるコスモスです。コスモスというのはギリシャ語で「天空・宇宙」ということですが、同時に「調和・秩序」およびそこにみられる「美そのもの」です。宇宙は秩序づけられた全体であり、我々は「小さな宇宙」です。ですから身体も「調和」していなければならないのです。 
そこで、有名な話なのですが、ピュタゴラスにあっては「天は音楽を奏でている」ということになります。後でピュタゴラスの天体論を紹介しますが、星々がはりついている天球が10個あり、それが重なって天の中心の火を巡って動き、その動きは音を生み、それは連なって一つの音楽となっているのです。宇宙はコスモスとして「調和」していますから、その音楽は素晴らしいものの筈なのですが、私たちは肉の汚れ、日常の慣れによってきくことができません。しかし、「魂」を浄化したなら聴けるだろうということになります。 
そうはいっても、この音楽の「数の比」からいきなり「宇宙の原理」は飛躍しすぎているのではないかと思うかも知れません。しかし、音楽は「魂を浄化」するものでした。これは多分、始めは経験的なものだったでしょう。ここからやがて、その音楽に「秘密」を発見したのだと思います。それが「数の比」でした。「魂を浄化」するのは実は「数の比」だった、というわけです。ということは、魂の故郷である神の世界、ないし生命そのものである宇宙も「数」だということになってもそう飛躍ということはありません。「宇宙は一つの生命体」でこの存在世界はその宇宙の展開だとするギリシャ的世界観を知っていれば容易に理解できることです。そして、こうした世界観はタレスたちにもあったことはすでに述べておきました。これは実にギリシャ的なのであって、「魂」と「肉体」を分けて「二つの世界」としたなどと紹介されるプラトンも、またアリストテレスにあっても同様で彼にあっては「一寸の虫にも全宇宙が宿っている」ということになるのです。存在世界に次元の違いがある、なんて考えはキリスト教が一般的になってからの話で、近代もこのキリスト教的世界観の系譜にありますのでギリシャ的世界観になじみがないだけです。 
しかし、それにしても「数」なんて「抽象的なもの」で、そんなものが宇宙を形成するわけはないと思えます。このあたりは現代人には分かりにくいかもしれませんが、有名なギリシャ哲学研究者であるコンフォードやガスリーが強調しているように、人類が「抽象概念」なんてものを「具体物」から離して考えることができるようになるのは、事物を意識的・自覚的に考えるようになってかなり経ってからのことで、初期段階ではまだ「形式」を別個に考えるということは不得意なのです。つまり、「数」という抽象概念と「数えられるもの」の区別というのは殆どないのです。哲学的思考の初期段階にいるピュタゴラスが、数と宇宙そのものを離して考えらなかったといっても責められることはありません。 
こうして、先にアエティオスの記録を紹介しておきましたが、「数及びその比が原理」だということになったのでした。くり返しますが、この数を「抽象的な数」と理解しないで下さい。これはあたかもタレスの「水」、アナクシメネスの「アエール」のごとくに宇宙を形成する「もとのもの」なのです。 
もう少し具体的に紹介してみましょう。1は「点」となります。そして2は「線」となります。3は三角の「平面」です、4はこの三角の上のほうに4番目の点をもってきますと「三角錐」となりまして「立体」となります。このように事物は「数」で構成されていることになります。この説明には実はアリストテレスも文句をつけているのですが、ガスリーたちが注意しているように、ピュタゴラスにとっては、1や2(つまり現代的に言えば抽象概念)と「一つ、二つのもの(つまり数えられる具体物)」というのは区別がないのです。数とは「数えられるもの」そのものなのです。ですから、宇宙の事物そのものは「数」ということになって何の不思議もありません。なぜなら「数えられる」ものなのですから。そして、その存在の在り方は「数の比」になっている、と言ったわけなのでした。この数の比という考え方は事物がなぜ「量的に」異なっているのかの説明までしていますから(なぜなら「比」というのは要するに「混合の割合」とうことになります)、ただの「形」だけの原理だけではなく、「量」までを含めた存在事物の原理となっています。これはアリストテレスも十分承知しており、そうはっきりと紹介しています。ただしアリストテレスは、本来「重さ」を持たない数を「重さを持つ」事物の「材料」にしたのは具合が悪いとしてピュタゴラスを非難したのですが、これはすでにアリストテレスの時代には「数」を抽象的なものと考えられるようになっていたからなのです。 
そして一方でアリストテレスは、このピュタゴラスの主張は「事物は形をめざして存在する」という主張なら分かるとして、事物が存在するために必要な原因のうち「形」という原因を言ってきた始めての人だと評価したのでした。ただしピュタゴラスにしてみれば、アリストテレスが「数とは形の原因」なのだろうという指摘に、「違う」とは言わなかったでしょうが、今も指摘したように、同時に「材料」でもあったんだけど、とつぶやいたことでしょう。 
しかし、「比」という以上、ここには、ただの「材料」だけではなく、宇宙を貫く「摂理」のようなものが感じられ、アリストテレスが、これはもうタレスたちのような「材料としての原因」ではなく、「形の形成者」ともいうべきものだろう、と見て取ったのはさすがに炯眼であったと言うべきでしょう。この「原因」としての「形」(これをアリストテレスは「形相因」とよんでいます)という方向性は後にプラトンによって引き継がれ、「イデア論」の形成に重大な影響を与えることになるのです。 
ピュタゴラスの「数の哲学」 
一方ピュタゴラスは、この「数」の展開をやはり問題にしなければならなくなるわけで、それは「数による限定」という形で説明されることになりました。この説明はピュタゴラスのさまざまの事柄に関する考え方が示されているとして、よく引用されますが、それは以下のような対になった表で表されています。 
限、奇、一、右、男、静、直、光、善、正方。 
無限、偶、多、左、女、動、曲、闇、悪、長方。 
つまり、上の欄のものが「限定」を与えていくものであり、これはしたがって「存在の原理」として、同時に「倫理的な原理」にされているのです。かなり素朴でイメージ的なものですが、ピュタゴラスの「気分」はなんとなく分かります。 
というのも、始めは「限」でこれがなければ、混沌が「無限」に広がっているだけで存在なんて出てくるわけもありません。そして、その「限」が「数」のうちに現れたときそれは「奇数」、具体的には「1」となります。ここまでは理屈ですが、その次の「右」あたりから「気分」がでてきているようです。多くの右利きの人にとっては、左手は不器用ですから「混沌」につながるというわけでしょう。そして「男」ですが、男は「生ませる性」と考えられていたからでしょう。限定を与えるのは男だと信じられていたのです。そして動乱の混沌を「静め」るとなり、ついでグニャグニャを形あるものにする「直」、混沌の闇を照らし形を露にする「光」、混迷の悪にたいして「直」なる「善」、正しき形としての「正方」というわけなのでしょう。 
しかしこんな具合に考えたということは、全て「数」に還元されてしまうということにもなり、「徳」までも数で表現されてしまい(たとえば正義は4=2×2と定義されたらしい)、これにはさすがに私たちもついていけません。ただ、こんな態度は当然のことながら「数学」の重視につながったわけで、ギリシャにおける数学の発展に多いに寄与することになったのでした。 
ちなみに「ピュタゴラスの定理」と呼ばれているものを一般法則として確立したのもこうした態度からでしょう。つまり、「任意の直角三角形の斜辺の長さの2乗は他の二辺の2乗の和に等しい」という有名なものです。もっとも、「地形・図形」にかかわることに古代人は敏感でしたのでこの定理であらわされることになる「実際的事実」はピュタゴラス以前に知られていたようですが、この事実を「法則として確立」したというところがピタゴラスの立派な業績となったというわけです。 
最後にもう一つ付け加えておきますが、それは、このピュタゴラスにはタレスたちにあった自然科学的態度についてはどうだったのかということです。ピュタゴラスは、特に「天体」に関しては多大の関心を示しています。ただし、それは「自然科学的」というよりむしろ以上に見てきた「理屈」の世界のこととしてでした。 
たとえば、ピュタゴラスは天体というものを、自分の発見した「完全数」である10の数に合わせるなどというやり方をしてきます。ピュタゴラスの天体論の正確なところは少々厄介なのですが、取りあえず紹介すると、先ず天体を重なり合った天球の組み合わせで考えているようです。つまり、宇宙の中心に「火」が燃えていて、それを天球群が巡るように想定されているようです。天球群ですが、その一つは「それ自体としては動かない星々(恒星)」の張り付いている天球となります。ところがそれ以外に「動いている星(惑星)」があります。観察される惑星は水・金・火・木・土星の5つであり、それらが張り付いている五つの天球があることになります。それに加えて地球と太陽と月があり、それぞれが張り付いている天球があるとします。ところがそれら全部を合わせても九つしかありません。観察される天球はこれでおしまいです。これでは「完全数」になりません。そこでピュタゴラスは目に見えない「地球の反対側にある星(対地星)」などを考え出すのです。 
この「反対の星」という存在ですが、実際には存在しないものであるし文献の読み方が難しく何に対してどう反対なのか良く分かりませんが「中心の火」を想定するのが普通でしょう。もちろん、すでに「日食」はしられていたわけですからこの当時「地球」が球体だということは知られていたので、星々ないし天球が「中心火」を巡るある種の地動説みたいなものと解釈できます。この「星々の巡り」が天体音楽となるわけでした。 
ただし、これは「理屈」でこねあげた宇宙論であり、こんな具合に自然についても「理屈」で物事を律していく一つの態度がここに見られます。「理性主義」というギリシャ思想の重要な側面の起源がここにあるとも言えます。実際、この「理性主義」というのはギリシャ思想の最大特徴ともいえるのであって、この系譜に、次の章で見ることになるパルメニデスが現れ、やがてプラトンやアリストテレスが生じてくることになるのです。 
以上いささかわかりにくいのでピュタゴラスついてもう一度まとめてみますと、 
1、「人間の生き方」が問題にされ、魂の在り方というものが課題にされた、ということがまず第一です。そして、その魂に関して「輪廻転生」という思想が提唱されました。 
2、ここで「集団」が形成され「ピュタゴラス的生活法」が作られます。この集団は共同生活で、私有財産ももたず、身体と魂の浄化が実践されました。身体については「医術・養生法」が、魂に関しては「音楽」が重視されました。 
3、その目的はいうまでもなく、身体も魂も「浄化」することで、そのために節制が要求されました。 
4、ところが、その音楽に関して、とんでもないことが発見されました。つまり、その正体が「数の比」であったという事実です。 
5、こうして、この宇宙そのものの「原理」としての「数及び数の比」というものが探求されることになって行きました。宇宙そのものが「比例的、調和」の世界だった、というわけです。 
6、したがって、その探求の態度は「経験的」であるよりも「理性的」なものとなり、天体論までそうした傾向のものになってしまいました。 
7、かくして、ここに「理性だけ」による「合理的な世界解釈」というものが史上始めて行われることになった、というわけです。 
4.「論理」だけの世界 
 「パルメニデスとゼノン」及び「多の原理」をいう自然学者たち

 

はじめに 
この章では、ピュタゴラスにあった「論理」で物事を追って行くという態度が、あきれるくらい徹底されたパルメニデスとゼノンをテーマに見て行こう、としているのですが、先行する「クセノファネス」から見ていきます。有名な「ゼノンのパラドックス」だけを知りたいなら先にとばしてください。 
クセノファネス 
彼は西方イオニア地方のコロポンの出身ですが、ピュタゴラス同様、東方イタリア地方に逃れてそこで活動した人でした。古代から彼はパルメニデスの先生などといわれていますが、むしろ孤高の人で、特別な師や弟子はいないと考えた方が当たっているようです。ただ、思想的にパルメニデス的なところもあるということで、このことは或る意味で重要なことではありました。その重要性というのは「唯一神」を言い出した、というところにあるのですが、彼はホメロス的な、たくさん神々がいて互いに争ったりだましたり大騒ぎするような神を排撃して、唯一にして至高なるものとしての神を主張したのでした。クセノファネスといえばこのホメロス批判が有名であって、ホメロスの叙事詩に描かれる「人間的」な神々のありかたを批判して「もし牛や馬やライオンが神の姿を描いたとしたら馬は馬に牛は牛の姿で神を描くだろう」などと言っています。 
しかし、この神は「唯一」ではあってもキリスト教的な意味での唯一神ではなく、むしろミレトス学派的なものです。つまり、ミレトス学派にあっては「水」や「ト・アペイロン」「アエール」がそのものとして「神」でした。クセノファネスにとっても、この神は「宇宙そのもの」なのです。「一つなる宇宙が神」であり、神は「全体として見、全体として考え、全体として聞く」ものでした。要するに、この存在世界はいろいろ生成したり消滅したりするように見えるけれど、本当の意味でそんなものはなく、すべては永遠で、全て神の現れだ、ということなのです。これは実はミレトス学派の場合でもそうなる筈なのであって、そのことは先に指摘しておきました。つまり、彼らのいう「神」というのはホメロスの叙事詩にある「人間的な神」ではなく、「宇宙生命・宇宙摂理」のようなものとなっていると指摘しておいたことです。クセノファネスはそれを明確にしてきた、という意味があると言えます。それと同時に、これは「存在」ということを論理で推し進めていった時の見解とも言え、その「論理だけの世界」を主張したパルメニデスと一脈通じてしまい、それゆえにパルメニデスの先生とされていったのでしょう。 
こうした先駆者とのかかわりでパルメニデスは問題にされてくるのですが、パルメニデスは、「すべては一つにして不動」として「運動や多を否定」したことで良く知られています。しかし、神についてならいざ知らず、この世界そのものが不動であって運動もなく、多ということもない、と言われたのでは、これは私たちとしてはキョトンとするのが普通です。なぜなら、ほんの少しでも目を明けてみれば「世界はいろいろで、全て動いている」のが目に飛び込んでくるからです。これはパルメニデスにとっても同様であったでしょう。それにもかかわらず、どうして「世界は一つで、運動なんかない」などととんでもないことを言い出したのでしょうか。しかも彼は思想界に一大革命をもたらした人として、ソクラテス以前の自然学者の中でも最大級の人として評価されているのです。一見バカバカしいと思える彼の思想がなぜそんなに評価されるのでしょうか。 
パルメニデスの生涯 
パルメニデスは、紀元前515年くらいの生まれと推定されていますが、そうだとするとタレスから110年くらい、ピュタゴラスからは55年くらい後の人ということになります。パルメニデスが老人になった時会ったとされるソクラテスは彼から45年くらい、プラトンは88年くらい後に生まれることになります。彼は南イタリアのエレアの人でした。ですからそういう意味でもピュタゴラスの系譜にあるということが言えます。そして実際、先に言及したディオゲネスは、パルメニデスはクセノファネスの弟子というよりむしろピュタゴラス学派のアメイニアスの弟子といえる、という意味の伝承を伝えています。ただしそれは、内容的にみると「魂のことを問題とする哲学者」としてではなく、「論理で世界を突き詰めて行く」という面での後継者であったと言えるでしょう。 
「ある」の意味 
この「論理による追及」がどんなものかを見る前に、ヨーロッパ言語にまつわる問題をみておかなくてはなりません。これはヨーロッパの人達にとっては大問題になることであったのですが、日本人にとってはあまり問題にならないことなので私たちには分かりにくいものだからです。それは、動詞「ある」という言葉にまつわる問題で、私たちにとっては「ある」といえばそれは殆ど「存在」を表していて、主語と形容詞や副詞を「結び付ける」動詞として使われることはほとんどありません。つまり、「本はここにある」とは言いますが、「本は白くある」という言い方はかなり特殊な言い方で普通には「本は白い」で終わりです。しかし、ヨーロッパの言語はどちらの場合も「be」動詞を使います。たとえば英語でも、「Thereisabook」というように「存在」を表すと同時に「Thisbookiswhite」というように「主語と形容詞の結び」にも使われるわけです。こうして、「存在」と「ただの結び付け」とが混同されてしまうという事態が生じるのです。これはさすがにプラトンやアリストテレスは気付いていてこの混同を問題にしていますが、彼等以前には殆ど気付かれず、またアリストテレス以降でもいろいろ厄介な論議を引き起こしたのです。 
これには、ギリシャの場合、ソクラテス以前の自然学者の段階では「性質と物質」「抽象的なものと具体物」というものの明確な分別がない、という存在認識も原因しているかもしれません。実のところ、こうした分別・明確化というのはこうした彼等の思索を通して為されてきたのであり、現代人には常識と思われていることも、長い時間をかけたギリシャ哲学者の思索の賜物なのであって、ガスリーたちが指摘しているように、元来人間はこうした分別はせずに世界をそのものとしてあるがままに捕らえていたものなのです。もし彼等の思索がなく、あるいはルネッサンスでギリシャ思想が復興しなかったとしたら、依然として人類は「そんな細かなこと」には神経を尖らせず、世界をあるがままに捕らえていたかも知れないのです。 
そのガスリーはさらに続けて、文法だの論理学だの現代人にとっては全くの常識となっていて、誰でも無意識のうちにそれを使って思考をしているわけだけれど、これが確立していない時代は当然そんな考え方はしないし、できないわけで、そんな時代の人をその時代に立ち返って理解しようというのは現代人にとっては非常に難しいことだ、といっていますがその通りでしょう。私たちはそうした「難しい」ことをしているわけなので、少々理解に苦しむところがあっても当たり前の話だ、と腹をくくって見て行くしかありません。それは何のためなのかというと、私たちの考え方のルーツ・原形を見て、私たちの思考の在り方そのもの、そして時には限界を見定めていくためなのです。実際、私たちが古代の思想を研究するということのもっとも重要な意味はそこにあるのであって、それに加え、時には私たちが忘れてしまった大事なことをここに見出だすこともあり、私たちが行き詰まっていることの打開策がここに見つかったこともしばしばなのです。当たり前の話で、私たち現代人の思考の原点がここにあるからなのです。 
パルメニデスの「論理だけの世界 
少々前置きが長くなりましたが、こんなことを言わなくてはならないくらい、このパルメニデスの思想というのは私たちにとって「奇異」に映るものなのです。まず、今注意したことですが、「ある」という言葉がパルメニデスにとってどういう言葉であったかをはっきりさせておかなくてはなりません。彼の時代には、この「ある」という言葉が「存在」と「言葉の結び付け」という二つの機能をもつ、などという分別的考え方は当然ありません。こんなことに気付いて整理がなされるのは先にも言った通り後代のことですから。そしてパルメニデスにとって「ある」というのは「存在」の方でした。これはある意味で当然で、「結び付けの言葉」も、たとえば「本は白い」という意味での「本は白くある」というのも、「本は白いものとして“ある=存在する”」と捕らえられるからです。こうして、まず「ある」という動詞は「存在」を意味する、とされました。 
そして次に「なる」という言葉ですが、これは当然、「××であったものから○○になった」と言う具合に捕らえられます。ところが、これは「××である」ものが「そうで“ない”もの(この場合○○)になった」というに他なりません。さて、先の同意によると「ある」というのは存在でした。しかるに、この場合、この「存在」に「ない」という言葉がくっついたことになります。こんなことがあってたまるか、とパルメニデスは言ってくるのです。「存在」は「存在」なのであって、それに非存在を意味する「ない」などという言葉がくっつくわけがない、というのです。ということになりますと、一切の「なる」ということはあり得ないことになってしまいます。パルメニデスの主張していることはほとんどこれにつきますが、ガスリーの言うように、一見まるで無意味な言葉の遊びみたいに見えます。 
しかし、ここには、「ある」という事態をとことん理屈で追い込んでいく「理性」の営みがあるのです。ここには、物事を徹底的に抽象的に捕らえる態度があり、そして外界の経験的事実が何を示しているか、などということには全く無頓着に、ただ理屈だけの世界に閉じこもって考察していこうという、おそるべき徹底した態度があるのです。そして、現代人が物事を抽象的に捕らえ、思考の上ではどういう結論になるのかを考えられるようになったのは、実はこうしたパルメニデスたちの仕事のおかげなのでした。 
もっとも、これもガスリーが触れていることですが、こうして始められた抽象的な思考がヨーロッパを誤らせる原因となった、と皮肉に評価する人もおりますが、ともかく、善かれ悪しかれ、こうしたヨーロッパの学問に特徴的な、事実にのみとどまるのではなく、それを越えた「抽象概念(この場合は具体的な存在事物ではなく、そこから抽象された「ある」という抽象概念)」を思考するようになった最初の事例をここにみることができるのです。 
こうして、パルメニデスの言ってくることは、全く論理的で、その通りといわざるを得ない結果となってきます。すなわち、「なる」ということは「変化・運動」ですから、まずこれが否定されてきます。なぜなら、変化や運動があるためには、「“ある”もの」が「“あらぬ”もの」になったり、「“あらぬ”ところ」に行くのでなければなりませんが、「ある」に「あらぬ」をくっつけることなどできないのだからこんなことは不可能だ、というわけです。 
一方、運動はもう一つ別の理由からもあり得ない、とされました。それは「空間の否定」と言われているものが根拠にされるのですが、つまり、運動のおきる空間というのは「何もない空虚」という意味でなければなりません。なぜなら、何かがあったのではぶつかって動けません。しかし、それを認めることは「ない」が「ある」ということを認めるということであって、そんなことはできるわけがない、ということになります。そうなると、つまり空間は「すべて詰まっている」筈なのであって、運動のおき得る「空間」なんてある筈がない、ということになります。 
ということは「隙間」もないということに他なりませんから、宇宙は全く一つなるものの充実体で、永遠にして不動、全く「動き」というもののない「完全なる静止の世界」ということにならざるを得ません。 
では、この「運動・変化してやまないこの世界」はどう理解するつもりなのだ、と文句をつけたくなりますが、パルメニデスは「それは幻想だ」とあっけなく切り捨てます。だからといってパルメニデスはじっと家に籠りつづけ、息もしないでいた、というわけのものではないでしょう。パルメニデスの主張したかったことは、常識を優先させ、常識に合わせようと物事を考えるのではなく、むしろ物事は物事として何を示してくるか、ということを「論理的」に考えてみて、その論理をもとにものごとを改めて考えてみるべきだ、ということだったでしょう。 
実際、この論理というのは常識を越えて世界なり物事のありようということを考えさせていくことになるのです。その実例をパルメニデスの愛弟子のゼノンによって提示された問題で考えて見ましょう。それは全く「常識」には合いません。しかし、その言ってくることを論駁することは至難の技なのです。私たちはその難問を示されて、改めてこの世界のありよう、空間とは何なのか、時間とは何なのか、を考えて行かざるをえなくなるのです。この難問を簡略に示すことで、パルメニデスたちの思考のありようを考えて見ましょう。 
ゼノンのパラドックス 
ゼノンには「多の存在の否定」という論理学的な議論もありますが、ここでは「運動の否定」を見て行きます。 
1、いわゆる「二分割のパラドックス」と言われているものですが、これは運動の否定を言ってきます。内容ですが、仮に私たちがいる場所をA点とします。そして「運動がある」としてその運動の先をB点とします。さて、私たちがA点からB点にいくためには当然その半分の地点(これをC点としましょう)にいかなくてはなりません。ところが、このC点にいくためには当然その半分のところ(これをD点とします)にいかなくてはなりません。ところが、このD点にいくためにはさらにその半分の地点(これをE点とします)にいかなくてはなりません。こんなことをくりかえしていたら永遠に「半分、半分……………」と言い続けていなくてはならないわけで、論理的にはそうなります。つまり、点は無限となってしまうのです。しかるに有限の時間のうちに無限を行くなんてことは不可能ですから、わたしたちは永遠にB点どころか、一歩も動けないことになるのです。 
2、似たような話ですが、いわゆる「アキレウスと亀」というパラドックスもあります。これは足がとてつもなく速い英雄アキレウスといえども、足の遅い亀に追いつくことができない、というパラドックスです。さて、アキレウスが少し先の方に一匹の亀を見つけたとしてそれをつかまえようとして追いかけたとします。その亀のいる地点をLとしましょう。アキレウスはその亀をつかまえるためには当然L地点にいかなくてはなりません。ところがアキレウスがL地点にきた時、亀はいくら遅いといっても歩いていたのですから、もう少し先の方に行っている筈です。その地点をMとしましょう。アキレウスは今度はMまでこなくてはなりません。ところがアキレウスがMのところにきた時には、亀はやはり歩いていたのですから今度はN地点まで先に行っている筈です。アキレウスは今度はNまでこなくてはなりません。ところがアキレウスがN地点にきた時には亀はO地点に、さらにP、Q、R………と永遠に続いてしまうわけです。これではアキレウスといえども亀に追いつけません。これも理屈の上ではそうなるわけです。 
さて、以上の議論は「時間や空間は無限に分割できる」という前提に立っていました。とりあえず、このことを覚えておいて下さい。説明の前に残りのパラドックスも見てしまいましょう。 
3、つぎは、いわゆる「飛んでいる矢は動かない」というパラドックスです。これは「時間」と「空間」という概念に更なる反省を迫るものですが、私たちは時間・空間というものをどのように考えているでしょうか。とりあえず「どんなものにせよ、それが自分自身と全く等しい大きさの空間を占めている時、それは静止している」とよんでおくことにしましょう。なぜなら、「動く」というのは、今占めている空間を「出て」いくことなのですから。「出て行かない」かぎりそれは「静止している」とよぶべきです。ところで、いま弦から離れた矢があったとして、その矢はどの瞬間をとっても「それと等しい空間」を占めていて、その空間を「出て行く」などということはありません。ということは、この矢はどの瞬間も「静止」しているとしかいいようがなく、動いている瞬間などないということになってしまいます。さて、ここでは、少なくとも「空間が一つの広がり」のようにされていました。前の二つのように「永遠に分割される」という前提にはなっていません。これも覚えておいて下さい。 
4、四つ目は「競技場のパドックス」といわれているものですが、これはかなりややこしいです。まず前提ですが、これも今の三番目のものと同様、「時間と空間が単位」のかたまりと考えられています。ここで、運動会を想定してみましょう。子供たちの遊戯がはじまりました。お父さん、お母さん、弟と妹の四人が並んで見学しています。その前を四人が一組に並んだ「組」がたくさん「右に左に」踊りながら通り過ぎて行きます。そこで変なことに気が付きました。その遊戯をしていた「四人組み」と見物していた四人の家族を図に書いて見ましょう。 
見物人父母弟妹 
D君C君B君A君 
一組、右に移動 
二組、左に移動EさんFさんGさんHさん 
この図で、一組さんは右に動き、二組さんは左に動きました。動く速さは遊戯ですから当然同じ速さです。動いた結果、この三つの列は重なりました。 
父母弟妹 
D君C君B君A君 
EさんFさんGさんHさん 
ところで、この時、一組さんの先頭A君は二組さんの「Eさん」と「Fさん」の二人分だけしか動いていないのに、二組さんの先頭EさんはAさん、Bさん、Cさん、Dさんの四人分も擦れ違って動いています。 
さて、これを今度は時間に置き換えて見ましょう。つまり一人分を一秒とすると一組さんの先頭は二秒、二組さんの先頭は四秒かかっている、という計算になってしまいます。これは矛盾です。 
ところで、ここでは前提として「時間は一定のかたまりだとしたならば」というのがありました。時間が「かたまり」なのだとしたら、理屈はこのパラドックス通りとなってしまいます。そこで、さて時間とは一体何だ、という問題を改めて考え直さなければならなくなってくるのです。 
以上の四つのパラドックスは、くりかえしますが、はじめの二つは「時間・空間は無限に分割される」という前提でした。ところが、それは理屈の上で困ったことになったのでした。一方、おしまいの二つは、今度は逆に「時間・空間は一定の定まった広がりを持つ」という前提だったのです。ところが、ここでも、理屈の上では困ったことになったのでした。どう前提をたてても「駄目」という論が示されたのです。 
もちろん、これは再三断っているように「理屈だけで考えてみれば」という「思考実験」のようなもので、パルメニデスやゼノンが呼吸もせず、食事もとらず、歩くこともせず暮らしていた、などということを言っているわけではありません。ところで、わたしたちはそうして暮らしながら、その暮らしの日々におきてくることを「当たり前」と信じ込み、それに改めて問い掛けてみるなんてことはしません。経験されることは「当たり前」のことなのです。しかし、もしこんな態度のままでいたなら、「地球は動かない」ことは常識のままであり、物が落ちることも当たり前のことであり「重力とか引力」とか改めて問題にされることもなかったでしょう。ニュートンもアインシュタインも生まれず、非ユークリッド幾何学(これは二点を通る平行線は永遠に交わらない、とするギリシャ以来のエウクレイデスによる幾何学を否定したもので、今日、この宇宙の在り方はこの非ユークリッド幾何学の方がうまく説明できるとされています)も決して生まれなかったでしょう。哲学や科学、総じて学問の多くはこうした「思考実験」的なところから生まれてきていることが多いのです。パルメニデスやゼノンはそうした「経験世界に惑わされずに」ただ「理性」だけを働かせて思考したその最初の実例だったのです。 
ところで一方、これはこれまでのような世界の説明に対して決定的なパンチをくらわしたようなもので、「水」にせよ、「ト・アペイロン」にせよ「アエール」にせよ、何にせよ、「一つのもの」からの生成というのは、このパルメニデスを論破しない限り、主張できないことになってしまいました。なぜなら、「一つ」という限りそれはパルメニデスが言う通り、じっと凝り固まって「動くことができない」ことになりそうだからです。 
しかし、このままではこの自然世界が説明できません。経験世界を救わなければなりません。こうして、自然学者たちはどうしたかというと、パルメニデスを論破する代わりに(できそうにない、と考えたのでしょうか)、「一つ」のもとのもの、という考え方をやめにしたのです。はじめから「もとのものは多」だ、としておけば、それならこの「多」は作用し合う筈ですから(そういう風にしておきました)、運動も生成も起きてきます。こうして、パルメニデス以降は「もとのもの」を「多」とする方向へと行きました。こうした自然学者を、「元」を「多」とした人々、ということで「多元論者」と呼んでいます。「学の継承」というのは、こんな風にしてどこまでもつづけられたのです。参考のために、この多元論者の代表的な人達を挙げておきましょう。 
エンペドクレス 
彼はつぎのアナクサゴラスより多分10歳くらい若いですが、活動は先んじているようです。ピュタゴラス、パルメニデスの系譜にあり、イタリア地方、今日のシケリア島のアグリジェント(古代名アクラガス)の出身です。イタリア学派はどこか神秘的な人が多いのですが、彼もそうでした。医者にして科学者、そして神秘宗教家でもあったのです。つまり、こうした学問は彼にとっては「魂の清め」「自然本性との合体」のためだったのです。 
ところで、彼の学説は「四つのもとのもの」(これを四つの「根」と呼びました)と、「愛と憎しみ」という(かなり詩的な表現の)運動を起こす原理とで説明されます。四つの根というのは「火」「空気」「水」「土」という、中国でもよく挙げられる要素でした。ようするに、この地上の事物を観察すればその四つが要素として妥当というのはどこでもたいして変わらないのでしょう。この四つはそれぞれ不滅の要素でして、これらが互いに結び付いたり、離れたりして「生成・消滅」が起きるわけです。この四つの混合の割合の違いが事物の異なりとなってきて、宇宙はこうして形成されるのですが、その「結び付き」と「分離」の原理が「愛と憎しみ」というわけで、「愛」が支配的であれば四つの要素はたがいに「くっつこう」とし、そして全部くっついてしまうと今度はそこに「憎しみ」が生じて「たがいに分かれていく」ということになります。宇宙はこうした繰り返しの周期をもっているのですが、こうした全体的動きの中で、個々的にはこの二つの原理は二つとも不滅で「無くなる」ということはありませんから、支配力が劣ってきても働きはまだありますから働いて、個々的な生成消滅も繰り返されています。 
アナクサゴラス 
紀元前500年頃の誕生と推定されますので、パルメニデスとは40くらいの差です。 
彼は東方イオニア学派に属します。クラゾメナイの出身でした。彼の場合は四つとか五つとか「数」の限定はありません。むしろ「無限な小さな種」が宇宙を作り出している「もとのもの」であって、これの「量の差」が事物の違いを生み出している、ということになります。 
彼の学説の中でユニークなのは、こうした事物の生成の背後にあってこれを「統御」している(ですから「生み出している」という言葉を使いたければ使ってもかまわないかもしれません)「ヌース(「知性・理性」とか訳されますが、日本語の語感とはかならずしもうまく合いません)」をいってきたことで有名です。ただし、これはソクラテスに大きな期待をもたせたのですが、失望させてしまいました。彼の説明は、せっかく「知性・理性」などというものを言ったのに「機械的」な説明に終わっていたからです。一方、「種」の方は、次のデモクリトスの先駆という意味で注意されるものでした。 
デモクリトス 
紀元前460年頃の誕生と推定されるので、彼はソクラテス“後”の自然学者になります。ソクラテスより10歳位若いです。 
彼はギリシャ北方アブデラの人です。アナクサゴラスを一歩進めればそこに出現するであろう「唯物論」はついにデモクリトスのところで出現することになりました。彼の学説は「アトム(原子)論」として良く知られています。これは全く「不可分(アトムとは不可分という意味なのです)」の微小な物体であって、それは無数ですが、各々の形も位置も異なり、「空虚」の中を全く機械的に運動して結合・分離を繰り返していることになります。それが宇宙ないし存在世界の在り方だと言うわけです。この「空虚」はパルメニデスによって否定されていたのですが、こんな形で「復権」しました。ただ彼もギリシャ人でした。精神と物質の分別はないのです。で、精神はやはりアトムとはされましたが、これは「自然」の本性と相関していて、理性の観照によって自然は理解されるとしたのです。こうして彼にも「倫理学」が作られましたが、こちらの方はたいしてユニークなところはありませんでした。 
5.最初の個別科学者「医学のヒッポクラテス」

 

はじめに 
古代ギリシャに「学」の精神が形成され、個別科学としては早くも「医学」がそれとして意識されていたことはピュタゴラスを扱ったところでのべておきました。そこでの医学は「病気、怪我」などへの対処療法的な手当て、薬の投与よりも、むしろ「養生法」的なものであったことも述べておきましたが、ギリシャの医学は全体としてそうした方向をとりながら発展したようです。一方で、ピュタゴラス学派の場合、医学に哲学的な意味があったわけで、医学がそうした「自然哲学」的な色彩をもっていったのもギリシャに特徴的なものであったと言えます。 
こうした方向をはっきり示したのがピュタゴラス学派のアルクマイオンでしたが、こうした方向が推し進められて行く一方で、医学は「仮説」に基づくものであってはならず、むしろ「観察というデーター」によらなければならないこと、そして人体について語らなければならないのだとするなら、哲学的・宇宙論的自然観から語るものであったはならず、むしろ「具体的な身体の症状の分析」に基づいて語られねばならないことを主張して、「近代的な」と呼べる「医学」をはじめて提唱してきたのが「医学の祖」といわれる「ヒッポクラテス」でした。これには、医学を自然哲学風に解釈してみせる自然学者のエンペドクレスなどへの反発もあったようです。ですから彼は「自然学者」とは呼ばれません。正当な意味で「医者」でした。いや、アリストテレスの言い方に従うと、「単なる医療医」を越えた「医学者」であり、その頂点に立つ人だったのです。史上はじめての本格的な「個別科学者」の誕生でした。神話から哲学への道は、こうして自然を哲学的に考えることからついに「個別科学」を生み出していったのでした。 
ただし、ここまでくるのに当然予測される時間はかかっているのであって、一足飛びというわけにはいきません。ヒッポクラテスはソクラテスと同時代人です。哲学もそうであったように、医学も、先人たちの努力があってのことです。そういうわけでヒッポクラテスの前に、今言及した先駆ともなるピュタゴラス派のアルクマイオンと、ヒッポクラテスによって批判された自然学者エンペドクレスとを見ておきましょう。 
アルクマイオン 
アルクマイオンはピュタゴラスが活動した南イタリアのギリシャ都市クロトンの人で、ピュタゴラスの直弟子になるくらいの年代だと思われます。つまり紀元前500年頃の人だろうと推定されます。彼は健康状態を、「乾・湿、冷・暖、甘い・辛いなどの対立」が「同じ勢力」をもった状態、つまり「調和」している状態が健康とし、そのバランスがくずれて何かが「独裁的」になることで病気になる、と基本を定めています。むろんだからといって何でも中間にすればよい、などと単純に考えていたわけではないようで、観察を重要視したらしく、史上始めて医学的に「解剖」をおこなったと伝えられます(ただし、詳しい内容は紹介されておらず、ただ「解剖に敢えて手をつけた最初の人」との記述のみです。ですから1543年のヴェサリウスによる『人体の構造』という著書以来の「生理学」的解剖であったのかどうかは不明ですが、古典時代のギリシャに解剖は知られていなかったということはありません。次に紹介する視神経に関する説はこの「解剖による成果」と考える研究者もおります)。さらに彼は「眼」にかんして多大の発見をした人とも伝えられます。 
興味深いのは「感覚」に関する説で、彼は感覚の働きは「脳」にあるということを主張し、脳が「聞く、見る、嗅ぐ」などの感覚を与え、これらから「記憶と判断」とが形成され、これが定着することによって「知識」となると言っています。これは、感覚器官と脳の間には「通路(つまり神経)」があるからで、したがって、脳が変動させられると(脳震とう)この通路(神経)がふさがり感覚が麻痺することになる、それゆえ感覚障害は脳の「ずれ」にある、という考えと連なっています。紀元前も500年も前にこんな意見が堂々と主張され、しかもそれが記録されているということに驚かされます。 
エンペドクレス 
前回に紹介しておいた人ですが、彼がヒッポクラテスによって批判されるようなはめになってしまったのは、彼にはアルクマイオンにあったような「観察」という態度が失われていて、哲学的自然観からの医学理論になっていたからのようです。エンペドクレスもアルクマイオンとおなじように、反対性質の調和を基本に人体の健康を考えていたのですが、どうも彼はそれにこだわり、それをでることができなかったようで、そうした「学説だけに基づく医療」を提唱したようでした。あきらかにアルクマイオンから退歩していますが、これは彼が「観察」とデーターに基づくという「自然科学者」であるより、イタリア学派のもう一つの面であった「理論」への傾斜、あるいは「神秘主義」か、どちらかが強かったからでしょう。 
ヒッポクラテス 
ここで主題をヒッポクラテスに持ってきましょう。ヒッポクラテスは、先に紹介したように医学の祖として有名な医学者で、彼によって現代的意味での「医学」、つまり「経験科学」としての冷静な「観察とデーターに基づく治療法」、対処療法ではなく「病気の原因」の追及に基づく医療、さらに「人間そのものに目をむけた医術」、それに基づく「治療技術、予防、健康保持などの開発」、理念と方法論に基づく「環境医学」の提唱などがなされたと言われます。 
ヒポクラテスが生まれた年はBC460年頃と推定され、したがって、有名な哲学者ソクラテスなどと同時代に活躍したことになります。生まれた場所はエーゲ海の東のコス島で、ここは当時医学のメッカとして有名なところでした。今日もその医療機関であったアスクレピオス神殿({医の神}であり、この神域はそのまま医療施設であり、神官とは医師であった)の遺跡が残っています。彼は、アスクレピオス神殿に仕えていた医師であった父から教育をうけ、多くの医師達がそうであったように、各地を訪れては医療の傍ら様々の経験・観察を行い技術を磨いていったようです。晩年はギリシャ本土のラリッサにあり、そこで没しました。 
ソクラテス以前の経験科学に属する著作は殆ど散逸してしまいその全容が不明であるのに対し、その必要性のためか、ヒッポクラテスの名で伝えられる「医学の著作」だけはほとんど完全に後世にまで残りました。ただし、その全部がヒッポクラテスのものというわけではなく、その弟子たちや後世の医師団など複数の人の手になるものも含まれていることが今日分かっています。 
ヒッポクラテスを準備したもの 
ところで、ヒッポクラテスは当然、突然出現したわけではなく、その前段階というものがある筈です。その、彼以前のギリシャ医術としてどういうものが考えられるか、というと以下のものが考えられます。 
1.戦争における、創傷医療や外科的医療 
ギリシャ最古の詩人であるホメロス(彼自身は、実在していたとするなら紀元前800年hらいか、と推定されていますが、ホメロスの『イリアス』に歌われるトロイ戦争は紀元前1200年代であり、ずれにしても相当の古さです)の叙事詩にすでにさまざまな医療に関する記述がありますが、物語自体は神々や英雄達による「詩的物語」であるのに、この医療に関しては、たった一か所で呪術的な言葉を言いながら治療している場面を除き、その医療の在り方は非常に科学的・合理的であると言われています。これは実際の戦闘における負傷に対しては当たり前の話ながら「役に立つ」治療をしなければならないわけで、そうした「実際的要請」に応じての治療法が確立されていたからだろう、と考えられています。もちろん、しょっちゅう行われていた戦闘における「経験知」であったと考えられます。この経験知に豊かで判断力にすぐれ治療法が適切であった者が「医者」と呼ばれているわけで、ホメロスの『イリアス』では「マカオン」という英雄がそれに相当しています。 
2.呪術的医療 
ギリシャに限らず、古代世界ではどこでもこうした呪術的治療法がありました。これは「医療効果」としては人間の精神に訴えかける治療法とも言え、暗示による「心理療法」ともなり得たと考えられます。ですからこれは科学時代となっている今日でも伝統のまま、あるいは科学の装いに姿を変えて存続しているわけでした。もちろん「まがいもの」「迷信にしかすぎない」ものも多いわけで、その功罪はいつでもどこでも問題になるものでした。 
3.経験に基づく民間療法 
これも世界中に観察されるもので、「薬草」などはこうした場面で開発されていたと言えます。これが組織だって行われれば「薬学」となり、それを組織的に施せば「医療施設」ということになってくるわけでした。 
4、体育指導者による身体への配慮 
ギリシャは、武術とは違った意味でのスポーツなどを生み出した世界唯一の国ですが、そのスポーツの起源は相当に古く、そしてその興隆に基づき当然「身体への配慮」があり、強い身体への関心、スタミナ、コンディショニングなどの配慮が工夫されていったと考えられます。 
5、料理術 
ピュタゴラスのところでみておきましたが、そこでは料理術に対する評価が高かったようです。いわゆるダイエットというのは本来「生活法」そのものを意味しますが、やがて「食餌法」をさすようになったのも、これがやはり心身をきちんとバランスよく、健康にするということに気付かれたからでしょう。繰り返しますが、料理法というのは今日的な「グルメ」をいうのではなく、むしろ「ダイエット」であり、そのダイエットというのは「痩せる」食事法ではなく、「心身をバランスよく健康にする」という意味なのです。ですからピュタゴラスがこれを重視したのも当然でした。これは、詳細は煩雑を恐れて割愛しますが、プラトンの『饗宴』での登場人物エリュクシマコス(ヒッポクラテス学派の医者で、この学派も料理法を重視することになりました)の語りを読んでみると非常に分かりやすく説得的です。この当時こうした「ダイエット法」が「医学」の要として理論立てられていたことが良く理解できます。 
古代ギリシャにおける医療施設 
古代ギリシャの特殊性は、以上のようなものを集大成して「病院」というものを組織だって形成したことにあります。医療組織として「医術の神アスクレピオス」を祭った神殿があり、そこがそのまま医療機関となっていました。そうした医療所として古いものとしては『イリアス』の登場人物マカオン(アスクレピオスの息子とされる)の土地トリッカーが知られますが、有名なのはペロポネス半島の「エピダウロス」です。そして、後にさまざまな地に「アスクレピオス神域」が作られていきます。(医療の神域としては他にも「アンフィアレイオン」など別種のものもありました)。これらは、後代になると神殿の他に広大な聖域をもち、そこに様々の建物が付設されて入院施設もありました。そして、治療法としては先の薬草の開発ばかりではなく、手術道具なども発掘されています。さらに精神療法に含められるでしょうか、「夢」で治療法を教わったなどという記述などもあるので「夢判断」なども行われたのでしょう。温浴の設備やリラックスのための設備など現代的なさまざまの設備が開発されていました。 
アスクレピオスの神域の代表的なところであるコス島(ヒッポクラテスの故郷)やその対岸の小アジアのクニドス、またエピダウロスなどでも、「環境などへの配慮、病状の観察記録、実際的施療における合理性」などが追及されて行ったようです。 
こうした背景にヒッポクラテスが出現するわけですが、そのヒッポクラテスの医学思想を簡単に箇条書きのようにして紹介しておきたいと思います。 
1.哲学的仮説や臆断からの思弁的な考えの排除 
哲学は人間の本性や自然の原理について考えるものではありますが、「具体的人間の健康」について語るものではありません。それにもかかわらず、そうした議論を好む者が医者の中にも多くいたようで、ヒッポクラテスはこれに非常な危惧を感じ、激しくこうした傾向を攻撃しました。それが先程言及したエンペドクレスにたいする批判などにあらわれているわけですが、もちろんそれは自然学者に対する反論というより、そういう自然学的理論をそのまま「具体的医療」に適応してしまおうとする傾向一般に対する批判と言えます。ただし、このことは「医学理論」の軽視を意味するのではなく、むろん「人体生理」に関する論は熱心に追及しておりました。それが自然全体とのかかわりで行われても一向に差し支えはないのだけれど、それは哲学的理論としてではなく、むしろ「人体の観察」から行われていくのでなければならない、と考えられていたようです。 
2、自然の教える経験的知恵の重視 
要するに、今みた「哲学的理論」をもとに医学を考えるのではなく、医学というのは「具体的」なものなのだから、具体的事実が示してくるものを基本にしなければならない、という「経験科学」の立場を言っていると理解しておけばいいです。今日の眼からすれば一見当たり前のことを言っているようですが、今日でも結構忘れられて「理論」ばっかりが先行してしまうことが多いものなのです。なぜなら経験というのは「個人的」なもので、しかも一時的であり「普遍性」をもたないからなのです。ですからこの立場は「綿密な観察」とそれを「数多くデーター」化し「記録」し「普遍化」するということが要求されてきます。ヒポクラテスはそれをなしていった科学者だったのでした。 
3、事実の観察の重視 
したがって、「観察の重視」ということにつながるわけですが、ここで自分の個人的立場とか主観性とかを捨てなければならないという「難しい」ことが要求されてきます。たとえばこれこれの治療をしたけれど効果がなく死んでしまった、とか、悪化させてしまったとかの失敗まで記録することが要求されてしまうわけです。「隠して」おきたいことまで記録しなければなりません。ひょっとしたら患者個人のプライバシーの問題もあり「医の倫理」まで考えなければならないのです。ヒッポクラテスは淡々と「患者の死」をたくさん記録していますが、これはライバルたちの格好の攻撃の的にされかねないところで勇気が必要なことでした。しかも、この臨床記録には緻密さと客観性と事例の多さが要求されるわけで大変な作業であったわけです。こういうことが実際に行われ記録され今日まで残されたということにある種驚嘆せずにはいられません。 
4、医学の限界の認識とそれに基づく技術の発展 
医学は全ての病人を癒したり、人間を不死にするものではありません。この限界を知っていることで逆に医療技術の進歩が計れることになるわけで、こういった認識を持っていないと、結局「神懸かり」的なもの、宗教に頼ることになってしまうことになります。「宗教に嵌まり込んだ」困った医者というのも実在するようですが、ヒッポクラテスは「アスクレピオス神殿の医師」であったくせに、いやむしろそうであったからなのでしょうか、それを警戒したようでした。 
ちなみに、アスクレピオスという神様は、もともとは神アポロンと人間の娘との間の半神で、父親と同様医術を得意としたのですが、ついには死者まで生き返らせるほどにまでなってしまい、これを見たゼウスが「摂理」に反するとして彼を雷で打ち殺したと言われます。そして彼は天上にのぼり神になったといわれますが、この彼が医療神として祭られるようになったわけで、エピダウロスやコスの神域がその代表というわけです。ともかく、アスクレピオス自身「医療と死」という課題を抱えた神様だったのです。 
5、迷信との戦い 
病気における迷信は、いつの時代、どこの場所にもあったし、現在も根強くあるもので「医療」とは切っても切れません。これは、人間の精神的な要素が病気に多いにかかわっているからで、古代とか現代とかの時代の問題ではなく、また先進国とか後進国とかの問題でもなく、文明国とか野蛮人とかの問題ですらなく、「人類そのもの」にかかわった問題だと言えます。 
しかしこれは当然「科学的医療」の敵になるのは間違いがなく、したがって、科学的な医者であろうとするかぎり、迷信との戦いはどこでもいつでもなされねばならないことですが、こうしたことが「意識」されるのは大変なことであったのです。意識したって世間からはなくならないのですからこの戦いは大変なものがあるわけで、当然ヒッポクラテスも(現代の医師達も)完全には成功していません。 
6、環境への配慮 
人間の社会生活そのものが健康や病気の流行と相関している、大気の在り方、水、住む場所などへの配慮が大切である、ということを強調しているのですが、これはヒッポクラテスの面目がもっとも躍如としている主張とされます。つまり、いってみれば「環境医学」の提唱のようなものですが、ヒッポクラテスは、病気は「直す」よりも「かからない」ようにすることが大事だと強く主張しているのです。そのために、自分の生活環境、特に「空気のきれいなこと」「水が豊富できれいなこと」「住む場所、つまり暑過ぎたり寒過ぎたりしないところ」への配慮が何より優先されなければならない、と言うのです。 
これも当たり前のようでありながら、現代の人間はちっとも配慮していません。口先だけです。経済優先で環境破壊は無残なものです。現代人が本当には分かっていないことをこんな時代に提唱しているのも驚くべきことです。 
7、食餌法の重視 
これも「環境への配慮」とならんで、ヒッポクラテスの中心的思想となります。二つとも「生活の在り方」そのものが病気を引き起こし、あるいは健康を維持させている、ということであって、くりかえしますが、医学の本質は病気を直すことにあるのではなく、病気にかからないようにすることにある、というヒッポクラテスの主張をよく表しています。食餌法、つまりダイエットの内容についてはすでに説明しておいた通りです。 
ヒポクラテスの「生理学」 
一方、ヒッポクラテスは、哲学的・自然学的医学は廃し、むしろ「生理学」を考究しておりました。その彼の学説は「四体液説」という形で知られています。現代医学からみればまるでバカバカしいと見えるでしょうが、科学的医学の一番始めの場面なのです。顕微鏡はじめ器具など何にもない時代の話です。私たちとしては、そうした何にもないところに先鞭をつけていったその意義を認めなくてはならないでしょう。その一部を簡単に紹介しておきます。 
ヒッポクラテスの四体液説人体における健康・病気の兆候を示す四つの体液。1、血液2、粘液3、黄色の胆汁状液4、黒い胆汁状液。 
体内を流れるこれらの体液の調子、調和が身体の自然を調整し、健康・病気を引き起こす(体液病理説)。これらの体液の性質を次のように設定し、その体内での座を定めました。 
「血液」は「熱・湿」で気候的性質は「春」。体内における座は「心臓」。 
「黄胆汁」は「熱・乾」で気候的性質は「夏」。座は「肝臓」。 
「黒胆汁」は「冷・乾」で気候的性質は「秋」。座は「脾臓」。 
「粘液」は「冷・湿」で気候的性質は「冬」。座は「頭」。 
こうした設定において、例えばひどく単純に説明してみると、健康に関して次のような見解が示されます。例えば、冬は食事量は多めにし、飲料は少なめにする。その理由は、冬は多くのエネルギーを取り入れ、からだを暖める必要がある一方、冷たく湿った粘液は多いので、それを過剰にしてはならない。要するに言いたいことは「体内の諸要素のバランス」を重視しろということであり、何事によらず、過剰と不足を避け、節度と調和こそが健康を保ち、病気を直すということです。そのバランスに関して、気候・風土を重視し、環境との和合を計る、ということを言い、これを踏まえて、反対のものは反対のものによってバランスをとらせる、といった思想であると考えておいてよいでしょう。 
こういった思想はしかしすでにピュタゴラスのところでも見ていましたが、ヒッポクラテスがピュタゴラスとどういう関係にあったかはよく分かっていません。ただ、医学思想として当時知られていたのはピュタゴラスのものだけだったでしょうから、何らかの形でヒッポクラテスがこの思想にふれていたと言う可能性はあるかもしれませんが、しかしこの問題はいずれにせよ推量の域を脱しません。 
ヒッポクラテスの誓い 
現在、ヒッポクラテスの名で一番よく知られているのがこの「誓い(ホルコス)」でしょう。これは医師の倫理をかたるものとして欧米の医学校でよく講義されていたようです(今でもされているかどうかは知りませんが、欧米ではヒッポクラテスの名はしばしば言及されるという話は聞いたことがあります。残念ながら日本ではほとんど一般に知られていないでしょう)。ただし、これはかなり後代になって作られたものがヒッポクラテスの名のもとに「全集」に入れられたものと考えられています。おそらく「学派の倫理」として始祖に遡るとされていたのでしょう。その内容は以下のようです。 
1.師弟間での倫理 
師は親と同様、その子息は兄弟同様、医学の伝授は師と自分の子、及び誓約を交わした弟子との間でのみ行われ、みだりに他人に教えない、とあります。 
一見閉鎖的とも見えますがそうではないのであって、医療は「生き死に」にかかわることですからその任にたえ得る「基盤を持ち、基本的知識と識見」をもっていることが要求されるということです。「誰もが生半可な知識で勝手に医療行為ができる」状態は危険であるからです。近代以降「医師免許」「看護士免許」という形で医療行為者を限定しているのもこの思想から来ています。 
2、患者の利益のための医学 
これには、「致死薬の不投与」「堕胎薬の不投与」「結石患者への手術は専門家に任せる」といったことがあげられています。前の二つはいいとして、最後の項目ですが、ある種の手術はその道のプロがいたらしく、医師は万能のごとく振る舞ってはならず、己の分を守るべきを言ったものと解されます。さらに「どんな家にいくにせよ、不正・害悪を意図してはならず、特に、情欲をもってはならない」、とされます。また、「患者ばかりでなく、すべての人々の秘密の厳守」は当然でしょうが卓見です。 
ただし「堕胎薬の不投与」ですが、ここには母体保護の問題もあるわけで、事実、全集中に堕胎や避妊の処置に関する論稿も含まれていますので場合によっては許されていたのは当然です。 
ヒポクラテス全集 
ついでヒッポクラテス学派の仕事を全体的に見ておきます。これをみることで古代の医学がどれほどのものだったか推察できると思います。なお、これは「ヒッポクラテス全集」という名前で残っているものですが、これはヒポクラテス個人のものばかりではないことは先にも指摘しておきました。要するに「始祖」の名による「学派全体の書」です。著作の標題の訳はエンタープライズ社の日本訳全集によっておきます。訳は一部岩波文庫にもあります。 
1.基本的な著作 
『古来の医術について』 
自然哲学風の臆断による議論を廃し、古来の食餌法的医療を擁護するもので、学派の基本的立場を語っていると見なせます。 
『空気、水、場所について』 
環境と人間との関わりを説き、「自然こそ疾病の医師である」という立場を示すもので「環境医学」の提唱の書物といえ、今日もっとも有名なものとなっています。 
『人間の自然性について』 
先に示した四つの体液の関係で健康や病気を説明する「体液病理説」の基礎となるものです。 
『神聖病について』 
神懸かりとされていた癲癇性の病気について「普通の病気」と同様自然的なことを示したもので「病気」を迷信的なものから解き放つ役割を果たしていると言えます。 
以上の四書は非常に重要な書として、ヒッポクラテスを語る時欠かせない必読書と言えます。 
その他、七という数を基礎にした大宇宙と小宇宙(人間)の対応を語る『七について』もこの種のものといえるかもしれません。 
2、医師の心得を語っているもの 
『医師の心得』 
「人間への愛があるところに医術への愛もある」という言葉があることで有名です。 
『品位について』 
「医師にして哲学者(愛知者)であるものは神に等しい」という言葉があることで有名です。 
この場合の「哲学(原語は愛知)」は、「良く生きることについての知の愛し求め」にして「事物の本質を考える態度」をいっていると理解しておきましょう。それが当時の同時代人ソクラテスの用法でしたから。 
これらに類するものとして『医師について』、『診療所内において』、『法(医の本分)』などが挙げられるでしょう。 
3、医学の擁護論 
『術について』 
当時知識人をもって任じていた人々の群れを「ソフィスト」と呼びますが、そうした人々による医術にたいする「屁理屈的中傷」に対して医術を擁護する書です。 
その他、ディオゲネスの説を医学に適用したと見られる『体内風気について』もこの類いと言えます。 
4、食餌法(ディアイタ)に関するもの 
『食餌法について、第一巻〜第四巻、(第四巻は「夢について」の副題を持つ)』 
ここでの内容は食物療法という意味ではなく、ギリシャ語本来の意味である「生活法、養生法」という意味のもので、健康管理のための書といった性格を持つものです。 
第四巻は特に「夢」について、その健康との関わりを説き、そこから生活法を語っています。 
そのほか、『健康時の摂生法について』『急性病の摂生法について』『その後代の追加篇』『栄養について』『液体の利用法について』などが同種のものと言えます。 
5、流行病に関するもの 
『流行病、第一巻〜第七巻』 
気候と流行病の関係について、様々な症例を詳細にまとめたものです。 
6、疾病に関するもの 
『疾病について、第一巻〜第四巻』 
様々な病気の症例、その原因やメカニズム、人体機能との関係を論ずるものです。そのほか『内科疾患について』『疾患について』『痔について』『痔瘻について』などがあります。 
7、婦人病に関するもの 
『婦人病、第一巻〜第二巻』 
文字通り「婦人病・産婦人科」関係の論ですが、これに類するものがかなりの数あります。例えば、『不妊症について』『婦人の自然性について』『重複妊娠について』『胎児の切断除去について』『処女の病について』『七ケ月児について』『八ケ月児について』『生殖について』『子供(胎児および誕生直後)の自然性について』『歯牙の発生について』などが含まれます。 
8、外科的な問題に関するもの 
『骨折について』『関節について』『梃子の原理を応用した整複法』『損傷について』『頭部の損傷について』などが含まれます。 
9、病気の回復時期についてのもの 
『分利について』 
分利とはクリシスの訳で、病気が快方に向かうか悪化するかの分かれ目に立つことを言います。ただこれは独立にそうした概念を論じたものではなく、様々の書からこれに関する重要と思われた記述を抜粋したものと考えられています。ほかに『分利の日について』があります。 
10、人体の構造について 
『人体の部位について』『肉質について』『線について』『心臓について』『視覚について』『骨の自然性について』などがここに含まれます。 
11、予知について 
『予後』 
なじみのない訳語ですが、「プログノースティコン」ないし「プログノーシス」、要するに「前もって知る・予知」のことであり、患者の症状から、からだの変化、回復の目途をみるものです。 
「病気」ないし病人の個々の症状を切り離して見るのではなく、「病人を全体」としてみていく「コス学派」の特色があります。ほかに、『コス学派の予後』『予言、第一巻〜第二巻』『箴言』などがあります。以上のほか、備忘録的なものとして『体液について』などがあります。 
12、ヒッポクラテスの伝記『エペソスのソラノスによるヒッポクラテス伝』 
ソラノスは後二世紀の医者ですが、真偽はっきりしないものや伝説化している話しを含め、広く資料に当ってヒッポクラテス伝を作成したものです。そのほか、『書簡集』『アテナイ人の決議』『祭壇演説』『ヒッポクラテスの息子テッサロスによる特使としての演説』などがあります。 
6.ソクラテスにおける自然学から「生の哲学」への転換

 

はじめに 
前章まで、私達は神話にあった問題の大きなテーマが「世界とは何なのか」「世界はどのように生じてきたか」といった問題にあったことを指摘しました。そして、神話ではその原因としての「神」を物語的に語っていたわけですが、その「神」に代えて「自然そのもの」で説明しようとした態度が「自然科学的考察」を生んだと指摘し、その具体的なあり方をみてきたわけでした。 
この人たちを「自然学者」ないし「自然哲学者」と呼んでいるのですが、通常の哲学史では、この流れはソクラテスのところでいったん止まり、そしてその孫弟子となるアリストテレスのところで再び大きく出てきて飛躍し、さらにその弟子たちから個別科学者が輩出されて来たと説明されます。 
「ソクラテスのところでいったん止まった」とは何をさしていっているのかというと、通常の哲学の教科書では、ソクラテスによって「問題が自然から人間へと転換した」という言い方で説明します。つまり、「人間とは何であり」「人はどのように生きていくべきか」ということが主要問題にされたから、というわけです。確かにそれはその通りです。しかし、ソクラテスは或る意味で自然学者のあり方を引き継いでいたのであり、それは「自然科学対象の明確な認識と限界」を教えることとなり、その場面で「人間のこと」が問題にされてくるのであり、自然には無関心で、いきなり「人間とは」などと大上段に問題にしてきたわけではないのです。 
そしてまた、その「探求のあり方」は自然学者が確立したあり方を正統に受け継いでいました。それは「現実の観察とそこからの法則の探求」「理性による探求と吟味・批判の繰り返し」といった自然科学の手法です。哲学の教科書ではあまり指摘されていないことですが、これは大事なことであり、ソクラテスの「探求の道」はこれまでの先人たちが築き上げてきた探求の方法論に則っていたのです。 
ソクラテスを主人公とした喜劇『雲』の中での自然学 
そうしたソクラテスを描いているのが喜劇作家アリストパネスであり、ここでのソクラテスは「自然学者」として描かれてきます。これは弟子プラトンの伝えるソクラテスと異なるということで一般の哲学書はアリストパネスの描きを殆ど無視してしまいますが、これは「プラトン」を権威とした権威主義的態度とすら言えます。あるいは「喜劇だから」という理由も一因かもしれませんが、当時のアリストパネスの喜劇は、当時最高の有名人をまな板に載せて「風刺・諧謔・皮肉」で描く、ということを生命としておりました。これは「事実」を強調的にひねくって描くことによって笑いを取る性格をもっており、根も葉もない話しでは「風刺」にもならないのでした。 
アリストパネスの喜劇には、他には当時の政治指導者クレオンや有名な悲劇作家エウリピデスなどが喜劇の主人公としてまな板に載せられていますが、いずれも「事実」が「ひねくられて」描かれているものです。つまり、アリストパネスの喜劇は「有名人における事実(少なくとも観衆に「そうだろうな」と思われるもの)」が背景に無ければ笑いとならない性格をもっているのです。この喜劇でのソクラテスは「自然学者」であるわけですが、もしソクラテスがそうでなかったとしたら、その「自然科学的セリフ」は全然おかしくないものになってしまうのです。ソクラテスが「いつものように得意がって珍奇なことを言う(少なくとも観客は「確かに言いそうだ」と思う)」からおかしいです。 
そしてもう一つ、こうしたタイプの喜劇は「有名人」であって始めて成立する喜劇ですから、ソクラテスは当時すでに「有名人」であったことは確実です。その年齢は40歳くらいで、後に「哲学者として有名になる以前のソクラテス」だということも大事な事実となります。つまり、ソクラテスは「自然学研究者から人生の哲学者」へと転換していった人であったと言えるということです。 
そこで先ず、ここでの「自然科学」の内容を検証してみましょう。この喜劇の中でソクラテスは、一つの「塾」のようなものを持ち、そこで自然学の研究をしたり邪論を教えたりしているものとして描かれています。こうした塾については、実際のソクラテスの場合は組織だった塾というより「仲間内」という性格のものであったことが弟子プラトンなどによって伝えられています。つまり「人の集まる市場とか体育場」がソクラテスの談論の場であったとされていますが、「そこに集まる仲間」といったものを想定しておけばいいです。これは弟子のプラトンによってもクセノポンによっても確証されます。これを強調すれば「塾・学校」と描かれてもおかしくありません。 
そして、ここでのソクラテスの年齢ですが、先に指摘したように喜劇の上演年代からして40代前半頃かと推定されます。ですから、この当時すでに一つの「ソクラテス集団」が形成されていたらしいという事実が見えます。ただし、この年齢はソクラテスが「哲学者」として有名になる年齢の前に相当します。ということは、ソクラテスは「哲学者」として有名になる以前から「自然学者」として有名人物となっていて弟子ないし研究仲間をもっていたらしいと考えられるわけです。 
ともあれ、この集団の特質としてアリストパネスがあげているのが「自然学の研究」と「邪論の教授」となります。またこの当時ソクラテスを喜劇の舞台に乗せているのはアリストパネスだけではなかったのです。つまりソクラテスは当時アテナイ中誰一人知らない者がいない有名人になっていたのですが、それはどういう点であったのかも問題になるはずで、知られている「貧乏な乞食のような姿」だけでは説明がつきません。 
アリストパネスはその原因として「自然について奇怪な説をもてあそぶ学者ソクラテス」を言っているわけです。この「奇怪性」は、少なくとも外からの姿としてはプラトンの伝える後年のソクラテスとほとんど変わらない印象がありますので、当時から「変わった学者」と見られていたのは確かでしょう。 
さて、このソクラテスを主人公とする喜劇は『雲』と題されているのですが、その中での自然学の性格というと、これは私たちがイメージする自然学とほとんど変わりません。すなわち、『雲』という題名自体が示しているように、これは「群雲を呼び雨と雷を降らす神としてのゼウス」を退け、代わりに「自然的な雲」が雨を降らす本体であるとして自然現象として雨を説明するあり方に集約的に現れています。すなわち、雲が多量の水(水蒸気)に満たされて、満ちた所で必然的に運動を起こし、下に向かって「雨」となって水は降りる、一方その重くなった雲は下方運動を起こすわけだから相互にぶつかり合うことになり破裂してひどい音をだし、これが雷鳴となる、その運動の原因は「雲の渦巻き運動」であり、また稲妻というのは風が雲に入り閉じこめられると内部から雲を膨らまし、それが破裂するときその激しさによって燃焼したもの、といった具合です。しかも、「太陽が下界から水を繰り返し吸い上げている」などといったセリフまであって当時の自然学の観察の鋭さを伺わせています。もちろん客観的にはこれがソクラテス独自の理論であったとはいえず、むしろプラトンの『弁明』でソクラテスみずから指摘しているように、当時の自然学者の代表アナクサゴラス達の意見であったでしょうが、少なくともここではソクラテスがそうした理論をこね回す人物として描かれているのでした。 
クセノポンの証言 
ここで弟子たちの証言を見てみましょう。ソクラテスが後年「哲学者」として有名になってからの弟子であるクセノポンの『メモラビリア』での証言は(クセノポンはソクラテスが60歳くらいの時に仲間うちに加わったと推定されている)、まずソクラテスは「自然学を拒否」する人であった、というのが基本です。ただ、注意しなければならないのが続けて指摘されている「そうではあるけれど、師ソクラテスは自然学や数学の勉強はしていた」という但し書きと、ソクラテスは「有用である限りの勉強はすべきだけれど、度をこしてはならない」と言っていたという但し書きとです。ですから、クセノポンの理解によればこの「度を超す」という部分でソクラテスは「自然学を拒否」していたというわけで、それはアナクサゴラスのようなあり方を意味する、となっています。この但し書きを見ると、後年のソクラテスの自然学への態度ははっきりしているようで、「自然学の勉強はしていた」、したがってその有用性と無駄の部分とを理解しているが、有用である限りはそれを学んでよいが、度をこしてアナクサゴラスのようになってはならない、という趣旨で語っているといえます。ここで「有用性」とかまた「アナクサゴラスのように」とはどういう態度をいうのかというと、有用性ということではたとえば天文学に就いて言えば「種まきや交易のための船出に関わって時期を知り、月や年の時期を知る」というようなことであり、数学に就いて言えば「土地の測量や売買」といった全く功利的なものをクセノポンはあげています。これに対して、「アナクサゴラスのように」とは「太陽は火である、灼熱した石である」といった主張だといいます。 
クセノポンという弟子は「人品・人柄」においては群を抜いて立派な人だったようですが、実は「学問的業績」は殆どない人でした。その優れた「人生のエッセイ」の著作で後世にまで名前を残してくる人物なので「学問的考察」にはいささか欠けるようでした。したがって、アナクサゴラスのことも良く分かってはいないようです。ただ、こうした言い方に、ソクラテスが実際にアナクサゴラスなどを批判していたらしいという事実を嗅ぎ取ることは可能でしょう。 
また別の箇所では自然学者全体を批判したとして、その「実在の数の挙げ方、万物流転を説いたり不動を説いたり生成消滅を説いたり不生不滅を説いたり、互いに矛盾し一つとして意見が一致していない」ということを言っていたと述べています。これはタレス達ミレトス学派、エンペドクレスやアナクサゴラス達多元論者、ヘラクレイトスやパルメニデスを意味しているのは明瞭です。ということは、ソクラテスは彼らのことについても良く勉強していたということです。 
そしてクセノポンは付け加えるように、もう一つソクラテスが自然学の研究を拒絶したのは、こうした自然についての研究は人間の一生を費やしてしまい、他に「大事なこと」の探究を妨げてしまうから、と言っていたということを挙げてきます。 
そしてその「大事なこと」として言っていたのが「人間のこと」すなわち「人間の優れ」、具体的には「敬虔とは何か」「美とは何か」「正・不正について」「思慮」「勇気」「国家」「政治」とかそうした問題をいうとしています。最後の一節について言えば、プラトンが描く哲学者としてのソクラテスが問題にしていたのがこれらの「人間の問題」であったことはいうまでもなく、したがってこの部分はプラトンによっても確証できるでしょう。 
つまりクセノポンは先にも指摘しておいたように「ソクラテスがこうしたこと(自然学)を学ばなかった人間ではない」と言っていました。つまりソクラテスは時折こうした問題についての自分の知識や見解を述べていたということが十分に考えられるわけです。 
そしてクセノフォンの知るソクラテスというのは60歳以降のソクラテスであるわけですからアリストパネスの伝える40歳代の自然学者ソクラテスの時代から20年も後のソクラテスであるわけで、この間にソクラテスは「自然学から人生の哲学」へと移行していたのだと考えられるわけです。 
プラトンの証言 
そしてもう一人弟子プラトンの証言ですが、プラトンの最初の著作である『弁明』の中では、ソクラテスを告発した者が「自然学を問題にしているソクラテス」すなわち「無神論者ソクラテス(自然現象を「神の仕業」としていた時代にあって「自然現象は自然のこと」とするのは「無神論」と取られかねなかった」」として告発していると先ず指摘しています。そして続けて、ソクラテスはそれに対して、その弾劾されている自然学者としてのソクラテスの主張とは「アナクサゴラスの主張だ」と指摘し、「それは自分の主張ではない」ことを言明しているとしています。そして自分がそうしたことの主張者だと誤解をうけているのはかつてのアリストパネスの喜劇に原因がある、と師のソクラテスは弁明している、と書き残しています。この「アナクサゴラスの学説を語っていたにすぎない」というのと「アリストパネスによって自然学者ソクラテスのイメージが固定してしまっている」という二つは事実であったかもしれません。 
そうだとすると、この場合ソクラテスは他人からは「自然学を探究しその知識を披瀝しているソクラテス」となるわけです。これについては後世の最初の哲学史家とも言える「ディオゲネス」の証言もあり、「伝承ではソクラテスはアナクサゴラスの弟子であった」とされています。この弟子ということで文字通り現代的な「師弟関係」にあったととる必要はないでしょう。アナクサゴラスが自説を語っている場所に来て聴講している姿、あるいはアナクサゴラスの書物を読みふけっている姿、そのアナクサゴラスの学説に言及して人々に語っている姿などが何度か目撃されれば「弟子」と評価されたでしょうから。 
確証があるわけではありませんが、おそらくソクラテスとアナクサゴラスの関係はそうしたもので、知的好奇心と探究の精神に旺盛であったソクラテスが、アテナイにやってきて長い間逗留していた「当時の代表的な自然学者アナクサゴラス」の学説をはじめからバカにして問題にしなかったとは考え難いことです。こうしてアナクサゴラスの学説に習熟し、そしておそらくはその「批判」も交えて他人にそれを語っていたとしたらここに評価として「自然学を探究しているソクラテス」など簡単に出てきてしまいます。結論的に言うとこれがソクラテスの実際ではないかと考えられます。 
そして加えて、この「ソクラテスのアナクサゴラス批判」の内容が、実は弟子プラトンの『パイドン』に詳しくみることができるのでした。 
ソクラテスによる自然学批判 
その批判はクセノポンの伝えるソクラテスと同一軸にあるといえますが、さすがにプラトンは「学者」ですからクセノポンなど足下にも及ばない理由付けを伴って語っています。 
ここからの論はいささか「ややこしい」展開となります。ですからはじめに結論だけを指摘しておきますと、ソクラテスは、自然学は物事が「如何にあるか、どのようにあるか」についての説明はできるが、「どうしてこのようにあるのか」については問題にしない、ということを言おうしてくるのです。この場合の「どうしてこのようにあるのか」という問いは、「こうあるのが必然・善だから」という答えに即したものなのだ、と指摘します。人間の場面で言えば、「ここにこう座っていることの原因」として「身体の構造」から説明することもできます。これをソクラテスは「自然学的説明」とするのです。他方、私達がここに座っているのは「ここに座るのが良いから」ということで座っているという説明ができます。ソクラテスは後者の答えを求めて、それゆえ自然学に失望したのだ、と語ってくるのです。この間のいきさつをプラトンの伝えるところで追ってみましょう。 
ここでのアナクサゴラス批判の発端は「魂は不滅であるか否か」という問によっておこされた「事物の生成消滅の原因・根拠」という問題からでした。この問題についてソクラテスは自分の「過去の勉学の軌跡」を話してみよう、と切り出します。つまりソクラテスはそうした問題について昔探究していたというわけでした。ソクラテスは、自分は若い頃あの「自然についての探究」と呼ばれている知識を求めて熱中していたといいます。その時のソクラテスの関心は「事物が何を原因として生じ、また何を原因として消滅し、何を原因としてこのように存在しているかというその原因・根拠であった」と言ってきます。 
これはタレス以来の自然学の根本問題で、自然学者たる限り誰もがその問題について語ってきたのですからソクラテスが「自然学の探究」ということでこの問題こそに関心を持っていて当然だったでしょう。そしてその探究において、「熱と冷がある種の腐敗を得て、その時生物が形成される」のか「血液がそれによって我々が思考するところのものなのか、あるいは空気なのか、火なのか」「それともそれらのどれでもなく、頭脳こそが聞くとか見るとか嗅ぐとかの感覚をもたらして、それらから記憶と思いなし(ドクサ)が生じ、記憶と思いなしが静止することから、それら記憶と思いなしに即して知識が生ずるのか」そして「さらにそれらの消滅をも考察し、また天や大地の性状(パトス)をも考察した」と言ってきます。 
以上に言及されている諸説は実際自然学者の残されている断片にたどることができて人物も或る程度特定できます。これらはクセノポンでも確認できた「自然学者の学説を考察していたソクラテス」のその考察のあり方を詳しくのべたものともいえるでしょう。 
この結果としてソクラテスが行き着いたところは「失望」であったと言ってきます。その失望のあり方をソクラテスは次ぎのように説明します。すなわち、「何によって人間は大きくなるのかと考えた時、以前は、それはだれにも明らかであると思っていた、つまり食べたり飲んだりすることからだと思っていた。すなわち食物から肉には肉が付け加わり骨には骨が付け加わり、そしてそれと同じ論理で他のもの共にもそれぞれそれらに固有のものが付け加わる、その時にわずかな量であったものが後で多となるのであり、そしてそのようにして小さな人間は大きくなるのだ」と思っていたという。さらに、「大きい人が小さい人の傍らに立っている場合、大きいのはまさに頭ぶんだけでだ、と見えたならばそれで十分に思えると考えていた。馬の場合もおなじだ」、さらに「十が八より多いのは二がそれらに付け加わっているからであり、二ペーキュスの長さが一ペーキュスより長いのは半分超過しているからだと考えていた」といいます。ところがこれでは「原因・根拠」を知っているということにはならないということに思いが至ったといってきます。何故かというと、「一に一を加えた時は二になるわけだけれど、その場合、それに付け加えられた方の一が二となったのか、あるいは付け加わってきた方の一が二になったのか、あるいは付け加わった一と付け加えられた一とが一方の他者への付加によって二となったのか、自分を納得させられない」からだと言ってきます。何故納得できないのかというと、「それらのそれぞれが互いに離れて居たときにはそれぞれは一であってその時二とはなっていなかった、それなのにそれらが互いに接近すると、その接近がそのそれぞれの一が二となったことの原因となったのだろうか、つまりたがいに近くに置かれたということの集合が原因なのか、わけが分からなかったから」だといいます。そして次いで、分割によっても二になるが、それは前とは反対のことが原因だということになるなどと言って納得できない理由をさらに言ってくるのでした。 
これはずいぶんと「屁理屈っぽい議論」に見え、「横道にそれた議論」だと見えます。それはともかくとして論を追ってみますと、ソクラテスはこうして「原因」の探究において自らに失望していたとき、ある人がアナクサゴラスの書物を読んで聞かせてくれていたとき「ヌース」という概念が言われていることを学び、「この原因ならば」と喜んだといってきます。「ヌース」というのは通常「知性・理性」とか「精神」とか訳されますが、アナクサゴラスの場合には当然人間の思考主体を指すわけではなく「宇宙摂理」のようなものです。こうした用法は自然学者に珍しくはなく、ヘラクレイトスなども似たようなものを「ロゴス」と呼んでいました。ロゴスとは「言葉、論理、理法」という意味を持ち、ヘラクレイトスの場合は「宇宙理法」といった感じになるでしょう。 
ただこの「ヌース」には一般的用法としての「人間の思考主体としての知性・理性」というものが読み取れてしまうわけで、この場合の知性はものを考え「こうあるのが善い」ということを言ってくるそうした働きが見られてしまうことになります。つまりソクラテスはこのアナクサゴラスの「ヌース」に、「そうあるのが最善という仕方ですべてを秩序づけるもの」を期待し、こうして「生成消滅」「存在」の原因についても「そうあるのが最も善い」という形でそうあらしめる「ヌース」が言われてくる筈とし、ここにその「最善とは何か」が言われている筈、と期待したのだと言ってくるのでした。 
そしてソクラテスはまず「大地は平面なのかそれとも球体なのか(当時地球が球体であることは知れ渡っていた知識であった)」その原因と必然性を「大地はこのようにあるのがより善であったから」という形で語り、また「大地が万有の中心にある」というのだったら、「なぜそれが他のあり方よりもより善」なのかを詳しく論じてくれるだろう、さらには太陽について月について星々についてそれらの運行速度のあり方、夏至や冬至のありかた、天体のさまざまな現象についてと期待したとつづけています。 
これらの天文学的問題は先の生物学的問題と同様自然学者達にとっての身近な問題でした。ですから自然学に興味を持った当時の人々はだれでも当然こうした問を問題にしたはずでソクラテスも例外ではなかったということです。その証言がアリストパネスの『雲』になるわけで、その中のソクラテスもこうした姿を示しているのでした。これは喜劇としてソクラテスの特殊性が際だたされていますが、一方「社会批判」という性格をもっていた喜劇の題材にされているということ自体、これは当時自然学がアテナイに流行っていたことの証拠ともなっているのであり、社会現象となっていたからこそアリストパネスはこれを問題化したのだといえるのです。つまりこうした自然学的探究は当時の社会の一つの傾向を示すもの、社会現象でありソクラテスに特殊のことではなかったということです。 
「善」の要求 
一方、ここでのアナクサゴラスのヌースに「善」という概念を期待したのがソクラテスの失敗だったのであり、ここでソクラテスは「裏切られた」という失望を感じることになったとつづけられます。ただ実の所、先に指摘しておいたようにアナクサゴラスのヌースというのはソクラテスが期待したようなそんな「知性的精神作用」だったのではなく、むしろミレトス学派以来の「自然理法」といったものだったのであり、「善」などという概念ははじめから期待できるような代物ではなかったのです。ですからはじめから「ヌース」という言葉を勝手に解釈した「無い物ねだり」だったのですが、ここに「ソクラテスの問題」を見ることができるという意味で重要な行文になっていると言えます。 
というのも、この「善」ということを問題にしているということは、自然を問題にしているように見えながら結局は「人間の問題」に移行してしまう傾向を示し、実際『パイドン』ではそのように論は運ばれていくのでした。 
しかし翻って、何故自然に「善」などという概念を期待することなどがありえたのでしょうか。それは弟子のプラトンやさらにその弟子のアリストテレスにはっきり理解できます。すなわち、れらには「宇宙の合目的性」が想定され、つまり自然はでたらめにあるのではなく一定の秩序のもとにあり、その秩序は当然「善」をめざしてある、とされるのです。宇宙はそうした「目的」としての「善」に方向付けられたものとして秩序だっているとされるのです。 
それでも「善」というのは「人間の求める価値」であり、自然に見られる概念ではないだろうと反論したくなるかもしれません。それは現代の人間が「自然」と「人間」を分断して二つを対立関係においてしまったからで、当時の世界観においては「自然と人間」は「対立」しているものではなく「同じものであり、同じ理法の下にある」ものだったのでこうした見解が言われても少しも不思議ではないのです。 
ただしソクラテスに限っては、取りあえず、もともとの問題が「人間」にあったからだと考えた方が分かりやすいです(実際は自然も人間も連動しているのですが)。ソクラテス自身そのことを常に言っていたことはクセノポンでもありましたしプラトンでも全体の基調になっているほどです。その人間への関心はおそらく当時の「現実社会での人間のあり方」から喚起されたものでしょう。アテナイの社会は激動していき、その中で生きる人間のあり方は「人間」への関心をよびおこすに十分で、その実例はソクラテスだけではなく当時の知識人であるソフィストたちにも悲劇作家エウリピデスにも色濃く見られます。 
一方、いまだ哲学だの社会学だの心理学だの学問領域の区分など存在しない時代、この人間への問はエウリピデスのように悲劇の舞台で追求されるか、後に出現してくるソフィストのように「社会問題」とするか、あるいは「自然学」の中で行われるしかあり得ませんでした。実のところ、こうしてソクラテスが既存の「自然学」に問題を追求して失敗したことが「新たな探究の道としての哲学」をうみだしたのだとすら言いうるのです。 
ソクラテスの問題 
さて、話しを戻して、ソクラテスはアナクサゴラスの書物を読み進めるうち、彼が肝心のところで「ヌース」という概念を使っていないことに気づき落胆したと言ってきますが、それはつまりあいかわらず「原因」として「空気」とか「アイテール」とか「水」とかこれまでの自然学者が挙げていたような類の原因の説とおなじような原因の挙げ方をしているのを発見したからだといってきます。 
これは、「人間はその行うすべての行為をヌースによって為している」と主張しておきながら、「その後で、人間が行為するそれぞれの行為の原因」を語ろうとして次のように主張するようなものだと指摘してきます。すなわち、人間がここに座っているということの原因として、人間のからだは骨と腱とから形成されている、そして骨の方は固く、連結されながらもお互いから分離しており、他方腱の方は伸縮することが可能で、それが肉やらまたそれらを保持する皮膚と共に骨をくるんでいる、そこで骨がそれらの関節部で動いて腱が伸縮し、そしてそれが人間の体の諸部分を曲げることを可能にし、かくしてこの原因によって人間は足を曲げてここに座っている、といった説明方式だとします。ソクラテスが言うには「ここには肝心のヌースが全然語られていない」となります。 
以上に見られるソクラテスの述懐にあるアナクサゴラスによる原因の説明はいわゆる「自然科学的原因」であることは一目瞭然ですが、この説明方式が「万物の原因としてのヌース」をはじめに想定していたことと矛盾しているというわけなのでした。 
ではソクラテスが期待したヌースによる説明方式はどのようなものであったかと言うと、「今私はここに“座っている”訳だが、その座っていることの原因は、裁判役の人たちが私を有罪とすることが“より善い”と思い、またそれ故に私にとってもまたここに座っていることが“より善い”と思われ、そしてここにとどまり彼等が命ずるであろう刑罰をうけることが“より正しい”と思われたこと」が「ここに座っていることの真実の原因だ」というわけでした。 
ソクラテスは重ねて強調して、もし私がここにとどまり刑罰を受けることを脱獄することより「より正しく、よりうるわしいこと」だと考えていなかったらとうの昔にこの骨も腱も遠くの国にあったことだろう、と言ってきます。ソクラテスにとっては「より善、より正、よりうるわしい」ということが私のすべてを説明しているものなのだ、というわけなのでした。 
この原因の説明方式は一見人間だけにしか通用しない思考判断による原因の説明でソクラテスが始めに問題にしていた生物学的天文学的問題には適用できない説明で、したがってソクラテスは「論を自然から人間にすり変えている」ようにも見えるかもしれません。 
しかし、それはそうなのではなく、このヌースは「宇宙摂理」としてあるのだとソクラテスは理解した(誤解した)限り、これは「人間にも自然にもすべてに適用される原因」なのであり、このヌースは「人間をはじめすべての自然は“善”に即してこうある」として言ってくるべき筈のものだったのです。これが後に弟子プラトンによって精緻な論とされていき、全宇宙の原理ともされる「善のイデア」説を生み出していくことになるのでした。 
しかし、そうした壮大な宇宙論は取りあえず離れるとして、こうして私たちはソクラテスのもともとの問題がどこにあったのかをこの説明のありかたから非常に明白に嗅ぎ取ることができると言えます。それはつまり、ソクラテスのもともとの問題とは「人間の行為、生の根拠」という問題であったということで、その人間の生の根拠、行為の根拠を求め、それを「神話的説明法」ではないところに、すなわち原因を追及しているとされる「自然科学」の場面に求めてみたということなのだろうと推察されうるのでした。 
しかし、その場面でソクラテスは「説明方式の別」に気がついたようでした。ソクラテスは、確かに人間の身体の形状の説明も「座っている」ということの一つの説明にはなっていて、これも無視できないから今見たような自然科学的説明もあり得る、としてきます。しかしそれはソクラテスが期待した「ヌース」による説明ではなく、従って「善・正・うるわしさ」というヌースが言ってくるべき筈の原因の説明ではない、つまり前者は個々の事象・現象の形状的説明であり「如何に」は説明するけど「どうして」という問に答えるものではないというわけなのでした。そしてソクラテスが求めているのは、後者の「どうして」という問、「根拠の問」に答える原因だったのでした。しかし「ヌース」などということをいいだしたアナクサゴラスにして「自然学者」である限りどうしても形状的説明の域を抜けきれないということをソクラテスは発見したのでした。こうしてソクラテスは「自然科学」から決別していくことになったと言えるでしょう。 
というのも、ソクラテスの問題としたものは今の論に明白に出ていた「人間の生の根拠」、「善・正・うるわしさの本質的問」であることはプラトンの対話篇のそれこそすべてで確証できることですから。ソクラテスは「現実社会」での人間のあり方を問題とし、そこでの人間が「優れている」といわれる所以のものを探究し、そして「アレテー(優れ、徳)」の論にその問題は集中していくのでした。この限り「現実社会、現実の人間の優れ」が問題だったのだ、とは言えます。しかしこれは、こうして生きている「人間の根拠の探究」であったのであり、現実に「うまくやる」ことが求められたわけではありません。「現実問題」から「本質への問」になっていたからこそソクラテスは「新しい問の設立者」「哲学者」といわれることになったのであり、この「本質への問」という発想の基盤が、今見てきた若い頃の自然科学の勉強、真実の「原因」を期待し求めた探究のうちに醸成されていただろうということは言えます。 
こうして私たちは、ソクラテスの自然科学との関わりを指摘しうると考えるのです。まとめるならば、若い頃のソクラテスは自然学を勉強していたけれど、現実の中での人間の不確定なありかたをみていくうちに「人間の生の根拠」を求めるようになり、それを「神話的に説明」するのではなく理性によって論理的に「原因の探求」をしていると見えた「自然学」に期待し、アリストパネスが証言しているような形で、すなわち「天地自然のこと」を探究すると見られる形で勉強していたろうということ、しかしその探究の目的は「原因」の探究とはいいながらそれまでの自然科学が示してきたような「如何にあるか」についての説明方式ではなく、むしろ「どうしてそうあるのか」という問であって、これがアナクサゴラスの「ヌース」という概念に求められていったということ、というのもヌースには知性・理性という意味合いがあり「善・正・うるわしさ」を言ってきてこれが「宇宙はこうあるのが善い」という形で説明する「宇宙摂理」と期待され、それは「何故、どうしてこうあるのか」を説明する「根拠の論」と見えたということでした。ところがアナクサゴラスはやはりこれまでの自然学者と同様「如何にあるか」の説明しかしておらず、ここにソクラテスは自然科学の限界を悟ったろうということ、こうして自然科学と離反していき、その「善・正・うるわしさ」をやはり最初の問題であった「人間の場面に限る」という形で「新たに」追求していくことになったのだろう、ということが言いうるわけで、この「新たな探究」の道が後に「フィロソフィア・哲学」と呼ばれる道になっていったというわけなのでした。 
7.ソクラテスの「人間探求」

 

はじめに 
人が「よく生きよう」と思った時、そしてそこにかかわる問題をしっかり見極めたいと思った時、一番根本になるのはいうまでもなくソクラテスです。なぜならソクラテスこそがそうした問題を史上始めて意識的・意図的に、そして方法的に問うた人だからです。ここが原点なのです。ですからこれまでも、そして今でも、多くの人々が何かあると必ずソクラテスに立ち返って行くのです。ソクラテスがすべての人々に勝って特別なのはそうした意味があるからなのです。 
もちろんこうした問題は哲学以前には「神話」が扱っていた問題でした。その流れは「宗教」や「文学」へと展開していきましたが、「哲学」も同じ母体から生じた姉妹だったのです。ですからこの「宗教」「文学」「哲学」は同じように「人間とは何なのか」「人間の生きる意味はどこにあるのか」ということを主要テーマとしているのです。三者の異なりは「宗教は神・仏との関わり」で、すなわち絶対的なものとの関わりで「信仰」という形で問題にします。「文学」は「具体的人間の具体的活動の描き」という形で人間感性に訴えるように描きます。この二つは「神話」の直系の子どもといえます。内容も表現法も近いからです。 
これに対して「哲学」は「人間理性による懐疑と筋道だった追求法」という先行する自然学の持っていた方法論となります。扱われる問題はすでに神話に扱われているものですが、ここには「批判・吟味」という独特のものがあり、語り口も具体的な描写ではなくなり「論理」となります。これが神話と哲学の最大の違いとなります。この「哲学」において「人間の生きる意味」を追求した最初がソクラテスということになるのでした。 
ソクラテスの当時のアテナイの状況 
「生きる」ということが問題になる時には、必ずその人が生きている「社会」というものが大きな問題となります。これは社会体制ということもそうですし、それに伴う「社会の価値観」というものが大きな課題になってきます。「戦士・騎士・武士の社会」では「戦士・騎士・武士の価値観」に関わって「人の生き方」というものが考えられます。 
実は、多くの神話の「英雄伝説」というのはこうした「戦士・騎士・武士の世界での人の生き方」を描いていると言えます。そうした中での「優れた人間のあり方」を描こうというのが英雄伝説となり、そこでの英雄のあり方が「価値」として表現され、ここに「人間としての善・正・美」というものが示されてくることになるのでした。 
他方、ソクラテスが生きていたギリシャのアテナイは、古代社会ではここギリシャにしか見ることのできない非常に特殊な社会形態、すなわち、「民主制の社会」でした。それは、ポリスという小さな「都市」のごときが一つの国家形態をもつという変わった社会であったこととも関係しています。ここで最も特徴絵的であったことは、「自由に考える」ということが可能な社会であったということです。それがソクラテスを生み出すことになるのです。専制君主制の社会では一般市民は奴隷並の扱いでしたから「自由」はありません。ですから「自由に考える」などということもできませんでした。あるいは中世の時代でもそうです。社会的に封建制で貴族が支配しており、一般庶民は「自由にものを考える」なんて夢にも考えられませんでした。しかしそれは貴族・僧侶たち上流階級も同様で、たとえば中世西欧世界では「キリスト教に反対の考え」など言おうものなら「異端裁判」で火あぶりにされてしまいました。古代ギリシャの民主主義社会ではそうしたタブーがなかったので「自由にものを考える」ということができたのです。そのためにこの時代に「哲学」だけではなく、「社会思想」「詩・文学」「悲・喜劇」「歴史・地誌」「政治・経済・法学」「医学」「天文」「生物」「数学」などなどさまざまの分野で「学問の祖」といわれる人たちが輩出したのです。 
ソクラテスはこうした時代・社会の人でしたから「自由人」の代表と言えます。ソクラテスは「社会の価値観」からも自由に物事を考え、社会的価値とは無関係に「人間としての価値的生き方」を考えた人でした。 
ですから、一見するとソクラテスは「英雄時代」の英雄の生き方とは全然異なる、と思われそうです。しかし、実は驚くほどにソクラテスは「神話の英雄」に生き写しなのでした。もちろん確かにソクラテスは「時代の子」としてのありかたを示しており、それはソクラテスを考える時大事な要素ではあるのですが、他方でソクラテスは「時代を超えた」人だったのです。ですから21世紀の今日にあっても問題になる最高人物の一人となっているわけです。 
ソクラテスと英雄との関係ですが、ソクラテスが無実の罪で死刑になるとき、彼は「死」を顧みず戦場に復帰して死んでいった「トロイの英雄アキレウス」を引き合いに出してきます。また、そのソクラテスの人生の引き受け方は、父を殺し母から子をなしてしまうという運命に翻弄されつつ「それが己の人生」として凄惨な人生を自ら引き受けて生きていった「テバイの英雄オイディプス」にそっくりです。彼らは、時代や社会を超えて「人間としての人生に対する誠実さ」を示した英雄だったからです。ソクラテスが追い求めていたものとはそうした「生のあり方」であったのです。私達が「英雄時代の英雄」であるにも関わらず「英雄物語」に心が引かれていくのはそうした「時代を超えた人間としての生き方」を見ることができるからなのです。そして哲学者としては「ソクラテス」こそがその「もっとも誠実な人生」のモデル的人物となっているのでした。 
民主制の問題 
ここで民主制社会という時代の子としてのソクラテスを見ておきます。ソクラテスは民主制が生みだした人ですが、それはもう一つ民主制のもっていた「裏の面」とも関係していました。それは、民主制で一番ものをいうのは何といっても「弁論の術」だったことです。何せ「直接民主制」で、皆が「民会」に出席し、演説し、そして拍手喝さいをうけた者が勝ちをおさめます。裁判も同様です。裁判官は町の人々のなかからクジで選ばれました。遊び人だろうがヨボヨボ爺さんであろうが関係ありません。検事も弁護士もいませんので、自分で弁論しなければなりません。ここでも、うまく相手をやっつけた方が勝ちです。相手をやり込めるか、裁判官の気にいるような弁論、おべっかを使うとか、カッコイイしぐさで拍手喝さいを得るかすればいいのです。こうして、黒だろうが白だろうが関係なくなります。 
こうした社会で活躍したのが「ソフィスト」と呼ばれる人々でした。ソフィストというのは「知者」という意味で、要するに、「教師」と考えてよく、彼等は「若者の教育」ということで「弁論術」を教えてお金をもうけていたのです。しかし、その教える内容が、「真実」ではなくて、「そう見せかける」「黒でも白と見せかける」という所にあったのですから、これはソクラテスにとって大問題でした。なぜなら、「真実などない」といっているのと同じでしたから。 
プロタゴラス 
プロタゴラスはそのうちの一人で、「万物の尺度は人間である」という言葉で有名です。このもともとの意味は、「人の形成する国政、社会常識、慣習」は社会ごとに異なっていて、人はそこの価値観で育ち従って国政や社会の異なるところで価値観も異なる、というような意味で、彼は多くのポリスを尋ね歩いて社会を観察した結果そういう結論を出したと推察されます。 
確かにこれは今日の社会にも当てはまります。しかし、これはつきつめていきますと、「正・不正、善・悪、美・醜」も社会ごとに、いや、人ごとに異なるということになってきます。これも確かにそう言えそうです。しかし、そうなりますと、ある人に「正しい」と思われたならば、その人にとっては「それが正」ということになり、それは人ごとに異なり、争いになってしまいます。で、結局、一番強い人の言うことがまかり通る、ということになってしまいます。社会の在り方は何だかんだいってもこういう印象がぬぐいきれません。プロタゴラスはこういった在り方をズバッと核心をついて言っているので重要なのですが、こうなりますと彼の立場というのは懐疑論、ないし不可知論的な立場、つまり、真実はあるのかもしれないし無いかもしれない、いずれにしろ人間には知ることができない、といったような立場になってしまいます。 
ソクラテスの疑問 
しかし、それはソクラテスにとっては大問題でした。なぜなら、「正しいこと」の基準などない、ということになりますと、「人は勝手に好きなようにしていて構わない」ということになります。法律といったって、これもようするに「人」がつくったものなのだから、もし気に食わなければ「強くなって」それをいいように運用したり変更したりして構わない、ということになってきます。実際、社会はそんな風にも見えるのですが、「人間ってそんな風に生きていいのだろうか」とソクラテスならずとも思ってしまいます。 
ソクラテスの問題とは「良く生きたい」ということでした。ところで、私たちにとっても最も望ましいことは、その考える具体的内容はさまざまであっても、「幸せ」と言い換えられます。一方、その「幸せ」というのは、一般には「財産」とか「地位」とか「名誉」とか考えられています。しかしそれらは、もちろんあるにこしたことはないわけですが、必ずしも本当の意味で幸せを保証するかとなるとそうでもない、ということに気が付きます。そして次ぎに「健康」とか「家族」とか「友人」とか「恋人」などと考えていくわけですが、これらも要するに「外的な要素」であり「付け加わってきたり無くなってしまう」ものですから、どうも良くわからなくなってきてしまうわけです。つまり「欲求は際限がなくなり」そして「付け加わってきたりなくなったりするのが当たり前」となり、すると「どうだったら幸せ」なのかわからなくなるという筋道だからです。 
そこでソクラテスは考えるわけですが、物事というのは何であれ「それがそうであるということが十分に発揮されたところ」に「そのもののよさ」があると考えました。譬えれば、ナイフは「よく切れる」ことで「よいナイフ」といわれます。同様、ピアニストは素晴らしい演奏をすることにおいて「よいピアニスト」であり、そこに「ピアニストとしての幸せ」があります。だとすると、人間も最も「人間らしくある」ことにおいて「最もよく」したがってそこに「人間としての幸せ」もあるのではないかと考えました。そして財産も地位も要するにそれらはそれ自体としての価値を持つわけではなく「それを用いる人」によって良くも悪くも働くと考えました。したがって問題は「人間性」にある、となったわけです。ですから、「よく生きる」ということは結局「人間としての優れ(アレテーといいます)」つまり「善・正しさ・美しさ」というところにあるとしたのです。 
人はそうしたものを獲得しなければなりません。しかし、こんなもの誰も本当の所は分からず、神様だけしか知らないようなものです。でも人間はそういう知を得たいと思います。神様のような「知者(ソフォス)」にはなれません。しかし、そうした「知を愛する(フイロソフォス)」にはなれます。こういった立場をソクラテスは示してくるのです。「フィロソフォス」とは本来こういう意味での「愛知者」を意味していたのです。 
ところでここには「人間の優れ」や「善・正しさ・麗しさ」を、社会によって規定されているようなレベルのものではなく、「本質そのもの」として捕らえる思考がありました。プロタゴラスの場合、「人間の優れ」も「善も正しさ」も社会によって決定されているものでした。したがって、そこでは「幸福の内容」まで決められているのです。ですから「知者=ソフォス」という立場を示すことができます。しかしソクラテスの立場はそうではないのです。例えば、正しいという行為も、具体的にはさまざまの姿をとっており、しばしば矛盾をし、なにが「本当には正しいのかわからない」というのが現実だという認識があります。これはプロタゴラスもそうでしたが、彼はここで「社会の習慣」をとりあえず善・正と認めようという立場を取りました。しかし、ソクラテスは徹底して「分からないものは分からない」とする一方で、その分からないものへと(行き着くことはないけれど)探求の道を進めて行くべきだ、としたのです。このプロタゴラスとソクラテスの分岐点は、プロタゴラスが結局「正しさ」というものを「具体的な場面」でしか考えられなかったのに対して、ソクラテスは「正しさ」というものを「本質的」に考えられることができた点にある、と言えるでしょう。 
本質的にとは、一つ一つの具体的な異なった在り方をしているものに共通している「本来的在り方」のようなもので、例えば「人間の本質」というのは個々の異なった人間達に共通していてその異なっている人達を全員「人間」と呼ぶことができるようにさせている「本来的在り方」のことですが、こういった視点で考える時「本質的」な考え方と言われるわけです。ソクラテスは、個々の具体的で異なった正しい行為に共通していて、それらが異なっているにもかかわらず皆「正しい」と呼ぶことができるようにさせている「正しさそのもの」「正しさの本来的在り方」みたいなもので考えている、ということです。人間についても人間を具体的にとらえるのではなく、「魂」といった全ての人間に共通した「本質的在り方」で捕らえるようになります。 
いってみればここにソクラテスの独自性と歴史的意味とがあるのです。実際のところ「人生への問い」そのものは太古の昔から人間がいた限りにおいてあったものだと言えます。しかし、それはこの現実の場面から離れることはなく、その限り一つの「限定」のもとでの探求でしかなく、それは先に示したようにソフィストの場面で明確にされてきました。この場面では「人の優れ」や「善・正しさ・麗しさ」は「社会によって決定されている」ので、その社会の価値観に合わせて「どのように」実現させるか、だけが問題になってくるに過ぎません。もちろんそこには人間の欲望、情念、また遇運などもありうまくいかないわけで、そこにドラマが生じてホメロスやギリシャ悲劇の物語が書かれることになったのですが、基本的に「ある特定の社会の中の人間」だけしか考えられていないのです。したがってここには「普遍性」というものがありません。つまり人間を「本質的」に問題にするという意識はなかったからです。しかし、こんな問題意識は現代でもなかなか難しいと言えます。こういった問題意識がポイントとなるのです。 
知者の探求 
こうしてソクラテスは「人間の優れについての知の探求」へと入っていきます。そして世に賢者の評判のある人物を歴訪していくことになったといいます。始めは政治的なリーダー達、ついで文化的リーダーとしての詩人達、そして最後に技術者を訪ねますが、結局「政治的リーダーは何も知らない」「詩人は立派なことを書いてはいるけれど、その書いていることについて何も知らない」「技術者はなるほどその当人の技術についてはよく知っているけれど、しかしそのゆえをもって肝心のこと(人間の優れ)まで知っていると錯誤してしまっている」という結論に達したと告白してきます。 
ここでの肝心なことというのが、先にいっておいた「人間としての優れ」ないし「善・正しさ・美しさ」ということになるでしょう。しかし、本当に彼等はそれについて「無知蒙昧」な人達だったのでしょうか。だとすると彼等をリーダーとして認めていたアテナイ市民も馬鹿ばっかりということになりそうです。そんなことはないでしょう。彼等も一流の人士だった筈です、ただしそれはプロタゴラス的な場面でであって、当時認められていた「社会の価値観において優れた人達」だったのです。しかし、これがソクラテスの眼からすると駄目ということになるのは、プロタゴラス自身が批判されたのと同じ関係においてです。 
彼等はアテナイ社会で認められている「人間としての優れ」を信じ、社会が認めている「善・正しさ・美しさ」を前提していたのでしょう。一方ソクラテスは説明しましたように「本質的」に考えようとしていますから、彼等の態度は「一つの価値観を盲信している」無知な連中ということになってしまうのです。つまりソクラテスは「人間の優れ」を社会が認めている人間の優れ、すなわち「地位・財産・名誉職・権力」と言った方が早いでしょうが、そうしたレベルでは考えていないということです。先にも示しておきましたようにソクラテスは人間も本質的に考えそのレベルでの「優れ」を考えていますので、それを忘れてただ「地位・財産・名誉・権力」を考えて偉くなった人達は批判の対象になってしまうのは当然でした(無論、偉い人全部が駄目とされるわけではなく、人間として立派な人は正当に評価されます「正義の人」として今日まで有名な政治的リーダー、アリステイデスなどがそうです)。 
魂の配慮 
そうしたソクラテスの立場を言っているのがいわゆる「魂の配慮」という言葉です。魂というのはこの場合譬えてみれば「車と運転手」の「運転手」に譬えられます。車の方は「肉体」ということになります。つまり私たちは具体的には「肉体」が動いているわけですが、それはそれ自体が動いているわけではなく、外から入ってくるデーターを感覚し、それに対して感情を持ち欲望をもちつつ「考え判断し決断して」車を動かす「運転手」に相当する「魂」が動かしている、というわけです。この魂の優れが何より大事なのは「車」の譬えでも説明つくでしょう。運転手が駄目な車はとんだ迷惑になってしまいます。そしてこの「魂の優れ」とは当然「財産・地位・名誉・権力」などではなく、「よく、正しく、美しく」いってみれば「勇気あり、賢く、節度あり、敬虔な」所に実現しているわけです。これこそがソクラテスにとっての「人間の優れ=アレテー」であったのです。ですから時にこれは「徳」と訳されてしまうこともあります。 
不知の知 
こうした文脈で、いわゆる「不知の知」ということが言われてくるのですが、これはようするに以上にみてきたような「人間の優れ」「善・正しさ・麗しさ」の本質について人間は本当のところを知らないが、その限り「不知」であるけれど、人間は「知らない」ということを「知る」存在だ、という人間のありようと、そういう存在であることの自覚を促す(つまり自分は正しさについて「知っている」といった態度をとるのではなく、むしろ追及さるべき問題として自覚し追及しながら今を生きて行く)ソクラテスの立場を示した言葉です。そして、この不知というのは、「何も知らない」ということより、今言及したような「善・正しさ」などについて現実社会の盲目的肯定の態度からそれを「疑い、吟味」する態度を意味しています。 
「対話法」「産婆術」 
そうして「追求」していってもこれは人間である限り行き着くことはないでしょう。ただし永遠に得られないというのは「完全には」ということであって、追っても無駄ということをいっているわけではありません。頂上まではいけないにしてもかなり高いところまではいけるのであってフィロソフィアの目的とはその「登攀」そのものにあるのです。 
そしてこの登攀の道が「理性と論理による吟味の道」という形で示されてくることになります。その道がいわゆる「対話法」とか「産婆術」とかよばれるやり方でした。これは例えば勇気なら勇気について二人ないし数人がお互いに意見を出し合い、吟味してどんな小さいつまらないものであっても矛盾がないかを見出だし批判し、さらに修正意見を出し、それをまた吟味し、また修正し、というやり方で、どんな下らない反論にも動じないような強固な意見を見出だして行く、という方法論でした。 
この見いだしていくのは「本人」がしなければならないことで、盲目的に他人の意見に従ったり、あるいは従わせてはならず、年長者の場合なら若い者に「刺激」を与えたり「経験・知識などの思考材料を与えたり」「考え方を指導したり」していく一方、若い者は自分の「経験・知識の不足」を自覚し「謙虚に」学んでいく姿勢を持っていなければならないとしていました。これを「産婆」のやり方になぞらえて「産婆術」と呼んでいます。 
こうして見出だされていったものはもちろん議論上のこととされるのではなく、人生上のこととして「生き方の原理」にされていかなければなりません。たとえば「人はどんな仕方であれ不正を働いてはならない」といったような命題があり、これはいかなる議論をもってきても揺るぐことがない、としてこれを行動の原理にしていました。これは結局、ソクラテスが不当な判決であったとしても「裁判を受け入れる」として裁判所に出向いて十分正当と認められる論告を許されたその結果であるからとして「死刑判決」を甘受した理由の一つになってきます。つまり裁判官達の「判断の愚鈍さ」はあったとしても裁判そのものに「不当性」はなかったという理由からです。その正当性に対して今更脱獄などしては(裁判時、アテナイを出国すると申し出れば間違いなく認められたと考えられています)、これは「不当な行為になる」とソクラテスは言ったのです。こんな具合にソクラテスの示した「哲学」というのは具体的なものだったのです。なお、ソクラテスとそれに続いた人たちについては別途「生と死を見つめた哲学者たち」で紹介していきます。 
 
ギリシア神話のパンドラの箱と 
 旧約聖書の創世記に見るジェンダーのアナロジー(類似性)

 

古代ギリシア社会では、日常生活において女性の発言権や地位が極端に低いわけではなく、アリストパネスの喜劇女の平和では、セックス・ストライキを敢行したアテナイの女性たちが戦争を停止させることに成功したりもする。  
ギリシア神話の最高神であるゼウスが配偶者の妻ヘラの目を盗んで盛んに浮気を繰り返し、多くの子を作るように、ヘレニズムの文化ではユダヤ教・キリスト教のヘブライズムの文化に見られる禁欲的な道徳規範は存在しないのである。無論、現代のイスラム教圏に見られるような女性に性的快楽を禁じようとする倫理観は殆どなかったし、不倫や浮気を姦通罪の刑罰で罰するような法的慣習も存在していなかった。  
古代ローマでは、配偶者のみを愛するという家族秩序が国家の礎となると考えた初代皇帝アウグストゥス以降、既婚者の不倫に刑罰を科して罪悪視するようになる。しかし、それ以前のユリウス・カエサルの時代までは、未だギリシア的な性の解放の雰囲気が濃厚に残っていて、最高権力者となるカエサル自身が既婚者の女性と不倫行為を繰り返しているような有様であった。  
古代ギリシアの文化圏は、男尊女卑的な社会風潮は確かに存在していたが、女性の性的抑圧としての性道徳に関しては地域差(各ポリスの伝統慣習)もあるだろうが、一神教の文明圏と比べて余り厳しくはなかった。男性同士の同性愛や少年愛が、自然な性愛の一種と考えられていたような時代であるから、キリスト教やイスラム教にある生殖と無関係な快楽目的の性行為を罪悪視する厳格な性道徳とは無縁だったのである。  
とはいえ、古代ギリシア文化が男性原理に基づいて形成されていることは、男性神のゼウスを主神とするギリシア神話の幾つかのエピソードから明らかであり、男性原理を前提とする父権宗教であるユダヤ教やキリスト教の聖典旧約聖書の中には、ギリシア神話を原典としているのではないかと思われる話が収載されている。  
無論、ギリシア神話は一神教のヘブライズムと比較すれば、女性原理から男性原理の過渡期にあるかのような描写や伝説が多く、大地母神ガイアが、全ての神々の原初的母胎であるように、生命を誕生させる女性性が重要視されていると読むことも出来る。  
ギリシア神話では、前述したパンドラの壺(パンドラの箱)の物語で、女性のパンドラが人類全体にあらゆる災厄と不幸を撒き散らしたとしているし、ユダヤ教やキリスト教では、創世記において男であるアダムのあばら骨から女であるイブ(エバ)が創られ、アダムによってイブの名が女に与えられる。  
男のあばら骨から女の生命が創造されるという現象は、有性生殖をして母胎に胎児を宿すという自然の摂理から説明することは出来ないが、男性性の女性性に対する優位性を示す為に創世記のイブ誕生の物語が生まれたと考えられる。  
神による天地創造とアダムとイブによる原罪を説く旧約聖書の創世記では、神の命令に背いてエデンの園の中央に生る知恵の木の実を食べたイブ(エバ)の行為こそが、人間が生まれながらに背負う原罪の原因であるという。アダムとイブは、エデンの園では、完全な調和と安楽、そして永遠に尽きることのない生命を与えられていたが、神との契約(命令)に背いた為にエデンの園を追放され、現在の人間のように有限の生命と病気の苦しみ、心の悩みを持つ不完全で脆弱な存在となったのである。  
イブは、エデンの園に住む一匹の狡猾で口の上手い蛇にそそのかされて、神が食べてはならないと命じた知恵の木の実を取って食べてしまった。知恵の木の実を食べた瞬間に、アダムとイブはお互いが裸でいることに耐え難い羞恥心を感じ、無花果(いちじく)の葉で局部を隠したという。  
さて、主なる神が造られた野の生き物のうちで、蛇がもっとも狡猾であった。蛇は女に言った。園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのですか?  
女は蛇に言った、わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました  
蛇は女に言った、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです  
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた(創世記3章)  
こうして罪は一人の人間によって世に入り、罪が死をもたらしたため、罪によって死がすべての人に広がった。パウロ(ローマの信徒への手紙 5:12)  
知恵の木の実は、道徳的な知識を与える木の実とも、文化的な教養を与える木の実ともいわれ、あるいは、セックスの喜びの知識を与える木の実ともされるが、教理学的には神の絶対の命令にはその内容いかんに関わらず絶対服従しなければならないことを示しているという。  
一神教では、主なる神に対して何故、それをしてはいけないのですか?それにどういう意味があるのですか?と質問したり反論することは許されておらず、そういった神の真意を問う態度自体が罪深いとされる。イスラム教で豚を食べてはならないことに科学的な根拠や客観的な理由があるわけではないが、神が預言者にそう啓示しているから従わなければならないというだけのことである。ヒンズー教は多神教であるが、ヒンズー教徒が牛を神聖視することにも特別な意味や理由があるわけではなく、そう神の教えで定められていて慣習的に牛を崇拝しているから従うというだけである。  
男性原理を基盤とするギリシアとヘブライの宗教文化の話に戻ると、ギリシアでは女性のパンドラが人類に災厄と悪徳を撒き散らし、旧約聖書でも女性のイブが人類に原罪の罪悪と苦悩をもたらした。これは、人間社会にある災厄・不幸・苦痛・病魔の原因を女性の邪心や誘惑、性質に求めようとする神話物語であり、これらの宗教原理が男性原理に立脚している一つの証左でもある。  
上述したように、ギリシア文化では、女性に参政権はなかったが、ヘブライズムのような女性の誘惑的な性のあり方を罪悪視する男性主義的な倫理は存在しなかったので、一神教のヘブライズムよりも男性原理の父権主義の影響度は弱いといえる。  
イスラム教の文化圏では、公共の場において女性の性的魅力が開示することを極端に嫌悪し抵抗を示す。イスラム原理主義の影響が強い地域の女性が、ブルカという身体をすっぽり覆う独特の民族衣装を纏っているのは、夫以外の男性に自らの性的魅力の源泉である素肌やボディラインを見せない為であるという。  
男性原理の影響を強く受けた宗教・文化・地域では、男性の欲情や興奮を掻き立てる原因となる女性の身体的魅力や色香を出来るだけ公共空間から隠蔽しようとするが、これは共同体の秩序や軍事活動に備える緊張感が、女性の身体的魅力や性的誘惑の横溢によって低下することを嫌った結果かもしれない。  
性的な享楽や放蕩は、精神を弛緩させてリラックスさせるが、余りに性の要素と誘惑が社会に充満しすぎると退廃的な空気や無気力な倦怠感を生み出しやすく、群雄割拠する戦乱の時代では共同体消滅の原因にもなりかねない。  
また、異性との性行為や恋愛の成否は、嫉妬や逆恨みといったルサンチマンの原因となりやすく、現代社会にあっても異性を奪い合っての揉め事や事件が起こることがある。その為、男性原理に基づく社会では、配偶者という決まった相手以外の性交渉(婚外交渉)を罪悪視して、不倫を含む自由恋愛を禁止することで、性関係の社会秩序を維持している側面もあるだろう。  
禁欲的な生活習慣を幼少期から身につけるスパルタが、ギリシア最強の軍団を組織していたように、ある程度、贅沢や快楽、華美を生活から遠ざけたほうが身体的な鍛錬や軍事的な活動に適していると考えられていたことも、古代世界で男性中心主義的な宗教や法が確立した原因の一つだろう。  
現代社会でも女やセックスに溺れると人生を失敗するというような格言や実例は数多くあり、ある程度の性的な抑制や異性に対する自制心がないと、仕事におけるパフォーマンスやスポーツ(格闘技)に必要な闘争心を発揮できないと語る人も多い。  
誰にでも性的誘惑を仕掛けるような男性・女性が軽蔑されやすい倫理観は、どういった理由から構築されてきたのだろうか。男性の場合には、自分の子孫を確実に残したいという生物学的根拠が中心となっているように思えるし、女性の場合には、自分の子孫を安全に育て上げたいという家族秩序維持の心理(や独占欲の要因)が中心となっているだろう。社会規範としての性道徳は、労働意欲を維持して継続的な生産活動(仕事・労働)を行う為の家庭環境の保護と密接に結びついていると考えられる。  
共同体間の戦争が頻繁に起こる古代社会では、社会の生産力や軍事的な防衛力、精神の健全性(緊張感)を維持する為に、女性原理が支配する母権社会よりも男性原理が支配する父権社会のほうが環境適応度(共同体の存続可能性)が高いと無意識的に判断されていたのではないかというのが私の現段階での推測である。  
しかし、古代のギリシアやオリエントの世界には、神殿専属の聖性を帯びた娼婦である聖娼の存在が確認されており、神に捧げる聖なる儀式としての無償の性行為が神殿で行われていた。その意味では、同じ男性原理社会でもヘレニズムとヘブライズムのセクシャリティには埋めがたい大きな断絶があるし、性的な抑圧や禁忌(タブー)が少ないヘレニズムには、母権性社会の太母(グレートマザー)的な包容力や寛容性の名残が強く感じられるのである。  
ギリシア神話と旧約聖書の物語の共通性としては、ギリシア神話のデウカリオンの洪水と旧約聖書のノアの方舟のエピソードを上げることが出来る。古代ギリシア文明が人類に残した遺産として、ここでは民主主義政体とギリシア神話について雑駁と述べてきたが、もう一つの重要な文化的遺産は、世界の普遍的原理や科学的な一般法則を探究する哲学(学術全般の萌芽)である。 

 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。