八百万の神 [うえ] 
                      
 
  うえ かき  
 
宇賀神

うがじん 
老人の頭を持った白蛇の姿で、仏法擁護のため未来衆生に福を施与するため、昼夜七宝を降らし衆生を利益する誓願を立て福徳を与える神様。普通、弁天様の頭上に座って いる。 
もとは稲の実りを掌る「ウガ」「ウケ」という神だったが、米が通貨代わりに使われていたことから富の神となった。インドで白蛇を「ウガヤ」と呼んでいたことが、この神を蛇にさせたとの説もある。仏像では白蛇を宝冠をいただいた像になっており、場合によってはそれに鳥居を付加するものもある。

 
宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ 
<稲荷神/倉稲魂神 
*伏見稲荷(京都)/笠間稲荷神社/三囲神社 
宇迦之御魂神は一般に「稲荷神」の名前で親しまれている、全国稲荷神社の祭神。宇迦之御魂神は基本的には穀神で、出自は須佐之男神と神大市比売神(大山祇神の娘)との間の子供で、大年神の妹に当た る。一般に大宜都比売神・保食神と同一視され、伊勢神宮外宮の神である豊受大神とも同一視されている。 
本来は豊作をもたらす農耕神で、現在では商業の神ともされている。キツネは稲荷神社の神使である。地方の小さな稲荷神社では、お稲荷様を祭るだけではなく、氏神様や産土神、その他大神社から勧請して祀 っている神様も一緒にいるケースもある。  
「お稲荷さん」と親しまれている稲荷大神は日本人に最も身近な神さまで、殖産興業、開運招福、火防(ひぶせ)の守護神として、広大無辺のご神徳 で多くの人々に崇敬されている。 
「イナリ」の語源は諸説あり、「イナリ」は「イネナリ(稲成、稲生り)」で、稲が育つさまを表しているとも、「イネカリ(稲刈)」の「刈」が「荷」に誤られたとも、「イナニ(稲荷)」が「イナリ」に転訛したとも言われてい る。「ウカ」は「貴い食物」を意味し、宇迦之御魂神とは、「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまで あるす。 
 
母の神大市比売神は神名「市」から「市場」「流通」の神で、兄神の大年神は「大年(おおとし)」「大稲(おおとし)」の神で、お正月に「年神さまを迎える」という時の「年神さま」に当た る。 
笠間稲荷神社 
ご祭神は宇迦之御魂神で正一位という最高の位をもつ神様。日本三大稲荷のひとつで創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651)とされ る。奈良時代の和銅6年(713)に、元明天皇の詔によって編纂された「風土記/常陸国風土記」に「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記されている。  
食物の神、農業の神として崇敬されていた笠間稲荷大神は、商工業が盛んになるにつれ殖産興業の神としての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまで分霊をいただき、屋敷神や家庭神、地域神として祀るようにな った。 
江戸時代に歴代笠間藩主の崇敬が篤く、初代藩主の松平康重は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神さまの分霊を迎し、今の王子山稲荷となっている。第五代藩主が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の曾祖父/浅野長重で、第六代藩主が祖父/浅野長直で 、大石内蔵助も笠間藩から笠間稲荷大神の分霊をもらい邸内にお祀り、大石稲荷神社となっている。浅野家、大石家とも笠間から赤穂へと移っても崇敬し続けた。  
 
昔からこの地に胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまを祀ったことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれてい る。また第十三代藩主井上正賢の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになった。 
三囲神社(みめぐりじんじゃ・墨田区向島) 
伝説では中世の創建とされるが、現在の社殿は安政年間の建築。600年ほど前の文和年間、近江国三井寺の僧源慶(げんけい)が東国を巡礼の途中、隅田川のほとり牛島のあたりを通りかかると荒れ果てた小祠を見つけ農夫にその由来を尋ねると、弘法大師創建の由緒ある祠であると聞いた。源慶はそのさまを深く悲しみ自ら再建に着手しようとして地面を掘ったところ、白狐にまたがった神像が納められた一つの壷が出てきた。その時どこからともなく白狐が現れ、神像のまわりを三度めぐって消え去った。この故事から「みめぐり」の名が起こったと伝えられる。  
老翁老嫗の石像/元禄の頃、この三囲神社の白狐祠を守る老夫婦がいて、祈願しようとする人が老婆に頼み田圃に向かって狐を呼んでもらうとどこからともなく狐が現れ、願い事を聞き、また、いずれかへ姿を消してしまうが他の人が呼んでもけっして現れることがなかったという。 
其角「早稲酒や狐呼び出す姥が許」  
 
鵜葺屋葺不合命 うがやふきあえずのみこと 
*鵜戸神宮 
神武天皇の父 
山幸彦として知られる天津日高日子穂穂手見命と、海の神様の娘豊玉姫神の間の子。豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚し、神武天皇を産んだ。日本書紀・古事記/この鵜葺屋葺不合命はただ一人 だが、上記(うえつふみ)ではこの名前を襲名する72代に及ぶ王朝があったとしている。 
保食神 うけもちのかみ 
<大宜都比売神(おおげつひめのかみ)  
*岩内神社/猿賀神社/金峰神社/玉崎駒形神社/竹駒神社/箭弓稲荷神社/建穂神社/わく繰神社/犬頭神社/亀山八幡宮  
食べ物の神、五穀の神、養蚕の起源神  
イザナギ神とイザナミ神の子。保食神は日本神話に登場する神。古事記には登場せず、日本書紀の神産みの段の第十一の一書にのみ登場。一般には女神とされる。 
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。 
この神話から、保食神は食物の起源神とされている。 
駒形神社・保食神・馬頭観音 
東日本に多い「駒形神社」は祭神を保食神とするところが多い。青森県では、保食神社といふ名で同じ祭神が祀られ、元は馬頭観音を祀ったという。各地の駒形神社も馬頭観音を祀ったものが多い。馬は関東東北では、かつては家族の一員のように扱はれ、またオシラ様(蚕神)などの神を乗せて現はれる動物でもある。保食神は穀物や蚕のほかに牛馬をつかさどる神であり、また「頭に牛馬」といふ姿から馬頭観音と同一と視なされたらしい 。
 
鵜葺草葺不合神 うがやふきあえずのかみ 
皇祖神/初代天皇であり国祖である神武天皇の父 
「海幸彦山幸彦」神話の山幸彦(ヒコホホデミ神)が、海神の娘のトヨタマヒメ神と結婚して生まれた神。海宮で懐妊したトヨタマヒメ神が、天神の子は海原で生むことはできないとして海辺へあがり、鵜の羽で産屋の屋根を葺き始めたが、まだ拭き終わらないうちに生まれてしまった。 
天皇家の祖神とされる神々は、いずれも穀物に関する名前(日、火=穂)を持つのに対して、この神だけが異質。皇室の支配力の大きさを象徴するために、山と海の霊力が合わさったこの神が考えられ、新たに皇祖神の系譜に挿入されたのではないかという説もある(そうだとすれば観念的に作られた神ということになる)。父の山幸彦や子の神武天皇に比べ、この神が神話でこれといった活躍をしていない不思議さもうなずける。 
神話では、生みの母のトヨタマヒメ神が、出産を夫に見られたことを恥じて海宮に帰った後、姉に頼まれてやってきたタマヨリヒメ神に教育され、成長すると叔母であるタマヨリヒメ神と結婚して神武天皇の父となる。
宇摩志阿斯訶備比古遅神 うましあしかびひこぢ 
<
何美葦牙彦舅尊 
別天神の五神の一柱。少名毘古那神の兄神。まだこの世界が整っておらず、脂が浮かんでる海月のように漂っていたころ、そこから葦の芽のように萌えあがるものがあった。その萌えあがったものより生まれたのが、この神である。 
宇麻志のウマシは広義の意味で美しさ・善いものを表現する言葉で、阿斯訶備のアシカビが葦の芽、比古のヒコは男の名で彦と同義、遅のヂは父や舅などのチで接尾語である。「盛んな勢いで萌え立ち上る力」という意味の神名である。
 
海幸彦 
 -山幸彦(火遠理命) 
やまさちひこ(ほおりのみこと)
うみさちひこ 
<火照命(ほでりのみこと) 
*青島神社など   
邇邇芸命と木花咲耶姫の長男 
天孫降臨で降りてきた邇邇芸命(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の間の子供は、生まれた順番に、火照命(ほてりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほをりのみこと,天津日高日子穂穂手見命)でした。この火照命は海幸彦としてさまざまな魚を採り、火遠理命は山幸彦としていろいろな獣を採った。 
ある時山幸彦は兄の海幸彦に「一度お互いの道具を交換して仕事をしてみましょうよ」と言いますが兄は許しません。しかし何度も言う うちに承知し、海幸彦が狩りの道具を持って山に、山幸彦が釣りの道具を持って海に出掛けた。  
二人とも馴れぬことをしたので、どちらも全く獲物を得ることができなかった。それどころか山幸彦は兄の釣針をなくしてしまった。海幸彦は怒って、釣針を返せと言 った。山幸彦は自分の剣を割って500本の釣針を作って返したが「あの釣針でないと駄目だ」と言われた。更に1000本作っても兄は変らなかった。  
困って山幸彦が海辺に行き、途方にくれて海を眺めていると塩椎神(潮流の神様)が「どうしたんですか」と声を掛けてきた。山幸彦が事情を話すと「それでは私の言う通りにしてご覧なさい」と塩椎神は助言をしてくれました。「ここから舟に乗って潮に流されるままずっと行きなさい。私が貴方を導きましょう。やがて宮殿が見えてきます。そこは綿津見の神の宮殿です。そこの入り口の近くの泉のそばに1本の木があります。そこに登って待っていなさい」と。  
 
山幸彦が言われた通りにすると本当に宮殿が見えてきた。山幸彦は舟を降り、泉のそばの木に登った。やがて宮殿の門から一人の女が出て来た。女は水を汲みに来たようでしたが、泉の水面に映った山幸彦の姿を見てびっくりして見上げ た。山幸彦は「水を一杯くださいませんか」と言ったので、女が容器に汲んで渡しますと、山幸彦は自分の持っていた珠を口にんでから容器に吐き入れますと、珠は容器から離れなくなってしま った。 
女は不思議に思い、容器をそのまま自分が仕える姫様、豊玉姫の所に持っていった。豊玉姫がどうしたことかと聞くと「入り口の泉の木の上にそれはたいそう立派な男の方がおられます。水を所望なさったので差し上げましたら、この珠を容器に入れられました。すると取れなくなってしまったのです」と答えた。豊玉姫は興味を持って自ら入り口まで出て、木の上の山幸彦を見た。一目で好きにな り、にっこり微笑むと山幸彦も微笑み返した。  
豊玉姫は父の綿津見の神の所へ行き、男に中に入って頂いていいかと許しを求めた。綿津見の神も出て行って木の上を見ると「これは天の神の御子ではありませんか。どうぞお入り下さい」と招き入れ丁重にもてなし、立派なご馳走を差し上げました。そして山幸彦と豊玉姫は結婚し3年の月日が流れました。  
さて幸せな日々にすっかり自分が来た用事を忘れてしまった山幸彦だが、釣針のことを思い出した。豊玉姫に相談しますと、父の綿津見の神が魚たちに大集合を掛け、心当たりのある者はいないか尋ねました。何匹からの魚たちが「近頃赤鯛が喉に骨がささって痛いと申しております。もしかしたらそれではないでしょうか」と言 った。そこで赤鯛が呼ばれ、喉を探ったところ思った通り釣針が出てきた。  
綿津見の神は釣針をきれいに洗い山幸彦に返し、婿殿はこれから地上にお帰りになるでしょうが、釣針を兄上殿に返す時に「この釣針は憂鬱になる針、いらいらする針、貧しくなる針、愚かになる針 」と言ってお返しなさい。それからこれをお持ちなさいと言って潮満珠と潮干珠を渡し、「お兄さんが高い所に田を作ったら貴方は低い所に田を作りなさい。お兄さんが低い所に田を作ったら貴方は高い所に田を作りなさい」と助言した。そうしてワニに命じ、山幸彦を岸辺まで届けさせた。  
 
山幸彦が言われた通りにして釣針を返し言われた通りの田の作り方すると、山幸彦の田には水がよく来て作物が実るが、海幸彦の田には水が来なかったり多すぎたりして全然収穫でき なかった。海幸彦は貧しくなり心も荒れ、ついに山幸彦の所へ攻めて来ようとしたので、山幸彦はもらった潮満珠を出して「潮満ちよ」と言った。たちまち水があふれて海幸彦はおぼれ た、「助けてくれぇ」と言う声に山幸彦が潮干珠を出して「潮干け」と言うと、さっと水は引いた。 
そうこうするうちに豊玉姫が夫を追って地上にやって来た。「実はあなたの子供が出来たんですよ」と言うので、山幸彦は喜んで産屋を建てた。屋根を完全に葺き終えない うちに姫は臨月になり子供が生まれた。そこで、この生まれた男の子を天津日高日子波限建・鵜葺草葺不合命(あまつひこひこ・なぎさたけ・うがや・ふきあえずのみこと)と言 った。 
このお産の時豊玉姫が「女はお産の時には本来の姿になってしまいます。恥ずかしいので絶対中を見ないでくださいね」と言ったが、我が子を一目でも早く見たい山幸彦は我慢仕切れずに産屋の中をのぞいてしま った。そこにはお産に苦しむ大きなワニの姿があった。  
豊玉姫はこれを恥ずかしがり「見ないでと言ったのに」と言い残し、子供を置いたまま綿津見の神の所に帰ってしまった。しかし豊玉姫は夫のことが忘れられず、子供のことも気にな り、妹の玉依姫に「あの子を育てに行ってくれないか」と頼んだ。 
山幸彦は高千穂の山の西にある高千穂の宮で580年間暮らした。 
鵜葺屋葺不合命は育ててくれた玉依姫と結婚、五瀬命・稲氷命・御毛沼命・若御毛沼命の4人の子を生だ。御毛沼命は常世の国へ行き、稲氷命は綿津見の神の国へ行った。五瀬命と若御毛沼命がやがてこの宮崎の地を出て、大和へ向い、若御毛沼命が神武天皇となる 。
 
浦島太郎  うらしまたろう 
<水江浦島子 
日本各地にある龍宮伝説の一つ。日本のおとぎ話の一つで、主人公の名前。 
風土記/「浦島子」の話が原型である。他に日本書紀、万葉集にも記述が見られる。「浦島太郎」として現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代の御伽草子による。 
祝い事で「鶴」と「亀」を縁起物とするのは、「鶴」は浦島太郎、「亀」は「乙姫」(亀姫)で一般に知られているおとぎ話の二人が再会し末永く暮らしたためとも言われている。 
伽草子 
浦島太郎は漁師だった。ある日、浦島太郎は子どもたちが亀をいじめているところに出くわした。浦島太郎が亀を助けると、亀はお礼に竜宮城に連れて行ってくれるという。浦島太郎は、亀に跨り、竜宮城に連れて行ってもらった。竜宮城には乙姫様がいて、浦島太郎を歓待してくれた。しばらくして浦島太郎は帰りたいと乙姫様に申し出た。乙姫様は引き止めたが、無理だと悟ると、玉手箱を「決してあけてはならない」として渡してくれた。浦島太郎が亀に跨り浜に帰ると、浦島太郎が知っている人は誰もいなかった。おかしいと思いつつ浦島太郎が玉手箱を開けると、中から煙が出てきた。そして、その煙を浴びた浦島太郎は老人になっていた。竜宮城で浦島太郎が過ごした日々は数日だったが、地上では七百年が経っていたのだ。 
 
万葉集 
巻九、高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型というべき内容が歌われている。 
水の江の浦島の子が七日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。三年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に行ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱の事)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした三年の間に家や里はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思いあけたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。 
横浜市神奈川区に伝わる話1 
相模の国三浦の里に、水江の浦島太夫という人が住んでいました。太夫は仕事のため、久しく丹後の国へ赴いていました。その子の太郎が一日海に出て帰る際、浜辺で子供らにいじめられていた亀を助けました。太郎は助けた亀に連れられて「竜宮城」へ行き、乙姫様のもてなしを受けました。月日の経つのも夢のうちで、いつしか3年の歳月が流れました。父母恋しさに暇を告げたところ、乙姫様は別れを惜しんで、玉手箱と聖観世音菩薩を太郎に与えました。故郷の土を踏んだ太郎には、見るもの聞くものすべて見知らぬものばかりでした。ついにこの玉手箱を開きますと、中から白い煙が出てきて白髪の老人になりました。3年と思ったのが実は300年、すでに父母はこの世の人ではなく、武蔵の国白幡の峰に葬られてあると聞いて尋ねてみると、二つの墓石が淋しそうに並んでおりました。太郎は墓の傍らに庵を結んで菩薩像を安置し、父母の菩提を弔いましたが、この庵がのちの観福寿寺で、通称「うらしまでら」と呼ばれました。 
観福寿寺は明治5年廃寺になり、現在は慶運寺に聖観世音菩薩像が安置されている。浦島丘の蓮法寺には浦島太夫・太郎父子の供養塔や亀塚の碑がある。七島と大口通との境を流れていた川は浦島太郎が足を洗った川ということで、大口通に足洗川の碑があり、子安通一丁目には太郎が足を洗ったという井戸がある。 
 
横浜市神奈川区に伝わる話2 
・・・竜宮で乙姫と楽しい日々を過ごしていたが、三年の歳月が流れ、故郷の山川、父母恋しさのあまり別れを告げたところ、乙姫から土産として玉手箱と聖観世音菩薩をもらい、大切に持ち帰った。ところが、浜に帰ってみると、時はすでに三百年も過ぎており、どこを歩いても見知らぬ人ばかり。驚いた太郎は、さまよい歩き、悲しみにうちひしがれて玉手箱を開けると中から白い煙が立ちのぼり白髪の老人となった。太郎が竜宮にいる間、太郎の父は子恋の思いで亡くなった。この父の気持ちを憐れんだ漁師たちは、三浦の里に近い武蔵国の白幡の海の見える丘に太郎の父の墓をまつった。この父の墓のことを知った太郎は、丹後を後にしてようやく子安の浜にたどりつく。父の墓所を探す太郎に、乙姫は墓がある丘の松の枝に明かりを照らし、そのありかを教える。太郎はその明かりに導かれて丘に登り、庵を結んで父の菩提を弔った。 
 
伝承・祭られている神社仏閣 
観福寿寺(神奈川県横浜市神奈川区)/明治時代に焼失、乙姫が枝に光を照らした松も大正時代まで残っていた。慶運寺に聖観世音菩薩像が現在も残っている。 
伊雑宮(三重県志摩市)/竜宮から戻った海女が持ち帰ったと云われる玉手箱が保管されている。中には小さな蚊帳が入っていると言われる。  
浦島神社(香川県三豊市)/荘内半島一帯には、太郎が生まれたという生里、箱から出た煙がかかった紫雲出山ほかたくさんの浦島伝説に基づく地名が点在。太郎が助けた亀が祭られる亀戎社もある。  
寝覚の床・臨川寺(長野県上松町)/寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ、中央の岩の上には浦島堂が建つ。浦島太郎が使ったとされる釣竿を所蔵。境内から景勝寝覚の床を見下ろす。
 
上津綿津見神 うわつわたつみのかみ 
黄泉国から帰ったイザナギ神が禊祓をしたおりに化生した神々の一柱。綿津見三神の一柱で、海運の神。 
イザナギ神が黄泉国より戻り橘小門の阿波岐原で禊ぎをされたおり、水底で滌ぎ給うたときに、底津綿津見神が、中ほどで滌ぎ給うたときに中津綿津見神が、水の上で滌ぎれたときに上津綿津見神が、それぞれ化生した。綿津見の津見は住むと同じで、綿津見神は海神のことである。 
古事記/この三神の化生を述べたあと「此の三神の綿津見神は阿雲連等が祖神と以ち伊都久神となり。故阿雲連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」とある。 
恵比寿神 えびすのかみ 
<戎、夷、胡、恵比寿、恵比須、蛭子 
*蛭子系:西宮神社(神戸市)/少彦名系:神田明神(東京)/事代主系:石津神社(堺市)・美保神社(島根県) 
商売繁盛と漁業の神 
えびす様は一般に漁業と商売繁盛の神として「だいこくさま」とともに庶民に人気がある。関西地方では1月10日に十日戎という行事があり 、大阪今宮戎や西宮神社では十日戎の三日間は初詣よりも賑わう。 
えびす様には主に3つの系統がある。漁業に縁の深い神様で、元々は漁業や海運にご利益のある海の神様として信仰されていたが、後に農業の神となり、現在では商業の神様とな った。祭神には事代主命(コトシロヌシノミコト)と蛭子命(エビスノミコト)の二通りの神社がある。美保神社(島根県)を本社とする場合は、釣り好きの事代主命を祀ることが多く、今でも海運の神の性格が強い 。西宮神社(兵庫県)を本社とする場合は、蛭子命の場合が多く、七福神のえびす様の姿をしている。商業の神様が多いが、左手に鯛をもっているように漁業にも縁の深い神 としている。 
蛭子説/えびす様の出自で有名なのは蛭子神(ひるこのかみ)説で、蛭子と書いて「えびす」とも読む。蛭子大神は日本の創成神である伊弉諾(いざなぎ)神・伊弉冉(いざなみ)神の最初の子供で、足腰がたたなかったため、そういう子は葦の舟に乗せて流すとよいという伝説により海に流された。そして漂着したのが兵庫県の西宮で、ここで成人し、漁業の神・商売の神となった。そういう訳で蛭子大神は西宮大神として西宮神社に祭られ、ここが蛭子系えびす神信仰の中心的存在になっ た。ただし漂着神話は堺市の石津太神社にもある、ただしこちらは事代主神である。 
石津太神社では漂着した事代主神は五色の玉を持っていたとされ、玉は神社前の通りに埋められており、四角い箱形の石の上に三角形の石が乗ってい る。そしてこの神玉が浮き上がったら天変地異があると伝わっている。戦時中軍人がこれを動かそうとしたら突然目に激痛が走り失明したと言う、江戸時代に邪魔だからどかそうとした藩主は急に苦しみだして死んだと言う。  
少彦名神説/少彦名神(すくなひこなのかみ)説。少彦名神は一寸法師の元型とされる小人神で、大国主神と一緒に日本全国を歩いて、開拓をして回った。その際各地に温泉を見つけ、その代表は愛媛県の道後温泉、出雲の玉造温泉、神奈川県の箱根温泉で ある。これらの地区では少彦名神をえびす様として祭っている。東京の神田明神の御祭神のえびす様も少彦名神とされている。この少彦名神説のえびす様の特徴は、必ずだいこく様である大国主神(大己貴神)と一緒に祀られているということがあげられ る。逆にえびす・だいこくとして一緒に祀られているケースは大半が少彦名神である。 
 
事代主神説/事代主神(ことしろぬしのかみ)説。事代主は大国主神の息子の一人で、託宣を司る神ともいわれ、天照大神のお使いが来て、日本の国土を天照大神に譲るよう言われた時、交渉に当たった神の一人。実は西宮神社があまりにも有名 なため、えびすというと蛭子と思っている人が多いが、全国のえびす様の祭る神社の大半は少彦名神か事代主神が祭神になっている。東日本には少彦名神系、西日本には事代主神系が多い。事代主神の主では葛城の鴨都波神社/出雲の美保神社/大阪の三島鴨神社/大阪の今宮戎神社/大阪の石津神社/伊豆の三嶋大社。
 
役行者

えんのぎょうじゃ 
<役小角(えんのおづぬ、えんのおつぬ)/役優婆塞(えんのうばそく) 
役行者、名は役小角、後に光格天皇から「神変大菩薩」の号を贈られる。白鳳時代の山岳修行者で、修験道(しゅげんどう)の開祖として山伏たちに崇められている人物。全国各地の山岳寺院の多くが彼を開祖としている。北河内でも、交野市私市の山の上にある獅子窟寺が、この役行者を開祖とする。 
大和国南葛城郡茅原(ちはら)村(現在の御所市茅原)で、舒明天皇6年に賀茂氏の流れを汲む家に生まれた。17才で元興寺に学び、やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。 
ある時、北の方角に霊光を見、その光を追って摂津国の箕面山の大滝に至り、滝穴の中へ入って、そこで龍樹菩薩から大いなる法を授けられて悟りを開く。龍樹菩薩は二世紀頃の南印度の人であるから、もとより、それは事実ではなく、滝は龍であるとの観念によるものであろう。その後、吉野の金峰山に行き、ここで、蔵王権現を感得する。彼は、憤怒の形相すさまじいその仏の姿を、悪魔を降伏させ衆生を済度する仏として、桜の木に刻んで堂に祀る。これが金峰山蔵王堂の草創であると云う。 
やがて、彼は全国の霊山と云われる山々をくまなく遍歴し、その足跡は、北は羽黒、月山、湯殿の出羽三山より、南は彦山、阿蘇、霧島、高千穂に及び、それと共に彼の法力、行力は比類もなく高められて、超人的な域に至った。 
彼には、前鬼(善童鬼)、後鬼(妙童鬼)と呼ばれる夫婦の従者がいたと伝えられ、また、吉野山と葛城山との間に石橋を架けようとしたと云う伝説もある。 
ところが、文武天皇3年(699)5月、彼の弟子の一人であった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、その能力を妬んで彼を讒言したため、妖術をもって人心を惑わす者として捕らえられて伊豆の大島に流罪になる(この伊豆嶋流罪の記事だけが、彼について史書が記した唯一のものである)。 
2年後の文武天皇5年(701)1月、罪を許されて帰京するが、それから4ヶ月後の5月(3月に大宝と改元して大宝元年5月)箕面において寂滅したと云う。 
 
霊異記/仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。 
 
仏教は平野部に寺院を構えることによって始まったが、しばらくすると、俗塵を離れて静寂な山中に入って研学・修行しようという僧侶たちが現れてくる。それは原始的な山岳信仰にも支えられたものであった。役行者はそうした山岳修行者たちの、おそらく、最も早い段階の人物であったと見られる。そうした山岳修行者たちによって、次第に修験道が形成されてゆく。修験道は山岳信仰を基底に置き、それに密教と道教が習合したもので、平安時代iに聖宝らによって体型化される。この過程において、役行者は修験道の開祖者であるとされた。最も古い山岳修行者であったことによる。修験道の行者たちが山伏である。彼らは山岳に登って難行苦行を重ねて呪力を体得し、それに基づいて加持祈祷をする。 
山伏たちは全国の山々を修行の場とする。そうした山伏たちの修行の山々に建てられた山岳寺院は、しばしば役行者を寺の開基とするが、実際に役行者によって開かれたとは限らない。従って、交野の獅子窟寺も、役行者によって本当に開かれたものかどうかは定かではない。しかし、少なくとも、そこが、役行者を開祖と仰ぐ山伏たちの修行の道場の一つであったことだけは間違いない。

 
閻魔大王

えんま 
<閻魔天(えんまてん、サンスクリット語Yamaの音訳)/閻魔大王/閻羅王/閻魔羅闍(えんまらじゃ、らじゃは王の意味) 
仏教において地獄を守護する天部 
ヤマ 
本来はインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、アヴェスターの聖王イマと同起源である。リグ・ヴェーダでは人祖ともされ、ヤマとその妹ヤミーとの間に人類が生まれたという。人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となった。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた。しかし後には死者を裁いて地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、ついには単なる死神としても描かれる様になった。 
閻魔 
中国に伝わると、道教の冥界思想と関連付けられていた泰山府君と習合し、その後に晩唐に撰述された偽経である「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経」(略して預修十王生七経)により、十王信仰と結び付けられ地獄の裁判官の一人として人が死ぬと裁くという役割を担う事になり、信仰の対象となった。 
日本仏教では閻魔の本地とされる地蔵菩薩が奈良時代には「地蔵十輪経」によって伝来した。しかし、現世利益優先の当時の背景では顧みられる事は稀であった。平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期に貴族、平安後期に一般民衆 へと広く布教されるようになり、鎌倉初期には預修十王生七経から更なる偽経の「地蔵菩薩発心因縁十王経」(略して地蔵十王経)が生み出されるに至った。これにより閻魔の本地が地蔵菩薩である事になり、地蔵のみならず十王信仰も普及するようになった。 
閻魔は地獄と浄土を行き来できるとされる。 
なお、同じルーツを持つ者に十二天の焔摩天がある。中国では閻魔天が閻魔大王に習合されたが、日本に伝わった時にばらばらに伝わったため同一存在が二つに分かれたと考えられ 。 
日本では、嘘をついた子供を叱るさいに「閻魔様に舌を抜いて貰う」という言い方がされた。 
 
極楽行か地獄行かの判定のメンバー/十王  

  忌日 十王名 本地仏
 初七日 秦広王 しんこうおう 不動明王
 二七日 初江王 しょこうおう 釈迦如来
 三七日 宋帝王 そうていおう 文殊菩薩
 四七日 五官王 ごかんおう 普賢菩薩
 五七日(35日) 閻魔王 えんまおう 地蔵菩薩
 六七日 変成王 へんじょうおう 弥勒菩薩
 七七日(49日) 泰山王 たいざんおう 薬師菩薩
 百カ日 平等王 びょうどうおう 観世音菩薩
 一周忌 都市王 としおう 勢至菩薩
 三回忌 五道転輪王 ごどうてんりんおう 阿弥陀如来

閻魔王はもとはヒンドゥー教の神様で、死後の世界の王様。王様は国全体を司るところから、地獄行、極楽行の判定者になった。服装が中国風なのは、仏教が中国を経由するとき、道教の影響を受けた ためだ。閻魔王は恐ろしい顔をしているが、仏教ではお地蔵さまの化身である。再び罪をつくらせない為に恐ろしい顔で叱咤している。  
閻魔様に嘘がつけない理由 
人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着。人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、すなわち「葬頭川」(そうずがわ)三瀬川(みつせかわ)「渡り川」がある。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになる 。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことだが、この川の辺に衣領樹(えりょうじゅ)という木がある。木の下には「奪衣婆」(だつえば)という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう)というお爺さんがのっている。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に、陪席しているので嘘の申告は出来ないのである。 
どんな人間でも生れ落ちた時その瞬間から、二人の神様がその人の両肩に乗かっているそうだ。神様だから重みを感じない。この神様の名前は「倶生神」(くしょうじん)で、左の肩には、男の神様が、右の肩には女の神様が乗る。この倶生神が、閻魔大王の命により、その人の善行・悪行の全てを記録している。男の神様は善行を、女の神様は悪行を記録し、35日目の閻魔大王の裁判の時、肩から降りて、閻魔大王に最大漏らさず奏上する。 
 
恐山(おそれざん/青森県むつ市)の三途の川 
日本の三大霊山(比叡山、高野山、恐山)の一つ、恐山には三途の川があり川の向う側にあの世があると言われる。恐山には恐山菩提寺があり、本尊は「延命地蔵菩薩」で 貞観4年(862)に慈覚大師円仁が開山した。 
 
 
  うえ かき  
 


  
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