八百万の神 [はひふへほ] 
                      
 
  うえ かき  
 
八幡神 はちまん/やわた 
<八幡菩薩/八幡大菩薩 
*宇佐神宮(宇佐八幡宮/大分県宇佐市)/石清水八幡宮/葛飾八幡宮/誉田八幡宮/宗佐厄神八幡神社/千栗八幡宮/壺井八幡宮/鶴岡八幡宮/手向山八幡宮/富岡八幡宮/富岡八幡宮(横浜)/函館八幡宮/藤崎八幡宮/柞原八幡宮/離宮八幡宮/盛岡八幡宮  
日本独自で信仰される神。八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮)と呼ばれ、その数は稲荷神社に次いで日本第2位。 
八幡神社の総本社は宇佐神宮 
宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であった。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかという。欽明天皇の時代(539〜571)に大神比義という者によって祀られた 。 
祭神/応神天皇を主神とし、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)としている。神功皇后は応神天皇の母親で、親子神(母子神)信仰に基づくもの。比売神は八幡神の妃神と説明されるが出自不明。八幡神は外来神で比売神はそれ以前に宇佐に祀られていた地主神だという説もある。また比売神は宗像三神または市杵島姫命とされることもある。八幡神社の祭神は応神天皇だが、応神天皇の親である仲哀天皇をともに祀っているところも多い。 
 
託宣をよくする神としても知られる。称徳天皇が道鏡を次期の天皇にしようとしたときは八幡神の託宣があったと偽称し、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。 
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。781年には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられた。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。 
応神天皇が八幡神であるとされることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請し、壷井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれた。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。 
 
穴八幡神社(早稲田) 
寛永十三年(1636)に松平左衛門尉直次という武士が射術の練習をするため、ここに的山を築き弓矢の守護神である八幡神の小祠を営んだのにはじまる。祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功天皇である。のち、社僧良晶が草庵を建てようとして、ほら穴を発見、そこに金銅の阿弥陀如来像がたっていた。当時阿弥陀如来は八幡神の本地仏とされて、人々の崇敬を集めたことから穴八幡と呼ばれるようになった。 
八幡菩薩・八幡大菩薩 
八幡信仰は初めから神仏混交の菩薩信仰として登場。八幡と菩薩がくっついたのは、応神天皇の誕生伝説と本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)などが関係している。応神天皇の誕生伝説によれば、天皇が生まれた時に、それを祝福して天から八本の幡が降ってきて、産室を蔽ったとある。この伝説から応神天皇=八幡様となった。 
また幡とは、仏教の場合、梵語のpataka(幡)のことを指し、仏・菩薩の威徳を示す荘厳具という。仏を祈る時に徳を表すため左右に旗を飾るしきたりが古くからあり、そのうち阿弥陀如来に参る時も八本の幡を立てるのが決まりにな り、本地垂迹説なども加味され、八幡が阿弥陀如来の化身(垂迹身)とする説が生じた。本地垂迹説とは、本地(仮の姿をとって現れる前の仏・菩薩などの真実の姿のこと)の仏・菩薩などが衆生を救うため、迹(あと)を垂(た)れて、つまり化身して我が国の神祀となって現れるとする説。阿弥陀とは、西方の極楽世界を主宰する仏陀の名のことで、ここでは衆生を救う菩薩の意味で用いられ、これらのことから「八幡様は菩薩である」となり、八幡大菩薩とか八幡菩薩という言葉が生まれた 。 
「八幡」 
「八幡」の文字が初めて出てくる「続日本紀」天平9年(737)で、読み方を同書天平勝宝元年(749)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、「日本霊異記」の「矢幡(ヤハタ)神」や「源氏物語」玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。 
また、「ハタ」とは「神」の寄りつく「ヨリシロ」としての「旗」を意味する言葉のようである。 
託宣をよくする神としても知られる。称徳天皇が道鏡を次期の天皇にしようとしたときは八幡神の託宣があったとし、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。 
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781)には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられた。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。 
また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請し、壷井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれた。 
石清水八幡宮は多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡神信仰が広まった。 
治承4年(1180)平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川合戦を前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。 
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。 
明治元年(1868)仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の放生会は中秋祭に改めさせられた。しかしその後も根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。  
 
波邇夜須毘売神 
 -波邇夜須毘古神
はにやすひめのかみ 
<古事記/波邇夜須毘売神 
<日本書紀/埴山姫(はにやまひめ)、埴山媛、埴安神(はにやすのかみ) 
*五柱神社(あきる野市)/春日地禄天神社(福岡県春日市) 筑前に多くある 
波邇夜須毘古神に対する女神。田畑の土壌を守る神。土神。イザナミ神が火の神迦具土神を産み、陰所を焼いて苦しみ給うたおりに、屎(糞)をしたが、その屎から化生した神が、ハニヤスヒコ神とハニヤスヒメ神の男女二神 。 
古事記/イザナミの神が亡くなる時に、波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神が生まれたと書かれている。延喜式神明帳/波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)が美馬郡の阿波にあった。 
波爾移麻比禰神社は美馬郡半田町にある建権現神社(たけごんげんじんじゃ)と推測。古代人はハニヤマヒメ(埴山姫)神社と呼んだであろう、村名や社地の半田山は、ハニタ(埴田)の訛音(かおん)であるからこのハニヤマヒメを官社にする時に万葉仮名に改めたのではという。 
イザナミの生んだ神が他県にはほとんど無く、吉野川周辺に点在するということは、イザナミとイザナギの神が吉野川周辺で生活していたことを物語るものか。 
  古事記/火之迦具土神を生んで陰部に火傷をし苦しんでいた伊邪那美命が糞をしたが、その糞から化生した神が波邇夜須毘古神とこの波邇夜須毘売神である。尿から生まれたという弥都波能売神と一緒に肥料の神とされているが、埴は粘土のことで、糞から赤土を連想したものであろう。また弥都波能売神と共に和久産巣日神も生まれている。日本書紀/伊邪那美命が死のうとするとき、埴山媛と罔象女の二神を生み、この二神の間に生まれた稚産霊神の頭上に蚕と桑、臍の中に五穀が生じたとある。これは農業起源説話といわれている。  
古事記/尿すなわち水から和久産巣日神が生まれたとし、水稲の起源を説いていると思われる。日本書紀/火神と土神とから稚産霊が生まれたとあり、焼き畑の起源を説いたものと思われる。 
波邇夜須毘売神は土神であるといえるが、神名を考えれば、波邇夜須とは埴粘(祭具の土器を作る粘土)のことで波邇はホニで、神聖な威力を持ったニ(泥)の意味で、夜須は美称である。単なる土神ではなく、祭具を造る粘土を表した神聖な土の神であるといえる。日本書紀は、神武天皇の大和平定に際して、天津神の教えに従って、使いを遣わして敵の中から天香具山の社のなかの土を持ち帰り、天平瓮(あめのひらか)や厳瓮(いずへ)をたくさん造り天神地祀を祀って勝利を得たと有り、神聖な土には呪力があると考えられていたことが分かる。特に天香具山の土は大和の国魂がこもるとして神聖視され、それを得ることは統治権をも得ることであった。   
  ハニヤス/イザナミの病と死によって生まれた神々で、日本神話に登場する土の神である。「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる。神産みにおいてイザナギとイザナミの間に産れた諸神の一柱で 、日本書紀では埴安神と表記。古事記では、火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。他に神社の祭神で埴山彦神・埴山姫神の二神を祀るとするものもあり、これは埴安神と同一の神格で、彦・姫の二神を一神の名として称したのが埴安神であるとされる。地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある。  
波比岐神 はひきのかみ 
大年神の御子。古事記/オオトシ神と天知迦流美豆比売神が婚姻して10人の御子神が生まれ、その一柱。本居宣長 ・古事記伝/ハヒキ神は這入君の意味で屋敷神であると解釈。
羽山津見神 はやまつみのかみ 
火之夜芸速男神(火之伽具土神)の御子神。イザナミ神が火の神である父の伽具土神を産み、それがもとで亡くなったことを怒りイザナギ神が天之羽張(別名/伊都之尾羽張)と呼ばれる剣で、火の神の首を切 ったとき、伽具土神の死体から生まれた神々の一柱。ハヤマツミ神は、右の手から化生した神である。羽山端山で、腹より化生した奥山津見神の対神である。日本書紀/麓山の字があてられている。火の神の死体より化生の八神はすべて山に住む神を表している。 
速甕之多気佐波夜遅奴美神 はやみかのたけさばやぢぬみのかみ 
国忍富神の御子で、母は葦那陀迦神。大国主神の四世の末裔。 
古事記/アシナダカ神のまたの名は八河比売神といい、国忍富神と婚姻して生んだ神。この母子二神の神名の起こりは不明 、ハヤミカノタケサバヤヂヌミ神と婚姻される媛神の父神が、天之甕主神となっている。
原山津見神 はらやまつみのかみ 
イザナミ神が火の神・迦具土神を産み、それがもとでなくなられたのに怒ったイザナギ神が、火の神の首を斬ったとき、カグヅチ神の死体から生まれた神々の一柱。左の足から化生した。 
原は腹と同じく、平らで広い地をいい、原山津見とは山頂が平らな山の意味。火の神の死骸より化生の八神はすべて山にすむ神を表している。
 
祓戸大神 はらえどのおおかみ 
神道において祓を司どる神。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のこと。 
伊邪那岐命が黄泉から帰ってきたとき「汚い国へ行ってしまったものだ」と、筑紫の日向の阿波岐原にて禊を行ったとき 、禊を手助けするために生まれた神、瀬織津媛命(セオリツヒメノミコト)・速開津媛命(ハヤアキツヒメノミコト)・気吹戸主命(イブキドドヌシノミコト)・速佐須良媛命(ハヤサスラヒメノミコト)の四柱を指す。 
四神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神。 
瀬織津比売(せおりつひめ)/もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す  
速開都比売(はやあきつひめ)/海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲込む  
気吹戸主(いぶきどぬし)/速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ  
速佐須良比売(はやさすらひめ)/根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う  
神職が祭祀に先立って唱える祓詞では、祓戸大神に対し「祓へ賜ひ清め賜へ」と祈る 
春山之霞壮夫 はるやまのかすみをとこ 
「春山の霞の立派な男」。兄の秋山之下氷壮夫と伊豆志袁登売神を争い、母の助力によって乙女を得る。一子を生む。
毘沙門天 びしゃもんてん 
<多聞天(タモンテン) 
知恵と勇気で財宝福寿を得る神様 
仏の教えをよく聞いた神。財宝福授にご利益のある神様。国を護る軍神としての性格もあり、聖徳太子が物部守屋と戦をしたとき毘沙門天の御加護で勝利を収めたことから、日本ではすっかり戦の神として崇められるようにな った。源義経は幼き頃、鞍馬寺で毘沙門天像を熱心に拝んでいたと伝えられ、楠正成の幼名は多聞丸、毘沙門天から頂いた名前であった。戦国の闘将・上杉謙信は毘沙門天の化身と恐れられていた。名だたる知将・名将は皆、毘沙門天と縁が深い。
 
一言主神 ひとことぬしのかみ 
*一言主神社(奈良県御所市森脇) 
託宣の神 
一言主神に関する記述は古事記・日本書紀の神代にない。初見は雄略天皇4年、雄略天皇が葛城山で狩りしたとき自分たちとそっくりの一行に出くわす。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。古事記/天皇は恐れ入り、自分たちの着ていた服を全部差し上げ拝礼したという。日本書紀/天皇と一言主神はいっしょに狩りを楽しんだという。続日本紀/一言主神は天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐に流されてしまった。古事記(712)・日本書紀(720)・続日本紀(797)と時代がたつにつれ、一言主神を祭っていた賀茂系一族の地位が低下したからか。日本霊異記(822)/一言主神が役行者(えんのぎょうじゃ,・賀茂系の人)に使役され不満を持ったため、役行者が天皇を陥れようとしていると讒言、このため役行者は伊豆に流されたという。 
この神は事代主神と同様に託宣を司る神と考えられる。出自は不明、素戔嗚神の子であるとも言われる。土佐神社では、味鋤高彦根神と一言主神の両方が祭られている。 
比売大神(姫大神) ひめのかみ/ひめがみ 
<比売神/比盗_/比賣神 
*日牟禮八幡宮 
神道の神。神社の祭神を示すとき、主祭神と並び比売神(比売大神)、比盗_などと書かれる。これは特定の神の名ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。 
最も有名な比売神は八幡社の比売大神で、これは宗像三神のことである。春日大社に祀られる比売神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)である。 
田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫神(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の御神霊。この三姫神は玉依姫とも称す。
姫金神神 ひめこんじん 
方位神の一つ。金神の在する方位に対しては、あらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり、造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。 
金神には、巡金神、大金神、姫金神などがある。これらは近隣を巻き込む殺気作用があることから(俗に金神七殺と言われる)、非常に忌み嫌われた。ただし、天道、天徳、月徳が同座する場合には、この凶意は封じられるとされる。金性を相克する火性の九紫火星が回座する場合も凶意は封じられるとされる。
 
媛蹈鞴五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめのみこと 
<比売多多良伊須気余理比売 
*溝咋神社/橿原神宮 
神武天皇の皇后。五十鈴媛は三島の溝咋姫の娘で、父親に関しては説が分かれる。 
事代主神説/事代主神の葛城政権 と関わりからいっても最も妥当。大阪の溝咋神社の伝承にもあり、溝咋神社の境内に事代主神が祭られているなども符合。日本書紀/神武天皇の巻および旧事本紀にもある。大物主神説/古事記には大物主神の娘であるという説が出ている。三輪の大物主神が溝咋姫を好きになり、丹塗りの矢に変じて、「かわや」から溝咋姫の陰部にささったというもの。この話は賀茂神社の玉依姫と火雷命の話と同じ形式の説話である。賀茂神社説話では生まれたのは上賀茂神社の御祭神である賀茂別雷神だが、こちらでは五十鈴媛になっている。日本書紀/神武天皇の巻では明確に五十鈴媛を事代主神の娘と書き、神代上の巻では大物主神説と事代主神説を併記している。通常、大物主神は大国主神の幸魂奇魂であるとされ、事代主神とは親子関係になるわけで、美保神社の美穂津姫に関する伝承でも同様の混乱が見られる。美保神社では美穂津姫は事代主神の妃神と考えられているが、実は日本書紀には美穂津媛を、大物主神の妃とする記述が出てくる。大物主神がいる三輪山は橿原宮の北東にあり、南西には葛城の賀茂神社があって、事代主神が祭られている。つまり橿原宮の鬼門を大物主神が、裏鬼門を事代主神が守っている。この葛城には古くから一言主神もいる。事代主神・一言主神・大物主神はいづれも似た性格を持つ神で、お互いに神格の一部交換が起き、この婚姻譚まで転移してしまったようだ。 
五十鈴媛の生誕の溝咋神社の近くに三島鴨神社があり、近くに鴨村・鴨林などの地名が残り、この付近が賀茂一族の勢力範囲であったことを伺わせる。五十鈴媛は賀茂一族がかかげる重要神である事代主神の娘である可能性が高い 。 
蛭子神 ひるこ 
古くは海の神として豊漁や航海安全、交易などに霊験ありとされた。のちに市場の神としての信仰が発展して、商業繁盛の福神として大衆的な信仰を集めるようになり、それが農業の神にも拡大。今では商工農業などあらゆる産業繁栄の守護神とされ る。 
日本では古来、神々は海の彼方から岸辺にやってきた、そういう神を来訪神という。神それ自身が岸辺より来ることもあった、そうした神は「エビス神」と呼ばれた。ヒルコ神が祀られている神社もそんな海からの来訪神の伝承をその起源に持っている。代表的な神社の一つ が、福の神エビス信仰の総本社・西宮神社(兵庫県西宮市)で、海から流れ着いたヒルコ神を海神として祀った起源をもつ。 
記紀神話/ヒルコ神は、イザナギ神とイザナミ新夫婦がまだ混沌としていた地上に降り立って日本列島の島々を産もうとしたとき、最初に生まれた子であった。しかし水蛭子と呼ばれたその子供は成育が悪く、3歳になっても足が立たなかった。そのため両神は、葦船に乗せてヒルコ神を海に流した。神話では、捨てられたヒルコ神のその後の運命は語られていないが、海の彼方の常世の国にわたったのかもしれない。 
西宮神社伝説/海に流されたヒルコ神は海を漂ってのち摂津国西の浦(兵庫県西宮)の海岸に漂着。土地の人々は、拾ったヒルコ神を大事に養い育て夷三郎殿と呼び、そののち夷三郎大明神、戎大神として祀られるようになった、伝えている。 
このような形で、エビス神は海の神と信仰されるようになり、豊漁や航海の安全、交易の守護神としてその霊験を発揮するようになった。
日名照額田毘道男伊許知邇神 ひなてりぬかたびぢおいこちにのかみ 
大国主神の神裔たる鳥鳴海神のお妃。トリナルミ神と、ヒナテリヌカタビヂオイコチニ神が婚姻して生まれた御子が、国忍富神である。
 
比那良志毘売神 ひならしびぬのかみ 
甕主日子神のお妃。ヒナラシビヌ神は、(闇)淤迦美神(雨を司る竜神)の媛とされ、ミカヌシヒコ神と婚姻して、多比理岐志麻流美神を産む。
樋速日神 ひはやびのかみ 
イザナミの死後、イザナギのみより生まれた神々の一柱。国譲り・国土平定神話に登場する神々の一柱。イザナギが火の神カグヅチの額を斬ったときに、御刀の鍔際に付いた血から生まれた神々の一柱。 
樋は火と同音同義語、速は猛く烈しい意味あり、日・火と同意語。同時に生まれた甕速日神とともに、火の威力を表現したもの。
比比羅木之其花麻豆美神 ひひらぎのそのはなまづみのかみ 
ヒヒラギノソノハナマヅミ神の娘が活玉前玉比売神(イクタマサキタマヒメ)で、この媛が多比理岐志麻流美神と結婚して生まれたのが美呂浪神。 
比比羅木は柊で、柊は民間信仰として現在も生きている木で、節分に柊を囲炉裏で燃やしたり、門口に鰯の頭とともに取り付けて魔除けとしたりする。活玉前玉は生魂・辛魂 で、美呂浪は美しい浪の意で、海に関係する名。 
深淵之水夜礼花神 ふかぶちのみずやれはなのかみ 
スサノオ命の神裔で布波能母遅久奴須奴神の御子。母は淤迦美神の女・日河比売である。 
深淵は碧潭ある地名で、水夜礼は水を遣る意で、母神のヒカワ比売、祖母神のオカミ神三代とも水に関係のある名を冠している。花は花で、深き淵の下に水を浸し遣る花の神という意味の名。天之都度閇知沼神を娶って、淤美豆奴神を産んだ。フカブチノミズヤレハナ神の妃神は、アメノツドヘチヌ神である。 
都度閇は集えで、知沼は敬称語であるとすると、総じて水を集める神といえる。この夫婦神からオミヅヌ神が生まれる。
布帝耳神 ふてみみのかみ 
淤美豆奴神の妃神。オミヅヌ神の字義は大水王で、大水を司る神の意。この神と夫婦神となる妃神がフテミミ神で、その父親は布怒豆怒神である。
布怒豆怒神 ふぬづぬのかみ 
布帝耳神の父神。淤美豆奴神と夫婦神となる妃神が布帝耳神で、その親が布怒豆怒神。
布波能母遅久奴須奴神 ふはのもぢくぬすぬのかみ 
八島士奴美神の御子。フハノモヂクヌスヌ神は、ヤシマジヌミ神と木花知流比売命の間に生まれた神。「母遅久奴須」は持国主と思われる。フハノモヂクヌスヌ神の妻となる日河比売命は、淤迦美神の娘で、日河は出雲の肥河(簸川)から出た名。須佐之男神をはじめ、出雲の神々を合祀している埼玉県大宮市の氷川も、この肥河から出ているもの。 
フハノモヂクヌスヌ神と日河比売命が結婚し、深淵之水夜礼花神を生む。
 
福助 ふくすけ 
商売繁盛 
「大丸騒動綾錦都乃花衣」(花の舎静枝著・明治25年)/八代将軍吉宗の頃、伏見の百姓下村三郎兵衛に彦太郎という子供が生まれた。頭が大きく背が低くて耳たぶが垂れ下がっていたが、9歳で上長者町の大文字屋に奉公に出て主人に認められ、独立して伏見京町に大文字屋の支店を出すまでになり、名も彦右衛門と改め名古屋からお常という嫁をもらった。彦右衛門は伏見のお稲荷様の信仰が厚く、ある時妻の実家の名古屋で木綿の足袋・腹がけと「大」と染めた手ぬぐいを売出したところ、これが大流行あっという間に大店の主人に出世した。これを見ていた伏見の人形師たちが彦右衛門の人形を作り、福助と名づけ売出したところこれも大流行したという。 
 
別説/摂州の百姓佐五右衛門の子供佐太郎がモデル説。佐太郎は頭が大きく背が低かった為、その容貌をからかわれ村に居たたまれなくなり旅に出て、小田原宿で「福助」名で見世物に出る。これが人気を呼び、ある旗本に30両で買われ屋敷に奉公に上がった。すると旗本は色々と幸運に恵まれ、その屋敷に奉公していた女中と結婚し、その絵姿を描いて売り出したらこれが又流行したとのこと[享和4年(1804)]。 
別説/滋賀のもぐさ屋「亀屋」の番頭福助。亀屋は現在も続き、店には150年前から巨大な福助人形が飾られていた。現在のものは2代目の人形で、歌川広重の絵に店先の様子が描かれ、そこには初代の福助人形がしっかり描かれている。 
現在の福助の人形のベースを作ったのは下着メーカー大手「福助株式会社」である。同社は元々丸福辻本商店といい明治15年に堺で足袋屋として創業、機械化にも成功して丸に福マークの足袋は好調に売れた。ところがクレームがついた、丸に福マークは以前から和歌山県の丸福足袋が商標登録をしていた。辻本は裁判で敗訴しマークは使えな り、困っていた時に辻本家の息子の豊三郎が古道具屋の店先で福助人形を見かけ、人形を新しいマークにすることを思い付た。豊三郎が買て急いで家に戻りそのことを話すと、父の福松は自ら筆をとって福助の絵を描き特許庁に持っていき商標として届けた。会社名も「福助印堺足袋」と改称、福助さんマークの足袋は全国に知られるようにな った。 
別説/荒俣宏「福助さん」(筑摩書房)/福助人形の特徴を5点あげている、子供/福耳/正座/四角い座布団/裃を着けている。正座/四角い座布団/裃 の特長から、福助人形は吉宗の時代より以前には溯らないと指摘する。座布団は以前は丸いもので、正座は昔はなくあぐらか片ひざを立てた座りかたが一般的、改まった時に裃を着る習慣は、吉宗の頃の時代から始まったもの 。 
福助には家族がいたようだ。福助の名字は「叶」であるとされる、「願いがかなう」に掛けたもの。十辺舎一九「叶福助噺」で大黒天が娘の吉祥天の婿に福助を迎えたという話が載ってい る。二人の間には福蔵・福六という二人の子供ができた。また福助はお多福とも懇ろの仲になり愛人にしたという。しばしば福助とお多福が仲良く並んで座っている人形がある。また福助の母は、おかめであったとされ、おかめが福助を背負った人形もある。
 
福禄寿 ふくろくじゅ 
< 福禄人(ふくろくじん) 
七福神の一つ。道教で強く希求される3種の願い、幸福、封禄、長寿の三徳を具現化しもの。宋の道士天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。 
福禄寿の姿/中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化一幅の絵などがつかられ広く用いられた。背が低く、長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っ た像とされる。 
福禄寿は南極星の化身といわれる中国の伝説上の道士。 
道士とは道教を信仰し修行する人のこと。道教は古代中国におきた宗教で、後に「老子」を教祖として崇めた。仙人になる道を教えた。不老長寿の神様として祀られてい る。仙人は不死である。道教は生命の不滅を説いた教えで、人々は仙人になるために「不老長寿」「不老不死」の薬を求めて各地を飛び回った。 
 
福禄寿すなわち「三星」とは、三つの星辰「福星」「禄星」「寿星」の総合体を指す。福星とは歳星(木星)で、その照臨は民に「福」を授けるとされ福運を象徴する。尤も福気・福運・幸福などと解釈される「福」は、内実として寿・富・徳・康寧・子孫繁栄など、ありとあらゆる人生目標を含む極めて広範な概念といえる。寿星は又の名を南極老人・南極仙翁といい、「角亢(南十字星、アルゴ座のカノープス)」 、長寿の象徴である。天下泰平の世になると出現するといわれ、国家の盛衰・寿命延長の兆を占う星として、代々の国 家祭祀中において重要な位置を占めた。国家禍福の象徴・保護神としてのその政治色は、時代の推移とともに色褪せてゆくいっぽう、民間色はますます強まり、人気・影響力ともに群を抜く神祇である。このような寿星の人気は、あらゆる幸福のうちでも「寿」をとりわけ重視する吉祥観念、ひいては中国的な時間感覚と結びつく。また禄星は、文章宮の第六星であるともいわれ、官禄を象徴する。福星・寿星に比して、単独で描かれることはほとんどなく、やや影が薄い。 
三者の成立時期は一様ではなく、いち早く成立した福星・寿星信仰に遅れて登場した禄星信仰が結びつき、三位一体となったものである。群体としての福禄寿三星の出現時期については詳らかではないが、明清期にはすでに広く社会に盛行していた。 
 
福禄寿は、中国では、鶴と鹿と桃を伴うことによって福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、こうもりと鹿と松によって福・禄・寿を具象化した一幅の絵などが作られ広く用いられた。北宋の嘉祐年中に現れた仙人(伝説上の人物)で、その姿は、短躯頭長のいわゆる畸形で、美髭を蓄え、左手には如意宝珠、右手には杖を持ってい た。その杖頭に経巻を結び、長寿の印の白鶴(時には亀も)を伴っていた。また杖頭の経巻には人の寿命が記されているといわれる。福禄寿の年齢は、長寿の神様であることから、1千万年を越えるといわれる。福禄寿が畸形であることが、昔は、かえって畸形の人を「福の神」と呼んで、大事にしてきたことが中国でも日本でもあった。頭でっかちの福助が、福を招くとされているのも同様な理由 。 
寿老人は、老子の化身とも言われる。長命、富貴、与宝、種々の病の平癒の神であり、人々の安全と健康を守る神。道教は、黄帝(中国古代の伝説上の帝王/漢方医学の祖/薬の神様)とともに、老子を教祖と仰 ぐ。寿老人は、道教の中でも非常に高位の神であり、その姿は白髪長寿の老子の姿をしている。長寿を記した巻物をつけた杖と、1500年生きているといわれる黒い鹿(玄鹿/その肉を食うと数百年生きられるという)を連れ、人に延命長寿の福徳を授けるといわれ る。鹿の代りに食いつづけると長寿を保つと言われる桃の実を持ったり、扇を持つこともある。中国では扇に何か悪い物を追い払い、良い物を招くという意味がある。福禄寿の場合、不吉を払い、吉を呼び込む、寿老人の場合なら、病魔を払い、長寿健康を招く ことになる。福禄寿の鹿や桃も、寿老人の場合と同じ意味と考えられる。寿老人も福禄寿と同く南極老人星の化身といわれ、両神は同一神ともいわれる。
 
経津主神 ふつぬしのかみ 
<布都御魂神(ふつのみたまのかみ)/斎主神(いわいぬしのかみ)/伊波比主神(いわいぬしのかみ)/布都怒志命(出雲国風土記) 
*石上神宮(奈良県)/香取神宮(千葉県)/各地の春日神社 
葦原中国平定の実行者、剣の神 
日本書紀/建御雷之男神(たけみかずちおのかみ)とともに、葦原中国平定を成し遂げた神。古事記や旧事本紀で建御雷之男神と同じ神様であるとされる。千葉県と茨城県の県境付近に対をなす香取神宮と鹿島神宮が建ち、経津主神が香取神宮に、建御雷之男神が鹿島神宮に祭られる。両神は後に奈良の春日大社に勧請され、全国の春日神社で祭られるようになった。 
日本書紀のみに登場し古事記に登場しない。 
日本書紀の神産みの第六の一書で、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神、根裂神が生まれ、その御子の磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。葦原中国平定では武甕槌神を従えて出雲へ天降り、大国主と国譲りの交渉をしている。出雲国風土記や出雲国造神賀詞では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。 
奈良の石上神宮に祭られる布都御魂神と同じ神様と一般に考えられる。石上神宮に祭られる神様は、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)または布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)と言う。この神名は、剣を「振る」の意、また剣を振った時に「フッ」という空気を切り裂く音がすることから生まれたもの。 
朝廷の軍事を統括していた物部一族が祭る拠点で、武器庫でもあった。古事記・神武天皇の章/神武天皇東征の時、天照大神と高木神が建御雷之男神に託して神剣を神武天皇に届けさせた。この剣を布都御魂といい、石上神宮の御神体となっている。神社には蛇麁正(おろちのあらまさ)または天蝿折剣(あめのははきりのつるぎ)と呼ばれる剣も奉納されている。これはかつて素戔嗚神が八股大蛇を退治した時の剣で、日本書紀神代上の一書に書かれている。国宝・七支刀(ななつさやのたち)も奉納され 、これは日本書紀の神功皇后の巻で神功皇后52年9月に百済から奉られたと記される剣で、物部一族の象徴・神宝ともいえる剣である。 
神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神である。一説に、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。逆に先代旧事本紀では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。 
古事記においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。 
経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。 
 
香取神宮の祭祀(常陸国風土記・信太の郡)/西に高来の里の古老がいうことには「天地の権輿、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。大神がすっかり帰順させおわり、心の中に天に帰ろうと思われた。その時、身におつけになっていた器杖の甲・戈・楯およびお持ちになっていた美しい玉類をすべてことごとく脱ぎ棄ててこの地に留め置いて、ただちに白雲に乗って蒼天に昇ってお帰りになった」。香取の名前は日本書紀神代下の一書に、楫取の名で出てくる 、ここに経津主神と建御雷之男神を祭ったと記されている。 
諸説/この香取・鹿島の地は元々、中臣氏(藤原氏)の勢力範囲で、そこに自分たちが祭っていた神を後に、春日大社に勧請して新しい祭祀を始めた。この経津主神については、石上神宮との関連で物部色のある神様なので、春日大社ができるころには既に神道の全般が中臣氏の管理するところになり、問題なかったのであろうという意見もある。春日大社に祭られているのは、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱。
 
布都の御魂 ふつのみたま 
ぷっつり断ち切る太刀の神霊。延喜式神名帳/石上布都之魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ/備前国赤坂郡)とある。同帳には今日の石上神宮が石上坐布留御魂神社(大和国山辺郡)とあって「布都」ではない。また「布都」は物を断ち切る擬声音で、断ち切るとは宗教的に悪霊を断ち切る意をも含み、そ の霊力をもつのが太刀であり「御魂」として神格化された。 
その太刀が石上神宮の祭神で、石上神宮が朝廷の武器庫となり、物部氏が管掌した。物部氏の伝承に、十種の神宝の名を挙げ「由良由良止布璃部(ゆらゆらとふるへ)」ととなえる魂振(「鎮魂(たましずめ)」と同じように人体から遊離しようとする魂をしっかりとつなぎとめ、振い立たせる神事があった。それで神剣を「布留御魂(ふるのみたま)」と呼 ぶよう変った。  
布刀玉命 ふとだま 
<太玉命(たまのやのみこと) 
*太玉命神社(奈良県橿原市)/安房神社(千葉県館山市)/大原神社(千葉県君津市)  
古事記/須佐之男命の乱行に怒った天照大御神が天岩屋に身を隠し世の中が暗闇となったとき、八百万の神が集まって対策を練った。まず常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、天安河の河上の堅い岩を取り、天の金山の鉄を取って、鍛人天津麻羅を探して、伊斯許理度売命に命じて鏡をつくらせ、玉祖命に命じて沢山の勾玉を貫き通した長い玉の緒をつくらせた。次に天の香具山から榊の木を根ごと掘り起こして来て勾玉の緒や八咫の鏡や白い布帛、麻の青い布帛で飾ったものを布刀玉命が神聖な幣として捧げ持ち、天児屋命が祝詞を唱えて祝福し天手力男神が石戸の側に隠れて立ち、天宇受売命が天の天岩屋の前で舞った。すると高天原が鳴り轟くばかりに八百万の神々がどっと笑いだした。 
そこで天照大御神が何事かと不思議に思って「私がここに籠もっていて世の中は暗闇に沈んでいるはずなのに何を楽しそうにやっているのだろう」と呟いたところ、天宇受売命が「あなた様より尊い神がおいでになるので喜び笑って踊っているのです」と答え、天児屋命と布刀玉命が八咫の鏡を岩戸の前に差し出した。すると天照大御神はさらに不思議に思って岩戸をわずかに開いて鏡の中をのぞき込んだ。そこをを控えていた天手力男神が天照大御神の手を取って引っぱり出した。そして世界に再び光が射すようになったと記される。 
布刀玉命は邇邇芸命が天降る際に、天照大御神に邇邇芸命に付き従って天降るよう命じられ、天児屋命らと共に五伴緒の一人として随伴し た。
 
弁才天 べんざいてん 
<
弁財天 
七福神の中で唯一の女神である弁財天は、元はインドの水の神サラスヴァティで、後に学問・芸術の守護神となった。由来から神社でも水辺に祀られることが多い神様。福を運んでくる中国の女神・吉祥天や、航海の安全を守る日本の宗像三女神などと融合し、学問・芸術から財運や安全まで幅広いご利益を持 つ。神社の水辺に市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祭神とする社があれば、まずは弁天様と考えて差し支えない。インドの女神サラスヴァティは、ギリシアに伝わ り美の女神アフロディーテになったとの説もある。  
弁才天(弁財天)は仏神の1つで、大黒天や毘沙門天と同様、インドのヒンドゥー教の神様。3大主神の1つブラフマン神(梵天)の娘で、配偶神 の川の神サラスヴァティ(Sarasvati)(漢字で薩羅薩伐底)である。サラスは水の意、バティーは持つもの(富むもの)の意味。インド5大河地域の河川を神格化したもので、一説に はインダス川の神格化とも言われ、インドでは 「リグ・ヴェーダ」以来非常に崇拝されてきた。 
サラスヴァティは言葉の女神ヴァーチュと同一視され、創造神ブラフマンが実際に世界を創造する時、ヴァーチュに言葉を語らせ、その語ったものが創造されたとしている。妙音天・妙音楽天・美音天とも訳され、大弁才天・大弁才功徳天・大弁才天女などとも称えられる。略して、弁天・弁天様ともいい、俗に弁才天(弁財天)という名称で親しまれる。インドでの姿は、蓮の葉の上に乗り、白鳥あるいは孔雀を従え、また詩(言葉)と音楽の女神とされて弦楽器のヴィーナも持っている。ただしインドのサラスバティーは4臂(腕)であり、左右一対の臂でヴィーナを持ち、他の2臂は経典や数珠、蓮華などを持っているこ姿が多い。 
起源的にゾロアスター教の水の女神アナーヒターと同根説もあり、アナーヒターはメソポタミアのイシュタル、ギリシャのアフロディーテ(ヴィーナス)にも繋がるという考えもある。 
人に無碍(むげ)弁財を授け福知与え、延寿及び財宝を与えるように図り、また天災地変を除滅し、かつ戦傷をもたらす天部の仏神として崇拝された女神で、古くから貴賎を問わず信仰されてきた。吉祥天と同一視され るのは、インドの神から、仏教の神として採り入れられてからのことだ。 
 
人の穢(けが)れを払い、富貴・名誉・福寿・食物と勇気、愛嬌縁結びの徳、それに子孫を恵む神であるといわれ、一方、学問と技芸(音楽など)の神、雄弁と知恵の保護神であるとも いわれ、非常に有り難い神として信仰されてきた。日本では宇賀神(うがのかみ・うがじん)(穀物の神、転じて福の神)の夫婦神とされたり、また水の女神・市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)(市来姫)と同一視されることもある 。 
「金光明最勝王経」(金剛明経のうち唐の義浄漢訳のもの)の第七、大弁才天女品には「我まさにその智恵を益し、言説弁を具足し、荘厳せしめべし」などと説かれ智恵の神様ともな った。また水というものは、豊饒をもたらすことから農業神として崇拝を受けてきたが、豊饒は富と結びつき、財運・財宝の神様ともなった。弁才天という名称は「弁舌の才能を与える天部の神」という言葉の略称であ る 
 
弁才天の御手は、8臂(8本の腕)のもの(金剛明経で説く弁才天)と、2臂のもの(天台宗、真言宗で説く弁才天)とが(多くは半跏の座像)あ る。最初に、日本に入ってきたのは金剛明経によるので8臂であった。「金光明最勝王経」を典拠とする8臂像は、弓・刀・斧・羂索・箭・三鈷戟・独鈷杵・輪をもつ姿で ある。宇賀弁天の場合も8臂だが、頭上に白蛇または老人(宇賀神)の顔を載せ、さらに鳥居を付すものもある。 
鎌倉時代になると、2臂で琵琶を弾く美貌とあでやかな姿の女神像が一般化した。琵琶は弦楽器ビーナと一番似通った楽器であったこと、琵琶のルーツと思われることから、代用されたと思われ る。その意味で2臂の姿は、もとの4臂であったインドの弁天(サラスヴァティ)の経典や数珠、蓮華などを持っていた2臂を省いたものと考えられ、8臂の弁天よりもとの姿に近いといえる。ただし、インド では白鳥あるいは孔雀をしたがえていたが、日本ではどういう訳か蛇である。 
弁才天信仰は、奈良時代に始まり、唐からもたらされた「金光明最勝王経」に仏教の護法神の一つと説かれ る、最初の頃は人気がなかった。女神といえば吉祥天が代表で、平安時代に密教系の真言宗、天台宗によって「楽器を持った水の女神」という姿が伝えられ、徐々に情勢が変化した。鎌倉時代に宇賀神信仰を吸収し、同様に吉祥天信仰、宗像三女神、竜蛇信仰を次々吸収した。 
弁才天は、観世音菩薩または愛染明王の権化、あるいは童女、または如意輪観音の示現(じげん)であると考える信仰もあった。民間信仰として、宇賀神・弁才天を夫婦神とする信仰の他に、童女あるいは宇賀神そのものの化身とする信仰もあ った。だから宇賀神が化身するといわれている蛇をみると、「弁天様だ殺すなと母は止め」という古川柳があるように、蛇=弁天様という信仰がかなり定着していたことがわか る。 
 
弁才天を祀る社寺・祠(ほこら)の多くが、河川・池・湖・用水・海浜・など水辺に位置し、これは弁才天本来の河神的性格を受けついだもの。湾内の小さな島とか、瀬戸の中央にある島、川の中の中州などにはしばしば弁天が祭られ、海の守り神として人々に信仰された。そういう島自体が弁天島と呼ばれ たりもする(浜名湖の弁天島等)。 
日本3大弁天は、近江国琵琶湖竹生(ちくぶ)島の弁天/安芸国厳島神社の弁天/相模国江ノ島の弁天である。さらに陸前国金華山の弁天/大和国天川(天の川)または富士山山頂の弁天を合せ 5弁才天ともいう。神社系の弁天では祭神は当然市杵嶋姫神、または姉妹の湍津姫神・田心姫神を併せた宗像三女神である。 
俗信/江ノ島の弁天様、江戸時代に江ノ島の弁天様詣りは非常に盛んだった。若夫婦や恋人同志、同伴で江ノ島を訪れると、弁才天が嫉妬するから手を組んで渡島することを嫌ったという。他の弁天様でも嫉妬による縁切りの俗信が語られている。 
俗信/鎌倉の銭洗い弁天で硬貨を洗えば財産が増やせるという。
 
火遠理命 
 
山幸彦 
 -海幸彦
ほおりのみこと 
<山幸彦/ 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみ)/日子穂穂手見命(ひこほほでみ)/虚空津日高(そらつひこ)/山佐知毘古(やまさちひこ) 
*鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)/若狭彦神社上社(福井県小浜市) 
稲穂の神、穀物の神 
邇邇芸命と木花咲耶姫の三男、神武天皇の祖父。ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。ニニギに国津神の子ではないかと疑われ、コノハナノサクヤビメがその疑いを晴らすために火中で生んだ三神の末子で、火が消えた時に生まれたのでホオリ(ホヲリ)と名附けた。兄にホデリ(海幸彦)、ホスセリ(火須勢理命)がいる。 
海神の娘のトヨタマビメを妻とし、ウガヤフキアエズ(カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の父)を生んだ。高千穂の山の西にある高千穂宮で580年過ごし亡くなった。 
名前の「ホ」は、神話では火の意味としているが、本来は稲穂のことと考えられる。「おり(をり)」は、折れるほどにたわむことである。別名の「天津日高」は天津神、「日子」は男性(彦)のことで、「穂穂手見」は穂が沢山出て実るの意と考えられる。また、火が消えた時に生まれた子であるので、農業には大切な水との関連もあることになる。ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズの三代は「日向三代」と呼ばれる。
火須勢理命 ほすせり 
日本神話に登場する神。古事記のみ登場。 
火須勢理命は、ニニギとコノハナノサクヤビメの子である。天孫降臨の段において、一夜で身蘢ったためにニニギに国津神の子ではないかと疑われ、コノハナノサクヤビメがその疑いを晴らすために火中で生んだ三神の第二子であり、火が盛んに燃え立つときに生まれたので「ホスセリ」と名附けられた。兄が火照命、弟が火遠理命である。 
神名は他の二柱と同様に本来は「穂」に因むものと考えられ、誕生時の説話に因んで「火」の字が宛てられたか、逆に「火」の字が宛てられたことから誕生時の説話が生まれたと も考えられる。「スセリ」はスセリビメなどと同様「進む」という意で、「ホスセリ」は稲穂の成熟が進むという意味。 
火須勢理命は誕生の時に名前が登場するだけで、その後は一切出てこない。 
布袋 ほてい 
<布袋様/布袋尊 
*万福寺(宇治市) 
夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福することで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰される。 
七福神の中で唯一、中国に実在した人。後梁時代、7世紀の唐から10世紀の宋へ変わる間の戦国時代 、浙江省で生まれ、名を契此(かいし)といい、定応大師、長汀子(ちょうていし)といった呼び名もあったが、布袋和尚と呼ばれて親しまれた禅僧。916年に亡くなった、小柄で太鼓腹、予知能力があって彼の占いは必ず当たったことから、弥勒菩薩の化身として伝説の人になった 。 
喜捨されたものは何でも、大きな袋に入れて旅をし、この袋は福袋というより堪忍袋とも言われ、現世の欲望を達観した大らかな人で、多くの人に愛された。 
万福寺 
江戸初期、中国から渡来した隠元禅師が中国の黄檗山を模して創建した黄檗宗の大本山で、中国明朝様式の伽羅配置がなされる。隠元の来日は日本の仏教に新風を吹き込むと同時に、建築や仏像・書画・普茶料理などの様々な文化も同時にもたらし、煎茶道の祖・売茶翁を祀る売茶堂がある。祀られている布袋尊は茫道生作。
 
火照命 
 
海幸彦 
 -山幸彦
ほでりのみこと 
<海幸彦 
邇邇芸命と木花咲耶姫の長男、日本神話に登場する神。ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。ニニギに国津神の子ではないかと疑われ、コノハナノサクヤビメがその疑いを晴らすために火中で生んだ三神の長子で、火がさかんに燃えて照り輝いている時に生まれたのでホデリと名附けた。弟にホスセリ、ホオリ(山幸彦)がいる。 
山幸彦と海幸彦の説話/海で魚などと猟って暮していた。ある日、狩りをして暮らしていた弟のホオリと道具を交換するが、ホオリが釣針を無くしたことを許さなかった。海神から復讐の方法と呪具を与えられて帰ってきたホオリによって苦しめられ、ホオリに服従した。 
「ホ」は神話で火の意味としているが、本来は稲穂のことと考えられる。「デリ」は「照り」であり、穂が赤く熟すること、または火が赤く照り輝くことを意味する。 
火照命天孫邇邇芸命に、一夜の交わりで妊娠したのを疑われた木花之佐久夜毘売命が、疑いを晴らす為に産屋に火を放って、その中で生まれた三柱神の一人。火照命の神名は穂が赤く熱することを表し、日が照り輝くことを意味するが、もともとは稲穂にちなんだ名で、火は穂であったが、母神の出産の故事に基づいて火と付けられたと思われる。 
木花咲耶姫/古事記 
天照大神は日本の国を治めさせるため、自分の子である天之忍穂命(あめのおしほみみのかみ)を高天原(天照大神が支配する天上の国)から地上に降そうとするが、そのとき天之忍穂命に子が産まれ、代わりに孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)を三種の神器である八尺(やさか)の勾玉・鏡・草なぎの剣を持たせ降臨させる。天児屋命(あめのこやねのみこと)や手力男神(たぢからをのかみ)などの神々が瓊々杵命に付き従った。 
瓊々杵命一行が天から降りようとしているとき、地に通じる要所で輝きを放つ神の姿があった。天鈿女神(あめのうずめのかみ)が近づいて「誰か」と問うと、国つ神(「天つ神」に対して天孫降臨以前から国土に土着していた神)の猿田彦神(さるだびこのかみ)で、先導役として仕えたいという。一行はこれを認め、猿田彦神を先頭にして天空に幾重にもたなびく雲をかきわけ、天の浮橋から筑紫・日向の高千穂の霊峰に降り立った。 
 
ある日、瓊々杵命は、海岸で美しい大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘・木花咲耶姫(別名/木花之佐久夜毘売命/神阿多都比売 ・かむあたつひめ)に出会った。瓊々杵命はたちどころに咲耶姫に恋をして結婚を申し込んだが、一存では答えられないので父に話してくれるように頼んだ。そこで、さっそく大山祇命に求婚の意志を伝えると、大山祇命はたいそう喜び、盛りだくさんの引出物を添えて、咲耶姫と長女の石長姫(いわながひめ)をいっしょに嫁がせた。 
瓊々杵命は石長姫を気に召さなかったため送り返したが、大山祇命は石長姫を嫁がせたことについて、瓊々杵命の命(いのち)が風雪に耐える岩のように安泰であることを願ってのことだったと言い、咲耶姫だけをとどめるなら木の花が咲きそろうほどの短い命となるだろうと残念がった。 
木花咲耶姫は瓊々杵命と一夜寝床を共にして、夫婦の契りを結ぶところとなった。咲耶姫はめでたく身ごもったことを瓊々杵命に告げると、瓊々杵命は、たった一夜の契りで身ごもったことに不信をいだき、自分の子ではなく誰か国つ神の子ではないかと責めた。 
これに対して、咲耶姫は、自分の身ごもった子が国つ神の子なら出産のときによくないことが起こり、もし、瓊々杵命の子なら無事に出産できるだろうと言い残し、隙間をすべて壁土で塞(ふさ)いだ無戸室に入り出産の準備をした。咲耶姫は産気づいたところで室に火を放ち、炎の中で無事に三柱を産み落とし貞操を証した。神々は生まれた順に、火照命(ほでりのみこと。海幸彦)、火闌降命(ほすせりのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと。火遠理命<ほおりのみこと>とも。山幸彦。初代天皇・神武天皇はその孫)と命名された。 
元禄2年(1689)3月29日(新暦5月18日)、「けむり」の歌枕として名高い大神神社を訪れた芭蕉は、神道を心得る曽良からその縁起を聞き「おくのほそ道」に記した。 
*室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。 
 
譽田別尊  ほむだわけのみこと 
*日牟禮八幡宮 
人皇第十五代應神天皇の御神霊。 
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日(201年1月5日)-応神天皇41年2月15日(310年3月31日)は、第15代の天皇[在位/応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日)]。別名、誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)。 
実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。その年代は、古事記の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。「記・紀」に記された系譜記事からすると、応神は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。この実在の不確かさもあり、大王の実像をめぐっては諸説が出されてきた。応神の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い8代以前の天皇と著しく違っている事から実在とみなす説、三王朝交代説における征服王朝の創始者とする説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖と見なす説などである。また、海外史料との相対比較から、「宋書」や「梁書」に見える倭の五王の讃に比定する説(ほかに仁徳や履中を比定する説もある)、「広開土王碑」に見える倭国の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。 
「日本書紀」には、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)・一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)とあり、分注に去来紗別尊(いざさわけのみこと)とある。また、母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)の敬称がある。「古事記」には、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)とある。この別名は天皇が生まれた時、その腕の肉が鞆(とも。弓を射る時に左腕に巻きつける道具)のように盛り上がっていた事に由来するという。「播磨国風土記」には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。「上宮記」逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。 
応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(「日本書紀」では誉田別、「古事記」では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説がある。確実性を増してからの書紀の記述による限り、天皇に和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。22代清寧天皇のシラカタケヒロクニオシワカヤマトネコ(白髪武広国押稚日本根子、「日本書紀」に因る)のように明らかな和風諡号も見られるが、これはむしろ清寧天皇が後に皇統の列に加えられた架空の天皇である可能性を物語っている(ただし、清寧天皇の和風諡号は実名を基にした物であるため、実在した可能性が高い、とする説もある)。 「日本書紀」には、吉備臣の祖として御友別(みともわけ)の名が、「古事記」には、近江の安(やす)国造の祖先として意富多牟和気(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「ホムダワケ」と全く同じである。これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は4世紀から5世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが分かる。事実、景行・履中・反正の各天皇の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。以上の点から、応神天皇の「ホムダワケ」と言う名も実名だった、とこの仮説では見なしている。なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については、諸説あって明らかにしがたい。「古事記」では、景行天皇が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としている。が、これは観念的説明であろう。  
 
 
  うえ かき  
 


  
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