宗教

法規範と宗教信教の自由日本における信教の自由の受容と歪曲政教分離
 
【宗教】仏語。宗と教または宗の教。教は教説で、その教が主とするところの理が宗。 
人間生活の究極的な意味を明らかにし人間の問題を究極的に解決しうると信じられた営みや体制を総称する文化現象。その営みとの関連において神観念や聖性を伴う場合が多い。原始宗教、呪物崇拝、多神教、キリスト教、仏教、イスラム教などの世界的規模のものあり。 
【キリスト教】イエス‐キリストから発して、その人格と教えを根本規準とし最後的なものとして信じる宗教。ユダヤ教を母胎として1世紀中ごろパレスチナに起こり、使徒たちの伝道によって各地に広がり、4世紀初めローマ帝国の国教となる。11世紀中ごろローマ教皇の権力増強によって東西の教会に分裂し、東方教会はギリシア正教会となる。16世紀前半宗教改革が起こり、ローマ教会からプロテスタント教会が独立した。旧約と新約から成る「聖書」が経典。「旧約聖書」に示された神を父なる愛の神として説き、その神に従い神と人とのために仕えるべきことをその中心教説とする。耶蘇教。
  
【イスラム教】7世紀前半アラビア半島の西部、ヒジャーズ地方のメッカの人マホメットが、メッカ郊外のヒラー山中の洞窟でアラーの啓示を受けたことにより始まった宗教。啓示を集録したコーランを教典とする。教義は信仰(イーマーン)と義務(イバーダード)に分けられ、前者はアラーを唯一全能の神と信ずること、天使の存在、啓示の真実、預言者の正統性、終末と来世の存在、最後の審判を信ずることであり、後者はイスラム教の五柱と呼ばれ信仰告白、礼拝、断食、救貧税、メッカへの巡礼の五つの義務を守ることである。預言者マホメットの死後もハリーファ(カリフ=預言者の代理者の意)たちにより布教活動が続けられ世界宗教となった。
   
【仏教】仏陀が説いた教え。紀元前5世紀、インドのシャカ族出身のゴータマ=シッタルタ(=悉達多)が悟りをひらいて釈迦牟尼仏となり教えを説いたことに始まる。人生は苦であると悟り、その原因、解脱の方法、解脱した涅槃(ねはん)の世界を見きわめることを説く。仏陀を中心に男僧(比丘=びく)・尼僧(比丘尼)が教団を構成したが釈迦牟尼仏の亡きあと分裂。紀元前3世紀、アショカ王によりインド各地のみならず東アジアに伝播され、紀元前後に大乗仏教が生れ、伝統仏教は小乗仏教とよばれ、スリランカ、ミャンマー、タイなど南アジアを中心に広まり、大乗仏教は中央アジア、中国、チベット、朝鮮、日本へと伝わり各地の土俗信仰を取り入れた。日本には6世紀半ばに伝わり、奈良時代までは学派仏教の性格が強く、平安初期に成立した天台・真言両派に至り宗派的性格を生じ、鎌倉時代の諸宗派の成立に至って大衆の宗教へと発展。
   
【ユダヤ教】ユダヤ民族(イスラエル民族)から発生した宗教。ユダヤ人が信奉する宗教。信仰対象は唯一絶対の神ヤハウェで、自民族はヤハウェの民、神より特に選ばれた民とし、モーゼの律法を重んじ旧約聖書を経典とする。狭義にはバビロン捕囚後の神殿の祭儀と律法中心のユダヤ人の宗教。 
【ヒンドゥー教】インドの民族宗教。狭い意味の宗教ではなくインドの伝統的・民族的な制度・慣習の総体で、宗教的・倫理的・社会的な行為の規範すべてを内容とする。全体を統一する教団組織は存在せず、その時に応じて祭祀の対象となる特定神格を最高神視する交替神教で、業(カルマ)に基づく輪廻と、それからの解脱を説き、最高実在ブラフマンとアートマン(我)との合一によって解脱にいたる方法を説く。インド教。バラモン教。 
【宗教家】宗教の布教に従事している僧侶、牧師、神父の総称。 
【宗教心】宗教を信じようとする気持。宗教を信じている人の持つ敬虔な心。
  
【宗教性】人間の持つ宗教的な性質・感情。 
【宗教戦争】宗教上の争いが原因で起こる戦争。16〜17世紀のヨーロッパでキリスト教のプロテスタントとローマ‐カトリックの対立、抗争からひき起こされた国際的戦争。 
【宗教哲学】宗教全般にわたって宗教の究極的な意味・本質を哲学で究明する学問。神学とは特定の宗教信仰の弁護・解釈に力点を置かないことで、宗教学とは経験科学によらないことで相違する。 
【宗教教育】宗教について教育すること。宗教的精神を教育する学校行事、授業。日本の公教育では特定の宗派教育を行うことは禁止され、私立では自由参加の形態でこれを行うことが認められている。
   
【異教】自分たちの信じるものと異なる教え・宗教。 
【多神教】多数の神の存在を認めこれを崇拝する宗教体系。原始宗教・古代宗教の大多数がこれに属す。諸神は個体的性格をもち、文化が進むにつれて職能神として明確に意識され神々の関係も整理された。 
【一神教】ただ一つの神だけの存在を認めそれを信仰の対象とする宗教。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。 
【無神論】神の存在を否定する哲学上、宗教上の立場。理論上、懐疑論・感覚論・実証主義・唯物論と結び。 
【信教の自由】宗教を信仰することしないことに関する自由。基本的な自由権の一つ、わが国の憲法はこれを保障。 
【祭政一致】祭祀と政治が一致すること。 
【政教】政治と宗教。祭政。 
【政教一致】祭祀と政治が一致すること。
   
【神道】日本固有の多神教の宗教で「古事記」「日本書紀」などに見える神代の故事に基づいて神を敬い、祖先を尊び、祭祀を行う。かんながらの道。 
【神体】神の本体。神霊の宿るもの、象徴として礼拝対象としてまつる鏡・剣・玉・鉾(ほこ)・像など。 
【神託】神のおつげ。神が人や物などを通してその意志を知らせること。神言(かんごと)。 
【大社】諸社の中で由緒古く規模の大きい神社。社格が最上位の神社。古く神社の格式を大・小または大・中・小に分けたうちの第一位の神社。また特に、伊勢神宮・八幡宮をさしていうこともある。明治4年に定められた神社制度の社格で、官幣大社・国幣大社の略称。出雲大社をさしていうこともある。 
【神宮】神をまつる宮殿。神殿。やしろ。格式の高い神社の称。熱田神宮・橿原(かしはら)神宮・宇佐神宮・香取神宮・鹿島神宮・平安神宮など。 
【神社】日本人固有の信仰対象の神をまつり法的存立を認められた礼拝施設。 
【神社神道】全国各地に鎮座する氏神をはじめ広く神としてまつる施設およびこれにともなう祭祀儀礼を包括した信仰組織の総称。明治以後に成立した教派の神道と区別するために用いた分類上の用語。
  
【八百万(やおよろず)】数の限りなく多いこと。多数。無数。「八百万の神々」 
【明神(みょうじん)】神徳を尊崇していう語。 
【名神(みょうじん)】社格の一つ。昔神社のうち尊崇が厚く特別待遇に預かるよう選ばれた神々。延喜式神名帳には306座、臨時祭式では285座を載せている。 
【神州・神洲】神国。わが国で自国を誇っていう。「神州日本(男児)」 /中国で自国の美称。 
【神田明神】東京都千代田区外神田にある神社。大己貴命(おおなむちのみこと)、少名彦命(すくなひこなのみこと)を合祀(ごうし)。正式名は神田神社。神田祭で知られる。なお、平将門の霊をまつるとする所伝がある。 
【地蔵菩薩】六道の一切衆生の苦を除き福利を与えることを願いとする菩薩。俗信では小児の成長を守り、もし夭折した時はその死後を救い取ると信じられた。密教では菩薩形にあらわされるが普通には頭をまるめた僧形で宝珠を持ち、平安中期以降は宝珠と錫杖を持つ姿が一般化し、多く石に刻まれて路傍に建てられ民衆とのつながりが強まった。その救いや霊験、形、置かれた地名などによって、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、とげぬき地蔵、延命地蔵などの名がある。地蔵尊。地蔵。
   
【七福神】幸福を招くという七人の神。恵比須・大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人。「七難即滅、七福即生」の説によるという。七福神参、元日〜七日に一年の福運を祈るため七福神をまつった社寺を巡拝すること。 
【善光寺】長野市元善町、単立宗教法人の本堂を天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が管理。山号は定額山。皇極天皇元年(642)信濃国麻績(おうみ)里の本多善光(一説に若麻績東人(わかおみのあずまんど))が堂宇を創建し三国伝来の一光三尊の阿弥陀仏を安置したのが始まりと伝えられる。南命山無量寺。不捨山浄土寺。 
【御蔭参】御蔭年に伊勢神宮に参拝すること。江戸時代以降おこった大群衆の伊勢参りをいう。お蔭(恩恵)のいただけるありがたい年としてお蔭年の観念が発生し、約60年を周期として顕著にあらわれた。季節は3月ごろが多かった。御蔭。抜参(ぬけまいり)。疫病などが無事になおったことを感謝して神社仏閣に参詣すること。お礼参り。
  
【宗教団体】宗教の教義の普及、儀式の執行、信者の教化、信者の懇親、相互扶助などを目的とする教派、宗派、教団、ならびに神社、寺院、教会、その他これらに類する団体。 
【宗教法人】宗教法法人によって人法として認められた神道教派、仏教宗派、キリスト教その他の宗教の教団、ならびに神社、寺院、教会などの宗教団体。 
【新興宗教】新い宗教。わが国ではおもに第二次世界大戦後、全国的に教勢を拡大した宗教をさすことが多い。 
【創価学会】宗教団体。昭和5年牧口常三郎が創価教育学会として創設、同21年戸田城聖が現名に改め再建。日蓮正宗の教学に美・利・善の価値論を結合し信仰による生活革新を提唱。
法規範と宗教

 

宗教と法律 
芸術科学政治等のすべての文化が宗教から分かれたように、神が命令を下したと信じられていたものが法律の元となった。 
未開社会では、掟、宗教的タブーが存在し、掟を犯したものは処罰された、原始的法律との始まりといえる。生活の安全を確保し、よりよくするための施策を行う政治も宗教から発生したといえる。 
古代、生活の安全を脅かすもの大きなものは自然災害だった。政治の役割は自然が暴れないよう自然を支配する神々を祭り、祈願することが重要だった、神を祭り・儀式を行い神の命令を理解する人、そういう人々が政治を行った。権力者支配者が神々を祭る儀式を主催し、神々の意志、あるいは神の命令として法律を定め、法律と宗教とが密接な関係にあった。現代社会においても法律の一番根元にある社会規範は宗教的に積み重ねられたもので、国家が社会全体に守るべき規範として体系化したものが法律である。 
日本に導入されたヨーロッパ近代法 
日本の近代法はヨーロッパの近代法から始り、日本の法体系の基はキリスト教文化を背景にしている。
   
キリスト教はユダヤ教から 
ユダヤ教は律法を守ることが信仰だとする律法中心の教えだ。「モーゼの十戒」を守りなさい、そうすれば神が守護し発展させますよという、人と神との契約関係から成立している。十戒が後のユダヤ法、律法の基となり、神が「人間はかくあるべし」と命じ、人の守るべき律法となり、守ることで救いに預かることができる。アダムとイヴがエデンの園から追い出される話は、木の実を食べ神の信頼を裏切り処罰された事を意味している。アブラハムが神によって選び取られる話は神とアブラハムとの間で約束・契約が結ばれた事を意味している。 
この神と人々との旧い契約と言われる旧約聖書に対し、イエス・キリストの死により人々の罪が赦される新約(新しい契約)聖書が生まれた。イエス・キリストは「律法をないがしろにするものは天に行っても最も小さなものとされる」とユダヤ教の律法を引き継いぐ一方で、「汝の敵を愛せよ」「情欲を持って女を見るものは心の中で…」と言い、律法の奥にある人間の心の問題から律法を見直そうとし律法精神主義を唱えた。
  
ユダヤ教では「人を殺してはいけない」人を殺さないことが律法を守ることだが、キリスト教では人に対する憎しみが人殺しをさせ、憎しみの心より殺人が起こる故、人に対する憎しみを持つこと自体神の律法から見れば既に罪を犯しているとした。神と人類との新しい契約である、人間の心の問題から律法を見直した新約聖書の世界を展開した、後にはカソリック教会法という厖大な律法書が成立した。 
キリスト教を背景としたヨーロッパ社会では、神に誓ってと言うような契約が法律の持つ基本的精神である。契約を中心にした社会関係・人間関係が基本となっている。民法では「人間の権利能力は出生に始まる」とし、人間を権利能力の主体と考えその間で結ばれる契約を中心とした関係で社会を規定している。
信教の自由について

 

現在、信教の自由を謳わない国はサウジアラビア、エチオピア、ギリシャ以外にほとんどなく、信教の自由は世界的に普遍的原理となっている。しかし、昔より信教の自由がどこでも言われていた訳ではない。信仰を守ろうとした宗教を巡る歴史から成立したが、キリスト教文化の他に現在言われている「信教の自由の理念」は生まれなかった。したがって「信教の自由」は歴史背景からキリスト教文化を前提に含んでいる。 
ヨーロッパにおける信教の自由 
中世ヨーロッパの宗教はカトリックであり、排他性が強く正しいキリスト教はカトリックのみとし異なった宗派の並存を許さなかった。神の真理は一つ、それを教える教会(宗派)は一つ、すべての人が一つの教えに含まれなければならないという思いが伝統だった。それは信教の自由とは正反対で、信教の自由はルターの宗教改革(1517〜)の内から芽生えた。
  
ルターは修道士をし、神学博士となり神学校で聖書の講義をしていた。パウロの解釈である愛の神(あなたは既に救われているという福音)に気付き、もともと有限で罪深い人間は信仰、善き行いにより救われるのでなく贖い主神の子イエスの愛の力により救われると覚った。それまでのカトリックの救いは、一般の信徒は信仰と秘跡(サクラメント・結びつけるとの意)神と人とを結びつける教会で聖職者を介して行う特殊な儀礼(洗礼・堅信礼・回心・結婚・終油ミサ、告解・叙階 中世での中心的秘跡)をとおして救われる、或いは修道士のように神に仕え善き行いにより救われる、一部には神秘的体験を通して救われると考えられていた。神と人との間に聖職者の介在が必要であった。
   
ルターは「信仰のみ」で救われると説いた。「信仰のみ」により教皇、司祭などを介さず直接神の子イエスの愛の力により救われる、免罪符により救われることはないと主張した。世俗権力と結びつき莫大な財力を操り免罪符を発行する腐敗した教会を改革しようとする宗教改革の発端となった。 
宗教改革が一般民衆まで巻き込んで行われた背景には、国民国家の形成、ナショナリズムの発生がある。ルター・カルヴァンは本来のキリスト教に戻すつもりだったが、結果的にプロテスタントが成立することになった。神と人とを信仰により直接結び付けるという主張は、個人が基本となり、神の意志は個々の人に伝えられ、個々の人が神の真理の担い手となる。また統一する教皇のような権威がなくなり、意見・見解の違いが生じ多くの教派分派ができ、複数の宗教宗派を認めることとなった。個人が重視され複数の宗派を認めていくことで「信教の自由」の前提が現れ始めたといえる。この宗教改革を近世の出発点とする説もある。 
宗教改革は一般人を含めての宗教戦争で「個人の自覚」の端緒となり、中世から近世へ意識の転換となった。宗教改革は北欧に広まり、国各に一つの教会を置き、神より君主は国民を治めることを任され、教会は国民・国を教えることを任され、君主を教会が相補し国・国民を治めていく、国家と教会を統一する領邦教会制へと展開していった。
  
1620年清教徒米国移住、1640年清教徒(ピューリタン)革命を通じて、ルターの宗教改革より100年ほどで「個人の自覚」の意識の転換は定着した。信教の自由を含む基本的人権と民主主義は清教徒の教会運営内に芽生えたと言われている。神の真理の受け手は信者個々人で、教皇・司教等を介在させず、良心を通して聖霊の声として示されるとした。有限な人間は神が示したことを正確に受け取れない、考えの違いが生じるが、一部の真理が個々人に表れるとした。神の真理、意思を見いだすため、受け手の個人が集まり討論と多数決で決めた。清教徒の教会運営では討論、多数決が行われ、信徒の契約にて教会が運営されました。ここから民主主義が発生した。また、基本的人権と民主主義は清教徒革命を通じて英国に広まった。
   
清教徒にとって基本的人権は神から与えられた法的権利、自然法だった。自然法思想はギリシャ哲学のストア学派を起源とし、法律は正義を実現するためにあった。国、時代により変わる法律(実定法)とは別に自然界に内在している普遍的な正義を表す法、自然法というものがあると考えるのが自然法思想だ。中世キリスト教世界の自然法は神の法であった。実定教会法は改定が行われていくが、背景に神の法(自然法)が存在しその法に基づき作られ、自然法思想が受け継がれた。 
清教徒では信教の自由を含む基本的人権は、神から直接与えられ法的権利であった。国王の法と教会法(実定法)を批判する根拠に自然法があり、自然法はキリスト教信仰から生じた神のように超越したもので、地上的権威を認めない、国家以前に持つ人間の権利(基本的人権)でだった。宗教改革で信仰により神と直接つながり、超越神の名において地上的権威である教皇制を否定し、神から直接与えられ国家に左右されない国家を越えた自然法により国王の法を改めていった。
  
信教の自由を筆頭とする思想の自由、結社の自由というものは、自然法といわれる基本的人権で、清教徒の思想が人権思想の父祖といわれている。宗教改革、清教徒革命を通じて「信教の自由」と密接に絡んでいる自然法である基本的人権の考えはキリスト教文化の伝統の中から出て成立したと言える。 
清教徒が米国に移住の時、新天地に新しい社会を形成するに当たりピューリタニズムの契約思想に基づき、相互に契約(文書)を結び参加と服従に同意した。契約国家の始まりとされるのがメーフラワー契約である。 
その影響の基にルソーの、国家を越えた自然法がすべて主体的な人間のあり方を前提にした構成員全員一致の社会契約によって成立した自由人の共同体、人と人との契約に基づく国家を唱える社会契約論が生まれた。普通選挙に基づく徹底した人民をその主権者とした共和制を唱えた、フランス革命の思想的基となった。 
人権、権利意識というものは、日本の文化、伝統にない。日本人は意識的に身につけ理解に努力しないと、人権を個人の価値として認めることは容易でないと思われる。
日本における信教の自由の受容と歪曲

 

日本と西欧との発想の違い 
日本の信教の自由という理念は、近代になってヨーロッパから導入された。キリスト教の世界で神と人との関係が基本的には契約という自由な結びつきで関係づけられ、その発想が可能にしたと思われる。 
日本においては神と人との関係はかなり連続的、血縁的につながっている。神の末裔とされる天皇が聖と俗、この世にいながら聖なる権威を帯びていた、日本独自で信教の自由という理念は誕生し得なかったわけである。 
倒幕から始まる日本の信教の自由 
日本の近代は明治維新に始まり、スローガンは尊皇攘夷であった。倒幕の動きは直接的には攘夷といえるが、幕府を倒す大義名分で正当性を裏づけるものとして天皇が担ぎ出された言える。実際には薩摩、長州が新政権を担って藩閥政治が行われ、明治政府は天皇親政、天皇が直接政治を行うことを建前とした。
  
天皇の政治とは 
天皇政治の基本として明治元年に出されたのが祭政一致の布告、太政官布告である。起草者は津和野藩士福羽美静と言われる。祭政一致の布告の中で、天皇政治とは神武創業の初めに返るとした、日本の天皇の統治というのは神話的な神武天皇から始まることを理念とした。 
具体的には神祇官の再興で、平安朝を天皇が直接政治を行っていた時代の一つのモデルにしたのなもしれない。つまり天皇政治というのは神祀りをしながら、それに基づく政治を行っていくという理念が提唱され。この祭政一致の実を上げるために最初にとられた政策が神仏分離政策だった。
   
国民への神道教育 
明治元年と2年の間に全部で13の政府命令が出され、全国で過激な廃仏毀釈運動が展開された。また皇室の神道化ということで明治以前の年中行事は全部仏式であったが、神道式の行事に変革した。最終的な神式の行事を定めた皇室祭祀令が明治41年に完成した。明治の国学者の理念、神道理論に基づいて宗教政策が推進されたこの時期、政府に信教の自由を認めようという考え方はなかったことは明らかである。この時期の宗教政策はダイレクトな神道国教化政策で、神祇官は神を祀る仕事の一方で、宣教使を置き国民に神道教育をして全国民に神道信仰を持たせようとした。 
神道以外の宗教への弾圧 
他の宗教を明白に禁止するものではなかったが、神仏分離政策や社寺領上地政策また地租改正などによってかなり打撃を与えた。 
キリスト教政策は幕府の政策をそのまま受け継ぎ、キリシタン禁制の政策がとられた。この政策は対外的に大波紋を呼ぶことになり、外国から信教の自由も認めない野蛮国なのかと抗議が行われた。日本政府はこの時点で、ヨーロッパ諸国で信教の自由は非常に重要なことと十分認識したはずだが、すぐにすすんで信教の自由を取り入れようとはしなかった。キリスト教を認めるという言い方は決してせず、黙認するという形になった。キリスト教という言葉が出てくるのは昭和14年の宗教団体法になってで、それまでは神道、仏教、その他の宗教という言い方をしいた。
  
国民教化運動(大教宣布運動) 
明治8年ごろに太政官の中に教部省をつくり国民教育をやろとした。運動組織として大教院を設けた、これに東京芝の増上寺が充てられ、各地方に中教院を置いた。この地方本部みたいなものに信州の善光寺が充てられ、そのもとに小教院が全国に置かれた。こうして神仏合同で国民教化運動(大教宣布運動)が展開された。この中で三条教則を国民に教える神道的天皇崇拝をすすめる運動であった。三カ条とは「敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事」「天理人道ヲ明ラカニスヘキ事」「皇上ヲ奉戴シ、朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」この三条の教則に関しては非常に曖昧だということで、十一兼題、十七兼題と呼ばれる解説書が出された。
   
大教院分離運動 
明治5年島地黙雷「三条教則批判」森有礼「信教の自由論」より信教の自由が提唱され、大教院分離運動が展開することになった。明治8年に初めて日本政府は信教の自由を保障する口達書をだすことになる。この内容は信教の自由とは内実の違うもので、まず宛名が宗教団体の長に対する形を取った。宗教団体の活動の自由という範囲で信教の自由を考え、国民を教化するためには教導職にならないと許されないという体制であり、また対象にキリスト教や他の宗教は入っていなかった。 
信教の自由への転換期 
非常に不完全で歪曲された形のものだが、その後、相対的な自由化の時代となる。大体明治9年から15年の問は信教の自由を認めざるを得ず、認めたことで今までのような国家の指導のもとで神道的な国民教化がやれない状況になった。
  
各宗派の独立 
明治9年から以降、各宗派の独立行為が相次いだ。仏教は歴史的に長く本山を持ち独立してやっていける組織を持っていた。自由化されると本山を中心として活動を始めることができた。明治以前の神道は神仏習合でお寺の配下に置かれ、自前の組織は持っていなかった。自由化されると困り神道事務局を作り、急遽そこに全部一緒になって活動をした。 
祭政一致(政教一致)と信教の自由 
政府の根幹理念が祭政一致であったから、宗教問題を完全に自由化できなかった。祭政一致は、ある意味では政教一致である。これは仏教の影響で、明治初期は祭とか教とか宗とか、みんな一字でそれぞれ別の意味する表現をしていた。祭というのは宗教の儀礼で、儀礼は教義、教えと、人間の心の内部とつながっているものと同じである。言葉の上で祭と教というのを分けて祭政一致などと言ったが、政教一致体制であった。両立しえない信教の自由を何とか両立させるという矛盾した両立を目指し、考え出されてきた体制が国家神道という体制である思われる。
   
国家神道体制 
国家神道体制は明治15年ごろ始まった。神官の教導職兼補を廃止する件という通達である、教部省は明治10年廃止になったが教導職制度は明治17年まで続いた。それまで国民教化、神道的な教化の中心となるべき神主、神宮、その神宮を教導職からやめさせるという通達であった。教導職から外すということは、神主は教えを説いてはいけないということで、神祀りの儀式の執行に専念せよということになった。神社は教えを説かず、専ら神社における儀式の執行にかかわるのみで、宗教でなくなった。神社を宗教ではないことにすれば、神社で祀りを行っても信教の自由と矛盾しないからである。神社に参拝するというのは一体何かというと、これは国民道徳の基礎となるのが神社参拝であるというわけである。したがって神社参拝というのは、参拝を義務化して参拝を強制しても宗教を信ずることと別問題で信教の自由と矛盾しない。信教の自由を侵害しないと言うための神社の非宗教化と言える。
  
国家神道化における信教の自由の扱い 
新宗教は、天理教が公認されて以降一つも公認されなかった。次々生まれたが行政は、非常に宗教に似たものだが本当の宗教でないと扱った、当然、信教の自由とい対象にもならなかった。明治政府の信教の自由は行政の保護という考え方であり、その保護の対象外ということだ、それは状況により取り締まる対象となった。こういう体制が国家神道化における信教の自由の扱いであり、宗教公認主義が日本の敗戦まで続いた。
   
大日本帝国憲法における信教の自由の保証 
国家神道体制が芽吹いて7年ぐらい後、明治22年大日本帝国憲法が制定された。オーストリア憲法をモデルとし伊藤博文が創ったとされ、そのモデルゆえに信教の自由の保障は「日本臣民ハ信教ノ自由ヲ有ス」つまり国民の権利という形は一応とった。ただし「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務に背カサル限ニ於テ」という一定の条件、限界を定めた。現在の憲法の規定と比べると「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあり、幾らか違っている。戦前の日本では国家を超えた国民の権利としての信教の自由というのは存在しなかったと言える。
  
信教の自由とは内心の自由 
昭和4年ころの政府解釈は、内心の自由だけが信教の自由だと言っている。心の中で何を信じるか、これは信教の自由として憲法が保障しているが、それを外部に表現したり、信仰に基づいて活動をする自由は、表現出版の自由ということで、信教の自由の中に入らないとした。宗教団体をつくる結社の自由も信教の自由の中には入らないとした。集会、結社の自由、あるいは表現、出版、言論出版の自由は、明治憲法でも書かれているが、法律の範囲内で自由との条件付の保障の仕方だった。昭和初期、信教の自由とは心の中の自由のことだという解釈がまかり通り、信教の自由の保障は事実上存在しなくなった。
政教分離

 

政教分離原則 
日本では信教の自由の保障とともに、それを制度的に確保するため政教分離の原則とられている。憲法二十条の一項後段「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」二十条の第三項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」第八十九条「公金その他公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、これを支出し又はその利用に供してはならない」部分がいわゆる政教分離規定と言われるもの。 
昭和20年8月敗戦を迎え、自由の回復が占領軍の占領政策の中心をなし、10月いわゆる人権指令、あるいは自由の指令といわれる指令が出された。これは国民の自由を抑圧していた法規制を撤廃する命令で、治安維持法、刑法の中の不敬罪、宗教団体法などが対象となった。政府は宗教団体法だけは廃止してしまうと二十万からある日本の宗教団体の法的基礎が失われてしまうからと抵抗し、12月になって緊急勅令で宗教法人令を替わりに作り廃止した。
  
国家神道という国が神社が結びついている体制が日本の侵略戦争をイデオロギー的に支えていたという観点から、国家神道を解体するいわゆる神道指令が占領軍直接の指令として出された。極めて具体的に今まで国が神社に対して行っていたさまざまなことを禁止した、公の土地にこうやってはいけない、官公庁に神棚を設けるのはいけないとか、細かく書いてあった。「本指令の目的は国家と宗教を分離するにある」と明記され、国家神道では神社は特別扱いをしていたが、すべての宗教団体を正確に同じ法的基礎の上に立たせた。これが日本における政教分離の始まりと言え、神道指令の精神が日本国憲法に盛り込まれ、二十条、八十九条の規定になった。信教の自由の保障に関わり、政教分離原則というアメリカの考え方が受容されたと言える。 
 政教分離のルーツは非常に似たような時期に二つの流れから起きている、一つはアメリカ、もう一つがフランスである。
   
アメリカの政教分離 
信教の自由を求め新天地をへ行ったから、最初から信教の自由が保障された国家になったか。そうならよかった、自分たちの信仰を新天地で実現したい人も、別の事情で移って来た人達もいた、またアングリカン―英国国教会の信者もカトリックも来た、ルター派も来た。それぞれ州ごとに彼らは州の国教を作った。実際に宗教的に一致する人だけが住むことは実際上は困難で、州の国教と違う信仰を持つ人が住み込むことは避けられない。そのために植民地時代は宗教をめぐっての迫害、弾圧という事件が各地で起こった。そういう状況を踏まえて、国は個人の宗教に干渉、介入すべきではないことを唱える思想家がだんだんとあらわれた。
  
独立戦争を行い独立した1775年、連邦国家として憲法を定めたが、最初の段階では信教の自由及び政教分離に関する規定はなかった。これを盛り込べきとジェファーソン、マディスンたちの努力で、1791年修正条項として盛り込まれた 。 「連邦議会は国教の樹立に関する法律、自由な宗教活動を禁止する法律を制定することはできない」。日本国憲法に比べると非常に簡単単純で、政教分離条項と言われるのは「国教の樹立に関する法律を制定できない」という部分である。立法の際にジェファーソンなどはその精神として、国と宗教との問にはseparation of church and state(国家と教会の分離と言われる)、容易に乗り越えることのできない分離の壁を置く趣旨を述べ、そのことを受け具体的な政教分離の内容は、裁判所が判例を積み重ね定められた。したがってアメリカでは宗教の問題に国が介入しないことで、信教の自由を保障しよとする政教分離の基本理念があったと言える。
   
フランスの政教分離 
フランスで政教分離が憲法の条文にあらわれのはずっと後で、第四共和国1946年―戦後である。私の記憶では現在の共和国第二条「フランスは不可分の民主的かつライック(世俗的)な共和国である」がいわゆる政教分離原則と言われるもので、政教分離のことはライシテの原理と呼ばれている。とはいえ始まりはフランス革命にさかのぼり、共和国が成立、ナポレオン時代に再び王政に戻り、流れは一貫したものではなかった。王政を倒して共和制の国家がつくられ、最初は穏健派がその後急進的なジャコバン党が革命政府の実権を握った。ジャコバン党は唯物主義者といってもマルクス主義でも史的唯物論ではなく、もっと古い唯物決定論とか機械的唯物論とか言われるようなもので、主導権を握ったことと、当時カトリックが非常に力を持っていたことで、権力闘争して国家から宗教権力を排除するという理念が、フランスの政教分離の場合は強くあったと言える。 
宗教権力は、ヨーロッパ中世には神聖ローマ帝国の世俗権力とローマ教皇庁の教皇権力が相克してきた歴史があり、カトリックは権力の保持者だった。
  
その伝統は現在も生き、カトリックの総本山でサン・ピエトロ寺院のある教皇庁は、独立国家、主権国家、バチカン市国というローマ市内の小さな敷地でありながら、領土を持ち、精神的な国民を全世界に持っている。そういうカトリックの権力がフランス国家にも大きく関与していたので、これを排除する流れとなった。フランス革命のとき修道院の財産を没収し、現在でもカトリックの大聖堂という建物、敷地は国有地、国有施設に、地方の教会は地方公共団体の所有物となっている。したがってフランスの政教分離の理念の一に、反教権という反宗教的な理念が流れていることは忘れてはならない。ただフランスは非常に反宗教的かというと、政教分離と言いながら分離はアメリカの方が厳しいと思われる。カトリック教会は国有地、地方公共団体の所有物、公の財産であり、一方で公の財産を特定の宗教に使わせていることになる、厳密には政教分離違反とも言える。日本憲法は「公の財産は宗教団体のために支出したり利用に供してはならない」と規定し、アメリカもそういうことは政教分離違反、憲法違反だと考えている。
   
国教国 
信教の自由が世界的、普遍的であるのに対して、政教分離原則は比べると必ずしも普遍的ではない。アメリカ型、フランス型それぞれの影響を受け政教分離原則を取り入れている国は多い、社会主義国はほとんど政教分離制度をとってきた。社会主義国は大体フランス型で、さらに反宗教的という感じの政教分離である、しかし東ヨーロッパの政教分離国の多くが教会の教師の給料を国で支払っている。しかし政教分離をとらない国というのもあることは事実である。 
スペインはカトリック国で、憲法で国教とその保護がうたわれている。他の信仰を持つこととその自由は保障しているが、それを公に対外的に行うことは禁止するとしている。イギリスは国教制を明確にしている典型である、法制度はいろいろと1600年ごろの法律が今でも生きている複雑な国である。他にルター派の広がったスウェーデン、ノルウェー、デンマークが国教制度を持ち、パキスタンはイスラム国教制の国である。 
信教の自由は保障する一方で国教というものをはっきり定めている国は政教分離とは言いにくい、また、国教制をはっきりとっているわけではないが憲法上政教分離を明確にうたっていない国もある。
  
非分離・非国教国 
私はドイツのような制度を政教分離と呼ぶべきではないと思っている。ドイツ憲法の百四十条「国の教会は存在しない」でドイツも政教分離だという言い方をする人が多い。しかし、その第五項「宗教団体は、従来公法上の団体であった限り、公法上の団体として存続する」あり、公法人とは国とか地方公共団体つまり税金で維持される法人である。ドイツには国家と教会は対等の公法人だという考え方がある、この考え方はルターの国家教会二統治説の流れを引いているもので、ルターの考え方は政教分離ではなかった。国家も教会も神によって立てられたもので、国家は世俗の面から、教会は精神的な側面から相補って国民を統治するものという考え方であった。国民の統治にかかわる存在が公法人である、「従来公法上の団体である」というのはカトリック教会とルター派教会を指した。ドイツは宗教改革以降、ルターが宗教改革の火をつけたが、全土がルター派になったわけではなかった。まだ封建領主が各地におり領主ごとにカトリックの地域、ルター派の地域に別れ、それがドイツの統一後もその形でルター派とカトリックが両方共存 する形で残り、二つあるので国教という形で統一できなかった、国家と対等の公法人とは事実上カトリック教会とルター派教会である。
  
そういう公法上の教会に関して第六項「市民租税台帳に基づき、ラントの法の規定に従って租税を徴収する権利を有する」と書いてあり、教会は税金を国民から取り立てて維持されるなっている。ドイツの制度などを見て「ドイツは非常に宗教を大切にしている、日本も少し見習うべきだ」と言う人がいる、教会税を取ることができるのは公法上の団体である宗教団体、つまりカトリック教会とルター派教会だけが教会税を徴収することができるのであり、そのほかの宗教団体はできない。宗教の問に歴然たる差別が設けられおり信教の自由の保障という点で疑問だ。ヨーロッパでは結構この種の国がある。 
オランダは信教の自由を容認した最初の国だが、信教の自由を保障したと言いながら、その後、政教分離という方向にまで進まなかった。オランダもベルギーも基本的に同じ規定になっているが、要するに宗教の教師に国が給料を払うという制度が残っている。「現在、諸宗派及び諸宗派の聖職の享有する俸給、恩給及びその他の収入は、その宗派及びその宗派の聖職にこれを保障する」と国が給料を払うという制度が残っている。
   
日本の政教分離 
信教の自由の保障は、本当に平等にいかなる宗教に対しても保障しようとすればアメリカ型分離になり、日本の制度は望ましいものと考えられる。けれども政教分離というのは具体的にはどうかという面で、明確にならない問題が今も存在している。憲法はかなり具体的な形で規定、明文で書かれている、全部で四つある。 
二十条一項後段の前半部分で、国が宗教団体に特権を与えではいけないという特権付与の禁止。戦前の日本で宗派の管長は、上級官僚、勅任官待遇という扱いになっていた、そういう待遇を与えることも特権に当たると解されている。 
いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならないという政治上の権力の行使の禁止。これが公明党が政権に入るということで、憲法に違反するのではとの議論が起こっている因である。 
二十条の三項、国の宗教的活動の禁止。この解釈をめぐって、津の地鎮祭訴訟以来、最高裁の判決が何度か出ている。 
八十九条、公金支出の禁止。税金を宗教のために使ってはならないという規定。
  
日本では「政」とは政治、「教」とは宗教、政治と宗教の分離だという受けとめ方が一般的だが、そういう解釈は日本だけで、アメリカでは政治と言わず国家としている。国家と政治は随分異なる、国家は統治権力を持った権力機構である。 
国家の統治をめぐるさまざまな文化的な現象はすべて政治に入る。極めて広い範囲で政治一般と宗教が分離できるのか、基本的に無理と言うべきか。政治的な理念も、歴史的に宗教的な理念が基になってものが山ほどある。そもそも民主主義もピューリタンの教会運営から生まれた、民主主義は宗教にルーツがあるからいけないとの詭弁も成り立つ。政治的な活動では、例えば靖国神社、国家護持すべきだとし国に国家護持しろと働きかけをすることがあたる、護持すべきではない反対と陳情を国家に対してやるのも同様である。宗教はやってはいけないのかということになってしまう、自分たちの信仰から出てくる信仰に基づく活動が政治性を帯びることは避けられない。

 


  
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