マスコミ

 

明治の新聞ジャーナリズムから見た世界世界は舞台人はみな役者大政翼賛会1翼賛会2翼賛会3翼賛会と文化問題翼賛会に対する批評日本政治は翼賛主義翼賛会はどうしていけなかったか翼賛体制論・・・諸話
 
【社会の木鐸(ぼくたく)】世の中を教導し正す人。 
【木鐸】木製の舌のついた金属製の大鈴。昔、中国で文教の法令などを人民に示すときに振り鳴らした。世人を覚醒させ教え導く人(論語の「天将下以二夫子一為中木鐸上」から)。社会の指導者。 
【ジャーナリスト】journalist 新聞、雑誌、放送などの世界に関る記者・編集者・その他寄稿家など。 
【記者】/通信員/ジャーナリスト/政治部記者/スポーツ記者/女性記者/代表取材記者/従軍記者/海外通信記者/番記者/週刊誌記者/記者会見/記者団/記者席/記者クラブ/ 
【IOJ】International Organization of Journalists 国際ジャーナリスト機構。 
【IFJ】International Federation of Journalists 国際ジャーナリスト連盟。 
【新聞】(新聞紙の略)広い読者に時事に関する報道、解説および知識、娯楽、広告などを伝達する定期刊行物。 
【新聞記者】新聞記事の取材、執筆、編集に従事する人。 
【新聞広告】新聞紙上に掲載する広告。
  
【ニュース】news 新聞・放送により取捨選択されて報道される多数の人々が関心を持つ出来事。新聞・放送番組。最近起きた個人的な珍しい事件・出来事などで他人に伝える価値のあるもの。/ニュースキャスター(newscaster)/ニュースソース(news source) /ニュース バリュー(news value)/ニュースペーパー(newspaper)/ 
【三面】新聞で社会記事をおもに載せるページ。社会面。 
【広告】/宣伝/告知/求人広告/死亡広告/求職(求人)広告/広告会社/広告業/広告塔/広告主(スポンサー)/広告媒体/広告費/広告ビラ、ちらし、張り札/広告放送/広告欄/三行広告/広告料/広告倫理/ 
【通信】人がその意志や知識などを他人に伝える。郵便、電信、電話などの手段を用いて情報を伝達する。 
【通信員】新聞社、雑誌社、通信社などに所属し、内外各地に派遣されてその地域ニュースを本社へ通知する人。
 
  
【通信衛星】無線通信の中継を目的とする人工衛星。 
【通信機関】郵便、電信、電話、船舶郵便、無線電信などの通信を取り扱う機関。 
【通信教育】教育を受けられない者に通信によって一定の教育課程を履修させようとする教育組織と活動の総称。 
【通信事業】郵便、電信、電話を取り扱う業務。新聞社、雑誌社、放送事業者等にニュースを取材提供する業務。 
【通信社】新聞社、雑誌社、放送事業者などに、ニュースを供給する会社。 
【通信販売】遠隔地の消費者に通信で注文をとり、郵送でその商品を引き渡す販売方法。通販。 
【通信簿】学業成績・行動の状況・健康状態などを教師が記入し学校から家庭に連絡するための書類。 
【従軍】軍に所属する人が戦地へおもむくこと。兵士でない者が報道などのために軍隊について戦地に行く。
   
【従軍記者】新聞社、雑誌社、放送局などから派遣されて従軍し記事を書く記者。 
【丸丸】秘密なこと。新聞・雑誌などの伏せ字。 
【御用・御要】天皇・宮中・幕府などの用事・入用をいう語。権力にへつらい自主性のないものを軽蔑していう語。多く「御用学者」「御用新聞」など接頭語的に用いられる。 
提灯持ち 手先となってほめそやすこと。 
【公器】公の物。公共の為に働く機関。/新聞は天下の公器たれ/公器の濫用/新聞は世論を伝える公器/ 
【言論】/言論の自由(統制)/出版・新聞の自由/言論戦/言論界/言論機関/ 
【検閲】新聞・雑誌・書籍・放送・映画・演劇・郵便信書などの表現内容を強制的に検査する。 
【記事差止】犯罪捜査上または必要に応じて警察・公の機関が新聞・雑誌に記事の掲載を禁止する。 
【読者】新聞、雑誌、書物などを読む人。よみて。 
【読者層】ある出版物を読む人たちの多くが属する階層。性・年齢・教養・職業の共通性などで考える。
 
 
【スクープ】scoop 新聞・雑誌で他社を出し抜き重大な事実をいちはやく記事にする。特ダネ。 
【業界】同一の産業や商業などに従事する人々の社会。同業者仲間。 
【業界紙】特定の業界に関する記事を報道する新聞。 
【赤新聞】興味本位の暴露記事などを売り物にしゆすりたかりをしたりする新聞。 
【記事】事実を書きしるすこと。書きしるされた事柄やその文章。新聞や雑誌に書かれる事柄。/三面記事/新聞記事/解説記事/読物記事/署名記事/死亡記事/訂正記事/ 
【一面】新聞のトップ記事。 
【情報】事柄の内容・様子。状況に関する知識に変化をもたらすもの。インフォメーション。
情報化とデータ化の違い  
「情報化」は人間くさい活動である。明治の時代に森鴎外が「Information」を「情けに報いる行為」として「情報」と訳したのはあまりにも有名。駅の案内が「Information」であり、昨今の日本語としての「情報」よりも、非常に人間くさいのである。ホスピタリティと対になってると過度に表現しても良いだろう。  
今までの「情報」は実は「データ」と置き換えると本質が見通せる。「データ」を資料集などと置き換えて日本語にしても良い。マスメディアに代表されるように、メディアはデータを運ぶ。このデータを集め、分析咀嚼し身につけて、対外的に再発信する時、「情報」となる。  
多くの情報化は実は資料集の野積み蓄積でしかなく、再発信にまるで役に立たないことが多い。まさに、「情けに報い」ていないのである。データは多方面から収集されて、再発信された時に情報になる。再発信の仕組みまで考慮して、総合的に「情報化」である。
 
  
【情報化社会】情報の生産・収集・伝達・処理を中心に発展する社会で工業化社会の次に来たるべき社会。 
【情報機関】情報の収集・頒布・統制などの活動を担当する国家機関。アメリカ合衆国の中央情報局(CIA)など。 
【情報検索】研究開発や経営管理で膨大な資料から必要とする情報を素早く取り出す技術。IR。 
【情報通】その道の情報に通じている人。 
【マスコミュニケーシヨン】mass communication 大衆伝達。新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画などマス‐メディアを用いて不特定多数の大衆に情報を伝達する手段。マスコミ。 
【媒体】新聞・電波放送はマスコミ媒体。
   
【大衆】多数の人。民衆。一般勤労階級のひとびと。社会の大多数をしめる労働者・農民などの勤労階級。 
【大衆運動】さまざまな階級や階層に属する人々が、特定の目標のもとに結集して行う集団的運動。 
【大衆演劇】庶民を対象とした演劇芸術の総称。剣劇、軽演劇、ミュージカルなど娯楽性に重きをおいた演劇。 
【大衆化】ある事物が一般大衆の間に広くゆきわたり親しまれるものになること。大衆のものになる。 
【大衆課税】大衆の負担になるような税。収入の少ない一般大衆の負担となる税。消費税など。 
【大衆雑誌】一般大衆の興味や関心事を中心とした雑誌。 
【大衆社会】科学技術が発達し資本主義機構と情報管理方法が進み、人間がたんに操作の対象でしかない感情的な存在とみなされてしまうような社会。 
【大衆食堂】広範囲の人に比較的安価な食事を提供する食堂。 
【大衆性】一般大衆が共感する性質をそなえていること。一般の人々が親しみを覚えるような傾向。 
【大衆的】大衆に抵抗なく受け入れられる性質を持っているさま。 
【大衆文学】純文学に対して一般大衆の興味に訴えその要求を満足さる、娯楽的読み物として作られた文学。時代小説・家庭小説・ユーモア小説・探偵小説(推理小説)など。大衆文芸。 
【大衆物】文芸、映画、演劇などで大衆の興味に重点をおいた作品。 
【大衆路線】時々の大衆要求に合致し結びつく政策をとる組織方針。芸術性よりも娯楽性に主体をおいた作品。
  
【平民】明治2年従来の公卿・大名を華族、武士を士族と称したのに対しその他をいう。現行憲法ともに消滅した。 
【平民主義】地位・身分の差別なく平等の個人によって成立する社会の実現をめざす主義。貴族主義に対する語で明治20年代徳富蘇峰によって唱えられた。 
【平民的】地位・身分の上下にとらわれないで気軽なさま。万事に格式ばらないできさくなさま。庶民的。 
【社説】新聞、雑誌などが、その社の責任において表明する意見や主張。 
【主筆】新聞社、雑誌社などで、首席の記者として社説・論説の重要記事の執筆にあたる人。 
【論説】新聞の社説。 
【以心伝心】無言のうちに心情が相手に伝わる。 
【呼応】互いが相応じて物事を行う。
 
明治の新聞

 

 
社会が新聞を必要としていた時代 
明治時代の日本は、西洋からの新たな知の導入により新たなメディアである新聞を必要とした。また当時は、「先進国に追いつき、追い越せ」という大きな物語を、国民が共有できていた。日英の新聞の違いを通じて、日本の新聞が、他の先進国の新聞よりも一回り大きなマスメディアとして成立した背景について考えたい。 
日本の新聞の内容の変遷 
これまで7回に分けて、明治の新聞の内容の変遷を見てきたのだけれど、ここでそれを簡単に振り返ってみたい。 
まず、海外の新聞の翻訳・編集としてスタート 
旧幕臣が新聞で政府攻撃、新聞弾圧 
国民の知識を啓蒙する新聞が歓迎される 
政論新聞(民権派新聞VS官憲派新聞)の全盛期 
庶民向け新聞登場三面記事や連載小説が人気に 
大新聞と小新聞が接近、「不偏不党」の新聞登場 
日清・日露戦争と輪転機で、マスメディアに成長 
このように明治の約40年間で、日本の新聞の姿は大きく変わっていった。 
イギリスの新聞 
イギリスは、言論の自由や近代ジャーナリズムの成立に、大きな役割を果たした国である。 
前回見たように、イギリスの新聞は、国王や教会、時には議会を相手に闘いながら、「新聞の自由」を獲得していった。 
そしてイギリスの新聞は、現在でも高級紙と大衆紙に分かれている点が、日本と大きく違い、発行部数も違う。 
大衆紙「ザ・サン」310万部/高級紙「タイムズ」60万部/高級紙「ファイナンシャル・タイムズ」12万部(世界では43万部) 
「読売新聞」1002万部/「朝日新聞」802万部 
考察 
さてここで、なぜイギリスの新聞は、現在も高級紙と大衆紙に分かれているのに、日本ではかつての大新聞と小新聞の区別がなくなり同じ読者層を対象にする巨大な新聞になっていったのかについて考えたい。 
よく、イギリスは階級社会だから、高級紙と大衆紙に分かれていて、それに対して日本は、一億総中流の国だから分かれていないのだという説を聞き、私もそうなのだろうと思っていた。 
しかし、日本の新聞の歴史を調べてみると、それだけでは表面的な説明にしかならないのではないかという印象をもった。 
(1)文明開化 
日本もイギリスも、新聞が政治を論じていたことや、貿易などの経済情報を掲載していたこと、大衆向けにはゴシップなどが好まれたことは同じなのだが、大きく違う点がある。 
それは日本の新聞が、約300年の鎖国から目覚めた明治の日本人に、当時次々と導入された新たな技術や社会制度をわかりやすく解説し、新しい西洋的な合理主義的価値観や文化、つまり新しい知の体系に対応するのに役立つメディアだった、ということだ。 
明治政府は、文明開化を強力に推し進めた。 
そのためには、近代的な価値観(勤勉、衛生、規律など)に馴れてもらい、国民意識を持ってもらう必要があった。 
立小便などの野蛮な行為を禁止し、「時間」の観念を生活に持ち込み、祝日には国旗を掲揚させた。 
それは、長年にわたる共同体的な生活文化を、根底からくつがえすようなものだった。 
太陽暦の導入に混乱し、電報はバテレンの呪術だとおびえ、文明開化にあわてふためく庶民には、時計の読み方や汽車の乗りかたをていねいに解説した新聞が、貴重な情報源だった。 
いうなれば、明治版ライフハック。 
明治時代は、知の体系が変わったからこそ、人々を啓蒙する新しいメディアである新聞が必要とされた。 
「(明治初期の)新聞購読者の絶対数は少なかったが、かれらは新聞を情報源にしてみずから生活革新をはかるイノベーターであり、その情報を新聞を読まぬ人々につたえるオピニオンリーダーだった」(山本武利著「新聞と民衆」より) 
新しい日本人は、文字が読めなければいけなかった。 
学問があるかないかが人間を図るモノサシとなり、科学的、合理的な知が尊ばれ、大人/子供の序列が逆転した。 
それまで尊ばれていた漢学の知識や過去の体験だけでは、汽車の仕組みや太陽暦を説明するのには十分ではなかったからだ。 
ここで、現代の日本について考えてみよう。 
1990年代ころまでは、戦後の体制とそれなりに連続性があったけれど、グローバリゼーションが進み、産業構造が変化し、終身雇用制が崩れてきたため、かつて組織人間としてやってきた人の成功体験は、通用しなくなっている。 
加えて、テクノロジー、特に情報通信分野が劇的に進歩したため、年長だからというだけでは、重んじられなくなっている。情報通信に限っていえば、年長者と若者の序列は逆転したといってよい。 
もちろんこれは総論であって、70才を過ぎていても、ブログやツイッターなどを使いこなしている方はたくさんいるから、正確にいうと、自分の過去の体験や業界の慣行にしがみつき、新しい知識を吸収する努力を怠った人は、取り残されるということだ。 
(2)追いつき、追い越せ! 
日清・日露戦争を通じて、新聞は庶民にまで広まった。日露戦争後は、「臥薪嘗胆」を合言葉に、国民全員が増税に耐えた。 
しかしもともと江戸時代には、「日本」という意識は希薄だった。江戸の庶民にとって「国」といえば、武蔵の国とか、尾張の国とか、自分の故郷のことだった。 
それが明治になって、急速に近代化を推し進め列強に対抗するために、明治政府は、みんなで一致団結し国のために尽くすことを求め、「国民」意識の形成を重視した。 
頑張って、先進国の仲間入りをはたすのだ!という気持ちが 
「文明開化」「富国強兵」「臥薪嘗胆」「欲しがりません、勝つまでは」「戦後復興」「所得倍増」などといったスローガンを生み出した。 
ぜんぶまとめると、「追いつき、追い越せ!」に尽きる。 
つまり、先進国に必死でおいつくために、全国民が一丸となる必要があった。 
それはつまり、日本が後発国だった、ということである。 
「国民が一丸となって頑張って、先進国に追いつく」という「大きな物語」を共有していたからこそ、マスを対象としたマスメディアが成立した。 
そして政府は、庶民を味方につけて、プロパガンダとメディア規制に走った。 
当時の政府がやったことは、都合の悪い言論を封じるためだけでなく、当時の公共の利益に沿うものではあった。「人権」は、大きな問題ではなかった。 
明治時代は、公共の利益や国益とは何かが、はっきりしていた。そして国民の側も、普通の能力と勤勉さと誠意があれば、目的のために貢献できた。 
しかし今や、「大きな物語」は崩壊してしまった。日本は先進国になってしまったので、何をお手本にすべきかはっきりしない。 
アメリカ型の自由な社会を目指すのか、スウェーデン型の福祉国家を目指すのか、どちらも可能だ。(実行可能かどうかは、また別の話だけれど・・・) 
また、科学技術で世界一を目指すのか否か、オリンピックで金メダルをとることを目標にするのか、小学校の耐震化工事の優先順位は高いのか低いのか、見解はさまざまだ。 
国として、どこまでやるべきかも明確ではない。 
先進国をお手本としていたころは目標がはっきりしていたのに、今では国としてやるべきことが何なのかが、見えてこない。 
そうすると、スローガンでひとつになって進むことはできない。 
かつては、国家に対して反対意見を表明するのは一部の文学者や社会主義者であったけれど、今では一人ひとりがそれなりに考えることができるようになった。 
明治時代は教育が普及し、庶民がメディア(新聞)に追いついて、新聞が読まれるようになった。今は教育水準がさらに上がって、マスメディアが人々に追い越されている。 
「追いつき、追い越せ!」という国民全員が共有できる大きな物語が崩壊したことは、従来型のマスメディアの維持が無理になったことを意味する。 
そして各自が、自分の世界観のなかで、さまざまな事実報道の意味付けを欲している。それに答えることは、マスメディアには難しい。 
(3)技術革新 
前々回の記事で、輪転機の登場という技術革新で、新聞社は資本力が必要となり、営利企業として発展し、加えて日清・日露の両戦争が、新聞をマスメディアに変えたと書いた。 
そして新聞の戸別配達制度が、マスメディアとしての地位を堅固なものとした。 
しかしその背景には、上の(1)と(2)で見てきたように、日本が後発国であったということの特殊性があったと考えられる。 
さて、ここで技術革新について考えてみよう。 
明治時代は、情報通信技術の発達(電報)が各地に記者を派遣して、記事を集めることを可能にした。 
また、印刷技術の進歩(輪転機)がスケールメリットを生み出し、マスメディアを生み出す方向へ作用した。 
しかし今では、インターネットの普及で、全てが逆のベクトルに向かっている。 
つまり、紙を使わなくてもよくなり、マスメディアに所属しなくても、直接当事者が、速報性のある情報を発信できるようになった。 
まとめ 
現代の日本は先進国の仲間入りをはたし、「追いつけ、追い越せ!」という国民全てが共有できる目標を喪失した。 
また、インターネットが普及し、グローバル化と産業構造の変化がおこり、終身雇用制度、年功序列制度が崩壊を迎えたことで、過去の成功体験が通用しづらくなっている。 
この時代に、従来型のマスメディアの地位が低下し、新たなメディア(=インターネット)が支持を受けるのは、当然の帰結といえる。  
 
「社会の木鐸」と「羽織ゴロ」 
明治の新聞記者を指す、「社会の木鐸」と「羽織ゴロ」という2つの言葉がある。 「社会の木鐸」とは、世に警鐘を鳴らし、社会を正しい方向に導くという意味。 一方、「羽織ゴロ」は、立派な身なりをして、事件・事故をかぎつけては金品を巻き上げるゴロツキという意味。 
このように、全く正反対の言葉を使われた新聞記者とは、どういった存在だったのだろうか。 
社会の木鐸 
もともと「木鐸」とは、「中国で法令などを人民に示すときに鳴らした鈴(舌の部分が木製)」を指す。 
「論語」の中に、諸国遊説を続ける孔子一行に、国境の村の役人が、「乱れた世を導くように、天は師を木鐸として下されたのです」、とねぎらったというエピソードがある。 
孔子を「木鐸」にたとえたことから、「木鐸」は、人々を啓蒙し教え導くという意味で使われるようになった。 
さて、明治初期にあらわれた、政治を主に論じた大新聞の記者は、旧幕臣で高い教養と国際的な感覚をもった逸材が多かった。 
福地桜痴(源一郎)、成島柳北、栗本鋤雲(じょうん)などが、その代表である。 
なお、小新聞の新聞記者となったものは、多くが江戸時代の戯作者だった。 
後に、「日新真事誌」という新聞を創刊したイギリス人ブラックは、この時期のことを次のように回想している。 
「社会の変革が失業者として取り残した教養のある人々のなかに、思想豊かな知識が眠っていることが、間もなく明らかになった」 
明治維新は、既得権集団を解体し、人材を流動化させた。 
士族はいっせいに失業し、多くは生活に困窮したけれど、その中で才能とやる気のある人々は、活躍の場を与えられた。 
新しくおこった産業である新聞のスタートアップ期を支えたのは、これらの人々であった。 
明治政府への反発が根底にはあったとしても、これらの新聞記者たちは、天下国家を論じ、政局を語り、政論を動かすことを目指した。 
彼らの熱意は、新聞と共同体意識をもつ投書家や読者を育て、筆禍事件で入獄した記者に対して、激励の言葉がかけられ、カンパが行われるようにもなった。 
民権期のころの読者の投稿には、「木鐸」「耳目」と新聞記者を賞賛し、支援するものも見られる。 
しかし、その後の政府の新聞弾圧や懐柔策、そして新聞の営利企業への転換で、こういったタイプの記者は少なくなっていった。 
羽織ゴロ 
明治前半の新聞の雑報(社会記事)は、新聞記者が直接取材しなかったものが多かった。 
このシリーズの第1回では、投書家の投稿が当時の新聞紙面のかなりを占めていたことに触れた。それ以外にも、「探訪員」と称するものが、町で噂話を聞き歩き、耳にした情報を社に戻って社員に話し、それを記事にするというケースがあった。 
当時の新聞社は、外回りの取材を行うこのような探訪員を多数かかえていた。 
新聞記者は、探訪員が集めてきた新聞種の中から記事になりそうなものを選び、レイアウトを決め、記事を書いた。 
これらは、「〜という噂」とか、「〜という話」といった形で記事になった。 
探訪員は、文盲のものも多く、情報も不正確であったため、明治時代の新聞には、訂正記事がしょっちゅうでていた。 
そして、探訪員は、没落士族、元岡っ引、新聞の売り子など、いかがわしい者もいて、取材の上で問題を起こすこともしばしばだった。 
もっとも、探訪員から一流のジャーナリストになったものもいた。高等小学校卒の松崎天民は、スラム街や私娼窟など社会の底辺を取材し、当代一流の社会部記者と評された。 
このような探訪員は、大正時代にはいって、新聞の社会部の地位が上がると、消えていった。 
「時事新報」では、1882年(明治15年)ころから、記者自身が自分の足でネタを集めてくるよう命じられ、記事の確実性は高まった。 
「東京朝日新聞」は、夏目漱石を社員として迎えた1907年(明治40年)ころに、古手の探訪員を解雇し、代わりに、大卒の若手を官庁・警察などに配置した。 
ところで羽織ゴロとは、冒頭書いたように、明治時代の新聞記者が、羽織を着て立派な身なりをして、正義の味方のようにふるまい、事件・事故をかぎつけては金品を巻き上げたことからつけられたあだな。 
今でいうインテリ・ヤクザといった感じなのだろう。 
三面記事が人気となったころには、華族や財閥や豪商などのスキャンダルを、恐喝の材料にする新聞記者があらわれるようになった。 
「読売新聞」を出していた日就社では、1876年(明治9年)に次のような社告を掲げるほどであった。 
「近ごろ正雄の名をかたって、お前の家を誉めて新聞に出すから品物を安く売れの、又は料理茶屋などで、鈴木田だから代を貸せの、ヤレおれは正雄だ鈴木田だといって歩くものがある様子だと、懇意の人から気をつけてくれましたが、当社では甚だ迷惑いたします」 
鈴木田正雄は、読売新聞の初代編集長の名前。 
編集長の名をかたって、記事をネタにした恐喝が行われていたほど、人々の生活が新聞記事になっていたことがわかる。 
また、こういった詐欺行為が行われていたということは、新聞記者が恐喝を行いかねない存在と見られていたことを示唆する。 
実際、上記の探訪員や社会面担当記者が、こういったユスリ行為を行って、新聞記事になることも、しばしばあった。 
1901年(明治34年)に宮武骸骨が刊行した「滑稽新聞」は、「官吏の収賄、新聞屋のゆすり、詐欺広告屋のイカサマ手段」を摘発し、人気を博した。 
なお、宮武は実名入りで記事にしたため、名誉毀損、営業妨害などで起訴されたが、裁判の過程でワイロ性があきらかになった。 
このようなことから、新聞は「新聞屋」呼ばわりされ、記者は家を借りるときに職業を隠したり、名刺に「○○新聞記者」ではなく、「△△帝国大学卒経済学士」と書くこともあったようである。 
伝書鳩 
明治30年に八王子で大火災が起こった。現在なら電車ですぐいける距離だが、明治時代には遠隔地という認識だったらしく、取材してすぐに記事を書くのは困難だった。 
この時活躍したのが、伝書鳩! 
鳩通信第一号を送ったのは、東京朝日の探訪記者河野玄隆。 
以後、第二次世界大戦にいたるまで、伝書鳩は新聞社の通信手段として、活躍した。 
まとめ 
明治時代の新聞記者は、「社会の木鐸」とも「羽織ゴロ」とも呼ばれるアンビバレンツな存在だった。 
明治維新は、人々から既得権を奪い、人材を流動化させた。 
士族はいっせいに失業し、多くは生活に困窮したけれど、その中で能力とやる気のある人々は、活躍の場を与えられ、大新聞で名物記者として名を馳せた。 
戯作者などは、小新聞の新聞記者となり、勧善懲悪的な記事や暴露記事を書いた。 
一方、没落者たちも、探訪員などになり、町でネタ取りを行った。 
新しくおこった産業である新聞のスタートアップ期を支えたのは、これらの人々であった。  
 
新聞記者から役人へ 
自由民権期に政府を批判した新聞に対して、政府は弾圧するだけでなく、内閣機密金を与えたり、記者に役人ポストを与えたりするなど、新聞懐柔策につとめた。 新聞の情報伝達力に着目した明治政府や当時の有力政治家は、新聞社および新聞記者にたいして、さまざまな働きかけを行った。 
新聞経営への介入 
明治4年5月、明治維新の立役者だった木戸孝允は、明治政府の施策の徹底と人心の啓発を目指して、「新聞雑誌」を発行させた。 
この新聞は、明治8年1月に「あけぼの」、同年6月には「東京曙新聞」となり、木戸が政府を離れてからは、政府を批判する民権派新聞となった。 
また日本の郵便制度の基礎を確立した前島密は、新聞の発展を助けるために、1871年(明治4年)12月に新聞雑誌の低料送達の道を開いた。 
その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に「郵便報知新聞」(のちの「報知新聞」)を創刊させた。 
彼は、以前書いたように、1873年(明治6年)には、記事の収集をたやすくするため、投書家の原稿を無料で送れるようにもした。 
政府は、御用新聞を作るだけでなく、国会開設を叫ぶ有力新聞の取り込みも行った。 
「民撰議院設立建白書」をスクープした不埒な「日新真事誌」に対しては、1875年(明治7年)に新聞経営を日本人に譲ることを条件に、社主ブラックを太政官顧問に雇った。 
そして、法律で新聞の持ち主は内国人に限るということを決めると、すぐにブラックを解雇した。 
ブラックが、外国人としての特権をいかして自由な言論報道を展開していたことが、よほど据えかねたようだ。 
庇護者であった木戸の死後経営が悪化していた「曙新聞」には、政府高官井上馨が「政府側に付いたら、支援する」と誘った。 
「曙新聞」は政府寄りに変わり、多くの新聞記者が会社を見限って朝野新聞に逃れた。 
しかし政府がその約束を反故にしたため、再び反政府に戻ったが、読者は離れていった。 
ずいぶん汚いやりかただが、それだけ新聞の言論に対して、神経を尖らせていたのだろう。 
このように、新聞を上位下達の手段とみた政府は、新聞を直接・間接に支援しただけでなく、新聞経営にも介入した。 
懐柔策 
自由民権運動が盛んになると、多くの大新聞が反政府系となって、政府に盾突いた。業を煮やした政府は、言論弾圧を行うと同時に懐柔策に出た。 
懐柔策については、いままで詳しく述べなかったので、ここで触れておく。 
(1)板垣退助の外遊問題 
自由民権運動が衰退するきっかけを作ったのは、「板垣退助の外遊問題」であると言われている。 
明治15年、自由党総裁板垣退助と、自由党員の後藤象二郎が、突如外遊を決めたが、この資金が政府から出された(井上馨の斡旋により、三井財閥から後藤正二郎に提供された)のではないかと、有力党員が反発した。 
彼らにしてみると、政府の誘惑にのるなど、民権家としては許しがたいものであった。 
そして、自由党と対立する改進党系の「東京横浜毎日新聞」が、板垣外遊問題を記事にしたこともあって、この事件は党内抗争に発展し、結局数名の党員が党から離れた。 
それだけでなく、この事件と党内抗争は、民権派系新聞の読者に、新聞や党に対して不信感をいだかせる結果にもつながった。 
民権派のイメージ低下により、各新聞は政党色の払拭をはかり、民権運動を担ってきた「朝野新聞」も、1883年(明治16年)に「不偏不党」を宣言した。 
記者から役人への転身 
1883年(明治16年)の新聞紙条例の改正から、明治政府は厳しい言論弾圧を行った。 
しかし、それだけでは十分ではないとみた政府側は、民権派記者に役人ポストを与え、権力側に転身させた。当時の新聞記者の社会的地位は低かったため、役人への転身は魅力的であった。 
1885年(明治18年)の新聞には、42名の旧新聞記者が役人となっていることが投稿の形で掲載された。主な例を拾ってみよう。 
西園寺公望   特命全権公使   自由新聞者 
久保田貫一   内務権大書記官  東京日日新聞 
関新吾      参議院技官補   大阪日報社 
小松原英太郎 外務書記官     評論新聞社 
原 敬      天津理事      大東日報社 
このように、新聞記者のあいつぐ権力側への転身で、民権派のイメージは低下した。 
買収 
経営が傾いていた「東京日日新聞」は、1891年(明治24年)に伊藤博文の腹心であり、貴族院議員でもあった伊東巳代治が、伊藤と井上馨に働きかけて買収した。 
以後、「東京日日新聞」は政府擁護の論陣を張った。しかし読者の信用を失い、最終的には、大阪毎日新聞に買い取られることとなった。 
内閣機密費 
「東京日日新聞」を買収した伊東巳代治は、第二次伊藤内閣では内閣書記官長に就任し、メディア戦略を担った。 
彼は、経営の苦しかった「大阪朝日新聞」に、明治15年5月から18年4月まで、月額500円の補助をひそかに与え、政府情報の提供も行った。500円は、現在の貨幣価値では1000万円程度になる。 
補助が始まった時期は、自由党寄りだった「大阪朝日新聞」が「不偏不党」宣言を行う直前である。以後この新聞は、中立を唱えながら、紙上で巧妙に政府を支援した。 
同じ時期に、「東京日日新聞」には月額950円、「大東新聞」には月額600円が支給された。 
なお伊東巳代治は、外国通信社ロイターにも、毎月500円を機密費として渡していた。 
また、陸羯南が刊行する「日本」は、陸羯南の思想に共鳴した近衛文麿から資金援助を受けていた。 
しかし、それがどの程度、紙上での主張に影響したのかはわからない。 
先日、野中広務氏が、複数の評論家に内閣官房報償費(機密費)から数百万円を届けていたことを明らかにしたが、似たようなことは、明治時代から行われていたことになる。  
 
新聞記者から政治家へ 
明治時代は現代と異なり、政界とジャーナリズムの両方の世界に、同時に所属していた人がいた。 
新聞記者から議員へ 
1890年(明治23年)に行われた第1回総選挙では、新聞記者出身の者や新聞経営にたずさわる者18名が選出されている。 
このとき選出された議員は300人なので、そのうち6%を新聞関係者が占めたことになる。 
主な新聞関係者は、以下の通り。 
島田三郎 「毎日新聞」経営者 
高田早苗 「読売新聞」 
犬養 毅  「朝野新聞」 
尾崎行雄 「朝野新聞」 
関 直彦  「東京日日新聞」 
この後も、新聞記者から政治家へ転身するケースは多かった。 
原敬は、郵便報知新聞社を辞めたあと、外務省に入り、退任後1898年に大阪毎日新聞の社長となった。1902年に衆議院議員に初当選。1918年(大正7年)に首相に就任した。 
星亨は、役人を辞めた後、弁護士として活躍し、1882年(明治15年)には自由党の議員となり、自由新聞の幹事に就任。その後衆議院議員に当選し、衆議院議長をつとめた。 
大蔵大臣、日銀総裁、首相を歴任した高橋是清は、東京日日新聞の外信記事に関わっていた。 
岩崎弥太郎の女婿・加藤高明は、三菱本社副支配人の地位から官界、政界へ入り、外相をつとめるなど活躍するかたわら、東京日日新聞の社長も務めている。 
彼らは、記者、経営者としても大きな実績をあげ、政治家としても重要な仕事をなし遂げた。 
この時代の新聞記者は、政治家予備軍であり、記者として成功することは、政治家への登竜門であったといえる。 
島田三郎の政治活動と新聞キャンペーン 
ここでは、明治時代に、政治家兼ジャーナリストとして活躍した人物の代表として、島田三郎について見ていきたい。 
島田三郎は、1874年、「横浜毎日新聞」の主筆となり、翌年役人となるが、明治十四年の政変で大隈重信派として諭旨免官となり、「横浜毎日新聞」に再び入社した。 
また、第1回衆議院選挙に当選して以来、連続14回当選し、衆議院議長も務めた。 
彼は、1894年(明治27年)から1908年(明治41年)まで、毎日新聞社長をつとめ、政治活動のあいまに論説を書いた。 
毎日新聞では、この時期に、廃娼運動、足尾鉱毒被害者救済運動、政治家の不正などについてキャンペーンを展開したが、これは島田三郎の政治家としての活動と直接かかわっている。 
島田は、自らの政治活動を補う目的で、メディアとしての毎日新聞を駆使して、世論形成を狙った。 
政治活動と新聞紙上での主張が、島田の両輪であった。 
しかし、毎日の社会問題キャンペーンは、読者獲得には結びつかず、結局「報知新聞」に身売りすることになった。 
考察 
前回は、新聞記者から役人になったケースをとりあげ、今回は新聞記者から政治家になったケースをとりあげた。 
これらの例から、明治時代は、新聞記者、役人、政治家の間の垣根が低かったことがわかる。 
政変で失脚した政治家や退職した役人が、新聞業界で活躍し、再び政界に返り咲くという例は多い。また、政治家や役人でありながら、新聞紙上で筆をふるったり、新聞の経営にたずさわった人もいた。 
現代でも、新聞社出身の議員はいるけれど、キャスターを含むテレビ関係者やタレント・芸人出身の議員のほうが多いようだ。 
優れた見識をもち、言論人として評価された人が政治家になったというよりは、知名度を生かして当選したという表現が適切に思える。 
こうしてみていくと、かつては大物記者が多く、卓越した言論人が政治家になったのに、現代では新聞記者が小粒化しているという結論を出したくなるが、環境の違いも考える必要があるだろう。 
まず、明治時代は人材が流動的で、かつ兼業が許されていた。しかし現代では、新聞記者も公務員も兼業が禁止されている。このため、島田三郎のようなことはできない。 
また、現代の日本の新聞記者は、国際面の記事を除くと、署名記事を書くことが少ないため、社内での出世競争に勝ち抜いて、論説委員にでもならない限り、言論人として高い評価をされるのは難しいように思える。 
しかし、記者のサラリーマン化は、なにも今になってはじまったわけではない。 
すでに明治時代の末期には、新聞記者のサラリーマン化が指摘されている。  
 
サラリーマン記者へ 
明治時代は現代と異なり、政界あるいは官界、ジャーナリズムの世界に、同時に所属していた優れた言論人がいた 。しかし明治末期には、新聞はスター記者の個人的能力ではなく、組織力で勝負するようになり、記者のサラリーマン化が進んだ。 
新聞記者のサラリーマン化 
明治前期の記者は、このシリーズの1回目で書いたように、読者から、投書家となり、さらに新聞記者となるものが多かった。 
新聞側も、紙面を埋めるために投書家を大切にし、十分な掲載料を払っていた。投書家は、記者の供給源でもあった。 
そして、新聞記者は中途採用が普通で、各紙を渡り歩くことが多かった。現代の欧米のように、優秀な記者ほど、複数の新聞社での勤務経験があったのである。 
たとえば、新聞条例への批判記事で禁固刑をうけた末広鉄腸は、「曙新聞」から「朝野新聞」へ移籍した。 
また、自由民権運動の指導者だった植木枝盛は、「郵便報知新聞」への投書で投獄されたあと、「自由新聞」や「土陽新聞」の編集に携わった。 
(もっとも明治時代半ばまでは、新聞社の経営が安定しておらず、廃刊と創刊を繰り返していたという事情もある。また、社主が替わって編集方針が一転したため、新聞記者が志を曲げずに退社に至るといったケースもあった) 
しかし、日清戦争中の報道合戦は、新聞がスター記者だけでは成立しないことを明らかにした。読者が求めたのは、高尚な論説よりは、前線での戦いぶり、兵士の武勇伝などを伝える報道記事であった。 
また三面記事の人気も、新聞記者に高い見識や教養を求めなくなった要因である。 
自由民権運動の華やかな時代とは過ぎ去り、新聞がキャンペーンをはっても、効果があげられなくなっていった。前回みたように、いくら「毎日」が社会の不正を糾弾しても、他紙が追随しなかったため、世論の形成には至らなかった。 
さらに、日露戦争での号外合戦では、常に社員を待機させておく必要があり、新聞社は体力勝負となっていった。 
新聞は、個人の力ではなく、組織力で勝負するようになっていったのである。 
そして明治末期には、記者の世代交代とともに、新聞から新聞へ渡り歩く記者は減り、1つの新聞社に生涯勤務するものが多くなった。 
「東京朝日新聞」では、1907年(明治40年)ころに、町で噂を聞き歩く探訪員を解雇し、大卒の社員に切り替える動きが始まっている。 
現代風にいうと、契約社員から正社員を育成する方針への転換である。 
そして新聞業界に年功序列、終身雇用が浸透する過程で、自社以外の勤務経験をもたず、社内での派閥争いに気を配る組織人間が増えていった。 
新聞記者出身の評論家である長谷川如是閑は、次のような趣旨のことを述べている。 
「日本」では、社長の陸羯南のことを社長と呼ぶことはなかった。「さん」とか「翁」をつけて読んでいた。「朝日」でも最初はそうだった。 
新聞社は、主義主張を同じくする同志の集まりであり、先輩・後輩の別はあっても、階級の違いは考えられなかった。 
しかし、明治30年代の末には少数の新聞社が社長という呼称を使い出し、一般的な呼び方になっていった。 
以前、新聞業界に輪転機が導入され、日露戦争で新聞が大衆に普及したころに、新聞社が資本主義的営利企業に転換したと書いた。 
日露戦争が終わったのが明治38年だから、上の長谷川の発言は、このころに新聞社内もピラミッド型組織に転換し、新聞記者は組織の歯車となっていったことになる。 
新聞が同人誌的なものから営利企業へと転換していった時期に、社内の雰囲気が変わったということだ。 
新聞社の社長もまた、言論人ではなく経営者となり、予算制度を導入して営利事業として経営に邁進した。 
そして、朝日の村山社長、報知の三木社長、大阪毎日の本山社長など、経営感覚の優れた社長に率いられた新聞社が、事業を拡大させていった。 
徳富蘇峯は、この時代のことを次のように回想している。 
「昔は新聞界の人物は筆を執る記者であり、今日ではソロバンを取る経営者である」 
徳富蘇峰や島田三郎のような大物記者は新聞界から消え、個性のないサラリーマン記者が闊歩するようになった。 
ただし彼らは、朝から晩まで駆け回り、消耗品として酷使されていたようである。 
新聞記者の高学歴化 
新聞社の企業化と共に、記者の学歴は上がっていった。 
「日本新聞年鑑」によれば、1922年(大正10年)には、40%以上を高等教育出身者が占めるようになっていた。 
この時期にはすでに、新聞社の採用制度が整備され、それにともなって新聞記者の高学歴化がすすんだとする研究がある。(マス・コミュニケーション研究No61河崎吉紀「1920年代における新聞記者の学歴」) 
また内訳を見ると、新聞社の編集職では私学出身者、特に早稲田大学出身者が多い。 
「東京府下における有力新聞・雑誌社二十余社の記者のうち、我が学苑出身者は明治39年において、150名を超えていた」(早稲田大学百年史より) 
新聞記者に早稲田大学出身者が多いのは、明治時代からということになる。 
まとめ 
新聞の営利企業化がすすんだ明治末期には、新聞はスター記者の個人的な能力ではなく、組織力で勝負するようになり、記者のサラリーマン化が進んだ。 
同時に、新聞社内も社長を頂点とするピラミッド型組織に転換した。  
 
提灯記事の登場 
明治後半の急速な経済発展とともに、新聞業界では、経済界との癒着がみられるようになった。 
企業勃興と株式ブーム 
1885年(明治18年)ころから、我が国では資本制企業の設立が相次いだ。 
「日本帝国統計年鑑」によれば、1885年から1889年にかけての短い期間で、資本金総額は5066万円から1億8361万円に増加し、会社数も1279社から4067社へと増えた。この時期は、軽工業を中心にたくさんの企業が設立された。 
日清戦争後には軍事関連産業や重工業産業が発達し、日露戦争後には、南満州鉄道創設や鉄道国有化などがなされ、株式会社設立ブームがおこり、株式市場もそのつど急騰を演じた。 
日露戦争後の株価の高騰は、「鈴久」こと鈴木久五郎という成金を生み出した。 
彼は、当時の国家予算に匹敵するほどの巨利を得たともいわれるから、このときの株式市場が、いかにバブルを起こしていたかがわかるだろう。 
鈴久は、1907年(明治40)の正月には、柳橋、新橋、赤坂、日本橋といった都内の一流料亭を貸しきり、芸妓たちに鈴木家の紋を染め抜いた着物を着せ、宴席に侍らせたり、街を練り歩かせたりした。 
さらには、当時500円の東京株式取引所の株を、女将たちに祝儀として与えたという伝説がある。(この頃の普通の新聞記者や巡査初任給は、月約15円であった) 
しかし、バブルの次にはクラッシュがくるのは、世の常である。鈴久の栄華も長く続かず、全財産を失った。 
チョウチン記事 
資本主義社会の進展は、新聞業界にも影響を与えた。 
新聞社が営利企業となっていったことは再三書いたとおりだが、それだけではなく、経済界と新聞の経済記者との癒着を生みだした。 
資本家、企業による経済記者への金品提供もみられるようになった。 
提灯記事とは、団体・企業・商品あるいは個人を持ち上げるために書かれた記事をさす。有力者に媚びへつらう者に対する「提灯持ち」という蔑称に由来する呼び方だ。 
明治の経済成長は、新聞に提灯記事を登場させた。 
相場関係者の中には、経済記者を使って、自分に有利な記事を掲載させて、利益を得ようとするものがあらわれはじめた。 
明治後期の雑誌には、次のような記事が掲載されていた。 
「明治二十八年以降、株式会社の最とも流行したる時代においては、何でも蚊でも一寸したことを新聞に掲げる。スルト直にその株の直が出る。・・・(中略)・・・ソレだから何でも蚊でも一の新会社を発起して、金儲けをせふと思ふものは、先一番に新聞社の探訪を呼びゴ馳走する」 
(「大阪経済雑誌」明治32年9月20日) 
信用力のない新規企業の資本家のなかには、記者に株を配ることによって、提灯記事を書かせて、投資家の投資を促すことを狙った者もいた。 
広告主と新聞 
明治時代の新聞も、今と同じく、読者の購読料のほかに広告からも収入を得ていた。最初のころは、広告主は化粧品や薬などの消費財を扱う企業が多かった。 
経済が本格的に成長しはじめた明治30年代から、新聞広告は急増し、ひし形広告、逆さ広告など、人目をひくための企画広告があらわれてきた。 
ちなみに、広告代理店の電通が設立されたのは、1901年(明治34年)である。広告の取次ぎを行う会社がでてきたことは、広告需要の増加を物語っている。 
また、日露戦争の終わった1905年(明治38年)、「東京朝日新聞」は、広告の選択掲載を宣言した。 
これは、新聞が広告媒体としての社会的責任を自覚しはじめた広告浄化運動のはしりといえるが、同時に、戦後の好景気で広告需要が増加したためとも考えられる。 
1910年(明治43年)ころから更に広告市場は拡大し、新聞社側でも、経営基盤安定のために、広告収入の増加を目指した。その中で、広告主寄りの記事が連載されるケースも出てきた。 
「新聞社の広告係が編集へ行って「これは広告の提灯ですが是非出して下さい」と低頭低身で頼んでくる。・・・(中略)・・・ドツカの片隅に四五行なり五六行なり、六号活字で放り込むのだが、夫れでも単に広告許り載せるよりも遥かに効力があると目されて居る」(「新公論」明治44年8月号より) 
この雑誌記事から、広告主は、新聞の一般記事を装った無料の広告である提灯記事の効果の高さを認識し、新聞社内部でも、広告主への提灯記事を認知していたことがわかる。 
明治時代末になると、新聞記者の質は向上し、羽織ゴロのような、あからさまなユスリやワイロは減少したものの、提灯記事は、かえって増加したようである。 
ところで、経済報道に限らず、一般報道においても、取材活動が特定の者の情報に大きく依存する習慣ができてしまうと、情報提供者に都合のいい報道しかなされなくなることがある。 
現代の日本のマスメディアは、記者クラブからの情報提供に一方的に依存していることによる弊害が指摘されているが、この傾向は明治時代にすでに見られていた。  
 
記者クラブの誕生 
現代の日本のマスメディアは、記者クラブからの情報提供に一方的に依存していることによる弊害や閉鎖性が指摘されているが、この傾向は明治時代にすでに指摘されていた。 
「新聞記者去勢術」 
まずはじめに、1910年(明治44年)の雑誌に掲載された、記者クラブへの批判記事を紹介しよう。 
「・・・其省に隷属せる記者団に対し、一斉に同じ種を供給す。 抜け駆けの功名は全く不可能となれるなり。 故に該会若しくは該倶楽部に名前を載せ、紋日物日に顔出しさへして居れば、馬鹿でも阿呆でも腕利機敏な記者と同じ種を取り得るなり。 現に其の受け持ちの記者が都合で社を欠勤の場合にても社にては更に不便を感ぜず、通信にて立派に夫れだけの記事を載せ得る事となれり。 ・・・(中略)・・・ 
どの新聞見ても記事は同じとありて、小説とか講談の面白のを載せる新聞が売れ行きよしと云う状態は寧ろ当然のことと云う可し」(「新公論」明治44年4月号鉄如意禅「新聞記者去勢術」) 
この記事から、すでに明治時代の末期には、以下のような傾向が見られたことがわかる。 
役所は、記者クラブ所属の記者に、平等に同じ情報を提供するようになったこと 
そのため取材能力がなくても新聞記者がつとまり、「特オチ(特ダネを落とす)」の心配がほとんどなくなったこと 
その結果、同じような新聞記事が増えたこと 
このような記者クラブが、どのような経緯でできたのか、順を追ってみていきたい。 
記者クラブの萌芽 
記者クラブは、記者同士の親睦、担当分野の研究、取材先への便宜要求などを目的に、自発的に発生し、だんだんと公的機関の取材を独占していった取材組織であるといえる。 
1877年(明治10年)、東京で開催された内国勧業博覧会では、政府は「諸新聞記者へ縦覧の札」や「記者の休息所」を与えて、取材の便宜を図り、博覧会人気を新聞報道で盛り上げようとした。 
こういった重要な催しには、政府系、反政府系を問わず、各紙の記者は取材を許され、部屋を与えられた。 
1882年(明治15年)になると、政府は皇居のある門のそばに小さな小屋を新築し、そこを新聞社員の控え室として、ニュースを伝達した。 
警視庁でも、翌年には同様の場所を新設。 
その翌年には宮内庁でも「新聞原稿下付主任」という広報専任者を任命して、記事を記者に直接手渡すようにした。 
明治10年代後半から20年代前半になると、中央の役所だけでなく、地方の役所も掲示板を設置するなど、新聞記者の取材に便宜を図るようになった。 
このように、自由民権運動が衰退したころから議会開設期までの間に、東京、大阪の主要な役所には、取材にきた記者に便宜を図る「控え室」や掲示板が設置されるようになった。 
明治憲法が公布されたころには、新聞は「不偏不党」を標榜するようになって政党色は薄れており、反政府的な態度も弱まっていたこともあって、政府の新聞への厳しい姿勢はやわらいでいたのである。 
ところで、日本ではじめて開設された議会に、読者は高い関心をよせ、もちろん各紙は議会取材に注力した。 
しかし、議会側では、東京の政治報道活動をおこなう新聞社全体にわずか20枚の傍聴券を交付しただけだった。 
この傍聴券の分配をめぐって記者たちが協議する過程のなかで、記者クラブ形成への動きが芽生えた。 
1890年11月に結成された、国会記者クラブの祖、「議会出入記者団」である。 
「議会出入記者団」は、政党に関係なく、全国の新聞記者が、社会に対する報道の責任をまっとうするために、議会に傍聴券配布などの便宜を要求する団体という性格が強かった。 
記者クラブの形成 
1890(明治23年)から1900年(明治33年)にかけて、一部の役所や政党本部「新聞記者溜所」「新聞記者控所」とよばれる場所が誕生した。 
最初のころは、新聞記者たちは、あてがわれた狭い部屋にじっと控えて、下級役人か小使いが持ってくる紙を待っているにすぎなかった。 
時代は、新聞を政論重視から報道重視に変えていた。政策を立案し、実行する中央官庁の取材は、新聞記者にとって重要な仕事であったのだ。 
また、このころ新聞社の企業化、組織化が進展し、新聞社は、情報収集を効率化するために、記者の専門担当化を進めた。 
それまでのスター記者の時代には、このような分業制度にはなっていなかったが、記者の担当化は、毎日控え室で顔をあわせる記者同士の交流にもつながり、クラブ的な雰囲気が醸成されることになっていった。 
1900年には、外務省担当の記者が「外交研究会」、のちの「霞倶楽部」を設立した。 
「霞倶楽部」は、官庁に控え室を要求したり、記者に対して共同の説明機会を求める組織であった。 
1910年以降は、記者の集まりは、「記者倶楽部」とか「記者会」と呼ばれだし、各役所、政党、大企業などに急速に普及した。冒頭で紹介した「新公論」の記事が掲載されたのも、この時期である。 
1912年には、大蔵省の記者クラブである「財政会」が作られた。 
「中外商業新報」の社長をつとめた簗田[キュウ]次郎によると、「財政会」は、「財政及経済について新聞記者も十分な研究を遂げ真摯な見識を有し之によって世間の蒙を啓き国力の充実発展を計りたいという考えから」設立された。 
つまり「財政会」は、記者たちが政策を勉強する必要性から生まれた。従って、この時期に誕生した記者クラブは、記者の都合により生まれた団体であったといえる。 
当時の新聞記者の社会的地位は、役人に比べるとはるかに低かったため、単独での取材は困難であり、新聞記者たちは団結して情報提供を求めたのではないかという指摘もある。 
しかし、記者クラブが普及しはじめると、情報を提供する側の政府も、これを積極的に活用するようになっていった。  
 
記者クラブの特権化 
記者クラブは、今と違って、情報開示の義務といった考えのなかった明治時代に、情報を公開させるための記者側の働きと、勉強会として、自主的に形成されていった。 しかし、記者クラブが普及しはじめると、情報を提供する側の政府も、これを積極的に活用するようになり、記者クラブは、特権化していった。 
記者クラブの取り込み 
外務省担当記者の集まりである「霞倶楽部」では、日露戦争時には、政府高官が海外電報を取りまとめて発表したり、週に2回、書記官がクラブ員の質問に答えるようになった。 
時には、記者のための勉強会が開催され、政府側が解釈を伝えることもあった。 
記者の自主的な組織が、当局の情報操作に利用されるようになっていった例である。 
そして、第二次桂内閣のときには、政府は、これらの団体に対して、イス、机のある比較的広い部屋を無料で提供し、専任の給仕にサービスさせるほか、将棋、囲碁の娯楽セットまで用意して、サービスした。 
第一次桂内閣は、日露戦争に勝利したものの、ポーツマス条約締結をはじめとするロシアとの講和交渉が世論の批判を浴びて退陣した。このときの経験から、首相の桂太郎は、マスメディアを取り込むことの重要性を認識したと考えられる。 
桂太郎は、「ニコポン宰相」と呼ばれた。ニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため、新聞にそう書かれたと言われている。 
人心掌握術に長けた桂太郎の新聞記者取り込み戦略に対し、新聞記者たちも、反発はしなかったようである。 
さらに記者クラブの懇親会には、大臣まで出席し、宴会に興じるようになった。 
前回紹介した「新公論」に掲載された記事によると、政府は「実に此三大魔力(金、酒、女)を巧みに使い分けして、当世新聞記者の良心を麻痺させめ、首尾能く一種の去勢術」をかけたため、記者は「政府筋に利益ある種のみ」を紙面にのせ、「政府筋に不利益なる記事」を掲げなくなった。 
それまでの記者クラブは、官庁側からは厄介者扱いされることもあった。 
しかし、第二次桂内閣以降は、多くの記者クラブの待遇は、それまでと比べると格段に良くなり、新聞記者は、自宅から倶楽部に直行し、そこでお茶を飲みながら談笑したり、囲碁や将棋を打ったりして情報が提供されるのを待っていればよくなった。 
役所幹部による記者会見は、記者クラブで定時におこなわれるので、そこにいれば、特ダネを落とすことはなかったからである。 
こうして、役所を取材するには、記者クラブに属することが必要となっていった。 
記者は発表された情報をそのまま、ときには加筆して社に持ち帰り、デスクに渡す。ニュース・ソース側が記者クラブなどを通じて発表・提供する情報を、そのまま右から左に報道する発表ジャーナリズムがはじまったのだ。 
そして、特ダネをねらって独自取材をおこなう記者が、ニュースソースに不都合な記事を載せた場合は、役所ばかりか、クラブから疎外される傾向が見られはじめた。 
「気概ある記者が、政府に不利益なる記事を掲載せば、直ちに百方時を設けて之を疎外し、苦しむるの手段をとる」(「新公論」より) 
役所に不都合な情報が掲載されにくくなったので、記者クラブは役人にも歓迎されるようになっていった。 
また、記者クラブの閉鎖性もこのころから見られている。 
「これらの会に席を置くには、何名以上の紹介を要すとか何とか、随分八釜敷い規則などありて人選が厳重」(「新公論」より)であり、加盟できるのは、有力紙や通信社に限られ、小新聞は排除されていたようだ。 
このようにして、記者クラブは、閉鎖的な親睦団体と取材機関の二面性を持つようになっていった。 
新聞社幹部の取り込み 
政府側が取り込んだ記者クラブが有効に機能するためには、もうひとつ、必要なことがある。記者が持ち帰った原稿が、そのまま紙面に掲載されるようにしなければいけないのだ。 
第二次桂内閣は、この点でも抜かりがなかった。新聞社の幹部や論説委員を、政府がつくった審議会や協会の委員に任命していったのだ。 
1909年、国際新聞協会が、政府の肝いりで設立された。 
国際新聞協会は「専ら外務省側の提灯持ちの集合」と「新公論」の記事に揶揄されている。 
同じころ、各社の社長や論説委員に政府が呼びかけて、「春秋会」も結成された。 
こうして、記者には特権が、幹部には名誉が政府から与えられることになった。 
政党の記者クラブ 
記者クラブを置いたのは、政府だけではなかった。政党にも、記者クラブが存在するようになり、政党幹部も「去勢的施物」を新聞記者に与えた。 
当時の新聞・雑誌に多くの政治風刺漫画を発表して人気を集めた北沢楽天は、「嗚呼小新聞の記者」(「東京パック」掲載)で、新聞屋をなだめるべく「酒でも呑ませて怒らせない様にしておいてくれ」と料亭のお上に指示する幹事の姿を描いている。 
明治時代の記者クラブ 
ここで、明治時代の記者クラブの特徴をまとめておこう。 
官公庁、企業、政党などに場所を提供され、設備、人員もサービスされ、大部分では電話代さえ、ニューソースが払う 
そこで情報が一元的に発表され、時には勉強会も開かれる 
入会制限や、除名による取材制限がある 
新聞社側のメリット 
中央の役所や企業などのニュースソースが置いた記者クラブに出入りすれば、そこで配布される情報を全て入手でき、特オチ(特ダネを落とすこと)がなくなる 
記者クラブに所属できない新聞や他のメディアとの競争に有利 
新聞社側での人件費、取材費の節減など経営合理化にも寄与する 
新聞社同士の過度の競争を排除できる。 
ニュースソース側のメリット 
提供する情報のコントロールを可能にし、情報統制がしやすくなる 
多数の報道機関にいちいち対応する煩雑さが避けられる。 
新聞社とニュースソース側にメリットのある記者クラブは、読者の「知る権利」の観点から考えるとデメリットがある。 
新聞は、継続的な情報提供を期待して、ニュースソースに好意的な情報を流しがちになる 
紙面が画一化する 
記者が、自らの責任で情報を取捨選択する努力を怠ることにつながる。 
発表ジャーナリズムが蔓延していった背景には、天下国家を論じる政論ではなく、報道が重視されたことがある。 
また、新聞社の企業化が進み、明治時代中期までと違って、経営者が発禁を恐れるようになっていたことも考えられる。 
もっとも、明治時代の記者クラブは、戦後とくらべると開かれていた。中小の通信社のほか、業界紙などの入会も許されていたからである。 
その後の記者クラブ 
「新公論」の記事が掲載された20年後の1931年(昭和6年)4月、雑誌「改造」に「記者クラブを覗く」という記事が出ている。 
この記事をみても、記者クラブが「一室を、その役所、政党、或ひは会社から提供され・・・(中略)・・・発表物は一切このクラブを通じて行はれる」点は変わっていない。 
また、「御馳走政策」は、むしろ大掛かりになっている。 
「記者クラブの制度はどうしても、特種をとるには都合が悪い」という指摘もある。 
その後記者クラブは、戦争時のメディア統制の中で、1942年に1省庁1倶楽部に再編され、政府の情報宣伝手段に組み込まれていった。 
考察 
明治政府は、今とは違って情報開示が義務だとは考えていなかった。情報開示の明確なルールもなかったようである。 
日本新聞協会が2002年にまとめた、「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」には、「日本の報道界には、情報開示に消極的な公的機関に対して、記者クラブという形で結集して公開を迫ってきた歴史があります」という記述がある。 
記者クラブが、官尊民卑の傾向のあった時代に、情報を入手するために記者が団結して、情報公開を進めていったことには、大きな意義があったと考えられる。 
また、政府が情報を隠した場合に、その秘密をあばくために、記者クラブが闘った例も戦前にはあった。 
しかし記者クラブが特権化し閉鎖的になり、さらにニュースソースに過度に依存して、発表ジャーナリズムといわれるような報道形式を生み、ニュースソースに好意的な記事を流してきたことは、大いに問題である。 
また、時代が違うとはいえ、無料での接待や、給仕人サービスまで受け入れ、諸経費をニュースソース側の負担に頼ったのは、認識が甘かったといえる。 
この点に関しては、現在の日本新聞協会では、「利用に付随してかかる諸経費については、報道側が応分の負担をすべきです」としている。(「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」より) 
なお、記者クラブの弊害として指摘される記事の画一性の問題は、本来、情報をどう料理するか、料理人たる新聞記者の問題であって、記者クラブの存在自体が理由ではないと考えられる。 
さらに、論考よりも報道(発表ジャーナリズム)を好んだ読者にも、責任の一端があるといえるだろう。 
以前書いたように、明治時代にあった政論を中心とした大新聞は、廃れていったからだ。 
さまざまな弊害が指摘されてきた記者クラブは、近年に至るまで、温存され続けてきた。 
しかし記者クラブは、ここへきて事実上壊れはじめているように見える。 
マーケットに関連する記者クラブの多くは、すでにその存在意義を失っている。 
企業を対象とした記者クラブや東証の「兜倶楽部」は、外資系報道機関の参入要請をうけて、クラブ員以外の会見参加を認めるようになっている。 
また東証のTDネット(適時開示情報閲覧サービス)によって、インターネットを介した情報開示が進んだ。企業側の広報・IR体制の整備とともに、HPでの情報開示も進み、記者クラブが一次情報を独占することはなくなった。 
現在、排他的な体質に批判が集中しているのは、霞が関の主要官庁や永田町周辺の記者クラブである。 
しかし、こちらも状況は変わりつつある。昨年夏の政権交代以降、外務省や金融庁では、クラブ員以外の会見参加が認められるなど、風穴があきはじめた。 
先月は、検察庁が、記者会見をオープン化する方針を、ネット上でも発表した。「検察庁における記者会見について(最高検)」で 「全国の検察庁においては、今後、記者クラブに所属していない記者も含めたオープンな形の記者会見を開催することとし、現在、各庁において、その準備作業を行っています。」 どこまでが開放されるのか、どう運用されるのかは未知数であるが、注目に値する発表である。 
記者クラブ開放の要求は、官庁といえども、無視できない流れになっており、今後、他の官庁でも体制が整うにつれ、記者クラブ開放は着実に広がっていくと思われる。 
約100年前から問題が指摘され、改革の動きは歴史の中ではないでもなかったが、記者クラブは存続し、新聞業界は自らの手では問題を克服できなかった。 
100年続いた厚い壁に、最初に穴をあけたのは外国メディアであり、次に穴を広げたのはインターネットの普及であった。 国内の既得権益は、グローバル化とインターネットの普及によって、崩れつつある。 
新聞は、この2つの大きな流れの中で、自らの存在意義を問い直すべきであろう。 今後は、発表ジャーナリズムではなく、事実の検証や、一次情報をもとにした深い分析こそが求められるのではないだろうか。 
 
ジャーナリズムの「窓」から見た世界
 

 

1 世界が大きく変わったとき  
私は1985年11月の、ひとつの出来事を語ることから、本日の最終講義を始めたいと思います。  
ひとつの出来事というのは、その年の11月に初めてジュネーブで実現したレーガン・ゴルバチョフ米ソ首脳会談です。米ソ首脳が顔を合わせるのは、79年6月の、ウイーンでのカーター・ブレジネフ会談いらい実に6年半ぶりでした。そこでSALTU(第2次戦略兵器制限条約)の調印が行なわれ、冷戦時代の米ソ両超大国による世界管理システムに緊張緩和の要因がひとつ導入されたものとして大きな期待が寄せられました。しかし、その年の11月4日、テヘランでイラン学生によるアメリカ大使館占拠事件が発生、さらに12月24日にはソ連軍がアフガニスタンへ侵攻し、米ソ関係はまたたくまに戦後最低のレベルにまで冷え切って行きました。この事件が翌80年7月の第22回オリンピック・モスクワ大会を、アメリカを筆頭として日本、西ドイツ(当時)などにボイコットさせるきっかけとなったことを思い出します。  
85年のジュネーブにおける米ソ首脳会談は、このようにして冷え切った両国関係を打開するための歴史的な会談となりました。2001年アメリカで起きた「同時多発テロ」事件の9月11日を「世界が変わった日」として表現したイギリスの週刊誌があります。それと同様に、このジュネーブ会談を「世界が大きく変わった日」として、歴史の中に位置づけていいでしょう。しかし、それが4年後の、89年11月9日・ベルリンの壁崩壊、91年12月25日のゴルバチョフ大統領辞任とそれに伴うソビエト連邦の消滅につながるとは、当時、だれも予測できませんでした。この事実は、しっかりと記憶にとどめておく必要があると思います。  
雲が低くたれこめ、小雪が舞い降りてくるジュネーブの灰色の空を、いまも鮮明に覚えています。私はその年の10月、支局長(後に欧州総局長)としてロンドンに赴任したばかりでした。  
それから1か月もたたないうちに“ぶち当たった”のが、レーガン・ゴルバチョフ米ソ首脳会談だったのです。ジュネーブには私のほかにワシントンから大畠俊夫アメリカ総局長、石川弘修(現・読売理工学院理事長)、斉藤彰(現・読売新聞東京本社編集局総務)両特派員、小島敦モスクワ支局長(現・読売新聞東京本社調査研究本部長)がジュネーブに集結しました。それに現地の中道正樹特派員がいました。このときの大畠俊夫アメリカ総局長こそ、ついいましがた「余命」のくだりで紹介したサイゴン特派員としての、私の前任者であり先輩です。  
このように多数の特派員が一つの“事件”に集中し、多角的な視点で報道するケースは決してまれではありません。たとえば1975年11月に私自身が経験したパリ郊外ランブイエでの第一回先進国首脳会議(サミット)には、東京から政治部と経済部のデスクを含めて4人、ボン、ロンドン、ワシントンからそれぞれ1人ずつ特派員がはせ参じ、パリの(このときもまた)大畠支局長、それに私をいれ総勢9人が取材・報道に当たっています。  
1973年1月28日、ベトナム和平パリ協定が発効し停戦を迎えたときの読売サイゴン支局にも9人の特派員がひしめき合い、それぞれ仕事を振り分け取材先に散っていったものでした。  
多数の記者が集まり記事を書く場合、たとえば新聞紙面でどんなことが起きるか、皆さん注意して紙面を見て、考え、分析したことがありますか。新聞の縮刷版を取り出して古い記事を読み返してみると、その辺の事情がよくわかります。ジュネーブ会談が始まった11月19日の翌日の読売新聞・朝刊を見ると、1面トップに「米ソ首脳会談始まる」「冒頭から2人で実質討議」「予定外の再会談 計2時間“良い兆候”」「SDI(米戦略防衛構想)では対立か」という見出しがついていて、新聞の世界で言う「総合リード」、つまり会談全体の動きを要約しまとめた文章が次のように続いています。  
【ジュネーブ19日=読売特派員団】レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の第一回首脳会談は、世界が注視する中、19日午前10時(日本時間同日午後6時)過ぎから、ジュネーブ郊外の別荘「フルール・ドー(水の花)」で始まった。米ソ両首脳の顔合わせは、去る79年のカーター・ブレジネフ会談以来6年半ぶり。レーガン、ゴルバチョフ両首脳はこの日、冒頭のサシの会談で、予定の15分を大幅に上回る1時間4分にわたって協議、さらに午後の全体会議後戸外で再度50分、予想外の異例の個別会談を続けた。両首脳の水入らず会談のほか、午前と午後の2回、双方6人の代表団を交えた全体会議が行なわれた。消息筋によれば、第1日の話し合いで、来年、アメリカで次回首脳会談を開く問題や、ジュネーブ米ソ包括軍縮交渉を具体的に前進させる方策についても意見交換が行なわれた模様である。ゴルバチョフ書記長は、個別会談が予定より大幅に延びたことについて「良い兆候だと思う」と答えた。また、ソ連側スポークスマンも、初顔合わせが「良い雰囲気の中」で行なわれ、「米ソ関係」を中心に一連の政治問題について、「実質的な討議」があったことを明らかにした。(関連記事2・3・5面に)  
この種の重要会談では、総合リードの末尾に記されているように、大量の関連記事が他のページにも振り分けられて掲載されます。首脳会談取材に世界中から集まった報道陣は3400人を越えました。日本の新聞社では朝日、毎日、産経、日経といった全国紙のほかに北海道・中日・西日本のブロック紙などが読売とほぼ同じ規模の記者団を送り込んでいて、NHK、民放TVをも交えて壮烈な取材合戦を展開しました。といっても記者団が首脳会談の部屋に取材のためにどかどかと踏み込むことは、当然のことながら許されず、私たちは特設のプレスセンターで待機、米ソ両国スポークスマンの経過報告があるという情報が入ると、一斉に記者室を飛び出して行く有様でした。  
会議場前に陣取り、また他の場所で取材、目撃した話題は「ジュネーブ便り」というコラム欄に書きました。たとえばレーガン大統領、ゴルバチョフ書記長以下米ソ代表6人が向かい合って座る大テーブルは、その日のためにニューヨークの米国連代表部からわざわざ空輸したこと、空輸の途中、脚が一本折れ、会談の先遣隊をハラハラさせたひと幕があったこと、レーガン大統領を歓迎するためフルグラー・スイス大統領官邸で催された18日午後の式典で、氷点下5度近くの寒風のもとに立ちつくす儀仗兵の一人が、突然、気を失ってばったり倒れた、という話題が20日付の読売・朝刊「ジュネーブ便り」に掲載されています。  
同じ朝刊の5面を広げると、そこには「首脳会談 米ソそろって盛り上げ報道」「速報、解説、特ダネ合戦」「プラウダは新提案示唆」といった大見出しで、これは「ジュネーブ発」ではなくワシントン、モスクワに残った記者が打電しており、ニューヨーク特派員も「米大統領ゴ書記長の訪米要請へ」という情報を流しています。その根拠として特派員は、19日付ニューヨーク・タイムズ紙の記事を引用し、ジュネーブ滞在中のホワイトハウス高官の話として「レーガン米大統領は、一連の米ソ首脳会談を締めくくるにあたって、ゴルバチョフ・ソ連書記長の訪米を要請する意向である」という情報を転電しています。  
会談初日の紙面は、1面、2面、5面を首脳会談の関連ニュースで埋め尽くしました。しかし、首脳会談で実際に何が話し合われたのか、肝心のことは何も書き込まれていないことに、皆さん、すでにお気づきでしょう。実際、現地の取材現場にいた私たちは、ほとんど何も分からないまま、首脳会談の初日を終えたのでした。 
2 歴史の現場に立つジャーナリスト  
【ジュネーブ19日=読売特派員団】のクレジットで書かれた20日付朝刊・1面トップの総合リードは、東京本社デスクとジュネーブ現地の大畠デスクの間で取り交わされた“情報”をもとに書かれたものでした。総合リードの文中に見られる「ゴルバチョフ書記長は、個別会談が予定より大幅に延びたことについて『良い兆候だと思う』と答えた」という表現を読む限り、書記長が記者団に向かって直接に語りかけたように受け取れますが、事実はそうではなく、第1回全体会議終了後の19日午後1時から、ジュネーブ国際会議センター内で開かれたザミヤーチン・ソ連党国際情報部長の記者会見での内容を、そのような表現で、厳密に言えば事実に反した形でまとめたものでした。  
この記者会見に出席したモスクワの小島記者は、両首脳の会談が「良い雰囲気の中で行なわれ、両首脳は単に知り合っただけでなく、一連の政治問題について実質的な討議を行なった」というザミヤーチン情報部長の話を、直接話法の形でまとめ、別途、独立した記事に仕立てています。  
一方、ワシントンから来た石川記者はスピークス米大統領報道官の記者会見を取材し、「一連の首脳会談についての発表は、20日の会談日程終了までは一切行なわないことで、両代表団が合意したと発表した」というニュースを記事にしました。私たち記者団泣かせの、ブラックアウト(報道管制)です。石川記者がまとめたスピークス報道官の発言要旨は、次のようなものでした。  
一、米ソ首脳会談が終了するまで、合意事項を含め会談の内容をいっさい公表しない。米ソ双方はそれぞれの問題について真剣な討議をしやすいように公表を控えることで一致した。会談の時間、参加者名だけについて発表する。  
一、米ソ双方とも会談の背景説明を行なわない。米側はこの合意を完全に順守するものであり、会談で何が話されているか、だれも公表することはない。会談内容の発表は2日目(20日)の会談終了後か、21日朝になるだろう。  
一、会談内容の「ブラックアウト」(報道管制)は会談の冒頭で決定された。  
こうして歴史的な米ソ首脳会談初日の肝心の情報は、報道管制のもとに覆い隠され、新聞読者に「真の情報」は伝えられませんでした。  
しかし私たち報道陣が完全にお手上げであったわけではありません。会談に先立ち、私たちは事前の取材で、会談で何が話し合われるのか、その意義は何かといったことを、手を変え、品を変えて書いていました。読売新聞の場合、たとえば「米ソサミットを占う」という連載を企画、ワシントン、モスクワ、欧州の見方をそれぞれの地域の特派員が識者にインタビューし、また独自の取材で関係者の視点をまとめています。  
11月初旬、私はロンドンからパリに飛び、フランス国際関係研究所(IFRI)のティエリ・ドモンブリアル所長の見解を次のようにまとめています。その一部を紹介しますと…第2次大戦後、国際政治システムの大枠は、米ソ両国を軸に構築されてきた。この間、東西  
―とくに米ソ関係は緊張と緊張緩和の間を揺れ動いたが、緊張が激化した時期でさえ、両国が全面的に対立したわけではなかった。また、緊張緩和の時代にも完全な和解が成立したわけではなかった。(中略)  
私が最も重視するのは、ゴルバチョフ氏が目ざすソ連国内体制の構造的な変革と、デタント復活が密接に関連している点だ。  
このとき米ソ首脳会談の行方を占ううえで、誰をも困惑させた最大の要因は、ゴルバチョフ・ソ連書記長の存在そのものでした。1982年11月にブレジネフ書記長が死去、後任書記長にアンドロポフ氏が選出されましたが、彼は84年2月に急死。後任のチェルネンコ氏もわずか1年1か月の任務を果たしただけで、85年3月10日に病死しているのです。わずか2年半足らずの間に3人の国家元首が去ったあとに、突然、脚光を浴びて登場したのがゴルバチョフ書記長でした。85年3月に新書記長に選出されて8ヵ月後の、ジュネーブでの桧舞台です。「ゴルバチョフとは一体何者?」「彼は何をやろうとしているのか」というナゾと疑問が沸き起こるのは当然です。ゴルバチョフ情報は、当時、あまりにも少な過ぎました。  
しかし、当時の新聞を注意深く読み返すと、書記長に関する興味深い記述がいくつかあることに気づきます。85年11月13日付読売新聞・朝刊の4面に小島敦モスクワ支局長が書いた「モスクワで考える」というコラムはそのひとつでしょう。小島記者は11月7日の、時折、小雨がぱらつく赤の広場で繰り広げられた革命記念日・軍事パレードの模様から書き出し、そこに列席しているソ連首脳たちの姿を目で追いながら、「クレムリンがすっかり若返った」ことを実感します。1年前、同じ革命記念日の軍事パレードに列席していたチェルネンコ書記長、首相、外相3首脳の平均年齢が75歳だったのに、いま目の前に列席するゴルバチョフ以下の、新しい3首脳の平均年齢は20歳も若返っていました。  
「ゴルバチョフ書記長の登場は、老齢、病弱な指導者にうんざりしたソ連国民が待望していた強力な指導者の出現を意味している」─こう小島記者は書き、ライバルであったロマノフ氏の有無を言わせぬ解任と、グロムイコ氏の国家元首への“棚上げ”から、チーホノフ首相、バイバコフ国家計画委員会議長の解任にいたるスピード人事に、ゴルバチョフ氏の辣腕と改革への決意を読み取っています。そして「外交は内政の延長」と主張するゴルバチョフ氏にとってレーガン氏との首脳会談で得点を稼ぎ、威信を高めることが「現在進めている内政の荒療治のために大きな武器となろう」とし、首脳会談で「米ソ関係の安定化」への道を開くことが「最低条件」だと指摘しています。  
1985年11月21日朝、ジュネーブの国際会議センターの共同式典に臨んだレーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、「米ソ首脳、相互訪問で合意」を高らかに謳い上げました。86年にゴルバチョフ書記長が訪米、翌87年にはレーガン大統領が「悪の帝国」と決めつけていたソ連の首都モスクワを訪問するというのです。首脳会談はこうして幕を閉じ、13項目の合意事項を盛り込んだ共同声明には、「米ソ核軍縮促進で一致」「50%削減を共通基盤に」といった項目が含まれていましたが、最大の成果は小島記者が指摘していた「米ソ関係の安定化」をうながす首脳・閣僚の定期協議へ道を切り開いたことでした。 
3 「9・11」と「対イラク政策」に収斂する世界  
新聞は「世界の歴史を刻む時計の針」のようなもの、言い換えれば「世界史を刻む秒針」といわれた時代があります。テレビやインターネットの時代を迎えている今日、その表現がいまも通用するのか、じっくりと検討する必要はあると思いますが、新聞記者として主として海外で取材活動を続けてきた私個人の体験でいえば、刻一刻と事態が変化する歴史の現場で仕事を続けてきたなかにあってその思いは、今も変わりません。ジュネーブでの米ソ首脳会談の例でもお分かりのように、時には取材先の報道管制によって、まともな記事が書けない悲哀を舐めさせられることがあります。発表された情報だけにすがり、実は裏でもっと大事なことが取り交わされていたにも関わらず、それを察知できず真実を書けないままで終わり、後になって歯軋りすることもあります。しかし、取材の現場に立ち、考え、感じ、見たこと、言いたいことを、さらには、ときに言わなければならないことを勇気をもって書き、読者に伝えるという作業を通して歴史の証人となり得るジャーナリストの役割に、これからも変化はないでしょう。  
ソ連の激動に先駆けてソ連・東欧世界を震撼させる事件が、1980年ポーランドで起きています。その年の8月、北海に面するグダニスクで発生した造船所労働者のストは、瞬く間にポーランド全土に波及し、社会主義体制を突き崩す原動力となりました。そのとき日一日と変わる情勢を細かく、生々しく伝えた一人のジャーナリストがいました。フランス・ルモンド紙のベルナール・ゲッタ記者です。彼はワルシャワから、そしてグダニスクからルモンド紙に連日のように長文のルポルタージュを書き送り、当時、読売の東京本社でデスクのポストにいた私は同僚の川島太郎記者とそのルポを翻訳し、新評論社から緊急出版しました。翻訳を依頼してきたのは現在・藤原書店の社長、藤原良雄氏ですが、日本人記者が書けなかったことを、翻訳を通してでも日本語に訳して読者に伝えたいという強い思いが、私たちに緊急の仕事を引き受けさせた動機でした。時には翻訳という作業も、ジャーナリストにとって欠かせない任務のひとつだと私は考えています。  
ベトナム戦争の取材で散っていったカメラマンたちの写真展が昨年5月、立命館大学平和ミュージアムで開催されたことは、皆さんの記憶にまだ新しいでしょう。あのときの写真原画をもとに『レクイエム』と題した写真集(集英社)が97年10月に米・英・日の3カ国で同時出版されました。その写真集に寄せられた欧米記者たちの追悼文や関連記事の翻訳を私が引き受けたのも同じ気持からでした。私のベトナム体験を重ね、戦場に散ったカメラマンたち、彼らの写真に追悼文を書いた欧米記者たちの、切なく熱い思いに私自身を同化させ、翻訳作業に打ち込んだあの年の、夏の汗の結晶が日本語版『レクイエム』となって、初めて日本の読者のものとなったのです。  
いま私は、こうして最終講義という儀式の場に立っています。この5年間を振り返ると教員として皆さんと向かい合うことの難しさを痛感しました。教員として「教える」という意識を持つと、難しさがますます募っていきました。しかし、あるときから私は「教員となったいまも、ジャーナリストであり続けたい」思いを自覚するようになり、それ以来、みなさんと自然体で付き合えるようになりました。  
立命館大学国際関係学部には、退職する教員のために記念論文集を編集して残すというありがたくも麗しい慣習があり、いま編集作業が進められています。3月の卒業式には卒業生全員と在学生に配布される、その記念論文集にジャーナリスト時代の先輩、友人、同僚4人が寄稿してくれています。その中の一人、かつてモスクワ支局長だった小島敦記者が書き寄せてくれた原稿にふれながら、私のきょうの話を終わりにしたいと思います。  
小島記者は現在、読売新聞東京本社の調査研究本部長という役職についていますが、いまなおジャーナリストとして日本を代表するロシア問題専門家の一人であります。今回、彼は「プーチンのロシア」と題して、400字の原稿用紙で50枚を越える文章を書いてきました。そのなかに興味深い記述があります。ソ連の秘密警察・国家安全保安委員会(KGB)のエリートとして16年間諜報機関員として働いたプーチンは、その後、モスクワで政権の中枢に入り、エリツインの後継者としてロシア大統領になった人物ですが、それ以前に過ごしたサントペテルブルク時代にキッシンジャー元国務長官と対面したことがあるといいます。そのとき元米国務長官が語った言葉を『プーチン、自らを語る』(原題・『オト・ピエルヴォヴァ・リツアー』=日本では2000年3月翻訳刊行)の中で「ソ連は東欧からあんなに早く撤退すべきでなかった。  
(その結果)われわれはあまりにも早く世界の(力の)均衡を変えることになり、望ましくない結果を招く可能性が出てきた。正直言って、ゴルバチョフがどうしてあんなことをしたのか、いまでも理解できない」という表現で紹介し、彼は「間違っていなかった」と断言しているというのです。そしてプーチンは「もし、あの時、大あわてで逃げ出さなかったら、あのあと、われわれはきわめて多くの問題が起こるのを回避できただろう」と自ら結論づけているのですが、その記憶と体験が大統領に就任したプーチンに真っ先に「強いロシア政策」を打ち出させることになったと小島記者は書いています。  
小島記者は85年のジュネーブ会談のあとモスクワに戻り、ゴルバチョフ書記長が断行したペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)政策を克明に追い続け、ソ連の政治家、歴史学者、文化人、経済学者ら100人を越える要人とのインタビューを繰り返し記事にしました。後に『ソ連知識人 ペレストロイカを語る』(読売新聞社 1990年刊)という本にもしています。だれもが予想できなかったほどのスピードで進んだゴルバチョフの改革が、逆にソビエト連邦の解体とエリツイン時代の混乱を招いた歴史の皮肉。それを目の当たりにしてきた小島記者にしか書けない「プーチンのロシア」です。  
「ロシアはオープンでバランスのとれた、明快な外交を推進していく。ロシア外交の中心は、ロシアの利益を実現させることであり、それを厳しく守りぬくことである。ロシア外交の新要素は、国際情勢を評価するにあたっての現実主義と完全な実利主義だ」―この言葉はプーチン新政権の外交についてイーゴリ・イワノフ外相が用いた表現ですが、2001年秋、米国で起きた9・11同時多発テロ事件後の対応に示したロシアの対米政策を理解するうえでカギとなるものでしょう。「国益第一主義」外交原則に基づき、プーチン大統領は、事件後、もっとも早い時期にアメリカへの全面支援を表明し、ブッシュ政権のテロ戦争に協力する5項目の決定を公表しました。中央アジアの旧ソ連共和国への米軍駐留を認めたのもプーチンのロシアでした。チェチェン問題というトゲを抱え込んだロシアにとって、対米協調を前面に出すことが自国の国益に合致するという計算がそこに働いています。  
冷戦以後の“アメリカ一人勝ち”といわれる時代が到来した今でも、米ソの協力関係が世界の動きを左右している事実の一端が、ロシアのブッシュ政権への素早い協力姿勢表明からうかがい知れるように思われます。2001年の9・11事件から今日のアメリカの対イラク政策にすべてが収斂する形で、世界は動いています。この状況はいましばらく続くでしょう。今回の記念論文には小島記者のほかにも学外者の特別寄稿を求め、伊藤光彦氏(和光大学教授、元毎日新聞記者)による2002年のドイツ総選挙とシュレーダー首相の対イラクへの参戦拒否声明、小倉貞男氏(中部大学教授、元読売新聞記者)によるポルポト国際司法裁判、鈴木雅明氏(読売新聞東京本社解説部次長)による近代トルコ〈非民主性〉の系譜に関する、それぞれ現場取材に基づく分析を頂いていますが、それらがすべて対米関係に深く結びついて展開されていることに、国際関係の同時性を痛感します。国際関係学を学ぶ受講生に「世界を読み解く手段」としてのジャーナリズムの重要性と有効性を説いてきた私の五年間でした。2003年初頭にこのような形で最終講義をもてた意味を改めてかみしめながら、本日の話を終わらせていただきます。 
 
世界は舞台、人はみな役者

 

ジャーナリズムの記録性  
私の新聞記者生活は約37年間におよびますが、おおむね特に優秀な記者であったわけでもありません。よく「なぜ記者になったのか」と若い方々に聞かれますが、それも今から思えば、他の分野はあまり視野になかったにせよ、やや漠然とした情緒的なものでした。私の高校時代の50年末から60年代初めごろ、日本社会にもテレビが急速に普及し、NHKのドラマ番組で「事件記者」というのがあり、よく見ていましたが、一般の会社生活と違い、仕事の厳しさが窺えるにしても、なんとも自由で、格好いいなと感じ、それが将来の職業選択の大きなきっかけになったように思います。しかし、事件記者にあこがれたわけでもありませんので、記者生活の第一歩としてだれもが経験する地方支局の警察担当時代は本当に戸惑うことばかりでした。新聞の命は、生きのいい「特ダネ」だとデスクからよく叱咤されましたが、大きな事件を他社に抜かれた時、事件記者としては失格だなとつねに内心思っていました。ちなみに、マスコミ業界には特ダネとともに、「特落ち」という用語があり、前者は一社だけのスクープであるのに対し、後者は一社だけその重要なニュースを落としたことをいうのです。だから「特落ち」の場合は担当記者はさらに面目を失うことになり、デスクから雷が落ちることになります。これだけは何としても避けたいと思っていました。  
ただ、この言葉は業界用語であり、ジャーナリズム活動の勝敗を測るひとつのパラダイムであるにしても、社会一般に通じる競争原理でもあるのです。そのように咀嚼して理解してくだされば、よいのです。  
駆け出しのころ、何とか大きな面子は失うことなく乗り越えてきたつもりですが、5年間の地方支局から東京本社に転勤になる際、事件を扱う社会部はどうしても嫌だと思い、国際報道の部門を志望し、運よくそこにもぐりこむことができました。当時としては新聞記者といえば、社会部記者が花形でしたから、国際報道はいわば傍流の世界でした。それでも私には大変居心地のよい世界でした。  
広い国際社会の政治、経済、文化、社会事件など多様なテーマを追いかけるという仕事はまさに目の前の進行形の現代史に立ち会えることになるからです。新聞の社会的役割や商業的な価値については議論は多々ありますが、一番重要で、時代にかかわらず不変なことは「記録性」にあります。歴史を記録するという役割であります。むろん、これは言葉で表現するのは簡単ですが、実際には大変難しいことです。記録といっても、その価値は、後年読み返しても十分役立つものでなければならないからです。理想的なうたい文句に「歴史に耐える記事を書け」というのがありますが、そんなことはだれにもできることでないことは自明でしょう。それでも、一応の心構えや意気込みはそうあるべきなのです。  
私は国際報道の分野で、約15年間、外国暮らしを経験し、赴任先は幸か不幸か世界各地にまたがりました。中南米、アフリカ、アジア、中東、米国、欧州と世界の多彩な国々を渡り歩き、多様な世界を垣間見ることができました。世界は先進国と途上国に大別されますが、私の実感からすれば、人間の基本的な感情である喜怒哀楽はどこでも同じです。そんなことは当たり前ではないかと言われるかも知れませんが、でも現実的には、人間の生活感覚には常に一定の距離感があり、遠い地域と身近な世界とではだれでも反応は違います。この意識の境界をいかに飛び越えるかは皆さん方がこの学部で政治や経済、あるいは文化などの学問領域を通して学んでいらっしゃることだと思いますが、私はあえて言いたいのは家族や友人などそれぞれに一番身近な人たちのことを神剣に考えれば、遠い世界の人たちのこともおのずと理解できるようになるということです。社会の最小単位である家族の価値観を理解することが広い国際社会の理解につながり、それが最も重要であるということです。なぜなら政治も経済も文化もすべて人間の営為であるからです。逆説的にいうならば、そうしなければ、抽象的にはわかっても、切実に理解し、行動することは難しいかもしれません。 
戦争の虚しさ  
あまり思い出したくもない経験ですが、私は職業上、いくつかの戦争や内戦、紛争を経験し、自分の命の危険を本当に感じたこともありました。中東のレバノンという国に駐在していた1982年6月、隣のイスラエルが突然、レバノン侵攻作戦を展開し、首都ベイルートが空爆と目の前の地中海の沖合いからの艦砲射撃、そして首都を包囲した戦車による砲撃と三方面から猛攻されました。首都は瓦礫の山になりました。レバノンは当時イスラエルと敵対していたPLO(パレスチナ解放機構)、つまりパレスチナ・ゲリラの最大拠点になっていたからです。  
この軍事作戦は最も激しい期間がおよそ3ヶ月続き、その中で、仕事をしなければならなかった。連日の砲爆撃の轟音とともに生活し、ある時には支局兼自宅として住んでいた広いマンションの応接間とベランダを区切る大きなガラス戸4枚が数百メートル先に落ちた一トン爆弾の爆風で、粉々になりました。さすがに足が震えました。近くの地下避難所に何度も飛び込みました。マンションの部屋の中より、内部の階段の踊り場のほうが少しは安全だと思い、数時間そこに座り込み、携帯ラジオでニュースを聞きながら、過ごすこともありました。  
この期間、毎日のように断水、停電です。トイレの水はあらかじめ用意していたミネラルウォーターを使い、ダンプカー用の大きなバッテリーを用意し、その電力を使ってテレックスを動かし、原稿を東京に送っていました。(テレックスといっても、皆さんにはどんな機械かご存じないでしょうが、大型のタイプライターのようなもので、日本語の文章を紙テープにローマ字で打ち込み、そのテープを電話回線を利用して送ると、受け手の同じ機械のロール紙にローマ字が印字される。そのローマ字の文章を受け手が日本語に戻し、日本語の記事として新聞に掲載する)。  
パレスチナ現代史の大きな傷跡となったベイルートのパレスチナ人の難民キャンプでの大虐殺事件もこの時、発生しました。PLOのアラファト議長以下、主要幹部はもちろん、多数の戦闘員が港から船に乗せられ、チュニジアなど近隣のアラブ諸国に追放されました。こうした運命のあと、88年、PLOは初めてイスラエルを承認し、テロ放棄も表明、90年代以降のオスロ合意などによるイスラエル・パレスチナの共存体制への新しい模索へと進んでいったわけです。だが、いま皆さんが見ていらっしゃるように、まだパレスチナ独立国家の誕生には至っていませんし、むしろ、暴力の応酬は過激化し、混乱を深めているのが現状です。そしてこのパレスチナ問題を核とした中東紛争のマグマはなお世界を揺るがす起爆剤であり続けています。  
ジャーナリズムの世界には昔から「戦争は記者を鍛える」という言い方があります。多分、その通りだと思います。戦争というのは、人間に多大な悲劇をもたらすものですが、一方で、当事国のすべての姿、政治も経済も文化も、好くも悪くも、すべてが照らし出されることになるから、記者はそれと必然的に向き合い、懸命に分析することになります。そのことを言うのだと思います。これも表現を変えていえば、ジャーナリズムの世界だけのことではないでしょう。要は、人間は試練によって成長するのだ、と理解すべきなのでしょう。ただし、こういうことをいうと、いかにも暗い話になりますし、場合によっては好戦的な意見だと受け止められてしまう可能性もありますので、ひとこと経験の感想をいっておきます。戦争報道は、職業的にはやや華やかな活躍となっても、精神的には虚しさしか残りません。思い出したくもないといったのは、そういう意味です。戦争は取材者にも後遺症が必ずあります。  
同時に、平和の尊さは抽象論だけでは現実世界には通用しなのではないかということも実感しました。 
独裁権力の悲哀  
つまらない話を続けますと、カリブ海にハイチというかつてフランス植民地だった小さな黒人の島国があります。キューバの隣にある島国です。この国では親子二代続いたデュバリエ王朝と呼ばれた独裁政権が君臨し、その二代目の独裁者が国民の反乱で86年に倒されました。  
この独裁王朝の特異さは、黒人社会伝来の原始宗教を巧みに操り、秘密警察を使って国民を弾圧してきたことです。この秘密警察の存在はイギリスの著名な作家グレアム・グリーンが小説「喜劇役者」で描いたことでも有名だったのですが、ともあれ、その二代目政権が打倒された際、取材をしました。混乱収拾のため介入した米国の力に押され、大統領は最後に家族ともども、米軍が差し向けた軍用機に乗せられ、首都の空港からフランスに亡命しました。  
大統領の家族が乗り、また家財道具などを積んだ車の列が空港に到着した際に目撃した光景は忘れられません。小さな国の異常な独裁者のひとつの終幕ドラマでしかないのですが、権力の奢りとその末路の悲哀の構図が目の前に忽然と浮かび上がり、呆然とした感覚に襲われてしまいました。  
確かこの同じ年には、フィリッピンの長期独裁者マルコスも国外追放となり、さらに少し前の70年代末には、「王の中の王」といわれたイランの独裁者パーレビも国外追放されました。  
これらの事件を振り返り、いま私が改めて強く想起するのは、冷戦終結当時にソ連のゴルバチョフ共産党書記長が東ドイツ指導者に対して言い放った、「歴史に遅れてきた者は、歴史に罰せられる」という警句です。政治の民主化を求めて高まる国民の声、つまり歴史の新しい波に鈍感なまま対応できないと、その歴史にしっぺ返しを受けるということです。こんな歴史ドラマのアナロジーは古今東西、ふんだんにありますが、そのメッセージは何も政治指導者に限ったものではなく、企業経営者や他のどんな機関、組織の責任者にも通用できるのではないかと私は考えています。むろん、皆さん方学生や若い世代の方々もよくその教訓を学び取り、これからの人生設計の参考にしていただきたいと思います。 
価値観の対話と融合  
ところで、この時間は私と奥田先生が担当し、外務省の外郭組織で、多様な国際文化交流の推進機関である国際交流基金(JF)のご協力を得て進めてきましたシリーズ講座「外国人研究者から見た日本」の最終編の授業でしたが、いま、とんでもない番外編となってしまいました。このままでは申し訳ないので、この授業に関連させるために、私の多少の知識や経験から考えた、いわば私的国際交流論をお話したいと思います。私的と断っておかなければならないのは、私には学問的権威などまったくないし、皆さんの参考になるかどうかもわからないからですが、私にはこんな経験があります。タイに駐在していた92年6月、その少し前にクーデターで政権をとった軍事政権に対し、国民の民主化要求運動が高まり、多様な市民グループが毎日のようにバンコクで街頭デモを繰り広げました。それに対して軍政は発砲し、多数が死ぬ、大変な流血事件に発展しました。  
これだけだと途上国のどこにでもあることですが、市民のデモ参加者に、タイ人の人権活動家と結婚していたひとりの日本人女性がいました。この夫婦はバンコクのスラム街で貧しい人たちの支援活動をしていたのですが、日本人女性は当時妊娠しており、もし、軍政に逮捕されれば、身体の安否が当然懸念されます。そこで、現地の日本大使館が一大決心をし、彼女をこっそり大使館の関連施設に保護しました。大使館は治外法権ですので、安全ではあるのですが、この行為はタイ政府からみれば、法的には内政干渉になる可能性もあるわけです。両国関係が悪化する重大な要因にもなるのです。つまり、国民と政府の対立の中で、日本大使館、つまり、日本政府は市民活動に味方したとも解釈できるからです。タイ政府が要求すれば、引渡しをせざるをえないかもしれません。さすがにタイ政府はそれほど強硬なことは一切しなかったのですが、このひとつの秘話は国際交流の厳しさをわかっていただくためにお伝えしたいのです。  
彼女は日常的にはスラム住民を支援するという気高い活動をしていたのでありますが、人道支援といってもその国の政治の政界と無縁でいるわけにはいきません。  
ついでに言いますと、この流血事件ではタイ国民から大変な敬愛を受けているプミポン国王が最後に政府、反政府両指導者の調停に入り、王宮に両指導者を呼んで、和解を促しました。  
国王はひれ伏す二人に対し、「あなた方の争いで一番損をするのはだれですか」と問いかけ、「それは国家です」と諭しました。この接見の光景はテレビ中継されましたが、このあと、翌日には騒乱の事態がたちまち収まりました。なんとも不思議な、信じられないようなことです。  
国王には憲法上、何の政治的な権力もありませんので、魔力が働いたとでもいうのでしょうか。  
むろん、そんなことはありません。それはこの国特有のことで先ほど言いましたように、国王に権力はなくても、国民の絶大な支持があるからです。このケースから皆さん方に「権力」と「権威」という問題も考えてほしいと思います。  
余計な回り道をしてしまいましたが、本筋に戻って、私の言いたいひとつのことは、国際文化交流を考える際、その国の政治、経済、文化もしっかりと理解しておかなければ、いけないということです。文化という言葉で一般的に想定されるのは、文学や音楽、美術、映画などですが、むしろ今日の世界は政治や経済もシステム(制度)としてよりは、文化的な側面から分析する必要がますます高まっているのではないかと考えています。グローバリゼーションの進展とともに、あらゆる分野でグローバル・スタンダードが声高に唱えられていますが、政治も経済も制度としては基本的に同じであっても、国によってその運営方法は違います。これが文化だと考えます。文化の形成に宗教は大きな役割をはたしているのですが、日本人は宗教問題は極めて苦手です。私も正直いって、あいまいな知識しかありません。しかし、私は文化とは大きな意味で、「価値観」だと思っています。だから文化交流とは単に文化の相互理解ということだけでお茶を濁してはいけない、ということです。国際交流はいわば価値観の対話にその本質的な意義があり、しばしば価値観は衝突し、危険な火種も内包した厳しい世界であるということも認識してほしいと思います。バンコクの日本人女性のエピソードからそれを感じ取っていただきたいと思う次第です。  
こうしてみると、政治的な交流も経済交流も文化交流も不可分の一体です。経済の世界では多様な製品、商品やソフトウエアなどが国際的に流通し、対外的な投資も活発に行われています。この製品取引額や投資額も経済的には数字で計算されますが、製品自体には利便性や文化的価値などの一定の思想などがそれぞれに応じて含意されていると考えています。日本はかつて超小型のトランジスターラジオやウォークマンなどの製品を開発し、その文化的な価値が認められて、世界市場を席巻しました。いまは多様なコンテンツ産業が大きな威力を発揮しています。アメリカのディズニーやマクドナルドなどの産業も経済であるとともに文化であることはすぐにお分かりになると思います。マクドナルドというファーストフードはあわただしい時代に生きる人々の、ライフスタイルという文化的価値に合致したからこそ、あれだけの世界市場に進出できたのでしょう。 
歴史に学ぶ  
しかしながら、価値観には普遍的なものもあれば、時代を反映して移り変わるものもあります。国家や個人でも価値観の重心は異なります。この錯綜する価値観は国民社会、また広く国際社会全体を不安定にしています。グローバリゼーションとかグローバル・スタンダードと騒がれても、それぞれが背負った文化はそう簡単にいくつかの共通項として収斂するものではないし、むしろ拡散する勢いのほうが強く窺われます。この漂流する価値観は国家レベルや個人レベルでアイデンティティ探し、自分探しの旅に誘う現象を生み、時代はますます不透明にもなっています。「文明の衝突」論もこうした視点で書かれたものだと思いますが、「自分探し」  
は国家も個人も歴史によってしか確認できません。そこで強調したいのは国際交流にかぎらずどんな領域のことを学ぶにしたって、歴史をしっかり習得することが不可欠であるということです。文化は人間の体験の累積による歴史によって形成されます。文化は歴史であり、歴史は文化であるといえます。とすると、異文化理解というのは、壮大な学術的作業であるとともに、それぞれにとっての安全保障観さえ伴う大きな精神作業だと思います。  
文化交流とは従って価値観の対話、融合ということになるのでしょうが、それは政治的な成果にもつながります。かつてオーストリアのハプスブルグ王朝は二人の王女、マリー・アントワネットとマリー・ルイ−ゼをフランス・ブルボン王朝のルイ16世とナポレオンにそれぞれ嫁がせました。平たくいえば、政略結婚ですが、強大な二つの勢力が力の衝突を避け、欧州の平和秩序を守るためのものでした。この両王女とも嫁ぐとき、フランス領に入る直前で、フランスのファッション文化の衣装に着替えるよう命令されました。それぞれの文化を通した価値観を融合し、政治的な成果を達成する難しさを象徴するような話です。いまどきはこんなことはないのでしょうが、異文化と政治の関係を考察する際には十分参考になる話しだと思います。  
日本とヨーロッパの文化的関係史には、この講座の講師としてきていただいた先生が日本の浮世絵や美術工芸品が19世紀後半から今世紀初頭にかけ、いわゆる「ジャポニズム」として欧州の美術界に大きな影響を与えたという話がありました。  
欧州はご存知のように今日、数々の統合が進展し、巨大な政治、経済圏として新たな地位を誇っていますが、この欧州統合の歴史にも、ひとりの日本人女性の奇縁が存在します。これはよく知られた物語ですが、第一次世界大戦前後に欧州統合の先駆的な啓蒙運動、汎ヨーロッパ運動をしたハプスブルグ帝国末期(オーストリア・ハンガリー二重帝国)の貴族、リヒァルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の母親が青山光子(本名ミツ)という日本人女性であるという奇遇です。東京で骨董商を営む青山喜八の娘である青山ミツは、外交官として1892年に日本に赴任したハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と知り合い、結婚し日本で二人の男子を産みますが、その次男がリヒァルトです。彼女は後に伯爵の帰国に伴い、領地とお城のあるハンガリーやウィーンで過ごし、さらに数人の子供を持ちますが、日本で産んだ男子にはそれぞれに日本名をつけ、リヒァルトには栄次郎という日本名もあります。欧州でミツコは夫の死亡に伴う遺産相続訴訟など苦労の多い数奇な運命をたどりますが、一方、パリやウィーンの社交界にも華麗に登場しました。  
ちなみに、フランスの有名なゲラン社の香水に「ミツコ」と名付けられた香水があります。  
この香水名はあるフランスの小説の主人公の名前から採ったとされていますが、伯爵夫人ミツコの存在にも影響を受けたと言われています。女子学生は近い将来、この香水を楽しむことになるかもしれません。  
また、この地に引き寄せて言えば、青山光子は京都出身で書家、陶芸家、料理人などとして多彩な活躍をした異才、北大路魯山人と交遊のあった古美術界の大立者青山二郎の親戚で、青山二郎の母親と従姉妹同士です。  
明治時代の日本人女性の国際結婚のこんな物語をしたのは、日本と外国との国際交流には20世紀はじめのころ、西本願寺の門主、大谷光瑞が仏蹟発掘のために行った西域探訪や遠いパナマ運河の建設に貢献した技術者など、ほかにも多数の興味深い歴史上の日本人が存在し、そうした歴史をたどることも、身近にこの分野の勉学ができるのではないかと思うからです。  
もうだいぶ無駄話をしてしまったような気がします。でも、大学教育では、しばしば「CRITICAL・THINKING(批判的思考)」が重要だといわれています。だから、私はいま、自分自身の話を「CRITICIZE」(批判)しているのです。ということでご容赦ください。教員生活の感想をひとことで述べますと、われわれの時代にはあった「教壇」という言葉の持つやや神聖な感覚は今日、もはや消え去ったのではないだろうか、という思いがあることです。情報化社会の中で、あらゆる「知」はすでに大衆化、民主化されているのだと解釈しているわけであります。ややわけのわかりにくい言い方になりましたが、教育とは元来「対話」なのだと勝手に会得したのが、私の感想です。  
 
私はふれあいを通し、皆さん方なら今後社会人としてどこででも活躍できるのだろうと確信しています。そこで、皆さんにイギリスの文豪シェクスピアの数々の名作に関係したひとつの言葉を贈りたいと思います。  
「世界は舞台、人々はみな役者(お気に召すまま)」―という言葉です。  
皆さん方が広い視野に立ち、国際社会の多様な分野で名役者となり、それぞれの豊かな、ドラマに富んだ人生物語を演じていかれることを期待しています。 
 
大政翼賛会 1

 

世界大百科事典  
日中戦争および太平洋戦争期の官製国民統合団体。日中戦争の長期化にともない、権力による国民の画一的組織化と戦争体制への動員が緊急の課題となり、第2次近衛文麿内閣は1940年7月26日〈基本国策要綱〉を閣議で決定し、〈国防国家体制〉樹立の方針を確定した。そして新体制運動の結果、全政党が解散し、10月12日大政翼賛会が結成された。翼賛会は〈国防国家体制〉の政治的中心組織として位置づけられ、〈大政翼賛の臣道実践〉をスローガンに大政翼賛運動を推進した。  
百科事典マイペディア  
日中戦争の長期化に伴って1940年10月近衛文麿(このえふみまろ)とその側近によって組織された官製国民統制組織。各政党は解党してこれに参加。総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任、行政補助的役割を果たした。  
デジタル大辞泉  
昭和15年(1940)近衛文麿(このえふみまろ)らが中心となり、新体制運動推進のために結成した官製組織。全政党が解散し、これに加わった。同20年6月、国民義勇隊へ発展的解消。  
大辞林  
1940年(昭和15)10月、近衛文麿を中心とする新体制運動推進のために創立された組織。総裁には総理大臣が当たり、道府県支部長は知事が兼任するなど官製的な色彩が濃く、翼賛選挙に活動したのをはじめ、産業報国会・大日本婦人会・隣組などを傘下に収めて国民生活のすべてにわたって統制したが、45年国民義勇隊ができるに及んで解散した。  
世界大百科事典内の大政翼賛会の言及  
【岸田国士】 …またベストセラーとなった《暖流》(1938)のほか《由利旗江》(1929‐30)、《双面神》(1936)など社会的視野をもった独特な新聞小説も書いている。40年大政翼賛会が設立されるや、軍部にたいする防波堤という意味で多くの知識人に推されて文化部長に就任した。戦後ユニークな日本人論《日本人とはなにか》(1948)をもって文壇に返り咲き、《罪の花束》などの小説も残しているが、その活動の中心は戯曲におかれ、48年から51年にかけて上演された《速水女塾》《椎茸と雄弁》《道遠からん》は、戦後の混乱期のなかで日本人とは何かを実作の上で問うた喜劇であって、戦後演劇を代表する作品である。…  
【新体制運動】 …8月下旬には新体制準備会が発足したが、そこには諸種の勢力が混在しており、新体制の方向づけをめぐって激論が交わされた。その結果、運動は全国民が加わる大政翼賛会とするが、その中核体である大政翼賛会の構成員は総裁つまり近衛が指名することとなり、大政翼賛会が独自の指導性を発揮する余地が残された。しかし10月の発会式では近衛総裁は〈臣道実践〉だけを強調して失望をかった。…  
【町内会】 …また町内会、部落会の実行組織として、10戸前後の隣保班が編成され、それぞれの単位で常会を開くことにより、上意下達を円滑に行うことが目ざされた(〈隣組〉の項参照)。 他方、同年に近衛文麿を中心とする新体制運動によって大政翼賛会が成立したが、同会でも上意下達、下情上通のための運動組織として、町内会、部落会にその機能を期待した。その結果42年5月の閣議で、大政翼賛会が部落会、町内会を指導する組織であることが正式に決定され、8月から実行された。…  
【法制史】 …一方では企画院(1937)、厚生省(1938)、内閣情報局(1940)、大東亜省(1942)、軍需省(1943)などの強大な権限をもった新しい中央機関がつくられたばかりでなく、43年の戦時行政特別法、戦時行政職権特例によって首相が強大な権力を掌握した。他方では1940年に全政党が解散させられ、大政翼賛会に再編された。42年には、大政翼賛会の末端組織が、町内会・部落会、さらに隣組の組織と結びつくものとされ、国民すべてが戦時体制に組み込まれた。…  
【翼賛体制】 …大政翼賛会を中心とする第2次世界大戦中の政治体制。日中戦争の長期戦化にともない、〈国防国家体制〉と呼ばれた国家総力戦体制の樹立が必要となり、そのためには国務(政府)と統帥(軍部)の矛盾をはじめとする支配層内部の対立解消と国民の戦争協力への自発性を永続的にひきだす組織の結成が不可欠の課題となった。…
 
大政翼賛会 2

 

1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた日本の公事結社。左右合同の組織である。  
経緯  
近衛文麿を中心として、国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には有馬頼寧・大谷尊由らが近衛を党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた立憲政友会(政友会)・立憲民政党(民政党)が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。  
近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化にともなって日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする新体制運動が盛り上がり、その盟主として名門の出であり人気も名声も高い近衛に対する期待の声が高まった。既成政党側でも近衛に対抗するよりもみずから新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まった。民政党総裁町田忠治と政友会正統派の鳩山一郎が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では永井柳太郎が解党論を唱え、政友会正統派の総裁久原房之助も米内内閣倒閣に参加して近衛首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)ともに一気に解党へと向かうことになった。  
近衛も第3次近衛内閣成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった後藤隆之助が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体昭和研究会が東亜協同体論や新体制運動促進などをうたっていた。  
構想の結果として大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置される。本部は接収した東京會舘に置かれた。  
1940年、すでに結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会を除くすべての政党が自発的に解散し大政翼賛会に合流していた。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動はおこなえず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動をおこなった。これは、「勝ち馬に乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。  
このように、大政翼賛会を中心に太平洋戦争下での軍部の方針を追認し支える体制を翼賛体制という。1942年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466人(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381人が当選した。  
1942年(昭和17年)5月26日には傘下組織である日本文学報国会が結成。1942年6月23日には大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団の6団体を傘下に統合した。1942年12月23日には大日本言論報国会が結成された。  
その後、1945年3月に組織の一部が翼賛政治会を改組した大日本政治会と統合され、6月に本土決戦に備えた国民義勇隊結成により解散となった。しかしこれは政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発した翼賛政治会の一部が護国同志会などを結成。軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま日本は終戦をむかえることとなった。  
なお、現代では、大政翼賛会のような組織は存在しないが、国会などにおいては野党が与党の連立政権を揶揄する言葉として使用することが時折見受けられる[2]。また最近はいわゆるねじれ国会による国政停滞の打開策として盛んに唱えられている与野党の大連立構想に対する批判にも用いられる事がある。  
性質  
大政翼賛会は政党か否かという疑問はその誕生時から存在した。「一国一党(あるいは組織)の強力な政治体制を目指す」という主張は、国家社会主義ドイツ労働者党、ファシスト党(あるいは公言はされなかったがソビエト連邦共産党)を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたが、これに対しては、「大日本帝国憲法は天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一国一党組織は国体に反する」とする立場(いわゆる「観念右翼」)からの「幕政論批判」が存在した。そもそも「公事結社」自体が日本独自の概念だったのである。  
この対立は設立過程では充分に解消されず、大政翼賛会の発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類は首相であり翼賛会総裁の近衛文麿の口からは発表されなかった。  
その後も「大政翼賛会違憲論」は収まらず、1941年(昭和16年)1月に開かれた第76帝国議会および2月6日の貴族院予算総会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認めた。続いて、もともと政治結社としての大政翼賛会には反対していた内務大臣平沼騏一郎(元首相)も治安警察法上の政事結社ではなく公事結社であると宣言した[3]。この認定にともなって政治活動が禁じられ、衆院唯一の会派「衆議院倶楽部」は解散。所属衆院議員全員が無所属となる異常事態となった。  
同年4月1日に革新派の反対を抑えて翼賛会の改革案が提示され、直後に政治団体化を目指していた近衛側近の有馬頼寧伯爵が事務総長を辞任するなど、やがて次第にその性格は政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに縮退していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。  
上記の点から、戦後の漠然としたイメージとは異なり、大政翼賛会の実態はナチスのような独裁政党とはやや異なる様相を示す組織であった。しかし多数決による合意よりも、総裁による「衆議統裁」に重きを置くなど、民主主義の行き詰まりをナチス的な手法に求めた点は注目できる。  
 
大政翼賛会 3

 

昭和15年(皇紀2600年)に創設された政党である。天皇を元締めとする軍首脳が好きなように国民を動かすために作られた会派という側面もある一方、軍首脳を戦争に駆り立てるため組まれた監視組織であると見る向きもある。日本労働党は是の現代版である。  
大政翼賛会結成の中心となったのは、昭和天皇の子分で、当時内閣総理大臣を務めていた公家出身の近衛文麿である。ちなみに、近衛文麿はトラウトマン工作失敗の要因と見られていたり、国家総動員法を成立させた内閣の首相も務めていたりする。これを、貧乏くじを引いたと表現するか、近衛が悪いと言うかは判断が分かれるところだが、この項目では扱わない。  
1940年、ヨーロッパで第二次世界大戦が開戦したことと、日中戦争が泥沼化しつつある日本では、戦争遂行のため強い指導体制が求められた。これには、政治への信頼がどん底に落ち、軍部が政治に干渉することが多くなった結果、政治が不安定になりクーデターさえ起こったことも大いに関係がある。軍部は従順な議会を欲し、議会と内閣は命の安全を確保した上で自らの利益を望んでいた。そこで、みんなただし権力者に限るが幸せになれる一国一党組織として大政翼賛会の結党が画策されたのである。  
かくして、軍部や有力政党の後押しを受け、名門生まれのカリスマが主導する大政翼賛会へが誕生した。これに「バスに乗り遅れるな」を合言葉にして、右派・左派を問わず様々な政党が自発的に解散し合流したのである。  
だが、強固な体制を作ることを心底望んでいたのは軍部だけで、みんなやっているので自分だけ白眼視されたくない、という理由から合流した政党が多かった。バスのハンドルを巡る争いが軍部に睨まれないようにしつつ進行していった結果、大政翼賛会はいつしかみんながやっていることを遂行する組織へと変貌し、終戦を迎えたのである。  
経緯  
日中戦争開戦翌年の1938年、国民党はすぐに降伏するという当初の予想とは異なり蒋介石が奥地へと逃げ、戦争は持久戦になりつつあった。日本が持久戦に弱いことは日露戦争で露呈していたため、軍需物資や労働力の確保を目的とした国家総動員法の成立が必要となっていた。だが、衆議院で国家総動員法の可決に反対する政党が出て、成立が難しくなった。そのため、内閣総理大臣を務めていた近衛文麿を党首とした政党を作って衆議院を解散し、カリスマを発揮して手早く法案を通そうという計画が作られた。結局、既成政党が賛成に回ったためこの計画はなかったことになったが、この計画が大政翼賛会の元となった。  
大政翼賛会の構想が作られる前、政治面の不安定さも一層深刻化していた。1932年の五・一五事件で憲政の常道が消し飛び、軍部が政治に干渉してくるせいで各政党は大連立政権を組みつつ、隙あらば小競り合いを行う状態が続いていた。また、日中戦争開戦後、戦時中であるにも関わらず軍部の干渉や複雑怪奇などといった理由から内閣総辞職が相次いだ。  
1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が開戦すると、一党独裁による挙国一致体制を敷こうという新体制運動が活発化した。近衛文麿は、イタリアやドイツ、ソ連などの一党独裁が世界的な時流、つまりみんなやっていることだと考え、翼賛体制に前向きな姿勢を見せていた。  
近衛文麿の姿勢が明らかになると、ある程度民主主義的な政党は反近衛を掲げて抵抗する動きを見せた。が、日本人はみんなやってますという呪文に弱い。反近衛政党の内部からも近衛に同調する意見や近衛への支持が出て、反近衛政党は解散に向かった。こうなると、近衛文麿が強いリーダーシップを発揮していて、周りのみんなもついていっているからという心理が働きだし、ついにはバスに乗り遅れないよう次々と大政翼賛会に参加していくことになったのである。  
性質  
しかし、大政翼賛会は近衛文麿が目指した一党独裁とは異なる方向へと進んでいった。大政翼賛会に参加してはいるものの、考え方はバラバラで隙あらばハンドルを握ろうと考えている者が多く、思うように一党独裁を行えなかった。  
その大きな理由として、「大政翼賛会の総裁が一党独裁による政治を敷くことは、天皇親政を定めた大日本帝国憲法に反し、国体を蔑ろにすることになる」という考え方が唱えられたことである。これは、観念右翼という天皇の統治に心酔している者による考え方であり、軍部が表向き天皇を奉っているのとはまた異なるものである。だが、一般人からすればどっちも同じことを言っているように見え、みんなが言っていることになる。また、ハンドルを狙っている者にとっては、この主張に乗っかれば総裁の発言力を削ぐことが可能になる。  
紆余曲折を経て、大政翼賛会は政治活動が禁止されることとなった。こうして大政翼賛会は政治的な指導力を失い、みんなが決めた首相や知事のバックアップや国家総動員法の実施を行うだけの行政的な組織となったのである。  
 
大政翼賛会と文化問題 / 岸田國士

 

翼賛会の文化部としては、現在まで政府が実行して来た文化政策といふものゝ全体に亘つて、一応どういふことが今日までなされて来てをり、またそれがどういふ結果を生んでゐるか、更にまた政府がどういふ方向に導いてくれゝば、一層国民全体の間に文化が向上するか、さういふやうな問題に就て研究をしてをります。  
この文化政策といふ言葉は、今日まで実際政治の現実面では余り使はれてゐなかつた言葉でありますが、今度近衛さんが総理大臣になられた際に於る声明及び翼賛会の総裁としての声明のなかに、まつたく珍しくこの言葉が使はれてをります。つまり経済政策と並んで文化政策といふことが云はれてゐるのでありますが、これは、日本の現代文化、更に将来の新しい文化といふことを考へて、所謂政治の上に全面的に文化政策といふものが取上げられた、恐らく最初のものではないかと思ひます。勿論政府各省ではそれぞれ文化部門に入るべきいろいろな行政的なことはやつてゐるわけですが、現在の政府の機構から云つて、かういふ文化政策を綜合的に取上げるといふ点に於ても、またその企画の実施運用に於ても、まだ十分でないと思はれるやうな点がありますので、大政翼賛会の文化部としてはこの点に大いに力を入れる必要があると思ふのであります。  
ところが、大体文化部門といふのは比較的狭い意味で考へられてゐる。またこの翼賛会の中の文化部も、狭い意味での文化を担当してゐる処と考へられてゐるのでありますが、大体政治にしろ、経済にしろ、外交にしろ、軍事も含めて、それは一国の文化の一つの現れであると見てよろしい。さういふ意味の文化は、結局国の力そのものといふことにもなるのであります。狭い意味の文化部門といふことになりますと、やはり経済或は政治といふやうなものと並んだ一つの国民生活の部門でありまして、いま文化部としては、経済や政治は大体翼賛会のこの部に属しない部門と考へて、次のやうなものが、われわれの仕事の対象になつて来るのではないかと思つてゐます。即ち教育、宗教、科学、技術、文学、芸術、新聞、雑誌、放送、出版、それから厚生の方面では、労働問題は経済の一部門と見做すことにして、その他の部門、即ち医療、保健、体育、娯楽、これだけ入れゝば、大体文化部門として文化部の取扱ふ範囲にはひると思ひます。  
翼賛会の思想原理といふ問題ですが、これは先頃の協力会議での近衛さんのお話、それから有馬さんの翼賛会の実践綱領解説のなかに相当詳しくまた明確に述べられてをります。たゞ、こゝで私が少しく砕いてこれを解釈して申上げたいことは、今日翼賛会なるものは一つの政治性をもつべきものであると云はれてをり、また総務会でも大体さういふ方向に意見が、致したやうでありますが、一体この政治性といふことに就ては、所謂外国流の政治といふ概念でこれを解釈してはいけないのであつて、これはやはり日本風の、日本独特の政治理念といふものに立脚したものでなければならぬ。といふのは、これまでの政治に対する観念を考へてみると、国民全体――全体とは申しませんが、大部分の国民の頭のなかで、政府と国民といふものゝ間に何か対立的な意識が絶えず働いてゐる。つまり、治める治められるといふやうな言葉ではまだはつきりしませんが、一方は権力をもち、一方はその権力に服するといふやうな、さういふ対立意識がおのづからこの政治といふ言葉のなかにあつた。さういふ観念は日本本来の大政といふ意味に於る政治とは非常に離れたことである。そこでこの点は将来大政翼賛運動を通じて政治といふ言葉が使はれる場合には、よほど注意しなければならぬのではないかと思ひます。国民は大政を翼賛し奉るといふ意味に於て、やはり「政府に協力する」といふことが国民の建前である。しかもその協力の仕方は上意下達といふ形もあり、また下情上通といふ形に依つてもできる。これが非常に重要な点でありまして、この翼賛会の思想原理つまり政治思想としてのその原理は、さういふ意味に解釈しなければならぬのではないかと思ひます。  
翼賛会は左翼的傾向をもつてゐるとの誤解があるさうであります。これに就ては別に私から申上げる必要もないかと思ひますが、要するに、今日要求されてゐる自由主義経済、或は資本主義経済の全面的修正といふ問題を、いきなり一つの制度乃至組織原理の根本的変革といふ風に考へてしまふと、当然これに対立する思想として、左翼思想といふものが今日まで考へられてゐたところから、さういふ誤解も生じたのかと思ひます。しかしこの翼賛運動を通じて今日までの自由主義経済、或は資本主義経済といふものを批判し、それを是正する精神は、これはその弊害或は病根といふものに対しての是正であり、摘出である。所謂左翼思想が資本主義と対立し、それを敵とするといふやうな悪い意味に於るラヂカルなものではない。そこがはつきり違ふのではないかと思ふのです。またその資本主義経済といふものも、左翼的な眼で見た資本主義の全面的な否定といふものと、今日翼賛運動といふものから見た資本主義の大きな弊害病根といふものとでは、これはそのイメージに於て非常な違ひがあると思ひます。どうも少し非専門的な説明になり、また甚だ自己流の考へ方で、或は言葉が不適当であるかも知れませぬが、大体、そのやうに考へてをります。  
ついでに、それと関連して、文化政策殊に思想対策の方針といふ問題でありますが、思想対策といふことになると、これはもう翼賛会の文化部といふものだけでなく、翼賛会全体に関係する問題であります。文化部としては勿論この点に大いに力を注がなければならぬが、同時にまた翼賛会首脳部並に各部との間に十分の連繋を保つて、その方針をひとつはつきりさせなければならぬと思つてをります。  
私は青年時代から所謂左翼思想といふものゝ渦中を通つて、幸にしてさういふ色に染らないで今日まで来たのでありますが、自分の身辺に吹き荒んでゐるその左翼的な嵐といふものを身に感じるにつけ、日本の青年が一体どうしてさういふ外国の社会主義思想乃至は左翼思想といふものに眩惑され、またさういふものに引つ張られて行くかといふその経路と動機、それからその根本の理由といふものに就てつくづく考へさせられ、実際さういふ運動に投じた者、或はさういふ運動に投じようとしてゐる者、更にさういふ運動から転向して来た者などの実例を通じて、いろいろその事情を考へて来たのであります。それでこの点は後で司法当局のかたにも御意見を伺つてみたいと思つてゐるのでありますが、その一番大きい原因は何処にあるかといふことであります。日本の青年が学校でいかなる教育を受け、或はまた、社会の思想家たちからいかなる影響を受けようと、自分は日本人である、或は日本の国体は尊厳であるといふことに就て絶対的な否定観念をもつてゐるものは殆どない。勿論さういふ表現をし、或はさういふ表現をせざるを得ないやうな事情に立ち到つたものは相当あつたと思ひますが、本質に於て自分は日本人であるといふ自覚、矜り、さういふものを本当になくしてゐる人間は実に稀であると思ひます。然らば、それがどうしてさういふ左翼思想に趨つたか。  
大体われわれは小学校を出る時分、昔の高等小学校を了へるくらゐの年輩になりますと、所謂人間の理想といふやうなものに目覚めて行く。即ち人間は一体どういふ風に生きるのが一番立派であるか、さういふ一つの目標がほゞ頭の中に出来かゝつて、それがこの時分から段々明確になつて行くわけですが、この頃に人間性といふものゝ貴さといふか、或は魅力といふか、さういふものに非常に心が惹かれるやうになる。さうしてそのやうな気持のなかにどういふものがあるかといふと、それは今日日本でも倫理で教へてゐることで、所謂真善美といふやうな三つの要素に対する極めて純真な憧憬であります。これが中等学校に行く頃、或は中等学校へ行かない者が家庭の仕事を手伝ひ、若しくは商店、工場等に働きに行くといふ頃になつて、自分の生活の中にこの真善美といふものを一体どういふ風にうち樹てるかといふことに就て迷ひだす。といふのは、要するにその実現性、可能性といふものを殆ど見失ふわけです。つまり、現実に社会を見、自分の周囲を見て、自分の接するいろいろな事物、人間といふものゝ実情に大きな絶望感をもつやうになるものが、全部とは申しませぬが、やゝ多数を占めるのではないかと思ひます。そこでさういふ場合に、非常にいゝ指導者がゐてさういふ少年たちの心のなかの苦悶を拭つてやるか、それともそこに希望を失はないで前途に向つて邁進する強靭な精神を当人がもつてゐればよろしいが、さもなければそこで襲はれた絶望感に依つて人間が非常に功利的になる。そして結局金持にならう、或はたゞ出世をしようといふ風に考へて、何かしら、社会といふものゝ理想から遠いものに対する精神的な復讐でもするやうな気持になる。無論その人間の性情に依つていろいろに違ひますけれども、先づ中等学校を了へる頃、いろいろな書物を読み、或はいろいろな教養を身につけるに従つて、社会に対する批判力が出来、社会が真からも、善からも、美からも非常な隔りがあるといふ現実の様相に対して一層自分たちの心を苦しめ始めます。これが所謂煩悶時代であります。この時に日本といふものゝ値打に就てさういふ青年たちに十分信頼の念を吹き込んで、彼等に希望を与へる、さういふいゝ指導者があればよろしいが、さうでない場合はどうか。その時に一番痛切に教へられるものは何かといへば、西洋の文明――日本はかうだ、西洋はかうではないといふ、さういふ考へ方です。しかも、さういふ考へ方を吹き込まれるのは、決して西洋崇拝、或は西洋讃美の書物からではない。もつと根本的に、日本の現代の文化――伝統文化ではない現代の日本文化、これと西洋の現代文化といふものゝ客観的な比較から、それは生れて来るのです。  
ですから、この時に私は更にもう一つ救ふ途があると思ひます。それは、政治の中に真善美といふこの三つの要素を目標とする一つの理想があるかないか、それが政治の現実の面で十分明瞭にさういふ青年たちの心に刻み込まれるやうにすることです。さういふ青年達の頭の中には、恰度この頃から初めてはつきりと文化といふ意識が刻まれる。つまり文化的であるとか、或は非文化的であるとかいふ批判力と、さういふものに対するはつきりした欲求が生れて来る。即ち現代の日本は文化的にどうなんであらうか、文化面でどうなんであらうかと考へる。それから今度は非常に真剣な懐疑乃至絶望感をもつ。これは無論非常に鋭敏な、そしてものをよく考へ込む、同時に性格的にも或る反抗的なものを蔵してゐる青年たちに特に著しい。その時に彼等は日本の現在及び将来といふことを考へて、日本の文化といふものが本当に向上するには、かういふ政治ではいけないのではないかといふ風に見る。これは或る時には日本を憂ふる精神でもあると思ふ。勿論もつと軽薄なものもありますが、しかし時には日本を憂ふる精神から出てゐる場合がある。しかもこれが日本の現在の政治といふものを否定視するところから、踏み外すのだと思ひます。ですから、私はそこのところを、日本の歴史及び日本の政治の大きな流れを形作る一つの方向として、十分希望を与へてやる方法があると思ふ。つまり日本民族といふものゝ方向に就て、彼等に十分自信を与へることは可能であると思ひます。ところが今までの教育も政治も実はさういふ手段をとつてゐなかつた。この時に偶々西洋の政治、思想に関する書物に興味をもちだして、或は左翼的な書物を読み、或は左翼運動の中に身を投じてゐる先輩の話を聴いたり、さういふ方向に既に踏み込んでゐる友人の影響を受けたりして、全く救ふべからざる状態になる。勿論これは全体とは申しませぬが、大多数の者がかういふ経路を辿るのではないかと思ひます。そこでこの思想対策、殊に学生及び青年に対する思想善導といふ問題は、単独に政治思想乃至は倫理思想といふものに依つて解決せられるのではなくて、もつと広い立場から、文化といふ問題について、日本の現在及び将来を通じて一つの大きな希望を与へる――新しい豊かな文化をもつて将来の日本が建設される、政治家は既にそれに着手して居る、現にかういふことが行はれてゐる、さういふことを具体的に青年たちの頭にはつきり示すことが非常に大切な点ではないかと思ひます。それがためには政治家とか、或は政府の当局者などの国民に対する声明、宣言、或は訓示といふやうなものゝ中に、それが十分織り込まれて欲しいと思ひます。  
例へば現在、日本の政治をいろいろ批判する、所謂知識層の動向にしても、彼等を通じて常に見られる現象は、政治に文化性がないといふことに対する反撥であります。ところで、政治に於る文化性の欠如とはどういふことかと云ひますと、先づ文化性といふものから定義してかゝらねばなりませんが、私の考へでは、文化性といふものは、第一に日本の伝統に根を下したものでなければならぬことは勿論として、その要素として倫理性、科学性、芸術性、この三つのものが同時に高度の水準を以てすべてのものゝ中にあるといふことだと思ひます。ところがこゝに倫理性といふものだけがあつて、しかも、その倫理性なるものが科学的でない、或は芸術的な表現をもつてゐないといふ場合には、その倫理性といふものは、国民、殊に青年を本当に説得する力をもたない。しかも、現在、日本の政治家や当路者の国民への呼びかけといふやうなものには、この種のものが非常に多いのであります。また芸術性にしても、今日までの芸術を見ますと、芸術性といふものが唯一のものとされてゐる。そのなかにある倫理性といふものが非常に低い、或は閑却されてゐるといふ不健全な状態で、殊に日本の文学といふやうなものは、科学性、倫理性といふ点では、今日まで非常に不健全な病的な状態にあつた。そこで日本の青年学生が自分の身に或る教養をつけようとする場合、日本の文化財からは今云つたやうな非常に不健全なものしか得られない。さういふところに欠陥があるわけでありまして、かく申しますと、文化部担当者として、つまり我田引水と申しますか、なんだか文化だけが大事なんだといふ風な云ひ方に聞えるかも知れませぬが、文化といふものは先程も申しましたやうに、政治にも、経済にも、或はまた外交にも通ずる、その根柢をなす国民の力であるといふ点を、十分お考へを願ひたいのであります。実際に於て、今度の翼賛会に文化部が出来たことに就てはいろいろ意味がありますが、とりわけ今日知識層の一部の中で、比較的今まで拗ねてゐた者、或は懐疑的であつた者が、これに依つて何か非常に新しい希望をもつて、今までの自分の態度を一擲して新しい翼賛運動に参加したい、さういふ熱意を示してゐる者の多くなつたことは事実です。これは愈々日本の政治にも文化といふ部面がはひつて来たといふ、さういふ希望の現れだと思ひます。その態度そのものはまだ余り賞められませぬが、兎に角、さういふ微妙な点もあると思ふのであります。  
元来日本民族は科学性といふ点に於て、弱点があるやうに云はれてをりますが、日本民族そのものは科学性をもたない民族ではないと思ひます。徳川時代の政策は科学圧迫といふ点に非常に力が入れられたものですが、これが明治時代になつて、科学に対する泰然たる欲求となつて現れて、つまり科学といふものを不消化のまゝ呑み込んで行つたわけです。科学がまづさうですが、何事に依らず、日本にはないが外国にはある、かう思はせることがいけない。要するに自信をもたせなければいけないと思ふ。さういふ意味で明治初年の政治家はやはり文化性をもつてをつたやうです。例へば国民に対する告示にしても、文章は立派であるし、またそのなかには確乎たる見識があつた。決して人に書かせたものを読むといふやうなことはしなかつたのぢやないかと思ふ。政治家の情熱が国民に直ぐ伝つて行く。これがつまり芸術性で、さういふ点をよほど考へなければならぬのではないかと思ふのです。それから、例へば音楽と美術に就ては官立の学校がありますけれども、いろいろ民間に起つてをります文化運動に対して、政府はもう少し関心をもたなければならぬのぢやないかと思ひます。勿論その中にはいゝものも悪いものもありますが、いゝものほど苦労してゐる実情ですから、そのいゝものを助成し、これを育てるといふ意図を政府が示して、補助とまでは行かないまでも、さういふものゝ存在を認めて、それに眼をつけてゐるといふことをはつきり感じさせる、かういふ政府の政治的態度が国民に非常な希望を与へることになる。この点に就ては、私は今まで実際にさういふ運動(新劇運動を指す)に関係してをりましたけれども、実に無関心だつたと思ひます。議会でも、さういふ問題が出たことは絶対にない。偶々議会でさういふ文化とか、文学とか、或は芸術とかいふ問題が出ると、議場に嘲笑が起るといふ現象をたびたび耳にするのですが、つまりさういふことを云ふ議員は非常に野暮な議員だといふ風に考へられる。かういふやうなことが青年の思想には非常に鋭く響くわけです。幸にしてかういふ大政翼賛運動が起る新たな体制になつて、われわれが協力努力すれば、社会といふものはもつと理想に近いものになる途がついた、といふことが云へると思ひます。  
転向者の待遇といふ問題については、当人が既に十分日本人であるといふ自覚をもつてゐるものならば、これは是非とも協力させる場所を与へなければならないし、全国民の力を一つに合せやうといふ、翼賛会の運動の建前から云つても、さういふ人々を積極的に抱擁して行かなければならぬものと私は思つてをります。そして翼賛会自身が大きな自信をもち、国民の具体的な支持の下に軌道に乗つて来れば、勿論さういふ人たちを採用できるのぢやないかと思つてをります。さういふ時期の来るのを待ち、また早く来ることに努力してみたいと思つてをります。  
日本固有の文化と西洋の文化といふ問題ですが、如何なる文化にしろそれが若し不健全なものならば、教養として身につける時には、やはりその教養自体が不健全なものになる。今日本に多いのは文化中毒者だと思ひます。所謂不健全な文化を身につけて、それが文化的教養であると思つてゐる。さういふ教養を文化的だと思つてゐること自体が中毒症状である。かういふのが今の文化人に非常に多いやうに思ひます。西洋のものを身につけるにしても、つける人間に依つては益にもなり、或は害にもなる。西洋かぶれといふ現象はその後者に属します。  
私は翼賛会にはひる前に、文部省に対して長い注文(「一国民としての希望」を指す)を書いたことがあるのですが、これを極く簡単に申しますと、偶然にも有馬さんの翼賛会実践綱領解説の中に、「教育の功利性を排し」といふ文句がある、恰度それに当るのです。私はかねがね考へてをつたことでありますが、所謂エライ人物と立派な人間といふものゝ区別が非常に曖昧になつてゐる。それで少年たちが中学にはひる頃に、自分は一体エライ人物になるのか、立派な人間になるのかといふことで、一種分つたやうな分らないやうな気持のまゝでずつと教育を受ける。そこで偉い人物といふのは高位高官、金持、或は世間的に有名な人間といふ風に、新聞に書き立てられるやうな一種の名声とか、権力とか富とかいふやうなものと結びついた、要するに有名になるといつた意味で偉い人物といふものが子供の頭の中に印されて行く。一体さういふものが本当に偉い人物であらうか。それとも、仕事は決して派手ではないが、俯仰天地に恥ぢない生活をする、そして国家社会のために真に必要な仕事に没頭する、さういふ人間を立派な人間と云ふのがいゝのか。この点を教育でもつて、迷ひのないやうにしなければならぬと思ふのです。これが今の教育に於て――それを特に先生の責任であるとか、或は文部省の責任であるとかいふわけではなく、要するに社会全体が人間を作つて行くその作り方の上で、非常にこの点が誤つてゐると思ふのであります。(昭和十六年三月)  
 
大政翼賛会に対する批評 / 斎藤隆夫

 

昨年七月近衛公が枢密院議長を辞任して軽井沢の別邸に赴き、いわゆる新体制なるものの構想を練り始めたというので新聞が盛んにこれを書立てて世間の注目を惹いた。すると間もなく米内内閣が辞職して近衛内閣が現れた。 是に於て新体制問題は急速度に進展するに従って各政党政派は先を争って解体し、続いて各方面の代表的人物を集めたる準備委員会が設置せられ、此の委員会に於て数回の審議討論を重ねたる末十月十二日に至り大政翼賛会なるものが生れ出たのである。而して新体制準備委員会第二回総会に於ける近衛首相の声明を見れば、大政翼賛運動なるものは一部の国民運動にあらずして全国民の運動であると共に極めて強大なる勢力を有するものであって、声明の文句をその儘引用すれば  
「広く朝野有名無名の人材を登用して運動の中核体を組織し、この所に強力なる政治力と実践力を集結せしむることがこの運動に不可欠の条件となるのである」  
といふのであるから、この運動は従来の政治勢力を悉く一掃して翼賛運動に集中し、この中枢勢力を以てわが国の政治を支配するが如く思われる。尚又その後に現れたる新運動の規約を見れば  
「翼賛運動は万民翼賛一億一心職分奉公の国民組織を確立し以て臣道実践の実現を期する」  
とあれども、これは極めて漠然たる文句であって、如何にこれを具体化して活動を開始するやに至りては実際の成行を見なければ何人にも分らない。然る所が翼賛会は成立以来数ケ月の間は専ら内部の機構を整えるがために力を注いでいたらしく、その上最高幹部と称せらるる者は右翼、左翼、旧政党政治家、官僚、実業家、その他従来思想感情を異にする各種の人々の集まりであるから、この活動方法に至りても意見の統一せらるる筈はなく、従ってその性格すら一定しなかった有様であるから外部に向って何等の活動をなしたる形跡も見当らない。 翼賛会の最高幹部に向って一体翼賛会は何をなさんとするものであるかと問えば、自分等もさっぱり分らないと答える位であるから、言論機関が筆を揃えてこれを書き立てるにも拘らず、世人からは何だか訳の分らない不思議な存在の如く言われていたのである。その中に愈々議会が開け、貴衆両院の予算委員会に於て翼賛会の性格について種々の質問応答が重ねらるるに至って初めてその全貌が稍々明かになるようになった。謂わば一種の妖怪変化が前後左右から槍や刀で突きまくられて漸くその正体を現したと同じことである。而して翼賛会の性格として最も根本的なるものは何であるかと言へば、翼賛会は政府と表裏一体をなし、政府が立てた政策を国民に徹底せしむるがため政府に協力すべきものであって、政府と離れて独自の政治意見を立てて行動すべきものではないというのである。 尚おこれに関連して数多の問題が横っているから以下順を追うてこれを研究して見たい。  
第一に、翼賛会は独自の政治意見を有せず、唯政府が立てた政策を国民に徹底せしむるがために協力するのがその使命であると謂ひ、同時に翼賛会は全国の政治勢力をも解消せしめてこれを翼賛運動に結合し挙国一致の新体制をつくるのであるという以上は、今後わが国の政治運動は単に時の政府の政策を国民に徹底せしめてこれに協力するという一方的の国民運動のみに止まり、政府の政策を批評し、或はこれに反対する独自の政治運動は一切出来ないこととなるのであるが、政府は果して左様なる考えを以て翼賛会を指導して行こうとするのであるか。若し万が一にも左様なる考えを抱いているならばそれは大変なる誤りであるのみならず到底実行の出来ることではない。何となれば、われわれ臣民は憲法第二十九条の規定により法律の範囲内に於て言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有している。而してその法律たる治安警察法によれば、安寧秩序を害する場合に於ては監督官庁がこれを禁止することを得るも然らざる場合に於てはこれを禁止することの出来ないことは言うまでもない。国家を目的とする国民の政治意見は必ずしも一致するものではない。政府の政策に賛成の意見もあれば反対の意見のあるのは当然である。大所高所に立って国家の利益を擁護せんがために堂々と政府の政策に反対する者を目して安寧秩序を害するものとして禁止することの出来ないことは決って居る。それでもこれを禁止するならば疑いもなく権力の濫用であるのみならず実に憲法の破壊である。わが国の政府が左様なる乱暴のことをやるものとは思われない。しかのみならず、政府の政策に反対意見を許さずしてこれを強行せんとするなればそれは明かなる専制政治であって決して立憲政治ではない。これ亦わが国の政府がかかる考えを有するものとも想像せられない。尚おこの外帝国議会に於ては憲法上議員の言論自由が保障されて居るから如何なる政府と雖も議会に於ける政府反対の意見を阻止することは出来ない。然らば如何にして政府の政策に協力せしむるがために挙国一致の体制を作ることが出来るか、出来ないではないか。憲法上、法律上及び実際上出来ないことをやらうとする翼賛会の性格なるものはわれわれにはどうしても分らないのである。  
第二に、近衛公は翼賛会を創立する前に当りて政党を攻撃して居るが、その中に  
「政党は個別分化的なる部分の利益、立場を代表することを以てその本質の中に蔵して居るから、かかる自由主義を前提とする分立的政党を超克せんがためには挙国的全体的公的にして国民総力の結集一元化を目的とする国民組織運動が必要である」  
ということであるが、これがわれわれには何の意味であるか分らない。一体政党が個別分化的なる部分の利益、立場を代表するとは如何なる事実に基いて言うのであるか。多数政党の中には或る部分を代表することを目的として起るものもあろうが、これは特殊の政党であって、政党本来の性格は決して左様なるものではない。即ち政党は本来国民の一部ではなく全部を代表する目的を以て起るものであることは言を要しない。唯その実際行動の上に於て国民中の或る階級を代表するが如くに見らるることもあるが、それは政党本来の性格を逸脱したる行動であって政党の本質であると見ることは出来ない。加之これらの政党を超克せんがために翼賛会を設けて挙国的全体的なる国民組織を構成すると言うて見たところで如何にしてこれを実現することが出来るか。元来今日のわが国に於て新たに国民組織を立てるというが如きことを言ひ出すのが間違っている。今日のわが国は新たに国民組織を建直すどころではなく、凡そ世界万国を通じてわが国程国民組織の完成している国はない。即ちこれを社会的に見るならば、建国以来二千六百有余年に亙りて同一民族が皇室を中心となして集結をし、その中の血族が集まって家を成し、家が集まつて国を成し、社会的には世界に類なき鞏固なる国民組織が成立って居る。又政治的には古来幾多の変遷はあったが、最近数十年の間は憲法及び法律の基礎の上に立ち、国民の選挙に基き中央及び地方の議会制度が設けられて政治上に於ける国民組織は整然として確立し、これ以上に建直す余地はない。この二大事実を眼前に置きながら翼賛会が新たに国民再組織を建てんとする。その組織なるものは如何なるものであるかと見れば、中央に翼賛会本部あり、各府県市町村にその支部あり、而してこれらの本部、支部を構成する役員は国民の選挙によって出づるものではなく全く翼賛会の総裁たる総理大臣、即ち最高の行政長官が自由勝手に任命するものであるから国民とは何等の交渉あるものではなく、その数に至っても恐くは全国民の千分の一にも達せずして、その他大多数の国民は翼賛会とは何等の関係を有せない。而もこの翼賛会の使命は何であるかと言えば、前述せる如く時の政府の政策を国民に徹底せしめてこれに協力せんとする政府の附属機関たるに過ぎない。然るにかくの如き一行政長官の任命する国民一部の組織を以てこれが挙国的全体的なる国民組織であって強力なる新体制であると言うに至りては余りにも事実と遠ざかる宣伝ではなかろうか。尚又政党を自由主義の産物と言うならば、かくの如き組織は何主義の産物であるか。官僚主義か専制主義か全く名のつけ方もないように思われるがどうか。  
第三に、政府は巨額の国費を投じて翼賛会を設け、これによりて政府の政策を国民に徹底せしめ政府に協力せしめんとするのであるが、一体政府はかくの如き世界各国に類例なき、又わが国にも前例なく、法規上にも何等の根拠なき補助機関の協力を求むるにあらざれば内外国策を敢行して今日の時局を切抜けることが出来ないのであるか。 それでは余りにも薄志弱行であるのみならず、政府としては輔弼の責任を如何にするかと問いたいのである。苟も大命を拝して政府の局に当る政治家は、常時と非常時とを問わず自ら全責任を負うて国策を断行するの決心と勇気がなくてはならぬ。若しそれだけの決心と勇気がないならは潔くその職を退くべきである。上意下達ということが唱えられて居る。上意下達とは即ち政府の政策を国民に徹底せしむることの意味であろうが、これならば新たに翼賛会などを設くるに及ばず、政府内にその機関は備っている筈である。人もあり、金もあり、巨額の国費を投じて新設せられたる情報局もあり、これにて不足を感ずるならば更に他の方法を講ずることも出来る。尚おそれよりも以前に有効なる方法は総理大臣以下政府の首脳者が街頭に現れて民衆の前に立ち堂々と政府の政策を吐露することである。このことが国民の間にどれだけ有効に行渡るかは言わずして明かである。又国民の代表者を集めたる議会もある。議会は国民の前に公開せられ、政府の政策となって現るる法律案、予算案等を審議する機関であるから、この機関を通して政府の政策を広く国民の間に徹底せしむることが出来るのは無論である。その他数え来れば文明の利器であるラジオや言論機関の利用を初めとして上意下達の方法は限りなく見出すことが出来る。下情上達もその通りである。下情上達の機関としては民意を本として現れたる帝国議会以下道府県市町村に亘る各種の議会を初めとして、その他公私の方法を以てその目的を達するに於て足らざるところはある筈がない。元来上意下達とか下情上達というが如きことは昔の専制時代に用いらるる文字であって、今日の立憲時代に用いらるる文字ではない。言うまでもなく立憲政治は上意を下達し下情を上達せしむる最上の政治制度であって、今日これが理想通りに行われて居らぬというならはその責は主として政府が負わなければならぬ。然るに政府が自ら進んでかくの如き文字を使用して何か善政の現れの如くに宣伝するに至っては奇怪千万時代錯誤の甚しきものであると同時に政府自らの無能と怠慢を広告するに過ぎないものである。更に一言して置きたいことは、一体翼賛会は如何なる方法を以て上意下達、下情上達を図らんとするのであるか。翼賛会の連中が演説会を開き、或は印刷物を発行して政府の政策を賞揚し宣伝したところでそれが国民の間にどれだけ迎えられるであろうか。或は中央協力会議と称し民意に何等の交渉なく翼賛会の総裁たる総理大臣が任命したる人々が集まって数日間の意見表示をなしたところでそれが下情上達にどれだけ貢献するところがあるか。かく考え来れば翼賛会の使命と言い活動と称するものは実に心細き限りであって苛も独立の見識ある政治家のなすべきことでないように思われるがどうか。  
第四に、翼賛会は政府と表裏一体をなすものであると言われて居る。表裏一体と言えば別なものではなくして同一のものであると思わるるが、左様なる道理は出て来るわけはない。即ち政府は憲法上の機関であって翼賛会は民間団体である。憲法上の機関と民間団体とが同一のものであるなどとは全く意味をなさない。それのみならずこの団体は独立の意思を有せず全く政府の意思に服従し政府の意思を民間に伝え政府に協力することを以てその使命とするものであるから、この点に於ては自ら独立の政見を立てて活動する政党よりも遙かに弱体なものである。それにも拘らず翼賛会は政党を超克して高度の政治性を有するものであるのだと言うに至りては何の意味たるを解せない。かくの如く翼賛会は時の政府を援助する民間団体である以上は、別名を以て言うならば疑いもなく一種の内閣後援会であって、今日に於ては全く近衛内閣後援会である。曾て大隈内閣の時代に於て大隈後援会なる団体が現れたが、これは全く大隈公の偉大なる人格に憧憬し併せてその政策に共鳴して起ったものであって固より政府が作り上げたるものではなく無論一銭たりとも国費の補助を受けたるものではない。然るに翼賛会たる内閣後援会は政府自らこれを設立し、而もこれに対して巨額の国費を投ずるに至りては実に言語道断の次第であってこれを権力の濫用にあらずということが出来るか。尚又翼賛会は内閣後援会である以上は、この内閣が政策を誤って倒れたる時は翼賛会も責任を負ふて解体をせなければならぬ道理であるが、翼賛運動は一時的のものではなくして恒久的のものである以上は内閣の崩壊と共に解散すべきものではなく依然としてその形体を保存しつつ全く政策を異にする次の内閣を援助することとなる。事ここに至れば翼賛会はいわゆる万年御用団体であって、この点に於ては政府部内の官僚事務官の存在と異るところはない。官僚事務官には独立の意思はない。時の政府の意思に従って動く一種の機械的存在に過ぎないが、翼賛会も全くこれと同一の存在となると同時に、かくの如き主義も節操もない団体の行動が国民に対して何の威力を発揮することが出来るか。尚又筍も政治家として世に立つ者が、内閣更迭毎にその言動を二、三にし、主義節操を擲って省みない芸娼妓の振舞を演ずることが出来るか出来ないかは考えるまでもないことである。  
第五に、大政翼賛会を設くる理由として高度国防の建設が強調されているが、これが分らない。今日わが国四囲の情勢に照して、高度国防の必要あるかないかは別として、仮令必要ありとするも高度国防の建設と翼賛会と何の関係があるか。翼賛会の援助を借るに非ざれは高度国防を建設することが出来ないというのであれはそれは大なる見当違いである。実際問題として高度国防を建設するに当っては陸海軍備の拡張を初めとして経済新体制の確立その他必要なる諸般の条件があるには相違ないが、これらの条件は政府が計画を立てて着手すれは国力の許す限り何等の障碍なくして実現することが出来るではないか。これがために経費を要するならば案を立てて議会の協賛を求むるならば反対する者はない。議会の協賛を要せず政府の権能に属するものなれば速かに独断専行するが宜しい。 この間に翼賛会の介入を要する何等の理由をも見出せない。若しそれ翼賛会が先に立ち国民に向って高度国防の必要を宣伝するにあらざれば、この目的を達することは出来ないと思う者があるならば彼は今日の国内事情を知らざるものである。今日の国民は政府が内外政策を確立してこれを断行せんとするならば無条件にてこれに賛成することを忘れてはならぬ。  
第六に、大政翼賛会については憲法上の問題が残って居る。これについては議会に於ても大分議論が重ねられたがここに改めて研究して置くの必要がある。先づ大政翼賛会なる大政とは如何なる意義を含むものであるかと言えば、大政即ち国の政治であって、憲法上より見れば統治権の発動である。而して統治権は立法、行政、司法の三権に分れて発動するが、此中司法権は天皇の名に於て裁判所が行うべきものであるから一般国民は翼賛し得べきものではなく、行政権は国務大臣が天皇を輔弼し政府が行うものであるからこれ亦一般国民が翼賛し得べきものではない。ただ残るところの立法権のみは国民が選挙したる議員が協賛するのであって、議員は直接に立法権を翼賛し、国民は議員を選挙することによって間接に立法権を翼賛するのである。立憲政治に於て国民は参政権を与えられたというのはこのことである。従って国民が統治権の発動、即ち大政を翼賛し得るのはこの点のみに限られて、この以外に翼賛し得べき政治部面は絶対に見出すことが出来ない。然るに大政翼賛会を支持する政府の見解はこれと大いに異なっている。即ち議会に於ける近衛首相の意見によれば、大政ということは天皇の統治権の発動というが如き狭い意味のものでなくして天皇の大御業という意味であって、大政翼賛運動はこの大御業をお援け申すものであるというのであるが、この大御業ということは如何なることを意味するのであるか分らない。その何を意味するにせよ大政ということに広狭の二義があって、狭義の大政は憲法に規定せる統治権の発動であり、広義の大政は憲法に規定せざる大御業であるというが如きことは許すべからざる見解である。如何なる場合に於ても大政の意義は唯一にして二つあるべき道理はない。而して統治権の発動を翼賛する途は憲法の条規に依るべく憲法以外に而も法規上の根拠もない。民間団体を設け、これをして大政を翼賛せしめんとするが如きことは理論に於ても実際に於てもなし得べからざることである。殊に前述せる如く翼賛会の使命は政府の政策を宣伝し政府に協力するにありとするならば、翼賛会が如何に活動するもその活動は何等公法上の効力を有するものではなく、若しかかる行動を以て大政翼賛と見るならば従来政党政派の執り来った一切の行動は言うに及はず、その他苟も政治を論じ政治的行動をなすことは挙げてこれを大政翼賛と論結せざるを得ないこととなると共に大政翼賛は全く無意味と化してしまうのである。故に憲法上より見るならば大政翼賛会なる名称それ自体が既に違憲であるから、かかる名称は撤廃すべきである。  
第七に、大政翼賛会の法律上の性格に関する政府の意見は全く現行法を無視する言語道断のものである。政府は翼賛会を以て治安警察法の政事結社にあらずして公事結社であると主張しているが、これほど明かなる曲解はない。治安警察法は政事に関する結社と政治に関せざる公事結社を区別して、後者は原則として同法の支配を受けざるも安寧秩序を保持する必要あるときは政事結社に関する或る種類の規定を適用することとなって居る。然るに政府は一方に於ては翼賛会を以て政府の政策に協力せしむる機関であると説明するのみならず、これを以て高度の政治性を有するものであると主張しながら、他方に於てはこれは政事に関する結社にあらずして全く政事に関せざる結社であると言ったところでかかる矛盾撞着の論理は通るわけはない。畢竟するに、政府は翼賛会を以て政事結社として治安警察法の支配を受くることを好まないから、かかる理由なき独断的誤魔化しを固執するのである。  
翼賛会に対する予の所見は大体以上述べた通りである。昨年七月創設以来今日までの経過を見れば、それ自体の性格も曖昧であり、やっていることも何等国家国民に益することもない。而も多額の国費を投じて浪人を収容し法外の給料を支給しているに過ぎない。全く傍若無人の振舞いであるが在野政治家はこれを咎むる力もなく却ってその門に出入することを光栄と心得ている。政治界は全く滅茶々々である。(1941/3)  
 
日本の政治は翼賛主義 (大政翼賛会的とは)

 

大政翼賛会的という形容詞を、私は何度か使ったが、その意味を与えておく。大政翼賛会と呼ばれるものは、周知の如く、戦前の日本に出現した国民組織のことである。この組織の生成を引き起こした一番の原因は、時の天皇の政府の統治下にある人々(国民)と政府自身(政治指導者層)とによる、中国大陸での、後には合衆国との戦争に国力の全てを注ぎ込む総動員体制の構築であった。その目的は勿論その戦争目的の成就、すなわち勝利することであった。ところで、この構築に関わった国民並びに政府指導者にあって、政府以外の他の要素(勢力)と見なされるべきものは、それら諸要素それぞれの固有の性格(志向)がある。それで、政府以外(民間部門)の諸勢力が糾合され大政翼賛会として出来上がった時(、ならびに出来上がりつつある経過時点で)の組織の性格は、それらどの勢力のどんな志向に着目するか次第で、それだけ多様で複雑なものとなる。(どの観点から捉えるか次第で、様々な特徴を取り出すことの出来る多面的なものともなる。)だが私は、戦争に勝利するために国力の全てを綜合していく体制構築の思想的根拠づけに利用された第一のもの、すなわち天皇による統治の考え方に注目すれば、様々な要素が大政翼賛会に収斂されていく時、それらのどれもが例外無く、天皇の支配(天皇制国家)の考え方に即していく傾向を持ち、その考え方に規定(制約)されるところがあることよりして、各種各様の非政府部門の勢力それぞれの固有性は、さしあたって無視してよいもの、言わば副次的なものと位置づけ得ると考えている。(・・・言うまでもなく、この副次性は大政翼賛会を主題とするからであり、例えば左翼や社会主義が、何故に天皇制国家の体制と折り合いがついたのか、という視点で考察する時は、別の扱いをせねばならない。)  
ところで、もともと総動員とは、軍事力とそれを構成するものども(軍事物資等の生産力、それらの生産に供給される資源、そして兵士として送り出される人員)との関連で言われるものである。それにもかかわらず、大政翼賛会の原因として、総動員を見ようとする時には、この言葉の意味は拡張されたものとなる。・・・  
ちょっと書こうと思って、もうこれだ・・・。総動員体制のことが今回のテーマでは無いので、それは掘り下げない。で、やりなおし。  
私が、大政翼賛会という戦前の組織の名前をして、今日の何らかの組織や団体、あるいはグループの性格に就いて、またはそれらに属する人達の行動や発言に就いて、その特質を言い表す形容詞に用いるのは、戦前のそれと今日のそれらとに共通したものがあるからである。その共通点として、私の考えているものを、あまり中身づけずに列挙すれば、  
第一に、政府との関係  
第二に、政府の意思との同一性  
第三に、政府権力によって支配・指揮される人々に対する関係  
第四に、・・・無闇に増やしてもしょうがないので、ここらあたりまでにして・・・。  
さてこれらに中身を与えると、なんといってもまず最初に、ここに着目せねばならないと私の思うのは、政府と直接に連絡しあってしまっているかどうか、という点である。政府とは、ここでは行政機構と考えてもらってもよいし、官僚と考えてもらってもよい。そして、直接の連絡とは、行政機構との関係でならば、その補助機関か、下部組織のように指揮下にある様や、行政機構としてはそう動けないところを、代わりに実行してくれるといった代替的である様や、そうした様子の連絡関係である。官僚との関係でならば・・・、まあ似たようなことである。いずれにせよ、権威ならびに指揮命令の上下で言えば、政府があくまでも上である。そこで、政府がこれをするなと言うところは絶対にしない。そしてまた、上にある政府の存在を否定したり、反抗したりは決してしない態度を取る。ついでに、資金に於いては、政府からそれを供される場合もあれば、自前か他からの場合もある。  
次に第二の点を述べると、大政翼賛会的な組織、団体、そしてグループ、及びその成員にあって、彼らの行わんとするところは、政府の意志しているものと同一である。必ずその範囲におさまるもののみが、彼らの志向するところのものである。政府の意思の実現範囲からの逸脱(行き過ぎ)といったことがままあるとしても、彼らにあって、離反しているという意識は決して持たれない。原理的な相反性は、彼らの自己意識には全然に存しない。それ故に、抵抗や反抗の意識は、彼らの絶対に所持しないものである。言ってみれば、完全な下部者の意識が、彼らの有するところのものなのであるが、それが単なる従属性として意識されないという不思議な特徴がそこにある。と言うのも、彼らの自己理解では、自らは主体的なものであるからである。  
この特異な主体性意識の成立ちは、まことに興味の尽きぬところであるけれども、またいくら掘り下げても捉え難いものでもあるので、立ち止まらずに、第三点に移る。これは「政府権力によって支配・指揮される人々に対する関係」と長々しくしたが、簡単に言えば「国民に対する関係」ともなる。翼賛会的意識の国家観にあって国家とは、先の妙な主体性意識の国民より構成された、政府とその命令・指導に従う人々との両者よりなるものである。しかもこの両者の関係では、自覚的主体あって自由はなく、隷従や服従は無くして参加や協力がある。第三点は、こういう国家理解と国民意識を指摘しようとするものである。  
第三点の特徴は、あるいは「国民の中での、国民に対する関係」とも出来る。言わんとするところは、翼賛会意識の人達は、他の人達に対して、国民(政府の命令・指導に服する人々)という点で同じ地平にあるとするが、しかしながら、それでありながら、人々がどうあるべきか、どう行動すべきか、どう考えるべき等々について、他の国民に対して指導出来る卓越性を有していると自認しているし、またそれに即した指導者的役割も自任するところとしている、ということである。これは、命令を受けてそれを自覚へと再構築して出来上がる主体性意識のが、翼賛意識であるということであり、この意識によって彼らは、この或る特異な(主体的自己を構築する)解釈形態で受け取られた政府の意思(命令)を、他の人々にもまた指導者的に励行、奨励し、その実、強制する。だがそれにもかかわらず、他の国民に対して彼らは彼ら自身を、同一地平上の同輩国民とのみ自己理解している。同じことを繰返すが、翼賛意識の人は、政府の意思、すなわち政府の命令するところを、主体的自覚として意識する。そしてこの自覚の明瞭な所持が、彼らにとって、他の人々に対する彼らの(同輩中での)卓越性とも意識されるのである。  
これら三つの点が、歴史上のあの大政翼賛会と、現在、その形容詞をつけて呼ばれる(私がその形容詞を附ける)ものどもとに共通するところである。かつてのものが戦争を契機として出来上がったものであるのに対し、現在の政治や社会、そして我々に取って、明瞭な戦争の存在が意識されていないのに、それでも現在、大政翼賛会的なものどもがある、出来上がりつつある、成長しつつあると、どうして言えるのか、そうした疑問があろう。これに就いては、・・・最初の方でそれを取り除こうとしておいて、話が長くなりそうなので切り上げてしまった。これをあらためて・・・、やはり省略。  
して、先の三つが円満に揃っているものがあれば、それはまごうこと無く、現在の大政翼賛会である。だがまた、私は、先の三つのうちのどれか一つでも顕著に見出されれば、それに対しても大政翼賛会的との形容詞をつけることにしている。その例を挙げるならば、いわゆる NGO や NPO は、第一の点よりして、大政翼賛会的である。これらがもし、原理的に政府が出来ないところを行うものであって、かつ、これらが行うところがやはり政府の行うものの範囲には原理的に含ませ得ないという点が、明確にされていないならば、つまり、政府がそれをしたいと考えていて、また、政府がそれをやってよいと見なされていて、それを踏まえて、 NGO や NPO の活動があり、かつ、その活動内容が政府の行政的行為に含ませ得るかその延長上のものであるならば、 (あるいは行政の指揮に即するか服している実態ならば、)NGO や NPO は、大政翼賛会的な団体である。  
第二点だけの指摘から、翼賛会的の形容をするには、いささかの注意が必要である。特に専門的テーマに関して、政府が意志するところと同じ結論に、専門家や学者が自らの理論的、客観的考察の結果に到達することがあるのであり、ただに同じことを言っているからといって、それだけで翼賛会的である訳では無いからである。そこで例えば、消費税増税は、政府(財務省)の意思するところであるが、財政、経済学者が自らの調査と理論とによって、同じ結論に至ることがあって、両者がそれぞれ単独に(同テーマであることによる共通的知識と、入手し得る情報の共有と、そしてそれらより通常生じ得る影響関係以上に、何かしら意思と関心とを通じ合わせた共同作業をしたので無く)同じ結論に到ったかどうかの検討を経ないと、無闇に翼賛会的とは決められない。  
政治的、社会的な様々なことどもに関する、理論的、学問的主張と、その主張者については、上の事情が考慮され無ければならない。ところで、これら主張の形成的、発見的作業を自らすること無くして、出来上がった主張を人々に知らせる役割をしている団体、グループに関しては、その活動と存続が政府との関係の密接さに基づくものにあっては、特段の留意なく翼賛会的と言い得る。すなわち、朝日新聞社を初めとする新聞・テレビ等の各種メディアは、人々がどれだけの情報を持つべきか、何を知っておくべきか、政府と観点、価値観等を全く同じくする立場にあろうと努めているし、その立場からの報道をすることをして、彼ら言うところの〈ジャーナリズム〉の役割と解している。(このことは、尖閣ビデオ流出や Wikileaks に際しての日本メディアの批判よりはっきりと知られる。)そこで、これらの翼賛会的メディアに頻繁に登場する学者、専門家や、メディアの論説で熱心に説き示される見解の有力な構築者については、その翼賛性を推定しておいてもよい。  
第三点の見出されるものについては、判り易いものでなく、なかなかに判りづらいものを例としよう。それはいわゆるネットサヨクとされる人達である。彼らの指導者意識は、従来もよくよく感じられるところであったが、最近のマンガ描写の規制に関して、政府・行政の権力行使にさほどの疑問も呈さないところに於いて、判りづらかった翼賛性が露になりつつある。ところで、この判りにくさには、幾つか理由があった。一つは左派思想の系譜を引いた言葉遣いと、左派の問題設定とを引き継いでいるし、民主主義や人権といった、リベラル的な観点に立つような姿勢が告げられ、そして彼らの言論が政府批判の趣きがあるように見えていたからである。ただし彼らには、もし彼らの志向する通りに、政府・行政がその執行権力を行使するならば、それを歓迎するし、その執行権力の行使に何らかの強権性があることも、彼らの趣旨に適うならば、特段の問題視をしないところがある。  
一昔前の左派勢力が望んでいたような諸政策を行う政府が出現しない間は、左派的な言説は、確かにある程度の(あるいは見かけ上の)抵抗的で反対的な政府批判という性格を与えられるところがあった。しかしながら、もし現在の政府が、その意志するところを、サヨクが同調するような形で言い表すか、その結果に実現するものがサヨクの望んでいるところと似たものであったりするならば、サヨクはそのままに翼賛会的な役割と機能を、我々に対して果たすことになろう。その役割と機能とは、政府の意志するところの実現に翼賛的に協力する役割(我々に対してそうしなければならないことを指導者的に説いて回る役割)であり、政府の命令・指揮に国民が従っていくようにあることを実現させていく機能(執行権力の強権性を実質的に増大させていく機能)である。  
さて三点それぞれが、いわば別個単独に見出されるものどもを例示してみたが、今年の日本には、この三点すべてを兼ね持ったものが出現するであろう。だがそれは、それと名付けられ、それと指差せる組織とまではならないで、三つの要素のどれかをより強く持つものどもが、互いに同調しあって、あたかも一つのものの如くに、我々に対して作用するような形となるかもしれない。去年の小沢非難のあの合唱ぶりなどは、その先駆け的、予備段階的なものと言い得る。  
そしてその攻撃の根本的志向と通じ合っているのだが、この国の人々が政府に対して翼賛会的な関係を構築してしまうのは、一つには議会、あるいは立法権力の統治というものを、我々がきちんと理解していないからである。このあたかもロック政治学のまったく存在しないかの如き、日本の政治思想が、政治的改革や社会改造を企てる人が、その熱心な努力にも関わらず、しかしそれを実現する政治的回路の不在の故に、そしてそれでも何かを目指し続けるその熱意の故に、紆余曲折を経て、翼賛性に行き着かせてしまうのである。また一つには、二十世紀に入って生じた、政府の役割に関する意義と必要性認識の、それ以前に比して無限なほどと言える拡張が、翼賛的発想にブレーキを掛けることが無いのである。最後にもう一つが、天皇の統治(なる観念)が、ほとんど実質的には否定されることなく、戦後に装いを変えて構築された天皇制官僚の政府による統治理解が、いつまでたっても、翼賛会的行動様式を生み出す源泉となっているのである。  
・・・上のところまで書き終えたら、こういうことに元旦から頭を疲らすのもほどほどに、という気分で切り上げてしまった。ところで正月気分にしばし浸っていたら、以下のことを書きたいとしばらく前から思っていたのが、今回のようなことを記すのにつながっていたのを思い出したので、それを書き足す。  
大政翼賛会のことに注意を向けたのは、誰もがまだ覚えていることだと思うが、福田元首相が小沢民主党元代表との間で、自民党と民主党とで連立しようと話をまとめた時に、新聞こぞって大政翼賛会だと批判しているのを見て、私もまだそこそこの知識や理解しか無かったにもかかわらず、どうもちょっと違うと感じて、大政翼賛会のことにあらためて関心を振り向けたことが始まりである。  
あの連立の動きに関しては、それによって生じる議会の能力が、あくまでも議会の優越性につながるものであるならば、つまり政党が政党としてのあり方を失わずにまとまるならば、すくなくとも大政翼賛会と言われるようなもので決してない、このように考えるに到った。(もしそう言われないものであるとしても、その動向自体を、またそれによって生じる情勢をどう批評するかは、また別に為され得る。)  
さて昨今、菅直人総理がいわゆる捩じれ国会での情勢改善や、政府指揮力の増大やを目指して、他党との連立を模索して、次々と渡りをつけようと報じられているし、小沢一郎元民主党党首の持論と周囲から目されている政界再編の意図より、小沢元党首が民主党を割って出て他党、他グループとの結集の企図ありとする政局観望的な報道がある。そしてこれらにつき、両者の動きともに大政翼賛会と言われたり、後者のみを念頭に大政翼賛会と言われたりするのが、ブログなどにちらちらと見られる。   
それらを眼にしながら、数年前の福田元首相の時の連立を批判して、大政翼賛会と言っているのと同じ、誤解と皮相さとを私は感じている。上に述べたように、大政翼賛会的な性格の、最も主要な点は、国策形成に関して、政府の、有り体に言って官僚の下位に立ってしまうところにあるのであって、これの様子を見極めて判断しないと、これでは大政翼賛会だという非難は的外れであるし、その言葉が纏っている負のイメージを利用した、ただ為にするレッテル貼りでしかないものになってしまう。  
現在時点、私なりに判定するに、小沢一郎代議士が中心になって、新政党への結集が起るものについては、官僚主導の政治をあらためたいとの発言が本当ならば、それを大政翼賛会とは呼び得ない。むしろ、菅直人総理大臣の政治指導を維持しての連立の方が、この内閣に顕著に見られる議会ならびに政党の官僚団への下位性の故に、大政翼賛会的な性格をいささか持つものと言うべきである。  
とはいえ議会という制度と、そこを足場として政治力を有する代議士という存在とは、その制度と役割からして、大政翼賛会の生成の場所ではない。そして政党が大政翼賛会にまるっきり成り代ってしまうというほど、単純なことではないのである。大政翼賛会は、いわば政府の意思を実行していく回路であって、政府の指揮・命令に服する地位の者達(従属者達)を中心にして形成されるものである。  
・・・戦前の生成経緯より言えば、昭和初期に議会政治・政党政治の回路があったにも関わらず、諸般の事情と反議会の動きにより、議会と政党とに政治の変化の起点たる力を信じなくなった(そこに期待を持つなと思い込まれされた)人々が、それらに変わる政治回路を、まるごと新しく作り出そうという発想をし、(そして当然にそれに失敗し、)議会による統治を破壊して、自ら政府の従属者へと落ち込んでいったのである。  
・・・現在、これと似たことが起きており、政党政治への不信というものが、手をかえ品をかえ、新聞や書籍等のメディアを通じて、人々の政治理解の中に広められている。議会と政党のもとに政治の回路を見出そうとしない傾向は、先年来、ますます強いものとなっている。今また新たに報じられる連立の動きに関して、大政翼賛会だという非難をあまり深い検討も無くぶつけて、それでもって政治の方向性についてものを言っていると思う人達の態度も、言ってみれば、戦前の自ら政治的回路を打ち壊して、その先により有効なものがあると夢想して、そしてそれに失敗した人達と同じものなのである。  
・・・この同じ態度は、もう少し手広く見渡すなら、民主党に苛烈な非難を繰り出したり、自民党への相変わらずの峻烈な拒絶を繰返したりして、全否定的な政党評価を露にし、それでいて、政府の意思とさほど変わらない方針や政策に関して、それの実現に賛同を示す人達にも、やはり見出せるものである。ついでにもう一つ、共産党や社民党の支持という見地から、民主・自民その他の政党を、やはり全否定的に述べる者も、わずか乍らあるいは一見政党支持からの議論であるけれども、実際的効果に於いてみれば、人々に始まり、政党を介して、議会を通じて、一つの国の統治を実現させていく、そういう政治回路の破壊、・・・もともとたいして実あるものとして存在していなかったから、こう言い換えよう、それの成長を妨げるものでしかない。その行き着く落着点は、その統治の姿が、政府の意思の実現される回路だけよりなる、すなわち、政府からの指揮・命令・指導の回路だけよりなる国の出現である。  
 
大政翼賛会はどうしていけなかったのでしょう?

 

野田政権は、自民党野田派と言われるほどに、すでに大連立の基盤が固まって、マスコミではこれは「大政翼賛会になる恐れがある!」と警戒を呼びかけています。  
「大政翼賛会によって、戦争が起こされた!」というような印象操作を行っていますが、具体的にどんな悪い現象が起こったのか?教えてください。  
議会で議論が行われなくなって、民主主義が機能しなくなった、などといっていますが、国論が一致しているときには、議論のための議論は必要ないと思われます。  
どういう議論が必要だったのか、具体的に指摘できるでしょうか?  
今の議会を見ても、必要な議論など全然無いように見えます。  
国民が軍国主義に陥っていて、国論が一致しているときには、大政翼賛会になるのが、自然な現象だと、私は思うのですが、如何でしょうか?  
 
戦時体制だったから、軍部の発言力が増したのだ、と思います。軍部を悪者にすることで解ったような気がするのは、問題だと思うのですが。  
おっしゃるとおりです。紋切り型の文句で思考を端折ってはいけないという典型ですね。  
大政翼賛会を構想した当事者たちに本心から軍部の「暴走」を押さえる目的があったのだとしても、現実にはより良く戦争を戦うための組織であるとしなければ実現しなかったのだし、国民の多数はそのような組織であると見なし、かつ実際にそのための組織として成長発展したのですから、たしかにわたしの書き方では事実の片面しかとらえていません。  
軍隊というものはどこの国でも独自の判断で動きたがるものだと思いますが、どこまでそれが許されるかはその時々での条件(人物も含めて)によって変わるのでしょう。なかでも、実際に戦争を戦っているかどうかは大きな要因になるのだと考えます。国力の少なからざる部分を傾注しなければならない戦争を長期に、大規模に戦う軍隊を、政府や議会が掣肘するのは難しいだろうと想像がつきます。  
体制側が戦勝の目的にかこつけて権力機構の安定のために強力な軍隊を望み、その結果軍隊が肥大化して体制側に己の意志を押しつける。この状態から振り落とされないためには軍部に先んじて軍部の意志をかなえることが必要になる。それがさらなる軍部の強大化をもたらす。まさにニワトリとタマゴの関係です。  
スターリンや毛沢東はその過程をあまりにも過剰な政治性で抑え込みました(好ましい事態でないことは言うまでもありません)が、逆にいえばそこまでしなければ軍部を管理統制できなかったのかもしれません。少なくとも、当人たちはそう信じました。  
戦後の開発独裁までを視野に入れても、おくれて近代化に乗り出した諸国では、みな強力な軍隊に支持されたシンボリックなカリスマ的指導者が現われます。軍部に依拠しながら軍部を支配下におき、権力の象徴として国民の前に立ち現われる人物です。どこまでそれが独裁的権力を握るかは一概に言えませんが、権力が具体的な顔を持つことがどうしても必要なのでは、と考えます。  
その点、日本はどうだったかとふり返れば、東条英機ではどうにも役不足です。明治の元勲たちはまだその資格がありそうですが、彼らが退場するにつれ軍部の統制がきかなくなっていったのは単なる偶然ではないのかもしれません。この辺はあまり根拠のない妄想ですが。  
大日本帝国とは多義的な存在ですが、あえてひと言でいえば全国の郷党的むら社会を、神権政治的な装いをまとった「天皇」を建前とする中央集権的官僚制であったのだと考えます。軍国主義は本来その一側面にすぎませんでした。  
しかし、官僚制の特質がその無個性な専門家ぶりにあることを思えば、官僚機構にできることは基本的に状況の追認であって全体の構想には向かないのでしょう。戦前の左翼運動は草の根の支持を広く得ることができなかったのですから考慮におよびません。本来、これを担えたのは制度的にも天皇だったのでしょうが、現実にそのような展開はたどりませんでした。議会政治家たちは言うまでもありません。「民度」という言葉は使いたくありませんが、やはり国民の政治的意識も力不足であった面は否めません。  
遅れて近代化に乗り出した国ではどこも軍事に偏重した政治体制をとるものですが、だからといって必ず侵略戦争に乗り出すわけではありません。しかし、なぜ日本では違ったのでしょう。もちろん時代状況は大きく作用しますが、わたしはこの顔のない、つまりだれも責任をとらない(引き受けない)体制にも原因があったのではないか、と考えています  
だから、結果的に明確な意志を有した一部軍人が事態を左右することになったのではないでしょうか。政治的意志の空白を軍国主義が埋め合わせたのだと言えるかもしれません。  
2.26事件で昭和天皇が発した明確な意志に軍部が対抗できなかったことはその傍証になるのではないでしょうか。天皇という個人に頼らず政治家がこの意志を保持しつづけ、国民がそれを支持したなら、事態はまた変わったのでは、とも想像します。  
近代国家(国民国家)の形成は近代の総力戦に応えるためだったというのは、まさしくそのとおりと考えます。あと、要件には近代産業の育成(工業化)も入れたいです。  
にもかかわらず、英米仏では比較すれば日本ほど軍部が政治的な力を持ちませんでした。少なくとも、現地部隊が勝手に戦争を始めてそれを追認するしかないような状況はありませんでした。これら諸国では戦争を戦っても日本ほど国力を傾注しないできたので、相対的に軍部の力がそこまで伸びなかったことと、国民を含めて政治の領域で試行錯誤をする時間があったことが原因と考えます。  
戦後の開発独裁の諸国では、やはり米ソの二代超大国が抑え込んでいたことが一番の原因でしょうか。  
してみると、ドイツはまた変わり種ですね。ビスマルク、ヴィルヘルム2世、ワイマール体制、ヒトラーとそれぞれの時代ごとの検討、時代間の因果関係など、近代化論で分析した研究はないものでしょうか。  
結果的にわが国の大政翼賛会は軍部に対して無力であるどころか助力し、補完した事実は、やはり最終的な破綻が歴史的必然であったことの証明なのかもしれません。しかし、悲劇が必然であったとは思いたくないものです。  
ありうべき別の道はなんだったのでしょう。どうすればあの破綻が避けられたのでしょう。単なる懐古趣味ではなく、現代の生々しい問題意識だと思います。  
日ごろ目先のことに追われておりますなかで、こういう長期的なスパンで物事を考えるきっかけを与えていただきありがとうございます。  
 
翼賛体制論 / 太平洋戦争期に於ける国民運動と帝国議会

 

1 問題の提起  
本論文は、太平洋戦争期に重点的に行われた国民運動と帝国議会の分析を通じて、国民統合の仕組み、帝国議会の形骸化の政治過程を明らかにすることにより、日本ファシズム体制の中核をなす翼賛体制の特質及びその実態を考察する。  
まず、大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、翼賛政治会(以下、大政翼賛会は翼賛会、大日本翼賛壮年団は翼壮、翼賛政治会は翼政会と略称する)の三つの団体に支えられた翼賛体制に関する研究状況に関して触れることにより、本論文の研究史上での意義を明確にする。その考察に入るまえに指摘しておきたいことは翼賛体制という場合に、国民支配体制としての側面と、議会翼賛体制としての二つの側面を有している点である。以下、本稿ではその点に着目しつつ、既存の翼賛体制に関する研究史を整理してみたいと思う。  
まず、国民支配体制としての翼賛体制に関する研究の傾向は、概ね二つに分けることが出来ると思う。つまり、翼賛体制を日本におけるファシズム体制の成立としてとらえる研究と、ファシズムの成立を否定し、あるいはファシズム概念の採用を拒否する立場の研究である。  
この国民支配体制としての翼賛体制に関する研究の問題点として次のことを指摘することができる。 
第一に、ファシズムの成立を否定し、あるいはファシズム概念の採用を拒否する立場の研究では、翼賛会の成立をめぐる諸政治勢力の対抗関係とそこにおける「革新」派の構想の挫折だけに目がうぱわれ、官製国民運動団体の職域組織及び町内会・部落会、隣組などの地域組織を翼賛会の指導下におくことによって、政府が国民の画一的組織化に成功し、これによって国民の根こそぎ動員が可能になった側面が見のがされており、特に翼賛会改組以後の実態分析が行われていない点に大きな問題がある。また、地域レベルにおける政治の動静の把握、あるいは地域で繰り広げられていた翼壮に代表されるファシズム運動の存在とその意義が見藩とされる傾向がある 。特に、蜘蛛の巣のように張りめぐらされていた国民組織により国民生活の徹底した統制が行われていた側面が全く無視されることになる。  
第二に、ファシズム体制の成立ととらえる研究であるが、日本ファシズムの場合、その歴史的特質が丸山真男によって「上から」のファシズムであると定式化されて以来 、それが日本ファシズムに関する共通の理解となった。しかし、このような日本ファシズムの成立契機として「上から」の動きを重視する従来の通説に対し、しだいに、「下から」の要素の重要性が強調されるようになった。「下から」の動きを重要視する研究は、主に社会経済史を中心としたファシズムの「担い手」の分析であるが、その分析が精級な反面、逆に政治体制全体との関連が軽視される傾向がある。特に、「下から」の動きを強調することにより丸山が指摘したような「上から」の動きが読みとりにくくなったことも事実である。しかし、基本的にファシズムとは「上から」と「下から」の両方の要素がなくでは成り立たず、両者の動きを相互に関連づけて把握する必要があるだろう。  
それでは次に翼賛議会体制に関する研究を考察してみよう、上述したように翼賛体制に関する従来の研究は主に、翼賛会の成立をめぐる各政治勢カの動向や国民再組織問題の分析にその焦点があわされ、この時期以降の議会勢カの動向の分析を怠って来た。その主な原因は、翼賛会成立後の帝国議会は決定的に無力化し、形骸化したという評伍が背景にあるからだと思われる。  
しかし、最近この説に疑問を唱え、翼賛選挙を通じても既存の旧政党勢力は勢力を温存し、小磯国昭内閣以降政治的伸長をとげたとする研究がでてきた、このような翼賛議会に関する研究に関して次のような問題点を指摘することが出来よう 。第一に、既存の研究は政府対議会の対抗関係の分析に重点を置くことにより・統治機構全体の中で占める議会の位置、またその変化の解明を怠っている。この解明なくして、議会内における政治勢力の動向だけを追っても、翼賛議会そのものの特質は明確に見えてこないと思う。第二に、1日議会勢力といえども、翼賛議会の前と後ではその政治姿勢に微妙な変化が見られるが、その点を既存の研究は看過している。第三に、さらに、1942年の翼賛選挙によって議会勢力の内部に大きな変動が生じた事実は概して軽視されている。実際、1942年4月に行われた衆議院選挙後、当選した466人の衆議院議員の中199人(内169人が推薦)が新人候補であった。そして第四には、中央政界の動向だけに焦点があわされて。地域レペルにおける政治的対抗関係、特に翼壮の活動の持つ意味が軽視されていることである。
2 本論文の視角  
以上の研究成果を踏まえて本論文では、次の視角から翼賛会・翼壮・翼政会の分析を通じて、翼賛体制の実態を明らかにしたい。  
第一には、ファシズム体制確立期以降の展開を重視することである。従来の翼賛会に関する研究は、時期的には1941年4月の翼賛会1次改組期までの時期の、政治諸勢力の動向に分析を集中している。その主な原因は1次改組により翼賛会は精動化したとし、その以後はもっぱら行政機構の補助機関の役割を果したとする評価が背景にあるからだと思う。しかし、これだけではこの体制の下で強力な国民統合・国民動員を可能にした仕組みを充分説明しきれないであろう。  
また「下からの」ファシズム運動を重視する須崎慎一や安倍博純の研究の場合でも分析の対象となる時期は1940年秋で止まっており、フ・シズム体制確立期以降のファシズム運動の位置付けが暖昧になっている。日本ファシズムが体制として確立したとしてもその基盤は脆弱で不安定であり、だからこそ・その体制の整備のためにさらなる運動の要素を重視せざる得なかった側面を見逃してはならないだろう一やはり、ファシズム運動を「権力と大衆を繋ぐ媒介項」とみなし、ファシズム体制確立後の運動を分析する必要性がある 。  
第二には、当該期における国民運動の展開とその中核的担い手であった翼壮の活動の全体像を具体的に明らかにすることである。国民運動という概念は時代の変化に伴い変わってきたが、翼賛会成立以後の国民運動は国民動員と同じ意味で使われてきた。国民運動を展開することにより、戦争の円滑な遂行と国民の支持を調達しようとしてきた訳であるが、この翼賛体制期に於ける国民運動に関する研究はいまだほとんど存在しない。  
また翼壮自体に関する研究としては、遠藤哲夫により翼壮結成から1943年の改組までの経緯が明らかにされ北河賢三及び波田永実により・翼賛選挙の地域での事例研究が行われてきた。しかし、従来の研究では、翼賛会、翼壮翼政会三者間の相互関係が充分視野に入ウていないし、本稿の重視する衆議院及び市町村会における翼壮関係議員の分析も全く行われていない。  
第三には、国家統治機関の中での帝国議会の位置づけを明確にするとともに、委員会などの分析を通じて翼賛議会の歴史的位置を考察することである。明治憲法で規定された帝国議会の権限は、法律の制定も予算の制定も議会の議決が必要とされながら、立法権では法律制定に「協賛」するだけで、財政蕃議権では予算が不成立した場合は政府が前年度予算を執行することが可能とされるなど、きわめて限定されたものであった。しかしながら、法的効果を及ぼすことはできないが、質問権(質疑権)を行使し、議会で政府の政策を公開の場で批判し牽制する事が帝国議会の重要な政治的機能であウたことを看過することは出来ない。この議会の「行政監視権」は、法的効力がないとはいえ、その行使は実質的に政府の全権限におよぶもので、政府が議会を無視して政策を遂行することを抑止する政治的機能を果たしていた。こうした帝国議会の政治的機能に着目し、その変化にも留意しながら翼賛議会の分析を行いたい。  
第四には、中央と地域の動向を統一的に把握することをめざす。従来の研究では、中央政局の政治過程の分析の際には、地域における実態の把握が軽視され、その反面地域における国民支配の問題に重点が置かれた研究では、全体の政治体制との関連が軽視される傾向があった。この問題を克服し、翼賛体制の全体像にせまるため、中央と地域を統一的にとらえるよう心がける。先にも述ぺたように翼賛体制は国民支配体制と議会翼賛体制という二つの側面を有していた。その特質を明らかにするためには、やはり中央と地域の動向を統一的に把握するというアプローチがどうしても必要だろう。
3 要旨  
次に、各章の内容について簡単に紹介しておく。第I部では、国民支配問題に焦点を合わせ、分析対象として国民運動を取り上げ、国家総力戦下での国民統合・動員の構造を明らかにしたものである。まず第1章では、翼賛体制期に実施された国民運動の決定、指導、伝達の仕組みを分析することで、国民運動がいかにして国民に徹底されたのかその「上意下達」の過程を考察した。第2章では、実際に決定された国民運動がどのように実施されるのかを、国民運動の推進力となった翼壮の活動を通じて把握してみた、第3章では、埼玉県という一地域での事例分析を通じて、翼壮の担い手の問題や国民運動の実態についてさらに掘り下げて検討してみた。第4章では、従来の研究ではほとんど無視されてきた、翼壮の政治カの源泉であったと考えられる翼壮市町村会議員の聞題を取り上げ、埼玉県を事例に、翼壮市町村会議員団の形成過程と主に市会における活動を分析した。  
第H部では、ファシズム体制下での帝国議会の問題を取り上げる。第1章では、議会勢力の再編成過程を、既成政党勢力としての同交会と、新興勢力としての翼壮議員に焦点をあわせて分析し、恩斉会の前身である同交会の形成から解消、そして衆議院における翼壮関係議員が形成される経緯を考察した。第2章では、帝国議会衆議院の通常議会及び臨時議会での政府及ぴ衆議院議員より提出された法律案の件数、勅令と法律との比較、通常議会・臨時議会における本会議の開会日数と会議総時問、通常議会における委員会の開会数と会議総時間、通常議会における請願委員会などのデータから統治機構全体の中で占める議会の位置の変化、特にその政治的機能の低下を明らかにした。第3章では、「野党的」政治勢力の存在に注意しながら東条内閣期の第80回から第84回までの翼賛議会の政治過程を分析し、中央レベルでの翼壮議員団の活動が地域レペルでのそれに比して概して不活発であり穏健でありたこと、しかし、それにもかかわらず翼政会による翼壮吸収の動きに対しては翼壮議員団が活発な反対運動を展開したことを明確にした。第4章では、小磯内閣の議会対策、それに対する翼壮議員、翼政会の動向を探り、小磯内閣以降、確かに議会勢力の復権がみられるとはいえ、翼政会一大日本政治会による国民運動一元化構想は結局は実現せず、その政治活動にも支部設置問題にみられるように大きな限界があったことを明らかにした。
4 総括  
最後に、本論文の分析を簡単に総括しておきたい。  
第一に、国民運動に関する問題である。東条首相は太平洋戦争の開戦に伴い、円滑な戦争遂行と挙国体制の確立をはかるために、国民運動を強化しようとした。そのため政治性が奪われ、単なる行政機関の補助的機関に転落してその方向性を失っていた翼賛会の強化を意図し、官製国民運動団体の職域組織、町内会・部落会、隣組などの地域組織をその指導下に組み込むことなどの機能刷新措置により、国民運動の監督指導機関としての性格を明確にさせた。それに加え、国民運動!翼賛運動の中核的推進組織として、翼壮を結成させた。  
国民運動は、ラジオの利用や常会を通じて国民一人一人に徹底された、すなわち、国策は、翼賛会→市(区)町村会常会→町内常会・部落常会→隣組常会→家庭の系統で伝達された。この常会は国民に時局を認識させ、国策を円滑に浸透させるための方策であり、国民教化の場として機能していた。このようにして展開された国民運動は、国策協カ運動であり、恩想動員、経済動員、物資動員、労働力動員といった広範囲にわたる徹底した国民動員であった。この国民運動は国民の日常生活にまで浸透し、それを統合統制し、あらゆる国民のエネルギーを戦争遂行に動員し、支配への支持を調達しようとした。同時に、この時期の国民運動の精動化を阻止していたのは、「同志精鋭韮義」の立場をとる翼壮の旺盛な活動だったのである。  
第二に、帝国議会に関する問題である。翼賛会の成立以降、立法機能の低下・審議時間の短縮・請願権の形骸化など、帝国議会の機能は大きく低下していた。議会の運営は政府と、親軍的な旧政党勢力が実権を握っていた翼政会との協力体制で行われていた。しかし、結果的には政府の提出法案が全部通過はしたものの、議会が政府を牽制する機能を完全に喪失した訳ではなかった。とはいえ、東条政権の下では、同政権に対する批判の先頭にたったのは「聖戦完遂」を絶対の前提とする1日東方会系の右翼であった。そして自由主義と目された患斉会は右翼議員の現政権に対する批判を、消極的に支持はしたものの、積極的に先頭にたって現政権を批判するような行動は起こしていなかったのである。  
しかし、小磯内閣下で、翼政会を中心にした議会勢力は政治的地位を取り戻しつつあったが、それは戦局の悪化を反映したもので、決して帝国議会の本来の権限であるはずの事実上の立法行為や「下意上達」の機能が復活したわけではなかった。さらに、翼政会は翼賛会、翼壮、翼政会の解散による国民運動の一元化を策したが、この企図は失敗におわった。その背景には、市町村会に大量進出し、地域で強力な国民運動を展開していた翼壮の存在とその抵抗があったものと思われる。  
東条内閣の末期以降、政府は翼壮の統制に乗り出し、翼壮の活動は大きく規制されることになるが、それでも敗戦に至るまで翼壮は地域に於ける政治的影響力を、縮小されたとはいえ、保持しえたのである。  
第三に、翼壮に関する問題である。国民運動の実施は翼賛会傘下の官製国民運動団体と翼壮を中心に行われた。特に、翼壮は政府の国策を国民運動を通じて末端の国民まで「上意下達」するに止まらず、その一方で「下惰上通」の役割もはたすことによって、時には行政機構との間に深刻な摩擦や軋礫を生み出したのである。  
一方、衆議院における翼壮議員の活動は、議会では露骨な東条政権に対する批判はおこなわず、翼壮議員団としての独自の政治的主張もほとんどみられないが、官僚的統制の強化に対しては抵抗の姿勢を示した。議会外での活動では、翼政会の国民運動の一元化の動きを阻止することに活動の重点をおいていた。地域での翼壮の運動が活発で、行政機構を下から突き上げる側面もあるのに対し、帝国議会での翼壮議員の動きは概して穏健であり、その政治的影響力も市町村議会レペルにおけるほど大きなものではなかったといえる。  
翼賛会、翼壮、翼政会に支えられた翼賛体制は、三つの団体が対立する場面を常に表出し、従来の研究においてもこの点が強調されてきた。しかしながら、国民支配の面では翼賛会は国民運動の監督指導機関として、翼壮はその実行組織および地域の政治勢力として、翼政会は中央政治の担い手として、各々その役割を遂行することにより、まがりなりにも太平洋戦争期の支配体割の中核としての機能を果たしえたのである。

 


 
  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。
 
諸話
 
■ネット草創期とメディアの矜持 2017/4  

 

企業のデジタルブランディング戦略をサポートする「インフォバーン」と、Webメディアを多数運営する「メディアジーン」というふたつの会社を設立し、その代表取締役CEOとして活躍している今田素子さんは、Webメディア業界の先駆者です。パブリッシャーの立場が弱くなってしまった現状を憂い、「このままでは、みんなが読みたい記事をだれも取材できなくなる」という強い危機感をお持ちです。インタビューでは、業界を先導してきた者としての複雑な思いもお聞きすることができました。
インターネットが変えたもの
――今田さんは新聞社や出版社などのパブリッシャーがデジタル時代に収入を得て、持続可能なビジネスにしていくには、どのように行動するべきかという問題意識を強くお持ちです。しかし、その一番大事なパブリッシャーのマネタイズという部分が、まさに曲がり角に来ています。この難しい時代を僕たちはいかに乗り越えていくべきか、そんな話ができればと思います。
インターネットの出現前と後で、情報の流れ方が全く変わってしまいました。ソーシャルメディアが登場する前か後か、もうちょっと前で言うと、ブログの前かブログの後かでも、すごく大きな変化があった。最近で言うと、スマホの前か後かで、すごく変わってしまったと思います。でも、もともとのインターネットカルチャーって何だったのかと思い起こすと、情報が自由になったことだと思うんですね。ブログの登場によって、書いた記事がシェアされるとか、いろいろな人によって拡散されていくことはすごくいいことです。かつての情報の流れ方は、送り手のパブリッシャーと受け手の読者という、ほぼ一方通行の関係でした。それが今や、あらゆる方向に記事が拡散されて、情報を届ける人たちがすごく増えた、プレーヤーが増えたというのは、「情報が自由になった」という意味ではいいことだと思います。
ところが、(そうした拡散性が)拡大解釈されて、盗用も拡散の一種なんじゃないかと考える人が出てきたり、それをビジネスユースにしたりする人が現れた。それに加えて、フェイクニュースの問題も出てきました。つまり、リテラシーが強く問われる時代になってきたんだと思います。もちろん、新聞やテレビに接する時も、読者や視聴者にリテラシーが必要でしょう。でもそこは、新聞社やテレビ局、出版社がちゃんとした倫理規定をもっていて、ちゃんとした情報しか出さないという前提があったと思うんです。書けること、書けないことの線引きといったことが基本的には守られていました。でも、情報が自由になることによって、それが守られなくなってしまいました。そうしたネットの悪い面が、この数年ですごく出ちゃったなと思います。
――今まではプロフェッショナルである情報の送り手が、情報の価値を担保してきたということですね。
ただ、そもそものインターネットカルチャーというのは、もっとすごく、何というか、ネットの明るい面だけを見ていたと思うんですね、最初のころは。ところが20年もたって成熟していく中で、確信犯で悪いことをする人や、悪気がなくとも間違ったことをする人が出てきてしまった。その間にもいろいろありましたが、そういうのが一気に噴出したのが、この2年ぐらいかなあと。フェイクニュースとか、盗用の事件とかあるんですけど、そういうことなのかなと思います。
ただ、今のように自由に解放された情報の流れ方が、再び不自由な時代に戻ることはたぶんないので、今の状況の中で自浄作用を発揮して業界を良くしていきつつ、いかにマネタイズしていくかという両方の側面を考えないといけません。
1994年に「これからはデジタルの時代」
――今田さんはもともとご両親が出版社を経営されていたのですよね。ご両親の事業を引き継ぐ形で出版業界に入ったのでしょうか?
親の会社に入っただけです。だから、家業を継いだわけではありません。そして親の会社が倒産して、自分で立ち上げたのが今の会社なので、親からは資産も含めて何も継承していないんです。ただ、古い出版業界というものを知っているという部分では、(親から受け継いだものが)あるかもしれません。経験はすごく積ませてもらいました。出版業界のしくみとかはよくわかっていました。
――その一方で、かなり早い段階から「これからデジタルの時代が来る」と見越していたわけですか。
前の会社でワイアード(※)の日本版を始めたときに、ものすごい勢いで業界が変わっていくのを目の当たりにしたんですよ。アメリカがすごい勢いで変わっていく、と。だから、たぶんすべての情報はこれからデジタルに置き換わっていくし、テキストも動画も全部デジタライズされて、紙は残るかもしれないけれど、すべてがデジタル化されて、(情報流通が)自由になっていく。そういう流れを感じていました。
※ワイアード=1993年に米国で創刊した雑誌で、主にテクノロジーやカルチャー、ビジネス系の記事を掲載している。その後、英国、イタリア、ドイツ、日本でもそれぞれの国向けに編集、出版されている。Webサイト、デジタル版でも展開している。
――なるほど。
当時の会社は、海外の出版物を日本でライセンスする、(権利を)買って出版するという仕事に携わっていたんです。例えば、世界で初めてCD−ROMで出版された「ドーリング・キンダースリー」(※)の図鑑といったものも買い付けて、日本に持ってきたりしていました。ですので、紙の出版物をすごく出しながらもデジタルに近いところにいたんですね。
※ドーリング・キンダースリー=絵本や図鑑などを刊行するイギリスの出版社。1990年にCD−ROMとビデオが付属した図鑑を出版した。
――つまり、情報は紙に印刷するだけではなく、そういうふうに中身が置き換わっていくだろうなという感覚があったのですね。それは、ネットが普及し始める前の話ですか?
ワイアードを出したのが1994年です。日本で本格的にネットの商用接続が始まったころですね。ですから、出版していたのは紙の印刷物ですが、記載していた記事は「全部がデジタルに置き換わっていく」といった内容でした。そして、そのことが実際にアメリカでどのように社会やビジネスを変えていったかということを書いていたので、自然に「これからはデジタルに変わっていくんだな」と実感していました。
デジタルでいかに収益を上げるか
――自分が関わっているビジネスモデルは紙がベースだったけれど、伝えている内容はデジタルの話だったというのが、面白いですね。
はい。ただ、そうは言っても、ワイアード自体はフルデジタルで作って出版していましたし、テキストデータや写真データをそのまま海外とのやりとりで使うこともしていました。今までの、版下を切って、貼って、印刷して……みたいな作業は変わっていくなという予感はありましたし、インターネットの登場で情報の流れ方もいずれどんどん変わるだろうと思っていました。
98年には今の会社(インフォバーン)を立ち上げて、それでも紙の雑誌は出していましたが、そこからずっとデジタルでマネタイズということを何度もトライ&エラーでやってきたんです。最初はほとんど全部、失敗でしたね。「どうやってデジタルでマネタイズすればいいんだろう」と途方に暮れるばかりで、2004年まで(マネタイズする方法を)見つけられませんでした。
要は紙からデジタルにしていくことによって、(紙の)質量がなくなる。そんなものにお金を払う人っているんだろうかという疑問があったんです。結局は、「インターネットはBtoBでしかビジネスが成立しないのではないか」という疑問と、「それをどうやったらBtoCにもっていけるか」というトライ&エラーだったんですね。
――BtoBのビジネスモデルはインフォバーンだったということですか?
そうですね。もともとはインフォバーンだったんです。そして、ようやく「ギズモード・ジャパン」(※)をやることによって、なんとなく、マネタイズできる方法が見えてきました。それがバナー広告やスポンサードポストみたいな、要は広告モデルです。06年ごろからですね。
※ギズモード・ジャパン=メディアジーンが運営するテクノロジー情報サイト
「ウソをついたら絶対にばれる」
――当時からスポンサードポストを展開したということですが、ビジネスモデルとしてのお手本はあったんですか?
あまりなかったですね。だから、雑誌の記事広告をネットでやろうみたいな、最初はそういうノリでした。パイオニアと言えばパイオニアですが、苦肉の策でもあって、最初はスポンサードコンテンツみたいなものをやること自体も、本当にやっていいかどうか分かりませんでした。
――どういう意味ですか?
つまり、記事を広告にして売るということが、やってもいいのかどうかが分からない。よく考えたら雑誌も記事ページをスポンサーに買ってもらうことがあるわけで、「ちゃんと『PR』と表示しておけば成立するんじゃないの?」といった議論から始めた感じです。
――今では当たり前ですけど、手さぐりだったわけですね。ただ、その当時から、今で言うところの「ステルス・マーケティング(ステマ)」はまずいという感覚を持っていたということですね?
持っていましたよ、それはすごく持っていました。やはり、報道と広告をきっちりと分けないと、ユーザーをだますことになるので、それは絶対ダメだと思っていました。私たちは、(当時の)ネットのユーザーはみんな、すごい情報を持っている人たちなんだと思っていたんです。私たちが情報を届けている相手は、簡単にだまされるような人たちではないという感覚だったんですね。今も「オーセンティック(本物)であれ」と社内に言っているんですけれど、要はウソをついたら絶対にばれる、ということです。だから、ギズモードも読者と同じ目線で、上から目線じゃなくて伝えていけるようなメディアにしたいと考えていました。
02年ごろからブログが始まっていたので、周囲の人たちも情報を持っているし、情報を発信している。そういう人たちに対して、自分たちも同じように情報を発信しているわけで、もしそこにウソがあったら「あれ、ウソだろ」ってすぐに発覚するんだ、という実感がありました。コメント欄もつけていたので、すぐに返ってくるんですよね。「文字、違うよ」とか、「あの記事、事実誤認だよ」とか。それで、間違いを指摘された部分は文字の上に横線を引いて、正しい記述を付け加えました。
――つまり、記事を修正した経緯が分かるように、修正跡を残したということですね。
紙の雑誌では、できないですよね。間違えたら、次の回にお詫びを出すことしかできない。でも、ネットなら簡単に直せてしまう。でも、簡単に直してしまうと、もはや修正した事実が伝わらなくなってしまう。それは一種のウソにつながるので、その当時は線を引いて対処したわけです。
――今でもそうしたネット文化は残っていますよね。
そうですね。もちろん、私が始めたわけではないですが、草創期のネットカルチャーはそんな感じだったんですよ。うちの編集部でもいつも話し合って、表現方法を模索していました。その根底にあったのは、「ウソをつかない」ということでしたし、信頼性を高めるために、あらゆる情報をオープンにしていくという姿勢でした。もちろん、そこまで考えていない人もいたでしょうが。
個人ブロガーの力が強かった時代
――ネットの世界でメディアを作り始めた最初の人たちは、当初から意識が高く、ちゃんと倫理を守っていたということですか?
そうですね。特にブログを持っている人たちは、みんなトラックバックして、「この人たちが書いているこの記事はどうこう」と相互に評論していましたし、そうやって広まっていましたから。その当時は、個人のブロガーが書いてくれたことによるアクセスが、ヤフーからのアクセスと同じくらいあったんですよ。そのくらい個人が書くことでパワーを持ち始めた時代でした。それがすごく新しくて、個人が力を持つことができるメディアの形がすごく面白かった。
――何だか、当時の熱気が伝わるような話です。
だから、何か間違いがあればすぐに指摘を受けます。そして間違っていれば、コメント欄に「すみません、間違っていました」と書き込んで、記事に線を引いて修正する。普通だったら、メディアとしてはプライドが邪魔してできないようなことでも、オープンなネットカルチャーの中では、謝るし、修正する。それを、新しいメディアの性格、位置づけにしていこう、という思いもあったんです。
――全く新しいスタイルの新しい表現がうまれて、それを本当に正しいものに導いていくために、みんなで育てていこうという雰囲気が草創期にはあったんでしょうか。そんな感じで盛り上がっていた、ということですね。
はい。その当時のそうした考え方というのが、今もうちの会社には脈々と続いています。とにかく読者を裏切らない。スポンサードコンテンツにしても、普通の記事より3倍も4倍も面白く作ろうよ、という意気込みでやっていました。なぜなら、読者に読んでいただく時間を広告にもらうのだから、記事自体が面白くないと読者を裏切ることだよね、という考えがあったんです。ステマ問題がクローズアップされた時も、「この記事はステマじゃないか」とある読者がコメント欄で非難したら、「何言ってるの、ちゃんとPRと書いてあるじゃないか」と、別の読者が同じコメント欄で擁護してくれるといったこともありました。読者も含めて、メディアをみんなで作ってくれているような感じがあったんですね。
雑誌って読者に育ててもらうようなところがあるんですよ。ネットメディアもそれと同じか、それをもっと加速させたような感じがしていました。だから、自分たちはメディアを司っているけれども、読者もライターも、みんなも同じようにメディアを育ててみたいと思っていたんじゃないでしょうか。ライターとも顔見知りで、毎日コミュニケーションを取って、その人たちもいろんな情報を持ってきてくれて、みんなでメディアを作りあげていくのがギズモードでした。うちは今、いろいろなメディアを展開していますが、根幹にはその当時の思いがこんこんと流れていて、会社の哲学になっています。
――初期のネット業界のプレーヤーは、出版業界の経験者が多かったんですか?
そうとも限りませんね。出版業界の人もいたし、ブロガーみたいな人もいた。最初からデジタルネイティブのすごく若い人とかもいました。ギズモードでも歴代の編集長には、28歳の時に就任した者もいます。
いい意味でおおらかだった引用のルール
――出版業界などでの経験がないまま、Webの世界に入ったんですか?
うちで基礎的なことは習って、みたいな感じですね。ただ、当時と今ではずいぶん変わってきたカルチャーもあります。たとえば、ある記事があって、その記事を広めてあげるためにリンクを貼って、世間に拡散させるのは、お互いに暗黙の了解と言いますか、むしろ自分の記事を別の場所で使ってもらうと、「広めてくれてありがとう」という感覚が強かったと思います。まあ、一種のフェアユース(※)と言えばよいのでしょうか。もちろん日本ではアメリカのようにフェアユースは認められていませんが、「勝手に使いやがって」「リンク貼りやがって」という感じはあまりなかったと思います。
でもその後から、そういうカルチャーを悪用する人が増えてきたからかもしれませんが、著作権に基づいたルールがだんだん整備されてきた。そこは、後からできた感じですね。
※フェアユース=目的が公正であれば権利者の許諾なく著作物を使用できる概念のこと。1976年にアメリカで導入された。
――つまり、ステマのような問題意識はネットの初期からあったけれど、引用のルールのようなものは、今より緩かったんですね?
そうですね。常識の範囲で引用して、リンクを貼って、引用として伝えたい部分のみ記載して、それに対する自分たちの意見を書き加えるといった使い方ですね。その代わり、ちゃんとリンクバックして、「ここからがソース(元原稿)です」と紹介するのは、むしろ喜ばれるという感じだったですね。ただ最近、問題になったような、「元記事をちょっとリライトしたら、盗用にならないだろう」みたいな考え方は当時から許されなかったと思いますが。
――僕はネットのことはほとんど何も知らずに、突然、この業界に入ったわけですが、僕のような人間がWebメディアの業界に抱いているイメージというのは、次のようなものでした。つまり、インターネットはまだ誕生して日も浅いのでルールも整備されておらず、当初はめちゃくちゃなことをやっていたが、ようやく成熟してきて少しずつ世の中のルールに適応するようになってきた。しかし、まだまだ、いいかげんなところが残っているので、DeNAのような問題が今でも起きるのだと。そういうイメージを持っている人は多いと思うんですが、むしろ逆ということですか?
逆だと思います。最初は多くの人が良心的にやっていました。高い理想があって、情報が自由に解放されて、それをみんなでシェアしていくものという、すごく良い理念だったと思います。その代わり、ビジネスには全然なりませんでした。ビジネスになるまで時間がかかりました。でも、情熱があって、初期のインターネットが持つカルチャーは、とても良いものだったと思います。
今のネットのありさま「悔しい」
――だとすると、今のネットのありさまは悔しくないですか?
だいぶ悔しいですね。でも、ネットがマスになってきて、誰でも扱えるという意味ではすごく広まったので、私たちの役割としては、とにかく、きちんとしたルールを作ったり、「それはおかしいよ」と教えてあげないといけないと思います。そういうことをやってきているわけです。先駆的にやっていかないといけないというのは、常に自分の中にあります。
――これだけ多くの人が関わる媒体になったからこそ、まじめにやっている会社がある一方で、そうでないたくさんのプレーヤーも当然、現れるわけですね。ただ、すべてが全部ひとくくりに「ネットだから」という言われ方をしますよね。
すごくします。ステマの問題がクローズアップされた時も、うちのメディアもPR表記が不十分なのではないかと疑われる対象になったんですよ。でも、広告にはすべてPR表記をしていますし、厳密なルールで長いことやっていると、ステートメントを発表したりもしました。「PR表記をせずに広告記事を掲載してほしい」という要望は、本当に全部断ってきました。どんなにお金がなくて厳しい時でも、「お金をもらっても、ルールを逸脱することはできません」と言い続けてきました。
――経営者としては、つらい選択ですね。
本当にそうです。うーっ、うーって感じでした。そういう時代もありましたけども、そうした経緯を知っている人は知っているので、「御社は大丈夫だよね」という信頼感につながっていると思います。
ステマの誘惑には負けない
――今田さんを誘惑から押しとどめさせたものは何ですか?
ステマを一度やってしまうと、たぶんルールもモラルもなくなるし、一気に闇に落ちてしまうという思いはありました。でも、絶対そっちにはいかない。
悪魔のささやきは、たくさんありましたよ。そもそもステマを知らない人もいる中で、企業にとって良い記事を書いてあげて、それで何十万円か何百万円もらえますよ、という話ですからね。
――ユーザーが損するわけでもなし、とか考えたら、もう終わりですね。
でも、そのあと、ステマが社会問題になって、闇に埋もれていた部分が表に出て、ステマをやっていたメディアがなくなってキレイになりました。しかし、運用がすごく厳密になったことで、現場ではやりにくいことも出てきました。
――現場が萎縮したということですか?
萎縮しましたね、いったん業界的には。「スポンサード」という表記をバーンと大きく、あらゆるところに付けるようなこともしました。それは正しいことなのですが、でも、本来はその記事にスポンサードコンテンツと読者が分かるように明記されていたら良いのであって、ユーザーにほかのコンテンツと同じように面白いと思ってもらわないと、そもそも意味をなしません。
大事なことは面白く読まれるコンテンツを作ることで、ただ大きく「スポンサード」と表記するだけで、読まれないような記事を載せるのも、ちょっと違う気がする。それはメディア側の努力もあるし、面白く作られていることは大前提です。
――でも、こうやって会社が発展しているのは悪魔のささやきに耳を貸さなかったからですよね。
そうだと思いますね。それは、うん、そうですね、よかったなと思いますね、今でも。ステマだけは絶対にやってはいけないという信念は揺らぎませんでした。お金は必要でしたが、そこは悩みはしませんでしたね。
安定のないネット業界の中で
――一口にネットといっても、ブログが出てSNSが出て、スマホが爆発的に広まってというふうに、Webを取り巻く環境は激変したと思います。その中でビジネスを展開してきたということは、そのたびに波をかぶっている感じですか?
毎回波をかぶっていますね。「この業界でビジネスを展開する中で、一番難しいことは何ですか」といつも聞かれるんですけれど、一番は変化に対応することです。変化をいち早く察知して、決断して、変わっていく。次もまた変わるから、変わったのを察知して動く。それをずっと続けていかないといけない。安定することがないんですよね、本当に。それはすごく大変だなって、思います。
――気は休まらないですね。
気は休まらないですね。いつまでこのネット業界で走り続けていられるかなということもあるし、うちはすごく若いメンバーがいるので、その人たちがどう考えるだろうとか、若者が感じた変化を、自分がどう取り込んで、察知するかみたいなことを、すごく大事にしています。
スマホの普及に「対応しなければまずい」
――たくさんの波をかぶってきたということですが、最も大きな波は何でしたか?
スマホの爆発的な普及ですね。まだスマホがそんなに普及する前、メディアジーンの当時のメンバーが「もう来年は誰もPC(パソコン)使ってないから」と言っていたんですよ。その時は「そうだ!」と思いました。たぶんそうなる、と分かったんです。
――どうして分かったんですか?
うちはガラケーの波に乗らなかったんですよ、あんまり。iモードが流行した時も乗らなかった。完全に乗り遅れたんですが、情報をiモードで全部読むようにはならないと思ったんですね。あれだったら、テキストはPCで読むんじゃないか、と思ったんです。でも、スマホは違うと思いました。格段にテキストを読みやすいし、ネットにつながっている小さなPCを持っていると感じたので、これなら情報が全部入るだろうと思ったわけです。ただ、当初は端末の値段が高いし、パケット料金もかかっていた。ところが、パケットも料金定額制のプランが出始めた時に、「これは来るな」と思いました。
――すぐにスマホ対応にしていかないとまずいと感じたわけですね。
はい、「これはまずい」と。スマホ時代を予感した彼は、もう「これからはスマホで仕事しろ」「スマホでテキストを書け」って社内で言っていたくらいですからね。
――ただ、そもそもこんなにネットが普及するということすら、僕は分かりませんでしたから。かつて、ブロードバンドの普及が日本は遅れていて、お隣の韓国はずっと進んでいるといった報道に接していましたが、あっという間に普及して、人々の暮らしを変えてしまった。まさか、という感じはあります。
当時は、それが普通の考えでしたよね。ブログが出た時も、日記ツールがあるのに「ブログなんか、使うわけがないじゃない」って言われたんですよ。新しいものが出る時って「そんなの広まるわけないよ」って思ってしまうんです。もちろん、実際には広まらないで消えたものもいっぱいありますけどね。
今年こそ動画元年
――次は何が来るんですか?
全然わからないです。わからないというか……、とりあえずAI(人工知能)で多くのことが変わりますよ。AR(拡張現実)とかVR(仮想現実)とかも、どういう使われ方か分かりませんが、絶対使われるようになると思います。動画ももちろん来ていますね。ただ、ここのところ何年間も「今年は動画元年」と言われていますけれど。
――去年が動画元年じゃなかったんですか?
違いますね、毎回言っているんですよ。でも「今年は絶対!」って言ったのは、去年です。フェイスブックで動画を見られるようになったというのが一番大きい要素です。18歳になるうちの息子も、10代になったころからずっと動画しか見ていませんでしたよ。テレビを見ずに、スマホを見ている。そういう子どもの姿を見ていると、そんなふうに世の中が変わっていくと思いますね。SNSや動画サイトですべて完結するみたいな感じですから。
ビジネスのあり方考えて
――そんなデジタル全盛時代に、今田さんはパブリッシャーの権利を守らないとダメだと強く主張しています。今の状況に対して、新聞社も含めてパブリッシャーに危機感が足りないのではないかとお考えでしょうか?
パブリッシャーに対してというよりは、コンテンツを作ることはとても大変なことなのだから、「このまま読めなくなってしまう」という危機感を読者に持ってほしい。それがすごく正直な気持ちなんですよね。このままではマネタイズが縮小して、正しい情報を読めない人たちが増えて、社会的にはすごくマイナスじゃないか、と思うんです。
でも、(Webでは)みんながお金を払ってコンテンツを買うというところには、もはや戻らないのではないかとも、一方では思っています。あまりにたくさんのコンテンツが無料であふれていますから。もちろん、オピニオンですとか、ちゃんと考察された記事とか解説とか、あるいは長く取材して深掘りした記事は読まれると思います。読者から見て、お金を払うものと払わないものに分かれてくると思うんです。
出版業界では先にその現象が起こったわけです。情報誌はかなり減ってしまいました。無料のネット情報に取って代わられたわけです。でも、ラグジュアリーマガジンはまだ残っています。それは写真を見たいからですね。ユーザーが紙で得たい情報と、ネットで得たい情報が違うということなのです。
そういう意味で言うと、新聞はなくならない。紙で読む新聞そのものがなくならないと思うんですよね。ただし、今と同じスケール感で残るかどうかは分かりません。質量がないものに人はお金を払わないというのが私の持論で、ネット上にある情報には質量がないし、情報量としてはものすごいわけですよ。特別な情報ならお金を払ってもらうことがあっても、一般的な情報にはもうお金を払わないっていうふうになってしまっている。
そこで情報を作っている人たちは、どういうふうにビジネスをしていけばいいのかということと、それを守ることをユーザー側も考えたりとか、あるいは、広告、アドテクの会社、プラットフォーマーなども考えてほしいし、そこをちゃんと守るような仕組みづくりってどうやればいいのかなっていうのをずっと考えています。
――何か思い描いている理想の姿はあるんでしょうか?
もうちょっと進むと、マイクロペイメントで記事1本を1クリック数十円で、簡単に購入できるようになるといった、新しい課金の形が定着するのではないでしょうか。今まで、ネット上で一番ビジネスのハードルになっているのは課金だと思います。アマゾンがそれをあっさり崩した。1クリックで何でも買えます。ただ、コンテンツに関しては、こうした仕組みがまだ定着していません。
フィンテックが一気に進む?
――まだ発展途上ですか?
でも、フィンテック(※)の進歩は今すごく加速しているので、意外と早く変わるんじゃないかなと思っています。変わる兆しがようやく見えたくらいですが、今年か来年、一気に進む気がしています。一般化するまでには少し時間がかかるかもしれませんが、おそらくチャンスがあるんじゃないでしょうか。
※フィンテック=ファイナンス(金融)とテクノロジー(技術)を組み合わせた造語。IT技術を活用した金融、決済、財務サービスのこと。モバイル決済やクラウドファンディング、暗号通貨などが含まれる。
――それが次の波でしょうか?
そうかもしれません。ユーザーが読みたいと思うものに、さっとお金を払うことができる仕組みになれば良いですね。今のように新聞をネット購読しようと思っても、いちいちログインしなくてはいけないようでは、普及の足かせになります。
――新聞の契約は販売店との契約ですからね。
おそらく、そうした今のユーザー側のニーズが変化するなかで、新聞契約の仕組みがかみ合わない部分が生じてきているのではないでしょうか。広告面でいうと、新聞のようなブランド力のあるメディアに対して、ブランド企業が広告媒体としてきちんとリスペクトしてお金を払う形にするにはどうしたら良いかをもっと考えた方がいいと思います。
ユーチューブに広告を出稿したら、(人種差別をあおるような)変な動画に広告が掲載されるといった問題が出て、大手の広告主がどんどん広告を引き揚げている。でもあれって、本当はずっと前からみんな言っていたんですよ。でも、なかなかそれが大きな流れにならなかったのが、海外から発生した大きな流れになってきている。そうして、信頼できるメディアとそうでないメディアの違いがようやく認識されるようになってきたと思います。
広告に対する意識を変えて
――その流れは続きますか?
続かないと困ります。アドネットワークのバナー広告の単価がガーンと下がったんですが、なぜそんなことが起きたかというと、どうでもいいサイトに出るときも、ブランド力のあるサイトに出る時も、(広告単価は)1円は1円なんですよ。それに、第三者配信になってしまったので、(新聞や雑誌に広告を出すとの違い)広告主が自分の広告がどこのサイトに載るのか、その枠を誰も管理できないんです。私が昨日買おうと思った靴の広告が、私がPCで何を見ても出てくるという状況になってしまった。そうなった時点で、たぶん媒体のその枠の価値は0円なんですよね。
――見せたい人を広告が追いかけていくので、媒体は何でも良いということになるわけですね?
そう、それだけの話です。そして、(そういう仕組みを提供している)広告テクノロジーの業者しか儲もうかっていない。いえ、彼らですら安定した収益をあげられてはいないんですけれどね、今は。そういう仕組みをもう一回見直して、「このサイトに出ている広告だから信用できるんだ」「このメディアが良いと言っているから、この商品はいいんだ」というところまで持っていけると思います。広告については、そこまでやりたい。
――広告主の商品に価値付けができるような広告に戻したいということですね。もともとの広告とは、そういうものだったわけですが。
そういう世界に戻したい。でも、そのためにはみんなの意識が変わらないといけないので。ブランド企業の人も考えてほしい。考えている人はたくさんいますよ。
メディア同士での情報共有を
――スポンサーの意識もですか?
スポンサー側にもそういう意識をもっていただきたいし、メディア側も自分たちが枠をちゃんとどういうふうに管理するかを考えるべきです。そのためにはパブリッシャー同士でちゃんと組むことも必要です。1媒体だけを売ってビジネスを成立させるのは、もはや困難な時代になっています。これからは、信頼できるメディアがお互いに組んで、信頼できるアドネットワークを共同で作り、それを買ってもらうようにした方が良いと思います。そうすれば、スポンサーも安心して広告を買いやすいし、こちら側も提供しやすい。
――今田さんが媒体を何とか横同士で協力させようと尽力しているのは、そういう目標があるからなんですね。
失礼なことを言っても良いですか? メディアの人たちって、意外と情報を持っていないんですよ。いや、情報を持っていてもバラバラで、お互いに秘密主義で横同士で話をしない。特に新聞社はそうですね。出版社もそういうところが少しあったのかなと思います。本当は、広告テクノロジーは何を採用するのかなどについて、共同で検討すれば良いと思うんですが、テクノロジー側が主導権を持っているような形がずっと続いてきました。私はそこにすごく危機感を持ったんですよね。
媒体社が情報を持たなきゃいけない。媒体社がテクノロジーを選ぶというようにしないといけないと絶対ダメだ、と。自分たちの広告を管理するためには、どんなツールが最適かを、自分たちで考えないといけない。でも一媒体一媒体は小さいから、それぞれが個別にやると、広告主が媒体を買う時に困るんです。なので、そこは一緒にやるという流れを、全員でやらなくてもいいので、こことここは似ているから一緒にやりましょうとか、ここは協力しましょうといった流れが生まれてくるといいなあと思います。
――広告主が、全国紙すべてのサイトに広告を同時に打てるとか、女性誌のサイトと大手小町のサイトの広告枠をパッケージにして売るとか、そういったことでしょうか。
そうなると、ヤフーなどのプラットフォーマーとのやり取りももっとスムーズになるのではないでしょうか。パブリッシャーが本当は何を望んでいるかということも、今は媒体がバラバラなので分かりづらいんだと思います。
水面下のトラブルが表に出た
――フェイクニュース問題ですとか、ヘイトサイトに広告が載るといった問題が、これほどの規模で表に出たのは初めてで、スポンサーがネットから逃げていくという現実の動きにもつながり、一時的にネットメディアは苦しい時代を迎えていますが、業界が適正化していくためには、逆にチャンスかもしれませんね。
今までも、水面下でずっと起こっていたことなんです。でも、心ある人はずっと言っていたんですよ。ただ、それが大きな流れにはならなかった。だから、今の動きはネット業界にとってすごくいいことなんです。今は問題がたくさん起きていますが、逆に良くなろうとしている段階なんですよ。
――このチャンスをちゃんと生かさないとダメですよね。
そうですよね。盗用問題にしても、これまでもずっとあったんですよ。DeNAのような大手上場企業がやったので、初めてここまで社会問題化しただけなんです。今までも若いベンチャーがやって、そのたびにたたかれて潰されてみたいなことを繰り返していたんです。もう、3、4回目くらいになると思います。
ネットはまだまだ面白い
――フェイクニュース、著作権侵害、広告引き揚げと、ここにきてネットの様々な問題が一気に噴出しましたが、それらは偶然なんでしょうか?
ネットの中にジャーナリズムが生まれて、個人がブログで批判するというレベルを超えてきたのが原因かな、と思いますね。
――新聞メディアが相互批判するように、ネットが力を持って、互いを監視するようになってきたからということですか?
かもしれませんね。匿名の人に告発されて炎上する、といった形とは全然違う流れが起き始めています。ネット上でいろいろなメディアが出てきたことも、そんな流れを加速させたと思います。
――会社を作ったころ、ネットの理想像をみんなで追い求めるのが面白かったという発言がありました。ひょっとして、またネットの理想形を再び追えるようになった今の状況も面白くなってきたと思っていませんか?
今も面白いですね。まだまだいろいろなビジネスができるし、ネットの情報はさらに良くなっていくと思います。多様化という意味では、もう限界なくらい多様化しています。そこからまた、面白くなってくると思います。
DeNA問題は「お粗末」
――今田さんは「ビジネスインサイダー」(※)とも提携しましたね。どんどん媒体も増えて、会社も大きくなっていますが、そうなると、なかなか自分ですべてを管理するのが難しくなってくると思います。DeNAの調査報告書(※)を読まれたかと思いますが、コンプライアンスの部分で、自分たちもこうした失敗をしてしまうのではないか、という示唆に富んだ警句がたくさん並んでいました。どういうふうに読みましたか?
※ビジネスインサイダー=2007年に立ち上げられたビジネスニュース専門サイト。米国を拠点にしているが、15年、ドイツのメディア企業アクセル・シュプリンガーの傘下に入った。日本版は17年1月にサービス開始。メディアジーンが運営している。
※DeNAの調査報告書=運営する10サイトで著作権侵害や根拠に乏しい記事が多数見つかった問題を受けて、DeNAが設置した第三者委員会(委員長・名取勝也弁護士)によるサイト関係者などへの聞き取り調査の結果をまとめた報告書。2017年3月13日公表。最大で全体の5・6%の記事に著作権法違反の疑いがあると推計したほか、記事に付けた画像約75万点にも同法違反の可能性があると指摘した。
どこの会社でも同じかなと思っています。どこにでも起こり得る問題だったと思うんですよね。結局は、人なんですよ、全部、人。別にDeNAの話だけではなく、情報漏洩ろうえいといった問題も、システムではなく、結果は人です。人の教育と、理念をどうやって伝え、どう教育をしていくかが、一番大事なんです。「こういうことはやってはいけない。我々はこういう考えで会社を運営している」と、とにかく言い続けるということと、仕組みを作ること。それこそ、うちもチェックリストとかいっぱい作っていますよ。
とはいえ、アルバイトや新卒1年生の子が最初から同じ考えを持てるかというと、それは難しいという前提でやっています。どんな若手でも大事なことを共有していくようにならないといけない。だからこそ、企業の責任はすごく重いです。そこはもう、コストとしてちゃんと見ないといけませんね。
――報告書には何回も出てきますが、コストをかけすぎると儲からないからそこを避けたり、マニュアルはあるが徹底されていなかったり、そのマニュアルが間違っていたりということが指摘されていました。問題を起こしたサイトをもともと運営していた会社をDeNAが買収した時、自分たちよりも小さな、彼らのようなベンチャーこそが正義というふうに考えていたようです。むしろ、彼らにDeNAの考え方、方針をしっかり教育しなければならなかったのに、むしろこういう勢いのある新興企業のほうが正しい、と考えた。「何でも早くやれることが、大企業よりもずっと偉い」という、買収した方が妙に遠慮する空気があって、自分たちのDNAを植え付けることができなかったと、指摘されていました。そういうことって、起こり得ると思います。
でも、まあ、本当にさっきから申し上げているように、最初からずっと歴史を見ている者の立場で言わせていただくと、「またか」っていう感じもあります。新しいけれど、古い話なんですよ。
――お粗末ですか?
お粗末ですね。だって過去にさまざまな会社で何度も起こっていることですし。あんまりよそ様の会社のことは言いたくないですが、法務部門からグレーの警告が出ていたというのも、もっともだと思いますね。問題は、やっていることが法律的にグレーだと社内で指摘されたときに、どう判断するか、なんだと思います。
「メディアとしての矜持がない」
――ちょっと驚いたのは、目標とする自社株の時価総額を最初に決めて、そこから逆算して、メディア部門のあらゆる目標を決めていたということです。それしか指標がなかったということも、メディアの人間から見ると信じられません。
資本主義の悪いところじゃないですかね。やっぱり、メディアとしての矜持きょうじがないと思います。その一言に尽きます。メディアとは何か、ということを知らないんですよ。それだけの話ですね。メディアは社会の公器だから、基本的にはすごい責任を負うものだということが分かっていない。現在メディアを名乗る企業のなかには、プラットフォームのつもりでやっているところが多い。サービスのつもりなんです。(メディアとサービスは)全然違うから。サービスだったら、あれでいいのかもしれません。要は、ルールだけ決めて、みんなが勝手に書き込みできれば良いんです。メディアを名乗る以上は責任がある。その違いだと思う。
――確かに彼らは、自分たちをプラットフォームだと思っていた節があったし、何かあったら、「自分たちはプラットフォームだ」というふうにユーザーにも答えろというマニュアルがあったみたいですね。
だとしたら、サービスとして恣意的なところがないようにしないといけませんよね。ルールだけ決めて、あとはユーザーに自由に使わせるというようにしないといけない。そこが間違ったところです。あれが、個人が勝手に書いているもので、勝手に誰かが読むのなら、ブログサービスと変わらないです。中身に関して関知しないのはプラットフォーマーとしては、「あり」だと思います。なんだか中途半端に、編集部を作っていたというのが問題なんです。
――こういうことは何度も起きたというご指摘でしたが、さすがに、もうこういった事件は起きないと思いますか?
起きないといいですね。そう思いますね。何回も見てきたんですけど、さすがにこういうふうに報道されたら、またやる人はいないと思いますけどね。でもやっぱりメディアというものに対しての誤解は、まだあると思います。メディアなのか、プラットフォーマーなのかという境目はものすごく重要で、あいまいにすべきではないのに、それをわかっていない人が多すぎる。
――たしかに、その境目を簡単に超えますよね。超えるならば、覚悟をもって超えなさいということですね。
絶対そうですよね。そこは本当に重要なので。  
 
 
■朝日新聞の矜持 2017/3

 

国境なき記者団が発表した2016年報道の自由度ランキングで日本が全180か国中72位であることには納得する。主要メディア幹部が国会の山場で首相と度々会食する事実と、そのお追従に似た報道内容は比例している。
しかし、その中には真にジャーナリストでありたいと考える人々がいて、微妙なせめぎあいの中で今日の状況のあることを冷静に見る必要もある。だから、批判は批判として、頑張ったペンの力には正しい称賛が必要だともいわれている。そこで私は、閣議決定後の「組織的犯罪処罰法改正案」などという誇大広告に従わず、一貫して「共謀罪」という言葉で見出しを作っている朝日新聞にエールを送りたい。
まず、22日朝刊の「天声人語」を転記したい。
やさしい「父(とう)べえ」は大学を出たドイツ文学者。戦時体制下で治安維持法に背く「思想犯」として逮捕され、長く拘留される。家族との連絡は検閲された手紙だけ。妻子は困窮する。2008年の映画「母(かあ)べえ」である▼治安維持法は1925(大正14)年4月にできた。当初は共産主義を抑え込むための法律だったが、取り締まりの対象は言論人や芸術運動にまで広がった▼法律制定にあたり、ときの内相若槻礼次郎は「抽象的文字を使わず具体の文字を用い、決してあいまいな解釈を許さぬ」と答弁した。司法相の小川平吉は「無辜(むこ)の民にまで及ぼすというごときことのないように十分研究考慮を致しました」と説明した▼90年以上たったいま、国会で似た答弁をしきりに聞く。犯罪を計画段階で罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ法改正案に対する安倍晋三首相の説明だ。「解釈を恣意(しい)的にするより、しっかり明文的に法制度を確立する」「一般の方々がその対象となることはあり得ないことがより明確になるよう検討している」。その法案がきのう閣議決定された▼3度も廃案となった法案である。時代や状況は違っても、政府とは何かと人々を見張る装置を増やそうとするものなのか。政治権力の本能を見た思いがする▼「母べえ」が描くのは、捜査機関の横暴だけではない。法と権力を恐れ、ふつうの人たちが監視する側に回る。秩序や安全を守るという政府の声が高らかに響き、社会はじわじわと息苦しさを増していく。
そして22日夕刊の「素粒子」である。
テロ対策の金看板を掲げた共謀罪。羊頭狗肉(ようとうくにく)の見本のような。しかも、はやりの一匹狼(おおかみ)テロリストには効果なし。
○ 競馬法も職業安定法も商標法もテロ対策か。テロ集団がノミ行為をしたり、仕事を紹介したり、偽物を作ったり?
○ 私は「一般人」か。国会前デモにいたら。その団体はいつ「一変」するか。常時監視のオーウェル的社会の到来。
共謀罪は内心を処罰する治安維持法だ。
朝日新聞もこう言っているぞと話を広げたいものだ。  
 
 
■誰のものだか分からない新聞社 2003/11

 

読売、朝日、毎日、産経、日経と日本を代表する新聞社の株主が誰なのか。調べても分からないという事実があったとしたら、どう思うだろう。看板だけはあっても、それが誰の看板なのか分からない会社の書いた記事をいったいどう判断したらいいのだろうか。
同じ新聞でも聖教新聞や赤旗は一般紙とは言わない。それなりに編集方針がしっかりしているし、発行部数も聖教新聞は550万部と毎日新聞の400万部より多い。赤旗は35万部と東京のシティリビングの倍ほどある。しかし、多くの人は聖教新聞や赤旗に報道の客観性や中立性を求めていない。理由は、聖教新聞は創価学会のものだし、赤旗は日本共産党のものだからだ。
新聞は誰が発行したのか、本当は誰もが気にしている点なのだ。でも、日本を代表する中立公正の新聞各社が誰のものなのかは聞こうとしないし、新聞社も積極的に自分の会社を公開しようとしない。
読売新聞社の株主は持ち株会社の「読売新聞グループ本社」だが、そのグループ本社なる株主が誰なのか、つまり誰のものなのかは非公開。説明されていない。読売新聞社は1924年(大正13年)に警視庁の警務部長だった正力松太郎が警視庁を辞めて買収した会社だ。恐らくこの歴史を考えると正力松太郎の相続人が株主なのだと思う。長男の正力亨氏、長女の婿である元自治省事務次官の小林与三次氏、正妻以外の人との間に生まれた正力武氏は読売新聞社と読売新聞が作った日本テレビの経営にも顔を出す。
朝日新聞社の株主は直接電話で聞いたところでは、上野家と村山家に社員が株主だと広報の人が答えていたが、積極的な返答ではない。上野家と村山家などと答えるからにはそれなりに影響があるのではないかと勘ぐりたくなるが、表面的には歴史が続いている。朝日新聞は村山龍平が始め、それに上野理一が加わり両名が創始者。出資金を村山が3分の2、上野が3分の1出したとされ、以降二人が朝日新聞の社主だ。NHKの調べによれば、現在の社主は村山美知子氏と上野尚一氏だ。
毎日新聞社は日本最古の新聞だが、原敬や小松原英太郎など政治家が社長になった時代から躍進が続いた。オーナー色が薄く石油危機のときに経営が悪化し、1977年に新会社を作って再出発を図った。NHKの調べによれば株主は社員株主会と栃木の下野新聞社だ。
産経新聞社の株主はフジテレビ。フジテレビの株主はニッポン放送と文化放送。ニッポン放送の1割弱の株を鹿内宏明氏が持っている。
日経新聞は、世界一の経済新聞だが、株主は社員株主会だ。子会社が35億円の不正経理を行い主犯格3人を東京地検特捜部に刑事告発していたが、今回その3人が逮捕されて昨日の新聞に載った。日経新聞も一面を裂いて報道しているが、すっきりした報道ではない。誰が何のために誰を追及しているのかが分からない。会社が誰のものだかはっきりしていないからだ。
株式が公開されていないのは、日本の新聞社だけではない。世界的な傾向だ。理由は中立な報道を続けるために、偏った株主に左右されることを恐れるためだ。朝日新聞の株をビル・ゲイツが全株買収したら、ウィンドウズをめぐる報道は、朝日一紙では納得できなくなるだろう。アメリカをめぐる報道も圧力がかかっているのではないかと思いたくなる。報道の客観性は確かに失われる可能性が大きい。
しかし、それより悪いのは誰がその会社を所有しているかが分からないことだ。仮にビル・ゲイツが朝日新聞の大株主になったら、読者はそのつもりで朝日の記事を読めばいい。いくら中立公正な報道姿勢をうたっても、記事は人間が書くものだ。書く人の立場で物事は違って見える。一番重要なことは、その記事がどういう立場で書かれているかが明らかになっていることだ。
新聞社は誰のものだと聞けば、新聞社の人は読者のものだと言うだろう。読者が読者に記事を書くはずがない。みんなのものと言えば聞こえはいいが、みんなのものなんていうものはこの世の中にはない。結局誰のものかはっきりしないと無責任な行動が横行し、私物化する人が出てくるのだ。  
 
 
■テレビ局って結局、何者? 2003/11

 

インターネットが猛烈な勢いで広がっていても、世間の動きはテレビや新聞を見ないとどうも落ち着かない習慣が誰にでもある。マスコミの影響は甚大だ。特にテレビはほぼ100%の国民に身近な存在として君臨している。
だけど、いったいどんな人たちがそういうニュースや番組を世に送っているのかの関心はあまりない。我々はただチャンネルを回すだけ(今はリモコンを押すが正しいか)。放送局が違うのは教育テレビぐらいで、あとは面白そうな番組を選んでいるだけだ。
これが、危ない。なぜって、そのニュースの内容が正確か、あるいは番組の内容が適切かの判断は、事実上できないからだ。テレビで流されれば、そう間違った事は言わないだろうと安心しながら見ている。
だいたい、人間は、誰かにものを言われれば、「それ、誰が言ったの?」と確認したくなる動物だ。テレビだって、いろいろなテレビ局があるのだ。一覧にまとめたので、おさらいしよう。

テレビ局名 / チャンネル / 経営会社名 / 会社形態 / 出資者 / 年間売上 / 従業員数 / 関係全国紙
NHK / 1・3 / 日本放送協会 / 特殊法人 / 不明 / 6,738億円(予算) / 11,944名 / なし
NTV / 4 / 日本テレビ放送網(株) / 一部上場 / 読売新聞グループ本社(8.4%)・渡辺恒雄(6.3%)・読売テレビ(5.9%) / 3,350億円 / 1,356名 / 読売新聞
TBS / 6 / (株)東京放送 / 一部上場 / 毎日放送(1.9%)あとは持合 / 2,870億円 / 1,367名 / 毎日新聞
フジテレビ / 8 / (株)フジテレビジョン / 一部上場 / ニッポン放送(34.1%)、文化放送(3.6%)、東宝(6.8%) / 4,200億円 / 1,378名 / 産経新聞
テレビ朝日 / 10 / 全国朝日放送(株) / 一部上場 / 朝日新聞(33.8%)、東映(16.0%)、小学館(4.6%) / 2,080億円 / 1,309名 / 朝日新聞
テレビ東京 / 12 / (株)テレビ東京 / 非上場 / 日本経済新聞(?%) / 1,082億円 / 785名 / 日本経済新聞

NHKはもともと東京と大阪と名古屋のラジオ局が合併して1926年に社団法人日本放送協会ができたのが前身。当時は民間にやらせるべきだという声も大きかったが、犬養毅逓信大臣が政府権限を主張して、政府が干渉しやすい社団法人にした。
その後1950年に放送法に基づいて社団法人は解散し、現在の特殊法人日本放送協会が発足した。その際に社団法人の財産を引継いだはずなのだが、調べてもよく分からないので、出資者欄は「不明」とした。
NHKは大変な額の予算と圧倒的な人員で番組を独自に作っている。民放は今は約7割の番組をプロダクションに発注しているので、従業員数がNHKに比べ極端に少ない点は注訳がいる。NHKは広告主に左右されない、視聴者からの金銭で公平な報道と最適な番組を作っていると主張するが、そこに落とし穴がある。
視聴者からの受信料でほぼすべてがまかなわれているのは事実だ。だから、公平だというのは間違いだ。放送法により、NHKは12人の経営委員により経営されているが、この委員は国会の同意を得て総理大臣が任命する事になっている。さらに、事業計画や予算も国会の承認が必要。 ということは、実質的に国が握っているということだ。国とは通常官僚のことで、旧郵政省の総務省がいろいろ決めている。有事になれば当然内閣や国会の意思が入り込む。公平中道では決してない。 だいたい、どんな組織でも金と人がすべてを決める。誰が出資しているかはその意味で大変重要な問題だ。
HNKは国が金を出していはいないが、直接税のような受信料を独自に徴収している。視聴者の互選で経営者を選んでいるわけじゃないから、金を出している人たちの意見は経営には反映されない。経営者は国が選んでいる。だから、国営放送と言われたりする。
民間のテレビ局はどうだろう。日本テレビは読売新聞のもの同然。テレビ朝日は朝日新聞のもの同然。これは一目瞭然だ。日本テレビは去年の7月突然できた読売新聞の持ち株会社「読売新聞グループ本社」の社長・渡辺恒雄の影響もきちんと見える。
フジテレビは、フジサンケイグループで有名だが、開局の経緯が、ラジオ時代全盛の時期にテレビ時代到来を読んだラジオ二局が出資して始まった事から今でも大株主はニッポン放送と文化放送のラジオ局だ。
このニッポン放送の大株主に鹿内宏明(9.3%)が隠れている。鹿内ファミリーに牛耳られていたというフジサンケイグループは、1992年7月に「クーデター」があり鹿内宏明社長は解任された。その後経営がどう変ったのかははっきりした説明はない。
渡辺恒雄も鹿内ファミリーももともと会社を興したわけでも私財を費やして会社を救ったわけでもないが、まるでオーナーのような社内権力の中枢に上る力量を許す体質がマスコミ界にはある。それほど、経営が開かれていない。開かれていない経営は外部からの攻撃には強いが、内部の一部隆盛にはとことん弱い。
非上場のテレビ東京もその恐れはさらに深刻。母体の日経新聞は鶴田前会長のワンマン振りをスキャンダラスに取り上げられたのがつい最近のこと。
お金のかけ方によっても番組内容は違ってくる。単純には比較できないが、テレビ東京が1とすれば日本テレビはその3倍、フジテレビは4倍、NHKは6倍の予算がかけられる金がある。
それにしても、今回も調べていてうんざりしたことがある。会社の経営についてしっかりアピールしているテレビ局がないのだ。オーナー会社の中小企業だってもうちょっとましなアピールがある。第4の権力と言われるマスコミが、自らの姿勢をアピールしないのはフェアーじゃない。そんなところが報道合戦するから品位がなく、報道被害者が現れるのだ。
心してテレビは見ないと、騙されたとあとで気付くことになるぞ。新聞はさらに悪い。