杓子定規

杓子定規諸説 
 
【杓子定規】 
誤った基準でものをはかること。あるものにしかあてはまらない規準をむりにあてはめようとすること。きまりきった考えや形式にとらわれて応用・融通のきかないこと。 
状況に当たって適時な判断を取ることができない人間、あるいはそのさま。(語源的には、「杓子」という、本来は曲がっているものを「定規」の代わりに使う、という、無理に道理を合わせる、という意) 
曲がっている杓子を定規代わりにすること、正しくない定規ではかることの意から、すべてのことを一つの標準や規則に当てはめて処置しようとする、融通のきかないやり方や態度。また、そのさま。 
誤った基準で物事を判断すること。.ある決まり事を何にでも当てはめ、融通の利かない様。慣例に固執すること。緊急時に杓子定規な対応をしていては間に合わない。語源/本来曲がっている杓子を、まっすぐな定規として使おうとする様子から。 
『杓』は形声文字であり、声符は「勺」(しゃく)。 「勺」はひしゃくの形であり、『杓』は木製のひしゃく。 「杓子定規」は、もとは「杓子を定規にする」の意で、曲がった杓子を定規の代わりとすることから、誤った基準で物事を判断するという意味で使われていたが、現在では、すべてを一つの基準や形式に当てはめて判断したり処理したりすること、融通のきかないことを意味するようになった。 
言葉の意味が時代の進行により変化することがある。「杓子定規」もその例にもれず、本来の意味は曲がった杓子を定規の代わりに使うことから、誤った基準で物事を判断するという、強引さを非難する言葉だったが、現在ではすべての事例を一つの基準や形式だけで判断する融通のなさを非難する言葉として使われている。 
意味が変化した理由や時期については不明であるが、杓子は 飯を盛ったり汁をすくったりする道具のことで、頭が丸く中くぼみの皿形で柄がついている。形・材質などから、木じゃくし・玉じゃくしと言い、特に飯用のものは「杓文字」(しゃもじ)という。 
「猫も杓子も」と、誰も彼もという意味の言葉があるが、これは1668年に書かれた「一休咄(はなし)」の一節に「生まれて死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」とあり、「猫」は「神主」を表す「禰子」(ねこ)、「杓子」は「僧侶」を表す「釈子」(しゃくし)で「神主も僧侶も」が「猫も杓子も」に変化したものだと言われている。 
「お玉杓子」という道具があるが、これは滋賀県の多賀神社でお守りとして売られていた「お多賀じゃくし」がなまって、「お玉杓子」となったとの説がある。そう言えば安芸の宮島では、お守りは「杓文字」である。カエルの子を「オタマジャクシ」と呼ぶのは、その形が「お玉杓子」に似ているからで、音楽の音符も同様の理由から、やはり「オタマジャクシ」と呼ばれている。 
規則や形式などにとらわれて応用や融通のきかないこと。 
現在「杓子」という呼び方をしなくなったので、そもそも「杓子」が何かということからはじめます。 「杓子」(しゃくし)飯・汁などをすくう皿形の部分に、柄がつけてある道具。 現在は、ご飯用は「しゃもじ」、お汁用は「おたま」と使い分けていますね。 
「しゃもじ」の語源は、「杓子」の頭字「しゃ」に接尾語「もじ」が付いた女房言葉(にょうぼうことば)です。本来「杓子」は飯・汁をよそうものですが、しだいに米飯をよそうものを「飯杓子」(めしじゃくし)、汁用を「お玉杓子」と使い分けました。その後、飯用のものを「しゃもじ」というようにりました。  
ちなみに、カエルの子の「おたまじゃくし」の語源もここからきているとのこと。 
さて、その「杓子」の柄は、古くはたいてい曲がっていました。その曲がっている柄を「定規」代わりに使うということで、誤った基準でものをはかろうとすることをいい、転じて、融通のきかないやり方や態度をいうようになりました。 
「杓子定規」って、曲がった柄を定規に使うことからきていたんですね。 
ところで、「曲尺」は、なんと読むでしょう?「かねじゃく」と読みます。主に大工さんが使う金属のL字型モノサシです。金属でできていますが、「金尺」ではないんですね。曲がった尺。 
「かねじゃく」は「矩尺」とも書きます。 
「矩」曲尺に同じ。さしがね。のり(法則)。きまり。四角。矩形(くけい)は“長方形”のことです。 
杓子定規に似た意味に「四角四面」がありますが、こちらは真四角=正方形のことです。 
類語・縁語 
一律に・画一的に・機械的に・杓子定規に(当てはめる)・(全部)ひっくるめて・(すべてを)一緒にして・(特殊事情を)無視して・十把ひとからげに(論じる)  
「物差し」と「定規」 
「物差し」と「定規」は混同されやすい言葉ですが、二つの意味を正確に使い分けている人は少ないようです。『定規で長さをはかる』、『物差しで線を引く』といった表現は誤りでいい間違えやすい用具です。「物差し」と「定規」ではその機能が異なり、物の長短を差しはかる道具は「物差し」、直線や曲線、角を引くため、または紙、木、布など裁断する物にあてて用いる道具が「定規」です。「定規」には三角定規、雲形定規、T定規などの種類があり、市販されている直線定規の多くには目盛りがあるため物差しとしても使用されています。 
ちなみに「杓子定規」という言葉は、(1)曲がった杓子の柄を定規として利用することから正しくない定規で線を引くこと。無理に道理をあわせること。(2)一定の標準を強いて他を律しようとすることから形式にとらわれて応用や融通のきかないこと。と、二つの意味があります。この杓子定規を使って線を引くだけでなく物事をはかるのは、融通の利かない歪んだ基準で計測されることとなり尺度が歪んでしまいます。  
  
【杓子】汁や飯などをすくうのに用いる具。頭は汁用が小皿形、飯用は平板形。古くは木製や貝製を用いた。頭のようにまるくて中のくぼんだ形をいう。 
杓子であてがう
 きまりきった取り扱い。 
杓子で腹を切る できるはずのないことをする。不可能なことをする。形式だけのことをする。 
杓子は耳掻(みみかき)にならず 大きい物が必ずしも小さい物の代用になるとは限らない。 
杓子を定規にする 正しくないものを基準とする。 
杓子を渡す 姑が嫁に世帯の切り盛り役を譲る。 
嫁に杓子を渡す 姑が主婦の座を嫁に渡す。 
重箱の隅を杓子で払う あまり細かい点まで干渉しないで、おおめに見るべきだというたとえ。 
猫も杓子も なにもかも。だれもかれも。 
杵であたり杓子であたる やつあたりする。 
擂り粉木で芋を盛る (丸い棒で、丸い芋を皿に盛りつけようとしてもできないの意)不可能なことのたとえ。杓子で腹を切る。 
心の掟(おきて) 心に守るべき価値基準。心がまえ。心の持ちかた。 
針の穴から天を覗(のぞ)く 自分の狭い見識を基準にして広大なことについて勝手な推測を下す。
  
【杓子当】杓子で盛り分ける具合。杓子で盛る食べ物の量の多少。客に対する好意の度合。 
【杓子貝】「いたやがい(板屋貝)」の異名。 
【杓子顔】額とあごとが出て、中央のくぼんだ顔つき。杓子面(しゃくしづら)。 
【杓子形】杓子のような形。 
【杓子果報】食物をたくさん分けてもらうこと。うまい食物にありつく好運。 
【杓子草】「からすびしゃく(烏柄杓)」の異名。 
  
【杓子面】しゃくしがお(杓子顔) 
【杓子菜】「たいさい(体菜)」の異名。 
【杓子渡】主婦権を譲り渡すこと。姑が嫁に家政を任せること。 
【御多賀杓子】滋賀県多賀町・多賀神社が長命のお守りとして出す柄の曲がった杓子。 
【網杓子】目の細かい金網で作った杓子。汁の実などをすくう。 
【孫杓子】越前国(福井県)南条郡湯の尾峠の茶屋で売られたお守りの杓子。疱瘡や麻疹など小児の病気に霊験がある。
 
【御多賀杓子】(おたがじゃくし)滋賀県多賀町の多賀大社で、お守として出す柄の曲がった杓子。 杓子のなかでも、滋賀県多賀大社がお守りとして出している杓子が、杓子を代表するもので「御多賀杓子」とよばれる。これが転じて「おたまじゃくし」「おたま」になったとする説もある。ちなみに、カエルの子のおたまじゃくしの語源もここに由来する。 
長寿と縁結び、厄除けの神様として古くから信仰を集める社。伊勢神宮の祭神、天照大神の親にあたる伊邪那岐命と伊邪那美命を祭る。お多賀杓子は、無病長寿のお守りとして親しまれている。養老年間(717-724)元正天皇が病の際にシデの木で作った杓子を神供の飯に添えて献上したところ、病がたちまち回復したという故事にちなみ、現在の「お玉」の語源となったといわれる。 
【御玉杓子】柄のついたまるい汁杓子。汁をすくうのに使う丸い杓子。「御多賀杓子」に基づく語ともいう。カエルの幼生。卵から孵化(ふか)して成体になるまでをいい、丸い体に尾がある。蝌蚪(かと)。かえるご。楽譜の音符の俗称。
  
【金杓子】金属製の杓子。 
【飯杓子】飯を盛るときに用いる杓子。いいがい。しゃもじ。 
【穴杓子】金杓子に細かい穴を数多くあけたもの。汁の中から煮物やだしがらなどをすくい上げるのに用いる。あなあきじゃくし。 
【下取杓子】(したとりしゃくし)茶道で炉の中をならすとき灰をとるための杓子。底取。 
【船幽霊】磯や海上に出るという妖怪。杓子を要求するが底をぬいて貸さないとその杓子で水を掛けられて沈められるという。 
【貝杓子】板屋貝、帆立貝などの殻に竹や木の柄をつけた杓子。汁物をすくうのに用いる。近世にはお年玉として配ったりした。 
【杓文字】(「しゃくし(杓子)」の後半を略し「文字」を添えた女房詞が一般化したもの)汁や飯などをすくう道具。めしじゃくし。いいがい。
  
【定規・定木】規準や手本となるもの。模範。規範。 
【樋定規】ひじょうぎ 細長いみぞを彫りつけた定規。 
【手前定規】自分勝手に定めた理屈。ひとりぎめ。 
【木尺・木矩】きがね 表具師が、模様のゆがみをしらべ、直すために用いる木の定規。 
【定則】一定の法則。一定のきまり。定規。 
【定規】一定の規則・規約。いつもきまっていること。いつもと同じであること。 
【罫引】紙などに罫(けい)を引くこと。また、その引いた線。指物師などが罫を引くのに用いる木工具の一つ。木製の定規板と、それに直角にとりつけられた調節のできる棹(さお)と、棹の先に固定された刃または針から成る。
  
【卦算】けさん(易の算木の形に似ているところからいう) 線を引くための定規。 
【大矩・大曲】(おおがね)建築・土木で、直角を測るのに用いる大型の三角定規。 
【曲尺・矩尺】(かねじゃく)大工、木挽(こびき)、杣(そま)、建具師などの木工職人が使う、定規を兼ねた物差し。金属の平板をL型に作り、表の長い方には一尺五寸、短い方に七寸五分の目盛りを刻み、裏は一尺を√2倍した目を盛る。まがりがね。かねざし。かね。大工がね。鯨尺(くじらじゃく)の八寸を一尺とした尺度の物差し。明治七年に定められた原器の長さは約30.3cm。また、それを用いた測り方。かねざし。かね。
  
【形板・型板】所要の曲線や文様の形に造った板。これを定規にして、その形を材に写し、材を成形する。製図のときにも用いる。 
【規矩術】(きくじゅつ)物指、定規、コンパスなどを用いて、建築物の構成や構造部分の意匠を立体幾何学的に求め、実体の上に割り付け、作図する方法。 
【基準】ものごとの基礎となる標準。 
【基準階】高層建築などの平面計画で、各階ともに同じつくりの平面のときに、それらの代表とする階。 
【基準時】統計学で、物価指数、生産指数など時間に対する変化を指数化するとき、比較の基準とするために選定された特定の時期。 
【基準線】土木工事の高低測量で地表の縦断面に想定した基準となる線。基線。基本水準線。 
【基準面】山や陸地の高さ、海や湖沼の深さなどを測る基準(0メートル)となる面。 
【標準】判断、行動などのよりどころとするものや比較のもとにするもの。めじるし。基準。平均的な度合。なみ。普通。
  
【余る】ある基準を越えて余分が出る。必要を満たして残る。「品物(金)が余る」 
【寸法】基準になっている長さ。判断や行動の基準となるもの。 
【升】(しょう)尺貫法の容積の単位。合の10倍、斗の1/10。約1.8039L。律令制では大升と小升を定め、大升は小升の三倍。常用枡には小升をあてたが、和銅六年改定して常用枡を大升と称した。この和銅の大升の容積は今の枡の約四合強に相当すると推算される。以後量制は乱れて統一を失ったが、延久年間宣旨枡(せんじます=今の枡の約六合二勺強)が出て基準枡の役割を果たした。こののち中世を通じて枡には基準となるものがなく混乱し、私枡、地域枡が横行し、十進法によらないものもあったが、商業の発達により今の枡よりやや小さい京都の京枡が基準枡の性格を帯びはじめた。江戸時代に入って幕府は枡座を設け、寛文九年新京枡を制定して全国的に量制を統一し、明治に至った。 
【以上・已上】ある数量や程度より上であること。(数量、段階などの基準を表わす語について)その基準を含んでそれより上であることを示す。(二つの物事を比較するとき一方の事柄を表わす語について)他方がそれより程度の著しいことを示す。 
【以内】(時間、距離、その他数量や順位を表わす語について)ある基準を含んで、それよりも数量の少ない範囲。
  
【以下・已下】(数量、段階などを表わす語に付いて)その基準より下であること。数量などについてはその基準を含み、優劣の比較などについては、それを含まないことが多い。 
【遅れる・後れる】才能、性質などが標準に及ばない。ふつうより劣る。 
【物差・物指】物の長さを差しはかる道具。竹・鉄・プラスチックなどで作った細長いもので長さの単位の目盤がつけてある道具。さし。尺度(しゃくど)。尺。物事の価値などを判断する基準。評価の基準。尺度。「自分の考えを物差しにして判断する」 
【原点】長さなどを測るときの基準となる点。物事を改めて考えるときなどに立ち帰るべき根源の点。「原点に立ち帰る」
  
【相対】他との関係において在ること。他のものがなければ存在もしないし、考えられもしないこと。条件によって変化すること。絶対に対していう語。 
【単位】長さ、重さ、量などの数量を計算するときの基準となるもの。一般的に物事の比較計算の基となるもの。 
【公定】おおやけにさだめること。政府、官庁や公共団体などが公式のものとして決めること。 
【根本】(こんぽん)基準となるもの。あるべき姿。標準。 
【大義名分】人として守らなければならない根本的な道理、または分限。行いの基準となる道理、理由づけとなる明確な根拠。 
【水準】事物の価値、機能などの一定の標準。レベル。「国民生活の水準」
  
【落第】一定の基準に達しないため認められないこと。不適当。不適格。「彼はリーダーとしては落第だ」 
【良い・善い・好い・吉い・佳い・宜い】あるべきさまである。ふさわしい。基準を越えている。十分すぎる。 
【緩める・弛める】きびしさを緩和する。厳格さや苛酷さの程度を弱める。手心を加える。 
【豊か・饒か・裕か】他の語に付いて、基準・限度を越えて十分にあるさま、余りのあるさまを表す。「表情豊かな演奏」 
【目安】目あて。目標。めじるし。基準。標準。
  
【目当】物事を行う場合などの基準や目標。「A君目あてに勉強する」 
【満ちる・充ちる】ある基準に達する。満期になる。一定の期間が経過してくぎり目の時期がくる。 
【本位】判断や行動をするときに中心とする基準。「自分本位の考え方」 
【外・他】程度や事柄が、ある基準のそとにあること。考えていたことと全く違うこと。道徳・倫理などにはずれること。とるに足りないこと。 
【落ちる・堕ちる・墜ちる】物事の位置、程度が低くなる。物事がある基準より劣る。「品が落ちる」 
【篩う】(ふるう)ある基準にもとづいて選び分ける。より分ける。選抜する。 
【部】物事を、評価などを基準として区分けしたもの。種類。部類。「上の部」 
【品性】道徳的な基準で見る人柄・人品・人格。 
【遅・後】他のものより後になる。ある基準よりおそくなる。時勢・流行などにとり残される。
  
【抜く・貫く】基準となるものより上になる。「群を抜く」 
【問う・訪う】他にものを言いかけたり、調べたりする。(打消の語を伴って用いる)問題にする。あることについて、それを区別の基準にする。「年齢・学歴・経験を問わず」「男女を問わない」 
【伝】基準となるやり方に従った方法。しかた。俗ないい方で形式名詞としても用いられる。「その伝でいく」 
【丁度】時刻や物の分量が、ある基準に過不足なく一致することを表す。きっかり。ちょっきり。ぴったり。 
【廉】(かど)数えたてるべき箇条。条理。目につく特徴。「基準法に違反したかどでとがめられる」 
【恒常】定まっていて変わらないこと。不変。守りしたがうべき不変の基準。 
【恰好・格好】基準、標準と合うこと。ちょうど合うこと。ふさわしいこと。
  
【公序良俗】公共の秩序と善良な風俗。法律の解釈・適用の際の基準の一つ。 
【先例】将来の同種の事象の基準となる例。前例。「悪い先例を残す」 
【四善】(しぜん)四つの美点。古く中国で官吏の勤務成績を考査する基準で徳義・清慎・公平・恪勤の四つ。 
【規範・軌範】判断・評価・行為などの基準。 
【差目】(さしめ)物差の尺度の目。物差の寸尺の基準。江戸時代、遊里の酒席で杯を差して酒をすすめること。 
【労働基準法】労働者を保護するために労働条件の最低基準を定めた法律。昭和22年制定。労働契約、賃金、労働時間・休憩・休日および年次有給休暇、女子および年少者、技能者の養成、災害補償、就業規則、寄宿舎、監督機関などについて規定する。略称、労基法。 
【労働貴族】労働者階級の中で一般の労働者より高い賃金や社会的・政治的な地位・特権をもち、意識的にもプチブル化した上層部分。大企業の労資協調的な労働組合の幹部をさす。 
【労働協約】使用者またはその団体と労働組合との間で結ばれる賃金・労働時間などの労働条件の基準を定めた協定。
  
「杓子定規」諸説

 

大切な杓子定規  
愛知県の中学校で2月14日に生徒が校内にバレンタインチョコなどを持ち込んだとして、一部の部活動を1週間ほど停止していたそうです。父母からは「厳しすぎる」という声もあるそうですが、学校側は「校則違反であり、守っている生徒もいる」と対応したとか。  
要は「勉強に不要な物は持ち込まない」という校則に違反したという事。という事で違反した生徒が所属する複数の部活動を1週間ほど停止。結果的に持ち込まなかった生徒も部活動ができなかったそうです。  
校長は「バレンタインデーを否定するつもりはないが、校則を守っている生徒もいる。指導を受けた生徒も理解してくれている」とコメント。学校長としての一本筋の通ったコメントでした。  
自身が教職の時は禁止ではありませんでした。というか黙認をしていました。新卒時代の小学校では50個以上子供からもらいました。一寸したスター並みでしょ。で…お返しはしなかったなぁ。今思うとなんというやつだと思います。  
ただお返ししなかった理由は、貰うのはともかくお返しはもらっている子といない子がいるためお返しすることで問題が出てもいけないという配慮でした。ちなみに中学校でも貰っていました。当然生徒に対しても黙認でした。  
それだけのんびりとした時代だったように思います。今は何かと学校現場に多種多様な意見が寄せられている状況、それだけ学校を取り巻く環境が世知辛くなっているような気がします。  
ところで先の学校の校長先生の判断はどうだったか…、本音の部分では「そのぐらいは」という気持ちはありますが、きちっと対応した事に対しては良いと思っています。  
こうした問題で最もいけないのは中途半端な事。特に子供たちの世界では「中途半端」が混乱を呼び、問題になることが多いもの。「杓子定規」は良い言葉としてとらえられませんが、こと学校現場については大切な「線引き」だと思います。  
子供や生徒からもらいっぱなしだったチョコでしたが、さすがに中学校の教員時代には三年間ずっともらっていた子に卒業式にお返しとしてプレゼントをしました。喜んでくれたなぁ。  
こんなことがニュースに?と思う半面、それがニュース…嫌味でなく有難いなと感じます。 

 

いけない杓子定規  
来年13年度の国家公務員の新規採用が平成9年度比で7割減らす民主党の方針に各省庁が抵抗しているといいます。消費増税の前提となる「身を切る改革」の一環ですが、専門性の高い海上保安官や刑務官も例外にしないといいます。  
先日ブログで「杓子定規」の事を書きましたが、この杓子定規はいただけないなと感じます。やはり削減するにあたっては、各省庁の人員数をまず検討する必要があるのではと思います。見直しをする省庁があるでしょうが、逆に専門性のある省庁まで削っていいのかというのが私には疑問です。  
三年前から各警察署の留置場の視察委員を仰せつかっています。犯罪の増加によって留置人の数は増える一方、その中で限られた人数で24時間彼らの監視をする警察官は精神的にかなり大きな負担となっています。  
今回刑務官も削減と言っていますが、日本の治安を守っていくためにもこの職務はかなり大切な仕事となります。その部分までも一律削っていくのは私も反対です。  
当社ではささやかですが、毎年新入社員を1名採用するように心かげています。新しい人が入社することで新たな風が社内に入る、そして組織そのものの硬直化を防ぐ事ができます。  
今回のような削減をした場合、将来彼らが中心となって働く時に、人員が少ないというのは大きなリスクです。やはり素人目に見ても一律という指示は非常識ではないでしょうか。  
「身を切る改革」で公務員、いやいやそんなに公務員を悪者にしていいのでしょうか。私の知っている公務員の人たちは夜遅くまで一生懸命に働いている人が大多数、削減して仕事が増えるとなったら彼らのモチベーションは必ず落ちる事になります。  
それより「身を切る」をキーワードにしたいなら、国会議員の定数や処遇面をまず改善して国民に発信していく事が先の話だと、すべての国民が思っていることだと思います。仕事をしていくのは人、人の気持ちをないがしろにする指示に明るい未来はありません。 

 

杓子定規と役割分担  
近年、「少子化」が問題とされていますが、私は、これは「杓子定規のフェミニズム」に責任の一端があると考えます。  
憲法第14条第1項をはじめ、労働基準法第4条、男女雇用均等法など、様々な法律が「男女平等」を規定しています。このような法律の具備に伴い、社会進出をする女性の数が年を追うごとに増加しています。しかし、これにより子供の出生率が減少しているのも、また事実です。つまり、女性の社会進出率と出生率とは反比例の関係にあるわけです。この反比例の比率を緩和することが、次世代の課題であると私は思うのですが、この妨げになっているのが「杓子定規のフェミニズム」です。これと唱えるフェミニストたちは、上記の条文を文面通り解釈し、「男=女にしろ」と叫んでいます。これは「女性は出産や子育てはするな」ということにつながります。なぜなら、動物の世界において、雄は出産することや授乳することはできません。これをできるのは雌しかいません。にもかかわらず「雌は雄になれ」と言うことは、雌がこれら雌の特権を放棄することを意味するのです。よって出生率を低下させている諸悪の根源は、このような「杓子定規のフェミニズム」にあると私は考えるのです。  
そもそも、雄と雌は違う生き物です。雌が雄になることは絶対にできないのです。ですから、その中で男女平等を実現させるためには、「役割分担」しかないと私は思うのです。つまり、「役割分担のフェミニズム」こそが、少子化に対する最大の打開策なのではないでしょか。 

 

杓子定規の良さ  
とにかく今の時代は、「型どおりきちんとやる」ことが軽視される。逸脱が許されるのは、型や決まり切ったことをなし得てのことである。しかし、何ごとにおいてもきちんとすることほど難しいことはない。これ、ホントに、難しい。勉強が出来る出来ない、というのも、何のことはない、「きちんと順序よくやっていくかどうか」の違いである。出来ない生徒は、「きちんとやる」のを嫌がる。何となくわかっていることを改めてノートなどに表記することを嫌がる。しかし、そのせいで、間違える。でも、自分の間違いの根本的な原因が、その軽率さにあることに気がつかない。  
しかるに、これも、もっともなことである。世の中一般を考えると、「なんとなくわかっていること」はそう確認せずとも、そのまま進んでいける。おまけに、これによって生じる多少の誤解や問題は、勿論、大々的な難題を引き起こすこともあろうが、多くの場合は、目をつむって良い範囲に収まることが多いだろうし、ちょっとした誤解や問題が新しい展開を生み、深い人間関係を培うことでも何でも、功を奏することがある。もっと簡単に言うと、「多くの人はたいてい間違える」から、そこを前提にすればそれはそれでよい、ということだ。  
この観点で言うと、勉強はかなり異質のものである。逸脱を許さないことが基本になる。上記の社会通念に反するというわけである。よって、勉強なんかどうだっていいとか、勉強が出来ることを逆に軽蔑し、侮蔑する要因になる。こうした考え方を持つ人は非常に多い。  
根底に、ちゃんとすることの不快感もある。「きちんとする」のは、ホント、面倒でややこしくて、快感を追求したがる本能に反することなのである。うん、間違いない。数学を勉強したかったら、きちんと机に向かわないといけない。ソファにゆったりと座っていたり、身体を動かすという快感を追求している状態では出来ない精神的、肉体的な負荷がかかる。だから、これがイヤだと思って当然なのである。  
というわけで、「ふつーの人」が肯定的な訓練を受けていない限り、なんだかんだ理由を挙げるにせよ、勉強を毛嫌いするのは当然なのである。  
あー、書くのがめんどーになってきた。  
「自由」や「個性の尊重」を謳う人の気持ちや考え方はなんとなくというか、よくわかっているつもりだ。そんな生徒を長年相手にしてきた。「先生、よくわかっているじゃないか」と何度か言われている。それでも私は「ダメだ」と言うから、徹底的に嫌悪される。「あいつはわからない奴だ」ということである。この際の、私に対する彼らの姿勢は、「完璧な無視」か「徹底的な否定」である。そうでないと、自己を正当化できないのである。  
しかし、この事実はけっこう興味深い。  
授業で雑談をするのが好きである。話の内容は、このブログに書くような内容も多かった。(最近、この手の雑談をしてないから。)「勉強は試験のため」と考える生徒は「かんけーねぇ」と話を聞かない。とても興味深いと聞いてくれる生徒もいる。  
どんな話も、体系化して捉えると面白い。体系化することの重要性やおもしろさを語ることも多い。でないと、勉強は決して出来るようにならない。  
生徒を見ていてちょっと気の毒に思うのは、「ちゃんと勉強をする考え方」を教えられてないことである。何だかなぁと思う。 

 

杓子定規に異議あり  
最寄り駅の近くに、新しい居酒屋がオープンしました。○○○円均一と激安のチェーン店。「モノは試し」と同じ駅で通っている会社の同僚と、2人で立ち寄ってみました。  
店に入ると意外に広く、30〜40席ほどのテーブル席が用意されていました。  
店内は結構、混み合っていましたが、私たちが入ったときは、割と空席も目立っていました。私たちの入店に気がついた店員さんが、席に案内してくれました。  
ただ、ここでちょっと問題が発生しました。  
私たちは2人で訪れたので仕方がないのかもしれませんが、4人掛けでゆったり座れるテーブルがいくつか空いているにもかかわらず、2人掛けの狭いテーブルに案内されたのです。  
ほかのテーブルをみると、4人掛けのところに2人でゆったりと座っているお客さんが、何組も目につきました。これでは平等感がなく納得がいかないので、店員さんに相談してみました。  
すると、店員さんはあっさりと席を替えてくれました。  
その後、その居酒屋は満席状態になることはありませんでした。  
これを踏まえて考えたことがあります。店の効率を考えると、2人で来た客には2人掛けの狭いテーブルを案内するのは合理的でしょう。  
運営上のマニュアルに沿った措置だったかもしれません。  
しかし、ほかに広いテーブルが空いているのに、狭い席にわざわざ2人を押し込むのは、サービス上、あまり良いことに思えないのです。超満員で人気のお店なら、私もとやかく文句を言うつもりはありませんが。  
世の中なんでもそうですが、杓子定規に物事をとらえるのは、どうかと思います。 

 

外務省の杓子定規と機密費  
オマーンに勤務して帰ってきた人の話。オマーンは回教徒の国だから、奥さんは四人まで持てるものの、奥さんをもらうには一人三百万円相当のお金をその実家に払わなければならないそうだ。持参金の逆である。  
三百万円といえば、日本人から見れば、少し貯金をすれば手に届きそうな金だが、一般のオマーン人になるとそうはいかない。日本円の少なくとも十倍の価値はある。そのため、オマーン人男性は四人どころか、一人の奥さんを持つことでも大変なのだそうで、ここ数年、オマーン人以外の女性と結婚する男性が増えてきた。お金だけではなく、外国人の奥さんの方が恰好が良いという事情もある。これを見た王様は、オマーン人の血が薄れると心配して、ある日、オマーン人の男性に外国人女性との結婚を禁止する条例を発した。この国に議会はなく、王様=議会である。  
この結果、この条例が出た直後にオマーン人の男性と結婚した日本人女性は国外追放を通告されたそうだ。ところが、回りを見回してみると、オマーン人男性と結婚した白人女性は国外追放になっておらず、平気な顔をして生活している。  
人種差別ではないかと当局にねじ込んだら、彼らは条例の出る前に結婚したというのだ。よくよく事情を調べてみると、白人の彼女たちはそれぞれの大使館に行って、条例の出る前に結婚したことにしてもらったそうだ。米国、英国その他の大使館はまことに融通が利いて、粋な計らいをしてくれたのである。  
そこで、オマーン男性と結婚した日本人女性は早速、日本大使館に行き、何とかならないかと頼んでみた。ところが、「公文書の偽造はできない」の一言で窓口ではねられてしまったという。このため、その女性は泣く泣く日本に帰らざるをえなくなったそうだ。なんという杓子定規なことか。  
この話をしてくれた男性は海外勤務をあちこちに経験した人で日本の外務省への怒りをぶちまけていた。在外勤務の外交官たちは国内の方ばかりを向いて仕事をしており、とりわけオマーンのような発展途上国の場合は落ち度なく勤務することばかり考えていて、在留邦人の利益など念頭にもない。その代わり、日本からお偉いさんがやってくると、草履取りまがいのサービスをする。  
そんなときの外務官僚による機密費の着服問題である。日本人の面倒を見るどころか、血税をポケットに入れて、女につぎ込んだり、競走馬を買ったりした。のみならず、その財布係にキャリアがよってたかって御馳走になったり、金を借りたりしていたと聞かされて、彼の怒りがますます沸騰したのも無理もない。 

 

東京の初雪から「杓子定規のゆがみ」について  
ちあきなおみさんの「しのび雪」を聞きながらこれを書いている。今朝、東京に初雪が降った。もっとも、気象庁がある大手町では観測されなかったので、「東京の初雪」とは記録されないそうだ。定点観測とはいえ、バカバカしいことだ。「杓子定規のゆがみ」とでも名付けておこうか。  
隣町雪となるらし時雨坂 青穹  
さて、「杓子定規のゆがみ」と、私は言った。事は初雪だから良いようなものの、こんな微妙な「ゆがみ」が、積み重なり折り重なって、日本社会の(あるいは日本人の心性に潜む)ゆがみをはぐくんでいる。こんぐらかった糸玉のように、解くに解けなくなっている社会的なゆがみというのは、スキゾキッズの因果関係の仕組みと何ら変わるところはない、と私は考えている。例はいくらでもあげられるが、きょうは忙しい。身近な一件をあげておこう。  
株式会社明治の粉ミルクの一部からセシウムが検出され、それについて同社は、12月8日の新聞各紙に、「明治ステップ(850g缶)のお取り替えに関するお詫びとお知らせ」という広告を掲載した。冒頭で次のように述べている。  
[このたび、当社製品「明治ステップ(850g缶)」の一部の製品から、放射性物質が検出されました。検出された値は、食品衛生法に基づく乳児の飲用に関する暫定規制値(牛乳・乳製品で放射性セシウム134及び137の合計値200Bq/kg)以下で、22から31Bq/kgであり、毎日飲用されましても健康への影響はないレベルとされております。]  
この文章にあえて解説をしないでおくが、この広告が掲載された同じ12月8日の朝日新聞の連載記事〈プロメテウスの罠〉と読み比べてみよう。この日の記事内容は、ベラルーシ共和国のゴメリ医科大学の創立者にして学長、ユーリー・バンダジェフスキー氏が1999年に突然逮捕された事件から書き起こしている。  
バンダジェフスキー医師は、86年のチェルノブイリ原発事故後、原発の北に位置するベラルーシの死亡者を解剖して、臓器ごとにセシウム137の量を調べた世界で唯一の人であるという。彼が逮捕されたのは、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによれば、政府の原発被災者への対応を公然と批判したからであるという。そのことは措いて、私が注目したのは、記者の松浦新氏がバンダジェフスキー氏にインタビューして伝えている次の言葉である。  
「日本の子供がセシウム137で体重1キロあたり20~30ベクレルの内部被曝をしていると伝えられましたが、この事態は大変に深刻です。特に子供の体に入ったセシウムは、心臓に凝縮されて心筋や血管の障害につながるためです」(朝日新聞)  
株式会社明治の上記広告において、問題の製品に含まれるセシウムは、暫定規制値以下の「22から31Bq/kg」、と言っているkg単位は、おそらく製品そのものの量目であり、子供の体重1kgではあるまい。その点を確認したうえで、しかし、乳幼児の日常の食料として持続的に飲用するとなれば、体内に蓄積するセシウムの量はおのずと違ってくるはずである。バンダジェフスキー医師の解剖所見に照らし合わせた意見から、日本政府が良しとしている暫定規制値に、私は大いなる危惧を抱くのだ。どこから導き出した暫定規制値か、明確な説明は、少なくとも一般国民の目のとどくところには何もない。今後、子供たちの身体に重大な影響が出てきたときに、「想定外」だったと、お得意の文句ですまされることではあるまい。子供たちの健康、国民の体力こそ、唯一の国力なのだから。  
「杓子定規のゆがみ」・・・それが、この国に一大事が出来(しゅったい)するたびに発せられる「想定外」という弁明に張り付いている、日本社会のひとつの特性なのだ。 

 


  
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