区別

 

 

世界の人権問題 
 
【区別】違いや種類によって分ける。/人種・年齢・性の区別/雌雄/実子継子/善悪/親切とお節介/公私/ 
【けじめ】(「差別・区別」の字を当てる場合あり)守るべき規範・道徳により行動・態度などにつける区別。二つ以上のものの間にある質的または量的な差。二つ以上の物事を内容・外観などによって区別をつけること。区別。差別。 
けじめを食 人から差別待遇を受ける。人に疎外されて卑しめられる。 
けじめを取る 機先を制して優劣・強弱の差をはっきりとつける。動きのとれないように念を押す。 
【部類】種類によって分ける。 
【聞き分ける】聞いて区別する。聞いて事の是非を定める。 
【見分け】/区別/鑑定/認識/  
【分別】種類によって分ける。種類による区別、区分。 
【分ける】/分割/分離/分類/区別/分配/売る/邪魔な物を左右にどける/理非を区別する
【分・別】区別。差別。けじめ。わきまえ。分別。思慮。 
【文目】(あやめ)綾織物の織り目。物事の論理的な筋道。物事を順序立てて考える。条理。分別。 
文目も知らず 物の道理、善悪の区別などがわからない。 
文目も分(わ)かず 物の区別がわからない。判断力不足で物事を筋道立てて考えられない。 
【モラル】(moral,morale)道徳。倫理。行為の正邪とその区別に関する態度・教え。 
【平等】かたよることなくひとしい。ひろく行きわたって差別がない。一様に扱う。/男女平等/悪平等/ 
【平等主義】差別を認めない立場や態度、その主張。 
【清濁】清いことと濁っていること。曲と直。善悪。善人と悪人。賢人と愚人。優劣。 
清濁併(あわ)せ呑(の)む 心が広く善悪ともあるがままに受け入れる。度量が大きい。 
清濁を分(わ)かつ 分別がつく。善悪、是非、優劣などを判断する。
【質】事物の成立するもと。物の本体。本質。根本。ある物を形づく材料を良否・粗密などその性質面から見たもの。  
【善悪】よいこととわるいこと。よしあし。邪正。善人と悪人。 
善悪の生を引く  過去世または現世における善悪の行為によって現世また未来世に善悪の生を受ける。 
善悪の彼岸  人間的な善悪の区別、対立を超越した境地。 
善悪の報いは影の形に随うが如し  善悪行いの報いは影ようにのがれることができず必ずある。 
【是非】是と非。道理のあるなし。よいことと悪いこと。善悪。ものごとのよしあしを判断する。 
是非とも  事情がどうあれ、あることを実現しよう実現したいという強い意志や要望を表す。是が非でも。 
是非に及ばず  よしあしやり方などをあれこれ論議する必要はない。もはやそういう段階でない状態。 
是非の言葉  よいか悪いかどちらかにはっきり定めて言うことば。 
是非も知らず  夢中になって我を忘れる。前後の見境もない。 
是非もない  是と非の区別もない。たあいもない。
【無差別】差別がない。差別をつけない。同等に扱う。平等。むしゃべつ。 
【一概】おしなべて同一に扱うこと。すべてをひっくるめること。細かい差別をしないでおしなべて。ひとくちに。 
【十把一絡げ】ひとまとめにすること。差別なしに扱うこと。 
【一際】細かい差別をしないで一方的にひとまとめに扱うさま。いちがい。 
【八つ当り】目あてもなくあれこれと事を行い、偶然にある結果を得ること。まぐれあたり。

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
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世界の人権問題

 

同和問題 
部落差別の問題。日本の歴史過程における身分制度に基づく差別により、国民の一部の人々が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても差別を受けている。人は生まれながらにして自由平等であり、幸せで健康に生きる権利を持っている。国民として当然保障され、現代社会の当たり前の原理である市民的権利と自由が、同和地区の人々は今も結婚差別・就職差別で悩み苦し んでいる。明治4年の「解放令」によって身分制度が廃止された後も、部落の人々に対する差別は社会の不合理と結びつき解消されず、さまざまな形で残されてきた。 
在日コリアン差別 
長い間、日本社会で暮らしてきた在日韓国・朝鮮人の人たちに対する差別や偏見が、日本社会に根強く生き、人権を侵し苦しめている。民族、国籍の違いを口実に社会制度や意識面において象徴されている。就職差別・結婚差別・入居差別・差別落書き・民族衣装や民族名へのいやがらせ、いじめなどに現れている。これは日本の朝鮮における植民地支配と日本国内での在日韓国・朝鮮人政策のあり方に起因し、植民地支配による蔑視感や第二次世界大戦後の法的地位変遷に伴う制度的な差別、日本政府の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国に対する外交政策のあり方がその時代と情勢に応じて複雑に絡み合い、差別的な観念・意識 ・制度を含めた社会的、政治的な問題である。 
アパルトヘイト(南アフリカ共和国) 
1948年以来、南アが実施してきた人種隔離をもとにした人種差別政策があった。国内の15%の白人の既得権を守るため、70%を占める黒人の基本的な権利と自由を奪い、差別する法制度だった。黒人の政治参加 を許さず、何百もの抑圧的な法律や規制があったが、1991年政府はアパルトヘイト政策の終了を宣言した。しかしながら差別の実態は依然残っている。 
カースト制度(インド) 
ヒンズー教特有の階層制度として、カースト制度があり、今も社会生活に重大な影響を与えている。バラモン(僧侶)クシャトリア(王族・武士)バイシャ(庶民) シュードラ(奴隷)の四カーストを基本に、その他数千のカーストに分化し、カーストの違いはそのまま職業、居住地域、身分の違いを意味し、カースト間相互の上下関係・排斥 関係は厳しいものがある。これらのカーストに含まれない、人間外の民として差別さ れている「不可触民」(アンタッチャブル)で「指定カースト」とよばれ人たちが、全人口6億7千万に対し1億5百万人存在している。 
黒人差別 (アメリカ)  
民主主義の国アメリカにも激しい人種差別がある。1960年代アメリカ国内最大の社会問題として、白人優越社会に対し黒人の自由・平等を旗印に解放運動が盛んになった。当時の社会的な差別として、黒人の選挙権の制限やホテル・乗り物・教育施設などの公衆施設で条件さえ同じであれば黒人用、白人用と分離しても差別でないとされ、黒人は社会生活から隔離・分離されていた。これらの施策が憲法違反であるとされたのは1954年最高裁ブラウン判決で、これにより差別撤廃のための具体的根拠を黒人解放運動は得た。 
民族差別 (ユダヤ民族及びロマ民族) 
ユダヤ人に対する迫害は、2世紀ユダヤ王国がローマ帝国に滅ぼされたことに始まる。国を失ったユダヤ人は、ヨーロッパや西アジア各地に分散した。4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教とし、ユダヤ教を信仰するユダヤ人は異教徒として、各地で敵視・迫害の対象となり社会的差別を受けるようになった。 
13世紀以降、ヨーロッパではユダヤ人であることを識別するため黄色バッジ・赤い布・識別しやすい帽子の強制着用や居住の自由を奪い、土地購入の禁止などが規制され、更には キリスト教に改宗しない限り、財産没収・追放・虐殺の対象とした。今世紀ヒットラーのユダヤ人虐殺は600万人にも及ぶと言われている。 現在も陰険な形態でのユダヤ人に対する悪感情・偏見・差別意識はあり、各国でのユダヤ人教会・商店・墓標などに対する落書き、迫害は後を絶たない。 
同じような民族差別としてロマ民族に対する差別がある、ロマは日本で「ジプシー」と呼ばれている。ヨーロッパでロマがエジプト人で あると考えられていたことに由来する名称である。他にもボヘミアン・ツゴイナー等ヨーロッ パ人がロマの出身地をさまざまに想定してつけた名称があ る。ヨーロッパを中心に移動生活をする民族をひとまとめに「ジプシー」と呼んだり、住所 や職業を転々と変える人を比喩的に「ジプシー」という言葉が使われてきた。 「ジプシー」という名称は比喩的に悪の代名詞(盗人、不潔感、怠け者)として使われる侮蔑的・差別的意味を含んでいる。 
ロマはインド北西部発祥の民族で、15世紀前半にはヨーロッパ中央部にたどり着き、現在は広 く世界各地に住んでいる。異教徒として早くから差別と迫害の対象となった。歴史的に非定住生活は民族の「習性」ではなく、社会的差別の結果余儀なくされた生活様式 である。異教徒であるがゆえ、国外追放や捕らえられ犯罪者として極刑の対象となった悲劇的な歴史があった。その結果が国から国へと逃亡生活を繰り返さざるを得なかった。 これが「ジプシーは放浪の民」という根強い偏見を生み、ロマ人の定住を拒絶する排他主義に直結したと考えられる。
同和 
一般名詞としての同和は「人々が和合すること」を意味する。同和火災・同和鉱業・同和興業・同和警備などの企業名はこの意味に由来する。「昭和」の元号が決定する際、対立候補として最後まで残ったのが「同和」であった。 
部落差別解消のための運動の事である。この同和は「同胞融和」の略語で、戦前は「融和」(融和運動)と略される事が多かったが、戦後は「同和」と略されるようになった。一般人と部落民との結婚を同和結婚、部落解放促進のための教育を同和教育、部落の環境改善のための事業を同和対策事業、その際に指定された地区を同和地区という。  
 

 

同和問題(部落問題)1 
封建時代の身分制度や歴史的、社会的に形成された人びとの意識に起因する差別が、現在もなおさまざまなかたちで現れている重大な人権問題である。封建時代において、えた、ひにん等と呼ばれていた人びとは、住む場所、仕事、結婚、交際など、生活のすべての面できびしい制限を受け、差別されてい た。それらの人びとが、住んでいたところが「同和地区(被差別部落)」と呼ばれ、それらの人びとに対する人権問題が「同和問題(部落問題)」で、同和地区(被差別部落)の出身という理由でさまざまな差別を受け、基本的人権を侵害されてきた。  
同和問題2 
生まれた場所(被差別部落)や、そこの出身というだけで差別される著しく不合理な差別の問題をいう。 
私たちの社会にある、人種の違いによる差別、宗教の違いによる差別、性の違いによる差別、障害者差別などは世界各地で見られる差別である。このような差別も、もちろん許されないが、同和問題は日本人がとらわれやすいケガレ意識や家意識、世間体など簡単に拭いさることのできない、日本固有の差別だ。 
16世紀末、豊臣秀吉は農民が田畑から離れることを禁じるために、武士と町民・農民とを分けた身分制度を作った。この身分制度をさらに進めるため、徳川幕府は歴史的、社会的な経緯で差別されていた一部の人々を、著しく低い身分として固定し、職業や住むところを制限し た。こうして被差別部落の形成が進んでいったといわれている。この差別されていた一部の人々は、科学が未発達であった当時、多くの人が抱いていた「ケガレ意識」の対象として見られていた。そのほとんどが神秘的な技能を持つ職人や芸人、そして、生き物の死にかかわる職業の人々 だった。神秘的であるが故、畏怖の念から「ケガレ意識」の目で見られてしまった。観阿弥や世阿弥が完成させた能、武具や馬具、太鼓などの革製品、竹細工、歌舞伎や浄瑠璃にいたるまで、現在日本の伝統文化といわれるものの多くは、当時の被差別民衆が担ってきたもので ある。 
明治4年の解放令によって身分制度は廃止された。しかし、被差別部落の生活や暮らしは改善されず形式的なものであったため、偏見や差別はそのまま放置された。明治以降の資本主義化による制度や産業の変革は、これまでの農民からの搾取を目的とした身分差別から産業労働力確保のための差別として拡大再生産され、被差別部落の生活や実態はより厳しいものにな った。大正11年の水平社結成は被差別部落の人達が不当な差別を自らの運動により解消しようと立ち上がった出来事である。 
現在、行政・企業・宗教団体、民間団体等、多くの人や団体が部落差別撤廃に取り組んでいる。今日も、同和問題は結婚や就職など日々の暮らしの中で差別事件として現われ、早急に解決が必要な現実の社会問題 である。
部落問題3 
日本における差別問題のひとつである。江戸時代の穢多や非人など賎民身分に由来する。居住地域が限定され、被差別身分化は罪人に対する刑罰のひとつでもあった。現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。 
部落は本来「集落」の意味である。歴史的にエタ村あるいはエタと称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼び、定着した。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、地区の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「同和」が使われる事もある。  
近世起源説では「徳川政権が大多数の農民を支配するために、宗教的理由で忌避されていた食肉皮革産業や廃棄物処理、風俗業界、刑吏等の賎民を身分支配のため固定化し、代わりに独占権益を与えたことに始まる」としている。ただし「士農工商穢多非人」といった序列付けについては近年否定されている。なお「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差がみられる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある。江戸時代は社会が安定し、貧困による餓死が都市部で少なくなった。これには農村部からの人口流入が抑えられたことと、もう一つは流民を規制の緩やかなエタ村に限定して収容した側面がある。そのような部落を小規模経済で運用させることよって都市のスラム化を防いでいたと見る向きもある。 
 

 

被差別部落の起源 
政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえたうえでその起源についての考証が行われている。身分制度は社会的地位であり、本来血統とは違っていた。江戸時代以前にも当然存在したが、江戸幕府による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。身分制度は儒教的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。なお、「士農工商」と呼ばれる4身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在していた。最近の研究では「老若男女」のように「みんな」という意味であり「士農工商」の順序に特に意味はないとする説が強くなっている 。
被差別階層 
部落問題において被差別者とされるのは、被差別部落に現在住んでいる、またはかつて住んでいたことがある、血筋が穢多、非人身分にあった人とつながっている、など密接な関係があると周囲の人に考えられている、あるいは自分でそう自覚しているが故に、「部落民」と看做されて現実に忌避・排除の対象となる、あるいはその可能性を潜在的にもっている人々である。その意味において、現在の部落差別を語る際、前近代社会の賤民身分の歴史から説き起こすのが通例となっている。 
「穢多」は鎌倉時代末期の文献にも登場している。かつては寺社の雑役や死んだ牛馬の処理に携わる職業を指していたが、後に皮革産業や刑吏に携わる人々の身分を指すようになった。室町時代初期の資料には「かわた」と呼ばれている。皮革の扱いに水が必要であったこと、また異臭が発生することなどから、居住地の多くは町村の外れに形成された。関西では「枝村」と呼ばれていたものに後に穢多の字が宛てられた。菩提寺は概ね浄土真宗本願寺派に限定されたが、尾張以東ではこの傾向は薄れる。 
「非人」は語源は仏教に関わる言葉で「人でないものが人の姿形をかりて現れたもの」の意味であったが、刑吏とその管理下の罪人・病者・乞食や寺社に仕える者など当時の社会の律令外の職能民を指す言葉として平安時代に普及したよう だ。中世には蓬髪・顎鬚・童姿等の身体障害者を意味していたが、江戸時代の関東では特定の雑務に付く人や無宿者を指し、関西では治安の維持、刑の執行に携わる人々として組織化されることもあった。「穢多」より身分が低いとされることもあるが「非人」の名の通り身分外と認識されていたよう だ。 
幕藩体制が揺らぐ江戸時代中期になると、百姓・町人統制を強化する藩も多くなった。こうした中で穢多に対して徹底的な法規制を行うこともあったが、これは百姓・町人との分断をすることによって百姓・町人の不満を逸らす目的だとみられている。例えば、岡山藩では穢多は皮で作った名札を胸に付けることなどが義務付けられた。しかし、これに対して岡山藩全域の穢多が反発し「渋染一揆」が発生している。神道思想においても平田篤胤「能く思へば夫も即神の御心で、かの旃陀羅を御悪ひ遊ばす」(神敵二宗論)として、「旃陀羅」すなわち穢多を排撃している。加賀藩の侍講の千秋藤篤のように人権を尊重して部落解放を主張した例などもわずかにある。 
関東では全ての穢多は矢野弾左衛門の管理下に入っていた。穢多頭の弾左衛門は徳川家康により穢多を統制する権利を与えられており、金貸しもしていた。強大な財力を持ち、刀を差して旗本並の屋敷で生活をしていた。13代当主は幕末から明治にかけて穢多を代表し、穢多身分者に対する利益誘導を精力的に行った。佐幕派に対する資金援助も弾左衛門の活動として知られるものである。弾左衛門はこの功績が幕府に認められ、幕府瓦解直前の慶応4年(1868)配下の65名とともに身分を引き上げられ、弾内記(弾直樹)と名を改めた。 
江戸時代の身分制度を表現する言葉として近年「士農工商穢多非人」という言葉が使われるようになったが、最近の研究では、儒者が儒学のイデオロギーではそうなると主張しただけで、この並びにも徳川時代のありよう(徳川政権が封建主義国家、各大名の領地はそれぞれが一応は独立国)から、雑多な身分を理解するうえでは正確ではない。「穢多」は終生「穢多」とされる反面、「非人」は一時的な身分であり、許されて元の身分に戻りうることから、「穢多」と「非人」がどちらが身分として上であるかを争った事例も存在しており、「士農工商」に属さない身分(主に徳川時代以前から権威を持っていた身分)も存在したからである。江戸中期以降経済社会が発展すると、行政官としてのみ存在する武士と、富裕層の商人、極貧の大多数の農民、など身分崩壊ともいえる状態が始まり、エタ頭と呼ばれる人々は、その経済的背景から力を持ったことも事実であり、絶えず「士農工商」の下という位置づけではなく、弾左衛門のように、あえて言えば「横」「外」のような関係といえる。 
また、生死を司る職業(僧侶・神官・医師・処刑人など)はともかくとして、武士直属の職能集団(処刑人を含む下級警察職・武具皮革職人など)、大地を加工する職業(石切など、築城技術者)のように軍事、警察的な機密から一般人と区別させる者も賎民と為された。 
さらに、農業・手工業・商業を担う者が常に農工商(百姓・町人)に属していたということはない。武士が内職で手工業者となっていた事例と同様に、「穢多」「非人」にも農業・手工業・商業に携わっていた者が多くいた。中でも武士に直属する皮革加工業は「穢多」の特権的職種とされていた地域が多かった。また地域によっては藍染職人や織機の部品を作る職人が「穢多」「非人」の職業とされていたことも知られている。また、ほとんど農業によって生計を立てていた地域も知られている。このように、職種の区分と思われているものは身分制度という制度上の区分に過ぎず、実態を表していたものではない。  
 

 

解放令1 
明治4年「穢多非人等ノ称被廃候自今身分職業共平民同様タルヘキ事」(えたひにんとうのしょうはいせられそうろうじょうじこんみぶんしょくぎょうともへいみんどうようたるべきこと)という太政官布告(解放令)が出された。これにより同和地区住民は封建時代のもとで受けていた身分差別から一応制度上は解放された。しかし、太政官布告は形だけの解放令にすぎなかった。単に蔑称を廃止し、身分と職業が平民なみに扱われることを宣言したにとどまり、同和地区住民が差別と貧困から解放されるための実質的政策は伴わなかった。 
身分制度の廃止2 
1869年の版籍奉還により武士の身分が廃止されたのを受け、士農工商と呼ばれた身分制度は廃止され一律に平民と呼ばれた。また明治4年(1871)に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命をなしとげた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。 
そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というのも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。 
解放令によって法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚であった身分外身分の者が疎外されたこと、武士が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたことが原因と考えられている。 
また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。 
差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。 
明治30年(1896)歌舞伎座初演の「侠客春雨傘」では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う男だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。  
水平社1 
大正11年(1922)水平社の創立大会が京都で開催され、各地の被差別部落から約2,000人が集結した。満場一致で採択された「水平社宣言」は、差別されてきた同和地区の人びとが人間の権利と尊厳を獲得し、自らの力と団結によって解放をめざすことを宣言したものである。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で結ばれる「水平社宣言」をきっかけに、全国の同和地区の人びとは団結し、差別をなくすために立ちあがり、各地で水平社が結成された。  
水平社2 
かっての賤民階層の人々は状況を改善するため、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」する事を怖れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。 
国民の融和を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年に全国水平社が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多である事を誇る時が来たのだ。」と宣言した。 
当時は1917年のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に日本共産党に関わりを持った左派を弾圧した。1920年代後半の低迷を経て、1930年代以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せる事もあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、太平洋戦争突入後の1942年に消滅してしまった。 
戦前の同和教育開始 / 1942年8月に文部省社会教育局は「国民同和への道」を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。 
戦後、同胞融和ということばから部落問題を同和問題と呼ぶようになった。
 

 

同和対策事業 
1951年、在日朝鮮人の生活を差別的に扱った小説「特殊部落」を京都市九条保健所職員が杉山清一の筆名で雑誌「オール・ロマンス」に発表し、問題となった(オールロマンス事件)。設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのはすべて在日朝鮮人、その「特殊部落」に住んでいれば「部落者」と呼ばれ差別されるが地域を離れればそうでなくなるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容で、地域の住民たちは事実をゆがめて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。京都市役所内部に形成されていた左翼グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された部落解放全国委員会京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。 
部落解放同盟(部落解放全国委員会から1955年に改称)や全日本同和会(旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと自民党と日本社会党との間で合意が形成された結果として、1969年に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された。また、1982年には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。このように部落解放同盟を初めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。同和地区と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。 
教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」と主張されるが、これらの措置はアメリカで女性や黒人、先住民などの雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置とも捉えることが出来る。 
一連の同和対策事業の一部は1987年3月31日に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」などにより延長されたが、2002年にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。  
現在の部落差別 
かつて問題となった所得格差やインフラストラクチャー整備の遅れ、進学率の違いは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。しかしながら、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落の闇リスト(特殊部落「地名総鑑」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件が度々起こっている。 結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間のイデオロギーの差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。 
少なくとも高度経済成長による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく移入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。 
一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、大阪市などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになり、その対処を巡り新たな課題が発生している 。 
政界においては野中広務が被差別部落出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。2001年の総裁選では、部落出身であるから総理にはなれないという話もでてきていた。こうした中、野中が同党の麻生太郎を差別発言を行ったとして名指しで非難し、麻生が否定するという一幕もあった。
マスメディア 
部落問題は、現代の日本において一種のタブーであると言われる。そのためマスメディアなどで正面から取り上げられることは少なく、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。 
「部落」という言葉自体も、事実上の放送禁止用語となっており、出演者が「集落」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正が流される。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか何事も無く放送が進む場合が多い。
結婚差別 
部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢れる」からと反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに大変大きなが妨げがあった。そのため部落民は部落民同志で結婚する事や、仮に部落外の人と結婚できたとしてもそれは、親族の祝福がない駆け落ちであったりする事が多かった。また、結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、その傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合もあるが、部落という理由とは違う理由に見せかけて反対する事もある。
就職差別 
1975年部落地名総鑑事件が発覚し、被差別部落とされる地域を記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備されており、それを基にしてその地域に住んでいるものを意図的に不採用にするなどの例があった。行政書士などが職務上の権限を利用する例が後を絶たない。
 

 

差別とされた表現例 
1956 小説家石上玄一郎が朝日新聞・文化欄に発表した評論の中で「文壇には、特殊部落的偏狭さがみちみちている」と記述。部落解放同盟が糾弾、新聞社は「今後、部落問題をタブー視せず前向きに差別の現実を書く」ことを約束した。  
1967 小説家の精神科医が毎日新聞の人生相談欄に、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは内部の劣等感によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。  
1969 経済学者大内兵衛が、雑誌「世界」に「東大は滅してはならない」を発表。この論文に「大学という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、大内と岩波書店が糾弾を受けた。「世界」は回収処分となり、編集部と大内が謝罪文を発表。 
1973 司会者玉置宏がフジテレビのワイドショーで「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、部落解放同盟が玉置とフジテレビと関西テレビに確認・糾弾会を開いた。玉置は謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。  
1973 映画評論家の淀川長治がサンケイ新聞のインタビュー記事に、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落にある銭湯にはいったこともあった」「この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇ」という経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに自らのエリート意識をさらけ出すもの」「エセ・ヒューマニズム」と反撥し、糾弾に至った。この事件後、サンケイ新聞社は1974-1975年にかけて、部落問題の特集記事を朝刊に連載した。淀川は部落解放同盟制作による狭山事件告発映画を部落問題の視点から批評するよう約束した。  
1979 曹洞宗宗務総長で全日本仏教会理事長の町田宗夫が、米国ニュージャージー州プリンストンにおける第3回世界宗教者平和会議 で「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」と糾弾 された。  
1981 政治学者で東京大学社会科学研究所教授・有賀弘が、ベルリン自由大学における日本学研究室の金子マーティン講師の部落問題に関する研究発表に対し、「部落問題は東日本にはない。西日本にはあるが、それは部落解放同盟と日本共産党との同和予算をめぐる金銭上のトラブル」「日本語の部落という言葉は、村落とか集落とかいう一般名詞であって何も差別を意味するものではない」と発言。このことが部落解放同盟の糾弾を招いた。  
1989 ニュースキャスターの筑紫哲也が「ニューヨークの街も多分屠殺場だね」と番組で発言をした。当時、公の場で使われる差別的な言葉が問題となっていたため、筑紫は「屠殺場」という言葉の使い方が不適切であったとして翌日に謝罪をした。一部の屠場労組から抗議があり、部落解放同盟も加わっての糾弾会が行われた。
差別とされなかった表現例 
1952 松本治一郎は徳川夢声との対談で「部落と書こうがエタといおうが、問題じゃないんです。…その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを糾弾するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。…悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる」と語り、差別表現としての適否はその語が差別的文脈で使われているか否かによると見解を示したが、1948年には松本自身が「私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ」と述べ差別的文脈で使用していた。 
1952 解放新聞は「おじいさん達も斗つた81回目の解放令記念日を迎え」と題する山村慎之助の記事を載せた。「再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている」と、特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。  
地域較差 
被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本など比較的長い歴史を持つ地方には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んである。 
北陸地方や東北地方では被差別部落が少数点在であり、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も単に一般の集落や町内会を指すことが多い。北海道、沖縄には歴史的な被差別部落は存在せず、部落差別は本土出身者により持ち込まれたものである。 北陸地方で部落問題が発展しなかったのは全国の被差別民も多く帰依していた浄土真宗が大多数を占めることが一因である。浄土真宗では武士、猟師、そして被差別民の「役務」・「家職」にともなう殺生は、忌避の外としていた。例えば越中(富山)には「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」という「念仏行者心得か条」が残っている。越中(富山)の被差別民にあたる藤内は隔離される事無く、集落に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。  
同和のタブー 
5年間にわたって「長期休暇」をとっていた奈良市の元職員が、職務強要の容疑で逮捕された。この事件の本質は、問題の男が部落解放同盟の支部長だったという点につきる。一方、同和事業をめぐる不祥事があいつぐ大阪市では、関市長が「(部落を)特別扱いはしない。過去のやり方とは決別する」として同和事業の大幅な整理を打ち出した。この種の事件を黙殺してきたメディアも、この問題を取り上げるようになった。ようやく同和のタブーが破られはじめたのだろうか。 
関東に住む人には、なぜ解放同盟がそんなに強いのか想像できないかもしれないが、関西に住む人にはたいてい何か思い当たる経験があるだろう。京都で高校の学区の中には日本最大の被差別部落があったので、校内で解放同盟と対立組織の乱闘が起こったり、教師が生徒の面前で糾弾されるなどの事件は珍しくなかった。 
メディアの差別語を作り出した責任も、解放同盟にある。あるときNHKのニュース解説で「片手落ち」という言葉を使ったのはけしからん、と部落解放同盟の地方支部の書記長がNHKに抗議 した。協議の結果、この言葉は放送で使わないことに決まった。ところが、この年の大河ドラマが忠臣蔵で、赤穂浪士が集まって「吉良上野介はお咎めなしで大石内蔵助だけを切腹させるのは片手落ちだ」と言う有名なシーンがあった。そのときすでに収録は終わっていたが撮りなお し「片落ち」という言葉で代用した。浪士が次々に立ち上がって「片落ちでござる」と訴える珍妙なシーンが放送された。 
関西で起こる大型の経済事件には、たいてい同和か在日がからんでいる。最近で有名なのはハンナンの浅田満元会長で、彼は解放同盟の地方副支部長だった。イトマン事件の主犯だった許永中も、同和対策事業に食い込んだことが裏社会でのし上がるきっかけだった。そしてこうした事件には、組織暴力がからんでいる。かつて山口組の構成員の7割は被差別民だといわれた。 
しかし差別によって正業につけない人々が、こういうやり方で生活を支えようとしたのは、ある意味では自衛手段だった。問題は、それに対決することを避け、金でごまかしてきた役所の事なかれ主義である。2002年に部落問題は基本的に解決したとして国の同和対策事業が打ち切られた後も、自治体では同和利権が存続し、奈良のように解放同盟が土木事業などを仕切ってきた。これは解放同盟が組織を維持するために差別語キャンペーンのような形で新たな問題を作り出し、行政がそれに迎合したからだ。しかし解放同盟の政治力の源泉だった社民党が凋落した今、同和事業の見直しは不可避である。 
メディアも、この問題から逃げてきた。ほとんど解放同盟のいいなりに差別語が追加され、「カトンボ」「四つ足」(いずれも一部の地域で部落民を示す隠語)まで放送禁止になった。「片手落ち」「足切り」のみならず、最近では身体にかかわる比喩はすべて禁止という状態だ。このタブーを見直すと同時に、同和利権の実態を明らかにすることが責任だろう。
人権を考える「区別」と「差別」 
言葉としては「区別」は「違いによって分ける」「区分け」「けじめ」。「差別」は、「差をつけて取り扱うこと」「わけへだて」となっている。 
「区別」とは 十人十色といわれるように人それぞれ違った個性や能力をもっている。「男と女」「黒人と白人」「日本人と朝鮮人」といったように違いを表しただけのことで、地域生活においても、それぞれに違った特色が備わっている状態を言 う。そこには不当性不利益性を被る関係がない状態を表す。従って、就職応募者に採用試験を実施した際に、会社が必要とする職種について能力や適性、試験の成績を総合して、上位から採用 するのは「区別」になる。  
「差別」とは、「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」をいう。「出身地」「職業」「学歴」「性別」「家柄」「民族」などで上下の値打ちをつけ、その人や団体の自由や権利を無視、侵害するなど不当性、不利益性を被る関係が生じることをい う。   
差別の発生 
差別が起きるのは、人々の心の内にある予断と偏見に起因するといわれている。 
「予断」とは前もって判断することで、あることに対して、事実を確かめないで自分のもつ過去の経験、知識、記憶などの範囲で判断すること。自分のイメージにあう場合はその事実を好意的に受け入れ るが、合わない場合には否定することになる。 
「偏見」とは、ある種の集団や対象に対し何ら合理的な根拠なく、人々が示すステレオタイプ化した非友好的な態度や考え方をいう。ある集団に属している人を一人ひとりの個性や特性で見 ず、集団をまるごと否定的に見ることになる。例えば 「ユダヤ人はお金にきたない」「黒人は怠け者」「同和地区出身者はこわい」など根拠に基づかない考え方などがあげられ る。誤った予断や偏見の度合いが強くなると、差別意識となり、これが行為として現れた場合が差別となる。また世間体意識や旧来からの因習や迷信によって差別意識をもつ場合もあ る。  
戸籍制度1 
戸籍制度は国民の夫婦や親子関係を登録して公に証明するもの。明治5年最初の統一戸籍(壬申戸籍・じんしんこせき)が作られた。この年のえとが壬(みずのえ)申(さる)であったことから、壬申戸籍と呼ばれ た。この戸籍には依然として廃止されたはずの身分が書かれた例があった。戸籍法で、以前は戸籍の公開が原則とされ、他人の戸籍簿を閲覧したり、戸籍謄(抄)本を取るなど、結婚や就職の際の身元調査に悪用されることがあった。昭和43年法務省は通達により壬申戸籍の閲覧を禁止し、昭和51年人権擁護の立場から戸籍法を改正して、閲覧制度を廃止 し戸籍謄(抄)本を請求する場合は、使いみちを明らかにさせるなどの公開制限を行った。  
壬申戸籍2 
明治4年太政官布告でいわゆる「解放令」がだされた。これにより賎民身分は法律・制度の上ではなくなった。しかし、単に蔑称を廃止し、身分と職業が平民なみにあつかわれることを宣言したにとどま り、被差別部落の人々が実質的に差別と貧困から解放される政策を伴っていなかった。明治5年わが国で最初の近代的な戸籍といわれる「壬申戸籍」がつくられた。この戸籍には、旧身分や職業、壇那寺、犯罪歴や病歴などのほか、家柄を示す族称欄が設けられ、中には「新平民」などとかかれているものもあった。戸籍法では、従前戸籍の公開が原則とされ、壬申戸籍は昭和43年包装封印されて厳重に保管されるまで、他人の戸籍簿を閲覧したり、戸籍謄(抄)本を取るなど、結婚や就職の際の身元調査に悪用された。
 

 

「差別」という言葉 
「差別」という言葉を聞いてみなさんが連想するのは何んだろう。差別と聞くと「被差別部落」「差別語」「男女差別」といった熟語を思い浮かべるだろう。いずれにも共通するのは「ある側が相手側を見下したり、蔑んだりするような態度をとること」を意味していることである。しかしこの「差別」という言葉はもともとはこうした意味で使われたものではない 。 
「差別」という言葉を国語辞典で引いて見ると・・・ 
@ある基準に基づいて差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。またその違い。 
A偏見や先入観などをもとに特定の人々に対して不利益、不平等な扱いをすること。 
世間一般で「差別」といえばだいたいAの意味で使うことが多いが@の意味もある。現代の言葉で「区別」という意味もあるのだ。 
英語では差別も区別もあまり区別なく使われている。「差別」distinction,discrimination「区別」distinction,differenceと出てくる。difference=make a differenceで「〜を差別する」。英語 に日本語の「差別」と「区別」を明快に分ける単語はない 。 
古い国語辞典では「差別」は@の意味しか書いてない。つまりもともとは@の意味しかなく次第にAの意味が加わり、現代では主としてAの意味で使うようになったようだ。「差別」という言葉自体の意味が時代とともに単なる「区別」の意味から 、人間関係に上下をつけ、これを不平等に扱うといった意味に変わってきたのだ。 
現在では「男女差別」とかいうように上記@の意味で使われるのが一般的だが、昔からあるこの「差別」を使った熟語はだいぶ意味が異なる。「無差別絨毯爆撃」「無差別級」 等の使い方である、この「差別」は決してAの意味ではなく「区別」の意味である。 
近年になってAの意味が強くなってきたのだろうか。私見だが、人間の心の中にやはりAの意味の感情が根強くあるからであると思う。人間は誰でも、他人より優位な立場に立ちたい、自分だけは特別でありたい、という感情がある。言い方を変えれば人からバカにされたくない、不平等な扱いを受けたくない、という思いもある。こうした人に負けたくない、他人から評価されたい、という感情がpositiveに働 けば、人は一生懸命に努力し、結果がよければ社会的地位や名誉、カネが獲られ、満足した人生を送れることになる。しかしいつもうまくいくとは限らない、いくら頑張ってもダメなこともある。そんなとき人間の思考はnegativeに働き出す。「自分はこんなに頑張ったのに誰も評価してくれない、それは自分が女だからだ」「自分が出世できないのは上司が悪いからだ」とかいった鬱屈した ものが出てくる、そしてAの感情が出てくるのである。こうした感情を「差別」という言葉にこめたのである。「オレも今は不遇だが、あいつよりはましだ」とかいうような人間の持つ醜い感情が「差別」という言葉にこめられたのである。 
以上のように「差別」という言葉には人間の怨念がこもっているとも言えるが、それでは「差別」という言葉が@の意味しかなかった昔は人を差別するようなことをしていなかったのだろうか。無論そんなわけはあるまい。昔 も人を差別したい、と思った人は大勢いただろう。しかし、人権といった概念のなかった昔は現代でいう差別そのものがむしろ当たり前のことだったのではないか。男と女では扱いが違うのが当たり前、部落出身者は別扱いされて当たり前、エリートと非エリートは社会からの扱いが違うのが当たり前、という感覚だったのではないか。 
当たり前だから特にその感情を表す言葉もいらなかったのだ。Aの意味での「差別」という言葉さえ特に必要もなかったのではないかと思う。そう考えればかえって昔は当たり前であった、人間が人間を不平等に扱うようなことがらを「差別」という言葉にこめて特別視するようになったのは悪いことでもないように思う。「差別」という言葉によってあらためて人間というのは平等なのだ、人を分け隔てしてはいけないのだという認識が新たになったともいえるだろう。 
「差別をなくせ」と叫ぶ人が大勢いる。しかしいくら「差別をなくそう」 「差別はいけません」と叫んだところで「差別」という言葉自体に差別感情がこもっているのだから自己矛盾である。さらに世の中が進み、本当に人間の心から差別感情がなくなったとき、おそらく昔とは違った意味で「差別」なる言葉のAの意味は再度消えうせていくだろう。 
差別をこの世からなくすには「差別するな」と叫ぶのではなく、個人個人が安定した心を持つよう心がけることが大事と考える。 
 

 

イタリア/人種差別と区別や偏見は別物 
イタリアに住んで差別された経験があるか、というテーマなのですが、私は自信を持ってないと答えます。私が差別された経験がない、と言うのは私が差別と区別や偏見は全く別のものと考えるからです。差別と言うからには、人前で面と向かって「汚らわしい日本人め」とののしられるとか、イタリア人に比較して明らかに圧倒的に不利な扱いを受けた、ぐらいの経験が必要と思うからです。 
私がこう考えるのは、以前アフロアメリカンの女性と一緒に働いた経験がもとになっています。彼女はイタリア人の男性と結婚していて、イタリア生活も長く、アメリカ人にしては珍しく(アクセントはかなり強く残っていた)イタリア語に堪能でした。ホイットニー・ヒューストン似のスタイル抜群の美人で、いつもセンスの良い服に多すぎるぐらいのゴールドのアクセサリーを身に付け、ゴージャスな雰囲気を漂わせていました。彼女がイタリア人の男性と結婚したとき(今から30年ぐらい前)、故郷のニューオーリンズではローカル新聞の記事になったそうで、私もそのコピーを見せてもらいました。彼女の故郷ではアフロアメリカンと結婚するホワイトはニュースになるぐらい少なかった、ということなのでしょう。 
私達が働いていたのはヴェネチアでしたが、一度帰りに一緒に乗った水上バスが混み合っていたため、座っているおばあさんの膝頭に彼女がちょっと触れてしまったことがありました。おばあさんは 、さも嫌そうにさっと膝をどかしました。明らかに彼女の肌が黒い為の反応です。 
彼女の子ども時代、クラスメートのうちに遊びにいけなかった話も聞きました。イタリアに来てからも、観光中に憲兵に身分証明書を見せるように言われたことがあるそうですし、列車は(移民と間違えられないよう)必ずファーストクラスに乗ると言っていました。 
一度5歳くらいの男の子が彼女を見て「マンマ、黒人だ」と言ってしまったことがありました。その子の両親は穴があったら入りたい、という風情で彼女に丁寧に謝ったのに、彼女は「子どもは幼いので許せますが、こういう発言をするのはあなた方の教育が偏見に満ちているからです」と言いました。私から見ると過剰反応と思えるのですが、生まれてからずっと不当に差別されてきた彼女には、日本で日本人として育った私には理解できないほどの痛みの歴史があるのでしょう。というわけで、イタリアに来てお店の買い物の順番を飛ばされる、とか道で「中国人」とからかわれるぐらいで差別といったら、マーティン・ルーサー・キング牧師にしかられます。 
イタリアの役所での対応、というのも感じが悪いことが多いのですが、これは窓口にいる人の人柄の問題で、私がアジア人だということと直接関係がないことが多いように思います。私の夫は生粋のイタリア人ですが、南の出身でアクセントが違うためか、息子の小学校の入学願書をとりに行って窓口の人に「あなた外国人なら滞在許可書を見せなさい」と居丈高に扱われたと怒っていました。 
他のアジア人と混同されることもイタリア在住者の嫌がることの一つです。私など掃除中に来たセールスマンに「奥さんはご在宅ですか」と、はなからフィリピン人のメイドとしてあつかわれたり、子どもを連れていると外国人のベビーシッターに間違われたりします。 
一度など、うちの子が薄着すぎると道で見知らぬおばあさんに怒られた事すらあります。「この子のお母さんに言いつけますよ」と言っていたので、私を無能なベビーシッターと思ったようです。子どもを見ればアジア人の血が入っているとわかるでしょう、と思うのですが・・・・ 
こういうエピソードはいちいち気にせず、笑い話としてイタリア人に披露して一緒に笑い飛ばすに限ります。メイドと間違えられた話は特に好評で、誰もがおなかを抱えて笑ってくれます。 
差別と言うと私の頭に浮かぶのは、昔のイタリア語教師が自分の体験談として話してくれたあるエピソードです。イタリア語教師がスイスで市電に乗っていたときの話です。アフリカ人の若者の隣に座って「貧しい国からやってきて自分達の税金で遊び暮らす移民」についてかなりしつこく、聞こえよがしにブツクサ文句を言っていたおばあさんがいたそうです。途中でチケットの検札が近づいていたのですが、そのおばあさんが手に持っていたチケットを良いタイミングで若者がさっとひったくって食べてしまったとか。検札官がやってきたとき、おばあさんはしどろもどろに「自分のチケットは隣の黒ん坊が食べてしまった」と説明したのですが、もちろんそんなばかげた話は信じてもらえず、おばあさんは無賃乗車で罰金を取られたそうです。その若者の澄ました顔が目に浮かぶようではありませんか。 
他国に移り住んだ以上嫌な思いをすることも当然あります。そこでへこたれず、かといってアグレッシブにならず、この若者のようにスマートに対応したいものだと思います。偏見に打ち勝つにはユーモア感覚を忘れないことが何よりです。  
 

 

税金/区分、区別と差別と優先順位の重要性 
日本人はすぐにゴチャゴチャにしがちな概念である。物事を区分したり、区別することは差別ではないかと日本人は避けることが多いが、本来は区分とか区別の概念は非常に大事なもので ある。 
消費税も含めて日本のエリートの大きな欠点は、自らの責任だけで良い悪いの判断することを出来るだけ避ける傾向にあることである。消費税導入前夜の物品税において、時代の流れに合せ対象品目や税率を変えようとして、業界団体の反対にあうと業界の合意を取り付けようとして 、纏まらず苦労の連続だった。それならばと全ての品目に同率の消費税を課税すれば、どの業界も平等の課税で、苦情に対して対抗できると考えたのも消費税導入の一因だ。本来政策とは、個別毎に良い悪いの判断を下すシステムで、一律一括に下そうとするため「政策無き税制」になってしまう。消費した物は何でも課税する消費税や 、交際費なら何でも課税する法人税の交際費課税の限度計算など好例である。 
区分や区別とそれに基づく判断の重要性は、以下の同じ結果であってもその取扱いは全く違うことを実例をあげて説明する。 
人を死に到らしめた場合つまり「殺人はどんな罪」になるか。死刑、無期懲役20年の懲役、10年の懲役、執行猶予、無罪、不起訴、勲章授与と、人を死に到らしめてもこんなにあてはまる罪や名誉が違って来る。人間の社会の複雑さを表しており「個別対応規制の大切さ」と判断の難しさや重要性が分か る。このように個別対応規制の判断基準を作り、判断を下す区分区別するシステムを作ってこそ官僚に価値がある。罪を犯した本人一人について「主観的動機」「犯した行為」「事実関係」本人のみの要素から本人の罪を裁くわけで、本人の家族状況、本人の地位などで刑が変わることは無く、本人の属人的な要素が問われることは無く 、どの人に対してもその人一人の罪において刑法は公正な自由と対等な平等が貫かれている。 
福祉制度もこの考え方をどうしても取り入れるべきである。 
本人に切迫した危機が迫っている場合を例外として、本人の「受給の意志」「現実の所得と資産」のみから判断すべきであって、「家族の所得や資産」「家族の扶養義務」など属人的要素を持ち出す のは、「家族が存在することが不利益に働き」「自由と平等」に反し、人間の生き方に差別を生じさせ、生き方に損得感情を生じさせてしい、正しいライフスタイルの進化に深刻な悪影響(合計特殊出生率の低下など)が出てしまう。したがって「家族がいるいない」で福祉政策を差別すべきでなく、全員原則として同一取扱いながら財政負担との関係から「市営住宅の入居方法のように 、せいぜい確率政策を導入してでも全ての人間を平等取扱いすべきです」。このように物事を区別・区分し、その物事に応じて優先順位をつけて判断を下せるシステムを作って、国民へ適用する所に 「官僚の価値と政策」がある。 
その中に本人の自由意志を尊重して良いケースは、出来るだけ尊重することだ。最大の問題は机に座りきりで統計数字や下からあがってくる報告書と言う文字ばかり見ている 官僚に、現場で今何が起こっているかを把握する能力や実行能力、それに対してどう区別して対応すべきなのかの能力が、欠落していることだ。少数の優秀な官僚ほど、自分自身の欠点を認識し、現場におもむき自らの目と耳で実体験をし たり、率先垂範現場の先頭に立ったり、正しい判断はどうあるべきかを常時吟味し、現場の意見をじっくり謙虚に聞くなどの態度をとる。
昭和20年の終戦時25歳以上の大学卒のエリートは「戦陣訓」を胸に士官として兵隊を指揮し、若くして兵とともに運命共同体として戦場で戦い、戦後は価値観の大変動にとまどいながら日本復興のエリートになった。このエリートは壮絶な戦場で「精強な一兵卒の実力を生死を賭けて目の当たりに身をもって体験し理解したエリート達」であ り、その後の価値観の大変動の中、ふたつの全く違う価値観を経験した為「自分自身の判断が常に正しいかどうかを疑い自問自答する謙虚な態度をとった」。実体験を持つ謙虚で優秀だった日本のエリート達は昭和55年頃を境に年齢が60歳以上になり日本の第一線から退いた 。 
ここから、実体験を持たない謙虚さの意味を知らないエリート達が日本の第一線に躍り出た。 
民間のエリートは外部との競争で、経済戦争という競争の中に叩き込まれ、実体験を経験し競争に勝ち残り、業績が悪ければ否応無く淘汰の波にさらわれ、悪いエリートは自動的に淘汰され た。競争が無い公的なエリートは、選択や淘汰が働かず「謙虚さが無くなると逆淘汰現象」によって組識維持を優先する悪いエリートが、組識内で逆に優先され「国民の幸福のため」という目的意識が薄れてし まった。 
そのような時期に消費税問題が議論されるようになったのは偶然ではない。 一律に課税される消費税は、消費を可能な限り減少させようとする予測は当たり前の心配ごとで、これを無視して強行された。消費税の導入時世論の70-80%が導入反対なのに 、無理に導入したことがその後の政治経済の大混乱の始まりとなった。 
重要なのは「何に」「どのようなやり方」で課税するのが最も経済成長にとって、また人間の幸福にとって望ましいのかを区分や区別をして判断することだ。政策を導入するとき最も重要なのは、第一判断・政策による未来を出来るだけ正確に予測する、第二目的と手段とを取り違 ず最終目的を明確に意識する、第三原因と結果の因果関係をしっかり把握する事である。 そして第四予測通りに良い結果が得られない場合、方向変更する勇気を持つ事である。 
特に目的と手段の取り違いは常に起こりやすく、例をあげれば、お金を人生の目的にあげる人が多く、本来は「自分の幸福」が最終目的であり、お金は「手段」である 。
区分・区別問題で重要なのは教育問題である。一人の人間が「自分の意志で自由奔放に非合理な行動で何でも自由に決められる消費者の一面と、所得を稼ぐために合理的な行動を求められ社内の規律を求められる労働者の一面」「人間の本来持つ豊かな感情に基づく非合理な行動をする家庭人と 、利益を追求するために合理的な行動を求められる企業人」など一人の人間がいくつもの正反対の感情を求められ、置かれている立場で人間はそれを使い分けその場に応じて全く違うルールで行動せざるを得ない 。混乱しがちな価値観を、若いうちから正しく理解するために「少数の共通ルール」と各立場における変化しなければならない「立場立場におけるルール」を、教育でごちゃ混ぜにすることなく、区分し、区別し現実に応じて教えることが望まれる 。 これを適正に行わないと、現実に柔軟に対応できる大人に成長出来ない。 
若者の幼児性は、場合によっては教育現場における、人間に必要な「二重価値基準の立場立場における柔軟な区別適用を教育せず」「単一価値基準のみを教育しその単一価値基準の弊害の教育を徹底して行わないこと」に求められるかもしれ ない。人間の個性や多様性が求められる現代に、道徳という一本化された精神論も必要だが、まずは物事を区分区別して現実に即した立場、立場における現在適用されているルールを 、現実に即してわかりやすく教育することが望まれる。
区分、区別と犯罪で問題となるのは作為犯と不作為犯の問題である。重要な犯罪を見て見ぬ振りをすることが、不作為犯として自分も犯罪に問われるのだということを教育現場で教えなければならない 。見て見ぬ振りをすることが自分の身を守る最善の方法と、勘違いしている人が多くなっている現実がある。 自分自身で直接仲裁に参加しなくても、助けを呼んだり、止めるよう説得したり、警察に通報したり一人の市民としてやるべき事をきちんとやるよう教育すべきだ。 
アメリカのような多民族国家では、日本で単なる道徳と考えられている多くの事が、法律として法制化され、罰則が適用される事例が極めて多い。アメリカは良き道徳を国民に守らせる ため、積極的に「道徳の法律化」を図っている 。自己防衛・自己責任の分野は、相反する原則がぶつかり合う分野で、我々が危険と思う問題も思いのほか規制が緩いのがアメリカの現実でもある。