差別

 

中世の身分制と差別飛鳥地区の歩み差別の科学史部落と言説を巡る一考察国民国家論論争への所感被差別者
【差別】あるものを正当な理由なしに他よりも低く扱う。差別的/逆差別/人種差別/人種隔離/人種差別撤廃/男女差別/階級差別/女性差別/年齢差別/差別関税/差別条例/差別待遇/差別待遇/差別撤廃/差別用語/性差別/ 
【差】へだたり。違い。大きなずれ。年齢差/身分差/世代間の差/差別/等級/経験差/  
【同和教育】(「同和」は「同胞一和」の略)日本社会の中に残っている身分差別とそれに結びつく貧困から被差別部落の人々の解放をはかるため、国民を対象に行われる教育。人権意識の確立と具体的施策の充実を目ざす民主的な教育。 
【部落解放運動】被差別部落の住民を結婚、就職、教育、住居など社会的な差別から解放して、自由と平等を確保しようとする運動。大正末期以後の水平社、部落解放全国委員会、部落解放同盟などを通じて推進されてきた。 
【新平民】明治4年太政官布告によってあらたに平民に編入された者の差別的な俗称。 
【部落】民家がひとかたまりになっている所。村や村の一部。被差別部落の略称。
  
【えた】(ゑた)中世および近世における賤民身分の称。江戸時代には民衆支配の一環として非人とともに士農工商より下位に位置づけられ過酷な差別を受けた階層。斃牛馬の処理、皮革の製造、藁細工など賤視された職業に従事し、罪人の逮捕・処刑などの賦役も強制された。明治4年(1871)太政官布告によって廃止されたが社会的な差別観は存続し、新平民・特殊部落民などの賤称で呼ばれ差別された。 
【非人】世捨人。法師。僧。非常に貧しい人。生活困窮者。乞食。中世及び近世における賤民身分の称。中世では社会的に賤視された人々の総称として用いられた。江戸時代、えた(穢多)とともに士農工商より下位の身分に位置づけられ過酷な差別を受けた階層。えたのように生産的労働に従事することは許されず、遊芸や物貰いなどで生活し、牢獄や処刑場での雑役などの役務に従事した。明治4年(1871)太政官布告によって廃止されたが、社会的な差別は存続し、新平民・特殊部落民などの蔑称で呼ばれ差別された。現在も不当な差別は根絶していない。
   
【人類】人間の総称。生物学的には哺乳(ほにゅう)類の霊長目ヒト科に属する動物の総称。その中で特に現在のヒト(学名ホモ‐サピエンス)をさす。他の動物と異なり直立歩行ができ手を巧みに使って道具をつくる。脳は発達し特有の文化をもつ。 
【民族】同じ文化を共有し生活様態を一にする人間集団。起源・文化的伝統・歴史をともにすると信ずることから強い連帯感をもつ。形質を主とする人種とは別。 
【人種】共通の遺伝的特徴を持つ人の集団。皮膚の色・容貌・骨格など身体の形態的特徴を同じくする人の自然的な群。人の地位、職業、環境などによる生活習慣や気質のちがいによって分けたもの。人種学/人種学者/人種差別/人種隔離/人種差別主義/人種的偏見/人種問題/ 
【人種差別】人種によって社会的な諸権利を差別する。 
【性的】性的差別/性的犯罪/性的魅力/早熟(奥手)/性的衝動/性的いやがらせ/セクハラ/性的倒錯症/ 
【黒人】人種。(Negroは軽蔑的な意味合いがある) 
【女】女性総称。女らしさ/女向き/女を知らない/夜[街]の女/愛人/グラマー/女三人寄れば姦(かしま)しい/女の腐ったよう
  
【男】男子総称。男向き/男専用/男をしらない/男の中の男/男の風上/男は度胸/君を男と見込んで/おれも男だ/男らしく振舞/情夫/男が立つ/男が廃る/男を上げる/男を下げる 
【男女】おとことおんな。男女七歳にして席を同じゅうせず/男女共学/男女同権/ 
【蔑称】相手または相手の動作・態度を見下げて使うさげすみのことば。 
【ジャップ】(Jap)イギリス人やアメリカ人が用いる日本人の蔑称。 
【黒ん坊】黒色人種をいった蔑称。黒人。 
【外様・外方】関ケ原役以後徳川氏に服した大名、譜代大名と厳格な差別をつけた。直系ではなく傍系であること。 
【品品】身分、才能、器量などによる段階的な差別。さまざまな等級があること。 
【千差】多くの差別。さまざまの相違。「千差万別」 
【千差万別】種々様々のちがいがあること。多くの差異があるさま。 
【万別】さまざまであること。 
【打成一片】(たじょういっぺん)仏語。禅宗でいっさいを忘れて坐禅工夫すること。千差万別の事物の相を唯一平等に観ずるさま。他を顧みないで一つの事柄だけをつきつめること。一心不乱であるさま。

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 
 
中世の身分制と差別

 

中世の社会と身分制 
(1)部落史と中世 
ここでいう「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の11、12世紀から戦国時代末期の16世紀までです。ここでは、「部落史」をこの時代から説き始めます。といっても、現代の部落差別が中世に始まるという意味ではありません。 
今日の被差別部落は、一般的には、近世の被差別身分の人々の居住地がもとになっていることが多いといわれています。また、その前提として中世の差別意識や被差別民衆の存在があることも明らかになっています。しかし、近代以前の社会では、身分制に基づく差別が社会原理となっていました。これに対し、近代以後の社会は「平等」を基本としたために部落差別は社会問題化しました。その意味では、今日の部落差別はまさに現代的な課題にほかならないのです。 
(2)現代から中世を見れば・・・ 
「中世」は、21世紀を迎えた私たちにとっては遠い時代です。しかし、意外に身近なところに中世の名残はあります。今日、「伝統文化」といわれる能楽や茶道などは中世文化に源流を持っていますし、華やかな山鉾巡行で有名な京都の祇園祭が、あのように盛大に行われるようになったのも、中世都市民の成長が背景にありました。 
文化史の面から見れば、中世は意外に身近で、また明るい印象をもちますが、この時代の生活は、輝かしさで満たされていたわけではありません。戦国時代のある村のくらしの一端を見てみましょう(1)。 
9月10日 朝、守護方の侍たちが村へ攻めてきた。ぼくは、石を投げて戦いたかったのに、お父さんにしかられて、なべとつぼを持って山へ逃げた。 
9月11日 ゆうべはみんな山の中で寝た。朝早く、円満寺の鐘がカンカンと鳴った。山から、村の若衆が全員で敵におそいかかっていった。敵は不意をうたれてにげていった。 
2月4日 おなかがずっとすいている。しばらく友だちとも遊んでいない。お父さんといっしょに山に入って、ワラビの根と山イモを掘った。もうあちこち掘ってあって、なかなかとれなかった。友だちも大勢きて、掘っていた。木の皮をはいでいる人もいた。甚ちゃんが、食べるものがなくて死んだ。 
戦乱や飢饉と日常的に背中合わせで生活していることがうかがえるでしょう。中世の日常生活の実態は、まだまだこうした不安定なものだったのです。 
(3)中世社会のしくみ 
中世には、荘園・公領が支配の単位であり、そのもとで形成された村のまとまりが生活の舞台となっていました。荘園は、天皇家、貴族、寺社などの私有地で、現地の武士によって管理されました。国司が治める公領でも、現地で役人となった武士が力をもちました。鎌倉時代以降、武家政権である幕府が新たな支配勢力としての地位を確立していき、幕府が置いた守護や地頭による支配も加えられていきました。 
こうした社会において、基本的な生産とされたのは農業でした。農民たちの中心は、年貢などの税を負担しながらも、自分たちの土地をもつ者でした。なかには、名主という地位につき、税の徴収などにあたった有力者もいました。また、領主や有力農民に従属した下人などもいました。一方で、山林や河海でいろいろな生業を営む人たちがいましたし、手工業や商業に携わる者もいました。 
この時代を通じて農山漁村の生産は発展し、生産物の流通が進みました。これは商品交換の場である市の形成、商工業の拠点となる都市の成立に結びつきました(2)。 
(4)中世の身分制 
荘園公領の最上級の支配者である、朝廷、幕府、寺社は全体として国家権力を構成していました。そして、それぞれの支配の中で身分関係があったので、当時の身分はたいへん複雑で全国的に統一されたものではありませんでした。また、人間は生まれながら尊いものといやしいものとにわかれるという考えも広まっており、著しく観念的な身分制が機能していたともいえます。 
そうした身分制がある社会には、当然、差別がありました。その最底辺に位置づけられていたのが、「非人」でした。これは人間以外のものという意味で、当時の被差別民衆を全体としてとらえる概念です。そうした被差別民衆の実像については、次節で述べましょう。 
注 
(1)勝俣鎮夫・宮下実「戦国時代の村の生活」(岩波書店、1988年)からの抜粋。1501年(文亀元)から1504年(永正元)まで、和泉国日根庄(現在の大阪府泉佐野市)に滞在した領主九条政基の日記「政基公旅引付」(刊本;「政基公旅引付 本文篇・研究抄録篇・索引篇」)をもとにした絵本である。 
(2)阿波の場合、鎌倉時代末期の史料に、現在の山川町に開かれたと考えられる「やまさきのいち」がある(「鎌倉遺文」41−31905号)。また、南北朝時代の史料には、現在の徳島市蔵本町付近にあったと思われる「倉本下市」が見える(「南北朝遺文 中国・四国編」6−5088号)。 
流通の発展については、徳島市中島田遺跡をはじめとする県内中世遺跡からの出土資料がその事実を雄弁に物語っている。その一部は、徳島県立博物館や徳島県立埋蔵文化財総合センターなどに常設展示されている。室町時代の史料「兵庫北関入船納帳」(刊本;「兵庫北関入船納帳」)も、港津や流通の発展の様相を物語り、重要である。
中世被差別民衆の発生と生活 
(1)被差別民衆の発生 
中世における被差別民衆はどのようにして生まれてきたのでしょうか。 
当時の身分制、すなわち差別のシステムを基底部から支えたのは、民衆の共同体です。村々では、有力住民を中心にまとまりができていき、しだいに自治的なしくみが育っていきました。しかし、その実態は一部の有力者が下層住民を支配しているものでした。また、村のまとまりが強まると、住民とそうでない人たちの区別をはっきりと意識することにもつながりました(1)。中世の「自治」とは、このように差別や排除を前提として成り立っていたのです。 
中世の「非人」の発生経路はさまざまですが、その主たる理由は、経済的困窮や病気などによって、共同体から脱落・排除されたことによると見られています。 
これらの人たちは、病気や排除ゆえにケガレとされ(2)、社会の正式なメンバーとは見なされませんでした。とくに癩病患者は前世の報いを受けた身と考えられ、もっともケガレた者として差別を受けました(今日では癩病とはハンセン病を指しますが、中世には重度の皮膚病を総称していうことばでした。なお、現代の医学では、ハンセン病の治療法は確立しています)。 
先に述べたように、中世の生活は、けっして安定的なものではありませんでした。したがって、当時の社会は、絶えず「非人」を生み出し続ける性質をもっていたといってよいでしょう。 
共同体から離れた人々は、物乞いをしたり、いやしいとされる仕事につきました。そして、人や物資の集まる都市周辺、寺社の門前、川原などに集まっていき、新たな社会集団を形成していくようになります。 
(2)被差別民衆の生活 
被差別民衆は、居住地や仕事、支配関係によってさまざまな名称・実態があり、河原の周辺に住んだ河原者、坂や峠に住んだ坂の者、雑芸能に携わった声聞師(しょうもんじ)・散所非人(さんじょひにん)などに分かれていました。なかには、朝廷や寺社の支配を受けて、清掃や死体処理、犯罪人の逮捕、処刑などを行った場合もあります。これらの仕事は、ケガレを浄化するキヨメの職能と総称することができます。彼らはその身がケガレを帯びていると観念されたがゆえに、キヨメの能力をもつと考えられたのです。当時のケガレ観念は、排除・差別と同時に、神秘性と畏怖の面をあわせ持っていました。 
近世の被差別身分の中核は「えた」身分ですが、すでに鎌倉時代から「えた」は登場しており、皮革生産などに携わっていました。室町時代の史料では、河原者の別称とされています。被差別民衆の仕事はそのほかにも多様であり、牛馬による運搬、染色、壁塗り、井戸掘り、造園、芸能などがありました(3)。 
とくに、龍安寺、伏見城など、日本文化を代表する中世の庭園は、河原者がつくっており、注目されます。銀閣寺の庭を造った善阿弥、二郎三郎、又四郎のように3代にわたる名手も出てきました。 
また、中世の芸能を支えたのも声聞師・散所非人などの被差別民衆でした。千秋万歳(4)、曲舞(5)や猿楽(6)などの芸能にたずさわったり、操り人形を舞わす芸などをしながら諸国をわたり歩く人々がいたのです。これらの芸能は、宗教的な意味をもつものであり、民衆ばかりでなく支配者にも受け入れられていました。観阿弥・世阿弥親子のように猿楽を猿楽能として大成させる者も出てきました。ほかにも、歌舞伎や人形浄瑠璃といった日本の古典芸能は、もとはといえば被差別民衆がになった芸能と関わる側面が大きかったのです。 
中世の被差別民衆の職能は、上に挙げた非農業的なものばかりではありません。室町・戦国時代の農村部では、被差別民衆が田畑の耕作権を得て、独自の集落を形成した例もあります(7)。 
(3)阿波の被差別民衆 
では、阿波における被差別民衆の実態はどうだったのでしょうか。残念ながら史料に乏しく、その点を明らかにすることはできません。ただ、中世後期から近世の史料に注目すべき点があるので、紹介しておきましょう。 
15世紀後半の史料に、「まいまい」と注記された、阿波の「おんようの一類」の記載があります(8)。陰陽道(おんみょうどう)系の呪術的な意味をもった舞を舞ったものと考えられますが、声聞師に類する被差別芸能民だった可能性があります。 
また、近世初期の軍記「みよしき」(9)には、三好長治(10)が「あおや四郎兵衛」という染色業者を取り立てたとして、「ゑったましわる者は必ずほろび候」と記されています。阿波で染色業者=「えた」として差別されていたのかという事実関係は不明ですが、中世には、藍染めは河原者・「えた」の典型的な職能のひとつと認識されていた(11)ことからすると、イメージないしは知識として、差別観念が阿波に流入していたと考えることはできるでしょう。 
さらに、先に触れた農村部での集落形成の事例を踏まえると、近世初期の阿波の検地帳に見られる「かわや」といった被差別民衆は、中世末期までには独自の集落をつくりはじめていたとも考えられるでしょう。 
近世との関連から考えるとき、今ひとつ注目すべきことがあります。それは近世における被差別身分の多様性(よく知られている「えた」、非人のほかに掃除、猿牽、茶筅師、探禾といった身分がありました)と分布における地域性の顕著さです。例えば、芸能活動に特徴があった掃除身分は吉野川上流域だけに見られました。こうした近世のありようは中世社会の実態を反映したものとも考えられます(12)。 
注 
(1)惣の成立はその好例であり、掟には成員に関する規定が見られる。「日本思想大系 中世政治社会思想」下。 
(2)ケガレ観念のさまざまな理解については、辻本正教「ケガレ意識と部落差別を考える」。ケガレと差別の関係については、インド史研究の観点から論じられた小谷汪之「穢れと規範」が提示する視角が参考になる。 
(3)「えた」が登場するもっとも早い時期の史料は、鎌倉時代中期の辞書「塵袋」や絵巻物「天狗草紙」である。これらを含め、中世被差別民衆の職能については、部落問題研究所編「部落史史料選集」1。 
(4)正月に祝言を述べて歌い舞う門付芸。舞い手と鼓打ちの2人1組で行われた。 
(5)南北朝時代から室町時代にかけて行われた芸能の一つ。鼓に合せて歌い、舞う。 
(6)能楽の源流となった芸能。平安時代には曲芸、滑稽技、物まね芸などをいい、平安末期には筋立てのはっきりしたものになったらしい。鎌倉期には楽劇的要素が加わり、さらに室町初期にはせりふ劇と歌舞芸のあわさった芸能となって、現在の能楽の祖型というべきものが登場した。 
(7)三浦圭一「惣村の起源とその役割」(同「中世民衆生活史の研究」)。 
(8)「旦那売券」(「米良文書」547号[「熊野那智大社文書」2])。 
(9)「阿波国徴古雑抄続篇」(徳島県立図書館、1958年)所収。現存するのは、やはり軍記である「昔阿波物語」の著者 二鬼島道智による写本をさらに転写したもの。 
(10)三好氏は守護細川氏の被官から成長し、戦国期には幕府の実権を掌握した。長治(1553-1577)をもって、阿波三好氏は滅亡した。 
(11)丹生谷哲一「非人・河原者・散所」(「岩波講座 日本通史」8)。 
(12)「徳島県部落史関係史料集」3−202号。こうした被差別身分の多様性と地域性については、高橋啓「身分制支配の展開」(同「近世藩領社会の展開」)。
ケガレ観念 
差別の歴史を考えるとき、ケガレ観念は重要な位置を占めています。 
ここで平安時代に遡ってみます。この時代、貴族社会ではケガレに対して過敏なほどの恐怖心が広がります。今日では、ケガレという言葉は不浄=汚れ・穢れと考えがちですが、当時は犯罪や失火もケガレと認識されました。とりわけ、死や血のケガレ(不浄)を忌み嫌う考え方が浸透しました。それを裏付けたのが陰陽道(1)と仏教でした。 
したがって、当時のケガレとは、秩序から逸脱したり、秩序を乱したりするものと理解される現象でした。秩序の維持された日常性が「正常」であるとすれば、ケガレとはそれを否定するものといってもよいでしょう。もっとも、ケガレについての統一的な基準はなく、時と場合によって判断される面もありました。 
また、10世紀の法令書「延喜式」(2)には、ある人のもとで発生したケガレが伝染するということも書かれています。目に見えない「ケガレ」がいかに恐れられていたかわかる事例です。 
なお、以上のような「現象としてのケガレ」は一定の儀礼を経れば、除去と原秩序への回復が可能と考えられていました。 
ケガレ観念は、貴族社会だけにとどまっていたのではなく、社会規範として広がりを見せていきます。そして、現象の理解というにとどまらず、人間の価値判断にも結びついていき、差別と不可分の観念となっていきました。 
例えば、女性に対する見方があります。平安時代半ばには、出産などが出血をともなうためにケガレとされましたが、一時的なものと考えられました。ところが、仏教の影響力が増してきた中世には、女性の存在そのものがケガレとして差別が定着していきました(3)。 
本文で述べたとおり、中世の被差別民衆は病気や共同体からの排除ゆえにケガレの身として差別されましたが、同時にキヨメの能力を持つと見なされ、神秘と畏怖の念に包まれていました。しかし、中世後期になって村や町のまとまりが強まり、社会的分業が進んでくると、ケガレに伴っていた呪術性への畏怖の念は低下し、ケガレ観念の内実は変容していくのです。 
注 
(1)陰陽五行説(古代中国で発達した哲理。陰陽の二気と万物を生成する要素である五行から諸現象を理解する)に基づく宗教思想。これを担った陰陽師は、吉凶を判断する呪術宗教者だった。 
(2)「新訂増補国史大系 交替式・弘仁式・延喜式(新装版)」。 
(3)平雅行「中世仏教と女性」(女性史総合研究会編「日本女性生活史」2)。  
 
飛鳥地区の歩み

 

地区の歴史 
飛鳥のおこり 
飛鳥地区は大阪市の北部にあり大阪市内を南北に走る上町台地の西側に「天満砂堆」とよばれる砂地が北へ向かって走っておりちょうど飛鳥はその北の端にあたり、古くから飛鳥の地を「砂新田」とよぶこともあった。この地域からは弥生式土器が数多く発見され、現在、崇禅寺遺跡として発掘調査がすすんでいる。 
飛鳥の地名については、西成郡史や区史などでは1925年(大正14年)に大阪市に編入され、南方新家村から独立した際に佳名としてつけられたものとされているが、「南方新家村之図」(1885年−明治18年)には7つの字名が載せられており、その一つに「飛鳥」の字名がある。飛鳥は近世から1889年(明治22年)までは南方新家村、1889年から1925年(大正14年)までは西中島村大字南方新家と呼ばれた。新家という地名からもわかるように近世のはじめに新田開発によってできた村であると推定される。「元禄郷帳」(1702年−元禄15年)には南方新家村の名前があげられ、また南方新家村の正覚寺は延宝年間(1673年〜81年)の創立とされていることからも、17世紀中頃には村として成立していたとされる。 
このように新田開発によって成立した村ではあるが、新田開発以前にどこに住んでいたのかは定かではない。1840年(天保11年)には南方新家村の戸数は46軒で、うち「飛鳥」の戸数が29軒となっている。その後、1880年(明治13年)には南方新家村には80軒の家がありそのうちの60軒が飛鳥となっている。 
近世の飛鳥地区の仕事は「砂新田」とよばれたように農地はわずかで、用水にも苦労したようで、この他にも畑でとれた青物を天神橋で行商する人びともあった。しかし、最も広範囲におこなわれていたのが雪駄づくりで、1850年(嘉永3年)の記録には雪駄づくりの責任者として「砂新田利助」の名前があがっている。1850年の竹皮値下げ反対に立ち上がった17の部落の中には飛鳥も入っていたのである。このように近世までの資料については限界があるものの、村の成立や仕事についてはある程度明らかにされている。 
近代に入り飛鳥地区でも本村との緊張関係が続き、戸長選挙において本村と枝郷の差別的関係をうち破るため飛鳥からの立候補者が選挙に勝ち戸長になるということも起こっている。これらは膠やマッチ工場などの経営や小学校の建設などにみられる経済力を背景に、地域の上層部を中心とした有力者が村行政においても主導的な役割を果たしていたことが伺える。 
近代の産業―膠製造、マッチ製造、竹の皮の加工 
近代の飛鳥の産業に膠業がある。1885年(明治18年)には6代目の中井利助が中井膠工場を操業させ、続いて1918年(大正7年)には林製膠工場が操業されるなど最盛期には6軒の膠工場が飛鳥の地で操業するようになった。さらに、この膠を原料に使ったマッチの製造が1894年(明治27年)にはじめられてめざましい利益を上げた。これらの事業者の納める税金がおおきな金額であったため「西中島の村財政を飛鳥地区が支えている」といわれた時期もあったほどで、中井利助ら計六戸の製造額は1917年の最盛期には15万円(現在の貨幣に換算して年商30億円)にのぼったといわれている。1916年(大正5年)半ばには、中井利助が顔料株式会社を創業するなど好況によってたくわえた資本を投じて新しい事業にも乗り出したのである。中井製膠業には常時15〜20人の職人がいて、その3分の1ほどが地元の人である。飛鳥には1917年には6戸の膠業者があり、膠製造職人としても37戸の世帯主が生計を立てているので、一軒の工場につき平均6人の職人を地区内で雇っていたことがわかる。この他にも膠の「カキ」作業などにたくさんの女性が雇われていた。膠工場の操業当時を知る人は「ほんで、この部落ようわかりましてん。なんでいうたらね、膠のにおいでわかりますねんや。原料のニベを干す時にはにおいますねん。馬が通っても止まり立ちしますねん」と語っているように、食肉業や製革工業の副産物を材料とした。このように飛鳥で発展していった産業でもある。 
マッチ工場では男職人12人、女職人1人が世帯主として生計を立てている。聞き取りなどによるとマッチ工場では常時100人ほどの人が働いていたということで、地区の大半の人がなんらかの形でマッチ工場の仕事に関わっていたといえる。 
さらに、近世からの竹の皮の仕事も引き続いて行われ、真竹についている皮を食品などを包む梱包材に加工する仕事が主で、1910年(明治43年)に竹皮卸売問屋だった吉○が包装に使う竹の皮の加工を始めその後に4軒の問屋が竹皮加工に携わり、5軒の問屋が年間10万貫(40万キログラム)を加工販売していた。 
このように飛鳥の産業についてみたが、膠業を興した中井家の長女として生まれた中井数枝については「日記の中の自立」(守安敏司「全国水平社を支えた人びと」)で「これまで阪本清一郎の妻として、あるいは、全水第2回大会で「全国婦人水平社設立の件」を提案した人物としてしか知られていなかった数枝の人生断層」に迫っている。阪本と数枝は1915年7月31日に結婚しているが「ただこの年の9月には、2人のあいだに、長男が誕生していることから、結婚式の月日というよりも、「婚姻届け」の月日と考えるべきであろう」と指摘している。大阪と奈良の膠業者の娘と息子の結婚はその後の飛鳥での水平社創立にも強い影響を与えたことはいうまでもない。 
西中島水平社の創立 
飛鳥地区での米騒動の様子は聞き取り調査では「各地で米騒動が起こるが、飛鳥では大家を守り、日之出でも守っていた」とつたえられています。また、新聞報道では「論示に依り無事解散したるも、一時村民の集団を見たる町村は十五日夜、西成郡西中島の約50名」と報道されているように飛鳥では一応集合したものの、むしろ村の大家を守る側に立っていたといえる。この他にも「親戚多いし、あばれられん。何かやろうという力はなかった。麦七分、米三分、くず米しかたべていない。だから、あばれることはない」という記録も残されている。 
その後、翌年の10月6日には帝国公道会による講演会が正覚寺をつかって150人の聴衆を集めて開かれている。飛鳥では隣の日之出の「啓振会」のような融和団体は存在しなかったが、中井利助らの村の有力者らによる支配が安定していたので特別融和団体は必要なかったといえる。 
1922年3月3日にに全国水平社が創立された7月31日には、中井宅で水平社の演説会が開かれ約30人の聴衆が集まり、全水の幹部として米田富、駒井喜作、栗須七郎、阪本清一郎らが参加している。前後して差別事件に対する闘いも散発的ではあるが取り組まれ、奈良県の膠職人が西中島村の淡路に間借り住まいをしていたところ、周辺の住民が管理人に対して「家屋を貸与すべからず」という抗議をしたために家主が警察に「山本が家宅侵入罪を犯している」と、届け出たことにより差別事件に発展した。さらに1923年には柴島にあった中島座(芝居小屋)で「当事者間に著しき紛争起こり差別者身内関係数十名は深夜各凶器を携え暴行関係者に押し入り報復的暴行をなしたる」という差別事件がおこっている。 
このような差別事件に加えて、3月の水国闘争事件が起こり飛鳥から中井利助もこの闘争に深く関係し「奈良の事件に行った時ね。どないして行ったかというと、西淀川の歌島大橋あるでしょう、あの橋と長柄橋、十三大橋、それから城東貨物線のあの橋おまっしゃろ。そこに警察が、臨検番を作ってね、人を通さんかったんです。それでね、みんな、淀川を三々五々してね、船で渡って。そして、湊町の駅で集結してね。ほで、大和へ入ったわ。その時にね、飛鳥の中井利助さんいうて膠屋あったんです。そこにね、幹部が集合したんですわ。そこで作戦会議を開いた。そこにはね、水平社の主だった人が、松本先生、ほてから阪本さん、南梅吉、そういう幹部の人がほとんどそこに集まったそうです。中井家では、討ち入りのように家の畳を裏がえしにし、電気もつけず、百匁ろうそくわつけて、作戦を練ったそうです。まさに、命がけの闘いでした」とあるように、奈良の水平社の幹部と中井利助の運動的なつながりの深さが伺える。 
このような地域で起こる差別事件の糾弾や全国水平社の闘う糾弾闘争への関心から飛鳥地区においても数人の運動幹部を中心に西中島水平社が組織された。幹部の一人は小学校卒業後、箒職人をしながら運動に参加し「差別事件等に際しては多数と共に行動し相当注意中のもの」と警察からあるように一連の差別糾弾の中心的役割を果たしていたものと考えられる。西中島水平社は1923年の8月4日に創立された。創立前後の詳しい様子はわからないが、1923年の3月31日には水平社趣旨演説会が開催され200人の聴衆が集まっている。当時の様子は「水平社がでけて、運動したけど、運動するちゅうても、金もなにもないんだ。運動資金ちゅうても金おりへんねん、本部からは。そやから、みな、毎日腰弁当で、自弁で運動したもんです。わたしは三番まで言ったこと覚えてますわ。水平運動のな、それを広げるがために、我々部落民であるがために、どれだけの差別で苦しんでいるかということを訴えて、この運動に参加してもらうようにいうて、わたしも行って、そういうことを演説したことありましたな」と近隣の他の部落へ行ってオルグ活動のようなこともしていたようである。 
飛鳥の運動幹部で注目すべき人物として利一がいる。1899年生まれで東成郡榎本村において、中井製膠業を経営しながら榎本水平社の創立に参加した。飛鳥での活動にも勢力を注ぎ、全国的な水平社運動への貢献も大きく、1924年の「遠島スパイ事件」後の全国各府県水平社執行委員会議の会場を提供している。西中島水平社の創立以後めだった運動もなく西中島水平社は会員数30人で「区会議員選挙に際し、水平社員の立候補に部落民より却って普通民より後援多くして当選せるより既に一般民には理解あり故に水平運動等は不必要なりとし行動せず、只名目を存せるの状況にあり」と活動は停滞していたようであるが、西中島水平社は高松結婚差別事件糾弾闘争の過程で再建され1930年には全国水平社飛鳥支部を名乗り、1933年に大阪で開かれた「差別裁判糾弾全国部落代表者会議」には祝電を送り全国請願行動隊の大阪での受け入れの活動も行い運動の再建が進んだ。 
1935年の大阪府連の大会は啓発第一小学校で開かれ、地元での開催ということもありこの大会に向けた宣伝ビラには「地元三支部では積極的に大会準備闘争を展開しています」と書かれている。また、この大会では飛鳥支部の「冠婚葬祭の無駄を省き、その他区民の日常生活の立て直しを図って徹底的な生活の合理化を区民の先頭にたって闘っている」と飛鳥支部の活動を評価している。 
1935年にはある支部のトラホーム診療所設置闘争に飛鳥の大西が大阪府連の指導部として参加し、この闘争に連帯した日本労農救援会あてに、府連を代表して出した大西の「トラホーム退治を謝す」が残されている。翌年には大西が大阪北部の9支部による「全国水平社北支部大阪地区協議会」の結成の際に、書記長に選ばれている。協議会結成後の11月15日、全国水平社大阪府連は松田府連委員長が講師となり飛鳥託児所で「融和事業完成10ヶ年計画内容検討講習会」を開催したが、この後活動にめだった動きはなく自然消滅した。 
解放運動への立ちあがり 
西中島水平社の運動も消滅し、「焼夷弾の火が防空壕の前で燃えている。真っ暗になった中でこどもがワァーと泣いているのを抱えてやっとの思いで防空壕にたどりついたのです」とあるように飛鳥地区も三度にわたる空襲により地区の大半を失った。戦後、地区の中に大阪府営(現在は木造は撤去、簡易鉄筋は一部撤去)の住宅が建てられたが飛鳥からはだれもはいることはできず、住居はバラック状態で一本のポンプとただ一カ所の共同便所を使用するという不衛生な状態が長年続いた。飛鳥地区のすぐそばには柴島浄水場があるにもかかわらず水道すら設置されず、必要な飲料水はポンプで引くという状態も続いていたが、1962年からの新幹線工事にかかわって、井戸水に汚物が混ざり飲み水として使えなくなるという問題が起こった。 
1963年の3月と4月には大阪市と交渉をもち給水車を入れ、簡易水道を引くことも約束させた。6月には飛鳥支部準備委員会により「私達は去る3月末から4月にかけて水の問題で生まれてはじめて行政闘争というものを経験しました。そして十日間にわたる熱心な闘いの結果、飛鳥地区全域にわたり、80数カ所に共同水道をつけさせることに成功しました」と運動の成果を報告し「運動の支部を結成し闘かおうではありませんか」と支部結成の呼びかけがなされた。しかし、その後十分な活動が展開できず自然消滅したが、1964年には「車友会」が、翌年には「住宅要求者組合」も結成された。また、保育所の建設要求も行われ地区内にあった白鳥寮の跡地に1966年にあすか保育所が開所され、1968年には住宅要求者組合が中心になり、10月には飛鳥支部の再建大会が行われた。 
翌年10月には地区住民の憩いの場「パール温泉」が、ぼやから全焼にいたった。錆びついた消火栓と水圧の低い水道管、消防車の通れない狭い道など住民の差別行政に対する怒りが燃え上がり。浴場再建要求住民大会を開催し地区ぐるみの運動へと発展していった。このような地区ぐるみの運動は同和事業の成果を次々と勝ち取っていった。飛鳥北住宅(飛び地)2・3号館(1969年)、飛鳥住宅1・2号館(1970年)、飛鳥北住宅1・4号館、あすか保育所の移転拡張(1972年)、解放会館(現人権文化センター)・あすか温泉・西住宅(1975年)、青少年会館(1976年)、あすかショツピングセンター・飛鳥住宅3号館(1979)、飛鳥住宅4号館(1984年)などである。さらに、これらの施設を運営し人材の養成をはかるための教育・保育運動や福祉運動、まちづくり運動、青年・女性部活動もすすめられ、差別事件への取り組みや市民への人権啓発活動などにも取り組んでいった。
2000年部落問題調査から見た飛鳥の実態 
人口・世帯 
今回の調査対象者(15歳以上):のうち有効回答者は658人で、朝鮮・韓国13.8%(前回−90年は、外国籍16.1%)、その他0.6%(前回0.2%)と外国籍住民が2.3%減ってもなお高い比率になっている。同和地区出身の住民は39.8%(市内地区49.3%)出身外は52.1%と、混住がますます進んでいる。また、年少人口は15.1%(前回−18.2%)、老齢人口(65歳以上)16.5%(前回−11.5%)と、少子高齢化が進行しているとともに、若年層中年層の転出が増加していることが高齢者の比率を高めている。市営住宅の過去7年間(95〜01年度)の動向は、転入については40世帯であった。退去(転出)は、122世帯になっている。 
入居〜多人数向けなど、入れ替えの住宅を除く〜については、年度で大きな差がないが徐々に減る傾向にある。一方退去は、97年98年に集中しており、その後は減っている。これは「応能応益家賃制度」の98年度実施が影響しているものと思われる。高齢者の退去のほとんどが子と同居するためで、離婚が原因で退去した世帯は4世帯と思われる。 
年間収入など 
100〜200万円がもっとも多く20.4%、ついで100万円未満18.0%、200〜300万円16.8%となっており、300万円までの世帯が、全体の過半数の55.2%になり、市内地区の49.0%よりも6%も多い。「生活保護費」の占める割合は、市内地区は90年の13.6%から11.0%に低下しているのに比べ、飛鳥は8.7%から10.6%に上昇している。 
教育−学歴構成・学習状況や、中退など 
90年より「不就学」「小卒」「中卒」の割合が低下し、「高卒」「短大卒・高専卒」の割合が高くなっているが、「大卒」は3.7%と前回なみである。 
学習を「何とか理解」「十分理解」が72.3%と市内の78.1%より低く、市内より比率は少ないが「ほとんど学習しない」子が7.2%いる。子どもの質問に対し保護者は、「一緒に考え、調べる」が12.6%も少ない26.5%の反面、「先生などに聞くように言う」が10.8%と5.2%も多い。悩みの相談も、先生や指導員が多いが、家族・親戚・友人が少なく、相談する人がいないが9.6%(市内3.9%)もいるのが気にかかる。 
高校の中退率は市内地区より低いものの、現在10代では11.9%、20代8.2%、30代13.4%、40代13.8%、50代13.5%、60代20.0%、70以上10.5%となり、高い比率を示している。中退者のうち再学習志向は32.2%で、そのうち中学卒程度の人は31.1%だった。 
情報 
パソコンの所有は13.2%があると答え、市内地区の19.0%よりも少ない。ただインターネットの利用は13.1%で市内地区の12.2%とほぼ同じになっている。 
就労 
就労状況を大阪市(国勢調査)と比べると、「主に仕事」の割合は変わらないが、男性は71.1%に対し、飛鳥は64.2%、女性は29.9%に対して35.9%と高くなっている。「主に仕事」の次に多い「その他(病気・高齢)」は、国勢調査が9.1%に比べ飛鳥は20.4%と2倍以上多くなっている。 
住まい 
最低居住水準未満の世帯では、90年の19.3%から14.0%に減り、向上してきている。風呂の有無は「ない」が59.8%(90年77.5%)と向上している。高齢者は28.3%(市内地区38.6%)障害者では39.7%(54.5%)が「風呂がある」と答えているが、いずれも市内地区よりも少なくなっている。 
居住意識は「現在の住宅に住み続けたい」が46.8%で、「住み替えしたい」の22.6%を上回っているが、若い世帯ほど「今はまだわからない」「住み替えたい」が多くなっている。定住意識では「住み続けたい」は50.5%(市内地区54.7%)で、「地区外に引っ越したい」が9.9%(10.0%)、「今はまだわからない」は38.8%(34.2%)だった。引越したい理由は、「治安風紀が悪い」36.9%(市内地区31.0%)、「差別を受けるかも」30.8%(20.0%)、「自然環境が悪い」27.7%(21.7%)、「家賃が高くなる」27.7%(18.0%)、「騒音・公害が多い」26.2%(27.3%)の順となっている。
市同促創立40周年から約10年間の活動 
1980年代の半ばから取り組まれた第2期同促協改革は、市同促40周年にむけて集大成の時期を迎えることになる。飛鳥においても地区協3大業務が意識され、運動と事業の分離のために役員を完全分離し、92年には役員会の定例化(年7回)をはじめ各種審査委員会、運動体との連絡会が開催されました。とりわけ、市営住宅の不適正入居を是正するために当該の世帯の呼び出し及び訪問指導を全面的に展開すると共に、入居推薦基準を関係機関で確認し会長の諮問機関としての「住宅入居選考委員会」を年4回定期的に開催することになりました。「飛鳥の歴史をつくる会」の活動を復活させ、92年から精力的に取り組む中で93年8月に「飛鳥の歴史」を刊行しました。 
93年度は飛び地である北住宅の立ち戻りを促進するために2次にわたり、意義浸透のための説明会を開き事務的な手続きの世話活動を行いましたが、結果的に36戸が立ち戻り52戸が残ることになりました。94年度から一般住宅に転換するにあたり、市に対して人権啓発活動の継続的実施と外壁塗装やごみ置き場・駐輪場の改善等を要望しました。また懸案であった高齢者・障害者のための施設としての総合センター案が市より提起され、翌年にかけて老人会障害者組合を中心に施設見学の開催や市案の検討を積み重ねました。残事業について点検し大阪市と確認をかわしてきました。さらに住宅家賃の値上げにともなって住宅家賃減免の相談会や事業説明会を開催し、生活擁護の取り組みを展開しました。 
国が「地対財特法」を5年間で縮小廃止すると宣言した中間年に94年度があたり、今後の個人給付的事業を始めとする同和対策事業のあり方を論議する出発の年になりました。未利用地の有効利用と金網の町の解消を図るために市同促事業本部が発足し6月より住宅付帯駐車場の有料化、9月より一般駐車場経営を始めました。93度後期より各住宅カークラブの会を重ね、4月に飛鳥地区事業本部を発足し有料化の体制を確立してきました。これにより車庫証明がすべての会員に発行されるシステムができ、多くの住民に喜ばれ懸案事項がひとつ解決しました。地区協事務局では、5人の事務局スタッフ体制になり、住民に対する相談活動、各組織への支援をはじめ住宅・駐車場管理、人権啓発活動の推進等に大きくウィングを広げることができました。春は支部結成25周年記念大運動会が開催され、夏は例年開催する夏まつりの次の日に東淀川マダンが開催されました。また、飛鳥生協躍進に向けて理事会の活発な論議の中で、商品券発行や滋賀の部落農家からの米の共同購入、交流に取り組みました。 
法あと2年という95年の4月に、地区協事務所と支部事務所(解放会館外)の開設、飛鳥健康管理センターのオープン、子ども会結成25周年行事の開催と記念すべきことが重なりました。とりわけディサービス・ショートスティ・在宅介護サービスステーション・診療所及び老人福祉センター機能をそなえた健康管理センターの開所は、長年の高齢者障害者の願いがやっと実現したものです。開所に向けて94年度地域福祉ネットワーク四者会議や7者会議を立ち上げ、高齢者・障害者の実態調査に全力で取り組み、その資料が健康管理センターの事業の展開に効果的に活用されてきました。ケース会議が頻繁にもたれるようになり、ケースの内容や緊急性によって参加者の範囲を確定するシステムを確立してきました。対策事業については、自主規制の取り組みを運動体が主導になって広め、今後の事業のあり方を広く論議してきました。また住宅適正入居強化月間を設定し、管理人と共に居住者−住宅台帳−住民票の一致にむけ住民に啓発、点検指導を実施しました。 
96年は、労働市場の悪化と人雇センター登録者の雇用確保が課題となりました。また地元の柴島高校が総合学科になり、これまでにもまして希望する地元生が入学できない狭い門になりました。教育−労働の課題について学校や職安と連携して取り組んできましたが、課題の解決には厳しい状況が重なっています。また、年度末の特別就学奨励費の廃止に向けて教育関係者や保護者の集会での説明会を開催すると共に、就学援助費のあり方について運動体に提起し、地域の教育の向上をめざす会でも義務教育無償化の観点から積極的に取り組まれました。住宅管理に向けては、入居選考の民主性だけでなく根本的に住宅政策及び地区としての責任体制の要となる機関として住宅対策関係者会議(地区協役員・地元精通者7人で構成)を発足させました。夏まつり満25年を機に地区内外からカンパを募り内容や規模を大きくすることによって、地区周辺からの参加者が増大し啓発事業として大きな効果をあげました。また地区内外の情報について、教育を中心にFAXで情報サービスを開始しました。 
97年は法の縮小延長として位置付けられ残り5年が確定しました。個人給付的事業の廃止が現実に迫る中で、同和問題の解決のために真に必要な事業は何かを、各組織の役員を中心に論議してきました。特に98年度から公営住宅法の改正に伴う、住宅家賃の応能応益制度が提起されました。市として経過措置を設けるものの、住民にとって特別対策の廃止や一般化が現実のものと認識されるようになりました。地区協として市同促の方針のもとに住民に対する分かりやすい冊子を発行し、数度にわたり説明会・相談会を開催してきました。また、環境事業局より安全・衛生のため市営住宅のダスターシュート廃止が打ち出され、新しいごみ置き場の設置問題を各自治会と協議し住民の理解を得るために、他のマナーの啓発とをあわせて取り組みました。人権啓発の全国的取り組みとして’97ヒューマンコンサートを12地区協共催で開きました。とりわけ人権バンドコンテストは賛同する地区協と共にに3年続けて開催し、2001年度末には集大成としてHeartBeat2002・人権コンサートを城北公園で開催しました。 
法切れをひかえ、第3期同促改革論議が98年度より市同促で展開されます。法後に向けた新たな同促協のあり方は、同時に第2期同促協の到達点を再認識する作業から始められました。地区内対象の事業から地区周辺や区内に向けた事業が、一般施策を活用して展開され、飛鳥においては被保護者自立訓練事業が5月より、当時は区内にひとつの事業として開始されました。またヘルパー派遣対象者も校区を対象に拡大しました。あすか保育所では、前年度28世帯40人の入所児しかいない実態から、地元の要求が受け入れられ全市の実施より1年早く交流保育が実施されました。人権啓発委託事業を活用した第1回東淀川フェスティバルは、区民に実行委員会参加を呼びかけて開催し、住民参加型イベントとなりました。また周囲の住民や家族の相談から、精神障害者のケースに関係機関と共に取り組み、地域福祉の具体化につながりました。残事業関係では、西住宅多人数向け住宅や2人世帯向けのための2戸1化住戸改善工事が行われ、始めて浴室設置の住宅が28戸できました。支部結成30周年として、10月18日の記念日の行事・記念誌発刊・記念公演(劇団燃える)・石川さんを迎えての交流と、解放運動の原点を確認する取り組みが後半に行われました。 
99年度からは、保育特別施策(保育用品・服装費)、同和保育料廃止、保母の同和加配を廃止し新たな3業加配に、妊産婦対策の廃止と新年度から事業見なおしの連続になりました。従来の住宅管理人から連絡員に業務内容を変更する等のための住宅管理移行制度が創設されましたが、飛鳥では従来の管理人が家賃滞納指導や滞納金の徴収を従来通り地区協と連携して実施する方法を選択しました。(2002年度より、住宅管理担当員を設置に変更)また市住宅管理の職員による住宅相談日が毎金曜に開催され、住民サービスの向上と地区協との連携の充実が図られました。しかし、応能応益家賃の実施から滞納者が増え明け渡し訴訟対象が6世帯(12地区全体13世帯)に及びました。年間を通して、2000年度介護保険導入に向けた取り組みを展開しました。まず介護保険準備委員会を組織し介護保険の概要を学習すると共に、高齢者に何をどのように伝えるかを確認してきました。各戸訪問や個別面談を通して対象者状況調査表を作成してきました。ヘルパー派遣対象者に対して認定申請を働きかけ、調査に対する支援を行うと共に、調査員に対する研修を市社協など関係機関と共に取り組みました。25年の長きにわたり地域福祉の担い手であったホームヘルパーが、市同促ヘルパー事業の廃止に伴い年度末退職を余儀なくさせられました。飛鳥の7人中3人が4月より健康管理センターで働くことになりました。青館改革・社同指改革が取り組まれ、青少年会館条例が改正され一般施策事業を実施する生涯学習地域施設と位置付けられました。地元としてはこの改革にそって、特に部落解放子ども会のあり方を父母の会、青年高校生等と論議し指導体制の確立に取り組んできました。 
2000年度には市同促改革第2次素案が提起され、95事業の見なおしと25+5事業の創設論議と共に、今後の市同促・地区協のあり方論議が始めらました。また解放会館のあり方と共に人権文化センター条例が改正され、10月から使用料の徴収が開始されました。人文センターが様々なグループの活動の拠点として位置づくために旧ヘルパー室の活用を働きかけ、11月よりボランティア共用ルーム(2001.4よりコミュニュティルーム)として供用されています。利用グループを増やすために、解決すべき課題は多くあります。また人文センターによる継続的相談事業を共有化するために支援方策検討会が月例で開催されるようになり、関係機関の参画をえて相談事業の充実強化のために果たすべき役割は大きいものがあります。全府下対象の生きがいワーカーズ助成事業が大阪市内も始められ、飛鳥が助成第1号になりました。4月より地区内施設の清掃、7月より配食サービスが開始され、月1回学習会を実施しています。ボランティア・ワーカーズとなっているので位置づけやあり方を検討すべきですが、高齢者の就労の場として希望者が増えています。 
この間地区協の組織は、啓発地域にきっちり根付いてきました。名実ともに地域社協やネットワーク等福祉活動のメンバーの一員として、町づくり推進する会の事務局として、啓発地区育成会など教育のネットワークの中心的メンバーとして。2000年11月に開催された啓発小100周年、中島中50年、育成会20周年の記念行事では、実行委員長はじめ主要な役員を飛鳥のメンバーが担うなど、地区周辺の方との信頼関係が強くなってきています。また、FAX情報サービスから1999年5月には、ホームページとして東中島ウォッチングが開設され、飛鳥地区協が東中島(啓発)地域全体の情報を発信するようになりました。 
地区協は2001年度の3月25日に臨時総会を開催し、2002年度4月より「大阪市飛鳥人権協会」の発足を決定しました。01年度の活動は、組織改革、事業改革と、事務局職員の意識改革を経た資質向上の取り組みにつきます。総合相談事業に対応できる資質を身につけるために市同促主催の@人間関係トレーニングA自立支援事例研究会に積極的に参加し、相談カード作成に取り組みました。地元研修として実務研修3日、課題別研修2日を実施しましたが、研修の成果をいかに日常業務につなげるか等意志化する作業を個人・職場全体のレベルで取り組むことが課題です。 
2002年度は特別対策が、全面的に廃止されました。高校・大学奨学金や技能習得奨励費が廃止されて進路選択支援事業が創設されましたが、私学・専門学校の入学金と奨学金等との格差をどう解決するか、市民健康診断の料金が一般化されて受診者が減る傾向にどう働きかけるか、同和加配教職員の廃止にともなう生活や学力向上支援の体制はどうあるべきか。それに加え、若年層と収入が安定している世帯の転出が止まらない等々、課題は山積しています。同和向け公営住宅という名称からふれあい人権住宅に変わり、空家について校区内の住民対象の一般公募を02年度内に実施すると共に、以後ストック活用計画の具体化が図られることになります。 
これから具体的に取り組むべき方向として、(1)同和・人権問題解決に向けた25事業+5事業の完全実施と、解決の視点にたった見直し案づくり(2)人権の課題を担い活動している当事者団体との連携を深め、オブザーバーから会員(協議員)登録へ(3)共助を促進するためにボランティア活動の強化と運営母体としてのNPOの結成(4)職員の企画力等を高める資質向上計画と、各自のポジションにおける自己評価及び組織評価システムの導入(5)飛鳥の文化及び、地域周辺・区内の文化との交流や伝承
同和対策の終焉と地域人権協活動 
1969年の「同和対策事業特別措置法」の施行から33年にわたり実施されてきた同和対策の特別施策は終了し、一般施策を活用し人権行政の中で新たに同和対策を位置づける新しい時代が到来している。同和問題を人権問題という本質からとらえ、同和地区出身者を含むさまざまな課題を有する人びとの自立と自己実現をはかるために取り組まれるべきもので、一般施策への移行が同和問題の終了を意味するものではなく、(5)でみたとおり、実態調査の結果からもいまなお、飛鳥地区においても教育・労働などの課題が残されている。今後は周辺地域と一体となったコミュニティの形成、市民の人権意識の高揚、同和地区住民の自立と自己実現を図るための総合相談事業、だれもが安心してすめるまちづくり、あたらしい福祉課題の解消と地域福祉計画の作成、子育てネットワーク事業などが重要になる。2002年4月からは新しい人権行政の時代に対応するために「飛鳥人権協会」と名称を改め新たに事業をスタートさせた。事務局体制の強化と相談体制の充実、コーディネート力の向上など与えられた課題は多いが幅広い市民の支えにより差別がなくなるまで地域人権協会としての役割を果たしていきたい。
 
人間の測りまちがい 差別の科学史

 

観察や実験によって実証的に仮説の真偽を検証する自然科学(natural science)は、客観的な事実探究の学問として認識されており、普遍的な一般法則を発見することを目的としています。自然科学が普遍的であるというのは、観察条件や実験条件が同じであれば、誰が観察(実験)をしても同じ結果が出るということ、つまり、自然科学が正しいとする法則や理論に異論があれば、誰でも追試(反証)を出来るということです。  
自然科学は、原則的に属人的な現象の記述と政治的な数の論理(社会的な集団力学)を客観的な真偽の判定にとって無意味であるとします。第三者による検証(追試)のメスが入ることを許さなかったり、立場の強い権威的な人間の発言が優遇されたり、反証不能な神や霊魂(スピリチュアリティ)を持ち出してきたり、多数決で仮説の真偽が決定されたりする場合には、それは科学的理論とは言えません。  
非科学的な言説の最大の特徴は、カール・ポパーの言う反証可能性と観察事例の再現可能性を持たないこと、第三者がその理論や法則が正しいかどうかを検証することが出来ないことです。具体的には、進化生物学のように厳密な意味での再現可能性を持たない自然科学分野もあり、キリスト教根本主義が一定の影響力を保持しているアメリカなどでは、進化生物学を宗教的見地から否定しようとする創造科学の運動もあります。  
ここ近年では、旧約聖書の創世記に依拠して全知全能の神が生物を個別に創造したとする創造科学とは別に、聖書と似た世界観を持つインテリジェント・デザイン(ID)という仮説も出てきているようです。インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)とはその名前の通り、超越的な知性(インテリジェンス)が宇宙の構造や生命の設計をデザイン(創造&計画)したという仮説であり、広大無辺な宇宙や複雑精妙な生命(遺伝子)が自然発生する可能性は考えにくく、宇宙の誕生と生命の起源には何らかの超越的な知性(意志)が関与していたに違いないという信念に支えられています。  
神や超越的な知性(インテリジェンス)が宇宙誕生以前の数十億年前に存在していたのか否かという命題は、誰にも検証する手段と方法がありませんから、自然科学のカテゴリーの外部にある命題となります。つまり、創造科学やインテリジェント・デザインは、その理論体系が正しいのか間違っているのかを科学的方法で検証することが不可能だということです。それを信じるか信じないかによって真偽が変わる仮説や理論は、科学的理論の体裁を取っていても擬似科学ということになります。  
しかし、何故、擬似科学や非科学としての言説や理論を、科学的な理論であると主張することがあるのでしょうか。  
それは、近代以降の科学文明社会において、科学的な理論であることが、非科学的な理論であることよりも、信頼されやすい、確からしい、役立ちやすいという先入観を導きやすいからです。一般社会で生活する大多数の人は、科学的な思考法や検証法を身に付けているわけではありませんが、科学的な根拠のある健康法と宗教的な奇跡によって起こる健康法のどちらにより確からしさや信頼感、安心感を感じるかといえば恐らく前者でしょう。  
現代医学の標準的療法で苦痛な症状が改善しなかったり、信じられないような不幸が連続して起こって精神的に疲弊した時に、心霊治療や宗教団体に足を運ぶ人はいるかもしれませんが、大多数の人は、病気や怪我をすれば宗教施設よりも病院やクリニックで治療を受けると思います。宗教指導者や民間療法者の中には、癌を完治させられるとか、糖尿病を改善させるとか、アトピー性皮膚炎を短期間で治せると豪語する人もいますが、大多数の人は、宗教的言説や匿名の体験談、特殊な民間療法よりも医学(医療行為)という経験科学を信頼しているわけです。  
科学(science)という言葉には、正式な教育・訓練を受けた専門家集団によって客観的な証拠やデータに基づく検証が行われているはずだという肯定的な評価が内在しており、自分の行動・信念を左右する特殊な価値観とは無縁であるという価値の中立性が前提されています。  
チャールズ・ダーウィンによって提起された進化論は、現代では自然科学の一分野として確固とした地位を築いていますが、創造科学は極端な非科学的反論であるとしても、進化論は厳密な意味での実証科学ではないのではないか?という批判や疑問が根強くあるのもまた事実です。とはいえ、現代の進化論を全く荒唐無稽な空想や作り話であると考える科学者や知識人はいないでしょうし、自然選択(自然淘汰)と突然変異によって生物種が適応的に進化したとする進化論の科学性は、化石資料という物理的な証拠や放射性炭素年代測定法、解剖学的形態の類縁性や分類学・博物誌からの合理的推測、遺伝学や分子生物学の発展によって支えられています。  
進化論の実証科学としての弱みは、発生過程を証明しようとする大規模な進化が発生するのに必要な時間が余りに大きく、数百万年から数億年以上の地質学的な時間単位で観察しなければ、直接的に観察できない種の進化があることです。例えば、爬虫類から鳥類・哺乳類への進化のような遺伝子頻度が大規模に変化する大進化は、実験室内で再現可能な小進化(小規模な遺伝子頻度の変化による種分化)とは異なり、進化する瞬間を再現して観察することが現状では出来ません。小進化は、大部分の人が頭の中でイメージしているような分かりやすいドラマティックな進化(魚類が両生類に進化するような進化)ではなく外見上の形態の変化も余り見られないため、化石資料と遺伝情報の近似性以上の客観的証拠がない大進化が、本当に自然選択と突然変異によって起こるのか分からないという批判も絶えずあります。  
自然科学や進化論に関する前置きがかなり長くなりましたが、進化生物学者であり科学史研究家であるスティーブン・J・グールドの書いた人間の測りまちがい 差別の科学史は、過去の頭蓋計測学や進化論、犯罪心理学、知能テスト(IQ恒常説)に付随していた科学的な誤謬と差別の歴史を遡る壮大な科学史の著作です。  
今、この本を私達が読めば、学会で権威を認められた一流の科学者が、そんなバカバカしい仮説や差別的な前提を立てて証明しようとするとは信じられないと一笑に付したい気持ちになるかもしれませんが、20世紀初頭までの西欧の自然科学と心理学は、白人至上主義とキリスト教倫理(プロテスタンティズム)、帝国主義の植民地支配、男性優位主義(男尊女卑思想)に非常に強い影響を受けていたことを忘れてはならないでしょう。  
また、18世紀から20世紀初頭までの自然科学者は現代の科学者とは異なり、謂わば文明社会の特権階級に属する人たちであり、先祖代々の有力な上流貴族であったり、自分で働く必要のない大富豪の令息であったりする研究者が少なくありませんでした。当時のヨーロッパやアメリカの識字率や進学率を考えても大学や大学院に進学できる人はごく一部であり、その中で教授職や学会の名誉ある地位に就くことのできた人物というのは紛れもなく社会の特権階級者でした。  
その為、学問に理解のない一般庶民や貧困者、浮浪者、犯罪者、女性、精神薄弱者、植民地の有色人種(特に黒人とインディアン、ホッテントット)に対する差別感情を隠す必要がないアカデミズムの雰囲気が一部の研究領域(優生学・人類学・進化論・心理学)で醸成されており、そればかりか進んで、何故、自分たち白人が、他の人種よりも優れているのか?・何故、女性には、男性のような論理的思考や合理的判断が出来にくいのか?・何故、社会の支配階層(富裕層)の人々は、被支配階層(貧困層)の人々よりも優れているのか?・何故、犯罪者は生まれながらに、犯罪者になるべく定められているのか?という生物学的根拠を探し求めたのです。  
ナチスドイツの障害者に対する断種法やユダヤ人差別政策、アーリア人(ゲルマン民族)至上主義の理論的根拠になった優生学(eugenics)を創始した、チャールズ・ダーウィンの従弟であるフランシス・ゴールトン(1822-1911)卿は、一生涯自分自身で労働する必要のなかった富裕な貴族階層に属しており、人間の能力・特性・行動を計測する科学的作業のみに人生の全てを費やすことの出来た恵まれた科学者でした。  
グールドが本書を通して書いた自然主義の誤謬や計測データの解釈の間違い、人種差別主義を肯定した生物学的決定論などに関しては、次の記事で少しまとめてみたいと思います。大著なので全てを読み終えるのは大変だと思いますが、心理学の知能検査にある程度の造詣がある方であれば、第五章 IQの遺伝決定論と第六章 バートの本当の誤りは流し読みしても大意は分かると思います。  
僕は個人的に、第三章で詳述されていたポール・ブローカー(ブローカー野損傷の運動性失語症を発見した脳科学者でもあります)の頭蓋計測学と、第四章で興味深い情報が多くあったチェザーレ・ロンブローゾの犯罪心理学(生得的犯罪者気質)を丁寧に読んでみました。知能指数と人種問題などに関心があり、マーレーとハーンシュタインのベル・カーブの論文について聞いたことのある方は、最後のほうにあるベル・カーブ批判を読んでみると新たな発見や示唆を得られると思います。  
スティーブン・J・グールドの人間の測りまちがい 差別の科学史は生物学や心理学に関する専門的な記述や刺激的な情報も多いのですが、基本的に科学者共同体の中立性・客観性が時代精神や政治状況、財政事情によってどのように捻じ曲げられる可能性があるのかという“理論負荷性のテーマ”に基づいており、一人一人の科学者の発言や事績を丁寧に再現して検証しているので科学史や学者の伝記が好きな人は、ぜひ、一度手にとって読んでみられることをお薦めします。 
近代統計学の黎明期を築いたフランシス・ゴールトン卿は、優生学を提起する以前にも徹底的にあらゆる差異を定量化して測ることに執着的な熱意を燃やした人物であったようで、グールドは定量化の使徒という副題をつけています。しかし、本書のタイトルが“測りまちがい”とあるように、自然科学は研究対象となる事物を客観的あるいは計画的に計測することによって始まり、計測して得た数値データを分析したり解釈したりして一般理論へと帰納していく学問的営為ですから、ゴールトンの“客観的計測へのこだわり”は科学者として必要な素質ともいえます。  
フランシス・ゴールトンという科学者は、生得的な遺伝子によって人間の形質や所属階層など全てが決まるという遺伝決定論者であり、客観的に計測することが可能な人間の能力・特性の全てが親から子へ遺伝すると主張しました。チャールズ・ダーウィンが人間は意識的な努力によっても、能力や機能を伸ばすことが可能ですという意見を書簡に書いたところ、ゴールトンはその努力できるかできないかの素質さえ、遺伝的に既に決定されているのですといった返事を書いて送ったというエピソードが紹介されています。このように書くと、優生学を提唱した危険思想を持つゴールトンだから、人間の能力・特徴・階層の全てが遺伝によって決定されるなどという荒唐無稽な仮説を立てたのだろうと思うかもしれませんが、生物学や人類学、心理学の歴史を振り返ると、20世紀初頭まで各時代の一流の研究者の殆どが遺伝決定論(生物学的決定論)に傾いていました。  
故に、行動主義心理学(行動科学)のジョン・ワトソンが唱えた環境決定論というのは、当時のアメリカにあって実に衝撃的で革新的な理論だったわけです。生育環境さえ整えればどんな子どもでも希望通りの職業や階層につけることができると豪語したワトソンの環境決定論も、遺伝要因を完全に無視しているという意味でゴールトンとは逆方向へ極端に偏っていますが、現代の心理学では、氏か育ちか論争は遺伝要因と環境要因が相互的に作用する輻輳説(ふくそうせつ)に落ち着いています。  
以前は、遺伝要因が何%、環境要因が何%影響することで個人の性格や能力が漸成的に形成されるといった議論がされていましたが、現在では、遺伝と環境がどのくらいの割合で影響するのかを識別する観察や実験が不可能であるため、どちらが何%の影響を与えているというような主張は全てナンセンスであるとされています。何故、19世紀から20世紀半ばくらいまでの生物学者や心理学者の多くが、親から子へ伝わる遺伝形質や生物学的特徴を重要視したのかの理由は明白であり、白人が、黒人や黄色人種、未開民族よりも生得的に優秀であるという生物学的証明の目的論に囚われた形で研究していたからです。  
実際には、古代ギリシアの哲学者であるプラトンの政治思想書国家において、君主・貴族(戦士)・庶民の身分が「生得的な要因(金・銀・銅の人間への混入)」によって決定されると書かれているように、近代科学の誕生以前から、現在ある社会階層(社会経済的役割)や能力・適性が生まれながらの要因で決まっているという理論はありました。インドのヒンズー教にある伝統的な身分制度であるカースト制も、生まれながらに社会階層が決定されそれを個人の努力や意志によって変更することは出来ないと説きます。しかし、ヒンズー教やギリシア哲学の場合は、飽くまで人為的な作り話であり慣習的な宗教制度ですから、現実的にそれを否定することが難しくても、原理的には曖昧な根拠に基づく理論構成となっています。  
実証的な科学研究を前提とした20世紀半ばまでの生物学的決定論(遺伝決定論)や優生学の本質的な危険性とは、自然主義の誤謬の先鋭化でした。科学研究が、政治状況や社会世論、宗教信仰、人種差別など特定の価値観と無縁であるという建前を取りながら、客観的な根拠(科学者集団が客観性と中立性を認めた根拠)を用いて、既存の支配と差別、格差、貧困、政治的放置(教育支援や社会保障の無効論)を全面的に肯定しようとしました。19世紀から20世紀初頭にかけて欧米では、正に、自然的事実(遺伝形質に基づく知的能力・知能指数・政治能力)が、社会階層に基づく役割を決定しているので、それを人為的に変更してはいけないという自然主義の誤謬が猛威を奮ったのです。  
もっと簡単に言えば、後天的に否定することの出来ない科学的論拠(生物学的要因)を、科学を余り理解しない被支配者階層(貧困層・被差別層・女性)に権威的に押し付けることで、既存の差別待遇や奴隷制度、女性蔑視を肯定しようとしたのであり、政治的な不平等や無為無策(教育・医療・社会保障を与えないこと)に有力な客観的根拠を与えたのです。つまり、彼ら(彼女)は生まれながらに高度な教育内容や複雑な政治問題を理解する知性(知能指数)をもっていないので、彼らに義務教育を与えることは財政の無駄であり、彼らに参政権を与えることは社会秩序の危機につながるというわけです。  
優秀な遺伝的素質を持つ白人(コーカサス族やアングロサクソン族など)以外には、権力や財産を与えてはいけないし、社会のルールである法律の制定過程に参加させてもいけない、教育を与えてもそれを理解する生得的知性が欠如しているので公費の無駄であるという、今からすると無茶苦茶な差別的意見がまともに議会や学会で通っていたのが、19世紀のヨーロッパやアメリカでした。しかし、当時のアメリカやイギリス、フランス、ドイツの白人の支配階層(知識階層)の人たちは、こういった黒人やネグロイド、インディアン(ネイティブ・アメリカン)、インディオ、アジア人に対する差別的政策を悪であるという倫理自体を持っておらず、遺伝によって決定され帝国主義の歴史によって証明された人種間の優劣の区分に従って、最適な社会的役割と経済的役割を果たすのが善良な市民の義務であるとさえ考えていました。つまり、自然界において淘汰されるのが常である社会的弱者の保護や福祉を打ち切ることが、進化論的な適者生存を加速し社会的活力と経済的繁栄につながるという悪しき社会ダーウィニズムの原点が芽生え始めた時代だったのです。この社会ダーウィニズムを社会生物学として理論的に精緻化させていく科学者が、E.O.ウィルソンであり、このE.O.ウィルソンの社会生物学については第七章 否定しがたい結論で少しだけ言及されています。  
現在、人種差別に対して非常に厳しい政治的・社会的ペナルティを科すアメリカでさえ、ナチスドイツの悲惨なホロコーストと自国の公民権運動の経験を経なければ、生物学的決定論を捨て去れなかったし、完全な人種平等主義の倫理に到達することが出来なかったのです。そればかりか、18世紀〜19世紀の欧米において、人種や民族を越えた完全な平等主義を主張する人物は、既存の社会秩序を脅かすという意味で、ある種の危険思想家と見なされる向きさえあり、アナキスト(無政府主義者)やコミュニスト(共産主義者)と同類の現実を分かっていない人間、学識教養に乏しい人間と侮蔑されていました。  
単一民族国家として、肌の色や脳容量、骨格など生物学的な特徴(分類)による差別を経験したことのない日本では、欧米とアフリカ・アジアの間で繰り広げられた人種・民族の差別問題の根深さを実感することは難しいですが、客観性・中立性を前提とする自然科学までを動員して、差別の正当性・支配の歴史の必然性を確立しようとした歴史があったことは意識しておく必要があるでしょう。  
そして、現代社会においても、政治判断や社会福祉政策に影響を与えるような科学的研究は依然として存在しています。政治家や知識人(学者)、評論家が、科学的な決定論や統計学的なデータを用いて、政策の正当性や規制(罰則強化)の必要性、社会福祉打ち切りの妥当性を主張する場合には、その科学的根拠の前提に特定の価値観や先入観(偏見)に基づく目的論が混入していないかを絶えず疑ってかかる姿勢が大切だと思います。アメリカでは、保守反動的なイデオロギーと生物学的決定論(や統計データの恣意的な解釈)が結びつきやすいといわれますが、このままでは、古き良き時代が失われてしまうという旧来の富裕層や中流階層の焦燥感や不安が、科学的な後ろ盾を求めるとも言えるでしょう。  
スティーブン・J・グールドは、生物学的決定論に代表される科学的客観性を誤用した決定論には、既存社会の政治的平等(権利の平等)への変化を抑止する悪影響があると喝破し、いつの時代でも科学は、既存社会の政治的脈絡や経済的インセンティブ、社会の中心的価値観の影響を受けざるを得ないといいます。私も、客観的とされる自然科学がありのままの世界の事実を観察できるだなどと過信することは危険だと思いますし、対象の測りかた(観察・実験の方法)や測定した結果として出てくる数値データが客観的だとしても、その統計データや計測データを科学者がどのように解釈して理論化(法則定立)するかによって意味合いが大きく変わってくると思います。  
科学は人間が行わなければならない営みであり、それ故、深く社会に根ざした活動である。科学は予感や直観、洞察力によって進歩する。科学が時代とともに変化するのは大部分が絶対的真理へと近づくからではなく、科学に大きな影響を及ぼす文化的脈絡が変化するからである。事実とは純粋で無垢な情報の部分ではない。文化もまた、我々が何を見るか、どのように見るかに影響を与える。  
さらに、理論というのは事実からの冷厳な帰納ではない。最も創造的な理論は、しばしば事実の上に想像的直観が付け加わったものであり、その想像力の源もまた強く文化的なものである。(中略)  
科学はその奇妙な弁証法を逃れることはできない。科学は周囲の文化によって育てられるにもかかわらず、自分を育てている前提を問題にしたり、ときにはひっくりかえしたりする強力な作用因となる。科学は社会的重要性の論拠を弱める情報を提供することもできる。科学者たちは自分の仲間の文化的前提を確認したり、違った主張の下では、答えがどのように組み立てられるかを問いかけたりしようと努力することができる。  
科学者たちは、同僚達を仰天させ、疑われることのなかった手順に対抗させる独創的な理論を提出することができる。しかし、科学者たちが客観性と不変の真理への接近という二つの神話を捨て去らない限り、科学にのしかかっている文化的束縛を確認する道具としての科学の潜在力は十分には認識されないはずである。  
前述したように、自然科学は反証可能性・方法の客観性・価値の中立性を前提としているはずですが、社会階層や政治状況と相関する“人類(人種)”を対象とした自然科学の歴史は、「白人至上主義を前提とする人種差別主義」や「男尊女卑を前提とする女性差別主義」といった偏った価値観に非常に強い影響を受けていたわけです。しかし、自説を肯定するために意図的な証拠の捏造やデータの改竄をした悪質な事例もあるが、多くの良識ある科学者は、明確に差別意識を持って研究をしていたわけではないとスティーブン・J・グールドはいいます。  
自然科学は“数量的なデータ”というある種の絶対権威によって問題事象にラベリングをする力を持ちますが、客観性を突き詰めた頭蓋計測学を構想したポール・ブローカー(1824-1880)は、客観的な計測法を実施することにはある程度成功しましたが、計測データの解釈に無意識的にせよ社会的偏見(白人至上主義・男性優位主義)を混入してしまったのです。  
経験主義的な実証科学を理想としたポール・ブローカーは、脳容量(脳の大きさ)が直接的に知能水準と相関していると考え、体型(身長・骨格・体重)や性別を無視して、男性より脳が小さい女性は男性よりも知的能力において劣っており、優等人種である白人は劣等人種である有色人種よりも脳が大きいと主張しました。ポール・ブローカーは、事実を理論に優先させるのが科学であるという前提を遵守した科学者でしたが、白人文化圏に普及していた白人男性→白人女性→黒人→貧困層→精神遅滞という知能の絶対的階層秩序の先入観と偏見から自由になることが出来ませんでした。人類の形態や能力は、ブローカーの固定観念にあったように直線的でもなければ階層的でもなく、人種間の相対的差異よりも個人間の相対的差異のほうが大きいという意味で、非常に大きな多様性があり乱雑性があったのです。  
ブローカーは意図的なデータの改竄や卑劣な証拠の捏造によって科学者としての名誉を地に落とすことさえなかったものの、事実とデータの間に生まれたギャップを補正するために自分の持論を次々と捨て去り、脳の大きさと知能の直接的な相関関係に関する仮説の殆どを否定する皮肉な結果になりました。つまり、非白色人種の脳の大きさが白色人種を上回っていた場合には、確かに、脳の大きさが大きいことはデータによって明らかである。  
しかし、劣っている人種が優れている人種よりも大きな数値を示す“脳の大きさ”という指標自体が、知的水準を直接決定するわけではないのだろうと解釈するわけです。最後には悪あがきをして、脳の大きさが大きいグループでは、エスキモーやマレー人が白色人種を上回っているので全く理論的な意味はないが、黒人やアボリジニーの脳の大きさは明らかに白人より小さいので、脳の大きさが小さいグループでは脳と知能には直接的な相関があるに違いないという論理破綻した解釈へと行き着きます。  
ブローカーの弟子で社会心理学の創始者として知られるギュスタヴ・ル・ボンは、群集心理学という現代にも通用する心理学史上で重要な著作を書いていますが、彼も西欧に蔓延していた女性差別思想の影響を免れることが出来ませんでした。ル・ボンは、知的能力や教養水準において平均的男性に優越する女性が存在するのは客観的事実だが、彼女たちは生物学的に見ると一種の奇形だから統計学的には無視して構わないと主張しました。  
社会心理学者ル・ボンは、伝統的な性別役割分担を破ってはいけないと説く保守主義者でしたが、女性は学問などをせずに家事・育児に従事すべきであるという根拠は自然的事実(遺伝要因)にあると考えていました。女性に高等教育を与えて高い社会的地位に就かせることは、自然の秩序を乱して伝統的家族像を瓦解させると主張したル・ボンですが、男性は仕事・女性は家庭という価値観は、現代社会にも反ジェンダーフリーのような形となって根強く残っています。  
保守的に家父長的な家族関係を肯定する人であれば、無意識的にせよ有史以来の長きにわたって、男性と女性は仕事と育児という異なる役割を果たしてきたのだから、それを大幅に変えるべきではないという文化的決定論(伝統主義)の考えを持っている人は意外に多いかもしれません。安定した社会環境や男女関係を守りたい、大きく世の中を変えるのは危険であるという保守傾向を持っている人であれば、ル・ボンを時代錯誤な女性蔑視の心理学者として退けることには抵抗があるかもしれませんが、本書に記されたル・ボンの差別的発言そのものは現代では支持されないでしょう。  
私はこの本を読むまで、ル・ボンがここまでラディカルな女性差別論者だとは知りませんでしたが、19世紀のイギリスやフランスでは科学者共同体の内部だけでなく、社会全体で女性を抑圧する風潮(女性の社会進出や高等教育に否定的な世論)があったので、彼だけが特別なミソジニー(女性憎悪)を持っていたわけではないと思われます。日本においても、戦後までは女性には高い教育を受けさせる必要はないとか、仕事よりもすぐに結婚して子供を産むべきだという男性原理的な慣習・伝統があったことを思うと、(男性・軍人の発言力が増す戦争が多かったこともあり)洋の東西を問わず、女性の権利や発言が抑圧される流れにあったといえます。ただ、体格差や性差、栄養状態による数値の適切な補正をせずに、男性と女性の脳の大きさ(容量)を直接比較していたブローカーやル・ボンのような頭蓋計測学者は、知能のレベルをランク付けするという目的に対して、原理的にナンセンスな研究をしていた(目的そのものも反証可能性がなく科学的価値がありませんが)といえるでしょう。  
第四章 身体を測るでは、進化論にありがちな誤解である進化の直線的な進歩性について触れていますが、当時の白人の進化論者の多くはエルンスト・ヘッケルの個体発生は系統発生を繰り返すという反復説を、人類は系統発生を繰り返す(劣等人種は優等人種の進化の前段階にある)という誤った解釈に拘泥していました。  
進化論は、遺伝子頻度の変化の過程=環境変化に適応する為の生物種の変化の過程を説明する科学理論体系であり、本来は進化という言葉に前進的進歩・発展的成長という意味は含意されていないのですが、人種グループによる知能・能力のランク付けの目的にこだわる科学者の多くが、進化とは、より優れた種へと向かう進歩の流れであるという誤解をしてしまいました。その為、黒人やネイティブ・アメリカン、白人女性は、白人男性から見ると先祖がえり=進化の前段階への後退を起こした種であると見なされるようになり、劣等な人種や民族では、類人猿に近似した生物学的特徴が見られるはずであるという主張が多くなりました。  
その為、誤解された進化論を前提とする差別主義では、類猿性(アピッシュネス)や幼児性(インファント)といった要素が劣等性の証拠とされるようになっていきます。その結果、白人男性のような成熟した大人になりきれないという意味で、黒人・女性・黄色人種は子供っぽいという表現が用いられました。今でも身体は大人だが、心は子供だ・あいつらは文明社会に適応できないサルみたいな奴らだというような侮辱表現が残っているように、現代社会でも精神(知性・理性)が、成長し切れていない・進化の前段階にあって文明社会や社会のルールに適応できないという生物学的未熟さを皮肉まじりに指摘する人は時々います。  
進化の歴史過程は、直接的な進歩・発展の歴史であり、進化の系統樹の先端には最も優秀な種族がいるという進化論の理解は、明らかに正統な進化論解釈から外れており、人種のランク付けに都合の良いように恣意的な解釈が加えられたものといえます。因子分析を用いた性格心理学(特性論)の研究とモーズレイ人格目録(MPI)の作成で知られる心理学者のH・J・アイゼンクも遺伝決定論の支持者だったが、白人優位主義の誘惑に抗することができず、ネオテニー(幼形成熟)の概念を用いて黒人の劣等性を証明しようとしました。  
ネオテニーとは性的に成熟しても、身体特徴(形態的特徴)に幼児性を残しているということですが、アイゼンクは幼形成熟の度合いが大きいほど成体の知的能力(認知能力)が高くなるので、早熟傾向のある黒人は知能発達に一定の限界があると主張しました。もちろん、ネオテニーと知能発達には何ら因果関係などはありませんので、アイゼンクは因果関係のない相関性に基づいて恣意的な理論を構築したに過ぎません。  
アイゼンクの誤謬の始まりは、まともな教育を子供に受けさせられない貧困な生活環境という極めて明白な環境要因を無視して、発達早期の運動感覚の早熟性という知能指数と何ら関係のない遺伝要因を優先したことにあります。実験状況の整備に配慮する科学者であれば、同程度の生活環境(経済環境)で成長した子供の知能水準を比較すべきなのに、アイゼンクは富裕な白人層と貧しい黒人層の学習成績を無思慮に比較しただけでなく、その結果の差異を遺伝要因に帰すという誤りを犯したのでした。 
 
「部落」と言説を巡る一考察

 

日本で研究することになって以来、西川長夫先生に大変お世話になっている。こうした機会を与えてもらえて大変嬉しく思っている。ただし氏の優しい指導を受けながらいつも冗談と雑談で答えている私として、同時にもう少しまとまったものを奉げたかった気持ちもある。時間と能力の問題がしかし出現し、現在文書があまりでてこない状況に悩まされている。  
ここでは現在の研究の一部をなしているテーマを少し整理する形で、試論・研究ノートを執筆することにした。  
西川先生の近年の作業のなかで「国民国家論」に関する記述は最も注目を集めているようである。国民国家の問題・課題に(意識的に)遭遇したことのなかった私として、その記述は自分が生きている状況の大きな構造・枠組み・概念等を新しい視点から見たり、自らの立場や態度を問題視したり、世界への眼差しを「更新」するものとなったといっても過言でない。  
「国境」や「国民」と非常にあいまい(で特権的)な関係を持ち続けている私は、そうした概念に伴う、あるいは内在する、排他性や差別の問題に注目した。なぜある人々はある集団の構成員とされ差別されるのか。その人々は何ゆえにその集団の構成員なのか。その集団はいかに成立したか。その差別を支える言説はいかに生産され、機能するのか。こうした問題を抱えて、関心はまず欧州、豪州、そして日本における個人的な経験に向かったが、現時点でそれは明治期の日本における「被差別部落」を取り巻く言説の分析を試みることにつながった。  
執筆にあたって、まず明らかにするべきことはこの文書は直接解放運動に参加しているものが書いたのではないし、著者は誰か・「他の人」について書くということに問題を感じている。  
しかしデリダが示唆するように、書くという行為をなさない限りそれはどうにもならないだろう1)。多くの問題を抱えながら、画面に字を並べて、それが漸く何とか文書らしきものになるのではないかと、ちょっと想像したり、作業が進むにつれて期待をもしている。  
ここで書く文書は恐らく私が今まで読んできた(数少ない)「部落史研究」や「部落解放研究」とは角度がかなり異なる。むしろ「部落」をカルチュラル・スタディーズに「属する」アプローチで分析しているといわれるかもわからない。というのは、私は「日本独特」の問題としての「部落現象」には興味を持たない(こうしたアプローチに意義を見出せないわけではなく、単に個人的な選択として)。その問題を、近代において「文化的」に、あるいはことばの中で、ことばを通じて、作り出された言説と密接に絡んでいるものとして捉える。  
部落史のなかで、近代以前と近代以降の「差別」の違いをテーマとすることもある。これに対して私は近代に「差別」が誕生したとする。近代以前にはいろいろな状況があった、それが「差別」になるには原則としての「平等」がないとならない。これは言葉の遊びに思えるかもしれないが、集団的属性を原因とする「不当な」別扱い・蔑視・隔離などを差別の根幹にあるとするなら、「不当」の判断を可能にするのは「自由」や「平等」のイデオロギーである結果、近代において始めて「差別」は誕生するのである。  
塩見は次のようにいう:「今日の部落差別の淵源は、黒船とともに持ちこまれた「人間」という新しい概念に照らされて、発見された。人間だから、だれもが同じでなければならなくなった」2)。これを私なりに解釈すると、賤称廃止令や法的平等によって(大体)皆が同じ人間になり、「平等」になって、差別が発見されたり、可能になるといえよう。  
近代と差別は切り離せない関係にある。今西は国民国家と差別とのかかわりを次のようにいう:「差別の根源は、ほかならぬ国民国家のなかにあるものではないか[...]同一化のロジックなしには近代国民国家はなかったが、逆にいえば、非同一なるものを排除することによって、近代国民国家が成立した」3)。同質化の合理は当然、そしてパラドクシカルに、非同一なるものの存在によって成立する。意図的な「区別」か「差別」なしには(意識的に)同質な人間集団の存在は困難であろう。要するに内なるものの作成には外なるものの設定は欠かせない4)。  
こうした問題を経済的な面からいうなら、近代資本主義は経済的不平等を前提としながら、そして世界システムが「差別のネットワーク」に覆われていながらも、同時にこれらは「平等」という、その状況を不当だとするイデオロギーにも支えられている。とすると、その平等のイデオロギーを制限する、あるいは特定な場合において無効にする言説が機能する必要があろう。  
こうした「近代的」な倫理環境への適応や、「平等」や「自由」を中心とする闘争として、この現象に切り込んでいくのである。  
塩見の近代を「異物撲滅」の欲求にとらわれているとする視点を少し訂正してもよさそうである5)。確かに異形は授産・矯正・改良・同化等の対象となるが、国民国家において異形は異形であることを通じて、あるいはそういう存在にされたために、重要な役割を果たすものとなる。自身はなにでないか、どうありたくないか、どう思われたくないか、こうした「対抗イメージ」を結晶化・具体化して、やっと自身は何であるか、ありたいか、どう思われたいか、ということが明確に主張されうる。こうした自他の設定は当然力関係と密接に関わり、自他の権力関係を反映する傾向を有するだろう6)。  
こうした内を形成するに向かっての外の設定の例としての部落を取り巻く言説を考えてみたい。言説と現実との絡み合いという視点を利用してこれを行うことにする。  
もう少し遠回りしていうと、私のような専門のない、非制度的な(デタラメといってもいいのですが)ブリコラージュを方法とする人に、「カルチュラル・スタディーズ」の確立はかなり好都合な出来事である。そこでの権力の力学だとか、その中での自らの位置の疑問視、理論と実践とのつながり、こうした問題が結構中心的な課題となっている。そして私はこうした問題意識をいくらか共有しているつもりでもある。  
例えばベル・フックスは日常における批判的な思考と、本から学んだ知識を合流させること、換言して「理論と実践の統一」を自身の作業の中心においている7)。  
スチュワート・ホールも類似した課題に触れる。グラムシーの文書を引用しながらホールは人間の実際に経験するローカルで、身近なものと、もっと高度に理論化されたイデオロギーがどう絡み合うかという問題をあげる。「大衆」・「民衆」意識を「破片的」なもので、矛盾する言説の交差する場にあるとする。より制度的で高度なイデオロギーの役割とは、日常の「コモン・センス」に働きかけ、コモン・センスを統合することであり、こうした要素の関係が政治に「統治」・「規制」されていることに注目する8)。  
「言説」と「現実」、あるいは理論と実践の関係を巡ってエスコバールの開発言説批判も多くの示唆を与えてくれる。彼は言説の重要性は例えばサイードのオリエンタリズムに指摘されていることを確認する。そしてその作業にフーコーの理論をも導入し、言説としての開発を分析する。そこで次ぎのように書いている:「この本は、言説領域としての開発主義の研究だと言われるかもしれない。サイードのオリエンタリズムの研究と違って、しかし、私は実践を通じての言説の展開により注目する。私が表したいことは、このディスコースは、第三世界を創り出す思考と活動といった具体的な実践へといかにみちびくか、である」9)。  
この発想を「部落」の文脈に置き換えていうなら、「近代」においてどのように「部落」というものが「言説」によって定着させられたか。こうした形で問題を設定することができる。  
また、この過程は決して無抵抗に一方的に行われたのではなく、反対されたり、修正を強いられながら進行したものである。言説の場は複雑な政治的闘争に覆われているものであり、そこでの部落の介入や主流の動きだとか、ここで分裂した情況のなかからいくつかの側面をとりだすことにする。  
問題を次の三つにまず限定して考えてみる。1.平等を一つの軸として成立する近代国民国家において、差別が言説のレベルで正当化されるものである、あるいは言説によって「差別されてもいい」存在が創出されることを確認したい。2.そうした言説は一つの領域にとどまることなく、他の差別や社会認識にもつながる。例えば「部落」を巡って一時期盛んにでてくる「異民族起源説」と「外国」−特に朝鮮半島−に対する差別的な意識の形成とのつながりや、衛生やケガレの意識の「合流」など。3.こうした言説の作用に対する抵抗や対立・適応が主流の言説に影響され、動きが規制されながらも、抑圧された窮屈な空間のなかで「平等」を武器にして動き出す過程を可能な限り検討したい。  
最近「部落民とは誰か」と題する雑誌の特集がでた。そうしたカテゴリーはある意味で「便宜的」なものであろう。集団が実存しないのではなく、そうしたカテゴリーはしかし統一された同質な、簡単に定義しうるものでもない。むしろ多様で内部に多くの亀裂、差異を含むものであろう。なるほど、これは言説上、統一体があるかのように書かれるかもしれないが、その背景には様々な分裂や差異があることは記憶に烙印されてもよさそう。シャローがいうように、カテゴリーは恣意的なもので、永遠たるものでない。現在進行形で、戦略的に使用されるものである10)。  
畑中敏之は「部落史の陥穽−『部落問題は歴史に起因する』のか」で、歴史的に現象を説明することが差別の正当化・弁明にもつながりうることを指摘している11)。ちょっと氏の言葉を歪めるかもわからないが、私なりにいうとこれは差別がいかに(歴史的)言説によって支えられ、運動家・活動家・歴史家がそれにいかにとらわれていたかを表現する批判だと思われる。  
つまりまさしく言説による差別の正当化の例であろう。  
次に「差別」を作り出す(「再編成」でもいいんですが、それは差別が再編成されているのではなく、かつてあって要素や構造が、平等という概念のもとで、あらたな意味付けや枠組みを与えられ、「差別」となることをいいたい)言説に関して、ここで「清潔」等の概念と、「不浄」や「ケガレ」の概念の交差に触れたい。  
エリートが生産する言説はいつでも簡単に現実世界と噛み合わない。「賎民廃止令」に続く当令を説明する「権力者」側の説諭や告諭がいかに納得されにくかったかは、差別の継続や「部落」を襲った一揆によって実証される。要するに、こうした言説はかなりの人々によって、納得のいく現実のあり方の説明として否定されたのである。  
近代的であることが有意義で価値のある状態と見られると、国民は清潔であり、衛生的であり、それによって彼等の近代性・開明性が表明されるなら、そうでない人々は排除されたり、介入・矯正・改良の対象になりうる。そして「介入」が正当化される。結果的に問題視される状況にある人々は(「本当に」そうであるとは限らないが)なにゆえその状況にあるのかは問題にされなくて済むのである。責任は彼等/彼女らに被せられるのである。  
部落に関して、旧来「えた」だと規定されていた人々は、恐らく少なくとも西日本の数多くの地域では「ケガレ」というものと関係すると認識されていた。このような発想と清潔・衛生の概念や政策はかなり結びつきやすかったであろう。  
そうした例と別に、例えば公衆(国民)衛生と従来のケガレだとか不浄の概念の接点は、その言説の受け入れを容易にし、差別の継続をもたらす・許容する一つの要因になっただろう。  
「不潔個所」であり伝染病の源泉であると表示される「貧民部落」についての安保則夫の研究はこうした現象を表すものと考える12)。  
「部落」を「外国」と結びつけようとする言説も検討したい。部落の人々が「帰化人」あるいは「異民族」の子孫だとする説があった(今でもあるかもしれない)。これが事実と縁のない説であることを繰り返す必要はないと思う。出身国や地域を理由に別扱いを正当化しようとしたり、見下したりするのはそれを利用するものの偏見であり、それを主張する側の立場や、その人(びと)の置かれている力関係の現われでもあろう。これは見事に国際関係と国境に象徴される現象であろう。  
「異民族起源説」は多くの場合部落がどれほど差別的な視線で眺められていたかを証明する現象として位置付けられる。それはそうかもしれない。しかし、そう主張して、この説が朝鮮半島の人々に対する差別を利用したとか、それが一般的に根づいていたとするなら、それはどのように一般的に根づいたのか、こうした疑問に触れる必要がある。  
こういう視点から、例えば上杉による「異民族説」の分析はいくらか深められてもいいだろう。氏によると中世から異民族起源説が存在し、「この古さは[...]被差別部落を「社会外」とする差別の本質的在り方と深く関わっているように思われる。民衆の人的結合から排除されている被差別部落民衆の性格は、容易に異民族のイメージと結びつきうるからである」13)。ここで異民族排除は非歴史な現象となり、人間の普遍的条件でもあるかのように扱われているような気がする。  
しかし徳川期の国学の一部の「排外主義」のような「高度」な発想は、多くの人々とどのような接点を有したものだろうか。徳川期の朝鮮からの使節団は、かなりあたたかく迎えられたようである。またジャンセンが記録するごとく、日本における中国のイメージが決定的に悪化するのも古代・中世ではなく、近代に向けてである14)。「近代」以前には「異民族崇拝」の傾向があり、その分離したものが、現在の白人崇拝とアジア蔑視の形で受け継がれていると主張したら過言だが、とにかくこれは新たな文脈・国際関係のなかで起きた現象であると考える。  
とすると、どこかでかなりの転換が起きている。これは日本ナショナリズムと帝国主義の結果だといっても、それはどういうふうになった現象なのだろう。いつから外国から来ることが犯罪のようなことと解釈され始めたのか。「外国=差別されて当然」という図式は批判的に考察される必要があろう。  
問題の極一部について推定すると、「民衆」にとっての「朝鮮人」のイメージは「部落」のイメージと重なり合ったり、矛盾したりして、それらがいかなる存在であり、どのように扱うべきか、という課題に関して「部落=帰化人」の理論・論理と、外国人、特に朝鮮半島に対する差別的感情がつながっていることも可能ではないか。異民族起源説はこうした機能を果たしたのではないか。  
なにゆえに異民族は排除される存在としてあったのだろうか、それはどういう経緯で成立したのか。それはむしろ近代国民国家の現象であり、国家間関係の中で創り出されたものであり、決して無限に非歴史的な過去へと拡大されるべきものではなかろう。また、それらは単に「エリート」に主張されて一般的に受け入れられるわけではない。現実に根付くものであったり、自らのなんらかの経験と結びつく側面が必要であり、こうした言説は、どこかで複雑に交差したのではないか。  
最後に、こうした言説に反対する動きを分析したかった。方法を、理論と言説の絡み合いと自分で主張しながら、具体例の文書や言葉を全然あげていないことは恐縮ですが、枚数と時間の制限のためここでも大雑把で乱暴な書き方をする。表明した目的とテキスト自体が矛盾していることはかなり気になるが、書いているうちに明確化したこの緊張関係も、次の作業を明示してくれているだろう。  
ここで、「部落側」が差別に働きかけはじめる現象に移りたい。「部落」に対する主流の言説と、「部落」側による抵抗・反抗といった主体性の(再)獲得・確立の過程を検討する。これは明治期の重要性を賎民を廃止した太政官の布告にのみ見出す流れと多少異なる見解である。  
この流れは例えば「賤称廃止」令の半世紀後に水平社が結成され、水平宣言という素晴らしい人権宣言が作成されたと、その間の期間には特に状況が進歩しなかったという安保の記述とも相容れない部分がある。彼は「自由」や「人権」の概念が民衆に長年かかって浸透したと、そして1922 年の全国水平社創立大会の「水平宣言」を日本初の「人権宣言」と「高く評価」すべきだとする。なぜ廃止令から50 年かかったかというと、「被差別民が自らの眼差しとことばでもって社会の不当な差別を糾弾し自らを差別から解放する主体として立ち上がるまでに、それだけの歳月を要した」と、水平宣言によって「差別と抑圧に呻吟する民衆の生活世界から、今はじめて、ことばが発せられたのである」と書いている15)。  
統一された組織としての宣言は始めてであった。しかしその前の動きは忘却されているのか。  
その運動の前提条件は、明治期の動きに顕著である。(統一)運動(史)の視点からすると水平宣言は最重要視するべきだが、ここで別な動きを忘却の穴か引き出すことにする。  
よくいわれるように、明治期の部落政策や言説の中心に差別の原因を部落側に置くという特徴があった16)。その「言説空間」のなかに置かれる部落の人々の一つの反応は、自身を改良・改革することであった。「近代的」で「望ましい」とされた人間像−「日本国民」の像−に達することが目指されたといえよう。その行為によって「解放」に至る可能性があるように見られていた面もあっただろう。つまりそうすることは主流に薦められたし、それに従うと自分たちにいいことがあるかもわからないと、抑圧・差別に苦しんでいる人がこういわれると、少なくとも最初はそれを信じる傾向があろう。  
それが「嘘」だと判明すると、しかし、状況は揺らぎはじめる。というか、状況は常に不安定であるが、意図的にそれに働きかけることによってその不安は深められる。  
「嘘」であると判明するのは明治期の一つの重要な現象である。受け身的な、無知でまさに「される」側と表象されていたものが、実は社会が悪いんだ、少数な私たちでなく、多数であるあなたたちが悪くて、あなた方が変わらないとならない。と主張しはじめることは、かなり衝撃的な出来事であろう。こうした姿勢は例えば岡本弘の、全日本同胞融和会設立大会での発言に顕著であろう。  
極端にいうと明治期の部落側に主体性がまるでないかのように「部落」を表象する文書の再検討が必要だと考える。例えば渡辺俊雄は「部落史の転換」で、「解放令」によって「政治的に」「賎民制度」がなくなったとしても、「社会的には近世以来の差別意識が残るのは当たり前です」と書いている17)。  
様々な新しい言説が合流したり、絡み合ったり、対立したりする極めて複雑な力学的な状況の中で「部落」と規定されたものに対する差別的意識や行動が機能するようになったというべきであろう。そして、それは部落側の主張にもかかわらずそうなったが、そのことには何の必然性もなかった。それが「あたりまえ」だとすることは、「部落」がその段階で完全に無力であったかのような解釈の仕方でもある。  
実はこの現象があらわすのは注目すべき主体の取り戻しであり、主流の言説に対抗する動きである。それは効果的でなかったとか、その動きが後に組織的な運動という形で国家に回収されたこと、こうした問題・課題にここで触れる間はない。なによりも世界の見方の一変という大変な現象が起きている。いくら現状に縛られているようにみえても、知と権力を有する側の言説に対抗する形での主体の確立の可能性がここに提示されているし、ここにまさに解放と抑圧の両面を含む「近代」の一つの特徴があるのではないか。  
注  
1)Jacques Derrida、 “Cogito et histoire de la folie”、 L’écriture et la différence、 Seuil、 Paris、 1967、 pp.52-3.  
2)塩見鮮一郎『差別語と近代差別の解明』明石 東京 1995 年 72 頁  
3) 今村仁司『近代性の構造−「企て」から「試み」へ』講談社 東京 1994 年 203 頁  
4)Michel de Certeau、 L’étranger ou l’union dans la difference、 Desclée de Brouwer、 Paris、 1991、 p.14.  
5)塩見鮮一郎『異形にされた人たち』三一書房東京 1997 年 23 頁  
6)Zygmunt Bauman、 “Modernity and ambivalence (friends、 enemies and strangers)”: Mike Featherstone ed.、 Global Culture - nationalism、 globalisation and modernity、 Sage、 London、 1990、 p.143.  
7)bell hooks、 “Introduction: the heartbeat of cultural revolution”: Outlaw Culture、 Routledge、 NY、 1994、p.2.  
8)Stuart Hall、 “The toad in the garden: Thatcherism among the theorists”: Cary Nelson & Lawrence Grossberg eds.、 Marxism and the interpretation of culture、 University of Illinois Press、 Urbana、 1988、 p.59.  
9)Arturo Escobar、 Encountering Development. The making and unmaking of the Third World、 Princeton University Press、 Princeton、 New Jersey、 1995、 p.11.  
10)Paul Schalow、 “Theorizing Sex/Gender in early modern Japan: Kitamura Kigin’s Maidenflowers and Wild Azaleas、 Japanese Studies、 Vol.18、 No.3、 December 1998、 pp.247-8、 263. (戦略的な使用も問題ですが、ここでは触れないことにする。)  
11)『現代思想』27 巻2号 1999 年2月号 53-60頁  
12)安保則夫『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム 社会的差別形成史の研究』学芸出版 京都1989 年 109、262、268 頁等  
13)上杉聡『明治維新と賎民廃止令』解放出版 大坂 1990 年 9-10 頁  
14)Marius Jansen、 China in the Tokugawa world、 Harvard UP、 Cambridge、 Mass.、 1992、 pp.82-3.  
15)安保則夫「日本近代化と部落問題」:領家穣編『日本近代化と部落問題』1996 年 24-25 頁  
16)例えば秋定嘉和『近代日本人権の歴史−主として部落問題を中心に』明石書店 東京 1992 年11 頁  
17)『現代思想』27-1 1999 年1月号 36-37 頁  
 
国民国家論論争への所感

 

「倚りかからず」茨木のり子  
もはやできあいの思想には倚りかかりたくない  
もはやできあいの宗教には倚りかかりたくない  
もはやできあいの学問には倚りかかりたくない  
もはやいかなる権威にも倚りかかりたくはない  
ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい  
じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある  
倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ  
1 マイノリティの「異議申し立て」  
1999 年の夏は、本当に暑い夏であった。しかも、おそらく後世の歴史家が見た時、日本の戦後政治の大きな転換点であった、と総括される夏になるであろう。戦争法=日米防衛指針(ガイドライン)関連法の成立から、盗聴法、国旗・国歌の法制化、憲法調査会設置法、国民総背番号制まで、「自自公」+民主党というベルトコンベアーにのって、「戦後政治の総決算」が粛々と行なわれた。そして、靖国神社の「特殊法人化」までが提起された。  
現在の日本では、経済では「自己責任」を強調する新自由主義が提唱されながら、政治では国家主義が台頭するという奇妙なパラドックスが進行している。もちろん、その前提として北朝鮮との戦争の驚異が声高に叫ばれているが、アメリカが本当に恐れているのは、短期間に終わらせられる「第2次朝鮮戦争」より、中国と台湾との戦争である。日米ガイドラインには、日本を対中国戦争の後背基地として使い、自衛隊の海外派兵を実現して、日本国家を「戦争機械」として完成させたいという、アメリカと日本の為政者の露骨な意図が隠されている。  
アメリカは、ユーゴスラビヤの空爆で、NATO軍を自分たちの部下のように使い、緑の党や社会民主主義勢力を、空爆賛成に「転向」させたように、アジアの戦争でも、日本を兵站基地として使おうとしているのである。安保体制のNATO化とでもいうべき事態が進行している。  
これらの一連の動きは、日米ガイドラインの実現という枠を超えて、21 世紀はかつて私たちが経験したこともない、「管理社会」=「全体主義」の成立となることを予想させる。  
今日の「情報革命」という名の情報管理が進めば、まさに詩人の茨木のり子氏の言うように−  
電話ひとつだっておそるべき文明の利器で  
ありがたがっているうちに盗聴も自由とか  
便利なものはたいてい不快な副作用をともなう  
川のまんなかに小舟を浮かべ江戸時代のように密談しなければならない日がくるのかもしれないのである(「時代おくれ」)。  
監視や盗聴技術の発達、アメリカの軍隊では、DNAまで登録され、「無名戦士の墓」さえいらなくなる現在、人間の過去の病歴の調査から、未来の病気の予想までが可能になったのである。21 世紀は、私たちの予想を超えた「管理社会」となるであろう。  
これに対して姜尚中氏と吉見俊哉氏は、現在の状況をグローバル化に対する「危機意識をバネに〈公〉を国家に同一化するナショナリズムが台頭し、戦後民主主義的な市民的公共性は窮地に追いつめられようとしている」と語っている。しかも最近では、「戦後の革新運動や市民運動がほとんど問題にしてこなかった市民的公共性の排除の構造」が露呈してきている。「そのひとつは、性差による家父長的な支配のモードであり、もうひとつは、ナショナリティによる排除の構造である」(「混成化社会への挑戦」『世界』第664 号、1999 年)。  
前者は、フェミニズムによって指弾され、後者もまた、「在日」韓国・朝鮮人や、アイヌ、沖縄の人びとなどによって問題にされてきている。近年のフェミニズムやサバルタン(被抑圧者)史学、カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアル理論などの世界史的な台頭の背後には、この近代国民国家が形成されるなかで、「異質なもの」として暴力的に排除されたり、均質化されてきた人びとの「異議申し立て」が含まれている。世界が均一な市場経済によって覆われようとすればするほど、これに抑圧される人びとの「異議申し立て」は、当然、拡大していくのである。
2 国民国家論批判への反論  
しかし、これらの声に耳を傾けるどころか、最近、西川長夫氏らが提起している国民国家論に対して、曲解としかいいようのない批判をよく眼にする。ここでは、そのいくつかを紹介して、西川氏が提起している国民国家論の意味を考えてみたい。  
まず近年、最も精力的に西川氏への批判を展開しているのは、大門正克氏である。大門氏は、西川氏の議論は、「近代という時代が進めば進むほど国民の拘束性が強まるという時代認識になってしまわないか」と問い、「近代が『国民の拘束の歴史』としてしか描かれなくなったところに、西川氏の国民国家論の隘路がある」とする。かつての安丸良夫氏の議論が、「主体への強烈な関心に支えられた被拘束性の強調であ」るのに対して、西川氏にとって「民衆は常に受身であり、国家を主語にして語られている」というのである。  
そして、成田龍一氏の「関東大震災のメタヒストリー」(『思想』第866 号、1996 年)という論文を取り上げて、この論文の主人公夢野久作のような「さめた意識こそが国民国家にからめとられない態度だ」ったかもしれないが、成田論文には「被災者を見つめる視点がまったく排除されている」と批判する。そこで、成田氏が「国民国家の対局極に孤高の『個人主義』を位置づけた」とする。  
そればかりか、坂本多加雄氏らの「自由主義史観」が、「国民の物語」を提唱する点では違いはあっても、強い「個人」を析出しなければいけないという点では西川氏と共通している、としてとらえる。「国民への忌避感だけではなく、社会の共同性そのものへの懐疑(あるいは忌避感)を含」んで国民国家論は、「自由主義史観」の露払いをしていると危惧する。「歴史学での国民国家論、社会学でのシステム社会論、経済学の新古典派、これらには国家や市場に対する拘束感と無力感を強調し、人を一人へと還元する『方法的個人主義』の視点を含む点で共通性をもっていた」とまで極論する(「歴史意識の現在を問う」『日本史研究』第440 号、1999年、他)。  
大門氏の議論には、いくつかの飛躍がある。国民国家論といっても、西川氏の議論と成田氏(上野千鶴子氏も含まれているようだが)の議論が、必ずしもすべて一致しているわけではない。また、国民国家論と自由競争至上主義の新古典派が、同列に議論されていること事態、まったく理解に苦しむところである。  
かつて西川氏は、カール・マルクスの「ルンペン・プロレタリア」を反革命としか見ない歴史観の誤りを批判し(『フランス近代とボナパルティズム』)、このマルクスの誤りを踏襲した色川大吉氏との間に、歴史文学論争を展開して、後には色川氏自身が自己批判していることは、有名な話しである(『歴史の方法』)。西川理論の眼目のひとつは、近代国民国家が排除した、女性や外国人、下層の民衆や農民の声を、どう歴史のなかに復権させるかにある。そこに、ミッシエル・フコー流の「統治」論を使う論者と、西川氏との間に決定的な差異がある。  
近代国民国家が、いかに「国民」の間に、1級市民(国民)と2級市民(国民)といった分割線を引き、国民国家や市民的公共性の「恩恵」にさえ浴さない人びとを生むかを明らかしたのが、西川氏の国民国家論の最大の眼目である。西川氏が強い「個人」を待望しているというのは、大門氏の曲解以外の何ものでもない。まして「新古典派」と同列に論じるには、あまりにも乱暴な議論である。  
直接の大門氏の発言ではないが、国民国家論は「近代国家の拘束力を描き出す視点を提示したものの、国民国家の相対化のあとには一体何が来るべきなのか、われわれは裸で生きられるのかという点が、明確でないなどの問題がある」(「シンポジュム:『国民国家論』『国民の物語』を考える」『人文学報』第27 号、1999 年)といった批判がよくおこなわれる。  
まず西川氏の議論は、社会主義・共産主義といった「弥勒の世」が出現して、人類の悩みをすべて解決してくれる、といった安易な未来への予言をたてるには、もうやめようという提言を含んでいるのである。私たちは、何度もそうした予言に裏切られてきたのではないだろうか。  
また西川氏の言葉を借りれば、「私がこれまで国家の破壊とか、国家をぶっ潰すとかいった表現を極力避けてきたのは、これまでのそのような言説を伴って作られた党派や国家が、いかに権威的・国家的であるか、またそのような言説を好む人々の日常生活における感性や行動がいかに家父長的・国家的であるか、そうした実例をこれまでうんざり見てきたからです」(「国民国家論の余白に」『KEIO SFC REVIEW』第5号、1999 年)といった、既成の反体制運動それ自体への疑問が含まれている。  
かつて西川氏は、1968 年のパリ5月革命を経験するなかで、この運動を「既成のイデオロギーをこえて人間の全的な解放と徹底した民主主義を目指す運動」と実感している。後年、「旧来の反体制運動とは異質の、体制化しない、国家や世界システムに回収されない、『新型』の反体制運動の誕生を68 年革命のなかに」見たとして、「この新しいタイプの反体制運動は、アルベルト・メルッチの言う『新しい社会運動』や『現代に生きる遊牧民』に呼応している」とする。「現代に生きる遊牧民」とは、高度な移住社会に生きる私たちが、いかにして「流動的な、いわゆる脱国民国家型のアイデンィティ」を作るのか、という問題でもある(『フランスの解体?』)。  
また国民国家が、そんなに簡単に解体されるとは考えていないのであって、それだけに国民国家がつくりだしてきた「イデオロギー装置」、国語や国文学、国史学などからもっと自由になることを提言するのである。私たちの日本史研究が、客観的に国民国家を支え、その枠組みのなかで展開していることを自覚すべきである。  
大門氏は、「遠い将来を別にすれば、国家には共同性を担保する必要な役割がある」とするが、そもそもなぜ国家に民衆の「共同性」を担保してもらわなければならないのであろうか。  
西川氏流の言い方をすれば、国家をそんなに信用していいのか、ということにもなる。西川氏は、敗戦時に大陸で「棄民」となり、国家に決定的に裏切られた体験をもっている。西川氏ほどの強烈な体験をもたなくとも、敗戦直後の大多数の民衆は、さまざまな形で国家に裏切られたのである。  
私は、国民国家から自律した民衆世界の(排他性の少ない)規範や、「中間団体」をどう作るのか、というのが大きな問題だと考えている。1例をあげれば、イギリスでは、国家試験に通った医者と、医者の組合が認定する医者との2種類の医者がいる。精神科のカウンセリングなどでは、医療費は高くても後者の医者にかかる人が多い。大学を出たての医者より、人生経験の豊富な人に相談するほうが、安心できるからである。  
日本では、「公」といえば国家のことであるが、欧米ではパブリックというのは、「私」の集合体である。パブリック・スクールは私立学校であるし、パブとは飲み屋のことである。  
「私」が集合して「公」をつくる伝統の少ない日本で、国家が全面にでれば、とんでもない「管理社会」や「全体主義」をつくりだすであろう。国家は粛々と退場してもらいたいのに、今日の日本は、民衆のアノミー(無秩序・退廃)化が進展して、国家の統制が進むという極めて危険な状況にあると考える。国民国家の過剰というのが、むしろ問題になっている。 
3 小路田・徐氏の場合  
大門氏の他に、西川氏の国民国家論を批判している論者に小路田泰直氏や徐京植氏がいる。  
小路田氏は、長々と日本国憲法を引用して、昨今の歴史学の「国民国家批判症候群」が、「国民主権を相対化するということ、もしくは否定することを意味する」ということを自覚しているのか、とまず問う。そして、「冷戦崩壊後、東欧やアジアやラテンアメリカにおいて、冷戦下では考えられなかった政治の民主化が一挙に進んだ」とする。  
日本でも、「1990 年代にはいって露見した官僚主導型政治システムの破綻を目の当たりにして、改めて国民および国民代表主導型の政治システム−いわゆる『真の民主主義』『真の国民国家』−を確立しようとする動きが、にわかに活発になり始めているのである。小沢一郎・藤岡信勝から菅直人・丸山真男までの広がりが、その動きにはある」とする。丸山氏も小沢・藤岡氏と同列に論じられて、さぞ草場の陰で驚いているであろう。  
そのうえ自民党や自由党の「課税最低限(所得税)を引き下げて国民の皆納税者化をはかろうとしているのも、歴史を見直し、民主主義のベースになる国民の皆納税者化をはかろうとしているのも、国民的アイデンティティを強化」するものであり、「戦争責任を論ずるにあたって、その責任に主体的に任ずる『日本国民』をまず立ち上げようとする、加藤典洋の」議論に「期待」している。  
なにより「国民の契約団体として国家を立ち上げることができず、最後は、社会有機体説に頼り、国家をアプリオリな統一体として描き出すことによってしか、国家を立ち上げることができなかった」近代日本は、「民族国家」ではあっても、「国民国家」ではなかった、というのである(『国民〈喪失〉の近代』)。  
まず小路田氏と私では、〈現代〉に対する認識が、まったく異なる。国民国家が、「想像の共同体」であるとは、ベネデクト・アンダーソンのあまりのも有名な規定であるが、均質な「国民」というものがフイクションであるように、「国民主権」や「人民主権」というものもまた、ひとつのフイクションであることは、西川氏がボナパルティズム論以来明らかにしてきたことである。日本国憲法を見ても、「『戦後改革』にともなう『民主化』も『主権在民』の体制もすべて『日本国民』の内部のことであり、しかも、その場合の『日本国民』は、植民地帝国の体制のもとでも頑強に維持され続けた『日本人』にかぎられるという体制が形成された」として、戦後体制は植民地民衆の切り捨てであった、とする駒込武氏らの批判がある(『植民地帝国日本の文化統合』)。また小熊英二氏は、かえって戦後の国民国家の方が「単一民族神話」が強化されたとしている(『単一民族神話の起源』)。今日では、その戦後民主主義が切り捨ててきたものが、問題にされているのである。  
多木浩二氏は、「近代国民国家とは、平時から、『暴力』(常備軍)/『非戦闘員としての国民』(いつでも兵士になる)/『経済』(生産、国債その他)の複雑な組み合わせにほかならないのだ。近代国家は、いつでも戦争できるように油をさし、磨きをかけられていたのである。  
これを『戦争機械』と呼んでもよかろう」と語っている(『戦争論』)。国民国家とは、常に戦争状態を継続している国家のことである。この「戦争機械」としての国民国家の役割は、戦前も戦後も決して変わってはない。  
「冷戦」の崩壊以降の世界では、新たなエスニック紛争が激化しており、「冷戦下では考えられなかった政治の民主化が一挙に進んだ」とはとても考えられない。まして小沢一郎氏らの政府委員の廃止が、「官僚政治」を終わらせたり(『憲政の常道』)、「課税最低限(所得税)を引き下げ」が、「民主主義のベースになる国民的アイデンティティを強化」するものだとは、とても言えない。小沢氏らの構想は、「国民主権」という虚構をさえかなぐり捨てて、強大な執行権力をつくり、新たな「全体主義」を目指すものである。所得格差が拡大している今日の日本で、「課税最低限(所得税)を引き下げ」ることは、低所得者への収奪を強化し、所得格差をより拡大するだけである。しかも小路田氏の議論では、税金を払わない民衆は、「非国民」ということになる。いかにも彼らしいエリート史観からの議論である。  
まして高校卒業生の半数以上が失業し、「フリーター」という青年失業者が増大している昨今である。しかも政府は、21 世紀の初めから本格的な金融ビッグバンを導入し、世界の企業会計の統一をめざした国際会計基準(ISA)に切り換えようとしている。より激しい倒産やリストラの嵐が吹くことは十分に予想できる(金子勝『反グローバリズム』)。小路田氏の議論には、税金や社会保険をさえ払えない「非国民」を急速に増大させている政府や「自自公」+民主党の責任を問う議論が全く欠落している。  
また小路田氏は、「日の丸・君が代」の法制化に対しても、「なぜいま二十世紀も終盤にさしかかって、いまさらのように国旗・国家の法制化が急速に問題化しはじめているのだろうか。  
敗戦から五十年がたち、冷戦が終結して、戦前以来の民主主義の欠如に、ようやくこの国の国民が拒否反応を示し始めたからである」とする。「日本の民主主義の限界を直視して、戦前以来の国旗・国家状況を引きつぎ、このまま『日の丸』『君が代』を事実上の国旗・国家として使いつづけるか、あえて民主化の可能性に期待し、法制化という冒険に踏み込むか、とりうる道は、現実にはこの二つに一つである」と言う(「国旗・国家の“法制化‘とはどういうことか」)。  
国旗・国歌の法制化が、「国民」の声であったり、議会で法制化する方が「民主化の可能性」があるというのは、すごく飛躍した議論である。強権的に「国旗・国歌」を押しつけられている現場の教師の悲鳴をどう聞いているのであろうか。日本共産党も、「日の丸・君が代」には反対だが、国旗・国歌の法制化には賛成だという奇妙な論理を展開して、『赤旗』にさえ「現在、国旗・国歌の法制化に賛成すれば、日の丸・君が代法案が国会で通過するのではないか」という質問が載っていた。事実上の「日の丸・君が代」の容認である。  
また今年も秋の叙勲の季節になると、「こんな人が」と思う人の名前が新聞に載る。出す方も出す方なら、貰う方も貰う方であり、人間の「品性」というものが、まったくなくなっている。かつては国家の転覆(=革命)を考えた人間が、なぜ国家から位階や勲章を貰わなければならないのだろうか。私は、既成の「左翼」勢力や「知識人」といわれている人びとが、「現実主義」という名に隠れて、体制への〈批判精神〉を失っていることこそ、今日の最大の危機のひとつがあると考えている。  
小路田氏の言う近代日本が、「国民国家」か「民族国家」か、というのはかなりの検討がいるので、それ自体の議論は、別の機会に展開したい。しかし、まず最近の日本近代史では、「民族国家」という言い方は、日本が「多民族国家」であるということを隠蔽する、という危惧から使わなくなってきた、ということを指摘しておきたい。そのこともあって「国民国家」という概念が、よく使われるよになってきた。  
またここでは西川氏らが、日本を「非西欧世界における国民国家形成の起点」と評価したことによって、他の西欧・非西欧世界の国家形成との比較が可能になったことと(拙著『近代日本の差別と性文化』序章参照)、日清・日露戦争を経験するなかで、国民国家という「想像の共同体」が形成していった、という事実を明記しておきたい(拙著『メディア都市・京都の誕生』)。いまさら、西ヨーロッパの国制史の概念を持ってきて、それにあてはまらなければ「民族国家」、あてはまれば「国民国家」といった区分をする、という研究史の段階ではないと考えるが…。  
もう一言付け加えれば、小路田氏は、「近代日本が過度に侵略的な国家になったのも、思想信条の自由に対して過敏すぎるほど抑圧的な国家になったのも」、「民族国家」であったからだとするが(『国民〈喪失〉の近代』)、こうした方法そのものが問題である。これでは、日本の侵略性を「絶対主義国家」の後進性から説明する、「講座派」流の歴史理論と同じように、国民国家のもつ抑圧性、侵略性に対する免罪論になっている。  
大門氏への疑問でも書いたが、なぜそんなに国家が信用できるのか、私には不思議でならない。小路田氏は、「阪神大震災が起きた時、まず問われたのは政治の弱さであった」とするが、「もう少し日本の政治が強ければ、敏速であればと思ったの人は多かった」というのは、「危機管理」論者と同じ発想である(『憲政の常道』)。私は逆に、阪神・淡路大震災を見て、国家や行政というものがいかに役に立たないかを痛感し、民衆のボランタリー・アソシィエイションの重要性を考えた。なにごとも国家が全面に立つのではなく、民衆が「国家依存症」から解放されて、しずしずと国家が退場してくれることを願っている。  
しかし事態は逆で、冒頭に述べたように、国民国家は全面に出てくるばかりか、膨大な国債を発行し、平気で借金大国になっているが、これはインフレを起こし、再びバブルになれば帳消しにできると考えているからである。民衆のタンス預金までも目減りさせようというのである。私たちは、今こそ敗戦直後の預金封鎖や悪性インフレの記憶を思い出すべきである。年金や生命保険の将来を考えても、国家が再び三度の裏切りをすることは、間違いないのである。  
しかもその「恩恵」にさえ、浴していない人びとがいることも忘れてはならない。  
また徐京植氏は、高橋哲哉氏との対談のなかで、西川長夫氏に対して、「西川さんは、自分は日本人であることはいやなんだ、非国民で生きるのだということで判断停止をして、責任論についてはそれ以上踏み込んでいない。国民の責任論を、国民国家批判の立場から解明して明らかにしようという方向にはなっていない」と批判する。  
これに対して高橋氏は、西川氏が「つまり『非国民』としての立場を貫き、国民国家を徹底批判していくという形で責任をとろうということではないですか」と反論している(『断絶の世紀 証言の時代』)。私もまた、西川氏が国家や国民の戦争責任を追求していない、というのは、どうして言えるのか、理解に苦しむところである。西川氏こそが、安易な民衆=被害者論を批判して、民衆こそが国家体制を支え、戦争体制を支持してきたことを最も厳しく批判している論者の一人である。  
確かに徐氏の議論には、大門・小路田氏らとは違う、侵略戦争への国家(国民)責任という重い問題を提起している。徐氏は、「日本国民の皆さん、自分はたまたま日本に生まれただけであって『日本人』であるつもりはないとか、自分は『在日日本人』に過ぎないとか、どうかそんな軽口は叩かないでいただきたい。あなた方が長年の植民地支配によってもたらされた既得権と日常生活における『国民』としての特権を放棄し、今すぐパスポートを引き裂いて自発的に難民となる気概を示したときにだけ、その言葉は真剣に受け取られるだろう。そうでないかぎり、『他者』はあなた方を『日本人』と名指し続けるのである」と、「日本人」の戦争責任を厳しく追求する。  
これに対して高橋氏は、「日本人が戦争責任を負おうとするとき、日本という政治的共同体への帰属をあらためて確認することになります。しかし、これはナショナリズムの掟への服属である必要もなければ、国民国家への融合や同一化である必要もありません。私がこの場合『日本という政治共同体』と言うのは、公的・政治的存在、したがって私たち自信の政治行為によって変えることができる存在、という側面を強調したいからです」とする。また、「そもそも、なぜ私たちは戦争責任・植民地支配責任ということを考え、それを負おうとするのか。  
そこには国家対国家、民族対民族の関係には尽くされない、人間の人間に対する不正、暴力的支配や抑圧に対する批判という、ある普遍的な地平が含まれているはずです。(略)抵抗のナショナリズム、解放のナショナリズムのなかにもやはりどこかに、すべての植民地支配の否定に繋がる普遍性の地平が含まれているのだと思います」とも答えている(『ナショナリズムと「慰安婦」問題』)。  
前半の、「日本人」の戦争責任が、「国民国家への融合や同一化である必要」がない、というのは全く賛成である。私たちは、日本ナショナリズムや国民国家を批判しながら、「他者」との対話の途を探していく、という困難な方法を選択しなければならない。しかし、それが即「普遍性」になったり、「抵抗のナショナリズム、解放のナショナリズム」になったりするのかは、疑問である。高橋氏も熟知しているように、「普遍性」の強調が、往々にしてマイノリティやエスニシティの文化や生活への抑圧に破壊に結びつくからである。「抵抗のナショナリズム」運動が、結果として国民国家を強化していることも、西川氏が最も強調するところである。反システム=反体制運動が、常に「『国家』を自己の内面にかかえこむ」重さということに、もっと自覚的にならなければならない(牧原憲夫『明治七年の大論争』)。  
私たちは、やはりどんなに困難でも、「自分を日本共同体に同一化させずに、非国民をつらぬきながら責任を果たす(あるいは果たさない)狭いわずかな可能性」に賭けるしかないのである。別の言い方をすれば、「国民化の回路」に対して、「脱落の回路」あるいは「非国民化の回路」を考えることである(西川長夫『国民国家論の射程』)。従来のように声高に国家の変革を説くだけではなく、昨今の状況は、私たちの1人1人が、いかに「非国民」として生きるかの覚悟を迫っている。 
4 国民国家の身体性とモジュール性  
最後に、西川氏の国民国家論からいま私が何を学び、発展させたいと考えているかを提示しておきたい。西川氏は国民化(文明化)として、まず空間の国民化、時間の国民化、習俗の国民化、身体の国民化、言語と思考の国民化といった、5つの指標をあげている。そして、鶴巻孝雄氏の「民俗の文明化」(『神奈川大学評論』23 号、1996 年)という論文を取り上げて、鶴巻氏が「文明開化は、狭小な自足的共同体世界に住む民衆を国家の民とするための精神世界の再編過程」だとするのを批判する。  
西川氏は、「文明開化は、精神世界の再編成に限られるかどうかという問題はあって、私の場合はむしろ身体的変化を強調しています」とする。「身体構造そのものが根本的に変えられた。それから感受性、五感そういったものも変わっていく。(略)そういうふうにしてまるで別種の人間といいますか、あるいは違う種の動物が創り出されるほどの根本的な変化が文明開化を通じて行われたという考え方です」とする(同右)。  
私の考えは、むしろ西川氏に近くて、フランスのアナール派社会史の代表アラン・コルバンは、名著『においの歴史』ななかで、近代の「知覚革命」、特に「嗅覚革命」を追求し、「芳しい香りに酔うブルジョワの快楽は下層民の悪臭を排除する暴力なしには成立しえなかった」、「欲望と暴力の場として身体を考え、あわせて性的身体をめぐる『社会的想像力』を浮かびあがらせ」ている(「新版へのはしがき」)。私は、このコルバンの方法に学び、『近代日本の差別と性文化』のなかで、「『国民的』身体の創出」という問題を考えてみた。これは、むしろ今までの文明開化論が、あまりにも思想史的に語られていたことへのひとつの批判でもあった。  
また西川氏は、「国民国家の特色の一つは、相互模倣性ということである」として次のように語っている。  
国民国家の相互模倣性を要請しているのは、先に述べたように国家システムであるが、それを可能にしているのは国家装置のモジュール性である(私はこの用語をB・アンダーソンから借りたが、じつは『想像の共同体』の本文にはモジュール的という形容詞はあるが、モジュールという名詞もモジュール性という言葉も使われていない)。国家の諸装置を全体から切り離し組み入れることのできるこのモジュール性は、言い換えれば移植可能性である。  
西川氏は国民国家諸装置の「移植可能性」を、「モジュール(模倣)性」として規定している。私も1年間ほどの韓国留学体験のなかで、いかに後発資本主義国が、その植民地時代の「遺産」をも含めて、先進国のコピー国家になりやすいかを実感した。韓国は表面では「日本文化」を拒否しているというが、政治経済制度から日常製品まで、徹底して「日本」のコピーが行われている。  
しかも西川氏は、安易な「異文化交流」論を批判しながら、「異文化交流は人種差別や偏見を免れることはできない。例えば衣服や食文化などの民族的表象は、民族的な誇りや平和的共存のシンボルとしても機能しますが、それが国家間の強弱や優劣に結びつけられた場合は、人種差別の表象となる。エスニックなシンボルは同時にしばしば差別的なシンボルです」とする(同右)。  
国家間システムのモジュール性と、逆にそのモジュール性が創り出す差異性や差別性を問題にする。私は、従来の民衆史は、2つの欠陥を持っていたと考えている。ひとつは、民衆のなかにある重層的な差別や、性、暴力などの問題が十分にとりあげてこなかったという問題である。いまひとつは、あまりにも一国史的であり、世界史とまでは言わなくとも、せめてアジアのなかでの比較史・関係史が必要である。私は、西川氏の方法に学びながら、「民衆史」の方法を豊富化したいと思っている。  
確かに今日、西川氏の提起を真正面から受けとめれば、「民衆史」そのものが国民国家を支えてきたという問題や、「民衆運動」のなかから、オウム真理教などのカルト集団が生まれている、といった深刻な問題を避けて「民衆史」を語ることはできない(安丸良夫『一揆・監獄・コスモロジー』「はしがき」参照)。しかし私は、冒頭で述べたサバルタン史学やフェミニズムの理論などに学びながら、新しい「周縁民衆史」の方法を模索したいと考えている。 
 
被差別者
 

 

一茶の「被差別者」への熱いまなざし
いわゆる「部落」問題を具体的に認識したのは、1959年から60年にかけて発生した「三井三池闘争」だったと記憶する。当時、佐世保重工臨時工労働組合(組合員約900名)の書記長をしていた私は、「臨時工制度撤廃」を掲げて闘っていたが、この「臨時工制度」は労働現場における明らかな“身分差別”であると受けとめていた。「三井三池闘争」が激化したのは丁度この時期で、ついに会社側が雇い入れた暴力団と組合員が衝突する事態が発生する。そこに労働組合支援のため登場したのが「部落解放同盟」である。暴力団員には「部落」出身者が多いと言われ、彼らは「解放同盟」が掲げる“荊冠旗(けいかんき)”を一目見るなり逃げ去った、とのニュースが伝えられた。周知のとおり、“荊”は「ノイバラ」で、“荊冠”はイエス・キリストがかぶる受難と殉教の象徴である。
「臨時工制度」という“身分差別”を目の前にしつつ、この「三井三池闘争」での出来事が“差別”問題の本質に目覚めるきっかけになったのは確かである。こんにち、「被差別部落」をはじめとする“差別”問題に関しては新たな格差社会の出現によって、解消されるどころか形を変えて再生産されていると言ってよかろう。この“差別”問題は学問的にも多角的に論じられていて、ここでその分野に深く踏み入るつもりはないが、二、三の記憶に留めておきたい「話」を記しておく。
前回の記事で水上勉が『良寛』を執筆した動機の一つに、「差別戒名」に関する『朝日新聞』の記事(1981年8月30日)をあげていると書いたが、その具体的な内容は「江戸時代の高僧・無住道人が書き残した『禅門小僧訓』という教え。無住道人は、わざわざ『穢多(えた)之事』という項目を立てて、仏教が長年にわたって被差別部落の人びとに差別的な戒名をつけてきたことを記し、つけ方を具体的に教えている。たとえば、一般庶民の戒名と混同されないよう『穢多には「僕男」「僕女」と書くべし』『その者ども死したるときは位牌(いはい)に「連寂」「革門」などと書くなり』とし、『仏いわく、戒名は格式に従って書くべし…』と記している。」とある。
この『禅門小僧訓』には「良寛禅師一口戒語」が収録されているというから、無住道人は江戸末期の人らしいが、仏門における「差別戒名」はかなり古くから存在していて(浄土宗には同種の差別書『無縁慈悲集』がある)、当然のことながら“良寛”さまもご存知だったことだろう。禅門での露骨な人間「差別」を純粋無垢な“良寛”さまがどんな気持ちで見ておられたか、想像に難くない。
“良寛”さまとほぼ同時代に生きたのが俳人の“一茶”である。“良寛”さまの父・以南(俳号)は“一茶”と交遊があったといわれ、『殺生』の題でこんな答贈の句がある。(参照:水上勉著『良寛』)
   やれうつな蝿が手をすり足をする     一茶
   そこふむなゆふべ蛍の居たあたり     以南
“一茶”については11月19日(『今日は“一茶忌”〜晩年の異常性欲』)の記事で一部書いたが、実は肝心な点に触れずにおいた。それは“一茶”と「差別」問題である。自身が被差別部落の生まれで部落解放同盟長野県連合会書記長、全国同和教育研究協議会常任委員を歴任した中山英一著『被差別部落の暮らしから』(朝日選書)の第四章は「むらと一茶」と題され、同じ信州に生きた人間“一茶”を著者の中山英一氏は熱いまなざしで提示している。
著者はこの本の中で「私の生いたち」を書いている。詳しくは本書を見てもらうしかないが、「父やんと母やんの慟哭」としてこう綴っている。
<母やんが慟哭したのは、私が「ちょうり」(注:差別語「長吏」のこと)のことを尋ね迫ったときでした。私の体を力いっぱい抱きしめていいました。「そんなこといわれたって、おらだって知らねえんだからこまるだあ」と。小さい声でしたが、私にははっきり聞き取れました。私が母やんの手をはずしたら、母やんの目から大粒の涙がポトンポトンとおちていました。>
これは小学校に入って間もなくのことだ。著者は同級会には、お互いに嫌な思いをするだけだから、当番だった三回以外は出席していないと言う。担任の先生も同級生も差別した人ばかりだからだ。この人が“一茶”を語るとき、千軍の味方を得たような筆致である。(<>は同書からの引用)
<この世のすべてのものに「平等」と「慈悲」の心を向けた小林一茶。封建社会で被差別民衆に熱と光をあてた一茶。人間に誇りと美しさと生きる喜びを与えた一茶。芭蕉や蕪村とともに、学校の教科書に登場している一茶である。>
“一茶”は百姓の子として生まれ、三歳で生母と死別、八歳のとき継母が来る。十歳のときに弟が生まれている。十五歳で江戸に出奔、転々と奉公生活をしていたらしい。いわゆる下層民の生活に身を置き、それが出自と相俟って彼の思想を形成することになったのだろう。
<一茶は、およそ二万句詠んでいる。そのうち「えた」を11句(連句2句)、「団(弾)左ェ門」を1句、「春駒」を5句、「番太」を4句、「隠坊」を4句、「皮剥」を1句、「皮かふ」を1句、「棒突」を6句、「わらじ(草履)売り」を14句、「辻村」を1句(「ひにん」を連句で1句)詠んだ。>
以下同書からいくつか“一茶”が詠んだ「被差別民衆」の句と中山英一氏の解説を抜粋してみよう。

   穢太(えた)町に見おとされたる幟哉
<町内の被差別部落で節句を祝う幟が白くはためいていた。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人びとの力強い心意気が彷彿と感じられる。>
   穢太(えた)町も夜はうつくしき砧(きぬた)哉(かな)
<「砧」(きぬた)とは、布につやを出すため、木や石の上に布をのせて、木の槌(つち)でたたくことである。秋の季語である。澄みきった静かな秋の夜、満天にきらきらと星が輝いている。そんなとき、ふと「えた町」から砧を打つ音がトントンと美しく聞こえてきた。昼は「えた」「えた」と差別されている町も、夜はこんなに美しい人たちの労働の音が響いているではないか。>
   えた寺の桜まじまじ咲きにけり
<「えた寺」とは、部落の中にある寺のことである。…「まじまじ」とは真っ向からじっとの意である。世人は、「えた寺」に咲く桜なら、小さく卑屈な姿で咲くだろうと思い込んでいるが、事実は、毅然と姿も色も香も立派に見事に咲いているではないか。>
   苗代や田をみ廻りの番太郎
<「番太郎」は「番太」のことで、…「ひにん」階層のことである。主要な任務は、木戸番、火の番、水番、野番・宮番などである。…「番太」が田の見回りにきた。これも任務の一つである。苗の育ち具合は、耕作の進み具合は、そして水の加減は、盗水はないかなどと。「番太」の誠実な姿が浮かぶ。>
   隠坊(おんぼう)がけぶりも御代(みよ)の青田哉
<「隠坊」は「墓守」または「死骸を焼く職の人」のことで、身分は「番太」と同じ「ひにん」とされた。この句は、人を焼く、つまり、荼毘(だび)のけむりが立ち昇っている、その下の方に青田がひろがっている情景を詠んだものである。…「隠坊」のけぶりの下に「御代」(徳川将軍の治世)の青田があるというのだ。>
   皮剥(かわはぎ)が腰かけ柳青みけり
<「皮剥」はけものの皮をはいで、なめす作業をする人で「えた」の職業の一つであった。川端に根の曲がった柳があり、そこが「皮剥ぎ職人」の仕事場にもなっている。その柳の木は、春が訪れて、みどりの葉を開き始めている。だがそこは世人から無視されている。>
   売るわらじ松につるして苔清水
<…「わらじ」や「ぞうり」を作り、売る仕事は、信濃(長野)では主として「長吏」の仕事であった。私の父は小作人兼ぞうり売りで、年間の三分の二はぞうりとわらじを売り歩いた。母はぞうりやわらじ作りの名人であった。ぞうりは二十足を連ねて一竿(ひとさお)といい、わらじは三十足を組んで一舟(ひとふね)といった。>

こうしてみると、“一茶”の句がどこか違って見えてきはしないだろうか。著者は、“一茶”を総括するように書いている。
<人間には、自己の意思や選択でなく、心がけや努力ではどうにもならないことがある。その不可抗力の一つに、身分制度があった。当時の身分はそこから抜けだすこともできなかった。社会の最低辺に押さえ込まれて、人間の尊厳と自由と平等を侵害された立場の者は、生きるために表面上は体制に順応し、妥協はしても、反権力、反権威の潜在意識は堅持していた。一茶のしたたかな百姓魂、被差別者としてのド根性が、その面目を躍如とさせている。>
被差別部落形成は“一向一揆”の敗退後 / 本願寺も一役
「被差別部落の発生」には諸説あって未確定とみてよさそうだが、「一向一揆」との関係を重視する有力な説がある。つまり、織田・豊臣政権が天下統一を成し遂げるには「一向一揆」衆の討伐が最大の課題だったが、このとき討伐された「一向衆」が身分を貶められ、一定地域に定住させられたというのである。
周知のとおり「一向」とは「浄土真宗」の別称「一向宗」を指す。浄土真宗第3代法主“覚如”が祖師“親鸞”の遺志に背いて本願寺を創設したが、“親鸞”の関東門徒衆、中でも高田専修寺や仏光寺教団が隆盛で、本願寺は「さびさび」たるありさまだった。本願寺の興隆は第8代法主“蓮如”の功績によるとされている。比叡山など旧仏教の妨害を受けながら“蓮如”は、持ち前の人柄と「六字名号」(南無阿弥陀仏)や「十字名号」(帰命尽十方無碍光如来)の下付という独特の布教法で近江、美濃、越前、越後などへ教線を拡げていく。“蓮如”には5人の妻に27人の子どもがあり、それぞれ各地の寺院と縁を結んで地盤を強化していった。
この“蓮如”の教線拡大の過程で生まれたいわば「鬼子」が「一向一揆」なのだ。
中世後半になると、いわゆる「下克上」の時代。1467年に守護大名同士が争った「応仁の乱」をきっかけに、戦乱は全国に広がり約一世紀続く。史上初の一揆は1428(正長元)年に起きた「正長の土一揆(徳政一揆)」。このあと民衆の政治的要求である「土一揆」はあちこちで頻発する。一方、「一向一揆」は信仰と結びついて団結した民衆の強力な権力闘争へと発展するが、最初の「一向一揆」は1466年、近江で発生した。後に「王法為本(国法を本とする)」を鮮明にする“蓮如”は、この「一揆」を押さえにかかるが、民衆の政治的要求は高まるばかりで、1474年越前、1480年越中、1488年加賀、1532年畿内、1563年三河、1567年伊勢、そして1570年の「石山本願寺合戦」へとなだれ込んでいく。特に加賀では、「百姓の持たる国」(加賀100万石)がおよそ100年続いたのである。
天下統一を目指す織田信長の最大の課題は、この「一向衆」の平定にあった。“蓮如”が隠居寺として建てた石山本願寺(1497年建立:現在の大阪城一帯)は、孫の証如の代(1533)には寺域が拡大され、堅牢な堀・塀を擁する要害と化していた。1554年、死んだ証如の跡を継いだ第11代法主・顕如が織田信長陣と対決することになるが、この「石山本願寺合戦」は1570年から足掛け11年間にわたる壮絶な戦いであった。結局、信長は殲滅手段をとらず「勅命講和」を選び、講和条件に「惣赦免」(全員の生命の保証)と「大坂退城」を提示、本願寺方はこれを受け入れ降伏する。
信長死去(1582)のあと、天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、各地に残る一揆討滅に力を注ぐ。たとえば1585(天正13)年3月、紀州の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆討滅には10万余の大軍をさしむけた。根来寺衆の城といわれた千石堀城には雑賀・根来衆1500人とその家族を含めて5000人近い人が立て篭もっていたが、秀吉軍に包囲され全員焼き殺された。雑賀衆の砦・太田城を攻撃した秀吉は、同年3月27日、家臣前田玄以にあてた書状で、雑賀衆を獣とみなし「鹿垣(ししがき)」をめぐらして一人も漏らさず「干殺(ひごろし)」にするといい、秀吉得意の水攻めで雑賀衆は一ヵ月後に降伏、百姓は助命したが、首謀者53人は首を刎ねさせ、わざわざ天王寺・阿倍野に運び、そこに晒して見せしめにし、さらにその女房たち23人を太田村において磔にした。
秀吉は一揆解体をすすめる一方「刀狩り」を始め、また明智光秀を破った直後から「検地」にとりかかる。検地は1歩を6尺3寸四方とし、300歩を1反とした。田畑の等級も上・中・下・下々に分け、石盛(こくもり:反当り平均収穫量)も定められ、枡(ます)も京枡に統一された。この検地政策は政治的、経済的、社会的影響がきわめて大きく、近世身分制の根幹をなす兵農分離が推進され、やがて士・農・工・商・穢多(えた)・非人の階級社会を形成する。
「近世部落の成立過程」を考察した寺木伸明は「部落寺院の開基年代に古いものが少なくなく、実際、一向一揆にかかわっていた部落の先祖も確認されることから、一向一揆、とくに最後まで頑強に抵抗した部分が粛清されて身分貶下(へんか)され、近世部落に組み込まれた場合のあった可能性は否定できない。」と述べているが、もっと直截な見解を示しているのは石尾芳久著『続・一向一揆と部落』である。 (注:「貶下」=身分や地位を落とすこと。)
石尾芳久は、穢多といわれる人々の原型である「かわた」(牛馬等の皮剥ぎなど卑賤な職の者をさす)、警察・行刑役(首討ち役など)を科せられた「かわた村(役人村)」、一向一揆が勅命講和によって終息した1580(天正8)年以降に変化する「差別戒名」にふれつつ、次のように述べている。
<天正13年(1585)これは最後の一向一揆といわれる根来・雑賀一揆が粛清された重大な時です。寺社領の検地がこの粛清により可能になったといわれます。全国的な太閤検地といいますのは、最後の一向一揆を滅ぼした時から可能になったのですが、丁度その時に「かわた」身分差別と「役人村」と「差別戒名」の三者が必然的な関係をもって、権力とそれに合体した転向宗教によって行使されたということは疑うことのできない事実であると思います。>
ここで「転向宗教」というのは、10年にもおよぶ信長との戦いに門徒衆を巻き込みながら「勅命講和」を受け入れて権力に恭順した顕如・「本願寺」を指している。実は本願寺は「転向宗教」であるばかりか、最後まで抵抗した末々の門徒衆を無惨にも裏切っているのだ。一例を挙げれば、秀吉による天正13年の根来寺攻撃に際し、根来の裏坂よりの攻略の道を教えたのは顕如の指示を受けた貝塚願泉寺の坊主だという。さらに、信じ難いことだが、「穢多寺(穢寺ともいう)」の創設に本願寺が深く関与していることである。
石尾芳久は、一向一揆が勅命講和で終息した天正8年(1580)、「差別戒名」が決定的な変化を示していることに注目している。最古の「差別戒名」手引書である『貞観政要格式目』の「三家者位牌」には“連寂白馬開墳(某甲)革門○”とあるのに対し、天正8年以後には“連寂白馬開墳(某甲)革門卜○”と、「○」が「卜○」に変化している。「○」は「霊」の略字、「卜」は「歩」の略字で、「歩」は十分の一という意味だから「卜○」は十分の一の仏性となる。こう指摘して石尾芳久は次のように言っている。(注:○は大の上にヨと書き、霊の略字とされている)
<…天正8年以後、差別戒名が決定的となり、本格的になったのです。これは真の仏教では考えられないことです。人間性の絶対平等こそ真の意味の仏教、すなわち救済宗教としての仏教の本義であろうと私は考えます。これが死後も十分の一の仏性しか認めないということでは、現世の身分体制が死後も続くということを認めることになります。…権力の手先になってしまって本来の宗教を忘れて呪術に転化してしまった形骸的宗教・転向宗教と考えられると思います。>
この後、石尾芳久は本願寺・顕如が太田城で戦って助命された「残之衆」にあてた手紙「太田退衆中へ 顕如」を取り上げ、<最後の一向一揆を闘った人たち、「太田退衆」「残之衆」がたしかに「かわた」身分に身分をおとされているという事実をここに確認することができる。>と結論している。
親鸞から「差別」の根源に迫る / 河田光夫の『被差別民』
“親鸞”を祖師としていることから、「浄土真宗・本願寺」の創設者を“親鸞”と誤解している人も多い。「本願寺」創設にあたって、“親鸞”を祖とする“血脈相伝”をでっち上げた自称「第三代」“覚如”の著書『戒邪鈔』には、“親鸞”の言葉としてこんなことが記載されている。
<某(それがし) 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚(うお)にあたふべし> (浄土真宗本願寺派発行『浄土真宗聖典』)
つまり“親鸞”は「わしが死んだら賀茂川に捨ててくれ」と言うのだ。このあと“覚如”はこう言っている。
<これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしますゆゑなり。これをもっておもふに、いよいよ喪葬(もそう)を一大事とすべきにあらず、もっとも停止(ちょうじ)すべし。> (注:喪葬=死者の喪(も)と葬式。)
祖師“親鸞”の教えは「信心為本(信心を本とす)」なのだから、死者の喪や葬式にこだわってはならない、と“覚如”は言うのだ。この言説を正直に解釈すれば、「弥陀の本願を信じさえすれば誰でも救われる」ということで、死者の喪や葬式に格式(身分、家柄)などはないと読める。ところが、およそ200年後の“蓮如”が祖師“親鸞”の「信心為本」を、(時代的背景がそうさせたと言えなくもないが)「王法為本(国法を本とす)」へと導いて権力に迎合したことが、ひいては「一向一揆」敗退後の統治システムとしての「被差別部落」を創出し、「穢多寺」や「差別戒名」の受容へと「転向宗教」の道を歩むことになったのだ。
「差別」を根源的に問い続けた人の一人に“河田光夫”(1938〜1993)という人がいる。終生、大阪府立今宮工業高校定時制に勤務しながら「“親鸞”と被差別民」を研究し続けた人である。1983年、定時制高校の軟式野球大会があって、当時の中曽根総理大臣が、「昼働いて、夜、一生懸命勉強しているにもかかわらず、皆さんは非常に明るい」と挨拶した。何々にもかかわらず明るい。苦労している“のに”明るいという見方だった。それが崩れるまで数年かかった、と河田光夫は言っている。どういうことだろう。
<そうじゃない、“のに”じゃなくて、“そうであるから”明るさを持っているわけなんですね。苦労して働いている、だから明るさがある。>
定時制の中には被差別部落の生徒がいる。無免許で単車を乗り回して事故起こして学校に居つかないのがいて、部落研の生徒がそいつに「お前、今度単車乗ったらしばき上げるぞ!」と怒鳴りつける。こういう言葉に込められている、ほんとうの人間の温かさというのが、なかなか感じとれなかった。
<一見非常に粗野に見えて、非常に荒っぽく見えて、その中に、大学を出た我われの仲間の世界にはない温かさというものが、感じられるわけです。それを、「苦労している“のに”」じゃなくて「苦労している“から”」そういう人間的輝きをもつことができるんだということに気がついた時、ハッとして、そこに親鸞の「悪人である“から”往生するんだ」と、「悪人である“から”ひとえに他力をたのみたてまつるんだ」という論理に気がつくわけです。>
上の話は河田光夫著『親鸞と被差別民衆』(明石書店)にあるのだが、本書は1984年9月、真宗教学研究所での講演録である。講演の主題はもちろん「差別」だが、“親鸞”の教説に頻出する「悪人」とはどういうものかを当時の資料からまず確認する。“親鸞”の時代に『塵袋(ちろぶくろ)』という「辞典」があって、それに「キヨメニエタト云フハ何ナル詞バゾ」とあって、「エタ」ということが取り上げられているが、種々説明しているものの「エタ」を“穢れ”とは捉えておらず、総じて「悪人」と呼んでいる。「差別」とは言ってもいわば「悪人差別」で、「けがれ差別」が出てくるのは室町時代以後であると指摘する。河田光夫は“親鸞”の「悪人正因説」をこういう視点から解き明かしているわけだ。
<例えば殺生を生業としている被差別民には、殺生戒というのありますから、これははじめから、持戒持律に進もうとする気持ちがないわけです。それだったら生活できませんから、自分で悪を離れて善へ進もうという自力の心ははじめからないわけです。この、はじめからないというその存在、実はこれこそ最高の存在じゃないですかね。>
“親鸞”は「自力の心を捨てる」とたびたび書いているが、人間にとって「捨てる」ということがどんなに難しいことか“親鸞”自身がよく知っている。ところがよく考えてみると、被差別民たちは「捨てるべき物」は何も持っていないのだ。
<つまり、親鸞が到達する目標自体が、被差別民と接する中で形成されてきたんじゃないかと、私は思います。被差別民が、造像起塔・持戒持律、そんなものをしようとする心がみじんもないし、また、そんな自力の心に揺れようとする誘惑さえもまったく持っていない、はじめから他力そのままの存在として、存在している。>
人間にとって至難な自力の心を「捨てる」こと、“親鸞”が追求する「他力本願」が被差別民衆の中では生活として存在していた。河田光夫は“親鸞”の悪人正因思想の系譜として『水平社宣言』をあげこう言っている。
<「人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛(がんぐらいさん)するものである」。私はこの文章をいつもこういう論理で読みとるんです。人の世の冷たさがどんなに冷たいかということを一番自分たちが知っている。“だから”それゆえに、ここを決して“にもかかわらず”と言うたらいかんです。はじめに言った中曽根氏の論理になってしまう。…心から熱と光を願求礼賛する、これはやはり親鸞の悪人正因思想、悪人なるがゆえに持つことができる、阿弥陀仏に対する、他力をたのみたてまつる信心、熱烈な信心、これがここでは人生の熱と光を願求礼賛すると書いてますが、やはりそこに悪人正因思想の系譜をみることができると思います。>
河田光夫がこうした見解に辿りつくには「差別」を根源的に見据える目が必要だった。河田光夫は「宗教というのは、一つの差別思想である」という。つまり、宗教には必ず救われる者と救われざる者というのが設定される。これを「宗教的差別」と呼んでいる。
<ただ大事なのはこの宗教的差別がしばしば社会的差別と結びつく、つまり法敵を非難する時によく差別用語が出てくる。…日蓮も『法華経』を信じない者を罵倒する中で、あんな者はみんな「ライ者」になるんだというようなことを言っています。親鸞もいっていますね。…弾圧者に対して、眼のない人のようだ耳のない人のようだ、と云う言葉を使っています。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」があります。これは私、平等思想とはやはり呼びたくない。これは善人を差別した思想なんです。…>
ここまで「差別」を掘り下げた上で、河田光夫が“親鸞”から発見したことは、「差別があるという事実を否定しないで、差別に目をつむるのではなく、差別されている人びと“こそ”が仏の本願にかなう人々である(救われる)と説く、この宗教的差別によって社会的差別を転倒させてしまった論理にあった。
いわば市井の研究者に過ぎなかった河田光夫は、学会で脚光をあびることはなかったようだが、「親鸞研究」をとおして「被差別民衆」に迫った独自の研究は、部落解放同盟や仏教団体の各種解放研、あるいは「古田史学」で知られる古田武彦を囲む人びとの支持を得て、研究の輪は広がっていった。これからのさらなる研究展開が待ち望まれていたが、急逝されたのである。『河田光夫著作集』全三巻は私の貴重な財産となっている。