石の上にも三年

 
桃の伝説 
 
石の上にも三年 (冷たい石の上でも三年すわり続ければ暖まる)たとえつらくても耐えれば、やがて報われる。
 
辛抱していれば、やがては成功するから頑張れということを「石の上にも三年」などと言いますね。これは、何かの故事による喩えだと思うのですが、いったいどこの誰が石の上で三年頑張ったというのでしょうか。石の上で何を成し就げたというのでしょうか。今から二千年も前のお話ですが、インドにバリシバ尊者というお方がおられました。このお方は八十歳という高齢になって出家され、フダミッタ尊者の弟子となられたのでしたが、「我出家して若し三蔵を学通し、三明を得ることなくば、誓って脇を席に着けず」とばかり、大変な修行を続けられたのです。仏教の修行は、学問もさることながら、樹下石上での坐禅を大切にいたしますね。尊者は坐禅石の上で坐禅を組んだまま、三年も脇を席に看ける(横になって休む)ことはなかったということです。そのかいあって遂に無上の悟りを得、お釈迦様から数えて十代日の祖師となられました。このお祖師様は脇を席に看けて横になることがなかったことから、第十祖脇尊者という名で今日まで敬われておりますが、幼い頃、ある仙人から「此の児は凡にあらず、法器となるべし」と予見されたことがあるそうです。まさに大器晩成、齢をとっても法器となるべきは、ちゃんと法器になるんだなあと感心せざるを得ません。ところで五十四代目の祖師・瑩山禅師は、その著「伝光録」で脇尊者の話に添えて、こんなことを述べておられます。「心身徒に放捨すること勿れ、人々悉く道器なり、日々是れ好日なり、只子細に参と不参とに依って、徹人未徹人あり」人は皆、仏道を成し就げることができるもの、只やったかやらなかったかだけだ、せっかくの人生を無駄使いせず、毎日を好日とせよということでしょう。石の上にも三年、私たちもやってみようではありませんか。
 
雨垂れ石を穿(うが)つ 
小さな努力でも根気よく続けてやれば、最後には成功する。点滴石を穿つ。 
出典「漢書/枚乗伝」 泰山之溜穿石、単極之[糸+更]断幹。水非石之[金+占]、索非木之鋸、漸靡使之然也  
転石苔むさず / a rolling stone gathers no moss  
イギリスでは「じっくり腰を落ち着けてものごとに取り組まないと力はつかない」というやや否定的な意味合い。アメリカでは「常に変化するものは、古びることがない」という肯定的な意味。日本ではやや白い目で見られがちな転職回数の多さも、見方を変えれば、常に変化し進化する能力と変化に耐えられる耐性があると言いたい。企業でも強いのは規模の大きさではなく、常に環境の変化に対応して変化し続ける能力と言われる。 
イギリスのことわざで、日本では後で訳されてことわざになった。  
思う念力岩をも通す  
どんなことでも一心に思いを込めてことに当たれば、できないことはないということ。 
精神一倒何事かならざらん。  
石に立つ矢  
一念を込めてやれば、どんなことでもできることをいうたとえ。漢の李広が石を虎と見誤って矢を射たところ、矢が石に立ったという「史記」李広伝の故事による。  
出典「史記/李将軍列伝」 名将にも将に将たる器と、武勇に秀でた部将として知られた者とがある、漢の李広やその孫の李陵のごときは、明らかに後者に属する。天下に勇名をとどろかした将軍が続いて輩出するのも道理、隴西(甘粛)の李将軍の家は先祖代々の武人の血統を誇っていた。 ここ隴西は胡地に近い。すぐ北に接するオルドス砂漠は、匈奴の前進基地となっているし、街の周辺には六盤山脈の支脈が伸びている。国境都市らしい荒々しい雰囲気に包まれて幼少時代を送った李広は、やがて正式に武術の訓練を受けるようになると、めきめき頭角をあらわしはじめた。武将の子として恥ずかしくないだけの風格は自然と身にそなわっていたが、こと弓を執ってはめったに人におくれをとらない自信があった。文帝の十四年に匈奴が大挙粛関を侵したときは、わずかな、しかし十二分に鍛え上げた手兵を率いて、匈奴にも決して劣らないだけの見事な騎馬戦術と弓の腕前を示したのだった。数十年来匈奴から苦杯をなめさせられ続けてきた文帝は、我がことのように喜んだ。そして急に手元に置きたいと思いたたれたのであろう、侍従武官に任命したのである。虎と組み打ちして見事に仕止めたのは、文帝の狩りのお供を仰せつかった時のことだった。危うく難をまぬかれた文帝は、今さらのように驚い て、「さてさて、そなたは惜しいことをしたものだな。高祖の時代に生まれあわせていれば、どんな大大名に出世したかも知れなかったのに・・・。」「いいえ、大大名にはなりたくありません。国境の守備隊長がわたしの望みです。」 こうして李広は、かねてから望んでいた辺境の守備隊長を、またも転々とすることになったのである。この間にたてた手柄は数限りない。しかし世渡りが下手だったせいであろうか、官位は一向に進まないばかりか、時には免職にさえなりかけたほどだった。 将軍の真価を知っていたのは、かえって敵の匈奴の方だったかも知れない。漢の飛将軍の名を奉って、あえて将軍の城塞を窺おうとしなかった。右北平の匈奴が安全でなかったばかりではない。わがもの顔に山野を横行していた虎も安全ではなかった。草原のなかの石を、虎と見誤って射た時などは、矢鏃が隠れるぐらい深く石に突き刺さった。石に矢が立ったのである。近づいてみて石であることが判ってから改めて射た矢は、今度は突き刺さらなかったという話である。これが「一念巖をも通す」の故事である。  
一念天に通ず  
必ずなしとげようというかたい決意のもとにたゆまず努力すれば、必ず天の知り聞き入れるところとなって成功する。  
蟻の思いも天に昇る  
弱小な者でも、一心に願えば望みが達成されることのたとえ。無力なものでも一身に努力すれば、その願いは天に届いて希望を達成することができるということ。地をはって歩く蟻のような弱小な虫でも、努力すればその願いは天に達するとうい意から。  
 
三年飛ばず鳴かず
 久しく隠忍して他日に期す、雄飛の機会を待って長い間雌伏する。 
三年の喪 父母の喪。 
三年米 前々年に収穫した古米。 
三年祭 神道の家で故人の死後二五か月目の忌日に行う祭式。
 
三年坂
 ころぶと三年の内に死ぬという俗伝のある坂、江戸の芝高輪や京都の清水寺などにある。 
産寧坂(さんねいざか)は京都市にある坂。三年坂(さんねんざか)とも呼ばれる。 東山の観光地として有名である。狭義には音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道をいうが、公式には北に二年坂までの緩い起伏の石畳の道も含む。二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺(八坂の塔)と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えない。 産寧坂で転ぶと、三年以内に死ぬという伝説がある(これが「三年坂」の語源とする説もある)。また転べば三年の寿命が縮まるという説もある。 
「三年坂」と呼ばれる理由は「三年坂で転ぶと三年で死ぬ」という、言い伝えから来ている。三年坂の下には二年坂があり、同じような言い伝えがある。三年坂は産寧坂ともいい、産寧坂のほうの由来にはさまざまな説がある。だいたいの説で共通しているのは安産を目指し、お寺参りをしたことから産寧坂と呼ばれるようになったという説。「寧」の部分は豊臣秀吉の妻「ねね」とゆかりがあるという人もいる。わたしが子どものころから聞いていたのは、三年坂の「三年坂で転ぶと三年で死ぬ」という言い伝えのほうで、ずっと三年坂は怖いところなのだと信じていた。京都で三年坂と二年坂が、怖い場所だと思っている子どもは意外と多い。二年坂と三年坂を歩きながら「絶対に転ばないように」と気合いが入っていたのを覚えている。
  
三年酒
 前々年に醸造した酒、酒精の強い上等な酒。 
三年竹 はえてから三年たった竹、竹は三年目に切るのがよいとされ堅く丈夫で特に篠竹は征矢(そや)の堅篦(かたの)とする。 
三年塞 (さんねんふさがり)古暦にいう大将軍(八将神の一)の俗称。当分の間、開運、成功の見込みのない状態の意に用いる。大将軍は東西南北の四方に三年ずつ滞留し、その方角をふさいでいるとされるところからいう。 
三年味噌 仕込んでから三年になるみそ、熟成して味のこくなったもの、転じて金銭にけちで勘定だかいこと。 
三年三月 長い年月、久しい期間。 
三年物 魚などの生後三年たったもの、おもに鯉についていい食べ頃とされる、転じて年頃の女性・娘ざかり。 
三拝
 三度拝礼すること、何度も拝礼すること。 
三拝九拝 三拝の礼と九拝の礼、転じて何度も頭をさげて人に物事を頼むこと。 
三杯機嫌 ほろ酔いのいい機嫌。 
三杯酢 酢、醤油に酒(または砂糖)を加えたもの、生魚や野菜の味つけとして用いる。 
三杯道具 劇場で回り舞台を三分して三場面を装置する方法。 
三拍子 小鼓・大鼓・笛三種の楽器で拍子をとること、三つの必要な条件がうまく揃う時に用いて「三拍子揃う」という。 
三拍子揃う すべての条件が備わる、三つの悪癖が備わる、酒を飲むばくちを打つ女を買うの悪行が備わる。 
三白 正月の三が日に降る雪、馬の四脚のうち三脚の下部の白いもの。 
三白眼 黒目が上方にかたよって左右と下部の三方に白目のあるもの、凶相。 
三白図 南画の画題の一つ、白いもの三つを配して描く、雪・白鷺・白梅(または、水仙)、または、雪・白鷺・白鷹の類。 
三番出世 大相撲の各場所で二番出世に続いて三番目に前相撲に合格した者。
   
三番勝負 三回勝負して勝ち負けを決めること。 
三番太鼓 時刻を知らせて打つ太鼓、時刻は寛永末までは四つ(午後一〇時頃)宝永頃は八つ過ぎ(午前二時頃)であった。 
三番茶 二番茶を摘み取った後、新芽でつくった茶、最後の茶摘みもので味・香ともに劣る。 
三番手 戦陣で第三番目に繰り出し敵に当たる軍隊。勝負・地位を争う場合三番目にあるもの。 
三番鶏 夜明け前に二番鶏に遅れて鳴く鶏、時刻。 
三番船 江戸時代、民間から雇う御城米積船や廻米船に対し、積出港ごとに雇用順の番号をつけた、その三番目の船。 
三番目物 能楽で上演番組が五番立ての場合に第三番目に上演される曲。 
三番湯 疱瘡がはやった時はじめに治った子どもを入れる一番湯に対して、さいごにかかった子どもを入れる湯。 
三筆 書家、または画家で三人のすぐれたもの。 
  平安時代能書家 嵯峨天皇・橘逸勢(はやなり)・空海(弘法大師)。 
  世尊寺流能筆 藤原行成・藤原行能・藤原行尹(ゆきただ)。 
  近世寛永年間の能書家  
  
近衛流の近衛信尹(のぶただ)、光悦流の本阿弥光悦、滝本流の松花堂昭乗。 
  黄檗宗の能書家 隠元・木庵・即非、黄檗の三筆。 
  幕末の能書家 市河米庵・貫名海屋(ぬきなかいおく)・巻菱湖(まきりょうこ)。 
  大和絵 土佐氏の光長・光信・光起の三人の画家。
   
三百 数の多いこと、安物や価値の低いもの
 
三百諸侯 江戸時代、大名の数が約300あったところからすべての大名をいう
 
三百代言 詭弁をあやつること
 
三百店 安い借家
 
三百茶 安物の茶
 
三百安 祖母に甘やかされて育った者は成人しても、わがままで常の人より人格が劣る
 
三病 なおりにくい三つの病気
 
三不動 大津三井寺の黄不動、高野山の赤不動、京都青蓮院の青不動の三つの不動明王
江戸近辺の三不動明王は目黒不動・目白不動・目赤不動 
三不惑 酒と色事と金銭に溺(おぼ)れないこと
  
三富 
江戸時代、江戸で最も盛大に興行された三か所の富くじ。谷中の感応寺、湯島の天神、目黒の滝泉寺
 
三文 ごく安価なこと、また一般的に価値の低いことやもの
 
三文絵 安物の絵
 
三文オペラ 貧弱な規模の低級なオペラ
 
三文花 江戸時代一束銭三文で売られた、仏壇や墓前などに供える安価な花束
 
三文判 出来合いの安い印鑑
 
三文不通 とるに足りないこと
 
三文文士 つまらない作品しか書けない文士
 
三文奴 無能で役立たない者
 
三昧 ある事に専心、または熱中する意 。
   
三枚 紙、板、貨幣、敷物、魚、楯など薄くて幅の広いもの三つ
 
三枚に下(お)ろす 魚を三枚下ろしにする
 
三枚袷 表と裏の間に、一枚絹布をはさみ入れて仕立てた袷
 
三枚絵 浮世絵版画などで三枚で一組となっているもの
 
三枚下 魚を料理する時上下の片身二枚と背骨の部分との三枚に切りわけること
 
三枚重・三枚襲 小袖を三枚重ねて着る。重ねて着る三枚ぞろいの小袖、三領(みつえり)
 
三枚肩 (二枚肩などに対して)一挺(ちょう)の駕籠(かご)を三人でかつぐこと
 
三枚兜 三枚下りの錏(しころ)がついている兜
 
三枚ガルタ 胴親と子の勝負で人数には制限がない、札の合計点数の末尾が九を最高点とする
 
三枚革 小札(こざね)といため革三枚とを重ねて厚く大荒目におどした鎧
 
三枚笹 笹の葉を三枚葉柄を上に集めてまとめた形を描いた紋所、三枚笹の丸
 
三枚地紙 扇の地紙三枚で円形を描いた図柄の紋所
  
三枚続
 浮世絵版画などで三枚をつなぎ合わせて見るようにしたもの、三枚ぞろい
 
三枚胴 鎧の胴の一種、胴の前と左右の両脇を三枚の板で作り蝶番でつないだもの
 
三枚並 駕籠かきは二人だが、三人でかつぐ場合と同様の速さで行く約束の駕籠
 
三枚肉 牛肉や豚肉であばら骨をつつむ肉、脂肪と肉が交互に三枚重なったようにみえる、ばら肉
 
三枚目 滑稽なことを言ったりしたりする人、滑稽な感じに見られる道化
 
三味線を弾く 相手の言うことに適当に調子を合わせ応対する、あらぬ事を言ってごまかす
 
三味線堀 江戸下谷の不忍池から東南方に流れ隅田川に合流していた忍川の一部
 
三面 一つの体で頭部に三つの顔があるもの、事物の三つの部面、社会記事をおもに載せるページ
 
三面の大黒・三面大黒天 正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天と三つの顔を身に合わせ持つ大黒天
 
三面角 三つの平面が一点に出会ったところにできる空間図形
 
三面記事 新聞の社会記事、社会の雑事・雑話を扱った記事
   
三面記者 三面記事を担当する新聞記者、雑報記者
 
三面鏡 自分の姿を三方から見られるように鏡を取りつけた鏡台
 
三面契約 三人の立場の異なる者の間で結ばれる契約、債権者・債務者・引受人の間の債務引受契約など
 
三面図 製図で正面・平面・側面の三つの外観を示した図面
 
三面訴訟 三当事者以上が互いに対立し三つ巴になって争う訴訟
 
三面等価の原則 純国民生産を生産・分配・支出の三つの側面からとらえた場合それぞれの大きさは等しいとする原則
 
三面六臂 一人で数人分の働きをする
 
三流 二流までもいかない低い等級、きわめて質がよくない

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。  
 
 
桃の伝説
「桃・栗三年、柿八年、柚は九年の花盛り」といふ諺唄がある。実(ナ)りものゝ樹としては、桃は果実を結ぶのは早い方である。 
一体、桃には、魔除け・悪気ばらひの力があるものと信ぜられて来てゐる。わが国古代にも、既に、此桃の神秘な力を利用した話がある。黄泉の国に愛妻を見棄てゝ、遁れ帰られたいざなぎの命は、後から追ひすがる黄泉醜女(ヨモツシコメ)をはらふ為に、桃の実を三つとりちぎつて、待ち受けて、投げつけた。其で、悪霊から脱れる事ができたので「今、おれを助けてくれた様に、人間たちが苦瀬(ウキセ)に墜ちて悩んだ場合にも、やはりかうして助けてやつてくれ」と、桃に言ひつけて、其名として、おほかむつみの命といふのを下されたと伝へてゐる。 
後世の学者は、桃の魔除けの力を、此神話並びに支那の雑書類に見えた桃のまぢっくの力から、説明しようとして居る。支那側の材料は別として、いざなぎの命の話が、桃に対する信仰の起原の説明にはなつて居ない。寧、当時すでに、桃のさうした偉力が認められてゐたので、其為に出来た説明神話と言ふべきものであらう。何故ならば、偶然取つて投げた木の実が、災ひを遠ざけたといふ話は、故意に、其偉力を利用してゐるからであり、魔物を却けようとする民俗と、幾足も隔つてはゐないからである。尠くとも、古事記・日本紀の原になつてゐる伝説の纏まつた時代、晩くとも奈良の都より百年二百年以前に、既に行はれてゐた民俗の起原を見せて居るに過ぎない。 
何故こんな風習があるのか訣らぬ処から、此話は出来たのである。さすれば、其風習は、何時頃、何処で生れたものであらうか。国産か、舶来か。此が問題なのである。書物ばかりに信頼することの出来る人は、支那にかうした習慣が古くからある処から、支那の知識が古く書物をとほして伝はつたもの、と説明してゐるのである。又、わが国固有の風習だと信じてゐる人もあるが、何れにしても、日支両国の古代に、同じやうな民俗があつたといふことは、興味もあり、難かしい問題でもある。此場合、正しい解釈が二とほり出来るはずである。 
桃並びに其に似た木の実の上に、かうした偉力を認めてゐる民族は尠くない。だから、支那と日本とで、何の申し合せもなく、偶然に一致したものと考へるのが一つ、其から今一つは、わが国の歴史家が想像してゐる以上に、支那からの帰化人の与へた影響が多かつたところにある。 
其は、此までの学者が書物の上の知識を、直ぐさま民間の実用に応用する事ができもし、行(ヤ)つても来たと考へてゐる学問上の迷信が、目を昏まして、真相を掴ませなかつたのであるが、たくさんの帰化人の携へて来たものは、単に、文化的な物質や有効な知識ばかりではなかつた。其故土で信じ、行ひして来た固有の風俗・習慣・信仰をも其まゝ将来して来た。彼等の帰化の為方が、個人帰化ではなく、団体帰化として、全村の民が帰化したといふ様な場合が多かつたのであるから、彼等は憚る処なく、其民俗を行ひ、信じてゐた事が考へられる。文化の進んだ帰化人の間の民俗が、はいから嗜(ズ)きの民衆の模倣を促さずに居る筈はない。 
支那並びに朝鮮に行はれてゐた道教では、桃の実を尊ぶことが非常である。知らぬ人もない西王母は道教の上の神で、彼の東方朔が盗み食ひをしたといふ三千年の桃の実を持つてゐたのである。かうした桃の神秘の力を信ずる宗教をもつ人々が、支那或は朝鮮から群をなして渡来し、其行ふところを、進歩した珍らしい風習として、まねる事が流行したとすれば、我々が考へるよりも根深く、汎(ひろ)く行はれ亘つたものと思はれる。 
古事記・日本紀にある話が、全然、神代の実録だ、といふやうなことは考へられないのであるから、此話が、人皇の代になつてから這入つて来た、舶来の民俗を説明してゐるものだ、といふことの出来ない訣はない。だから、右の神話は国産、民俗は古渡りの物というてもよろしからう。今日のところでは、此以上の説明はできないと思ふ。 
何はしかれ、千五百年、或は二千年も前から、此桃の偉力は信ぜられてゐた。桃の果実が女性の生殖器に似てゐるところから、生殖器の偉力を以て、悪魔はらひをしたのだといふ考へは、此民俗の起原を説明する重要な一个条であらう。桃に限らず、他の木の実でも、又は植物の花にすら、生殖器類似のものがあれば、それを以て魔除けに利用する例はたくさんある。あの五月の端午の菖蒲のごときも、あやめ・しやが・かきつばたなど一類の花を、女精のしむぼるとしてゐるのから見ても知れよう。 
なほ一个条を加へるならば、初めに言うた、桃の実りの速かなことも、此民俗を生み出す原因になつたであらう。 
桃といふ語は、類例から推して来ると「もも」の二番目の「も」字は、実の意味である。木の実の名称にま行の音が多く附いてゐるのは、此わけである。単に、日本の言葉ばかりから、桃の民俗を説明するならば、桃と股、桃と百などいふ類音から説明はつくであらうが、同様の民俗をもつてゐるたくさんの民族があるとすれば、同じ言語の上の事実がなければ、完全な説明とはならぬのである。我が国の桃には、実りの多い処から出たといふ「百」からする説明もあるが、此はやはり、多産力の方面から見れば、此民俗の起原の説明にはなるだらう。 
人間以外に偉力あるもの、其が人間に働きかける力が善であつても、悪であつても、人力を超越してゐる場合には、我々の祖先は、此に神と名を与へた。猛獣・毒蛇の類も、神と言ひ馴らしてゐる。山川・草木・岩石の類も亦神名を負うたものが多い。桃がおほかむつみといふ神であるのも不思議はない。神名があるからとて、神代にこの事実があつたらう、といふ様な議論は問題にならない。 
さて、桃太郎の話である。話が今の形の骨組みに纏まつたのは、恐らく、室町時代のことであらう。併し、其種は古くからあるのである。我々の神話・伝説・童話は書物から書物へ伝はつて、最後に、人の口に行はれるといふやうな考へ方は無意味である。書物は、全部のうちの一斑をも伝へて居ないのである。併しながら、古代の話は、書物から採集する他はないので、同じく書物をとり入れるにしても、其用心は必要である。 
聖徳太子と相並んで、日本の民間芸術の始めての着手者と考へられて来た秦(ハタ)ノ河勝(カハカツ)は、伝説的に潤色せられたところの多い人である。昔、三輪川を流れ下つた甕をあけてみると、中から子どもが出た。成長したのが右の河勝であると言はれてゐる。此話の種は近世のものではない。秦氏が帰化人であるごとく、話の根本も舶来種である。我々の祖先の頭には、支那も朝鮮も、口でこそもろこしと言ひ、韓(カラ)(から国は古くは、朝鮮に限つてゐた)というて区別はしてゐるけれど、海の彼方の国といふ点で、ごつちやにしてゐた跡はたくさんに見える。支那から来たものとせられてゐる秦氏に、此河勝の出生譚があるところから見ると、秦氏の故郷の考へに、一つの問題が起る。 
一体、朝鮮の神話の上の帝王の出生を説くものには、卵から出たものとする話が多い。其中には、河勝同然水に漂流した卵から生れたとするものもある。竹の節(ヨ)の中にゐた赫耶(カグヤ)姫と、朝鮮の卵から出た王達(キンタチ)とを並べて、河勝にひき較べてみると、却つて、外国の卵の話の方に近づいてゐる。此は恐らく、秦氏が伝へた混血種(アヒノコダネ)の伝説であらうが、同じく桃太郎も、赫耶姫よりは河勝に似、或点却つて卵の王に似てゐる。 
思ふに、桃太郎の話には、尚、菓物から生れた多くの類話があるに違ひない。奥州に行はれてゐる、瓜から生れた瓜子姫子などゝ、出生の手続きは似てゐる。桃太郎・瓜子姫子間に出生の後先きをつけるわけにはいかないが、話としては、瓜子姫子の方が単純である。ともかくも、甕から出た河勝と桃太郎・瓜子姫子との間には、書物だけでは訣らない、長く久しい血筋の続きあひがあるに違ひない。 
海又は川の水に漂うて神の寄り来る話は、各地の社に其創建の縁起として、数限りなく伝へられてゐる。古書類にも同型の伝説が、沢山見えてゐるのみならず、今も、祭礼の度毎に海から神の寄り来給ふ、と信じてゐる社さへある。 
遥かな水の彼方なる神の国から神が寄り来ると言ふ事を、誕生したばかりの小さな神が舟に乗つて流れつく、といふ風に考へてゐる人々もある。北欧洲の海岸の民どもが、其である。記・紀で見ても、蛭子(ヒルコ)ノ命の話は、此筋を引くものであり、同様に、すくなひこなの神も、誕生した神と云ふべきが脱して伝はつたもの、と考へる事が出来る。 
水のまにまに寄り来る物の中から、神が誕生すると言ふ形式が、我が国にも固有せられてゐて、或英雄神の出生譚となり、世降つて桃から生れた桃太郎とまでなり下りはしたが、人力を超越した鬼退治の力を持つて、生れたと言ふ処から見ても、桃太郎以前は神であつた事が知れよう。 
桃太郎が成長して、鬼个島を征伐するやうになつてからの名を、百合若大臣だといふのが、其昔、鬼个島であつた、と自認してゐる壱岐の島人の間に伝はる話である。何故、桃太郎が甕からも瓜からも、乃至は卵からも出ないで、桃から出たか。其は恐らく、だんだん語りつたへられてゐる間に、桃から生れた人とするのが一番適当だ、といふ事情に左右せられて、さうなつたものと思はれる。聯想は、無限に伝説を伸すものである。