がまん 我慢・辛抱

 

忍耐辛抱我慢辛抱する木に金がなる我慢と忍耐我慢は良くない妄想を除かず真を求めず我慢忍耐の心理学我慢を知らない若者我慢と子供自分さえ我慢すれば子供の我慢心我慢努力回路人間共感回路記憶メカニズム我慢の重要性我慢力ソフトは目に見えない行動力を発揮する心人を育てる我慢
 
【我慢】仏語。七慢(しちまん)の一つ。我をよりどころとして心が高慢であること。自分をえらいと思い他人をあなどること。じっと耐え忍ぶこと。辛抱すること。 
我慢にも 耐え忍んでも。やせ我慢をしても。 
我慢の角 我慢の気持が強いことを、角が堅いことにたとえる。 
我慢の剣(つるぎ) おごりたかぶったり、我意を張ったりすることの鋭さを剣にたとえる。 
我慢の幢(はたほこ) むりやりに我意を押し立てて、人に対することのたとえ。 
我慢の山 我を張る気持が強いことを山にたとえる。
七慢1  
思い上がりのことを「慢心」と言うが、その心理状態を仏教では七つに分け「七慢」と言う。「我慢」とは、元々は仏教用語で、自分に執着することからおこる慢心を意味していた。それが「我を張る」などという意味に変わり、しだいに「耐え忍ぶ」「辛抱強い」を意味するようになった。 
慢(まん) 自分よりも劣っている人に対して自分は優れているんだと優越感を抱き、自分と同等の人に対しては同等であると心を高ぶらせること。 
過慢(かまん) 自分と同等の人に対して自分の方が優れていると思い高ぶり、自分より優れている人に対しては自分と同じであると侮ること。 
慢過慢(まんかまん) 他人が優れているのに、自分の方が優れていると自惚れ、相手を見下すこと。 
我慢(がまん) 我が我がと自分に執着しておごり高ぶること、てんぐになること。 
増上慢(ぞうじょうまん) 悟ってもいないのに、悟ったと思うこと。 
卑慢(ひまん)はるかに優れている人と比べて、自分は少ししか劣っていないと思うこと。 
邪慢(じゃまん)徳がないのに徳があるようにみせること。
七慢2 
 「七慢」とは七つの慢心をいう。慢心とは、他をあなどる心、自ら驕り高ぶる心をいう。「七慢」は、「倶舎論(くしゃろん)」「品類足論(ほんるいそくろん)」などに説かれている。 
「慢」自分より劣(おと)った者に対して「自分は優(すぐ)れている」と自負(じふ)し、同等(どうとう)の者に対しては「同等である」と心を高ぶらせることをいう。 
「過慢」自分と同等である者に対して「自分の方が優れている」と思い高ぶり、自分より優れている者には「同等である」と侮(あなど)ることをいう。 
「慢過慢」自分より優れている者に対して「自分の方が優れている」と自惚(うぬぼ)れて、他(た)を見下(みくだ)すことをいう。 
「我慢」今では「耐(た)え忍(しの)ぶ」というような意味で使われていますが、仏法本来の意味は、自我に執着し、我尊しと自惚れ、それを恃(たの)むことをいう。 
「増上慢」未(いま)だ悟(さと)りを得(え)ていないのに、「自分は悟った」と思うことをいう。「法華経方便品」に、五千人の衆生が未だ悟りを得ていないのにも関わらず、釈尊の説法を聞く必要はないと増上慢を起こし、その座から立ち去ったことが説かれている。結局、増上慢となったこれらの衆生は、「法華経」の会座(えざ)において成仏することはできなかった。 
「卑慢」自分よりはるかに優れている者に対して、「自分は少ししか劣っていない」と思うことをいう。 
「邪慢」自分に徳がないのにも関わらず、あると思って、「自分は偉(えら)い」と誇(ほこ)ることをいう。 
慢心について「撰時抄」に「慢(まん)煩悩(ぼんのう)は七慢・九慢・八慢あり」(平成新編御書八六九)とあり、仏教では「七慢」の他にも「八慢」「九慢」等と広く説き明かしている。日蓮大聖人「新池(にいけ)御書」に、「皆(みな)人の此(こ)の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程(なかほど)は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢(じまん)して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし」(平成新編御書1457)と仰せのように、慢心は信心修行を正しく全(まっと)うする上での最大の障害というべきである。「七慢」等の慢心を起こすと、自分自身の信心の姿勢も、また他の物事に対する問題も、すべてにわたって正しく判断することができなくなってしまうからだ。この慢心は十四誹謗のなかでは驕慢お呼ばれ、信心を破る恐るべき謗法の一つとして、固く戒めるべきであるとされている。人は慢心を起こさないように、常に題目を唱えつつ、自分の信心生活を謙虚に反省していくことが大切である。
「慢」は仏教が教える煩悩のひとつである。 
他人と比較して思い上がることを言う。俗に我慢といい、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す。倶舎論では八不定地法(尋・伺・眠・侮・貪・瞋・癡・悪見)の1つ、唯識論では六煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)の1つとする。 
慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七慢の総称としても用いる。また八慢、九慢とすることもある。いずれにしても、他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩をいう。 
他者と比較せずに自惚れている状態は憍(きょう)という。サンスクリットのMānaを憍慢と翻訳する場合もあるが、憍と慢はやや異なった煩悩とされ、慢は他と比較して起す驕(おご)りで根本的な煩悩とされるが、憍は比較することとは無関係に起る。家柄や財産、地位や博識、能力や容姿などに対する驕りで付随して起す煩悩であるとされる。これを随煩悩ということもある。
忍辱 / 今を肯定し、受け入れること 
「辱めに耐え忍ぶ」というより「辱めを甘んじて受け入れる」という姿勢と理解したい。耐え忍ぶという態度は、言い換えれば我慢であり、積み重なった我慢というのはいずれ限界を迎え、些細なことをきっかけに爆発してしまうことすらある。仏教では、我慢を七慢の一つとして分類してい る。 一般常識では、我慢は「耐え忍ぶ」ことであり、肯定的な意味合いがある反面、我慢ばかりしている、逆に否定的な意味合いが強くなるという特殊な言葉の一つ。仏教においては、我慢とは「奢り高ぶる慢心」を持っているということになる。不満な状況や環境に身を置いてみた時、何故自分だけがこのような不満な環境なのか、あるいは、どうにかしてこの不満な環境や状況を回避できないものか、ということばかり考えてしまい、なかなか現状を受け入れることができずに、我慢できないというような心理状態が続くことがある。「我慢してやっている」「我慢させられている」ということになる。 良寛和尚の有名な言葉に「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬるがよく候」とある。「災難や死には普段からそれぞれ備えをなすべきで、その場に臨んだら避けられないのだから、災難や死に徹して生きよ」ということである。如何なる状況でも、「まずは現実を受け入れなさい」という態度ではないたろうか。自分の不幸さを嘆いてばかりいないで、早く現実に目を向けることが第一にすべきことで、これこそが我慢ではなく忍辱の態度なのだろう。  
【我慢口】我意を張ったもの言い。高ぶった話しぶり。 
【強情我慢】意地っぱりで我意を張り通す。 
【堪・怺】がまんすること。辛抱すること。 
【堪える・怺える】苦しみなどに耐えてがまんする。感情などを押えて表面に出さないようにする。辛抱する。耐え忍ぶ。 
【堪忍】身体的苦痛や苦しい境遇に堪え忍ぶこと。こらえること。怒りをこらえて他人のあやまちを許す。(梵「娑婆」の訳語)仏語。苦難に堪え忍ばなければならない世界。 
堪忍袋の緒が切れる もうこれ以上がまんしていることができなくなる。 
【堪忍頃】どうにかがまんのできる程度。許せる範囲内。 
【堪忍強し】がまんする力が強い。辛抱強い。 
【堪忍負】 堪忍しきれない。がまんできない。 
【堪り兼ねる】こらえきれなくなる。がまんしきれなくなる。 
【堪え忍ぶ】つらさや苦しさをこらえる。がまんする。 
【堪え難い】つらいこと、いやなことをがまんすることがむずかしい。こらえがたい。
【勤める・努める・務める・勉める】精を出して物事に当たる。努力して行う。励む。苦しいのをがまんして行う。気が進まないのに無理をして行う。 
【遣り切れる】最後までし遂げることができる。そのままでいることができる。がまんしきれる。 
遣り切れない 最後までし遂げられない。これ以上できない。がまんできない。耐えられない。 
【噛み殺す】あくび、笑いなどの出ないように、口を閉じ歯をくいしばったりしてがまんする。 
【忍】こらえること。がまんすること。仏語、一般に忍辱(にんにく)・安忍・通達の三義。他からの侮辱などに耐え、みずからの苦しみにも心を動かすことなく、真実の道理を悟って心を安んずること。
【凌ぐ】困難なことや苦しみなどをがまんして切りぬける。たえる。たえしのぶ。がまんする。 
【意志薄弱】意志の力が弱く、がまん強さに欠ける。 
【気情】意地を張る。気力でがまんする。忍耐心が強い。 
【辛抱・辛棒】つらいことをじっとたえしのぶ。がまんする。 
【痩我慢】無理に我慢して平気を装う。負け惜しみをして無理を忍ぶ。 
【思い忍ぶ】心の中でこらえる。外にあらわさないでがまんする。 
【押し付ける】たかぶる感情をおさえる。がまんする。抑制する。 
【踏ん張る】気力を出してこらえる。がまんする。がんばる。
せめて しいて。むりに。たって。つとめて。むりにがまんすれば。しいていえば。 
せめての事 他のことはがまんして、何としてもこれだけはということ。これだけはと切望すること。最小限の事。 
せめては むりにがまんすれば。十分ではないが、これだけは。やっとのことで。 
せめてもの 限られた最小限の。やむをえない。そこなわれないで残り僅かにある。多少なりとも気持をまぎらすことのできる。 
しぶとい しつっこくて強情である。がまん強くてへこたれない。
犬三年人一代 初めは犬畜生と軽蔑されても、がまんして過ごし、残りの一生を不自由なく送る者もいる。節約をすすめることのたとえ。 
目をつぶる がまんする。あきらめる。 
長い物には巻かれろ 権力や勢力のあるものには反抗しないで、がまんして従っていた方が得だ。 
痺れが切れる 待ち遠しくて、がまんできなくなる。待ちくたびれる。しびれを切らす。 
成らぬ その状態が自ら押さえられないほどであること。がまんできない。…でしかたがない。
我慢1 
仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。 
四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。 
現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという意味あいで「我慢する」などと使われるが、これは、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。 
我慢2 
我慢は、仏教語で七慢のひとつで、サンスクリット語「mana(マーナ)」の漢訳。仏教で「慢」は、思い上がりの心をいい、その心理状態を七つに分けたものが「七慢」である。 
その中の「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味し、「高慢」「驕り」「自惚れ」などと同義語であった。br> そこから意味が転じ、我慢は「我を張る」「強情」などの意味で使われるようになった。 
さらに、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えるため、近世後期頃から、現在使われている我慢の意味となった。 
我慢の元となる「七慢」は、「慢(まん)」「過慢(かまん)」「慢過慢(まんかまん)」「増上慢(ぞうじょうまん)」「我慢(がまん)」「卑慢(ひまん)」「邪慢(じゃまん)」で、それぞれの意味は以下の通りだが、文献によって解釈が異なる部分もある。 
慢とは、他と比較しておごり高ぶること。 
過慢とは、自分と同等の人に対し、自分の方が上だと思うこと。 
慢過慢とは、自分より優れた者に対し、自分の方がもっと上だと思い誤ること。 
増上慢とは、悟りの域に達していないのに、既に悟っているという自惚れの心。 
我慢とは、自分に執着することから起こる慢心のこと。 
卑慢とは、はるかに優れた者と比較し、自分は少ししか劣っていないと思うこと。 
邪慢とは、間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張ること。
我慢3 / 意義素・用例 類語・縁語 
痛み・つらさなどを我慢 / 辛抱 ・ 忍耐 ・ 忍従 ・ 忍苦 ・ 堪忍(かんにん) ・ 耐える ・ こらえる ・ 踏ん張る ・ 持ちこたえる ・ しのぐ ・ 忍ぶ ・ 歯を食いしばって ・ (あくびを)かみ殺す ・ 「(死を)踏みとどまる」 ・ (〜との)根くらべ ・ 我慢くらべ  
恥辱・悔しさなどを我慢 / 隠忍 ・ 自重 ・ 自制 ・ 忍の一字 ・ (自分を)抑える ・ セーブする ・ (無念さを)おし殺す ・ (自分を)殺す ・ ガマンの子 ・ 隠忍自重 ・ 堅忍不抜 ・ 針のむしろ ・ (〜を)受忍する ・ 受け入れる  
悪・不満などを我慢 / 見逃す ・ 大目に見る ・ (〜に)目をつぶる ・ 黙認する ・ 見て見ないふりをする ・ (ノドまで出かかった言葉を)のみ込む ・ (不満に)ふたをする ・ 七重のひざを八重に折っても〜 ・ 「堪忍袋(の緒が切れる)」 
生活苦・苦しい境遇などを我慢 / 耐乏(生活) ・ 風雪に耐える ・ 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」 ・ 苦節(十年) ・ 粘る ・ へこたれない ・ 負けない ・ 雌伏する ・ (今回は)涙をのむ ・ 慎重に(終始する) ・ ざんごうにもぐる ・ 首をすくめて待つ 
我がまま・安楽などを我慢 / 克己 ・ (自己)抑制 ・ 節制 ・ 禁欲 ・ 粘り(の勝利) ・ (甘いものを)控える ・ (伝統を)頑固に(守る) ・ 根気よく(続ける) ・ 「(女の)意地よ」 ・ 自己犠牲で ・ 負けん気で ・ やせ我慢する ・ 「武士は食わねど高楊枝」 ・ (自分に)ブレーキをかける ・ (〜のために)お茶断ちする 
我慢 / 意義素 類語  
苦難または逆境を通して生き続ける / 乗越える ・ 生抜く ・ 耐忍ぶ ・ 残存 ・ 生きぬく ・ 生きのびる ・ 堪忍ぶ ・ 持つ ・ 持ちこたえる ・ 持堪える ・ 乗切る ・ 持ち堪える ・ 生きのこる ・ 堪える ・ 生存 ・ 耐え忍ぶ ・ 永らえる ・ 耐える ・ 生き長らえる ・ 生きる ・ 乗り切る ・ 堪る ・ 堪忍 ・ 乗りきる ・ 乗り越える ・ 頑張る ・ 生き残る ・ 堪え忍ぶ ・ 生き抜く ・ 生残る ・ 生き延びる 
動作の遅さまたは能力がないことに対する温厚な寛大さ / 我慢強さ ・ 勘忍 ・ 辛抱 ・ 堪忍袋 ・ 忍耐 ・ 隠忍 ・ 辛棒強さ ・ 寛容さ ・ 辛抱づよさ ・ 堪え性 ・ 辛抱強さ ・ 辛棒づよさ ・ がまん強さ ・ 堪忍 ・ 勘弁 
選択と行動の自由を許す気質 / 包容力 ・ 了簡 ・ 寛大 ・ 雅量 ・ 公差 ・ 寛容 ・ 了見 ・ 料簡 ・ トレランス 
他人の信仰や習慣を認め、尊重する意欲 / 包容力 ・ 了簡 ・ 寛大 ・ 雅量 ・ 公差 ・ 寛容 ・ 了見 ・ 料簡 ・ トレランス 
維持するまたは保存する行為 / 堅忍 ・ 忍耐 ・ 不屈 ・ 根気 ・ 執着 
強度を減じる / 押さえる ・ セーヴ ・ 押える ・ セーブ ・ コントロール ・ 制禦 ・ 抑制 ・ 抑止 ・ 制す ・ 抑える ・ 制御 ・ 抑えつける ・ 制する 
自己を否定する行為 / 克己 ・ 慎み ・ 自己抑制 ・ 自粛 ・ 自己制御 ・ 自制 
不快な何かまたは誰かを我慢する / 怺える ・ 耐忍ぶ ・ 堪忍ぶ ・ たえ忍ぶ ・ 了簡 ・ 堪える ・ 耐え忍ぶ ・ 耐える ・ 堪る ・ 堪忍 ・ 堪え忍ぶ ・ 了見 ・ 料簡  
辛抱 / 意義素・用例 類語・縁語 
生活苦・個人的苦難などについて辛抱 / (じっと)我慢 ・ 忍耐 ・ 耐乏(生活) ・ (隠忍)自重 ・ 堅忍(不抜) ・ 忍従(の日々) ・ (〜を)忍ぶ ・ (〜に)耐える ・ (自分を)抑える ・ (自分を)殺す 
厳しい状況・つらい立場などについて辛抱 / (その場を)しのぐ ・ 踏ん張る ・ 待ちの(政治) ・ 嵐が過ぎるのを待つ ・ 首をすくめて待つ ・ (頭を低くして)やり過ごす ・ 「七重のひざを八重に折って〜」 ・ 臥薪嘗胆(がしんしょうたん) 
辛抱強い / 我慢強い ・ 忍耐強い ・ 粘り強い ・ 雑草のような(生き方) ・ 根性がある ・ 短気を起こさない ・ ヤケにならない 
辛抱 / 意義素 類語 
動作の遅さまたは能力がないことに対する温厚な寛大さ / 我慢強さ ・ 勘忍 ・ 堪忍袋 ・ 忍耐 ・ 隠忍 ・ 辛棒強さ ・ 寛容さ ・ 辛抱づよさ ・ 我慢 ・ 堪え性 ・ 辛抱強さ ・ 辛棒づよさ ・ がまん強さ ・ 堪忍 ・ 勘弁 
勇気によって直面し、耐える / 怺える ・ 立ちむかう ・ 耐忍ぶ ・ 忍ぶ ・ 食い縛る ・ 食縛る ・ 忍苦 ・ 凌ぐ ・ 立ち向かう ・ 立向かう ・ 踏んばる ・ 立向う ・ 耐え忍ぶ ・ 耐える ・ 食いしばる ・ 辛棒 
誰かまたは何かに対して立ち上がりまたは抵抗する / 抗する ・ 抗拒 ・ 立ちむかう ・ ふん張る ・ 争う ・ 耐忍ぶ ・ 手むかう ・ 手向う ・ 邀え撃つ ・ 抗う ・ 盾つく ・ じたばたする ・ 踏堪える ・ 持ちこたえる ・ 踏み留まる ・ 持堪える ・ 踏留まる ・ 叛する ・ 踏止まる ・ 悪足掻 ・ 踏み止まる ・ 立ち向かう ・ 奮戦 ・ 持ち堪える ・ 立向かう ・ 踏んばる ・ 抗戦 ・ 立向う ・ 歯むかう ・ 悪足掻き ・ 歯向かう ・ 盾突く ・ 踏み堪える ・ 耐える ・ 粘る ・ あらがう ・ 挑む ・ 踏みとどまる ・ 楯突く ・ 斥ける ・ 抵抗 ・ 諍う ・ 踏みこたえる ・ 踏ん張る ・ 抗す ・ 手向かう ・ 悪あがき ・ 反抗 ・ 踏張る ・ 刃むかう ・ 辛棒
  
忍耐・辛抱・我慢

 

人間の偉大さは恐怖に耐える誇り高き姿にある / プルタルコス 
昨日流された血のゆえに 拳を振ってはならない / サン・テグジュベリ 
愛情で夫婦が結ばれるのは、20代限り。30代は互いの努力によってかろうじて関係が保たれる。40代は努力するエネルギーがなくなってがまんする以外に方法がなくなり、50代はがまんさえできなくな... / 会田雄次 
万字は辛抱強く待っている者のところにやってくる / ヘンリー・ロングフェロー 
許すはよし、忘れることはなおよし。 / ロバート・ブラウニング 
希望は頑丈な杖で、忍耐は旅の着物。この二つをもって、人は現世と墓を通って永遠へと歩を進める / ローガウ 
最もよく知られた悪は、いちばん堪えられるものである。 / ティトゥス・リウィウス 
目的をとげるのに、永い忍耐するよりも、めざましい努力をすることのほうが、まだ容易である / ラ・ブリュイエール 
忍耐と長時間は、往々にして力や怒りよりも効果がある / ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ 
私は苦労はいとわぬ。辛抱もするが、それは自分に気のむいたことをするときだけだ / ミシェル・ド・モンテーニュ 
乞食の美徳は忍耐 / マーシンガー 
寛容な者は最も性急な人間であり。辛抱強い者は、いちばん非寛容な人間である。 / ベルネ 
堪え忍んだことについて思い起こすことは快い / ヘリック 
人生の汚辱に対抗する最善の武器は、勇気とわがままと忍耐です。勇気は強くし、わがままは冗談を言わせ、忍耐は落ちつきを与えます。 / ヘッセ 
忍耐心を持たなければならないようでは、教育者としては落第である。愛情と歓びを持たねばならない。 / ペスタロッチ 
恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私達が苦悩と忍従の中で、どれほど強くありえるか、ということを自分に示すためにあるものです。 / ヘッセ  
忍耐というのは終結された根気である / ベーコン 
忍耐はありとあらゆる困苦に対する最上の治療なり / プラウトゥス 
勉強忍耐は才力智徳の種子なり / 乃木希典 
家庭は日本最大多数に取りては幸福なる処ではなくして忍耐の処である / 内村鑑三 
心頭滅却すれば火もまた涼し / 杜荀鶴(とじゅくかく) 
人間の最高の美徳は忍耐なり / カトー 
「眼には眼を、歯には歯を」といえることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗うな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。 / 新約聖書 
養生の要は自ら欺くことをいましめて、よく忍にあり。 / 貝原益軒 
天才とは、最大の根気にすぎない / ピュッフォン 
料理の仕事は女に忍耐と受け身を教える。これは錬金術だ。 / ブリア・サヴァラン 
忍耐ーそれは肉体的な小心と道徳的勇気の混じり合い / ハーディー 
腹が立ったら、何か言ったり、したりする前に十まで数えよ。それでも怒りがおさまらなかったら百まで数えよ。それでもダメなら千まで数えよ / トーマス・ジェファーソン 
忍耐は終結された根気である / トーマス・カーライル 
最も困難な三つの事柄は、秘密を守ること、受けた害を忘れること、余暇を着用することである / チロ 
結婚生活でいちばん大切なのは忍耐である / チェーホフ 
人間は神々によって与えられたる運命を忍ばねばならず / ソポクレス 
人生は根本的には信仰と忍耐から成り立っている。この二つを持つものはすばらしい目標に到達する / ターフィル 
耐え忍んだ事柄は甘き記憶なり / セネカ 
われらは己のものをほかと比較することなしに愉しみたし。他人がより以上幸福であることに苦しめらるるならば、人はけっして幸福ではありえぬ / セネカ 
辛抱づよい男の激情には気をつけよ / ジョン・ドライデン 
われわれが苦痛を我慢すればするほど、残虐性はいよいよ強まる。 / ジョージ・ハーバート 
忍耐は希望をいだくすべである / シュライエルマッハー 
忍耐の草は苦い。だが、最後は甘い、やわらかい実を結ぶ / ジムロック 
世の中のことは何でも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない / ゲーテ 
料理は、まさに忍耐と愛の錬金術である。 / クールトリーヌ 
歓びがなんであるかは、元来、多くの苦しみを堪え忍んできた人々のみが知っている。その他の人々は、真の喜びとは似ても似つかない単なる快楽を知っているにすぎない / カール・ヒルティ 
心配に対する最上の対策は忍耐と勇気である / カール・ヒルティ 
もろい氷のごとく、怒りは時を絶れば氷結せん / オヴィディウス 
忍耐−それによって凡人が不名誉な成功を収めるくだれない美徳 / アンブローズ・ビアス 
幸福とは、それ自体が永い忍耐である / アルベール・カミュ 
忍耐は正義の一種なり / アウレリウス 
感情を一定に保ちなさい。落ち着きを失えば、不利な環境が最善のプレイからあなたを引き離すからです。 / ディック・デイビス 
スートがそろっていようといまいと、ローカードでプレイしてはいけない。弱いキッカーではプレイしてはいけない。弱いキッカーは弱い手を意味するからです。ロップ後で次善のペアならプレイしてはいけない。いつも強気にプレイしなさい。いつも同じやり方でベット・コール・レイズしなさい。行いこそが「癖」にもっとも共通したものだからです。手の動き、動きの早さ、表情や態度、そうしたすべての振る舞いが他のプレイヤに印象を.ゲーム全体を通じて、つねに何が最善の手であるかに注意を払いなさい。ハイ・カードおよびハイ・カードのペアではスロープレイしてはいけない。まずポジションを考慮しなさい。ポジションも手札も分が悪ければ、勝負も分が悪いからです。忍耐と規律をもってプレイしなさい。両方が不十分なら勝つことはできないからです。 / ディック・デイビス
  
辛抱する木に金がなる

 

中長期相場における辛抱、忍耐の大切さを説いた相場訓の一つです。 
一直線に上がりきる上昇相場はありません、小さな上下動を繰り返し、大局的に見れば右肩上がりになるものです。 
天井を形成する過程において、途中で下押しする場面というものに何度も出くわすでしょう。 
再度上昇する保障はどこにもありませんから不安がつのるでしょう。 
しかし我慢したその先に大きな利益があるということです。 
売りに関する相場訓には、決断の早さ、思い切りをさすものが多いですがこの相場訓は辛抱、忍耐をさしています。しかし売りの素早さを否定するものではありません。 
売りに至るまでの過程の辛抱であって、売りに際しては脱兎のごとくです。  
 
我慢と忍耐

 

私には「我慢」は「忍従」と同じような意味に思えて仕方がないのです。 以下、私なりの解釈です。 
たとえば風をさえぎるもののない野原の一軒家を想像してください。 その家はいまにも倒れそうな家だとします(問題を抱えていて、どうしたらいいか分からなくなっている状態です)。 嵐が襲ってきていまにも倒れそうなのに、家の中にいる人は家の補強もしないで、ただじっと嵐の過ぎ去るのを待っているようなものではないでしょうか。 まさに「忍従」という言葉が当てはまると思います。 
この嵐では家を補強しなければ吹き飛ばされてしまうのが分かっていながら(自分がつらい生き方をしなければならないことを分かっていながら)、なにもしないで家が吹き飛ばされるまでじっとしているようなことが我慢ではないかと思うのです。 そして嵐が過ぎ去ったときに「やっぱり、この家は吹き飛ばされてしまった(やっぱり自分はダメなやつだ)」とつぶやくのではないでしょうか。 
自分が精神的に倒れかけているのに、自分が他人につぶされかけているのになにもしないで、ただじっとしていて相手の言うがままになっているのが我慢のような気がしてならないのです。 我慢という言葉の中に、なにか自分から積極的に現状を変えようとする気概がどうしても見えてこないのです。 私の掲示板の中に「自分は長年苦しんだけれども、我慢の中には何の意味も見いだせなかった」と書いてあったことが、このページを書く契機になっています。 我慢ということには現実を変えようとする意志が欠けてしまっているから、どんなに我慢しても生きがいが見つからないのだと思います。 そこに見いだせるものは、自分に対するあきらめであり、偽りであり、不信感だけだと思うのです。 
我慢してしまうから自信を失うのではないでしょうか。 現実の苦しみや悩みに対して積極的に働きかけることができないから、いつまでたっても苦しみがなくならないのだと思います。 時がたてばたつほど自己嫌悪がまして、ますます自分を追いつめてしまうのだと思います。 
これに対して「忍耐」という言葉には、なにかしら積極的な意味を感じ取れるように思うのです。 私の独断と偏見でしょうけれども。 
さきの例で説明すれば、風で家が倒れそうならつっかい棒をして家を補強するとか、雨漏りがしそうなら屋根の穴を防ぐとか、なにか対策を立てることが忍耐ではないでしょうか。 その結果家が倒れたり、雨漏りがしても、「自分でできるだけのことはやった」という自負心が心の支えになると思います。 忍耐という言葉には、努力ということが含まれているような気がするのです。 
なにもしなければ、なにもできなければ、自信を失って当然だと思います。 
現代社会はものが豊富になって、お金さえ出せばほとんどのものが手に入る時代になりました。 お金さえあれば欲しいものが手にはいるので、我慢や忍耐をする必要が昔ほどは必要なくなってきたのです。 ものが豊富ということが好ましいことには違いありませんが、人をしあわせにしているかどうかは次元件の違う問題だと思います。 
忍耐力(家を補強するということさえ知らない人がいる、あるいは補強の仕方を知らないことが多くなった)がなくなってきたから、自分に自信を失う(大した嵐でもないのに家が倒れる)ことになったのではないでしょうか。 
現実に耐えながら現実を変えなければ、自信を持つことはできないのです。現実が間違っているといくら反発しても、反発では自分を強くすることはできないのです。 逆に現実に飲み込まれてしまえば、自分で自分を追いつめてしまうのです。 問題解決の方法さえ知っていれば、悩みや苦しみがなくならなくても和らげることはできるのです。 その方法はひとりひとりが、経験を通して自分が傷つきながら身につけるしかないのです。 
同じ我慢という言葉の中にもふたつの意味があると知っておくことは、自分が苦況に陥ったときにはとくに大切ではないでしょうか。 自分がつらく苦しいときに、いつまでもなにもしないでいるから、かえって苦しくなるのだと思います。 「逃げるからついてくる」と書いているように、現実から逃げたり、自分に都合のいいようにだけ現実を解釈しようとするから問題を解決できなくなるのです。 問題を解決しようとしなければ問題解決の手法が身に付かず、こんど同じような問題に直面すると苦しくてまた逃げてしまうのです。 
自分が必要以上に苦しむ原因は、こんなところにあるのではないでしょうか。 苦しい現実に直面したときに、その現実を直視して解決の手法を学び取ろうとする意識がないから、いつまでたっても苦しみから抜け出すことができないのです。 
だから我慢するだけでは、生きがいを見つけることができないのです。 「我慢することだけ」のなかから生まれてくるものは、社会や相手に対する恨みや憎しみだけであり、決して自分をしあわせにするものは生まれてこないのです。  
 
我慢は良いことではない

 

言葉と言うのは長く使われている間に変転してしまうことがあります。「覚悟」とは悟りを開くという意味なのでしょうが、一般には「観念する」、つまり望みを失う・あきらめるというような意味に使われています。「我慢」も「腹が立ったら五分間我慢をしろというように辛抱や忍耐という意味で使われています。 
 ところで、仏教語の「我慢」とは「おごりたかぶること・自分を偉いと思い他人をばかにする」ということです。 仏教で説く煩悩の根元とは、三毒という貪瞋痴(とんじんち)貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)です。この煩悩を詳しく示せば、貪瞋痴慢疑悪見です。1.貪(とん)2.瞋(じん)3.痴(ち)4.慢(まん)5.疑(ぎ)6.悪見(あくけん)とは1,(むさぼり)2.(いかり)3.(おろかさ)4.(のぼせ・おもいあがり)5.(うたがい)6.(あやまった見方)です。 
この、4番目の「慢」をさらに分類すると 
1.高慢(自分の方が上だと思う) 
2.過慢(同上とほぼ同義) 
3.慢過慢(相手が上であっても同等だと思う) 
4.我慢(自分の考えは変わらないという思いあがり) 
5.増上慢(悟った、極意を得たという思い上がり) 
6.卑下慢(劣等感に落ち込む) 
7.邪慢(自分には徳があると思いこむ) の七種です。 
「仏性を見んとおもはば、まずすべからく我慢を除くべし」という龍樹尊者の言葉のように、我慢というのは、自己の我(が)というとらわれる思いこみのこと。劣等感に落ち込むことを卑下慢と称しますが、これは高慢の裏返しですからどちらも道からはずれます。 
仏教では六波羅蜜(ろくはらみつ)といって、迷いの此の岸を去って悟りの岸(彼岸)に至らしめる六つの方法を示されます。 
1.布施(めぐみ) 
2.持戒(つつしみ) 
3.忍辱(しのび) 
4.精進(はげみ) 
5.禅定(しずけさ) 
6.智慧(ちえ)の六つの実践、が「中道」といわれるものです。 
3番目の忍辱(にんにく)の忍はしのび耐えること。 この忍辱はいわゆる我慢とは違います。歯をくいしばって我慢をする、我慢して耐え忍べばきっと芽が出る・・というような我慢ならば忍辱とは違います。忍辱とは、「怒りやすい自分の心を治める」行です。「我」が強いとは自分の考えが正しいととらわれていることで好き嫌いがはげしいことです。「投げられたところで起きる小法師かな」という句があります。小法師とは起きあがり小法師のことでダルマ様のことです。ここはいや、これはいや等と文句をいわず今ここを我が道場としての「心の据わり」を表すのです。 
ご縁ですから他の枝末の煩悩といわれる、貪瞋痴慢疑悪見について簡単に説明しておきます。 
1.貪(とん)とはむさぼりのことで、「貪欲」には「欲貪」(動物的欲望)と色貪(物資的欲望)無色貪(精神的欲望)の三種で説明されます。所謂、好ましい対象への愛着から「足ることを知らず」むさぼる心です。この枝末の煩悩として、1.慳(けち・もの惜しみ) 2.僑(おごり) 3.掉挙(心騒がしい) 4.誑(嘘・ごまかし) 5.諂(罪のごまかし)と分類されます。欲望も人生には大切なものですが、「足を知る欲」と「際限のない欲」とでは全く違います。釈尊は「無欲」ではなく「向上心」の自覚を持つ「少欲」を説かれています。 
2.瞋(じん)とは、不快な対象へのとらわれで目をつり上げて怒ること。1.忿(相手に対する心の怒り) 2.恨(恨みの持続) 3.悩(自分に対する心の怒り) 4.嫉(ねたみ) 5.害(同情心がない)に分類されます。貪は「好ましいものへのこだわり」であり、瞋(じん)は不快な対象へのこだわりですから、貪と瞋とは表裏です。 
「遺教経」の中に「瞋恚(しんい)の害はもろもろの善法を破り、地位や名声までもこわす。瞋心の害は猛火よりもはなはだし」、と示されます。 「我を捨てろ」とか「我を張るな」とかのこの「我」とは「小我」といいます。「我」とは自分全体のことではありません。自分全体を「我」というのであれば捨てられる道理がありません。「小我」というのは、自分の知識や経験によってこれこそ絶対という勝手な凝り固まった思いこみのことです。 
3.痴(ち)は真理に対する無知、つまりおろかさです。1.覆(自己弁護) 2.?沈(心の不適応) 3.不信(信じられない) 4.睡眠(やる気なし) 5.悪作(後悔)に分類されます。 
 愚痴とは智慧がなく真実の道理をわきまえないこと。痴は、やまいだれの中に知がありますから、智慧がはたらいていない、智慧の病という事になります。しかし、本来の字はやまいだれの中に疑という字ですから、愚癡とは真実の道理を理解することができない「おばかさん」ということです。 
4.慢(まん) 前に説明したところです。類する言葉として「がんばる」「頑張る」を辞典で調べますと、@我を張る、Aある場所を少しも動こうとしない、B苦しさに負けずに努力する、等があります。自説がおかしいと思っても絶対に引っ込めないのが我を張るということでしょう。Bは努力ですから良いほうに解釈しがちです。しかし、自我の無い努力なら「精進」でしょうが、我慢なる努力では「頑張る」になってしまうでしょう。 
5.疑(ぎ)これは一般的に言う疑いとは違います。世には悪い企てをする人も沢山いますので、よく確かめるという意味の精神は必要でしょうが、ここでの疑というのはそれと違います。正法(仏の教え)を疑うということです。つまり、正しい教えであっても話を聞こうとしない、正しいのかもしれないけれども、そうゆう難しいことは私には関係ない。・・・ああでもない、こうでもないと自分にとって不満な結論は出そうとしない態度のことです。 
6.悪見(あくけん)あやまったものの見方です。この見(けん)には62見があるといいます。 
 大きくわけて、1.有身見(感覚や経験を正しいと思いこむ) 2.辺執見(死後や霊魂のあるなしなど断定できないことにこだわる) 3.邪見(縁起の理を否定する) 4.見取見(自分の見方に固執する) 5.戒禁取見(きまり、観念にこだわる) 
「信心銘」という経典では、「真を求むることを用(もち)いざれ、唯須(ただすべから)く見(けん)を息(や)むべし」と示されます。自我とは、自分の都合、自分流でしか見聞できない知恵、「智慧」とは無我の知恵です。自負心のつもりが高慢であったり、勧善懲悪もかたよるならば正義をふり廻すことになる。 
金持ちは金持ちの色眼鏡、貧乏は貧乏眼鏡、医者眼鏡に科学者眼鏡、病人眼鏡と、いろいろな眼鏡を掛けながら錯覚している。その眼鏡のことを「見(けん)」というのです。 自らに恥じない人、他人を陥れて自分は優雅な生活をし何百万の飾りを着けながら、それが手錠に変わっても恥じることのない人を無慚無愧の人というのです。染汚した我、その我におもいあがった心が我慢であり、無我というのはおもいあがった自我がすてられほとけにまかせられていることです。苦難を堪え忍ぶにも「自我」の堪忍袋に入れるのではなく、「空性」なる仏の堪忍袋に入れるのです。「我慢」とは「自我なる慢心の自制」と受け止め「我慢」すべきでしょう。 
 
妄想を除かず真を求めず

 

「証道歌」の中に「妄想を除かず真を求めず」また、「取捨(しゅしゃ)の心、巧偽(ぎょうぎ)と成る」とあります。真とは真如のことです。如とはあるがままのものを如というのです。仏さまのことを「如来」といいますが、如から来たから「如来」というのです。真如とは無我ですから実体がありません。見たりさわったりして確認することはできないのです。かなり修行の進んだ人でも、「真理を求めて、妄想を捨てる。妄をすてて真を求める」そうありがちです。 
人は善と悪、清と濁、迷いと悟り、勝ちと負け、有と無という対極にこだわり、不幸を嫌って幸せを望みます。善と悪とは別なるものと思っています。けれども、「取捨の心、巧偽と成る」、つまり、間違いのない真理のつもりでいても真理を求めて、妄想を捨てるという取捨の見は選り好みであり、一方に執着しますから正しい判断ができなくなります。これが我見や偏見と示されるところです。 
信心銘にも「真を求むることを用(もち)いざれ、唯須(ただすべから)見(けん)を息(や)むべし」とあります。 「妄想を除かず真を求めず」とは、煩悩を抱き込んでかわいがってやる。煩悩を持ちながら、それに振り回されない心が「取捨(しゅしゃ)の心、巧偽(ぎょうぎ)と成る」となる示唆です。 
この見を梵動経、盆網62見経では62見あると説かれています。 
ある時、釈尊が大衆と共に王舎城からナ−ランダに向かっているとき、遊行者でサンジャヤの弟子スッピヤとブラフマダッタが同じ道をお釈迦さまの後から歩んでいた。スッピヤは仏法僧をいろいろ罵倒していたが、ブラフマダッタは逆に仏法僧をたたえ尊んでいた。その夜は釈尊一行とスッピヤ師弟は同じ園に泊まる縁となった。スッピヤ師弟は相も変わらず罵倒と賞賛を続けた。あくる日、大衆がこのことについて話し合っているところへ釈尊が来られた。そして、大衆に向かって、「他の人々が仏法僧について罵倒したり賞賛したりしても、すぐに怒ったり喜んだりしてはいけない。罵倒に対してはそのわけを明らかにしてこれをしりぞけ、賞賛に対してはそれが正しく理由ある点を見てこれを更に精進せよ」 と教えられた。そして、その後に当時の婆羅門や一般思想界の見解を62見の説として示されたとあります。 
「空」なる世界は「無我」とも示されます。それは、事物には固定的な実体(我)は無いということです。のもかかわらず事物に対する固執した考えを「我見」といい、その固執の考えを離れることを「無我」や「空」と評するのです。自分の目で確かに世界を見ているつもりでいても、青メガネをかけていれば世界は青く見えますが本人は気づきません。金持ちは金持ちの色メガネ、貧乏メガネ、医者メガネ、科学者メガネ、病人メガネ、男メガネに女メガネ。自分の我執のメガネで見てしまうのです。62見とは62通りのこのメガネをかけて眺めた自解偏見ですから、「我見偏執」(がけんへんしゅう)ともいいます。 
世間では「私の目に狂いはない」という言葉もありますが注意が必要です。仏典に「一水四見」という教えがあり、道元禅師も「山水経」の中に引用されていますが、同じ水を、人間は水と見るが魚は金殿玉楼と見、天人は瓔珞と見、餓鬼は膿血と見る - - 同じものであってもそれぞれの見方によって違うわけです。 
「我見」とは「見込み」ということですから、いろいろな思想が起こります。 
例えば「死んだら地獄が有るか無いか」というときにも偏見がおきる。偏見とは偏った見方、極端論です。「死んだら未来などない。死んだらそれでおしまい、この身体はゴミになるだけ!死んだら後は何もない!」。インテリメガネで云えば「あらゆるものは原子の離合集散によって万有はできている。精神も霊魂も、原子が分解すれば何も残らない」などとするわけです。死の一辺ににかたより、固執することは断見(だんけん)(無見)というのです。 
一方「天地宇宙を創造するいちばん最初に永遠不滅の実在というものがある。そういうものから一切のものが造られている」「人間は死んでも霊魂は不滅である。」「自我は歴然としてある」など、生の一辺に偏り固執することを常見(じょうけん)(有見)と評されるのです。 
身見があるとまた邪見(じゃけん)というものがおきます。「死んだらまた生まれ変わるんだ、その時に地獄にいかずにすむように天国に行けるように、仏さまに今からお賽銭をあげて拝んでおこう」とか「どうか今日の盗みがうまくいくように、盗った以上はどうか捕まりませんように、どうぞ大願成就せしめたまえ!」・・ そんな邪見が正信心であるはずがないのです。 
見取見(けんしゅけん)というのがあります。これは自分の知識経験の世界のみで見てしまう。自分の見方に固執する思い上がりのことです。人間とは自信がある時ほど高慢になりがちです。自分の非を認めたくなく、自分の失敗の原因を他に求めようとするものです。反対であれば劣等感におちいる。劣等感に落ち込むことを仏教では卑下慢と称して、これも慢心の裏返しですからどちらも道にはずれた姿です。 
それから戒禁取見(かいごんしゅけん)という見があります。つまり、この自分を天国に生まれさせたい。それにはどうしたらいいか。−− 昔、修行僧が性衝動押さえがたく、自分のいちもつさえなければこの煩悩から離れられると考え切り落としたという話があるが、切り落とせば問題が解決するというようなことではありません。或いは、坐禅によって和尚に気に入られようとか、末は宗門の高ポストへなどと考えて坐禅をするのは仏道ではありません。つまり、戒法を間違えてこれが本当の戒法だと思い込むことを戒禁取見といいます。 
この身見、偏見、邪見、見取見、戒禁取見がおおまかな五見ですが、このほかに実に、いろいろな見をつくってしまうので、62見と示されるのです。金剛経には「肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼」の五つの眼をあげていますが、我々凡人の目が肉眼です。見にとらわれ、ものを正しく見る力を欠いているところの眼ということです。ですから、それが、「真を求むることを用(もち)いざれ、唯須(ただすべから)く見(けん)を息(や)むべし」となります。 
道元禅師は「辨道話」の中で「仏道は、自他の見を忘じて行ずるなり」と示されます。常見でもなければ断見でもない見方捉え方というのは、妄想・執着を放下して仏さまにすっかりおまかせすればいいのです。「帰依」とか「南無」ということは、身を投げ出して任せきっていくという意味ですが、どんなことがあっても引き受けてゆける力というのが「南無」の信心です。そこに我見は存在しないわけです。勝手に考え、想像したものに憧れ、執着する。その愛着から煩悩が起こりますから「我見」を投げだして任せきっていく。少しも頭で混乱することなくしっくりと腹に入る境涯といいましょうか、どんな時でも、そのまま差し支えなくすんなりと受け止める。そのことを「非思量」「無念無想」というのです。「非思量」や「無念無想」とは頭がおかしくなってボーとした状態をいうのではありません。大きな矛盾であってもスッと受け入れられる境涯をいうのです。 
昔、薬山弘道大師という人が坐禅をしていた。 
ある僧が、「兀兀地(ごつごつち)何をか思量す」(意・坐って何を思量しているか) 
師曰く 「箇(こ)の不思量底を思量す」 (意・思量しないということを思量す) 
僧曰く 「不思量底、如何(いかん)が思量す」(意・思量しないということを思量すとは何を思量するのか) 
師曰く 「非思量」 
「誤解」と「偏見」は違います。誤解とは事実をつきつければなくなります。「偏見」とはどんなに事実が誤っているかを事実で証明されても認めようとはしない。偏見(思考)は我見に因るし、差別(行動)も我見に因り行われるのです。同じように「頑固」と「頑迷」も違います。我見、旧見、我執の角が伸び、俺が俺がと武装するのが「頑迷」と呼ばれる。自己がよく調っているなら「頑固」は悪いことではありません。「見(けん)を息(や)む」ということは、「自分がいかに我見にとらわれているか」を自覚することといえます。なぜあの人は幸せなのか?それはいいところだけしか見ていないからです。なぜ私には悪いことが続くのか?それは悪いところだけしか見ていないからです。鬼の心で見れば世間は鬼ばかり、仏の心で見ればこの世の中はみんな仏さまばかりです。他人のせいにしないで是非の分別を棄てる。分別を棄てて我見・我執を離れたとき「法の人にあるときこれを仏という」となるでしょう。 非思量とは畢竟「只管打坐」の心ということになるでしょう。 
 
我慢と忍耐の心理学

 

我慢はいっぱいいっぱいな状態を作り出しますが、忍耐はある種の成功と自信をもたらしてくれるんです。 
カウンセリングでよくお伝えする一言があるとしたら、もしかしたらNo.1は次の言葉かもしれません。 
「○○さん、とても我慢してこられたようですね・・・」 
ご相談は夫婦関係だったり、恋愛、仕事、対人関係、親子関係、本当に多岐にわたります。 
中には「私さえ我慢すればいいのよ」と思ってみたり、「彼のことが好きだし、たくさん愛してくれるから少々のことは我慢しなきゃ」と思ってみたりします。 
でも、この我慢というのはとっても曲者。 
なぜかというと我慢をしてしまうと心の中にどんどん感情が溜まって行ってしまうからなんです。 
もちろん、我慢することが悪いわけではありません。 
我慢が必要なことも、大切なこともあります。 
ただ、何でもそうかもしれませんが、我慢しすぎると僕たちの心に過剰な負担を与えてしまうようになります。 
ちょっと想像してくださいね。 
見たくないもの、ちょっとヤバイものを押入れに隠して見えないようにしてきたって思ってみてくださいね。 
だんだんと押入れの中の隙間が無くなって、モノを入れる余裕が少なくなってきても、無理やり押し込んできたって。 
ところが、そこであなたは引越ししなきゃいけなくなりました。 
引越し先も決まって、さあ、荷物を梱包しようと思った時に、目の前に膨らむ押入れを目にします。 
「押入れを空けてしまったら、なだれを打って色んなものがあふれ出て来てしまうに違いない。確か3年前に買ったコンビニ弁当もお母ちゃんに見つからないように隠してきたな。あ!5年くらい前にめんどくさくて洗ってないパンツも隠しちゃった!!」 
さて、どんな気分でしょう? 
頭を抱えて蹲ってしまうかもしれませんね。 
ここで押入れというのは僕たちの「心」、隠してきたモノが「我慢した気持ち、言えない気持ち」、そして、引越しというのが「状況の変化」を表します。 
それが僕達の「悩み」「問題」といわれるものの正体かもしれません。 
抑圧された感情が作り出すものが悩みであり、乗り越えるべき問題ですから。 
ついつい彼に嫌味を言ってしまったり、余計な一言を言って怒らせてしまったとしたら、それは押入れの中から、細かいものがちょこっとあふれ出てしまったのかもしれません。 
また、自分の気持ちが我慢できなくて彼にぶつけてしまったとき、それは押入れの中にはもう入るものが何も無くて押入れの扉が崩壊してしまった合図かもしれません。 
そして、一杯一杯で何もできない無気力な状態になってしまったとき、それはパンパンに膨らんだ押入れを前に手立てなく頭を抱え込んでしまっている自分なのかもしれません。 
誰かにぶつけてしまったり、噴火してしまったとしたら、結構大変なことになりますよね。 
それはまるで押入れの中の整頓を彼に「やってよ!」って押し付けるが如く、自分の感情を彼に処理させようとしている姿なのかもしれません。 
特に不安な気持ち、寂しさ、怒り、恐れなどの感情は、見るのも嫌な感情になったりするので、ついつい人に押し付けがちです。 
中には「ああ、私の心は押入れどころじゃなくて、テレビでやってるゴミ屋敷みたいなものだわ・・・」なんて方もいらっしゃるかもしれませんね。 
ゴミ屋敷に住んでたり、ぱんぱんの押入れが自分の部屋にあるとしたら、とても自分のことは好きになれませんし、また、大好きな人を家(心)に招くことも出来なくなります。 
そうすると、自己嫌悪がいっぱいになったり、人を心の中に入れてあげることができなくなったりして色々な問題を引き起こすようになってしまいます。 
マグマの噴火の如く 
僕のとある友人は、周りからけっこうわがまま娘と呼ばれているんですね。 
特に彼氏に対してはかなりわがまま言いたい放題で、彼を手こずらせることしばし。 
そんな彼女の話を聞いていると、彼女なりにめちゃくちゃ我慢していることが分かりました。 
「我慢できないから、わがまま言うんじゃないの?彼を困らせるんじゃないの?だから、いつも私は我慢しなあかん、我慢しなあかんって思ってもできなくて悩んでるのに!」 
そういう彼女に僕はこう伝えたんです。 
「○○ちゃんってな、とっても情熱の女やん?情熱の女ってのは、熱いハートを持ってて、いつもそれが燃えてる状態なんだよな。でも、それを押さえ込んでしまうと、火山の地下にマグマが溜まっていくように、どんどんその熱い気持ちが溜まっていくわけやん?それが、ある限界値を超えると、どっかーんって爆発するんとちゃう?だから、いつも、爆発したときは彼は丸こげになって目の前に転がってるやろ?」 
「そうやねん。いつも、そうやねん。あたしなりに我慢してんねんけどな、周りの人はいつもあたしの我慢が足りないって怒るねん。どうしてなん?どうしたらええん?」 
彼女のその言い振りからも彼の苦労も垣間見えるんですけど(苦笑)、僕はめげずにこう答えました。 
「情熱の女やから、『あれしてくれへん、こうしてくれへん』って内に情熱貯めたら爆発するほか無いやろ?外にな、そのエネルギーを向けるんよ。彼をいかに愛そうか?どうあたしの魅力でとろとろにしてあげようか?いかに気持ちよく楽しくさせてあげようか?そっちの方に気持ちを持っていったらええねん」 
彼女も負けじと食いつきます。 
「それができたらええけどな、気がついた時には溜まってしまってるねん。それに、そんなん彼氏がええ思いするだけで、あたしは何もええことないんちゃうのん?」 
ここで引いたら負けですから、押し返すわけです(笑) 
「いつも彼にして欲しいことじゃなくてな、彼にしてあげたいことを考えるように癖つけてみ。欲しい欲しいってのは満たされることってないけどな、あげたい、与えたいって思ってやってるとな、それだけでエネルギーが外に向くから気持ちよくなるんやで。やってみな、分からんし、すぐにはうまく行くもんでもないけどな」 
「うー。分かったわ。やってみるわ」 
彼女の良いところは、その切り替えの早さ、素直さ。 
1週間後、彼女からメールにはこんな風に書いてました。 
「なんが、ええ感じやねん。彼もな、色々としてくれるようになってん。あたしもな、とてもええ感じやねん。また、何かあったら話聴いてな。いつもありがとな」 
私は何を思ってるの?〜自分の気持ちが分からない〜 
昔からいい子をしてきたり、お姉ちゃんだからって気持ちを抑える癖がついてしまったり、自分はいけない子と思って我慢する癖がついてしまうと自分の気持ちが分からなくなってしまいます。 
それは、嫌なものを自分の目の前から排除して押入れに入れるが如くですから、無くなったとは言えないものの、感じなくはなるんですね。 
昔僕のエッセイ(「寂しさ、について」)でもお話したんですけど、寂しい気持ちがずっとあると、それが麻痺して感じられないようになってしまいます。 
そうして心が麻痺していくと、僕たちの表情からどんどんと感情が消えていき、やがては無表情になり、理論的な、意識的な話しかできないようになります。 
カウンセリングの中でも、よくそういう場面に出会うんですね。 
僕もかつてはこのタイプだったので、カウンセリング中に「今、どんな気持ちですか?」「今、どんな気分でしょうか?」ってよくお聞きするんです。 
「うーん・・・分からないです」と答えられる方も少なくありません。 
そういう方は一般的に自立的なタイプが多いので、そういう方にはカウンセリングの中でも、宿題としても、まずは自分の欲求をチェックすることから始めてもらうことが多いんです。 
欲求というのは誰にでも当たり前にあって、かつ、強いものですから、自分が今どうしたいのか?を自分に確認していくと、少しずつ自分の気持ちが見えてきます。 
欲求の他には「好きなこと/モノ」をチェックしたり、時々自分が何に怒っているのかをチェックすることもお勧めしています。 
欲求も、怒りも、好きって感情もとても強いものですから、比較的、受け取りやすいんですね。 
我慢から忍耐へ 
そうは言っても、我慢しなきゃいけない場面だってありますよね。 
今の問題を乗り越えようというときは、我慢が必要な時期もあります。 
例えば、ご主人の浮気の問題を解決しようとするとき、ご主人が今までの不満を爆発させて、とても人間とは思えないような言葉を自分にぶつけてくることがあります。 
そこで、悲しくなったり、怒りを感じたりしても、それをご主人にぶつけ返してしまうと、余計に関係がこじれたり、ご主人が遠のいてしまいますから、ここは歯を食いしばってでも我慢する必要があることも少なくありません。 
でも、その時に「この痛みを感じて乗り越えたら、きっと旦那との関係をいい方向に向けられるし、私自身が強く、大きく成長できる」と信じることができたとしたら、それは我慢ではなく、忍耐と呼ばれます。 
忍耐というのは、光や希望が見えているときにする我慢、と言えるかもしれませんね。 
だから、辛い気持ちであっても、怒りを感じながらも、耐えることができます。 
つまりは、そのしんどい感情を未来への希望という形で解放している、といえます。 
ただ、ここまでしんどい状況になるとひとりで耐えるのは難しいですね。 
現実が厳しい分だけ、ついついダークストーリーを描いてしまいます。 
しんどい感情だって出てくるわけですから、それを抱え込まずに吐き出す場所だって必要です。 
僕も「不安の奥にあるもの」というエッセイで紹介させていただいたように、その忍耐の気持ちだけでなく、友人達の援助やカウンセリングなどを使って、乗り越えることができました。 
人の手を借りたとしても、乗り越えるのは僕自身ですから、後々大きな自信になりました。 
我慢はいっぱいいっぱいな状態を作り出しますが、忍耐はある種の成功と自信をもたらしてくれます。 
もし、今いっぱい我慢してるなあ、という方。ちょっと自分に問うてみて下さい。 
「その我慢は本当に必要なもの?」「忍耐に変えるにはどんな希望を見る必要があるの?」「ひとりで頑張れる?それとも誰かに助けを求める?」
 
我慢を知らない若者では勤まらない

 

先日訪問したある会社のベテラン技術者が嘆いていた。  
「私たちの職場の構成員を見ると、正社員は3分の1以下。大部分が派遣社員とパート・アルバイトと外国人労働者の混成部隊。その人たちに技術を教えるのだが、彼らが将来ライバル企業で働くかもしれないと思うと、もうひとつ熱が入らない。  
また、彼らも“次の職場では、こんな技術、役に立たないかもしれない”と思っているためか、積極的に覚えようとしない。このままでは我が社の技術は遠からずなくなってしまいますね」と嘆いておられた。  
確かにここ10年ほどの間に雇用の流動化が異常なほど進展した。ありとあらゆる職場で、パートや派遣社員の数が大幅に増えた。しかし当然のことながら、彼ら、彼女らはいつ「他の会社に変われ」と言われるかもしれないから、正社員に比べると愛社精神は薄いだろう。そのような人々が大勢を占めるような職場で、日本が得意にしてきた「すり合わせ型の技術」を維持し、伝承していけるかどうかは、はなはだ疑問だ。 
最近の工場の日本回帰現象の裏には、日本の雇用制度の弾力化があったのは確かだ。つまり、不況になったら簡単に労働者を減らせるようになったのである。だからこそ、日本に工場を建てることがリスキーでなくなり、日本立地が進んだということがある。 
「新卒だけの入社式は不公平」 
しかし、パートや派遣、アルバイトが増えているということは、若者が会社に正式に就職しなくなったことの表れでもある。会社に就職できず、仕方なく派遣会社やアルバイト斡旋会社に登録して、その日その日の仕事を得る人生を送っているという若者は少なくない。 
若者が社会への第一歩を踏み出そうという時に、力を発揮する場所が与えられないというのは本当に気の毒だ。かつての日本の大企業は中途採用をほとんどしなかったのが、最近はむしろ中途採用が当たり前になって、(中途採用の方が即戦力になる!)新卒の需要が相対的に薄れたということもあるらしい。 
そういえば、私の知り合いの社長は「4月1日の入社式を今年からやめました」と言っておられた。「中途入社の社員の方が数が多いのに、新卒だけ盛大に入社を祝うのは不公平だから…」というわけだ。 
しかし、会社はそろそろ正社員を増やして技術やノウハウの伝承を図らないと、取り返しがつかないことになるのではないだろうか。 
いやなことは我慢しなくてもよい?  
もっとも若者の方にも問題がある。「清潔な職場で、仕事が楽で、給料が高くて、転勤がなくて、テレビでコマーシャルを流していて、誰もが名前を知っているような企業以外はお断り」というような非現実的な条件で探そうとするから、なかなか希望の就職先が見つからない。当然と言えば当然だ。 
おまけに学校では、辛抱することを教育しない。だから、せっかく就職した若者も困難に出合うと(ちょっと怒られたり、注意されただけで…)すぐに辞めてしまう。昔は親も先生も「手に職をつけることが大切。技術を身につけるまで辛抱しろ」と教育したものだが、今は「いやなことは我慢しなくてもよい」と若者を甘やかす。テレビでも、「自分らしく生きることが大切」「無理して頑張る必要はない」などとのたまう評論家やタレントが少なくない。 
我々が学生の頃は、親の脛は全く期待できず、我慢して仕事をしなければ生きていけなかった。だが、最近は親の脛もそこそこ立派になってきて、かじりがいがある。若者は仕事を辞めても、親の脛をかじって生活できるから、すぐに困るわけでもない。 
だから若者は「もっと自分にふさわしい、素敵な職業があるはずだ」と考えて、仕事を辞め、青い鳥を探す旅を続けて、遂にニートになってしまう。そういえば、サラリーマン川柳の当選作に、「妻パート、俺は日当で、子はニート」というのがあったっけ。 
仕事は決して楽なものではない 
そもそも、例外的に幸せな何人かの人を除いて、仕事はそんなに楽しいモノではない。テレビではいつも笑顔で幸せそうなタレントも、セリフは覚えなければならないし、不意に話を振られた時にも気の利いた返事をしなければならないし、「いつクビになるか」と心配して、ディレクターや事務所のスタッフに気を使い、目に見えない努力を要求される。 
タレント以外の人たちにとってみれば、テレビ局は3K職場そのものだ。時間は不規則、ディレクターに怒鳴られ、タレントには気を使う…。  
日本の将来のためには、若者を正社員にしたくなるように鍛え上げなければならない。そのためには若者に、もう少し「我慢」や「辛抱」を教え込む教育をしてもいいのではないだろうか。
 
我慢のできる子できない子

 

前回は子どもへの一方的な暴力が子どもをより暴力的にしてしまう、子どもへの理不尽な暴力は絶対あってはならないと指摘いたしました。今回は一向に後を絶たないばかりかむしろ一段とエスカレートしてきている少年たちの暴力犯罪について、視点を変えてもう一度考えてみたいと思います。 
ナイフによる少年犯罪の続発について当然のことのように様々な立場、視点から真剣な意見や考えが出され論じられております。 
平成10年2月25日付け朝日新聞紙上に掲載された教師刺殺事件についての座談会で、ある教育学者は「親や学校の期待に過剰に適応しているものの、心の皮を剥くと、本人でもわからない暗さや闇をもった子がかなりいる。対人恐怖があり、武装しないと自分が守れない。ナイフは彼等にとって象徴的なものになっている」と述べ、女性心理カウンセラーは「彼等は決して突然に”キレる”のではなく、我慢に我慢を重ね、限界まできて爆発する、子どもが我慢してきた状況を押さえたい」と語り、更にもう一人の教育研究者は「学校で傷つき、休みたくても休めない子どもが自已防衛しながら登校する。その道具の一つにナイフがある」と三人とも子どもをとりまくストレスフルな状況をまず問題視しております。このように少年犯罪の凶悪化を、あくまでも子どもをとりまく劣悪な環境状況から押さえていこうとする考え方は決して間違いではないと思います。しかしこの考え方だけでは、衝動的に凶器を振るってしまった少年たちに、自分達は、子どもに押しつけや我慢を強いる家庭や学校環境のストレスの犠牲者である。だから自分達がイラつきキレてしまうのは仕方ないことなんだと、已の犯罪行為を正当化させることにつながるのではと懸念されるのです。たとえ子どもであっても悪事や他人への迷惑行為は許されないのだ、理由の如何にかかわらず人間として絶対にしてはいけないことを犯すようなことがあれば子どもといえども応分の償いをしなければならない、という至極当り前の考えを、子どもはいうに及ばず大人たちも希薄にさせてしまっているように思われてならないのです。 
少年たちが、しかもそれまで特に目だった非行も問題行動も無かったと思われる少年たちが突然キレて凶悪な犯罪に及んでしまうことについて忘れてはならないのが、彼等自身の抱える問題性や責任性であります。 
私はなぜ彼等が我慢の限界を超えてキレてしまうのかについては、一概にはいえないとしても、我慢の仕方のまずさや足りなさという耐忍性の問題としてとらえることは可能だと考えます。自分の思いどおりにならなかったり、求めるものが求められなかったりすることを欲求不満(フラストレーション)と称し、欲求不満に耐えることを欲求不満耐性(フラスレーショントレランス)と呼ぶことはどなたでもご存じであります。私は子どもたちが突然キレて暴発したり、教室で好き勝手なことをして周りの仲間や教師を困らせたり、非行犯罪に走ったりする最大要因の一つが、この欲求不満耐性の弱さ未熟さにあると考えるのです。欲求不満耐性は生まれながらに備わっているものではなく、生後の経験によって体得強化されていくものであります。つまり子どもの耐忍性の強さは、その子がこれまで欲求不満になったとき、それをどのように受け止めどのように対処してきたかによって異なってくるというわけです。たとえば過保護でわがまま放題、思いどおりに欲求が満たされ欲求不満をあまり経験させられなかった子どもは、ちょっとした障害や不快な出来事にも耐えられない我慢の足りない人に育ってしまいます。逆に絶えず我慢を強いられ、欲求不満状況におかれ、それに対する合理的解決法を確立させてもらえなかった子どもも耐忍性の弱い人間になってしまいます。 
我慢の仕方のまずさや足りなさから些細なことでキレてしまい、重大な結果を引き起こしてもその責任性を自覚できないような子どもにしないために、親には、わが子に対し、幼い頃よりある程度の欲求不満を体験させながら、欲求不満への対処法を教える責任があると思うのです。今わが子が何を求めどうして欲しいのか、何故そうして欲しいのか、そしてそれはわが子にとってどうしても必要なものなのか、我慢させられないことなのか、親には、わが子に対しその辺の見極めを誤ることなく慎重に行うことで、こらえさせるべき時にはこらえさせながら、耐えることの大切さや、耐えることのできる己の本当の強さを実感できる人間に育てていく責任があると考えるのです。 
勿論それと同時に、親自らも耐え忍ぶべき時には耐えられる自制の効いた人間として子どもに接する必要があるのはいうまでもないことであります。 
 
自分さえ我慢すれば

 

「自分さえ我慢すれば」というが、「あなたに我慢して欲しくない」人がいる  
我慢を美徳とすることは、自由をダンピングにすることに等しいことです。「自分さえ我慢すれば」と、残業をしてしまうと、徐々に残業が常態化されてしまいます。結果的に、自分だけでなく、自分の友人や子供さえも我慢しなければいけない社会が出来てしまいます。そろそろ、こんな我慢大会はやめにしませんか? 
残業をすることは、自由をダンピングにすることに等しい 
ダンピング(不当廉売)とは、競合他社に不利益を与えることを目的とし、製品やサービスを不当に安い価格で販売することです。このダンピングとは、企業が提供する製品やサービスに限ったことではありません。労働者の「労働力」という「サービス」も、日本では異常なほど頻繁にダンピングされています。 
企業内でも、労働市場でも、労働力の「価格競争」が常に行われています。企業はより安い価格で労働力を購入したいものです。よって、サービス残業をしてくれる労働者が労働市場で好まれるのは当然のことです。ここで一人の従業員、無償で残業をした場合、価格競争がより激しくなり、他の従業員に無償で残業をしなければならないという圧力がかかります。より多くの従業員が無償で残業をすれば、さらに強い圧力がかかります。ほぼ全員無償で残業をすれば、もはやその圧力に逆らうのはほぼ不可能な状態に追い込まれるでしょう。こうして、他でもない労働者自身によって、労働環境は悪化していきます。 
「自分さえ我慢すれば」は「自分さえ良ければ」というエゴイズムと同じ 
従業員の残業は、締め切りが近いなどの状況で「自分さえ我慢すればこの状況を打破できる」という考えから生まれる場合もあるでしょう。しかし、私は、「自分さえ我慢すれば」という「事なかれ主義」的な考えは、「自分さえ良ければ」というエゴイズムと同じだと思います。 
「自分さえ我慢すれば」という考えは、組織全体の仕事量の調整や締め切りに合わせた計画などの運営がうまく行われていない状況に目をつぶり、その根本的な解決をするのではなく、個人の犠牲で解決しまうことにより、組織全体の最適化を先送りにしてしまうことです。その結果、組織の最適化が行われず、また似たような「残業が必要な状況」を引き起こしてしまいます。「また自分が我慢すればいい」と考える人がいるかもしれませんが、次は自分ではないかもしれません。他の人が残業という自己犠牲を強いられる状況になるかもしれないのです。それを引き起こしたのは、管理する人間の怠慢や無能だけでなく、他ならぬ残業することによって、管理の不備を黙認した従業員そのものです。 
子供達のために、ここいらで悪しき習慣を断ち切りませんか? 
先ほど述べたように、残業が日常化した労働環境を作り出した要因の一部は、従業員の「自分さえ我慢すれば」という考えにあります。そして、「自分さえ我慢すれば」という人が多くなってしまい、今や日本は残業が常態化している社会になってしまいました。このブログの読者で、子を持つ親は多くないと思いますが、もしいるとしたら、きっと仕事のせいで子供に会えず、帰ってきたら既に子供は寝ているという経験があるでしょう。このままだと、きっとその子供も、同じように残業をして、同じ経験をすることになります。どう考えても、それが良いことであるとは言えないでしょう。だから、そろそろこの悪しき習慣を断ち切りませんか? 
もし、多くの人が管理の不備を黙認せず、残業を断り、適切な仕事量が適切な人数で行われるようになれば、残業は本当に稀なものになります。今すぐ社会を変えるのは現実的ではありませんが、今から少しずつ始めれば、子供が成人して働くようになるまでには、少しはマシになっているかもしれません。 
「自分さえ我慢すれば」と言うが、「あなたに我慢して欲しくない」人がいる。 
「自分さえ我慢すれば」と言うが、「あなたに我慢して欲しくない」人がいます。私は父親や親友に、身を粉にするほど残業して欲しくない。そういう人の気持ちを無視しないで欲しい。 
あなたがどんなに会社を大切にしても、もしあなたが精神を病んで働けなくなったら、会社はあなたの面倒を見ません。ただ、クビをきるだけでしょう。しかし、信頼関係で結ばれた人間は違います。信頼関係で結ばれているなら、障害者を雇わない父親でも、わが子が障害者になったら、必死で面倒を見てくれます。「自分さえ我慢すれば」といって、「あなたに我慢して欲しくない」人の気持ちを無視してまで残業をすることは、そんな信頼関係を希薄にしてしまいます。 
もし、普段残業をしている人は、定時を過ぎたら子供や恋人に電話をして欲しい。「仕事頑張って」は、本心なのかを考えて欲しい。本当は、「無理しないで」と思っています。 
 
子どもの我慢できる心を引き出す

 

「がまん」という言葉のイメージは、耐える?苦しい?つらい? でも、「がまん」は忍耐や苦行とは違います。高くジャンプするためにはより深く屈伸することが必要ですが、がまんとはその屈伸のようなもので、「目的を実現する力」とでも呼べるものです。しかし、現代は子どもに「がまん」を教えるのがむずかしい時代です。新しいモノは次々に出てくるし、新しい情報もどんどん入ってきて、次から次へと子どもの目を奪うからです。そういう社会の中では、がまんして望みが実現するまでじっくりと粘ったり、工夫したり、目先の誘惑に引きずられず自分をコントロールする力が育ちにくいものです。 
やりたくなったことはすぐやれてしまう、ほしいと思ったものはすぐ手に入る、というのは一見、何不自由ない生き方のように思えるかもしれません。ところがそうではないのです。裏を返せば、すぐやれなかったらもうダメ、すぐ手に入らないものはダメということです。オールオアナッシングの生き方です。こうやって育つと、挫折や失敗、ストレスに弱い子になってしまいます。思った通りうまくいかなかったとき、「次にはどうしたらいいか」「他にどんな方法があるか」と考える練習をしていないからです。 
あきらめずに工夫したり粘ったりして目的を達成できること。衝動や欲求に引きずられず自分で自分をコントロールできること。周囲の人に与えてもらうばかりではなく、自分で手に入れる努力をすること。失敗したり思い通りにならないことがあっても、別の方法を考えられること。…こうした「がまん」の体験は、子どもが自分に自信をもち、自分を好きになるためのチャンスでもあるのです。 
「がまん」とは、あきらめさせることとは違います。楽しみを先に延ばすということです。新しいゲーム機を買ってほしいという子に、「がまんしなさい」とただ言うだけなら、「ダメ」と言うのと同じことです。「誕生日までがまんして待ってくれたら、買ってあげられるよ」「来月まで毎日お手伝いしてくれたら、買ってあげてもいいよ」…これは、単にすぐ買ってもらえないということではなく、誕生日まで待ったり、一生懸命お手伝いをする間に、子どもはいろいろと想像をふくらませることができるのです。 
日曜日に、遊園地に連れて行ってよ」という子に、「そうやってあれこれ言い出すんじゃないの!少しはがまんしなさい」…これでは、子どもの気持を否定したことになってしまいます。自分から欲求を抑えるのなら、子どもの力になりますが、親から欲求を否定された子どもは、そのうちあきらめやすい子になってしまいます。がまんを体験させるなら、実現の可能性をきちんと見せてあげることです。「もうちょっとがまんしてくれれば、来月には、連れて行ってあげられるよ」…すると、来月までの間、子どもは遊園地に行ったら何で遊ぼうかなと空想したり、計画を立てたり、欲求と衝動が楽しみに変わります。 
キャラクターつきのレターセットをほしがった子に、「お給料が入ったら買ってあげるから、それまでがまんして」と言いましたが、いざそのときになったら子どもはすっかり忘れています。それをいいことに知らんぷり…。これではちょっと困ります。待たせておいてそのままウヤムヤに終わることが続くと、がまんしても何にもならないという結果になってしまいます。そうではなく、がまんしたら、後でいいことがあるという体験が肝心なのです。 
転んで泣いている子に向かって「そのくらい痛くないでしょ!がまんしなさい」。注射を尻込みしている子に「ちっとも恐くないから、がまんするのよ」…つい言いがちなセリフですが、痛いものは痛いし、恐いものは恐いのです。子どもの感覚を否定したり勝手に決めつけるのはやめて、「がんばって立てたね」「恐くてもがまんできたね」と行動を認めてあげれば、「がまん」のしがいがあるというものです。 
「男の子なんだから、がまんしなさい」「お姉ちゃんでしょ、がまんして」…よく言ってしまいがちなセリフですが、これではなぜがまんしなければいけないのか、理由がわかりません。はっきり理由を言わないと、子どもにしてみれば、なんだか損をした気分になってしまいます。 
「お母さん忙しいんだから、ゴチャゴチャ言わないでがまんしてよ」…これでは子どもが気の毒です。お母さんの都合なのに「がまんしなさい」と命令するのは、考えものです。「お母さんの都合も聞いてくれるかな」とお願いするのが筋でしょう。別の用事がある、疲れている、お金の持ち合わせがない。そんなとき「がまんしなさい」ばかりでは、がまんの嫌いな子になります。「残念だけど、今日はお金がないから買えないよ」、むしろ都合をはっきり言った方が、子どもはわかるのです。 
決めた時間に帰ってこない子どもを、毎日約束を守りなさいと叱るハメになっていませんか。「五時までに帰ってきなさいといつも約束しているのに」「ゲームは二時間まで!約束よ!」…実は、これは約束とは言えません。約束とはお互いに話し合って「じゃあ、こうしよう」と合意して、はじめて成立するものです。帰宅時間を約束するなら、「小学校に入って少し大きくなったから、約束したいんだけど。帰る時間は何時にする?」と、話し合えばいいのです。時間がぴんと来なければ、暗くなる時間のことを話してもいいし、おなかがすく時間やテレビの時間、宿題のことなど、ヒントをあげればいいのです。 
「うちの子はあれこれ言い訳ばっかりして」と嘆くお母さんがいます。言い訳はたいていの場合、「自分の責任じゃないよ。他の誰かが、あるいは他の何かが悪かったせいなんだ」という主張です。だからつい、聞いている方はイライラしてしまうのです。しかし、もしかすると、言い訳を連発する子というのは、常にお母さんからの「責任追及」にさらされているのかもしれません。何か失敗するたびに、「どうしてこうなの!」「なんでまた!」「今度はちゃんとするって言ったじゃないの!」と責め立てられていれば、自分の立場を守るために言い訳もしたくなります。「言い訳はダメ!」と言わずに、まずは「言い分」を聞いてあげましょう。どんな人にも知ってもらいたい事情、つまり言い分というのはあるものです。そして大事なことは、「誰のせいか、何のせいか」を追求するのではなく、「次に同じことにならないためには、どうしたらいいか」を考えることです。 
子どものがまんできる心を引き出すには、つい口に出してしまいそうな言葉を出さずにがまんする、イライラする気持を抑える、子どもの言い分をじっくり聞くなど、親の方にもがまんが必要です。子育てほど「がまんが必要な仕事」はないかもしれません。でも、子育てには、がまんのしがいがある3つのプレゼントがあります。一つめは、子どもの成長をこの目で見られることです。初めて笑った日、初めてつかまり立ちした日、初めて「ママ」と声に出した日、こうした喜びはかけがえのない贈り物です。 
二つめは、人の輪が広がることです。子どもの成長とともに、公園で一緒になったお母さん、保育園や幼稚園の仲間や先生、小学校のお母さん仲間など、次々と新しい出会いが広がっていきます。三つめは、次の世代を育てるという社会への貢献です。人は自分の満足だけでなく、社会に役立つことで、本当の幸せを得られるものです。子育てという仕事は、自分の子どもというより、次の社会を担っていく「社会の子ども」を育てているのです。 
「立派なお母さん」と「賢いお母さん」そして「アホなお母さん」がいるという話があります。「立派なお母さん」は、考えることも立派だし、すばらしい理想をもっています。ただしその理想にかなう子どもを作り上げようと一生懸命になるあまり、「もっとがんばりなさい」「それくらいがまんできるでしょ」という言葉がけのパターンをやってしまうのです。理想から現実を引き算するものだから、「まだここがダメ」「ここを直さないと」ということになり、子どもも疲れるし、お母さんもへとへとになります。 
「賢いお母さん」は、目の前にいる子どもの、いいところを見つけることができます。「がまんできたね」「よくがんばったね」と言うことができるので、認めてもらった子どもは「自分はがまんできるんだ」とか「よし、もっとがんばろう」と思えるのです。これは引き算ではなく、いいところを積み重ねていく足し算です。 
言葉は悪いですが、「アホなお母さん」は、理想も期待も何もなく、要するにどうでもいいと思っていたりします。あるいは「余計なことはせずに放っておけば、子どもは自然に成長するのだ」と固く信じていたりします。しかし、社会の中で生きていけるように成長するまでには、適切な時期に適切な刺激を与えること、失敗を通してさまざまな練習をさせること、社会のルールや文化を理解するための働きかけが欠かせません。こうした機会が与えられないと、子どもは「がまん」や「がんばり」がきかず、ちょっとイヤになるとすぐ放り出したり、自分の気持や考えを言葉で伝えることができなかったりします。 
ちょっとした考え方のコツで、「子どもの力を伸ばせるお母さん」になれます。いろいろな考え方に触れながら、子どものいいところを見つけるために、役に立つものを、役に立つところだけ活用して、「賢いお母さん」になって下さい。 
 
我慢・努力回路

 

我慢・努力回路は教育活動全体を通してを育まれる。学年に応じ、適時・適量・適切に配分され、我慢回路は鍛えられていく。鍛える最も良い機会は持久走大会、2番手は運動会・組体操である。運動系がやりやすく効果的である。学習・思考系は工夫が必要である。視覚野・運動野は臨界期が早く、前頭野は遅い。特に前頭前野は遅い。一歩一歩である。その一歩をないがしろにすると、後になって取り返しがつかない。待つこと・我慢すること・努力することは幼児からである。 
夏休みが終わるとすぐに運動会、運動会は我慢・努力回路を鍛える絶好の場である。練習から本番まで我慢・努力の連続。学校を挙げて練習に入る。入退場の行進・ラジオ体操、開・閉開式、かけっこ・リレー、ダンス・表現、団体種目と多種多様である。1つとして我慢・努力を要しないことはない。全体で個人で、学年で・ブロックで練習を重ねていく。 
運動会は地域の祭り、観客が多ければ多いほど、勝って嬉しい・負けて悔しい感情が増幅する。喜怒哀楽は大脳辺縁系、大脳辺縁系を踏まえて前頭前野は発達していく。 
運動会が終わり音楽会が終わると次は持久走大会、大会に向けて個人で・学年で・ブロックで走り続けていく。脳幹でリズムを整え、大脳辺縁系・小脳で動物性を鍛え、前頭葉で抑制シナプスを発達させる。体育授業では学年に応じ3分間走、5分間走、7分間走を取り入れる。毎時間毎時間の継続が大事、一発勝負はダメ。脳は継続で発達していく。 
持久走大会は大事、練習だけでは効果が薄い。本番があってこそ全てが生きる。本番では黙々と走ることが大事。苦しくても苦しくても走り続けることが大事。途中で音を上げないことが大事。我慢回路は日々の練習と本番で育っていく。にもかかわらず、運動会を簡略化し、音楽会は隔年、持久走大会はやらない、そういう学校がある。いい学校になるはずがない。我慢・努力回路を発達させるには持久走に勝るものはない。持久走でチャランポランの子はチャランポランな大人になるし、しっかり走る子はしっかりした大人になる。40年近い経験ではっきり言える。 
音楽の練習も我慢・努力回路を発達させる。1回・2回でトランペットを吹ける子はいない。トロンボーンも同じ、「時間の確保・場の確保・指導の確保」が大事、加えて練習・練習である。憧れていたクラブであっても練習を重ねる以外に上達の道はない。子どもは音楽好き、音感良し、あっという間に吹けるようになる。音が出る、曲になる。音質も変わってくる。  
音楽は道徳教育の中核であり、人間教育の最重要ツールといえる。脳幹でリズム、大脳辺縁系でテンポ、大脳新皮質でハーモニーである。リズム・テンポが基本でハーモニーは応用であろう。低学年からハーモニーを強調しすぎてはいけない。必ず失敗する。ダメの証拠は@楽しくない。Aうまくいかない。B音楽嫌いが増える。歌う・踊る・叩く・弾くなど脳幹・大脳辺縁系中心にすべきである。旧約詩篇には例証が山ほど記録されている。3千年も前の話だ。 
東本郷サッカークラブ、創立40年、強豪チームである。県内のみならず県外からも試合の申込みがあった。歴代の監督・指導者は長い間ねばり強く指導を重ねてきた。我慢・努力回路を育てる指導であった。 エネルギーの溢れる子どもがサッカーで育った。 
放課後 一人黙々と逆上がりの練習をする子ども。得意な子ほど練習が好き、よく練習する。誰がいなくても一人でやる。 「もっと上手に・もっと早く・もっと軽々と回りたい」という。努力が天才をうむ。努力に勝る宝なし。我慢・努力回路、これが人生キーワードであろう。 
脳は抑制が中心。抑制の仕組みが、脳・神経系の正常な活動に対して極めて重要な役割をしており、脳・神経系の生理学が「抑制」生理学と呼ばれてきた所以である。バスケット細胞の発見、ニューロンにおける側枝の働きなど研究はどんどん進んでいく。再度言います。我慢・努力回路は大事、とりわけ教育=人間形成にとって大事です。 
 
人間関係・共感回路

 

出発は、何よりも先生に可愛がられることである。担任の先生に可愛がられることである。特に、低学年でうんとうんと可愛がられることである。先生に可愛がられ、高学年に可愛がられることである。可愛がられると学校がすきになる。プラス回路に点火する。 
子ども育ての最大ポイントは報償回路・ドーバミン回路の発動・発達である。赤ちゃんの時から「気分がよい・機嫌が良い・腹の虫が良い」状態・機会を多く持つことである。五臓六腑の内部情報、視覚・聴覚・触覚などの外部情報、快情報を多く得ることである。至上の快情報は"愛"、「教育は愛、愛こそ教育」である。 
可愛がられた子どもは下の子を可愛がる。1・2年生を可愛がる。「可愛がるー可愛がられる」の連鎖が生まれる。ここに「全校仲良し班活動」の根拠がある。1年から6年まで1班12名体制で活動を組んでいく。4月結団式 5月なかよし遠足 6月なかよし給食・遊ぼう会・・・・、運動会も縄跳びも、全校清掃も全校草取りも、6年生の班長がリードしていく。6年生の成長がめざましい。可愛がられて安定し、可愛がってしっかりした子になっていく。 
存在感のない子・要るかいないか分からない子がいる。透明のような子がいる。「可愛がるー可愛がられる」の機会がない学校ほど多くいる。多種多様な活動、ダイナミックな活動が組まれた学校には少ない。 
全校遠足、芝生の上で相撲をする子供たち。押したりひいたり、取っ組み合う、それが楽しい。勝手も負けても楽しい。見ているのも楽しい。みんな幸せ。ここから人間関係が始まるのだ。学校から「じゃれ合い・取っ組み合い」が消えて久しい。東本郷小学校には、「じゃれ合い・取っ組み合い」の機会がたっぷりあった。子どもは落ち着いていた。  
人間関係の中枢は大脳辺縁系にある。前頭前野にも投射している。、じゃれ合い・取っ組み合うのは本能でもあり願い・意志でもある。触れあうことは情動の基礎である。子どもの時代にたっぷり体験させたい。 
「なかよし給食」である。学年2名・12名程度、班長は6年、先生がつく。全教職員がつく。事務も校務員も音楽も家庭も一人として不参加者はいない。給食センターの栄養士も調理師、地域の人まで入ることがある。作る人・運ぶ人・配膳する人、みんなみんな大切な人である。みんなで食べる・一緒に食べる・楽しく食べる、食べることによって仲良くなる。仲の悪い人は一緒に食べない。  
食欲中枢は大脳辺縁・視床下部にある。更に前頭葉にも前頭前野のも投射している。本能でもあり意志でもあり文化でもある。食は底が深い。ただ食べればいいのではない。大事にしなければならない。家庭でも学校でも・・・。人間関係はここから生まれるといっても過言ではないだろう。給食の時間を見れば学校の質が分かる。 
「全校縦割り草取り活動」である。校庭・校舎の全域、観察園、学校農園まで含めるとかなり広い。年に数回やる。それでも人手が足らない。PTAと合同で親子全校除草大会もやる。「自分のことは自分で・自分たちのことは自分たちで」が合い言葉である。  
一緒に仕事をして「人間関係・共感回路」は育つ。共感は賞賛と同じく視床下部や脳幹に根ざしている。大脳皮質より深いところにある。大脳皮質より根元的、より本能に近い。それだけに教育的に重要である。人間関係回路は共感回路をベースに「一緒に遊ぶ・一緒に食べる・一緒に仕事する」の3点セットで広がりを持つ。深さももつ。「一緒に仕事をする」まで進まないと、画龍点晴を欠くである。 
学力規定要因は、@離婚率、A持ち家率、B不登校率の高まりにある。(大阪大学)脳科学からみれば当然のことである。濃密な人間関係のなかで子どもは育つ。「つながり格差」が、「都鄙格差」や「経済格差」よりも学力を左右するのである。  
 
記憶のメカニズム

 

記憶の司令塔 それは海馬である。直径1p、長さ10p、細長いキュウリのように湾曲した形。耳の奥あたりに左右1つづつある。発生学的には古い脳、大脳辺縁系にある。本能行動をする視床下部や情動行動の中枢・扁桃体に繋がっている。そのため思いの外動物性が強い。鳥類など下等な動物でも十分に発達し極めて重要な部位である。 
扁桃体を破壊されると感情が薄れ無気力になり、扁桃体が活動するとすると海馬のLTP(長期増強)が大きくなる。喜怒哀楽の情動が記憶の形成を促進しているのである。  
勝って嬉しい・負けて悔しい、褒められて喜び・叱られて悲しい、その体験をたっぷり味わって欲しい。学校は体験活動の宝庫である。 
五感を経て獲得した「ものごと」の情報は、側頭葉の嗅内皮質から海馬に入り、時計回り一周して側頭葉に還っていく。海馬の神経細胞はたった1000万個、脳全体で1000億個、0.001%である。大きさ25ミクロン、記憶という最重要事項をフル回転で取り仕切る少数精鋭集団である。激務激職、生成死滅が速い。 
「歯状回→CA3野→CA1野」を「海馬の主要3シナプス回路」と呼び、重要性の順番に並んでいる。歯状回は下等な動物でより発達し、CA3野は中継点、CA1野は高等な動物で発達している。  
回路がONになると情報は、側頭葉→歯状回→CA3野→CA1野→海馬支脚→側頭葉に移っていく。時計回りの一方通行である。回路がOFFになると情報はつたわらない。ここではCA1野がきえている。2本の黒いすじはぎっしり整列した神経細胞の集まり。 
歯状回は海馬の入り口、その顆粒細胞は鍛えられて増殖する。反対に凄いスピードで死んでいく。3・4ヶ月もすれば全部の顆粒細胞がまったく新しい神経細胞に入れ替わっている。子ども・老人を問わない。全体量が増えるほど記憶力も増強する。これは記憶力だけの問題ではない。古い脳、海馬、その中でも原初的な歯状回のことである。教育の原理である。良い学校は活動量が多い。運動量が多い。豊かな体験活動に満ちている。悪い学校はちんたらちんたら漫然と動いている。 
「記憶」は海馬の中だけで起こっているわけではない。全脳的に起こっているのである。脳は海馬を中心に「記憶回路」を形成し、扁桃体を中心に「情動回路」を形成している。2回路を両輪に人間は生きて働いて死んでいく。海馬より扁桃体が古い。古いから強い。より重視しなければならない。 
脳は、「秩序とバランスの世界・補完と調和の世界・全体最適の世界」である。記憶中心・知識中心に偏ってはならない。 
記憶記憶システムの模式図である。短期記憶は30秒、長くて数分程度であり、それよりも長い時間の記憶を長期記憶とよんでいる。意識下の記憶には「手続き記憶」「情動記憶」「プライミング」があり、前意識の記憶には「意味記憶」「エピソード記憶」がある。エピソード記憶は自分の経験や出来事に強く結びついている。意識して容易に思い出すことができる。意味記憶は単なる「知識」であったり、覚えた状況が消えてしまった知識であり、何か特別なきっかけがなければ意識に上がってこない。  
記憶は歴史の階層であり、人間の成長過程にそっくりあてはまる。下の層であるほど原始的であり生命維持にとってより重要な記憶である。下層の記憶原理を活かさなければ、「記銘(覚える)−保持(保存する)−想起(思い出す)」もうまくいかない。「短期記憶」と「プライミング」は大脳皮質・前頭前野46野のワ−キングメモりーで作られ、「手続き記憶」は基底核・線状体で作られている。新皮質は大事、でも古い皮質はもっと大事である。 
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全ての神経細胞が必ず神経突起を伸ばし、結合する相手・仲間を探す。軸索の先には成長円錐があり、センサーを使って必死で探し回る。1つ1つ繋げ数日間でネットワークを形成する。繋がれば情報が伝達される。これが記憶の出発である。 
錯綜しながら伸びていくニューロン、自分の相手が近くにいるとは限らない。近くの場合もあるし遠い場合もある。近寄っても逃げられる場合もある。「ことわる権利が誰にもあるのです」と若手の女性博士研究者は教えてくれた。相性があるんだ。極微の世界でも相手を選ぶのだ。相手がいないニューロンは早晩死ぬという。「孤立・孤独・断絶」は生命活動に馴染まないのか。不思議なことだ。「人間は社会的動物である」という言葉が身にしみる。 
発火した海馬の神経細胞群、超高速のため同時にみえる。シナプスのチャネルは1000分の一秒で開き、ナトリウムイオンは「ドミノ倒し」のように移動するという。シナプスで1つ1つ伝達物質の選り分けをするためであろうか、電気回路は秒速30万キロだが、神経細胞は早くて秒速100bである。絶妙な仕組みになっている。   
記憶はニューロンのネットワークである。記憶Aは9個発火している。記憶BとCは同じ10個発火している。しかし、回路がちがう。この違いが情報のちがいである。入力の違い、出力の違いである。すなわち単語の違い、イメージの違い、動きの違いなどである。 
ニューロンの接続状態が記憶の良し・悪しを決定する。記憶力のいい人は多く繋がり、物忘れの多い人は少ししか繋がっていないか繋がっていてもネットワークとして機能していないのである。 
ニューロンは繋がる。樹状突起を増やす。繁茂する木々の枝、小枝のように1万も2万も増殖させる。スパインをどんどん生みだしていく。新しいことに触れるたびに、覚えるたびに増えていく。情報量に比例してニューロンは発達、増殖する。 
 
生きるとはリズムを刻むこと。理研の山口陽子博士は「海馬θリズム」でトップを走る研究者。海馬の「場所ニューロン」を追跡し、「脳はリズムで経験を記憶する」ことを発見した。画期的な研究である。教育現場にとっては大貢献、「体験活動」の重要性とその根拠を明確にしてくれた。「揺るぎなき教育」の基礎ができた。本当に有り難い。問題は「リズムの乱れ・すれ違い」それをどう克服するかである。 
脳の基本はリズムです。脳幹リズム・体内リズム・生体リズムなど全てリズム、根拠は「生体リズムと引き込み」にあると山口博士は30年も前に発表している。また、理研上田博士(34才)は時計遺伝子研究で画期的な発見を次々と発表、睡眠や生命のリズムをつかさどる体内時計のシステムを生物学的に解明、体内時計の乱れが不眠症や鬱病といった多くのリズム障害と関係していることを突き止めた。視交叉上核の司令塔・親時計と全身に張り巡らされた子時計が連動し、ネットワークで生命を刻んでいるという。 
神経リズムの同期現象・周期活動が外部シグナルな内部の記憶に応じて、発生する場所や周波数を変え、さらにそれらが同期したり非同期したりして、柔軟にネットワークを作ったり壊したりできるという。海馬には「場所ニューロン」があり、場所の移動に従って(下図)赤→黄→緑→青ようにθ波が発生する。1秒間に5回くらいの周波数で規則正しくリズムを打つことを「θリズム」と呼んでいる。新しいものにであったり、初めての場所にいってあれこれ探索しているときθ波が活動する。θ波はシナプスの組み替え脳波だろうと言われてきたが、山口博士の研究によって更に明確になった。 
θ波は記憶しようという意志の現れ、興味をもって物事を見つめ考えるときにのみ発生する。記憶力を高めたければ、覚えたいものに興味を持ってθ波を発生させ海馬をより強く活動させればよいのです。 
文部省が文部科学省に変わって一番良かったことは、審議会に科学者が入るようになったことである。教育学・心理学に自然科学が加わり、「教育」を「科学」のステージにのせたことである。「脳科学と教育」研究班でも科学者が活躍、一般の書籍でも医学者の発言が多い。課題はいずれも教育界の大問題であった。 
@ 学習やパッションの根源(意欲・関心)  
A 学習可能な年齢(臨界期・感受性期)  
B 氏か育ちか(遺伝と環境)  
C 頭の柔らかさ(脳の可塑性)  
D 物覚え(記憶のメカニズム)  
E ご褒美の効果(脳の報償系)  
F リハビリテーション(脳の機能回復) 
G 健やかな老い(加齢と能力維持) 
 
我慢の重要性

 

我慢が出来るという事 
我慢とは?我慢ができると何か良いことがあるのでしょうか? 
我慢が出来るという事は自分をコントロール(セルフコントロール)できるという事です。 
最近ではキレる子供が問題になっていますが、やはり我慢(セルフコントロール)が出来ないことが大きく影響しています。 
自分をコントロールできると様々な事が上手くいきます。我慢が出来る子供はルールやマナー、約束が守れ、相手の気持ちを考えて行動をとる事ができます。 
我慢が出来る人間は、人間関係・勉強やスポーツ・仕事・日々の自己管理などが上手く出来る力があります。 
そうです。 
我慢ができる人になれば明るい未来を切り開いてゆく事ができるのです。 
我慢力を育てる 
では我慢ができる人になるにはどうしたら良いのでしょうか? 
やはり早い時期、幼児期から子供に対して我慢をする(できる)ことを教えていく必要があります。 
(我慢する機会を増やしてあげる) 
もちろん、何でも我慢させれば良い訳ではありませんので、子供への理解と我慢に対する意識を親が常に心がけることが重要です。 
我慢が必要な時は、子どもの目線で、毅然とした態度で静かにゆっりと理由を話し、子どもが自分で答えを出せるように誘導してあげることが大切です。 
※大きな声で言い聞かせようとしたりすることは強制的な我慢と同様です。 
我が子は目に入れても痛くないというほど可愛いものですので、泣いているとついつい可哀想になり、そのまま子供の要求に従ってしまいがちになります。 
これはまず子供に我慢を教える前に親が我慢するということを理解する必要があります。 
※強制的に我慢を強いることは親への反感・反発の原因になり、そのストレスのはけ口が違う方向へ表れてしまうこともありますので注意が必要です。 
家庭でルールを作ることも良い方法です。 
但し、一貫性のないルールは反対にルールを守れない子供になってしまいますので、基本的に一度決めた事に例外を認めない事です。 
(あまり厳しいルールだと精神的に強い負担になる可能性がありますので、最初は簡単なルールにしましょう。) 
一貫性のないルールや約束では子供は何も学習せず、反対にルールを甘くみるように学習してしまいます。 
ただ幼児期は情緒の安定がまず第一ですので、情緒が不安定な時に我慢させようとしても逆効果になる場合がありますので、しっかりと子供の様子を把握することです。(情緒が不安定な場合は、やさしい言葉で安心させて下さい。) 
挨拶やお手伝い、自分の身の回りの事など何て事のない日常生活に注意を払ってあげる事ができれば、自然に我慢(セルフコントロール)が学習でき、とても良い効果が出てくると思います。 
我慢も親がお手本 
我慢も教育も、親がしっかりとした姿を見せてあげることが重要です。子供にばかり「ああしろ・こうしろ」というのではまるで説得力がありません。 
子供は親の背中を見て育つと言われています。 
親として、大人の人間として、しっかりとした姿を見せることが必要です。 
子供は親の鏡。 
子供は親を見て育っているのです。姿勢を正して子供と向き合っていきましょう。  
 
我慢力

 

我慢できる力は、自分の身体を自分が思うように使えるのに似ています。我慢は自分の脳と心を自由に扱える力です。 
なにごとも思うようにならないのが当たり前です。だから自分でくじけないように「我慢」する力を駆使して、自分の真の欲求に近づくようにする、ポジティブ志向、それが我慢です。 
我慢は、衝動的な欲求を自分自身が認識して、長期的な利益を考えた上で、欲求をふさわしい行動に変える技術のこと。何が何でも自分にとって真の利益にするポジティブな行動です。 
ところが、我慢は自分を抑圧すること、つまり我慢は損をすること、自分の気持ちを殺すものと思い込んでいる方が多く、最近は特にその傾向が強くなっているようです。 
我慢の解釈を間違えていると、なんだか損しているような気分になります。 
では、抑えた欲求はどうなるのでしょうか? 
どうやらその点が「我慢」の解釈が人によって違う原因になっているようです。 
我慢していると、つらい思いがこみあげてきてしまうのも、我慢の解釈と過去の体験が原因のようです。 
自分の過去の体験から、身につけてしまった欠乏感も天敵です。 
自分への信頼感が薄いと、手にいれられるものは、いま手にいれておかないと手に入らないと無意識に反応してしまいます。 
それにしても、その反応は長期的、大局から展望すると適切でない場合が多いのです。 
望むままに欲求を満たしていては、自分で障害をどんどん作っていることにもなり、目標の達成は困難となるばかり。 
我慢の本質は、目標を達成するために、瞬間、瞬間における自分の反応の仕方を適切なコントロールによって変えていくことにあります。 
ですから、我慢する意味を理解していて、我慢することができるほど、我慢は苦でなくなるばかりか、逃げずに積極的に取り入れようとします。 
より大きな喜びに近づいている実感が意識できるからです。 
物事を成就するには、客観的に観て難易度が高いほど、準備をしたり、訓練をしたり時間がかかるものです。 
自分を信頼している人は、必ず達成できるように、想定できる障害に対策を打ち念入りに準備します。 
小さなことを疎かにしないで仕上げていきます。急がば回れです。 
準備や訓練する人は、準備・訓練に要す時間も計算するだけでなく、時間の不足を危惧し、意識的に危機感を自然体で創り出して、時間を大切に扱います。 
何度も同じ失敗している時間的余裕がないとして、準備や訓練も含めてプロセスを徹底するのです。 
またうまくいかないときほど地道な努力を続けます。 
日頃から、我慢になれていないとすぐ楽になろうとして諦めます。 
結局、自己否定感だけが強まります。 
それがさらに我慢する力を弱めます。 
いますぐ結果が欲しいと求める心情は分かりますが、自分の努力の報酬として、いますぐ結果を求める人ほど、準備や訓練をしない傾向にあり、あきらめも早くなります。実際には案件にかかわっている時間が圧倒的に少ないのです。 
しかも本気ではなく上滑りです。 
面倒くさい、分らないで片付けて、その原因を自分のせいにします。 
自分のせいに違いはないにしても、準備をしなかったことやスキルの弱さに原因を求めるわけでもなく、一足飛びに自分が悪いという自己否定だから反省にもなりません。 
これでは手のつけようもないので、いくら失敗しても変化を起こせない。 
自分の無力感だけが残ります。 
・欲しいと思ったものは手に入れる 
・欲しいものを手に入れるのに長く我慢することはしない 
・人にして欲しいことがある場合はすぐにして欲しい 
・何も考えずに不健康なことをしている 
・待つのは苦痛だ 
以上がノーの人は、我慢できる基礎力が備わっています。イエスの人は危険信号です。 
我慢する力が弱いのは、自分に報いる気持ちが強いからですが、その背景にはストレスと自意識の扱いの違いがあります。 
自意識が強いと依存心が強くなり、やる前から自分の努力に注目してしまい、そんなことはできないと身構えてしまい、ルールや言われることに反発したくなります。 
これも自分に報いる気持ちが強いからですが、本当は報いるのでなく、自分を粗末に扱っていることに気がついていないのです。 
どうしても我慢ができない場合は、その欲求を目標達成する上で、もっとも害がない形で消化するようにしましょう。 
従来からのくせで、感情的になりがちだったとしても、意識することで、感情的にならずに、我慢できるようにしましょう。 
怒っているときは怒りをぶつけること自体が目的のようになりますが、怒りの発端となった本来の目的はそうでなかったはず。 
大切なことは怒りを表現することでなく、目的を達することです。感情的になるとそんなことすら分らなくなります。 
次に、自己肯定感、自己効力感、専門的なスキルと共に育くまれていく好ましい事例を紹介します。 
自己効力感とは、目標に到達する能力に対する自分の感覚(遂行可能感)を表現したものです。つまり、自分にはやれる気がするという感覚です。この感覚は達成を繰り返す事で身についていく感覚です。 
「ぼくの夢は一流のプロ野球選手になることです。 
そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。 
活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習にはじしんがあります。 
ぼくは3歳のときから練習を始めています。3歳〜7歳までは半年くらいやっていましたが、3年生の時から今までは365日中、360日ははげしい練習をやっています。だから一週間中、友達と遊べる時間は、5時〜6時間の間です。 
そんなに、練習をやっているんだから、必ずプロ野球選手になれると思います」 
これは現在大リーグ活躍しているイチロー選手が小学校6年のときに書いた作文です。 
この作文に「自分はきっとやれる」といった自己効力感がしっかりと育まれているプロセスを明確に観ることができます。 
練習漬けの毎日ですが、練習をすることによって、「友達と遊ぶ時間もないほど、こんなに練習をやっているんだから、プロ野球選手になる以外にないだろう。これだけやっているのだからそれしかないだろう」という実感を手に入れています。 
追い込んで追い込んで、考えることを忘れるほどに追い込んだことで、小学生でありながら無心に辿り着いているように思えます。 
選択の余地がないほど、自分と自分の時間を野球に投資しているのだから、その結果を引き受けていくしかない。という選択。 
それは選択肢を失うほどに、意識をいまに集中させた膨大な累積の結果であって、それが類い稀な自信をこども心に呼び込んでいるのです。 
この時イチロー選手は、この現象に対して、ネガティブにもポジティブにも判断できる立場にあり、判断の選択も自身にありますが、野球のスキルが上達していることもあり、ポジティブな判断に傾き「必ずプロ野球選手になれると思います」と結論づけています。 
この状態を自分の選択で継続したことで、野球のスキルと、自己肯定スキルをはじめとするライフスキルを身につけることが雪だるま式にどんどんふくれあがっていったわけです。 
「そりゃ、僕だって、勉強や野球の練習は嫌いですよ。だれだってそうじゃないですか。つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。でも、僕は子どもの頃から、日標を持って努力するのが好きなんです。だってその努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか」 (イチロー談)  
最近の言葉です。 さらに重い言葉があります。 
「ここまでヒツトを重ねるには、それよりはるかに多い数の凡打を重ねなくてはいけない。やっぱり思うことは2000という表に出る数字じゃなくて、それ以上にはるかに多い数の悔しさを味わってきたことのほうが僕にとっては重い気がします」(イチロー談) 
こんな話を聴く機会がよくあると思います。 
コップの中に半分水が入っている。それを見て、もう半分しかないと思う人。まだ半分あるもあると思う人。同じものを見ても考え方はこうも違います。 
ポジティブ発想、ネガティブ発想についての事例に、よく使われる話です。 
このイチロー選手の談話は、どうでしょうか? 
彼は失敗に関心があるようですが、そうではありませんよね。 
彼の言いたいのは、悔しい思いをするたびに、どうすれば打てるのかを考え工夫したことを言いたいのであって、ネガティブな発言ではなく、常にポジティブだったと言いたいわけです。 
つまり、「打てなかったときに、落ち込む人は多いけれど、ぼくはそうじゃない。打てなかったときほど、やってやると闘志がわき、考え、工夫して、練習をした」ということです。 
それを裏付ける言葉があります。 
「やれることはすべてやりましたし、どんなときも手を抜いたことは一度もなかった。やろうとしていた自分、準備をした自分がいたことは誇りに思います」(イチロー談) 
イチローは特別な人でなく、みんなと同じだということを伝えたがっているのだと思います。 
そのことを本人が一番知っている。 
だからこそ、みんなと同じだけど、みんながしていないこと、つまりイヤになったとき、落ち込みそうになったとき、仕事から離れたくなるときほど、仕事に打ち込んだことを、誇りにしたいと語っているのです。 
みんなが、していないこととは、できないことでも、あきらめずに、どうしたらできるのかを考えて行動したことです。 
苦しくてもバットを置かずに、いつも振りながら、考えた成果です。 
過去の成功も未来の不安もない。ただいまこの瞬間、どうしたら打てるのかと、練習中も試合中も考えながらバットを振っているだけなのです。 
だから不安になっている時がない。 
とてもシンプルです。 
でもたいていの人は、嫌気がさして、時には失意や挫折の内にバットを置いて気晴らしに全然違うことをする。あるいはバットを置いて考える。あるいはさっさとあきらめる。 
そして、これが一番重要なことだけれど、簡単にあきらめるのと引換に自己効力感を失っている点です。 
私たちは誰でもが努力すればイチロー選手のようになれるわけではありませんが、自分の仕事で「イチロー」になることは自分の行動によって可能なのです。 
次のことがイエスと答えられる人でいてください。 
・目標に反している行動だと気がついたら、すぐにやめる 
・欲しいものをしばらく我慢できる 
・小さなことを積み重ね大きな目標を達成したことがある 
・目先の利益にとらわれず全体的な利益を考えて行動している 
・着実なやり方が手っ取り早いやり方に優ると考えて実行している 
我慢力とは、自分を大切に扱える力だと定義してください。 
 
ソフトウェアは目に見えない

 

リーダーシップの基礎はコミュニケーション 
前回は、「コミュニケーションはリーダーシップの基礎」で、リーダーシップトライアングルの構成要素の中でも基礎となる「Communication」について説明しました。 今回は、リーダーシップトライアングルの構成要素の「Vision」/「Management」を解説します。 
リーダーシップトライアングルでは、リーダーシップの基礎であるコミュニケーションの上に、リーダーとして先の見通しを示すビジョン、管理者として適正にプロジェクトを管理するマネジメント、そして人としてのココロ(心)を表す「Love」が配置されます。この3要素がそろって初めて、リーダーシップがしっかりと上に載るという考え方です。 
 
Leadership
Vision Love (ココロ) Management
Communication

マイルストーンの利用方法 
まずビジョンについて解説します。 
リーダーたるもの、ビジョン、つまり先の見通しを提示して部下を率いなくてはいけないということはご理解いただけると思います。先の見通しを示さずに、ただ単に「頑張れ!」「働け!」では、リーダーとはいえませんよね。 
先の見通しを示す方式としては、日付を設定したマイルストーンをプロジェクト全体の目標として設定することが有効です。プロジェクトの期間の長短や規模の大小にもよりますが、1〜2カ月に1つはマイルストーンを設けて、その日付に向かって全体の士気を向上させることが重要です。 
マイルストーン設定において重要なことは、日付を設定するだけでなく、マイルストーンの完了要件として具体的な成果物を設定し、成果物の作成を義務付けることです。 
「プログラム統合試験完了:12月15日」というマイルストーンを設定したとしましょう。プロジェクト全員の意識が12月15日に向かうので、マイルストーンを設定すること自体はよいことです。ビジョンを示しています。しかし、ただ漫然と「プログラム統合試験完了」という言葉を使うだけでは、効果が薄いです。「プログラム統合試験完了」の意味を明確にするためにも、完了時点で必要な成果物を定義することが重要なのです。 
例えば、「プログラム統合試験完了」の定義として、項目がすべて試験されることだけではなく、プログラム統合試験完了報告書の作成完了・承認まで含まれるとしたらどうでしょう。単に試験を遂行するだけでなく、試験の報告書の作成が完了し、必要な完了承認を得るまでの作業を12月15日までに完了させるという理解が、プロジェクト全体で確実となります。そうなると、12月15日より数週間前に試験の実作業は完了し、試験の報告書を作成する必要があることが明確となります。 
このように、マイルストーンにおいて完了必須の具体的な成果物を定義すると、プロジェクト全体の意識を合わせることが可能となります。 
さらに、単発ではなく複数のマイルストーンを設定し、その連続性を説明することでプロジェクトの概要が理解できるようにすると、プロジェクトメンバーのプロジェクト状況の理解は均一なものとなります。 
前回も触れましたが、SI(システム開発)プロジェクトにはさまざまなバックグラウンド(経歴・能力)を持った人が集まります。ユーザー代表、アプリケーション開発の専門家、ハードウェアやソフトウェアの専門家というように、さまざまな経験・能力を持つ人が集まってプロジェクトを遂行します。 
バックグラウンドの異なる人は、プロジェクトにおける作業への興味や関心も異なります。こうしたメンバーに、プロジェクト全体の状況について一定レベルの理解をしてもらいたくても、細かい作業内容をすべてというのは現実的ではありません。概要レベルで状況を理解してもらうしかないわけです。この概要レベルでの状況理解を助けるのが、マイルストーンによるプロジェクトの状況説明なのです。 
キャリアビジョンを示す 
マイルストーンによるビジョンの提示と同時に、特にSIプロジェクトにおいて重要なことは、リーダーがキャリアのビジョンを示すことと考えます。 
SIプロジェクトにおいて作業に従事している作業者は、ITエンジニアが多いでしょう。ITエンジニアである彼らにキャリアのビジョンを提示することは、とても重要です。 
ITエンジニアにキャリアのビジョンを示し、作業が自分のキャリアにプラスになると理解されれば、彼らは作業に専念できるものだからです。それはそうです、日々の仕事が将来のキャリア形成に役立つことが理解できれば、自発的に仕事ができるでしょう。 
例えばJava言語を使って、データベース接続周りのプログラミングをしているプログラマがいたとしましょう。この人に単に「金曜までにプログラム作っておけ! 遅れるなよ!」というのは簡単です。しかしこのようなコミュニケーションでは、プログラマは仕事をやらされている、こき使われているという印象を持ち、「やればいいんでしょ、やりますよ」と後ろ向きな気持ちになってしまうでしょう。 
一方、このプログラマに以下のような説明をしたらどうでしょうか。「データベース接続機能の開発は、たいていの業務アプリケーション開発で発生する作業だ。今後の仕事でも重宝される経験になる。データベース接続は言語を問わず必要な機能だから、Javaでの実装を知っておけば、別の言語でもつぶしが利く。それにこのプロジェクトでは、3カ月後にパフォーマンステストが控えている。現在の作業の延長でデータベースのパフォーマンスチューニングの作業に当たってもらうことも、選択肢としてある。将来のキャリアとしてデータベースのチューニングに興味があるならば、いまの仕事はその下積みにもなっているんだ」 
どうでしょうか。将来のキャリアの要素として現在の作業が具体的に位置付けられれば、現在の仕事に集中できるでしょう。 
現在の仕事が将来のキャリアアップにつながるという説明を怠るリーダーの下では、作業者は「やらされている」という感覚を持ち、将来に不安を覚えながら作業に従事します。従って作業者は日々の仕事に真剣にならないし、不安が不満に代わり、文句ばかりいうようになります。 
「なぜ作業者が真剣にならないのか」と不満に思うリーダーの方は、いま一度部下のキャリアを考え、キャリアビジョンを提示するよう心掛けてみてはどうでしょうか。 
視覚では判断できないソフトウェア 
次に、マネジメントについて解説します。 
解説にあたり、人間の五感、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚について考えましょう。人間の五感のうち、一般的に最も発達しているといわれているのは、視覚だと思います。「百聞は一見にしかず」ということわざもあるとおり、人間にとって、目で見て理解できるものが最も納得しやすいものです。 
犬は人間ほど目がよくないが嗅覚が発達しているといわれますね。犬になったことはないので細かいことは分かりませんが、犬はいろんなにおいをクンクンかいで何らかの判断を下すわけです。この雑草は食べることができるか、いま自分はほかの犬の縄張りに入っていないかなどなど。人間はまあ、賞味期限が切れた牛乳のにおいをかいで飲めるかどうか判断する程度のことはあっても、嗅覚で何かを判断することはまれでしょう。 
人間では、視覚で判断することが無意識のうちに行われているといえましょう。こう考えると、視覚が使いにくい領域においては、判断力が鈍ったり判断を誤ったりすることが多いといえるのではないでしょうか。 
SIプロジェクトにおいては、進ちょく管理・工程管理・品質管理が重要といわれています。私はこの理由を、ソフトウェアは目で見ることが難しいからと理解しています。 
目で見ることが難しいという特性を持つソフトウェアでは、人間の得意な視覚が使いにくいので、判断がつきにくいのです。 
プロジェクトルームの隣でビルの工事をしていたときのことを思い出します。工事現場に丸い柱を搬入するトラックを見て、ふと考えました。工事現場で丸い柱を注文して、業者が三角の柱を持ってきたら、その場でNGを出すでしょう。搬入すること自体が時間の無駄です。即断で「三角はいらない、丸を持ってこい!」といえますよね。判断を間違いようがありません。 
しかし残念ながら、ソフトウェア産業においては、開発業者がまったくトンチンカンなものを持ってきても、いったん納品を受け、テストしないと品質が分からないわけです。納品メディアがCD-Rであれ、磁気テープであれ、送信されたファイルであれ、メディアを外見から不良品と判断できる人はいません。いたとしても、異常に勘の鋭い人か占い師くらいでしょう。普通の人間ではできない離れ業です。 
上記の工事現場の例のように、丸い柱を注文したにもかかわらず三角の柱であるような明らかな不良品を持ってこられても、納品されたソフトウェアをインストールして一定のテスト工程を踏み、工数、つまり予算を消費しない限り、不良品かどうかは分からないわけです。 
もったいないなあ、と思います。だからといって、すべてのソースコードを印刷してバインダーで見えるようにしたからといって、量が膨大だし、プログラマでないと内容を理解できないわけです。ソースコードを印刷したから、進ちょく・品質がきちんと管理されるかというと、明確にNOですよね。読むことが到底不可能な無駄な紙の山ができるだけです。 
見えないからこそ必要なマネジメント 
じゃあ、どうすればいいのでしょうか。進ちょく管理という意味では、適切な単位で可視化して作業を定量化し、作業の終了要件を定義することが大事ですね。例えばプログラム・モジュール・クラスという作業単位を定義し、数値化する。数値化された作業の総量を把握し、作業総量がどの日程で完了するかをスケジュールにするわけです。 
品質管理という意味では、目で見ることが困難なソフトウェアの品質を保証するためには、レビューとテストしか方法はないと理解しています。プログラム仕様書も含めて、レビューとテストをいかに適切に実施するかという議論しかないのです。 
例えば、すべてのプログラム・モジュールの設計仕様書がレビューされたか(網羅性)を保証するために一覧でレビューの進ちょくを管理する、レビュー作業自体の品質を保証するためにレビューチェックリストを作成するなどという解決策を、いかに考えるかが重要です。最近ではピアレビューとかペアプログラミングのような、実作業者に閉じた品質保証の方法も一般的になってきています。 
上記のようなレビューやテストというソフトウェアの品質保全については、さまざまな優れた方法が世の中にたくさんあります。例えばCMM、PMBOKなどです。 
私はCMMやPMBOKの知識がないわけではありませんから、その解説をすることはできます。しかしこの連載ではあえて避けて通ります。CMMやPMBOKはあくまでもリーダーシップを確立するための、いい換えれば連載第1回「WhyとHow、どちらで悩みますか?」での「Whyの軸」でポジティブにキャリアを積むための「道具」であると理解しているからです。 
確かに道具は大事です。大工さんが道具としてのノコギリとかカナヅチ(現在の建築工法でノコギリとカナヅチを使っているかは分かりませんが)を知らないで大工さんではあり得ないのと同様です。SIプロジェクトの管理者・リーダーとして、道具としてのCMM、PMBOKを理解していないわけにはいきません。 
ただ、道具をよく知っていても、使う人が魂を入れなければ意味がないと私は考えます。魂、ココロ、つまりリーダーシップトライアングルでいうところの「Love」が大事なのです。いい方を換えると、道具の使い方は連載第1回での「Howの軸」に当たります。「Whyの軸」、つまりなぜ道具を使うのかを正しく把握するには、ココロの要素が重要となるのです。よって今回の連載では、CMMやPMBOKといった道具はとても重要で、学習する対象であるという整理にとどめ、内容は別の優れた本やサイトに譲りたいと思います。  

 
正しいことをし、行動力を発揮するココロ

 

 
リーダーシップトライアングルの中心は「ココロ」 
前回の「ソフトウェアは目に見えない」で、リーダーシップトライアングルの構成要素の「Vision」/「Management」について説明しました。今回は、リーダーシップトライアングルの中心をなす構成要素、「Love」(ココロ)を解説します。 
リーダーシップトライアングルでは、リーダーシップの基礎であるコミュニケーションの上に、ビジョン、マネジメント、そしてココロ(心)が配置されます。基礎としてのコミュニケーションの上に、リーダーとして先の見通しを示すビジョン、管理者として適正にプロジェクトを管理するマネジメント、人としてのココロの3要素がそろって初めて、リーダーシップがしっかりと上に載るという考え方を表現しています。 
前回説明したとおり、ビジョン、マネジメントは非常に重要な要素です。ただ、リーダーシップトライアングルの中心であるLove、ココロこそがこれらの要素を有効にすると考えています。今回はココロに焦点を絞ります。 
 
Leadership
Vision Love (ココロ) Management
Communication

まず、Loveという言葉の定義をさせてください。 ここでいうLoveとは、男女の愛とか、好き好きという恋愛感情とは異なります。Loveとは儒教でいう仁愛です。他者への思いやりの心、自分の感情をコントロールして正しく生きる精神ともいえます。 
ビジョンとマネジメントも重要な要素ですが、Love、ココロなしではリーダーシップは成立しないと考えています。リーダーシップトライアングルの形も、ココロを抜くと不安定になるように表現しました。 
ビジョンとマネジメントがなければリーダーシップは成立しません。これは当然でしょう。ビジョンがないため先が見えず、マネジメントがないため適正な管理もされないプロジェクトでリーダーシップを発揮しようとしたら、どうなるでしょうか。蛮勇といいますか、ヤケクソになって前後の見境もなく突き進むような、理性も知性もなく無駄の多い指導者になってしまうでしょう。これでは適正にリーダーシップが発揮されているとはいえないと思います。 
ココロはどうでしょう。本当にリーダーシップに必要なのでしょうか。ビジョンとマネジメントだけでもリーダーシップが成り立つのであれば、別にココロはなくてもいいのではないかといえますからね。 
私は、リーダーシップの必要条件にはLove、ココロがあると考えます。リーダーシップが成立するためにはココロが必要なのです。その理由を、本連載第6回「正しい行いは将来を変える」を引用しながら説明したいと思います。 
「正しい行いをする」という気持ち 
連載第6回「正しい行いは将来を変える」より  
「楽をしたいと思ったときにも正しいことをしましょう」 
仕事をしていると、「楽したいなあ、手を抜きたいなあ」という衝動に駆られることがあるでしょう。人間は弱い存在なので、こういう誘惑に駆られることは誰にでもあります。 
例えば、以下のような場合でしょうか。 
プログラム設計書に設計ミスを見つけた。修正自体に結構工数がかかるし、変更による影響範囲を調査するとなると、ほかのチームにも影響調査を依頼しなくてはならず、数日はかかる。設計書の納期は明日だ。設計ミスには誰も気付かないだろうから、後工程の開発段階で修正すればいい。今日のところはこのままにしておこう。  
プログラムを開発しているが、どうしても納期までに完成しない。先週の報告で進ちょくに問題なしといってしまった手前、いまさら遅れましたともいえない。主要な機能は開発したから、例外処理の一部くらいなくても動くには動く。どうせバレないから一部開発せずに納品しよう。  
プログラムのテストをしているが、不具合(バグ)が取り切れない。並行で作業しているほかのチームは不具合を順次解消しているのに、私のチームは不具合が毎週増加している。このままでは、後工程の統合テストに間に合わない。不具合解消済みとうその報告をしてもバレないだろうから、後工程の統合テストで不具合を直せばいいだろう。今週はオンスケジュールと報告してごまかそう。  
(中略) 
楽をしたいという誘惑に駆られるだけでなく、実際に不正なことをしてしまう人は「誰でもやっていることだ。どうせバレないからやってしまえ」とでも思っているのでしょうか。 
(中略) 
自分にうそをつくことはできません。このような手抜きに慣れてしまうと、最終的には自分自身を律することができなくなります。 
ちょっと視点を変えてこの問題を考えましょう。皆さん、小さいころのことを思い出してください。親、兄弟、親戚、先生、友人などいろいろな人からいろいろなことを教わったでしょう。家庭では特に何を教わりましたか。意識するしないにかかわらず、家庭では具体的な知識や知恵よりも、道徳観・倫理観を学ぶのではないかと思っています。 
少々前に人から聞いた話ですが、最近中高生の万引が後を絶たないそうです。万引をした中高生は、逮捕(正しくは補導でしょうが、あえてこの言葉を使います)された後こういうそうです。 
「バレたら商品を棚に戻せばいいんだろ。それか親に金払ってもらえば、店ももうかるだろ」 
要は、彼らは「万引=窃盗=犯罪行為」という理屈が分かっていないわけです。万引きを回避するための店側のコストや店の人の気持ちにも、思いが至らないようです。 
さらにいうと、これらの中高生の親もまた親で、万引したわが子を注意するどころか、以下のように開き直るそうです。 
「ちゃんとお金を払って商品を買う。何なら余計に払う。何が問題なの?」 
罪悪感のかけらもないとのことです。思うにこういう親子は、長い世代、こういう残念な考え方を家庭の中で脈々と伝承してきたのでしょうね。 
さて、この辺でビジネスの話題に戻りましょう。 
万引是認親子が残念な考え方を継承してきたこと同様、会社組織においても、残念な考え方を継承していることがあります。不正な行為を当たり前のように繰り返す人が多い組織があるのです。 
連載第6回で挙げた上記の例は、少々アレンジしてありますが、すべて本当にあったことです。「信じられない! そういう人の良心(両親?)を疑う!」という人は、正常な神経の人なのでしょう。少なくとも私はそれが正常と信じたいです。 
「ああ、よくある話だよね。おれなんてもっとひどい話を知っているよ」という人は、個人的には極めて残念です。 
そういう場合、本人よりもその人が所属している組織に問題があることが多いです。組織全体に不正を是認する風潮があれば、自然に全員が不正をはたらくわけです。 
先の万引是認親子の例では、子どもよりも親の方が問題だと思います。これも同じ理屈です。本人の問題というよりはむしろ、本人が所属している家庭・組織の問題だというわけです。 
ですから、連載第6回にも書いたとおり、以下のような考え方が重要なのです。 
あくまでも自分のために、自分の将来のために、いまがつらくても正しいことをしようという考え方が重要です。このような行為の積み重ねが、ひいては自分の将来を変える「立命」につながるのです。 
どうでしょうか。「正しいことをしよう」という考え方ができるかどうかは、気持ちの問題だと思います。万引はいけないということを説明するにしても、議論の根拠となる理論があるわけではないでしょう。理路整然と説明することには一定の困難を伴うでしょうし、そもそも万引は犯罪だから、理屈抜きでやってはいけないわけです。 
「万引をしない、罪を犯さない」という気持ちを持つことは、ココロの問題といえましょう。同様にSI(システム開発)プロジェクトにおいても、「うそをつかない、手抜きをしない」という気持ちを持つことはココロの問題でしょう。 
このようなココロの強さ、英語でいえばメンタル・タフネスを持つことが、プロジェクト遂行上重要になると私は考えます。ですから、ココロ、リーダーシップトライアングルでいうLoveが、リーダーシップを発揮するために必要となると考えます。 
3つの「識」 
考え方を変えて、もう少しココロの重要性を考えましょう。 
この連載で何回か紹介している安岡正篤氏の考え方を引用します。彼の著書『佐藤一斎「重職心得箇条」を読む』(致知出版社刊)に、以下のくだりがあります。 
知識というものはごく初歩というか、一番手近なもので、知識がいくらあっても見識というものにはなりません。見識というのは判断力です。見識がたたないとどうも物事は決まらない。見識の次に実行という段になると、肝っ玉というものが必要となる。これは実行力です。これを胆識と申します。知識、見識、胆識、これが「識」というものの三つの大事なことです。 
知識・見識・胆識について、私なりに整理させてください。 
ここでいう知識とは、知っていることですね。単に知っているか知らないかという単純なレベルです。見識のレベルになると、知識の積み重ねから総合的な判断を下すことができます。胆識のレベルでは、見識に基づいて判断したことを実行に移せる、行動力をもって実現できるということと理解しています。 
SIプロジェクトにこの考え方を当てはめましょう。 
知識とは、例えばOracleを知っている、SAPを知っている、ネットワークを知っているというレベルです。知識はSIプロジェクトではとても重要です。知識のない人をいくら採用してもプロジェクトは機能しません。ただし、この連載で繰り返し説明しているように、知識がある人だけが集まっても、プロジェクトはうまく機能しないです。 
見識は、私の理解では、知識の集積から出てくる判断力ですね。 
TCP/IPの知識、ルータのアクセスリスト(ポート番号やIPアドレスを使って経路をスクリーニングする)の知識、UNIXで使われるポート番号の知識、アプリケーションのポート番号の知識(Oracleは1521番など)、開発環境・テスト環境・本番環境のセキュリティレベルの知識などは、上記の知識のレベルです。 
これらの知識をすべて理解して初めて、開発環境のネットワークのセキュリティを設計することができますよね。開発環境からテスト環境ではOracleの1521番を通すアクセスリストをルータに設定するが、本番環境には1521番ではアクセスさせないなどのルールを決めることができます。 
ほかの例として、Webアプリケーションのトランザクション管理のポリシーを理解するには、Webブラウザから発信されるHTTPの特性、HTTPを受けるWebサーバ(Apacheなど)の処理特性、Webアプリケーションサーバ(Tomcatなど)のトランザクション管理の処理方式、Oracleのトランザクションの考え方、OracleのRedoログと耐障害性の考え方などさまざまな知識が必要です。それらの知識の集合体として、Webアプリケーションのトランザクション管理ポリシーを決定することができます。 
つまり見識は、知識の集大成を基に総合的な判断をすることと理解しています。 
IT業界での役割分担を考えると、プログラマとかSEと呼ばれる人がだいたい知識のレベルで仕事をし、上級SEとかITコンサルタントと呼ばれる人が見識のレベルで仕事をしていると、私は理解しています。 
プロジェクトマネージャに必要な「胆識」 
では胆識は、IT業界ではどのように当てはまるのでしょうか。 
思うに、胆識こそプロジェクトマネージャが持つべき考え方です。プログラマやSEが知識のレベルで仕事をし、上級SEやITコンサルタントが見識のレベルで仕事をするのと同様に、プロジェクトマネージャは胆識のレベルで仕事をするべきなのです。 
胆識とは、安岡正篤氏が「見識の次に実行という段になると、肝っ玉というものが必要となる。これは実行力です。これを胆識と申します」と書いているとおり、実際に行動して、遂行することです。 
SIプロジェクトに当てはめると、知識レベルのことをSEやプログラマが考え、見識レベルのことを上級SEやITコンサルタントが判断します。具体的には、知識レベルで実装の仕様を決定し、見識レベルでこうすればシステム全体は動くという判断をします。つまり現場の仕事は知識・見識のレベルで終わってしまうと私は考えます。 
ただ、現実のシステム開発プロジェクトでは、こうすれば実装できるというところまで煮詰まっても、その実装仕様が実現されないことがあるのです。 
例えば、購買部門の担当者の承認を得ないと実装に必要なパッケージソフトが購入できない、外部システム接続の仕様決定の過程で、実装しなくてはいけない仕様を先方のシステムとこちらのシステムのどちらが実装するかでもめる、契約書上グレーゾーンになっている作業について協力会社間で争いになり、やらなくてはいけないことが放置されるなどなど。 
これらの問題を解決するには、責任を持って意思決定し、行動力を持って仕事を前に進める意識とでもいうべきものが必要です。これが胆識だと私は理解しています。 
このように行動力を発揮して実現させる気持ち、心構えは、リーダーシップトライアングルでいうところのココロです。従って、ココロはリーダーシップを発揮するにあたって必要な条件であると思います。 
前回「ソフトウェアは目に見えない」の最後で、以下のように書きました。 
確かに道具は大事です。大工さんが道具としてのノコギリとかカナヅチ(現在の建築工法でノコギリとカナヅチを使っているかは分かりませんが)を知らないで大工さんではあり得ないのと同様です。SIプロジェクトの管理者・リーダーとして、道具としてのCMM、PMBOKを理解していないわけにはいきません。 
ただ、道具をよく知っていても、使う人が魂を入れなければ意味がないと私は考えます。魂、ココロ、つまりリーダーシップトライアングルでいうところの「Love」が大事なのです。いい方を換えると、道具の使い方は連載第1回での「Howの軸」に当たります。「Whyの軸」、つまりなぜ道具を使うのかを正しく把握するには、ココロの要素が重要となるのです。 
「楽をしたいと思ったときにも正しいことをしましょう」という考え方、「胆識」のレベルの仕事という考え方、つまりリーダーシップトライアングルでいうLove、ココロの力がなければ、前回の連載でいうところのCMM、PMBOKといった「道具」が生きないのです。 
Love、ココロ、仁愛があって初めてリーダーがリーダーたり得ること、リーダーシップの必要条件がそろうことがご理解いただけたと思います。

 
人を育てるためには我慢して待ちましょう

 

 
リーダーシップトライアングルにおける位置付け 
この連載ではシステム開発プロジェクトにおけるリーダーシップを中心に、「私の視点=私点」を皆さんにお届けしています。 今回は、リーダーシップトライアングルのLoveとManagementに関係します。 
我慢して待つことの重要性 
前回、旧日本海軍の連合艦隊司令長官であった山本五十六氏の言葉を引用しました。 
「やってみせて いって聞かせて やらせてみて ほめてやらねば 人は動かず」 
この言葉のうち、「やらせてみて ほめてやらねば」の部分を実践するためには、「我慢して待つ」ことが重要ということを説明しました。今回では、「我慢して待つ」ことの重要性とその効果についてさらに解説します。 
幼児教育における待つこと 
「我慢して待つ」ことの重要性を解説するに当たり、少々わき道にそれますが、幼児教育の話をさせてください。 
自分が子どもだったとき、親に「あれしろ、これするな」と指図され、良い気分がしなかったという人は多いのではないでしょうか。それを考えると子どもにあれこれ手出し口出しをすることは、あまり得策ではありません。 
一方で、お子さんをお持ちの人はご理解いただけると思いますが、自分の子どもには何かと手出し口出しをしてしまうものです。やはり、自分の子どもに対しては、客観的、冷静に対応できず、感情が先走ってしまいます。それはどの親も同じでしょう。私も自分の子どもにはなかなか冷静に対応できません。 
さて、幼児教育における「待つこと」の重要性について、久野信さんという方の著書から以下を引用します。 
 
例えば子供が「モヤシ嫌い」と言った時、親は「好き嫌いはダメ」「わがまま言うな」「悪い子」などなど、いろいろと言う。これは「モヤシを食べて欲しい」「好き嫌いのない子になって欲しい」「わがままにしてはいけない」などの思いがあるからでしょう。 
しかし、この言い方では、どうしても「お前はダメな子」ということだけが伝わってしまう。子供の動き出し方には、二つある。一つは「ダメな子」と言われ、動き出すのと、「僕やれそうだ、やってみたい」と胸をふくらませて動き出す場合がある。前者は恐れと不安を動機として動き出す。後者は自信と希望で動き出す。  
ここで子供の気持ちを汲むことで、子供が自ら動き出した実例を一つ。 
子「お母さん、私モヤシいやなの」 
母「そう、モヤシいやなの」 
子「私あの匂いがいやなの」 
母「そう、匂いがいやなの」 
しばらく経って、 
子「お母さん、一本でいい?」 
母「そう、一本なら食べられると思ってるの?」 
子「ウン」 
しばらくして、結局、その子は三本食べた。 
自分を作る時 
上記の例で、お母さんは、一度も子どもをしかったり責めたりしていません。でも、子どもはモヤシを食べました。それも1本ではなく、最終的に3本食べました。 
この事例を、久野氏は「これはすごいこと」としています。 
幼児教育の視点からは、子どもは自分のありのままの正直な気持ちを母親に受け入れてもらったことによる安心感を基にして、「自分は自分でいいのだ」と理解し、自我の確立につながる、と久野氏は説明しています。 
その後、久野氏は以下のように続けます。 
 
子供にいつ、何が起きたのでしょう。 
そうです。お母さんは何も言わないで、ただ聞いてやったことと、その会話の間の、親が何もしなかった時間に、大切なことが起きていたのです。「どうしようかなー」と思い迷ったこの短い時間こそ、宝の時間。 
待てない親は、子供を育てられないようですね。親が黙って待っている時こそ「子供の時」「自分を作る時」なのです。  
どうでしょう。子どもがいる人には、耳が痛い話なのではないでしょうか。私も親として、ここでいう「子供の時」「自分を作る時」を大切にしたいと思います。 
社会人にもある「自分を作る時」 
この「自分を作る時」を社会人に当てはめて考えてみましょう。 
前回解説した「我慢して待つこと」の重要性とは、上記の幼児教育の例でいう「自分を作る時」という宝の時間を大事にすることといえます。 
社会人であるITエンジニアと幼児とを同列にして議論することに抵抗のある方もいらっしゃるかもしれませんが、自主性、自律性ということを議論するのであれば、程度問題で、同じことがいえると思っています。 
社会人であっても、上司が部下の仕事を我慢して待ってあげる、先回りして細かいところまで指導しないといった上司の姿勢から、部下は自分の仕事を自主的、自立的に成し遂げなくてはいけないという責任感に目覚めます。引用部分の「『僕やれそうだ、やってみたい』と胸を膨らませて動き出す」という状態です。 
自分で責任感を持って仕事にあたれば、おのずとやる気や創造力を発揮して、自分の仕事を自分で成し遂げるようになります。このような好循環に入ると、上司と部下は協調・共感を持つ関係となり、上司も部下の能力を信じてさらに仕事を任せるようになります。 
このような好循環に入るための第一歩は、「我慢して待つこと」であり「自分を作る時」を与えてあげることなのです。 
ある経営者の部下指導の考え方 
ここで「我慢して待つこと」と「自分を作る時」に通じる考え方を紹介します。私はかつて、ある経営者の方から部下を指導する方法を教えてもらいました。 
その人がいうには、部下指導において「教える」というのはよいやり方ではないとのこと。むしろ、「教えない」方がよい。最も優れたやり方は、上司が部下に「教わる」ことというお話でした。 
この話を聞いたときは、私が若かったせいでしょうか、あまりピンときませんでしたが、いまになってようやく理解できたように思えてきました。 
「教える」という姿勢では、部下の自主性は育ちません。「やらされている」と感じてしまいます。それならば、むしろ「教えない」方がまだマシということでしょう。上司が部下に「教わる」姿勢を見せることにより、部下が上司に頼りにされていると感じてやる気を出す。そして自主的に仕事を推進するということなのではと理解しています。 
システム開発プロジェクトの現場で実践しよう 
最後に、システム開発プロジェクトの現場にも、「我慢して待つこと」「自分を作る時」の話を当てはめてみましょう。人を育てるために「我慢して待つ」といっても、実際の現場で働くプロジェクトリーダー、チームリーダーの皆さんからはこんな声が聞こえそうです。 
「スケジュールが厳しく、期限を守り、品質を維持し、なおかつ、コストも考えると、とても人など育てていられない。即戦力が欲しい!」 
確かに気持ちは分かります。プロジェクトリーダーは、プロジェクトを円滑に遂行する責務を負っています。ですから、部下の仕事について、すぐに効果・結果が欲しいという気持ちになることは理解できます。 
また、プロジェクトは期限・納期、さらにはコストが決まっているので、時間がなく、待てないという気持ちも理解できます。 
しかし、プロジェクトに必要な能力を持った人が、いつでもメンバーにいるわけではないという現実を無視することはできません。特に大規模プロジェクトともなると、参画人数も大規模になります。全員が即戦力というわけにはいきません。何らかの形で、人を育てなければならない場面に遭遇します。 
もう一度久野氏の言葉を引用します。 
 
子供の動き出し方には、二つある。一つは「ダメな子」と言われ、動き出すのと、「僕やれそうだ、やってみたい」と胸をふくらませて動き出す場合がある。前者は恐れと不安を動機として動き出す。後者は自信と希望で動き出す。  
ここでいう「恐れと不安を動機」とする場合と、「自信と希望で動き出す」場合。どちらが、人を育てるのに効果的でしょうか。長い目で見てどちらが効率的でしょうか。ぜひ、プロジェクトリーダー、チームリーダーの皆さんは考えてみてください。  

 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
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