めくら

【盲・瞽】 
(「め(目)くら(暗)」)視覚のなくなった人。 
文字の読めない人。文盲(もんもう)。 
物事の弁別のつかない。 
物事の価値・本質などを見ぬく力がない。
 
盲が杖に離れたよう 頼りとするものがない。 
盲千人目明千人 世の中は道理や物事の本質が判る人も判らない人もいる。 
盲に提灯 無用なもの。 
盲の垣のぞき 何の役にも立たない。やってみれば気がすむ。 
盲蛇に怖じず 無知な者は恐さも判らない。
  
【盲蛇】メクラヘビ科の最も原始的なヘビ。 
【明き盲】文字の読めない人。学問・教養のない人。文盲(もんもう)。 
【目明き】文字の読める人。道理の分かる人。 
【盲滅法】見当をつけないででたらめに事をする。やみくも。 
【盲判】文書の記載内容を確認・検討しないで印判を押す。 
【盲鳥】目の見えない鳥。 
【盲縞】1 縦糸・横糸とも紺糸で織った綿布。青縞。紺木綿。紺無地。織紺。めくらじ。 
【盲縞】2 綿織物の一つ。経緯ともに濃く藍染された糸を用いて織られた木綿平織物。盲紺、青縞、紺無地、織り紺などの名称がある。縞目もわからないほど細い縞、あるいは縞でもないという意味が含まれている。埼玉県の忍、行田、加須、羽生などが主たる生産地。天明年間(1781-89)農家の副業として織り始められた物で、農家、職人、商家などの働き着として全国的に普及した。 
青縞(あおじま) 木綿の平織物で濃い藍染の経糸と横糸を用いて織り上げられた織物のことをいう。盲縞や盲紺(めくらこん)、紺無地、織紺などの呼び名があり、縞目がわからないほど細かい縞という意味の別名がある。
   
【盲捜】これという目あてもなくさがす。手さぐりでさがす。 
【盲瞽女・盲御前】=ごぜ(瞽女) 
【盲石】真白や真黒または光る石で家に持ち帰ると眼がつぶれるなどといって忌まれる石。 
【盲虻】アブ科の昆虫。体は黒っぽく、腹部などに黄色部がある。各地に分布、吸血性。 
【生盲】道理をわきまえない人をののしっていう語。 
【俄盲】病気や怪我などのために突然目が見えなくなること。 
【作盲】盲目のふりをする人。 
【盲壁】窓のない壁。 
【盲僧】盲人の僧。僧形の盲人または目明きで座頭と同様の業のもの。 
【検校】盲人に与えられた最高の官名。撞木杖、紫衣を許された。
  
【座頭】中世以降に結成された盲人琵琶法師の当道(とうどう)座に設けられた四官(検校・別当・勾当・座頭)の最下位。盲人で剃髪して僧体となり、琵琶、箏、三味線、胡弓などを弾いて歌を歌い語物を語り、また、あんま、はりなどを業とした。
 
【御職】同列の仲間うちで頭(かしら)に立つ人。江戸時代吉原遊郭で、それぞれの娼家における一番の売れっこの遊女。御職女郎。盲官職の最上位である検校の首座にある人。江戸時代、江戸の総検校が関東の盲人を支配したのに対し、京都に住んで関西の盲人を支配した検校。御職検校。転じて最高のもの。 
【按摩】からだをもんだり、さすったり、たたいたりして患部を治療する。あんまを業とする人。近世もみ療治は盲人が多く業としたことからの盲人の別称。
 
座頭 
江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた。 
元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」「別当(べっとう)」「勾当(こうとう)」「座頭(ざとう)」に由来する。 
古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。 
江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた。 
当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという。 
 
『座頭市』 
兇状持ちで盲目の侠客である座頭の市が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙する、アクション時代劇である。 
1962年に勝新太郎主演で大映によって映画化されて以来、26作品というシリーズが公開され、現在でも国内はもとより日本国外にも多くの根強いファンがいる。1974年には、同じく勝主演でテレビドラマ・シリーズが勝プロダクションによって製作された。 
作風は現在の時代劇に比較するとバイオレンス色の濃い娯楽時代劇であるが、同時に、勧善懲悪という単調な枠では括れない「人情」や「人間の業(ごう)」を描いた脚本が多くの人々を魅了し、キューバのカストロ前議長も座頭市シリーズの熱心なファンとして知られている。 
主演の勝新太郎は、映画版、テレビシリーズともに監督業も兼任するようになり、役者としてだけではなく作品の製作に深く携わった。座頭市は勝自身の哲学や思想を投影したライフワークとも言うべき作品である。 
子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が原作である。 江戸時代に活躍した房総地方の侠客である飯岡助五郎について取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に土地の古老から飯岡にまつわる話の一つとして、盲目の侠客座頭の市の話を聞き、僅かに語り継がれていた話を基に記したと、後年、子母澤は語っている。 
ところが、1973年に出版されたキネマ旬報社の『日本映画作品全集』において、項目執筆者の真淵哲が、(『座頭市物語』は)原作の『ふところ手帖』に1、2行だけ記されたものであったと誤記する。その結果、この誤りが検証されることなく、様々な文献で引用されて、広く信じられるようになった。ただし、誤りであるということの訂正が徹底されずにいたため、今日でもこの説を信じるものは多い。 
『座頭市物語』が収録されている、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』は1961年に中央公論社から発売。1963年に同社から発売された子母澤寛全集へも収録、1975年には中公文庫、講談社から発売された子母澤寛全集へ収録されるなど、現在もロングセラー本となっている。 
なお、映画化の際に原作を基に、三隅研次や犬塚稔といった映画人によって新たな人物像が構築され、さらに勝新太郎によってそれが脚色・肉付けされている。そのため、今日知られる座頭市像と、原作では大幅な開きがあり、原作の一部プロットを借りた、ほぼ別物である。 
 
『座頭市』北野武監督 
斬新な殺陣に、非凡なセンスを感じさせる。 
北野武監督が、勝新太郎の代表作を再映画化。監督本人による記者会見によると、「勝さんのとはまったく違った物にするけど、それでいいなら」という事で、監督を引きうけたそうである。ベネチア映画祭に出品したそうだが、中身は賞狙いなど無縁のエンタテイメントだ。余計な事は考えず、ただ見て楽しむという映画である。  
そんな『座頭市』であるが、なかなかイケているというのが私の感想である。もちろん、日本の映画関係者にとって、北野作品けなしがタブーだからそう言ってるわけではない。 
では、何が良いのかといえば、それは殺陣である。世にアクション時代劇は数あれど、今回の『座頭市』ほどスタイリッシュで斬新な殺陣を見せてくれる映画はそうそうない。  
まあ、これは実際に見てもらった方が良いので詳しい解説はしないが、私がこれを見て強く感じたのは、北野監督は、殺陣に関してやりたい事(アイデア)がたくさんあったのだろうな、という事だ。おそらく、今まで時代劇を見て、「もっとこうできねえかな」とか、そんな脳内シミュレーションを相当な数こなしていたのだろう。何か新しい事をやってやろうという挑戦意欲が、『座頭市』の殺陣からは、はっきりと伝わってくる。実際北野監督は、本作の殺陣のシーンでは、異例なほど積極的な演技指導を行ったそうだ。  
上戸彩ファンには申し訳ないが、『あずみ』あたりのチャンバラ・アクションを見て、凄いなんて思っている人は、ぜひ『座頭市』を見てほしい。アクションシーンだけを比べても、そのセンス、迫力、完成度、その差は圧倒的である。  
さて、殺陣以外の『座頭市』の見所と言えば、コントとダンスであろう。コントは、まさにビートたけし色がはっきり出ているもので、この映画がシリアスな時代劇とは一線を画すという、まさにその主張といえるものだ。あれだけのアクションを、これだけのアホらしいギャグでサンドするのが、いかにも北野監督らしい。本気とシャレの激しい落差にクラクラする。  
噂のタップ・ダンスは、何箇所かで見る事ができる。まあ、これは普通のミュージカル映画みたいなもので、時代劇に挿入したという新鮮味以外、さほど特筆すべき点はない。  
映画『座頭市』は、まるで皿ごとに中華、フレンチ、日本食と、バラバラな料理が出てくる、狂ったコース料理のようだ。コント、ダンス、殺陣の大きな3要素が、それぞれ全く融合せず、勝手バラバラに客の前に出てくるぶっ飛んだ映画だが、中途半端でない分、好感が持てる。  
非凡なセンスを感じさせる入魂の一本。映画館に出かけても、決して損はしないだろう。  
 
阿古屋と景清  
1  
6月の南座は坂東玉三郎特別公演で、出し物は「阿古屋」と「傾城」です。阿古屋は現在、玉三郎丈しか演じておらず、彼の当たり役の一つになっています。  
この「阿古屋」という芝居は、「壇浦兜軍記(だんのうら かぶとぐんき)」の三段目を独立した場面の通称です。阿古屋とは五条坂の傾城で、平家の侍大将・悪七兵衛景清の恋人です。物語は以下の通り。  
壇ノ浦で平家が滅亡した後、生き残った景清が頼朝の命を狙うため、畠山重忠と岩永左衛門は、景清の恋人である阿古屋を捕縛して、潜伏先を白状させることになる。  
堀川御所に召し出された阿古屋は、景清の行方を知らないと言うので、岩永は拷問にかけて白状させようとするが、重忠がそれをとどめ、阿古屋に琴・三味線・胡弓の3種類の楽器を演奏するように命じる。阿古屋は3曲を見事に演奏すると、重忠は音色に乱れが無い事から、嘘をついていないと認め、解放する―という物語です。阿古屋を演じる役者が3曲を実際に演奏するのが見せ場になっています。  
この芝居が非常に人気を博したため、阿古屋はあたかも実在人物のようなイメージで人口に膾炙しました。その証拠に、京都の六波羅密寺には、阿古屋塚なる石塔があります。現在、この石塔は阿古屋の菩提を弔う石塔とされています。  
この石塔は鎌倉中期に作られたもので、台座は古墳時代の石棺の蓋なのだそうです。一方、阿古屋は架空のキャラクターで、その起源は古くまで遡っても、室町時代だから、どう考えても、阿古屋の菩提塔というのには無理がある。  
六波羅密寺の東側は鳥辺山で、鎌倉時代は葬送の地でした。そんな歴史を考えると、特定個人の菩提を祀った塔というよりも、無縁仏などを弔うために建立されたのかもしれません。  
すでに記したように、阿古屋は実在人物ではありません。直接的には「壇浦兜軍記」の登場人物ですが、他にもいくつかの作品に登場します。その中でも今日最も有名なのが「壇浦兜軍記」の阿古屋なのです。  
しかし、その起源は古く、室町時代までさかのぼります。  
阿古屋と思しき女性が最初に登場するのは、幸若舞の「景清」です。幸若舞とは室町時代に生まれた語りと曲舞を合わせた芸能で、ほとんどの演目が武士を主人公にした勇壮かつ哀愁に溢れた内容だったので、室町時代から江戸時代にかけて武家の間で流行りました。また、その語り芸は江戸期の義太夫などの語り物に影響を与えました。  
話は脱線しますが、「若き日の信長」の劇中で織田信長が桶狭間の合戦に出陣する前に「人間五十年、下天の内に比ぶれば 夢幻のごとくなり」と一節謳う場面があるでしょう。あの「人間五十年」が幸若舞の「敦盛」の一節です。信長はこの曲を愛していたらしいですね。  
幸若舞の「景清」には景清の恋人として「あこ王」という女性が登場します。彼女は五条坂の遊女で、景清が清水寺の観音様に深く帰依し、参詣の道すがらに馴染となり、景清との間に二人の子を設けます。ところが、平家滅亡後、景清が鎌倉から御尋ね者となると、夫を裏切って、自分の所に通ってくることを鎌倉方に密告。そうとは知らない景清があこ王のもとを訪れると、鎌倉の捕り手に囲まれるが、景清は強力で蹴散らす。そして、腹いせに我が子を殺してその場を逃れる。  
その後、景清は尾張の熱田神宮の宮司に匿われ、宮司の娘と夫婦になる。それを知ったあこ王は再度、鎌倉方に訴人するが、逆に鎌倉方から妻としてあるまじき振る舞いとして罰せられるという物語です。  
幸若舞の「景清」は、江戸時代になると、浄瑠璃として受け継がれます。特に近松門左衛門以前の古浄瑠璃では、幸若舞のストーリーをほとんどそのまま転用した物語が作られました。  
転機となったのは、近松門左衛門の「出世景清」です。これは貞享2年(1685)に初演されました。ストーリーは幸若の「景清」を踏襲しながらも、近松らしく人間を描く事で、新しい作品になっています。  
ここで「あこ王」は阿古屋という名に変わりました。もちろん阿古屋は景清の愛人で、熱田神宮の宮司の娘は正妻という設定です。阿古屋は景清を愛しているのですが、正妻に対して嫉妬がある。  
景清が頼朝の命を狙い、行方不明となって、鎌倉は景清の行方を探索し出し、景清の居場所を鎌倉に密告した者には褒美の金が与えられる事となる。欲に目のくらんだ阿古屋の兄・伊庭十蔵は、妹の嫉妬心を利用して口車に乗せ、景清が本妻の許に匿われている事を訴人させる。  
鎌倉方は熱田神宮を襲撃するが、景清は間一髪で逃げた後だった。そこで、鎌倉方は熱田宮司と娘を捕縛する。それを知った景清は2人を救うために出頭し、入獄する。下の写真は入獄した景清。雑誌「演劇界」より転載させていただきました。  
一方、阿古屋は景清が入牢したのを知ると、牢に赴き、景清に謝罪するが、景清は許さない。絶望した阿古屋はその場で我が子を手にかけて、自らも自害する―という物語です。  
このように、幸若舞では単純に景清を裏切る女性だったあこ王が、「出世景清」に至って景清を愛しながら、嫉妬ゆえに裏切ってしまうという複雑さを具えるようになった。それによって人間らしい膨らみが生まれたのです。こういう所が近松の文学性なのでしょうね。  
一方、「壇浦兜軍記」が初演されたのは享和17年(1732)。「出世景清」より47年後です。  
この作品は「出世景清」を踏まえた書替になっています。「出世景清」では阿古屋は景清を愛しながらも裏切る女性として描かれていましたが、本作では景清を守る貞女になっています。また、阿古屋の兄・伊庭十蔵も、景清の身替りとなって捕縛される善人に書き換えられている。  
もっとも今日では、この伊庭十蔵の身替りの件は歌舞伎でも文楽でも上演されません。平成9年に国立劇場で通し上演した際に珍しく復活されたのが、最近での唯一の上演です。下の写真はその時の舞台。団十郎の伊庭十蔵と二代目中村又五郎の十蔵の母。「演劇界」より転載させていただきました。  
阿古屋という人物は、このような変遷を辿って輪郭が確定されました。  
ところで、「壇浦兜軍記」で阿古屋はなぜ琴・三味線・胡弓の三曲を演奏するのでしょうか?演奏で嘘をついていないことを確かめるのなら、一曲でも二曲でも良いし、楽器もそれ以外のものでも構わないようにも思います。しかし、ここで阿古屋が演奏するのは、この三曲でなければならない必然性があるのです。 
2  
景清は実在の人物です。彼は平家の侍大将で、その名は「平家物語」にも数回登場します。ただ、資料が乏しく生没年は不詳。景清の肖像画を探してみたのですが、見つからない。ほとんどは江戸時代の錦絵に描かれたものだから、芝居の中に登場するフィクションの景清像ばかりです。  
出自は一応、平家譜代の家人・藤原忠清の七男とされています。景清は通称、上総七郎と呼ばれましたが、この上総とは父・忠清が上総介の職にあった事に拠るとされます。また、歌舞伎好きにはお馴染みの「悪七兵衛景清」という名前の七も七男である事を示唆しています。ちなみに兵衛とは、彼が平家全盛時代に兵衛尉の位を授かった事に因みます。この他にも、彼は信濃守に任ぜられています。  
彼が「平家物語」に登場するのは以下の通りです。  
まず巻四「橋合戦」(以仁王の挙兵・宇治川の合戦)に初登場。ただし平家の侍大将の一人として名が記載されているのみです。  
次が巻十一「弓流し」(屋島の合戦)の「錣引き」。錣(しころ)とは兜の後方に垂れ下がり、後頭部から首を保護する部分で、非常に丈夫に出来ている。平家の景清は源氏の美尾谷十蔵の錣を引いたが、十蔵は強力で耐えたため、錣が千切れたという逸話です。  
このエピソードは歌舞伎好きにはお馴染みですね。昨年12月の日生劇場で「錣引」という短い芝居が久しぶりに上演されたし、「義経千本桜」の「吉野山道行」でも忠信の戦物語に錣引が登場しますね。  
話を戻します。  
景清が登場する三番目は巻十一「内侍所都入り」です。ここでは壇ノ浦で平家が源氏に敗れて滅亡する様を描写していますが、生き残って敗走する者も大勢いました。景清はそんな侍として登場します。そんな景清の姿を「逃げ上手」(八坂本)とか「生き上手」((四部合戦状本)という風に表現しています。  
以上が「平家物語」のスタンダードなテキストに登場する景清の姿です。したがって、景清に関しては、平家の侍の1人という扱いで、それ以上の突っ込んだ内容は描かれていません。  
ところで、平家物語は、後世、様々なテキストが生じました。そんな中には、平家残党の後日談を追記したテキストが生まれました。これらは増補系諸本と呼ばれます。  
たとえば増補系である延慶本・長門本では、景清は鎌倉に捕縛された後、常陸国の牢に幽閉され自ら絶食、南都大仏供養の日に死亡したとあります。こういうエピソードはスタンダードなテキストには載っていない。  
ちなみに延慶本・長門本には、その他の平家の残党の後日談も掲載されています。  
まず薩摩平六家長(家資)は、大仏供養時に頼朝襲撃を企てるが、事前に発覚して捕縛・処刑されたとあります。  
また、越中次郎盛次は、愛人に裏切られて隠れ家を密告され、捕縛・処刑されました。  
主馬判官盛久は、清水寺の観音を熱心に信仰し、残党狩りの最中も参詣を怠らなかった為、下女が密告。捕縛されて処刑されます。しかし、死後、霊験があり、罪を赦免。名誉を回復したとあります。  
これらの逸話を読むと、「景清そっくり」と感じる人が多いのではないでしょうか。たしかに景清は、大仏供養の式典に潜入して頼朝の命を狙ったとか、恋人に裏切られて訴人されたとかいった逸話で有名です。また、ここには記していませんでしたが、幸若舞の「景清」では、景清は清水観音の霊験で罪を減じされるという逸話もあるのです。  
こうしてみると、増補系諸本に記された「生き残った平家の侍たち」のエピソードが後世に景清の逸話として置換・集約され、物語としての景清像が完成していったと思われます。  
幸若舞の「景清」は、これらの逸話をすべて網羅している意味で、一つの完成形だと言えるでしょう。そこで、ここでは幸若舞の「景清」のあらすじを紹介します。  
平家滅亡後、生き残って復讐の機会をうかがう景清は、東大寺大仏供養に頼朝が出席すると知って、乞食あるいは僧兵に身をやつして入り込むが、畠山重忠に見破られ、逃走する。  
@ 景清は鎌倉のお尋ね者となり、愛人のあこ王が鎌倉方に密告。景清は清水観音の信者で、毎月参詣するため、鎌倉方はあこ王の家に隠れて待ち伏せする。しかし景清はあこ王の家を訪ねた際、危機を察知し、強力で鎌倉の捕手を蹴散らして逃走する。  
A その後、景清は熱田神宮の宮司に匿われるが、宮司と娘が鎌倉に捕らえられたと知ると、自ら出頭し入獄。景清は世間の嘲りが耐えられず、牢を破って脱獄するが、熱田宮司や娘に迷惑をかけるのを恐れて再び自ら出頭して入牢する。  
B 頼朝は景清を六条河原で斬首にするが、首実検の最中に景清が牢で生きていると知らせが入り、観音が景清の身替りになったと判明。頼朝はこの霊験に感銘を受け、景清の処刑を断念すると、赦免のうえに日向に領地を与える。景清は頼朝の温情に感謝し、二度と頼朝の命を狙わない証として両目をえぐる。  
C 盲目となった景清は日向へ下向する際、清水寺に参詣すると、観音の霊験で再び目が見える様になる。日向に下った景清は、清水観音を勧請する。  
以上が幸若舞の「景清」のあらすじです。こうやって見ると、各地の伝わる景清伝説は、幸若舞と同じエピソードである事が確認できます。  
そこで景清ゆかりの史跡を紹介します。  
京都では清水寺に景清爪形観音があります。これは、随求堂(清水寺の塔頭・慈心院の本堂)前の石燈籠の火袋の中に小型の観音像が奉納されていますが、この観音像は景清が爪で彫ったという言い伝えがあります。これは景清の清水観音信仰の部分に基づいているのでしょう。  
奈良の東大寺には「景清門」と通称される門があります。この門は正式には佐保路門と言いますが、景清が頼朝の命を狙って隠れていたため、そのような通称がついたのです。  
また、奈良には勝願院という寺がありましたが、この寺はかつて通称「景清辻子」と呼ばれていました。この寺はその後、廃寺となりましたが、草堂のみが残り、地蔵菩薩が祀られていた。この地蔵堂は景清地蔵と呼ばれ、明治の中頃まで存在していたそうです。新薬師寺には景清が奉納した阿古屋像があったそうです。  
ところ替わって鎌倉。こちらには捕縛した景清を閉じ込めた岩屋がありました。これは景清窟(いわや)と呼ばれ、今でも史跡に指定されています。この景清窟の近くには、人丸塚(景清の娘の人丸を祀った塚)もあるそうです。謡曲「景清には、「熱田にて遊女と相馴れ、この子を設ける」という一節がありますが、その「子」が人丸という娘なのです。  
愛知県の熱田神宮には境内南側に景清社という小社あります。「張州雑志」という書物には、景清が熱田の目代として赴任、ここに屋敷を構えたという言い伝えが記載されています。また、熱田神宮には、景清の愛刀「あざ丸」が奉納されています。  
山口県の秋芳洞の近くには景清穴があります。地元では景清の隠れ家・あるいは隠棲地という伝承があります。  
宮崎県の生目神社も景清と所縁の深い場所です。景清が自らえぐりだした目玉を投げた所、京から日向まで飛来したとの伝承があって、それを縁起としてこの神社が出来たのだそうです。  
一方、江戸期の芸能に登場する景清のストーリーのほとんどが、幸若舞の一部分を取っている事も、歌舞伎や文楽をご覧になる方ならお判りになるでしょう。  
文楽では「出世景清」「壇浦兜軍記」などが有名ですが、「娘景清八島日記」もよく知られています。この作品は盲目になった景清が日向に流され、娘の人丸が会いに行くという物語です。もともとは能の「景清」を下敷きにしているのでしょう。  
文楽では重い出し物として扱われ、あまり上演されません。歌舞伎では、先代幸四郎が文楽座の語りで上演して話題になり、当代吉右衛門が「日向嶋景清」という外題で平成17年に上演しました。  
純粋な歌舞伎では、歌舞伎十八番の多くの演目で景清が登場します。現在上演される演目では、「景清」「解脱」が景清を主人公にしています。また、国立劇場で二代目松緑が復活した「関羽」も景清と畠山重忠が登場します。「鎌髭」も現行脚本では相馬太郎良門(平将門の遺児)と俵小藤太(藤原秀郷の息子)が主人公ですが、古い脚本では景清と三保谷を主人公にしたものもあったようです。十八番の他にも、「岩戸の景清」(岩戸のだんまり)、「へちまの景清」(舞踊)など、景清が登場する作品は沢山あります。  
能には、景清が登場する作品として、「大仏供養」と「景清」があります。「大仏供養」は、東大寺の大仏供養に頼朝が参拝する事を知った景清が僧兵に化けて命を狙うが、露見し、術を用いて姿を消すという話。これは幸若舞のエピソードと同じです。  
一方、「景清」の物語は以下の通りです。  
景清は失明後、日向に流罪になる。娘の人丸は父を訪ねて日向へ向かう。日向に到着した人丸が盲目の乞食に景清の行方を尋ねると、乞食は知らないと言う。人丸が里人に再び行方を尋ねると、里人はさきほどの乞食が景清だと言い、人丸を連れて乞食の草庵に戻る。景清は里人のみが訪れたと思い、日頃のわびしさを訴える。里人が人丸を引き合わせると、景清は最初立腹するが、娘がこれを聞いたら帰るという約束をするので、屋島の合戦での錣引きの一件を語り聞かせる。人丸は父の話を聞き終えると、別れを告げる。  
こうしてみると分かるように、能の「景清」は幸若舞とかなり異なります。まず景清が日向に赴いたのは共通していますが、能では失明しているのに対し、幸若舞では失明は観音の霊験で治癒し、目は見えるようになっている。ここに大きな違いが見られます。  
僕は、幸若舞に違和感を覚えます。観音利生譚としてなら、清水観音が景清の処刑の身替りになったという時点で完結していて、その後の景清が頼朝の仁心に感銘を受け、目をえぐる箇所が腑に落ちないからです。百歩譲って、目をえぐるのを認めたとしても、それさえも観音の利生で治癒するのだから、目をえぐる必然性が見出せない。  
こうした点を考慮すると、幸若舞で、目をえぐるまでと目をえぐって以後は、本来は全く別の話だったのではないか、と考えられます。つまり、景清に関する伝説は、「目の見える景清」と「盲目の景清」という2つの系統に分かれていて、幸若舞はそれを無理矢理一つにしたと考えられます。  
「目が見える景清」に属するのは以下の部分です。  
頼朝の命を何度も狙うが失敗し、源氏に捕えられそうになるが、何度も逃げおおせて、「逃げ上手」「生き上手」の面を発揮する。また、牢に入れられても破って逃げるような、強力の持ち主である。清水観音を信仰し、五条坂の遊女のもとへ通うが、女に裏切られる。一方で、自分の庇護者(熱田宮司やその娘)に対しては義理堅く、自分の身替りに捕えられたと知ると、助けに行く。最後には観音の霊験で命が救われる。  
一方、「盲目の景清」に属するのは以下の通り。  
景清は捕縛後、頼朝の仁心に触れ、おのれの妄執を呪って目をえぐり、盲目になる。そして日向に赴き、乞食同然の暮らしをする。ある時、景清の娘が日向に父を訪ねる。景清は娘との対面を一旦拒むが、たっての願いに対面し、昔の栄光を語り聞かせる。それを聞いた娘は父と別れ、帰って行く。  
能の「景清」は「盲目の景清」伝説をそのままドラマ化している。一方、幸若舞では、「目の見える景清」と整合性を持たせるために「盲目の景清」の一部分を改変した結果、一旦潰した目が観音の霊験でまた見えるようになるなどという、持って回ったストーリーになったのです。  
そこで話を「盲目の景清」伝説に絞っていきます。この伝説の背後に、阿古屋が琴・三味線・胡弓の三曲を演奏しなければならない理由が隠されているからです。 
3  
紹介した「盲目の景清」伝説―景清が自らの両目をえぐり、盲目となって日向へ向かうという伝説―は、かなり古くから存在していたようです。能の「景清」はこの伝説をドラマ化した作品ですが、世阿弥が書き下ろしたと伝わっていますから、少なくとも世阿弥が活躍した室町中期にはこの伝説が存在していたという傍証になる。  
ちなみに、史実を追跡する限り、景清が日向へ流罪になったとか、赴いたとかいう記載は何処にも登場しない。したがって、これは史実ではなく、まったく伝説と言って良い。  
また、能「景清」の中で、景清は自らの身分を「日向匂当(こうとう)」と名乗っています。史実の景清は信濃守と兵衛尉の官位を得ていますが、匂当に叙せられたという記載は何処にもありません。  
匂当とは、もともとは朝廷の諸省や三位以上の家の侍所、大寺院などに置かれた事務職員の名称でした。特に楽所(雅楽の演奏を担当する役人の部署)でこの役職名を多用した事から、後世は音曲の名人(特に盲目の平曲語り)の官位として用いられるようになりました。  
つまり、この曲の景清は盲目で音曲の名人という人物像が透けて見えてきます。盲目で音曲の名人。これは、平家物語を語る琵琶法師を連想させませんか?  
そう、この「盲目の景清」伝説は、盲目の琵琶法師たちによって作られた伝説だったのです。  
盲目の琵琶法師は中世より存在していました。彼らはその地域地域で集団を作り、お互いを支え合って生活をしていました。そうした盲僧集団の中に景清を先祖として敬うものがあったのです。  
宮崎県の生目神社。ここは日向地方の盲僧集団の根城になっていましたが、彼らは景清が平家物語を作り、自分たちの先祖に教えてくれたという伝説を信じていたそうです。  
また、出羽羽黒山にもかつて平家物語を語る盲目の琵琶法師集団がいましたが、彼らも景清が自分たちの先祖であり、その景清が平家物語を考案したと信じていました。  
文献にも、景清が盲目の琵琶法師の先祖で平家物語の作者だという伝承を記載したものがあります。  
室町中期に瑞渓周鳳という禅僧がいました。和泉国堺の生まれで相国寺に入門し、諸寺の住持を勤めた後、相国寺に戻ると、鹿苑院主(金閣寺の住持)を勤めました。  
この人は時の将軍・足利義教の信任が厚かった。永享の乱(鎌倉公方の足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立に端を発する反乱)の収束後、義教の命を受けて戦後処理の調停役として関東へ下向しています。僧侶であると同時に学者で、将軍のブレインだったのでしょうね。  
その瑞渓周鳳が日記をつけていた。「臥雲日件録」といって、当時の様々な出来事が実に詳細に記されているので、第一級の歴史的資料とされています。  
この「臥雲日件録」の文明二年(1470)正月四日の項は、瑞渓が琵琶法師を招いて平家物語を聞いた話が記載されています。その法師は薫一という名で、当時、都で評判の平曲語りの名人でした。  
当時、平曲語り(平家物語を語る琵琶法師)には八坂流と一方流(ひとかたりゅう)の二つの流派がありましたが、薫一は一方流でした。一方流は古くからある流派ですが、その中興の祖は明石覚一(かくいち)という琵琶法師です。  
明石覚一は鎌倉末期から室町初期に実在した琵琶法師です。彼は中年まで播磨国書写山の僧侶でしたが、突然失明しました。そこで彼は一方流の流祖・如一に弟子入りします。そして修行の結果、平曲(平家物語を琵琶の演奏に合わせて物語る)の名手として名を馳せ、しばしば天皇や貴族の前で演奏し、検校の位を授かりました。  
覚一がそれほどの栄達を獲得したのは、もちろん琵琶の演奏が巧かったからでもありますが、彼が足利尊氏の従弟に当たり、室町幕府の保護を受けた事が影響していると思います。  
また、彼は生来の盲目でなく、若い頃は学識豊かな僧侶でした。だから宮中の作法だの、色々と面倒な事も一通り習得していたので、殿上人と接する事が出来たのでしょう。  
彼の学識は、平家物語の編纂に役立ちました。それまでの平家物語は、盲人が口伝えで伝承してきたため、エピソードがばらばらで連脈性が乏しかったり、物語として矛盾がありしました。それを覚一は、矛盾を直し、物語として分かりやすい様に整えました。覚一が整えたテキストは、今日「覚一本」と呼ばれ、標準テキストの一つとなっています。これなどはインテリの覚一でなければ成し遂げ得なかった作業でしょう。  
話が横道に逸れました。とにかく薫一は明石覚一の系譜をひく琵琶法師だったのです。だから、薫一は覚一と同様に、将軍の陪臣である瑞渓の前で平曲を演奏したのでしょうね。  
この演奏を聞き終えた後、瑞渓は薫一と会談をしています。その時、薫一が「平家物語の作者は景清と名乗る人物」と語ったと日記に記載しているのです。おそらく盲人の間には、そういう伝承が言い伝えられてきたのだろうと思います。  
「平家物語」の作者に関しては色々な伝承があります。なかでも文献として最も古いものは、吉田兼好の「徒然草」です。その二百二十六段に以下の記載があります。  
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の誉れありけるが (中略) この行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教えて語らせけり  
信濃前司行長とは藤原行長ではないかと考えられています。藤原行長は、九条兼実の家司・中山中納言顕時の孫に当たる人物です。ただしこの人の所領は下野にあった。だから下野前司と記載すべきところを信濃前司と誤記したのではないか、と言われています。  
ところが面白い事に、本願寺には親鸞の高弟・西仏が信濃前司行長とする伝承があります。この西仏という人物は木曽義仲の家臣・海野行親の息子で、俗名・行長といいました。海野家の本拠地は信濃です。彼は後に出家して大夫坊覚明と名乗り、木曽義仲の軍師として活躍しました。そして義仲亡き後は隠棲し、法然門下となり、後に親鸞の許へ移ったというのです。  
もっとも史実では西仏と海野行長と大夫坊覚明はそれぞれ全く別個の人物ですから、本願寺の伝承は全くのフィクションです。どうも平家物語と宗門を結びつけようとする牽強付会のように感じられます。  
話がまた横道に逸れました。  
ここで大切なのは、信濃前司行長が誰かという事でなく、平家物語は行長なる人物が創案したが、それを実際に語ったのが生佛という盲僧だったという事です。これはつまり、盲人の語り部が平家物語の口述伝承に大きく関わってきた事を意味しています。  
そのような伝承の中には、景清が平家物語の作者だとするものがあっても、不思議はないでしょう。むしろ、数多の源平の合戦に参戦し、その現場を体験した景清だからこそ、平家物語を作ったという伝承には説得力があります。  
そして、平家物語を語り伝えてきたのが盲目の琵琶法師であった事から、平家物語の作者である景清も盲目でなければならなくなった。そこで生まれた物語が「盲目の景清」伝説ではないか。僕はそう思います。  
そして、この事は当道座の存在とも密接に関わってきます。 
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当道座の話をしましょう。  
当道座とは、室町初期から明治初期にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織で、明石覚一が設立しました。明石覚一は鎌倉末期から室町初期に実在した琵琶法師で、平家物語の覚一本を編纂した人物です。  
覚一が当道座を設立する以前にも平家物語を語り聞かせる盲目の琵琶法師は存在しましたが、個別に演奏を行っていて、当道座のように彼らをバックアップする組織は存在しませんでした。だから、身体障碍者である彼らは社会的には弱者で、ある意味で虐げられた存在だったと言えます。  
覚一は年を経て盲目になったので、盲人たちが社会的弱者である事を十分認識しており、何とか社会の中で自立できるように、当道座という組織を設立したのだと思います。  
当道座では所属した盲人たちに平曲の指導をしました。平曲とは琵琶の演奏に合わせて平家物語を語る芸です。覚一が一方流の平曲の名人だったので、これは当然の施策でした。  
また、当道座では按摩や鍼灸の指導も行っていました。覚一は按摩や鍼灸にも長じていた事に由来します。  
覚一が足利尊氏の従弟であったため、当道座は室町幕府の保護を受け、繁栄しました。室町中期以後は源氏長者である久我家(村上源氏の末裔)を後ろ盾にします。  
江戸時代になると、徳川幕府は当道座を盲人の福祉政策として位置づけ、寺社奉行の管轄下の組織としました。つまり、当道座は晴れて公の組織として認められたのです。  
しかも、当道座は室町時代以来、自立して運営してきたことから、江戸時代に幕府の組織に組み込まれても、自治権は当道座が握り、幕府の統治機構とは別組織として、全国の盲人を支配・統括しました。  
室町時代、当道座で琵琶の名人は禁裏へ参上して平曲を演奏し、その功績が認められると、官位を賜りましたが、江戸期になると、その官位付与の実権は当道座が握るようになります。これは官位が禁裏の手を離れ、当道座独自の権限となった事を意味していました。  
江戸期の当道座が発行した官位は、大きなものとして検校・匂当・別当・座頭などがありました。実際にはもっと細かくランク分けされ、約800の位があったそうです。  
当道座の位は私的ではあっても、非常に権威がありました。検校になると将軍に拝謁できたし、検校の中の最高ランクに位置する総検校になると、十万石の大名と同じ権威と格式が与えられました。  
当道座の位は技能の向上によって昇進しましたが、実際にはなかなか昇進は難しかった。そこで江戸中期以後、当道座では位の金銭売買が公認されるようになります。  
また、この頃になると、当道座の盲人たちの中には按摩や鍼灸などをして蓄財した金で、金銭貸付業を営む者が多く現れました。幕府は盲人の金銭貸付業には一般それよりも高い金利で営む事を公認しますが、これは盲人が当道座の位を金銭で購入する事を幕府が公認していた事を意味しています。  
当道座の位を買うには非常に金がかかりました。検校になるには、720両かかったそうです。  
当道座の本拠地は京都の市中にありました。場所は現在の東洞院仏光寺東入ル。室町時代、ここに明石覚一の屋敷があり、覚一は自邸内に当道座の事務局も置いた。以後、覚一の屋敷は職屋敷と呼ばれ、当道座の本拠地として幕末まで存続しました。  
黙阿弥の「蔦紅葉宇都谷峠」で按摩の文弥が百両を持って京都へ行こうとするのも、当道座を訪れ、位を買うためなのですね。  
現在、職屋敷の跡は京都市立洛央小学校になっていて、校門の前には当道座職屋敷跡と記した石碑が立っています。  
当道座については様々な意見があるでしょうが、盲人が自活できるように専門職を身に着けさせる指導をした点は高く評価できます。  
しかし明治4年、明治政府の盲官職廃止令発布によって当道座は解体。座が有していた様々な物品や歴史的財産は、当時の役員が引き受け、個々の家庭が私的に保存してきました。  
その後、紆余曲折を経て、当道会という団体を結成。当時の役員たちが私財を投じて京都市上京区出水室町東入ルに土地を購入し、当道会会館として、かつての歴史の伝承と、琴や三味線など古典音楽の普及・伝承を目的として活動を行って今日に至っています。  
話がまた横道にそれました。  
この当道座には、組織の来歴を記した書物がありました。「当道要集」と言って、明石覚一が記したものだと言い伝わっています。もっとも、これは江戸期には現物は失われ、記載内容の写しが当道座に伝えられたそうです。  
その「当道要集」に、景清が盲目になって平家物語を作ったと記されているのかというと、否です。「当道要集」にはそんな事は一切書かれていない。  
「当道要集」に書かれている故事来歴は以下のような内容です。  
仁明天皇の第四皇子・人康親王(さねやすしんのう)は成人後に盲目となり山科に隠棲しました(そのため、その辺りの地名を四ノ宮と呼ぶようになった)。人康親王は、自分と同じ苦しみを持つ盲人を救いたいと考え、得意であった詩歌・管弦を教えて生活の助けとします。また、人康親王は近侍する盲人に検校と匂当の位を授けた事から、後にこれらの官位が盲人に与えられる先例となりました。  
また、山科四ノ宮には盲人で音曲の達人だった蝉丸法師が隠棲したという伝説もあり、盲人たちは人康親王と同様に祖神として崇拝しました。  
当道座はこれらの伝説を組織の起源と位置付け、「当道要集」に記載しました。  
山科四ノ宮の地には何時の頃からか大きな地蔵像が建立され、道行く人の道祖神として崇敬されていました。  
室町時代には、当道の盲僧たちが人康親王由縁の地に建てられたこの地蔵像に対しても信仰心を持つようになり、年に数回、琵琶の演奏を奉納するようになります。この四ノ宮地蔵についても、人康親王や蝉丸とともに「当道要集」に記載されていました。  
山科の四ノ宮地蔵は現在も存在します。京阪電車京津線の四ノ宮駅(山科駅より一つ大津寄り)で下車し、旧街道である三条通りを京都の方へ戻ると、通りに面して立派な六角堂が目に入ります。これが四ノ宮地蔵を祀っているお堂です。堂内には極彩色の地蔵像が祀られていますが、普段は非公開です。しかし、八月の地蔵盆の時に開帳されます。  
話を当道座に戻しましょう。  
当道座では、職屋敷において毎月きまった日に重塔会(しゃくとうえ)が催されました。これは祖神を敬い、平曲演奏を奉納する催しですが、この時、日吉山王の画像が掛けられました。また、当道座は天台宗山王曼荼羅図を所持・保管していました。これらの事実は、当道座が山王神社―比叡山延暦寺とも縁が深かった事を示しています。  
ここまでは事実の記載。  
これ以後は僕の個人的見解です。  
では、「盲目の景清」伝説と当道座との関係はどうなっているのでしょうか?  
当道要集には先祖の事績として人康親王や蝉丸の伝説が記載されていますが、景清の事績は記載されていません。ならば、景清が平曲の琵琶法師の先祖であり、平家物語の作者であるというのは、まったくの出鱈目で、そんな伝承自体が存在しなかったのでしょうか?  
僕はそんな事はないと思っています。その証拠に薫一が瑞渓周鳳にその事を語っている。おそらくそれは盲目の琵琶法師の間で口伝えに伝承されたものだったのではないかと思います。  
それなのに景清にまつわる伝承は当道要集には収載されなかった。なぜかというと、おそらく明石覚一は、当道座の存在を正統付けるのには、皇室との由縁を強調する方が得策だと考えたからではないかと思います。自分たちの先祖は平家の落ち武者だというよりも、仁明天皇の第四皇子に庇護されたという方が、よっぽど権威があって、世間への示威効果がある。覚一はその事を十分に認識していたのだと思います。  
では、なぜ、景清盲人伝説が日向や出羽などの盲僧の間で語り継がれたのか。それは、彼らにとって景清が高貴な存在だったからに他なりません。考えてみれば、都の人間にとって景清は戦に敗れ、都から逃げた「負け組」ですが、地方からすれば、都からやってきた「スーパースター」に他ならないのです。  
能の「景清」で、景清が日向匂当を名乗るのも、都の事情に詳しいものにとっては匂当が大した官位でない事は明らかですが、そういう事情に疎い地方の人間にとって匂当という位が非常に輝かしいものとして映った事を意味している様に感じられます。  
これは僕の推測ですが、当道座を構成する盲僧集団には、派閥があったのではないかと思います。その派閥は地理的な特性を色濃く反映していた。  
当道座で多数派を占める派閥は、先祖が坂本辺りに住まいしていた盲僧集団だったのではないかと思います。「坂本」と特定するのは、当道座が日吉山王を守護神に奉っているからです。おそらく坂本の盲僧集団は、覚一が当道座を創立した時に全面的にバックアップしたのではないでしょうか。だから、彼らの言い分が座での主なる方針になった。  
坂本と地域を特定した理由はもう一つあります。坂本から京都へやってくる道中に山科の四ノ宮地蔵があるという事です。だから、彼らにとって特別な意味があったのではないかと想像します。  
この多数派を坂本派と呼ぶことにします。坂本派は人康親王を先祖として崇拝していた。当道要集に人康親王を先祖と記載しているのも、多数派の意向が尊重されたからです。  
一方、当道座には少数派も存在した。彼らは坂本以外の出身で、清水寺観音に帰依していた。そういう人たちが景清を先祖として敬っていたのではないでしょうか。彼らを清水派と名付けます。  
おそらく清水派の人たちは初期メンバーではなかったのでしょう。だから当道座の内部では少数派に甘んじていた。  
ところが、日本全国に視点を移すと、清水観音を信仰する盲僧は日吉山王を信仰する盲僧よりも広く分布していた。それは清水観音の信仰地域が、日吉山王の信仰地域よりも広かった事に関係しているのではないかと推測します。  
そして、そうした清水観音が信仰されている地域では、景清が盲僧の先祖であり、平家物語を作ったという伝説が生き続けた。だから、盲人社会の中央(当道座)では景清祖神信仰は抹消されましたが、地方では脈々と生き続けた。僕はそう考えます。  
また、話が脱線してしまいました。  
江戸時代になると、琵琶の演奏は次第に人気がなくなり、新しく起こった三味線や胡弓などの楽器が持て囃されるようになりました。そこで当道座でも、楽器の演奏では琵琶の他に、琴・三味線・胡弓を必須科目として採用したのです。  
だから、江戸時代には盲人では琵琶の名人よりも琴の名人の方が有名な人が多い。あの八つ橋検校も琴の名人でした。  
またしても話が脱線しました。  
「壇浦兜軍記」の三段目で阿古屋が琴・三味線・胡弓の三曲を演奏するのは、この当道座の演奏必須科目を踏襲しているのです。つまり、この芝居の背後には、盲目の演奏家の姿が見て取れますね。あるいは、盲目となった景清が、琵琶を弾きながら平家没落の物語を語る「盲目の景清」伝説の、近世的変転の姿と言う事も出来るかもしれません。  
ちなみに「源平布引滝」に「松浪検校琵琶の段」という場面があります。歌舞伎では上演しませんが、文楽では時々出ます。多田蔵人行綱が盲目の琵琶法師になって御殿に上がり、娘が拷問を受ける前で琵琶を弾くという場面です。これなどは明らかに「景清が琵琶法師になった」という伝説を踏まえていると思います。  
天保年間、歌舞伎では「松波琵琶の段」の行綱を景清に置き換える演出が生まれました。こちらは通称「琵琶の景清」と呼ばれました。一種の先祖返りのような演目だと言えるでしょう。「琵琶の景清」は七代目団十郎が得意にしてしばしば演じました。「琵琶の景清」は大正時代まで時々上演されましたが、現在は廃絶しています。 

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。