仏語

【善悪不二】善も悪も二つのものではなく仏法の平常無差別の一理に帰着する。 
【善悪無記】全てのものを分け善と悪と、善でも悪でもないものとした。 
【平等界】差別にとらわれない立場。仏、真理の世界。 
【平等観】一切のものはすべて平等であると見きわめる。 
【平等心】仏菩薩の一切衆生を差別することなく平等に愛する慈悲心。 
【差別】万物の本体の一如平等であるのに対し、その万物における高下善悪などの特殊相。 
【差別界】万物がとっている高下善悪などの差別相の世界。
 
【四法界】華厳宗の宇宙観。全宇宙を現象・本体の二面から見たもので、差別的現象界(事法界)本体的理法界(理法界)、事と理とが融通する一体不二の世界(理事無礙法界)、差別の現象界そのままが絶対の不思議であること(事事無礙法界)の称。 
【生仏】(しょうぶつ)衆生(しゅじょう)と仏。 
生仏の仮名(けみょう)/衆生と仏は本来同一で差別がないが相により仮に衆生と仏という名が付く。 
【生仏一如】衆生に本来的にそなわっている理性(りしょう)と仏の法身とは平等不二で差別がない。 
【真俗】出世間的真理と世間的真理。真実平等の理と世俗差別のすがた。仏の教えと世俗の教え。
   
【真俗二諦】真諦と俗諦。仏教真理に目ざめた人が知る事柄と一般の人が知る事柄。真実平等の理としての真如と世俗の差別の姿、転じて仏法と王法、宗教的信仰と世間的道徳の意。 
【一多法界】真言密教、一法界と多法界。前説は悟りの世界は無相平等絶対であり差別が全くないとし、後説は差別はあるが互いに融和混合している妙境界であるとする。 
【戒相】戒を四つに分けて説く、その一つで戒を守る行為が具体的な姿で行なわれること。五戒ないし二百五十戒のこと。戒の犯、不犯、または犯した戒の軽重などの相違差別。 
【破戒】戒律を破ること。受戒した者が守るべき戒法にそむく行いをすること。 
【天】迷いの世界の六道のうち最もすぐれた果報を受ける有情の住む世界。欲界六天や色界・無色界などの天がある。
 
【真如】(しんにょ)真実如常。一切のもののありのままのすがた。永久不変の真理。法性。涅槃。 
真如の月 明月の光が闇を照らすように真理が人の迷妄を破ること。一片の雲もない明月。 
【真如縁起】真如は一味平等であるが真如より染浄の縁に従って一切万有の生滅の相が生ずる。 
【真如実相】万有の本体で永久不変、平等無差別なもの。 
【真如平等】いっさいの存在の本性である真如は差別相を超えた絶対の一である。 
【真知・真智】真の知識。真の道を体得した人の知恵。真理を悟った知恵。悟を開いた智。 
【逆則是順】(ぎゃくそくぜじゅん)この世の順逆は結局仮の姿で逆も順も差別なく実は同じである。 
【一視同仁】差別なくすべての人を平等に見て一様に愛すること。
   
【生死】(しょうじ)生まれ変わり死に変わりして輪廻すること。。一生。生涯。 
生死即(そく)涅槃 無差別平等の道理を知る真実智からみれば生死の差別相を離れて涅槃なく、涅槃の平等心を離れて生死はない。 
生死の海 生死流転の迷いの境界。 
生死の境 生きるか死ぬかのさかい目。死線をさまよう。命の瀬戸際。 
生死の到来 死ぬべきときが来る。 
生死の眠り 生死流転の境界をそれと気づかない迷い。 
生死の闇 煩悩のために生死流転を繰り返す迷いの境界を闇にたとえる。 
生死を離る 煩悩の迷いの境界を捨て涅槃の悟りに達し生死流転を繰り返す苦界を脱す。悟りを開く。 
【生死一大事】=生死事大 
【生死事大】人の世の無常ではかなく移ろいやすいこと。 
【生死長夜】(しょうじじょうや)生き死にを繰り返す迷いのつきないことを長い夜の夢にたとえる。
 
【生死同心】奈良・平安時代に借金の証文に使った語で連帯の債務関係を表した語。 
【生死無常】人の生死の無常。人生ははかない。 
【生死硫転】生死を重ねてたえることなく三界六道の迷界をはてもなくめぐる。 
【功徳】(くどく) 現在、また未来に幸福をもたらすよい行ない。神仏の果報をうけられるような善行。すぐれた果を招く力を徳としてもっている善の行為。断食、祈祷、喜捨、造仏、写経の類。神仏のめぐみ、ごりやく。善行をつんだ報い。 
【無遮】制限したり差別したりしない。きわめて寛容で平等。 
【無縁】仏縁のない。救われる機縁のない。縁者のない。死後を弔う係累のない。縁のない。関係のないこと。「私には無縁の話」 
無縁の慈悲 仏が差別なく一切衆生に対して起こす絶対平等の慈悲。 
【別法】方便として差別的に説かれた教え。普遍的教え普法に対していう。 
【三解脱門】解脱を得て涅槃に通入する三種の三昧。万有の空を観ずる空解脱、万有の差別相のないことを観ずる無相解脱、これらの解脱に従ってさらに願求の念を離れる無願解脱の三種。 
【一色】相対立した差別を超越して同一である。 
【権智】仏菩薩が衆生を導くために用いる方便の智慧。
   
【即心】迷いの心そのまま。即心是仏の略。 
【即心是仏】衆生の心がそのまま仏である。心の外に仏なく心と仏とは一体である。 
【即心即仏】=即心是仏 
【即心念仏】心と仏とは一体であると観ずる境地にあって仏を念ずる。 
【向去却来】禅家、平等一如の本体である正位に向かうこと(向去)と正位から差別相の偏位に来ること(却来)。 
【随縁】多くのさまざまな縁にしたがって異なった相を生ずること。縁に従って行為する。 
【随縁真如】真如は絶対不変であるがさまざまの縁に応じて種々の差別相を生ずる。
 
【三智】智慧を三種に分類したもの。智度論、声聞・縁覚の智(全ての存在を概括的に知る一切智)菩薩の智(衆生教化のために道の種別を知る道種智)仏の智(全ての存在に平等の相と差別の相を知る一切種智)。菩薩地持経、清浄智(一切の煩悩を断ずる智) 一切智(いつ、どこでも、どんなことにも障碍のない智)無碍智(一切の物の全てを悟っている智)。楞伽経、世間智(外道・凡夫の智)出世間智(自利的な声聞・縁覚の智)出世間上上智(衆生を済度する仏菩薩の智)。 
【事理】現象と本体。「事」因縁で生じた差別的全ての事物・現象。「理」因縁の造作を離れた絶対の本体・真理。 
【有相】(うそう)すがた形のあるもの。生滅変化するところから有為(うい)の意味にも用いる。 
【無相】(むそう)すがた形がないこと。有相・無相の差別を超えた空のすがた。涅槃の境界。 
【宿命】宿世、前世の生命。過去世での受報の差別・善悪苦楽などの総称。 
【宿命通】六神通(ろくじんずう)の一つ。前世における自他の生存の一切の状態を自在に知る神通力。
   
【方便】仏教で下根(げこん)の衆生を真の教えに導くため用いる便宜的な手段。法便。 
【四土】(しど)仏土を四つに分けたもの。天台宗、凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、常寂光土の総称。 
【三門】寺の本堂の前にある門の称。本堂を涅槃に擬し空・無相・無願の三解脱門にたとえ。 
【三車】(さんじゃ)羊車・鹿車・牛車の三つ。三界を火宅に羊・鹿・牛の三車を声聞・縁覚・菩薩の三乗に例えたもので真実の一乗に導き入れるための方便。羊鹿牛車(ようろくごしゃ)。 
【教道】言葉で説かれた方便の教え。 
【証道】仏道を修行し身をもってその真理を実証すること。さとること。
 
【五悔】(「五悔(ごげ)」とは別義)真言宗で行なう胎蔵界の九方便に対する金剛界の懺悔礼仏法で、一切の仏菩薩の行願を挙げ礼拝懺悔の意を表わす。 
【開会】天台宗、方便を除いて真実にはいらせる。教えについてすべては一つであると説く法開会と仏道修行の人についてすべて等しく仏になれると説く人開会とがある。 
【十住】(じゅうじゅう)菩薩が修行の過程でふむ52の段階中、第11から第20までの階位。発心住、治地住、修行住、生貴住、方便住、正心住、不退住、童真住、法王子住、灌頂住。十地(じゅうじ)の異称。 
【四法】行・住・坐・臥の四つの作法。平素の起居動作。四儀。教・理・行・果の四つ。仏教の真理である理それをあらわす教え、それによる修行と果としての悟り。信・解・行・証の四つ。
   
【別法】方便として差別的に説かれた教え。 
【無仏世界】釈迦が入滅後、弥勒菩薩が現れない間の時代。この代は地蔵菩薩が出現して衆生を救うという。仏教の恩沢の及ばない土地。文化の至らない田舎。 
【非人】鬼神などが仮に人に姿を変えたもの。鬼神・阿修羅、天竜八部・夜叉・悪鬼。 
【餓鬼】餓鬼道の略。生前犯した罪の報いで餓鬼道に落ちた亡者。食物をむさぼるところから子供を卑しめていう俗語。 
餓鬼に苧殻(おがら) 何の力にも頼りにもならない。 
餓鬼の断食 あたり前のことなのに特別のことをしているかのように人前をつくろう。 
餓鬼の飯 盂蘭盆(うらぼん)に無縁仏のために供える食物。 
餓鬼の目に水見えず 物事に熱心すぎて肝心の物を見落とす。 
餓鬼の物をびんずる 貧しい者から金品を強引にうばい取る。 
餓鬼も人数(にんじゅ) 多く集まればその勢いもあなどりがたくなる。
 
【地獄】仏教六道の一つ。現世で悪業を重ねた者が死後その報いによって落ち責め苦を受ける所。閻魔大王が死者の生前の罪を審判する。キリスト教、悔い改めのない罪人が死後行く所。 
地獄極楽はこの世にあり 地獄も極楽も目の前にある。 
地獄で仏に会ったよう 非常な危難に困っている時に思いがけない助けに会う喜び。 
地獄にも鬼ばかりはない せち辛いこの世にも慈悲深い親切な人はいる。渡る世間に鬼はなし。 
地獄にも知る人 どのような苦難の境遇の中でも知己はできるもの。 
地獄の一丁目 破滅に向かう第一歩。 
地獄の上の一足飛び きわめて危険な行為。 
地獄の馬で顔ばかりが人 畜生同然の心を持った人をののしっていうことば。人面獣心。
   
地獄の釜  地獄で罪人を煮るという釜。 
地獄の釜の蓋があく 正月16日と盆の7月16日。この日は地獄の鬼が亡者の呵責を休む日とされ、使用人にもやぶ入りとして暇を与える習慣があった。 
地獄の業力 地獄に落ちる因となる悪業の力。 
地獄の沙汰も金次第 地獄の裁判も金を出せば有利、ましてこの世は金さえあれば何事も思うがまま。  
【我慢】七慢の一つ。自分をえらいと思い他人をあなどる。うぬぼれ。 
【十善】十悪を犯さないこと。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚(しんい)・不邪見。十善戒。 
【十戒】仏道修行上守らなければならない一〇の規律。沙弥、沙弥尼の受持する十戒。 
不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広牀・不非時食・不蓄金銀宝。沙弥十戒。
 
【十重禁】仏道修行の上で菩薩の守らなければならない一〇の重要な戒律。顕教・梵網経では、殺・盗・婬・妄語・弸酒・説四衆過・自讚毀他・慳惜加毀・瞋心不受悔・謗三宝。密教・無畏三蔵禅要では、不退菩提心・不謗三宝・不捨三宝三乗経・不疑大乗経・不発菩提心者令退・不未発菩提心者起二乗心・不対小乗人説深大乗・不起邪見・不説於外道妙戒・不損害無利益衆生。 
【因果応報】善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受ける。 
因果応報という言葉は、原因があって必ずそれに応じた結果が伴うということ。この言葉を良い方の意味では使わないが、そうではない。七佛通戒偈に「もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を行え、それが仏の教えである」釈迦も言っているように、仏教とは簡単な教えであるが、守ること行うことは大変難しく、善因善果、悪因悪果である。米の種を蒔けば、米の芽が出て、米の花が咲き、穂がなる。すばらしい種を蒔けば、良い芽が出、良い花が咲き、良い実が結ぶ。それは自然のことわりで、人間だけが逃れられるものではない。良い種を蒔くも、悪い種を蒔くも・・・。
 
【御祓】神社で出す厄除けのお札。特に伊勢神宮で八座置神事の祓をして毎年全国の崇敬者に配った大麻やお札。 
【御祓箱・御払箱】中世〜近世にかけ伊勢の御師が毎年檀那に配ったお祓のお札、薬種、暦などを入れた箱。 
御祓箱・御払箱 使用人を解雇する。不用品を捨てる。 
【札納】その年に受けたお札を歳末に神社などに納める。祈願によって受けたお札を念願成就の際などに返納したり、霊場めぐりの巡礼などが参拝のしるしとしてお札を納めたりすること。 
【護符】神仏の加護がこもっているという札。お札。おまもり。まもり札。護身符。護摩札。ごふう。
   
【神符】神社や寺で出す護符。災難をはらい幸福を祈るために神棚などに安置したり門口にはったりする。お札。お守り。 
【札・簡】ある目的のために必要な事項を書き記した小さい木片・紙片・金属片など。高札。制札。禁札。神仏の守り札。お札。おまもり。質札。入場券。木戸札。乗車券。鑑札。手形。花札やカルタやトランプ。 
【札板】木の守り札。寺社の祈願のお札を何枚も張り重ね柱などに掛けて置くもの。 
【古札納】年末に年初にうけた寺社のお札を寺社に返納すること。 
【護摩】密教の修法の一つ。不動明王または愛染明王の前に護摩壇を設け護摩木を焚いて息災、増益、降伏などを祈る。 
護摩の灰 密教で護摩を修する時に焚く護摩木などの灰。旅人を装い旅客の金品を盗み取る者。 
護摩を焚く 護摩の修法を行う。 
【護摩札】護摩をたいて仏に祈りその仏の霊験を宿らせた札。 
【護摩木】護摩にたく木。壇木と乳木の二種がある。
 
【愛】(あい) われわれは、愛を絶対・至高のものと考えがちである。キリストは「汝(なんじ)の隣人を愛せ」と言い、孔子の説いた「仁」もまた愛であり、テレビは「愛は地球を救う」と叫ぶ。しかし、彼らと違って、釈尊は愛は苦だと説き、悟りへの障碍物と教える。 
釈尊は、妻をすて、子をすて、家をすてて出家の道に身を投じた。それはまた愛を切りすてることでもあった。愛は深ければ深いほど、切りすてる時の苦悩もより強い。その強い苦悩を知っているからこそ釈尊は愛を苦ととらえたとも考えられる。 
また愛という言葉自体は本来すばらしい言葉ではあるのだが、われわれ凡夫(ぼんぶ)の愛の裏側には、常に区別の思いが隠れている。わが子を愛する心の裏には、わが子とよその子を区別する心があるように、何かを愛するという心の裏には、別の何かは愛さないという心が潜んでいる。愛国心という言葉が時として危険性をはらむのはこのためでもある。そしてこの区別する心は、すぐに区別したものに対する執着の心を生み出す。この執着を背景に持つ愛は、単なる己の欲望充足のための愛である。 
そもそも仏教でいう愛とは、トリシュナーの訳語で、欲望の充足を求める「渇愛(かつあい)」をいう言葉である。こういう凡夫の愛こそが悟りへの障害でもあり、円覚経(えんがくきょう)という経典にいう「輪廻(りんね)は愛を根本と為す」の愛なのである。輪廻を脱するために、言いかえるなら、解脱(げだつ)のためには障碍となるような愛、釈尊自身こうした凡夫の愛を切りすてることによって、より大きな深い愛へ近づこうとしたのかもしれない。 
たとえば飢えた獣の前に我が身を投げ出したという、本生譚(ほんじょうたん)に語られる愛。けして自己の欲望充足のためではなく、生きとし生けるものに広く等しくそそがれる絶対平等、無差別の愛、「仏の慈悲」と名づけられたこの愛こそが、釈尊が求めた愛であったのだろう。 
また善人のみならず悪人にこそ往生の可能性があると説いたわが親鸞の、その背景にある「愛」も、この愛であったように思われてならない。 
【悪魔】(あくま) 矢のような尻尾を持つ黒い恐ろしい生き物。西洋の絵画に慣れ親しんだ私たちがもつイメージは<サタン>としての“悪魔”ですが、仏典に記された“悪魔”は、<マーラ>の訳語であり「いのちを奪うもの」という意味となります。 
「いのちを奪う」とは恐ろしいことですが、そうはいっても、むやみやたらといのちを奪うわけではありません。 
「道がさかんであれば魔もまたさかんになる、といわれるように、仏道修行においては、かならず魔の障難がそなわっている」(「西方指南抄口上本」)これは法然上人のお言葉です。つまり、仏道をこころざし、真実に目覚めることを「我がいのち」と選び取った者だけに、「そのいのち」を奪おうとして悪魔は現れてくるのです。「真実なんて、もう、いいよ」「こころざしなんか捨てて、楽しくやろうよ」と。 
でも、そこで「こころざし」を奪ってしまえば、悪魔の仕事は終わったわけですから、仕事をなくした悪魔は消えるしかありません。悪魔が消えたということは、「こころざし」も消えているのです。はたして、それでいいのでしょうか。 
実は「君の立てた、そのこころざしは本物か」と、「こころざし」の確かさを問うところに、悪魔は、悪魔としての仕事の本領を発揮するのです。だからこそ「こころざし」も自らを確かめ、悪魔の仕事を打ち破ることで、いよいよ「こころざし」そのものを深めていくのです。悪魔がいきいきと活躍する世界、それは、こころざしがいきいきと躍動する世界なのです。 
【ありがとう】 “ありがとう”普段なにげなく使っている、お礼の言葉。これも語源は「有難し」という仏教語である。出典は「法句経(ほっくきょう)」の、「ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし」である、と言われている。人と生まれた生命の驚きを教える教説である。だから「有り難し」とは、その仏説を聞き、人の生命の尊貴(そんき)さへ目覚めた、大いなる感動を表す言葉でもある。それがいつしか感謝の意に、転用されるようになったのである。先人のこのような宗教的心情を想う時、日本語の中でも、特にすぐれた美しい言葉であると思う。 
【暗証】(あんしょう) キャッシュカードやクレジットカード、買い物によってポイント(点数)を貯めるカードなど、数えると何十枚にもなるカードが、財布やバッグの中をにぎわせている方も少なくないでしょう。またカードの種類によっては、本人であることを証明するための暗証番号(四桁の数字)が必要なものもあり、これがなかなか厄介です。なぜならその番号を忘れてしまうと本人ですらそのカードが使えなくなったり、他人に読まれて不正に使われることにもなるからです。 
ところで、仏教語の中に「暗証の禅師」という言葉があります。「暗証」の<暗>とは<くらい>、<証>とは<さとり>、すなわち「坐禅ばかりしていてさとりにくらい(教えの理解に乏しい)禅僧」のことをそう呼ぶのです。ですから、現在私たちが、暗証番号という言葉でイメージするような、「自分であることを暗に証明する」という意味での暗証とは、かなり違いがあります。 
ただ、仏教語としての「暗証」は、必ずしも禅僧に限ったことではないように私には思えます。というのは、ちょっと聞きかじっただけで教えを理解したと思い込んだり、自分一人の狭い殻に閉じこもってしまうような心は、私たち一人ひとりの中にもあるからです。そして、そのような自分の中の暗い心を教えによって照らしてくれるのが仏法です。 
実は私も、忘れっぽい性格のせいか、自分の暗証番号をうっかり忘れてしまい、あわてたことがあります。それはひょっとすると、教えの理解に乏しい「暗証」な自分を忘れてしまっていたせいだったことが原因…?というのは、考えすぎですよね。 
【一大事】(いちだいじ) 1999年の自殺者は33,000人だそうです。そのうち7割が男性で、女性の自殺者数は減少しているけれど、男性は増えつつあるということです。これはまさに現代の「一大事」のように思われます。 
自殺の動機は千差万別だと思われます。経済苦・病苦・人間関係苦等々だそうです。生と死のギリギリのところで、死の方を選んでしまったということでしょう。その選択を他人がどうこう言える筋合いはないと思います。ただ、その生と死のギリギリの選択のときに、「生」の方に重心が移るような手だてはないものかと思います。まあ果たして生の方が絶対によいのだという保証もないのです。しかし、とりあえず今は死に重心をあずけるのではなく、生の方に少し多めの重心をかけておこうという心の構えがつくれないものでしょうか。 
蓮如上人は「後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」(「白骨の御文」)と語られています。この「後生の一大事」を私は「浄土に人生の最終的な結論がある」と受けとめています。つまり、これをひっくり返せば、この世に人生の結論はないということになります。あくまで、過程(プロセス)であって結論ではない。人生の様々な出来事・事件があっても、それを結論としない。この命が終わるときに人生の最終結論は出るのだと受けとめれば、生きることに幾ばくかの余裕が生まれてくるように思えます。 
【一蓮托生】(いちれんたくしょう) 「一蓮托生」とは、死後、浄土に往生して同一の蓮華に身を託すこと、と辞書にあります。最近では「死んでまでも一緒にいたくない」と、お墓を別にする人も増えています。そういう人にとって「一蓮托生」はありがたくないでしょうし、反対に、死んでも一緒にいたいと思う人にとっては「願ってもない」言葉となるでしょう。でも、どちらも間違っているのです。浄土は、私たちの願望を膨らませて実現した世界ではないからです。私たちの直接的な願望を親鸞聖人は「愛憎」と表現されています。その愛憎のままで「一蓮托生」すれば、ヤケクソで運命を共にする意味にしかなりません。運命という言葉を使うならば、私の都合に先立ってすでに運命を共にしているのが私たちの「いのち」の事実です。しかし私たちはその事実に暗いため、愛したり憎んだりしながら身勝手な都合のいい生き方に「いのちの満足」を求めているのです。愛憎を膨らませていく私たちの未来には、本当にこの「いのち」を生ききったという満足は生まれません。むしろ、私たちの都合、愛憎が、いのちに背く罪として照らされてこそ、いのちは本来のみずみずしさを取り戻すのです。「一蓮托生」は、愛憎をくり返すしかない私たちの生が、愛憎を超えて未来に一つの華となって開くことが托されている生であることを、今ここに指し示す教えの言葉なのです。 
【有頂天】(うちょうてん) 志望校に合格できて大喜び。仕事の功績が認められ昇進も果たし鼻高々。結婚式、この日ばかりは二人は大スター、幸せの絶頂。わが子ほど可愛い子どもはどこにもいないと溺愛状態。宝くじにヤッタヤッタの大当たり。だいたい、こういう状態を一般的には「有頂天」といいますね。 
人生における最高の喜びでしょう。しかし、この人間においての最高の喜びを表す「有頂天」は、仏教においては最高の迷いを表す言葉なのです。確かに「有頂天」とは、色究竟天(しきくきょうてん・色界の第四天)とか、非想非非想天(ひそうひひそうてん・無色界の第四天)とかいわれて、精神世界の最も高い位を表す境地です。この境地がなぜ仏教では迷いだといわれるのでしょうか。 
それはこの「有頂天」こそが、万人共生の大地(いのちのつながり)から離れて、自分ひとりだけ高きに昇ることを善しとする生き方だからです。つまり、すべてのかかわりを閉ざすことによって、大安心を得る世界であるから、それは迷いだと仏教ではいうのです。 
その意味では、さまざまな現実問題に関わることもしないで、有頂天の世界に大安心して、見ない、聞かない、言わない、と傍観者を決め込む生き方が問われます。 
【縁起】(えんぎ) 「縁起」は仏教語の中で私たちに誤解されている言葉の筆頭です。例えば、朝一番のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい。結婚祝は大安の午前中に持っていくと縁起がいい。病院にお見舞いに行くときは、鉢ものの花は根(寝)付いて縁起が悪いから切り花にするといい。などなど、数えたらきりがないほどです。 
しかし、もともと縁起は、因縁生(いんねんしょう)とも縁生(えんしょう)ともいうように、全ての現象・事物は何一つそれ自体で成り立つものではなく、無数の関係(縁)によって生じていることを表すものです。だから、私たちが平生に、縁起がいいとか縁起が悪いとかと言っているのは、そういう存在の絶対的現実に対して、自分の都合に合うものは縁起がいいと言い、都合の合わないものは縁起が悪いと言っているということなのです。 
それらは仏教でいう縁起の語を誤解して用いる使い方です。縁起とは、私の存在は、縁起として存在するのであって、私という一個の人間がそれだけで存在するのではなく、ありとあらゆるものとの繋がりの中で存在していることを表すものです。私たちの相互共存するいのちの事実を言い当てている言葉です。 
このような縁起が指し示す豊かないのちの世界に目覚めるならば、同時多発テロ、それに続くアフガニスタンへの武力攻撃に象徴される戦争などが、いかに人間の縁起的な存在であることを無視し、断ち切るものであるかを知らされることでしょう。縁起はそうした私たちの閉鎖的、独断的な生き方を問う、仏陀が目覚めた真理の法なのです。 
【往生】(おうじょう) かつてNHKの大河ドラマで、「源義経(みなもとのよしつね)」が放映された。内容はともかく、弁慶の壮烈な死は、妙に脳裏に焼きついている。あの弁慶の"立往生"から連想されるのか、現代では、往生は困りはて動きがとれない様子をいうか、人の死を意味する。それは浄土を死後に夢み、そこへの往生を考えるからであろう。しかし親鸞は、「信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(末燈鈔)と、今の往生を語る。自我(じが)を中心とした自分の都合を生きるのではなく、浄土の真実に照らされ、賜(たま)わった命に目覚めて浄土の真実を生きていく人生、その宗教的自覚を、往生浄土というのである。 
【億劫】(おっくう) 「億劫」と書いて「おっくう」と読みます。ただしくは「おくこう」でしょう。それが俗語化したようです。もともとは仏教語で、「百千万億劫のこと。無限に長い時間。永遠」という意味です。それが現代では、「気が進まず面倒なこと。面倒に感じられるさま」に使われています。まったく「おっくう」な話です。現代は「忙しさの時代」です。小学生でも、お互いに遊ぶときにはアポイントメント(予約)をとるそうです。アポなしでは、遊ぶこともできません。まして大人社会では、予定の入っていない日がないくらい忙しい。日曜日すら予定が入っています。まったく生きること全体がオックウな時代になりました。「洗濯もしなきゃ、銀行へもいかなきゃ、買い物をして、次に郵便局にいって…」と考えるとオックウだなぁと思います。たくさんの仕事を前にして人間はオックウだと感じます。しかし、よく考えてみると人間にできることは、目の前にあるたったひとつのことです。手を動かす、足を運ぶ、耳で聞く、眼で見る。オックウと感じているのは「思い」です。「思い」は同時にいろいろなことを考えます。あれもこれもと考えます。しかし、実際にしている行為は目の前のたったひとつのこと以外にはないのです。私は「思いは抽象・体は具象」といっています。何が人間をオックウにさせるのかといえば、やはり「オックウという思い」なのです。たったひとつの行為の連続以外に生きるということはありません。この「思い」と「行為」の峻別こそが、生の新鮮さをたもつ秘訣だと思います。
 
【開発】(かいほつ) 仏教で用いられる開発(かいほつ)は、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開きおこし、まことの道理をさとることを意味する言葉です。それが現在では開発(かいはつ)と呼ばれて一般化しています。そういう使われ方は、かなり古い時代から、たとえば「新田開発」などのように使われています。人の手が入っていない原野などの未開地を新しく開墾する際に使われたのでしょう。 
明治以降は、それがより大々的に「北海道」開発、「満蒙」開発、地域開発などという極めて政治的な、時として侵略的な国家プロジェクトとして開発(かいはつ)の言葉は一世を風靡しました。戦後の高度経済成長期においても、私たちの現世的な幸福の代名詞として使用されてきました。 
しかし、仏教でいう開発(かいほつ)は、そういう開発(かいはつ)とは全く違って、たとえば、日本の場合でいえば、アジアの自然と労働力を踏み台にし、人間としての豊かな感性まで見捨てて生きる、ある意味での開発(かいはつ)至上主義者として突っ走る私たちを根本から問う言葉です。 
いまアジアの仏教者の中には、仏教が明らかにする万人共生の大地に目覚めて、社会のあらゆる問題(貧困・環境・エイズ問題等)に関わりをもち物心両面の開発(かいほつ)に取り組む開発(かいほつ)僧、尼僧が活躍しています。 
【我慢】(がまん) 胴上げが、合格発表の場面などでよく見うけられます。(遊びたい気持ちをよくガマンして勉強したね、おめでとう)。「我慢」のもとの意味は、実は「胴上げ」が象徴しています。「慢」という字は「思い上がりの心」を示しています。どのように思い上がるのかというと、我というものにこだわって、自分で自分を胴上げ?するのです。みんなから胴上げされるのと違って、ちょっと寂しいすがたです。 
仏教は諸法因縁生(しょほういんねんしょう)を説いています。すべてのことはお互い因となり縁となりながら、深く関係しあって存在しているということです。そこに私たちを支えている大地があります。しかし、その諸法因縁生を無視すれば、自分を支える大地をも失ってしまい、あとは自分で自分を支えるしかありません。自らを高く挙げる(高挙)ことによってしか生きることができないと思い込んでいる私たち。我慢とは、諸法因縁生に暗いという「根本的な迷い」を生きる私たちのすがたを指し示しているのです。 
たとえどんなに謙虚でガマン強い人でも例外ではありません。わたしたちは、仏の言葉をとおして、諸法因縁生という大地の存在を知らされることがない限り、永遠に自分で自分の胴上げをしていくことになるのです。 
「猶(なお)し大地のごとし、浄穢(じょうえ)・好悪(こうお)、異心(いしん)なきがゆえに」。大地を知らされ、自らの胴上げから解放された仏弟子たちの感動の言葉です。 
【祇園】(ぎおん) 花のかんざしだらりの帯に、ポックリをはいた舞妓さんが歩くベンガラ格子の街なみは、京都の祇園ならではの風情である。田舎から京都に出てきた私には、舞妓さんは憧れの的であったが、今だに祇園街には縁がない。祇園といえば、今では多くの人が、京都の祇園かあの絢爛(けんらん)たる八坂神社の祇園祭を想うのではなかろうか。 
しかし、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と「平家物語」の冒頭に出てくるように、この祇園精舎は、インドのお釈迦様が覚りを開いた後、最も多くとどまって説法された場所の名前である。 
伝承によれば、舎衛城(しゃえじょう)の長者・スダッタ(給孤独・ぎっこどく)が、帰依(きえ)したお釈迦様に僧院を寄進しようと、その土地を捜した。そしてジェータ(祇陀・ぎだ)太子の所有する土地が理想の場所であると定めた。ところが、太子はその土地を長者に譲ろうとしないばかりか、たとえ金貨を大地に敷しきつめてもここを譲らぬ、というのである。それを聞いたスダッタが、この土地に実際に金貨を敷き始めると、太子は、彼のお釈迦様に対する帰依の深さに感銘を受け、その土地の喜捨(きしゃ)を申し出たのである。そればかりか、僧院の建築に必要な材木(祇樹・ぎじゅ)をも寄進し、ここに、太子と長者が共同でお釈迦様に捧げた精舎が、建立されたのである。インドでは雨季、教化に歩くことができないため、お釈迦様は一箇所にとどまって説法された。それを安居(あんご)というが、お釈迦様は、ここで二十五回もの安居を行ったといわれている。多くの人々を救うための法が説かれたこの精舎は祇陀太子と給孤独長者の徳を偲び、二人の名前にちなんで祇樹給孤独園精舎(祇園精舎)と、呼ばれたのである。 
京都の八坂神社は、明治四年の神仏分離令までは、この祇園精舎の名を取って祇園感神院と呼ばれる比叡山延暦寺の別院であった。それが八坂神社と改名されたが、その祭礼は祇園祭と呼ばれてその名を残し、その門前町が祇園として残ったのである。今では、その祭りや街の名前だけが、京都を代表するものとして残ることとなったのである。 
【快楽】(けらく) どう見てもこれは、「快楽(かいらく)」としか読めない。ついついエッチなことを想像してしまいます。しかし仏典では「快楽(けらく)」と読みます。字引には、「安楽。永遠のたのしみ。浄土のたのしみ」などとあります。また「仏説無量寿経」には「すでに我が国に到(いた)りて、快楽安穏(けらくあんのん)ならん」と記されています。 
先日、お葬式で亡くなられた方のお顔を拝見しました。すると実に安らかな寝顔のようなお顔でした。私は、これが本当の安楽かもしれないと感じました。なぜなら、もう二度と起きなくてよい、働かなくてよい、食べなくてよい、争わなくてよい、病院に行かなくてよい、勉強をしなくてよいのですから。この世の楽には、やはり限りがあります。食欲や性欲や物欲は限界があります。眠っているときでも内臓や意識は動いていますから、どこかに緊張があります。 
やっぱり本当の意味の楽とは、この世を超越していくところにあるようです。私たちは「一寸先は闇だ」といいます。つまり、「一寸先は死」だと。しかし、一寸先にこの世を超越できる出口があるということは幸せでしょう。一寸先に安楽への出口があるからこそ、この世を生きてみようかという意欲も湧いてきます。もしこの娑婆(しゃば)の生活に終わりがなく、永遠に続くことを考えるならばゾッとしますね。 
【玄関】(げんかん) 玄関のない家はないでしょう。玄関はどのお宅にもあります。しかし、「玄関」はもともと仏教語だったのです。もとの意味は「玄妙(げんみょう)な道に入る関門」です。つまり悟りへの関門ということです。 
玄関は内と外を分ける扉です。外へ出ていくところであり、外から内へ入るところです。出ることと入ることの両方を成り立たせる場所が玄関なのでしょう。出るだけの玄関もありませんし、入るだけの玄関もありません。入と出を共に成り立たせることが「玄関」のはたらきなのです。 
親鸞聖人の著書に「入出二門偈頌文」があります。"入門と出門の二つのうた"と読めます。しかし、これは「入る門」と「出る門」の二つの門があるということではないように思います。むしろ、ひとつの門に二つのはたらきがあるといっているのでしょう。つまり「浄土へ入るはたらき」と「浄土から出るはたらき」のふたつです。 
そういえば、「この世」を超え出る宗教はたくさんありますね。「この世」を超え出て「あの世」なる世界へ行く。しかし「あの世」で止まってしまいます。もう一度「あの世」を超えるという課題が残ります。「ブッダのことば」(岩波文庫)には「この世とかの世をともに捨てる。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるようなものである」(下線筆者)と繰り返し語られています。「この世とかの世をともに捨てる」という<永遠の課題>が大切に思われます。 
【金輪際】(こんりんざい) 「金輪際、悪いことはいたしません」。この「金輪際」という言葉は仏教語だったんですね。辞書によると、私たちが暮らしている大地の最下層の底のことだそうです。 
私たちが「金輪際○○○」と言うときには、もうこれより他はないという決意や決断を含んだ意味合いで用います。私にはこの「金輪際」という言葉が、親鸞聖人のいわれる「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」の「地獄」と同じような意味に聞こえてくるのです。この地獄より下はない。地獄の底に堕ちてしまえば、そこが安心の大地なのだよと聞こえてきます。 
お正月に神社でおみくじを引いたひとがいます。大凶だったそうです。彼は「いまが大凶なんだから、これからはよくなるいっぽうだ!」「おみくじの中から数少ない大凶を引き当てるのは、逆に幸運なんだよ!」と強がっていました。彼ばかりでなく、誰しも大凶がいやなんです。この大凶の正体を突き詰めてゆくと、生老病死に行き着きます。 
しかし、人間はこの世に生まれたとき「生と死」を同時に手に入れているのです。誕生は生だけでなく死も生み出してしまうのです。そういう意味で人間は、すでに「生まれる」という大凶のおみくじを引き当てているのです。それも決して吉に転ずることのない大凶です。もともと出発点が大凶なのだから、吉の夢に破れることもないのでしょう。ここに「金輪際」おみくじに頼らなくてもよい、生きる勇気があるように思います。 
 
【三蔵法師】(さんぞうほうし) 孫悟空を主人公とする「西遊記」は、テレビドラマやマンガになるほど日本人にもなじみの深い物語であるが、この「西遊記」に登場する三蔵法師、「三蔵」というのを、僧侶の名前だろうと思っている方がおられるかもしれないが、これは決して名詞などではない。歴史上、三蔵法師は決して「西遊記」の三蔵一人ではない。 
そもそも「蔵」とは、サンスクリット語の「ピタカ」の漢語訳で、仏教に関するさまざまな文献の「集大成」を意味する。「三」というのは、それらの文献を「経・律・論」の三種に分類したものを言う。そしてこの「経・律・論」の三蔵を翻訳した高僧のことを三蔵法師と呼ぶのである。 
その三蔵法師の中で最も著名な、そして「西遊記」のモデルともなった玄奘(げんじょう)は、唐の貞観3(629)年冬に長安を出発し、西域の諸国を巡めぐって印度にまで至り、多くの仏像や経典を携えて長安に戻り、その後多くの訳経を行ったと伝えられている。 
当初、玄奘は何人かの同志と印度への歴遊を望んだが、当時の唐王朝はこれを許さなかった。仲間たちが一人二人と去るなか、当時28歳の若き玄奘は、ただ一人禁令を犯してまで印度へ向かったのである。過酷な自然を乗り切る肉体的な強さは言うまでもないことだが、むしろそこまで玄奘を駆り立てた「求法(ぐほう)の思い」と強靱な精神力にこそ、われわれは驚愕を感ぜずにはいられない。 
そして彼がもたらし、訳出した数々の典籍(てんせき)、それこそはとりもなおさず「三蔵」であったのだが、この玄奘の訳出した「三蔵」こそは、後の人々の求法の道しるべともなったのである。現在も玄奘の訳出した「三蔵」の多くは、大蔵経(だいぞうきょう)などによってわれわれも眼にすることができる。言ってみるなら「三蔵法師」という呼び名は、単なる訳経僧ではなく、自らも求法の精神に溢れ、人々にもその依るべき手がかりを示した玄奘にこそ最もふさわしいものであろう。そう考えると「三蔵法師=玄奘」と、人々が思うのも納得できよう。 
玄奘と、そして「三蔵」の典籍に込められた求法の精神は、ぜひ後世へと受け継いでゆきたいものである。 
【三昧】(さんまい) 世間では「釣り三昧(ざんまい)」「読書三昧」「ゴルフ三昧」等々、何かに夢中になっている状態を「〇〇三昧」といいます。三昧とは、もともと仏教語で「何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ること」という意味だそうです。このようにいわれると、なんだか自分とはかけ離れたことのように感じます。しかし、もっと身近なことのようにも思えます。 
「物忘れ」は老化現象ではなく「三昧」のなせるワザではないかと最近気づいたのです。冷蔵庫までやって来て、扉を開けて、「ええと?何を取りにきたんだっけ?!」となる。これは普通「老化現象」で、歳のせいにされてしまいます。しかし、そうとばかりはいえないと思います。私たちの頭はいつも留まることなく動いています。身は一カ所に留まっていても、思いは留まっていません。ですから、冷蔵庫にビールを取りにいこうと思って、歩いている間に、頭は勝手につぎの思いに展開しているのです。ですから、実際に身が冷蔵庫に到着したときには、思いはそこにないわけです。それは「老化現象」でなく思いが深く「三昧」の状態にあるからこそ、身と時間差が生まれてしまうと解釈したらどうでしょうか。頭は身と異なり同時に二つのことをやるのです。見ながら考える、食べながら考える、話しながら考える。そういう意味では、頭はいつも「思考三昧」に入っているといえそうです。思考は思考自身のシステムによって動いています。自分の自由になるものではありません。 
【四苦八苦】(しくはっく) 大変な目にあったとき、「四苦八苦しましたよ」と言います。 
この何か難儀したときに使われる「四苦八苦」は、「人生は苦である」という仏教の基本的な存在認識を表す言葉です。この苦からの根本的な解放を求めたのがお釈迦さまです。 
実に仏教は苦の認識から始まります。それが四苦八苦という整数で表されているのは、仏教が人間の苦を感覚だけではなく、存在の構造として受けとめているからです。 
まず前半の四苦とは、生老病死(しょうろうびょうし)の四つの苦のことです。生まれて老いて病み死んでいく人間の人生全体を苦と認識することです。では、なぜそれらが苦なのでしょうか。それは、生老病死それぞれが、私の意識の上において矛盾対立するからです。例えば、若くありたいと望んでもやがては老いていきます。長生きしたいと願っても、縁が尽きたら死ななければなりません。しかし、実は私たちにとって都合の悪い老病死こそが生きていることの実質なのです。 
後半の八苦は、そのことをもっとはっきりと言い当てています。八苦は先の四苦と、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)の四苦を合わせたものです。例えば、愛別離苦とは愛する人と別れていく苦、怨憎会苦とは嫌な人と出会っていく苦です。まさしく矛盾対立する姿そのものです。 
しかし、私たちが生きるとは、そういう苦悩する人生を生きることなのです。その意味では、仏教は私たちを苦悩から逃避させるのではなく、苦悩の正体に目覚めさせ、苦悩する人生を引き受けて立ち上がらせていく教えなのでしょう。 
【邪見】(じゃけん) 季節は冬から春に変わっても、人の世は相変わらず、身も心も寒々となるような事件が続きます。この数年来、全国的な規模で問題になっているものに幼児虐待があります。抵抗する術(すべ)を持たない幼児を折檻(せっかん)し、時として死亡させる事件です。こういう事件を伝えるマスコミ報道に接しますと、私たちは「なんて邪見(邪慳)なことをするのか」と憤慨して、加害者を裁き、詰(なじ)ることとなります。それはそれで当然なことなのでしょう。 
しかし、このような場面で登場する仏教語としての邪見は、ただ事件の加害者を一方的に批判するだけの言葉ではありません。事件を傍観し評論して、正義の立場に立って加害者を裁き、詰る私たちをも問う言葉です。 
その意味では、邪見とは、私たち人間の自己中心性を問い、その歪(ゆが)み、傾きを糺(ただ)すことばです。相手を非難することばではありません。それは仏陀(ブッダ)の智慧(ちえ)、それを正見(しょうけん)といいますが、そこから照らしだされた、人間の迷いをこそ明らかにするものなのです。 
だから、幼児虐待の問題でいえば、因縁所生(いんねんしょしょう)のいのち、つまり、あらゆる縁に因(よ)っていただかれたいのちを私有化することも、切り棄てることもできないことなのです。加害者はもちろんのこと、加害者を責めるものも同一に、因縁所生のいのちに疎(おろそ)かであることが邪見から問われているのではないでしょうか。 
【邪魔】(じゃま) 「おじゃまします」という言葉がありますが、これを漢字で書くと「お邪魔します」となります。「邪な魔」と書くんですね。まあ、自分のことを悪魔だと思っている人はほとんどいないでしょうし、逆に自分の周りに「邪魔な人」がいたり、「邪魔な物」があって困っている人はたくさんいるかもしれません。まして、「お邪魔します」という挨拶の返事に、もしも「おっ、邪魔者が来たぞ」なんて言われることがあったとしたら、びっくりしますよね。 
ところが、本来「邪魔」という言葉は、お釈迦さまの修行を妨げる“心の悪魔”を意味するものでした。仏教を説かれたお釈迦さまにとっても、自分の心の中に潜む魔(煩悩)の解決は、大変な問題だったのでしょう。 
世の無常に悩まれて出家されたお釈迦さまは、六年間の修行生活を捨てて、菩提樹の下にお座りになり、人間の苦悩の原因である心の闇(無明)をうち破り、さとりを得られました。それゆえに宗祖親鸞聖人も、お釈迦さまの教えを「無明の闇を破る智慧の光」(「教行信証」)であると讃えておられるのでしょう。 
そういう意味では、「邪魔」は私たちの外側にあるのではなく、私たちの心の内側、つまり、自分の都合で「邪魔な人」や「邪魔な物」を作りだしてしまうような、真実とはかけ離れた生き方をしている、私たち自身の暗い心のことをいうのです。 
とは言うものの、ついこの間、仕事から家に帰り、楽しそうに絵をかいて遊んでいる2歳のわが子に近づいて言われた言葉は、「お父さんは邪魔よ…」。現実は厳しいものですね。 
【受持】(じゅじ) 卒園式、幼児の名前を読み上げる担任の先生の声がふるえ、目には抑えきれない涙が浮かぶ。短い期間ではあったが、ともに歩み、いっしょに遊び、感動を共有してきた子どもがいま、すっかりたくましくなり、ちょっぴり生意気にさえなった成長ぶりに、あらためて感激するのである。 
幼稚園の先生が受け持った幼児たちに対する責任感は大変強い。子どもの個性をよく見つめ、ふさわしい発達を願うのである。担任としての義務感からでなく、一人ひとりの行動に日々感動しながら、子どもと向き合って応対している。そして担任クラスの子どもだけでなく、幼稚園にいるすべての子どもにも同じように向き合っていくのである。 
幼稚園はいうまでもなく保育や教育に明確な目標をもつ学校である。先生は保育指導に携わり、いつも子どもと時空を同じくして、遊びという活動を通じて、目標を達成しようとしているのである。先生は一方的な指導者でもなければ、子どもの遊びを打ち壊す監視員でもない。幼児教育の場はまさに子どもと先生とがともに生き、ともに育つところなのである。 
「受持(じゅじ)」とは、仏教で、仏の教えを受けて心に念じて持ち続けることであり、また戒法(かいほう)を受け保つこととも理解されている。常に仏の教えに導かれて自らの行動を律するように心がけることと考えられよう。 
担任教諭はときに受け持ちの先生と呼ばれるが、実のところ、何を受け持つのであろうか。確かに保育を担い、子どもたちの生活を律し、教育指導を行うのであるが、その前に受持すべきことがあると思う。 
保育や教育のどんな場面でも、仏教が教えるように、人間を真摯に見つめ、いのちの尊さを第一に考えることである。子どものいのちが育まれ先生もまた生かされるよう、人間への温かなまなざしを受持してなお行いをいつも実践の場で確かめ直していきたいものである。 
3歳児がいっそう多くなった新学期、今日も幼稚園はしばしの喧騒(けんそう)につつまれ、歓声と悲鳴と泣き声の渦の中に、子どもたちと一つになった受け持ちの先生の姿がある。 
【精進】(しょうじん) 最近、肉や魚を使わない精進料理がちょっとしたブームになっています。季節の野菜やお豆腐を使った精進料理は、飽食時代ともいわれる現代社会の中では、ヘルシーでしかもダイエットにも効果的な食事として人気を集めているようです。 
この「精進」という言葉は、お釈迦さまが初めて行った説法とされている「八正道」(八つの正しい道)という教えの中で用いられた言葉です。「八正道」には、私たちが歩むべき八つの道である「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」がありますが、それぞれの「正」とは「正しい」、「精進」とは「努力」を意味します。ですから、「正精進」とは「正しい努力」と解釈できるわけです。 
しかしながら、この「正しい努力」とは具体的にどのような努力なのかが、いま一つピンときません。というのは、私たちが自分で正しい努力だと思っていることが、他人にとっても正しい努力になるとは限らないからです。 
実は「八正道」という教えで説かれている「正」とは、結果や損得を優先してしまうような私たちの身勝手な判断基準による正しさではなく、お釈迦さまの教えをよりどころとした偏りのない正しさのことをいうのです。もっと言うと、結果や損得に振り回される必要のない自分を、その教えを通して見つけ出していく歩みを「正精進」というのです。 
価値観が多様化している現代社会にあって、身体にも心にも偏りのない正しい精進料理が、正に必要なのかもしれません。 
【世界】(せかい) 「世界」という言葉は、ワールドの翻訳語として受け取られている場合が多いようです。一般用語として使われていますから、これが仏教語だったとは気づきませんね。古代インドでは、想像上の須弥山という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。 
しかし仏教では、「ひとりの人間には、ひとつの世界がある」と教えます。ひとつの大きな入れ物のなかに、地球や世界があるという考え方は世間的です。宗教的には、ひとりにひとつの世界があるというのです。つまり、自我というものを国王として、見渡す限りを自分の領土(世界)として固執しようとするのです。自分に関係の深いものを近くに置き、関係の浅いものを遠くに置くという「自我の遠近法」をもって暮らしています。ひとりの人がここにいれば、そこにはひとつの固有の世界があり、別の人がいれば、また別の世界を持って生きているのです。百人いれば、百の世界が存在しているわけです。 
ですから、ひとりの人間の死は、ひとつの世界の消滅でもあるのです。私たちはたったひとつの世界に住んでいるのだと思い込んでいるだけです。実存的に見れば世界は重層的に重なっているのです。その固有の世界をどのように創造してゆくのかということが、大切な課題となってきます。法蔵菩薩がさまざまな世界をご覧になって、独自の本願の世界を創造されたように、私たちひとりひとりも永遠固有の世界を創りあげてゆかなければなりません。創造とは大それたことではありません。この一回限りの<私>の生を「生きる」とういうことなのです。 
【世間】(せけん) 私たちは何かにつけて「世間」という言葉をよく使います。どんな意味で使っているか、少し考えてみましょう。何か困ったことがあっても、きっと誰かが手助けしてくれる。人間、そんなに捨てたもんじゃないよ。そういうことを「渡る世間に鬼は無し」といいます。最近では、全く反対に、薄情な世相を揶揄(やゆ)しているのでしょうか、テレビ番組に「渡る世間は鬼ばかり」というものまであります。 
そのほか、「世間体が悪い」「世間に顔向けができん」「世間の物笑いになる」というように、私たちの行動原理にまでなっているような使われ方もあります。 
いずれにしろ私たちが用いる世間はわが家、わが村、わが国というような非常に狭い範囲を指しています。そういう狭い世界を「これでいいのか」と問うこともなく、むしろ、その「世間」を絶対化し、同調し、その中に自分自身を埋没させていくこととなります。 
しかし、仏教で「世間」という場合は、衆生(しゅじょう)世間<生きもの>と器(き)世間<生きものの生きる環境>を指していますから、私たちが生きる世界全体を課題にする概念です。この世界全体を言い当てようとする本来の「世間」の言葉に立ち返って、私たち自身と世界のありようを考えてみる必要があるのではないでしょうか。 
【殺生】(せっしょう) 10月21日は何の日かご存じですか?アジア太平洋戦争後半、連合軍に追い詰められた日本は国家総動員法の下で、全ての国民を戦争に動員していきました。その中で、学業なかばの学生たちも、ペンを持つ手に銃剣をもち、戦地に向かいました。その最初の日が1943年10月21日です。3万人の学生が学徒出陣として召集されました。 
「そんな若い学生さんを戦地に送りだすなんて殺生な…」と言っても、それが歴史の現実でした。それこそ戦争という名の下に「殺生」な目に遭っていったのです。「殺生」とは一般的には「むごいこと、残酷なこと」という意味で使われますが、漢字の意味では、生き物を殺すことです。まさしく戦争とは殺生です。 
しかし、「殺生」されたのは、侵略戦争の被害者となったアジア太平洋地域2千万とも言われる人々であります。これらの人々への謝罪と、不戦の誓いは日本の永久の責務だと思います。ところで、「殺生」に「不」の一字をつけると「不殺生(ふせっしょう)」となり、文字通り、仏教語になります。仏教では、「不殺生」ということを全面に出して、人間としてのあるべき姿を明らかにしています。 
戒律(かいりつ)仏教においては、戒律の第一番目に「不殺生戒」が置かれています。これは、私は生き物を殺さないという誓いです。戒律とは誓いの実践です。しかし、戒律を立てない浄土真宗の仏教においても、人間を人間たらしめる原理としての阿弥陀の本願の第一番目には、殺し殺される世界としての地獄が課題とされています。地獄のない世界、それが浄土です。浄土こそ「不殺生」の世界です。本願が直接的に現わしている世界が「不殺生」なのです。だから、「不殺生」への願いは、浄土の願いです。もう二度と再び、「殺生」のために学生が戦争に動員されることのない世界を求めたいものです。 
【刹那】(せつな) 「刹那」という言葉を耳にすると、反射的に「刹那的な生き方」とか「刹那主義はダメだよ」と、否定的な言葉が連想されます。もとの仏教語としての「刹那」は「きわめて短い時間。瞬間。時間の最も短い単位」という意味で、決して否定的な意味合いはありません。まあ仏教語は、だいたい世間では肩身の狭い思いをしています。言葉の本来の意味とかけ離れた意味で使われているのですから。辞書には「刹那主義=過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるとする考え方」とあります。 
しかし、もとの意味に戻って考えれば「刹那主義」は案外、素晴らしい考え方だと思えます。言い換えれば「瞬間主義」あるいは「現在主義」です。「瞬間を本当に充実して生きる生き方」と言い換えてはどうでしょうか。「今(瞬間)だけよければ過去や将来はどうでもよい」という否定的な態度ではなく、「今(瞬間)がよくなければ過去も将来もよくならない」という積極的な態度です。私たちの生活の中で感じる「瞬間」が本当に充実しているとき、ひとは過去も未来も「瞬間」の中に包まれてあると感じられます。たとえば素敵な音楽を聞いて感動している「瞬間」のなかにすべてがあります。それが実感される「瞬間」でしょう。その実感からさめてしまって、「いま(瞬間)だけよければよいという考えはおかしい!」と批判するとき、人間は「考え」に呪縛されています。本当に「瞬間」が充実していれば、「瞬間」を成り立たせている過去も、そして未来も温もりをもって感じられるはずなのです。 
【善哉】(ぜんざい) “善哉(ぜんざい)”という食べ物は、甘党にとってはこたえられないものらしい。砂糖をたっぷり入れて、真赤な小豆に艶(つや)が出るほど煮込んだ甘い汁に、真白なお餅を浮かべた風情は、何ともいいもので、甘党でなくても食指を動かされるものである。しかし私のように酒を嗜(たしな)む者は、敬して近づかず、といったところであろうか。ともかく"善哉"というと現代では、ほとんどの人が、甘いそれを想像するであろう。しかしもとは、お釈迦様さまが、真理にかなっていることを讃(たた)える時に、"善きかな"とおっしゃられた言葉として、経典によく出てくるのである。日本のあの甘い食べ物とは、およそ関係がないようである。 
この“善哉”という言葉で第一に思われることは、親鸞聖人が一番大切にされた経典である「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」の教えが、この言葉から説かれることである。覚(さと)りを開いた仏弟子でなく未だ欲を離れることができない阿難(あなん)がある日、今日のお釈迦様は人間としてのお釈迦様と違って、我々を救うために、真如(理)から来てくださった如来としてのお徳で輝いているのはなぜでしょう、とその尊いお姿に驚いて問うのである。お釈迦様は、未離欲の阿難が、苦悩する一切の人々の深い悲しみを代表して、それを救う如来と仰いだことを喜ばれ、「善哉、阿難。問いたてまつるところ甚(はなは)だ快(こころよ)し」と、その問いを讃えるのである。そして今日こそ、お釈迦様が如来としてこの世へ出られた本当の意義を説く時が熟したと悦(よろこ)ばれ、その如来の究極の目的が、一切の人々を救う阿弥陀如来の本願(ほんがん)と南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を説くことにあったと、明らかにされるのである。阿難尊者(そんじゃ)のこの問いによって、お釈迦様の仏教が念仏として世界中の苦悩する人々を救う道となり、だからこそ同時にまた仏教があらゆる人にとって真理ともなったのである。その大切な仕事を果たした阿難尊者を、お釈迦様は"善哉"と讃えたのである。 
あの甘い“ぜんざい”を食べたお坊さんが、あまりの美味しさに驚いて、思わず“善哉”と叫んだところから、お釈迦様のこの意味深い言葉が、甘党にはこたえられない食べ物の名前となったのだそうである。 
 
【退屈】(たいくつ) 学校の教室から声が漏れてきます。「ああ、退屈や。全然おもしろくない」「おれも退屈や、何か暇つぶしないかな」 
現代の「退屈」は「ヒマで飽きあきすること」ですが、もとは「仏道修行の厳しさに屈し、退いてしまうこと」を意味します。「仏道に生きようと決心をした者が志半ばで挫折した。そのまま志を見失ってしまえば死んだも同然、あとはヒマで飽きあきした人生があるのみ」となったのでしょうか。この意味は日本で独自に展開したものだそうです。展開する意味の中に、幾多の挫折した先人のうめきが聞こえてくるようです。 
ところで現代は、「ヒマで飽きあきすること」すら許さないかのごとく、さまざまな情報が絶えず耳に流れ込んできます。疑問なしにその情報を追っていけば、次々と「したいこと」が反射的に湧き起こってきて刺激的な人生を歩むことができるのだと。もしかしたら、現代の日本では「退屈」の意味が「刺激的な情報が遮断された時」に展開してしまってはいないでしょうか。 
退屈の心は「自ら起こす」ものだと記されています。「自分のしなければならないことが見失われてしまった」と自らの起こす黄色信号が「退屈」なのです。「退屈」は、ヒマつぶしで解消させてはいけません。「退屈」そのものが「見失っている志を見つけなさい」と、自らの歩む方向を指し示しているのです。まず「刺激的な情報」から、大切な「退屈」を守らなくてはいけないのが現代のようです。 
【大衆】(たいしゅう) 近所に「大衆酒場」という暖簾(のれん)の飲み屋さんがあります。以前は流通していた「大衆浴場」「大衆芸能」「大衆文学」など、今ではあまり目にしなくなりました。この言葉はもともと仏教語だったようです。 
三帰依文(さんきえもん)には「僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(むげ)ならん」と記されています。まあ正確には「だいしゅう」と発音するのでしょう。仏教用語での「大衆」は仏法によって調和のとれた人々の集まりという意味です。 
ある先生が「私は一切衆生(いっさいしゅじょう)の中のひとりだが、同時に、一切衆生を代表するひとりでもある」と言われていました。大衆の中の一人だということになると、「その他おおぜいの中のひとり」という意味になり、なんだか元気が出てきません。「自分なんかいなくても世の中にはまったく関係ないぜ!」という感情がわいてきます。しかし、大衆を代表するひとりだということになると、ちょっと違います。ご飯を食べるのも大衆を代表して食べているのかもしれない。腹を立てるのも、大衆を代表して腹を立てているのかもしれない。自分は大衆を代表して生きているのかもしれません。こうなってくると、生きることに前向きになってきます。このちっぽけな自分に、まったく愚かしい自分に衆生を代表する意味が与えられる。代表する資格なきものに、代表する意味が与えられる。この醍醐味(だいごみ)が「大衆」という言葉の響きにはあるように思います。 
【大丈夫】(だいじょうぶ) <世間の会話>Aさん「小さい時はひ弱だったのに、ずいぶん丈夫な身体になったね。それにこんなにしっかりした丈夫な家も建てて。あ、ところでCさんとの関係は大丈夫なのか?」 
Bさん「ああ、ダイジョウブ大丈夫だよ」 
<仏教語訳>Aさん「小さい時は体も弱かったけれど、「仏になる志が強い人は、どのような困難をもモノともせずに立ち向かっていける」ことにたとえられるような、しっかりとした身体になったね。それにこんなに立派な「どのようなものにも揺るがない強い志」を形に現わしたような家も建てて。あ、ところでCさんとの関係は「いつ、どこにあっても忘れないはっきりとした成仏道への志」のように、大切にしているんだろうね」 
Bさん「ああ、志は、はっきりしているよ。ふたりの関係を深めて、どのような困難をも受けとめていける浄土に開かれた家庭を作っていくよ」 
「大無量寿経」に、完全にさとりを得た人(仏)の別号として「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」があります。「優れた御者(ぎょしゃ)が見事に荒馬を調教するように、仏に成っていく志が人間を調教し制御する」という意味です。A、Bさんは無意識の内に仏教の伝統の中にいて、すごい会話?をしていたのです。 
ただ、「丈夫」は男性という意味がもとです。個人の資質、能力や性差、社会性に成仏道の根拠を置く自力の教えは、「志堅固(けんご)」を「男性」で喩(たと)え、女性を貶(おとし)めてしまいましたが、「丈夫」の世俗化は「しっかりしている」意味だけを伝えています。今、仏教語として捉え直す時に忘れてはならない事柄です。 
【達者】(たっしゃ) “達者でな”という歌がずいぶん昔にはやった。別れゆく愛馬に対して、健康であってほしいという馬子(まご)の優しい心情を歌ったものであった、と記憶している。このように「達者」は、今では健康を意味する言葉として日常よく使われる。また、芸達者等と言う場合は、その芸の達人を意味する。これも元は仏教語で、真理に到達した覚者を、表す言葉である。学ぶべきことを学び終わり、真理に到達して心も身体も健康な者、から現代の意味に転じたのであろう。 
それにしても、人として学ぶべきことを学び尽くしたとは、少し厚かましい言い方のようでもある。現代のような多様な価値観の中で生きる我われには、生涯学び続けても学び尽くした、とは言えないように思われる。仏教では、一体何を学べば全てを学び終わった、と言えるのであろうか。 
お釈迦さまは、シャカ族の王子であった。若いシッダールタは感受性が強く、ふとしたことにも考え込む青年であった。父王は、彼が出家などせず立派な王になるよう、心を痛めた。ある日、シッダールタは、遊園に出かけるため、城の東門から外に出た。そこで彼は、老人に逢うのである。皮膚は真っ黒で骨と皮にやせ細り、二つに折れまがった身体に杖を持ち、震えながら歩いては倒れ、また立ち上がるといったふうである。頭は白く歯はまばらに抜け、首の皮は牛の首のようにしわだらけである。馭者(ぎょしゃ)に、「あなたも必ずあのような老人になる」と教えられたシッダールタは、突然、城にひき返しふさぎ込むのであった。同じように、南門から出た時は病人に、西門から出た時は死人に、北門から出た時は、沙門(しゃもん・修行僧)に逢うのである。沙門は、糞雑衣(ふんぞうえ)をまとい無一物ではあっても、人間存在が持つ生老病死(しょうろうびょうし)の苦を超えて、輝くような顔であった。その沙門を見て、人間が解くべき本当の課題を教えられたシッダールタは、出家し、やがて菩提樹(ぼだいじゅ)の下でその課題を解き、真理に到達した覚者となるのである。 
平均寿命の飛躍的な延びによって末期医療が問題となっている昨今、人として本当に学ぶべきことは何かを、このお釈迦さまの四門出遊(しもんしゅつゆう)の教えに、あらためて教えられることである。 
【他力本願】(たりきほんがん) よく誤解して用いられることばに他力本願という語がある。以前、政府のある大臣が国会の答弁で、「自分の国のことは自分でしなければならぬ、親鸞の他力本願では駄目だ」と発言したことがあった。親鸞は、このような依頼心という意味でこの語を用いることはない。「往生は、なにごともなにごとも、凡夫(ぼんぶ)のはからいならず、如来の御(おん)ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ」(「御消息集」)。私たちは、何か大きな力に支えられて生きている。吐く息、吸う息、ひとつとしてわが力でできるのではない。他力は、その自覚の宗教的表現であるといえる。 
【畜生】(ちくしょう) 仕事や人間関係がうまくいかない時、他人(ひと)からとがめられた時、腹立ちのあまり、思わず、誰に言うわけでもなく、「畜生」と愚痴ることがあります。また、ある時には自分に敵対する具体的な相手をののしり、さげすんで「こん畜生!」と吐き捨てることもあります。 
どちらにおいても共通していることは、畜生と叫んでいる時は、自分はその畜生の枠(わく)の外にあるということです。 
畜生とは他人(ひと)のことであって、決して自分ではないのです。むしろ、他人(ひと)を傷つけたことには無頓着で、傷つけられたことに執着して、畜生と罵倒(差別)することで自分の存在を癒(いや)しているようでもあります。 
その意味では、どうも私たちが日常生活で用いている畜生は、仏教語としての畜生が、人間であることを見失った自分を自覚する言葉であるのとは違って、相手を誹謗中傷する差別語として機能しているようであります。 
親鸞聖人は「教行信証」に「涅槃経」を引用して、自分を見失っている存在を「無慙愧(むざんき)」は名づけて「人(にん)」とせず、名づけて「畜生」とす、と言われています。それはあらゆるいのち生きるものを踏みつけ、傷つけ、殺して恥じない私たちに対して、それは人間ではないと、人間を見失った私と私の世界を問う言葉として畜生の語をいただかれていることです。 
つまり、畜生の語は他人(ひと)を差別したり、また、それを実体化して実際の犬猫などの生きものを見くだして言う言葉ではないのです。 
【超】(ちょう) 「チョーおいしいでー」。私の隣で、小学校4年生のゆりかちゃんがコンビニのグラタンを食べています。「チョー腹が立つ」「チョーおもしろい」…これほど「超」がチョー使われる時代もなかったのではないでしょうか。価値観が多様化して、ちょっとやそっとの違いでは気持ちを表現できなくなってきたのでしょうか。ゆりかちゃんの言葉の意味を尋ねると、「ものすごく」「最高に」という響きを感じます。 
ところで「超」は「完全なさとり」を意味する仏教語です。相対有限という比較の世界を超え出て、絶対無限の世界を感得することをいいます。ゆりかちゃんも比較を超えたおいしさを、そのグラタンに感じたのでしょうか。 
ゆりかちゃんが言いました。「おじさん、食べたい?」 
絶対無限の世界といっても、独りよがりの世界ではありません。それは、隣のおじさんにとっても美味しいはず。「チョー」には、誰にでも通じるという意味があることが、ゆりかちゃんからも知らされます。「完全なさとり」である「超」も、そのように「一切衆生(いっさいしゅじょう)に超えて通じる」という意味があります。 
親鸞聖人はこの相対差別の苦しみの中、どこに一切の衆生がひとつになれる世界があるかを尋ねました。そして「名声超十方」、一切衆生に超えて通じる「南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)」こそ「完全なさとり」の用(はたら)きであり、その用きによって相対有限の比較の世界で苦しむ一切の衆生を救おうという、弥陀の本願の歴史に出会われたのです。 
親鸞聖人が現代におられたなら、「チョーサイテイ(最低)なる我らなり」と語られた?かもしれませんね。 
【道場】(どうじょう) 往生は「あきらめてじっとしていること」。他力本願は「他人の力をあてにすること」など、意味が全く変質して伝わっています。「がらんどう」は「中身のない空虚なこと」という意味ですが、寺院を意味する「伽藍堂」が語源だとすれば、私たち仏教徒にとっては、耳の痛い言葉でもあります。 
ところで、17世紀初頭の※日葡辞書で「道場」を調べてみると「一向宗の寺」「後生の道」という意味が出てきます。道場は、本来お釈迦様のさとりの場を指す言葉ですが、それが特に念仏修行の場を指す言葉として日本で芽吹き、現代にも通用していることは奇跡的なことです。また剣道や柔道の道場は、そこから派生したものです。 
しかし道場にも危機がありました。 
そもそも道場は、お念仏をよろこぶ人たちが集まって信心を語り合った場がその始まりです。後に僧侶が入り、祖先崇拝の祭祀をつかさどる仕事を受け持つようになることで、寺の威儀を求めて「○○寺」という寺号を取得していきます。そうなると道場は、寺にしない所、寺になれない所、寺よりランクが下がる所の名となりました。そして、お釈迦様のさとりの場というすばらしい名が、人々から軽んじられる意味に変質していったのです。 
1981(昭和56)年、真宗大谷派宗憲が改正され、東本願寺は「根本道場」を名のりました。本来の意味の回復です。今こそ「お釈迦様のさとりの場、念仏修行の場」にふさわしい本来の道場を、名実ともに回復していきたいものです。「道場」の意味を「がらんどう」にしないために。 
【道楽】(どうらく) 昨今「道楽」という言葉は、ずいぶん旗色が悪い言葉になっています。「道楽息子」とか「道楽者」という言葉を耳にすると、ドキッとします。しかし、もともとは仏教語で「悟りの楽しさ」を表現した言葉です。また親鸞聖人は「正信偈(しょうしんげ)」で「信楽易行水道楽」(易行の水道、楽しきことを信楽せしむ)と言われています。 
人生を道に譬(たと)えれば、「道楽」とは「人生を楽しむ」とも読めます。それを私は「生活の味を味わう」と受け止めています。味には、甘い味、辛い味、酸っぱい味、苦い味、渋い味、醍醐味というのもあります。無限の味わいの世界があります。決してひととおりではありません。目の前の出来事から無限の味を味わいたいものです。 
先日、姑(しゅうとめ)を浄土へ見送られたお嫁さんに会いました。入院中もお嫁さんには冷たく、感謝の言葉もない姑さんだったそうです。辛い看病だったといいます。ところが、亡くなった後で看護婦さんや同室の方のお話を聞いて驚いたといいます。「うちの嫁はいろいろと世話をやいてくれる、いい嫁なんです」とお嫁さんをほめておられたというのです。その言葉を聞いて、お嫁さんは恥ずかしさと済まなさで涙がこぼれたといいます。 
人間には、他者の一面しか見えません。つまりひとつの味しか味わっていません。ところが、他者にはさまざまな面があります。目の前の出来事を無限に味わえる舌がほしいものです。味わいとは、甘いだけではありません。辛(つら)いことを辛(から)味にも転ずることができるのです。 
 
【内証】(ないしょ) 弟子「師匠、このように修行を続ければ、私でも覚れるのでしょうか」師「ナイショじゃ」弟子「ナイショだなんて隠さないで、ぜひ教えてください」師「それは内証なのじゃ」弟子「内証って…」 
修行をしている自分に不安をもつお弟子さんは、自分の修行の確かさを先生に証明してもらおうとしているようです。 
数学などの公式は、誰が計算しても間違いがないことによって証明されます。つまり客観性が証明の大事な点です。 
ところで、私たちは「生きることの本当の確かさ」についても、つい客観性を求めてしまいます。しかし、生きることに関しては、「客観性」と「確かさ」は何の関係もありません。ほとんどの人が「そうだ」と言っても嘘は嘘だし、本当のことは、かえって誰も語らないということがあります。 
「生きることの本当の確かさ」は、私が「確かだ、本当だ」と頷(うなず)くことです。しかし「本当だ」と頷いている「私」を立脚地にする限り、「私の中」をぐるぐる廻るだけでしょう。それでも私が「確かだ、本当だ」と頷くことに存在を賭けて向き合う、そのことしか証しへの道はありません。 
実は、そのような「私の求め」を打ち破って、「私こそ最も不確かな存在」であることを告げ知らせてくるものが、本当の確かさです。それは客観的な証明をまったく必要としないだけでなく、むしろ客観的な証明を拒否する「内証」でこそあるのです。 
 
【ばか】 東京人にアホウ、関西人にバカと罵(ののし)るほど、相手に与えるショッキングな言葉は少ないだろう。この語は、梵語(ぼんご)moha(漢語で「慕何」「莫迦」等と訳す)から転訛(てんか)したものという。釈尊の教えを聴いても理解できず、何が正しいか判断できない愚かなものの意。ところで「馬鹿」の熟語は、秦の二世皇帝の面前で、献上された鹿を指して馬だと言わせ、自らへの臣下の忠順度を測った権力者、趙高の故事に由来するともいわれている。ともあれ、自らの愚かさに気づかず、権力あるものに阿諛追従(あゆついしょう)して恥じないものこそ、真の「ばか」ということになるであろう。 
【悲願】(ひがん) 真夏の甲子園では選手たちが白熱した試合を見せてくれます。甲子園に出場することは、選手たちには悲願であり、大きな夢が実現した姿なのでしょう。マスコミも出場校に対して「悲願達成」「悲願成就(じょうじゅ)」と、この悲願の大連発です。そのほか、悲願の言葉は、選挙に当選したい悲願、志望校に入りたい悲願、戦争中には敵国に勝利する悲願等々と、無数に使われています。 
それらの悲願は、実に、私たち人間が求めてやまない欲望であり、その達成です。それは人間に所属し、人間の心を表す言葉です。だから、たとえ悲願といっても、その人だけに、あるいはその人たちだけに通用する心です。すべての人に通用する心ではありません。 
それに対して、仏教で用いられる悲願という言葉は、元来、「仏・菩薩が衆生の苦しみを救うために誓われた願のことで、特に阿弥陀仏の本願をさす言葉」といわれて、どこまでも私たち人間の苦しみを、自分の苦しみとして同悲・同苦する仏の自他平等の心を表しています。それは仏に所属する言葉です。 
そのかぎり、この悲願という言葉は、自分の欲望が満足することを生きがいにして生きている私の言葉ではなく、むしろ、そういう自己中心的な私の生き様を問いただして、自他平等の仏の世界に目覚めさせようとする仏の心を端的に表現している言葉なのです。 
【不思議】(ふしぎ) 人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを、「不思議」という。“世にも不思議なことだ”などといって、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味をもつ。 
宗教の本質も、その不思議性にあると考えて、人は、しばしば宗教に、あるいは宗教者に、人知(じんち)をこえた不思議な能力やはたらきを期待し、その力やはたらきによって、現実の問題を解決しようとするときがある。 
しかし仏教は、基本的に自覚の宗教である。それは、仏の智慧(ちえ)に照らして自己を凝視し、自らの生存在に目覚めたつ宗教である。生死苦悩の生を転じて、真実の生に立たしめよという、その本願のはたらきを「不思議」というのである。 
親鸞は、中国の浄土の祖師・曇鸞(どんらん)の「浄土論註(じょうどろんちゅう)」の教えによって、「いつつの不思議をとくなかに仏法不思議にしくぞなき仏法不思議ということは弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり」と詠(うた)っている。奇蹟や奇怪の不思議ではなく、仏法が不思議である、と。阿弥陀仏が、すべての衆生(しゅじょう)を仏の国にあらしめたいと願い、もし生まれなければ仏は正覚(しょうがく)を取らない、と誓いつづける本願のほかに、真の不思議はない、というのである。 
さらに親鸞は、仏の本願との出遇(あ)いに開かれるものを、インドの大乗の論師(ろんじ)・世親(せしん)の教言に導かれて、次のように詠っている。「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」“仏の国に生まれよ、もし生まれなければ、仏は仏とはなるまい”と誓い、招喚(しょうかん)する仏の本願に、ひとたび出遇うならば、いかなる人も、空しく過ぎる生の惨めさに打ち勝って、仏の功徳を、この身に賜わって生きるものとなる、というのである。空過(くうか)する人生を転じて、仏の功徳を生きる生の誕生、このような生の転換(てんかん)、転成(てんじょう)のほかに、不思議、不可思議とよぶ事実はあるまい。 
【法螺を吹く】(ほらをふく) 「法の鼓を打ち鳴らし、法螺を吹き、法の剣をとり、法の幢を建て、法の雷を震い…」 
「大無量寿経」には、目覚めた法を衆生に説きひろめる仏・菩薩の姿が、さまざまな事柄にたとえられています。「法螺を吹く」ということも、そのひとつです。 
これは、説法の場に人々が集まってくる様子を、巻貝(螺)で作った楽器を吹き鳴らして人々を集めたことに、たとえたものです。「法螺貝」という名そのものが、仏法を説きひろめる螺という意味を示しています。 
ところが、法螺の音色を聞いて集まってみると、そこにいたのは「ほら吹き(実力以上に、いつも大げさなことを言う人)」だった…。 
法螺を吹くように人々に法を説いてまわったのはお釈迦様でした。しかしその弟子である私たちが、法螺を吹くというたとえを「うそをつく」ことに変質させてしまったのにまちがいありません。 
源信僧都の「往生要集」には、地獄に堕ちる者として「虚食信施者(むなしく信者の布施を食べる者)」が説かれています。また「不浄説法(覚ってもいないのに、さも覚ったように説法すること)」の者は餓鬼道に、そして信者の布施を自分のものにしながら、まったく罪の意識のない者は畜生道に堕ちると説かれています。地獄とは、仏弟子であることを名のった者だけが堕ちるのです。 
私たちはその地獄の底で、私たちのために鳴りひびく「法螺の音」をこそ、真剣に聞かなくてはならないのです。 
 
【微塵】(みじん) 「タマネギをみじん切りにします…」とテレビの料理番組で聞くことがあります。「みじん切り」を漢字で書いてみてといわれると、なかなか難しいですね。この「微塵」とはもともと仏教語で、「目に見える最小のもの。ごく小さいもの。非常に微細な物質」のことだそうです。親鸞聖人は「微塵」をこんなふうに表現しています。「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」(「唯信鈔文意」)。これは「如来というものは、ものすごく小さいもので、世界・宇宙に遍満しているのですよ、だからこそあらゆる人間のこころでもあるのです」という意味でしょう。でも「如来が遍満しているから、私のこころでもあるのです」という表現には、そのままではつながらないものを感じます。親鸞聖人は「すなわち」という接続詞でつないでいるのですけれども、どうして「すなわち」でつながるのでしょうか? 
そして思い至ったのです。この疑問の中には「私のこころに如来などあるはずがない」という心が隠されているのだと。その心が逆に「すなわち」という接続詞を意味のあるものにしているのでしょう。つまり、まず初めに、私と如来とは断絶しているものだという思いがあります。その思いのところに、思いを破って如来はお前のこころでもあるのだよという摂取力を発揮するのだと思います。微塵は、ごく小さいことなのかと思っていましたら、実は宇宙に遍満している微塵なのですから、広大な宇宙観の表現でもあるのです。 
【迷惑】(めいわく) 「他人に迷惑をかけないようにしましょう」とか「多大な迷惑をこうむった」などといわれるこの迷惑は、現代では不利益(ふりえき)とか不都合(ふつごう)という意味に使われるようである。しかし、迷(めい)は本当の道にまようことを意味し、惑(わく)は途方にくれてとまどうことを意味する。両方の字が示すように、この言葉も本来は迷いとまどうことを意味する仏教語である。 
中国の曇鸞大師(どんらんだいし)は、念仏の真理に帰した大いなる目覚めと感動とを、尺取虫(しゃくとりむし)の喩(たとえ)で語っている。尺取虫は、植木鉢の周りをぐるぐるとまわり続ける。決してふざけているわけではなく、身体全体をくねらせて一所懸命である。しかし、ついには歳老いて力つき命終わっていくのである。いかにも人間の実(じっそう)相に目覚めたリアルな喩えである。 
どこまでも自我(じが)を主張して生きる人間は、それへの執着(しゅうじゃく)のため自我を超えた真理に決定的に暗いのである。だからいつでも目先の利害にとらわれ、それがあたかも一番大切なものであるかのように錯覚をする。たとえば、学生であれば単位を取って卒業することに精を出す。就職をすれば会社の利益のために骨身をけずって働き、結婚すればよい家庭をつくるために努力をする。その場その場の目的に向かって一所懸命であるが、人生を貫く真理が分からないために、その全体がなぜか空しくいつまでも同じことの繰り返しで流されていくのである。 
どのような場合にも人生を貫く真理を開くものは念仏である。曇鸞大師は、その真理にこのような迷いの人生の全体を教えられ、朗(ほが)らかに念仏しながら、明るく軽やかにそれを引き受けて生きたのである。親鸞聖人もこのような目覚めを、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して」と語り、深い懺悔(さんげ)と共に高らかに念仏して生きていったのである。 
念仏の教えがなければ、迷いさえ気づかず、知らず知らずのうちに自分を傷つけ他人を踏みつけにして生きるほかはない。このような自他を傷つけるという意味が転じて、この言葉が不都合という意味に使われるようになったのであろうか。 
 
【利益】(りやく) 人はたえず自分の利益(りえき)を求めて生きる。この現実の社会全体が、すでに利益社会と呼ばれて、利潤追求の機構となっている。さまざまな関係結合の紐帯が、利益的関心に置かれていて、それが近代社会の基本的な要素の一つとなっている。いわゆる利分、得分(もうけ、とく)の関心で成り立っている、といってよい。 
宗教においても、人の祈りに応じて利益をもたらしてくれるのが、よい宗教であると考える人がいる。人の祈りにも、集団における共同祈願と個人的な祈りがあるといわれ、たとえば、雨乞い、日乞い、疫病送りとか、息災延命、家内安全、商売繁昌など、多種多様の祈りがある。人は、現実の生活苦からの離脱を求めて祈りつづけ、その恵みとして与えられた恩恵を、ご利益(りやく)というている。 
しかし利益ということには、自分が利益を得るということだけでなく、他の人を益(えき)するということ、恵みを与えるということがなければならない。仏教では、仏の教えに生きて得られた恩恵を、自利・利他の益(やく)として明らかにしている。自ら利益を得ることは同時に、他の人びとを利益することでなければならない。それが菩薩の精神であり、実践である。 
仏の教えによって得られる利益(りやく)は、金銭上や物質上の利益ではなく、自らの生存在に自覚的に醒さめて生きる、自覚者の誕生である。釈尊は、その誕生のときに、七歩あゆまれて天を指さし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と叫ばれたといわれる。それは、世の中で自分が最も偉いというのではなく、自らのいのちの尊厳性に最も深く目覚め立った叫びを、言い表したものであろう。 
その仏陀の教言(きょうげん)に出遇(あ)い、教えに導かれ育てられて、われわれもまた、自らのいのちの尊さに目覚めて生きるものとなるのである。教えのもつ最も深い意味での利益(りやく)は、一人ひとりが、仏の本願に喚(よ)び覚まされて、最も尊いものとして自己を生きる自身の獲得ではあるまいか。そこに自ら人びとを利益して、ともに生きるという、本当の共生の生が開かれるのではないだろうか。 
【臨終】(りんじゅう) もしあなたが人の死に立ち会う仕事をされている人ならば、ぜひお願いがあります。人が亡くなったことを「ご臨終です」と言わないでほしいのです。 
生きている時は死んでいないし、死んでいる時は生きていない。現代医学によって境界はあやふやになってきましたが、どちらにしてもこの「二つの時(有・無)」という基本的考え方は変わりません。しかし「浄土三部経」のどれにも死んだ時とは説かれていません。仏典に教えられつつ私たちの生をふり返ってみると、生の終わりに「臨終の時」という「第三の時」が来ることが教えられてきました。私も「臨終」とは「死んだ時」のことだと思っていましたが、実は、死に臨(のぞ)んだ生、まさしく「生きている時」のことを言うのです。そして臨終こそ真実の言葉が聞ける時だとお釈迦さまは説かれているのです。 
しかし私たちの実感は、臨終はどこまでも未来でしかなく、今の事実には決してなりません。このような私たち凡夫の姿をよく知ったお釈迦さまが、凡夫でもただ一度、唯一いやおうなくいのちの事実に出会える時、死ぬ間際の時として「臨終」を説かれたのでしょう。 
親鸞聖人は、本願を信じ念仏申す時が「臨終の時」であり、凡夫であっても臨終を待つことはない、と言われました。今がまさしく真実と出会える時になる。本願念仏の歴史はそんな不思議な時をプレゼントしてくれます。「臨終」とは、知らされてみれば生の終わりの時なのでもなく、実はいのちの真実からプレゼントされる「生死(しょうじ)を超えることが課題となる(有・無を離れる)唯一の時」なのです。 
【流行】(るぎょう) 「これが君自身だ」、流行をクリエイトする人たちが、「新しい自分」を提案してきます。言われてみれば、そのように感じてしまうから不思議です。でも、ちょっと油断をしていると「その自分はもう古いよ、今トレンディなのは〇〇な君」。ボーッとしてはいられない。いつも情報に敏感になって、次から次と更新される「新しい自分」を追い求めなければなりません。 
「私は私でありたい」という私たちの根源的な欲求に対して、さまざまな世界から「これこそがあなた自身だよ」という呼びかけがあります。確かに最新の流行(りゅうこう)を手に入れたい「あなた」がいるかもしれません。しかし、ちょっと、よく耳を澄ませてください。「本当の自分自身とは何か」ということに。 
そのつど提案される「新しい自分自身」を追い求めることは、「私は私でありたい」という根源的な欲求の「流転(るてん)のすがた」なのではないでしょうか。 
「私は私でありたい」、この欲求は、実は存在の深みに降りていく根源的な願いでこそあるのです。時がたてば色あせていくものではない、歴史と社会を、深みにおいて共にしている一切衆生(いっさいしゅじょう)という大地にその根があります。その根っこを自覚していきたい。この願いこそ普く流行するものだと親鸞聖人は私たちに教え示しています。永遠に流れ行く流行(りゅうこう)ではなく、どのような者にとっても根源の願いとして静かに流れ来る流行(るぎょう)に、しっかりと耳を澄ませたいものです。 
【流通】(るづう) 私たちの日々の暮らしはさまざまなものによってつくられています。特にあふれるような商品を媒介にした経済社会は私たちの生き方を根本から変えてしまう力があります。その商品が右から左へと流れることが一般的に使われる「流通」です。現代は電子化が進み、流通もますます盛んになりました。 
流通が盛んになればなるほど、私たちの生活は豊かで便利になるのでしょう。しかし、その反面、私たちの欲望生活がますます刺激されて、いよいよモノの世界に埋没して、自然と共生する私たちを見失うこととなります。それは「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と愛唱される世界が思い出のなかにしかない現実がよく現しています。 
しかし、もともと仏教語としての「流通」は、釈尊の教言が全ての人々に行き渡ることを表しています。物欲に惑わされた私たちを問い、人間に立ち返ることを願う言葉です。 
特に経典を解釈する場合に用いられる三分釈(経典を序分、正宗分、流通分と三つに分けて解釈する伝統的な方法論)で用いる「流通分」は、端的に、釈尊の願いがどこにあるかをはっきり表すものです。 
経典を結ぶにあたって、後世にこれだけは伝えておきたいと釈尊が人間回復の根本課題を記している箇所です。文字どおり、人をして人たらしめる仏法が、いつでもどこでも誰にでも川の流れのように流れ、人々のこころに通いあうことを願うものです。商品を流通するのとは違いますね。 

  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。