知恵と常識あたりまえ 
楽しく生きる言葉の玉手箱   


楽しく生きる言葉  
言葉はお題目だけでも霊験あらたかです 
 
人は時として当たり前のことを忘れます 
常識とはそういうものです 
お題目も念じれば知恵となるかもしれません

  
良い「言葉」を発見したら信じて念じてください 
 
  
素直に感じる受け止める 
 
  
素直に表現する 
 
  
思いを口にする言葉にする 
 
 

 
 
 
念ずる
【念ずる】神仏に対し災厄から身を守ってくれるよう、願いをかなえてくれるよう心の中で祈る。祈願する。常に心にとめて思う。強く願って思い続ける。 
【念じ入る】心に深く念じる。心をこめて懸命に祈願する。 
【一念】ひたすらに思いこんむ心。一心。執心。執念。 
一念岩をも徹(とお)す 強固な信念、至誠で事に当たれば、いかなることも成し遂げることができるの意。 
一念天に通ず 物事に専心すればその真心が天に通じて、いかなることでも成し遂げることができる。 
【一念一仏】阿弥陀をひたすらに念ずること。
 
【一念往生】信心の決定によって極楽浄土に往生できる。 
【一念五百生】わずか一度、心に妄想を抱いただけで五百回にもわたり輪廻(りんね)し報いを受けるということ。 
【一念三千】人の平常持ち合わせている心に全宇宙の事象が備わっているとする天台宗の基本的な教義。
 
【一念十念】一度の称名念仏でも10回の念仏も、度数に関係なく等しく極楽浄土に往生できるという浄土宗での教え。 
【一念称名】一心に阿弥陀仏を念じてその名を唱えること。一度の念仏。 
【一念不生】心統一が完成しどんな妄想もすべて起こらない境界(きょうがい)。華厳経。
 
【一念発起】いままでの心を翻して悟りを開こうと発心(ほっしん)すること。仏を信じて疑わない心が起こること。それまでの考えを改めて熱心になること。 
【念仏】阿弥陀仏を念ずること。理観・事観・口称の三つが含まれ、通常は「南無阿弥陀仏」を口に唱える口称の意。ねぶつ。 
念仏の口明(くちあ)け 正月に始めて仏をまつって念仏をする日。1月16日のこと。後生始。 
念仏の口止(くちど)め 12月の一定の日にその年最後の念仏をすること。翌年の念仏の口明けまでは念仏を唱えない。 
【念仏往生】仏を念じて往生すること。阿弥陀仏を信じ一心に念仏を唱えて極楽往生すること。 
【瞑目】目を閉じる。目をつむる。仏を念じて一心に祈ったり考え事にふけったりするときなどの動作。安らかに目をつむって死ぬ。安心して死ぬ。永眠。
 
 
愚者の知恵トルストイ「イワンの馬鹿」という生き方 
(前略)この本を書くきっかけになったのは、広島市在住の佐伯宏美さんとの何気ない会話でした。彼女はひたすら「イワンの馬鹿」のように家族のために尽くす、日本の家庭ならどこにでもおられるような主婦ですが、人に不思議なインスピレーションを与えてくれる女性です。今まで物語風の本を書いたことのないわたしにとって、彼女との出会いは神の恵みだったと深く感謝しています。(後略) 
佐伯さんご夫妻の生き様は筆者にとっても、お会いするだけで一陣の涼風の趣で、いつも自然と心が和んでくる思いに満たされる。 
さて、ここで紹介される「イワンの馬鹿」の他、民話の形で提示される幾つかの物語(寓話)は、絶対的平和を希求したトルストイにふさわしく、戦前に断固徴兵拒否を貫いた平和主義者、北御門二郎の翻訳に依っている。 
裕福な家に生まれながら、汚くてつらい仕事を決して厭わず、愚直で働き者で、健康なイワンには、軍人として栄光の道を歩む長男のセミヨン、商人として才覚を現した次男タラス、それに聾唖者の妹マラーニアがいる。しかも兄たちは、妹の面倒もつらい畑仕事も全部イワンに押しつけて顧みない。 
それぞれ才知に長けた兄たちに悪魔が取り憑いて、成功に持ち上げた揚げ句、今度はどん底に落とすのだが、馬鹿正直なイワンにはその魔法が通じず、結局イワンの「神様と一緒に!」という言葉でみんな消し去られる。トルストイはこのイワンの生き様に、本当の信仰のあり方を見いだしたのである。 
そして著者は、トルストイがイワンに見いだした「愛と満足の生活」の中に、キリスト教だけではなく「老荘思想」への傾倒をも見いだしている。 
また本書では、現実に我々を取り巻く社会の中にイワンの生き方を当てはめて、小細工や小賢しい言動のむなしさを指摘してくれるのだが、ひるがえって周辺を見渡したとき、たとえば「額に汗しないで儲けを考える」風潮とか、感謝を忘れて愚痴ばかりの生活とか、思い当ったり反省したりすることのあまりの多さに嘆息するばかりである。 
そのほかに、仲のよい謹厳実直な男と(イワンに似た)愚直な男の、家庭生活と巡礼の旅での出来事の話とか、生涯よい靴を造り続ける男の話、欲張って広い土地を求め、結局命を失う男の話などが、著者の解釈と教訓を交えてながら、真面目に愚直に働き、人のために尽くす(愛のために働き、愛の中に生きる)者の中に本当の幸せが宿ることを教えてくれるのだ。 
ここで少し本題から逸れるが、筆者なりに「チエ」について考えてみたい。なお英語に対する浅薄な知識から誤訳や思い違いなどがあればご指摘願いたい。 
まず(今まで)筆者にとっての「チエ」とは、 
1.まず知識(Knowledge)を無差別にデータ(data)として集積する。 
2.データの中から、目的に沿った同方向・同系列のものを集めて、情報(Information)にする。 
3.情報に自分自身の考察や発想を加えて醸成させたものが(自らの)「知恵」(Intelligence,Intellct)となる。 
というものであって、そこへの到達を目指してきた経緯がある。 
ところが本書を読んで私なりに感じたことは、一体筆者が求めてきた「チエ」と、ここでの“愚者の知恵”との乖離は一体何なのか、という思いである。 
結局自分なりに導き出したのは、「チエ」には、知恵/智恵/智慧の3種類があるのではないかということである。 
私にとってイワンのチエとは、今まで私が求め続けてきた、理詰めな「頭脳」からのアプローチの結果としての「知恵」など、とてもおよびもつかない「智恵」であって、本来私たちの心の中に隠されてきたものではないかという発見であった。 
いわばイワン達のそれは、(筆者なりに当てはめた)智恵(Wisdom)であって、決して理詰めなアプローチで行き着けるものではないのだ。 
では「智慧」とはなにか?これこそカミそしてホトケの広大無辺な慈悲の心であって、決して求めて得られるようなものではなく、イワンのような無垢の愚者が、その一生を終えるとき、自然にとたどり着く境地ではないだろうか。 
ただ一つ言えることは、(筆者の独断と偏見だが)この「イワンの馬鹿」に見られる心根を最も多く蔵している民族は、天然の風土・資源に恵まれ、戦(いくさ)も階層もない時代を1万年以上に亘って過ごしてきた、縄文に発する日本の民ではないか。 
たとえば「日本の常識世界の非常識」という言葉がある。これば脳天気な日本人を揶揄するものだが、真実は「日本の生き様がいかに常識的であって、世界的な発想や生き様がいかに非常識なものか」ということにもなる。 
また現在(いま)の日本の有り様を、堕落したと嘆く向きがいかにも多いが、筆者は敢えて、(善悪上下を網羅して)「いま日本ほど多様な価値観が息づいている時代はないのだ」と、楽天的な思いを込めて─いささか場違いで書評からかけ離れているが─本書の読後評としたい。 
 
 
アメリカの常識 「日本人取扱説明書」
 
腹が立つけど、これが現実 
著者はアメリカで国籍を取得した方で、現地では教育界だけにとどまらず軍の情報機関での仕事も経験しており、たまたま島根県立大学で教鞭を取っていた際の同僚(縄文塾で講演をお願いしたことのある)SF作家豊田有恒の翻訳で出された 「世界一の脳天気民族日本人」に対する警告の書である。 
本書で挙げられた実例があまりに生々しくまた莫迦々々しいこともあって、豊田の親友小松左京も推薦の言葉の中で、「愉快ではない。しかし、海外での評価を知るためには必要の本」だと苦々しい心境を吐露しておられる。たしかに題名だけ読んでも愉快ではない。しかもその上には「アメリカでは常識の」がつき、下には「腹が立つけど、これが現実」とあるのだ。 前書きで、日本人(だけが)大好きで絶対的価値を信じているものに、「国連・オリンピック・ノーベル賞」があるが、他国の人から見ると救いがたい迷妄さだと断言し、また昔知っていたころの日本と今の日本との越えられない大きなギャップに唖然としたと述べている。 
かつて逆境を乗り越えて世界一裕福国にしてきた時代から今の日本を見ると、まさに自壊しているとしか見えないのに、当の日本人がそのことをまったく自覚していないこと、マスコミも旧態依然とした左翼的論調に終始していること、特にいま日本の学生が世界最低ランクされているのに、彼ら自身がその自覚がない様に驚き呆れ、嘆いている。 
本題では、「ニッポン人ほど扱いやすい民族はいない」「世界一おめでたいニッポン人」「なんとガマン強い国民だろう」「ニッポン人の弱点は知れ渡っている」「ニッポン人が世界に通用するはずがない」という5章で構成されているのだが、この各タイトルを見ただけでも、いかに日本人の持っている常識がナンセンスで世界では通用しないか、そのためにいかに騙され蔑まれ嘲笑されているかが伝わってくるというものだ。 
とは言え我々には、まじめで人を信じやすく商売でも騙してはいけないという日本的な考えこそ正しくて、ちょっとの油断も出来ない世界の方こそ非常識という思いを捨てきれないでいることも事実である。そんなに器用に切り替えられないとしても、待ち受ける外の世界の非常さに立ち向かうための学習はなんといっても重要なのだ。 
日本人は平和ボケ 
日本人の感覚で外人と付き合うな 
日本人は高飛車に出ると弱い 
日本人は無防備過ぎ 
北朝鮮と国交正常化してもデメリットばかりなのになぜ誰も反対しなかった 
日本が軍備に走らないと世界が平和?笑わせる 
日本の基本姿勢は「敗北主義」 
国旗掲揚=軍国主義など馬鹿馬鹿しい 
中国・韓国の靖国発言は内政干渉 
中国礼賛はもう止めろ 
中国のミサイルのターゲットは日本なんだよ? 
日本人はボッタクリをうけている 
マスコミは左翼思想と結びついた反米ナショナリズム
 
■ニッポンでは「国益」を語ることがタブーらしい 
日本では、国益を論じることは、ほとんどタブーに近い。というより、初めから国益という概念が、日本には存在しないのである。このことは、欧米でも、よく知られている。私が出会ったアメリカ人も、日本人は短いタイムスパンで損得勘定をすることが多いものの、長期的な国益という観点から、ものを言うことが少ないと見ている。ケーススタディとして、北朝鮮を取り上げてみよう。いったい、北朝鮮と国交回復して、なんのメリットがあるか、考えたことのある日本人が、どれほどいるだろうか? 
この後、ロバート・ツチガネ教授は、かつての「クロス承認形式」を紹介します。日米が北朝鮮を承認し、中ソが韓国を承認するという、朝鮮半島問題の解決策として唱えられた案のことです。 しかし、現実には中ソにとって韓国を承認するのは意義のあることで、ロシアは韓国から借款を得ましたし、中国も韓国相手の貿易を対北朝鮮とは比較にならないほどに発展させることができましたが、日本が北朝鮮を承認しても何のメリットもなく、交換条件になりえないものとして放置された案です。 
ところが、奇っ怪なことに、日本の外務省は、北朝鮮との国交回復にきわめて熱心なのである。なんのメリットもないどころではない。北朝鮮に対しては、かつて金丸信元副総理が訪朝した際に、戦前の補償ばかりでなく、戦後補償までも約束してきてしまった。また、平壌声明のときも、さすがに賠償という用語は避けたものの、経済協力をほのめかす表現を用いてしまった。このことも、いかに国益を考えていないかの、ひとつの証拠である。 
誰でも、会えば金をせびられると分かっている相手と、親しく付き合うはずがないだろう。個人レベルで考えても、分かりやすい話のはずだが、こんな単純なことが、国益という観念の欠如した外務官僚には分からないらしい。 
ここまで言い切る著者のロバート・ツチガネ教授とは何者でしょうか。なぜこの本を世に出したのでしょうか。 
私は、アメリカ国籍の日本人です。戦後、アメリカのフルブライト上院議員が提唱した留学生受け入れ計画に応募して、アメリカに渡ってから、すでに40年になりますが、その間、日本人とはほとんど交際せず、ずっとアメリカ社会のなかだけで生きてきました。・・・アメリカ国籍を取得し、アメリカ人として生活しつづけ、ついぞ日本を意識しないまま、つい最近まで過ごしてきたわけです。アメリカでは、いくつかの大学で教鞭を取り、さらに、日本政府の依頼を受けて、ODAの仕事で、諸国を飛び歩きました。ざっと、記憶を辿ってみても、フィリピン、タイ、フィジー、カンボジア、インドネシア、タンザニア、エジプト、ブラジルなどの国々に滞在したことがあります。たまたま日本へ立ち寄っても、いわば連絡のためであり、まったくの旅行者の立場から踏み出したことはありませんでした。しかし、日本に戻り、教鞭について、私が知っていた日本と、現在の日本とのあいだに、超えることのできないギャップが存在することに気づくようになりました。そのことが、この本を書く気になった大きな理由です。 
ロバート・ツチガネ教授の名前を隠して、教授の文章をサヨクに見せれば何と言うでしょうか。「これは典型的な右翼だ。」、「戦前回帰の超保守だ」、「軍国主義者だ」と言い出すのではないでしょうか。しかしながら、自己紹介を見てもわかるように、著者は極普通の日系アメリカ人です。戦前回帰や日本の軍事大国化など望んでいるはずもありません。そんなことは彼にとっては何のメリットもありません。ところが、こういう独立国家国民としては当たり前の発言をする者を、「超保守」だの「戦前回帰」だのとレッテルを貼るのが反日サヨクです。 
私が、40年ぶりに暮らすことになった日本は、私が知っていた日本ではありませんでした。なにもかも不条理がまかり通っていて、イライラさせられることの連続でした。もちろん、私が去ったころの日本は、いまだに貧しく、多くの矛盾を抱えてはいました。しかし、ある意味での美風を残していました。これは、「昔はよかった」式の懐古趣味ではありません。民族として、国家として、きちんとしたものが、失われてはいなかったということです。だからこそ、戦後の混乱と貧窮を乗り越えて、世界第二と言われる経済大国の建設に成功したのでしょう。現在の日本を、内部から観察してみると、その脆弱性ばかりが目に付きます。日本は、今や自壊しているとしか思えない状態に置かれています。それでいて、当の日本人は、まったく、その自覚がありません。まったく馬鹿になったとしか思えません。 
日本国内の金融、教育などは完全に崩壊しかけています。また、外交は、まったく機能していません。国益という視点が、すっぽり抜け落ちているのです。 
長らく日本を離れていた人物には現在の日本の惨状がよく理解でき、日本にいるとかえって理解できないということはあります。そして次の点が、重要です。 
日本人は事なかれ主義です。日本人がもっとも嫌うことは、「ことを荒立てる」ことです。自分に正当性があろうとなかろうと、ことを荒立てることを嫌うのです。 
この日本人の性格を知り尽くしているからこそ、反日日本人が活躍できるのです。例えば、北朝鮮がミサイル実験をしても、日本が軍事力で対応することを批判する際の反日サヨクの常套手段として、次のような主張があります。「日本は軍事力に頼らず、なんとか北朝鮮が暴発しないように努力するべきだ。」冗談ではありません。事を荒立てようとしているのは北朝鮮のほうです。ところが、反日サヨクは、本来言うべき北朝鮮に言うのではなく、ともかく日本に譲歩させようとするのです。「あなた方日本人も事を荒立てるのは嫌でしょう?」と猫なで声で。
 
■世界平和に対する妄想的な思い込み 
日本は戦後、平和という幻に取りつかれている。ドイツでは憲法(基本法)を改正し、NATOの一員として、自国を守れる軍隊を持っている。日本はいまだに平和教とでもいうべき妄想に取りつかれている。たしかに平和は望ましい。だが、平和、平和とお題目のように唱えれば、実際に平和がもたらされるわけではない。とくに、日本の場合、異常きわまりないのは、日本さえ軍備に走らなければ、世界は平和になるという妄想的な思い込みに、取りつかれている点である。日本では、北朝鮮の核開発に反対する市民運動は皆無だが、日本の原子力発電に反対する運動グループは、掃いて捨てるほど存在する。日本の自衛隊には反対するが、拉致、テロなどに当たる北朝鮮の特殊部隊には反対しない。つまり、日本人さえ、身を謹んでいさえすれば、他の国はよい国ばかりなのだから、世界は平和になると妄信しているのだ。日本人の考え方は、いかにも非現実的で妄想に近いのだが、そのことを当の日本人が理解できていない。愚かしいかぎりだ。 
日本では多くの国民も政府も、北朝鮮、中国がどんなに危険な存在であるかを理解していない。北朝鮮も中国も日本を仮想敵国としてミサイルを配備している。いつ彼らは核戦争のボタンを押すか分からない。日本はこれに対し、まったくの無防備の状態にある。こうした現状について、国民も財産も守れないという厳しい現実を、政府も役人もマスコミも説明しないし、議論しようともしない。かつて日本を占領したマッカーサー元帥は、日本人を12歳の子どもと呼んだが、それどころではない。日本人は、6歳の児童、つまり小学校入学前の幼稚な状態のまま、非現実、無防備、無作為の状態に置かれているようなものだ。<平和憲法>を議論し、まず<国益>を守るという原点に立って、どうすれば、国民の生命と財産を守れるか、から議論を積み重ねていかねばならない。・・・有事が起こってからでは間に合わない。不慮不測の事態に備えることができない組織は、会社であれ国家であれ、最終的には敗者の地位に甘んずるしかない。 
今、「国民は憲法改正問題に興味がない」から憲法審査会の開始を阻止したいという意見がありますが、国民が興味を持ったときには速やかに憲法審査会が始動できるように、今から諸規程を整えておかねばならないのです。国民が憲法改正問題に興味を持ってから審査会運営の諸手続きを決めていては遅すぎるます。 
 
■日本の基本姿勢は「敗北主義」と理解すればいい 
有事が絶対に起こらないと誰も言い切れない。つまり、個人も国家も保険をかける意味で、不測の事態に備えて準備をすることが必要だ。たとえば、憲法改正はすぐにはできない。数年で見通しをつけられる政治力が必要になる。北朝鮮、中国からのミサイルに対し、軍事防衛体制、反撃ミサイル体制が不可欠だし、できれば、相手のミサイル発射基地を叩ける程度の反撃力体制の整備が望ましい。いちおう核保有という選択肢は外しておくにしても、核保有の是非という議論まで封じてしまうのは、国益にかなわない。もしこうした体制整備が再軍備につながるとして、アジア諸国からの強烈な反発を招くならば、日本は一個人、一首脳の独断で戦争を起こすような前近代的な国家ではなく、シビリアンコントロールが徹底され、民主と討論による政治体制が確立されている国だという事実を、世界にPRすればよい。 
軍事力はあくまで抑止力としての役目をするために必要で、戦略目的や脅しのためではない。ここがポイントだ。その上で、日本が音頭を取って、アジア諸国と軍事協力支援体制を作ることを提案すればよいのだ。中国や北朝鮮は反対するだろうが、きちんとして論拠を示し、国連やアセアン会議を通じて反論反撃の演説をすればよい。それでも足りなければ、中国に対しては、中国こそがアジアのもっとも不安定要因であることを、例証しながら説得する演説を行えばよい。こんな簡単明快なことができない日本は先進国ではなく、無能力国家にすぎない。これでは、世界から信頼を勝ちうる国とはならない。  
 
■日本の核武装?日本を買いかぶってはいけない 
アメリカの友人からは、北朝鮮の核開発宣言で、異口同音の質問をぶつけられた。これで、日本の核武装が早まるのではないかと聞いてくるのだ。私は、日本を買いかぶりすぎていると、答えるのを常としている。日本に、そんな根性があるはずがないのだ。 
この本が上梓されたのが平成16年。その後も北朝鮮の核開発が進み、ミサイルの発射実験が行われましたが、未だに日本では核兵器が開発されていません。くやしいですが、「日本は根性なし」という指摘は事実であるということは認めねばなりません。「根性なし」だからどうするのか。今後も「根性なし」のままで良いのか、自分を変えることができるのか、それが肝心です。 
当時の日本の新聞、テレビで、新任の安倍晋三官房副長官(現・自民党幹事長)はタカ派だというコメントがついていた。とんでもない話だ。日本にタカ派など存在しない。もし、安倍幹事長が、北朝鮮に軍事攻撃を仕掛けてでも、日本人拉致被害者を奪還するという決意があるなら、タカ派と呼んでもかまわない。また、安倍幹事長が、航空自衛隊には装備されていないF15戦闘爆撃機タイプのストライクイーグル型を採用し、北のミサイル基地に対して、先制攻撃(Preemptive strike)を行うと宣言したのなら、これはタカ派と呼べるだろう。また、安倍幹事長が、核兵器の開発研究を指示したというなら、これまたタカ派の呼び名に相応しいだろう。だが、日本では、中庸の立場の安倍幹事長ですら、タカ派に分類されてしまう。だから、世界中から馬鹿にされるのだ。 
安倍元総理はタカ派ではありませんし、これまで日本にタカ派と呼べる総理は誰一人出現していません。敗北主義から脱出しようとする意見が出れば、猛烈にマスコミにバッシングされるからです。実に惨めなことです。