鎌倉・室町時代概観
鎌倉時代区分と概観 / 政治東アジア経済文化風俗生活源頼朝実朝暗殺 
北条氏北条氏台頭承久の乱1承久の乱2仏教と和歌 
執権政治御成敗式目得宗文永の役弘安の役得宗専制悪党海賊北条氏滅亡 
南北朝時代概観 / 三分立南北朝社会南北合一北部九州 
室町時代概観 / 室町社会応仁の乱都市と貿易宗教と文化大内氏 
中世京都の土倉酒屋商業金融落書無縁の世界應仁の亂に就て

時宗・一遍 仏の世界   

 
鎌倉時代概観1

時代区分と概観 
幕府の成立時期に関する諸説 
鎌倉時代の終わりが幕府の滅亡した元弘3・正慶2年(1333)であることに異論はないが、幕府の成立時期については次の諸説があり、したがって鎌倉時代の始期についても、種々の見解が可能である。 
(1)治承4年(1180)説 治承4年10-12月における東国独立国家の成立、とくに12月、源頼朝(みなもとのよりとも)の住居が完成し、頼朝がここに移ったとき。 
(2)寿永2年(1183)説 寿永(じゅえい)2年10月宣旨(せんじ)によって、頼朝が東国における国衙在庁(こくがざいちょう)指揮権を認められたとき。 
(3)文治1年(1185)説 頼朝が守護(しゅご)・地頭(じとう)の補任(ぶにん)を勅許されたとき。 
(4)建久1年(1190)説 頼朝が朝廷によって日本国総追捕使(そうついぶし)・総地頭の地位を確認されたとき。 
(5)建久3年(1192)説 頼朝が朝廷から征夷(せいい)大将軍に任命されたとき。 
次にこれらの時点に注目しつつ、幕府の成立過程を述べる。 
1180年8月、頼朝は伊豆で平氏打倒の兵をあげた。最初は相模(さがみ)の石橋山の戦いで敗れたが、やがて勢力を回復して鎌倉に入り、富士川の戦いで平氏の追討軍を破った。頼朝は上洛(じょうらく)することなく、そのまま鎌倉で東国経営を進め、御家人(ごけにん)支配のために侍所(さむらいどころ)を置き、12月には頼朝の住居も完成、移住した。建築的にいえば頼朝の住居こそ幕府であるが、新邸移転の儀式に際し、御家人たちは頼朝を「鎌倉の主」に推したと「吾妻鏡(あづまかがみ)」にみえる。当時頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を東国支配の根拠としていたが、それには平氏に支持された高倉(たかくら)上皇・安徳(あんとく)天皇の朝廷を倒して即位する意志が述べられていた。したがって以仁王の令旨に基づく頼朝の政権は、単に東国軍事政権というよりも、京都の朝廷とは共存できない独立国家であり、新邸移住の儀式は、独立国家の国王戴冠式(たいかんしき)を意味している。(1)の説はこのときをもって幕府が成立したとみるものである。 
頼朝の挙兵の動機は、以仁王の令旨を得たことのほかに、文覚(もんがく)を介して平氏打倒を命ずる後白河(ごしらかわ)法皇の密旨を得たことにもあった。したがって1183年、平氏が都落ちし、法皇が政権を回復すると、法皇と頼朝の提携は急速に進み、同年10月法皇は、寿永2年10月宣旨によって、これまで頼朝が「国王」として支配してきた東国における国衙在庁指揮権を認めるという形で、その支配を公認した。その結果、これまでの東国独立国家は消滅し、頼朝は朝廷の承認下に東国を支配することになった。この時期を幕府の成立とするのが(2)の説である。 
平氏を追って上洛した木曽(きそ)の源義仲(よしなか)は、後白河法皇と対立した。とくに法皇が頼朝との提携を進めると、法皇と義仲との関係は険悪化し、ついに義仲は法皇を幽閉した。頼朝は弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を派遣して義仲を討たせた。範頼・義経はさらに一ノ谷(いちのたに)、屋島(やしま)で平氏を討ち、1185年、壇ノ浦(だんのうら)で平氏を滅ぼした。その後、頼朝と義経とは対立し、法皇も義経を利用して頼朝を牽制(けんせい)しようとし、頼朝追討の宣旨を義経に与えたが失敗した。逆に頼朝は義経追討のために、守護・地頭を置くことを法皇に承認させた。これを幕府の成立とみるのがの説である。 
頼朝に追われた義経は奥州(おうしゅう)藤原氏を頼ったが、1189年、藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に屈して義経を討った。頼朝はさらに奥州藤原氏を滅ぼし、全国に支配を及ぼした。翌90年、頼朝は上洛し、法皇から権大納言(ごんだいなごん)・右大将に任ぜられるとともに(頼朝はやがてこの両職を辞任したが)、守護・地頭の元締めとしての日本国総追捕使・総地頭の地位を確認され、御家人を率いて「諸国守護」(日本国の軍事・警察)を担当することになった。これを幕府の成立とみるのが(4)の説である。 
(5)の説は古くから行われており、改めて説明するまでもない。 
幕府の成立について諸説が分かれるのは、幕府の本質をどうとらえるかの差異によるものである。しかしもっとも伝統的な学説である(5)だけは、幕府の本質に触れていない。すなわち「幕府」ということばが本来出征中の将軍の幕営(テント)を意味するところから、頼朝の征夷大将軍就任を幕府の成立とみたのである。足利(あしかが)氏や徳川氏も、征夷大将軍として幕府を開いたのは確かであるが、この説そのものは「幕府」の語義からの論議にすぎない。それ以外の説では、(3)(4)が守護・地頭の面から幕府の成立時期を考え、守護・地頭制の成立・確立の時期を問題にしているのに対し、(1)(2)では幕府を東国政権としてとらえ、東国独立国家の成立、朝廷による東国支配権公認と、それに伴う独立国家の消滅の時期が問題になっている。また(1)以外の諸説は、頼朝が朝廷から一定の権限を与えられたり、官職に任命されたことを幕府成立の指標としている。(1)の東国独立国家の成立は別として、幕府は朝廷によって存在を保障され、その下で一定の国家的機能を果たしているのである。(2)は幕府が朝廷から初めて権限を与えられた時期を問題にしているが、幕府の国家的機能という視点にたてば、幕府の軍事・警察機能が朝廷によって確認された(4)が妥当であろう。現在もっとも一般に行われている(3)の説は、鎌倉殿(将軍)が御家人を守護・地頭に任ずることによって、土地を媒介とする御恩(ごおん)・奉公(ほうこう)の関係としての封建制が成立した時期を取り上げたものである。ただ成立時期論が本質論である以上、どれか一つを正しいとして、他を否定するのは誤りである。ここでは、いちおう、もっともポピュラーな(3)によって、1185年を鎌倉時代の始期としておく。 
多元的支配の時代 
鎌倉時代には朝廷や貴族は形式的存在にすぎず、実権は幕府が握っていたと考え、鎌倉幕府史=鎌倉時代史とみるのは誤りである。少なくとも鎌倉中期までは、国家全体の支配者は依然として朝廷であり、幕府は朝廷によって存在を保障され、国家の軍事・警察を担当していたにすぎなかった。朝廷では平安後期、1086年(応徳3)に始まる院政が引き続き行われ、鎌倉末期、1321年(元亨1)後宇多(ごうだ)法皇が院政を停止し、後醍醐(ごだいご)天皇の親政が実現するまで、鎌倉時代のほぼ全体を通じて継続した。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後は、院政の機能の相当部分は幕府に移ったが、それでも院政が継続し、幕府の存在を保障するという原則は変わらなかった。院政成立のころから、武家の棟梁(とうりょう)という軍事貴族が登場し、武士を率いて国家の軍事・警察を担当するようになったが、鎌倉幕府の首長である鎌倉殿は、その発展したものである。鎌倉殿は日本国総追捕使として、従者である御家人を率い、国家を守護する機能を担ったが、朝廷は鎌倉殿に征夷大将軍などの官職を与えた。鎌倉殿―御家人の軍事組織は、単に幕府だけを守るのではなく、国家全体の守護にあたるのであり、このことは御家人の重要な義務である大番役(おおばんやく)が、朝廷の警固を任としていることからも明らかである。武士の首長が従者たる武士を率い、国家的軍事・警察にあずかる構造は、院政期以来、鎌倉時代になっても本質的に変化はなく、ただ幕府の成立によって、武士の地位が強固なものとして安定したにすぎない。 
国家機構ばかりか、社会体制においても、鎌倉時代の社会は、平安後期以来の継続にほかならない。この時代の社会の基礎をなす荘園(しょうえん)制の原型は、平安後期、寄進地系荘園の形成によって築かれたもので、荘園領主(本所(ほんじょ)、領家(りょうけ)など)、在地領主(下司(げし)、地頭など)の二元支配を特色としていた。この二元支配は、貴族と武士が並んで国家機構を構成する政治形態と照応している。幕府の成立によって国家体制が本質的に変化しなかったのと同様、荘園体制にも基本的な変化は生じなかった。幕府が地頭を設置しても、荘園制は消滅しなかったし、地頭の権限や得分(とくぶん)(収入)は、前任の下司のそれを踏襲するのが普通だったのである。 
院政期に続く鎌倉時代は、権力が多元的に分裂した時代である。貴族や寺社は荘園の不入権をはじめとして、公権力から独立した家政を行っており、朝廷もその家政の内部には干渉できず、幕府もまた介入しなかった。一方、在地領主たる武士も独立した領主権をもっており、子供を勘当したり、郎党を制裁したり、農民を支配したり、私領を処分したりすることには、幕府の干渉を受けなかった。 
分裂は国家権力自体にもみられた。朝廷では、形式的主権者である天皇と、天皇の父祖として政治の実権を握り院政を行う治天の君(ちてんのきみ)(上皇)との分裂である。幕府でも、鎌倉殿、執権、得宗(とくそう)(北条氏の家督)の間に権力の分裂がみられた。 
このような多元的支配のなかで、鎌倉後期になると、一元化、集権化の傾向が現れる。荘園では地頭の勢力が強まり、荘園領主の権力を排して一円支配化を進めた。幕府は得宗に権力を集中し、朝廷の政治への干渉、本所領への介入を進め、御家人領に対する統制を強めた。これに対して朝廷でも、後醍醐天皇が院政を廃止し、治天の君と天皇との分裂を解消し、さらに幕府を倒し、建武(けんむ)新政によって天皇への集権を実現させた。
 
政治

鎌倉前期の政治 
1185年(文治1)頼朝は守護・地頭設置を要求するとともに、右大臣九条兼実(くじょうかねざね)を内覧(太政官(だいじょうかん)の文書を天皇に奏聞する以前に内見する職)に推薦し、後白河(ごしらかわ)法皇の独裁を抑えようとした。頼朝の支援を受けて兼実は法皇と対立したが、奥州(おうしゅう)藤原氏が滅び、頼朝と法皇との対立が緩和されると、頼朝にとって兼実の利用価値は減じた。92年(建久3)法皇の死後、兼実は一時政治の実権を握ったが、96年には、法皇の旧側近であった内大臣源(土御門(つちみかど))通親(みちちか)の讒言(ざんげん)にあい失脚した。これは兼実が頼朝の支持を失ったためであるが、兼実の失脚によって、頼朝も朝廷の政治に発言する窓口を失う結果となり、その後は通親が権勢を振るった。 
幕府では頼朝の死(1199)後、頼家(よりいえ)が鎌倉殿を継いだが、その母北条政子(まさこ)、政子の父時政(ときまさ)は、頼家の外戚(がいせき)である比企(ひき)氏の台頭を恐れ、1203年(建仁3)比企氏を滅ぼし、頼家を退け、その弟実朝(さねとも)を鎌倉殿にたて、同時に時政は執権(政所別当(まんどころべっとう))となった。ここに執権政治が成立した。さらに、のち子息義時(よしとき)は13年(建保1)侍所(さむらいどころ)別当の和田義盛(よしもり)一族を滅ぼし(和田合戦)、政所別当とともに侍所の別当をも兼帯した。一方、京都では1202年に通親が没し、後鳥羽(ごとば)上皇が権力を握った。上皇は通親時代に逼塞(ひっそく)していた九条良経(よしつね)(兼実の子)・道家(みちいえ)父子を重用するとともに、公武融和を図り、実朝との関係を密にし、彼を介して幕府を従えようとした。しかし幕府の実権を握る北条氏は、御家人の支持を得るため、御家人権益擁護の方針をとって上皇と対立し、実朝は上皇と北条執権との板挟みとなって苦悩した。19年(承久1)実朝が甥(おい)の公暁(くぎょう)に暗殺されると、幕府は九条道家の子の頼経(よりつね)を鎌倉殿に迎えた(頼経はのち26年に将軍となり、摂家(せっけ)将軍とよばれた)が、実質的な鎌倉殿は政子であり、俗に「尼将軍」とよばれた。実朝の死によって、幕府との妥協を断念した上皇は、討幕を決意し、21年に挙兵したが大敗した(承久(じょうきゅう)の乱)。幕府は後鳥羽以下三上皇を流し、仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃して後堀河(ごほりかわ)天皇をたて、後堀河の父後高倉(ごたかくら)法皇に院政を行わせた。 
鎌倉中期の政治 
承久の乱後、幕府は安定期を迎え、1225年(嘉禄1)の政子の死を契機に、執権北条泰時(やすとき)は独裁政治から合議政治への転換を行い、執権を2名(うち1名がいわゆる連署)とし、10余名の評定衆(ひょうじょうしゅう)がこれを助ける集団指導方式をとった。32年(貞永1)には「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」がつくられ、裁判の基準が定められた。一方、承久の乱後も、朝廷では引き続き院政が行われたが、従来院政が果たしてきた国家的機能の相当の部分は幕府に移った。幕府は皇位にも干渉し、42年(仁治3)四条(しじょう)天皇が没すると、貴族たちの意向を抑えて、後嵯峨(ごさが)天皇を即位させた。 
鎌倉後期の政治 
この時期の幕府では得宗(とくそう)専制政治が行われたが、それは北条時頼(ときより)・時宗(ときむね)が得宗(北条氏の家督)であった第一段階と、貞時(さだとき)・高時(たかとき)の第二段階とに分かれる。 
第一段階では、専制の対象は貴族・寺社に向けられ、公家(くげ)政治に対する干渉が強められた。時頼は陰謀を理由に、1246年(寛元4)には前将軍頼経を京都に追い、52年(建長4)にはその子の将軍頼嗣(よりつぐ)をも追放し、新たに宗尊(むねたか)親王(後嵯峨上皇の皇子)を宮将軍として鎌倉に迎え、鎌倉殿の傀儡(かいらい)化を決定的なものとした。また47年(宝治1)には頼経の支持者であった有力御家人三浦氏を滅ぼし(宝治(ほうじ)合戦)、また北条一門中での得宗への敵対者を粛清するなど、得宗とその被官(家臣)が政治の実権を握るようになり、公的な執権よりも私的な得宗の地位が優先するに至った。 
摂家将軍の追放は、朝廷の政治にも深刻な影響を及ぼした。頼経の追放によって、その父として、さらに公武を媒介する関東申次(もうしつぎ)として権勢を振るっていた九条道家は失脚した。その後、幕府は摂関の交代や、さらには後嵯峨上皇の院政にまで干渉を加えた。先に後嵯峨が幕府に推戴(すいたい)された際は、なお幕府が治天の君や天皇の選定権を握っていたとはいえなかったが、後嵯峨は自分のあとの治天の君の選定を幕府に一任し、この後は幕府がこの権限を掌握した。 
蒙古(もうこ)襲来も得宗専制強化の契機となった。蒙古(元)は1268年(文永5)以来、日本に服属を求めてきたが、幕府はこれに応ぜず、74年(文永11)、81年(弘安4)の再度にわたる襲来を退けた。この蒙古襲来を通じて、幕府の権限は大いに拡大した。従来幕府は貴族・社寺など本所の支配には干渉しなかったが、蒙古襲来にあたっては、西国の本所領の年貢などを兵粮米(ひょうろうまい)として徴発したり、御家人以外の武士である非御家人にも動員を加えたりする権限を獲得した。蒙古の国書に対する朝廷の回答を握りつぶしたり、かってに使者を斬(き)ったりしたのは、朝廷の外交権を幕府が奪ったことを意味している。 
このように得宗専制の第一段階は、貴族・寺社を対象とする専制であった。幕府はそのためには御家人の支持を得る必要があり、引付衆(ひきつけしゅう)の設置(1249)による裁判の迅速化、大番役の半減など、御家人保護の政策をとっていた。しかし第二段階では専制は御家人に向けられ、その結果、幕府と御家人との対立が強まった。1285年、御家人勢力を代表する安達泰盛(あだちやすもり)が、得宗被官の代表である平頼綱(よりつな)の讒言(ざんげん)によって滅ぼされた霜月(しもつき)騒動は、得宗専制が第二段階を迎える契機となった。御家人は幕府権力に干渉されない強い領主権をもっていたが、幕府はしだいにその領主権、とくに所領の処分権に干渉を加えるようになった。97年(永仁5)の徳政令は、貨幣経済の進展、蒙古襲来の戦費などによって困窮し、所領を失った御家人を救済するため、御家人領の無償取り戻しを命じたものであるが、同時に、一時的にせよ御家人領の売買・質入れをいっさい禁じたものであり、御家人領に対する幕府の統制強化の現れであった。また北条一門による幕府要職の独占(評定衆・引付衆など)、守護職の集積、物資流通の拠点(港湾など)の支配も進み、得宗家とその被官に権力が集中された。こうして多元的な支配関係が得宗によって一元化されていったが、それは貴族・寺社・武士などの利益に反する面があり、反荘園的、反幕府的な悪党的行動も各地で表面化し、このような動きを克服するには幕府は弱体であった。専制に伴う腐敗も現れ、諸階層において幕府への不満がますます強まった。 
これらの反幕府勢力を結集したのは、後醍醐(ごだいご)天皇による皇権回復の動きであった。後嵯峨天皇ののち、その皇子後深草(ごふかくさ)・亀山(かめやま)両天皇が相次いで即位したが、後嵯峨の没後、後深草・亀山のいずれを治天の君とするかについて争いが起こり、その後、後深草系の持明院(じみょういん)統と亀山系の大覚寺(だいかくじ)統とは、互いに皇位や治天の君の地位を争って幕府に働きかけ、幕府もこれに介入し、両統内部にも分裂が生じた。1317年(文保1)幕府の提案で両統間に話し合いがもたれ、その結果花園(はなぞの)天皇(持明院統)が退位し、後醍醐天皇(大覚寺統)が即位することなどが決められた(文保(ぶんぽう)の和談)。 
こうして後醍醐天皇が即位し、父の後宇多(ごうだ)法皇が院政を始めたが、後醍醐がその皇子を即位させ、自ら治天の君となることは困難であり、幕府への不満を強めた。後醍醐は1321年(元亨1)後宇多院政を止め、ほぼ250年にわたった院政を廃し、天皇親政を実現させた。24年(正中1)倒幕の計画が漏れ(正中(しょうちゅう)の変)、31年(元弘1)には再度の計画も漏れて天皇は隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)が、皇子の護良(もりよし)親王や楠木正成(くすのきまさしげ)の活躍で、反幕の武士が各地に蜂起(ほうき)し、ついに33年足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らの活躍で、幕府は滅んだ。院政廃止によって治天の君と天皇との分裂を克服し、さらに幕府を滅ぼしたことは、幕府側からの集権化(得宗専制)に対する朝廷側からの集権化であって、天皇の事業は、単なる復古、反動とはいえない。
 
東アジアにおける日本

中国で宋(そう)が金(きん)に追われ、江南に南宋の王朝を建てたのは、平安後期の1127年であった。鎌倉前期、13世紀の初めにモンゴル高原に現れたチンギス・ハン(成吉思汗)とその後継者は、朝鮮半島から東ヨーロッパにわたる大帝国を建設し、金をも滅ぼした。チンギス・ハンの孫のフビライ(忽必烈)は、朝鮮の高麗(こうらい)を従え、国号を元(げん)と改め、のちには南宋をも滅ぼした。彼は1274年、81年の再度、日本を襲ったが失敗した。鎌倉末期には元、高麗ともに衰え、南北朝時代の終わりの1368年、92年には、それぞれ明(みん)、李氏(りし)朝鮮によって滅ぼされた。 
894年(寛平6)の遣唐使(けんとうし)停止以来、日本は中国・朝鮮と正式の国交をもたず、日本人の海外渡航を禁じており、わずかに宋の商人が大宰府(だざいふ)を訪れ、朝廷の管理下に貿易を許されるにすぎなかった。この間、国風(こくふう)文化が発達した反面、日本人の国際的視野は狭まった。しかし平安後期以来、密貿易が盛んになり、とくに平氏は日宋貿易で巨利を博した。 
鎌倉時代の対外関係は、平安後期のそれの発展である。正式の国交は開かれなかったが、貿易はいっそう盛んになり、宋船の渡来も増え、日本船も渡宋した。日本からは砂金・硫黄(いおう)などの原料品、蒔絵(まきえ)・屏風(びょうぶ)などの工芸品、刀剣などを輸出し、織物、陶磁器、宋銭、香料、薬品などを輸入した。遣唐使時代の外交が朝貢であったのに対し、いまや貿易と宗教が中心となった。宋代には南海貿易が盛んで、中国にはアラビア商人も訪れたが、これに誘われた中国商人が海外に活動し、日本にも香薬など南海の産物をもたらした。日本は東アジア通商圏の東端に位置していたのである。 
元の大征服は、東西文化の交流を盛んにした。イタリアのマルコ・ポーロの体験記「東方見聞録」は、東洋事情を西洋に伝えたが、そのなかで日本のことを「黄金の島ジパング」と紹介している。こういう状況下では、蒙古(もうこ)襲来も、日本をめぐる通商関係に大きな打撃を与えなかった。その後も日元貿易は盛んであり、幕府も建長寺(けんちょうじ)造営費を得るため、貿易船の派遣を公認していた。こうして、室町時代に日明貿易が活発に行われる基礎が築かれつつあった。
 
経済・社会

荘園体制 
鎌倉時代の社会の基盤は荘園体制であり、荘園領主、在地領主の二元支配を特色とする。農民には名主(みょうしゅ)、作人(さくにん)、下人(げにん)(所従(しょじゅう))などの階層があり、年貢、公事(くじ)、夫役(ぶやく)などの税が課せられ、名主はその負担責任者であった。作人は荘園領主や国司(こくし)に対し租税を負担するほか、小作料としての加地子(かじし)を在地領主や名主に納め、下人は在地領主、名主などに隷属し、彼らの直営地の耕作に駆使された。荘園制では、同一の土地に対し、領主的、農民的な多様の権利が行使され、それらは本所職、領家職、領所(あずかりどころ)職、下司(げし)職、地頭職、名主職、作職などの「職」として表現され、排他的な土地所有は存在しなかった。地頭が置かれても、その権限や得分(とくぶん)は前任者のものを継承したから、荘園領主は打撃を被らないはずであったが、荘園領主は地頭の任免権をもたなかったし、地頭は農村に館を構え、所領を直接経営し、年貢を押領(おうりょう)し、農民支配を強め、荘園侵略を進めていった。荘園領主側は現地の管理を地頭にゆだね、定額の年貢を確保する地頭請(うけ)、一半の地を地頭に与え、荘園領主、地頭が互いに相手に干渉せず、所領を経営する下地中分(したじちゅうぶん)などの解決策をとった。いずれにしても、こうして荘園領主、在地領主の二重支配は一元化する傾向がみられた。 
諸産業の発達 
鎌倉中・後期には農業生産が大いに向上した。荘園の複雑な支配関係は、灌漑(かんがい)用水の円滑な利用を妨げたが、水車や用水池の利用も盛んになった。それらは名主・地頭の指導によるものであったが、多くの農民も参加した。苅敷(かりしき)(苗草(なえくさ))、草木灰(そうもくばい)などの肥料も利用され、牛馬を耕作に使用することも多くなった。農業技術の改良で農業生産は向上し、生産地帯では米・麦の二毛作が行われるようになった。農業生産の発達は農民の地位を向上させ、下人の独立、作人の名主への成長、名主の領主化がみられ、荘園制の基盤を動揺させた。 
農村では農業のかたわら手工業製品を納めたり、手工業のために領主に労役を提供する農民もいた。高度の手工業技術者は、貴族・寺社の保護下に座をつくっていたが、農業生産が発達すると、農村でも専門の手工業者が現れ、一般庶民の需要にも応じるようになった。とくに鍛冶(かじ)・鋳物師(いもじ)が活躍し、農具や日用品を民間に提供した。農業や手工業の発達につれ、荘園の中心、交通の要地では定期市(いち)が開かれ、在地領主や名主が年貢米を銭にかえたり、物々交換を行ったりした。行商人によって、中央の製品は地方にももたらされた。都市では常設の小売店舗として店が現れ、専門商品別の店も増えた。京都や鎌倉では町という商業地域が生まれた。物資輸送もしだいに発達し、馬借(ばしゃく)、車借(しゃしゃく)など専門の運搬業者が現れた。得宗被官や律宗の僧侶(そうりょ)によって港湾施設が整備され、また淀(よど)川などの河川や港湾には問丸(といまる)が発達した。彼らは最初は荘園領主のために運送、保管、委託販売にあたったが、しだいに領主から離れた独立の運送仲介業者となり、一般商品を扱うようになった。宋(そう)との貿易によって、宋銭が広く流通し、貨幣の使用が増すと、年貢は地方の市で銭にかえ、中央の荘園領主に送られることが多くなり、代金決済の方法として為替(かわせ)も始まった。借上(かしあげ)という金融業者も現れ、民間の相互扶助的な金融としては頼母子(たのもし)(無尽(むじん))が行われた。
 
文化

概観 
鎌倉時代、とくにその前期には武士の文化水準は低く、依然として貴族文化が盛んであった。武士の台頭は、情緒的で優美な貴族文化に、意志的で剛毅(ごうき)な武士の気風を吹き込み、貴族文化の革新をもたらした。武士も貴族文化を摂取して文化水準を高めた。寺院の勢力は強大で、仏教の占める位置は大きかった。とくに新仏教の興隆などによって、仏教は庶民生活のなかに入っていった。中国との交渉で、禅宗をはじめとする宋元(そうげん)文化が輸入されたことは、幕府上層を中心とする武家文化の向上に大きな影響を与えた。鎌倉文化は多方面で発達したが、ここでは重要な諸点を指摘するにとどめたい。 
東大寺復興と美術 
治承4年(1180)平氏に焼かれた東大寺の復興は、国家的な文化事業であった。それは、戦乱で失われた国家の威信を回復するとともに、民衆の素朴な信仰心にこたえる面をももっており、民間僧重源(ちょうげん)を勧進職(かんじんしき)とし、広く信者の寄付を募り、再建の費用を集める方法がとられた。源頼朝が熱心な援助者であったのは、国家の軍事・警察を担当する彼の立場の現れである。東大寺復興は鎌倉美術の出発点ともなった。重源は武士の時代にふさわしく豪快な作風をもつ奈良仏師を起用し、運慶(うんけい)・快慶(かいけい)らによって多くの秀作がつくられた。彼らは天平(てんぴょう)彫刻や宋の様式をも取り入れ、新しい作風をつくりあげた。宋人陳和卿(ちんわけい)が大仏を鋳造し、宋の建築様式である豪放な大仏様が採用されたように、この事業には宋の影響が大きかった。貴族だけの国風(こくふう)の文化として成立した前代の文化とは違って、庶民をも包摂し、中国文化を取り入れ、平安時代を超えて天平のいにしえに戻ろうとするスケールの大きさが、東大寺復興の特色であった。 
源平合戦と文学・歴史 
武士の台頭に対する貴族側の対応は、とくに文学において顕著にみられる。武士と合戦を主題とする「保元(ほうげん)物語」「平治(へいじ)物語」「平家(へいけ)物語」などの軍記物語の成立は、その一例である。とくに「平家物語」はそれらの白眉(はくび)であり、興りと亡(ほろ)びの交錯する変革期の歴史を躍動的に描き、新興の武士に対する共感をも示している。「平家物語」は琵琶法師(びわほうし)の語りによって、文字を読めぬ階層にまで享受され、感動を与えた。慈円(じえん)の「愚管抄(ぐかんしょう)」も源平合戦への反省から出発している。現実を末法・乱世と認識した彼は、乱世に至る歴史の理法としての「道理」を追究した。同書は歴史哲学を述べるとともに、政治のあり方に及んでいる。幕府の成立を「道理」として是認する彼は、力づくで幕府を倒そうとするのを誤りだとし、公家(くげ)・武家が協力して天皇を助けるのを政治の理想としている。慈円は「鏡(かがみ)もの」のように、歴史を観照・賛美する立場を捨て、乱世における生き方を求める実践的立場にたっている。貴族社会の内紛や公武の対立を主導的に克服しようとした後鳥羽上皇は、「新古今(しんこきん)和歌集」編纂(へんさん)の中心となった。それは貴族文化の原点である延喜(えんぎ)(「古今和歌集」の時代)への回帰を目ざしており、上皇の政治方針と対応するものであったが、上皇の理想主義的情熱や、波瀾(はらん)の世を生きる歌人たちの緊張は、歌壇の停滞を打破している。 
鎌倉仏教 
平安時代以来、仏教の基本的課題は、末法の世における往生のあり方であった。前代の貴族的浄土(じょうど)教を批判的に継承した法然(ほうねん)(源空(げんくう))は、往生浄土の道は、人々の救済を誓った弥陀(みだ)の本願を信じ、ただ念仏を唱えることだと説き、持戒(じかい)や作善(さぜん)を無用とし、浄土宗を開いた。その弟子親鸞(しんらん)は徹底した信の立場にたち、行(ぎょう)や戒律を否定した。また弥陀の本願は罪深い悪人の救済にあり、仏の他力を信ずれば、悪人も往生できるという悪人正機(しょうき)説を唱えた。その宗派を浄土真宗(しんしゅう)という。浄土宗の一派から出た一遍(いっぺん)は時宗(じしゅう)を開いた。彼は諸国を遊行(ゆぎょう)し、踊念仏(おどりねんぶつ)によって布教し、また従来の浄土宗と違って、神祇(じんぎ)信仰をも布教に利用した。これらの念仏の教えに対して、法華経(ほけきょう)の題目を唱えて往生することを主張し、法華(ほっけ)(日蓮(にちれん))宗を開いたのが日蓮である。中国からは禅宗が伝わった。鎌倉前期に栄西(えいさい)は宋から臨済(りんざい)禅を伝え、源頼家、北条政子の帰依(きえ)を得、鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)、京都に建仁寺(けんにんじ)を建立した。臨済宗はとくに幕府上層武士に信仰され、宋・元の禅僧も渡来した。栄西の弟子道元(どうげん)は、師と異なる道を歩んだ。彼は宋から曹洞(そうとう)禅を伝え、権勢を退け、坐禅(ざぜん)によって自力で悟りを開くことを勧めた。 
新仏教の興隆に対しては、法相(ほっそう)、華厳(けごん)、律(りつ)などの南都仏教を中心に反省が生まれ、時代に即した教義の改革が試みられた。東大寺の復興、天平彫刻の復活にみられるように、奈良文化への回帰は鎌倉文化の一つの特徴であった。念仏系新仏教の戒律否定に対し、南都仏教系では逆に戒律が尊重された。法然を批判した貞慶(じょうけい)(解脱(げだつ))、高弁(こうべん)(明恵(みょうえ))によって法相宗、華厳宗が再興され、俊(しゅんじょう)は泉涌寺(せんにゅうじ)を中心に京都で、叡尊(えいぞん)は西大寺(さいだいじ)を中心に奈良で、律の復興に努めた。 
武士の文化 
武士の生活は質素であったが、実際上の必要と美を競う気持ちから、刀剣、弓矢、甲冑(かっちゅう)などの武具にはくふうが凝らされた。武士は武芸に励み、狩猟、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、笠懸(かさがけ)などの武技が盛んであった。平安時代以来、「武者の習(むしゃのならい)」という武士の生活倫理が形成されたが、その中核は、親への孝をはじめとする家族倫理と、主君との結合における主従倫理とであった。婚姻形態は基本的には嫁入り婚であるが、女性の地位は比較的高く、所領の相続権をももっていた。武士は合戦に加わるだけでなく、狩猟・漁労を行い、殺生(せっしょう)を業(ぎょう)とするだけに、罪障感に襲われ、救済を求め、仏教を深く信仰し、氏寺(うじでら)も多く建てられた。法然、高弁、一遍をはじめ武士出身の僧侶(そうりょ)も多かった。 
幕府は剛健な武士の気風の維持に努める一方、貴族文化を積極的に摂取し武士独自の文化をもつくっていった。北条泰時が制定した「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は最初の武家法典であり、「武者の習」に基づいてつくられている。 
北条時頼のころ得宗専制が成立し、幕府の政治的地位が向上した結果、幕府の指導者の間には治者の自覚が生まれ、文化への関心が高まり、武家文化は著しく向上した。時頼が宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招き、建長寺を建て、その子時宗は無学祖元(むがくそげん)を招き円覚寺(えんがくじ)を建てるなど、幕府は臨済禅に保護を与えた。幕府は単に禅という宗教にだけ関心をもっていたのではなく、禅に伴うさまざまの宋元文化を受容し、公家(くげ)文化に対抗して武家古典文化をつくろうとしていたのであり、禅とともに禅宗様建築、頂相(ちんそう)(禅宗の肖像画)、水墨画、儒学なども伝えられている。浄土宗も関東に伝わり、念仏僧によって鎌倉大仏(阿弥陀(あみだ)像)がつくられたが、幕府はこれを援助し、造営費を得るため、元に貿易船を派遣した。律宗では叡尊の弟子忍性(にんしょう)が40年間鎌倉で布教し、北条氏に帰依(きえ)され、社会事業にも努めた。これら諸宗は優れた土木技術を伴っており、その点でも幕府に有用であった。念仏僧は大仏をつくり、和賀江島(わかえじま)を築き、律僧は橋を架け、道をつくった。和賀江島が修築され、鎌倉に大船が入港できるようになると、鎌倉と九州とは水路で結ばれ、ここに鎌倉は中国文化の輸入において、京都に先んじることとなった。 
幕府の歴史である「吾妻鏡(あづまかがみ)」も編纂され、金沢実時(かねさわさねとき)が金沢文庫を建てて和漢の書を集めるなど、学問・文学に関心をもつ武士は少なくなかった。 
神祇崇拝の思想 
蒙古(もうこ)襲来に対する勝利のゆえもあって、鎌倉後期には神国思想が盛んになった。伊勢(いせ)神宮、とくに外宮(げくう)(豊受大神宮(とようけだいじんぐう))の神官を中心に伊勢(度会(わたらい))神道(しんとう)が形成され、従来教義をもたなかった神祇(じんぎ)信仰は、ここに理論をもつようになった。また藤原氏一門の総力をあげて制作された絵巻物「春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)」では、藤原氏の氏神である春日神社の神威が説かれた。「日本書紀」、とくに神代巻(じんだいのまき)の研究も進められ、卜部兼方(うらべかねかた)の「釈日本紀(しゃくにほんぎ)」に集大成された。 
神国思想は、従来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説とは逆に仏に対する神の優位を説いている。また念仏系新仏教にみられる神祇不拝の傾向に対して、神祇崇拝を強調し、神威によって幕府や悪党に対抗することを主張するなど、朝廷側の皇権回復の動きに連なるような政治性をも備えている。
 
風俗・生活

衣服 
平安時代に下級の役人が着用した狩衣(かりぎぬ)・水干(すいかん)は武士の正装となり、武士は平素は直垂(ひたたれ)を着用した。上層農民、有力商人も直垂で、庶民は小袖(こそで)に括袴(くくりばかま)を用いた。豪族の女性は小袖に袿(うちき)や打掛(うちかけ)を着用、平素は小袖の着流(きなが)しであった。庶民の女性は、小袖に褶(しびら)(腰裳(こしも))か、小袖着流しが普通であった。被(かぶ)り物では一般に烏帽子(えぼし)を用いたが、一部ではなにもかぶらない風習もあった。髪型は普通髻(もとどり)が行われたが、身分によりさまざまであった。女性は市女笠(いちめがさ)をかぶったり、被衣(かずき)を羽織ったりした。従来、はだしであった庶民も、足駄(あしだ)や草履(ぞうり)を用いるようになった。衣服、被り物、髪型は身分によって異なっており、ある種の身分標示として機能していた。 
食物 
食事は1日2回が原則であったが、労働の激しい人々は、1、2回の間食をとった。貴族社会では食生活が形式化し、故実(こじつ)が生まれたり、動物性食品を忌む風習がおこったりしたが、庶民の生活はこれとは関係なく、貧しいながらも健康なものであった。彼らは米穀のほか、雑穀や芋類をいっしょに煮炊きし、山野河海からとれるすべてのものを食用に供し、主食と副食との区別は困難であった。調味料は塩、酢、味噌(みそ)、煎汁(いろり)(カツオなどを煮つめた汁)を用い、甘味料には飴(あめ)、蜂蜜(はちみつ)、甘葛煎(あまずらせん)(葛草(つるくさ)の煮汁)、干柿(ほしがき)の粉があった。貴族が飲む酒の種類は増えたが、庶民の酒は濁(にごり)酒であった。旅行の際には、焼米(やきごめ)、糒(ほしいい)、干物(ひもの)、海藻などの保存食を用いた。 
住居 
貴族は前代からの寝殿造(しんでんづくり)の住宅に居住した。武士の住居は、高台や交通の要地に建てられ、周囲に堀、土塁、垣根を巡らし、堀の内、土居(どい)とよばれた。主人である武士の居室(主殿)を中心に、警固の武士が詰める遠侍(とおざむらい)のほか、厩(うまや)、櫓(やぐら)など武士の生活に必要な設備を備えていた。屋根は萱葺(かやぶ)き、板葺きで、主殿にも一部しか畳を敷いていなかった。京・鎌倉などの町屋は切妻(きりづま)の板葺きが多く、内部は板の間、一般農民の家は掘立て小屋で、土間に籾殻(もみがら)や藁(わら)を敷き、上に蓆(むしろ)を敷いており、屋根は萱葺き、藁葺きであった。 
芸能・娯楽・俗信 
都市の祭りは華麗の度を加えた。村落でも名主(みょうしゅ)を中心とする座の神事が行われ、さらに多くの村人も加わるようになり、都市の祭りが農村にも受け入れられた。芸能の主流を形成したのは、身分的に賤視(せんし)された人々である。琵琶法師(びわほうし)は琵琶にあわせ「平家(へいけ)物語」などの語物(かたりもの)を語った。白拍子(しらびょうし)は歌舞を演じた。鎌倉後期にはそのなかから曲舞(くせまい)がおこり、能楽(のうがく)の形成に影響を与えた。田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)も盛んで座をつくって上演し、のち能(のう)・狂言(きょうげん)に発展した。貴族が独占していた遊戯も庶民に広まり、大陸から伝わっていた囲碁(いご)、将棋(しょうぎ)、双六(すごろく)も盛んになった。とくに双六は貴族から庶民まで行われ、賭博(とばく)化したため、幕府や朝廷はしばしば禁令を出した。また民間では印地打(いんじうち)(石打)がおこったが、争闘となって禁止されることもあった。出産は坐産(ざさん)で、妊婦が腹帯を巻く習慣もあり、宮参(みやまい)りも行われた。育児には乳母(めのと)、里子(さとご)、子守など、他人の助力を借りることもあった。成人の儀にあたり、武士などでは烏帽子親(えぼしおや)をたてる習俗が普及した。葬制については、民間では死体遺棄に近いことも行われたようで、葬地と離れて別に祭地を設け、そこで供養を行う風習があったと思われる。
 
鎌倉時代概観2

源頼朝 
1185(天暦2)年平氏滅亡後、源頼朝は御家人に対し、許可なく官職に就くことを禁止する指令を出しました。前年の一ノ谷の戦いの後、頼朝は後白河法皇に平氏追討の勲功の賞は頼朝の方から申し入れる旨を伝え、法皇の策謀を封じ、恩賞の権限を朝廷から奪った。 
しかし、源義経が兄頼朝の真意を理解せず、前年許可なく任官されたとき、頼朝は追討使から義経を外した。平氏没官領を獲得し、御家人が自由に任官することを禁ずることにより、頼朝は次第に武家の棟梁の地位を確立してい く。 
その支配地域も広く、御家人も多くなってくる。朝廷との折衝も煩雑になってくる。そのため、頼朝は行政機構を整備する必要に迫られた。そこで、武家政治を確立するため、頼朝は京都から下ってきた優秀な王朝国家の行政官僚を登用した。 
1184(天暦元)年、鎌倉に幕府の家政機関の公文所が開設された。その別当に大江広元がなった。少し後、裁判機関の問注所が設けられ、その執事に三善康信が任ぜられた。公文所・問注所の職員の多くは京都の下級貴族の出身者 だった。 
少しさかのぼって頼朝の武家政治の始まりは相模国府での論功行賞だと言われている。1180(治承4)年、富士川の戦いの後、相模国府で、頼朝は東国の戦いを助けた武士に対し、本領を安堵した。 これにより、国司として国衙の実権を握っていた豪族的な武士に対し、頼朝は国衙を超える権限者としての地位を宣言した。この年、頼朝は鎌倉に戻り、和田義盛を御家人の総元締として侍所の別当に任命した。先に設立されていた侍所に、公文所・問注所が揃い、幕府政治の中核が整備されだした。 後、頼朝が右近衛大将になった頃、公文所は政所と改称され、公文所はその一部局になった。 
畿内での支配地が広がるにつれ、御家人の統制がますます必要になった。 上総介広常は幕府創業の功臣であり、豪族的武士だった。広常にとって、頼朝も朝廷も絶対的権威ではなかった、頼朝は王朝国家への反逆者として広常を謀殺した。このようなことにより、関東の有力御家人は自分たちと武家の棟梁の頼朝との関係を思い知らされた。 
御家人の統制に関して源氏一族の処遇がある。源義仲の滅亡の頃まで、互いに自立的だった源氏一族を、頼朝は自分の指揮下に入れ、御家人とした。しかし、その一族が全く一般の御家人と同列であった訳では なかった。 
まず3国を頼朝の知行国として、源氏一族が国司となり、その後6国が知行国となり、国主の頼朝の推薦により、一族の武将達だけが国司になった。しかし、知行国はその後減り、武蔵・相模など数ヶ国が幕府直轄領とし、ほかは王朝国家に任せた。 
一の谷の戦い以降、畿内とその近国を占領下においた頼朝は京都の警固を弟の義経に命じ、近国には近国惣追捕使を派遣して、行政と軍事の権限を与えた。しかし、占領軍に権限を集中 すると、部下の統制が利かなくなり、国司や領家との争いが起きてきた。 頼朝は現地にその解決を任せず、鎌倉殿御使(かまくらどのおんつかい)を派遣した。そして、彼らには院宣に従い、すべてを奏聞の上に行動するように命じた。 
源義経は近国惣追捕使の上に立つ地位だったと思われる。洛中警固に就いた義経に対し、後白河法皇はその策謀に引き込み、義経を頼朝に対抗させようとした。 
壇ノ浦で平氏を滅ぼした義経は九州を奪おうとし、配下の賞罰も自分で専決しようとした。頼朝は平家没官領(もっかんりょう)等を先に九州に入っていた弟の範頼に任せ、義経には捕虜になった平氏一族を京都に護送するように命じた。義経が更に鎌倉に下って くるが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許さなかった。 
頼朝は義経に会わず、与えていた平家没官領を全て没収した。そして、伊予守であった義経に対し、この国に地頭を派遣した。このような仕打ちに耐えかね、義経は叔父の行家に引きずられようにして、頼朝に反旗を翻し た。 
義経は京都の邸が襲撃されるに及び、挙兵した。法皇に迫って頼朝追討の院宣を出させた。しかし、近国の武士は義経に従わず、義経と行家は散り散りになって西海を指して落ちて行 った。 義経を九国(九州)地頭に、行家を四国地頭に任ぜるという後白河法皇の院庁下文があった。この内容は荘園・公領とも年貢・雑物を二人の責任で納め、その住人は二人の下知に従えというもの だった。これは国衙の権限を国地頭に与えるものである。 
1185(文治元)年、頼朝は新しく北条時政を派遣し、洛中警固に当たり、近国も統括した。時政は地頭の設置を申し入れた。頼朝は義経・行家に与えた同じものを要求した。頼朝は追討の院宣を出した後白河法皇の責任追及の態度を取らず、政治的譲歩を勝ち取 った。しかし、国地頭は大混乱を与えた。国地頭には兵糧米の徴収が認められたが、西国は飢饉で、そこに兵糧米の徴収と言って武士が乱入し、混乱が続き、国司・領家の年貢を奪い、百姓を苦しめた。大量の紛争が発生し、その処理に追いつかず、遂には近国37国の国地頭の廃止に踏み込 んだ。なお、九国(九州)については、大宰府の管轄だとして、九州地頭についてははっきりした廃止はしなかった。 
頼朝は平家没官領を全て手に入れた。そのような没官領や謀反人跡の所領には地頭を置くことを朝廷に申し入れていた。この地頭は国地頭に対し、荘郷地頭と言う。国地頭は廃止されたが、下司などと言われていた荘郷地頭が、これより地頭と言う名称に統一されてい く。この地頭は従来の下司・公文等の荘官と違い、関東から任命された者だった。 
守護についても、非常に複雑な経過があるが、1186(文治2)年以降、近国37国に於いては国衙の行政に介入することは禁止された。しかし、幕府の支配機関として軍事部門を掌握し、諸国を守護していた。 
東国と頼朝の知行国は重なり合って直轄領を形成していった。東国では頼朝の申請で、所領は分け与えられたし、裁判は幕府が直轄していた。 
西国に落ちのびる時点で、義経の政治生命は終わった。必死の幕府の捜索にもかかわらず、その行方は分からなかった。義経の愛人静は吉野で捕らえられ、鎌倉に送られた。一方、義経は船で西海を目指し、嵐で難破し、吉野に入り、多武峰(とうのみね)に落ち た。その後、多武峰・大峰・伊勢神宮に出没し、比叡山にいる噂が立ち、京都近辺に潜んだ。 
叔父の行家は和泉国で捕まり、殺される。義経の従者が捕まり、少ない義経側近の者が捕まり、自害したりした。京都とその周辺の拠点も潰され、遂に義経は奥州の藤原秀衡を頼って平泉に落ちて行 く。 
頼朝は兵糧米制度を廃止し、諸国年貢の未納分を帳消しとして国内秩序の回復を図った。しかし、頼朝は威令の及ばぬ奥州に対しては圧力を強めていった。義経が頼った藤原秀衡は、義経が奥州に下ったその年亡くな った。頼朝は奥州平泉に対し、義経を逮捕して差し出すように圧力を加える。1189(文治5)年、秀衡の跡を継いだ泰衡は義経のいる衣川の館を囲み、義経は自害した。 
泰衡は義経を殺して、和を請うつもりだったが、頼朝は奥州藤原氏を討つことに目的があった。両軍の間で激しい戦闘があり、敗れた泰衡は逃げる途中、平泉を焼き払った。そして、遂に泰衡は郎従の手にかかり、殺さ れ、奥州三代の栄華も滅亡した。 
後白河法皇を初めとする要請にもかかわらず、源頼朝は上洛しなかったが、1190(建久元)年、初めて上洛する。この機会に朝廷は追討の功に対する恩賞を与えようとした。権大納言、右近衛大将を与え たが、数日後に辞任している。形だけ任命を受け、すぐに辞任して、頼朝は王朝貴族の一員でないことを示した。任命の儀式は盛大に行われているので、いわゆる王朝国家とは無関係ではなく、その権威 を利用したのか。 
1192(建久3)年後白河法皇は亡くなった。頼朝が征夷大将軍に就くことを法皇は嫌っていたが、死後実現した。 
鎌倉幕府体制は頼朝の征夷大将軍就任によって整っていく。しかし、九州と奥州は頼朝の支配に強い抵抗を見せていた。 
源範頼の九州攻めを豊後の緒方惟栄・臼杵惟隆は助けた。その後、義経・行家が頼朝に反旗を翻した時、豊後の国司や武士団はこれに従った。このため、頼朝は豊後を知行国とした。 大宰府府官の原田種直や宇佐大宮司公通等を中心に、九州は平氏一族の強い地盤だった。源範頼は平氏方の有力府官を追放し、大宰府を接収した。 
しかし、範頼の部下の武士による行為に対し、院は頼朝に範頼を召還するよう要求した。頼朝はこれを拒否し、中原久経・藤原国平を鎌倉殿御使として派遣した。 
義経は九州の国地頭に任ぜられたが、反旗を翻した後、頼朝は近国に国地頭を設置した。そして、九州に義経に代わって天野遠景が派遣された。しかし、その後近国の国地頭は廃止され た。九州は鎮西奉行として天野遠景が残された。 その後、鎮西奉行はかって平氏の家人であった武藤資頼(すけより)と下級貴族出身の御家人中原親能(ちかよし)の二人が登用された。 
奥州にあっては葛西清重と伊沢家景の二人が奥州総奉行として御家人の統括と国務の実権を握っていた。 
九州においては鎮西奉行から分かれて、各国の守護が置かれた。1197(建久8)年九州は3地域に分けられ、筑前・豊前・肥前の守護が武藤資頼、筑後・豊後・肥後の守護が中原親能、大隅・薩摩・日向の守護が島津忠久にな った。武藤氏は後、少弐氏に、中原氏は大友氏になる。 
国毎に守護が置かれるとともに、国毎に大田文(おおたぶみ、土地台帳)が作成された。 
頼朝は御家人組織を整備することにより幕府の基盤強化に努めた。そのため、国毎に御家人名簿が作成された。諸国の荘官クラスの武士が以前は平家だろうが源氏だろうが鎌倉殿の御家人として編成され直された。 
時代は前後するが、1185(文治元)年、源頼朝は全国に地頭を置くことを後白河法皇から認められると、九州にも地頭を置いた。関東から惣地頭として下って土着した御家人は、関東下り衆と呼ばれた。その地元の郡司・荘官・名主などの武士で、御家人になったものを国御家人と言い れた。惣地頭は国御家人の上に立ち、国御家人は惣地頭に対し小地頭と言われた。 
山鹿秀遠の没収地山鹿荘は、源頼朝の大将御祈祷師であった一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)に与えられた。建久年間、宇都宮家政は母方の関係で、昌寛より山鹿荘を受け継いだと言われてい る。家政は東国から下向した御家人で、山鹿荘を拝領した後、山鹿氏を名乗った。 家政の子の時家は、嫡子に山鹿氏嫡流を継がせた。そして弟の資時に山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の地頭代職を譲っている。これが麻生氏の始まりだ。 
北九州の在地武士の状況を見ると、宇佐八幡宮領の長野荘には中原姓長野氏がいたが、鎌倉期を通じて在住したものと思われる。 
山鹿秀遠の叔父の香月秀則の所領勝木荘(八幡西区香月)はその子の香月則宗の時、没収されそうになるが、梶原景時のはからいで免れている。しかし、景時の謀反の際没収され、後、返還され る。承久の乱では則宗は京方につき、没収されるが、舞の名手の則宗の息子が将軍の目に止まり、後返還された。 
御家人の武士も、御家人でない武士もいたが、蒙古襲来以降は御家人でない武士も御家人になっていく傾向になった。 
この御家人達を率いて、大番役や謀反・殺害の追捕を行うのが守護だった。守護は国務にはかかわらなかった。これが畿内・近国37国における守護・御家人制だが、九州の制度も次第に畿内・近国のものに近づいてい った。 
源頼朝は王朝国家の政治には直接介入しなかったが、野放しにはしなかった。義経・行家に加担した公卿達を追放し、右大臣九条兼実(かねざね)を中心にした頼朝派の公卿を進出させ、議奏公卿とした。彼らの議奏によって後白河法皇の政治をチェックしょうとした。 
しかし、国地頭制の失敗と西国における混乱に対し、行政上の責任を王朝国家に押付け、その一環として、京都に記録所が設置され、西国に於ける所領の訴訟を一括して行うようにな った。 
この頃、関白九条兼実に対抗していたのが、法皇側近の源通親(みちちか)である。2回目の上洛の折、頼朝は通親に接近している。これは頼朝と北条政子の間の子で、木曾義仲の息子と結婚していた大姫(おおひめ)を後鳥羽天皇の後宮に入れことを計画していたためではないかと思われ る。 
通親は兼実たちの孤立を謀り、兼実の関白を罷免し、兼実の娘を宮中から退かせ、弟の「愚管抄」で有名な慈円を天台座主から解任し、親幕派の公卿を一掃した。 源通親は自分の養女の子の親王に後鳥羽天皇が譲位するように働きかけた。頼朝はしぶしぶこれを認め、ここに土御門(つちみかど)天皇が誕生した。 
1199(建久10)年、源頼朝は出掛けた折に落馬したのが原因で、鎌倉で亡くなった。  
 
実朝暗殺

時政失脚  
1203年9月、伊豆の修善寺に幽閉されていた頼家の弟実朝が鎌倉幕府の3代将軍となっ。若干12歳の少年将軍だ。 外祖父である北条時政は、大江広元とならんで政所の別当となり、少年の実朝の代理として「下知状」という新形式の文書を発する権限を手にした。 将軍の補佐を名目に幕府政治の実権を握った北条時政の地位は、少しのちの時代に執権とよばれるようになった。 
1204年7月、時政は幽閉中の頼家の元へ刺客を送り、殺害に成功した。その後、幕府における北条氏の地位を固め、その最高実力者として君臨する形になれば理想的だったが、そうな らなかった。 
当時の時政は政子や義時の母親であった先妻と死別し、若い後妻をむかえていた。通称「牧の方」とよばれる女性で、本名は伝わっていない。 また、時政がいつ先妻と死別したのか、いつ牧の方を後妻にむかえたのか、また牧の方の出身もはっきりとは分からない。 
牧の方が時政よりもかなりの年下であったこと、時政が彼女にすっかりのめりこんでしまったこと、そして牧の方は気が強くわがままで、しかもかなり権力欲の強い女性であったということは確からしい 。 
そしておそらく牧の方が言い出したことと想像されるのが、義時と牧の方との間に生まれた娘の婿であった平賀朝雅を、将軍につけようとする画策だ。 平賀朝雅は信濃源氏の名門出身で、当時は京都守護として活躍していた人物である。 
さて、話はとぶが、畠山氏という豪族の話をする。畠山氏は武蔵国秩父地方の豪族で、重忠の代に頼朝にしたがい、おおいに活躍した。 重忠に対する頼朝の信頼は高く、頼朝は死にのぞんで頼家の行末を重忠にたくしたほどである。 北条氏との関係も深く、重忠の妻は北条時政の娘、つまり政子の姉妹だ。これより畠山氏は御家人の中でも名族といえる。 この畠山氏がささいなことがきっかけで滅ぼされてしまう。 
あるとき、重忠の息子の重保が、酒の席で平賀朝雅をはげしくののしった。 重保に罵られた朝雅は、そのことを妻の母である牧の方に「つげ口」した。そして牧の方の「言いなり」であった時政は、重保を攻める決断をしたと伝わっている。1205年6月、有力な豪族であった畠山氏が時政によって滅ぼされてい る。 畠山氏滅亡直後の1205年閏7月、今度は時政が失脚するという事件がおこった。 
「義時は牧の方との間に生まれた娘の婿平賀朝雅を将軍につけようと画策した。」と述べたが、そのため時政は自宅で暮らしていた3代将軍実朝の隙をうかがい、入浴中に殺害しようと謀ったこともあったそう だ。 
しかし、この時政の「野望」は、時政と先妻との間の子である政子や義時の同意を得ることはできなかった。政子や義時は「継母」である牧の方の人もなげなふるまいに反感をもっていた 。 
そこで時政がその「野望」を実行する前に、政子と義時は有力な御家人であった三浦義村を説得し味方につけ、時政を幕府から追放するという行動に出た。 時政はこの政子らの行動に対抗することができず、敗北を悟ると、出家して謝罪したが、許されず、伊豆へ幽閉されてしまった。 皮肉なことに、かつて時政が頼家に対して行ったのと同じ目にあったわけだ、婿の平賀朝雅も京で討たれた。 
時政は幽閉からちょうど10年後の1215年、幽閉先での生涯を閉じた(78歳)。 
和田合戦  
時政の失脚後、幕府の政治を担ったのは息子の北条義時だ。義時は時政の次男である。義時の長男であった宗時は、石橋山の戦いで戦死している。ちなみに義時は政子の弟にあた る。 
義時は北条一族のライバルとなりそうな有力御家人を次々に滅ぼし、1221年の承久の乱で朝廷の勢力をおさえるなど、北条氏による執権政治の基礎をつった。 後の時代、北条氏の嫡流を「得宗家」とよぶようになったが、これは義時の号である「徳宗」がその由来となっている。 
時政を追放して幕府の実権を握ったころの義時は40代のなかばだった。義時は政治的な才能にもめぐまれていたようで、たくみに北条氏独裁の道を切りひらいていった。 しかし、義時は父時政とはちがい、実朝と政子を表に立て、また大江広元らとも協調して、「独裁者」としてのイメージをうすめることに努めていた。時政が表に立つことによって、他の有力御家人の反感を買ったのに比べるととても慎重 だった。所領についても御家人の保護に努めるなど、彼らの信頼や歓心を得ることも忘れなかった。 
しかし、その裏では、たえず有力な御家人勢力をおさえることも心がけていたようだ。そんな義時の第一の標的となったのが和田氏だ。 
和田氏は鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏の一族である。当主であった和田義盛は侍所の別当をつとめていた。 名門であると同時に勢力も大きかった和田氏は、北条氏による独裁をねらう義時にとっては「目ざわり」な存在だった。和田氏の排除をたくらむ義時に、そのきっかけをあたえる事件がおこ る。 
1213年、幕府御家人で信濃源氏の泉親衡(いずみちかひら)が、2代将軍頼家の子千寿(せんじゅ)をおしたてて将軍とし、北条氏を打倒しようとした計画が発覚した。この計画に和田義盛の子である義直・義重、甥の胤長(たねなが)らが関係していたとして捕らえられ た。 義盛は一族の放免を要求したが、胤長のみは許されず、陸奥へ追放された。 義時の仕打ちに不満をいだく義盛を、義時はたくみに挑発した。 
義時の挑発にのった義盛は、ついに一族の三浦義村らと相談して、北条氏打倒の兵をあげることを決意した。 和田義盛は、北条氏打倒について十分な勝算をもっていた。というのも、三浦義村が味方についてくれると確約してくれていたからだ。 和田氏と三浦氏が連合するだけでも確実に北条氏の勢力を上回ることができ、地方にも多くの味方する御家人がいて、和田氏が挙兵するときには呼応して兵をあげることになっていた。 
しかしここで義盛にとって思いもよらない出来事がおこる。何と味方することを誓った同族の三浦義村が、義盛を裏切って、北条氏打倒の計画を義時に密告してしまったんで ある。 義村の密告を知った義盛は、地方からの味方の到着を待つ余裕もなく、わずか150騎の兵力で決起せざるをえなくなった。義盛は善戦し、幕府の大倉御所は炎上し、将軍実朝も避難しなければならいようなありさまだったとい われる(1213年5月2日)。 
義盛の善戦もそこまでで、翌日の3日には幕府の大軍を支え切れず、ついに義盛以下の和田一族は全滅した。鎌倉を戦火に巻きこんだこの争いを和田合戦と言う。 和田合戦の後、北条義時は政所の別当を兼ねたまま、和田義盛に代わって侍所の別当となる。和田合戦の勝利によって北条氏の執権としての地位が不動のものとなった。 
源実朝  
1203年、12歳で将軍となった実朝は、成長するにしたがい積極的に政治にかかわるようになっていった。 従来、実朝はまったくの北条氏の傀儡であったとする説があるが、最近では実朝の政治への取り組みを積極的に評価しようとする説が有力になっている。 事実、実朝は政所を整備して幕府の訴訟や政治制度の充実に努めている。 
しかし、実朝には「ひよわな将軍」というイメージがどうしてもつきまとう。これは個人としての実朝が武芸よりも京の公家文化に親しみ、和歌や蹴鞠(けまり)を愛好したという事実による。特に歌人としての実朝は有名で、「金槐和歌集」という彼の個人和歌集まであ る。この「金槐和歌集」の「金」とは、鎌倉の「鎌」の文字の偏で将軍家のことを意味し、「槐」とは「大臣」という意味の中国語だ。「金槐和歌集」とは「右大臣鎌倉将軍家の和歌集」という意味にな ると言われる。 「金槐和歌集」には719首の和歌がおさめられ、そのうちの663首は22歳までにつくられたものといわれている。 
有名な実朝の作品をいくつか紹介する。 
ときにより すぐれば民のなげきなり 八大竜王 雨やめたまえ 
箱根路を わがこえくれば 伊豆の海や おきの小島に 波のよる見ゆ 
大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも 
いとおしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母をたずぬる 
また実朝はその妻を京の公家である坊門氏(ぼうもんし)から迎えた。この妻を通して実朝はますます京の公家文化へのあこがれを強め、官位の昇進を望むようになった。 そんな実朝に破格の官位を与えたのが後鳥羽上皇だ。実は坊門氏は、後鳥羽の母と后の実家に当たる、つまり実朝と後鳥羽は姻戚関係にあった。実朝は1218年、27歳の時に右大臣にまでのぼりつめてい る。 
さらに後鳥羽は自分の側近であった源仲章(みなもとのなかあきら)という人物を学問の師として実朝の元におくっている。 後鳥羽には、将軍実朝を「手なづける」ことによって、鎌倉幕府に対する影響力を持とうという考えがあったのではないかと思われる。 
さらに実朝は禅僧の栄西や宋国人の陳和卿(ちんなけい)らとも親しく交際し、特に陳和卿の勧めにしたがって、宋に渡ろうとしたそうだ。しかしこの計画は宋に渡るためにつくらせた船が座礁し果たせ なかった。 
実朝は右大臣になった翌年の1219年、暗殺されてしまうのですが、彼のこのような「武士らしくない」行動が、その原因ではないのかとする考え方もある。 
実朝暗殺  
1219年1月27日、鎌倉は大雪に見舞われ、鶴岡八幡宮の境内も白一色に染まっていた。 
夜もかなりふけたというのに、大きなかがり火がたかれ、その明かりが境内を照らしているのは、いま将軍実朝の右大臣拝賀の式が本殿でおごそかにとり行われていたからだ。 
式典はとどこおりなく終わり、松明(たいまつ)を持って先導する源仲章(みなもとのなかあきら)の後、実朝が満足げな顔で、雪ですべりやすい足もとを一歩一歩確かめるようにゆっくりと石段を下りて くる。 その時、突然、物陰から頭巾をかぶった三人の男が現れ、その中の一人が「親の敵はこうして討つぞ」という叫びとともに、横合いから実朝に斬りつけて斬殺し、その首をかき落とした。 
松明を持って先導していた源仲章もその場で討たれた。騒ぎを聞きつけて警護の武士たちが現場に駆けつけたとき、犯人は石段をかけ上がって逃げ去っていた。 そして暗闇の中から「われこそは八幡宮別当阿闍梨(あじゃやり)公暁なるぞ、父の敵を討ち取ったり。」という声が聞こえてきた。 
以上が「吾妻鏡」などに記された「実朝暗殺」の情景である。 
その後、「実朝殺害犯」の公暁は、実朝の首を下げたまた有力御家人の三浦義村の館に向かい、その場で義村の部下によって討ち取られてしまう。公暁は2代将軍頼家の子で、比企一族とともに殺害された一幡の弟に当た る。 公暁は父の死後、鶴岡八幡宮に預けられ、そこで出家した。後に北条政子の命令で都へ出て仏教を学ぶが、1217年によびもどされて八幡宮の別当となった。実朝を襲撃したとき、公暁はまだ20歳であったと伝えられ る。 
実朝暗殺の謎  
なぜ公暁は実朝を殺害したのか、公暁の言葉によれば、「実朝が父の敵だから」ということになるが、少しこの理由はおかしい。 なぜなら公暁の父頼家を殺したのは実朝ではなく、北条氏一族だ。確かに頼家の後、将軍となったのは実朝だが、実朝が将軍になったのは12歳のときで、実朝が頼家の殺害にかかわったとは考えられ ない。 
公暁が本当に父の敵であると信じ、実朝を襲撃したのなら、公暁に「お前の父を殺したのは実朝だ」と信じこませた人物がいることになる、つまり実朝暗殺の黒幕である。 
従来、この実朝暗殺の黒幕は、北条義時であるとする説が有力だった。式典において、松明をもって実朝を先導するのは本来は義時の役目のはずだった。 ところが式典の直前になって、義時は病気を理由にその役目を実朝の学問の師であった源仲章に代わってもらっている。 これを根拠に、義時は実朝が襲われることを前もって知っていた、だから事件の黒幕は義時だということになるわけだ。 
最近では、本当の黒幕は三浦義村だとする説もある。もし義時が黒幕であるとすれば、源仲章が殺されたのはおかしいと主張する。実朝の先導役の交替は急に決まったことで、公暁はそのことを知らなかったはずだ。にもかかわらず仲章 も殺害されている。つまり公暁は先導役の交替を知らず、仲章を義時であると思いこんで殺害したことになる。もし義時が黒幕ならそんなことはしないとする考え方だ。 
つまり、義村は公暁をそそのかして実朝と義時を暗殺させ、公暁を次の将軍にして自分が北条氏にかわって幕府の実権を握ろうとした。しかし実朝の暗殺には成功したが、「急病」のために義時の暗殺には失敗してしまった。そして真相の発覚を恐れてた義村は、公暁を裏切って、二人(実朝と義時)の殺害に成功したと思いこんで義村の館へ逃げてきたところを討ち取ったのだ。と する考え方である。 
今となっては真相は藪の中で、確かなことは源氏の正統が実朝の死によって絶えてしまったということだ。実朝自身には子はなく、兄弟もいなかった。 
摂家将軍  
実朝の死によって源氏の跡継ぎがいなくなり、次の将軍をどうするのか大騒動になった。しかし政子は義時はうろたえることもなく落ち着いていた。 
実は二人は実朝に世継ぎが生まれないことを想定し、その場合は後鳥羽上皇の親王を将軍としてむかえるという密約を、朝廷の実力者であった藤原兼子と結んでいた。 義時は実朝暗殺の1ケ月ほど後、京へ使いをおくって上皇の親王である六条宮、冷泉宮のどちらかを将軍として鎌倉にむかえたいと申し入れた。 
ところが後鳥羽はこの申し入れをかたくなに拒否した。その理由は親王を将軍として鎌倉へ下せば、日本が二分されてしまうおそれからだ。 後鳥羽のかたくなな態度に、「宮将軍」の実現をあきらめた義時は、右大臣九条道家の子、三寅(みとら)を将軍としてむかえることにした。 九条家は五摂家の一つ、つまり藤原氏の中でも名門である。そして三寅の母は頼朝の姪に当たった。 
1219年、三寅は2歳で、正式に将軍となったのは1226年こと。これが4代将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)である。 頼経のように五摂家からむかえられた将軍を摂家将軍あるいは藤原将軍と言う。 そして言うまでもなく、幕府政治の実権は執権である北条氏が握り続けることになった。摂家将軍の実現で、京から傀儡の将軍をむかえ、政治の実権は執権である北条氏が握るという鎌倉幕府の基本形ができ上が った。この形は幕府の滅亡まで続くことになる。 
源氏の断絶の後も、鎌倉幕府は「北条幕府」となって続いていくわけだが、当時の幕府の支配は東国が中心であり、西国はまだ朝廷の勢力圏であった。1221年、東国中心であった幕府の勢力が西国へと広がるきっかけとなった事件がおこ る、承久の乱だ。
 
北条氏

頼朝の死後、その地位は頼朝の子、頼家が引き継ぐことになった。朝廷も頼家が御家人を率いて諸国を守護することを承認した。ここに将軍の地位が世襲された。 しかし、幕府の有力者達は将軍頼家に信頼を置くことができなかった。このため、13人の実力者による宿老会議が設けられ、談合の結果で訴訟の判決を下すことにした。 この政権は関東各地に割拠する豪族的武士団の勢力の均衡の上にあった。そのため利害が対立することがあり、その最初の内紛が梶原景時の失脚である。 
一説には、かねてより他の武士達から快く思われていなかった景時は、頼家に武士達が弟の千幡(せんまん、後の実朝)を立てて、頼家を討とうとしていると告げた。ある説では、小山朝光の反逆を密告したという 。 これを聞いた宿老達は頼家に景時の排斥を申し入れた。景時は反論することなく、相模の所領に引き揚げた。その後、上洛しようとしますが、駿河で激しい戦いとなり、一族ともども戦死 する。 
この後、景時によって奪われていた侍所別当に和田義盛が返り咲き、景時が持っていた播磨・美作の守護職のうち、小山朝政が播磨の守護になっている。 この時、北条時政は遠江守になっている。頼朝の時代、その推挙によって国司になっているのは源氏一族だけで、これにより、北条氏は御家人の上の源氏一族に準じる地位に上ったことにな った。 
北条時政は、頼朝と娘の政子の間の子、頼家が将軍に就くことにより、外祖父となり、関東の御家人の間で、その地位を確立していた。 
比企能員(ひきよしかず)は娘を頼家に嫁がせ、一幡(いちまん)をもうけていました。頼家はしだいに比企氏に近づいていた。 時政は頼家が比企氏と結びつくことを警戒した。このような状態の中、頼家は病気になった。病気の重いことを知った頼家は出家した。この時、頼家は一幡が跡を継ぐものと思っていた。一方、千幡に跡を継がせようと思っている時政は、能員を招いて殺害し た。一幡も襲われますが、逃げた。 
病気が好転した頼家に一幡が討たれたと伝わるが、怒る頼家は伊豆の修善寺に幽閉された。逃げていた一幡は発見されて殺され、1204(元久元)年、頼家は修善寺で殺害された。 
比企氏を滅ぼし、千幡を実朝として将軍に就かせた北条氏は強大な権力を確立していく。北条時政は政所の別当に就く(別当は別称執権と言う)。 
武蔵国は元来中小の武士団がひしめき合っていたため、他の国々では有力在庁官人が豪族的武士団を率いて、守護になったのに対し、守護は置かれていなかった。このため、頼朝の知行国として一族の平賀義信を推挙し、武蔵守に就かせた。この時代、その子の平賀朝雅(ともまさ)が武蔵守 だった。 朝雅は時政の娘婿だった。 
朝雅は比企氏滅亡の後、京都守護として上京した。留守になった武蔵の国務は時政が取り仕切った。 朝雅が上洛した頃、伊賀・伊勢は平家の残党に制圧されていた。朝雅は追討使としてこれを平定し、後、伊勢・伊賀の守護に任ぜられた。朝雅はこの後、後鳥羽上皇に近づいてい く。 
武蔵の豪族、畠山重忠が朝雅による時政への讒言により討たれた。その一ヶ月後、時政は実朝を殺し、朝雅を将軍に就けようとした。 しかし、政子やその兄義時は三浦義村をはじめとする関東の御家人を味方にして、時政を伊豆の北条に幽閉した。 
時政は後妻をもらったが、その間の子は朝雅と結婚したり、公卿の妻になっていた。畠山重忠は先妻の子と結婚していた。また、政子や義時は先妻の子であった。時政幽閉後、朝雅は京都で討たれた。この後、鎌倉は政子と義時の時代にな る。 
源頼家が修善寺で殺害される前年の1203(建仁3)年に、弟の実朝は12歳で将軍に就いていた。幕府の基本方針は変更なく、頼朝の路線が継承された。 
北条義時は権力を北条一門に集中するため、策を弄し、北条氏に対抗し得る勢力をそぐことに力を注いだ。北条氏にとって侍所別当の和田義盛はどうしても除かねばいけない勢力 だった。義盛の子息及び甥が謀反に加担して逮捕された。これを機に北条氏と和田氏は正面衝突する。 
1213(建保1)年、双方は鎌倉で戦う、和田合戦と言う。南関東の反北条の在地武士は和田氏につくが、義盛は敗死した。戦いの後、侍所の別当に義時が就き、政所の別当と兼務した。これらの別当の別称の執権を北条氏がこの後世襲し た。和田氏の没収地は北条方に就いた幕府の要人に与えられた。 
実朝は関東の豪族、足利氏の娘との縁談を破棄し、前大納言の娘を迎えた。 実朝は歌道に励み、藤原定家との間で書状を交わしていた。自らも「金槐和歌集」を編んでいる。 
北条氏は実権を握っていたが、将軍が上皇の側近の娘と結婚して上皇に取り込まれたり、王朝文化にあこがれて、幕府が王朝国家の一機関になることを恐れていた。実朝の官位が短期間に右大臣に昇進したことはその危惧を大きくした。 
1219(建保7)年、実朝は鶴岡八幡宮で、兄頼家の遺児で八幡宮の別当公暁(くぎょう)によって殺害された。公暁はその後討たれた。 実朝と公暁の死によって、源氏の正統は絶えた。
 
北条氏の台頭

大姫入内問題  
大姫(おおひめ)は頼朝と政子の間に生まれた長女である。頼朝はこの大姫を後鳥羽天皇の妃にしょうとした。 1195年3月、頼朝は、妻の政子をはじめ、子の頼家・大姫もともなって上洛した。表向きの理由は東大寺再建供養出席のためだが、本当の理由は大姫を入内させる下工作にあったよう だ。 
東大寺再建供養に出席した後、頼朝は京に二ヶ月ほど滞在したが、その間の行動が不可解だった。 当時、朝廷には頼朝の同志ともいうべき公家がいた、九条兼実である。九条家は藤原北家が分かれた「五摂家」のひとつである。 
兼実は幕府に対して好意的で、後白河法皇の政治のあり方に対しては批判的であった。当然、兼実と頼朝の関係は深くなり、頼朝は兼実の昇進を援助した。 頼朝の後援もあり、兼実は1185年に内覧の宣下を受け、翌年には摂政、1191年には関白となった。 
京に滞在中の頼朝の不可解な行動とは、二ヶ月もの間、兼実と面談したのは一回だけ、恒例となっていた頼朝から兼実への贈り物も馬が二頭とそれまでに比べるといたって少ないもの だった。 「盟友」兼実をよそに頼朝は何をしていたのか、頼朝は「反幕府派」である丹後局・源通親らに接触を試みていた。 
頼朝は銀蒔絵の箱につめた砂金三百両などを丹後局に贈ったと言う。こんな贈り物をしたのかというと、もちろん大姫入内を依頼するのが目的だった。 丹後局は、後白河法皇の寵姫(ちょうき)だった人物だ。 
高倉天皇の後、皇位についたのは清盛の孫の安徳天皇だが、平氏の都落ちの後、後白河が上皇の権威でもって次期天皇を指名した。これが三種の神器なしで史上初めて即位した後鳥羽天皇で ある。次期天皇に後鳥羽を強く推挙したのが丹後局だった。源通親は武士ではなく公家の源氏で、後鳥羽天皇の乳母であった範子(はんし)の夫であった人物だ。 
丹後局と源通親は後鳥羽天皇に対して大きな影響力をもっていたわけだ。頼朝が彼らに取り入ろうとしたのも、その影響力によって大姫の入内を実現させようとしたから だ。ややこしいことに、もし頼朝が大姫入内を実現させると、それまでの「盟友」であった兼実がライバルとなってしまう可能性がでる。兼実の娘である任子(にんし)はすでに後鳥羽の中宮となっていた。任子に男子が生まれれば、当然次の天皇候補の最有力 者である。頼朝が大姫を入内させようとした目的は、大姫が男子を生めば、その子を次の天皇とし、自分は天皇の外戚となることだ。つまり清盛のとった行動と同じだ。 
大姫の入内が実現しないまま、1197年に病気のために亡くなった(20歳)。 しかしこの大姫入内問題が原因となって大事件がおった。 
建久七年の政変  
「反幕府派」である丹後局・源通親らが、「親幕府派」である九条兼実に遠慮していたのは、兼実のバックには頼朝がいたからだ。しかし、大姫入内問題で兼実と頼朝の仲がおかしくなって、頼朝の後援がなくなれば、丹後局らにとって兼実は別段恐い相手では なくなった。 
1196年2月、丹後局・源通親らは、兼実を朝廷から追放しようとくわだて、見事に成功した。これを建久七年の政変と言う。 
兼実は関白の職を罷免され、娘の中宮任子(にんし)も内裏を追われた。この政変によって、朝廷の政治の実権は丹後局・源通親によって握られてしまった。京で政変が起こっている間、鎌倉の頼朝はこの動きに介入しようともせず静観していた。形の上からは静観 だが、実際には丹後局らに無言の支持を与えていたという方が正しい。 建久七年の政変の後、めざましい勢いで政治の実権を握ったのは丹後局ではなく源通親の方だった。通親は養女を後鳥羽天皇の元へ入内させ、後鳥羽との間に男子の誕生をみた。この男子が後の土御門天皇とな る。 
頼朝にとってこの政変は、大姫が病没したことから得るものは何もなく、失ってしまったものはあまりにも大きかった。「盟友」兼実を見殺しにしてしたことで、朝廷内の「親幕府派」をすべて失ってしまったばかりか、朝廷内に「反幕府派」が台頭するのを手助けしてしまったの だ。 
1199年1月13日、源頼朝が亡くなった(53歳)。その前年の1198年12月27日、相模川の橋の落成式に出席した帰り、乗った馬があばれ落馬してしまい、そのときに頭を強く打って、それが原因で亡くなったと言われてい る。しかし頼朝の死因については諸説あり、確かなことは不明である。 
13人の合議制  
頼朝の死によって、長男であった源頼家が鎌倉殿の後継者となった。二代将軍頼家の誕生した(18歳)。 頼家はどのような人物であったのか、有名なエピソードが伝わっている。 鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」には、1200年5月の出来事として、次のような話が記載されています。 
陸奥国葛岡郡新熊野社の僧が、領地の境界争いについての訴えを鎌倉にした。それを聞いた頼家は、争いがおこっている土地の絵図面をとりよせると、自ら筆をとって図の真ん中に黒々と1本の線を引き、「このように、半分づつに分けよ」と命じた。 頼家の言い分は、「手に入れた土地に広い狭いのちがいがあっても、それは運だと思ってあきらめよ。このようなことのために使者を現地につかわして調査をするなど無駄なことだ」というものであった。 
しかも範頼はさらに、「この後、所領の境界争いがおこったときは、このようにする。それに不服があるのなら、訴訟などおこすな」と言った。  
この話が本当かどうかは不明だ。もし本当であるとしたら頼家はとんでもない将軍であることになる。御家人たちが将軍に期待するもっとも重要な役割は、彼らの土地についての権利を守り、土地争いがおこった場合は、それを公平に裁くことにあったからで ある。「一所懸命」という言葉に象徴されるように、御家人たちにとって土地は何よりも大切なものだた。大切な土地をめぐる争いに対して、まじめに取り扱おうとしない将軍頼家は、御家人にとってはまさに「とんでもない将軍」ということにな る。 
頼家が本当に「吾妻鏡」の言うような「暗愚の将軍」であったかどうかは現在となっては確かめるすべはない。苦労人であった父頼朝とはちがい、「生まれながらの将軍」であった頼家には御家人たちの権利を守り、それをさらに拡大させていこうとする意識はほとんどなかったよう だ。 
このような頼家に対し、有力御家人たちの抵抗がおこる。頼家が将軍となったのは1199年1月だが、4月には北条時政・大江広元・三善康信ら幕府の宿老たちが、頼家から訴訟の決裁権を取り上げてしま った。 つまり頼家の将軍としての権限を制限したわけだ。その上で御家人たちの代表である13人の宿老を選び、この13人が話し合い、幕府の政治が行われるしくみが整えられた。これを「13人の合議制」と 言う。 
13人とは、大江広元・三善康信・中原親能(なかはらちかよし)・二階堂行政の文官4名と、北条時政・北条義時・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員(ひきよしかず)・安達盛長・足立遠元(あだちとおもと)・梶原景時の武将9名 だった。 
この13名が当時の幕府の有力者であったが、その中心となったのは将軍頼家の母政子の父北条時政とその一族であった。北条一族の勢力は以後、急速に拡大していく。 
景時粛正  
梶原景時は、義経の戦目付として派遣され、「戦争の天才」義経の作戦にことごとく「前例がない」などの理由で反対した人物でした。 景時は頼朝のお気に入りで、景時はいちずに頼朝への忠勤をはげんだ。こんな景時を他の御家人たちはあまり心よく思っていなかった。 
事件は頼朝の死後、1年を待たずしておった、有力御家人66名が時景排斥を将軍頼家に訴え出た。 「吾妻鏡」によると、ことの発端は次のようだ。 
小山政光・結城朝光の二人がある日、亡き頼朝をしのんで、「かねて『忠臣、二君に仕えず』と聞いているが、今にしてその意味が心にしみる。頼朝公の死に殉じて出家し、遁世した方がよかったのかもしれない」と話し合っていたのを景時が聞きとがめた。 景時は、二人が謀叛を企てていると範頼に訴え出た。そのことを知って驚いた朝光が、友人の三浦義村に相談すると、一日にして御家人の反時景連合が結成された。 
時景は頼朝と同じく、頼家にも忠勤をはげもうとして訴え出たのだろう。実は梶原景時は、頼朝だけでなく頼家にとってもお気に入りの家臣であった。 しかし頼家は、66人もの御家人の訴えを受けて、景時を庇いきれなかった。進退きわまった景時は、ひとまず所領へと引きこもり、翌年の1200年1月、一族郎党を率いて京へ向 った。 しかし、駿河国でその地の武士に見とがめられ、合戦となり、一族そろって最後をとげた。 
駿河国の守護は北条時政である。時政の指令が現地の御家人にとどいていただ。こうして、頼家の「忠臣」梶原景時は、反対勢力によって粛正されてしまった。 景時の粛正は、頼朝の死がきっかけとなっておこった事件と言える。 
頼朝は将軍として幕府のすべての権力を握る最高権力者として君臨することができた。 しかし子の頼家の代になると、頼朝がもっていた将軍の権力が衰えてきた。景時の粛正もその流れの中でおこったと言える。 
比企氏の乱  
1203年8月、将軍頼家は病で、危篤状態となった。頼家が重体となったのを受け、北条時宗は政子とはかって、将軍の権限を二分すると発表した。頼家の子である一幡(いちまん)に日本国総守護と関東28ケ国の総地頭の地位をあたえ、頼家の弟の千幡(せんまん)に関西38ケ国の総地頭の地位をあたえるというもの だった。 頼家の弟の千幡の母親は言うまでもなく政子で、この千幡が後に三代将軍実朝となる。 
この取り決めに対し、強く反対したのが比企能員(ひきよしかず)だった。頼家の乳母は比企家の出身で、それが縁で、頼家は比企能員の娘を妻とした。一幡は二人の間にできた子ども だ。 ですから比企能員は頼家の義父であり、一幡の外祖父にあたるわけだ。 時政らの取り決めに対し、反対した比企能員の言い分は、「将軍の権限を二分するなんて、そんなばかな話があるか」「頼家の子である一幡がすべて受け継ぐのが当たり前だ」。 比企能員は病床にあった頼家のもとを訪れ、北条氏の不法をなじるとともに、北条氏打倒を相談した。 
この二人の密談を母の政子が障子のかげで立ち聞きしていたという。政子は二人の密談を父時政に伝えた。 時政は大江広元の了解をとり、仏事にことよせて比企能員を自分の屋敷に招いた。 「行かなければ疑われる」と考えた比企能員は、ろくな供も連れずに北条時政の屋敷へ出向いた。そして比企能員が屋敷の中に入ったとき、待ちかまえていた時政の部下たちにとり囲まれ、あっけなく討ち取られてしま った。 
そのことをしって怒った比企一族は、一幡を盟主として館にたてこもった。義時は大軍を擁して比企氏の館に攻めかかった。 比企一族は抵抗もむなしく、最後は屋敷に火をかけ、一族そろって自害したという。頼家の子一幡も、一族と運命をともにした(6歳)。 
以上が「吾妻鏡」に記された「比企氏の乱」の顛末だが、真実がどうかは不明で ある。 
もし一幡が三代将軍となれば、比企氏が将軍の外戚として、幕府の中で強い勢力をもつことはまちがいない。そのような事態は北条氏としては避けたいところだ。一幡の存在が邪魔であった北条氏に、比企能員がまんまとはめられ、一族ごと葬り去られてしまったと考える方が現実的な気が する。 
頼家の死  
比企氏の乱の後、当然のことですが頼家は北条氏への復讐を考えるようになった。病が奇跡的に回復した頼家は、北条義時追討を和田義盛・仁田忠常に命じた。 しかし、和田義盛はこの命令に従わず、時政に事の次第を知らせたため、この企ては失敗に終わった。そして頼家は母政子によって出家させられ、伊豆の修善寺へ送られ、その地に幽閉され た。 
「頼家は政子の実の息子であり、時政にとっては実の孫に当たるのに、どうしてそんなことをするのか」という疑問である。 
北条氏は幕府の実権を握ろう、握りたいと強く考えていた。北条時政は、もともとは伊豆の小豪族だった。幕府の最有力者になったのは、娘政子が初代将軍頼朝の妻となったから だ。頼朝の外戚になったということが、今日の北条氏隆盛の大きな理由である。 ところが二代将軍頼家にとっての外戚は北条氏ではなく、妻の実家の比企氏だった。事実、頼家は、父の代からの「忠臣」であった梶原景時や、妻の一族である比企氏ばかりを重用し、北条時政をはじめとする他の有力御家人の意見をしばしば無視した。 
そのことに危機感を感じた北条時政・政子の親子によって、梶原景時・比企氏一族が次々と滅ぼされ、最後に頼家が粛正されることになったのではとも考えられる。 
1204年7月、頼家が亡くなった(23歳)。「吾妻鏡」にはその死因については病死とある。 しかし、慈円の「愚管抄」には、「頼家は暗殺された」と記されている。 「愚管抄」は「頼家は湯に入っていたところを刺客に襲われたが、敵の武器を奪ってあくまで抵抗を続けた。しかし、最後は首に縄をかけられ、手足をおさえつけられて動けなくなったところを刺し殺された」と頼家の最後を伝えてい る。 頼家は病死ではなく北条氏によって殺害された、というのが現在では通説となっている。 
頼家が伊豆に幽閉された後、弟の千幡(せんまん)が将軍となった。三代将軍源実朝の誕生である。実朝が将軍位についたのは1203年9月7日のことでした。そして当時の実朝はまだ12歳 だった。12歳の子どもに将軍職などつとまるはずもなく、幕府政治の中心をになったのは、外祖父として実朝の後見役となった北条時政であった。 時政は「将軍の後見役」として大江広元とならんで政所の別当となり、実朝の代理として発する「下知状」という文書によって、幕府の実権を握った。それまでの「13人の合議制」から、時政が幼少の将軍に代わって一人で幕府の命令を出せる形をつくったわけ だ。 
この時政の地位は後の時代に執権とよばれるようになった。 執権というのはもともと朝廷において、上皇に仕える院司のうち、その筆頭となる人物をさした言葉だ。13世紀の中ごろから、この院の執権になぞらえて、幕府の政治の実権を握る北条氏の地位を執権とよぶようになった 。 この後、鎌倉は「北条氏の内紛」「実朝暗殺」「和田合戦」そして「承久の乱」とまさに激動の時代を迎えることになる。そしてこの流れの中で北条氏による執権政治が確立していく 。
 
承久の乱1

実朝の死後、母である尼将軍政子は、後鳥羽上皇の皇子の1人を将軍として下向してほしいと要請するが、上皇は天皇と将軍に兄弟がなれば国家の統一が妨げられると断った。 
駿河では頼朝の弟で、謀反の疑いで殺害された阿野全城(ぜんじょう)の子が挙兵した。これに対し北条義時は御家人を派遣して討たせる。この直後、義時の子、泰時が駿河守に任ぜられてい る。 
京都も騒がしくなっていたので、義時は伊賀光季に警固を命じ、大江親広を京都守護として派遣した。上皇は寵愛していた伊賀局(いがのつぼね)の所領の地頭を解任せよと迫った。 
義時の弟、時房は千人の軍を従え、上皇の要求を拒否し、皇族将軍の東下を要請する。そこで、左大臣九条道家の子の二歳の三寅(みとら、後の頼経)が選ばれる。三寅は親幕派公卿九条兼実の曾孫であり、頼朝の妹の曾孫にも当た る。北条氏は皇族将軍をあきらめ、摂家将軍を迎えた。 
後鳥羽上皇は北条氏が主導する鎌倉幕府が崩壊を望んでいた。そこでまず、上皇は近臣を出羽羽黒山の最高位に、皇子を天台座主に送り込み、寺院勢力を味方につけようとした。この頃、順徳天皇は4歳の仲恭天皇に譲位してい る。 
1221(承久3)年、鳥羽離宮に流鏑馬(やぶさめ)揃いと称して、近国の兵を集めた。そして、北条義時追討の宣旨が下した。親幕派の公卿は幽閉され、二人の京都守護のうち、大江親広は京方につき、伊賀光季の屋敷は京方の軍勢に囲まれ、自害し た。 
宣旨が関東の豪族達に届く前に幕府は使者を取り押さえた。それでも、御家人達に動揺はあった。主だった御家人を前に政子は幕府の危機を訴えた。時代の流れ、そして頼朝の恩を訴え た、これにより関東は結束した。 幕府の宿老達には迷いがあったが、政子は京都進撃の判断を下した。鎌倉方は東海道・東山道・北陸道から京都を目指した。 
京方の要衝は次々と打ち破られた。京都は大混乱となり、山門の衆徒を味方にしょうとしたが、拒否された。遂に上皇は院宣を下し、今回の戦は謀臣がやったことだとした。 
京方の敗北で承久の乱は終わった。義時を中心とする幕府は厳しい責任追及を行った。後鳥羽上皇は隠岐に流され、順徳上皇は佐渡に流された。土御門上皇は直接責任はなかったとし たが、上皇は京都に留まるのを潔しとせず、土佐に流されるが、翌年には阿波まで幕府は迎えている。天皇はまだ即位してなく、外祖父九条道家に引き取られ、廃帝となってい る。 
後鳥羽上皇とその周辺には多くの皇室御領が集積されていた。鳥羽院政時代に行われた寄進によって形成された八条院領、後白河法皇が自分の下に集積された所領を寄せた長講堂領、後鳥羽院政下で、畿内近国を中心に集積された代表的な七条院領、以上のように何代にもわたって寄進が行われ、所領が集積されてい った。義時はこれら皇室領を全て没収した。 
後鳥羽上皇とその系統の天皇は排除された。幕府は高倉天皇の皇子で、後鳥羽上皇の兄で、出家していた親王に目をつける。この親王は太政天皇となり、後高倉院として院政をとり、天皇はその皇子が後堀河天皇とな る。摂政は九条道家から近衛家実に更迭される。 
幕府は再び叛乱が起きないように、義時の弟の時房と子の泰時を六波羅探題として京都に送り込む。六波羅を本拠に、洛中の警固と西国の幕府関係の裁判を行った。二つの六波羅の地位は執権・連署に次ぐもので、北条一門の有力者によって占められるようになり、従来の京都守護よりはるかに広範な行政・軍事上の権力を持つようにな った。 承久の乱による没収地は3,000箇所以上に昇り、ここに地頭として関東の武士が入ってきた。 
諸国の大田文が守護の下で作成され、荘園・公領の田地が明確にされ、国家的行事の費用や、御家人の京都・鎌倉大番役の負担は大田文の記載を基準に賦課された。 
諸国は知行制が敷かれ、権門の知行国主の支配下に置かれ、将軍家も関東御分国と言われる知行国を持ち、没官領を関東御領として支配下に置いた。 
荘園や郡・郷・保・名などの公領では田地を基準にして、各地の特産物が年貢として徴収された。畠地についても、地子が賦課され、賦役などの雑公事が賦課された。 
西国では主に百姓に田畠等を均等に請負わせ、百姓名を編成した。こうした百姓名の名主になった百姓はそれぞれの荘園や公領に住む惣百姓を代表する立場にあった。 
これに対して、現地に本拠を持つ侍身分の人達は、公文・下司・田所等の下級の職に、荘園・公領の実権を掌握する領家や知行国主によって任命され、同じく領家・国主によって派遣される上級の職である預所・目代とともに年貢・公事の徴収に当た った。このように西国の荘園・公領は本家を頂点に領家・国主、預所・目代、下司・公文、百姓名の名主の職が請負や任免の関係の職(しき)の体系によって支配された。 
東国は荘園・公領の規模が大きく、豪族的御家人が地頭となり、郡・荘全体を請負う場合が多く見られた。地頭は一族代官を荘園・公領内に配置し、年貢・公事を徴収させた。 
東国では地頭を中心とする一族や主従関係にある者が荘園・公領支配を支え、年貢徴収の権利者の支配は現地に及ばなかった。実質的には幕府の支配下にあった。 
西国の荘園・公領のうち平氏の没官領には既に幕府が任免権を持つ地頭が入っていたが、承久の乱で王朝側に立った武士の没収地には東国御家人が新補地頭として入部した。彼らは東国のやり方を強制し、百姓達への地頭に従属を強制することに対し、強い抵抗が示された。その訴えを支える領家・預所と地頭との訴訟は各地で頻発した。
 
承久の乱2

後鳥羽上皇 
後鳥羽上皇は1180年7月14日、高倉天皇の第四皇子として生まれた。つまり清盛の孫で、壇ノ浦で悲劇の最後を閉じた安徳天皇の異母弟にあたる。 1183年、平氏が木曽義仲の軍勢によって京を追われて「都落ち」した後、平氏と行動を共にした安徳天皇の代わりに新たな天皇を立てる必要が出てきた。 
木曽義仲は自分が保護していた北陸宮を強く推薦したが、当時の朝廷で実権を握り、院政を行っていた後白河法皇は、寵姫であった丹後局(たんごのつぼね)の進言によって、後鳥羽を即位させることに決めた。後鳥羽の即位は1183年8月20日 だ。 
しかし、安徳天皇は退位したわけではなく、即位に必要な「三種の神器」を平氏が安徳ともに持ち去ったため、後鳥羽は史上初めて、「三種の神器」なしに後白河法皇の院宣により即位した。安徳天皇が壇ノ浦で亡くなった1185年までの間、在位の期間が重複していることにな る。後鳥羽が即位したと言っても、1192年に亡くなるまでは後白河法皇が院政を行い、後白河の死後は頼朝と協力関係にあった関白九条兼実が朝廷の実権を握っていた。 
1196年、丹後局と彼女と結んだ源通親らが起こした「建久七年の政変」によって、兼実の勢力は朝廷から一掃され、以後は通親が朝廷の実権を握った。 
即位したときは3歳であった後鳥羽も成長し、成人するにおよんで朝廷での権力を自分の手にとりもどそうと考えるようになった。 1198年、後鳥羽は第一皇子であった為仁親王に譲位し、上皇となった。ちなみに為仁親王の母は源通親の養女であった女性だ。為仁は即位して土御門天皇となった。 
その後、皇位は土御門から順徳(じゅんとく)、仲恭(ちゅうきょう)と移っていくが、土御門が即位した1198年から1221年まで、23年間に渡って後鳥羽上皇の院政が行われた。 後鳥羽上皇による院政は祖父である後白河法皇の後継者とよぶにふさわしく、自分一人に権力を集中させていく。朝廷の政治は後鳥羽と何人かの寵臣によって行われるようになった。 
後鳥羽の乳母であった藤原兼子をはじめとする上皇の近親者が政治に口を出し、大きな力をもつようになった。兼子は歴史上「卿二位(きょうにい)」とよばれている。 
個人としての後鳥羽上皇は文学を好み、自身がすぐれた歌人でもあった。また当時の皇族・公家としてはめずらしく水泳や馬術、さらには武芸も得意であったという。 後鳥羽上皇は少し古くさい言い方をすれば「文武両道」の優秀な人物だった。 
後鳥羽上皇の有名なエピソードをひとつご紹介すれば、当時の都を騒がせていた大盗賊交野八郎(かたのはちろう)を捕らえるため、多くの武士をみずから率いて出かけていき、自分に立ち向かってきた八郎と堂々と渡り合い、苦もなく取り押さえたというものがあ る。 また上皇は菊の花を好み、衣服や車や太刀に菊の紋章をつけた。現在、「菊の紋」と言えば皇室(天皇家)の紋となっているが、皇室の紋が菊になったのは、後鳥羽上皇からだ。 
朝廷と幕府の対立  
文武に秀でた後鳥羽にとって、幕府の勢力拡大は許しがたいことだったようだ。また幕府の力が強くなることは、現実問題として上皇の権威や経済的な基盤がおかされるということでもあ った。 
「幕府によって上皇の権威がおかされた」という例をひとつご紹介する。 
上皇に仕えていた亀菊という白拍子の女性がいた。 亀菊は上皇から摂津国に二カ所の荘園を与えられていた。 ところがこの荘園に幕府から派遣されてきた地頭が、荘園領主である亀菊をないがしろにしたという。具体的には不明だが、おそらく年貢を横取りするなどの横暴なふるまいがあったのではないかと想像され る。 亀菊は後鳥羽上皇に、この地頭を解任して欲しいと願い出た。 
上皇は亀菊の訴えを受けて、さっそくそのむねを幕府へ申し入れた。幕府の執権北条義時は、その申し入れを拒否した。 義時の立場からすれば、この態度は当然で、上皇の命令を受けて、御家人である地頭を解任すれば、幕府は(執権としての北条氏)は御家人たちの信頼を無くしてしまうことになるから だ。 
上皇の強硬な申し入れに対し、「拒否」の回答を伝えるために、義時は弟時房に一千騎の兵を率いさせ、都に上らせるという強い態度を示した。 武力を背景にされては後鳥羽も引き下がらざるを得なかった。(実朝暗殺の後、親王を将軍として鎌倉に送ることを上皇が拒否したのも、このときの無念のうらみを晴らすという意味があったのかもしれ ない。) 
この地頭の解任問題にも見られるように、公領(国衙領)や荘園に対する朝廷と幕府の二重支配は、おおくの矛盾をあらわすようになっていた。 朝廷と幕府の二重支配の矛盾に加え、かつては皇族や有力な公家・寺社などに自分の荘園を寄進し、その保護を受けることに自分たちの土地を守ろうとした人々が、幕府の力をかりて自分たちの土地を守ろうとする傾向も強まってきた。 
このような状況は、都における朝廷勢力にとっては大いなる不安・不満の種となっていた。そのため、幕府を憎む上皇のまわりには、同じように幕府にたいしてうらみや不満をもつ公家・寺社さらには武士たちが集まるようになっていった 。後鳥羽上皇も、これまであった北面の武士に加えて新たに西面の武士を置き、自分に味方する武士勢力を増やしていった。 
さらに上皇は多くの僧兵をかかえた比叡山や熊野三山にも働きかけを行い、自分の味方につけようと努めた。こうして朝廷と幕府の直接対決の機運は高まっていった。 
後鳥羽上皇の挙兵  
1219年には実朝の暗殺、そして地頭解任問題などが起こった。翌年の1220年は不気味な沈黙の年で、年表を見てもこれといった記載はなく、1221年をむかえる。 
1221年5月14日、倒幕のため兵を挙げることを決意した後鳥羽上皇は、この日、流鏑馬(やぶさめ)を行うという名目を設け、倒幕の兵を都へ集めた。 翌日5月15日、上皇は北条義時追討の院宣を発し、近畿・西国の武士たちに檄をとばした。 上皇のもとで倒幕計画の中心となったのは「院の執権」とよばれていた藤原光親、院の近臣で僧侶であった二位方院尊長(にいほういんそんちょう)、北面の武士であった藤原秀康ら だった。 
朝廷方(上皇方)は幕府との戦いについて、当初はかなり楽観的であったようだ。院宣の威力に大きな自信を持っていた。「義時追討の院宣が出された以上、義時に従うものは千騎とおりますまい。」とそんな会話が朝廷方ではなされていたよう だ。 
事実、都にいた御家人の中で、院宣に従わなかったのは京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)のみで、その他の者はすべて院宣を奉じて上皇方の軍に加わった。光季はただちに上皇軍によって攻め滅ぼされてしま った。 
上皇方の軍の主力をなしたのは、在京御家人の他、仁科盛遠・和田朝盛ら北条氏にうらみをもっていたり、滅ぼされた御家人の一族だった。彼らに院に直属する北面の武士や西面の武士を加え、さらに御家人ではない近畿や西国の武士を加えれば、人数的には十分に幕府方に対抗できるはず だった。 
上皇は西国の武士ではなく、鎌倉にいる御家人たちにも手をまわしていた。「義時を討てば、恩賞は望みにままに取らせる。」という内容の書面を三浦義村をはじめとする幕府の有力御家人たちに送っていた 。 自分の院宣の力を信じきっていた後鳥羽上皇は「義村が朝廷の命令にそむくはずはない。いますぐにでも義時の首を持った使者が義村らとともにもどってくる。」と信じていたよう だ。 
上皇の意に反して使者はなかなか京へもどってこなかった。上皇からの使者をむかえた義村は、このことを義時にすべて知らせていたからだ。義時はこの使者を捕らえさせた。 
政子の励まし  
「倒幕」という後鳥羽上皇の動きを知った幕府には、はげしい動揺が走った。幕府の御家人にとって、「天皇や上皇、公家、朝廷といったものは、自分たちにはおよびもつかないほど高い権威をもつものだ。」というのが当時の常識 だった。 
義時追討の院宣が出たことは、義時が朝敵になってしまったことだ。その「朝敵義時」に味方すれば、つまり上皇の院宣に逆らえば、自分たちも朝敵になってしまう。朝敵と は、今では想像もできない、マイナスイメージなものだった。もし上皇の院宣にしたがって義時を討てば、御家人たちは朝敵の汚名はまぬがれるが、幕府が朝廷に屈したことを意味 になる。 
苦労して築きあげてきた「武士の地位」が再びもとのみじめな時代に逆戻りしてしまう。まさに「前門の虎後門の狼」という状況で、動揺する御家人たちを前に、亡き頼朝の恩を説いて、御家人たちに上皇方の軍勢と戦うよう諭した人物がい た。ご存じ「尼将軍」北条政子である。政子は並み居る御家人たちの前で、このように述べた。 
「みな、心を一つにして聞いて欲しい。これが最後の言葉です。亡き頼朝殿が朝敵を討ち、武家政治を初めて以来、官位のことといい俸禄のことといい、頼朝殿から受けた恩義は山よりも高く、海よりも深いはずです。しかし今、わたしたちは不正な綸旨によって反逆者の汚名を着せられました。名誉を重んじるなら、ただちに本当の朝敵である藤原秀康や三浦胤義(みうらたねよし)らを討ち、鎌倉の政治を守るべきです。ただし、もしどうしても朝廷に味方したいという者があるなら、今申し出なさい。」 
政子の「名演説」によって、鎌倉の御家人たちは頼朝以前の自分たちの悲惨な境遇を思い出し、団結して上皇方と戦うことを決意した。 しかし、少し細かく政子の「演説」を読むと、そこには「方便」がある。政子は「名誉を重んじるなら秀康・胤義を討て」と言っている。「上皇を討て」とは言っていない。政子の論理は、義時追討の院宣が出たのは後鳥羽上皇の近臣である秀康・胤義らである、上皇は彼らの陰謀によって院宣を出されたのだ、だから上皇のおんためにも「君側の奸」である秀康・胤義を討て、ということにな る。 
おかしな論理だ、院宣はまちがいなく後鳥羽上皇の意志で出ている。そのことは政子も十分承知の上だ。しかし、「上皇を討て」とは当時の常識から絶対に言うことはでき ない、どのような理由があろうと朝廷に弓を引くことは朝敵となることを意味となる。方便として政子はこのように言っているのだ。 
「君側の奸を討つ」という論理は歴史の中ではよく登場する言葉だ。政子の言葉によって団結を固めた幕府方は、上皇方との戦いを開始した。1221年に始まったこの争いを承久の乱と 言う。 
承久の乱  
政子の言葉によって幕府方が団結を固めていたころ、後鳥羽上皇が期待したような大軍は集らなかった。近畿・西国の武士たちの中で、院宣にしたがおうとする者はほとんどいなかった 。おそらく近畿・西国の武士たちにとっても、「自分たちの利益を守ってくれるのは鎌倉である。」という認識があったのか。 
これでは上皇方にとうてい勝ち目はなく、そこへ一説に19万という大軍が鎌倉を発し、京へ向かったという知らせがもたらされた。 北条義時は鎌倉で上皇方が攻めてくるのを待つよりも、こちらから軍を京へ差し向けて一戦し、一気に敵をたたくべきである、とする大江広元の意見をいれ、長男の北条泰時を大将、弟の時房を副将とし、東海道・東山道・北陸道の三道から、大軍を京へ進ませた。 
泰時出陣の際のエピソードが南北朝時代に書かれた「増鏡」に記されている。 
「今度の戦いにおいては、味方に後ろぐらい点など一つもない。心をつよく持って奮戦せよ。勝たずに再び箱根・足柄の山をこえるな。」と父の義時から激励されて出発した泰時は、翌日、ただ一騎でもどってきて、たずねた。「もし上皇みずからが軍を率い、先頭に立って攻めてこられたらいかがいたしましょう。」義時は「よくぞたずねた。その際は上皇の御輿に弓を引くことはできぬ。鎧をぬぎ、弓の弦を切って降参せよ。だがそれ以外の時には千人が一人になっても奮闘せよ。」と答えた。この父の言葉を聞き終わるやいなや、泰時はふたたび馬にムチをあてて西へと向かった。 
このエピソードは後世の公家の「こうであって欲しい」という願望の表れである、とするのが通説となっている、政子の「方便」と共通する部分がある。 
京へと攻めのぼってくる幕府軍を、朝廷軍はむかえ討ち、木曽川や宇治・勢多で戦った。当然だが、上皇が軍の先頭に立つということはなかった。幕府軍は義時追討の院宣が出てから1ヶ月足らずの間に朝廷方の軍勢を壊滅させ、京を占拠した。承久の乱は幕府方の完全勝利で終 った。 
乱後の処理  
承久の乱の勝利後、義時は泰時・時房の両名をそのまま京にとどめ、戦後の処理にあたらせた。 後鳥羽上皇は承久の乱をおこす以前に、実子ではあるが倒幕に消極的であった土御門天皇を退位させ、その弟で倒幕に積極的な順徳天皇を即位させた。 
戦いが近づくと、今度は順徳を退位させ、その子懐成親王(かねなりしんのう)を天皇に立てた。仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)である(4歳)。順徳が天皇のままでいると、様々な儀式や政務にわずらわされ、幕府との戦いに集中できない 理由からだ。 天皇を退位して上皇になると、様々な儀式や政務にわずらわされることなく自由に動ける。後鳥羽は順徳を自分の「片腕」とすべく退位させて上皇としたわけだ。 ここまで準備した後鳥羽でしたが、幕府方に敗れてしまった。 
勝利した幕府は、後鳥羽の兄でありながら一度も皇位につくことなく出家していた行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)を説得して還俗させ、いきなり上皇とした、後高倉上皇で ある。在位わずか70余日で仲恭天皇は廃位され、後高倉上皇の子が新しい天皇に立てられた、後堀河天皇だ。 
後鳥羽上皇は幕府と戦って敗れた時点では「治天の君」であった。上皇が複数いる場合、院政を行っている、つまり政治の実権を握っている上皇をとくにこのように呼ぶだ。幕府が還俗させて後高倉上皇とし、その子を後堀河天皇としたこと で、治天の君が後鳥羽から後高倉へ変わったことになる(正確には幕府によって変えられた)。 
そしてこの時点(後鳥羽が治天の君からただの上皇になった時点)で、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の配流が行われた。 後鳥羽は隠岐へ、土御門は土佐へ、そして順徳は佐渡へとそれぞれ流された。ちなみに土御門は倒幕には無関係だが、本人の希望により配流となったという。後鳥羽の親王たちもそれぞれ但馬・備前などへ流された。上皇や皇族を臣下であるはずの幕府が配流するなど本来ありえ ないことだ。 
もちろん形式的には新しく治天の君となった後高倉上皇や後堀河天皇の命令によってという形をとっているが、前代未聞の出来事だった。幕府側は上皇に味方した公家や武士を捕らえ、処刑 もした。 三上皇の配流に代表されるこれらの処分は、朝廷の権威を失墜させ、反対に幕府の力を天下に知らしめることとなった。 
義時は上皇方についた公家・武士の所領をすべて没収し、幕府領とした。源平の戦いで没収された所領は500ヶ所余だったが、この時没収された所領は3000ヶ所余にのぼった。 
幕府はこの没収した所領を恩賞として御家人たちに与えた。これらの所領は主に西国に広がっていたので、これ以後、幕府の勢力は西国へもおよぶようになった。 
承久の乱での勝利をきっかけに、幕府が文字通り全国を支配するようになった。
 
仏教・和歌

源平の争乱の頃、平重衡による南都焼打ちにより、興福寺・東大寺の伽藍は焼け落ちていた。興福寺は藤原氏の氏寺でしたので、比較的早く復興したが、問題は東大寺だった。東大寺の再建には重源(ちょうげん)が大きな役割を果たし た。 
重源は洛中や諸国を勧進して回った。重源は宋人の陳和卿(ちんなけい)に再建を頼み、宋の工人や河内の鋳物師達が腕をふるい、1185(文治5)年大仏が鋳造された。その後、大仏殿の造営が行われた。重源は東大寺の他の建物や各地の寺院の造営をこの後行 った。 
重源は宋に渡って、宋の事情に詳しく、宋人の技術を駆使して様々な造営が行われた。それらの建築様式は大仏様(だいぶつよう)と呼ばれ、東大寺南大門にみるように、力強く、豪放で、構造的美しさを持ってい る。 東大寺南大門の巨大で力強い仁王像は、運慶・快慶らによる鎌倉彫刻の代表作だ。 
この当時、貧乏で、無学な一般の人々に対し、法然は念仏を唱えるだけで往生することを教えた。法然の専修念仏に対し、比叡山や興福寺はその禁止を朝廷に対し要請した。ここに南都北嶺の旧仏教と法然の新仏教は対立し た。 法然の弟子の中で、節をつけて美しい声で念仏を唱えるものがいた。その声に多くの人が集まった。そんな中、院の女房と弟子が密通事件を起こし、そのため、法然は土佐に流され た。その後罪は許されるが、攝津に留まり、京都に戻った後亡くなる。 
法然の始めた浄土宗は弟子の弁阿弁長(鎮西上人)によって九州に広まった。弁長は筑前遠賀郡香月荘で生まれ、観世音寺で戒を受け、比叡山で天台宗を学んだ。しかし、弟の死を契機に法然門下に入り 、その後帰国し、各地を布教して回る。筑後に入って、草野氏の帰依を受け、光明寺(後の善導寺)を創建した。 
日本に本格的な禅を伝えたのは栄西だ。栄西が入宋した時、重源と会っている。宋で、禅に触れた栄西は帰国後、再度入宋した。帰国後、九州に留まり布教し、禅宗が広まると、比叡山の要求で、宣旨により禅宗は禁止され た。 1195(建久6)年、弾圧を逃れて、栄西は博多で聖福寺を建立した。栄西は仏法の生命は禅であり、戒律であり、国家は仏法を護るものであり、仏法こそ国家の宝であると説 いた。 
このような考えは時の権力と結びつき、栄西は幕府の要人に接近した。鎌倉では北条政子によって寿福寺が建立され、京都では将軍頼家によって建仁寺が建立された。 この後栄西は本格的な布教活動を行いる。そして重源の後、栄西は東大寺勧進上人となって東大寺再建の仕上げを行った。 
栄西は日本に茶をもたらした。お茶は肥前国背振山に植えられ、各地に伝えられた。栄西には「喫茶養生記」という本がある。 
法然の高弟のうち、思想面を徹底して行ったのが親鸞であった。親鸞は出家して比叡山で修行し、その後、法然の門に入った。1207(承元元)年、法然が土佐に流された時、親鸞は越後に流され た。そして、この頃結婚した。流罪が許された後も越後に住み、1214(建保2)年妻子とともに常陸国笠間郡に移り住んだ。 この地で、「教行信証」を書き始めた。弟子の唯円が著した親鸞の語録である「歎異抄」には「善人なほもつて往生を逐ぐ。いはんや、悪人をや」という一節がある。東国で人々に念仏の教えを説いた。 
親鸞の弟子達は道場をつくり、肉食妻帯の生活を営み、多数の信者を集めていた。中には不心得者もいて、そのため、朝廷や幕府からは弾圧を受けた。この後、親鸞は京都に戻り、「教行信証」を完成した。 
法然・栄西・親鸞より少し遅れて登場したが道元である。貴族の子として生まれた道元は比叡山に入るが、長くおらず、栄西に巡り会う。臨済禅に感動し、求道生活に惹かれた。栄西が亡くなった後、京都の建仁寺の明全(みょうぜん)に師事し た。 1223(貞応2)年、明全とともに宋に渡る。宋の仏教界の堕落に落胆するが、禅僧達の厳しい求道生活を知る。厳しい修行に励んだ道元は、かの地で没した明全の遺骨を持って帰国し 、純粋な禅宗としての曹洞宗を伝えた。 
道元は六波羅の武士の帰依を受け、その所領の越前に下って行った。その所領で援助を受けて、山を開き、寺を建てました。この寺が後に永平寺と言われる。この地で長い期間をかけて、道元は法話の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を著し た。 
後白河法皇の院宣によって、和歌集「千載集」が藤原俊成(しゅんぜい)によって撰集された。俊成は和歌の理念として幽玄を唱えた。時代は源平の争乱の時代であり、貴族の没落の意識の下での感傷的な抒情歌が好まれた。 俊成の後にはその子の定家が和歌の第一人者となる。定家は構成的な美の世界を目指した。定家の他、西行・後鳥羽上皇・慈円・藤原家隆・式子内親王など多くの歌人が出て来 る。 後鳥羽上皇は和歌所を開設し、定家・家隆ら5人に命じて「新古今和歌集」を撰集している(1205(元久2)年完成)。 
「平家物語」は、世をはかなんで、遁世していた信濃前司行長が天台座主慈円の下で、盲目の琵琶法師生仏(しょうぶつ)とともに作り、生仏が語ったと「徒然草」で兼好法師が書いてい る。「平家物語」は平家一門の没落を物語り、盛者必衰の無常感が述べられている。 
天台座主の慈円が書いた「愚管抄」がある。慈円は関白九条兼実の弟であり、歌人としても名をなしていた。慈円は政治の理想を摂関政治に置き、神代より説いて、君臣が心を一つにして政治を行うのが理想とした。眼前で進行している歴史を解釈してい った。
 
執権政治

1224(貞応3)年、北条義時が亡くなり、泰時が跡を継いだ。しかし、それを阻止しようとする動きがあった。義時の後妻は伊賀朝光の娘で、自分の兄や三浦義村を抱き込んで自分の子の北条政村を後継者にし ようとした。しかし、北条政子の説得により、三浦義村は計画に加わらず、計画は失敗した。翌年、政子は亡くなった。 
その年、幕府の建物は鎌倉の中心の若宮大路に面した所に移転した。そして評定衆が置かれた。その最初の評定会議において、鎌倉の御所の宿直・警固につく鎌倉大番役の制度が決ま った。東下して来た三寅は政子の後見の下にあったが、元服して、藤原頼経と名乗り、正式に征夷大将軍に任命された。ここに執権泰時の下に新しい体制が発足した。 
独裁から合議制へ幕府政治は大きく転換した。また執権も泰時と叔父の時房の複数制が取られた。これらは長期の政権の安定を目指したものだった。 
数年前まで気候不順が続き、1230(寛喜2)年は、夏に雪が降り、霜がおり、暴雨風に見舞われ、大雨・洪水になっていた。このため、全国的に凶作になり、年末には反対に天候は陽気になってい る。翌年、疫病が流行り、餓死者があふれ、全ての庶民が飢えていた。群盗が横行し、飢餓でどれ程死んだか分からないくらいで、耕作面積は半分で、耕作する人もなく、種子もない状態 だった。 
この様な大飢饉で、故郷を捨ててさまよう人々が大量に発生し、飢餓により荘園の人口も激減した。泰時は伊豆・駿河の倉の米を出挙に出し渋るのを保証して、農民に放出させてい る。 
飢えた人々は妻子を売り、自らも身売りして生き永らえようとした。人身売買は勿論禁止だったが、餓死者の増大により、遂に幕府はこれを公認した。この後、社会が平常に戻った時、安値で売った者はその値で買い戻そうとし たが、その値では応じようとしなかった。そこで幕府は1239(延応元)年、買戻しの法を定め、以後は人身売買を禁止した。 
評定衆による合議制による政治を行うためには、首脳陣は勿論のこと、御家人達に共通認識が必要だった。頼朝以来の蓄積の下に理念や原則を明確にすることが求められた。承久の乱後、六波羅探題を置き、西国の紛争を直接処理する体制を整え始め、京方の公家・武士の跡に多くの新補地頭を送り込 んだ。 
しかし、地頭達は荘園領主・荘官・百姓との間に新しい紛争を巻き起こした。前の義時の時代より、紛争に対し基準を設け、地頭の横暴を抑えようとした。寛喜の飢饉により、更に地頭の節度ある行動が要求された。泰時はこの間、次々と法令を発布してい る。 
1232(貞永元)年、評定衆にはかって「御成敗式目」51個条が制定された。これは年号を取って貞永(じょうえい)式目と呼ばれる。 泰時は古代律令以来の公家法を理解しているものは少なく、その解釈も法律家によってまちまちであると批判している。そして、式目は文盲の者でも理解できると言っている。 
式目は武家法であり、幕府の内部での法であった。そのあり方は問題解決型で、現実的な運用にとって、最も無理のない解決法である道理を重んじていた。 式目には、守護・地頭の規定されないことは公家法が生きていたと思われる。 
御家人の所領支配に関して、従来は頼朝以降将軍及び政子の代に拝領した所領は返すことがないという不易の法を、泰時の代までこれを反故にしないと約束した。また知行して20年過ぎれば、理由を問わず、その知行は保証されるという年紀法を決めた。 
奴婢や雑人に対する支配では、10年間放っておくと無効になり、奴婢の生んだ子は男は父に、女は母につけよと規定された。公家法では男女ともに母につけられていた。 
百姓については年貢の未納は取立ててもいいが、逃散はおしとめてはいけないと規定し、百姓の移住を保証した。 
承久の乱後、幕府は僧侶の武装を禁じようとした。そして、武装した僧を見た場合は鎌倉に通報することを命じた。幕府はその報告を元に本人の身柄を貰い受け、厳重に処罰することにし、寺社権門に対し、強い圧力をかけた。 
延暦寺と守護との紛争に関しては、従来と異なり、延暦寺に対し、泰時は激しい態度で臨んだ。岩清水八幡宮と興福寺との争いに関して、興福寺に対して、泰時は強力な圧力をかけ、興福寺の衆徒達は幕府に完全に屈服した。 
北条氏によって擁立された後堀河天皇が亡くなり、四条天皇が即位したが、その四条天皇も亡くなった。これによって後堀河天皇の皇統が絶え、皇位継承者に土御門上皇と順徳上皇の2人の皇子が浮かび上がった。京都の有力貴族達は順徳上皇の皇子を希望していたが、泰時は承久の乱の討幕計画へにかかわり方から土御門上皇の皇子を推薦した。ここに幕府が帝位の擁立を左右することにな った。 
この時代、貿易船に乗って多くの僧が宋に渡り、高級な織物や香料が輸入された。この日宋貿易により宋銭が多数流入した。 この時代の宋王朝は都開封が金によって占領され、江南の地に逃れて、臨安(杭州)に南宋を開いた。宋代の経済的発展は目覚しいものがあり、江南における稲作の発達、江西・四川の茶の栽培、四川・浙江の絹織物、華北の白磁、江南の青磁などの産業が発達した。 
西域交通路が西夏によって占領されたことにより、南海貿易路が活況を呈した。臨安・明州(寧波)・泉州などの港湾都市が発展した。こうして外国貿易の利益が国家財政の基礎なっていた。 しかし、貿易管理政策がうまくいかず、倉庫に商品が山積みになる状態になっていた。南海産香料の日本・高麗への中継貿易の活況は過剰輸入品のはけ口として採用されたことが元にあ る。 
この様な海外貿易の振興により周辺諸国の経済は刺激され、宋銭が大量に流出した。やがて、その流出に歯止めが利かなくなり、宋は国家財政の危機に陥る。 
鎌倉時代初め、大宰府が島津荘に着岸した貿易船の品物を差し押さえようとした。これに対し、荘官達は領家の近衛家を動かし、幕府に抗議している。頼朝は鎮西奉行の天野遠景に対し、その行為を止めるように命じてい る。 
平安時代末期より、九州の海岸線には外国船が到着し、大宰府を通さない私的な交易が盛んに行われていた。 博多・香椎・筥崎・今津などの海岸線に外国船が着岸し、宗像社領・肥前国神崎荘・平戸などに宋の商人が住み、貿易の拠点になっていた。そこで輸入された品々は、唐物と呼ばれて王朝貴族の元に送られた。日本からは金・真珠・水銀・硫黄、螺鈿・蒔絵・屏風・扇子などの工芸品が輸出された。 
日本への宋銭の流入は増大し、この銭貨の流通によって、「銭の病」という流行病が引き起こされたとさえ囁かれた。 
鎌倉中期になると、荘園村落に宋銭が急速に行き渡っていく。そして、借上(かしあげ)と言われる高利貸や商人が活躍した。 
泰時は延暦寺の僧である山僧や商人・借上などを地頭の代官に登用することを禁止している。また、御家人が山僧・借上などから借金がかさみ、所領を売却する者が出てくるが、この売却を禁止し、売却した場合は没収とした。 
鎌倉は頼朝以来、鶴岡八幡宮を中心に整備されていたが、泰時の時に、大々的に再整備された。将軍頼経の下に御所が若宮大路に移った。 
泰時は巨福呂(こぶくろ)坂と朝比奈の切通しを切り開いた。巨福呂坂の切通しにより、山内(やまのうち)荘と鎌倉が直結した。この山内荘は北条氏の所領で、これ以降時頼による建長寺、時宗による円覚寺などが建立された。 朝比奈の切通しによって六浦津とが直結した。ここは後、北条(金沢)実時(さねとき)が所領し、ここの称名寺に金沢文庫が建てられた。 
鎌倉とその周辺は本格的に整備され、執権北条氏が主導する幕府の体制が最盛期を迎えようとしていたが、1242(仁治3)年、泰時は60歳で病死した。
御成敗式目(貞永式目)
第一条 
一、可修理~社專祭祀事 
右~者依人之敬揶ミ、人者依~之コ添運、然則恆例之祭祀不致陵夷、如在之禮奠莫令怠慢、因茲於關東御分國々并庄園者、地頭~主等各存其趣、可致艶ス也、兼又至有封社者、任代々符、小破之時且加修理、若及大破、言上子細、隨于其左右可有其沙汰矣 
一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事 
右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。然れば則ち恒例の祭祀は陵夷(りようい=衰退)を致さず、如在(によざい=神を祭る)の礼奠(れいてん=供物)は怠慢せしむるなかれ。これによつて関東御分の国々ならびに庄園に於ては、地頭神主ら各(おのおの)その趣を存し、精誠を致すべきなり。兼てまた有封(うふ=封戸のある)の社に至つては、代々の符(=太政官符)に任せ、小破の時は且(かつがつ)修理を加へ、もし大破に及び子細を言上せば、その左右(さう=状況)に随てその沙汰(=指示)あるべし。 
第二条 
一、可修造寺塔勤行佛事等事 
右寺社雖異崇敬是同、仍修造之功、恆例之勤宜准先條、莫招後勘、但恣貪寺用、於不勤其役輩者、早可令改易彼職矣 
一、寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事 
右、寺社異なると雖も崇敬これ同じ。よつて修造の功、恒例の勤め、宜しく先条に准じ後勘(こうかん=後日の咎め)を招(まね)ぐことなかるべし。但し恣(ほしいまゝ)に寺用を貪り(=私用に回して)、その役を勤めざるの輩に於ては、早く彼の職を改易せしむべし。 
第三条 
一、ゥ國守護人奉行事 
右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〈付、夜討強盜山賊海賊〉等事也、而至近年分補代官於郡ク、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役并謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也 
一、ゥ国守護人奉行(=守護の権限)の事 
右、右大将家の御時定め置かるゝ所は、大番(=京都の警備)催促、謀叛、殺害人<付、夜討、強盗、山賊、海賊>(=承久の乱の後に付け加へられた)等の事なり。しかるに近年に至りて代官を郡郷に分補(=任命)し、公事(=年貢以外の雑税や賦役)を庄保(=荘園と保つまり国衙領)に宛て課(おほ=課税)せ、国司に非ずして国務(=国の支配権)を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る(=国司や地頭の権限を奪つてゐる)。所行の企て甚だ以て無道なり。 
そもそも重代の御家人(=在地領主)たりと雖も、当時(=現在)の所帯(=領地)無き者は、駆催(かけもよほ=大番役)すことあたはず。兼てまた所々の下司(=荘園の管理人、多くは武士である。領所・領家が上司)庄官以下、その名を御家人に仮りて(=御家人を自称して)、国司領家(=荘園領主)の下知と対捍(=対抗)すと云々。しかる如きの輩は、守護役(=大番役)を勤むべきの由(よし)たとへ望み申すと雖も一切催(=採用)を加ふべからず。 
早く右大将家御時の例に任せ、大番役ならびに謀叛殺害の外、守護の沙汰(=権限)を停止せしむべし。もしこの式目に背き自余の事に相交る者、或は国司領家の訴訟により、或は地頭土民の愁鬱(=愁訴)につき、非法の至り顕然たる者は、所帯の職を改められ穏便の輩(ともがら)を補(ほ=任命)すべきなり。また代官に至つては一人(いちにん)を定むべきなり。 
第四条 
一、同守護人不申事由、沒收罪科跡事 
右重犯之輩出來時者、須申子細隨左右之處、不決實否不糺輕重、恣稱罪科之跡、私令沒收之條、理不盡之沙汰、甚自由之姧謀也、早注進其旨、宜令蒙裁斷、猶以違犯者、可被處罪科、次犯科人田畠在家并妻子資財事、於重科之輩者、雖召渡守護所、至田宅妻子雜具者、不及付渡、兼又同類事、縱雖載白状、無財物者更非沙汰之限 
一、同じく守護人、事の由を申さず、罪科の跡(=罪人の所有物)を没収する事 
右、重犯の輩出来の時は、須(すべから)く子細を申し左右(さう=指示)に随ふべきのところ、実否を決せず、軽重を糺(たゞ)さず、恣(ほしいまゝ)に罪科の跡と称して私に没収せしむるの条、理不尽の沙汰甚だ自由の奸謀(=奸計)なり。早くその旨を注進し、宜しく裁断を蒙るべし。なほ以て違犯する者は罪科に処せらるべし。 
次に、犯科人(=罪人)の田畠在家ならびに妻子資財の事。重科の輩に於ては守護所(守護の役所)に召し(=逮捕、以下多くの場合同じ)渡すと雖も、田宅妻子雑具に至つては付け渡すに及ばず。兼てまた同類(=共犯者)の事。たとへ白状(=自白書面)に載すると雖も、財物(=盗品の現物)無くば更に沙汰の限りに非ず。 
第五条 
一、ゥ國地頭令抑留年貢所當事 
右抑留年貢之由、有本所之訴訟者、即遂結解可請勘定、犯用之條若無所遁者、任員數可辨償之、但於爲少分者早速可致沙汰、至過分者三箇年中可辨濟也、猶背此旨令難澁者、可被改所職也 
一、諸国地頭、年貢所当(=収めるべき年貢)を拘留(=横領)せしむる事 
右、年貢を抑留するの由、本所(=領主、荘園の名義人)の訴訟有らば、即ち結解(けつげ=精算)を遂げ勘定(=本所が調査結果を記載した上申書)を請ふべし。犯用(=盗用)の条もし遁るゝところ無き者は、員数に任せて(=数量どほり)これを弁償すべし。但し少分たるに於ては早速沙汰を致すべし。過分に至る者は三箇年中に弁済すべきなり。なほこの旨に背き難渋せしむる者は、所職(しよしき=地頭職)を改めらるべきなり。 
第六条 
一、國司領家成敗不及關東御口入事 
右國衙庄園~社佛寺領、爲本所進止、於沙汰來者、今更不及御口入、若雖有申旨、敢不能敍用、次不帶本所擧状、致越訴事、ゥ國庄園并~社佛寺領、以本所擧状可經訴訟之處、不帶其状者既背道理歟、自今以後不及成敗 
一、国司領家(=ここでは本所)の成敗は、関東御口入(くにふ=口出し、介入)に及ばざる事 
右、国衙庄園神社仏寺、本所(=荘園の名義人)の進止(=命令)として沙汰(=決定)し来るに於ては、今更御口入に及ばず。もし申す旨(=幕府に提訴)ありと雖も敢て敘用(=採用)するあたはず。 
次に、本所の挙状(=推薦状、裁判権の幕府への委嘱)を帯びず越訴(=幕府による裁判を不当に要求する)致す事、諸国庄園ならびに神社仏寺領は本所の挙状を以て訴訟を経べきのところ、その状を帯びざる者は、既に道理に背く歟(か=なり。疑問ではなく強い肯定)。自今以後成敗に及ばず。 
第七条 
一、右大將家以後代々將軍并二位殿御時所宛給所領等、依本主訴訟被改補否事 
右或募勳功之賞、或依宮仕之勞拜領之事、非無由氏A而稱先祖之本領於蒙裁許、一人縱雖開喜ス之眉、傍輩定難成安堵之思歟、濫訴之輩可被停止、但當時給人有罪科之時、本主守其次企訴訟事、不能禁制歟、次代々御成敗畢後擬申亂事、依無其理被弃置之輩、歴歳月之後企訴訟之條、存知之旨罪科不輕、自今以後不顧代々御成敗、猥致面々之濫訴者、須以不實之子細被書載所帶之證文 
一、右大将家以後代々の将軍ならびに二位殿(=北条政子)御時宛て給はれし所領等、本主(=旧主)の訴訟により改補(=解任)せらるゝや否やの事 
右、或は勲功の賞に募り、或は宮仕(みやづかひ=幕府への奉功)の労によつて拝領の事、由(=正当性)無きに非ず。しかるに先祖の本領(=旧領地)と称し裁許(=勝訴)を蒙るに於ては、一人たとへ喜悦の眉を開くと雖も、傍輩(=御家人)も定めて安堵の思ひを成し難き歟。濫訴の輩停止せらるべし。但し、当時(=現在)の給人(=所有者、知行人)罪科あるの時、本主その次(ついで=機会)を守り(=見定めて)、訴訟を企つる事は、禁制することあたはざる歟。 
次に、代々の御成敗畢(をは)りて後、申し乱らんと擬する(=企てる)の事。その理無きによつて棄て置かるゝの輩、歳月を歴(へ)るの後、訴訟を企つるの条、存知の旨(=動機)、罪科軽からず。自今以後、代々の御成敗を顧みず、猥(みだ)りに面々(=各自)の濫訴を致す者は、須(すべから)く不実の子細を以て、帯ぶる所の証文に書き載せらるべし。 
第八条 
一、雖帶御下文不令知行、經年序所領事 
右當知行之後過廿箇年者、任右大將家之例、不論理非、不能改替、而申知行之由、掠給御下文之輩、雖帶彼状不及敍用 
一、御下文(=幕府の出した権利証書)を帯ぶると雖も知行せしめず年序(=年数)経たる所領の事 
右、当知行(=現在の実効支配)の後、廿箇年を過ぎたる者は、右大将家の例に任せ、理非を論ぜず、改替するあたはず。而るに知行の由を申し(=嘘をついて)御下文を掠め給はるの輩、彼の状(=御下文)を帯ぶと雖も敘用(=採用)するに及ばず。 
第九条 
一、謀叛人事 
右式目之趣兼日難定歟、且任先例且依時議、可被行之 
一、謀叛人の事 
右、式目の趣、兼日(=あらかじめ)に定め難き歟。且先例に任せ、且時議(=時宜)によつてこれを行はるべし。 
第十条 
一、殺害刃傷罪科事〈付、父子咎相互被懸否事〉 
右或依當座之諍論、或依遊宴之醉狂、不慮之外若犯殺害者、其身被行死罪并被處流罪、雖被沒收所帶、其父其子不相交者、互不可懸之、次刃傷科事同可准之、次或子或孫、於殺害父祖之敵、父祖縱雖不相知、可被處其罪、爲散父祖之憤、忽遂宿意之故也、次其子若欲奪人之所職、若爲取人之財寶、雖企殺害、其父不知之由在状分明者、不可處縁座 
一、殺害刃傷の事〈付、父子の咎、相互に懸けらるゝや否やの事〉 
右、或は当座の諍論により、或は遊宴の酔狂によつて、不慮の外(=過失でなく)にもし殺害を犯す者は、その身死罪に行はれ、ならびに(=もしくは)流刑に処せられ、所帯没収せらるゝと雖も、その父、その子相交はらざる者は、互にこれを懸くべからず。 
次に、刃傷の科の事も同じくこれに准ずべし。 
次に、或は子、或は孫、父祖の敵を殺害するに於ては、父祖たとへ相知らずと雖も、その罪に処せらるべし。父祖の憤りを散ぜんがため、忽ち宿意を遂ぐる故なり。 
次に、もし人の所職を奪はんと欲し、もし人の財宝を取らんとなし、殺害を企つと雖も、その父知らざるの由、在状(=さうであること)分明の者は、縁座(=連座)に処すべからず。 
第十一条 
一、依夫罪過、妻女所領沒收否事 
右於謀叛殺害并山賊海賊夜討強盗等重科者、可懸夫咎也、但依當座之口論、若及刃傷殺害者、不可懸之 
一、夫の罪過によつて、妻女の所領没収せらるゝや否やの事 
右、謀叛殺害ならびに山賊海賊夜討強盗等の重科に於ては、夫の咎に懸かるべきなり。但し当座の口論により、もし刃傷殺害に及べばこれを懸くべからず。 
第十二条 
一、惡口咎事 
右鬪殺之基起自惡口、其重者被處流罪、其輕者可被召籠也、問注之時吐惡口、則可被付論所於敵人、又論所事無其理者、可被沒收他所領、若無所帶者、可處流罪也 
一、悪口咎の事 
右、闘殺の基(もとひ)は悪口より起る。その重き者は流罪に処せされ、その軽き者は召し籠めらるべきなり。問注(=裁判)の時悪口を吐けば、則ち論所(=争点の領地)を敵人に付けらるべし。また論所の事、その理無き者は、他の所領を没収せらるべし。もし所帯なき者は、流罪に処せられるべきなり。 
第十三条 
一、毆人咎事 
右被打擲之輩爲雪其恥、定露害心歟、毆人之科甚以不輕、仍於侍者可被沒收所領、無所帶者可處流罪、至于カ從以下者可令召禁其身也 
一、人を殴(う)つ咎の事 
右、打擲せらるゝの輩はその恥を雪(そゝ)がんため定めて害心を露す歟。人を殴(う)つの科、甚だ以て軽からず。よつて侍(=武士)に於ては所領を没収せらるべし。所帯無き者は流罪に処すべし。郎従以下(=家来)に至つては、その身を召し禁ぜしむべき也。 
第十四条 
一、代官罪過懸主人否事 
右代官之輩有殺害以下重科之時、件主人召進其身者、主人不可懸科、但爲扶代官、無咎之由主人陳申之處、實犯露顯者、主人難遁其罪、仍可被沒收所領、至彼代官者可被召禁也、兼又代官或抑留本所之年貢、或違背先例之率法者、雖爲代官之所行、主人可懸其過也、加之代官若依本所之訴訟、若就訴人之解状、自關東被召之、自六波羅被催之時、不遂參決、猶令張行者、同又可被召主人之所帶、但隨事之躰可有輕重歟 
一、代官(=守護代、地頭代)の罪科は主人に懸かるや否やの事 
右、代官の輩、殺害以下の重科あるの時、件の主人その身を召し進(=差出)ぜば主人に科を懸くべからず。但し代官を扶(たす)くるために、咎無きの由を主人陳じ申すのところ、実犯(じつぼん)露顕せば、主人その罪遁(のが)れ難し。よつて所領を没収せらるべし。彼の代官に至つては召し禁(=逮捕監禁)ぜらるべきなり。 
兼てまた代官、或は本所(=荘園の名義人)の年貢を抑留し、或は先例の率法(りつぱふ=割合の規定)に違背する者は、代官の所行たりと雖も主人にその過(とが)を懸くべきなり。 
加之(しかのみならず)代官もし本所の訴訟により、もしくは訴人(=原告)の解状(げじやう=訴状)につき、関東よりこれを召され、六波羅よりこれを催(もよほ=呼出)さるゝの時、参決(=申し開き)を遂げず、なほ張行(ちやうぎやう=強行)せしむる者は、同じくまた主人の所帯を召さるべし。但し、事の躰に随ひて軽重あるべき歟。 
第十五条 
一、謀書罪科事 
右於侍者可被沒收所領、若無所帶者、可被處遠流也、凡下輩者、可被捺火印於其面也、執筆之者、又與同罪、次以論人所帶之證文爲謀書之由、多以稱之、披見之處、若爲謀書者、最任先條可有其科、又無文書之紕繆者、仰謀略之輩、可被付~社佛寺之修理、但至無力之輩者、可被追放其身也 
一、謀書(ぼうしよ=文書偽造)の罪科の事<付、論人(=被告)の所帯する証文を以て謀書と称する事> 
右、侍に於ては所領を没収せらるべし。もし所帯なき者は遠流に処せらるべきなり。凡下(=武士以外)の輩は火印をその面に捺さるべきなり。執筆の者もまたともに同罪たり。 
次に論人(=被告)所帯(=所持)の証文を以て謀書たるの由、多く以てこれを称す。披見のところ、もし謀書たらば、最も先条に任せその科あるべし。また文書の紕繆(ひびう=誤謬)無くば、謀略の輩(=偽つて相手の文書偽造を言ひたてた者)に仰せて神社仏寺の修理に付せらるべし。但し無力の輩(=財力のない者)に至つては、その身を追放せらるべきなり。 
第十六条 
一、承久兵亂時沒收地事 
右致京方合戰之由依聞食及、被沒收所帶之輩、無其過之旨、證據分明者、宛給其替於當給人、可返給本主也、是則於當給人者、有勳功奉公故也、次關東御恩輩之中、交京方合戰事、罪科殊重、仍即被誅其身、被沒收所帶畢、而依自然之運遁來之族、近年聞食及者、縡已違期之上、尤就ェ宥之儀、割所領内、可被沒收五分一、但御家人之外下司庄官之輩、京方之咎、縱雖露顯、今更不能改沙汰之由、去年被議定畢、者不及異儀、次以同沒收之地、稱本領主訴申事、當知行之人、依有其過沒收之、宛給勳功之輩畢、而彼時之知行者非分之領主也、任相傳之道理可返給之由訴申之類、多有其聞、既就彼時知行普被沒收畢、何閣當時領主、可尋往代之由詩ニ、自今以後可停止濫望矣 
一、承久兵乱の時の没収地の事 
右、京方(=京都側に味方した)の合戦を致すの由、聞しめし及ぶによつて、所帯を没収せられし輩、その過(とが)無きの旨、証拠分明ならば、その替を当給人(たうきふにん=現在の所有者)に宛て給ひ、本主(=本来の持ち主)に返し給ふべきなり。これ則ち、当給人に於ては勲功の奉公あるの故なり。 
次に、関東御恩の輩の中、京方の合戦に交はりし事、罪科殊に重し。よつて即ちその身を誅せられ、所帯を没収せられ畢(をは)んぬ。しかるを自然(=万に一つ)の運によつて遁れ来るの族(やから)、近年聞こしめし及ぶ者、縡(こと)すで違期(ゐご=時期が過ぎた)の上、もつとも寛宥(=寛恕)の儀につき、所領内を割き五分の一を没収せられるべし。但し、御家人のほかに下司庄官の輩は、京方の咎、縦へ露顕すると雖も、今更改沙汰(=解雇)することあたはざるの由、去年議定せられ畢んぬ、者(てへれば=と言へれば)異儀に及ばず。 
次に、同じく没収の地を以て、本領主(=本来の領主)と称し訴へ申す事。当知行の人その(=本領主)過あるによりてこれを没収し、勲功の輩に宛て給ひ畢んぬ。しかるを、彼の時(=承久の乱後)の知行の者は非分(=分不相応)の領主なり相伝の道理に任せてこれを返給すべきの由、訴へ申すの類(たぐひ)多くその聞こえあり。既に彼の時の知行につきて、あまねく没収せられ畢んぬ。何ぞ当時(=現在)の領主を閣(さしお)きて、往代(=昔)の由獅尋ぬべけんや。自今以後、濫望(らんまう)を停止すべし。 
第十七条 
一、同時合戰罪過父子各別事 
右父者雖交京方、其子候關東、子者雖交京方、其父候關東之輩、賞罰已異、罪科何混、又西國住人等、雖爲父雖爲子、一人參京方者、住國之父子不可遁其咎、雖不同道、依令同心也、但行程境遙音信難通、共不知子細者、互難被處罪科歟 
一、同じ時の合戦の罪科は父子各別(=別々)なる事 
右、父は京方に交ると雖もその子関東に候(こう)じ、子は京方に交ると雖もその父関東に候ずるの輩は、賞罰すでに(父と子で)異なり、罪科なんぞ混(ひとし)からん。また西国の住人等は父たりと雖も子たりと雖も、一人京方参ぜし者は、住国の父子その咎を遁るべからず。同道せずと雖も、同心せしむるによつてなり。但し行程境遥かにして音信通じ難く、共に子細を知らざる者は、互ひに罪科に処せられ難からん歟。 
第十八条 
一、讓與所領於女子後、依有不和儀、其親悔還否事 
右男女之號雖異、父母之恩惟同、法家之倫雖有申旨、女子則頼不悔還之文、不可憚不孝之罪業、父母亦察及敵對之論、不可讓所領於女子歟、親子義絶之起也、既ヘ令違犯之基也、女子若有向背之儀者、父母宜任進退之意、依之女子者爲全讓状、竭忠孝之節、父母者爲施撫育、均慈愛之思者歟 
一、所領を女子に讓り与へたる後、不和の儀あるによつて、その親悔い還す(=取り戻す)や否やの事 
右、男女の号異なると雖も、父母の恩これ同じ。法家(=律令の法律家)の倫(りん=言ひ分)申す旨有りと雖も、女子則ち悔い還(=取り戻)さゞるの文に頼みて、不孝の罪業憚るべからず。父母また敵対の論に及ぶを察し、所領を女子に讓るべからざる歟。親子義絶の起りなり、既に教令(=親の言付け)違犯の基なり。女子もし向背(きやうはい=裏切り)の儀有らば、父母宜しく進退(しだい=自由)の意に任すべし。これによつて、女子は讓状(ゆづりじやう=相続の証明書)を全うせんがため忠孝の節を竭(つく)し、父母は撫育を施さんがため慈愛の思ひを均(ひと)しうする(=変へない)ものならん歟。 
第十九条 
一、不論親疎被眷養輩、違背本主子孫事 
右頼人之輩、被親愛者如子息、不然者又如カ從歟、爰彼輩令致忠勤之時、本主感歎其志之餘、或渡宛文、或與讓状之處、稱和與之物對論本主子孫之條、結構之趣甚不可然、求媚之時者、且存子息之儀、且致カ從之禮、向背之後者、或假他人之號、或成敵對之思、忽忘先人之恩顧、違背本主之子孫者、於得讓之所領者、可被付本主之子孫矣 
一、親疎(=血縁の無い者が)を論ぜず眷養(けんやう=所領を譲られた)せらるゝ輩、本主の子孫に違背する事 
右、人を頼(たの=人の保護下にある)むの輩、親愛せらるれば子息の如く、然らずばまた郎従の如き歟。ここに彼の輩、忠勤を致さしむるの時、本主その志に感嘆するの余り、或は宛文を渡し、或は讓状を与ふるのところ、和与(=相続ではなく贈与)の物と称して本主の子孫に対論(=敵対)するの条、結構(=企て)の趣甚だ然るべからず。媚を求むるの時は、且は子息の儀を存し、且は郎従の礼を致し、向背の後は、或は他人の号を仮り(=他人への贈与として)或は敵対の思ひを成し、忽ち先人の恩顧を忘る。本主の子孫に違背せば、讓りを得たるの所領に於ては、本主の子孫に付せらるべし。 
第二十条 
一、得讓状後、其子先于父母令死去跡事 
右其子雖令見存、至令悔返者、有何妨哉、況子孫死去之後者、只可任父祖之意也 
一、讓状を得るの後、その子父母に先んじ死去せし跡の事 
右、その子見存(=現存)せしむと雖も、悔い還さしむるに至つては何の妨げ有らんや。況や子孫死去の後は、只父祖の意に任すべきなり(=代襲相続にならない)。 
第二十一条 
一、妻妾得夫讓、被離別後、領知彼所領否事 
右其妻依有重科於被弃捐者、縱雖有往日之契状、難知行前夫之所領、又彼妻有功無過、賞新弃舊者、所讓之所領不能悔還 
一、妻妾、夫の讓を得、離別せらるゝの後、彼の所領を領知するや否やの事 
右、その妻重科あるによつて棄捐(きえん)せらるゝに於ては、たとへ往日の契状(=譲状)有りと雖も、前夫の所領を知行し難し。また彼の妻功有りて過無く、新しき(=新しい妾)を賞し旧きを棄てば、讓る所の所領悔い還すあたはず。 
第二十二条 
一、父母所領配分時、雖非義絶、不讓與成人子息事 
右其親以成人之子令吹擧之間、勵勤厚之思、積勞功之處、或就繼母之讒言、或依庶子之鍾愛、其子雖不被義絶、忽漏彼處分、侘傺之條非據之至也、仍割今所立之嫡子分、以五分一可宛給無足之兄也、但雖爲少分於計宛者、不論嫡庶、宜依證跡、抑雖爲嫡子無指奉公、又於不孝之輩者、非沙汰之限 
一、父母所領配分の時、義絶に非ずと雖も、成人の子息に讓り与へざる事 
右、その親成人の子を以て吹挙(すいきよ=幕府に推挙)せしむるの間、勤厚(きんこう)の思ひを励まし労功(=功労)を積むのところ、或は継母の讒言につき、或は庶子の鍾愛により、その子(=成人の子)義絶せられずと雖も、忽ち彼の処分(=財産分与)に漏る。侘傺(たくさい=落ちぶれること)の条、非拠(=非道)の至りなり。よつて今立つる所の嫡子(=相続人、弟がなることもある)の分を割き、五分一を以て無足(=無給)の兄に宛て給るべきなり。但し少分たりと雖も計らひ宛つるに於ては、嫡庶を論ぜず(=嫡子庶子いづれの場合も)、宜しく証跡(=譲状の文面)によるべし。抑も嫡子(=長男)たりと雖もさしたる奉公(=幕府勤務)無く、また不孝の輩に於ては、沙汰の限りに非ず。 
第二十三条 
一女人養子事 
右如法意者、雖不許之、右大將家御時以來至于當世、無其子之女人等讓與所領於養子事、不易之法不可勝計、加之キ鄙之例先蹤惟多、評議之處尤足信用歟 
一女人養子(女がとる養子)の事 
右、法意(=律令)の如くばこれを許さずといへども、右大将家の御時以来当世に至るまで、その子なきの女人(=未亡人)ら所領(=夫から譲られた領地)を養子に讓り与ふる事、不易の法(=先例)勝計(せうけい=全てを数える)すべからず。しかのみならず都鄙の例先蹤(=慣習)これ多し。評議のところもつとも信用に足る歟(=足るなり)。 
第二十四条 
一、讓得夫所領後家、令改嫁事 
右爲後家之輩讓得夫所領者、須抛他事訪夫後世之處、背式目事非無其咎歟、而忘貞心令改嫁者、以所得之領地、可宛給亡夫之子息、若又無子息者、可有別御計 
一、夫の所領を讓り得たる後家、改嫁(=再婚)せしむる事 
右、後家たるの輩、夫の所領を讓り得ば、須(すべから)く他事を抛(なげう)ちて夫の後世を訪(とぶら)ふべきのところ、式目(=道理)に背く事その咎無きに非ざる歟(=咎が必ずある)。しかして忽ち貞心を忘れ改嫁せしめば、得る所の領地を以て亡夫の子息に宛て給るべし。もしまた子息無くば別の御計らひあるべし。 
第二十五条 
一、關東御家人以月卿雲客爲婿君、依讓所領、公事足減少事 
右於所領者讓彼女子雖令各別、至公事者隨其分限可被省宛也、親父存日縱成優如之儀、雖不宛課、逝去後者尤可令催勤、若募權威不勤仕者、永可被辭退件所領歟、凡雖爲關東祗候之女房、敢勿泥殿中平均之公事、此上猶令難澁者、不可知行所領也 
一、関東御家人、月卿(=公卿)雲客(=殿上人)を以て婿君(ぜいくん=公武通婚)となし、所領を讓るによつて、公事足(くじあし=賦役、兵役の義務のある領地)減少の事 
右、所領に於ては彼の女子に讓り各別(かくべつ=独立)せしむると雖も、公事に至つてはその分限(=所領)に随ひて省(はぶ=割り当て)き宛てらるべきなり。親父(しんぷ)存する日は、たとへ優恕(=宥恕)の儀を成し宛て課(おほ)せず(=親が代行する)と雖も、逝去の後はもつとも催勤(=賦役を実行)せしむべし。もし権威(=嫁入り先の京都の公家)に募り勤仕せざる者は、永く件の所領を辞退せらるべき歟。凡そ関東祗候(しこう=将軍家宮仕、京都に行かずに鎌倉にゐる)の女房たりと雖も、敢へて殿中(=将軍の居場所)平均(へいぎん=当然)の公事に泥(なづ=とどこほる)むなかれ。この上なほ難渋せしむる者は、所領を知行すべからず。 
第二十六条 
一、讓所領於子息、給安堵御下文之後、悔還其領、讓與他子息事 
右可任父母意之由、具以載先條畢、仍就先判之讓、雖給安堵御下文、其親悔還之、於讓他子息者、任後判之讓、可有御成敗 
一、所領を子息に讓り、安堵の御下文(=幕府による相続の承認)を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事 
右、父母の意に任すべきの由、具(つぶさ)に以て先条(=十八条と二十条)に載せ畢んぬ。よつて先判(せんばん=先の証文)の讓に就きて安堵の御下文を給はると雖も、その親これを悔い還し、他の子息に讓り与ふるに於ては、後判(こうはん=後の証文)の讓に任せて御成敗(=決定)あるべし。 
第二十七条 
一、未處分跡事 
右且隨奉公之淺深、且糺器量之堪否、各任時宜可被分宛 
一、未処分の跡の事 
右、且は奉公の浅深に随ひ、且は器量(=能力)の堪否(かんぷ=有無)を糺(たゞ)し、各時宜に任せて分ち宛てらるべし。 
第二十八条 
一、搆虚言致讒訴事 
右和面巧言掠君損人之屬、文籍所載、其罪甚重、爲世爲人不可不誡、爲望所領企讒訴者、以讒者之所領、可宛給他人、無所帶者可處遠流、又爲塞官途搆讒言者、永不可召仕彼讒人 
一、虚言を搆へ、讒訴を致す事 
右、面を和らげ言を巧み、君を掠(かす=あざむく)め人を損ずるの属(たぐひ)、文籍(もんじやく)載する所(=昔の書物を見れば)、その罪甚だ重し。世のため人のため誡めざるべからず。所領を望まんがため讒訴を企てる者は、讒者の所領を以て他人(=第三者)に宛て給ふべし。所帯無き者は遠流(をんる)に処すべし。官途(=他人の仕官)を塞がんがため讒言を搆ふる者は、永く彼の讒人を召仕ふべからず。 
第二十九条 
一、閣本奉行人、付別人企訴訟事 
右閣本奉行人、更付別人内々企訴訟之間、參差之沙汰不慮而出來歟、仍於訴人者暫可被押裁許、至執申人者可有御禁制、奉行人若令緩怠、空經廿箇日者、於庭中可申之 
一、本奉行人を閣きて、別人に付きて訴訟を企つる事 
右、本奉行人(=担当の裁判官)を閣(さしお)きて、更に別人に付きて内々訴訟を企つるの間、参差(しんし=食ひ違ひ)の沙汰(=判決)不慮にして出来せん歟。よつて訴人に於ては暫く裁許(=判決)を抑へらるべし。執申人(とりまうしにん=別の人に取次ぐ人)に至つては、御禁制あるべし。奉行人もし緩怠せしめ、空しく二十箇日を経ば、庭中(=法廷)に於てこれを申すべし。 
第三十条 
一、遂問註輩、不相待御成敗、執進權門書状事 
右預裁許之者、ス強縁之力、被棄置之者、愁權門之威、爰得理之方人者、頻稱扶持之芳恩、無理之方人者、竊猜憲法之裁斷、黷政道事職而斯由、自今以後慥可停止也、或付奉行人、或於庭中、可令申之 
一、問注(=ここでは裁判)を遂ぐるの輩、御成敗を相待たず、権門(=有力者)の書状を執り進む事 
右、裁許(=勝訴)に預るの者は強縁の力を悦び、棄て置かるゝの者は権門の威を愁ふ。ここに得理の方人(かたうど=味方、ここは勝訴した人)は頻りに扶持(=手助け)の芳恩と称し、無理の方人(=敗訴した人)は窃かに憲法の裁断(=公正な裁判)を猜む(=疑ふ)。政道を黷(けが)すこと職(しよく)として(=もつぱら)これに由(よ)る。自今以後慥(たし)かに停止すべきなり。或は奉行人(=裁判官)に付き、或は庭中(=法廷)に於て、これを申さしむべき。 
第三十一条 
一、依無道理不蒙御裁許輩、爲奉行人偏頗由訴申事 
右依無其理不關裁許之輩、爲奉行人偏頗之由搆申之條、太以濫吹也、自今以後、搆出不實企濫訴者、可被收公所領三分一、無所帶者可被追却、若又奉行人有其誤者、永不可召仕 
一、道理無きによつて御裁許を蒙らざる輩、奉行人偏頗(へんぱ=えこひいき)をなすの由訴へ申す事 
右、その理(=道理)無きによつて裁許(=勝訴)に関(あづか)らざるの輩、奉行人の偏頗たるの由を搆へ申す(=強弁)の条、太(はなは)だ以て濫吹(らんすい=狼藉)なり。自今以後、不実を搆へ出て濫訴を企つる者は、所領の三分一を収公(しうこう=没収)せらるべし。所帯無き者は追却(=追放)せらるべし。もしまた奉行人その誤り有らば、永く召仕へらるべからず。 
第三十二条 
一、隱置盜賊惡黨於所領内事 
右件輩雖有風聞、依不露顯不能斷罪、不加炳誡、而國人等差申之處、召上之時者、其國無爲也、在國之時者、其國狼藉也云々、仍於縁邊之凶賊者、付證跡可召禁、又地頭等至穩置賊徒者、可爲同罪也、先就嫌疑之趣召置地頭於鎌倉、彼國不落居之間、不可給身暇矣、次被停止守護使入部所々事、同惡黨等出來之時者、不日可召渡守護所也、若於拘惜者、且令入部守護使、且可改補地頭代也、若又不改代官者、被沒收地頭職、可被入守護使 
一、盗賊悪党を所領の内に隠し置く事 
右、件の輩、風聞有りと雖も、露顕せざるによつて断罪にあたはず、炳誡(へいかい=懲戒)を加へず。しかるに国人等差し申す(=告発)のところ、召上ぐるの時はその国無為なり、在国の時はその国狼藉なり(=評判の悪党を証拠がないので罰せずにゐたが、鎌倉に呼び出してゐる間は平穏で、その国にゐるときは不穏である)と云々。よつて縁辺(=鎌倉の外)の凶賊に於ては、証跡(=この事実)に付きて召禁(=逮捕)ずべし。また地頭等賊徒を隠し置くに至つては、同罪たるべきなり。先づ嫌疑の趣に就きて地頭を鎌倉に召し置き、彼の国落居(=泥棒が逮捕されて平穏になる)せざるの間は身暇を給ふ(=返す)べからず。 
次に守護使(=守護の使者、警官)の入部(=立ち入り)を停止せらるゝ所々(=神社などの荘園)の事、同じく悪党ら出来の時は不日(=すぐに)守護所に召し渡すべきなり。もし拘惜(くしやく=かくまふ)に於ては、且は守護使を入部せしめ、且は地頭代を改補(=解任)すべきなり。もしまた代官を改めずば、地頭職を没収せられ、守護使を入れらるべし。 
第三十三条 
一、強竊二盜罪科事付放火人事 
右既有斷罪之先例、何及猶豫之新儀哉、次放火人事、准據盜賊宜令禁遏 
一、強窃二盗の事。付、放火人の事 
右、既に断罪の先例有り。何ぞ猶余(=猶予、ためらひ)の新儀(=評議)に及ばんや。次に放火人の事、盗賊に準拠し、宜しく禁遏(きんあつ=拘禁)せしむべし。 
第三十四条 
一、密懷他人妻罪科事 
右不論強姧和姧、懷抱人妻之輩、被召所領半分、可被罷出仕、無所帶者可處遠流也、女之所領同可被召之、無所領者又可被配流之也、次於道路辻捕女事、於御家人者百箇日之間可止出仕、至カ從以下者、任右大將家御時之例、[可]可剃除片方鬢髮也、但於法師罪科者、當于其時可被斟酌 
一、他人の妻を密懐(=密通)する罪科の事 
右、強姦和姦を論ぜず人妻を懐抱(くわいはう=性交)するの輩、所領半分を召され、出仕を罷めらるべし。所帯なき者は遠流に処すべきなり。女の所領同じくこれを召さるべし。所領なくばまた配流せらるべきなり。次に道路の辻に於て女を捕ふる事(=強姦)、御家人に於ては百箇日の間出仕を止むべし。郎従以下に至つては、右大将家の御時の例に任せ、片方の鬢髮(びんぱつ=頭髪)を剃り除く(=丸坊主にする)べきなり。ただし、法師(=坊主)の罪科に於ては、その時に当りて斟酌せらるべし。 
第三十五条 
一、雖給度々召文不參上科事 
右就訴状遣召文事及三箇度、猶不參決者、訴人有理者、直可被裁許、訴人無理者、又可給他人也、但至所從牛馬并雜物等者、任員數被糺返、可被付寺社修理也 
一、度々召文を給ふと雖も参上せざる科の事 
右、訴状に就きて召文(=呼び出し状)を遣はす事三箇度に及び、なほ参決せざるは、訴人(=原告)理有らば直ちに裁許(=勝訴)せらるべし。訴人理無くば、また(=第三者)に給ふべきなり。但し、(=被告の)所従牛馬ならびに雑物等に至つては、員数に任せて糺し(=調べて)返され、(=呼び出しに応じなかつた被告は)寺社の修理に付せらるべきなり。 
第三十六条 
一、改舊境、致相論事 
右或越往昔之堺、搆新儀案妨之、或掠近年之例、捧古文書論之、雖不預裁許無指損之故、猛惡之輩動企謀訴、成敗之處非無其煩、自今以後遣實檢使糺明本跡、爲非據之訴訟者、相計越境成論之分限、割分訴人領地内、可被付論人之方也 
一、旧き境を改め、相論を致す事 
右、或は往昔の堺(=境界)を越え、新儀の案(=謀計)を搆へてこれ(=往昔の堺)を妨げ、或は近年の例を掠め(=無視して)、古き文書(もんじよ)を捧げてこれを論ず。裁許(=勝訴)に預らずと雖も指せる損無きの故、猛悪の輩ややもすれば謀訴を企つ。成敗の処(=裁判所)その煩ひ無きに非ず。自今以後、実検使を遣し、本跡(=正当な境界)を糾明し、非拠の訴訟をなす者は、境を越えて論を成すの分限(=面積)を相計らひ、訴人領地の内を割き分ちて論人の方へ付けらるべきなり。 
第三十七条 
一、關東御家人申京キ、望補傍官所領上司事 
右々大將家御時一向被停止畢、而近年以降企自由之望、非啻背禁制、令覃喧嘩歟、自今以後、於致濫望之輩者、可被召所領一所也 
一、関東の御家人が京都(=天皇、朝廷)に申し、傍官(=同じ荘園の中の同僚の御家人)の所領の上司(うはづかさ=領所、領家)を望補(=自分の任命を要求)する事 
右、右大将家の御時一向に停止せられ畢んぬ。而して近年以降自由(=自分勝手)の望を企て、啻(ただ)に禁制に背くのみに非ず、喧譁に覃(およ)ばしめん歟。自今以後、濫望(=濫妨)を致すの輩(ともがら)に於て、所領一所を召(=没収)さる可き也。 
第三十八条 
一、惣地頭押妨所領内名主職事 
右給惣領之人、稱所領内掠領各別村事、所行之企難遁罪科、爰給別御下文、雖爲名主職、惣地頭若伺尫弱隙、有限沙汰之外、巧非法致濫妨者、可給別納御下文於名主也、名主又寄事於左右、不顧先例、違背地頭者、可被改名主職也 
一、惣地頭(=名主を総轄するために幕府が派遣した地頭)、所領内名主職を押妨する事 
右、惣領を給はるの人(=惣地頭)所領内と称して各別(=統轄権限外)の村を掠め領する事、所行の企て罪科遁れ難し。ここに別(=特別)の御下文を給はり、名主(みやうしゆ=荘園の管理人)職たりと雖も、惣地頭もし尫弱(おうじやく=弱体、幼少)の隙(ひま)を伺ひ、限りある沙汰(=正当な権限)の外、非法を巧(たく)み濫妨(=掠奪)を致さば、別納(=惣地頭を通さず年貢を納める)の御下文を名主に給ふべきなり。 
名主また事を左右に寄せて(=自分勝手をする)、先例を顧みず、地頭に違背せば、名主職を改めらるべきなり。 
第三十九条 
一、官爵所望輩、申請關東御一行事 
右被召成功之時、被注申所望人者、既是公平也、仍非沙汰之限、爲昇進申擧状事、不論貴賤一向可停止之、但申受領檢非違使之輩、於爲理運者、雖非御擧状、只有御免之由、可被仰下歟、兼又新敍之輩、巡年廻來浴朝恩者、非制限 
一、官爵(=何位であるか)所望の輩、関東の御一行(=推薦状)を申し請くる事 
右、成功(じやうごう=朝廷から金銭で官位を買ふ)を召さるゝの時、所望の人を注し申さるゝ者(=リストアップ)は、既にこれ公平なり。よつて沙汰の限りに非ず。昇進のため挙状(=幕府の推薦状)を申す(=申請する)事、貴賤を論ぜず一向これを停止すべし。但し、受領・検非違使(=朝廷に権利が有る官職)に申すの輩、理運(=幸運にも任命される)たるに於ては、御挙状に非ずと雖も、ただ御免(=幕府の許可)あるの由仰せ下さるべき歟。兼てまた新敘の輩、巡年(=毎年)廻り来り、朝恩に浴する者は制限あらず。 
第四十条 
一、鎌倉中僧徒、恣諍官位事 
右依綱位亂搦沐V故、猥求自由之昇進、彌添僧綱之員數、雖爲宿老有智高僧、被越少年無才之後輩、即是且傾衣鉢之資、且乖經ヘ之義者也、自今以後不蒙免許昇進之輩、爲寺社供僧者、可被停廢彼職也、雖爲御歸依之僧、同以可被停止之、此外禪侶者、偏仰顧眄之人、宜有諷諫之誡 
一、鎌倉中の僧徒、恣に官位を諍ふ事 
右、綱位(=僧侶の高位につくこと)によつて搦(らつし=年功の序)を乱すの故に、猥りに自由の昇進を求め、いよいよ僧綱(そうがう=高位の僧)の員数を添(そ=増す)ふ。宿老有智の高僧たりと雖も、少年無才の後輩に越さる。即ちこれ且は衣鉢の資を傾け、且は経教の義に乖(そむ)く者なり。自今以後、免許を蒙らず昇進の輩、寺社の供僧(ぐそう=ここでは神社の僧侶)となる者は、彼の職を停廃せらるべきなり。御帰依(=幕府付き)の僧たりと雖も同じく以てこれを停止せらるべし。この外(=鎌倉以外)の禅侶(=僧侶)は、偏に顧眄(こべん)の人(=親近者)に仰せて、宜しく諷諫(ふうかん=それとなく)の誡あるべし。 
第四十一条 
一、奴婢雜人事 
右任右大將家御時之例、無其沙汰過十箇年者、不論理非不及改沙汰、次奴婢所生男女事、如法意者雖有子細、任同御時之例、男者付父、女者付母也 
一、奴婢雑人の事 
右、右大将家御時の例に任せて、その沙汰無く(=訴訟を起こさず)十箇年を過ぎば、理非を論ぜず改沙汰(=所有主の変更)に及ばず。次に、奴婢所生(しよせい=生んだ)の男女(=子供)の事、法意(=古法)の如くば子細有り(=別の定めがあり、母の主人の所有)と雖も、同じき御時の例に任せ、男は父に付け(=父母の所属が異なる場合には、父の主人の所有)、女は母に付く(=母の主人の所有)べきなり。 
第四十二条 
一、百姓迯散時、稱逃毀令損亡事 
右ゥ國住民迯脱之時、其領主等稱迯毀、抑留妻子奪取資財、所行之企甚背仁政、若被召決之處、有年貢所當之未濟者、可致其償、不然者、早可被糺返損物、但於去留者宜任民意也 
一、百姓逃散の時、逃毀(とうき=犯罪者の財産没収)と称して損亡(そんまう=損害を与へる)せしむる事 
右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し資財を奪ひ取る、所行の企て甚だ仁政に背く。もし召し決(=百姓を連れ戻して事情を聞く)せられるゝのところ、年貢所当の未済有らば、その償ひを致す(=没収財産から)べし。然らざれば、早く損物を糺(ただ)し返さるべし。但し、去留(=領地に留まるかどうか)に於ては宜しく民意(=百姓の判断)に任すべきなり。 
第四十三条 
一、稱當知行掠給他人所領、貪取所出物事 
右搆無實掠領事、式目所推難脱罪科、仍於押領物者、早可令糺返、至所領者、可被沒收也、無所領者、可被處遠流、次以當知行所領、無指次申給安堵御下文事、若以其次始致私曲歟、自今以後可被停止 
一、当知行と称して他人の所領を掠め給はり、所出物(=年貢など)を貪り取る事 
右、無実(=不実)を搆へ掠め領する事、式目(=道理)の推す所、罪科脱れ難し。よつて押領物に於ては早く糺し返さしむべし。所領(=本人の所領)に至つては没収せらるべきなり。所領無き者は遠流に処せらるべし。 
次に、当知行(=実効支配)の所領を以て、指せる次(ついで=機会)無く安堵御下文を申し給(=申請)はるの事。もしその次を以て始めて私曲(=悪事)を致す歟(=なり)。自今以後、停止せらるべし。 
第四十四条 
一、傍輩罪過未斷以前、競望彼所帶事 
右積勞効之輩、企所望者常習也、而有所犯之由、令風聞之時、罪状未定之處、爲望件所領、欲申沈其人之條、所爲之旨敢非正義、就彼申状有其沙汰者、虎口之讒言蜂起不可絶歟、縱使雖爲理運之訴訟、不被敍用兼日之競望 
一、傍輩(=他の御家人)の罪過未断以前、彼の所帯(=所領)を競望(けいばう=競ひ望む)する事 
右、労效(=功労)を積むの輩、所望を企つるは常の習ひなり。しかるに所犯(=罪科)あるの由、風聞せしむるの時、罪状未定のところ、件の所領を望まんがため、その人を申し沈めんと欲するの条、所為(しよゐ=行動)の旨敢て正義に非ず。彼の申状に就きてその沙汰あらば、虎口の讒言(=人を陥れるための讒言)蜂起(=大量に起こり)して絶ゆべからざる歟。たとへ理運(=正当)の訴訟たりと雖も、兼日(=罪科決定前)の競望を敘用(=採用)せられず。 
第四十五条 
一、罪過由披露時、不被糺決改替所職事 
右無糺決之儀有御成敗者、不論犯否定貽鬱憤歟、者早究淵底可被禁斷 
一、罪過のよし披露の時、糺決せられず所職を改替する事 
右、糺決(=吟味、弁明)の儀無く御成敗有らば、犯否を論ぜず、定めて鬱憤を貽(のこ=残)す歟(=なり)、てへれば早く淵底(ゑんてい=罪科の真相)を究め禁断(=処罰)せらるべし。 
第四十六条 
一、所領得替時、前司新司沙汰事 
右於所當年貢者、可爲新司之成敗、至私物雜具并所從馬牛等者、新司不及抑留、況令與恥辱於前司者、可被處別過怠也、但依重科被沒收者、非沙汰之限 
一、所領得替(とくたい=交代)の時、前司(=前任)新司(=新任国司)の沙汰の事 
右、所当年貢に於ては新司(=新任国司)の成敗たるべし。私物雑具ならびに所従(=従者)馬牛等に至つては新司抑留に及ばず。況や恥辱(=無礼)を前司に与へしめば、別の過怠(=刑罰)に処せらるべきなり。但し、重科によつて(=前司が)没収せられば、沙汰の限りにあらず。 
第四十七条 
一、以不知行所領文書、寄附他人事<付、以名主職不相觸本所、寄進權門事> 
右自今以後於寄附之輩者、可被追却其身也、至請取之人者、可被付寺社修理、次以名主職不令知本所、寄附權門事、自然有之、如然之族者、召名主職可被付地頭、無地頭之所者、可被付本所 
一、不知行(=実効支配してゐない)の所領の文書を以て、他人に寄附(=譲渡。有力者を後ろ盾にして実効支配していない土地の所有権を得ようとする企て)する事<付、名主職(みやうしゆ=荘園の管理人)を以て本所(=荘園の名義人)に相触(=連絡)れず、権門(=有力者)に寄進する事> 
右、自今以後寄附の輩に於ては、その身を追却(=追放)せらるべきなり。請け取るの人に至つては寺社の修理に付せらるべし。 
次に、名主職を以て本所に知らしめず、権門に寄附するの事。自然(=時々)これ有り。然る如きの族は、名主職を召し(=解任)地頭に付(=引き渡す)せらるべし。地頭無きの所は本所に付せらるべし。 
第四十八条 
一、賣買所領事 
右以相傳之私領、要用之時、令沽却者定法也、而或募勳功或依勤勞、預別御恩之輩、恣令賣買之條、所行之旨非無其科、自今以後慥可被停止也、若又背制符令沽却者、云賣人云買人、共以可被處罪科 
一、所領を売買する事 
右、相伝の私領を以て、要用(=必要)の時、沽却(=売却)せしむるは定法なり。而るに或は勲功に募り、或は勤労によつて別の御恩(=恩領)に預るの輩、恣に売買せしむるの条、所行の旨その科無きに非ず。自今以後、慥かに停止せらるべきなり。もしまた制符(=この禁令)に背き沽却せしめば、売人と云ひ買人と云ひ、共に以て罪科に処せれるべし。 
第四十九条 
一、兩方證文理非顯然時、擬遂對決事 
右彼此證文理非懸隔之時者、雖不遂對決、直可有成敗歟 
一、両方の証文理非顕然の時、対決を遂げんと擬する事 
右、かれこれの証文の理非(=是非)懸隔(けんかく=顕然)の時は、対決(=公判)を遂げずと雖も、直ちに成敗あるべき歟。 
第五十条 
一、狼藉時、不知子細出向其庭輩事 
右於同意與力之科者、不及子細、至其輕重者、兼難定式條、尤可依時宜歟、爲聞實否、不知子細、出向其庭者、不及罪科 
一、狼藉の時、子細を知らずその庭に出向く輩の事 
右、同意(=暴力行為に共謀)与力(=加勢)の科に於ては子細に及ばず(=当然である)。その軽重に至つては、兼て式条に定め難し、もつとも時宜によるべき歟。実否を聞かんがため、子細(=事情)を知らずその庭(=狼藉の現場)に出向く者は罪科に及ばず。 
第五十一条 
一、帶問状御ヘ書、致狼藉事 
右就訴状被下問状者定例也、而以問状致狼藉事、姧濫之企難遁罪科、所申爲顯然之僻事者、給問状事一切可被停止 
一、問状(もんじやう=原告を通じて被告に出す尋問状)の御教書(みげうしよ)を帯び、狼藉を致す事 
右、訴状に就きて問状を下さるゝは定例(=誰にでもあること)なり。しかして問状を以て狼藉(=原告が問状を悪用)を致すこと、奸濫(=脅迫、詐欺)の企て罪科遁れ難し。申す所顕然の僻事(=悪事)たらば、問状を給すること一切停止せらるべし。  
起請 
御評定間理非決斷事 
右愚暗之身、依了見之不及、若旨趣相違事、更非心之所曲、其外、或爲人之方人乍知道理之旨、稱申無理之由、又爲非據事、號有證跡、爲不顯人之短、乍令知子細、付善惡不申之者、意與事相違、後日之紕繆出來歟、凡評定之間、於理非者不可有親疎、不可有好惡、只道理之所推、心中之存知、不憚傍輩、不恐權門、可出詞也、御成敗事切之條々、縱雖不違道理一同之憲法也、誤雖被行非據一同之越度也、自今以後相向訴人并縁者、自身者雖存道理、傍輩之中以其人之説、致違亂之由有其聞者、已非一味之義、殆貽ゥ人之嘲者歟、兼又依無道理、評定之庭被弃置之輩越訴之時、評定衆之中、被書與一行者、自餘之計皆無道之由、獨似被存之歟、者條々子細如此、若雖一事、存曲折令違犯者 
梵天帝釋四大天王惣日本國中六十餘州大小~祇、殊伊豆筥根兩所權現三嶋大明~八幡大菩薩天滿大自在天~部類眷屬、~罰冥罰各可罷蒙者也、仍起請如件 
貞永元年七月十日 
齊藤兵衞 沙彌 淨圓 
佐藤 相模大掾 藤原業時 
太田町野康俊弟之 玄蕃允 三善康連 
後藤大夫判官 左衞門少尉 藤原朝臣基綱 
二階堂信濃民部大夫入道 沙彌 行然 
矢野外記大夫 散位 三善朝臣倫重 
町野民部大夫 加賀守 三善朝臣康俊 
二階堂隱岐入道 沙彌 行西 
中條 前出虫轣@藤原朝臣家長 
三浦 前駿河守 平朝臣義村 
大外記 攝津守 中原朝臣師貞 
北條 武藏守 平朝臣泰時 
北條 相模守 平朝臣時房    于時天正七年己卯五月一日書之畢 
起請 
御評定の間、理非決断の事 
右、愚暗の身、了見の及ばざるによつて、もし旨趣(=内容)相違(間違ひがある)せんこと、更に心の曲る所にあらず。 
そのほか、或は人の方人(かたうど=味方)として道理(=正しい)の旨を知りながら、無理(=不正)の由を称し申し、また非拠(=間違つたこと)の事を証跡ありと号し、人の短を顕はさざらんがため、子細を知りながら、善悪(=悪事)につきてこれを申さゞるは、意(こゝろ)事(こと)と相違し、後日の紕繆出来(いできた)る歟。 
凡そ評定(=評議会)の間、理非に於ては親疎あるべからず。好悪(=人の好き嫌ひ)あるべからず。ただ道理の推す所、心中の存知(=考へ)、傍輩を憚らず、権門(=有力者)を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。 
御成敗の事切(ことき=決定した)るの条々、たとひ道理に違はずと雖も一同の憲法(=正義)なり。誤つて非拠(=不正)に行はると雖も一同の越度(をちど=失敗)なり。 
自今以後、訴人ならびに縁者に相向つて(=訴人のゐる場で)、自身は道理を存ずる(=正しい判断する)と雖も、傍輩(=他の評定衆)の中(=の一人が)その人(=自分)の説を以て聊(いさゝ)か違乱(=反論)を致すの由、その聞えあらば、すでに一味(=評定衆の結束)の義に非ず。殆ど諸人の嘲りを貽(のこ)さんもの歟。 
兼てはまた、道理無きによつて評定の庭に棄て置かるゝ(=訟が棄却になつた)の輩、越訴(をつそ=再審請求)の時、評定衆の中(=の一人が)一行(=推薦状)を書き与へらるれば、自余(=他の評定衆)の計(はかりごと=判断)皆無道(=間違ひ)の由、独りこれを存ぜらる(=一人で判断する)ゝに似たる歟。 
てへれば、条々子細かくの如し。もし一事たりと雖も、曲折を存じ(=曲がつた考へ)、違犯(=違背)せしめば、梵天帝釈、四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、殊に伊豆箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神、部類眷属、神罰冥罰、各罷り蒙るべきものなり。よつて起請件(くだん)の如し。 
貞永元年七月十日 
斉藤兵衛 沙弥 浄円 
佐藤 相模大掾 藤原業時 
太田町野康俊弟之 玄蕃允 三善康連 
後藤大夫判官 左衛門少尉 藤原朝臣基綱 
二階堂信濃民部大夫入道 沙弥 行然 
矢野外記大夫 散位 三善朝臣倫重 
町野民部大夫 加賀守 三善朝臣康俊 
二階堂隠岐入道 沙弥 行西 
中条 前出羽守 藤原朝臣家長 
三浦 前駿河守 平朝臣義村 
大外記 摂津守 中原朝臣師貞 
北条 武蔵守 平朝臣泰時 
北条 相模守 平朝臣時房 
「御成敗式目」(北条泰時消息書き下し) 
御式目事 
雑務御成敗(=裁判)のあひだ、おなじ躰(てい=種類)なる事をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候を、ずいぶんに精好(せいごう=配慮)せられ候へども、おのづずから人にしたがうて軽重などの出来(いでき)候ざらんために、かねて式条をつくられ候。その状一通まいらせ候。 
かやうの事には、むねと(=専ら)法令(=律令)の文につきて、その沙汰あるべきにて候に、ゐ中(=田舎)にはその道をうかゞい知りたるもの、千人万人が中にひとりだにもありがたく候。 
まさしく犯しつれば、たちまちに罪に沈むべき盗人夜討躰のことをだにも、たくみ企てゝ、身をそこなう輩おほくのみこそ候へ。まして子細を知らぬものゝ沙汰しおきて候らんことを、時にのぞみて法令にひきいれてかんがへ候はゞ、鹿穴ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか。 
この故にや候けん、大将殿の御時、法令(=律令)をもとめて御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。 
詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直しきをば賞して、おのづから土民安堵の計り事にてや候とてかやうに沙汰候を、京辺には定めて物をも知らぬ夷戎(えびす)どもが書きあつめたることよなと、わらはるゝ方も候はんずらんと、憚り覚え候へば、傍痛き次第にて候へども、かねて定められ候はねば、人にしたがふことの出来ぬべく候故に、かく沙汰候也。 
関東御家人守護所地頭にはあまねく披露して、この意(こゝろ)を得させられ候べし。且は書き写して、守護所地頭には面々にくばりて、その国中の地頭御家一人ともに、仰せ含められ候べく候。これにもれたる事候はゞ、追うて記し加へらるべきにて候。あなかしく。 
貞永元八月八日 武藏守(御判)    
駿河守殿  
 
得宗

北条時頼は泰時の子の時氏を父とし、後に松下禅尼と言われる安達景盛の娘を母として生まれた。泰時の次の執権で、兄である経時が重病になったため、1246(寛元4)年、19歳で執権に就 いた。 時頼の周りには多くの敵がいた。評定衆の重鎮や前将軍藤原頼経が支持していた義時の孫の名越光時が時頼に取って代わろうとしていた。 
北条政村・実時、叔父の安達義景に支えられ、御家人の最有力者の三浦泰村を味方に入れて、時頼は先手を打った。光時は伊豆に配流、頼経は京都に送還された。 
後嵯峨院には、六波羅探題重時を通じて、朝政の刷新を要請し、幕府と朝廷との間の重要事項を取次ぐ、関東申次の更迭を申し入れた。これにより、関東申次は頼経の父、前関白九条道家から、太政大臣西園寺実氏にかわり、九条家から西園寺家が朝廷での立場を強くすることにな った。 
三浦泰村は時頼に対して反感を持っている子の光村の暴発を抑えようとしたが、次第に反時頼派の中心に押し上げられた。 
この動きに安達氏の危機を感じた義景の父景盛は三浦氏に対抗するように義景と孫の泰盛に促した。ここに三浦氏と安達氏の対立の形を取り、両者の館に武者達が集まって来た。1247(宝治元)年、安達氏が三浦氏を攻撃 する、時頼の軍も動き、三浦氏は全滅した。翌日には千葉秀胤(ひでたね)一族も討たれた。 
藤原頼経の子、将軍頼嗣(よりつぐ)は鎌倉に留まっていたが、この父子に心を寄せる者の謀反の企てがあったとして、1251(建長3)年、職を追われて帰って行く。 
時頼は大番役の勤務期間を半分に短縮したり、京都の市中警備のための篝屋(かがりや)を大番役の御家人から在京の武士にして御家人の負担を軽減している。 
西国では在庁官人や荘園荘官であって、御家人になった者が多かったが、本所によってそれらの所職の御家人が不利な判決を受けた時は、幕府が本所に抗議するという法令を時頼は出してい る。御成敗式目では幕府が介入しないことが原則だった。 
この頃西国では、幕府によって任命された地頭は、こうした在庁官人・荘官・百姓の名田畠を、言いがかりをつけて自分の支配下に入れる動きが目立っていた。時頼はこれを摘発してい る。これは御家人を保護するとともに、百姓や本所を安心させる狙いがあった。 
1249(建長元)年、時頼は御家人の訴訟を専門に扱う裁判機関、引付(ひきつけ)衆を設定した。引付の会議で評議した判決原案を評定衆の評定会議にかけて決定することにな った。この時には一番から三番までの引付が設けられ、裁判所の充実と増設が図られた。 
寛喜の大飢饉より18年間六波羅探題であった北条重時を呼び戻して、時頼はしばらく空席であった連署に就かせた。重時は義時の子で、時頼の妻の父だ。重時の後にはその子の長時が六波羅探題にな った。 
時頼・重時の下での幕府首脳陣は北条氏一門、豪族的御家人、京下りの下級貴族出身者によって構成されていた。しかし、豪族的御家人は名越光時の乱後、幕閣から減少していた。京下りの下級貴族出身者は実務官僚 だったので、この政権は北条氏と安達氏の連合によって成り立っていた。 
光時の乱の時、時頼は私邸に北条正村・金沢実時・安達義景を招いてしばしば寄合を開いていた。ここで重要な政治問題を討議している、臨時の会議だったが、やがて寄合は北条氏の嫡流、一門の家督である得宗(とくそう)の中枢機関に成長してい く。 
1253(建長4)年、後嵯峨上皇の皇子宗尊(むねたか)親王が京を発って鎌倉に入る。そして征夷大将軍に任ぜられ、親王将軍が誕生した。 
鎌倉は町中が都にふさわしく整備され、市中の治安維持に幕府は気を遣った。この後、阿弥陀聖浄光が集めた銅銭で大仏が鋳造され、鎌倉大仏が完成した。 
1253(建長5)年、巨福呂坂の北側に寺院が完成した。時頼は宋から来朝していた禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を迎えて開山し、建長寺と名付けた。この建築で宋風様式、禅宗式が完成し た。 
1256(康元元)年、時頼は30歳で、病気を理由に重時の子長時に執権の座を譲り、出家して鎌倉の山内の別邸、最明寺に退いた。重時も連署を政村に譲り、出家している。しかし、長時は時頼の子の時宗が幼少であ り、その間の役割でした。時頼は最明寺入道と言われ、得宗として、事実上の権力の座にあった。 
1258(正嘉2)年、宗尊将軍の上洛が発表され、その準備にかかるが、夏に大暴風に見舞われ、上洛は延期された。翌年、飢饉になり、疫病が流行した。 
鎌倉で辻説法していた日蓮は、1260(文応元)年、「立正安国論」を書き、幕府に提出している。この中で、広く地頭達に広まっていた浄土教を捨て、法華経の教えに従わなければ、内乱が起き、他国の侵略を受けるであろうと予言した。 その激しい主張に地頭達は反発し、念仏者によって日蓮の草庵は襲われた。そして、翌年、日蓮は罪に問われ、伊豆の伊東に流された。 
金沢実時は仏法が廃れ、国土が荒れているのを、その教えを正したいとして、戒律を守ることによって救いへの道が開けると説いて、貧しい人や病人の救済に勤める叡尊に下向を求めた。1262(弘長2)年、叡尊は西大寺を発って鎌倉に向か った。 
叡尊のもとに北条一門が受戒のため集まった。叡尊は最明寺を訪れ、時頼に戒を授けた。ここに北条一門と律宗が堅く結び付いた。この後、叡尊は時頼が引き留めるのも、そして荘園の寄進も断り、西大寺の戻 った。 
叡尊が東下した年の前後に、幕府と朝廷は正嘉の飢饉の混乱をおさめ、政治を正すべく動き始め、新たな規律を示した。神社・仏寺の尊重、訴訟の公正・迅速を強調している。評定衆・引付衆・奉行人を戒め、地頭御家人が課役を百姓に転嫁しないように規定してい る。僧徒が武器を帯びたり、山僧が富の力で訴訟を請負ったり、狩や漁で特定時期の殺生や、僧侶の女人を招いての酒宴や魚・鳥を食すことを禁じている。 
博打・奴婢の売買、祭で華美で異様の服装、いわゆる風流を禁止していた。そして、種々な悪を行う集団いわゆる悪党を弾圧した。 
時頼が指導する幕府と朝廷は自らを批判する者を抑圧する姿勢をはっきりさせた。そして、飢餓によって延びていた将軍の上洛が準備された。 しかし、またしても大風が吹き、永遠に延期になった。時頼はこの後重病に陥り、最明寺で37歳の生涯を終えた。 
この頃の北九州は、大宰府の直轄地であり、平氏没官領の門司関に下総親房(しもふさちかふさ)が北條時頼の時代に下向して来た。平氏の残党が蜂起したことにより、豊前国に地頭職を与えられ、関東で受け取る地頭得分が届かないという訴えに対し、軍船70艘を率いて親房は着任したと伝えられてい る。 
下総氏は鎌倉末期頃より門司氏と称した。その門司氏は水軍力をもって関門海峡を警固したと思われる。門司氏の本拠は門司城で、早鞆の瀬戸を望む古城山にあり、平知盛が命じて築城させたのがはじまりと言われてい る。 
門司氏の所領は門司六郷で、片野(現在の小倉北区三萩野付近)・柳(現在の門司区大里付近)・楠原(現在の門司港付近)・吉志・伊川・大積郷だった。その六ヶ郷に一族を分立させてい く。そして、片野系門司氏・吉志系門司氏などと称された。 
豊前守護の武藤氏(後の少弐氏)一族は現在の小倉南区の門司区に隣接する当たりの規矩郡吉田保に地頭職を持っていた。保は元来国衙領であり、蒙古襲来以降、豊前守護の庶流が吉田に土着して、開発し、吉田氏を名乗 った。
 
文永の役

11世紀から12世紀初めにかけて、女真族は契丹の建てた遼を破り、金を建てた。そして遼の圧力で江南に遷っていた南宋を圧迫し、一方では北方の遊牧民に圧力をかけていた。このような金やタタールの攻撃の中、モンゴル部族はその内部で争いを繰り返していた。 12世紀末、テムジンは幾多の苦難や戦いを経て、13世紀初め、モンゴルの王者に推され、チンジス=ハンと名乗る。王者になったチンジス=ハンは遊牧民の氏族的・血縁的組織を軍事的行政的組織に編成替えし た。 
チンジス=ハンは次々と征服していく。チンジス=ハンの死後はオゴタイ=ハンが跡を引き継ぎ、高麗を征服し、金が滅ぼされた。そして、東欧にも遠征した。 
オゴタイ=ハンは亡くなるが、モンゴル帝国はユーラシア大陸の中央部を支配した。そして、しばらく内紛と動揺の時期に入るが、その中から、フビライ=ハンが登場してくる。 
高麗では12世紀末、官僚として政治の実権を握っていた文臣多数を殺害し、武人政権が成立した。しかし、高麗王朝は動揺期に入り、農民や奴婢の蜂起が度々起こった。 
1231年からモンゴルすなわち蒙古は高麗に侵入した。王朝の実権を握っていた崔氏の指揮の下で地方土豪・農民・賎民・奴婢はよく戦った。繰り返し行われた侵入に対し、崔氏は江華島に都を移し、諸道の民を山城・海島に退避させて抵抗した。 
繰り返される蒙古の侵入によって高麗の国土は荒れ、次第にモンゴルの条件に高麗は応じざるを得なくなっていった。そして、次第に崔氏の政権に対して不満が高まり、遂に国王高宗と崔氏との間の溝となって表面化し た。1258年、江華島でクーデターが起こり、崔氏政権は倒され、蒙古と高麗の間で和議が整う。 
フビライいわゆる世祖は日本に対し、征服者の立場から、何度も使いを出すが、拒否された。そのため世祖は高麗に1万の軍の動員と1千隻の軍船の建造を命じた。これは日本のみならず、抵抗している南宋への動員の意図もあったと思われ る。 
高麗の武人の中に、親蒙古の国王元宗に反対して江華島に遷都して、再度実権を握ろうとする動きが起こり、遂には元宗を廃した、このため蒙古の干渉を呼ぶことになった。 
世祖は大部隊を高麗に送り込む。高麗は二つの勢力に分かれ、蒙古と結びついた国王と政府に対し、武人政府の軍事組織であった三別抄(さんべつしょう)は蒙古に対して抗戦に立ち上が った。 
多くの船を使って、三別抄は南部を抑えるが、次第に蒙古は攻撃を強めていき、一部抵抗はありましたがほぼ高麗を制圧した。 
世祖は5回目の使いとして超良弼(ちょうりょうひつ)を日本に送った。この時は日本の拒否にあうが、翌年1272(文永2)年、日本に来て1年間滞在した。帰国後、彼は世祖に日本を攻撃することに利益がないことを報告し ている。 
これに対し、世祖は日本征服の計画をやめようとしなかった。1271年、蒙古は国号を元とかえた。高麗の元宗の子は世祖の娘と結婚した。三別抄は1272年まで抵抗したが、本拠地を攻略され、高麗は元に完全に制圧された。 
北条時頼の死の直後、執権長時をはじめ一族の有力者の死が続き、時頼の子の時宗は14歳の若さで表舞台に出た。そのため、政村が執権に、時宗は連署に就く。そして、金沢実時・安達泰盛が原判決の誤りを正す越訴(おっそ)奉行に任ぜられ た。 時宗には異母兄の時輔(ときすけ)がいる。嫡流の時宗に対し、庶子である時輔は六波羅探題南方として上京する。得宗に対抗する名越氏は評定衆・引付衆などの中枢を占めた。 
名越時章が一番引付の頭人だったが、突然幕府は引付を廃止し、訴訟は問注所に移し、重要なものは評定衆で取扱い、執権・連署の裁断とした。 
将軍宗尊の存在も得宗時宗にとって気になっていたが、将軍の護持僧が将軍の御息所と密通したことが暴露された。時宗・政村・実時・泰盛は寄合を開いた。護持僧は逐電し、御息所とその子の惟康王は時宗邸に移され、鎌倉は大騒ぎにな った。将軍宗尊は鎌倉を出て、京都に帰される。その後、惟康王は将軍に就いた。 
この頃、山門と寺門の紛争が起こり、ともに焼き払うという事態になっている。これは、銭の流通があり、金融が活発化し、所領が激しく移動することから起こる争いごとで、同じ様なことは大小を問わず、至る所で起きた。 
1267(文永4)年、越訴奉行を廃止し、最初の徳政令と言われる御家人所領回復令を定めた。御家人の所領の質入売買を禁じ、すでに質入売買したものは買主に返却すれば、取り戻すことができるとした。これは御家人の間のものであり、非御家人に売れば、これは没収とした。無償の譲渡は返却を命じられた。離別された妻が譲られた所領を後の夫に渡すことや、非御家人の女子が夫の所領を知行することは禁止された。 
1268(文永5)年、蒙古皇帝と高麗国王の国書を携えた高麗の使いが大宰府に着いた。国書は筑前守護少弐覚恵(武藤資能)によって院に送られた。 幕府は戦闘準備を西国の守護に指令した。そして、時宗が執権に、政村が連署になった。 
律僧叡尊は異国退散の祈祷を行っている。叡尊の弟子の忍性が鎌倉の極楽寺にあり、建長寺の禅僧の蘭渓道隆とともに北条氏一門の信頼を集めていた。 
日蓮は「立正安国論」を時宗に献じている。予言が的中したとして、念仏宗を批判していた矛先は律宗・禅宗そして真言宗に向けられた。 
2度目の蒙古の使いは対馬で島人2人を捕らえて帰り、その送還の形を取った使いが再び対馬に来る。これに対し、朝廷は返事を与えようとしたが、幕府はそれを抑えた。幕府は廃止していた引付を復活し、御家人所領回復令を廃棄し た。そして、その頃山門内部の争いに力を注ぎ、激しく追及した。荘園内での争いごとに対しても抑圧しました。しかし、時宗政権は内外の重要課題に対し、しばし、足踏みをせざるを得ない状況 だった。 
1271(文永8)年、高麗の使いが大宰府に着いた。この使いは高麗独自のもので、日本が拒否すれば、蒙古の襲来は避け難いというものだった。その後、超良弼が今津に着き、国書を自ら国王や将軍に手渡すと大宰府に迫 った。 
幕府はこれを黙殺し、防御体制の強化に本格的に取り組んだ。西国に所領を持つ武士達が続々と西国に移住した。 
その頃、日蓮の矛先は忍性に向かい、北条氏を批判していた。これに対し、時宗政権は弾圧し、日蓮は逮捕され、佐渡に流された。 
時宗政権は東国御家人の鎮西下向を促し、すでに下向していた豊後守護大友頼泰に筑前・肥前両国の要衝を警固するように命じた。この当時、筑前・肥前の守護は少弐覚恵(武藤資能)で、両者は同じ異国警固番役の命を受けたと思われ る。この二人が鎮西奉行として九州諸国の御家人を指揮していく。 
1272(文永9)年、鎌倉で得宗御内人達が名越時章とその弟を攻撃して殺した。京都では六波羅探題北方が南方の異母兄時輔を襲い殺した、これらの事件を二月騒動と言う。 時宗を中心とする勢力は、謀反の疑いがあるとして名越氏を中心とする勢力に対し攻撃をかけたが、時章にはその気持ちはなかったとして、得宗御内人達は処刑された。 
二月騒動は得宗御内人によって引き起こされたが、事態を逆転させたのは安達泰盛だった。泰盛に対する御内人の反発は深く潜在していく。 
名越時章が九州に持っていた筑後・肥後・大隈の守護職は没収され、筑後は大友頼泰、肥後は少弐覚恵、大隈は千葉氏に与えられた。 
この年、幕府は土地台帳の大田文の調査を各国守護に命じている。ところが、御家人の所領の移動がかなりあることが分かった。そこで、翌年思い切った御家人所領回復令を発し た。大量な訴訟が起こることが予想され、公正で迅速な裁判を引付衆や奉行人に命じている。 
日蓮は赦免され、鎌倉で意見を述べるが、その主張は拒否され、甲斐の身延に旅立って行く。 
高麗では900隻の軍船も完成し、軍勢も合浦に集結していたが、高麗国王元宗が死去したため、日本への出発は一時延期される。その子の忠烈王が即位して、1274(文永11)年10月3日総司令官都元帥忻都(きんと)が率いる2万の元軍と金方慶が率いる1万数千の高麗軍が日本に向けて出発し た。 
10月5日軍船は対馬に到着。当時対馬は少弐氏が守護で、宗資国が代官として在島していた。軍船から上陸した軍勢と資国以下の武士は戦うが、戦死した。男達は殺されたり、生け捕りにされ、女達は手に綱を通して船に結び付けられたと 言う。 壱岐も守護は少弐氏で、守護代の平左衛門尉景隆が御家人を率いて上陸した元軍と戦った。しかし、抵抗もかなわず、遂には自決した。その後は対馬と同じことが起った。元軍は平戸・鷹島や島々を襲い、松浦党の武士を殺し た。 
10月17日に早馬が六波羅に着き、九州の武士は続々と博多に駆けつけた。20日未明も百道(ももち)をはじめ各地の海岸に元軍は上陸を始めた。博多で大将として指揮を執ったのは少弐覚恵の子の景資(かげすけ)だった。 
元軍は太鼓や銅鑼を鳴らしてときの声を挙げ、それに従って歩兵の集団が進み、毒を塗った矢や火薬を使った「てっぽう」を発射した。 
一方武士達は馬に乗って応戦したが、太鼓や銅鑼の音に馬は驚き、「てっぽう」の爆発にたじろぎ、そこを毒矢を射掛けられ、苦戦した。 
少弐景資は戦況が不利になった中、水城を次の戦場に決め、大宰府に退いた。一方元軍は戦闘で疲れた兵士を休ますため、軍勢を軍船に引き揚げた。 
その軍船は翌21日には博多沖から消えている、暴風雨説もあるが、日本の武士達の抵抗も強く、これを破るには兵力が少なすぎるとの考えから撤退したとの説もある。 
翌1275(文永12)年、異国警固番役が決められ、九州の武士は春は筑前・肥後、夏は肥前・豊前、秋は豊後・筑後、冬は日向・大隈・薩摩と3ヶ月警固に当たることになった。 
この年、元の世祖は再度の遠征を計画し、その使者は大都(北京)を発って、長門の室津に着いた。この長門は長門・周防・安芸・備後の四国で警固されていた。元の使者は鎌倉に送られたが、全員が斬首された。 
これにより、蒙古の再度の襲来は確実になり、戦時体制は強化される。西国には力量のある守護が配置され、二月騒動以降欠員になっていた六波羅探題南方が任命され、その陣容も強化され、六波羅は充実したものになっ た。 
蒙古との戦いで戦功のあった者は、御家人でなくても恩賞を与えると、幕府は鎮西奉行に指令している。軍事力の強化を目指して、幕府は九州・西国の本所・領家の所領まで権限を及ぼし、御家人・非御家人の別なく、全ての武士を守護の指揮下に置 いた。 
蒙古襲来の史料として有名な絵巻「蒙古襲来絵詞(えことば)」では、合戦の様子や主人公の竹崎季長(すえなが)の戦功が描かれているが、翌年のことも描かれている。 
季長は、肥後国竹崎を恩賞の訴訟のため出発して、鎌倉に向かう。御家人であったが、恐らく庶子であり、所領を持たない、身なりのみすぼらしい季長の言い分は取り上げられ なかった。そんな中、季長は安達泰盛に申し上げる好機に恵まれる。 
わずか5騎で先駆けして敵陣に突入した。そのことは大将少弐景資が一番戦功につけてくれていた。しかし、景資の兄で、父覚恵の跡、鎮西奉行になった経資は鎌倉に注進してくれてなかったの だ。言い分に偽りがあれば首を斬られてもよいと季長は泰盛に述べる。帰る所がない季長が一月ほど待っていると、120余人の勲功を大宰府に伝え、季長には直接下文(くだしぶみ)を与え る。喜び勇んで、季長は恩賞地の肥後国海東(かいとう)郷に帰って行く。
 
弘安の役

神官や僧侶は神仏に祈ることで、蒙古を撃退しょうとした。そこに文永の役の予想外の蒙古軍の退却があった。これは神仏の加護と考えてもなんら不思議はない。この当時から既に神風が言われていた。幕府は主な神社に所領を寄進し、異国降伏の祈願を行ってい る。 
朝廷においては、亀山上皇が主な神社に奉幣して、異国降伏を祈願した。 
九州の人々は博多湾岸に、海岸線に沿って防塁を築いた。それらは国毎に分担して、1276(建治2)年より始められた。 防塁は石材を積んだ石築地を築き、その後方は土砂を盛って緩やかな傾斜にし、前方には上陸を阻む杭が立てられた。 翌年には防塁は完成し、九州各国が分担した箇所が異国警固番役の警固場所となった。 
博多湾のほかにも筑前黒崎を出雲の御家人が警護したことも伝えられている。この時期、守護の交代が行われている。筑後には大友頼泰から北条宗政、豊前は少弐覚恵から金沢顕時、肥後は少弐覚恵から安達泰盛、長門・周防も北条宗頼に交代してい る。北条宗政・宗頼は時宗の弟で、金沢顕時は安達泰盛の婿だったた。 得宗と安達氏が力を持っていたことが分かる。 
安達泰盛は恩賞を与える権限を持つ恩沢奉行として婿の時宗を支えていた。また、得宗の御内人が内部から支えていた。御内人の筆頭で、得宗公文所の家令であった平頼綱に対する時宗の信任は厚いもの だった。 
この頃には影の機関であった寄合は正式な機関となっている。ここで幕府の政策の重要事項が審議決定された。泰盛も頼綱もそのメンバーだ。しかし、泰盛に対して二月騒動の収拾に当たって、御内人の反発は強く、その代表が頼綱 だった。 
この実力者の対立をはらみつつ、幕府内の泰盛の主導権は強化されていった。蒙古の再襲来の圧力の前に、幕府は異国警固は武家・公家の区別がない課役であり、本所支配下の荘園・公領・社寺も守護の催促にそむかないことを指令した。 
1276年、元軍の攻撃で、南宋の首都臨安(杭州)は陥落した。この3年後、南宋は滅亡し、元が中国を統一した。元の世祖は旧南宋に日本遠征の軍船の建造を命じる。南宋の旧臣による日本を説得する使いが博多に到着 するが、幕府はその使いを博多で斬首した。 
蒙古・高麗・漢(北部中国人)人4万の東路軍は高麗の合浦を出発し、南宋人10万の江南軍は江南を出発して、壱岐で合流して日本を攻めるという基本方針が決められた。 
1281(弘安2)年5月21日東路軍は対馬沖に現れる。一部は上陸し、戦闘があった。その後、江南軍との待ち合わせより半月早く壱岐に到着している。江南軍を待たずに東路軍は博多港へ、一部は長門に向か った。長門を元軍は襲うが、大きな戦闘はなく、元軍は退いた。東路軍の主力は6月6日博多湾に姿を現した。博多湾岸の防塁には楯が並び、船が近づくと矢を浴びせ、上陸を阻 んだ。東路軍の軍船は手薄な志賀島・能古島に停泊した。これに対し、小舟に乗った武士達が夜討ちをかけた。 
東路軍は志賀島に上陸し、陸上での戦闘も行われた。8日守護大友頼泰に率いられた豊後の武士達は海の中道で戦い、守護代安達盛宗に率いられた肥後の武士達も陸上で戦った。 
江南軍との待合せ予定日の6月15日が近づき、疫病も発生し、戦死者も数多く出たため、東路軍は壱岐に引き返した。しかし、江南軍が到着しないため、指揮官の間では軍を引き揚げようという意見が出て くる。 江南軍の先発隊によって、江南軍の出発が遅れたこと、待合わせを平戸に変更したことを東路軍は知らされる。壱岐に停泊した東路軍に対し、薩摩の武士や肥前の松浦党が海を渡って攻撃した。待合場所の変更を聞いて東路軍は平戸に移動 する。 
7月上旬、集結した14万人、4千艘の大艦隊は東進を始めた。7月30日主力は肥前の鷹島に到着した。その夜は大暴雨風になった。翌日も一日中吹き荒れた。太陽暦で8月23日大型台風が襲ったの だ。 多くの船が破壊され、兵士達が多数溺死した。嵐がおさまって、指揮官達は今後の方針を協議したが、戦意を失い、帰還を望む声が大きくなった。そんな様子の元軍に対し、日本の武士達は攻撃を加え、特に鷹島付近の元軍の船は激しい攻撃を受け た。そのため、残った船は逃げ帰った。 
残された兵士達は殺され、捕らえられた捕虜は2・3万人もいたと言われている。これらの捕虜のうち蒙古・高麗・漢人は殺され、唐人(南宋人)は奴隷とされた。14万の大軍はその3/4を失 った。 
幕府は戦闘に備えて西国の国衙領や本所一円地の年貢及び富裕な人々の米を差し押さえ、兵糧米とする法令を実行しょうと朝廷に申し込んだた。 更に、諸社を警固していた武士に代わり、奉仕する職掌人が警固を行い、武士を戦闘に振り向けた。本所一円地の武士は幕府の命に従うようにという申し入れを朝廷にしている。 
朝廷はこの時期、異国降伏の祈願を主な諸社で行っていた。幕府は大軍の瀬戸内海侵入を想定して、守護の命に従って戦うべしと防備を固めていた。 大暴風によって元軍が壊滅したことは、祈祷の効果を強調する声が上がり、以前よりあった、神が加護する国日本という見方が一層強調され、大暴風を神風とする見方が次第に人々に浸透してい った。 
元軍敗退の原因は何であったか、偶然の大暴風のみでなく、根深いものがあった。まず大軍であったが、異民族の寄せ集めの軍勢であったことだ。かっての草原を疾駆した勇猛な蒙古軍でなく、かっての勇敢な海上勢力の高麗軍では なかった。 東路軍首脳陣は宿敵の関係にあり、統率された軍ではなかった。特に江南軍の船は手抜きで造られたというほど構造の弱いものだった。全軍の集結は遅れに遅れ、台風の季節前に上陸する予定 が、台風に遭遇してしまった。 
元寇での戦闘に参加したのは、九州に所領を持つ武士達だけだった。西国に所領を持つ東国の人々が多く移住したが、東国だけに所領を持つ人々には直接的な影響はなかった。九州以外の庶民にとっても、遠い世界のこと だった。 
しかし、その余韻は長く残り、世祖は三度目の遠征を計画し、その圧力を日本はその後も長く受け続けた。 江南と高麗で、3千艘の軍船の建造が命じられた。しかし、困窮していた高麗では逃亡者が続出し、江南では叛乱に発展した。そして、広東・福建で叛乱が起き、南ベトナムでも元の支配に反抗した。それでも世祖は執念を燃やし続けた。 
弘安の役の戦後処理に幕府は忙殺された。2ヶ月の戦闘に多数の武士が参加した。自己の戦功を証明するため、証人を立てる必要があった。その審議は守護によって行われ、確認されたものから関東に報告された。 
一日も早い恩賞の実現を武士達は望んだ。異国との戦いのため、没収地はなく、恩賞地の決定は困難を極めた。平頼綱が代表する得宗御内人は武士の不満を背景として安達泰盛と対決していた。 評定衆と引付衆のかなりの部分を泰盛の同族か一派の者で占めていた。困難さと抵抗を解決するには思い切った改革が必要だと泰盛は思っていた。 
1283(弘安6)年、幕府が発した文書に将軍を公方(くぼう)という称号を使っている。これは御家人の他、本所一円の住人を動員でき、守護を通じて国衙管理下の寺社に異国降伏の祈祷の命を下す将軍は実質的権力がなくとも、武士の棟梁の征夷大将軍の称号でなく、元来は朝廷を指した公方という称号がふさわしいと泰盛は考えたと思われ る。この言葉により、将軍即ち公方と、得宗即ち御内の区別を明解にしょうとしたと思われる。 
泰盛の主導する改革は時宗の名の下に一挙に実行される予定だったが、1284(弘安7)年、病にたおれた時宗は数日後、34歳で急死した。泰盛はじめ評定衆・引付衆の大半が出家し た。時宗の子、貞時が14歳で執権に就いた、貞時は泰盛にとって孫で、頼綱は貞時の乳父だった。 
泰盛は改革を実行に移した。その綱領である新式目は法令の体裁をとらず、諮問に対する答申の形を取っている。その規定によって次々と法令が発せられた。その中で弘安の役の恩賞を含んだ鎮西に関するものが2つあ る。1つは売却・質入された神領を取り戻すことを認めたもので、もう1つは御家人の売却・質入された所領を取り戻すことを認めた。 
これを実行するため、3人の使いが派遣された。この使いに相対する守護、豊後の大友頼泰が筑前・肥前・薩摩を、肥後の安達宗盛が豊前・豊後・日向を、筑前の少弐経資が筑後・肥後・大隅を担当し、訴訟事務を取り扱 った。この審議機関が後の鎮西探題に発展する。 
鎮西に派遣された使いは徳政の御使と現地では受け取られた。この徳政を実現しょうとすれば、所領が安定していなければならなく、そのためには強権を発動しなければいけないようにな る。しかし、保護しようとした御家人達も時代とともに変わっていた。元来非御家人であった得宗御内人は、泰盛が意図した方向とは別の方向へ活動していた。
 
得宗専制

1285(弘安8)年、安達泰盛と御内人達との間で衝突が起こり、合戦に発展していく。その結果、泰盛はじめ安達氏一族は自害・討死した。また泰盛派と言われる多数の御家人も自害・討死し た。 この騒動は地方にも波及した。特に九州では合戦に発展し、肥後の守護代をしていた泰盛の子の宗盛は博多で殺さた。 
少弐経資の弟で、蒙古襲来の際の大将であった景資は泰盛方について筑前岩門(いわと)で挙兵した。これを岩門合戦と言い、鎌倉での合戦とあわせて霜月騒動と言う。騒動の後、泰盛の縁者達の処罰が行われ、ここに平頼綱が率いる御内人の権力が確立され た。 
泰盛によって計画された改革は内管領平頼綱によって変質されていく。鎮西の者が訴訟に鎌倉・六波羅に参ることを抑え、警固に専念することを命じ、4人の奉行による鎮西談議所を設置 する。これは泰盛によって設置された合議機関が行った措置を否認し、それ以前に戻してしまった。4人のうち2人は得宗の意に従う者を就かせ、残り2人は少弐経資と大友頼泰の従来からの統治にかかわった御家人を立てて、御内人の専権を覆いした。 
長い時間をかけていた弘安の役の勲功賞を少弐経資と大友頼泰に伝え、その配分を2人に任せた。これと同じ頃、4人の奉行など主だった御家人には幕府から恩賞が与えられ、岩門合戦の勲功賞もこの時与えられた。これは岩門合戦で敗北した少弐景資の所領 だった。 
少弐経資と大友頼泰に任せられた恩賞地は北部九州に集中していたが、10・5・3町の用地を基本に1,000人を超える人々に配分された。この所領は将軍家領の関東御領 だった。しかし、あまりに零細であるため管理しにくく、遂には北条家が建てた律宗の寺院に寄進せざるを得なかった。 
異国警固の強化を得宗政権は訴え、守護の催促にも従わない本所一円地には地頭を任命する方針を明らかにした。これは将軍と御家人との関係を重視した泰盛の方針に対し、得宗御内人には御家人統率の名分がないため、地頭御家人の所領と本所一円地を国衙機構を通じて支配する方向を強めた。 
幕府の国衙機構の掌握は守護によって行われた。守護は軍事面と行政面の機能を持っていたが、泰盛は前者を、得宗御内人は国衙管理下、流通路や津泊などと深い関係があり、後者を重視した。国衙機構の支配は霜月騒動以降、北条氏一門の諸国の守護への進出で支えられた。 
霜月騒動後、北条氏一門や御内人が幕府の要職を固めた。九州の守護は筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津家を除いた6国は北条一門が独占していた。この頃、門司氏の中には北条氏の被官となる者が現れ、得宗被官であった山鹿・麻生氏を合わせて北九州は北条氏によって支配されていた。この様な得宗専制に対し、かなりの守護職を奪われた少弐・菊池・島津氏は不満を持っていた。 
従来、執権政治では京都の公家と鎌倉の武家を厳しく区別していたが、得宗政権は朝廷に接近し、平頼綱の子飯沼助宗は検非違使に任ぜられた。そして、後には安房守にもなってい る。 
ところで、亀山院政は改革に意欲的だった。しかし、幕府に対して異を唱えているとの風説が流れ、そのため、統治権掌握を目指す得宗政権は後深草治世を申し入れる。ここに伏見天皇が即位し、後深草院政が始ま る。 
亀山・後宇多側を後宇多の後の居所に因んで大覚寺統、後深草・伏見側を後深草の居所に因んで持明院統と呼ぶ。関東申次西園寺実兼は娘を伏見天皇の中宮として入内させ、持明院統と緊密となり、幕府もそちらに傾 いた。 
その頃裁判は長引き、滞っていた。勿論それに対し、政権は何もしなかった訳ではなかったが、その対策は場当たり的だった。一つは案件を減らすことで、ある年限以上の判決は改めたいという不易法があ ったが、従来15-6年あったものを6年に短縮した。もう一つは示談が増えてきたことだ、これは裁判所側が意識的に奨励した。 
政権は裁判の促進を指令し、鎮西談議所と引付を御内人が監督することになり、ここに御内人専制体制ができた。そして解決を急ぐ当事者は御内人に金銭や進物を贈った。 
政権は蒙古襲来を恐れていた。襲来に対処するため北条兼時・名越時家の2人を大将として1293(正応6)年鎮西に派遣した。関東から下った引付奉行人を加えて鎮西の軍事・政務機関の鎮西探題がここに成立した。 
1293(正応6)年4月鎌倉に大地震が起こった。その数日後、得宗貞時の命を受けた北条一門が平頼綱・飯沼助宗父子を討った。ここに得宗貞時1人に政権は掌握された。 
北条貞時は方針を明らかにし、引付衆・奉行人に忠誠を誓わせ、賄賂を取らないことを誓約させた。知行地を持たなくても曾祖父の時、安堵の下文を与えられた者は御家人と認めた。惣領が処罰された時、庶子の所領が別個に相伝されるなら没収した所領を返すと決めた。越訴を重視し、御家人保護を打ち出した。 
訴訟については即決主義で貫かれている。領家と地頭が争った場合、新補率法地頭の場合、領家が申請すれば、幕府の権限で下地を中分できたが、これを本補地頭まで拡大した。また、訴訟手続上の誤りを救済する庭中(ていちゅう)でも、迅速に処理するように指令してい る。 
貞時は思い切った人事を行い、引付を廃止して、執奏を設けてた。首脳部には泰盛派が復活した。新設された執奏は資料の提出、意見具申に留め、最終決定権は得宗貞時にあり、得宗専制の状況にな った。 
これまで待たされた訴人は、裁判が促進されることを期待して奉行のもとに押し寄せたと言われる。霜月騒動で没収された所領を返却せよ、頼綱が発した不易法は有効かという声も上がってきた。貞時は返却しない不易法は有効であり、更に自分の採決については越訴を認めないとした。 
こうしたことは頼綱派に力を与えた。今度は御家人達の反発を誘った。そこで、貞時は御家人側を配慮するようになった。貞時は引付を復活させた。もとより最終決定権は掌中に握っていた。しかし、その権力は御家人と御内人との対立の中に揺れ動いていた。 
1295(永仁3)年、貞時は鎮西探題の北条兼時・時家を召還した。翌年、長門・周防国守護金沢実政が鎮西探題に就任した。御家人の所領に関する訴訟に判決を与える権限を鎮西探題に与えた。 
1297(永仁5)年、貞時は永仁の徳政令を発した。内容は御家人間の所領の売買質入の禁止、利息付貸借である利銭出挙(りせんすいこ)の取立ての訴えは取り上げないというもの だ。御家人の所領の移動の激増が深刻になっていたのに対し、権利を保護したものだ。 同時に、越訴廃止を宣言した。かって泰盛が越訴を重視したのに、頼綱は抑制しようとした。法令の中には御家人保護とその反対のものが含まれていた。 
この法令は京都からも、御家人からも強い反感を買った。翌年、越訴は復活され、徳政令も廃止されたが、売買質入地の無償取戻しは残された。 
この頃、京都では伏見天皇が訴訟制度の充実と改革に取り組んでいた。これを支えたのが側近の京極為兼だ。幕府に批判的な二人の動きは宮廷内で反発を呼び、関東申次西園寺実兼も伏見天皇から離れ、遂には京極為兼は佐渡に流された。伏見天皇は後伏見天皇に譲位したが、後宇多上皇の皇子が東宮に立ち、大覚寺統に政権が移ることが約束された。 
1299(永仁7)年、鎮西探題の充実が図られ、補佐する評定衆が任ぜられ、更に鎮西引付が編成された。引付は三番あり、一番は北条一門、二番は少弐氏、三番は大友氏が頭人にな った。 
探題北条実政には異国警固の指揮官と同時に、本所一円地にも及ぶ裁判権が与えられ、鎮西統治機関としての探題が完成した。 
1301(正安3)年、北条貞時は執権を師時に譲り、出家した。連署も辞任し、幕府の政局は転換した。 
同時に京都でも大覚寺統が後伏見天皇に退位を迫り、大覚寺統の後二条天皇が即位した。しかし、皇太子には持明院統が後の花園天皇、大覚寺統が後の後醍醐天皇を推して争ったため、幕府は交互に位に就ける道を選び、持明院統が皇太子を立て た。 
後二条天皇の即位によって後深草・亀山の二法皇、伏見・後宇多・後伏見の三上皇になった。持明院統には後深草が管理する長講堂領(元来、後白河の所領)、大覚寺統には亀山法皇が管理する八条院領(元来、鳥羽の所領)があり、莫大な荘園群を有していた。しかし、莫大な遺領を残して室町院が死去したため、この室町院領を巡って両統が争い、結局、幕府はこの遺領を両統に中分することにな った。 
出家した翌年から貞時は幕府を指導した。1303(嘉元元)年、実政からその子の政顕(まさあき)になっていた鎮西探題に対し、幕府は指令を出している。異国警固について、担当場所が分担されていたのに対し、当番の国が年中通じて全てを担当するようにな った。九州の五番に分けて担当していたが、これは警固役の軽減になったと思われる。 
1305(嘉元3)年、鎌倉が大地震に見舞われた数日後、侍所所司・内管領を兼任していた北条宗方は貞時の命として、連署時村を襲い、殺害している。しかし、貞時は時村追討は誤りという意志を表し、宗方は討たれ 、これを嘉元の騒動と言う。 
後深草・亀山上皇は相次いで亡くなり、1307(徳治2)年、後二条天皇が亡くなり花園天皇が即位し、後の後醍醐天皇が皇太子に立った。 
嘉元の騒動の後、幕府は弛緩状態だった。評定や寄合も制度化していて、貞時は執権・連署・引付頭人に評定や裁判を任せきりにしていた。そして酒宴に明け暮れ、退廃の状況 だった。 
諸国で悪党や海賊が蜂起し、多くの訴訟が押し寄せた。幕府は面倒な訴訟を避けるような抑圧的な態度に出た。そんな権力主義的な姿勢の中に出世主義が横行した。 
貞時の独裁とその行き詰まりの中で、幕府内は退廃が支配していた。1311(応長元)年、得宗貞時は41歳で亡くなり、その子高時は9歳で、後事を平頼綱の甥、長崎円喜と安達泰盛の弟の孫、安達時顕に託した。
関東申次と西園寺家 
鎌倉時代、公武間の交渉を担当した朝廷側の役職に、関東申次(かんとうもうしつぎ。関東執奏とも)というのがあった。この職には親幕派の公卿が就任し、政務文書の取次ぎなどを行いながら、大きな権限を有していた。 
当初、関東申次の職は幕府側の私的な指名で任命されたが、1221年の「承久の乱」以後、朝廷の重要事項の決定は原則として関東申次を経由して幕府の許可を得る事になると、幕府側の六波羅探題とともに、朝廷・院⇔幕府間の連絡や意見調整を担当して、その影響力を増していった。 
そして、1246年(寛元四年)の「名越光時の乱」の後、関東申次の職が常設化されると、失脚した九条家に変わって西園寺家がその職を世襲するようになり、大覚寺統と持明院統による皇位継承争いが激化する頃には、皇位継承問題や宮中の人事にも、関東申次の一存が大きな影響力をもつまでになっていた。 
しかし、西園寺公衡(きんひら)が申次の職にあったとき、後宇多上皇に内密で持明院統の常磐井宮常明親王擁立に動いたことがきっかけで、大覚寺統から忌避されるようになり、大覚寺統が申次を無視して幕府と直接交渉を行うようになると、申次の求心力は急速に失われた。 
さらに、1333年に大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと、西園寺家への風当たりはますます強いものとなり、最後の関東申次となった権大納言・西園寺公宗(きんむね)は、謀反の疑いで処刑される。現職公卿の処刑は、1159年の平治の乱以来の出来事で、これは非常にセンセイショナルな事件であったようだ。 
ここで、歴代の関東申次を書き出してみよう。(鎌倉時代初期には、「将軍の義父」や「将軍の娘婿」がその職に就いていることから、富や権力の相続も、「宮廷女官チャングム」の「チェ一族」のように女系にあったことが伺えるが、1246年の「宮騒動」以降、西園寺家の嫡男がその職を世襲するようになると、時代の変化と並行するように、相続の形態も男系に移ってゆくのが興味深い) 
1199年-1216年〜吉田経房 よしだつねふさ/将軍・源頼朝の知人。2人は上西門院の側近時代に知り合ったか? 
1216年-1244年〜坊門信清 ぼうもんのぶきよ/将軍・源実朝の義父。 
1244年-1246年〜西園寺公経 さいおんじきんつね/頼朝の姪婿で、将軍・九条頼経生母の父。 
1244年-1246年〜九条道家 くじょうみちいえ/西園寺公経の娘婿で将軍・九条頼経の父。 
1244年-1246年〜近衛兼経(九条道家と兼任) このえかねつね/九条道家の娘婿で、四条天皇・後深草天皇の摂政。宗尊親王御息所の父でもある。 
1244年-1246年〜一条実経(父・九条道家の職を一部代行) いちじょうさねつね/父は九条道家、母は西園寺公経の娘・准三后綸子。一条家の祖。 
1246年「宮騒動」 
1246年-1269年〜西園寺実氏 さいおんじさねうじ/西園寺公経の子。承久の乱の際、後鳥羽上皇の命で父・公経とともに幽閉されたが、1246年に太政大臣に就任し、関東申次・院評定衆も務めた。娘の姞子(大宮院)は後嵯峨天皇の中宮となり、後の後深草・亀山両天皇を産む。「文永の役」に臨んで、幕府はこの実氏を通じて蒙古国書を朝廷へと回送し、朝廷は国書を黙殺している。 
1269年-1299年〜西園寺実兼 さいおんじかねざね/父は西園寺公相(実氏の次男)、母は中原師朝の娘。実氏の孫。「とはずがたり」に見える「曙の君」は、この実兼とされる。 
1299年‐1315年〜西園寺公衡 さいおんじきんひら/実兼の嫡男。皇位継承問題に影響力を行使。 
1315年‐1322年〜西園寺実兼(公衡の病死に伴い、復職) 
1322年‐1326年〜西園寺実衡 さいおんじさねひら/公衡の嫡男。37歳で病没。 
1326年‐1333年〜西園寺公宗 さいおんじきんむね/実衡の嫡男。鎌倉幕府の滅亡で関東申次の役職を停止された公宗は、地位奪回をめざして、北条氏の残党らと連絡し、北条高時の弟・泰家(時興)を匿っていた。が、これを弟の公重(きんしげ)が密告したことから、公宗と泰家は後醍醐天皇を西園寺家の山荘「西園寺」に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝の即位を謀略しているとの嫌疑で、日野氏光らとともに逮捕され、出雲国(現・島根県)へ流刑される途中、名和長年が西園寺家を継承したが、以後、西園寺家の家運は衰退し、かつての勢いを取り戻すことのないまま、江戸・延宝年間(1673年−1681年)に断絶した。(第12代・第14代内閣総理大臣の西園寺公望は、明治時代に同系の徳大寺家から入嗣) 
追補/藤原北家閑院流・西園寺家の家格は、五摂家につぐ清華家(せいがけ)。琵琶を家業とし、藤原公実(きんざね)の三男・通季(みちすえ)を祖とする。通季の曾孫・公経が親鎌倉幕府派となって、承久の乱で京の情勢を鎌倉に伝え、後堀川院の擁立に協力したことで幕府の絶大な信頼を得、太政大臣に昇進するまでの勢力を有した。西園寺の名は、公経が1224年に京の北山にある別荘に「西園寺(のちの鹿苑寺=金閣寺)」を造営したことに始まる。後に公経は、栂ノ尾高山寺の明恵上人を戒師として出家。小倉百人一首(96)に「花さそう 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり 〜 入道前太政大臣(藤原公経)の歌」がある。家紋は左三つ巴。 
西園寺家の所領 
平安〜鎌倉〜南北朝時代、天皇家や摂関家は西国の陸・海交通の結節点を戦略的に自らの支配下に置いていた。鎌倉時代に入って、(西国は勿論のこと)東国の交通拠点の多くは北条氏が押さえていたが、鎌倉に近い津・港にも、西国王朝がその支配権を延ばそうと目論んでいないはずはなかっただろう。網野善彦・著「日本の歴史をよみなおす(全)」に、こんな記述がある。 
こうした神社、寺院、貴族の荘園の分布から、その戦略を確かめてみますと、たとえば賀茂社、鴨社の荘園、御厨は確実に海を目指しており、それも瀬戸内海、北陸の浦や津・泊を持つ場所に確保されていることがよくわかります。伊勢神宮は東海道の太平洋岸に御厨を多く持っていますし、岩清水八幡宮も、瀬戸内海から山陰に荘園・別宮(べっく)を持っています。 
天皇家、摂関家、さらに平氏についても同じことが言えますが、最近調べていて非常に面白かったのが西園寺家の所領の分布です。この家は中世、東の王権である鎌倉幕府にたいする京都の王権―朝廷の窓口の役、つまり、朝廷側で東の王権にたいする「外交」の窓口になっている関東申次(もうしつぎ)という地位を世襲した貴族の家で、大変な財力を持ち、権勢をふるったことが知られています。 
この家の所領の分布を調べてみますと、まず別邸を氏の槙島(まきしま)(真木島)や淀川の入り口の吹田に持っています。こういう別邸の置かれている所には当然、家政の機関があり、船人をはじめ、さまざまな職能民が属しています。それが宇治川と淀川入口に設けられていることに注目すべきだと思います。 
そのほか宇治川につづいて、巨椋池という大きな池があったのですが、そのほとりから淀川にかけて点々とある牧を、西園寺家はその所領にしています。牧は川の屈曲部に柵を設けて馬や牛を飼うので、都のそばの近都牧(きんとのまき)は、諸国から貢上されてきた馬や牛をそこでしばらく飼育したのですが、こうした牧は、院の厩や朝廷の左馬寮(さまのりょう)・右馬寮(うめのりょう)が管理していました。西園寺は平氏と同様に院の御厩別当になり、それを世襲するとともに、左馬寮を知行官司(ちぎょうかんし)(知行国と同じように、その長官を推薦、任命できる官司)として自分の支配下に入れており、淀川や巨椋池の周辺にある美豆牧や、河内の福地牧(ふくちのまき)、会賀牧(えがのまき)などをすべて押さえています。 
また、厩には馬借や車借が属していますから、西園寺家はこうした交通業者にも支配をおよぼしていますが、牧は川辺にあり、かならず港と結びついていて、水上交通と陸上交通の接点になっています。このように馬や牛と船はセットになっており、牧と河海の交通の結びつきは非常に強いのです。 
さらに西園寺家の独自の所領も、宇治川、巨椋池、淀川沿いに点々とあることがわかります。そのうえ鴨川と桂川の合流地点で、淀川にも近い所に院の大宮殿、鳥羽殿がありますが、その管理者にも西園寺家はなっており、鳥羽殿に付属する所領もその支配下に入っています。たとえば、淀魚市(よどのうおいち)は鳥羽殿領ですから、西園寺家は淀川の最要衝を押さえていることになりますし、鳥羽殿の近くにある荘園もすべて西園寺家の管理下に入っています。 
さらに淀川から大阪湾に出て瀬戸内海にいたる海の道を見ますと、瀬戸内海への入口、摂津・播磨あたりにも所領を持っていますが、要港下津井を持つ備前国通生荘(かようのしょう)や、安芸国沼田(ぬた)荘も西園寺家領でした。沼田荘は沼田市庭でも有名ですが、その海辺には、最近まで家船(えぶね)といわれる海上生活者として有名だった能地の漁民、海民の大拠点がありました。そこも西園寺家が押さえています。 
そのうえ、鎌倉前期から伊予国を事実上、世襲的な知行国にしており、建武新政の一時期をのぞき、室町時代を通じて伊予国は西園寺家が知行国として押さえています。とくに伊予の中でも、藤原純友が根拠にした日振島(ひぶりしま)のある宇和郡が西園寺家の拠点で、ここを押さえれば豊後水道を睨むことができますから、瀬戸内海から北九州への出入口を支配することができます。 
さらに宇和島郡の真向かいにあたる豊後(大分県)の阿南荘(あなみのしょう)も持っており、豊後水道を両方から睨める所に荘園を獲得しているわけです。それから、沖ノ島で有名な筑前の宗像社は、宋人の女性が二代にわたって大宮司の妻になっているように、大陸と非常に密接な関係のある所ですが、その宗像社の領家に西園寺家はなっていますし、肥前の海の領主として有名な松浦党(まつらとう)の根拠地、宇野御厨(うののみくりや)もその所領としています。この御厨の中には松浦郡の多島海の浦々、津・泊がふくまれており、その牧は馬だけでなく、御厨牛という有名な牛の産地でもありました。この牛を毎年、都に送らせているのですが、これは西園寺家が厩を管理していたからだと思います。 
このように見てきますと、宇治川からはじまって淀川、瀬戸内海を通って北九州、さらに肥前の松浦郡、五島列島までを、西園寺家は自らの所領として、河川、海上の交通を押さえていることになります。 
西園寺公経、西園寺家の財力は大変なものだったのですが、これはこのように列島内の海上交通を支配していたから、こういう貿易ができたともいえるのです。これによっても明らかなように、このころの貴族は、じつに用意周到に交通の要地を押さえていたのです。 
のちに西園寺家の一族は戦国大名になり、伊予国の宇和郡に松葉城などの城を構えていますが、ここでは表面採集だけで中国製の青白磁がたくさん拾えるようですから、本気で発掘してみたらいろいろなことがわかると思います。  
 
悪党・海賊

この時代、百姓は農業のみに依存していた訳ではない。山野や川・海を生業の場とした百姓は少なからずいた。漁労・製塩・水上輸送・狩猟・採集・手工業生産・鉱物採取などにかかわる人達はたくさんいた。その食べ物も米のほか麦・豆・粟・稗・蕎麦など多彩 だった。 
米・絹・布は神に捧げるとともに交換手段となり、百姓は市庭(いちば)において鍋・釜・鋤・鍬等の鉄製品、陶磁器、衣類。刀・弓の武器等と交易を行いた。市庭は海辺と内陸との交易の場として、また浜・川原・中州・坂などの自然の接点の場に立 った。 
市庭に定住する人々や酒屋や借上などが増え、都市が形成され始めた。宋から流入した銭貨も市庭で流通するようになり、市が開かれる日に市庭を様々な商人が巡り、仮屋に店を開いて周辺の百姓と交易を行 った。 
西国において、鋳物師は天皇家に直属し、魚貝売りの中には天皇家の供御人や、神社の神人が見え、油売りの多くは岩清水八幡宮山崎神人でしたし、神人の塩売りもいた。職能人の多くは人の力を超えたものとして、天皇や神社に直属し、神人・供御人・寄人として市・渡・津・泊の通行税を免除される特権を持っていた。彼らは広く遍歴して交易に従事した。 
これら職能人の遍歴を支えたのが廻船人で、西国の廻船人は神人・寄人となり、年貢の輸送とともに広域の交易に従事した。 
神人・寄人の中には借上といわれる金融に携わる者もいた。山僧と言われる延暦寺の下級僧侶や、熊野三山の山伏にも借上に従事する者がたくさんいた。銭貨を資本として貸付が行われたが、神仏への初穂・上納された銭が資本となり、利息が神仏への御礼として支払われた。こうした借上や商人の中には女性が少なからずいた。 
廻船人や商工民が遍歴する浦・浜・渡・津・泊・宿には寺社が建てられ、関所が設けられた。そこを入港・通過する船は神仏への初穂・上納を関料として支払うことが義務付けられた。 
こうした港や交通路を警固するため岬や丘陵に城が設けられ、そこの領主や職能民は関料の納入を怠った者に対し、武力を行使した。こうした武力を行使する者に対し、悪党・海賊と呼 んだ。 
これらの津・泊には年貢などを保管する倉庫があり、問丸(といまる)と言う人々に管理された。廻船人や商人の根拠地であり、問丸・酒屋・借上などの金融業者が集まった津・泊は都市を形成してい った。 
主要道沿線や道と海上交通の接点には多くの宿が成立した。宿の機能を持つ遊女・傀儡(くぐつ、曲芸・歌舞をする人々)・白拍子(歌舞を歌い舞う遊女)達の屋(や)、接待所と呼ばれた寺院などが集中して都市を形成してい った。 
南宋との交流は活発で、北部九州には多くの宋人が渡来、移住した。それらの宋人の中には神人・寄人となって、荘園・公領に荘官や職能民に与えられたと同様の年貢を免除された、給田畠を与えられる者もいた。 
博多は中国大陸・朝鮮半島との交流の窓口で、宋人が住む大唐街(唐人町)が形成された大都市だった。肥前の今津・薩摩の坊津・肥前の神崎荘・越前敦賀などにも宋人が渡来・移住した。 
宋から流入した多量の銭貨は広く流通するに従い、社会に大きな影響を与えた。銭を神仏と敬愛するほど富への欲望は掻き立てられ、商人・借上・博打やそれに結びついた悪党・海賊の動きを活発化させた。これに対し、幕府も王朝国家も弾圧し、統制下に置こうとした。 
殺生を悪事とし、博打・人身売買を禁じ、過度の風流や派手な衣装を禁止し、得体の知れない力に動かされて度を外したことをするのを悪とし、それらを行う集団を悪党として弾圧した。 
13世紀後半になると、漢字を交えた平仮名を百姓も書き、宋銭の流通は計数能力を百姓も持つようになる。こうした能力や知識を使って百姓達は惣百姓という名の下に年貢・公事を請負い、市場で収穫物を売って、銭に替えて納め、不作のときの年貢の減免や不法な代官の罷免を文書にして支配者に要求した。 
こうした動きに対し、荘園・公領の支配者である寺社本所・領家・地頭は紛争の解決に、相互に得分を安定的に確保するため、下地(したじ)の分割を行い、得分に応じた田畠を一円支配する方式が広がってきた。こうした一円領の年貢・公事の負担を請負う富と能力を持ち、取引や銭貨の扱いに慣れた借上や商人を代官として年貢・公事の徴収を委ねた。 
山僧・山伏などの僧侶・神人がこれらの業務に従事することが多く、これらの人々は神仏の初穂・上分を資本として貸付け、利息をとって、さらに豊かになった。このように富裕になることを有徳といい、富裕な人を有徳人(うとくにん)と呼 んだ。 
彼らは神仏の名目にない銭貨を貸付け、田畠・物品を質に取り、それらを保管する倉庫、いわゆる土倉(どそう)を持つようになる。 
都市の金融業者や商人の間ではネットワークが形成され、為替や手形が流通し、信用経済が発展した。年貢・公事を請負った代官は多様な収得した物品を市庭で相場の高い時に売却して換銭し、送料・手数料の決まった手形を入手して、それを京都や鎌倉に送ってい た。 
馬借・車借などによる陸上交通で、京都と宇治川・淀川から瀬戸内海・北部九州に到る海上交通は上賀茂・下賀茂社の供祭人・石清水八幡宮の神人・熊野神人などが廻船人に進出してい る。北条氏の保護を受けた西大寺律僧も関を立てて勧進を行い、港湾・河川交通の土木事業や造寺を行った。兵庫・福泊・牛窓・尾道・竈戸・赤間・門司・博多・今津・神崎などの津・泊は港町が形成された。 
勧進は神仏のために聖・上人が遍歴して布施を受ける行為だったが、この時代、律僧・禅僧が勧進上人になって天皇・将軍の認可を得て海上・陸上交通の要衝に関所を立て、そこに入ってくる船や人から初穂の名目で、関料を徴収する方法が広く行われた。禅律僧はこれら集められた資金で、非人(百姓達から疎外された、職能で生きる人々)などの職能民集団を組織して土木工事を行 った。更に勧進上人は職能民集団の力で、外洋渡航の構造船を造り、北条氏の援助を受けて中国に渡り、貿易を行った。 
時宗の開祖一遍上人は念仏を唱えるだけで、全ての人は救われると説き、念仏を唱えて念仏踊りを踊り、時宗を布教して、諸国を遊行した。 
この時代、金融や商業分野の女性の活動は活発だった。女性は田畠についても、財産権を持っていたし、荘官や名主になる女性もいた。遊女・白拍子・傀儡などの女性の芸能民の社会的地位は今考えるほど低いものでは なかった。 
しかし、一部には女性を穢れた存在と考える空気も強まってきた。時宗の一遍上人が男女の時衆を従えて遊行していたのに対する非難はその現われでもあった。そして14世紀になると遊女などの女性芸能民は卑賤視され た。また田畠の権利において女性の地位は低下していった。 
これらに平行して穢れを忌避する傾向が強まっていく。葬送や刑吏に携わった人々、牛馬の皮を扱う人々は神人・寄人として天皇・神仏に結びつく職能民だったが、彼らを蔑視する空気が貴族・寺社の中に現れてき た。そしてその傾向は牛馬を扱う馬借・車借、遍歴する芸能民・宗教民にまで及んだ。 
神仏に対する畏敬が薄れ、それらによって規制された富への欲望があらわれ、高い利息を取り、博打や酒・女におぼれ、殺生に走るなどの動きが目につきだした。このように制御できない力を、穢れを含めて悪とし、それらを行う人々を悪党として抑制しょうとする動きが顕著になってきた。 
14世紀初め、得宗の専制が極まった頃、西国・瀬戸内海・熊野で海賊の大蜂起があった。これは北条氏による海上交通の支配に対する海の領主、廻船人達を中心にする不満が爆発したもの だ。軍勢の大動員により、この蜂起も一応は鎮静化したが、悪党・海賊と言われた山・海の領主、神人、熊野の山伏、山僧などの商人、借上などの金融業者、博打、非人などが跳梁する不安定な状況が続 いた。更に京都・奈良などの衆徒・神人の強訴が頻発した。
跳梁する悪党 
石母田正の労作「中世的世界の形成」は、伊賀国黒田荘を舞台に、東大寺による古代的な荘園支配が揺さぶられ、荘民たちによる権力の略取と自立を求める過程を描き出していた。やがては、この動きの中から、古代的な支配体制に替わる、封建的な仕組が生まれてくるのであるが、石母田はそこに、中世的世界の形成を読み取ったのであった。 
この過渡期の擾乱の中から現れた、武装する荘民を、石母田は、悪党と呼んだ。悪党とは、石母田が取り上げた中世の混乱の時代にあって、支配者たる東大寺の側からいった言葉である。権力者の側からすれば、旧来の権威に挑戦し、秩序を乱そうとする輩をさした。彼らは東大寺の派遣した荘官を攻撃し、時には一揆を組んで東大寺に押しかけてきた。こうして次第に東大寺の権力を麻痺せしめ、ついには武装する集団となって、自立を深めていったのである。 
こうした悪党の発生は、黒田荘に限らず、畿内やその周辺の各地において見られたということが、最近の研究で次第に明らかになってきた。古代的な荘園制度の解体が、広範囲にわたって進行したからだろう。 
鎌倉時代の末期には、これら悪党たちの存在は、体制を脅かすほどのものになっていた。南北朝時代の動乱が始まると、彼らは私的な武装集団として、雇兵的な役割を演じ、勝敗の帰結に大きな影響を及ぼすようになる。名和長年や赤松円心などは、悪党の中の大物であり、かの楠正成も悪党と深いつながりを持っていたと思われる。 
これら悪党たちのトレードマークに、バサラがあった。バサラはもともと非人の間の風俗であったものを、権威に挑戦する悪党たちが取り入れ、それがもとで社会の広い層にも広がっていった。 
南北朝時代に書かれた播磨の地誌「峯相記」には、当時の悪党たちの風俗・振舞いが、次のように記されている。 
「所々の乱妨、浦々の海賊、寄取、強盗、山賊、追落などやすむことのないありさまで、その異類異形のありさまといったら、およそ人間の姿とも思えない。柿色の帷子に女物の六方笠をつけ、烏帽子、袴をつけることはしない。持ち物といったら、不揃の竹矢籠を負い、柄、鞘の剥げた太刀を佩き、竹ナカヱ、サイハウ杖程度で、鎧、腹巻ほどの兵具などはまったくない。こうした輩が十人二十人あるいは城にこもり寄手に加わり、かといえば敵を引き入れ裏切りを専らにする始末で、約束などはものともしない。」(新井孝重「悪党の世紀」) 
独自の武力を持たない後醍醐天皇は、これら悪党たちの力を活用して、幕府に立ち向かった。建武の親政の頃には、これら悪党たちが都を跋扈し、そのバサラの風俗が、一躍都人の目を驚かしたのであった。 
悪党たちは、主に畿内を拠点にしていたため、南朝方につくものが多かった。彼らは荘園領主たちとの戦いの中でつちかったゲリラ的な戦法を以て、幕府の大軍を苦しめた。天王山ともいうべき金剛山の戦いにおいては、神出鬼没な戦いぶりで幕府軍を打ち破ってもいる。 
太平記を彩る奇怪な人物像の多くは、悪党たちと深いかかわりを持ち、また自ら悪党の面を被っている者もいたのである。  
バサラ(婆娑羅)/太平記 
太平記の魅力の中でも最も大なるものは、後醍醐天皇を頂点として、登場人物たちが実にユニークであることだ。日本の長い歴史の中で、こんなにも短い期間に、かくもエネルギーに満ちた人物がひしめき合った時代は、そう多くはない。しかも、権力者にとどまらず、社会のあらゆる層に、そのような人物を見出すのである。 
この時代を彩った特異な人物像の特徴を一言でいえば、それは「バサラ(婆娑羅)」である。 
バサラ(婆娑羅)とは、異様な風体や乱暴な振る舞いを称していった言葉である。鎌倉時代までは、摺衣(すりごろも)や柿帷子(かきかたびら)などの異様の服装は禁忌とされ、非人の間でのみ認められていたに過ぎなかった。それが太平記の時代になると、悪党と呼ばれた新興の武士勢力の間に広まり、異様な服装をきらびやかに飾り立てて、乱暴を事とするものを輩出した。時の人々は、それらのものを「バサラ(婆娑羅)」と呼んだのである。 
とくに、建武の新政をきっかけに、それら新興の武士勢力(悪党と呼ばれた)が表舞台に躍り出てくると、バサラの風潮は社会のあらゆる層に広がった。名和長年のような成り上がりの武将はいうに及ばず、佐々木道誉や土岐頼遠のような守護大名、果ては高師直のような足利政権の中枢人物までもが、「バサラの風」を吹かしたのである。後醍醐天皇が頼りとした武力を悪党たちが担ったという事情が、追い風となって働いたのはいうまでもない。 
「バサラ」とは、奇異な服装を見せびらかすということのほかに、乱暴な行為をもさしていた。だがそれは、単に乱暴狼藉というにとどまらなかった。権威への挑戦、秩序の破壊といった側面があり、それが時には為政者たちを憂慮させもしたのである。 
このような半権威の象徴的な出来事として、太平記は土岐頼遠の所業を取り上げている。 
後伏見院の供養の仏事を終えて、牛車に乗った光厳院の一行が京の町を進んでいるうち、遊興帰りの頼遠の一行と鉢合わせする。院の従者は、頼遠に対して馬より下りて直れと命ずるが、頼遠はからからと打ち笑い、院に対して無礼の限りを尽くすのである。 
―土岐弾正少弼頼遠は、御幸も不知けるにや、此比時を得て世をも不恐、心の侭に行迹(ふるまひ)ければ、馬をかけ居て、「此比洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚ぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原蟇目負せてくれよ。」と罵りければ、前駈御随身馳散て声々に、「如何なる田舎人なれば加様に狼籍をば行迹ぞ。院の御幸にて有ぞ。」と呼りければ、頼遠酔狂の気や萌しけん、是を聞てからからと打笑ひ、「何に院と云ふか、犬と云か、犬ならば射て落さん。」と云侭に、御車を真中に取篭て馬を懸寄せて、追物射にこそ射たりけれ。 
院を犬と罵倒する姿勢には、既製の権威に対するこれっぽっちの尊敬の念もない。罵倒された院のほうはただ呆然とするばかり。世の中の秩序が形もなくひっくり返ってしまったことにあきれるばかりである。 
さすがに、このような行為は、足利幕府によっても断罪され、頼遠はついに斬首されるのであるが、その心意気のうちに、「バサラ」の美学を読み取ることができる。 
高師直の場合は、足利家の執事であり、幕府方の最高権力者の一人であったことを勘案すると、そのバサラぶりは常軌を逸したものであった。京へ進出した師直は、護良親王の御母堂の屋敷を接収してそこに華美な館をたて、高貴の姫たちを呼び込んでは次々と子を生ませたことから、落首に「執事の宮廻りに手向を受けぬ神もなし」と揶揄された。さる姫君を口説こうと、徒然草の作者兼好法師に恋文の代筆をさせたとは、うそか本当かわからぬが、恋達者師直の真骨頂ともいえる逸話である。 
塩冶判官の妻に横恋慕して、ついに強姦するところなどは、悪の権化に相応しい所業として、人々の目には映った。これがもとで、高師直の悪役のイメージは決定的となり、やがては時代を隔てて、仮名手本忠臣蔵の敵役にもされたのである。 
この師直の半権威を象徴するものとして、太平記は師直兄弟がはいたとされる次のような言葉を書きとめている。 
「都に王と云ふ人のましまして、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云ふ所の有りて、馬より下りる六借さよ。若王なくて叶ふまじき道理あらば、木を以て造るか、金を以て鋳るかして、生たる院・国王をば何方へも皆流し捨て奉らばや」 
師直の強気なバサラぶりの背景には、彼が組織した軍事組織の力があった。彼の子飼の兵力は、畿内周辺から集めた悪党からなっていたのであり、これら悪党たちの力を借りて、楠木正行や畠山親房を倒すこともできたのである。悪党たちはみなバサラの徒であった。師直はその代表選手だったのだ。 
この時代、バサラがいかに社会を席巻していたか、建武式目政道の事第一条が物語っている。 
「近日婆娑羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし、頗る物狂といふべきか、富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥づ、俗の凋弊これより甚しきはなし、もっとも厳制あるべきか」
 
北条氏の滅亡

霜月騒動以後、北条一門の守護職や所領は全国的に急激に増加していった。そして、一門は得宗の完全な統制化に置かれていた。そのような中、幕府と御内の機構の区別がつかない状況になってい った。 御内人の横暴は次第に目に余るようになってきた。御内人の専制支配は広大な得宗領、北条一門領を通じて全国に広がっていった。 
得宗高時はまだ10歳で、内管領長崎円喜と安達時顕などが寄合の中心となって、執権になっていない高時を権力者として補佐した。 
1312(正和元)年、宇佐・筥崎・高良・香椎・安楽寺(天満宮)の鎮西五社の社領回復令を出し、御家人に売買質入された社領の全てを無償で回復することを認めた。 
流罪を許されて、帰京した京極為兼は以前にも増して伏見上皇に信任された。伏見上皇が出家した後、為兼も出家し、二人は実質政務を握っていた。しかし、謀反の意ありと六波羅は為兼を逮捕し、土佐に流した。 
1315(正和4)年、得宗高時は14歳になり、執権に就いた。連署は金沢貞顕で、長崎円喜・安達時顕に補佐された。 
京極為兼の失脚で大覚寺統は力を得ていた。1317(文保元)年、伏見法皇が没し、後伏見の院政が始まった。しかし、翌年、花園天皇が退位し、後醍醐天皇が即位し、後伏見の院政は終わり、再び、後宇多の院政にな った。 
この頃、蝦夷では蜂起があり、西国では悪党や海賊の活動が激しくなり、この鎮圧に幕府は追われていた。京都では慢性化した寺社の強訴に悩まされていた。鎮西においても諸社の神人が強訴し、山伏が狼藉を働くと言う事態が起こっていた。1318(文保2)年、鎮西探題北条英時に対し、幕府は鎮西諸社の神人・神官の職掌と名前を調査して提出させてい る。 
幕府は1324(元亨4)年、本所一円地の悪党を守護が本所に逮捕を要求しても、実行されない場合は守護の入部を認めるという、悪党鎮圧令を出した。しかし、この法令を徹底する意欲は幕府には なかった。得宗は対象になった悪党・海賊は勿論、寺社本所そしてその追捕に駆り立てられる地頭・御家人の不満を集めた。 
後宇多法皇は1321(元亨元)年、政務を後醍醐天皇に譲った。後醍醐天皇は評定衆・記録所を置いて天皇親政を始めた。 後醍醐天皇は日野資朝・俊基らと謀って討幕計画を立てるが、これが漏れ、1324(元亨4)年、六波羅は大軍を動員し、資朝・俊基は逮捕さた。翌年、資朝は佐渡に流され、俊基は赦免され る。 
1326(正中3)年、得宗高時は病気になり、出家する。その弟の泰家が執権になると思われましたが、内管領長崎高資やその父円喜は金沢貞顕を推し、貞顕が執権となり、泰家は出家し た。そのため、貞顕はまもなく執権を辞任してしまう。そこで執権は赤橋守時がなった。 
高時は24歳で出家しているが、権力は得宗である高時にあった。しかし、高時は田楽や闘犬・相撲に熱中し、幕府内部では内紛が起こっていた。 
後醍醐天皇は幕府に不満を持っていた寺社に対し、寺院の武力に期待していた。そのため、南都北嶺を歴訪した。そして洛中の米価を決めたり、市を開いたり、関の通行税を停止し、人心の掌握の方策を採 った。後醍醐天皇は再度討幕計画を立てますが、側近達は反対した。 
畿内近国の山民・海民をはじめとする非農業の人々は御厨(みくりや)や供御所の荘官や供御人としてこれらの集団を統轄する武士団は悪党や海賊として幕府から弾圧されていた。 
後醍醐天皇は強烈な個性を持ち、専制的な傾向、いわゆる、ばさらな性格は悪党・海賊・野伏(のぶし)らの気持ちを捉えた。 
1331(元徳3)年、討幕計画が漏れ、後醍醐天皇側近が逮捕された。しかし、幕府内では内紛が続き、得宗高時は内管領長崎高資らを流罪とした。こうしているうちに、後醍醐天皇は神器を持って奈良に向かい、笠置に立て籠も った。 六波羅は笠置を攻撃したが、険峻な地形で、なかなか落とせなかった。そのうち、河内で楠木正成(まさしげ)が挙兵した。 
鎌倉を発った幕府の大軍は入京し、笠置に向かう。京都では光厳天皇の即位が決まり、後伏見上皇の院政が始まった。後醍醐天皇は千種忠顕(ちぐさただあき)らとともに捕まり、楠木正成はよく戦 ったが、城に火をかけられ、本人は行方不明となった。 
1332(元弘2)年、後醍醐天皇は千種忠顕らとともに隠岐に流された。日野資朝・俊基は死刑となった。行方不明だった楠木正成が赤坂城を奪回する。 
翌年、河内・和泉を正成は抑え、ゲリラ戦法で六波羅を悩ませた。この頃、播磨や伊予でも、後醍醐天皇の子の護良(もりなが)親王の令旨に応えて、挙兵があった。 これに対し、幕府は再び大軍を動員した。河内道を進んだ幕府軍は赤坂城を攻撃した、激しい戦闘の末、赤坂城は陥落したが、正成は千早城を死守した。 
大和道を進んだ幕府軍は吉野の護良親王の軍勢を破ったが、護良親王を見つけることはできず、幕府軍は千早城に向かった。千早城は険峻な地にあり、幕府軍の攻勢も悪党や野伏の力を誤算し、彼らによって組織された正成の軍勢の激しい抵抗に遇 った。 
伊予では海賊達が動き出し、播磨の悪党も活発に動いて、西国は叛乱状態になった。千早攻めに加わっていた新田義貞の下に護良親王の令旨が届き、義貞は仮病をつかって東国に引き揚げた。 
後醍醐天皇は隠岐を脱出して、伯耆の名和湊に着く。この地の北陸・山陰の水運に関わっていた有徳人(うとくにん)の名和長年が後醍醐天皇を迎えた。船上山で山陰・山陽道の武士達が後醍醐天皇の下に集ま った。 
播磨で挙兵した赤松円心の軍勢は摂津で六波羅勢と交戦し、これを打ち破った。京都に侵入した赤松勢に対し、六波羅勢も防戦した。伊予では長門探題によって率いられた周防・長門両国の幕府軍は海賊達によって打ち破られ た。 
九州では菊池武時が鎮西探題北条英時を攻めた。しかし、武時に付くはずの少弐貞経・大友貞宗が探題方に寝返ったため、武時は敗死し、鎮西探題は健在だった。 
北条英時は菊池・阿蘇氏討伐に肥後国守護規矩高政を派遣した。高政は北条一族で、豊前規矩郡内に所領を持っていたと思われる。 
千種忠顕は山陰道を中心とする大軍を率いて丹波に着き、赤松と呼応して京を攻めた。六波羅勢も必死に防戦し、幕府はこの攻防を聞き、名越高家と足利高氏を大将として大軍を派遣し た。京都に入った幕府軍は高氏が山陰道を高家は山陽道を経て伯耆に向かった。 
赤松勢と戦った高家は戦死した。しかし、高氏は後醍醐天皇や京都の貴族とも連絡を取り合っていた。そして後醍醐天皇方に付き、京都は足利勢と赤松勢の攻撃に総崩れとな った。 
後伏見・花園上皇・光厳天皇を奉じて六波羅探題南北方は鎌倉に向かったが、野伏達の襲来で、六波羅勢は討たれたり、自害し、上皇と天皇は捕らえられ、京に送還された。 
新田義貞は上野で挙兵し、武蔵に入った義貞は北条泰家の大軍を破り、鎌倉に迫った。鎌倉では北条一門と御内人達が鎌倉への出入口を固めた。なかなかそれらの出入口は破れず、義貞勢は干潟になった稲村ヶ崎より鎌倉になだれ込 んだ。 得宗高時・長崎円喜・安達時顕・金沢貞顕などの一門・御内人は東勝寺に集まり、火を放って自害した。1333(元弘3)年北条一門は滅亡した。 
九州では少弐・大友・島津氏の攻撃により、鎮西探題北条英時は一族郎等とともに滅ぼされた。そして、諸国の北条氏一門の守護・地頭は次々と討たれた。
 
南北朝時代概観

南朝  
1333(元弘3)年、鎌倉幕府壊滅の後、後醍醐天皇は京都に入ります。直ちに持明院統の後伏見・花園上皇の所領を安堵し、公家・寺社の所領を安堵し、討幕の功労者に除目(じもく、官に任命すること)を行いました。そして、綸旨(りんじ、天皇の勅旨を受けて出される文書)によってのみ土地所有は確認されるとしました。 
これは土地の支配が20年過ぎると、理由の如何を問わず認められるとした従来の慣習の覆すものでした。全国各地から所領の安堵を求めて、京都に殺到し、大混乱になりました。そのため、綸旨による安堵から、国司の責任で行うように変更しました。後醍醐天皇の現状無視の政策はその第一歩から破綻しました。 
新政府にとって、政権樹立に到る過程の論功行賞は重要な問題でした。恩賞方がその機関として設置されました。吉田定房・結城親光・名和長年・楠正成らがこれに当たりました。 
土地関係の訴訟を処理する機関として、雑訴決断所を設置しました。しかし、訴訟の数が多く、すぐに増員され、規模も大きくなりました。そして構成員には前の鎌倉幕府の官僚が多く含まれていました。 
恩賞方、雑訴決断所のほかに記録所、武者所が置かれました。両方とも不詳の点がありますが、記録所は雑訴決断所と同じように本領安堵の訴訟を扱っていたと思われますし、武者所は皇居、京都の警備に就いていたと思われます。 
このような機関は一握りの貴族と武士、それと旧鎌倉幕府の一部の官僚によって運用されました。このことは、後醍醐天皇の理想に反して、人的基盤は弱いものでした。国司の任命も行われました。足利高氏は武蔵守となり、後醍醐天皇の名を一字与えられ、尊氏と改名しました。彼の弟直義(ただよし)は相模守、新田義貞は越後守、楠正成(まさしげ)は摂津・河内の国司、名和長年は伯耆守、北畠親房の子顕家(あきいえ)は陸奥守に任命されました。このように武士で国司になったものもありましたが、国司には貴族が、守護には武士が多くなりました。 
守護は犯罪人の捜索・検挙、犯罪人の所領・財産の没収を行いました。国司はその没収した所領・財産の処分を行い、国司には守護を上回る権限が与えられました。これは、在地支配をする武士にとって不満でした。 
新政府は奥羽と関東を重視し、奥州将軍府と鎌倉将軍府を設置しました。奥州将軍府は陸奥守北畠顕家が義良(のりなが)親王を奉じて多賀に下向し、鎌倉の動向を牽制し、関東の有力武士を吸引しようとするものでした。 
鎌倉将軍府は相模守足利直義が成良(なりなが)親王を奉じて鎌倉に下向し、関東の武士を配下に置こうとしました。 
この新政府が発足する前、鎌倉幕府によって派遣され、上洛した足利高氏は山陰道を進みます。事前に後醍醐天皇と密約していた高氏は、反幕府の立場で挙兵し、全国の有力武将に自軍への参加を呼びかけます。九州の大友・阿蘇・島津氏にも呼びかけています。 
六波羅探題を滅ぼした後、上洛した多くの武士達は足利高氏の配下に入りました。そして関東や九州の戦況は高氏に報告されていました。 
新政府発足に際し、改名した足利尊氏は政府機関には入りませんでした。新政府で軍事を受け持っていた護良(もりなが)親王は尊氏の勢力拡大を危惧し、対立していきます。1334年、年号を元弘から建武に改めます。後醍醐天皇の政治をこの年号から建武の新政と呼びます。 
延喜・天暦の治世を目指す後醍醐天皇は、大内裏造営を計画しますし、造営費捻出するため、検注(けんちゅう、年貢徴収のための土地調査)を行おうとしますが、田畠を所有する武士達の反発を受け、中止せざる得ませんでした。 
護良(もりなが)親王と尊氏の対立は遂に表面化します。1334(建武元)年、親王による尊氏打倒の噂が流れます。その騒乱は一時治まりますが、その後、親王は宮中で捕らえられ、尊氏の手に渡され、鎌倉に幽閉されます。 
建武の新政府の政策に対し、地方の武士や農民達も不満を募らせました。かっての鎌倉幕府の御家人達は、北条氏一族を擁立して挙兵しました。奥州、関東、紀伊などで挙兵がありましたが、北九州の挙兵を見てみます。 
北条氏一族で、豊前国規矩郡に所領があったと思われる、肥後国守護であった規矩高政は鎮西探題北条英時が討たれた後、芦屋に逃れていました。1334(建武元)年、帆柱山(八幡東区)で挙兵します。北九州の武士達は、この挙兵に参加します。これに呼応して、豊前国守護糸田貞義が筑後三池郡で挙兵します。糸田貞義は田川郡糸田に所領を持つ北条氏一族でした。 
宗像氏の軍勢が帆柱山城を攻撃しますが、撃退されます。帆柱山城は花尾城の南面防御のため築かれた麻生氏の山城でした。 
しかし、少弐頼尚(よりひさ)は松浦党や原田・秋月氏の軍勢を率いて攻撃し、帆柱山城は落城します。規矩高政は小倉南区蒲生の居城虹山城に逃げ、そこで自害しました。 
翌年にも、長門国府で長門探題の遺児が挙兵します。伊予でも挙兵がありました。この年、持明院統の後伏見法皇を奉じて、後醍醐天皇を暗殺し、全国各地で蜂起するという陰謀が発覚します。関係者は処断されますが、反政府の動きは拡大します。 
北条時行を擁して信濃で挙兵があります。信濃を抑えると、鎌倉を目指します。北条時行の軍勢は足利直義の軍勢を破り、鎌倉に入ります。直義は出陣に際し、幽閉していた護良親王を殺害します。以前の北条氏を先代、足利氏を後代、北条時行を中先代と呼び、この騒乱を中先代の乱と言います。 
直義敗走を聞き、援軍のため足利尊氏は京都を発ちます。大半の在京の武士がこれに従います。尊氏は直義と合流し、鎌倉を奪還します。北条時行は敗走しました。 
鎌倉に入った尊氏は配下の武士に恩賞を与え、新田義貞の分国の上野国に上杉憲房を守護として派遣し、斯波(しば)家長を奥州管領として陸奥に派遣します。 
尊氏の行動に驚いた建武政府は、尊氏に上洛を促しますが、直義はそれを押し留めます。直義は新田義貞から上野国守護職を奪い、更に義貞を除こうとして、全国の武士に檄を飛ばしました。これらの動きに、遂に政府は義貞を大将とする尊氏・直義追討の軍を派遣します。 
尊氏の軍は義貞の軍を破り、敗走する義貞の軍を追って、京に上ります。この頃、京都には細川氏や赤松氏に率いられた四国・中国の軍が迫っていました。 
新田・名和・楠木の兵、公家の侍、僧兵だけでは迫ってくる軍勢を防ぐのは不可能でした。後醍醐天皇は比叡山に行幸し、畿内・近国の兵を召集し、陸奥の北畠顕家の軍勢の上洛を待ちました。激しい戦闘の結果、足利軍は敗走します。 
兵庫に布陣した尊氏は四国の長沼氏、九州の大友・相良(さがら)・島津氏に参軍の書状を出します。新田義貞らの追撃により、尊氏は兵庫から九州に渡ろうとします。尊氏は持明院統の光厳上皇より、朝敵の汚名を逃れるため、院宣を受けます。 
筑前葦屋津(芦屋)に着いた尊氏は少弐頼尚(よりひさ)に迎えられます。この間、菊池武敏と少弐頼尚の父貞経との間で、高良山合戦・有智(うち)山合戦がありました。 
有智山で、少弐貞経を破った菊池武敏・阿蘇惟直・秋月寂心らは博多筥崎に入ろうとしていました。一方、尊氏は宗像社に入り、大宮司に歓待されていました。 
1336(建武3)年、多々良川の河口、多々良浜(福岡市東区)に菊池軍と尊氏軍が対峙しました。兵力で圧倒的に有利な菊池軍に対し、尊氏は地形を有利に利用して、勝利します。この勝利によって、九州の豪族を尊氏は配下に加えます。 
仁木良長・一色範氏を九州に残して、尊氏は大水軍を従えて、博多を発ちます。途中、厳島・鞆津を経由し、中四国の軍勢を加え、直義は陸路を、尊氏は海路を東上します。 
少弐頼尚以下多くの九州の武将が従いました。北九州の武将では吉志系門司親胤(ちかたね)や長野助豊・香月経氏・麻生家氏・山鹿家員(いえかず)などが含まれています。一方京都では、播磨で赤松軍と交戦中の新田義貞を召還し、天皇は比叡山に行幸し、尊氏を京都に入れ、比叡山と河内から京都を攻撃するとの策が楠木正成から献じられますが、受け入られませんでした。 
楠木正成は手勢を率いて西下します。新田軍と楠木軍の間を割るように足利方の先発、細川軍が和田岬に上陸します。戦闘が始まります。直義の主力が近づくと正成は攻撃します。激戦の末、少数の正成軍は敗れ、湊川で楠木正成は自害します。尊氏軍は敗走する新田軍を追って京都に迫ります。 
京都では急遽山門(延暦寺)に後醍醐天皇の行幸が決まり、新田一族、宇都宮公綱、千葉貞胤、菊池武重、名和長年らが従います。 
直義は山門を攻撃します。京都市中でも戦闘があります。これらの戦闘で、千種忠顕、結城親光、名和長年が戦死します。 
山門攻撃は続きますが、容易に落ちることはありませんでした。山門は運輸業と金融業を掌握していましたが、そのため、尊氏は北国路や琵琶湖の舟運を抑え、糧道を発ちました。また山城の在地領主層を味方に取り入れました。 
山門を孤立させた尊氏は持明院統の光明天皇を立て、両統迭立を条件に、後醍醐天皇が京都に戻るように申し入れます。 
後醍醐天皇は京都に向かう際、恒良親王に譲位し、尊良親王に新田義貞をつけて越前に下向させ、北畠親房を伊勢に下し、再起を期します。 
新田義貞は越前敦賀に向かいますが、行く手を阻まれ、苦労の末、敦賀金ヶ崎城に入ります。越前守護斯波(しば)高経が金ヶ崎城を攻撃します。新田軍はこれを凌ぎます。1337(建武4)年、尊氏は高師泰(こうのもろやす)が率いる大軍を投入します。金ヶ崎城は完全に包囲され、攻防3ヶ月の末落城します。尊良親王は自害し、新田義貞は逃れ、皇太子恒良親王は捕らえられます。この後、新田軍と斯波軍は越前各地で戦いますが、新田義貞は移動の途中、敵軍と遭遇し、矢を受け、自害しました。 
京都に戻った後醍醐天皇は花山院に軟禁され、直義から神器を光明天皇に渡すように言われます。しかし、北畠親房の勧めで、神器を奉じて、花山院を脱して、楠木一族の案内で、河内から吉野に入ります。 
後醍醐天皇の吉野入りは、畿内近国の軍事勢力をはじめ、寺社衆徒に大きな影響を与えました。1336年、後醍醐天皇は延元の年号を復活させます。ここに、半世紀にわたって、南北朝時代が始まります。 
1337(延元2)年、後醍醐天皇の呼びかけに応じ、東北の北畠顕家(あきいえ)が軍を動かします。義良(のりよし)親王を奉じて、足利軍の妨害を排して、鎌倉に入ります。さらに、宗良(むねなが)親王、北条時行軍を加えて駿河・遠江・三河の足利軍を破り、美濃青野原で増援軍も破ります。ここから伊勢・伊賀・大和に入ります。 
顕家軍は高師直(こうのもろなお)軍と南都で交戦します。ここで敗れた顕家は河内に逃げます。後に、天王寺で戦いますが、和泉に退きます。その後、堺・石津を中心に合戦を繰り返し、顕家軍は壊滅し、顕家は敗死します。 
新田義貞・北畠顕家の死は南朝側に大打撃を与えます。この劣勢を挽回するため、南朝側は新しい計画を立てます。北畠顕信を陸奥介鎮守府将軍として、父の親房とともに義良親王を奉じて陸奥に下向させ、宗良親王を遠江に、満良親王を土佐に派遣するものでした。親房によって軍事的基盤が築かれていた伊勢から陸奥・遠江へ大船団が出発しました。しかし、この大船団は暴風雨のため、四散してしまい、各地に漂着しました。 
1339(延元4)後醍醐天皇は病床に伏し、漂着から吉野に戻った義良親王に譲位します。後村上天皇に譲った後醍醐天皇は翌日死去します。 
常陸に漂着した北畠親房は、わずかに常陸の西南部にある南朝の拠点を中心に、体制の強化に努めます。小田氏の居城小田城に入った親房に対し、足利方は高師冬を関東に下向させ、小田城攻撃が開始されます。しかし、この攻防は長い期間続きます。小田城は落ちますが、その後、関城に移って親房は合戦を続けます。 
北畠氏は村上源氏の流れをくみ、公卿の座に連なった親房は後醍醐天皇に登用されました。その後、出家しますが、長子の顕家とともに奥州に下向していました。 
親房は小田城の攻防戦の最中、「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)を書き上げます。ここには神代からの歴代天皇の事跡が綴られ、南朝の正当性が主張されています。 
関城も、1343(康永2)年落城します。親房は危うく脱出し、伊勢を経て、吉野に戻ります。
 
三分立

後醍醐天皇から光明天皇へ神器の授受が行われた1336(建武3)年、どのような政治を行うべきかの具体策としての建武式目が定められました。 
民家の強制収用をやめ、住宅を保障をすることに一条が設けられています。これは民政不在の建武の親政を批判するものでした。 
守護には最適任者を任じるべきで、国司・守護併置を否定し、守護によって地方統治を実現しょうとしました。 
裁判制度においては、貧者の訴訟は第一に取り上げるべきだとしました。大寺社からの訴訟は神輿入京等の強訴が繰り返されても十分に審理するべきとしました。そして、裁判の公正・迅速を目指しています。 
これらを内容とする17条の建武式目は是円を中心に作成されました。 
足利尊氏は、1338(建武5)年征夷大将軍に就任します。尊氏は武士に対する指揮権と恩賞権を、弟の直義(ただよし)は民事裁判権と所領安堵権を分担しました。 
尊氏は侍所長官に譜代の家臣高師泰(こうのもろやす)を、恩賞方長官に執事の高師直(もろなお)を任命しました。幕府内の高氏強大の力は絶大なものとなりました。 
高師直は鎌倉幕府の執権政治を理想とし、安堵方、引付方、禅律方、官途方等の機関を統括しました。特に、所領関係の訴訟を担当する引付方は重要でした。 
幕府の支配体制が整備されてくると、幕府内部で対立が発生してきました。足利直義は惣領尊重でした。これに対し、新興勢力の実力を高師直は重視しました。関東・奥州・九州等は直義派で、畿内近国の新興在地領主層は師直派でした。 
室町幕府による、全国統一が進められると、戦没者の慰霊を弔い、天下泰平を祈願する機運が高まり、一国一寺一塔の建立を夢窓疎石が勧め、尊氏が賛同し、直義が推進しました。1337(建武5)年以降、計画され、実行されました。そして、これらの寺と塔を安国寺と利生(りしょう)塔と称したいと朝廷に奏請し、1345(貞和元)年、許されました。 
1339(暦応2)年、後醍醐天皇が吉野で死去すると、足利尊氏・直義は冥福を祈って、洛西嵯峨野に一寺を建立することにしました。光厳院は後醍醐天皇の離宮の亀山殿を禅刹にし、夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする院宣を下します。これが天龍寺です。 
各地の荘園が造営料所として施入されました。しかし、戦乱が続き、年貢は減少していき、新しい財源が必要となりました。直義は夢窓と相談し、商船を元に派遣し、造営費を得ようとしました。この船が天龍寺船です。天龍寺船は巨額な利益をもたらしました。天龍寺はこの資金で完成し、落慶法要が執り行われました。 
吉野の南朝が勢力を減退するに従い、幕府の武将達は勢力を伸ばし、公卿の権威を無視するような者も現れました。それは下克上の風潮でもありました。 
佐々木道誉(どうよ)は、ばさら大名と呼ばれました。ばさらとは派手な、無遠慮など、常識はずれな行動を表す流行語でした。 
南朝に対し、軍事的優位に立っていた幕府内部に対立が顕在化してきました。足利直義は私闘を禁じ、他人の所領に入って年貢を押領することや、一揆(同盟)を結んで私闘に及ぶことを禁じました。 
南朝はこの幕府の動揺を見逃さず、各地に蜂起を命じました。 
楠木正成の遺児正行(まさつら)は1347(貞和3)年、河内藤井寺に布陣します。幕府軍も対抗しますが、敗れ、天王寺に後退します。幕府は増援しますが、正行は一気に勝負に出て、幕府軍は京都まで敗退します。 
幕府は侍所長官として、畿内の在地領主を配下に置く高師泰に期待します。直義派に対し、師直・師泰派が台頭してきます。 
師直・師泰を大将として、大軍が進発します。南朝も総動員をかけます。 
1348(貞和4)年、四条畷(しじょうなわて)において、両軍入り乱れての激戦となります。南朝側は正行以下多くの武将を失いました。 
正行の死は南朝側の大きな痛手でした。幕府軍は更に吉野攻略を期して進軍しました。 
師直軍は大和に入ります。南朝側は攻撃に備え、後村上天皇を賀生名(あのう)に移しました。師直軍の進軍は早く、南朝側の防衛体制が整う前に吉野に入り、吉野は焼き払われます。 
師直は賀生名の背面を襲おうとしますが、南朝の呼びかけに応じた長谷寺・多武峰(とうのみね)の衆徒や野伏らの攻撃を受け、京都に逃げ帰ります。 
直義派と師直派の対立は吉野攻略戦後から激しくなります。1349(貞和5)年、足利直義の奏上により、高師直の朝廷への出仕が止められ、執事職も取り上げられます。 
これに対抗して師直は河内で楠木正行の弟の正儀(まさのり)と対峙している師泰を交代させて呼び戻します。京都では武将達が両派に集結します。 
師直方は直義方を圧倒し、直義は足利尊氏の高倉邸に逃げ込み、師直方は邸を囲みます。師直は尊氏に直義の政務停止、足利義詮(よしあきら)を関東から上洛させ、政務に就かせることなどを約束させ、囲みを解きました。 
長門探題になって下向中の、直義の養子の足利直冬(ただふゆ)は備後鞆津(とものつ)にいましたが、師直は備後の地頭・御家人に命じて直冬を襲わせました。 
九州に逃れた直冬は京都からの命により下向したとして、武将達の参集を呼びかけました。 
九州は南朝方と幕府方に大別されます。幕府方は在地勢力代表の少弐頼尚(よりひさ)と九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が対立していました。直冬は少弐氏に味方したため、直冬方に応じる在地勢力が続出しました。 
直冬は九州の国人領主層の所領確保の要求を受けて、守護職を与え、被官化し、権力を樹立していきます。このため九州では幕府方、宮方(征西将軍宮)、直冬方が三分立します。更に、中国地方でも、直冬の勢力は拡大していき、一大勢力となります。1350(観応元)年、直冬が少弐・大友氏を配下にして挙兵したとの報が入り、尊氏は師直らを率いて京都を発します。この間、義詮が京都の警備に当たります。 
政務を離れて出家していた直義は京都を出奔します。直義は南朝と連絡を取り、帰順の意を表します。 
直義派は南朝と結びついたことにより、勢力を回復し、京都を目指します。 
京都を警備していた義詮は西走し、尊氏の軍と合流して京都に帰ります。しかし、尊氏軍は敗れます。摂津打出浜で師直・師泰は重傷を負います。 
尊氏は直義に対し、師直・師泰の出家を条件を和議を申し入れます。尊氏は上洛します。これに従っていた師直・師泰は途中、上杉・畠山の軍勢に襲われ、殺害されます。その後、尊氏・直義・義詮は表面上は穏やかな日々を過ごします。 
この頃、南北朝の交渉が行われますが、決裂します。直義が義詮を援けて政務を見るというのが建前でしたが、実質的には直義派が実権を掌握していきました。しかし、これは将軍尊氏と直義の対立を激化させます。 
尊氏と義詮は計略をもって行動に出ますが、直義はこれを察知し、北国に逃げます。北陸道一帯の守護は直義派であり、上野の上杉氏、信濃の諏訪氏を通じて鎌倉と、山陰の山名氏を通じて九州の直冬と連絡し合えました。 
直義は近江に進出し、尊氏軍との間で激戦となります。この後、直義は加賀から鎌倉に向かいます。尊氏は京都に戻り、鎌倉入りする直義を討つべく方策をめぐらします。 
直義を討つべく尊氏は南朝に帰順します。天皇・東宮を廃し、北朝年号観応をやめます。 
直義追討の綸旨を得て、尊氏は東国に向かいます。関東の武将はしだいに尊氏軍に加わったり、尊氏派の旗色を鮮明にし、遂には直義軍を圧倒します。 
直義は尊氏に降伏を申し入れ、鎌倉の寺に幽閉され、そこで毒殺されました。 
この後、尊氏派、直義・直冬派、南朝の三つ巴の争いは全国各地で続きます。足利一門の争い、即ち観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南朝に再起の機会を与えます。 
新田義貞の遺児が上野で挙兵し、直義派の諏訪氏が南朝に加担して鎌倉を攻撃します。しかし、尊氏は鎌倉を回復し、南朝と手を切ります。この後、新田軍は尊氏軍と対峙し、尊氏を関東に釘付けにします。 
九州・中国では直義・直冬派の勢力が強い状況でした。尊氏・義詮の南朝帰順により賀生名に北朝貴族が参り、改めて南朝より官位を受けました。南朝は更に、新補地頭職の安堵を発表しました。しかし、これは武士にとっては所領没収の危険を意味するため、京都に残った義詮は抵抗しました。 
南朝は1352(正平7)年、後村上天皇の帰京を義詮に通告し、南朝軍は京都に突入します。義詮は近江に逃げます。この時、北畠親房は京都に帰ってきます。 
しかし、京都占領は長く続かず、義詮の軍勢が上京して、後村上天皇は賀生名に逃げます。この2年後、北畠親房は死去します。  
 
南北朝時代の社会

南北朝内乱期、在地領主層は、生き抜くために結集することが必要であり、国人一揆の発生は、戦闘の際の中小武士団の結合にありました。 
国人一揆は、守護の軍事編成の基盤でもありました。在地領主層は、一揆の人々が助け合う相互扶助をつねとしました。 
国人一揆は守護配下に置かれたとはいえ、家臣団には入らず、自由な立場にありました。それだけに戦局判断の誤認は、国人領主にとって命取りになりました。国人一揆は新たに入部してくる守護への抵抗の組織にもなりました。 
ところで、国人一揆内の争いは各国人領から逃散(ちょうさん)する農民の抱え込みで発生したと思われます。この解決法は国人間の「人返し法」の制定にありました。国人一揆は支配下の農民の闘争を弾圧する組織ともいえます。 
鎌倉期、守護は国司の権限の行使を認められず、大番催促と謀反人・殺害人の検断に限られていました。南北朝期の守護は謀反人・殺害人のほか、窃盗人・放火人などの検断、刈田狼藉、犯人の検挙・断罪、一般訴訟の裁判権も確立しました。その支配は御家人に限らず、寺社や地下人にまで拡大していきました。更に、半済(はんぜい・年貢の半分を兵糧として武士に与える権限)・兵糧料所の配分権もありました。 
兵糧米の調達は現地調達が原則で、農民を苦しめ、荘園領主の年貢収納を不可能にしました。このため、荘園・国衙領は急速に疲弊していきました。 
そこで、幕府は1352(観応3)年、半済令を発布しました。寺社本所領に対する守護や在地領主の乱暴や押領を厳禁しますが、近江・美濃・尾張の3国の本所領の年貢の半分は当年限り、兵糧料所とするとしました。しかし、半済令が出されると、守護・在地領主達は半済と称して乱用していきました。 
1357(延文2)年には、半済、年貢半分を土地そのものの折半に使用するようになりました。そして、当年限りの規定も消えました。 
守護がどの荘園を誰に与えるかの権限を得たことは大きな意味を持ちました。在地領主達を配下に治めるため、半済・兵糧料所の配分権をもって、所領拡大を目指す在地領主を被官化しょうとしました。 
大田文の記載により段銭が徴収されました。鎌倉時代、国衙の役人によって検注が行われ、大田文が作成されました。南北朝時代後期には検注権は守護に掌握されていました。こうして、守護は国衙の重要な職務の一つを掌握していきました。14世紀後半になると、半済・兵糧料所の設置、守護請、守護役の賦課などにより、荘園体制は崩壊し始めます。 
鎌倉時代末期以降、村落では問題に対処するため、村民が鎮守や寺庵を中心に寄合を持って、定書や起請文(きしょうもん)をつくりました。即ち、農民の結合である惣が成立していて、農民の訴えや要求が寄合で検討され、起請文によって荘園領主に提出されました。 
農民達は要求を実現するため、逃散をほのめかしました。これは田畠を荒廃させ、年貢米の確保ができず、領主階級に打撃を与えるものでした。 
逃散が可能ということは公的な田畠以外に、山野の開墾、新田開発が行われ、近隣の農民達との連帯が成立していました。 
農民の結合が進むにつれ、その組織維持・発展のため、規約がつくられました。その中で、組織に対する裏切りの罰が設けられました。それは追放刑でした。この時代、共同体からの追放は浮浪そして死を意味していました。惣にはこの様な検断権がありました。 
惣の寄合は春秋の農事・祭礼・節句などを機会に定期的に行われ、そのほか臨時の寄合ももたれました。有力名主層を含んだ惣百姓組織へ発展していきました。 
農民闘争の原因の一つに労働力の収奪がありました。農民の農業維持発展に必要な労働力は代官や在地領主の佃や直営地経営にも必要でした。また守護による夫役徴発も守護と惣との対立を深めていきました。 
農業は産業の基礎であり、その中心は水稲耕作でした。耕地拡大は困難なため、耕地をいかに利用するかが問題とされました。深耕に耐える鍬、牛馬の利用、肥料施入などが行われました。 
農作業に要する労働力は大きなものがあり、田植え時の労力確保は一番の問題でした。結(ゆい)という協業は必要不可欠でした。 
旱水害という自然災害に対処するには灌漑施設を充実することと、早稲・晩稲などの収穫期の異なる稲を栽培することでした。しかし、その努力にもかかわらず、自然災害から逃れることはできませんでした。また、虫や獣の害にもあいました。 
耕地の高度利用として、稲の後に麦を蒔いたり、畠地で雑穀を年2度栽培したりする二毛作が行われました。これが可能になるには水田と畠地の切り替えができる灌排水技術や地力を維持する肥培技術の進歩がありました。 
肥料としては草木灰の利用があります。この肥料の利用により、山野の領有・帰属に関心が集まり、荘園領と地頭、荘民の間で対立が起きました。この山野は薪炭の生産を行う場でもあったため、争いを起こすことになりました。 
牛馬による犂(すき)で耕作することにより、農業生産は発展しました。この時代、牛馬は重要な財産でした。 
地方へ、貨幣や商品は浸透していきました。名田畠の質入・売買が行われ、富む者と没落していく農民が出てきました。 
在地領主層は直営田を持ち、山野河海を領有し、支配地域に手工業者を居住させて、彼らの必要とするものを生産させました。更に、市場を支配下に置いて、農民層の支配を確実なものにしていきました。 
京都は武家・公家・大寺社の権門から町人に至るまで、大きな人口を抱える消費都市と同時に、各地荘園から送られた原料を加工する生産都市でもありました。 
生産において、座商人によって生産独占・販売独占が行われました。この中では大山崎油座神人(じにん)が有名です。石清水八幡宮をバックに諸国に荏胡麻(えごま)購入の行商に赴いていました。幕府によって諸関津料が免除され、次第に保護され、大山崎油座は生産・販売の独占権が与えられました。 
元王朝は少数のモンゴル族が広大な中国を支配したため、独特の身分制度を持っていました。第1がモンゴル族、第2が征服支配を補佐した色目人、いわゆる西域の人々、第3が被征服民の漢人でした。漢人の中でも南宋支配下の江南の人々は最下位に置かれました。 
政治・経済の実務は漢人の手にゆだねられました。実務を担当した彼らの中には税を着服する者もいました。支配階層の末端より混乱は生じてきました。 
モンゴル貴族の中では定住する者と遊牧する者との対立が生じ、王室はチベット仏教を狂信し、多大な貢物を奉じ、その費用のために増税しました。この様な社会不安の中、紅巾軍による白蓮教徒の乱などが江南で続発します。 
日本とは文永・弘安の役後も日本商船の渡来は許可され、貿易が行われました。杭州や泉州には外国貿易を管理する役所が置かれていました。私貿易は盛んに行われると同時に、公許の建長寺造営船、住吉社造営船、天龍寺船が入元しました。 
1357年、叛乱が続く江南で、朱元璋(しゅげんしょう)は挙兵しました。回復中華をスローガンに勢力を伸ばし、1368年帝位に就きました。 
朱元璋は大都の元王朝を中国から追い出しました。朱元璋(洪武帝)は明帝国の独立を宣言し、同盟軍であった紅巾軍を切り捨て、白蓮教を禁止しました。 
明は外国貿易を厳しく制限し、冊封体制下の国々とのみ朝貢貿易を行いました。 
元が日本征服に失敗した後も、元の勢力下に朝鮮はありました。高麗王朝は積極的に元王朝と結びつきを強めていきました。 
地主である両班(ヤンバン)と寺院は私的大土地を私有していました。彼らは元と結びつき、私的利益に走りました。 
元王朝が衰退した頃、高麗王は親元派の一族を退け、鴨緑江以北の元を攻撃しました。 
明が建国すると、友好関係を結び、大土地所有の制限などの国内改革に着手しました。しかし、親元派と親明派の対立は激しく、改革は失敗しました。そして、親元派が勢力を回復しました。 
この頃、朝鮮は倭寇に悩まされていました。李成桂は、寺社・権勢家が田地をかすめ取り、民衆の苦しみは増している、倭寇と戦うにはこの様な状況を改め、軍人として能力の優れた者を選ぶべきだ、と建策しています。 
明が支配していた遼東を攻撃する将軍に李成桂は任命されていましたが、彼はその無謀を説きました。しかし、聞き入れられず、戦闘に入りましたが、途中その遠征をやめることを決断しました。これを民衆は歓迎しました。 
帰国後、李成桂らは親元派を追放しました。権力は次第に彼に集中していきました。無力化した高麗王は李成桂に王位を譲りました。1392年、李成桂(太祖)は都を京城(ソウル)に移し、新王朝の成立を明に報告しました。ここに李氏朝鮮が成立しました。 
倭寇は14世紀中頃、高麗王朝が衰退するとともに朝鮮半島の南岸を襲いました。漕船(米穀輸送船)を襲い、兵営を襲撃し、民家を焼き払ったため、租税が納まらず、官僚達は俸禄を得ることができない状態でした。 
この為、高麗王朝の経済力は急速に低下していきました。兵士は戦わず、高麗王朝の消極策により倭寇は増長していきました。倭寇の略奪対象は米穀と奴隷でした。奴隷は使役したり、転売したり、捕虜としてある程度の値段で送り返したりしました。 
倭寇の根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦と言われています。この地方は昔から土地が狭く、飢饉が多かったのと、この頃の国内流通の発展が、住民を海外に向かわせたと思われます。しかし、高麗王朝は対元交渉に忙殺され、日本との通商関係は拒否していました。これが海の商人を海賊に変えた第1の理由と思われます。 
第2は内乱期、南北朝とも海賊を重視しました。熊野水軍・村上水軍がこれに当たります。松浦党や対馬・壱岐の海賊も軍事力として動員されたと思われます。こうした中で、彼らの造船技術、航海技術、戦闘能力は大きく向上しました。 
放置していた高麗政府も対策に乗り出しました。しかし、年間数十回に昇る侵入回数、規模においては、数百から千、二千人に昇る大規模なものになっていました。 
高麗は明に火器の供与を要請し、手に入れていました。1380年、鎮浦口(ちんぽこう)に侵入した500艘の倭船を高麗軍は新式火砲で全滅させます。この新兵器で李成桂らは倭寇を鎮圧していきます。 
1389年、高麗軍は倭寇の根拠地の一つである対馬を襲撃しました。この後、小規模な倭寇を除いて、大規模な侵入はなくなりました。 
李氏朝鮮は倭寇に対する兵船の整備を行いました。その一方で、懐柔策も取り、投降した倭寇を厚遇しました。そして通商を許可することにより、懐柔を行いました。倭寇は消え、大内・渋川・宗・菊池・島津氏や松浦党などの豪族が通商を行いました。 
1392年、李氏は幕府に使者を遣わし、倭寇禁止を要求しました。将軍義満は守護に命じて倭寇を禁圧すると禅僧絶海中津(ぜっかいちゅしん)に答書させています。明も高麗と同様に倭寇に苦慮していました。山東地方沿岸から、江蘇・浙江・福建・広東地方に到るまで、倭寇は侵入しました。明は何度か日本に使節を派遣しますが、禁圧の実は上がりませんでした。義満が対明交渉に乗り出すまで、両国の正式な外交関係は生まれませんでした。  
 
南北合一

足利直義(ただよし)の死により、足利直冬(ただふゆ)は打撃を受け、九州から長門に転進し、中国地方の直義派と結び、各地の反幕府の有力者と同盟を結び、南朝と協力関係を整え、幕府と対抗しょうとしました。楠木正儀(まさのり)らの南朝方や、山名時氏が京都に突入しました。足利義詮は京都を放棄しました。 
美濃で幕府軍の決起を呼びかけ、赤松則祐(のりすけ)は播磨から兵庫に進出し、足利尊氏も東国から引き上げます。幕府軍が次第に優勢になり、義詮は京都を奪回します。直冬を大将とする反幕府軍は再び京都に迫り、義詮は直冬を播磨で迎え撃ちますが、これに敗れ、直冬・山名の中国からの軍や、北国からの軍が入京します。しかし、これも長続きせず、直冬は近江からの尊氏の軍に挟撃され、直冬は京都から去ります。 
二度の京都放棄により、義詮の権威は低下し、京都奪還に功績のあった有力武将の幕府内の発言は高まります。しかし、やがて有力武将相互の対立が見られるようになります。 
義詮は守護らの行動を抑えて、主導権を発揮するための行動を起こします。1355(文和5)年、寺社本所返付令を発布します。争乱中の半済は認めるが、それが回復した土地は荘園領主に返せというものでした。それと同時に南朝方や直冬軍の武将に対し、幕府への復帰を呼びかけました。そのため、越前守護斯波高経が復帰しました。 
1358(延文3)年、足利尊氏が死去しました。父を失った義詮は南朝の根拠地を攻撃しょうとしました。関東管領の足利基氏に命じ、関東の国人層を上京させ、その後、畠山国清が大軍を率いて鎌倉を発ち、入京します。義詮は大軍を河内に進発させます。しかし、幕府軍内部の対立が顕在化し、十分な効果をあげることができませんでした。 
尊氏から政権を引き継いだ義詮は権力を集中化させようとします。この結果、将軍の代官の役割を果たす執事の地位が高くなります。執事・引付方頭人・侍所頭人の俗称の管領が執事に限って使われるようになります。 
有力守護間で対立が表面化していました。幕府は不安定な状況にありました。斯波義将が執事に任じられました。これは足利一門中最高位の斯波氏が執事に任命することによって、譜代並みに取り扱って将軍家を絶対化しょうとするものでした。 
大内弘世が安芸に転戦中の細川頼之と九州探題の斯波氏経の仲介によって帰順しました。大内氏は朝鮮・中国貿易で巨額の富を得ていました。弘世は京都では輸入された銭貨や唐物によって人気を博していました。 
山名時氏は直義派として直冬に従っていました。赤松則祐や細川頼之と対峙していました。大内が帰順すると、情勢を判断して、時氏は帰順しました。 
1366(貞治5)年、斯波氏一門によって要職が占められていることが反感を買い、義将は管領の地位を奪われます。斯波高経は管領義将以下一族を引き連れて、越前に下ります。 
尊氏が東国から上洛する頃、関東は関東管領足利基氏、執事畠山国清・高南宗継の体制でした。畠山国清は独断専行に走るため、関東の国人から批判されていました。国清が義詮の要請を受けた時も総動員をかけ、在地領主から反発を買っていました。大軍で上洛した国人達は、帰国後、国清の圧制を基氏に訴えました。基氏は国清を執事から罷免し、追放しました。 
基氏は関東を掌握できる人物をして、一時は尊氏に反逆していた上杉憲顕(のりあき)を執事に復帰させました。憲顕は鎌倉で基氏を助け、次第に関東の守護職は上杉氏一派に独占されるようになりました。1367(貞治6)年、基氏は死去し、氏満が関東管領を継ぎます。 
1367(貞治6)年、義詮は讃岐から細川頼之を呼び寄せ、病床の足利義詮は10歳の義満に政務を譲り、細川頼之(よりゆき)を執事(管領)に任命しました。その直後、義詮は死去します。細川頼之は阿波の守護の嫡男であり、後、阿波をはじめ讃岐・伊予・土佐4国の守護を兼任し、四国管領と呼ばれました。 
細川頼之が最初に発布したのは綱紀粛正に関する法令でした。続いて1368(応安元)年、半済令を発布しました。その内容は権門寺社など大荘園領主に対する半済令は認めず、中小貴族層には半済令を適用して、その土地の半分を与え、国人領主層の要求に応じようとするものでした。大荘園領主と国人領主層との勢力均衡の上で幕府政治を運営しょうとしました。 
この頃、南朝側は幕府との講和を考えていました。佐々木道譽(どうよ)と楠木正儀(まさのり)の間で、内々に交渉は進められていました。ところが、1367(貞和6)年、足利義詮が死去し、続いて南朝の後村上天皇死去しました。 
後村上天皇の後に即位した長慶(ちょうけい)天皇の側近には抗戦主張派によって固められ、このため、これまで交渉に努力してきた楠木正儀は細川頼之の求めに応じて幕府方に付きました。 
正儀が河内・和泉の守護になると、南朝の強硬派は合戦の準備をし、頼之は正儀を援けるため、幕府軍を派遣します。畿内近国各地で、南朝軍と幕府軍の戦闘が続きます。この様な戦闘の中、幕府の中では前管領の斯波義将(しばよしまさ)と管領細川頼之の対立が激化してきました。 
頼之が思うままに操ることができた義満も成人し、幕府内で頼之に反目する守護も激増していました。 
義満は北小路室町に新しい邸を造営していました。この邸は花の御所と呼ばれました。 
その前の1378(永和4)年、紀伊で南朝軍が動き出します。これに対し、細川氏の指揮の下に大軍を派遣します。南朝軍は兵をおさめますが、幕府軍も細川氏の指揮のため、多くが帰京してしまい、この機に南朝軍は反撃し、幕府軍は大敗します。 
この報に怒った義満は、和泉・紀伊の守護に山名氏を任命し、自ら幕府軍を率いて出陣します。ところが、出陣した守護の間で、細川頼之排斥の動きが出ます。このため、義満は帰京を命じました。 
1379(康暦元)年、反頼之派の守護は花の御所を包囲したため、義満は頼之を罷免します。義満は頼之と対立していた禅僧春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を南禅寺住持に就け、斯波義将を管領に再任しました。 
1381(永徳元)年、完成した花の御所に後円融(えんゆう)天皇が行幸しました。ここにまさに名実とともに室町幕府となり、同年、義満は内大臣となり、管領斯波義将とのコンビでの幕府政治は着実に効果を上げていました。 
九州の戦乱は今川了俊によって、畿内は山名氏清によって終息していました。関東管領の足利氏満との関係も平穏なものでした。南朝方では強硬派の長慶天皇が後亀山天皇に譲位していました。 
この様な状況の中、義満は諸国遊覧を行い、その権力の強大さを印象付けました。 
東大寺・興福寺へ参詣し、南都衆徒の懐柔を目的とし、南朝へ圧力をかけました。富士見と称して駿河に赴き、勢力拡大している足利氏満に無言の圧力をかけました。 
義満は安芸厳島に参詣しました。義満は四国に戻っていた細川頼之にその際の乗船の準備を命じました。義満は讃岐宇多津を経て、厳島に参詣し、周防下松で大内氏の歓迎を受けています。その後、九州に向かいますが、暴風雨に遇い、帰途に着きました。 
帰途、宇多津で義満は頼之を召して密談した、と同行した今川了俊は紀行文に書いています。この間の旅行で、義満は瀬戸内海の海賊も支配下に入れ、その制海権を掌握しました。 
美濃・尾張・伊勢の守護であった土岐氏の内紛に乗じて義満は兵を尾張に送りました。義満は守護職の相続に介入し、一族の分裂を画策します。この結果、伊勢の守護職は取り上げられ、土岐氏はその力を削られていきました。 
義満は次に、山陰地方を中心に11国の守護職を持つ山名氏の勢力の削減にかかります。義満は山名惣領家と庶子家の対立を利用し、惣領家が幕府の命に従わないとその討伐を命じ、庶子の舅の山名氏清の討伐の功に、但馬と伯耆・隠岐を取り上げて、与えます。しかし、その庶子には口実を設けて、出雲守護職を取り上げます。そして惣領家の罪は許しました。 
1391(明徳2)年、その処置に不満な庶子は氏清と一族の紀伊守護を味方にし、京都に攻め入ろうとします。義満は細川一族、畠山基国、一色詮範(あきのり)、大内義弘、赤松義則、佐々木高詮(たかあき)らを集めて布陣しました。戦闘は山名軍が大敗し、氏清は討死しました。 
翌年、論功行賞があり、前年に管領になっていた細川頼元が丹波の守護、大内義弘は和泉・紀伊の守護に任命されるなど、山名氏の分国はこの戦闘で功績のあった武将に配分されました。これを明徳の乱と言います。 
この明徳の乱で将軍の権力は一段と強化されました。軍事力の面では、馬廻衆(うままわりしゅう)と言われる直轄軍団が乱の際に活躍しました。これは一門の子弟や地頭御家人から選抜された近習と奉公衆を中心に山城の地侍を加えた2・3千騎と言われています。 
経済的基盤は各地の将軍御料所と領国の山城です。更に、流通と分業生産の結節点の京都を掌握したことが挙げられます。 
幕府の体制を固めた義満の次の課題は南朝を解体することでした。明徳の乱後、南朝との交渉は大内義弘が進めました。形式的には南北朝の合一は両朝の和議でしたが、実質は幕府と南朝の間で進められ、南朝が幕府の力の前に屈服したというのが正確でした。そして、合一の条件の履行も無視されてしまいました。  
 
南北朝時代の北部九州

1336(延元元)年、後醍醐天皇が比叡山に逃れたとき、懐良(かねなが)親王を征西大将軍に任じ、九州から軍勢を率いて東上せよと、命じました。親王一行は伊予の忽那(くつな)諸島に到着します。忽那氏は瀬戸内海の海賊の雄でありました。惣領は北朝方でしたが、弟は南朝方でした。 
1341(興国2)年、一行は忽那諸島から九州薩摩に到着し、守護島津氏に対抗する谷山氏の居城に入ります。大宰府で九州での拠点を築き、九州の武士を率いて上洛することが目的でした。大宰府進攻に親王らが最も期待したのは肥後の菊池氏でした。 
菊池氏は鎮西探題北条英時を攻撃したとき以来南朝方でした。この折、菊池武時が戦死し、武重が継ぎました。武重は強力な武士団を形成しました。その後、武光が惣領に選ばれました。 
1347(正平2)年、大規模な陽動作戦を展開している間に、親王一行は谷山から海路を八代を経て、肥後宇土に着きます。 
1347(正平2)年、肥後菊池郡隈府(わいふ)に、懐良親王一行を、菊池武光は迎えました。九州は筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏らに代表される豪族と、九州探題一色氏、それに懐良親王の宮方が鼎立しました。 
1349(貞和5)年、足利直冬が九州に下向すると、博多の一色氏と対立していた少弐頼尚(しょうによりひさ)は直冬を大宰府に迎え入れました。足利直義が高師直を滅ぼし、直冬を九州探題に任命すると、直冬・少弐の勢力が伸び、一色氏は一時期、宮方に付きました。しかし、直義の死後、直冬の勢力は衰え、直冬は長門に転進します。一色氏は尊氏方に戻り、少弐氏が宮方に移って行きました。 
1353(正平8)年、少弐氏を応援した菊池武光と一色範氏が針摺原(はりすりはら、福岡県筑紫野市)で戦い、一色氏はこの合戦で敗れました。 
北九州では、伊川・柳・大積系の門司氏は宮方で、猿喰(さるはみ)城を本拠地にしていました。片野・楠原・吉志系の門司氏は幕府方として門司城を本拠地にしていました。吉志系の門司親胤(ちかたね)は、長門の厚東武直(ことうたけなお)と海上で合戦したり、門司関と赤間関間や小倉津沖で敵方と戦っています。 
宮方は大宰府に入っていました。1356(正平11)年、菊池軍は豊前から筑前にかけて遠征しています。門司親胤は惣領片野系の親資(ちかすけ)とともに、足立や片野で菊池軍と戦っています。しかし、戦いに敗れ、一色範氏の子の直氏とともに長門に逃げています。 
麻生氏は山鹿氏の所領を与えられています。それは山鹿氏が宮方に付いたためと思われます。この後、山鹿氏本流は麻生氏に取って代わられます。菊池軍の遠征に対し抗戦しますが、一色直氏とともに長門に逃げています。 
北九州の長野氏や貫氏は宮方に付いていました。 
この時点で一色範氏・直氏の九州での活動は終わり、京都に戻りました。 
菊池軍は豊後に遠征し、大友氏を下します。更に、菊池軍は日向に遠征し、直冬方の畠山氏と戦います。このように宮方軍が日向に出かけた隙に、少弐氏と大友氏は宮方に反旗を翻します。 
1359(正平14)年、菊池軍と少弐軍は筑後川で戦います。激戦の後、少弐氏は敗れ、宝満山に退きます。この後、少弐氏は大宰府を奪回できず、衰退していきます。 
1361(正平16)年、大宰府に入った菊池軍は懐良親王を迎え入れました。この後、12年間にわたって懐良親王の征西府が九州を支配下に置きます。 
長門守護厚東義武が幕府方に付くと、周防守護大内弘世(ひろよ)は宮方に付き、長門に攻め入り、厚東義武は九州に逃げました。 
足利義詮は一色範氏の後に、斯波氏経(しばうじつね)を九州探題として派遣します。氏経は大内弘世に長門・周防の守護職の就任を働きかけ、弘世はこれを受諾しました。そこで、厚東義武は鞍替えして宮方に付きました。 
1363(貞治・じょうじ2)年、門司親胤の子の親尚が門司城にいました。親頼は猿喰城、親通は柳城にいて、この宮方門司氏と菊池軍は門司城を包囲する作戦を取りました。門司城の親尚は九州探題の斯波氏経に連絡して、大内氏の出兵を促しました。 
大内弘世は渡海し、赤坂に布陣し、柳城を攻めます。この折、弘世は負傷します。その子の満弘は柳城の親通に幕府方に寝返るように画策します。親通は裏切り、大内軍を猿喰城に導き、遂に猿喰城は落城します。ここに大内氏は豊前進出の第一歩を記しました。 
しかし、豊後に入った斯波氏経は征西府の勢力が強く、それ以上進めず、引き返してしまいました。 
1365(貞治4)年、渋川義行が探題として派遣されますが、備後から先に進めず、引き返してしまいました。 
1370(応安3)年、遠江の守護、引付方頭人の今川了俊(りょうしゅん)が九州探題に任じられました。了俊は四国を支配していた細川頼之と長門・周防の守護大内弘世の援けを受けて京都を出発しました。 
了俊は子義範と弟仲秋(なかあき)を先発隊として出発させ、征西府のある大宰府攻略を目指しました。 
義範は豊後に上陸して大友親世(ちかよ)とともに、仲秋は肥前に上陸して松浦党を支配下に進み、了俊は本隊を率いて門司から大宰府を目指しました。門司親尚は了俊に従い各地を転戦しています。 
1373(応安6)年、菊池武光が守る征西府を攻略しました。武光は筑後高良(こうら)山に籠もりますが、大宰府を奪回できず、懐良親王とともに肥後隈府に引き上げます。肥後水島城を攻略し、了俊は島津氏久、大友親世、少弐冬資(ふゆすけ)を招きますが、冬資は参陣しませんでした。再三の招きで冬資は参陣しますが、その行動に疑問を持った了俊によって、陣中で冬資は謀殺されました。 
了俊の処置に怒った島津氏久は軍を引き上げました。このため、陣中の動揺は激しく、隈府を攻撃することは不可能となりました。 
逆に、1377(永和3)年、菊池武朝・阿蘇惟武(これたけ)によって肥前国府が攻撃され、了俊は大内義弘・大友親世の協力によってこれを食い止めることができました。この戦いの惟武の戦死と武朝の敗走は宮方の痛手となりました。 
鎌倉時代、到津荘地頭職が宇佐八幡宮に寄進されています。1329(元徳元)年、大宮司に就いた宇佐公連(きんつら)は到津荘地頭職を領し、南朝を支持していました。しかし、建武新政府が崩壊すると、公連は到津荘に退去しています。そしてこの時代、宇佐八幡宮内の神官内でも南北朝に立って対立していました。公連は到津荘に土着して到津家を創立しました。到津氏は九州探題今川了俊の推薦により、公連の子、または孫の公規(きみのり)が宇佐大宮司に任ぜられ、宇佐に帰還しました。この後、清末氏が代官職及び到津八幡宮社司職に任ぜられました。  
 
室町時代概観
 

足利義満 
足利氏の邸宅は、尊氏の二条高倉、義詮の三条坊門万里小路(までしょうじ)にありました。三代将軍義満になって北小路室町に室町第(むろまちだい)が建てられました。花の御所と呼ばれるように絢爛たる造作で、ここに室町幕府の基礎もようやく固まりました。 
義満が晩年北山第に移るまでの室町第の20年間は、公家化し、専制権力確立の時代でした。将軍でありながら、38歳には太政大臣にまで任じられています。 
室町幕府の政治的・軍事的基礎は守護大名に置かれていました。しかし、時々の力関係によって結ばれた足利氏と守護大名の関係はそれほど固いものではありませんでした。そのため、将軍個人の優れた資質が幕府の権威を高め、幕府の基礎を固める要因となりました。 
義満は優れた資質を持つ将軍でしたが、その権威を高めるのに力があった人物がいました。初代管領の細川頼之と、その後管領になった斯波義将でした。 
細川氏は足利氏の一族で、尊氏挙兵以来戦功に輝く家柄でした。頼之は二代将軍義詮の遺命により、幼い義満を補佐しました。管領の権限を強化することにより、将軍の権力強化を果たしました。将軍・管領の下に守護大名を統制しょうとしました。しかし、有力大名との抗争に敗れ、下野しました。 
頼之に代わって管領になった斯波義将は足利将軍家に最も近い血筋の家の出でした。義将の仕事は管領の下に職制を統制することでした。義将は幕府内部を取り仕切り、義満の権力の基礎を固めていきました。 
義満の公家化は武家の権力を握った上で、公家の最高に地位に就くことによって公武の権力を掌握しょうというものでした。公家で橋渡し役を果たしたのが、北朝で、摂政・関白を歴任した二条良基でした。良基は義満に、宮中内での作法や、和歌・連歌・管弦等の当時の公家がたしなんでいた芸能を指導しました。良基の義満への接近は他の公家にも影響を与え、義満はスムーズに公家社会に溶け込んでいきました。 
社寺は精神性の面からも国家権力を担う一面からも大きな勢力を持っていました。その社寺勢力と義満の関係を見ていきます。五山制度統括の役割を果たしたのは夢窓疎石(むそうそせき)の高弟、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)でした。同じく義堂周信(ぎどうしゅうしん)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らは義満の信頼を得ています。彼ら五山叢林(ござんそうりん)の禅僧達は義満の朱子学・漢文・禅の師であり、明との関係で使者や通訳、国書の起草等の役割を担っていました。 
なお、彼らが亡くなると、義満は次第に密教に傾斜していきます。 
室町幕府は、尊氏・義詮の時代には、独自の機構や制度を作り上げる余裕がなく、多くは鎌倉時代のものを踏襲しなければいけませんでした。3代目の義満の時代になって、その体勢固めや多くの課題に取り組みました。 
関東公方足利氏満に対し、新たに陸奥・出羽を関東分国としました。一方、奥州の伊達氏、関東の宇都宮・小山氏ら鎌倉以来の北関東の豪族に扶持を与え、関東公方の背後から牽制するようにしました。 
初代管領、細川頼之の時代、五山制度を定め、寺社本所に対する半済や段銭の賦課の方針を決めました。更に、訴訟制度の中心の引付の制度を管領の管轄の下に置き、訴訟問題に直接関与する途を開きました。このようにして幕府機関の一元化が進められました。 
管領の力の強化は他の有力守護大名の反発を買い、頼之は失脚しました。しかし、管領制は既に制度として固定化されていました。義満は朝廷の五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条家)・七清花の制度に倣って三管領(斯波・細川・畠山家)・四職(侍所の山名・一色・赤松・京極家)の家を定めました。 
侍所は洛中の警備、御家人の刑事訴訟処理を担当しました。そして、その頭人は山城の守護を兼任しました。侍所は平安時代に設置された令外の官の検非違使の役割を奪い取ったものと言えます。 
室町幕府の軍事的基盤は、在京有力守護大名の軍事力でした。室町時代の守護大名は、関東公方の下の東国10国に、陸奥・出羽、九州探題の下の九州などの11国の守護を除く21守護が室町殿分国45国を管理していました。彼らの本領や管国の支配は守護代や家臣に任せきりでした。 
管国の数によって彼らは多国持ち・一国持ちと呼ばれました。彼らは一国平均300-500の軍勢を持ち、室町第の周りに館を構え、将軍の警備を行い、管領・侍所頭人・山城国守護などを務めました。そして、叛乱や一揆の際には、その討伐・鎮圧の任に就きました。 
この時代の将軍と諸大名との関係は、絶対的服従関係でなく、一家一門的関係で結ばれていました。そのため、下克上や叛乱という行動も企てられますが、お家の存続や再興は比較的寛大に認められました。 
1379(康暦元)年、管領は細川頼之から斯波義将に代わり、鎌倉時代以来政所の執権を勤めてきた二階堂氏に代わって、足利氏譜代の家臣の伊勢氏が就きました。以来、伊勢氏がこの職を世襲します。 
幕府の財政を所管する政所には、作事・普請・段銭・倉奉行が職務を分担していました。将軍家の御料所からの年貢米の出納を司る倉奉行の下に、納銭方一衆がありますが、これらは洛中洛外の土倉(どそう)酒屋からの課税徴収を担当していました。この納銭方一衆に山門を本所に仰ぐ土倉衆が多数参加していました。 
室町幕府の財政は御料所と呼ばれる直轄地に基礎が置かれていました。これは38国、数百箇所に分散していました。そして、それらの多くは、将軍直属の家臣や地方の地頭御家人の給与に支払われました。御料所からの年貢米や銭貨は将軍家の日常生活や社寺や朝廷への献上に費やされました。 
このほか、全国の荘園や公領から臨時に、いわゆる一国平均役といわれた段銭は、天皇即位、内裏や伊勢神宮の造営等の経費調達のため、南北朝時代より幕府が朝廷に代わって徴収しています。 
この時代、注目されるのは、土倉酒屋からの課税徴収です。高利貸の土倉は京都・奈良だけでなく、地方都市や市場にも現れていました。一方、酒屋も都市に集まっていました。これら土倉酒屋は巨額の土倉酒屋役を運上しました。 
以上の他に、将軍御所・北山山荘・東山山荘の造営の際、幕府は守護大名に臨時の出銭を命じています。また、日朝・日明貿易に基づく収入等が幕府の財源となっていました。当初は、御料所からの年貢収入に依存していましたが、14世紀末から15世紀にかけては、土倉酒屋役への依存が高まっていきました。これも不安定となり、次第に海外貿易や関銭などの臨時収入を期待し、商品貨幣経済へ15世紀に入ると傾斜していきました。 
1394(応永元)年、義満は将軍職を子の義持(よしもち)に譲り、太政大臣も辞して、出家しました。しかし、将軍後見役、大御所として実権を握っていました。 
1397(応永4)年、洛北北山に、北山第の建設が、守護大名の経費負担で始まりました。北山第は、種々の建物が配置され、そのうちの舎利殿は、いわゆる金閣でした。 
この山荘の造りは義満の出家、あるいは浄土思想を表すものです。しかし、依然として、政治への意欲や関心を示すもので、法皇の生活を真似たものといえます。 
北山第は義満夫妻の死後、主な建物は他所に移され、山荘は義満の出家名に因んで、鹿苑(ろくおん)寺と呼ばれ、建物は金閣だけになりました。この金閣も、1950(昭和25)年焼失し、その後再建されています。 
義満の晩年、日明貿易は始められます。明の側からは、倭寇の襲来を抑え、冊封体制の中に日本を組み込むために始められました。 
義満は商人肥富(こいずみ)と僧祖阿に託して国書を明に送りました。これに対し、1402(応永9)年に来朝した使者が明の恵帝の国書をもたらしました。そこには日本を明の属国とみなし、義満を日本国王と呼び、その忠誠を褒めています。 
翌年、義満は新帝永楽帝に、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)起草の国書を送っています。当時、義満が明に対し、臣の礼を取ったのはいけないとの批判が出ました。しかし、日本国王の称号は天皇に対し僭越であるとの批判はありませんでした。この様な不敬であるというのは後世になって出てくる考えでした。 
日明貿易により、将軍は覇王であり、国王であるとの認識を公武及び社寺に植えつける役割も果たしました。 
義満の専制の下での矛盾や課題は、4代将軍義持の時代に出てきます。1416(応永23)年、前年まで関東管領の犬懸(いぬかけ)家の上杉禅秀(氏憲)が東国の守護大名や豪族の支援を得て挙兵し、鎌倉の公方邸を攻撃しました。公方足利持氏は管領山内家の上杉憲基邸に逃げ、憲基は越後に逃げます。これを禅秀の乱と言います。 
上杉家は足利尊氏・直義の生母が上杉氏の娘であった関係もあり、関東公方を補佐する管領の職を代々担ってきました。家は四家に分かれ、この時代は犬懸・山内の二家が勢力を二分していました。 
この様な東国の戦火に対し、京都の幕府は他人事のように思っていましたが、その火種は将軍の間近にありました。禅秀の挙兵は将軍の異母弟義嗣(よしつぐ)と呼応した幕府転覆の陰謀でした。 
幕府は義嗣を幽閉し、討伐軍を派遣し、鎌倉を攻略しました。禅秀の一族・郎党は自害し、足利持氏・上杉憲基は公方・管領に復帰しました。 
持氏は乱の後始末として、禅秀に味方した豪族の討伐のため兵を動かしましたが、これらの北関東や東関東の豪族は関東公方封じ込み政策の一環として保護されていた者が多く、公方の将軍への挑戦に到る危険をはらんでいました。 
この乱における禅秀配下の国人領主達は、当初禅秀に組し、途中から公方側に寝返りました。彼ら国人領主は守護大名の圧力に対抗し、一方で農民達の結合組織惣に対処するため、従来の惣領制と呼ばれる血縁中心の組織を再編成し、地縁的組織に転換し、地域的連合組織である一揆を結成する傾向にありました。 
一揆と言う言葉には結集する意味があり、国人一揆とは国人領主達の連合を意味していました。これらの一揆は大きく編成替えされて、一国を単位とした上州一揆、武州一揆など大国人一揆ができました。彼らの去就は東国の政局の鍵を握っていました。 
4代将軍義持は、父義満の在世中、実際の執政はできせんでした。父の死後、20年間執政し、歴代将軍の中では平穏な治世だったといえます。 
しかし、その子義量(よしかず)は将軍になりますが、すぐに死去します。そして、その後、重病になった義持は後継者を決めずに他界します。 
そのため、後継者選出は神前でくじ引きで行われました。義持の弟で、青蓮院(しょうれんいん)に出家していた義円が当たり、還俗して義宣(よしのぶ)と名乗りました。 
義宣にとって幕府内では管領以下の重臣の発言力が強まり、関東公方は反抗的な動きをし、社会的にも不穏な動きがありました。義宣は「世を忍ぶ」に通じるとして、縁起を担いで、義教(よしのり)と改名します。 
義教は管領の下に置かれ、形骸化した評定・引付の制を復活させます。更に、管領の下に行われていた御家人達の訴訟に直接将軍が裁断を下すようにしました。そのため、右筆(ゆうひつ)方の意見具申の慣習を制度化しました。 
更に、将軍直轄軍を再編成しました。義満の時代から直轄軍はありましたが、これを五番の番衆組織に制度化しました。 
この様な訴訟・軍事制度を整備して、義教は無能な守護は罷免し、能力あるものを一族から抜擢して任用する方針の下に、守護や地頭御家人の家督相続に介入していきました。 
当時の多くの家では、鎌倉時代以来の惣領制は崩れ、惣領家と庶子家が対立する傾向がありました。しかし、南北朝の動乱はその対立を許さない状況にありました。動乱の危機を乗り切るため、所領の分割相続をやめ、惣領が一族の所領を単独で相続し、一族はその下に結集する傾向が強くなりました。 
しかし、誰が惣領として家督を継ぐのか、その資格は何かは大きな問題でした。色々条件を満たすには、一族内の多数派工作は熾烈なものとなりました。この様な状態は、家督決定に将軍の裁定が決定的な力を持つようになりました。 
禅秀の乱後、公方足利持氏が、幕府が保護する立場の豪族を滅ぼすに及び、将軍義持は持氏討伐を決意しますが、持氏が詫びました。この様な将軍と関東公方の対立は初代公方基氏が兄の義詮と仲が悪かった以来歴代対立していました。 
持氏はこれに懲りず、義教が将軍に就任すると、京都に攻め上がろうとし、関東管領上杉憲実に諌められ、思い留まりしました。その反幕府行動は止むことはありませんでした。この様な持氏の行動を支えていたのは憲実の存在でしたが、次第に疎んじられれるようになりました。 
1438(永享10)年、憲実は重臣たちの勧めで、領国上野に引き揚げました。持氏は憲実討伐に出陣します。憲実は幕府に救援を訴え、幕府は奥州や関東東部の豪族に持氏討伐を命じました。 
将軍義教は持氏追討の綸旨をもらって軍を派遣します。上杉憲実の軍も南下し、持氏の下に参じた国人領主達も寝返り、大勢は決しました。 
持氏は監禁され、憲実は助命と、子義久の関東公方就任を嘆願します。しかし、義教の命により、持氏は自害、義久も自害します。他に持氏の子の安王丸・春王丸は下野に落ち延びます。これが永享の乱です。 
1440(永享12)年、安王丸・春王丸は下総の結城氏朝(ゆうきうじとも)を頼り、氏朝は挙兵します。この挙兵に多くの豪族が参加します。その動きは単純なものでなく、関東公方の再興への願い、上杉憲実や幕府への反感、豪族内部の家督相続などが絡んでいました。 
挙兵して結城城に籠城します。その抵抗は以外に強かったのですが、翌年食糧は底をつき、落城します。安王丸・春王丸は京都に護送中に斬られ、末子の永寿丸だけが命を助けられました。この戦いを結城合戦といいます。 
上杉憲実は結城合戦の後、関東管領の職を弟清方に譲ります。1449(宝徳元)年、足利持氏の末子成氏(しげうじ、幼名永寿丸)が関東公方に任命され、鎌倉に下向すると、憲実は鎌倉を去り、伊豆で出家します。憲実は晩年、大内氏を頼り、長門で死去しています。 
憲実の子の憲忠は関東管領に任じられますが、1454(享徳3)年、公方成氏に殺害されています。 
6代将軍義教の政治は、生来の性格もあって、専制独裁の厳しいものでした。妥協を許さぬ厳しい態度は宗教界にも同じものでした。 
山門延暦寺は義満の霊を葬っていた相国寺内の六苑院と所領を争っていました。高利貸の山僧が幕府の山門奉行や将軍中次役の赤松一族の者と共謀して山門と敵対していると、山門側は彼らの処分を幕府に迫っていました。彼らは義教の側近でした。 
義教は山門討伐を固めました。管領細川頼之、播磨の守護赤松満祐(みつすけ)らは円満解決を進言しますが、1434(永享6)年、義教は六角・京極氏に延暦寺攻撃を命じました。多くの僧侶が抵抗し、根本中堂に火を放って、自殺しました。 
赤松満祐には山門討伐に対する進言が拒否されたことの他に、播磨・美作・備前の3国領国没収問題がありました。これは3国を義教の寵愛する赤松一族の貞村に与えるという噂が流れました。 
前将軍義持の時、播磨を取り上げ、寵愛する赤松持貞に与えようとしました。この時、満祐は怒って播磨に引き揚げたため、義持は討伐しょうとしますが、諸大名が反対したため、満祐は許され、京都に戻りました。 
1441(嘉吉元)年、京都赤松邸で結城合戦の戦勝を祝って、当時流行していた猿楽鑑賞の宴が開かれ、将軍義教をはじめ諸大名が招待されました。宴もたけなわの頃、甲冑の武者が将軍の座の後から躍り出て、義教は暗殺されてしまいました。 
事件の後、赤松一族は邸に火を放って播磨に落ち延びました。突然の事件のため、幕府の追討はもたついていました。そんな中、丹波・但馬の国人領主を従えた山名持豊(もちとよ)は播磨を南下し、次々と城を陥落させました。 
播磨に引き揚げた満祐は足利冬氏(直冬の嫡孫)を将軍に担ぎ上げ、新幕府樹立を諸大名に訴えました。義教の子の義勝はこの時8歳で、将軍の宣下をまだ受けていませんでした。管領細川持之は赤松討伐の綸旨を受け、大義名分を整えました。 
赤松の領国の国人領主達は満祐を見放していきました。頼みの国人領主に裏切られた満祐は遂に自害してしまいました。この事件を嘉吉の乱といいます。
 
室町時代の社会

畿内では東西南北に走る碁盤の目の小径、畦、用水路が古代の土地区画の条里の線であったりする場合があります。条里制の方一町の坪を単位とした方形の集落は垣内(かいと)集落といいます。これは中世以来の村の形を伝えています。 
垣内集落も最初からこの様な形でなく、14世紀から15世紀にかけて散村から集落化の動きがあり、垣内集落の周りに濠をめぐらす環濠化の動きがありました。 
この様な現象は土一揆、徳政一揆の発生、山賊・強盗の横行、軍勢の往来などに対応した村落の自衛や自治化の動きによるものでした。 
村落にはこの様な古代からの系譜がたどれるものと、この時代に開発されたものがあります。谷あいや山麓の小村とその周りの棚田・迫田・谷田の開発は中世の名主や在家と呼ばれた農民の家族労働力や原始的な用水技術によって行われ、その地方にふさわしい村落と耕地の形をしています。 
朝廷や官司あるいは京都の賀茂社などに御贄(みにえ)やお供えの品を貢進する贄人や供御人(くごにん)は魚などが獲れる近江に多くいました。 
その湖の民が漁業・水運・商業に生活をかけるのは、零細な土地を補うためでした。その村落構成員には厳しい規律があり、村内の秩序が保たれていました。これは漁業や商業といった非農業部門に依存する度合いの強い村落に共通するものでした。 
京都・奈良といった王都は商業化し、大変発展した港湾都市である淀・大津・坂本・堺・兵庫などと繋がった近江は特産物の生産、その運送や取引などの非農業的集落成立の条件が満たされていました。いわゆる社会的分業が著しくなり、15世紀には漁民、商人、手工業者、馬借・車借などの運送業者だけの、あるいは混在した小集落が到るところに生まれました。 
古代においては、戸籍・計帳が作られ、村の住民の状況が把握されましたが、中世には作られませんでした。12・3世紀、荘園領主や地頭が年貢収納のための検注帳には名主や本在家クラスの農民の名前だけが記載されました。 
しかし、14・5世紀になると、荘園の土地台帳には作人以下の小農民が多く登録されました。これは耕地開発、商品作物栽培・加工によって小農民達の経済生活が自立したため、荘園領主が年貢の賦課基準を広げたためと思われます。 
荘園村落内には地侍と百姓といった大まかに二つの階層が現れてきています。元来侍とは朝廷や権門勢家の警固や供奉した侍者(じしゃ)でした。平安中期には地方の武士が登用され、武士一般を侍と呼ぶようになりました。侍身分は権門勢家との関係から生まれたものでした。荘園や村落の中で侍身分を得た者のうち、源頼朝と主従関係を結んだ者を御家人と尊称されました。彼らは守護・地頭・御家人といった侍達でした。 
これに対し、地侍は荘園村落内での優れた経済力、武力に基づく指導的家柄が重要な条件でした。 
地侍を除いた百姓達は支配階級からは名主百姓と呼ばれましたが、名主と百姓はっきり区別されていました。名主は有力な名の耕地を保有し、名別に賦課される年貢・公事物の徴収の責任者として、下級荘官の機能を持つ地侍を狙える立場にありました。 
重い年貢の取立てや凶作に苦しむ一般百姓は地侍や名主から米や金銭を高利を払っても借り入れなければいけませんでした。両者の立場は相互扶助と搾取の関係にありました。 
農業生産を支えたのは、古代では郷戸・房戸、中世では名主(みょうしゅ)・在家(ざいけ)、近世では本百姓と呼ばれた農民でした。中世、名主・在家の耕地は地域・身分・年代によって千差万別ですが、14世紀以降、小農民の分離・独立により、細分化されていきました。 
水田の収穫は荘園領主や地頭が徴収する年貢、農民の手取りの分の他、14・5世紀には加地子得分といわれる剰余生産物の徴収権が設定され、それが物権として売買・譲渡の対象とされました。 
この加地子得分は年貢を凌ぐ量の例さえ見られました。中世の土地売買は保有地の耕作権や自作権の売買より新しい物権である加地子名主職を分離売却する例が多く見られました。 
この様な加地子得分徴収権は荘園領主・荘官・地頭、地侍、名主百姓、土倉などに転々と売買されました。この様な現象は稲作生産力の向上によるものですが、商品貨幣経済が農村に浸透することにより、農民に還元されることはなく、剰余分の多くは支配階級や高利貸に吸い上げられました。 
中世では、平安時代末期に後三条天皇が制定した宣旨枡が公定枡とされましたが、実際に使用された枡は市場ごと、村落ごとに違っていました。年貢米を収納する時は、容積の大きな収納枡を使い、支払う時は、収納枡より小さい下行(げぎょう)枡を使いました。このように支配階級は二重の搾取を行っていました。 
耕地の利用率が中世では高まってきました。耕地には片あらしと呼ばれる不定期に耕作される耕地と恒常的に耕作される耕地がありました。片あらしは地力が回復のため意識的に休耕したものと灌漑用水及び労働力不足によるものが考えられます。 
しかし、室町時代に入ると片あらしは減少する傾向が見られます。これは荘園領主の勧農政策とともに、農民の生産意欲と灌漑設備の整備によるものと思われます。 
水稲の刈取りの後、麦を蒔くなどの二毛作や三毛作が普及してきました。これにより、農業の集約化は進み、小農民が自立化していきました。 
しかし、多毛作は地力を消耗します。肥料を絶えず補給することが必要となってきました。古来より草木灰や人糞尿が肥料として使われてきました。二毛作・三毛作が普及していくと、追肥して草木灰を施すことは重要になり、それにつれ山野の利用について農民同士の山争いが水争いとともに激しくなりました。 
水田稲作において水の問題は重要なものでした。日照りが続いた場合の河川からの引水の順序と時間は大きな問題で、当事者同士の話合いでは解決できませんでした。荘園間の利害調整に荘園領主が登場し、支配下の荘園の引水の順序と時間を割り当てていきました。これが番水という方法です。これにより領主の権力は長く温存されました。 
次は分水の方法です。川の中に堰堤を築いて流れを堰き止め、溜まった水を取水口から取り入れ、用水路を通じて各荘園に灌水します。この場合、用水路の分岐点に分木(ぶんき)という標識を立てて分水口を設け、そこから樋を引いて水を分け合いました。 
河川からの取水にはこの他に、平安時代から水車による揚水の方法があり、室町時代には盛んになっていました。 
この時代の荘園村落は惣荘、惣村、惣郷と史料には記されています。惣とは総であり、全ての意味を持ちます。つまり、名主以下、中小農民である百姓達を含めた共同体である集団組織を指します。 
惣荘、惣村には惣掟・村掟が決められました。そして、違反者には惣のリーダーである年寄(としより)・乙名(おとな)によって処罰が執行されました。彼らは地侍・名主によって構成され、彼らによって決められた惣掟は他所者を排除する排他的なものでした。 
平安時代、莫大な田畠・家財を持つ人達を富豪とか長者と呼びました。鎌倉時代から裕福な商人を有徳人(うとくにん)と呼びましたが、富裕な人、金持として定着するのは室町時代です。 
この有徳人を代表するのが都市の土倉(どそう)と酒屋です。平安時代の日宋貿易により莫大な宋銭が日本に流入しました。鎌倉時代には山僧・借上(かりあげ)という高利貸が現れました。 
山僧は山門延暦寺の僧侶で、高利貸を営む者をいい、借上は利息を付けて貸付を行った出挙(すいこ)の和訳で、借は出から、上は挙から訳されたといわれています。 
山僧・借上が貸付に対して担保の品物を取れば、それを保管する倉庫が必要になります。この様な貸借が増えるにつれ、土倉・土蔵を持つ高利貸が出てきます。 
京都・奈良は勿論、15世紀になると、地方都市・市場にも多くの土倉が現れ、地方の領主や農民も貨幣経済に巻き込まれていきました。 
1393(明徳4)年、将軍義満は京都の土倉・酒屋に課税する法令を発します。この土倉・酒屋役はこの後の日明貿易とともに、貨幣獲得策として重要なものでした。 
この課税は政所の倉奉行に属する納銭方一衆(のうせんかたいっしゅう)が担当しました。担当者は幕府の役人でなく、坊号をもつ土倉や酒屋を兼ねる土倉によって構成されていました。 
倉奉行ですら山門所属の有力土倉が担当していました。室町幕府の場合、将軍の個人的経済と公の幕府財政が一体化していました。幕府の財政機関の中に土倉は富を背景に入り込んでいました。 
禅宗寺院も高利貸を行っていました。信者から寄進された祀堂(しどう、死者を祀る堂)銭を貸付けていました。禅宗の歴史は浅く、荘園や所領が乏しいため、この様な祀堂銭を貸付けたり、加地子名主職を買い集めました。 
土倉と並んで有徳人を代表するのは都市の造り酒屋でした。醸造・販売による利益を土地購入や高利貸付に利用しました。これらの酒屋は現在の造り酒屋と一杯飲み屋を兼ねたようなものでした。 
都市に大きな店舗を構える豪商が現れるのに対し、地方と都市とを往来する行商人が活躍するのも室町時代の特徴です。彼らが扱うのは日常物資でした。 
この様な行商を代表するのが大山崎の油商人でした。天王山の麓の山崎には離宮八幡宮がありました。この八幡宮を本所として、その神人(じにん)の身分で、油の原料である荏胡麻(えごま)を仕入れ、製品の油の販売を行った油商人がかって大山崎と呼ばれたこの地に住んでいました。大山崎油神人は瀬戸内海や九州で原料を優先的に仕入れ、大山崎に搬入しました。そして、油の独占販売を行いました。油を売るにはその傘下に入るしかありませんでした。 
琵琶湖の水運により、その湖岸には年貢・商品の陸揚げ、積替え、運送を営む問丸(といまる)が早くから居住していました。また、琵琶湖の漁業により、朝廷・官司・神社に生魚などの生鮮食料品を貢納する贄人・供御人も住んでいました。この様な状況で、近江は多くの商人たちが輩出されました。 
農業・手工業・漁業などに依存して自給経済の社会では交易を生業とする一部の人達は蔑視されていました。しかし、中世に入って、貨幣が重視され、商人の役割が大きくなる変化の兆しを見せます。鎌倉から南北時代にかけて、富が万能との拝金思想が商品貨幣経済とともに普及します。室町時代になると、拝金思想はますます広がし、銭の有用性を肯定し、卑しいという考え方は否定されていきます。 
拝金思想が広まると、商売繁盛を願う福神(ふくじん)信仰が有徳人の間に広まりました。これは鎌倉時代から南北朝時代にかけて荘園内に多くの定期市が開かれるようになると、荘園領主などが取引の安全と平和を祈って夷(えびす)神を祀ったことに由来します。 
福神のうち夷神は初め海上守護神として漁師の間で信仰されていましたが、そのうち、海運の神として廻船業者、更には一般商人の間にも商売繁盛の神として信仰されるようになりました。 
商人達の活動舞台は港町や荘園村落で開かれた定期市でした。特定の日に、月3回ほど開かれた三斎市(さんさいいち)は13世紀以降多く見られるようになりました。 
定期市は平安末期、干支(かんし)の市に始まります。午(うま)の市、子(ね)の市などといわれるものです。鎌倉時代に入ると、10日に一度、月三度の日切りの三斎市が圧倒的になります。二日市、四日市、五日市などといわれるものです。 
この三斎市から六斎市に移っていきます。それは仏教で悪日といわれた毎月の8.14.15.23.29.30の6日でした。しかし、室町・戦国時代になると、月のうちの2と7、3と8、4と9という一定の日の組み合わせで周期的に開かれました。 
現物のまま京都の荘園領主の元に送られた地方の荘園の生産物は、室町時代には、商品として流れ込んでいました。地方から大量に流れ込んでくる生活必需品の円滑な流通のため、京都や中継の港湾に集散卸売市場が成立しました。 
15世紀の後半、諸国からの米は上・下京の米場座につけられ、小売商人に卸売りされる米の流通機構が幕府公認の下にできあがっていました。かって自給自足していた公家や社寺、幕府や守護大名も商品米に依存すると、卸売市場が整備されていきました。他の生活必需品についてもそのようになっていきました。 
卸売市場や消費市場での取引は権門社寺を本所と仰ぐ卸問屋である座商人の特権的・独占的機構の下に置かれました。そしてこの問屋が生産地商人・仲買・小売・馬借などの運送業者を一つの系列に編成し、かっての中央都市と地方生産地との貢納関係から経済関係で結び付けました。 
京都・奈良・堺などの中央都市では織物や美術工芸品を生産し、地方では食糧や原料品を生産して、相互補完しあう形で結びついていました。定期市や港町には中央と地方、市と市、村と村を行商人達が往来しました。 
行商人のスタイルは色々ありました。近距離行商では頭上に荷を載せて運ぶ戴(いただき)の法、天秤棒の両端に荷を架ける振(ふり)売りがありました。遠隔地行商では、千駄櫃に商品を入れて歩いた商人は高荷(たかに)商人といわれました。戦国時代になると、高荷商人は鳥の形に似た木の枠に荷物をつけて背負う連雀(れんじゃく)商人に代わりました。 
高荷・連雀商人は、山賊・夜盗から身を守り、相互扶助のため、領主との市場税軽減交渉のため、大人数で行商しました。 
室町時代遠隔地との商業が発展しますが、それには割符(さいふ)と呼ばれる為替(かわせ)が役割を果たしました。割符は鎌倉時代から旅費や年貢銭の送金に使われていましたが、室町時代には商人の取引にも使われるようになりました。 
行商人が遠隔地で取引する場合、銭貨の持ち歩きは危険でしたので、支払いに割符を使うようになりました。しかし、割符の受取人は危険と負担が伴いました。この様な為替使用が増えるにつれ、その発行と支払いを専業とする割符屋が京都や港湾都市に現れました。しかしまだ信用経済が発達する段階にはまだなっていませんでした。 
遠隔地との商業発展の要因の一つに交通運輸の発達があります。室町時代、陸上では馬借・車借、水上では巨船を要する廻船業者が登場します。 
港湾には散所・河原者と呼ばれた隷属運送業を営む者が多くいました。主要街道沿道には農閑期には駄賃稼ぎの兼業的な下層農民がいました。これらの者がその地の馬借になりました。 
鎌倉時代までの道の通行者は、国府の官人、武士、軍勢、勧進僧、年貢を運ぶ名主百姓が主でした。しかし、室町時代の通行者は武士・農民をはじめ商人、馬借・車借、職人、社寺参詣の旅行者、巡礼など多彩になりました。 
通行者を妨げるのが関所でした。古代の軍事治安上のため設置されたものと違い、通行税徴収のため、朝廷・公家・大寺院・幕府が立てたものでした。 
諸国から人馬が出入する京都の諸口に関所を設けるのは関銭徴収に最適でした。1459(長禄3)年、幕府は伊勢神宮造営費に当てるため朝廷・公家から権利を奪って京都に七口(しちこう)関を立てました。しかし、これらの造営費は一国平均の役、つまり段銭段米でまかなわれていましたが、この頃、幕府は全国から段銭段米を徴収する力はなくなっていました。 
京都・畿内あるいはその周辺の街道に張り巡らされた関所網は商業活動にとって障害になり、関銭として徴収された分は価格に転嫁されました。しかし、この時代の消費者は全体の人口のうちの限られた都市の公家・社寺・武家・商工業者などの一部の人達でした。 
畿内と瀬戸内は水運が非常に発達していました。水運の基点・中継の港湾には、荘園制時代、年貢の陸揚げ、中継・運送を行う問丸(といまる)がいました。彼らは年貢だけでなく、一般商品も取り扱いました。問丸の機能は分化し、堺の豪商である納屋衆のような倉庫業者に、あるいは特定商品、特定地域からの商品を一手に扱う卸売問屋などになっていきました。 
この頃、国内水運や海外貿易に使われた船の規模は、五山僧策彦周良(さくげんしゅうりょう)の「戊子(ぼし)入明記」によりますと、門司所属の和泉丸は2500石という、当時では桁外れに大きく、操船が難しいか、構造上の問題なのか、明への渡航には使われなかったとされています。 
同じく、門司所属の1800石の寺丸も大きな船で、渡航に難儀したと書かれています。他に、門司所属の1200石の宮丸、700石の夷丸が記載されています。この当時は500-1000石程度の船が渡航には最適のようでした。 
1428(正長元)年、将軍・天皇が代替わりし、政情不安な中、近江の坂本・大津辺りの馬借達が徳政、即ち債務の破棄を求めて土倉・酒屋を襲い、借金の証文を奪い、焼き捨てました。 
このような土一揆は洛中にも及び、更に、奈良にも波及しました。驚いた幕府は、徳政を要求する土一揆を禁止しました。しかし、翌年には、大和南部、播磨まで飛火しました。正長の土一揆は情報が入り易い馬借によって始められ、商品貨幣経済が発達した畿内・近国で、そして南朝勢力が残存している伊勢・大和・吉野で起こっています。特に、支配力の強い寺社や公家の領内で起こっています。 
1441(嘉吉元)年、将軍義教が赤松満祐によって殺され、満祐が自害した嘉吉の乱が一段落した頃、近江の坂本、三井寺、京都の鳥羽・伏見・嵯峨・賀茂辺りで一揆が起こります。 
将軍の代替りの時期に、京都を包囲する形で起こります。この嘉吉の土一揆では地侍に率いられた周辺荘園村落の住民が組織的に、大挙して徳政を要求しました。一揆は京都に入り、土倉・酒屋を襲います。幕府は土民だけに徳政を認めようとしますが、武家・公家をも含めた一国平均の徳政を一揆側は要求します。この土一揆は借入れに苦しむ下級武士や、中下級貴族とも繋がっていたと思われます。 
幕府は一国平均の沙汰としての徳政令を発布します。しかし、一揆側は永代売却地や年紀契約地(期限付売却地)が除外されていたため、攻撃はやめませんでした。このため、幕府はそれらも認め、一国平均を天下一同に適用しました。 
これに対し、比叡山延暦寺は反対の訴訟を起こしました。同調して、支配階級や高利貸資本や地主層は攻勢をかけてきました。これに便乗して幕府は再び永代売却地を除外しました。そして土一揆側もまもなく退散しました。 
徳政とは、奈良時代から平安時代にかけて、天皇の病気、飢饉、天皇即位後の大嘗会などに際して、農民救済のため、公私の貸借は破棄することでした。鎌倉時代になると、売却・質入された社寺領の返却に適用されました。これは武家社会にも適用され、御家人の売買・質入された所領を取り戻させ、所領問題の越訴と金銭貸借の訴訟を停止させる永仁徳政令が発布されました。 
室町時代は嘉吉の徳政令までは鎌倉時代の武家徳政と共通していました。1454(享徳3)年の徳政令以降は債務・債権者とも幕府に債務・債権の1/10ないし1/5の分一銭(ぶいっせん)を納めさせ、彼らの権利を認めるという分一徳政令に変わってしまいました。権利者は分一銭を納入しうる者に限られ、債務・債権の両者に、公家や幕府の奉行人、大社寺の関係者が並ぶようになりました。 
ところで、嘉元の徳政令では結局永代売却地は除外され、大社寺・国人領主・地侍・土倉・酒屋の権利は守られました。 
正長から嘉吉における徳政により、債務は帳消しになり、土倉・酒屋は大打撃を受けましたが、債務者は喜んでばかりはいられませんでした。貸出を渋ったり、利子を上げたり、質流れの期間が短縮されることが予想されました。このため、徳政令が発布されても、債務者と土倉との話合いは土倉ペースで進められました。 
荘園村落で行われた在地徳政や私徳政は地侍・名主や社寺が債務者の場合が多く、貸借が破棄され、彼ら指導者層が打撃を受けることはありませんでした。利子や元金の一部免除程度の徳政で終わりました。 
村落内の土地売買・質入・米銭貸借は鎌倉時代以来行われ、村落内の階層化、貧富の差を生じさせていましたが、これは共同体を維持するためには必要なこととされました。
 
応仁の乱

1441(嘉吉元)年、将軍義教が暗殺された後、その子義勝(よしかつ)が7代将軍に就きました。しかし、義勝は病弱で、10歳で死去してしまいます。この後、次男の義政が継ぎ、1449(宝徳元)年、8代将軍となります。 
義政の治世の20年余りの間は、土一揆が頻発し、天災・疫病・飢饉が相次ぎました。しかし、徳政令、土倉・酒屋対策など幕府財政にかかわる政策が優先され、緊急の政治的・社会的問題を積極的に取り組む態度ではありませんでした。 
1459(長禄3)年から翌年にかけて、ことのほか天候不順が続き、日照り・暴風雨・冷害が繰り返し襲い、疫病が流行り、飢餓に襲われました。備前・美作・伯耆で、その状況はひどいものでした。 
1462(寛正2)年、それまでの凶作のため、食糧不足は全国に及びました。京都は生き地獄となりました。餓死者が大量に発生しました。地方でも餓死と流亡のため一村が壊滅した所も少なくありませんでした。 
この様な社会状況の中、義政は室町第の復旧工事を始めました。そんな状況に時の後花園天皇は義政を諌めました。しかし、それも一時のことで、その後も、母のために高倉第をつくりました。 
武家の相続は鎌倉時代、当初は分割相続でしたが、所領の分散を避けるため、惣領の単独相続の傾向が強まってきました。そのため、家督相続争いが激化していきました。足利将軍家の承認が家督相続に必要となり、守護の能力が重視されることが将軍義教の時には顕著となりました。しかし、これはあくまで原則で、一族・家臣たちの力関係によって左右され、将軍の承認は時には紛争をあおる結果となりました。 
斯波義健(よしたけ)が死去すると、一族の義敏が継ぎました。しかし、越前守護代甲斐常治は主君の義敏と対立します。その弟の甲斐近江は義敏をたすけます。義敏は常治との対立で、将軍義政の怒りに触れ、失脚します。その後はその子の松王丸が継ぎ、やがて一族の中から義廉(よしかど)が入って相続します。しかし、義敏は、周防の大内政弘や将軍の側近の支持で、義廉にかわって惣領職に復帰することができました。 
この様な相続争いは畠山氏にも及びました。畠山持国には実子がありませんでした。弟の子政長(まさなが)を養子に迎えます。しかし、実子義就(よしなり)が生まれ、家督を義就に譲りました。 
重臣神保・遊佐(ゆさ)氏は政長を支持します。政長・義就両派は河内・摂津・大和を舞台に、国人領主を巻き込んで争いました。しかし、将軍義政・細川勝元・山名持豊(もちとよ、宗全)が政長を支持したため、義就は吉野に逃れました。政長は1464(寛正5)年、管領に就任しました。 
相続争いには細川・山名の有力者の他、将軍の側近がかかわりました。これら側近の言うがままになった義政は政治には次第に意欲を失っていきました。 
1464(寛正5)、将軍義政は30歳で隠退し、弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ、義視(よしみ)と名乗らせ、家督を継がせ、細川勝元を後見人にしました。しかし、その翌年、夫人の日野富子が義尚(よしひさ)を生みました。義尚を将軍にしたい富子は義視・勝元に対抗して、山名宗全を後ろ盾にしました。 
1467(応仁元)年、管領畠山政長は突然解任され、義就に邸を明け渡すように命じられました。政長を援けていた細川勝元は義就追討を将軍に上申しょうとしますが、山名らに妨げられ、将軍より政長を援けることは反逆行為であるといわれ自重します。 
失脚した政長は洛北の上御霊神社に布陣します。山名方の援助を受けた畠山義就軍は政長軍を打ち破ります。敗れた政長は勝元邸に密かにかくまわれました。 
山名宗全は第一の実力者になりました。勝元は宗全・義就討伐の準備をしていました。東上の噂のある大内氏を牽制するため安芸の毛利豊元(とよもと)に協力を呼びかけました。斯波義敏の軍で山名方管領斯波義廉の領国越前・尾張・遠江に圧力をかけさせました。勝元方の世保(せほ)政康は伊勢の山名方を攻撃し、赤松政則は山名領国になっている旧領の播磨を攻撃しました。 
そして、細川氏の被官の摂津の国人の池田氏が軍勢を率いて上洛する状況になりました。受身に回ってしまった山名方は斯波義廉邸に集まった山名宗全・畠山義就・一色義直は善後策を協議しました。 
洛中の細川勝元邸・山名宗全邸を本陣として、両軍は対峙します。両軍の位置から細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれました。西軍山名方が布陣したところから西陣の名が生まれました。細川方の領国は北陸・畿内・四国で、山名方の領国は細川方の外側の東西の遠隔地にありました。 
足利義視を総大将にした東軍は緒戦では優勢でした。劣勢の西軍に大内政弘、伊予の河野氏の水軍が登場してきました。大内義弘の時代、義弘は足利義満に討たれ、多くの守護職と堺を失いました。これを応永の乱といいます。このため、日明・日朝貿易に深く関わっていた大内氏は、堺を支配し、貿易の実権を握ろうとした細川氏とは対立の関係にあり、山名氏と結びつきました。 
この大内・河野軍が南禅寺に入ると、西軍の動きは活発になり、幕府に隣接する相国寺を巡る戦いは、両軍の主力が投入されました。しかし、それ以降は小競り合いだけの戦いとなり、悪党・野伏・足軽の乱暴狼藉や略奪放火が繰り返されました。 
政争を嫌って、伊勢の北畠氏に身を寄せていた足利義視は義政や勝元の要請で京に戻ってきました。義視は自分を敵視する将軍側近の解任を要求しますが、容れられませんでした。勝元は、義政や富子に遠慮して、義視を支持せず、出家を勧めました。このため、義視は東軍から西軍に身を投じました。 
宗全は義視を迎え入れました。開戦当初、義政・義視・勝元の東軍対富子・義尚・宗全の西軍の関係が、戦い2年目にして、義政・義尚・富子・勝元の東軍対義視・宗全の西軍といった関係に変わってしまいました。 
こうなると、将軍義政・夫人富子は1470(文明2)年、実子義尚を9歳で元服させ、将軍宣下を受けました。しかし、惰性的な両軍の戦闘は続いていました。 
斯波義廉の下で西軍に参加した守護代朝倉孝景(たかかげ)は東軍諸大名の軍を破って武名を挙げていました。しかし、東軍の斯波義敏が越前に引き返し、制圧したため、義廉・孝景は糧道を断たれます。丁度この頃、勝元より孝景は越前国守護職と引換えに東軍への寝返りが打診されます。室町時代、足利一門以外で守護に任命されことは稀で、地頭上がりの朝倉氏が名門の斯波氏に代わって就くことは考えられないことでした。すでに噂にもなり、孝景は1471(文明3)年、東軍に寝返りました。 
当時の武士団は惣領を中心に、一族・郎党へ更に侍身分の若党・中間によって構成され、これに多数の農民が狩り出されました。その頃の構成では、武装農民集団の野伏(のぶし)の比重が非常に高くなっています。 
狭い京都で布陣する大軍に補給することは、その戦いが長引けば、大変でした。そして、その補給を断つには京都を良く知る土一揆の経験がある牢人・乞食・悪党らを使うことでした。 
応仁の乱では、足軽・雑兵といわれる、野伏・牢人・悪党が大量に動員され、補給戦やゲリラ戦が行われました。 
応仁の乱の当初、上洛した守護大名や国人領主達も、戦いが長引くにつれ、領国では守護代や国人領主の不穏な動きが気になり、次第に国許に帰国する者達も出てきました。 
1490(文明2)年、山名政豊が父宗全を見捨てて、東軍に走りました。翌年には朝倉孝景が東軍に寝返りました。このため、1492(文明4)年、宗全は勝元に和平を申し入れます。しかし、東軍の赤松政則が嘉吉の乱で山名氏の領国になった播磨・備前・美作の返還を主張したため、和平は不調に終わりました。 
この和平不調により、山名宗全は自殺を図ります。その傷が下で、翌年の1493(文明5)年、宗全は亡くなります。同年、細川勝元も急病で亡くなります。両軍の中心人物が亡くなりましたが、戦いは都の内外で続きました。 
西軍のうち有力大名は大内政弘だけが京都に残りました。しかし、守護代の反乱や九州の大名の反攻もあって帰国を希望していたため、将軍家もこれをいい機会として、1477(文明9)年、大内政弘の帰参を許しました。西軍のうち、大内政弘と山名政豊だけが将軍家への帰参が許されました。足利義視は土岐成頼を頼って美濃に下って行きました。1473(文明5)年、足利義尚は将軍に就き、母富子は後見役として幕政に深く関わっていきます。応仁の乱の後半からは、酒に浸り、連歌などに凝り、風雅で隠遁生活をする義政を妻子や諸大名も相手にせず、義政は孤独な身になっていきました。 
1482(文明14)年、人々の応仁の乱の痛手が癒えてない中、義政は長年の願いであった東山山荘の造営に着手し、翌年完成し、ここに移り住んでいます。この山荘には東求(とうぐ)堂や銀閣が建てられていきました。 
山荘造営に足掛け9年の歳月と経費・人員が費やされました。造営費は国毎の段銭が徴収されましたが、山城では、寺社本所領から徴発された人夫が動員され、更に、寺社本所所領の負担は荘園農民の臨時課税となりました。応仁の乱の痛手を受けた山城の荘園村落の荒廃に拍車をかけました。 
3代将軍義満以来、公家日野家から将軍家に嫁いでくるのがしきたりでした。日野富子は8代将軍義政に嫁いできました。富子は初めの男子が夭折した時、義政の愛妾今参(いままいり)の局の呪詛のせいとして、今参の局を殺害させました。 
富子は義尚を生むと、義視が将軍になる約束を破り、義尚擁立に執念を燃やし、応仁の乱の要因を作りました。 
富子が政治の実権を握ると、富子に取り入るため、諸大名からの贈物で門前市をなしていたといわれます。 
山名宗全・細川勝元が亡くなり、惰性的戦いが続いていた頃、応仁の乱の発端になった畠山政長と義就は家督・守護職・管領の座を争い、必死に戦っていました。11年に及ぶ応仁の乱が1477(文明9)年終結した後も、政長と義就、それに加担する山城・大和の国人領主達は畿内で戦い続けていました。 
1485(文明14)年になると、南山城を舞台に戦われました。田畠を戦場に、兵糧米の徴発に苦しむ農民、奈良街道の物資輸送で生計を立てている馬借・車借は怒り、地侍も将来に疑問を持ち、住民たちの怒りに動揺していました。 
1485(文明17)年、南山城の国人と呼ばれた地侍や土民と呼ばれた農民達は集会を開き、畠山両軍の山城からの撤退を要求しました。住民の意向や地侍の同調を無視できず、両軍はこれを受諾しました。 
山城国一揆と呼ばれる国人土民の結合と、これを基礎にした自治的南山城の運営である国持(くにもち)体制が、1493(明応2)年まで8年間続きます。 
国一揆の国人達は、両畠山方は国中に入ってはならない、本所領は元のように寺社・本所の知行とする、新しい関所などを設けないの3つの大綱を打ち出しました。そして、国の掟として、本所領は本所の直接支配とし、山城出身者以外の代官の排除を取り決めました。翌年、宇治平等院で国一揆の大集会があり、以上の大綱や国の掟が承認されました。 
山城国一揆を指導したのは、36人衆といわれる地侍たちでした。彼らは荘官や有力名主として地位を築いていた地侍でした。その多くは勝元以来のよしみで、その子の細川政元と結びついていました。36人衆の中から月行事が交替で選ばれ、南山城二郡、相楽(そうらく)・綴喜(つづき)郡の運営が行われました。 
国持体制では検察と断罪の検断権の行使、年貢の半分を徴収する荘園等の半済賦課権、通行管理権の権限が行使されました。これらは本来、幕府・守護の権限に属するもので、山城国守護の権限を代行するものといえました。 
1493(明応3)年、将軍義材(よしき)は、義就の子の畠山基家(もといえ)を討つため、河内に出陣していました。しかし、細川政元はクーデターを起こし、足利政知の子、義遐(よしとお、後の義高)を擁立し、義材を軟禁しました。 
そして、政元は父勝元以来の盟友畠山政長を攻めました。政長は自殺してしまいます。義材はこの後、逃亡し、長く流浪します。 
この様な状況で、細川政元は南山城のことに対応する余裕はありませんでした。山城の守護になった伊勢貞宗は大和の豪族古市澄胤を南山城に入部させようとしました。この様な動きも政元は黙認しました。 
国一揆の指導者達は進攻してきた古市方の井上九郎の軍を迎え撃ちますが惨敗しました。井上はそのまま代官として南山城二郡を支配することになりました。ここに山城国一揆は終わりました。
 
都市と貿易

室町時代は、多くの町が都市としての体裁を整えていった時代でした。土地所有を基礎にした身分制や、惣掟・村掟で規制される農村と違い、芸能・技能で生計を立てることができる自由な雰囲気の職能共同体が成立していったといえます。都市は土地を持たない商工業者・馬借・車借が自立できる機会のある場所であり、農村からはみ出した流民の最後の拠り所でした。 
中世の都市には次のようなタイプがありました。京都・奈良のような古代からの都市、中央都市への年貢や商品の集散機能によって都市化した港湾都市、これには、淀川沿いの淀・山崎、琵琶湖の坂本・大津、瀬戸内の兵庫・堺・室津・尾道・厳島、日本海の小浜・敦賀・三国・直江津、太平洋岸の伊勢・大湊・桑名、九州の博多などがありました。 
地方の有力守護大名や国人領主の城館町ができました。大内氏の山口が特に有名で、他に大田道潅の江戸、越前朝倉氏の一乗谷などがあります。 
社寺参詣の流行によって、有名社寺の門前に、参詣客相手の門前町ができました。摂津西宮、天王寺門前、越前の吉崎御坊、備前西大寺があります。 
遠隔地行商・社寺参詣が盛んになるにつれて、主要街道沿いに宿場町ができました。 
これらの都市が形成され、そこに商人の勢力が台頭し、町人文化が芽生えてきました。京都の商工業者は寺社本所との間で、座人・供御人・公人・寄人(よりうど)・神人という縦割りの身分関係で拘束されていました。しかし、14・5世紀の自由な営業活動により、惣町・町組といった地縁的共同体を作り上げていきました。京都全体は上京・下京を代表する月行事・総代の協議によって処理されました。町衆最大の行事祇園会山鉾(ぎおんえやまぼこ)巡行、禁裏の修理に要する経費割当、喧嘩の仲裁・調停などは土倉・酒屋出身の月行事・年寄によって処理されました。 
15・6世紀経済の発展の上で、職人の役割は大きいものがありました。従来、都では、官衙・貴族・社寺、地方では国衙・荘園政所・地頭に隷属していました。この支配関係は、中世に入ると、本所と座人という緩やかな関係に変わっていきました。中世では、手工業者に限らず、一芸一能で身を立てる人は全て職人と呼ばれました。 
中世の職人は仕事場や市場を確保するには寺社本所に従属し、職能別に座を結成していました。座内では技術に基づき、序列ができていました。職人の報酬は手間(てま)と呼ばれる賃金が払われました。仕事の合間に食料が与えられることもあり、衣服支給の慣行もありました。 
職人の世界では、この時代、後世に残る技術が確立したものもありました。織物では西陣織・博多織が成立しました。 
港町の堺には、15世紀に入ると、綾・羅紗(らしゃ)を織る技術が発達していました。ここに日明貿易により、中国の織物の唐物が入り、明の模様織の技術も入ってきました。応仁の乱を避けて移り住んだ京都の大舎人(おおとねり)織手座の職人達が堺と明の織物技術を学び、京都西陣に帰って伝統の技術と堺・明の技術を融合した西陣織を編み出し、16世紀半ばに、絹織物における地位を確立しました。 
大内氏の支配下で、朝鮮貿易の拠点で、日明貿易では堺と競合した博多にも、大陸の織物技術が伝わり、16世紀半ば、博多織が編み出されました。 
織物業と並んで、金属手工業もこの時代、その技術は発達しました。刀剣・刃物や農機具を作る鍛冶は忙しい時代でした。戦乱があり、また明や朝鮮への輸出品として需要が大きく伸びた日本刀はこの時、名人芸から量産への時代に入っていました。備前の長船・京都の三条粟田口・美濃関などの刀剣生産地が有名でした。 
鍋・釜や梵鐘を鋳造する鋳物師(いもじ)は、河内・和泉の鋳物師が独占的地位にありましたが、15世紀には到る所に鋳物業が成立しました。九州では筑前蘆屋(芦屋)・豊前今井・豊後高田などがあります。 
産業技術の革新は、農業においてもありました。寒冷な気候の東国では早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)が作付けされました。 
西国で作付けされた赤米は、インドシナ半島の占城(チャンパ)を原産地とする品種で、南宋時代江南で普及し、中国との貿易の中で種籾が日本に移植されました。色が赤く、旱魃・虫害に強く、炊き増えする品種でした。気候に適した品種の作付の他に、西国では多毛作と畠作が行われました。 
養蚕・絹織りは、古代では各地域条件を無視して全国に強制されていましたが、地域の特質を生かした特産地が確立してきます。それらは東海・東山・北陸・山陰・北関東地方でした。 
この時代、庶民の衣料の中心になったのは、麻・苧(からむし)でした。これらは全国で栽培されましたが、寒冷地を好むため関東が主産地で、越後は青苧(あおお)の特産地でした。 
木綿は14世紀末からの日明貿易で綿布が入ってきました。15・6世紀になると、その量は急激に増えました。この頃、日本に移植された木綿も定着して、東海道で栽培されたものが京都に入ってきました。この時代、木綿は支配階級の贅沢品でした。 
13世紀半ばから15世紀半ばまで、倭寇によって朝鮮の南岸は荒廃しました。倭寇は2・3隻の小さなものから50-500隻の大きなものまでありました。その根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦が中心で、北部九州・瀬戸内の海賊もいました。 
14・5世紀の倭寇の略奪は米・豆などの穀物と捕虜でした。捕虜は送還する対価として銭貨や綿布を要求しました。 
1390年代以降、日本と朝鮮の公貿易は厳しい制限貿易でした。開港場は富山浦(釜山)・乃而(ないじ)浦・塩浦(蔚山、うるさん)の三浦が指定されました。 
そして、貿易者は朝鮮国王の私印を与えられた者、倭寇懐柔策として、朝鮮で官職を与えられ、貿易を許された者に限られました。また、貿易者は対馬の宗氏の許可を受けるという統制を受けました。 
この様な制限貿易の参加を許れたのは、将軍家、畠山・細川・斯波・山名・京極・渋川・大内・少弐・大友氏、対馬の宗氏一族、壱岐の志佐・佐志氏、宗像社、松浦党の領主層、九州の秋月・菊池・島津・伊集院氏、安芸の小早川氏でした。 
朝鮮貿易の輸出品は畿内や山陽道からは絹・綾・扇子・屏風・刀剣などの奢侈品や美術工芸品が中心で、対馬・壱岐・松浦や南九州からは馬・硫黄・馬具でした。そして、いずれの地方からも、南方の胡椒・沈香・犀角・蘇木などがありました。これは琉球-日本-朝鮮といった三角貿易が博多商人・琉球商人を仲介して展開され始めていました。 
輸入品は、三島地方(対馬・壱岐・松浦)は米・豆などの穀物、九州諸大名は麻布・綿布、将軍や有力諸大名は人参・虎皮・豹皮・特に大蔵経などの経典を求めました。 
1419(応永19)年、朝鮮の軍が対馬を襲いました。応永の外寇と呼ばれています。倭寇の根拠地に打撃を与えるのが目的でした。朝鮮は説明するため、使節を送りました。この使節と幕府の話合いを斡旋したり、使節を応対したのが、博多商人宗金(そうきん)でした。宗金は海賊達とも関係を持っていたと思われ、朝鮮使節が瀬戸内海で宗金の力で海賊の襲撃を避けることができたり、対馬の倭寇の首領の早田氏と組んで貿易をしたことも伝えられています。宗金は、一時中断されていた日明貿易の再開のため、将軍義教の使者として、朝鮮に仲介を依頼しています。 
1401(応永8)年、将軍義満が明に国書を送り、翌年、明の返書を携えた使節が来朝して、平安時代の遣唐使廃止以来途絶えていた日中の国交が再開されることになりました。 
この背景には明にとって冊封体制の中に日本を取り込み、従属させる、倭寇を日本の手で鎮圧させるという意図がありました。日本にとっては、将軍の地位を高め、国王の地位を確立する、国内の大名、特に九州の大名や領主達を貿易参加で統制下に置く、そして、幕府及び将軍家の財政を貿易収入で補うという意図がありました。 
日明貿易は勘合貿易と呼ばれます。これは倭寇と区別するため、勘合符を持参させたため、こう呼ばれました。文字の半分を押印した紙と、別の半分を押印した原簿を勘合、つまり、照合して正規の貿易船かどうかを判別しました。 
日明貿易は15世紀初頭から約1世紀半、19回に及びました。最初8回までは幕府船のみが渡航しました。9-11回は将軍・大名・社寺船が渡航しました。12-19回は細川と大内氏が独占し、実質的には堺・博多の商人が日明貿易を牛耳り、莫大な富を蓄積しました。 
当初、博多・赤間関・門司・蘆屋・兵庫の商人によって運営されていました。しかし、12回の船が戦乱の瀬戸内海を避け、九州南端から土佐を経由して堺に帰港しました。13回目の船は堺から出港して、堺商人はクローズアップされました。 
かって宋や元の時代、南方の産物は中国の商人によって日本や朝鮮にもたらされました。明は鎖国政策を取ったため、中国商人に代わって、琉球商人が活躍しました。 
琉球では、英祖王統が衰え、中山・南山・北山に分裂して争う状況になりました。そして、それぞれが中国に朝貢しました。15世紀初め、中山王尚巴志が三山を統一し、首里を都としました。 
琉球は幕府に使者を送り、琉球船は畿内に来航するようになります。将軍への献上のほか、取引が行われるようになります。南方の産物は支配階級に喜ばれました。琉球商人はシャム・パレンバン・ジャワ・マラッカ・スマトラ・安南にも進出し、仲介貿易を行いました。 
島津氏は地理上の関係もあり、15世紀以来、日琉間の関係に介入しました。1471(文明3)年には、琉球への渡航船取締りを幕府から命じられました。
 
室町時代の宗教・文化

各宗派が政治権力との接触を避けようとした中、禅宗、特に臨済宗は公家・武家と積極的に結びつき、その保護の下、宗勢を伸ばしました。五山官寺制度の下で、中国文化を紹介し、文芸を興隆しました。 
室町時代、禅宗は夢窓疎石(むそうそせき)が基礎を固めた五山派の叢林(そうりん)と曹洞宗や大応派など地方で活動した林下(りんか)の二つの流れがありました。 
夢窓疎石は、当初、天台・真言の教えを学び、更に、宋朝風の禅を学んでいます。そのため、密教的要素が強く、平安以来、密教と縁の深い公家や室町幕府の首脳の帰依を比較的容易に受けることができました。 
夢窓疎石は甲斐の恵林寺(えりんじ)や京都の天竜寺を建立し、その門下には春屋妙葩(しゅんおくみょうは)・義堂周信(ぎどうしゅうしん)・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)などを輩出しました。 
春屋妙葩は2代将軍義詮・3代将軍義満の信任を得て、天下僧録(禅宗の寺院と人事を司る僧職)に任命されます。また京都に相国寺(しょうこくじ)を建て、将軍家の菩提寺とし、夢窓派五山統制の拠点とします。 
五山の制度は、我国に禅宗が伝えられて以来、鎌倉幕府・南朝・室町幕府の保護の下で、整備されていきました。3代将軍義満は京都の南禅寺を五山の上に置いて、京都・鎌倉の五山の制度・順位を決めました。 
五山叢林の寺院が荘園や所領の寄進を受け、経済的に安定してくると、修行がおろそかになり、中国五山で流行っていた文筆活動に専念することが理想と考えられ、五山文学の黄金期を迎えます。 
五山叢林で洗練された文化が、五山文学として歴史的に評価されるまで高められました。そして、いわゆる幽玄・わび・さびといった文学理念や日本人の思想の基礎が生み出されました。 
15世紀後半の東山文化の時代、五山内に浄土思想が入り込み、禅宗の隠遁思想と結び付き、隠者を輩出するようになります。 
五山に対し、林下の禅は南北朝時代に地方に根を下ろしていきました。それらは、色々な派や流れがありましたが、主なものは次の通りです。 
曹洞宗の越前の永平寺、能登の総持寺の系統、曹洞宗で道元の宗風を変え、密教化の色彩を強めていった流れ、臨済宗で隠遁思想の影響を受けた流れ、大徳寺開山の宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)の弟子で、妙心寺を開いた開山慧玄(かいざんえげん)と大徳寺を継いだ徹翁義亨(てつおうぎこう)の二つの流れが有名です。 
大徳寺は皇室や公家に接近して貴族化しますが、中には一休宗純のような型破りな傑僧を輩出します。妙心寺は細川持之・勝元の保護を受け、妙心寺を中心とする開山派は全国に勢力を伸ばしていきました。 
林下の諸派は民衆の信仰を得るために教義を単純化していきますが、禅に参加できる人々は限られ、国人領主・地侍・医者・連歌師・能楽者、そして、博多・堺の商人などのごく限られた人々でした。 
戦乱をよそに文芸に専心する五山叢林の退廃や、諸大名や国人領主の祈祷寺や氏寺になってしまった禅宗寺院に反対し、隠者として批判する禅僧の一群が15世紀現れました。その代表が一休宗純でした。 
一休は後小松天皇の御落胤として生まれたといわれていますが、その根拠ははっきりしません。一休は、粗末な身なりで、酒屋や遊郭に浸ってはばからず、五山の権威主義や貴族趣味に対し、人間的・民衆的禅を身を持って主張しました。 
晩年、戦乱で焼失した大徳寺の再建に尽くしました。そんな一休の元に、連歌の宗祇、能の金春(こんぱる)禅竹、茶の湯の村田珠光、俳諧連歌の山崎宗鑑、碩学者の一条兼良などの有名な人々が参禅しました。 
戦乱のこの時代京都を離れ、地方の大名から厚遇され、儒学を講じた禅僧もいました。特に九州では石見・長門・筑後などの守護や国人領主に儒学を講じた桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)がいました。そして、桂庵は菊池氏や島津氏の求めで、儒学を教えました。特に島津氏の元で熱心に教え、彼の死後、薩南儒学という流れが現るようになりました。 
こうした地方での儒学が興隆することの中に足利学校の存在があります。足利学校は創立は平安時代といわれています。足利氏の本領足利荘に開かれたこの学校の歴史には空白が多くあります。 
関東管領上杉憲実の時、鎌倉円覚寺の僧を招いて、初代の校長にしています。この後は、上杉・武田・後北条・徳川氏の保護を受け、坂東の大学として、その使命を果たしています。教科の中心は儒学で、ここで学んだ学生は故郷に帰って諸大名に召抱えられました。 
親鸞によって開かれた真宗は、彼の死後、京都大谷の祖廟を守り、その血統を受け継ぐ本願寺派、伊勢高田の専修寺派、京都の仏光寺派、越前の三門徒派などの教団が分立し、対立していました。 
本願寺派を除く教団は現世の幸福を求める門徒の要求に応えて布教に異端の方法が取られました。これに対し、親鸞以来の布教の立場を守った本願寺派は沈滞を余儀なくされました。 
本願寺第八世法主(ほっす)に就いた蓮如は農民組織を村の組織ごとに捉え、庶民にも分かるように仮名交じりの手紙である御文(おふみ)を門徒や末寺の坊主に書き与えて、教えを説き、念仏は現世の幸福のためであるとし、門徒には道場の坊主に志(こころざし)を納めるように指導しました。 
蓮如は長い間本願寺で否定されていた方法で布教を行い、親鸞の祖廟と血統によって他の諸教団を吸収していきました。 
本願寺教団の台頭に山門延暦寺は強い脅威を感じていました。山門は京都の本願寺を焼打ち、堅田本福寺に身を寄せていた蓮如・地侍・農民は堅田を捨てて離散しました。 
1471(文明3)年、蓮如は布教の新天地に北陸を選び、その拠点として加賀と越前の国境に当たる吉崎を選びました。 
吉崎御坊で、蓮如は御文を作って門徒に与え、門徒を大切にしました。このため、蓮如に北陸の門徒はひきつけられ、吉崎御坊を訪ねる門徒のために吉崎には宿坊が軒を連ね、寺内町ができました。 
蓮如は自治的村落組織である惣を宗教組織である講に組み替え、講の寄合で、信仰や農事や日常生活を話し合いました。寄合は村落の道場で開かれましたが、それはお堂や門徒の住居が当てられました。道場主は門徒で、多くの道場を統轄したのが末寺でした。 
1474(文明6)年、一向一揆は加賀の守護富樫氏の内紛に介入し、一族の高田専修派の者を駆逐しました。平和的に教団の発展を望んだ蓮如は御文の中で一揆行動を禁止し、守護・地頭への服従、年貢・公事の貢納を説きますが、組織に地方武士を迎え入れた門徒達は蓮如の命令を受け入れようとしなくなっていました。真宗と同様に宗祖の日蓮の没後、多くの宗派に分立して、対立していました日蓮宗は、地方の守護・地頭の帰依を通じて、農民層を信者にしていく方法を取っていました。このため、日蓮宗寺院の多くは領主の氏寺的性格を帯びていました。 
南北朝時代、日蓮宗は京都に進出していきました。この時代、現世利益のために、加持祈祷を行ったことにより支配階級や町衆を引き付きました。 
このように、中央や地方に勢力を伸ばしていた日蓮宗内部に矛盾を抱えていました。各派はその正当性を主張して、一つの教団として大同団結することはありませんでした。宗祖日蓮の純粋さや情熱は薄れていきました。 
こうした中、宗教論争を積極的に行い、厳格な立場を主張した日親が登場してきました。日親は京都で辻説法を始めますが、迫害を受けました。日親の論争を行って折伏(しゃくふく)するという日蓮以来の布教方法は幕府からも、各地の領主からも迫害を受けました。 
度重なる迫害にひるまない日親の態度は、自らの力を信じる京都の町衆の共感を得ました。 
室町時代の文化は、3代将軍義満が晩年、京都北山に築いた山荘に因んだ北山文化と、8代将軍義政の東山山荘に因んだ東山文化の2つの大きな山があります。 
北山山荘金閣の一層は寝殿造の阿弥陀堂、二層は観音を祀る潮音閣、三層は禅室で、全体として浄土・禅を兼ね、住宅と仏殿の融合・調和が図られています。 
東山山荘の建物のうち東求(とうぐ)堂と銀閣だけが現存します。東求堂は義政の持仏堂で、阿弥陀三尊が安置されています。観音堂は後、銀箔で飾ったため、銀閣と呼ばれるようになりました。その一階は心空殿と呼ばれる書院造で、二階の潮音閣は禅宗様と和様を折衷した仏室です。 
庭園については、北山山荘は金閣に焦点が置かれ、建物に付随する形で造られています。東山山荘は庭園の中に建物が溶け込む様な侘びの世界が表現されています。 
東山山荘に見られる書院造は、わが国の和風建築の源流といわれました。平安時代以来の寝殿造は、公家の公的な場と私的な場が包括された建築様式でした。これが15世紀になると、生活の場が独立する傾向が強くなり、書院造に移り変わっていきました。 
この書院造は禅宗寺院から将軍の住居、更に、守護大名・国人領主や公家の邸宅になっていきました。 
東山山荘では寝殿を造らず、謁見や色々の催しの会場として、会所を作りましたが、部屋の壁や襖には障壁画が描かれ、輸入された宋元画などの掛軸を鑑賞する押板が考えられ出されました。これは床の間の前身をなすものでした。 
また、寝殿造は渡来した美術品を鑑賞する棚がありましたが、書院造では押板・床の間の関連で、違い棚が作られるようになりました。 
書見のための出文机いわゆる付書院も必要となりました。寝殿造では部屋の一部に敷かれた畳は、書院造では部屋全体に敷かれました。書院造への変化により、襖による間仕切りが行われ、その装飾で襖絵が流行りました。床の間は書画や生花を飾る場所になりました。そして、掛軸といわれる絵画が流行りました。 
幽玄といった東山文化の独特の雰囲気を最も表現しているのは庭園です。それは象徴美の極限を表したもので、石庭や枯山水といわれるものです。代表的なものに、竜安寺(りょうあんじ)の石庭や大徳寺塔頭(たっちゅう)大仙院の枯山水があります。 
禅宗とともに大陸から伝えられたものに水墨画があります。その絵画を理解するには禅宗の教養が必要でしたが、雪舟が出てからは、日本的な水墨画が完成されていきました。 
雪舟は京都の相国寺の周文に指導を受けます。45歳になった雪舟は周防山口の大内氏の元に来ます。そして、応仁の乱が始まると、明に渡り、3年間水墨画を学んで帰国します。帰国後も、山口に留まり、後、大友氏の豊後府内に移ったり、また山口に戻ったり、晩年は漂泊・行脚を重ねました。 
代表作は豊後時代の「鎮田(ちんだ)の瀑(たき)図」や全国行脚による「山水長巻」「破墨山水」「天の橋立図」があります。 
この時代、脚光を浴びるものの一つに茶の湯があります。喫茶の風習は奈良時代からあるといわれていますが、鎌倉時代になると、栄西により禅宗の喫茶の作法が広く武家社会にも普及していきました。庶民の間にも喫茶は広がっていきました。 
南北朝時代、守護大名の間で、茶の産地を当てるという闘茶という茶会が開かれました。 
喫茶の風習は広い階層に広がり、義政の東山文化の時代には宋元の画を架け、違い棚に唐物の美術品を飾って、茶を味わう書院の茶が行われていました。これに対し、庶民の間の茶の湯に禅の精神を加味した「わび茶」としたのが僧侶の村田珠光(じゅこう)でした。 
珠光の四畳半の「わび茶」を三畳・二畳に縮め、一切の飾りを取り払って、自然のままの姿で見つめようとしたのが、堺の豪商の武野紹鴎(たけのじょうおう)でした。 
「わび茶」は千利休によって大成されますが、庶民の間には形式や作法にこだわらない茶会が催されたり、往来に茶売りが現われたりして庶民の日常生活の中に喫茶の風習は入り込んでいきました。 
この時代、大きく発展したものに能があります。能は奈良春日神社に奉仕する大和四座の猿楽や畿内・近国の有力社寺の神事・仏事に結びついて成立した芸能に起源をもつといわれています。 
観世の祖の観阿弥は大和の結崎(ゆうざき)座を率いて、南北朝時代の猿楽の素朴で庶民的なものを基に、その音曲と技能を高めていきました。 
観阿弥とその子、世阿弥は将軍義満の前で能を演じました。これから先、公家や武士も鑑賞に堪える洗練されたものになっていきました。 
世阿弥は父、観阿弥の遺訓をまとめた「風姿花伝」や自分の能楽論の「花鏡(かきょう)」を著しています。世阿弥は洗練された幽玄・優美な能を心掛けました。 
茶の湯・能と並んで、当時流行ったものに連歌があります。15・6世紀、京都は勿論、大内氏の山口、奥州の伊達氏・駿河の今川氏・能登の畠山氏などの城下町では、当代一流の連歌師であった宗祇(そうぎ)・兼載(けんさい)、宗祇の弟子の宗長(そうちょう)などが訪れ、最大な連歌会が催されました。 
連歌の元は、奈良時代、万葉集にあるような対話問答歌で、平安時代には洒落を競う一句連歌になり、平安後期から鎌倉時代には、五七五七七を繰り返す鎖連歌となり、南北朝時代、連歌の形式も定まり、完成されました。 
茶の湯や能と同じように無常・幽玄を追及し、戦乱などで動揺する心に安らぎを与えて、癒してくれました。代表作は宗祇、その弟子の宗長・肖柏(しょうはく)の3人で詠んだ「水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)」があります。 
この時代あらゆる分野で、農民・商人・職人などの庶民の活躍が顕著になってきました。そんな庶民の活躍は文学の世界でも例外ではありませんでした。 
民間で伝承されていた語り継がれた話が、この時、庶民を対象に読み物にまとめられました。「御伽草子(おとぎそうし)」は、その典型といえます。 
その内容は立身出世譚で、庶民の夢が託されていましたが、その可能性もあるこの時代になって、作られ読まれたと思われます。 
中世の歌謡は古代末期からの今様・和讃・巡礼歌などの仏教歌謡、舞楽に伴う小歌、田植えなどで歌われた民謡などでした。これらの庶民の間で歌われた歌謡をまとめたのが「閑吟集(かんぎんしゅう)」でした。 
能と能との幕間に演じられたのが狂言です。狂言の主人公は無名の者で、滑稽さや風刺を内容としました。そのため、当初は反権力的性格もありましたが、支配階級の前で、能と能の幕間に演じられるに従い、その性格も薄まっていきました。
 
大内氏と北九州

1395(応永2)年、今川了俊は九州探題を更迭され、渋川満頼(みつより)が就任します。了俊を支持した細川頼之が失脚したことが理由といわれますが、少弐氏や大友氏の利権を侵し、領国化しょうとする姿勢に、了俊に従って九州進出した大内氏も、それを嫌い讒言したといわれています。 
渋川満頼は大友・少弐・菊池氏を抑えるため大内氏の助力を頼んでいましたが、1399(応永3)年、大内義弘は、幕府に反抗した応永の乱で、堺で戦死します。 
この後継を弟の盛見(もりはる)・弘茂兄弟が争います。結果的には盛見が家督を継ぎます。幕府は周防・長門・豊前の他、幕府直轄国の筑前を盛見に預け、渋川満頼を補佐させます。 
山口市瑠璃光寺の国宝五重塔は盛見が兄義弘の冥福を祈って香積(こうしゃく)寺に建立したものです。香積寺は後、毛利氏によって萩に移され、その跡に仁保の瑠璃光寺が移って来ました。 
盛見は筑前守護と探題補佐で、博多の貿易利権を獲得しました。しかし、豊後の大友氏は元寇役後、博多の西部を恩賞として与えられていましたし、少弐氏は筑前に勢力を張っていました。 
打倒大内の声が上がり、上洛していた盛見は帰国します。大内氏は歴代上洛していました。この反乱は治まりますが、大友・少弐氏との間は対立したままで、遂に、豊前・筑前で反大内の挙兵があります。これに対し、盛見は筑前に進軍します。1431(永享3)年、大内盛見は筑前怡土郡(糸島郡)で、大友持直(もちなお)・少弐満貞(みつさだ)の連合軍と戦って戦死します。 
大内盛見の死後、兄義弘の子、持世・持盛兄弟の対立があり、持世は弟持盛を豊前篠崎(小倉北区)で討ち果たします。 
更に、持世は大宰府に攻め込み、少弐満貞は自害します。遺児二人は対馬の宗氏を頼って逃げます。対馬に逃げた遺児は再起を図りますが、再び大内軍に攻められます。失意のうちに兄は死去し、弟が少弐家を継ぎ、少弐教頼となり、大宰少弐に任ぜられ、大宰府に復帰します。 
幕府は赤松満祐を討ちます。この時、少弐教頼に対し出陣を命じますが、これに応じませんでした。このため、大内教弘に、少弐教頼討伐を命じます。教弘は大宰府を奪回します。教頼は、配下の竜造寺氏を頼って肥前に逃げました。 
大内教弘は、筑前守護代に陶(すえ)弘房を任じて箱崎に、仁保弘直を大宰府に置きました。その教弘も、伊予へ遠征中に死去しました。この頃の大内氏の領国は周防・長門・豊前・筑前・秋・石見の6ヶ国に及んでいました。 
教弘の跡を大内政弘が継ぎます。政弘が家督を継いで間もなく、応仁の乱が起こります。 
政弘は東軍細川氏と対立していましたので、西軍山名氏に味方して、軍勢を率いて上洛します。少弐教頼は大内氏に対抗して東軍に付き、対馬の宗氏らと大宰府奪回を目指しますが、戦死してしまいました。 
教頼の跡を少弐頼忠が継ぎました。頼忠は1469(文明元)年、対馬の宗氏の軍勢とともに博多に上陸し、秋月・原田・草野・山鹿・麻生・長野氏らが味方し、大内の代官仁保氏がこれに通じて、頼忠を大宰府に迎え入れました。 
大宰府に入った頼忠は九州探題渋川氏を追放し、肥前・筑前の旧領を復し、豊前の大半を制しました。この後、頼忠は上洛し、将軍義政より、一字を戴き、政資(まさすけ)と改名します。そして、大友氏より正室を迎えたり、肥前の千葉氏や、竜造寺氏と関係を固めました。 
応仁の乱後、大内政弘は幕府に許され、帰国します。留守中に奪われていた豊前・筑前の奪回を目指します。1478(文明10)年、政弘は大軍を率いて、博多を奪回し、大宰府に攻め入り、少弐政資は敗れます。政資は肥前に逃れます。 
少弐氏が筑前・肥前の有力国人層を掌握できなかったのに対し、大内氏は巧みに支配下に組み入れていきました。 
九州探題であった渋川氏は少弐・大友の守護との対決に精力を使い、筑前守護の大内氏の圧迫によって、居城を博多から肥前へと変えねばなりませんでした。そして、実力のない名ばかりの探題となり、後には渋川氏は大内氏の部将的な存在となり、事実上、九州探題は崩壊してしまいました。 
応仁の乱後、大内政弘の勧めで、京都にいた連歌師の宗祇は、山口に西下します。山口で厚いもてなしを受けていた宗祇は、領国内の豊前・筑前の国人領主達の招請を受けて、領国内を旅行します。これは政弘からの領国内の視察の任も帯びていました。 
門司に着いたところから、その紀行文「筑紫道記(つくしのみちのき)」は始まります。門司氏の船で小倉から若松に向かいます。若松で麻生氏の歓迎を受けました。 
木屋瀬では、筑前守護代陶氏の館で、連歌の会を開いています。この時代、既に木屋瀬は遠賀川の水運と大宰府道が交差する要衝でした。 
筑前へ進んで、陶氏の博多の居館に着きます。大宰府を訪れ、天満宮に参詣します。宗祇は筥崎宮・香椎宮・宗像宮に参詣しています。 
帰路、遠賀川河口の蘆屋(芦屋)で、宗祇は花尾城を明け渡した麻生家延に接待されています。蘆屋を出て、江川を経て洞海湾に出て、赤間関に着き、山口に帰着しています。 
大友氏は政親からその子の義右(よしすけ)の代になった時、政親・義右親子の不和のため家中が対立します。義右の妻は大内政弘の娘でした。 
1496(明応5)年、当主義右が急死します。父政親は義右毒殺の疑いをかけられ、政親は逃げる途中、大内氏に捕らえられ、自害させられます。このため両派は争いますが、政親の弟の親治が家督を継ぎます。親治は大友家に分裂を狙う大内氏に対し、対抗していきます。 
1495(明応4)年、大内政弘が没し、義興が家督を継ぎます。この後も、大内・大友氏は対立していきます。 
北九州の西部を所領とする麻生氏は、南北朝時代、嫡流の山鹿氏は南朝方につき、庶流の麻生氏は幕府方につきます。そのため、麻生氏は山鹿氏所領の山鹿荘を支配するようになります。 
麻生氏は山鹿氏を凌いで、勢力を伸ばします。この時代、麻生氏は将軍家と直参関係を持ち、奉公衆になっていました。これには、大内氏の後ろ盾がありました。 
大内盛見が筑前守護になった頃より、麻生氏は将軍奉公衆から、大内氏の被官になっていきました。1433(永享5)年、麻生家春が家督を継ぎます。 
この翌年の将軍義教の所領安堵状によりますと、麻生荘・野面荘・山鹿荘・感田荘が記されています。現在の洞海湾を取り囲む北九州西部市域と遠賀郡・直方市の遠賀川流域がこれに当たります。 
家春は少弐氏との戦いに大内方として出陣しますが、その子とともに戦死します。家春の孫が継ぐはずでしたが、病死したため、家春の先々代義助の子、弘家が継ぎました。 
麻生弘家は山口で大内政弘に仕え、側室と間に弘国が生まれました。弘家が重病になった時、内紛が起きました。弘家の跡に先代家春の子、弘助を継がせようとする動きに対し、大内政弘は弘助を殺害しました。 
麻生氏の本拠花尾城には家春のもう1人の子、つまり、家春とともに戦死した子や弘助と兄弟の家延がいました。この頃、応仁の乱の最中で、大内政弘は上洛していました。その留守中に麻生家延は花尾城で挙兵しました。応仁の乱が終息すると、政弘は大軍を率いて豊前・筑前制圧に乗り出します。 
1478(文明10)年、花尾城は大内軍によって包囲されています。博多に入っていた政弘は、部将らに花尾城攻略の指示を出しています。家延は抵抗しますが、遂に降伏し、花尾城を出ました。家延は、遠賀郡吉木村(遠賀郡岡垣町)に岡城を築いて移り住みます。家延の子の興春が麻生家を継いでいきます。 
将軍家の奉公衆であった麻生氏は遠賀川水域の年貢輸送・物流の通行権を支配していました。そして、大内氏被官へ変わっていきます。大内政弘の京都への献上品の中に、筑前蘆屋釜が入っていますが、これは麻生弘家から政弘への協力によるものと思われます。 
この蘆屋釜は京都の茶道界で、非常にもてはやされます。吉木の岡城に移った家延の領内の高倉神社(岡垣町)は蘆屋の鋳物師達が信仰した神社で、彼らが奉納した銅造りの毘沙門天が残っていますし、山口県長門市の大寧寺にある梵鐘も蘆屋で鋳造されたものです。 
時宗の一遍上人が九州を遊行したのは鎌倉時代文永の役の後でした。1368(応安元)年、蘆屋に金台(こんたい)寺が創建されました。当時、金台寺は垂間野(たるまの)道場と呼ばれていました。時宗の道場は芸能・商工を生業にする人々の拠点としても使われました。 
金台寺は麻生氏の保護を受けていたと思われます。1462(寛正3)年から1588(天正16)年までの記載のある時宗の信者である時衆過去帳が残されていて、麻生・香月氏の国人領主や芦屋鋳物師達が記載されています。 
蘆屋津の船乗り達は古くからの海人達であり、この地を支配した麻生氏は松浦党や宗像氏とともに朝鮮貿易に乗り出しました。 
この時代、北九州の東、豊前規矩郡には門司氏、西の筑前遠賀郡には麻生氏が国人領主として存在していましたが、それ以外にも、長野・貫・香月氏などの中小の国人が活動していました。北九州の周辺の豊前仲津・京都郡には宇都宮一族、筑前宗像郡には宗像大宮司家などの国人領主が活動していました。 
豊前・筑前の守護になった大内氏は彼ら国人を家臣団に組み込むことに努力しました。筑前より早く領国になった豊前の門司氏は麻生氏以上に大内氏に接近していて、大内氏奉公人の一人に門司氏はなっています。山口に邸を構え、小郡や赤間関に拠点を置いていました。 
大内持世と持盛兄弟の対立の時、持盛は豊前にいました。大友持直は持盛を援けて豊前南部に進出しています。持直の弟大友親世は規矩郡辺りまで兵を進めています。そして、大内持盛は持世を一時は石見に追い出し、長府に入りますが、最後には篠崎で戦死します。 
戦場になった北九州の国人は大内・大友いずれの旗下に入るか迷ったに違いありません。大内持世に麻生家春や吉志系の門司親忠が従っていることが記録されています。大内教弘の代になると、領国支配の体制が整備されました。 
大内政弘の代は応仁の乱により、政弘が領国を留守にしたため、大友・少弐氏により、更には大内氏内部や被官の間で、大内氏の領国支配は各地で寸断される状態になりました。 
政弘は応仁の乱後、山口に帰国し、翌年豊前・筑前の制圧に取り掛かります。長野氏は応仁の乱前は大内氏、乱の時は大友氏、乱後は大内氏の被官になりました。国人領主層のこの様な動きは当時としては当たり前でした。 
北部九州に進出した大内氏の大きな狙いは朝鮮半島や中国との貿易がありました。1404(応永11)年、明との間に勘合貿易が始まると、幕府の他に、大内・細川・大友・島津氏が参加していましたが、後には、堺の商人と結ぶ細川氏と、博多の商人と結ぶ大内氏に絞られ、関門海峡や博多を抑えた大内氏が圧倒的優位に立つようになっていきました。 
鎌倉後期、筑前国が安楽寺の造営料所となり、領家の菅原氏は知行国主になりました。菅原氏の下で、目代職が正税の徴収を行いました。目代職には留守職の大鳥居氏や小鳥居氏がなりました。 
室町時代になると、彼らは次第に菅原氏の支配から離れ、領主化する傾向にありました。そこで、菅原氏は安楽寺天満宮領の支配を代官に任せ、豊凶にかかわらず、一定の年貢を受け取る代官請負制に切り換えていきます。こうして天満宮領の年貢を菅原氏は戦国時代まで受け取っています。 
豊前の彦山は九州最大の修験道の山です。江戸時代に英の尊称を受け英彦山と書くようになりました。中世には山伏が定着し、衆徒・山伏が一体になって教団を形成しました。南北朝時代、京都から公家を初代座主として迎えました。室町時代に彦山は最盛期を迎え、道場や宿坊数千を数えたといいます。 
同じく豊前の求菩提山(くぼてさん)も中世以降修験道の道場として栄えました。 
豊前規矩郡貫(ぬき)山(小倉南区)も山岳信仰の対象でした。南北朝時代から室町時代にかけて、山麓の社寺の梵鐘を小倉鋳物師達がつくったことが知られています。
 
中世京都における土倉酒屋 / 都市社会の自由

中世社会の権門支配 
なぜ土倉酒屋について研究するのかとよく聞かれるのですが、このテーマを決定するにはかなり長い時間がかかりました。15年ほど前に大阪大学で日本史を勉強しはじめた時、黒田俊雄氏のもとで勉強しましたので、その影響を受け、日本社会はただ武士階級によって支配されたものではなく、いくつかのエリート・グループによって支配されたと考えるようになりました。このエリート・グループというのは、日本語で権門と言いますが、ご承知のように、このことは黒田氏の「権門体制論」に詳しく説いてあります。権門というのは、簡単に言えば、天皇家をふくむ公家、それから武家、寺家、つまり中世の支配階級全体のことです。こういうことを考えながら、博士論文のテーマに「京都における室町幕府」を選びました。その時その一部として、京都の商工業者と幕府との関係を調べたのです。 
それが今の研究テーマの種になったのですが、そこで特に気が付いたことは、室町幕府が成立しても、京都の支配階級は権門社会のままであり、幕府はその中の一つに過ぎなかったということです。というのは、幕府は警察権・裁判権をにぎっていましたが、経済基盤については、他の権門と競争していたからです。そして以前からの諸権門は、権力者としては衰えながらも、権門としてはおどろくほど続いていたのです。 
こうした中で、土倉酒屋は主役の一人でした。というのは、土倉酒屋の領主がたいへん古い権門である延暦寺(山門)とその末社である北野天満宮、祇園社、日吉社であると共に、もう一方で14世紀末から幕府の支配下に入るという、かなり複雑な存在形態を示したからです。室町幕府が一つの権門であるという考え方は通説ではありませんが、経済的には十分言えると思います。そこで、土倉酒屋を通して、幕府と山門との対立、または協力関係というものを検討したのです。 
被支配階級を中心に 
ところが、日本中世史を支配階級の側から見ただけでは、どうも物足りなく思われ、また中世社会の多様性がよく捉えられていないのではないか、と考えるようになりました。特に支配階級の立場から被支配階級を見ると、被支配階級が被害者にしか見えない恐れがあると思います。人間はどんな階級にいても活発に生き、面白いことをしているというのが事実ですから、それを隠してしまうような歴史学のあり方は残念に思われます。 
ただし、中世の場合、平民の生活についての史料は、ほとんど支配階級の手によって残されたものしかありませんので、視野は非常に狭くなります。こうした史料を通じて被支配階級を見るのは難しく、かなりの史料批判が必要です。この問題はヨーロッパの中世史にも同じことが言えますが、最近、ヨーロッパの歴史学者をはじめ、日本の学者も社会史や生活史の面から中世の史料を見直しており、新鮮なアプローチの論文が次々と出されています。中世京都の平民の社会史・文化史の研究では、林屋辰三郎氏や村井康彦氏がパイオニアですが、最近では、たとえば高橋康夫氏や今谷明氏、黒田日出男氏などがおられます。 
ではなぜ、被支配階級の代表として土倉酒屋を選ぶかと申しますと、公家・武家・農民・商工業者などに大量の資本を貸すことによって、土倉が中世京都の経済発展上、大変重要な役割を果していたからです。またそれだけではなく、特に応仁の乱以後に見られる町衆文化の隆盛期にも、彼らは同じような役割をしました。こうした意味では、土倉は被支配階級の代表というよりは、支配階級と被支配階級の間に位置していたというふうに考えた方がいいかも知れません。そこまで言わなくても、少なくとも被支配階級の頂点にあったといえるでしょう。この立場から中世社会を検討すると、諸階級の関係だけでなく、平民の存在も見ることができます。つまり、土倉は中世後期の都市発展の中で、経済的にも文化的にも最も活発な姿を見せたグループなのです。 
土倉酒屋の主な経済活動 
それでは土倉酒屋というのは何でしょうか。私が主に対象としているのは中世後期(室町時代)の土倉の活動ですが、京都には鎌倉時代から高利貸専門業者が数多く見られ、その質物を土塗りの倉庫、すなわち土倉に保管していましたので、彼らのことを一般に「ドソウ」あるいは「ドクラ」と呼びました。そして彼らの大半は酒屋を兼ねていました。巨額の資本を必要とする土倉が、巨額の利益を生む酒屋を兼営するのはあたりまえのことだったのでしょう。室町時代の京都には350軒前後の土倉酒屋があり、京都の住民の金融機関、いわば小型銀行のような役割をしていました。西は東洞院通から東は室町通まで、北は三条通から南は五条通までの間に、集中的に土倉がありました。つまり、皆さんが合お集まりになっているこのあたりは、500年ほど前には土倉がぎっしりだったのです。現在この辺が銀行、保険会社、リクルートのビルなどでいっぱいであるということは、いかにもふさわしいと思います。 
領主との関係 
土倉酒屋の大部分は、鎌倉時代から山門の支配下にあり、多くは延暦寺の僧でした。また組織的には、日吉社や祇園社の神人として、あるいは北野天満宮支配下の酒麹の座員として、山門と関係を結んでいました。いずれにしても、土倉は座、あるいは座的な組織として領主と主従関係にありました。それによって、土倉は山門やその末社である祇園社などに賦課を納めるかわりに、洛中洛外で独占的に営業を行う特権を得ていました。 
山門との関係とは別に、土倉酒屋は禁裏、つまり朝廷にも酒屋役の形で課役を納めていました。これには造酒司という律令国家の官職があたっていましたが、中世には朝廷の権力がかなり衰えたため、山門の支配力の方が圧倒的でした。 
山門支配下にあった土倉酒屋にとって、室町幕府が京都に成立したことは大きな意味を持ち、大きな変化をもたらしました。南北朝内乱が終わった次の年、明徳4年(1393)に幕府が出した「洛中辺土散在土倉并酒屋役條々」は大変有名な史料ですが、これによって、幕府が土倉酒屋を財源としてねらっていたことがはじめてはっきりします。それによりますと、土倉酒屋が年に6000貫文を幕府政所に出し、その徴収は将軍に任命された有力土倉が行なったことがわかります。この人々は納銭方といい、都市民の間でもっとも裕福で、影響力がありました。徴収の方法は土倉酒屋の大きさによって計算され、酒壷という酒の入れ物の数によって酒屋役が課せられたようです。それから酒屋役とは別に、土倉役も納めました。これは質物の数によって計算されたようです。 
さて、この室町幕府法令と土倉酒屋の関係について、注意すべきことがいくつかあります。まず第一は、この法令によって以前の領主であった山門の支配権が否定された、と佐藤進一氏などが言われている点です。この説によると、この時から領主の臨時課役が一切禁じられ、そのかわりに幕府の課役が賦課されたということになります。しかしこの説について、私は疑問を持っています。あとで詳しく考察しますが、このことによって土倉の負担が特に軽くなったわけではありませんでした。以前の領主によって守られていた独占権などは廃止されましたが、そのかわりに将軍の力が後授はなったといぇましょう。 
第二に注意したいのは、この幕府法によって組織的な意味で土倉酒屋の存在が大きく変わったことです。前に納銭方のことを申しましたが、この過程で土倉が幕府組織に組み入れられたのです。少なくとも納銭方になった土倉は、都市民としての存在をかなり高めたのは事実だと思います。こうして土倉の威信が一層拡大され、彼らは都市民の第一人者になったと思われます。したがって、土倉にとって幕府との関係は非常に重要だったのです。 
幕府による規定 
次に幕府が土倉酒屋を統治するためにどんな規定を作ったかを見てみましょう。それにはまず、先の法令に記されている6000貫文という大量のお金に注意する必要があると思います。どのくらい厳密に信じればいいのかは疑問ですが、幕府は土倉酒屋から一応これぐらいを徴収するつもりだったと思われます。 
嘉吉元年(1441)頃の法令の中には、土倉が質物の種類によって預かる期間と利子を規定したものがあります。これは嘉吉の徳政一揆の要求に応じたものであるという可能性が強いのですが、幕府がどれほど正確に高利貸を統治しようとしていたかがよくわかります。たとえば、絹の着物、絵、書籍、楽器、家具などは月に5%の利子、預かる期間は12ケ月まで、お盆、お茶の道具、香合、金属武具などは月に6%、期間は20ケ月、お米、他の穀拠などは月に6%、期間は7ケ月と知られるのです。よくわかりませんが、値打ちの高いものは利子が高く、長持ちするものは長く預けられるということでしょうか。土倉にとって、この法令がきっちりした規定になったのかどうかよくわかりませんが、一応の基準として理解すればいいでしょう。 
幕府の保護 
これとは別に、徳政令によく見られるのは、幕府が一時的に借金を免除するということです。ある文書によると、20年以上前の借金は免除されませんが、最近の借金は全部徳政令によって免除されています。こういう借金免除によって徳政一揆が鎮まり、京都が普通の状態にもどると、今度は幕府は徳政を禁ずる徳政禁制を発布します。そうしますと、土倉はまた営業できるようになりますが、しばらくしてまた債務者の不満が溜ると、再び一揆が起こります。この循環は正長元年(1428)から百年近く、何度もくりかえされました。一揆をおさえるには、ある程度徳政令はやむをえませんでしたが、徳政令が多過ぎると、幕府の財源になる土倉が営業できなくなり、幕府の収入も減るので、早く徳政禁制を出したようです。つまり、京都の経済が活発であればあるほど、蕃府にも有利であったため、土倉をかなり大事にする政策が一般的に見られるのです。幕府は土倉酒屋を経済的にきずつけないほど得になり、土倉酒屋も裕福になるのです。 
幕府のこうした態度を示す文書も残っています。ある文書によりますと、文明8年(1478)11月13日の夜、将軍のお屋敷、花御所が焼けた際、馬場典四郎という土倉が火事の漬任者とされ、その土倉が?所となりました。この火事は放火ではなかったのですが、将軍の屋敷を焼いたということで大変な犯罪でした。しかしその史料によりますと、三万疋(300貫文)を払えば還住を許す、つまり土倉として高利貸活動を再び行ってもよろしい、としています。馬場は土倉だったので、かなり軽い刑罰を受けるだけで済んだのです。これで洛中の土倉が幕府にとってどんなに重要な財源であったかがよく分ります。 
また別の文書にも火災に関するものがありますが、この場合、被害者は土倉で、四条油小路東頬にあった土倉酒屋が焼けましたが、その際債務者が倉から質物を取ることを、幕府が禁じています。こういうふうに幕府は土倉酒屋の営業継続を守りました。 
土倉役・酒屋役の実際 
次に土倉酒屋が室町幕府に実際にどのくらいの土倉役・酒屋役を納めたかを見てみたいと思います。これがわかれば、土倉酒屋が実際どのくらい室町幕府に支配されていたかということもわかると思います。この点については、史料上非常に確めにくいのですが、私は98年間にわたる五つの文書を参考にしたいと思います。まず覚えておいていただきたいことは、最初に申しましたように、幕府の収入目標は年間6000貫文であったということです。実際に納められた額についての史料は少ししか残っていませんが、嘉吉元年(1441)の文書には、3ケ月分の酒屋役として、327ケ所の酒屋から880貫600文を納めたことがわかります。この文書の後半には、月別に政所がどのようにこのお金を支出するかが書いてありますから、この880貫600文は3ケ月分の収入だと私は解釈しています。そうすると、1年分に換算すると、3532貫文になります。これとは別に、室町幕府は土倉役を徴収しました。そうすると、嘉吉元年には大規模な徳政一揆がありましたから、土倉役は少なかったかもしれませんが、15世紀半ばには、幕府は土倉酒屋から目標の6000貫文、あるいはそれを上回る額を得ていたと考えてもよいでしょう。このことは、室町幕府が土倉酒屋に対してかなり力のある領主になってきたことを示します。次に文明7年(1475)正月の文書には、納銭方の一人、定泉坊の集める分が記されていますが、そこには1ケ月41貫文と書いてあります(年に492貫文)。これについては、別の史料で、定泉坊が文明7年正月に確かに41貫文を集めたことが知られます。しかしこの史料については、問題がいろいろあります。たとえば、上京の「当構并西陣下陣」という範囲が、洛中の土倉酒屋の何%を含むかがわかりません。それからこの41貫文は主に土倉酒屋役と思われますが、味噌屋役なども入っているかもしれません。それにしても34年前の状態に比べて、かなり収入が少なくなったとしか思えません。その理由の一つとして、文明7年は応仁文明の乱の終わり頃で、多くの土倉酒屋が焼けてしまい、京都の経済が破壊されていたことがあげられるでしょう。 
さらに永正6年の文書によりますと、1509年正月の酒屋役は、上京・下京を合わせて15貫百文になっています。もしこの金額が洛中の酒屋役の100%を示すものとすると、幕府の収入はびっくりするほど急減したということになります。しかし必ずしもそうではないかもしれません。というのは、そこに記されている「上京・下京」が具体的にどのような範囲なのかはっきりしませんし、この酒屋役が一人の納銭方の集める分かもしれないからです。それでもやはり、この文書も幕府の土倉酒屋役かのの収入減少の傾向を示すものと思われます。 
と申しますのも、別の史料によりますと、15世紀末頃、室町幕府が洛外、山城、近江の土倉酒屋からもはじめて酒屋役をとろうとしていたことが知られるからです。理由は幕府の収入が減ったからでしょう。こうした史料から16世紀はじめの京都の経済は、最低のレベルに落ちていたと言えます。これによって、応仁の乱以後の幕府の権力が京都でも衰えたとみることは、少なくとも幕府の土倉酒屋からの収入が減ったことによっても、推測することができると思います。 
免除特権と「賄賂」 
天文8年(1539)のある文書には、次のような面白い条文が見出されます。その第一条には、上京・下京の10人づつの納銭方は、免除特権を持つ土倉酒屋を除いて、毎月7貫文づつを幕府に平等に納めるべきだと書いてあります。そうすると、幕府の公的収入(土倉酒屋役)はこの百年間にわたってかなり減ってきたことになります。ただし免除特権を持つ土倉酒屋は、そのための「賄賂」あるいは「礼銭」をほとんど毎月払っていたと思われます。その意味では、幕府の公的収入は減っても、私的収入(賄賂)がいくらかあったと想像できます。 
この「賄賂」、あるいは「礼銭」については後でお話しますが、なぜ私が土倉酒屋役についてこれほどこだわるかと言いますと、今まで明徳4年の幕府法令に見られる6000貫文を、事実そのまま土倉酒屋からの年間収入として解釈してきましたが、私はどうもそう簡単に解釈できないと思うからです。もし幕府の土倉からの収入が減ってきたとすれば、幕府の支配力の衰微を示す一方で、土倉酒屋が徐々に領主から独立してきたことをも示すのではないでしょうか。以上の文書解釈については、文書の性格上、数学的に分析できないので、一般的傾向を示すものとして見ておきたいと思います。 
では本題にもどりますが、これから述べますことは、法制上では異常なものですが、中世では日常的だったと思われます。まず臨時課役について述べましょう。一番最初に申しました文書の第二条には、次のようなことが記されています。それは土倉酒屋役を集めるかわりに、寺社并びに公方臨時課役を免除する、というものです。しかし実際には日吉社、祇園社だけでなく、室町幕府でさえ、しばしばそうした臨時課役を土倉酒屋にかけたことが史料によって知られます。1494年には幕府が将軍足利義高の元服行事の費用を商売業者に負担させていますし、こういう史料は室町幕府においては特にめずらしいものではなく、臨時課役は実際よく課されました。しかし先の元服行事に際しての文書の最後に、「狼籍の輩にいたりては罪料に処せられるべし」とあることから察して、土倉酒屋が言われるままに臨時課役を納めたとは思われません。 
では免除特権というのはどういう意味を持ったのでしょうか。それは、領主にとっては収入をある程度減らすことを意味し、負担者にとっては負担を減らすことを意味します。それがあまり数多くなりますと、領主制そのものがぐらつく一方、負担者側は独立性を強めます。応仁の乱以後の京都は、確かにそうした段階にあったと思われます。この過程で利益を得るのは、決して一般都市民ではなく、都市民のトップクラスであった土倉、その中でもさらにトップクラスであった納銭方たちでした。 
もう一つ注意していただきたいのは、中世にはびっくりするほど「賄賂」がはやっていたということです。「賄賂」という言葉は非常に近代的な表現ですから、「賄賂」と言いますと、今では法律違反と考えられますが、中世ではそういう感覚はなかったと思います。「賄賂」よりも「礼銭」「心付け」といった方が正しいかも知れません。つまり領主側が無料で免除特権を与えるはずはなく、私的な形で領主、あるいは下級役人が「礼銭」を受け、免除特権を与えたようです。その結果、領主制度上の公的収入は減りますが、私的な形での収入はいくらかふえて行ったと思われます。 
この「礼銭」は一時的なものだけではなく、毎年、あるいは毎月払う場合が多かったようです。土倉酒屋の免除特権の場合、納銭方が免除を与える権利を持っていましたので、「礼銭」の大部分は納銭方がもらったようですが、幕府もその一部をとっていたことを示す文書も見られます。同じことは山門にも見られます。少なくとも16世紀に入ると、京都周辺の領主制はくずれはじめたと考えられます。免除特権や礼銭の多さは、その徴候として考えればよいでしょう。 
山門支配の存続 
今まで幕府と土倉酒屋の関係を中心に考察してきましたが、室町幕府が成立する前に土倉酒屋の領主であった山門は、室町時代にどうなったのでしょうか。明徳4年の幕府法令によって、その支配力は完全に否定されたのでしょうか。 
山門支配が続いた証拠として、脇田晴子氏が文安の麹騒動をとりあげられました。酒麹というのは酒の醸造原料となり、蒸した米に麹かびを繁殖させるものです。中世では、山門の末社である天満宮支配下の酒麹座が、この酒麹製造の独占権を持っていました。この座は独占権を持っていたので、酒麹に高い値段を付けたようです。これに他の酒屋が反発し、1444年に爆発したのです。この経過は大変複雑ですが、麹座に反対する酒屋は山門西塔のお坊さんの後楯によって室町蕃府に訴訟をおこし、その圧力に幕府が屈して、酒麹座は解散させられました。それ以後、普通の酒屋でも麹室を設けることが許されましたが、室町幕府の土倉酒屋支配の開始はこの事件の半世紀以上前ですから、この山門の重要な役割を見ますと、幕府は山門の支配力を完全には否定できなかったようです。 
これとは別に、洛中の土倉酒屋は鎌倉時代から毎年山門の末社、祇園社に馬上役という賦課を納めていましたが、これも室町幕府の支配にもかかわらず、ずっと続いたようです。(馬上役というのは、もともと祇園祭のためのものでしたが、室町時代になると、月に3回ほど払う課役と考えた方がいいようです。)これに似た課役としては、山門の末社日吉社に、洛中の土倉酒屋が酒屋役を戦国時代にかけて納め続けました。これらの例は断片的ですが、山門の土倉酒屋支配は前より限られたとはいえますが、何らかの形で室町時代を通じて存続したことを示しています。 
これは土倉酒屋にとってどのような意味をもったのでしょうか。それは前の領主から開放され、新しい領主の支配下に入ったのではなく、むしろ二人の領主の支配下で二重に課役を徴収され、一層苦しんだということでしょうか。しかしそうした見方には賛成できません。というのは、応仁の乱以後、幕府との関係とちょうど平行して、山門も免除特権を広く与えるようになるからです。つまり諸領主の支配力が弱くなったわけです。 
その例として、「真乗院文書」をあげることができます。それは日吉社の下級職員であった賢継という土倉が1482年に記した請文案文で、そこには馬上役が大変減少してきたので、日吉社が困っていると書いてあります。その原因は、賢継が馬上役の免除特権を多くの土倉に与えてしまったからです。一方、土倉酒屋は景気が悪いのでなかなか馬上役が払えないと主張して、免除特権を受けたようです。応仁の乱からそんなに時間がたっていませんから、これは本当の話か言い訳か不明です。ところが面白いことに、最終的には賢継が日吉社に60貫文の資金を提供しているのです。つまり、賢継は免除特権の見返りの「賄賂」―つまり銭―でたっぷりもうけていましたので、領主である日吉社の収入減を、これで補傾したわけです。日吉社に提供した資金は利子なしで、日吉社にとっても利益になったでしょう。 
ここで注意していただきたいのは、土倉賢継のあり方です。すなわち、幕府も日吉社のような領主もこの頃から収入が減少し、領主制的な中世経済組織が深刻に破壊されてきた状況において、大型の土倉酒屋は領主制から解放されたとまでは言えませんが、中間的立場でかなりの経済的余裕を得ていたと考えられるのです。別の言い方をすると、有力な土倉酒屋は領主制を有利にあやつるようになり、その過程で領主に被害を与えたということです。こうした状況について、諸権門に対して都市民が立ち上がり、自治都市への傾向がみられるという説もありますが、私はそれはちょっと言い過ぎだと思います。しかし16世紀はじめ頃から、領主制がくずれはじめ、その中で有力都市民である土倉は大いに利益をあげることによって、独立性を示してきたということには間違いはないでしょう。 
応仁の乱と法華一揆 
ご存知のように、応仁文明の乱は1467年から10年間にわたる武家階級内の大規模な内乱ですが、初期のうちに洛中の大部分は焼けてしまい、土倉酒屋の多くも姿を消しました。経済回復には何年もかかり、残った土倉酒屋も商売できないため、京部を去ったものが多かったようです。 
しかし最終的に残った土倉酒屋は頑強で、先に賢継という土倉のことを申しましたが、領主の支柱となり、独立性を強めるようになります。それとともに応仁の乱以後の土倉酒屋は、僧名よりも俗名を持つ人が多くなり、段々と俗人化していったようです。これは山門との結び付きが役に立たなくなったからで、領主側の弱体化を物語るでしょう。つまり主従関係ではなく、金の力―実力―で動く社会に移りはじめたことを意味します。 
より直接的に応仁の乱に関連したことを申しますと、有力土倉が個人的に防衛措置を行い、徳政一揆を自分の力で京都から追出した例があげられます。これは土倉が都市民を組織して率いたもので、「土倉軍」という用語もでてきます。武装の様子は、下級武士とあまりかわらなかったでしょうが、応仁の乱を経ることによって、土倉酒屋が都市民の第一人者になったといっても言い過ぎではありません。もちろんそれは急な現象ではありませんが、経済的軍事的政治的きっかけとして、応仁の乱は劃期的でした。 
次に土倉酒屋に対する天文法華一揆の意味を考えてみたいと思います。ご存知のように、洛中では応仁の乱後、法華宗が急速に宗勢をのばし、土倉酒屋の多くはもともと山門の憎の身分を持っていたにもかかわらず、他の都市民と同じように法華宗徒になりました。これはどういうことかと言いますと、一つには山門の洛中に対する実力が衰えたことにより、山門という権門が土倉酒屋にとって前ほど役に立たなくなったこと、二つには土倉酒屋の都市民としての自意識が発達したことが考えられると思います。 
都市民は洛中にあった法華宗の21のお寺を中心に法華一揆という組織を作り、天文元年(1532)から5年にわたって洛中を支配しました。この段階で京都は自治都市になったという説もあります。「町組」という地域的共同組織の単位が上京・下京・洛中全体に広がり、警察・防衛・裁判などの機能をにぎっていました。また町単位で領主に納める地子銭(近代でいう地代に近い)を拒否したとよく言われますが、これは必ずしも全面的な現象ではなかったと思います。しかし今谷明氏が最近出された本によると、天文法華一揆が1536年に山門の力で済滅してからも、地子銭を領主に払わない都市民がおり、それを受け入れた領主もいたということですから、都市民の独立性は簡単には破られなかったようです。 
このことが土倉とどういう関係があるかといいますと、まず「町組」の指導者は、侍に三条・四条・五条あたりでは、土倉であった場合が多かったと考えられます。応仁の乱でも見ましたが、地域結縁関係が強まる中で、土倉の防衛・軍事の指揮活動は天文法華一揆の際には制度化され、土倉はその制度内の権力者であったと思われます。このことは、実質的な土倉の役割は以前とあまり変わらなかったかも知れませんが、都市そのものが組織的にかなり成長してきたことを示しています。 
もう一つ忘れてはいけないのは、法華一揆を撃破した兵火の被害は、応仁の乱をはるかに上まわり、都市民としての土倉酒屋にとって大きな打撃だったことです。しかしその後の都市再建や経済回復に際しては、資金が必要だったでしょうから、その意味で土倉は利益を得たかもしれません。 
町人としての土倉酒屋 
次に土倉の町人としての存在についてお話したいと思います。土倉酒屋は室町時代を通じて経済力を拡大し、それを基盤にして有力都市民になりました。「有徳人」という言葉がありましたが、もともとこのトクは「得る」という字で書いたと思われます。室町時代には商品経済が発達し、都市社会が成長してくると、金持ちの商人がふえてきましたが、「有徳人」とはそんな裕福さを祝う言葉なのです。「有徳人」の代表は何といっても土倉酒屋でした。その経済的地位から、土倉酒屋は優雅な生活ぶりを見せました。それはたとえば、洛中洛外図屏風などを見ますと、数少ない二階建ての家が土倉のものだと推定できることから明らかです。文化的な面でも、「看聞御記」によると、伏見の土倉で茶室まで設けた者がいるとありますが、伏見にそうした土倉がいたのなら、洛中にも当然いたと思われます。 
町衆文化という表現がありますが、これは林屋辰三郎氏などがよく使った言葉ですが、先に申しました「町組」に住んだ住民は「町人」と呼ばれました。それが応仁の乱の頃から、町の名に「衆」という字を付けて呼ばれるようになります。たとえば「六町衆」「室町衆」などと呼ばれ、それで一般に「町衆」と言われるようになりました。この呼び方は、特に下京に多かった商工業者を示したようです。 
この町衆文化の特徴の一つは、民衆文化である芸能(たとえば小歌や風流踊など)でありながら、公家文化と接触することでした。つまり町衆が支配階級の文化(お茶、能、狂言など)と被支配階級の文化から要素をとって、新しい快い文化を生んだのです。こういう「混合文化」の背景には、「有徳人」の土倉酒屋の経済力がありました。土倉酒屋は、応仁の乱以前は祇園祭などの経済的基盤でしたが、段々そういう受動的役割から文化への参加者、指導者へと転じてゆきます。応仁の乱以後、紙園祭が復活された時、お宮中心の祭から町中心の祭に性格が変ったとよく言われますが、その町人の第一人者は土倉酒屋でした。 
都市民から見た土倉 
さて都市民文化のパトロン、「有徳人」、町の組織的指導者になった土倉は、一見立派そうに見えますが、都市民の目からどういうふうに見られていたのでしょうか。これについての史料は直接にはありませんが、どんなに大切な役割をはたしていたにしても、まず高利貸として一般に嫌われていたことは間違いありません。たとえば「籤罪人」という狂言がありますが、その中で祇園祭の際に土倉の一人が平民達に冷かされる場面があります。また「洛中洛外図屏風」の中に、土倉はほとんど見付かりません。土倉は洛中に何百軒もあったはずですから不思議です。その点について高橋康夫氏に聞きましたら、土倉という建物は大きいので、限りある屏風の画面に描きにくかったのかもしれないが、高利貸というのは一般に嫌われていたので、絵描さんにも嫌われていて、意識的に描くのを避けたのでしょうと仰って、なるほどと思いました。 
しかし都市全体が徳政一揆の攻撃の対象になった場合はどうだったでしょう。土倉は徳政一揆の原因であるため、ますます恨みをかったでしょうか。それとも徳政一揆を防ぐため、都市民は恨みを飲んで土倉酒屋と同盟したのでしょうか。この点については、土倉軍の人数を見ますと、土倉以外の都市民が沢山加わったと推測され、都市民がある程度同盟した、あるいは土倉の指揮下にあったと思われます。これについてはこれからも考える必要があると思います。 
結論 
最後に今日の話を簡単にまとめます。中世社会は諸権門に支配されていたとはじめに申しましたが、被支配者のトップクラスであった土倉酒屋の存在を見ますと、それはある程度「自由」を含んだ支配だったと言えるでしょう。発表のサブタイトルに「自由」という問題の多い言葉を使いましたが、これはフランス革命や民主主義でいう「自由」ではなく、むしろ中世の堅苦しい領主制の中での「自由」という意味です。つまり、くずれかけた領主支配の内に、経済力を持つ土倉酒屋が狭いすきまを開け、そのすきまの中で余裕のある存在を見せたということです。しかし、このために諸権門の支配力が完全にくずれたとは言えません。領主支配というのはかなりの回復力を持っていたことは、土倉酒屋が毎月の課役の他に、臨時課役を多数の領主に納めていた事実によっても明らかです。しかしそうした中で、中世後期の経済発展が土倉酒屋に力を与え、彼らは免除特権や礼銭の仕組みによって独立性を強め、限られた範囲ではありながら、都市の自治組織や都市の文化において大変重要なグループになりました。 
私は領主制内での土倉酒屋の成長を主張し、経済力をもって土倉が領主に対して圧力をかけることができたと述べ、その結果として都市の第一人者になったと説明しましたが、しかし逆にもう一つ考えねばならないことは、土倉と領主との関係は、土倉の都市内での成長によって動かされたのではないかということです。つまり、土倉は都市内での地位の向上によって、領主(幕府や山門)に対して独立性を得ることができたのではないでしょうか。この点につきましては、これからも研究を進めながら、もう少し検討してみたいと思います。
 
中世の商業・金融
 

虎視眈々 
交通の要衝は、いつも権力者たち垂涎の的である。「鶴見寺尾図」の域内にある「横浜港」は、南を内東京湾に面し、東に多摩川(六郷川)の河口、北に鶴見川、西に帷子川の河口を有する海上交通のターミナルだから、遅くとも縄文時代の頃には、様々なヒトやモノが集散する交易の拠点であっただろう。 
「万葉集」の時代以前より、既に東国と西国の交通路が開けていたことは、千葉県市川市に伝承される「真間手児奈の昔話」や神奈川県横須賀市に伝承される「オトタチバナヒメとヤマトタケルの昔話などからも伺われるが、「それが誰の知行する場所であるか」を戦略的に構築し、自らの権力構造に組み込んでいったのが、天皇家と摂関家、そして大寺院と大神社であった。 
諸地域での都市の成立 
そのころ(11〜12世紀)になると、本州、四国、九州でも地域の中心、あるいは交通の要衝に都市が成立してきます。京都はもちろんですが、東北の平泉もまぎれもない都市ですし、十三湊、秋田、多賀城をふくむ陸奥の府中など、あちこちに都市ができてきます。 
関東でも、源頼朝がそこに拠点をおく前から、鎌倉は都市としての性格を多少とも持っており、東国国家の中心、「東国の都」になっていきますし、それと結びついた六浦津も港町になっていきます。霞ヶ浦や北浦には、鹿島の大船津など津がたくさんありますが、これらもみな都市的な性格を持つ場所でした。 
北陸の三国湊、敦賀、小浜、琵琶湖の大津、坂本、海津、塩津、堅田(かただ)、船木など、みな都市といってもよいと思います。さらに宇治川、淀川では、宇治、山崎、淀、吹田、江口、神崎など、みな都市的な場所ですし、瀬戸内海に面した倉敷、尾道、竈戸(かまど)、北九州の博多、宗像(むなかた)、有明海の神崎、南九州の坊津(ぼうのつ)など、ちょっと数えあげただけでもきりのないほど多くの都市が現れつつありました。 
それ故、この時期の支配者たちも、当然このような商業や流通の実態を考慮に入れて支配体制をつくっています。十一世紀後半ごろから、天皇家、摂関家、あるいは東大寺、興福寺、延暦寺などの大寺院、上下賀茂、伊勢、日吉(ひえ)、春日、石清水八幡などの大神社は、それぞれ諸国に荘園や知行国を確保して、年中行事となっていた法会や祭りなどの費用をまかなうため、年貢・公事(くうじ)などの租税を、特定の田畠、荘園や公領から、それぞれ独自な支配組織によって自前でとりたてるというやり方がはじまります。 
そうした動きの中で、荘園と公領=国衙領の区別が次第にはっきりさせられ、十三世紀前半までに荘園公領制という土地制度が確立し、貴族や寺社はその上に自分たち独自の経済体系をつくり上げていくことになります。しかし、そこにいたるまでの貴族や寺社の荘園や公領の設定の仕方を見ますと、じつによく考えていることがわかります。 
たとえば摂関家についてみますと、頼朝の時代に宇治に邸宅があり、平等院が有名ですが、そのほか巨椋池(おぐらいけ)に富家殿(ふけどの)、岡屋殿などの殿舎があります。宇治川、巨椋池は、京都に入る河川交通の要衝ですが、まずそこを押さえており、さらに淀川にそって、山崎、楠葉(くずは)、淀などに拠点を持ち、瀬戸内海にも交通上の重要な拠点を押さえています。 
天皇家の場合、院政期にその拠点にしたのが鴨川の東、川東の白河で、山をこえるとすぐ琵琶湖に出ることができる交通の要地ですが、そこに白河殿という宮殿をおき、法勝寺(ほっしょうじ)など、六勝寺といわれる寺院をつくっていることは周知のとおりです。 
それから十二世紀には鳥羽殿をつくります。これは鴨川、桂川の合流点で、宇治川、淀川にもつながる水郷地帯で、ここには大きな宮殿がつくられただけでなく、殿人(とのびと)や雑色(ぞうしき)などといわれる職能を持つ人々が宮殿に属しており、政治・経済の拠点になっているのです。天皇家も京都周辺の河川交通の実態を十分に見きわめており、海上交通についても、北九州の宗像(むなかた)社、有明海に面した神崎荘(かんざきのしょう)など、大陸との貿易の拠点になるところも院は押さえているのです。 
寺院や神社の場合も同様で、神護寺は若狭国の西津荘(にしづのしょう)を所領にしているのですが、その本体からかなり離れたところに多烏浦(たがらすうら)、汲部(つるべ)浦という港になる浦を押さえていますし、新日吉(ひえ)社領の倉見荘は内陸部の荘園なのですが、常神(つねかみ)半島の突端近くの御賀尾浦(みかおうら)を所領にしているのです。このように、浦々が荘園の飛地になっている場合がしばしば見られるのですが、これはこの時期の支配者が、いかに海上の交通を考慮して所領を集めたかをよく示しています。 
平氏も同様で、鳥羽殿(とばどの)にある院の厩(うまや)の管理者、御厩別当(みまやべっとう)になります。そうすると、厩に属している牛馬、それらを駆使する職農民である牛飼、車借(しゃしゃく)、御厩舎人(みまやのとねり)、居飼(いかい)にもなっている馬借(ばしゃく)を統括できます。また印の厩の所領は川ぞいの牧が多く、京都の南の巨椋池の周辺に、美豆牧(みずのまき)という、津でもあり、牧場でもあるところが厩の所領になっています。淀川にはそういう牧・津があちこちにありますが、厩別当(うまやのべっとう)になると、そういう所領が自分の手中に入ることになります。 
また平氏は、瀬戸内海の要衝厳島をはじめ、多くの荘園を持ち、九州では宗像社を支配し、太宰大弐(だざいのだいに)になって大宰府をおさえ、博多を支配しています。そして有明海の神崎荘も院の下で管理者になり、宋との貿易を掌握しているのです。 
これまで、荘園、公領というと、われわれは土地、田畠の問題だけを考えてきたのですが、自らの立場を保つのにそれなりに必死だった当時の支配者、貴族や寺院や神社は、決して田畠のことだけを考えて所領を集めていたわけではありませんでした。もちろん、荘園の田畠に賦課されている年貢や公事、いろいろな特産物も、十分考慮に入れていますが、それだけでなく、津、泊(とまり)、浦など、河海の交通、山野なども計算に入れ、総合的に考えて荘園を設定しているのです。 
しかも「日本の歴史をよみなおす」でも少し触れましたが、神社、寺院、天皇家、摂関家などは、廻船人、商人、職農民の集団を、神人(じにん)、供御人、寄人(よりうど)などの称号をあたえて独自に組織しています。 
このように、この時期の支配者は土地だけでなく交通体系を独自におさえ、さらに一方では多様な職農民集団を組織しており、平安時代末のころに確立した中世国家は、王朝国家にせよ東国の国家にせよ、このようにしてはじめて成り立ちえたのです。 
これまでの歴史家は、中世社会を、もっぱら農業を基礎にした封建社会と考えてきましたが、この社会はそれだけの定義ではとうていとらえきれないものがあります。そして、荘園制は本来、自給自足経済であったという、一時期まで通説だった見方にまったく根拠がないことは明らかです。 
そして、まだ神仏と結びついているとはいえ、商業資本、金融資本が動いており、米、絹、布などは、交換手段、支払手段、価値尺度の役割をはたす貨幣として機能し、本格的に流通しているわけで、十二世紀にはこうした経済のあり方が起動にのっているのです。王朝国家はそれを、荘園公領制と神人・供御人制として制度化しているのですが、その制度やこうした社会を、人類社会の中でどのように規定することができるのか、これはすべて今後の問題といわなくてはなりません。  
貨幣経済と市庭  
交通の要衝には、人・モノ・情報が集散する。つまりそこは、3次元的な物流の拠点であるだけでなく、商業・金融業ネットワークの結節点でもあり、古来より物流に携わる廻船業者や馬借、車借をはじめ、交易の実務に携わる商業民が集住する場所でもあった。 
日本列島で貨幣経済が急速に発展した鎌倉時代以降、こうした商都の重要性は、それ以前に比して飛躍的に高まったと考えられる。まして「鎌倉」の北方に位置する「鶴見寺尾郷」の地域は、もとより軍事上の大切な防衛拠点だが、良港を有する交通・交易の拠点としても、また金融経済上の拠点としても、幕府が必ず抑えなくてはならない最重要都市のひとつとされたはずだ。 
悪党と海賊 
このような十四・五世紀の新見荘の状況は、決して例外ではなく、日本列島の北の端から、南の端まで、全域でこういう状況が見られたのです。 
たとえば北方を見ますと、第二章でもふれた津軽半島の安藤氏の拠点、十三湊は、十四世紀には都市として最盛期をむかえており、西の博多に匹敵するといってもよいほどの繁栄をしていたことが、最近発掘によって明らかになりました。町並みをもつ都市であり、中国大陸の銭や中国製の青白磁が大量に出ますし、高麗青磁も出てきます。十四世紀から十五世紀にかけて、十三湊が北の国際的な都市になっていたことは間違いありません。 
また南方では、薩摩の坊津にも十二世紀から中国大陸の船が入っていますし、有明海に面した神崎のあたりからは、やはり中国製青白磁が大量に発掘されています。新見にも青白磁が発掘されており、さきほどの新見荘の人びとの生活も、東アジアと深く結びついていたのです。 
ただ、十三世紀後半以降の為替手形の流通が、どのような組織の力で保証されていたのかは、大きな問題です。当然、不渡り手形、「遠い割符」の出る場合もありえますが、このような場合や、手形をめぐる紛争がおこったとき、だれがどういう方法で保証し解決してくれたのかという問題です。 
この時代の公権力は、このような手形の流通についてはほとんど保証していません。京都の王朝政府も、鎌倉幕府も、荘園や御家人の所領など、土地問題についての訴訟は非常に熱心にとりあげ、その解決のための手続きも整備しています、とくに鎌倉幕府は御家人を基盤にしていますから、御家人の生活の基礎である所領の問題についての訴訟は、所務沙汰といって、きわめてていねいに扱い、熱心に制度を整備しています。 
ところが、銭の貸借や商業・流通関係の訴訟は、雑務沙汰といわれて、鎌倉幕府の訴訟制度の中で、制度があまり整っていない部門であり、資料もほとんど残っていないのです。雑務沙汰という名前自体、この分野の訴訟が重要視されていなかったことをよく示しています。 
これは古代以来のことで、国家の「農本主義」がここによく現れているのですが、前にも述べたように、十一世紀頃までの国制の外にあった神人、寄人たちは、自立的な金融・流通のネットワークをつくり、裁判も自分たちでやり、判決を自らの実力、武力で執行していたのです。 
もちろんこれは公権力としては具合の悪いことで、王朝国家は、神人、寄人の活動に対する統制を強化する一方、神人、供御人制を公的な制度とし、十二世紀から十三世紀初めのころまでにこれを軌道に乗せ、その活動に枠をはめたのです。 
しかし、十三世紀後半から十四世紀にかけて、貨幣経済がさらに一段と発展してきますと、金融・商業の組織や、廻船のネットワークは、前よりもずっと規模が大きく、また濃密になってゆきます。供御人、神人、寄人の組織は、さらに広域に広がり、緊密の度合いも強くなって、公権力の枠をこえて独自な動きを強めていかざるをえなくなってきます。 
こうして、交通路、流通路を管理する人びとの組織の新しい活動が、この時期に目立ってくるのですが、このような人びとの動きが、権力の側から、悪党・海賊といわれたのだと思います。 
たとえば、時宗の開祖の一遍上人の遊行を描いた「一遍上人聖絵(ひじりえ)」という絵巻の中に、尾張の甚目寺(じもくじ)で一遍が行法(ぎょうほう)を営んだときの有名な話が出てきます。そのとき時衆(じしゅ)たちの食糧が尽きて、いささか疲労のようすが見えたところ、萱津宿(かやつのしゅく)にいた二人の徳人、お金持ちが、同時に同じ夢を見て、一遍に施しをすることを毘沙門天に命ぜられたので施しをしたという話があります。 
この徳人が、絵の中の高下駄を履いて団扇を持ち、総髪の変わった姿をした「異形」の人なのではないかと「日本の歴史をよみなおす」でふれましたが、この絵のあとの詞書には、尾張、美濃の悪党たちが、一遍上人の布教にもし妨げをする者があったら、厳しく処罰をするという高札(こうさつ)を立て、その結果、三年の間、一遍たちはこの地域での布教を、山賊や海賊による妨げを受けることなく、平穏にすることができたと書いてあるのです。 
当時の尾張、美濃の地形はいまとは大変ちがって、海が深く入りこんでいますので、悪党の中には海や川にかかわる海賊もいたと思うのですが、そのような海賊悪党たちが、公権力とかかわりなく自立的に高札を立てて、一遍たちの交通路の安全を保証しているわけです。 
これらの悪党や海賊の実態は、「海の領主」、「山の領主」のような、交通路にかかわりを持つ武装勢力をはじめ、商業・金融にたずさわる比叡山の山僧や山臥などであったことがわかっています。このように、交通路の安全や手形の流通を保証する商人や金融業者のネットワークは、十三世紀後半から十四世紀にかけて、悪党・海賊によって保障されていたと考えられます。 
これらの人びとはみな、もとは「遊手浮食の輩(ともがら)」などといわれ、賭奕などにもたずさわっていた人びとですが、このころの悪党・海賊は広域的な組織を持っており,何かもめ事がおこると、賄賂、礼銭を取り、訴訟を請負って解決してくれるわけですから、紛争の当事者も積極的に代償を払って、悪党にその解決を依頼するわけで、事前にわいろをとるのは「山ゴシ」、事後に礼銭をとるのを「契約」といったといわれています。 
この組織の中には女性もいたことは確実で、この時期の金融業者・商人の中には女性が多いことは明らかですし、遊女がかかわっていたことも考えられます。十四世紀のはじめに、兵庫関に乱入した悪党の大集団がいますが、この悪党を「籠め置いた(堀籠の起源?)」、庇護した人の中に女性が見えるのです。これは、商人・金融業者、あるいは遊女である可能性が大きいと思います。  
悪党 
日本列島では、縄文時代後期には既に塩の専売商人がいたというから、中世に日本海側と太平洋の双方から信濃に繋がり、列島を南北に横断した「塩の道」なども、おそらくはそれ以前から似たようなルートが開かれていたものと想像できる。 
海洋に浮かぶ大小の島々からなる日本列島では、律令時代に国家としての体制が整備される以前から、交易・商業民が海や山や川のミチを通り、「国境(その頃の国の概念が、どのようなものであったかはわからないが)」を越えて活躍していた。 
そうした商業拠点にいち早く注目し、荘園として自らの支配下に置くことで、奈良・平安時代に富と権勢を誇ったのが、蘇我氏を滅ぼした藤原氏(天智天皇の腹心・中臣鎌足を祖とする)だった。 
しかし貨幣経済の発達につれ、鎌倉時代頃にまでに、国家制度の枠外で活躍する富者としての商業民たちが自立的に台頭してくると、朝廷や幕府はこれを統制、あるいは懐柔しながら、その富のネットワークを手中に収めることに腐心するようになる。 
「悪」とは何か 
もちろん、国家権力が、このような動きを無視しているはずはありません。特に地頭・御家人たちの所領を基礎にしている鎌倉幕府にとって、こういう動きが活発におこり、地頭・御家人がこれにまきこまれ、所領の秩序が混乱することは、とうてい黙視できない事態でした。 
それ故、十三世紀後半から十四世紀にかけて、幕府は執拗なまでに悪党・海賊禁圧令をくり返し発しています。モンゴルが来襲し、外敵と戦争しなければならない時に国内にこういう動きがあるのはたいへん具合が悪いので、幕府は海の領主や山の領主、流通路の領主たちの自立的な組織を、悪党・海賊として武力的に禁圧し、統制下にいれようとしたのです。 
特に幕府の中で、地頭・御家人の所領を基礎とする「農本主義」的な政治路線に立ち、将軍の家臣である御家人勢力を背景にして、理想的な政治、徳政を行うことを標榜する立場に立つ人びとの、悪党・海賊にたいする禁制はきわめてきびしいものがありました。 
銭、貨幣の魔力にとりつかれ、利潤や利子を追求する商人や金融業者、交通路である山や河海にかかわりつつ、狩猟や漁撈のような殺生を好み、博打に打ちこむような人たちは、田畠を基本と考える農本主義的な政治路線に立つ人たちにとっては、まさしく「悪」そのものだったのです。 
この時代の「悪」ということばは、日常の安穏を攪乱する、人の力をこえたものとつながりをもって考えられており、利潤や利子を得る行為そのもの、商業・金融業そのものを悪ととらえる見方がありました。さいころの目で事を決める博打や、「好色」=セックス、さらに穢れそのものも、人の力をこえたどうにもならない力として「悪」ととらえられたわけです。 
ですから、異様なほどの力を持っている人について、人の力をこえたものがその人を動かして、異様な力を発揮させているとして、悪七兵衛(あくしちびょうえ)、悪源太(あくげんた)、悪左府(あくさふ)のように、「悪」をつけてよぶのも同じ「悪」の用法です。金融業者、商人、海の領主、山の領主の組織が「悪党」といわれたのは、「悪」にたいするこの時期のこうしたとらえ方が背景にあったと思います。 
このように、十三世紀後半から十四世紀にかけての、鎌倉幕府の悪党にたいする厳しい弾圧は、公権力からはずれた商人や流通・金融業者のネットワークをいかにしておさえつけるかにあったのですが、逆に、幕府の内部には、むしろこうした金融業者や商人の組織、流通の組織を積極的に支配のなかに取りこんでいこうとする、もうひとつの政治路線がありました。 
このころ、鎌倉幕府の中枢部で最大の勢力になった北条氏の家督-得宗(とくそう)の家臣の御内人(みうちびと)たちは、むしろ商人や金融業者と結びついて、河海や山野の交通路を積極的に支配しようとしていたのです。 
所領を自分の家臣に分けあたえ、主従関係で結ばれた組織によってこれを支配するというのが、本来的「農本主義」的な領主の支配の仕方と考えられていたのですが、御内人は、金融業者の代官に所領の経営を請け負わせてしまいます。さきほどの新見荘の代官のような僧侶、山僧や山臥を代官にして、契約した分を収入にするとともに、必要な銭を融通させて、豊かな消費生活を志向する。さらに北条氏は、海上交通の要衝である各地の重要な津・泊を所領にして、そこに出入りする船には特権をあたえ、廻船交易の上前を取っています。 
たとえばさきほどもふれましたが、関東御免津軽船といわれ、関東=北条氏によって特権をあたえられて、津軽まで往復し、交易を営んでいる大船が、十四世紀初めごろ、二十艘あります。越中の放生津(ほうじょうづ)や、若狭の多烏浦(たがらすのうら)などにこのような船がいたことがわかっていますが、このように流通・廻船交易の組織を、北条氏は積極的に容認することによって掌握しようとしていたのです。この路線は、さきほどの農本主義的な路線と真っ向から対立することになります。 
実際、鎌倉時代後半から南北朝前半の政治情勢は、この二つの政治路線の激しい対立の中で動いています。いちばん有名なのは、弘安八年(一二八五)の霜月騒動が、北条氏の御内人の勢力を代表する平頼綱と戦って敗北し、滅ぼされた事件です。これを境にして、幕府は悪党・海賊のネットワークをひたすら弾圧する方向だけでなく、むしろそれを支配組織のなかにとりこんでいこうとする方向にも動きはじめます。 
たとえば、中国大陸との貿易、唐船の派遣についても、十四世紀になると北条氏がほとんどこれを独占してしまいます。それまでは西園寺家などの貴族や有力御家人が中国大陸に唐船を派遣して貿易をしていたのですが、十三世紀末には、「唐船」派遣は北条氏の独占になりますし、有力な港はほとんど北条氏が所領としておさえてしまいます。 
このようにして、北条氏は日本列島のなかの商人・金融業者のネットワークのほとんどを自分の統括下に入れ、さらに列島外との交易のネットワークも、統括下に入れて統制する方向で政治を進めていこうとしたのですが、やがてこの政治路線も、海上勢力の強烈な反発を受けることになります。 
十四世紀に入ってまもなく、西国、西海で熊野海賊の大反乱が起こります。実態はよくわからないのですが、紀伊半島から瀬戸内海、九州にかけて、強力な力を持っていた熊野神人が、北条氏のこのような専制統制に全面的に反発し、北条氏が十五ヵ国の軍兵を動員し、二、三年かかってようやくこれを鎮圧できたといわれるほどの大反乱を起こしたのです。このときの十五ヵ国の軍兵の動員は、承久の乱や、幕府が滅びるときの楠木正成の戦争のときの動員に匹敵するくらいの大兵力で、この反乱が、これだけの兵力ではじめて弾圧できたほどに、深刻で大規模だったことがわかります。 
しかも同じころ、北でも「蝦夷(えぞ)」の反乱といわれる、北海道の海上勢力と北条氏との大衝突がおこっているのです。アイヌはこのころ活発な交易活動をしているのですが、北方の都市津軽の十三湊(とさみなと)に根拠を置き、日本海側から北海道にいたる商業、貿易のネットワークをおさえている安藤氏の一族内部の対立もからみ、アイヌをもまきこんだ大反乱が起こります。何回かくり返しおこったこの反乱を、北条氏は結局滅びるまでついに鎮圧しきれませんでした。 
こういう状況の中で、後醍醐天皇が登場してくるのです。後醍醐は、このような北条氏に反発する悪党・海賊の武力にも依存して鎌倉幕府を倒します。それゆえ、後醍醐の政治は、得宗と御内人の推進した政治を、さらに極端にまでおし進めたと考えることができます。 
後醍醐は、新政府を樹立する前から京都の酒屋に税金をかけ、京都の商人たち‐日吉社、春日社、石清水八幡などの神人を全部供御人にして、天皇直属にし、京都の土地を自らの直轄化におこうとしているのです。また、地頭の所領の所出-収入を銭で換算し、その二十分の一を税金として取り、それを京都の金融業者‐土倉(土倉)に私、制符の財政をまかせています。 
さらに後醍醐は、銭を鋳造しようとし、とくに貨幣の発行を計画しています。これは結局実現しなかったのですが、為替手形が活発に流通していることを考えますと、紙幣の発行は決して非現実的ではなかったと思います。このように後醍醐の政治は、まさしく非農業的で、商業・金融業者に基礎を置いた政治だったわけで、このような方向の政治は否応なしに専制的な方向になっていくと考えられます。 
十三世紀から十四世紀の政治は、農業中心の農本主義的な政治、土地を基礎にして租税を取る体制を軸にして政治を進めていく路線、地頭・御家人の所領を基礎にした体制を保持し、荘園・公領の多畠家からの年貢、地子を取ることに重点を置く政治の路線が一方にあるのにたいして、新しく発達してきた商人や金融業者、廻船人の活動を積極的に組織し、流通に基礎を置き、西方、北方に向かって列島外の地域との貿易を発達させ、それにも基盤を求める政治を推進しようとする方向が他方にあります。 
この二つの政治路線、社会の動きが厳しく対立し、大動乱が起こる結果になるのですが、大まかにみると、後者の路線がその中で次第に優位をしめていきます。そして十四世紀末の足利義満の政権は、後醍醐がやろうとして失敗したことをほぼ実現することに成功したのです。これ以降、農本主義は背後にしりぞき、しばらくは、商業・金融を肯定する風潮が表にでてきます。 
「土地の悪者」 
「鶴見寺尾図」の「子ノ神」位置に重なる師岡熊野神社(724年創建)の「いの池」には、「熊野権現は土地の悪者と戦い、弓矢で片目を射られた」との由緒がある。  
楠木正成 
鎌倉時代末期の「悪党」として、最も有名なのは楠木正成(くすのきまさしげ/?年~1336年)だろう。 
正成の前半生については不明な点が多く、父は楠木正遠、母は橘盛仲の娘とも伝えられるが定かではない。幼名を多聞丸(たもんまる)といい、正慶元年(元弘2年/1332年)の「天竜寺文書」には、「故太宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録」に「和泉若松荘」を「悪党楠木兵衛尉」が不法占拠したことが記されている。 
正成は、河内(現・大阪府東部。河州ともいう)を中心に水銀などの流通ルートで活動した、「悪党」とよばれる土豪(商業的武士団の雄)であったと考えられているが、1332年の上記文書で「兵衛尉(ひょうえのじょう/宮廷中枢部の警備を担当する)」の職にあることから、これ以前より朝廷に仕えていたことが伺える。 
正成は、1331年の後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐に呼応して、河内の赤坂城で挙兵するが落城(→【建長寺船と海の交易権】)。しかし翌1332年、後醍醐天皇が隠岐に流刑となる間も、護良親王の吉野での挙兵に応じて、河内の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城「千早城」で、幕府軍を相手に奮戦した。 
正成らの行動は、幕府により一旦は鎮圧されるが、こうした動きに触発され、各地に倒幕の機運が広がると、足利尊氏、新田義貞、赤松円心らも挙兵して、1333年6月に鎌倉幕府は滅亡する。 
そして、後醍醐天皇が隠岐を脱出して京へ凱旋する際には、正成は兵庫に出向いて道中警護の任につき、その後の後醍醐天皇による建武政権下で異例の昇進を遂げ、記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉・摂津3国の守護となった。 
建武二年(1335年)、足利尊氏が後醍醐方から離反すると、正成はこれを九州に駆逐したが、翌1336年、光厳上皇の院宣を得て再び京都へ迫る尊氏を前に、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言する。しかし後醍醐がこれを退けると、正成は再起した尊氏の大軍と戦い、摂津湊川(みなとがわ)で敗死している。  
佐々木導誉 
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけ、常に権力の側に立ちながら「悪党・楠木正成」と対峙したのが、「婆沙羅(ばさら)大名」として名を馳せた佐々木高氏(ささきたかうじ・1296-1373年)だ。 
高氏の父は佐々木氏の庶流である京極宗氏、母は京極宗綱の娘だが、1304年に外祖父で京極佐々木氏嫡流であった宗綱の後を継いで近江国地頭の家督を相続し、1314年に左衛門尉、1322年に検非違使となった。 
検非違使の役にあった時、京で後醍醐天皇の行幸に随行。また鎌倉幕府では北条高時に御相供衆として使え、1326年に高時が出家すると、ともに出家して導誉と号した。さらに1331年の「元弘の乱」では足利尊氏に従い、鎌倉幕府の鎮圧軍と共に上京して、事後処理を担当。そして後醍醐天皇らの隠岐島配流の際は、道中の警護などを務めた。 
後醍醐の配流後も、楠木正成らは河内で反幕活動を続けていたため、北条氏は下野国(現・栃木県と群馬県の一部)の足利尊氏らを討伐に派遣したが、このとき導誉は、天皇方に寝返って北条氏討伐を決意した尊氏と連携するかのように、元亨三年(1333年)五月九日、近江国・番場で東国へ退却途中であった北条仲時の軍勢を阻んで、蓮華寺で一族432人と共に自刃させ、光厳天皇や花園上皇を拿捕すると、天皇から「三種の神器」を強奪している。 
そして足利尊氏、新田義貞らの活躍で、1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、導誉は建武の新政下で、雑訴決断所の成員となった。 
しかし、足利尊氏の不参加で武士層の支持を大きく欠いた後醍醐天皇の新政に対して、各地で反乱が頻発し、1335年に信濃で北条高時の遺児・時行らを擁立した「中先代の乱」が起こって、時行勢が足利直義(尊氏の弟)が守る鎌倉を占拠すると、これを討伐に向かう尊氏に導誉も従軍し、鎌倉を奪還した尊氏が独自に恩賞の分配を行うと、導誉も上総国や相模国の領地を与えられた。 
この後、後醍醐天皇は鎌倉に滞在していた尊氏に上洛を求めたが、尊氏がこれに背くと、遂には新田義貞に尊氏・直義の追討を命じ、足利勢は九州へ一時退却を余儀なくされる。が、足利勢は再び京へ向かい、「湊川の戦い(1336年・建武三年五月二十五日)」で新田・楠木軍を撃破、京で光明天皇の即位を後押しして北朝を擁立し、武家政権(足利幕府・室町幕府)を樹立すると、後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させた。 
この南北朝内乱期に、佐々木導誉は八面六臂の活躍で、近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の守護を歴任し、1337年には勝楽寺(現滋賀県甲良町)に城を築くと、以降没するまでこれを本拠地とした。 
1340年、子の秀綱とともに、白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ち。これに対して山門宗徒が処罰を求めて強訴すると、朝廷もこれに同情して、幕府に対して導誉を出羽国に、秀綱を陸奥国に配流するように命じたが、幕府はこの命令を拒否。結局、導誉父子は一時的に上総国に配流となったが、すぐに幕政に復帰している。 
足利幕府の政務は、当初、将軍・尊氏と足利家執事の高師直(こうのもろなお)、将軍の弟である直義の二頭体制で行われていたが、高師直と直義の関係が悪化すると、1350年に始まる「観応の擾乱」と呼ばれる内部抗争に発展する。この時、導誉は尊氏の側に属したが、南朝寄りの直義派が台頭すると、尊氏には南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言している。そして尊氏はこれを受けて、正平一統が成立し、直義は失脚して、毒殺された。 
しかしこの正平一統も、北朝上皇が南朝に奪われたことで破綻すると、幕府は後光厳天皇を擁立して北朝を再建し、将軍権力の強化に尽力する。そして1358年に尊氏が死去すると、子の第2代将軍・足利義詮の室町政権下、導誉は政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停する一方、幕府執事(のちの管領職)の細川清氏や斯波高経・義将親子の失脚にも積極的に関与した。 
また南朝との交渉も行い、1367年に鎌倉公方(かまくらくぼう/幕府が関東統治のため、鎌倉に設置)の足利基氏が死去すると、鎌倉へ赴いて事後処理を務め、同年、導誉の推薦を得た細川頼之が管領に就任されている。 
1373年、導誉は78歳で死去。戒名は勝楽寺殿徳翁。墓所は京極氏の菩提寺である「徳源院(滋賀県米原市清滝)」と「勝楽寺(滋賀県甲良町)」の2箇所にある。 
導誉は、南北朝動乱期の社会的風潮「ばさら(身の程をわきまえない、華美で無遠慮な振る舞いをすること。語源はサンスクリット語のvajra〜金剛〜とされる)」を好み、和歌・連歌・立花・茶道・香道を嗜み、また近江猿楽の保護者として文化事業にも注力したことが知られている。近江で琵琶湖水運の支配権を手中に収めた導誉が、幕政においても公家との折衝を対等にわたりあうだけの文化的素養と財力を有したことが伺える。  
改革派対守旧派 
1020年、菅原孝標女が「上総(かずさ)」より帰京する頃、東国には国内外の交易にかかわる人々が集住したであろう「もろこしがはら」という場所が存在していた。 
そして源頼朝が鎌倉にやって来た頃、日本列島の、特に「東国」と呼ばれる地域では、急速に貨幣経済が浸透し 、13世紀には「鎌倉大仏(浄土宗高徳院清浄泉寺の本尊)」を、源頼朝の侍女・稲多野局(いなだのつぼね)の発願で、僧・浄光が民衆の浄財を集めて建立できるほどに、民衆の経済力は大きなものとなっていた。(大寺のほとんどが、天皇をはじめとする権力者の庇護下で創建されることをおもえば、この頃の鎌倉の民力は、ひとたび結束しさえすれば、既にそれに匹敵するまでに成長していたことがわかる) 
貨幣経済はその後も拡大を続け、「元寇(1274年・1282年」の頃には、ある種の金融バブルというほどに肥大化してゆく。 
しかし、東アジアで永く覇権を誇った宋が滅亡し(1279年)、「宋銭」という基軸通貨が崩壊すると、はじめに国外貿易が、次いで国内の交易が、新しいあり方を模索せざるをえなくなった。なぜなら、鎌倉をはじめとする各地の市でも、宋銭が流通していたのだから。 
建武の親政の立役者で、忠臣の鏡のようにいわれる楠木正成(→【前々項】)は、「悪党の親玉」としてこのような経済的混乱の渦中にあって、自らのような商業的武士団を「悪党」として成敗しようとする古い政権を打倒し、新しい時代を作りたいという願いを有していた。 
一方で、琵琶湖水運の支配権を手中に収め、常に権力の側に立ちながら、公家や貴族と対等に渡り合えるだけの財力と文化的教養を身につけた道誉も、固定化された身分階級や神仏の権威といった古い制度に依拠することなく、経済の力で国を豊かにしたいという理想を心に描いていた。 
東アジアの動乱と、市民経済の台頭という新しい時代の中で、政権奪取を求めて敵対する両者は、共に、同じ目標を掲げて新しい国家のあり方を模索する、時代の先駆者であったということができる。 
そしてこの二人に対し、旧体制を維持することで、商工業の利権を守ろうとしたのが、古く奈良時代より栄華を誇る公家〜藤原一族の西園寺家であった。 
西園寺公衡が発願し、1309年(延慶二年/第8代征夷大将軍・久明親王が将軍職を解任され、京に送還された翌年。)に奈良の春日大社に奉納された「春日権現験記絵巻」(かすがごんげんけんきえまき/「春日験記」とも)というのがある。 
この絵巻は、藤原氏の氏神である春日明神の霊験を、華麗濃密な色彩と躍動感あふれる線で描いた大和絵の集大成ともいうべきもので、詞書(ことばがき)は覚円親王と鷹司基忠父子ら、絵は高階隆兼(たかしなたかかね/「絵預所(えどころあずかり)」に所属する当時の宮廷絵師のトップ。同系統の技法を持つものに「石山寺縁起絵巻(1325年頃)」「玄奘三蔵絵」などがある)の手になる一級の美術品である。 
物語、歌、絵巻物といった文化の力は、この頃はまだ王権の象徴として強い「魔力」を有していたから、西園寺公衡は、それらを駆使できる自らの特権的な身分を利用し、神仏の権威に依拠しながら、商業・交易の富を維持・確保しようと試みたことが伺える。 
絵巻は、ちょうどこの秋(2009年11月17日〜29日の期間)、「奉納700年記念 春日権現験記の世界」と題して、「春日大社宝物殿(奈良市春日野町160)」で公開される。現代の「馬のミチ」ともいうべき新幹線に乗って、古都散策に出かけてみるのも一興だろう。  
貨幣の力神仏の力 
鎌倉で、摂家将軍に続いて親王将軍が次々に擁立されていた頃、西行に心酔して、その足跡を辿る旅に出た後深草院二条が、当地のさまを「とはずがたりに記した。 
その「とはずがたり」の作中で、「曙の君」として描かれたとされる西園寺実兼の嫡男・公衡は、嘉元二年(1304年)の夏に父・実兼の関東申次を世襲し、延慶二年(1309年)に左大臣に至ったが、わずか3ケ月で辞職し、同年、南都(奈良)の春日大社に奉納する「春日権現験記絵巻」を完成させた。 
が、この絵巻は当初、京・北山の衣笠山麓にあった「西園寺」(1224年に鎌倉幕府の太政大臣・藤原公経が建てた別荘「北山第」が前身)に置かれたようで、公衡が応長元年(1311年)に出家し、正和四年(1315年)九月、父に先んじて52歳で没した後に、奈良の春日社に移された、とも伝えられる。 
高価な紙や絹を継いだ台紙に、当代一級の宮廷絵師が技術の粋を集めて絵を描き、詞書を加える「絵巻物」には、中国の画巻を模した奈良時代の「絵因果経」や、平安時代の「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」、鎌倉時代の「一遍上人絵伝」などがあり、その制作と収集は、後の南北朝〜室町時代でも、歴代足利将軍の富と権力を象徴する重要な文化財となってゆく。それはあたかも「三種の神器」に相当する宝物の如くだ。 
1392年に南北朝合一を遂げ、権力の絶頂にあった足利義満は、臨済宗の僧・義堂周信(ぎどうしゅうしん)を通じて中国へ傾倒し、遣唐使以来中絶していた日中間の国交回復を企図していたことはよく知られている。義満が、1394年に将軍職を義持(よしもち)に譲って、翌年に出家したのは、天皇の陪臣としての将軍のままでは、中国が義満を国王として認めず、勘合貿易ができなかったからではないか、というものだ。(義満は1380年、「日本国征夷将軍源義満」のタイトルで明との通商を試みているが、明は、天皇の家臣とは国交交渉を受けないとの理由と、宛先を丞相にしたとの理由で、入貢を拒否) 
この足利義満が応永四年(1397年)、京に「北山第(現在の鹿苑寺/ろくおんじ=金閣寺)」を造営するにあたり、白羽の矢を当てたのが、件の「西園寺」の土地である。そのため「西園寺」は、室町頭(現・上京区)へ移転し、さらに天正十四年(1586年)には、豊臣秀吉の都市改革のために現在の場所(浄土宗・宝珠山竹林院西園寺/京都市北区鞍馬口通寺町下ル高徳寺町362)へと三転した。 
1397年に造営された「北山第(きたやまてい)」は、「仙洞御所(せんとうごしょ/上皇の御所)」を擬した壮麗なもので、「貨幣の力」と「神仏の力(技術力・文化力)」を共に掌握した義満の権力は、まさに皇位に肉迫していたといえる。 
そしてこの頃、義満は春日社から「春日権現験記絵巻」を請(しょう)じて、古今の絵巻の優劣を競う「絵合(えあわせ)」を行った。「金も神も自らの手中にある」との感覚が、義満の脳裏を掠めはしなかっただろうか。 
義満はその後、1402年に明の建文帝から「日本国王」に冊封(さくほう)され、宿願の勘合貿易を開始して、倭寇を鎮圧するなどしたが、1408年に50歳で急逝している。  
文化政策/世阿弥の花 
幼名鬼夜叉(おにやしゃ)、次いで藤若と呼ばれた世阿弥少年は咲きにおう美しさだった。 
稚児とは、ただの幼児のことではない。寺社で育てられ、祭事に美装で出仕する信仰の対象であり、優雅に鞠(けまり)や連歌をたしなんだ。そのえりすぐりの稚児として世阿弥が育ったと明かすのは、松岡心平・東大教授だ。 
稚児が眉墨(まゆずみ)を引き、口紅やおしろいを塗り、葉を黒く染めるのは10代の5年ほど。おそらく世阿弥は朝起きるとそのような化粧をした。経文を修め、手習いをする。教養をうえつけられ、厳しく礼儀作法も仕込まれた。 
東大寺の高僧に連れられてきた13歳の美童に心を奪われ、藤若の名を与えた歌人がいた。連歌の中心人物だった二条良基(よしもと/*父は二条道平、母は西園寺公顕の娘・婉子。北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた)がその人である。もう一度会わせて、と懇願する書状は「源氏物語」を踏まえ、藤若を絶賛していた。 
賛辞を連ねる良基は藤若に幽玄の理想を見たのだった。 
能の源にある幽玄はもともと渋い美意識だった。幽には暗い、かすかといった意味があり、玄は黒や暗い色につうじる。ところが14世紀後半のこの時代には王朝の美意識を反映し、違う感覚でとらえられるようになっていた。 
「幽玄は直接的に目に映る華やかな美しさのことでした。少年のかわいらしさ、宮中の桜や女官に表れます」 
能楽研究の泰斗、表章・法政大学名誉教授の解説である。 
のちの世阿弥が幽玄の典型は子供の舞姿、いわば自らの過去の似姿だといったのは自然なことだっただろう。花がやがてしおれ、散ってしまうように、幽玄の美ははかない。はかないがゆえに至上なのだった。 
松岡教授によると、世阿弥は10歳ごろから東大寺の稚児となり、時々は父の観阿弥とともに旅興行に出る暮らしだったようだ。稚児は貴族や武士の子弟がなるから、芸能者の世阿弥は異例の存在だった。美貌(びぼう)ゆえだったか。その姿が室町幕府3代将軍、足利義満の目にとまるのは世阿弥12歳の年。 
1374年または1375年に、京都の今熊野でおこなわれた勧進興行で、世阿弥は義満に見いだされる。(*16歳の)青年将軍はこの美童を寵愛した。1378年、世阿弥を祇園会(ぎおんえ)の桟敷にあげ、杯をくだすさまを見て、内大臣が驚いた記録が残っている。「かくのごとき散楽の者は乞食の所業なり」との記述がある。身分の低い芸能の者がなぜ、と嫉妬しているのだ。 
能は江戸時代まで、「猿楽(申楽とも)」または「猿楽の能」と呼ばれた。「能」は技能の能であり、今日ではそれが呼び名に換わっている。もとは中国の民間芸能「散楽」に由来し、日本古来の雑芸と交わって生まれた。 
いずれにせよ卑賤(ひせん)とみなされた芸能の民が将軍と居並ぶことは大事件であった。松岡教授は背景に、新しい武家政権で「花」の文化確立をもくろむ義満の戦略があったとみる。 
「公家を押さえつけるため、義満は公家以上に花の美しさを支配し、社会を治めようとした。花の御所を造り、良基に伝授された花合わせという遊びを七夕に大々的に催した。世阿弥は花の広告塔だったのです」 
当時、花は競うものだった。花合わせで、人々は桜の花を出し合ったり、和歌に詠み合ったりして優劣を争った。猿楽も役者が激しく技を競い、勝負をつけるものだった。有力な寺社や将軍に認めてもらうためには、勝たねばならない。観阿弥、世阿弥はなにより勝ち上がった親子である。能という芸術は猿楽の奔放なエネルギーと、義満が主導する強烈な花の文化が激突して生まれたものだった。 
世阿弥は本来、曲芸的な演技に秀でていたらしいが、花を深めるために同時代の名人芸を貪欲(どんよく)に取り入れた。60歳近くになって著した「二曲三体人形図」は絵図入りで演技を解説した芸論である。そのうちの「天女舞図」はライバルだった犬王(いぬおう・近江猿楽/中世、近江の日吉社・敏満寺に奉仕した猿楽座。日吉社に奉仕した山階・下坂〜のちの日吉・比叡の3座を上三座、敏満寺に奉仕した敏満寺・大森・酒人の3座を下三座という。比叡座には名人犬王がおり、世阿弥に大きな影響を与えた)の芸を伝える。優美きわまりない舞は「飛鳥(ひちょう)の風にしたがふがごとく(「申楽談義」)だった。 
花の時代の美が世阿弥の中で集大成された。そして「井筒」のような名作が生まれたのである。花の探求は一代で至高の芸に達した。 
「花の御所」 
南北朝時代、後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉に住み、2代将軍・義詮は三条坊門に住んだが、この義詮が、室町季顕の邸宅「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上されて上皇の仙洞御所となったことにより、「花亭」は「花の御所」と呼ばれるようになった。しかしその後暫らくは、使われないままになっていた。 
1378年(天授四年/永和四年)、3代将軍・義満が、北小路室町にあるこの崇光上皇御所跡(「花の御所」)と、焼亡した今出川公直の邸宅「菊亭」跡地を併せた敷地に足利家の邸宅造営を開始し、1379年に寝殿を建設、1381年にこれが完成すると、「三条坊門第」から移住する。「室町通」に面して正門が設けられたことから「室町殿」・「室町第」とも呼ばれ、室町幕府の呼称もこれに由来する。この将軍邸は、「土御門東洞院内裏(1331年より北朝〜持明院統の天皇が住した。現在の京都御所は土御門東洞院内裏を基に拡充されたもの)」に近く、敷地も御所の2倍に及ぶ規模で、これは公家社会に対する義満の一種のデモンストレーションでもあったと考えられている。 
鴨川から水を引きいれた庭には、各地の守護大名から献上された四季折々の花木が配され、義満はここに後円融天皇や関白・二条師嗣などを招いては、詩歌や蹴鞠の会などを催した。 
義満は、1394年に将軍職を息子・義持に譲ると、「西園寺」があった場所に新築した「北山第(現・鹿苑寺」へ移る。義持は、義満の死後に室町第を離れるが、その後も6代将軍・足利義教が住むなど、長く足利将軍邸として使用された。  
貨幣は神 
花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふる ながめせしまに  
「古今集・巻二(春・下)」にみえる小野小町の歌である。小野小町の生没年や経歴は不明だが、仁明朝(833年-850年)から文徳朝(850年-858年)の頃に後宮に仕えていたことがわかっており、仁明天皇の采女であったと考えられている。出自について、「古今和歌集目録」には「出羽国(現在の山形・秋田県)郡司女 或云母衣通姫云々 号比右姫云々」とあり、「小野氏系図」には小野篁(おののたかむら)の孫で、出羽郡司良真の娘、とある。 
室町幕府第3代将軍・足利義満は、かつて「西園寺」の置かれた場所に「北山第」を造営し、それまでの伝統的な公家文化、新興の武家文化、大陸との交易や禅宗を通じて吸収した大陸文化(唐様)を融合した絢爛豪華な「北山文化」を紡ぎだしたが、その義満も50歳で急死する。そして「花の稚児」と賞賛された世阿弥もまた、義満の死後は不遇が続き、1436年に佐渡へ配流された後の消息は、わかっていない。 
貨幣、技術、文化の永続性にくらべて、ひとりの人間に与えられた生命の時間は有限であり、長くともたかだか100年くらいのものである。そしてそれぞれの「花」の時間は、さらに短い(「埋木の朽ちはつべきは留まりて 若木の花の散るぞ悲しき」)。この人の命のはかなさゆえに、人は神や貨幣を創造したのだろうか。 
以下は、河合隼雄氏と中沢新一氏の対談集「仏教が好き」からの抜粋である。 
日本人にとっての「幸福」とは、「富(経済的成功)」よりも、「安心立命(心安らかに、天命〜運命と使命〜を全うすること)」や「大楽(自分の心とは本来無縁であるはずものにひきずり回されることなく、落ち着いていられること)」の状態に近いのではないか、という話の一部である。(*「幸福」の語は、西欧語の「ハピネス(英)」・「ボヌール(仏)」〜好機をつかむことで獲得されるすばらしい時間〜を翻訳するために、明治時代に生みだされた、古語「幸(さち)」と中国語「福」からなる新造語) 
「貨幣と神は似ている」 
河合−ヨーロッパの人に僕が「あなた方、本当に本気では、一回限りの復活を信じられないでしょう。いまわれわれが真似している個人主義にしろ、いろいろな物質的なものにしろ、僕から言わせると、キリスト教を背景にしているから成立しておったはずなんや。それも信じていないとしたら、いったい何が頼りになるんですか」といったら、「金です」ってほんま言った。そうなるんです。しかし、これは安心立命にはなりません。 
中沢−そういう言葉をきくと、ああ、貨幣というのは神に似ているなと思いますね。 
河合−そうです。これほど普遍的なものはないでしょう。いま下手したらね、地球全体に君臨しておるのは金と違いますか。 
中沢−金の神様。 
河合−しかも、いまこれだけドルが流通できるということは、すべてをドルが支配していると言えるほどになってしまう。お金がいちばん信頼できて、強いものになってきつつある。みんな気がつくと思うんやけどね。これでは安心立命できないことを。 
中沢−神様とお金がどこが似ているかというと、どちらも永遠ということを言っている。神は永遠をあらわしています。この世は変化し滅びていくんだけれども、神は永遠をあらわしている。人間がなぜ貨幣をつくり出したかというと、価値を持ったものが壊れていく、風化していくという事態を恐れたからです。 
河合−なるほど。 
中沢−だからそれを金貨にして、これは変化しにくいものだから、この価値を持ち歩けば、あるときに生まれた価値は滅びないで蓄積もできるし、持ち運びもできるということで貨幣が生まれています。要するにどっちも腐敗しない、滅びない、解体しないということが条件づけになっていて、キリスト教の神というのはこの永遠の神であり、その考えのキッチュな表現形態が貨幣なんでしょう。 
河合−それがキッチュ(*ドイツ語kitsch/低俗なけばけばしいもので、芸術を気取るまがいもの。俗悪なもの)だということに気がつかない。 
中沢−貨幣というものが初めてつくられたとき、ギリシャのミダス王が、「貨幣(黄金)は大地を殺す」といって怒ったそうです。 
河合−ああ、それはそうです。まさに貨幣は大地を殺します。 
中沢−大地を殺して何が残るかというと、半ば永遠につづいていくもの、保存できるもの、運搬できるものです。だからある意味で、キリスト教の神と貨幣は非常に似ているところがある。仏教はそれについてどうだと考えましたら、「あらゆるものは滅びる」というところから始まっている。永遠のものについて語りますけれど、それはこの世界にはない。それは涅槃(ニルヴァーナ)、煩悩のない状態、つまり〈死〉ですから、この世の幸福に執着している人が行きたくない場所ですよね。 
河合−そうなんですよ。 
中沢−この世の中に永遠を繰り込むことは絶対にできない。 
河合−できない。 
中沢−ところがキリスト教は永遠を繰り込んじゃうんだろうと思うんです。 
河合−仏教的に言わせると、それは錯覚なんやけどね。 
中沢−錯覚なんですね。だけどそのおかげでヨーロッパで数学が発達したんじゃないかと思います。「無限」という考えを発達させたのは、やはりキリスト教の西欧です。それ以前は無限はこの世には入ってこない、あるいはこの世界には繰り込めないと考えていました。ところがこの世界に貨幣というものができて、実に安易なかたちで無限の繰り込みがおこってしまった。お金はどんどん増やしていくことができる。それは幸福量の増大を意味する、という考えが生まれてきます。ですから先生がおっしゃったように、いまの世界にとって神と言ったら貨幣、金と言うのは、理屈から言っても本当なんでしょう。ただ、それは人間に幸福をもたらさない神です。 
河合−そうなんです。本当に僕らが言っているような意味の安心はもたらさない。 
中沢−永遠で変化しないものは人間の心に安心をもたらさないということですね。仏教が問題にしているのは、その生命体がまわりの世界と違う部分、ちっちゃい部分をつくって、ここで何とか持続してみましょうというのが生命だと言ったわけですから。でも、そうやってできた宇宙のなかの孤島のような自分の存在に拘泥しているかぎり、生命は幸福になれないと言っています。一方いま医学が押しすすめていることというのは、いったん生まれた個体をとにかく延命していくために、外からの悪影響を排除したり、内部にがん細胞みたいなかたちで異常増殖が始まると、これを何とか除去していく方法を通じて、生まれた個体をできるだけ長時間持続させていこうとしている、そしてこれが幸福だって宣言している。この考え方って貨幣の考え方とそっくりじゃありません? 
河合−とにかく計測可能なものをできるかぎり多くできるかぎり長く、などと考えるわけですから。 
中沢−心のなかに仏教を抱えた僕ら日本人からすると、「それはどうも幸福じゃないな」と思えます。そこらへんを日本の哲学者や宗教者はまともに考えないと。 
河合−本当です。僕も、だから自分が考えなきゃいかんと思ってるから、いろいろ考えるんだけど、本当にむずかしいですね。  
おそれかしこみ 
「鶴見寺尾図」の域内には、「ミチの分岐点0(大口台)」や「ミチCの西側と本境堀の間(翠嵐高校)」に縄文時代の集落跡があり、「祖師堂(篠原八幡ほか)の南面の尾根(コーンフォール篠原)」では、縄文時代の神殿も発掘されている。太古の昔から、人は「今、生きている時間(この世)」の他にも、「目には見えない世界(あの世)」があることを想って、それらを祀っていたことがわかる。 
縄文時代後期の土偶のなかに、例えば青森県「風張(かざはり)1遺跡」出土の「合掌土偶」のように、膝を「三角座り」の格好に折って、膝上で両手の掌を合わせる姿のものがあるから、おそらく当時の「祈りのかたち」は、そのようなものであった。 
彼らは「何者」に対して、「何」を祈ったのだろう。 
そしてそれらを「カミ」と称し、自己・一族・国の永続や繁栄のような、多分に利己的な出来事を祈るようになるのは、いったいいつの頃からなのだろう。 
おそらく、「神」や「貨幣」といった「永続するもの(→【前項】)」は、ある時代までの一般民衆にとってあまりに神聖で恐れ多いものであり、それ故その過剰さがどこかまがまがしく不吉で、神殿や寺院に納めておくのがふさわしいものであったのだろう。 
だから鎌倉時代になって、「貨幣」による交易の決済システムが普及し始めたときも、それを扱う場所が神殿や寺院であったのは実に自然なことだった。 
また交易によってもたらされる目新しい算術・科学技術・芸術などの学術や技芸も、庶民にとって当初は「貨幣と同じく、寺社に納めておくのがふさわしい、素晴らしくも恐ろしいもの」、魯迅の「阿Q正伝」風に言えば、「敬して遠ざける」ものとして、とらえられただろう。 
だから技能者たちは寺社の近くに集住し、そうした地域は、庶民が足を踏み入れるのがいささか憚られる場所とされたかもしれない。しかし当の技能者たちにとっては、技芸はシンプルで普遍的な自然科学の法則の積み重ねと組み合わせであり、その操作には熟練を要するものの、取り立てて神聖でも不吉でもなかった。 
こうした技芸者たちの合理的な物事のとらえ方は、鎌倉時代に広まった「物事をありのままに見ようとする」禅の思想に、とてもよく合致する。鎌倉時代に「新仏教」が次々と勃興した背景には、平安時代から「海賊」・「悪党」・「富豪浪人」たちがせっせと輸入してきた大陸伝来の最新技術や学問が広く日本列島に普及したために(→【寺社と都市整備】)、「敬して遠ざける」べき交易や技芸にかかわる人の数が、急速に増加したことがあった、と考えることもできる。 
そして鎌倉幕府の執権職を世襲した北条氏が、幕府の財力・権力強化のために、明恵(北条泰時が丹波の一庄を高山寺に寄進しようとしたが、拒否)や道元(北条時頼が鎌倉で寺院の建立を要請するが拒否)や無本(1268年に鎌倉・寿福寺の住持に招請されたが拒否。1281年に亀山上皇が禅林寺の開山を請うが拒否)に請うて、寺領地として統括させたかった場所は、幕府に服(まつろ)うことのない、「海賊」や「悪党」が集住する「交易拠点」や「技術拠点」だったのではないだろうか。 
しかし、国内外で交易を展開する新興有力寺社は、西国朝廷の王権(天皇)からも東国幕府の王権(征夷大将軍)からも一定の距離をおきたがった。それはつまり、鎌倉時代の「西国の王権」も「東国の王権」も、ともに中国や朝鮮などとの海外貿易を統括できるだけの統治権力を持たないと、新興寺社が判断したことの表れのようにもみえる。それはまるで、財閥や系列を離れて展開される、現在の「独立系」企業に似ていなくもない。 
そしてこうした時代の狭間で、隆弁(1247年に鶴岡八幡宮の別当となり、1254年に鶴岡八幡宮の御正体や正宝などを「聖福寺新熊野」に移す)のような政情に長けた僧が、世情を上手く利用しながら、奈良時代に興隆した古い勢力の復興を掲げて、着々と自らの宿願を遂げていた。  
「小笠原蔵人太郎入道」「三嶋東太夫」「子安郷(子ノ神)」 
ここで再び、金沢文庫所蔵の重要文化財「武蔵国鶴見寺郷絵図」をみよう。絵図は、建長寺塔頭正統庵領であった鶴見・寺尾両郷に関する境界論に際して、建武元年(1334年)五月十二日に作成されたもの、とされている。 
絵図では、「分岐点O」から三方に延びる「ミチ」を「新境押領」として、「子安郷(子ノ神か?)」「下末吉領主三嶋東大夫」「寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道」の3者で分割している。 
「子安郷(子ノ神)」領となったのは、「北向きの大きな寺(上の宮中学校・宗泉寺・上の宮八幡神社)」「仏殿地(大倉山)」「泉池(三ッ池公園)」「七曲舊池(二ツ池)」「門前寺前(新羽)」「門前寺内四十九院(綱島)」などのある、主として鶴見川に沿った場所である。 
「下末吉領主三嶋東大夫」領は、「鎧窪」「馬喰田(岸根公園)」「直線に引かれた本境(熊野山最勝寺〜鳥山八幡宮〜雲松院〜医王山金剛寺・住吉神社)」「東向きの阿弥陀堂(菅田町)」のある場所。 
そして「寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道」領には、5つの「堀籠(鶴見神社・東福寺・白幡公園・松蔭寺・JR大口駅東口)」と「犬逐物原(白幡町・西大口・浦島丘)」「白幡宮(神の木公園〜子安台公園)」などのある、内東京湾の海岸線(湊)沿いが含まれる。 
鎌倉幕府を討滅して樹立された、天皇親政による復古王権が担う「建武の新政」時に、あたらしく鶴見・寺尾郷を分割統治することになった3者のうち2者は、「三嶋神社の東の大夫(たいふ/勅命を受けた五位以上の者)」と、「蔵人(蔵人所の次官。名家の出身で学識才能のある者が選ばれた)」で、かつ入道(在俗のままで僧形となり修業をする人。中世では主に貴族や武士に多い)」とある人だから、貴族階級に属しながら神仏にかかわる人物であったことがわかる。 
そして、現在「子安郷」と読まれている文字が、仮に以前に推測したように、「子ノ神」に加筆修正されたものであるなら、これもやはり神仏にかかわる者となる。 
つまり、鎌倉時代の「建長寺正統庵領・鶴見郷」にあった「庶民が集まる新市場」のような場所は、中世の商業・金融地だから、1334年にあっては、神仏にかかわる寺社がそれを「押領(合法的、あるいは武力や実力で、監督・統率すること)」するのが妥当だ、との判断があったことが伺える。  
 
落書
 

落書は、時の権力者に対する批判や、社会の風潮に対する風刺などあざけりの意を含んだ匿名の文書のことで、平安初期からその例を見ることが出来ます。詩歌形式のものを落首(らくしゅ)ともいいます。 
建武元(1334)年8月、鴨川の二条河原(中京区二条大橋附近)に掲示されたといわれるのが二条河原落書です。長歌の形式をとるので落首であるともいえます。前年に成立した建武政権の混乱ぶりや、不安定な世相を、風刺をたっぷりと籠めて描いているところに特徴があります。 
この落書中の言葉によると、作者は「京童」(きょうわらべ)であるとされています。「京童」とは当時の京都市民をあらわす名称ですが、内容からかなりの教養人の手によるものであると推定され、建武政権の論功行賞に不満を持つ下層の公家などが作者に想定されます。 
建武の新政  
足利尊氏や新田義貞、楠木正成らの武力によって鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(1288-1339)は、正慶2(1333)年、新政権を樹立し、天皇親政の諸政策を積極的に進めました。翌年、年号を建武に改めたので、後醍醐天皇の政治を建武の新政といいます。 
後醍醐天皇は、中央の機関として訴訟全般の処理にあたった記録所(きろくしょ)や、乱後の恩賞の公正をはかるため設置された恩賞方、所領に関する訴訟を処理していた雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、主として京都(実質は禁裏のみ)の警備にあたった武者所(むしゃどころ)などを置き、地方においては、守護制度によって有名無実となっていた国司制度を政治の中核としました。 
建武政治への不満  
後醍醐天皇はこうした体制のもと、徹底した天皇中心の政治を実現しようとしましたが、武家所領の承認(本領安堵<ほんりょうあんど>)は天皇の命令によらなければならないといった政策は、武家社会の伝統と特権を無視するものであり、武士らの後醍醐政権に対する不満と不信を生みました。 
また、大内裏の造営の費用を武士に負担させようとしたり朝廷の恩賞が天皇側近によるえこひいきと賄賂によって左右されるなど、武家にとって不公平なことが多く、幕府政治の再興をのぞむ者がしだいにふえていきました。 
この落書が二条河原に掲げられたのは、後醍醐天皇の政治の拠点である内裏が二条富小路にあったからです。 
この富小路内裏はもともと、鎌倉時代に太政大臣であった西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の邸宅があった場所で、それ以前には貞永元(1232)年頃に後堀河上皇が住んでいました。以後もしばしば天皇や上皇の住居として利用され、正元元(1259)年には後深草天皇が富小路内裏に住居を移し、その皇太子であった伏見天皇が弘安10(1287)年にこの地で即位しています。 
文保2(1318)年に即位した後醍醐天皇によって富小路内裏は、建武政権の中心地となりますが、建武3(1336)年、反乱を起こした足利尊氏の軍勢によって焼失しました。
二条河原落書 
この二条河原落書は、八五調と七五調をとりまぜた物尽し形式をとり、「建武年間記」(建武元年から3年までの諸記録、「建武記」)のなかにみることができます。全文は「群書類従」雑部や「日本思想大系 中世政治社会思想」に収められています。 
口遊(くちずさみ) 去年八月二条河原落書云々 元年歟 
此比(このころ)都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨(にせりんじ) 
召人(めしうど)早馬虚騒動(そらさわぎ) 生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由出家 
俄大名(にわかだいみょう)迷者 安堵恩賞虚軍(そらいくさ) 
本領ハナルヽ訴訟人 文書(もんじょ)入タル細葛(ほそつづら) 
追従(ついしょう)讒人(ざんにん)禅律僧 下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの) 
器用堪否(かんぷ)沙汰モナク モルヽ人ナキ決断所 
キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ 持モナラハヌ笏(しゃく)持テ 
内裏マシハリ珍シヤ 賢者カホナル伝奏ハ 
我モ々々トミユレトモ 巧ナリケル詐(いつわり)ハ 
ヲロカナルニヤヲトルラム 為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ 
マナ板烏帽子(えぼし)ユカメツヽ 気色メキタル京侍 
タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好(いろごのみ) 
イクソハクソヤ数不知(しれず) 内裏ヲカミト名付タル 
人ノ妻鞆(めども)ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ 
尾羽ヲレユカムエセ小鷹 手コトニ誰モスエタレト 
鳥トル事ハ更ニナシ 鉛作ノオホ刀 
太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス 
ハサラ扇ノ五骨  ヒロコシヤセ馬薄小袖 
日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕 
下衆(げす)上臈ノキハモナク 大口(おおぐち)ニキル美精好(せいごう) 
鎧直垂(ひたたれ)猶不捨(すてず) 弓モ引ヱヌ犬追物(いぬおうもの) 
落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ 
遍(あまねく)ハヤル小笠懸(こがさがけ) 事新キ風情也 
京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌 
在々所々ノ歌連歌 点者(てんじゃ)ニナラヌ人ソナキ 
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也 
犬田楽(いぬでんがく)ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 
田楽ハナヲハヤル也 茶香十炷(ちゃこうじっしゅ)ノ寄合モ 
鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス 
町コトニ立篝屋(かがりや)ハ 荒涼五間板三枚 
幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ 
諸人ノ敷地不定(さだまらず) 半作ノ家是多シ 
去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ 
適(たまたま)ノコル家々ハ 点定(てんじょう)セラレテ置去ヌ 
非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ 
花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス 
四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 
只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル 
朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 
左右ニオヨハヌ事ソカシ サセル忠功ナケレトモ 
過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 
仰テ信ヲトルハカリ 天下一統メツラシヤ 
御代ニ生テサマ々々ノ 事ヲミキクソ不思義共 
京童ノ口スサミ 十分一ソモラスナリ 
還俗(げんぞく) / 還俗とは僧侶が俗人にかえることを意味し、復飾(ふくしょく)ともいいます。古代中世を通じて、還俗とは、僧尼が罪などを犯すと俗名などがつけられ僧尼身分をうばわれることをいい、官人にとっての除名に類するものでしたが、南北朝時代以降、打ち続く戦乱は僧の自発的還俗をもたらします。その最たるものが後醍醐天皇の皇子で天台座主の大塔宮(おおとうのみや)尊雲(そんうん)法親王でした。尊雲法親王は還俗して護良(もりよし)と名乗り、建武新政権樹立に奔走し、征夷大将軍となりました。 
為中美物(いなかびぶつ) / 新政府発足当時、後醍醐天皇から本領安堵の綸旨を得るため都鄙の往還が激しくなり、これによって田舎(為中)の料理が洛中に流入したと思われます。美物とは、おいしい料理あるいは食物のことを指し、特に魚・鳥のおいしいものをいいます。 
ハサラ(ばさら)扇(おうぎ) / 鎌倉幕府滅亡以来、変化し続ける世相に、現世謳歌の風潮が蔓延するなか、華美な衣装などで目立つ様子を「ばさら」(婆娑羅)と呼びました。「ばさら」とはサンスクリットのバジラ(Vajra=金剛)から転訛した言葉で、南北朝時代には、近江の豪族の佐々木高氏(ささきたかうじ、導誉<どうよ>、1306-73)に代表される熱狂的なばさら愛好の武家などが出現します。また、派手で奇矯な行動や風体をはじめ技工・器具・装身具類にもばさら名を付けて呼称され、扇・団扇・絵馬などに描いた粗放な風流絵を「ばさら絵」といい、ばさら絵を描いた派手な扇を「ばさら扇」といいます。この落書で見えるように、ばさら扇は、細骨五本を片面張りとした蝙蝠(かわほり、開いた形が蝙蝠<こうもり>の翼をひろげた形に似ているため)の地紙にばさら絵を施したもののことを指します。 
大口(おおぐち)ニキル美精好(びせいごう) / 大口とは正装の袴にはき籠める下袴の一種で、四幅仕立てを原則とし、裾に括り緒を入れず、口広に見えることによりこの名称が付いたとされています。この大口には公家用(赤大口)・武家用(後張の大口)・幼年用(前張の大口)などの各種があります。精好とは、縦糸・横糸共に練糸、もしくは横糸を生糸で織り出した厚手の美しい絹織物のことです。この大口に精好地を用い、上の袴を省略して着用することを「ばさら姿」といいます。 
犬追物(いぬおうもの) / 犬追物とは、騎馬で走狗を追物射(おものい)にする武芸のことで、鎌倉時代から室町時代にかけての武士たちが必須とした武芸の一種とされ、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)とあわせて馬上三物(ばじょうみつもの)といわれています。騎射の練習は動物を追物射にすることが第一であり、「吾妻鏡」によると、寿永元(1182)年以来、牛追物の興行が認められ、犬追物はこれに代わって貞応元(1222)年より行われるようになりました。 
点者(てんじゃ) / 点者とは、和歌・連歌などで他人の作品を評価するもののことで、その部門の専門的な知識技術など全般にわたって権威があり、かつ公平な態度のとれる長老・宗匠格の指導者がその任につきます。 
茶香十炷(ちゃこうじっしゅ) / 10種類の茶を会衆に飲ませて、茶の銘柄を当てさせる闘茶の遊戯を十種茶といい、同じく10種の香を嗅ぎ分けさせる遊戯を十種炷香といいます。「十炷」は厳密にいうと茶に用いませんが、ここでは「十種」と同音で、茶・香の両方にかけたものと考えられます。 
篝屋(かがりや) / 篝屋とは、鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経(よりつね)が上洛した際、京都市中の治安維持のため、辻々に篝火をたくことを定めた命令が出され、その役を御家人らにわりあてたことにはじまります。篝屋の構造は落書が記しているように、五間・三間の板屋で楯を並べ垂幕(たれまく)を廻した形であったらしく、「一遍上人絵伝」に篝屋の絵が描かれています。
  
中世寺社勢力と「行人・神人・聖」が形成した無縁の世界

有縁の世界からの避難所  
ゲマインシャフト(伝統共同体)としての家族とのつながり・血縁地縁が薄れていって、最期には誰にも看取られず孤独死してしまうという無縁社会の問題が以前マスメディアなどで取り上げられていた。ここでいう無縁とは、単純に人間関係のあらゆる縁が切れてしまうという意味だが、無縁状態は孤独・不安であると同時に自由・独立でもある。  
人間には地縁・血縁・組織との縁・国家への帰属などで他者と結びついていたいという有縁の欲求が強くある一方で、様々な事情や困窮、苦悩などによって今まで取り結んでいた各種の縁を断ち切りたいという無縁の欲求があると考えることができる。人間関係のしがらみや家族・男女の情愛、経済生活の責務というものが、私たちを強力に有縁の世界に引き付けるが、人間はギリギリにまで追い詰められれば、それら全ての縁を切り捨てて無縁の世界に逃走しようとする傾向を持つ。  
歴史学者の網野善彦に無縁・公界・楽という著作があるが、日本には近世以前(江戸時代以前)の時代に非常に広大な無縁の世界(無縁所)が広がっていたとされ、無縁の世界には有縁(世俗)の公権力やルールが干渉できない特権(治外法権)があったという。  
しかし、近代化(集権的管理化)を促進した現代社会では、近代国家の統一権力と市場経済の貨幣によって、もう残された無縁の世界の領域が殆どなくなっている。そのため、現在では国家の法秩序と市場のルールで管理される有縁の世界(世俗の経済生活・人間関係)から脱落すれば、そこから逃げ込めるような無縁所(オルタナティブなコミュニティ)は無いのである。  
メディア的な現代の無縁社会というのは、一般的な有縁の世界(法律・制度・学校・会社・役所・恋人・家族など)で生きてきた人たちが、年齢を重ねるにつれて人間関係のネットワークから零れ落ちて孤独な最期に行き着くという以上の意味ではなく、基本的にネガティブな色彩・論調を帯びている。  
平安末期から織豊政権の安土桃山時代まで続いた中世日本社会には、武家・公家・農民(農村共同体)が構築する有縁の世界とは異なる、独立的な権力・領域・財力を保有した広大雑多な無縁の世界が広がっていた。有縁の公権力である朝廷や幕府といえども、無縁所の領域に干渉して支配することは適わなかったのであり、無縁所には独自の法規範と検断権(警察権)があって治外法権の様相を呈していたのである。  
無縁の世界を公権力の干渉から保護して治外法権を維持した主体は、中世寺社勢力と呼ばれる寺社群であり、特に南都北嶺(なんとほくれい)の比叡山延暦寺と奈良の興福寺、高野山金剛峰寺、根来寺、石山本願寺などは独立国的な領土・経済・権力・宗教権威を有していて、幕府や朝廷、守護大名と対等な交渉を行うことができた。  
自らの領域に逃げ込んできた難民(有縁における敗者・犯罪者)などを公権力に引き渡さないこともあり、無縁の寺社領域は有縁の世界で生きていけない様々な事情を抱えたアウトローたちが逃げ込む場所にもなっていたのである。“出家・逃散・借金・政治亡命・一揆の失敗・村八分”など有縁の世界で生きていけない様々な事情(挫折)を抱えた人々が、俄か坊主(神官)としての行人(ぎょうにん)・聖(ひじり)・神人(じにん)として中世寺社勢力が支配する領域(境内・荘園)に移民として流れ込み、当時の賎業とされていた商工業・金融に従事して寺社の経済力の基盤を固めた。  
行人・聖・神人と呼ばれた神仏習合の寺社勢力の下層階級は、商工業や債権取立てを行う武装した僧侶・神官でもあり、比叡山(山門)や興福寺、高野山の強大な軍事力を構成して、朝廷や幕府の実力行使にも十分に対抗できる兵力を擁していたのである。南都北嶺や高野山、根来寺といった寺社勢力は武器(刀剣・弓矢・根来衆は鉄砲)の製造流通の担い手でもあり、武士勢力の台頭に先駆けて独自の軍事力を強化していたが、中世寺社勢力には宗教的な権威(強訴の根拠)という強みがあった。  
更に言うならば、独自の武力を衰退させた平安中期以降の朝廷(貴族勢力)から、僧兵と武士という暴力機構が分離したのである。山門(比叡山)の僧兵の強訴から白河上皇を守る北面の武士が創設されたように、朝廷は公家よりも格下の武家を貴族の護衛として利用しようとした。だが、平清盛の平氏政権が誕生し源平合戦を経過する中で、逆に、公家のほうが武家に圧倒されるようになってしまい、関東に鎌倉幕府という独立政権の登場を許してしまうのである。  
 
應仁の亂に就て

内藤湖南  
私は應仁の亂に就て申上げることになつて居りますが、私がこんな事をお話するのは一體他流試合と申すもので、一寸も私の專門に關係のないことであります、が大分若い時に本を何といふことなしに無暗に讀んだ時分に、いろいろ此時代のものを讀んだ事がありますので、それを思ひ出して少しばかり申上げることに致しました。それももう少し調べてお話するといゝのですが、一寸も調べる時間がないので、頼りない記憶で申上げるんですから、間違があるかも知れませぬが、それは他流試合だけに御勘辨を願ひます。  
兎に角應仁の亂といふものは、日本の歴史に取つてよほど大切な時代であるといふことだけは間違のない事であります。而もそれは單に京都に居る人が最も關係があるといふだけでなく、即ち京都の町を燒かれ、寺々神社を燒かれたといふばかりではありませぬ。それらは寧ろ應仁の亂の關係としては極めて小さな事であります、應仁の亂の日本の歴史に最も大きな關係のあることはもつと外にあるのであります。  
大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだん/″\向上發展して行く記録であると言つていゝのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだん/\向上發展して行つた記録であります。其中で應仁の亂といふものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよからうと思ひます。一言にして蔽へば、應仁の亂といふものゝ日本歴史における最も大事な關係といふものはそこにあるのであります。  
それは單に一通り現はれた所から申しましてもすぐ分ることでありますが、元來日本の社會は、つい近頃まで、地方に多數の貴族、即ち大名があつて、其の各々を中心として作られた集團から成立つて居たのであります。そこで今日多數の華族の中、堂上華族即ち公卿華族を除いた外の大名華族の家といふものは、大部分此の應仁の亂以後に出て來たものであります。今日大名華族の内で、應仁の亂以前から存在した家といふものは至つて少く、割に邊鄙な所に少しばかりあります、例へば九州では島津家だとか、極く小つぽけな伊東家などいふのがそれであります。勿論肥後の細川は前からあつたのでありますが、あの土地に前から居つたのではない、其他秋月鍋島など少しばかり九州土着の大名がありますけれども、其土着の大名にしても、多くは應仁の亂以後に出たのであります。四國中國などは殆ど應仁の亂以前の大名はないと言つていゝ位です。それから東の方では、半分神主で半分大名といふのに信州の諏訪家といふのがずつと前からありましたが、關東ではまづないと言つていゝ位であります。東北に參りますると少しあります、伊達とか南部とか、上杉佐竹とかいふ樣な家は應仁の亂以前からあつた家でありますが、それでさへも應仁の亂以前から其土地に土着して居つたといふのは極く僅かであります。二百六十藩もあつた多數の大名の内でそれ位しか數へられませぬ。  
それと同時に、應仁の亂以前にありました家の多數は、皆應仁以後元龜天正の間の爭亂のため悉く滅亡して居ると言つてもいゝのです。昔、極く古くは氏族制度でありましたが、其時分には地方に神主のやうなものが多數ありまして、それらが土地人民を持つて居たのであります。それで今神主として殘つて居りますものに、出雲の千家、肥後の阿蘇、住吉の津守といふやうなのがありますが、皆小さなものになつて大名といふ程の力もなく、昔の面影はありませぬ。  
それから源平以後、守護地頭などになりました多くの家も、大抵は皆應仁の亂以後の長い間の爭亂のために潰れてしまひました。それで應仁の亂以後百年ばかりの間といふものは、日本全體の身代の入れ替りであります。其以前にあつた多數の家は殆ど悉く潰れて、それから以後今日迄繼續してゐる家は悉く新しく起つた家であります。斯ういふことから考へると、應仁の亂といふものは全く日本を新しくしてしまつたのであります。近頃改造といふ言葉が流行りますが、應仁の亂ほど大きな改造はありませぬ。この節の勞働爭議などは、あれが改造の緒論のやうに言つて居りますが、あんな事では到底駄目です、改造といふからには應仁の亂のやうに徹底した騷動がなければ問題になりませぬ。それで改造といふ事が結構なら應仁の亂位徹底した騷動を起すがよからうと思ひます。  
さういふ風で兎に角是は非常に大事な時代であります。大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代でありますので、それに就て私の感じたいろ/\な事を言つて見たいと思ひます。が併し私は澤山の本を讀んだといふ譯でありませぬから、僅かな材料でお話するのです、その材料も專門の側から見ると又胡散臭い材料があるかも知れませぬが、併しそれも構はぬと思ひます。事實が確かであつても無くても大體其時代においてさういふ風な考、さういふ風な氣分があつたといふ事が判れば澤山でありますから、強ひて事實を穿鑿する必要もありませぬ、唯だ其時分の氣分の判る材料でお話して見ようと思ひます。併し私の材料といふのは要するに是だけ(本を指示して)ですから、是を見ても如何に材料が貧弱であり、極めて平凡なものであるかといふ事が分ります。  
私はまづ應仁の亂といふものに就て、若い時分に本を讀み、今でも記憶してゐる事に就て述べます。それは其頃有名だつた一條禪閤兼良といふ人の事であります、此人は應仁の亂の時代の人でありまして、其位地は關白にまで上り、さうして其學才は當時の人に拔出て居りました、いや當時のみならず恐らく日本歴史の關白の内で最も學才のあつた一人であると思ひます。此人の書いたものに「日本紀纂疏」と言つて日本紀神代卷の注を漢文で書いた本があります、此人は又私共のやる支那の學問に就ても非常に博學でありましたが、是に依て、其當時まだ日本にも斯ういふ人々の間には漢籍の材料が隨分あつたといふ事が分るのであります。併しさういふ澤山の材料も應仁の亂と共に亡びたと言つていゝのであります、そこが日本の文明を全く新しくした所以であつて、多數の材料が皆なくなつて了つたといふ事は却て結構であつたかも知れませぬ。  
所が今日は此人の「日本紀纂疏」の事をお話するのではありませぬ、極く平凡な本の方をお話するのであります、それは「樵談治要」といふ本でありまして、群書類從に出てゐる本であります。是は應仁の亂の後、將軍でありました足利義尚のために治國の要道を説いたものだといふ事でありまして、極く簡單な本でありますが、併し是で其當時の事が頗るよく分るのであります。尤も此人が治國の要道として説いた議論――此人の經綸とも言ふべきものが偉いといふのではありませぬ。どちらかと言へば此人の經綸は一向詰らないものでありまして、夫程博識な人でありますけれども、此人の經綸といふものは、やはり昔からの貴族政治の習慣に囚はれて少しも新しい事を考へて居りませぬ。のみならず其當時の勢力あるものに幾らか阿附する傾きがあつて、眞に自分の意見を眞直ぐに言つたのではないと思はれる節もあります。其一つを申しますと、其本の中に女が政治を執ることが書いてあるのです、併しそれは今日の所謂女子參政權の問題ぢやありませんから御安心下さい(笑聲起る)、詰りそれは簾中より政治を行ふ事で、將軍家などの奧向から表の政治に喙を入れる事でありますが、それに就て兼良の言つてゐる事は、之に贊成をしてゐるやうな口調であります。即ち女が簾中から政治をするといふことは古來どこでも弊害が多いといふことを言はれて居るのでありますが、兼良は其人さへよければいゝといふやうな頗る曖昧な事を言つてお茶を濁して居ります。是は當時義政の御臺所が大分政令に干與していろ/\な事をし、應仁の亂も實は義政の御臺所が根本であると言はれる位に勢力のあるものであつたからして、其勢力に迎合してさういふことを書いたのではないかと思はれるのであります。さういふ點は此人の最も詰らない點であります。其他何れも舊來の習慣を維持する議論で、何にも新しい議論を考へて居りませぬ。其點になると南北朝時代の北畠親房などは、當時の政治に關して古今の史實を參考して、立派に批評し、且つ從來の政治の外に新しい政治のやり方を考へまして、公卿と武家と一致する、公卿が武家の事をもするといふ新しい意味の事を考へた經綸とは較べ物にならぬのであります。唯詰らない議論でも、又其中に當時の實状を非常によく現はしてゐるところが大切であります。  
私が始めて讀んだ時からいつも忘れずに居つた事は「足輕といふ者長く停止せらるべき事」といふ一ヶ條であります、足輕即ち武士サムラヒ以下にある所の歩卒が亂暴をするといふ事に就て非常に憤慨してゐるのであります。足輕といふものは舊記などにも書いてないと言ふことですが、塙檢校の調べによると、源平盛衰記、太平記などにも載つて居るさうであります。勿論其時代にはこれがまだ少しも重要な位置には居らなかつたのです、所がこの應仁の亂のため此足輕といふ階級が目立つやうになつたのです。それで  
昔より天下の亂るゝことは侍れど、足輕といふことは舊記などにもしるさゞる名目也。平家のかぶろといふ事をことめづらしきためしに申侍れ。此たびはじめて出來たる足がるは、超過したる惡黨なり、其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所におきては力なし、さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財寶を見さぐる事は、ひとへにひる強盜といふべし、かゝるためしは先代未聞のこと也。  
と斯う書いてあります。一體應仁の亂に實際京都で戰爭があつたのは僅か三四年の間であります。十年間も續いた亂であると申しましても、京都に戰爭のあつたのは三四年間でありますが、其三四年間ばかりの間に洛中洛外の公卿門跡が悉く燒き拂はれたのであります。而もそれが悉く足輕の所行でありましたので、其事が樵談治要に出てゐるのであります。そして敵の立て籠つた所は仕方がないにしても、さうでもない所を打ち壞し又は火を掛けて燒き拂ひ或は財寶を掠め歩くといふ事は偏へにひる強盜といふべしと言つて居ります。そして是を取締らないといふと政治が出來んといふ事を言つてゐますが、是は即ち貴族階級の人から見た最も痛切な感じであつたに違ひないのであります。當時應仁の亂を見て貴族階級の人が痛切に感じた事は實際さういふ事であつたのであります。  
さういふ風に足輕が亂妨し跋扈したといふ事に就てはまだ面白いことが書いてあります。私は此前に日本の肖像畫の事を話したことがありまして、それは「歴史と地理」の鎌倉時代の文化の所に出て居りますが、それに私は足利時代は亂世である、亂世の時には時々個人の能力あるものが非常に現はれるものであるが、足利時代は亂世であるに拘らず一向天才が現はれない、個人の能力のすぐれた者が頭を出さない時代であつたといふ事を申しました。勿論是は大體から考へて言つた事で、一々證據を擧げる段になると多少の取除を生ずることは勿論でありますが、しかしながら樵談治要を見ると、當時の人が又さういふ事を感じて居つたといふ事が分りまして非常に面白く思ふのであります。即ち足輕の事を説いて居る所に引きつづき、  
是はしかしながら武藝のすたるゝ所に、かゝる事は出來れり。名ある侍の戰ふべき所を、かれらにぬきゝせたるゆへなるべし。されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして、當座の恥辱のみならず、末代までの瑕瑾を殘せるたぐひもありとぞ聞えし。  
と斯ういふ事が書いてあります、其當時の武士といふものには優れたるものが無く、唯だ足輕が數が多いか腕つ節が強いかといふ事に依て無暗に跋扈し、さうして勢ひに任せて亂妨狼藉をしてゐたのであります。詰り武士がだん/\修養がなくなつて人材が乏しくなり、さうして一番階級の下な修養のない腕つ節の強い者が勢ひを得るやうになつて來たのであります。それを一條禪閤兼良なども當時さういふ風に感じて居たのであります。  
足利時代は全く天才のなかつた時代であつたから、應仁以後百年間といふものは爭亂の收まる時期がなく、戰亂が相續いて居つたのですが、是は歴史上屡※(二の字点、1-2-22)斯ういふ事があるものであります。支那でも唐の時代から五代の末頃迄がてうど斯ういふ時代で、恐らく今日の支那もさういふ風になつてゐると思ひます。今日の騷亂は大した騷亂でもないが少しも統一されないのは、個人のすぐれた能力を持つた人がないからで、夫でいつ迄も騷亂が收まらぬのであります、併し乍ら斯ういふ時代には時としてどうかすると最後に非常にすぐれた人が出て來るものであります。兎に角一條禪閤兼良といふ人は舊來の階級をやかましく言つて統一の出來て居つた時代から見るので、この足輕の亂妨がよほど心外に思はれたものと見えます。それで「左もこそ下剋上の世ならめ」と書いてゐますが、近頃どうかすると國史をやる人の間に、此の下剋上の意味を勘違ひして居る人があるやうで、それが教科書などにもその誤つた見方のままに書いてあるのがありますが、下剋上といふことを、足利の下に細川、畠山の管領が跋扈して居り、其細川の下に三好、三好の下に松永が跋扈するといふ風に、下の者が順々に上を抑へ付けて行くのを下剋上といふやうに考へるものがあります。無論それも下剋上であるには違ひありますまいが、一條禪閤兼良が感じた下剋上はそんな生温いものではありませぬ。世の中を一時に暗黒にして了はうといふ程の時代を直接に見て感じた下剋上であるから、それは單に足利の下に細川、細川の下に三好といふ風に順々に下の者が跋扈して行くといふやうな、そんな生温いことを考へて居つたのではありませぬ。最下級の者があらゆる古來の秩序を破壞する、もつと烈しい現象を、もつと/\深刻に考へて下剋上と言つたのであるが、此の事に限らず、日本の歴史家は深刻な事を平凡に解釋することが歴史家の職務であるやうに考へてゐるやうです(笑聲起る)。これらが他流試合で、又惡口を言ふと反動が怖しいからやめます(笑聲起る)。  
所が一方には又下剋上――下の階級の方から此時代に對して考へる其感想を現はしたものがあるのであります。其事の載つて居る本は同じ時代の著述ではなく、もう少し後の時代のものでありませう、しかし其中に書いてあることは、同じ應仁頃の事として書いてあります。天文、永禄頃の本とかいふのに「塵塚チリヅカ物語」といふ本があります。其終りの處に山名宗全が或る大臣と面談したといふことが書いてありますが、是は大變面白いのです。山名宗全が應仁の亂の頃或る大臣家に參つてさうして亂世のため諸人が苦しむさまなど樣々物語りした其時に其大臣がいろ/\古い例を引出した。是はてうど一條禪閤兼良のやうな人でありませう。『さま/″\賢く申されけるに宗全は臆したる色もなく』あなたの言ふのは一應尤もであるが例を引かれるのはいけない、『例といふ文字をば向後時といふ文字にかへて御心得あるべし』といふ意味の事を言つて居ります。昔の事を例に言つてゐるが、例といふものは實際變つてゐるものである、例へば即位式は大極殿で執り行ふといふのが例だといふ事になつて居るが、大極殿がなくなると仕方なしに別殿で行ふ、別殿もなくなると又何か其時々に相應した處で行はなければならぬ。それで大法不易の政道は例を引いてもいゝが、時々に變り、時に應じてやるべきものは例にしてはいけない、時を知らないからいけないといふことを書いてあります。  
是は事實あつたことかどうか分りませぬで……或は嘘の話かも知れませぬ、假令嘘でも構ひませぬ、當時の人にさういふ考があつたといふことは是で分ります。即ち從來の嚴重なる階級制度に對し、制度といふものは時勢に連れて變化すべきものだといふ考のあつた事が分るのであります。唯山名宗全に言はしたのがよほど面白いのであつて、宗全が更に言ふことに、自分如き匹夫があなたの所へ來て斯うして話しするといふ事も例のないことだが、今日はそれが出來るではないか、それが時なるべしと言つてゐるのでありまして、そこらが餘程皮肉に出來て居つて、當時の状態をよく現はして居ります。是は樵談治要と共に當時の状態相應の政治に對する意見であつて、さういふ意見が當時の人にあつた事が分るのであります。
それで此の塵塚物語といふ本にかいてある事は本當か嘘か分らないですが、餘程面白い事の澤山ある本でありまして、足利時代殊に應仁前後に非常に博奕が流行つたといふ事を書いてある所など餘程面白く、近頃の支那を其儘見るやうであります。今でこそ日本は支那などに對して非常に秩序の立つた偉い立派な國のやうに言つて居りますが、矢張り時に依ては支那同樣の事が隨分あつたのであります。此の文中、博奕の事の中にも、當時足利時代に有名な徳政――即ち何年間に一遍凡ての貸借を帳消にしてしまふといふ政治の行はれた事なども書いてありますが、兎に角非常に博奕が盛んでありました。始めの間は武士サムラヒなど自分の甲冑を質に置いてやつたものです、それでどうかすると甲だけを持つて冑を持たないといふやうな武士もあつて、隨分見つともない話であつたが、戰爭で高名をする者は却てそのやうな者に多かつたといつてある。それが後に應仁の亂の時分になると、自分のものを質において博奕をやるのでは詰らないといふので、他ヒトの財産を賭けて博奕をやるやうになりました。どこそこの寺には大變寶物があるらしいからそれを賭けてやるといふのでありまして、是はよほど進歩した博奕のやり方であります(笑聲起る)。この位共産主義のいゝ例はないと思ひます。共産主義もこゝまで徹底しなければ駄目です(笑聲起る)。斯ういふ時代といふものは、全く下剋上と同時に他ヒトのもの自分のものゝ見境がつかないといふ面白い現象が起つて居るといふことが分るのであります。  
詰らない事を言つて居ると話が長くなりますが、そんな事が當時の状態であつたのでありまして、是が當時の文化にどういふ關係があつたかと言ひまするに、一條禪閤兼良といふ人は殊に舊い文化の滅亡に就て非常に慨嘆した人であります。それは一條家には非常に澤山の書籍記録などがありましたが、應仁の亂の時に、自分の家などは勿論燒かれるといふことを前から覺悟して居りましたから、自分が京都を立退いて暫く隱れる時に、それは覺悟の前で立退き、藏だけは番人を置いて立ち退いたのです。所が果して大變な騷動になりました。それで屋敷位はどうしても燒かれるだらうが藏だけは殘るだらうと思つて居りました所が、一條家の家來共の智慧は禪閤以上に出て、藏にはいゝ物があるに違ひないといふので皆引出して、書物が貴いとか舊記が大事だといふやうな事にはお構ひなく、さういふものを皆どうかしてしまつたのです。當時の記録によれば、一條家の文書七百合が街路に散亂したといふことで、それを非常に悲んだといふことでありますが、樵談治要の著述などもさういふ所から來てゐるのでありませう。又斯ういふ人の事でありますから、古い文化を如何にしてか後に傳へたいといふ考が、燒き打ちをされてなくなる際においてもあつたに違ひないのであります。  
それからやはり群書類從の中にあります本で、兼良の作の「小夜の寢覺」といふものがあります、其當時現存の書籍が出來上る迄の來歴を書いたものでありますが、それには昔の修業の仕方をも書いてあります、詰り昔の文化を傳へる爲に書いたのであります。殊に私の感じたのは樂人豐原統秋といふ人の書いた體源抄といふ本でありまして、此の體源抄の體源は其の横に豐原の文字のある文字を用ゐて書名の中に豐原といふことを現はしたのであります。此家は代々笙の家でありまして、今でも其末孫が豐ブンノ某と言つて在りますが、此の豐原といふ人が體源抄を書いた序文を見ますと、其當時の戰爭が應仁元年正月上御靈の戰爭の頃からだん/\烈しくなつて來て、さうして天子も室町の足利の第に行幸される、それは足利に行幸されたと申しまするが、實は細川勝元が何かの時に自分の都合のために臨時行幸を仰いで取り込めておいたのであります。さういふ事からして非常に世の中が騷動になつて、樂人の祕傳などを傳へることが却々難儀でありましたが、其間において兎に角自分で非常に難儀して先祖代々の祕傳を傳へたといふことがそれに委しく書いてあります。さうして體源抄といふのはよほど大部の著述でありますけれども、それが單に音樂の祕傳を傳へるといふことばかりでなしに、何んでも自分が覺えただけのことは皆書込んで居るのであります。そして此人は法華經の信者で何かといふとすぐ南無妙法蓮華經を書いて居ります。今日から見れば殆ど著述の體裁をなさぬと言つてもいゝ位でありますけれども、實際應仁の亂に會つた人の考から見ると、少しでも昔から傳はつたものは、何んでものちに傳へたいといふ所から何も彼も書き込んだものと思はれます。兎に角騷亂の時に方つて古代文化の一端でも後に傳へたいといふ考が當時の人にあつたのでありませう。  
尤も其後になりまして後陽成天皇の時、即ち豐臣秀吉の時代になつて天下が治まるといふと、舊儀復興が盛んになりまして、さういふ僅かに傳へられて居つた本などを根據として凡ての朝廷の儀式を復興しました。勿論昔のやうに完全に復古は出來ないけれども、是等の事は皆斯ういふ人が骨折つて古代の文化を殘さうといふ努力をした效能が現はれたのであります。  
併し當時の全體の傾きはそれと違ひまして、凡ての文化といふものが大體特別な階級即ち當時迄政治に勢力のあつた貴族の階級から一般の階級に普及するといふのが、當時の實際の模樣であつたと思ひます。それは一つは自然に已むを得ざる所から來た點もありますが、それらの事を一二の例を擧げて申しますると、まづ伊勢の大神宮の維持法であります。伊勢の大神宮といふものは御承知の通り日本天子の宗廟でありまして大變大切なものであるから、昔から伊勢の大神宮と言へば一般の人民には參拜を許されてなかつたのであります、それで延暦の儀式帳などにも、人民の拜禮のことはないといふことであります。此時分には朝廷より十分の御保護があつて、神宮に仕ふる家々も何不足なく暮して居つたのですが、鎌倉足利と引き續き朝廷がだん/″\衰微して來るといふと、伊勢の大神宮にいろ/\差上げる貢物がだん/″\出來なくなつて來たのです、さうして最も烈しい打撃は應仁の亂の前後から起て來たのであります。所がさういふ時には又其時相應な智慧が出るものでありまして、京都吉田山へ伊勢の大神宮が特別に飛移られたといふことを、吉田の神主が唱へ出した。うまい處へ付け込んだもので、さうすると朝廷でも大いに負擔を免れて結構な事であるから、已に之に從はんとせられたが、伊勢の禰宜たちからやかましく訴訟して、飛移り一件は消滅したけれども、此頃から神宮は益々維持費を得ることが困難になつて來たので、そこで考へられたのが御師オシ等が維持策としての伊勢の講中と唱へるものであります。即ち神宮へ參詣する講であります。是は平田篤胤などの國學者の説では、佛家の方の講のしかたを應用して伊勢の講中が出來たのだといふことを言つて居りますが多分さうでせう。其講中が出來ると、朝廷から保護を受けることの代りに日本の一般人民から受けるといふことになりますので、御師が一般參拜人の取次をして誰でも參拜せしめる仕掛にしたのであります。  
尚是等の事に就ては、平田の前から尾張東照宮の神主で吉見幸和といふ人があり、伊勢の外宮の神主などが唱へる妄説の由來を研究しまして、平田なども是に依つたのであります。元來内宮は天照大神、外宮は豐受大神でありますが、豐受大神といふのは言ふ迄もなく天照大神のお供へ物、――召上る物を掌る神といふ事で、位の低いものであります。所が其位の低い外宮の神主が内宮の神主に對抗して同等なものといふことにするため、いろ/\古くから理窟を作ることを考へました。さうして神道に關する著述も外宮の神主、度會家行などから起つたのでありまして、低い地位に居つた外宮の神主の方が智慧も早く發達して、外部に對し信者を得るといふことを考へました。それで御師も外宮の方が盛んであつたといふことであります。兎に角日本國民一般の參拜を認めてそれに依て維持しようといふことになりました、御師は何國何村は自分の持分といふ風に分けて得意を持つて居りました。それで時々どこの講中を賣買するとか、何百人を讓渡すとかいふやうな證文が今日でも伊勢の神宮文庫の中に所藏されて居ります。  
さういふ風に却々うまい具合に考へまして、朝廷からの保護がなくなると一般人民に依て維持することを考へたのであります。併し是は伊勢ばかりでもありませぬ。寺でもさうでありまして高野山にもあります。高野山の塔頭タツチユウで何々の國は何々院が持てゐるといふ風にして、高野聖といふものが國々を勸化して維持したのであります。さういふ譯で當時朝廷とか主なる貴族即ち藤原氏といふやうなものから保護されて居つたのが、亂世になつてそれが頼まれぬ處から、一般人民の力に依て維持されるやうになつたのは、應仁を中心にした足利時代の一般の状態であります。是に對しては平田篤胤などもよほど面白い解釋をして居りまして、元來昔は制度としては出來ない筈であつたのが、一般にさういふ風に大神宮へ物を奉るやうになり、家毎に神の棚をしつらへて祭りをするといふのは、偏へに神の御心でかやうに成り來つたること申すまでもないと言つて居ります。詰り耶蘇教でいふ神の攝理とでもいふやうなものでありませうが(笑聲起る)是はよほど面白い見方でありまして、貴族時代の信仰から一般の信仰に移りゆくさまをうまく言ひ表してあります。  
それから伊勢で暦を作りました、是は假名で極く分り易く書いた暦であります、元來暦といふものは、京都の賀茂、安倍の家が特權を持つて居つた所のものであります。其家で作る特別の暦は天子を始め貴族の人々のために何部かを作つて配るだけで、それが所謂具注グチユウ暦であります。此具注暦は其中に日記を書く例になつて居ります、詰り職務のある人が日記を書くために暦が作られたのであります。所が伊勢の町人が祭主の藤浪家に頼んで、安倍氏の土御門家から暦の寫本を貰ひ、それを假名暦にして御師の土産として配つたのが、しまひには商賣になつて金さへ出せば誰でも買ふことが出來るといふやうに、暦の頒布が平民的となつたのであります。是は神さまの信仰を擴めるに就ての副業でありますが、副業でも何でも平民的の傾きを帶びて來て居るといふことが此時代の特色であります。  
下剋上の世の中でありまして、下の者が跋扈して上の者が屏息するといふのですから、日本の一番大事な尊王といふやうな事には果してどういふ影響を及ぼしたかと言ひますと、當時は皇室の式微の時代であつて、戰國時代の末には御所の中で子供が遊んで居つたといふ程ですから衰微して居つたには間違ありませぬ。けれども其一面においてさういふ風な神さまの信仰――天子の宗廟に對する信仰が朝廷の保護から離れて人民の信仰となつたがために、却て一種の神祕的尊王心を養つたことは非常なものであります。そして其後の日本の尊王心の歴史から申しましても、此間に一般人民の胸裡に染み込んだ敬神の念と共に養はれた尊王心は非常なものであると思ひます。それで一時朝廷が衰へたといふ事は、日本の尊王心の根本には殆ど影響しないのであつて、寧ろ其のために尊王心を一部貴族の占有から離して一般人民の間に普及さしたといふ效能があるのであります。斯ういふ事が當時の一つの現象であります。  
其他やはり其當時の一種の信仰目的とでも申しますか、兎に角日本の道徳の經典といふやうなものが組織せられ掛けて來た事實があります。即ちかの菅公は和魂漢才と申されたと言ひますが、昔の貴族政治時代以來澤山ある學藝を、どれもこれも凡てを修養しなければ一人前の公卿なり縉紳なりになれない譯ですが、斯ういふ亂世で面倒な修養が出來なくなるに從つて、さういふものが或る一部分に偏る傾きが生じて來ました。即ち其當時最も盛んに研究された――研究されたといふよりは寧ろ信仰の目的になつた本は何かといふと、日本紀の神代の卷であります。一條禪閤兼良の日本紀纂疏といふのも神代の卷だけの註を書いたもので、是は有ゆる和漢の例を引いて非常な博識を以て書いて居りますが、其目的はやはり日本紀の神代の卷を尊い經典にするため書いたのであります。此傾きは必ずしも一條禪閤兼良から來た譯ではなく、もう少し前からでありますが、それはやはり蒙古襲來などがよほど大きな影響を持つてゐるやうであります。そしてその蒙古襲來の時、國難が救はれたのは全く神の力だといふ考が一般に起つて來ましたが、南北朝頃から北畠親房、忌部正通など「日本は神國なり」といふやうなことを云ひ出しました。其後徳川の時代になつて林道春が「神社考」を書いた時にも、日本は神國なりと言ふことを書いて居ります。さういふ譯で應仁の亂頃にも外に對しては南北朝以來の思想が續いて來て居りまして、日本紀の神代の卷は立派な經典となり、支那の四書五經といふやうな考になりました。是は日本といふ國が如何なる騷亂の間に年が經ちましても、皇室はちやんと存在して、いつ迄も日本の眞の状態といふものは變らない、一定不變のものがあるといふことを主張する代りに、日本紀の神代の卷といふものが立派な一つの經典となつたのであります。是等は當時の信仰状態の變化といはれないが、從來不確實だつた信仰状態が、此時代に於て確定することになつて來たと言つていゝのであります。此應仁時代は亂世でありますけれども、さういふ國民の思想統一の上には非常に效果があつたと言へるのであります。  
それから一つは其當時の公卿などの生活状態から來たのでありますが、公卿の生活状態が困難な處からして、神社とか寺院とかゞ一般の信仰に依つて維持される事を考へたと同じやうに、公卿も何か自分の家業に依て生活する道を考へるやうになつて、そこにいろ/\な傳授をするといふことが起りました。例へば古今集などの傳授をする事によつて生活するやうになつたのでありまして、是はよほど面白い考であります。それは今日やつてもきつと面白いと思ひます、詰り智識階級の自衞法であります(笑聲起る)。いつでも騷動があると――近頃も少し世の中がをかしくなると一方に資本家一方に勞働者があつて騷ぎ出し、其間でいつも困つてゐるのは智識階級である、こゝに集つてゐる諸君も僕等もさうでありますが、智識階級はいつでも板挾みになります。がそれを如何にして維持するかといふことに就て少しもいゝ智慧を出した奴がない。然るに足利時代のものは之を考へて傳授といふことをやつたのです。詰り傳授に依らなければ凡ての智識が不正確といふことになつて、陰陽道は土御門家がやり、歌を詠むことは二條家、冷泉家がやるといふことになつて、何をするにも傳授に依らなければならないといふことになつて來ました。尤も是は日本ばかりではなく西洋でも中世の加特力教の坊さんなんどがやつぱりさういふ智慧を出して、人間を天國にやる鍵は坊さんが握つてゐる、坊さんに頼まなければ天國に行けないといふやうなことにしてしまつたのです。是は智識階級を維持しようとする時に出て來る智慧でありまして、大學の學問なども是は祕密にして傳授すべきものかも知れぬと思ひます(笑聲起る)。さうすれば斯ういふ處で講演などするのは間違です(笑聲起る)。大學の學問を祕密にして傳授でやり、故なく他人には教へないといふ事にすると智識階級の維持が出來ます(笑聲起る)、で足利時代の傳授はよく其邊の祕訣を心得たもので、凡ての學問が傳授でやつてゐました、歌の方なら古今集中に大切なことを拵へてそれを傳授するといふことになつたのであります。  
それから源氏物語が大變尊重されました。是は藤原時代の小説でありまして、殊に男女の關係について當時の風習を隨分無遠慮に書いた本ですが、是が經國經綸の書として當時の人に尊重されました。詰り神祇や皇室を尊ぶ方の經典としては日本紀の神代の卷でありますが、源氏物語は一般の人情を知り、藝術の神髓を解するための經典として考へられました。足利の末年から豐臣、徳川の頃まで居つた人で有名な細川幽齋といふ人があります。是は戰國時代から古今集の傳授を傳へて居つた唯一の人で、關ヶ原合戰に丹後田邊の城に立て籠つた時にも、古今傳授が絶えるから殺してはならぬと朝廷から御使者を遣はされて戰爭をやめさせた位の人であります。其幽齋が門人の宮本孝庸の問に答へた事として  
ある時に孝庸玄旨法印に世間の便になる書は何をか第一と仕るべきと尋ねさせければ、源氏物語と答へたまひし。又歌學の博學に第一のものはと問はれば同じく源氏と答へさせたまふ。何もかも源氏にてすみぬる事と承りぬ、源氏を百遍つぶさに見たるものは歌學の成就なりとのたまふよし孝庸の説と云々  
何もかも源氏物語で濟む、當時の學問といふものは源氏物語一つあればそれでいゝといふので、源氏は詰りよく一般の世態を知つて世の中を經綸するために唯一の大事な經典であるとされて居つたのであります。源氏物語を以て國民思想を統一するなどといふことは今日の文部省などの思ひもよらぬ所であります(笑聲起る)。一般には亂世で政治上殆ど何等統一などのなかつた時代に、何か或る者で統一しようといふ考が一般の人に出來て參りまして、此等の傳授によつて其の祕訣に達することが、文化的に世の中を統一すべき智識を得る所以であると思つてゐたのですが、そこらはよほど面白い所であります。是は即ち日本の亂れた時代に於ても尚且是を統一に導く所の素因が出來て居つたといふことを示すものであります。  
尚智識普及に於て一つ例を言ひ殘しました。それは私共漢學の方でありますが、漢學の方も其當時に於て一つの變化を示しました。即ち漢學といふものもやはり貴族の學問から一般の學問になる一つの段階を作つたのであります。漢學の一つの大きな變化といふのは、昔は古注の學問、其頃は四書五經とは申しませぬから五經でありますが、其古注即ち漢唐以來の注を用ゐて居つたのが朝廷の學問であります。それが徳川時代に宋以後の朱子の學問が行はれまして一般に擴まりましたが、古注の學問は貴族の學問であり、新注の學問は一般國民の學問であります。此新注の學問が應仁の亂の頃から弗々起つて來ました。後醍醐天皇の時に玄惠法印が新注の講釋をしたと言はれてゐますが、後醍醐天皇のお考は、單に凡ての古來の習慣を打破しようといふのであつて、其御考は失敗に終りましたが、さういふ御考へ、即ち古來の習慣を打破しようとされた御遺志が應仁の亂の上に現はれてゐると言つていゝのであります。  
康富記といふ有名な記録がありますが、是に清原頼業といふ高倉天皇に侍讀した人の事が出て居ります。清原家は代々經學の家でありますが、此頼業が禮記の中の中庸を非常に重じて是を特別に拔き出して研究されたといふことが、康富記に書いてあります。是が宋の朱子の考と暗合して居るといふので偉いといふ事になつて居つた人でありますが、私は或る時、頼業の事を調べる必要があつて、帝國圖書館にある原本を見まして、どうも可笑しいと思ひました。頼業が果してさういふことを言つて、それが足利時代まで其話が傳はつたといふのであるか、どうも疑はしいと思ひました。是は南北朝時代から新注が流行つて大學中庸といふものが禮記の中から特別に拔き出されて尊重されて、それが清原家の學問にも響いて來た結果、かういふ話が出來たのではなからうかと思ひまして、なくなられた田中義成さんに申しました所が、是は贋せ物だ、當時の人の作り話しだらうといふ田中さんの考でありました。足利時代から大學、中庸に限つて新注を採用したのであります。詰り漢學の上に新思想が行はれて、經書の學問は清原家では古注を用ゐるのが古來の仕來りであるけれども、大學、中庸だけは新注を採用するといふ事になつて、今迄の主義を改めるのに何か理窟がなければならぬために、頼業が斯ういふことを言ひ出したといふ話が作り出されたのだらうかと疑はれます。所で此新注は支那でもさうであるが、殊に日本に於て學問を平民に及ぼした有力なる學派であります。さういふ事が足利時代になりまして漢學の上に於ても貴族から平民に移るべき段階を此時代において開いて居つたのであります。  
かくの如く應仁亂の前後は、單に足輕が跋扈して暴力を揮ふといふばかりでなく、思想の上に於ても、其他凡ての智識、趣味において、一般に今迄貴族階級の占有であつたものが、一般に民衆に擴がるといふ傾きを持て來たのであります。是が日本歴史の變り目であります。佛教の信仰に於ても此の變化が著しく現はれて來ました。佛教の中で、其當時に於ても急に發達したのが門徒宗であります。門徒宗は當時に於ては實に立派な危險思想であります(笑聲起る)。一條禪閤兼良なども其點は認めて居るやうでありまして「佛法を尊ぶべき事」と書いてある箇條の中に、「さて出家のともがらも、わが寶を廣めんと思ふ心ざしは有べけれど、無智愚癡の男女をすゝめ入て、はて/\は徒黨をむすび邪法を行ひ、民業を妨げ濫妨をいたす事は佛法の惡魔、王法の怨敵也、」と書いてある。一條禪閤兼良は門徒宗のやうな無暗に愚民の信仰を得てそれを擴める事に反對の意見をもつて居りますが、其當時に於てすでにさういふ現象があつたといふことが分ります。それは兼良が直接さういふ状態を見て居りました處からさう感じたのだと思ひますが、引續き戰國時代に於て門徒の一揆に依て屡々騷動が起り、加賀の富樫など是がため亡んでしまひ、家康公なども危く一向門徒の一揆に亡ぼされる所でありました。單に百姓の集まりが信仰に依て熱烈に動いた結果、立派な大名をも亡ぼすやうになりました。非常に危險なものであつて、門徒宗が實に當時の危險思想の傳播に效力があつたと言つていゝのであります。但し世の中が治まると、危險思想の中にもちやんと秩序が立つて納まり返るもので、今の眞宗では危險思想などゝいふ者が何處にあつたかといふやうな顏をしてゐますが(笑聲起る)却々そんな譯のものではなく、少し藥が利き過ぎると、何處まで行くか分らぬ程の状態でありました。かくの如く應仁の亂といふものは隨分古來の制度習慣を維持しようとして居ります側――一條禪閤兼良などのやうな側から見ると、堪へられない程危險な時代であつたに違ひありませぬ。  
それが百年にして元龜天正になつて、世の中が統一され整理されるといふと、其間に養はれた所のいろ/\の思想が後來の日本統一に非常に役に立つ思想になりまして、今日の如く最も統一の觀念の強い國民を形造つて來てゐるのであります。併し此後も騷ぎがある度に必ず統一思想が起るかといふとそれはお受合が出來ませぬ。今日の日本の勞働爭議に就ても保證しろと言はれてもそれは保證しませぬ。唯だ前にはさういふことがあつたといふだけであります。何か騷動があれば其度毎に其結果として何か特別な事が出來るといふ事は確かであります、唯どういふ事が出來るかといふことは分らない。一條禪閤の如きも當時の亂世の後に結構な時代が來るとは豫想しなかつたのであります。歴史家が過去の事によりて將來の事を判斷するといふ事はよほど愼重に考へないと危險な事であります。  
兎に角應仁時代といふものは、今日過ぎ去つたあとから見ると、さういふ風ないろ/\の重大な關係を日本全體の上に及ぼし、殊に平民實力の興起において最も肝腎な時代で、平民の方からは最も謳歌すべき時代であると言つていゝのであります。  
それと同時に日本の帝室と言ふやうな日本を統一すべき原動力から言つても、大變價値のある時代であつたといふ事は之を明言して妨げなからうと思ひます、まあ他流試合でありますからこれ位の所で御免を蒙つておきます。(大正十年八月史學地理學同攻會講演)   
 


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