鎌倉武士
鎌倉幕府鎌倉武士1武士の起源荘園武士2武士3武士の姿伊勢原義仲物語 
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時宗・一遍 仏の世界   

 
鎌倉幕府

鎌倉幕府は源頼朝によって創られたと言われていますが、実際には相模の武士団が頼朝を利用して創らせたと言っても過言ではありません。負けるかもしれない頼朝と運命をともにした武士は「なんのために」命をかけたのでしょうか?またどうして頼朝を支えたのでしょうか。頼朝が関東の武士団をまとめて幕府を創ったといわれますますが、実際はどうだったのでしょう。話は義朝(よしとも・頼朝の父)が関東に勢力を広げていた時に戻ります。 
天養元年(1144)9月上旬に源義朝は家来の清原安行と字新藤太、それに国衙(こくが)の役人達を大庭御厨内鵠沼(くげぬま)郷の伊介神社につかわし、一人を殺害し、神官八人に傷害を与え領家・伊勢神宮への供祭料である魚を奪い、大豆や小豆を刈り取っていく事件をおこした。 
さらに義朝は10月21日源頼清と相模の役人たち、義朝の代理人である清原安行、ならびに有力豪族の三浦義明、和田太郎助弘、中村宗平、以下千余騎を大庭御厨内に派兵して乱暴をはたらき、御厨の下司「大庭景宗」の屋敷を荒らして私財を強奪。伊介神社の神官6名を死傷させた。 
義朝は大庭の御厨(みくりや)のうち、鵠沼(くげぬま)一帯を義朝の領地であると言いがかりをつけて侵入し、家屋を焼き払い農作物を奪い、御厨に住む人々を殺しました(御厨/神社に寄進された荘園、大庭御厨は伊勢神宮内宮に寄進されていた、鵠沼/藤沢市にある鎌倉よりの地域)。 
大庭の御厨は1104-1131年にかけて、鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)が現在の藤沢市から茅ヶ崎市一帯にかけて開発した広大な農地で、13の村があったと記録されています。地図を見れば分かるとおり藤沢市や茅ヶ崎市には相模川をはじめとする、多くの川が作り出した平野が広がり、相模ではもっとも豊かな地域を含んでいます。さらに大庭は海に面していたために漁業もさかんで、後に領家となる伊勢神宮には干しアワビをはじめとして多くの海産物が神様への供物(税)として納められています。領地を有力者(貴族や寺社)に寄進すると国に税を支払わず、寄進先に年貢を払うことになります。そのかわり外部から侵略されにくくなり安心して生活を送ることが出来ます。つまり、大庭の庄は不輸・不入の権を持った寄進地系荘園ということになります。 
ところで、大庭の庄のように伊勢神宮などの神社に寄進された荘園のことを特別に「御厨」と呼びます。「神様の台所」という意味で、税も神様に捧げる「供物」といいます。 
豪族達はこぞって自分の領地を都の有力者に寄進しましたが、国の支配下に入る土地も残しておきました。こうした土地を国衙領(こくがりょう)といいます。有力な豪族は国府の役人になるためにそうした土地を残しておいたのです。豪族の多くは自分の立場を有利にするため力に応じて次のような官位(かんい)を持っていました(豪族とは大きな土地を支配する農民のことで、彼らが土地を守るために武装したのが武士というわけです)。 
官位は、介(「すけ」は」長官を補佐する次官です)今なら助役、掾(「じょう」裁決する権限を持っています)今なら部長、目(「さかん」その地域をまとめる権限があります)今なら課長のようなものがありました。 
国府での最高の位は「国司」で、位は守(かみ)です。守のほとんどは都から派遣(はけん)された貴族や皇族たちでしたから、地方豪族の最高位は介ということになります。任期は4年間でそのあいだ自分の所有する田畑の税金が免除されます。しかも権力を持つことができるので、どの豪族も官位を欲しがりました。こうした地方豪族がなった役人のことを「在庁官人」(ざいちょうかんじん)と呼びます。関東地方は新しく開拓されたところが多く、境界争いや跡継ぎの問題でいざこざが多く不安定なために、在庁官人になるかならないかは豪族にとって大きな問題でした。 
源義朝が大庭の庄に侵入したときに連れていた「国衙の役人」というのは、こうした在庁官人のことだったのです。大庭の御厨は伊勢神宮に寄進された荘園でしたが、国レベルではなく国司が認めた荘園だったので、高座郡に属す大庭の御厨の中で、鵠沼を鎌倉郡の一部とした義朝がその権力を使って、三浦氏や中村氏を使って侵略した事件でした。国レベルで認められないと正式な荘園とは認められなかったのです。 
大庭の御厨が豊かな神奈川県央地域にあるのに対して、三浦氏、中村氏(土肥氏は中村氏一族)の領地には丘陵部が多く、水田になる低地(沖積地/ちゅうせきち)が少ないことが分かります。つまり源義朝・三浦氏・中村氏は「水田になるべき沖積地が領内に少ない」という同じ立場にあります。三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人でしたが同時に源義朝の郎党(ろうとう・家来)でした。彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのです。その後三浦氏は義明の弟「義実」(岡崎義実)を平野の北である大住郡に配し、さらにその子「義忠」(真田与一義忠)を北西部に配しました。 
一方、中村氏は宗平の息子である実平(土肥実平)を湯河原・早川に配し、その弟の宗遠を土屋に配しました。土屋と真田は距離も近く両氏は姻戚関係を結びます。つまりこの時点において平野部を取り囲む三浦一族と中村一族の包囲網ができあがったというわけです。そしてその要が源義朝でした。 
これに対して大庭氏は同じ県央地域に領地を持つ渋谷氏や糟屋氏(かすや)と手を結びますが、そのつながりは三浦氏や中村氏の結びつきに比べてさほど強くありませんでした。それは大庭氏が鎌倉党と呼ばれる一族なのに対して糟屋や渋谷はそれぞれが別の一族だったからです。 
頼朝の挙兵を言いかえると「相模平野をめぐる領地の獲得争い」と言っても過言ではありません。石橋山の合戦は土肥実平の領地内で行われましたが、頼朝軍300に対して大庭軍は3000というその差十倍の力の差がありました。一見すると頼朝軍は不利に見えますが、三浦氏の援軍が嵐のために遅れさえしなければ、大庭軍を挟み撃ちに出来たわけです。基本的に「丘陵部の豪族群」が「平野部の豪族群」を包囲している形に変わりはないのです。 
頼朝が兵を挙げるときに従った相模の武士団のほとんどは、父の義朝時代から関係のあった者たちでした。そしてその中心は三浦氏です。三浦半島に勢力を持つ三浦氏は東京湾の対岸である安房や上総、それに下総といった現在の千葉県の豪族とも深いつながりを持っていました。特に安房地方は三浦氏の強い影響下にあったといわれ、石橋山の合戦で敗走した頼朝一行が後に船で相模灘、東京湾を横断して安房に逃げ込んだ理由がここにあります。三浦氏は相模平野へ進出して勢力を拡大するために、同じ立場にあった中村氏と手を結び、立場の危うくなった頼朝をうまく担ぎ出し、父祖の頃からの願望を実現しようとしたのです。 
武士の命・土地 
武士とはもともとは農民でした。平安時代になると各地の開拓が進みそれまで原野だったところが畑や田んぼになっていきました。それらの開拓はまず初めに大きな力と財力を持つ東大寺や興福寺といった大寺院、春日大社や伊勢神宮といった大神社、それに藤原氏を代表とする貴族が行いました。こうして新しく作られた広大な農地やそこに含まれる村をひっくるめて「荘園」と言います。 
やがて、地方の豪族たちも新しい土地を開拓して農地を広げていきました。特に関東地方は利根川や多摩川、相模川などの大きな河川が多く、それらが作り出していた平野や湿地帯は次々と新しい田んぼや畑にかわっていきました。しかし、立場の弱い豪族の土地はしばしば領地争いや、中央からきた国司や国主の代理である目代によって領地をおびやかされていました。そこで親戚同士や一族で結束を強め自分たちの土地を守るために武装しました。これが武士の始まりであり武士団の始まりなのです。さらに武士団同士が結びつくときには自分たちよりも身分の高い人物をリーダーに選びました。それらが源氏や平氏というわけです。彼らのことを武士の棟梁(とうりょう)といいます。 
棟梁である源義朝が三浦氏や中村氏を従えて大庭の庄(御厨)に侵入したのはまさに、弱い立場の領地(大庭の庄)を周りの豪族たちと源氏が手を結んで奪おうとした典型的な例なのです。そのために大庭の庄(御厨)は、正式に伊勢神宮の領地ということにして貰うための努力をしました。やがて国レベルで御厨として認められて侵入事件もおこらなくなりました。大庭一族がなぜ自分たちの土地を伊勢神宮領にしたのかと言えば、前にも述べたように「不輸の権・不入の権」を手に入れたかったからにほかありません。 
土地は農産物を生み出します。なかでも米は換金性がたかくもっとも重要な農産物です。そのために水路を開発し水田を広げることが、豪族たちの最も力を入れたところでした。他には桑を植えて蚕を飼い絹糸を作ったり、木材を切り出したりと土地なくして豪族の生活は成り立ちません。「一所懸命」とは土地を守る豪族(武士)たちの最も基本的で大切なことを表した言葉です。武士は自分の土地を守ることに命をかけます。領地を守るためには味方さえ裏切ることがあり、それが悪いことだとは思われていませんでした。 
武士の領地を「守る・増やす」契約 / 「ご恩と奉公」  
頼朝は初戦の時から味方になった武士団(豪族)の領地を保障してきました。また、敵を破ったときにはその領地を分配しました。武士団がそれまで持っていた領地を保障することを「本領安堵」(ほんりょうあんど)。新しい領地を与えることを「新恩給与」(しんおんきゅうよ)といいます。このことをしっかりと行った頼朝は、家来となった武士から「鎌倉殿」と呼ばれ信頼されました(以後、将軍のことは鎌倉殿と呼ぶ習わしになります。)。 
「鎌倉殿」の家来となった武士のことを「御家人」と呼びます。御家人になれば自分の領地が他人からおびやかされることはありません。しかも戦の時にめざましい働きをすれば新しい領地を得ることも出来ました。不安定だった相模の武士団(豪族)の生活は頼朝の出現によって安定し発展していったのです。武士はその見返りとして「奉公」しましたが、それはご恩があってのものだったのです。 
まとめ 
教科書や歴史の本には頼朝が挙兵しそれに関東の武士団がしたがって平家を倒し、鎌倉幕府を創ったとありますが、そうは言い切れないということが分かったでしょうか。今までは「主」が頼朝で、「従」が武士団(豪族)ということでしたが、実際に頼朝を動かしたのは伊豆の北条氏であり、相模の三浦氏や中村氏だったのです。その証拠に富士川の合戦で勝った頼朝が「このまま京都に進撃しよう」と言ったとき、上総介を初めとする主だった武士がことごとく頼朝に反対し「まずは関東をまとめることだ」と言ったのは有名な話です。確かに後の頼朝は「鎌倉殿」として武士の最頂点に立ちますが、彼の行った政策はすべて「関東の御家人たちの生活を守る」ということが基本になっています。関東の中でも特に相模の武士は早くから頼朝を利用し自分たちの立場を有利にしようと行動しました。彼らの作り上げた武士政権の組織はその後時代とともに変化しますが、基本である「御家人の土地を守る」という部分には全く変更がありませんでした。相模の武士団が主導権を握り自らの境地を開拓しようとしたからこそ、石橋山で戦死するはずだった頼朝は生き延び奇跡の大逆転を行うことが出来たのです。 
北条氏と伊東祐親 
頼朝の死後には武士団の間で政権の主導権争いが起こります。キーになるのは頼朝挙兵の時から従ってきた伊豆の武士団で、なかでも頼朝の正室である政子の家筋である北条氏でした。北条氏は14歳の流人「頼朝」を受け入れ、34歳にいたるまで監視という名目の面倒を見てきた伊豆「韮山」(にらやま)の豪族です。のちに有力豪族の三浦氏を滅ぼして幕府内の最有力ご家人になったのは彼らでした。実は伊豆の豪族グループの中で北条氏と並んでもう一つのキーになったのは、石橋山の合戦で300騎の兵で頼朝の背後をおびやかした伊東祐親(いとうすけちか)です。伊東氏一族は現在の伊豆伊東の周辺に勢力を持っていた豪族で、中村氏一族や三浦氏一族さらに北条氏とも親戚関係にあり、頼朝挙兵に関係した有力豪族をすべて結びつける重要な立場の豪族です。 
伊東祐親がなぜ頼朝を討とうとしたかは定かではありませんが、娘八重姫と頼朝のことがあったからだと言われています。一説によると祐親ははじめ頼朝を自分の館に招き7年間にわたり厚くもてなしますが、大番役として京都に行っている2年間に八重姫が頼朝の子供を産み、育てていたことに怒ったと言われています。ちょうどそのころ京都では以仁王と源頼政の反乱が起こり、諸国の源氏に反平氏の呼びかけが行われている最中でした。都の平氏が最も危険視している頼朝と愛娘との間に子供が出来たことは、一族を守る立場にある者としても、一父親としても許すことは出来なかったのでしょう。 
後に、捕虜となり娘婿の三浦氏に預けられた祐親は、赦免されるやいなや自害して果てます。また、八重姫と頼朝を結びつけた祐親の息子「祐清」(すけきよ)も頼朝が領地を安堵しようと言っていたにもかかわらず、敗戦色の濃い平家に味方し木曽義仲軍と戦い北陸で戦死してしまいます。伊東一族は世渡りの下手な一本気な気風の家柄のように思えます。 
一徹といえば頼朝追討の大将だった大庭景親も同様でした。大庭一族は源義朝に領地を侵略されひどい目にあわされているにも関わらず、平治の乱では義朝に従っています。おそらく力関係でそういうことになったのでしょう。義朝が殺され敗北を喫した後に、本来なら斬首されるところを平清盛によって許されます。景親はこのとを終生忘れず以後平氏のためにつくします。景親も祐親もその立場からたまたま頼朝の敵となりましたが、「様子を見てから強い方の味方をする」当時としては武士の当たり前の生き方に比べ、私たち日本人の持つ「武士」というイメージにピッタリの人物と言えます。 
権謀術数にたけた北条氏と一徹の伊東氏、機を見るに敏だった梶原景時と、忠節をつくした大庭景親と、800年前に相模の地で繰り広げられた出来事は武士の時代という新しい歴史の幕開けでしたが、これらの好対照が示した行動はこの後に続く武士すべてが持つ葛藤の始まりだったといえます。
源頼朝の世界  
「源頼朝の世界」は小説ではない、歴史エッセイである。 
永井路子は頼朝をこのように表現する。  
「いわば風呂から上ったら裸で突立ったままでいるような、まわりがよってたかって体をぬぐい、着物を着せてやらずにはいられないような、そんなものが身についている。」  
周りがよってたかって、といっても、じつは核となる人間関係がある。永井路子はそれを「乳母」という。貴族では一人の男に複数の女がいるのは当然。同じ母の元に生まれたきょうだい以外は全て身近なライバルである。その、母も子育てを自分ではしない。乳母という女性が、一人の男をそだてる。いや、乳母は一人ではない。嫡男であれば、可能性を求めて複数の女性が乳母に集まる。乳母を支えるのは乳母となった女性の夫であり、乳母の子供たちである。この乳母の疑似家庭が、信頼できる「家族」である。もちろん、出世の場合には側近としての将来が乳母の家族には保証されていると見ることが出来る。しかし、将来が閉ざされていようとも見捨てる乳母ばかりではない。永井路子は乳母を評して「利害打算を底に据えながら、それを超えた心情的一体感によってつながれているおもしろいところ」という。  
頼朝にも複数の乳母がいた。知れたところでは、比企尼である。彼女は頼朝が伊豆の蛭が島に流されると、京都より武蔵の比企に戻り、約20年間にわたって物資・情報を送り届けた。実際に物資を運び身辺の世話を行ったのは、比企尼の娘の婿たちであった。例えば安達藤九郎盛長、比企能員、川越重頼、伊東祐清である。その他の乳母としては八田宗綱の娘(小山政光妻)の寒河尼。或いは、三善康信の叔母。こうした役割を永井路子は要諦として提起している。頼朝の母の実家である尾張の熱田大宮司は積極的な支援を行っていないとも、永井路子はいう。  
20年にわたる流刑生活を送る源頼朝の精神力、そして将来展望ももてない中でも頼朝を支え続けえる乳母の疑似家族。これは驚異である。  
この流刑が終わるのは京都の大番を終わって東国に帰る三浦義澄と千葉胤頼の来訪である。最先端の京都情報を基にして源氏の決起を促すのであった。「臥所を知らぬ」といわれた千葉氏。「三浦犬は友を食う」と評せられた三浦氏。いずれも鎌倉幕府を築く最強の御家人となった一族である。  
このような東国武士団を「もともと職業的な殺し屋」、「暴力団的性格の社会集団」、「武士は常にヤクザそのもの」ととらえる視点もある。そして、明治維新がこの暴力的な志向を日本全体に及ぼし、ようやく太平洋戦争敗北で近代化が始まったとみなす考えもある。「権力におもねり、本当の人権抑圧にはじっと我慢する日本人が、ある場面ではきわめて過度なほどの名誉感情を示す。しかしそれは近代市民社会における個人のプライドとは別種の思考回路から発せられるものである。名誉観念が強烈なのは前近代社会・部族社会の一般的傾向である言われるが、本来武士固有のものだったこのような意識が日本中のあらゆる階層にまで行き渡ってしまったのはなぜであろうか。とりわけ近代以降、日本人は意識の上で総武士化した観がある」(「武家の棟梁の条件」野口実中公新書)。そうだとしても、敗戦後の近代化がいかなる現実をもたらしたか、厳しい検証が必要である。21世紀になってますます、「近代市民社会における個人のプライド」を持つといわれた欧米の人々とその国家が、「暴力団的性格を持つ社会集団」の色彩を強めているのはなぜであろうか。あるべき「近代市民社会における個人」から始める議論を卒業すべきである。  
さて、「源頼朝の世界」に戻ろう。乳母集団は歴史の表には表れないところで大きな流れを作っているというのが永井路子の眼目である。源頼朝しかり。そして、次の世代もしかり。2代将軍頼家は鎌倉の比企館で育てられた。比企能員の妻も頼家の乳母である。また、比企の尼の娘(河越重頼の妻)も乳母、そして梶原景時の妻や平賀義信の妻など有力後家人の一族もこぞって乳母であったという。さらに、寵愛した若狭局は比企能員の娘である。全く比企一族の頼家であった。  
これに対して3代将軍実朝の乳母は阿波局、彼女は北条時政の娘で、政子の妹、そして夫は頼朝の弟・全成。北条氏に囲まれた実朝である。比企の乱で、北条氏は比企一族を抹殺し、頼家も伊豆に押し込めた後、暗殺している。北条氏対比企氏は、北条氏の一方的な勝利に終わった。  
次の犠牲者は実朝である。鶴岡八幡宮の参拝に訪れた実朝を刺し殺したのは頼家の子供であった公暁。公暁はその足で三浦義村宅に出かけて、そこで討ち取られた。なぜに、三浦宅に走ったのか。それは、三浦義村の妻が公暁の乳母であったためであり、ここに三浦氏対北条氏の長い争いの一コマを見る。これに先立ち、三浦義村の従弟であり侍所の別当を30年間勤めていた和田義盛は北条義時の挑発に乗って、鎌倉市内で大規模な市街戦を演じた後、全滅している。最後に、三浦義村が北条側に付いたのだ。先に「三浦犬は友を食う」といわれた所以である。実朝暗殺時には、北条義時も同時に暗殺する手はずであったが、これが狂ったため、三浦義村は公暁を始末したのではないかと、政治勘のある永井路子は推測する。  
三浦義村が亡くなり、また北条義時も亡くなり、世代はその子たちになる。4代将軍九条頼経を担いでの北条氏打倒計画が失敗。直後、追い込まれた三浦一族は頼朝墓所下にある法華堂に篭って宝治合戦(1247年)に及び500余人が自刃して果てた。またこれに連座して討手を受けた千葉秀胤一族も上総一ノ宮の館内に篭って163名が討ち死にしている。これによって北条支配が成立する。鎌倉の近く三浦半島を根拠地とする三浦氏、そして上総を支配する関東の雄、千葉氏も一気に倒され、北条氏にとっても得宗支配を完成させるきっかけとなった。源頼朝によって開かれた日本における軍事政権は、瞬く間にその閨族に乗っ取られたのであった。「いわば風呂から上ったら裸で突立ったままでいる」うちに、閨族が直系の子孫を根絶やしにしてしまったのである。清和源氏の嫡流は一族の「執念」を急速に衰えさせた、と見るべきか。そして生き残るべき執念を持った一族が生き残った。  
永井路子はこのように語る。長いが引用してみたい。  
「(三浦)大介義明から数えて4代、約70年間の戦いは、ここで終止符をうたれるのだが、史上これほど執念深く対立を続けた例も珍しいのではないだろうか。が、人間の総力を挙げた本当の戦いというものは、こういうものではないだろうか、と私は思う。一度や二度、派手なところを見せて、あっさり諦めてしまうようでは根性がたりないのだ。三浦氏も北条氏も、この間全力をつくして相手を倒すことを狙っている。そういう戦いっぷりを見せる人間を私は好きである。これを浅ましい権力欲と評するのは当らないと思う。」 
 
鎌倉武士1

鎌倉武士は武士の理想像とされます。鎌倉時代が終わって南北朝の動乱、室町期、戦国期、江戸期を通じて「古の鎌倉武士を見るような」との賛辞は武士を褒めるのに最大級のものであったことは確かです。武士の精神は鎌倉期に極限まで高揚し、南北朝、室町期に低迷し、もう一度戦国期に高揚しますが、戦国武者をもってしても鎌倉武士の下位におく人が多いです。鎌倉武士の成立と鎌倉武士がその真髄を発揮した元寇、とくに文永の役での奮戦を今回は書きたいと思います。 
鎌倉武士の精神 
鎌倉武士の実態は自作農です。自作農と言っても時代劇で「お慈悲をくだせぇ、お代官様」みたいな情け無いものを想像してはいけません。農民とは言っても自らの手で荒地を開墾した開拓農民なのです。どうも農民と言う言葉が日本ではしょぼくれたイメージになってしまうので困るのですが、ちょうど開拓期の西部で大牧場を切り開いた牧場主やカウボーイみたいなものを想像してもらうと良いと思います。 
彼らは自分だけの力で農地を切り開き、そこでの収穫で自立していました。とくに関東ではそういう開拓農民が続々と集まり、自らのコロニーを次々と開いていました。時代は平安も後期から末期にさしかかる頃、平安政府が政治をしていたのは実質京都近辺のみ。お膝元の京都でさえ盗賊が跳梁跋扈し、それを取り締まる力さえありませんでした。ましてや遠く関東になるともはや化外の地の感覚で、無政府、無警察状態と言っても良い状態でした。 
開墾も初期のうちはいくらでも土地があるように見えましたが、時代が進むと当時の技術で開墾できる所はやり尽くしてしまい、点在していた開墾地も境界を接する事になります。境界を接するようになれば争いが起こります。境界争い、水争いが頻発し、それを仲裁する機関など平安政府に求めるだけ無駄なので、武力の衝突となります。自らのコロニーの命運をかけての戦いです。仲裁機関がないのですから、勝った方は境界を自分により有利にひき直す事も出来ますし、場合によっては相手のコロニーを併呑する事も可能です。新たな開墾地が乏しくなれば、自らの勢力拡大のためにわざと争いをふっかけて戦い取る様なことも横行していたに違いありません。こんな中で「一所懸命」という言葉が誕生する事になります。現在では「一生懸命」として使われる事が多いですが、本来はニュアンスがかなり異なり、自分の領地(一所)を命懸けで守り抜く姿を表した言葉です。 
そんな環境では力こそ正義になります。平和主義の非武装勢力では瞬く間に一族は死滅します。自らのコロニーの安全保障のためにはいかに自分のコロニーの武力が強大であるかを喧伝する必要があります。武士の自衛力の象徴は言うまでもなく武芸です。喰うか喰われるかの争いを繰り返していくうちに彼ら独自の美学がはぐくまれます。常に勇敢である事を至上の価値観に置き、対極に卑怯な振舞いを蔑む精神です。戦いを挑まれればこれを受けて立ち、正々堂々己の武勇の限りを尽くすのが美学とされたのです。こうして生み出された武勇の名は武士の誉れとして称えられ、その名が知れ渡ると周辺のコロニーから一目置かれる事になり、領地の安全保障と直結します。武士が自分の武勇の名を守るのに命を懸けたのは、これがあからさまなほどの実利と裏表になっており、鎌倉武士の有名な精神である「名こそ惜しけれ」が培われる事になります。 
「一所懸命」「名こそ惜しけれ」と鎌倉武士の2大精神の背景を書きましたが、このふたつの精神だけで常に合戦を戦えば誰も生き残れません。「一所懸命」精神にやや連動するかもしれませんが、生き残る事もまた重要な精神です。合戦で敗れて敗走する時、「名こそ惜しけれ」とばかり踏みとどまって戦えば一族郎党一人残らず死滅します。そこで落ち延びて、生き延びて再起を期すことも当たり前のように行なわれました、「命あっての物種」精神です。もちろん逃げれば武勇の誉れは失われますが、後日この時の恥を雪げば帳消しなると見なす事で「名こそ惜しけれ」と整合性を保っています。 
「命あっての物種」精神の延長線上で、裏切りもまた「帰り忠」として認めています。ただし裏切り行為は今も昔も歓迎される行為ではなく、潮時と状況を巧妙に見極めて行なわないと最悪の結果を招く可能性はあります。それでも「名こそ惜しけれ」の精神が高々と掲げられる一方で「命あっての物種」からの裏切り行為まで認めているところに鎌倉武士のリアリズムを私は感じます。 
鎌倉武士 
鎌倉武士とはコロニーの領主の事です。領民も戦いに出るでしょうが、戦国期以降のように刀を持てば武士と言うわけではなく、領主当人かその子供ぐらいまでが武士です。領主の一族であっても直系以外のものは家の子とされ家臣扱いですし、一族以外のものは下人とされ、従者程度の扱いでした。下人の中でも頭立つもの、優秀なものは郎党と呼ばれましたが厳密には武士とは区別して考えた方が良さそうです。本編では武士はあくまでも小領主を指し、精々拡大して跡取り辺りまでとします。 
合戦模様 
最初はごく小規模の小競り合いが合戦でしたが、コロニー同士の合従連衡が進むと、連合体同士の規模の大きな合戦が行なわれるようになります。大きいといってもせいぜい100人単位が精々でしょうが、それまでの10人単位とは桁が違う合戦です。合戦に動員されるのは直接の当事者やその連合体の構成員はもちろんですが、他の連合体にも出兵を要請する事になります。合戦は数が物を言いますから、出来る限りたくさんの武士を集めることが勝敗の鍵を握る事になります。 
いざ合戦となったとき、当事者や連合体の構成員はともかく、応援に来た武士たちはそのままでは働いてくれません。応援の武士たちにとってこの合戦では一所懸命をしなければならないわけではないからです。そこで応援の武士たちのモチベーションを上げるシステムが生み出されます、功名手柄です。大きな規模の合戦となればその結果は周辺に知れ渡ります。そこで目立つ武勇を挙げれば、武士の名が上がり武勇の誉れが高まります。武勇の誉れは自分の領地の安全保障に直結します。また手柄を挙げれば恩賞と言う事になり実利まで伴います。武士は合戦の場に功名手柄を求めて参集する事になります。 
当時の合戦模様は次のようであったとされます。 
第一段階 お互いの兵力、武器を誇示し合う。  
第二段階 功名な武士が名乗りあい、時に一騎打ちを行なう。  
第三段階 矢戦を行う。  
第四段階 徒歩戦に移る。  
一所懸命で来ている当事者はともかく、応援の武士たちは功名手柄を目的に来ています。功名手柄は勝ち戦において意味があり、負け戦ではいくら頑張っても無駄です。そこで合戦の段階で勝敗の帰趨を慎重に見守る事になります。第一段階であまりに兵力差があったり、第二段階で相手の武士に怖ろしく強いのがいてとても勝てそうにないとなれば、第三段階の矢戦の段階で逃げる算段をし、第四段階で相手が決戦に来ればとっとと逃げ出すのが通常だったそうです。もちろん逃げるだけではなく裏切り行為を行なって勝ち組に加担する事もままあったそうです。もちろんこういう戦いの様相は必ずしも日本だけのものではなく、古今東西戦局が傾けば、勝ち目が少なくなった方から続々と逃亡者や裏切り者が出るのはあまりにも当たり前の様相ではありました。 
鎌倉幕府の成立 
幕府の目的はすこぶる単純です。自作農である武士を保護するために出来た政権です。鎌倉幕府に忠誠を誓い御家人となれば、律令体制下で不安定な存在であった自分の領地が公式に自分の物となり、もめ事も血を血で洗う紛争を行なわなくとも、幕府が公平な中立機関を設けてこれを裁定してくれると言うのです。武士が喉から手が出るほど欲しかった物を幕府は提供したのです。全国の武士たちは争って幕府の御家人となりました。また幕府は創成期において対平家戦を行ない、またさらにその後年、承久の乱を戦います。幕府は戦いに参加した武士たちに二つの合戦で得た戦果を気前よく分配しています。つまり幕府は武士たちに「一所懸命」を法的に保護し、功名手柄を保障したことになります。 
鎌倉幕府に対する御家人の忠誠心は後の室町幕府や江戸幕府に較べても格段に強いものがありました。はるか後年になりますが、鎌倉幕府滅亡時、京都の六波羅探題を脱出し鎌倉に向かった北条仲時は、番場の宿で包囲されて自刃しますが、その時に一緒に殉じた武士たちは432人と記録されています。本拠地鎌倉攻防戦では、北条一族すべてが誰一人裏切ることなく最後まで戦い抜き、高時自刃の時には一族が283人、郎党を含めると870人余りが自刃したと記録され、鎌倉内だけで6000人もの人間が殉じたと太平記には記録されています。 
滅亡期でもそれだけの忠誠心があったわけですから、全盛期の忠誠心は押して知るべしです。御家人たちが鎌倉幕府を尊重する事は尋常なものではなく、鎌倉幕府の召集にいつでも馳せ参じる事を表現する「いざ鎌倉」の言葉や、鎌倉幕府の命令の重さとして「鎌倉の命、山の如し」なんかに象徴されています。まさに「武士の、武士による、武士のための政権」であったわけです。平安政府の下で抑圧されていた武士たちが「おらが政府」の意気込みは天をも突くといえます。 
鎌倉幕府はもちろん源氏の正統後継者である頼朝が作りましたが、源氏の血統は三代の実朝で尽きます。その後、将軍には京都から貴族や皇族の幼少の者が迎えられ、さらに成人すれば京都に帰す方式をとっています。誰が政権を握ったかですが、頼朝の妻政子の一族である北条氏です。北条氏は代々執権として政権を掌握し、実朝死後、鎌倉幕府は北条執権政権とも称されることになります。政権を握った北条氏ですが、何人もの名執権を生み出し、幕府体制を強固にしていきます。 
鎌倉幕府の力が頂点に達していた時に未曾有の国難が襲います。ジンギスカン以来、西はヨーロッパ、南は中国まで傘下におさめた世界帝国モンゴルが日本制服を目指して進攻して来たのです。蒙古襲来、元寇です。これは2回にわたって行なわれ、それぞれ文永の役、弘安の役と呼ばれていますが、鎌倉武士がその真髄を発揮した文永の役を語りたいと思います。
 
武士の起源

武官と武士 
武士は、一般に「武芸に通じ、戦闘を職業とする軍人、あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、中国や朝鮮の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。時代的にいえば、武士と言える存在は平安時代中期の10世紀(国風文化の成立期)に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあるが武士ではない。 
武官と武士の違いとは何か。簡単にいえば、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された下級貴族・下級官人・有力者の家人からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。また単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと見る見方もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。 
軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。 
王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。 
よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりもむしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。 
また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられると共に、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。 
国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。 
なお、これとは別に中世の前期の頃までは、他者に対して実力による制裁権を行使できる者を公卿クラスを含めて「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、院政下で活躍した北面の武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数含まれている事でも分かる。 
職能武士 
武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であったが、近年は清和源氏や桓武平氏のような軍事貴族や下級官人層から構成される戦士身分が起源であり、彼らが平安後期の荘園公領制成立期から荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったとみる説が提唱されている。 
平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。当初、受領たちは東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を騎馬襲撃戦を得意とする私兵として鎮圧に当たらせた。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。 
それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。おりしも宇多天皇、醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った国政改革により全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜型太刀を身につけ長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。 
藤原秀郷、平高望、源経基らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層(田堵負名)と同様に大規模な公田請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。しかし勲功への処遇の不満や、国衙側が彼等の新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、藤原純友や平高望の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であった。 
この反乱は朝廷の勲功認定を目的に全国から集結した武士たちによって鎮圧され、武芸の家、すなわち、武士として公認された家系は、承平天慶勲功者の子孫ということになり、「武」が貴族の家としての「家業」となり、武家としての清和源氏や桓武平氏、秀郷流藤原氏もこの時に確定した。 
この時点ではまだ武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった。しかし11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で武力紛争が頻発するようになると、荘園及び公領である郡、郷、保の徴税、警察、裁判責任者としての荘園の荘官(荘司)や公領の郡司、郷司、保司に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。 
芸能の家としての武士 
武士は社会的な身分であるのと同時に、武芸という芸能を家業とする職業的な身分であるとも規定できる。つまり馬上の射芸や合戦の作法を継承する家に生まれ、それを継いだ人物が武士であると言える。逆に言えば、いくら武芸に優れていて身分が高くても、出生が武士身分でない限り武士とは認められなかった。これ以外で武士の身分を得るには、正統な武士身分の者の郎党となってその家伝来の武芸の伝授を受け、さらに新たに独立の家を起こすに当たって家芸の継承権を得るしかなかった。この道筋が子孫の増加、分家以外で武士身分に属する家系が拡大する機会となった。また、中世になり武門の家が確立した後でも、それとは別に朝廷の武官に相当する職種が一応存在したが、たとえこの官職を得ても、武士身分出身でなければ武士とは認められなかった。ここで言う武門の家とは、承平天慶勲功者子孫(承平天慶の乱で勲功のあった者の子孫)が基本であり、その中でも「源氏」及び「平氏」の諸流と藤原秀郷の子孫の「秀郷流」が特に有名である。これら以外だと藤原利仁を始祖とする「利仁流」や、藤原道兼の後裔とする宇都宮氏が多く、他に嵯峨源氏の渡辺氏や大江広元が有名な大江氏などがあり、有力な武士団はこれらの家系のどれかを起源としていた。特に下克上が一般化する以前においてこの認識が強く、戦国期の豊臣秀吉のように、百姓その他武士身分以外出身の人物は当然、武士として認められるはずがなかった。先祖の武名によって自分の家が武士として認められていたため、かれらは自分の家系や高名な先祖を誇っていたとも言える。 
職能起源論の限界 
「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。確かに源平藤橘といった貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明ができるが、彼らの職能を支える経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎる。こうした弱点を克服する議論として主張されはじめたのが、下向井龍彦らによって主張されているように、出現期の武士が田堵負名としての経済基盤を与えられており、11世紀の後期王朝国家に国家体制が変質した時点で、荘園公領の管理者としての領主身分を獲得したとする議論である。(→国衙軍制) 
武士の身分 
「職能」起源論では、武士とみなされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸を家業とする諸大夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていたとし、その後、中世を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」とみなされる階層が室町時代以降拡大していった。発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場では騎馬戦士として活動した郎党や、徒歩で戦った従卒がいたが、室町・戦国期になると武士身分の拡散が大きくなり、狭義の武士同士の主従関係のほかに、本来は百姓身分でありながら狭義の武士の支配する所領の名主層から軍役を通じて主従関係を持つようになった広義の武士としての地侍などが登場する。 
このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階層が成立していったが、これらは拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実している。 
江戸時代の武士の身分を以下に大雑把に分類する。細かく分ければきりが無く、大名家などによっても分け方や名称が違うため、あくまで大体の目安である。 
武士の身分を「士分」といい、士分は、大きく「侍」と「徒士(かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とするか層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。 
「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領(知行)を持ち、戦のときは馬に乗る者で「御目見え」の資格を持つ。江戸時代の記録には騎士と表記され、これは徒士との比較語である。また、上士とも呼ばれる。「徒士」は扶持米をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を持たない。下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。 
「侍」の内、1000石程度以上の者は大身(たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは備の侍大将となり、平時は奉行職等を歴任し、抜擢されて側用人や仕置き家老となることもある。それ以下の「侍」は平侍(ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。
 
荘園の成り立ち

初期の荘園 
荘園とは大きな寺院や神社。貴族がその財力で新しく開墾(かいこん)した土地のことを指します。それ以前は645年の大化の改新以後に決められた「公地公民の制度」により、土地と農民はすべて朝廷のものと定められました。652年には班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が行われ、男女。子供。奴婢(ぬひ)にそれぞれ決まった広さの土地を貸し与え、農民から租・庸・調(そ・よう・ちょう)の税をとりました。下の図はその頃の農村の様子を表しています。田んぼは主に川の流域や水路沿いに作られています。 
農民にとって租・庸・調の取り立てはとても厳しいものでした。しかも税はそれだけではなく男子は兵にとられたり、雑徭(ぞうよう)や出挙(すいこ)もあって、逃げ出す農民が増加しました。このため耕されずに荒れはてた口分田があちこちに見られたと記録に残されています。農村から逃亡した農民を浮浪人(ふろうにん)とよびますが、多いときには5人に1人が浮浪人というありさまでした。後に、こうした浮浪人が有力者の荘園を開墾する力になります。 
朝廷は723年に「三世一身法」(さんぜいいっしんのほう)を出しましたが、農民の逃亡はおさまらず、ついに743年に「墾田永年私財の法」(こんでんえいねんしざいのほう)を出しました。これは新しく開墾した土地の私有を認めるという法律でした。この決まりでは大寺社や貴族には広い面積(当時の500町歩)を、一般農民には狭い面積(当時の10町歩)の私有を認めました。貴族と一般農民とのあいだの豪族(ごうぞく)や役人にはその身分に応じて面積を割り当てました。500町歩-10町歩というのは上限と下限の面積です。 
荘園の出現 
朝廷は新しく開墾して水田を作るときに、国の管理する用水を使う場合は「全て公田(こうでん)とする」というきまりであったために、完全に私有するためには新しく水路を作る必要がありました。水路を造るためには沢山のお金と労働力がなければできません。結局、そうした力を持つ寺社や貴族、あるいは豪族などが新しい土地を手に入れていったわけです。これが荘園のはじまりです。しかし、私有地といってもそこから収穫される稲に税がかかるわけですから、朝廷にとっても大いに助かる話だったのです(ただし有力な寺社には免税の権利が与えられています)。 
749年 東大寺の大仏ができると朝廷は東大寺に4000町歩の土地を開墾してよいことを認めました。もちろんその他の寺院にも2000町歩、1000町歩と認めていき、ここに大規模な荘園があらわれることになりす。今でも各地に東大寺領の荘園であった所が数多く残っているのはそのためです。こうした荘園を現在では初期荘園と呼びます。 
新しく開墾された田んぼのことを「墾田」(こんでん)といいます。水路も新しく作られたものです。これらを作るための労働力は、貴族や大寺社が抱えていた奴婢、それに口分田を捨てて逃げ出した浮浪人、あるいは近くに住む農民の力を使いました。一般の農民には賃金が払われましたがその多くは収穫された「お米」で支払われていました。一般に直営の荘園ではほぼ全額が荘園主の収益となりましたが、一般の農民の力を借りて経営している荘園では1/5に収益が減りました。運送費も荘園主が負担しますから、遠いところでは荘園経営が成り立たなかったといわれています。この時代の荘園分布が近畿・中国・北陸地方に集中していることでそれを証明できるといわれています。 
というわけで、この時代の荘園の持ち主は貴族や大寺社が圧倒的に多かったのですが、農民の取り分以外に租として朝廷にも税を払っていました。ですから朝廷の収入はそれなりに確保されていたというわけです。武士はまだまだ登場しません。 
9世紀になると、天皇家自身が財政をおぎなうために、勅旨(ちょくし)により勅旨田(ちょくしでん)を開墾したり親王に賜う親王賜田(しんのうしでん)を盛んに行ったため、私有地はどんどん増加していきました。また、貴族たちはこれらの土地に「荘官」(しょうかん)と呼ぶ使いを派遣しました。荘官は荘園の開墾を指揮し収穫された農産物をおさめる倉を設けました。これを「庄所」(管理所のこと)とよび、地名を付けて「○○庄」と呼びました。これが荘園のはじまりといわれています。初期の荘園は全てこうした荘園主が直接経営にたずさわっていました。 
広がる荘園と開墾地 
「荘園」は有力貴族や寺社が持っている私有地のことで、開墾地とは地方豪族が切り開いた墾田のことをさします。「どこが違うの?」ということですが、中央の有力寺社、あるいは貴族の領地でなければ「○○庄」と呼ばれなかったからです。9世紀のなかば頃より地方の豪族も盛んに土地を開墾しはじめました。このころには班田収受の法はほとんど無視され、有力な農民の中には代々耕作していた口分田を自分の物にしてしまったり、未開地を開墾する者も現れました。こうした土地のことを「名田」(みょうでん)と呼び、持ち主を「名主」(みょうしゅ)と言います。耕す者がいなくなった荒れた口分田の他に名田が出現しています。また、新たに水路が開発され盛んに荒れ地が水田にかえられていきました。墾田永年私財の法が出たことにより、大開発が行われていきました。
 
本格荘園のはじまり

有力貴族に集まった荘園 
初期の荘園は寺社や貴族が、お金と労力を自ら調達して開いたので自墾地系荘園(じこんちけいしょうえん)と呼ぶのに対して10世紀以後の荘園を寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)と呼びます。寄進とは「さしあげる」ことですから、「誰かにあげた荘園」ということになります。「誰か」というのはこの場合権力を持つものということになります。1016年に摂政になった藤原道長は「この世をば わが世とぞおもう 望月の 欠けたることもなしと思えば」と歌によみました。この時代もっとも権力をふるっていた藤原氏は、たくさんの荘園を手に入れていきました。  
横暴な国司 
国司とは今の県知事にあたります。藤原氏が勢力を持っていた頃には、藤原氏の都合のよいように国司が任命されました。したがって藤原氏一族や藤原氏に沢山贈り物をする貴族が選ばれたのです。中には任地に行かずに代理人をおき、都に住んでいる国司もいました。この頃の国司のなかには領民から定められた以上の税をとりたてて、藤原氏に贈り自分の地位を守ったり、自分の収入を増やすことに熱心だった者もいた、と記録にあります。さらに、国司の中には部下に命じて豪族の開墾した土地を襲ったりする者も現れました。 
代理人に仕事を任せた国司のことを遥任国司(ようにんこくし)といい、実際に任地にいってそこを治める国司を受領(ずりょう)といいました。 
力をつける有力農民(武士の登場) 
口分田は次々と名田化し班田収授の法は全く行われなくなりました。また、藤原氏のような超有力貴族の力が強まるとそれまでの領主であった大寺社や一般貴族の力が衰えてきました。そうした初期荘園の中では農民自身が小さな開発を行って私有化する者も現れました。これは口分田に対する名田の関係と同じです。こうした田のことを「治田」(はりた)と呼びます。こうした農民や豪族は国司の横暴(おうぼう)から自分の土地を守るために武装するようになりました。これが武士のはじまりです。つまり、始めの頃の武士は武装した農民だったのです。 
不輸不入の権 
「不輸」(ふゆ)とは税を朝廷におさめなくてもよいという権利です。これは有力な貴族や寺社が自分達の収入を増やすための取り決めです。正確には「不輸租」(ふゆそ)といいます。「不入」(ふにゅう)とは役人の立ち入りを拒むことのできる権利のことです。初期の頃は寺社だけが持っていた権利ですが、やがて貴族達にも認められるようになりました。そもそも法律を作る人が貴族だからです。特に藤原氏は力が強く、広い耕作地を持つ豪族や有力農民はあらそって自分の土地を藤原氏に寄進しました(もちろん藤原氏以外の貴族や寺社にも寄進されています。)。 
本来の持ち主からすれば、今まで朝廷に納めていた租・庸・調を藤原氏などの有力者に納めるようにしただけと言うことになりますが、こうしておけば豪族は国司の横暴や、隣地との争いに有利になります。なぜなら、その土地は有力者の荘園となり、「不輸・不入の権」を得ることができるからです。一方、貴族にとっては何もしなくても多くの農産物や特産物が手に入るわけですから、両者にとって有利な条件ということになります。 
こうして多くの荘園領主が中央の有力者にかわっていきました。こうした名目上の領主のことを「本所」(ほんじょ)とか「領家」(りょうけ)と呼びました。そして本来の持ち主は「荘官」「下司」(げし)「地主」と呼ばれ実質的な荘園の支配を行いました。名を捨てて実をとったわけですね。 
したたかな有力農民 
寄進していた先の貴族や寺の勢いが弱まると、寄進先を替えなくてはなりません。なぜなら領主の力が弱まればいくら「不輸・不入の権」を主張しても無視されたからです。そこで、力を失った貴族や寺社は自らを「預所」(あずかりどころ)と称し、自らが寄進された荘園をさらに有力貴族に寄進したのです。つまり名目上の持ち主の、そのまた名目上の持ち主というわけです。 
また、本来の持ち主である荘官の中には寄進先をくら替えするものもいました。こうしたことから荘園には複数の名目上の持ち主が現れることになります。 
寄進地系荘園が出現するまでは、一部の寺社や貴族の土地を除いて、全ての田租(でんそ/税となる米のこと)は直接都へ運ばれたり、国司のもとへ集められました。国司は必要経費を除いてそれらを都に運びました。ところが班田収授の法が行われなくなると、私腹を肥やす国司が増え朝廷に出すべき租税をごまかしたり、自らの領地を増やすことに熱を入れる者も現れました。一方荘園も寄進によって「不輸・不入の権」を手に入れますから、朝廷へ納められるべき租税は少なくなる一方でした。それでは困るので、天皇家も自らの荘園を持ちました。ここにいたって律令制度の根幹である「班田収授の法」は事実上消滅しました。これから先は荘園や名田、あるいは治田が経済の基盤となります。こうした状況の中で農民が自らの生活を守るために武士化していったのです。 
まとめ 
自墾地系荘園の持ち主は「領主」で、荘官は使いにすぎません。ところが豪族の開墾田などは、有力貴族や大寺社に寄進して、名目上の持ち主にしましたね。ですからこの時期の本当の持ち主は「荘官」ということになります。自墾地系荘園と寄進地系荘園の荘官とは全く性質が違います。 
特定の貴族(特に藤原氏)の力が強まると、名目上の領主がさらに自分より強い力を持つ貴族に寄進するという形をとります。今までの領家は預所(あずかりどころ)と称し、田租の一部を寄進した貴族に納めました。この時期でも事実上の持ち主は荘官で場所によって下司、地主と呼ばれました。 
自墾地系荘園はのちのちまで続きますが、領主である貴族や寺社の力が衰えると支配力が弱まり、荘園内を新たに開墾して私有地にしてしまう者や、使いだったはずの荘官が力を付けて、自らの墾田を増やすといったことが行われるようになりました。こうなると律令とは名ばかりになってしまいました。平安時代中期から後期は強い者が勝ち、弱い者は滅びるか強者に従うという時代になっていきました。 
豪族の開墾した土地は寄進されています。口分田はもう見られずに「名田」になってしまいました。また自墾地系荘園の中にも「治田」化した土地が見受けられます。このように、土地の所有は大小の権力者によってそれぞれ、勝手に名目を変えたり、開墾したりするようになりました。
 
武士と荘園

農民が自分たちを守るために武士になりました  
立場の弱い農民は朝廷からはけんされた国司や国司の代理、また、それらの役人と手を組んだ武装した農民(つまりこの時代の武士のこと)から、自分たちの土地や財産を守るために、刀をにぎりよろいを着て武装しました。これが武士の始まりです。なかでもその地方で有力な農民が多くの農民を支配して武士のグループを作り、自らは指導者になりました、この指導者のことを「棟梁」(とうりょう)といいます。そして、このグループを武士団といいます。 
武士団は荘園や国衙領(こくがりょう/国府管理下の農地。つまり朝廷に税を納めているところ)、牧(まき/馬をかっている牧場)、御厨(みくりや/神社に形の上であげた荘園)と、あらゆる場所から生まれました。 
平安時代の中ごろからは律令(りつりょう)と言う法律はあっても名ばかりで、国司となった者の中にはその立場を利用して、余分に税を取ったり、人の土地を奪ったりする者も現れました。あまりにひどすぎるとその土地の豪族や農民に訴えられた国司もいたほどです。武士のグループは一族や仲の良い者同士で結束し成長していきました。数が多い方が安心だからです。つまり武士団とは互いに助け合う組織だと考えてください。 
中にはその力で、他の領地を奪う者も現れました。法律や裁判があってないような時代ですから、ますます武士団は成長していったのです。特に関東地方は開拓地だったために領地の境界がはっきりしていなかったり、都から離れていたこともあって「自分を守るのは自分とその仲間」しかいないという状況です。関東地方に多くの武士団が生まれたのもこうした理由があったからなのです。有名な秩父党とか横山党、武蔵七党とよばれているのは全てこうした武士団のことです。 
都へ帰らない国司が武士の棟梁になりました 
国司となって実際に領地におもむいた者を「受領」(ずりょう)といいます。都にいた時は中流の貴族や皇族でも、ひとたび地方へ行けばとても位の高い、血筋の良い人ということになります。こうした国司の中には任期が終っても都へ戻らず、国司だったときに得た自分の領地に残る者もでてきました。こうした人の中に天皇の一族であった「平氏」や「源氏」がいたのです。 
自分達を守るためには、互いに手を結ぶことが一番です。しかし、同じくらいの身分だとどうしてもリーダーを選ぶのが大変で、互いにいがみ合ったりすることになります。「ドングリの背比べ」ですね、自分達のリーダーは自分達より身分が高くなくてはならない理由がここにあります。それで、豪族達は地方にいのこった「平氏」や「源氏」を自分達のリーダーに選んだのです。これらのリーダーを武家の棟梁(ぶけのとうりょう)といいます。頼朝の祖先もこうした武家の棟梁でした。やがて頼朝もこうした武士団の支持を得て、関東武士団の棟梁となったのです。 
義経は鎌倉の武士政権の影響力を強めるために利用されました 
平家に勝った頼朝は西日本の荘園にもなんとかして、自分と主従関係を持った武士を送ろうとしました。そこで義経を捕まえることを名目に国ごとに守護、荘園ごとに地頭を置こうとしたのですが、荘園領主の抵抗も激(はげ)しく、地頭(じとう)を設置できた荘園は、平家が持っていた領地や鎌倉側の敵になった者の領地だけに限られてしまいました。 
承久の乱によって鎌倉幕府の力は強まりました 
1221年におきた朝廷と幕府との戦は、幕府側の大勝利に終わりました。これによって朝廷側についた荘園領主や大名主の持っていた領地は没収され、これらの土地に将軍の家来である御家人が地頭として任命されました。また、それ以外の領地にも幕府による地頭の設置が行われるようになりました。このように承久の乱以後に任命された地頭を新補地頭(しんぽじとう)とよびます。 
将軍と御家人は御恩と奉公によって主従関係を結んでいますね。この地頭に任命されるということも重要な「御恩」にあたるのです。これは地頭になることによって事実上その土地を支配することができるからなのです。 
新補地頭はどんどん力を付けていきました 
地頭はすなわち将軍と主従関係を結んだ御家人です。この力を利用して荘園におもむいた地頭は土地や農民を荘園の持ち主から奪っていきました。地頭は以前の荘官の仕事をほぼ受け継ぎ、警察権と徴税権を持ち、その上、土地の管理権もにぎったので、幕府の地頭とならなかった荘官はしだいに力を失い、やがて地頭の家来になりました。このように力を付けていった地頭の中にはとなりの荘園を侵略したり、領家や荘園主の土地をどんどん奪う者も出てきました。 
そこで幕府は新補地頭の権限を定めて、荘園内の土地10ヘクタールにつき1ヘクタールを持ち分とすることや、山や川、海は領家と半分ずつにすること等を決めました。しかし、これを守らない地頭が多かったので領家と地頭が話し合い、荘園を半分ずつに分けました。つまり「これだけやるから、もうかまわないで」というわけですね。このことを下地中分(したじちゅうぶん)といいます。 
こうして、鎌倉幕府の影響力は強まりました。しかし、東国のようにほぼ100%の支配というわけではなく、西国は半分だけ幕府側の武士が支配したにすぎませんでした。当時の日本は西国と東国とで生産量に大きな差がありました。優れた農業技術をもつ西国はその当時の先進地域であり、東国の田舎にできた鎌倉幕府は、武士という特殊な人々の地方政権という感じだったのです。しかし、この地方政権は次の室町幕府になって本格的な武士の政権となり、やがて戦国時代をへて江戸幕府へとつながっていったのです。 
東国。特に関東平野の開拓は近畿地方より新しく、支配の関係も比較的単純でした。武士化した荘官や名主(みょうしゅ/地域の実力者)層は平家の支配を嫌い、頼朝と主従関係を結び御家人となりました。荘官自らが御家人となったわけですから、地頭と名前を変えても実際の支配の形にはあまり変化はありませんでした。 
御家人は将軍と主従関係を結ぶことによって自分の土地が保証されました。また、戦などで手柄をたてれば新しい土地を分け与えられたのです。承久の乱(じょうきゅうのらん)の時はこうして新補地頭(しんぽじとう/承久の乱以後の西国の新しい地頭)になった御家人が沢山います。 
武士には朝廷の職位もついていました 
この時代の有力武士は幕府に属すと同時に朝廷での職位も持っていました。二つの組織に属すなんておかしいと思うでしょうけど、それまでの政治の主体が朝廷ですから、中央や地方の政治は全て法律的には朝廷に従っていたわけです。また、そうした位につくと自分の持っている土地からは税を払わなくてもすむのです。武士はそうした仕組みをうまく利用して自分たちに有利になるように努力していたわけです。 
地方政治では国司が最上級です。これは中央すなわち京都から派遣された貴族が中心で、位は守(かみ)です。その下が介(すけ)、さらにその下が掾(じょう)、さらにその下が目(さかん)と4階級に別れていました。有力な武士はこのうちの介や掾などになっていました。 
武士の世界ではこの後も、政治上の位と武士としての位の二つがつくようになります。江戸時代にはこれが完全に形式化し、忠臣蔵の登場人物で有名な、愛知に住む吉良上野介さんや甲府(山梨)の藩主になった柳沢美濃守さん(「みの」は岐阜)など分かりやすい例といえます。 
一般に鎌倉幕府とよばれるようになったのは江戸時代からのことです。鎌倉時代の人々は将軍の住む館のことは幕府と呼んでいましたが、政治組織のことを「幕府」とは呼んでいませんでした。
開墾 / 原野を切り開き耕し畑や水田にかえること。 
班田収授の法 / 男子には2反(現在の23アール)、女子にはその2/3、奴は良民男子の婢には領民女子のそれぞれ1/3の田んぼが貸し与えられた。この田のことを口分田(くぶんでん)といい、その人が亡くなると土地を返すということが決められました。 
奴婢 / 奴隷のことです。当時は人間の売買が認められており奴は男性の、婢は女性の奴隷を指します。こうした人々は賤民(せんみん)と呼ばれ、一般の人々である良民(りょうみん)と区別されていました。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれています。 
租・庸・調 / 租はお米、庸は労役のかわりに布などを、調は織り物や地方の特産物を、いずれも都まで運んでおさめる税でした。なお、租は収穫高の約3%といわれています。 
雑徭 / 1年に60日以内地方の労役に出ること。とても大きな負担であった。 
出挙 / 役所が種もみを貸し出し、収穫後に利子と合わせて稲をとりたてること。 
口分田 / 上にせつめいがあります。 
三世一身法 / 新しく開墾した土地は親子孫の3代までは自分の土地にして良いという法律。4代めには返さなくてはなりません。 
墾田永年私財の法 / 新しく開墾した土地は完全に私有化して良いという法律。初めの頃は身分により限度が決められていましたが、奈良時代の終わりには限度は無くなってしまいました。 
豪族 / 地方の有力者のこと。大和政権時代から力を持ってその地方を支配していた一族のことです。律令時代となっても地域での影響力を持っていました。多くは郡司(ぐんじ)になっています。 
公田 / 朝廷の支配下にある田んぼのことです。つまり収穫されたお米から租を朝廷に納めなくてはならない田んぼです。 
勅旨 / 天皇の命令 
勅旨田 / 天皇家の墾田 
親王賜田 / 天皇の子供の墾田  
荘官 / この頃の荘官は荘園主に派遣された人。後の荘官とは大きく異なる。 
自墾地系荘園 / 自らの財力で新たに切り開いた荘園を、現代の学者がこう分類したわけで、当時の人がこのように呼んでいたわけではありません。 
寄進地系荘園 / 荘園主の名目的な持ち主を、有力者にかえた自墾地系荘園のことです。  
警察権 / 領内の治安を守る仕事を行う権利。実際には田租を出さない者や命令に従わない者を捕まえ、処罰することです。 
徴税権 / 田租や特産物などの税を集める仕事をする権利。 
下地中分 / 荘園をほぼ真ん中で分け、領家と御家人がそれぞれ半分づつ支配すること。
 
鎌倉武士2

衣笠城落城に際して撤退作戦についてゆかない人物があった。総帥衣笠義明・・89才になる老将であった。子供達が退城を促しても、彼は毅然としてこれをはねつけた。 
「俺はここに残る。お前達は急いで城をぬけだして、殿(頼朝)の在否をたずねてまいれ」 
なぜそうするかについて、彼は凛(りん)としておのが思いを語る。 
「三浦は源家代々の家人だ。幸いもう一度源氏が再興しようとするときにめぐりあったことは何たる喜びであろう。俺ももう80過ぎ、残る命は知れたものだ。いまこの老いの命を武衛のために投げうって、子孫の手柄にしたいと思う」 
「老命を武衛に投じ、子孫の勲功を募らんと欲す」 
ここでは、義明は二つのことを言っている。 
「命を捧げること」「それを子孫の功績にすること」 
この二つをワンセットにして言っているのだ。もっとはっきりいうならば、彼は単に頼朝のために死にさえすれば本望だ、と言っているのではない。ちゃんとこれを子孫の手柄として、ひきかえに褒美を貰うつもりだ、と言っているのだ。 
これまでの鎌倉武士のイメージは後世作られたものであって、この時代の武士の素顔を伝えるものではないのである。 
むしろ、彼らは「戦うこと、そして死ぬこと」と「褒美を貰うこと」を端的に直結させ、これを根本ルールとして主張しているのだ。 
義明はただ源家再興を手放しで喜び、無償の奉仕、無償の死を遂げようとしているのではない。精神の美学としての無償はたしかに感動的だが、「子孫の勲功」の部分を無視して、犠牲的な死だけを見ようとするのは、この時代に対する歴史的理解とは言えない。むしろ大事なのは、後半の部分である。 
なぜなら、東国武士団は、これまで常に奴隷的な無償の奉仕を続けてきた。今度の旗揚げは、その奴隷的な境涯から脱するための第一歩である。義明は、はっきりこれまでの境涯への訣別を語っている。それが「子孫の勲功を募らんと欲す」という言葉になって現れているのだ。 
戦死を含めたさまざまな奉仕が、必ず見返りとして恩賞を伴う。・・これを当時の言葉で言えば「御恩と奉公」である。つまり彼らの死には保証があるのだ。彼らは決して死に損にはならない。命を投げ出して戦ったものの子孫には必ず報いがある。この時代の恩賞の対象となる手柄には二通りある。一番乗り、あるいは名ある敵の首を上げること。これを積極的な手柄とすれば、戦死は消極的な手柄なのである。 
少し時代は下がるが、合戦注文とか軍忠状とか呼ばれるものがいろいろ残っている。どこでどんな戦いをしたかという報告書で、そこには、どんな傷を受けたかということまで細かく書いてある。これを戦(いくさ)奉行が承認すると、恩賞にあずかることができる。はっきりいえば、まさに、「一傷いくら」なのだ。まして戦死は大変な犠牲だから、遺族には必ず恩賞の沙汰がある。 
敵に勝ち、所領を奪い、その分け前に預かるまでは、東国武士は屍を乗り越え乗り越え戦うのだ。ここには「御恩と奉公」の倫理が筋金入りで通っているのである。 
もしこれを余りにも功利的な見方だという人があるとすれば、その人は、江戸時代的な武士道観(主君が一方的に奉公を強いるゆがんだ精神主義)に毒されているのだ。 
頼朝に命を捧げる所だけ意味を持たせるのは歴史的理解ではないし、また「子孫の勲功を募る」という言葉を、「名誉なことをする」とか、「手柄話として子孫の語りぐさにする」というくらいにしかとらない見方があるのは、我々が後生のいわゆる武士道的解釈にとらわれすぎているからだ。 
この「御恩と奉公」は命強くも、その後長く生き続ける。戦国武士が命がけで働いたのもそのためだ。 
江戸時代には、これがやや変質する。徳川幕府が日本全国を掌握してしまったために、それ以後の侍たちは、巧妙手柄をたてる余地もなくなってしまったし、もし功績があっても、新たに「御恩」が加えられることはほとんど不可能になってしまったのだ。そうなったとき、徳川幕府は新しい抜け道を考える。 
「奉公したとしても御恩がないのはあたりまえ。武士は恩賞など目当てに働くものではないぞ」 
いわゆる「武士道」が確立するのはまさにこの時点からである。鎌倉の起点から見ればむしろ後退したかに見えるこの考え方は、徳川300年を支配する。 
そして明治維新を迎えたときに、面白いことに、「御恩と奉公」は装いを新たに復活してくる。
 
鎌倉武士3

皇国史観は、天皇を神と崇めていました。それで天皇の治めるこの国を「神国日本」と呼びました。元の大軍が、文永の役、弘安の役とも、大暴風雨のために海底に沈んだことを神風のおかげと教科書で教え込みました。しかし、私は、日本が勝ったのは神風のおかげではなく、ひとえに北条時宗の決断、鎌倉武士たちの気概が、あの大敵を破ったのだと思っています。 
とはいうものの、この鎌倉武士たちは、必ずしも、天皇のためや日本のためにだけ戦ったわけではありません。すなわち、彼らは「一所懸命」であったのです。「一所」とは、自分が開拓した土地(田畑)のことで、そこを子孫に残すために命を懸ける、ということです。しかし、「一所」は個人の力では守りきれません。「一所」を守るためには、「この土地は確かにお前たち一族のものだ」という保証をしてくれる人(大将)が必要です。それが源頼朝以来の鎌倉幕府の将軍であり、執権だったのです。 
御物として今も残されている「竹崎季長絵詞」(えことば)は、名もない小さな武士がどんな生き方をしたかを、七百年後の私たちに教えてくれています。太平洋戦争以前の教育では、武士は主人のために命を捨てたと教えました。しかし竹崎季長の生き方で分かるように、江戸時代の武士と違って、この鎌倉時代の武士は、みな天皇や国家のためというより、妻子や子孫のため、「一所」を安堵してくれる鎌倉殿の御恩に報いるために戦ったということです。これをご恩奉公といいます。 
今日、日本の寺を宗派別にみると、その多くが日蓮宗(日蓮)、浄土真宗(親鸞)、曹洞宗(道元)の三宗教で占められています。この三人はいずれも鎌倉時代の人でした。道元は、時宗が常に試みた座禅を、日本で一番早く広めた僧です。また親鸞は、人間は弱いものだから罪を犯さずには生きていられない。そんな自分を見つめ、「なむあみだぶつ」を唱えて許しを乞い、極楽往生を願うという教えです。一寸頼りなさそうに見えますが、自分を甘やかさず、自分自身を見つめていこうとするには、強い心がなければなりません。また、他人の罪を、人間は弱いものだから、許してやろう、という寛大な心にも通じます。 
それに対して日蓮は、この日本国を救うのは自分であり、その強い自分を信じて、どんな難儀にも立ち向かえと説きました。教えは違っていても、その教えは、以前の貴族社会の時代には出現しなかった力強いもので、それに応えた民衆もまた、積極的に信仰をもって生きていこうとしたのです。まさに少数の貴族の時代から、多くの民衆の時代に変わろうとする気力に満ちた新しい時代であったのです。 
元寇以後の日本の国 
はじめ鎌倉幕府は、元軍と戦うために幕府の御家人たちに出陣命令を出しました。しかし、それでは足りません。九州や中国地方には、荘園(朝廷や貴族、寺社の領地)を守る武士団も沢山いました。それで幕府は、直接の家臣でないこの武士団も出陣させました。このため、以後、この武士団が幕府の支配下になり、朝廷貴族より武士中心の時代がまた一歩進みました。その一方、「一所懸命」に働いた武士たちに幕府は恩賞を(土地)を与えることが出来ませんでした。その上、武士たちは軍備のために沢山の費用を使ったので、すっかり貧しくなり、その不満は鎌倉幕府に向けられ、やがて時宗の孫の高時の代に、足利尊氏、新田義貞らに滅ぼされるっことになりました。 
「いざ鎌倉」 
将軍のいる鎌倉に一大事が起こったら何をおいても駆けつける、これをいざ鎌倉といいます。これは、鎌倉の将軍と主従関係を結んだ武士(御家人)の大事な心構えでした。今でも鎌倉に駆けつける武士たちの通った道が(鎌倉街道)が残っています。御家人は、自分の領地を将軍に確認し、保証してもらったり、戦いの後の恩賞で土地を与えられました。これを将軍のご恩といい、これに対して御家人たちは奉公を誓いました。奉公というのは、将軍の御所の警備や警固、戦いのとき一命を投げ打って奉仕する義務などのことです。こうして、土地を仲立ちとした将軍と御家人の主従関係が生じましたが、これを普通、封建制度と呼んでいます。
 
鎌倉武士の姿

武士の館  
墾田永年私財法の制定をきっかけに、おもに東国の開発領主となった地方の有力農民が、鎌倉時代の武士たちの祖先にあたる人々である。鎌倉時代の武士たちは、そんな先祖伝来の土地に土着し、自分の領地の経営やその拡大につとめていた。御家人となった者は地頭として、御家人とならなかった者は荘園領主から任じられた荘官として、農村の支配に都合のよい高台や交通の要地に、館をかまえた。 
武士たちの館は、「やかた」とは読まずに「たち」あるいは「たて」と読む。 
館は、まず敵の侵入を防ぐための、堅固な備えに驚かされる。館の広さは100-200m四方のものだが、その周りには、幅が5-10mほどの掘がめぐらされていた。掘の内側には、高さ2mほどの土をもった垣や、板塀があった。そのため館を堀之内あるいは土居とも言う。掘には何カ所か橋がかけられており、橋を渡ると門がある。門はつねに館の主の配下の武士によって守られていた。門の上には矢倉とよばれる建物があり、いくつもの盾がならべられていた。いざというときには門をかたく閉じ、門の上の矢倉に拠って、敵の侵入を防ぐしくみになっていた。 
門をくぐると、まず下人・所従などとよばれた人々の住む小屋の他、米倉、武器庫、馬小屋などがある。中央部には主人の住む母屋があった。母屋のつくりは寝殿造を簡素にしたもので、武家造とよばれていた。正面に玄関が設けられ、その左右に広い縁側がある。屋根は板ぶき、あるいはカヤぶきである。棟はひとつひとつ離して建てられ、寝殿造のようにその間を廊下でつながっていなかった。床はほとんどが板敷きで、座る場所にだけ、畳を敷いていた。 
武士の生活 
武士はふだんは直垂(ひたたれ)とよばれる衣服を用いていた。直垂は平安時代に庶民の衣服として用いられたものである。またもともとは下着であった小袖も平服として用いられるようになり、男性は小袖に袴、女性は小袖に細帯を締めていた。あらたまった席などに出る場合は、貴族たちの平服であった水干(すいかん)が用いられたが、貴族(公家)に比べると、武士の身なりは格段に質素なものであった。 
衣服だけでなく、食事の面においても武士は質素だった。当時の武士たちの食事は朝と夕の2回で、主食は現在のような白米ではなく玄米だった。 
承久の乱後の武士の食事のメニューが史料として残っている。武士の食事の献立として「うちあわび」「くらげ」「梅ぼし」「塩」「酢」「飯」を紹介している。また狩猟で得た、鳥、猪、鹿などの肉も、食卓にのぼったようだ。 
武芸の鍛錬 
鎌倉時代の武士たちは、武芸の鍛錬をたいへん重視し、「弓矢を射ること」「馬に乗ること」は、子どものころからきびしくきたえられた。館の内外では、笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)・犬追物(いぬおうもの)・巻狩(まきがり)など、武芸の訓練をかねた遊びがさかんに行われた。 
笠懸とは、笠を的にし、馬を走らせながら矢を射るものだ。笠は直径50cmくらいの檜の板を皮につつみ、中に綿がつめてあった。笠懸は平安時代の終わりごろに始まり、鎌倉時代に特にさかんになった 。 
流鏑馬とは、馬を走らせながら、一定の間隔をおいて立てられた、四角い板の的をつぎつぎに矢で射ていくものだ。的は3つ立てられるのが普通であったようで、これも平安時代の終わりごろに始まり、鎌倉時代にさかんになった。現在も、各地の神社のお祭りなどの際、行われている。 
犬追物とは、長さ40mほどの縄を輪にし、この中に放した犬を、とりかこんだ四騎の武士が矢で射るというものだ。鏃(やじり)ははずしてあるとはいうものの、当たればかなりの苦痛をともなったことだろう。犬追物では「動く的」を射るから、馬の乗り方、弓矢の使い方などを訓練するには、たいへん役立ったそうだ。 
巻狩とは、獲物のいそうな野山をかこみ、棒や大声で獲物を追いこみながら、馬上から弓矢で射て、しとめるというもので、狩猟である。 
武士たちはつねに戦いに備えた暮らしをしていた。京で行われていたような文化や遊びは、彼らの間にはあまり広がらなかった。ふつうの武士たちの学問のレベルも、都の公家たちなどと比べると、たいへん低い水準にとどまっていたようだ。 
一方で、武士の生活に合った、武士独特の道徳が形づくられていった。この武士の道徳は、当時、「武士のならい」「兵(つわもの)の道」などとよばれ、主従関係の基礎となる「忠(ちゅう)」と、一門の団結を保つための「孝(こう)」という考え方が基本になっていた。具体的には、武勇・礼節・廉恥・正直・倹約・寡欲などを大切にしていた。これらの道徳は、武士がきびしい毎日をおくるうちに自然と生まれてきたものだ。この時代に生まれたこれらの武士の道徳は、時代をへ、江戸時代になると「武士道」とよばれるものへと発展した。 
一門の団結と女性の地位 
鎌倉時代の武士たちは、「家門の誉れ」というものをとても大切にしていた。そのことがもっともよく分かるのは、戦いがはじまるときである。 
戦いの始まりに際し、武士たちがまずとなえたもの、それは「家門の誉れ」であった。戦いが始まるとき、まず鏑矢(かぶらや)が敵陣に放たれる(鏑矢は射るとブーンという音がでる矢)。鏑矢を放つのは戦い開始の合図だ。次に両方の陣から大将格の武将が一人ずつ前へ出て、「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは清和天皇の後裔源頼朝の一族として知られたる」というように、自分の家柄の自慢や自分の名前などを大声で唱えあった。これが終り、ようやく本来の戦いが始まることになる。 
この例のように、いつも自分の家柄のことを考える、また一族が安泰であることを祈り、一族の名を上げるために戦いにはげむ、というのが「家門の誉れ」であり、鎌倉時代の武士たちの大きな特色だ(家門とは一族という意味)。 
一族を率いた人のことを惣領と言う。惣領というと、現在では「長男」という意味で使われるが、当時は必ずしもそうではなかった。もちろん長男が惣領になることもあったが、惣領=長男としてしまうと、場合によっては不都合なことがおこる場合もある。もし、長男に一族を率いるだけの才能がなかったとしたら、「一所懸命」とまで言って、大切に守ってきた先祖からの土地を失ってしまう可能性もある。ですので鎌倉時代には、年齢とか長男・次男とかいう基準ではなく、才能のある立派な人物を惣領とするのが普通だった。 
もしも一族の中に惣領となるべき人材がなければ、他家から養子をむかえて惣領とし、一族の者や領地のことを任せることさえあったという。 
鎌倉時代の武士は、領地や財産を相続させる場合、長男だけに与えるのではなく、子弟たちに分配して与えるのがふつうだった(分割相続と言う)。ちなみに全て長男に譲ることを長子相続と言う。つまり相続が行われるたびに、兄弟の家である「分家」が生まれるわけだ。新しく立てられた分家は本家の長となった惣領の命令に従う形にる。本家は宗家とも言った。 
言葉をかえると、本家(宗家)を継いだ者を惣領と言った、惣領は長男であるとは限らなかった、惣領以外の子弟のことを庶子と言った。本家(宗家)と分家をふくめた集団のことを一門あるいは一家と言い、ふたつ合わせて「家門」になる。惣領は戦いのときは一門を率いて戦い、戦いのないときには先祖や氏神の祭祀をとり行った。 
御家人では、惣領は一門の軍役の責任者だった。京都大番役、鎌倉番役などの軍役を、幕府は惣領に一括して課し、一門で受けた軍役を惣領が庶子たちに割りあてた。このような惣領を中心とする武士の集団のあり方を惣領制と言う。鎌倉幕府はこの惣領制を基礎として、御家人たちの統制を行っていった。 
当時の女性の地位について話すると。 
「むかし」の女性の地位を考える場合、「家にあっては父にしたがい、嫁(か)しては夫にしたがい、老いては子にしたがう」という、いわゆる「女子三従の教え」に象徴されるように、女性の地位は男性に比べて一段低いところにおかれていたのではないか、そんな印象をもたれている。意外なことに、鎌倉時代の女性の地位は比較的高かったとされている。「女子三従の教え」というのは江戸時代に形づくられたものだ。 
鎌倉時代の女性は、例えば相続に際しても、男性と同じく財産の分配を受けた。もちろん、軍事活動には参加しないが、女性が地頭や御家人となる例もあったようだ。 
そして女性は結婚した後も、生家の姓でよばれていた。頼朝の妻である政子は、頼朝に嫁いでからも北条政子とよばれた。 
武士の土地支配 
幕府から地頭に任ぜられた御家人は、館を中心として、まかされた土地の名主や作人などを支配した。しかし、その土地は決して地頭の領地なのではない。地頭がおかれた土地は荘園か、あるいは国衙領つまり公領(朝廷の土地)である。したがって、地頭の権限は、法的にはあくまで限定されたものだった。例えば承久の乱の後に置かれた新補地頭の場合、与えられた権限は主に次のような内容だった。 
十一町ごとに一町の田地をあたえる。 
荘園領主に納める年貢のうち、一反について五升の米をあたえる。 
任じられた荘園・国衙領内での警察のしごとをする。 
つまり、その荘園や国衙領の全面的な支配を認めるという内容ではなかった。しかし、地頭たちは、自分にとって利益が生じる土地は自分の領地である、と考えるようになっていった。この傾向は、承久の乱の後、幕府の力が大きく伸びるとともに、強くなっていった。地頭たちは、勝手に農民たちから年貢を取り立てたり、農民たちに自分の田畑の耕作をさせたりした。さらには荷物運び、用水路や道路づくりなどにも農民をかり立てるなど、「無法」なふるまいを行ったようだ。「北条九代記」という史料に、そのような地頭のふるまいが記録されているので、以下に紹介する。 
農民は、ただでさえ年中休みなく働いているのに、日照りや水飢饉がおこれば、せっかくの作物がだめになって、困りはててしまう。それなのに、地頭の使いの者がやってきて、年貢を出せ、と農民たちをせめ立てる。農民たちは、わずかな家財を売ったり、土地や家を担保に借金をして、どうにか年貢を納めている。しかし、それもできない農民たちに対し、地頭の家来たちは、その妻子をとらえて裸にし、茨(いばら)の中に寝かせたり、しばり上げて氷をふませたりする。あるいは牢屋に入れて水も食物もあたえなかったり、寒い風の吹くときに池の中に立たせたりする。こうして、何としてでも年貢を納めよと農民たちをせめ立てるのだ。 
「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺があるが、この史料を読むと、当時の地頭は、まさに地域の人々に有無をいわせない「権力者」だったということが分かる。 
地頭の勢力が強くなり、「無法なふるまい」が多くなると、当然の結果として、荘園領主やその家来の荘官、あるいは国司やその家来の郡司などとの争いが絶えなくなった。幕府が裁判制度の整備に力を入れたのも、このような状況に対応するためだったからだ。 
荘園領主や国衙領の国司たちは、地頭の「無法のふるまい」を幕府に訴えた。そして、「年貢を納めない」「農民を家来のように使役している」といった地頭のふるまいを何とか押さえようとした 。 
領主や国司たちが幕府に訴えた裁判で、領主側が勝ち、地頭側が負けている実例が案外多い。つまり、幕府は自分たちの側に属する地頭を依怙贔屓することなく、公平な判決を下していたと考えることができる。当時の幕府は武士の利益だけを守る機関ではなくなり、文字通り日本全体の利益を考えて行動するような組織に成長していたと言える。 
しかし、いくら幕府が公平な判決を下そうが、現地に根を下ろした地頭の行動をいさめることは、事実上不可能となっていた。地頭たちは、自分たちに不利な判決が出た場合でも、現地において力づくで、自分たちの「利益」を守ろうとする行動に出たのだ。現地で武力にうったえられては、領主や国司たちにはどうすることもできない。 
地頭請と下地中分 
地頭の横暴に対抗するため、考え出されたしくみがある。これを地頭請である。地頭請は鎌倉時代のはじめにも見られたが、鎌倉時代の中ごろになって、かなり広く用いられるようになった。地頭請とはどのようなしくみなのか。 
荘園内での荘官の任命、年貢の取り立て、農民への指図などは、一切を地頭が行う。 
地頭は荘園領主に対して、毎年、予め定められた分の年貢を納める。 
このしくみを用いると実際にはどのようになるか。荘園領主は、毎年、一定の年貢が確実に手に入るようになる。けれども自分の荘園であっても、その経営については、いっさい口を出すことができなくなる。 
年貢をすべて地頭に取られてしまうことに比べれば、毎年年貢が入ってくるだけましと言えるが、荘園領主からみると、「無念さ」が残る方法である。 一方の地頭にとっては、毎年、定められた量の年貢さえ領主に納めれば、極端に言えば、誰にも邪魔されることなく、荘園を好きなように支配できることになる。地頭請は地頭にとってかなり有利な方法 だった。 
地頭請以外の方法として、下地中分とよばれるものがあっ。 
下地とは、土地からあがる収益を上分(じょうぶん)と言うのに対し、土地そのものを意味する言葉である。下地中分とは、土地自体を二つに分け、一方を地頭のもの、他方を領主のもの、という形にして互いに所有権を認め合い、互いに干渉したり、侵犯したりしないように約束したもの だ。 
もともと土地は全て領主のものだったわけで、この方法も地頭の方が有利である。 領主にしてみると、もともと自分の土地であったものを半分地頭に取られてしまうわけで、まことに腹立たしい限りだったことだと思われる。しかしここでも、「全部取られるよりはまし」という判断がはたらいたの だ。 
地頭請には、幕府の仲介によって行われたものと、現地で地頭と領主が話し合って成立したものの2種類があった。また下地中分においても、地頭と領主が話し合って行われたものと、幕府の仲介によって強制的に行われたものの2種類があ った。ちなみに話し合いで行われた下地中分のことを、とくに和与中分(わよちゅうぶん)と言う。 
地頭請と下地中分のどちらも、地頭の土地支配の強化を意味し、この時代になって、荘園の支配権はしだいに地頭の手に移っていったと言える。
 
鎌倉武士と伊勢原(いせはら)

平家追討の狼煙(のろし)があがった頃、この伊勢原の地にもすでに武士が誕生していました。市内岡崎の無量寺周辺から平塚市域にかけては、岡崎城と呼ばれる居館(きょかん)があったといわれています。城主、岡崎四郎義実(おかざきしろうよしざね)は三浦半島に本拠を置く三浦氏の一門で、義実は源頼朝より30歳以上も年上でしたが、石橋山の戦いには息子の真田与一(さなだよいち)とともに参戦し、その後も頼朝につき従って鎌倉幕府成立の功臣となりました。同じ三浦氏の一族で、当時石田を本拠にしていたのが石田次郎為久(いしだのじろうためひさ)です。為久は源範頼(みなもとののりより)、義経らの木曽義仲追討軍に加わり、北陸へ落ち延びようとした義仲を討ち取った当事者です。石田の円光院北側の台地が石田氏の館跡といわれています。東の石田、南の岡崎に挟まれて、平安時代の終わり頃の伊勢原の大部分は糟屋庄(かすやのしょう)と呼ばれる荘園となっていました。この糟屋庄に館を構えていたのが糟屋藤太有季(かすやとうたありすえ)です。糟屋氏は三浦氏と同様に早くから源氏に従っていましたが、糟屋有季の父盛久(もりひさ)は石橋山の合戦には平家方の武士として名を連ねています。しかしその後、有季は源範頼、義経の平家討伐軍に源氏の兵として従軍し、平家滅亡後には頼朝の命に応じて義経追討の任にもついています。また、頼朝が上洛したときにも、岡崎義実らとともに随行しています。 
頼朝と政子 
鎌倉幕府の創始者となった源頼朝もまた、伊勢原には深い関わりをもっていました。元暦元年(1184)頼朝は大山寺に田畑を寄進し、妻の政子が実朝を出産する際には、相模国中の神社仏閣に神馬を奉納しています。その中に大山寺、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)、三宮冠大明神(さんのみやかんむりだいみょうじん、現在の比々多神社)の名があります。建久5年(1194)には娘の病気平癒(へいゆ)を願って霊山寺に参拝し、その後も使者を遣わして自らの歯の病が治るよう祈願しています。その妻政子も頼朝の死後、二度にわたって霊山寺に参拝しました。さらに、亡き夫を祀って市内三ノ宮の浄業寺(じょうごうじ)を建立したといわれています。源家による将軍が三代で絶えると、鎌倉幕府は執権の北条氏によって運営されるようになりました。100年以上に及ぶ北条氏の治世には、武家による政治制度が整えられましたが、相次ぐ天災や飢饉が一揆を引き起こし、また元軍(げんぐん)の襲来や相変わらずの政権争いが社会を揺るがしていました。皮肉なことに、こうした社会情勢が平安時代とは異なる厳しくひたむきな仏教を興隆(こうりゅう)させ、市内にも鎌倉時代の造立とされる仏像が宝城坊の十二神将像、大山寺の鉄造不動明王像など、二十数体残されています。 
鎌倉時代の市域と武士達の動向 
鎌倉幕府創業者の頼朝が亡くなると、北条氏が政権の中枢を握るようになり、幕府内の有力武士の力をそぐ方向に進みます。伊勢原市内の武士も北条氏の陰謀にからみ、その嫡流は消えていきました。建仁3年(1203)に起きた比企(ひき)氏の乱により糟屋有季が比企一族とともに自害しました。この後糟屋庄の支配は糟屋氏の手を離れたと思われます。糟屋氏の嫡流は失脚しましたが、これ以降も糟屋氏は歴史に名前を残しています。後鳥羽上皇が幕府を相手に起こした承久の乱では、上皇方、幕府方ともに糟屋を名乗る武士が登場します。有季の兄弟の子孫と思われる糟屋氏は北条政村の子孫に仕えていましたが、鎌倉幕府滅亡時、近江(滋賀県)番場(ばんば)宿で北条氏らとともに自害し、その墓は番場の蓮華寺にあります。建保元年(1213)には、和田義盛が北条氏に対し反乱(和田合戦)を起こし、和田方に加わった岡崎義実の子どもらが滅び、岡崎の地は没収されました。さらに、宝治元年(1247)三浦泰村(みうらやすむら)は北条方の安達景盛(あだちかげもり)らに挑発され、反乱(宝治合戦)を起こしました。この乱に敗れ三浦一族石田氏の本領石田の地は没収されました。鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇は足利尊氏・直義(ただよし)に北条氏の旧領を与えました。その所領目録によると、糟屋庄は、北条氏の一族大仏貞直(おさらぎさだなお)の所領であったようです。
中世都市鎌倉  
鎌倉は中世の都市である。そして時代は一挙に明治に至る。遺跡から中世の町並みを現代に浮かび上がらせたのが「中世都市鎌倉」である。その絵解きによって鎌倉の不思議な魅力がどこから来ているのかを解き明かしている。  
経済的に未熟な東国にあって一つのまちだけが豪華な消費文化を形作った。「最盛期の鎌倉には膨大な人口があった。鎌倉に勤務することをこえて常住する武士たちも多かったはずだし、寺院は僧以外にも人を抱え、商人や職人の流入も続いていただろう。彼らの生活を支えるため、各地から大量の物資が搬入され、鎌倉内でもさまざまの物が作り出されていた。・・・武士が政権を掌握し、鎌倉が東国の中心都市となり、京都に対抗(あるいは凌駕)するまでに成長したのだ。」河野眞知郎は最盛期の中世鎌倉の人口を5万から10万人とみなしている。12世紀末、三方を山に囲まれ、残りを海に面した狭い鎌倉に一大消費都市が出現した。奥まった谷(やつ)には有力御家人の住居や別業(別荘)あるいは寺院が占領して、わずかな平野地に押し込められるように中世鎌倉人は営みを行っていた。どんな人びとが暮らしていたのだろうか。河野眞知郎が遺跡から読み取る人びとは本拠を別に持ちながら鎌倉にも出先を持つ御家人とその使用人たちである。彼らはいわば単身赴任のようなものである。権力争いと酒宴政治が生活を支配していた。今の永田町のようなものであろうか。大寺院に暮らす権力に奉仕する白衣の官僧も中世都市鎌倉を構成する。そして、このような政治中枢の人工的な都市に必要な商人、職人たちが鎌倉を、活気づける。さらに、彼らの苦悩を救済しようと黒衣の僧が街角で説法をする姿も垣間見られる。  
狭い住居には囲炉裏が切られ鍋による煮炊きと暖房とが兼ねられていた。炊事は西国ではかまど、東国では囲炉裏である。囲炉裏が切れない場所では代わりに火鉢で代用する。これらは遺物として多数鎌倉の土の中から掘り出される。  
生者がいれば、死者がでる。狭い鎌倉に墓地は作れない。谷の奥の崖に横穴を掘って火葬した骨を骨壷に入れて祀るやぐらが鎌倉にはあちこちに見られる。もっともやぐらが全て墓であったかどうかは、河野眞知郎は断定していないが。これが一般に知られた中世鎌倉の埋葬施設である。この他にも河野眞知郎は尾根の上へ埋葬したり、生活廃水を流す溝に投げ込んだりと当時の処理の仕方を示している。その中で注目されるのは海岸を埋葬地とすることである。海岸を埋葬地とする習慣は必ずしも鎌倉のみの習慣ではなく、海が近い地域ではよく見られる風習である。鎌倉で注目されるのは「中世都市鎌倉」でも紹介されている由比ヶ浜(鎌倉簡易裁判所の建築現場)で1953年に千体を越える人骨が出土されたことである。頭骨ばかりが山のように積み上げられた首塚も現われ、新田義貞が鎌倉を攻めたときのものではないかといわれている。  
中世都市・鎌倉は一極集中の消費都市であった。河野眞知郎も青砥藤綱が滑川に10文の銭を落として50文の松明を買って捜させた「太平記」にある故事を消費経済の現われであるとみなしている。中国貿易で輸入するものは消費経済を回す中国銭(南宋)が最も多く、これに陶器が続いている。外港である六浦や和賀江島に大型の貿易船がつながれている光景も見られたはずである。交易は狭い切り通しを越えるより、舟運が効率的である。鎌倉で発展したのは漆器くらいであり、家を建てる材木(材木座海岸という名称が残っている)や煮炊き用の炭、鍋、皿まで取り寄せなければ成り立たない都市であった。囲炉裏にかける鍋は長崎産の滑石鍋が使われ、薪や炭は安房上総から運ばれてきた。  
現代の鎌倉の町並みは、河野眞知郎によって3Dの中世に立ち戻っていく。中世に立ち戻れるまちであることが、鎌倉の魅力である。  
河野眞知郎はいう。「ここまで読みすすまれたなら、鎌倉を物資流通の中継地として(集散の中核として)草ぶかい東国へも『鎌倉的消費文化』がひろがったのではないか、と誰しもが思われるだろう。しかしじっさいに関東・中部・東北各地の中世前期の遺跡を見ると、鎌倉的消費文化はごく一部かほとんど波及していないような状態である。当時『大名』とよばれるほどの領地をもつ武士の本拠地でも、今日の『小京都』に比較できるような『小鎌倉』といえるほどの、都市的な場を形成することはなかった。」どうしてなのか。「坂東武者たる者は『質実剛健』と旨としており、お勤めで鎌倉に行ったときには役得にあずかって酒宴と『好色』の遊興にふけるが、郷里に帰れば口をぬぐっている。鎌倉は行ったときが楽しい場所で、国許にそんな軟弱なものはもちかえらないのだ。」と河野眞知郎はいう。一方的に物資と情報とを西から、人を東から飲み込むだけ飲み込んで、東国に還流させなかったあり方を「鎌倉ブラックホール」とも河野眞知郎は論じている。  
「鎌倉ブラックホール」論は現代にも通じるのではないか。東京が鎌倉に代わっただけで、地方は相変わらず人物金を東京に飲み込まれ枯渇していっている。「東京ブラックホール」が現代の姿である。東京の六本木ヒルズも、いつか鎌倉の3D化された中世の町並みと同じように遠く思い描くようになる時代があるかも知れない。 
 
義仲の物語を読む

『平家物語』の読みについて、一九五〇年代の史学の集大成として石母田正の論が、いまだにその光を放ち続ける。史学者でありながら、物語としての形式面から入り込む論は、きわめて文学的である。その評価の軸を領主階層の進歩性に求めた姿勢に修正を求め、権門体制なりの危機意識を持った「王権」を背景に、動乱期を生き抜く中世人の営みを読み解く読者・享受論があり、その受容の効果を批評するイデオロギー論がある。中世の歴史叙述をめぐって、広義の文化論から、文字化されたテクストの限界を批判する口承論がある。木下順二の群読論や、声の文化が最近の話題になっているのだが。王権の外側にはじき出された死者を鎮めるために琵琶法師の語る『平家物語』テクストと言いながら、その文字化されたテクストには身体的な語りの痕跡が見えないことを、これを強く意識したラフカディオ・ハーンの物語行為や、その言説と比べて感じざるをえない。ハーンの聴覚的・触覚的な言語。盲人の音声言語が、文字テクストの世界を相対化したはずである。せまい文学テクストに限らず、その基盤としてある広義の文化的な背景、生活の場から読みを進める論が急速に進む。特に軍記については、王権維持のための宗教儀礼の場から、王権を支える天台の本覚思想の読み、経典の注釈や談義の場など、中世の学問の世界、その外、正統な文化から落ちこぼれとして排除された地方の文化やテクストが文化創造の役割を演じていたことを探り出し、従来の大作中心主義の文学史の評価の軸をくずしてしまった。『平家物語』をめぐっても、盲目の語りよりは、この周辺文化の痕跡を色濃く残す読み本に中世的な世界を見出す。それは、広い文化論へと越えてゆく。巫女の憑依体験やシャーマンの神秘、史官の知と霊性、故人の夢告、その夢の聖性など、それらを保障する芸能の場や、さらに庭園にも及ぶ幻想空間の意味を問う。近代になっては、新聞や雑誌、さらにはラジオやテレビなどのメディアが、声や映像を駆してテクストの多様化を一層加速する。この文化への関心の拡大は、せまい日本の文化圏を越えて琉球から東アジア漢字文化圏に視野を広げて、その中での日本文化を相対化してとらえようとする論。それらの動きが見られたのであるが、文学をその一部門とする文化論への拡大は、今後、文学研究、その研究と補完しあった文学教育にどのように変化をもたらすのか。エレトロニクス、携帯電話の普及、漫画やアニメーション化の動き、これらが文字言語による文学そのものをも変質させてゆくことは当然だが、まさにウォルター・J・オングの想定した状況が日常化しつつ、なお文学へのこだわる。その具体的な場としての翻訳という作業がやはり日本文学の読みに新しい視点を持ち込む。歴史学から自立を心がけながら、軍記物語研究は、歴史学との垣根を払う動きを活発にしつつある。しかも文学を読む感動を抜きにはできない。文学教育の現場において、この課題は欠かせないはず。軍記物語が歴史学の一資料にとどまってはならない。軍記物語を文学として読むとは、いかなることなのか。特定の作者個人には限定できない、聴き手の思いを取り込む語り手の歴史の読みがある。たとえば『平家物語』に、木曽山国育ちの義仲をいかに読むのか。京都文化の中核をなす「王権」に揺さぶりをかけた義仲を、物語テクストにどのように読むのか。義仲が、巻六・「廻文」、頼朝の挙兵を耳にし、乳母子の兼遠に、「今一日も先に平家を攻め落し、たとへば日本国二人の将軍と言はればや」と語って喜ばせる。これを具して都へ上り、平家の様子を伺いながら石清水八幡宮へ参り、十三歳にして「四代の祖父義家」にあやかろうと、神前元服を行って義仲と名のったと言う。この義仲の行為が物語として、どのような意味をもつのか。巻九・「樋口被斬」で、その義仲の最後に、この行動開始当時の頼朝に対して示した対抗心について、中国、沛公が項羽に先駆けることを控えたとの故事を想起し「木曽左馬頭、……沛公がはかり事」に及ばなかったと言う。その読みに、この故事を重ねる読みが可能である。それに義仲が頼朝に張り合おうとした思いの裏には、その父、義賢が頼朝の兄、義平の手にかかって討たれた思いがあった。兼遠に覚悟を語った直前に、その父のことを回想する語りがあった。語り手は、沛公に比べて、義仲の無謀さを指摘したのだった。はたせるかな「寿永二年三月上旬に」頼朝が義仲に不快の念を抱いた。そのために義仲は、子息の清水冠者を人質として頼朝に差し出すことになる。その後の義仲の動きが平家の都落ちを促す。義仲軍が京へ迫るとの報に、平家は都を落ちる。事前に後白河法皇は、同行しようとしていた平家をかわして鞍馬から叡山の東塔へ入る。大衆の形勢をうかがい、牽制しながら入洛を果たした義仲が、五万余騎の兵を率いて法皇を保護し、還御に導く。法皇は、その義仲に平家追討を命じ、北国合戦以来の論功行賞を行うが、義仲・行家は、ともに、その任国を嫌い、改めて、義仲は伊予守に、行家は備前守に任ぜられる。法皇とのかけひきが始まるが、法皇は、早々と安徳帝と神器の奉還を平家に申し入れていた。それを拒まれると、神器を欠いたまま新帝を立てる。後鳥羽になる帝である。時に四歳。物語は、法皇が、ここで関東の頼朝に(鎌倉に)「ゐながら征夷大将軍の院宣」を贈ったと語る。その使者、中原泰定が鎌倉へ下る。頼朝は、王権の外にいながらにして京の「王権」をひき寄せ入手した。この間、使者の泰定が頼朝に鄭重にもてなされ、帰洛後、その「関東のやうつぶさに奏聞し」、「法皇も御感あり」と語る。頼朝の将軍任官に事実とは数年の前倒しがあるのだが、それは、この直後に「兵衛佐はかうこそゆゝしくおはしけるに」、都を守護する義仲の「たちゐの振舞」が全く逆に無骨さの限りを尽くしたことを語るためである。法皇の、頼朝への接近を通して義仲を退けるために将軍院宣を、その前に置いたわけである。この両人の対照的な語り。物語における「虚構」とは、歴史を語り、説くための方法である。「史実」との対立概念としての「虚構」ではない。その一つの典型的な物語として、猫間中納言に対する義仲の山国育ちの無骨な応対を語る。京の町の名と知らず、相手を猫と取り違え、猫が人に見参するのかと問うて人々を驚かせる。おりから「けどき(食事事間)」であった。山国育ちの義仲は「まれまれわゐたるに物よそへ」と指示する。義仲にとって、まさに「まれ人」(まらうど)の相手をもてなさねばならない。山国育ちのゆえに、その律儀さを守り、みずからの「精進合子」に「飯うづたかくよそゐ、御菜三種して、ひらたけのしるで」もてなす。当時の食事は、一般には一日二食で、朝昼兼食であったが、山国村落の、農作業に拘束される人々の「けどき」食事時間と貴族のそれが合うはずはない。それを義仲は万事自分のペースで事を運ぼうとする。「ひらたけ」は、マツタケと違って香りがないと言われる。それに器、精進合子は、屋代本に「田舎合子ノ荒塗ナルガ」とあり、山国であるから木地塗りの椀であろう。主として土器や高価な漆器・陶磁器を使う京の貴族にとってはこれも辟易のはず。相手の困惑を余所に、義仲は相手が遠慮すると見て「かい給へ」と促す。中納言は、手も足も出ない。「かやうの事に興さめて、のたまひあはすべきことも一言も出さず、軈急ぎ帰られけり」と言う。義仲の応対に「まれまれわゐたるに」など木曾山国訛りをそのまま使わせているのも、全く京の価値観をおしつける笑いである。外から王権の内に入る義仲が失笑をかいながら、外の倫理を持ち込み、いったん相手を圧倒してしまう。しかし、この後、出仕に、なれぬ衣冠束帯姿で、牛車にまで乗って出かけ、車中、牛飼の失笑をかう。田舎者が、内の格式にならおうとして、王権の最末端の牛飼いにまで翻弄される。この牛車事件でも、ことばの齟齬を内の価値観をもって笑いとばす。あえて東国を離れなかった頼朝との違いを露呈するのだが。背後に頼朝を想定しながら、この内と外とのせめぎあいを物語として読む読者や聴衆の笑いは、言うまでもなく京都人の内の立場に立っての笑いである。全く勝負にならない、上から下を見下す笑いである。これを受け身の木曾の側から見れば、京文化からの地方への押し付け。その対立のきわめつけが、洛中での木曾勢の狼藉である。「凡そ京中には源氏みち/\て、在々所々に入りどりおほし。……青田を刈てま草にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ッて返る物をばうばひとり、衣裳をはぎとる」と言う。このような「入りどり」、兵士の洛中略奪行為は都人にとって前代未聞の事件であったのだろうが、たとえば、これが室町時代に下れば、武田信玄の天文十一年(一五四三)十月の大門峠合戦に、その滞在中、「小屋おとし、乱取いたし、かつた(刈田)を仕、下々いさむ(勇む)事限なし」が公に認められていたと言う。こうしたいくさ場における「入り取り」略奪は、時代が下ってフィリピンを転戦する日本軍の現地調達指示にまで見られたことを大岡昇平が、その『レイテ戦記』や『野火』に記すところであった。  
地方における戦闘の実態、義仲の洛中狼藉を『平家物語』としては、どう語るのか。法皇は「狼藉しづめよ」と命じる。「天下にすぐれたる鼓の上手」、「時の人」から「鼓判官」と呼ばれた壱岐判官朝泰を使者に立てて義仲に指示する。ところが、ここでもその朝泰が体する院の指示に対し、義仲はまともに返答に及ばず、「抑もわとのを鼓判官と言ふは、よろづの人にうたれたうか、はられたうか」とまたもや訛り丸出しで、礼を失した応対。前の「猫間」に対応するから、ここでも義仲はまじめだったのか。それとも不本意な法皇の叱責に対する義仲の、開き直った反発なのか。とにかく使者の判官にとっては愚弄以外の何ものでもない。朝泰は院御所へ帰って、法皇に「義仲おこの者で候。只今朝敵になり候なんず、急ぎ追討せさせ給へ」と言上する。あの泰定の場合とは対照的。ここで法皇は、追討を決意するのだが、思わぬ義仲の応対に度肝を抜かれたのか、「さらばしかるべき武士にも仰せ付けられずして」とは、さすがの語り手にとっても意外というのであろう、法皇が、天台の座主明雲大僧正、園城寺の長吏、円慶法親王に指示を下し、山・寺の悪僧らを召したと言う。法皇のもとへ馳せ参じた公卿殿上人が召した兵も「むかへつぶて、いんぢ、いふかひなき辻冠者原、乞食法師なり」と言う。『平家物語』には、多くの異本がある。大きく読み本系と語り本系に分ける。その言説は、両者の間でかなり異なる。それをもっぱら成立論に引きつけて古態性を論じるか、さもなくば、読み本の豊饒な文化の発掘に走る論が活発である。その受容のあり方をも含めて、物語としての方法や、指向性などを考察すべきなのだが。さしあたって、読み本の延慶本は、義仲に対して無策の法皇をからかう落首を掲げ、その傭兵をも「物ノ要ニ立ヌベキ者ハナカリケリ」ときめつける。しかし、とにかく義仲に対する法皇の覚えが悪いと知った「五畿内の兵ども」がすべて法皇側につく。こうなっては義仲の乳母子、今井四郎兼平も放っておけず、「十善帝王にむかひまいらせて」合戦してはならぬ、武具を解いて「降人に」参られよと促すのを、義仲は大いに怒って、これまで勝利を続けて来た身として、「降人にはえこそ参るまじけれ」と拒む。都を守護する者が馬に乗り、そのまぐさとして刈田するのはあたりまえのこと、兵糧米も与えられぬ「冠者原共が」「時に入りどりせんは、何かあながちひが事ならむ」と開き直る。それどころか、こざかしい「其鼓め(鼓判官を指す)打破て捨よ」と呼び捨てにし、義仲軍「吉例の」七手に分かれて攻めを決行する。全く義仲のペースである。  
これを迎え撃つ法住寺殿では、二万余の軍兵を擁しながら、「木曽、法住寺殿の西門にをしよせて見れば」とあるから、以下、語り手が語る焦点化の主体は義仲その人である。物語られる対象の提示に採用される知覚・認識上の位置を「焦点化の主体」と言う。例の朝泰が総大将をつとめ、仏法を守護する四天王を書いた兜を着て、「鎧はわざと着ざりけり」と言うから異様、四天王に守られるとの思いからか。御所の西の築垣に登り、片手には、これも宮廷儀礼用の鉾、もう一方の手には密教の法具「金剛鈴を持ッて」、それを「打振/\、時々は舞おりもあり」。宗教儀礼を以て義仲軍を退けようとするのだが、口さがない若き公卿・殿上人が、これを無様と見て「朝泰には天狗ついたり」と笑うのは、物語の語りにしばしば介入する、口さがない若殿上人。かれらが朝泰の行為を、この場に不似合いな応対と揶揄する。王権内に、みずからを壊す者が現れるということか。その朝泰が相変わらず「むかしは宣旨をむかッてよみければ、枯たる草木も花さき、みなり、悪鬼・悪神も随ひけり。末代ならむがらに、いかんが十善帝王(この場合、法皇を指すのだが)にむかひまいらせて弓をばひくべき。汝等がはなたん矢は、返ッて身にあたるべし。抜かむ太刀は、身をきるべし」などと叫ぶのを、義仲は構うことなく鬨の声を合わせ鏑矢に火を入れて御所に射立てる。猛火に煽られて、外ならぬ、その総大将の朝泰が逃げ出す。王権を守護すべく後白河が神との交感の回路にしようとしたと言われる宗教儀礼を全く「虚仮にする」義仲の行動である。この直後、例の「いふかひなき辻冠者原・乞食法師」が、敗走するものと予想した義仲方の落ち武者を、「用意してうち殺せ」と指示され、「屋根いたに楯をつき」待機していた。その予期に反して、官軍として七条の末を固めていた摂津源氏の敗退するのが、院方であるぞとわめくのを構わず、辻冠者たちは「院宣であるに」と同士討ちに打ち殺そうとしたとするのも、まさに法皇方を虚仮にする。まるで狂言の世界。この合戦の結果には、天台座主の明雲、園城寺の長吏円慶法親王が逃げようと乗る馬から振り落とされて首を斬られる。それに豊後の国司刑部卿三位頼資が院の御所に火をかけられて河原へ逃げるのを「武士の下郎どもに衣装皆はぎとられ、まつぱだかで立」っているのを、見かねた中間法師が「衣をひン脱いでなげかけ」、頼資は「短き衣うつほにほうかぶッて、帯もせず、うしろさこそ見ぐるしかりけめ」、その頼資が急ぎ歩むこともなく、あちこちに立ちどまって「あれはたが家ぞ。是は何者が宿所ぞ。こゝはいづくぞ」と問う。これを「見る人みな手をたゝてわらひあへり」とある。この頼資を読み本の延慶本は、その中間法師すらが「アマリニワビシカリシカト後ニ人ニ語リケルトカヤ」とする。これも読み本の、しかも、かなりくせのある『源平盛衰記』巻三十四では、たしなめる中間法師に対して「寒しとは何ぞ。何事か見苦しき。斯様に乱れたる世に作法あるまじ、よき次に京中修行せん」と開き直って通ったとまで語るのだが。なお、この頼資は、太宰府に落ちた平家が、その地の、元、小松殿の御家人であった維義の援けを得ようとするのを、その主、頼資の指示によるとして維義は拒む。怒った時忠が、鼻の大きい頼資を鼻豊後が下知に従うと、こき下ろした、その相手である。そのあげくの義仲の所行。勝ちいくさをおえて六条河原に立ち、「昨日きるところの頸どもかけ並べ」、その中には明雲座主、寺の長吏円慶法親王の頸もあるのだが、それらを横目に勝ち鬨をあげ、「家子・郎等召あつめて評定す」。その場で言った義仲の言葉、「抑義仲、一天の君にむかひ奉て軍には勝ちぬ。主上にならうど思へども童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よし/\さらば関白にならう」と言うのを、手書の大夫覚明が、関白は藤原氏のなるものと制止する。「其上は力及ばずとて、院の御厩の別当にをしな」る、つまり強引にみずからが任官したと言うのである。武士の身としては決して低くはない。しかも院司になったことに義仲としての思うところ、政情の読みがあったのか。それに当時の「主上」とは、法皇が都の空白を埋めるべく、四歳で即位させた尊成、後の後鳥羽である。遡れば、後白河法皇は、保元の乱後の空白を縫って二十八歳で即位したのだが、物語の、早く巻一、十五歳で即位した二条が二十二歳で死去、その後、二条の意志により、その第一子(実は第二子)順仁が二歳になるのを皇太子に立てていた、後の六条天皇である。それを平家の意向により、法皇の第三子、憲仁が六歳であったのを皇太子に立て、三年後に六条帝を退位させて、前の順仁を即位させる。高倉天皇である。その十年後、治承二年(一一七八)には、新生の皇子、言仁が生後一か月で立太子。やがてこれが後の安徳天皇になる。摂関家と法皇、平家の、いずれも人々の思惑のからまる、当時の「王権」の実態であった。とすれば義仲の暴言をはたして笑えるのか。これらのあわただしい幼帝の擁立の裏に、二条と後白河、平時忠を仲介とする清盛と院政を推進する法皇との対立・角逐があった。京の人々の目を借りた冷ややかな目を知っている語り手、それを読むわれわれは、この法住寺合戦に見られる狂言的な世界、道化じみた義仲の発言を、どう読むのか。「猫間」に見たような、山国育ちの義仲を冷笑する語り手や、その聞き手であるのだが、この法住寺合戦の世界を知る場合、いささか奇妙な思いにかられる。物語の枠組みを構成する王権、その保全のための諸儀礼と、特に後白河と平家の対立を物語の進行、文脈の中で読む場合、かなり複雑であるのだろう。ふと、『太平記』で、天台を虚仮にしようとした佐々木道誉を思い出す。義仲が、公卿四十九人の官を解く武断政治に出たため、かねて法皇と意を通じていた東国の頼朝が動き出し、兵を京へ向けて派遣する。義仲が法住寺攻めのあと、前関白の婿に押しなっていた。その舅、松殿基房の説得に従い、公卿の官を復し、かわりに基房の息、師家を摂政につける。しかも西国の平家に和平交渉を始めるが、平家に拒まれる。頼朝の指示に従って上洛する義経ら東国軍の動きに、院御所に最後のいとまを乞おうと参るが、御所では怖れるのみ。もちろん法皇に、義仲と逢う思いはなかったろう。東国軍接近との報にかなわず、洛中はじめて見そめていた女房との、この期に及んでの惜別。これまで見てきた義仲には不似合いな動き。それを家来が自害したのに促されて戦場に出る。やがて上洛を果たした義経が法皇の信任を得るに及んで、義仲は義経と対決、破滅への歩みを進める。外なる木曽の山国から、義仲は、王権に接近するが拒まれる。それを逆転して外部の義仲が王権の内部に脅しをかけたのだが、やがて法皇の意を体する頼朝にはじき飛ばされる。「木曾最期」の物語の冒頭、「木曾殿は、信濃より、巴・山吹とて二人の便女を具せられたり」と語っていた。その巴が最後の五騎の中に生き残り、女ゆえに義仲から同行を拒まれ、「武蔵国に聞えたる大ぢからの」恩田八郎を相手をねじり殺して討ち取る場を見せて、東国へ落ちて行った。怪力の女性は、説話の世界に登場する。それに、この「巴」の名は、水神を祀る「水の女」(巫女)であることを示唆している。事実、現地、木曽川の上流には、巴御前が巴ケ淵に棲む龍神の化身で、義仲を助けたとする伝説がある。それに肥後琵琶の『和仁合戦』に、和仁城主が討死した後、その娘と北の方が念仏を唱えつつ淵に身を投じた。しかも「ところの人の習わせに和仁の御前とたてまつる、ここに一社を建立し和仁石宮とぞ祝わるる。実に怨霊は恐ろしく御台親子の人々は渚の水の神になり今に水無月土用にはわに石淵より水神の和仁淵までの川伝い御楽ならして登りくると今の世までも伝えけれ」と言う。この伝承が、やはり武将と、その子女の関係を水神信仰に結びつけている。しかも、この木曾について、現地には巴ケ淵の背後に山吹山がある。いずれにしても義仲ゆかりの木曽川上流、淵に、この二人の女の名を伝えることは、物語の巴説話の基盤に、川をめぐる現地共同体の水神と、それを祀る巫女の文化を想定してもよいのだろう。その巴が離脱することで義仲に死が迫るのは、古代以来の英雄説話の類型。山国育ちの義仲の、京文化との格闘の中で、これまでかばい続けて来た今井兼平が主と二騎になる。義仲は日頃にも似ず、鎧が重くなったとつぶやく。これを兼平は、弱気になったかといさめ励ましながら、ついに意を決して、武名を全うさせるために自害をと促すが、義仲は死を共にしようとする。それを馬にとりついて押しもどす。踏み入れた深田に義仲は足をとられ、ここで「今井がゆくゑのおぼつかなさにふりあふぐ」ところを馬を射られ、今井の怖れたとおり首をとられる。それを見届けた兼平の壮烈な討死。焦点化の主体が、兼平と義仲の間を揺れ動く。これに「平家」語り受容の媒体としての琵琶語りの音曲が重なり、登場人物の役割そのものの読みをも左右する。この語りの揺れが、一谷の戦での忠度ら平家公達とは違った義仲の、あえない死に様、これに殉じる兼平の死、山国、木曾に生きた主従を語るいくさ物語である。この義仲・兼平の死闘の物語に仏教の色は見られない。しかし京の人々も、その主従の死を語る物語に感動したのであろう、修羅能の〈兼平〉と〈巴〉として義仲を弔うことになるのである。  
軍記論の行方として、王権の枠組みを考えるのが一般である。その当事者である天皇や上皇・法皇、さらに将軍までもを「王権」とすることに、世界的な視野を以ってする記号化がある。結局、この義仲も、法皇の指示に従う頼朝を介して王権に屈服し、討たれてしまう。その間、見て来たようなテクストを読む快楽によって、読者が王権に対する思いを減圧されると見るイデオロギー論がある。こと義仲の動きをたどってみれば、もともと後白河は保元の乱後、鳥羽帝の崇徳への遺恨ゆえに王権を継承することになった。その後白河の、平家への交渉が効を奏せず、神器を欠いたまま幼帝、後の後鳥羽を立て、その大嘗会を行う。それを「去る治承・養和の比より、諸国七道の人民・百姓等、源氏のためになやまされ、平家のためにほろぼされ、家かまどを捨て山林にまじはり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。いかにしてか様の大礼もおこなはるべきなれ共、さてしもあるべきならねば、かたのごとくぞとげられける」(巻十・大嘗会之沙汰)と物語は語る。王権当事者の保全や、これを外部から脅かす者の権力欲が、人々に多くの被害をもたらした。木曾追討に北国へ向かう平家の軍が、「逢坂の関よりはじめて路次にもッてあふ権門勢家の正税・官物をもおそれず、一々にみなうばひとり、志賀・辛崎……貝津の道のほとりを次第に追補して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す」(巻七・北国下向)と言い、その相手の木曾義仲も、平家が万民を悩乱させると言う。延慶本には、東国に兵を挙げる頼朝についても、人民を劫略するとの批評を見せる。王権論をめぐって、歴史学において権門体制自体の変革が言われ、特に後白河法皇像の見直しが行われる。それを『平家物語』は、どのように語ったのか。上述したように、人民の苦悩を指摘し、時に当事者の回りにそれを冷ややかに眺める若殿上人や、「心ある人」の声を介在させる。そして、それらを語るいくさ物語が、修羅能や浄瑠璃・歌舞伎へと継承される。それらを文学として読むとはいかなることか。これまでの『平家物語』論を、中世の思想・文化的状況の中に置いて読み直す段階に来ているのだろう。 
 


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