鎌倉時代
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時宗・一遍 仏の世界   

 
鎌倉時代(1185頃-1333) 1

日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。始期については諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力視されている。 
 
12世紀末に、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。 
幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、当時の制度上では公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、全国の武士を支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。しかし、元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、事実上全国を支配することとなった。 
鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は「問注所」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。 
源頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。 
後鳥羽上皇らが幕府討伐のため起こした承久の乱は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得、東国に偏重していた幕府の支配が西国にも及ぶようになる。 
経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになった。 
13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、元の侵攻を阻止した。これにより「日本は神国」との意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い全くの外国が相手であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との信頼関係を損ねる結果となる。 
元寇を機に幕府は非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。しかし、西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする北条氏嫡流家である得宗家が御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになった。御家人の心は次第に幕府から離れていくようになり、御家人達武士全体の不満がくすぶる結果となった。後に鎌倉幕府が崩壊する一つの要因となったとも言える。 
また、承久の乱以後の朝廷の衰退は皇位継承を巡る自己解決能力をも失わせ、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇子孫への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇がこれを支持する公家と幕府に不満を抱く武士達の連携の動きが現われるのを見てクーデターを起こし、討幕運動へと発展する事になった。  
鎌倉時代 2  
源実朝のことを中心に上横手雅敬の主張を見てみたい。  
鎌倉幕府とはどのような性格を持っているのか。  
上横手雅敬は朝廷(院政)の認める範囲での諸国守護権を持っていたに過ぎないと述べる。「幕府とは頼朝、頼家等の鎌倉殿が、御家人を率いて日本国の守護をする機関なのである。普通、征夷大将軍、将軍等と呼ばれているものを、ここでは鎌倉殿と呼んだが、御家人との主従関係の面からいえば、鎌倉殿の称が正しい。征夷大将軍は、御家人を率いて諸国守護にあたる鎌倉殿に対して、朝廷が付与した官職なのである。」「より巨視的に考えると、平安後期、応徳3年(1086)に発足した院政は、鎌倉末期、元亨元年(1321)後醍醐天皇が後宇多法皇の院政を停止するまで、鎌倉時代のほとんど全期間を通して存続しており、鎌倉幕府も結局は院政が代表する朝廷によって存在を承認されているのである。鎌倉時代になると、あたかも幕府が実際上の支配者であり、朝廷は形式的に存続しているにすぎぬかのような誤解が少なくない。しかし、文治元年(1185)のいわゆる守護・地頭の設置にしても、要するに勅許によるものであり、建久元年(1190)以降になると、頼朝は後白河法皇の下で諸国守護権を担当する有力武将としての位置を明らかにした。後鳥羽院政期における上皇主導の公武融和状況のもとでも、そのような幕府のあり方はいっそう明瞭である。」そして鎌倉幕府という武家政権の本質を、「従来の荘園秩序を否認することなく、そのなかに地頭御家人制を寄生させたのが幕府の本質」と論断する。その切り口は武家政権の画期性より、貴族のさぶろう者の隷属性にその本質を見ようとしているところから行われている。  
鎌倉時代も時は移って、源実朝の時代に京都に君臨するのは後鳥羽上皇であった。後鳥羽上皇は上横手雅敬が言うところによれば、理想家肌の専制君主で、公武融和を求め、初期には鎌倉幕府とも友好的な関係を築いていたという。千幡に実朝という名前を与えたのも、また坊門信清の娘を実朝の妻に与えたのも後鳥羽上皇の意図であるという。坊門信清の姉は後鳥羽上皇の実母であり、また娘の一人(西御方)は後鳥羽上皇の間に子どもをもうけている。実朝は上皇の姻戚となり近臣のひとりの立場となった。さらに和歌に造詣の深い上皇は実朝に便宜を図って、和歌の道に導いた。このような蜜月は、だが長続きはしなかった。「実朝がこのような(突然の公事や地頭職の解任など)上皇の意に従おうとすれば、幕府内での孤立を深めざるをえないのである。」と上横手雅敬は述べる。そして、実朝は1219年(承久元年)右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮で行った際に、甥の公暁に殺されてしまう。この実朝の暗殺について上横手雅敬は北条氏の関与をかたくなに否定する。頼家が比企氏によって囲い込まれていたように、実朝も北条氏によって囲い込まれていたのであって、殺すはずがないというのだ。鎌倉幕府は源氏3代が途絶えた後、あるいは途絶えさせた後、北条氏が政権奪取に向けて他の有力御家人の族滅や同族内での主導権争いをおこなっている。このことを明らかにしつつも、一つ実朝の暗殺についてはかかわりを否定するという不思議な論の展開を行っている。大江広元に語った実朝の「源氏の正統は私限りだ。子孫が跡を継ぐことはあるまい。さればせめて飽きるまで官職を身につけ、源氏の家名を挙げようと思うのだ」という言葉を北条義時への反発ではなく、自らの身体的欠陥への自覚から発せられた言葉だと上横手雅敬は解釈する。「子孫をえることは何よりも大切であり、多くの妻妾を抱えて、万策を講じる習いである。にもかかわらず25歳の実朝が、子孫に相続をさせることをあきらめえたのは、かれに身体的欠陥が突然発生したか、あるいは欠陥に気がついたかであろう。・・・源氏が途絶えるという絶望感が、実朝を異常にしたのである。」実朝の身体欠陥説はどこから導かれるのであろうか。上横手雅敬はその推断の根拠を示さない。彼自身が言うようにそれは「作家の領域」でしかないのではないか。「愚管抄」に北条政子と後鳥羽上皇の乳母である兼子との間で、実朝に子供ができないことが話し合われたことがあったことを上横手雅敬は傍証としている(「実朝をめぐる謎」歴史と人物1979年2月号所収)。だが、それは身体欠陥に及ぶ話ではないだろう。鎌倉府内での政争に実朝暗殺を位置づけることが第1義である。当時、対朝廷(院政)への対応が極度に緊張している中で、鎌倉府の意思統一が急務であった。意思統一に向けた政争の中に、実朝暗殺はある。  
実朝が殺された後、幕府は上皇の皇子雅成親王、頼仁親王(西御方の息)のいずれかを鎌倉殿に迎えたいと奏上した。これに対して結局、摂関家(九条道家)の三男三寅が下向することとなった。1221年(承久三)5月、ついに承久の乱が起こる。後鳥羽上皇は鎌倉府との融和の糸口であった実朝を失い、強硬路線に転換して行ったのである。だが、後鳥羽上皇も朝廷をまとめていたわけではない。上横手雅敬は朝廷対武家という単純な図式を否定する。「相当の武士が上皇方に加わったに反して、旧勢力中の最大の武力を擁する大社寺の僧兵は、ほとんど動いていいない。貴族の大多数も乱には関係しておらず、中心となった貴族中での最高官は、権中納言坊門忠信であり、大臣以上は一人もいない。これが乱が後鳥羽上皇の側近のみで戦われ、貴族・寺社の多くが局外中立の態度をとり、したがって乱は貴族・寺社勢力対武士勢力の総力戦とはならなかったことを意味している。」  
承久の乱後速やかに、北条氏は鎌倉幕府を源氏3代の大倉の地から移す。大蔵幕府は源氏3代の幻影が色濃く残っている。上横手雅敬はこの転換の意義を高く認める。その根拠を源氏の独裁政権から御家人の合議制へ政治体制の転換に求める。「頼朝以来鎌倉の大倉にあった幕府(将軍の御所)にかわり、宇津宮辻子に幕府が新造され、頼経がここに移転し、その翌日評定衆による最初の評議が行われたのである。この幕府移転は規模こそ小さいが、思想的には朝政における遷都にも匹敵するほどの意義をもつ事業であった。すなわち、頼朝から政子にいたる独裁政治にかわり、合議的な執権政治の発足を象徴する事件だったのである。」「合議的な」という言葉に重点が置かれているが、北条氏の「執権政治」という言葉に歴史の重点を置く必要がある。すでに2代頼家の時代から合議制は実施され始めているのだから。このような合議制は、諸国行脚伝説のある北条時頼によって得宗専制にたやすく移行する。  
得宗支配は蒙古対応によって頂点に達する。そしてそれは蒙古への必要以上の強硬外交として多くの苦難を西国に与えた。「鎌倉時代の禅僧には中国からの渡来者が少なくない、幕府はかれらを通して海外知識を入手することができた。しかしこれらの禅僧の海外知識には偏向があった。蘭渓道隆にしても、時宗が招いた無学祖元にしても宋の人であり、祖国を蒙古に侵略されただけに蒙古に対して強い敵意を抱いていた。かれらから与えられた知識は、蒙古に対する時宗の極度に強硬な外交政策としてあらわれ、必要以上に事態を紛糾させたことは否めない。」また、蒙古軍の占領政策にも触れて、長期の占領は不可能であることを予想しているなど、神風に見られる「神国」思想を厳しく批判して、極度に強硬な外交政策が実は戦争に導く最悪の結果をもたらしたと鋭く分析する。  
上横手雅敬の論述は新基軸をだす。その論は新鮮である。実朝暗殺をめぐる推断、とくに身体欠陥説には疑問を、そして大倉幕府からの移転の動機には別の視点を抱く以外は、鎌倉時代の光と影を掬い取っていると思う。 
鎌倉幕府の成立

征夷大将軍への道 
源頼朝が鎌倉を根拠地としたのは1180年、つまり伊豆で平氏打倒の兵を挙げた年のことである。この年、石橋山の戦いに敗れた頼朝は、安房国へ脱出し、再び勢力をもり返してから相模国へ入 った。 このとき、三浦半島に勢力をもっていた三浦氏のすすめがあったため、鎌倉へ入ったのだと言われている。鎌倉は東海道の要衝であり、南は海に面し、他の三方は山に囲まれた要害の地 だった。 
鎌倉は、もともと源氏とゆかりの深い土地だった。頼朝の父である義朝は、若いころは鎌倉に住み、付近の武士を従えていたそうだ。また保元の乱(1156年)の際には、鎌倉から兵を率いて都へ上ったとい う。 
鎌倉のシンボルと言えば鶴岡八幡宮だが、この八幡宮はもともと源氏の氏神であった京都の石清水八幡宮を勧請して建立されたもので、勧請を行ったのは頼朝の祖先である頼義 だった。勧請されたのは1063年と言われ、前九年の役(1051-62年)が終わったころのこと。 
頼朝は富士川の戦い(1180年)の後、侍所を設け、長官である別当には三浦一族の和田義盛を任じた。侍所は頼朝と主従関係を結んだ武士である御家人の取締りを行う役所のことで ある。 別当となった和田義盛は、頼朝に早くから従い多くの手柄をたてた武将だ。戦上手で、御家人たちからは慕われていた。 
頼朝は鎌倉にあって、常陸国の佐竹氏、下野国の足利氏、上野国の新田氏らを討伐し、あるいは従わせながら、実力で関東地方の荘園や公領を支配下におさめ、あわせて自分に従う御家人たちの所領支配権を保障した。 1183年10月には、木曽義仲との対立に苦しんだ後白河法皇が、義仲に対抗させるため、頼朝に対して「十月宣旨」を発した。 
十月宣旨によって頼朝は、それまで「非合法」であった東国の支配権を朝廷から公的に承認された。朝廷は頼朝が東国の支配者となることを認めたのだ。 1184年には公文所と問注所が置かれた。公文所の長官である別当に大江広元が任じられた。侍所の別当であった和田義盛は言うまでもなく御家人(頼朝の家来の武士)だ。大江広元は武士ではなく、もともとは朝廷に仕えていた役人 であった。 大江広元は、学問・法律を家学とする大江家の出身で、朝廷では太政官の書記官であったという。政治の実務に通じた、能力の高い人物だった。 
公文所の仕事は政治一般と財務事務だ。公文所とは現在で言えば内閣のような存在である。 ちなみに公文所は後に政所と名前を変えた。 問注所は裁判や訴訟の仕事を行った。問注所の長官は別当ではなく執事といい、三善康信が任じられた。 この人物も大江広元と同じで御家人ではなく、元は朝廷の役人だった。三善康信の母親は、頼朝の乳母であった女性の妹に当たるそうだ。だから頼朝が「罪人」として伊豆に配流されていたころから関係が深かったよう だ。 
1185年、壇ノ浦の戦いの後、後白河法皇が義経に頼朝追討の院宣を与えた。これを知った頼朝は激怒した。頼朝の怒りを知った後白河は今度は義経追討の院宣を出すが、頼朝は妻政子の父である北条時政に軍を率いて上洛させた。 
時政は後白河に強く抗議し、頼朝追討の院宣を撤回させ、「義経を捕らえる」ことを口実に諸国に追捕使、荘園や公領ごとに地頭を置く権限を認めさせた。同時に兵糧米反別五升徴収権(ひょうろうまいたんべつごしょうちょうしゅうけん)を認めさせた。 糧米反別五升徴収権とは、全国の田地から一反について五升の米を兵糧として徴収する権利のことだ。ふつう一反の田から収穫できる米は一石で、一石は百升だから、収穫の5%の米を、鎌倉が兵糧として徴収できる権限を認めさせたこと になる。 
1185年の時点で、頼朝の支配権が東国を中心に広く全国におよぶようになった。つまり後世「鎌倉幕府」とよばれる最初の武家政権の基礎が固まった。 
1189年、奥州にいた義経が藤原泰衡に攻められ、自殺に追い込まれた。その後、頼朝は朝廷の許可を得ずに奥州討伐の兵を挙げ、奥州藤原氏を滅ぼさせた。 奥州藤原氏の滅亡により、日本には頼朝に対抗できる軍事勢力がなくなった。1190年、頼朝はついに上洛を果たす。上洛を果たした頼朝は余人をまじえず、一対一で長時間、後白河法皇と会談したと伝えられてい る。 
この会談の内容は記録がない。おそらく1185年に頼朝に認められた追捕使・地頭を置く権限を、永久の権利として新たに与えるというような内容でなかったかと想像される。 そして頼朝は、朝廷から、右近衛大将(うこのえたいしょう)・権大納言に任じられた。右近衛大将とは朝廷の役職の中で、武官としては最高の地位である。しかしこの最高を地位を、頼朝は3日後には辞任してしま う。 
一つ目の理由は、右近衛大将にとどまると朝廷の組織の中にとりこまれてしまうことになる。頼朝の目標はあくまでも武士の独立にあり、朝廷にとりこまれてしまうのを避けたの だ。 二つ目の理由は、頼朝が望んでいた官職は征夷大将軍であったことだ。征夷大将軍とは蝦夷地を討伐する軍の大将という意味だ。つまり東国に関係の深い役職で、その任を果たすには東国に常駐する必要があ る。 鎌倉に本拠地を置く頼朝にとってはまさにぴったりの役職だが、後白河法皇は頼朝の征夷大将軍就任に強く反対していた。 
なぜ反対だったか、頼朝を征夷大将軍に任じてしまえば、鎌倉を本拠地として東国での権力を固められてしまう不安があったからだ。後白河は生涯、頼朝の征夷大将軍への就任を認め なかった。 
1191年、頼朝は公文所を政所という名に改めた。 実は侍所と問注所は、鎌倉幕府のオリジナルだが、政所については幕府が創始したものではなく、平安時代に自然発生的に成立した高官の言わば「個人オフィス」であった。 つまり政所とは朝廷の要職についた人の秘書的な業務を行う機関のことで、同時代に複数あるのが普通だった(例えば左大臣の政所、右大臣の政所といった感じ)。政所を開くには三位以上の官位が必要 だった。頼朝は1190年に右近衛大将となり官位は従二位となり、政所を開く権利を得たわけだ。ちなみに四位以下の場合は政所とは言わずに公文所と言った。 
頼朝が公文所を政所と改称したことで、政所に新しい意味が加った。それまでは高官の「個人オフィス」だったものが、幕府の政治を司る機関という意味が加わった。 
1192年3月、後白河法皇が亡くなった(66歳)。頼朝は待望の征夷大将軍に任じられた(1192年7月)。 
鎌倉幕府とは何か  
鎌倉幕府の成立はいつなのか、実は定説がない。 
1180年末 / 頼朝の鎌倉入り。侍所を設置し、東国を実質的に支配。 
1183年10月 / 「十月宣旨」により、頼朝の東国支配権が認められる。 
1184年10月 / 公文所・問注所の設置。 
1185年11月 / 頼朝が追捕使(守護)・地頭の任命権を得る。 
1190年11月 / 頼朝が右近衛大将となる。 
1192年7月 / 頼朝が征夷大将軍となる。 
以上の6説のうち、とくに「征夷大将軍となる」が「通説」のようになっている。前四説は武士の政権としての幕府が成立してくる経過を基準にしている。また、鎌倉時代、鎌倉を中心にした武家政権は確かに存在した が、それを当時の人たちは幕府と呼ばなかった。実は武士の政権を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代からである。当時の人は何とよんだのか、どうやら鎌倉殿とよんでいたよう だ。 
この鎌倉殿という言葉も、もともとは頼朝個人をさすもので、それがのちに頼朝が創始した政治機構全体を指すようになっていったようだ。 
鎌倉幕府というものは、実はその成立時期さえはっきりとしない、きわめて説明・理解のむずかしい組織であった。 頼朝は将門のように、堂々と独立を宣言し、武家政権としての幕府を創始したとは言いにくいのだ。その証拠に幕府のリーダーは同時に武士のリーダーでもあるわけだが、征夷大将軍という役職の任命権は、名目上 に朝廷にあった。頼朝の「あいまいさ」が日本史の特徴でもある「朝幕併存体制」を生み出した。 
日本の歴史上、幕府は3つあり、鎌倉・室町・江戸幕府である。 武家政治は江戸幕府において完成を見、日本の政治の実務すべてを幕府が行うようになった。それでも征夷大将軍は朝廷によって任命されるという形は、江戸幕府の滅亡まで残った。 幕府が政治のすべてを行うようになって、朝廷の存在意義がなくなってしまっても、朝廷は存在し続けた。そして朝廷が定めた法令である律令も、明治時代まで生き残った。 
この律令の中に、例えば「日本は朝廷の任命を受けた征夷大将軍が統治する。」などという条文はない。武家政治という規定は、律令にはまったく存在していない。 つまり幕府の統治権は、法に基づくものでなく、あくまでも幕府のもつ武力を背景とした実質的な支配権であったわけだ。 幕府とはこのように非常につかみにくい「あいまいな」機構であったといえる。 
幕府と御家人  
源平の戦いが始まると、東国の武士たちは頼朝を自分たちの利益を守ってくれる者として認め、あらそって頼朝と主従関係を結んだ。頼朝の勢力が大きくなるにつれ、頼朝と主従関係を結ぼうとする武士は全国へ広がっ た。頼朝と主従関係を結んだ武士は御家人とよばれた。 当時、主人に従う家来のことを家人とよんだが、武士の棟梁となった頼朝への敬意から、頼朝の家人のことをとくに御家人というようになったのではないかと考えられている。 
頼朝は御家人に対し、彼らの所領支配を保障した(本領安堵と言う)。 当時、「一所懸命」という言葉があった。「一生懸命」の語源としてして知られていますが、一所に命を懸けるという意味だ。 この場合の一所とは武士たちの領地のことで、領地は武士たちが命を懸けて守らなければならないものだったからだ。 いつ自分の土地を他の者にうばわれるかと、常に不安におびえていた武士たちにとって、頼朝に自分の所領を保障してもらえることは、何物にもかえがたいありがたいことだった(御恩と 呼ぶ)。 
御恩には本領安堵の他に新恩給与というものがあった。これは御家人が大きな手柄をたてた場合に、新たに領地を与えられることを言う。 頼朝から御恩を得た御家人には、御家人として果たすべき義務があり、これを奉公と言った。 
御家人たちは戦時には頼朝のもとに駆けつけ、頼朝のために戦った。「いざ、鎌倉」という当時の御家人たちの心意気を示す言葉が残されているが、奉公のもっとも重要なものは戦いに出るということ だった。 
戦いに出ることと並んで、平時における奉公に番役というものがある。 番役には京都大番役と鎌倉番役があった。京都大番役とは一定の期間、京都に滞在して朝廷の警護をすることを言う。鎌倉番役とは同じく一定期間、鎌倉に滞在してその警護を行うことで ある。 御家人たちは何年かに一度、遠方から京都や鎌倉におもむき、この番役を果たした。この番役にかかる費用はすべて御家人たちの負担で、経済的にもかなりつらいつとめであったよう だ。 
守護と地頭  
はじめは追捕使と呼ばれていた守護は、国ごとに1人ずつ、主に東国出身の有力な御家人が任命された。 守護の仕事は、「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」に規定されていた。大犯三箇条とは、大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕の三つのことだ。 大番催促とは、京都大番役に出ることについて、御家人を指図すること。 謀叛人の逮捕とは幕府にそむく者を取締ること、殺害人の逮捕とは殺人の罪を犯す者を取締ることだ。 
大犯三箇条は、守護の仕事の重要なものではなく、そのすべてだった。本来、守護はこの三つの権限しかもっていなかったのだ。実際には、守護たちは国内の治安維持を名目に、国内の御家人を指揮して警察権をにぎり、戦時には御家人たちを率いて戦いにのぞんだよう だ。 
各国の荘園や公領におかれた地頭にはその地の御家人が任命された。頼朝は御家人たちを地頭に任命することで、本領安堵を保障したのだ。 地頭という言葉はもともと「現地」という意味だ。平安時代後期から荘園の管理を行う荘官の名として地頭が用いられたようだ。 
平氏が実権をにぎっていた時代にも、武士が地頭に任命された例はわずかだ。 頼朝は地頭の職務内容を明確にするとともに、その任命権を国司や荘園領主から奪った。 地頭の職務は年貢を農民たちから徴収し、それを荘園領主や国衙(こくが)に納めること、土地を管理すること、治安を維持することだった。 地頭の給与に一定の決まりはなく、それぞれの土地の先例に習うというのが原則であった。 
封建制度  
御家人たちは地頭に任命されることで、自分たちの開発した土地の所有を頼朝(将軍)から保障された。このように土地を仲立ちとして主人と家来が結びつく関係のことを封建関係と 言う。封建関係によって支配が行われる政治のしくみを封建制度といい、封建制度によって成り立っている社会のことを封建社会と言う。 
土地を仲立ちとして将軍と御家人が御恩と奉公の関係で結びつく仕組みは、それまでの貴族社会には見られなかったものだ。鎌倉幕府は封建制度に基づく日本で最初の政権であったと言える。 
頼朝が創始した封建制度に基づく政治、つまり武家政治は、江戸幕府が滅亡する1867年まで、約700年間続くこととなった。
執念の家譜  
執念の家譜と永井路子が名づけた三浦一族も、北条氏の圧迫に耐えかねて反乱を起こした。族滅される宝治の乱(1247年)の終末は、源頼朝の墓所・法華堂である。永井路子は次のように描いている。三浦光村が遅れて法華堂に来たときには兄泰村を始め三浦一族が既に篭っていた。  
「ほの暗い堂内では、すでに泰村をはじめ,大江李光やその他の一族が、頼朝の遺影をかこむようにして押並んでいる。  
『来たか』  
泰村は光村を迎えると、かすかに微笑した。それを待っていたように、念仏の声が、ゆるやかに堂内に流れた。北条勢もさすがに鎌倉の聖地というべき頼朝の墓所に踏みこんで殺しあいをすることには躊いがあるのだろう。戦いに勝ちながら、むざむざ聖地を奪われた口惜しさに地団駄踏みながら、ただ遠巻きにしてどよめきを繰返すばかりである。」  
源頼朝を担いで地盤近くの鎌倉に軍事政権を立てた三浦氏の矜持が、この行動に現われている。小豪族でしかなかった北条氏が頼朝の妻の実家というだけでのし上がってきたことが、すでに族滅させられた功業の御家人同様に、三浦氏にとっては納得がいかなかったのであろう。功業のときの総領は三浦大介義明であった。義澄・義村・泰村と続いてきて、執念深く北条氏と対抗してきた雄族三浦氏もまた、ここに消え去っていこうとしている。  
日本で軍事政権をはじめて作ったのは源頼朝を担いだ坂東武士団であった。次に行われたことは坂東武士団内部での権力争いである。これに例外はなかった。清和源氏の嫡流は、伊豆の土豪であった北条氏によって貴種といえども必要がなくなると族滅させられた。頼朝の長男は母と祖父、従兄弟によって押し込められた伊豆でふぐりを引き抜かれて殺され、次男はその長男の子供によって鶴岡八幡宮の境内で暗殺された。北条氏は鎌倉幕府創設の主要な御家人を次々と族滅してきた。族滅とは一族総てを殲滅するという激烈な対応である。その中で北条氏打倒の執念のためには「友の肉を食う」ことも辞さずに族滅を免れ、北条氏と肩を並べて鎌倉幕府を支えてきた雄族三浦一族もやがて破滅のときを迎える。この「執念の家譜」は鎌倉幕府御家人・桓武平家三浦一族の北条氏のとの確執を扱ったものである。  
鎌倉幕府を作り出した主体勢力は伊豆、房総半島を根城とする御家人と関東平野を開拓した小規模武士団である。伊豆や房総は黒潮の流れに乗って早くから開発された地域であり海人系の武士団が発生したと思われる。関東平野、特に武蔵野の開拓を先導した人々は渡来系の人々であると考えられる。開拓は幾層にも積み重なっているのであるから渡来系の人々が大きな力を発揮した時期を特定しなくてはならない。武蔵武士団に直結した開拓と限定してみよう。日本にはいなかった馬を持ち込み、飼いならし、また鉄を使って農具や武具をも作り出せる力は誰でもができることではなかった。そこには高度な職能集団の存在をうかがうことができる。片刃の直刀であった日本刀を蝦夷が使う蕨刀のそりをとりいれて、突くから切るへ動作をかえながら、湾曲した日本刀へと武器を変化させたのも、関東の武士団の工夫である。  
ところで伊豆の土豪北条氏も、三浦氏も桓武平家を名乗っている。桓武天皇の末裔を名乗ることは、箔をつけることであるだろう。桓武天皇は母親が高野新笠(和乙継(やまとのおとつぐ)の子。和(倭)氏は百済系渡来氏族)である。したがって百済系渡来氏族の末裔を自称することでもある。また武蔵国高麗郷を開拓した高麗若光一行が最初に上陸した場所は神奈川県大磯である。相模国でも高句麗系渡来人の足跡は高木神社や高座郡のなどに名前に残っている。波多野は秦であろう。また、渡来系とは言っても朝鮮半島からの人々が多数であろうが、全国的にみると、中国南部の呉からあるいはシベリアや沿海州から直接に渡来した人々の姿も忘れてはならない。日本人の原像と目される「武士」について、純粋日本人を仮想することはできない。  
「執念の家譜」にもどろう。永井路子は鎌倉時代を中心として骨のある文章を書いてきたと思う。だが、この小説に三浦一族の執念が思いの外、感じられないのはどうしてだろうか。敗北を喫した三浦泰村、光村兄弟の心模様も平板である。「源頼朝の世界」では乳母というキーワードを使って歴史へのアプローチをおこなった。ここでは、受け継がれる一族の怨念というキーワードで小説をつむいだ。キーワードが一般的過ぎて、その怨念の質量に迫れなかったのかもしれない。だが、三浦氏を小説に仕立てたのは、ほとんどなく、貴重な小説である。この中で、人物が浮かび上がってくるのは、泰村、光村兄弟の妹で大江季光の妻になった時子の姿のみである。宝治の乱に突入することが必須となると、  
「『すぐ来ます。李光どのも一緒に--------反対しても引張って来ます』  
『なぜだ。なぜそんなことを』  
時子はかぶりをふると、もう一度少女のような笑みをうかべた。  
『わかりません。でも--------私も三浦の娘なんですもの』  
さほど気負うふうでもなく、しかし、一語一語をはっきり区切るように言った。  
早朝早く、時子は夫の大江李光や子供をひきつれてやって来た。李光はすでに北条方に味方するべく鎧をつけていたのだが、強引に時子は説きふせて、そのまま西御門の三浦の館に連れて来てしまったのである。  
この場面が印象的である。だが、それは累代の家の執念が浮かび上がるような場面となってはいない。  
族滅された中で、生き残った最大の勢力は佐原流三浦氏である。佐原一族は盛時が総領であったが、北条側に走った。三浦義明の息、総領家を継いだ義澄の弟である佐原義連が始祖である。義連は十郎と呼ばれているから10男であろう。この流れが後に三浦宗家を名乗り、戦国時代には三浦道寸(義同)が出て、後北条に抵抗しつつ三浦半島で族滅されている。これを「終章」においた意図が分からない。これは余分な別の物語であろう。  
三浦氏は良文流平氏と名乗っている。為通が前九年の役の時に恩賞として三浦半島の地を与えられた。その子為継は源義明が相模国大庭御厨に乱入した折に従っている。その子、三浦大介義明は娘を源義明に娶わせ、源義平の外祖父となっている。源頼朝の旗揚げでは、味方をしたため、平家側の畠山氏に三浦半島衣笠城を攻められ、一族を安房に逃がすも自分は止まって討ち死。長男が杉本義宗、早くに亡くなったため総領は次男の義澄が継ぐ。義宗の杉本は鎌倉にあり、その子は鎌倉幕府最初の侍所別当・和田義盛である。三浦氏というと狭い三浦半島を思い出すが、相模国の各地のみならず、対岸の房総半島にも領地をもち、現在の東京湾の入り口を押さえていた海の豪族といえよう。古代の東海道は三浦半島から武蔵国(771年までは東山道)を経ずに直接三浦半島から房総半島へ渡っていた。ヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが三浦半島観音崎の北・走水から房総半島に渡る途中、身を投げて海の神を鎮めた伝承が思い出される。  
江戸(東京)湾を渡って領地を広げたのみならず、相模国への広がりもしっかりと布石を打っていた。義継の子供たちは義明が総領家を継ぎ、外に津久井義行、芦名為清、岡崎義美がそれぞれ領土を広げていった。津久井義行は三浦半島津久井浜あたりを領有し、その子為行(太郎次郎義胤)が相模国山間部で水運の利のある西北部にある津久井郡に進出した。津久井郡の名前は三浦半島津久井浜の地名からもたらされたものだ。  
同じく義行の子・三郎義光は秋庭氏を名乗った。三浦氏は領有化した土地の名を名乗る。三浦半島近くて秋庭(葉)の地名を探すと、鎌倉郷秋葉村がある。現在は横浜市戸塚区内である。相模国山内庄秋庭郷と呼ばれ、藤原秀郷流山内首藤氏が開発・経営した。山内庄は山内首藤経俊が平家方に組みしたため、源頼朝から土肥実平に与えられた。さらに和田義盛に管理が移った、といわれている(横浜市栄区のホームページ)。この過程で同族の津久井家の三郎義光が秋葉郷の領有を得たのかもしれない。あるいは、それ以前から領有していた可能性もある。和田義盛に山内庄を委ねたのは鎌倉に入る鎌倉街道上中下3道ともここを通る戦略上の要地であるからである。秋葉郷はその中の「中の道」が通る。なお、和田義盛の乱の後、支配権は北条義時に移り、鎌倉時代は北条得宗家の重要な兵站基地となった。後裔・秋庭重信は、承久の乱の後、備中有漢郷に新補地頭として入植した。現在最も高地(麓との標高差350M)に存在する備中松山城を築いたのはこの秋庭氏である。  
岡崎悪四郎義美は西相模の雄族中村(宗平)氏の娘を娶り、相模原を領した。三浦半島から遠い相模原を領したのは中村氏の姻族であるからと、永井路子は分析している(「相模のもののふたち」)。この「相模のものふたち」(有隣新書)は相模武士団を網羅的に叙述していて、すぐれたものである。永井路子はこの中で源頼朝旗揚げの軍事的担い手として、三浦氏とともに中村氏(中村、土肥、土屋)あげている。岡崎義美は中村氏の入り婿のような位置にある。これは特異なことではない。「東国の兵乱と武士たち」(平成7年吉川弘文館)で福田豊彦が述べている趣旨を紹介しよう。平安時代の貴族社会では正式な婚姻は嫁入りではなく、婿取り。この習慣が地方に下向した人々によって持ち込まれ、貴種が短時間に坂東武士として根付く仕掛けとなった。舅が娘婿の出世のために努力する「婿かしづき」という用語もあったという。  
良文流平忠常が房総で反乱(1028−1031)を起こし、これを鎮圧する追討史となった相模、伊豆に基盤を持つ貞盛流平直方は、成果を上げることができなかった。追討史は河内源氏頼信に代わり、頼信の従者であった平忠常は降伏する。乱後、頼信の子頼義を平直方は婿取りをして義家が生まれた。鎌倉の館は直方から頼義へ譲られた。平直方は婿取りをして血の強化を図り、婿かしづきされた源頼義は関東への確乎とした基盤を手に入れた。この両者の思いが時を経て鎌倉に最初の軍事政権を樹立させた。  
このような婚姻関係を通じて所領を獲得することは、よくあることであった。岡崎義実も三浦氏から出て中村氏の入り婿となって所領を拡大した。しかし、思えば伊豆の小土豪の北条氏の婿取り、婿かしづきこそが直接的な軍事政権樹立に結びついたのであった。北条氏が行った源頼朝への婿取り、婿かしづきの手法は、永井路子が「源頼朝の世界」でみせた「乳母」という手法より、より有効な手段であった。北条氏に他の有力御家人が負けていったのも、この究極の政治的な手法の活用の問題であった、と思う。 
鎌倉時代の政治

鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されている。しかし、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切だ。 
鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。しかし源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除し、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中するようになり、執権在職者が必ずしも幕府最高権力者というわけではなくなった。宮騒動、二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などは排除された。北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。しかし、先の北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。また、貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。1284年に弘安の徳政、さらに1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。 
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
執権時頼と廻国伝説  
第五代執権北条時頼は、1247年宝治の乱により有力御家人三浦氏を滅ぼし、北条氏の中でも得宋専制支配を築き、息子時宗の蒙古対策の礎を築いた人物である。37歳で亡くなる時頼には後代の水戸黄門張りの廻国伝説がある。それは佐野常世の「鉢の木」など謡曲によって広く知られている。この鉢の木にみられる名君時頼伝説が読めることを期待して「執権時頼と廻国伝説」を読み始めたが、それは裏切られた。佐々木馨の意図は、廻国伝説を引き合いに出しながら、京都の朝廷(院政)とは違う鎌倉幕府の独自政策を宗教政策の面で論じることにあった。  
それは「日本中世には、一方に天台宗を核とする『顕密主義』による『公家的体制仏教』、また一方に、真言密教と臨済禅を核とする『禅密主義』の『武家的体制仏教』が並存していた。この並存という事実が、宗教史的に中世における二つの中世国家を証明している。」これが本書のねらいである。したがって廻国伝説という題名にかかわらず、鎌倉における宗教構造が本書の大半を占めている。それはそれで刺激的である。さて分析である。佐々木馨は公家的と武家的と問わず、体制的仏教では「貞永式目」が第1条に掲げるように「神社を修理し祭祀を専らにすべき事」とするように神祗信仰と対となった仏教である。これは法然、親鸞、一遍らの鎌倉新仏教(専修念仏)の「反体制仏教」とは相違するという。  
武家的体制仏教は二つの核がある。「一つは真言密教を彩る『宗教センター』としての鶴岡八幡宮であり、もう一つは、この臨済禅の象徴的としての建長寺である。」いうまでもなく、鶴岡八幡宮は源頼朝が創建した武家の都の宗教的中心である。歴代の別当職は東寺と寺門(園城寺)派の真言密教系の僧侶が独占してきた、と佐々木馨は分析する。これに対して建長寺は時頼が宋から来た臨済宗の蘭渓道隆を導師として創建した(1253年造立)寺院である。「鎌倉時代」(0106)で言及したように、この臨済禅僧を尊重したが為に、後日、対中国(蒙古)強硬政策をとるという誤った路線に踏み込んでしまう。  
さて、山門(延暦寺)派への鎌倉府の拒否反応はどこから来ているのであろうか。佐々木馨は僧兵の問題と土地争いの代理人をおこなう商僧である比叡山延暦寺(山門派)への北条泰時以来の嫌悪を理由としてあげている。貴族の日常と深く結びついた山門への反発であろうか。鶴岡八幡宮別当への山門派からの就任がないことへ宗教的理由としては弱いような感じがする。しかしデータ的には山門派はいないのであるから忌諱していることは明らかである。  
時頼といえば日蓮である。日蓮はその延暦寺で学び、法華宗を創出して鎌倉府に迫ったことへの対応はどのように分析できるのか。佐々木馨は「日蓮が、『法華経至上主義』を前面に押し立てて、その天台宗の復興を叫べば叫ぶほど、幕府は日蓮を疎外していくことになる。」と述べる。この日蓮への強硬な対応は佐々木馨の「執権時頼と廻国伝説」の基調のひとつにはめ込まれている。  
以上のような鎌倉宗教史を、中世国家論を下敷きにして分析し、ようやく廻国伝説に入る。時頼の廻国伝説(佐々木馨は実際に全国行脚したという立場にある)には二つの類型があると分析する。一つは私が興味を持つ「鉢の木」等「上野国佐野より以西への廻国の主題」が「経済的な困窮を為政者、時頼が救済する『政治の旅』である。」それに対して東国への旅は「宗教の旅」であると言うのだ。佐々木馨の一貫性はこの宗教の旅において発揮される。つまり、現在の東北地方は歴史的に天台宗が盛んであった。これを改宗する旅が主題であったと語る。時代は桓武天皇の時代に遡る。南都仏教の弊害を一掃して鎮護国家政策の担い手は天台宗と真言宗であった。坂上田村麻呂の蝦夷征伐とともに、天台宗の寺院が多数建立されていった。それを「この天台宗寺院の建立の背後には、坂上田村麻呂を媒介としながら、蝦夷平定事業に血道をあげる桓武天皇とそれに重用された官僧の天台宗最澄とが、政教一如の形で結び合っていた。」と語る。天台座主は9世紀には7名のうち5名までが東国(初代義真;相模国、二代円澄;武蔵国、三代円仁;下野国、など)である。天台宗は東国へ、真言宗は西国へという区分であろうか。平泉中尊寺、出羽立石寺、奥州松島寺、そして津軽山王坊など天台宗寺院であったという。伝承では行脚僧に身をやつした北条時頼が奥州松島寺の山王七社大権現の祭礼を見物した折に災難にあり、これを焼き払い天台宗から臨済宗に改宗して新たに建立したと、寺伝「天台記」が伝えているという。また、立石寺についても「北条時頼、微行してここ過ぐ。台宗の盛んなるを嫉み、命じて禅宗に改め」た、と伝えられている。このように時頼廻国伝説は東国寺院の改宗の旅であったと推断する。  
こうして佐々木馨は「時頼の廻国は、後世の『虚構』ではなく、史実そのものであった。私たちは、その『微行』の旅立ちを、正元元年(1259)、時頼、32歳のときに求めた。まさに『中世の黄門』の発見である。」  
中世の黄門の発見が黄門伝説と同じく伝説にしか過ぎないのか、あるいはどこまでが史実でどこまでが虚構であるのか佐々木馨とは違って、不明である。だが、佐々木馨が廻国伝説にことよせて主張しようとした武家的体制仏教のあり方については明確に、その意図が分かる。「鉢の木」はさて本当の話であったのか。佐々木馨に聞いてみたい。読もうと思った理由がそこにあるので。 
坂上田村麻呂  
鳴動したという。嵯峨天皇が作成したとも伝えられる「田村麻呂伝記」には田村麻呂は甲冑兵仗を身につけて立ちながら身を東にして、陸奥へ向かって葬られたとされる。葬られた場所は、東国への出口に当る山城国宇治郡栗栖野。ここには田村麻呂の墓と伝わる遺跡が存在する。「伝記」には「其の後、若し国家に非常の事あるべくむば、則ち件の塚墓は宛も鼓を打つが如く、或ひは雷電の如し。爾来、将軍の号を蒙りて凶徒に向ふ時は先づ此の墓に詣で誓い祈る」。最初の征夷大将軍であるといわれる坂上田村麻呂の霊が、国家非常の時には鳴動して警告する。  
坂上田村麻呂とは、どのような人物であったのか。「伝記」には身長が1尺8寸(180cm)、「目は蒼鷹(しらたか)の眸(ひとみ)を写し、鬢(びん)は黄金の縷(いと)を繋ぐ」偉人への褒め言葉としては異様ではないか。三位以上の略歴である「薨伝」には「赤面、黄鬚(あごひげ)」と簡潔に述べられている。これも異様である。  
坂上氏が歴史上に名前を載せるのは壬申の乱(672年)のときである。大海人皇子(天武天皇)側の大和方面の戦いで騎馬を有する有力な部隊のひとつであった。たとえば倭古京の留守司坂上直熊毛が大伴連吹負とともに謀り、12の同族の倭漢直等に内応を迫った記事が「天武紀」に載る(「壬申の乱」北山茂夫岩波新書)。これにより大友皇子側は二面作戦をせざるを得なくなり、攻防戦では大海人皇子側の戦いを優勢に導く。大伴連吹負は緒戦に勝利した後、坂上直老達を不破宮に派遣して大海人皇子に軍上を報告させている。戦後、坂上氏は直から、連、さらには忌寸の姓を賜る。この老の4代後が田村麻呂である。坂上氏は自らを中国からの渡来人阿知使主の子孫と称している。倭漢氏の一族である。当時「諸蕃」と呼ばれた。大和国の高取町大字観覚寺小字坂ノ上を本貫の地としている。坂上氏は渡来系の中級貴族として存在し、老、大国、犬養、苅田麻呂と着々と地歩を築いてきた。父、苅田麻呂は軍事貴族(陸奥鎮守府将軍)として実績を重ね、桓武天皇から大宿禰の姓を賜る。従三位まで上り詰める。このように渡来系軍事貴族が重要視された背景には桓武天皇の出生が考えられる。  
天智天皇系列の光仁天皇を父とし、百済武寧王の子孫を称する和(やまと)氏の出である和乙継の子である高野新笠(にいがさ)を母とする山部親王(桓武天皇)は、渡来系氏族も活用する。話は横道に逸れるが、したがって後の武士団の桓武平氏も、渡来系の軍事一族であるともいえよう。桓武天皇は「軍事と造作」で際立っていた。造作とは長岡京・平安京の造宮、軍事とは蝦夷征討である。東北地方の軍事・行政全般に携わってきた坂上田村麻呂は延暦16(797)年11月5日、征夷大将軍に任じられる。この功により24年には48歳で坂上氏では最初で最後の参議となる。そして弘仁2年(811)5月27日、54歳の生涯を終える。  
蝦夷征伐の実態はまた別の機会としよう。関心のある方は「古代日本列島雑記」(紙老虎)を開いて見て欲しい。ここでは、日本が大陸出身者や、また蝦夷と呼ばれた人々も含めて雑多な人々の集合であることを理解することの重要さ、この指摘のみにとどめる。蒼鷹の眸、鬢は黄金の縷を繋ぐ渡来系日本人が、あるいは赤面、黄鬚の軍神が、渡来系の母をもつ天皇の住む都を護ることが不思議ではなかったのである。「毘沙門の化身、来りてわが国を護る」(「公卿補任」弘仁年)と伝説化された田村麻呂。今、塚墓が鳴動することを聞かない。  
田村麻呂の子どもの一人大野は大同3年(808)5月、従5位下に昇進し陸奥鎮守府副将軍、同6月陸奥権介になる。また広野は陸奥守、右兵衛督となる。この広野については多賀城跡から出土した漆紙文書で消息が確認されている。いずれも父を越えることは無かった。 
鎌倉時代の庶民

惣村の形成と土一揆 
鎌倉時代後期、近畿地方やその周辺部に新しい形の農村が作られた。加持子(かじし)という地代を取る地主になりつつあった名主(みょうしゅ)たちだけでなく、新しく成長してきた小農民をも構成員としていて、村の神社の祭礼(*1)や農業の共同作業などを通して結合を強くしていった。この村は寄合という村民の会議の決定にしたがって、おとな・沙汰人(さたにん)と呼ばれる指導者によって運営されたが、惣百姓(そうびゃくしょう)と呼ばれた村民は自らが守るべき規約である惣掟(そうおきて)を定めたり、村内の秩序を維持するために警察権(=地下検断(じげけんだん))を行使することもあった。このような自立的・自治的な村を惣(そう)とか惣村(そうそん)と呼んだ。この惣村は、山や野原などの共同利用地(入会地(いりあいち))を確保し、灌漑用水の管理なども行うようになった。また、領主へおさめる年貢などを惣村がまとめて請け負う村請(むらうけ)や地下請(じげうけ=百姓請(ひゃくしょううけ))もしだいに広がっていった。 
さらに、このような強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、不法をはたらく代官の罷免、水害やひでりの被害による年貢の減免をもとめて一揆を結び、訴訟をするために領主のもとに大挙しておしかけたり(強訴(ごうそ))、要求が認められないときは全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込んだり(逃散(ちょうさん))する実力行使を行った。 
この惣村を母胎とした農民勢力が、大きな力となって中央の政界に衝撃を与えたのが、正長元年(1428)の正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)であった。この年の8月、まず近江(おうみ)の運送業者の馬借(ばしゃく)が徳政を要求して蜂起し、ついで土一揆(つちいっき)が徳政を要求し、京都の酒屋や土倉などおそって、売買・貸借証文をうばった。また嘉吉元年(1441)数千の土一揆が京都を占領して「代始(だいはじめ)の徳政」(*2)を要求したため(嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき))、ついに幕府は徳政令を発布した。 
(*1)宮座(みやざ)と呼ばれる上層農民たちの祭祀集団が祭礼を行い、惣村結合の中心となった。(*2)正長の徳政一揆は義教(よしのり)が6代将軍になることが決まった時、嘉吉の徳政一揆は義教殺害の後、義勝(よしかつ)が7代将軍になることが決まった時に起こった。中世社会では支配者の交代などによって、社会のいろいろな関係が改められるという社会観念が根強く流れていた。 
応仁の乱 
6代将軍に就任した義教(よしのり)は、幕府における将軍権力の強化をねらって、守護大名の統制を厳しくして、将軍に屈服しないものをすべて力で抑えようとした。そのため幕府と対立関係にあった鎌倉府との間が決裂し、永享10年(1438)義教は関東へ討伐軍を送り、翌年鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を討ちほろぼした(永享の乱(えいきょうのらん))。さらに義教は専制政治を強化したため政治不安が高まり、嘉吉元年(1441)処罰を恐れた有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)は義教を殺害した(嘉吉の乱(かきつのらん))。これ以降将軍の権威は大きくゆらぎ、幕府政治の実権が有力大名に移っていった。 
こうしたなかで、約1世紀におよぶ戦国時代の口火を切った応仁の乱(おうにんのらん)が起こった。幕府の管領家畠山(はたけやま)・斯波(しば)両家の家督相続をめぐる争いと、8代将軍義政(よしまさ)の弟義視(よしみ)と義政の妻日野富子(ひのとみこ)のおす子義尚(よしひさ)との将軍家の家督相続争いがからみ、当時幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)がそれぞれを支援して対立し、応仁元年(1467)に戦いが始まった(*3)。戦いは京都を主戦場にしていたが、東軍が西軍の大名の本国攪乱(かくらん)戦法を取ったため、戦いは地方に広がった。戦いに疲れた両軍の間に1477(文明9)年和議が結ばれたが、この乱により将軍の権威はまったく失われてしまった。 
またこの乱で守護代や有力国人が力を伸ばすとともに、地方の国人たちは混乱の中で自分たちの権益を守ろうとして、しばしば国人一揆(こくじんいっき)を結成した。1485(文明17)年、南山城地方で両派に分かれて争っていた畠山の軍を国外に退去させた山城の国一揆(やましろのくにいっき)は代表的なものであり、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した。このように下のものが上のものの勢力をしのいでいく現象が、この時代の特徴であり下剋上(げこくじょう)といった。また、1488(長享2)年に起こった加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)もその1つのあらわれであった。本願寺の蓮如(れんにょ)の布教によって近畿・東海・北陸に広まった真宗本願寺派の勢力を背景に、加賀の門徒が国人と手を結び、守護富樫政親(とがしまさちか)を倒したもので、この後一揆が支配する本願寺領国が1世紀にわたって続いた。 
(*3)細川方(東軍)には24ヵ国16万人、山名方(西軍)には20ヵ国11万人といわれる大軍が加わった。 
山城の国一揆/「大乗院寺社雑事記」(文明17年12月11日)今日山城国人集会す。上は六十歳、下は十五六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両陣(*1)の時宜(じぎ)を申し定めんがため(*2)のゆえと云々。しかるべきか。但し又下極上(げこくじょう)(*3)のいたりなり。両陣の返事、問答の様いかん、いまだ聞かず。(文明18年2月13日)今日山城国人、平等院に会合す。国中の掟法(じょうほう)(*4)なお以てこれを定むべしと云々。およそ神妙。但し興成(こうじょう)(*5)せしめば天下のため、しかるべからざる事か。 
(*1)山城の国で戦っている畠山政長・義就の両軍 (*2)両陣へ申し入れる条件を決定するため (*3)下剋上 (*4)国人衆が南山城を支配するための掟 (*5)勢いがさかんになる 
加賀の一向一揆 / 「蔭凉軒日録」「実悟記拾遺」 叔和西堂(しゅくわせいどう)語りて云く。今月(*1)五日越前府中に行く。其以前越前の合力勢(ごうりょくぜい)(*2)賀州に赴く。然(しか)りと雖(いえど)も、一揆衆二十万人、富樫城(*3)を取り回(ま)く。故を以て、同九日城を攻め落さる。皆生害して(*4)、富樫一家の者一人これを取り立つ(*5)。 
泰高ヲ守護トシテヨリ、百姓トリ立テ富樫ニテ候アヒダ、百姓等ノウチツヨク成テ、近年ハ百姓ノ持タル国ニヨウニナリ行キ候。 
(*1)長享2年(1488)6月 (*2)将軍の命で富樫援助におもむく朝倉勢 (*3)守護富樫政親の高尾城 (*4)城中の富樫一族のものは皆滅びて (*5)富樫泰高が名目上の守護としてたてられた 
農業の発達 
灌漑や排水施設の整備・改善によって二毛作(にもうさく)が各地に広がり、畿内では三毛作も行なわれた。水稲の品種改良も進み、早稲・中稲・晩稲の作付けも普及した。鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)などの鉄製農具や牛馬を利用した農耕は鎌倉期よりもさらに普及し、刈敷(かりしき)・草木灰(そうもくかい)などとともに下肥(しもごえ)などの肥料が広く使われるようになった。 
商工業の発達 
室町時代の産業は、一般民衆の生活と結びついて発展した。この時期の農業の特色は、耕地面積の拡大が困難であったため、土地の生産性を向上させることが試みられた。灌漑や排水施設の整備・改善により二毛作が各地に広まりった。また水稲の品種改良が進み、各地の自然条件に応じた稲が栽培されることになった。鉄製農具や牛馬は鎌倉時代よりもさらに普及し、刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくかい)などとともに下肥(しもごえ)の肥料が広く使われるようになった。 
手工業者の同業組合である座(ざ)の数は飛躍的に増加し、さまざまな生産部門に座が登場した。座は公家・寺社に保護される代わりに営業税を納める形をとり、注文生産や市場めあての商品生産も行った。また、京都・奈良を中心とする近畿地方だけでなく全国的に結成されるようになり、地方の特色を生かして特産品を生産するようになった(*4)。 
農業や手工業の発達により、月に3回開く三斎市(さんさいいち)から、応仁の乱後は6回開く六斎市(ろくさいいち)が一般化した。連雀商人(れんじゃくしょうにん)や振売り(ふりうり)と呼ばれた行商人も増加していき、京都の大原女(おはらめ)・桂女(かつらめ)(*5)などで知られるように女性の活躍が目立った。都市では見世棚(=店棚)(みせだな)をかまえた常設の小売店が増えるとともに、京都の米場・淀の魚市などのように特定の商品だけを扱う市場もうまれた。 
商品経済が盛んになると貨幣の流通が著しく増えた。また遠隔地取引きの拡大とともに現金輸送にかわって、為替(かわせ)の利用も多くなった。貨幣は主として永楽通宝(えいらくつうほう)など中国からの輸入銭が使用されたが、需要の増大とともに粗悪な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引きにあたって悪銭をきらって良質の貨幣を選ぶ撰銭(えりぜに)が行われた。 
貨幣経済の発達は金融業者の活動をうながし、酒屋などの有力な商工業者は土倉(どそう)と呼ばれる高利貸業者をかねるものが多かった。 
海・川・陸の交通路が発達し、廻船(かいせん)の往来もひんぱんになり、交通の要地には問屋(といや)がおかれ、おおくの地方都市が発達した。また多量の物資が運ばれる京都・奈良への輸送路では、馬借(ばしゃく)・車借(しゃしゃく)と呼ばれる運送業者が活躍した。 
(*4)特産品として、加賀(かが)・丹後(たんご)・常陸(ひたち)などの絹織物、美濃(みの)の美濃紙、播磨(はりま)の杉原紙(すいばらし)、越前(えちぜん)の鳥子紙(とりのこし)、美濃・尾張(おわり)の陶器、出雲(いずも)の鍬(すき)、備前(びぜん)の刀、能登(のと)・筑前(ちくぜん)の釜(かま)、河内(かわち)の鍋(なべ)などが有名であった。 
(*5)大原女は炭やまきを売る商人、桂女は鵜飼(うかい)集団の女性で鮎(あゆ)を売る商人。

年表
1185 守護地頭の設置 
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。
1189 奥州合戦 
文治5年(1189)7-9月鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称。この戦役により、頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。同時代には「奥州合戦」と呼ばれたが、「吾妻鏡」文治5年6月6日条などの記述を踏襲して、奥州征伐と呼ばれる事もある。
1192 源頼朝、征夷大将軍任命
1199 頼朝の死、頼家が家督を継ぐ 
十三人の合議制  
源頼朝の死後、2代将軍となった源頼家の専制がひどく、それを抑えるために1200年に訴訟権限が幕府の有力御家人十三人の合議制に渡された。十三人の人選は、一説には北条時政の策だと言われている。北条氏の他氏族排斥の過程で崩壊した。1200年梶原景時が追放されている。1225年評定衆がその機能を継ぐ。
1200 梶原景時の変(かじわらかげときのへん) 
正治元年10月25日-正治2年1月20日(1199-1200)鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件である。頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件であった。
1201 城長茂の乱 
城助職(じょうすけもと・仁平2年(1152)-建仁元年2月22日(1201))平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。本姓は平氏。白川御館(しらかわみたち)と称された。城資国の子で、兄弟姉妹に城資永、坂額御前らがある。後に城長茂(じょうながもち)と改めている。越後守。頼朝の死後、庇護者であった景時が他の御家人衆から弾劾されて追放されると、長茂も景時の与党として鎌倉から追放され、京都に赴いた。正治3年(1201)軍を率いて鎌倉方御家人である小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して源頼家討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて殺された。
1203 比企能員の変(ひきよしかずのへん) 
建仁3年(1203)9月2日鎌倉幕府内部で起こった政変。北条氏によって、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるった比企能員とその一族が滅ぼされた事件。  
源実朝、将軍に就任
1204 頼家、北条氏に暗殺される
1205 畠山重忠の乱 
元久2年6月22日(1205)武蔵国二俣川(横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。  
牧氏事件  
元久2年(1205)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。
1213 和田合戦(わだがっせん) 
建暦3年(1213)5月鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱。鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受けて、横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなる。
1219 実朝、公暁に暗殺される  
1221 承久の乱(じょうきゅうのらん) 
承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。  
六波羅探題(ろくはらたんだい)の設置  
六波羅探題は鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。 
大田文の作成
1225 連署(れんしょ)の設置  
連署とは鎌倉幕府の役職で、執権の補佐役であり執権に次ぐ重職である。1224年(元応3)北条泰時が叔父の北条時房を任命したのが最初。幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの名がある。通常、北条氏一門の中の有力者が就任した。 
評定衆の設置 
評定衆とは鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。 
鎌倉殿である源頼家の独裁権を掣肘するため1199年に開始された十三人の合議制が原型であるが、評定衆として制度化されたのは1225年、鎌倉幕府の執権北条泰時が、摂家から迎えた若年の鎌倉殿の藤原頼経が名目上支配する幕府政治を、有力御家人による合議により運営するべく設置したのが最初である。この年は北条政子・大江広元が亡くなり、鎌倉幕府創設時から幕府を支えてきた人々がいなくなってしまったことも、新たな評定組織の必要性が発生したと考えられている。なお、評定衆の長が執権であり、その地位は代々北条氏により継承された。鎌倉時代後期には、北条宗家である得宗を中心とした寄合が実質的な権力を掌握し始め、評定衆は形式だけのものになる。室町時代においても幕政の一機関として設定されたが、栄誉職的な色合いが濃く、実質的な権力はなかったとされている。
1226 九条頼経が将軍に就任  
藤原頼経(ふじわらのよりつね・建保6年1月16日-康元元年8月11日(1218-1256))は、鎌倉幕府4代将軍である。五摂家の一つ九条家出身で、九条道家の三男。官位は正二位・権大納言。九条頼経(くじょうよりつね)とも呼ばれる。七条将軍と号す。
1232 御成敗式目(ごせいばいしきもく)の制定  
御成敗式目とは鎌倉時代に制定された武士政権のための法令(式目)のことである。貞永元年(1232)に制定されたため、貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称で、正式には御成敗式目といった方がよい。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。 
 
鎌倉幕府の基本法で、日本最初の武家法である。頼朝以来の先例(「右大将家の例」)や武家社会の道理を基準とし、御家人の権利義務や所領相続の規定が多い。「悔返権」・「年紀法」の規定は武家独自の規定とされている(異説もある)。ただし、式目の適用は武家社会に限られ、朝廷の支配下では公家法、荘園領主の下では本所法が効力を持った。反対に幕府の支配下では公家法・本所法は適用されないものとして拒絶している。また、頼朝以来の先例・武家社会の道理を盾にして律令法・公家法と異なる規定、時にはこれと反する規定を積極的・かつ自立的に制定している点を評価して、御成敗式目を幕府法の独立を宣言したものとする解釈が通説となっている。 
ただし、こうした考え方に対して批判もある。新田一郎は頼朝以来の先例や武家社会の道理を記した部分、特に律令法・公家法と相違・対立する部分の多くは直接条文としては盛り込まれず、細目や例外事項などの形式によって触れられており、一方で条文本文に記されている幕府関係以外の事項の多くは鎌倉時代初期の公家法に依拠する部分が多いとする。また編纂に加わったのは六波羅探題を務めた泰時・時房や公家法に通じた中級貴族やその子孫である御家人であった点も指摘している。これは、当時の武士(特に御家人)が巻き込まれ易かったのは、地頭として治める荘園における荘園領主である公家との揉め事であり、こうした揉め事から武士を救うには公家法を中心に動いていた当時の法秩序の概要を平易に説いて理解させ、武家社会との調和を図るために御成敗式目は制定されたもので、武家法の体系化や武家法に基づく新秩序形成を目的としたわけではなく、少なくても公家法の存在を前提とし、かつ形式的な模範・素材であったとしている。また、鎌倉時代後期以後に公家社会にも受容された背景には幕府・朝廷ともに徳政を通じた徳治主義の実現という共通した政治目標が存在したことも指摘している。 
所有の規定が多いのが特徴であり、とくに第八条は「権利の上に眠る者は、これを保護せず」という法原則で、他にも現在の日本の法律の原点とも言えるべきことが多く含まれていることが注目されるべき点である。 
民法162条の「20年占有」規定の源を御成敗式目に求める見解を佐藤進一は示している。ただし、民法典の起草委員の一人である梅謙次郎によれば、ボアソナード起草の旧民法では当時の立法例に則して30年となっていたものを、交通の便が開けたことにより遠くにある財産の把握が容易になったこと、取引が頻繁にされることにより権利の確定を早期に行う必要があることから20年に短縮したものと説明されており、日本の旧来の法には触れていない。
1239 一遍誕生
1246 宮騒動(みやそうどう) 
寛元4年(1246)北条(名越)光時の反乱未遂、および前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放され、京都へ戻された事件。年号を取って寛元の乱(かんげんのらん)・寛元の政変(かんげんのせいへん)とも言う。背景には、執権職を独占する北条氏内部の主導権争いと、北条氏の専横に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が要因にあった。この事件により、執権北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。
1247 宝治合戦(ほうじかっせん) 
鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。
1249 引付衆(ひきつけしゅう)の設置  
引付衆は鎌倉幕府の職名の一つ。建長元年(1249)執権北条時頼の時、評定衆の下に御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかる為に設置された。その構成は、頭人・引付衆・引付奉行から成る。初期においては有力御家人が任ぜられたが、次第に北条氏の若年者によって占められ、評定衆に昇任する出世コースとなり、実質的な訴訟審理的役割は薄らいだといわれている。設置以降、弘安7年(1284)までの就任者は「関東評定伝」に記載がある。
1252 宗尊親王が将軍に就任  
宗尊親王(むねたかしんのう・仁治3年11月22日-文永11年8月1日(1242-1274))は、鎌倉幕府6代将軍で皇族での初めての征夷大将軍。後嵯峨天皇の皇子。母は蔵人木工頭平棟基の娘・棟子。後深草天皇、亀山天皇らの異母兄。
1272 二月騒動  
文永9年(1272)2月に起こった事件。1266年(文永3)にもたらされた蒙古(元)国書に対する返書や、異国警固を巡り紛糾する最中に起こった事件で、得宗家を中心に鎌倉幕府を主導する北条氏の内紛。幕府に対して謀反を企てていたとされる六波羅探題南方の北条時輔、北条一門の名越氏らが執権北条時宗の命により討伐された事件で、2月11日に鎌倉で名越時章・教時兄弟、同月15日には京都で時輔がそれぞれ誅殺された。この事件の結果、得宗家への反抗勢力は無くなったが、事件処理に当たった外戚の安達泰盛の勢力が肥大化し、御内人の平頼綱らとの対立が深まったとも指摘されている。  
1274 文永の役  
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281)という。蒙古襲来とも。日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(合浦。現在の馬山)を出発した。 
10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。さらに「新元史」によれば日蓮の書簡の記述に依るとして、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また高麗の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。 
壱岐の状況が博多に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。日本側は少弐氏や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。 
元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。10月20日(太陽暦では11月25日)船団は東に進み百道浜つづいて地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸した。博多湾西部から上陸した兵は、麁原(現在の祖原山)、別府に陣を構えた。 
日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。 
「八幡大菩薩愚童訓」(「八幡愚童訓」甲種本のひとつ)によると、百道浜より3Km東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の元軍を撃破した。「蒙古襲来絵詞」によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より500m付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。 
博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走したが殿軍の少弐景資が追撃してきた劉復亨を射倒すなどして、内陸への侵入を阻止した。「高麗史」によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。 
一方、元軍は博多を占拠したものの終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。 
「高麗史」金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍の主将である金方慶と派遣軍総司令官である忽敦との間で、以下のようなやり取りがあったことが述べられている。 
金方慶「兵法に「千里の県軍、その鋒当たるべからず」とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるがこれは秦穆公の孟明の「焚船」や漢の韓信の「背水の陣」の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」  
忽敦「孫子の兵法に「小敵の堅は、大敵の擒なり」とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増えている状況で相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」 
このような議論があり、また劉復亨が負傷したこともあって、軍は撤退することになったと言う。しかしながら、後述のように文永の役での日本派遣軍の目的はもともと威力偵察の類いであり、このやり取りも当初からの撤退予定を見越したものではなかったか、という指摘もされている。当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。  
「八幡愚童訓」によると、この戦いの最中、鎌倉武士団が迎撃の拠点として加護を祈った筥崎八幡宮から兵火によるものか出火し、社殿は焼け落ちたものの御神体その他は唐櫃に納めて運び出し、辛くも避難出来たという。また夜中、炎上する箱崎八幡宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄界灘渡海は避けていた)我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄界灘で遭難した、という。ただし、この「白装束の者」たちは「白装束」という甚だしく「異形の者」たちであるため、鎌倉武士団その他の実際の軍勢では無く、「筥崎宮の八幡神による神威の顕現」の類いを描写したものと考えられる。 
「八幡愚童訓」や藤原兼仲(勘解由小路兼仲)の日記「勘仲記」の一写本によると、翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。「元史」では「世祖本紀」や「日本伝」などにこの時の損耗については特に述べられていないが、「高麗史」「高麗史節要」では夜中に大いに風雨があり、艦船が難破するなどして損害があり、11月27日(12月26日)合浦に帰還した際には、派遣軍の不還者は1万3500余人に登ったという。 
定説では、日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて、元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。しかし、これに関しては史料に矛盾する。 
元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。 
なお、文永の役は侵攻というより、威力偵察ではないのかとの説もある。根拠として、本来モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100-1万規模での敵地への威力偵察を数度段階的に行った後、本格的な侵攻を行う場合が多く、また「元史」「日本伝」には元軍の矢がすぐに尽きたという記述が見られることと、3万人程度(中には非戦闘員もいる)という少ない兵力からこの説も根強い。「元史」「日本伝」は元側の記録であり、自分達で矢が尽きたと記録しているため信憑性は高いと見られる。本格的に侵攻し領土とする、または服属させるには、3万人程の人数で、当時の主力武器である弓の矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくい。元軍は大陸での野戦でも、騎馬兵の機動力を生かし、敵と一定の距離を保って馬上からの騎射で相手を損耗させる事を主な戦法の一つにしている。
1281 弘安の役 
元寇防塁1275年(日本の建治元年・元の至元12)クビライは再び礼部侍郎杜世忠を正使とする使者を日本に送る。北条時宗は鎌倉の龍ノ口刑場(江ノ島付近)で杜世忠以下5名を斬首に処した(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる)。 
1279年(日本の弘安2年・元の至元16)元は江南軍司令官である南宋の旧臣范文虎の進言により、使者が殺されたことを知らないまま周福を正使とする使者を再度送ったが、大宰府にて全員斬首に処される(総計5名という説が有力)。 
この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなったうえ、クビライは逃げ出した水夫より使者の処刑の報を知り、特に、通常の使者よりも高位(礼部侍郎)であった杜世忠の処刑に腹を立て、日本への再度の侵攻を計画し、1280年には侵攻準備のため征東行省を設置している。 
1281年(日本の弘安4年・元の至元18)元・高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南軍10万、計14万の軍が日本に向けて出発した。 
しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20kmにも及ぶ防塁(元寇防塁)を築いてこれを迎えた(攻撃側は守備側の3倍の兵力がなくては勝てないと言われている)。この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3m幅2m以上ともされている。いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが、日本軍の斬り込みを受ける。文永の役によって元軍の戦法を周知していた日本軍は優勢に戦い、元軍を海上に撤退させた。さらに小舟での襲撃などにより元軍を悩ませる武士も少なくなかった(一方で河野通有などのように石弓によって重傷を負った武士もいた)。 
江南軍は、総司令官右丞相阿刺罕が病気のため阿塔海に交代したこともあり、東路軍より遅れてやってきたが、両軍は、平戸鷹島付近にて合流した。しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。これを好機と見た武士らは元軍に襲いかかり、これを殲滅した。辛うじて陸地にいた元軍兵士も、旧暦7月7日(ユリウス暦7月23日)の竹崎季長らによる鷹島奇襲などでほぼ消滅した。元軍で帰還できた兵士は、のちに解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえず殺害したが、交流のあった南宋人は捕虜として命を助け、大切に庇護したという。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。 
なお、弘安の役における両軍の兵力は、元・高麗軍が約14万(東路軍4万、江南軍10万)、鎌倉軍が約4万だとされる。  
1285 霜月騒動(しもつきそうどう) 
弘安8年(1285)11月17日に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人の安達泰盛と、内管領の平頼綱が対立し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。
1289 一遍入寂
1293 鎌倉大地震 
正応6年(1293)4月12日以降に関東地方を中心に発生した地震。震源地、規模等は不明。研究があまりなされていないため標題のほか永仁の関東地震、鎌倉強震地震、永仁鎌倉地震、建長寺地震などさまざまな名で呼ばれている。 
鎌倉大地震の混乱に乗じた平禅門の乱(へいぜんもんのらん) 
永仁元年(1293)に鎌倉で起こった政変である。北条得宗家執事の平頼綱は、鎌倉幕府8代執権北条時宗が死去し、その子貞時が9代執権となった翌弘安8年(1285)政治路線で対立していた有力御家人安達泰盛や泰盛派の御家人を霜月騒動で討伐した。その後暫くは、頼綱は追加法を頻繁に出すなど手続きを重視した政治運営を行っていたが、弘安10年(1287)7代将軍源惟康が立親王して惟康親王となった時期に政治姿勢を一変させ、恐怖政治へと邁進した。貞時は、頼綱に支えられて自らを頂点とする得宗専制体制を敷いたが、頼綱の権勢に不安を抱くようになり、ついに永仁元年(1293)鎌倉大地震の混乱に乗じて鎌倉・経師ヶ谷の頼綱邸を攻撃し、頼綱を自刃させた。頼綱と不和だった嫡男平宗綱の讒訴によるものという。以後、頼綱一族ら御内人の勢力は一時後退して、貞時の専制政治が始まる。金沢顕時や安達氏など霜月騒動で没落を余儀なくされた勢力も徐々に幕府中枢に復帰した。
1297 永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい) 
永仁5年(1297)に鎌倉幕府の9代執権北条貞時が発令した、日本で最初の徳政令とされ、正確な条文は不明だが東寺に伝わる古文書(「東寺百合文書」)によって3か条が知られる。内容は以下の通りである。  
(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。 
(2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。 
(2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。 
(2-c)非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。 
(3)債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。 
永仁徳政令以前にも類似した政策は行われており、弘安7年(1284)3月幕府は越訴に関する訴訟を不受理とする法令を発令し、翌永仁6年には撤回している。元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的と理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、つまり3ヶ条の(2-a)所領処分権の抑圧が主であり、(2-b)はその前提として失った所領を回復させておくといった二次的な措置であり、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。御家人の所領の分散を阻止するために、惣領による悔返権の強化や他人和与の禁止を進めてきた鎌倉幕府の土地政策の延長上にあると言える。このうち(1)と(2-a)は翌年に廃止されたが、(2-b)は再確認されており、それに基づく所領の取り戻しはそれ以降にも多く見られる。つまり付随的であったはずのものが一人歩きを始める。また、この法令を楯に所領を取り戻したのは御家人に止まらなかった。東寺に伝わる古文書が、東寺領山城国下久世荘(京都市南区)の百姓がこれに基づき売却地を取り戻したことに関する文書である。貞時の政策は幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであったが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、そうした大きな流れを止めることは出来なかった。
1305 嘉元の乱  
嘉元3年(1305)に発生した鎌倉幕府内での騒乱のことである。北条宗方の乱とも呼ばれる。
1317 文保の和談 / 両統迭立  
文保の和談(ぶんぽうのわだん)とは、鎌倉時代後期の文保元年(1317)、後嵯峨天皇の皇子である、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する(両統迭立)ことを定めたとされる合意のことである。しかし近年の学界では合意はなされていないとする見解が主流である(後述)。 
両統迭立(りょうとうてつりつ)とは、一国の君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に国王を即位させている状態をいう。日本では、鎌倉時代に天皇家(当時の呼称では「王家」)が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。
1324 正中の変(しょうちゅうのへん) 
正中元年(1324)に起きた、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して首謀者が処分された事件である。 
後醍醐天皇は父である後宇多法皇に代り1324年から親政を開始し、記録所の再興などの政治を始める。後宇多法皇は死の間際まで皇太子の邦良親王を大覚寺統の嫡流として、後醍醐天皇が将来的には邦良親王への譲位を行うように命じていた。法皇の死後、邦良親王は後醍醐天皇に譲位を行わせるべく鎌倉へ伺いを立てていた。また、持明院統もまた、邦良親王の即位後に量仁親王を皇太子にする事を条件にこの動きを支持した。当然、後醍醐天皇は邦良親王や持明院統、そしてこのような皇位継承を決めた鎌倉幕府に対して激しく反発した。後醍醐天皇は六波羅探題南方の北条維貞(北条得宗一族)が鎌倉へ赴いている最中に鎌倉幕府討幕を企て、側近の日野資朝、日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけていた。13世紀中ごろから畿内などでの活動が活発であった悪党や、奥州での安東氏と蝦夷の対立など、政情不安に乗じてのものだとも考えられている。 
9月19日六波羅探題が察知して計画は事前に発覚し、土岐頼兼、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐される。俊基らは赦免されたが資朝は鎌倉へ連行され佐渡島へ流刑となり、側近の万里小路宣房らが鎌倉へ赴いて釈明を行い、後醍醐天皇は幕府に釈明して赦されるが、7年後の元弘元年(1331)に2度目の討幕計画である元弘の変を起こす。 
古典「太平記」で巻一に正中の変の顛末が記されており、無礼講と称して討幕計画や、計画に参加していた土岐頼員が妻に謀反の計画を漏らし、六波羅探題に事情を密告する話などが記されている。西大寺系の律僧も参加していたと記されている。 
後に建武の新政において役職を務める伊賀兼光や律僧の文観の関与も指摘されている。
1326 嘉暦の騒動(かりゃくのそうどう) 
正中3年(1326)鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領の長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛。 
正中3年(1326)3月13日14代執権北条高時が病のために24歳で出家する。内管領長崎氏は、同じ得宗被官である五大院宗繁の妹常葉前を母として前年12月に産まれた高時の長子太郎邦時を得宗家の後継者に推し、執権職を継承するまでの中継ぎとして北条氏庶流の金沢貞顕を15代執権に推挙する。貞顕の叔母は五大院氏に嫁いでおり、縁戚関係があった。貞顕は高時の出家に伴い5度に渡って出家を願い出たが、長崎氏によって慰留されていた。 
高時の正室は安達時顕の娘であり、外戚である安達氏は得宗被官を母とする邦時の誕生の際にも不快の態度を示し、高時の母大方殿と安達一族は御産所にも高時の前にも姿を現さなかった。安達氏側は邦時の家督継承を阻止するべく、高時の弟で大方殿の子北条泰家を高時の後継として推していた。 
3月16日朝、貞顕の元に執権就任を告げる長崎氏の使者が訪れ、貞顕は素直に喜びその日から評定に出席した。しかし同日に泰家がこれを恥辱として出家を遂げる。泰家に続いて多くの人々が出家し、これらは貞顕の執権就任に不満を抱く人々が多かった事の表れであった。憤った泰家とその母大方殿が貞顕を殺そうとしているという風説が流れ、窮地に立たされた貞顕は3月26日に15代執権を辞任し、出家を遂げた。在職10日余りであった。 
貞顕の出家後、泰家と安達氏の憤りを恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、ようやく4月24日に引付衆一番頭人赤橋守時が就任し、これが最後の北条氏執権となる。連署には大仏維貞が就任した。高時の嫡子邦時は執権守時が扶持する事になり、先例によって5歳で八幡宮参詣が行われ、得宗の後継者としての儀式が行われた。得宗の後継者が得宗被官の血縁となり、北条氏は得宗被官に飲み込まれていく事態が発生していた。 
同じ頃、都の朝廷でも大覚寺統と持明院統による皇位継承争いが激化しており、北条一族の内紛は政局混迷の度合いを深め、やがて正慶2年(1333)5月鎌倉幕府滅亡へと繋がっていく。  
1331 元弘の乱  
元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年(元弘3年/正慶2)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変とも呼ばれる。 
背景 
鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。 
朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。 
文保2年(1318)大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。正中元年(1324)の正中の変は六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。 
笠置山・赤坂城の戦い 
元弘元年(1331)8月後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、1332年(元弘2年/正慶元)3月 日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐を隠岐島へ配流した。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。 
千早城の戦い  
護良親王と楠木正成は潜伏して機会を伺っていた。1332年(元弘2年/正慶元)11月楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。正成は12月赤坂城を奪回し、1333年(元弘3年/正慶2)1月六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。幕府は再び大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向けた。まず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃吉野でも護良親王を破った。残るは正成がわずかな軍勢で篭城する千早城のみである。だが楠木軍は、鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるといった奇策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとするが、千早城では城中に水源を確保しておりびくともしなかった。さらに楠木軍は一部が打って出て幕府軍を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせた。楠木軍は90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。そうしている間に、幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいるとの報に触発され、各地に倒幕の機運が広がっていった。 
六波羅攻略 
播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。中でも赤松則村は周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、閏2月後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、4月27日名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。5月7日足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられた。 
鎌倉攻略 
5月8日新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。足利高氏の嫡子千寿王(後の足利義詮)らも合流し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、鎌倉へ追い詰められた。新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助は化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは一旦は膠着したが、新田義貞は一計を案じ、幕府軍の裏をかいて稲村ガ崎から鎌倉へ突入した。幕府軍は5月22日北条高時ら北条一門は東勝寺において滅亡した(東勝寺合戦)。鎮西探題北条英時も、少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らに攻められて5月25日博多で自刃した。 
影響 
後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始する。だが元弘の乱の論功行賞において、後醍醐の側近が優遇されたのに対して、赤松則村をはじめとする多くの武士層が冷遇された。こうしたことが新政への支持を失わせ、足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていく。  
1333 鎌倉幕府滅亡  
 
  1185 法然 栄西 道元 親鸞 日蓮 一向 一遍 他阿 明恵 北条 
政子
北条 
泰時
北条 
高時
新田 
義貞
後醍醐 
天皇
足利 
尊氏
鎌倉 
時代
  1133 1141   1173     開祖 第二祖 1173 1157 1183        
1200     1200                        
  1212 1215                          
          1222         1225          
            1239 1239 1236 1232            
                      1242        
1250     1253                        
        1262                      
                               
          1282 1287 1289             1283  
                               
1300                       1303 1300   1305
                1319              
                               
南北朝 
時代
                        1333 1338 1339  
                               
1350                             1358
 
  
吾妻鏡の鎌倉時代

承久の乱・幕府はなぜ勝てたのか 
承久3年(1221)5月14日後鳥羽上皇は予てより画策していた義時追悼(倒幕)の命令を下した。上皇の元に集まった武士は凡そ千七百騎、鎌倉方についた武士は京都守護「伊賀光季」手勢のわずか31騎だった。ところがわずか一月後の6月14日宇治川を渡った十数万の板東武者は、あっという間に上皇軍を蹴散らし京都を制圧した。承久記「板東の兵乱入し、貴族・庶民・老若男女の差別なく声を立て、わめき叫びながら逃げまどう、逆らう者ことごとく射殺され斬り殺され、追いつめられたる様は、ただ鷹におそわれる小鳥のごとし」と様子を書き記している。板東の武士がいくら強いといっても、上皇軍がこれほど簡単に負けてしまったのにはいくつかの理由がある。中でも両者の初動における対応の差は大である。  
「裸足で京へ上り、貴族や平氏に犬のように扱われていたあなた達が、今日、地位と名誉を受けて、比べようもない生活ができるようになったのは一体誰のお陰か。もし、頼朝公のご恩を忘れて上皇方につくと言うのなら、まずこの私を殺し、鎌倉を焼き払ってから行くがよい。」と、いならぶ御家人に「頼朝の恩」を訴えた政子の大演説は有名である。多くの武士はこの演説を聞き落涙し、奮起し京都へ攻め上ったと伝えられている。  
この名演説はわずか数時間早く異変を知った政子や執権義時の事前準備にもとづいて考えられたものだった。上皇方は5月15日宣旨を発し、三浦義村をはじめとする有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」旨の密書を送った。ところが、親幕派の伊賀光季と西園寺公経からの急使もまた鎌倉に急を知らせていたのだった。ここから幕府の大逆転が始まったと言ってよい。  
光季の使いは15日午後8時早々に京を出発した。ところが宣旨を持った使い(押松丸)は日付の変わった16日午前四時まで京にいた、その差約八時間、公経の使いが何時に出発したかは不明だが、密書中に光季の死が報じてあることから、光季の使者の後に出ていることは確かだ。また「朝廷の使いも本日到着の予定」と述べているので、押松丸の後から出発した可能性もある。そして鎌倉に着いた順は次のとおりである。1着「光季の使い」19日正午頃。2着「西園寺家の使い」同日午後2時頃。2着「上皇方の使者(押松丸)」同日午後5時頃。  
当時の東海道は整備されたとは言え、京―鎌倉間は徒歩で約16日、場合によっては数十日を要した。大河に満足な橋は架かっていない。その上、雨が降ればぬかるみ状態が数日も続いた。各駅には伝馬が用意されているが、早馬でも7日はかかるのが普通で、至急の場合でも5日であった。3日間で京から鎌倉まで走りきった三名の急使は、休みはおろか、眠らずに駆け抜けたに違いない。押松丸も光季の使いとの差を4時間ほど縮めている。可哀想に葛西谷辺りをうろついていた押松丸は、捕らえられて宣旨を取り上げられてしまった。というわけで幕府はわずか四時間の差で先手を打ち、御家人の掌握に成功した。もしこれが逆だったら歴史はもっと違う展開になっていただろう。  
「友を食らう」と評された三浦義村でさえ密書を携えて幕府に駆けつけた。御所の庭に集まった御家人のほとんどは、「何が何だか良く分からない」状態だ。京都と戦うかもしれないという噂話もあったかもしれない。動揺や不安もあっただろう、そこへ政子達が現れて先の演説になったという次第だ。 
幕府首脳は、その日のうちに上皇軍と戦う作戦を立案し、軍団編成の大まかなプランも整えた。急使が来てからの幕府の動きはまことに素早く当を得たものだった。宣旨さえ出せば関東の武士はことごとく院・朝廷になびくだろうという思い違いをしていた上皇方とは大きな差である。押松丸の出発が遅れたのも上皇方の緊張感の無さを表している。こうして敵の先手をうまくかわした幕府は乱に勝利した。だが、その裏に急使たちの一刻一秒を争うレースがあった事も忘れてはならない。昔も今も、正確に、早く情報を得ることが大切であることを如実に物語る出来事であった。  
袖に刺さった一本の矢 
治承4年(1180)11月26日老いた一人の女が頼朝の元にやってきた。このままだと愛息瀧口三郎経俊が斬首されると聞いたからである。老母は瀧口家が代々源氏に仕え忠義を尽くしてきたこと、特に平治の乱では源義朝のために六条河原で討ち死にした者までいたこと、経俊が石橋山合戦で平家方についたのは形だけのことであり、その戦いで平家方についた者の殆どが後に許されたことなどを切々と訴え、泣きながら息子の命乞いをした。    
頼朝は老母の話をしずかに聞いていたが、やがて土肥実平に申しつけて一つの唐櫃を持ってこさせた。中には鎧が入っている。しかしその袖口には一本の矢が刺さっていた・・「これは石橋山合戦で経俊の矢を受けた私の鎧である」と頼朝はしずかに語った。そして、「瀧口三郎藤原経俊」と鮮やかにその名が書かれていた部分を切りとって老母の前に置いた。息子が石橋山で頼朝を狙った明白な証拠がそこにあった。老母は無言で泣いた。そして寂しく首をうな垂れて帰っていった。この後老母の嘆きに心を動かされた頼朝は、瀧口家のこれまでの功労も考慮に入れ、経俊の死罪を免じたのであった。  
吾妻鏡は臨場感あふれた文章でこの場面を書き記しているが、教材研究を行う観点からはいくつか興味のある事柄を読み取ることができよう。  
その第一はなんといっても矢に名前が書いてあったことだ。武士の訓練は「弓馬の道」と言われるが、当時の最も主たる武器は「弓」であった。敵将の首級を取ることは大きな戦功であり、相手の位とその状況に応じて恩賞の多寡も変わる。頼朝の身体に矢が刺さりダメージを与えた場合、かりに他の武士が頼朝の首級をあげたとしても、第一矢を放った経俊には当然のこととして恩賞が与えられる。この場合の恩賞とは新たな領地であることは言うまでもない。そうした時の証拠になるように武士は自分の矢に名前を書いて戦に臨んだのである。第二は石橋山の合戦で頼朝に敵対した武士の多くがその後許され、ほとんどが領地を安堵されたと言うことだ。もともと、頼朝の旗揚げは伊豆・相模を中心とした豪族(武士)による「京都支配」からの権益奪還運動である。東国の豪族が頼朝を中心として一丸となるためには強い結束が必要であり、姻戚関係で強く結ばれている武士団を安易に断ち切ることはできなかったのである。武士はどちらが勝ってもよいように親子兄弟・親戚で分かれてそれぞれについたのだ。どちらが勝っても負けた家族の助命嘆願を行い、最悪でも家を残すことが出来たからだ。頼朝追討軍の現地司令官だった大庭景親ですら兄の景能は頼朝側として戦っている。戦後、さすがに景親は斬首されたが、景親とともに戦ったもう一人の弟俣野五郎景久は景能の命乞いにより助かっている。よって大庭の領地はその後も安堵されているのだ。ちゃっかりしているといえばそれまでだが、鎌倉時代を通してこのようなことはごく普通にあったことである。鎌倉時代の武士は江戸時代の武士とは大きく異なっていて、主君に対する献身的な忠誠心というものはさほどない。よく言えば合理的、悪く言えば損得勘定で動いていたということになる。敵味方に分かれて戦うということは、言わば保険を掛けておくようなもので、彼らにとって最も大切なことは忠節を尽くすことではなく、一族の繁栄とそれを支える領地を守ることにつきる。一所懸命の地を守り抜くためには手段を選ばない。これこそが一族を支えるもっとも武士らしい姿と言えたのである。  
男女は同権? 
貞永元年(1232)北条泰時によって制定された御成敗式目は、武士社会の慣例や常識を分かりやすく書いた法律として、その後の武家の法律に大きな影響を与えました。作られた年から貞永式目とも言います」と、大体どの教科書を見てもこのようなことが書いてある。そして例として「守護の仕事は大番催促、謀反、殺害人のこと」「二十年間支配していた土地は返さなくてもよい」と、二-三条が示されているのが常である。法律はその時代を映しだす鏡である。時の執権が何度も酒壺は一家に一つとか、サイコロ賭博禁止の法令を出すのはそれを守る輩が少なかったからに相違ない。由比ヶ浜遺跡から出土したサイコロは今のものと同じで、両面を足すとちゃんと七になる、役人の目を逃れてこれを振っていた庶民の様子が彷彿としてきて微笑ましい。  
今日までにその影響を残す御成敗式目は知られているようで案外知られていない。守護地頭や荘園管理に関する条文は例文としてよく引き合いに出されるので何となく分かるが、「式目は重要」というわりに実はみなさんよく知らないのだ。  
三十四条「人妻との密通のこと」が書かれているということは「頻繁にあった」ということで、おもしろい。「人妻と密通をした御家人は所領の半分を没収する。所領がない場合は遠流にする。相手方の人妻も同じく所領の半分を没収し、ない場合は遠流とする(後略)」つまり、この条文ができるまでは密通は罪ではなかった。  
承元3年(1209)年12月11日鎌倉の辻でちょっとした騒ぎが起こる。美作蔵人朝親と橘左衛門の尉公業が妻女をめぐっての合戦になるという、いささか興味本位的な気持になるが、事実野次馬もたくさんいたようだ。そもそもの発端は若くてきれいな朝親の奥さんが、隣に住む公業と知らない間に出来てしまったことにある。ある日、家を出た妻女は夜になって公業の家にはいり、そのまま数日にわたり泊まった。納まらないのが朝親である、一族郎党をかり出して公業と渡り合った。公業とておめおめとやられるわけにはいかないので、これも一族郎党をかき集めた。面白いのはその中に侍所別当の和田義盛がいたこである。警察の任務もあった役所の親分がさっさと痴話喧嘩に加わっていたわけで、これには周囲もあきれ果て、真面目な将軍(実朝)は怒ったと記録されている。結局喧嘩は間に入った北條時房の仲介によって収まり、件の妻女は何もなかったように朝親の家に戻って以後はうやむやとなってしまった。  
これなどは式目制定前の出来事であるが、式目制定後には次のようになる。  
「建仁2年(1241)6月16日小河高太入道直季の出仕が止められた。これは源八兼頼(筑後の国御家人)の妻女と密通したからである。その上、男女共に所領の半分が没収された。」(吾妻鑑)  
このことからも式目が忠実に履行されていたことが分かる。男女ともに所領の半分を没収と言うことは、女性が領地を持っていたこと、そして男性と同じ責任を分担していたということである。そうなると、法律を逆手にとった次のような事件もおきる。寛元2年(1244)8月3日市河掃部の介入道見西は先妻が落合蔵人泰宗と密通していたと幕府に訴えた。幕府は早速二人の役人を派遣してことの真相を調べたが、そのような事実はなく、結局は結婚した当初、妻と約束した「離縁した際には数カ所の所領を与える」という約束を、見西が今になって惜しくなり、密通をでっち上げたと言うことが判明した。式目二十一条には先妻に落ち度があった場合、所領を取り返すことが出来ると書かれている。結局嘘がばれた見西は妻との約束の所領以外に本領の屋敷地を没収されてしまった。  
密通のことを授業で取り上げるかどうかは別として、式目五十一箇条のうち、実に十一箇条は何らかの形で女性の権利について語られており、そのいずれもが三十四条と同じように女性の権利を男性とほぼ同等に扱っている。私たちは戦前、あるいは近世において女性の地位が男性より低かったため、それより以前もそうであったかのように錯覚しがちであるが、実は女性の権利が低く抑えられていたのは江戸時代とその影響を受けていた戦前までの近代だけであったことを知らなくてはならない。鎖国前の日本についてローマ教皇にレポートを書いたルイスフロイスは「夫婦間で借金の証文を交わしていること」「娘の朝帰りは咎められないこと」等々を紹介し、「この国の男女がまったく同等の権利を有している」ことを書き記している。  
キンキラの甲冑 
「中世の甲冑がずいぶんと派手なこと」「戦いの時にいちいち名乗りをあげること」などに疑問が出ることがある。しかし、これこそが鎌倉時代に生まれ、その後数百年にわたって武士の有り様を決定した「ご恩と奉公」が具現化された姿と言えるのだ。  
頼朝の鎧の袖に突き刺さった矢に射手の名前が書き込まれていたのは、武士が御恩を得るための大切な一手段であると前回書いた。今回はその鎧について考えてみよう。とにかく鎌倉時代の武士は目立ちたがり屋なのだ。鏑流馬や犬追物といった弓馬の道に長けるのはもちろんだが、戦においては誰よりも目立つことが大切なことであった。義経が着用していた赤糸縅鎧をはじめ黄・緑・紫・紺に金色に輝く留め金と、とにかくキンキラキンなのが平安時代-鎌倉時代の鎧である。しかし、継ぎ目や隙間が多く、ここを狙って矢を射通し裏まで貫通させることもさほど難しくはなかった。「常に鎧を突き上げてさね(小鉄片)とさねの間をつめて隙間をなくせ。しころ(兜の後ろに垂れ下がっている覆い)を兜に密着させよ・・」とは十六歳の我が子に聞かせた熊谷直実の教訓である。また、弓に次いで大切な武器であった刀も馬上から切り下ろす、あるいはすれ違いざまに頸動脈を切り裂くといったことから、片手で持てるような細身で軽く「反り」のある太刀へと変身した。とどめは「鎧通し」と呼ばれる小刀で、これは鎧の隙間から頸動脈や心臓を刺す武器であった。このことからも隙間だらけの鎌倉時代の甲冑は、実用というよりきらびやかな戦争衣装という意味合いのほうが強かったことが分かる。それは偏に「目立つ」ことを求めた結果である。誰に見せるためのものかといえばそれは味方に対してのことなのである。   
当時、戦にはアドバイザーとしての軍監とか軍奉行と呼ばれる役職が同行していた。軍監には戦功あった者の具体的な記録を棟梁に報告するという役目もあったので、公平無私な人が選ばれた。義経とことあるごとに衝突した梶原景時はその時の軍監であった。頼朝の信任が厚かった彼は後に讒言者として義経と対比される悪役になってしまったが、実際には御家人の安全を慮って義経を諫めた人である。このように、戦功を公正に吟味するための役や仕組みがあったことは、鎌倉武士にとって戦が一族繁栄のための大切な場であったことを証明するものであり、公平さを何よりも重んじたことの表れでもある。  
しかし、中にはこの手続きを省いたために苦労した御家人がいる。  
蒙古襲来絵詞の主人公「竹崎季長」は、敵がうようよいる麁原(そはら)に出向き、郎党が「味方の証人を立ててから戦ってはどうか」という言葉にも耳を貸さず、「弓箭の道は先を以て賞とす、ただ駆けよ」と、わずか五騎で敵の大軍に突っ込んでいった。先駆けこそ戦功の第一であったからである。この時の彼の甲冑は鮮やかな翠色である。季長が声を上げながら敵陣に突っ込んでいく様はさぞ美しかったに違いない。味方からもその有様は容易に見てとれたであろう。しかしながら多勢に無勢、まず旗差しの従者が倒れ、続いて季長以下三名も負傷し馬は射られてはね回った。幸い同郷の白石通泰が多勢で駆け寄せ敵を追い散らしたので、季長は一名をとりとめた。きらびやかな甲冑は遠目に見てもよく分かったのであろう・・・だが守護であり軍監役であった少弐経資は、季長の行為を先駆けとは認めず幕府に報告をしなかった。おそらく戦功の客観的な証拠がなかったからであろう。季長はそのことを大層不満に思い、その結果幕府への直談判となったわけである。今日残る絵詞はそのいきさつを子孫に残すために絵師に描かせたものであるが、そもそもの始まりは季長が先駆けの証人を立てなかったことに始まっている。歴史的な怪我の功名と言えよう。  
  
生活

中世の遺跡を発掘すると青磁や白磁、常滑に古瀬戸それに土師器のような土器など様々な器が出土する。つい最近までは青磁や白磁のような輸入品は高級武士の館や寺院などで使われ、一般庶民は常滑などの陶器を使い、貧しい者が土器を使っていたと思われていた。しかし、実際には都市市民が青磁や白磁を使っていたことが分かったのである。しかもこれまで賤民が使っていたと思われていた土器は、実は高級武士の酒盛りに消耗品として使われていたことも分かった。近年めざましく発展してきた歴史考古学の成果である。  
これまで、文献に大きく頼っていた歴史学は考古学という科学と融合し、土の中から「現実」を私達の目の前に曝した。 
例えば、各地から発見される大量の埋納銭は鎌倉時代すでに貨幣経済が地方の農村にまで浸透していたことを物語っている。鎌倉の大仏は浄光という聖が庶民から集めた銭を鋳溶かして作ったと記録にあるが、実際にその一部を削って成分を分析したところ、当時流通していた貨幣に大変近かったことが判明した。更に、1975年に韓国の新安沖で海底から発見された元の商船には800万枚もの貨幣が積まれており、それらは全て日本で使われるために運ばれたのだが、あまりに重いためバラスト代わりに船底に敷き詰めてあった。少し前の宋の記録には「日本が大量に貨幣を輸入するのでデフレになってしまった」とも書かれているのだ。  
「農村ではたばこや茶などの商品作物の栽培が増え、それとともに貨幣経済が流入し米使いの経済が徐々に崩れていった」とは教科書の江戸時代の記述である。これを素直に読んだ子供は「それ以前はもっと遅れていて、農村は物々交換だったんだろうなあ・・」と思うに違いない。どうかすると先生もそう思いこんでいる。しかし、実際には大きく異なる。  
備中新見の庄には二つの市が開かれており、田畑でとれた農産物の換金が行われ、年貢の銭納も行われていた。物資は船で高梁川を下り連島で大船に移し替え京に運搬され、割符(さいふ/手形)による信用取引も行われていたという。地頭は秋の収穫の際には有力農民の労をねぎらい宴会を開いた。領家への決算報告にはその時にかかった費用を必要経費としてさっぴき、庄内で生産された鉄を相場の高いときに売ったと書き記した。実際に鋳物師がいたと思われる遺構は日本の各地から発見されている。  
「泣く子と地頭には勝てぬ」と言われていた地頭ではあるが、このように農民と融和し相場に長けていた地頭もいたのである。一遍聖絵で有名な福岡の市に見るように鎌倉時代の後期には各地で市が開かれ活況を呈していた。商品経済は我々が思っているより古くから農村にも広まっていったのである。  
地頭の横暴を示す例として、教科書でも必ず取り上げられるのが阿弖河(あてがわ)庄民の訴状であるが、「領家のために木を伐採していた農民がむりやり村に戻されて、畑に麦を蒔かないと女子供に縄を打ち、耳を切り鼻を削ぐぞ」と言う恫喝の文言の中にも、実は商品経済に関係する部分が含まれている。それは農民が農閑期に木を伐採していたということである。この木はいったいどこに行くのであろうか。 
当時日本と中国の間で行われていた貿易品で、金や工芸品と並んで主力輸出品だったのが木材である。蒙古の進入とともにその支配を嫌った人々は南に逃れ南宋を作った。しかし急激な人口増加は建材や燃料としての木の大量伐採につながり「棺桶を作るのにも事欠いた」と記録されている。そんなとき大量の木材を供給していたのが森林国日本だったのである。阿弖河庄の農民が伐りだした木材は筏を組んで川を下り、海を渡り、そして博多に集積された可能性が高い。新安沖で発見された商船も無事だったら帰りの船で中国へ木材を運んだに相違ない。800万枚の貨幣のうち何割かはその代金だったかもしれないのである。  
子供たちの質問に「何を食べていたのですか」「トイレはどうなっていたのですか」のような、興味が元になっているものも多い。発掘では食糧ゴミも出土する。それによると、米麦はもちろん稗、粟、蕎麦の穀類、梅、桃、瓜、橡、クリなどの果物、鯵、鯖、鯛、鰹などの魚類、蛤、浅蜊、アカニシ、鮑、栄螺、牡蠣などの貝類、猪、鹿、鶏、兎、イルカ、馬、犬などの鳥獣家畜を食べていたことが分かっている。さてトイレだが、それとおぼしき遺構からは「糞便だった」と思われる有機物を多量に含んだ黒い土が出土する。未消化の瓜の種などと共に、中から幅2-3cm、長さ20cmくらいの箆状の木片が出土することがある。これこそが中世のトイレットペーパー、籌木(ちゅうぎ)である。鎌倉時代の人はこの籌木でウンチを拭いていたのだ。あの頼朝や義経もそうだったのであろうか。しかし、籌木の無い地域もあり、そうしたところでは一体どうやって拭いていたのだろうか、疑問や興味はつきない。  
 
食事

吾妻鏡に記述された食事関係記事と、それを裏付ける形で描かれた「絵詞」(えことば)から推測した鎌倉時代の食事について述べてみよう。 
食料の保存法 
冷蔵技術のなかった当時、生食は限られた範囲でしか行われておらず、調理法も焼く、煮る、蒸す、が主流であり、それに揚げるや煎るが希に加わる程度であった。しかしおいしく食べたい、大切な食べものは腐らせずに保存したいという気持は今も昔も変わらず、煮・焼・煎・楚割(すはやり/干して裂く)・塩引き・塩漬け・膾(なます)・黒作・干物・削りもの(鰹節など)・鮨、薫製など多彩な保存法が考えられていた。吾妻鏡には頼朝の好物が楚割であったこと、彼がもらった楚割をにちゃにちゃ食べていた様子を髣髴させ、微笑ましい。  
炊具・調理具  
鍋・鉄鍋・釜・自在鉤・五徳・竈(かまど)・擂り鉢・擂り粉木・菜箸・俎板・包丁・石臼・杓子・柄杓・貯蔵具としての大甕(おおがめ) 
※常滑・古瀬戸(特に擂り鉢は、擂る、捏ねる以外に煮るなど万能の調理具として広く普及したものである)  
流行の食事は寺院から 
「慕帰絵」には寺院の台所風景が描かれており、今日中世の調理器具や調理法を知るための好資料となっている。それによると、逗子棚には大皿や小鉢、折敷、壺などの食器がおかれ、その前で僧侶や烏帽子・直垂姿の男たちが茹で上がった素麺をザルの上に盛り、汁の入った椀にとって食べている姿が描かれている。その横では調理人がまな箸と包丁を持ち、まな板の上で魚の切り身とおぼしきものをさばいており、その横の囲炉裏ではその切り身を串焼きにしている。このように、最も進んだ料理は中国に渡った僧侶が持ち帰った寺院にあった。  
当時の食事は朝餉と夕餉の一日二食が基本であるがこれだけでは腹が持たないために、点心と呼ばれる軽食が食されるようになったのも鎌倉時代である。 
主な点心は、水繊(葛粉に砂糖を加えて火にかけて練ったもの)・饂飩(うんとん)・饅頭・素麺・棊子麺・温餅・砂糖羊羹・・・・焼き餅・興米(おこし)・粽(ちまき)・索餅(さくべい/小麦と米の粉を混ぜて縄状にねじった菓子)。 
朝夕の食事は米飯で味噌汁に野菜の煮物、豆腐や蒟蒻の料理が寺院の主な食事であるが、時には魚や肉類が出ることもあったし、酒を飲むときもあった。庶民の食事はこれとほぼ同じかやや劣る程度であるが、大っぴらに肉食し酒を飲んでいたのは言うまでもない。  
当時の調味料としては「醤醢」(ひしお)がよく知られているが、これは現代の「たまり」のことである。また、「醤醢」とともに重要な調味料として「糂汰味噌」(じんたみそ)があるが、これは従来の大豆味噌に米麹と米糠を混ぜたものであり、精進料理の味付けに欠かすことが出来ないものと言われた。他の調味料としては古くからの「魚醤」があり、塩・梅酢・などともに多彩な味付けがあったことを物語っている。  
吾妻鏡などには正月や主な行事の際に「椀飯」(おうばん)なるものが記されているが、これはご馳走をさすものであって、料理の種類を表す言葉ではない。今日の「大盤振る舞い」の語源になったものであり、接待役が腕をふるって客をもてなすときの料理である。吾妻鏡の記述には「駄餉」(だしょう)という中食が度々登場するが基本的には二食であり時として点心や駄餉があったと考えていいだろう。  
お菓子の発達と砂糖の普及 
栄西による茶の紹介と普及はまず寺院から興り、ついで武士階級への普及をもたらした。同時に茶菓としての点心が普及し、やがて鎌倉時代後期になると武士階級から都市部の住人に広まっていった。宋・元から輸入された菓子には、饅頭・羊羹・棊子麺・水晶団子・乳餅(にゅうびん)などがあり、国内に入ってからはさらに「花びら餅」「撥餅」(ばいもち)「粟餅」「黍餅」「三島餅」「矢口餅」(黒上・赤中・白下)「宿世餅」(すくせもち)などバリエーションも増えた。  
高価だった砂糖も貿易が盛んになる鎌倉時代後期には徐々に一般にも流出し始め、街の辻などで商人よって砂糖入りの饅頭などが売られるようになった。日蓮聖人が信徒から寄進された「十字」(むしもち)もそうしたものの一つと考えられる。  
椀飯・駄餉 
「大盤振る舞い」の語源となった「椀飯」や弁当、あるいは昼食を表す「駄餉」は吾妻鏡の中に42箇所出てくる(椀飯21:駄餉21)。武士の生活に「質素」を求めた頼朝の死後に記述が多くなり、内容が盛大になるところが興味深いが、多くは正月や節句あるいは狩りや宴の際に有力御家人(正月三が日は北條氏による)が将軍をはじめとする高級御家人に饗応したものである。中には「おや?」と思わせる記述もある。  
治承5年(1181)7月14日改元養和元年辛丑(かのとうし))6月19日甲子(きのえね) 
武衛(頼朝)納涼逍遙の為三浦に渡御す。(中略)爾(しか)る後故義明旧跡に到らしめ給う。義澄盃酒・椀飯を構え、殊に美を尽くす。酒宴の際、上下沈酔しその興を催すの処、岡崎の四郎義實武衛の御水干を所望す。則ち(すなわち)これを賜う。(後略)  
上下沈酔したその挙げ句頼朝の水干をめぐっての有名な諍いが起きる。すなわち上総介広常と岡崎義実との殴り合い寸前の喧嘩である。これだけではないが、広常の傍若無人ぶりがやがて梶原景時による静粛につながるのである。  
元仁2年(1225)4月20日改元嘉禄元年乙酉(きのととり)8月27日乙卯(きのとう)晴 
今日二品(政子)御葬家の御仏事。竹の御所の御沙汰なり。導師は弁僧正定豪、曼陀羅供庭儀例に加う。(中略)未の刻、一條太政大臣家御台所臨時の御仏事を修せらる。導師は荘厳房律師行勇、請僧(しょうぞう)十口。(中略)請僧十口分は、各々錦の横皮・水精念珠。凡そ物毎に美を尽くし善を尽くす。万人これを以て荘観と為す。但し説法時を移すに依って、請僧御布施の間秉燭(へいそく、またはひょうそく)に及ぶ。すでに作法無きが如し。 
この時代でも、いやこの時代も偉い坊さんもいればこのような坊さんもいると言う 
証 安貞2年(1228)戊子(つちのえね)6月26日丁卯(ひのとう) 天霽  
将軍家(藤原頼経)御遊興の為杜戸(森戸:葉山)に御出で。遠笠懸・相撲以下の御勝負有り。射手、相模の四郎・同五郎(中略)・武州(北條泰時)椀飯を献らる。また長江の四郎以下御駄餉を進す。盃酒の間管弦等有り。夜に入り船由井浦に還着するより、御輿をこの所に儲く。幕府に入御すと。  
質素を旨とした頼朝時代にはあまりなかった出来事。要するに真っ昼間から歌舞音曲大宴会をやっていたということ。ちなみに椀飯の記述はよりとも死後に増加する。  
安貞3年(1229)3月5日改元寛喜元年己丑(つちのとうし)2月22日辛酉(かのととり)晴 
竹の御所(鞠子:頼家の娘、四代将軍頼経の妻、妙本寺)已下(いげ/以下のこと)三崎より還御す。駿河の前司(三浦義村)兼ねて四郎家村を杜戸の辺に遣わし、御駄餉を儲く。善を尽くし美を極むものなり。黄昏に及び武州(泰時)の御亭に入御す。  
天福2年(1234)11月5日改元文暦元年(甲午)7月27日 
甲子寅の刻御産(兒死して生まれ給う)。御加持は弁僧正定豪と。御産以後御悩乱。辰の刻遷化す(御歳三十二)。これ正治将軍の姫君なり。 
哀愁ただよう美女(将軍の後家)が夕方になって泰時の館に入ったといういろいろと勘ぐってしまうような記述ではある。 
建長3年(1251)6月5日辛亥 天霽(あめはる) 
評定有り。この事毎度、日来盃酒・椀飯等の儲け有り。また炎暑の節に当たりては、富士山の雪を召し寄す。  
天平の時代、長屋の王の館にも真夏に氷を届けたと言う記述がある。鎌倉時代にも炎暑の折に富士山の雪を持ってこさせたという贅沢を行っていたと言うことである。北条氏の最盛期でもある。  
農村と産業の発達

農村の変化 
名主・下人・所従・作人 
鎌倉時代、生産の基盤となっていたのは農村でした。 農村は、農業を営む農民だけでなく、武士・商人・手工業者、あるいは僧など、多くの人々が日々の生活をおくる場所だったんですね。 
農村を区分する単位にはまず荘園があります。それから国衙領である郷や保がありました。 
国衙領とは本来は「国家の土地」という意味なのですが、当時の国衙領は国司を領主とする「荘園」と化していました。荘園と国衙領をあわせて、荘園公領といういい方もあります。 
農村において、農業の中心となったのは、名主とよばれた有力農民でした。彼らは荘園領主から「○○名(みょう)」とよばれる土地、この土地のことを名田(みょうでん)とよぶのですが、その耕作をまかされました。 
ちなみに「○○名」の○○の部分には、人名がつけられるのですが、名主の氏名とは関係しません。 
名主と一口に言っても、1-2町の名田しかもたない小名主から、数十町にもおよぶ名田をもつ大名主まで、さまざまでした。中には荘園領主から下級荘官に任じられ、農村を実質的に支配する者もあったということです。 
名主たちは、荘園内に自分の屋敷を設け、屋敷内には下人・所従などとよばれた隷属農民を住まわせるのがふつうでした。 
名主たちは、屋敷近くの佃(つくだ)とよばれた土地を下人や所従らに耕作させ、その他の所有地は、作人とよばれた農民たちに、耕作を請け負わせました。作人とは、名主と下人・所従の中間に位置した小規模な農民のことで、下人・所従が名主に隷属しているのに対し、人格的には自立した存在であったとされています。 
農民の負担 
名主や作人らの農民には税を納める義務がありました。鎌倉時代の税には年貢・公事(くじ)・夫役(ぶやく)などの種類がありました。 
年貢とは、田地にかかった税のことで、律令制度下における租のようなものですね。収穫された米の3割から4割ぐらいを納めるのがふつうであったようです。 
公事とは、海産物・果物・手工業製品など、各地の特産物を納めるものでした。律令制度下における調のようなものですね。税率については、とくに定まったものはなかったようです。 
ちなみに、現物で納める年貢に対し、公事では現物から金納に変えられることが多かったそうです。 
夫役とは労働を提供するものでした。具体的には佃を耕作したり、堤防やため池などを建設したり、修理したり、あるいは領主の屋敷の警備や税を運ぶことをさします。律令制度下での庸(よう)や雑徭(ぞうよう)などに当たるものとお考え下さればよいのではないでしょうか? 
農業技術の進歩 
鎌倉時代には、農業がめざましく発達しました。 
まず、近畿地方(西日本)を中心として、水田の裏作に麦を栽培する二毛作が行われるようになり、時代とともに広がっていきました。 
二毛作では麦のかわりに荏胡麻(えごま)を栽培する地域もあったようです。荏胡麻とは灯油の原料となる工芸作物ですね。 
肥料も進歩しました。それまで用いられていた人糞尿に加え、草を土の中に埋めて腐らせた刈敷(かりしき)や、草木を焼いてつくった草木灰が用いられるようになります。 
肥料の進歩によって生産量は大きく伸びました。 
当時の農具には鍬(くわ)・鋤(すき)・犂(からすき)・鎌などがありました。もちろん鉄製の農具ですが、これらの農具を荘園の鍛冶職人が安い値段でつくるようになり、広く農民に農具がゆきわたりました。 
また、牛馬、とくに牛に犂を引かせて耕作する牛馬耕が一般に行われるようになり、灌漑のためのため池がつくられ、水車の使用もはじまりました。 
農民の成長 
技術の進歩は、農業の生産力をいちじるしく高めました。そしてこの生産力の高まりというのが大きなポイントになります。 生産力が高まるというのは、それまでに比べて農民たちが多くの収穫を得ることができるようになったことを意味します。 
今までより多くの収穫を得ることができるようになったということは、必要な分を使っても(食べたり、税として納めたりしても)、なお手元に残るということになります。 
この必要な分を使っても、手元に残る生産物のことを、むずかしい言葉で余剰生産物と申します。 
余剰生産物は、蓄えたり、売ったりすることができます。つまり、農民に生活の余裕が出てくるわけですね。現代風に表現すれば、「貯金ができる」という状態になったということです。 
その結果、農村で新しい変化が見られるようになりました。分かりやすい例をあげますと、作人は名田を買い入れることによって独立し、名主となります。名主とはここでは自分の土地を持つ農民という意味ですね。 
また名主に隷属していた下人や所従たちの中にも、それまでの不自由な境遇から解放されて、作人となる者も現れました。 
このような変化に対し、地頭や荘園領主たちはどのような態度をとったのでしょうか? 
地頭や荘園領主たち、農村における農民たちの成長をそのまま受け入れました。名田を手に入れた作人を新たな名主として認め、下人や所従が作人となり、しだいに自立していくことを認めたんですね。 
自分の土地で使っていた下人や所従を解放した地頭や荘園領主もありました。 
このような地頭や荘園領主の行動は、農民たちの生活向上を認めることで、彼らの労働に対する意欲を高め、より多く、より確実に生産物を徴収しようとしたのであろうと考えられています。 
農民の抵抗  
農村の変化、農民の成長は、一方で地頭や荘園領主に対するはげしい抵抗をも生み出す結果となりました。 
農民たちは有力な名主を中心に団結するようになり、自立しつつある作人などの小規模農民をも広く取りこんで、あなどりがたい勢力を形づくるようになっていったんですね。 
このような農民の団結のことを当時の言葉で一味同心と申します。 
農民たちは、領主に対し、年貢の減免を求めたり、不当なふるまいをする領主の代官をやめせさるように要求したりしました。 
また、自分たちの要求を領主らに認めさせるため、一定の期間、山などに集団で逃亡し、田畑の耕作をやめてしまうこともありました。現代風に言えばストライキですね。 
このような農民のふるまいを「山入(やまいり)」「逃散(ちょうさん)」などとよびます。 
後の室町時代のような、武力によって自分たちの要求を通す「一揆」はまだ見られませんでしたが、農民たちの中には、自分たちの要求を通すため、朝廷や幕府などにに直接訴える者たちもありました。 
そのもっとも有名な例が、みなさんもよくご存じの紀伊国阿?河荘(あてがわのしょう)の農民たちの訴えですね。 
それでは有名な阿?河荘の農民の訴えの一部をまず、原文でご紹介しましょう。 
阿テ河ノ上村百姓ラツゝシテ言上 
ワンサイモクノコト、アルイワチトウノキヤウシヤウ、アルイワチカフトマウシ、カクノコトクノ人ヲ、チトウノカタエセメツカワレ候ヘハ、ヲマヒマ候ワス候。 
ソノ、コリ、ワツカニモレノコリテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシエ、イテタテ候エハ、テウマウノアトノムキマケト候テ、ヲイモトメシ候イヌ。ヲレラカモクノムキマヌモノナラハ、メコトモヲヲイコメミゝヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワ・ホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ、セメセンカウセラレ候アイタ、ヲンサイモクイヨイヨヲソナワリ候イヌ。 
たどたどしいカタカナの文章で、誤字や脱字もありますから、これだけで意味を取るのはむずかしいですね。ただ、農民たちがこのような訴えをしていたということをご理解いただければと思い、ご紹介しました。 
それでは、これを現代語訳して、下に示しますね。 
阿?河荘の上村の百姓ですが、つつしんで申し上げます。領家に納める材木のことですが、地頭が京都へのぼるとか、任地にもどるとか言っては、そのたびに近辺の人夫を責め使うので、まったく暇もございません。 
わずかに残った人夫が領家のための材木を山から切り出すために出かけようとすると、地頭はそれをおさえて、「百姓が逃げたあとの畑に麦をまけ」と命じます。「お前たちがこの麦をまかなかったら、女・子どもをも押しこめて、耳を切り、鼻をそぎ、髪を切って丸坊主にし、縄で手かせ足かせして責めつけるぞ」と言ってせっかんされます。このようなわけで材木がますます遅くなってしまいました。 
この有名な訴状は、1275年、寂楽寺の荘園であった阿?河荘の農民たちが、地頭であった湯浅氏の非道を荘園領主に訴えたものです。 
荘園領主から命じられた木材を切り出そうとしたところ、地頭の人夫として使われることになってしまった。 
残りの者が山へ向かうと、地頭は逃亡農民の土地に麦をまけと命じ、従わないと「耳を切り・鼻をそぎ」などの乱暴をはたらく。 
以上のような理由で、材木の切り出しが遅れてしまった。 
以上の3点が訴えの内容ですね。ふつう、この史料は「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざの具体例として紹介され、地頭が農民に対して無謀なふるまいをしていた証拠のひとつとしてあつかわれています。 
しかし、見方を変えると、材木が遅れたことの「言い訳」のようにも受け取れます。原文のカタカナだらけの、たどたどしい文章を見ると、農民たちの苦しみがよく伝わってくるのですが。 
この史料を「地頭の横暴」と取るか、「農民の抵抗」と取るかは難しいところですね。 
悪党の活動  
現代の日本で「悪党」というと、「悪いやつ」「悪人」という意味なのですが、歴史用語としての「悪党」は、意味がちがいます。 悪党とは、元寇の頃から、畿内を中心に現れた新しい武士たちをさす言葉です。第1節でお話ししました余剰生産物を手に入れた荘官や名主の中で、武力によって、年貢の納入を拒否したり、領主に反抗したりする者が現れました。 
幕府や荘園領主たちは、彼らを「悪党」とよんで、忌み嫌いました。しかし、悪党たちの勢力はあなどりがたいものがあり、50騎・100騎と、幕府の武士団にも負けない規模の集団を形づくっていたようです。 
非御家人である悪党たちは、時には数千という規模の兵を率いて近隣の荘園に討ち入るなど、反幕府・反荘園領主の活動を行いました。 悪党はしだいに各地に広がっていき、農民の抵抗とともに、幕府や荘園領主を大いに悩ますようになりました。 
歴史上、最も有名な悪党は、楠木正成です。 
後醍醐天皇の倒幕に、足利尊氏や新田義貞らとともに協力した楠木正成は、河内国の悪党でした。 
楠木正成の例でも分かるように、この悪党勢力が鎌倉幕府の滅亡に大きなかかわりをもつのですが、そのお話は、また章をあらためてさせていただくとして、ここでは、鎌倉時代の末期に「悪党」とよばれる非御家人の新興武士勢力がおこってきたということをご理解下さい。 
手工業の発達  
鎌倉時代には、農業とともに手工業でもいちじるしい発達が見られました。 
手工業はもともと、農民の冬の副業として始まったものですが、荘園内の農民たちは、領主に公事を納めるために、桑・苧(からむし)・麻・楮(こうぞ)・漆・茜・藍・荏胡麻・茶などの作物を栽培し、生糸・絹布(けんぷ)・真綿・紙などをつくりました。 
もう少し具体的にお話ししますと、例えば苧は茎の皮から繊維をとって糸をつくり、縮(ちぢみ)・晒(さらし)などの布を織りました。 
楮はみなさんもよくご存じのように和紙の原料ですね。漆もご存じですね。樹皮からしぼった汁が器の塗料となりました。 
茜は根から赤色の、藍は葉から藍色の染料を取りました。荏胡麻は、種子をしぼって油を取り、それを灯油として用いました。 
他にも筵(むしろ)・桶・杓子などの日用品がつくられたそうです。 
これらの手工業製品は、まず公事として納められました。残ったものについては、荘園内の市場やその地域の中心地の市場で、つくった農民たちが必要とする他の品物と交換されたようです。 
商業の発達  
前節でお話ししたように、手工業品は、鎌倉時代初期の頃は、物々交換の形で流通していました。 
しかし、農業の生産力が高まってくると、この状況が大きく変化することとなります。 
どういうことかといいますと、農業の生産力が高まったことによって、原料となる作物の収穫も増加し、手工業製品の生産量が高まります。 
一方で、余剰生産物を蓄えることができるようになった農民たちは、その富によって、以前にくらべて、楽に、かつ多くの必要な品物を入手できる力を身につけました。 
ここに、手工業製品は、売ることを目的とした「商品」へと変化したんですね。手工業製品のつくり手は、農業をしなくても手工業を専門に行って生活できるようになります。 
つまり、農業を行う農民と手工業を行う職人という職業の分化が可能になったわけです。 
専門の職人として独立し、生活する手工業者は、しだいにその数が多くなりました。荘園内に定住する者もあれば、いくつかの荘園をまわって生活する者もあったということです。 
そしてこれが重要なのですが、手工業製品が商品となったことで、商業活動が活発となりました。荘園の中心地や交通の要所などで、市が開かれていたことは、平安時代の末から確認されるのですが、鎌倉時代の中期には、そうした土地に月に3回、決まった日に市が立つようになっていきました。 
決まった日に立つ市のことを定期市といい、月に3回市が立ったので、これを三斎市(さんさんいち)と申します。 
現在の感覚からすれば、市というのは毎日開かれているのが当然なのですが、生産力が現在と比較からすれば、月に3回とはいえ、必ず決まった日に市が立つというのは大きな変化であったのですね。 
これは同時に、月に3回、決まった日に市を立てることができるほど、生産力が高まったのだ、というようにご理解下さい。 
この三斎市がいかに大きなインパクトを持っていたのかは、現在でも各地に四日市・八日市・稲荷町などの地名が残っていることからも理解できます。 
例えば、四日市というのは、毎月、四日・十四日・二十四日と四のつく日に市が立ったということのなごりですね。 
さて、定期市では手工業製品がさかんに取引され、年貢米や各地の特産物も広く流通するようになりました。 
当時、「都市」とよべるほどの人口密集地は京・奈良・鎌倉ぐらいのものでしたが、これらの3つの都市、とりわけ都であった京では、月の決まった日だけでなく、常設の小売店も現れました。このような店のことを見世棚と申します。 
京や奈良などに集まる商工業者たちは、すでに平安時代の末期から座とよばれる同業者の組合をつくっていました。 
彼らは朝廷や領主に税を納めるかわりに、商品の生産・販売を独占する権利を得、大きな利益をあげました。 
さらにこの時代から、それまでの物々交換にかわって、貨幣で商品をやりとりするという、現在では当たり前のことが行われるようになりました。これをむずかしい言葉で貨幣経済と申します。 
当時、日本で流通していた貨幣は、日本で鋳造されたものではなく、平安時代から始まった宋との貿易で輸入された宋銭でした。 
一説によると、宋との貿易によって日本にもたらされた宋銭は2億貫にものぼるそうです。 
遺跡の発掘によって、10万枚もの銭が一度に発見されることもあるそうですから、当時の日本で、たいへんな数の宋銭が流通していたというのは十分にうなずけます。 
貨幣経済は、都市からはじまり、それがしだいに農村へも広がっていきました。荘園への税の納入も、税としての生産物を市で貨幣にかえ、それを都市部に住む領主に送るということもしだいに多くなっていったそうです。 
貨幣の流通がさかんになってくると、貨幣での取引や貸し付けを専門に行う金融業者も現れました。こうした金融業者は借上(かしあげ)とよばれました。 
また、商業が活発になるにともない、専門の運送業者も現れました。各地の港や大きな川沿いの交通の要地に現れた彼らは問丸(といまる)とよばれています。 
問丸ははじめは荘園領主の支配下にあり、特定の荘園の商品のみを扱っていたのですが、鎌倉時代の末期になると、領主から独立して営業するようになりました。 
彼らは荘園の物資をいったん自分たちの所有する倉庫に納め、最も高く売れる時期をねらって市へ出し、大きな利益をあげたということです。 
借上や問丸といった人々が活躍したのは、畿内や瀬戸内海沿岸といった西日本が中心でした。ここがポイントなのですが、新しい貨幣経済は西日本で大きな発達を見たのですね。 
つまり、経済的に見ると、商業を中心とする西日本と従来通りの自給自足(農業)を中心とする東日本というちがいが現れてきたわけです。 
このふたつの地域の差が、鎌倉幕府の滅亡に大きくかかわってくるのです。 
 
鎌倉時代の食べ物

鎌倉時代には食べ物で特徴的なものに醤(ひしお)があります。また、梅干しをご飯の上にのせて食べるのもこの時代からのことです。武士や貴族などの大きな屋敷では沢山の人の食事を作る専用の建物がありました(厨と言う)。当時は冷蔵庫など無い時代ですから、魚や肉類は塩づけか乾燥品でした。調理の仕方も今よりも簡単で「焼く」「煮る」「蒸す」の3種類が基本でした燃料は木の枝のような薪が中心ですから、山のなかに入って沢山の薪を集めるのは男の人の重要な仕事だったのです。  
武士の食事 
「玄米」「干し魚」「昆布と煮ごぼう」「大根汁」「梅干し」などです。梅干しをご飯にのせて食べるのは、この時代の武士が考えだしたことだそうです。調味料は「ひしお」と呼ばれる醤油の仲間と味噌、塩でしたから複雑な味の食事は少なかったようです。食事の回数は朝夕の1日2回が基本でした。しかし、ひとたび戦になると1日5回は食べていたそうです。その中心はご飯で、現代成人の一日の平均的な摂取カロリー2300に比べ、戦時の武士が3000キロカロリーを摂っていたということは、すごい量のご飯を食べていたということですね。ちなみに、お箸(はし)はこの時代から二つに分かれたものが広まりまったうです。それまではピンセットのようになっていたのだそうです。  
この時代貴族の食事と武士の食事は大幅に違っていました。このころの貴族や武士の中でも上の人のほうになると貴族と同じ様な食事をしていたことが多かったようです。栄養のバランスがよくなく、それによって寿命も短かったのです。  
醤(ひしお) 
醤は、鎌倉時代まで食べ物に味付けされていなかったので(好みで味付けしていた)それの調味料として使われていた。今でいう塩、醤油、酢などのものだ。醤というのは穀醤で、醤油と関係がある。それは、醤は、米や麦、豆などを発酵させてから塩を含ませたものでそれからとれる液体が醤油だからです。奈良時代から約100年-平安京の東西には市が立ち、東市には醤店・西市には味噌店が設けられ、醤に漬けた各地の魚も売られたということです。また、役人の給与の一部として醤が支給されたともいわれます。醤はもう生活必需品として、経済的にも地位を確立してきたのです。  
アジアで好まれ、発展した醤は「魚醤(ぎょしょう)」「穀醤(こくしょう)」ですが、そのうち日本に伝来して独自の発展をとげたのは「穀醤」でした。これは、仏教の影響で菜食が主体となった日本人の食生活によく合うこと、魚醤よりもずっと保存に有利であること、などによると思われます。もっとも伝来当初の穀醤は、今のしょうゆの原料のような大豆と小麦をあわせたものではなく、大豆単独のものだったのです。奈良時代になると、「大宝律令」には醤を扱う役所の部門が定められるまでになります。当然、醤の種類もふえ、その原料も大豆・米・麦・糯米(もちごめ)などが用いられ、市(いち)でも売られたことが記録から分かります。  
溜(たまり) 
鎌倉時代に入ると、溜が出現します。これこそしょうゆのもとになった調味料といってよいでしょう。建長元年(1249)信州の禅僧、覚信(かくしん)が中国から「径山寺(きんざんじ・金山寺)みそ」の製法を持ち帰り、紀州の湯浅(ゆあさ)でその製法を村人に教えているうち、桶の底に分離した液で食べ物を煮るとおいしい、ということを発見したことから後世の「溜しょうゆ」状のものが誕生したといわれます。これは湯浅で売りだされたということですが、この時代、まだしょうゆとみそは完全に別物とはなっていません。これは、おかずや戦陣食として食べられていた。味噌を使った味噌汁になるのは、室町時代になってからです。  
 
貴族と武士と農民の食事の違い

食事の差で決まったといわれている源平合戦 
1185年の壇ノ浦の合戦では源氏と平氏それぞれ日頃の食生活が関係しているといわれている。源氏方についた武士たちが栄養のバランスのとれた食事をしていたのに比べ、平氏たちは、貴族風の食生活をしていた。その食事は栄養のかたよったものだったので、両者では体力に大きな差があったというわけだ。 
鎌倉時代の貴族の食事(上の位の武士) 
強飯(むした米)、魚貝類や野菜などに、塩などの調味料があって、それを自分の好みで味付けして使っていました。食品の種類も多かったが、保存食が多く栄養がかたよっていました。魚貝類や肉類の多くは、遠方から都に届くため、干物などに加工してあることが多かったようです。食事が形式化して毎日同じメニューが続いたり、食物への迷信(例/乳製品と魚を一緒に食べると腸に虫が生じるなど)などもあって、栄養がかたよった不健康な食事になりがちでした。一方、庶民の食事は質素でしたが、玄米飯に自分たちでとった新鮮な肉なども食べたので、貴族に比べ健康だったようです。  
早死にだった貴族 
平安貴族は、消化の悪い、栄養の片寄った食事をしました。その上室内中心の生活で運動不足だったことから、不健康でした。貴族たちの多くが、栄養失調や皮膚病、結核、脚気、鳥目などの病気になりがち早死にするものが多かった。貴族が全盛期を迎えた、平安時代中期、貴族の推定平均寿命は、男性が50歳、女性が40歳でした。  
農業 
鎌倉時代は全体的に今よりも3-4℃気温が低く小氷河期時代とも呼ばれている。この時代はビニールハウスなどがあったわけではないので、天候によって農業が大きく左右された。貴族は平安時代からもともと食べ物が豊富だったが(京都という日本の中心地にいるので)下地中分ができてからというもの、貴族に入ってくる年貢は少なくなったので、少し質素になった。その分武士の取り分が増えた。余った米などは戦に備えた兵ろう米に、売って戦のための武器を買ったりするのに使ったこの時代の経済の基本は農業であった。貴族>武士(上の位)>武士(下の位)と、武士の下の位の人達はほとんどが農民で、稗(ひえ)や粟(あわ)を食べていた。  
 
精進料理

日本の料理は、仏教の教え殺生を諫め動物性の肉類の摂取を控える食生活、同じ仏教でも鎌倉時代から室町時代に布教された禅宗の教えの一つ精進料理と室町時代に宮廷料理として新たな料理の格式を重んじた料理の流儀、四条流等のながれや、茶道文化の普及によって武士から町民に広がった茶懐石料理等が基礎になり、現在の京懐石料理が形成されている。精進料理が仏事の料理として全国的に普及したのは曹洞宗の影響が もととなっている[*注]。 
日本各地にはそれぞれ地域性のある調理方法や味覚が存在する。農産物や水産物の地域性から育んだ味覚の地域性は、自然環境を土台にして、風土から作られた地域の手法があり、その地に必然的に根付き掘り起こされた文化になっている、各地に類似した調理方法が存在しているが、味覚はそれぞれ地域の特長があり一定ではない。 
*注 
三代将軍、家光によって鎖国制度が施行され、キリスト教の排除から仏教への帰属が強制された。動物の殺生とその肉の摂取も重ねて禁止した。家光は仏教のなかでも曹洞宗を特に重んじ、当時、全国に流浪していた多くの浪人を、曹洞宗の寺院で修行させ、各地に点在していた荒れ寺に定住させ布教させた、この時代の一種の浪人対策である。現在全国の仏教寺院数は約65000、その内、約15000が曹洞宗で1宗派の寺院として全国一となって存続している。 
日本料理の基本 
日本料理の主菜、副菜の調理の基本形は、出汁を取り、素材の味覚を引き立たせ、味覚を整える方法である。出汁を引く素材は、昆布、鰹、椎茸が主な材料で、調味料は、塩、砂糖、味噌、醤油、みりん、酢、日本酒などと一味、七味、山椒、そして香辛料の柚子、スダチ、カボスである。禅宗の精進料理では鰹節は利用されていない。 
精進料理や割烹料理では調理における野菜の切り方、整え方、魚のおろし方を調理の内容に合わせて詳細に教え、食材の品質によって調理の形を整え、水加減と火加減のバランスを経験的に教えている。 
素材の味覚を作り出す出汁の利用を「出汁を引く」として使われており、この意味は素材の味覚を「引き出す」から来ている。素材が持つ基礎的な栄養成分を加熱調理の熱加減とバランスによって含有率を高め、味覚を引き出す作業を調理の基礎として教えている。 
素材の味覚を低温でシスプルに引き出し整えるのが日本料理の基本である。 
全ての食材は加熱の方法によって基礎的栄養成分は増減し、美味くも、不味くも変化する。 
理想的な調理は、加熱によって、食材が有する栄養素を人間が吸収しやすい構造に置き換え、栄養成分を増加させる調理を云い、(生命科学では腸管で吸収できる遊離構造に置き換える)その判断は、調理する人、食べる人の育まれた感性、経験から味覚によって判断できる。 
日本料理と香り 
香りは味覚を判断する基であり、調理技法によって香りを効果的に作り出し、器一杯に広がることができる。良い香りが漂うことは調理技法によって素材からの基礎的な栄養成分が身体に吸収できる構造に成分転換されたことを意味している。 
調理師が香りを聞き分けることが味覚を見分ける基礎でもある。 
認知症の疾患になると多くの場合は香りの判断が退化することから始まる。 
調理加熱は元来、クリエイティブな科学性の高い作業である。成分分析機器の発達していない時代では、美味しくできる方法を経験的に追求し、味覚の記憶と共に修行として伝授されてきた。 
修行と味覚の感性 
修行によって得られた経験は、味覚を捉える技法を味覚を記憶する感性として育まれ、その感性は食品分析機器を凌ぐ鋭さがある。記憶されている鋭い感性は、栄養成分を高める火加減の技と一体になり調理品を作り上げている。調理人が育んだ技術は現在の新たに考案された調理機器を遙かに越えている。 
道元が諭した、食べること、調理することが日々の修行として教えた意味でもある。仏教の教え精進料理の素材は、動物性の食材を利用しない食生活であり、殺生を諫め植物性の食物と海藻を基本として調理している。江戸時代には、政策の一つとして殺生を諫め、魚以外の動物性食品の摂取を制した。この教えは、現在の日本人の食生活の基礎になり、健康な食生活への大きな価値であり、遺産でもある。 
道元とロハス(LOHAS) 
インドから伝承された仏教が日本人の基礎的な宗教感だけではなく、食文化の基礎として引き継がれている。インドの人々が今も実践されている食生活の一つ、菜食主義にその基本がある。道元は、托鉢によって戴いた全ての食べ物は料理して戴き、食材から一切ゴミを出さない調理加工の工夫方法を教えている。最近、ロハス(自分の健康的なライフスタイルに気をつかいながら、同時に地球環境や自然保護に気をつかう人たちの総称)と言う言葉が米国から発信され、日本の若い人々の新たなライフワークとして取り上げられている。日本では室町時代に既にロハスの精神が芽生えており、世界に先駆け、道元がこの時代に言葉の表現には違いがあるがロハスの精神を既に布教している。  
 
日本の食生活

鎌倉時代(1192-1333) 
武士の時代となって、質実剛健で質素な食事、玄米食を取ることによって、エネルギー、ビタミン、ミネラルの補給ができています。健康的食事が考えられるようになり、粥(かゆ)が普及し今の御飯のもととなったといわれます。後期には宮中生活へのあこがれがあったようです。しかしながら宮中での食生活は、飲酒、米が従で食品の種類の片寄りが多くひ弱で体調不良を訴えるものが多かったといわれています。中国より小松菜(江戸時代に品種改良)が伝わっています。末期に納豆(中国)の記載の書物があります。 
室町[南北朝1336-1393]時代(1338-1568) 
公家と武家文化の融合がはかられています。西欧より砂糖、砂糖菓子が、中国より饅頭(まんじゅう)、豆腐、シナ料理、味噌、醤油、清酒が出現しています。刺身としての料理法、日本料理主流とされる懐石料理が始まったといわれています。1543年(鉄砲伝来)、1549年(キリスト教伝来)等の南蛮船渡来でカボチャ、じゃが芋、トウモロコシ、春菊、パン、てんぷら、カステラ、コンペイトウ、たばこが日本に伝えられました。 
安土桃山時代(1568-1603) 
文化が地方や下層庶民へ普及、貨幣経済が台頭(たいとう)し商工業者の生活向上のきざしがうかがえるようになって来ました。武士階級も白米食となり清酒、砂糖の普及で栄養不足で健康食から遠ざかる結果となっています。茶事が流行しています。スイカ、とうきび、トウモロコシ、トウガラシ、ザボン、イチヂク、マルメロ、トマト(観賞用)、さつま芋、トウガラシ、バナナが南蛮船によって伝来しています。 
江戸時代(1603-1867) 
貨幣経済が浸透し町民により日本食の集大成が行なわれ元禄時代(1688〜1704)に和食の完成に至っています。食卓(しっぽく)料理、南蛮料理、会席料理、漬物、そば、うどん、鰹節、飲食店などが出現してきました。精白米の利用が進んで、また上流階級で行なわれてきた年中行事が一般にも浸透してきています。現代に伝えられる食事回数が3回に間食と食習慣が固定してきた時期といえます。飢饉(ききん)などもあり備荒(びこう)食物もいろいろに工夫した食べ方が研究されています。しかし庶民の食事は、つつましく、汁かけ御飯、一汁1菜程度のものが長い間続きます。本朝食鑑に江戸時代の食品の一覧が記載されています。陸ひじきが食用とされていたという記録が残っています。江戸時代に伝来した食品は、アスパラガス(観賞用)、イチジク、フジマメ(?インゲン豆)、カボス、ホウレンソウ、トマト、タマネギ、キャベツ(栽培は明治になって)、高麗人参、コンニャクイモ、水前寺菜(中国)、ダッタンソバ、ちょろぎ、サトウダイコン(テンサイ)、ゴーヤなどです。日本に大豆が伝わったのが2000年も前といわれていますが枝豆として未熟の豆を食べるようになったのは江戸時代になってからとされます。初期に寒天、沢庵、サボテン(オランダ)、ナタマメ、チコリー、フダンソウ、ニンジン、ヘチマ(中国)が発見、伝来しています。中期にアーティチョーク(観賞用)、サトウキビ(栽培)、パセリ(オランダ)、ラッカセイが伝来しています。末期にサフラン、苺(オランダ)が伝来しています。 
明治時代(1868年〜1912年) 
鎖国による文化の立ち遅れを洋風模倣(もほう)によって欧米の文化水準に追い付こうとして牛肉、ミルク、コーヒーなどの洋風の食品、調理法、食事作法が急速に進展していきました。1894年高峰譲吉が小麦からのフスマに麹菌を植えつけタカジアスターゼ、鈴木梅太郎が米糠からオリザニンを1909年に見出し栄養学の更なる発展に貢献しています。日清戦争、日露戦争などにより社会的経済の浮き沈みを受け食生活も規制せざるを得ない時代が続くことに陥っていくことになります。じゃが芋の栽培が始まっています。明治時代に豌豆(えんどう)、カシス、オレンジ、四角豆(トウサイ)が紹介、導入されています。初期にヨウナシ、オクラ、カリフラワー、クレソン、ルバーフ、コールラビ、大菜(たいさい)が伝来しています。りんご、サクランボ、山東菜、ピーマンが栽培されています。  
 
鎌倉・室町時代 日本人は何を食べた

源氏が京都の平家政権を倒して迎えた鎌倉時代、南北朝の内戦を経て京都に政権が戻った室町時代は、古代からの荘園制のなかで武家社会が形成され成長する時代です。蝦夷(縄文人部族)がまだ多く分布していた東北地方への侵略、奥州藤原氏との対立、モンゴル帝国(元寇)に対する防御、そして足利尊氏が台頭して南北朝時代を迎えるなどまさしく争乱の世となったのです。足利氏が両皇統合を実現し足利政権は230年も続くのですが、中期には応仁の乱があり、後半はいよいよ戦国時代、群雄割拠・弱肉強食の時代となって秩序は乱れていきます。 
平安時代の貴族、僧侶といった上流階級は形式的な食事を重視し、仏教の影響を受けて肉食を禁止した結果、食品の種類はかたより不健康な食風でした。武家の世となると玄米食と獣肉を自由に食す風潮が広がります。平家の衰亡を教訓として質素倹約に努め、栄養価の高い食生活で“もののふ”の活動エネルギーを蓄えたのです。平安時代と比べると簡素な食風ですが実際的で健康な食生活に変化していきました。武士の棟梁は地方貴族でしたが、大半の武士は農民の出身で戦時は武器を持って闘いますが、平時は土着して土地を耕作する食糧の直接的な生産者だったのです。彼らは狩りによって得た獣肉はそのまま彼等の食料としていたので、貴族が嫌がろうとも気に止めず、洛中の寺院の境内で公然と肉食の宴を開いたりしたそうです。 
新仏教や禅宗も登場し、次第に貴族や僧侶の方が武士に感化されていき、獣肉を食すことは禁忌ではなくなってしまいました。この時代は食材が多様化し、近代まで日本人が食してきた材料がほぼ出揃います。また調味料や料理技術も進歩して生物、汁物、煮物、煎り物、炙り物、蒸し物、漬物といった「和食」の基本的なカテゴリーが生まれ、料理の専門家、流派が登場します。 
食品材料 「清良記」「庭訓往来」の記述から 
【穀類】米、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、稗、黍 
【野菜】茄子、瓜、大根、牛蒡、芋、蕗、茗荷、薊(アザミ)、芹、茸 
【果物】栗、柿、胡桃、梅、李(すもも)、桃、山桃、枇杷、杏、梨  
【柑橘類】柑子(こうじ)、橘、蜜柑、柚子、橙、金柑、石榴、棗(なつめ)、苺、百合、椎、銀杏、樫  
【海藻類】若布、青海苔、海苔、アラメ、もずく 
【魚類】鯛、鯉、鮒、鰈、鰹、鮭、鱒、鯵、烏賊、蛸、トビウオ、イシモチ、鮑、サザエ、蛤、海豚、海月、海胆、鮠 
【鳥類】山鳥、ツグミ、ウズラ、雉 
【獣類】兎、猪、鹿、熊、狸 / 牛馬は農耕の労働力だったので食用にされなかったらしい。  
【薬味】山葵、芥子、生姜、胡椒、胡桃 / 胡椒は室町後期に琉球から輸入された。 
調味料 「庭訓往来」の記述から 
塩、酢、酒、醤、飴、甘煎葛(あまずら)、蜂蜜、果実粉。醤のうち穀醤系のものが味噌⇒嘗め物に使われた。醤油は室町時代に分離して普及する酒も調味料だった。酒かすに漬け込む粕漬けはこの時代に興った。そして砂糖が室町時代の上流階級で甘味料として重用されるようになる。 
調理法 
【飯・粥】強飯(米を蒸した飯≒おこわ)が中心、姫飯(米を釜で炊いた飯)は僧侶だけ。精白米は公家階級の一部だけ。庶民は米飯をほとんど食べられず、粟、稗と副菜(野菜)という食事が一般的だった。 
【副食】生食、焼き物、煮物、蒸し物、茹で物、羹(あつもの)、汁物、にこごり、嘗め物、醤、漬物、干物、鮨。干物や餅などの保存食も多く登場する。食の多様化に加え、この時代の特徴は「戦陣食」の形成と「一日三食制」の発生です。 
【戦陣食】玄米を携行し、手拭で包み水にぬらして地に埋めてその上で火を炊いて飯を作ったそうです。また屯食(おむすびの原型)と呼ばれる焼いた握り飯を竹の皮や木の葉に包んでよく携帯した。(「吾妻鏡」より)また糒、焼き米、梅干、味噌、塩、胡麻、鰹節、麦焦がしなどを携行しています。餅類、干魚、塩魚など保存食が発達したのも戦場での食事の必要からだったのでしょう。 
【一日三食制】鎌倉時代に順徳天皇は三度食事をした(「禁秘抄」「海女藻芥」より)とあるが後醍醐天皇の「日中行事」には二食となっており、宮中の原則は二食だったようです。僧侶は元来一食のみでしたが間食を取るようになり、菓子などを食べていました。12世紀の末ごろになると比叡山の山法師、興福寺の奈良法師は三食となっていて僧侶が先行して三食制に移行したようです。(「古今著聞集」より)武士は平時はニ食が普通。(但し分量は三食に相当する量をとっていたようです。)ですが、戦場などでの労働の激しい時には三食を取るようになった。昼食の習慣は僧侶からの影響を受けたと考えられますが、戦乱の続く世にあって慣習化し平時でも三食制となっていきました。やがて京都の公家も感化され、室町時代に三食制が一般化します。 
 
米の収穫量が上昇して米が常食になったとされています。たしかに公家、僧侶、武士は米を常食とするようになりました。農民でも一部の裕福な農民は米を常食としたようです。しかし、私権時代を通して、支配者階級と被支配階級の差は明白です。中世の世においても公家、僧侶、武士はたびたび酒宴をもよおし、食生活を楽しむ機会に恵まれていたのに対し、彼らに種々の生産物を提供していた農民の食生活は前代からほとんど変化していません。蓮如上人が奥州地方に下向し、大農家でもてなしを受けたとき「日ごろ食するものをこしらえよ」というと、農家の主は稗粥(ひえがゆ)を出してきたという。(「空善記」より)大多数の農民は米を生産していながら相変わらず米を食することは出来なかったというのが事実ではないでしょうか。  
 
孔子の食事

孔子(BC552−479) 多様な価値観が交錯する中で、論語の一節一節はわれわれ日本人には身近な教訓として、欠くことのできない存在です。  
「子曰ク、学ビテ時ニ之ヲ習フ、亦タ説バシカラズヤ。朋アリ遠方ヨリ来ル、亦タ樂シカラズヤ」  
「故キヲ温ネテ新シキヲ知ル」 
「巧言令色 鮮(スク)ナシ仁」等々  
紀元前500年、吉野ヶ里さえ影も形もない時代に、かかる偉大な思想・哲学が存在していたことは驚異でもあり、中国の底知れぬ力を感じます。その孔子の言行を弟子たちが記した「論語」の中に珍しく、孔子の日常生活、衣・食・住を生々しく描いた異色の篇、「第十郷党篇」があります。郷党、つまり都の近郊にある孔子の家庭の日常生活を記したもので、当時のインテリクラスの食生活の一端がうかがえます。  
「食(いい)ハ精(しらげ)ヲ厭(いと)ワズ、膾(なます)ハ細キヲ厭ワズ」と続きますが、現代語に訳すと、「孔子は飯は精米されているほど、膾は細かく刻んだものほど好まれた。飯がくされて味が変わり、魚がいたみ、肉がくさったもの、食物の色、臭が悪いものは食べず、煮加減がよくなければ、また季節はずれのものは食べず、切りめが正しくなければ食べず、だし汁(醤)なしには食されない。肉はいくら多くても飯の量を越えない。酒量は決まっていないがいくら飲んでも乱れるまでいかれない。自家造り以外、市場で買った酒や肉の乾物は決してとられない。」  
白いご飯、細かく刻んだ肉、適当なダシのついた料理、等々、好みはなかなかゼイタク、衛生的、凝り性で、現代風にいえば食通、グルメというところでしょう。聖人と云えば、清貧に甘んじた生活態度を想像しがちですが、孔子は「衣食足リテ礼節ヲ知ル」と云いたげな食生活であったようです。食は文化なりと大声をあげる必要はありませんが、醤がなければ食事は取らぬ、とは云い得て妙。われわれ醤油、調味料をつくっているものにとっては、我が意を得たり、というところです。当時の醤は、細く切った肉に塩と麹を混ぜ、酒を加えて密封したものだったようです。  
孔子が活躍した春秋戦国の世は、紀元前4-5世紀、この時代は日本で云う足利末期のように政治は乱れに乱れた時代ですが、その中にあって、礼儀正しく、食事のマナーらしいものを感じさせるのは、さすがです。時はくだり、處(ところ)は中国から日本へ、奈良、平安時代へと国家としての形が整ってくると、宮廷には料理を司る役所が生まれるし、鎌倉から室町時代になり、現在の醤油の完成とともに、懐石料理といった日本独自の食文化も育ってきます。さらに江戸時代には庶民の食生活も豊かになり、明治維新以降、洋食・中華料理の移入と、変遷を重ねてきますが、20世紀の後半、食糧不足の時期を克服してからの食生活はめまぐるしく変化してきました。そして、20世紀から21世紀へ、日本の「食」はあるいは高級化へ、あるいは簡便に、あるいは美味追求へと、あくことなく進むでしょう。食は文化、社会の一断面とは、よく云われます。  
論語の一節をひもときながら、味の追求には、食生活の底に無意識に流れる社会の風潮への広い視野なくしては成り立たないのではと考えます。しかし一方、食生活は、人類の本能である「食」を見直し、安全、健康、栄養の視点とともに、精神面をも重視した新しい食文化を模索し、健全な社会を目指そうと、「食育」が叫ばれています。  
 
鎌倉時代の人は身長が高い

気候が温暖であった、残された大鎧による推測、一部の遺骨からの推測などから、どうも一部地域(鎌倉市付近)の「坂東武者」が平均身長が他の地域よりも大きいとの説ではないでしょうか。が、あくまで武将という戦闘に特化して限られた人が使ったと思われる鎧や遺骨からの推測のようです。実際(武士だけでなく農民)の平均身長は結構低いみたいですね。 
気候と身長 
現代はどんな時代かを考えるとき、忘れてはならないのは、日本独自の気候・風土である。 
若者の伸長の伸びを、戦後、食生活が西洋化して、動物蛋白が多くなったせいだと、誰でも考えたくなる。ある著名な生理学者などは、日本人が今まで身長が低かったのは、米ばかり食べていたせいであるという暴論まで吐いた。しかし、日本人の身長が高くなったのは、動物蛋白中心の食事のせいでも、米を食べなくなったせいでもない。 
なぜなら、この身長の伸びは、戦後まもなくの頃からすでに顕著だからである。つまり、戦中戦後の最悪の食糧事情にもかかわらず、そのさなかに育った人たちが青少年期にぐんぐん大きくなったのである。また、それ以後の若者たちにしても、彼らを産んだ母親たちは戦前、米ばかり食べて育った世代である。 
また、栄養が体型と関係があるのなら、西洋化した食生活が欧米人的な体型をつくり出しそうなものである。しかし、最近身長が高くなった若者たちの体型をよく観察すると、けっして欧米人のそれと同じではない。 
欧米人の体型の特徴は、胴が短く、足が長い。これにくらべて、日本人は胴が長く、足が短い。いわゆる胴長短足の体型である。最近の若者は、確かに足も長くなったが、それ以上に躯幹[クカン]部(胴の部分)が長い、つまり、坐高の高さで身長の高さをカバーしているわけで、体型の比率からいえば、依然として胴長短足の日本人的体型から脱していないのである。 
むしろ身長は高くても、貧弱の体格だったり、逆に肥満して、しまりがない若者たちを見ていると、あきらかに彼らの食生活の不均衡さを感じられる。いや、食生活のみが身長や身体のバランスを、はたしてどの程度変えるのか疑問になってくる。 
鎌倉時代の鎧が大きいのは、なぜか 
日本列島は、ほぼ300年おきに暖かい時期と、寒い時期を交互にむかえている。つまり、600年を一サイクルとする気候周期があるわけだが、これは、日本列島をめぐって流れている寒流と暖流のぶつかっている地点の移動に関係がある。 
現在、サケが捕れるのは北海道が本場で、本州ではせいぜい北上川か阿武隈川が限界である。それより南の河川にはサケは姿を見せない。カム・バック・サーモン・の呼びかけで、多摩川でもサケを放流しているが、サケが帰ってくるかどうかはまだ不明である。ところが、江戸時代には利根川の関宿(現・千葉県)あたりでもサケはよく捕れた。平安時代に遡ると、和歌山県の熊野川でサケが捕れた記録もある。 
サケが捕れなくなったのは、乱獲したからというわけではない。現在では、寒冷気の平安時代や江戸時代にくらべて、寒流がその流れを変え、はるか北に後退したせいである。そのかわり、近年、カツオやイワシなどの暖流系の魚が日本近海でよく捕れた。だが最近では、それらの魚の多くは近海から遠海へと移動し、サンマも三陸のはるか沖合いでなければ捕れなくなった。 
寒流と暖流は、時代によって北上したり南下したりして流れを変化させる。そればかりでなく、陸地に近づいたり、沖合いに離れたりするので、陸との距離で日本列島の気温を変え、作物に影響を与えたり、日本人の体格まで大きくしたり、小さくしたりする作用があるのではないかと考えてはどうだろうか。 
歴史上の記録、出土品などが何よりもそれを証明している。高温期の日本人は身長も高く、がっちりした体格をしているが(現代の若者が背が高くても体格が貧弱なのは、先述したように誤った食生活のためである)、寒冷期は背が低く、からだつきも小さめである。 
高温期にあたる南北朝時代(14世紀)の墳墓から発掘された骨を調べると、当時の男性の平均身長は五尺四寸七分(約166cm)と推定され、現代の成人男子の平均身長とほぼ同じである。この時代の武将たちが身につけて戦場を駈けめぐっていた鎧は、どれも大きい。わざわざ身体に合ない、重くて動きにくい鎧を着て出陣するはずはないから、当時の日本人の体格がよかった何よりの証拠である。 
日本人の腸は、欧米人にくらべて極端に長い 
これにくらべて、寒冷期にあたる平安時代や江戸時代の男女の体格は貧弱だった。とくに江戸の天明年間(18世紀後半)には、寒冷のために東北地方は大飢饉に見舞われたが、この頃の日本人の身長は男で五尺二寸(約157cm)、女で四尺八寸(約145cm)がせいぜいであった。 
中国では辛酉[シンユウ]革命といって、60年ごとにめぐってくる辛酉[カノトトリ]の年を基準に変革期が訪れ、その10倍の600年ごとに王朝が交代すると伝えられているが、これが寒暖の周期と一致することを発見したのは、ハンチントンというアメリカの気象学者である。 
地球の北半球は寒冷化の傾向が伝えられているが、日本では日本列島をめぐる海流のおかげで、現在、少しずつ暖かくなっている。今から130年ぐらい後にはそれが頂点に達し、南方の海岸にはバナナやヤシの茂る風景が見られるかもしれない。そしてその頃には、日本人の身長は胴長短足のまま、さらに大きくなっているはずである。ちなみに、日本人が欧米人よりも胴長短足なのは、消化器官、とくに腸の長さがずいぶん違うせいである。 
たとえば、動物でいえば肉食のトラやライオンと、草食動物の牛や馬とでは、腸管の長さがまるで違う。ライオンの腸が体長の5-6倍であるのにくらべて、草を反芻(ハンスウ)する牛は20倍、羊は25倍もある。人間もこれと同じで、穀食を中心とした雑食民族である日本人の腸は、肉食民族の欧米人にくらべて約90cmも長いそうである。これには医学者の中にも異説があるが、私はこの説を一応信じて、私見を展開したいと思う。 
この腸管の長さの違いは、そのまま体型の違いとなって現われたのが、欧米人の胴短長足と、日本人の胴長短足である。そして、数千年に浄化かって築き上げ、遺伝因子化しつつある身長伸縮の事実は、たかだか100年や200年、今さら急に欧米型食生活を試みたところで変わるものではないだろう。欧米型の食生活をすれば、すらっとした足の長い、カッコいい若者が増えるというものではないということでである。 
つまり、日本人は日本独特の気候・風土や民族的な遺伝因子から逃れるようにはできていないし、まして逃れる必要もない。明治以来、ひたすら欧米から学び、第二次世界大戦後はアメリカ型生活に憧れてきたのが現代史の一面である。しかしその反面、日本独自の環境や風土的条件と、その中での生活様式が歴史を規制している、ということも忘れてはならないのである。  
時代別の日本人の平均身長 
縄文時代 男性159cm 女性147cm 
弥生時代 男性162cm 女性151cm  
古墳時代 男性162cm 女性152cm 
鎌倉時代 男性159cm 女性145cm 
室町時代 男性157cm 女性147cm 
江戸時代 男性156cm 女性143cm  
明治33年 男性158cm 女性148cm(1900) 
昭和14年 男性167cm 女性153cm(1939)  
 
鎌倉時代の食事

20年前にNHKから出ていた「歴史への招待」で鎌倉時代の食事を再現していたのがありました。当時の武士は身体が大きかったかというとそうでもなかったそうです。大きくても170cmくらいではないかとのこと。鎌倉時代の日本人の身長が大きかったと言われるのは地球の気候が温暖期で少し大きかったのではないかと言われますが、あくまでも憶測でしかないそうです。鎌倉時代の他に戦国時代の武将が驚異的な体力を持っていたことはあちこちで伝承されていますが、あながちマユツバとは言い切れないようです。強飯(玄米を蒸したもの)、魚、野菜といった料理が主流だったそうです。それらを食べるとしたら、100回以上の咀嚼が必要とのこと。 
明治時代の御雇外国人医師、エルヴィン・フォン・ベルツが著書「ベルツの日記」に、当時の日本人の体力に驚いたとエピソードに書かれています。ドイツの医学者ベルツ博士(1849−1913)は1876年東京医学校教師として来日、1905年帰国。その間日本に約30年滞在、近代医学の発展に貢献しまた。さらに、脚気の研究や温泉療法とともに草津温泉を広く紹介し、あかきれ、しもやけの薬ベルツ水は今も市販されています。 
ベルツ博士は、東京から110km離れた日光に旅することになり、馬を6回取り替え14時間かけやっとたどり着きました。もうひとりの人は人力車を使って日光に行きました。馬と人力車はどちらが早く着いたと思いますか?人力車はなんと30分遅れるだけで、それも交代なしで日光に到着しているのです。馬の力と書いて馬力です。馬力と言う言葉から精力、活力、体力をイメージします。また、スタミナの代名詞に使われているように馬の力の方が優っていると思いがちです。 
ベルツ博士は、人力車の車夫の食事を調べると、玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵だったのです。日常食も米・麦・粟・ジャガイモなどの低蛋白質、低脂肪の粗食でした。肉も食べずにこれだけの力が出ることに驚き、そこで、ドイツ栄養学を適用すればより一層の力が出るであろうと、ベルツ博士は食事の実験を行いました。 
22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人におにぎりの食事他の1人に肉の食事摂らせ、80kgの荷物を積み、40km距離を走らせ、どちらが長く続けられるかを試したのです。結果を見ますと肉料理を加えた車夫には、疲労が甚だしく募り3日でダウンし、もとの食事にもどしました。では、おにぎりは3週間走り続けることが出来ました。肉の食事の車夫も、食べ物を元に戻すと元気に走れるようになったそうです。 
この経験からベルツ博士は、帰国後ドイツ国民に菜食を訴えたと言います。 
外国人が見た文献に、フランシスコザビエルは天文18年(1549)に「彼らは時々魚を食膳に供し米や麦も食べるが少量である。ただし野菜や山菜は豊富だ。それでいてこの国の人達は不思議なほど達者であり、まれに高齢に達するものも多数いる」といっていた。  
大森貝塚の発見者であるモースも、明治10年(1877)横浜に到着、日本人のすごい体力に驚いている。「日本その日その日」の中で、人力車を引く人がおよそ50kmも休みなしに走りつづけること、また利根川を船でおよそ100km下った時、一人がずっと櫓を操っていたことなどを紹介しています。 
現在の栄養学から見れば、戦前の日本食は粗食と見なされますが、日本人の唾液量、胃腸の長さに適応していた食事だからこそ外国人のビックリした体力を持っていたのではないでしょうか。今の日本人にこのようなパワーがありますでしょうか。  
 
骨からみた日本人

縄文人の骨は丈夫だった、人類がどう変わってきたのかを研究している、国立科学博物館の馬場悠男さんに「骨」の進化についてうかがいました。国立科学博物館人類研究部(新宿分館)に収蔵されている日本出土の人骨資料は、現在約4、000体。その多くは縄文や室町、江戸といった日本史の授業でもお馴染みの時代に生きていた人々の骨です。 
157cmのアマレス体系  
「縄文人とそれ以前の人の骨は、確かに丈夫だったと言えます。でも農耕文化が広まった弥生以降は、基本的に変わりませんね」  
遺伝的に見ると今の日本人は渡来系弥生人、つまり北方アジア人の影響を強く受けているといいます。一方、弥生人以前に日本に定住していた縄文人は、昔から東アジアに住んでいたのではないかと考えられます。昔のホモサピエンスの特徴を持つ縄文人と、北方由来の弥生人に近い特徴を持つ現代人、そこにある遺伝的な相違を考えれば、一概に縄文人と現代人を比較することはできませんが、ある種の骨のかたちや厚みを見る限り、縄文人はやはり丈夫な骨を持っていたと言えそうです。  
「軽量級のアマチュア・レスリング選手のような感じでしょうか。縄文人の平均身長は約157cm(成人男性)と小柄でしたが、体つきはがっしりしていた。鎖骨の長さからすると肩幅もあったようです。筋力も相当あったはずで、たとえば大腿骨に筋肉が付着する部分などはかなり大きく隆起しています。骨の形でいえばスネの部分、脛骨ですね。現代人を含め、弥生以降の人の脛骨は断面がほぼ三角形なんですが、縄文人の多くはこれが前後方向に伸びた「ひし形」をしています。食糧を求めて山野を駆け回っていた彼らの暮らしぶりを考えると、これは、脛骨にかかる前後方向の負荷に耐えるための構造的適応と言えるでしょう」 
現代人に比べ、縄文人の「スネ」が後方に伸びたひし形をしていたことがよく分かる。こうした変化はふつう生活習慣によるところが大きいが、現役のサッカー選手でもここまでの変化は稀なことから、何かしら遺伝的な要素が作用していると考えられる。縄文人のケースと同様、生活習慣を反映した脛骨の変化は、数千年後の江戸時代にも見ることができます。縄文人のような「ひし形」ではないものの、発掘された江戸の人々の脛骨は太く頑丈で、着物を着ていたために、膝から下であおるように歩いていたことによる影響が見受けられるそうです。 
縄文人はいい顔ぞろい 
脚や腕などとは別に、縄文人には、後に農耕社会を築いていった弥生時代以降の日本人にはない大きな特徴があります。 
「顔ですね、特に顎の骨。レントゲン撮影してみると、縄文人とそれ以降の時代の人の骨とでは下顎の緻密質の厚さがかなり違いますから。木の実など固いものをたくさん食べていただろうし、小魚なら丸ごとでしょうね。それが証拠に、縄文人の歯の多くは歯冠のエナメル質が見事にすり減っているんです」  
ずらりと居並ぶ頭蓋骨のなかで見事、馬場さんの眼鏡にかなったのが、この「縄文美人」。「私の考える美人の条件は、まず横顔に品があること。そうやって見ていくと、どうしても噛み合わせのいい縄文女性に行きあたります。これだけ引き締まった口元はそういませんよ。きっときれいな横顔だったんでしょう」 
実際に縄文人の下顎骨を見せてもらったところ、歯の噛み合わせ部分に窪みがなく、真っ平らなものが多いのに驚きます。さぞや虫歯になりにくかったのだろうと思って聞いてみると、噛み合わせ部分ではなく歯の側面に虫歯の痕跡が見られるそうです。  
「ただ弥生以降の人に比べれば明らかに少ないですよ、虫歯は。それと縄文人の多くはとても歯並びがいい。よく咬むことで顎自体が発達し、歯も減るので、上下の噛み合わせがピシッと決まるわけです。もともと鼻が高くて立体的なのが縄文人の顔です。そこにシャキッと引き締まった口元がくるわけですから、きっと顔立ちのしっかりしたいい顔が多かったんでしょう」  
固い食べ物を咀嚼することで鍛えられた縄文人の顎の形は、その後、稲作が広まり柔らかいものを常食するようになるにつれ、次第に影を潜めていくことになります。 
骨が語る食卓事情 
現在では古人骨に残されたわずかなコラーゲンの組成から、その人の生前の食生活をかなり正確に解読できるようになりました。安定同位体分析によれば、現在の関東平野あたりに住んでいた縄文人の食生活は、戦前日本人のそれに近い内容だったとされています。  
「グルメとは言いませんが、かなりいろいろなものを食べていたことは確かですね。当時のカルシウム源としては、海辺なら小魚や小エビなどを中心に、アサリやハマグリ、カキといった貝類。内陸部では川魚をはじめクルミなどのナッツ類。スズメやネズミのような小動物は骨ごと食べていたと考えられます」 
牛乳はおろかまだ牛さえも存在しなかった縄文期の日本で、人々は山海のさまざまな恵みから、カルシウムを得ていたのでしょう。しかし彼らの骨の内側に目を向けると、そこには当時の厳しい暮らしぶりを物語る痕跡が刻まれています。  
「栄養失調や病気などで一定期間成長が止まると、骨の両端に化骨作用が起きて、レントゲンで見たときに、ハリス線と呼ばれる横線が残ります。縄文人の骨にはこれがかなりの頻度で見られますね。丈夫そうに見えても、栄養状態は相当不安定だったのでしょう。それから背骨には骨粗しょう症の痕跡を見ることも珍しくありませんが、現在のように加齢が大きな要因と言えるかどうか、縄文人の寿命はせいぜい35歳から40歳だったわけですから」 
縄文人より小さかった江戸人  
有史以来、私たち日本人の身長はゆるやかに伸び続けてきた、それがごく一般的な認識ではないでしょうか。しかし縄文から現代にいたる数々の骨の計測データは、日本人の身長が常に上昇カーブを描いてきたわけではないことを示しています。  
「明治頃までで見ると、日本人の身長が最も高かったのは、実は弥生から古墳時代にかけてなんです。この時代の人々は大陸から渡来したいわゆる北方アジア系で、成人男性の平均身長はおよそ163cm、女性は152cmほどありました。逆に最も小さかったのが江戸末期から明治初頭にかけての人々です。男性の平均身長は155cm、女性は143cm程度でしたから、縄文人の平均身長よりも小さかったことが分かります」  
社会がかたちづくられ人々の暮らしに安定がもたらされるなかで、しかし身長は下降線をたどりました。なぜでしょう。「ひとつには一定の資源を分かつために、人間一人ひとりのサイズが小さくなったということです。乳幼児の死亡率が下がることで個体数(人口)は増えましたが、食糧資源には限りがあるため、一人ひとりの栄養状態はなかなかよくならない。要するに人々は死なない程度にカツカツの状態で生きており、その結果として体が小さくなった。そう考えるのが自然だと思います」  
現在、日本の総人口は江戸中期のほぼ5倍に達し、平均身長でも当時をはるかに上回りました。その背景に医療技術の進歩と栄養状態の向上があったことは言うまでもありません。 
モダニゼーションと日本人の奇跡  
「条件さえ整えば、縄文人も現代人と同じくらいの平均身長になっていたかもしれません」 
明治維新以降、文明化とともに日本人の体格がみるみる向上していったことはよく知られています。明治4年には、当時の新聞雑誌に「天皇陛下は毎日2回牛乳を飲む」という記事が掲載されたことで国民の間に牛乳飲用の習慣が広まるなど、栄養面の改善も進みました。  
古墳時代を頂点に下降線を描いてきた日本人の平均身長は、この時期を境に10年に約1cmのペースで上昇し始めます。 
「明治以降もそうですが、急激に変わったのはやはり戦後でしょう。成長期に牛乳を含めた動物性たんぱくやカルシウムをしっかり摂りその効果がこれほど顕著なかたちで表れた国も珍しい。縄文人はおよそ1万年をかけて3-4cm身長を伸ばしましたが、戦後の日本人は数十年足らずの間に10cm近くも大きくなりましたから」  
明治以降に見られる日本人の急激な変化は、これまでの人類学の物差しでは計れない種類のものだと馬場さんは言います。 
「言ってみれば時流化、モダニゼーションですね。つまり遺伝子変化をともなうものではないわけですが、一方で私たち日本人にそれだけの遺伝的素養があったことも事実です。日本人の平均身長がここ数年停滞しているのを見ると、今の170cmちょっというのは日本人の素質でいうマキシマムの値なんだと思いますね。反対に、江戸時代の平均155cmは日本人のミニマム値でしょう。遺伝的な制約のなかで、栄養状態がよければ大きくなるし、そうでなければ小さくなるというわけです」  
日本全体で見れば、現代人の体格はほぼピークに達したとされています。ただ1人ひとりのピークを引き出すという意味では、バランスのとれた栄養摂取は今も重要なファクターだと言えそうです。「私も飲んでますよ、ミルクティーを毎日4杯。もちろん身長云々ではなくて体のためですけれど。よく現代人は弱くなったなんて言いますが、私はそうは思いません。骨を見てると思うんです、ひと昔前の同世代と比べたら私だってずいぶん若い方なんじゃないかって」  
 
鎌倉時代の気候

鎌倉時代は、古気候学の分野では中世温暖期というやや暖かい時代に属します。江戸時代は小氷期。 
世界的に見て、中世温暖期の最盛期は8-10世紀ぐらい。小氷期が15世紀ころからとされています。アジア地域では、これらが、いつごろから始まったか、今と比べてどの程度暖かかったか、あるいは寒かったかということについては、細かいことはわかっていません。特に中世温暖期は、世界的に十分わかったとはいえません。ですから、ご質問に即して、例えば米の作柄指数が鎌倉時代や江戸時代がいくつぐらいだったかを推定することは現在のところ無理です。ただし、歴史的な事実や科学的な分析から知られている過去の気候変動に関することがらはいくつもあります。わかりやすいところでは、ヨーロッパではブドウの収穫日、日本では観桜記録や諏訪湖の結氷記録でしょうかね。気候変動の原因についてはよくわかっていませんが、小氷期は、マウンダー極小期と呼ばれる、太陽の活動レベルが低い時期にあたっています。こうした地球外の要因とあわせて、海洋や大気、氷河、植生など地球自体にも気候を変動させる要因は沢山あります。なにか原因を決め付けてあるような記述があればそれは、眉唾です。 
中世温暖期 
西暦800-1300年は、現在並み、あるいはそれをやや上回る温暖な時期であった。この現象は全地球的に見られた。この時期、ヨーロッパではノルマン人が大西洋を渡ってグリーンランドに入植している。この頃の大西洋には流氷がほとんど見られなかったという。アイスランドではエンバクなどの麦類が栽培可能であった。この温暖期を中世温暖期(Middle Ages warm epoch)と呼ぶ。このときの太陽活動は、西暦1100-1300年には現在並みに活発だったとされる。100年オーダーで気候を見ると、太陽活動が最も影響しているように見える。 
図は昔の日記や年代記によってわかったサクラの満開時期から計算した、京都の3月の平均気温の推移である。この時代はデータの数が少ないので精度は悪いが、それでも西暦1200年を中心に、気温の高かった時代があったことが定性的にわかった。おりしもこの時代は日本の平安時代。のんびりとした時代が続いたのも、この中世温暖期のお陰だったのかもしれない。そういえば、当時の貴族の館は「寝殿造り」と呼ばれる、いかにも風通しのよさそうな、というよりは寒そうな様式をしている。こんな中世温暖期だったから、貴族も寒さに耐えられたのかもしれない。  
小氷期 
太陽の黒点が少ないことは太陽活動が不活発なことをしめす。13世紀以後、この太陽の黒点が急に少なくなり太陽活動が不活発な時期が繰り返してやってくるようになった。その時期は1300年頃、1460-1550年、1660-1715年、そして1800年前後である。1300年頃の極少期をウルフ、1460-1550年のそれをスペーラー、そしてとくに西暦1660-1715年のおよそ70年間の太陽黒点がほとんど無くなった顕著な黒点極少期間をマウンダー極少期(Maunder minimum)という。 
この3つの時期は、サクラの満開日から推定した京都の気温の低かった時期とかなりシンクロしている。サクラの満開日による3月の京都の気温は冬季の気温にかなり似た傾向を示すと思われるが、やはり、この太陽活動の不活発な時期は、世界的な気候悪化、寒冷化が見られた時代と、全般に一致するようだ。西暦1300年以後、1850年までのこの期間を、小氷期(Little Ice Age)と呼ぶ。この時期には各地で氷河の前進が起きた。日本でも西暦1300年を過ぎると気候悪化が生じて降水量が増え、濃尾平野などでは河道変化が繰り返された。 
特にマウンダー極少期とその次の極少期にあたる1600-1850年の寒さの程度はものすごく、小氷期をこの時期に限定する場合もある。この時期、日本では大雪、冷夏が相次いだ。淀川が大阪近辺で完全に氷結したこともある。大阪の河内地方ではそれまで盛んであった綿作が、気候寒冷化・降水量増加にためにイネ・ナタネに転作を余儀なくされたらしい。そういえば、この時期の大坂城代が雪の結晶を観察、絵にしているという話を聞いたことがある。そんなこと、現代では北海道でしかできないのでないか。ともあれ、この時期、とくに19世紀初頭は寒かったらしい。日本では小氷期のうちでも最も寒冷な期間、たとえば1830年代と1980年代を比べると冬や春の平均気温は2℃程度、京都に限ると3.4℃も現在よりも低かったと推測される。  
 
鎌倉街道

一宮の街には、古道の跡がまだ残っている。九品地公園を抜けて、真清田(ますみだ)神社の東を古道の面影を残す無量寿寺裏の道から浜神明社を通り、155号線を過ぎるとお寺が密集している。真光禅寺、高陰寺(跡)、常念寺、廻向院、福寿院、既得寺。古い寺院も多く、かって街道が通っていたことを裏付けている。高陰寺は天正以前、常念寺は明徳元年(1390)の開山である。福寿院は神亀年間(724-729)行基の草創、既得寺は広永年間(1394-1428)だ。 
浜神明社は垂仁天皇の時代、倭姫命がここに滞在したという。往時は潮がさしこみ、姫の舟を繋いだとする松や腰かけ石がある。潮がさしこんでいたというのは、あながち嘘ではない。それでも、名古屋の南が海であったことは知っていたが、こんなところまで海であったのであろうか。 
温暖化で海面の上昇が心配されているが、過去そういうことは何度もあった。逆に海面が下がっていたり、大陸移動があったりして、大昔、日本が大陸につながっていたことはよく知られている。そんなに過去にさかのぼらなくても、海面の上がり下がりぐらいは、よくあったことがわかった。 
最後の氷河期が終わって(6000年前?)から紀元前4000年頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった。これは縄文草創期から縄文前期に相当する。縄文前期の中頃では、現在より平均海水温が約2℃、海面が約4m高くなっていたようだ。これは、縄文海進とよばれている。 
縄文時代中期後半以降、気候が再び寒冷化し海岸線が徐々に後退し始める。海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていった。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだ。  
西暦600年ころから再び気候温暖になり始め、700年-1300年の間は世界的に比較的温暖であったらしく、気候小最適期とよばれている。1400年ころ気候が再び寒冷化していって、現在の地形になったようだが、鎌倉時代は気候温暖で今より2mほど海面は高かったことになる。 
垂仁天皇の時代は紀元前後。もう寒冷化に向っていて、まだ鎌倉時代のような温暖化には至っていない。とすると松に舟を繋いだというのは眉唾物である。にしても、こういう伝説があるということは、縄文時代には海が迫っており、その記憶が代々伝えられていって、別の話と一緒になったということはある。 
浜神神社からは、ところどころに地蔵があったりするそれらしい道を、ともかく、大江川に沿って、南に下ると、牛野通りと川田町のあたりに牛野神明社が見つかる。そこには、照手姫袖かけ松と言われる松があって、石碑に以下の由来が書かれてある。 
浄瑠璃、歌舞伎で名高い照手姫が室町時代中頃、常陸(茨城県)の城主小栗判官助重と恋の道行の折、鎌倉街道脇のこの地の松に小袖を掛け、しばし休息したと伝える。鎌倉街道はこれを因んで小栗街道とも呼ばれる。 
小栗氏は桓武天皇の血をひく常陸・平氏の一族で、常陸国真壁郡小栗(現在の茨城県真壁郡協和町)を本拠地として、鎌倉時代には御家人であった。室町時代の1411年10月に鎌倉公方に叛して兵をあげ、小栗満重は自刃。その子助重は、一族の領地のある三河の国に逃れ、結城合戦で戦功をあげ領地を回復したが、1455年落城し、助重の消息は不明となった。 
「鎌倉大草子」によると、助重(小栗判官)は、三河の国へ逃げる途中、盗賊に毒を盛られようとするが、遊女照姫に助けられ、無事危機を脱する。やがて、旧領を回復し、照姫を探し出し、照姫は、判官死後も判官と毒殺された家来どもの霊を弔いながら余生を送ったという。この話が、説教説という中世の口承芸能によって広められ、様々な尾ひれがついて、その地その地で色付けの違った物語になっていったようだ。 
「小栗実記」では、相模の国(神奈川県)の盗賊は、郡代・横山一統になっており、謀略で毒酒を盛り殺害されようとするが、これを察知した横山の娘照手の機転により一命を取り留めたことになっている。小栗は、口に含んだ毒酒の害で、目も見えず、耳も聞こえず、口もきけず、といった重病人(餓鬼病)の姿となる。一方、照手も家を追われ、流浪の身となり、苦難に満ちた日々を過ごしていたが、家臣らの助けもあり小栗判官との再会が叶う。しかし小栗判官の病は意外にも重く照手の強い思いで、治療のため、歩行もかなわぬ小栗を土車に乗せ、人の情けを頼りに熊野湯の峯を目指しての道行きとなる。  
 
寒暖の歴史 気候700年周期説

西岡秀雄先生が「寒暖の歴史 気候700年周期説」を出したのは、昭和24年(1949)時だった。日本に生育した老樹の年輪、河川湖沼の凍結記録、アシカのような北洋海獣の南下、ハイガイその他の特殊魚介類の消長、東北に多く出土する遮光器土器(雪めがねだと考える)、トチノキ自生地帯の推移、桜の開花時期の遅速、オーロラの出現頻度、近年の気温上昇化現象、遊牧民族の移動、等々多方面の資料を駆使して、日本のみならず世界で、約700年を一波長とする寒暖の波が過去数千年間に繰り返し訪れているという事実を見出し、仮説として世に問うた。  
気候700年周期を、日本の政治史、文化史で見てみると、政治の中心が、暖かい奈良・平安時代には関西地方に占められていたが、寒い鎌倉時代には関東地方に政権の中心が移った。しかも暖かい室町・桃山時代には、再び関西へ、そして寒い江戸時代とそれに続く明治時代には関東へという具合になる。文化史では、暖かい奈良・平安時代には明るくロマンチックな王朝文化が栄え、寒い鎌倉時代には質実剛健の気風がみなぎる。暖かい室町・桃山時代には、再び絵画・建築・庭園などの文化が進み、寒い江戸末期は天保・天明の大飢饉を始め社会不安が次第に増大していった、というのである。  
 
建築と気候条件

近代文明以前の段階の建築では、気候や風土の違いにより建築構法が大きく異なることは、世界各地の歴史的建造物をみても明らかであり、また建築に使われる資材も気候風土、調達の容易さおよび文明の発達の度合いにより各地域で異なる。四季の変化がある地域では、さらに、どの季節に合わせた建物にするかが問題となるのです。 
夏に高温多湿のわが国では、冷房設備の無い時代にいかに涼を取るかが重要な問題となります。冬の寒さは何らかの方法で暖を取ることにより、いかようにも過ごし得るが、夏の涼は自然の通風に頼るしかない。 
まさに「家の造り様は夏を旨とすべし」なのです。 
19世紀に鉄筋コンクリートによる一体構法が出来る以前の建築構法は、石造や塼造(せんぞう)にみられるように石やレンガなどをブロック状に積み上げる組積構法か、柱と梁や桁で建物の骨格を構成する軸組構法の二通りが一般的だったのです。 
組積構法は石やレンガなどをブロック状に積み上げて外壁を構成することにより、その壁自体を耐力壁として建物全体を支持するという構造です。このため壁は強固なものでなければならないことから壁厚を大きくするとともに、建物の強度の低下を防ぐために外壁の開口部は必要最小限とすることが求められる。したがって、開口部を広く取ることが難しいのです。西洋の石造や塼造の建物の出入り口や窓が縦長で幅が狭いのはこのためなのです。 
これに対して軸組構法では、壁が無くとも柱と横架材(水平に架ける材)で上重を支えることが出来る構造であるため、開口部は最大限で横幅は柱間(はしらま)いっぱいまで、上下は地覆から軒桁まで広げることが可能なのです。 
乾燥した地域や極寒の地域では外気を遮断することにより、内部の室温を一定に保つことはできるが、高温多湿な地域では開口部を出来るだけ大きくとり自然の通風による冷却効果を得なければ、内部は蒸し風呂同然の状態となり、まことに住みづらい。 
明治時代初期に政府による銀座築地一帯の防火建築計画によって、銀座煉瓦街が明治10年頃に完成したが不評のため空き家が続出し、ほどなく消え去っています。 
明治14年には「防火路線ならびに屋上制限規則」の施行によって都心部の建物を煉瓦造、石造、土蔵造に限定したが、結局商人たちが採用したのは軸組構法による土蔵造であったそうです。その後、丸の内の一丁ロンドンのような西洋のレンガ建築が導入されたが、関東大震災以降は鉄筋コンクリート造に取って代わられた。 
これらをみても石やレンガによる建築が、いかにわが国の気候条件に適合しなかったかが理解できるのではないでしょうか。開口部の少ない組積構法は夏に高温多湿となるわが国には不向きであり、このことが組積構法を取らなかった大きな理由でしょう。 
寺院の建築では、一般に扉や窓などの開口部は非常に大きいうえに板戸や蔀戸(しとみど)の横幅は柱間いっぱいとし、上下は下の地覆または切目から上の内法(うちのり)まで目いっぱい大きくとる。窓、扉ともその数が多く、さらにその反対側にも相対するように扉や窓を設けて自然の通風を充分確保している。この傾向はどの時代においても同じであり、寺院の堂宇の壁面には実に多くの開口部がその柱間に設けられているのです。 
さらには、奈良時代の唐招提寺の金堂や室町時代再建の興福寺の東金堂は、正面一間通りを壁や建具のない柱だけの吹き放ちの礼拝空間としているのがよく知られています。 
平安時代の清水寺本堂の礼堂部分も広い吹き放ち空間であり、中世以降の本堂や方丈でも、京都の法界寺阿弥陀堂、本願寺大師堂、千葉県の法華経寺法華堂などをはじめとして、周囲に吹き放ちの空間を設けているものが多い。 
このように人の集まる空間は通風による涼が得られるように充分配慮がされているのです。 
また神社でも、本殿は人が入らないことが前提であるから普通は開口部が入り口しかありませんが、厳島神社の拝殿や幣殿、春日大社の幣殿、日吉大社の拝殿、福島県の熊野神社拝殿(長床)などにように柱だけで壁部分が全くない全吹き放ちの建築が、人の集まる拝殿や幣殿などには多いのです。 
軸組構法はその構造において、壁が多いほど地震などの水平力への抵抗が増すことは良く知られていますが、それよりも当時は蒸し暑い夏の快適さの確保を優先したのでしょう。暑さ対策としてはこのほか、屋根の螻羽(けらば)や軒の出を深くして、建物の側面に直射日光が当たらないようにして室内温度の上昇を防ぎ、真夏でもひんやりとした清涼感を保つように工夫をこらしています。 
これらに共通することは、明らかにわが国の蒸し暑い夏を意識した建築であるということでしょう。冷房設備のない時代に、如何にして蒸し暑い夏を快適に過ごすかという命題に、自然との共生を考えた日本人の智恵であるといえるのではないでしょうか。
 
入浴(にゅうよく)

主に人が身体の清潔を保つことを目的として、湯や水・水蒸気などに身体を浸すことを指す。 
中東・中央アジア 
紀元前1世紀ごろから、中央アジアで蒸し風呂があったと思われる。これは、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させて入浴を行った。燃料などが少なくて済み手軽に使用できたため、冷水による入浴に適さない地域で広まった。中東では、この蒸し風呂が、公衆浴場(ハンマーム)となった。またロシアや北欧に伝わりサウナの原型ともなった. 
ヨーロッパ 
カラカラ大浴場跡床は美しいモザイクのタイル張りであった紀元前4世紀頃の、ギリシアの都市に公衆浴場が存在した。 
ローマ帝国時代には、各植民都市に共同浴場が作られた。入浴様式は、蒸し風呂の他に、広い浴槽に身体を浸かる形式もあったようだ。217年につくられたローマのカラカラ大浴場は、2000人以上が同時に入浴できたといわれている。古代ローマの入浴は、官営病院を持たなかったローマ人の感染予防施設としても使われた。 
ローマの共同浴場は、時代の流れとともに、大衆化し社交場・娯楽施設としての意味が増してきた。一方で、売春や飲酒蔓延、怠惰の温床にもなった。 
次第にキリスト教の厳格な信者からは、ローマ式の入浴スタイルは退廃的であるとされ、敬遠されるようになった。その後、中世に十字軍によって再び東方から入浴の慣習が伝わったものの、今度は教会が入浴の行為は異教徒的として非難した為に、その後は入浴の習慣は無くなっていった。また共同浴場は、梅毒やペストなどの伝染病の温床というイメージも入浴を衰退させる原因になった。結果、キリスト教徒の間では、入浴は享楽の象徴とされ忌み嫌われ、シャワーが主流になっていった。 
中世ヨーロッパ(特にフランス)では、風呂に入ると皮膚の常在細菌が洗い流されて逆に病気になる、と信じられてきた。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは、建設された当初は使われていたものの、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかった。王侯貴族は入浴の代わりに頻繁にシャツを着替え、香水で体臭をごまかすようになった。これがパリなどのフランスの大都市部の公衆衛生の悪化の原因の一つとなった。しかし、1875年にイギリスで、「公衆衛生法」ができ、入浴が奨励されるようになった。徐々にバスタブによる入浴が行われるようになった。さらに19世紀、イギリスでシャワーが発明される。以後、シャワーによる入浴が世界に広まった。 
日本 
もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。 
仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、一般民衆への開放も進んだといわれている。特に、光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。 
平安時代、鎌倉時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を、上級の公家や武家の屋敷内に取り込む様式が現れる。「枕草子」などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。 
浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が、一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。 
だが、漢方医の間では、入浴の習慣が広まることに危機感を覚えるものもいた。いわゆる後世派と呼ばれる医師たちは温泉療法以外による入浴は体内の気を乱して体に悪影響を与えると考えていた。貝原益軒の「養生訓」にも10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は却って毒となると書かれている。だが、古方派とされる医師たちは実証主義観点から、適度な入浴は気の循環を良くして体内の毒物を外部に排出するのを助けると論じ、蘭方医も皮膚に垢が付着することの危険性を論じて、「入浴害毒論」を批判している(もっとも民衆にとってはこうした論争は全く関心の外であったことは言うまでもない)。 
現在、世界的に見ても日本人の入浴頻度はかなり高いが、江戸時代は一般的に入浴頻度がそれほど高くなく、銭湯などの共同浴場での入浴が一般的だった一方で、都市においては1日に何度も銭湯に行って入浴する者が多くいる事を記した書物があるなど、地域や生活水準、あるいは季節によってまちまちであった。 
日本の入浴習慣 
一般に、日本人の平均入浴温度は40-43度程度といわれ、高い温水での入浴を好むと言われている。世界的に見ても高い温度の入浴を好む民族といえる。 
日本の浴室は、明治初期まで蒸し風呂を兼ねていた。そのため、蒸気を発生させるために入浴用の湯は高温であった(体を洗う湯は別に用意してあった)とされる。また、日本人が高い温度での入浴を好む理由は、その住宅事情に由来しているという説がある。「徒然草」にも住まいは夏を旨とすべしとあるように、日本の住居は日本の多湿の気候を考慮して、風通しの良い構造が好まれていた。このため冬場の防寒のため熱い温度の入浴が好まれるようになったというものである(特に江戸時代は気象学的に低温の時期だったとも言われ、「疝気」と称される冷えに由来する腹痛が多かったと言われている)逆に真夏は高温多湿の気候により汗をかき易く、かつ、火山島のため、特に江戸などでは粘土質の土であり、外を歩いたり風が吹けば体中が埃だらけになるので、入浴して身体の汗を流しさっぱりとしたいと云う心理も働く為、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土と、火山が多い国土の特徴から温泉が多い事等から、日本人が風呂好きになった原因とも云われる。また、神道や仏教の影響を受け、入浴によって垢を落とすことは、心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。 
これに対して中国では、沐浴を5日に1回行うことが理想とされてきたが、基本的には蒸気浴・あるいは行水の類であったと考えられており、日本人の入浴が特殊であったことを物語っている。他の外国も行水、シャワーを使用する国が多く、日本流入浴法に慣れた人が戸惑うことがある。 
共同浴場(銭湯) 
多数の他人と全裸で入浴をする共同浴場の入浴は世界的に珍しい日本独特の入浴スタイルである。他の国の温泉や公衆浴場では水着や前掛けを着用して入るのが一般的である。また、日本でも昔は浴衣を着て浴室に入っていた。 
公家や武家が邸宅に入浴施設を取り入れ始めた、平安時代、鎌倉時代ごろから集落の密集した都市には、入浴をサービスとして提供する町湯が現れたといわれている。 
江戸時代に入ると、銭湯が大衆化した。1591年に伊勢与市によって江戸に初めての銭湯が置かれて以来、急速に江戸市民の生活に溶け込んでいった。初めは心身的な理由で入浴することが多かった人々の間でも次第におしゃれや娯楽、社会的コミュニケーションの場として銭湯に行く者も増加するようになった。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にしてもらう湯女風呂などが増加した。当時の川柳に「銭湯へ行かぬで下女は毒づかれ」と銭湯へ行かない者を揶揄するものが現れるのもこうした時代背景がある。松平定信は、江戸の銭湯での男女混浴を禁止する御法度を出したりして、風紀の厳しい取り締まりの対象にもなった。(この取締りは、日本の狭小な住宅事情もあり、銭湯側の対処が湯船に簡便な仕切りを施しただけの例が多かったため結果的に浴室が狭くなり、特に女性側から苦情が出た)その一方で幕府が低廉な価格維持(山東京伝によれば享和年間における入湯料は大人10文・子供8文であったという)の代わりに銭湯業者の保護も行っていた。日に何度も銭湯へ通う客のために、月単位で通しで入れる木札を売っていたともいう。 
なお、江戸時代の銭湯の浴室は蒸し風呂を兼ねており、入り口が柘榴口と呼ばれる高さが低い鴨居で湯気が逃げないようにする構造になっており、そのため、浴室内はかなり薄暗かった。そのため、浴室に入るときや出るときには先客に声をかける(例えば、入るときには「冷えものです」等)のが礼儀とされた。なお、柘榴口は明治初期に衛生上の問題を理由に政府の命令によって取り外された。 
明治以前にも、男女混浴は風紀を乱す元として禁止令が出されたこともあったが、効果は薄かった。明治に入ってから、男女別浴が徹底されるようになった。また、トルコ風呂(現在のソープランド)は日本独自の性風俗文化として花開いた。 
日本語における入浴 
青森県津軽地方の方言で「どさ」「ゆさ」と言えば「どこに行くのですか」「風呂に行くところです」という意味であることが知られているように、風呂及び入浴に関する方言は多い。京都では幼児を対象に風呂または入浴のことを「ちゃいちゃい」という表現を用いる。須坂弁では「おべちゃ」と言う。四国の一部では、新築の家あるいは風呂のリフォームをした際、一番風呂を通り掛かりのホームレスや御遍路(四国八十八箇所巡りの巡礼者)、老人に使わせた上、応接間で馳走(あるいはうどん)を振舞うと云う風習がある所がある。
 
鎌倉宮将軍の源氏物語絵 / 宗尊親王の源氏物語色紙絵屏風

源氏物語色紙絵屏風 
平家滅亡と共に源氏物語絵巻は分捕り品として鎌倉将軍家の掌中に帰したらしい。文献にこの源氏物語絵巻がもう一度登場するのは鎌倉六代将軍宗尊(むねたか)親王の所である。 
前にも述べたように、源有仁(ありひと)・藤原忠通などが詞書を書いた二十巻本の源氏物語絵巻が宗尊親王のもとに伝わったことが示され、その由緒ある絵巻をもとに新しい源氏物語色紙絵が制作されたという。「この本伝はりて将軍家にあり」と、その由来が示されている(源氏絵陳状〈げんじえちんじょう〉)。都の天皇のもとに保管されれば、宮中の画所(えどころ)絵師などが手本にしてそれなりに世間に流布することもあったと思われるが、鎌倉将軍家に秘蔵され、関東の地にあって人目に触れることなく伝来した源氏物語絵巻は、宮将軍の代になって初めて陽の目を見たのであろう。 
この絵巻をもとに制作された色紙絵屏風はそれ自体も豪華な新しい源氏物語絵であって、注目すべき作品であるが、その新作屏風について、思わぬ論争がまき起こった。親王家に古くから仕える小宰相(こざいしょう)の局(つぼね)という女房が、色紙絵の内容が源氏物語絵としてはふさわしくないと厳しい批評をつきつけ、もっとよく源氏物語を知る人が運営すべきであったとして、公開文書にして世間に問うたのである。
小宰相のプライド 
「もっとよく源氏物語を知る人」とは文句をつけている小宰相の局に他なるまい。当時六十代であった小宰相の局は藤原家隆(いえたか)の孫、勅撰集に三十九首入集している宗尊親王の御所きっての歌人であり、年齢からいっても、実力からいってもまぎれのない最上臈の女房であり、若い者にとっては煙たい存在だったに違いない。 
小宰相の局は以前には宗尊親王の曾祖母承明門院のもとに女房として仕えており、都で活躍していた女流歌人であった。承明門院の息子で宗尊親王の祖父にあたる土御門院が承久の乱の後、阿波に流されると、院に付き従い、その死を見届けた女房の一人でもある。宗尊親王の父後嵯峨天皇は不遇時代この祖母女院のもとで育ったから、後嵯峨天皇の第一皇子宗尊親王もそこで育てられたのだろう。 
親王自身にとっても頭の上がらないお目付け役のような女房なのである。なぜその小宰相を無視して「源氏物語絵」が企画されたかを詰問するような手紙の調子に、制作にあたった者たちはすっかりうろたえたに違いない。 
責任者の「まさたか」と女房弁の局と長門(ながと)の局はたまらずこれに反論する。この新しい「源氏物語絵色紙」は将軍家に伝わる源有仁・藤原忠通筆の源氏物語絵巻を参考に描いたもので、その参考にした源氏物語絵巻は源氏物語絵としてはもっともふさわしい最高の位の、最高の格の書き手・優れた描き手による優品であって、都にもない宝物である。その絵の内容について批判を加えるなどもってのほかであって、小宰相の局の批判根拠として名が上がったらしい「白拍子(しらびょうし)」などの信用できないテクストとはまったく違うレベルのものであることを公開文書にして宗尊親王に訴えた。 
有仁・忠通絵巻の権威を背負う彼らは、その有利な場所からさらに小宰相の局に追い打ちをかけるように堀河天皇の言葉を引用して駄目押しをする。「源氏物語をほんとうによく知っている人は口を閉じていわないものだ。そうでない者ほど口を開きたがる」……と。 
この痛烈な皮肉に小宰相の局は猛反撥する。第一の公開文書よりもさらに具体的に、その色紙絵の問題点を指摘し、矛盾点を暴き立てる。
小宰相の反論 
原本とした源氏物語絵巻を馬鹿にするわけではないが、自分自身も源氏物語についてのさまざまな説を松殿(関白基房)や源通具(みちとも)の大納言から直接に聞いており、さまざま疑問点を論じ合うことで疑問が解決されることもあるのだから、始めから対話を拒絶するような態度はよくないこと、白拍子の説でも見るべきところはあり、さまざまな本を校合(きょうごう)する場合と同じく、参考にすべき意見が少なくないことを述べる文書を公開し、宗尊親王の判断を求めたものである。 
とりわけこの二度目の手紙には小宰相の局の論理的で雄弁な論争の才能が遺憾なく発揮されている。相手が法性寺関白忠通・花園左大臣源有仁という権威を担ぎ出して来るのでは勝ち目はないが、それでも、個別問題点についてはきちんと疑問を明白にし、忠通に代わる藤原氏の代表関白基房と、源有仁に代わる源氏の代表源通具を引き合いに出して、自己の説の補強を図るなどなかなかしたたかである。とりわけ天皇の言葉の権威によって文句を封じ籠めようとする「まさたか」らに対し、経典を引いて反駁を加える条(くだり)などは、目を見張るばかりの鮮やかさである。 
おそらく歌合や、その他のさまざまな挑み合いの際に研(みが)かれてきたのであろうこのしたたかな論争能力は、家柄や年功序列だけでなく、本人自身の実力によって、彼女が今なお宗尊親王に仕える女房の第一人者であることを示すものとなっている。いわゆる「源氏絵陳状」である。 
宮内庁書陵部所蔵の「源氏秘義抄」に収められた「源氏絵陳状」には、小宰相の局が書いた第一の陳状(公開質問状)は省略されているが、その間の事情を簡略に述べた前文があり、「まさたか」以下の反論の陳状、小宰相の局の再反論の陳状を収めている。 
宗尊親王の色紙絵制作をめぐってのこの論戦は、都から遠い関東の地にあって、熱心な源氏物語論争が繰り広げられていたことを示す貴重な資料であった。
絵の制作責任者 
ちなみに絵の制作貴任者で反論をした「まさたか」は、兵衛督(ひょうえのかみ)という役職名と二条の中将雅経(まさつね)の子息という紹介から飛鳥井教定(あすかいのりさだ)のことだと考えられている。飛鳥井教定は新古今集の撰者の一人である飛鳥井雅経の息子、飛鳥井雅有(まさあり)の父である。彼もまた勅撰集に三十九首入集しているから、小宰相君とは互角の歌人といえよう。 
蹴鞠と和歌と源氏学でこの頃、次第に「家元」のような地位を築きつつあった飛鳥井家の二代であり、当然源氏物語についての知識には頼む所があり、小宰相への反論も高飛車であった。 
いわばこの論争は、ようやく源氏物語が家の学問として固定化していこうとする時期にあたって、それまでの物語の担い手であった女たちの代表である女房小宰相が、専門家である「まさたか」に圧倒されようとして、必死に反撃している場面なのである。 
教定は系図にもあるように、母が幕府の実力者大江広元の娘であり、父雅経は頼朝に気に入られてその猶子となっており、妹は鎌倉幕府の実力者城介義景(じょうのすけよしかげ)の妻であった。その関係で鎌倉に長く在住して宗尊親王の和歌・蹴鞠の相手を務めていた。さらに娘を藤原為家の息子為氏(ためうじ)に嫁がせており、その縁で御子左家(道長の息子長家を始祖とする和歌の家)とも親しく、都と鎌倉を繋ぐ大事なパイプ役でもあった。 
その有力者教定に積極果敢に挑み、対等に論陣を張ってくる小宰相も、さきほど紹介したように新古今集の撰者家隆の孫であって、自身高名な歌人であった。宗尊親王が数年後鎌倉将軍を罷免されて京に戻される際にも、宗尊親王の輿(こし)に付き従う女たちの中に小宰相の名前があった(吾妻鏡)。老齢ながら、小宰相の局は最後まで宗尊親王に奉公を貫いた者なのである。
陳状公開の理由  
それにしてもいわば内輪もめに等しいこのような論戦がなぜ内々の批判に終わらずに、公開文書である陳状というかたちで公にされたのだろうか。 
ある意味では宗尊親王制作の新しい色紙絵屏風にけちのつきかねない非難があえてなされ、それが公開されたのは、この新作色紙絵が、有仁・忠通による二十巻本の源氏物語絵巻という貴重な宝物の絵巻を底本にしたものであることを示し、それを所有する将軍家の権威を誇示する目的があったからに違いない。 
第一の小宰相の陳状が残されず、第二の反論から残っていることもその事情を物語る。さらにその反論には説明書きが付されて序となっているのであるから、この源氏絵陳状は、ある目的のために公表を前提に編集されたものである。 
このようなものが残っているのは、小宰相という女房が戦闘的で自己顕示欲が強かったせいだと寺本直彦は考えているが(「源氏絵陳状考」)、もちろんその個人の性格も一つの要因には違いないが、鎌倉の将軍御所という狭い場所の中では、党派的な恨みや個人的な恨みで互いに足を引っ張っている余裕はなかったろう。 
異質な価値観に生きる武士たちに囲まれ、注目を浴びていた宗尊親王の御所は、ひたすらその文化的な価値の高さ、質の高さを周囲にアピールする必要があるわけで、お互いを非難している場合ではなかったはずである。それではなぜ源氏絵陳状は公開されたのだろうか。
「光源氏」宗尊親王 
もともと宗尊親王は光源氏を思わせる才能と境遇で人々を引き付けた美貌の少年だった。 
二の宮さへさしつづき光いで給へれば、いよいよいまは思ひたえぬる御契りのほどを、わたくし物にいとあはれとおもひきこえさせ給ふ。源氏にやなしたてまつらましとなどおぼすも、なほあかねば、ただみこにてあづまの主になしきこえてんとおぼして、建長四年正月八日、院の御前にて御かうぶりし給ふ。帝の御元服にもほとほとおとらず、蔵寮(くらづかさ)、なにくれきよらを尽くし給ふ。やがて三品(さんぽん)の加階賜はり給ふ。  
という増鏡の叙述は、源有仁の紹介の記事の反復・再現のようだ。 
宗尊親王は「わたくし物」としての寵愛にしても元服の挙げ方にしても桐壺巻の光源氏の成長と元服をなぞるように語られている。母の身分が低いせいで即位への道が閉ざされたところも、それにもかかわらず、父帝の愛が弥(いや)増して注がれたところもほとんど光源氏の経歴そのままである。宗尊親王は当時の人々に光源氏の再来として受け取られていたのである。 
四・五歳のころから「容儀神妙(ようぎしんびょう)」(岡屋関白記)であり、その外出の儀式は「件(くだん)の儀后腹(きさきばら)親王のごとし」と評判されるほど豪華で、后腹の皇子(後深草)を越えて東宮に立てられるのではないかという評判(「この宮近日風聞の聞こえ有るか、この事また是非に迷ふ。しかるべきやいかん」平戸記)さえあったという(中川博夫・小川剛生「宗尊親王年譜」)。后腹の後深草の身体に障害があり、腰が据わらず、歩くことも困難であったからである。 
しかし、后腹の第二皇子(亀山)誕生に及び、宗尊親王の皇位継承の望みは消え去ってしまった。母の身分が低かったため皇位継承者から排除された宗尊親王は、それでも後嵯峨天皇の鍾愛の皇子であり、天皇にしてやることができないならせめて将軍にと、わずか十一歳で鎌倉に派遣された。宮将軍の初めである。
鎌倉の宮将軍 
鎌倉下向直後は親王は病弱で病悩の記事ばかりが目立っていたが、ようやく関東にも慣れ、鎌倉の地でもその才能と魅力を認められつつあった宗尊親王が源氏物語に熱中し、その新作屏風絵を作らせようとしているのである。源氏物語絵を制作させる宮将軍は光源氏にみずからを準(なずら)えているに違いない。 
源氏絵陳状の公開は、そのような宮将軍の性格と姿勢を広く鎌倉の人々にアピールするための政治的な演出の意味があったろう。宮将軍のもとには都にもないような源氏物語絵巻の最高傑作(有仁・忠通絵巻)が所蔵されており、それを粉本(手本)にして、新たに色紙絵屏風が制作されたことを人々に浸透させる効果があり、その色紙絵制作に携わった飛鳥井教定の権威を示し、さらにその教定に対しても互角に論争できるすばらしい教養を持った女房が仕えていることを知らせることができたわけである。 
特に小宰相の局が「白拍子」に歌われる源氏物語の知識・教養も侮れないものであることをいう条(くだり)─  
白拍子どもも、必ず僻事(ひがごと)あるべからず。漢家本朝(かんかほんちょう)の文の詞をひきかけ、詩歌管弦の深き色をとりなし、風俗・催馬楽(さいばら)のやさしき詞を結びて、多く法文聖教の尊き事も聞こゆ。嘲(あざけ)るに及ばず。  
は、鎌倉の地で広まった白拍子による源氏物語の知識が断片的で誤りが多いとして否定する教定らに対して、地元の教養の広がりを弁護するものである点が注目される(寺本「源氏絵陳状考」)。 
徒然草によれば、鎌倉の地における白拍子の歌句は源氏物語河内本(かわちぼん)を校訂した源光行(みつゆき)が作曲したものが多く、小宰相が白拍子を引き合いに出したのは、その白拍子を通じてしか源氏物語の知識のない東国の人々も味方につけて、この論争を戦おうという戦略だったのだろう。 
この論争の経過を公表することで、宗尊親王は白拍子によって、関東の地に根を下ろし始めた源氏物語愛好を、このたびの源氏物語絵制作をきっかけとした源氏物語ブームに巻き込んでいこうとする。源氏物語色紙絵が屏風というかたちで再制作されたのは、どれほど豪華でも、一部の限定された人しか見ることのできない絵巻物ではなく、広く人々の目に触れるかたちで、由緒ある「源氏物語絵」の所有が公表されるためだったのであり、あえて暴露された内輪もめは、論争の勝ち負けに対する世俗的な興味のうちに、次第に宮将軍の権威と、教養、文化を人々に浸透させる巧妙な手段だったのである。
「源氏」将軍のイデオロギー  
そのような配慮を払って、源氏物語の浸透が図られたのは、源氏物語こそ、宮将軍の正統性を保障するイデオロギー装置だったからに他ならない。 
現実に権力を握る北条氏の勢力の中で、宗尊親王の前の将軍はいずれも不幸な終わり方をしているた。二代将軍頼家・三代将軍実朝は殺され、四代・五代の藤原氏から入った摂家将軍も追放されている。 
そうした中で宗尊親王は天皇の皇子として初めて鎌倉入りを果たしている。関東ミニ天皇制であるこの宮将軍の制度が根付くか根付かないかは、宗尊親王の一挙手一投足にかかっている。平氏である北条氏の勢力のただ中で、源氏将軍家の正統を担い得るのは宮でしかないこと、宮の子孫の源氏によって将軍位は受け継がれていくだろうことをアピールするためにも、「源氏」幻想というイデオロギーが必要であったに違いない。 
保立道久は「平安王朝」の中で、源義家の子孫の源氏の武将たちが代々小一条院(こいちじょういん)や輔仁(すけひと)親王などの天皇になれるはずでありながら、天皇になれなかった皇子たちに肩入れして、皇位継承の可能性が閉ざされた後まで支援の姿勢を明らかにしている現象を指摘する。 
おそらく彼らは、その天皇になれなかった皇子の姿に、みずからの源氏としての生き方の原点を見ていたのであろう。光源氏のように代受苦(だいじゅく)的な役割を背負わされた皇子たちをどこまでも支援していくという廃王伝説が頼朝一族の滅亡後も鎌倉の人々の心の中に生き続けて、実質的な指導者である得宗北条氏を将軍にさせなかったのである。 
新たな「源氏物語絵」の手本となった源氏物語絵巻の筆者源有仁自身も、これまで見てきたように、その関東の源氏が思いをかけた輔仁親王の息子であり、光源氏幻想を生きた人物であった。 
国宝源氏物語絵巻とは、有仁にとってみずからの源氏たる由縁を説き明かす〈神話〉であったが、その絵巻の絵を写した新作屏風を作ることで、宗尊親王は「源有仁」を模倣し、光源氏の再来を演じているのである。
源氏絵陳状の季節 
宗尊親王はまさにそうした人々の無意識の期待を担うにふさわしい人材であり、その点を意識して、源氏物語を広めようとしているのである。この源氏物語絵制作の時期は明らかでないが、宗尊親王の三品将軍時代であり、教定が兵衛督で存命だったころという限定から、建長六年(一二五四)から文永二年(一二六五)九月までに限定される。 
その間宗尊親王の御所では源親行(ちかゆき)による源氏物語談義が行われ(建長六年十二月十八日)、文永元年には、資季・為氏・行家・少将内侍の本を召し出して校合し、源氏物語系図が制作されている(原中最秘抄〈げんちゅうさいひしょう〉奥書)。 
源親行の指導によって源氏物語談義が行われたのはまだ親王十三歳のころであるから、指導力を発揮する時期とは言い難く、親王自身の積極的な行動が見られるのは、京都から系図を取り寄せて新に「源氏物語系図」を作成した文永元年(一二六四)ごろからである(宗尊親王二十三歳)。源氏物語を貸した人々の中に為氏の名があるが、これは源氏物語絵色紙を作った教定の娘婿であるから、そのルートで依頼されたに違いない。 
この源氏物語系図は評判になったらしく、宗尊親王の失脚直前(失脚の四日前)にも、その系図の書写を希望してある人がやってきたという(実隆公記文亀元年八月四日条)。おそらく事態の急変を予知して、宗尊親王が鎌倉を追放される直前にその源氏物語系図を写しておきたいと願った者だろう。 
源氏物語系図にこだわる宗尊親王は、みずからの「系図」にもこだわっている。後嵯峨天皇の第一皇子として生まれた宗尊は、執権北条時頼の猶子として迎えた北の方との間に、文永元年には第一王子を設けている。将軍家としての永続性にようやく自信が持てるようになったころだと思われる。 
翌文永二年には、宗尊親王の歌をもっとも多く含む勅撰集・続古今集が宗尊親王の和歌の師真観(しんかん)によって奉覧され、万葉集注釈が仙覚(せんかく)から献上され、宗尊親王自身の和歌を集めた柳葉(りゅうよう)和歌集も自撰されて、文学への情熱も自信も一段と充実を加えている。おそらくこの数年が、源氏物語絵が制作され、源氏絵陳状が公開された年なのであろう。
後嵯峨院の「源氏」狂い 
宗尊親王のこうした源氏物語狂いは、当時都で頻繁に繰り返された源氏物語談義の影響を受けている。都では親王の父後嵯峨院が建長二年(一二五〇)、建長五年三月に源氏物語談義を催し、私的な場でも為家・阿仏尼・飛鳥井雅有・基長(二人ともさきほどの教定の息子)による源氏物語講義と竟宴(講義終了を祝う宴)が文永六年(一二六九)九月十六日から十一月二十七日まで延々と行われた(「嵯峨の通ひ路」)。やや時代は下るがこの飛鳥井雅有を中心に交わされた「弘安源氏論義」(一二七八)のような本格的源氏物語批評が始められたのもこのころであった。 
そもそも親王の父後嵯峨天皇は、天皇方が鎌倉幕府に対抗して戦を仕掛け、敗北した後を承けて即位した天皇であり、その父土御門天皇は阿波国に流されて、その地で亡くなっている。後嵯峨帝は親王にも立てられず、窮迫していたところを、幕府によって擁立された天皇であり、天皇自身が貴種流離の物語的運命を生きた人物であった。 
承久の乱によって屈辱を味わい、実権も、財力も失った天皇と貴族たちにとって、物語だけが誇りを回復させてくれる手がかりであり、源氏物語談義は、源氏物語という物語を媒介に、貴族たちがそれぞれの教養を確かめ、絆を結び合い、共同体としての意識を回復するための何より大切な儀礼の場だったのである。源氏物語談義の場に熱狂的に参加することで、貴族たちはみずからの自己同一性を確立しようとしていたのである。 
漢詩の宴の復興、大井川行幸和歌の復活、物語の大量生産、初の物語和歌集である風葉(ふうよう)和歌集の撰進など後嵯峨朝の文芸復古はめざましいものがあるが(佐藤恒雄「後嵯峨院時代とその歌壇」、今井明「後嵯峨院の志向」など)、そのいずれもが、天皇を中心とするかつての王朝国家体制の回復を、せめて「書物」の中だけでも回復しようという試みであった。「書物」の、「物語」の幻想の中に、彼らは失われた権威を回復しようとする。 
現実の権力が武家に奪われたとしても、物語という幻想世界では相変わらず、天皇家が中心を占め続けている。文永八年(一二七一)に成立した空前の物語和歌集成である風葉和歌集は、勅撰集と同じ全二十巻からなる大歌集で、その編纂の姿勢も厳密に勅撰集を模している。その各部立ての巻頭歌は物語中の天皇、皇后、女院によって占められている。「物語」というジャンルが、天皇制を支え続ける基盤を構成する何より大事なジャンルであることの認識がそこにはあらわれている。 後嵯峨院は「物語」という「書物」の力で、失われた天皇権力の奪還を夢見ているのである。
鎌倉の〈王〉 
その後嵯峨院の思いは、孤立無援の鎌倉の地にあってはいっそう深刻に受け止められていたに違いない。天皇になるべき資質の皇子が天皇になる権利を奪われて流離の運命を生き、その果てに権カを回復し、栄華をきわめるという貴種流離の物語は、都から追放された皇子、「流され王」の生を生きる宗尊親王には他人事(ひとごと)ではありえない。 
都への帰還と天皇への即位が無理であれば、せめてこの鎌倉の地で都以上の理想の王国を作り上げ、その「王」として君臨したいという思いが宗尊親王にあったとしても不思議はない。 
そういう意味でも文永二年(一二六五)に奉覧された勅撰集・続古今集が専門歌人たちを退けて宗尊親王の歌をもっとも多く六十七首も含んでいることの意味は大きいのである。勅撰集が皇族の歌をこれほど多く含むのは類例がない。 
宗尊親王自身優れた歌人であったかもしれないが、定家・家隆・為家を押し退けて筆頭に選ばれるほどの天才歌人ではありえない。ここには宗尊親王の和歌の師であった真観のごり押しがあったと指摘されるところであるが、宗尊親王だけでなく、続古今集は宗尊親王の父後嵯峨五十四首、曾祖父後鳥羽四十九首、祖父土御門三十八首、大叔父順徳三十五首と、宗尊親王の父系皇族を大量に限定して入集させているきわめて政治的な勅撰集であった。 
勅撰集という和歌の権威を通じて、宗尊親王を中心とする皇統を特立し、文化を掌握する王者としての宗尊親王像を打ち出していこうという意図が、この新しい勅撰集にはあったと推察される。 
新たな源氏物語絵の制作は、その序列化された和歌の秩序に合わせるように「物語」のレベルで王者としての宗尊親王のイメージを作り出そうとするものであったのである。
河内本校打作業 
折しも宗尊親王時代の鎌倉では源氏物語の校訂本作りが一つの区切りを迎えていた。河内守光行・親行親子による河内本の校訂である。河内本は藤原定家の青表紙(あおびょうし)と並ぶ源氏物語の有力な校訂本文で、現在普通に読まれている青表紙本源氏物語と比べると文意をわかりやすく補ったり直したりする所が見られるとされている本である。 
おそらく鎌倉の地にあって、源氏物語のより広い読者を求めようとする際に必要だと思われる改編が施されたのだろう。青表紙に比べると説明的であると評されることの多い河内本であるが、その本文作成には、二十一もの本を参照し、前後を統一するために膨大な労力と時間が費やされたという。鎌倉時代源氏学の一大記念碑であった。 
河内本が完成して奉られたのは八代将軍久明親王の時であったが、源光行による校訂はすでにいったん完成しており、宗尊親王の時代にはその息子親行による校訂作業が継続され、一応の完成を迎えていたらしい。 
もともと後鳥羽院の北面(ほくめん)に仕える武士であった河内家の人々は、承久の乱に敗れて、鎌倉方に許され、鎌倉将軍家に仕えることとなった人々である。彼らの作った膨大な源氏物語注釈書「水原抄(すいげんしょう)」が「源」の一字を「水原」と書き替えていることでわかるように、河内守一家はみずからが源氏という家に属していることを誇りとして、最大規模の源氏物語注釈を完成させようとしていた。 
その思いは、当然のことながら、鎌倉源氏政権の「源氏」イデオロギーとも重なっている。河内家の人々は鎌倉源氏将軍家の正統性の神話を作るような使命感と意気込みをもって源氏物語の校訂と注釈書作りに精魂を傾けたのである。 
その結果、河内本は鎌倉・室町時代を通じてもっとも広く流布した本文となった。都から遠く離れた鎌倉の地で、都の青表紙を超える本格的な本文が制定されようとしていることは、鎌倉の人々の誇りを擽(くすぐ)ったに違いない。 
河内本の成立と新しい源氏物語絵の作成は、同時に鎌倉における源氏物語熱に火を付け、源氏物語幻想を促すものとなったのである。
一品宗尊親王 
宗尊親王が源氏物語系図を作成し、源氏物語色紙絵を作成していたころ、鎌倉幕府では北条氏の有力者が相次いで世を去っている。得宗(北条氏の氏長者)時頼が弘長三年(一二六三)に亡くなり、執権長時も翌文永元年(一二六四)に世を去った。跡を継ぐ者としては年若い時宗がいるばかりであった。北条氏の中でも野心が渦巻き、人望ある宗尊親王をかついで内紛を起こそうというきな臭い雰囲気が漂ってきた。 
宗尊親王自身も文永元・二・三年(一二六四−一二六六)のころには、何事かを胸に期しているように神仏への祈願を重ねていた。そのような緊迫した状況の中で、朝廷が宗尊親王に一品(いっぽん)の位を贈ったのは、宗尊親王の実権奪取への後押しの思いが込められていたと考えてよい。一品とは親王の中でもっとも高い位、太政大臣と同格の位なのである。 
承久の乱の痛手なお癒えぬ天皇の側からいえば、ここで幕府の内紛に乗じて、これまでのようなお飾りの宮将軍ではなく、実権を握る将軍となってもらい、一気に形勢を逆転してほしいという思いがあったのだろう。しかし、結果的にはその過剰な期待が、幕府と宮将軍の微妙なバランスを崩し、宗尊親王の追放を呼び込んでしまった。 
二十四歳で一品に任命されてから、宗尊親王追放が決まるまで一年足らず、宗尊親王は二十五歳で、北の方の密通という、理由にならないことを理由とされて、鎌倉将軍の地位を引きずり下ろされ、都に送り返されたのである。 
和歌・物語・絵画に託された宗尊親王の光源氏幻想はついに未完のままに終わってしまったわけであるが、文学の優れた才能と美質で突出し、この鎌倉の地で都以上の都を築き、天皇以上の天皇として君臨しようとした宗尊親王の光源氏さながらの野心は、豪華な源氏物語絵制作の記憶と源氏絵陳状によって後世に伝えられることになった。 
源氏物語絵は、源氏物語の神話化作用を通じて、皇統の血を受けた者を特別な存在として押し上げ、まつりあげる。源氏絵制作とは、そのような力学を生み出す、すぐれて文化的な政治支配の試みだったのである。   
 
吾妻鏡の性質及其史料としての價値

原勝郎  
吾妻鏡が鎌倉時代史の貴重なる史料なることは苟も史學に志ある者の知悉する所たり、若し未同書に接せざる人あらば史學會雜誌第一號に掲げたる星野博士の同書解題をよみて後同書を一讀せられよ、其記事の比較的正確にして且社會諸般の事項に亘り、豐富なる材料を供給すること多く他に類をみざるところなり。然れども同書は其性質及其史料としての價値に至りては未充分の攻究を經ざるものあるに似たり、今少しく愚見を陳して以て大方の是正を仰がんと欲す、敢て斷案を下すと云ふにあらざるなり。  
史料の批評に二樣の別あり、第一其外形よりするもの、第二其内容よりするもの是れなり、外形上の批評とは其紙質墨色書體よりするものにして、史家の史料に接するに當りて先甄別を要する所の條件なり、然れども此種の批評のみにては未盡くせりといふべからず、若し僞造に巧なる者ありて當時の紙と當時の墨とを用ゐ當時の書體に熟して文辭も亦相應なるものを作爲せば、熟練の鑑定者と雖、往々にして欺かるゝことあるべく、又文書類の者は兎も角、著述に至りては此種の鑑定は效力を顯はし得べき場合極めて稀少なるべし、且此種の批評充分にして鑑定正鵠を得、其史料にして僞造の者ならずと斷定せられたりとするも、未遽に其文書の内容を信用すべきにあらず、若し直にこれを輕信してこれを有效の史料となし其記載の事實によりて立論せば、其斷案の事實の眞相に背馳するに至る事なきを保せず、されば既に明に外形上によりして僞造と定まりたる史料は固より措て論ぜず、外形上の批評よりして疑似に屬するもの并に既に眞物と鑑定せられたる史料は爰に第二の試驗を經るの必要起るなり。  
内容批評即第二の批評は、更に之を分ちて二となすことを得べし、曰く史料其者の批評、曰く外圍の關係より來る批評是なり、第一は他に關係なくして單に其史料につきて下す考察にして、其史家に與ふべき史的觀念の極めて漠然たるべきにも關せず、史料利用の根原となるべきものなり、若し此考察にして健全なるを得ば史家は既に其事業の半を成し得たるなり、この考察や、其考證以前にあるべきものにして一言以てこれを掩へば、史料の自證是れなり、これを爲して後史家は更に外圍の事情に照らして以て既に得たる觀念の範圍を定め、其色彩を明にし、更に精確なる者となさゞるべからず、他證是れなり、史料の自證や必其他證に先つべき者にして、若此順序を顛倒する時は、史料は其獨立の價値を失ひて既に他の史料によりて成れる觀念に更に零碎の知識を附與するに過ずして、史料中にて多數の壓制行はるることなり、史料其者が固有せる色彩は全く埋沒し、其現に放つべき光は他より借受けたるものとなりて、恰も月が太陽の光によりて始めて輝くが如くなるべし、一個の事實にして二樣以上の解釋をなし得べき者少しとなさず、若し單に外圍の事情を基として成せる觀念のみを重くこれによりて、此疑を判定し得ざるべしとせば、此觀念の錯誤ある場合に於ては遂にこれを矯正することを得ざるべし、史料中の多數の壓制とはこれなり、而して如何なる事實も其實際に於ては決して一個以上の正當なる解釋を許さゞる者なること明なれば、最深最後の疑團は史料の自證を措きて他に解釋の方法を索め得べからざるなり。  
自證を經、他證を經るも、史家の職務は未終れるにあらず、史家は自證に始まり考證を經て精密となれる觀念を以て、更に史料に對し是を直接の史的知識となすを要す、史料の批評は爰に於て其終を告げたるなり。  
史料の批評の困難なること實に斯の如し、而して史料中文書を以て比較的容易の者となす、何となれば多數の文書は其中に含有する事實の數極めて少くして錯綜の度深からず、一事實の觀察は其史料全體の觀察となること多ければなり、書籍に至りては批評の困難更に倍加す、而して其書籍の浩澣なるに從ひて益太甚し、其中には幾千百の事實を含有し、此事實や各其出處を異にし、然かも互に糾紛し解釋し、また解釋を亨くる[#「亨くる」はママ]者なればなり。故に書籍は其大體の史的價値を定め得たる後も、尚書中に存する各事實につきては特別の批評をなすを要するものなり、此事や明白の理の如く見ゆれども、多くの修史上の錯誤は信憑すべき者なりとの評ある書を過信して、書中の何れの事實も精確なりと速斷するより來ることを想へば、決して輕々に看過すべからざる要件なり、史料として或書籍の大體の價値を定むることは修史上極めて重要なることなれども、此批判定が書中の各事實に及ぼすべき影響は薄弱にして、且彌漫したるものなれば、書中の各事實の史的價値は大部分は其事實の特殊の考察に基かざるべからず、一般に僞書として排斥せらるゝ書籍も沙中の眞珠にも比すべき史的光彩の燦然たる事實を含有すること往々なり。  
鎌倉時代の根本史料たる吾妻鏡の如きは管見を以てせば或は其性質は誤解せられ、其史料としての價値は過大視せらるゝ者にあらざるなきか、左に逐次[#「逐次」は底本では「遂次」]其理由を述ぶべし。
一 吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や  
日記類の史料中重要の地位を占むる所以は、單に其當時史料たるにあり、詳言すれば事實が其出來せし日に記載せらるゝを以てなり、出處分明といふが如きは必しも日記類の特長にはあらず、此點に於ける價値は日記者の觀察力の明否と、其公平と否と、及び其記述せる事實に對して日記者の位置如何、即出來せる事實と其記述との間に横はるべき外圍的媒介の性質によるものにして、事實が未確然たる認定を經ざる間に發生する日々の風説が、往々日記に上り得ることを思へば、此點に於ては、日記は却りて危險なる史料たることもなきにあらず、されば日記の史的價値は主として記憶なる者は時を經過すること長きに從ひて次第に精確なる再現を得べき能力を失ふべしとの原理に基づくものにして、苟も日記にして其日記たるの性質を失ひて追記の性質を帶ぶるに至らば、其史料としての價値が減殺せらるゝ所あるべきは至當の事なり、彼武家時代に於ける公卿縉紳の徒に王朝の盛時を顧み醉生夢死し、當時の天下の大勢に至りては※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)然として知るなきの輩多きも、而かも其日記が相應に史的價値を有するに至れる其所以亦偏に爰にありて存するなり。  
吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や星野博士の吾妻鏡考にも  
文體ヲ審ニスルニ前後詳略アリ前半ハ追記ニシテ後半ハ逐次續録セシニ似タリ  
とありて徹頭徹尾純粹の日記にあらざることは博士既にこれを云はれたり。されど博士の所謂前半後半の經界は博士の吾妻鏡考中に見えざれば今高見を知悉するに由なし文治以前は措て論せず今其以後につきて追記と思惟せらるゝ二三の事實を列擧して以て蛇足を添へむと欲す。  
建暦三年四月十六日の條に  
朝盛出家事郎從等走歸本所、告父祖等、此時乍驚、自閨中述出一通書状、披覽之處、處書載云叛逆之企、於今者定難被默止歟、雖然、順一族、不可奉射主君、又候御方、不可敵于父祖、不如入無爲、免自他苦患云々、義盛聞此事、太忿怒、已雖法體、可追返之由、示付四郎左衞門尉義直、(下略)  
朝盛の出家に至りては既に公然の事實なれば何人の之を知るとも怪むに足らざれども其遺書の閨中に存せしこと并に其書中記載の事項に至りては遽に和田一門以外の人に洩るべきにはあらず、殊に書載云以下の事項に關しては和田氏未公然擧兵の事あらざる以前にありては、和田氏たる者力を竭して其秘密を保つべきことなるは理の當然なれば、此遺書の發見せられし當日に日記者の耳に達したりとせむ事頗危險なる斷案なり、故に吾妻鏡が此條の記事を以て信憑するに足るものとせば、追記したりとする方安全の推測なるべく、然らざれば、此事項は記者の臆斷にとゞまるに過ぎざるものとなるべし。  
同年五月三日の條に  
御方兵由利中八郎維久、於若宮大路射三浦之輩、其箭註姓名、古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭、保忠大瞋兮、取件箭返之處、立匠作之鎧草摺之間、維久令與義盛、奉射御方大將軍之由、披露云々  
同五月五日の條に  
去三日由利中八郎維久、奉射匠作事、造意之企也、已同義盛、可彼糺明之由、有其沙汰、被召件箭於御所之處、矢注分明也、更難遁其咎之旨、有御氣色、而維久陳申云、候御方防凶徒事、武州令見知給、被尋決之後、可有罪科左右歟云々、仍召武州、武州被申云、維久於若宮大路、對保忠發箭及度々、斯時凶徒等頗引返、推量之所覃、阿黨射返彼箭歟云々、然而猶以不宥之云々  
五月三日の條と同五日の條とは若吾妻鏡が一人の手に成りたる日記なりとせば、明に其間に矛盾の存することを見るべく、此矛盾を解釋せんには三日の條の記事を以て追記なりとせざるを得ず、然らざれば三日に於て既に明白なる事實が、五日に於て疑義となること怪むべきことなり、且三日の記事は既に其中に於て矛盾を含めり、慥に御方に候せる維久が、故に矢を義盛に送りて泰時を射さしめたりといふが如きは、事實上あり得べからざることにして、此矛盾は益三日の記事の麁忽に追記せられたることを證する者なり。  
承久兵亂の記事に至りては半ば全く追記なり、若追記なりとせざれば、此日記者は數多の分身を有する人ならざるべからず、承久三年五月廿四日までは記者は鎌倉を中心として記述をなすと雖、廿五日の條に至りては初に  
自廿二日至今曉、於可然東士者、悉以上洛、於京兆所記置其交名也  
と鎌倉の事を記し、而して同日の條に  
今日及黄昏、武州至駿河國、爰安東兵衞尉忠家云々  
と駿河國に起れる事件を記す、日記者はこれよりして二個の分身を有す。  
廿六日の條に初は  
始行世上無爲祈祷於鶴岡云々  
と鎌倉に起れる事件を記して而して、同日の條  
武州者着于手越驛云々  
また  
今日晩景秀澄自美濃國(去十九日遣官軍所被固關方之也)重飛脚於京都申云、關東士云々  
とあり記者の分身の數は爰に於て更に一個を増せり。  
同廿九日の條に  
佐々木兵衞太郎信實(兵衞盛綱法師等)相從北陸道大將軍(朝時)令上洛、爰阿波宰相中將(信成卿亂逆之張本)家人河勾八郎家賢(腰賢瀧口季後胤)引率伴類六十餘人、籠于越後國加地庄願文山之間、信實追討之訖、關東士敗官軍之最初也  
また同日の條に  
相州武州等率大軍上洛事、今日達叡聞云々、院中上下消魂云々  
爰に至りて分身の數更に二個を増して一は北陸にあり一は京師にあり。  
同晦日の條に  
相州著遠江國橋本驛云々  
とこれによりて見れば記者にはなほ相州の身に添へる一分身ありけるなり、此の如く承久兵亂に關しては吾妻鏡は鎌倉に起りしことも北陸に起りしことも乃至は關西に起りしことをも皆各其起りし日にかけて之を載することなるが、此の如き早業は電信なるものゝ存せざりし當時にありては、日記者にして數多の分身を有するにあらざるより、決して成し得べからざることなり、而して分身の事も亦あり得べき事ならざれば、承久兵亂に關する吾妻鏡の記事は後日の追記なること疑もなきことなるべし。  
脱漏之卷嘉禄二年十一月八日の條に  
陸奧國平泉圓隆寺燒亡、于時有此災之由、告廻鎌倉中者有之可謂不思議云々然後日所令風聞彼時刻也  
これ明に此記事の追記たることを自白するものなり  
以上述ぶる所によりて推論せば、吾妻鏡は少くも嘉禄二年までは追記の事實を混じたる者なること明なるべし、今假りに嘉禄二年を以て追記と否との經界と定むるときは、此年は吾妻鏡が筆を起せる治承四年より算すれば四十七年目にして、此書を載する所の記事が八十七年に亘るよりして考ふれば、年數に於ては先中頃とも云ふべければ、星野博士が前半は追記なりと云はれたるは、至當の言なるべし。此前半が一人の手にて一擧に追記せられたるや、或は既に存せし日記に補繕をなしたる者なるや、博士もこれを明言せられず、余は寧後説を信ぜんと欲するものなれども、此點は今暫くこれを措き、兎に角吾妻鏡の前半は純粹の日記にあらざることを思はゞ、其價値の大體に於て減殺を來すべきことは、免るべからざる運命ならむ。
二 吾妻鏡は其性質上果して官府の書類なるべきか  
吾妻鏡が既に追記と日記とを混じて成れる者と定まれりとすると、若し其追記の部が官府の吏人の公職を帶びてなせる者ならば、吾妻鏡は公書類として特別の價値を失ふことなかるべし、余は竊かに其公書類たるを怪しむ者なり、星野博士は其  
治承四年ヨリ文永三年ニ至ルマテ凡八十七年間鎌倉幕府ノ日記ナリ編者ノ姓名傳ハラサルモ其幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ  
と云はれたれども余は寧ろ林道春の東鑑考に  
東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟、此中北條殿請文下知書状等皆平性而不書諱、又其廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟  
と云へるに同ぜんと欲す。承久以降鎌倉幕府の實權全然北條氏の手に歸してよりは、北條氏の左右とても實際は幕府の吏人と異る所なければ、吾妻鏡後半の無味乾燥の事實多き日記の部に至りては、孰れにても不可なきことなれども、其上半即比較的價値の大なる部分を考察する時は、官府の書類としては少しく詳細に過ぎ冗長の嫌あるのみならず、其北條氏を回護することの至れる、鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず、星野博士は吾妻鏡を評して  
叙事確實質ニシテ野ナラズ簡ニシテ能ク盡クス頼朝ノ天下經營ノ方略北條ノ政柄攘竊ノ心曲等描寫ニシテ其顛末を具備セリタヾ頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書シテ諱マズ  
といはれ  
頼朝ノ傍※(「女+搖のつくり」、第4水準2-5-69)政子ノ妬悍ノ類隱避スル所ナキヲ以テモ之ヲ知ルベシ  
とて其直筆の一例となされたれども、王朝淫靡の餘風を享けたる當時にありては男女の關係の亂れたりしは事實にして、當時の人も強てかゝることを秘密にせむとの念慮熾ならず。これに關しては其倫理の標準は他の人倫關係に於けるよりも數等低かりければ、從ひて曲筆を爲すの必要を感ずること薄し、故に單にこれのみを以ては、吾妻鏡は一般に直筆なりとして之を信用すること難きものあるに似たり、今頼家變死の事件以外に曲筆と思はるゝ二三を例擧すべし  
建仁三年九月五日の條に  
將軍家御病痾少減、※[#「(來+力)/心」、381-7]以保壽算而令聞若君並能員滅亡事給、不堪其鬱陶、可誅遠州由、密々被仰和田左衞門尉義盛及仁田四郎忠常等、云々  
とあり義盛は能員の邸を攻めし人なり、頼家如何に暗愚なりとするも、既に事變を聞きたりとせば、義盛の擧動を知るべき筈なり。假りにこれを知らざりしとするも、斯る重要なる密事を託するに先ちては、必之を託するに足るべき人を撰擇するは普通にして且至當の事なれば、頼家が密書を義盛に與ふるに際しては比企邸の事變に關して義盛が執りし態度を知れりと考ふること穩當なるべし、既に之を知れりとせば、北條方なる義盛に頼家が密書を與へたることは實らしからざることなり、よし吾妻鏡の編者に數歩を讓りて義盛の比企邸を攻めしは深く北條氏に結托せる結果にはあらずして、比企氏に對する感情より來りたりと假定し、頼家が義盛に反正の望を屬し、其右族の領袖たるの故を以て、此密事を得べき唯一の家人と信じ以て密書を與ふるに至れりとするも、同樣の密書を仁田忠常にも與へたりとの事實は信用しがたき事なり、忠常は能員を殺したる當の下手人なり、而して其驍勇は有名なるも、別に鎌倉に勢力ある人にもあらず、頼家と雖、豈かゝる輩に密事を委託するの愚を學ふべき筈あらんや、愚考を以てすれば、此日の記事は、少くも其忠常に關せる部分は、翌日時政が忠常を殺す條の伏線として、之が辯明に供したる風説を登録したるに過ぎず。  
元久二年六月廿一日の條に  
牧御方請朝雅(去年爲畠山六郎被惡口)讒訴、被鬱胸之、可誅重忠父子之由、内々有計議、先遠州被仰此事於相州並式部烝時房主等、兩客被申云、重忠治承四年以來、專忠直間、右大將軍依鑒其志給、可奉護後胤之旨、被遺慇懃御詞者也、就中雖候于金吾將軍御方、能員合戰之時、參御方抽其忠、是併重御父子禮之故也(重忠者遠州聟也)而今以何憤可令叛逆哉、若被弃度々勳功、被加楚忽誅戮者、定可及後悔、糺犯否之眞僞之後、有其沙汰、不可停滯歟云々  
同廿三日の條にも  
相州被申云、重忠弟親類大略以在他所、相從于戰場之者、僅百餘輩也、然者企謀反事、已爲虚誕、若依讒訴逢誅戮歟、太以不便、斬首持來于陣頭、見之不忘年來合眼之眤、悲涙難禁云々  
とあり若此等の記述にして事實ならば、義時が重忠を以て忠孝節烈の士となしこれを敬愛しこれを辯護すること至れりといふべし。而して諫めて聽かず號泣して父に從ふが如きに至りては、義時は殆儔稀なる義人孝子といふも可なるべし、此事件に付きての政子の態度をば、吾妻鏡之を明記せざれども、其後幾くもなくして起れる朝政謀反事件よりして考ふるも、政子は重忠誅戮に關しては義時も同一の意見なりと想像して大差なかるべし、然るに同年七月八日の條に  
以畠山次郎重忠餘黨等所領、賜勳功之輩、尼御臺所御計也、將軍家御幼稚之間如此云々  
同月廿日の條に  
尼御臺所御方女房五六輩、浴新恩、是又亡卒遺也云々  
とあり、寃罪にて誅せられ廣常の後の如きは勿論、眞に其罪ありて誅せられし者の後と雖、なほ幕府より撫恤を蒙れる例もあり、傳ふる如くんば重忠秋毫の罪あるにあらず、これ鎌倉の衆目のみる所、義時政子の熟知する所なり、假令重忠の誅戮をば宥むること能はざりしにもせよ、延て其餘黨を窮追しこれが所領を奪ひ政子の計らひとして之を勳功の輩に與ふることあるべからざるなり、義時も又爰にいたりて一言の云々もなし、義時政子の二人何ぞ始めて孝且義にして後に漠然たるの甚しきや、或は當時二人の擧動を以て父時政に對して忍びざるの情より來りたりとするも、若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし。  
其他吾妻鏡に謀叛と記せる者の中には北條氏に對して何等の反抗の準備もなかりしもの少からざるは、また怪むべきの一なり、今其例を擧ぐれば、元久二年八月の宇都宮彌三郎頼綱の謀叛の如きこれなり、然るに頼綱の降ること速なりしよりして考ふるも頼綱は決して當時の幕府に對して謀反を準備したる者とは見えざるなり、自餘の所謂謀叛の徒の中にも、單に攻撃的動作を爲さざりしのみならずして、甚しきは應戰防守の準備さへもなく一たび討平を向けらるれば或は直に遁逃し或は謝罪し或は自殺せる者多し。知るべし、是等は多くは眞の謀叛者にあらず些少の事項は北條氏の口實とする所となりて顛滅の難に遭ひし者なることを。殊に寛元五年六月三浦氏滅亡の條を熟讀し余は益余の推測の至當なることを、信ぜんと欲するなり、安達氏北條氏と結びて頻りに名門右族を芟除す、而してこれ亦北條氏の好む所に投じたる者なり、三浦氏も亦此隱謀の犧牲となりしものにして其擧兵の跡甚憐むべきものあり、吾妻鏡の編者此等の徒を汎稱して謀反といふ、盖北條氏に※[#「言+叟」、385-12]るものなり。  
建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて  
源氏正統縮此時畢、子孫不可相繼之、然者飽帶官職欲擧家名云々  
と云へりと、吾妻鏡に記せりと雖、當時の鎌倉は次第に關東素撲の風を脱して競ひて京都の虚禮多き開化を輸入せることなれば、實朝の高官に昇り且昇るを望みしことも、さして怪むべき事にはあらざれば、其昇進の事必しも實朝の讖言を借らざれば説明し得べからざるにはあらず。余は寧ろ實朝の此言を發せしといふことの事實たるを疑はむと欲するなり、恐くは北條氏の爲めに鶴岡の變に關する嫌疑を回護せむとして此言をなせるにあらざるなきか。  
建保七年二月八日の條に  
去月廿七日戍尅供養之時、如夢兮白犬見御傍之後、心神違亂之間、讓御劒於仲業朝臣、相具伊賀四郎計、退出畢、而右京兆者被役御劒之由、禪師兼以存知之間、守其役人、斬仲章之首、當彼時此堂戍神不坐于堂中給云々  
疑ひ來れはこれ亦義時人を欺くの擧動とも解釋し得べし、承久二年正月十四日の條に  
亥刻相州息次郎時村三郎資時等、俄以出家、時村行念資時眞照云々、楚忽之儀人怪之  
と説けるは、或は偶然に鶴岡事變に關する義時の態度の隱微の消息を傳ふる者にあらざるか。  
寛元二年頼嗣の繼立に付きては、吾妻鏡は何等の委曲をも傳へず、建長三年頼嗣廢せらるの件に關しても、建長三年十二月廿二日の條に  
鎌倉中無故在物念謀反之輩之由、巷説相交、幕府並相州御第警巡頗嚴密云々  
同月廿六日の條に  
今日未尅之及一點而、世上物※(「蚣のつくり/心」、第3水準1-84-41)也、近江大夫判官氏信、武藏左衞門尉景頼、生虜了行法師矢作左衞門尉(千葉介近親)長次郎左衛門尉久連等、件之輩有謀反之企云々、仍諏方兵衛入道爲蓮佛之承推問子細、大田七郎康有而記詞、逆心悉顯露云々、其後鎌倉中彌騷動、諸人競集云々  
同月廿七日條に  
被誅謀反之衆又有配流之者云々、近國御家人群參如雲霞皆以可歸國之由被仰出也  
と記載するのみにて將軍廢立の理由に至りては極めて漠然たり、吾妻鏡の最後の記事なる將軍宗尊親王を廢して京都に返すの條もまた要領を得ず、盖此書の編者回護の途なきよりして事實を湮滅したるものなり  
吾妻鏡の北條氏の爲に辯護し屡曲筆に陷ること如此なるよりして見れば、余は之を以て幕府の公書類となすよりは道春の考證に從ひて北條氏の左右の手に成れる者となすの穩當なるを信ずるなり。  
吾妻鏡は惟り曲筆の少からざるのみならず更に他の理由よりして官府の日記にあらざることを證し得べし、理由の第一は、其體裁格例の一定せざる事これなり、官府の日記とは官府に奉仕するもの其職務上記注する所の日記に外ならずして、其記注の方法に至りては自一定の格例あるを常とす、繁簡は素より事實に從ひて異るべきものなれば、之を一樣ならしむること能はざれども、若既に一事件を記載したりとせば同種類の事件再出來する時は、特別なる事情あるにあらざるよりは、必ずこれを記すべきは至當の事にして、其繁簡の度も一樣なるべき筈なり、吾妻鏡中文治以前の小説的記事多き部分は今之を措き、其他の部分に就きて之を見るも體裁の不揃なること驚くに堪へたり、年處を經るに從ひて浩瀚の書の殘闕を生ずるは自然の事なれば、吾妻鏡の同一運命に遭遇せること素より怪むに足らざれども、一ヶ月以上の連續せる脱漏あるにあらずして、然かも一ヶ年中僅かに四五日の記事あるもの多きに至りては、余はこれを以て單に散佚の結果ありと信ずること能はざるなり、此の如きは正治建仁の際に於て殊に甚しきを見るなり、今左に正治三年より建仁三年まで吾妻鏡に見ゆる日數を示すべし  
正治三年(建仁元年)  
正月、三日、 二月、四日、 三月、五日、 四月、三日、  
五月、四日、 六月、四日、 七月、二日、 八月、三日、  
九月、九日、 十月、七日、十一月、二日、十二月、五日、  
合計五十一日  
建仁二年  
正月 四日、 二月 四日、 三月 六日、 四月 三日、  
五月 八日、 六月 七日、 七月 六日、 八月 六日、  
九月 五日、 十月 十日、十一月 八日、十二月 八日、  
合計八十五日[#「八十五日」はママ]  
三ヶ年一千有餘日の中に就きて日記に上ぼれるもの僅々百九十日に過きず、如何に平穩無事なりとても、餘りに簡略に過ぐるなり、蹴鞠和歌の諸會のみならず天體の日常の變化其他鎌倉市中の些事に至るまで輯録するを厭はざる吾妻鏡としては、余は是等過度の簡略に關して日記として正當なる辯解を有せざるなり、殊に建仁元年四五月の交は越後に城資盛の叛ありて鎌倉よりは討手として佐々木盛綱を遣はせるなど、中々の騷動なりしに、當時の記事の寂莫此の如し、これ豈格例ある官府の日記の資格を具備するとのならむや  
又建長二年十二月廿九日の條に  
所謂新造閑院殿遷幸之時、瀧口衆事自關東可被催進之旨、所被仰下也、仍日來有沙汰、任寛喜二年閏正月之例、各可進子息由、召仰可然之氏族等、但彼時人數記不分明之間、被尋出所給御教書、就其跡等、今日被仰付之處云々  
是によりて見れば瀧口に關する寛喜二年の古例の記録は官府に存せざりしや明なり、然るに吾妻鏡寛喜二年閏正月廿六日の條に  
瀧口無人之間、仰經歴輩之子孫、可差進之旨、被下院宣已訖・仍日來有其沙汰、小山下河邊千葉秩父三浦鎌倉宇都宮氏家伊東波多野、此家々可進子息一人之旨、今日被仰下其状云云  
若寛喜の此記事にして官府の日記なりとせば、建長二年に於て各家に賜へる御教書に就きて古例を尋ぬるの要なかるべし、而して建長二年の條には人數不分明とあれば、寛喜の記事は官府の日記にあらざること照々たり。
三 吾妻鏡の性質及其史料としての價値に關する私案  
吾妻鏡は純粹の日記にもあらず亦幕府の記録にもあらざること前文述ぶるが如くなりとする時は、吾妻鏡は然らば如何なる性質のものなるやとの疑問は必生ずべし、私案を以てすれば吾妻鏡は三部よりなる者の如し、  
第一部 治承四年より承元前後まで  
此部は諸家の記録及故老の物語を參照して日記體に編述せし者なるべく吾妻鏡中趣味尤津々たれども從ひて潤飾の跡多く北條氏の爲に曲筆をなせし個所少からず  
第二部 建暦前後より延應の前後まで  
此部は追記の個處も曲筆も第一部よりは少し、大事變の場合を除けば他は主として諸家の日記によれる者の如し、全體に於ては一人の編輯の如くなるも、口碑を採用せし點は至つて少く、第一部に比して多く信憑するに足る文暦二年及寛元二年の重出するは第二部の終りと第三部の初と其年代に於て重複する所あるの證左なるべく、第二部も終りに近くに從ひて純粹の日記となる、恐くば第三部の初は第二部の終りの直接史料にあらざるか  
第二部の第一部と其編者を異にするは、大事變大儀式等を記述するに當りて、第二部に特有なる熟語(例へば濟々焉の如し)の用ひらるゝによりて之を推すべし  
第三部 延應前後より終りまで  
此部は北條氏の左右の記せる純粹の日記なり  
此の如く吾妻鏡は複雜なる構成を有するものなり、若し一貫したる性質のものとする時は寶治二年二月五日の條の  
云義顯云泰衡、非指朝敵、只以宿意誅亡之故也云々  
といへる記述は、文治五六年の記事と撞着して説明しがたきに至るべし。  
史料として吾妻鏡の價値は主として守護地頭其他の法制に關係ある事實にあり、これ吾妻鏡の史料は多く政所問注所に關係ある諸家の日記其他の記録なるべきの故のみにあらず、法制關係の事項は曲筆せるゝ危險の度比較的寡少なるを以てなり、其他の事項に關しても吾妻鏡は豐富なる史料を供給する者あれば、鎌倉時代の根本史料たることを失はざれども、法制關係を取除きての政治史の材料としては一種の傾向を有するよりして、從ひて往々曲筆を免れざるが故に、信憑すべき直接史料となし難きものなり。  
以上の私案は、吾妻鏡其者のみに就きて爲したる考察にして、此考察と雖、未充分なる商覈を經たりといふにあらざれば、此私案も不完全を免れざるは明なり、謹みて江湖博學の是正を俟つ、若夫れ吾妻鏡所載の各事實の考證に至りては本論の主とする所にあらざるなり。  
 


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